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「下落合風景」作品のゆくえ。

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モラン192802.jpg
 佐伯祐三Click!の作品を集めていたコレクターには、有名なところでも5人ほどの人たちが存在している。それらは、のちに個人名を冠して「〇〇コレクション」と呼ばれるようになるのだが、これらの蒐集品の中で『下落合風景』シリーズClick!がどれほど含まれていたのかを探るのが、きょうの記事のテーマだ。
 もっとも早くから佐伯の画業に注目し、作品を蒐集しはじめていたのは日本国内ではなく、パリ在住の福島繁太郎だった。福島は、佐伯のコレクターというよりもエコール・ド・パリの画家たちの蒐集家として知られており、佐伯の風景画を何点か集めている。そして、パリの画商に佐伯作品を紹介したのも彼だった。でも、佐伯の作品はフランス滞在中のものがすべてであり、しかも第2次滞仏中のものが中心だった。したがって、佐伯が日本国内で制作した画面は、おそらく1点も所蔵してはいなかっただろう。
 佐伯が帰国後、第2次渡仏の費用を捻出するために、大阪において佐伯祐三画会が結成されるが、その中心的な役割を果たしたのが四国出身の白川朋吉だった。佐伯が1927年(昭和2)ごろ、再渡仏の費用捻出を近くの戸塚町866番地(高田馬場4丁目)に住む二科の藤川勇造Click!に相談したところ、関西の法曹界では高名な白川朋吉を紹介されたのがきっかけだったようだ。この画会(頒布会)を通じて、おもに佐伯がこの時期に国内で描いた作品、すなわち「下落合風景」作品が関西や四国方面へ大量に流れていると思われる。
 以下、1968年(昭和43)に出版された講談社版『佐伯祐三全画集』所収の、山尾薫明「佐伯作品のゆくえ」から白川コレクションと画会の様子を引用してみよう。
  
 自らも画会に十数口入会し、大阪の名士をも多数画会に入会させたので、たちまちにして渡欧費が集まった。この時の画会の金額は一口二十号で百円であった。渡仏費として集まった金額は、確実ではないが、万に近い金であったと考えられる。当時、月に五百円あればパリでモデルを使用し、思い切って製作が出来た時代で、フランより円ノートがはるかに強い時で、日本人はめぐまれていた。シベリヤ鉄道を利用すれば、パリまで三等で三百五十円、郵船の欧州航路でロンドンまで一等で千二百円で渡航出来た。
  
 会費はひと口100円(ひと口200円という証言もあるので、キャンバス号数のちがいによるものか?)で、20号キャンバス作品を1点ということだから、これが万単位まで集まったとすれば、画会のために描かれた作品は100点前後ということになる。しかし、この時期の佐伯は20号ばかりでなく、15号サイズの作品も多作しているので、それらは会費100円よりも安かったか、あるいは会費が規定されている画会ではなく、1930年協会展や別ルートなどを通じて販売されたものだろうか。
 画会用の20号、あるいはそれ以外の15号作品は、滞仏作品や静物画などが混じっており、すべてが『下落合風景』ではなかったはずだが、それにしても膨大な作品点数が、二科展で特陳された1926年(大正15)の秋から、翌1927年(昭和2)の夏にかけて販売されたとみられる。ちなみに、この時期に開催された1930年協会Click!の展覧会では、残された佐伯没後の価格表を参照すると100~300円の値づけがいちばん多く、おそらく佐伯作品も号あたり10~20円程度で売られていたと思われる。つまり、20号作品なら200~400円、15号作品なら150~300円といったところだろうか。白川朋吉が中心となった佐伯画会は、少なくとも避暑で大磯Click!に滞在中の米子夫人Click!のもとへ、突然、再渡仏を知らせる手紙がとどく1927年(昭和2)7月までは、確実につづいていたのだろう。
セメントの坪(ヘイ).jpg 薬王院墓地.jpg 曾宮さんの前.jpg
第一文化村前谷戸.jpg 第二文化村外れ.jpg
 さて、佐伯作品にもっとも注目したのは、有名な佐伯コレクターとして知られる山本發次郎だった。のちに「山發コレクション」Click!と呼ばれるようになる彼の蒐集品は、総作品点数が150点(子息の山本清雄によると、誤植でなければ250点)にものぼり、最大級のコレクションを形成している。そのうち、空襲前の疎開で焼失をまぬがれている作品が41点(キャンバス表裏に描かれた画面で数えると42点)で、110点前後の作品がこの世から消滅してしまった。灰になった作品の中には、『目白風景』Click!と名づけられた「下落合風景」作品が1点、先にご紹介した1935年(昭和10)に銀座三共画廊で開かれた佐伯祐三回顧展Click!の会場写真に見える、葛ヶ谷(現・西落合)近くの目白通りを描いたと思われる『下落合風景』Click!を、もし山本發次郎がその場で購入していたとすれば、少なくとも計2点の作品が神戸空襲で焼失してしまったことになる。
 でも、「山發コレクション」のうち疎開を予定されていなかった作品、すなわちタイトルをリストアップされていなかった作品は、ほかにも約50点ほどあったことが山尾薫明の証言にも見えており、実際には何点の『下落合風景』が失われてしまったのかは不明のままだ。今日、講談社版(1968年)や朝日新聞社版(1979年)の『佐伯祐三全画集』で、カラーではなくモノクロで掲載されている「下落合風景」画面のうち、山本家で灰になった可能性のあるのは上記2点だけではないように思える。
 引きつづき佐伯作品を蒐集したのは、神戸の画商であり画家でもあった福井市郎だ。福井コレクションの中心は、第1次滞仏作品が中心(講談社版『全画集』では「第二次パリ時代」と誤植が見られる)だが、1939年(昭和14)現在では第2次滞仏作品も5点所蔵していたようだ。同年11月に大阪高島屋で開催された、「佐伯祐三未発表作品」を中心とする展覧会では、蒐集品62点が展示されている。その作品の中には、フランスから帰国後の「目白時代」と分類された国内制作の作品が並べられており、以下のような構成だった。
 ・鯖
 ・女の顔
 ・ガード風景 三点
 ・電車
 ・堂
 ・落合風景 十五点

 リストの『鯖』は、いまは新宿歴史博物館が所蔵している作品Click!、あるいは別バージョンの画面だと思われ、『ガード風景』は米子夫人の実家Click!近くで新橋ガードClick!をモチーフに描いた一連の作品群、『女の顔』は山發コレクションにみえる同タイトルの別バージョンの肖像画のように思える。また、『電車』は「制作メモ」Click!にもみえる1926年(大正15)9月15日に描かれた田端駅近くの情景であり、『堂(絵馬堂)』Click!はこちらで10年間も“指名手配”中の、落合地域とその周辺域では該当する建築が見つからない画面だ。(ただし、外観が不明な1926~1927年現在の上高田・桜ヶ池不動堂Click!は除く)
金久保沢.jpg 八島さん.jpg 六天坂上.jpg
六天坂中谷邸.jpg どこ?.jpg 葛ヶ谷目白通り.jpg
 さて、ここで注目すべきは「落合風景」とタイトルされた作品が、15点も展示されていることだ。同画集より、山尾薫明の文章をもう少し引用してみよう。
  
 (62点のリストのあとつづけて) これらが福井市郎氏のコレクションであった。この蒐集は山本さんが蒐集した後に集めたもので、佐伯の初期目白時代の研究には貴重な作品が含まれている。この蒐集品は大阪での展覧後、九州博多に於いて展観され、同方面の数奇者に愛蔵された。(カッコ内引用者註)
  
 これらの作品は、山本發次郎がコレクションをはじめたあとに蒐集されていることから、山發コレクションとは作品がダブっていない可能性が高い。つまり、ここにリスト化されている「落合風景」15点などは、山發コレクションに収蔵されていた同シリーズとはまったく別作品であったことを想定できるのだ。
 文中で、「初期目白時代の研究には貴重」とされている作品は、佐伯の下落合時代の初期ではなく第2次渡仏前の作品群、すなわち1926年(大正15)秋から1927年(昭和2)夏にかけての画面が主体であり、佐伯の下落合時代末期の作品研究には貴重……の誤りだろう。これら62点の作品は、博多で開かれた展覧会で販売され、九州方面の家庭で所蔵されている可能性がきわめて高い。すなわち、わたしは少なくとも100点は超えていたと想定している『下落合風景』は、近畿地方をはじめ四国、九州地方の、空襲で罹災していない家庭に残っている確率が高いことになる。
 事実、現在『堂(絵馬堂)』を所有しているのは、九州の方だとうかがった憶えがある。ただし、この時期の佐伯祐三はよほど出来の気に入った作品以外、サインを入れることは稀なので、佐伯作とは気づかれずに……「ほんなこつ、ヒビだらけで汚か絵たい。そぎゃんじいちゃんゴミば、うすとろか(恥ずかしい)けん早よ棄つッ!」……などといわれながら、燃えるゴミの日が近づくと危うい状況に置かれているのかもしれない。
 福井コレクションのあとは、画商の古野コレクションというのも存在している。やはり、「目白時代」の風景画が何点かあったようで、福井コレクションと重なっているものも存在していたようなのだが、詳細な作品リストは不明だ。
草津温泉.jpg アビラ村外れ1.jpg アビラ村外れ2.jpg
富永医院.jpg 上落合の橋の附近.jpg
 このサイトをご覧になっていて、どうも昔から居間に架かってる汚らしい、ニスが黒ずんだ得体のしれない風景画が、こちらで紹介される「下落合」の情景っぽいと感じられる方が、関西や四国、九州方面にいらっしゃるとすれば、棄ててしまう前に画面を撮影してお送りいただきたい。それが、もしホンモノであれば、いまや当時の下落合の風景を相当リアルに目に浮かべることができるようになっているので、かなりの確率でどこの街角を描いたものかを特定することができると思う。ぜひ、ご協力いただければ幸いだ。

◆写真上:。1928年(昭和3)2月に、かろうじてファインダーの左端にとらえられたヴィリエ=シュル=モランで制作中の佐伯祐三と娘の彌智子Click!(右端)。
◆写真中上:わたしがモノクロでしか観たことがない『下落合風景』作品群で、左上から右下へ「セメントの坪(ヘイ)」、「墓のある風景(薬王院旧墓地)」、「曾宮さんの前(諏訪谷別バージョン)」、「第一文化村外れ(前谷戸)」、「第二文化村外れ」。
◆写真中下:同じく左上から右下へ「目白風景(金久保沢)」、「八島さんの前」、「黒い家?(六天坂上)」、「六天坂(中谷邸)」、「場所不明」、「目白通り(下落合西端)」。
◆写真下:同じく左上から右下へ「草津温泉の煙突が見える中ノ道(現・中井駅前)」、「アビラ村外れ(城西学園=目白学園付近)」、「アビラ村外れ(別バージョン)」、「第二文化村外れ(富永医院)」、「上落合の橋付近(妙正寺川の昭和橋付近)」。


「荻外荘」の外観と庭園を拝見する。

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荻外荘01.JPG
 荻窪の「荻外荘」Click!を杉並区が買収し、緑地公園化あるいは記念公園化のプロジェクトが進んでいる。近衛通隆様Click!が存命中にお邪魔をし、荻外荘の内部を拝見させていただいたのだが、改めて同荘を訪問し建物の外観や庭園も撮影させていただいているので、杉並区の濃い屋敷林も含めた公園化計画と合わせてご紹介したい。
 杉並区の保存プロジェクトはいまだ企画・計画フェーズであり、最終的な着地点は住民との話し合いが継続中でハッキリとは見えていないようだ。杉並区による、具体的な保存計画についてのアイデアがまとまるのは、来年(2015年)の3月以降のことだという。その方向性として、以下の3つのテーマで検討が進められているらしい。
 (1)昭和初期の伊東忠太設計による建築史的な価値としての建物保存。
 (2)緑豊かな郊外別荘地・荻窪における象徴として緑地確保を中心とした保存。
 (3)近衛文麿の別邸として戦争への重要決定がなされた歴史価値としての保存。

 (1)は、1927年(昭和2)に伊東忠太が義兄の入澤達吉のために設計し、「楓荻凹處(ふうてきおつしょ)」と名づけられた経緯は知られており、建築史からみればかなり改築の手が加えられているとはいえ、昭和初期の和館作品としては貴重なようだ。その後、1937年(昭和12)から近衛文麿Click!が移り住み、西園寺公望Click!によって「荻外荘」と名づけられた。玄関先には、西園寺揮毫による「荻外荘」と書かれた扁額が架けられている。当初は別邸として購入したようだが、同年以降は基本的にここへ定住し、家族も含め近衛家が下落合の本邸(近衛新邸Click!)にもどることはなかった。
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荻外荘02.JPG 荻外荘03.JPG
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 荻外荘は、過去に二度の大規模な増改築が行なわれている。一度めは、近衛文麿が同邸を取得した直後の1938年(昭和13)に別棟と蔵、付属屋が増築され、つづいて1941年(昭和16)より長谷部鋭吉の設計により書斎と寝室を中心に、住居内部の大改造が実施された。二度目の大きな改築は、1960年(昭和35)に玄関と応接間、客間が豊島区の天理教東京教務支庁へと移築され、1938年(昭和13)の付属屋も解体・撤去された結果、荻外荘は建築当初のほぼ3分の2の大きさになった。なお、天理教東京教務支庁Click!へ移築された応接間については、栗原行廣様Click!よりお送りいただいた近衛文麿が写る貴重な写真とともに、こちらでも以前にご紹介Click!している。
 荻外荘の保存には、この移築されて天理教の支庁で保存されていた建物3棟の、荻窪への再移築も検討されている。現状の荻外荘は、戦後にかなりの手が加えられ、外観も大きく変わっているのだが、天理教の支庁へ移築された同荘東側の建築、すなわち応接間と客間、玄関はほとんど手つかずで改築されておらず、ほぼ当初の姿を保っている。つまり、豊島区へ移築された建物を荻窪の荻外荘へもどしてこそ、近代建築としての価値が高まるという考え方だ。天理教側の理解と協力で、これが実現されれば嬉しいかぎりだ。
荻外荘近衛桜(冬).JPG
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 (2)の庭園を含めた屋敷林の保存については、以前、近衛通隆様からお見せいただいた広い芝庭を中心とする古写真と比較すると、大きくさま変わりをしたのが判然としている。善福寺川へ向け、緩傾斜していた庭園の池は埋め立てられ、芝庭がすべてなくなって広い駐車場や住宅地となっている。屋敷を囲む樹木は大きく成長し、うっそうとした屋敷林を形成している。近衛様によれば、広大な敷地の大半がGHQの命令で“解放”させられたようだが、本来の敷地は善福寺川の対岸まで拡がっていたそうだ。
 住宅地に残る緑地確保の側面からは、南側の駐車場を含めて、どこまで庭園を修復するかがメインテーマだろうか。ただし、荻外荘の庭園を意識しすぎると、樹林よりも芝庭のスペースが多くなり、屋敷林の保存(緑地の確保)という観点からはややズレてしまうだろう。善福寺川の段丘斜面には、下落合の崖線と同様に濃いグリーンベルトが形成されていたと思われ、緑地の回復・保存と安全な公園化との兼ね合いが難しいところだ。
 (3)の歴史的な価値をめぐる記念館化の構想は、わたしとしてはぜひ必要なテーマだと思う。特に1941年(昭和16)には、荻外荘が首相官邸のような役割りを果たしており、たび重なる「荻窪会談」Click!によって太平洋戦争への道、すなわち大日本帝国の破滅への扉が開かれた歴史的な場所としての位置づけだ。また、荻外荘の応接間は山本五十六Click!が対米開戦の直前に、戦争長期化による日本の破滅を警告した場所でもある。荻窪郷土史会の前会長が表明されているように、「若い人たちは過去の失敗を繰り返さないためにも荻外荘の歴史を学んでほしい」と、わたしも切に思うしだいだ。
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荻外荘1960.jpg 近衛通隆・節子夫妻.JPG
 1945年(昭和20)の戦争末期、荻外荘のまわりが憲兵隊によって包囲されていたのを、近所の住民のみなさんが目撃している。おそらく、2月14日の「近衛上奏文」と関係者の逮捕直後からと思われ、近衛文麿が戦争終結へ向けて画策するのを阻止し、同荘へ出入りする人間(近衛に接触する人物)を細かくチェックするためだった。事実上、陸軍によって監禁生活を強いられた近衛文麿は、B29の警戒警報あるいは空襲警報のサイレンが頻繁に鳴り響く中で、日々いったいなにを考え、どのような想いを噛みしめていたのだろうか。

◆写真上:庭園灯のある斜面から見上げた、荻外荘の南東側からの景観。
◆写真中上は、荻外荘平面図と撮影位置。は、の位置からの現況。
◆写真中下の2葉は、晩秋の葉を落としたシダレザクラと満開時に「殿様の部屋」から撮影させていただいたもの。同室は、近衛文麿が1945年(昭和20)12月16日に自裁した部屋だ。の2葉は、栗原行廣様よりいただいた天理教東京教務支庁の応接間と廊下部分の現状。荻外荘からの移築時のままで、ほとんど手が加えられていない。
◆写真下は、1927年(昭和2)に「楓荻凹處」として完成時の入澤達吉邸を南の庭園から。は、1937年(昭和12)に近衛文麿が購入した直後に撮影された荻外荘の南側庭園。下左は、現在の最終形に改築ののち1960年(昭和35)に撮影された荻外荘。下右は、2006年(平成18)3月に邸内を拝見させていただいた故・近衛通隆様と夫人の節子様で、1960年(昭和35)の大規模な改修時に設置された暖炉のある広い食堂にて撮影。

泥棒は学習院昭和寮にもやってきた。

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昭和寮第一寮.JPG
 1933年(昭和8)2月に発行された学習院昭和寮Click!の寮誌「昭和」第8号Click!には、巻末に「全寮日誌」と第一寮から第四寮まで各寮別に別れた「寮だより」が付属している。昭和寮の内部や学習院で起きた、学生生活をめぐるさまざまな動向の記録なのだが、同号には1932年(昭和7)5月から11月までの日誌が掲載されている。
 「全寮日誌」は、文字どおり昭和寮全体にかかわるエピソードを時系列で記録しているのだが、「寮だより」のほうは各寮で暮らしている学生たちをめぐる記録だったり、学習院の行事やスポーツ大会、イベントなどへ参加した感想など、より学生個人に関わる記載が多い。これらの日誌を参照すると、学習院で行われていた授業とは別に、学生たちがふだん過ごしていた生活やリアルな動向を知ることができる。では、昭和寮で学生たちはどのような暮らしをし、またどのような催しを開催し参加していたのかを見ていこう。まず、1932年(昭和7)の初夏から梅雨にかけての記録だ。同誌の、「全寮日誌」から抜粋してみよう。
  
五月二十一日 午後一時より図書館に於て史学会主催の吾等の先住民アイヌの叙事詞ユーカラをニテアツ氏(貝沢久之助)によつて朗唱、解説された、何となく考へさせられる所があつた。
五月三十日 午後六時四十五分より海軍少将子爵花房太郎閣下の「満州、支那、上海」に関する御講演があつた、(於娯楽室) 氏は最近研究会より満州支部上海方面を視察して来られ、写真等沢山見せてくださつた、後談話室で間食を頂き乍ら座談会的に色々御話をして九時頃終了。
六月六日 連日の雨天に寮生中病気になる者稍多し。
六月八日 午後九時半寮務委員の選挙を各寮別に行ふ。
六月十一日 午前十一時より正堂に於て木原工兵大尉の上海事変に関する講演あり、兵器模型、防弾衣、鉄冑、急造爆薬筒等の陳列あり有益な講演であつた。
六月十四日 馬場舎監昨夕より沼津游泳場へ出張。
  
 第8号の全寮日誌は、5月21日に学習院図書館で行われた、貝沢久之助の「カムイ・ユカル」をめぐる詠唱と講演の会からスタートしている。当時、平取(ビラトリ)の二風谷(にぶだに)Click!出身の貝沢久之助は、アイヌ民族の団結を呼びかけ生活改善をアピールする言説を各紙誌に発表しており、常時特高Click!の尾行が背後についていた。おそらく、この講演会にも関係者のような顔をして、学習院の図書館には特高の刑事がまぎれこんでいただろう。
 梅雨に入ると肌寒かったものか、風邪をひく学生が多かったようだ。同時期に、「寮務委員」の選挙が各寮ごとに行われている。寮務委員とは、4つの寮にそれぞれひとりかふたりずつ選ばれた寮代表のことで、生活に必要な規律や情報の伝達、掃除などの業務を管理する役割りをもち、寮別の日誌「寮だより」を日々書くのも彼らの仕事だった。
 日中戦争の激化とともに、おもに学習院OBの軍人たちによる講演会が多いのも、全寮日誌の特徴となっている。本来は、音楽会などが開かれていた娯楽室などで、中国情勢についての講演会が頻繁に開催されている。全寮日誌には寮内の出張も記録されていて、当時は沼津に設置されていたらしい学習院用の海水浴場へ、馬場轍舎監が出張している。
  
六月十八日 午後七時より本院正堂に於て輔仁会音楽会が催された、久邇宮朝融王殿下を初め其他の来客堂に満つ、近衛秀麿氏の指揮は実に素晴しかつた。閉会十時。
六月十九日 午後一時より本院馬場で打毬会行はる。
七月一日 午後二時より正堂に於て陸軍大臣荒木貞夫閣下の講演あり、風姿実に人を威圧すれど次第に親しみを覚ゆ。
七月二日 第一第(ママ:学)期授業終了。
七月四日 第一学期試験開始。
七月十二日 閉寮。
  
 下落合432~456番地の近衛新邸Click!敷地に住んでいた近衛秀麿Click!が、学習院正堂(講堂)で指揮棒をふるいコンサートを開いている。出演したのは学習院の学生交響楽団で、演奏曲は明らかではないが、寮だよりを参照すると各寮から学生が計5名、ピアノやバイオリンなどで演奏に参加しているのがわかる。
 また、6月19日には学習院馬場Click!で、華族学校らしくポロの大会が行われたようだ。この年の夏は、東京じゅうでコレラが流行しており、スポーツで身体を鍛えることが奨励されていたのかもしれない。期末試験が終わるとともに、7月12日には一学期の授業が終了して閉寮となっている。
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 学生の夏休み中は「閉寮」となるが、昭和寮の全体を封鎖して立入禁止にしてしまうことではない。寮生は、ほとんどが帰宅・帰省してしまうため、寮内は空き部屋だらけで閑散としていたようだが、学生は寮の自室へは自由に入ることができた。寮のオバサンや舎監、用務員などの管理者も夏休みに入ってしまうため、学生たちへのいつもの「サービス」はなく、寮内へとどまる学生たちは外食をしなければならなかったようだ。全寮日誌も、夏休みになるとまったく記載がなくなる。つづけて、「全寮日誌」を抜粋しよう。
  
九月十二日 午後六時より乃木将軍の夕を催す、乃木将軍の副官たりし伯爵山田英夫閣下の講演を行ふ。内容は乃木、ステツセル会見を中心とする当時の挿話、中等科学生も聴講全部で八十名近く非常な盛会であつた。七時二十分閉会後談話室に於て座談会を行ふ。
九月十六日 通常授業を開始す。
九月十七日 午前十時半満州事変一週(ママ)年記念講演として前関東軍司令官本庄繁閣下来院せられ院長及び学生総代の挨拶の後 熱誠なるお話があつた。(於正堂)
九月二十二日 オリンピツクに馬術選手として活躍せられた山本先生の講演が午後一時五十分より正堂に於て行はれた、一同面白く拝聴す。
九月二十九日 午後四時より対付属中学剣道定期戦が行はれ、本院は大将、副将を残して七年振りで快勝した。
十月二日 輔仁会水上部秋季会が催された、対寮レースに於ては各寮棄権し三寮独漕して優勝す。
十月四日 秋季野外演習が本日より群馬県相馬原に於て開始せられた、一同雨も物ともせず意気天をつく。
  
 毎年、自裁した9月12~13日の命日には、院長だった乃木希典Click!をしのぶ講演会や座談会が、昭和寮で開催されていたらしい。いまだ夏休み中だが、中等部の生徒たちも含め参加者は多かったようだ。9月16日より二学期授業がスタートするのだが、“スポーツの秋”らしく、さまざまな競技会が開かれている。特に、学習院中等部と東京高等師範学校の附属中学校Click!との対戦は人気が高かったらしく、対附属中学の試合は競技の種類を問わず数多く記載されている。
 また全寮日誌には登場していないが、寮生の手記を読むとあちこちに早慶戦Click!の予想や勝敗をめぐる記述が登場し、当時の異様で熱狂的な人気をうかがい知ることができる。学習院や同昭和寮は、早稲田大学Click!戸塚球場Click!(のち安部球場)にも近かったため、旧・神田上水をわたって“グランド坂”まで、選手の練習を見物しに出かけた学生も少なからずいたかもしれない。早慶戦があると、談話室のラジオが点けっぱなしにされ、寮生たちは贔屓の大学側に声援を送って熱狂していた。
 笑ってしまうのが、寮対抗の水上部の試合(ボートレース)で、4寮のうち第二寮と第四寮がそもそもレースをやる気がなくて棄権し、第一寮はなぜか試合時間をまちがえて遅刻、第三寮のボートチームが「優勝」している。ちゃんと漕艇したのかも曖昧で、かなりいい加減な「試合」だった。第一寮の寮だよりには、「対寮レースに吾が寮は時刻を間違へて棄権の止むなきに至る」と記載されているけれど、あらかじめ「おい、ボートレースなんてかったるいよな」「やってらんね~や」と寮同士、学生同士が示し合わせた、実はハナから想定されていた“八百長試合”ではなかったか?
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 10月4日に群馬県の相馬原で行われた軍事演習について、「意気天をつく」というようなひときわ感情過多の表現をしているのは、演習を昭和天皇Click!が観閲したからだ。全寮日誌ではオーバーな表現なのだが、各寮だよりでは、単に軍事演習の実施のみを短く記録した表現が多い。特に第四寮の寮だよりには、軍事演習の実施さえ省略されて記載されていない。学生たちに、泊りがけの軍事演習や行軍演習が、歓迎されていない様子がうかがえる。全寮日誌から、再び抜粋してみよう。
  
十月十六日 本院年中行事中最も重要且つ盛大なる輔仁会秋季大会が正九時より正堂に於て催された、相憎の雨ではあつたが観衆は頗る多かつた、催物の中でも特に喝采を博したのは昭和寮々生オール、スター、キャストの「想ひ出」であつた。終了後六時より当寮に於て桜友 輔仁会の懇親会が行はれた。
十月十九日 午前四時頃久し振りで三寮と四寮に泥棒が入つた、四寮の被害最も多し。
十月二十五日 本院対付属中学の定期柔道試合行はる、本院選手奮闘これ勉めたが惜しくも引分けとなる。
十月二十七日 午後一時より正堂に於て学習院出身の特命全権大使吉田茂氏の御講演あり、先ず中世の外交より御話を初められ最近満州事変、国際聯盟、リツトン報告書に至るまでを話され終りに学習院出身者の素質の外交方面に適するにもかゝわらず近年その外交科を志望するもの尠きを惜しまれ今後時局多端(ママ:難)の折柄学習院出身者の外交方面に活躍するを奨めらる。
十月二十九日 午後七時より正堂に於て弁論部秋季講演会が催された。講演者文部大臣鳩山一郎閣下、紀平正美先生で、他校の聴講者特に多し終了九時。
  
 「輔仁会秋季大会」とは、今日でいう全校をあげた学園祭のようなもので、学生たちが1年を通じてもっとも力を入れた年中行事だ。この大イベントの準備があるために、寮対抗のボートレースも軍事演習もあまり熱が入らず、できればパスしたい行事だったのかもしれない。
 学習院正堂では、吉田茂Click!と鳩山一郎が相次いで講演している。意外なのは、本院や昭和寮で開かれる講演会が、政治や軍事、国際情勢など時事のテーマに関連したものが多く、学芸分野の講演がほとんど存在しないことだ。5月から10月までの半年間、唯一の例外だったのが歴史・文芸のテーマに入りそうな、貝沢久之助による「カムイ・ユカル」の詠唱・講演会のみだった。
 もっとも、全寮日誌を書いているのが理科の学生だったりすると、興味のない文科系の講演会はすべてパスしていた可能性もあり、「昭和」第8号の半年間のみ時事テーマの講演会記録が、やたら目につくだけなのかもしれない。
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 さて、10月19日の早朝、昭和寮の第三寮と第四寮へ泥棒が入っている。「久し振りで」と書かれているところをみると、以前はしょっちゅう侵入されていたらしい。被害は大きかったようだが、盗まれた金額や品物については特に書かれていない。第三寮の寮だよりには、「今暁四寮、三寮に泥棒入る。とられた奴の寝呆け面は見られたものでやねェ(ママ:じやねェ)」と記録したが、第四寮では寮務委員が戸締りの責任上きまりが悪かったのか、泥棒被害についての記述は記載されていない。

◆写真上:学習院昭和寮(現・日立目白クラブClick!)の第一寮棟入り口。
◆写真下:旧・学習院昭和寮の、現状における外観・内観いろいろ。

季節はずれの怪談物語。(4)

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 そもそも、新橋「花月」における怪談会Click!は、いつからどのような目的ではじまったのだろうか? これが、『主婦之友』主催の会席ではなく、以前からつづいていた会席であることは、泉鏡花Click!の発言からもうかがえる。元気なころの劇作家・小山内薫も出席していたというから、少なくとも大正期から定期的に開かれつづけていたのではないかと推定できる。
 そして、新橋「花月」の催しは文学界あるいは演劇界を中心にかなり広く知られており、夏になるとひとつの風物詩的な会席として、以前から浸透していたように思えるのだ。そうでなければ、当時は100万部の婦人誌だった『主婦之友』がいくら参加を呼びかけても、これだけのメンバーを一同に集められたとは思えない。泉鏡花と平岡権八郎が世話役になって、怪談会席は毎年夏になると催されていたのではないか。
 さて、聞いているんだか聞いてないんだかわからない、黙って身体をユラユラさせている橋田邦彦医学博士(想像)をよそに、怪談は再び「死神」の話に回帰している。大阪の郵便屋が、夜明けまでに三等郵便局へとどけなければならない郵便物を詰めたカバンを肩に、真夜中の淀川堤を歩いていると、急に死んでしまいたい誘惑にかられる話だ。
  
 ◎平岡権八郎の怪談(その3)
 何の理由もないのに、たゞ無性に死んでみたくなつたんださうです。丁度都合のよいことに、堤の下に共同便所があつたので、彼はつかつかと便所の中に入り、帯を解いて首を縊らうとしました。と、そのとき急に彼の胸に浮んだのは、郵便物の入つた鞄のことでした。『俺には大変な責任があるんだ。これを郵便局へ届けてから、ゆつくり死なう。』と、急いで首縊りを中止して、向うの三等郵便局へ向ひました。(笑声) 夜がだんだん明けると共に、死にたいといふ気持も、だんだん薄くなり、帰途に就く頃は、そんなことは、すつかり忘れてしまひました。淀川堤を、鼻唄か何か唄ひながら、彼はぶらぶら帰つて来ました。そして昨夜の共同便所のところまで来たら、何だか人集りがしてゐて、わいわい騒いでをります。近づいて様子を見たら、その共同便所に、旅のものらしい三十年輩の男が、首を縊つて死んでゐたさうです。つまり死神が、共同便所の中から誘惑したわけなのでせう。
  
 このあと、縊死したくなる枝ぶりの木が話題になっている。柳田國男Click!は、「首縊り番付」で“大関”になった番町土手の松の木で、つづけて5~6人が首を吊った事例を話した。つづいて、日本画家・小村雪岱が東京美術学校の近くにあった、「首縊りの木」について触れている。「枝振りがよくて、高さが頃合で、如何にも縊りよいんですね」と、柳田が死にたくなる木について解説した。さて、東京美術学校のすぐ近くの「首縊りの木」とは、どこにあった樹木でどのようなエピソードが語られていたのだろうか。画家たちの資料がありそうなので、判明したら改めてこちらでご紹介したい。
 話題は、縊死による自殺から鉄道自殺Click!に移るのだが、柳田はここでも気味の悪い話をしている。それは彼の知人の趣味なのだが、鉄道自殺の報を聞くといち早く事件現場へ駆けつけ、血が飛び散った石をひとつ、記念にもらって帰るというものだった。血染め石のコレクションは、すでに1箱分になっているという。
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 つづけて、里見弴が思想家であり美術家の柳宗悦にまつわる幽霊話を披露した。柳宗悦の兄は、柔道二段の豪快な船乗りで、荒くれ者が多い下級船員たちからは強く慕われていたらしい。そのかわいがっていた部下のひとりが、異動で他の船に転勤して間もなく、柳宗悦の兄は他の部下たちと伊豆下田の安宿で鍋料理をつつきながら、酒宴を開いていた。そこへ、他船へ転勤したはずの元・部下が訪ねてきたところから、物語がはじまる。
  
 ◎里見弴の怪談(その2)
 そこへ前の部下が訪ねて来たので、大いに喜び、顔見知りのものばかりだから、ゆつくりして行けと引留めて、『幸ひ君はまだ草履を穿いてゐるんだから、済まないけれど一走り行つて、豆腐を買つて来てくれないか。』と頼みますと、その男は快く承知しましたので、味噌漉笊を渡すと、それを抱へて、いそいそと出て行きましたが、それから一時間経つても二時間経つても戻つて来ません。後になつて判明したところによれば、その男の乗つてゐた船は、例によつてその時刻に、難船してゐたのですが、味噌漉笊の行方のわからないのも、例によつて例の如しです。
  
 柳の兄ばかりでなく、ほかの船乗りたちも同時に死んだ船員を目撃しているので、集団幻覚や全員の錯覚とはいい切れないと、柳田國男が言外に評している。次に泉鏡花が、友人の体験した京都の宿屋での幽霊譚を披露している。
  
 ◎泉鏡花の怪談(その4)
 私の友だちが、幽霊らしいものを確に見ました。春四月、それも昼間の三時半頃、京都の宿で、どうかいふ折に、大阪の芸者二人と三人で、二階で話をしてゐました。何かの拍子に一人の芸者が、次の間へ行つて窓から庭を見てゐたが、変な顔をしてもう一人の芸者を、ちよいとゝ呼ぶ。同じく窓から見て、今度は二人で手招きをするんです。『ちよいと、あれ、あの部屋を。』と、指さした離れの小座敷に、夜具を胸に、枕を深くした女が、向うの障子の硝子をすいて見えました。その女の顔色がなかなか言葉では言へないやうな、青いとも緑とも。のみならず、枕も夜具もおなじやうに蒼い。『何だ、病人か。』と、わざと平気を装つて言ひましたが、心中はなかなか穏かでありません。後で庭に出ましたが、そこに誰もゐさうもないので、三人でソッと開けましたが、その部屋には誰もゐないことが判りました。影もない、尤も茶席構への唯一間です。
  
百物語「路上の幽霊」.jpg 百物語「大名屋敷の幽霊」.jpg
 幽霊話は、出席者の多くが経験あるいはネタとして持っているらしく、泉鏡花につづいて平岡権八郎がすぐに話を継いでいる。平岡が語るのは、浪曲師として知られた桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)の愛人が、大阪の宿で体験した怪談だった。
  
 ◎平岡権八郎の怪談(その4)
 大阪の××屋でのことですが、千鳥といふ雲右衛門のお妾さんは、東京から伴れて行つたお酌と二人で泊つてゐたさうです。ところが、そのお酌が、夜中になると、しくしく泣き出すので、お妾さんは心配して、理由を訊ねたが何も言はず、同じことが五晩も続いた後、お酌は遂に耐へ切れなくなつたものと見えて、東京へ帰してくれと言ひ出しました。仕方がないのでお酌を東京へ帰し、お妾さん一人だけ、その部屋に寝てゐたら、夜中に、枕頭の唐紙がすうつと音もなく開いて、女のお化が後ろ向きに入つて来たさうです。(中略) お妾さんは思はず大声を揚げようとしたが、気づいて見ると、まさかのときの用意に、寝床の中に呼鈴を入れておいたので、それを鳴して番頭を呼び、洗濯物があるからとて、湯殿に案内させ、そこで洗濯をして夜を明したさうです。
  
 3つの幽霊話のうち、いちばん怖いのは京都の宿で芸者たちと昼間見た、離れの小座敷に横たわる女の幽霊だろうか。鏡花も含め、別に因果関係を知らずに、ただ向かいの2階から目撃しただけなのだが、宿にまつわる物語がいっさい不明なので、よけいに気味が悪く感じるせいかもしれない。唐紙を空けて寝間に入ってくる、平岡の女幽霊も怖いのだが、どこかうしろ向きというところに、怖さよりも哀れさを感じてしまう。
 このあと、柳田國男がお化けの見わけ方を“講義”し、看破する秘訣の1点めは「暗闇の中に輪郭がぼんやり明るい」ので、すぐに怪しいと気づくこと。そして、なにかお化けに話しかけられたら、逆にこちらから問い返してみると、「二度目には必ず、一層はつきりしないことをいふ」のが怪しい2点めなのだそうだ。このとき、完全に酔いつぶれてしまったとみられる橋田邦彦博士は、2点めのお化けの特徴に合致していたのではないか。w
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 怪談会の後半には、まったく発言しなくなった橋田医学博士だが、同じく一度もまとまった話をしていない、『主婦之友』8月号で怪談会の挿画を担当した日本画家の古村雪岱が、ようやく重い口を開くのだけれど、それはまた、次の最終回で……。
                                   <つづく>

◆写真上:1831年(天保2)ごろ制作の、葛飾北斎『百物語』の「さらやしき」(部分)。
◆写真中上は、里見弴で兄(有島武雄)の情死から幽冥話に惹かれるようになったものだろうか。は、過去の「花月」怪談会へ出席していたらしい小山内薫。
◆写真中下:1893年(明治26)に『やまと新聞』へ連載されていた「百物語」の挿画で、俥屋の前を足早にゆく女の幽霊()と大名屋敷に出現した女幽霊()。
◆写真下上左は、歌川国貞(三代豊国)Click!が制作した番町皿屋敷のお菊Click!(部分)。上右は、豊原国周が描く明治期のお菊(部分)で明らかに国貞(三代豊国)の構図をマネている。は、1928年(昭和3)6月19日に新橋「花月」で開かれた怪談会の模様。(伊藤徹子様Click!主宰の柳町クラブ「牛込柳町界隈」Click!Vol.17:2014年夏号より) 出席者は左から右へ平岡権八郎、泉鏡花、橋田邦彦、長谷川時雨、柳田國男、里見弴、小村雪岱の面々で、いまだ小林一三は到着していない。

さて、西洋館のお掃除がコマッタ。

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 大正期から昭和初期にかけて建設された洋風の住宅には、それを維持するための大きな課題があった。従来の畳部屋ではなく、床面が板張りあるいはリノリウム張り、コルク張りといった広い洋間が登場したことで、その清掃の道具がまったく存在しないことだ。畳部屋を掃除する、昔ながらの和ぼうきはあったものの、細かなチリやホコリを清掃するには、日本家屋の板張り廊下などにならって、相変わらず雑巾がけが行われていた。
 しかも、洋間は畳敷きとはちがってチリやホコリ、それに表面の汚れが目立ちやすく、どうしても日々の掃除は欠かせなかった。当時の主婦や女中たちは、和室用の掃除ぼうきで床を掃いたあと腰をかがめて雑巾がけをするか、あるいは床や家具を問わずすべて雑巾で拭き掃除するという、面倒で手間のかかる仕事を日々こなしていた。だが、大正期も後半になってくると、ようやく一部のおカネ持ちの住宅向けではなく、「中流」層にも手がとどく、洋風住宅専用のさまざまな掃除道具が普及してくる。さて、本格的な郊外文化村開発のさきがけとなった目白文化村Click!をはじめ、下落合に林立した西洋館では、どのような掃除器具が導入されていたのだろうか?
 そのひとつが、のローラー型の「自動掃除器」と呼ばれたものだ。自動掃除器は、柄の先にあるローラー部分に拭きとり用の掃除用タオル(雑巾状のもの)を巻きつけ、それを押し転がしていくことで、いちいち腰をかがめなくても床面を掃除できる、効率的で便利な道具だった。押していくにつれ、雑巾の汚れていない部分が順ぐりに出てくるので、すべての面が汚れきるまで拭きつづけることができる。板敷きやリノリウム張りなどの床には最適で、少し広めの応接室や居間などで使われていた。
 ただし、壁面に腰高の板壁がなく、床からいきなり白色の漆喰壁のような室内構造だったりすると、ローラーに巻いたタオルの汚れ、あるいは手拭きの場合は雑巾の汚れが当たり、白い壁を汚してしまうので、床と壁の角部分は細い棒に雑巾を巻きつけてこするか、指先による手作業でていねいに拭わなければならない。
 コルク床の場合は、掃き掃除と雑巾の乾拭きによる通常の清掃に加え、石鹸をつけて洗う大掃除のあと、1年に一度、ニスを塗り直すのが当時の習慣だったようだ。特に、汚れのひどいところはニスも剥げやすいので、場合によってはその部分だけ年に数度の塗り直しが必要だったらしい。コルクの床というと、特有の弾力性を活かしたやさしい床を想像してしまうが、当時はあくまでも床材としてニスで固められて使用されており、その上をスリッパか室内履きで歩くのが前提だった。
 また、リノリウム材を用いた床も造られたが、事務所や店舗に多く導入されたものの、住宅ではあまり人気がなかったようだ。リノリウムは通常の清掃に加え、表面を保護するためにモップで油を塗布しなければならず、いまだ和服生活が多かった大正期では、着物の裾が床面の油で汚れるために敬遠されたと思われる。
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 洋間に絨毯を敷いているときは、布団たたきと同じような形状の絨毯たたき()で、表面をたたいてホコリを浮かせたあと、専用につくられたの絨毯ぼうきでホコリを集め、輸入された「カーパットスッパー」(ママ:カーペットスッパー?)と呼ばれるの掃除器でゴシゴシ吸いとるのが、当時の一般的なクリーニングだった。今日では、電気掃除機ひとつで(場合によっては掃除ロボット1台で)、床面も絨毯もカンタンに掃除が済んでしまうが、当時は何段階にも分けて掃除しなければならない、負担の大きな作業だった。洋室が数部屋ある住宅では、面倒なので部屋ごとに隔日で掃除をするなど、主婦や女中の負担を減らす工夫をしていた。
 おカネ持ちの家では、同じく海外から輸入されたの「真空掃除機」(電気掃除機とは呼ばれなかった)を導入するケースもあったが、なによりも高額な舶来製品であること、吸引力が今日のように強くなく手作業のほうが仕事が早いこと、そして郊外住宅地では電気事情がいまだ不安定で停電が多かったこと……などの理由から、結局、あまり普及しなかったらしい。また、郊外住宅で雇用する女中も、真空掃除機など見たことのない女性が多く、機械を扱うのに不慣れなことから、操作をまちがえて故障の原因になるなど、真空掃除機はあまり人気が出なかったようだ。
 ちなみに、当時の真空掃除機は120~130円もしたが、絨毯たたき、絨毯ぼうき、輸入品の「カーパットスッパー」(ママ)を用いる洋間掃除の場合は、すべて合わせても20円前後で済むため、女中や書生を置く家もめずらしくなかった当時としては、機械に頼らず人力で掃除する家庭が多かったのだろう。もうひとつ、真空掃除機が高価なわりには故障しやすいという、別の課題もあったのかもしれない。
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 床面のみならず、ドアや窓、腰高の壁などの手入れは、毛織の雑巾を使って乾拭きされていた。タオル状の毛織布の両端を縫ってリング状にし、汚れたら洗ってそのまま物干しざおに輪を通して乾かすような使われ方をしていた。毛織布を用いるのは、板壁や窓枠に使われた木材の光沢を出すためだと思われる。また、風呂場のタイルや洗面所、便器などの硬質陶器は、工業用塩酸を15倍に薄めた希塩酸をつけて洗うことが多かったようだ。いまだ、トイレや浴室の専用洗剤など存在せず、汚れ落としには希塩酸や重曹が活躍した時代だった。おそらく主婦や女中たちは、今日のようなゴム手袋も普及していなかったので、手の荒れにずいぶん悩んだのではないだろうか。
 台所にも、食器や流し用の台所洗剤などない時代なので、ふつうの石鹸では落ちないガンコな汚れの場合は、万能磨粉(いまでいうクレンザー)を使って掃除していた。特に、水道の蛇口や引き出しの取っ手、ドアノブ、窓のカギなどに多く用いられていた金属、銅や真鍮の金具を磨くときにも、万能磨粉はよく使われたようだ。
 また、玄関や土間、外壁などコンクリートやレンガ、石組みなどで造られた部分は、いまでも見られるの外ぼうきやのデッキブラシが当時から使われていた。チリやホコリは外ぼうきで掃き、汚れた箇所にはたいがい水をかけ、デッキブラシでごしごしこするやり方だ。また、風呂場や玄関まわりで、コンクリートに埋めこんだタイルなどがある場合は、その部分だけ濡れ雑巾でていねいに拭かれていた。
 洋間に比べて和室の掃除は、特に掃除道具が進化することもなく、昔ながらの手法がそのまま行われていた。畳は和ぼうきで掃いたあと、雑巾で乾拭きする作業が日々つづけられた。障子や窓は、布製ではなく和紙を使った紙製のハタキで、チリやホコリをはたいている。柱や長押(なげし)は、白木綿の袋に炒った糠(ぬか)を入れ、毎日光沢が出るまで磨かれた。さらに、和室の縁側など板張りの廊下は、掃き掃除や拭き掃除が終わったあと、“おから”を白木綿の袋に入れて毎日根気よく磨く作業が行われている。
 わが家は、ほとんどの部屋が洋間なのだが、1間だけ、床の間のない唐紙と障子のシンプルな和室(6畳)を造った。ときには、畳へ横になってゴロゴロしたくなるかもしれない、炬燵に入ってヌクヌクしたくなるかもしれない……などと想像してこしらえた和室なのだが、ほとんど使わないまま、現在は子ども夫婦の寝室になっている。しかも、カーペットを敷いているので、洋間とあまり変わらない部屋になってしまった。
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 もし和室の掃除が、昔ながらの面倒な手作業のままだったとしたら、おそらくすべてを洋間仕様にしていただろう。大正から昭和初期の、手がかかる煩雑な掃除事情を詳しく知るにつけ、戦後の優れた掃除機器の進化や掃除ロボットの登場は、住環境の特に維持管理面においては、想像以上に大きな変革や効率化をもたらしているのだと改めて実感した。そして、それらの先端デバイスは、今後、たとえば「掃除ロボットが働きやすい部屋や窓、外壁、屋根」というように、住宅自体の姿まで徐々に変えていくのかもしれない。

◆写真上:すっかり紅葉し、もうすぐいっせいに葉が降りそそいでくる大ケヤキ。毎年腰が痛くなるので、落ち葉掃きロボットが発明されればすぐにも欲しい。
◆写真中上は、1928年(昭和3)発行の『主婦之友』2月号に掲載された当時は目新しい掃除道具。は、1921年(大正10)刊行の『住宅』1月号に掲載された人着の食堂。
◆写真中下:同じく1921年(大正10)に刊行された『住宅』1月号に掲載の、当時は最先端だった洋風住宅の居間()と寝室()の室内デザイン。
◆写真下は、同号掲載の玄関ホール()と応接室()。は、大晦日が近づくにつれ大掃除でアッという間に迎える下落合の夕暮れ。

動物ビジネスが盛んな目白界隈。

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 大正期から昭和初期にかけて、さまざまな動物飼育をビジネスとする事業が、東京郊外のあちこちで起業されている。その中で、もっとも多かったのが乳牛を飼育して東京市内へミルクを供給する「東京牧場」Click!と、同様に新鮮な卵を供給する養鶏場だ。
 落合地域では、上落合の福室軒牧場Click!や、安達牧場Click!と提携して「キングミルク」ブランドの原乳を生産していた、上落合との境界に接する上高田2丁目322番地の牧成社牧場Click!が目につく。おそらく、その周囲には乳牛の委託農家Click!もいくつか散在していただろう。また、養鶏場はあちこちにあったようで、中島邸(のち早崎邸)Click!が建設される佐伯祐三Click!アトリエの東南隣り、下落合658番地の敷地も養鶏場Click!だった。だが、落合地域の東隣りである高田地域(現・目白/雑司ヶ谷)には、落合地域にはみられない大規模な動物飼育の事業経営が、大正期になると盛んに行われていた。
 まず、1919年(大正8)現在の高田村には牧場が7ヶ所も確認できる。雑司ヶ谷鬼子母神に近接して開業していた北辰社牧場Click!をはじめ、ほどなく事業拡張のため長崎地域の西端へ移転してしまう籾山牧場Click!、宇佐美牧場、前田牧場、塩沢牧場、博勇社牧場、そして報国社牧場の7つだ。この中で、もっとも規模が大きかった北辰社牧場と、籾山牧場の紹介記事を、1919年(大正8)に刊行された『高田村誌』から引用してみよう。
  
 ◆北辰社牧場
 社長は前田鉄太郎氏なり。創立は今を去る三十幾年前の事にして、当時は此付近未だ家なく、所謂武蔵野の山林なりし処たり、牛頭数二百余、他に房州に預託するもの三百余頭也。其搾乳料は一日五石を超え、年額販売価格四万円を超え、即ち総石数千七百余石に達す。常に畜牛の改良に努力し、資料濃厚、給与豊富にして、乳質の優良なるものの販売を主義とせり、従つて支店其他の副業を成さず、たゞ剰余の乳汁はバタ(乳酪)の製造に供するのみ、乳牛の種類は、単角種、ゼルシー、エーアシヤ、ホルスタイン等、何れも純粋に改良せられたる良種となす。本店は麹町区飯田町三ノ九、(九段坂下)にあり。其名夙に知らる、牧場坪数は七千余坪を有す。
 ◆籾山牧場
 明治十八年、時の御料牧場波多野尹政氏の経営によれるものを、籾山英次氏其後を継ぎ今日に及べり、場主籾山氏は帝大獣医科の出身、前生産組合副組長、今の代議員勲五等双光旭日章の栄誉ある人なり、乳牛種はホルスタイン、エーアシヤ、ゲルンヂー、シンメンターラー等百九十余頭、牧場坪数、東京本場一万八千坪、内農場一万四千坪、千葉育牛部二千坪外に農家預託のものあり、長野分場十三万八千余坪、内農場十二万坪余なり。如斯にして、本牧場は、其一大特徴とせる飼料自給政策を全うしつゝあり、専ら種畜分譲、生乳卸売、乳製品等に声価を有せり。/更に本籾山牧場は公共的付帯事業として、実費の種付、或は学校実習用として農場の提供をもなし、乳製品の引受もなしつゝあり。
  
 また、農家の副業的な事業ではなく、700坪の敷地に大型鶏舎を4棟建てた大規模な養鶏企業も開設されている。同書から、島田養鶏場の項目を引用してみよう。
  
 ◆島田養鶏塲
 大正七年十月島田氏に変りて現在執行(しぎょう)勤四郎氏の個人経営なり。和洋各品種を網羅し、種鶏種卵、人工孵卵肥育等を専らとす、而して養鶏事業をして国家的に普及奨励せんの計画なり、坪数七百坪鶏舎四棟三十三室を有す、大正四年の創立に成れり。
  
 さて、ここまでは通常にみられる動物飼育の事業なのだが、高田村にはほかには見られない、めずらしい動物の飼育・研究施設がオープンしている。それは、野鳥を研究して新たな家禽になりそうな種を飼育し、その肉や卵の供給を促進する、これまでにない新規の開発・研究事業だった。高田村雑司ヶ谷345番地に小田厚太郎が設立した、小田鳥類実験場がそれだ。
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 中でも、ウズラの肉や卵を生産する研究がもっとも進んでおり、大正中期から東京市街地に出まわりはじめたウズラの肉や卵は、すべて同実験所の研究成果だったようだ。つまり、今日ではあまりめずらしくないウズラ製品だが、その大量飼育法や生産技術を最初に開発したのが、高田村雑司ヶ谷は日本女子大寮の裏手にあった小田鳥類実験場というわけだ。おそらく、ウズラ飼育の技術やノウハウは大正期の当時から現代まで、改良が重ねられてそのまま受け継がれているのだろう。同書から、小田鳥類実験所の紹介を抜粋してみよう。
  
 ◆小田鳥類試(ママ:実)験所
 小田鳥類実験所は、高田村大字雑司ヶ谷村三四五女子大学寮の裏手に在り。一般野禽の学術的及生産即ち家禽的価値を研究するを目的として設立せられたるものにして、所長小田厚太郎氏の独力経営するところなり。氏は醇々洞主人と号す。十数年前より斯の研究に志し、現今新家禽として世に喧伝さらるゝ鶉飼育の如き、氏の実験に基き、その流行を見たるものなり。(中略) 氏の斯の事業は実に空前のものにして、その言によれば、この新なる実験により、従来の養鶏の如きも、更に改良進歩せしめ、その生産率を増進し得べしといふ。/雑司ヶ谷の地とも鶉御猟の旧蹟なり。この地に鶉の飼育に成功せる小田鳥類実験所を見るに、又不思議の因縁といふべし。
  
 文中で「鶉御猟の旧蹟」としているのは、徳川将軍の鷹狩場(御留山)Click!に指定されていたことを指しており、高田村には当時「鶉山」という小字がいまだ残っていた。
 また、輸入された大量の西洋ミツバチをもとに、本格的な養蜂ビジネスも登場している。いまでは、銀座蜂蜜Click!や渋谷蜂蜜など、都心での養蜂業による「東京蜂蜜」はぜんぜんめずらしくないけれど、大正期の養蜂業はやはり郊外地域が主体だった。養蜂技術は当時、北海道がもっとも進んでいたようで、池袋駅も近い日本養蜂場では、北海道の養蜂企業と提携しながら事業効率を高め、生産性を向上させる技術やノウハウの修得に励んでいたらしい。
 養蜂事業は、おもに蜂蜜や蜜蝋を収集・販売するのだが、それらは食品のほか化粧品や薬品などにも利用されはじめており、大正期に入るとその需要が爆発的に増えていった。高田村のミツバチは、1箱あたり年間に10貫匁(37.5kg)の蜂蜜を生産したが、北海道の養蜂業では1箱あたり年間30貫匁(112.5kg)がふつうなので、生産量はわずか3分の1ほどにすぎなかった。『高田村誌』に掲載された、岐阜に本社のある日本養蜂場の広告文を引用してみよう。
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 ◆養蜂事業
 養蜂事業は現代に於ては国家的事業にして蜂の不足を感ずる事夥しく北海道との連絡をとり其欠点を補へるの現状なり 輸出額二十万封度を算ふ化粧品薬品原料五臓円等薬品に用ゆるはよく人の知る処也 菓子類印刷原料染料文房具原料として有らゆる方面に需要多し。蜂蜜は食料として滋養豊富、大学の分析成績に徴して纔(わず)かに水一割七分のみ(卵水分六割)(牛乳八割)といふ/欧米諸国は蜂蜜と其巣を郵便物同様に取扱ふの盛況也 黒龍江方面にても人口五、に対し一群の比率を示せり 養蜂一箱より十貫匁の採蜜を疑はず(北海道は三十貫匁)
                       日本養蜂塲/塲主 岡田岩吉
  
 高田村で起ち上げられた新事業が、次々と「国家的事業」になってしまう『高田村誌』の表現が、ちょっと面白い。今日、蜂蜜の需要は当時の比ではないほど爆発的に増加しており、国産品はわずか5%にも満たず、残りの95%以上が輸入品となっている。手間ヒマのかかるわりには利幅が少なく、中国などからの安い輸入品にはとても対抗できないのだろう。だが、大正当時には国内産の蜂蜜のみで輸出品も含め、ほとんどの需要がまかなえていたのかもしれない。
 上記の動物飼育に関するビジネスは、あくまでも大正中期における高田村の様子だが、このあと5~6年ほど時代がくだると、さまざまな動物ビジネスが新たに登場してくる。たとえば、落合地域でも見られたが、この土地の豊富な湧水や地下水を利用して、自然の池や新たに造成した養魚池などへ、東京市街地の料亭などで需要の多いアユを放して養殖したり、観賞用のコイを育てたりするビジネスだ。手っとり早く現金収入を得られる事業へ、東京近郊の農家は次々と積極的に投資して事業を起こすのだが、長く成功をつづけた例は少ない。
 ときに、投機的な動物飼育事業も現れた。昭和初期に流行した、ハトを大量に飼育してその肉を出荷するハトポッポビジネスだ。大阪から生まれた新事業のようだが、ちょっと考えればわかるとおり、日本人はハトの肉を食べる習慣がほとんどまったくない。その当時、米国や中国で食されていたのをマネて、近いうちに日本でも大量に食べられるようになると次々にハトが輸入され、関西を中心として各地に養鳩場が設置された。だが、戦争による食糧難の時代はともかく、その後もハトを食べる習慣は日本にまったく根づかず、事業に失敗した養鳩場ではハトをきちんと処分したところもあったのだろうが、多くの場合は経費節減のために放置されるか、あるいはハトはそのまま野外へ放たれた。
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小田鳥類実験所広告.jpg 日本養蜂場広告.jpg
 今日、「エサをやらないでください」と各地で嫌われているハトの群れの多くは、昭和初期に失敗したハトポッポビジネスの遺伝子を受け継いでいる個体も少なくないにちがいない。まるで、先物取引のように投機熱が過熱した養鳩場ビジネスについては、機会があれば、また別の、動物物語……。

◆写真上:描いた制作者が不明な北辰社牧場の全景で、右手の森が雑司ヶ谷鬼子母神だと思われる。1990年(平成2)に発行された豊島区立郷土資料館『ミルク色の残像』より。
◆写真中上:。は、北辰社牧場のホルスタイン。(前掲書より) は、1919年(大正8)出版の『高田村誌』に掲載された北辰社牧場()と宇佐美牧場()の広告。は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」にみる北辰社牧場。
◆写真中下:『高田村誌』の、小田鳥類実験所の外観()と島田養鶏場の広告()。
◆写真下は、小田鳥類実験所の南にある日本女子大学寮の正門。は、『高田村誌』掲載の小田鳥類実験所()と日本養蜂場()の広告。

尾崎翠の「歩行」的な落合散歩。

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尾崎翠旧居跡(上落合842).JPG
 秋から冬にかけ、下落合の坂道を上ると顔に北風が吹きつけてくる。丘上へでると、さらに強い北風が容赦なく身体を吹き抜け、手や耳が痛いほどだ。逆に、坂道を下ってくると今度は北風に背中を押され、ケヤキやイチョウの落ち葉がかさこそと、さびしく横を追いこしてゆく。下落合の丘上から強く吹きつけてくる風の様子は、1934年(昭和9)の暮れから中井駅近くの上落合2丁目740番地に住んだ、宮本百合子Click!も手紙に書きとめている。
 尾崎翠Click!上落合850番地Click!、つづいて上落合842番地Click!に住んでいたころ、それほど頻繁ではないにせよ、自宅の周辺を散歩していると思われる。その散策は、風景を眺めたり新しい出会いや発見の楽しみをともなう散歩ではなく、外へ出て身体を動かす必要性からおそらく「歩行」と呼ばれていて、部屋にこもりっきりで作品を書きつづけることからくる運動不足や、薬品の飲みすぎで健康状態が極度に悪化することを懸念してのものだったと想像できる。
 今年(2014年)6月、尾崎翠の小説集がようやく岩波文庫の緑帯(31-196-1)に登場した。若い世代を中心に起きている、尾崎翠の圧倒的な人気やブームによるところが大きいのだろう。あまりにも先の表現世界を歩みつづけていた彼女は、ようやく21世紀になってから表舞台へと躍りでてきた。同書の中に、落合地域を散策しながら構想したらしい『歩行』という短編が収められている。『歩行』の初出は、1931年(昭和6)に大日本聯合婦人会(文部省)が発行していた「家庭」だ。同婦人会の会長・島津治子が、不敬罪で警察に逮捕される5年前のことだ。つづいて、翌1932年(昭和7)には保高徳蔵・編のアンソロジー文学誌「文学クオタリイ」に掲載されている。同誌には、石坂洋次郎や伊藤整Click!舟橋聖一Click!宇野浩二Click!井伏鱒二Click!、田村泰次郎、久野豊彦などが執筆していた。
 さて、『歩行』で落合地域を吹きぬける風の様子を、同文庫より引用してみよう。
  
 夕方、私が屋根部屋を出てひとりで歩いていたのは、まったく幸田当八氏のおもかげを忘れるためであった。空には雲。野には夕方の風が吹いていた。けれど、私が風とともに歩いていても、野を吹く風は私の心から幸田氏のおもかげを持って行く様子はなくて、却って当八氏のおもかげを私の心に吹き送るようなものであった。それで、よほど歩いてきたころ私は風のなかに立ちどまり、いっそまた屋根部屋に戻ってしまおうと思った。(中略) そして私は野の傾斜を下りつつ帰途についたので、いままで私の顔を吹いていた風が、いまは私の背を吹いた。さて背中を吹く風とは、人間のうらぶれた気もちをひとしお深めるものであろうか。
  
 祖母の“おつかい”で、お萩の重箱を片手に外へ出た「女の子」こと「お祖母さんのうちの孫娘」は、このとき片想いの相手を忘れようとして、家の周辺をぼんやりしながら彷徨している。祖母が孫娘を、近くに住む親しい知り合いの「松本家」へおつかいに出したのは、部屋に引きこもっている彼女を外気にあてて「歩行」させ、少しでも運動不足を解消させるのが目的だった。
 季節は、お萩をつくる彼岸の時期のようにも思えるが、おそらく晩秋ないしは初冬のころだろう。なぜなら、彼女は屋根部屋から手を伸ばして、庭になった柿の実を分裂心理研究家の「幸田当八」といっしょに食べており、祖母から松本家へのおつかいを頼まれたのは、幸田当八が家から去ってしばらくたってからのことだからだ。おそらく、落合における柿の実Click!の成熟期を想定すると、11月中旬から下旬にかけての時期だろう。散歩をしていると、そろそろ北風が身に染みてくるころだ。
 斜面、つまり坂を上るときは「顔を吹いていた風」が、坂の斜面を下るときには「背を吹い」ているところをみると、彼女は北へ向かって坂道を上り、南へ向かって坂道を下りていったと推測できる。すなわち、尾崎翠が自身の落合地域における散歩コースを前提に、「女の子」の歩く道筋をイメージしていたとすれば、彼女は「松本家」のある下落合4丁目(現・中井2丁目)あたりの坂を上り、お萩をとどけるのをすっかり忘れて、幸田当八の面影にとらわれながらウロウロしたあと、そのまま坂道を下りて住んでいた自宅(祖母と住む家の想定)のある、上落合842番地の2階家へともどってきた……、このような散歩コースを想像することができるのだ。
尾崎翠岩波文庫2.jpg 尾崎翠.jpg
 改めて手にさげたお萩をとどけるために、「女の子」は松本家へ向け再び「歩行」を再開するのだが、すぐに幸田当八のことが頭をよぎり、目的を忘れてしまいそうになる。
  
 私はなるたけ野原の方に迷いださないよう注意しながら松本夫人の宅に向った。けれど、私は、やはり幸田当八氏のことを考えていて、絶えず重箱の重いことを忘れてしまいそうだった。
  
 「野原の方に迷い」そうになるのは、妙正寺川Click!をわたって下落合側へと向かう際に、河川の両岸に拡がる原っぱ、すなわちバッケが原Click!へとついフラフラと踏みこんでいきそうになるのを、意識的にこらえようとしているせいだろう。昭和初期まで、妙正寺川の川沿いは広大な麦畑が拡がっており、その光景は林武Click!が画面に描きとめている。だが、尾崎翠が上落合で暮らすころには、西武電鉄Click!が開通して耕地整理が進み、ほとんどが宅地造成予定地として“原っぱ”状の風情をしていただろう。
 彼女は、ようやく松本邸に着きお萩を手わたすのだけれど、松本家では食事を終えたばかりでお萩は松本氏がちょっと手をだしただけで、夫人は食べようとはしなかった。そのかわり、火葬場近くの借家に住んでいる、松本夫人の弟で詩人の土田九作へ、お萩の重箱とオタマジャクシの瓶をとどけてくれるよう、彼女は頼まれてしまう。そのとき、彼女の前で松本夫妻はこんな会話を交していた。
  
 「何にしても、あの脳の薬を止させなければ駄目ですわ」(中略)
 「あらゆるくすりを止させなければならない。土田九作くらい薬を用いる詩人が何処にあるか。消化運動の代りには胃散をのむし、睡眠薬を毎夜欠かしたことがない。だから烏(からす)が真白に見えてしまうのだ」
 「だからちょっと外出しても自動車にズボンを破られてしまうのですわ」
 「ところでこんど九作の書く詩は、おたまじゃくしの詩だという。ああ、何という恐ろしいことだ。実物を見せないで書かしたら、土田九作はまた、おたまじゃくしは真白な尻尾を振り――という詩を書くにきまっている。(後略)」
  
 この会話は、おそらく薬物依存症の尾崎翠が、常に心の中で自問自答していた課題だったにちがいない。翠は、大工の家作(かさく)だったらしい上落合842番地の借家2階から、近所の三ノ輪湯へ身体を洗いにいく以外、そして薬局へ立ち寄り薬を手に入れる以外ほとんど外出せず、作品を書くかたわらで鎮痛剤や睡眠薬、胃薬などを飲みつづけていた。『歩行』に登場してくる、孫娘に用事を頼んで戸外を「歩行」させ、少しでも運動をさせようとしている祖母の存在もまた、尾崎翠の内部でささやかれるもうひとりの“自身の声”なのだろう。
 「女の子」は松本夫妻の頼みで、下落合の丘上にあるとみられる松本邸から、今度は上落合の西南端にある落合火葬場Click!の煙突の下まで、一気に500mほど南下することになった。
尾崎翠旧居1936.jpg 落合火葬場1947.jpg
  
 私は季節はずれのおたまじゃくしを風呂敷に包み、松本夫人の注意で重箱の包みをも持った。土田九作氏がもし勉強疲れしているようだったらお萩をどっさり喰べさしてくれと夫人はいって、九作氏の住居は火葬場の煙突の北にある。木犀が咲いてブルドックのいる家から三軒目の二階で階下はたぶんまだ空家になっているであろう。二階の窓には窓かけの代りとして渋紙色の風呂敷が垂れているからと説明した。/私は祖母の希望どおりたくさんの道のりを歩いた。けれどついに幸田当八氏を忘れることはできなかった。木犀の花が咲いていれば氏を思い、こおろぎが啼いていれば氏を思った。そして私は火葬場の煙突の北に渋紙色の窓を見つけ、階下の空家を通過して土田九作氏の住居に着いた。
  
 熟した柿を、2階の自室窓辺で幸田当八とふたりで食べてから、多少時間がたっている季節にもかかわらず、モクセイが咲いていたり、コオロギが鳴いていたりするのは、尾崎翠の表現ならではのシュールな“自由さ”だ。彼女は、さすがにオタマジャクシは「季節はずれ」と感じ、松本氏が人工孵化させたものだと、あえて説明を加えてはいるけれど、柿もモクセイもコオロギもお萩(秋分の彼岸)も、みんな同じ「秋」のものだから細密なリアリティまではこだわらない。
 また、尾崎翠は時間軸にも“自由さ”を発揮して、松本家では夕食が済んだ晩秋の時間帯だったにもかかわらず、「渋紙色の風呂敷」が見わけられるほの暗さしか意識されていない。ペットのブルドックやモクセイの花も、初めて土田宅を訪問する「女の子」でも、十分に視界へとらえることができる光景(光があたる情景)として、当然のことのように描かれている。
 自室へ引きこもりがちな「女の子」は、祖母の思惑どおり「たくさんの道のりを歩いた」と感じているけれど、『歩行』から推測できる実際に落合地域を歩いた距離は、この作品が描かれた1931年(昭和6)現在の自宅(上落合842番地を想定)から、下落合の丘上にあったと思われる松本邸(五ノ坂上あたりを想定)へ二度出かけ、松本邸から落合火葬場の北辺までたどったとして、およそ2kmぐらいだろうか。起伏が多いとはいえ、たいした距離ではない。
 むしろ、土田九作の家へ着いてから「ミグレニンを一オンス買って来てくれないか」と頼まれ、薬局で購入して土田宅へもどってみると、今度は「胃散を一罐買ってきてくれないか」といわれ、再び薬局めざして歩いた距離のほうが多そうだ。1931年(昭和6)の当時、火葬場近くを起点に薬局をめざすとすれば、昭和通り(現・早稲田通り)沿いから小滝橋にかけて形成されはじめていた商店街か、中井駅周辺の商店街、あるいは東中野駅まで出る途中に連なる商店街が近いだろうか。中井駅前に薬局があったとすれば、2往復で2.5kmほど、土田宅から最終的に上落合842番地の自宅(想定)へ帰る道のりが300mほどなので、野原をさまよっていた距離は除くとして、「女の子」は都合5kmほどの「歩行」をしたことになるだろうか。祖母の思惑は、まんまと当たったわけだ。
 尾崎翠は、近くの銭湯と薬局へ出かける以外は、自宅からあまり外出していない。また、近所の作家たちともあまり深く交流してはいない。たまに散歩に出かけたとすれば、おそらく『歩行』で描かれたようなコースを歩き、落合西部の道筋や妙正寺川沿いの原っぱをブラブラと逍遥したのだろう。尾崎翠が通った三ノ輪湯と、煙突をしじゅう眺めていた落合火葬場との間には、上落合の境界に接して上高田側に牧成社牧場Click!(上高田322番地)があった。彼女は自宅周辺で、かなり頻繁にキングミルクClick!生産用の乳牛(ホルスタイン)を目撃しているはずだが、吉屋信子Click!のように特に気にはとめなかったようだ。彼女が描く『歩行』にも、ウシは登場していない。
尾崎翠「歩行」1941.jpg
 わたしは、尾崎翠のユーモラスな文章が好きなのだが、ユーモラスと表現して語弊があるのなら“喜劇性”としてもいいかもしれない。彼女の作品に登場する、さまざまな人物たちの会話やシチュエーションから、まるで菌類が菌糸をどこまでも拡げるように、果てしない喜劇の情景を妄想的に思い浮かべてしまうからだ。文章化されなかった余白の部分に、表現されなかった“その先”の物語に、わたしはミグレニンをかじりながら文机の前でひとりニヤニヤしている、尾崎翠の未来へ向けた孤独な微笑を想像してしまう。

◆写真上:上落合(三輪)842番地の、尾崎翠が暮らしていた旧居跡の現状。
◆写真中上:岩波文庫()に収められた尾崎翠()の作品集で、1977年(昭和52)に初めて『日本文学の発見』(学藝書林)で作品を目にしたわたしにとっては感慨深い。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる尾崎翠が住んだ上落合842番地の家。は、2階の窓から眺め暮した落合火葬場のひときわ高い煙突。
◆写真下:『歩行』に描かれた、尾崎翠の分身「女の子」の想定「歩行」コース。

季節はずれの怪談物語。(5)

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国芳「浅倉当吾亡霊」1851.jpg
 さて、「花月」の怪談会Click!もいよいよクライマックスを迎えた。これまで沈黙していた日本画家の小村雪岱が、ようやく口を開き幽霊の目撃談を紹介している。自身が体験したのではなく、東京美術学校で小村の先輩にあたる、「笹島」という日本画家が目にしたエピソードだ。この「笹島」とは、おそらく山形県出身で川合玉堂の門下だった笹島月山のことだと思われるが、空中で幽霊たちが盆踊りをする光景を目撃している。つまり、ひとりだけぽつねんと現れたさびしい幽霊ではなく、集団で出現した幽霊の事例だ。
  
 ◎小村雪岱の怪談
 私の先輩に笹島といふ画家がありましてね、(と、今まで沈黙を守つてゐた雪岱画伯が、口を開かれた。) 天才的な芸術家で、創作は来世の仕事とし、今生は死ぬまで習作ばかりして暮すと言つてゐる人ですが、この笹島氏が、故郷の月山の麓に住んでゐた頃、さうですね、それは日露戦争直後の或る夏の夜、沢山の人が野原に出て、空を仰いでゐるのを見かけたので、何かあるのか知らと、そこへ行つて空を仰いで見たら、空中に沢山の人々が浮んで、楽しげに盆踊りをしてゐるのが見えたさうです。その人達はみんな、日露戦争に出征して、戦死した人ばかりだつたさうです。地上から仰ぎ見てゐた人々は、『あそこに、家の息子が踊つてゐる。』とか、『家の息子はあそこにゐる。』とか、口々に騒ぎながら、中にはぽろぽろ涙を流して、泣いてゐるものもあつたさうです。
  
 怖いというよりも、えもいわれず哀しくて切ない幽霊譚だ。自分たちの子どもが、海の向こうの知らない土地で次々と殺されていった、やり場のない深い悲しみが、村人たちに集団幻覚を見させたものだろうか。ただし、いっしょに目撃している30代前半の笹島月山は、別に子どもを喪っているわけではなく、精神的にも平常な状態にあったと思われるので、空中の盆踊りを同時に目撃している事実は説明がつかない。そのエピソードがきっかけか、「笹島氏は、来世の存在を堅く信じ」るようになったらしい。
 このとき、仕事が多忙で出席できるかどうか、最後まで危ぶまれていた東京電燈副社長の小林一三が、ようやく「花月」に駆けつけた。おそらく、時間は夜の11時をまわっていただろう。同時に、柳田國男Click!が熊本の知人から聞いたという、明治期の幽霊譚を紹介している。それは、明治維新のときに起きた「蛤御門の戦」にまつわる話だ。
 知人の叔父は、蛤御門の戦闘に加わって敗退し、真木和泉たち残党は天王山に登って切腹した。生還した者の話によれば、叔父はかすり傷ひとつ負ってなかったらしく、「さアいつまでこんなことをしてゐても仕方がない。もう死なうぢやないか」といって、みんながいっせいに腹を切ったらしい。でも、無念な「魂」はあとあとまで残るらしく、時代が明治を迎えたころのこと……。
小村雪岱.jpg 笹島月山「白衣観音画像」.jpg
  
 ◎柳田國男の怪談(その4)
 (前略)明治初年に招魂碑が建つて、熊本の花岡山でお祭りがあるといふ前夜、親類のものが一同来て一泊した。いよいよ夜が白みかけたとき、彼の父が手水を使ひに縁先に出て見たら、庭の橘の樹のこんもりした梢に、二十五歳で腹を切つたその勇士が、羽織袴で端然と坐つてゐたと申します。おゝ来てゐるかと一家眷属を呼んで、縁側にずらりと坐らせて、その一人々々を、幽霊に引合せたさうです。これはお前が死んだ次の歳にどこへ縁づいて、これはその倅だといふ風に、一人一人お辞儀をさせたといひます。その橘の樹は、叔父さんが非常に愛してゐた樹ださうで、日といひ時刻といひ、場処といひ、幽霊があるなら出ずにはをられぬわけである。さうして血気の少しも衰へない二十五歳の若い武士の魂が、腹を切つたからとてすぐに消えて放散する理由がないと、その知人は私に話しました。菊池から阿蘇へ行く、例の掘割の路の馬車の中での話でした。
  
 柳田國男も少し酔いがまわったものか、やや思い入れ過多の感動気味で講談調の語り口になっており、まわりクドくてまだるっこしいので、談話を3分の2ほどのボリュームに短縮している。この幽霊もまた、庭に植えられた橘の樹の梢、つまり座した姿勢のまま空中に浮遊していることになる。その家の当主は、幽霊の兄にあたる人物なので、弟を見てもあわてず騒がず家族のこの後と、新しく増えた家族をひとりひとり紹介して、橘の樹にお辞儀をさせているところが、どことなくユーモラスな情景で面白い。
 さて、この豪華な怪談会のトリをつとめたのは、深夜になってから駆けつけた東京電燈Click!の小林一三だった。同じく幽霊の目撃譚なのだが、小林の怪談は知人からの又聞きではなく、本人が4~5年前に高野山で実際に体験した実話だった。
 小林一三の両親は、彼が生まれてからほどなくふたりそろって亡くなり、彼は叔父に養われて育った。高野山へは、伯母とともに父母の供養をするために出かけたようだ。当時の高野山では、寺へ泊っても宿泊料はとらず、少しのお布施を包んで死者の供養を依頼すると、それが宿泊料の代わりになったらしい。小林は、30円を包んで父母の供養を頼み、伯母とともに寺へ泊まった。すると、その深夜のこと……。
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豊国「かさねぼうこん」1813.jpg 国貞(三代豊国)「隠亡堀戸板かえし」1831.jpg
  
 ◎小林一三の怪談
 (前略)私は寧(むし)ろ、叔父の供養をすべきだつたのです。といふのは、父母は、私の生れると間もなく亡くなり、叔父が私を育て上げてくれたやうなものです。で、本来ならば、このとき一緒に、叔父の供養もしなくてはならなかつたのですが、さうすればまた十円か十五円は追加しなくてはなりませんので、つい吝嗇(けち)臭い了簡を起して、そのまゝにしておきました。ところがその夜、気が咎めて、どうしても寝つかれません。夜中も過ぎて、ついとろとろと微睡(まどろ)んだ頃、がさがさがさがさといふ気味の悪い音が聞えます。見ると、私の寝てゐる後ろの方に、まさしく亡き叔父の幽霊が、恨めしげに私を見つめてゐました。私は思はず半分起き上りましたら、隣りに寝てゐた叔母が、『どうしたのか?』と訊ねました。我に復つて見れば、何の変つたこともありません。私は、夜の明けるを(ママ)待ちかねて、叔父の供養をして頂き、それから、がさがさと音のしたところを調べてみましたら、戸袋の後ろに、壊れた竹の樋がぶら下つてゐて、風の工合で、がさがさと音を立てゝゐたのでした。
  
 里見弴がすかさず、「良心の呵責によつて生れた幽霊ですね」と、この話は小林の不安定な精神状態が見させた幻覚ではないかと、言わず語らずに指摘している。これに対し小林は、「大抵の幽霊が、さうぢやないでせうか」と答えているが、里見は「まア、そんなものもありませうね」と同意していない。
 ここにきて、東京帝大の橋田邦彦医学博士は、ようやく話が合いそうで“まとも”な小林一三が現れたのだから、ひと言あってもよさそうなものだが、沈黙したままなんの反応もしていない。すなわち、場ちがいな怪談会などに出席した橋田博士は、飲みすぎて意識がモウロウとなり、呂律のまわらない口調で「オバケがいてたまるか、オバケー! いや、オバカー!」……と、うつむいた赤い顔でブツブツつぶやいていたのかもしれない。
 こうして、新橋「花月」で開かれた怪談会席は、午前0時の少し前に解散するのだが、おそらく泉鏡花Click!や柳田國男、里見弴、小村雪岱たちは、平岡権八郎の実家でもある「花月」で、最新の幽霊話や怪談の情報交換をつづけ、そのまま泊まってしまったのではなかろうか。小林一三は、明日の仕事があるので早めに帰り、「じゃ、あたしもこれで。センセ方も、あまり飲みすぎませんように、ごめんくださいまし」と、長谷川時雨Click!も席を立っただろう。
 『主婦之友』の編集記者たちは、「オバケ……、オバカ……」とつぶやく橋田博士の両脇を抱えながら、「ほら、橋田センセ、しっかりしてくださいってば。……通りに出たら、早えとこ円タクに乗せっちまおう。ほらほら橋田センセってば、怪談に、いや階段に気をつけて」などといいながら、明日の速記おこしのことを考えていたかもしれない。
小林一三.jpg 豊国「小はだ小平次」1808.jpg
 さて、学習院の乃木希典Click!が、16年後の1928年(昭和3)に78歳の高齢ながら元気でいたとすれば、さっそく『主婦之友』編集部から声をかけられ、ようやく自分の時代がきたとばかり喜んで、「ぃやぃやぃやぃや」と率先して出席していただろうか。おそらく、このような怪談会は乃木希典Click!の独壇場で、持ちネタがあまりにたくさんありすぎて、彼だけでひと晩中、汲めども尽きずに話しつづけ周囲を呆れさせたかもしれない。
                                    <了>

◆写真上:芝居『東山桜荘子(ひがしやま・さくらのそうし)』の主人公で、1851年(嘉永4)に制作された歌川国芳『浅倉当吾亡霊』(部分)。
◆写真中上は、日本画家で当怪談会の挿画を担当した小村雪岱。は、山形美術館に保存されている笹島月山『白衣観音画像』(部分)。
◆写真中下は、1831年(天保2)ごろに制作された葛飾北斎『こはだ小平二(ママ)』(部分)。下左は、芝居『真景累ヶ淵(しんけい・かさねがふち)』のヒロインを描いた1813年(文化10)制作の豊国『かさねぼうこん』(部分)。下右は、芝居『東海道四谷怪談(あずまかいどう・よつやかいだん)』Click!の隠亡堀戸板返しを描いた1861年(文久元)制作の国貞(三代豊国)Click!『お岩の亡霊』(部分)。
◆写真下は、散会直前の深夜に「花月」へ駆けつけた東京電燈の小林一三。は、芝居『復讐奇談安積沼(ふくしょうきだん・あさかのぬま)』の主人公を描いた1808年(文化5)制作の豊国『小はだ小平次』(部分)。


目白通りには来てほしくないの。

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千登世橋1.JPG
 2014年もあと24時間、今年もみなさまにはたいへんお世話になりました。新年には福よ来い!……ということで、大晦日にオバカ物語をひとつ。
  
 つい最近まで、わたしは西島三重子という歌手が唄う『目白通り』Click!(作詞:佐藤順英/作曲:西島三重子)という曲を知らなかった。1977年(昭和52)4月にアルバムがリリースされ、その後、『ジンライム』という曲とともにシングルカットされているようだが、当時はJAZZばかり聴いていたので邦楽には無関心、まったく目を向けていなかった。
 特に、うじうじとみじめったらしい「フォーク」や、ひたすら“内向”や“反芻”をする「ニューミュージック」が好きではなかったので、そっぽを向いていた。(いまは、そうでもないが) だから、この歌手の存在もぜんぜん知らず、『目白通り』のほかにも同じ歌手が唄う『千登世橋』という曲があるらしい。さて、曲のサビで「♪目白通りには 来てはほしくないの~」と唄う歌詞の背景には、どのような物語が秘められているのだろうか?
  千登世橋の欄干に ひじをついて話しこんだ
  あの夜は卒業の コンパの帰りでしたね

 ……と曲のアタマは、いきなり彼との別れのシーンではじまる。彼は卒業して「社会人」になり、年下の「私」はいまだ学生生活を送るという展開だ。「♪走りすぎる都電さえ さびしそうな後姿」に感じるふたりの情景は、すでに別れ話がかなり以前から進行しており、この卒業コンパがラストシーンであることをうかがわせる。「♪もうあなた社会人 私は学生のまま」と唄われているので、卒業生と学年が下の彼女が同時に出席したのは、学部ないしはゼミの卒業パーティではなく、おそらくサークルの卒業生追いだしコンパではなかったか。つまり、彼と彼女は同じサークルに所属していた。
 彼女は、どこか別れが不本意であり、そのあとに「♪だけどあと少し目白通りには 来てはほしくないの」と、失恋の傷みがうずくので、しばらく彼の顔は見たくないとハッキリ表明しているから、卒業を契機に別れ話を持ち出したのは就職が決まった彼のほうだろう。つまり、彼女は学生生活における期間限定の間に合わせ的な「彼女」であって、社会に出てからもずっとつき合う、それほど重要なパートナーとしての「彼女」ではなかった……ということだ。それが、歌詞の一人称で歌われる「私」=彼女には、とても口惜しいことだったにちがいない。
 さて、この男女共学と思われる、目白駅ないしは目白通りに近い総合大学は、学習院大学Click!以外には想起しにくい。目白通りに比較的近い大学はあるけれど、立教大学Click!なら池袋でコンパだろうし、早稲田大学Click!なら高田馬場か新宿がメインだろう。ここは、どうしても学習院大学を想定してしまうのだ。卒業コンパと表現されてはいるものの、千登世橋の向こう側、コンパなどと呼ぶにはおよそほど遠い、すっごくおカネがかかる椿山荘Click!での卒業パーティだった可能性が高いのだ。このあと、ふたりは夜道を歩きながら、千登世橋をわたって目白駅へともどってくる。
 彼が卒業したあと、「♪今は同じサークルに 恋人なら出来たけれど」と唄う彼女は、早々にサークル仲間の男子を「彼のマネして、学生期間限定ですことよ!」と、間に合わせボーイフレンドにしてみたけれど、まだ目白通りのイチョウ並木に彼の面影が消えないと嘆息している。彼とつき合っていたときにおぼえたタバコの味だが、禁煙しても「♪何一つ変わらない 私は私でいるの」と未練たらたらの様子だ。そして卒業の季節、つまり「♪春が過ぎたら 落ちつきました」と初夏のころに唄いながら、「♪だけどあと少し目白通りには 来てはほしくないの~」とルフランしているところをみると、彼女はぜんぜん立ち直れてはおらず、彼に対してしつこく恨みを抱いていそうな気さえする。
 さて、就職した彼のほうはどうしただろうか? 文学部の哲学科を卒業した彼は、とある出版社へ就職したのだけれど、2ヶ月をすぎたあたりからもう転職を考えはじめていた。ある健康雑誌の編集を担当させられたのだが、毎日、午前3時前に帰宅できたためしがなく、〆切り前は徹夜もあたりまえで、健康雑誌をつくりながらどんどん身体が不健康になっていき、このままでは身がもたず過労死すると考えた彼は、友人が紹介してくれた学術書専門の出版社をのぞいてみる気になったのだ。それには、改めて履歴書と卒業証明書を持参しなければならない。でも、卒業証明書は大学の教務課へ申請しなければ取得できない。後輩のウワサによれば、「目白通りには来てほしくないの!」といってるらしい、顔がひきつっている別れた彼女のことを考えると、彼はとても気が重かった。
 
 そう、あれは千登世橋の上で、都電の後ろ姿を見送りながらコンパ帰りに話した夜のこと。「ジュネーブ大学のアミエルは、世の中のことはなんでも我慢できる、しかし、幸福な日々の連続だけはどうにも我慢がならない……と、正鵠を射たことをいってるんだ。トイレが近いとき、トイレのドアへたどり着く前に、ホックをはずしてファスナーを下げ、あらかじめジーンズをズリ下ろして準備するのと同じさ。ボクたちは、そろそろアウフヘーベンすべきじゃないかな。冬の旅立ちはつらいけど、もう、春はすぐそこなのさ」と彼はいった。「学習院の女子はファスナーおろして、あらかじめズリ下ろしたりなんかいたしませんの!」と、彼女の顔は引きつっていたっけ。
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 「そうだ、目白通りに来てほしくないのなら、目白通りから大学へ入らなければいいのだ」と気づき、彼は急に希望がわいてきた。目白駅を利用すると、橋上駅なのでどうしても目白通りに出てしまう。でも、学習院の正門や西門を利用するリスクを冒さなくても、キャンパスに入れるじゃないか。品が悪くて、気に入らない学生がゴロゴロしている高田馬場駅Click!で下りるのは、この際しかたがないからガマンするとして、赤い手ぬぐいマフラーなんかにする不潔で不可解な、ジメついた神田川をなんとかわたって品の良い椿坂Click!を上がれば、西坂門から入れるじゃないか。そうすれば、血洗池Click!をまわってキャンパスのほぼ真ん中あたり、中央教育研究棟の1階にある教務課へたどりつける。やっかいなのは、中央教育研究棟が大学の中央にあって、少なからずキャンパスを歩かなければならないということだ。そのとき、執拗に恨んでいそうな彼女とうっかり鉢合わせしたら、いったいなにをいわれて報復されるか知れたもんじゃない。
 いや、まてよ、彼女は法学部だから東2号館、つまり教務課の東隣りの校舎じゃないか。しかも、教務課の西隣りには法学部の模擬法廷が設置された西2号館が建っている。うっかり西2号館の前を通って見つかり、法廷の窓から法衣姿の彼女に「主文! そこを歩く被告人は死刑に処す! 理由! 目白通り立入禁止の処分による刑の執行猶予中にもかかわらず……」などとわめかれたら、恥さらしでたまったもんじゃない。しかも、西2号館の裏には隣接して黎明会館があるじゃないか。「ボクと彼女がいたアーチェリー部の部室は、会館の123号室だから、こりゃヤバイぞ」と、彼は西坂門から入り血洗池をまわって、教務課のある中央教育研究棟へ近づくルートをあきらめた。
 「そうだ、学習院馬場Click!から崖を登り、乃木館Click!か珍々亭……もとへ富士見茶屋跡Click!の裏へ出れば見つからないぞ」と、彼は別ルートを思いつく。飼料を収納したサイロ裏からキャンパスに入れば、深い樹林があるから目立ちはしない。万が一、彼女が近くを歩いていても、すぐに濃い緑や木陰へ隠れることができるから見つからない。でも、このコースはさらに気が重かった。彼は大学へ入学した当初、女子がとっても多い馬術部Click!へ入ろうとした。ところが、なぜか彼と馬とは相性が悪く、どの馬も彼を見るだけで鼻息荒くたてがみを立ててあばれ、中でも牝馬(ひんば)のシリカちゃん(香桜号)Click!には髪の毛を噛まれて引っぱられ、500円ハゲにされた痛くてにがい思い出がある。先輩の女子部員に「キミ、馬場へは来てほしくないの。では、ごきげんよう」といわれてからは、怖くて一度も馬場へ足を向けたことがなかった。
 そうなると、学習院馬場から明治通りまで歩いて、東側の中・高等科のある絶壁を登ろうかとも考えたが、すぐに誰かに見つかって警察へ通報されるのがオチだ。目白通りを歩かず、周囲へ目立たずにキャンパスへ入るのは意外にむずかしいことがわかり、彼はアタマを抱えた。残る可能性は、その昔、稲荷神社Click!があったといわれるあたりから、コンクリートの擁壁を登ってバッケに取りつき、全身が泥だらけになるかもしれないけれど、急斜面を這い上がるしか方法がなさそうだった。この計画を実行するためには、しばらくボルダリングに通って登攀のトレーニングをしなければならないだろうか。
乃木館.JPG 富士見茶屋.JPG
学習院バッケ.JPG
稲荷社跡.JPG 学習院正門.JPG
 「いや、まてよ……」と、彼は再び考える。ようやくバッケを這い上がったら、その上の稲荷跡は、アーチェリーの射的場じゃないか。部活で彼女が練習してたら、どうするんだ? もし万が一見つかったら、「うりゃーっ! なにが、ボクたちの関係を止揚して、ふたりでより高みへ向けた螺旋状の、新たなテーゼの世界へ旅立とうなんですのよー! 目白へはおとといお越しあそばせー、これでも召しあがれー! では、ごきげんよー!」と2射、いや、彼女のノッキングはすばやいから最低でも3射はくらうかもしれない。飛んでくる矢を避けるには、ヨロイは欠かせないかな。はて、西洋ヨロイの姿で絶壁は登れるかどうかと考えたところで、彼はふと気がついた。
 そう、変装をすればいいのだ。しかも、ふつうの変装だと万が一のとき、矢がそのまま貫通してしまうので、できれば身体との間に距離のある“かぶりもの”、つまり“ゆるキャラ”が着ているような丈夫な着ぐるみに変装すればいい。まてよ、別にキャラクターの変装なら目白通りを堂々と歩いたって、彼女に見とがめられる心配がないじゃないか。
 でも、学習院のキャラクターといったら“さくまサン”だけど、ぬいぐるみばかりで、着ぐるみはかえって怪しまれるかな。着ぐるみは、プロテ星人Click!ぐらいしか思い浮かばないが、ちょっとつくるのが複雑で難しそうだし、学生たちから「また出たぞー! 今度は小さいヤツだけど、地球を侵略される前に、校舎を破壊される前にやっちまえー! ♪もゆる火の火中(ほなか)に殺せ~、ウルトラ警備隊に通報だー!」などと騒がれたらコトだし。……ここは、当たり障りのない地元の地域キャラクターがいいかな。
 「そうだ、豊島区の<いけふくろう>にちなんだミネルバ、“としまくん”に化ければいいんだ」と、彼は自身の知的で哲学的な思いつきに満足した。“としまくん”が目白通りの横断歩道を、フクロウらしからぬペンギンみたいな歩き方でわたっていても、別に誰からも怪しまれはしないし、たとえ中等部のワルガキどもに背後から蹴り倒されても、きっと誰かが助け起こしてくれるだろう。それに、学習院キャンパスを歩いていても、なにかのイベントだと思って容易に見すごしてくれるにちがいない。目白通りの正門からでも西門からでも、そのまま最短で堂々と中央教育研究棟へ歩いていき、1階の教務課窓口に立てば、あとは卒業証明書の申請書へ記入するだけだ。“としまくん”Click!は、1日借りると8,000円も取られるのだが、この際、それぐらいの出費はしかたがない。
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学習院キャンパス1.JPG
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 「……だが、まてよ」と、彼は再び逡巡する。フクロウの“としまくん”は手がなくて羽だから、どうやって申請書に記入するんだ? それに、「卒業生DBの登録写真データと、お顔がだいぶちがいますわ。まあ、お顔が緑色!」と、教務課になりすましを疑われたらどうしようか? そのときは、“としまくん”の頭のかぶりものを取ればいいんだけれど、偶然、彼女が同棟にある学生相談室に、「3月の卒業シーズンからずっと、イチョウ並木の目白通りを歩くと気分がすぐれませんの」などと、たまたまカウンセリングに来てたらどうしよう? 教務課のカウンターで、いきなり“としまくん”の格好のまま捕まり、「うりゃーー! おとしまくーん! この、おとしまえ、どうつけてくださるのかしらー! ごきげんよろしく、ないんでございますのよー!」とヘッドロックされたら、ボクは一生、母校へは恥ずかしくて二度と、顔出しできなくなってしまうではないか……。

◆写真上:目白通りに架かる、1932年(昭和7)竣工の千登世橋を明治通りから。
◆写真中上上左は、1977年(昭和52)に発売された西島三重子のEP『ジンライム』でB面が『目白通り』。上右は、千登世橋から見下ろした都電荒川線。は、学習院キャンパスの西側にある血洗池。正面の樹間にチラリと見えているのが、学生のサークル部室が集まる黎明会館。は、キャンパスの南側にある学習院馬場。樹幹の陰に、首から先が見えているのがかわいい牝馬のシリカちゃん(香桜号)。
◆写真中下は、乃木館の裏側()と珍々邸跡()。は、キャンパス南側につづくバッケ状の急斜面。下左は、1907年(明治40)まで丘上に八兵衛稲荷社があった学習院東部の崖線。下右は、“としまくん”でも怪しまれそうなサクラの季節の学習院正門。
◆写真下は、学習院のイラストマップ。は、閑静なキャンパス内の風情。この状況で“としまくん”が歩けば、やはり怪しまれるだろう。w

さて、この物語は1970年代の学習院であって、現在ではいたるところに防犯カメラとセンサーが設置され、そう簡単には門以外の場所からは侵入できないと思われます。もっとも、1970年代後半に“としまくん”はいませんが。w

牧野虎雄のタコ揚げ場所は?

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牧野虎雄「凧揚げ」1924.jpg
 あけまして、おめでとうございます。今年も、「落合道人」サイトをよろしくお願いいたします。さて、きょうはお正月らしく、子どものころの遊びのエピソードから……。
  
 子どものころ、正月に限らずよく遊んだ玩具に、コマ(独楽)とメンコ(面子)とタコ(凧)がある。近くの駄菓子屋やオモチャ屋には、必ずこれらの玩具が売られていて、おこづかいをためてはいそいそと買いにいったものだ。コマやメンコは自分で選べるのだが、タコはたいがい高いところに何枚も重ねて吊られており、店のおばちゃんに中からひとつ取ってもらうので、ゆっくり自分で好きなものを選べないのが悔しかった。
 コマ遊びは、湘南の真ん中あたりでよく売っていた神奈川県の「大山独楽」ばかりで、それ以外の製品を見たことがない。紐を、コマの心棒から外へ向けてぐるぐる巻きつけ、地面へ向けサッと引いてまわすのだが、この「引きまわし」のほかに「ガンツ」というまわし方もあった。まるで野球のボールを投げるように、上からふりかぶって地面に叩きつけるようなまわし方だ。コマで勝負をするとき、自身のコマを相手のコマにぶっつけて停止させれば勝ちなのだが、強烈な「ガンツ」で相手にぶつけると、ときに相手のコマばかりでなく自分のコマを割ってしまうこともあった。
 コマが少しでも長くまわりつづけるように、着地する芯のあたまへ鉄釘を打ちこんだり、芯をできるだけ上部にだして重心を低くするなど、いろいろと改良するのもコマ遊びの醍醐味だった。いつだったか、親父が九州へ出張したとき、「佐世保独楽」を土産にもらったことがある。ムク材を、ほとんど球形に近い形状に削り、ズシリと持ち重りのする関東では見たことのないコマだ。重量も「大山独楽」の倍近くあって、ちょっとやそっとの攻撃ではビクともしない。「ガンツ」で相手のコマにぶつければ、向かうところ敵なしのお化けゴマだったが、さっそく遊び仲間から禁止条例が布告された。
 わたしより上の世代が、さんざん遊んでいたベーゴマだが、わたしの世代ではすでにブームが去ったものか、店では目立つところで売ってはいても、近所の子どもたちの間ではまったく流行らなくなっていた。ベーゴマを買うようになったのは、むしろ大人になってからで、オーディオ機器(ことに中型スピーカーシステム)のスタビライザー用として、金属製のベーゴマが安価でおあつらえむきだったからだ。わざわざベーゴマを探しに、学生時代のアパートから日本橋まで出かけたのを憶えている。
 多彩なアニメや、子ども向けドラマのキャラクターたちが印刷されたメンコでも、よく遊んだ。メンコに印刷されたキャラクターに飽きると、その上から当時は大流行していたシールを貼ったものだ。メンコは高価なコマとはちがい、負けると相手に取られてしまう真剣勝負だったので、できるだけひっくり返らないような工夫をほどこした。防御側は、できるだけ空気が抜けるよう、また攻撃側はより威力を増すようにメンコを曲げるのが一般的で、カーブのついていないメンコは「女メンコ」などと呼ばれてバカにされた。
大山独楽.jpg 佐世保独楽.jpg
 湘南の海岸べりは、もちろんほとんどすべてが砂地であり、土面とはちがってすぐに起伏ができる地面だったので、メンコ遊びはかなり面白かった。一度勝負をすると、たいがい10~20枚前後のメンコを取られたり、あるいは取り返したりするので、常に店へ出かけては新しいメンコを補充していたように思う。
 メンコがひっくり返らないよう(負けないよう)、重量を重くするために子どもたちはさまざまな工夫をこらした。勝負の前に、アイロンの霧吹きで水分を吸わせたり、裏側にロウソクの蝋(ろう)を塗ったり、同じサイズのメンコを2枚貼りあわせて二重にしたりと、できるだけ重量を増やして負けないようにしていた。中には、「鉄化面(てっかめん)」あるいは「鉄面」と呼ばれた、とんでもないメンコまでが出現したが、通常の紙メンコ同士の勝負では“反則”として使用できなかった。
 「鉄化面(鉄面)」とは、不要になった乳幼児用の粉ミルクのフタをどこからか探してきて、サイズのちょうどいい大きめなメンコを中に入れ、フタの縁を内側へ向けてトンカチで叩いて曲げ、メンコを封じこめて“鋼鉄仕様”に仕上げた特製のメンコのことだ。もちろん、通常の紙メンコではまずひっくり返せないので、「鉄化面(鉄面)」は事実上まったくの“無敵”な存在だった。当初は、呆気にとられて負けつづけていた子どもたちの間で、すぐにも禁止条例ができたのは当然だった。以来、「鉄化面(鉄面)」は「鉄化面(鉄面)」同士の勝負でのみ、許された特別な最終兵器となった。
蝉凧.jpg 奴凧.jpg
画家たち凧揚げ19280101.jpg 佐伯祐三「原」1926.jpg
 わたしが物心ついたころ、近所で売られていたタコにはヒーローやキャラクターを描いたものがなく、ほぼすべてがセミダコ(蝉凧)だった。セミダコも「大山独楽」と同様に、神奈川県の県央部で多く作られていた特産品なのだろう。セミが飛んでいる姿を、和紙でていねいに作った、見るからに独特な形状をした色彩も美しいタコで、バランスをとるためにタコに下げる“おもり”は、のちに多くなる細長い新聞紙ではなく、さまざまな色合いの紐状のものが用いられていた。わたしの記憶では、当時のセミダコは赤と白、紫、黄、そして黒の和紙を貼りあわせて作られていたように思う。祖父Click!に連れられ、よく海辺へ出かけてはタコ揚げをしたものだ。
 わたしが小学校にあがるころから、さまざまなヒーローものをプリントしたキャラクターのタコが主流となり、セミダコはほとんどの店頭から姿を消してしまった。これらのタコは、よくあるヤッコダコ(奴凧)と同じような形状をしていて、“おもり”の細長い新聞紙をたらすと、子どもでも簡単に揚げることができた。セミダコが廃れた理由には、揚げるのに独特なスキルと馴れが必要なので、子どもにはむずかしかったせいもあるのだろう。セミダコは敬遠され、やがて駄菓子屋やオモチャ屋から消えていった。
 タコを揚げるのは、できるだけ電柱や樹木のないところが理想的だが、当時はあちこちに原っぱがあったので、揚げる場所には困らなかった。トノサマバッタが大量発生している塩工場跡の原っぱとか、宅地開発で整地が済んだのになかなか家が建たない原っぱなど、広い空間がどこにでもあった。また、ユーホー道路(遊歩道路=国道134号線)をわたり湘南海岸へと出れば、TVアンテナにひっかかって叱られたり、電柱に糸がからまり大人にバレないうちに逃げだす必要もなく、心おきなくタコを揚げることができた。ただし、海に落ちればタコは“パー”になるので、それだけリスクも高かったのだけれど…。
 ことほどさように、習いごとへと通う成績優秀な子たちを尻目に、わたしはまったく勉強をせずに遊びまわっていたので、いまでも抜けない街じゅうをフラフラする「遊びグセ」は、きっとこのころについたのだろう。「勉強しないで、外で遊んでばかりいるとTちゃん(わたしの名)みたいになっちゃうよ」と、近所のお母さん方にいわれていたような気もするのだけれど、子どもたちが集まってキャーキャーやってる輪に、海やプールのしぶきの中に、必ずわたしはいたと思う。いっしょに遊んだ仲間に、いわゆる成績優秀な「できる子」はほとんどいなかった。
 大人になってからも、タコ揚げが大好きだった洋画家に、旧・下落合2丁目604番地に住んだ牧野虎雄Click!がいる。斜向かいには、大酒のみだった帝展の片多徳郎Click!がアトリエをかまえ、土井邸(旧・浅川邸Click!)をはさみ2軒西隣りには、曾宮一念アトリエClick!が建っていた諏訪谷エリアだ。長崎村荒井1721番地から下落合へ転居してきたのだが、牧野虎雄は大量のタコを所有していた。長崎時代も、大久保作次郎Click!金山平三Click!など下落合の親しい画家たちを家に呼んでは、タコ揚げ大会を開催している。片多徳郎と同じく、生命をちぢめるほどの酒好きで孤独を好んだらしい牧野だが、近所の曾宮一念はときどき訪ねては、牧野のタココレクションを見せてもらっていたらしい。
牧野虎雄(長崎時代).jpg
 牧野虎雄が下落合でタコ揚げをするとすれば、どのあたりまで出かけたのだろう? 下落合の東部や中央部には、すでに家々がかなり建てこんでおり、タコをのびのび揚げられる原っぱを探すのが困難だった。したがって、画道具と好きなタコを手に、戦前はいまだ多くの原っぱが残っていた、下落合の西部まで出かけているのかもしれない。あるいは、相当な腕前だったと思われる牧野は、耕地整理が済んだ電柱さえいまだまばらな、上高田のバッケが原Click!まで出かけていったものだろうか。

◆写真上:椎名町界隈の原を描いた、1924年(大正13)制作の牧野虎雄『凧揚げ』。
◆写真中上:神奈川では主流の「大山独楽」()と、めずらしい「佐世保独楽」()。
◆写真中下は、湘南でよく揚げた「蝉凧」()と、江戸東京では定番の「奴凧」()。下左は、1928年(昭和3)1月1日に長崎村荒井で行われた牧野虎雄主催による画家たちのタコ揚げ大会。下右は、1926年(大正15)制作の下落合に残る原っぱを描いた佐伯祐三『下落合風景(原)』で、第二文化村Click!の西側に残っていた原っぱだと思われる。
◆写真下:和室の仕事場なので、長崎時代に撮影されたとみられる牧野虎雄(右)。

下落合サウンド(2014年12月31日23:58~0:00/薬王院除夜の鐘)

佐伯祐三『汽船』はどこの貨客船?

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佐伯祐三「汽船」1927.jpg
 佐伯祐三Click!の画面を眺めていると、別に『下落合風景』シリーズClick!に限らず、気になって頭から離れなくなるモチーフがいくつかある。大阪で風景写生に出かけるとき、佐伯のイーゼルや絵の具箱を運ぶ“係り”をしていた、姉の嫁ぎ先である杉邨家Click!の息子、当時は19歳の杉邨房雄からおそらく聞きとり取材をしているのだろう、朝日晃によれば1927年(昭和2)の制作とされる『汽船』もそのひとつだ。
 神戸の街角を写した作品『神戸風景』(1927年ごろ)もあるので、おそらく神戸港ないしは大阪港で制作された『汽船』だと思われるのだが、ここに描かれた船はどこの会社に所属する、なんという船名だったのか?……というのが今回の記事のテーマだ。相変わらず、美術分野の方ならほとんど興味を抱かない、どうでもいいことにこだわるのがわたしの“嗜好”なのだが、昔から海と船が好きなので、これだけのサイズの貨物船(おそらく乗客も運ぶ当時は貨客船と呼ばれた船種だろう)なら、案外すんなり判明するかもしれない。
 まず、黒い船尾に白文字で右から左へ書かれた船名が、読みとれないけれど3文字であることがわかる。そして、その最後の文字が「丸」であることも容易に想定できる。この貨客船そのものの船姿がたいへん独特だ。垂直に切りたった船首に、鋭く斜めに削がれた船尾の意匠、喫水が深そうでどことなくずんぐりした船体、4本の白線が入った細めの煙突は1本で、船橋(操舵室=ブリッジ)と煙突との距離が短く、その間に大きめなキセル型の羅針儀が突出している。また、船首側の甲板に起立する前檣(フォアマスト)の下に、盛り上がって見える貨物艙のハッチコーミングらしい大きなふくらみも確認できる。
 日本郵船方式の船型分類に照らせば、これは明治末から大正初期に英国で造られて輸入された、あるいは同様の設計図をもとに日本の川崎造船所あるいは三菱長崎造船所で竣工した、T型貨物線(貨客船)の典型的な船姿だ。埠頭にいる人影と比べると、おそらく排水量2,000~3,000tクラスの、今日からみればかなり小さめな貨物船(貨客船)だろう。佐伯が本船を描いた時点で、竣工時からかなりの年月がたっていたとみられる。
「汽船」船橋.jpg 「汽船」船尾.jpg
 佐伯祐三は、桟橋に停泊する船の左舷斜め後方、つまり船尾に書かれた3文字の船名がはっきり読み取れる位置にイーゼルをすえて描いている。だから、よけいに船体の寸詰まり感が強調されているのだが、救命艇が並ぶ長めに伸びた居住区の後方には、古いタイプの無線室の突出(昭和期の改装で取り払われた船が多い)があり、すぐ後方には距離をおかず主檣(メインマスト)がそそり立っている。
 主檣および船首側の甲板に設置された前檣の、デリックブーム(積荷用クレーン)が作動中なので、接岸した桟橋で荷揚げまたは荷積み作業のまっ最中らしい。佐伯はこの光景を見て、第1次渡仏のときに乗船した日本郵船の「香取丸」を思いだして懐かしみ、筆を走らせながら再びフランスへ渡航する日を夢想していたのかもしれない。今日では国内をめぐるフェリークラスの、わずか数千トンの小さな貨客船でも、当時は太平洋を航海する路線に就役するクラスの船だった。
 大正末から昭和初期にかけ、大阪港ないしは神戸港に接岸し、少し時代遅れな姿をしている貨客船、しかも独特なT型貨物船(貨客船)の船影を見せる船の数は、そう多くはない。船橋やマスト、煙突、羅針儀などの配置を手がかりに、おもに関西方面で当時就航していた貨客船の写真を探し、画面に描かれた船と総合的に見比べてみると、この船姿は大阪商船が所有してた「新高丸」に酷似していることがわかる。「新高丸」は、英国のグラスゴーにあったラッセル・グラスゴー港湾造船所で1904年(明治37)10月に竣工し、当初はオーストリア船舶連盟の客船「アーニー」としてヨーロッパで就航していた。竣工当初は2,478tで、船足は10~13ノットほどだった。
 1912年(明治45・大正元)に大阪商船が購入し船名を「新高丸」と改め、当初は台湾航路に就航している。1916年(大正5)より、台湾総督府命令により甲線と呼ばれる航路(翌年には南洋線と改称)へ就役し、大阪→神戸→門司→基隆→厦門→香港→マニラ→サンダカン→バタビア→サマラン→スラバヤ→マカッサ→サンダカン→香港→打狗→基隆→神戸→大阪の定期就航していた。佐伯が、この「新高丸」と思われる船影を大阪港ないしは神戸港で見いだして描いたのは、同船が大阪商船の南洋線に就航していた時代だ。
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新高丸(北日本汽船絵葉書).jpg
 「新高丸」はその後、1931年(昭和6)に北日本汽船に売却されて、おもに樺太を含めた北日本の国内航路に運用されている。このとき、同船は北洋向けの大規模な改装が行なわれているとみられ、居住区の拡張・充実と救命艇の増設に加え、後方の突出した時代遅れの無線室が撤去されたのだろう。だが、船橋や煙突、羅針儀、マストなどの配置は当初とまったく同じ仕様だった。最終的な配水量は、2,658tと記録されている。戦時中、老朽化した「新高丸」は軍に徴用され、石炭運搬船として就役していたが、1943年(昭和8)7月12日に小樽から敦賀へ石炭を輸送中に、余市沖で米軍の潜水艦に雷撃され魚雷2本が命中して沈没、乗組員9名が犠牲になっている。船足の遅い旧式の「新高丸」では、米潜水艦の雷撃をかわすことなど不可能だったろう。
 大阪の釜ヶ崎支援機構には、大正期の南洋線へ就航していた「新高丸」で、船室のボーイをしていた人物の貴重な証言記録が残されている。当初は大阪商船の台湾航路「あめりか丸」(6,300t)に勤務していたが、途中から「新高丸」へ転勤になり、2等船室と3等船室のボーイしていたようだ。以下、同証言記録から引用してみよう。
  
 学校は高等二年卒業です。廿三の時に突然故郷を出ました。船中で知り合になつた男が門司でガラス屋の小僧をすると云ひますので、私も其家で働かせて貰へないだらうかと話しますと紹介しても遣ると云ひますから其の硝子屋に使つて貰ひました。三箇月もしましたらうか。儲けがなくて最初の目的に反しますので神戸に來て大阪商船のボーイを志願しました。採用になつてアメリカ丸(台湾航路六千三百噸)に乗り込みました。二等船室のボーイ見習と云ふ格で最初は本ボーイが貰つた祝儀の分配を受けて居ましたが三箇月もして自身本ボーイとなり多少の祝儀を頂戴しました。三等船客の中には金に窮して居る者もありますから中には祝儀を出さぬ者もありますけれど二等船客の中には祝儀を出さぬ様な人は一人もありません。平均すれば一人三円位になりませう。一年程して新高丸に乗り代へになりました。新高は澎湖列島迄行きます。海軍の要塞地帯になつて居ます。住民は海軍に関係のある人か土人かで気候は極めて悪い処です。
  
「新高丸」遭難.jpg ロイドレジスター汽船名簿.jpg
氷川丸.JPG
 佐伯の『汽船』は、大阪市立新美術館建設準備室が所蔵しているが、わたしは実際の画面を一度も観たことがない。1998年(平成10)の「生誕100年記念 佐伯祐三展」には出品されているが、わたしは同展を観そこなっている。『汽船』のほかに、たとえば『肥後橋風景』(1926年11月)にも気になるモチーフがあるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:大阪へ帰省中だった、1927年(昭和2)制作の佐伯祐三『汽船』。
◆写真中上は、ブリッジから4本線の煙突部分の拡大で突きでた大きなキセル型羅針儀が印象的だ。は、船尾に書かれた船名部分の拡大。
◆写真中下は、北日本汽船で就航中の「新高丸」。は、北日本汽船の人着による記念絵はがき。北日本汽船へ移籍される際、大きな改装が実施されたようで客室が増やされているらしく、短艇釣と救命艇の数が増えているように見える。
◆写真下上左は、公文書館に残る「大湊防備隊戦時日誌」記載の「新高丸」遭難の小樽隊記録。上右は、ロイド・レジスターの汽船名簿(1931年)に掲載された「Niitaka Maru」(Osaka Shosen K.K.)。は、1930年(昭和5)に竣工した新時代の貨客船「氷川丸」Click!。「新高丸」に比べ、4倍以上のトン数で船足も15ノットと上まわっていた。

学習院昭和寮で起きた事件いろいろ。

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 下落合406番地の学習院昭和寮Click!では、大小さまざまな事件が起きている。以前に泥棒事件Click!は紹介していたけれど、きょうは「全寮日誌」ではなく、各寮で記録されていた日毎の「寮だより」から、それらの事件類を紹介してみよう。
 まずは、1933年(昭和8)2月に発行された昭和寮の寮誌「昭和」第8号より、1932年(昭和7)の5月から11月までの半年間に記録された、第一寮棟の寮だより(一寮日誌)から抜粋してみよう。
  
六月二十日 長らく病気加療中の加藤君登院す。
七月四日 毛利君結膜炎の為当分宅療することになる。
九月一日 石山、山田、牧野君帰寮せず。
九月四日 過労の為静養中の山田君帰寮す。
十月二日 水上部小会、対寮レースに吾が寮は時刻を間違へて棄権の止むなきに至る。
十月八日 第二寮生佐竹義正君逝去さる。
十月二十六日 結膜炎流行し、南郷、百瀬両君罹患す。
  
 寮対抗のボートレースに、第一寮の選手たちが時刻をまちがえて参加できなかった「事件」は、すでに前回ご紹介したとおりだ。ほんとうに時刻をまちがえたとは思えず、あらかじめ寮全体で根まわしが行なわれ、一寮は「遅刻」、二寮と四寮は「棄権」という筋立てができており、最初から第三寮の不戦「優勝」が決められていた気配を感じる。また、夏休みが終わったのに第一寮に帰ってこない学生が3名もいる。きっと、休みグセがついて帰寮したくなくなったのだろう。
 集団生活のデメリットとして、誰かがインフルエンザや結膜炎などの伝染病にかかると次々に罹患し、症状が重篤な場合は寮生たちが東京府内の自宅にもどり、療養していた様子がわかる。治療のため帰宅するまでもなく、ちょっとした風邪などで学校を休む軽症だと、さっそく女丈夫の「オバサン」(寮母)が正体不明の独特な薬を調合して、寮室で寝ている病人のもとへやってくる。そして、無理やりその薬を寮生のノドへ流しこんだ。
 オバサンの様子について、第一寮の寮務委員だった花房福次郎が書いたエッセイ「一寮十五勇士」から引用してみよう。
  
 此のオバサンは吾々寮生の為にはあらゆる万難を排して目的を遂行してくれます。偉人敵多しと申しますが、オバサンにとつては寮生以外は全部敵かも知れません。ライオンが豹を噛み殺す権幕で食つて掛るんですから大抵相手はヘバツテしまひます。併し又戦勝の報告を聞くのも楽じやありません。その因つて起るところはすべて寮生を思ふ一念に他ならないのですから、吾等は感謝すべきです。正義に燃ゆる女丈夫です。云ふことは論理的に正当なんです。又仲々医学に精通され、病気になると早速薬を調合して来て、馬か牛にでも飲ませる様に無理矢理につぎ込まれます。もう六十の坂を越えたでせうから、余り苦労を掛けぬようにしませう。
  
 1932年(昭和7)現在に60歳代だったとすると、おそらく「オバサン」は退職間近な寮母だったと思えるのだが、寮誌全体を通じて姓名は明らかにされていない。かなりの名物「オバサン」だったようなので、「昭和」の他号には詳細(退職時など)が紹介されているかもしれない。
昭和寮02.JPG 昭和寮03.JPG
 つづけて、同時期の第二寮棟で書かれた寮だよりを抜粋してみよう。
  
六月五日 佐竹義正君、本日午後一時の汽車で熊本に帰省された。同君は先週から身体の調子が悪くなり帝大の諷博士等の診察を受けて居たが、此の二三日、急に病状が思はしくないので、帰省される事となつた。何分此春肋膜をわずらひ、永く病院生活をして居たのであるから、軽度の病状にも余程の注意が必要である。たゞ一日も早く、全快して寮にもどられんことを望んで居る。
六月三十日 河副は喘息になつて今朝非常に苦しんだので、医務課で見てもらひ、自宅で休養する事にした。
六月二十三日 相澤は咽喉をいためて休んで居る。河副は先日来喘息で、鎌倉に行つた由。昨日、佐竹君の母君から、二寮に御手紙を戴く、熱は八度前後、可もなく不可もなき状態との事充分の養生を望む。
七月六日 松浦は風呂場で目の上を負傷、自宅に帰つた。
九月七日 佐竹の其後の経過思はしからずと聞き、一同憂慮す。
十月九日 午後五時、長らく病気療養中だつた佐竹正義君長逝の由電報にて通告さる。我等寮生一同悲しみに耐へず、謹んで哀悼の意を表す。(以下佐竹義正の紹介文略)
十月十日 午後九時より佐竹君の写真を飾り、その御霊前に寮生一同御焼香す。ほの白き小菊の花、紫の煙のたゞよひ、同君の追憶に耽けるのみ。
  
 第二寮では、重大事件が起きている。仲間のひとりだった、かつて肋膜を患ったことのある佐竹義正が、療養中だった郷里の熊本で肺結核のために急死した。昭和寮本館の娯楽室には祭壇が設けられ、寮生のほぼ全員が焼香している。また、「昭和」第8号の冒頭グラビアには佐竹義正の遺影が掲載され、寄稿された寮生によるエッセイでも、その死を悼んでいる。
 病気にかかる寮生も多いが、学校生活あるいは寮生活でのケガも多かった。「松浦」という学生は、本館地下に設置されていた浴場で、おそらくすべって転び浴槽の角か水道の蛇口にでも額をぶっつけたのだろう、目の上を切ったようだ。さっそく、オバサンが飛んできて治療したと思うのだが、その様子は記録されていない。しかし、目の上を負傷したぐらいで、いちいち自宅へ帰るところが学習院なのだ。
 このように、寮生はなにかあるとすぐに自邸へもどってしまうため、寮生が全員そろって在寮していることはめずらしく、寮内は櫛の歯が抜けるように空き室が絶えなかった。むしろ、寮生全員が帰寮して各室にそろうと、それがニュースになって寮だよりに記録されるほどだった。
佐竹義正.jpg 先輩寄稿.jpg
 つづけて、同時期に記録された第三寮棟の寮だよりを抜粋してみよう。第三寮は、4つの寮棟の中でももっとも詳細でていねいな寮日誌が残されている。
  
五月十八日 昨日入寮せる吉井赤痢の疑ありしが陰性と決定し一同安心す。
五月二十六日 吉井次第に快方に向へども栄養不足のため脚気の気味あり。
六月二十九日 久しく欠席中の吉井遂に本学年休学することになつたのは誠に残念である。
九月九日 夜に入つて二百廿日を頷かしめる程の豪雨あり。壮麗を誇り永久的存在を目的とする我が昭和寮も各所に雨漏あり、将来を考へると心細くなる。
十月十日 故佐竹義正君慰霊のため、談話室に写真を安置して舎監寮生外一同御焼香せり。
十月十二日 お会式、何百万と之ふ信者達が打つ太鼓の音しきりと聞ゆ。
十月十九日 今暁四寮、三寮に泥棒入る。とられた奴の寝呆け面は見られたもので(ママ:じ)やねェ。
  
 昭和寮は1928年(昭和3)に建設されているが、わずか4年後の1932年(昭和7)には雨漏りのしていたのがわかる。特に台風などの強い風雨になると、あちこちから雨水が入りこんだようだ。昭和寮は鉄筋コンクリート造りなので、一見、風雨には強そうに思えるのだが、これは当時のコンクリート工法による合わせ目の欠陥か、コンクリートの質そのものの課題なのかもしれない。クラックの箇所へ、雨水が浸透したことによる漏水の可能性もありそうだ。
 同じコンクリート建築(中村式鉄筋コンクリートブロック工法Click!)である、学習院昭和寮の西隣りに建っていた近衛町の帆足邸Click!では、雨漏りやクラックの心配はなかっただろうか? 帆足みゆきClick!は、1926年(大正15)に竣工したコンクリート製の自宅の現状や耐性の実際については、特にインタビューでは答えていない。昭和寮は、中村鎮Click!によるコンクリートブロック工法とは、まったく異なる当時のコンクリート工法で建てられていたのだろう。今日、日立目白クラブで雨漏りがするとは聞かないので、当初の脆弱箇所は戦後にすべてメンテナンスが施されているのだろう。
 もうひとつ、寮生が騒音に悩まされた記録も残っている。10月12日には、日蓮宗の御会式Click!で団扇太鼓をたたく音が周囲から絶えず聞こえていただろう。日蓮宗の信者たちが、太鼓をたたきながら雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)めざして行進する、夜間の「万灯会」をともなった年中行事で、行列をつくりながら路上を練り歩く。江戸期には、廃寺になる前の感応寺Click!へ集合していたものが、明治以降は鬼子母神へと行き先が変更された。昭和寮が建つ丘の南麓には、鎌倉期からの雑司ヶ谷道が通っているので、信者たちの行列はこの街道をひっきりなしに通ったのではないか。
 もっとも大規模な御会式行列は、大森区(現・大田区の一部)の池上本門寺からのもので、最盛期には参加者が数万人を数える日蓮宗の一大デモンストレーションだった。その行列は、先頭が鬼子母神に到着しているのに、いまだ本門寺境内には出発を待つ信者たちがあふれるほどだったという。昭和寮の寮生たちは、おそらく関東各地から目白方面へと集まってくる、うるさい太鼓行列の音に1日じゅう悩まされたのだろう。泥棒事件は、以前の記事に紹介しているので省略したい。
全寮日誌1932.jpg
寮だより(一寮日誌).jpg
 第四寮棟で記録された寮だよりには、事件らしい事件は記録されていない。四寮にも泥棒が入るという“大事件”があったにもかかわらず、そのことについても触れられていない。四寮の記録者は、なにか事件があると「不名誉」だとでも考えたものか、すべての記述が当たりさわりのない無味乾燥な内容になっている。また、寮友だった佐竹義正の死や追悼式についても記録されておらず、全体的にまるで新聞記事でも読むような、味気なく冷ややかな記述に終始している。

◆写真上:学習院昭和寮(現・日立目白クラブClick!)の、天井を飾るシャンデリア。
◆写真中上:本館2階へ上る階段()と、独特な意匠の各室ドア()。
◆写真中下は、1932年(昭和7)10月8日に熊本の自宅で死去した佐竹義正。は、「昭和」には寮生OBもときどき寄稿していたようだ。
◆写真下:「全寮日誌」()と、寮別に書かれていた「寮だより」()の一部。

「不良思想」で筆を折った吉屋信子。

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吉屋信子邸(鎌倉)1.JPG
 1940年(昭和15)になると、文部省では「戦時家庭」における教育の“ありかた”の策定をはじめ、翌1941年(昭和16)には『文部省戦時家庭教育要項』全5巻を発表している。同要項は、国家が天皇-家-父親-母親-子というヒエラルキー構造である確認と、軍国主義下における家庭内の支配構造を改めて規定するためのものだった。
 そこには、中国や朝鮮半島から輸入・模倣した「忠孝一致(本)」や、家父長制を基盤とする「男尊女卑」の社会観や生活観、すなわち、おもに新モンゴロイド系北方民族Click!によって形成された儒教思想が徹底して貫かれている。文部省の同要項は、文語体(漢=中国文の模倣)で漢字まじりのカタカナ文によって書かれているが、家庭内の“身分”について具体的に書かれた箇所を、吉武輝子による改題文から引用してみよう。
  
 家に最も本質的であることは、親は本、子は末、夫は本、婦は末であること。而して父は本、母は末である(中略) 子は父を天とし、婦は夫を天とする。父を天とすることによつて最も母に孝であり、夫を天とすることによつて最もよき母である。如上を最もよく実現させるものが我国の家である。父母は尊く、児子は卑しく、夫は尊く、妻は卑しく、兄は尊く、弟は卑しく、家庭生活の根本的規範が立つてゐる。中にも父として夫として一家の長は最上位に位する。
  
 天皇を頂点とする家族主義的国家観の押しつけは、自我の解放を模索し、自由な生き方(自己投企)を試みるヒロインが登場する、吉屋信子Click!の作品に描かれた多くの女性像が、全否定されたのも同じだった。「女子供」は常に家庭内においては「末」で「卑し」い存在であり、生き方に悩み選択に迷う女は「非国民」であり、常に従順な「良妻賢母」でなければならず、国民の思想・動向を常に監視する内務省にとっては、吉屋が創造するヒロインたちは残らず「不良思想」の「非国民」……ということになる。
 うちの祖母や、川田順造の母親Click!が同要項を読んだら、とたんに目をむいて「うちじゃ、そんなこと教えてないよ!」と怒鳴りつけられそうな内容だが、作家である吉屋信子は陰に日に国家や周囲から圧力を受けつづけ、国策に沿った作品を書かなければ「非国民」呼ばわりをされたのだろう。あるいは、過去に自由主義的な傾向のあった作家は、内務省から検閲・発禁の圧力をかけられて発表の場を奪われ、つづいて軍部から意図的に従軍作家として前線へ派遣Click!されて、“踏み絵”的な作品を書かされることになった。
 彼女たちの周囲には、しじゅう軍服・私服の別なく憲兵隊Click!の影がつきまとい、ボロを出すのを待ちかまえているような環境で執筆しなければならなかったようだ。戦時中、吉屋信子はついに筆を折って鎌倉の大仏裏へと引っこみ、執筆活動をやめている。このあたりの様子を、1982年(昭和57)に文藝春秋から出版された、吉武輝子『女人 吉屋信子』から引用してみよう。
戦時家庭教育要項「家の道」.jpg 少女の友194002.jpg
大日本国防婦人会下落合東部分会1941.jpg
  
 信子の作品が検閲にひっかかったのは、「新しき日」がはじめてではなかった。すでに昭和十五年五月から、「少女の友」に「乙女の手帖」にひきつづいて連載をスタートさせた読み切り短篇小説「小さき花々」が、毎回、「戦時下の少女が読むにふさわしくない」と内務省に、クレームをつけられただめ、止むなく三ヵ月で連載を打ち切っているのだ。(中略) かずかずの少女小説を目もおやかに咲き匂わせてきた「少女の友」から、信子の作品は、完全に姿を消してしまっている。「少女の友」からばかりではない。「少女倶楽部」をはじめとするあらゆる少女雑誌の目次から信子の名が消えてしまっているのである。(中略) 「新しき日」は、銃後の守り手としての家庭を舞台にし、一見、国策型の小説の体を成してはいるが、だが、父権社会に冒されることのない魂の不可侵性の実現という、信子の不変の命題が、隠しようもなく、前面に打ち出されている。信子は、意図せずして時局に不穏当な、反国策的な小説を書いていたのだった。
  
 戦時中に、三岸節子Click!がいつもの着物姿で駅を歩いていると、白タスキに割烹着姿の大日本国防婦人会のメンバーに呼び止められて捕まり、公衆の面前で「非国民」呼ばわりされ、ののしられて恫喝Click!されたように、吉屋信子もまた、呼び出された軍部や会合などあちこちで、さまざまな経験をしているのだろう。
 戦争協力をいっさい拒否した、まっすぐな三岸節子は戦後に怒りを爆発させて、彼女を公衆の面前で「非国民」とののしり、国家を破滅へと導く走狗役をつとめた国防婦人会の「亡国」論者たちを、徹底的に批判する文章を残しているが、吉屋信子は目立った批判的な文章を残してはいない。軍部に協力し、「銃後」作品を書いてしまった反省からだろうか、軍部や内務省から「不良思想」の「非国民」作家として、終始目をつけられていたにもかかわらず、戦時中の詳しい様子についてはあまり書き残してはいないようだ。
大日本婦人会デモ行進.jpg 大日本婦人会護国寺境内清掃.jpg
大日本婦人会軍手製造.jpg 大日本婦人会戦勝祈願.jpg
大日本婦人会傷病兵慰問.jpg 大日本婦人会戦死遺族奉仕.jpg
 先日、1941年(昭和16)に出版された『記念』と題する、大日本国防婦人会/下落合東部分会のアルバムを古書店で見つけたので手に入れた。非常に質のいい装丁で、国防婦人会の幹部連の写真や「宣言」、和歌、ついでに東條英機Click!や永野修身の書などが掲載され、巻末には文字どおり新たな地域活動の写真が貼れるよう、空白のアルバムページが付属している。その中から、大日本国防婦人会の「宣言」を引用してみよう。
  
 世界に比なき日本婦徳を基とし益々之を顕揚し悪風と不良思想に染まず国防の堅き礎となり強き銃後の力となりませう
二 心身共に健全に子女を養育して皇国の御用に立てませう
 台所を整へ如何なる非常時に際しても家庭より弱者を挙げない様に致しませう
 国防の第一線に立つ方を慰め其後顧の憂を除きませう
 母や姉妹同様の心を以て軍人及傷痍軍人並に其遺族家族の御世話を致しませう
六 一旦緩急の場合慌てず迷はぬやう常に用意を致しませう
  
 今日の視点で、これらの文章を批判するのはたやすいとは思うのだが、彼女らや彼ら(大日本国防婦人会の東京師管本部役員は、「婦人会」の名に反して半分がおもに陸軍の軍人たちだ)の思想や言動が、国家の破滅という未曽有の危機を招来したことは、二度と同じまちがいを政治思想的に、社会思想的に、さらには生活思想的に繰り返さないためにも、何千回何万回、反復して批判しようが批判しすぎたことにはならないだろう。それだけ、国内外の人々の膨大な犠牲のはてに、日本を「亡国(家)」へと導いた不良思想の責任はとてつもなく巨大で重い。
 吉屋信子は、鎌倉の大仏裏の家へ引っこんで1944年(昭和19)に筆を折ったあと、高浜虚子の門下で心情を俳句に詠みつづけている。不本意なモンペやズボン姿で、防空頭巾を手にしながら地元の句会へと通っていた。1945年(昭和25)8月20日、敗戦後に初めて鶴岡八幡宮の社務所で開かれた句会で、彼女は次の句を詠んでいる。
  葉ばかりの 蓮池なれど 見て居りぬ
 この数年間の来し方を、強烈な脱力感とともにぼんやり想い浮かべながら、源平池の畔にたたずむ吉屋信子の姿が目に見えるようだ。彼女は、1946年(昭和21)3月から仕事を再開しているが、本格的に復活して戦後の第2期黄金時代を築くには、1951年(昭和26)から毎日新聞で連載がスタートする、『安宅家の人々』まで待たねばならなかった。
吉屋信子邸(鎌倉)2.JPG 吉屋信子邸(鎌倉)3.JPG
源平池.JPG
 1941年(昭和16)に出版された大日本国防婦人会の『記録』には、下落合東部分会の活動が写真を中心に記録されているのだが、地元・下落合のめずらしい風景がとらえられている。わずか4年後には、二度にわたる山手空襲Click!で失われてしまう貴重な情景もあるのだけれど、それはまた、別の物語……。

◆写真上:鎌倉市長谷1丁目に残る、吉田五十八設計による吉屋信子の書斎。
◆写真中上上左は、1941年(昭和16)の『文部省戦時家庭教育要項』を要約した東京帝大教授・戸田貞三『家の道』。上右は、内務省による吉屋作品への弾圧が毎号集中した1940年(昭和15)発行の「少女の友」2月号。は、1941年(昭和16)に大日本国防婦人会下落合東部分会が制作したアルバム『記念』。
◆写真中下:同アルバムに紹介された、大日本国防婦人会のおもな活動。は、靖国神社までのデモ行進()と護国寺の陸軍墓地清掃()。は、軍へ寄贈する軍手製造()と戦勝祈願の参拝()。は、傷病兵への慰問()と戦死遺族への奉仕()。
◆写真下は、長谷の吉屋邸の門()と玄関()。は、源平池に浮かぶ蓮。

下落合の「松影道」と「八重垣道」。

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 のべ1,000万人の読者のみなさん、ご訪問をありがとうございます。
 今週の13日(火)の早朝、当ブログへの訪問者(PV)が1,000万人を超えた。落合地域ひいては江戸東京地方の事蹟や物語に、たくさんの方々が興味を抱きアクセスしてくださるのがとても嬉しい。のべ人数とはいえ、まさか東京の人口に匹敵する人々が、このような地域をきわめて限定したテーマ記事にアクセスくださるとは、ブログをスタートした10年前は思いもよらなかったことだ。これからも、新宿の落合地域を中心に、その周辺域を含めたさまざまな人々の物語や記憶を、少しずつ綴っていきたいと思っている。
(2015年1月14日AM現在のPV)
落合道人PV20150114.jpg
 さて、1,000万超を記念する第1弾の物語は、下落合から消えた道路のお話から……。
  
 おそらく、明治期に名づけられたとみられる下落合の道路名に、「松影道」と「八重垣道」というのがある。この道路名は、1917年(大正6)に作成された地籍図にも採取されていた。現在は、南北へとのびる道路の北半分が、西武線と十三間道路(新目白通り)Click!によって消滅している。落合村の総鎮守である氷川明神社Click!境内の、東西に接した南北に通じる小道の呼称だ。現在、雑司ヶ谷道Click!から南へ曲がると、ふたつの小道はすぐに新目白通りへと出てしまう。
 下落合氷川社の東側に接する、郵便ポストが設置された小道は「八重垣道」と呼ばれていた。西武電鉄Click!の開業当時は、初代・下落合駅Click!の駅前へと緩斜面を下る通りだった。雑司ヶ谷道と八重垣道がT字にぶつかる角(下落合889番地)には、初代・下落合駅前の交番である氷川前派出所Click!が設置されていた。この派出所も含めた、目白崖線の下を東西に通じる雑司ヶ谷道(現・新井薬師道)沿いには、西武線の開業と同時に駅前商店街が形成されはじめていたようだ。わたしが学生時代だった1970年代末でさえ、数多くの商店が軒を連ねていたが、現在は理髪店やクリーニング店などほんの数店しか残っていない。
 この氷川社の鳥居や参道に面した小道が、なぜ八重垣道と呼ばれたのかはすぐに理解できる。下落合の氷川明神社は由来の知れないほどの古社で、江戸期にはクシナダヒメ1柱が奉られた女体宮だった。だが、明治期に入るとどこからかスサノオやオオナムチ(オオクニヌシ)が連れてこられて合祀され、“夫婦神”が鎮座する社となった。古代出雲でクシナダヒメとスサノオが結婚し、初めて“新居”をかまえたのが現在の松江市の南にある八重垣の地Click!だ。だから、夫婦神がそろった明治以降、鳥居のまん前を南北に貫く小道へ、出雲の夫婦神に親しみをこめて旧蹟地にちなんだ道路名をつけたのだろう。
 でも、氷川明神の西側、すなわち本殿の裏側を南北に通る小道に、なぜ「松影道」と名づけたのかがわからなかった。この小道は、「松」がキーワードとなっており、氷川明神の境内に接した西側には、戦前まで銭湯「松の湯」(下落合884番地)が開業していた。この「松」つながりの名称は、おそらく当時の氷川社境内に濃い松林、ないしは特徴のある松の大樹でもあったのだろうと想像していた。それが判明したのは、1916年(大正5)に編纂された『東京府豊多摩郡神社誌』(豊多摩郡神職会)を参照したからだ。
 同誌には、当時の氷川社境内をフカンで眺めた社殿や建物の配置はもちろん、大正初期に境内に生えていた樹木類までが、図版に描きこまれて収録されている。同誌から、下落合氷川明神の由緒書きを引用してみよう。
  
 当社の縁起今詳ならず、江戸名所図会に伝『氷川明神社、南蔵院の申酉田嶋橋より北杉林の中にあり祭神奇稲田姫一座なり是を女体の宮と称せり薬王院の持也』と、盖し高田の氷川明神は祭神素戔嗚命なれば、当社を配して夫婦の宮となすの意なるが如し、祭神は其後更まりたるものと覚し、旧幕時代には真言宗薬王院別当職たり維新の後別当を廃し後ち明治三十九年八月社格村社に被定、(以下略)
  
 ここで興味深いのが、祭神について「其後更(あらた)まりたるものと覚し」と、スサノオその他の神々が合祀された具体的な経緯を、大正初期の「神職」がすでに他人事のように“知らない”と表現していることだ。『東京府豊多摩郡神社誌』は、当時の地元神職会が編纂・発行しているのであり、当然ながら下落合氷川明神社の宮司も編集に加わっていたか、あるいは必ず自社の記述には目を通していたはずだ。しかし、この時点ですでに、なぜ主柱のクシナダヒメのほかにスサノオやオオナムチ(オオクニヌシ)が合祀されているのかが、早くも不明になっている。(少なくとも“知らない”ことにされている) 
 明治政府の出雲神に対する圧力(日本古来の神殺しClick!)と、それをかわそうとする地元との間で、さまざまな攻防やエピソードがあったことをうかがわせる微妙な表現なのだ。
下落合氷川社1917.jpg
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 さて、昔日の氷川社写真とともに掲載された図版を見ると、ことさら目立つ大樹を採取したとみられる木々には、針葉樹のスギが4本、マツが3本描きこまれている。さらに、シイやモミ、イチョウ、カエデなどの木々が採取されている。もちろん、これらは境内でも記録にあたいする大きな樹木だったとみられ、ほかにも中小の木々が生えていたのだろう。そして図版からは境内の西側、つまり本殿裏の道路沿いにはマツとイチョウが繁っていた様子がうかがえる。
 特に本殿の南側、境内の南西角に生えていたマツは、枝葉が道路側に大きく張りだす特徴的な老松然とした姿ではなかっただろうか? だから、道路へ覆いかぶさるように生えた独特な姿から、この小道を松影道と名づけたのだろう。
 氷川明神は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で焼けているが、大正期に採取された社殿や境内の様子を、もう少し同誌から引用してみよう。
  
 向拝に氷川神社の金字額を扁す、公爵近衛文麿の筆なり、殿内に子爵小笠原長生、同川村景明の筆に成れる金字額あり、社前に石製巌上の獅子一双を置き、社北に末社二字を安ず、盥石よりは清泉溢れ出づ、社南に喬松五株(包各一丈以上)列り立てるを始めとし、境内老樹散立すること九十八幹、風色神さびたり、表口なる石橋及び玉垣は大正四年秋御大礼記念の為め、村より奉献せる所也。(中略) 社宝に剣一振(長一尺二寸、明治四十一年十月四日近江国堀井胤明作井献) 及び陸軍省より下付されたる三十七八年戦役記念の砲弾方匙等あり。
  
地籍図1916.jpg
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氷川社松影道.JPG
 この記述によれば、上記の図版に収録された樹木のほかに、境内には98本の「老樹」が繁っていたことがわかる。社の南には「喬松」が5本繁っていたようで、やはり図版に採取されているのは98本を数える木々の中でも、特に樹齢を重ねた大きな樹木だったのが想像できる。
 また、氷川社の扁額を近衛文麿Click!川村景明Click!らが書いていたのを、わたしは知らなかった。さらに、社宝として堀井胤明が制作した1尺2寸の「剣」があるのも初耳だ。「剣」と書かれているので、とりあえずそのまま踏襲するけれど、1908年(明治41)に胤明が鍛えたのは諸刃造りの脇指、ないしは寸延び短刀ではないだろうか? 茎(中心:なかご)Click!の銘が、表裏どのように刻まれているのか興味のあるところだ。
 大慶直胤(荘司箕兵衛)Click!の門下だった、刀工名に「胤」の1文字を受け継ぐ堀井家の初代・胤吉と3代・俊秀にはさまれて、2代・胤明は相対的に目立たず地味な刀工だが、相州伝Click!に魅せられて一時は鎌倉の瑞泉寺で作刀するなど、その焼き場は日本刀の代名詞である正宗Click!や貞宗を理想とする、鎌倉鍛冶の作品をめざしたものが多いようだ。氷川社の「剣」も、相州伝ないしは相伝備前の特徴が顕著な、実は諸刃造りの脇指ないしは寸延び短刀ではないだろうか?
 1916年(大正5)の『東京府豊多摩郡神社誌』は、東京西部(現・東京23区の西部)に展開する代表的な社を網羅した、大正期の詳細な由来・解説書として貴重だが、その中には面白い記述を見つけることができる。下落合の西隣り、野方村のやはり由来が不明なほどの古社である江古田氷川明神社には、スサノオとともに第六天神Click!の男神オモダルが合祀されているのがわかる。
氷川社八重垣道.JPG
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東京府豊多摩群神社誌1917.jpg 江古田氷川社1917.jpg
 つまり、落合村下落合の第六天(大六天)2社や、長崎村の第六天社と並び、野方村江古田にも第六天社の存在が確認できるのだ。おそらく、1870年(明治3)に明治政府が発布した大宣教令=神仏分離・廃仏毀釈、あるいは1906(明治39)発布の神社合祀令による“日本の神殺し”政策=「国家神道」化で、江古田に建立されていた第六天社は政治的な圧力で廃社となり、女神カシコネは抹殺されオモダルだけが明治期に合祀されているのだろう。

◆写真上:境内の東側に接する「八重垣道」から写した、下落合氷川明神社の現状。
◆写真中上は、1917年(大正6)に撮影された下落合氷川明神社。は、1916年(大正5)の『東京府豊多摩郡神社誌』に掲載された境内見取り図版。
◆写真中下は、1916年(大正5)作成の地籍図にみる「松影道」と「八重垣道」。は、1938年(昭和13)に作成された北が左の「火保図」にみる氷川社とその周辺。氷川社の西には銭湯「松の湯」が収録されているが、西武線が開通しているので「松影道」と「八重垣道」はともに鉄路で断ち切られている。は、右手に新目白通りに面しているにもかかわらず3階建ての低層ビルが建設中の「松影道」。
◆写真下は、郵便ポストが設置された「八重垣道」の現状。は、1945年(昭和20)5月17日に米軍偵察機から撮影された第2次山手空襲による焼失8日前の氷川明神社。下左は、1916年(大正5)に編纂された『東京府豊多摩郡神社誌』(豊多摩郡神職会)。下右は、大六天神の男神オモダルが合祀されている1917(大正6)撮影の江古田氷川明神社。

1921年(大正10)真冬の下落合を歩く。

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 目白中学校Click!へ通っていた生徒は、全国の道府県から集まった子どもたちClick!も少なからずいたが、やはり地元東京府の出身者が圧倒的に多かった。よその地方から東京地方へやってきた生徒たちは、学校近くの下宿や山手線沿線にある駅前の下宿から通学している。また、先にご紹介した松原公平Click!のように、目白中学校のごく近所である落合や戸塚、高田地域の自宅から通っている生徒たちも多い。
 目白中学校の校友誌『桂蔭』には、そんな地元の生徒あるいは学校の近くに寄宿している中学生が寄稿したエッセイに、落合地域の風景や様子が鮮やかに記録されている。1922年(大正11)3月に発行された『桂蔭』第8号には、「冬の日の逍遥」と題する随筆が掲載されている。著者は“無名草”とペンネームが使われているが、久しぶりに学校の周辺を散歩していることから、近くに住む寄宿生徒のひとりだと思われる。「私は何時になく気持がよいので、寒いのも関はずに(ママ)、外へ出てみる気になりました」ではじまる、同文を引用してみよう。
  
 欅なぞの葉は、毎日吹く凩(こがらし)に大方吹き落されてしまつて、坊主頭を寒い大空に擡(もた)げてゐます。杉もひどい霜には敵しかねて、葉が褐色になつてしまつてダラリと垂れてゐます。/路は、急に左に折れて、どこまでも南へ走つてゐます。砂利がないので、非常に凸凹が激しく、今朝から凍つたまゝカチカチしてゐます。ともすると下駄を踏み返します。/私は無暗に歩き続けました。何故か、歩きたくてならなかつたのです。/甲斐あたりの連山は、遥か遠く望めます。皆雪に被はれて、一層美しさを増して見えます。中央に富士山が厳しく聳え立つてゐます。矢張りすつかり白くなつて、恰(あたか)も他の群山を引き従へてゐるかの様に見えます。(カッコ内引用者註)
  
 目白崖線の丘上から眺めることができる、富士山の様子が描かれている。ただし、下落合の丘上から見える富士の手前に連なる山々は、甲斐の山ではなく奥多摩の連山と、神奈川県の北側に背骨のようなかたちで拡がる丹沢山塊や足柄の山々だ。
 この文章の直後に、著者は坂道へとさしかかるのだが、目白中学校が面している目白通りないしは裏道を西へとたどり、「急に左に折れ」て「どこまでも南へ走つて」いる道筋を歩いていったのがわかる。1921年(大正10)現在、目白中学校界隈から出て左へ折れる道路で、そのまま真っすぐ目白崖線の南斜面に通う坂道へと抜けられる道は、七曲坂の道筋(江戸期には鼠山道)しか存在していない、また、のちの文章に登場する、坂道の途中から右手(西側)に寺院の森が見える描写からも、この道は七曲坂以外に考えられそうもない。つづけて、「冬の日の逍遥」から引用してみよう。
目白中学校跡.JPG 目白福音教会.JPG
下落合1923.jpg
  
 坂に来ました。かなりの勾配です。坂の右手にはこんもりとした杉林に囲まれた古雅な寺があります。私は境内へ入つて見ました。薄暗くて寺の様な感がせず、寧ろ神社の様に思はれます。お堂はがらんとして、人一人ゐません。実際寂寞(じゃくばく)そのものです。私は、お堂の縁に立つて前を見下しました。前はずつと低くなつてゐて、一条の道がその勾配を区切つて通つてゐます。その道路の先はすぐ圃(たんぼ)なのです。私は階段を降りて道へ出ました。此処には砂利が敷いてあるので、稍(ようやく)歩きよいのです。田は薄氷が今朝張つたまゝで、溶けもしないで、うす赤い太陽をその上に乗せてキラキラと光つてゐます。私は小石を拾つて、其の上に投げて見ました。キヨロキヨロキヨロ、優しい小鳥の啼き声の様です。私は幾つも投げてその美音に聞入りました。ふと石が太陽の写つてゐる場所の氷を破りました。パツと水が飛びます。朱玉が砕けたかの様に思はれます。実に綺麗です。私はなほ投げました。遂にその田の氷は、砕かれぬ所とてもなくなりました。私は何だかしてはならぬ事をしてしまつた後の様な恐怖に襲はれました。/「おい、つまらないことは止せよ。知らない人が見ると、狂人と思ふぜ。さうして地主が怒るよ。」私は突然の声に驚いて振り返つて見ると、親友のSでした。(カッコ内引用者註)
  
 七曲坂Click!の途中から右手に見える、こんもりと森に囲まれた寺は、もちろん薬王院Click!だ。ただし、坂の途中まで1916~17年(大正5~6)に建てられた巨大な大島久直邸Click!の擁壁がつづいているので、右手すなわち西側の眺望が開けるのは、坂をかなり下ってからのことだ。薬王院の森は、坂上からも眺めることができるが、その向こう側には伽藍ではなく旧墓地が拡がっていた。丘上にあった薬王院の森Click!(現・新墓地)が伐採されるのは、日米戦争が迫り物資が不足しはじめたころのことだ。
 寺院の人気がないガランとした「お堂」は、今日の丘上にある本堂のことではなく、その寂しい風情から山門のすぐ脇に鐘楼とともに建っていた、茅葺き屋根の太子堂Click!のことではないかと思われる。太子堂や山門前は、南の旧・神田上水に向かってかなり傾斜している。その傾斜を区切って見えているのが、砂利や小松益喜Click!の描いた『(下落合)炭糟道の風景』のように炭糟が撒かれて整備されていた、雑司ヶ谷道(鎌倉街道)だろう。当時は、もちろん十三間通り(新目白通り)も西武線も存在せず、雑司ヶ谷道の周辺は一面の田圃だらけだった。
 そこの田圃で「親友のS」に出会うのだが、「S」は近くの自宅から目白中学校へ通っていた生徒のひとりだと思われる。薬王院からしばらく歩いたところが「S」宅のようなので、おそらく下落合か上戸塚(現・高田馬場3~4丁目)、上落合あたりに家があった生徒だろう。また、「S」の母親の様子から、地元の農家ではなく勤め人の家のようだ。
七曲坂筋1.JPG 七曲坂筋2.JPG
七曲坂筋3.JPG
大島久直邸1917.jpg 七曲坂1.jpg
 さて、下落合で起きた火事も記録されている。自宅で就寝中に、父母の「火事だ火事だ」という叫びで起こされた生徒の作文だ。『桂蔭』第8号に掲載された島田恒隆「火事」という文章だが、この中に出てくる「第一」とは第一府営住宅Click!のことだと思われる。また、「学校」とは目白中学校のことではなく、第一府営住宅の南側にある落合小学校Click!(現・落合第一小学校)のことで、下落合出身である島田恒隆が卒業した小学校、すなわち母校でもあったのだろう。短いエッセイなので、その全文を引用してみよう。
  
 恒隆火事だ火事だと父母の喚ぶ声に、はつと目を醒し、幾度か目をしばたゝいて(ママ)、うゝんうるさいなあとしぶしぶ起た。と又母の声で火事ですよと云はれて、何火事と飛起きさま、何心なく外を見た。ジヤンジヤンジヤンと半鐘の音が聞える。とばたばたばた。火事だ火事だ。第一だなどゝ怒鳴つてゐる。何第一、すはこそ一大事と寝衣のまゝ外に出た。火の粉は紛々として天を蔽ひ、煙はあたりにみちみちて呼吸も困難な程である。其の中に立つて天を仰いで見てゐる者もあれば、物しり顔になに風は向ふへ吹いてゐますから、大丈夫ですなどといつてゐる者もあり、ガタガタと歯の根の合はぬ口で、大丈夫でせうかなと云つて、ウロウロしてゐる人もある。僕はどうして火事を出したか、御真影は出したかなどゝ、胸の内は入みだれて、夢中で学校にかけつけた。見ればもう火は一面に拡つて、ワアーとさけぶ声が天地も揺がすばかり。僕は此の有様を見て、アーと太い吐息をついた。
  
 当時の第一府営住宅の近辺で、落合小学校にもすぐに駆けつけられる位置に島田家を探してみると、目白通りに面した下落合640番地に島田惣太郎邸を見つけることができる。聖母坂(補助45号線)Click!が建設される前、「木村横丁」と呼ばれていた一画の住宅だ。島田家から落合小学校まで、歩いても5分ほどの距離なので走れば1~2分でたどり着けるだろう。このとき、第一府営住宅の火災がどれほど拡がったかは不明だが、ことさら地元の伝承に残らなかったところをみると、それほど大火事にならずに鎮火しているように思われる。このとき、島田家に聞こえていた半鐘の音は、現在の子安地蔵Click!の斜向かい、下落合569番地に大正期から設置されていた火の見櫓のものだろう。地元の落合消防団Click!も、いち早く火災現場へ駆けつけているにちがいない。
七曲坂2.JPG 七曲坂3.JPG
薬王院1.JPG 薬王院2.JPG
 当時の下落合は、目白文化村Click!近衛町Click!も存在しない、ところどころに華族の大屋敷や別荘、古い農家などが建ち並ぶ典型的な東京郊外の風景だったろう。佐伯祐三Click!曾宮一念Click!のアトリエが、ようやく竣工したばかりのころの情景だ。まとまって建つ住宅街といえば、下落合中部に展開していた目白通り沿いの府営住宅ぐらいだった。

◆写真上:下落合で昔も現代でもつづけられる、初冬の干し柿づくり。
◆写真中上上左は、目白中学校があったあたりの現状。奥に見えているのは、当時から建っていた下落合523番地の目白聖公会。上右は、明治末年に建設された目白福音教会の現状で、目白通りを歩き教会先の路地を左折すると七曲坂筋へ入る。は、「冬の日の逍遥」の著者が逍遥したと思われる下落合の散策コース。
◆写真中下は、七曲坂へと抜ける道の現状。は、七曲坂へとさしかかる手前の落合中学校と庚申塚Click!のあたり。下左は、1917年(大正6)に撮影された竣工したばかりの大島久直子爵邸。下右は、七曲坂の現状で右手は旧・大島邸の擁壁。
◆写真下上右は、大島邸の擁壁が途切れるあたりの七曲坂。上右は、坂の右手に見える薬王院方面の森。は、薬王院の山門()と門前の雑司ヶ谷道(現・新井薬師道)()。薬王院の境内から旧・神田上水にかけての斜面は、一面に水田が拡がっていた。


矢田津世子は下落合がお気に入り。

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下落合1986矢田津世子邸跡.JPG
 以前、矢田津世子Click!(やだつせこ)が1931年(昭和6)の夏、初めて下落合に足を踏み入れたとき、目白文化村Click!の第三文化村に建つモダンな「目白会館・文化アパート」Click!(下落合1970番地)で暮らしていたことをご紹介した。このアパートは、多くの小説家や画家たちが去来したようで、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で焼け落ちるまで、下落合では芸術的な匂いのする文化アパートとして特異な存在だっただろう。
 結核に罹患し、わずか37歳の若さで死去する矢田津世子について書いた際、彼女は目白会館・文化アパートを起点に下落合を西へ東へ少なくとも4回引っ越しており、そのうちの1回はほぼ同じ住宅敷地で暮らすための再転居だった。新宿歴史博物館から、2000年(平成12)に刊行された『新宿区の文学者』には、その引っ越し先が掲載されているので以前の記事にも書いたけれど、もう一度整理する意味から改めて引用してみよう。
 ●1931年(昭和6)8月~1932年(昭和7)11月→下落合1470番地
 ●1932年(昭和7)11月~1939年(昭和14)7月→下落合1986番地
 ●1939年(昭和14)7月~1940年(昭和15)6月→下落合4丁目1982番地
 ●1940年(昭和15)6月~1941年(昭和16)3月→下落合4丁目2015番地
 ●1941年(昭和16)3月~1944年(昭和19)3月(歿)→下落合4丁目1982番地
 (正確には下落合4丁目1985番地へともどり、地番変更で1982番地へ)

 なぜ、矢田津世子はこれほど頻繁に、下落合で引っ越しを繰り返しているのだろうか? 秋田生まれの彼女は、松竹少女歌劇団の男役スターだったオリエ・津坂とは姻戚関係だと紹介されることが多いが、これはのちに彼女について書いた吉屋信子『自伝的女流文壇史』の記述の誤りで、その後、1978年(昭和53)に講談社から出版された近藤富枝『花蔭の人-矢田津世子の生涯-』の中で、津世子の兄・不二郎によって血縁関係は否定されている。だが、当時の女流作家の中ではひときわ目を惹く美貌だったので、いま風にいえば“追っかけ”の数も相当な数にのぼっただろうことは、以前の記事にも書いている。だが、目白会館・文化アパートから引っ越した先の下落合(4丁目)1986番地には、25歳から32歳まで母と兄とともに7年間も暮らしているので、自宅まで押しかけてくる濃いファンの男たちを避けるのが目的の、頻繁な転居とは考えにくい。
 あるいは、作家によく見られるように、表現のモチベーションを持続し維持するため、新鮮な執筆環境を求めつづけたものだろうか。ひとついえることは、彼女は父親を早くに亡くし、下落合でも最初の目白会館・文化アパート住まいを除き、母親および兄とずっと同居していることから、その引っ越しが単身の身軽なものではなかったということだ。それでも、死去するまでの13年間に4回も転居を繰り返しているのには、なにか特別な理由があるのだろう。たとえば、初期の結核症状が表面化したあと、より陽当たりのいい南向きの住宅を探しての、病気療養が目的の転居……というようなケースだ。あるいは、自邸が改正道路(山手通り)の工事にひっかかり、引っ越し(仮住まい)をしなければならないなんらかの要因があったのだろう。
 彼女が1931年(昭和6)8月に下落合へ住みはじめて早々、アビラ村(芸術村)Click!の下落合2018番地に住む吉屋信子Click!を、目白会館・文化アパートから訪問している。1962年(昭和37)に中央公論社から出版された、吉屋信子『自伝的女流文壇史』から引用してみよう。吉屋信子は一貫して、矢田津世子には好印象を抱いていたようだ。
矢田津世子.jpg 吉屋信子「自伝的女流文壇史」1962.jpg
  
 化粧などしているかいないかわからない、いつもついさっき顔を洗って来たばかりのような清潔な感じだった。わたくしの家に最初現われた時もよく似合ったグレイのスーツに襟元に濃朱のエシャープをのぞかせたさわやかな何気ないよそおいだったが、玄関の扉を開けた時、一陣の風が薫る感じだった。/彼女はその頃(現在もだが)ほとんど和服を着る人の多い女流作家のなかで、わたくしと共に洋装党だった。/彼女はやがてその頃わたくしの棲んだ下落合のしかもわたくしの家の近くに移った。そのせいもあってわたくしと彼女はゆききした。散歩がてらに歩いてゆけばその道のほとりが津世子さんの家だった。(そうした範囲に方角はおのおのちがうが、林芙美子さんもおり、文芸評論家の板垣直子さんもそして神近市子さんも棲んでおられた)
  
 この記述の中で、「わたくしの家の近く」と書かれている家が、目白会館・文化アパートの次、1932年(昭和7)11月に転居した、下落合4丁目1986番地(現・中井2丁目)の借家と思われる一戸建ての住宅だ。矢田津世子は、この家に1939年(昭和14)7月まで住んでおり、吉屋信子がたびたび目白文化村へと抜ける散歩Click!の途中で立ち寄っていたのはこの矢田邸だ。ちなみに、矢田津世子は1933年(昭和8)7月、同家の2階に大谷藤子といるところを、共産党への資金カンパを理由に特高Click!に逮捕された。前田寛治Click!の逮捕と同様に、矢田が身体を壊すきっかけとなった最初の出来事だ。1ヶ月余ののち、林芙美子も特高に同じ理由で逮捕されている。
 ちなみに、この文章から吉屋信子が犬を連れ、ベストポケット・コダック(小型カメラ)を携帯した散歩コースが透けて見える。ひとつは、矢田津世子邸をかすめながら目白文化村の第二文化村へと抜けるコース。もうひとつは、五ノ坂下の下落合2133番地にあった林芙美子Click!“お化け屋敷”Click!から、妙正寺川沿いに上高田方面へと抜けていく、牛(ホルスタイン)Click!を撮影した葛ヶ谷御霊下コース。そして、妙正寺川を越えて南側の上落合469番地に住んでいた神近市子Click!邸(上落合469番地のひとつ前の家)や吉武東里邸Click!古川ロッパ邸Click!の周辺を散策する上落合コースだ。
 さて、下落合1986番地の矢田津世子邸は、いまの感覚で表現すれば、第二文化村の南側へと下る振り子坂Click!の坂下から、山手坂を西へと上り、その突き当たりの左手が1935年(昭和10)前後の矢田邸にあたる。山手坂を上る左側には、1931年(昭和6)に洋画家・宮下琢郎Click!の『落合風景』に描かれた、おそらく前年の1930年(昭和5)に建設されたとみられる佐久間邸(モダンハウス)Click!が建っており、同作の制作時期から吉屋信子や矢田津世子が実際に目にしていた、下落合の風景を想像することができる。また、振り子坂から山手坂の情景は、おそらく昭和10年代に撮影されたとみられる写真にもとらえられており、その画面の左端に写る2階家が矢田邸の可能性がある。吉屋信子の同書から、矢田邸の様子を引用してみよう。
目白会館1938.jpg 目白会館19450517.jpg
矢田津世子邸火保図1938.jpg
  
 ある年の早春の朝、犬を連れて散歩の途中に津世子さんの家へよると庭先で彼女も飼犬と遊んでいた。米琉の黒地に大柄な絣のお対を着た和服姿は日頃の洋服とちがった味わいでその頃の女子大学優等生のような清純な眉目とその米琉のお対が調和してさわやかな限りだった。/彼女の家庭は未亡人の品のいいお母さんとすでにどこかに勤めていられるお兄さんとの暮しだった。彼女の書斎は二階の小ぢんまりした部屋で窓の前の机と書架その上にふらんす人形が置かれてあるのにわたくしは微笑させられた。/その家へ遊びにゆくと、お母さんはたいへん歓待して下すって、紅茶よお菓子よ果物よとはてはお手製のおいしいちらし鮓など運ばれて恐縮させられるのだった。
  
 ここに登場している矢田津世子の愛犬が、テリアの「プッペ」だろう。1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、住民名の採取されていない下落合1986番地の家が2棟あり、親子3人で住んでいた矢田津世子邸はこのうちのどちらかだ。
 さて、吉屋信子と矢田津世子の交流は、吉屋が下落合から市谷砂土原町へと転居してからも、そのままつづいていたようだ。再び、吉屋信子の前掲書から引用してみよう。
  
 その後、わたくしがこの思い深い下落合の家――この家で『放浪記』を発表する以前の林芙美子さんに初めて会い、いまの佐多さん当時の窪川稲子さんClick!壺井栄さんClick!と同伴して見えたり、そして矢田津世子さんを迎えたりのそこから旧区名時代の牛込砂土原町の新居に移ってのちも、津世子さんはやはり時折に姿を現わして、大谷藤子さんと共にの満州旅行の話を一篇の小説のように聞かせたりした。
  
 このあと、吉屋信子はすがすがしくてストイックに映る「知的美女」に、恋愛話が聞こえてこないのを不思議に思って話題にしたのだろう、すると待ってましたとばかり林芙美子から、トゲや悪意のある「不倫騒動」(吉屋へ語った下落合での目撃情報のほとんど大半が、林芙美子のデマだった)を聞かされ、吉屋にとっては「青天の霹靂のごとき驚くべき事」となった。林芙美子は同業者の女性、特に自分より優れているか、文学界で注目され評判が高いか、あるいは美しい同性に対し、こういう徹底して貶(おとし)める機会は絶対に逃さないようだ。特に、美しい矢田津世子は林芙美子の第一の標的になっていたらしいふしが見える。
 長谷川時雨Click!が死去したとき、林は矢田津世子のみへ「いっしょにスーツで弔問に行こう」と声をかけ、他の女流作家には「喪服で」と示し合わせて矢田を通夜の席で笑いものにしている。こんな嫌がらせは、ほんの軽い部類に属していて、林は表面では親しい友だち面(づら)をしながら、矢田津世子を陰で徹底して攻撃しつづけていた。それらは、矢田の死後に次々と明らかになっていく。
 矢田津世子の場合、彼女の作品に嫉妬した男性作家が表現活動を妨害したケースはほとんどなく、最大の“敵”は友だちのような顔をして、同じ下落合の町内に住み、親しげな笑みを浮かべながら彼女に近づき、いつも目の前を横切る彼女と同じ職業の同性だった。林芙美子のこのような「ひどいこと」(川端康成)をした性格については、彼女の葬儀の際に葬儀委員長だった川端康成の「弔辞」でも特に触れられ、もうすぐ灰になるので「どうか故人を許して貰いたいと思います」とまで言わせているが、それはまた、別の物語……。
モダンハウス佐久間邸.jpg
矢田津世子邸1947.jpg
下落合1986.JPG
 尾崎翠Click!は、昔住んでいた上落合850番地の住宅Click!を、わざわざ大家を介して林芙美子に紹介し友情をしめしていたはずなのだが、彼女が兄に連れられ故郷の鳥取にもどるやいなや、おそらく東京の編集者から彼女のもとへ仕事の依頼が二度といかないようにしたかったのだろう、さっそく「鳥取で死んだ」と吹聴してまわり、尾崎翠を文学界から「殺し」た。矢田津世子に対しては、吉屋信子が書きとめている以上に、ひどい言質でデマをあちこちでまき散らし、ことさら念入りに貶めているのだが、吉屋が生前、『花物語』の「水蓮」に登場する「寛子」のように、手のひらを返すような裏表の顔をもつ林芙美子の性格を見抜いていたら、はたして「女の友情」をどこまで信じられただろう。

◆写真上:下落合1986番地にあった、矢田津世子邸跡の現状。
◆写真中上は、20代と思われる矢田津世子。は、1962年(昭和37)に中央公論社から出版された吉屋信子『自伝的女流文壇史』(中公文庫版)。
◆写真中下上左は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる下落合1970番地の第三文化村「目白会館・文化アパート」。上右は、1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲にもかろうじて焼け残っている、同年5月17日に米偵察機に撮影された第三文化村の家々と目白会館・文化アパート。このあと、同年5月25日夜半の空襲で全焼している。は、1938年(昭和13)作成の左手が北の「火保図」にみる下落合1986番地で、2軒の家屋のどちらかが矢田津世子邸だ。
◆写真下は、昭和10年代の撮影とみられる山手坂と振り子坂。画面左端の丘上には、下落合1986番地の矢田津世子邸があるはずで、手前に見えているモダンハウスは佐久間邸。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる焼け残った矢田津世子邸。は、矢田津世子も日々目にしていたと思われる昭和初期に建てられたとみられる矢田邸前の和館。

どーんと来い! 大正の超常現象。

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細川邸跡.JPG
 以前、明治末に目白台の細川護成侯爵邸Click!へやってきた、御船千鶴子Click!について記事にしたことがある。そこでは、さまざまな「透視」実験が行われ、後日、再び東京帝国大学理科大学の教授たちを前に同様の実験が実施された。はたして、御船千鶴子の「透視」や「予言」がトリックだったかどうかは、ほどなく彼女が自殺してしまったため、曖昧で未解明のまま終わってしまったが、明治末のこの時期は不可思議な現象や迷信、怪奇現象、超能力などへ科学が積極的にかかわろうとした時代でもあった。
 その動向は、大正期に入ってからもそのまま継続し、全国各地で超能力者や霊能力者と自然科学者との間で、さまざまな検証実験が繰り広げられている。御船千鶴子の死後、全国各地で30人ほどの超能力者(霊能力者)が出現し、似たような実験や検証が行われているが、「お前らのやったことは、マルッとお見通しだーっ! だーっ!」と、トリックを暴いた事例は意外なほど少ない。
 むしろ、京都帝国大学のように、思い浮かべた文字や画像などをフィルム(乾板)へ思念で焼きつける「念写(射)」、または遠隔の密閉された容器内の中身を「透視」するスキャニング能力を、人体から発生するなんらかのX線と同じような放射線の一種によるものと想定し、「京大光線」あるいは通称「頭脳光線」などと呼称している事例さえある。はたして、「京大光線」の論文は現代でも撤回されることなく、どこかに埋没しているのだろうか。それとも、「なぜベストを尽くさないのか?」と研究は継続して、細ぼそとながらどこかの研究室でつづけられているのだろうか。
 明治末から大正期の有名な超能力者(霊能力者)には、長尾郁子(香川県)、高橋貞子(岡山県)、松山菊子(愛知県)、栗本淑子(岡山県)、松井忠治郎(京都府)、藤本栄二(山口県)、真壁光子(秋田県)、伊藤米吉(静岡県)、山崎玉江(和歌山県)……などがいて、ほぼ全国各地に存在していた。東京の新宿地域では、牛込区新小川町12番地に住んでいた牛込区職員の阿萬理愛(当時29歳)と、四谷区伝馬町新1丁目に住んでいた中野馨(当時12歳)のふたりが注目を集めている。前者は、御船千鶴子に刺激されていろいろ試みているうちに、自分にも「透視」能力があることを発見したようなのだが、かなり宗教(神道?)がかった言動が多かったせいか、自然科学的な実験が行われた記録はみられない。
 後者の中野馨は、四谷第一尋常小学校へ通ういまだ子どもだったせいか、よけいな信条や予断が入りこみにくい、実験向きな好モデルと判断されたのだろう、学者らの立ち合いのもとで詳細な実験が繰り返し行われた。ただし、当人が成長してからは、これらの能力が消えてしまったものか、実験が長期間にわたり継続的に行われたという記録は残されていない。立ち合い実験は、まず1923年(大正12)4月11日に帝大の医学博士・杉田直樹、理学博士・松村任三、文学士・浅野和三郎ら帝大チームが見守るなか、「自動書記」の実験からスタートしている。学者たちが用意した脱脂綿を厚く目に当て、その上からボール紙を何重にか折ったものをかぶせ、さらに藍染め手拭いを6重折りにしたもので中野馨に目かくしをほどこしている。その上で、さまざまな絵や文字を書かせる実験だった。
霊能力者リスト1.jpg
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 中野少年によれば、「自動書記」とはいくら厳重に目かくしをされようが、頭に浮かんだ思念や「透視」した対象を認知することで、手が勝手に動いて絵や文字を正確に書くことができる……というものだった。「自動書記」実験の白眉は、学者がその場で任意に書いた文字列を目かくしした彼の前に見せ、そのすぐ横に全文カナの振り仮名をつけさせるという、トリックの入りこみにくい設定だった。余談だが、帝大の田中館愛橘Click!は「透視」実験の際、現場での偶然性を重視し、その場で箱の中へサイコロをふって出た目を当てさせるという方法を考案している。以下、その実験の結果を1924年(大正13)に帝国教育研究会から出版された、『精神科学/人間奇話全集』から引用してみよう。
  
 (出題)
 猫に小判/花より団子/かねは上野か浅草か/論より証こ/犬もあるけば棒に当る/吉野山かすみの奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり
 (中野少年の自動書記)
 ネコニコバン/クワ(カ)ヨリダンゴ/カネハジヨウノカアサクサカ/ロンヨリシヨウコ/イヌモアルケバボウニアタル/ヨシノザンカスミノオクハシラネドモミユルカギリハサクラナリケリ(カッコ内引用者註)
  
 面白いのは花を「か」、上野を「じょうの」、吉野山を「よしのざん」と振り仮名をつけているが、本人は正しい読み方を知っているにもかかわらず、それに逆らって手が勝手にそのような文字を書いてしまう……という点だ。もちろん、本人にはこの文面全体が見えていないので、文字のすぐ横に振り仮名をふること自体、ふつうの人間にとっては至難のワザだろう。この段階で学者たちは、中野少年が視力以外に対象物を正確に認知する、なんらかの能力を備えていると判断したようだ。
 次に、「透視」実験が行われたが、箱の中に隠したものを中野少年はいい当てることができなかった。それは、ボール箱でも鉛の箱でも材質を問わずに同じ結果だった。ところが、その中身を外光にさらしたとたんいい当てている。中野少年の背後で出題した品物を外光に当てると、すぐに答えをいい当てたようだ。学者たちは、先にほどこした目かくしを疑い、6重手ぬぐいの下にブリキをはさんだり、鉛入りのゴム板をはさんだりして繰り返し実験を試みたが、中野少年はすべていい当てている。しかし、出題した物品を紙1枚でくるんでも、「紙」の存在はいい当てられるものの、その中身についてはわからなかった。帝大の実験チームは以下のようなレポートをまとめている。再び同書から引用してみよう。
四谷伝馬町.jpg 新小川町12番地.jpg
四谷第三尋常小学校卒業式1929.jpg
  
 これで中野馨少年の透視能力は精神感応の結果でない事がいよいよ明瞭になつた。/茲(ここ)に一言付記せねばならぬ事は、此少年の能力が、十数年前福來博士が長尾郁子、御船千鶴子等に対して試みた透視実験の報告によりて与へられた一般的概念とは余程別種のものであることである。彼はどんな目隠しをされても平気で、それを透して物品を視る事が出来るが、其物品が必らず或る程度の光線に当たる事を必要条件とするものである。若しも其物品にして光線を遮断さるれば(例へば函に入れるとか、又は紙布の類にて包まれるとかすれば)もう其透視能力は消失する。
  
 「ウソくせ!」といってしまえばそれまでだが、ほかにも数々の実験が行われており、これは学者たちが長時間かけて実施したマジメな実験結果だ。中野少年の超能力を、帝大の実験チームが確信したかどうかは別にして、少なくとも論理的かつ具体的な否定作業は行われていない。当時の学者たちは、自身が参加した実証実験の結果を受け、現状の科学レベルでは解明できないが、なんらかの能力が存在しているのだろうとする肯定派と、物理学者などを中心に「科学で説明ができる現象と、それ以外はなんらかのトリックだ」とする否定派に分かれた。
 落合地域の西隣りにある井上哲学堂Click!を創設した井上円了Click!は、現在の科学では解明できないレベルの超能力や怪異現象(説明のつかない自然現象など)を、「真怪」と名づけて否定はしていないが、おもに京都帝大が行なった「念写」実験などを対象に、当時の否定派を代表するような文章を残している。以下、井上円了『眞怪』から引用してみよう。
  
 念射(写)の事は余はどうしても信ぜられぬ、若し是が出来るものならば、真怪でなくて魔怪である、我が心内で文字や物体を念じても、是が写真に写る筈はない、写真に写るならば、其の形が客観的に光線に写しなければならぬ。/さうなると、心と物との区別がないものになると、同時に従来築き上げたる学術の根底が破れて了ふ。又実際念写の実験が奇々怪々、一種の手品のやうになつてゐる。(カッコ内引用者註)
  
六賢台内.JPG 哲理門烏天狗.jpg
 「真怪」と名づけて、不可思議な怪異現象や心霊現象は、科学が未熟・未発達のせいで説明がつかず「存在」すると認めていた井上円了は、その後、膨大な量の「幽霊」話や「妖怪」譚など怪談奇談を採集して著作に次々と発表し、ついには「オバケ博士」「妖怪博士」の異名をとることになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:御船千鶴子の「透視」実験が行われた、現・新江戸川公園の細川邸跡の一画。
◆写真中上:明治末から大正期にかけての超能力者(霊能力者)たちで、1924年(大正13)に出版された帝国教育研究会『精神科学/人間奇話全集』所収のリスト。
◆写真中下上左は、中野馨少年が住んでいた四谷伝馬町と通っていた四谷第一尋常小学校界隈。上右は、牛込区職員の阿萬理愛が住んでいた新小川町12番地界隈。は、1929年(昭和4)に撮影された四谷第三尋常小学校の卒業式。
◆写真下は、井上哲学堂(哲学堂公園)内にある六賢台の塔内から“下界”を見下ろしたところ。は、哲理門内に幽霊姉さんとともにいる烏天狗像。

川村女学院の「♪お帰りなさいませ~」。

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 1929年(昭和4)の夏、目白駅前に奇抜なデザインの建物が出現した。「目白市場」と名づけられた2階建ての建物は、11世紀のヨーロッパに建てられたレンガ造りの古城のような意匠で、中にはさまざまな商店や飲食店などが入る、今日の“テナントビル”のようなコンセプトで建てられていた。施工したのは東京府で、東側の並びに建つ川村女学院が全面的に協力している。高田町1709番地(のち目白町2丁目1709番地)の、ちょうど先ごろオープンした複合商業施設「トレッド目白」が建つ西寄りの敷地だ。
 川村女学院が協力したのは、同年4月より高等専攻科へ新たに家政科と国文科が追加で設置されたせいもあるのだろう、「女学校は実際的な教育を行うべき」という理念を提唱する同学園としては、女学生たちが作った料理や物品を、実際に売店で販売できる目白市場という実践スペースは、願ってもない教育機会だととらえたようだ。そして、料理や物品を販売するのは、すべて川村女学院に設置された各学科の女学生や卒業生たちが担当することになった。マスコミからは、さっそく誤解をまねきそうな「女学生市場」などと呼ばれて喧伝されている。
 中でも、川村女学院割烹科の女学生たちが直営する喫茶店は、開店当初から人気が沸騰したのではないかと思われる。特に、目白市場や川村女学院のまん前、目白通りをはさんだ南側にある学習院、あるいは少し離れてはいるが池袋の立教大学では、女学生喫茶へ通いつめる常連の学生がたくさんいたのではないだろうか。では、1929年(昭和4)4月14日に発行された、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
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 これは新しい女学生市場
 目白駅近くへ新建築して/お給仕まで上品に
 女学生が店主であり店員といふ東京最初の珍しい市場が省線目白駅の側に出来る、市場の建物は府の直営工費三万円でこゝ数日中に起工し七月中旬には開店の運び 女学生は川村女学院の生徒達である 従つてこの計画は「類のない有意義のものに」といふ府の理想と 「女学校の教育をもつと実際的に」といふ川村女学院の気持ちがピツタリと合つて実現されることになつたのである 従つて市場内の各売店は同校の生徒や卒業生の希望者が学校の余暇に店に立ち 子供用品 家庭の日用品の販売に当る外 階上のきつ茶店では同校割ぱう科で作つた料理、菓子、サンドウヰツチなどを売り、お茶の給仕にまで出て品位をきずつけない程度でかひがひしく働く
  
 さて、東京初の「女学生市場」となった目白市場には、ものめずらしさも手伝って開店当初は、東京じゅうから野次馬のお客(特に男性)を集めたと思うのだが、そのとき喫茶店で女学生たちはどのようなコスチュームでお客を迎えたのだろうか? まさか、ミルクホールやカフェの女給さんのような、フリフリのついたエプロン姿ではなかったと思うし、川村女学院当局もそのようなコスチュームは許さなかったと思うのだが、紺のセーラー服ぐらいは着てたのだろうか。
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 それとも、大正時代が終わったばかりなので、少しレトロな趣味のまま矢絣と海老茶の袴に、頭には大きめなリボンをつけたコスチュームで、近所のオジサンたちの目を喜ばせていただろうか。とにかく、教育の一環とはいえ、お客を集めなければハナから商売にはならず、市場内のテナント料が東京府へ払えないし経営も成り立たないので、「♪お帰りなさいませ~、目白のダンナさま~」はありえないにしても、女学生たちによる目白駅前での特売ビラ配りや、「高等師範より、お茶の水が美味なお紅茶あります/喫茶リバービレッヂ」wとか、「お昼間は、奥様わすれお茶を召しませ/珈琲・三羽鶴」(爆!)のポスターといった、なんらかのセールスプロモーションは実施しているのだろう……と、妄想はどこまでもふくらんでいく。
 目白市場の存在は、椿坂Click!の目白貨物駅前から目白通りを見上げた小熊秀雄Click!のスケッチ「目白駅附近」Click!や、1938(昭和13)に作成された「火保図」の記載、小川薫様Click!からお貸しいただいた東環乗合自動車のバスガールたちが写る目白橋での記念写真Click!などで、早くから気がついていたのだけれど、同市場の中身がどのような商業施設で、運営主体がどこなのかが不明のままだった。おそらく、市場の2フロアに出店した売店は川村女学院がすべて経営していたわけではなく、東京府が運営していた売店もいくつか入っていたのだろう。はたして、戦前まで川村女学院の直営店は、喫茶店も含めて東京府の公営市場内に残っていたのだろうか。同紙から、つづきの記事を引用してみよう。
  
 府当局もこの新しい試みに力こぶをいれ、女学生運営の売店以外にもかつてなかつた全くの府直営の売店をもだして、よいものを安く売り一般家庭のためをはかりたいと準備にかかつてゐる なほ建物もグツと珍らしい造りで十一世紀時代の欧州の古城をまねた二階建ださうである
  
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 目白市場の敷地は、1947年(昭和22)の空中写真では焼け跡状の更地になっているので、二度にわたる山手空襲で焼失していると思われる。外観は、古城のようなレンガ造りの姿をしていたのだろうが、実際は木造モルタル2階建ての大きめな建築で、外壁にレンガ状のタイルを貼りつけただけの、火災にはもろい構造をしていたのではないか。
 1945年(昭和20)5月25日夜半に行なわれた、住宅地の絨毯爆撃をともなう第2次山手空襲Click!の直前、5月17日にB29によって撮影された偵察写真には、いまだ目白市場のあたりに建物らしいかたちを確認することができる。しかし、同年4月13日夜半の駅や鉄道、河川沿いの中小工場などを“精密爆撃”した第1次山手空襲で延焼し、もはや目白市場の残骸が写っているだけなのかもしれない。
 戦前、目白通り沿いに形成された目白市場を含む当時の商業施設の様子を、同市場が建設されてから4年後、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』から引用してみよう。
  
 日用品需要供給の公設市場が、始(ママ)めて高田町に設けられたのは大正十二年十一月一日で、現在は公設一、私設八、諸営業中警察の取締を受くる営業は、浴場二十五、理髪店六十六、女髪結四十六、古物商百八十六、請負業二十、遊技場四十三、料理屋三、飲食店二百十三、喫茶店七あり、而して年々増加して行くのは、カフエーと女髪結と遊技場で、生活必需品の小売商店はデパートと公設市場とのため打撃を受けて苦しみ、享楽気分を誘ふカフエーと遊技場が次第に多くなり、虚栄装飾のための美容術女髪結が年を逐ふて多くなりつゝある。
  
 オシャレをする店のことを、「虚栄装飾」などとのたまう高慢ちきな『高田町史』の執筆者は、ヘソ曲がりの夏目漱石Click!ではないけれど「大きなお世話だ」Click!w。この中で、1933年(昭和8)の「現在は公設一」と書かれている東京府営の市場が、4年前に竣工した目白市場のことだろう。
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 11世紀の古城のような意匠で、すぐに思い浮かぶ建築がごく近くにある。長崎バス通り沿いに建っていた、長崎町4101番地(のち椎名町5丁目4105番地)の「長崎市場」Click!だ。小川薫様のアルバムには、出征兵士を送る壮行会の背後に長崎市場の看板とともに、まるで戦後の名曲喫茶のような古城風の建物がとらえられている。おそらく、目白市場もまったく同じような意匠をしていたと思われ、長崎市場もまた東京府が運営していた、長崎町の公営市場の可能性が高い。

◆写真上:目白市場跡に建っていた、解体前の旧・目白コマースビル。現在は、2014年10月にオープンしたばかりの複合商業施設「トレッド目白」が建っている。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる目白市場。は、1930年代に描かれた小熊秀雄のスケッチ『目白駅附近』に描かれた古城のようにみえる目白市場。は、目白市場の建設を伝える1929年(昭和4)4月14日発行の東京朝日新聞。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる目白市場と東隣りの川村女学院。は、1944年(昭和19)12月13日の空襲前にB29偵察機によって撮影された目白市場。上空から見ると、妙なかたちをした建築だったのがわかる。
◆写真下は、1945年(昭和20)5月17日の第2次山手空襲8日前にB29偵察機によって撮影された目白駅周辺。下左は、小川薫様のアルバムに写る目白橋東詰めの目白市場と思われる建物。1935年(昭和10)ごろの撮影とみられ、目白橋の手前は東環乗合自動車のバスガールたち。下右は、同じく小川様のアルバムから1940年(昭和15)前後に撮影されたとみられる古城のような意匠の長崎市場。

ネコ5匹と暮らすアル中の甲斐仁代。

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 甲斐仁代Click!は晩年、練馬の桜台にアトリエをかまえていた。我孫子に借りていた志賀直哉の書斎Click!から、雑司ヶ谷、落合町下落合1385番地の借家Click!、野方町上高田422番地の故・虫明柏太アトリエClick!と、このあたりを中出三也とともに転々としていた様子がうかがえる。しかし、桜台のアトリエにはすでに中出三也の姿はなかった。
 戦後の中出三也Click!の軌跡は、ようとしてつかめない。はっきりいえば、甲斐仁代のもとを出奔して行方不明になっている。晩年の甲斐仁代の悔しげな口ぶりから、おそらく女性がらみのなんらかの事件が発生し、彼女のもとから去ったのだろう。ひょっとすると、他の女性と駆け落ちしたのではないかとの想像が働くけれど、そもそも甲斐仁代と中出三也との生活も、すでに結婚していた中出三也が彼女と駆け落ちして成立していたものだ。中出三也は戦後、画壇からもすっかり姿を消してしまった。
 桜台のアトリエで仕事をする、晩年の甲斐仁代を見つめていたのは、のちに画家であり美術評論家になる谷川晃一だ。谷川は、おそらく1955年(昭和30)前後に彼女が仕事をする姿を書きとめている。当時の甲斐仁代は一水会に所属しており、1947年(昭和22)からは会員になっていた。そして、1957年(昭和32)には二科展ではなく日展へ作品を出品している。パートナーだった中出三也は帝展画家だったが、二科における女性画家の代表のような甲斐仁代になにが起きたのだろうか? 1985年(昭和60)に池袋のリブロポート「毒旺日のギャラリー」に掲載された、谷川晃一『甲斐先生の思い出』から引用してみよう。
  
 甲斐仁代は深沢紅子Click!三岸節子Click!佐伯米子Click!らと並ぶわが国の先駆的な女流画家といわれているが、今日、彼女の名を知る人はけっして多いとはいえない。少なくとも私の友人たち、三、四十代の画家たちは甲斐仁代の名を誰一人知らないのだ。/むろん彼女を生前から支持しつづけてきた人は何人もいるし、没後も何度か遺作展が開かれ、パブリックなコレクションにも数点の作品は入っている。しかし一九六三年にひっそりと世を去ったこの画家は、まだまだ世に知られた存在とはいい難い。まことに残念なことである。/私が甲斐先生に師事したのは十六歳のときで一年に満たぬ短期間だが頻繁に練馬区の桜台にあった彼女のアトリエに通っていた。しかしその間に私が描いた作品はごくわずかで油彩画が二点と水彩画が四、五点だった。
  
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 谷川は、甲斐仁代から絵を具体的に習うのではなく、彼女が仕事をするのをただジッと眺めている……という、「描かない弟子」として師事している。桜台のアトリエは、北向きの天井までとどく広い窓があり、生花ではなくドライフラワーが飾られていた。
 甲斐仁代は当時、キャンバスはあまり用いず、どこからか横長の小さな板やボール紙をたくさん仕入れては、静物画を中心に描いていたらしい。モチーフには、色鮮やかな陶磁器やさまざまなフルーツ、それらを載せる敷布などを用意していたようで、赤やオレンジを基調とする吉屋信子Click!が愛した彼女ならではの色づかいは、晩年になるまで健在だった。何気なくかわいい静物画なのだが、谷川は重厚で「金色のハーモニーを秘めてい」て、「熟れた果実」のような味わいをもつ画面だったと証言している。
 キャンバスを用いた本格的なタブローは、甲斐仁代が会員だった一水会の展覧会に出品するため、年に一度しか描かなくなっていた。筆を運んでいると、ときどき手の震えが止まらなくなり描けなくなることがあった。彼女の体内から、アルコールが切れたのだ。谷川晃一は、大急ぎで近くの酒屋へ焼酎かビールを買いに走らされることになる。アトリエと酒屋との往復は、日々の習慣となっていった。
  
 彼女はその当時五十代でオカッパの髪はすでに半分は白髪だったが頬は紅く小柄で、女学生のような可愛さが残っている不思議な人だった。もっともこの赤い頬は酒焼けで彼女はひどいアル中だった。/彼女は私が絵をあまり描きたがらず、彼女の制作を見るほうを好んでいることをすぐ理解し、五匹もいる猫の交通整理をしながらアトリエの隅に坐っていることをゆるしてくれた。/彼女は黙々とプラムや桃やくるみの実を写生していたが、突然、筆を持つ手が震えだす。アルコールが切れたのだ。「コーちゃん、お酒!」の掛け声に私は酒屋に焼酎を買いに走る。これが日課だった。焼酎かビールをひと口のんで落ちつきを取戻すと肴をつくる。キウリもみにはよく猫の毛がまじっていた。夜が更けるとともに彼女は次第に泥酔し、そしていつも別れた夫の不実をなじり、涙を流していた。孤独がアル中の原因だった。これにはいささか閉口したが、彼女が青春時代を過ごした青島(チンタオ)の街のことや北京旅行のこと、林芙美子Click!吉屋信子Click!との交流の話を聞くことは興味ぶかく楽しいことであった。
  
甲斐仁代「くわいなど」1959.jpg 甲斐仁代「赤い静物」1960.jpg
 谷川晃一が甲斐仁代のもとを去ったのには、いろいろな理由があるようだ。家の事情や、絵画表現の興味が別の方角へ向いたせいもあるが、いちばん大きな理由は彼女が日展へ出品するといいだしたからだ。谷川には、二科の先鋭的な女流画家として出発したはずの甲斐仁代が、官展などへ傾斜していくのが許せなかったのだ。
  
 私にとって甲斐仁代という画家は、何ものにも束縛されずに一人自由に生きて描いている「画家の原型」とでもいえるライフスタイルによって、アートの豊かさを教えてくれた初めての人であったが、「日展」という体制的権威の世界に傾倒してゆく先生には失望せざるをえなかった。/十六歳の私はやたらと反抗的で生意気で無意味に硬直しており、先生が日展に出品することにより、彼女の画家としての世間的な地位が上り経済的にプラスになるというリアリズムを許容することができなかった。/「アカデミックな一水会だってやめればいいのに、日展に出すなんて先生はいつ堕落したんですか……。」 彼女は私のこの無礼な発言に対し「あなたは新しい時代の人なのね。そう、だからご自分の思うようにやんなさい。でも私もね、好きなようにやりますからね。」 私は黙ってアトリエを背にし、二度と彼女を訪ねなかった。
  
 甲斐仁代は1957年(昭和32)に日展へ出品したあと、アルコール依存症がもとで徐々に体調を崩して療養生活を送るようになる。だが、日展には二度と出品することはなかった。1963年(昭和38)7月28日、かねて入院中だった江古田の中野療養所で死去している。まだ、10~20年は作品を描きつづけられそうな、享年61歳だった。
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 甲斐仁代は、ほんの一時期に中出三也と住んだ我孫子生活Click!を除き、雑司ヶ谷・下落合・上高田・桜台と、その半生を直径6kmほどの楕円状をした狭い圏内ですごしている。最寄り駅でいうなら、目白駅から中井駅ないしは東長崎駅、桜台駅あるいは江古田駅といったところだろうか。この地域が、彼女のもっとも愛着のあるエリアであり、彼女が若い生命を燃やした思い出深い場所でもあるのだろう。

◆写真上:1928年(昭和3)まで、甲斐仁代が暮らしていた下落合1385番地界隈の現状。右手にあるベージュ外壁の家が、旧居跡あたりだと思われる。
◆写真中上:いずれも戦後に描かれた作品で、は1958年(昭和33)制作の甲斐仁代『曇りの日の浅間山』と、は1959年(昭和34)制作の甲斐仁代『秋のうた』。
◆写真中下:小さな細長い板に描かれた作品で、は1959年(昭和34)に制作された甲斐仁代『くわいなど』と、は1960年(昭和35)制作の甲斐仁代『赤い静物』。
◆写真下は、1929年(昭和4)に松下春雄Click!が撮影した下落合1385番地界隈。右端が淑子夫人Click!で、抱かれているのは彩子様Click!下左は、1932年(昭和7)9月15日の読売新聞に掲載された甲斐仁代。下右は、1950年(昭和25)ごろと思われる甲斐仁代。

佐伯祐三が描いたた配水塔。

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 佐伯祐三Click!があと数年長生きして、第2次滞仏から下落合へもどってきたとしたら、おそらく描いたと思われるモチーフに、葛ヶ谷(現・西落合)の外れに建設された荒玉水道Click!野方配水塔(水道タンク)Click!がある。当時は高い建物が少なかったので、わざわざ西落合へはいかずに下落合からでも、また上落合や東中野からでも眺められただろう。東中野から下落合へともどる松本竣介Click!が、丘陵から突出して見える野方配水塔を描いた、戦後すぐのころのClick!が現存している。
 旧・下落合の西部や、西落合へ散歩に出かけると、つい寄ってしまうのが井上哲学堂Click!と野方配水塔だ。特に水道タンクは、なにか人を惹きつける魅惑的なデザインをしているせいか、軒が高くなった住宅の間からチラリと目に入ったりすると、つい足が向いてしまう。一時は取り壊しの話もあったと聞くが、現在は中野区が非常災害時の給水タンクとして保存し、また2010年(平成22)には国の登録有形文化財にも指定された。
 野方配水塔をモチーフに、もっとも多く風景作品を描いた画家は、おそらく近くの西落合にアトリエをかまえて住んでいた平塚運一Click!だろう。版画作品はもちろん、昭和初期に描いた素描も何点か残されている。それらの作品や昭和初期に撮られた写真を見ると、周囲には田畑か耕地整理が終わったばかりの原っぱが拡がり、その平らな地面から突然にょっきり顔をのぞかせた、巨人の“指先”のような印象を受ける。高さ34mの塔は、目白崖線の南斜面や谷間を除き、落合地域の多くの地点から望めただろう。
 朝日新聞社が1979年(昭和54)に出版した、『佐伯祐三全画集』をようやく廉価で手に入れた。同画集は限定1,200部で出版されていて、少し前まで10万円前後もするのがあたりまえだった。「全画集」とタイトルされているけれど、実際にはずいぶん漏れている作品が多い。1980年代以降、新たに見つかった佐伯作品も少なくないからだ。また、こちらでもご紹介した海外オークションで売買されている『下落合風景(散歩道)』Click!のように、国外へ流出してしまった作品類も、ほとんど収録されていないと思われる。
 さて、重たい同画集(5.8kg)をめくりながら、改めて佐伯の作品を1点1点じっくり観ていたら、佐伯がすでに独特な形状の配水塔を描いているのに気がついた。フランスではなく、日本の風景作品だ。もちろん、佐伯の死後に建設された野方配水塔ではなく、大阪は土佐堀川に架かる肥後橋の東側、中之島の川端に建っていたとみられる、いかにも配水塔らしい建造物だ。朝日晃は、佐伯祐三が『肥後橋風景』を描くとき、画道具運びで同行した杉邨家Click!の息子・房雄Click!に取材して、『肥後橋風景』の制作時期を1926年(大正15)11月下旬とはっきり規定している。1994年(平成6)に大日本絵画から出版された、朝日晃『佐伯祐三のパリ』から引用してみよう。
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 十一月下旬、風が強く寒い日、その日は長姉の杉邨家(当時の港区辰巳町一ノ一〇、現在の市岡公園附近)から写生道具と三十号のカンヴァスを用意して出た。大学を病気で休学中だった十九歳の房雄は絵具箱を持つ役で同行した。/土佐堀川に着いた佐伯は、肥後橋に向かってイーゼルを立てた。三十号のカンヴァスは強風で安定せず、房雄はカンヴァスを押さえ続けた。朝日新聞社屋(旧屋、一九一六年竣工、一九六五年新築のため撤去)に対峙する佐伯は筆が走った。川の新聞社側に新聞印刷用のロール紙を運んできた木造船が強い風と波に揺れている。(中略) 制作中、突風が吹き三十号のカンヴァスは川土手に転がり落ちた。房雄は催促され、あわてて飛んで行って拾ってはきたが、枯草と泥砂がくっついていた。「祐三さんは平気でそのまま描きあげた――」と房雄が話した。パレット・ナイフ、親指も筆がわりだった。寒い風の日の三時間である。
  
 佐伯のキャンバスには木の小枝や泥、ときに髪の毛などが、絵の具に混じって塗りこめられていることがあるのを、かなり以前に記事Click!へ書いたことがある。『肥後橋風景』は、土佐堀川に築かれた土手の泥がびっしりと付着している。それは、いまでも画面で確認できるのだが、ちょっとふつうの画家の制作では考えられないことだ。
 また、キャンパスが強風にあおられて安定せず、佐伯は制作にかなり手こずったらしく30号を3時間“も”かけて描いている。「20号40分」を豪語する佐伯にしては遅筆だが、むろんふつうの洋画家に比べたら考えられないようなスピードだ。
 中之島の配水塔らしき建造物は、肥後橋北詰めにある大阪朝日新聞社と、画面では右手奥に塔の見える大阪市役所、そして市役所の手前にある日本銀行大阪支店との間にはさまれたあたりに位置している。現在の中之島セントラルタワー、あるいは大阪中之島ビルの土佐堀川に面した河畔だ。大阪の事情にはうといので、この配水塔が中之島へ水道を配備するための大阪府水道局の施設なのか、あるいは水を大量に使用するなんらかの製造工場の給水タンクなのかは不明だが、配水塔の意匠が東京の野方配水塔や、すでに解体されてしまった大谷口配水塔(板橋)によく似ているのがわかる。
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 佐伯が描いた『肥後橋風景』とほぼ同時代に、その界隈を撮影した写真がないかどうか探したが、1929年(昭和4)に大阪朝日新聞社が制作した溝口健二監督による『朝日は輝く』を見つけた。東京国立近代美術館フィルムセンターに収蔵されている作品で、同新聞社の社機が大阪市の上空を飛び、市街地の空中撮影を行なっている。その中に、肥後橋北詰めにある大阪朝日新聞社の社屋を写したシーンが登場するのだが、そこにかろうじて東側の配水塔らしい建築物がとらえられている。作品は1929年(昭和4)に公開されているが、撮影は前年の1928年(昭和3)の可能性が高い。つまり、佐伯が『肥後橋風景』を描いてから、わずか2年足らずの肥後橋界隈の映像ということになる。
 もうひとつ、土佐堀川沿いに配水塔があったことは、宮武外骨Click!のテーマにもつながってくる。戦後の最晩年に、どこかの料理屋で撮影された宮武外骨の写真Click!があるが、料亭の窓から見える景色の中に水道の配水塔がとらえられている。わたしは、新宿駅西口にあった淀橋浄水場Click!のさらに西側、小西六の広い工場敷地内にあった配水塔だと考え、外骨は熊野十二社Click!の池の端に並んでいた料亭Click!で食事をしている、すなわち見えている水面は1968年(昭和43)に埋め立てられてしまった十二社池Click!だと想定していた。しかし、土佐堀川に面した中之島のこの位置に配水塔があったことを考えれば、宮武外骨は肥後橋の東側に架かる淀屋橋の近く、古い町名でいうなら大川町にあった料理屋の2階へ上がって、食事を楽しんでいた可能性が高い。
 なぜなら、大阪で発行していた『滑稽新聞』の編集社屋が、肥後橋からわずか南西へ800mほどのところ、いまは埋め立てられてしまった江戸堀川沿いの江戸堀南通り4丁目に建っていたからだ。(現在は旧社屋の位置に、大阪市教育委員会の碑とプレートが設置されているようだ) つまり、外骨にとってこの界隈は、若いころをすごした思い出の土地であり、戦後の1950年(昭和25)になり急に懐かしくなって、東京から旅行に出かけているのではないだろうか。換言すれば、もし外骨が写る写真が大阪の土佐堀川沿いの情景だとすれば、1950年(昭和25)現在まで中之島の配水塔は建っていたことになる。
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 戦後の肥後橋一帯を撮影した空中写真を確認すると、敗戦直後の1948年(昭和23)の写真には配水塔らしい影を確認することができるが、1961年(昭和36)の写真ではすでにビルが建設されている。佐伯の『肥後橋風景』に描かれた配水塔は、したがって1950年代の後半あたりに解体されているのではなかろうか?

◆写真上:西落合の外れに位置する、築84年が経過した荒玉水道野方配水塔。
◆写真中上上左は、1932年(昭和7)制作の平塚運一が描いた『西落合風景』。上右は、1950年(昭和25)ごろに撮影された野方配水塔。は、同配水塔の現状。
◆写真中下は、1926年(大正15)11月下旬に制作された佐伯祐三『肥後橋風景』。中左は、中之島にあった配水塔の拡大。中右は、配水塔があったあたりの現状。は、1929年(昭和4)に公開された溝口健二『朝日は輝く』から肥後橋上空の1シーン。
◆写真下:ともに肥後橋付近の空中写真で、1948年(昭和23/)と1961年(昭和36/)。戦後すぐの写真には、配水塔らしい建屋が見えている。

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