Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all 1249 articles
Browse latest View live

自宅を西へ引っぱった矢田津世子邸。

$
0
0

矢田邸跡1.JPG
 やはり、下落合4丁目1982番地にあった矢田邸は、改正道路(環6=山手通り)Click!の工事計画にひっかかり、住宅自体を敷地の西隣りへと引っぱっていた。改正道路工事にひっかかったのは、矢田邸が建っていた敷地の大半で、現在は山手通りの8m歩道から見上げる、切り立った一ノ坂の崖上になってしまった位置にあたる。
 矢田津世子Click!が下落合1986番地の家から、南へと下る同じ坂沿いのすぐ下にある下落合1982番地の借家へと引っ越したとき、吉屋信子Click!は転居祝いに彼女へ麻の白いスーツを贈っている。でも、新たな家へ移ってから、わずか1年足らずのうちに改正道路工事が本格化し、自邸の位置を西へ20mほど移動させるために、仮住まいをしなければならなくなってしまった。
 矢田邸が移動したすぐ西隣りの土地は、矢田家へ借家を貸していた添川家が建っていた敷地で、大家の添川共吉が自邸を解体してよそへ引っ越し、矢田家へ敷地をゆずって便宜をはかったかたちだ。改正道路の工事がスタートする前まで、添川邸があった敷地は下落合1985番地で、矢田邸のあった位置が下落合1982番地だったが、工事によって矢田邸の敷地が消滅すると、すぐに行われた地番変更で矢田邸が移動した西隣りの敷地が、新たに下落合1982番地へと変更された……という入り組んだ経緯だ。
 つまり、矢田家は工事がスタートした1940年(昭和15)6月に下落合(4丁目)1982番地から、仮住まいのあった下落合(4丁目)2015番地へと一時的に転居し、1941年(昭和16)3月に西隣りへ移動した自邸のある下落合1985番地へ帰ったことになる。しかし、ほどなく実施された地番変更で、矢田邸は再びなじみのある元の地番=下落合1982番地へともどった……ということになる。ちなみに、母や兄とともに転居した仮住まいの下落合2015番地は、金山平三アトリエClick!の真下(南側)にあたる位置で、二ノ坂と三ノ坂にはさまれて、大正末にひな壇状に開発Click!された急斜面の住宅地だ。現在でも、周囲には昭和初期に建設された邸をあちこちで見ることができる。
 また、敷地をひとつ西へと移動するだけなのに、年をまたがって9ヶ月もの工期を要したのは、旧・添川邸の敷地が矢田邸よりも、数メートル高い位置にあったからだ。だから、厳密にいえば家を浮かせて下にコロをかい、西へと単純に引っぱっているのではなく、家の一部は重さを軽減するために解体されて、西の高い敷地へ移築されているのかもしれない。
 改正道路(山手通り)の工事により、斜面の南東や南側へと下る陽当たりのいい斜面に建てられたはずの家々が、今日、大通りに面した断崖上の敷地になってしまったお宅も多い。矢田家も、そんな邸のひとつだった。一ノ坂からやや東側に引っこんだ、現在では山手通りのためにほとんどすべてが消滅してしまった、途中に独特な屈曲やカーブのある細い路地状の坂道に面していた矢田邸は、戦後、山手通りの開通による交通量の急増とともに、クルマの騒音に悩まされただろう。もっとも、矢田津世子Click!は改正道路の工事は知っていたものの、それが山手通りと名づけられ交通量が激増する戦後を知らない。
 ここに、1枚の写真が残されている。滑らないようコンクリートで階段状に舗装された、一間ほどの細い坂道を歩く着物姿の矢田津世子をとらえた、めずらしい貴重な写真だ。1939年(昭和14)ごろ、自邸の近くで撮影されているので、下落合1982番地に引っ越したばかりのころの1枚だ。坂の両側は緑が濃く、敷地が広そうな家々が建っており、坂下へいくにしたがって濃い樹木が繁っているのがわかる。矢田の背後には、枝を伐ったケヤキと思われる大樹が生えているが、右端に葉のない枝がみえているので、矢田津世子の装いも勘案すると、晩秋か初冬のように思える。下落合1982番地への転居は1939年(昭和14)7月なので、この写真は同年の秋に撮影されているのではないか。はたして、この坂道は下落合のどこなのかが、きょうのテーマだ。
矢田邸跡2.JPG 矢田邸跡3.JPG
矢田津世子(下落合1982).jpg
 ちょっと横道にそれるけれど、モノクロでわかりにくいが矢田津世子の装いが渋くて美しそうだ。華やかな彼女には、ぴったりの着物だっただろう。彼女は洋装が多かったけれど、着物も多く持っていたらしい。そのあたりの好みを、1978年(昭和53)に講談社から出版された、近藤富枝『花蔭の人 矢田津世子の生涯』から引用してみよう。
  
 (帯の)一本は金茶つづれ地に刀の鍔の刺繍である。この鍔のなかには、牡丹に唐獅子、さやがたのなかに桜、亀甲に宝づくし、松にもみじなどの柄がはめこまれてある。これが刺繍かと驚ろくほど、緻密な針のあとに、私は感動した。帯のたれの部分に友豊と署名があり、稲葉の印がおしてある。/もう一本は、あずき色繻子地に、松に千鳥のおとなしい柄が、品よく刺繍してあるもの。なお刺繍の色調はすべて、うす茶、ねずみ、ひき茶など落ちついた渋さで統一されている。/どちらの帯も、津世子遺愛の品で、彼女が生前愛したという地味な織りの着物に、よく似合ったと思う。大島などには金茶地を、津世子好みの琉球絣やお召などには、あずき色の帯がふさわしかったにちがいない。(カッコ内引用者註)
  
 この一文で、矢田津世子が徹底した江戸東京の美意識や色彩趣味、すなわち日本橋の“すずめ色”Click!を踏襲し体現していた様子がうかがえる。しかも、遺愛の帯には日本橋室町(駿河町Click!)の後藤家などが武家の道具に多用した、金工細工の絵柄刺繍がほどこされているという徹底した凝りようだ。わたしの祖父母の前に彼女が立ったら、目を細めて「イキだ、美しい!」と絶賛したことだろう。矢田津世子の江戸趣味に、メロメロになった地元の男たちも少なからずいたにちがいない。
 さて、矢田津世子が琉球絣と思われる着物姿で立つ、このようなカーブを描き階段状に舗装された細い坂道を、わたしは下落合でかつて一度も見たことがない。坂道を舗装して、コンクリートの階段状にしなければならないほど、傾斜がかなり急な崖状のバッケ坂Click!だ。雨でも降れば、滑らずに通行するのが困難だったので、当時としては珍しく階段状にコンクリート舗装をしたものだろう。
 矢田邸が接していた門のある東側には、先述のように現在では山手通りの貫通によってほとんど消滅してしまった、いまでは名前さえ不明な細い坂道が急斜面に通っていた。また、矢田邸の西側には、大家の添川邸をはさんで、一ノ坂が中ノ道(現・中井通り)へと下っている。ただし、改正道路工事のために1941年(昭和16)3月からは、西隣りの旧・添川邸の敷地へ家ごと引っぱっているので、矢田邸は一ノ坂に面した家となっている。
矢田邸1936.jpg 矢田邸1941.jpg
矢田邸1947.jpg
矢田津世子邸1960頃.jpg
 つまり、矢田津世子が立っている坂道は、矢田邸の東側に接した細いバッケ坂か、1本西側に通っていた一ノ坂の、とちらかの可能性が高いということになる。ちなみに、矢田家が下落合1982番地へ引っ越してくる前に住んでいた下落合1986番地の家もまた、この改正道路の工事で消滅した名もない細いバッケ坂筋に面していた。だから、いまでは南半分がすっかり山手通りに削られて存在しない、下部がかなり急な傾斜だったと思われる一ノ坂の可能性も残るが、いまだ矢田邸が一ノ坂に面していなかった時期に撮影された写真ということから、南側の大半の道筋が消えてしまった、矢田邸東側の接道=細いバッケ坂のように思えるのだ。
 その根拠は、一ノ坂の中腹から下は早くから宅地開発され、1936年(昭和11)や1941年(昭和16)の空中写真をみても、ほぼすべての森林が伐採され造成された宅地に家々が建てこんでいること、また一ノ坂は三間道路の延長であり写真ほど道幅が狭くなかったこと、さらに、一ノ坂の下がコンクリートの階段状になっていたとは一度も聞いたことがないこと……などから勘案すると、この坂道はわたしがかつて一度も見たことのない、1944年(昭和19)までに大半の道筋が改正道路の掘削工事で消滅してしまう、一ノ坂と振り子坂Click!にはさまれた細い坂道、すなわち途中に特徴的な屈曲部のある、緑の濃い急斜面に通っていた細いバッケ坂ではなかったか。
 この坂道は、1941年(昭和16)の空中写真では確認できるが、1944年(昭和19)にはすでに消滅している。したがって、おそらく戦争がそれほど激しくならず、いまだ工具や作業員などが不足せずに工事がつづけられた、1942~43年(昭和17~18)あたりに斜面ごと崩されていると思われるのだ。
 矢田津世子の写真を観察すると、坂が下っていくにしたがい右手へカーブしているのがわかる。「火保図」が作成された1938年(昭和13)、すなわちこの写真が撮影される前年の住居表示にしたがえば、右手に見えている家が中田邸の東隣りにあたる下落合1925番地の住宅であり、この家に隠れた坂を曲りなりに下った右手には、宮崎邸が建っているはずだ。また、矢田津世子の左側に見えている住宅の入り口は、下落合(3丁目)1778番地の家の1棟であり、この坂道は丁目の境界に設定されており、彼女の右手が下落合4丁目、また彼女の左手が下落合3丁目ということになる。カメラマンは、矢田邸を出て津世子とともに坂を20mほど下り、坂を上ってくる彼女の姿をとらえたかったのだろう。下落合1982番地の矢田邸は、カメラマンの背後、10mほどの坂上にあると思われる。
矢田邸1938.jpg
矢田坂1.JPG
矢田坂2.jpg
 さて、この坂道に名前がないのが、これから記事を書くうえでは非常に不便だ。したがって、下落合の南斜面に通う振り子坂と一ノ坂にはさまれた、山手通りでほとんど全的に消滅してしまったこの坂道のことを、これからは矢田津世子にちなんで、便宜上「矢田坂」と仮称することにしたい。彼女が下落合に住むようになってから、彼女のもとへ求愛に訪れた男たちは、先の近藤富枝の表現によればあまりに多すぎて「数え切れない」。よほど魅力的な男でないかぎり恋愛はせず、静かで上品だがキッパリと「やだ! やだ!」と断りつづけ、37歳で死去するまで生涯独身のまま文学に精進しつづけた、秋田女性の一本気で真摯な彼女は、あの世で「やだ!坂」に微苦笑してくれるだろうか。

◆写真上:改正道路(山手通り)工事で、崖上になってしまった矢田邸跡の現状。
◆写真中上は、一ノ坂の下から()と上から()見た矢田邸跡。は、1939年(昭和14)の晩秋に撮影されたとみられる下落合の矢田津世子。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合1982番地の矢田邸予定地()と、1941年(昭和16)に大家の添川邸跡へ移動後の矢田邸()。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる矢田邸とその周辺域。改正道路(山手通り)工事は戦時中に進み、敗戦時はすでに「矢田坂」は存在せず谷状に深く掘削されていた。は、1960年(昭和35)ごろに山手通りの「中井駅」バス停から撮影された矢田邸。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合1982番地に採取された矢田邸と、矢田坂で撮影された矢田津世子の想定位置。は、現在の山手通りの上空へ消滅してしまった「矢田坂」の位置を描き入れたもの。


宝塚が響く昭和寮の庭は荒れ放題。

$
0
0

昭和寮11.JPG
 学習院昭和寮Click!の本館内、あるいは付属する共有施設の管理は、学生の自治運営に委任されていた。本館では娯楽室と談話室が、本館周囲では庭園が学生たちの管理対象であり、年に一度の担当委員が選出されている。また、発行人は同寮の舎監だった馬場轍となっているが、寮誌「昭和」Click!の編集・発行も学生が主体となって行っていた。これらの委員(「主任」とも呼ばれる)は、いわゆる寮務委員(寮長)とは異なる役務で、年度ごとに選出されている。
 それぞれの担当委員には、かなりの自由裁量が許されていたようで、いわば“役得”から自分の好きな趣味を施設へ反映できたらしい。たとえば、娯楽室では自分の趣味に合うレコードを集めたり、庭園には好きな草花を植えたり、あるいはまったく手をつけずに野草の生えるままにしたり(要するにサボって放置したり)と、いい加減で好き勝手ができたようだ。
 1933年(昭和8)2月に発行された「昭和」第8号には、娯楽室委員あるいはその仲のいい学生たちに濃い宝塚ファンがいたものか、宝塚のレコードがやたら増えたことが報告されている。このころのスターは、わたしがおばあちゃん役しか知らない葦原邦子だろうか。同誌の「寮だより」Click!につづいて記録されている「娯楽室報告」から、その一部を引用してみよう。
  
 今丁度夕食が終つた頃です。一寸娯楽室を訪れて見ましよう。凡そ娯楽室にそなへつけられて居るものすべて使用されております。ピアノとヴアイオリンの二重奏、ピンポン、闘球盤、碁、将棋、U・S・W・ 午後六時頃の娯楽室は全く楽しさと親しさのオーケストラです。こゝにももうぢ(ママ:じ)きスチイームが通るでしよう。暖さと楽しさは将に飽和に達しようとして居ます。/レコード、二学期は学校でもいろいろな催物がありました、輔仁会、運動会、これらにも昭和寮のレコードは非常に効果的でありました。蓄音機も大分年をとつた様です、しかしまだまだこちらの使ひ様一つで長生をするでしよう。レコードも出来るだけ御希望に沿つたものを購入するつもりです。今学期は妙に宝塚が多くなりました。といつて決して主任どもが宝塚からも蓄音機屋からも月給はもらつて居りません。やつぱり何となく面白いので買つてしまひます。
  
 「闘球盤」とは、どこかビリヤードに似た盤上ゲームのことで、今日では廃れてしまって見かけない。「U・S・W・」はドイツ語und so weiterの略で、ラテン語のet ceteraを略した「etc.」と同様の意味だ。
 娯楽室には、ピアノやヴァイオリンなどの楽器類が常備されていたのがわかる。この報告は、寒い日々がつづく第8号〆切まぎわの1932年(昭和7)11月に書かれたと思われるので、盛んに「スチイーム」のことが書かれている。同年の冬、本館の各室にはスチーム暖房を導入する工事計画が進められていたようだ。
 楽器や蓄音機などの大きな買い物は、舎監への申請が必要だったと思われるが、レコードライブラリーは学生が好き勝手にそろえていたらしく、おそらく娯楽室主任が変わるたびに“趣味”が変わっただろう。宝塚のほかはクラシック音楽が主体だったと思われ(近衛秀麿の録音盤がそろっていたかもしれない)、まちがっても長唄や清元、流行歌、芝居、講談に、広沢虎造といったレコードはなかったにちがいない。
昭和寮12.JPG
昭和寮15.JPG
 次に、談話室の主任報告を聞いてみよう。談話室にはラジオが備えられており、人気番組のときは寮生たちが集合していたらしい。学習院昭和寮で人気が高かったのは、野球とラグビーの早慶戦だ。談話室にはバーがあるので、寮生たちはコーヒーを飲みながらラジオで観戦(聴戦)していた。同誌の「談話室報告」から、短いので全文を引用してみよう。
  
 「打ちました打ちました ヒットヒット此れで早慶同点試合は愈々白熱化して来ました、観衆は――」/秋のスポーツの王座早慶野球戦又は肉弾相打つラグビー試合の中継放送 夜は演芸効(ママ:放)送を熱いコーヒーを飲みながら聴くのも悪くはありませんね。/冬も近くなりましたが今年はおでんをやめて田中屋を入れようと思ひますから、精々食べてやつて下さい。
  
 前年までは、おでん屋が昭和寮本館に出店していたらしいが、1932年(昭和7)の冬から「田中屋」にスイッチしたようだ。このように、昭和寮談話室に設置される出店も学生たちが決めていた。さて、田中屋とはなにを扱う飲食店だったのだろうか? 当時の広告類や地域地図を片っ端から探してみると、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」に、飲食店らしいほぼ唯一の田中屋を見つけることができる。ちょうど当時の目白駅前、つまり目白橋の西詰めに位置する店舗で、場所がらから蕎麦やうどんなど麺類を食べさせる店のような風情だ。食べ盛りなので、とても寮の食事だけでは足りなかった学生たちも多かったろう。
 この時代、スポーツでもっとも人気が高かった試合は、大学の野球Click!にラグビー、レガッタ(隅田川ボートレース)の早慶戦だった。ラジオでは、必ず実況中継が行われている。1932年(昭和7)の試合は、レガッタの早慶戦が4月29日に行われ早稲田大学の勝利、野球では東京六大学野球の春のリーグ戦で、法政大学が米国への海外遠征で不在となり、また早大も出場を辞退したため早慶戦は実現せず、東京帝大が「3位」に入賞している。(4位は明治大学だったが、東大は現在でもこの成績を超えられていない) このとき、優勝したのは慶應大学Click!だった。秋の大会には6大学がそろい早慶戦も実現して、おそらく慶大が勝利している。(優勝は法大、2位が慶大で3位が早大だった) ラグビー早慶戦の試合は11月23日に行われ、33対5で早大が圧勝している。ちなみに、当時の談話室主任は伊藤という学生だった。
昭和寮13.JPG
昭和寮14.JPG
 さて、「昭和」第8号には「園芸だより」と題する、庭の手入れをまかされていた学生の報告も掲載されている。庭の管理をする園芸委員は、報告を書いた松平(おそらく徳川家の姻戚だろう)と、もうひとりの学生のふたりだったが、とうに花期をすぎて初冬を迎えた荒廃をつづける庭園を前にして、ついに完全に開きなおった。
  
 最早冬風も身に澄み渡る此の頃寮の花壇は一向花らしいものもない。唯百日草だけが一人ボツチなんとなく咲いてゐる。一体園芸係は何をしてゐるんだ。そこで我々といつても二人はこの二学期始まつて以来、およそ今日に至る間、あの花壇の花、又は土にその手を触れたことは、数へるばかり、そして、反つて、それを誤りとするぐらゐ。その怠慢なる事はもう遠くに過ぎて、まるで他人の家の花壇みたいな気だ。故にそんな事でどうするかとの度々のお叱りでもはや何で(ママ:に)も感じない程である。しかし、本当に去年の秋から比べると実に、寂莫たるものがある。実に吾々の全く手の行きとゞが(ママ:か)ない所に深く深くお詫びをします。がも早や今学期は残り少くなりました。故今学期は、このまゝお許しを願つて来学期よりは、新なる一大決心と努力を以つて寮の花壇のために尽します。
  
 半分投げやりな、こんな文章を書いておきながら、きっとふたりの学生は厳冬の三学期に花壇の手入れをすることなど、ついぞなかっただろう。土いじりをしながら花を育てるなど、華族の子弟にしてみれば庭師か“女子ども”の仕業だと思っていただろうから、園芸委員に選出されたこと自体が“他人ごと”であり、その自尊心から当初よりやる気がなかったのかもしれない。
葦原邦子.jpg 近衛秀麿.jpg
最後の早慶戦19431016.jpg
田中屋1926.jpg
 寮誌「昭和」をはじめ、寮の設備や備品を購入するために学生からは寮費が徴収された。3ヶ月に一度のサイクルで、1回に3円、1年間で12円が徴収されている。たとえば、1932年(昭和7)の1月から3月までの寮費は、寮生が43人だったため合計額は129円となっている。ただし、寮費の予算では賄いきれない出費があると、学生たちからそのつど臨時徴収をしていたらしく、同年1月~3月の臨時徴収額は14円62銭だった。また、学習院OBからのカンパもあり、同誌には目白へ引っ越してきたばかりの徳川義親Click!から10円が寄付されている。

◆写真上:昭和寮本館の南側で、花壇は寮棟との間と本館西側にあったと思われる。
◆写真中:学習院昭和寮の本館(現・日立目白クラブ)における内外観の現状。
◆写真下上左は、1935年(昭和10)前後に宝塚の男役トップスターだった葦原邦子。上右は、学習院の学生オーケストラを指揮した近衛秀麿Click!で娯楽室には録音盤があったろう。は、1943年(昭和18)10月16日に早稲田の戸塚球場Click!(のち安部磯雄を記念して安部球場)で開かれた学徒出陣直前の「最後の早慶戦」Click!で、1塁側の早大応援スタンドから3塁側の慶大スタンドを撮影している。は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」に採録されている目白駅前の「田中屋」。これが昭和寮の出店と同一の店舗かは不明だが、「蕎麦うどん」屋の匂いがする。

中村彝アトリエの「仏像」を特定する。

$
0
0

彝アトリエの西壁.JPG
 かなり以前に書いた記事でも取り上げたが、中原悌二郎Click!が1919年(大正8)8月、下落合の中村彝アトリエClick!で『若きカフカス人』を制作中に撮影されたとみられるニンツァーの写真Click!が残っている。モデルになったニンツァーが写る背後の壁面には、中村彝が死ぬまでアトリエに架けていたレンブラント風の『帽子を被る自画像』(1910年)がとらえられている。このとき、アトリエの主である中村彝は7月3日から9月13日まで、夏の間じゅう茨城県の平磯海岸へ転地療養をしていて留守だった。
 さて、きょうのテーマは、『帽子を被る自画像』の上に架けられた、おそらく仏像彫刻とみられる2体(右端の一部を入れれば3体)の、まるでモチーフの石膏像のようにみえる“物体”だ。前の記事にも書いたが、この表情は仏を守護する四天王や十二神将、金剛力士(阿形)、さらには風神雷神の表情以外には考えにくい。なぜ、彝アトリエの壁面に、仏像のモチーフが架けられているのだろうか? 中村彝は神道の家柄であり、若いころ野田半三Click!を通じてキリスト教へ惹かれた時期もあったようだが、仏教に興味を抱いたというエピソードは聞かない。また、彝アトリエの壁面に仏像のモチーフが、いくつか架けられていたという証言も見つけることができない。だとすれば、これは中村彝が自ら入手したものではなく、誰かが外部から持ちこんだと考えるのが自然だろう。
 そこには、どのような可能性が考えられるのだろうか? 1919年(大正8)の夏、彝アトリエに関係している人物たち、たとえばアトリエの留守番を頼まれた、美術誌『木星』Click!を発行している下落合1443番地の木星社社主・福田久道Click!、ニンツァーをモデルに『若きカフカス人』を制作した中原悌二郎、ニンツァーを中原に紹介した相馬愛蔵・黒光夫妻Click!……。これらの人々は、時期が少しずつズレているとはいえ、みな奈良の古い仏像に興味をもっていた人物ばかりだ。
 しかも、彫刻という表現分野を考えるのであれば、奈良の仏像に強く惹かれ相馬夫妻とも親しかった荻原守衛(碌山)Click!も含めて、考慮しなければならないテーマだろう。荻原守衛は1910年(明治43年)に死去しているが、中原悌二郎は荻原からの感化で画家から彫刻家へと転じている。以下、荻原守衛の仏像好きについて、1966年(昭和41)に碌山美術館から出版された相馬黒光『碌山のことなど』から引用してみよう。
  
 碌山はとにかく希臘(ギリシャ)の彫刻は嫌ひで、片寄つた処はありましたが、これを軽蔑してゐました。底力といふことをよく云ひました。そして戒壇院の四天王とか新薬師寺のものとか、仏を護る荒神に目をつけてゐました。私はその後、法隆寺へいつて四天王を見ましたが、このぼやあつとしたやうな四天王、併しこの人が動いたらどうな力を現はすかといふやうなあの作については碌山は何も云はなかつた。わからなかつたのでせうか。(カッコ内引用者註)
  
 また、中原悌二郎は彝アトリエで『若きカフカス人』を制作する前年、1918年(大正7)10月に初めて奈良を訪れている。このとき、彫刻家仲間の石井鶴三、平櫛田中、堀進二が同行していた。石井鶴三の証言を、1981年(昭和56)に出版された中原信『中原悌二郎の想出』(日動出版)所収の、石井鶴三「中原君と私」から引用してみよう。
  
 君(中原悌二郎)ははじめて奈良を見た。長年君が憧れてゐた奈良の古藝術と自然とはどんなに君を喜ばしたか、君は至る處で子供のやうに喜んで居た。最初の日は堀(進二)さんと君と私(石井鶴三)の三人だつた。其日は新薬師寺と博物館を見て、三笠山下の宿に泊つた。君は鎌倉時代以下のものには全く見向きもしなかつた。(中略) 二日目からは平櫛さんが加はつて、再び博物館を見、午後三月堂から戒壇院へ行つた。三日目には法華寺から西の京の唐招提寺と薬師寺を廻つた。君は古藝術を熱愛してゐたが、決して執拗でなく、淡々として見て廻つた。(カッコ内引用者註)
  
彝アトリエのニンツァ-.jpg 彝アトリエの大正ガラス.jpg
彝アトリエの仏像.jpg
 ここで興味深いのは、相馬黒光の荻原守衛に関する証言と、石井鶴三の中原悌二郎に関する証言に、共通する同一の寺院名が登場していることだ。東大寺の戒壇院と新薬師寺の薬師堂で、いずれも仏を守護する“荒神”の彫刻で有名な寺々ということになる。
 以上のような前提を考慮したうえで、中村彝アトリエの壁に架けられていた仏像とみられるモチーフには、以下のような可能性を想定することができる。
 ①中村彝が碌山の習作を遺品として譲り受けた。(中村屋から持ちだした)
 ②中原悌二郎が碌山の遺品として譲り受け、彝アトリエへ制作期間中に架けた。
 ③中原悌二郎が奈良旅行後に印象深い記念として作り、制作期間中に架けた。
 ④中原悌二郎が奈良旅行の記念にレプリカ土産を入手して、制作期間中に架けた。
 ⑤福田久道が奈良土産として、レプリカを中村彝にプレゼントした。

 この時期、やはり奈良とゆかりの深い会津八一Click!は、いまだ彝アトリエを訪問していないし、相馬黒光『黙移』(法政大学出版局/1977年)の記述によれば、福田久道の案内で相馬夫妻が初めて奈良をめぐったのは、彝の死後しばらくたった昭和に入ってからのことだ。したがって、考えられる可能性としては、彝アトリエとの関連も含めて上記の5つぐらいだろうか。
 さて、はちょっと考えにくい。中村彝は、確かに中原悌二郎とともに荻原守衛のアトリエを訪問してはいるが、あえて習作(碌山がこのような習作を制作したとすればの前提だが)を持ちだすほど、彫刻に興味を持っていたかどうかは不明だ。また、彝アトリエの壁面に、このような像が架かっていたとすれば、おそらく彝の周囲にいた誰かが証言を残しているはずだが、そのような証言は存在していない。
 また、木星社の福田久道が奈良の土産に、仏像のレプリカを彝アトリエへ持参したというのも考えにくい。当時、このようなレプリカClick!が奈良土産として売られていたかどうかという課題もあるが(わたしは高価だったろうが売られていたと思う)、画家の中村彝のもとへ福田久道が仏像のレプリカをあえて土産にするとは思えない。そうなると、中原悌二郎がニンツァーをモデルにして、彝アトリエで『若きカフカス人』を制作中に持ちこんだと考える②③④が自然だろう。
 ただひとつだけ、気になることがある。1919年(大正8)の夏、兵庫県西ノ宮町に滞在していた曾宮一念Click!から平磯海岸で療養中の中村彝あてに、奈良の仏像彫刻の写真類が送られていることだ。それは、同年7月18日の彝から曾宮一念あての手紙に書かれているのだが、1926年(大正15)に岩波書店から出版された、中村彝『芸術の無限感』から引用してみよう。
  
 兎に角僕は君の貴い芸術と感情とが、つまらない事情の為めに傷つけられない様に心をこめて祈る事にしよう。天平の彫刻写真を有り難う。臥ながら見ていると迚もいゝ気持がする。
  
 平磯にいる彝に送られたのは写真であり、下落合の写真にとらえられた立体のレプリカないしは石膏像とは異なるが、中村彝が天平の仏教美術を同年夏に見知っていたのは事実だ。ただし、曾宮一念がなぜ天平仏の写真を送ったのか、前後の事情は不明だ。
伐折羅大将.jpg 戒壇院増長天.jpg
金剛力士像(興福寺).jpg
 もうひとつの課題として、荻原守衛が奈良の仏像を習作として制作したかどうかがある。わたしは、寡聞にしてそのような事例を知らないし、また残された碌山アトリエの写真にも、そのような作品を見つけることができない。また、彫刻家である中原悌二郎が、わざわざの土産品としてできの悪いレプリカを入手するだろうか?……という大きな疑問も残る。したがって、もっとも可能性が高いのはであり、中原自身が奈良旅行から帰った直後に、印象深い仏像を記憶が薄れないうちに自ら習作し、彝アトリエを借り受けた期間だけ壁面に架けておいた……と考えるのが自然だろう。
 では、いずれの寺院に安置された、どの仏像を模倣し習作したのだろうか? 以前にも書いているが、中央に架けられた像は、その表情、首の角度、首まわりの甲冑意匠などを勘案すれば新薬師寺の十二神将の1体、伐折羅大将Click!にまちがいないだろう。レプリカClick!なら、塑像の顔に黒い剥落痕が表現されそうだが、それが見られないのは中原悌二郎の習作だからであり、おそらく石膏ないしは粘土でできていると思われる。ただし、中原悌二郎には悪いが、伐折羅大将の表情は実物にあまり似てはいない。
 左側に架かる仏像は、ややうつむき加減で表情が見えにくいが、可能性としてはふたつあるように思われる。ひとつは、石井鶴三の証言にも登場している戒壇院の四天王のうち、唯一口を開けて怒りの形相をする増長天だ。実際の像は、ほぼ正面を向いているのだが、その頭部(顔面側)だけを習作して壁に紐で吊るしたら、おそらくこのようなうつむき加減になるだろう。下から見上げれば、正面顔にも見える。
 余談だけれど、子どものころ親父が買ってきて大切にしていた増長天の大きめなレプリカ(胸から上)が家にあったのだが、わたしはスーパーボールの標的にして、頭にぶつけて倒し破壊した。あまりのヤバさに、その直後から熱を出して寝こんだ憶えがある。
 増長天にしては、やはり顔がうつむきすぎで表情も目がかなり吊り上がっており、眉間から額の憤怒皺も鋭角すぎる点に留意するとすれば、もうひとつの可能性は興福寺にある阿形の金剛力士像だろうか。顎の線が、増長天よりもやや華奢で細めなところも、そのような印象をおぼえるのだ。中原悌二郎は、奈良の国立博物館を繰り返し訪れているが、ちょうどその時期に金剛力士像が興福寺から博物館へ貸し出されていたのかもしれず、彼は繰り返し同像を眺めたのかもしれない。
彝アトリエのドア.JPG 彝アトリエのフィニアル.jpg
彝と中原悌二郎.jpg 伐折羅大将レプリカ.jpg
 さて、のケースだとすれば、彝アトリエから中原悌二郎が引きあげたあと、体調が思わしくないまま平磯海岸からもどった不機嫌な中村彝は、壁龕のあるアトリエ西壁のあちこちに穴がボコボコ開いているのを見て、「穴ボコだらけだべ、なんじゃこりゃ~!?」とカンシャクを起こし、留守番の福田久道を問い詰めなかっただろうか? それとも、中原か福田のどちらかが彝の身体を気づかい、怒りださないように壁の穴を目立たぬよう粘土でふさいでおいたものだろうか。
 中村彝が下落合へ帰着直後のアトリエの様子は、『芸術の無限感』の書簡類では欠落している時期であり、また彝関連の資料にも見あたらず、下落合から平磯海岸へ彝を案内しいつもそばにいた鈴木良三Click!でさえも、帰着時の彝アトリエには立ち会っていないため“空白”の時間なのだ。

◆写真上:復元された、中村彝アトリエの壁龕のある西側の壁。
◆写真中上上左は、1919年(大正8)8月に中村彝アトリエでポーズをとるニンツァー。上右は、旧来の大正ガラスがそのまま生かされている彝アトリエのテラスドア。は、ニンツァー写真にとらえられた西壁の上部に架かる仏像彫刻と思われる顔面像。
◆写真中下上左は、新薬師寺の十二神将のうち伐折羅大将。上右は、東大寺戒壇院の四天王のうち増長天。は、興福寺の金剛力士像(阿形)。
◆写真下上左は、大正期のドアがそのまま生かされた彝アトリエの入り口。上右は、同アトリエの屋根上に立つフィニアル。下左は、中原悌二郎(奥)と中村彝(手前)。下右は、わたしが小学生のときから家の壁面に架けられている伐折羅大将の実物大レプリカ。

下落合を描いた画家たち・吉岡憲。(2)

$
0
0

吉岡憲「高田馬場風景」.jpg
 再び、吉岡憲の「下落合風景」をご紹介したい。前回ご紹介した『目白風景』Click!は、画面の上半分が新宿区下落合1丁目(現・下落合2丁目)、下半分が豊島区高田南町3丁目(現・高田3丁目)だったが、吉岡は今回もほぼ同様の風景モチーフで描いている。ただし、視点は『目白風景』に比べてかなり南へ下がりぎみだ。タイトルは『高田馬場風景』とつけられているけれど、前回と同様に画面の上3分の1が下落合1丁目で、画面の下が高田南町3丁目となっており、高田馬場駅がある新宿区戸塚町3丁目のエリアはまったく描かれていない。吉岡は地域や町の名称ではなく、あくまでも最寄りの国鉄駅名を題名に採用しているようだ。
 手前を斜めに横切っているのは、旧・神田上水(1966年より神田川)の流れで、架かっている橋は山手線との距離感から神高橋Click!のひとつ下流にある高塚橋だと思われる。高塚橋の手前に描かれた、三角形の狭い敷地も戸塚町3丁目(現・高田馬場2丁目)ではなく、橋の向こう側と同様に高田南町3丁目だ。神高橋から高塚橋、さらに下流の戸田平橋の間は、高田南町3丁目(豊島区)が神田川を越えて大きく南側の戸塚町(新宿区)側へと食いこんでいるが、これは戦前に旧・神田上水が整流化される以前の川筋を区境として設定したためだ。吉岡憲は、高塚橋の南東側にある高い位置から、北北西に向けてキャンバスに向かっている。制作されたのは、『目白風景』と同様に1950年(昭和25)前後ではないかと思われる。
 画面の上3分の1ほどのところを、左から右へ上がりぎみに横切る線は、山手線の線路土手だ。もう少し画角が広ければ、左手には西武新宿線の山手線ガードClick!が描かれただろう。山手線の上部に描かれた丘と、密集した白い建物は『目白風景』とまったく同様に、下落合1丁目406番地の学習院昭和寮Click!(1953年から日立目白クラブClick!)だ。描画ポイントが神田川の南側で、画角が広いせいか下落合1丁目の丘上に拡がる「近衛町」Click!から、目白駅Click!のホームがある金久保沢Click!の谷間あたりまでが画面にとらえられている。画面の右枠外には、学習院の丘が東へと連なっているはずで、吉岡憲は山手線で掘削された目白崖線のちょうど“切れ目”を描いていることになる。
 手前の高田南町3丁目に目を向けると、ビル状の建物はいまだ見えず、ほとんどが商店や町工場、住宅とみられる家屋ばかりだ。前回書いた『目白風景』の描画ポイントの可能性があるビルは、画面の右枠外に建っていると思われる。ひょっとすると、『目白風景』よりもこの『高田馬場風景』のほうが、制作時期が少し早いかもしれない。吉岡憲は、上落合1丁目のアトリエからこの位置まで足を運んで制作しているとき、学習院の丘の手前に3~4階建ての新築ビルがあるのを確認していた。次は、もう少し丘上にある学習院昭和寮Click!の建築群に近づき、あのビルの屋上から描いてみようか?……、そんなことを考えながら制作していたのかもしれない。
 さて、吉岡憲がイーゼルを据えている位置、すなわち高塚橋のすぐ南東側には、神田川と橋をこのように見下ろせる高い丘や崖はない。早稲田通りから神田川までは、河岸段丘の北向き斜面だが、川岸の近くまできてこれほど落ちこんでいる地形は存在しない。とすれば、吉岡憲はやはり高塚橋の南詰め近くに建っていた、3~4階建てのビルの屋上へ上って描いているのではないだろうか。はたして、描画ポイントと思われるその位置に、当時としては少し高めな同様のビルがあるだろうか? 神田川を挟み、南側の一帯は二度にわたる山手空襲Click!や、空襲に備えた建物疎開Click!(防火帯36号帯)で、ほとんどの街角が焼け野原ないしは空き地と化している。
 1948年(昭和23)の空中写真では、いまだ空き地で建物が1軒も見えないが、1957年(昭和32)の空中写真には高塚橋から南東70~80mほどのところに、おそらく建物の影から3~4階建てと思われる、白っぽい小さなビル状の建築を見つけることができる。地番でいうと、高田南町3丁目790番地ということになる。吉岡憲は、おそらく前回の『目白風景』と同様に、このビルの管理者へ頼みこんで屋上にイーゼルを据えたのではないだろうか。遠くまで見わたせるのはビルの北側、つまり神田川の川岸にかけて建物がなく、1957年(昭和32)に撮影された空中写真の時点でさえ、いまだ空き地のままだからだ。
吉岡憲3.jpg 高塚橋1956.jpg
高田馬場風景1956.jpg
 『高田馬場風景』が描かれた時間帯からだろうか、建物の影や光の反射から真昼に近い情景と思われ、高塚橋やその手前の路上にはたくさんの人影が見える。おそらく、昼休みに食事をしに建物から出てきた社員や工員たちだろうか、このあたりは戦前戦後を通じて大小の会社や工場がひしめいていた。その多くが製薬業や印刷業、染色業、製綿業、あるいは印刷に必要な用紙業など、川筋に集まりやすい業種だった。吉岡憲は、手前に川が流れ遠方に丘が見える、同じような構図を採用した『江戸川暮色』という作品も制作している。やはり、川の手前にある描画ポイントは高い位置から橋を見下ろしたものであり、非常に似かよった構図を採用している。
 吉岡憲の図録や資料の多くは、この「江戸川」を現代の呼称のまま解釈し、『江戸川暮色』を葛飾区あるいは江戸川区の情景としているけれど、「江戸川」とはもちろん現在の神田川のことだ。なによりも、現・江戸川の川岸近くに高い丘陵は存在しないし、また、こんな小さな橋が架かるほど江戸川は“小川”でもない。吉岡が『江戸川暮色』を制作した当時、関口の神田上水の分岐点だった大洗堰跡Click!(現在の大滝橋)あたりから下流にある飯田橋の舩河原橋Click!、つまり外濠へと注ぐ出口あたりまでは江戸川と呼ばれていた。また、江戸川公園あたりから上流は、いまだ江戸時代と同様に旧・神田上水のままであり、この川筋の名称が東京都によって正式に「神田川」と名づけられ統一されるのは、吉岡の死後、1966年(昭和41)になってからのことだ。
 さて、『江戸川暮色』の画面を観察すると、下の江戸川(現・神田川)には小さめの橋が架かり、大通りへと出る手前には焼け跡から復興したのだろう、家々がいくらか建ち並んでいるが、空き地もまだ目立っているようだ。陽光は画面の右手から射しており、「暮色」なので当然そちらが西側だ。吉岡は、橋の手前の高い位置から南側を向いて描いており、正面に描かれた夕陽に映える丘状の高台は、当然、江戸川(神田川)へとゆるゆる下る河岸段丘の北斜面ということになる。
 1948年(昭和23)に、米軍のB29から爆撃効果測定用に撮影された焼け跡だらけの空中写真と、1956年(昭和31)の空中写真とを見くらべてみると、この風景に合致する江戸川(現・神田川)沿いの風景は、大滝橋から舩河原橋までの間でほぼ1ヶ所しか存在していない。描画ポイントは、江戸時代から「江戸川」と呼ばれつづけた流域がはじまる、ほかならない大滝橋Click!の北北東側から南南西の方角を向いて描いた情景だ。手前を流れる江戸川(現・神田川)と、並行して見える通りは飯田橋交差点の下宮比町から延長されてきた、十三間通りClick!(現・目白通り→新目白通り)だ。
吉岡風景「江戸川風景」.jpg
江戸川暮色1948.jpg
 まず、神田川と十三間道路との間にはやや距離があり、そこに住宅や商店が建ち並んでいる様子が描かれているので、この風景は江戸川橋から上流だと規定することができる。1948年(昭和23)現在も、あるいはそれ以降も、江戸川橋から下流は川沿いを十三間道路が通っているのであり、道路と川との間には“隙間”が存在しない。川と道路の間にスペースができ、住宅や商店が建ち並ぶのは、江戸川橋をすぎてから面影橋までの間であり、その流域で江戸川と呼ばれる川筋は大滝橋あたりから下流であることにも留意したい。そしてもうひとつ、手前の橋から大通りへと出た道が、そのまま通りの向こう側へと連続していない点にも注意したい。つまり、道筋の先がT字路になっている橋は少なく、情景を絞りこめる大きな特徴だ。
 また、十三間道路(新目白通り)の向こう側左手には、明らかに四角いビル状の建物が描かれている。この位置には、空襲による延焼でも焼け残った、鉄筋コンクリート造りの耐火校舎だった鶴巻小学校がある。鶴巻小学校から右手に、まるで長屋のように西へとつづく建物は、大学通り(現・早大正門通り)沿いに建設されていた長屋状の商店建築だ。この長い商店建築が途切れる、画面右手の枠外には、緑がこんもりと繁った大隈庭園Click!大隈講堂Click!があるはずだ。
 画面の正面に見える丘状の高台は、天祖社や正法寺、龍善寺など寺社から並んだ杜だと思われ、尾根沿いには早稲田通りが走っている。丘の右手には、早稲田実業の校舎も描かれているのだろう。当時の町名でいうと、早稲田鶴巻町から早稲田町の街並みで、この画面に描かれた丘上のピークは正法寺の境内あたり、標高約23mということになる。
 『高田馬場風景』の高塚橋から、『江戸川暮色』の大滝橋までは直線で約1,800m、川沿いをそのまま歩いていけば20分ほどでたどり着ける距離だ。アトリエのある上落合1丁目からでも、ブラブラと30分も歩けば大滝橋まで出ることができる。吉岡憲は大滝橋までくると、いまだ防空壕が残る戦争の跡も生々しい江戸川公園の、ほとんどバッケ(崖地)状になった急斜面へイーゼルを立て、南南西の方角にキャンバスを向けている。作品のタイトルは、大滝橋あたりから下流の名称が江戸川だと厳密に認識していたというよりも、自身がイーゼルをすえている場所が江戸川公園だから……という、施設名をタイトルに冠した可能性が高いようにも思える。
吉岡憲2.jpg 大滝橋1956.jpg
江戸川暮色1956.jpg
 現在の神田川は、繰り返された洪水を防止するために、川幅も水深も戦後の拡幅・浚渫工事で大きくさま変わりし、大滝橋も現代的な仕様の橋に架けかえられている。江戸川公園は、ほぼ当時の姿で残っているものの、その斜面に上ってみても高いビルやマンションが林立していて、吉岡憲が目にした『江戸川暮色』とはほど遠い風景になっている。

◆写真上:1950年(昭和25)前後に制作されたとみられる吉岡憲『高田馬場風景』で、2003年(平成15)に刊行された『追憶の彼方から~吉岡憲の画業展~』(いのは画廊)より。以下、作品画面と吉岡憲の肖像写真は同図録より引用。
◆写真中上上左は、画道具を開く吉岡憲。上右は、『高田馬場風景』を描いたとみられる高田南町3丁目790番地の新築ビルで1956年(昭和31)の空中写真より。は、1956年(昭和31)の空中写真にみる『高田馬場風景』の描画ポイントと画角。
◆写真中下は、同じ時期に描かれたらしい吉岡憲『江戸川暮色』。は、1948年(昭和22)の空中写真にみる『江戸川暮色』の舞台となった江戸川と早稲田周辺。鶴巻小学校の耐火校舎が焼け残り、大学通り(現・早大正門通り)は拡幅工事中で長屋状の商店建築が建てられているのが見える。
◆写真下上左は、昭和初期に撮影された吉岡憲。上右は、1956年(昭和31)の空中写真に見る大滝橋と江戸川公園の描画ポイントあたり。は、1956年(昭和31)の空中写真にみる『江戸川暮色』の描画ポイントと画角。もう少し画角が広ければ、早大大隈講堂の特徴的なフォルムが画面右端に入っただろう。

誤爆だらけのドーリットル隊初空襲。

$
0
0

「いのり」の碑.JPG
 4月に入り、73年前の1942年(昭和17)4月18日に起きた、ドリーリットル隊による東京初空襲の記事Click!をアップしたところ、蒼空社の志村裕子様よりご連絡をいただいた。学習院大学の学習院生涯学習センターClick!で講師をしておられる猪狩章氏Click!が、母校である早稲田中学校の被害の様子を随筆に書かれ、2014年(平成26)9月に刊行された同センター講座の文集『蒼空』第10号に掲載されていることをお教えいただいた。
 さっそく、志村様より『蒼空』10号(テーマ特集「私の昭和史」)をお送りいただき、また同講師の猪狩章氏からも引用許可の快諾をいただけたので、きょうは被爆した早稲田中学校側の当時の状況について書いてみたい。まずは、東京に初空襲があった翌日、1942年(昭和17)4月19日の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 帝都をはじめ京浜地方上空へ侵入を企図した敵機が午後零時半ごろ、数方面からその姿を現したと見るや、手ぐすね引いた対空射撃部隊は一斉に火を吐き、一発必墜の弾幕を張る。これに呼応して帝都防衛の哨戒機は壮烈な空中戦の火ぶたを切る――われらが上空に敵機が現れたのだ……すでに戦闘配備についた官防空陣から各地警防団、特設警防団、隣組防空群にいたるまで、……「空を護れ」と鉄火の火柱となり、本土は防空必勝を期する一塊の闘魂と化した。かくて空、地両航空部隊の猛反撃を受けた敵機群はあるいは燃え、あるいは墜ちて撃退され、まもなく空襲警報は解除された。午後2時の東部軍司令部発表によれば、墜された敵機は9機に上り、国土防衛に凱歌をあげた。
  
 まるで、講談師が記事を書いているような調子のよい表現なのだが、この東京上空における「9機撃墜」は同空襲が話題になるたびに、うちの親父も「クウキ(空気)撃墜」といっていたように、東部軍管区によるまったくのデマ(虚偽)発表だったことは、以前の記事でも触れたとおりだ。
 さて、ドーリットル中佐が乗った1番機(2344機)は、フーバー中尉の2番機(2292機)とともに、隅田川沿いの尾久や荒川地域に展開する工業地帯を爆撃したあと、ドーリットル中佐の1番機は水道橋の神田川沿いにあった東京第一陸軍造兵廠を爆撃する予定だったが、まったくそのようなコースを飛んでいない。1番機は、尾久を爆撃するはずだった2番機とも、おそらく上空で合流できておらず、当初の爆撃計画とはまったくちがうコースを飛行している。
 そして、神田川(当時は旧・神田上水)らしい市街地を流れる河川を発見したときには、1番機(2344機)の飛行コースは予定よりも大きく西へとズレていたと思われる。そして、眼下には神田川の南側に密集して展開するビル群、早稲田大学のキャンパスが見えていただろう。なぜ、ドーリットル中佐が乗る1番機(2292機)が、当初の計画に含まれていなかった早稲田中学校などを爆撃しているのかは、先年米国の公文書館から公開された、きわめて不正確な爆撃地図に原因があるように思える。
読売新聞19420419.jpg
ホーネットB25_1番機.jpg
 では、『蒼空』第10号の巻頭に掲載された、猪狩章氏の「ドゥリトル東京初空襲の日、先輩は校庭で直撃弾を受けた」から、引用してみよう。
  
 二か月前の二月十八日、「大東亜戦争戦捷第一次祝賀国民大会」が開かれ、酒・菓子・あずきなどの「特配」を受けていた人々は、白昼、突然低空で現れたB25を、まさか空襲の米軍機とは思わなかった。/東京周辺に向かった十四機中、十三番機が横須賀軍港を攻撃し、残り十三機が東京上空に侵入した。それらは荒川、王子、小石川、牛込、品川、葛飾と分れた。牛込方面に飛んだ一機は、爆撃しやすい目立つ建物を探していた。そして、「それ」が視野に入った。早稲田大学の大隈講堂である。/機は大隈講堂に接近すると焼夷弾を投下した。しかし、乗員の練度が低かったのだろう、弾は南へ二百メートルほどずれ、隣接する早稲田中学校の校庭に落下、炸裂した。たまたま校庭に出てきた四年生(旧制)の小島茂さんが即死した。東京初空襲、その初の死者であった。
  
 このとき投下された焼夷弾は、のちに日本空襲に投入されるM69集束焼夷弾とは異なり、ヨーロッパの空襲で多用されていたエレクトロン焼夷弾と呼ばれるものだ。炸裂して飛び散った六角筒のひとつが、校庭にいた中学生を直撃したと思われる。
 前回の記事でも書いたが、公文書館で公開されたドーリットル隊の爆撃コースと、実際の爆撃場所、そしてB25が地上から目撃された位置とがまったく合致していない。ベースとなる東京の地図を確認すると、鉄道の駅名や地名が実際の位置よりも西へ大きくズレているのがわかる。これがそもそも、目標を大きく勘ちがいしてドーリットル隊が軍事目標を見誤り、“誤爆”を繰り返した大きな要因のように思える。
ドーリットル空襲写真0.jpg
ドーリットル空襲写真1.jpg
ドーリットル空襲写真2.jpg
 また、同時に公開されたドーリットル隊撮影の空中写真には、前回ご紹介した横須賀を爆撃する13番機(2247機)が撮影した2枚の空中写真のほかに、田園地帯を爆撃する不可解な3枚の写真が含まれている。写真には、遠くに蛇行する大きめな川が流れ、眼下には森と田畑しか存在しない場所で、どこかの都市の郊外だと思われるのだが、ドーリットル隊のいずれかの機は、田畑の真ん中にあった役場または分教場(?)と思われる施設を爆撃している。この一連の写真は従来からあまり公表されておらず、およそ軍事施設などありそうもない場所へ500ポンドと思われる爆弾を投下しているのだが、ここにもなにか大きな錯誤がひそんでいそうだ。
 1942年(昭和17)4月の当時、日米開戦直後の米軍は偵察機による詳細な空中写真など持ち合わせていなかったため、既存の地図から慌ただしく作戦計画を立てざるをえなかった。しかし、そのベースとなった地図自体がきわめて不正確だったため、軍事目標の位置を大きく取りちがえていた可能性が高い。その結果、軍事施設への「精密爆撃」Click!を行なうはずが目視誤認による錯誤が次々と生じ、多くの民間人をまきぞえにして殺傷する誤爆を繰り返したのではないか。
 以下、『蒼空』10号掲載の猪狩氏作品から引きつづき引用してみよう。
  
 去る【2014年】五月二十二日、私たち早稲田中学校五十八回卒業生の喜寿記念同期会が開かれ、ひさしぶりに母校を訪れた。そして、構内の芝生の上に「いのり」と題された碑を見つけた。天に向かって身もだえするような、小島さんの旧友工芸作家【洋画家・佐竹伊助】による造形である。/説明文を読むと、碑は小島さんの同期四十六回生たちの努力でつくられ、小島さんの死からちょうど四十一年後の昭和五十八年(一九八三年)四月十八日、同じような青空の下、除幕式と記念の会が行われた。私たちの恩師で、式当時教頭をされていた橋本喜典先生は<「いのり」の碑によせて>として、
 青空を裂きて降りし焼夷弾に少年殺されぬ
 この校庭に
 生きて居らば五十七歳
 校庭の隊伍の中に居らずや君は

 と詠み、悼んだ。それからすでに三十一年。戦争を知らず、また、学ぶ気もなさそうな首相が、戦争をたやすいことのように見る政治を展開している。(【 】内引用者註)
  
写真週報218号.jpg 蒼空第10号.jpg
小島茂.jpg 校友会会報72号198307.jpg
早稲田中学校.JPG
 ドーリットル隊による空爆で、実際にどれほどの被害が出たのかは現在も不確定のままだ。これは空襲当日から、軍による徹底した緘口令が敷かれ、空襲の被害を口外する人間は容赦なく検束されたことによる。また、証言者がその後の徴兵や空襲で、死亡しているせいもあるだろう。戦後の聞きとり調査では、死者約90人、重軽傷者約460人(うち重傷者153人)、家屋全半焼289戸と記録されたが、この数字さえいまだに流動的だ。当時は各家庭に防空壕の備えさえなく、爆弾や焼夷弾が至近で爆発すればひとたまりもなかった。

◆写真上:早稲田中学校の芝庭に建立された、洋画家・佐竹伊助による「いのり」の碑。
◆写真中上は、1942年(昭和17)4月19日の読売新聞朝刊。は、空母「ホーネット」艦上で撮影されたドーリットル隊の1番機(2344機)。B25は機体を格納庫に収容できないため、飛行甲板から海へ滑り落ちないようロープで固定していた様子がわかる。
◆写真中下:米公文書館が公開した、ドーリットル隊撮影による3枚連続の爆撃写真。場所は不明だが、田園地帯の役場か分教場のような施設を爆撃しているように見える。
◆写真下上左は、1942年(昭和17)に内閣情報局発行の『写真週報』218号に掲載された爆撃直後の早稲田における消火活動。上右は、学習院生涯学習センター猪狩講座の『蒼空』第10号。は、早稲田中学校の爆撃で即死した小林茂(享年16歳/)と、追悼碑「いのり」が表紙になった1983年(昭和58)7月発行の早稲田中学校「校友会会報」72号の表紙()。いずれも、『蒼空』第10号の猪狩章氏による「ドゥリトル東京初空襲の日、先輩は校庭で直撃弾を受けた」より。は、爆撃から73年が経過した早稲田中学校の現状。

入江たか子は廃墟のニコライ堂で。

$
0
0

ニコライ堂.JPG
 下落合からは目白通りをはさんで、すぐ北側にあたる雑司谷旭出43番地Click!(現・目白4丁目)に華族出身の東坊城英子こと、女優の入江たか子Click!が住んでいた。彼女は戦前、吉屋信子Click!のもとを二度ほど訪問している。目白の入江邸から南西へ直線距離で2,000mほどのところ、下落合2108番地Click!吉屋邸Click!を最初に訪れたのは、吉屋信子が講談社の女性誌「婦人倶楽部」へ『女の友情』Click!を執筆しているさなかの、1934年(昭和9)ごろのことだ。
 もちろん、『女の友情』を映画化するにあたり、ヒロイン役をやらせてもらえるよう入江たか子側からの“売りこみ”だった。吉屋信子は、すでに松竹から映画化のオファーがあったにもかかわらず、入江たか子(入江プロダクション)が所属している新興キネマへ、映画撮影の権利を譲ってしまう。そのときの様子を、1969年(昭和44)に読売新聞社から出版された、吉屋信子『随筆私の見た美人たち』から引用してみよう。
  
 田村道美氏同伴で入江たか子さんが私の家に鶴の舞い込むごとく現れた。彼女はいかにも名門出のおひいさまらしく上品な洋装に楚々として、付き添う美男のマネージャー田村氏が「入江がぜひお作の女主人公をやらせて戴きたいと申しますので、ぜひとも」と弁ずる傍に、いとつつましく控えた彼女は、ときどき「ハイ」とか「ホホ」とか微笑するだけだった。/私の処女作からいつも映画に取り上げてくれた松竹からも、すでに申し込みがあって義理は悪かったが、私はつい、入江たか子主演で当時新進気鋭の田坂具隆監督という魅力にふらふらとして、承諾してしまった。
  
 このあと、映画『女の友情』の脚本も完成に近づき、クランクインも間近になったところで突然、入江プロダクションは新興キネマとの提携を急に打ち切り、さっさと新しい契約を日活と結んでしまう。つまり、『女の友情』のヒロインが原作者了解のもとで決定していたのに、それを無視しての制作現場からの“逃亡”だった。同作の監督だった田坂具隆と、原作者の吉屋信子は登ったハシゴを外されたかたちで、裏切られたと感じただろう。
 田坂監督は、吉屋邸を訪れて入江たか子への怒りをあらわにしながら、信子へ一連の経緯を説明している。この報告に、吉屋信子はさすがに怒り、本人の記述によれば「私も若かったから、彼女の背信にかんむりを曲げて『入江さんなんかに出て貰わないでいいわ、顔だけ綺麗な女優なんて仕方ありませんよ』などと口走ったりカンカン」だったらしい。
 ところが、それから2年ほどたった1937年(昭和12)ごろ、再び入江たか子は吉屋邸を訪れている。このときの自宅は、下落合ではなく鍋島屋敷跡の分譲地に建設された、牛込区市谷砂土原町3丁目18番地の大豪邸のほうだ。今度は、執筆中だった『良人の貞操』のヒロインに入江たか子をよろしく……という“売りこみ”だった。その様子を、再び同書から引用してみよう。
入江たか子.jpg 吉屋信子「私が見た美人たち」1969.jpg
  
 その頃の昭和十二年に私の新聞連載小説『良人の貞操』掲載中に、入江たか子と田村氏は同伴でまたも私を訪れて、「こんどのお作を入江がやらせて戴きたい」と例の如く始まった。「いつぞやはまったく残念にも……」とかなんとか弁明につとめる。その美男プロデューサーに私はけっして負けたのではなかった。その傍で消えも入りたげに嫋々とした風情を示す入江たか子の匂いやかな美しさにだった。/戦前刊行の『東宝映画十年史抄』のなかに「『良人の貞操』全国的に大ヒット、東宝系へ転向館続出す」とある。入江、田村御両人は「良人の貞操記念」と裏に彫った腕時計を御持参でお礼に見えた……そうしたおかしな思い出の名女優入江たか子は、現在は銀座の酒場「いりえ」のマダムである。
  
 その銀座「いりえ」のマダムになっていた入江たか子に、吉屋信子Click!は戦後になって出版社の仕事を契機に再会している。東京オリンピックが開かれた年、1964年(昭和39)の夏ごろのことだ。このとき、入江たか子はすでに夫の田村道美とは離婚しており、戦前とは異なり自分の意志や想いをシャキシャキと話し、自由に伝えられる女性に変身していた。
 銀座「いりえ」の収入で子どもたちを育て、再び晩年の映画への連続出演を控えた、ちょうど狭間の時期に吉屋信子は彼女に再会したことになる。
  
 わたくしは今になってしみじみ考えますの、田村は私を映画の生きた商品として高く有利に売り付けることだけに専念して居りましたが、そうではなく、私を女優として完成させるために演技を叩き上げる人が傍にいてくれたら……と、それはほんとに残念でございます。
  
 華族といっても、彼女の育ちはそれほど贅沢なものではなかったようだ。文化学院へ通っていたころ、家族が京都へ転居してしまい、東京に残された入江たか子は宮中の女官になっていた、姉の家へ預けられている。だが、この家は女中頭がすべてを取りしきっており、居候への風当たりはいろいろと強かったようだ。特に、食事の貧弱さはかなりつらかったらしい。
ニコライ堂1923.jpg
空の彼方へ1928.jpg 結婚二重奏1928.jpg
 中でも、通学中の文化学院へ持っていく弁当はひどかったらしく、クラスメートの間では弁当のフタを開けられず、廃墟のニコライ堂まで出かけてはひとりで食べていた。戦後に問題となり、給食制度のきっかけとなった欠食児童や、貧困家庭から登校する児童の弁当エピソードのような話だ。
  
 だんなさま(主人の女官)の食客の私に持たせるアルミニュームのお弁当箱のおかずは、御飯の上にいつも小さなお芋を切った煮付けを二切か三切のせるだけなのでございますよ。あんまりお粗末なので学校でみなさまといっしょにはお弁当が開けられず、こっそり出て――近くのニコライ堂、関東大震災で廃墟になって崩れたお堂の陰でひとりでお弁当戴いて……(中略) 文化学院の月謝も滞りがちで……国文の河崎なつ先生(戦後婦人議員にもなった)が、『あなた女優になったらいい』とおっしゃっても、けっしてそんな気になれませんで、絵を描くのが好きで好きで、学校では中川紀元先生にお習いしました。その頃の文化学院には夏川静江さんもいらっしゃいました。
  
 さて、その夏川静江Click!で気にかかることがある。それは、昭和初期に目白文化村Click!でロケが行われた、夏川静江が主演している映画のことだ。1928年(昭和3)に、前編と後編の2回にわたって封切られた、菊池寛Click!原作の『結婚二重奏』(日活)が気になっている。好きあっている男女が、気に染まない結婚をして新生活をはじめるが、やがては満たされないままお互いの気持ちに気づき……という典型的なメロドラマで、のちにタイトルへ「二重奏」とつけられるシリーズ作品のきっかけになった映画だ。監督は、吉屋信子とも親しかった先述の田坂具隆で、ヒロインの「芙美子」に夏川静江が、「立花」役には岡田時彦が出演している。
 それぞれ、別れわかれになってしまった夫婦のうち、どちらかの家庭が下落合の目白文化村(東京郊外の文化住宅)に設定されてやしなかっただろうか。1928年(昭和3)といえば、第一文化村の販売からすでに6年が経過し、建物のたたずまいや樹木・庭木などの風情も、かなり落ち着いてきていたころだ。残念ながら、東京国立近代美術館フィルムセンターに同作は収蔵されていないため、戦災でフィルムが滅失してしまっている可能性が高そうだ。
結婚二重奏スチール1928.jpg
「結婚二重奏」媒体広告.jpg
夏川静江1.jpg 夏川静江2.jpg
  
 日活で岡田時彦さんと初めて共演した頃、岡田さんからも愛情を示されたことがございますが、おとなしい内向性の美男で紳士的な方でした。『滝の白糸』では名コンビと評判になって、まだこれから幾つも共演を望まれているうちに、肺でお亡くなりになって……わたくしがお悔みにあがった時、いまの岡田茉莉子さんが生後まもない赤ちゃんで、あや子さん(時彦夫人)に抱かれていらっしたのですよ
  
 入江たか子は、『結婚二重奏』へ出演した岡田時彦とは、1933年(昭和8)に『滝の白糸』(日活)で共演しており、これからの映画界をになうゴールデンコンビとして期待されていた。彼女が下落合の吉屋信子邸を訪問して、やや強引に『女の友情』のヒロイン役を渇望したのは、溝口健二監督の『滝の白糸』が大ヒットしていた明くる年のことになる。

◆写真上:めずらしいアングルで、ニコライ堂を上から見ると……。
◆写真中上は、1935年(昭和10)前後に撮影された全盛期の入江たか子。は、1969年(昭和44)出版の吉屋信子『随筆私の見た美人たち』(読売新聞社)。
◆写真中下は、1923年(大正12)に撮影された震災直後のニコライ堂。下左は、下落合2133番地の近所に住む林唯一Click!の挿画で1928年(昭和3)に「主婦之友」へ連載された吉屋信子『空の彼方へ』。描かれているのは、廃墟になったニコライ堂だ。下右は、同年「主婦之友」2月号に掲載された菊池寛原作の映画『結婚二重奏』(日活)の紹介記事。
◆写真下は、『結婚二重奏』の記者発表用スチール。は、当時の雑誌に掲載された『結婚二重奏』の媒体広告。は、いずれも全盛時の夏川静江。温和なおばあちゃん役しか知らないわたしには、2葉ともまぶしい写真だ。

南武蔵勢力の本拠地は東京都心?

$
0
0

成子富士1.JPG
 先に相馬俊子が女子聖学院卒業とともに進学した、新宿駅西口の淀橋町角筈101~109番地にあった女子学院高等科Click!(現・東京女子大学)を調べていて、その南に接した大型の前方後円墳・新宿角筈古墳(仮)Click!について書いた。前半が中村彝Click!をテーマにした文章で、後半が大正初期まで通称「津ノ守山」と呼ばれた規模の大きな古墳についての記述がつづく、統一感のない妙な拙記事だ。
 それ以来、中野と新宿(柏木地域)の境界を流れる、神田川(旧・平川/ピラ川=崖川Click!)の東側斜面および段丘上が、気になってしかたがなかった。なぜなら、柏木地域には成子天神社とともに、富士講Click!の講中が築造した成子富士があるからだ。古墳の上に溶岩を盛り上げて、富士塚Click!が築かれる例は都内で枚挙Click!にいとまがない。新宿区内では、早稲田の高田富士Click!や上落合の落合富士Click!、西向天神社に接した東大久保富士も、前方後円墳の後円墳頂や円墳上に築かれている。
 そのような周囲の経緯や事績、状況を意識しつつ、下落合の「丸山」Click!「摺鉢山」Click!といった古墳由来の字(あざな)が残っていないかどうか、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(東京府豊多摩郡役所)を調べていくと、はたして江戸期には柏木村成子町(柏木成子丁)と呼ばれたころから大正期ごろまで伝わったとみられる、「天神山」という字のあったことが判明した。古代史に興味がおありの方なら、すぐにピンときて気づかれると思うが「天神山」や「稲荷山」、「八幡山」など社(やしろ)名+「山」を合成した名称もまた、典型的な古墳地名だ。
 それは、おもに平野部において、社の境内にできるほどの大きな古墳へ、のちの時代に墳丘を加工Click!することで社殿や参道が設置され「聖域」化されて、後世にそう呼ばれるようになったという経緯だ。新宿角筈古墳(仮)が、松平摂津守の下屋敷にちなんで「津ノ守山」と呼ばれたのに対し、成子町の場合は1100年以上も前から天神社が設置されていたため、「天神山」とよばれたのだろう。境内に残る明治辛丑年(明治34)に建立された、管公会長の石碑にも登場している。以下、『豊多摩郡誌』から引用してみよう。
  
 (前略) 不勝思慕 遂建祠祀之 日夕盡如在之礼 降迨戦国 数罹兵焚祠宇蕩然
 独天神山存旧称耳 元禄中里民胥謀 再造社殿 歳時奉祭以為守土之神 (後略)

  
 ただし、管公を主柱にしたのは後世ではないかと思われ、それ以前には第六天神Click!、すなわちカシコネとオモダル以前の古い神々が奉られていた可能性が残るのだが……。
 石碑に登場する天神山の事績については、現在の成子富士の前に建てられた解説プレートにも見えている。だが、成子富士のベースになったと思われる古墳は、せいぜい直径が20~30mほどの「塚」レベルで、「山」と呼ぶにはあまりに小さすぎるのだ。この規模は、落合富士に改造されていた浅間塚古墳とほぼ同じ規模で、上落合に残る「大塚」という小字を勘案すると、あまりにも小さすぎることはこれまでにも何度か記事Click!に書いてきた。ましてや「山」とつくからには、それなりの規模と高度がある地表からの盛り上がりがなければ不自然なのだ。
 おそらく、柏木成子地域に「山」があったとすれば、江戸期か明治の早い時期には崩されて開墾されたとみられ、1909年(明治42)の1/10,000地形図と翌1910年(明治43)の修正図、また1922年(大正11)の1/3,000地形図にも、成子富士の突起のみで地面の盛り上がりは採取されていない。
成子天神社1910.jpg
内藤新宿千駄ヶ谷辺絵図1862.jpg 成子天神地形図1922.jpg
 「天神山古墳」は、全国各地で数多く展開する古墳名称だが、たとえば群馬県の太田天神山古墳Click!は墳丘長が220mをゆうに超える巨大な前方後円墳だし、同県の前橋天神山古墳や千葉県の姉崎天神山古墳も130m前後の大型前方後円墳だ。また、奈良県の大和天神山古墳は115mで岡山県の牛窓天神山古墳は90m弱と、いずれも中規模以上の前方後円墳のサイズとして知られている。これらの天神山という名称は、もちろん後世に天神社が墳丘ないしは丘麓へ奉られたことに起因しているのだが、これら全国のケーススタディに比べ、柏木成子町の天神山はあまりに規模が小さすぎると感じるのだ。天神山ではなく、「天神塚」と称されてしかるべきサイズにしか見えない。
 大型の前方後円墳とみられる新宿角筈古墳(仮)を、地形図で見つけていたわたしは、その800mほど北西にある成子天神社の富士塚に、ひとつの仮説を立ててみた。それは、ちょうど新宿角筈古墳(仮)の北側に隣接していた女子学院高等科のキャンパス内に、戦後まで庭園の景観としてたったひとつだけ保存されていた陪墳とみられる、成子富士と同規模の円墳(小型の前方後円墳ないし帆立貝式古墳の可能性もある)と同じように、陪墳のひとつが成子天満宮(江戸期の呼称)の境内、あるいは岡田将藍抱屋敷の庭園築山として保存され、後世に富士塚へと改造されているのではないかという想定だ。
 換言すれば、成子天神社に成子富士として残る円墳とみられる直径20~30mほどの塚は、天神山と呼ばれた本来の主墳の後円部外周に寄り添う陪墳のひとつではないか?……という想定だ。この仮説を前提に、関東大震災Click!の直後から東京各地の焼け跡を探索し、寺社の境内にされている数多くの古墳を発見した鳥居龍蔵Click!にならい、敗戦後の焦土を撮影した米軍の空中写真から、なにか探れるのではないかと考えた。新宿駅周辺は繁華な街だったせいか、米軍は1947年から1948年にかけ、爆撃効果測定用に繰り返し空中撮影を試みている。
 その画像を観察していると、敗戦直後に撮影された1947年(昭和22)の米軍写真に、青梅街道に接するような位置から成子富士の手前までのびる、明らかに土面の色が異なるかなり大きなかたちを見つけた。青梅街道側に前方部が接し、後円部の西側に成子天神社の拝殿・本殿が含まれるほどのサイズで、南北に長く連なる巨大なフォルムだ。新宿角筈古墳(仮)と同様に“鍵穴”型をしており、後円部の外周域に陪墳とみられる、成子富士を含む塚やサークル痕が連なっているのがわかる。この配置デザインは、新宿角筈古墳(仮)や芝丸山古墳Click!とまったく同様だ。サイズからして、墳長が160~170mほどはありそうで、新宿駅西口にある新宿角筈古墳(仮)のサイズを大きく凌駕している。
成子天神1947A1.jpg 成子天神1945B.jpg
成子天神1947B1.jpg 成子天神1947B.jpg
成子富士2.JPG
 もうひとつ、この古墳とみられる痕跡には大きな特徴がある。それは、前方部が細長くタテにのび、まるで三味線のバチのような形状をしていることだ。このフォルムは前方後円墳の出現期、すなわち3世紀までさかのぼるもっとも古い同古墳の形態だ。従来は、奈良県桜井市の箸墓古墳がこのかたちをしており、3世紀のもっとも古い前方後円墳だと規定されてきた。換言すれば、前方後円墳の出現・発祥はナラが最初であり、それが全国へ展開した……と説明されてきた。ところが、20世紀末から今世紀にかけ、各地で同様の三味線のバチ型デザインをした最古の前方後円墳が発見され、この畿内中心の「定説」がひっくり返っている。
 3世紀にまでさかのぼるとみられる、最古のフォルムを備えた前方後円墳は新たに2基が規定されており、そのうちの1基はすでに記事でご紹介している多摩川沿いの大田区にある宝莱山古墳Click!だ。後円部が崩されているので推定墳長100m超(現存97m)ほど、3世紀とすると箸墓古墳とバッティングして問題が大きくなるせいか、発掘の当初以来あたり障りのない4世紀初頭とされ、いまだ修正されていない古墳だ。そして、2011年(平成23)には、同じく関東の茨城県常陸太田市にある梵天山古墳(墳長151m)が、やはり最新の調査で最古の三味線のバチ型前方部をしていることが判明し、3世紀の築造だと想定されている。ナラの箸墓古墳のほか、すでに2基の築造ケースが関東地方にある以上、前方後円墳の最初期型はナラが発祥地とはいえないだろう。
 以上のような最新の研究成果を踏まえた上で、成子天神社(天神山)のフォルムをとらえると、非常に興味深いことがわかる。旧・柏木村成子に見える、三味線のバチ型デザインの前方部を備えた前方後円墳の痕跡は、茨城県の梵天山古墳よりもひとまわり大きいサイズなのだ。同古墳の痕跡は、1947年(昭和22)に撮影されたやや西寄りな別角度の空中写真にも、クッキリととらえられている。しかし、1948年(昭和23)になると焦土の地表面の整地化が進んだものか、“鍵穴”型のフォルムはかなり薄れているが、陪墳群と思われるサークル痕は相変わらず確認できる。
 現在の新宿駅から神田川へと西に向かう丘陵、あるいは段丘斜面に見える痕跡は非常に面白い。今後も、同じテーマでこの地域の記事を書くことがあるかもしれないので、新宿角筈古墳(仮)と同様に成子天神社近くのフォルムにも仮称をつけておきたい。とりあえず成子天神山古墳(仮)というのではいかがだろうか?
成子天神1948.jpg
梵天山古墳.jpg 宝莱山古墳.jpg 箸墓古墳(奈良県).jpg
成子天神社.JPG
 淀橋浄水場が建設される際、造成中に発見された古墳ないしは崩された塚の記録、あるいは造成前の詳細な工事用地形図などが残っているかどうか調べてみたが、残念ながらいまだに発見できないでいる。新宿角筈古墳(仮)は例外として、おそらくこの地域が開墾されたのは江戸期からではないかとみられるが、それまではどのような景観をしていたものか興味が尽きない。その興味とは、弥生期から古墳期にかけての南武蔵勢力の中心地は、現在、比較的大型の墳丘がよく残されている多摩川沿岸領域に比定されることが多いが、「百八塚」Click!の伝承や痕跡を含め、実は都心部の主な河川沿いには、さらに稠密で大規模な大王クラスの古墳群が連なっていたのではないか?……という、大胆だが最新の考古学的な成果をベースに、もはや高いリアリティを備えていそうな仮説だ。

◆写真上:陪墳が疑われる、成子天神社の境内北西にある成子富士の現状。
◆写真中上は、1910年(明治43)に作成された参謀本部の1/10,000地形図にみる淀橋から柏木地域。下左は、1862年(文久2)に刷られた尾張屋清七版「内藤新宿千駄ヶ谷辺絵図」の同所。江戸期には、成子天満宮と呼ばれていたのがわかる。下右は、1922年(大正11)に作成された1/3,000地形図(修正版)。
◆写真中下は、1947年(昭和22)に撮影された成子天神社とその周辺。は、おそらく同時に撮影されたやや西へズレた別角度の空中写真。ともに、地表には三味線のバチ型デザインをもつ“鍵穴”型の痕跡が見てとれる。は、成子富士の溶岩を積んだ山頂部。
◆写真下は、1948年(昭和23)撮影の成子天神社と周辺域。復興が進み新たに整地された上に家々が建ちはじめており、地面の痕跡が薄れつつある。また、陪墳とみられるサークル痕が、主墳を取り巻くように多数存在しているのが見える。は、三味線のバチ型デザインの前方部を備えた出現期(最初期)の前方後円墳で、それぞれ茨城県の梵天山古墳()と大田区の宝莱山古墳()、奈良県の箸墓古墳()。は、成子天神社の現状。

下落合を描いた画家たち・鈴木金平。

$
0
0

鈴木金平「落合風景」.jpg
 中村彝Click!の親しい友人のひとりに、岸田劉生Click!と若いころから緊密に交流していた鈴木金平がいる。鈴木金平Click!については、以前にもこちらで中村彝が語った言葉をたどる記事で、彼が記録したノートを引用しながら少しご紹介している。また、鈴木金平は下落合800番地のアトリエ(借家)に住み、同じく800地番に住んでいた鈴木良三Click!や、下落合804番地Click!にアトリエをかまえた鶴田吾郎Click!、あるいは下落合623番地のアトリエで暮らしていた曾宮一念Click!とも親しく交流している。
 少し横道へそれるが、大正期に下落合800番地とその周辺域へ建てられたアトリエ付きの借家群、いわば長崎の昭和期に建てられた「アトリエ村」Click!に先行する下落合の「アトリエ村」Click!とでも称すべきエリアの形成には、彫刻家・夏目貞了Click!の兄である日本画家・夏目利政Click!が深く関与していることがわかってきた。このテーマについては、また改めて詳しく文章にまとめてみたいと思っている。
 さて、きょうは鈴木金平が描いた下落合の風景画をご紹介したい。『落合風景』とタイトルされた本作は、制作年代がはっきりしていない。中村彝の死後に描かれた作品とみられ、その風景画の影響が色濃く見られるのだが、おそらく大正の最末期から昭和初期の作品ではないかと思われる。キャンパスは310×390mmと6号Fに近いサイズで、どこかの谷間か崖地の淵に沿った道を描いているのは、左手に見える斜面ないしは崖下に建っているらしい家の屋根から想定することができる。太陽光は左手ないしは左斜め後方から射しており、したがって画面の左手が南の可能性が高い。(冒頭写真)
 もともと木枠に張られていたキャンバスを、上下に拡大して使っているのは明らかで、ひょっとすると別の画面が描かれていたキャンバスを、新たに大きめな木枠に張りなおして重ねて描いているのかもしれないし、また、当初は大きめに描かれた画面だったが、なんらかの事情により小さめのサイズに仕立てなおしていたものを、改めて元のサイズにもどしているため、表面にこのような痕跡がついてしまったのかもしれない。実物を見ていないのでなんともいえないが、既存作品のサイズを変更するため、キャンバスをトリミングして小さめの木枠に張りなおすことは、まれに見られる現象だ。
 さて、この谷間ないしは崖は、下落合のどこを描いたものだろう? 当初は、中村彝アトリエClick!の前に口を開けた谷戸である林泉園Click!の界隈を疑った。しかし、大正末の時点でさえ、このような鬱蒼とした風情は、もはや林泉園沿いには存在しなかっただろう。大正の後半から、林泉園は東邦電力あるいは東京土地住宅による宅地開発が行なわれ、「近衛新町」Click!と名づけられて西洋館や同社の社宅が整然と建ち並び、テニスコートさえ設置されていた。そして、なによりも林泉園沿いの崖道に特徴的な、道路の両側にあるはずのサクラ並木が存在しない。画面右寄りに見えている、枝を拡げた樹木はケヤキと思われ、自然そのままの武蔵野原生林の風情が感じられる。
 下落合464番地のアトリエClick!にいた中村彝が存命中から、換言すれば関東大震災Click!の直後から、下落合の風景は大きく変貌しはじめていた。それまでは華族の巨大な屋敷群や、別邸の大きめな西洋館が建ち並ぶ郊外別荘地だったものが、関東大震災を契機として市街地から住宅の波が押し寄せてきたのだ。本作品は、鈴木金平の画集で1935年(昭和10)に描かれた『鶴田吾郎氏の像』の前に分類されているので、大正末というよりは昭和初期に制作された作品の可能性が高いように思える。その制作時期を勘案すれば、ますます下落合に深く入りこんだ谷戸沿いの風景とは考えにくい。
鈴木金平「鶴田吾郎像」1935.jpg 鈴木金平「夏の夕」.jpg
鈴木金平19240527.jpg 文野朋子.jpg
 曾宮一念アトリエの南側に口を開けた、大六天Click!のある諏訪谷Click!の風景でもない。諏訪谷とその周辺は、佐伯祐三Click!が繰り返し描いているように、1926年(大正15)の秋にはすでに空き地が目立たないほど家々が建てこんでおり、この画面のような樹木が密集するような風景は、すでに過去のものとなっていたはずだ。目白文化村Click!が開発された、前谷戸とその周辺域はどうだろうか? 前谷戸の可能性があるとすれば、第一文化村や箱根土地本社ビルClick!(この時期は中央生命保険倶楽部だったろう)のある位置から、ずいぶん南へと下った会津八一Click!秋艸堂Click!があるあたりだろうか。そうすると、今度は崖すれすれの道が存在せず、また左手が南らしい画面の方角とも合致しなくなってくる。
 下落合の地形把握をもとに、素直に画面を眺めてみるなら目白崖線のどこか、南斜面の崖淵ギリギリに細い道が通うポイント、そして下落合800番地にあった鈴木金平アトリエから、それほど遠く離れてはいない場所ではないかと想定してみる。すると、昭和初期における崖沿いの風景として想定できるのは、薬王院Click!の周辺か青柳ヶ原Click!の南側にあたる久七坂筋Click!、また青柳ヶ原をはさんで西側の谷戸である不動谷Click!(西ノ谷)、そして徳川邸Click!のある西坂あたりの風景ではないかと思われる。ただし、これだけの画面要素から、具体的に描画ポイントを絞りこんで特定するのは困難だ。このような風景は、上記に挙げたエリアのあちこちで見られた可能性がある。
 鈴木金平は、比較的裕福な薬種商の家に生まれ、子どものころを築地界隈ですごしている。近くに住んでいた、同じ画家をめざす岸田劉生Click!とは、溜池白馬会研究所を通じての親しい間柄であり、フューザン会にもそろって入会している。このあたりの事情を、1977年(昭和52)に中央公論美術出版から刊行された、鈴木良三『中村彝の周辺』から引用してみよう。
  
 (鈴木金平は)岸田とは住所も近所で、両家とも薬屋だったので直ぐ仲よしになり、一緒に築地川あたりで写生をし、当時のハイカラなメトロポリタンホテルの旧い建物などをお互いに描いたりしていた。/その後、岸田に誘われてフューザン会に入会したが、鈴木信太郎は絵がまづいからといってフューザン会には誘われなかった。(中略)/ある夏、(鈴木金平が)土肥へ例によって銈三兄たちと出かけた時、曾宮が美校の学生服を着て写生に来ているのに会い、後に彝さんのところで兄弟のようなつき合いになる縁が結ばれた。/その後、谷中の本行寺Click!岡田式静坐会Click!で計らずも彝さんを知り、初音町の飯屋の二階に彝さんを訪ねて絵を見て貰うようになったのだが、「そんなんじゃ駄目だ、もっと写実に生きねばならぬ。君は土瓶一つだってしっかり描けやしない」といって鞭撻され、以来、物心両面に師匠や、兄のような立場で面倒を見て貰った。(中略)/下町育ちの金平にも江戸っ子風の気っぷがあり、曲ったことの出来ぬ性格で、小さな体ながら議論では負けないといった強さも持っていた。野球など好んでやったが、負けても理屈では勝ったのだと言い張るような男だ。(カッコ内引用者註)
  
鈴木金平1926.jpg
鈴木金平1936.jpg
 また、曾宮一念とは早い時期からのつき合いで、鈴木金平が暗い写実主義を追究する草土社Click!を結成した岸田劉生から離れ、外光派の中村彝に接近したころからの知人だったようだ。1916年(大正5)に彝が下落合へアトリエを建設して間もなく、曾宮一念は彝アトリエで鈴木金平を見かけている。また、生涯の友人となる鈴木良三や鶴田吾郎などとも、中村彝や彼の死後に結成された大正末の中村彝会Click!を通じて知り合い、1928年(昭和3)には「三人展」を画廊で開いたりしている。
 このあたりの事情を、1990年(平成2)に三彩社から出版された滝谷彩子・編による『鈴木金平画集』所収の、曾宮一念「小土肥以来」から引用してみよう。
  
 大正五年初めて会った中村彝は五年五月に下落合のアトリエにうつった。或る日中村を訪ねると金平さんが来ていて、小土肥以来の再会で更に親しくなった。鶴田吾郎は中村とほぼ同年だが、金平さんと(鈴木)良三さんと私とは一つ二つ違いの青年で、まだ武蔵野の面影の残る長崎村や練馬を歩き廻った。金平さんを街道にあった茅葺の二階に訪ねると葡萄と梨の静物を描いていた。越後の海岸で瓦焼き風景を、隅田川では両国橋と円い国技館を、小土肥の時よりも健実な(ママ:堅実な)画風になっていた。これは関東震災頃の記憶である。/中村の死後のアトリエ保存のため暫く居たので私は毎日会っていた。今村繁三の庭内にアトリエが建ち、金平さんがその執事格になったので二人はしばしばモネやルノアールを見たり、シスレーを今村まで借りて来たりした。(カッコ内引用者註)
  
 曾宮一念が、中村彝に初めて会ったのは、同年の正月に今村繁三Click!の主催で芸術家たちを集めて開かれた、牛鍋会Click!の席上においてだった。鈴木金平は、彝の存命中から落合地域の近くに住んでいたと思われ、品川にあった今村繁三の広大な庭園内に建てられたアトリエの一時暮らしをへて、下落合800番地に住んでいるものと思われる。そして、1929年(昭和4)10月には長崎町大和田1942番地へ、つづいて1935年(昭和10)には長崎仲町1丁目2483番地へと転居している。
 時代が前後するけれど1922年(大正11)12月、鈴木金平に長女が生まれたとき中村彝は「澄子」と命名して、その名づけ親になっている。中村彝が鈴木金平に贈った、そのときの祝いの詩が残されている。鈴木良三の『中村彝の周辺』から、再び引用してみよう。
  
 Cybèleに育まれ、Eurotusの水に清められし古き希臘の乙女の如く
 その心はしみづの如く、清く、ゆたかにその眼、青空の如く澄みて、/
 ほがらかに、花の如く、真珠の如く、大空わたす七彩の玉橋の如く
 清く、朗らかに、大いなれと
 「澄子」のみ名をささぐ。

  
崖淵1.JPG
崖淵2.JPG 崖淵3.jpg
 鈴木澄子は、のちに文学座へ入り杉村春子Click!の弟子となって、その後継者とまでいわれるようになった。芸名は文野朋子といい、知っている方も多いだろう。その後、文学座を神山繁らとともに飛び出し劇団雲、やがて劇団円を結成していく。神山繁と結婚して、“おしどり夫婦”と呼ばれ評判になったのもこのころのことだ。岸田今日子Click!や南美江とともに、同劇団を代表する女優となり、数多くの映画やドラマに出演することになるのだけれど、それはまた、別の物語……。

◆写真上:鈴木金平が下落合800番地に住んでいたころ、昭和初期に近所の崖を描いたとみられるほぼ6号Fサイズの鈴木金平『落合風景』。
◆写真中上:上左は、1935年(昭和10)に描かれた鈴木金平『鶴田吾郎氏の像』。上右は、おそらく岸田劉生と仲がよかった大正初期の鈴木金平『夏の夕』。下左は、1924年(大正13)5月27日に中村彝アトリエの庭で撮影された鈴木金平。下右は、鈴木金平の長女で中村彝が名づけ親の鈴木澄子こと俳優・文野朋子。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合800番地界隈。いまだ、鈴木金平は同所へ引っ越してきていないと思われる。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真。昭和初期に比べ家々がさらに増えているが、緑の点線は『落合風景』のような風情があったと思われる場所。
◆写真下:現在でも、バッケ(崖)Click!の上からは似たような風情を眺めることができる。


下落合を描いた画家たち・参謀本部陸軍部測量局。

$
0
0

下落合村水車焼跡1880.jpg
 日本で地形図が作られはじめた明治初期、参謀本部の陸軍部測量局はいまだドイツ方式ではなく、フランス方式の地図表現を採用していた。いわゆる「東京実測図」と呼ばれる、1884年(明治17)から製作がスタートする1/5,000地形図は、すでにドイツ方式が採用されているが、それ以前に東京各地を測量して作られた地図は、カラーの1/20,000地形図でフランス方式にもとづいていた。
 地形測量は、参謀本部陸軍部測量局により1876年(明治9)からはじめられ、当初のフランス式地形図はめずらしいカラー表現(彩色図式)が採用された、たいへん貴重なものだ。特に1880年(明治13)には、落合地域を含む東京西郊が測量され彩色図式による制作がなされている。
 「東京実測図」について、1985年(昭和60)に新宿区教育委員会が出版した『地図で見る新宿区の移り変わり-戸塚・落合編-』の解説編所収、「戸塚・落合の地図」から引用してみよう。ちなみに、『地図で見る新宿区の移り変わり』で落合地域の地形図が収録されているのは、1910年(明治43)にドイツ方式で作成された1/10,000地形図のみであり、明治初期のフランス式1/20,000彩色地形図は掲載されていない。
  
 (註:1/5,000東京実測図は) 明治九年(一八七六)測量開始、西南の役で一時中断したが一七年完了、当初フランス式の彩色図式(地図彩式、兵要測量軌典)で測量されたが、一七年より製図、一八年より銅版彫刻、一九年完成し刊行された。刊行図は一色線号式のドイツ式の図式で表現されていた。これは、明治三年(一八七〇)普仏戦争の結果と一六年ドイツから帰朝の田坂大尉を待ち、日本の陸軍軍制にともない地図の諸様式も明治一七年ドイツ式に改めたことによっている。明治初年の国内の内乱に対する不安、地理局の地図に対する測量局の対抗的実績作りがこのような精密詳細な都市図を作らせたものと思われる。
  ▲
 明治初期に制作された1/20,000地形図が貴重なのは、カラー表現であるのに加え、各地域のポイントとなる情景や測量技師たちが気を惹かれた風景が、陸軍測量局に参画していた画家たちによってスケッチされている点にある。つまり同地形図は、地図が描かれた欄外に水彩による風景画が挿入された、イラストマップになっているということだ。
 そして同1/20,000地形図には、いまだ豊多摩郡落合村になる以前、北豊島郡上落合村/下落合村/葛ヶ谷村時代の落合地域を測量した、「東京府武蔵圀(国)南豊島郡大久保村北豊島郡長㟢(崎)村及東多摩郡中埜(野)村近傍村落図」が含まれている。現地へおもむき、地形を実際に測量したのは参謀本部陸軍測量局の、いわゆる陸地測量隊と呼ばれたプロジェクトチームに属する歩兵大尉・菊池主殿と、その助手で民間人の測量技師らしい粟屋篤蔵のふたりだ。そして、「東京府武蔵圀東多摩郡新井村」地形図の欄外には、下落合の情景をスケッチした水彩による風景イラストが挿入されている。
地形図・稲葉の水車1880.jpg
中井御霊社.JPG 地形図クレジット.jpg
 モチーフに選ばれたのは、下落合村にある火事で焼失した水車小屋だ。タイトルは『下落合村水車焼跡』と付けられており、つづけて「図之欄外三百米突」と記載されている。同画は、先に記したように「東京府武蔵圀東多摩郡新井村」地形図の欄外に挿入されたものであり、「図之欄外」は同地形図の欄外のことで、地図の境界から「三百米突」つまり300mほど下落合村側へ突き出た位置にある風景という意味だ。同地形図には、新井村とともに中央には上高田村が描かれており、その東側(下落合村側)へ300mほど出たところにあるのは、落合分水(千川分水)Click!から妙正寺川へ注ぐ水流を利用して設置された、御霊下(のち下落合5丁目)にある「稲葉の水車」小屋Click!のことだ。
 もっとも、同地形図には妙正寺川という名称はまだ採用されておらず、「仙(千)川用水末流」などという耳馴れない川名が記載されている。これは、陸軍部測量局がいまだ妙正寺川の湧水源を確認していなかったからと思われ、落合分水(千川分水)が流入しているのは確認済みということで、そのような名称を記載しているのだろう。
 また、1880年(明治13)当時、落合地域を流れるいまだ小川状の妙正寺川には、3つの水車が存在していたのがわかる。ひとつは、のちに養魚場Click!も併設される御霊下の「稲葉の水車」で、現在の落合公園の池があるあたりだ。ふたつめは、バッケ堰Click!のすぐ下流にあった「バッケ水車」で、大正期の新しい水車小屋の北側にあった、旧・水車小屋のほうが採取されているのだろう。大正期の旧・水車小屋では、父親が病気をし青物の仲買いでは食べられなくなった小島善太郎Click!の家族が、極貧の家庭生活の中で農民相手のささやかな銭湯Click!を経営していた。そして、最下流の水車は現在の寺斉橋あたりに設置されていた。
 稲葉の水車をモチーフに、水彩画『下落合村水車焼跡』を描いた画家は不明だが、当時は参謀本部付きの画家たちが嘱託のようなかたちで何名かいたので、そのうちのひとりの「作品」だ。当時は写真技術が未発達であり、このような風景記録は画家の仕事だった。参謀本部付きの画家たちを研究しはじめると、それこそ面白い物語がたくさん見つかりそうなのだが、落合地域がメインテーマの当サイトでは深入りしないことにする。
 画面を見ると、稲葉の水車は明治初期に焼失したことがわかるが、出火原因までは不明だ。小麦の製粉作業か、あるいは明治期になってスタートした鉛筆の芯材料となる炭粉の製造作業などで生じた、摩擦熱による発火・炎上なのかもしれない。この火災による負債が原因で、同水車の権利が下落合村の稲葉家から、のちに日本閣Click!の経営をはじめる上高田村の鈴木屋(当初の屋号)=鈴木家へ移行したという、いまに残る伝承へとつながっているのかもしれないが、『下落合村水車焼跡』の画面からは1880年(明治13)の7月現在、稲葉の水車小屋が全焼しているという事実しかわからない。
稲葉の水車跡.JPG
地形図・稲葉の水車1910.jpg
 下落合の「稲葉の水車」について、1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された『ふる里上高田の昔語り』所収の、細井稔「明治・大正・昭和編」から引用してみよう。
  
 現在の中野区営の野球場の裏手の御霊橋は、前述した懐かしい泳ぎ場所新堰で、このやや上手から目白の山下を道沿いに導水して、落合い(ママ)田んぼと、一部は稲葉の水車に流れていた。/稲葉の水車は今の落合公園の南側、妙正寺川に近い北側にあり、まわりは、杉や樫に囲まれ、相当広い場所を占めていた。落合公園のあたりは、鈴木屋(日本閣の前身)の釣堀用の養魚場であった。/稲葉氏は鈴木屋と姻戚関係であるが、何か失敗し、後に鈴木屋鈴木磯五郎氏に所有が移った。/水車は相当大きく幅約三尺、直径は三間以上あった様に思う。悪戯盛りが水車で遊んでいる時、水の取入口から水車の下に落ち、幅に余裕があったのでうまく輪の下を流され、妙正寺川の本流まで押し流された悪童がいた。命に別状なく怪我もせずに済んだ。
  
 画面を見ると、手前には焼失した水車小屋と、かろうじて原型をとどめた水車が描かれ、背後には御霊社Click!や現在の目白学園がある、下落合西端の丘が描かれている。この丘上に、目白学園の前身である城北学園Click!が建設されるのは大正後期なので、明治初期の画面ではいまだバッケ上には鬱蒼とした森林が繁っている。その様子は、『江戸名所図会』に描かれた江戸期の風情とほとんど変わらなかっただろう。長野新一が描いた『養魚場』Click!とは、南北逆の位置からモチーフをとらえて描いたものだ。長野新一は、落合分水によって形成された養魚場の池を手前に入れ北から南を向いて制作し、陸軍部測量局の画家は焼け残った水車を中心に南から北を向いて描いている。
 落合地域の地形図に目を向けると、茶畑があちこちで確認できる。明治期から大正期にかけ、落合では茶の栽培が流行したことを裏づける記載だ。また、森や林には生えている木々の植生までが採取・記載されている点も貴重だ、竹林や杉林、楓林、松林、そして多彩な樹木が入り混じる雑木林の位置が、明確にわかるよう描写されている。ただひとつ残念なことは、のちにスタートする1/10,000地形図とは異なり、小字や地名などが採録されていないことだ。1/20,000では小さすぎて、字や地名を入れると煩雑になるので避けたのかもしれないが、非常に惜しい点ではある。
中ノ道(新井薬師道)昭和初期.jpg
長野新一「養魚場」1924.jpg
 落合地域でもっともにぎやかなのは、椎名町(現在の目白通りと山手通りの交差点界隈)と、薬王院門前の本村界隈だ。この時期、日本鉄道による品川赤羽線(のちの山手線)は敷設されておらず、金久保沢のある目白停車場の谷間地形が、そのまま手つかずの状態で採取されている。江戸期の状況とほとんど変わらない、この1/20,000カラー地形図についてはとても興味深い表現が多々あり、また稿を改めて詳しく書いてみたいテーマだ。

◆写真上:1880年(明治13)の参謀本部陸軍部測量局が作成したカラー1/20,000地形図欄外に掲載の、稲葉の水車を描いた『下落合水車焼跡』。
◆写真中上は、同1/20,000地形図の下落合村にみる稲葉の水車界隈。下左は、画面背後に描かれた丘上にある中井御霊社。下右は、同地形図の欄外に挿入された歩兵大尉・菊池主殿と民間の測量技師と思われる助手・粟屋篤蔵のクレジット。
◆写真中下は、稲葉の水車小屋が建っていた現在の落合公園内。は、1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる稲葉の水車界隈。
◆写真下は、東へ向かえば稲葉の水車へと出られる昭和初期に撮影された上高田の新井薬師道(鎌倉街道)。は、1924年(大正13)制作の長野新一『養魚場』。稲葉の水車小屋を北側から眺めたもので、焼失後に再建された建物のままかもしれない。

昭和初期の投機的なハト狂想曲。

$
0
0

ハト(浅草寺).jpg
 大正期から昭和初期にかけ、農家あるいは勤め人の副業にはさまざまなものがあった。農家では、農閑期を利用して手っとり早い現金収入が見こめる手段として、大きな魅力があったのだろう。また、勤め人にとっては安い給料を補う内職、今日的にいうならアルバイト的な感覚で手をだした人が多かったにちがいない。特に、給料が安かったサラリーマンが、家庭の妻や子どもたちを巻きこんで副業に取り組む姿は、それほどめずらしくはなかった。
 この時期、爆発的なブームを呼んだ副業に“鳥ビジネス”がある。大正期になると、家庭の愛玩動物として小鳥を飼うのが一大ブームとなり、特に洋風の生活をする家庭では、窓辺や庭先にセキセイインコやカナリヤの鳥かごを吊るすのが、「文化生活」における一種のステータスのような趣きにさえなっていた。また、庭が広い郊外住宅地では、ニワトリやシチメンチョウを放し飼いにして新鮮な卵や、肉を出荷して利益を得るという、愛玩と実益を兼ねたような鳥類の飼育がブームになっている。
 中村彝Click!が、アトリエの庭先にセキセイインコ(実はメジロを飼っていたのだが)の鳥かごを吊るし、『画室の庭』や『庭の雪』Click!、『庭園』(以上1918年ごろ)、『鳥籠のある庭の一隅』Click!(1919年)を描いている背景には、そのような小鳥ブームがあったからだ。また、佐伯祐三Click!が1926年(大正15)の春に第1次滞仏からもどった直後から、新鮮な卵を得るために飼いはじめている7羽の黒いニワトリも、誰かに奨められて手に入れた可能性が高い。佐伯は、庭先を歩くニワトリをスケッチに残しているが、第2次渡仏を前に処分に困り、曾宮一念Click!へプレゼントしているのは以前記事Click!にも書いている。
 さて、小鳥ブームやニワトリ・シチメンチョウブームが去ったあと、にわかに注目されだしたのがハトだった。1920年代の当時、米国では食用のハトを飼育するブームが起きており、日本では大阪を中心とした関西から流行に火が点いたようだ。
 なぜハトの肉が注目され、関西を中心に爆発的なブームを呼んだのだろうか? それは、米国ではハト肉が多く食べられ、いずれ日本にも波及する食生活だろうという将来予測のもと、ネズミ算ならぬ「ハト算」による大儲けの思惑があったからだ。その資産形成の思惑とは、以下、1928年(昭和3)発行の『主婦之友』2月号から引用してみよう。
  
 昨年春以来、小鳥の流行が稍下火になると共に、新しい職業である食用鳩の飼育が、関西を中心として勃興してまゐりました。/鳩屋さんに言はせると、産卵佳良の種鳩一番(つがい)は、毎月一番づゝの卵を産みながら、雛を育てて、生れた雛が五ケ月目には、また産卵を始めるから、1ケ年の終りには百十八羽となり、二ケ年の終りには、六千九百六十二羽となる。即ち幾何級数的に畜殖して行くから、最初の一番に百円を支払つても、二年経てば、一羽一円としても六千九百余円の商品を造ることができる…のださうであります。
  
 『主婦之友』の記者も、どこか「…なのださうであります」とやや懐疑的に書いているように、当時の飼育技術でハトがそれほど卵を産んで子孫を増やすとは思えないし、事実、農事試験場における実験や、実際にハトの飼育ビジネスに手を出してみた人々の成績も、上記の数字には遠く及ばないものだった。
鳩舎(大阪府農事試験場).jpg
鳩舎巣房1.jpg 鳩舎巣房2.jpg
 それでも、ハトブームが下火にならなかったのは、いずれ日本人の食生活にもハト肉は欠かせないものになるという、なんら根拠のない将来予測があったからだ。だけど、少し冷静に考えてみればわかることだが、いくら米国や中国などでは普通に食べられている食材(当時)とはいえ、食文化に関する人々のこだわりや嗜好は頑固で根強い。それは、国内でも地域の味がたいせつにされ、容易に別の地域の食文化が受け入れられないのは、当時もいまも変わらない状況だったろう。ましてや、個々の料理レベルではなく、そのもととなる食材に関してはよほど美味なものでない限り、すんなり受け入れられるとは思えない。
 また、ブームが持続した理由には、ハト肉が大量生産されるようになり買い取り価格が安くなったとしても、「種バト」つまり子どもをたくさん産む親バト、ないしは優秀な血統の生産用ハトの取引価格は下落せず、むしろ暴騰していくのではないか……という、これまた取らぬタヌキClick!の皮算用のような希望的観測が働いていたからだ。まるで、競走馬の飼育か犬猫のブリーダーのような感覚だが、当時は大マジメで主張されていた「鳩屋さん」たちの楽観的モチベーションだった。
 さて、関西の特に大阪でハトブームが起きたのは、自治体が率先してハトの飼育事業に取り組んだからだ。大阪府営の農事試験場が、食用ハトの飼育に乗りだしたのは1927年(昭和2)秋からだった。大阪市南区細工谷町に住む飼鳩家だった芝田大吉という人が、米国で購入したハト100番(つがい=200羽)を、府営農事試験場へ大きな鳩舎ごと寄付したのがはじまりだったらしい。同時に、小規模ながら農林省や東京府の種蓄場でも研究がはじまっているが、大規模な飼育を行なっていたのは大阪の農事試験場だった。以下、大阪を中心とする関西の飼鳩事業を取材した、同誌の記事から再び引用してみよう。
  
 (前略)農林省や、東京府の種畜場、大阪府農事試験場等が試験飼育を始めたのは、漸く昨年の秋からのことであります。そのうちで最も大仕掛けにやつてゐるのは大阪府農事試験場で、素晴しく立派な鳩舎が幾軒も建てられてゐます。鳥類といへば日本的に愛知県が盛んであり、従つて目先も速いのでありますが、何故大阪府が率先して鳩の飼育を始めたかと申しますに、それは大阪市に熱心な鳩の研究者があつて、その人が、農家の副業として有望なものであるから試育して御覧なさいと、自ら米国で購入した鳩の種禽百番を、鳩舎ぐるみ試験場に寄付されたゝめであります。
  
鳩舎(大阪養鳩家).jpg 鳩キング種.jpg
鳩カルノー種.jpg 鳩シルバーキング種.jpg
 ハトビジネスに手をだした人の中には、勤めていた役所や会社をやめて養鳩事業に専念した人たちも少なからずいた。奈良出身の代議士・馬場義興という人は、自邸に300番=600羽のハトを収容する鳩舎を建て、3年間で何羽になるかの実験をスタートしている。馬場代議士へハトビジネスを奨めたのは、奈良県警の特高課長だった池加美という人物で、警察をやめて養鳩事業に専念し「ホクホクしてゐられるやう」な様子だった。
 また、大阪市北区に住む足立精宏という人は、本業の新聞記者をやめてハトの飼育に乗りだしている。あっさりとハトブームが去ったあと、彼は新聞記者に復帰できただろうか? 大阪市郊外の田辺町に住む須賀田平吉という人は、大阪歯科医学専門学校の教授だが、ハトビジネスをすぐにでも軌道に乗せて「早く学校の方を辞め」たいと記者に答えているので、よほど学校でイヤなことでもあったのだろうか。そのまま、あわてて学校へ辞表を提出しなかったことを祈るばかりだ。
 さて、これらの記事のあと、『主婦之友』ではハトを飼育する具体的な方法やノウハウを紹介しているのだけれど、あくまで客観的な記述にとどまっており、ほかの記事には多く見られる読者には“おすすめ”的な表現では書かれていない。おそらく、関西で3週間もかけて取材した記者も、「ほんまかいな?」という疑念を抱いたまま、東京の編集部へともどっているからだろう。ただし、過去の小鳥やニワトリ、シチメンチョウなどの鳥ブームに比べ、ハトは手間がかからず「女子供」でも簡単に飼える鳥であることは、以下のように認めてはいる。ただし、誰でも容易に飼育できる鳥であるがゆえに、そもそも「儲け話」になるのかどうか? それ以前の課題として、日本の家庭でハト肉が喜んで食べられるようになるのかどうか?……そのあたりの疑念は解消していないように読みとれる。
  
 食用鳩の儲け話、即ち経営方法のことは以上の数例でお判りになつたと思ひます。さてそれほど有利なものなら、必ず飼育法も難しいのであらうと想像されませうが、今日一般に普及してゐる鶏でも、飼つてみれば案外手数のかゝるもので、難しく言ひ出せば際限のないものですが、お寺やお宮にゐる野鳩の群が、人手を借りずに繁殖して行くことを見れば、食用鳩とて、さまで難しいものではありません。この点が七面鳥などに比べて大いに勝つてゐませう。
  
鳩舎図版.jpg
鳩舎平面図.jpg
鳩の群れ.jpg
 案のじょう、戦前戦後を通じてハト肉が家庭の食卓へのぼることは、ついぞなかった。ひょっとすると、戦時中あるいは敗戦直後には食糧不足や飢餓状況から、寺社のハトが捕まえられて食べられた経緯があったかもしれない。でも、それはやむをえない非常(時)食ないしは代用食としてのハト肉であり、食材として常食化されるようになることとは、まったくの別問題だ。戦後にも第2次ハトブームが起きているが、それはすでに食用バトではなく、家庭での愛玩用のペットまたは競技用としてのハトの飼育ブームだった。

◆写真上:浅草寺山門前の電線にとまる、食用バトの末裔かもしれないドバト。
◆写真中上:大阪府農事試験場の巨大な鳩舎()と、内部に設けられた巣房()。
◆写真中下上左は、養鳩家の代表的な鳩舎。上右は、食用バトの代表種であるキング種。は、同様に食用バトのカルノー種()とシルバーキング種()。
◆写真下は、一般的に普及した当時の鳩舎図版とその平面図。は、いまや寺社や公園などどこにでもいるドバトの群。

近衛町の夏目利政はアトリエ設計マニア。

$
0
0

鶴田吾郎アトリエ跡下落合804.JPG
 九条武子邸Click!の向かい、下落合793番地にアトリエを建てて暮らしていた彫刻家・夏目貞良(亮)Click!の兄であり、下落合436番地に住んでいた日本画家で洋画も描く夏目利政Click!は、アトリエを自分で設計して大工に建てさせる建築マニアだった。
 夏目利政は、大正の早い時期から下落合に住んでいたとみられ、1922年(大正11)に近衛町Click!の開発がスタートする以前(明治末の可能性もある)から、舟橋了助邸Click!の敷地東側へ自邸を建設していたようだ。1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図には、すでに舟橋邸の2軒東隣りに夏目邸が採取されている。おそらく、息子の舟橋聖一Click!とも顔なじみだったろう。そして、下落合のあちこちにアトリエ付き借家住宅を設計・建設しては、画家たちに声をかけて住まわせていたらしい。夏目兄弟は、もともと本郷区駒込動坂の出身であり、兄の利政は日本画ばかりでなく油絵もこなす器用な人物だった。おそらく、絵の仕事だけでは食べられなかったのだろう、なかば建築家のように下落合の地主と相談してアトリエ建築の図面を引いては、設計費として副収入を得ていたと思われる。
 夏目利政の存在は、下落合において非常に重要な意味をもってくる。なぜなら、彼は下落合804番地にあった鶴田吾郎アトリエClick!を、鶴田本人から依頼されて設計・建設しており、もちろん弟の夏目貞良アトリエもまた彼の仕事だろう。あるいは、自分で建てたアトリエを、彫刻家をめざす弟に譲ったのかもしれない。そして、下落合800番地の界隈に展開していた鈴木良三Click!鈴木金平Click!有岡一郎Click!服部不二彦Click!などのアトリエ住宅もまた、地主と打ち合わせて設計した夏目利政の「作品」ではなかったか。ちなみに、鈴木良三は関東大震災の前日、1923年(大正12)8月31日に雑司ヶ谷から、まるで「下落合アトリエ村」とでも呼べそうな一画、下落合800番地へ転居してきている。
 関東大震災Click!の直後、1923年(大正12)の秋ごろに、鶴田吾郎が下落合804番地にアトリエを建設する前後の様子を、鈴木良三の証言から聞いてみよう。書かれているのは、1999年(平成11)に木耳社から出版された鈴木良三『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』だ。
  
 (鶴田吾郎アトリエは)曽宮さんのところも近かったので往来は繁く曽宮さんのアトリエで、二人でドンタクの会Click!を毎日曜日、アマチュアのために指導を始めた。その間に曽宮さんをモデルにして百号に「初秋」Click!を描き、第三回帝展に入選し、その次の年にも「余の見たる曽宮君」Click!を出品した。/この年夏目利政さんという建築好きの人がいて盛んに貸家を造っていたが、その人の世話で小画室を造られ移った。大震災に遭い長男の徹一君が疫痢で亡くなった。(カッコ内引用者註)
  
 文中の「大震災に遭」ったのは、目白通りも近い下落合645番地の鶴田アトリエClick!であり、柱が傾き危険で住めなくなったので、鶴田吾郎は下落合804番地に小さなアトリエを新築して転居している。そこで鶴田は、「長男の徹一君が疫痢で亡くな」るという悲劇にみまわれた。鈴木良三の記述は、ふたつのアトリエの記憶を混同しているようだ。そして、新築した下落合804番地のアトリエは、そのころには画家たちの間でも広く知られていたのだろう、アトリエ建設に夏目利政が深く関与していた様子がうかがえる。
夏目利政邸1926.jpg
夏目利政邸1938.jpg
 さて、夏目利政がアトリエ建設で広く知られるきっかけとなったのは、彼が近衛町を開発した東京土地住宅Click!と親しく、村長になるはずだった満谷国四郎Click!金山平三Click!らとともに「アビラ村(芸術村)」Click!の建設計画へ当初から参画しているからだ。つまり、彼はディベロッパーと協力して下落合西部(現・中井2丁目)のアビラ村(芸術村)に、数多くのアトリエを建設するプロジェクトを構想していた画家のひとりだった。いや、アトリエ建築のみに焦点を絞れば、日本画と洋画の両分野、また弟の貞良を通じて彫刻分野にも広い人脈をもつ彼は、同村プロジェクトの中心人物だったのかもしれない。
 わたしが、早くから舟橋邸の並びに夏目利政が住んでいたと想定するのは、近衛町のプロジェクトが始動する際、すでに夏目は下落合436番地(のち近衛町のエリア内)へ確実にアトリエを建てて住んでおり、東京土地住宅の開発計画になんらかの関与をしていたのではないかと考えているからだ。だからこそ、近衛町の建設がスタートし、アビラ村(芸術村)の開発構想が発表された1922年(大正11)の時点に、その発起人として名を連ねることができたのではないか。
 夏目利政と東京土地住宅のつながりは、おそらく近衛篤麿邸跡の宅地開発が具体化した、大正半ばごろではないかと思われる。あるいは、舟橋邸つながりの夏目邸は近衛旧邸Click!にも近く、また近衛新邸Click!にも隣接していたため近衛文麿Click!とも顔なじみで、近衛の友人である東京土地住宅の常務取締役・三宅勘一Click!をあらかじめ紹介されたのかもしれない。とすれば、近衛文麿は夏目利政の建築好きを、すでに知っていた可能性もある。
夏目利政邸跡.JPG
下落合800番地界隈.jpg
 そう考えると、もうひとつ、非常に気になる課題がある。1922年(大正11)以降、結果的に近衛町へ含まれることになった、下落合436番地の夏目利政アトリエの北北東わずか80mほどのところ、近衛新邸の敷地の一画だったと思われる下落合523番地には、おそらく借家が建てられていた。そして、この借家は画室を備えた夏目利政によるアトリエ建築ではなかったか?……と想定することができるのだ。
 フランスからの絵葉書で、曾宮一念のアトリエがある下落合623番地の住所を何度か書きまちがえ、地番に憶えがあるとみられる「下落合523番地」と書いて訂正しているのは佐伯祐三Click!であり、同時代ではないものの大正末に作成された「下落合事情明細図」の下落合523番地には、「佐伯」Click!という名前が採取されている。つまり、佐伯夫妻は1921年(大正10)の前半期、下落合661番地のアトリエが完成するまでの間、下落合に仮住まいをして暮らしているが、通常の住宅ではなく近衛新邸の一画に建っていたアトリエ仕様の借家が気に入って、下落合523番地に仮住まいをしているのではないか?……という、新たなテーマが見えてくるのだ。ちなみに、「下落合事情明細図」の下落合661番地には、いまだ佐伯邸が採取されていない。
 また、下落合の地主や銀行家たちとも親しかったらしい夏目利政は、大正期のかなり早い時期から、すなわち画家たちが目白駅に近いエリアに集合しはじめ、仲間うちでは「目白バルビゾン」Click!などと呼ばれはじめたころから、下落合へアトリエを建てる借地の斡旋と、設計・建築の手配をしてやしなかっただろうか。たとえば、下落合800番地界隈に限らず、その北側に隣接するエリアの下落合596番地に住んでいた片多徳郎Click!のアトリエ、自宅がリフォーム中で下落合735番地に仮住まいをしていた村山知義・村山籌子夫妻Click!のアトリエなど、あらかじめアトリエ仕様をしていたらしい画家たちが住んでいた借家を、何軒も思い浮かべることができるのだ。
 洋画も手がける夏目利政は、アビラ村(芸術村)の村長になるはずだった満谷国四郎とも親しかったとみられ、満谷は弟子や友人たちがアトリエを建てる際、夏目利政の「作品」を紹介してやしないだろうか? あるいは、ヘタな大工や絵画には素人の当時の建築家が造るアトリエよりも、画家が設計するアトリエ住宅だからまちがいがなく安心だ……というような感覚で、画家たちへ夏目利政を紹介しやしなかっただろうか?
夏目利政「処女と白鳥」1919.jpg 夏目利政「自画像」1962.jpg
夏目貞良邸1926.jpg
 1916年(大正5)に、中村彝Click!が下落合へアトリエを建てる際には、当然、恩師である満谷国四郎にも相談しているだろう。満谷自身はいまだ谷中Click!にいて、下落合にアトリエを建設してはいないが、その際、建設地が下落合であることを聞き、夏目の名前を出しはしなかったろうか? その5年後、今度は中村彝の親友だった曾宮一念が下落合へアトリエを建てる際、当然だが曾宮は彝にアトリエを設計・建設した人物を訊ねただろう。そのとき、彝は地元の夏目利政の名前を出さなかったかどうか……? 曾宮アトリエが竣工したわずか2年後、鶴田吾郎が夏目利政へ依頼して下落合804番地にアトリエを建設していることを踏まえるなら、この想定はあながちピント外れとはいえないかもしれない。

◆写真上:下落合804番地の現状で、鶴田吾郎と服部不二彦のアトリエは路地の右手にあった。画面の背後は、下落合800番地の区画になる。
◆写真中上:1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」()と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」()にみる夏目利政邸。残念ながら「火保図」には名前が採取されておらず、夏目利政がいつまで下落合にいたかは不明だ。
◆写真中下は、下落合436番地の夏目利政跡。路地の左手が夏目邸跡で、突き当たりが舟橋邸。は、下落合800番地界隈に残る大正末から昭和初期にかけての住宅建築。
◆写真下上左は、1919年(大正8)に描かれた軸画で夏目利政『処女と白鳥』(部分)。上右は、1962年(昭和38)制作の夏目利政『自画像』。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図にみる下落合793番地の弟・夏目貞良アトリエ。夏目邸の北側には、満谷国四郎アトリエと九条武子邸がある。画家たちが集合していた下落合800番地界隈は、夏目貞良邸から西へ50mほどのところにあたる。

江戸期が匂う1880年(明治13)の下落合地形図。

$
0
0

下落合全図1880.jpg
 1880年(明治13)に参謀本部の陸軍部測量局に勤務する歩兵少尉・菊池主殿と、民間の測量技師と思われる粟屋篤蔵が作成した1/20,000地形図Click!を眺めていると、いつまでも見飽きない。日本鉄道の品川赤羽線Click!(現・山手線)が敷設される5年ほど前、明治維新からわずか10年余しか経過しておらず、落合地域がいまだ別荘地としても、また住宅街としても拓けていない、江戸期の姿がほぼそのままのかたちで残る地形図だ。
 5年後に、現在の山手線が敷設される金久保沢Click!の谷間は、本来の姿をそのままとどめており、谷間には大きな池が採取されている。この池は、現在の血洗池Click!よりもやや西寄りにあったとみられ、幕末に描かれた絵図Click!とよく照合している。もちろん、学習院は存在しておらず、その敷地には20戸前後の農家が散在している。この池の下(南側)には、高田村側に飛びだした下落合村の飛び地と思われる位置に、茶畑Click!が記録されている。茶畑は、高田地域や落合地域ばかりでなく東京郊外の随所で、明治期から大正期にかけて見られる作付けの大きな特徴だ。大正の後半あたりから、より大規模な生産をスタートした狭山茶や静岡茶に押され、「東京茶」は消滅していくことになる。
 茶畑は、のちに学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が建設されるあたりの敷地にも見え、また金久保沢の西側斜面の随所にも見てとれる。江戸期には、下落合村と高田村の入会地だった金久保沢の上流域は、明治に入ってから高田村領となって下落合側(西側)へ細長く食いこみ、また金久保沢の谷間の南側開口部は下落合村領が飛び地も含めて高田側(東側)へ張り出すように村境が決められた。しかし、品川赤羽線の工事がはじまると、谷間の南側に張りだしていた下落合村の敷地は、ほとんどが鉄道の下になってしまい、飛び地もいつの間にか高田村に併合されて、椿坂の西側へわずかに新宿区の区域が食いこむという妙な区境として、現在でもその名残りを見ることができる。たとえば、椿坂の切手博物館が入るビルは、建物の東半分が豊島区で西半分が新宿区というおかしなことになっており、同博物館の公称所在地は「豊島区目白1丁目」だが、建物のフロアを奥へ入ると「新宿区下落合2丁目」になってしまう。
 さて、高田村も面白いのだがキリがないので、下落合村を見ていこう。下落合にはいまだ近衛篤麿邸Click!は建設されておらず、現在の近衛町は一面が森と畑地になっている。また、現・近衛町の西側には、かなり大きめな竹林が拡がっていた。実際には、もう少し北側にあった竹林だが、現在の日立目白クラブの敷地西側のわずかに残った竹林に、その面影をしのぶことができる。そして、七曲坂の形状が非常に興味深い。明治末に作成される参謀本部の1/10,000地形図や、東京逓信局の「豊多摩郡落合町市街図」では表現されていない、クネクネとまるでヘビが身体をくねらせたような、多くのカーブをもった七曲坂Click!が詳細に描かれている。坂下から丘上までカーブを数えてみると、ちょうど7つありそうだ。いまではカーブが修正され、「7つも曲ってないじゃないか」といわれる方が多いのだが、明治初期まで確かにカーブが7つほどあった様子がうかがえる。
下落合竹林.JPG
下落合目白駅谷間1880.jpg 下落合七曲坂1880.jpg
下落合バッケ階段.JPG
 七曲坂のすぐ西側、旧・下落合の東部ではもっとも標高が高いタヌキの森Click!(36.5m)には、すでに三角点が設置されているのがわかる。つまり、この三角点は明治維新後、落合地域でもっとも早くから設置された三角点のひとつだ。そして、現在ではほとんど目立たなくなっているが、下落合にはもうひとつ三角点が設置されている。同じ七曲坂筋をまっすぐ北へと歩いた下落合491番地あたり、徳川好敏邸Click!(下落合490番地)のすぐ北側で、現在の目白通りにあるピーコックストアのすぐ西側だ。タヌキの森のピーク三角点から、目白通りへと抜ける手前、いまの目白が丘マンションが建つ位置までわずか400m、このように近接して三角点が設置された例は、のちの地図には見られない。
 三角点から三角点までの設置間隔は、4kmは離さなければならないのが“お約束”となり、後世の測量地形図では見ることができない、1880年(明治13)のフランス式地形図ならではの大きな特徴だ。1909年(明治42)から作成される1/10,000地形図では、タヌキの森の三角点は記載されているものの、七曲坂筋の目白通りへの出口に設置された三角点は採取されていない。つまり、落合地域ではタヌキの森の三角点が採用され、その北側400mの位置に設置された三角点は廃止された……ということなのだろう。ただし、現在の目白が丘マンション敷地のどこかに、1880年(明治13)当時には存在した三角点の痕跡が残っているのかもしれない。
下落合椎名町1880.jpg
下落合諏訪谷.JPG
下落合西部1880.jpg
 さて、七曲坂の丘上から北西へ斜めにカーブを描く、いわゆる子安地蔵通りClick!が地図に描かれている。この道は江戸期からつづく古い道筋で、清戸道Click!(せいどどう=高田村誌)をはさみ下落合村と長崎村にまたがり街道筋で賑わっていた「椎名町」Click!(現在の西武池袋線椎名町駅の南300~400m)へと抜けることができた。下落合から少し離れるが、高田馬場駅前にある栄通りもまた、江戸期からつづく道筋であるのがわかる。この道を北へたどると、神田上水の田島橋Click!をわたり下落合氷川明神社Click!や七曲坂の下まで、つまり鎌倉街道である雑司ヶ谷道Click!(現・新井薬師道)へと抜けることができた。地下鉄東西線に乗るために高田馬場駅まで歩くとき、わたしはいまでも江戸期からつづくこの道を通っていることになる。
 下落合の、もう少し西側まで目を向けてみよう。江戸期から丘上に通う坂道が、明治維新から間もないこの地図で明確になった。不動谷Click!(大正期以降は西ノ谷)の東側には、1931年(昭和6)に国際聖母病院Click!補助45号線Click!(聖母坂)が造られて消滅した、青柳ヶ原Click!の丘上へ通う名前の不明な坂道が採取されている。この坂は、すぐ西側に位置する西坂に対し、「東坂」と呼ばれていたのではないかと想像している。そして、いまだ徳川別邸Click!が存在しない西坂、市郎兵衛坂、振り子坂が採取されている。
 さらに西へとたどると、おそらく江戸期からすでに農道として拓かれていたのだろう、一ノ坂Click!蘭塔坂Click!(二ノ坂)、五ノ坂Click!、六ノ坂、七ノ坂、八ノ坂を確認できる。ただし五ノ坂は、この地図では江戸期の姿のままだと思われ、現在の「く」の字に曲がるかたちではなく、坂下から北西方向へ斜めに丘上へと突き抜けている。これらの坂道の中で、不思議なことに30年後の明治末に作成された、1/10,000地形図から消えてしまっているものもある。すなわち、六ノ坂と八ノ坂が明治末の地図では採取されていない。これは、坂道が消滅してしまったわけではなく、1/10,000地形図の表現では道路として認定しづらいほどの山道だと、あえて描きこまれなかったのだろう。換言すれば、1880年(明治13)の1/20,000地形図は、丘上に通う地元の農民しか利用しないようなか細い道まで、丹念に採取して描写していることになる。
 さて、上落合側にも面白い特徴が多々みられるのだが、キリがないのでおいおいご紹介していきたいと思っている。もうひとつ、1/20,000地形図で気になる表現があった。それは、上落合の南側に位置する柏木村における表現だ。
下落合五ノ坂.JPG
下落合葛ヶ谷1880.jpg
下落合田島橋1880.jpg 柏木村成子町1880.jpg
 先にご紹介した、成子富士や成子天神のエリアに見える成子天神山古墳(仮)Click!のフォルムだが、その位置に三角点が設置されている。ご承知のように、三角点は見晴らしのいい測量のしやすい高所へ設置されるのが常だ。したがって、1880年(明治13)の時点まで、この場所には成子天神山古墳(仮)の墳丘、ないしは崩されかけた丘の残滓が残っていたのではないか?……という想定が成り立つのだ。同地図は縮尺が粗いせいか、のちに新宿停車場ができるあたりに新宿角筈古墳(仮)Click!の盛り上がりは採取されていないし、成子天神の界隈にもそれらしい突起は描かれていない。しかし、巨大な成子天神山古墳(仮)の後円部あたりに三角点が設置されているのは、非常に気になる記載なのだ。

◆写真上:明治維新後の1880年(明治13)に、参謀本部の陸軍部測量局の歩兵少尉・菊池主殿と粟屋篤蔵によって測量・作成されたフランス式の1/20,000地形図。
◆写真中上は、現・日立目白クラブに残る竹林。中左は、5年後に品川赤羽線(現・山手線)が敷設される金久保沢の谷間。中右は、七曲坂の道筋で三角点がふたつ設置されている。は、おそらく江戸期からと思われる薬王院に接したバッケ坂(階段)。
◆写真中下は、東から西へ諏訪谷、不動谷(西ノ谷)、前谷戸(不動谷)の様子と江戸期からの姿をとどめる清戸道(現・目白通り)沿いの椎名町。は、大正期の擁壁がコンクリートに改修されている諏訪谷の現状で、左手に見えるのが国際聖母病院。は、下落合西部(現・中落合/中井)で丘上に通う細い農道までが採取されていると思われる。
◆写真下は、宅地開発と同時に道筋が大きく修正された五ノ坂。は、長崎村から葛ヶ谷村にかけての描写。下左は、のちに設置される高田馬場駅あたりから栄通りを北上し、田島橋で神田上水をわたって下落合にいたる道筋。下右は、成子天神社の東側に設置された気になる三角点。

目白文化村絵はがき3枚から考察する。

$
0
0

前谷戸湧水源.JPG
 目白文化村Click!の絵はがきをもう1枚、古書店で入手することができた。箱根土地Click!が第一文化村の販売後、第二文化村の販売を目前にした1923年(大正12)の春から初夏にかけ、東京府内へ発送していたDM用の絵はがきだ。
 先に、新宿歴史博物館で拝見した同はがきClick!も含めると、これで第一文化村の街並みと前谷戸を写した同一写真の目白文化村絵はがきClick!を、都合3枚にわたり観察することができた。目白文化村絵はがきには、ほかにも神谷邸をフューチャーし「目白文化村の一部」Click!を写した別種の販促用絵はがきも存在するのだが、こちらは1種しかまだ入手できていない。ちなみに、1922年(大正11)の秋には竣工していた神谷邸だが、最後まで残っていたライト風レンガ造りの門が、残念ながら先年壊されてしまった。
 さて、同一の絵はがきを3枚観察することで、堤康次郎Click!のSP戦略あるいはターゲティングをなにか探れないか?……というのが、きょうのテーマだ。同じ図柄の絵はがきが3枚なので、記述の紛らわしさを避けるために、とりあえず各絵はがきに以下のような番号をふって記述を進めたい。
 新宿歴史博物館に保存されている同絵はがき
 2014年6月に古書店から入手した同絵はがき
 今回(2015年4月)入手した同絵はがき

 まず、絵はがきごとの印刷の質を比較してみる。新宿歴博に保存されているは、経年でやや褪色しているものの、人着された写真はクッキリしていてボケてはおらず、印刷の質はおしなべて精緻だった。しかし、わたしが最初に入手した同絵はがきは、褪色は少なく当時の色彩をよく残してはいるものの、新宿歴博のに比べて印刷がやや甘くなり、シャープ感がなくなっているのがわかる。第一文化村の街並み写真のエッジが甘い、つまり、わずかだがピンボケのように家々のかたちがぼやけているような印象を受けるのだ。これは、新宿歴博のは製版したばかりの初期の刷りに近く、わたしが入手したはかなり印刷を繰り返して版の劣化が進行した、後刷りの可能性が想定できるように思われる。
①目白文化村絵はがき.jpg
②目白文化村絵はがき.jpg
③目白文化村絵はがき.jpg
 そして、今回入手できた絵はがきは、よりも印刷がクッキリとシャープであり、新宿歴博が保存するに近いことがわかる。しかし、に比べて褪色は少なく初期の色彩をよく残してはいるものの、郵便局で絵はがきを積み重ねることで付着したと思われるスタンプの跡や、配達後の保存時に発生したとみられる折れや汚れが付いている。これらを勘案すると、新宿歴博のと今回入手のは、あまり時間をおかずに印刷された初期のころの絵はがきであり、わたしのは版が傷み当初の精緻さが失われはじめた印刷後期のものである可能性が高い。あるいは、絵はがきすべてを一度に印刷したものではなく、増刷を繰り返して版が傷んだのかもしれない。換言すれば、は初版の刷りに近く、はのちの刷り増しによる追加注文の可能性があるということだ。
 このSP印刷物にはありがちな想定をベースに、宛て名書きからなにか探れないかどうかを検証してみよう。まず、新宿歴博のは、宛て先が「小石川区小日向臺(台)町二ノ八」(現・文京区小日向2丁目)となっており、市街地の住民に宛てたDMだ。場所は、小日向の南西斜面で麓に今宮神社のある丘上に住んでいた人物だ。今回入手したは、同じく東京市街地で「四谷南寺町一〇」と宛て名書されている。省略されているが正確には四谷区四谷南寺町10番地(現・新宿区須賀町)のことで、文字どおり四谷の寺町に住んでいた住民に宛てたものだ。10番地は、勝興寺と戒行寺にはさまれた細長い街角にあたる。ところが、印刷が劣化したは東京市街地ではなく、「市外大井町五六二」(現・品川区東大井5丁目)の人物宛てとなっている。
 大正期の大井町や大森の界隈は、東京から気軽に出かけられる近郊別荘地、あるいは日帰り観光地として拓けていた。日本初の湘南・大磯Click!にならって設置された大森海水浴場が評判を呼び、毎夏には東京市街地から訪れる海水浴客で賑わっていただろう。だが、太平洋に面した大磯とは異なり、東京湾に面した大森海岸はおだやかで波が小さくて勢いがなく、松本順(松本良順)Click!が提唱した血行促進を主眼とする、本来の意味での海水浴はできなかったと思われる。むしろ、波打ちぎわでの渚遊びと浜辺の日光浴とがメインの海水浴だったろう。また、潮風が病気によいとされた当時、東京に近い転地療養地Click!としても脚光を浴びていた。の絵はがきは、そのような東京近郊で暮らす住民に向けて発送されている。
②文化村倶楽部.jpg ③文化村倶楽部.jpg
②神谷邸.jpg ③神谷邸.jpg
 このような状況から、①③の絵はがきの宛て先から、初期のころに刷られたものは東京市街地の住民宛てに、後期に刷られたものは東京近郊の住民宛てに、DMが発送されていたのではないか?……と想定することができる。つまり、セグメント化された見込み顧客として、目白文化村の販売はまず東京市街地に住む人物がターゲットとして設定されており、その問い合わせや反応を見てから東京郊外で暮らす住民宛てに、追加で売りこみをかけている……というようなSP戦略が透けて見えてくる。
 大正期から昭和初期にかけ、東京市街地では住宅の稠密化や都市部への工場進出にともない、結核による死亡率が急速に高まった時期だった。食生活の改善Click!はもちろん、住環境の見直しや「文化生活」Click!の追求など、郊外へ転居するのが一種のブームのようになっていた。だから、目白文化村のSPが市街地中心になるのは必然だったろう。当時の市街地では、借家に住むのがふつうだったし、また借地の上に自宅を建てて住むのが当たり前の形態だった。だから土地まで入手でき、その上に自分の好きな設計やデザインで住宅を建てられるというのは、ある程度の収入のある層には大きな魅力として映っただろう。
 堤康次郎のSP戦略のもと、市街地にマトを絞ったターゲティングはとりあえず成功したかもしれない。だが、目白文化村では最大規模の造成だった第二文化村の販売を控え、それでは不安を感じたものか、東京郊外でも比較的開発が進んでいたエリア、すなわち早くから別荘地として拓けてきたが、市街地化の波が押し寄せ、あるいは海辺に工場が建ちはじめて、徐々に静寂さや清廉な空気が失われつつあるような地域へ向けても、追加でDMを発送してやしないだろうか。絵はがきが発送された1923年(大正12)4月~5月、関東大震災Click!が起きる直前の時期であり、人々が東京郊外へ押し寄せるような、いわゆる市街地からの“民族大移動”はいまだ起きていない。
 の「市外大井町五六二」は、大井町駅の東口にごく近い住所であり、駅前の大井町警察署の数ブロック隣りの地番だ。ほかのエリアに比べ、駅前はなおさら市街地化の進みぐあいも早かっただろう。それが、印刷の終わりごろか改めての増刷かは不明だが、写真のシャープさにやや欠けるの絵はがきや、別種の神谷邸絵はがき「目白文化村の一部」にみる、大井町の駅界隈に住む人物をターゲットにすえた、DMの目的ではなかったかと想像してしまうのだ。
①目白文化村絵はがき裏.jpg ③目白文化村絵はがき裏.jpg
②目白文化村絵はがき裏.jpg 文化村絵はがき2裏19230522.jpg
文化村絵はがき2表19230522.jpg
 印刷が比較的シャープな、の絵はがきが東京市街地の宛て先であり、印刷がやや甘く版下の劣化を感じさせるが東京郊外の宛て先なのは、堤康次郎による見込み顧客のセグメント化と、その顧客が置かれた環境や心理を分析し想定した、けっこう緻密なターゲティングの結果ではないか……、そんな気が強くするのだ。

◆写真上:目白文化村絵はがきの人着写真にとらえられた、前谷戸の湧水源である第一文化村の谷間の現状で、湧水の流れはすべて暗渠化されている。
◆写真中上からへ、歴史博物館に保存されている市内小石川区宛ての同絵はがき、2014年に入手した市外大井町宛ての同絵はがき、2015年に入手した市内四谷区宛ての同絵はがき。印刷の質は①③がよく、がシャープさに欠けて質感が落ちる。
◆写真中下:写された第一文化村の街並みを、()と()で比較したもの。
◆写真下は、小石川区小日向宛ての()と、四谷区四谷南寺町宛ての()の表書き。は、市外大井町宛ての()と別種の絵はがき「目白文化村の一部」の表書き()。は、第一文化村に建つライト風の神谷邸を撮影して人着した別種の目白文化村絵はがき。

小島善太郎は巨大古墳の上に立った。

$
0
0

戸山ヶ原風景1911.jpg
 小島善太郎Click!は、淀橋町に住み淀橋小学校へと通っていたころから、高いところへ登って風景を眺望するのが好きだったようだ。この性格は、小島が画家をめざすようになってからも、風景画にその特徴を多く見い出すことができる。高台や丘の上から、坂下や麓を見下ろして描いている画面が数多い。幼年時代から、彼は近くの丘や高所に登っては四辺を見わたしている。
 小島の父親は、もともと下落合にあった小島家本家の跡取りであり、隣りの中野村から嫁してきた妻、すなわち小島善太郎の母親を迎えてからは、沢庵漬けClick!の製造とダイコンなど近郊野菜の仲買い販売を商いとする仕事を淀橋ではじめている。だが、酒グセの悪い父親が事業に失敗し、やがては故郷である下落合にもどってくるのだけれど、本家の土地や屋敷はとうに人手にわたっていて、小島一家はバッケ堰の下流にある使われなくなった旧・バッケ水車小屋Click!で小さな風呂屋を営業し、その日の食事にも困窮して飢えに苦しめられる極貧生活を送ることになった。
 きょうのエピソードは、小島善太郎がいまだ淀橋小学校に通い、成子天神社Click!の祭礼には友だちと夜店に出かけられていた時代、つまり小島家にいまだ破滅的な危機が訪れる前の、淀橋町時代の物語だ。小島善太郎は、小学校の友だちなどとともに現在の新宿駅西口、つまり明治期の淀橋町角筈から五十人町、成子町あたりを走りまわって遊んでいた。淀橋浄水場Click!は小島が6歳のときに竣工しているが、甲州街道の旧・宿場町である内藤新宿Click!に近く、早くから拓けていた新宿停車場Click!の東口とは異なり、西口はいまだ昔の面影を色濃く残しているエリアだった。
 余談だけれど、成子天神の東側には1880年(明治13)に設置された三角点Click!があるのだが、おそらく地面からなんらかの盛り上がりがあり、四方を測量できる小高い地形になっていたと思われる。小島の著作を注意深く読んだのだが、成子天神東側の地形については特に触れられていない。崩されかけた成子天神山古墳(仮)の残土か、あるいは同主墳の陪墳のひとつが明治期まで残されていたのかもしれない。今後とも、明治以前の成子天神界隈の地形については注意したい。
 淀橋浄水場ができて間もない、明治末の新宿停車場西口の様子を、1968年(昭和43)に雪華社から出版された小島善太郎『若き日の自画像』から引用してみよう。
  
 (新宿)駅の西隣り、煙草専売局の跡の所(ママ)は、ツノカミ山といって浄水場に隣り合い甲州街道新町に続いた深い藪で、奥まった小山の麓で狐の穴を見たりした。北側が五十人町。今日、街道は曲折して駅前に出るようになったが、当時は魔の踏み切りと云って毎年犠牲者が出たものである。街道は手車の糞尿車が連がるので肥桶街道と呼ばれていた。/浄水場もこの年代に出来たもので、僕は浄水場・五十人町・柏木町との四っ角で生まれた。当時浄水揚工事は騒ぎだったらしく、牛が荷車を付けたのの家に入って来て、僕を仰天させ、その時のおののいた記憶が残っている。(カッコ内引用者註)
  
地形図1909.jpg
淀橋浄水場正門.jpg 淀橋浄水場淀橋工場機関室.jpg
 この記述から、小島善太郎の家は淀橋町柏木成子北88~101番地(旧・柏木成子町88~101番地)あたりに建っていたのがわかる。ちょうど淀橋浄水場の工場機関室と、常園寺とにはさまれたあたりの街角だ。文中に「肥桶街道」とあるのは、小島宅の家前に面していた今日の青梅街道のことだ。
 「ツノカミ山」は、以前の記事にも書いたように、幕末に美濃高須藩の松平摂津守義比(よしちか)が下屋敷をかまえ、もともと屋敷内の庭に存在していた“山”なので、地元では昔から通称「津ノ守山」と呼ばれていた。「煙草専売局の跡の所」と書いているのは、小島善太郎がこの文章を書いた1960年代の時点で、すでに専売局の建物が解体されたからだと思われるが、津ノ守山は専売局の敷地内ではなく、その南西外れに位置しており「日本中学校の跡」と書くのが正確だ。
 近所の友だちと、徒党を組んで遊びまわっていた小島は、山麓に棲んでいたキツネの巣穴も記憶しており、当然、津ノ守山の山頂へも登って遊んでいるのだろう。後円部にあったと思われる山頂だが、1909年(明治42)と翌1910年(明治43)に参謀本部が作成した1/10,000地形図および同修正図では、後円部の上半分がスッポリ削られていた可能性がうかがえる。淀橋浄水場が操業をはじめた当初、写真にとらえられた新宿角筈古墳(仮)Click!もまた、後円部の高度がかなり足りない様子で記録されている。
 ひょっとすると上野の摺鉢山古墳Click!と同様に、後円部の上部を削って平坦な山頂にし、早くから庭園の見晴らし台、あるいは公園のような風情になっていたのかもしれない。それは、松平摂津守の時代にほどこされた造園時のこしらえか、あるいは明治維新以降に新宿停車場ができたころの造作かはハッキリしない。
淀橋浄水場濾過池.jpg
淀橋柏木地形図1910.jpg
 また、小島善太郎は新宿角筈古墳(仮)の北側にあった、女子学院高等科(現・東京女子大学)のキャンパスに入りこみ、陪墳Click!とみられる小丘の上にも登っている。その様子を、小島善太郎の前掲書からつづけて引用してみよう。
  
 ツノカミ山の西端れ【ママ】元の精華女学校【ママ】の裏奥に丘があった。そこから見下ろすと、屋根の尖った基督教会堂があって(その付近に、壮年時代の内村鑑三が住まっていたことをのちに知った)、此の会堂で女の宣教師に讃美歌を唱わされ、天井いっぱいに美しく飾られた中で皆の者と凧を貰って帰ったことがよほど嬉しかったものとみえ、これも今【ママ:未】だに忘れないでいる。(【 】内引用者註)
  
 文中で、「精華女学校」と書いているのは小島の記憶ちがいで、1906年(明治39)まで米国伝道派ミッションによる衛生園および看護婦養成所の敷地であり、そのあと女子学院高等科(現・東京女子大学)が本館や校舎、女子寮などを居抜きで譲り受けて開校している。新宿中村屋Click!相馬俊子Click!が、家からわずか400mほどしか離れていないのに、入寮して講義を受けていたのはすでに記したとおりだ。
 さて、小島善太郎は新宿角筈古墳(仮)の陪墳とみられる、女子学院高等科の敷地内にあった丘を、「ツノカミ山の西端れ」と書いているが、正確には同古墳の後円部から見て北北西外れに当たる。換言すれば、津ノ守山という呼称は同古墳の前方部の丘ではなく、前方部に比べより高度があったと思われる後円部に付けられていた名称だということがわかる。墳丘長だけで120~130mはあったと思われる新宿角筈古墳(仮)だが、この丘陵全体を津ノ守山と呼称していたとすれば、女子学院キャンパス内の陪墳は真北に位置しているからだ。それを「西」と認識していることは、古墳の丘陵全体から見てのことではなく、後円部の丘上から眺めて「西」寄りの方角として印象に残っていたからだろう。
 女子学院高等科の敷地にあった丘(陪墳)も、かなりの高度があったことが文中からうかがえる。丘上から見えているのは、北側の大久保から柏木にかけての風景であり、尖がり屋根の「基督教会堂」とは、陪墳とみられる丘から800mほど北の蜀江山に設置されていた、淀橋町柏木392番地の東京聖書学院の教会堂のことだ。淀橋町柏木436番地の内村鑑三邸は、聖書学院のすぐ北側に建っており、下落合に住んでいた南原繁Click!は、内村が主催する聖書研究会に参加し、学生組織の「白雨会」を学生仲間とともに結成している。
蜀江山坂道.JPG 内村鑑三邸跡.JPG
内村鑑三1909.jpg
 小島善太郎の『若き日の自画像』には、高田馬場駅の南東側にあった丘上から風景を描いている場面が登場してくる。まるで、画家がキャンパスに向かって風景描写の“実況中継”をしているような文章なのだが、そのとき描かれていたのが戸山ヶ原Click!から目白崖線にかけての情景で、1915年(大正4)制作の『晩秋』だ。この作品は現存しているので、いつか小島の文章とともにご紹介したい。

◆写真上:小島善太郎の初期作で、1911年(明治44)制作の『戸山ヶ原風景』。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる小島家とその周辺。は、竣工から間もない淀橋浄水場の正門()と同浄水場の淀橋工場機関室()。正門前に写る右手の道路が、明治期に「肥桶街道」と呼ばれていた青梅街道。
◆写真中下は、淀橋浄水場の濾過池から東の淀橋工場機関室を撮影した写真。画面右手に専売局敷地内にあった地面の盛り上がりと、右端には女子学院高等科のキャンパスにあった陪墳とみられる丘がとらえられている。は、1910年(明治43)の地形図にみる女子学院の陪墳から柏木の蜀江山方面の様子。
◆写真下上左は、蜀江山へ上る急坂。上右は、淀橋町柏木436番地にあった内村鑑三邸跡の現状。は、同邸の書斎で1909年(明治42)に撮影された内村鑑三。

近衛町の未契約地「44号」をどうしよう?

$
0
0

近衛町1923頃.jpg
 東京土地住宅(株)は、下落合の近衛篤麿邸跡に開発した「近衛町」の分譲開始を、1922年(大正11)4月11日の「東京日日新聞」Click!で、また同年4月15日および4月22日の新聞広告で告知している。そして、同年5月7日に販売がスタートすると、同じく「東京日日新聞」の報道によれば、坪平均68円50銭で販売したところ、同年の10月27日はアッという間に完売したことになっている。だが、これは対マスコミ向け(対顧客向け)の建て前的なポーズであり、1922年以降も未契約の土地が残っていた可能性が高い。
 1923年(大正12)ごろ、東京土地住宅Click!が作成されたとみられる近衛町開発の内部資料「近衛町地割図」を、友人が公文書館で見つけわざわざお送りいただいた。(冒頭写真) 東京土地住宅の三宅勘一Click!としては、販売から短期間ですべての敷地を売り切るほど、それほど人気が高かったのだとアピールし、今後の事業展開をスムーズに進めたかったのだろうが、実は「未契約地一覧表」を作成して、そのうちのいくつかの敷地では大正末にかけ、敷地造成の追加開発が行われている可能性の高いことがわかる。
 上記の「近衛町地割図」に振られている番号は、西片町Click!目白文化村Click!など当時の文化住宅街と同様に、近衛町独特の住宅(敷地)番号であって下落合の住所ではない。たとえば、1923年(大正12)ごろに建設された杉卯七邸Click!は「落合村近衛町33号」となり、「落合村下落合415番地」と表記しなくても郵便がとどくような、近衛町ならではの環境にしたかったのだろう。しかし、目白文化村の住宅番号Click!もそうだけれど、下落合ではこのような文化住宅街独自の“住所”は、そのうち忘れられて普及しなかった。
 さて、この「近衛町地割図」の中で斜線が引かれている敷地が、1923年(大正12)現在でも「未契約地」、つまり売れ残っていた部分だ。下落合の地形をご存じの方なら、林泉園Click!からつづく深い谷間を背負った近衛町17号の“旗竿地”を除き、敷地番号の1・23・24・28-ハ・28-ニ・34・44各号の敷地は、いずれも丘の斜面であることにお気づきだろう。東京土地住宅は、箱根土地(株)の目白文化村開発のように、販売する敷地の樹木を伐採して整地し、縁石や擁壁を築いていつでもその上に住宅が建てられるよう整備し、一部の敷地にはモデルハウスClick!さえ建てて、現地見学に訪れた顧客のイメージをふくらませ、リアルに具体化させながら販売する……というような、いわば現代的な手法を用いてはいない。
 近衛町の販売は、ほとんど森林状態のままの敷地を図面上で区画割りし、実際に住宅建設が具体化する段になって、ようやく整地作業をはじめるという順序だった。だから、近衛町の全区画が「完売」したあとだったにもかかわらず、1923年(大正12)に竣工しているとみられる杉卯七邸は、森の中にポツンと存在している別荘のような風情だったのだ。したがって、近衛町の分譲現地を訪れた人々は、上記「未契約地」の敷地を見ると、樹木が鬱蒼と生い茂った未開発の丘の斜面、あるいは崖地にしか見えなかっただろう。
 その様子は、1923年(大正12)ごろに撮影されたとみられる、学習院上空からの空中写真でも確認できる。すでに道路は造成されていたのだろうが、近衛町全体がほとんど深い森林状態のままであり、竣工していた杉卯七邸は木々に隠れ、ほとんど屋根さえ見つけることができない。
旧近衛邸の位置.jpg
三宅勘一署名.jpg 近衛町酒井邸1935頃.jpg
近衛町地形図1922.jpg
 さて、これらの「未契約地」のうち、それでも早めに整備して売れているのは、アビラ村(芸術村)Click!に住む島津源吉Click!の縁つづきの島津良蔵邸Click!が建つ近衛町1号をはじめ、比較的斜面の傾斜がゆるい敷地だったろう。だが、いちばんの課題は地形が丘の斜面レベルではなく、もはや崖地と呼んだほうが適するような近衛町44号、すなわち宮内省林野局が購入して、のちに学習院昭和寮Click!が建設される42・43号の東側の敷地だった。なぜ、この「近衛町地割図」が1923年(大正12)ごろのものだと判断できるのは、44号の敷地に雑司ヶ谷道(新井薬師道)Click!へと下りる「S」字型のバッケ坂が未整備だからだ。
 すなわち、東京土地住宅では44号の敷地が売れないために、以降、大規模な開発工事を追加で行っているとみられる。それは、44号の敷地全体を一気にひな段状へ造成しなおすものではなく、上から順番に住宅敷地を整備して段階的に販売していったのだろう。その様子は、坂上の比較的平坦な敷地である地籍番号「四〇六ノ二七」、すなわち昭和寮建設予定地の東側に隣接する新たに区画割りした土地(「44-イ」とでも呼ばれたのかもしれない)を、1923年(大正12)ごろに「渡邊康三」という人物へ販売している、公文書館の別資料でも確認することができるからだ。また、このころから44号の敷地の中央に「S」字型の急坂を通わせ、ひな段状に整地してから販売するという、追加開発の事業がスタートしている様子が、別資料の手描き図面からもうかがえる。
 さて、東京土地住宅が近衛町を販売する直前、1921年(大正10)の秋には牛込区馬場下町35番地(現・新宿区早稲田町)の早稲田善隣園の庭園を、住宅地に開発して販売する事業を行っている。善隣園とは、現在の早稲田中学校/高等学校Click!の東側に接した、大きな屋敷と庭園を有する施設で、おそらく早稲田大学が近隣諸国の留学生あるいはゲストを宿泊させるため明治期に建設したのではないかと思われる。この善隣園開発の広告の隣りには、箱根土地が箱根強羅に温泉付きの新築別荘を売り出す広告を載せており、期せずして呉越同舟の並列広告掲載となった。1921年(大正10)11月11日付けの東京朝日新聞から、東京土地住宅の広告コピーを引用してみよう。
近衛町44-1.JPG
近衛町44-2.JPG 近衛町44-3.JPG
近衛町44-4.JPG
  
 文化生活は先づ住居の安定から/中産階級の人々に
 真の理想的文化生活を営むには先づ第一に住居の安定を得ねばなりませぬ。不安定なぞして不愉快な借家生活から自分の趣味に適ふ住居に生活を移す事が文化生活への第一歩であります/鬱蒼と樹木が生ひ茂つた美しい閑静な庭園約四千坪に新しく道路を造り百坪前後に分割して提供する早稲田善隣園(牛込馬場下三五)は極めて恰好な而も廉価な中流住宅地であります/来る十三日午前九時から現場に於て申込順に契約しますから御希望の方は得難い此機会を逸せぬ様御申込下さい。若し後日御不要になりました節は相当有利に転売して差上げます
  
 東京土地住宅は、4,000坪の敷地を1区画100坪ほどの住宅地として販売するとしているが、この販売もまた、近衛町と同様にきちんと宅地として整地し、いつでも住宅が建設できるように整備してから販売しているのではなく、区画割りした庭園をそのままの状態で販売している可能性が高い。なぜなら、1921年(大正10)以降から大正末までの地図を確認しても、同所は善隣園のかたちがそのままで収録されており、道路などの整備を含め明らかに新規住宅地として再開発された形跡が見えないからだ。
 この広告の隣りに掲載されている、箱根土地が出稿した別荘広告を見ると、すでに敷地は整地されて温泉が引かれた別荘建築も竣工しており、建物の内部には生活に困らない家具調度や寝具、電話、炊事道具、調味料までが備えつけられており、即入居ができるような売り方をしているのがわかる。いたれりつくせりの箱根土地に比べ、東京土地住宅の販売は必要な道路整備は行うものの、図面上で地割りを行なったあと、基本的には現状のままで販売していた様子がうかがえる。そして、買い手がつくと当該の敷地だけ樹木を伐採して整地し、上下水道や電気、ガスなどを引いて整備するという販売手法だったようだ。
 これは、金融機関から大規模な融資を受けて開発事業を進めるのを避け、土地が売れて同社に入金されてから樹木を伐採して敷地を整備するという、しごく堅実な事業展開のように思われるけれど、東京土地住宅がイニシャルコストをかけられない事情、すなわち銀行からスムーズに融資を受けることができず、良好な経営状態ではなかったことをうかがわせる示唆的な販売法だ。近衛町開発ののち、東京土地住宅はいよいよ経営が苦しくなったものか、下落合で土地転がし(ブローカー)のような仕事にまで手を出すようになる。
 東京土地住宅は、このあと巨額の負債を抱えて事業が継続できず、ついに近衛町の販売から3年後、1925年(大正14)には経営破綻Click!にまで陥ってしまう。その後、近衛町の開発事業を引き継いだのは、下落合では常にライバルだった箱根土地Click!だった。
近衛町44-5.JPG 近衛町44-6.JPG
東京朝日19211111.jpg
 東京土地住宅が出稿した、近衛町開発に関する大正期の媒体広告を順次眺めていくと、かなり興味深いことがわかる。東京土地住宅の本社は、京橋区銀座2丁目1番地なのだが、近衛町の販売と同時に営業部が独立して京橋区南紺屋町24番地の皆川ビルディング5階に移り、銀座の本社内へ新たに工務部を拡張設置して、住宅地の造成・整備力を強化している。これは、「宅地として、ちゃんと整備されてないじゃないか!」という、顧客からのクレームを受けた措置かどうかは不明だが、同社も箱根土地と同様に購入後すぐに住宅建設が行えるよう、きちんと宅地整備を完了してから販売する手法を、苦しい経営の中で模索しはじめていたのかもしれない。近衛町の開発広告を通じて、当時の非常に興味深い東京土地住宅の様子をかいま見ることができるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1922年(大正11)末から翌年にかけて作成されたとみられる、公文書館に残る東京土地住宅の社内資料「近衛町地割図」(未契約地一覧表)。
◆写真中上は、同地割図に近衛旧邸の位置を重ねてみたもの。中左は、藤田孝様Click!(近衛町7号)が保存されている昭和初期の地割図裏に記載された三宅勘一の署名で、三宅勘一自身も下落合に住んでいた。中右は、1935年(昭和10)ごろに撮影された酒井正義様Click!(近衛町16号)の庭園で、奥に見えているのは林泉園谷戸の渓谷。は、1922年(大正11)に作成された1/5,000地形図にみる第1次販売の近衛町界隈。
◆写真中下は、近衛町44号の敷地北側に通う道路で、山手線をはさみ正面に見えているのが学習院大学の森。画面の右手が近衛町45・46号で、左手が35・36号の敷地。中左は、1923年(大正12)になって近衛町44号の丘上が造成され販売された「渡邊康三」所有地の現状。中右は、近衛町35号邸の現状。は、1923~24年(大正12~13)にかけ近衛町44号敷地内へ造られたとみられる「S」字型の急坂で、同時に斜面を坂に沿って4~5段にひな壇化している。
◆写真下は、近衛町44号に通う「S」字型の急坂。は、1921年(大正10)11月11日の東京朝日新聞に同時掲載された箱根土地と東京土地住宅の広告。


大正期のニンニク療法とサプリメント。

$
0
0

日本女子大学寮.JPG
 かなり前に肺結核の治療をめぐり、雑司ヶ谷上屋敷(現・西池袋2丁目)で暮らした宮崎龍介Click!が1924年(大正13)に行なった、納豆療法Click!についてご紹介していた。植物性の高タンパクと「清水」を集中的に摂取することで、彼の結核は実際に治癒している。大正末から昭和初期にかけ、このような医薬を用いずに生活習慣や食生活を変えて病気を治療する、「自然療法」ないしは「食事療法」がブームになったようだ。
 高田町雑司ヶ谷347番地(現・雑司が谷1丁目)に研究施設をかまえていた、関口定伸という人物はニンニク療法を研究して、昭和初期に「にんにく丸」という錠剤を発明している。今日では、ニンニクの効用や殺菌作用は広く知られており、各社からさまざまな粒状の健康食品が発売されているが、昭和初期にはめずらしいサプリメントだ。
 おそらく、「ニンニク療法」は大正期から広く知られていたと思われるのだが、ニンニクをそのまま摂取するため、消化器系への刺激が強すぎたり、いちいちすりおろすのに多大な手間ヒマがかかったり、また、なによりも臭いが強烈で、いつでもどこでも、また誰もが手軽に行える「療法」とはいい難かった。関口定伸という研究者は、大正期から雑司ヶ谷で研究をつづけていたと思われるのだが、大正末から昭和初期にかけ、ついにすりおろしニンニクの錠剤化に成功している。
 ちなみに、高田町雑司ヶ谷347番地という地番は、現在の日本女子大学寮Click!の広い敷地内にあるテニスコートの西側、銭湯「高砂湯」のある街角の一画だ。宝城寺や清龍院の南300mほどのところ、現在は暗渠化されている弦巻川Click!に沿った斜面下にあたる。1919年(大正8)に刊行された『高田村誌』(高田村誌編纂所)には、残念ながら関口定伸の研究施設は収録されていない。また、1926年(大正15)に作成された「高田町東部住宅明細図」では、雑司ヶ谷347番地は地図の上端に省略され、住民名や施設名までは採取されていないエリアとなっている。
 1928年(昭和3)発行の「主婦之友」2月号には、ニンニク療法をめぐる特集記事「医者にも見放された難病を/にんにくで手軽に全治した実験」が7ページにわたって掲載されている。実際にニンニク療法で治癒した、6つのケーススタディが詳細に紹介されているのだが、記事のリード部分を引用してみよう。
  
 にんにくが、あの一種厭ふべき臭ひを有すると共に、不思議な薬効を有することは、昔から知られてゐます。けれども、それは多くは医者の門をもくゞりかねる、貧しき人々の間に於ての実験でありました。ところが、このごろはどんな高価な医薬にも不自由のない、上流家庭の間に於ても、『病気といへばにんにく』といふほど、非常な評判を高めてまゐりました。これといふのも、その効能に驚くべきものがあるからでございませう。病気でお困りの方は、このお金を要せぬ奇効のにんにく療法を試みて御覧なさいませ。
  
 掲載された6つの事例は、治療者の地位や実名とともに記事にされており、また罹患した病気の種類も多種多様にわたる。6つのケースとは、以下のとおりだ。
 ・二年越しの重い肺病をにんにくで全治した経験 某病院長夫人 西川はな子
 ・重症の脊椎カリエスをにんにくで全治した経験 陸軍中佐夫人 長尾かく子
 ・絶望的ヂフテリアをにんにくで全治した経験 高橋すみ子
 ・命とりの面疔と乳腫れをにんにくで全治した経験 浅野同族会社総務夫人 藤堂まさぢ
 ・死を待つばかりの肺病をにんにくの灸で全治した経験 川崎とし子
 ・恐ろしい重症の赤痢をにんにくで全治した経験 池澤寛二

 この中で、いちばん上の西川はな子「二年越しの重い肺病をにんにくで全治した経験」が、病院を経営する夫が西洋医の院長夫人なので、記事の一部を引用してみたい。西川はな子という女性は、1918年(大正7)に大流行したスペイン風邪(インフルエンザのパンデミック)を罹患し、それがきっかけで重症の肺炎を起こして夫の病院へ緊急入院している。翌1919年(大正8)の秋まで、およそ10ヶ月以上も入院生活を送ったが微熱がとれず、思い切って退院し自宅で療養をつづけることになった。
ニンニク療法1.jpg ニンニク療法2.jpg
 だが、病状は快方に向かわず、身体が徐々に衰弱して床を離れられなくなっていく。身体が弱っていたせいか、立てつづけに腸カタルや感冒などの疾病にかかり、1日じゅう咳が止まらなくなってしまった。最悪の肺結核も疑ってみたが、夫の病院の診断ではあくまでも慢性的な肺炎だったらしい。咳と下痢が止まらず、食事も十分に摂れないために、20日間ほどで骸骨のようにやせ細ってしまった。「自分でも愈々今度は駄目だと覚悟したくらゐでした」と、彼女はついに死を意識したようだ。
  
 ところが、ふとにんにくを食べてみようと考へつきました。が、臭いのが皆なに気の毒ゆゑ、自分で擂らうとしても、その気力さへありません。幸ひ越後から来たばかりの女中がゐましたので、その子に一かけらづゝ卸して貰つてオブラートに包み、冷くした牛乳一合で、午前十時と午後三時と、そして寝しなの三回、毎日欠かさず服用いたしました。/忘れもしません----一月の二十二日から飲み初めて、二月の節分頃になりましたら、不思議なほど咳が止つてしまひました。それ以来薬は一滴も用ひずに、にんにくばかり服用してをりました。/その頃の『主婦之友』誌上には、原博士の『肺病患者は如何に養生すべきか』といふ記事が連載されてをりましたので、従来臨床の医者からは、とても教へて頂けない注意を受けて、養生するやうになりました。そして一年ばかりのうちに、すつかり元の丈夫な体になつて、以来五年間毎日元気に孫の世話をいたしてをります。
  
 この事例は、生ニンニクの抗菌作用や抗酸化作用、身体を温める作用などが大きな効果を発揮したものか、それとも牛乳+ニンニクで急速に免疫力が回復して、肺ないしは気管支の慢性的な炎症を克服できたのか、治癒の要因や経過は明らかでない。しかし、彼女が「ふとにんにくを食べてみようと考へ」ついたのは、昔からつづく民間療法の伝承に気がついたばかりでなく、大正期の婦人誌にはニンニクによる「食事療法」について書かれた記事が、ぽつぽつ掲載されはじめていたからではないだろうか。
雑司ヶ谷347_1930.jpg 雑司ヶ谷347_1947.jpg
雑司ヶ谷西洋館.JPG
 西洋医薬が無効な慢性的疾患に対して、さまざまな「自然療法」や「食事療法」、あるいは「身体療法」が試みられているのは、いまも大正時代もまったく変わらない。このような時代背景を強く意識しながら、関口定伸のサプリメント「にんにく丸」は研究開発されていたのがわかる。では、1928年(昭和3)の「主婦之友」2月号に掲載されている、「にんにく丸」に関するボディコピーの一部を引用してみよう。
  
 整腸殺菌 保温強壮 にんにく丸
 ◎薬嫌ひな子供でも服みよい丸薬/にんにくといふ薬草が、肺、肋膜、急性慢性の胃腸病、其他一般虚弱な体質への改善にも適応して卓効のあることは本誌の記事で御覧の通りです。非常に強度な殺菌力を持ち、盛夏の下痢、厳寒の感冒、疾病等にも驚くべき効験があります。殊に冷え症の方には保温剤として歓迎されて居ります。
 ◎何故一般に常用されないか?/左程諸病に卓効のある薬草が如何して万人向きに賞用されないでせうか? 其は一口に申す「にんにく臭い」といふ欠点で仮りに生の儘適量以上嚥下しますと強烈な悪臭を口中から何時迄も発し其上社交対談の際のみならず清潔好きな私共が家庭生活の上にも相手に忌み嫌はれます。胃腸を刺戟して薬草が毒草になるからです。(中略)
 ◎此丸薬の創製から薬嫌ひな子供でも/オブラートに包んでも又丸薬其儘でも楽に嚥下することが出来、胃腸を整へ、精力を増強せしめ、呼吸器病に適応し、而も従来の「にんにく臭い」といふ言葉を打ち消し社交上毫(すこ)しも他人に悪感を与へるやうな憂はなく、其上服み憎い肝油の代用としても常用することが出来ます。以上の諸病に悩める方々に是非御試用を御奨めいたします。
         十日分三百粒入金一円七十銭 三十日徳用瓶九百粒入金四円五十銭
                 製造者 東京市街高田雑司ヶ谷三四七 関口定伸
  
 300粒で10日分ということは、1日に30粒、三度の食事のあとに10粒ずつ飲む計算になるので、毎回かなりたいへんな「嚥下」だったのではないだろうか。もっとも、広告に添えられたイラストを見ると、錠剤は小さな球体で、森下仁丹Click!よりはやや大粒という感じだろうか。このひと粒が、大豆ぐらいのサイズだったりすると、ちょっとつらい。
関口定伸広告1.jpg 関口定伸広告2.jpg
弦巻川1930頃.jpg
 当時の日本人は、ニンニクを家庭で調理して食べたり、健康食として意識的に摂る食習慣はほとんどなかった。「主婦之友」のケーススタディのように、なにかの病気に罹患した際、やむをえず(イヤイヤ)摂取するのがほとんどだったろう。今日では、家庭でも中華料理やイタリア料理へ手軽に使われるニンニクだが、当時はニンニク臭が極度に忌避されていた時代だ。いまや、ニンニクのエキスを凝縮したサプリメントは、TVのCMでも日々ふつうに流れているけれど、大正末ないしは昭和初期の関口定伸による「にんにく丸」の発明は、かなり画期的なものだったと思われるのだ。

◆写真上:日本女子大学の、広い大学寮に沿ってつづく当初からの築垣。学生時代から親しみをこめて「ぽんじょ」と呼び馴れているが、学生寮の警戒はいかめしく厳重だ。
◆写真中上:1928年(昭和3)発行の「主婦之友」2月号に掲載された、「医者にも見放された難病を/にんにくで手軽に全治した実験」の特集記事。
◆写真中下上左は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷347番地界隈。上右は、1947年に撮影された空中写真にみる同界隈。は、雑司ヶ谷のこの一帯は空襲の被害をあまり受けていないため、古い木造の西洋館をいまでも見ることができる。
◆写真下は、「主婦之友」同号に掲載された「にんにく丸」の広告。は、1931年(昭和6)ごろに撮影された弦巻川。奥に見えているのは宝城寺の境内で、弦巻川を画面右手へ300mほど下ったあたりに関口定伸のニンニク研究所が建っていた。

アビラ村(芸術村)の第2次山手空襲。

$
0
0

伴敏子アトリエ跡.JPG
 1945年(昭和20)5月25日(水)の夜、東部軍管区がラジオを通じて流していた警戒警報は、午後10時すぎには空襲警報へと変わった。落合地域には、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴りわたり、前日につづいてあたりは騒然とした雰囲気に包まれた。河川沿いの工場や鉄道駅を中心に爆撃した、4月13日夜半の第1次山手空襲Click!のあと、米軍の空襲は(城)下町Click!の焼け残り地域や、地方都市の爆撃へと順次推移しており、山手への空襲はもうないと安心していた人たちも少なからずいた。しかし、5月23~24日夜に再び大規模な爆撃が東京市街地を中心に行われ、ひと昔前までは東京郊外だった地域に住む人たちの、はかない望みは断たれた。
 5月23~24日夜に行われた、562機のB29による空襲で燃える東京市街地を、遠く落合地域の丘から眺めていた人々は、「明日はわが身」だと感じていただろう。しかし、ほんとうに翌日の5月25日の午後11時ごろに、502機ものB29が山手を再び絨毯爆撃しにくると予想していた人は、それほど多くなかったにちがいない。この当時、サイパンやグァムに展開していた第21爆撃軍は、B29本体や搭載用の爆弾・焼夷弾の供給過剰により、その格納や保管にも困るほどだったという。少しでも早く、それらを「消費」する必要性に迫られていたのが、のちに公開された米軍資料から明らかになっている。2日(足かけ3日)連続の大規模な東京空襲は、それまでかろうじて焼け残っていた街角を焦土に変えた。
 5月25日の昼間、下落合4丁目2257番地のアトリエにいた伴敏子Click!は、横須賀の親戚の家へ出かけた隣家の娘をあずかっていた。隣りの主婦は、頻繁に艦載機の機銃掃射をあびせられる横須賀線で、なんとか無事に下落合へ帰宅している。その夜、ラジオからまたしても東部軍管区情報が流れ、B29の大編隊が東京へ来襲しつつあることを告げた。彼女の耳には、すでに夜空から刻々と近づいてくる大編隊の爆音が聞こえていただろう。彼女は、隣家に駆けこんだ。1977年(昭和52)に冥草舎から出版された、伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』から引用してみよう。
  
 「奥さん、お客様よ。今夜はどっさりよ」/と戸を叩いてもなかなか起きない。やっと起き出しても、平常は柄のわりに臆病な人が、/「もうどうでもいいわ、私、寝かしといて」/と坐り込んでしまう。無理もないとは思いながらも、「そんなことでどうするのよ。後で慌てても知らないことよ。早く子供達を起こしてよ」/と憤った声で云って、いつものように真暗やみの中を、一人を背負い一人の手を引いて林の壕に退避させると、ほとんど同時のようにバリバリッ、ドスンドスンと激しい空襲が始まった。/どうでもよかった香(隣家の主婦)も、すっかり目を覚まして、荷物を運び出したり大騒ぎとなった。右から左から前から後から、もうどちらということもなく四方火の海となって、その照り映えに機体の腹を真赤に染めて繰り返し敵襲があった。熱風が焼け残った家々を巻き揚げるかと思うように吹きまくった。いつも二階から掛け声だけで誤魔化して、なかなか防空服装にならない(中村)忠二も、さすがにこの時ばかりは鉄兜をきちんと被って群長らしく役目を果たしていた。四方が焼けているので壕は隣組のも、自家のものも、他からの避難民ですっかり占領された形になってしまった。その中には家族を引き連れた制服の職業軍人さえ居て、/「ここは我々個人の壕です。家族や子供が入れないから、この先の都(1943年より東京都)の共同壕に行って下さい」と頼んでも、恐ろしい顔をして睨みつけるばかりでなかなか引きあげてはくれなかった。(カッコ内引用者註)
  
伴敏子「自画像」.jpg B29焼夷弾爆撃.jpg
伴敏子アトリエ1941.jpg
 下町でも見られた情景だが、ここでも軍人が真っ先に防空壕へ退避し、民間人を締めだすという現象が見られる。しかも、町内で掘った共同壕の話ではなく、個人宅の防空壕へ家族とともに居すわっているのだから、恥知らずでより悪質なケースだ。この防空壕は、伴敏子と隣家の主婦とが毎日少しずつ掘り進め、数ヶ月かけてようやく完成させた3畳大のものだったが、空襲がはじまってからしばらく、中村忠二・伴敏子夫妻と2階に寄宿していた老婆、隣家の主婦や幼い子供たちは、防空壕に退避できず爆撃の危険に直接さらされることになった。
 さて、ここに書かれている「林の壕」とは、どこに掘ったものだろう。敗戦後の1947年(昭和22)に、米軍が爆撃効果測定用に撮影した空中写真を見ると、中村忠二・伴敏子アトリエClick!の東側にも西側にも、また南側にも林が見えている。林の中には、物置きかなにかの藁屋が建てられていて、それが直撃弾を受けて炎上している描写があるので、樹木の密度が比較的濃い、アトリエや隣家から細い道をはさんで南側に拡がっていた林ではないか。1941年(昭和16)に陸軍が撮影した空中写真を見ると、西側の林には人家らしい建物が見えて個人邸の敷地らしく見えるし、また東側の林は樹木の背が低く、まばらに生えているように見えている。つづけて、空襲の様子を引用してみよう。
中村忠二挿画1.jpg
中村忠二挿画2.jpg 中村忠二挿画3.jpg
  
 もう少し……もう少し! と下から声援しても、貧弱な高射砲弾はなかなか低空の敵機にさえ当らない。弾道が赤い条となって見えるだけに歯がゆかった。それでも二度程命中して火をふきながら落ちてゆく機影を見た時には皆、手を叩いて喜んだ。シュルシュルッという音を聞いてから慌てて壕に飛び込むなり、皆一緒に爆風にあおられて尻餅をつくやら、めらめらと道路に落ちて燃えあがる油性の爆弾を壕から飛び出して叩き消すやら、何がどうなっているのか皆夢中のように動き廻っているうち、とうとう林の中の藁屋が直撃弾を受けて燃え上がってしまった。もう燈火管制も何も役には立たない。辺りは照明燈を点けたように照らし出されてしまった。カラカラカラと音を立てて落下する焼夷弾に<もう駄目だ、もう駄目だ>と観念しながらも壕に飛び込む。こわごわ首を出した時には、また方々めらめらと炎の舌が揺らいでいた。幸いなことに陽子(伴敏子)の家の辺りは建物をみんなそれていたので力を合わせて消すことが出来た。もしそれらが最後の襲来でなかったら、炎を目標に後から落とされてとても無事ではいられなかったろうと思うと、ぽつんとこの辺だけが残されたことが夢のようであった。
  
 アビラ村(芸術村)Click!の一帯は、住宅と住宅との間隔が下落合の東部に比べて相対的に広く、また屋敷林に囲まれている家屋が多かったため、空襲による大規模な延焼Click!はまぬがれた。ところどころで、大正末から昭和初期にかけて建てられた住宅を、現在でも目にすることができる。
 同年8月6日、広島に「新型爆弾」が落とされたことが報道されると、伴敏子と隣家の主婦は相談して、庭先から防空壕までつづくトンネルを掘りはじめている。中村忠二は防護団の「群長」を引き受けたことを理由に、防空壕づくりを当初からまったく手伝わず、ふたりの女たちが家事の合い間にする仕事になっていた。1週間けんめいに掘りつづけ、ようやくトンネルが壕に通じた8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏をした。
 伴敏子は、中村忠二と戦争をめぐって日々、ケンカをしているような状況だった。彼女が情勢を理性的に分析し、筋道を立てて必然的に「敗ける」と説明しようとすると、中村忠二はそれを遮って感情的に「勝つ!」といいつづけてきたようだ。敗戦の日からしばらくすると、下落合の上空には毎日、B29やグラマンの少数機編隊が超低空で、威嚇飛行を繰り返すようになった。
新宿駅19450526.jpg
新宿駅広場19450526.jpg
松本竣介絵手紙.jpg
 米軍機が低空で威嚇飛行をする様子は、近くの下落合4丁目2096番地にアトリエをかまえていた松本竣介Click!が、中井駅のホームからスケッチした子どもあての絵手紙にも残されている。「ニッポンワ アメリカニマケタ/カンボー シッカリシテ 大キクナッテ アメリカニカッテクレ」、松本竣介は絵手紙の冒頭にそう書き添えている。

◆写真上:下落合2257番地の現状で、白い家の裏側が伴敏子・中村忠二アトリエ跡。
◆写真中上上左は、制作年不詳の伴敏子『自画像』。上右は、焼夷弾を投下するB29の編隊。は、1941年(昭和16)の空中写真にみるアトリエとその周辺。
◆写真中下:伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』(冥草舎)に掲載された、中村忠二のスケッチ類。下右は、戦前の中井駅踏切りだろうか。
◆写真下は、1945年(昭和20)5月25日夜半に撮影された新宿駅周辺への爆撃。新宿駅西口や淀橋浄水場が見えているが、同日午後11時ごろに西口広場で柳瀬正夢Click!(享年45歳)が爆撃で死亡している。は、上記写真の部分拡大で焼夷弾が落ちていく新宿駅と西口・東口広場。このうちの1発が、下に見える西口にいた柳瀬正夢を直撃したかもしれない。は、松本竣介が敗戦直後に子どもあてに書いた絵手紙。

明治の下落合を歩く小島善太郎。

$
0
0

美仲橋.JPG
 小島善太郎Click!は、父親の郷里であり小島本家があった下落合を、幼年時代は親に連れられ、少年時代は実家が下落合にもどったため、また成長してからはひとりで写生をしに何度も訪れている。その記憶は、大正期の半ばから東京の郊外住宅地として拓ける以前のことであり、華族の大きな屋敷Click!別荘Click!が建ち並んでいた、明治後半から大正の最初期にかけての記憶だ。そこに描写された明治期の下落合は、まるで田畑の拡がるどこかの里山をハイキングしているような感覚にとらわれる。
 小島本家の跡とりだった小島善太郎の父親は、淀橋町で営業Click!していた郊外野菜の仲買い事業と沢庵漬けClick!の製造場へ投資するため、郷里の屋敷や田畑を借金の担保に入れて返済できずになくしている。丘上に広大な田畑や屋敷地を所有していたようだが、小島善太郎が小学校へ上がるころにはすべてを失っていた。したがって、下落合へ出かけるときは、本家跡の近くにあった小島分家に用事があるときか、あるいはいまだ畑の中にあった同家墓地への墓参のときに限られていた。1968年(昭和43)に雪華社から出版された、小島善太郎『若き日の自画像』から引用してみよう。
  
 父の郷里に連れられた時のことだった。/楢や檪の雑木林の間から、金色に見える尾の長い小鳥が羽ばたきを見せて行く手に現れた。手近い所や奥まった枝に止まったり、飛んだりしている。その小鳥の姿が僕を捉えて歩かせなかった。お伽の国の小鳥のようにみえるのだ。父は急ぎたてる。僕にはその鳥が檎(と)れそうでならない。/「あァ、あの小鳥か、あれはとってはいけない小鳥なんだよ。お家が火事になるとさ」/だが自分が歩くさきざきで小鳥し啼き、パッと飛び上る一群が陽光を遮って映る。それがたまらない愛着となるのであった。/分家の広い庭に這入って行った時だった。そこに雀に似た小鳥が数歩前を幾羽となくよろめくように歩いている。樹陰に囲まれた下で僕はそっと腰を曲げた。腕を伸ばすと檎れる気がする。が自分が手を近づけると飛んでしまう。また数歩先きを並んで歩いている。なお静かに僕は腰を曲げ腕を伸ばした。すると父の笑い声が背後で聞こえたのだった。/「そんなァことしたって」/僕は追うのを諦めて立ち上がった。/「雀じゃない。頬白というのだ。この小鳥は可愛い啼き方をする」と父はそのとき、飾りのないこの小鳥のことをそう云ったのだった。
  
 ホオジロは、現在でも下落合の雑木林で頻繁に見ることができるが、「ホオジロを捕まえると火事になる」という警句じみた言い伝えは同書で初めて知った。きっと落合地域に限らず、当時まで伝わっていた東京郊外に特有のジンクスのひとつなのだろう。そこには、なんらかの謂れや物語があったと思われるのだが不明だ。
 それから少したったころ、小島善太郎は友だちからホオジロを鳥かごごともらっている。家族は、別にホオジロを飼うことに反対はしていないので、「火事になる」は小島の親たちの世代にさえ、すでに他愛ない迷信だととらえられていたようだ。そして、出身地が落合村に隣接する中野村だった母親は、彼にホオジロの鳴き方を「てっぺんいへろく、にしまけた」と教えている。鳥のさえずりが、人の言葉にたとえられてどのように解釈されているかは、多彩な地域性があって非常に面白い。わたしは親から、ホオジロのさえずりを「いっぴつけいじょうつかまつりそうろ(一筆啓上仕候)」と教えられている。
野鳥の森公園.JPG
ホオジロ.jpg 小島善太郎「27歳の自画像」1919.jpg
 小島善太郎もまた、落合地域に流れる川を「落合川」Click!と呼んでいるが、どうやら関口まで流れる旧・神田上水と、支流である妙正寺川の双方を「落合川」と称しているらしく、注意深く読まないと地理的に混乱しそうだ。「落合川」という呼称は、明治期から地元で頻繁に使われていたようで、小島に限らず古い記録を参照するとときどき目にする。おそらく、1898年(明治31)に淀橋浄水場Click!が竣工し、この旧・平川(ピラ川=崖川)Click!の流れが上水としての役目を終えた時点で、「神田上水」という呼称が適さなくなり、落合地域では誰からともなく「落合川」と呼びはじめたのだろう。だが、大堰から舩河原橋までの「江戸川」(現・神田川)とは異なり、「落合川」が公式名称として採用されることはなく、1960年代半ばまで「旧・神田上水」と記載されつづける地図が多い。
 妙正寺川の水車小屋のひとつを描写した一節を、前掲書から引用してみよう。
  
 落合橋を川に沿うて三、四丁上がった所に水車場が在った。朽ちかけた横長の家だった。その中央を割った暗い中から水を垂らした大きな水車が絶えず廻っている。輪の板に苔が生えて湿った感じの上を水が乗って来ては落ちる。その度びに焦褐色をした水車に黄ばんだ濃い苔の上を水が白く光って滑る。木小屋の中では杵搗く音が絶えず、側で見てると水車が生きて感じられて面白く、数回来ては写生をした。/水車場の西に六、七丈の丘があって、高台に樫の林があり、傍から茶畑が続いて、茶畑の間に柿の木があった。曇った日の暮方だった。霜を受けた柿の丸葉を黄赭に染めて煤んだ草の上に明るく落ち重なっていた。此処に佇んで眼前に展がった戸山ヶ原を見渡した。若杉の林や樫に挟まれた檪林は色付き欅は葉を落とし始め、それが原の入口を囲んでいた。視界を下にすると、裾を落合川が帯を投げたようにうねっては流れ、眼下に水車場の屋根が搗粉で白く染めて見せている。近くの枝に止まった鵙が慌ただしく甲高な声をして鳴いて静寂を破る。此処に佇立って僕は家出後の兄を想ったのである。
  
 ここに登場する「落合橋」とは、もちろん補助45号線(聖母坂)Click!の南にある現在の落合橋のことではなく、明治期に地元で呼称されていた「落合橋」のことだ。明治維新から間もない、1880年(明治13)に作成された1/20,000地形図をみると、落合地域を流れる旧・神田上水と妙正寺川(北川Click!)に架かる橋は、たった4ヶ所しか記載されていない。おそらく、江戸末期からほとんど変わっていない姿のままだろう。神田上水に架かる田島橋Click!と、妙正寺川に架かる西ノ橋Click!(比丘尼橋Click!)、寺斉橋Click!、そして水車橋Click!だ。もっとも、当時の妙正寺川は川幅も狭く小川のような流れだったので、あえて橋を渡さなくても簡単に飛び越えられたかもしれない。
小島善太郎「やわらかき光」1914.jpg 小島善太郎.jpg
 すでに山手線が敷設された、1909年(明治42)の1/10,000地形図を参照しても、落合の川筋には上記4つの橋しか存在していない。ひょっとすると、妙正寺川から南側の上落合一帯へ灌漑用水を引くために、バッケ水車のやや下流に設置されたバッケ堰Click!の上部に板がわたされ、すでに簡易橋の役目を果たしていたのかもしれないのだが、明治期の記録が少ないので委細は不明だ。
 小島善太郎が書きとめた「落合橋」とは、おそらく現在の中井駅に近い寺斉橋のことだろう。なぜなら、橋の「三、四丁」上流に水車場があり、しかもその水車場の北側半丁(約50m)のところに旧・水車小屋が存在する場所、すなわち川が北へ大きく湾曲した分流のあったポイントは、妙正寺川に架かる寺斉橋の上流250mほどのところにある、新旧ふたつの水車小屋をおいてほかに存在しないからだ。妙正寺川が2流に分かれた様子は、1910年(明治43)の1/10,000地形図で確認することができる。そして、同地図には少し下流のバッケ堰とともに、南側分流の水車場が記録されており、北側分流の廃止された水車場の位置には記載がない。
 廃止された北側の水車場は、地元の大工が田畑帰りの農民を相手にした小規模な銭湯に改築していたが、近くに引っ越してきていた小島一家はもう少しすると、この旧・水車小屋の銭湯を丸ごと借りて転居することになる。引きつづき、小島善太郎『若き日の自画像』から引用しよう。
  
 水車場の半丁ばかり北の路端に田舎風呂があった。風呂場とし云え、旧水車場のものを土地の大工が借り受け家風呂を加え、風呂屋を開業したもので、一つの風呂に、漸く三人這入れると云う小屋がけのものだった。自分達も其処に浴りに行っていた。その風呂場を父が借りて移転したのは、兄の家初(ママ:出)後初霜を見た頃の事であった。
  
 小島善太郎の兄は、酒飲みで遊び好きの性格がなおらず、父親の商売資金を集金先から持ち逃げして、勘当されたまま行方不明になった。彼は、この水車小屋を改造した粗末な家にいるとき、ほぼ1年余の間に、浅草で見習い奉公に出した妹を殺害され、落胆して半ばおかしくなり寝ついた母を喪い、わずか3ヶ月後に今度は父親を亡くしている。だから、小島善太郎にしてみれば、下落合は二度と思い出したくない記憶が充満した土地Click!であり、自身が所属した1930年協会Click!をはじめ、数多くの画家たちが落合地域に集合していたにもかかわらず、二度と足を踏み入れたくなかったエリアだったにちがいない。
小島善太郎「戸山ヶ原」1927.jpg
おとめ山公園.JPG
 さて、きょうは小島善太郎が1915年(大正4)に、戸山ヶ原と目白崖線を描いた『晩秋』についてもご紹介したかったのだが、すでに4,000文字近くなり“紙数”が尽きてしまった。彼は両親の生前から大久保駅の西側、蜀江山の山頂にあった陸軍大将・中村覚邸の書生になり、戸山ヶ原から落合地域を写生してまわるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:親柱に水車のオブジェが載る美仲橋で、バッケ水車は橋のすぐ右手下流にあった。また、美仲橋左手の上流にはバッケ堰が設置されていた。
◆写真中上は、下落合の「野鳥の森公園」の雑木林。下左は、いまも下落合でよく見かけるホオジロ。下右は、1919年(大正8)制作の小島善太郎『27歳の自画像』。
◆写真中下は、1914年(大正3)に蜀江山の中村覚邸の洋館を描いた小島善太郎『やわらかき光』。は、昭和初期に撮影された小島善太郎。
◆写真下は、フランスから帰国後の1927年(昭和2)に制作された小島善太郎『戸山ヶ原』。は、下落合の「おとめ山公園」の雑木林。

媒体広告にみる「近衛町」開発の推移。(上)

$
0
0

近衛町メインストリート.JPG
 1922年(大正11)5月7日から販売がスタートした、下落合東部の「近衛町」Click!に関する東京土地住宅(株)Click!による新聞出稿の媒体広告を、販売開始日の前後を含め、まとめて入手したのでご紹介していきたい。箱根土地(株)Click!が開発した目白文化村Click!は、同年6月20日に第一文化村の分譲を開始しているので、それよりも1ヶ月半ほど早い売り出しだった。
 だが、以前の「未契約地」記事でも書いたけれど、目白文化村は今日の宅地開発のように、すべての区画を整地(縁石や擁壁なども設置)し生活インフラを整えたうえで、敷地を購入した顧客が翌日からでも住宅建設の工事が開始できるような販売手法をとったのに対し、近衛町は道路を整備しただけで整地作業は行わず、土地が売れて住宅建設の計画が具体化してから、初めて樹木の伐採や整地作業、生活インフラの整備を行っていたようだ。だから、東京土地住宅による初期の「分譲地割図」は、具体的な整地作業を終えたのちに作成されたものではなく、旧・近衛篤麿邸Click!の敷地に繁った森林の状態のまま、測量をもとに机上で区画割りされ作図された図面にすぎず、図面に見るような各敷地ができあがっていたわけではない。
 目白文化村の開発は、早くから行われていたにもかかわらず近衛町の売り出しよりも遅れているのは、整地作業と宅地化や生活インフラの整備に時間がかかったからだと思われる。つまり、同じ「開発」でも目白文化村と近衛町とでは、売り出しまでに要する中身の整備負荷や作業のリードタイムが、まったく異なっていたからだろう。目白文化村は、目白駅からどう急ぎ足で歩いても20分ほど(スピードの遅い未舗装の目白通りを走るダット乗合自動車Click!で10分弱)はかかるのに対し、近衛町は目白駅から徒歩3分でたどり着ける好条件だった。目白文化村は、モデルハウスや倶楽部、庭園などを設置して、魅力あふれる住宅地としての視覚的なプレゼンテーションが必要だったが、近衛町は駅からすぐの至近距離にあり、「黙ってても売れる」ような環境だった。
 販売された当初、目白文化村と近衛町の現地を同時に見学したら、おそらく双方の住宅地は対照的な景観をしていただろう。前者は、目白崖線の斜面近くまで整地され、見わたす限り赤土がむき出しで、ところどころに大谷石の築垣などが見えるような、今日的な新興分譲住宅地然とした様子だったのに対し、後者は杉卯七邸Click!の窓から見えるようにいまだ森林だらけであり、見学しようとしている敷地の形状や境界も、測量されてうがたれた杭などの目印を細かく確認しなければ判然とせず、ちょっと訪れただけでは分譲地のイメージがつかみにくい状況だったにちがいない。それでも、近衛町は1923年(大正12)の夏ぐらいになると、整地され住宅を建てられるばかりになった敷地Click!が、部分的に見られるようになっていた。そして、大正末に向けて小林盈一邸Click!の窓から見えているように、あちこちで建築工事をする大工たちの作業音が響いていただろう。
 さて、東京土地住宅は近衛町の販売をはじめる前年、市街地にあった大規模な邸宅地の分譲販売をあちこちで手がけている。1921年(大正10)11月には、牛込区馬場下町(現・新宿区早稲田町)にあった善隣園の庭園の分譲を手がけているが、もうひとつ同年5月に赤坂の2,500坪弱の土地を150~160円/坪で販売している。1921年(大正10)5月2日の東京朝日新聞から、東京土地住宅の広告を引用してみよう。
  
 大邸宅地の分割開放/特別廉価/場所 赤坂一等地
 大木巨石多く、周囲よく閑静、高燥、道路の便よく自動車自在/総坪数二千五百坪弱/分割坪数大小自由/一坪百五六十円(三種)/危険なる株より安全なる土地へ/斯くの如き好適廉価の土地は再び得難く申込順に契約す/申込 自五月二日至五月十二日〆切以後は受付不申候/御来談は午後御本人に限る
  
赤坂一等地広告19210502.jpg
近衛町43号界隈.JPG
 さすがに赤坂区は市街地なので、坪単価が100円をゆうに超える価格がついているが、この「赤坂一等地」がどこなのかは、所在地が記載されていないので不明だ。東京土地住宅のビジネスとしては、細々とした土地の分譲は手がけず、華族屋敷などの大規模な土地処分ばかりを扱っているので、この2,500坪弱の売り出しもそのような筋の土地だろう。
 また、同年の春は、東京土地住宅が主催した懸賞金つき(1等200円)の「新住宅図案」コンペが行われ、5月にはその当選者が新聞紙上に発表されている。このとき、1等に当選した建築家は山中節治だった。2等には河野伝Click!や首藤重吉の名前が見え、コンペの審査員にはあめりか屋Click!山本拙郎Click!や西村伊作、今和次郎Click!などが名を連ねている。
 翌1922年(大正11)の春になると、同社の常務取締役だった三宅勘一Click!近衛文麿Click!との打ち合わせがまとまり、4月15日には早くも近衛町販売のアドバルーン広告を出稿している。キャッチフレーズは、ずばり『処女地―土地を買ふのは嫁を取ると同じです―』と、今日なら企業の品位を下げ、現代女性たちからは「気持ちワルッ、バッカじゃないの」とでもいわれて、失笑をかいそうな表現を採用している。
 ちなみに、このキャッチ&コピーは、その後もたびたび署名入りで広告に登場する、三宅勘一自身が考案した可能性が高い。1922年(大正11)4月15日の東京朝日新聞に掲載された、東京土地住宅の広告から引用してみよう。
  
 処女地/土地を買ふのは嫁を取ると同じです
 嫁を娶る第一の注文は処女である事 次は品のよい美しいそして健康で家筋の正しい事であります此度本社の提供する土地は由緒正しい自然美に富んだ処女地で品位ある健康地であります/二萬坪の理想郷/ 価格は頗る低廉で、樹木多き高台で省電目白駅に三分、市電は近く此処迄延長の筈で大道路に接してゐます その処女地とは住宅地として凡ての条件に適合し満点の資格ある目白近衛町の事であります 五月七日より分譲開始
 算盤本位の土地購入は危険です
  
 1921年(大正10)まで、故・近衛篤麿とその家族たちの大きな屋敷が建っていたので、厳密には「処女地」とはいいがたいはずなのだが、近衛旧邸母家は「近衛町地割図」によれば、近衛町4・5・6・7・8・14号敷地あたりに建っていたわけだから、残りのほとんどの土地は販売時でさえ手つかずで、確かに目白崖線沿いに拡がる森林のままだった。
近衛町広告19220415.jpg
杉邸2階書斎ベランダ.jpg
 また、当初の「近衛町」と名付けられた範囲を考慮すれば、コピーの「二萬坪」はあまりにも広大すぎる。のちに学習院昭和寮Click!が建設される近衛町42・43号、その東側に広がる南斜面をすべて含めても4,000坪ほどだろう。この「二萬坪」という表現は、近衛新邸Click!の建つエリアや目白中学校Click!林泉園Click!がある下落合の近衛家敷地のほとんどすべてを含めた数字ではないかとみられる。
 なぜなら、東京土地住宅は近衛町の販売をスタートしてからわずか2ヶ月後の6月17日に、今度は林泉園を含む相馬孟胤邸Click!の北側に拡がる一帯を、「近衛新町」名づけて販売しはじめているからだ。当然、「二萬坪」広告を打った時点では、「近衛新町」の販売プロジェクトもまちがいなく射程に入っていたはずであり、さらには1926年(大正15)までには移転してもらう予定の目白中学校Click!跡地Click!や、近衛新邸の周辺域まで、汎「近衛町」の開発構想がすでに進んでいたのかもしれない。
 さて、1922年(大正11)4月22日の東京朝日新聞には、近衛町の売り出し直前のキャッチフレーズ「大邸宅の持ち主に」ではじまる、一種の煽りコピーとでもいうべき表現のプレ広告を出稿している。つづけて、東京土地住宅の媒体広告から引用してみよう。
  
 大邸宅の持主に/近衛町をして更に十倍の大土地開放の苗床たらしめよ
 土地の民衆化は時代の緊切な要求となりました、思想上経済上都会地に大邸宅を所有する事は非常に困難になつて来ました 各位は此際決断と勇気とを以つて予め住宅移転地の候補地を決定し徐ろに御所有の旧邸宅地の開放分割を本社と共に考慮されん事を希望致します本社は移転候補地として目白の近衛町をおすゝめ致します、此地は交通衛生環境等に於て所謂「満点の住宅地」でこれに本社独特の科学的経営法を施し近く理想的な住宅地を出現いたしますかくして今度提供される近衛町が大邸宅地分割の基準となり今後続々市内外の大邸宅地が開放さるゝならば本社の計画は更に意義を生じ開放された近衛公の精神も生き市民多衆の福祉も増進せられる訳であります 目白近衛町概要は御通知次第御送付致します/品の佳い床しい街へ
  
 東京土地住宅の「本社独特の科学的経営法」が、具体的にどのようなものなのかは不明だが、市街地や郊外に大規模な敷地を所有する華族に対し、近衛家も「開放」しているのだから、それにつづかなければ時代の「精神」や趨勢に遅れるよ……とでもいわんばかりのコピー表現だ。内情を知る華族がこれを読んだら、思わず「近衛公が自宅の敷地を“開放”したのは、借金返済がタイヘンだからでしょ」とつぶやいただろう。
近衛町広告19220422.jpg
小林盈一邸.jpg
 こうして、新聞記者を集めた記者会見も含め、“鳴物入り”でスタートした下落合の近衛町開発だったが、1922年(大正11)10月27日に新聞紙上へ「完売」したと発表しているにもかかわらず、おもに傾斜地が「未契約地」として同年以降も残り、特に近衛町44号は改めて宅地の地割り作業が行われ、「S」字型急坂を追加開発で設置しているのは以前の記事に書いたとおりだ。
                                   <つづく>

◆写真上:車廻しの右手に、近衛旧邸の玄関があった下落合近衛町の現状。
◆写真中上は、1921年(大正10)5月2日の東京朝日新聞に掲載された「赤坂一等地」の開放広告。は、近衛町43号界隈の三間道路から北を向いた街角。
◆写真中下は、1922年(大正11)4月15日に東京朝日新聞に掲載された近衛町分譲のプレ広告。は、近衛町33号へ1923年(大正12)に建設された杉卯七邸の2階書斎から眺めた近衛町の様子。周囲は森ばかりで、建築当初は樹間の別荘のような風情だった。
◆写真下は、1922年(大正11)4月22日の東京朝日新聞に掲載の近衛町分譲プレ広告。は、小林盈一邸の2階から建設中の家々がとらえられた近衛町の様子。

媒体広告にみる「近衛町」開発の推移。(下)

$
0
0

近衛新町林泉園.JPG
 さて、話は前後するけれど、近衛町の販売Click!がスタートしてから約2ヶ月後、1922年(大正11)6月17日に東京土地住宅は、今度は近衛町の北西に位置する林泉園Click!を中心とした、「近衛新町」の販売を大々的に発表している。
 それに先がけ、同社は5月18日に組織の大規模な変更を発表し、営業部隊と会計課を社外(本社向かいの京橋区南紺屋町24番地 皆川ビルディング5階)に移して、本社(京橋区銀座2丁目1番地)内へ新たに拡張した工務部を設置している。そして、同年5月18日の東京朝日新聞へ組織の改編を伝える告知広告を出稿した。
 この時期、東京土地住宅が工務部の拡張に注力したのは、先の「未契約地」記事Click!でも書いたように「宅地として、ちゃんと整備されてないじゃないか!」というような、顧客からクレームを考慮しての施策のような気がしてならない。箱根土地Click!目白文化村Click!で実施していたように、土地を購入した翌日から工務店を入れて、住宅建設がすぐにもスタートできるような販売手法をめざしたのではないだろうか。
 そして、新たに拡張した工務部によるサポート体制を背景として、同年6月17日の新聞紙上に発表されたのが「近衛新町」の販売だった。1922年(大正11)6月17日付けの東京朝日新聞に掲載された、同社の告知広告を引用してみよう。
  
 目白の高級住宅地
 弊社が目白近衛町運営の発表以来日々頻々として之が照会に接し其数無慮三千の多きに達しましたが果して五月七日売出当日は度外の希望者の為抽籤を以て割り当てるの余儀なきに至りました 弊社は之を甚だ遺憾に思ひ此度新に近衛町隣地七千坪の更地に加工を施し近衛新町と名つけ抽籤洩れの方並に希望者に広く提供する事に致しました
 近衛新町の真価
 凡そ何人もが住宅地を求めるに際しての理想を挙げますれば左の条項につきると思ひます/第一 処女地である事即ち他人に荒されない純潔な土地である事/第二 日当のよい高台である事/第三 周囲の気品よく閑静な事/第四 交通機関が完全で往還に便利な事/第五 教育機関に近く子弟の教養に便利な事/第六 空気水質のよい事/第七 価格の低廉な事/此等の条件を備へた土地に道路、下水、水道、電気、瓦斯、倶楽部等の文化的設備があれば真の理想的住宅地と称する事が出来ます、(中略)/こうした事実に対する深い研究と周到な用意とを以つて新に出来た近衛新町は自然に多く恵まれた土地に文化的加工を施し真に理想的住宅地として竣工されました 此処に本社は自信を以つて近衛町抽籤洩れの方並に一般希望者へ此土地を御すゝめする事が出来るのであります
  
 近衛町の分譲では、実に3,000件の問い合わせがあり、「度外の希望者の為抽選」になったことになっている。確かに、一部の好条件で人気のある区画では、応募者の間で実際に抽選が行われたのだろう。でも、売り出し敷地のすべてが抽選になったとはどこにも書いてないし、人気のない「未契約地」が残り、改めて再度の地割りや整地、道路の設置などを含む追加開発が必要になりそうなことなど、オクビにも出してはいない。
東京土地住宅広告19220518.jpg
近衛町44号1.JPG
林泉園(昭和初期).jpg
 近衛新町の広告では「更地に加工を施し」たこと、つまり整地や住宅敷地の区画割り作業が済み、いつでもその上に住宅が建てられる状況になっている点をアピールし、まるで目白文化村の広告コピーを写してきたように、「道路、下水、水道、電気、瓦斯、倶楽部等の文化的設備」が強調されているのがわかる。特に、住民の共有施設として「倶楽部等の文化的設備」を提供するなどは、目白文化村の宅地販売プロモーションをそのまま拝借、踏襲したように思えてならない。
 これは、当初の近衛町販売では見られないアピールポイントであり、「更地に加工」や「文化的加工」をせず現状(森林)のままでも、すなわちイニシャルコストをかけずに「黙ってても売れる」と踏んでいた近衛町で、「未契約地」が8区画も発生してしまったことに対する「深い研究」と反省なのだろう。近衛町の売り出しでは、直近の目白駅から徒歩3分であることと、土地を購入しておけば将来的な値上がりはまちがいないという、土地投機熱を煽るような訴求表現が見られた。
 近衛町以上にコストをかけ、工務部を拡張して注力した近衛新町の開発なのだが、わずか1ヶ月半後には「分譲中止」の告知広告を出している。これは、近衛新町の敷地を丸ごと、松永安左衛門の東邦電力が買い占めてしまったからだ。同年7月29日に東京朝日新聞に掲載された、東京土地住宅の分譲中止広告から引用してみよう。
  ▼
 近衛新町/分譲中止に就て
 近衛新町御購求漏れの方、及び一般御希望の向に提供すべく工事中の近衛新町は、此度東邦電力株式会社が社員優遇の一法として社宅貸与及び拾五ヶ年賦にて譲渡する計画の下に同町を引受けらるゝことに決定致候為一般の分売を中止仕候間左様御諒知被下度候/尚ほ、現今住宅難は依然として緩和せられず、諸会社銀行員諸氏の之が為に生活の脅威を感ぜらるゝこと深甚なる折柄、社宅の貸与、年賦制度の企画は誠に時宜に適したる挙と存じ候/社員諸氏の住宅難を一掃し、生活の安定を与へることは、社会問題解決の有力なる鍵鑑の一たるは勿論、社と社員との美はしき融合、結束を実現し、社運の永遠なる隆昌に、社風の賑起に、能率の増進に、其他効果計り知るべからざるもの有之と存候間、何卒一刻も早く此種計画後実行被下度適当の敷地は何時にても弊社に於て提供可仕候
  
 もってまわった妙な候文とともに、ここでおかしなことに気づくのは、わたしだけではないだろう。近衛町の「抽籤洩れ」の人たちなどを優先して、あるいは人気の高い近衛町の追加開発事業として、一般向けに販売を開始した近衛新町のはずなのだが、分譲開始からかなりの時間が経過しているにもかかわらず、近衛新町の全土地を東邦電力が買い占めることができている点だ。換言すれば、分譲開始から1ヶ月半の間、土地の契約者はひとりも存在しなかった、いや東京土地住宅は問い合わせをしてきた土地の希望者と、あえて販売契約を結ぼうとはしなかった(近衛町と同様に「抽籤」あるいは「工事中」とでも対応していたのだろうか?)……ということになってしまう。
東京土地住宅広告19220617.jpg
東京逓信局地図1925.jpg
東京土地住宅広告19220729.jpg
 うがった見方をすれば、東京土地住宅と東邦電力との間では、かなり早くから土地購入の話が進んでいたにもかかわらず、三宅勘一Click!と「電力王」と呼ばれたやり手の松永安左衛門との間で価格交渉がうまくいかず、東京土地住宅側がシビレを切らして販売開始の広告を出稿(一種のポーズとして)することで、東邦電力側への提示値圧力と最終的な意思決定を迫ったのではないだろうか? この1ヶ月半という時間は、東京土地住宅が本気になって近衛町の「抽籤洩れ」や一般の顧客に向けて販売活動を行っていたわけではなく、東邦電力との間で販売価格に関する最後の駆け引き、分譲地価をめぐるギリギリのせめぎ合いの期間ではなかったか……とも思えてしまうのだ。
 だとすれば、東京土地住宅は華族などの大規模な土地を「開放」して購入しやすい宅地に分譲し、一般人へ広く販売するという住宅供給の事業目的から外れ、あたかも福利厚生の社会貢献をするようなもってまわった広告文とは裏腹に、まるで下落合や目白の人気を背景に地価をできるだけ釣り上げて土地を転売する、ブローカーまがいの事業もしていたことになる。それは、この時期における同社の金融機関における信用低下と、急速な経営悪化を考慮すれば、非常にリアリティが感じられる現象といえるだろう。
 さて、近衛新町を丸ごと購入した東邦電力の「電力王」松永安左衛門について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 松永安左衛門 下落合三六七
 落合村は今の落合町に比したならば真に隔世の感があらう、その発展は時勢のしからしむるものとは言へ、氏等の意識的な献替がどれ程多く費されたかといふことを考へさせずに居ない、真に本町文化組織の第一人者にして其の存在は尊くも亦大きゐ氏は長崎県人先代安左衛門氏の長男にして明治八年十二月を以て生れ同二十六年家督を相続し前名亀之助を改め襲名す 同三十一年慶應義塾高等科を卒業し夙に実業界に入り現時左記諸会社の重役にして現代実力界の重鎮である、嘗て福岡市より衆議院議員に当選国政に参与す。東邦電力株式会社長……(以下略)
  
 近衛新町の分譲中止と、東邦電力が同町を買い占めた広告の左側では、青山の中山侯爵邸や五反田の池田侯爵邸などの分譲計画を告知しているが、東京土地住宅の経営悪化は止まらず、1925年(大正14)には倒産してしまう。近衛町の開発を引き継いだのは、目白文化村の販売が好調だった、当時、下落合の第一文化村に本社があった箱根土地だった。
林泉園1926.jpg
箱根土地広告19251101.jpg
近衛町44号2.JPG
 その後、箱根土地による近衛町の分譲売り出し広告が、新聞紙上へ次々と登場してくることになるが、1925年(大正14)11月1日の広告もそのひとつだ。「目白駅より約三丁/省線電車より見る事を得」とあるので、これは以前にご紹介した目白中学校Click!跡地Click!分譲と思われる広告Click!(1925年11月13日)とは別の物件だ。山手線から見えると書かれているので、追加開発が必要となった、のちにライト風の佐野邸Click!や武尾邸などが建設される、近衛町44号の斜面分譲地のことではないだろうか? つまり、近衛町の「未契約地」のうち、東京土地住宅の追加開発計画も箱根土地がそのまま引き継ぎ、改めて同社ならではの宅地造成を施して販売している可能性が高い。

◆写真上:近衛新町にある湧水源の谷戸(左手)=林泉園の北側に通う、桜並木がつづいていた道筋。途中の右手には、中村彝Click!アトリエClick!がある。
◆写真中上は、近衛町分譲のスタート直後に東京土地住宅の組織変更を伝える1922年(大正11)5月18日付け東京朝日新聞の広告。は、近衛町44号敷地に通う「S」字急坂の現状。は、堀尾慶治様Click!が保存されている1935年(昭和10)ごろの林泉園写真。
◆写真中下は、1922年(大正11)6月17日の東京朝日新聞に掲載された近衛新町の分譲広告。は、1925年(大正14)に作成された「東京逓信局地図」にみる近衛新町。は、1922年(大正11)7月29日に発行された東京朝日新聞掲載の分譲中止広告。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる松永安左衛門邸。は、1925年(大正14)11月1日の東京朝日新聞に掲載された箱根土地による近衛町分譲広告。近衛町は東京土地住宅の倒産後、箱根土地が開発を引き継いで分譲している。は、近衛町44号の「S」字急坂から眺めた山手線・埼京線・新宿湘南ラインの線路。

Viewing all 1249 articles
Browse latest View live