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台所へ全自動新式ポンプの普及。

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哲学堂.JPG
 以前、大正期に普及した、井戸の揚水ポンプClick!について書いたことがある。清廉な地下水が豊富な落合地域では、荒玉水道Click!が近くに引かれていても、家庭での生活水は井戸水が主流だった。生活への地下水利用は、下落合では1960年代までつづいている。
 大正期に普及した井戸水の活用方法は、まずポンプで地下水をくみ上げて、高い位置に設置した水道タンクへ一時的に蓄え、その落差による圧力を利用して家庭の蛇口まで給水するという方法だった。この方式は、各家庭の井戸に限らず、山手の新興住宅地でうたわれた「水道完備」という設備でも同様で、大型ポンプを使い地下水をくみ上げて大規模なタンクへ貯水し、そこから各住宅に給水していた。目白文化村Click!で採用された「水道」設備もこの方式で、第一文化村の水道タンクClick!と第二文化村の水道タンクClick!がこれまで確認できている。
 でも、この方式ではポンプのメンテナンスに加え、貯水タンクの清掃や保守の仕事が発生してしまうため、特に家庭では維持作業の手間やランニングコストがかさんでしまい、昭和に入るとより簡便な給水設備のニーズが高まっていった。
 そこで登場したのが、モーターの小型化と馬力の増加によって実現した、全自動式電気ポンプだった。大正期の給水設備と大きく異なるのは、貯水タンクがまったくいらない点で、井戸の揚水パイプと、家庭内の各室へ給水する水道管とを、電気ポンプを介して直接結ぶという仕様だった。つまり、水道の栓をひねれば、自動的にモーターが作動し、蛇口からくみ上げたばかりの井戸水が流れるという仕組みだ。したがって、水を一度貯水タンクへ蓄えることによる水質の悪化や、タンクの錆などが混じることによる水質劣化の課題を解決できるというわけだ。
 また、ポンプの小型化は、稼働音が小さくなると同時に、それまで屋外の井戸端に設置されていたポンプを、家庭内の都合のいい場所へ持ちこめるようになった。屋外にさらされていたポンプは、モーターやベルトの傷みが早かっただろうが、風雨が当たらない屋内に設置すればライフサイクルの伸長にもつながる。特に、モーターの小型化と静音化は台所の隅へ持ちこめるため、使い勝手が格段に向上したようだ。
 1928年(昭和3)発行の「主婦之友」2月号に掲載された、工学博士・北澤俊夫による「新時代の台所に配する電気喞筒(ポンプ)と換気用扇風機の話」から引用してみよう。
  
 井戸の深さによつて二種類ありまして、井戸水面迄の深さ十五六尺位迄に適するものは浅井戸ポンプで四分一馬力。又五六十尺から百尺位迄の深さにも利用出来るものは所謂深井戸ポンプで半馬力です。此二つの中間の深さに適する様に設計されたものもあります。/揚水量は一時間四石から六石位が普通でありまして、家族一人当り一日使用水量は平均一石以下ですから、四五人の家庭では電気ポンプ一日中に一時間以内の運転で事足りる勘定であります。世間ではポンプと謂ふと高い所に水槽を置かねばならぬものゝ様に考へてをりますが、此頃では圧力水槽をポンプに付属して高架水槽不要のものが新式とされてをります。其作用は全然自働的で、水栓を開いて水を使用し始めると、電気がかゝつてポンプの運転が始まり、水の使用をやめ水栓を閉ぢると、ポンプは自動(ママ)的に停止するやうになります。
  
目白文化村水道タンク.jpg 旧池田邸水道タンク.jpg
 この新式電気ポンプの導入で、真冬に屋外の貯水タンクや水道管の水が凍って、水道を使用できなくなるという事故が少なくなるメリットも挙げている。また、郊外の住宅地ばかりでなく、東京市街地の住宅でも水道代を節約するために、新式電気ポンプがかなり流行していたようだ。そこには、モーターの小型・静音化により、住宅が密集した地域でもポンプ音がさほど気にならない……という利便性もあったのだろう。
 また、イニシャルコストはやや高めでも、新式ポンプを複数導入することで、水を大量に使用する病院や学校、旅館、下宿、料理店、自動車屋(タクシー業)などでは、減価償却ののち水道料金と電気料金とを比較した場合、かなりのコスト削減ができると予測している。これは、新式ポンプが電圧の高い電力線Click!ではなく、照明と同じ電燈線で稼働する仕様になっていたため、省電力設計のスペックを意識したものだろう。
 ちなみに、全自動新式ポンプの価格は、当時の日立一号浅井戸ポンプ(四分ノ一馬力単相モートル、圧力水槽、自働スヰツチ付)が240円、日立三号深井戸ポンプ(半馬力単相モートル、圧力水槽、自働スヰツチ付)が300円だから、かなり高価だったことがわかる。このほか、家庭への導入には配管設備費と工事費がかかり、だいたい100~150円ほどだったらしい。日立一号浅井戸ポンプを家庭に導入すると、今日の価格では80万~100万円ぐらいの感覚だろうか。
浅井戸ポンプ.jpg 深井戸ポンプ.jpg
防災井戸(新宿区).JPG 防災井戸(杉並区).jpg
 さて、昭和初期に家庭への導入がはじまったものに、換気用の電気扇風機=換気扇がある。当時の家庭でも、魚や肉を焼いた臭いが台所ばかりでなく、居間や応接室にまで入りこんで臭気が抜けない悩みを抱えていた。また、台所ばかりでなくトイレの消臭などにも、昔ながらの煙突型をした空気抜きが用いられていたが、この装置の欠点は屋外に風が吹いていないと上部の風車がまわらず、なかなか臭いが抜けない点にあった。しかも、魚を焼いた強烈な臭いなどの場合は、ほとんど効果がない「換気」装置だった。
 また、せっかくオシャレでハイカラな意匠の西洋館を建設しても、台所やトイレなどから煙突状の空気抜きが、ニョキニヨキと空へ突き出しているのが、みっともなくて美観を損ねるということで、かなり以前から課題になっていたらしい。新式の換気用扇風機は、これらの課題を一気に解決する便利な家電として、昭和初期に登場してくる。同誌の記事から、つづいて引用してみよう。
  
 そこで換気用扇風機を台所に取付けると、建築美を害せず理想的の換気が出来ます。費用の一例として日立換気用電気扇風機は金弐拾八円で、其取付けは壁に孔を明けて据付ける丈けですから訳なしです。そして卓上扇風機同様電燈のソケツトから運転が出来ます。
  
 金28円ということは、今日の価格だと5万円をちょっと超えるぐらいの感覚だろうか。昭和期に入ると、米国やドイツなど海外メーカーの高級輸入家電製品Click!ばかりでなく、国内メーカー製の家電品が続々と開発・発売され、一部のおカネ持ちばかりでなく、一般の庶民でも手がとどくほど、製品の低価格化が徐々に進んでいく。
佐伯祐三「風のある日」臭い抜き.jpg
空気抜き.jpg 換気用扇風機.jpg
 当時の主婦之友社では、誌面で紹介したさまざまな家電を自社のモデルルームへ陳列し、来店した読者へそれらの実演のデモを行っていた。また、あらかじめ同社へ予約しておくと、設置したい家電の種類に応じて専門の相談員が応接する、コンサルテーション業務も開始している。もちろん、日立をはじめ当時の国内家電メーカーとタイアップした、新しいコラボ事業のひとつだったのだろう。

◆写真上:落合地域や周辺域の井戸に多く残る、昔ながらの手動式ポンプ。
◆写真中上:双方とも1960年代に撮影された下落合の情景で、水道タンク仕様の揚水設備のある第一文化村の西洋館()と谷間のユリさんClick!のお隣り邸()。
◆写真中下は、全自動の浅井戸ポンプ()と深井戸ポンプ()。浅井戸ポンプは流しの左下に写る機械だが、深井戸ポンプは家庭内へ持ちこむにはまだサイズが大きい。は、防災用として常設された現代井戸で停電を前提に手動式ポンプが付属している。
◆写真下は、佐伯祐三Click!『下落合風景』Click!の1作「風のある日」(部分)に描かれた、トイレの換気用と思われる空気抜きの突起。下左は、大正から昭和期には一般的だった空気抜き。下右は、台所に設置された換気用扇風機で現在の換気扇と変わらない。


「どんど焼き」=「せいとばれえ」と街道名。

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氷川明神社1.JPG
 以前、清戸道(せいどどう:『高田村誌』1919年より)や清土(せいと)などの街道名あるいは地名の音(おん)にからみ、街道沿いに展開する齊(塞)ノ神にまつわる火祭りの神事Click!について書いたことがある。それは、おもに室町期から江戸期にかけ各地に設けられた、道標を兼ねる庚申塚や道祖神などにより、村々へ厄病神が入りこまないよう、また道中で疫病に罹患しないように祈念する、素朴な“防疫結界”への信仰から生まれている。
 毎年、正月すぎの小正月(1月15日)になると、家々で飾られていた厄除けの注連縄や松・竹飾り、守り札、破魔矢などを持ち寄り、それをできるだけ高く積み上げて燃やす火祭りが、いまでも全国各地で行われている。江戸東京では、この火祭り神事を「どんど焼き」(おもに旧・市街地=江戸市内の方言)、あるいは「さいと払い(祓い)」(おもに江戸郊外の方言)と呼ばれている。「さいと」の「さい」は、疫病や厄を封じこめる齊(塞)ノ神の「齊(塞)」だと思われるのだが、「と」は「戸」あるいは「土」の字が当てられていたものだろうか。つまり、齊(塞)ノ神(の依り代)によってふさがれ、封じこめられていた疫病神や厄病神たちを、年に一度の火祭りによって一気に“神送り”する、つまり“厄払い”をすることから、「さいと払い」と呼ばれるようになったのだろう。
 ちょっと余談だけれど、鉄板の上へ小麦粉に混ぜた具を盛りあげ、焼いて食べる“お好み焼き”のことを、東京の神田・日本橋・浅草界隈(本所・深川もかな?)の方言では「どんど焼き」と呼んでいた。これは、明らかに小正月に行なわれる、正月に用いた縁起物の品々を高く盛りあげて焼く、火祭りにちなんだ名称だと思われる。うちの親父は決して食べなかったが、それはどんど焼きやもんじゃ焼きは、子どもがオヤツ代わりに食うものであって、大人が食事の代わりにするなどもってのほか……というような、戦前の(城)下町Click!の食文化に関する美意識や慣習が厳と色濃く残っていたからだろう。小腹が空いたので、わたしがお好み焼きを作って食べていると、「どんど焼きはガキの食いもんだ」とバカにされたことがある。
 さて、どんど焼きに関するもうひとつの呼び名として、東京地方には「さいと払い(祓い)」というのがある。ただし「さいとばらい」は本来の意味を含む正式名称であって、おそらく江戸期以前からだろう、この地方特有の方言から「さいとばらい」は「せいとばれえ」と呼ばれるようになる。「払い(祓い)」の「はれえ」または「ばれえ」への転訛は、「あそかぁさ(あそこはさ)はれえ(払い)が悪(わり)いからな」と現在でもちょっと品のない東京弁Click!でつかわれているように、容易に元の意味が想像できるのだが、「せいと」のほうはいつしか本来の音はおろか意味さえも忘れ去られ、さまざまな異なる文字(漢字)が各地で当てはめられているのではないか?……というのが、わたしのコアにあるテーマなのだ。
清戸道1.JPG
清戸道2.JPG
 さて、そんな街道沿いの齊(塞)ノ神を奉った多彩な石像(道祖神・庚申塔など)や、小正月の「せいとばれえ」の火祭り神事を意識しつつ周囲を見まわしてみると、江戸期までに落合地域のあちこちで「せいとばれえ」が行なわれていたことがわかる。まず、江戸時代の寛政期(1987~93年)における、下落合の氷川明神社Click!で行われていた火祭りの様子を、金子直德『和佳場の小図絵』(『若葉の梢』)から引用してみよう。ただし、原文は非常に読みにくいので1958年(昭和33)に出版された、海老沢了之介の解題による『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。
  
 正月十三日など往来に縄を張って、齊の神とて銭を往き来の者から乞うて、〆縄などを焼いて祭りをする。/左義長(さぎちょう)は正月十五日に行われる。三毬打とも書く。松竹・〆縄などを積んで、はやしたてながら焼く。また爆竹ということも十五日に行われるが、これは竹を焼いて邪陰の気を祓うのである。爆はヒバシルと読む。竹が火に焼かれて、大きな音を立て、疫気を祓い除くということが、『荊楚歳時記』に見えている。/祭神は稲田姫命(奇稲田姫命)であって、女体の宮と称している。
  
 現在の氷川明神社では、特に「せいとばれえ」の火祭りは行われていないが、その代わり焚き火をする直径1mほどの大きな鉢を拝殿脇に設置し、1月の間じゅうそこで火が焚けるようにしてある。わたしは、正月の三ヶ日に破魔矢をそこで焼いてしまうが、おそらく故事を踏まえた近隣の地付きの人たちは、小正月(1月15日)になると松や竹、注連縄、守り札などを持ち寄っては積み上げ、火をつけて「せいとばれえ」をしているのだろう。毎年、ちょうどその時節になると、焚き火鉢の周囲には4本の笹竹が立てられ、注連縄をわたした結界が張られている。
下落合村絵図.jpg 左義長.jpg
実測東京全図1880.jpg
 落合地域の西部でも、江戸の寛政年間まではこの火祭りが行われていたことがわかる。イザナギとイザナミの第七天神Click!が奉られていた、下落合の御霊社(中井御霊社)の近くに設置されている道祖神の前で、「せいとばれえ」は行われていた。つづけて、海老沢了之介『新編若葉の梢』から金子直德が記録した、寛政年間の様子を引用してみよう。
  
 この村に御霊の社があって、上下の御霊の宮には、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二神が祀られている。またこの辺に道祖神(さいのかみ)がある。その前で正月のお飾りを焚くのが例である。次にいう齊の神は無授道祖神であろう。
  
 ここで留意したいのは、御霊社の主柱(祭神)が江戸期と明治期以降とではまったく異なっている点だ。おそらく、1870年(明治3)に発布された大宣教令Click!=神仏分離・廃仏毀釈のとき、あるいは1906(明治39)の神社合祀令の信条弾圧Click!が加えられた際のいずれかに、政府による圧力や脅しで社(やしろ)自体が廃止される存立の危機をかわすために、あえて主柱を“全とっかえ”したケースではないかとみられる。
 また、江戸期にはイザナギとイザナミの2柱ほか、どのような神々が伝わっていたのかに興味が湧く。関東では、西日本の「御霊伝説」とは本質的に異なり、「御霊」は後世の当て字とみられ、もともとは鎌倉と同様に「五郎伝説」にからんだ五郎社Click!ではなかったかという、かなり説得力のある説が以前から存在するからだ。
 さて、「せいとばれえ」の火祭りだが、おそらく江戸期以前のはるか昔から、街道沿いの村落や寺社などの聖域でつづけられていたとみられるため、疫病や厄を除ける縁起のよさも手伝って、街道の通称として、あるいは神事がおこなわれるその地域や土地の字(あざな)として、「せいと」または「さいと」の音が用いられることはなかっただろうか。
氷川明神社2.JPG
中井御霊社.JPG
 「せいと」や「さいと」には、その時代ごとにさまざまな漢字が当てられ、「成都」「西都」「清戸」「清土」「青戸」「青砥」「勢井戸」……など多彩な地名が形成されているのではないだろうか。そして、ひとたび漢字が当てはめられると、字のもつ音(おん)や意味がひとり歩きをはじめ、現在では別の音に転訛しているか、あるいはおもに江戸期にほどこされた付会により、まったく別の地名由来になってしまっている可能性もありうる。そして、落合地域を通る現・目白通りの旧名は「清戸道」であり、雑司ヶ谷と関口の間を抜ける現・不忍通りもまた、「清土道」と呼ばれていた。

◆写真上:江戸寛政期には境内で「せいとばれえ」(どんど焼き)が行われていた、祭神がクシナダヒメ1柱だった落合総鎮守・下落合氷川明神社。
◆写真中上は、綾瀬までつづく古道で「清戸道」と呼ばれていた現在の目白通り。は、長崎の清戸道分岐(右側)で「練馬街道」とも呼ばれている。
◆写真中下上左は、幕末に作成されたとみられる「下落合村絵図」。上右は、小正月に行われる典型的などんど焼き(せいとばれえ)の様子。は、1880年(明治12)に作成された「実測東京全図」に描かれている清戸道(現・目白通り)。
◆写真下は、下落合氷川明神の拝殿で焚き火鉢は青いバケツが見える左手に設置されている。は、江戸期の祭神は第七天神だったとみられる中井御霊社。

牧歌的でやがては必死の近衛町の記憶。

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近衛町の丘.jpg
 近衛町に住む藤田孝様Click!は、物心がつくころから自邸のある閑静な周辺エリアを遊び場にしていた。その中には、隣家だった安井曾太郎邸(アトリエ)Click!の敷地へ遊びに行ったエピソードなど、忘れられない想い出がたくさんあるそうで、戦前・戦後の近衛町の風情をうかがいがてら、お話しいただいた。
 下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の近衛町に建っている藤田邸Click!(近衛町7号Click!)は、ちょうど安井曾太郎アトリエClick!の東隣りにあたる。1934年(昭和9)に安井邸が建設される以前は、1920年(大正9)ごろから岡田虎二郎(礼子)邸Click!が建てられていた。岡田虎二郎Click!が死去したあとも、藤田邸に保存された1932~34年(昭和7~9)ごろに作成されたとみられる「下落合壱丁目四壱七番地拾弐号測量図」には、いまだ岡田礼子邸の記載が残っている。おそらく同図が作成された直後に、安井曾太郎が敷地を購入してアトリエ兼自邸を建設しているのだろう。
 安井曾太郎邸の正門は、東西の袋小路が通う南側にあったのだが、藤田邸とは細い路地と裏門(裏木戸)を通じて繋がっていた。現在、この細い路地は存在していないが、少なくとも安井邸があった当時までは、藤田邸側から安井邸敷地へと入ることができた。その様子は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」でも確認することができる。藤田孝様は、この裏木戸を通り抜けては安井邸へ遊びに行き、はま夫人や子どもたちと焚き火を楽しんでいた。もちろん、焚き火では焼イモが作られ、童謡の「たきび」や「里の秋」を唄っては焼きあがりを待っていた。下落合の西隣り、上高田の竹垣のある“ケヤキ屋敷”の風情を歌詞にした「たきび」が、いまだ下落合でもリアルに感じられる時代だっただろう。
 山手線が近いのに、ホタルが飛びかいキジやタヌキが路上を横切るような時代だった。ホタルは、いまでも御留山(おとめ山公園)で育てられており観賞会が毎夏開かれているし、タヌキたちも下落合の全域(中落合・中井含む)で健在だけれど、さすがにキジは飼われているもの以外は見たことがない。また、夏になるとヘビが寝室の蚊帳の中へよく入ってきたそうで、そのたびに大騒ぎになったらしい。場所にもよるけれど、下落合ではいまでもヘビが家の中へ侵入してくる。うちでは、ヤモリを追いかけていたアオダイショウClick!が風呂場へ落ちてきて、女性陣を除き愉快で楽しい1日となった。
 藤田様によれば、こちらでもご紹介している帆足邸Click!では、馬糞や牛糞から発生するメタンガスを台所のエネルギー源にしていたようで、帆足理一郎教授Click!が近衛町の路上に落ちているそれらを、よく“回収”しているのを目撃している。動物の糞をタンクに貯め、発生するメタンガスをうまくコントロールし、台所のガスレンジへ応用していたものだろうか? なにごとにも合理的で実質主義を重視する、米国帰りのみゆき夫人Click!によるアイデアなのだろうか。メタンガスの制御装置も、わざわざ米国から輸入した最新システムなのかもしれない。昭和期に入ってからも、近衛町には馬車や牛車が頻繁に往来していたのがわかる。また、帆足邸の道をはさんで東隣り、花王石鹸の長瀬邸Click!の開放的な庭へ入りこんで、藤田様はよく遊ばれていたようだ。
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近衛町杉邸.JPG 近衛又学習院昭和寮.JPG
藤田邸火保図1938.jpg
 このような、のどかな近衛町の光景は戦時中にはすべてが失われた。2006年(平成18)に発行された『私たちの下落合』(落合の昔を語る集い・編)に掲載の、藤田孝「太平洋戦争~戦後の想い出」から引用してみよう。
  
 昭和二十年に入ると、夜になれば空襲(警戒)警報のサイレンが響かない日は一日もないといってよい状態だった。やがてB29の爆音がし、それに続いて爆弾の爆発音が聞こえてくる。焼夷弾の投下が始まると、私たちは防空頭巾や鐡かぶとをかぶり、防空壕に身を隠したり、逃げまわったりしていた。/ある夜は、暗い夜空にB29が火ダルマになり、やがてそれが墜落してくるのが見えた。それはまるで自分の頭の真上に落ちてくるように思われたが、何とかそれは免れて、すぐ二、三軒向こうぐらいのところに落ちたように感じた。だが後で聞いたところでは、その墜落場所は七、八百メートル先の大正製薬の工場(現大正セントラルテニス場?)のところということだった。
  
 この空襲は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!の状況で、下落合の住宅地はB29の絨毯爆撃により最東部の近衛町はもちろん、市街地の大半が焼失する大きな被害を受けている。このとき、まだ国民学校2年生だった藤田様が目撃されたのは、池袋上空で撃墜されたB29の1機で、墜落機体は松尾德三様Click!が勤労動員で飛行機のマグネットを製造していた、高田南町2丁目(学習院下)の国産電機工場Click!を直撃している。また、落合地域の上空で撃墜されたもう1機のB29は、麹町の住宅街へ墜落した。現・藤田邸は幸運にも、同夜の空襲による延焼をまぬがれ、また硫黄島や近海の空母から飛来する戦闘機によるピンポイント的な爆撃も受けず、同年8月15日を迎えている。
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国産電機19450517.jpg
 敗戦ののち、早々に米軍機によるドラム缶に詰めた救援物資の投下がはじまっている。しかも、このドラム缶投下は近衛町に建っていた学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブ)を目標にしたと思われ、この時点で米軍は抑留者収容施設(POW/PW Camp)の位置、すなわち国際聖母病院Click!の所在地をハッキリと把握していなかった様子がわかる。藤田様の「太平洋戦争~戦後の想い出」からつづけて引用してみよう。
  
 そんな或る日、私は何となく旧学習院昭和寮(現日立目白クラブ)の前の道にたたずんでいた。その時、突然飛行機の爆音が近づいたかと思う間もなく、大きな機影が超低空で姿を現し、私の立っている道路の十数米先に筒状の物体を投下した。とっさに何か連絡する為の通信筒だろうと思ったが、それに続いて数機の爆音が轟き、得体の知れない大きな固まりがドスンという音と共に落下するのが見えた。私はその筒状の物を拾いに走ったが、それをどうしていいのか判らず、頭が混乱するばかりで、多分後からかけつけた巡査の手に渡したような気がする。/大きな固まりは近づいてみるとドラム缶で、パラシュートがついていた。それから次々とドラム缶があちこちにドスン、ドスンと地ひびきたてて落下するのを呆然と眺めていた。/そのドラム缶の一つの裂けた口から、カンヅメとか食品らしきもの、マッチ類、その他いろいろなものがこぼれ落ちていた。それからしばらくして、まわりは混乱の極となった。血相を変えた大人達がかけつけ、その品々をドラム缶の中から次々に取り出し、かかえ込んでいた。/省線(山手線)の架線にパラシュートがからまり、電車の警笛音が鳴り響き、急停車するのが見えた。戦災で周辺の家がみな焼失してしまい、遮るものが何もなかったので、丘の上のこのあたりから線路のほうが手に取るように見えたのだ。
  
 先日、米国立公文書館が公開した1945年(昭和20)8月28日(日本時間29日)の、聖母病院に対する救援物資の投下写真(連続写真)を入手した。これは、8月28日(米国時間)から300機以上の救援機(B25とB29が主体)を動員して本格的にスタートした、米軍による正式な「捕虜収容所および抑留者収容所に対する救援作戦」の際に撮影された写真類だ。救援機は、屋上に「PW」と書かれた聖母病院の上空を旋回しながら、パラシュート付きの救援物資を正確に敷地の近くへ投下している。
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大森捕虜収容所19450830.jpg 仙台捕虜収容所19450912.jpg
 しかし、野坂昭如の『アメリカひじき』でも記録されているとおり、米軍の救援物資投下は、本格的な救援物資投下作戦が8月28日(日本時間29日)からスタートする以前、各地の米空軍の“現場判断”で早いところでは8月15日の午後からすでに開始されており、山手線や近衛町へ救援物資を落とした米軍機は、いまだ聖母病院の位置さえ知らない段階で、下落合に残る大きめな建物(近衛町では学習院昭和寮)に向けて投下しているように思われる。つまり、ポツダム宣言を受諾して日本が無条件降伏をするのを見こし、POW/PW Campへの救援物資を準備していた前線部隊が存在していることだ。これについては後日、米軍の公開写真や資料とともに詳しくご紹介したい。

◆写真上:雑司ヶ谷道(新井薬師道)から眺めた、近衛町42・43号南面のバッケ。
◆写真中上は、1955年(昭和30)に撮影された近衛町を貫通する南北の三間道路。中左は、1923年(大正12)建設の旧・杉卯七邸Click!で先年解体された。中右は、1928年(昭和3)建築の学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)の本館。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる藤田邸と安井曾太郎アトリエ。
◆写真中下は、小石川の住民が撮影した池袋上空で撃墜され高田南町2丁目(学習院南側)へと落下する米空軍第313航空団6爆撃群のB29(機体No.42−63558)の光跡で、墜落機体は国産電機工場を直撃した。は、1945年(昭和20)5月17日に撮影されたB29が墜落する直前の国産電機工場。道をはさんだ東側の大正製薬工場は、すでに4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失しているのが見てとれる。
◆写真下は、1945年(昭和20)5月17日に米軍偵察機によって撮影された近衛町。は、1945年(昭和20)8月30日に行われた大森捕虜収容所()と、同年9月12日行われた仙台捕虜収容所()に対する救援物資投下。

下落合東部のの国防婦人会アルバム。

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国防婦人会氷川社前1.jpg
 下落合にも戦時中、大日本国防婦人会Click!の下落合分会が存在している。国防婦人会の中央幹部たちの顔ぶれをみると、たとえば総本部の役員のうち女性が5名なのに対し、男性は6名(陸軍軍人×5名・海軍軍人×1名)と半数以上が男で、しかも全員が軍人だった。女性幹部は軍人の妻が多いのだが、「婦人会」という名はついていても実質は男の軍人たちが運営を牛耳る、陸海軍の外郭団体のようなものだ。
 これは、地域の国防婦人会でも同様で、たとえば下落合東部分会の例では、会長ひとりが女性で、残りの幹部である参与3名が全員男だったのをみれば、その内実は明らかだろう。1941年(昭和16)11月現在、国防婦人会の下落合東部分会の会長には兒島盛子という女性が就いている。太平洋戦争へ突入する直前だが、その少し前までは七曲坂の大島邸Click!に住んでいた、子爵で陸軍大佐だった大島久忠の夫人・大島千代子が就任していた。
 さて、日米開戦直前に、国防婦人会下落合東部分会の兒島盛子会長は、どのような思いを文章に書いていたのだろう。おそらく、1941年(昭和16)の暮れも押しつまった時期に出版されたとみられる、下落合東部分会編の写真帖『記念』から引用してみよう。
  
 満州事変を動機として結成されたる大日本国防婦人会は、津々浦々まで行渡り飛躍的大発展を見つゝありましたが、支那事変の勃発にあたり、各地の組織を拡大強化するの必要上、当分会は昭和十二年九月二十六日八百六十八名の会員を以て発会式を挙げ、陸軍大佐大島子爵夫人千代子殿を分会長に擁し、積極的に活動を開始しました。(中略) 斯くして事変処理の完遂と東亜共栄圏の確立に邁進する、大国策に順応する有力婦人団体の一翼として、蓮績不断の活動を継続し皇軍の戦力を増進し皇国を不動の態勢に置かんとする秋、世界大動乱激化の情勢に突き進み、各婦人団体一致結束して大日本婦人会に統合にらるゝにあたり当分会記念のため此の写真帖を領つことゝ致しました。
  
 はからずも、「大国策に順応する有力婦人」と表現しているが、戦争に反対しつづけた女性たちは、とうに特高Click!憲兵隊Click!から弾圧されてはいたか、あるいは参政権を持たない戦争に消極的な多くの女性たち、つまり「大国策に順応」しない婦人たちClick!もゴマンと存在していたわけだが、戦後、国防婦人会の幹部だった「大国策に順応する有力婦人」たちは、大日本帝国の破産・滅亡という「亡国」状況の招来と、混乱をきわめた社会をどのように眺め、認識し、総括していたものだろう?
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 さて、大日本国防婦人会は、具体的にどのような活動を地域で行なっていたのだろうか? おもな活動内容としては、次の5つのテーマに分類できるだろう。すなわち、出征兵士への奉仕、出征兵士の家族および遺族への奉仕、「国防思想」の学校などへの普及、軍事教育・演習への協力、兵器工廠や陸軍病院への奉仕……の5つだ。
 の活動では、出征兵士の歓送激励や戦地への慰問品づくりなどが行われた。よく、記録フィルムやドラマなどで、出征兵士を近くの駅まで小旗をふりながら「♪勝って~くるぞと勇ましく~」と、白い割烹着にタスキ姿の女性たちが見送る、あの光景だ。だが、下落合の自治組織・同志会Click!による出征兵士の激励会と同様、町内から同時に徴兵される人たちの数が激増すると、すべての歓送会をていねいにこなす余裕がなくなり、国防婦人会の会長や幹部の代理出席というかたちで行われた行事も、少なからずあったのではなかろうか。
 戦地への慰問は、慰問袋の中にお菓子や薬、石鹸、お守り、手ぬぐい、下着、内地の写真などを、「武運長久」の手紙を添えて送る活動だが、これも日米戦が激化するとともに戦地へ送ることさえ、そもそも不可能になっていく。また、負傷や病気で帰還した兵士への慰問は、入院している傷病兵のもとを直接訪ね、嗜好品などを手わたしたり見舞いの言葉をかける仕事だった。
 の奉仕は、戦死した家族のもとを訪問して、弔慰や「名誉の英霊への感謝と喜び」を表したり、男手がなくなった出征兵士の家庭を援助したりする活動だ。は、町内の学校などで講演会や映画会を開催し、「国防思想」を広めるための活動だった。また、町内の家庭から戦費を効率よく調達するための貯蓄組合を組織し、国民貯蓄奨励運動なども展開している。は、学生や生徒などが行う軍事演習(教育演習)などに協力し、演習に必要な物品を購入しては学校へ寄付する活動だ。は、近くの兵器工場や陸軍病院へ出かけ、工員や職員の補助的な作業を手伝う奉仕活動だった。
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 下落合東部分会の写真帖『記録』には、氷川明神社の拝殿前で撮影された、「聖業完遂祈願式」の記念写真とともに、中国の戦地で負傷した帰還傷病兵への慰問活動が撮影されている。慰問活動は、1940年(昭和15)5月28日に行われた、傷病将士慰安会の余興である「和田邸いちご摘み」と、おそらく1941年(昭和16)に落合第四国民学校(現・落合第四小学校)で開かれた、傷病将士慰安会の模擬店の様子がとらえられている。
 和田邸とは、おそらく元・同志会Click!の副会長をつとめていた和田義睦のことだと思われ、写真には下落合585番地に建っていた和田邸と思われる西洋館が写っている。1944年(昭和19)12月13日に、米軍によって撮影された空中写真を見ると、和田邸の南側には広い庭園があるので、そこでイチゴを栽培していたものだろう。庭にテントを張り、帰還した傷病兵たちを招いて、摘んできたイチゴをその場で食べる……というようなイベントだったのだろう。ひょっとすると、音楽の演奏や動員された小学生たちの合唱などもあったかもしれない。
 落合第四小学校での行事は、国防婦人会が用意した甘味類を、校庭に設営された模擬店で傷病兵たちにふるまうというイベントで、当時の同校の校舎や校庭Click!がとらえられている。模擬店を見ると、紅白の幕が張られた下に机やイスが設置され、そこで出されていた甘味はみつ豆だったようだ。生徒たちの絵画が貼られた教室で撮られた、模擬店を企画・準備したとみられる国防婦人会の記念写真がめずらしい。どこかまだ余裕のある、ほのぼのとした雰囲気が漂っているが、このわずか3年後に落四小学校の校庭では、不安な顔つきをした学童疎開Click!の生徒たちが、空襲を予感するひきつった親たちの顔とともに並ぶことになる。
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 このアルバムが発行されてから、今年で74年めを迎えるわけだが、国防婦人会の役員をつとめた家庭には、いまだ写真帳『記念』が残されているだろうか? それとも、1945年(昭和20)の敗戦を境に、押しいれの奥深くにしまわれたままか、あるいは『記念』というタイトルとは裏腹に、1日でも早く忘れ去りたい記憶のため、早々に焚き火へくべられてしまっただろうか。

◆写真上:1941年(昭和16)11月1日に氷川明神社の拝殿前で撮影された、「聖業完遂祈願式」記念写真に写る大日本国防婦人会下落合東部分会の役員たち。
◆写真中上:同下落合東部分会の役員で、会長を除きあとは男の「婦人会」だ。
◆写真中下は、冒頭の写真と同時期に氷川明神社の拝殿前で撮影された「聖業完遂祈願式」記念写真。は、1940年(昭和15) 5月28日に下落合585番地の和田邸で行われた傷病将士慰安会余興「いちご摘み」。下左は、1944年(昭和19)12月13日に米軍の偵察機が撮影した和田邸。下右は、落合第四国民学校で開かれた傷病将士慰安会模擬店。
◆写真下:同じく、落合第四国民学校で開かれた傷病将士慰安会模擬店の記念写真。

1945年(昭和20)8月29日の下落合上空。

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 1945年(昭和20)8月15日に、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏をした直後から、下落合上空には米軍機が低空飛行で姿を見せるようになった。米軍は、下落合670番地の国際聖母病院Click!「敵性外国人」Click!として抑留された人々がいることを把握しており、食糧や医薬品などの救援物資を投下Click!しはじめている。
 敗戦日をはさみ、東京の郊外がどのような状況になっていたのかを、勤労動員で工場の作業に狩りだされていた、当時は高校生(現・大学教養課程に相当)の証言を聞いてみたい。2015年(平成27)に、落合の昔を語る集いから刊行された『私たちの下落合』(増補版)に収録された、斎藤昭様Click!による「わが思い出の記」から引用してみよう。
  
 もうその頃には、制空権は完全に日本側にはなく、グラマンというアメリカの小型戦闘機がわが物顔の低空飛行で飛び回り、うっかりすると機銃掃射を仕掛けてきたりすることもありました。パイロットの顔が肉眼で見えるほどの低空飛行で、これはひじょうに恐ろしいものでした。空襲を受けたとき、ふだんは威張っている軍の配属将校が真っ先に逃げるのが目について、仲間と笑ってしまったこともあります。/やがて八月十五日がやってきました。正午にラジオで天皇の重大放送があることが新聞で報じられていて、昼食の時間に山の中腹の小屋に全員が集められました。ラジオの性能が良くなかったせいか、天皇の言葉がところどころしか聞き取れず、ほとんどの人は何の放送だったのかはっきりしないようすでした。ただ「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」というところが印象的に聞こえたので、「戦争に負けたということかな」と友だちと小声で話し合いました。
  
 ここでもまた、さっさと持ち場を放棄して動員された学生たちの退避誘導もせず、真っ先に逃げ出す配属将校の姿が記録されている。
 さて、敗戦直後から落合地域の上空へ姿を見せはじめた救援機だが、当初は焼け残った建物のどれが聖母病院なのかを、米軍のパイロットが正確に把握していなかったとみられ、東は山手線沿いの学習院昭和寮Click!から、西は目白文化村Click!(おそらく落合第一小学校Click!の校舎が目標)まで、広範囲にわたりパラシュートを装着してドラム缶に詰めた救援物資を投下している。敗戦直後の不正確な救援物資の投下については、以前の記事Click!にも書いたとおりだ。山手線の送電線にパラシュートがひっかかり、電車をストップさせている下落合の東端から、落合第一小学校が近くにある第一文化村のエリアまで、米軍機は広い下落合のおよそ4分の3ほどの範囲に、支援物資の詰まったドラム缶をバラまいている。
 この救援物資の投下は、同年8月28日から9月20日まで(日本時間8月29日~9月21日)、300機を超える米軍のB29あるいはB25を用いて実施された(機体も救援機仕様に塗装し直されている)、米軍将兵の捕虜または“敵性外国人”が収容されているPOW CampあるいはPW Campへ向けた、本格的な「救援物資投下作戦」よりも前に行われた、個別散発的な投下のように思われる。実際に、上記の米軍による統一的で大規模な作戦が実施される以前、たとえば野坂昭如『アメリカひじき』の記録にみられるように、敗戦直後(8月15日の午後)から米軍各部隊の“現場判断”で捕虜収容所などに対して行われた、救援物資の投下ケースが各地で見られるからだ。
 だが、日によっては救援物資のドラム缶に、パラシュートを装着しないでそのまま投下したケースもあり、そのドラム缶の直撃を受けて聖母病院の東200mと少しのところ、下落合570番地にある歯科落合医院(幡野歯科医院)Click!の子息が死亡するという事故も起きている。これは、上記の8月28日から9月20日(米国時間スケジュール)まで行われた、系統だった「救援物資投下作戦」の一環ではなく、イレギュラー的な救援活動のように思える。なぜなら、上記の大規模な作戦では救援物資の投下方法がマニュアル化され統制的かつ画一的に行われており、パラシュートなしでドラム缶をそのまま投下する事例は考えにくいからだ。また、米軍が正確に国際聖母病院の位置を把握したのは、少なくとも聖母病院側が黒っぽいシートへ「PW」と明るめのカラーで文字を描き、屋上へ拡げた同年8月28日(日本時間8月29日)前後ではないかと思われる。
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 敗戦直後に行なわれた、救援物資が投下される様子を『私たちの下落合』に収録された、堀尾慶治様Click!の「目白文化協会のことなど」から再び引用してみよう。
  
 戦後まだ一週間か二週間ぐらいの頃(八月二十八日といわれています)、午後突如米軍機の編隊が低空で飛来して来ました。何事かと見上げていると胴体の下部が爆弾倉のように開くのが見えて、そこから太く丸い筒状の物が多数投下され、それが地面に激突して飛び散りました。/恐る恐るそばにいって見ると、太くて丸いのはドラム缶を二つ縦につなぎ合わせて円筒状にし、その中に物資を詰め、前後に板で二重に蓋をしただけのものでした。遠くから見れば一トン爆弾かというくらいに見え、それが空から降って来たのですからビックリしたわけです。/木の蓋をしたくらいでは、地面に激突すればひとたまりもありません。ふたははね飛んでしまい、あたりには煙草のカートンボックス、チューインガム、ブレックファースト、ランチ、ディナーなどのレーションボックス(一人分ずつの食事が入った弁当のようなみの)等々が散らばっています。多少の英語は読めたので、一緒にいた十七歳前後の私達は夢中で拾いまくりました。投下のショックは結構すさまじく、屋根の上までガムやキャンディが乗っていました。
  
 米国の国立公文書館が公開している資料の中には、下落合へドラム缶の救援物資が投下される様子を撮影したものが何点か含まれている。これらの写真は、コメント欄で今年(2015年)の3月27日に41satoyoさんからご教示をいただき、わたしが米国で公開されている公文書関連サイトから見つけたものだ。
 救援物資の投下は、敗戦直後から実施されていたと思われるのだが、公開されている写真は明確に国際聖母病院めがけパラシュートが装着されたドラム缶を、上空を旋回しながら投下している様子がとらえられている。これらの写真は、1945年(昭和20)8月28日(日本時間8月29日)に米軍機から撮影されている。少なくとも、救援機は上記の作戦要項に沿って救援物資を投下しており、ドラム缶をそのまま地上へ直接バラまいてはいない。
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 このタイムスタンプを根拠にして、堀尾様の文章にもあるように救援物資の投下は1945年(昭和20)8月28日(日本時間29日)からとされているようなのだが、実際には米軍が聖母病院の位置を正確に把握した時点で、換言すれば聖母病院側が「PW」と描いたシートを大急ぎで制作し屋上へ拡げたタイミングで、低空飛行の救援機が同病院の様子を初めて撮影しているとみられ、実際の救援活動は地元の証言や各エリアの伝承などからもっと早く、すなわち敗戦の直後から実施されていたことが想定できる。
 写真を見ると、救援機は明らかに同病院の上空を旋回しながら、パラシュート付きの救援物資を計画的に投下しているのであり、学習院昭和寮のある近衛町周辺や落合第一小学校および第一文化村周辺に投下されたケースとは明らかに異なっている。
 米国公文書館が公開している写真には、もうひとつ重要なテーマが記録されている。それは、フィンデル本館の東へ伸びたウィング屋上の端が、えぐられたように少なからず破壊されている点だ。上空から撮影された写真のうち、2枚までがその様子をとらえている。(印) この東へ伸びたウィング屋上の破損こそが、艦載機(グラマン)あるいは硫黄島からのP51によって爆撃された、250キロ爆弾の命中箇所ではないだろうか。焼夷弾ではこのような破壊痕は残らず、明らかに爆弾が炸裂した痕跡だと思われる。
 フィンデル本館Click!のコンクリート壁や屋上は、要塞並みあるいは戦艦のバルジへ流しこんだコンクリート並みに60cmもあったので、250キロ爆弾程度なら跳ね返して館内の被害はそれほど大きくはなかった……という伝承とも符合してくる。上空からの様子なので正確なことは不明だが、少なくとも屋上東端のコンクリートが数十cmほどの深さまでえぐられ、陥没している様子が判然としている。
 つまり、米軍の戦闘爆撃機のパイロットは戦争末期、二度にわたる山手空襲Click!で焼け残った大きめな建物めがけ、ためらいなく積極的に爆弾を投下しているのであり(下落合に限らず東京各地でも同様だが)、その建物が病院だろうが学校だろうが教会だろうが、まったく区別していないことがわかる。事実、屋上に「PW」のシートが拡げられた時点で、初めてそこが“敵性外国人”の抑留者がいる国際聖母病院だと認識しているらしい、上記の救援の流れや投下の推移を見ても明らかだろう。
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 米国公文書館が公開している写真は、東京では大森区入新居町(現・平和島)に設置された捕虜収容所の様子をとらえた写真が数多い。米軍が進駐後に、収容所内の様子をとらえた写真も数多く残されている。おそらく、聖母病院の食糧事情と大差なかったのだろう、捕虜になった米兵たちはガリガリに痩せており、米軍の医療班が治療にあたっている写真も保存されている。もし機会があれば、大森区の捕虜収容所についてもご紹介したい。

◆写真上:国際聖母病院(Seibo International Catholic Hospital)の現状。
◆写真中上:B29と思われる機影から、パラシュート付きドラム缶の救援物資が投下されたところ()と、地上で回収された救援物資のドラム缶容器()。いずれも、大森区入新居町(現・平和島)の東京俘虜収容所(POW Camp)にて撮影したもの。
◆写真中下:1945年(昭和20)8月28日のタイムスタンプが記された、下落合の国際聖母病院に対する救援物資の投下。聖母病院の屋上に目立つ「PW」の文字が表示され、米軍が同病院を正確に規定しえたあとの撮影で、これが最初の救援物資の投下ではないと思われる。また、矢印は東へ伸びたウィングの屋上東端に見える破壊箇所。
◆写真下は、1947年(昭和22)に撮影された聖母病院とその周辺。東は聖母坂で、北と西側は濃い樹木の緑で延焼の止まっているのが確認できる。は、敗戦から5年後の1950年(昭和25)に撮影された同病院だが、いまだに東側は焼け跡のままだ。

下落合を描いた画家たち・誰か。

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 江﨑晴城様Click!より、またまた作品画像をお送りいただいた。板に描かれた4号サイズの作品で、裏面には『落合風景』というタイトルがふられているが、作者は不明だ。この作品は、静岡の曾宮一念Click!邸から出てきたものだが、デッサンの技術といい描画タッチといい、曾宮一念の作品ではないように思われる。そもそも、基本的にデッサンを学んだ画家の作品とは思えないような、よくいえばプリミティーフな表現だ。
 曾宮夕見様によれば、お父様(曾宮一念)が出来が悪いので発表せず、奥に仕舞いこんだものではないか……とのことだが、曾宮一念が描いた画面にはちょっと思えない。デッサンの基礎を勉強した、プロの画家の仕事には見えないのだ。江崎様は、1935年(昭和10)に再婚したせつ夫人、つまり夕見様のお母様の作品ではないかと想定されているが、その可能性は高いように思う。しかも、1935年(昭和10)以前からせつ夫人とは交流があったとみられ、曾宮一念から油絵の“手ほどき”を受けていたとしてもなんら不思議ではない。この風景作品が、落合地域のどこを描いたのかも興味深いが、わたしはあえて想像を思いっきりふくらませてみたい。
 曾宮一念は、下落合623番地にアトリエを建ててしばらくすると、地元の生徒を集めて画塾「どんたくの会」を開催している。当初は、近所の下落合645番地(のち下落合804番地Click!)に住んでいた鶴田吾郎Click!とともにはじめたのだが、関東大震災Click!で「どんたくの会」は生徒が集まらなくなり解散状態になってしまう。その後、1931年(昭和6)になって第2次「どんたくの会」をスタートするのだが、そのときは仲たがいをしていた鶴田吾郎との共同経営ではなく、曾宮がひとりで主宰していた。わたしの想定は、「どんたくの会」の生徒のひとりが描いたものではないか?……というものだ。
 なぜなら、この風景画が下落合623番地に建っていた曾宮アトリエの、ごく近くを描いた風景に思えるからだ。もちろん、江崎様が想定されるように、曾宮邸のごく近くであれば1935年(昭和10)になって正式に結婚する、せつ夫人が描いた可能性も非常に高いということになる。だが、わたしはもう少し古い時代のエピソードを想像してみたい。
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 「どんたくの会」の生徒には、別に子どもたちばかりでなく、近所に住む大人たちも絵を習いに通ってきていた。1938年(昭和13)に座右寶刊行会から出版された曾宮一念『いはの群』には、生徒だった落合に住む「味噌屋のオッサン」とか「牛乳屋のオッサン」Click!たちが登場してくる。その生徒たちのうちの誰かが、曾宮アトリエに絵を習いにきているとき、付近を写生したものではないか?……というのが、わたしの野放図な想像だ。その生徒の誰かが、落合地域から転居してしまうため「どんたくの会」をやめなければならず、曾宮が記念として作品を譲り受けたのではないか。あるいは、隠居のような身分で余暇を楽しむ近所の高齢者もいただろうから、その生徒が亡くなったときに、思い出として作品をもらい受けているのではないだろうか……。
 なぜ曾宮一念が、このプリミティーフな作品を廃棄せず、60年ほどもたいせつに仕舞いこんでいたのか、それは画面に描かれている鋭角なとんがり屋根の洋風住宅が、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!まで下落合623番地に建っていた、曾宮一念アトリエClick!そのものだからだろう。また、絵の作者が生徒たちの中でも、特別に印象深い人物だったのかもしれない。右手から射す光線の具合から、画面の右手が南側だとすると、曾宮アトリエの西側に向いた切妻を描いていることになる。しかも、軒下の緑のペンキが鮮やかに残っているので、建築後あまり時間が経過していない時代を想起させる。
 降雪のあと、曾宮アトリエの西側に通う路地からほぼ真東を向いてイーゼルを立てており、道の右手に見える煙突状の突起は、住宅の北側に配置された便所の臭い抜きClick!のように見える。この位置に建っていたのは、東京高等師範学校の教授をしていた下落合731番地の佐藤良一郎邸Click!ということになる。また、道の左手の生垣は、曾宮と同様に東京美術学校を出た日本画家の川村東陽Click!邸で、西洋画家の曾宮一念を目の敵にしてなにかと困らせていた人物だ。
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 東西に通うこの路地の、画家のいる背後はやや下りとなり、のちに聖母病院Click!が建つ青柳ヶ原へと抜けられ、ものの数分で佐伯祐三アトリエClick!にたどり着くことができる。また、少し上り気味のこの路地を前方に歩いていくと、右へゆるやかにカーブしながら曾宮一念の『夕日の路』(1923年)、あるいは佐伯祐三の『セメントの坪(ヘイ)』Click!(1926年)に描かれている、曾宮アトリエの真ん前に出ることができ、右手には口を開けた諏訪谷Click!の情景が拡がることになる。
 下落合に建っていた西洋館の多くは、たいがい大正中期あたりからディベロッパーが開発したエリアにある住宅が多く、新たに整備された二間道路や三間道路に面しているのがふつうだ。このような、近くに細い未整備と思われる路地がある区画に建っている洋館は、かえってめずらしい存在であり、たとえば画家でいうなら佐伯祐三Click!中村彝Click!のアトリエのように、細い路地状の道端にある西洋館のほうが、むしろ数が少ない。だから、それが風景を絞りこむうえでは大きな特徴になりうるのだ。
 曾宮アトリエへ向け、南へカーブを描きながらつづく路地は、大正末から昭和初期にかけて宅地の区画整理が進み、少なくとも1929年(昭和4)の「落合町全図」では直線状に修正されているのがわかる。1926年(大正15)の「下落合事情明細図」には、この路地を直線に修正し、突き当たりにT字路を形成しようとしている過渡的な様子が記録されている。道幅も、一間半ほどに拡げられていたのかもしれない。そのせいだろうか、曾宮アトリエの南側の道が妙な「へ」の字型に屈曲しているのがわかる。修正しようとしている道筋におかまいなく、もとの道筋へイーゼルを立てて汗をかきながら風景を描いていたのが、1926年(大正15)夏の佐伯祐三Click!だ。
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 突き当たりが直角に曲がり、ハッキリと現在と同様のT字路が形成されるのは、曾宮邸の隣りへ新たに谷口邸が建設されてからだと思われる。この道の突き当たり左手の下落合622番地に、1933年(昭和8)ごろになると結婚したばかりで仕事を山ほど抱えた蕗谷虹児Click!が、アトリエを建てて引っ越してくることになる。
 なお、曾宮一念の「下落合風景」作品が展示される、佐野美術館の『曽宮一念と山本丘人 海山を描く、その動と静』展Click!は、2015年8月22日から9月27日まで。

◆写真上:製作者および制作年が、ともに不詳の『落合風景』。
◆写真中上上左は、洋館切妻部分の拡大。上右は、裏面に書かれた「落合風景」の鉛筆文字で書いた人物は不明。板の裏面にも、下塗りが施されているのがわかる。は、震災前の1923年(大正12)に作成された1/10,000地形図にみる想定描画ポイント。
◆写真中下は、ここ10年で道幅が大きく拡げられた描画ポイントの現状。下左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる修正中の過渡的な道筋。下右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同所で現在と基本的に変わらない。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真()と1947年(昭和22)の焼け跡写真()にみる同所。は、この道を振り返ると青柳ヶ原(現・聖母病院)が見えていた。

下落合の近衛文麿邸を拝見する。

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 1924年(大正13)9月、近衛文麿Click!は麹町の敷地に建て坪のべ250坪の新たな邸を建設している。1922年(大正11)より、東京土地住宅(株)Click!による「近衛町」開発Click!がスタートする以前、近衛旧邸が解体された直後から計画されていたものだろう。しかし、麹町のこの邸はわずか数年でイヤになり、近衛文麿は再び下落合へもどってくる。
 麹町の近衛邸は、木造2階建てで赤または褐色の瓦屋根、外壁はフランス風の下見板張りにモルタル造りで、内装は漆喰壁と壁紙貼り、芝生を敷き詰めた広い前庭と回廊に囲まれたパティオのある、(合)清水組が手がけた大きな西洋館だった。室内を見ると、装飾華美ではないものの膨大な費用をかけた様子がうかがい知れる。おそらく、計画段階から清水組の設計部と近衛文麿との間で、綿密な打ち合わせが行なわれた末に、竣工を楽しみに待つ新たな本邸のつもりだったのだろう。
 だが、住みはじめてからわずか数年で近衛文麿は後悔し、この邸からの引っ越しを考えはじめ、下落合の近衛町北側に残っていた近衛家敷地、すなわち目白中学校Click!が練馬へと移転した跡地(この近衛家敷地も東京土地住宅の販売計画Click!には含まれていたと思われる)の東側、当時はいまだ舟橋邸Click!の北側には借地として貸していた住宅がチラホラと、樹木の生えた空地が目立つ風情だったと思われる敷地に、再び清水組に相談して新たな邸を計画しはじめている。
 ではなぜ、できたばかりの麹町邸をすぐに離れることになったのか、その事情を藤田孝様Click!が故・近衛道隆様Click!へ確認されている。それによれば、麹町という交通が至便な立地では誰でもすぐに立ち寄れるため、朝から晩まで訪問客が引きも切らず、その接客のために家族全員がくたびれはててしまったらしい。おそらく、下落合の新邸計画は昭和に入って間もなく進められていると思われるので、麹町邸に落ちついていたのは1924年(大正13)の暮れから1928年(昭和3)の、わずか3~4年の間だったと思われる。下落合436番地の新邸(のちに「荻外荘」Click!に対し「別邸」とも呼ばれるようになる)は、1929年(昭和4)11月に竣工している。(冒頭写真)
 北陸産の泰山瓦が葺かれた屋根に、外壁はリシン塗り腰タイル貼り、内装は土壁と漆喰壁に壁紙仕様で、建て坪が麹町邸よりは100坪ほど少ない約140坪の2階建て西洋館だった。この邸については、下落合でも記憶されている方が多い。また、よく新聞Click!雑誌Click!の記事でも取りあげられた邸でもある。広大な御留山Click!に建てられた、黒門や長大な塀の内側にある相馬邸Click!は、下落合氷川明神社Click!あるいは邸内の妙見社Click!の祭礼日以外はなかなかうかがい知れなかっただろうが、近衛邸は周囲に通う三間道路からも、あるいは1935年(昭和10)すぎまで空き地のままだった目白中学校の跡地からも、樹間に垣間見えていたと思われる。
 邸内の写真を見ると、麹町の邸よりはいくぶん質素な感じを受ける。おそらく、書家であり政治家だった鄭孝胥(てい・こうしょ)の揮毫だろうか、詩篇「西涯一角真冷地 澤畔行吟暫閒適」の一部である、麹町邸と同じ扁額「西涯一角」が、応接室とみられる室内に架けられている。鄭孝胥はのちに、日本の植民地である「満州国」の首相となり、政治を牛耳る関東軍を批判して解任された人物だ。邸の玄関は南側にあり、この扁額が架けられた応接室は東に向いて玄関横に張りだしていた。また、応接室の北側には、同じく東に向いて半円柱状に大きく突きでた広い食堂が配置されている。
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 この近衛新邸は、1935年(昭和10)前後に増改築され、西に向けてウィングが伸びているのが確認できる。その形状を観察すると、庭から直接2階のバルコニーへ上がれる階段を取り去り、北側にあった女中室のひとつをつぶして、台所の西側に女中室を増やし、また玄関横にあった執務室を大きく拡げているように見える。バルコニーへの階段を撤去したことは、なんらかのセキュリティ上で問題が発生したためだろうか? 西へ伸びたウィングの先には、離れ屋とみられる別棟も建設されている。
 下落合436番地の敷地は広く、北側にはもうひとつの近衛邸が建設されている。これが、おそらく弟で音楽家だった近衛秀麿邸Click!だろう。また、敷地内には使用人の家々が並び、東側に接した近衛町から目白通りへと抜ける三間道路側の正門近くには、門番小屋と門番の詰め所が設置されていた。また、おそらく自家用車の運転手の住宅だろう、門番詰め所から10mほど西に離れた(奥に進んだ)場所に、住宅がひとつ見えている。さらに、近衛邸の南側、すなわち舟橋邸へと入る路地の北側には、近衛家の家令住宅が7~8軒ズラリと東西の方向に並んでいた。
 さて、ここまで読まれてきた方、あるいは近衛町の形成などここの記事に目を通してこられた方には、ひとつの疑問が残っているだろう。下落合417番地に建っていた近衛旧邸(近衛篤麿邸Click!)が解体され、麹町に新たな本邸が完成するまでの間、近衛家はどこに仮住まいをしていたのか?……というテーマだ。近衛旧邸は、少なくとも1920年(大正9)以前には解体されているとみられ、1924年(大正13)に麹町邸が竣工するまでの少なくとも4年余の間が、近衛邸の“空白期間”ということになる。
 1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には、のちに近衛新邸が建てられる敷地の北側に、「近衛家和家」という屋敷が採取されている。また、5年ほどさかのぼった1921年(大正10)の1/10,000地形図にも、“」”字型をした家屋が南北に2棟採取されている。このうち、北側の1棟がそれに相当する住宅だろうか。この記録を前提にすれば、近衛家が1924年(大正13)に麹町邸が完成して転居する前、仮住まいとして目白中学校の東側に住んでいた可能性が高い。1926年(大正25)の「下落合事情明細図」は、リアルタイム情報とは思えない記載も多々あるので、数年前の情報がそのまま更新されずに掲載されている可能性がある。または、近衛家の兄弟姉妹が暮らしていた可能性も否定できない。
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 ただし、目白中学校(東京同文書院Click!)の校庭に接した南側、すなわち舟橋邸の西側にも近衛家の敷地があった。1927年(昭和2)に作成された1/8,000「落合町地形図」では、練馬へ移転した目白中学校跡地の南、従来とは異なる位置に近衛邸が採取されている。これは、近衛文麿がとうに麹町邸へ転居したあとにもかかわらず、昭和に入って新たな位置に近衛邸が採取されていることになる。この邸もまた、麹町邸を出たあとの近衛文麿一家の仮住まいではなかったか。
 つまり、新たに麹町邸が1924年(大正13)に竣工するまでの仮住まい(1920?~1924年)が、目白中学校東側の近衛邸であり、また1929年(昭和4)に下落合の近衛新邸が竣工するまでの仮住まい(1927?~1929)が、目白中学校南側の下落合456番地へ新たに建てられ、1/8,000地形図に採取された近衛邸ではないか……と想定することができる。これを前提とするなら、近衛文麿は日々の接客にくたびれ、家族一同がウンザリしてしまった麹町邸を早々に引きあげ、下落合436番地に新邸が竣工するまでの間、その南西に当たる下落合456番地で仮住まいしていたのではないかということになる。つまり、麹町邸にはわずか2年余しか住んでいなかったということだろうか?
 おそらく、昭和初期の段階では麹町にあった大きな屋敷を、近衛文麿は周囲に「本邸」と位置づけしていたのだろうから、下落合の旧邸近くに建設中の邸は、計画当初から「別邸」として語られていたのかもしれない。だが、麹町邸にはその後もどっていないので、下落合の近衛新邸が実質の「本邸」となっていた。ただし、1937年(昭和12)に荻窪の「荻外荘」を別邸として入手し住むようになると、周囲からは下落合の新邸が「本邸」ではなく、再び「別邸」として周囲から見られるようになったのだろうか。
 近衛文麿は、親しい人間以外の人物と接することをあまり好まなかったようで、ことに来客や積極的に自分へ近づく人物に対しては、なかなか警戒心を解かなかったように見える。それが、公家政権が崩壊して以来800年間に身につけた、生き残るための伝統的な「家訓」であり、「処世術」のひとつだったのかもしれないのだが、繁華な市街地の麹町に家を建ててはみたものの、次々と押し寄せる来訪者に神経をすり減らし、昭和10年代に市街地化が一気に進んだ下落合も、ストレスがたまって暮らしにくくなったと感じるや、さらに郊外へ郊外へと静かで寂しい風情を求めて転居していくその姿に、とても政治家などには向かない、文人的な気質を感じるのはわたしだけだろうか。
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 政治家にはまったく不向きな、文人気質の近衛文麿と鄭孝胥がことのほか御しやすいと見透かされ、軍部にかつがれて大日本帝国と「満州国」の首相に就任するというのは、なんとも皮肉な構図であり、めぐりあわせだ。彼らがあえて選択して立った足もとは、まさに漢詩どおりの「真冷地」だったと思われるのだが、ふたりともそれに気づくのが、あまりにも遅すぎたのだ。

◆写真上:1929年(昭和4)11月に竣工した、下落合436番地の近衛新邸(別邸)。
◆写真中上:1924年(大正13)9月に清水組の設計で竣工した麹町の近衛邸()と食堂?()。右壁面に、「西涯一角」の扁額が見えている。は、同邸の1階平面図。
◆写真中下は、下落合の近衛新邸に設置された応接室。麹町邸にあった「西涯一角」の扁額が、下落合では客間に架けられていた。冒頭写真の、手前の張り出した一画が客間に当たる。は、近衛新邸の1階・2階平面図。
◆写真下は、近衛邸の正門跡から近衛新邸跡を望む。は、1927年(昭和2)の地図に近衛邸の記載がある目白中学校跡の南側(画面右手)。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる近衛新邸(別邸)。印は、上記2枚の撮影ポイント。

溜池と溜坂と面白怪談。

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 現在の山手線が走る目白駅Click!の谷間には、江戸期に農業用水用の溜池があった。現在の学習院キャンパス内にある血洗池Click!も、もとは農耕用の溜池だと思われるのだが、この血洗池と江戸期の絵図(たとえば正徳年間)に描かれた溜池とが、同一のものかどうかがイマイチしっくりこない。古い絵図と現在の血洗池のかたちが、大きく異なっているのもそう思えるゆえんなのだが、溜池の近くを下っていた「溜坂」と呼ばれた道筋が、江戸期の資料と明治以降の資料とでは東西が逆になっているからだ。
 たとえば、1716年(正徳6)に作成された「高田村絵図」には、溜池の高田村側(東側)に通う坂道が描かれているが、溜池の西側は下落合村の道筋しか描かれていない。寛政年間(1789~1801年)に金子直德によって描かれた『呆山堂宗周図書』の挿画にも、目白崖線の麓がS字型に屈曲した、溜池の東側に通う溜坂と思われる坂道が描かれている。そして、金子直德が寛政年間に記録した『若葉の梢』(『和佳場の小図絵』)の現代語訳版、海老沢了之介による『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会/1958年)の本文でも、溜池の東側に溜坂が通っていることになっている。同書から、溜坂の記述を引用してみよう。
  
 溜坂は、高田村砂利場耕地の用水の水溜の池の東側にある坂で、堀の内妙法寺へ行く道でもある。
  
 現在の高円寺駅近く、かなり距離のある杉並の堀之内まで通う道筋だという解説が妥当かどうかは別にして、明確に溜坂は溜池の東側だと規定されている。ところが、金子の『若葉の梢』の解説者である海老沢了之介は、章扉の地図まで作成して溜坂は現在の血洗池の西側に通う坂道、つまり学習院キャンパスの西側に接し、山手線と並行して下っている現・椿坂に近い道筋のことだと規定している。
 もし、江戸期からつづく溜池=血洗池であるとすれば、学習院の建設によってキャンパス内に取りこまれ消滅してしまった溜坂が、血洗池の東側に存在していた……としなければおかしなことになる。ところが、海老沢がそうは解釈しなかったところが、ちょっとひっかかる課題なのだ。なぜなら、幕末の嘉永から安政年間(1847~1860年)にわたって幕府が制作した『御府内沿革図書』では、この溜池が“消滅”してしまっているからだ。
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 『御府内沿革図書』には、農業用貯水池はもちろん、大名や寺社の敷地内にある池まで細かく採取されている。池袋村にある、小さな丸池さえ逃さずに収録しているにもかかわらず、丸池よりもかなり大きかったはずの、高田村の溜池がまったく採取されていない。もちろん、単純な採録漏れの可能性もあるが、溜池よりも小さな池や屋敷内の庭園池までが採取されているのに、大きな溜池を見逃したとは考えにくいのだ。この時期、高田村では溜池に対してなんらかの“施工”(場所の移動や整備事業など)が行われていて、同図書の調査員が収録をためらったのではないか……そんな想像までかき立てる。
 そして、高田や雑司ヶ谷の事績に精通し、多くの証言者からの聞き取り調査(当時は幕末生まれの古老もいたかもしれない)も行っている海老沢了之介が、あえて血洗池の西側の坂を溜坂だと規定しているところに、強いひっかかりをおぼえる。海老沢の規定をそのまま素直に解釈すれば、江戸期には溜池の東側にあった溜坂が、明治以降には溜池(血洗池)の西側へと動いている、見方を変えれば、農業用水としての溜池の位置が、少なくとも江戸中期にあった位置から、溜坂の東側へと移動している……ということにもなりはしないだろうか?
 このあたり、1880年(明治13)に作成された、もっとも早い時期の1/2,000地形図で採取されている血洗池東側の坂道2本のうち、この当時(明治初期)はどちらが溜坂と呼ばれていたのか?……というような、いくえにも重なり、からみあった課題が見えてきそうな気もするのだが。
 さて、この溜坂には江戸期に起きた「怪談」にもとづく笑い話が残されている。下高田村の歩行役(かちやく=交代で担当する通信文の配達人)が、村の緊急の御用状を下落合村へとどけるために、夜中の八ツ(午前2時前後)に溜坂を下っていると、いきなり大暴風雨に遭遇してしまった。雷鳴がとどろき、まるで滝のような大雨の中を濡れねずみになって歩いていくと、気温が急低下したものか震えるほど寒くなってきた。目白崖線の斜面なので、あたりに人家はなく真っ暗で、雷の稲妻が光るたびに村の歩行役はますます心細くなっていった。
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 そのうち、歩行役のあとを誰かが尾けてくる気配を感じ、彼が急げば背後の気配も急ぎ、立ち止まれば気配も止まり……と、怪しげな雰囲気になってきた。背後の足音が、とうとう間近に迫ってきたので、彼は恐るおそる振り返ってみたが暗闇でなにも見えない。溜坂の不気味な気配から早く逃れようと、彼が道を急ごうとした瞬間、大音響とともにすぐ近くへ雷が落ちて、彼は打ち倒されてしまった。その直後の様子を、前掲書の『新編若葉の梢』から引用してみよう。
  
 雷鳴は少し静まったが、笠を掴み、押しつけているものがある。その間、半時ばかりじっとしていたが、何事もないので、こわごわ手を延ばし、笠を押えている怪物の腕をつかんでねぢひじこうとしたところ、掌が針で刺されたように痛いので、声を叫んで助けを呼んでいるうちに、だんだん夜も明けて来た。よくよく見れば、竹の子笠の輪もとび切れ、道傍の栗の大木が枝ながら裂け折れて倒れかかっていたのだった。雷に押えられたと思って、力いっぱい握りしめていたのは栗の毬(いが)であった。夜道などする人に、この話を聞かせたこともあり、こころが心を迷わせて、愕き逆上したものである。まこと面白い話である。
  
 深夜なので、空模様がわからなかったと思われる歩行役は、ちょうど積乱雲の真下を御用状を手に出かけてしまったものだろう。午前2時ごろ出発し、ごく近くに落雷して半時(約1時間)ほど倒れたままでいたら、あたりが明るくなっているので、季節は夏に近い時節の出来事だろうか。
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 1897年(明治30)ごろの記憶として書きとめられているが、砂利場一帯の水田に灌漑用水を送っていた溜池(明治期なので血洗池のこと)の水門鍵を管理していたのは、当時の高田村村長だった新倉家Click!と定められていたことが、海老沢了之介の解説に見えている。「鍵番」と呼ばれた溜池の管理者は、1年間の管理料として7円の手当を支給されていたようだ。明治後期の1円を、いまの物価にたとえて2万円ぐらいとすれば、年間14万円ほどの収入になっていたらしい。

◆写真上:学習院のキャンパスに残った、灌漑用水の溜池=血洗池。
◆写真中上は、1716年(正徳6)に作成された高田村絵図。は、学習院大学が規定している緑に塗られたキャンパス範囲。下落合村との境界ギリギリまで飛びだしている溜池(正徳年間)を現在の血洗池と同一と規定しているので、かなり西側へ張りだし歪んだ形状をしている。は、寛政年間に金子直德が描いた溜池周辺絵図。池の東側に、S字型の坂道が描かれている。
◆写真中下上左は、1880年(明治13)に作成された1/2,000地形図。血洗池と思われる溜池の東側には、2本の坂道が確認できる。上右は、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図にみる血洗池周辺。学習院の敷地内になった道筋は、すでに消滅している。は、海老沢了之介が作成した地図で血洗池の西側の坂(現・椿阪)を溜坂と規定している。
◆写真下は、目白通りから椿坂への入り口。は、椿坂の現状。


美術講演会と『新洋画研究』の連続性。

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 昭和初期の洋画家に関する資料を読んでいると、代々幡町代々木山谷160番地にあった1930年協会洋画研究所Click!がときどき顔をのぞかせる。同洋画研究所は、小島善太郎Click!によれば1930年協会の木下孝則Click!が発案して設立されたということだが、当初は円鳥会Click!の会員だった工藤信太郎を救済する目的でスタートしたらしい。
 研究所がオープンした際、学生募集などの広告は出稿しなかったようだが、美術界にウワサが拡がり数ヶ月で定員いっぱいになってしまったらしい。特に小島善太郎Click!によれば、女子美術学校の学生たちに人気が高かったようだ。1928年(昭和3)に発行された『美之国』8月号には、オープンして間もない研究所内部の写真が掲載されている。モデルClick!を雇っての、人体デッサンの最中をとらえたものだが、手前にいる女性は女子美の学生だろうか。(冒頭写真)
 1930年協会洋画研究所は、実技の指導や研究がおもな目的だったが、開設から2ヶ月がすぎた5月には芸術論や洋画論を紹介する美術講演会も開催されるようになった。近くの山谷小学校の教室を借りて、第1回美術講演会は1928年(昭和3)5月19日(土)に開催されている。そのときに撮影された、1930年協会の会員や親しい仲間を集めた記念写真が残っているのは、外山卯三郎Click!『前田寛治研究』Click!に関連して以前にご紹介したとおりだ。
 1927年(昭和2)に開業した、小田原急行鉄道の小田原線(現・小田急線)へ新宿から乗り2つめの「山谷駅」で下車し、駅前の坂道を上って100m前後、徒歩1~2分ほどのところに同研究所のアトリエは建っていた。小田急線の山谷駅は、1946年(昭和21)に廃止されているので、現在は南新宿駅の次が参宮橋となっており、山谷160番地へ向かうには両駅のどちらかで下車して歩かなければならない。
 さて、1930年協会洋画研究所が設立されたころの事情について、2005年(平成17)に中央公論美術出版から刊行された東京文化財研究所『大正期美術展覧会の研究』所収の、大谷省吾「一九三〇年協会のメディア戦略と外山卯三郎」から引用してみよう。
  
 外山は京都帝大を卒業した昭和三年(一九二八)春から、協会との関係を深めていくが、この年から協会のメディア戦略も複合化を強めていく。具体的には、研究所(三月から)。講演会(五月から)、そして『一九三〇年美術年鑑』と『佐伯祐三画集』(年末編集、翌昭和四年一月発行)である。研究所で実技を教え、講演会で理論や、画学生憧れのパリの様子を語り、そしてその講演を年鑑において活字化する。また佐伯画集は、第四回展における遺作陳列と連動していた。この一貫したメディアミックス戦略は巧みというほかない。/研究所(略)は代々木の小さなアトリエにすぎなかった。講演会も、当初はここで小規模に開かれるささやかなものだったが、次第に規模を拡大して第四回(昭和三年十月)から京橋の国民新聞社講堂に会場を移し、また第五回(同年十二月)は翌月の第四回展覧会の宣伝を兼ねるなど、活動の有機的な連関と拡大が目立つ。/これらの個々の事業の立案は、必ずしも外山によるものではない。例えば研究所は木下孝則の、年鑑と佐伯画集は里見勝蔵の立案だという。だが外山は、講演会には(判明している限り)毎回演壇に立ち、出版活動でも実務を取り仕切った。(註釈番号除く)
  
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 さて、1930年協会が1930年(昭和5)に解散するまで開かれた美術講演会だが、その講演内容とはどのようなものだったのだろうか? たとえば、いくつかの講演から画家と講演タイトルを挙げてみると、里見勝蔵「構図の研究」「画家の精神生活」「佐伯の芸術と中山の芸術」「絵画の革命」、前田寛治「写実美について」「佐伯祐三の芸術」「写実技法の要訣」「色彩について」、外山卯三郎「西洋美術史講座」「芸術の価値論」「美術に於ける創作と鑑照」「近代絵画の変遷」、林武「つり合いの話」「フォーヴの考察」、野口彌太郎「或る感想」、小島善太郎「巴里画家生活」「19世紀仏国画家の思想」「佐伯祐三に就いて」「絵画と実生活」、中山巍「伊太利所見」「現代フランス画壇」……と、各講演会において特に画家たちの演目に統一したテーマ性は感じられない。
 そのときのタイムリーな画論や人気のあるテーマ、聴衆が集まりそうな芸術論や美術史、あるいはフランスで死去した佐伯祐三Click!をしのんでというように、画家たちが各自想いおもいの講演原稿を作成して登壇していたような印象だ。特に講演回数の多いのが外山卯三郎Click!里見勝蔵Click!で、後期の1930年協会から初期の独立美術協会の基盤となる「美術論」は、このふたりによってリードされた気配が濃厚だ。前田寛治Click!の存在も大きかったはずだが、彼は1929年(昭和4)に入ると体調を崩して入院してしまう。
 1928年(昭和3)から1930年(昭和5)にかけ、毎年数回にわたりって開催された美術講演会だが、個々の講演記録は『一九三〇年美術年鑑』に収録されている。また、外山卯三郎の手によって『新洋画研究』(金星堂)と題された美術論集とでもいうべきシリーズ本が、1930年(昭和5)の第1巻を皮切りにまとめられることになる。同書の第1巻には、外山卯三郎「世界現代絵画概観」「超現実主義作家論」、前田寛治「野獣主義作家論」「新古典主義論」、中山巍「現代フランス作家論」「新野獣主義作家論」が収録され、個別の画家論として小島善太郎、伊原宇三郎、鈴木亜夫、川口軌外、林武、鈴木千久馬、林重義などが執筆している。
 同書の編集後記から、外山卯三郎の文章を引用してみよう。
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 予告した目次とは幾分の相異を来たしてゐるが、然しその内容はより充実したと言へる。勿論それは私の理想とする編集から言つて、多くの不満な点があるが、それは巻を追つて補はれねばならない。/前田寛治君は昨春来の病気のために、新しく執筆することが出来ず旧稿を入れた。宮坂勝君は帰国中にて「フリエーツ論」に間に合はなかつた。この様な不備は巻を追つて加へて行きたい。(中略) 洋画も自己陶酔的なアマツールの時代を過ぎた。若き画家は真面目な精進に依つて、自己の道を開いて行かねばならないだらう。美術雑誌も亦雑多な俗事から離れて、洋画は洋画の純粋なヂアンルを研究して行かねばならないだらう。/「新洋画研究」は読者の便をはかり、近日中に「新洋画研究所」を開設する予定である。若し希望の方は編集者宛にお知らせいたゞきたい。/第二巻は七月の予定で、秋のセーゾンを前に勉強される時であるから、特に作画上の研究をのせる心算である。
  
 同書は、1930年(昭和5)4月15日に出版されており、その翌日未明に前田寛治Click!が青山の東京帝大付属病院で鼻腔内腫瘍により死去している。したがって、前田は『新洋画研究』第1巻を手にすることができたかどうかは微妙なタイミングだ。ゲラ刷りの段階で、かろうじて目を通すことができただろうか。
 外山卯三郎の『新洋画研究』シリーズは、解散を目前にした1930年協会の総括的な美術論を展開しようとする試みであり、同協会が過去に開催してきた美術講演会の、総仕上げ的なシリーズ本にする計画だったと思われる。第1巻の巻末には、「日本最初の洋画専門クォタリー」と銘打ち、早くも第2巻(現代画の構図研究)の広告が掲載されており、年4回発行が恒例化することを宣言している。なお、同シリーズは1932年(昭和7)発行の第10巻までが確認できる。
 第2巻の内容をご紹介すると、遺稿となった前田寛治「立体派研究」をはじめ、里見勝蔵「構画の研究」、外山卯三郎「現代絵画の構図概論」、宮坂勝「絵画に於ける[構成の意味と存在]」、中山巍「色彩による構図」、伊原宇三郎「群像の構図」、唐端勝「群像論(ウォルフ)」などが掲載予定となっている。外山卯三郎が予告した「新洋画研究所」は、第1巻が発刊されるのと同時に、自宅である井荻町下井草1100番地に設立されたのだろう。設立パーティーが開かれたかどうかは定かでないが、近くにアトリエをかまえていた里見勝蔵Click!は外山邸を訪れ、ヴァンで乾杯ぐらいはしているのかもしれない。
 1930年協会の美術講演会がもう少し早く、すなわちあと1年ほど前、1927年(昭和2)6月に開催された第2回展覧会Click!と相前後して開かれていれば、ひょっとすると佐伯祐三が登壇していたかもしれない。文章書きが不得意で、しかもしゃべるのも苦手な佐伯なのだが、里見勝蔵に無理やり渡仏時代の想い出をうながされ、登壇して講演していただろうか?
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 里見は当然、自分が紹介し表現に決定的な変化をもたらす、ヴラマンクとの劇的な邂逅を含む巴里での生活を話すものとばかり思っていたら、「あのな~、わしな~、クラマールでな、化け猫Click!に会いましてん。(会場笑) ウソやないがな、オンちゃんもヤチもな~、ニャンニャン怖い~ゆうて、家族みんなで会(お)うたがな。三味線弾いてたんや、ホンマやで~。(笑声) ウソや~思うたら、そこで笑(わろ)うとる小島クンClick!が証人や、小島クンに聞いてみなはれ。(笑声) ……ホンマやねん」と、協会の『一九三〇年美術年鑑』に収録されるかどうかさえ怪しい、ましてや外山卯三郎の『新洋画研究』には絶対に載せてもらえそうもない講演をしていただろうか。w

◆写真上:代々幡町代々木山谷160番地にあった、1930年協会洋画研究所の内部。
◆写真中上は、1927年(昭和2)に開業した小田急の新宿駅ホーム。は、代々木上原付近を走る小田急線の車両。は、1932年(昭和7)の1/10,000地形図にみる小田急線・山谷駅と代々木山谷160番地の周辺。
◆写真中下上左は、1930年協会洋画研究所の記事が掲載された1928年(昭和3)発行の『美之国』8月号。上右は、1929年(昭和4)1月27日に開催された1930年協会の第6回美術講演会チラシ。下左は、1930年(昭和5)に出版された外山卯三郎・編『新洋画研究』第1巻。下右は、『新洋画研究』第2巻の発売予定広告。
◆写真下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる代々木山谷160番地界隈。は、同所の現状で右手が旧・山谷小学校(現・代々木山谷小学校)。

炎が火焔放射器のようにやってくる。

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 関東大震災Click!のとき、あるいは東京大空襲Click!のとき、大火災の炎が大川(隅田川)を水平に超えてやってきた……という伝承が、日本橋側や浅草側に残っている。うちの親父も話していたカタストロフだが、言葉では受け入れられても実際にどのような光景だったのかは、まったく理解できない。川幅が100m以上もある隅田川を、火災の炎が水平に吹きつけてくるなど、にわかに信じられないのだ。また、実際にそれを見た多くの人々が生命を落としているせいか、それがどのような状況だったのかを証言する記録もきわめて数が少ない。
 先日、子どもが小学生のころに買って与えていた本を何気なく見直していたら、関東大震災の際に本所の被服廠跡Click!の空地へ避難して、奇跡的に助かった人の証言が掲載されているのを見つけた。被服廠跡には、近隣の住民や勤め人たちが警官に誘導されて約34,700人ほどが避難し、そのうち200名前後の人たちしか生き残れなかった場所だ。証言しているのは、被服廠跡の北側に位置する本所郵便局(現・震災復興記念館の北側)で、電信技手の仕事をしていた森竹一郎という職員だ。彼は夜勤と宿直の当番を終え、下宿のある二葉町(現・江戸東京博物館の東側)へもどってきた。そこで、食事の支度をしている下宿の主婦とともに、大震災に遭遇している。
 下宿は潰れ、瓦礫の中から主婦を救出した森竹は、市街のあちこちで火災が発生していたため、避難しようと隅田川の方角に向かう。火災を消そうと出動した消防自動車は、水道管が地震で寸断されたために消火栓から水が出ず、消火活動ができない状況だった。運よく隅田川までたどりついたわずかな消防車が、川の水を揚げて消火にあたっていたが、すでに焼け石に水のような火勢だったらしい。幹線道路は地割れを起こしてクルマが通行できず、やがて路上には持ちだせるだけの家財道具を背負った避難民たちがあふれて、そもそも消防車両が火災現場へ向かうことさえできないありさまだった。
 勤め先が気になった森竹一郎は、亀沢町の電車通り(現・清澄通り)をわたろうとするが、車輛や避難民がすし詰めになっていて身動きがとれず、すぐに横断することができなかった。本所郵便局は亀沢町の市電停留所のところにあり、すぐそこに見えているのだが、わずか40mほどの道路をわたることができないのだ。そのとき、彼は卒業した本所高等小学校の恩師だった、三好武彦先生に声をかけられている。
 そのうち、巡査たちが避難路を誘導する声が聞こえてきた。1990年(平成)に金の星社から再版された、『世界のノンフィクション6:世界を驚かした10の出来事』(初版は1968年)所収の、「大正十二年九月一日」から引用してみよう。
  
 「先生は、いまでも根岸のほうにおすまいでしょうか。」/「上野の山下だ。とても、家まで帰れそうもない。土曜で、授業はおしまいにしようと話していたところ、ぐらぐらっときたので、少し地震がおさまるまで、生徒たちを学校へのこしておいたところ、そこここから火が出たので、いそいで家へ帰らせたんだ。高等科の子は、錦糸町のほうからも来ているから、五班にわけて、それぞれ教師が引率して帰したのだ。こんなことで、にげおくれてしまったんだ。」/亀沢町の電車道に、巡査がたくさんいて、/「うまや橋付近は火事です。そっちへいってもだめです。被服廠のあとへはいってください。」/と、どなっています。/被服廠のあとというのは、もと陸軍の被服本廠のあったところですが、それが赤羽へひきうつったので、いまは、あき地になっていました。亀沢町のかどから両国駅の裏手までひろがった七万平方メートルもある、ひろいあき地でした。
  
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 このとき、本所や相生の警察署では当初、人家や中小工場が密集している本所側から、避難民を火災が少ないとみられる日本橋側へ、つまり隅田川を渡河して西岸へと誘導する計画を立てていたようだ。ところが、隅田川に架かる橋が、すべて避難民で埋まり、同時に火災の延焼スピードが速いために、陸軍の被服廠跡地へ避難民を誘導する決定を下した。それが、本所区の死者約50,000人のうち、実に70%にあたる約34,500人の犠牲者を出す結果になってしまった。
 森竹一郎は、ようやく本所郵便局へたどり着くと、勤務していた職員たちとともに裏塀を乗り越えて、7,000㎡もある被服廠跡地へ避難した。同空地は、すでに避難民であふれており、森竹たちは人々の上や荷物を乗り越えて、空き地の中央近くまで避難した。そのときだった。
  
 相生町のほうから燃えてきた火が、総武線の鉄橋をくぐりぬけて、亀沢町へふきつけてきたのです。/火の旋風(章タイトル)/赤く焼けたトタン板が、ブーメランのようにくるくるとまわりながら、飛んできます。煙と炎のよじれた火が、火炎放射器からはき出されるようなすさまじさで、あき地に集まっている人びとにおそいかかりました。/「わあーっ。」/と、すさまじい悲鳴をあげて、人びとは、おくのほうへにげこもうとします。/そのものすごい力で、ぐぐっとおしつけられました。/二葉町から燃えてきた火は、亀沢町へもえぬけました。/火の粉と炎とが、電車道を越えて、ふきつけてきます。/被服本廠の表門のあったところにいた人びとは、どよめきながら、火にあぶられて、中へにげこもうとします。/火は本所郵便局にもうつりました。/横網の倉庫にも、とび火しました。/被服廠あとのあき地は、四方を火にとりかこまれてしまいました。/火におわれて、中へおしこんでくる人びとの力で、もう、広いあき地の人びとは、満員電車のようなありさまになりました。/午後四時ごろ、ごおーっというはげしい音がして、あき地の中央に、大きなつむじ風がおこりました。/まわりに燃えている火は、この風のうずにすいこまれ、被服廠の中を、火のうずにしたのです。(カッコ内引用者註)
  
 相生町というのは、総武線の南側にある竪川北岸にある街だ。そこで出火した火事の炎が、総武線の高架をくぐり抜けて、水平に亀沢町(被服廠跡)まで吹きつけてきている。距離にすると、200m以上の距離を炎が水平に走ったことになる。「火事旋風」あるいは「大火流」と呼ばれるこの現象は、大規模な火災で急激に膨張した空気が、風下に向かって烈風とともに吹き抜ける現象だとみられ、風下にいる人々は一瞬で空気中の酸素を奪われ、窒息死するケースもあったようだ。
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 このあとに起きた「つむじ風」、すなわち「火事竜巻」は隅田川を斜めに横断して蔵前・浅草側も襲い、多くの目撃証言を残している。人はもちろん、馬や大八車が荷物ごと空に巻き上げられ、風速は80~100m/sに達していたのではないかと推測されている。大規模な火災が起きているとき、なにも障害物や遮蔽物のない大きな川筋や広場へ逃れるのはかえって危険だという祖父母の世代からの伝承は、この空気の爆発的な膨張により、炎が数百メートルも水平に走る「大火流」や、渦状の火柱とともにあらゆるものを巻きあげてしまう「火事竜巻」を、身近に経験したことからきているのだろう。森竹一郎の貴重な証言を、つづけて聞いてみよう。
  
 熱風がふき通るたびに、悲鳴ともうめき声ともつかぬ苦しげなさけびが、うわっと、もり上がります。/焦熱地獄というのは、このような状態を想像してつくられたものでしょう。/やがて夜になりましたが、火勢は少しもおとろえません。まるで熔鉱炉の中にいるようでした。/空気中の酸素が、すくなくなったのでしょうか、それとも一酸化炭素のせいでしょうか、息がつまりそうです。/ときどき、火の子のうずが通りすぎていきます。一郎はとうとう気を失ってしまいました。/「森竹、しっかりしろ。夜が明けたぞ。」/つよくほほをうたれて、はっと目ざめた一郎は、白みはじめた空をみました。/あたりは寝しずまっているように、しーんとしています。/悲鳴も、うめき声もきこえません。/「おーい、夜が明けたぞ。火はおさまったぞ。」/三好先生は、思いきりつよくさけびましたがたおれている人たちの中から、五十人ばかりがむくむくと起きあがっただけです。/「夜が明けましたよ。にげましょう。」/一郎は、そばに寝ている人をゆすりましたが返事はありません。よくみると、たおれている人は、みんなもう死んでいるのでした。
  
 余震がつづく中で気がついた生き残りの人々は、数万人が倒れている周囲の惨状を眺めて愕然としている。東京の市街地における死者は、行方不明者を除き約60,000人とされているが、そのうちの実に80%以上の約50,000人が本所区内で死亡している。死者は川辺に多く、被服廠跡の34,500人をはじめ、竪川橋付近で6,000人、横川橋付近で3,500人、安田庭園の池端で500人など、避難者が集団で死亡しているケースが目立っている。
火事竜巻.jpg
両国橋プレート.JPG 安田庭園.JPG
 大火災が起きると、人は本能的に水のある方角へ逃げようとする。だが、22年前に起きた震災の教訓がまだ活きていたのだろう、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲の際、親父たち家族は大川(隅田川)へは近づかず、逆方向の西へと避難して難を逃れている。

◆写真上:約34,500人が亡くなった、陸軍被服廠跡地にできた横網町公園。
◆写真中上は、明治末の市街図にみる本所横網町の陸軍被服本廠と周辺の町々。は、横網町公園内に建つ復興記念館()と東京都慰霊堂()。
◆写真中下は、火災が迫る一ッ橋の東京中央気象台()と針が振りきれた地震計の記録()。は、1923年(大正12)9月1日の気象記録。台風の影響から15.3mmの降水があったことになっているが、この気象を記録した職員が無事だったかは不明だ。は、桜田門近くの内濠通りにできた大きな地割れ。このような道路の地割れや亀裂あるいは避難民の殺到で交通が遮断され、消防車両は火災の現場へ到達できなかった。
◆写真下は、柳橋界隈を襲った火事竜巻の様子。右手に見えるのは両国橋で、中央やや右手に描かれているドームは本所国技館。下左は、上の絵図に描かれた大正期の両国橋プレート。下右は、約500人の避難者が亡くなった本所公会堂に隣接する安田庭園。

矢田津世子と船山馨・春子夫妻の接点。

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 上落合八幡耕地206番地に住んだ芹沢光治良Click!は、1939年(昭和14)に実業之日本社から出版された矢田津世子Click!『花蔭』に、わざわざ手紙を書いて好意的な批評を寄せている。芹沢光治良が批評を寄せたのは、上落合からではなく、階段に佐伯祐三Click!のセーヌ河畔の街並みを描いた50号のタブローが架かる、戦災で焼失した上落合に隣接する東中野の家からだった。
 当時の矢田津世子Click!は、ほとんど毎年のようにベストセラーを出しつづける、売れっ子の女性作家に成長していた。1936年(昭和11)の『神楽坂』(改造社)を皮切りに、1939年(昭和14)の『花蔭』(実業之日本社)、1940年(昭和15)の『家庭教師』(同)、1941年(昭和16)の『茶粥の記』(同)と、出版する短編集がすぐに20版を超える流行作家の仲間入りをはたしている。また、松竹では彼女の小説を原作に、次々と映画化のプロジェクトが進行中だった。
 特に、雑誌「改造」に執筆した『茶粥の記』で、矢田津世子は女流文学のトップに踊りでてきた。だが、彼女が絶頂期を迎えようとしていたとき、太平洋戦争がはじまって執筆の機会を次々と奪われ、同時に結核の進行を止められなくなっていく。では、芹沢光治良の手紙を、1978年(昭和53)に講談社から出版された近藤富枝『花蔭の人 矢田津世子の生涯』から孫引きしてみよう。
  
 この書物(花蔭)のなかであなたを発見したやうな喜びを感じました。精神を深くをさめてゐない人には、このやうに澄んで暖な小説は書けないと思ひます。全部読んでから後記を読みますと、胸にしみるほど作者が耐へて来た不幸----と申しますか、人生体験が私にも響くやうな気がしました。
  
 ちょうど同じころ、矢田津世子は北海道の「北海タイムス」に長編小説『巣燕』を連載している。『巣燕』は、1939年(昭和14)8月15日から翌1940年(昭和15)1月9日まで、「北海タイムス」の夕刊に連載された。このときの「北海タイムス」文芸部の担当記者が、のちに下落合4丁目1982番地(現・中井2丁目)の矢田邸Click!から西へ400mほどの、下落合4丁目2107番地に住むことになる、作家の船山馨Click!だった。船山馨は、おそらく「北海タイムス」の東京支社に詰めていたのだろう、矢田邸へ毎日のように原稿を受け取りに通ってきていた。
 船山馨Click!と矢田津世子は気が合ったものか、彼女が1944年(昭和19)に死去するまで交流があったらしく、1942年(昭和17)に豊国社から出版された『鴻ノ巣女房』は、船山が装丁を引き受けている。このとき、矢田津世子を担当した豊国社側の記者が編集者名「佐々木翠」、つまりのちに船山馨と結婚して春子夫人となる坂本春子だった。ちなみに、豊国社の社長・高田俊郎の自宅も下落合にあり、矢田と高田とは近所同士で知り合いだった可能性が高い。戦後、疎開先からもどった船山夫妻が寄宿したのも、下落合の高田邸だった。のち、高田俊郎の所有地だった下落合4丁目2107番地の宅地へ、船山夫妻は自邸を建設することになる。
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 では、船山馨と佐々木翠(春子夫人)の証言を、前掲書から引用してみよう。
  
 「若いころの志賀直哉を女にしたような端正な人で、私も心惹かれていました。津世子さんは長生きできないと覚悟していたせいか、一期一会の思いがつよかったのだと思います。会っているときは相手に誠意をつくすだけつくして非常にやさしかった人です。しかもそこに匂うような女らしさがあり楽しかった。私に川端さんを紹介してくれたのは矢田さんです」/と船山氏は津世子賛美の思いを述べた。病中でも、人に会うときは、髪を調え、着替えをしてからでなければ会わず、晩年は和服ばかりで朱がところどころ灯のようにともった大島を着ていた姿が多かったと、これは船山夫人の記憶である。/そのころ肌は蚕(かいこ)が上蔟(じょうぞく)するときのように溶明な白さとなり、またからだはやせつづけ、眼ばかりいよいよ大きかった。大体津世子は日ごろからクリームをつけ、ちょっと粉をはたく程度の化粧よりしたことがなかった。粉はいつもコテイを使っていた。/「叔母さまの晩年は神々しいほどりっぱだった」と言うのは姪の百合子さんである。
  
 矢田津世子へ原稿を依頼にやってきたご近所に住む編集者は、豊国社の高田社長ばかりではなかった。ときに、エッセイ誌「雑記帳」Click!を発行していた下落合4丁目2096番地の松本竣介邸Click!綜合工房Click!から、おそらく禎子夫人が原稿を依頼に訪れている。四ノ坂の松本竣介アトリエから、下落合4丁目1986番地(「雑記帳」への執筆当時)の矢田邸までは、わずか250mほどしか離れていない。
 1936年(昭和11)10月に発行された「雑記帳」第2号(11月号)に、矢田津世子は『書について』と題する随筆を寄せている。その一部を、同誌から引用してみよう。
  
 富本一枝さんの字は、をかしがたい気品のうちに稿れた味ひがあつて、こゝまでくれば「筆蹟」といふよりは、一種の香り高い「芸術」の感を抱かせられる。眼をつむれば、今でもありありとあの素晴らしい筆勢が浮び出てきて、私は、自分の貧しい手習ひなど犬にでも食はれろと打遣りたくなる。/若いかたでは、大谷藤子さんも風格のある好もしい字をかゝれる方である。/林芙美子さんの字も優しい、いかにも女性にふさはしい素直な字をかゝれる。仲町貞子さんの筆の字は、まだ拝見してゐないが、いつか頂いたペンのおたよりで、急にお目にかゝりたいと思つたほど、心惹かれた幽雅な筆蹟だつた。
  
 くしくも、その前のページには、「雑記帳」創刊号の藤川栄子Click!につづき、女性画家としてはふたりめの三岸節子Click!が、美しい女友だちがくると顔ばかり見ていて話の内容を忘れてしまう……という趣旨の、『女の顔』という面白いエッセイと絵を寄せている。(ご紹介できないのが残念)
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 だが、新聞社の担当記者や文芸雑誌の編集者は、矢田津世子のもとを訪れると徐々に気が重くなっていくのを感じている。別に、矢田津世子に会うのは気持ちがよいのだが、気が重くなるのは矢田家を辞したあとの帰り道だった。矢田へ原稿を依頼すると、林芙美子Click!からなにをいわれるか、知れたもんではなかったからだ。矢田津世子へ原稿を依頼したあと、下落合4丁目2096番地の林芙美子邸Click!のもとを訪ねても訪ねなくても、さんざんイヤミや文句をいわれるのが目に見えていた。当時の記者や編集者たちへ実際に取材した、近藤富枝の前掲書から引用してみよう。
  
 一時新聞や雑誌の編集者すべてが、矢田家へ訪問したあと、いやな気持に襲われたという。それはこのまま帰ってしまうと、いつの間にかかぎつけた林芙美子が、/「矢田さんのところへ寄りながら、私のところへこなかった」/とイヤミをいい、行けば行くで、/「矢田さんとこの帰りでしょう」/と言ったからであった。矢田津世子が美女だからという説と、ライバル視していたからという説とあるが、おそらくその両方の理由だったのにちがいない。(中略) もと『改造』の編集者で、いつも両家に顔を出すために、気を使うことの多かった一人、青山銊治氏は、/「林さんは個人的な悪口を矢田さんについて言うことがよくあった」/と回想している。
  
 林芙美子は、矢田津世子から感想を求められる原稿を預かりながら、一度も目を通さずに押し入れに突っこんで、そのまま「行方不明」にした。よほど、矢田津世子のことを憎んでいたのだろう。(『放浪記』を「女人芸術」に掲載してくれた長谷川時雨Click!も、矢田津世子と同じぐらい憎悪していたフシを感じるのだが……) 原稿は、作家にとっては生命と同じぐらいたいせつなものだと、もちろん林芙美子も知っていただろう。まことに残念ながら、林芙美子はこの地方=江戸東京地域(特に旧・市街地)では、もっとも嫌われ忌避されるべき人間像を、下落合で演じつづけてしまっているようだ。
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 1936年(昭和11)9月に発行された「雑記帳」創刊号(10月号)には、林芙美子のエッセイ『良人へ送る手紙』が掲載されている。もし順序が逆で、松本竣介・禎子夫妻が創刊号でたまたま矢田津世子へ原稿を依頼し、2号めに林芙美子のもとへ原稿を頼みにノコノコ出かけていったとしたら、松本夫妻は彼女からなにをいわれたか知れたものではない。

◆写真上:下落合4丁目1982番地の、一ノ坂に面した矢田津世子邸跡(左手)。
◆写真中上は、山手通りが開通した直後の1950年(昭和25)ごろに撮影された写真で、一ノ坂に面して戦災を受けなかった矢田邸がとらえられている。『おちあいよろず写真館』(コミュニティ「おちあいあれこれ」より) 下左は、自身も結核だったせいか矢田津世子の作品へ好意的な批評を寄せつづけた芹沢光治良。下右は、「北海タイムス」の記者時代に矢田津世子と交流した船山馨。同時に矢田の本を介して、豊国社の記者・佐々木翠(坂本春子)と知り合い結婚することになる。
◆写真中下上左は、1978年(昭和53)に講談社から出版された近藤富枝『花蔭の人 矢田津世子の生涯』。上右は、めずらしくリラックスした様子の矢田津世子。は、松本竣介の「雑記帳」へ寄稿したころ住んでいた下落合4丁目1986番地の矢田邸跡(右手)。現在は山手通りの絶壁に近く、新宿の高層ビル群が一望できる。
◆写真下上左は、矢田津世子が寄稿した1936年(昭和11)発刊の「雑記帳」11月号(第2号)。上右は、下落合4丁目2096番地のアトリエで撮影された松本竣介。は、「雑記帳」の同号に掲載の矢田津世子『書にふれて』。

夏は潮風と火薬までが匂った。

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 父親の仕事の関係で相模湾の中央、いわゆる「湘南」Click!の平塚に住んでいた子どものころ、庭が広かったのを憶えている。ただ、子どもの記憶なので、大人になってから改めて眺めたら決して広くはなく、きっと箱庭のようにかなり狭く感じるのだろう。確か、住所は虹ヶ浜というところだった。
 当時はあちこちで見られた、板を組み合わせて白ペンキを塗った垣根の向こうは、一面にクロマツの防風・防砂林が拡がっていた。その松林を貫くように、舗装されていないユーホー道路(遊歩道路=国道134号線)が通り、ときおり散歩をする人の下駄の音や、往来する馬車あるいはボンネットバスの音が静寂を破り響いていた。舗装されていたのは、馬入川(相模川)の湘南大橋から東側までだった。白い垣根に沿ってマサキの生け垣がつづき、松林と垣根を隔てるマサキの手前が、わが家の南側に拡がる庭だった。相模湾の渚から、おそらく100m前後しか離れてはおらず、波の砕ける音がしじゅう響き、台風でもくれば潮風がきつくて窓や鎧戸が潮で真っ白になった。
 そんな環境の中、地面はやや塩分を含んだ砂地なので、庭に植えられる樹木や草花も限られていた。でも、親父はよほど海に面した庭付きのテラスハウスがうれしかったのだろう、しょっちゅう庭に出ては、いまでいうガーデニングにいそしんでいた。おそらく、生涯で初めて広めな庭付きの家に住んだのではないだろうか。東日本橋のすずらん通りClick!にあった家は、もちろん広い庭などあるはずもなかった。テラスハウスにもともと付属していたのは、コンクリートのテラス前に造られた四角形の芝庭で、その外側のエリアは自由に造園ができるよう、手が加えられずに地面がむき出しになっていた。
 親父は残されたエリアへ、酒屋から手に入れた大量のサイダー瓶を逆さまにして埋め、割った竹を半円形に刺して区切り、その中へさまざまな樹木や草花を植えた。クロマツ林と庭とを区切る正面には、白くて小さな木戸をはさみ夏ミカンとマテバシイ、それにサンゴジュの木々が植えられた。夏ミカンの樹下には、油糟を水で溶いてためておく肥料甕が埋められていた。その手前には、フヨウやバラ、ユリ、ダリヤ、カンナ、ハマヒルガオなどが咲いていたのを憶えている。庭の中央には、それぞれチューリップやヒヤシンス、クロッカス、イチゴ、ダッチアイリス、ラッパズイセン、サルビアなどがかたまって咲き、台所へのドアがある庭の左手にはマツバボタンや、どこからか株分けしてもらった大きなハマユウの一群が細長い葉を拡げていた。
 ほかにも、わたしが知らない花々が四季を通じて咲いていたように思うのだが、なにもせず勝手に種子が飛んできて花を咲かせていたのが、夕方から夜になると黄色いフワフワした大きな花を咲かせるオオマツヨイグサだった。庭先で花火をやると、必ずオオマツヨイグサとハマユウには、親指ほどの胴体のスズメガやオオスカシバが何匹も集まって飛んできたのを憶えている。夏になると、前の松林は大きな毛虫だらけだったので、きっとそれが成長したのだろう。庭に出ると、風呂上りでもすぐに潮風で肌がべたつく海辺の家へ、なぜ親父は住む気になったのだろうか?
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 親父の勤務先は横浜Click!だったので、その近くでも故郷の東京でもよかったはずなのだが、なぜか相模湾の海辺に家を探して住んでいる。これは、わたしの想像なのだが、小津安二郎Click!の映画によく出演している原節子Click!が好きだった親父は、作品にときどき登場する相模湾の情景が気に入って、海岸の家を探していたのではないだろうか。そして、わたしを連れては映画に登場する鎌倉や大磯をよく散歩している。大磯へはブラブラと歩いて行けたが、鎌倉へは砂塵をまきあげながらユーホー道路を走るボンネットバスで海沿いを走り、当時は数十分で腰越から七里ヶ浜へと出ることができた。
 でも、小津映画の情景が気に入ったのなら、別にもっと横浜に近い鎌倉の由比ヶ浜でも材木座海岸でも、また藤沢の片瀬海岸でも鵠沼海岸でもいいはずなのだが、なぜか親父は平塚海岸を選んでいる。その理由に思い当ったのは、わたしが子どもたちを連れて毎夏大磯へ出かけるようになった、ずいぶんあとのことだった。大磯の大内館を定宿にしていたわたしは、主人から「きょうは須賀の花火大会だから、懐かしいでしょ。屋上から観ますか?」と声をかけられたときだ。
 須賀の花火大会(正式には須賀納涼花火大会)とは、馬入川(相模川)Click!河口にある須賀港の付近で毎年開催される規模の大きな花火大会だった。大磯からは遠く、花火は鉢植えの花ぐらいのサイズにしか見えなかったが、平塚のわが家の庭先からは腹に響く打ち上げ音とともに、花火がすぐ近くで開花したのを思いだしたのだ。親父は、芝庭に籐椅子を持ちだしては、うちわ片手によく花火を嬉しそうに眺めていた。「これなんだ」と、わたしは思い当たった。親父がことさら平塚の海辺が気に入ったのは、この花火大会があったからなのだ。昭和30年代には、いまだ江ノ島の花火大会は存在していなかったように思う。
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 親父はもの心つくころから、実家の目の前で打ち上げられる花火大会を見なれて育っている。江戸東京の夏の風物詩だった、1733年(享保18)からつづく隅田川の大橋(両国橋)のたもとで打ち上げられた「両国花火大会」Click!だ。明治維新と戦時中に何度か中断しただけで、日本ではもっとも歴史の長い花火大会なのだが、親父はもの心つくころから毎夏それを見ながら育った。だから、同じ海辺であっても、横浜でも鎌倉でも、藤沢でも茅ヶ崎でもなく平塚海岸の家だったのだ。
 須賀の花火大会は毎年、暗くなった7時ぐらいにはじまり9時ぐらいには終わっていた。いまとは異なり、それほど複雑なしかけや色彩はなかったし、人手で点火するので打ち上げの間隔が間遠いからじれったかったけれど、それでも太平洋の潮騒を聞きながら庭先で花火大会を観賞できるのは、いまから思えば贅沢な時間だった。海辺の時間はゆったりと流れ、軒下に吊るされた江戸風鈴とセミの声がどこからか聞こえて、台風でもやってこない限りはのんびりした生活だったように思う。
 わたしが小学生のとき、たった一度だけ津波警報が出て虹ヶ浜一帯が緊急の避難態勢に入ったことがあった。チリ沖の地震による津波だったと思うのだが、わたしは勉強道具をランドセルに詰めるだけ詰め、夜中の0時ごろまで2階で待機していたのを憶えている。市役所の広報車が、ひっきりなしにまわってきたが、結局は波の高さが数十センチほどのたいした津波ではなく、深夜に警報は解除された。自宅はコンクリート仕様だったけれど、2階家なので関東大震災Click!並みに10m前後の津波がきたら、とても無事では済まなかったろう。隣りの大磯とはちがい、平塚はその名のとおり山が近くになく、相模平野がどこまでもつづいている平坦な地域だから、大津波がきたら高台へ逃げようがないのだ。
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 湘南を離れてこちらにもどってくるとき、親父はハマユウ1株と夏ミカンの木だけ持って、再び新しい庭に植えていた。砂地ではなく、関東ロームに植えられたハマユウは元気に花を咲かせていたが、海辺に植わっていたころよりは勢いがなかった。逆に、砂地で育った1.5mほどの夏ミカンの木は、わずか数年でみるみる成長し、2階の屋根を超えるまでになった。大きな黄色い実をいくつもつけたのだが、果実を味わってみても、もはや海の匂いはしなくなっていた。

◆写真上:現在でも湘南海岸のあちこちに残る、旧・東海道の松並木にかかる満月。
◆写真中上は、1947年(昭和22)制作の小津安二郎『長屋紳士録』に登場する茅ヶ崎海岸から眺めた江ノ島と三浦半島。は、1949年(昭和24)制作の小津安二郎『晩春』に登場する平塚海岸。背景には湘南平と高麗山の一部が見えており、クルマもめったに通らないユーホー道路(国道134号線)をサイクリングしているのは原節子と宇佐美淳。
◆写真中下は、庭にたくさん植えられていたハマユウの花。は、現在でもつづいている「須賀納涼花火大会」改め「湘南ひらつか花火大会」の様子。
◆写真下:芝庭の一隅で撮影された1歳半ごろのわたしで、いまだ親父の庭づくりはほとんど進んでいない。海沿いのクロマツ林は背が低く、松林の向こう側には未舗装のユーホー道路と、三浦半島と伊豆半島を両脇に一望できる湘南海岸が拡がっている。

亀井よし子誘拐事件と下落合駅。

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 1954年(昭和29)2月26日に、落合地域を舞台にした奇怪な事件が発生している。松川事件の弁護団(岡林辰雄・大塚一男両弁護士が主体)に参加をしていた弁護団のひとり、松本善明夫妻の家に住みこみの家事手伝いをしていた亀井よし子(当時20歳)が、近くへ買い物へ出かける途中でクルマに無理やり拉致・誘拐され、下落合駅周辺のどこかにあった犯人グループのアジトに連れこまれた。この拉致・誘拐事件については、ずいぶん前にも簡単に記事Click!へ取り上げている。
 当事件の以前にも、松本家にドロボーが入り知人からの手紙2通だけが盗まれたり、松本夫妻をあからさまに尾行して、公衆電話ボックスから電話をかける際には、ダイヤルをまわす番号をボックスの外からこれみよがしにのぞきこんでメモしていたりと、明らかになんらかのグループによる捜索、あるいは圧力ともとれる事件がつづいていた。ドロボーは、名古屋市から松川事件の実行犯(真犯人)が書いたとみられる告白状(手紙)を発見し、それを湮滅しようとしていた疑いが濃厚だ。しかもドロボー事件は、手紙の内容が公表される以前に起きている。亀井よし子誘拐・監禁事件は、そんな状況の中で発生した。
 やや横道へ逸れるけれど、2011年(平成23)に米国立公文書館から公開された米国防総省文書の中に、ベトナムの鉄道に関する破壊活動の項目で、「鉄道破壊には日本駐在のCIA特別技術チームを必要とした」という明確な記述がある。朝鮮戦争が終わったあと、1950年代の記述なので日本の鉄道破壊謀略チームはCIA special technical team in Japanという表現になっているが、松川事件や三鷹事件などが発生した戦後すぐのころの組織は、全国警察署の上に君臨していたCICの謀略チームだった可能性が高い。
 2月26日午前10時ごろ、練馬区下石神井1丁目211番地に住んでいた弁護士・松本善明と画家・いわさきちひろ夫妻の家から、近くで買い物をしようと外出した亀井よし子は、千川上水Click!沿いの道を歩いていたところ、突然3人の男に囲まれ、無理やりクルマに連れこまれて拉致・誘拐された。そして、落合地域にあったとみられる平家建ての1室(4.5~6畳ほど)に監禁され、特に松本家の人の出入りや松本弁護士の交友関係について、執拗な尋問を受けている。
 亀井よし子の供述調書は、事件から9日後の3月7日に弁護士・植木敬夫によって記録されており、その内容は事件の異様さをいまに伝えている。2012年(平成24)に新日本出版社から刊行された松本善明『再び歴史の舞台に登場する謀略・松川事件』より、誘拐された直後の様子から引用してみよう。
  
 自動車は相当長く走ったすえとまった。私はその間ずっとしゃがんだ姿勢のまま車にのせられていた。こわくて、大きな声を出すこともできなかった。/つれこまれた家は、道路に面してすぐ扉の玄関があり、一畳位のひろさのコンクリートの床、それにつづいて正面に六畳か四畳半の部屋があった。私はそこにすわらせられた。/質問されたことは、『御主人は何をしているか、奥さんは何をしているか、お客はどのくらいあるか、奥さんと御主人とどちらの客が多いか』というようなことだった。(中略) 私は何をきかれてもだまっていた。そしていっしょうけんめい、どうしてにげようということばかり考えていた。/おひるごろ、三名の男たちは、交替で食事に出かけたが、私は食事を与えられなかった。/夕方になって、電燈をつけてしばらくすると、指揮者らしい男は、他の二名を帰らせなお私に質問をつづけた。そして二名が外に出ていってしばらくしてから、その男が用便か何かに立ったすきに、私はとっさに『今だ』と思い、玄関から靴をとって窓から飛出し、はだしで夢中でにげ出した。/それからどういう道をとおったかおぼえていないが、しばらく走ってから靴をはき、また走り、すれちがう人に『電車にのる道』をききながら走りつづけ、やっと西武鉄道の下落合駅に出、そこから、電車にのって上井草駅でおり、歩いて松本家にかえって来た。
  
 下石神井から下落合駅周辺まで、当時の未整備な道路事情を考えれば、クルマでゆうに30分以上はかかっただろうか。亀井よし子はシートには座らされず、車内で男たちから肩を強く押さえられたまま腰をかがめていたので、よけい長時間に感じたのかもしれない。クルマから降りてアジトへ連れこまれる際、両足がしびれてうまく動かなかったことも記録されている。
 また、犯人グループのアジトから逃げだしたあと、彼女は警察署や交番ではなく、すれちがった通行人に最寄り駅の場所を訊いているのが、この事件の特異性を際立たせている。すなわち、亀井よし子は拉致・誘拐犯グループを、警察となんらかの関係がある男たちだと認識していた可能性があり、まずは警察署や交番ではなく松本家へと逃げ帰る算段をしていることだ。まるで、戦前の特高警察Click!のようなやり口だが、警察にしては手口が乱暴で計画性に乏しく、いい加減かつ大雑把であり、どこか素人グループのような印象も受ける。
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 事件後、さっそく松本弁護士と植木弁護士、それに松本家の同居人・本田松昭とともに、亀井よし子を連れて下落合駅周辺にあるとみられるアジトを捜索しているが、夕暮れの道を必死で下落合駅まで逃れてきたため、ハッキリした家屋をつきとめることができなかった。捜査は何度か繰り返されたが、ついに犯人たちのアジトを発見することができなかった。そして、アジトは永久に発見することができなくなってしまった。なぜなら、亀井よし子は約1ヶ月後の21歳の誕生日に、大阪の病院で「急性心臓衰弱」により急死してしまうからだ。
 亀井よし子は事件後、持病だった胃病が悪化して故郷の大阪にある弘済院(戦災孤児院)へ帰り、一時的に休養することになった。同書から、再び引用してみよう。
  
 三月十八日、本田松昭につきそわして帰阪させた。大阪駅にむかえに出ていたのは、かつてよし子が弘済院にいたとき、よし子を長年月担当した弘済院保母の牧野信で、本田松昭は牧野信によし子を託し、おりかえし帰京した。よし子は、到着後すぐ、あらかじめ牧野信が手続をしていた大阪市大淀区(現・北区)長柄通二丁目大阪市立弘済院長柄病院に入院した。昭和二十九年三月十九日、午後九時一〇分のことである。よし子は、このあと二週間後の四月二日午後二時二〇分同病院で急死をとげた。死亡埋葬許可申請証に記載されている死因は、急性心臓衰弱、届出医師は、村田松枝となっている。/四月三日午前一〇時半、長柄病院で葬儀がおこなわれ、解剖されることなく直ちに北斎場で火葬された。
  
 20歳の若い女性が、「病状は順調に回復」している知らせを最後に、入院からわずか14日で死亡するのも不可解だが、死亡から24時間もたたぬうちに火葬にされたのも、明らかに異常な事態だといえるだろう。事件後、亀井よし子はわずか34日しか生きていなかったことになる。また、この死を看取った医師がつづけて死亡し、彼女の保母もなにかに怯えつづけながら行方不明となった。
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 さて、落合地域にあったとみられる犯人グループのアジトは、はたしてどのあたりにあったのだろうか? 亀井よし子の供述から、なにが見えてくるか探ってみよう。まず、彼女は駅の場所を通行人に訊ねているということは、彼女には鉄道が「見えなかった」ということだ。たとえば、アジトが下落合の丘上にあった場合、走っているうちにいずれかの斜面(坂道)に出る可能性が高い。しかも、1954年(昭和29)当時は高い建物などなかったから、いくら夕方とはいえ、すぐ眼下に鉄道が走っていることに気づいたのではないか。だから、通行人に訊くまでもなく、鉄道の方向へ逃げれば最寄りの駅に出られることがわかったはずだ。
 また、戦災から焼け残った、あるいはほとんど戦災を受けなかった家々が下落合の丘上や斜面には多く、男が数人で出入りする不審な家屋があれば、古くからいる近隣住民の目につきやすい。犯人グループが、あえて目立つような家屋を既存の住宅街へアジトとして設定するかどうか、いまひとつしっくりこないのだ。そして、亀井よし子には川を越えた、つまり橋をわたったという記憶がない。すなわち、彼女は神田川も妙正寺川も越えずに、下落合駅へとたどりついている気配が濃厚なのだ。
 そうなると、必ず橋を渡らなければ下落合駅にはたどり着けない、下落合側(現・中落合/中井含む)および上戸塚側(現・高田馬場3~4丁目)は除外されることになる。また、上戸塚側だったら、通行人は最寄りの駅として山手線・高田馬場駅の方角を教える可能性が高いだろう。したがって、犯人グループのアジトは、戦災でほとんど街が丸ごと焦土と化し、戦後に次々とバラックや新しい住宅が建てられつづけ、戦前と戦後では住民の入れ替わりも激しかった、上落合側にあった公算が高いことになる。
 もうひとつ、通行人が中井駅ではなく下落合駅を最寄りの駅として教えているということは、1954年(昭和29)現在の上落合地域でいえば、上落合1丁目(現・上落合1丁目と2丁目の一部)にアジトがあった可能性が高いということになる。しかも、上落合1丁目の南辺に近づけば、下落合駅よりも中央線・東中野駅が近くなり、また西辺に近づけば中井駅へ出るほうがよほど近くなるので、通行人は当該駅を教えただろう。したがって、犯行グループのアジトは上落合1丁目420・450・470番地の南北ラインから東側、同1丁目470・485・200番地の東西ラインから北側に位置していた可能性が高い。
 ただし、亀井よし子が監禁されたアジトからどれほどの距離を走って逃げたのか、あるいは川をほんとうに渡らなかったのかどうかなど、追跡者を気にしながら恐怖と混乱の精神状態の中で、どれほど正確な記憶をとどめていたかの課題ものこるのだが……。
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 午前中から夕方まで監禁され、スキをついて犯人グループのアジトを逃げ出したとき、亀井よし子はなにを見ていたのだろうか? もはや彼女の証言がとれない以上、いまとなっては不明なことばかりなのだが、電柱の広告看板や店舗の屋号のひとつでも供述して記録されているとすれば、犯人たちのアジトがどこにあったのかを検証し、絞りこめる有力な手がかりとなるだろう。

◆写真上:1960年前後に撮影された、下落合駅前の様子。左手に見えているカメラ屋は1980年代まで営業していて、学生だったわたしもよく覚えている。
◆写真中上は、現在の下落合駅前。は、1960年前後に撮影された下落合駅の切符売り場で、亀井よし子は上井草までの切符をここで購入している。は、現在の同所。
◆写真中下は、駅から眺めた下落合駅の踏み切り。は、同所の現状。下左は、1947年(昭和22)に撮影された下落合駅前の西ノ橋Click!。橋北詰め正面の建物はホテル山楽で、2000年ごろまで営業していた。下右は、落合橋から見た西ノ橋。
◆写真下は、事件から3年後の1957年(昭和32)に撮影された空中写真にみる下落合駅。は、同年に撮影された別角度からの空中写真。

大鍛冶・小鍛冶たちの目白。(上)

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 今年の“夏休みの宿題”は、「目白」と「神田久保」に関するテーマだった。
  
 目白不動堂(江戸期には新長谷寺の境内に安置)が、刀鍛冶や金工師の崇敬を集めていたのを知ったのは、1935年(昭和10)に出版された『小石川区史』(小石川区役所)からだ。同書に収録された目白不動の写真は、いまだ金乗院へ移転する前の関口は椿山Click!の東側、目白坂Click!の中腹にあったときのものだ。その写真を見ただけで、「ああ、やっぱり」と思ってしまった。(冒頭写真)
 写真を一見しておわかりのように、目白不動堂の右手に瓜型鍔(うりがたつば)を模した、おそらく石製の碑が建立されているのがおわかりだろう。刀剣の鍔は、刀を鍛錬したものと同じ目白=鋼(はがね)で鍛えるのが基本だが、江戸期になると多くの場合、より細工が緻密な金工師の仕事に分業化される。刀と同じ強度の鋼で鍛えるのは、斬りあう相手の刀を受けた際、手前に刃がすべるのを止め、柄(つか)を握った手もとを確実に防御するためだ。粗悪な鉄で製造すれば、鍔が割れたり折れ曲がったりして致命的なダメージをこうむる怖れがあり、戦闘時には役に立たないからだ。
 しかし、戦闘がほとんどなくなってしまった江戸期には、刀剣そのものが装飾品あるいは美術工芸品としての価値が高まり、そもそも実用的で質実な刀剣作品は人気がなくなっていく。めったに抜かない(抜けない)刀身はともかく、よりオシャレで凝った、粋なデザインの拵(こしらえ)=刀装具が好まれ、鍔や小柄(こづか)、笄(こうがい)、鐺(こじり)、縁頭(ふちがしら)、目貫(めぬき)、鞘(さや)、はては下緒(したお)や柄巻(つかまき)、刀袋などの染め織りや組紐にいたるまで、精密で美しい細工やデザインをほどこした製品が好まれるようになる。
 それにともない、金工・細工師をはじめ織物師、染物師、漆芸師、木工師、陶芸師、編物師など多彩な分野へ刀装具の需要が拡大していった。刀剣が、日本の伝統工芸における「総合芸術」と称されるゆえんであり、現代の芸術好きな“刀女子”に人気があるのも、そのような工芸美術的な特徴が大きく影響しているからだろう。
 しかし、これらの装飾性や美術性の強い作品は、幕末の動乱期には好まれず、鉄鉱石から大量生産された鋼ではなく、わざわざ砂鉄から鋼を精製する昔ながらの工程(タタラ)を復活させ、新々刀Click!の流行とともに刀鍛冶が装飾性を排した、質実で強靭な鍔の製造までを担当するという、本来の工程が一部で復活している。また、明治以降になると刀剣の需要が激減してしまうため、もともと刀工だった人々も金工細工の分野へ進出したり、また農器具や調理器具の専門鍛冶(通称「野鍛冶」と呼ばれる)へ転向したり、あるいは破壊力や貫通力の高い鋼による銃砲弾の研究、いわゆる玉鋼(たまはがね)の開発のため軍に協力したりする鍛冶たちも現われたりした。
 元・刀鍛冶が金工も手がけるようになったのは、目白=鋼の扱いに習熟していたからであり、また欧米で鍔や小柄、笄などの工芸品が好まれ、外貨獲得のために積極的に輸出されたためだ。江戸末期から明治期にかけ、美術的に重要な刀装具が海外へ数多く流出しているのは、それだけ刀装具の欧米における人気が高かったことを物語っている。
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 さて、目白不動へ瓜型鍔の石碑を建立したのは、明治以降の刀鍛冶か金工師かは不明だが、いずれにせよ目白=鋼を鍛えて刀剣あるいは刀装具を製造していた小鍛冶集団だと思われる。換言すれば、目白坂の目白不動においては目白=鋼と、地域名としての「目白」が少なくとも戦前までは直結し、強く意識されていた……ということだ。
 ここでいう「目白(めじろ)」という地名音は、現在のJR目白駅があるエリア、すなわち豊島区高田町のことではなく、江戸初期の神田上水工事Click!大堰Click!と神田上水の取水口が築かれ、以来「関口」あるいは「関口台」と呼ばれるようになってしまった、椿山一帯の本来の傾斜地名または小字(こあざ)だったと思われる小石川区(現・文京区)の「目白」地域のことだ。この地名は、おそらく江戸期ないしは明治初期ごろに西へと拡大され、本来の目白という字名が消えてしまったため、由来を知る地元の有志が少し西側へ“復活”させたものか、「目白台」の地名を生むことになったのだろう。
 わたしが、最初に「目白」地名へ興味Click!をもったのは、目白崖線沿いの古地図を年代を追って調べていくと、あまりにも「金(かね/かな)」のつく字名や事蹟が多かったことからだ。刀剣が好きなわたしは、「目白」が江戸期以前には刀剣を鍛える「鋼」そのものの刀工用語であることを知っていたので、江戸期に後づけでつくられたとみられる多彩な付会を超えて、「目白」の地名考を試みてみたくなった。
 目白不動は、地元の松村氏と旗本の渡部氏が足利に住んでいた僧・沙門某に帰依し、おそらく江戸時代の早い時期に勧請したことが『江戸砂子』にみえている。もちろん、足利から勧請したのは弘法大師のいわれがある“不動尊像”であって目白不動ではない。椿山の山麓=目白地域へ堂を建て、安置されたから「目白」不動尊なのだ。以下、寛政年間(1789~1801年)に書かれた金子直德『和佳場の小図絵』の現代語訳、1958年(昭和33)に出版された海老沢了之介『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。
  
 目白不動堂(東豊山新長谷寺)は関口にある。近来、竹生島と小池坊の両宿院となる。『江戸砂子』にいう。本尊荒澤不動明王は、弘法大師、唐より帰朝の後、羽州湯殿山に参籠ありし時、大日如来、忽然として不動明王の姿に変現し、瀧の下に現われ給い、大師に告げて曰く、今汝に上火を与うべしとて、利剣をふるえば、霊火さかんに燃え出で、仏身に満てり。大師は面前に出現の像二躰を模刻し、一躰は羽州荒澤に納め、他の一躰は大師自ら護持し給う。其後、野州足利に住せる沙門某これを感得して奉持したが、霊感があるので、関口の住人、松村氏は旗本渡部石見守(三千石)とともにこれに帰依して、土地を寄付し、ついに一宇を開いて、この本尊を遷し安置した。
  
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 また、1935年(昭和10)に出版された『小石川区史』(小石川区役所)には、明治以降に衰退していく新長谷寺の様子を次のように記している。ただし、無人となった新長谷寺の伽藍は荒廃が進むが、目白不動堂のみはかろうじて往年の体裁を保っていたようだ。それは、目白不動へ相変わらず帰依し、堂のメンテナンスをつづけていた人々がいたことを示唆している。その際、撮影されたのが冒頭の写真ということになる。
 だからこそ、新長谷寺は空襲で焼失するとともにあっさり廃寺となるが、目白不動のみは戦後になって小石川区の目白坂から、豊島区高田の金乗院へと遷座している。昭和初期の目白不動の様子を、『小石川区史』から引用してみよう。
  
 又当寺(新長谷寺)の鐘は江戸二ヶ所の時の鐘の一つとして古来より鳴り響いたものである。かゝる由緒ある当寺も幕末頃から次第に衰頽し、観音堂、大門、中門、僧坊、鐘楼等、悉く廃滅に帰し、不動堂のみ僅かに昔時の俤を残したが、明治十八年に至り、釈雲照律師が当山に住し、有部の律院として目白僧園を起してより法燈大いに昂り、再び世に知られるに至つた。然るに律師の入滅後僧園と寺とを分離し、現在も境内は千餘坪あるが。伽藍は僅かに本堂と庫裡とを存するのみとなり、昔時繁栄の俤は全く失はれて了つた。そして唯崖下を洗ふ江戸川の流のみが、依然として昔に変らぬ悠久たる響きを伝へてゐる。
  
 さて、目白不動堂があった目白坂の跡地から、あと60~70mほど坂道を上った左手に「幸神社(幸神宮)」がある。幸神社は、全国に展開する社(やしろ)だが、現在では「こう・じんじゃ」あるいは「さち(さいわい)・じんじゃ」などと呼ばれている例が多い。同様に、「古神社」も各地にある社だけれど、これもいつの間にか「こ・じんじゃ」や「ふるい・じんじゃ」などと呼ばれるようになっている。
 だが、この呼び方はまちがいなく誤りであり、「こうじん・しゃ」と読むのが正しいのだろう。ちょうど、いまの若い子たちが、同じ椿山(関口)つづきの麓にある「水神社」を「みず・じんじゃ」と読み、「すいじん・しゃ」とは読めなくなっているのと同じ現象が、明治以降に起きていると思われるからだ。明治政府により社にふられた「神社(ジンジャ)」Click!などという奇妙な呼称が、社本来の読み方まで変えてしまった一例だと思われる。明治政府の「手法」に忠実ならば、「水神社」は「水神神社」、「幸神社」は「幸神神社」と改変されなければ、首尾の一貫性がないことになる。
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 なぜなら、これらの社は「庚申」の信仰と深く結びついているケースが多く、後世に習合あるいは混合した「荒神」(火床の神)と「庚申」信仰から、本来の由来がいつの間にか忘れ去られてしまった、典型的な社のひとつと思われるからだ。室町以前の時期、「幸神社」は「荒神社」だった可能性がきわめて高い。大鍛冶(産鉄やタタラ製鉄)には欠かせない鋳成神が、江戸期に入ると本来は朝鮮半島の生産神(秦氏)であり、のちに農業の神へと変節した「稲荷神」へと転化したように、ここでもまた、小鍛冶(刀鍛冶)や野鍛冶の火床(ほと)の神である「荒神」が、江戸期に入ると台所にある竈(かまど)の神や、本来なんの関係もない「庚申」信仰へと変節するケースを見ることができる。
                                   <つづく>

◆写真上:1935年(昭和10)に撮影された、新長谷寺内の目白不動堂。右手には、目白を扱う刀鍛冶ないしは金工師が建立したとみられる瓜型鍔の記念碑がとらえられている。
◆写真中上は、目白坂の中腹に建立されていた目白不動跡の現状。は、1890年(明治23)制作の『東京名所図会』にみる目白不動(新長谷寺)。は、明治中期に撮影された椿山遠景。右手が護国寺方面であり、小日向崖線から西を向いて撮影されている。
◆写真中下は、現在の目白坂。は、『江戸名所図会』に描かれた目白不動。
◆写真下は、1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる目白坂周辺。目白坂上に見える「山縣邸」は、山県有朋邸(現・椿山荘)。は、1936年(昭和11)に撮影された目白不動とその周辺域。は、目白不動がある江戸川公園上から1930年(昭和5)に撮影された下戸塚(早稲田)方面Click!

大鍛冶・小鍛冶たちの目白。(中)

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 では、創建時期のわからないほど古い「幸神社」Click!について、江戸期に判明している由来を収録した、寛政年間(1789~1801年)に書かれている金子直德『和佳場の小図絵』の現代語訳、海老沢了之介『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。
 ちなみに、創建期が不明なほど古くから伝わる荒神の社や祠を、後世に「幸」ではなく「古」の字を当てはめて「古神(ふるがみ)」の社=古神社としてしまったケースや、のちに「鴻」「興」「皇」「香」などの字を当てはめたり、さらには「子」の字を当てはめ、参詣すれば子宝にめぐまれる……などと、意味不明でわけのわからない社にされてしまったところもかなり多そうだ。
  
 幸神宮は黒田豊前守下屋敷の東にある。むかしはこの所より下に通ずる道があったが、関口となってから道を椿山にひらき替えをした。宮の前には道の方へ聳えた大榎があった。祭神は猿田彦大神である。庚申の日をもって縁日とする。庚申塚ともよんでいる。社司は宮城島氏である。伝説には、昔この所に豪族が住んでいたから、この辺を長者の廓といっていたという。金の駒を塚に築き込め、榎を植えて、幸神を勧請したともいわれる。
  
 江戸中期においてさえ、荒神と庚申、そして猿田彦の伝説までが習合している様子が判然としている。特に、神仏混合が進んだ江戸期には、なんら不自然には感じられなかったのだろう。社名は「荒神」とも「庚申」とも書かれず、寛政当時から由緒を整え、社の縁起をよくするためか「幸神」と書かれていたことがわかる。
 「荒神」のまま「あらぷるかみ」では、都合が悪い平和な時代が江戸期には長くつづいていた。この一文を見ても、「幸神宮」の音読みは「こう・じんぐう」などではなく、「こうじんのみや」だったのが自明だろう。幸神社は、水神社とまったく同様に「こうじん・しゃ」と切って読むのが正しい。
 ここで興味深い説話が、江戸期の寛政期まで伝わっていたのがわかる。塚を築造して「金の駒」を埋設し、その上に榎を植えたという伝説だ。この場合の「金」は、黄金(こがね)=ゴールドのことではなく、中世以降ずっと用いられてきた金(かね)=鉄でできた駒、すなわち「鉄の馬」像を埋めたということだ。すでに江戸期に伝説化していた事跡から、荒神を祀ったと思われる「幸神社」に、金(かね)=鉄に深く関連する伝承が存在していたことがわかる。ひょっとすると、室町期のはるか以前からの伝承なのかもしれない。
 幸神社の建立されている場所は、目白不動と同様に南側が急峻な崖地となっており、谷間には旧・平川(現・神田川)が流れている。また、時代がかなりさかのぼれば、南の谷間には奥東京湾の名残りである白鳥池Click!が横たわっていただろう。現代でもそうだが、斜面のあちこちから泉水が湧き出ており、大鍛冶(タタラ製鉄業)がカンナ流し(神奈流/神流)を行うには願ってもない地形をしている。
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 タタラ製鉄には、大きく分けて3つの条件が不可欠だ。1つめは、鉄分(砂鉄)を多く含む水量豊富な湧水源、あるいは川筋が近くにあること。2つめは、カンナ流しClick!(神奈流/神流)がスムーズに行えるよう、傾斜が急な斜面あるいは崖地があること。3つめはタタラを行なう際、大量に必要となる炭が焼けるよう豊かな森林が周囲にたくさんあることだ。この条件の1つでも欠ければ、大鍛冶の仕事は成り立たない。
 したがって、付近の砂鉄まじりの土を掘りつくしてしまったり、周囲の森林が大量の炭焼きのために丸はだかになってしまえば、大鍛冶の集団は別の場所へと移動していくことになる。その大鍛冶場の跡には、目白=鋼を製錬するときに出た「金糞(鐡液/かなぐそ)」と呼ばれる、鉄の不純物のかたまりがあちこちに残されることになる。つまり、森が丸ごと裸にされ、川の水はカンナ流しで赤茶色に濁るので、大鍛冶の専門家集団と周辺の農民たちとの対立は、ときに深刻だったろう。
 大鍛冶集団は、おそらく同じ川筋を上流へ上流へとさかのぼっていくため、川沿いの森は荒れ、川は下流域まで濁ることになる。だからこそ、地域の農民たちと対立し嫌われた行きずりの大鍛冶たちの記憶は、きれいサッパリと忘れ去られる運命にあったのだ。また、大鍛冶たちが建立したと思われる荒神社も、後世の地域住民たちにはなじみが薄く、早々に“別の社”へと衣替え、あるいは農業に都合のよい神々へ転化されることになったと思われる。
 下落合では、改正道路(山手通り)の工事中に、中井駅の北側斜面から大量の金糞(鐡液)が発見され、大鍛冶(タタラ)遺跡だろうとされた。しかし、戦時中だったため詳細な調査がなされずに破壊され、戦後はそのまま山手通りの下(上?)になってしまった。同様に、関口台から雑司ヶ谷にかけ、地中から金糞(鐡液)が発見されている事例が多い。おそらく、明治期の早くから拓けた同エリアなので、住宅街の下(特に傾斜地)には金糞(鐡液)が、あちこちに埋まっている可能性がある。
 幸神社からさらに目白坂を上ると、関口台の尾根筋へ出る。目白通り(清戸道Click!)を越えて北へ進むと、やがて急斜面というよりは絶壁と表現したほうが適切な、金山の谷間へと抜ける。この金山に建立されている金山稲荷は、江戸期の呼称でいえばその名もズバリ、鉄液(かなくそ)稲荷大明神だ。『新編若葉の梢』から、再び引用してみよう。
  
 鐡液稲荷はまた金山稲荷ともいう。御嶽・中島・金山の鎮守である。別当を石堂孫左衛門という。鍛冶の家で守護神に祭ったのである。この所いまでも鐡液が出る。利益甚だ多い。例年二月初午の日に祭るが、昔は二十二日が祭礼日であった。
  
 ここに登場する小鍛冶(刀鍛冶)の石堂一派Click!については、以前にも詳しく記事にしている。おそらく、室町末期ごろ関東へと出てきた石堂派の流れだと思われるが、どのような作刀をしていたかは記録がないのでわからない。ただし、西日本の石堂派は備前伝を得意としていたので、同様の技術を身につけた工房だったのではないかと推定できる。
氏神稲荷.JPG
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 さて、『新編若葉の梢』では石堂派が奉った社(やしろ)とされている鐡液稲荷社だが、はたしてそうだろうか? 小鍛冶(刀鍛冶)の仕事では、基本的に金糞(鐡液)は出ない。もちろん自分で砂鉄からタタラを行い、目白=鋼を製錬して作刀の材料にしていた、江戸後期の水心子正秀のような例外的な仕事をしていれば別だが、室町末期か江戸初期にやってきた石堂派が、そのようなことをしていたとは到底思えない。
 なぜなら、戦乱がつづいた室町期から、大鍛冶と小鍛冶の仕事は確実に分業化が進み、硬軟さまざまな目白=鋼を生産するタタラのプロたちにより、目白(鋼)生産技術はかなり専門的で高度な手法が確立されていたからだ。刀鍛冶が、それらの専門的で高度な技術を身につけ、コスト的にも膨大な費用がかかるタタラ工程まで手を出すとは、とても考えにくい時代なのだ。
 江戸後期の水心子正秀が、砂鉄をタタラによって目白=鋼の生成から行い、自身の思い通りの硬軟を備えた目白=鋼を次々と製錬できたのは、彼のバックに大名の館林藩秋元家Click!がついていたからであり、水心子は同家の藩工として中屋敷に住み、砂鉄を溶かす高価なタタラ用の炉を購入したり、工房の助手たちを必要なだけ雇える潤沢な資金があったからだ。近江出自の石堂派、しかも関東の武家社会ではマイナーな備前伝を焼いていたと思われる一派に、そのような資金力も高度なタタラ技術もあったとは思えない。
 したがって、金山稲荷の周辺から出土する金糞(鐡液)は、石堂一派が関東へとやってくる以前から出土していたのであり、金山(神奈山)という名称自体も、石堂派が住みつく以前からあったように思われるのだ。すでに金山に存在していた、なんらかのいわれのある祠(ほこら)ないしは社を、改めて奉りなおしたのが石堂派ではなかったか。『若葉の梢』が書かれた寛政年間でさえ、金糞(鐡液)が土中から掘り返されるほどの、膨大な量が埋蔵されていたとすれば、それは決して小鍛冶(刀鍛冶)の仕事によって出たものではない。
 金山にあった祠ないしは社は、「荒神」だったか「鋳成(稲荷)神」だったのかは不明だが、少なくとも小鍛冶(刀鍛冶)である石堂派にはなじみのある神だった可能性がある。「荒神」であれば、刀鍛冶にとっては火床(ほと)の神であり、「鋳成(稲荷)神」であれば、刀鍛冶にとっては鍛錬の神に当たるので、それを氏神とし改めて社を建立したのかもしれない。大鍛冶の金糞(鐡液)が出る土地がらであってみれば、小鍛冶(刀鍛冶)はまちがいなく地味のよい、住みつくには格好な土地だと認識しただろう。
山手通り斜面.JPG
庚申塚.JPG 神田久保階段.JPG
 さて、金山稲荷(鐡液稲荷)社のある金山の下を流れるのが、金川(神奈川)と呼ばれる弦巻川だ。この名称も、砂鉄が採れたからズバリ金川なのであり、両岸の斜面ではカンナ流し(神奈流/神流)が行われていたから神奈川と呼ばれたのだろう。金川(弦巻川)の源流は、池袋の丸池までたどることができるが、この流域もまた旧・平川(現・神田川)と同様に、大鍛冶(タタラ集団)が上流へとさかのぼりながら、目白=鋼の製錬をつづけた川筋なのだろう。金川の下流は、江戸川橋で旧・江戸川(現・神田川)へと合流しているが、金山から護国寺へと抜ける谷間のことを(少なくとも江戸期までは小字として残っていたものだろうか)、「神田久保」と呼称されていたことがわかった。
                                   <つづく>

◆写真上:関口台小学校に隣接して目白坂の下り口に鎮座する、江戸期に当て字が「荒」から「幸」へ変えられたとみられる幸神社(荒神社=こうじん・しゃ)。
◆写真中上は、1955年(昭和30)に撮影された金山稲荷社(鐡液稲荷社)。は、宅地造成で斜面が削られる金山(神奈山)の現状で、このような造成工事でも金糞(鐡液)の断片が出土していると思われる。。
◆写真中下は、関口台から雑司ヶ谷にかけては稲荷社が多い。下左は、大鍛冶(タタラ)遺跡から出土した金糞(鐡液)。下右は、古墳期には金糞(鐡液)が出土したタタラ遺跡周辺の古墳から鉄剣・鉄刀が発見される例も多い。
◆写真下は、中井駅の北側にあった下落合の南斜面跡。改正道路(山手通り)の掘削工事の際に、金糞(鐡液)が多く出土して規模の大きな大鍛冶(タタラ)遺跡が発見されている。下左は、雑司ヶ谷に多くみられる「庚申塚」。下右は、ほとんど絶壁に近い関口台側から神田久保へと下りる階段。


大鍛冶・小鍛冶たちの目白。(下)

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神田久保1.JPG
 江戸期までつづいた「神田久保」Click!の谷名は、東は現在の護国寺に出る手前、清土鬼子母神の境内あたりから、西は日本女子大学の学生寮Click!あたりにかけての名称だった。谷底には、金川(弦巻川)が流れていたのだが、1932年(昭和7)以来すでに暗渠化され、現在はその上に道路が造成されていて存在しない。
 さて、神田久保について海老澤了之介の『新編若葉の梢』から引用しよう。
  
 金山稲荷の東に道がある。この道の低い所を神田久保という。久保とは窪を意味をする。(ママ) むかしこの辺に僧都の主堂があった。これから蔵主ヶ谷ともいう。この地一帯は川あり、岡あり、森ありて幽邃(ゆうすい)の地であったから、真に蔵主の谷という感じであったであろう。(カッコ内引用者註)
  
 もとの著作である『和佳場の小図絵』(寛政年間)の金子直德は、「雑司ヶ谷」の地名の由来に惹かれ、神田久保の由来についてはなんら言及していない。でも、「川あり、岡あり、森あり」と、大鍛冶(タタラ)の仕事にピッタリな場所であることを、江戸期とはいえ期せずして書きとめている。「久保」または「窪」地名Click!については、過去に大久保の金川とともに記事にしている。
 神田久保(かんたくぼ)とは、日本語の地名で時代を問わず頻繁に起きている、言語学の「たなら相通」の転訛法則にならえば、まちがいなく「神奈久保(かんなくぼ)」だったろう。カンナ流し(神奈流し/神流)が行われていた、久保・窪(湧水源)の地だから神田久保という小字が江戸期まで残っていたと思われる。
 ちなみに、神田山があり旧・平川の下流域(現・日本橋川)に拡がる土地を「神田」と呼ぶが、たなら相通を地名考察のベースとすれば、江戸幕府が崩して土砂を海浜の埋め立てに使用した神田山(現・駿河台にあった山)もまた神奈山(金山)であり、土地の名称も神奈(神流/かんな)なら、さらに大小さまざまな谷間を流れる川筋も、神奈川(金川)と呼ばれていたかもしれない。神田山の北山麓Click!を深く掘削して、徳川幕府は人工的に旧・平川の流れを東へ向けて外濠とし、柳橋から大川(隅田川)へと注がせる大工事を行っているが、1966年(昭和41)に井の頭池から大川まで流れる河川名を神田川で統一したのが、わたしにはとても面白い。転訛する以前の川名に直せば、神奈川(金川)そのものになるからだ。
 神田久保が、なぜ「谷」=ヤツ・ヤトではなく「久保」または「窪」=クホ・クポと呼ばれたかは、豊富な湧水源の有無によって左右されたのだろう。原日本語で解釈すれば、クホ(kut-ho)はそのまま湧水源の意味であり、川や渓流が流れる谷=ヤツ・ヤトとは異なる地名概念だ。しかも、その湧水は特に豊富かつ清廉で優れた水質であり、人々の生活には欠かせないものでなければ、「久保」または「窪」とは呼ばれなかった傾向が顕著だ。そのような視点で神田久保を眺めると、その中心には「星跡の清水」の伝承があり、鬼子母神出現地である「清土」Click!の伝説がある。これらの伝説を、寛政年間の同書から引用してみよう。
  
 護国寺の西の谷間(神田久保のこと)、本浄寺の南、この地を清土(せいと)と呼んでいる。昔は一面の深田であったが、今は蒼林の中に小社あり、松杉が繁茂している。それに七本杉という霊木があり、一本の樹根から七本の幹が出ていたが、うち三本が残っている。/昔この地は山本喜左衛門及び田口新左衛門などの持地であったが、夜な夜な光りものが見える、或夜二人して見定めたところ、池水に星がその影を宿どして光っていたのであった。不思議に思い、その池の辺を掘ってみたところ、仏像に似たものを掘り出した。永禄四年(一五六一)五月十六日のことである。今は此処、一反六畝を除地として免許それている。さてその像を檀那寺の東陽坊大行院に持ってゆき、見てもらった所鬼子母尊神の像である事が判かり、本尊の脇にしばし納めて置いた。(カッコ内引用者註)
  
神田久保(江戸名所図会).jpg
神田久保1909.jpg
神田久保1936.jpg
 また、護国寺の南側にも「星谷(ほしやと)の井」と呼ばれた、干ばつでも枯れない清廉で豊かな井戸のあったことが伝えられている。文中に出てくる、豊富な水量だったと思われる「星跡の清水」の清廉さといい、明らかに水質の優れた湧水源にふられた名称が神田久保だったことがわかる。両側を急な斜面にはさまれた、このような窪地はカンナ流し(神奈流し/神流)を行うにはピッタリの地形であり、神田久保(神奈久保)と呼ばれるのにふさわしい土地がらだったのだろう。
 前回の記事で、川を汚し森林を根こそぎ伐採する環境破壊者としての大鍛冶(タタラ集団)と、周辺で暮らす農民との対立の図式を書いたけれど(また、実際にはそのようなケースが多いと思われるのだが)、場所によっては両者の利害関係が一致し、進んで大鍛冶(タタラ)の仕事に農民たちが協力した地域もある。なぜなら、周囲の森林はかなり伐採されてしまうが、山の斜面は開拓してカンナ流し用のひな壇状の地形を造成するため、大鍛冶たちがさらに上流域など別の場所へ移動していったあと、カンナ流しの跡地に手を入れて整備すれば、棚田あるいは段々畑として活用ができたからだ。
 つまり、大鍛冶(タタラ)と農民とが相互に依存しあう地域も見られた。上記の文章に、「昔は一面の深田であった」という記述が見えるが、ひょっとすると古墳期かナラ期かは不明だが、神田久保に住みついた大鍛冶(タタラ)と農民との間には、そのような相互依存の関係があったのかもしれない。大鍛冶たちが去ったあと、神田久保の両側、すなわち金川(弦巻川)両岸の斜面に造成されたカンナ流し用のひな壇を、さっそく手を入れて開墾し、棚田ないしは段々畑にした可能性も否定できないだろう。だからこそ、「神奈」が「神田」へ転訛したと想定することもできる。
 さて、目白坂の目白不動や幸神社(荒神社)へと話をもどそう。これらの伽藍(がらん)や社(やしろ)は、明らかに旧・平川(現・神田川)の谷間に向けて建立されている。そして、池袋村の丸池に端を発した金川(弦巻川)は、江戸川橋のあたりで北側から旧・平川(神田川)へと流れこんでいた。もっとも、この流れ筋は江戸期のもので、より古い時代の金川(弦巻川)は、異なる位置から旧・平川あるいは白鳥池へと流れこんでいたのかもしれない。この北側から流入する金川(弦巻川)に対し、南側から旧・平川(現・神田川)へと流入する同じ名称の「金川」が存在していた。同書から、再び引用してみよう。
清土鬼子母神堂.JPG
星跡の三角井戸1956.jpg 星跡の三角井戸.JPG
  
 八幡宮の門前を流れる金川の源は、戸山の尾州屋敷から出ている。昔は広い流れであった。門前に石橋が掛っている。これが駒留橋で。神事流鏑馬の時、この橋の所に馬を揃えたので、この名がある。/金川はかの川・かな川等いわれたが、今ではかに川という。文明年間(一四九六~八六)太田道灌が遊猟して、鷹を放った所である。このことは山吹の里の項にも詳しく書いて置いた。
  
 八幡宮とは、穴八幡Click!(高田八幡)のことだ。文中に、「戸山の尾州屋敷から出ている」と書かれているが誤りで、源流はもっと南にあった。下戸塚側(早稲田側)の金川は、東大久保(ここも「久保」地名であることに留意されたい)の西向天神のさらに南、番衆町にあった大きな湧水源(「大久保」そのものの意味地名だ)、あるいは新宿停車場が建設される以前の角筈Click!に端を発し、尾張徳川家の下屋敷内(戸山ヶ原Click!)に造園されていた大池(東海道五十三次の琵琶湖想定)をへて、現在の早稲田大学文学部キャンパスの南を貫通し、支流は大隈庭園あたりから旧・平川(現・神田川)へ合流するか、あるいはもう1本の支流が目白不動の南側あたりで同河川に合流している。これも、江戸期に整備された川筋の可能性があり古代の流れとは異なるのだろうが、いにしえより戸塚側の金川が、旧・平川または白鳥池に注いでいたのはまちがいないだろう。
 すなわち、旧・平川(現・神田川)の流れをはさみ、南北に金川の名を残した川筋が古くから存在し、その中心地とみられる“目白の丘”(江戸期より関口)には、創立が不明なほど古い幸神社(荒神社)と、刀鍛冶や金工師から崇敬を集めたと思われる、目白=鋼の名を関した目白不動、そして「金(かね)の馬」埋設の伝承が残り、そのすぐ北側には金川(弦巻川)の流れとともに、金山(神奈山)や神田久保(神奈久保)の地名が展開している。さらに“目白の丘”の西、現在の目白駅がある谷間は、江戸期には金久保沢Click!と呼ばれており、金=鉄と久保の地名、そして流れ出る沢とがセットになった、大鍛冶(タタラ)のカンナ流し(神奈流し/神流)の仕事にはもってこいの地形を意味する字名までが残っている。
 ちょっと余談だが、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)に掲載されている徳川義親Click!の証言によれば、1885年(明治18)に日本鉄道(私営)の目白停車場Click!が設置されてからしばらくの間、駅周辺の地元ではあえて「高田停車場」と呼ばれていたらしい伝承が紹介されている。目白不動のある“目白の丘”(現・文京区)から、はるか西へ2kmも離れた高田町金久保沢(現・豊島区)に設置された目白駅は、江戸期の記憶が鮮明で生々しい明治初期の地付きの人々にとってみれば、「高田駅」ではあっても小石川エリアの地名を冠した「目白駅」とは呼べない、高田住民としての沽券や意地が存在していたのだろう。
 目白不動堂があった新長谷寺は空襲で炎上し、戦後もしばらくの間は廃墟のような状態がつづいていたが、いまだ信仰がつづいていた目白不動堂のみ、目白坂から目白崖線沿いの西1kmほどのところにある金乗院へと遷座している。目白駅へ少し近づいたわけで、あと1kmともうちょっとの距離だ。w 
神田久保2.JPG
目白不動1956.jpg
 最後に、もうひとつ気になることを書きとめておきたい。高田や雑司ヶ谷あるいはその周辺域に、火男(ひおとこ=ひょっとこ)の伝承ないしは伝統芸能は残っていないだろうか? タタラ製鉄の火おこしの火を吹くため口がとがり、目白=鋼の製錬の様子を窯に開けた小さな穴から覗きつづけるため、大鍛冶職人は40代で利き目を失明したといわれ、足踏みの鞴(ふいご)を踏みつづけるために、年を取ってから片足が萎えて文字どおり“タタラ”を踏んだ歩き方をする、ことさら滑稽さが強調されたあの「ひょっとこ」だ。当時の定住者である農民たちが、非定住者である大鍛冶たちをどのような目で眺めていたかが透けて見える象徴的な史的キャラクターといえるだろう。「ひょっとこ」の伝統芸能あるいは伝承・伝説が残る地域は、かなり後世まで(といっても江戸期以前だが)タタラ製鉄が行われていた地域として全国的に見られる傾向だ。ご存じの方は、ご教示いただきたい。

◆写真上:金川(弦巻川)が暗渠化され、川筋上に敷設された細い路地。
◆写真中上は、『江戸名所図会』にみる神田久保に建立された清土鬼子母神堂と星跡の三角井戸(中央手前)。左手に金川(弦巻川)が流れているので、西側から東を向いて写生をしたのがわかる。は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる神田久保。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同地域。
◆写真中下は、清土鬼子母神堂の本堂。は、1956年(昭和31)に撮影された星跡の三角井戸()と現在の同井戸()。質のよい湧水が噴出したため名井戸となったものだが、1956年(昭和31)には江戸期と同様に木製だったのがわかる。
◆写真下は、目白台側の斜面中腹から眺めた神田久保を貫通する不忍通り。は、1956年(昭和31)に撮影された金乗院へ遷座後の目白不動。

山口邸(李香蘭邸)から100mに浅利慶太邸。

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 いつも、拙記事をお読みいただきありがとうございます。気づかないうちに、のべ1,100万人の訪問者数を超えていました。ほどなく、東京都の人口を超えそうなのにビックリしています。
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 先日、NHKから突然電話をいただいた。最初は、なぜわたしの電話番号を知っているのか不可解だったが、何年か前に妙正寺川の記事のことでお問い合わせをいただいたのを思いだした。また、そのときのO記者とは偶然、近衛町Click!「花想容」Click!でお会いして、ご挨拶をしたこともあった。その際、落合地域の問い合わせ先のひとりとして、NHKの報道取材DBにでも登録されたものだろうか。
 今回のお問い合わせは、NHKの「ニュースウォッチ9」Click!(月~金曜/午後9時~)の報道局K記者からで、演出家で劇団四季の創立メンバーである浅利慶太の実家は下落合のどこ?……というものだった。「う~~ん、突然そんなこといわれても」と、一瞬ボンヤリしてしまった。中村彝アトリエClick!の近くに、同じく演出家で俳優の蜷川幸雄が住んでいたのは、以前に近所の方からうかがって知っていたが、さて、舞台監督の浅利慶太邸はどこにあったのだろうと首を傾げたとき、わたしの記事を見て電話しているのだとK記者はいう。(爆!)
 そのとき、わたしのもの憶えの悪いアタマでも、ようやく思いだすことができた。以前、下落合に多い医院や薬局をテーマに記事Click!を書いたとき、コメント欄へトロさんこと池田瀞七さんから貴重なコメントをいただいていた。それは、開通したばかりの改正道路(山手通り)Click!から、戦前は「翠ヶ丘」、さらに改正道路工事が近づき地面がむき出しの原っぱだらけになるころからは、「赤土山」と呼ばれていたらしい丘陵へ通う急階段を上ると、浅利慶太邸や津軽邸Click!があったという記述だ。ちょうど、六天坂Click!から見晴坂にかけての、眺めのいい丘上に展開する住宅街だ。わたしの大好きな、スパニッシュ風の中谷邸Click!のある近所でもある。
 さっそく、1938年(昭和13)に作成された「火保図」と、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真、それに当時から変わらない印象深いと思われる中谷邸の写真を送ると、K記者は浅利監督といっしょに下落合3丁目(現・中落合1丁目)を訪れ、実家跡や付近を散策されている。そのときの様子は、9月7日(月)放映「ニュースウォッチ9」で観たのだが、浅利邸の所在地は旧・下落合3丁目1738番地に建っていた。ちょうど、六天坂を上りきった中谷邸の奥、戦前は津軽邸(旧・ギル邸Click!)の広大な敷地に隣接したすぐ北側の一画だ。
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 戦時中は、自邸のすぐ前、下落合3丁目1741番地の空き地に防空壕が掘られ、1945年(昭和20)4月13日Click!5月25日Click!の二度にわたる夜間の山手空襲Click!は、落合第一国民学校(小学校)Click!へと通う当時12歳の浅利少年にとっては、戦争の原体験となったのだろう。番組では、馴染みのある六天坂上の風景が映り、わたしは「下落合の自邸跡を特定できてよかった」と安堵したとたん、もうひとつ非常に重要なテーマをすっかり失念していたのに気がついた。
 創立した劇団四季を、昨年(2014年)に去った今年82歳になる浅利監督は、今年に入って「ミュージカル李香蘭2015」Click!の演出を手がけている。何度も舞台で上演された作品だが、特に今年は戦争を知らない現代を生きる若い世代に、戦争の悲惨さを少しでも実感してもらうため、特に思いをこめて演出しているという。戦後70年、「あの戦争を忘れた世代は危険だ」という浅利監督は、戦争を経験した世代としてその惨憺たる様子を伝える反戦の舞台へ、可能な限り挑みつづけるという。
 さて、舞台のヒロインである当の「李香蘭」(山口淑子)Click!は、浅利邸から南南西へわずか100mほどのところ、目白文化村Click!の第二文化村からつづく振り子坂Click!を下り、丘下の中ノ道(現・中井通り)へと出る途中、下落合3丁目1725番地(現・中落合3丁目)の家に住んでいた。浅利邸からは、当時は工事中の改正道路(山手通り)の広い空き地を利用して向かえば、歩いて1分以内にたどり着けたかもしれない。
 おそらくマスコミに公開している「公邸」ではなく、彼女の実質的な自宅ないしは家族の実家、あるいはプライベートな別邸だったのだろう、付近に住む人々が戦前、散歩する山口淑子(李香蘭)を頻繁に見かけていた。1938年(昭和13)の「火保図」を参照すると、確かに目撃されたその場所には山口邸が採取されている。
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 ひょっとすると落合第一国民学校(小学校)へ通っていた浅利少年も、付近の丘を散策する美しい「李香蘭」こと山口淑子を目撃しているのかもしれない。1945年(昭和20)4月2日、第1次山手空襲(4月13日夜半)の11日前に、偵察機のB29が撮影した空中写真を確認すると、屋敷林に囲まれた西洋館らしい山口邸の屋根を確認することができる。だが、戦後の1947年(昭和22)に撮影された爆撃効果測定用の空中写真では、北に隣接する敷地とともに住宅の屋根を確認できないので、おそらく二度にわたる大規模な山手空襲のどちらかで焼失しているのだろう。
 また、浅利慶太邸は1941年(昭和16)に陸軍航空隊が撮影した空中写真には見えないので、おそらく同年から物資が極端に欠乏する以前の1943年(昭和18)の2年間のどこかで、建設されていると思われる。
 今年の9月7日は、昨年に死去した山口淑子の一周忌に当たっていた。「ミュージカル李香蘭2015」は、8月31日から9月12日にかけ、彼女の命日をはさみながら港区海岸1丁目の自由劇場で上演され、チケットは事前に完売するほどの大人気だったらしい。これからも、戦争の悲惨さや怖しさ、虚しさを伝える舞台を、ぜひ浅利監督には演出・上演しつづけてほしいと思う。
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 余談だけれど、新宿中村屋Click!と中村彝をはじめとする中村屋サロンに集った人々の物語を描く、劇団民藝の舞台「大正の肖像画」Click!が10月20日~11月1日にわたって紀伊国屋サザンシアターで上演される。彝をはじめ、中原悌二郎Click!エロシェンコClick!相馬俊子Click!岡崎キイClick!神近市子Click!ら、下落合ではお馴染みの人々も多く登場するのだが、近くにお住まいで知人の民藝女優・白石珠江さんは誰の役かと思ったら、ヒロインの相馬黒光Click!だそうだ。w 白石さんには、ぜひ三田佳子とは異なる「オンちゃん」こと佐伯米子Click!を、いつか演じていただきたいのだけれど……。

◆写真上:下落合3丁目1738番地にあった、浅利慶太邸跡(左手)の現状。
◆写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」(左が北)にみる浅利邸と山口邸の位置関係。まだ浅利邸は建設前だが、山口淑子邸はすでに採取されている。は、1941年(昭和16)に陸軍が撮影した斜めフカンからの下落合3丁目界隈。改正道路(山手通り)工事が間近なため赤土がむき出しの空き地や丘の斜面が目立つ。
◆写真中下は、第1次山手空襲の11日前に撮影された浅利邸と山口邸。下左は、「李香蘭」を演じる山口淑子。下右は、「ミュージカル李香蘭2015」のポスター。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる浅利邸()と、空襲で焼失したとみられる山口邸跡()。は、振り子坂に面した山口邸跡(左手)の現状。

鉄道を敷設しないなら免許取り消し。

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鉄道鎌倉駅.JPG
 大正の末から昭和初期にかけて、鉄道省は鉄道免許の濫発を行なっている。東京を中心に首都圏はもちろん、地方のあちこちで鉄道敷設の話が持ちあがり、そのたびに地元の建設業者や土木会社、その他の企業などへ工事免許を下ろしていた。
 だが、免許を出したのにもかかわらず、現地では一向に起工しないケースも多く、鉄道省では認可業務とその管理に忙殺されるだけで、業務の負荷が高まるばかりだった。これには、地方の不動産業者が「工事会社」と結託し、鉄道敷設の計画があり免許も下りているので、いま土地を購入しておけば駅ができてから地価が上昇するというような、架空の鉄道プロジェクトをチラつかせた、詐欺まがいの商売が横行していた疑いが強い。
 また、今日の商標登録ビジネスと同様に、先に免許だけ取得しておいて必要になった事業体に高く売りつけるというような、鉄道免許を先物取引の商売道具化するような「利福屋」が登場してたのだろう。業を煮やした鉄道省では、1927年(昭和2)6月に鉄道免許の有料化と審査の厳密化を発表している。また、免許を取得したままにしている事業体には、「免許保護料」の名目で新たに課金する制度も発表した。1927年(昭和2)6月29日に発行された、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
  
 不公正なる出願防止に地方鉄道の出願料をとる
 免許保護料制も設けて利福屋を徹底的に一掃

 最近地方鉄道の出願はほとんど濫願に陥りその結果は免許を受けても工事着手の意志なく施工期を過ぎて空しく権利をはく奪さるゝもの相当数に上つてゐるがこれ等は単に権利を得たいといふ不公正な動機から工務所等と結託して出願する有様なので鉄道省では来期議会に地方鉄道法改正案を提出するに当り濫願の弊を防止する手段として出願料並びに免許保護料を負担せしめんとの意向である(。)又既設の地方鉄道助長方策として新線建設資金に充当するため普通株に劣る劣後株の発行に対しては殊に電気鉄道会社の熱望するところなのでこれが改正案も再び提案する方針であると(。)(カッコ内引用者註)
  
 これは、首都圏でも同じような事情で、およそすぐには着工されそうもない鉄道線があちこちで申請され、鉄道省ではつど免許を下ろしている。落合地域だけを見ても、省線の高田馬場駅を起点とし、小田原まで急行が通う小田原急行小田原線Click!の敷設計画をはじめ、同じく高田馬場駅を経由して戸山ヶ原Click!を通過し早稲田、さらには東京市街地へ地下鉄路線の敷設・展開をねらう西武鉄道Click!の計画などが見られる。
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 西武線の地下鉄化には、戸山ヶ原の陸軍からさまざまな注文が寄せられているが、高田馬場駅をターミナルとする小田原線に関しては、陸海軍ともに比較的スムーズに「異存ナシ」の認可が下りた。しかし、両路線ともなかなか着工までにはいたらなかった。特に、小田急電鉄の場合は、新宿発の路線が1927年(昭和2)に全線開通しており、半ばマーケティング的な実証実験のように客足の様子を観察していたのだろう。もし需要が多ければ、高田馬場駅を起点にして狛江で新宿駅からの路線と合流させる計画だった。
 また、落合地域ではのちの改正道路(現・山手通り)のルート上に、城西電鉄の敷設計画がかなり具体化していた。これは、板橋から武蔵野鉄道の椎名町駅の東側を通過し淀橋町柏木、さらに渋谷駅まで電車を通す計画だった。さらに、板橋方面から武蔵野鉄道の東長崎駅を経由し、西落合を縦断して南へ下る計画線も想定されている。だが、先の小田急小田原線も含めて、この直後に起きた金融恐慌や大恐慌により、すべての計画案が見直しまたは消滅してしまったと思われる。
 これら、東京郊外において鉄道敷設計画が続々登場した背景には、関東大震災Click!を契機に東京西部への人口流入が加速したのと、東京郊外の郡部を市街地に編入し東京市エリアの拡大をともなう東京「都」構想の実現を検討する「都制実行委員会理事会」の活動が活発化していた事情が挙げられる。東京「都」構想は、東京府はもちろん東京市議会でも賛否両論があり、なかなか本格的な実施計画がまとまらなかった。実際に「東京都」が実現するのは、戦時中の1943年(昭和18)になってからのことだ。昭和初期の「都」構想について、1927年(昭和2)6月4日に発行された、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
鉄道田端操車場.JPG
鉄道椎名町駅.JPG
東京朝日新聞19270604.jpg
  
 現在の市だけを東京都区域に
 隣接町村併合は都制実施後/都制理事会の意見

 東京市会の都制に関する実行委員会理事会は三日午後二時から市会事務局に開会(。)東京市が郊外の町村を編入し単一行政主体を樹立せねばならぬといふ意見は一致したが内務省案たる都制案には左の如き反対意見が多かつた(。)/一、群長の官選は自治体の逆転であるから反対である/二、東京都の区域に三多摩を容れる事は反対である/三、東京都区域はまづ(ママ)現在の東京市の区域をそのまゝとし、隣接三十四ヶ町村の併合はこれを都制施行区域と切離して考へたい/といふ意見に一致し、列席の西久保市長も三多摩の包含や群長を官選とする事に反対し、更に/今日では都制施行区域を現在のまゝの区域とし かつ隣接町村の併合問題も都制実施後がよい、殊に隣接町村中には併合される事を見込んで各種の事業を起しその町村債は少からぬ額で、これをそのまゝ併合する時は東京市は現在よりも更に大なる負担とならねばならぬ/といふ意見を述べ、各理事も西久保市長と同様意見が多かつた(。)(カッコ内引用者註)
  
 東京都への編入を見こんで、隣接する34の町村ではこのときとばかり公債を発行し、さまざまな事業が進められようとしていた様子がうかがえる。明らかに東京市街地への編入を前提に、「補助金」めあての町村の財政バランスシートを無視した乱脈な「公共事業」が、あちこちで進められようとしていた。隣接34ヶ町村の中には、もちろん落合町も入っており、その中には自治体を巻きこんだ「鉄道事業」も含まれていたかもしれない。
 東京市の区域が拡大すれば、それだけ社会インフラとしての交通網の整備が急務となるため、さまざまな思惑をはらみながら鉄道免許の取得をめざす各地の事業体が激増したものと思われる。だが、実際には同年に起きた金融恐慌を端緒とし、経済状況が世界大恐慌へと突き進む中で、この時点で構想された鉄道計画の多くは画餅と化している。
 また、地下鉄・西武線の構想は、高田馬場駅で止まったまま頓挫したが、東京地下鉄道(株)や東京高速鉄道(株)の地下鉄企業のみならず、おそらく私営による地下鉄の構想はほかにもあまた存在していただろう。
 政府による地下鉄事業への参入はだいぶ遅れて、1941年(昭和16)に「営団」形式で本格化している。「営団」事業は、近衛文麿Click!による国家総動員体制のもとで官民一体の国策会社として誕生した、戦時体制を前提とする特殊法人だ。地下鉄関連の事業体は、「帝都高速度交通営団」と名づけられ1941年(昭和16)4月に発足した。初代総裁には原邦造が就任しているが、当初は「地下鉄新宿線(第4号線)」(現・丸ノ内線)が構想されている。
 だが、「帝都高速度交通営団」が設立されてからすぐに日米戦争がはじまり、敗戦を迎えるまでの5年間、1本の営業線も開通することができなかった。「地下鉄新宿線(第4号線)」すなわち丸ノ内線の一部が開業するのは、敗戦から9年後、1954年(昭和29)になってからのことだ。
鉄道山手線西武線.JPG
丸ノ内線土砂.JPG
東京朝日新聞19410304.jpg
 余談だが、下落合の大きな谷戸のひとつである、林泉園の谷間が埋め立てられたのは、この丸ノ内線工事で出た大量の土砂による。もし、埋め立てられずにいまも深い谷間がそのまま残っていれば、等々力渓谷のような風情が中村彝アトリエClick!の近くまで連続していたと思われるので、ちょっと残念な気がしている。

◆写真上:馴染みの鉄道駅いろいろで、まずは鎌倉駅に停車する横須賀線。
◆写真中上は、鶯谷駅を通過する湘南ライナー。は、大磯駅を通過する特急「踊り子」。は、1927年(昭和2)6月29日発行の東京朝日新聞より。
◆写真中下は、新田端橋から眺めた田端操車場。は、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の椎名町駅。は、1927年(昭和2)6月4日発行の東京朝日新聞より。
◆写真下は、山手線と西武新宿線。は、地下鉄・丸ノ内線の工事で埋め立てられた林泉園からつづく谷間。写真は、おとめ山公園拡張工事中のときのもの。は、1941年(昭和16)3月4日の「帝都高速度交通営団」の発足を伝える東京朝日新聞。

目白崖線の入江と貝塚と「白鳥池」。

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貝塚.JPG
 江戸期の寛政年間に、金子直德Click!が記録した『和佳場の小図絵』(『若葉の梢』Click!)には、目白崖線のあちこちから貝殻が発見された様子が記録されている。たいがい井戸を掘ったり、屋敷を建てるために斜面を切り崩したりすると出現するのだが、金子はそれを目白や落合の谷間が江戸湾の入江だったころの、昔日の名残りだと的確にいい当てている。だが、彼はそれを鎌倉時代から平安時代ごろのことと解釈していたようだ。
 貝殻の発見と同時に、付近には舟をつないだ樹木のいい伝え、つまり舟着き場などの伝承、や、井戸を掘っていて出現した舟の部材などをもとに、少なくとも目白崖線の下に拡がる谷間が海だったのは、寛政年間からさかのぼって700~1000年前ごろのことだろうと推定していた。たとえば、下高田村(現・高田1丁目)にあった水戸徳川家の分家である松平大炊頭の屋敷で井戸を掘ったところ、厚さ3尺余(90cm以上)の貝殻の層に突き当たったことが記録されている。松平大炊頭屋敷は、現在の日本女子大学付属豊明小学校の西隣りにあたる位置だ。金子直德の『和佳場の小図絵』から、原文をそのまま引用してみよう。
  
 御屋敷にて寛政九年の秋、御中奥に御膳水の井を掘せられしが四丈四五尺下より種々貝類夥敷出けり、凡三尺餘も貝斗の処有しと。されば此辺も古来海にて、七百年以前か千年も前に埋まりて岡と成けん。大塚安藤様御屋敷にて近来井を掘、大舟の楫を丸に掘出せし事ありと。
  
 また、下戸塚村(現・早稲田界隈)にも舟着き場の伝承が残っていたのを、金子は毘沙門山の毘沙門堂の事蹟とともに収録している。「船つなぎ松」の伝承があったのは、水稲荷社のあった前方後円墳・富塚古墳Click!(100m前後)の隣り、宝泉寺と法輪寺の間にあった毘沙門山の山腹だったようだ。旧・水稲荷や富塚古墳は現在、早稲田大学の9号館下となっているが、同古墳の羨道や玄室の構築に使われた房州石Click!は、甘泉園西側の現・水稲荷社本殿裏に保存されている。再び、金子直德の『和佳場の小図絵』から引用してみよう。
  
 船つなぎの松は山の中ほどにありしが、今は枯ぬ。大猷院殿此古松何程に成やと御尋ありしに、別当凡千年にも及べきにやと申上げれば、千とせの松と御褒美下されける。船をつなぎし事は、此寺の垣外田面が皆入海にて、金川の落入所なれば、街道芝の辺より霞ヶ関に登り、本氷川より番町を横切、牛込酒井修理太輔の御下屋敷にかゝり、御庭に三かかえ斗成山桜の大樹を今に沓掛桜と云、今にあり。此下通小笹坂と云処に、楠不伝が伐れしと云処、六部の形の石塔あり。其泉水の下を船渡場と云り。是より船にて入江と川の落合を此毘沙門山に着舟せしとぞ。先に又述べし。
  
 1854年(嘉永7)に作成された尾張屋清七版の『牛込市谷大久保絵図』には、富塚古墳(高田富士Click!)の南側に「船つなぎ松」らしい大木が描かれている。この老松は、かなり以前に枯れてしまったようで、明治以降は名残りの老松が2代目「船つなぎ松」として残っていたらしいが、『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)の編者である海老沢了之介によれば、昭和初期の宅地開発で毘沙門山そのものが丸ごと崩されて整地され、樹木もすべて伐採されてしまったようだ。富塚古墳に隣接していた毘沙門山もまた、古墳期の前方後円墳あるいは円墳だった可能性がある。
関東ローム層.JPG
牛込市谷大久保絵図.jpg
 金子直德は、地面から発掘される貝殻がよほど面白かったものか、出現場所をけっこう小マメに書きとめている。次の記述も、やはり井戸を掘っていて貝殻の分厚い層を掘りあててしまったケーススタディだ。同書の現代語訳版である『新編若葉の梢』(1958年)より、関口新町(関口水道町)の記述から引用してみよう。
  
 貝殻の出土 この辺より東はどこでも六尺ばかり掘れば、牡蠣・蛤などの古い貝殻が出る。厚さが二尺または三尺位の所もある。だから古代は入海であったことが明らかであるとは、芳心院領名主六兵衛と横山孫太郎との話である。
  
 さて、金子直德はこれら貝殻の地層を、下高田村と下戸塚村にはさまれた谷間を流れる神田上水(現・神田川)一帯が、海の入江だったころ自然に堆積された貝殻だと考えていたようだ。はっきり貝殻だと認識されているので、関東ロームのさらに下に堆積している「東京層」と呼ばれる粘土層から見つかる貝殻の形象化石Click!でないことは明らかだ。貝の形象化石が、「凡三尺餘」(1m近く)の貝殻の層を形成することはありえないので、もっと新しい時代の痕跡だろう。
 すなわち、『和佳場の小図絵』の随所に見える貝殻層の発掘は、縄文時代の貝塚遺跡を発掘してしまった可能性が高い。いまから約6,000年前の縄文前期に起きた、いわゆる縄文海進期(後氷期海進)の時代に人々が入江で採取した貝殻を棄てた貝塚だ。事実、目白崖線沿いには縄文遺跡が随所に展開しており、下落合では目白学園遺跡Click!がもっとも大規模で有名だが、高田側でも学習院の斜面から縄文遺跡Click!が発掘されている。高田とは神田川をはさんで反対の下戸塚側(高田馬場側)、すなわち新宿区側のみでみても縄文遺跡の発掘数は60ヶ所を超える多さだ。
龍泉院.JPG 目白崖線1.jpg
目白崖線2.JPG 目白崖線3.JPG
 だが、学術調査が入り「遺跡」と規定された場所ばかりでなく、目白崖線の斜面はあちこちが「埋蔵文化財包蔵地」に指定されている。先年、タヌキの森Click!へ違法建築のマンションを建てる際も、基礎工事の前に敷地の事前発掘調査が行われたが、縄文式土器や弥生式土器の破片がいくつか見つかっている。おそらく、縄文海進時の入江沿いには、縄文人たちの大規模な村が崖線沿いに展開しており、入江で豊富だった貝類を採集して食糧にしていたのだろう。その際に形成された貝塚が、『和佳場の小図絵』の随所に見える貝殻層の正体である可能性が高い。
 また、金子直德が鎌倉時代ごろまで海の入江だったと錯覚している、舟着き場の伝承や舟の部材出土は、いわゆる奥東京湾の名残りとして不忍池Click!お玉が池Click!と同様にとり残されていた湖水の痕跡、目白崖線沿いに白鳥池Click!が存在していた時代の名残りではないだろうか。白鳥池は、江戸時代にはすでに姿を消しており、現在の大曲あたりから早稲田田圃界隈にかけて湿地帯が拡がり、その真ん中を平川(のち神田上水および江戸川=現・神田川)が流れていた。おそらく伝承から推測すると、白鳥池は鎌倉時代から室町時代にかけて徐々に縮小し、最終的に室町後期には消滅していると思われる。
 金子直德は「千年前」まで視界に入れているが、白鳥池の西端は現在の早稲田あたりまで達していたかもしれず、それが徐々に室町期にかけて後退、あるいは付近の土砂で干拓され、農地化が進捗したようにも想定できる。
タヌキの森1.jpg タヌキの森2.jpg
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 寛政年間に『和佳場の小図絵』を著した金子直德は、6,000年前の縄文海進期に由来する縄文遺跡の貝塚と、室町期までは存在していたと思われる広大な白鳥池の事蹟とを習合させ、下高田村と下戸塚村の間を流れる神田上水(現・神田川)一帯の谷間を、700~1000年前には貝が豊富に採れる、江戸湾からつづく入江だったと解釈していた気配が濃厚だ。

◆写真上:関東ローム層の途中から出現した、いまから6,000年ほど前の縄文期貝塚層。王子崖線のもので、やはり1m前後の貝殻の堆積が見られる。
◆写真中上は、典型的な関東ローム層の赤土。は、1854年(嘉永7)作成の尾張屋清七版『牛込市谷大久保絵図』にみる2代目と思われる「船つなぎ松」。
◆写真中下上左は、本堂裏の毘沙門山に「船つなぎ松」があった龍泉院(龍泉寺)。上右は、学習院の崖地。は、下落合(左)と高田()の急斜面。
◆写真下:2005年(平成17)に行われたタヌキの森の工事前試掘調査で、試掘の様子(上左)と縄文土器片の出土状況(上右)、縄文土器の破片(下左)と出土した土器片群(下右)。いずれも、「東京都下落合4丁目768-3,775-20試掘調査/埋蔵文化財試掘調査業務報告書」(2005年9月)より。

米軍に誘拐された男「鹿地事件」。

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鹿地邸跡(上落合).JPG
 1952年(昭和27)12月8日の夜、神宮外苑でひとりの男が米軍の情報機関のジープから、突然放り出されるように解放された。情報機関の工作員は、その男に1年間分の「謝礼」として大金を渡そうとしたが男はそれを拒否し、自宅へ帰る交通費(タクシー代)だけを要求した。男はタクシーをひろうと、下落合4丁目2135番地(現・中井2丁目)の妻・池田幸子が待つ自宅へ向かうよう運転手に告げた。男の名は作家で文芸評論家の鹿地亘(かじわたる)、不可解な拉致誘拐事件の「鹿地事件」がいちおうは終結した瞬間だった。
 鹿地は戦前、日本プロレタリア作家同盟の書記長をつとめ、上落合1丁目460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!の本部に、一時期住んでいたこともあった。東京帝大の社会文芸研究会に属し、林房雄Click!中野重治Click!たちとも親しい関係だ。1934年(昭和9)に治安維持法違反で特高Click!による検挙のあと、1936年(昭和11)には日本を脱出して上海に渡り、魯迅Click!郭沫若Click!、内山書店の内山完造などと親しく交流するが、そこから国民党政府のある重慶へと移動している。そこで、蒋介石と米軍の支援を受けて「日本人民反戦同盟」を結成する。特に米軍への協力では、米国へ亡命した八島太郎(岩松惇)Click!と同様に、軍国主義に反対し戦争を早期に終結するよう、飛行機から日本本土へとバラ撒く宣伝ビラの制作に従事している。
 1945年(昭和20)、敗戦と同時に帰国し作家活動を再開するのだが、1951年(昭和26)11月25日の夕方、肺結核の術後療養のために借りていた藤沢市鵠沼6083番地にある知人の別荘の近く、江ノ電・鵠沼駅の付近で夕食後の散歩中、いきなり数人の米軍人に殴り倒されクルマに押しこまれて誘拐拉致された。最初に連れこまれたのは、池之端にある接収されていた本郷ハウス(現・旧岩崎邸庭園)であり、いわゆるキャノン機関(G2)の本部だった。翌日、横浜の中央外人病院へ連れていかれ、胸部のレントゲン撮影を行なっている。つづいて、川崎市下丸子の東京銀行川崎クラブに拉致・監禁されている。
鹿地亘1952.jpg 鹿地亘邸1938.jpg
鹿地亘邸1947.jpg
 この間、鹿地は足とベッドとを鎖でつながれ、逃げられないよう常時監視がついていた。米軍のキャノン機関によって執拗に繰り返されたのは、米国の工作員(スパイ)になれという脅迫だった。重慶時代に米軍に協力していた関係から、戦後も米軍の工作員として無理やり“雇用”しようとしたらしい。そこには、ソ連との間で二重スパイに仕立てるという思惑もあったのかもしれない。帰国後の鹿地は、米国側とはまったく疎遠になっており、再び米軍の手先となって情報提供をするよう強要されたようだ。鹿地は、監禁されている間に二度、米軍の執拗な脅迫から自殺未遂事件を起こし、手術をしたばかりの結核症状も悪化していった。その様子から、キャノン機関の担当仕官は威圧的な脅迫をやめ、徐々に人間らしい扱いをするようになったという。
 その後、鹿地は川崎のクラブから茅ヶ崎市菱沼海岸のUSハウス、代官山の猿楽小学校前にあったUSハウス、そして生命がいちばん危うくなった、当時は返還前の米国領だった沖縄の米軍基地を経て、再び代官山のUSハウスへ……と、監禁場所を転々としている。これは、鹿地亘の失踪問題が日本国内で徐々に大きくなり、監禁場所の日本人コックから家族への連絡で、米軍に拉致誘拐されたことがだんだん明らかになってきたからだと思われる。1952年(昭和27)11月になると、マスコミも大々的に「鹿地事件」を報道しはじめ、問題は国会レベルまで拡がりを見せはじめた。そこで、米軍は鹿地を代官山からジープに乗せ、12月8日の午後7時前後に真っ暗な神宮外苑で車外へ放りだした。
鹿地邸跡(下落合).JPG
藤沢市鵠沼駅付近.jpg 藤沢市鵠沼駅付近(空中).jpg
 すでに日本はGHQの占領下ではなくなり、キャノン機関はとうに解散していたため、このあとも引きつづき「鹿地事件」は国会で取り上げられ問題が大きくなっていくのだが、詳細は同事件を扱った専門の書籍を参照いただくとして、下落合の鹿地邸に目を向けてみよう。神宮外苑で放り出された鹿地は、タクシーをひろうと午後8時ごろに、妻・池田幸子が住む下落合4丁目2135番地へともどった。この地番は、昭和初期に林芙美子・手塚緑敏夫妻Click!が暮らした五ノ坂下にある西洋館Click!の、ちょうど西隣りに当たる区画だ。この家に、鹿地亘は中国から帰国して間もなくの1947年(昭和22)から、神宮外苑で放り出されて帰宅した翌年の1953年(昭和28)まで住んでいる。
 肺結核の手術をした1951年(昭和26)、鹿地はここから藤沢市鵠沼の知人から借りた別荘へと出かけ、同年11月25日から翌1952年(昭和27)12月8日まで、丸1年余にわたり米軍に拉致・監禁されていたことになる。解放直後の1953年(昭和28)になると、下落合の同じ家にいるのが気持ちが悪く落ち着かなかったものか、さっそく転居をしている。だが、戦前から馴染みの深かった落合地域を離れがたかったようで、鹿地夫妻が次に引っ越したのは、下落合の家から東南東に800mほど離れた上落合1丁目36番地だった。もともと、戦前に中野重治・原泉Click!夫妻が住んでいた借家(上落合1丁目48番地)のすぐ南側の敷地だ。鹿地夫妻は、この上落合の家に1956年(昭和31)まで住むことになる。
本郷ハウス(岩崎邸).jpg 鹿地亘(上落合36)1948.jpg
 上落合1丁目36番地の家は、鹿地が昭和初期に日本プロレタリア作家同盟の書記長をしていた時代に住んでいた、上落合(1丁目)480番地の“ナップ本部”から東南東へ約200m、上落合(1丁目)186番地の村山知義アトリエClick!からも東へ200mほどしか離れていない一画にあった。現在は、落合中央公園の野球場建設で消滅した住宅街だが、グラウンド上ではレフトの守備位置から東側が同地番あたりに相当する。

◆写真上:鹿地亘夫妻が1953年(昭和28)から3年間住んでいた、上落合1丁目36番地界隈の現状で落合中央公園野球場の東側一帯。
◆写真中上上左は、1952年(昭和27)発行の誘拐事件を報じる雑誌に掲載の鹿地亘。上右は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合4丁目2135番地界隈。は、1947年(昭和22)に撮影された下落合4丁目2135番地で7軒のうちのいずれかが鹿地邸。
◆写真中下は、下落合4丁目2135番地(現・中井2丁目)付近の中ノ道(現・中井通り)から北へと入る行き止まりの坂道を眺めたところ。鹿地邸は坂道の右手、東へと入る路地沿いに建っていた。下左は、江ノ電・鵠沼駅近くの事件現場。藤沢駅方向を向いて写したもので、左側の線路が江ノ電。下右は、1948年(昭和23)撮影の空中写真にみる鵠沼駅北側の拉致・誘拐現場付近。
◆写真下は、キャノン機関(G2)の本部だった池之端の本郷ハウス(現・岩崎邸庭園)。は、1948年(昭和23)撮影の空中写真にみる上落合1丁目36番地界隈。

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