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下落合を描いた画家たち・中村忠二。

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中村忠二「落合風景」1952.jpg

 きょうは厳密にいえば、下落合4丁目(現・中落合4丁目)と西落合(葛ヶ谷)方面を描いた画家・中村忠二ということになる。外山卯三郎Click!の子孫である次作様Click!より、外山家に保存されていた中村忠二のスケッチ『落合風景』の画像をお送りいただいた。中村忠二は、妻である同じ洋画家の伴敏子が資金集めをして建てた、下落合のアトリエに同居しており、この作品は自身のアトリエからほど遠からぬ下落合から西落合、さらには哲学堂方面の眺めを描いたものだ。
 中村忠二・伴敏子夫妻は、下落合4丁目2257番地(現・中落合4丁目)のアトリエで暮らしていた。スケッチ画面の左下には、「落合 冬景 (忠)(52)」というサインが入れられ、また裏面には「落合風景 アトリエより描く 左側に哲学堂あり 1952/中村忠二 作」というメモが貼られている。描かれたのが1952年(昭和27)と明記されており、こちらでご紹介する落合地域の風景画Click!の中では、もっとも新しい時代の作品類に入る。
 「アトリエより描く」と書かれているけれど、このスケッチが描かれる5年前に撮影された1947年(昭和22)の空中写真を見るかぎり、彼のアトリエから、あるいは屋根上からもこのような風景が見えたとは思えない。下落合4丁目2257番地のアトリエは、東側(小野田家の屋敷林)を除く三方(西・南・北)を空襲から焼け残った住宅で囲まれており、眺望がきかない位置に建てられたささやかなアトリエだった。「アトリエより描く」とあるのは、「アトリエ付近より描く」という読み変えが必要だろう。画面の左側に、井上哲学堂Click!があると書かれていることから、中村忠二のアトリエからやや歩き下落合4丁目あるいは西落合2丁目の田畑が見わたせるエリアに入り、北西を向いて描かれたスケッチだと想定することができる。
 スケッチの視線は、描かれた風景に比べてやや高い位置にあることがわかる。つまり、中村忠二は前面の畑地が見下ろせる斜面に立ってスケッチブックを広げているのだろう。下落合の西端あるいは西落合は、昭和初期に耕地整理が終わり住宅が次々と建設されていたが、食糧増産を図るために戦時中は広い宅地へ田畑が復活し、戦後も田園風景を色濃く残した地域だった。奥の屋敷林と思われる緑に沿って家々の屋根が連なり、冬景色ということなので左奥に描かれた巨木とみられる逆三角形のかたちは、おそらく葉を落としたケヤキだと思われる。また、手前の収穫が済んだとみられる畑ないし空き地では、遊ぶ子どもたち5人(ひとりは大人?)の姿が描かれているようだ。
 さて、この場所はどこだろうか? このように、哲学堂の森が画面左手(画面の左枠外の可能性もある)になる画角、そして、このように田畑が見下ろせる高い位置から写生できる場所は、彼のアトリエから西へ60~70mほど歩いたエリアで発見することができる。現在では、目白学園のキャンパス内に併合されてしまった、その昔は城北学園(研心学園)の北側にあった北向きの急斜面だ。そこからは、手前の下落合4丁目(現・中落合4丁目)から西落合2丁目にかけての田園風景を見わたせたはずだ。そして、スケッチの家々の配置によく似たポイントを、その北向き斜面に発見することができる。
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中村忠二・伴敏子アトリエ跡.JPG

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中村忠二「落合風景」裏面.jpg
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中村忠二アトリエ.jpg

 この斜面には、空中写真で見るかぎり草木と思われる帯が東西に伸びているので、畑地の畔(あぜ)のような細い道が斜面と平行に通っていたと想定できるのだが、中村忠二はアトリエから徒歩1分以内のそのポイントから、北北西の方角を向き、哲学堂の建築やグラウンドを左手に意識しながらスケッチをしていたと思われる。中村忠二は、早朝に健康維持のためのランニングで、哲学堂の野球グラウンドまで走っていた。中村忠二・伴敏子夫妻が、昔日には下落合の通称「桐ヶ丘」(下落合字大上の一帯)と呼ばれていた、目白学園の丘付近に住むようになった経緯を、1977年(昭和52)に冥草舎から出版された伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』から引用してみよう。ちなみに、文中で「陽子」と書かれているのが伴敏子自身のことだ。
  
 目白の文化村の西端れに、友達の大泉秀太が自分のアトリエを建てるつもりで探してあった土地を、好都合にも廻して貰えたから、土地探しの苦労はいらなかった。/南に神田川の上流が緩く流れる中井の谷を挟んで向こうは東中野方面に続く高台で、此方は桐ヶ丘と呼ばれる古墳の地であった。その丘を越してやや北にさがり気味なのが少し難であったが、未だ四辺は昔からの農家が処々こんもりとした植込みや樹立ちに囲まれて、藁ぶきの屋根を残していた。/雅子の車で三人が初めて下見に行ったのだが、さすがの忠二も気に入ったらしいので、陽子(伴敏子)も重荷を下ろしたようにほっとした。/雅子も大満足で、/「兄さん、よかったわね。これでまあアトリエも建つというわけだわ」/「ふん、建つか建たないか、そんなもの建ってみなければ分かりませんよ。まだ金も全部出来たわけでもないし」/忠二は、まるでこう云ってやろうと待ちかまえていたように少しの間もおかず、例の突き放すような冷たい調子でぬけっと云い放った。こんなに骨を折ってくれている雅子に対しても、ひどく無礼な物の云い方であると陽子はその顔をあきれて見つめた。(カッコ内引用者註)
  
 この記述は、1935年(昭和10)現在のアトリエ周辺の様子を描写したものだ。「神田川の上流」は、もちろん妙正寺川のことで、伴敏子が資金を調達した小さなアトリエは、五ノ坂筋の道を北へとたどった丘上の右手(東側)に建つことになる。
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伴敏子「中村忠二像」.jpg
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伴敏子「忠治素描」.jpg

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下落合4丁目1960.jpg

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中村忠二描画ポイント空中1947.jpg

 昭和初期まで、城北学園(現・目白学園)の丘が「桐ヶ丘」と呼ばれ、古墳が多い地域であるという伝承のあったことがうかがえる。西落合にある自性院の境内西側から、羨道ないしは玄室と思われる洞穴が見つかっているので、そこもまた古墳地帯の一端だったのかもしれない。これらの古墳は、おそらく江戸期に行なわれた畑地の開墾で、ほとんどすべて崩されているのではないだろうか。目白学園は、「桐ヶ丘」にちなんで校章を「桐」のデザインとし、同学園が発行する広報誌もまた「桐」の名称を冠している。
 再び、スケッチ『落合風景』の描画ポイントへともどろう。中村忠二・伴敏子夫妻は、「水彩連盟」と名づけた画塾をアトリエで開いていたが、その位置から西へ60~70mほど歩いた描画ポイントの「桐ヶ丘」急斜面は、下落合4丁目2236番地あたりだ。その位置から北北西を向いて、下落合4丁目から西落合2丁目の田園風景を描いているのだろう。この位置からの画角だと、哲学堂のグラウンドや建築群は、左端へ入るか入らないかの微妙な角度になるが、もちろん距離が離れすぎて(700~800m)いるので、哲学堂自体を視界にとらえることはできない。中村忠二が、かなり遠くてスケッチに描くことが不可能であるにもかかわらず、あえて「左側に哲学堂あり」と入れたのは、早朝のランニングをアトリエから哲学堂グラウンドまでつづけていたため、哲学堂にはことさら思い入れがあったせいではないかと思われる。
 やや余談めくが、中村忠二アトリエの北側、西落合には創作版画誌「白と黒」とを発行していた、版画家であり古美術研究家でもある料治熊太のアトリエがあった。自身でも版画を制作するかたわら、版画誌「白と黒」を通じて谷中安規や棟方志功Click!など、新進の版画家たちの作品を次々と紹介している。西落合から下落合の西部には、美術界でも特に版画領域の作家たちが集まって住んでおり、いわば“創作版画村”とでもいうべき様相をていしていた。戦後、料治熊太は中村忠二や平塚運一Click!の版画集も出版している。
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黒点挿画01.jpg

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黒点挿画02.jpg
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黒点挿画03.jpg

 中村忠二のスケッチを、なぜ外山家が所有しているのかは不明だが、独立美術協会Click!を通じて外山卯三郎Click!と中村忠二はどこかで接点があるのではないかと想像してみる。あるいは、伴敏子と独立美術協会との関係なのかもしれないのだが、彼女の「下落合風景」作品が発見できたら、改めてこちらでご紹介したいと考えている。また、伴敏子の自伝的小説『黒点―画家・忠二との生活―』(冥草舎)は、美術分野の資料では見られない中村忠二像を伝えてとても面白いので、機会があればぜひご紹介したい。

◆写真上:1952年(昭和27)に描かれた、中村忠二のスケッチ『落合風景』。
◆写真中上は、中村忠二・伴敏子夫妻のアトリエ(路地の突きあたり)があった下落合4丁目2257番地(現・中落合4丁目)の現状。目白学園キャンパス内の描画ポイントの斜面には、現在、5号館(中・高等部校舎)が建設されており立つことができない。下左は、『落合風景』の裏面に貼られた制作メモ。下右は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる中村忠二・伴敏子夫妻アトリエ。
◆写真中下:上は、1932年(昭和7)制作の伴敏子『中村忠二像』()と、制作年が不詳の同『忠二素描』()。は、1960年(昭和35)の住宅明細図にみるアトリエ。「伴」の名前が採取され、夫妻が主催していた画塾「水彩連盟」のネームが見える。は、1947年(昭和22)の空中写真から想定した『落合風景』の描画ポイント。
◆写真下:いずれも伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』(冥草舎/1977年)に収録された中村忠二の挿画で、アトリエ近くを描いたとみられるスケッチ『落合風景』と同様の田園風景()、下落合を自転車で帰宅中の中村忠二(下左)、旗竿地だった下落合4丁目2257番地のアトリエへと入る路地の門(下右)だと思われる。


目白会館・文化アパートを考察してみる。

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目白会館跡.JPG

 多くの作家や画家たちが去来した、下落合1470番地(旧1965番地:現・中落合2丁目)の「目白会館・文化アパート」Click!について、少し詳しく考察してみたい。このモダンなアパートが建てられたのは、第三文化村Click!が1924年(大正13)9月に販売されてから、しばらくたってのちのことだと思われる。土地の購入者は、第三文化村に自邸を建設するつもりで手に入れたわけではなく、市街地に住む“不在地主”Click!だった可能性が高い。
 目白会館・文化アパートの敷地は、箱根土地Click!が販売した同文化村地割りの東西2区画つづきの土地を使用している。販売時の区画でいえば、二間道路に面した南向きの「11号」と「12号」の土地で、「11号」の角地が86.28坪、「12号」が81坪という広さだった。つまり、同アパートは167坪余の敷地に建てられていたことがわかる。他の文化村の敷地に比べ、第三文化村の敷地は相対的に狭かったが、関東大震災後の郊外土地ブームを反映してか、坪単価が50~80円で販売されている。おそらく、販売からほどなく完売しているのだろう。
 ちょっと余談だけれど、造成した宅地へ箱根土地がふった区画号数に、縁起かつぎのためか「4号」「9号」「13号」「14号」「29号」「42号」「44号」……と、「死」や「苦」、「憎」などを連想させる数字の存在しないのが面白い。「13号」が存在しないのは、顧客にキリスト教の信者もいそうなのでマズイと考えたものだろうか? したがって、目白会館・文化アパート敷地の東半分、「12号」区画の次はいきなり「15号」として販売されている。
 1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には、いまだ第三文化村に目白会館・文化アパートは採取されていない。しかし、1929年(昭和4)の陸地測量部が作成した1/10,000地形図には、すでに敷地へ同アパートらしい大きめな建物が採取されている。したがって、目白会館・文化アパートは1927~1929年(昭和2~4)の3年間のいずれかに建設されているのだろう。
 1936年(昭和11)以降に撮影された空中写真を観察すると、同アパートについていろいろなことがわかる。外観は、大きめな西洋館のようなデザインをしており、2階はなかば屋根裏部屋のような仕様で、部屋の天井の一部が斜めだったものか、南北を向いた大きな屋根の斜面にはそれぞれ4つずつ、切妻のついた出窓が見て取れる。2階は、おそらく廊下をはさんで両側に4部屋ずつが並び、1フロア8室の間取りをしていたのだろう。
 また、1階も同様に8部屋構成のフロアだったのだろうか? 目白会館・文化アパートは、目白通りから落合府営住宅Click!沿いに南へ入る三間道路側、つまり西に向いて玄関が設置されていた。玄関口には管理人の部屋があったかどうかは不明だが、当時のモダンなアパートにはまま備わっていた、訪問した客と談笑できるちょっとしたロビー(応接室)のような空間が、1階に設置されていたように思われる。そう想定できるのは、1938年(昭和13)作成の「火保図」に描かれた同アパートの中央部が、まるでテラスのように南側へ張りだしているからだ。南側の中央部分が、まるで凸状の出窓のようにふくらんでいるので、アパートの1階中央南側には、大きめな南向きの窓がうがたれた、応接室のような部屋が存在していたのではないだろうか?
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目白会館1924.jpg

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目白会館1929.jpg
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目白会館1938.jpg

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アパートメント静修園.jpg

 小さな管理人室があったとして、1階は広めの応接室を除けば残りの部屋数は5~6室、すなわち目白会館・文化アパートはぜんぶで13~14室の洋風アパートではなかっただろうか。部屋の中は、畳敷きの和室が存在せず、すべて板張りの洋室で構成されていた。1室の広さは6~8畳サイズと思われ、今日のワンルームマンションのような仕様だったと想定できる。なぜなら、1931年(昭和6)に同アパートへ引っ越してひとり暮らしをはじめた矢田津世子Click!は、軽部清子からカーテンやシェードのついたモダンな電気スタンドを贈られているからだ。
 矢田津世子が知人の寄宿先を出て、目白会館・文化アパートに住みはじめたころの様子を、1978年(昭和53)に出版された近藤富枝『花蔭の人 矢田津世子の生涯』(講談社)から引用してみよう。ちなみに、この時期は保険会社に勤める兄・矢田不二郎が転勤で母親と名古屋に住んでおり、矢田津世子はひとりで東京へもどってのアパート探しだった。
  
 さて、津世子が笹村家から移った目白会館というアパートは、目白第二小学校の近くにあり、質素な木造の二階家で、まわりは広い空地もあり、静かな環境であった。/津世子は(笹村)雪子とともに貸間さがしをしてここを見つけた。一年以上、津世子はこの六畳のへやで暮すが、名古屋の兄はたった一度訪問しただけであった。/自分の羽の下をかいくぐって上京し、さらに独り暮しをはじめた妹を、兄はこころよくは思っていなかった。津世子と別れて暮すことは、この兄にはむしろ苦痛であった。朝夕に自分の育てる木を眺められないもどかしさは、彼をときには物狂おしい思いにさせた。(カッコ内引用者註)
  
 文中に「目白第二小学校」とあるが、過去にも現在にも、そのような小学校が落合地域に存在したことはない。目白会館・文化アパートにもっとも近い小学校は、落合第一小学校Click!だった。また、アパートの周辺に空き地が多いのは、第三文化村には投機目的Click!で購入された土地が多いせいで、昭和初期の金融恐慌から大恐慌へとつづく地価の値下がり状況のなか、不在地主が宅地を“塩漬け”にしたまま値が上がるのを待っていたからだ。空中写真で確認すると、空き地は昭和10年代に入ってからも第三文化村で目立っている。
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目白会館1936.jpg
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目白会館1941a.jpg

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目白会館1941b.jpg
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目白会館1944.jpg

 軽部清子は、1931年(昭和6)の秋現在、当時の女性としてはめずらしく、外国映画の輸入元・三映社で宣伝部長のポストに就いていた。日本で上映された『巴里の屋根の下』や『外人部隊』、『舞踏会の手帖』などは彼女の仕事だ。当時24歳の矢田津世子より、6つほど年上で30歳前後の彼女は、なにかと津世子の面倒をみてはバックアップしていた。下落合の目白会館・文化アパートへも、軽部清子は頻繁に顔を見せている。週給40円(月200円弱)の高給とりだったらしく、津世子へ物質面での援助も惜しまなかったらしい。
  
 軽部は津世子のへやに遊びにいき、クリーム色のカーテンを贈った。そのつぎにいくときは、オレンジ色のシェードのついたスタンドを持っていく。丸善の原稿用紙をごそっと贈る日もある。スーツも誂えた。軽部は、婦人画報社の顧問もかねていたので、津世子は手紙のなかで、次のようにねだっている。
 わがままな娘ですけど、おばちやんにひつぱつて頂くことを心から希つてゐます。おばちやんさへ御迷惑でなかつたら、少女小説(十五枚程)を書いてみたいと存じます。若し御序の時に御紹介頂けたらうれしいと存じます。それから婦人画報ハむづかしいでせうね。一生懸命書いてみたいと思つてゐるのですけど―― (昭和六年十一月四日)
  
 軽部清子がせっせと援助していた調度品が、洋間向けであることに留意したい。また、ちょうど同時期に、矢田津世子は湯浅芳子とも親しく往来している。
 空中写真を年代順にたどると、少なくとも目白会館・文化アパートは1945年(昭和20)5月17日現在まで建っていたのが確認できる。目白通り沿いの商店街や落合府営住宅は、同年4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で大半が焼失しているのが見えるが、目白会館・文化アパートの北側で延焼が止まり、第三文化村はかろうじて焼け残っているのが確認できる。ただし、同アパートのかたちは残ってはいても、北から延びた炎になめられて半焼ぐらいはしているのかもしれない。
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目白会館19450517.jpg

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矢田津世子(目白会館にて).jpg

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矢田津世子1937.jpg

 目白会館・文化アパートが全焼するのは、同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲のときだった。同時に第三文化村の北側、目白通り寄りに建っていた邸宅群は絨毯爆撃で残らず灰になっている。矢田津世子は、下落合の大半を焼いたこの空襲に遭うことなく、1944年(昭和19)3月14日に下落合(4丁目)1982番地で、「オレ、死ぬのかな」とつぶやきながら37歳で死去している。(オレ:秋田弁=わたし)

◆写真上:下落合3丁目1470番地にあった、目白会館・文化アパートの現状。
◆写真中上は、1924年(大正13)に作成された第三文化村地割図(左が北)で、12号と13号が目白会館・文化アパートの敷地。中左は、1929年(昭和4)の1/10,000地形図にみる第三文化村の同アパート。中右は、1938年(昭和13)の「火保図」に描かれた同アパート。は、上落合624番地に建てられた当時の典型的な鉄筋コンクリート式洋風アパートメント「静修園」(『落合町誌』より)。
◆写真中下上左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる目白会館・文化アパート。上右は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された同アパート。下左は、同年撮影の別角度からの同アパート。下右は、1944年(昭和19)の空中写真にみる同アパート。
◆写真下は、1945年(昭和20)5月17日の第2次山手空襲直前に撮影された、焼失直前の目白会館・文化アパート。は、目白会館の自室で撮影された矢田津世子。おそらくシェードがオレンジ色をしたデスクスタンドは、軽部清子がプレゼントしたものだろう。は、1937年(昭和12)に文芸同人誌「日暦」と思われる作家の会合に出席した矢田津世子(中央)。隣りには、大谷藤子(左)と円地文子(右)が座っている。

1932年に書かれた下落合の「日米海戦」。

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日立目白クラブ階段.JPG

 1933年(昭和8)2月に発行された、学習院昭和寮Click!の寮誌「昭和」第8号Click!には、小説作品も何篇か掲載されている。その中で、もっとも目を惹くのは、日米が戦争になり太平洋のあちこちで海軍艦艇による海戦が繰りひろげられる、第一寮に住む騎士夢兒(本名・米田正武)が書いた『米国海軍中尉』だ。ちなみに、騎士夢兒はかなり以前から書きためていたようで、日米が実際に開戦する10年以上も前から、本作は執筆が進められていた。
 しかも、この戦闘を日本側からではなく、米海軍の駆逐艦に勤務するM.ハーターソン中尉の視点から描いているところが、本作のきわめて特異なところだ。今日のジャンルでいうと、SF戦記(軍事)小説ということになるだろうか。騎士夢兒は、寮誌『昭和』への連載を予定していたらしく、同号が第1話ということになっている。『米国海軍中尉』の冒頭から、著者の付言を引用してみよう。
  
 M.ハーターソンの手記
 此の手記は三箇年に渡つた日米戦争中に於ける彼の素晴しい奮闘振りを記した(も)ので約百頁に渡る貴重な実戦録である。/従つてこれを全部諸君に公開する事は容易な事ではないので若し諸君が御希望なら次の機会に続けて発表したいと思ふ。/で之を読まれる前に一寸お断りして置きたい事は即(すなわち)こゝにかゝげた部分は丁度日米戦争が起つてから約四箇月程たつた時――諸君は良く憶へて居られると思ふが丁度日本軍が多くの犠牲を払つてフイリピンを得た時で又支那が有形無形の援助を合衆国に与へ始めた時である。で今彼は駆逐艦二三九号の乗組士官としてハワイから一路東洋に向けて進んでいる所です。――(カッコ内引用者註)
  
 すでに、日米戦争は3年間で終了していることになっており、「フイリピン」は「占領」しているが、中国沿岸部やシンガポールは米国の勢力圏……というのが前提だ。
 この中に登場する米駆逐艦239号は、1932年(昭和7)現在に実在する艦であり、クレムソン級駆逐艦の「オバートン」(DD239/1920年竣工)のことだ。ハーターソン中尉は「オバートン」に乗り、日本艦隊や日本の輸送船を補足して撃滅する命令を受け、「真珠港(パール・ハーブアー)」を出撃するところから物語がはじまる。出港早々に、米国の輸送船と仮装巡洋艦が、敵(日本)潜水艦の攻撃を受けて苦戦中の一報が入り、「オバートン」が救援に向かうことになる。
 だが、同艦が戦闘海域へ到着してみると、すでに米艦船は大きな損害を受けており、敵は新たな米艦船の姿を認めて逃走したあとだった。その後、「オバートン」は小笠原方面の偵察から帰った米巡洋艦隊と合流し、日本艦隊の撃滅に向かうことになる。
  
 一方敵はと見ると我艦の煤煙をすばやく見出した為か、すでにその姿を我々の視界より掩つてしまつてゐた。我々は直ちに付近に約四個の機雷を投下して潜下せる敵艦を粉砕すべく活動した。その結果は全々(ママ)疑問ではあるが、若し日本潜水艦がいまだ付近にぐずいて居たならば勿論海底の藻屑にしてしまつた事は疑いない事だ。/遭難者の救助をすませ翌日予定の通り小笠原方面の偵察から帰つた巡洋艦サンフランシスコ号と駆逐艦三〇六号と合し目的地に向つて航行をつゞけた。
  
 ここで、実際の日米戦争を経ている現代の目から見ると、非常に奇異なことに気づく。米艦隊が小笠原近海まで進出できてしまうとすれば、日本はとっくに“負け”なのだ。すなわち、本作には機動部隊(空母部隊とその艦載機)がまったく登場してこない。戦闘に制空権の課題は存在せず、あくまでも砲撃戦や雷撃戦を前提とする艦隊決戦のみで戦争が行なわれているのだ。潜水艦へ向け、積極的な爆雷攻撃ではなく機雷を沈めるだけの攻撃も古くさい。
 上記の文章に登場する、米巡洋艦「サンフランシスコ」と駆逐艦306号も実在する艦で、後者は「オバートン」と同型だったクレムソン級駆逐艦の「ケネディ」(DD306/1920年竣工)のことだ。著者の騎士夢兒は、米国の艦隊事情をかなり詳しく知っていたようで、いま風にいえば軍艦ヲタクClick!というところだろうか。ただし、このとき米重巡洋艦「サンフランシスコ」の存在を、著者がどうして知りえていたのかは“謎”だ。同艦は、1932年(昭和7)現在では起工して間もないころで、進水はおろか艦名もまだ決まっていなかったはずだ。「サンフランシスコ」が竣工するのは1934年(昭和9)のことであり、著者はどうして建造中だった米重巡の艦名を知りえたのだろう?
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駆逐艦「オバートン」.jpg

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重巡「サンフランシスコ」.jpg
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駆逐艦「ケネディ」.jpg

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駆逐艦「初雪」.jpg

 米艦隊が最初に遭遇するのは、単独で作戦行動中の吹雪型駆逐艦「初雪」(1929年竣工)だった。艦体の横に、「ハツユキ」と白くカタカナで書かれているから、米艦隊側では敵艦を「初雪」だと認識したようなのだが、実際の太平洋戦争では艦体に書かれた艦名は、相手に艦の所属する部隊がどの海域で作戦行動中なのかを宣伝しているようなものなので、すべての艦艇から抹消されている。つづけて、遭遇戦の様子を引用してみよう。
  ▼ 
 しかし意外な事に我々三隻が真しぐらにつき進んで行くにも関らず此の孤独な日本の駆逐艦は依然として進路を変更せず、むしろ速力を三十二・三節(ノット)にあげ自分等の方に向つて来るのであつた。/此の行動は船尾にかゝげてゐる日章旗に対する我々の敵愾心と共に我々の憤懣を爆発させずにはおかなかつた。/我々は速力を最高三十七節にまで高め三十分の後には彼我の間隔は1万米にまでちゞめられた 此の時日本駆逐艦は始めて我々に気がついたかの如く、くるりと艦首を廻し煙突よりは真黒な煙幕をはいてものすごい速力で逃走し始めた。逃がしては我々の面目が立たねとばかり三艦は平行になつて之の追撃にうつゝた。(カッコ内引用者註)
  
 ところが、米艦隊は37kt(ノット)という高速で追尾しているにもかかわらず、ついに「初雪」には追いつくことができなかった。つまり、「初雪」は40kt以上の船足で米艦隊から逃げており、このあたりから日本の「驚異的な造船術」の記述も含め、とたんにSF戦記的な色が濃くなってくる。「初雪」が反転した際、魚雷管から一斉射出が行なわれた魚雷は、米艦隊へまっしぐらに突き進んでくるのだが、米艦隊が即座に転舵で回避しようとすると、無線操縦で操作されているのか魚雷が米艦を追いかけてくるのだ。追尾魚雷をふりきるために、米艦隊は全速で逃走する「初雪」とは逆方向へ退避しなければならなくなった。
 もちろん、実際の「初雪」は40kt以上の速力など出せないし、追尾魚雷の製造も無線操縦も当時の技術では不可能だ。ハーターソン中尉はさっそく、「日本海軍の魚雷は無線操縦なる事と駆逐艦の速力は少くとも四十節である事をハワイの艦隊司令部」へ打電することで、他の米艦隊の損害を未然に防いだことになっている。米艦隊の“面目”は、緒戦で丸つぶれになった。
 さて、米艦隊はシンガポールで給油したあと、艦隊を解いて駆逐艦「オバートン」は再び単独行動にもどった。そして、日本郵船の海外航路に就航している、「照国丸」や「六甲丸」、「上海丸」などの貨客船を補足して沈める通商破壊作戦を展開する。太平洋をはさんで日米戦が開始されているのに、日本郵船がそのまま定期航路を就航させていること自体が奇異だけれど、そこはSF小説なので気にせずに進もう。ちなみに、ここに登場する貨客船はすべて実在の船名で、まず「照国丸」が撃沈されることになっている。これも、偶然の一致にしては、とても不思議な展開だ。なぜなら、実際に第2次世界大戦がはじまったとき、ドイツ軍がテムズ川河口に投下敷設した機雷に触れ、1939年(昭和14)11月に沈没した日本で最初の貨客船こそが、当時、ヨーロッパ航路に就役していた「照国丸」だったからだ。実際の沈没から7~8年も前の小説で、不思議なことに「照国丸」は日本の貨客船で最初に沈没したことになっていた。
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照国丸.jpg
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 このあと、日本郵船の貨客船が攻撃されたので、日本の艦隊が出動してくるのだが、ここでも不思議な記述が登場している。その部分を、第1話の後半から引用してみよう。
  
 二十三日我々は再びこの壮快なる活動を続けるべく東支那海に入つて行つた(ママ) が今度は以前程楽な行動ではなかつた、と云ふのは二隻の汽船の撃沈により付近警戒が俄に厳重になつた事で我々は午後一時頃日本巡洋艦北上と海風、山風二隻の駆逐艦に遭遇し猛烈な攻撃を受けたが幸ひ速力が優つてゐたので敵の攻撃から逃れる事が出来た。/がそれから五時間の後再び日本巡洋艦長良と遭遇し再び高速を利用して逃れ得た。
  
 このあと、日本艦隊の追尾をふりきって無事に帰投するのだが、実際の米駆逐艦「オバートン」は35.5kt、軽巡洋艦の「長良」と「北上」はともに36.0ktだから、事実に照らせば追撃を振りきれたとは到底思えない。また、ここでも不可思議な記述が登場している。日本の駆逐艦「海風」と「山風」だが、この明治に竣工した老朽艦の2隻は、1930年(昭和5)にはすでに掃海艇に類別され、現役の駆逐艦ではなくなっていた。著者の軍艦ヲタクらしい騎士夢兒は、当然それを知っていたはずなのだが、小説では最新鋭の駆逐艦「海風」「山風」として描かれている。つまり、新たに竣工し就役した2代目の駆逐艦「海風」「山風」が登場していることになる。
 でも、実際に2代目の白露型駆逐艦の「海風」と「山風」が就役するのは、両艦が竣工した1937年(昭和12)以降のことなのだ。なぜ著者は、両艦がいまだ起工さえされていない5年も前に、艦名を含めてそのことを予測できたのだろうか?
 明治の末、文学界ではSF軍事冒険小説のはしりのような作品が次々と登場している。特に、日本海軍の架空艦艇などが活躍する、東京専門学校(現・早稲田大学)法学科の現役学生だった押川春浪が書いた『海底軍艦』、『武侠艦隊』、『新造軍艦』などは明治から大正期にかけ、青少年の間でベストセラーとなっている。『米国海軍中尉』を書いた騎士夢兒も、当然それらを読んで育っているだろう。だが、彼は日本海軍側の艦艇ではなく、米海軍の駆逐艦に勤務する士官の目から、しかも実在する艦を登場させて、日米戦争を空想的に描いているところが特異なのだ。
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 騎士夢兒こと米田正武は大学を出たあと、一時は拓殖奨励館に勤務していたようだ。東南アジアの国々の資料を網羅したものだろう、1940年(昭和15)には編著『南洋文献目録』(日本拓殖協会)を出版している。もともと南洋へのあこがれが強かったものか、騎士夢兒の表現にも南方の国々や港が登場している。しかし、実際に日本が米国との戦争へ突入する10年ほど前に、どうしてこれだけリアルな、一部の記述は未来を予知するかのような空想戦記小説が書けたものか、ちょっと不可思議な気がするのだ。

◆写真上:下落合の日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮の本館)の上階から、当時のままだと思われるシャンデリアが残る階段を下りる。
◆写真中上は、1932年(昭和7)現在で実際に就役していた物語の主人公が勤務する米駆逐艦「オバートン」(DD239)。は、1932年(昭和7)にはいまだ建造中の米重巡「サンフランシスコ」()と就役中だった駆逐艦「ケネディ」(/DD306)。は、1929年(昭和4)就役の吹雪型駆逐艦「初雪」。
◆写真中下は、日本郵船の貨客船「照国丸」()と「上海丸」()。は、1921年(大正10)から就役していた軽巡「北上」。は、同じく大正期に就役した軽巡「長良」()と、1937年(昭和12)に竣工予定の白露型駆逐艦の2代目「海風」()。
◆写真下は、1933年(昭和8)2月発行の学習院昭和寮の寮誌『昭和』に掲載された第一寮の騎士夢兒(米田正武)『米国海軍中尉』。は、明治から大正期の青少年を熱狂させた1904年(明治37)出版の押川春浪『武侠艦隊』(1976年/桃源社版)。

昨年の秋から今年の冬への徒然。

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 神田川を遡上し、産卵を終えたあと寿命がつきたサケ……と書きたいのだが、神田川Click!にはアユClick!の遡上はあちこちで見られるものの、サケはまだ上ってきていない。サケの遡上は、いまだ隅田川や多摩川止まりとなっている。冒頭の写真は、渡良瀬川で産卵して寿命を終えたサケたちだ。
 先年の秋、久しぶりに「カフェ杏奴」Click!へと出かけた。もちろん、足利市通2丁目のカフェ杏奴で、足利市立美術館で出雲の「スサノヲの到来-いのち、いかり、いのり-」展が開かれていたのにかこつけて、ウキウキと楽しく出かけたのだ。足利地域は、そこいらじゅうに八雲社が鎮座する、ことのほか出雲色が強い地域だ。渡良瀬川の中橋をゆっくり渡りながら撮影したのが、冒頭の河原の浅瀬に身を横たえる寿命を終えたサケたちだった。中橋からひとつ上流の橋を見やりながら、「♪わたし・た・だ・のミーハ~」と森高を想い浮かべたのだけれど、今回の目的は渡良瀬橋ではなくカフェ杏奴だ。そういえば、わたしの好きなJAZZピアニストの板橋文夫Click!も「渡良瀬」つながりなのだが、今回はカフェ杏奴へわき目もふらずにまっしぐら。開店の10時30分にお店の前に近づくと、向こうから自転車に乗ったママさんClick!が、なにか叫びながらやってきた。
 少しあと、杏奴でブログ友だちとも合流して、久しぶりに杏奴のメニューを味わう。杏奴の店内は、まるで図書室のような風情で、その蔵書からは、わたしのちょっと苦手で少し距離のある文学・思想領域、「日本浪漫派」的な匂いがそこはか漂っていくる。w 三鷹で自裁した、村上一郎Click!の本まで見つけてしまった。もうひとつ、蔵書とは別に、いつも重要な参考書のひとつとしてお世話になっている本で、いまとなっては記述がやや古くなってしまったが、1999年(平成11)に三一書房から出版された前澤輝政『概説・東国の古墳』Click!など、わたしが興味を惹く書籍がレジの近くにズラリと並べて置かれていたので、「あっ、読んだ。あれ、これ持ってますよ」といったら、なんと、わたしがお馴染みの前澤輝政氏が、杏奴のママさんのお父様だったのだ。(爆!)
 杏奴の下落合時代Click!、わたしは杏奴ブレンドを味わいつつ、前澤氏の著作を参照しながら原稿を書いていたこともあり、一瞬、言葉もなく愕然としてしまった。そう、足利を含む栃木や群馬は、古墳時代に南武蔵勢力Click!(南関東勢力)と連携してヤマトに鋭く対抗した、上毛野(かみつけぬ)または下毛野(しもつけぬ)など大きな勢力を誇った毛野勢力Click!の本拠地であり、大王の巨大古墳が散在する一大エリアでもある。そして、鎌倉幕府Click!の武家政権を継いだ足利幕府の本拠地でもあるのだ。
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 床屋の角にポツンとある公衆電話……なんかを探してる場合じゃなく、さっそく足利氏の広大な屋敷(現・鑁阿寺境内)を見学することにした。市街は戦災による被害をほとんど受けていないせいか、あちこちに戦前からの建築が残り、初めて訪れたのにどこか懐かしい感慨がわいてくる。ちょうど紅葉の季節で、足利尊氏もすごしたであろう屋敷の敷地は、木々の葉が鮮やかに彩られていた。ちなみに、足利尊氏の墓は足利にはなく関東では鎌倉の長寿寺にあり、代々の足利一族の墓所は尊氏の祖父・足利家時が開基した、同じく鎌倉は浄明寺ヶ谷(やつ)Click!の報国寺にある。なお、足利から南西へ10kmちょっとのところにある太田市世良田Click!地域が、鎌倉幕府へと参画していた世良田氏Click!一族(のち松平・徳川氏)の地盤、つまり徳川幕府の故郷ということになる。
 さて、『概説・東国の古墳』ではすっかりビックリしてしまい、いまだに不思議な感覚にとらわれているわたしだが、もうひとつ驚いたのが家へ降りそそいでくる落ち葉だ。例年は、12月の半ばから1月にかけて落ちてくるケヤキの膨大な落ち葉掃きに忙殺されるのだけれど、今年は45リットルのゴミ袋に12月で13袋、1月で10袋の計23袋が家の周囲に降りそそいだ。これは、例年に比べて数袋ほど少ない量なのだが、袋に入れて測った放射線量Click!は、逆に昨年よりもピーク値が高かった。昨年は、0.28μSv/hが最高値だったものが、今年は0.30μSv/hを超えていた。ある程度予想していたこととはいえ、これは福島第一原発の事故から4年、樹木の一部に放射性物質の“濃縮”現象が生じている可能性がある。放射線は「正直」で、決して「ウソ」はつかない。
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 何度か計測を繰り返したところ、南側の落ち葉の平均値が0.23μSv/hで、建物の陰になる、あるいは他の樹木の陰になる北側の落ち葉の平均値は、正常値に近い0.10μSv/hだった。ケヤキの生えている場所(面している方角)はもちろんだが、落ち葉自体に含まれている放射性物質の量に加え、その落ち葉が朽ちはてて地面に降り積もっているチリやホコリ(風で空気中を漂いかねない)、土などの課題もあるだろう。やはり、下落合では建物や木立の南側に、放射線の線量計が強く反応をするようだ。
 
 落ち葉掃きをしていて気がついたのだが、今年はヒヨドリの鳴き声は聞こえるけれど姿を見かけることが例年より少なく、しょっちゅう姿を見せるのはオナガとシジュウカラだ。特に大きなオナガは、いつも10羽を超える群れで行動していて、シュロの木があると幹の毛の間に虫でもいるのか、盛んにつっついては移動している。1本のシュロに、5~6羽のオナガが群がっていて、グェーギュギュギュ……と鳴き交わす声がかなりうるさい。そんな声を聞きながら、暮れから新年にかけて最新版の佐伯祐三『下落合風景画集』Click!(第7版)と松下春雄『下落合風景画集』Click!(第3版)の編集をつづけた。
 佐伯祐三の『下落合風景画集』には、新たに発見した『下落合風景』の画像と、描画ポイントの現状写真を加えている。少なくとも、現時点で確認ができる『下落合風景』は約50点だ。また、松下春雄の『下落合風景画集』には、山本和男様・彩子様Click!ご夫妻が保存されている松下春雄アルバムから、当時の下落合を撮影した貴重な写真類を何点か追加した。ふたりの画家に関しては、これからも作品や写真が発見される機会が多いと思われるので、そのつど画集を改訂していきたいと考えている。
 そうそう、暮れには白洲正子も常連だったらしい目白の割烹「太古八」Click!(彼女が揮毫したお店の扁額は、いまもそのままだ)で、カニ&ワイン三昧の忘年会を経験させていただいた。大きなカニを1匹を丸ごと食べてしまうという、佐伯祐三Click!なみのゼイタクClick!をするのは生まれて初めての経験だった。他の料理も、季節の食材を活かした美味なものばかりで、「太古八」の女将さんに感謝!
 年が明けて、正月気分のまま三遊亭の落語会を楽しんだあと、ようやく新装オープンした新宿中村屋Click!とサロン美術館へ。中村屋のスペースは、ずいぶん縮小した印象だ。
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 さて、節分に盛大な豆まきをしたのだけれど、玄関から外にまいた大量の豆が一夜のうちに、キレイさっぱり消え失せてしまった。近くにはキジバト(ヤマバト)も棲んでいるので、一瞬、「オバカな人間が、食べ物を粗末にして外へ投げ棄ててるぞ、デーデーウポポポポ」と、みんなさらって食べてしまったのかと思ったのだが、それにしては消え失せるのがあまりにも早すぎる。これはもう、三人吉三狸白浪Click!(さんにんきちさ・たぬきのしらなみ)くんwたちが、「ほんに今夜は節分ポン、西の空から道端ポン、落ちた福豆厄落としポン、こいつぁ春から縁起がいいポン」と、平らげてしまったにちがいない。

◆写真上:渡良瀬川を遡上し、産卵を終え寿命をまっとうしたサケの群れ。
◆写真中上:足利のカフェ杏奴()で、さっそく懐かしいカレーを注文()。は、中橋から眺めた渡良瀬橋で帰りがけには確かに夕陽がきれいだった。
◆写真中下は、足利氏の屋敷跡である鑁阿寺境内の多宝塔。中左は、昭和初期の建築とみられるめずらしいミニ蔵。中右は、古墳関連の記事ではお世話になっている1999年(平成11)に出版された前澤輝政『概説・東国の古墳』(三一書房)。は、鎌倉の浄明寺ヶ谷にある報国寺境内の“やぐら”で足利一族の墓所。
◆写真下上左は、シュロにとまって幹の間をついばむオナガ。上右は、腰を痛める最大要因となっているケヤキの木々たち。は、建物南側の落ち葉を集めた測定値()と北側の同じく測定値()。は、私家版で非売品の『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』()と、松下春雄『下落合風景画集―下落合を巡る松下春雄―』()。その下はオマケの画像で、わたしのA4ノートPCよりもはるかに大きい「太古八」のマツバガニ。

下落合で踊る金山平三。

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 1925年(大正14)3月に、金山平三Click!は下落合2080番地のアビラ村Click!アトリエClick!を建てたが、当時、その庭から眺めた下落合から上落合にかけての耕地整理や宅地造成が進む以前の風景を、らく夫人Click!が飛松實へ証言している。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。
  
 らくによれば、麦畑に続く裏の草原には野兎が走り廻っていた。前方を見下ろすと、岡の下には滾々(こんこん)と溢れて尽きない天然の泉があり、ひろびろとした原野の中ほどには落合火葬場の煙突だけが目立っていた。風向きによっては、煙が心配だと思ったが、あれは肺病によいとも言われるからと、納得して買入れたのであった。前出の絵葉書によれば、宅地購入後の諸条件を整備して、アトリエ建築の心構えをし始めていたようである。(カッコ内引用者註)
  
 「滾々と溢れて尽きない天然の泉」とは、バッケ(崖地)Click!の斜面から噴出する湧き水によって形成された泉のことで、ひょっとすると島津家Click!の敷地内、のちに刑部人邸Click!の西側にあった四ノ坂下の湧水池Click!のことかもしれない。当時は高い建物などなく、金山アトリエからは上落合の西南端にある落合火葬場Click!や柏木、上高田方面までが一望できた。
 さて、金山平三はこの庭で自分の気に入らない作品を、1年に一度焚き火にくべていたが、ときには庭で、らく夫人とふたりでチロリアンダンスClick!を踊ったり、あるいは日本民謡のレコードをかけながら、ひとりで恍惚と踊りにふけることがあった。そんな様子をとらえた貴重な写真を、刑部人Click!の子孫でおられる中島香菜様Click!よりお貸しいただいたのでご紹介したい。
 3枚の連続写真に写る、金山平三が恍惚とした表情で踊っているのは、おそらく「佐渡おけさ」だと思われる。潔癖症で気むずかしい金山じいちゃんのことだから、よほど気を許した相手に「佐渡おけさ」を踊って見せているのだろう、撮影しているのは気の合う刑部人の可能性が高い。冒頭写真は、「♪草木もな~び~く~」で、2枚めが「♪ハ、アリャサ~、サッサ~」、3枚めが「♪ヨイヤサ~のサッサ~」……だろうか?
 今日は、勤務中や講義中、乗り物の中などでない限り、マイルスの『アガルタ』Click!に記載された注釈ではないけれど、できるだけ大きなボリュームで「佐渡おけさ」をBGMに聴きながら、踊る金山平三を想い浮かべて記事を読み進めていただきたい。w
 


 金山平三が蒐集した民謡踊りや邦楽、ダンスなどのディスコグラフィーは、かなりのボリュームになっていたのだろう。金山平三の趣味にまつわる遺品について、1994年(平成6)に発行された兵庫県立近代美術館ニュース『ピロティ』7月号に掲載の、木下直之「知られざる金山平三」から引用してみよう。
  
 金山平三がこの世に遺していったものが山のようにある。日記帳、メモ帳、スケッチブック、西洋絵画の複製図版を丁寧に貼りつけたスクラップブック、パリ留学時代に蒐集した各地の風景絵葉書、風俗絵葉書、それに西洋美術の絵葉書、日本に戻りアトリエを新築するに際して自ら設計した家や家具のデッサン、仲間たちと興じた仮装演芸会の写真、同じく人形劇の舞台写真、そうした人形劇に使われた金山平三手作りの人形、土をひねって作った似顔人形、人形に着せたやはり手作りの衣装、文楽人形の頭のコレクション、自ら芝居を演じる写真のアルバム、邦楽レコード、絵皿、画材道具等々。
  
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 この中で、仮装演芸会や手作り人形Click!、芝居を演じるアルバムClick!はすでにご紹介ずみだが、金山平三の踊りについては、温泉宿の風呂場の脱衣場でひとり踊る姿とチロリアンダンスぐらいしか、いまだご紹介してはいなかった。身体を動かすことが少ない画家だが、運動不足を心配した金山平三へ踊りを奨めたのは、らく夫人だった。以来、金山じいちゃんは憑かれたように、次々と踊りやダンスをマスターしていき、その実力やレベルはプロはだしだったようだ。
 踊りは、戦時中に疎開した山形県の大石田でもつづけられ、地元の女性たちを集めては志賀山流の日本舞踊を教授していた。金山平三は、かまびすしい婦人たちを「カケス共」と呼んでは叱りつけていたらしい。「カケス共」たちは、踊りの会になるとキャーキャーにぎやかにしゃべりまくり、金山平三を困らせたり半分バカにしたりしていたようだ。飛松實の前掲書に収録の、1963年(昭和38)に発行された歌誌『郡山』12月号の板垣家子夫「大石田の茂吉先生」から孫引きしてみよう。
  
 画伯はカクに(二藤部)さんや私の娘らに踊りを教えてくれていた。志賀山流の踊りだということを聞いている。娘たちを、画伯はチビ共とよんでいた。踊りを教わっているときは、娘たちにとっては恐い師匠だったが、中休みの時や終えたあとは、逆に画伯に娘たちが文句を言ったりしていた。踊りの方は、初めから母たちの受持ちになっているので、画伯は婦人連中とずっと親しくしていた。(中略) 踊りを中心にして集まる婦人連中を、画伯は総称して「カケス共」とよんでいた。この婦人たちはいけ図々しく何でも言い、画伯を困らしたりバカにしたりで、何ともうるさくガアガアしゃべるのでつけたとのことだ。男の私たちが、この婦人たちのいう一口でも言ったら、鋭い眼でにらむか叱られるに決まっている。女というものは、こういうところに徳があるものだ。
  
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 さて、金山平三は同じく大石田へ疎開中の斎藤茂吉Click!に、自分が仕こんだ「カケス共」の踊りを披露しようと、1946年(昭和21)2月21日に招待している。だが、斎藤茂吉は戦後の食糧難の時代に婦人たちが用意した「親子丼」にすっかり目がくらみ、金山平三が教えこんだ「カケス共」の踊りなど、もうどうでもよくなったらしい。このとき金山平三は、おそらく少なからずヘソを曲げたと思うのだけれど、のちには懐かしい思い出として許していたようだ。
 ここは、金山平三自身の証言を聞いてみたい。飛松實の前掲書より、1953年(昭和28)に斎藤茂吉が死去したあと、同年の秋に発行された『アララギ』10月号(斎藤茂吉追悼号)から孫引きしてみよう。
  
 婦人連中が私の踊りを齋藤さんにお見せする催しをやりましたが、齋藤さんは板垣君の家で、その時の御馳走を聞いてゐたんぢやなかつたかしらん----それは大変な楽しみやうでした。私に『今晩のご馳走は親子丼だつす。』と舌舐りをしながら言はれましたが、実際婦人連が卵を六十余も用意してゐたので、これには度肝を抜かれました。どうして集めたかしらん、よくもまあこんなに集めたもんだと思ひました。齋藤さんは次々とご馳走が運ばれて来る都度、『ホウ、これあどうも』と悦に入つてゐられたのが、今も目のあたりに浮んで来ます。(中略) そして、もう私の踊りなんかはどうでもいいんで、ご馳走を食べるだけで、踊りなんか詰まらんといふやう……でした。
  
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 斎藤茂吉が死去したあとではなく、いまだ存命中だったとき、金山平三は周囲に対して「趣味のわからん、食い意地の張ったじじいだ」とでも漏らしていたのかもしれない。いや、金山じいちゃんのことだから、よほど腹にすえかねていたら斎藤茂吉に面と向かって「食いしん坊じじい」とでもいいかねないのだが、そのようなエピソードが残っていないところをみると、斎藤茂吉は踊りをちゃんと観賞しなかったとはいえ、「うるさいじじい」止まりですんでいたようなのだ。

◆写真上:下落合の金山アトリエのテラスで、「佐渡おけさ」を一心に踊る金山平三。
◆写真中上:同じく、「佐渡おけさ」を恍惚として踊りつづける金山平三。テラスのガラス戸を開け、おそらくバックにはレコードの音曲が流れているのだろう。
◆写真中下・下:1955年(昭和30)10月の、十和田への写生旅行中に撮影されたとみられる金山平三。いずれの写真も、中島香菜様から提供いただいた「刑部人資料」より。上半身はコートやマフラーなどダンディなコスチュームなのに、下は足袋を履いて草履か雪駄をつっかけているのが金山じいちゃんらしい。

下落合を描いた画家たち・松本竣介。(2)

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 1997年(平成9)に不忍画廊から出版された『松本竣介の素描』を、椎名町のギャラリーいがらしClick!からお借りして眺めていたら、落合風景の作品が何点か含まれているのを見つけた。これらの素描作品は、松本竣介・禎子夫妻Click!が主宰していた戦前からつづく綜合工房から、1977年(昭和52)に刊行された『松本竣介素描』には収められていると思うのだが、展覧会や図録などではあまり見かけない作品だ。
 松本竣介Click!の作品は、自在なデフォルメや構成が多用されていて、ピタリと下落合の描画ポイントを特定するのが難しいケースが多いのだが、この作品は建物のディテールや周辺の風景がしっかり描かれているので、場所を特定するのが容易だった。1944年(昭和19)すなわち敗戦の前年に制作された本作は、『上落合風景』とタイトルされているが、松本がスケッチブックを広げているのは下落合側だ。しかも、1944年(昭和19)現在のモチーフとなった風景そのものが、B29の偵察機によって上空からとらえられている。
 また、『上落合風景』には同年ごろに制作されたもうひとつの素描作品、『子供のいる風景』というバリエーション作品が存在している。この作品に描かれている背景が、『上落合風景』で描かれた風景モチーフと同一のものだ。松本竣介Click!はアトリエをあとにすると、島津家Click!が設置した四ノ坂の階段を下り、刑部人邸Click!林芙美子・手塚緑敏邸Click!の間から中ノ道(現・中井通り)へと出た。このとき、庭木の手入れをしていた手塚緑敏Click!と挨拶を交しているのかもしれない。松本竣介のアトリエを頻繁に訪れた手塚とは、以前より親しい間柄だった。
 松本竣介は、中ノ道から西武電鉄Click!の中井駅へと出るが、駅の周辺は改正道路(山手通り)の工事Click!で殺伐とした光景だっただろう。そういえば、中井駅の北側から大規模なタタラ遺跡Click!が発見されたのを思い出したかもしれない。戦時中なので、タタラ遺跡はほとんど調査もされずに道路工事で破壊されている。彼は寺斉橋Click!を渡らずに、手前の整備されたばかりの川沿いの道を左折した。そして、大正橋をすぎて先が線路で行き止まりの工事現場に入り、西武線鉄橋が見える位置までくるとスケッチブックを開き、川沿いに立ちながら写生をはじめた。
 手前には妙正寺川が流れ、左手には西武線鉄橋を入れて、正面には大きめな江戸小紋を生産する染物工場の裏手を中心に描き進めている。染物工場の特徴的な屋根や2階建屋、干し櫓、煙突などを入れ、妙正寺川へ穿たれた工場の排水口を、まるで眼のように描き入れている。もうお気づきの方も多いと思うが、この染物工場は1920年(大正9)に創立され、いまも健在で営業をつづけている江戸小紋Click!「二葉苑」Click!の裏手だ。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から、二葉創業者のひとりであり当時は工場主だった、小林繁雄の紹介文を引用してみよう。
  
 小林繁雄 上落合三二八
 其の質実なる性格態度は軽薄なる現代社会を超越す、居常至誠を以て事に当り、公私を問はず克くその職分に尽力す、之れ同氏が郷黨(きょうとう)の信頼をあつむる所以である、氏は長野県の出身、夙(つと)に業界に身を投じて、機微に通じ大正九年下落合の地に染工場を創設し、同十三年現在地に設備を拡充すると共に移転し、以て今日に至る、現に職工二十人余を容して本町産業界に溌剌たる能率を挙げつゝあり 一面公的には昭和四年警備委員に推されて其の向上発達に寄与するところ多し。(カッコ内引用者註)
  
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松本竣介と手塚緑敏.jpg

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上落合風景描画ポイント1.JPG

 松本竣介は戦前から、特高Click!に目をつけられていたと思うのだが、耳が聞こえないハンディキャップが幸いしたせいか、きびしい追及は受けていないようだ。「雑記帳」Click!を刊行している際、自宅へ若い特高が訪ねてきているが、その後、呼び出しや嫌がらせを受けた記録はない。戦況が逼迫し、日本全体が緊張感に包まれていた1944年(昭和19)現在、妙正寺川のほとりで工場を写生する画家がいたら、必ず近所の人々の目にとまり、また特高の尾行がついていたとしたら検束されかねない状況なのだが、彼は無事にスケッチを終えている。
 さて、『上落合風景』に描かれた下部の描写が気になる。手前(松本竣介がスケッチブックを持って立つ川端)の曲線は、本来、妙正寺川の河畔が描かれるべきであり、すなわち、対岸のカーブと並行している川筋の曲線が表現されてしかるべきだ。しかし、なにやら妙正寺川のほうへ張り出した地面、または土砂の山のような曖昧な川岸が描かれている。その謎が氷解したのは、1941年(昭和16)に陸軍の航空隊が撮影した同所と、1944年(昭和19)にB29の偵察機が撮影した同所とを比較してからだ。
 1941年(昭和16)現在、妙正寺川のクネクネと蛇行した川筋をできるだけ直線状にする整流化工事は、西武電鉄の下落合駅から西へ200mほどのところ、もともとは佐々木久二邸Click!の邸内プールだった「落合プール」Click!のあたりまでしか進捗していない。しかし、1944年(昭和19)になると、整流化工事は大幅に進捗し、東は松本竣介の『上落合風景』に描かれた西武線鉄橋まで、西は寺斉橋の下流にあたる大正橋あたりまでが工事を終えている。そして、落合地域で最後に残った区間が、ちょうど松本が描いた二葉苑の裏手あたりの川筋だった。
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 すなわち、松本竣介は妙正寺川に残された最後の整流化工事の現場、下落合3丁目1858番地(現・中落合1丁目)の路上あたりへ足を運んで、対岸の上落合1丁目328番地(現・上落合2丁目)に建っている二葉の染物工場を描いていることになる。だが、喧騒感のある工事現場とはいえ、戦争が激しくなった時期でもあるので、すでに作業員の姿もほとんど見られず、あたりはひっそりとしていたのではないだろうか。だからこそ、誰かに見とがめられることもなく、工場を写生しつづけることができたのだ。
 画面手前に描かれた地面の様子が不可解なのは、そこが住宅や道路が存在しない赤土で埋め立てられた古い川筋近くの地面であり、あちこちに盛り土や資材の残滓が見られたであろう工事現場そのものだったからだ。手前の不可解なカーブは、旧・川筋を埋め立てた赤土の残土であるのかもしれない。その埋め立てられた広い“空き地”の様子は、松本竣介のもうひとつの素描『子供のいる風景』で確認することができる。
 『子供のいる風景』では、同じ二葉の工場建屋が右手に描かれているが、西武線の鉄橋だけでなく、やや引き気味の位置から同線の線路までがとらえられている。家族連れが遊ぶ線路際の三角の“空き地”が、妙正寺川の蛇行を整流化したあとの埋め立て地だ。『上落合風景』と『子供のいる風景』で異なる点は、後者に二葉の工場から妙正寺川へと下りるハシゴが描かれている点だ。もちろん、染めの工程で発生する水洗いClick!をしに、川底へと下りるために設置されたハシゴだろう。また、鉄橋の向こうには下落合の丘(目白崖線)の連なりが、かなり大ざっぱに描写されている。画角からいえば、徳川邸Click!のある西坂や聖母坂Click!のあるあたりの丘だ。
 松本竣介が、このふたつの素描を制作してから10年ほどがすぎたころ、独立美術協会Click!片山公一Click!がほぼ同じような位置から、同様に染物工場と妙正寺川をモチーフにしたタブロー『上落合風景』を描いていることは、すでにこちらでご紹介している。
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上落合風景描画ポイント2.JPG

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不忍画廊「松本竣介の素描」1997.jpg
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二葉苑(大正期).jpg

 余談だけれど、戦後に松本竣介と親しく交流した洋画家・吉岡憲は、上落合1丁目に住み一時期は近くの染物工場で働いていたことがある。彼はのちに、電車に飛びこんで自裁してしまうのだが、吉岡憲もまた「下落合風景」を数点描いている。でも、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1944年(昭和19)に制作された、松本竣介の素描『上落合風景』。
◆写真中上は、松本アトリエをたびたび訪れた手塚緑敏(左)と松本竣介。は、素描『上落合風景』の描画ポイントから見た現状。
◆写真中下は、『上落合風景』と同時期に描かれた松本竣介『子供のいる風景』。は、描画ポイントの比較で1941年(昭和16)の空中写真にみる整流化工事前の鉄橋付近()と、1947年(昭和22)の空中写真にみる同所()。は、まさに『上落合風景』と同時期で整流化工事のさなかに撮影された1944年(昭和19)の同所。
◆写真下は、大正橋から見た描画ポイントの西武線鉄橋付近。下左は、1997年(平成9)に出版された『松本竣介の素描』(不忍画廊)。下右は、大正期の染物工場「二葉」。(同社公式サイトClick!より)

大岡昇平が歩く大正末期の下落合。(上)

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 下落合1146番地に住んでいた外山五郎Click!は、1921年(大正10)より青山学院中学部に入学していたが、1学年下には大岡昇平Click!がいた。外山五郎は、1つ下の大岡とウマが合ったものか、1924年(大正13)から親しくつき合うようになった。このつき合いは、青年期の思想的に多感な一時期を除いては、外山が千葉で牧師になってからも終生つづいたようだ。
 大岡昇平は、特に外山五郎のハイカラな雰囲気に惹かれたようで、クリスマスの晩餐会などへも外山家から招待されて出かけている。青山学院中等部へ通っているとはいえ、外山家も大岡家もクリスチャンではなかったが、大正期ともなれば当時の山手に建っていたおシャレな西洋館では、キリスト教徒でなくてもクリスマスにはパーティをやるのが慣習化していた。ちょうど同じころ、外山邸から北へ300mほどのところで暮らしていた、寺の息子である佐伯祐三Click!の家へ画家仲間が集り、クリスマスツリーClick!を飾りながらパーティを開いていたのと同じ感覚だろう。
 大岡昇平は、外山五郎の家(外山脩造の長男・外山秋作夫妻邸)で初めてベートーヴェンのハ短調交響曲(No.5)のレコードを聴かせてもらい、強い衝撃を受けている。当時、大岡が渋谷の自宅から省線・山手線に乗って下落合の外山邸へと向かう様子を、1975年(昭和50)に筑摩書房から出版された、大岡昇平『少年』から引用してみよう。
  
 私は最初はこういうハイカラな雰囲気に惹かれて遊びに行ったと思う。省線高田馬場で降りた。西武線はまだ通っていなかった。ここに西から流れているのは神田上水の上流の落合川だが、やがて上井草を水源とする妙正寺川と分れる。支流に沿った埃っぽい道を歩き、右側の対岸に椎名町の台地が近くなったところで橋を渡る。木の繁った台地の裾に沿って少し西へ行ったところの左側に、低い石の門がある。道から川まで約千坪の敷地を占めているのが外山の家である。
  
 この中で、旧・神田上水のことを「落合川」と書いているが、これは妙正寺川のことを「落合川」Click!と呼称していた林芙美子Click!とも、また異なる呼び方だ。おそらく、林芙美子と知り合っていた大岡昇平は、「落合川」というネームを彼女から聞いて、記憶のどこかにインプットされていたのかもしれない。また、「支流」に沿って「埃っぽい道」を歩いたと書いているのは、旧・神田上水の南側を流れていた灌漑用水に沿って、もともと畦道だった土道を西へ歩いていったということだろう。この「支流」は、現在の栄通りの途中から山手卓球のある道を左折し、東京電燈目白変電所Click!をすぎるあたりから、水田の中に現れる用水路だ。
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下落合1927.jpg

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 「椎名町の台地」に近い橋を渡るという描写は、1924年(大正13)現在に旧・神田上水と妙正寺川が落ち合うエリアに架かっていた、千代久保橋Click!あるいは西ノ橋(比丘尼橋)Click!のいずれかだと思われ、台地状に見えているのはいまだ聖母病院Click!聖母坂Click!も存在しない、青柳ヶ原Click!から西坂の徳川邸Click!あたりにかけての下落合に連なる目白崖線の丘だ。つまり、大岡は高田馬場駅で降りると、西武線Click!が存在しないため、下落合の丘陵を右手に見ながら、上戸塚地域を東西へ横断するように歩いていたのがわかる。
 「木の繁った台地の裾に沿って」とおる道は、鎌倉街道のひとつである雑司ヶ谷道Click!であり、大岡は青柳ヶ原や徳川邸のある西坂下から、やや下り坂になった道を下りて外山邸の門へとたどり着いている。「道から川まで」、つまり雑司ヶ谷道から妙正寺川まで、当時の外山家は1,000坪の敷地に建っていたのがわかる。再び、大岡昇平の同書から引用してみよう。
  
 彼の家は今の西武線下落合駅の北側の、当時豊多摩郡下落合一四一〇番地(ママ)、今の新宿区中落合一丁目あたりの、川に向って傾いた平地にあった。洋風の二階家で、応接間にはピアノがあり、私と同い年の雪子さんという音楽学校へ通っている妹がいた。その名の示す通り五男だが、卯三郎という兄は『詩の形態的研究』という本を、京大美学に在学中の大正十五年に書いていた。これは私の記憶に誤りがなければ、漢字が象形文字であることに注目して、日本の近代詩が西欧の詩とは別の仕方で鑑賞される、というあまり実際的でない指摘をしたはじめての本である。後に「詩と詩論」の詩論家となった。/当時はまだ北海道大学に在学中で、ほとんど家にいなかった。後で窓の外を長髪の和服姿が通って行くのを見て、五郎が何か嘲笑するようなことをいったのを覚えている。五郎は既に油絵を描いていたから、芸術上で意見が合わないことがある、という印象を受けた。(カッコ内引用者註)
  
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外山邸跡2.JPG

 もちろん、「卯三郎」とは外山卯三郎Click!のことで、大岡が下落合を訪問していた時期には、1930年協会Click!の起ち上げに参画する1年半ほど前のことだ。大岡昇平も、邸内でウロウロしていた外山卯三郎を見かけているようだが、直接話したがどうかは不明だ。また、大岡は外山邸の住所を誤って記載しているが、下落合1410番地は目白通りも近い落合第一小学校Click!の前にあたる、落合町役場が建っていた敷地の一画になってしまい、現在では中落合2丁目に含まれている住所だ。外山邸は、大正末現在の正確な住所表示を書けば、豊多摩群落合町下落合1146番地ということになる。ちなみに、西隣りの屋敷は、のちの二二六事件Click!岡田啓介首相Click!が隠れることになる、衆議院議員の佐々木久二Click!清香夫人Click!の邸だった。
 さて、大岡昇平は外山五郎のことを、しばしば筆に取りあげている。それほど、学生時代に強烈な印象を残した友人だったのだろう。また、大岡は外山からばかりでなく、もうひとりの当事者である林芙美子からも、彼のことについてはいろいろ聞いているようだ。
  
 外山五郎については私はこれまでに度々書いた。私にベートーヴェン、チャイコフスキーを教えてくれたこと、昭和七年頃、牧師の卵の黒服を着て、下北沢の私の家へ来て、キリスト教に戻ることをすすめたこと、その少し前に林芙美子がパリへ追っかけて行った人物であったこと、などなど。「シェパードみたいな男を持ったって、みんなに笑われたけど」と林さんはいった。「あの人、あたしをぶつのよ」とのろけた。これは牧師服の外山五郎からも、青山学院四年生だった頃の彼からも想像できないことだった。
  
 この話は、パリで外山五郎から“やかん”を投げつけられるほどの冷たい仕打ちをうけて、キッパリと別れたと林芙美子がいっていたころから、さらに後年のこと、つまり大岡昇平がおそらく新聞記者時代に林芙美子と交流するようになり、外山も林もパリから帰国した1932年(昭和7)よりずっとあとのころの談だと思われる。腹を立ててとうに訣別した男のことを、その親しい友人の前でいまさらノロケたりするものだろうか?
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 当時は、建築家の白井晟一がわざわざ下落合へ迎えにきて、連れだって待合へと出かけていた時代ではなかったか。(あっ、もちろん家には迎えに来た白井晟一サンとハチあわせした、手塚緑敏Click!サンもいた/爆!) こういう、毅然としてシャキッとしない人間関係の底知れぬだらしのなさに、わたしは林芙美子の“メメしさ”と媚態の気持ち悪さ、気味(きび)の悪さを感じてしまうのだ。
                                   <つづく>

◆写真上:外山邸跡の現状で、中央2棟の白いビルから手前に洋風母屋が建っていた。
◆写真中上は、1927年(昭和2)の8,000分の1落合町市街図にみる大岡昇平の散策想定コース。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる大岡のコース。
◆写真中下:西坂をすぎて、雑司ヶ谷道から外山邸(跡)のある方角を眺めた現状。このあたりから、外山邸の門と2階建て西洋館の屋根が見えたかもしれない。
◆写真下上左は、1948年(昭和23)現在の空中写真にみる外山邸。屋根の下では、井荻で罹災した外山卯三郎一家が生活しているはずだ。上右は、1963年(昭和38)現在の外山邸。敷地には家が建ち並び、外山邸母屋も多少改築されているようだ。下左は、1966年(昭和41)現在の外山邸跡の様子。十三間通り(新目白通り)工事の進捗で、すでに外山邸は解体され道路の下になっている。下右は、新聞記者時代と思われる大岡昇平。

大岡昇平が歩く大正末期の下落合。(下)

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 さて、妙正寺川の河畔に向けて斜面に建つ、外山邸の内部はどうなっていたのだろうか? つづけて、大岡昇平Click!が描く外山邸を、前掲書の『少年』から引用してみよう。
  
 台地に沿った道のカーヴの工合で東側から門を入ることになる。玄関左側は八畳ぐらいの応接間で、四点セットがおいてあるのは私の家と同じだが、一方の壁にピアノがあるのが違いである。ピアノが鳴っているのは、雪子さんがいる日である。しかし私が入って行くとその音はやみ、雪子さんは奥へ消える。/応接間のさらなる南は広いヴェランダになっていて、木立に縁取られた妙正寺川の川岸まで傾いた芝生が見える。そのヴェランダを共有して右側に食堂がある。大きな木のテーブルがあって、人数によって拡げられるようになっているのが、当時としては大変ハイカラな仕掛けであった。/レコード・プレーヤーは応接間にあった。「運命が戸をたたく音」について、外山は適当に解説してくれたと思う。ヴィクターの黒の十インチ盤で、四楽章が二枚に入っていたのだから、よほど短くしたものだったに違いない。ひどい雑音の中から、耳を澄ませて、楽音を聞き取らねばならないのだが、その音楽から私の受けた衝撃は殆んど肉体的なもので、文字通り臓腑のひっくり返るような感覚を味った。
  
 1924年(大正13)の当時、目白文化村Click!はすでに第三文化村まで売り出されていたが、外山家でも文化村と同じような、ハイカラでモダンな生活をしていた様子がうかがえる。大岡は当初、ビクター製の蓄音器とクラシックレコードは、兄の外山卯三郎のコレクションだと思っていたようだが、のちに外山五郎の趣味であることを聞いて驚いている。大岡から見れば、外山はなに不自由なく育った山手の“坊ちゃん”に映っただろう。そのコレクションにはベートーヴェンのほか、R.シュトラウスやスクリャーピン、チャイコフスキー、リストなどの黒ラベル10インチ盤がズラリと並んでいた。
 このとき、大岡昇平が聴いた10インチレコードには、ベートーヴェンの交響曲ハ短調のほか、同変ホ長調(No.3)、ピアノソナタ「熱情」と「月光」、R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」と「ドン・ファン」、スクリャーピン「法悦の詩」、リスト「プレリュード」、チャイコフスキー「悲愴(交響曲No6)」などだったようだ。もちろん、10インチ盤だから片面3分ほどしかなく、ベートーヴェンのNo.5が2枚組だったというから、どれだけ演奏が省略されていたものだろう。大岡は、残念ながら演奏者やオーケストラのネームを失念したのか記録してはいない。
 1924年(大正13)のクリスマス、大岡昇平は外山家のクリスマス晩餐会に招待されている。ディナーは、七面鳥を調理した本格的なものだった。このとき、兄の外山卯三郎は札幌にいて不在だったろうが、外山五郎の両親である外山秋作夫妻や、すぐ下の妹の雪子、さらに弟たちふたりも同席していたはずなのだが、そのときの話題を大岡はまったく記していない。
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 また、大岡昇平は外山五郎が佐伯を模倣してか、大正末にヴラマンクばりの「下落合風景」Click!を描いていた様子を記録している。再び、大岡の『少年』から引用しよう。
  
 外山は丈が高く、白晳(はくせき)で、均整の取れた肢体を持っていたが、少し尻を突出すようにして前屈みになって歩いた。しかしそのしなやかな上体を反らせ、両肱を曲げて、軽く握った両手を胸のあたりに支えている。幾分嘲笑的で随分エロチックにも見える姿勢だが、その顔貌の仮面のような端正さが、一徹な直情径行を示して、人を近づけない。/彼は絵を描いていた。それは椎名町の台地を背景にした下落合の湿地と孤立するカシ、ヤマモモなど照葉樹をヴラマンク風なタッチで描いたものである。高田馬場駅から目白の高台を描いた十号ぐらいの絵をくれた。(彼は現在も犬吠埼付近の殺風景な岩を同じタッチで描いている。ただ昔、彼のタブローにあったヴァーミリオンと濃緑はなくなって、灰色のトーンが支配的である。恐らく眼を患ったことが、彼の絵から色を失わせ、キリスト教に向けたのではないだろうか。) 彼はやがて妙正寺川に近い離れをアトリエにしてそこで起居し、コカインを飲み、フルートを吹き出した。
  
 大岡昇平へ贈られた、高田馬場駅から下落合の目白崖線を描いた外山の『下落合風景』が、大岡の記念館か関連する文学館など、どこかに残されてやしないだろうか? 描画ポイントが高田馬場駅あたりとすれば、おそらく下落合の近衛町あたりの丘(現在の日立目白クラブClick!あたりの丘)を描いた情景だと思われる。佐伯を意識したものだろうか、当時は多かった下落合に散在する西洋館の赤い屋根を、バーミリオンで表現している作品のようにも想定できる。
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 外山五郎は、大岡昇平が『少年』を執筆した1975年(昭和50)現在、千葉県山武市松尾町60番地の日本キリスト教団九十九里教会で牧師をしていた。川西政明によれば、外山五郎は麹町区富士見の日本神学校を出たあと、代々木の上原教会で赤岩栄に学び、椎名麟三と親しくなっているようだ。九十九里教会を訪ねた、大岡の記述を引用してみよう。
  
 彼は現在千葉県松尾町の九十九里教会を預かっていて、昨年の秋、久振りで会った。緑内障で眼が不自由なのだが(もっとも彼にいわせれば、それは医者の誤診で、近視眼のひどいのだという)、祭壇の奥に大きなスピーカーを組立て、画も描き、五十年前と同じような優雅な生活をしていた。信濃町教会の高倉徳太郎さんのお嬢さんを貰って、一男一女の父になっていた。/昔のままのかん高い声で、明瞭に話した。
  
 下落合の外山邸は戦災にも焼け残り、戦後は井荻の自邸Click!を焼夷弾で焼かれた外山卯三郎一家が、もどってきて住むようになる。1948年(昭和23)11月、前田寛治にそっくりな遺児の前田棟一郎が外山邸を訪問し、外山は時代が20年ほど逆もどりしたような錯覚をおぼえるのだが、彼の『前田寛治研究』Click!(1949年)はこの家で執筆されている。1960年代の半ば、十三間通り(新目白通り)の建設がはじまった1965年(昭和40)ごろ、外山邸の母屋は解体されて道路の下敷きになった。
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 余談だけれど、外山五郎は日本キリスト教団蕃山町教会(岡山市北区蕃山町)に派遣されていた牧師時代、なぜか熊谷守一Click!を豊島区千早町のアトリエに訪ねたか、あるいはどこかで会っている。熊谷守一資料に同教会牧師だった外山五郎の名刺が残されているのだが、おそらく絵画への興味は戦後もずっと、死去するまでつづいていたものだろう。

◆写真上:外山邸には南側の妙正寺川へ向かって、なだらかに傾斜していく芝庭が拡がっていたが、現在では新目白通りと住宅敷地の間に段差が生じている。
◆写真中上は、大磯Click!の自邸で1953年(昭和28)に撮影された大岡昇平と春枝夫人。は、1975年(昭和50)に筑摩書房から出版された大岡昇平『少年』。
◆写真中下は、外山邸の低い石門を想起させる、いまも残る外山邸跡向かいの低いレンガ門。大正期にはレンガの門柱が流行したので、新目白通りの工事によりもとの場所から北側へ移築した当時のものかもしれない。下左は、ビクターの10インチレコード黒レーベル。下右は、米国ビクターが発売して輸入されたビクトウーラ蓄音器。
◆写真下は、外山邸の芝庭が拡がっていたあたりの現状。右手にバカボンパパが逆立ちしているのが、赤塚不二夫のフジオ・プロダクション。下左は、整流化工事でもとの位置からさらに南側へ移動した妙正寺川。下右は、山武市松尾町の九十九里教会。


井上円了の「怪奇現象」分類。

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 うちの浴室に設置されている、自動給湯システムのリモートコンソールには、無音を入れると4段階の音量が設定されている。音量ボタンを押すと、「音量が変更されました」というマジメだが少しハスキーなお姉さんの声で、ボリュームが0~3段階に切り替わる。湯船にゆったりと浸かりながら、女性がしゃべる途中ですかさずボタンを押しつづけると、「怨霊が……、怨霊が……、怨霊が!……」と女性が叫び、江戸川乱歩Click!のなぜか自分で「名探偵」といってしまう明智小五郎シリーズ「浴室の美女」のような、風呂場が緊迫した事件現場へと豹変してしまう。
 そんな春の宵のオバカを楽しみつつ、井上円了Click!の「怪奇現象」分類について考えてみる。井上円了は、1904年(明治37)に落合地域の西隣りの和田山Click!へ「四聖堂」を建てたのを皮切りに、明治末にかけて井上哲学堂Click!の建設に取り組んでいる。いまでは、落合地域に近い野球場や、公園内に咲くサクラの名所として訪れる人も多いのだろうが、井上はここで「怪奇現象」の本格的な研究をスタートしている。そして、1919年(大正8)には彼の代表著作のひとつ『真怪』を、丙午出版社から刊行している。
 井上は、世の中に起きる怪奇現象を、おしなべて「妖怪」と呼んでいる。これは、置いてけ堀のカッパClick!や神田川のサイClick!などの、いわゆる民俗学的なアプローチの対象となる妖怪ではなく、「面妖で得体の知れない怪しい出来事」というほどの意味で、ふつうの人には説明のつかない「不可思議で奇怪な現象」ぐらいの定義だ。彼は、妖怪現象をふたつに大別し、さらに4つ(詳細には5つ)の怪異現象に分類している。まず、彼は妖怪を「虚怪」と「実怪」に大別する。そして、虚怪は「偽怪」と「誤怪」に、実怪は「仮怪」と「真怪」に分類できるとした。さらに細かく分類すれば、仮怪は「物怪」と「心怪」に分けられるとする。
 虚怪は、人間がみずから創りだした「怪奇現象」であって、なんら怪しむに足りないとしている。虚怪の「偽怪」は、人間がなにか目的をもって創造した怪奇現象であり、たとえば評判を呼んで人寄せのために、あるいは逆に人をあるエリアへ寄せつけないために、怪奇現象をデッチ上げるような事例だ。また、虚怪の「誤怪」は、不思議でもなんでもない出来事を誤解して怖がるようなケースで、茶碗が割れたから不吉なことが起きる……というようなたぐいの話だ。井上は、これらのケースを通俗的妖怪あるいは迷信的妖怪として一笑にふし、相手にしていない。
 一方、実怪の「仮怪」は、なんらかの自然現象にもとづく、一見「怪奇現象」のような出来事で、井上円了は科学的な立場から、あらかた物理学や心理学で説明がつくとしている。したがって、ほんとうは物理的な現象なのに人が「怪奇」ととらえるケースを「物怪」、人間の心理(つまり脳)が生みだした幻覚や幻聴などを「心怪」として位置づけた。そして、世の中に存在する「妖怪」=怪奇現象のほとんどはこれらの範疇に含まれ、おおよそ説明がつくとしている。
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 井上が研究のテーマとしたのは、「物理化学動物植物等の物質的諸学」や「心的科学」によっても解明ができない、「実怪中の実怪」とした「真怪」だった。そして、あらゆる(大正時代の)科学的な眼差しが及ばない現象が、世の中にはたくさん存在するとして、いわゆる「妖怪」=怪奇現象を肯定する。以下、『真怪』(1919年)から引用してみよう。
  
 真怪は実怪中の実怪にして、心理も物理も其の力及ばず、人智以上にして我々の知識に超絶せる妖怪なれば、超理的妖怪と名づけて置く。若し仮怪を科学的とすれば、真怪は哲学的である。而かも哲学には現象と絶対との別あれば、仮怪を実怪中の現象的妖怪と名づけ、真怪を実怪中の絶対的妖怪と名けで宜らう。(ママ) 此分類中の真怪を置く以上は、余の意見が真怪ありといふの論なることを問はずして明かである。
  
 ここでいう「現象」と「絶対」という彼の区別は、唯物論的な傾向が強い哲学の視座にみる、「本質」と「現象」、「抽象(一般)」と「具象」、「下部構造」と「上部構造」、「基盤」と「構築物」……というようなとらえ方を、踏襲しているのがわかる。そして、彼のいう「絶対的妖怪」とは、物象の本質に根ざす不可解な存在……ということになるのだろう。それは、宇宙の拡がりであったり時空間の存在であったり、あるいは人間存在そのものであったりと、もはや世の中の「妖怪」=怪奇現象を離れて、哲学の領域へと足を踏み入れている(ように見える)。つづけて、『真怪』から引用してみよう。
  
 (物理学や心理学など)是等の諸説に照せば、世間にて伝ふる千妖百怪の疑団は氷釈瓦解して晴天白日(ママ)となる。然るに更に一歩を進め、其物自体は何か、其心自体は何かといふに至つては、物的科学も心的科学も筆を投じ口を緘し、造化の妙、谷神の玄と瞑想するのみである。是こそ真正の真怪にして、真の不思議といふものだ。若し又心を離れて物を認むる能はず、物を離れて心を識る能はず、二者相関の本源を究めんとするも、幽玄の深雲の中に入て、一歩も進むこと出来ず、知識もはねつけられ、道理も自滅して了ふに至り、結局物心の差別が空寂に帰するやうになる。其体を哲学上にては、仮に絶対とも無限とも名づけて置くが、言亡慮絶の境にして、真怪中の真怪、不思議中の不思議とせざるを得ぬ事となる。/又時間の限りなきを探り、空間の際なきを究むるも、矢張此の玄境に達するやうになる。是が正統の真怪である。此大真怪に比すれば、世間の妖怪は、真怪の大海に浮かべる水泡に等しきものに過ぎぬ。
  
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 ここまで言い切るのなら、井上円了は純粋に哲学的な眼差しや思考から、古今東西の哲学領域をきわめ、新たな認識論にもとづく本質論的な世界観を探究するベクトルへ邁進したのかというと、実はそうではないのだ。哲学を学ぶことが、日本の近代化を推進する原動力になりうるという観点から、哲学館(現・東洋大学)を開校し京北中学校を創設したりと、教育分野へ注力し貢献をしつつ、その生涯の多くを怪奇現象の蒐集に費やしている。彼が「妖怪博士」、あるいは「お化け博士」と呼ばれたゆえんだ。
 井上円了が夢中になったのは、「仮怪」と「真怪」の境界線上にあるような怪奇現象ではなかっただろうか。彼が集めて記録した膨大な怪談・奇譚には、今日ではなんとか説明がつきそうなものの、当時の科学ではまったく解明が不可能だった現象と、21世紀の現代科学をもってしても原因が想定できない不可解な出来事とが混在している。いずれは「物理化学動植物等の物質的科学」ないしは「心的科学」では解明されると思われるが、大正期現在では不可解としかいいようのない数々の「実怪」に強く惹かれ、さまざまな「仮怪」と「真怪」とを各地で取材・蒐集するうちに、その面白さにとり憑かれてしまったのだろう。「仮怪」と「真怪」の曖昧な境界上に位置する、ゾクゾクするような不思議で奇々怪々のエピソードから、生涯にわたり足ぬけができなくなってしまった……そんな印象が強くするのだ。
 この『真怪』という著作も、哲学的なアプローチによる概説はわずか最初の5~6ページにすぎず、残りの307ページは、すべて全国から集めた不可思議な怪談・奇譚と、それに対する井上の解説で占められている。すなわち、最初に哲学的な表現による梗概を付加し、これはあくまでも哲学的な視座から、ときに科学的なアプローチから解釈する「妖怪」=怪奇現象の研究だと宣言しておきながら、ページをめくっていくと「ほんとにあった怖い話」や「新耳嚢」のような、とたんに怪談本を読んでいる感覚にとらわれてしまう。
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 多くの読者、特に近代科学の洗礼を受け、迷信やお化けを否定する当時の学者や学生、社会人のオトナたちは、「哲学者のマジメな研究書」を買うのだと自分に言い聞かせながら、“うしろめたさ”をあまり感じずに済む井上円了の著作を、ウキウキしながら楽しんでいたのではないだろうか。
「キミ、今度の井上博士の研究論文を読んだかね?」
「乃木伯が旅館で出会った、浴衣姿らしい浴室の美女風な幽霊Click!は最高です」
「キミ、浴室の美女だとか幽霊だとか世迷言をいってると、常識や品性を疑われるぞ」
「あっ、乃木伯が自己催眠にかかり、心怪を真怪現象と誤認したインシデントです」
「そう、この科学の世の中、世間から笑われるような言質は、厳につつしみたまえ」
「はあ、以後気をつけます、教授」
「しかし、ボクはあながち、心怪ではなく物怪現象の可能性もあると思うのだ」
「旅館の建築に由来する、なんらかの物理的ないしは化学的な作用でしょうか?」
「なにしろ乃木伯は、深山の山道でも幽霊Click!に出会ったというからな……」
「……説明がつかないと?」
「うむ、見誤りにしては、あまりにハッキリしすぎとるじゃないか」
「そういえば、顔が見えないのに美女だったしな~。なぜ話しかけないんでしょ?」
「キミ、お化け屋敷と定義される家に出現した大入道が、心怪現象で片づくかね?」
「大入道よりは、乃木伯の美女幽霊のほうがいいですよね、教授」
「いや、現象としてはキミ、蜘蛛女の耳まで裂けた赤いガブ口がたまらんのだが……」
 確かに、講談や落語流れの「幽霊噺集」を買うよりも、当時のインテリたちは井上の「研究書」を手にするほうが、よほどプライドも傷つかず気が楽だったにちがいない。

◆写真上:六賢台より見下ろした、宇宙館(左)と四聖堂(右)。宇宙館の右側に生えてる樹木は「幽霊梅」で、いまごろ花を咲かせているだろう。
◆図版:井上円了が分類した、妖怪=怪奇現象の世界。
◆写真中は、たまに開放してくれる六賢台。は、1919年(大正9)に刊行された300ページをゆうに超える井上円了『真怪』(丙午出版社)。
◆写真下上左は、六賢台の内部。上右は、哲学堂を建設した井上円了。は、おそらく天燈鬼や龍燈鬼を意識したものだろう、ユーモラスな邪鬼燈籠のお尻。

洗足田園都市は消えていない。

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 大正の中期、箱根土地株式会社Click!が下落合で目白文化村Click!の造成に着手すると、ほぼ同時期に目黒駅の近郊では田園都市株式会社による洗足田園都市Click!の造成がスタートしている。以前に一度、こちらでも現地をおおざっぱに歩いてレポートを記事にしているのだけれど、目白文化村と洗足田園都市は期せずしてシンクロした郊外住宅地の開発なので、もう少し細部に注目して書いてみたい。
 大正期の東京郊外としては、初めて本格的な文化住宅地の開発となったふたつの街は、1922年(大正11)6月に目白文化村の第一文化村が販売を開始し、1ヶ月ほど遅れて同年7月に洗足田園都市の売り出しが追いかけるようにスタートしている。おそらく、箱根土地(株)と田園都市(株)は、お互いの開発構想や造成地を強く意識していたと思うのだが、両社のコンセプトは大きくちがっていた。箱根土地が、山手線の目白駅からやや離れた丘上や斜面の敷地に、米国の「ビバリー・ヒルズ」Click!的なコンセプトのもとで“文化村”をイメージしたのに対し、洗足田園都市は目蒲線(現・目黒線)洗足駅の設置を前提に、駅を中心とした沿線住宅地を構想している。
 いわば、英国のレッチワースを規範として開発を進めているのだが、田園都市(株)という社名そのものもレッチワース開発の英国ディベロッパーと同一のものだ。また、当初から商店街の形成を意図した敷地を、駅の周囲へ設置しているのもレッチワースと同じだ。目白文化村の場合は、落合府営住宅Click!(一部の土地は堤康次郎Click!による東京府への寄贈Click!)によってあらかじめ形成された、目白通り沿いの商店街あるいはダット乗合自動車Click!の路線に依存しており、商店街や交通は目白文化村自体の開発計画には含まれていない。
 史的な土地柄も、双方は大きく異なっている。洗足田園都市は、その名のとおり田園地帯にイチから開発された“文化村”だが、目白文化村はもともと江戸時代から郊外に形成されていた清戸道Click!(現・目白通り)沿いの繁華街=椎名町(江戸郊外で「町」のつく呼称はめずらしい)のエリアに造成されている。ちなみに、椎名町は現在の西武池袋線の椎名町駅から南へ300mほどのところ、下落合と長崎地域の境界あたりに形成されていた。また、明治になってからの下落合は、郊外別荘地として華族やおカネ持ちが大屋敷や別邸を建てたエリアであり、すでに純粋な田園地帯とはいいがたい開発が漸次進んでいた。
 田園都市(株)は、鉄道および駅を基軸として一貫した住宅地を造成しているのに対し、箱根土地はそのときのブームにのった一般受けするような、いき当たりばったりな開発を繰り広げているように見える。箱根土地(株)は、目白文化村の販売が終わるころには「学園都市構想」のもと、武蔵野鉄道へ駅舎を寄付し東大泉Click!(現・大泉学園)の造成に着手、つづいて同じコンセプトや手法を用いて中央線沿線の国立Click!開発をスタートしている。一方、田園都市(株)は洗足田園都市の第1期販売につづき、多摩川台(のち田園調布Click!と呼称)の造成、1924年(大正13)に大岡山へ東京高等工業学校(現・東京工業大学)が開校すると、洗足田園都市の第2期販売へと事業を展開していく。
 ただし、目白文化村に比べて洗足田園都市は、山手線の目黒駅からかなり離れていたせいか、実際に土地が売れても邸宅を建設するスピードは緩慢だったようだ。1926年(大正15)現在では、敷地の59.2%しか住宅が建設されていない。目白文化村のほうは、相対的に山手線・目白駅から近かったせいか(それでも徒歩10~20分前後はかかる)、土地投機ブームClick!の対象となった第三文化村と第四文化村の一部を除き、かなり高い確率で敷地には住宅が建設されている。洗足田園都市の敷地に、住宅がすき間なく建てられるのは1935年(昭和10)前後になってからのことだ。これは、より市街地から遠く離れた多摩川台(田園調布)についても同じことがいえる。
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 洗足田園都市には、目白文化村には見られない特徴がある。それは、田園都市(株)と住民組織である「洗足会」とが、土地の購入あるいは住宅建設について基本的な規約(条件)を決めていることだ。それは、現代の住宅地が抱える課題を先どりしたような先進的なテーマで、少し前にご紹介した城南田園住宅地Click!の規約にも通じる内容だ。以下、その4つの骨子を、1987年(昭和62)に鹿島出版会から刊行された『郊外住宅地の系譜―東京の田園ユートピア―』所収の、大坂彰「洗足田園都市は消えたか」から引用してみよう。
 ①本土地を住宅以外の用途に充てないこと。
 ②土地の引渡しを受けたる時から一ヶ年以内(のち一ヶ年六ヶ月)に建物の築造に
  着手すること。
 ③近隣に対し、悪感迷惑を惹起すべき程度の煤烟臭気音響震動其他之に類する事
  物を発散せしめないこと。
 ④会社の承諾を得るに非ざれば一区分地を二個以上の宅地として、割譲又は使用
  せざること。

 この規約の④は、洗足に少し遅れて開発された多摩川台(田園調布)で適用されたものであり、のちに洗足田園都市へとフィートバックされた条件らしい。また、②は明らかに投機目的の不在地主を排除する条文だ。
 洗足田園都市が、現代の住宅事情を先どりしているのは、最長10年の住宅ローンが設定できたことだ。したがって、当時の「中流」といわれた月給制による勤め人(サラリーマンの管理職以上)でも、なんとか新築住宅を購入できたことになる。また、建設する住宅の品質や景観の見栄えを落とさないために、6つの「建築協定(条件)」も設定している。
 ①他人の迷惑となる如き建物を建造せざること。
 ②障壁は之れを設くる場合にも瀟洒典雅のものたらしむこと。
 ③建物は三階以下とすること。
 ④建物敷地は宅地の五割以内とすること。
 ⑤建築線と道路との間隔は道路幅員の二分の一以上とすること。
 ⑥住宅の工費は坪当り約百二、三十円以上にすること。
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 先日、8年ぶりに洗足田園都市の街を歩いてきた。2006年(平成18)に歩いたときは、おそらくコースが悪かったのだろう、初期の住宅をあまり見つけることができなかったが、今回はあらかじめ空襲で焼けた敷地と、そうではない敷地とを細かく色分けして、あらかじめアタリをつけて出かけたので、当時からの建築をいくつか発見することができた。もちろん、この8年間に解体されてしまった住宅も多いのだろう、古い建物を想定した場所で空き地や駐車場、真新しい住宅もいくつか見かけた。結果的には、西洋館の多くは建て替えられてしまったようで数が少なく、和館のみが補修を重ねられて当初の姿を保っているような状況だった。
 目白文化村よりも現代的であり、先進的な開発プロジェクトだった洗足田園都市だけれど、時代が下るにつれて大きな課題が浮上することになった。鉄道駅を中心に四方へ宅地を開発するということは、区や町のエリア=境界をまたぐ可能性が高いことになる。つまり、ひとつの住宅地としてのまとまり(一体感)が希薄になるのももちろんだが、それぞれの区や町で生活インフラや行政サービスの格差が生じてきてしまうという問題だ。
 洗足田園都市は、いまの行政区分でいうと目黒区と品川区、大田区にまたがった住宅街で、新宿区下落合(現・中落合・中井2丁目含む)のエリアのみに造成されている目白文化村や近衛町Click!とはまったく異なる。したがって、戦前から通信線の設置や道路の舗装、ガスの配線など、さまざまな生活インフラの整備やサービスが不規則・不定期に行われ、戦後は町会(洗足/小山/旗の台)も別々バラバラの状態になった。連続した住宅街の真ん中で、舗装道路が突然途切れるような、おかしな状況もあったらしい。
 また、環七が街の南西部をえぐるように貫通しているのも、ちょうど環六と十三間道路Click!が目白文化村を分断したのにも似て、統一感のある住宅街の風情を大きく削いでいる要因だろうか。住民組織である「洗足会」が、町会がわりに機能していたのは戦前までで、戦後はその存在が限りなく希薄化しているようだ。
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 しかし、洗足田園都市の規約や建築協定のもつ意義がかなり薄まったとはいえ、どこか住民の方々の意識の中に、それへの“こだわり”のようなものが透けて見えるのは、改めて街を散策してみて強く抱いた印象だった。新築の住宅でも、まったくこの地域の史的な側面を無視したような建物は数が少ない。ましてや、住宅地の真ん中にいきなりビル状のマンションを建てて平然としているような、街のアイデンティティや景観、住環境をまったく無視した開発には、どこかでなんとか歯止めがかかっている風情に見えた。

◆写真上:洗足田園都市にいまも残る、造成当初からと思われる西洋館。
◆写真中上:1922年(大正11)から建設されはじめた洗足田園都市の住宅で、あめりか屋Click!の仕事も少なからずあるようだ。上掲の『郊外住宅地の系譜』より。
◆写真中下:比較的古いと思われる、現存する洗足田園都市の住宅群。
◆写真下は、同じく洗足田園都市の現状。は、1931年(昭和6)に建設された洗足会のクラブハウス「洗足会館」()と現状の建物()。洗足会館は空襲にも焼け残ったが、最近解体されて新たな建物になっている。は、戦前の1936年(昭和11/)と1948年(昭和23/)の空中写真。鉄道沿いを洗足駅を中心に爆撃され、延焼が四方へ拡がっていった様子がうかがえる。

『歎異鈔』を生きる九条武子の絶筆。

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 きょうは、少し「日本史」のおさらいから書いてみたい。浄土信仰が拡がりはじめたのは、比叡山の恵心僧都源信が『往生要集』を著わした1000年ほど前からだといわれている。同信仰は、阿弥陀仏がいまだ法蔵菩薩の時代に、いくら悟りを得ても衆生(しゅじょう/生きとし生けるもの)を救うことが無理なら、悟りなど必要ないと48の「願」(阿弥陀経)を立てた伝説にもとづいて、阿弥陀仏を信じ念仏を唱えていれば往生できる……とした、仏教のセクト(宗派)のひとつだ。
 正法(教・行・証の時代)から像法(教・行のみの時代)、そして1052年(永承7)からはじまる末法(教のみの時代)には、世の中が混乱し安寧だった政治や社会の崩壊現象が限りなく進むと予言されていた。おりしも、東では平将門Click!が武蔵勢力を結集して“反撃”を開始し、西では藤原純友Click!が蹶起するなど、自らの実力を認識しはじめた武家の台頭が目立ちはじめ、京の藤原政権の公家たちは右往左往し、いつ世の中をひっくり返されるか戦々兢々としていた時代だ。浄土信仰の「末法思想」(入末法説)は、ときの権力者たちにしてみれば、まことに都合がよくリアルタイムで切実なテーマに映り、無理なく受容されていったのだろう。これが、浄土信仰の出発点だ。
 そして、世の中がひっくり返ったあと、武家政権の時代に登場してきた改革者が、中国仏教の強い影響下にあった法然で、九条兼実の求めに応じて書いたのが「当今は末法、現にこれ五濁悪世」の『選択本願念仏集』だった。中国の道綽が唱える「浄土宗」こそが、「一切を摂す」完全な教義であると規定する。つづけて、弟子の親鸞が流罪先の越後で、また常陸で地域布教をつづけ、『教行信証』を書いて「在家の仏者」のかたちを体現した。そして、弟子の唯円が記録したとされる、親鸞の「悪人正機説」で有名な言行録『歎異鈔(抄)』を遺すことになる。
 親鸞の教条が、従来の浄土信仰に比べて“革命的”なのは、阿弥陀仏の「願」は煩悩だらけで無力な衆生のためにこそあるのであり、自分の力で生きられる(自力性)や自信のある人間=「善人」とは、無縁の「願」であるとしている点だ。したがって、自力性や自信のない「悪人」でさえも、念仏を唱えれば阿弥陀浄土への往生をとげられるのだが、その念仏さえも人が意図する行いではなく、「絶対他力」=阿弥陀仏の広大な力が導く「非行非善」のかたちであると定義する。
 また、『教行信証』の中では「自力」を棄て、「絶対他力」=阿弥陀の「はからひ」(『末燈鈔』)により本願へ帰依することを「横超(おうちょう)」と呼び、「自力」の修行によって仏になるその他の仏教が「竪超(じゅちょう)」であるのに対し、浄土真宗こそは「横超」であると規定した。晩年の親鸞は、より「絶対他力」を強調し、自分には「自然法爾(じねんほうに)」のもと「南無阿弥陀仏」を唱えて往生を願うこと以外は必要ないとまで言い切っている。これらの教義は、浄土真宗による西洋哲学(おもにヘーゲル)とからめた近代的解釈や、昭和期の“親鸞ブーム”(哲学分野では三木清)によって、戦後の再々評価につながっていると思われる。
 さて、1928年(昭和3)に刊行された『主婦之友』2月号には、その急死によって絶筆になったとみられる、九条武子の連載随筆『おのれにかへる静けさ』(連載2回め)が掲載されている。彼女は同年2月7日に、敗血症により42歳の若さで死去しているので、おそらく主婦之友編集部へわたした最後の原稿ではないかと思われる。彼女は、1052年(永承7)からはじまったとされる「入末法」の認識を継承し、文章には「専修念仏」を意識したかなり説教臭い表現を遺している。
 九条武子Click!は、西本願寺(真宗本願寺派)の21代・明如(大谷光尊)の次女として生まれた。その生涯を貫いた宗教思想は、もちろん法然から親鸞、蓮如へと継承されてきた真宗(本願寺派)の教義そのものだろう。『おのれにかへる静けさ』では、「久遠の光明」と題する章のはじめに、「私たちはどうしたならば、本当に生きてゆけるでせう。どうして生き甲斐のある生涯に入ることができるのでせう」と、自身の思想を人間の社会観や人生観を通じて解説するという体裁で書き進められている。同随筆から、少し引用してみよう。
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 誰しもこの世にたゞ存在してゐる、生存してゐるといふだけで、満足してゐるものはないでせう。一歩進めて、生きてゆく、生活してゆくといふことに想ひ至つたとき、しみじみと生きることの価値について考へさせられるのであります。この価値ある生涯の建設にさゝげる努力は、大まかな言ひ方ですけれども、生命を求むる努力であります。自分の生命を忘れた、漫然と小鳥のやうに生きようとする考へは、この地上には、おそらく実現し得ないでせう。生命のない営みは、刻一刻に果敢なく滅びてゆくよりしかたがないのです。それは何の感激もない、しかも寂寥しい生活と申すより他はありませぬ。
  
 小鳥や彼女がかわいがる下落合のネコClick!たちだって、持てる能力や宿る精神を精一杯ふりしぼりながら、日々、感性的認識力をフル稼働させつつ一所懸命に生きてるでしょ、それをどうして「生命のない」「何の感激もない」「寂寥しい生活」などと決めつけができるんだい? 人間には見えないものが、彼らには見えているかもしれないじゃんか……というような、日本の自然神的=アニミズム的な視界からの反駁は、人間以下の下劣な衆生三悪道(畜生道・餓鬼道・地獄道)を信じる仏教者たる彼女には、まったく通用しなかったろう。わたしのような「自然神」的な世界観は、未開の「原始宗教」とでも呼ばれてしまうのかもしれない。
 わたしは、人間が「上」で動物は「下」と蔑視して見くだすような、中国や朝鮮半島の思想をたっぷりまぶされた、階級的で差別的な「シャカ王国」の外来宗教をまったく信じてはいないので、九条武子の言質には諸々反発を感じるのだが、彼女の人間に対する尊厳や慈しみには、たまに共感はおぼえることがある。
 しかし、彼女の“認識論”の本質は「現状(現環境)肯定」=「自己肯定」であり、苦境に陥っている人々への最終的な諦念を前提とする「悟り」こそが「たましひ」の救済であり、(近代人の)自我のみに頼ろうとすると絶望の淵へ落とされるのであるから、それは「宿業」として受け入れることで、初めて「救ひの光」が見えてくると説いている。つづけて、同随筆から引用してみよう。
  
 然し、はつきりと自分のたましひを抱いて、一生懸命に進み進んで行つてゐると思つても、この現実において、さのみ恵まれてゐることを感知できないのが人生であります。『自分はかくまで喘ぎ辿つてきた――』 しかしみづから享くるところのものは、依然として苦難と懊悩にみちてゐることを知るとき、何か訴へたい、呪ひたい、泣きたいやうな、否、むしろ、泣くに泣かれぬ心地さへ抱くでありませう。けれども、真実に生くる試練は、こゝにあたへられてをります。/宿業――さういふのでせう。あらゆる苦難も、畢竟、自分に荷せられた、逃避することのできない宿業なのであります。然し宿業といふ言葉を、簡単に諦めの如く、軽々しく用ひてはなりません。自分の精一杯の力をさゝげても、なほ浅ましい、悩みにみちた自分がかへりみられたときに、はじめて、自分の力では、どうにもならない、厳かな宿業のことわりが、さとられると思はれます。
  
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 わたしは、丸山眞男以降から現代まで、左右を問わずおもに戦後の“主体性論”をめぐる思想状況の中で生まれ、育っているので、この文章は最後的な地平まで主体的な“選択”(自力)をしつづけることをあきらめた「敗北主義」としてしか映らず、残念ながら受け入れられない。よしんば、当時は経済的な基盤を容易に形成できず、自立への道を阻まれていた家庭で孤立しがちな「主婦」を相手の随筆にせよ、同時代の女性たちが主張するする言説とを勘案・比較すれば、明らかに時代遅れな思想の感は否めない。もっとも、現在よりもかなり年を重ねていった結果(ひょっとすると死ぬ瀬戸際になって)、「まあ、そんな考え方も“あり”なのかな?」……ぐらいは感じるのかもしれないが。
 そして、九条武子は法然の生き方を引用し、「南無阿弥陀仏」と唱えることで救いの光に照らされて、「愚痴の法然房、十悪の法然房」の意味を「尊く味はれてくる」と結んでいる。つづけて、同文から引用してみよう。
  
 自我にのみ頼らうとする人は、自らの力の及ばぬとき、絶望の淵に突きおとされてしまうでせう。あらゆるはからひのつきたときに、救ひを信ずる者と、信じない者の、大いなる差が、はつきりと見分けられるのであります。『兎毛羊毛のさきにゐるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなし』(歎異鈔)――宿世の業火に喘ぐ身は、救ひの光に照らされて、はじめて自らの、醜き浅ましさがかへりみられるでせう。
  
 九条武子の『おのれにかへる静けさ』は、明らかに親鸞の言行録『歎異鈔』を骨子とする論旨が展開されているのだけれど、『歎異鈔』が、その書かれた時点から再び広く脚光を浴びたのは、蓮如の時代や江戸期における国学の一部を除けば、明治時代になってからのことだ。しかも、『歎異鈔』研究では、九条武子の真宗本願寺派とは対立する、真宗大谷派が先んじていた。
 きょうは、九条武子が著した晩年の所感・随筆をご紹介したが、彼女は勉強家なので対立する真宗大谷派の著作ながら、ヘーゲル哲学と真宗教義とを比較し近代的解釈への道を拓いた、哲学者・清沢満之の『他力門哲学』その他の著作にも、目を通しているのではないだろうか。もしそうであれば、近代人の「自我」を前提とする西洋思想(哲学)と、自身の思想とをどのようにとらえ、位置づけ、探究し、解釈していたのかを、一度詳しく聞いてみたいものだ。
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 さて、九条武子はまるで現代女性のように、彼女の目の前で近代的自我をあらわにしながら“自己投企”を激しく繰り返す、「静けさ」とはほど遠い親友の柳原白蓮(宮崎白蓮)Click!について、どのような想いを抱いていたのだろう。どこまでも「宿業」や「証」(悟り)を受容しない、わからずやの困った姉のような存在として、「たましひ」の救済のために諌(いさ)めていたものか、それとも彼女の真宗本願寺派としての「表の顔」とは裏腹に、少なくとも20世紀を生きる女同士として、いわず語らず共感めいた想いを白蓮に寄せていたものだろうか。そこで、もうひとつ考慮しなければならない側面は、随筆『おのれにかへる静けさ』が九条武子の“本来業務”、つまり公開を前提とするあくまでも真宗本願寺派の、義務的な「おつとめ」として書かれたものであるということだろう。

◆写真上:下落合の九条邸南側にあたるオバケ道への入り口で、九条武子がネコ(工事用手押し車)を使って石を取り除く「道路整備」Click!をしていた現場。
◆写真中上:上は、法然()と親鸞()。は、九条武子()と1928年(昭和3)の『主婦之友』2月号に掲載された彼女の随筆『おのれにかへる静けさ』()。
◆写真中下は、同じく九条武子()と『おのれにかへる静けさ』の最終ページ()。文末には「以下次号」となっているが、九条武子は2月7日に急死しているので、これが随筆としては絶筆とみられる。は、九条武子の手紙にみる筆跡。
◆写真下:九条邸南の路上で、ネコ車を押しながら道路整備をする九条武子。撮影は親友のカメラマニアの“清子さん”で、木漏れ日の下に見える崖は現・野鳥の森公園。

1945年(昭和20)3月10日午前0時8分。

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 きょうは、東京の(城)下町Click!一帯を襲った東京大空襲Click!から70年めの節目にあたるので、これまで何度となく繰り返し記事Click!に取りあげてきたけれど、改めて米国防省などが公開した対日戦資料にもとづいて書いてみたい。もちろん、東京の山手地域を襲った二度にわたる空襲Click!からも70年がたち、これらの空襲を実際に体験し、詳細な証言ができる方も徐々に少なくなっている。
 わたしの親父は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!に遭い、伝承されていた関東大震災Click!の教訓からだろう、大川(隅田川)とは反対方向へと逃がれ、東日本橋(旧・西両国)の実家Click!を震災以来、再び焼かれている。その直後、大学近くに借りていた淀橋区諏訪町Click!の下宿に避難したところ、運が悪いことに今度は同年4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲Click!にも遭遇した。ただし、学生時代の下宿は2軒北側の敷地で延焼が奇跡的に止まり、戦後はそこから大学やアルバイト先に通えている。その親父もすでに他界して、空襲当時の体験談を改めて聞くことができない。
 1990年代に入ると、米国防省あるいは国立公文書館が戦時中の対日戦に関する資料類を、次々と情報公開法にもとづき公表している。そこには、日本の各都市に対する爆撃の詳細や、軍事目標を中心とする「精密爆撃」から、都市全体を丸ごと焼き払う「無差別絨毯爆撃」へと作戦の推移する様子が克明に記録されている。これらの資料が20年近く前から公開されているにもかかわらず、日本の都市爆撃について「貴重な文化財がある都市は、米軍が空襲を避けた」という、まことしやかな“神話”をいまだに信じている方がいるようだ。「米軍は病院の爆撃を避けた」という“神話”Click!と同様に、戦後占領政策の一環として、GHQの対日世論工作員が意図的に巷間へ流布したと思われる、できるだけ日本人の抵抗や反感を抑え、占領政策をスムーズに進めるための「虚偽宣伝」が、後世まで非常にうまく浸透した成功事例なのだろう。
 空襲がほとんどないか、きわめて少なかった古くからの街々は、そもそも生産性を低下させる軍事的な目標が存在せず優先順位が低かったか、あるいは特別な攻撃目標として別の爆撃リストへ登録されており、通常の爆弾や焼夷弾による「無差別絨毯爆撃」が意図的に避けられていたことが、米国で公開された資料類から判明している。たとえば、「空襲が避けられた」はずの奈良市は、市街地への無差別絨毯爆撃の順番が80番めであり、その順番がめぐってくる以前、1945年(昭和20)8月13日の爆撃順位が63番めと64番めとされる、長野県の松本や上田への空襲を最後に、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏=敗戦を迎えてしまっている。
 また、「多くの貴重な文化財が尊重されて、爆撃目標から外され保存された」はずの京都市は、同年6月26日に市街地の一部(東山地区)が通常爆撃の被害を受けているものの、その直後から新潟、広島、小倉、長崎と並び、原爆投下の最有力候補地として意図的に攻撃がひかえられ、開発が最終段階に入った原爆目標都市として「温存」されていただけだ。原爆による爆撃効果や被害状況を正確に測定するためには、できるだけ都市を「無キズ」のままにしておかなければならなかった。
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 さて、マリアナ諸島に第21爆撃軍が進出した1944年(昭和19)11月から、日本本土への空襲が本格化していくが、当初は沿岸部の工業地帯や東京や名古屋の中島飛行機製作所Click!など、兵器や工業製品を生産する軍事目標への攻撃が主体だった。この爆撃を米軍資料では「精密爆撃」、あるいはヨーロッパ戦線での対ドイツ戦における初期の空爆手法にならい「戦略爆撃」と呼称している。つまり、爆撃機が正確かつ精密に攻撃するのは軍事目標のみであり、一般市民が住む市街地への爆撃はできるだけ避けるという、当時の「戦争モラル」的な思考のうえに立脚している「倫理観」だった。この精密爆撃を推進していたのが、米陸軍航空隊総指揮官アーノルドのもとで第21爆撃軍司令官だったハンセルだった。ところが、1945年(昭和20)1月に精密爆撃にこだわり、それなりに大きな成果をあげていたはずのハンセルは更迭され、ドイツ空爆で戦果をあげたルメイが第21爆撃軍司令官に就任すると、徐々に市街地への無差別絨毯爆撃が主流になっていく。
 絨毯爆撃とは、ドイツ爆撃でB17爆撃機を一列縦隊で飛行させて、市街地へ隙間なく爆弾や焼夷弾を投下させた手法だ。ルメイは、着任当初はハンセルが立てた計画を踏襲してB29による精密爆撃を行なっているが、最初に大規模な市街地無差別爆撃が行なわれたのは、1945年(昭和20)1月23日の名古屋への空襲からだった。ただし、このときは攻撃予定の軍事目標が雲に覆われて見えず、「やむをえず」名古屋市街地を爆撃したことになっていて、いまだ市街地への無差別絨毯爆撃そのものが目的ではなかった。この軍事目標上空が悪天候で爆撃ができず、代わりに近くの市街地を爆撃する手法は、その後も引きつづき踏襲されていく。
 それが、計画段階から軍事目標への精密爆撃ではなく、ハッキリと都市への無差別絨毯爆撃そのものが目的となり、市街地全体を焼き払って焦土化する作戦に切り替わったのは、同年3月10日の東京大空襲からだ。つまり、当初よりジェノサイド(大量虐殺)をねらった無差別爆撃というテーマからとらえるなら、東京大空襲を出発点とし、その延長線上に広島と長崎への原爆投下があることが明らかだ。換言すれば、日本の工業地帯を爆撃しても、都市部での家内制手工業が中心の日本では生産力の低下が顕著ではなく、徐々に市街地への空襲をエスカレーションさせていった……という従来の説明(米軍によるあとづけの“理屈”だと思われる)はウソで、3月10日の東京大空襲を境に空爆そのものの目的や質が、まったくガラリと変わってしまったのだ。
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 工業生産力を低め、ひいては国力を急速に衰えさせるためには、6大工業都市域(東京・横浜・名古屋・大阪・神戸・八幡)にある軍事目標への攻撃だけで十分だった。事実、日本の生産力は急カーブを描いて低下し、もはや青息吐息の状態で戦争継続は不可能であり、破産は誰の目にも明らかだった。前年1944年(昭和19)8月には、おもに資材調達が困難な側面から軍需省が「物的国力の崩壊」を素直に報告している。だが、それでも軍事目標への精密爆撃にとどまらず、市街地への無差別絨毯爆撃へ切り替えられた裏側には、「一億総特攻」や「一億玉砕」などと「本土決戦」を叫ぶ、国家の破滅へ“墓穴”を掘りつづけた軍部の存在があり、硫黄島の攻撃で大きな損害を受けつつあった米軍にとっては、日本本土への上陸作戦は膨大な犠牲を強いられる戦闘になるだろうと、リアルに想像させるだけの“材料”を与えてしまったことにもよるのだろう。
 そして、当然のことながら、ヨーロッパ人とは異なり得体のしれない思想や宗教観、価値観を備えたアジア人である日本人への、恐怖心をともなう蔑視思想が表裏に作用して、ためらわずに平然と焦土化作戦を遂行させることになったのだと思われる。そこには、これもあとづけの“理屈”として、「戦争を早く終わらせるためには……」という、これまで延々と繰り返されてきた米国のジェノサイド正当化の言葉=結果論がともなうことになった。東京大空襲は、もちろん病院も教会も学校もいっさい区別なく、一夜のうちに10数万人が焼け死んだ皆殺し作戦だった。
 1945年(昭和20)3月10日午前0時8分、日本側の発表では約130機、米軍資料では334機のB29による東京大空襲が開始された。このとき、少しでも多めの焼夷弾や市街地に散布するガソリンを積みこむために、多くのB29が搭乗員を減らし機銃を外して弾薬を搭載せず、東京上空には超低空で侵入している。1機のB29あたり、爆弾搭載能力ぎりぎりの6トンもの焼夷弾を積載していた。この様子を、1995年(平成7)に草思社から出版された『米軍が記録した日本空襲』所収の、『米陸軍航空部隊史』から孫引きしてみよう。
  
 先頭のB29大隊は“準備火災”を発生させることを目的としたナパーム充填のM47焼夷弾(七十ポンド)百八十発を携行した。この“準備火災”は相手の消防自動車陣の注意を集めるための火災であった。これらの照明弾投下機の後から続いて爆撃する他の機は五百ポンドのM69集束弾二十四発を運んだ。照明機の投弾間隔は三十メートル、他の機のそれは十五メートルと決定された。後者の間隔によって一平方マイルあたり最小限二十五トンの密度を与えるものと想定された。
  
 1平方マイル=2.5平方kmあたり25トンのM69集束焼夷弾、B29が334機として2,000トン超もの焼夷弾が、東京の下町へ降りそそいだことになる。空襲は、午前0時8分から2時30分までつづき、2時間余の間に隅田川両岸は関東大震災のときと同じような大火流Click!に包まれた。
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東京都慰霊堂.jpg
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米軍が記録した日本空襲1995草思社.jpg

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 対ドイツ戦において、精密爆撃から無差別絨毯爆撃へと踏み切った司令官ルメイの言葉が残っている。1994年(平成6)に光人社から出版されたE.B.カー『戦略・東京大空爆―1945年3月10日の真実』(訳・大谷勲)から引用してみよう。
  
 君が爆弾を投下し、そのことでなにかの思いに責め苛まれたとしよう。そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供のうえに崩れてきたとか、身体中を火に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ三歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているにちがいない。正気を保ち、国家が君に希望する任務をまっとうしたいなら、そんなものは忘れることだ。
  
 これを読む限り、自身が立案し実行した無差別絨毯爆撃が、地上でどのような惨禍を生じていたか、彼には十分に想像・把握できていたと思われる。前任指揮官のハンセルにはできず、後任のルメイには容易に踏みきれたその差とは、はたしてどのあたりにあったのだろうか。米軍資料を読み漁ってみても、方針を急転換したその背景はいくらでも想像できるが、明確な記録としては残されていない。

◆写真上:1944年(昭和19)11月より本格的な本土空襲を開始した、対空砲火を受けるB29の編隊。『米軍が記録した日本空襲』(草思社)の装丁より。
◆写真中上は、空襲前に撮影された東京の中心部。は、戦後に撮影された同市街地。下落合(中落合/中井含む)の西部が、かろうじて焼け残っているのが見える。
◆写真中下は、東京大空襲の前にB29偵察機によって撮影された東京市街地=(城)下町一帯。は、空襲から間をおかない時期に撮影された同所。本所・深川地域は、焼け野原が拡がりほとんどなにも残っていないが、日本橋は松島町や人形町あたりが焼け残っている。だが、この写真で焼け残っている街々も敗戦までの間に次々と爆撃され、その多くが消滅した。わたしの実家があった東日本橋の、千代田小学校(現・日本橋中学校)あたりに、米軍が「×」印をつけているのがちょっと気にかかる。
◆写真下上左は、東京大空襲の犠牲者のうち105,000人分の遺骨・遺名が眠る東京都慰霊堂。一家全滅のケースなど、証言者さえ存在しない行方不明者はいまだ数が知れない。上右は、1995年(平成7)出版の『米軍が記録した日本空襲』(草思社)。下左は、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で炎上する渋谷駅(画面下部)の周辺。下右は、同年5月25日夜半の第2次山手空襲下の東京市街地(場所は不明)。ともに、空中で破裂して発火したまま点々と落ちていくM69集束焼夷弾の光が見えている。

関東大震災の渋谷丘陵にみる震動。

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渋谷駅山手線.jpg

 渋谷に生まれて育った大岡昇平Click!は、14歳のとき渋谷町松濤の自宅で関東大震災Click!に遭遇している。このとき、大岡一家は保養へ出かけていた逗子からもどった直後で、松濤の高台にある家の玄関を入ってから30分後、一息ついているときに地震が襲った。渋谷川や宇田川が谷間を流れる渋谷の丘陵地帯は、神田川や妙正寺川が流れ河岸段丘がつづく、同じ武蔵野台地の東端にあたる落合地域とよく似ているので、そのときの大地の揺れ方が両地域で似通っていたのではないだろうか。そんなことを意識しながら、渋谷地域における大震災前後の様子をご紹介したい。
 渋谷では、火災による被害は最小限で済んだようなのだが、『新修渋谷区史』によるとそれでも全壊31戸、半壊139戸、死者13名、負傷者56名にのぼっている。もっとも、これはのちの1966年(昭和41)になって編まれた区史の統計なので、現在の渋谷区全体の数字であり、大岡がいた丘陵地帯の多い豊多摩群渋谷町松濤エリアの数字ではない。大岡は、前年からつづいていた大震災の“予兆”、すなわち前触れ的な地震について書きとめている。以下、1975年(昭和50)に筑摩書房から出版された『少年』から引用してみよう。
  
 前の年からかなりの強震が度々あったことが記録されているが、そういえばそうだった、という程度の記憶しかない。中には上下動から始まるものがあり、外へ飛び出したことがあったように思う。しかし九月一日の上下動は、それまでのものとは全然規模が違っていた。上下に揺れるだけでなく、その軸が前後左右に揺れる。要するにめちゃくちゃに揺れるのである。/私はこの時の揺れ方を身体で覚えているので、大体初震の揺れ方で地震の規模がわかる。この時の余震には、家のたががゆるんでいたせいか、九月一日よりもひどく感じられた時があり、一、二度、外へ飛び出したことがあった。しかしすべてが収まってから、以来五十年、私は一度も地震で外へ出たことはない。
  
 これによれば、関東大震災の直前には危機感をおぼえて外に飛び出すような、ヨコ揺れではなく予兆と思われる比較的大きなタテ揺れの地震が起きていたことがわかる。もっとも、関東大震災はプレート系の地震なので、江戸東京の直下型と思われる安政大地震Click!とはまた、事前の予兆も揺れの体感も大きく異なるとは思うのだが……。大岡が東日本大震災を体験したとすれば、その経験から初震で外に飛び出しただろうか?
 多くの作家が記録したように、大岡もまた震災による直接のショックよりは、その後に起きた社会情勢の大きな変化のほうに、より深刻で大きな衝撃を受けている。つづけて、『少年』から引用してみよう。
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神田川192309.jpg

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 私にとって二日目から始った朝鮮人虐殺と、甘粕大尉が大杉栄をその愛人伊藤野枝、親類の子供といっしょに殺したことのショックが大きかった。軍人とは何というひどいことをするのだろうと思った。それらはそれまで読んだ、どんな小説にも書いてないことだった。/地震のこわさについて、私たちはそれまでに安政の大地震と、近くは明治年間の濃尾大地震の話を聞かされていたと思う。地理教科書や少年雑誌に濃尾大地震の写真が出ていた。広い野を貫く一本の道が、地震によって生じた断層によって上下左右にずれている写真である。水平動より上下動がこわいこと、家内にいる時は箪笥の傍に坐れ、というような教訓も心得として知っていたはずである。
  
 以前、佐伯米子Click!の土橋にあった実家のまん前に開店し、岸田劉生Click!も行きつけの写真館だった江木写真館が記録した、いまは学習院大学の資料室に保存されている濃尾大地震Click!の写真をご紹介したことがあった。濃尾大地震が内陸型の活断層地震なのに対し、関東大震災はプレート型の巨大地震であり、今日では初期に起きるタテ揺れよりも、長時間つづいた執拗なヨコ揺れ(短・長周期地震動)のほうが、当時の建築物へ決定的なダメージを与えたとみられている。また、最新の研究では、プレート型や直下型の地震形態を問わず、稍(やや)長周期地震動(拡張定義としてのキラーパルス)の危険性が大きくクローズアップされている。
 先月、NHKのドキュメンタリーでも取りあげられていたが、阪神大震災で倒壊した高めのビルについて詳細な研究をつづけたところ、同震災では稍長周期地震動(2~5秒)が発生していた可能性が高いことがわかってきた。ヨコ揺れの周期が長くなると、むしろ震動に対して柔軟に対応する耐震設計が施された高層ビルが、むしろもっとも危険な建築ということになるようだ。番組では、25階建ての高さ100mの耐震構造を備えたビルが、振幅4秒のキラーパルスによりほんの数十秒で倒壊するシミュレーションを実施していた。しかも、地盤が軟弱な埋め立て地に建つ高層ビルは、キラーパルスが通常よりも増幅し、そのダメージをさらに受けやすい環境といえるだろう。
 この最新研究によれば、高層ビルは途中階から出火した火災を消火する方法がない、あるいは震災後にはエレベーターが破壊されるので実質的に事業や生活が成り立たない……というようなリスク課題よりも以前に、大きな地震(稍長周期地震動)の発生から、わずか数十秒で倒壊する危険性のほうがより大きそうに思えるのだ。小林信彦Click!の危機感をベースにした“予言”Click!は、どうやら的中しそうな研究成果となっている。
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貨物列車避難19230901.jpg

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関東大震災慰霊堂.JPG

 大岡昇平は、渋谷の大和田横丁に住んでいて、たまたま外を歩いているところを関東大震災に遭遇した藤田佳世という女性の手記も紹介している。同書より、1961年(昭和36)に出版された『渋谷道玄坂』(弥生書房)から引用してみよう。
  
 友達の家から神泉の狭い廻りへ下って来ると、下り終えたところで両側の家の戸が、がたがた鳴り出した。「原田さん、風よ、風が出て来たみたいね」と、友達と顔を見合わせたとたん、足元の大地がぐらぐらっとゆれ出したのである。「ごーっ」という凄まじい地鳴りを聞いたようにも思うが、それは私の錯覚かも知れない。だが、立っていられないほど地面がゆれていたことは確かであった。/「大変だ」と、私は弟と友達の手を堅く握り、夢中になって駆け出した。/「危いっ、坐れ、すわれっ」と、誰かがうしろでさけんでいた。だが、夢中で駆けた。/神泉の通りを南へ抜けて、大坂上の用水堀の端へ出ると、用水の水が両岸に叩かれてピシャッピシャッと、四、五尺もはね上る。もうこれ以上走ったら危い、私は友達と弟の肩を抱いてそこへしゃがんだ。いや走ろうとしても恐らく走れなかったのであろう。(中略) その時の凄まじさは、どう伝えたらいいのだろうか。あまりのゆれ方に立っていられなくて、かたわらの梅の木にすがったが、その梅の木ごと、体が前後に一尺もゆれた。家々の廂が、地につきそうであったといっても決して過言ではない。倒潰する家の凄まじい土煙りを火事と早合点して、「兄さん、大変だっ」と、父の弟岩吉叔父が、するどく呼んだのもこの時である。
  
 関東大震災の最大振幅は20cm前後とされているが、地域や地形による地盤の強弱によっては、より大きなヨコ揺れがあったと思われる。渋谷の谷間にあたり、湧水源のひとつである神泉では、「一尺(約30.3cm)」ほどに感じられる大きなヨコ揺れがあったようだ。また、農業用水が大きく波立ち河岸へとあふれる様子は、先の東日本大震災で撮影されたプールや噴水などの映像でも記憶に新しい。
 最後に、大岡昇平が自身で体験した1923年(大正12)9月1日午前11時58分30秒すぎ、関東大震災のその瞬間の様子を引用しておこう。
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上野駅前19230901.jpg

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上野公園19230901.jpg
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 十一時半頃、家に着き、父と私は裸になって、縁側に出て涼んでいたところへ、地震が来た。/どこからともなく、なにか変な音が近づいてくると思ったら、これまで私の経験したことのない、はげしい上下動が来た。それから前後左右にめちゃめちゃに揺れた。立ち上って縁側の硝子戸につかまったが、その手がはずれてしまうほど、激しかった。庭の植込の石灯籠が互い違いに三つに割れて崩れ落ちる不思議な光景を見た。父と私はほとんど同時に、目の前の揺れる地面に飛び降りた。
  
 大岡家では、幸い家族にはケガがなく、弟の子守りに雇っていた女の子の頭に、屋根から落ちた瓦の破片が当たって、小さなコブをつくったぐらいで済んでいる。

◆写真上:画面左手にある渋谷駅に到着寸前で、減速中の内まわり山手線。
◆写真中上は、1923年(大正12)9月1日から間もないころに、陸軍航空学校Click!の練習機から撮影された江戸川(現・神田川)の隆慶橋Click!あたり。下の小石川諏訪町あたりは延焼で焼け野原だが、対岸の牛込区新小川町あたりはなんとか火災をまぬがれている。は、水が豊富で田畑が展開していた谷底にあたる現在の神泉駅踏み切り。
◆写真中下は、大火災が発生している市街地から貨物列車で避難する人々。は、被服廠跡の慰霊堂内部には関東大震災を記録した絵画が壁に架けられて並ぶ。
◆写真下は、大震災直後の上野駅前に殺到する大群衆で火災は右手から迫っている。このあと、上野駅とその周辺は全焼した。下左は、上野公園へ着の身着のまま避難した人たちで外国人の姿も見える。落下物で負傷したのだろう、頭に包帯を巻く人たちが目立つ。下右は、地割れで車両が通行できなくなった旧・鎌倉街道(場所不明)の路面。

佐伯祐三の『下落合風景』は8月以前から。

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 1926年(大正15)9月1日の夕方、ないしは夜に東京朝日新聞のカメラマンが撮影した、二科賞を受賞した直後のフラッシュをあびる佐伯祐三Click!一家の写真が残されている。翌9月2日の朝刊へ掲載されたものだが、同時期に「アサヒグラフ」へもより高精細な写真が収録されている。同誌へ掲載された画像を、友人が改めて高解像度でスキャニングして送ってくれたので検討してみたい。
 佐伯祐三の名前が、いまだ一般にほとんど知られていない当時のもので、写真のキャプションには佐伯祐三を「佐伯勇三」、娘の彌智子を「令息」としているなど、おかしな記述が見られるのは以前にも記事Click!に書いたとおりだ。しかし、画像がより鮮明になると、新たに重要な課題が見えてきた。この1枚の写真には、佐伯の下落合における軌跡をとらえる上では欠かせない、きわめて貴重なテーマがふたつ含まれている。
 佐伯の右側には、第1次滞仏時の作品と思われるパリ風景のキャンバスが立てかけられ、佐伯米子Click!の背後にもパリの街角を描いたらしい彼女の作品が置かれている。ちなみに、佐伯の作品はいままで一度も見たことがない画面で、現在は戦災で焼けてしまったか行方不明になっているものの1枚だろう。こうして画面を並べて比較すると、佐伯祐三と米子夫人の作品は大正期末の時点で、これだけ異なるタッチをしていたことがわかる。だが、ここでの問題は佐伯祐三と米子夫人の表現のちがいではない。課題のひとつめは、佐伯の頭のすぐうしろに見えている、10号前後のサイズの小さなキャンバスなのだ。
 この画面は従来、1926年(大正15)10月23日に曾宮一念アトリエClick!の前で描かれた、『下落合風景』シリーズClick!の1作、「セメントの坪(ヘイ)」と規定していた画面にきわめて酷似している。現在ではまったく行方不明の同作だが、1930年協会第2回展の絵葉書に採用されたモノクロ画面と比較すると、セメントの塀の塗り方が異なるので同風景のバリエーション作品か、あるいは制作途上で未完の作品だと思われるのだ。ただし、制作中で未完成のキャンバスを、画家が二科賞を受賞した記者会見の記念撮影で作品の中央にすえたりするだろうか? 曾宮アトリエの屋根を少し入れて描いた本作(ないしは近似作)には、40号の画面(戦後に静岡の常葉美術館で展示されてのち行方不明)があることも、曾宮一念Click!による証言で明らかになっている。しかし、課題として重要なのは、同作が未完成なのかバリエーション作品なのかというところではない。1926年(大正15)9月1日に、すでに『下落合風景』の画面が存在しているという事実だ。
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 従来の佐伯伝では、「制作メモ」の記載内容から『下落合風景』の連作がスタートするのは、涼しくなってスケッチに出歩きやすくなる同年の秋から、すなわち「制作メモ」Click!に記載された9月18日の「原」あたりから……と解釈する記述がほとんどだった。あるいは、二科賞の受賞をきっかけとして、本格的に日本の風景へ取り組む意欲が湧き、周囲からの奨めもあってアトリエ周辺に展開する下落合の風景をモチーフに、“格闘”してみる気になったのだ……というような解釈にもとづく記述が多々みられた。しかし、この1枚の写真の存在から、佐伯はもっと以前より近所を散歩しながら描く、『下落合風景』シリーズのテーマへ取り組んでいたことがわかる。
 佐伯祐三は二科賞を受賞する以前、夏の暑い盛りから曾宮一念邸Click!の前にイーゼルを立て、『下落合風景』を描いていた。すなわち、『下落合風景』を描く動機=きっかけとなったのは、少なくとも二科賞の受賞ではない。また、「制作メモ」の存在から、『下落合風景』の仕事は秋以降に開始されたという漠然とした解釈も成立しない。佐伯は、もっと以前から近所の風景画に取り組んでいたのであり、「制作メモ」に記載された一連のタイトルは、1926~1927年(大正15~昭和2)の冬にかけて制作された目白文化村Click!簡易スキー場Click!『雪景色』Click!などの下落合の風景作品群Click!の存在、また1927年(昭和2)の1930年協会第2回展のために5~6月ごろに描かれた「八島さんの前通り」Click!の存在などから、そのほんの一過程のメモにすぎなかったことがわかる。
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曾宮一念アトリエ1926.jpg

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 換言すれば、佐伯祐三は1926年(大正15)の夏から、翌1927年(昭和2)の第2次渡仏へ向かう直前の大磯の夏Click!まで、ほぼ1年間にわたり『下落合風景』を描きつづけていたことになるのだ。したがって、『下落合風景』は現在判明している50点余の作品点数どころではなく、佐伯が鈴木誠Click!画布600枚Click!を手づくりしたと話しているとおり、同作の最終的な点数はケタがちがう可能性がより高いことになる。
 さて、課題のふたつめは、この画面が「制作メモ」に残された1926年(大正15)10月23日の、「浅川ヘイ」Click!とともに記載された「セメントの坪(ヘイ)」とは別作品の可能性が高いということだ。ただし、佐伯は八島さんの前通りClick!諏訪谷Click!など同一の風景を何度も反復して描く習性があるので、浅川秀次邸Click!の塀=「浅川ヘイ」と同日に制作した「セメントの坪(ヘイ)」(15号)もまた、曾宮邸の屋根を少し取りこむ同じような構図をしていたのではないかと想定することができる。そして、同年の夏=8月以前に制作された「セメントの坪(ヘイ)」(記者会見写真にとらえられた10号前後のサイズ)と同期か、あるいは10月23日に描かれた同作(15号)と同じ時期かは不明だが、曾宮証言によればバリエーション作品として40号の画面も制作していることになる。
 佐伯の記者会見写真には、アトリエのペパーミントグリーンに塗られた腰高の板壁の上、モルタルの白い壁面にも風景画と思われる作品が架けられている。さらに、佐伯の足もとにも15号ほどの手づくりとみられるキャンバスが、裏返しに立てかけられている。1926年(大正15)の少なくとも夏から制作が開始されていることが判明したいま、これらの作品画面もまた、炎天下のアトリエ周囲を散歩しながら制作された、未知の『下落合風景』だった可能性がある。
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 余談だが、同じく東京朝日新聞のカメラマンが、1927年(昭和2)3月に下落合735番地のアトリエにいる、村山知義・籌子夫妻Click!をとらえた写真がある。やはり「アサヒグラフ」(同年3月9日号)に掲載されたものだが、同誌掲載のものとは異なるバージョンの写真を見つけた。この時期、上落合186番地の自邸が大規模なリフォーム中で、『美術年鑑』をたどると1930年(昭和5)ごろまで下落合の住所が記載されている。そして、村山夫妻が住んだ下落合735番地のアトリエこそが、佐伯祐三が描いている「セメントの坪(ヘイ)」の、正面に見える家並みの南側(右手)にほかならない。つまり、佐伯アトリエで二科賞受賞の記念撮影をした朝日のカメラマンは、約6か月後に再びごく近所の、今度は村山知義・籌子夫妻のアトリエを訪ねていることになる。

◆写真上:1926年(大正15)9月1日の夕方か夜に撮影された、東京朝日新聞社9月2日朝刊と「アサヒグラフ」9月22日号に掲載の佐伯一家。
◆写真中上は、同写真の拡大。は、曾宮一念アトリエの真ん前を描いた『下落合風景』の1作。従来は、「制作メモ」の10月23日に記載されていた「セメントの坪(ヘイ)」(15号)と規定していたが、おそらく「浅川ヘイ」に隣接した同一場所を描いているとみられるので、とりあえずタイトルは踏襲する。
◆写真中下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる描画ポイントへと向かう佐伯の「セメントの坪(ヘイ)」ルート。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる描画ポイントと画角。は、「セメントの坪(ヘイ)」の現状で電柱がほぼ同じ位置に建っているのがわかる。正面の街角は戦災をまぬがれており、家々がリフォームされる前(1970年代)の街並みは、佐伯の画面と重なり既視感がある。
◆写真下は、「セメントの坪(ヘイ)」に描かれたリフォーム前の高嶺邸。は、翌1927年(昭和2)3月に下落合735番地のアトリエで撮影された村山知義・籌子夫妻。「アサヒグラフ」3月9日号の写真は床に座っているが、バリエーション写真のほうはイスに腰かけており、わたしはこちらの「オカズコねえちゃん」Click!の表情のほうが好きだ。

相馬俊子は巨大古墳の丘上に立ったか。(上)

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 1914年(大正3)の中村彝Click!は、相馬俊子Click!への恋情に煩悶していた。同年12月に伊豆大島へと旅立つまで、ほとんど狂気に近い行為を繰り返している。彝が相馬俊子をあきらめきれず、ときどき彼女の姿を求めて新宿中村屋Click!のまわりをウロついていたころ、1915年(大正4)3月に女子聖学院を卒業した相馬俊子は、同年4月より女子学院高等科(現・東京女子大学)へと入学している。
 おそらく、相馬愛蔵Click!良(黒光)Click!の意向も強かったと思うのだが、俊子は実家からそれほど離れてはいない、淀橋町角筈101~109番地に女子学院の分教場として、本学とは別に新たに設置された同学院高等科へ入学して寮生活に入った。実家の中村屋からは、わずか400mほどしか離れておらず、自宅から容易に通える距離だったにもかかわらず、俊子を女子学院の寮へ入れたのは、明らかに中村彝の狂気じみたふるまいから、彼女を隔離し守るためのリスク管理的な意図からだろう。
 また、なにかあった場合に備え、新宿中村屋からすぐにでも駆けつけられる距離の女子学院高等科へ進学して入寮するよう、両親が俊子を説得して選択させたのかもしれない。当時の、角筈101~109番地という所在地で表記するとピンとこないが、開校したばかりの女子学院高等科キャンパスは現在の新宿駅西口の真ん前、東京モード学園のコクーンタワーあたりに建っていた。
 そのころの中村彝の様子を、後世の結果論的な粉飾が多少なされていると思われるのだが、1977年(昭和52)に法政大学出版局から刊行された相馬黒光『黙移』から、俊子自身の言葉を含め少し長いが引用してみよう。
  
 (相馬俊子が)『実は今夜九時頃家出をしろと彝さんからすすめられているのですが、私はどうしてもお母さんに黙って家を出る気にはなれませんし、またそんなことが誰にも幸福ではないと思うのですけれど、彝さんは狂人のように荒っぽくなっているから、どんなことを仕出かすか知れないし、どうしたらいいでしょう』/と、おろおろ声で打ち明けたのでございます。(中略) 家に着くとすぐ夫と相談し、その晩、俥に乗せて父親がつき添い、桂井さんのお家は御老母とお姉さんとお姪の方とが一緒に住んでおられましたから日頃の親しさからいっても、最も安全で自然な隠れ家でありました。(中略) 家に帰ってしばらくすると、品川駅の公衆電話で、桂井さんから意外な報告を聞きました。/『昨夜たびたび何物(ママ)か石を投げたり戸を敲いたりして悩まされた。この分ではまたどんな乱暴な行動をされるかも知れない。それにそんなことが新聞沙汰にでもなると皆が迷惑することになるから、少し落ちつくまで俊子さんを安全な所へつれていく、場所は後から通知する』/ということで、また驚かされたのでした。そうして桂井さんは二、三日俊子をある海浜で静養させ、彝さんのほうの興奮もひとまず鎮まった頃とみて、私のほうへ俊子をつれ戻ってくれました。(中略)
 一方、彝さんは夫を殺すといって長い日本刀を振りまわしたり、悪口雑言を書いてよこしたり、全く正気の沙汰ではありませんでした。要するに彝さんは俊子をわれわれ両親が圧迫してよこさないのだ、病人で貧乏だから自分にくれないのだと、こう僻んでいるのでした。これは本人の意志なのだ、本人の意志なので彝さんに従わないのであった、といっても彝さんは真実とはとらない、これはいっそ直接会わして自発的に解決させるほうがよくはないかと、相談の上、彝さんと俊子を改めて会見させました。(カッコ内引用者註)
  
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 当時の中村彝は、中村屋の自宅から消えた相馬俊子の居所を探るために、中村屋の周囲を頻繁に徘徊し、俊子をかくまっていそうな人物のあとを、執拗に尾行していた様子が伝わってくる。中村彝の恋の狂乱は、彼の身近にいた弟子の鈴木良三Click!も証言している。『黙移』とほぼ同時の1977年(昭和52)に中央公論美術出版から刊行された、鈴木良三『中村彝の周辺』から引用してみよう。
  
 俊子という女性は動揺し易い、態度の曖昧なところがあり、荻原守衛の従弟で東京商船学校の学生三原林一も俊子を愛していたというし、父親の(相馬)愛蔵も浮気をしてどこかに第二の夫人がいたので母親の黒光も荻原の死後は若い燕として体格のいい哲学者桂井当之助を愛したりしているのを見て、若い俊子の気持も歪んでしまったのではないだろうか。/これに対して彝さんは純朴過ぎて一途に両親を信じ、俊子を愛し、恋は成就するものと思い込んでしまった。しかし結果は波乱万丈正気の沙汰を欠き、日本刀を振り廻したり、悪口雑言を黒光達に並べたりしたので、遂には狂人扱いを受けて敗北したのであった。(カッコ内引用者註)
  
 鈴木良三の文章は、なにやら中村彝の純朴さ・純真さvs相馬夫妻の計算高いしたたかさという構図の匂いで描かれており、確かにそのような側面もあるのだろうが、肝心かなめな相馬俊子の主体や意志をほとんど丸ごと欠落・無視したような扱いで記述されているので、その視座は明らかに中村彝の側にある。
 「動揺し易」くて「態度の曖昧」な、このとき16歳前後だった高等科入学前の女性が、それ以前に画家の前で思いきって裸のモデルになったり、その後、きわめて意志的かつ主体的な選択や行動をする女性へ、急に生まれ変わったとは到底思えない。中村彝が恋に目がくらみ、俊子という女性の性格や意志、感情、志向などを見抜けず、身勝手な幻想や期待をふくらませつづけたように思えてならない。相馬夫妻は、娘が再び中村彝のつきまといに遭わないよう、まさかのときには駆けつけられる近くに開校していた女子学院高等科へ入学させ、警備が十分な寮生活を送らせることにした……という経緯ではないか。
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雪の中村彝アトリエ.JPG

 さて、相馬俊子はそのころ、女子学院高等科のキャンパスでどのようにすごしていたのだろうか? 女子学院は、もともと築地の外国人居留地で創立されたキリスト教系のミッションスクールで、非常にストイックな学園生活だったのではないかと想定できる。女子学院の高等科は、新宿停車場の西口前にあった米国伝道派ミッションのサナトリウム「衛生園」(現・慈恵病院)、および園内の看護婦養成所が1906年(明治39)に閉鎖・廃止されたあと、その病舎や寮をそのまま女子学院が譲り受けるかたちで、新たに分教場と位置づけて高等科を設置したものだ。
 相馬俊子が生活していた女子学院を含め、山手線の新宿駅周辺の地図を明治期から現代まで、時代を追って観察しているとき、“異様なモノ”を発見してしまった。その姿は、1909年(明治42)の参謀本部が作成した1/10,000地形図から確認することができる。翌1910年(明治43)の2色刷り同修正図では、よりハッキリとした“鍵穴”型のフォルムでとらえられており、おそらくわたしの想定にまちがいないだろう。大正の初期まで、上空から見るときれいな“鍵穴”型をした巨大な前方後円墳が残されていたと思われる。周囲に多数の陪墳を従えた、明らかに大王クラスの墳墓で、当時の地番でいうと淀橋町角筈94~100番地あたりということになる。
 主墳と陪墳の位置関係が、芝丸山古墳Click!のデザインにとてもよく似ている大きな前方後円墳Click!だ。しかも、墳丘長だけで120~130mほどもあり、芝丸山古墳よりもひとまわり大きいサイズだ。もともと江戸時代末には、美濃高須藩の松平摂津守義比(3万石)の下屋敷であり、おそらく同家の回遊式庭園の一部に取り入れられていたのだろう。明治維新ののち、この巨大な墳丘は地元で摂津守にちなみ「津ノ守山」と呼称されていた。そのサイズからして、後円部の高度は5~6階建てビルの屋上ぐらい(約12~15m)はあったのではないかとみられる。
 芝丸山古墳は、東京帝大の発掘調査により判明しているだけで、後円部の周囲に陪墳が11基確認されているが、角筈の巨大古墳はやはり後円部の周囲に、地図上から陪墳と思われる突起を確認できるだけで、都合9~10基を数えることができる。主墳の北側に面した陪墳域を整地して建っているのが、旧・衛生園だった女子学院高等科の校舎や寮などの建築群であり、また主墳東側の陪墳域は専売局工場(のち専売公社)の敷地で、明治の早い時期に地面が均されてしまった。当然、これら明治初期に建設された施設の造成工事の際に、破壊されてしまった陪墳が、もっと数多く存在したのではないかと想定できる。
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代々木八幡1909.jpg
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地形図1910(M43).jpg

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新宿西口1955頃.jpg

 しかも、この前方後円墳には埋葬のあと定期的に祭祀を行ったとみられる、造り出しClick!の凸状のふくらみまでが残されていたのがわかる。造り出しは、当時の祭祀に使われた遺物の宝庫だったはずだ。同墳に名称がないといちいち記述に不便なので、とりあえず下落合摺鉢山古墳(仮)Click!にならい、仮称として「新宿角筈古墳」と呼ぶことにする。
                                   <つづく>

◆写真上:女子学院高等科(現・東京女子大学)の校舎や寮が建つキャンパスがあった一帯で、現在は駅前道路とコクーンタワーのある東京モード学園となっている。
◆写真中上上左は、大正初期の撮影とみられる相馬俊子。上右は、中村屋の女主人で母親の相馬良(黒光)。は、角筈101~109番地にあった女子学院高等科の本校舎とキャンパス。校舎右手に見えるこんもりとした盛り上がりは、新宿角筈古墳(仮)の北側に位置する陪墳のひとつである可能性が高い。陪墳といっても、たとえば落合地域の浅間塚古墳Click!ほどのちょっとした円墳に匹敵するサイズだ。
◆写真中下は、『東京女子大学50年史』にみる開校当初の女子学院高等科。正面が本校舎で左側が寮舎だとみられるが、本校舎の背後も陪墳域だったと思われる。は、1911年(明治44)の高等科卒業式の様子で来賓に大隈重信が招かれている。晩年の大隈は女子の高等教育に注力し、日本女子大学や東京女子大学との関係が深い。女子学院資料室委員会が編纂した『GRAPHIC HISTORY OF JOSHIGAKUIN 1870-1992』より。は、降雪の翌朝に撮影した下落合464番地の中村彝アトリエ。
◆写真下上左は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる新宿角筈古墳(仮)。上右は、1936年(昭和11)に日本中学校の移転後に地面が露出したままで撮影された空中写真で、巨大な前方後円墳の痕跡がハッキリとわかる。は、1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図(修正図)にみる新宿角筈古墳(仮)の様子。は、1955年(昭和30)ごろに撮影された新宿駅西口に新宿角筈古墳(仮)を重ねてみる。


相馬俊子は巨大古墳の丘上に立ったか。(下)

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新宿角筈古墳現状1.jpg

 新宿停車場の西口を出ると、少なくとも1910年(明治43)まで淀橋浄水場との間に、東側がまるで丸山ないしは摺鉢山と名づけてもよさそうな、こんもりと繁った小山が目の前にあった。この小山は、当時までクッキリとした“鍵穴”型をしており、後円部の直径は約70~80m、前方部の長さは約50~60mほどで、現在の新宿駅西口バスターミナル前にある明治安田生命新宿ビルの敷地から、新宿郵便局の敷地に丸ごとかぶり、工学院大学のキャンパス南東部あたりまでつづく巨大な墳丘だった。ただし、古墳の上部は平らに削られ、上野摺鉢山古墳Click!と同様に後円部の墳頂が、庭園の見晴台のように整備されていた可能性が高い。それは、松平摂津守下屋敷だった江戸期からか、あるいは明治以降の工作かは不明だ。
 新宿角筈古墳(仮)Click!の突起地形は、1918年(大正7)の1/10,000地形図で確認すると、杉浦重剛が創立した日本中学校の建設予定地として整地化が進み、主墳のかなりの部分が削られ、墳丘の北側にあった陪墳のいくつかと、主墳西側にあたる前方部の一部のみが残されているのがわかる。また、女子学院高等科(1918年当時はすでに東京女子大学)のキャンパス内に残された陪墳と思われる1基が、そのままの状態で保存されていた。
 さらに、1922年(大正11)の同地形図では、主墳の一部で残されていた西側の前方部も完全に崩され、新たに道路が敷かれ建物が建設されている。日本中学校は1916年(大正5)9月に校舎が竣工しており、その北側には陪墳のみがわずか3基ほど残されるだけとなっている。また、1932年(昭和7)の地形図になると、唯一、東京女子大学(旧・女子学院高等科)の敷地内に、やはり陪墳とみられる1基が確認できるだけとなってしまった。そして、前方部があった東側には、工学院(現・工学院大学)が新たに建設されている。
 しかし、その後しばらくすると日本中学校の校舎が移転し、角筈94~100番地の一帯は土がむき出しの更地となってしまう。同中学校は1936年(昭和11)4月に、世田谷区の松原へ校舎ごと移転している。まさにそのタイミングで、1936年(昭和11)に陸軍の航空隊により空中写真が撮影されたのは幸いだった。墳丘が崩され整地されたとはいえ、更地になった中学校跡の地面の突起は痕跡を残しており、写真にはきれいなサークル跡とともに、巨大な前方後円墳の痕跡をハッキリと確認することができる。後円部は現在の西口広場西端あたりから、前方部が工学院の校舎に接する位置まで、東西に長く伸びているのが見てとれる。
 また、防火帯31号線(建物疎開)Click!によるものか、あるいはそれ以前に駅周辺の建物が意図的に解体され広場化されているのかは不明だが、1945年(昭和20)1月に米軍のB29偵察機が撮影した空中写真には、新宿角筈古墳(仮)の巨大な後円部サークルが“復活”しているのが見てとれる。これは、地面から盛り上がった台地状の凸地を避けて、サークルの周囲あるいは土手上に建物が建設されているとみられ、そのかたちが期せずして後円部墳丘の正円形になってしまったものだろう。
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新宿角筈古墳1918.jpg
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1922年(T11).jpg

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女子学院跡1947.jpg

 女子学院高等科が設置される以前、その前身であるサナトリウム「衛生園」や看護婦養成所の校舎が建設される際に、古墳(陪墳)の遺構や副葬品と思われる遺物などが出土したという記録はない。また、巨大な前方後円型の主墳が日本中学校建設のために破壊されたときもまた、行政や教育機関により調査が行われたという記録は見あたらない。衛生園=女子学院のケースは、キリスト教系の施設にとって異教徒の「野蛮」な宗教や習俗などをベースに、1500~1600年ほど前の大昔に築造された古代の墳墓など、破壊・抹殺して当然の感覚だったろう。
 また、後者のケースは、蛮族の「坂東夷」が跋扈していたはずの、江戸東京地方はおろか関東全域に、多数の陪墳をともなう大王クラスの巨大古墳Click!があちこちで確認・発掘されては、ことさら近畿地方以外を「辺境」として「日本史」全体を矮小化し貶める、明治政府の皇国史観Click!上ではあってはならない存在だったからだろう。おそらく、当時の行政や教育関係者に“気づき”はあっても、他の多くのケースと同様に見て見ぬふりをして、積極的な発掘調査にはいたらなかったと思われる。もし、芝丸山古墳を発掘した坪井正五郎Click!の帝大チームが、あるいは大正期の鳥居龍蔵Click!のチームや、「天皇陵」を発掘調査した学習院考古学チームClick!が、新宿停車場の同古墳に気づいて調査を行っていたなら……と思うと、たいへん残念でならない。
 このテーマは角筈94~100番地、すなわち新宿駅西口の真ん前だけにとどまらない。なぜなら、淀橋浄水場の建設工事を記録した明治期の写真を細かく観察すると、あちこちに人工的と思われる大小の塚状の突起がとらえられているからだ。しかも浄水場の北西側、淀橋~柏木(現・西新宿~北新宿)にかけては、神田川(旧・平川Click!)の河岸段丘斜面が広くひらけており、関東における古墳造営の好適地だったことがわかる。早稲田から大久保一帯までつづく、「百八塚」Click!伝承からはやや離れており、新宿角筈古墳(仮)は戸塚(十塚・富塚Click!)に由来する「百八塚」の範疇には入らないかもしれないのだが、神田川の河岸斜面や段丘上に展開した大小さまざまな古墳が、膨大な拡がりを見せていたことを想定できる痕跡だといえるだろう。
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「東京ガイド」1916写真通信会.jpg

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沈澄池-淀橋工場機関室1.jpg

 もうひとつ、新宿角筈古墳(仮)の北東部には、女子学院のキャンパスと専売局工場の敷地にかかる、巨大なサークル痕が見てとれる。新宿角筈古墳(仮)とは異なり、地図上では明確な突起はすでに確認できないが、空中写真で観察すると土手状になった多少の凸地でも残っているのか、樹木がきれいな円弧に沿って生えているのが見える。新宿角筈古墳(仮)と比べても、このサークルはケタちがいに大きく、直径はゆうに100mを超えていそうだ。「百八塚」の流れで勘案すれば、このサイズは上落合にみられた巨大なサークル跡Click!や、下落合駅前の下落合摺鉢山古墳(仮)Click!に匹敵するクラスだろう。
 また、同サークルが古墳だったとすれば、新宿角筈古墳(仮)からひとつ離れて築造された、女子学院内の陪墳と思われる塚の存在にも、整合性のとれる説明がつくことになる。すなわち、同学院の陪墳は南側にある新宿角筈古墳(仮)のものではなく、昭和期にはサークルの痕跡を残すのみとなった北東側の、より大きな前方後円墳ないしは円墳に寄り添う陪墳の可能性が高いということになる。残念なことに、この巨大なサークル痕が残る区画は、山手線による新宿停車場の設置や専売局工場の建設とともに、かなり早くから拓けていたようで、古い時代の写真は残されていない。いずれにしても、古墳期の南武蔵勢力Click!を担った大王の墓所のひとつなのだろう。
 さて、現在の新宿角筈古墳(仮)の跡がどのようになっているのか、実際に歩いてみることにした。まさか、古代の巨大古墳の痕跡を求めて、新宿駅西口を散歩することになろうとは、夢にも思っていなかった。そこは、目の前に東京都庁をはじめ超高層ビルが林立する、都心の真っただ中だ。ところが、女子学院の校舎や陪墳と思われる塚状の突起があった敷地、つまり現在のコクーンタワーのある東京モード学園から新宿郵便局へ向けて歩いていくと、いまだに台地状になった坂道になっていることに気づく。ほとんど平地のように地面は均されているが、微妙な地上のふくらみが残っているのだ。
 このふくらみは、ちょうど新宿角筈古墳(仮)の前方部や後円部があった墳丘、つまり新宿駅西口の明治安田生命新宿ビルから新宿郵便局にかけてがピークであり、北側はコクーンタワーへ、東側は西口にかけてやや下り、また西側は工学院大学やエステック情報ビルのほうへ向けて微妙に下っている。おそらく、日本中学校が建設される際、墳丘の土砂を東西南北の四方へ散らす土地造成法を用いているのだろう。ただし、同中学の建設工事が行われた1916年(大正5)現在では、おそらく校舎や校庭はいまだ土手のようになった台地状の上に建設されている。それは、1945年(昭和20)の空中写真に見られるように、この台地状になった中学跡を避けて家屋が建設され、後円部のサークル跡が改めて“復活”していることでも明らかだ。このエリアが、現在のように注意しないとわからないぐらいの、なだらかな坂上の敷地へと造成し直されたのは戦後のことだろう。
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新宿角筈古墳現状2.JPG
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新宿角筈古墳現状3.JPG

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新宿角筈古墳現状4.JPG
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新宿角筈古墳現状5.JPG

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 女子学院の高等科へ通った相馬俊子は、同学院のキャンパス南側に草原つづきでそびえていた「津ノ守山」=新宿角筈古墳(仮)を、おそらく入寮と同時に認識していただろう。講義のない休日には、クラスメートといっしょに丘上まで散歩に出かけたかもしれない。ときに、娘の顔を見に訪れた相馬愛蔵・良(黒光)や妹の千香とも、中村屋のパンで作ったサンドイッチの入るランチバスケットを手に、ハイキング気分で見晴らしのいい後円部の丘に登っているのかもしれない。だが、彼らが受けた明治政府の皇国史観教育では、自分たちの足もとに眠っているのが江戸東京地方に残る大王クラスの巨大古墳であるとは、ゆめゆめ気づかなかったのではないだろうか。

◆写真上:新宿角筈古墳(仮)後円部の、いまでも残る墳丘の痕跡と思われるふくらみ。右手は、北側の東京モード学園(コクーンタワー)へと下るなだらかな坂道。
◆写真中上は、陸地測量部1/10,000地形図にみる1918年(大正7/)と1922年(大正11/)の同古墳。は、1936年(昭和11)の日本中学校が世田谷へ移転直後に撮影された敷地がむき出しの空中写真。は、1945年(昭和20)撮影の同古墳跡()と、1947年(昭和22)撮影の東京女子大学跡に残る陪墳跡()。
◆写真中下は淀橋浄水場の建設前に撮影された明治中期の風景で、中上は建設直前に撮られた測量の様子。いずれの写真にも、人工的と思われる大小の塚状突起があちこちに見える。中下は、1916年(大正5)ごろの淀橋浄水場で右手に巨大な新宿角筈古墳(仮)がとらえられている。なお、この写真は同年発行の『東京ガイド』(写真通信会)には左右が逆の裏焼きで掲載されている。は、大正期に撮影された同所だが、すでに墳丘上部が造成で削られているのか古墳の規模からすると後円部の高さがかなり足りない。
◆写真下上左は、北側の通りから墳丘跡へとつづく上り坂。上右は、墳頂あたりから東側の新宿駅西口へとやや下る様子。中左は、墳丘が連続していた後円部あたりから淀橋浄水場跡(現・高層ビル群)を眺めたところ。中右は、陪墳群が連なっていた新宿駅西口広場から北側の通り。は、新宿角筈古墳(仮)を現在の空中写真で比定したイメージ。

下落合を描いた画家たち・吉岡憲。(1)

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 独立美術協会Click!に所属していた吉岡憲は、下落合を描いた作品を何点か残している。だが、彼は描いた風景の地域名(町名)ではなく、最寄りにある国鉄の駅名を作品名につける傾向があったようで、「下落合風景」というようなタイトルは1点もない。彼の描く下落合あるいは高田といった街の風景は、「目白」や「高田馬場」という近くの国鉄駅名(本来の地名位置から、かなり離れているケースが多い)のタイトルへと収斂されている。これは、下落合を描いているのに「目白風景」としたり、上落合を描いているのに「東中野風景」、西落合を描いているのに「東長崎風景」とする感覚に近いものだろうか。吉岡憲は当時、上落合1丁目にアトリエをかまえていた。
 おそらく1950年(昭和25)すぎぐらいだろうか、晩年に制作されたとみられる吉岡憲『目白風景』は、描かれている画面の上半分が当時の下落合1丁目(現・下落合2丁目)であり、下半分が高田南町3丁目(現・高田3丁目)だ。下落合にお住いのみなさんなら、すぐにピンとくるわかりやすい構図で、下落合の丘上に見えている白亜の建物は、1953年(昭和28)から日立目白クラブとなる、1928年(昭和3)に建設された旧・学習院昭和寮Click!だ。ちょうど同時期に、下落合540番地の大久保作次郎Click!もまた、昭和寮本館を学習院キャンパスのある東側から眺めた作品、『早春(目白駅)』Click!を残している。こちらのタイトルも、なぜか駅から離れているにもかかわらず「目白駅」とされているが、「目白駅近く(付近)」と書くところを大久保が失念しているのではないか?……という考察は、以前に書いたとおりだ。
 吉岡憲の画面には、4棟の寮Click!がすべてとらえられており、右(東側)から第一寮、第二寮、第三寮、第四寮とつづき、北側にある本館は寮の陰に隠れて望めない。のち、日立目白クラブClick!になってから、寮4棟の手前に横長の新寮(第五寮)が建設されているので、南側から4つの寮が見えにくくなってしまう。また、1972年(昭和47)になると日立目白クラブ手前の崖下、旧・大黒葡萄酒工場Click!の跡地には当時としてはめずらしい高層アパート「高田馬場住宅」Click!が建設され、南側から4棟の寮を観察することがますます困難になった。
 『目白風景』の画面を観察すると、学習院昭和寮の崖下を左から右へ斜めに横切っているのが、山手線の線路土手だ。画面の左枠外には神田川が流れ山手線鉄橋Click!が架かり、ほどなく高田馬場駅がある。また、画面の右枠外にはすぐに目白駅が迫っている。第一寮の右手、画面右端に見える山手線の線路際に描かれた、木立の中の南を向いた白い切妻の大きな西洋館が、F.L.ライトClick!自由学園明日館Click!を2階建てにしたような意匠の佐野邸だ。佐野邸は、先の大久保作次郎『早春(目白駅)』でも,昭和寮本館の“構成”モチーフとして取り入れられている。
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学習院昭和寮1933.jpg

 さて、山手線の線路土手下(東側)に拡がるのは高田南町の街並みだが、吉岡憲がイーゼルを立てているのは当時の地番でいうと、高田南町3丁目33番地あたりに建っていたビルの屋上とみられる。戦時中、松尾德三様Click!が勤労動員で戦闘機用のマグネットを生産し、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で、撃墜されたB29が墜落Click!してきた国産電機工場のすぐ西側だ。1956年(昭和31)の空中写真を見ると、ちょうど描画ポイントと思われる位置に、おそらく3~4階建てのビルと思われる建築があるのが確認できる。
 1947年(昭和22)に撮影された敗戦直後の空中写真を見ると、すでに白い屋根の大きな建屋が敷地の東側に建てられているので、おそらく神田川沿いに多い製薬会社の工場ないしは倉庫ではなかったかと想定することができる。現在、ビルが建っていた敷地には「武田目白レジデンス」というマンションが建ち、その周辺のマンションの名称にも「武田」がつくので、この位置に東京における武田薬品工業の事業所があったのではないかと想像してみる。ちなみに、同ビルがあった敷地の東隣りには、昔もいまも大正製薬の本社が営業をつづけている。また戦前、この敷地の北側には1933年(昭和8)に発行された「東京市各区便益明細地図」Click!によれば、ラヂウム製薬会社のビルが建っていた。
 吉岡憲は、描画ポイントに建っていたこのビルに勤める知りあいがいて頼みこんだか、あるいは風景モチーフを探して街を歩いているときに、たまたま飛びこみでビルの管理者に依頼したかは不明だけれど、おそらくビルの眺望のきく屋上へ上がってイーゼルを立てた。キャンバスは、目白崖線が連なる西北西に向けられている。周辺の緑が濃いように見えるので、それほど寒い季節ではないように感じるが、描かれた空はどんよりと曇りがちで晴れあがってはいない。でも、雲の切れめができている南側から射しこむ陽光が街並みに当たっているのか、家々の陰影はハッキリしているものの、彼の色づかいはまるで画面に錆がわいたようににぶくて暗い。吉岡の灰や茶がかった渋くて暗めな色調は、多くの作品に共通しているものだ。
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空中写真19450517.jpg

 東中野の踏み切りで、中央線に飛びこんで自裁する数年前に描かれたと思われる『目白風景』だが、吉岡憲の性格について友人の証言を聞いてみよう。2003年(平成15)に、いのは画廊から刊行された『追憶の彼方から~吉岡憲の画業展~』収録の、古賀剛「吉岡憲の死」から引用してみる。
  
 毎号本誌の表紙とカットを描いてくれていた吉岡憲が一月十五日の未明に死んだ。新聞などはいずれも、どうも最近ノイローゼに陥っていたとか、芸術上のゆきづまりかららしいと報じていた。ばかばかしい。それが憶測からのものならば、いっそのこと原因は、彼の純粋な貧困のせいだと言った方がまだましだと思っている。人の良い男だった。ロシア語の二等通訳の資格を有している彼をば、ヨシオカウイッチなどとふざけて僕たちはよんだものである。戦前からよく新宿の街を、夜おそくまで彷徨っていた。小山田二郎、大島博光、それに藤村の勘当がまだ解けていなかった島崎蓊助などがたいてい一緒だった。(中略) その時期のいつからか、彼は、スケッチブックを抱えた可憐な少女をつれて歩くようになったが、その少女がいまの菊夫人である。戦後ジャバから帰国すると、苦労して下落合にアトリエを建てた。しかし、内側の壁は塗らないままだった。そこから彼は自転車で日大芸術科と女子美に通った。「いま頃自転車で教えに行く奴はまあ吉岡ぐらいなものだろう」と言うと、彼は声低くわらった。
  
 吉岡憲が中央線に飛びこんだのは、1956年(昭和31)1月15日の未明で、いまだ40歳の若さだった。この中で「下落合のアトリエ」と書かれているのが、上落合1丁目にあったアトリエのことだろう。最寄り駅は、西武新宿線の下落合駅だったと思われる。
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吉岡憲の画業展2003(いのは画廊).jpg
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 吉岡憲はもうひとつ、『目白風景』とほぼ同時期に描いたとみられる『高田馬場風景』という作品を残している。この画面もまた、描かれているのは当時の地名としての「高田馬場」ではなく、下落合(新宿区)と高田南町(豊島区)の街並みだ。機会があれば、またご紹介してみたい。

◆写真上:1950年(昭和25)前後に描かれたとみられる、吉岡憲『目白風景』。
◆写真中上は、1957年(昭和32)の空中写真にみる『目白風景』の描画ポイント。は、現在の空中写真に当てはめてみたもの。は、1933年(昭和8)に空撮された学習院昭和寮にみる吉岡憲の描画角度。
◆写真中下は、1933年(昭和8)発行の「東京市各区便益明細地図」にみる描画ポイント周辺。は、南側のバッケ(崖)下から眺めた昭和初期の学習院昭和寮の4寮。は、1945年(昭和20)5月17日に撮影された第2次山手空襲Click!直前の描画ポイント周辺。
◆写真下は、1947年(昭和22)に撮影された学習院昭和寮で、敗戦直後は学習院の講義が昭和寮本館で行われていた。は、2003年(平成15)にいのは画廊から刊行された図録『追憶の彼方から~吉岡憲の画業展~』()と吉岡憲()。

下落合の谷間を飛ぶドーリットル中佐2344機。

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 通称アビラ村(芸術村)と呼ばれた下落合の西部、下落合4丁目2257番地(現・中落合4丁目)にアトリエを建てた洋画家・伴敏子Click!は、1942年(昭和17)4月18日(土)の12時20分ごろ、自宅のある丘上から中ノ道(現・中井通り)Click!が通う南へ下りようとしていた。坂道の上まできたとき、目の前をカーキ色に塗られた双発の軍用機が猛スピードで、ほとんど目の高さの低空を飛びながら通りすぎた。飛行機の胴体には、米軍の星マークがハッキリと見えた。
 彼女は最初、なにが起きているのか理解できず、そのまま坂道を下りはじめたようだ。すると、坂下から学生が駆け上ってきた。そのときの様子を、1977年(昭和52)に冥草舎より出版された伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』から引用してみよう。
  
 本土初空襲は土曜日であった。彼女がいつものように家庭教師に出かけるため家を出て、中井におりる坂の上まで来たその時、殆んど目の高さ程の低空の間近かに爆音をバリバリ響かせて、アメリカの星を着けた飛行機が飛んでいる。大学生が一人坂の下から上って来て陽子に云った。/「ありゃ、奥さん大変だ。アメリカんだ」/「空襲!」/二人は夢中で駆け出した。彼女は途中、何事かと往来に出てぽかんとしている町の人達に、/「敵機が来たんですよ、本当の空襲ですよ」/と背を押して壕にゆかせて、ようやく自分の隣組のあたりに帰りついたときに、驚く程近い処で急にサイレンが鳴り出した。あわてふためいたようなその音は、もうどこからも爆音が聞こえなくなっても気が狂ったように鳴り響いてなかなか止まなかった。
  
 ここに登場している「陽子」が、中村忠二の妻である伴敏子だ。第3の視点で書いている小説風の「自伝」なので、彼女は主人公「陽子」と表記されている。
 きょうは、外出先で空襲に遭い自転車の荷台に乗せてもらいながら千登世橋をわたって、子どもが通う落合第一小学校Click!へ駆けもどった高田敏子Click!や、入院先の早稲田の岡崎病院で遭遇した堀尾慶治様Click!の体験談につづき、1942年(昭和17)4月18日(土)のドーリットル隊による東京初空襲について書いてみたい。
 ドーリットル隊の1機が、下落合の妙正寺川が流れる谷間上空で目撃されたことは、先に米国が公開しているドーリットル隊の爆撃コースとは、まったく一致していない。また、鷺宮の真上でも低空で南西へ向けて飛ぶ同隊の1機が目撃されており、これも米軍の飛行コースとは合致しない。そもそも、米軍が立案し実施した作戦飛行のコースが、大きくまちがっている可能性があるのだ。
 伴敏子が目撃したドーリットル隊の1機は、おそらく神田川や妙正寺川の川筋を眼下に確認しながら、武蔵野台地の谷間を縫って飛んでいたと思われる。下落合の坂上から目の高さということは、おそらく地表から15~20mほどの超低空飛行だったのだろう。地表スレスレの低空飛行をしているのは、もちろん日本側からできるだけ発見されにくいよう飛行し、対空砲火や迎撃戦闘機を避けるためだ。伴敏子・中村忠二のアトリエは、目白崖線でももっとも標高が高い37m超の城北学園(現・目白学園)のすぐ東側に建っている。記述されている「中井におりる坂の上」が、どの坂道なのかは不明だが、彼女のアトリエからいちばん近い五ノ坂ないしは六ノ坂だとすると、坂上の地点が36mほどだから、妙正寺川の流れる地表からは約16~17mほどの高度になる。
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ホーネット発艦B25.jpg

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 さて、入院中の堀尾様が遭遇した早稲田の空襲は、ドーリットル隊の1番機「2344機」(作戦図の飛行コースはすべて機体番号によって表現される)によるものであることは、おそらくまちがいないだろう。本来は、水道橋の神田川沿いにある陸軍造兵工廠を爆撃する予定だったが、なぜか同河川沿いの早稲田中学校を攻撃目標として爆撃した。これにより、校庭にいた2名が死亡し19名が重軽傷を負って、50戸あまりの住宅が被害を受けている。2344機は、米軍が発表した爆撃コースによれば、そのまま西南西へ飛び山手線の新大久保駅上空を飛んで、中央線の中野駅南側を抜けていったことになっている。
 一方、尾久周辺を爆撃した2番機(機体番号2292機)は、池袋駅の西側を南南西に飛び、新井薬師駅の西側から阿佐ヶ谷駅上空を通って南へと飛行している……ことになっている。だが、そもそも米軍が公開した爆撃コースの記録図がおかしい。東京の鉄道各線の駅名が、大きく西へズレているからだ。たとえば、中央線の高円寺駅が「中野駅」とされており、「吉祥寺駅」が三鷹駅の2~3駅先(西)に記載されている。つまり、目標となっている鉄道駅(ないしは地名)が、全体的に大きく西側へスライドして記載されている。日米開戦から間もない時期なので、東京市街地についての米軍情報も、また作戦計画も不正確なものだったのだろう。
 これが、爆撃計画コースと実際の爆撃コースとに、どのような影響(錯誤)を及ぼしているかは詳細に詰めてみないと不明だが、鷺宮を超低空で南西へ向けて飛行したB25は2292機(フーバー中尉の2番機)であり、落合地域の谷間を縫うように飛行したB25は、早稲田中学校を爆撃した2344機の可能性が高い。すなわち、伴敏子が目の高さに星マークを視認した機は、西ないしは西南西へ向けて飛んでいたドーリットル中佐が乗る1番機(2344機)だったと思われる。
 東部軍司令部は、12時28分に空襲警報を発令しているが、ドーリットル隊は東京上空をあらたか飛行・爆撃し終えたあとだった。下落合で目撃されたとみられる1番機(2344機)は、その後、9機の戦闘機による迎撃や激しい対空砲火を受けているが、なんとか中国大陸へと脱出していった。また、南南西へ向けて退避した2292機は、戦闘機による迎撃も対空砲火もまったく受けていない。
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横須賀19420418.jpg

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ドーリットル隊横須賀2.jpg

 以下、東部軍司令部が13時15分に発表した「戦果」を引用しておこう。
  
 午前零時30分頃、敵機数方向ヨリ京浜地方ニ来襲セルモ我ガ空地両防空部隊ノ反撃ヲ受ケ、逐次退散中ナリ。現在マデ判明セル撃墜9機ニシテ、ワガ方ノ損害ハ軽微ナル模様ナリ。皇室ハ御安泰ニアラセラル。
  
 東京の市街地では、撃墜されたB25を誰も目撃していないので、さっそく「撃墜9機」は「撃墜クウキ(空気)」と揶揄され、軍の発表がマユツバであることを早くも多くの人々に印象づけている。東京初空襲の「クウキ撃墜」は、この出来事が話題になるたびに、うちの親父もたびたび口にしていた。
 伴敏子の夫・中村忠二は、ラジオから流れる勇ましい大本営発表をそのまま信じていたのに対し、理性的でクールな彼女は、日本の敗戦まで見とおして疑いつづけた。以下、『黒点』から引用してみよう。
  
 しかし景気のよい軍の発表にもかかわらず、事実は段々食い違って、心細いことばかりであった。何だか目隠しをされながら、とんでもない犠牲や背負いきれないような義務を負わされてゆく気がして、/「戦争を始めたのはほんの一握りの人達でしょう。東条さんだけじゃあ戦争出来やしないんだから、なぜもっと本当のことを云わないのかしら。今に、こんなではお砂糖もなくなってお菓子なんか食べられなくなってよ。お米だって足りなくなるでしょうよ」/と(陽子は)悲しい見通しをしていたが、新聞やラジオニュースを鵜呑みに信じていた(中村)忠二は、/「馬鹿野郎、そんな馬鹿な世の中が来てたまるか」/と軍を信頼し、政府に協調し、戦勝を固く信じて疑わなかった。(カッコ内引用者註)
  
 中村忠二は、男たちが少なくなる一方の状況で、池袋の武井武雄Click!と同様に、下落合の防空団役員の「群長」をかってでていた。伴敏子が状況を冷静に分析し、米国との戦争には「敗ける」というと、そのたびに中村忠二は激怒して「勝つ!」といいつづけたようだ。だが、彼女の予測は次々に的中していくことになる。
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 伴敏子・中村忠二アトリエは、二度にわたる山手空襲にも焼けずに戦後まで建っていた。同書には、より徹底したB29による山手空襲の絨毯爆撃も記録されている。1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲Click!は、下落合の西部にまで被害を及ぼす大規模なものだった。東京初空襲からわずか3年後、ふたりのアトリエ周辺では山手空襲による大混乱が起きるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:四ノ坂のバッケ(崖)上から見た、妙正寺川に沿って落合地域の谷間を超低空で飛行するドーリットル中佐のB25(1番機2344)のCGイメージ。下に見えている屋根は、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の手塚緑敏・林芙美子邸。
◆写真中上は、空母「ホーネット」の飛行甲板に並ぶドーリットル隊のB25()と、ホーネットから発艦するB25()。は、米軍が公表したドーリットル隊による東京初空襲の爆撃コース。東京における実際の目撃情報とは、かなり異なっているコースがある。
◆写真中下:ドーリットル隊の13番機=マックエロイ中尉が搭乗する2247機が撮影した、横須賀新港の周辺()とやや南側の安浦町周辺()。横須賀新港から画角を少し左手に向けていたら、巨大なガントリークレーン下で建造中の「信濃」Click!がとらえられていただろう。また、安浦町の海辺は戦後に大規模な埋め立てが行われ、現在は当時の海岸線から一変している。
◆写真下は、第2次山手空襲直前の1945年(昭和20)5月17日に撮影された早稲田界隈。は、同空襲後の5月26日以降に撮影された同所。

岩松淳(八島太郎)と飯野農夫也の漫画論。

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 先年、八島太郎展実行委員会の山田みほ子様Click!より、八島太郎(岩松淳)Click!に関連する貴重な資料類を再びお送りいただいた。すでにご紹介しているが、テレビ東京で2010年(平成22)3月12日(金)に放映された、八島太郎をテーマとする『世界を変える100人の日本人』のDVDは、生涯にわたり徹底して反戦思想を貫いた彼の軌跡を描いたドキュメンタリーとしてとても貴重だ。
 すると、しばらくして飯野農夫也Click!のご子息であり、飯野農夫也画業保存会Click!の飯野道郎様よりご連絡をいただき、同保存会と八島太郎展実行委員会の山田様とがつながった。Webならではの、このような連携やコミュニケーションのダイナミズムがとても面白いのだが、さらに、豊島区のトキワ荘通り協働プロジェクトの小出幹雄様Click!からは、長崎町大和田1983番地(のち豊島区長崎南町3丁目)にあった造形美術研究所Click!プロレタリア美術研究所Click!へと推移する中で、同研究所に設置されたマンガ講座Click!について紹介するエッセイをお送りいただいた。
 豊島区の長崎地域は、戦後を代表するマンガ作品が創作された中心地というばかりでなく、戦前においても師弟関係を前提とする“私塾”ではなく、日本初の専門学校形式による環境でマンガ講座が開設されていた、マンガ家とはゆかりの深い地域なのだ。それらの事蹟が、改めて今日的な視点で脚光をあびるのが素直にうれしい。小出様の原稿は、手塚治虫ファン誌といわれているらしい月刊「広場」に掲載される予定とうかがっている。
 そして、同研究所(1932年より東京プロレタリア美術学校へ改称)でポスター講座とマンガ講座を担当していた講師が岩松淳(八島太郎)Click!であり、同研究所の事務所に住みこみ管理業務を担当していた画家・飯野農夫也とは、「漫画論」をめぐって頻繁に手紙のやり取りをしている。飯野は画業のほか、1937年(昭和12)からマンガの研究誌である『漫画研究』(茨城漫画派集団)や『漫画の国』(日本漫画研究会)などへ批評を寄稿する、マンガ研究家ないしは評論家としての側面ももっている。
 飯野が岩松淳(八島太郎)について書いた、「続々形式の獲得――『漫画家修行』と岩松淳」が収録された、1994年(平成6)出版の『1930年代――青春の画家たち』(創風社)から引用してみよう。この当時、岩松淳は「漫画の国」や「東京パック」などを舞台に作品を発表しつづけていた。彼の『漫画家修行』は、「漫画の国」に連載されている。
  
 岩松氏の「漫画家修行」には腹をかゝへて笑はせられた、仲々笑ひがとまらなくて弱った。私は五月号までしか見てゐないけれども、他日、この「真実追求マニヤ」とも云ふべき好少年が成長してやがて中学生になり、画学生になり、プロ漫画家になって縦横の活躍をするだらふことを考へそゞろに愉快を禁じ得ないのである、(中略) こゝまで客観的につきつめる態度に何よりも敬意を感ずる、この少年の環境、少年の性格、周囲に対する純真な批判がそくそくと我々の胸に迫る。これによってみるとこの少年の学んだ小学校は、かなり活気があったらしい、私の村の小学校は今ちゃうどこの位のやうに見受けられる、私が学んだ頃はこの南海辺の小学校より非常に非常に遅れてゐた、商船に入るやうな少年も居なかったし、詩歌雑誌を作る先生も居なかった、只私も村の名流の一族の子であったから、先生に重箱持って行った経験や、先生達がよく家で飲んだことがあるのでこの少年にすこぶる同情が持てる、少年にとっては実際こんなことはすこぶる不可解な、くそ面白くない仕業なのである。この南海辺の村は私の村より貧富の差が甚だしかったやうだ。
  
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 この批評文は、飯野が茨城で発行されていた『漫画研究』に掲載したもので、彼は同号を岩松淳(八島太郎)あてに送っている。おそらく、批評の対象となっている連載マンガ『漫画家修行』は、岩松が少年時代を送った鹿児島でのエピソードを作品化したものだと思われるが、憲兵隊Click!によって物理的に破壊されたプロレタリア美術研究所(東京プロレタリア美術学校)時代からの旧知の間柄であるせいか、飯野の表現にはどこか気やすさが感じられる。
 飯野農夫也は、岩松淳の作品を継続して読みつづけていたらしく、同時期に制作された一水会用のタブローや挿画なども含め、「漫画の国」の『漫画家修行』についても「ぎこちなさ」を克服して、こなれた表現に進化したと大きく評価している。その背景には、飯野が指摘するように膨大なスケッチやデッサンを繰り返し集積することによって得られた、「動的なリアリズム」とでもいうべき活きいきとした画面表現を、岩松淳はすでに獲得していたのだろう。つづけて、同書より飯野の批評を引用してみよう。
  
 これは岩松氏の唱へる諷刺画論の実証的な作品であらふ、そして恐らくは客観的な観照の上に立った唯物論漫画としての歴史的な価値を持つものであらふ、私はまだ岩松氏の諷刺画論の全貌に接し得ないが、『もう一つの問題』で言ふやうに漫画――諷刺画が進歩的漫画へ直ちに通じる道であるなら、私はその意見に与し得ないのであるが(中略)このレアリスチックな笑ひは是認出来る。/加藤悦郎氏が嘗て私に「岩松は漫画家でなくあれは学者だ」と言ったのを思ひ出した、それは漫画家と言ふものゝ素質について云ったのであらふが、かく言ふ加藤氏の認識論には誤があるし、そこに加藤氏その人の後退性がある。岩松淳は天性的な漫画家である、(後略)
  
 だが、飯野農夫也は岩松の『漫画家修行』を読みつづけることができなかった。「漫画の国」に特高Click!の検閲係からの圧力がかかり、同作は執筆禁止の処分を受けた。そればかりでなく、岩松淳(八島太郎)は同誌へ文章を寄稿することさえ禁止されている。
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椋鳩十「ヤシマ、タロウ」1956.jpg

 この批評に対し岩松は、「諷刺画が進歩的漫画へ直ちに通じる道である」という飯野の「仮説」は、言葉の規定が不十分でありより詳しく論じてほしいとしたうえで、飯野あての手紙で次のように書いている。
  
 感想なり論文なりでも、うれしいこと、怒らないでおれないこと、かなしいこと、ともかくすべてをリアリチックに述べきることが第一だと思ってゐます。/これは自分の自己批判から来てゐることなのです。指導しようとして、実質がこれに伴はないものは、実際滑稽だし、そういふ経験を残すことは、もう御免ですからねえ。/すなほに、「進歩しつゝある」自分の姿を正確に正直に押し出しきること、これが一番自分にとっても必要であり、他にも最大に学び得るものだのだと思ひます。/私の「長編」はもう描けない事になりました。理由は、貴君は想像できるでせう!/それから貴君のリアリズム論は、「異議がある」といふ事が提出されてるだけだから、その事を具体的に述べられないことには、私からは何も申上げられません。/「一つの問題」の中で、私はリアリズムの三つの条件を述べてゐます。その一つを抜きにして、過去のリアリズムを受取ることも出来ねば、今後自分の漫画-風刺画家としての生活を実質的に打建てることも出来ないと思ってゐます。もう一度くり返し読んで下さる事を御願ひします。
  
 岩松惇(八島太郎)による漫画論の“本論”や、連載された『漫画家修行』の作品自体に目を通していないのでわかりにくいのだが、マンガの世界Click!でもある時期の絵画や文学と同様に、何度となく繰り返された「リアリズム」をめぐる論議が、この当時までつづいていたのがわかる。それは、「人間」一般をどのように捉えるかというような抽象的なテーマではなく、目の前にある現実(社会)の枠組み(システム)の中へ組みこまれて生きる(生きざるをえない)人間を、どのような関係性の上でとらえ、位置づけて描くのか?……という意味での、「リアリズム論」をめぐる議論だったのだろう。
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 先の手塚治虫ファン誌といわれている月刊「広場」に、小出様のエッセイで岩松淳(八島太郎)のネームが登場するのは、改めて非常に大きな意味を持つと感じている。憲兵隊や特高による弾圧の嵐の中、マンガで「反戦」を訴えつづけた戦前の岩松淳(八島太郎)と、戦争でなにもない焼け野原から出発し、「反戦」マンガを多く描きつづけた戦後の手塚治虫Click!とが、同じ長崎(椎名町)地域において1本の経糸上でつながるからだ。ふたりは、戦前と戦後の時代こそちがえ、プロレタリア美術研究所とトキワ荘Click!という、わずか150mほどしか離れていない同じ地域のごく近所で仕事をしていた。そして、年を経てから撮影されたふたりの面影は、期せずして、どこか似ている。

◆写真上:1974年(昭和49)に、米国のアトリエで制作された八島太郎『春』。
◆写真中上は、山田様よりお送りいただいた2010年(平成22)3月12日にテレビ東京で放映された『世界を変える100人の日本人-八島太郎』のDVD。下左は、1935年(昭和10)の「東京パック」に掲載された岩松淳(八島太郎)「平和の取引」。下右は、1974年(昭和49)制作の八島太郎『秋』。
◆写真中下は、1963年(昭和38)12月26日に八島太郎から山田家へとどいた手紙の一部。は、1956年(昭和31)に米国を訪問した椋鳩十の直筆「ヤシマ、タロウ」。原稿を読むと、一水会に所属していた須山計一Click!の紹介で椋鳩十は八島太郎を訪ねている。
◆写真下は、1963年(昭和38)の空中写真にみるトキワ荘とプロレタリア美術研究所跡の位置関係。は、マンガが共通項の八島太郎()と手塚治虫()。

一年の計は下落合の春にあり。

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 下落合858番地に、安井息軒の孫にあたる最後の儒者といわれた安井小太郎が住んでいる。陸軍元帥だった川村景明邸Click!の小道ひとつ隔てた西隣りの家で、当時は下落合字本村と呼ばれたエリアだ。明治期までは「摺鉢山」Click!という小字が残った、下落合摺鉢山古墳(仮)Click!を想定している後円部の南西端に位置する敷地だった。いまの下落合でいうと、聖母坂を下りきった交番前にある、新目白通りとの交差点そのものが三計塾(=安井小太郎邸)の敷地だ。
 江戸後期になると、儒学系の学問は江戸幕府が林家を通じ初期官学として指定した、朱子による儒教解釈(通称・朱子学)への批判が一般化した時期にあたる。幕末に、幕府の昌平坂学問所(昌平黌)Click!に登用された安井息軒もそのひとりであり、彼は学問のための学問化した朱子学(偏学)を激しく批判し、より実用的な儒学(実学化)を提唱した中心的な存在だ。安井息軒は、原典の「四書五経」(不在の「楽経」を数えれば六経)や「論語」など、中国の古典を改めて読み解く『論語集説』や『管子纂詁』、『左伝輯釈』といった考証的な解説書を著している。
 また、安井息軒が特異な存在なのは、一方で中国の戦国時代において法治主義を唱えた法家思想と儒学とを融合しようと試み、江戸期から明治維新へと向かう過程で近代法学への下地を形成した点だろうか。したがって、安井息軒の弟子のなかで、明治以降に活躍した人物には政治家や軍人が数多い。たとえば、下落合の安井小太郎邸から北西へ100mほどのところ、下落合1218番地に住んだ陸軍軍人で政治家であり、学習院院長もつとめた谷千城Click!は息軒の愛弟子のひとりだ。
 これはわたしの推測にすぎないが、明治初期から下落合に住んでいた谷千城は、安井家の跡を継いだ安井小太郎を、下落合の近所に住むよう勧誘しているのではないだろうか。1911年(明治44)に死去する谷千城だが、自身の師の孫にあたる安井小太郎のうしろ盾として、安井息軒なきあとの三計塾を支えていたのかもしれない。『東京近郊名所図会』によれば、安井邸には江戸期から変わらずに「三計塾」の扁額が架かっていたようだ。
  
 本村より小上に至る沿道は南に水田を控え、北は高地に倚(よ)れるを以て一見別荘地に適す。されば徳川邸の外ここに居を卜するもの二三あり、其の他なお工事に着手し居るを見る。安井小太郎氏の三計塾は徳川邸の前通りに在り。
  
 そのような視点で、下落合の安井邸や谷邸の周囲を見まわすと、三計塾の開講から数えると総数が2,000人といわれる安井息軒の弟子たちが、ほかにも多く見つかるような気がしている。谷千城は、息軒が開いていた三計塾Click!を政治家の養成所だと位置づけていたようだ。ほかにも息軒の弟子には、陸奥宗光Click!をはじめ、品川弥二郎、三浦安、石本新六、明石元二郎、黒田清綱、井田譲、島本仲道、雲井龍雄など、明治以降の政治家や軍人たちの名前がかなり多い。これは、息軒が政治や軍事に関心を寄せ、多くの実用的な書物を残したことによると思われる。
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 淀橋区への編入を機会に、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」から、安井小太郎の項目を引用してみよう。
  
 従四位勲四等  安井小太郎  下落合八五五
 碩儒安井息軒先生を祖父として安政五年を以て出世す、夙に漢学を修め明治二十年帝国大学文科大学哲学科を卒業、爾来第一高校、学習院、東京高師、文理科大学、北京大学等に歴任して薀蓄を傾け、今尚大東文化学院、駒大教授、二松学舎督学たり、資性温穆、真摯なる学究的態度、典雅なる人格は己に定評のあるところ、世人の尊敬を一身にあつめてゐる。(中略) 因に氏は曩に御恒例御講書始の儀に進講者たる名誉を担はれてゐる。
  
 さて、日向国(宮崎県)宮崎郡清武村の飫肥藩から江戸へとやってきた安井息軒は、江戸市中を転々とする引っ越し魔だった。しばらくすると、三計塾を開設・経営しているのだから、ひとつの場所に落ちついて塾生を集めるのが合理的だと思うのだが、江戸期から明治期にかけて息軒は都合20回以上の転居をしている。その足跡を追いつづけたのだが、途中でイヤになってあきらめた。転居先20数ヶ所というのは判明しているだけで、おそらく短期間だけ住んでいた住居も含めると、転居回数はもっと増えるのではないか。
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 暮らしが貧乏で生活が苦しかったせいもあるのだろうが、江戸へやってきた当初は家族を宮崎に残したままの“単身赴任”だったため、転居が身軽にできたせいもあるのだろう。住みなれた五番町から、上二番町へ転居した時点で三計塾を開くのだが、このとき初めて宮崎郡清武村の実家から妻の佐代夫人を呼び寄せている。このあたりの事情は、1914年(大正3)に執筆された森鴎外の『安井夫人』に詳しい。
 まず、江戸へ出てきた息軒は昌平黌へ通うために、飫肥藩伊藤氏の千駄ヶ谷にあった下屋敷に住んでいる。だが、すぐに外桜田にあった同藩上屋敷に移り、蔵書が多く公立図書館のような役割りをはたしていた芝増上寺の金地院へと転居。以降、五番町→上二番町(「三計塾」開設)→小川町(神田)→牛込見附外(神楽町)→麻布長坂町(永坂町)→外桜田(上屋敷)→番町袖摺坂→隼町→番町→麹町善国寺谷→下谷徒士町(御徒町)→外桜田(上屋敷)→半蔵門外(麹町一丁目=海嶽楼)→外桜田(上屋敷:明治維新)→千駄ヶ谷(下屋敷)→王子領家→代々木(彦根藩下屋敷)→外桜田(上屋敷)→土手三番町……というようなめまぐるしさだ。この中で、漏れている転居先も数多くあるのかもしれない。
 安井息軒は、おそらく明治維新の激動が見えていたのだろう、66歳のときに幕府から陸奥の領地6万4千石の代官に任命されるが受けず、そのまま江戸で隠居生活を送っている。三計塾の安井家は、息軒の娘・須磨子が産んだ長女夫婦に一度は継がせたが、ふたりともほどなく早世したため、改めて須磨子の息子である小太郎が跡を継ぐことになった。安井家=三計塾が下落合へとやってきたのは、おそらく明治の中ごろになってからのことだろう。ちなみに、安井小太郎の著作には『論語講義』や『日本儒学史』などがある。
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飫肥藩下屋敷(千駄ヶ谷).jpg
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 安井息軒というと、「一日の計は朝にあり、一年の計は春にあり、一生の計は少壮時にあり」の文字どおり「三計」があまりにも有名だ。いまでも、「一日の計は朝にあり、一年の計は元旦(春)にあり」という表現が、そのまま慣用的につかわれている。わたしがいちばん苦手な、起きぬけで寝ぼけた「朝」や花粉症の「春」に、重要な「計」など立てられるわけがないので、とても儒学などまともに学べそうにはない。

◆写真上:聖母坂下の交番前、下落合858番地にあった安井小太郎邸(三計塾)跡の現状。
◆写真中上上左は、幕末の代表的な儒学者・安井息軒の肖像。上右は、その孫にあたる下落合に住んだ安井小太郎。中左は、安井息軒の愛弟子だった同じく下落合の近所に住んだ谷干城。中右は、1870年(明治3)に刊行された安井息軒『管子纂詁』。は、安井息軒が教えていた昌平黌(昌平坂学問所)のいまに残る江戸期のままの築地塀。画面の右手奥に見えているのは、ニコライ堂(東京復活大聖堂教会)の大ドーム。
◆写真中下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる安井小太郎邸と谷干城邸の位置。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる安井邸。地番変更で、安井邸は下落合855番地となっている。は、湯島聖堂(昌平黌)の大成殿。
◆写真下:安井息軒が暮らした江戸の町々で、それぞれ千駄ヶ谷の飫肥藩下屋敷(上左)、芝増上寺境内にある金地院(上右)、海嶽楼と呼ばれる2階のあった半蔵門外の麹町(下左)、牛込門(見附)外の神楽町(下右)。いずれも、尾張屋清七版の江戸切絵図より。

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