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児童文学の宝庫としての三岸アトリエ。

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目白台ハウス(目白台アパート).JPG
 先日、三岸アトリエClick!山本愛子様Click!より、また未整理の資料が出てきたとのご連絡をいただいた。以前、アトリエ2階に山積みのまま残され、整理させていただいた三岸好太郎Click!および三岸節子Click!の資料類とは別に、2階の書斎兼書庫のクローゼットに収納された段ボールの中から、児童文学関連の資料が大量に見つかったのだ。
 その多くは、戦後間もないころの早稲田大学童話会の資料や、坪田譲治Click!が主催した「びわの実学校」の刊行物「びわの実」(1960~80年代)をはじめ、いまだ戦災から復興していない1945~55年(昭和20~30)ごろに出版された、さまざまな童話本の数々だった。よほど大切にされていたのだろう、1冊1冊がビニール袋でていねいにくるまれ、特に戦後すぐのころの紙質が悪い書籍は、用紙の劣化が進まないように配慮されていた。
 わたしは、児童文学や青春文学と呼ばれるジャンルが好きで、書棚の丸ごとひとつが国内外のそれらの作品で埋まっているのだけれど、まったく体系的な読み方をしていないので、いわゆる児童文学史というような分野にはまったく暗い。しかし、これらの資料が山本愛子様のお父様である、児童文学者をめざし「藝術新潮」の創刊メンバー(編集次長)でもあった、向坂隆一郎様の遺品であることは資料類を一瞥してすぐにわかった。向坂隆一郎様は、三岸夫妻の長女・陽子様Click!の夫であり、編集者としても、また劇団「雲」や三百人劇場のプロデューサーとしても広く有名な方だ。
 まず、日米戦争で敗色が漂いはじめた、1943年(昭和18)当時の早大童話会の様子を、劇作家・内木文英の証言から聞いてみよう。1984年(昭和59)に出版された『回想の向坂隆一郎』(向坂隆一郎追悼集編集会)所収の、内木文英「向坂隆一郎を思う」から。
  
 (早大を)ぼんやり歩いているところを、勢いのいい若者に腕をつかまれた。見ると桃の印のついたポスターが張りつけられ、早大童話会と記されている。顧問、坪田譲治先生の名も見える。入会したら坪田譲治に会えるのかとたずねると、言うまでもないと返事が返ってくる。この高名な作家と会えて話ができるならと考えて入会を決めた。そこに向坂隆一郎がいたのだ。前川康男、永井萌二、鈴木隆、今西祐行、竹崎有斐、そしてもう童話作家として活躍していた岡本良雄や、水藤春夫とも会うことができた。翌年入って来た者の中に大石真がいたし、戦後の入会者の中に寺村輝夫、高橋健、古田足日、鳥越信もいるのである。(カッコ内引用者註)
  
 戦争末期から敗戦にかけ、早大童話会には戦後の児童文学界をになう、錚々たるメンバーが集っていたのがわかる。また、内木文英は彼から落合地域でも馴染みのある、古谷綱武Click!を紹介されている。古谷綱武は、向坂隆一郎様の義理の叔父にあたる人物で、当時は上落合から杉並区天沼へと転居していた。
 敗戦後の一時期、向坂様は北海道へと出かけ、牧場で働きながら童話の同人誌「コロポックル」を創刊したり、人形劇団を結成して各地を公演してまわっている。やがて、東京にもどった向坂様は、新潮社に入社し少年少女雑誌「銀河」編集部に入り、1950年(昭和25)になると「藝術新潮」発刊のために同誌編集準備室へと引き抜かれている。
児童文学資料1.JPG 児童文学資料2.JPG
回想の向坂隆一郎1984.jpg 三岸アトリエ2014.jpg
 「藝術新潮」編集中は、多くの芸術家や作家たちと接する同誌のフロント役で顔なじみとなり、三岸アトリエを訪ねたのがきっかけで三岸陽子様Click!と知り合った……という経緯だ。そのときの様子を、1999年(平成11)に文藝春秋から出版された吉武輝子『炎の画家 三岸節子』から引用してみよう。
  
 五三年に陽子を、節子の担当編集者であった『芸術新潮』の向坂隆一郎と結婚させている。積極的に橋渡しをしたのは菅野だった。「自分の子どもを引き取ってもらうために、取りあえず娘たちを結婚させねばと、躍起になっていたのだろう」と陽子は言う。ウエディングドレスが見たいという菅野の母親に、伊豆まで見せに行ったと陽子は記憶している。
  
 ここに登場する菅野とは当時、三岸節子と「別居結婚」をしていた独立美術協会の洋画家・菅野圭介Click!のことだ。
 当時の「藝術新潮」は、美術界だけでなく演劇や映画の紹介にも力を入れていたため、向坂様は同領域の人々とも親しくなり、やがては新潮社を辞めて、文学座Click!の分裂にからみ芥川比呂志Click!たちと劇団「雲」を結成し、「現代演劇協会」の事務局長に就任している。その後の向坂様の事績については、長くなるので割愛するけれど、演劇にかかわっていた期間を通じて、ずっと児童文学の世界に関心を寄せつづけていたことが、今回見せていただいた資料類から判然としている。おそらく、1983年(昭和58)8月に心筋梗塞で倒れるまで、気になる児童文学書や資料には目を通していたのではないだろうか。
 児童文学界とはまったく異なる、馴れない演劇界と深くかかわったせいか、先の『回想の向坂隆一郎』には、芥川比呂志の瑠璃子夫人や田中澄江、松村達雄、木下恵介、羽仁進、飯沢匡、別役実、内田朝雄、浅利慶太など、多彩な演劇人が追悼文を寄せている。
 おそらく、事務局長というストレスがたまりそうなマネジメント業務がつらかったのだろう、向坂様はときどき目白へグチをこぼしにやってきている。息抜きに訪問していたのは、目白坂(旧坂)の途中に建っている目白台ハウス(通称:目白台アパート)に住む、作家・瀬戸内寂聴の家だった。『回想の向坂隆一郎』から、瀬戸内寂聴「かぎりなくやさしい人」の証言を聞いてみよう。
童苑1936.jpg 童苑1938.jpg
童苑1942.jpg 小川のをみなへし1942.jpg
古谷綱武「児童文学の手帖」1948.jpg ポプラ1949.jpg
  
 私たちはとりとめもないことを話しながら、向坂さんの憂鬱がいくらか慰るのを待って別れていたように思う。/まるで身上相談のような形だが、答えを期待しているわけではなく、向坂さんは、私に話せば気がすむというふうであった。/そのうち、私たちは、よく電話でも話すようになり、向坂さんはそんな時、必ず、近いうちに伺いますと大きな声で自分にいい聞かすようにいった。私は向坂さんの話を聞くうち、向坂さんが私に逢いたがったり、電話をしたくなる時は、心身のどこかに翳りが出来た時だと判断するようになった。私は逢うなり、/「今、何を悩んでいらっしゃるの」/と、占い師のように訊き、向坂さんの気の弱い表情の笑顔を見るのが恒例になった。電話でも、声を訊くなり、/「また、何かおこって?」/と訊く癖がついてしまった。ぷっつりと連絡のとだえる日がつづくと、私は、今、向坂さんは充実して元気なんだなあと思う。そしてそれがぴたりと当っているのを知るようになった。
  
 さて、今回クローゼットから出てきて、お見せいただいた資料の中には、戦前の早大童話会が発行していた季刊「童苑」(1936年~)をはじめ、戦時中の「童苑」(1942年~)、古谷綱武『児童文学の手帖』(育生社/1948年)の初版、坪田譲治『春の夢 秋の夢』(新潮社/1949年)の初版、赤松俊子(丸木俊)Click!が装丁を担当する児童文学誌「ポプラ」(1949年)、松谷みよ子『貝になった子供』(あかね書房/1951年)の初版、小学生文庫に収められた内木文英『劇をしましょう』(小峰書店/1951年)の初版、安倍能成Click!らが監修する小学生全集所収の坪田譲治『山の湖』(筑摩書房/1954年)の初版、そして戦後の児童文学誌「びわの実」各巻など、おそらく児童文学の研究者が見たら垂涎ものの資料ばかりなのではないかと思われる。
 1942年(昭和17)7月に発刊された早大童話会「童苑」には、向坂隆一郎・作の『小川のをみなへし』が掲載されているのだが、また機会があったらご紹介したい。戦時中にもかかわらず、児童文学の世界は作品から戦争のキナ臭い匂いや、特高からの圧力による軍国調の表現などがほとんど見られず、かえって新鮮な印象を受けるのだ。
 段ボールに入れられた資料を、あらかた拝見し終えたとき、目の隅になにか大きな白いものが映った。そちらに目を向けると、30cmはありそうなシャコガイの貝殻だった。当然、わたしは色めきたち、山本愛子様へ晩年の三岸好太郎作品Click!に多く登場する、「貝殻のモチーフのひとつじゃないですか?」とせきこんで訊ねた。だが、ハッキリしたことはわからないようで、いつ誰が入手したものなのかも不明だとのこと。手にすると、ズッシリと重たいシャコガイについては、またなにか判明したら、別の物語で……。
坪田譲治「春の夢秋の夢」1949.jpg 松谷みよ子「貝になった子供」1951.jpg
内木文英「劇をしましょう」1951.jpg 坪田譲治「山の湖」1954.jpg
シャコガイ貝殻.jpg
 なお、向坂隆一郎様が「藝術新潮」時代に、音楽芸術家協会へ三岸節子を紹介しているとみられ、原智惠子(pf)や巌本眞理(vn)など1950年代の演奏会プログラムが出てきた。当時としては斬新で美しいデザインのプログラムなのだが、ご紹介できないのが残念。

◆写真上:目白坂に面した旧・目白不動境内跡に隣接して建つ、向坂隆一郎様がときどき訪れている瀬戸内寂聴が住んでいた目白台ハウス(通称:目白台アパート)。
◆写真中上は、アトリエ2階のクローゼットから出てきた資料段ボールの一部。下左は、『回想の向坂隆一郎』(1984年)。下右は、三岸アトリエが国の登録有形文化財に指定されたのを機に刊行された山本愛子様・編集のフォトブック『三岸アトリエ』(2014年)。
◆写真中下上左は、1936年(昭和11)刊行の「童苑」(早大童話会)。上右は、1938年(昭和13)刊行の同誌。中左は、1942年(昭和17)の「童苑」。中右は、同号に掲載された向坂隆一郎『小川のをみなへし』。下左は、古谷綱武『児童文学の手帖』(育生社/1948年)。下右は、1949年(昭和24)発行の童話誌「ポプラ」。
◆写真下上左は、坪田譲治『春の夢 秋の夢』(新潮社/1949年)。上右は、松谷みよ子『貝になった子供』(あかね書房/1951年)。中左は、内木文英『劇をしましょう』(小峰書店/1951年)。中右は、坪田譲治『山の湖』(筑摩書房/1954年)。は、三岸アトリエの2階にあったシャコガイの貝殻。


目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)。(上)

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目白駅(現代).JPG
 目白駅(目白停車場)Click!が、金久保沢Click!の谷間にあった駅舎および改札から橋上駅化されたのは、数多くの書籍や資料で1919年(大正8)と規定されているが、それはいったいどのような根拠にもとづいているのだろうか? 当時の工事記録や、工事が行われた当時の資料類に当たり、ちゃんと“ウラ取り”がなされた記述なのだろうか?
 このサイトでは、これまで地元の目撃証言にもとづき、1921年(大正10)前後に金久保沢の谷間にある目白駅改札を利用する人たちの様子を、繰り返し取り上げてきた。たとえば、1920年(大正9)の秋、目白駅から帰宅した岡田虎二郎Click!は、台風の影響で水びたしになった改札前を通って足もとをずぶ濡れにしながら、翌々年から「近衛町」Click!と呼ばれるエリアの自宅にたどり着いている。また、翌1921年(大正10)ごろから下落合で暮らしはじめていたと思われる鈴木誠Click!(諏訪谷Click!に建っていた“お化け屋敷”と呼ばれる借家か?)は、目白駅の改札を出たあと、高田大通り(現・目白通り)沿いに植えられたサクラ並木を、下から見あげている。
 また、佐伯祐三と相前後し1921年(大正10)にアトリエを建てた曾宮一念Click!は、目白駅へと向かう佐伯祐三の姿を自身のアトリエ前の道(諏訪谷北側の丘上道)で見かけており、当時はそれが目白駅へと向かう道筋だったと証言している。この時点で、目白駅が橋上駅化されていたなら、米子夫人Click!を俥(じんりき)に乗せて付き添う佐伯は、下落合の中を通り抜けるコースではなく、目白通りへ出たほうがはるかに効率的かつ合理的な道筋だったろう。駅舎が金久保沢の谷間にあったからこそ、下落合の中の道を通らざるをえなかったのだ。さらに、これはわたし自身が確認した資料ではなく知人から聞いた話だが、1922年(大正11)に初めて目白(上屋敷駅近くの“隠れ家”)へやってきた柳原白蓮(宮崎白蓮)Click!は、当時の改札が目白橋の下にあったことを記述の中で証言しているという。
 地元に残されたこれらの証言により、わたしは少なくとも目白駅の橋上駅化工事は、1921年(大正10)以降に行なわれたのではないかと、これまで何度も記事に書いてきた。今年(2015年)の3月末、目白駅の橋上駅化工事について、ようやく工事記録などの精密な“ウラ取り”をともなう、正確でまとまった研究論文が発表された。論文が掲載されているのは、豊島区立郷土資料館が刊行している「研究紀要」第24号で、同号に掲載されている平岡厚子氏の『目白駅駅舎の変遷に関する考察―一九二〇年代の橋上駅の問題を中心として―』がそれだ。
 同論文では、日本鉄道あるいは旧・鉄道院、旧・鉄道省が保存していたさまざまな工事記録や、中には目白駅に伝わる手書きで書き継がれた同駅業務の“忘備録”のような、『目白駅史』なども参照しながら、目白駅の橋上駅化工事の起工から、その竣工時期までを規定している。また、平岡氏は論文の執筆にあたり地元の証言を重視され、拙サイトの記事を引用して研究課題のベースのひとつとして触れられているのがうれしい。
 さて、まず私営の日本鉄道による品川赤羽線が開通したのは、1885年(明治18)3月1日だけれど、初代の地上駅だった目白停車場は、駅舎の建設が開通に間に合っていない。半月ほど遅れて、同年3月16日に開業した目白停車場だが、この地上駅にも敷地を移動しての全面建て替えによる、どうやら2代目の駅舎が存在していたことが、同論文から明らかになっている。それは、初期の日本鉄道による「目白停車場図」と、明治末から大正期に中部鉄道管理局工務課が作成した「停車場平面図」(1912年)、および1915年(大正4)に東京鉄道管理局が作成した「停車場平面図」とを比較すると、「停車場本屋」=駅舎をはじめ諸設備の位置がまったく一致しないからだ。
 つまり、目白停車場が金久保沢の地上駅だった40年近くの間に、駅舎が移動し、新たに建て直されている可能性がきわめて高い。したがって、初期の目白駅の様子として残されたイラストが存在しているが、そこに描かれた駅舎が日本鉄道による初代のものか、あるいはリニューアル後の2代目のものかは規定できない(「大正初期」というキャプションが入っているので、おそらくは2代目・地上駅)……ということになる。また、敷地を移して建て替えられた目白停車場の駅舎(地上駅時代)を2代目とするならば、このあと橋上駅化が行なわれた駅舎は3代目ということにもなるだろう。多くの鉄道本などで見られる、金久保沢にあった目白駅舎を初代とし、橋上駅化された駅舎を2代目とする記述もまた、実際の記録や図面を“ウラ取り”検証してはおらず、ただ漠然と地上駅を「初代」としているにすぎないのではないだろうか?
目白駅(大正初期).jpg
目白駅跡(地上駅).JPG 豊島区郷土資料館研究紀要24.jpg
 さて、目白駅の橋上駅に関する工事記録は、旧・鉄道省の資料類にみることができる。1922年(大正11)に鉄道省より発行された『国有鉄道現況』、および1925年(大正14)に同省が発行した『山手線複複線工事概要』だ。これらの実際の工事記録には、目白駅の橋上化が1919年(大正8)とする“通説”とは、まったく異なる内容が書かれている。双方の資料に関して、研究紀要の論文『目白駅駅舎の変遷に関する考察―一九二〇年代の橋上駅の問題を中心として―』から引用してみよう。なお、文中に登場する参考文献などの小さな註釈番号は、割愛させていただいている。
  
 初めての橋上駅が一九一九年に竣工した、という目白駅についての説明は、その頃近隣に暮らしていた人々の書いた文章や話を知るにつれて、違和感を覚えるものとなる。一九二〇年を過ぎても、目白通りよりも低い位置にあった地上駅を使っていたとしか、思えない記述に出あうからである。/そこで鉄道関係の資料にあたったところ、一九二二年十月末調べの『国有鉄道現況』(鉄道省発行。以下、『現況』)の「山手線々路増設工事」という項目の中に、目白駅の竣成についての「新宿目白間ノ内目白駅改築ハ既ニ竣成シ他ハ六分通リ目白大塚間ハ一分通リ」という記録が存在した。この『現況』は、一九二一年一九二二年の十月までの実績を記しながら翌年度以降の予算の組み直しを図る内容となっている。これに先立つ一九二〇年十月末調べの『現況』の「山手線品川田端間線路増設工事」の項目には、「新宿目白間ハ用地買収ヲ了シ近ク土工其他ノ工事ニ着手セントシ目白駒込間ハ用地ノ大部分買収ヲ了セリ」とある。これからは、目白駅の改築は一九二一年一月以降一九二二年十月までの間になされた、と理解できる。さらに、一九二五年四月に鉄道省が発行した『山手線複複線工事概要』(以下、『概要』)は、一九二〇年十一月一日を、第六工区(山手線複々線工事の工区の区分。新宿-新大久保間から目白-池袋間までの三キロメートル弱の部分が第六工区である)の起工日としており、『現況』と重ねて理解することができる。目白駅が橋上駅となる改築を、一九一九年とする通説とは、相容れない記録である。
  
 1919年(大正8)という時期は、「線路増設工事」(山手線の複々線化工事)を実施するために用地買収のまっ最中であり、目白駅の橋上駅化計画は立案され図面もでき上がっていたのかもしれないが、どこにも竣工したなどとは書かれていない。目白駅舎の「竣成」は、1922年(大正11)10月末の『国有鉄道現況』で初めて記載される項目だ。
目白駅1925.jpg
目白駅1万分の1地形図1918.jpg 目白駅3千分の1地形図192209.jpg
 では、なぜ1919年(大正8)などという年号が登場しているのだろうか? そこには、いちばん最初に目白駅の橋上駅化の「竣工」は「1919年(大正8)」と規定してしまった、おそらく鉄道史の分野では権威があったのであろう高名な人物の大きな勘ちがいか、あるいは資料の誤読が介在していたと思われる。目白駅は、高田馬場駅および新大久保駅とともに、1920年度(大正9)の『鉄道統計資料』(鉄道省)には山手線改良工事の「第六工区」として位置づけられている。そこには、1919年(大正8)10月に「第六工区」が着手(起工)され、その9%が1920年(大正9)3月までに終了したと書かれている。
 しかし、9%が終了し「尚施工中」なのは土工(土木工事)であり、どこにも駅舎の改修工事が終了したとは書かれていない。この記述を、目白駅の橋上駅化が結了したと読みちがえている公算が非常に高いのだ。以下、同論文からつづけて引用してみよう。
  
 その一方で、鉄道省発行の一九二〇年度『鉄道統計資料』(以下、『統計』)の山手線の改良工事の項目の中にも、注目すべき記述がある。一九一九年十月に着手していた第六工区とほぼ同じ区間の「土工・橋梁・軌道・停車場・諸建物」の工程の九%が一九二〇年度中に終わり、二十万円余りを決算したというものである。第六工区にある停車場は、新大久保・高田馬場・目白の三駅で、そのぞれとも特定されていないが、目白駅の工事である可能性がある。しかし、一九一九年度の鉄道院発行の『統計』には、第六工区付近に関して、用地買収は五十五%まで進んだが、「土工・橋梁・軌道・停車場・諸建物」からなる「二線増設」工事は一九一九年に着手されたとするものの「歩通掲記ニ至ラス」とあるほか、「土工工事ハ尚施工中ナリ」とも記されている。一九二一年度に入ると、「新宿池袋間」の「通信線移転工事」が施工中となるが(一九二一年度『統計』)、「目白大塚間支障電柱移転」の工事が始まるのは一九二二年九月である(一九二二年度『統計』)。/これらの記録は、第六工区では土工工事が一九一九年十月に始まった、しかし実際には殆ど進展が無く、一九二〇年十一月一日になって起工と見做しうる工事の再開があった、とすると整合的に理解できるのではないだろうか。『概要』や『現況』には、「欧州動乱」の影響による工事費の高騰・外注工事の取り止め、経済状況の悪化による運輸成績の低迷等があった事が記されている。一九一九年に土工に着手した目白駅の橋上駅化工事が、そのような事情で中断を余儀なくされたのに、工事着手の記録を竣工の記録と取り違えた資料が作られたとするならば、一九一九年に目白駅が橋上駅になったという言説が生まれる理由となるように思われるのである。
  
目白駅(初代橋上駅)1923.jpg
目白駅目白橋欄干.JPG
 いちばん最初に、目白駅の橋上駅化は「1919年(大正8)の竣工」と規定した、鉄道史の分野では影響力があったとみられる人物は、おそらくここの地元(目白・落合地域)をまったく取材してはいない。なぜなら、当のJR目白駅(1987年以前なら旧・国鉄目白駅)を一度でも訪れて取材すれば、駅職員によって代々書き継がれてきた、駅業務に関する覚え書きとでもいうべき『目白駅史』の存在を示唆され、同駅の職員から同史料を紹介されていたはずだからだ。それを参照していたなら、橋上駅としての目白駅が1922年(大正11)に完成したことが明記されているのを、すぐにも発見できていたはずなのだ。
                                   <つづく>

◆写真上:目白橋の上へ直接出られる、現在の6代目・目白駅舎。1962年(昭和37)に行なわれた、大規模な改修をカウントしなければ5代目・目白駅舎になる。
◆写真中上は、金久保沢の谷間にあった地上駅の目白停車場。画面の右上に「大正初期」と書かれているので、おそらく2代目・地上駅の目白停車場だと思われる。下左は、金久保沢の谷間にあった目白停車場の地上駅跡。下右は、2015年3月末に豊島区立郷土資料館(豊島区教育委員会)から刊行された「研究紀要(生活と文化)」第24号。
◆写真中下は、1925年(大正14)作成の「大日本職業別明細図」に掲載された3代目・目白駅(初代・橋上駅)。下左は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる目白駅。金久保沢に駅がある描写で、2代目・目白駅(地上駅)時代のもの。下右は、1922年(大正11)9月作成の1/3,000地形図にみる3代目・目白駅(初代・橋上駅)。
◆写真下は、日本女子大学が保存している1923年(大正12)の関東大震災直後に撮影された3代目・目白駅(初代・橋上駅)。は、3代目・目白駅(初代・橋上駅)と同時に整備されたとみられる目白橋の欄干。現在も目白駅前に保存されており、上掲の日本女子大学に保存された写真にも目白橋西詰めに確認できる。

目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)。(下)

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目白駅初代橋上駅階段.JPG
 目白駅の橋上駅化の錯誤Click!は、おそらく尾崎翠Click!の旧居跡の誤規定Click!のケースとよく似ているのではないかと思われる。最初に、目白駅の橋上駅完成は「1919年(大正8)」と規定した人物は、鉄道史の分野ではそれなりに大きな影響力のある研究者あるいは執筆者で、書かれた書籍は東京市街地の鉄道史を知るうえでは、一種の“バイブル”のような存在だったのではないだろうか。
 尾崎翠のケースでいえば、彼女の今日的な研究基盤とでもいうべき『定本尾崎翠全集』(筑摩書房/1997年)に掲載された、旧居跡の誤規定からすべてがはじまっていた。それ以来、唯一の例外として新宿区の出版物(新宿歴史博物館の刊行物1点)を除き、誰からも“ウラ取り”の検証がなされず、さまざまな書籍へそのまま書き写され、引用されつづけてきた。その経緯は、わたしが以前に『尾崎翠フォーラム』第8号(尾崎翠フォーラム実行委員会/2008年)に書かせていただいたとおりだ。
 目白駅の橋上駅化のテーマもまた、誰からも疑問を抱かれず検証されることなく、今日まで延々と書き写されてきた結果だと思われる。これも、拙記事では何度か書かせていただいたフレーズなのだが、さまざまな出来事や事象は図書室や資料室の机上で起きているのではなく、その“現場”で起きているのだということを、改めて確認しておきたい。
 鉄道史ファンの誰かひとりでも、当の“現場”である目白駅を訪ねて取材し、駅職員が代々記載しつづけてきた『目白駅史』(写し)の存在を示唆され、同時に目白駅が出版した写真集『開業八十周年記念』(1965年)の年譜などの記録や記述を早々に参照していたなら、目白駅の橋上駅化は「1919年(大正8)」という誤謬はもっと早くに訂正され、これほど誤りが広く拡がることもなかっただろう。
 繰り返すが、ぜひその研究対象としている地域の“現場”へ足を向けて、「地に足がついた」主体的な研究・検証をしてほしいと、つくづく感じるのだ。
 では、前回に引きつづき豊島区教育委員会の「研究紀要」第24号に掲載された、できる限りの緻密な調査や取材を展開している平岡厚子氏の労作、『目白駅駅舎の変遷に関する考察―一九二〇年代の橋上駅の問題を中心として―』研究論文から引用してみよう。
  
 これらの鉄道省の刊行物以外の資料として、目白駅に伝わる手書きの『目白駅史』の写しがあり、その中には「大正十一年 八年起工中ノ本屋及線路模様替竣工ス」という記録がある。『目白駅史』は、大正四年五月から纏め始められた対外的な発表を念頭に置いていない目白駅の忘備録で、複数の筆者によって書き継がれている。この部分は、それだけでは意味がはっきりしないが、前記の鉄道省の文書と合わせて考えると、一旦起工した工事の中断と再開があった事を述べているとみられる。また、目白駅が一九六五年に出した『開業八十周年記念』という写真集に添えられた簡単な年表にも(原文は横書き)、
 大正11     本屋改良工事竣工(現在位置)
 昭和37、8、16、    〃   (現在の姿)
  〃 38、4、10、 新跨線橋完成

とある。
  
 上記にもあるとおり、3代目となる目白駅(金久保沢の地上駅舎の場所移転と駅舎リニューアルを無視してしまえば2代目)の橋上駅化、すなわち初代の目白橋上駅は、先の『国有鉄道現況』など鉄道省の資料と合わせ、1922年(大正11)に竣工していることは明らかだろう。
目白駅1925.jpg 目白駅高田町北部住宅明細図1926.jpg
目白駅1929.jpg
 また、鉄道省関連の工事記録や上記の『目白駅史』の記述を前提とすれば、下落合に居住していた人々が1921(大正10)前後に、いまだ金久保沢にあった地上駅の目白停車場を利用していたと思われる記録や記憶とも、なんら矛盾することなくスムーズに整合性がとれることになる。それは、「記憶ちがい」や「事実誤認」などではなく、正確な記述であり記憶だったことがわかるのだ。
 もうひとつ、論文著者は傍証として、東京興信所Click!が1921年(大正10)に実施した地価調査、すなわち『北豊島郡高田町土地概評価』の存在も挙げている。そこには、目白駅が「西側」の「概ね一段の窪地なり」と、同駅がいまだ金久保沢に建つ地上駅であったことが明記されている。同論文から、引きつづき引用してみよう。
  
 また、東京興信所による「大正十年三月調」の『北豊島郡高田町土地概評価』には、目白駅のある高田町字金久保沢のことが、以下のように記されている(一部略)。
 (目白駅附近の鉄道の両側にて東側は全部学習院 西側は駅前の通筋及び其裏にて概ね一段の窪地なり 駅附近は商業地、裏地は殆ど住宅地にて稀に工場あり)
 評価 最高 五〇円 最低 三〇円/内訳/(一)一一一三-一一二〇、一一三〇-一一三五番地(目白駅附近の通筋) 四〇-五〇円
 一一一三から一一二〇番地は、目白通りの「下の道」沿いの一帯。一一三〇から一一三五番地は、<金久保沢地上駅の>駅前広場附近となる。つまり、一九二一年三月には、まだ地上駅があったことがわかる。(< >内引用者註)
  
 さて、著者が1922年(大正11)夏ごろに竣工したと想定している初代・橋上駅だが、わずか6年後に再び全面リニューアル工事が施され、1928年(昭和3)8月には新たな2代目・目白橋上駅の新駅舎が誕生している。初代橋上駅の図面や、当時撮影された外観写真を見比べれば明らかだが、初代と2代目の駅舎とはまったく異なる意匠であり建築だ。この建て替えは、関東大震災Click!以降に激増した、東京郊外への人口移動による乗降客の爆発的な増加と無関係ではないだろう。
目白駅初代橋上駅.jpg
目白駅初代橋上駅平面図.jpg
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 改札出口も、初代・橋上駅が目白橋の西詰めにあった“駅前広場”へ出るのに対し、2代目・橋上駅は目白橋の真上に出られるよう大幅な設計変更と、目白橋を含む大がかりな改造工事が実施されている。初代・橋上駅舎は、目白橋との間にいくらかの“距離”が存在しており、たとえば学習院へ向かうには改札を出て、いったんは目白橋の西のたもとにある駅前広場に出ると、改めて橋を西詰めから東へわたらなければならなかった。その駅舎の様子は、1925年(大正14)の1/3,000地形図、あるいは翌1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」で正確に採取・描写されている。橋上駅とはいえ、いまだ改札を抜けると目白橋の“上”ではなく、厳密にいえば目白橋の西のたもとに設置された、狭い駅前広場へ出られる構造になっていた。
 1928年(昭和3)竣工の2代目・目白橋上駅は、金久保沢にあった初期地上駅(初代・2代)から数えて、4代目にあたる目白駅舎だ。詳細は、「研究紀要」第24号の同論文自体を読んでいただきたいのだが、4代目の駅舎は戦争をはさみ、多くの改修工事、ときに戦災による被害から大幅な改築工事をつづけながら、戦後もそのまま使われつづけてきた。
 わたしが学生時代から、もっとも親しみのある目白駅舎は、竣工当時からずいぶん手が加えられ、その意匠も大きく変貌しているとはいえ、改札からすぐに目白橋へと出られる、この4代目・目白駅の位置に建っていた。しかし、1962年(昭和37)に実施された、『目白駅史』にもみえる駅舎の大規模な「改良工事」では、「本屋」の意匠がかなり変化しているとみられるので、同年から2000年(平成12)までつづく橋上駅舎を、5代目(3代目・橋上駅)と呼んでもいいのかもしれない。そして、2000年(平成12)に現在の4代目・橋上駅(上記の見方をとらなければ3代目・橋上駅舎)、すなわち金久保沢の地上駅(初代・2代)から数え、6代目(1962年の大規模な「本屋改良工事」による駅舎の改築を加えなければ5代目)の目白駅が竣工していることになる。
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 同論文では、目白駅の西側に残るコンクリートの階段についても、興味深い考察がなされている。同階段は、1922年(大正11)に竣工した初代・橋上駅、つまり3代目・目白駅に設置されていた、旧・地上駅前の金久保沢にある「目白駅荷物引渡所」などとの連絡用のものだったとする解釈だ。同荷物引渡所は、初代・橋上駅が完成したのちに金久保沢へ設置されているようだ。コンクリート階段は、1928年(昭和3)に2代目・橋上駅が竣工すると、駅舎内へのエレベーター設置などで早々に使われなくなり、駅舎内にあった階段の降り口も閉じられた可能性があるという。建築力学的にみても、わたしは目白橋の西端を支えているコンクリート階段は、撤去したくても撤去できない、橋梁を支える構造の一部になっているのではないかと想像しているのだけれど、それはまた、別の物語……。

◆写真上:金久保沢の谷間に残る、3代目・目白駅(初代・橋上駅)のものとみられるコンクリート階段。論文では乗降客用の階段ではなく、旧駅前の「目白駅荷物引渡所」などと駅職員の連絡用に設置された駅舎内の業務用階段と想定されている。
◆写真中上上左は、1925年(大正14)作成の「大日本職業別明細図」にみる3代目・目白駅(初代・橋上駅)。上右は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる同駅。は、1929年(昭和4)に目白橋上から撮影された4代目・目白駅(2代目・橋上駅)。
◆写真中下は、1922年(大正11)に竣工した3代目・目白駅(初代・橋上駅)と平面図。は、1928年(昭和3)に竣工した4代目・目白駅(2代目・橋上駅)と平面図。いちばん上の3代目・目白駅(初代・橋上駅)の写真を除き、平岡氏の研究論文付属の写真より。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる4代目・目白駅(2代目・橋上駅)。は、1962年(昭和37)の大改修が行われた翌年の5代目・目白駅(3代目・橋上駅)。この大改修をカウントすると、現在の駅舎は6代目・目白駅(4代目・橋上駅)となる。

交流や連携がなさそうな住民互助会。

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 以前、下落合2丁目(現・下落合3~4丁目界隈)の住民互助組織である、同志会Click!についてご紹介をしている。1939年(昭和14)4月30日に、戦時体制下で新たに結成された下落合の各町会へと吸収される同会だが、同志会のエリアに隣接した地域にも、プレ町会と呼ぶべき同じような住民互助組織がいくつか存在していた。
 同志会エリアの東側に接する、下落合1丁目(現・下落合1~3丁目界隈)には「一睦会」が、同じく下落合1丁目の近衛町Click!を中心に「新田丸山協和会」と名づけられた組織が結成されている。下落合1丁目の中に、住民組織がふたつ存在するのはおかしいが、下落合地域へ正式に「丁目」表記が導入される以前、すなわち大正期から結成されていた組織なのだろう。以前の記事では、一睦会の会員だった21戸の家々が集団で同会を脱退し、隣接する同志会への入会を希望している出来事をご紹介した。
 一睦会からの集団脱会騒動は、1931年(昭和6)6月3日の同志会役員会例会(出席者20名)で報告されている。同会では対応に苦慮しているのだろう、一応受け入れはするものの同志会内での“分派活動”は許さない……というような確認をとっている様子がうかがえる。以下、1939年(昭和14)に出版された、『同志会誌』Click!(下落合同志会編)から引用してみよう。
  
 二、一丁目の一睦会員二十一名入会の件、会長の報告の通り承認同志会内に一睦会を作るのは本会の和協親睦の趣旨に背く懸念もあるから、町会発展の為一致尽力されたいと懇請したところ一睦会員もこれを諒として賛成本会に入会したのである。
  
 この一文からも感じとれるが、近隣に存在する住民互助組織がお互い緊密に連絡を取り合って、連携しながら町内事業にあたり行事を実施していたというよりも、お互い同士が不干渉で、あたかも“縄張り”を設定しているかのような感覚で活動していたのではないかとみられるフシがある。それは、江戸時代からつづく(城)下町Click!の、いわゆる町内会とはだいぶ様子が異なる乃手の特質だと思われる。
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 たとえば、1912年(明治45)に発足している同志会は、いまだ落合村の村落共同体や田畑の展開、地主としての所有地の拡がりを基準に、活動エリアや同会への参加呼びかけを行なっているとみられ、その後にできた新興住宅地における住民互助組織は、落合府営住宅Click!目白文化村Click!、近衛町といったディベロッパーによる開発の経緯やエリアを基準にして結成・活動しているように思える。
 住民互助組織同士が、お互いにほとんど交流や連携がなかった事例として、1937年(昭和12)6月の出来事が挙げられる。同年6月8日の夜、下落合1丁目の新田丸山協和会が町内をあげての“お祭り騒ぎ”を演じ、そのエリア内を大規模な提灯行列Click!がめぐっているにもかかわらず、隣接する同志会では別になんの行事や活動もなされてはおらず、同会日誌にも特に記録されていない。むしろ日誌では、5月20日の理事会記録のあと、6月10日の評議委員会までの間は空白で、6月8日の項目は飛ばされて記載さえ存在しない。同じ下落合の町内なのにもかかわらず、まるで別世界のような趣きなのだ。
 1937年(昭和12)6月4日、近衛文麿Click!は林銑十郎内閣がわずか3ヶ月で瓦解したあとの首班指名を受け、第1次近衛内閣を組閣しはじめている。6月8日の夜、久しぶりに下落合436番地の近衛新邸にもどった近衛文麿を迎え、下落合1丁目の地元である新田丸山協和会では祝賀会を開催しているのだ。目白福音教会Click!目白英語学校Click!前に集合した、新田丸山協和会のメンバーたちは、近衛町の近衛新邸まで提灯行列を実施している。
 翌6月9日発行の、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
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 首相を別邸に迎へ/“近衛町”に歓声爆発
 ゆうべ祝賀提燈行列/人気は此処にも

 近衛首相の別邸のある地元町会――淀橋区下落合一丁目の新田丸山協和会では落合青年団第一支部、郷軍落合分会第四班と共同で八日夜町を挙げての歓びの大提燈行列を行つた、町民約一千名は午後七時同別邸近くの目白英語学校前に集合、喇叭鼓隊を先頭に手に手に提燈を掲げて祝賀行進、さすが「近衛町」で通つてゐる町だけに近衛さんの人気は大変なもの 老いも若きも町内総出の形で威勢よく同別邸へ繰込み萬歳の歓呼、この日午後五時すぎこの別邸に帰つて母堂や令弟水谷川忠麿男夫妻と夕食を共にした近衛さんは早速水谷川男、来合せた秀麿子夫人、令嬢、大山柏公令嬢たちと共に玄関にあの長身の和服姿を現し町の人達に答へたが余りの熱狂振りに近衛さんも少々面喰つた形、それでも一々会釈するなど当夜の近衛さんはなかなかの上機嫌だつた 約十五分間も同邸内はまるで提燈の渦を巻き身動きも出来ぬ位に埋め尽されたが公爵家お振舞ひの包み菓子と四斗樽を土産に八時頃引揚げた、町の誇りとばかり「近衛町」始まつて以来の賑はひだつたらう
  
 ここで、近衛新邸が「別邸」とされているけれど、これは同年に近衛文麿が購入している荻窪の荻外荘Click!を「本邸」と解釈していた記者の誤認だと思われる。近衛自身の位置づけでは、下落合の近衛新邸が本邸であり、荻外荘が別邸のつもりだったようだ。
 水谷川忠麿は、水谷川家へ養子に入った近衛文麿の弟のひとりで、秀麿は近衛新邸の別棟に住んでいた近衛秀麿Click!、大山柏は文麿の妹婿のことだ。「公爵家お振舞ひの包み菓子と四斗樽」の土産とあるので、近衛の帰邸は少し前から予定され準備されていたのだろう。近衛邸出入りの和菓子屋も、にわかに“近衛景気”でわいたかもしれない。
 これだけ大騒ぎを演じている、下落合1丁目の新田丸山協和会のすぐ隣りにあたる同志会では、その様子がただの1行も記録されていないのだ。町内で祝事の催しがあれば、提灯行列のコースとともに必ず詳しく記載している『同志会誌』なのだが、東隣りで行われた大規模な祝賀行事と提灯行列は、完全に無視するかたちになっている。同じ下落合の町内であるにもかかわらず、どこか冷ややかな空気が感じられる住民互助組織同士なのだ。
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 近衛町を中心とした住民が数多く参加していたのだろう、地元の新田丸山協和会をあげての祝賀行事からわずか8年もたたぬうち、1945年(昭和20)4月13日と5月25日につづけて行われた山手空襲Click!により、近衛町の大半が焦土と化し、やがて大日本帝国が破滅することなど、提灯を手に熱狂していた会員たちは想像だにしえなかったにちがいない。

◆写真上:1937年(昭和12)6月8日の夜、下落合1丁目の新田丸山協和会が主催する祝賀会で下落合436番地の近衛新邸に姿を見せた近衛文麿。
◆写真中上は、新田丸山協和会のメンバーたちが提灯を手に繰りこんでいった近衛新邸へとつづく門跡の現状。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる近衛新邸。ここでも「別宅」と記載されており、すでに世間的には荻窪の「荻外荘」が本邸と認識されていた様子がうかがえる。
◆写真中下は、1937年(昭和12)6月9日に発行された東京朝日新聞に掲載の祝賀会記事。は、新田丸山協和会が主催した提灯行列のコース。
◆写真下は、提灯行列の新田丸山協和会メンバーが集合した目白福音教会の目白英語学校。は、旧・目白英語学校の跡地に建つ目白教会の現状。

大震災まで賑わった両国広小路。

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 久しぶりに、日本橋界隈のことについて書きたくなった。東日本橋に、いまだ江戸期と同様の日本橋米沢町や薬研堀町、若松町というような町名が残り、薬研堀不動Click!を中心に界隈が通称「薬研堀」Click!あるいは両国橋の西詰めだから「西両国」などと呼ばれていたころ、千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)は神田川に架かる浅草御門(見附)跡(現・浅草橋)の南詰めに建っていた。明治の中ごろの、いまだ日本橋女学館が創立される以前の様子を記録した、めずらしい資料を見つけたのでご紹介したい。
 資料は、日本橋区側(現・中央区の一部)の記録ではなく浅草区側(現・台東区の一部)のもので、台東区芸術・歴史協会が地付きの古老たちに取材してまとめたものだ。明治・大正・昭和と、およそ三代にわたる記録を集めている。その中に、浅草区須賀町(現・蔵前1丁目)にあった袋物(男性向けオシャレ道具の専門店)を扱う、丸嘉商店に勤務していた人物の証言が載っている。袋物屋は、江戸期には大名や大旗本、札差などのおカネ持ちを相手にする高級品商売で、明治維新後の西洋化政策で一時はすたれていたが、明治末から大正期にかけてリバイバルブームが起こり江戸期以来、再び隆盛をみている。
 明治期の袋物屋は、男性向けの高級品ばかりでなく、女性向けの商品も扱っていたので、江戸期に比べて顧客層が大きく拡がっていた。丸嘉商店は、須賀町で商売の地盤を固めると、さっそく両国橋の西詰め=薬研堀界隈へ進出している。その様子を、1999年(平成11)に出版された『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』(台東区芸術・歴史協会)から引用してみよう。ちなみに、タイトルの下谷・浅草とは下谷区と浅草区、つまり今日の台東区のエリアをさしている。
  
 最初、店を浅草区須賀町に構えましたが、大層の儲けを出しました。繁昌の原因は、袋物ばかりでなく、貴金属や時計、もう、男性専門なんてかたいことは捨てて、丸利の方針の、何でも飛び抜けて上等物を揃えたのが受けたのです。明治三十二年、日本橋区若松町通称薬研堀に、土蔵造りの店舗を設け移転しました。豪華な建物でしたよ。/内部は三階、屋根裏に上棟明治三十二年棟領清水喜兵衛と書いた木札が上っていました。清水喜兵衛は、のちに清水組、現在の清水建設を造った人ですわ。大正六年、私が小僧に住みこんだ頃は、第一次世界大戦の影響で、大小の成金が輩出し、店の方も好景気でした。袋物までもリバイバルブームで、財界人たちに腰差煙草入れが流行し、一二,五〇〇円もする煙草入れが売れるという有様でした。現代なら一千万円以上でしょう。
  
 ここで面白いは、蔵前で成功した商家が、いまだ銀座ではなく江戸期と同様に柳橋や神田川の南側、つまり両国広小路Click!沿いの薬研堀界隈に拠点を移して進出していることだ。江戸期最大の繁華街だった両国橋の西詰めが、いまだ関東震災Click!以前の大正期にも、かなりな賑わいを見せていた様子がうかがえる。そして、祖父母から聞いていたのだろう、うちの親父も口にしていたことだが、「銀座は地震がおっかなくて、多くの大手商家が進出をためらっていた」という伝承につながってくる。
 当時の銀座に建っていた多くの商業ビルは、いまだ明治期の東京市肝煎りによる、対外的な体裁を重視したレンガ街のままだった。江戸期から、数多くの地震を経験していた地付きの商家や商人たちは、レンガを積み上げただけの四角いビルが震動に耐えられそうもないことを、肌で理解していたにちがいない。つづけて、同資料から引用してみよう。
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 関東大震災以降、この店は、銀座七丁目に進出しました。それ以前は、薬研堀です。薬研堀を選んだのは、銀座が東京市でレンガ造りの商店街として発足したが、地震でもあったら命がないというんで、入り手がなかったらしいんです。一方、薬研堀の方は、両国広小路に位置し、柳橋の三業地を控えた江戸の銀座といったところでした。その繁華は、大正十二年九月の大震災まで名残りをとどめていました。広場の名残りも、私が幼年時代まで両国広小路としてあったり、小学校二、三年では、広小路に両国公園ができたり、柳橋が鉄橋になったり、だいぶ様相が変ったのですが、柳橋が鉄橋になった時、おやじが「何て無粋な橋にしたんだろ」と憤慨していました。
  
 関東大震災では事実、銀座に残っていたレンガ造りの建物は倒壊し、多くの人々が生き埋めClick!になった。だが、より被害を大きくしたのは、昼食時だったためにあちこちから出火した火災だった。もうひとつ、浅草の凌雲閣(十二階)Click!が大正期に入ると人々の関心を惹かなくなり、地震への心配もあったのだろう、「早晩何とか始末しなければ」というような話も地元で出ていたらしい。明治の後半になって、人々が地震への心配を意識しはじめていたのは、1894年(明治27)に起きた明治東京大地震Click!によるものだろう。
 当時の薬研堀不動は、現在地とは異なった場所にあるが、その前の通りは「薬研堀センター」と呼ばれていた。そして、通り沿いには証言者が勤める丸嘉商店をはじめ、同業の高級品ばかりを扱う壺屋、汁粉の梅園、象牙の扇屋、高級レストランの芳梅亭、寄席の立花亭、活動写真の第七福宝館、大川(隅田川)に面しては料亭の福井楼、生稲、大常盤などが並んでいた。この街並みの様子は、同じエリアにあった“いろは牛肉店”第八支店(牛鍋屋)の息子、木村荘八Click!が手描きマップClick!で記録している。そして、神田川に架かる柳橋Click!をわたるとすぐに、江戸東京を代表する花柳界Click!があるという点でも、両国橋西詰めの広小路一帯は繁華街として有利な条件を備えていた。
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 余談だけれど、最近の街歩きの本や雑誌で、「江戸の名残りをとどめた新橋の花柳界」とか「江戸情緒が香る神楽坂」とか、史的事実をあまりに無視したひどいキャッチフレーズが目につくので、ちょっと書いておきたい。新橋や赤坂に花柳界が形成されたのは、明治中期以降だし(大名屋敷街や旗本屋敷街になんで花街があるのだ?)、神楽坂の賑わいは、大震災の混乱が収まりはじめ(城)下町Click!にあった芸者屋や料亭、待合の一部が山手へ避難してきた、大正末から昭和期に入ってからだ。以前にも、時代表現Click!について書いたけれど、誤解を招くような表現はできればやめてほしい。
 同書から、上記の花柳界について触れている箇所を引用しておこう。
  
 柳橋花柳界の繁盛したのは、江戸の後半だったでしょうか。明治になっては、新橋花柳界が次第に優勢になった。柳橋芸者は伝統的に江戸芸能にきたえられた、文字通りの芸者。しかるに明治の政財界の紳士たちは、ほとんどがよそもの。だからといって、柳橋がお高くとまっていたのでもあるまいが、客の方が位負けして面白くない。自然、新橋が繁盛しちゃったわけだと、花柳界筋から私はききました。
  
 また、別の方の証言で、柳橋のある浅草御門(見附)の内側から、越境入学で日本橋側の千代田小学校へ登校していた人物の証言も掲載されている。
  
 明治三十四年七月、馬喰町で生まれて、柳橋へは明治三十七、八年頃移りました。小学校は千代田小学校で、現在の日本橋女学館のところ。今でいう越境で、柳橋から橋を一つ越えて通ったもんです。今の浅草橋のところの消防署は当時の場所と変らず、その頃は馬力の消防車でした。柳橋界隈の家並みは、一戸建ての妾宅や待合、芸者屋、まれに商売をしている家がありました。待合は二十軒位あったろうか。隅田川には、うちのすぐそばから今の両国駅の前にかけて、富士見の渡しというのがあったんです。
  
 ちなみに、現在の千代田区立千代田小学校は1993年(平成5)にできた新しい学校で、それまで千代田小学校といえば、古老たちが通った浅草御門(浅草橋)南詰めの学校か、移転後に現在の日本橋中学校の敷地に建っていた同校のことだ。だから、千代田区の新しくできた小学校は、正確には2代目・千代田小学校ということになる。また、親父が通っていたころの千代田小学校は、とうに現在の日本橋中学校の位置に移転したあとのことで、関東大震災の教訓から、独特な耐火仕様の校舎に建て替えられていた。
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 『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』で証言をする方々は、かなり勉強ができて裕福な商家の出身であっても、親が上級の学校へ進学するのを許さなかったようだ。「藤村操をみなさい!」という親たちが多かったらしく、学問をさせるとロクなことがないというのが、当時の親たちに共通した認識だったらしい。藤村操Click!は1903年(明治36)に、「人生不可解」と書き残して華厳滝へ飛びこんでいる。時代がやや下るとはいえ、大学への進学を許す祖父母がいた親父は、かなり恵まれた家庭だったかもしれない。

◆写真上:江戸期とは位置が異なる、現在の両国広小路から大橋(両国橋)。
◆写真中上は、夕闇に包まれた現在の柳橋。下左は、1907年(明治40)ごろに撮影された柳橋で右手に見えているのが料亭「亀清楼」Click!下右は、大正初期の柳橋で北詰めから南の日本橋側を向いて撮影していると思われる。
◆写真中下は、柳橋で営業をつづける小松屋。子どものころから屋形遊びといえば、小松屋の舟が多かった。は、柳橋から神田川のひとつ上手に架かる浅草橋の眺めで左側にあるビルが日本橋女学館。は、1890年(明治23)ごろに撮影された浅草橋。いまだ橋のたもとに広場が残り、浅草御門(浅草見附)の跡を色濃く残しているのがわかる。
◆写真下は、いまやビルにはさまれてしまった薬研堀不動。関東大震災で焼け、東京大空襲でも焼けて現在地に落ち着いた。下左は、1918年(大正7)ごろ撮影の凌雲閣(十二階)から眺めた大池。下右は、1981年(昭和56)に行われた凌雲閣跡の発掘調査。

四谷見附のヒソヒソ話は聞こえるか?

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 ときどき、近くに新宿歴史博物館Click!雙葉学園Click!佐伯祐三一家の墓Click!がある四ッ谷駅には出かけるのだが、四ッ谷駅のある外濠の四谷御門(四谷見附)から牛込御門(牛込見附)にかけての周辺は、芝居に多く取りあげられた物語の宝庫でもある。
 以前、こちらでもご紹介したけれど、日本橋小伝馬町にあった牢屋敷の様子を詳しく取材した、黙阿弥Click!の『四千両小判梅葉(しせんりょう・こばんのうめのは)』(通称:「四千両」Click!)の主人公、浪人・藤岡藤十郎と野州無宿の富蔵が出会うのも、四谷見附外に富蔵が出していた屋台見世の“おでん屋”だった。千代田城・内濠の北拮橋門(現在の東京近美斜向かい)近くの塀から城内へ侵入し、幕府の金蔵に忍びこんで二千両箱をふたつ盗みだすという、当時の幕府や江戸市民が呆気にとられた実話の犯罪を主題にしている。
 河竹黙阿弥は、よほどこの盗賊事件が小気味よくて気に入ったものか、「四千両」以前に『花街模様薊色縫(さともよう・あざみのいろぬい)』(通称:「十六夜清心」)でも、同事件の筋立てをとり入れている。もっとも、幕末に初演された舞台では、大っぴらに大江戸Click!で起きた事件として描くことができず、時代を鎌倉幕府に置きかえて描いているが、さっそく幕府からの弾圧を受けて早々に上演禁止へと追いこまれている。
 実際の幕府金蔵破り事件は、1855年(安政2)3月6日(旧暦)の夜に起きている。では、その様子を藤川整斎が記録した『安政雑記』から引用してみよう。
  
 都合五度程忍入 三月十三日夜小判弐千両箱壱ツ盗取 富蔵壱人ニ而持出し 土塀を乗越 藤十郎者外ニ相待居 富蔵者御金蔵之御〆り錠前復掛りを失念致 帰り候而 猶叉壱人忍入 叉候弐千両箱壱ツ盗取 是者藤十郎江隠し 土中江埋置 最初盗取候弐千両を富蔵義千百両 藤十郎江九百両配分いたし 跡にて盗取弐千両者富蔵壱人ニ而取候由 然ル所今月廿六日 両定廻り打込ニ而同人宅江踏込被召捕
  
 結局、藤岡藤十郎と富蔵は捕縛されてしまうのだけれど、最初に盗んだ二千両箱を山分けする際、無宿の富蔵が1,100両を取り武家の藤十郎が900両というのも、ふたりの力関係を表していて面白い。その後、おそらく藤十郎側が富蔵へねじこんだのだろう、富蔵が1,265両で藤十郎が1,735両と、3,000両まで山分けしたところで捕縛されている。
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 芝居「四千両」でも、富蔵は図太くてずる賢い性格をしているが、藤十郎は小心で臆病な武家として描かれている。ふたりの犯行が簡単にバレたのは、オバカな富蔵が千代田城の金蔵破りの話を、あちこちで自慢げに吹聴してまわったからだ。
 戦前における「四千両」の舞台は、6代目・尾上菊五郎の富蔵と初代・中村吉右衛門の藤十郎が当たり役だった。でも、黙阿弥は当初、5代目・尾上菊五郎と7代目・市川団蔵のために、同作を1885年(明治18)に書き下ろしている。すでに徳川幕府は崩壊していたので、舞台や時代を鎌倉へ移す必要はなく、事件に関わった人物たちもみんな実名で登場している。1953年(昭和28)に白水社から出版された、戸板康『芝居名所一幕見』から引用してみよう。
  
 この「四千両」の主題は、安政二年にあつた将軍家の御金蔵破りである。黙阿弥の「十六夜清心」の中にも、それとなくほのめかしてあるが、何しろ千代田城の堅固な警備を破って、二千両箱二つを運び出したのだから、非常なセンセーションを起こした事件であつたことも、想像される。/あくまで図太い富蔵と、小心の藤十郎と、この対照的な二人の性格が、菊五郎、吉右衛門にピタリと合つて、書き下しの五代目菊五郎、先代団蔵の顔合せより、更に妙であつたと、古老は語つてゐたものである。
  
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 さて、炭谷太郎様Click!より先年、『役者』という刑部人Click!の小品画像をお送りいただいていた。描かれているのは、大正末から昭和初期にかけ6代目・尾上菊五郎とともに「菊吉時代」を築いた、おそらく初代・中村吉右衛門の顔だ。芝居好きで、ことに初代・吉右衛門の贔屓Click!だったという刑部人が、いまだ東京美術学校Click!へ入学する前に描いた、おそらく16~17歳ごろの作品とのことで、4号Fサイズの板に描かれている。
 この顔は、初代・吉右衛門がなんの役を演じたときのものだろう。総髪の武家らしいかつらなので、『天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)』(通称:「河内山と直侍」Click!)の、片岡直次郎Click!でも演じた際のものだろうか。板に描かれた『役者』の裏面には、刑部人の12歳年下である4~5歳ぐらいの妹、すなわち炭谷様の幼いお母様の肖像画が描かれている。
 「四千両」の舞台の背には、中央線の敷設によって外濠の石垣または土塁Click!が崩されているので、書割(かきわり)には半蔵門から桜田門あたりの情景が採用されることが多い。幕末の四谷見附外は、甲州街道や青梅街道へと向かう繁華な道筋になっていたと思われ、おでんにかん酒を売る富蔵は、日が暮れて人通りが少なくなったところで、あたりをはばかりながら藤十郎へヒソヒソと、御金蔵破りの相談を持ちかけている。
 現在の四ッ谷駅周辺は、新宿通りと外濠通りが交差する、とんでもなく賑やかなビジネス街または学園街となっているので、夜間でも路上でのヒソヒソ話は困難だろう。かん酒を飲ませるおでんの屋台は、いまでも四ツ谷駅のどこかに見世を出しているのだろうか。
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 かろうじて、当時の面影を感じさせてくれるのは、四谷御門(見附)から市ヶ谷御門(見附)、さらに牛込御門(見附)へと線路沿いの土手上につづく、細長い遊歩道だろうか。でも、千代田城の石垣あるいは土塁は、中央線の上にまで張り出していたはずだから、この遊歩道からの眺望も、やはり江戸期の眺めとは大きく異なっているのだろう。

◆写真上:石垣がかろうじて残る、現在の四谷見附(四谷御門)跡。
◆写真中上上左は、1913年(大正2)に竣工した四ッ谷駅前の四谷見附橋。上右は、千代田城の金蔵破りが記録された藤川整斎『安政雑記』。は、戦後すぐの1950年(昭和25)ごろに撮影された四谷見附跡。中央線の土手沿いに見えている建物は、左から右へ雙葉学園、四谷消防署、そして麹町聖イグナチオ教会。
◆写真中下は、『四千両小判梅葉』の舞台で初代・中村吉右衛門の藤十郎(右)と6代目・尾上菊五郎の富蔵(左)。は、同舞台の菊吉コンビによるブロマイド。
◆写真下は、東京美術学校の入学前に描かれたとみられる刑部人『役者』(おそらく初代・中村吉右衛門像)。下左は、初代・中村吉右衛門のブロマイド(幡随院長兵衛)。下右は、外濠の石垣または土塁が崩されたあとに設置された四ツ谷駅ホーム。

横手貞美のリアルタイムな佐伯証言。(上)

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中井駅の大谷石.JPG
 1927年(昭和2)の7月現在、画家をめざしてフランス留学をひかえていた横手貞美は、上落合に住んでいた。1919年(大正8)に長崎から東京へやってきて、岡田三郎助Click!の本郷洋画研究所などで学びながら東京美術学校Click!をめざしたが、健康診断で結核の既往症がひっかかって入学できなかった。その後、長崎へもどって地元で友人たちとともに展覧会などを開催しているが、1927年(昭和2)に再び東京へとやってきたようだ。
 横手貞美がいた上落合の住所は不明だが、彼の家系はもともと大分の出身なので、誰かの紹介から吉武東里Click!など大分県人が多く集まって住んでいた、上落合の大きな野々村邸Click!(現・落合第二小学校)界隈だったのかもしれない。長崎で結成した絵画同人「3人社」も、全員が大分出身者のメンバーだったことから、横手貞美と大分がらみの関係は深く、おそらく父親の人脈もかなり重なっているのではないだろうか。
 上落合に住んでいたころの様子を、洋画家・栢森義の証言から聞いてみよう。2007年(平成19)に郁朋社から出版された、尼子かずみ『沈黙のしずく 画家・横手貞美の生涯』に所収の、1931年(昭和6)に書かれた栢森義「本郷時代の横手君」より。
  
 渡欧すると云ふ一ヶ月程前たしか七月、上落合の同君の家で話し合つたのが最終であつた 『ビールを餘りやつた為腹がこんなになつた』と云つて大きく膨れた腹を見せた、それが愉快だつたのでよく記憶してゐる、それ以来四五年もう帰つて来るだろうと待つてゐたが、とうとう鉄砲弾の様に行つたきりになつてしまつた。(中略) ある夏、僕の下宿の六畳でモデルを雇ふて各自三十号を描いたことがあつた。それが寝ているポーズで各々隅と隅とに離れて暑くても障子を閉めて描いた、暑くて暑くて、休みの時モデルがうつかり廊下の窓を開けた、所が後で下宿の小母さんにひどく二人がやつゝけられた、それはモデルが不用意にも隠蔽するのを忘れ近所の人達に見られて小母さんの顔にかかはつたと云ふ理由である。その時は中途でモデルが来なかつたりして足繁く宮崎Click!(モデル屋)へ行つたことを思出す。
  
 「鉄砲弾の様に行つたきり」と書いているのは、横手貞美は佐伯祐三Click!がフランスで客死した3年後、同様にフランスへ滞在したまま結核のために入院先で死去しているからだ。上落合に住んでいながら、横手は佐伯アトリエを一度も訪ねてはいないが、本郷洋画研究所以来の友人だった荻須高徳Click!や山口長男などを通じて、前年に二科賞を受賞Click!したばかりの滞仏経験がある佐伯の情報は仕入れていただろう。荻須と山口は渡仏前に佐伯アトリエを訪ねて、いろいろなアドバイスを受けている。
 横手貞美と荻須、山口、そして大橋了介は、2万2千トンの大型郵船「アトース号」の船上でいっしょになる。ひと足先に、シベリア鉄道経由で二度目の渡仏をした佐伯祐三とは、パリの停車場で落ち合うことになっていたが、手紙の行きちがいで4人は佐伯と出会えなかった。佐伯はパリの住まいを変えたばかりで、その転居先を伝える手紙が荻須とは行きちがいでとどかなかったのだ。横手貞美の、1927年(昭和2)10月29日の日記から、初めて佐伯祐三に出会えたときの様子を、前掲書から引用してみよう。
落合町地形図1927.jpg
上落合の大谷石階段.jpg
  
 石井氏と佐伯氏が来てくれるやう電報をうったのだが、とにかく十一時頃まで待って見やうと山口君が云ふので、それではさうしやうと待つことになったが、十二時になっても来ないのでホテルに行かうと云ふのでオギス君が石河君から聞いて来たホテルに自動車で乗りつけたら、あいにく室がないと云ふので付近のホテルにとにかくおちついた。/ソルボンヌ大学の附近である。20 Rue de Sommerard Paris 5Yd=Hotel de la Soereである。案ずるより生むが安い(易い)ものだ、だが言葉がわからぬのは困る。午後から、かうして居てもしかたがないので、佐伯氏を荻須君がたずねたいと云ふので、それではと皆でタクシーで出かけたら、あいにく家うつりして居たので、ブラブラ歩いて絵具屋なんか、たくさんある通りを行つたら佐伯氏の出かけるところで会ったので大変にうれしい。/それでは、とにかくと云ふので、アトリエに行って見た。初めて会ふことが出来た人ではあるが大変に心(親)切に色々教へてくれた。そして宿まで来てくれていろいろ下に聞いてくれた。大して高くないから一週間位だったらいいだろうと云って居た。それから又歩いて散々つかれた。ノートルダムも見た。セーヌ河も見た。食事の安いところを教わりそして夕方わかれた。大変にうれしい。
  
 このあと、横手はほかの3人とともに佐伯祐三の制作活動に密着して、パリでの生活をスタートしている。横手は、長崎にいる兄の横手貞護から送られてくる多めの仕送りがあり、生活に困窮することはなかった。兄の貞護とは、ときどき手紙のやり取りを通じて、身のまわりで起きたパリでの出来事を報告している。その中に、少しずつ精神状態がおかしくなっていく、佐伯祐三の様子を記した手紙が残っている。
佐伯から荻須手紙19271028.jpg
佐伯祐三1928.jpg
 佐伯祐三が病院で死去する2ヶ月ほど前、1928年(昭和3)6月27日付けで兄・貞護にあてた手紙が残っている。再び尼子かずみ『沈黙のしずく 画家・横手貞美の生涯』から、少し長いが引用してみよう。原文には、行替え記号の「/」が多用されているが、非常に読みにくいので同書の行替え部分にのみ、「/」記号を付加している。
  
 それから丁度其の時、佐伯君が病気になり、それがやっぱり肺をおかされて、此の半月程前からホトンド発狂し四五日前にたうたう脳病院に入れてしまいました、一度は四人の友人が見はりして居たのに一寸したすきに午前五時頃家を飛び出して行衛を探すのに一日かかりましたなど大変でした、身体衰弱の為プローンニュ(ブローニュ)の町でたほれたのを警察に収されて居たのでした、何でも自殺の目的で家を出たらしくポケットに細ビキを買って居ました、その翌々日にたうたう病院に入れたわけです、/病気原因も無理な勉強と肺病と医者に云われるのをおそれた為に自分で勝手な薬をのむで居たりして、医者に見(ママ)てもらうのがおくれたためと思ひます、かうなると身体の大切なことをつくづくと感じます、日本の医師は少し汽車にでも乗れるやうになったら、どんどん日本へ帰すやうにと云って居るさうです。巴里に居る人のほとんどがせっかく来たのだからと無理をするのがいけないらしく、私もこれで少し考えをかへ、身体だけは大切にして勉強をするつもりです、発狂の原因は非常に死をおそれて二週間程前から自分で何時には死ぬからと云って夫人に遺言を二度も三度もしたりして居ましたが、それがたうたう自殺をやりたがるやうになったのです、何しろ大変でした。最近は何か一人で何か問答してしゃべって居て時々大声を発して、あばれて居ました。夫人と子供が気毒と思ひます、(僕もし肺でもわるくなったらドンドン帰ります、) それやこれやの為、最近一ヶ月ホトンド絵も描けず弱りました、
  
 横手は佐伯の死を結核ではなく、当初から死を怖れるあまりの「発狂」による錯乱だとハッキリとらえている。また、クラマール(横手はブローニュと記載)の森での自殺未遂も、そのまま事実として記載している。のちに日本へともどって証言した画家仲間たちが、遺族たちの心境を考慮して死因を「結核」と証言し、また自殺未遂の事件はなかったことにして、佐伯の入院したのが「精神病院」であったことをひた隠しにしたが(おそらく帰国前に善意の口裏あわせが行われたのだろう)、横手は手紙や日記などへほぼリアルタイムで書きとめているため、そのような気づかいをする必要がまったくなかったのだ。
モラン(横手・佐伯).jpg
モラン(横手).jpg 横手貞美.jpg
 横手貞美は、フランスで結核が再発したら「ドンドン帰ります」と兄あてに書いているが、それにもかかわらず二度と日本の土を踏むことができなかった。当時の多くの画家が感じていたように、一度帰国してしまうと次にいつフランスを再訪できるかわからない、「あと少し、あと少し……」という思いが横手の病状を手遅れにし、帰国する機会を逃してしまったものだろうか。
                                   <つづく>

◆写真上:中井駅に残る、西武線の開業当時にプラットフォームに使われた大谷石。下落合駅Click!にも残るが、横手貞美は上落合から同線を利用しただろう。
◆写真中上は、横手貞美が住んでいたのと同時期に作成された1927年(昭和2)の「落合町地形図」のうちの上落合エリア。は、大正末から昭和初期にかけて開発された上落合の住宅街に残る大谷石の階段と敷地縁石。
◆写真中下は、荻須高徳にとどかずパリ到着時にはすれちがいとなった佐伯祐三の転居通知。は、モラン丘陵でのおかしな佐伯祐三。
◆写真下は、1928年(昭和3)2月のモランで『モランの寺』を制作中の佐伯祐三(右)と娘の彌智子(中)、左端でイーゼルを立てているのが横手貞美。下左は、横手貞美の拡大写真。下右は、モランの丘陵を佐伯たちと散歩する横手貞美。

横手貞美のリアルタイムな佐伯証言。(下)

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上落合の散歩道.JPG
 横手貞美Click!の証言が特に貴重なのは、フランスにおける佐伯祐三Click!の様子をリアルタイムで報告しているからだ。のちに“思い出”として、薄れつつある遠い記憶の中から手繰り寄せた、多少の思い入れや思いちがい、粉飾や結果論などが混じりやすい証言ではなく、自身も佐伯の死から3年後にフランスで死去してしまうため、当時の様子をリアルタイムで、あるいは記憶がまだ鮮やかなうちに書きとめている文章ばかりだからだ。
 同時に、佐伯祐三とはかなり親密というわけではなく、たまたま渡仏の時期にパリにいた佐伯といっしょになって、短い期間を郊外写生に同行したり、アトリエを訪ねたりしているにすぎない。したがって、佐伯の人物像をことさら顕彰する必要も、また師弟関係あるいは画会の会員や同人、作品応募者といった義理やよしみ、利害などの関係も存在せず、記述内容や表現に気をつかう必要がない立場にいたからだ。
 さらに、横手の証言類は出版を前提とする“公”の文章ではなく、すべてが兄あての手紙あるいは日記がわりに使ったスケッチブックに書きとめられたものであり、そこに粉飾や虚栄が入りこむ余地が少ないことも挙げられる。
 横手貞美は、佐伯祐三と娘の彌智子の死を見送ったあと、自身も少しずつ健康を害していく。「僕もし肺でもわるくなったらドンドン帰ります」と、1928年(昭和3)6月27日の兄あての手紙に書いた横手だが、彼が再び日本へ帰ることはなかった。横手は病気が悪化するなかで、佐伯が少しずつ狂っていく様子をフラッシュバックのような悪夢で見ていたらしく、そのたびに憂鬱になり精神的に落ちこんでいたらしい。
 当時、フランスで横手貞美と行動をともにすることが多かった向井潤吉は、佐伯祐三が死んだ1928年(昭和3)の夏に見た横手の様子を、彼が死去した直後の1931年(昭和6)10月19日に記録している。同年に刊行された『故横手貞美滞欧遺作集(全)』所収の、向井潤吉「巴里で」に記された文章だが、2007年(平成19)に出版された尼子かずみ『沈黙のしずく 画家・横手貞美の生涯』(郁朋社)から孫引きしてみよう。
  
 昭和三年の夏、僕達はもう一人の友人を加へて南独逸からベルリンへ出て、更らに和蘭白耳義へと美術館巡礼に廻つたが約半月ほどのその旅行が終ろうとする或晩、佐伯氏のイヤな夢を見たと云つてすつかり憂鬱になつて了つたので励ますようにしてパリに帰つて見るとやつぱり佐伯氏は危篤の状態におかれて居た。そして間もなく逝去の報が吾々を驚かしたが旅の疲れの充分に癒えない矢先き、その看護と跡の用事に無理をしたらしく急にリウマチの痛さと重ねて顔面神経痛の苦しさを体験してしばらくはベトイユの方へ転地写生に赴いたりしたがその頃にはもうパリの街の魅力にとりつかれたような形で悶々とし乍らも結局はルユ、ダゲールのアトリエを動く事が出来なかつた。
  
 この文章から、佐伯祐三の「発狂」による錯乱と衰弱死が、横手へ大きな精神的打撃を与えていたのがわかる。それは、頼りにしていた同業の“先輩”を喪ったというよりも、自身も既往症のある不安定な体調であり、いつ佐伯と同じような境遇に陥るかわからない……という不安感のほうが、より大きかったように思える。向井潤吉の証言から、横手は佐伯や彌智子の急死後、軽い鬱状態になっていたようにも思える。
モラン(佐伯・横手).jpg
横手貞美「煉瓦の二階家」1930.jpg
 向井潤吉と横手は渡仏する直前、1927年(昭和2)の暮れに親しくなっているらしい。横手は佐伯と制作活動をともにすることで、自身の新しい表現を模索していったようだが、向井は佐伯のグループに加わることはなかった。この時期、横手貞美は兄の横手貞護あての手紙に、「佐伯氏がブラマンクから聞いた事を話してくれることが非常に為になる」と書いている。1972年(昭和47)に発行された「文藝春秋」3月号掲載の向井潤吉『佐伯祐三とその追随者』を、1980年(昭和55)に出版された朝日晃・編『近代画家研究資料 佐伯祐三Ⅲ』(東出版)から、少し長いが引用してみよう。
  
 当時の横手君は少しの風雨ぐらいは頓着せず、佐伯流に二十号をかついで写生に出るのが日課であり、行けば無理でも仕上げる程の覇気にみちていた。ひまな時は百貨店で買ってきた布を枠に張り、亜麻仁油と石鹸と亜鉛華を混ぜて煮た異臭の塗料で、せっせと下塗Click!をしていた。この方法も佐伯直伝であった。/私は食事をすますと、毎夜のようにモンパルナスの研究所へ、クロッキーの練習に通った。いつも後の壁を背にした高い床几を定席にしていたが、あるときふと気がつくと佐伯さんと隣り合わせており、それとなく手元をのぞくと、佐伯さんはモデルの方をいっさい見ずに、食い入るようににらんだスケッチ帖に、ただ三角や丸の線を引くことに熱中していた。言葉を忘れたようなその姿をみると、私も声をかける機会を失ってそのままになったが、すでにそのころは病状も大分悪化していたらしく、異常に神経をはりつめたその冷ややかな表情は、何ものも寄せつけない鬼気さえ感じたのである。私が見た佐伯さんの最後のであった。/佐伯さんが亡くなってからも、横手君の生活は変らず、制作は旺盛に進んで行った。
 「佐伯さんはね、描くときはライオンの如くうなるんだ」
 と自分でもその真似の声を出して意気軒昂たるものがあり、酔うと二人で肩を組んで深夜の町を呑み歩いた。
  
 佐伯が制作中に、ライオンのような唸り声を上げたというような証言は、このときの向井を通じた横手貞美の言葉にしか見えない。精神的に追い詰められた焦燥感、あるいはなんらかの強迫観念が無意識にそのような声を上げさせていたものだろうか。
佐伯祐三「モランの寺」1928.jpg 横手貞美「モランの教会」1928.jpg
横手貞美「自画像」1927.jpg 横手貞美と向井潤吉.jpg
 横手は佐伯のアトリエへと通い、キャンバスづくりから絵画表現まで、さまざまなことを習っていた様子がうかがえる。だが、モデルを前にしてスケッチブックに三角や丸しか描こうとはしなくなってしまった佐伯を、向井潤吉が目撃するようになったころから、横手も佐伯の異常には当然気がついていただろう。
 佐伯がベッドから抜けられなくなった1928年(昭和3)4月以降、横手は頻繁に彼のもとへ見舞いに訪れていたにちがいない。特に精神的な錯乱がひどくなった同年6月には、14区リュ・ド・ヴァンヴ5番地の佐伯アトリエに、パリへいっしょにやってきた荻須高徳や大橋了介、山口長男らとともに詰めて、佐伯が外へ彷徨い出ないよう見張り役もしている。佐伯が入院してしまうと、向井潤吉とともにドイツへ旅行していることは先述したが、パリへもどって早々に佐伯の死に遭遇し、同年8月18日にはペール・ラシェーズ墓地で行われた仮埋葬の葬儀に出席している。そのわずか12日後、今度は娘の彌智子Click!の死も看取っている。
 以前、ベッドで息絶えた彌智子の通夜の写真を何枚か拝見したことがある。花や人形に囲まれて、まるで眠っているように絶命している彌智子の姿だが、鬱の症状からか精神病院で食事を拒否してやせ細り衰弱死した、鬼気迫るまるで別人のような父親の死顔とは異なり、その表情は清潔で安らかだった。
 1931年(昭和6)の冬、フランスのサヴォア高原にあるトネー・オートヴィル療養所で、死の床についた横手貞美は、佐伯祐三や娘の彌智子のことを3首の短歌に詠んでいる。彼が療養所に持ちこんだ、日記がわりの小さなクロッキー帳に書きとめられたものだ。佐伯一家や仲間たちと出かけた、1928年(昭和3)2月のモランへの写生旅行で、おそらく横手は娘の彌智子と非常に仲よくなったものだろう。
  三年昔かの祐三の発狂も むべなるかなと思ひそめつも
  肺病みてパンテオンの宿に永眠(ねむ)りたる ヤチ子のことも思ひ出でつも
  白き花胸に散らして永眠りたる ヤチ子を思ふ寂しきかなや

 1931年(昭和6)3月21日に、横手は結核治療のために胸部切開手術を受けたあと、翌22日の未明に死亡している。享年31歳だった。
横手貞美「新聞雑貨店」1929.jpg 横手貞美「モンマルトル風景」1930.jpg
横手貞美「フランス革命記念祭の集い」1930.jpg
 1971年(昭和46)7月から9月にかけ、横手貞美の滞仏日記が長崎新聞に連載されている。彼の手紙類も含め、佐伯祐三が有名になった後世に“思い出”として語られたものではなく、佐伯の身近に寄り添い、その現場をリアルタイムで記録したという点でたいへん貴重だ。横手貞美については、今後も機会があれば、また紹介していきたい。

◆写真上:横手貞美が上落合のどこに住んだかは不明だが、おそらく付近を散歩しながら近所の風景をスケッチしていたのだろう。上落合の、神田川沿いにある散歩道。
◆写真中上は、モランのレストランで食事をともにする佐伯祐三(左)と横手貞美(右)。は、1930年(昭和5)に制作された横手貞美『煉瓦の二階家』。
◆写真中下上左は、1928年(昭和3)制作の佐伯祐三『モランの寺』。上右は、同時に描かれた横手貞美『モランの教会』。下左は、1927年(昭和2)におそらく上落合で制作の横手貞美『自画像』。下右は、滞欧中に撮影された横手貞美(左)と向井潤吉(右)。
◆写真下上左は、1929年(昭和4)制作の横手貞美『新聞雑貨店』。上右は、1930年(昭和5)に描かれた横手貞美『モンマルトル風景』。は、同年制作の横手貞美『フランス革命記念祭の集い』。当初は佐伯の色づかいや表現によく似ているが、佐伯の死後は徐々に横手貞美ならではのタッチや暖かみのある色づかいに変化してきているのがわかる。


中村彝が制作したオウムのフィギュア。

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中村彝アトリエ(アオギリ).JPG
 中村彝Click!の作品の中に、1918~1919年(大正7~8)に制作された庭の情景で、木々に鳥かごを吊るして描いている画面が3点ほど現存している。鳥かごの中には、わりと大きめな鳥が描かれており、グリーン系の絵具で塗られているのでインコかオウムのような様子をしている。では、中村彝は画面に描いたような、インコないしはオウムを飼っていたのだろうか?
 中村彝がメジロを飼育していたのは、1926年(大正15)に岩波書店から出版された『芸術の無限感』の書簡集の中でも触れられており、洲崎義郎Click!小熊虎之助Click!に宛てた手紙の近況報告に登場している。だから、わたしはメジロのほかにセキセイインコ、あるいはオウムも飼っていたのではないかと想定してきた。オウムについては、曾宮一念Click!によれば、中村彝が描いた『鸚鵡の籠』という作品の存在を、どこかの文章の中で読んだ記憶があったからだ。
 まず、前掲の『芸術の無限感』より、彝がメジロを飼いはじめたころの様子を、仙台市北三番町の小熊虎之助に宛てた、1917年(大正6)11月7日の手紙から引用してみよう。
  
 僕はこの頃は小鳥を飼つて居ます。毎日色々変つた小鳥が鳥籠の周囲へ遊びに来るのを見て居ると、実に愉快です。殊に同類の呼びかはす声が堪まらなくいゝ。昨今の霜で草花、ダーリア、コスモス、百日草等皆んなやられて了ひました。然しこれからの武蔵野はツルゲーネフの叙景の様に美しくなる。
  
 「同類の呼びかはす声」というのは、現在でも落合地域では非常に多いメジロのことで、木々の枝葉をせわしなくわたりながら、ジィジィジィチョチョチョチョというような地味な声で鳴き交わしている。庭木に鳥かごを吊るしていたので、きっと野生のメジロが籠の同鳥の鳴き声につられて寄ってきたのだろう。「ツルゲーネフの叙景」と書かれているのは、国木田独歩がロシア文学の描写をマネて1898年(明治31)に著わした『武蔵野』Click!のことだ。
 このあと1ヶ月半後の書簡でも、彝はメジロについて触れている。1917年(大正6)12月25日に新潟県の柏崎四ツ谷にいる、洲崎義郎宛てに書いた手紙から引用しよう。
  
 どうもよく御天気が続きますね。この頃は毎日、日なたぼつこです。近所に友人(一人)が引越して来たので、時々その絵を見たり目白の世話をしたりして暮らして居ます。東京の方は暮で大分忙し相ですが、こゝは相変らずです。只今お葉書を拝見致しました。ほんとに何時も筆不精で飛んだ御心配をかけて済みません。
  
 この年、近所に転居してきた「友人」とは誰だか不明だが、そろそろ目白通りの北側、下落合540番地に大久保作次郎Click!が、自宅とアトリエを建てて引っ越してくるころだ。だが、中村彝と大久保作次郎は、知り合いではあったかもしれないが、アトリエを行き来して作品を見せ合うほど親しかったかどうかは疑問だ。また、洋画も描く日本画家・夏目利政Click!が、近衛町Click!と呼ばれる以前に舟橋了助邸Click!の東並び(下落合436番地)に転居してくるのもこのころかもしれないが、彝と親しかったという証言は見かけない。
 ひょっとすると、翌年に東京美術学校への入学を控えた二瓶等Click!が、「目白バルビゾン」Click!と呼ばれていた当時の下落合で借家住まいでもして彝を訪ね、顔見知りの関係になっていたものだろうか。二瓶は間もなく、下落合584番地に豪華な自邸+アトリエを建てて暮らしはじめている。
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鳥かご拡大1.jpg
 さて、中村彝が庭の木に吊るして描いた、鳥籠作品を見ていこう。いずれの鳥かごにも、メジロらしい鳥の姿は描かれておらず、どの鳥ももう少し大型の別種のように見える。わたしの手もとで参照できるカラー版の作品には、1919年(大正8)に制作された『庭の雪』がある。中央に吊るされた鳥かごにいるのは、メジロとは似ても似つかない大きな鳥だ。そのかたちやサイズ、色などから明らかにインコかオウムを連想させる。
 また、1918年(大正7)に描かれた『鳥籠のある庭の一隅』、および同年ごろに制作された『画室の庭』にも、メジロよりはかなり大型の鳥が描きとめられている。これらの描写を踏まえ、わたしは中村彝がメジロのほかに、インコかオウムのような鳥を飼っていたのだろうと想像していたのだけれど、それが大まちがいであることが判明した。
 中村彝は、鳥かごにメジロを飼ってはいたが、庭の樹木に鳥かごを吊るしモチーフとして描くには、メジロはあまりにも小さすぎるとでも思ったのだろう。メジロの代わりに、オウム(大型のインコ?)を鳥かごの中に入れて描いている。もっとも、生きているオウムではなく、彝が綿(おそらく紙か布も用いたかもしれない)で形状をつくって彩色した、オウムのフィギュアだ。そのフィギュアづくりの様子を、1985年(昭和60)に文京書房から出版された、曾宮一念『武蔵野挽歌』から引用してみよう。
  
 大正九年の秋、落合に移った。近くに居た中村彝は目白を飼っていた。私は小鳥が嫌いではないけれども、小さな籠の中の止木を絶えず飛ぶのは見て煩わしく、鳥も飽きるだろうと思われた。中村の小品の庭の絵に「鸚鵡の籠」があるが、これは綿に淡紅色を塗った中村作の代用品であった。
  
 曾宮一念Click!は、1920年(大正9)に目白通りの北側、下落合544番地へ引っ越してきており、ドロボーClick!の被害に遭ったあと翌1921年(大正10)年、下落合623番地に竣工したアトリエ兼自邸Click!へ転居している。
 彝が制作したオウムのフィギュアは、当初は淡紅色に塗られていたとあるので、作品を描くごとにフィギュアの彩色も、そのつど変えていたのかもしれない。少なくとも、『庭の雪』(1919年)と『鳥籠のある庭の一隅』(1918年)に描かれている鳥は、淡紅色ではなく黄緑色をしているので、どこかセキセイインコのような印象を受ける。
 このころ、家で鳥を飼うことが流行っていたものか、下落合1296番地の秋艸堂Click!にいた会津八一Click!は、たくさんのハトを飼っていた。曾宮一念は、会津からハトを1番(ひとつがい)もらうのだが、庭に建てた板小屋でハトとともに寝起きしている。曾宮の同書から、つづけて引用してみよう。
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中村彝「鳥籠のある庭の一隅」1918.jpg
  
 中村とは反対の方角に会津八一がいて、鳩を飼っていた。首に白輪のある数珠懸鳩で私に一番くれた。雄は雌の前で首を上下してポッポッポーを繰り返した。その頃私は庭の板小屋に独り寝起きし、鳩と板一枚を境にしたが鳩は中間色、声も柔らかで気にならなかった。この小屋は桐の木の下にあって、四、五月に寝ながら桐の花が仰がれた。ある日枝に鳩より大きい鳥が留まっていた。下からは腹が白くその他は灰色で明るく、花の黄色に対して美しかった。物知りの友が尾長と教えたように、尾が特に長かった。姿に似ず声は悪声で頂けなかった。昭和八年、「桐の花」の題の画を描いて私は二科展へ出品した。今この文章を書きながら、あの画に尾長を留まらせたらもっと賑やかになったろうと思う。
  
 オナガClick!は、いまでも下落合では秋冬にグェグェと群れをなしてあちこち飛びまわり、棕櫚の木へいっせいに群がったりしているが、ハトはキジバト(ヤマバト)が多く、飼われていたと思われるハトClick!はあまり見かけない。
 曾宮一念は、鳥を知り合いから譲られることが多かったのか、会津八一からはハトの雄雌2羽をもらっているけれど、1927年(昭和2)には近所の佐伯祐三Click!から黒いニワトリ7羽Click!を、ほとんど押しつけられるように譲られている。佐伯がニワトリを抱いて曾宮を訪ねたのは、第2次渡仏直前でアトリエを当分留守にするからなのだが、曾宮はその後、またしてもドロボーClick!に入られて佐伯のニワトリを7羽ぜんぶ盗まれている。
 会津八一は、ハトのあとはキュウカンチョウを飼っていたようで、朝でも昼でも夜でも「おはよう!」という鳥の様子を、曾宮一念の前掲書から引用してみよう。
  
 或る日の夕、秋草堂を訪ねると、頭の上で「おはよう」と言うものがいた。ついで、「あさのみだ、あさのみだ」との二声に驚いて見上げると、九官鳥の籠が楓の枝にぶら下げてあった。夕方なのに「おはよう」はよいとしても「あさのみだ」はわからない。会津に聞くと「俺にくれた前の飼主が、鳥が好む麻の実をねだる時に、麻の実だと口ばしに入れたそうだ」で、これで難問は解けた。会津は家を出がけと帰り時とに、鳥の挨拶を受けていた。その声は人間の声によく似ているが、もっと綺麗であった。
  
鳥かご拡大2.jpg 鳥かご拡大3.jpg
メジロ.jpg キコボウシインコ.jpg
 曾宮一念も会津八一も、人が飼わなくなった不要な鳥類を押しつけられやすい、どことなく鳥好きのするような風情に見えたのだろうか。会津が知人からもらったキュウカンチョウの、昼でも夜でも「おはよう!」の挨拶は、それでなくても気むずかしい会津をイライラさせたのではなかろうか。そのうち、焼き鳥にされていないことを祈るばかりだ。

◆写真上:彝アトリエの前庭にある、鳥かごを吊るすのにピッタリなアオギリの二股。
◆写真中上:1919年(大正8)に庭の樹木に吊るした鳥かごを描いた中村彝『庭の雪』で、全体画面()と鳥かご部分の拡大()。鳥かごの中に描かれている黄緑色の鳥はメジロではなく、明らかにインコかオウムのように見える。
◆写真中下は、1918年(大正7)ごろに制作された中村彝『画室の庭』。は、1918年(大正7)に描かれた中村彝『鳥籠のある庭の一隅』。いずれも、大きめな鳥の姿が描かれており、中村彝が制作したオウムのフィギュアだと思われる。
◆写真下は、鳥かごを拡大した『画室の庭』()と『鳥籠のある庭の一隅』()。は、メジロ()とキコボウシシンコ()。

下落合を描いた画家たち・今西中通。(1)

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今西中通「落合風景」1932.jpg
 きょうは、以前にpinkichさんClick!よりご教示いただいた、上落合に住んだ洋画家・今西中通(ちゅうつう)の連作「落合風景」について少し書いてみたい。高知県生まれの今西中通が、里見勝蔵Click!に師事していた同郷の大野龍夫を頼って、家を飛びだすように東京へとやってきたのは1928年(昭和3)1月12日のことだ。当初は川端画学校へと通っているが、すぐに同期の仲間たちと代々木山谷160番地にできたばかりの、1930年協会洋画研究所へ移っている。
 当時は今西中通の画号ではなく、いまだ今西忠通(ただみち)と本名で絵を描いており、1930年協会Click!展への出品も本名が使われている。同展には、1930年(昭和5)1月17日より上野の東京府美術館で開催された第5回展から出品しており、『白い壺とネギ』(展示番号784)と『風景』(同875)の2点が入選し、展覧会の最終コーナーである第15室へ架けられている。
 ちなみに、今西は東京へやってきた当初から、代々木の1930年協会洋画研究所Click!で行われた講演会に参加しているが、1928年(昭和3)5月20日に代々木山谷小学校で開かれた、1930年協会第1回講演会の記念写真にも、20歳の今西らしい人物が里見勝蔵の右隣りにとらえられている。今西の右隣りは、同郷の大野龍夫だろうか。
 今西中通が、渋谷の道玄坂から川端画学校などで知り合った赤堀佐兵、赤星孝、坂本善三らが住む上落合へ引っ越してきたのは、おそらく1930年(昭和5)の早い時期のようだ。住所は上落合851番地で、蛇行を繰り返す妙正寺川の南側であり、美仲橋と新杢橋のちょうど中間にあたるエリアだ。当時の下宿の様子を、1997年(平成9)に高知県立美術館から刊行された「没後50年今西中通展」図録所収の、鍵岡正謹『今西中通 人と作品』から引用してみよう。
  
 上落合の下宿は二階建で広い土間と奥の六畳を借り、二階に早稲田の学生が二、三人居て中通と共同炊事をやっていた。画家の仲間もよく訪れて、彼らから「中さん」と呼ばれ「純情一途」と誰もが云う性格は、周囲の先輩や同輩に愛された。彼らとよく酒を飲み、取っくみあいの議論をしては、夜を徹してキャンバスにむかう生活がはじまっていた。
  
 これによれば、今西は広い土間をアトリエがわりに使用し、奥の六畳を居間兼寝室のように使っていたのだろう。当時の落合地域に住む画学生たちと比較すると、スペース的にはかなりめぐまれた環境ではなかったろうか。
上落合851番地.jpg
1930年協会第5回展1930.jpg 今西中通.jpg
 1930年(昭和5)5月になると、今西中通の下宿がある敷地の北隣りに、やはり画家をめざす手塚緑敏Click!が引っ越してくる。手塚の妻・林芙美子Click!の友人だった尾崎翠Click!が大家に夫妻を紹介し、当時は妙正寺川の岸辺に建っていた上落合850番地の2階家を借りたのだ。尾崎翠Click!は、夫妻の引っ越しを手伝い障子の張り替えまでやっているので、今西中通は尾崎翠にも出会っているかもしれない。上落合850番地の借家は、もともと1928年(昭和3)6月まで尾崎翠と松下文子が借りて住んでいた家だった。当時の様子を、前掲の『今西中通 人と作品』から引用してみよう。
  
 上落合に住んでいた中通のすぐ近くに、林芙美子が画学生であった手塚緑敏と結婚して移り住んできたのは、中通と相前後している。画家志望の手塚との関わりからか、中通は友人と一緒に林家を訪ねることになる。林芙美子の『放浪記』が刊行されベストセラーとなり、一躍女性新人小説家として躍り出たのは1930(昭和5)年7月のことであった。中通は林家にお祝いとして『春景色』を贈り、林家からは今西が結婚した時に鉄瓶を贈ったりするほどの仲であった。そのころの中通を緑敏は、「田嶋家から仕送りがあり、生活に困っているような感じのない、ボンボンのように見えた」と云っている。
  
 当時、手塚緑敏は落合地域のあちこちを写生してまわっていたので、同様に周囲の風景をスケッチしていた今西中通とは、早くから顔なじみだったのだろう。朝になると、画道具を抱えて出かける近隣の画学生同士が、親しくならないはずはない。ときに、今西と手塚緑敏は連れだって、同じポイントで「落合風景」を描いていたのかもしれない。この当時から、手塚緑敏が制作していた膨大な「落合風景」の大部分は、のちに庭の焚き火へくべられて燃やされ、現存しているのはわずかな点数にすぎない。
 上掲の一文にもあるとおり、手塚の妻である林芙美子がベストセラー作家になると、金銭的にも余裕ができたので、夫妻は1932年(昭和7)8月に五ノ坂下に建っていた大きな西洋館Click!、林芙美子がいうところの通称“お化け屋敷”Click!へと転居していった。また、今西中通はその後もしばらく上落合851番地の借家に住みつづけるが、故郷からの仕送りが途絶えたのを機に、1934年(昭和9)にはニワトリ小屋を改造した井上哲学堂Click!の北西にあたる、中野区江古田1丁目81番地へと引っ越していった。
1930年協会第1回講演会19280520.jpg
今西中通「秋の丘」1932.jpg
 さて、今西中通が連作とみられる「落合風景」を描いたのは、1930年協会が解散し独立美術協会Click!へと移っていた時代だ。その代表的な作品が、1932年(昭和7)に制作された『落合風景』なのだが、おそらく今西のイメージや構成が加えられたフォーヴ調の画面だと思われ、落合地域のどこを描いたものかを特定するのは困難だ。また、当時の落合地域に建っていた家々の屋根に、これほどの確率で赤い瓦が多用されていたとは思えないので、今西の理想的な色彩イメージが加味されているのだろう。
 『落合風景』に比べ、まだ同年に描かれた『秋の丘』のほうが、地形的にわかりやすい構図となっている。明らかに、下落合側に連続している目白崖線を、東側から西側に向けて眺めた「下落合風景」だと思われる。崖線の途中、北へと切れこんだ手前の谷戸は、制作年からすると下落合西部に展開していた風景の可能性が高い。改正道路(山手通り)工事により、全的に消滅してしまった矢田坂の谷間Click!か、あるいは蘭塔坂(二ノ坂)Click!五ノ坂Click!の“切れこみ”をイメージした画面だろうか。いずれにしても、これほど赤や緑の原色が連なる、西洋館らしい家々が建てこんだ谷間は、当時の下落合に存在していない。
 同じ1932年(昭和7)ごろに制作された、『風景(赤い屋根)』や『風景』にも同じことがいえる。今西中通は、付近の「落合風景」を描きながら主観的な理想の風景をイメージし、画面を自由に構成し彩色していた可能性が高いと思われる。そこには、同じフォーヴィズムとはいえ多少のデフォルマシオンは加味されても、色彩も含めてかなり忠実かつ正確に風景をとらえ、切りとっていった佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!とは異なり、より自由でフレキシブルな新しい時代の画面表現を試みていると思われるのだ。
 佐伯祐三も、赤い屋根のバーミリオンにこだわってはいるが、それはモチーフとして選んだ赤い屋根の邸(たとえば八島さんちClick!納めさんちClick!)をバーミリオンで輝かせているのであり、灰色の屋根や青い屋根を無理やり赤く塗ってしまった事例は、いまのところ見あたらない。今西中通が描く家々は、おそらくさまざまな色合いをしていたのだろうが、それを赤で統一したり、あるいはときに緑で塗りつぶしているところに、あえて実景にはとらわれない今西ならではの“暴れる筆先”を感じるのだ。
今西中通「風景(赤い屋根)」1932頃.jpg
今西中通「風景」1932頃.jpg
 今西中通は、1934年(昭和9)ごろからキュビズム的な傾向が強くなるが、上落合へ転居したころから親しい今西宅から北北東へ500m、下落合1995番地にアトリエをかまえていた川口軌外Click!や、独立美術協会の画家たちからの影響が少なくないのだろう。今西は、ほかにも「落合風景」と思われる作品を1930年代前半に残しているが、より構成的な傾向が強い作品も見られる。また機会があれば、それらの作品について触れてみたい。

◆写真上:1932年(昭和7)に制作された今西中通『落合風景』で、掲載の作品画像はいずれも高知県立美術館から刊行された「没後50年今西中通展」図録(1997年)より。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合851番地。すでに妙正寺川の整流化工事はスタートしており、上落合850番地の家々が消滅している。下左は、1930年(昭和5)1月17日から東京府美術館で開催された1930年協会第5回展。背後には、病床の前田寛治の大きな写真が掲げられている。下右は、今西中通のポートレート。
◆写真中下は、1928年(昭和3)5月20日に代々木山谷小学校で開催された1930年協会の第1回講演会記念写真。は、1932年(昭和7)制作の今西中通『秋の丘』。
◆写真下:1932年(昭和7)ごろに描かれた、今西中通の『風景(赤い屋根)』()と『風景』()。いずれも、どこを描いたのかポイントの特定はむずかしい。

下落合で死去し大磯で甦ったE.サンダース。

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聖母病院.JPG
 残された聖母病院の死亡診断書によれば、1946年(昭和21)10月3日の午前11時4分、エリザベス・サンダースは大腸癌のために下落合の聖母病院で死去している。故郷の英国を離れて来日してから、すでに33年の歳月がたっており76歳だった。
 エリザベス・サンダースは、1870年(明治3)2月22日に英国ワイト島のバートン村で生まれている。先の死亡診断書によれば、トム・サンダースとジェーン・サンダースを両親として出生し、母親の旧姓はワトソンとある。父親トム・サンダースの職業は、農園労働者と記載されている。これは、自作農ではなく雇用された農民ということだ。
 ワイト島というと、わたしの世代では1969年(昭和44)の米国ウッドストック・フェスにつづき、翌1970年(昭和45)に開催された第3回ワイト島音楽フェスを、すぐに想い浮かべてしまう。もちろん、これらの音楽祭を子どものわたしがリアルタイムで楽しんでいたわけではなく、のちにさまざまな録音盤や映像記録から知って、追体験的にイメージされたものだ。いまでこそめずらしくなくなったが、学生時代にワイト島におけるマイルス・デイビスの演奏を、ブートレグで入手したときは狂喜したものだ。
 でも、ワイト島=音楽フェスのイメージが拡がったのは70年代以降であり、それまではおそらくワイト島はビクトリア女王の第2宮殿オズボーン・ハウスの存在と、1901年(明治34)1月に同女王がここで死去したことのほうが、よほど広く知られていただろう。エリザベス・サンダースの父親トム・サンダースは、このオズボーン・ハウスに雇われたビクトリア女王の宮殿農民だったらしい。エリザベス・サンダースは幼年時代、庭園で遊んでいるところをビクトリア女王に遭遇した経験を証言している。
 エリザベス・サンダースというと、わたしなどはまず大磯Click!の駅前にある旧・岩崎別邸Click!エリザベス・サンダース・ホームClick!を一義的に想起する。もっとも、わたしは子どものころ、同ホームに入りこんでセミを追いかけていた遊び場のひとつであり、また地元で参加していたボーイスカウトのなにかの催しで、小さなかわいいおばあちゃんになっていた、澤田美喜Click!に会ったことがあるから印象深いのであって、現代ではほとんど忘れ去られた名称ではないかと思われる。1997年(平成9)にノーベル書房から出版された、大南勝彦『エリザベス・サンダース物語』の「はじめに」から引用してみよう。
  
 そして取材の一方で私が痛感して来たのは、現在二十代の若者達には、既に大磯のサンダース・ホームの存在も、沢田美喜さんの業績も全く知られていないという事実であった。/一つの国が戦争に敗れる。占領軍が駐留する。そして占領軍兵士と敗戦国の女性との間に不幸な子供達が生まれる……沢田美喜さんはその子供達を黙って見ていることが出来なかった……そうしてサンダース・ホームは誕生した。しかし「歴史の区切り点」を打つことをしないこの国で、「ホーム」の歴史は忘れ去られようとしている。
  
 さて、エリザベスは成長すると、ある程度の高等教育を受けた教養のある当時の英国女性が選ぶ、家庭教師と乳母(ナヌィー)のふたつの職業のうち後者を選んでいる。そして、三井物産のロンドン支店に勤務していた三井高精(たかきよ)・勇夫妻の間に生まれた、三井高国の乳母として雇われることになった。母親の勇は身体が弱く、伏せっていることも多かったようなので、とてもひとりでは息子を育てる自信がなかったらしい。
エリザベス・サンダース死亡診断書.jpg エリザベス・サンダース物語1997.jpg
 英国における乳母(ナヌィー)と、日本の乳母とはまったくスタンスが異なる。英国の乳母の地位は、しつけや教育のいっさいを任された実母とほとんど変わらない存在だ。生まれたあとの高国の成長は、ほとんど乳母のエリザベスとともにあった。だから、1913年(大正2)に三井高精一家が日本へもどるとき、4歳になっていたひとり息子の高国はエリザベスと離れたがらず、1年の約束で彼女は日本へ同行することになった。
 実母の勇は、身体が弱かったせいもあるのだろう。日本にやってきたエリザベスは、1年の約束が5年になり10年になってしまった。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 英国が社会慣習として育んできたナヌィーとしての誇り高さや、教育姿勢を、エリザベスも身に備えていた。このことは、一般の家庭ならともかく、男爵であり、三井財閥十一家のうち、本家の一つ室町家という格式の高精一家にとって、むしろ都合のよい面がなくはなかった。高国の躾について、時に頑固に譲らず、高精・勇夫妻とぶつかることもあったが、それが高国への愛情ゆえであることを、夫妻は承知していた。それに、高精は三井経営陣の一人として多忙で、家の中のことや高国については、勇に任せ切りであった。ところがその勇が病弱であることから、自然、エリザベスを頼ることになる。
  
 やがて、1926年(大正15)に勇が病没すると、エリザベス・サンダースが実質上、三井家における“母親”の立場になってしまい、英国へ帰国する機会がますます遠のいた。ワイト島の両親が死去したときも、彼女は日本を離れようとはしなかった。1941年(昭和16)に、高国は斯波貞と結婚をするが、わずか8ヶ月後の同年の暮れに新妻の貞が肺結核で急死すると、家政をとり仕切るのは、またしても70歳になるエリザベスの仕事となった。
 日中戦争がはじまって以来、日本は英国との関係が徐々に悪化しつづけ、1940年(昭和40)にはその対立が決定的となっていた。それでもエリザベスは英国へ帰国しようとはせず、高国のそばで暮らしつづけている。翌1941年(昭和16)に太平洋戦争がはじまると、“敵性外国人”Click!であるエリザベスはもちろん、三井家とその周辺の人々には特高Click!による尾行がついた。また、このころになると三井家の使用人たちから、エリザベスは“敵国人”ということで疎外・排斥され、屋敷内では孤立感を深めていった。
エリザベス・サンダース+三井高国.jpg エリザベス・サンダース.jpg
 高国は、父親との確執から1943年(昭和18)2月に渋谷区鉢山町24番地に家を購入し、親しい人々や息子までを住まわせているが、邸内で孤立しがちなエリザベスのことも考慮したのだろう、彼女も渋谷の家に移らせている。高国は、この家から平河町の三井家へ“出勤”することも少なくなかった。エリザベスはここで体調を崩し、検査の結果、大腸癌であることが判明すると、1944年(昭和19)10月に下落合の聖母病院に入院して手術を受けた。だが、高国もほぼ同じ時期に身体を壊し、母親・勇や妻・貞の死因となった同じ肺結核に罹患していることが判明する。ふたりはそろって、渋谷の家で病臥することになった。
  
 エリザベスは二階の角の洋室に、高国は同じ二階の和室に寝かされた。エリザベスは時折、/「高国、マイ・ボーイ――」/と高国の名を呼び続けたが、患部の痛みを訴えるエリザベスのかたわらに、高国を寝かせることは出来ない。高国の体調が良い時に、チエとトモが彼を支えるようにして、エリザベスの部屋に連れて来た。そういう時、二人は手を取り合い、エリザベスは涙を流しながら語り続けた。それは、日本語に英語が混じる奇妙な会話であった。時にその会話は、英語だけになることもあった。
  
 三井高国は敗戦の翌年、1946年(昭和21)7月26日に、37歳で肺結核のために死亡した。それからわずか60日余ののち、エリザベスは急激に衰弱して同年10月3日、高国のあとを追うように聖母病院で死去している。彼女は火葬ののち、横浜の「外人墓地」へ埋葬された。
 エリザベスが残した遺産は、5万円に達していた。1945年(昭和20)の物価指数にもとづいて計算すると現代では約1億円だが、太平洋戦争がはじまる直前の1940年(昭和15)の物価指数で計算すると、実に約2億円ほどの預金高となる。エリザベスは三井邸で質素に暮らし、ほとんどプライベートな外出や買い物をしなかったせいもあるのだろう、給与のほぼ全額を貯金しつづけていたと思われる。
渋谷区鉢山町24_1947.jpg 渋谷区鉢山町24.jpg
エリザベス・サンダースホーム.jpg 澤田美喜レリーフ.jpg
 三井家のエリザベスの遺産が、大磯駅前の岩崎別邸に澤田美喜が計画中だった、混血孤児施設の創立資金として寄付されることになる経緯には、さまざまな偶然や人間関係の綾糸が介在している。詳細は、本書『エリザベス・サンダース物語』を読んでいただきたいのだが、大磯にエリザベス・サンダース・ホームが設立されるのは1947年(昭和22)10月なので、ちょうど下落合の聖母病院における彼女の死から1周忌を迎えるころのことだった。

◆写真上:1963年(昭和38)に再築のチャペル横にあった、聖母病院西側のパティオに向かう遊歩道。現在は同病院の全面リニューアルにより、この風情は存在していない。
◆写真中上は、聖母病院に残されたエリザベス・サンダースの死亡診断書。は、1997年(平成9)出版の大南勝彦『エリザベス・サンダース物語』(ノーベル書房)。掲載写真のうち、モノクロの画像は同書より。
◆写真中下は、三井高国を抱くロンドン時代のエリザベス・サンダース。は、英国へもどらず戦時中も日本で暮らしつづけた晩年のエリザベス。
◆写真下上左は、高国とエリザベスが死去直後1947年(昭和22)の空中写真にみる渋谷区鉢山町24番地。上右は、鉢山町にある邸跡の現状。は、大磯の岩崎別邸に設立されたエリザベス・サンダース・ホームの正門内にある記念碑()と澤田美喜のレリーフ()。

下落合を描いた画家たち・林武。(3)

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林武「武蔵の風景」1921.jpg
 林武Click!の気になる作品に、1921年(大正10)の制作といわれる『武蔵野風景』がある。同作の画面右端に、朱筆で制作年と署名があるのだけれど、それを拡大してみると「千九百二十一年 林武」とは、どうも読めない。「千九百」まではそのとおりなのだが、次の「二」を消して「≠」とし、つづけて「廿七年 林武」と書いてあるようにも見える。ただし、所有者は1921年作品と規定しているが、その根拠はなんだろう。
 『武蔵野風景』が1921年(大正10)の作品とすると、翌1922年(大正11)に林武は、寺斉橋Click!の南側の地番である上落合725番地界隈へと引っ越してくるのだが、それまでにも落合地域の風景が気に入って、作品のモチーフに選んでいるのではないか。換言すれば、落合地域の風情が気に入ったからこそ、林重義Click!アトリエの筋向いにあたる上記の住居へ引っ越してきているのではないか?……というのが、きょうのテーマだ。
 なぜなら、林武はこのあと1924年(大正13)の初夏に制作した『下落合風景(仮)』Click!や、長崎4095番地Click!へ転居後の1926年(大正15)にも、目白文化村Click!の中央生命保険倶楽部(旧・箱根土地本社)を描いた『文化村風景』Click!など、落合地域の風景画を好んで精力的に描いているからだ。転居後にも、落合地域へやってきては描いていることから、上落合へ転居してくる以前にも付近の風景が気に入り、モチーフとして制作しているのではないかという想定は十分に成り立つ。
 林武の上落合生活は、わずか2年余にすぎないのだが、起伏の多い落合地域の風情が気に入って、林重義の隣りに住みついているのではないか。また、本作が1927年(昭和2)の制作だったとしても、長崎町からわざわざ下落合へ足を運んで前年に『文化村風景』を制作していることを考慮すれば、画面に描かれている場所へも写生の足を向けているかもしれない。つまり、本作が1921年(大正10)だろうが1927年(昭和2)の制作であろうが、どちらでも林武が「下落合風景」を描いた可能性があるということだ。
 さて、『武蔵野風景』の画面を詳しく見てみよう。(冒頭写真) 画面右手には丘陵がつづき、その麓に沿って三間道路らしい道筋が画面の奥へ向かい、「S」字型に大きくカーブを描くように通っているのがわかる。正面の丘陵は、まるで半島のように突き出ており、その手前には小さな谷間あるいは崖地でもあるのか、丘陵側へ切れこんだ草原が見える。光は明らかに左手から当たっており、画面の左または左背後が南側と考えて、ほぼまちがいないだろう。
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 手前には、道路に日陰をつくる並木道がつづき、画面右には住宅の生け垣と思われる、手入れをされた低木が植えられている。道の正面に見える、光の当たる草原には電柱らしい垂直に立ったポール状のものが1本描かれており、その向こう側には灰青色がかった家の屋根や壁、ないしは擁壁のようなものが垣間見えているが、手前の並木に隠れてよくわからない。そのすぐ左手には、丘の斜面に黄土色の絵具が塗られているので、ひょっとするとバッケ(崖)Click!が口を開けているのかもしれない。
 1921年(大正10)の翌年、林武が住むようになる上落合725番地を基準にすると、その周辺でこのような情景が見られるのは、古くは「台山」と呼ばれ、丘上に研心学園Click!(城北学園/目白商業学校)が建てられてからは「研心山」と呼ばれるようになった、中井御霊社Click!のある目白学園の丘Click!あたりのような印象を受ける。1921年(大正10)現在、丘上に研心学園(1923年創立)は建設されておらず、目白崖線ではもっとも標高が高い丘(37.5m)として、「台山」と呼ばれていた時代だ。雑木林の中に、御霊社Click!の茅葺き屋根が見え隠れしているような状況だったろう。
 わたしは、林武の『武蔵野風景』を観て、真っ先に1枚の写真を思い浮かべた。1933年(昭和8)ごろに撮影されたその写真は、麓を通る道筋から「研心山」をとらえたもので、2003年(平成15)に発行された『おちあいよろず写真館』(コミュニティ「おちあいあれこれ」)の中に収録されている。道の手前には、犬を散歩させていると思われる近所の女性が写り、正面にはバッケ(崖)が大きな口を開けている。
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 だが、この撮影場所は目白学園の西側、つまり画面の左手が上高田の「バッケが原」Click!に接した道筋だと思われ、中井御霊社や研心学園(城北学園)は右(東側)の丘上に建っている。この道をまっすぐいくと、葛ヶ谷Click!(現・西落合)をへて妙正寺川に架かる四村橋Click!をわたり、すぐに和田山Click!(現・井上哲学堂Click!)へと突き当たることになる。鎌倉時代の前より、和田氏が館を築いていたと思われる和田山に通うこの道もまた、目白崖線の南側に通う中ノ道Click!(現・中井通り)と並び、重要な鎌倉街道のひとつだったのだろう。
 さて、『武蔵野風景』でわたしが想定している風景の位置は、目白学園が建つ丘の西側、すなわち上高田に面した側ではなく、南側の中ノ道沿いだ。大正中期という制作年を想定すると、中ノ道沿いには人家もまばらで、妙正寺川沿いには鈴木良三Click!が描く『落合の小川』Click!(1922年)に見られる、東京電燈谷村線Click!の送電線である木製高圧線塔は建てられていただろうが、林武が1924年(大正13)の初夏に描いているとみられる、『下落合風景(仮)』の高圧線鉄塔はいまだ存在していない。そして、画面のように道路が大きく「S」字のようにカーブを描き、目白崖線の丘が半島のように画面の左(南側)へ突きでて見えるのは、下落合(現・中井2丁目)の麓に通う中ノ道の路上からだ。
 そして、正面に見える丘の中腹から上にかけて描かれた、黄土色のバッケ(崖)と思われる地形が見える位置は、当時の地番でいうと下落合2017番地に沿った中ノ道の路上から、西を向いて描けばこのように見えたかもしれない。見えているバッケは、1921年(大正10)の1/10,000地形図にも記号で収録されている、四ノ坂と五ノ坂との間にある崖地だ。のちに、林芙美子・手塚緑敏邸Click!や武藤邸が建設されることになる。現在の情景でいうと、蘭塔坂Click!(二ノ坂)と三ノ坂の間あたりにイーゼルをすえ、林武は道なりに西を向いて描いている……ということになる。
武蔵野風景ポイント1936.jpg
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 上落合へ転居してくる以前、林武は代々木の借家に家族とともに住んでいた。そこを訪れていたのが、二科の画家仲間で上落合725番地に住んでいた林重義だ。林武は関東大震災Click!の前年、1922年(大正11)に落合地域へと引っ越してくるのだが、林武は林重義宅の筋向いの家を借りている。『武蔵野風景』が1921年(大正10)の制作だとすれば、林武が代々木から落合へ移ろうとする、引っ越し間際の時期、すなわちモチーフとしての落合風景に惹かれはじめたころに描かれたと考えることができるのだ。

◆写真上:1921年(大正10)に制作されたとされる、林武の『武蔵野風景』。
◆写真中上は、1933年(昭和8)ごろに撮影された旧・下落合西端の上高田側に面していたバッケ(崖)。2003年(平成15)に発行された『おちあいよろず写真館』(コミュニティ「おちあいあれこれ」)より。は、戦後にバッケが原側から撮影された目白学園の丘。
◆写真中下は、1921年(大正10)の1/10,000地形図で想定する『武蔵野風景』の描画ポイント。は、四ノ坂下から西を向いて写した中ノ道の現状。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中ノ道の描画ポイント。は、目白学園に通う学生たちがもっとも利用する五ノ坂下あたりの現状。

逃げろや逃げろ上落合の吉川英治。

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 吉川英治が『宮本武蔵』Click!で描いたのは、物語の前半と後半で武蔵がたどる「剣術」と「剣道」のちがいによって生じた、人としての思想や死生観にもとづく実存の相違なのだろう。「剣道」とは、もちろん今日的なスポーツとしての剣道ではなく、剣術の奥義を踏まえたうえで、どこか農本主義的な匂いも混じる武蔵の「剣の道」のことだと思われる。ちなみに、剣術ではなく竹刀を叩きつけるスポーツとしての剣道に、いくら上達しても日本刀Click!は扱えない。
 小説『宮本武蔵』では、武蔵は決闘を終えるとさっさと現場から離れる(逃亡)することが多いが、これは決闘相手の門人や係累たちの追撃あるいは意趣返しを避けるためだ。生命のやり取りをした現場で、感慨にひたることが少ない小説の武蔵だが、上落合553番地(現・上落合2丁目)に自宅を建てて暮らしていた吉川英治は、「逃げるが勝ち」を実践したことで“有名”だ。もちろん、吉川英治が逃げだしたのは決闘相手の武芸者などではなく、ヒステリーと浪費癖が止まない、生活観のまったく異なる連れ合いのやす夫人からだった。その逃亡生活は徐々に頻繁で深刻となり、1930年(昭和5)にはついに1年近くも上落合を抜けだし、逃避行をつづけて自宅に寄りつかなくなってしまった。
 吉川英治が上落合553番地に自宅を新築したのは、1926年(大正15)に大阪毎日新聞へ連載した『鳴門秘帖』が、平凡社の『現代大衆文学全集・第9巻/吉川英治集』(1928年)に収録され40万部も売れたからだ。また、同全集の『第37巻/吉川英治集』(1930年)には、『鉄砲巴』『邯鄲片手双紙』『剣侠百花鳥』『蜘蛛売紅太郎』『増長天王』などが収録されて、この時期、彼の手もとには膨大な印税が転がりこんだ。だが、吉川英治はにわかの大金で贅沢な暮らしをしようとはせず、質素な生活をつづけようとした。彼は満ち足りた生活をすれば、作品が書けなくなるのを本能的に察知していたのだろう。
 吉川英治は、上落合553番地に自宅を新築する以前、大正末には下落合に住んでいるのだが、その住所がどこだかハッキリしない。おそらく、関東大震災Click!で日本橋の水天宮近くにあった青物屋(八百屋)2階の借間が被害を受け、一時的に乃手の下落合へ引っ越してきたのではないかと思われるのだが、落合地域では上落合の自宅が圧倒的に目立つ存在であり、下落合の住居(おそらく借家)は影が薄い。
 吉川英治は、少年時代を極貧生活の環境ですごしている。高等小学校を中退し、一家の稼ぎ手として働かなければならないほど、吉川家の家計はひっ迫していた。18歳のとき、横浜船渠株式会社の乾ドックでいろいろな雑役をこなす「かんかん虫」にもなった。船底に付着した牡蠣殻やフジツボ、サビなどを大きなハンマーでカンカン叩き落とすのでそう呼ばれる労働だが、当時、欧米航路に就航していた日本郵船「信濃丸」の船腹を塗装する作業中に、操作係が吊るした足場の移動のタイミングを誤り、英治は12m落下して船台に叩きつけられ死にそこなっている。足場の板といっしょに落ちたため、頭蓋骨がコンクリートに叩きつけられて潰れずにすんだ、奇跡的な生還だった。
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 1ヶ月ほどで退院した英治は、事故をきっかけに横浜船渠を辞めて東京へやってきた。当初は蒔絵師の弟子として働いたが、大正川柳に興味をおぼえて投稿をはじめている。川柳仲間の親戚が経営する待合へ英治が遊びに寄ったとき、芸者になりたての“いく松”(赤沢やす)と出会った。当時21歳の赤松やすは、牛込(現・新宿区の一部)の畳屋の娘で、華やかな芸者にあこがれて座敷に出はじめていた。その後、ふたりは一時中国の大連にわたるなど、さまざまな経緯や同棲生活をへて1923年(大正12)8月に結婚している。ふたりは貧乏で困難な生活を耐えつづけ、気心が知れた間がらのはずだった。
 だが、英治の小説が売れ印税の大金が手もとに入ると、やす夫人の生活態度は一変した。やす夫人は、売れない小説家・吉川英治を陰に陽に支えつづけた、彼にしてみればかけがえのない妻のはずだったが、彼女はそのまま質素な生活をつづけることに我慢がならず、カネがあればあるだけ思う存分につかって、贅沢な暮らしを求める女になっていた。彼女は、夫が作家であることになんの興味も抱かず、大金があるのになぜ地味な生活をつづけなければならないのかが理解できなかった。また、学校へ満足に通わず文字が読めない妻のために、英治が手習いや教養を身につけさせようとすると、露骨に嫌悪感をあらわすような性格だったようだ。
 そんな生活態度を改めさせようと、吉川英治は子どものいない家に養女(園子)を迎えるが、やす夫人の浪費家ぶりやヒステリーは変わらなかった。なまじ大金があるからいけないのだと、英治は手もとにあるカネをほとんど費やして浜田という建築家に依頼し、1929年(昭和4)に上落合553番地へ建設したのが初めての自邸だった。だが、せっかく新築した自邸で英治とやす夫人との生活をめぐる感覚のズレは埋まらず、彼はだんだん家にはいずらくなっていく。どこか地方を旅しながら、執筆する機会が増えていった。
 そのころの様子を、2012年(平成24)に岩波書店から出版された『新・日本文壇史―大衆文学の巨匠たち―』第9巻から引用してみよう。
  
 「神州天馬狭」と「続鳴門秘帖」を連載中の英治は、体調を崩したことと、やすとの間で繰り返される日々の摩擦が理屈では解きほぐせないストレスとなり、休養を欲した。そのため英治は三年九月二十四日、ついに家を出て、東北本線に乗って仙台へ行き、塩釜、女川、石巻、金華山、平泉をへて奥入瀬に入り、蔦温泉に一泊した。次に十和田湖を渡り、滝ノ沢峠を越え、温川温泉に着いた。温川の渓谷を見下ろしながら進むのは絶景であった。英治はそのまま温川山荘に滞在した。/やすとの溝が深まるとともに、英治は津の守の芸者一郎との交渉が深まった。東京市四谷区荒木町の一帯は昔、美濃高須藩松平摂津守Click!の上屋敷跡で、その花街は一流ではなかったが、客筋がよかったことで知られた。一郎の本名は菊池慶子で、妹ののぶ子とともに桃の家という芸妓屋をやっていた。
  
 おそらく、吉川英治は上落合への転居後、少しでもチャンスがあれば自宅から逃げだす算段ばかりしていたのではないだろうか。家には帰らず、帰ってもやす夫人とはケンカばかりで、すぐにいたたまれずに抜けだしてくるという生活がつづいている。芸者の一郎とは、その後も交渉をもちつづけ「逃避行」を繰り返すようになった。
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吉川英治「神州天馬侠」1927大日本雄弁会講談社.jpg 吉川英治「女人曼荼羅」1934中央公論社.jpg
 当時の様子を、『新・日本文壇史―大衆文学の巨匠たち―』第9巻に掲載された吉川英治の『自筆年譜』、1935年(昭和10)の項目から孫引きしてみよう。
  
 徹夜仕事、飲み歩きなど、不摂生つづく。家事また顧みず、内事複雑、この頃、恐妻家の名をはくす。一夜、万年筆を袂に、ふらふらと女中の下駄をはいたまま家庭を出奔、以後、遠隔の温泉地を転々として家妻の眼を避く。オール読物のため旅先にて短編「梅颸の杖」など書いては送る。多くは上林、上山田温泉にとどまる。四谷の一妓、おなじく東京を出奔して尋ねて来、ずるずるべったりに一しょに居る。上山田警察の刑事が来て、両名、つぶさなる取調べを受く。
  
 特高Click!と思われる刑事がやってきたのは、偽名と思われる怪しいふたり連れが長期逗留しているので、旅館側が怪しみ警察へ通報したものだろう。地元の警察では、東京から潜行してやってきた共産党関連の活動家を疑ったかもしれない。彼の自宅が落合町上落合というのも、ますます警察の疑いを濃くして、取り調べが長期にわたる要因となったように思われる。
 やす夫人は、吉川英治の留守が長期間におよぶと友人や出版社などのつてを頼って、彼を探しに逗留先の温泉などへやってくるようになった。英治はそれを察知すると、尻をはしょって別の温泉地へ逃げだすなど、ふたりは反発力が生じる磁石の同極のような、わけのわからない夫婦関係になっていく。
 せっかく上落合に建てた新居だが、ふたりの性格のミゾを埋め気持ちを近づけるどころか、かえって拡げる結果となってしまった。英治は1935年(昭和10)6月、ついに上落合の家を処分すると赤坂区赤坂表町3丁目24番地へ転居して妻とは別居し、まもなく1937年(昭和12)にはやす夫人と離婚している。
 吉川英治が暮らした当時の上落合は、あちこちにプロレタリア文学Click!の作家たちが住んでいたはずだが、小学校を中退し10代からさまざまな苦労を重ね、労働者として暮らしてきた叩き上げの英治は、彼らとの交流をほとんど持たなかったようだ。もっとも、当時は「大衆文学」分野の小説家といえば、「純文学」をめざす作家たちからは一段も二段も低く見られていた時代なので、下落合や上落合に住んだ作家たちのほうから、あえて吉川英治に近づこうとはしなかったのかもしれない。
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 吉川英治が上落合にいた最後の年、1935年(昭和10)8月から東京朝日新聞に『宮本武蔵』の連載がスタートしている。新聞の連載小説としては、空前の大ヒットを記録する同作だが、やす夫人との離婚が成立して間もなく、1937年(昭和12)の暮れに英治は“お通”のモデルといわれている、同年夏に知り合った池戸文子と再婚している。

◆写真上:上落合1丁目553番地(現・上落合2丁目)の、吉川英治邸跡の現状。
◆写真中上は、1929年(昭和4)に作成された「落合町市街図」にみる上落合553番地。は、上落合553番地周辺にみる現在の風情。
◆写真中下上左は、1925年(大正14)に撮影された下落合時代の吉川英治。上右は、上落合時代の吉川一家で左から右へ吉川英治と養女・園子、やす夫人。下左は、1927年(昭和2)に大日本雄弁会講談社から出版された吉川英治『神州天馬侠』第2巻。下右は、1934年(昭和9)に中央公論社から刊行された吉川英治『女人曼荼羅』。
◆写真下は、吉川一家の転居直後に撮影された空中写真にみる吉川英治邸と思われる上落合1丁目553番地の住宅。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同邸跡。すでに住宅が解体され、大きめの有馬アパートが建設されている。

下落合を描いた画家たち・松本竣介。(3)

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松本竣介「建物」1942.jpg
 松本竣介Click!が制作した素描に、近くの小学校を描いていると思われる作品が2点確認できる。ただし、さまざまな風景を彼独自の“構成”手法で画面に配していると思われるので、実景とはやや異なっている点を想定しなければならない。その手法を割り引いて考慮しても、おそらく松本アトリエClick!からほど遠からぬ風景を描いていると思われる小学校の素描だ。
 ひとつは、冒頭に掲載した1942年(昭和17)3月9日に制作された素描『建物』だ。手前には、道路か空き地のような描写があり、左手にはなにやら建築資材と思われる材木ないしは鉄骨が積み上げられている。その傍らには、工事用の資材倉庫ないしは「飯場」だろうか、2階建てと思われる建物がある。正面には、学校の校舎のような建物が描かれ、手前の少し下がり気味で落ちこんだ敷地には、小さな住宅か物置小屋のような建築がある。また画面の右手には、やはり校舎のような建物からやや下がった位置に、屋根上に換気用の小屋根を備えた工場のような建屋が見えている。
 校舎と思われる建物の背後に目を向けると、西洋館と思われる住宅が建ち並んでいる中で、ひときわ目を惹くのは旧・東京駅を連想させる、レンガ造りと思われる巨大な西洋館だ。このような情景にピタリと合致する場所は、1942年(昭和17)現在の下落合には存在していない。ただし、それぞれの部分を2つ、ないしは3つに分解して考えると、ピタリと当てはまる風景に思い当たる。
 まず、学校と思われる校舎を考えてみよう。校舎は2階建てで“Γ”の字型、あるいは右半分が隠れて見えないが“コ”の字型をしていると想定できる。校舎の手前が運動場であり、そこから1段下がった位置に屋根上へ換気用の小屋根を載せた建屋がある。その建築に接するように、おそらく水道タンクないしは雨水タンクが設置され、さらにその横には物置か倉庫のような小さな建物が付随している。地形は、手前の道路か空き地に比べ、右手へいくにしたがって下がっているのか、中央の小屋や工場のような建物の下には、さらに屋根の端のような線が描きかけのまま放置されている。この建物の意匠や配置、そして地形は、下落合4丁目2091番地(現・中井2丁目)の松本竣介アトリエから北東へ600mほど離れた、下落合3丁目1301番地(現・中落合2丁目)の落合第一尋常小学校Click!にそっくりだ。
 1942年(昭和17)現在の落合第一尋常小学校(当時は戦時中なので東京落合第一国民学校と呼称されていただろう)は、南南西に向いて“コ”の字型の校舎をしており、描かれているのは西側のウィングだ。手前右にある、換気屋根のついた工場のような建物は同校の講堂であり、その建物に接する水槽は、講堂のさらに下にあるプールの水をためておく地下水くみ上げ用の貯水タンクだ。また、さらに左手の小さな建物は、同校の倉庫ないしは用務員室のように思われ、1927年(昭和2)4月の竣工当時には見えているが、戦時中に解体されてしまったものか、戦後の空中写真では確認できない。
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松下春雄「下落合文化村」1927頃.jpg 松下春雄「落合第一小学校」1929.jpg
松下春雄「文化村入口」1925.jpg 箱根土地本社.jpg
 正面の学校が、落合第一小学校だとすれば、手前に描かれている工事現場のような空き地は、すでに工事がスタートしている改正道路(山手通り)の工事現場ということになる。ただし、山手通り(環6)の工事位置が、やや落合第一小学校に近すぎる印象がある。同校と山手通りとの間には、坂道をはさんで南北に細長い目白文化村Click!の第四文化村分譲地がのびており、これほど近接しては見えなかっただろう。自在な“構成”力を備えた松本竣介の眼差しは、小学校の建物群をやや望遠気味にとらえているのかもしれない。
 そして、小学校背後に描かれた、レンガ造りとみられる大きな西洋館はなんだろうか? ちょうど改正道路(山手通り)の工事がスタートしたとき、落合第一小学校のすぐ西側(画面左手)には、大きなレンガ造りの西洋館が建っていた。堤康次郎Click!が、目白文化村の建設時に建てた1925年(大正14)竣工の箱根土地本社ビルClick!だ。「不動園」Click!と呼ばれた大きな庭園を備えた同ビルは、翌1926年(大正15)には中央生命保険に売却されて、松本竣介が認識していたのは「中央生命保険倶楽部」としてのサロン的な施設だったろう。1942年(昭和17)現在、同ビルが改正道路工事のために解体中か、あるいは解体直前だったかは不明だが、松本竣介は同ビルの本館部をあえて落合第一小学校の裏(北側)へ配置している可能性がある。
 落合第一小学校の裏(北側)には、落合町(村)時代からの町(村)役場があり、消防署の落合出張所が設置されるなど、行政の公共施設が建ち並んでいたエリアだ。画面に描かれた、「煙突」のようなフォルムの位置には、消防落合出張所の細長い簡易火の見櫓が建っていた。
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 少し余談になるが、この落合第一小学校の竣工まぎわの情景をとらえたのが松下春雄Click!『下落合文化村』Click!(1927年)であり、また松下が「不動園」のモッコウバラの花垣から同校を撮影した1929年(昭和4)5月の写真Click!も残されている。さらに、松下春雄は赤いレンガ造りの箱根土地本社ビルをモチーフに、『文化村入口』Click!(1925年)も制作している。また、松本竣介の素描画面を右手、つまり南へ少し歩いていくと、佐伯祐三Click!が文化村の“スキー場”を描いた、『雪景色』Click!(1927年ごろ)の急斜面へと出ることができる。
 さて、松本竣介が1939年(昭和14)に描いたもう1枚の素描は、『街』というタイトルがつけられている。画面の右上に、やはり学校の校舎と思われる2階建ての建物が描かれている。この画面は、抽象的なフォルムや“構成”が多用されているにもかかわらず、場所の特定が容易だ。それは、同作品が収録された1997年(平成9)刊行の『松本竣介の素描』(不忍画廊)でも指摘されているとおり、松本竣介の『N駅近く』の構図に画面がよく似ているからだ。N駅とは、もちろん下落合4丁目(現・中井2丁目)にある、松本アトリエからは直近の西武線・中井駅のことだ。中井駅近くの小学校といえば、上落合2丁目752番地(現・上落合3丁目)の落合第二尋常小学校Click!しか存在しない。
 ただし、松本が描いた当時は落合第二小学校だったが戦災で焼失したあと、戦後に同小学校は南東へ200mほど移転し、中井駅の南にある敷地は落合第五小学校Click!が建設されることになる。松本竣介は、落合第二小学校の校舎中央に時計台のような搭状のデザインが気に入ったものか、同校を『郊外』Click!(1937年)などのタブローにも描いている。
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松本竣介「N駅近く」1940.jpg 落合第二小学校1932.jpg
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 先年、世田谷美術館で開かれた「生誕100年 松本竣介展」へ出かけ、400ページを超える分厚い図録を手に入れたのだが、いまだ読めずにいる。同図録に掲載されているタブローや素描、スケッチ、写真などには、落合地域にかかわりのある画面があちこちに収録されているのだけれど、いまだ手がまわらず、そのまま書架へ入れっぱなしの状態になっている。このサイトがつづけられるうちに、なんとか記事にしてみたいものだ。

◆写真上:1942年(昭和17)3月9日に描かれた、松本竣介の素描『建物』。
◆写真中上は、1927年(昭和2)の竣工直後に撮影されたとみられる落合第一尋常小学校。中左は、1927年(昭和2)ごろに描かれた講堂建築中の同校で松下春雄『下落合文化村』。中右は、1929年(昭和4)5月に松下春雄が不動園から撮影した同校。下左は、1925年(大正14)制作の箱根土地本社ビルを入れた松下春雄『文化村入口』。下右は、1925年(大正14)の竣工直後に撮影されたとみられるレンガ造りの箱根土地本社ビル。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる落合第一小学校。下左は、1941年(昭和16)の改正道路(山手通り)工事の開始直前に撮影された同小学校。下右は、戦後の1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同小学校。
◆写真下は、1939年(昭和14)に描かれた松本竣介『街』。中左は、1940年(昭和15)に制作された松本竣介『N駅近く』。中右は、1932年(昭和7)に撮影された落合第二尋常小学校。は、1941年(昭和16)撮影の空中写真にみる『街』や『N駅近く』の周辺風景。

けしからぬ大正時代の事件いろいろ。

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大杉栄・伊藤野枝宅跡.JPG
 これまで、落合地域やその周辺域で発生した、いろいろな事件や事故をご紹介Click!してきた。その時代背景や社会状況を反映するかのように、殺人や強盗、泥棒、火災、自殺、列車事故……と、さまざまな事件や事故が起きているのだが、きょうはその中でもどうしようもない種類の事件、当時の新聞報道によっては「変態性欲」犯罪と名づけられたものをいくつか見てみたい。
 もっとも、大正期の前半は東京郊外の田畑ばかりだった落合地域では、その種の事件はあまり見あたらないので、少し範囲を拡げて新宿地域で見てみよう。参照するのは読売新聞、報知新聞、東京日日新聞、そして東京朝日新聞だが、これらの記事は帝国教育研究会が1924年(大正13)にまとめた『精神科学/人間奇話全集』に収録されているので、日付はハッキリしない記事が多いものの、事件のほとんどは大正時代に起きていると思われる。
 まず、東京日日新聞から淀橋町柏木(現・北新宿)で発生した、女性の胸とお尻を刺して逃げる、連続痴漢通り魔事件を取りあげたい。東京日日新聞から引用してみよう。
  
 女の胸と臀を刺す痴漢
 東京市外淀橋町柏木一一八堀込國三郎義妹きみ(二十五)が同町九一先を通行中、二十二歳位の書生風の男が、ナイフできみの胸を突き悲鳴を揚て倒れると逃走した。間もなく柏木二三二長谷川ふじ四女のぶ(十九)が同町八八先通行中同様の男に臀部をナイフで刺され犯人は逃走した。
  
 女性たちは軽傷だったようだが、「書生風の男」は逃走したまま捕まっていない。当時は、街角に監視カメラなどなく、ハッキリした目撃者(証言)がいなければ追跡や捜査がむずかしかったのだろう。淀橋町柏木のこの事件は、それ以前に横浜の伊勢佐木町で起きた、短刀(ナイフ)で女性のお尻を斬る痴漢事件を模倣していると思われるのだが、この事件の犯人も逃走したまま捕まっていない。報知新聞から引用してみよう。
  
 女の臀を斬る痴漢
 横浜市伊勢佐木町通り大河原靴店員堀の内一〇〇菓子商豊田彌一長女八重(十六)は帰宅途中、付近の路次で卅歳前後の鳥打帽をかむり、筒袖外套を着た職人風の男が突然飛びかゝり、怪しからぬ振舞をしやうとしたので、悲鳴を揚て救ひを求めた所、怪漢は隠し持た短刀で八重の左臀部を斬り暗中に姿を没した、寿町署で犯人厳探中。
  
 山手線の新宿駅では、女性の便所を5時間ものぞいていた痴漢が逮捕されている。当時から、人々が多く集まるターミナルの鉄道駅には、スリや置き引き、痴漢などの犯罪が多発していたようで、地元の淀橋警察署では私服刑事を巡回させて警戒にあたっていたらしい。東京朝日新聞の短い記事から引用してみよう。
  
 五時間も女の便所覗き
 本所区馬場町一ノ五宮坂勝郎(二十六)は、前夕五時頃から九時頃まで、新宿駅内の共同便所で、隣の便所を覗いてゐた所を、巡回の淀橋署刑事に引致され大目玉。
  
 夕方から夜の9時まで、まあ根気のいる臭い“のぞき”をしていたものだ。刑事に捕まったとき、足がしびれてとっさには立てなかったのではないだろうか。ちなみに、当時の新宿駅の便所は、水洗ではなく汲みとり式だったろう。
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 同じく、駅の共同便所における痴漢事件が、神楽坂下の牛込駅(現・飯田橋駅)でも起きている。用を足していた若い女性に、短刀を突きつけて脅迫していた男を、悲鳴を聞いて駆けつけた牛込署員が現行犯で逮捕した。余罪を追及すると、神楽坂の路上で芸者屋の半玉が下腹部を刺された事件を自白している。報知新聞から引用してみよう。
  
 女の下腹を突刺す痴漢
 東京市牛込神楽坂下牛込駅前共同便所内から、女の悲鳴が聞えるので、同所の神楽坂署員が取調べると、十八歳位の青年が用便中の婦人に短刀をつきつけ強迫中なので直ちに捕へた。此男は牛込区築土町×島×郎といふ不良青年で、之より先同区上宮比町四番地芸者屋新若松の半玉加藤みさ(十六)が同町七番地先通行中突然鋭利な短刀やうな凶器で、みさの下腹部を突刺し、重傷を負はせて逃走したものであることをも判明した。
  
 神楽坂に芸者屋があり、半玉(はんぎょく)が歩いているところをみると、この事件は関東大震災Click!のあと、下町にあり壊滅した華町の多くの見世が、乃手の神楽坂へいっせいに臨時移転した、1923年(大正12)9月以降に起きているのではないだろうか。
 新宿地域からは離れるが、着物を着た女性の袂(たもと)をカミソリで切って、その布きれの匂いをかぐという変態痴漢事件が浅草公園で起きている。犯人が逮捕されたとき袂を切られていたのは、浅草へ遊びにきていた下渋谷の若い女性なのだが、ほかにも12人の女性が被害に遭っていることが判明した。つづけて、報知新聞から引用してみよう。
  
 女性の裾袂を切て嗅ぐ男
 東京府下下渋谷一〇五佐藤よし(二十二)が盛装して浅草観音に詣で、仲見世通りを通行中、突然一人の男がよしの紋羽二重の、左の袂を鋭利な剃刀で切取た所を、通り掛つた象潟署の刑事が引捕へ取調べると、本年二月一日以来浅草公園に出没して、お座敷帰りの芸妓や、通行の婦人の袂を切てゐた犯人、本郷区動坂町二十六大谷利作(二十七)といふもので、十二名の婦人の袂切りを自白した。(中略)所持の紙包の中には郷里から持て来た娼妓の写真、浅草千足町二丁目三六三番地福島家の女ゆり子、美佐子と書いた名刺、六区の白首の名刺、其他洋食屋の女給の写真らしいのが二枚、芸妓の写真春画等が入つてゐたといふから、表面真面目を装つて盛んにやつてゐたものらしく、郷里の浜松で写した娼妓の写真を大事さうに了ひ込んでゐた所から見ると、上京前から其麼萌(きざし)があつたものと見える。
  
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 きわめつけは、旧・両国国技館(本所国技館Click!)で開かれていたイベント「納涼園」で、京風の舞妓や芸妓の美しい生き人形へ“けしからぬ”「暴行」を加え、そのまま気持ちよく寝入ってしまった、三井物産の印半纏(しるしばんてん)を着た中年男の怪事件だろう。いちおう警察へ突き出されたが、人間に対する「暴行」ではなく相手がマネキンClick!なので、刑事事件の何罪にあたるのか苦慮し、男の側にもほとんど罪の意識がなかったようだ。センセーショナリズムがお得意な、読売新聞から引用してみよう。
  
 芸妓の人形に暴行
 (前略)ト昨日の朝八時半頃、表口へ監督の木村小舟氏が出勤してみると、涼み台に腰掛てゐる舞妓の無心に輝く艶やかな顔は薄汚なく穢され、無残にも首の付け根は外れて仰向けに曲り、右側の掛茶屋に坐つてゐた潰し島田の芸妓は後ろざまに押し倒され、手も足もヘシ折られ、裾は乱れて落花狼藉。監督が吃驚して四辺を見廻すと、掛茶屋の縁の下に三井物産の印半天をを着た、三十位の男が前後も知らずぐつすり深い眠りに落ちてゐた。/犯人はテツキリ此男と監督が引ずり起して訳を聞くと、男は嬉しさうな顔で隠す所なく喋べり立てた。人形をよく検べてみると、成程二ツとも人形の腰の辺りは汚れ、きわびやかな帯も着物も見られたものでない。早速相生署に突出したが此男は、千葉県行徳伊勢福一一五〇早川小太郎(三十)といふもので、廿八日の夜見物して人形の美しさが忘られず、二十九日の午前三時頃引返し、表口の柵を乗越え忍び入て人形に暴行を加へ、其のまゝ疲れて寝入た者と判つたが、警察では殺人罪にも〇〇罪にも出来ず、変態性欲者として取扱つた。
  
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 人形に恋をし、「暴行」してしまったこのおかしな事件は、はたして江戸川乱歩Click!の作品へ格好のインスピレーションを与えやしなかっただろうか。ちなみに、大正の中ごろの江戸川乱歩は、落合地域の西隣りにあたる下戸塚の早大近くにいて、いまだ立教大学Click!近くには転居してきていない。乱歩が池袋へ引っ越してくるのは、1934年(昭和9)になってからのことだ。

◆写真上:旧・淀橋町柏木(現・北新宿)の街並みで、大杉栄・伊藤野枝Click!邸跡。
◆写真中上は、1906年(明治39)に竣工した大正期の2代目・新宿駅で、のぞき事件は同駅の共同便所で起きた。は、現在の新宿駅東口()と西口()。
◆写真中下は、牛込駅(飯田橋)方面から撮影された昭和初期の神楽坂。は、震災の壊滅的なダメージから復興した大正末の浅草寺仲見世通り。
◆写真下は、震災復興絵葉書にみる旧・両国国技館(本所国技館)のドーム(右上)。日本橋側から眺めた光景で、手前は大川(隅田川)と大橋(両国橋)。は、1933年(昭和8)撮影の新宿三越ショーウィンドウにみる和装のマネキン人形たち。


下落合を描いた画家たち・今西中通。(2)

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今西中通「夕暮れの橋」1930-32.jpg
 上落合850番地に住んでいた今西中通Click!の作品に、もうひとつ気になる画面がある。制作時期はハッキリしていないようだが、1930~1932年(昭和5~7)ごろとされ落合時代と重なる『風景(夕暮の橋)』だ。この画面を実景として眺めると、このような風景は昭和初期の落合地域には存在していない。しかし、画家の意図的な構成を前提に考えてみると、それぞれの情景には心あたりがあるのだ。
 すなわち、画面の構成要素をビル状の建物および住宅と手前の橋、そして夕陽が輝く背景空間の3要素としてとらえると、下落合には思いあたる風景が存在している。換言すれば、3つのモチーフとなる要素をそれぞれ部品として構成しなおし、画家の好みで配置しなおされた画面としてとらえるなら、この風景は下落合と上戸塚Click!の境界、旧・神田上水(現・神田川)に架かる橋のひとつに比定できるのだ。
 ちょうど、中村彝Click!が晩年に『カルピスの包み紙のある静物』Click!(1923年)で、壁龕(へきがん)のあるアトリエ西側の壁の「移動」を試みたように、また大久保作次郎Click!が描いた『早春(目白駅)』Click!(1955年)では、大きな西洋館を丸ごと北へ「移築」してしまったように、画家は自身のイメージや画面づくりのためなら、建物や空間をなんのためらいもなく別の位置へと移動し変更している。特に昭和期に入ってからの風景画の作風では、より自由な表現の希求と内面的なイメージの再現を前提に、その傾向が一段と強くなっている。
 今西中通は、1930年協会Click!の発展的解散から独立美術協会Click!へと表現場所を移し、戦前はフォーヴィズムからキュビズムの作風へと変化をとげる中で、徐々に画面へ構成的な要素が強くなっていく傾向がある。その様子を、1997年(平成9)に高知県立美術館が刊行した「没後50年 今西中通展」図録に収録されている、大河内菊雄『今西中通展に寄せて』から引用してみよう。
  
 またこの頃(1929、30年ごろ)、川口軌外を知り、家が近かったこともあって、しばしば訪れ、その影響を受けたようである。キュビズムに傾斜した作風に変わっていく。川口軌外はアンドレ・ロートの研究所で、キュビズムの造形理論を学び、またフェルナン・レジェの教えも受けてきており、申し分のないキュビズムの指導者であったろう。今西中通のフォーヴィックな画面の中に、次第に構成的な要素が加わり、1935年頃ともなると、明らかにピカソの影響がみられる。「顔をかしげる女」や椅子に腰かけた少女を描いた「作品」などが制作される。(カッコ内引用者註)
  
 今西中通の『風景(夕暮の橋)』は、川口軌外からキュビズムを吸収しだしたころの作品で、しだいに画面へ構成的な要素が増えてくる時期に描かれていることになる。
上落合851.JPG
川口軌外1937.jpg
 さて、落合地域に長く住んでいる方なら、画面の大きめな橋とビル状の建物のフォルムを見たら、すぐに「あすこしかないやな」と思いあたっただろう。わたしも画面を観たとたん、思い浮かんだ風景ポイントだ。しかし、「あすこにしちゃ、建物の位置や方角がちょいとおかしくないかい」とも感じたにちがいない。そう、思いあたる風景としては、朝陽と夕陽の方向が、つまり東西の方角がまったく逆なのだ。タイトルにある「夕暮の橋」は、「朝焼けの橋」のまちがいではないかとさえ思えてしまう。
 この橋は、上落合851番地の今西アトリエから妙正寺川沿いを歩き、さらに旧・神田上水(現・神田川)をたどりながら東へ1,700mほどいったところにある、下落合67番地(1930年現在)付近にある田島橋Click!ではないだろうか。田島橋は、高田馬場駅へと抜ける十三間道路計画Click!にからみ、大正末にはすでに鉄筋コンクリートの大型橋に架け替えられている。そして、描かれている建物は画面の構成上からか、やや東側にずらしてシルエット状に描写された、東京電燈谷村線Click!の目白変電所ではないだろうか。
 目白変電所と田島橋は、当時は多くの画家たちが写生ポイントとして訪れていたようで、少しあとの時代になると下落合2096番地の松本竣介Click!も、頻繁に田島橋Click!を訪れてはタブローやスケッチを仕上げている。落合地域に住む画家たちの間では、田島橋と目白変電所の風景モチーフは有名だったはずで、手塚緑敏Click!からでも教えられたのだろうか、今西中通が出かけたとしてもなんら不思議ではない。だが、今西は当時の制作姿勢から実景のとおりに描写するのを避け、目白変電所の建物の位置を田島橋のやや東側へずらし、夕陽が沈む方向を左右逆に、すなわち東西の方角を正反対に表現しているのではないか。うがった見方をするなら、目白変電所に朝陽があたる情景をスケッチし、それを夕暮れの情景に見立てなおして仕上げているのではないか。当時の今西がめざした表現を踏まえると、そんな気さえ強くしてくるのだ。
目白変電所1947.jpg
目白変電所1.jpg 目白変電所2.jpg
 今西中通の落合時代には、ほかに1931年(昭和6)に描かれた『風景(武蔵野)』と、1933年(昭和8)制作の『風景』がある。いずれも、アトリエのある上落合851番地から、それほど離れていない場所へ出かけて仕上げた作品のように思える。『風景(武蔵野)』は、地面がやや左に向かって傾斜している畑地を描いたもので、当時の落合地域の西部ではあちこちに見られた情景だろう。手前のイーゼルを立てている位置が高いことから、下落合の丘上からどこかの傾斜地に拡がる畑を描いているように見える。
 また、1933年(昭和8)の『風景』は、畑地Click!の中にそびえるケヤキとイチョウ(?)を描いている。手前の農家とみられる家屋と比較しても、2本の樹木はかなり巨大で、晩秋のころだろうか、葉が茶に変色し落葉の時期が近いことがわかる。画面の奥へいくにしたがって、地形が盛りあがっているように見えるので、妙正寺川が流れる上高田も近い落合地域の西部のどこかを描いたものだろう。
 この時期、今西中通は下落合に通う坂道を、おそらく頻繁に上り下りしていたにちがいない。その坂道うちの1本は、川口軌外Click!のアトリエがある下落合1995番地へと通う一ノ坂だったはずだ。上記の図録より、鍵岡正謹『今西中通 人と作品』から引用しよう。
  
 林芙美子と知り会った(ママ)と同じころに中通は、レジェの教えを受けて帰国し、落合に住んでいた川口軌外と出会い、赤堀佐兵らと教えを受けた。独立の第二グループといわれる川口がもたらしたのはフォーヴ風なイメージと物の生な表現ではなく、描く対象物からイメージの分離を計る(ママ)ような、純粋造型による絵画構築というキュービズムの造型思考であった。中通は1934年(昭和9)ごろから、こうした影響の下に多数の裸婦群像スケッチを繰り返し描いている。(カッコ内引用者註)
  
今西中通「風景(武蔵野)」1931.jpg
今西中通「風景」1933.jpg
 今西中通の『風景(夕暮の橋)』は、田島橋の北詰めにイーゼルを立てた彼が、実景として目に映る田島橋と目白変電所を見つめながら、「物の生な表現」をことさら避け、モチーフから主観をベースに「イメージの分離」を試行する、次の新たな表現へ向かおうと苦闘している、過渡的な画面のように思えてならないのだが……。

◆写真上:1930~1932年(昭和5~7)ごろに制作された、今西中通『風景(夕暮の橋)』。
◆写真中上は、上落合851番地の今西中通の旧居跡(左手)。は、1937年(昭和12)に下落合1995番地のアトリエで撮影された川口軌外。
◆写真中下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にとらえられた田島橋と目白変電所。は、2007年(平成19)に解体された目白変電所。
◆写真下:いずれも水彩作品で、1931年(昭和6)に描かれた今西中通『風景(武蔵野)』()と、1933年(昭和8)制作の同『風景』()。今西中通の作品画面は、いずれも1997年(平成9)に高知県立美術館から刊行された「没後50年 今西中通展」図録より。

落合・目白地域に伝わる「名刀」たち。

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 目白には、正宗をはじめ多彩な名刀類がそろっている。それは、刀剣の蒐集・観賞が趣味だった細川護立邸Click!が目白台にあったせいだが、現在でも同家の刀剣展が永青文庫で開かれると、ついフラフラと散歩がてら観にいってしまう。でも、きょうは由来や素性がハッキリし、戦後の進んだ研究や厳密な鑑定などで真作とされている同家の名刀類ではなく、落合・目白地域に伝わる「名刀」たちについてご紹介したい。
 まずは、下落合309番地にある御留山Click!藤稲荷社Click!に伝来する「名刀」について、金子直德が寛政年間に著した『若葉の梢』(『和佳場の小図絵』)の現代向け口語訳版、海老沢了之介による『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。
  
 藤稲荷社は、王子稲荷社よりも年暦が古く、むかし六孫源経基の勧請といわれ、御神体は陀祇尼天の木像で、金箔が自然にはげ、ところどころ朽ち損じ、木目が出、いと尊く拝せられる。年代はいかほどなるか不明であるが、およそ九百年も前のものだろうかといわれる。仕物には、正宗の太刀一振があった。
  
 「正宗の太刀一振」とあるが、鎌倉の相州伝「正宗」Click!の作が100振りあれば、その99振りまでが贋作、いや100振りすべてが贋作といわれるほど、この日本刀の最高峰に君臨する刀工の太刀(たち)と短刀の人気は絶大だ。その高い人気は室町後期から現代まで変わらず、武器としての斬れ味と美術品としての美しさにおいて、この刀匠をしのぐ作品はこの800年間にわたり出現していない。正宗が編みだした技法が、後代まで伝わらず不明とされているのも、同刀匠の技量を超えられない大きな要因だろう。
 おそらく、相模国(神奈川県)で産出するきわめて高品質な砂鉄と、それをカンナ流し(神奈流し)の仕組みで採集し、目白=鋼(はがね)を生成する大鍛冶(タタラ製鉄)の優秀さ、そして鋼を鍛え類例を見ない日本刀を産みだす新藤五國光や正宗、貞宗などに代表される鎌倉鍛冶の、新たに編みだされた相州伝を基盤とする高度な技術力と、3拍子がそろったからこそ創造しえた作品群なのだろう。
 室町末期から江戸時代にかけ、特に武家である将軍家や大名家の贈答品として正宗の人気は沸騰し、それでなくても数が少ない作品は巷間から姿を消した。明治以降、上野の国立博物館や各地の美術館に収蔵されていない正宗は、細川家のように元・大名の家々から作品を高額で譲り受け蒐集したもののみだ。また、下落合の近衛家にも、その売り立て目録Click!に掲載された刀剣類の質の高さから、公家の家筋とはいえ正宗の作品がまぎれこんでいたかもしれない。
 当然、人気が高く高額な正宗には、ニセモノが掃いて棄てるほど作られるようになる。その数たるや、日本画の応挙や大観、洋画なら岸田劉生Click!佐伯祐三Click!の贋作数をはるかにしのぐだろう。また、ホンモノと思われる作は家宝として秘蔵し、タダであげてしまう贈答品の用途には贋作とわかってはいても、それらしい作品を「正宗」に仕立てて贈り、贈られるほうもまた贋作と知りつつ黙って受け取るという、あえて形式的な慣習のために贋作を活用するようにまでなる。鎌倉の正宗は、自身の作品が観まちがえられるはずがないという自信からか、茎(なかご)にはほとんど銘を切らなかったといわれている。だから、「伝・正宗」ということで無名の太刀や短刀を、「正宗」に仕立てたケースも数が知れない。
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 さて、藤稲荷社に少なくとも江戸時代の寛政期まで伝わる「正宗」は、鎌倉時代の作らしく「太刀」と記録されている。だが、なぜ同作が室町期以降に造られた刀(打ち刀)ではなく「太刀」だと明確に規定しえたのだろうか? 金子直德の文章を素直に読めば、「太刀」と規定できる要因、すなわち「正宗」という太刀銘が茎(なかご)に切られていたらしいことがわかる。おもに鎌倉期以前の太刀と、室町期以降の刀(打ち刀)とでは、騎馬戦から徒歩(かち)戦という戦闘方式の大きな変化で用途がまったく異なり、腰に佩く(吊るす)と腰に指すの用法のちがいで表裏が逆だ。
 鎌倉期の太刀は、馬上で腰に佩いて(吊るして)用いるので、刃が下になる側の茎(なかご)面が表となる。だが、室町中期以降は刀(打ち刀)を腰の帯に指して持ち歩くので、刃が上になる側の茎が表面となる。だから、藤稲荷に伝来していた「正宗」は室町期以降の刀とは逆の茎面に、「正宗」とわかる銘が切られていた可能性がある。しかも、銘が残っているということは、太刀がほとんど摺り上げClick!られていない(江戸期の規制に合わせて短縮されていない)ことを意味しており、伝来の体裁としては鎌倉期に奉納され、そのまま江戸期まで伝わった……ということになりそうだ。太刀の長さ(全長ではなく刃長のこと)が不明だが、もし生茎(うぶなかご:制作当初の茎のままで手が加えられていないこと)であれば、鎌倉期の太刀は5尺(150cm)以上の作品がふつうなので、長大なものでなければおかしなことになる。
 この「正宗」が、現代に伝わっているかどうかは知らないが、おそらく贋作か「正宗」ちがいの作品だろう。室町期以前、古刀と呼ばれる日本刀のカテゴリーに正宗を名のった刀工は、1975年(昭和50)出版の『刀工全書』(藤岡幹也)によれば13名存在している。だが、ほとんどが室町期の刀工であり、刀銘ではなく太刀銘を切る刀工の数はおそらくもっと絞られるだろう。実見していないのでなんともいえないが、太刀造りで3尺(90cm)前後の長さの正宗の銘入りであれば、贋作の可能性がきわめて高いと思われる。わたしは現在、国宝や重文に指定されている銘入り(あるいは金象嵌名入り)、あねいは無銘の正宗が、下落合から発見されたという経緯を寡聞にして知らない。
 さて、雑司ヶ谷村あるいは高田村には、名主の家に伝来する「名刀」類が多い。1919年(大正8)出版の『高田村誌』(高田村誌編纂所)によれば、永禄年間より名主の中山本兵右衛門家に伝わったものに、「長光の刀」と「肥前の伊賀守脇指」がある。「長光」は、鎌倉後期の備州長船を代表する刀工なのだが、太刀ではなく「刀」と書かれているので室町時代の後代かもしれない。また、「大般若長光」と同人作として伝承されていたら、偽物の疑いが強いことになる。古刀期の長光は後代を含めて11名もおり、室町末期の戦乱期には数打ちもの(大量生産の粗悪品)らしい作品も見られる。
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 もうひと振りの「肥前の伊賀守脇指」は、ちょっとリアルな伝来作品だ。九州の肥前で、伊賀守を受領しているのは源菊平ひとりしか存在せず、晩年には「法橋伊賀守入道菊平」と銘を切ることが多かった刀工だが、この刀工が注目され人気が出るのはおもに近代のことであり、そのほとんどの作品は散逸して所在が明らかではない。だから、名主の中山家に伝わった菊平の脇指は、あえて真作の可能性が高いように思われる。『若葉の梢』が執筆された寛政年間を考えれば、地味な菊平の作品は“現代刀”だったろう。
 同じく『高田村誌』によれば、名主・平次左衛門(姓不明)家に伝来した刀に、「和泉守兼定鑓」と「國光短刀」が記録されている。「和泉守兼定」は、美濃を代表する関鍛冶のひとりで、おもに室町末期の戦闘に向く実用的な刀(打ち刀)を作りつづけた刀工集団だ。中でも「関孫六の三本杉」と呼ばれた互(ぐ)ノ目の2代・兼元がもっとも有名だが、実戦刀であるがゆえに関鍛冶の多くの作品は美術的な評価があまり高くない。
 和泉守兼定は、その中でも美術的な評価が高く、匂造りの地肌に銀砂を撒いたような小錵のついた、どこか相州伝を髣髴とさせる作風が美しく、特に二代目・兼定(通称「之定」)は鎌倉鍛冶の作品群とともに現在でも人気が高い。でも、江戸近郊の農村地帯に、希少な古刀期の和泉守兼定が伝わるとは考えにくく後代の可能性も高いのだが、刀ではなく「鑓(やり)」だというところに若干のリアリティを感じる。現在でもそうだが、太刀や刀、脇指、短刀に比べて鑓や長巻、薙刀の人気は決して高くはなかったので、蒐集家の数も限られていただろう。
 もう1作の「國光短刀」は、以前にこちらの記事でもご紹介した金山稲荷Click!の近くに工房を設けた、石堂派の墓所から出土したものだと思われる。「國光」を名乗る刀工は、古刀期には32人、新刀期には9人、新々刀期には3人ほどいるのだが、石堂家の墓所から見つかったとすれば室町以前となり、古刀期刀工32人のうちの誰かの作ということになる。だが、この短刀の作者が正宗の師匠格にあたる刀匠、相州伝の鎌倉鍛冶を代表する新藤五國光であったなら、正宗と同様に発見されしだい国宝または重文指定はまちがいないだろう。わたしは、高田や雑司ヶ谷に由来する新藤五國光の短刀は聞いたことがない。茎に後世の贋作とは思えない、自然なタガネ痕の「國光」銘があったとすれば鎌倉鍛冶ではなく、まったく異なる地域の刀工・國光だろう。石堂派が得意とした備前伝だが、備前鍛冶にも國光は古刀期だけで4人もいる。
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金山稲荷.JPG 金久保沢.JPG
 最後に余談だが、椿山Click!の東側にある目白坂にあった目白不動が、少なくとも戦前まで、刀鍛冶や金工師の崇敬を集めていたことがわかった。やはり、目白は江戸期に生まれた多様な付会を超えて、大鍛冶(タタラ製鉄)の鋼(はがね)に直結する地名であり、また目白不動の北側には神田久保(かんたくぼ)という小字があったのも判明した。神田は、日本語地名の“たなら相通”の法則にしたがえば、神奈(かんな)が転訛したものだと思われる。おそらく、目白崖線のあちこちでは急斜面を利用してカンナ流し(神奈流し)Click!が行なわれていたのであり、雑司ヶ谷の金山は神奈山(カンナやま)、金川は神奈川(カンナがわ)、さらに目白駅のある金久保沢は神奈久保沢(カンナくぼさわ)と呼ばれていたのだろう。しかも、神田川(旧・平川)をはさんだ南の戸塚側(早稲田側)にも、金川(神奈川)が流れていたことがわかった。もし時間があれば、このテーマは今年の夏休みの宿題として、ぜひ記事に書いてみたい。

◆写真上:「正宗」の太刀が伝来していた、下落合の御留山にある藤稲荷社。
◆写真中上は、収蔵品のほとんどが国宝・重文・重要刀剣に指定されている細川家の刀剣展が開かれる永青文庫。は、透彫りの護摩箸と独特な身幅から短刀の中では出色の「包丁正宗」。は、正宗の師匠格にあたる新藤五國光の短刀だが何代目かは不明。
◆写真中下は、備前長船長光の代名詞となっている「大般若長光」。は、最近の女性には圧倒的な人気らしい2代・和泉守兼定(之定)。は、あまり作品が残っていない肥前の伊賀守菊平の作でめずらしい太刀と茎の太刀銘。
◆写真下は、1955年(昭和30)ごろに撮影された御留山の藤稲荷社。は、清土鬼子母神堂がある神田久保の谷間。下左は、宅地造成で崩された雑司ヶ谷の金山。下右は、目白駅西側の谷間に通う金久保沢の階段。

下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(4)

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 静岡の江﨑晴城様Click!より、曾宮一念Click!の「下落合風景」と思われる画面を再びお送りいただいた。江崎様が、8月から佐野美術館で予定されている『曽宮一念と山本丘人 海山を描く、その動と静』展Click!(2015年8月22日~9月27日)の図録を執筆される際、出展が予定されている作品の中から『荒園』Click!(1925年)と同一の額に入れられ、『塀のある道』とタイトルされた作品を発見されている。
 わたしも本作を見るのは初めてで、作品の制作年は不明だが、その表現は明らかに中村彝Click!の影響を受けた印象派風の色づかいをしている。美術家の知人に見せたところ、『荒園』よりも制作が少し古いのではないかと指摘されたので、同一の額に収められているとはいえ、むしろ制作年は曾宮一念が諏訪谷上にある自身のアトリエを、浅川邸Click!の塀を入れて描いた『夕日の路』(1923年)の時期に近いのではないかと想定している。
 さて、1923年(大正12)前後の曾宮一念といえば、下落合623番地Click!にアトリエを建ててから2年がすぎ、盛んに周囲の風景画に取り組んでいたころだ。1925年(大正14)の冬に描いた『冬日』Click!や『荒園』が、同年9月の二科樗牛賞Click!に選ばれるまで、曾宮一念はアトリエ周辺に拡がる下落合の風景を精力的に描きつづけている。しかし、1923年(大正12)とはいえ、このような緑の濃い風景は下落合の東部、あるいは目白通りに近いエリアでは、なかなか見られなくなっていただろう。すでに落合府営住宅Click!をはじめ、目白文化村Click!近衛町Click!近衛新町Click!と立てつづけに宅地造成が行われ、それなりにモダンな住宅群が建設されているので、畑地や森を開発して整地した赤土がむき出しの、新興住宅地然とした風情のエリアが増えていたと思われる。
 したがって、『塀のある道』の描画ポイントは、下落合の中部から西部にかけてのどこかではないか?……と想定するところからスタートした。画面を観察すると、手前から奥へと伸びる狭い山道が少し傾斜して上り気味であり、右手には道を切り拓くときにできたとみられる小さな崖(切通し状)が見えている。その小崖の向こうには、明らかに西洋館と思われる赤い瓦を載せた住宅の切妻が見える。前方の地形は、やや落ちこんで樹木の上半分が見えているような感触で、やや左にカーブする道を登りきるとともに、再び下りの斜面が拡がるような気配が濃厚だ。
 光線は左手から射しており、西洋館の切妻の向きを考慮すると手前か、あるいは左寄りの方角が南である可能性が高い。左手に連なる板塀は、設置されたばかりではなく、少なからず時間の経過を感じさせる。また、塀の向こう側には樹木がないとみられ、西寄りの陽射しが遮られずにそのまま射しこんでいるのがわかる。おそらく塀の中は広めに拓け、庭園か畑が拡がっているのではないかと想像することができる。
曾宮一念「塀のある道」拡大.jpg 見晴坂1923.jpg
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 さて、このような風情や建設されている家々を前提に、1923年(大正12)ごろの下落合全域を考えてみると、1箇所だけ思いあたるポイントがあり、該当する地形や方角、道、家々の存在を想定することができる。すなわち、この描画ポイントから見て北西に拡がる丘上に、1922年(大正11)から次々と建てられる目白文化村の西洋館群を意識し、翌年あたりから同じようなモダンな邸宅群が建ち並びはじめる、見晴坂の丘上あたりの情景だ。すなわち、手前の道は中ノ道Click!から北へと上る見晴坂つづきの丘上の道であり、正面に見えるくぼんだ地形は目白文化村の第一文化村から第二文化村の南辺へ、東西に円弧を描いて貫通する市郎兵衛坂筋の道が通う、現在は十三間道路Click!(新目白通り)によってほとんど消滅した浅い谷間の斜面だ。
 左手の塀は、下落合に早くから住んでいる下落合1752番地のドイツ人・ギル邸Click!(のち津軽伯爵邸)であり、中央右手にポツンと描かれた赤い屋根に白い外壁の西洋館は、下落合1756番地の宇田川銀太郎邸(の一部)ではないかと思われる。ギル邸のギル夫人は日本が気に入り、髪を黒く染め着物姿でしじゅう街中を歩いていたらしく、目立つせいかあちこちで目撃されている。彼女は、広い庭園に花畑を作るのが趣味だったようで、隣接する中谷邸にはギル邸から株分けされたモッコウバラClick!が、現在でも5月になると黄色い花を咲かせている。
 ギル夫人は近所の人たちへ、よく庭園に咲く草花の株分けをしてあげていたようなので、それを聞きつけた曾宮一念がギル邸の花畑を見学に訪れ、その途中で『塀のある道』の風景モチーフを発見したものだろうか。自宅で庭いじりが好きだったらしい曾宮は、ギル夫人からなにか花の株か球根を分けてもらっているのかもしれない。
 このギル夫人について、1966年(昭和41)9月10日の「落合新聞」第40号へ、竹田助雄Click!が書いた記事から引用してみよう。
  
 大原には大正末期から箱根土地が目白の文化村を造成、戦後の各所につくられる文化村とちがって高度の文化住宅がつくられ、東京の名所として一躍有名になった。この文化村の独逸人のギル夫人などは髪を黒く染め、和服にて、歩き方まで内股で大へんな親日家。わざわざ黒髪を赤くそめ、膝小僧のみえる短いスカートで闊歩する現代娘、四十年の流れはこんなに変るものかとつくづく感じ入る。
  
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 ギル邸があったのは目白文化村ではなく、第一文化村からは南東に拡がる丘上に屋敷をかまえていたのだが、それがいつの間にか津軽義孝邸へと変わっている。おそらく、ギル夫人はドイツへ帰国したか、あるいは死去しているのだろう。津軽邸について、1992年(平成4)に出版された名取義一の私家版『東京・目白文化村』から引用してみよう。
  
 “落合一小”の西側に谷があり、右側近くに「箱根土地」の建物が見えた。で、この校舎の西側奥に一入目立つ洋館があった。/星野邸や神田家辺からは、東方へ二、三分歩くと、当時、雑草だらけの空地が多く、子供の足では歩き悪く、その杜の中にこの洋館があった。/大人たちは「あれは外国人が、ギールさんが住んでいる」と言っていた。/それが知らぬ間に「津軽義孝伯爵が住んでる」ということになった。陸奥・津軽藩主は、代々のうちよく養子を迎えたが、この義孝氏も大垣・徳川家から入ったのである。氏は徳川義寛・侍従長の実弟、同義忠・元陸軍大尉、また北白川女官長の実兄に当る。
  
 1926年(大正15)の「下落合事情明細図」をみると、いまだ大きなギル邸が採取されているが、1938年(昭和13)の火保図には、ギル邸の敷地が丸ごと津軽邸へと変わっている。おそらく、昭和初期に住人の入れ替えがあったのだろう。文中に出てくる大垣・徳川家Click!は、津軽邸から目と鼻の先にある西坂上に邸をかまえており、当然、両家には密接な交流があったと思われる。
 曾宮一念が『塀のある道』を制作してから数年後、佐伯祐三が1本西側に通う六天坂Click!から中谷邸を見上げるように『下落合風景』Click!を制作しているとみられ、また六天坂と見晴坂とを結ぶ道筋の、“くの字”に折れ曲がった道の風景Click!も描いたとみられる。だが、曾宮が描いた『塀のある道』は、関東大震災Click!により大量の市街地住民が郊外へ押し寄せる直前ないしは直後の風景であり、このあと下落合の風情は大正末へ向けて激変をつづけ、見晴坂と六天坂の形状自体も大きく変化しているのが地図などでも歴然としている。曾宮一念の『塀のある道』は、いまだ明治期からつづく緑豊かで深い森の面影を残した、起伏の多い下落合の姿をとらえた最後の作品のひとつかもしれない。
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中谷邸.JPG 佐伯祐三「下落合風景」1926頃.jpg
 大正の当時、ギル邸や津軽邸、中谷邸、宇田川邸などが建っていた見晴坂や六天坂の丘上は、「翠ヶ丘」と呼ばれていたようだが、宅地開発が進むにつれて森が次々と伐採され、昭和初期になると六天坂の西側は通称「赤土山」と呼ばれるようになる。そして、1941年(昭和16)ごろから本格化する改正道路Click!(山手通り)の工事により、丘の西側斜面が丸ごと失われ、“対岸”の丘上に拡がる目白文化村の街並みとは、深く掘られた山手通りをはさみ、すっかり分断されることになった。
 余談をひとつ、昨年(2014年)の5月から約1ヶ月にわたり、英国のBBCが下落合のタヌキClick!を取材していたが、ようやく先ごろ番組が完成した。BBCとNHK協同制作の自然ドキュメンタリー番組『Wild Japan 第1集・本州~荒ぶる自然と響きあう命』Click!というタイトルで、明日7月27日(月)の午後8時からNHK BSプレミアム(103ch)で放送される。下落合のタヌキが、どのぐらい時間で取り上げられるのか不明だがとても楽しみだ。

◆写真上:1923~25年(大正12~14)ごろの制作とみられる曾宮一念『塀のある道』。
◆写真中上上左は、同作に見える西洋館部分の拡大。上右は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる描画ポイントあたり。は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみるギル邸界隈の様子。
◆写真中下は、下落合1752番地あたりの描画ポイントの現状。すでに道は直線に修正され、大正末ごろから突き当たりに鋭角のクラックが造成されたとみられる。突き当たりは下り斜面であり、画面の右手も下り斜面という地形だ。は、1923年(大正12)に描かれた曾宮一念『夕日の路』()と、1925年(大正14)制作の『荒園』()。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる津軽邸と見晴坂界隈。下左は、いまでもギル邸に咲いていたモッコウバラが美しい中谷邸。下右は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『下落合風景』(制作メモ9月18日の「黒い家」か?)。大正末に整備された六天坂と見晴坂を結ぶ、“くの字”カーブのクラックを描いていると思われる。

近衛町の藤田邸(本邸)を拝見する。

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藤田本邸1914頃.jpg
 きょうは近衛町2号Click!、すなわち下落合417番地に建っていた藤田邸(本邸)をご紹介したい。正確には、近衛町2号という表現は適切ではなく、藤田本邸は1922年(大正11)に東京土地住宅が近衛町Click!を分譲する以前から、すなわち1914年(大正3)ごろからすでに下落合417番地の同敷地へ建設されていた。現在でも近衛町にお住いのご子孫である藤田孝様Click!から、貴重な資料類をお見せいただいた。
 さて、ここで気づく重要なテーマがある。東京土地住宅Click!によって近衛町が販売される以前から、その近衛町エリアに住宅を建てて住んでいた人たちの存在だ。近衛篤麿Click!によって建設された近衛旧邸の敷地内に、少なくとも1920年(大正9)には建っていた岡田虎二郎邸Click!とともに、藤田本邸も早くから建設されていたことになる。岡田邸(虎二郎の死後は岡田礼子邸Click!)は、近衛旧邸Click!の寝室近くの上に建っており、藤田邸は近衛旧邸の正門西側にあった門番宅の跡に建設されている。
 換言すれば、近衛旧邸は大正の半ばごろに解体され、その屋敷跡の分譲を近衛文麿が、東京土地住宅の常務取締役・三宅勘一とのコラボで近衛町事業をスタートする以前に、敷地の一部を手離しているのではないか?……という課題だ。当時、近衛家の家計は火の車だったと思われるので、その可能性はかなり高そうに思える。
 藤田本邸は目白通りから南へ入り、近衛旧邸の正門があった位置のちょうど右手、現在の近衛町交番(下落合3丁目駐在所)から十字路をはさんで対角線上の向かい(南西側)に建っていた。敷地の広さは300坪余で、表通りに向いて東側に門と玄関があり、ハーフティンバーが目立つ北欧式デザインのファサードが特徴的な大きな屋敷だった。南側には、屋敷林に囲まれた東西に長い芝庭があり、子どもたちが遊ぶのには格好の“広場”だっただろう。藤田孝様の祖父にあたる、明治生命(現・明治安田生命)の社長だった藤田譲様が1914年(大正3)ごろに建てたものだ。建築当時は、同社の取締役に就任したばかりだった。
藤田邸建築中.jpg
応接室.jpg 庭園01.jpg
ゲーム室or喫煙室.jpg 庭園02.jpg
 当時の様子を、ストリートビュー風に再現してみよう。大正初期の清戸道Click!(のち明治通り)からやや坂になった道を南へ折れ、馬車がかろうじてすれちがえる未舗装の三間道路を歩いていくと、右手(西側)には大正末に近衛新邸が建設される近衛邸の森があり、森を透かして目白中学校Click!(東京同文書院Click!)の校舎が見え隠れしていたかもしれない。さらに南へ歩くと、左右には雑木林が拡がっているが、西側の一画には狭い路地があり、突き当たりには近衛家から土地を購入して邸宅を建てたばかりの、舟橋了助邸Click!が樹間に見えている。
 やがて、正面には近衛旧邸(近衛篤麿邸)の大きな門の跡が見え、三間道路はほぼ直角に西へと折れている。この道を西へ進むと、近衛家の落合遊園地Click!(林泉園Click!)からつづく深い谷間の橋をわたって、やがて相馬孟胤邸Click!正門(黒門)Click!前へと出る。近衛旧邸の門跡の右手(西側)には、竣工したばかりの大きな藤田本邸が建ち、門跡から正面を見ると近衛旧邸の玄関前にある馬車廻しの緑地が2つ、中央にそのまま残っている。ただし、現在の近衛町に残る小さな車廻し跡の様子とはだいぶ異なり、緑地のロータリーは大小ふたつのサークルに分かれ、多くの馬車が集合しても渋滞しないような工夫が施されていた。
 1914年(大正3)現在、近衛旧邸がそのまま解体されずに建っていたかどうかはハッキリしないが、1/10,000地形図で見るかぎり1918年(大正7)まで近衛邸のかたちが採取されている。だが、同地形図および修正図は新築の家屋が採取されていなかったり、また、とうに解体されて存在しない家屋がそのまま掲載されたままだったりと、決してリアルタイムの状況を反映していない。少なくとも、岡田虎二郎が近衛旧邸の寝室があったあたり、すなわち近衛町の敷地番号でいうなら近衛町6号(下落合404番地)に自邸を建設している1920年(大正9)以前には、すでに解体されて存在しなかったように思える。
近衛町測量図(昭和初期).JPG
藤田本邸青写真.jpg
庭園03.jpg 庭園04.jpg
庭園05.jpg 庭園06.jpg
庭園07.jpg T型フォードリムジン.jpg
 もし、近衛旧邸がそのまま建っていたとしたら、藤田本邸の2階からは屋敷林を透かして、その全体像がよく見わたせただろう。また、もし解体されてしまったあとだったとすれば、周囲が森に囲まれたその部分だけポッカリと空き地が拡がり、のちの東京土地住宅による近衛町分譲を予感させる風情だったのかもしれない。
 さて、藤田譲様は子どもたちが成長すると藤田本邸だけでは手狭になったのだろう、近衛新邸が建っていたエリア、すなわち目白中学校Click!練馬へ移転Click!したあとの、校庭南側一帯の土地(下落合456番地)を改めて近衛文麿Click!から購入し、藤田譲邸をはじめ東西横並びに子どもたちの邸宅を建設している。その敷地は1,000坪を超える広さがあり、もっとも西側にあった藤田譲邸から三男・藤田信雄邸、四男・藤田義雄邸、鶴見憲邸(長女・藤田英邸)と東へ一列に並んでいた。鶴見邸のすぐ西側には、舟橋了助邸(のち舟橋聖一邸Click!)と近衛新邸Click!(別邸)が隣接していた。
 1945年(昭和20)4月13日の夜半、第1次山手空襲で藤田邸群はなんとか延焼をまぬがれている。つづけて5月25日夜半の第2次山手空襲では、近衛新邸や舟橋邸のある東側から火災が迫り、いちばん東側に位置していた鶴見邸が焼失しているが、西に連なる藤田邸群は戦後までなんとか無事だった。米軍のB29偵察機が、1945年(昭和20)5月17日に撮影した空中写真に、かろうじて4軒並んで建つ最後の邸群の姿を確認することができる。
藤田邸19450517.jpg
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近衛町1988.jpg
旧藤田義雄邸.JPG
 さて、戦後まで残った藤田邸群だが、その後、いちばん西側の旧・藤田譲邸と次の旧・藤田信雄邸は建て替えられてまったく新しい住宅になっているが、西から3番目の旧・藤田義雄邸は現在も当時の美しいままの姿をとどめており、下落合を散歩をするわたしの眼を変わらずに楽しませてくれている。

◆写真上:1914年(大正3)ごろに建設された、下落合417番地の藤田譲邸。
◆写真中上は、建築中の藤田邸の様子で2階部中央に藤田譲様の姿が見える。は、応接室や喫煙室(ゲーム室?)など庭内外の様子。
◆写真中下は、昭和初期に作成された近衛町測量図にみる藤田本邸の位置(近衛町2号)。は、藤田本邸建築時の正面立体図青写真。は、藤田邸の南側の芝庭。下右端は、藤田邸の前に停まる明治生命の役員送迎用の自動車。運転手つきで、大正中期に輸入されたT型フォードリムジン。
◆写真下は、1945年(昭和20)5月17日に撮影された第2次山手空襲直前の藤田邸群。中上は、1947年(昭和22)に撮影された下落合456番地の藤田邸群で東端の鶴見憲邸が焼失している。中下は、1988年(昭和63)に撮影された近衛町周辺。手前右手の茶色い四角の建物が旧・藤田譲邸跡で、つづけて左へ旧・藤田信雄邸跡、旧・藤田義雄邸、旧・鶴見憲邸跡、そして舟橋聖一邸。右手奥に見える緑地は、旧・相馬邸跡の御留山(おとめ山公園)。は、現在でも見ることができる美しい旧・藤田義雄邸。

高田八幡(穴八幡)は穴だらけ。

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穴八幡01.JPG
 下戸塚にある高田八幡が、江戸時代の1641年(寛永18)秋に発見された洞窟によって、通称「穴八幡」とよばれるようになったことは、以前にこちらでもご紹介Click!している。しかし、その穴の形状がどのようになっていたのかは、詳細にはご紹介していなかった。改めて江戸期の資料を参照すると、穴八幡が実は“穴だらけ”だったことがわかる。
 当時は神仏習合が進み、八幡神と八幡大菩薩(本地は阿弥陀如来)を信仰する高田八幡の社僧・良昌という人物が、社の境内に草庵を建設しようと整地作業をしたところ、にわかに横穴が出現した。この横穴のサイズはそれほど大きくなかったが、奥へ進むと約3m四方の広さの空間が出現し、そこには2体分の骸骨(遺体)と金銅製の小さな阿弥陀仏が奉られていた。この洞窟の形状から、良昌は古墳の羨門あるいは羨道部を掘りあててしまったのであり、奥にある広い空間は玄門から玄室にかけての遺構ではないかと推定することができる。
 また、2体の骸骨は、古墳本来の被葬者のものであり、奉られていた金銅の阿弥陀仏は、室町期以前にもこの洞窟が一度発見され、その際に遺体を確認した発見者(高田八幡社あるいは周辺に展開する寺社の関係者かもしれない)が、墓域だと認識して安置した可能性がある。さらに、被葬者とみられる2体の人骨には、貴金属や宝玉など副葬品と思われる記録が存在しないので、早くから盗掘にあっていた古墳を連想させる。
 江戸の寛政年間に金子直德が記録した『若葉の梢』(『和佳場の小図絵』)の現代向け口語訳版、海老沢了之介による『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。
  
 この年の秋に草庵を結ぼうとして、山の腰をならしていたところ、掘り崩した山の底の方に小さな穴が現れた。その口は狭いが、奥は深くて広く、九尺四方に余る程もあった。その中に御丈三寸ばかりの金銅仏があって、石の上に安座していた。その像の前に小さな瓶一つあり左右に人間の骸骨が多くあった。それを取りのけ、かの仏像は世の常のものと異なっていたから、良昌僧都はこの仏像を守り尊んで、お厨子にうつし本社に納めた。この時から誰いうとなく、このお宮を穴八幡宮というようになった。
  
 この記述から、穴八幡のすぐ南側、戸山ヶ原(当時は和田戸山と呼ばれていた)にあった尾張徳川家の下屋敷からも、横穴に阿弥陀如来像を奉った「洞阿弥陀」Click!が出現していることが想起される。このあたり一帯に展開した古墳群の、羨道あるいは玄室が室町期以前にいくつか発見され、そこに阿弥陀仏を奉るという事蹟があったのではないだろうか。下戸塚(早稲田)の宝泉寺にゆかりのある室町期の僧、昌蓮による「百八塚」Click!の伝承を連想させる。
 また、穴八幡の楼門下にも横穴があり、おそらく穴が深くて内部の気温が低かったのだろう、「氷室大明神」の祠が奉られている。実際に氷室として使われたかどうかは不明だが、氷室大明神として奉られていたのは出雲神のオオナムチ(=オオクニヌシ)だった。さらに、氷室大明神の南東側(当時)にあった、放生池のある小丘の麓にも、小さな横穴が出現している。氷室大明神の横穴について、同書から引用してみよう。
  
 氷室大明神祠 本社に相対し、盛徳の二字を彫った額を揚ぐ。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)で、疱瘡を治する霊神である。出現堂 これは穴八幡の出現地に建てたお堂で、楼門の下にある。ここには寛永十八年に穴から出現した阿弥陀如来像を安置してあった。(中略) 弁財天堂(海老澤了之介註) 弁財天を祀る社殿は退転して、放生池の傍らの洞穴中に祀ってあった。名所図会の第二図に見える光松の下の洞がそれである。
  
穴八幡02.JPG 穴八幡03.JPG
穴八幡羨道.jpg
 だが、これらの羨道とみられる横穴や玄室とみられる奥部の空間は、かなり規模が小さいものだ。約3m四方の玄室だとすると、想定できる古墳レベルからいえば、せいぜい直径が20~30mほどの、たとえば上落合にあった浅間塚古墳Click!のような小塚クラスのものだろう。以前にもご紹介しているが、穴八幡社の境内全体を前方後円墳だと想定している、地元・早稲田の郷土史家Click!の方々には恐縮なのだが、とても大型古墳の羨道や玄室とは思えなかった。
 たとえば、穴八幡社の北側に隣接して築造されていた、地元の富士講Click!の信者たちから高田富士Click!に改造され、本来は水稲荷が奉られていた100m前後の前方後円墳・富塚古墳Click!(現在は早大のキャンパス下になっている)を見れば、その規模のちがいが明らかだ。富塚古墳の玄室に用いられていた房州石Click!の一部が、甘泉園公園に隣接する現在の水稲荷社本殿の裏に保存されているが、そのスケールからすると玄室の大きさはかなりの広さをもっていたであろうことが推定できる。部屋の広さにたとえると、少なくとも6畳間ほどはあったのではないだろうか。したがって、穴八幡社の由来となった羨道とみられる横穴や、玄室と思われる空間の規模の小ささを知ってガッカリしかけた。
 ところが、当時の穴八幡の様子や地形をスケッチした、長谷川雪旦の挿図による『江戸名所図会』を参照すると、非常に興味深いことがわかる。穴八幡から出現した横穴のうち、少なくとも2箇所はいずれも穴八幡社の参道や拝殿、本殿が建立されている境内の南側に展開していた、小丘の斜面から出現しているのだ。つまり、これらの小丘は穴八幡社の境内を主墳(全長150mほどの前方後円墳を想定できる)とみなせば、その後円部の外側を取り巻くようにデザインされた、陪墳なのではないか?……という仮説が成立する。『江戸名所図会』には、穴八幡社が描かれた境内の手前に、少なくとも3つの小塚が描かれている。そして、そのうちの左端の小丘には穴八幡の由来となった「出現地」の横穴が描かれ、中央の麓に放生池がある小丘にもまた横穴(洞弁天)が描かれている。
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 そして、穴八幡の楼門へと上る階段の左手にも、氷室大明神(オオナムチ)を奉った横穴が描かれている。しかし、氷室大明神の洞窟は、穴八幡の境内を主墳とみなすのならば、妙な位置に掘られた横穴であり、下落合の横穴古墳群Click!と同様に古墳時代末期あるいは奈良初期の、他の古墳群とは別に少し後代になってから造営された墓域なのかもしれない。
 穴八幡社の境内南側に展開する小丘群を陪墳とみなせば、境内へ登る階段や楼門、参道の大半が後円部、拝殿や本殿、神輿蔵などが連なる位置が古墳の正面となる前方部ということになる。だが、高田八幡社(穴八幡社)の造営は早い時期に行なわれているため、土木工事の途中でどのようなものが出土したかは、もはや詳らかでない。
 穴八幡社境内の南側に並んだ、陪墳群と想定することができる小丘は、戸山ヶ原へと抜ける道路の拡幅造成のため、明治期以降に大半が崩され本来の放生池も埋め立てられている。現在の風景でいうと、穴八幡社や放生寺と早稲田大学の文学部キャンパスとの間にある道路上には、直径が20~30mほどの陪墳群とみられる小塚が連なっていた。
 余談だけれど、幕府の練兵場だった高田馬場Click!の東側には、和田戸山(尾張徳川家下屋敷方面=戸山ヶ原のこと)へと抜ける古い鎌倉街道が通っていた。ちなみに、この地名からも哲学堂Click!和田山Click!および周辺に拡がる「和田」地名と並び、このあたり一帯が鎌倉期前後から和田氏と深いかかわりがあったことがうかがわれる。江戸期になり高田馬場ができると、この鎌倉街道沿いには山吹の里やホタル狩りへと向かう遊山客めあてに、茶屋が8軒ほど並ぶことになる。その茶屋に設置された囲炉裏には、盛んに房州石Click!が用いられていたことが『若葉の梢』の「馬場の茶屋町」座談会で、子孫が語る証言として記録されている。
  
 茶屋当時を偲ぶ記念品としては、ただ一つあります。それは房州石で造った、田楽や団子を焼く爐であります。戦時中までは藁家根造りの六畳二間続き、四尺廊下の凝った茶屋の離れがありましたが、強制疎開で取毀されました。今思えばおしいことをしました。
  
和佳場の小図絵01.jpg 和佳場の小図絵02.jpg
穴八幡04.JPG
 わざわざ茶屋の囲炉裏のために、房総半島の先端から石を切りだしてきたとは思えないので、近くに“余っていた”房州石を活用したのだろう。その房州石とは、南関東では多くの古墳で使用されている、羨道や玄室を形成するための“結構”としての房州石ではなかったか? 「百八塚」の伝承が色濃く残り、戸塚という地名が別名「富塚」あるいは「十塚」と表現される理由が、自然にストンと腑に落ちる事蹟だ。

◆写真上:後円部を均して設置されたとみられる、楼門上から陪墳群が連なっていたとみられる東側を見下ろした風景。高田八幡はほとんど発掘調査がなされていないので、境内下には房州石で築造された羨道や玄室が残っている可能性がある。
◆写真中上は、陪墳群があったとみられるあたりの現状。は、南側に接した陪墳のひとつ(現・放生寺境内)が出現した阿弥陀洞。3m四方の玄室へ通じる羨道とみられ、手前に転がっている石は結構に用いられた房州石の可能性が高い。
◆写真中下は、天保年間に描かれた長谷川雪旦による高田八幡(穴八幡)。は、1947年(昭和22)に撮影された穴八幡社と富塚古墳。は、1955年(昭和30)ごろ撮影された水稲荷社と高田富士(富塚古墳)。後円部の墳丘上を均してその中心に水稲荷社を建立し、本殿裏の西寄りの位置に溶岩を積み上げて高田富士を築造した様子がわかる。
◆写真下は、早稲田大学に所蔵されている金子直德の『和佳場の小図絵(若葉の梢)』。は、1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲で全焼したが1998年(平成10)に50年ぶりに復活した穴八幡社の楼門。

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