Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all 1249 articles
Browse latest View live

家内が修羅の中條百合子邸訪問。

$
0
0

宮本百合子旧居跡.JPG
 1921年(大正10)に住宅改良会Click!から発行された『住宅』1月号には、本郷区駒込千駄木林町21番地にあった中條百合子(のち宮本百合子)Click!の新婚家庭を見学する訪問記が掲載されている。新婚家庭といっても、この地番にあった家は中條百合子の実家であり、両親の反対を押し切って米国で結婚した古代東洋語を研究する荒木茂は、日本に帰ると百合子の実家へ身を寄せている。
 『住宅』の契約記者と思われる吉川俊子は、おそらく前年1920年(大正9)の暮れに中條邸を取材していると思われるが、中條百合子が荒木と結婚してから1年と2ヶ月、百合子が帰国してから丸1年、荒木が米国での研究生活を切り上げて帰国してから8ヶ月……という状況だった。その様子を、同誌1月号の吉川俊子「応接間に於ける名流婦人」から引用してみよう。
  
 千駄木の静かな邸町をゆくと交番の六角のポリスボツクスと向ひ合つて小さな門があります。巧みに飛ばした石を伝つて二十間も行つた処に物語めいた古雅な玄関があります。大きな踏石に登つて案内を乞ふと青銅の燈籠が隅の方に古びた色を浮ばせて一層此の玄関を舞台化してゐます。可愛い少年に導びかれて十二畳位の洋式応接間にはいるとアカデミツクな装ひに整へられて、南の窓から光線がはいるだけで室内はやゝ暗く、それが又一層此の部屋の空気を荘重なものにしてゐます。西側の壁にストーブ、淡紫の瓦斯の焔が美しく立ちのぼつてゐる。それと向ひ合せて大きな本棚が据えられ金文字の背を並べて建築の書物がずらりと並び、中央に円卓子があつた。三四脚のあたゝかさうな腕椅子がそれを囲んでゐます。壁には種々な古画が掛けられ部屋の隅々には小さな置物が沢山飾られて、扉は北側の中央と、東側の本棚の傍とにあります。待つ間もなく荒木滋氏(ママ)の夫人で閨秀作家の百合子夫人がにこにこと扉の間から美しいお顔をおみせになりました。
  
 すでに、中條百合子は日本女子大学へ入学(1学期で中退)する前後から「天才女流作家」として高名であり、夫の荒木茂は名前の字をまちがえられるほど影が薄い存在だった。百合子と荒木は、お互いに「グランパ」「ベイビー」と呼び合い仲睦まじく暮らしていたが、当初から結婚には大反対だった百合子の両親は、そんなふたりを苦々しく眺めていたのだろう。
 少しでも荒木にハクをつけようと、百合子の父親であり建築家の中條精一郎は、彼を女子学習院や日本大学、慶應大学の教師の仕事を世話しているが、おそらく内向的で頼りない性格の地味な娘婿に、うんざりしていたのではないだろうか。ときに、両親は荒木のいる前でこれみよがしに、百合子へ「この結婚は失敗だった」といわんばかりの言葉を投げつけている。
 さて、そんなピリピリした生活を送るなかで、『住宅』の記者を迎えた中條百合子は「まあま、お待せいたしました。お寒いのにようこそ」と、できるだけ明るくふるまおうとしている。記者との会話は、すぐに小説のことに向けられ、自分の作品についてずいぶん悪口をいわれているけれど、「そんなことは一々気にしてはゐられませんわね」、褒められても貶されても自分の道を歩いていくだけだ……と、気の強い性格を見せている。もちろん、この言葉の裏側には、作品を語るついでに両親と自分たち夫婦との確執についても重ねていたのだろう。つづけて、同誌から引用してみよう。
駒込林町21番地.jpg 貧しき人々の群1917.jpg
  
 「私なんか、ほんとに呑気な境遇に居りますので書うと思へばいくらでも障げられずに書くことができますの。燃え立つやうに書きたくなつてペンをとることがありますけれど、でも時々は自分ながら不思議な程自信がなくなつて情ないことがあります。どうか私自信をいつでも失はないやうになりたいと思つてゐますの、いまも長篇を創作中ですけれど、でも書き上げない中に吹聴することはやめますわ」とヘヤネツトをかけてきれいに上げられた髪をかしがせてほゝい(ママ)むのでした。それから雑談に移るとたいへんに肥つてゐられるのを気にして「どうかして躰を痛めずに痩せる工夫はないでしうか(ママ)」と仰るのもお愛嬌でした。夫君の滋氏(ママ)が慶應大学と日本大学にお出になるやうになつてからもずつと父君精一郎氏のお邸に同居されてゐるのださうで夫人は未だ母君のストリングオブエプロン(前掛の組と云ふのはアメリカで甘えつ子の意味に使はれてゐる)ださうです。/おいとまして扉を押すと此の洋室と向ひ合つて明るく広い日本間の応接室が玄関の四畳から直ぐつゞいてゐました。
  
 中條百合子は、当時の女性としてもかなり小柄だと思われるのだが、米国へ留学したころからメタボ気味だったようで、それを気にしてかダイエットを試みていた様子がわかる。のちに、モスクワ留学中に胆石の大病をしたにもかかわらず、60kgを下らない百合子を風呂へ入れるのに、介護する湯浅芳子Click!はたいへんな思いをしている。
 ここで百合子が話している創作中の「長篇」が、どのような作品だったのかは不明だ。1921年(大正10)から関東大震災Click!のあとまで、中條百合子は目を惹く長編を発表していない。執筆の途中で、頓挫してしまった作品だろうか。いずれにしても、彼女にとって実家における荒木茂との新婚生活は、結果的にめぼしい作品を産みだせない、非生産的で不作の時代だった。
 中條百合子の実家である駒込千駄木林町21番地の家は、玄関の近くにそれぞれ洋間と日本間の応接室を備えた、かなり大きな和洋折衷の屋敷だったことがわかる。記者は、「少年」に案内されて応接室へ通されているが、この「少年」も玄関近くのベルの音が聞こえるあたりに部屋をあてがわれた、書生のひとりだったと思われる。記事の冒頭で、「六角のポリスボツクスと向ひ合つて」とあるので、中條邸の向かいである駒込千駄木林町34番地ないしは35番地には、請願交番Click!を設置する必要がある“有名人”が住んでいたのだろう。また、ごく近所には高村光雲Click!のアトリエがあった。
住宅192101_1.jpg 住宅192101_2.jpg
住宅192101_3.jpg 住宅192101_4.jpg
 この取材ののち、中條百合子は夫・荒木茂の存在へ疑問を抱きはじめる。その様子を、1990年(平成2)に文藝春秋から出版された、沢部仁美『百合子、ダスヴィダーニヤ』から引用してみよう。
  
 だが両親との関係に進展はなかった。自分たちのいないすきに大事な娘を奪った婿が両親は許せなかった。内向的で人づきあいの苦手な荒木を、陰気で不器用な男だと両親は嫌い、露骨に軽蔑した。母は百合子が荒木といっしょになってから、以前のように勉強をしなくなったことも不満だった。百合子自身も日記の中で、「お前は、彼の中に在る何を愛したのか、彼の中に共鳴する感傷と情欲と結婚したのか」と自問している。新婚間もない百合子が母の前で放心したような表情を見せるとき、母のいらだちは募った。この結婚は失敗だと言いつづける母と、舅姑に拒まれた居心地の悪さにますます自分の殻に閉じこもる夫。その間で百合子は悶々とし、半年後には駒込片町に別居し、翌年には青山北町(現在の港区北青山)に移り住むのである。/しかし、こうして両親との対立にいちおうの決着をつけたものの、夫婦だけで面と向かう生活が始まると、今度は夫との葛藤が始まった。
  
 考えてみれば、この『住宅』の取材は百合子の父親であり、建築家の中條精一郎がセッティングしたのではないかと思われるフシがある。なぜなら、百合子の記事「応接間に於ける名流婦人」は、同誌のP24~25に見開きで掲載されているのだが、その次のページ(P26~27)をめくると、つづいて執筆者が不詳なロシア文学に描かれた住宅建築や別荘建築についてのエッセイが載っている。ロシアの住宅建築については、ドストエフスキー『虐げられし人々』に登場するアパートメントが、別荘建築についてはプーシキン『初恋』からピックアップされた建物が紹介されている。
 これは、もちろんロシア文学から強い影響を受けていた中條百合子を意識した企画であり、特にドストエフスキーの『貧しき人びと』からじかに着想を得た、彼女の4年前のデビュー作である『貧しき人々の群』(1917年)を念頭に、あえて今度は『虐げられし人々』(現題『虐げられた人びと』)を取りあげていると思われるからだ。そして、この建築エッセイを執筆しているのは、自分や妻の反対を押し切って気に入らぬ男と結婚し、百合子の実家へ寄宿するような情けない婿とのママゴト生活を危惧して、娘の創作意欲をかきたてようとした父親・中條精一郎の仕事ではなかっただろうか。
中條百合子.jpg 宮本百合子.jpg
中條百合子と湯浅芳子.jpg
 中條百合子は関東大震災後、荒木茂との関係をさっぱり清算したあと、1924年(大正13)4月に野上弥生子の家で湯浅芳子と出会っている。そして、モスクワ滞在を含めた彼女との蜜月時代を経験し、やがては宮本賢治と結婚して落合第二小学校(現・落合第五小学校Click!の敷地)そばの、上落合2丁目740番地へ引っ越してくるのは13年ほどのちのことになる。百合子は、思想的な変転やめまぐるしく推移する生活の中で、落合地域の周辺を転々としているのだけれど、それはまた、別の物語……。

◆写真上:落合第二小学校(現・落合第五小学校)脇の坂を南へ上った、突き当たり右手の茶色い建物が上落合2丁目740番地の宮本百合子旧居跡。右手に見える白いフェンスは、現在の落合第五小学校(当時は落合第二小学校)の敷地で、「チーチーパッパ」がうるさくて仕事にならないと、獄中の宮本賢治あての手紙でこぼしている。
◆写真中上は、明治末の地図にみる本郷区駒込林町21番地の中條邸。は、1917年(大正6)にベストセラーとなった中條百合子『貧しき人々の群』(玄文社)の出だし。
◆写真中下:いずれも1921年(大正10)発行の『住宅』1月号(住宅改良会)で、表紙(上左)と中條百合子を訪ねた吉川俊子「応接間に於ける名流婦人」(上右)、ドストエフスキーの『虐げられし人々(虐げられた人びと)』を取り上げた「文学に現れたる住宅」(下左)、表4に掲載された東京電気(現・東芝)の照明器具の媒体広告(下右)。
◆写真下上左は、米国への留学直前に『婦人画報』のカメラマンが撮影した中條百合子。上右は、宮本百合子時代に撮られたポートレート。は、1931年(昭和6)に高田町巣鴨代地3553番地(翌年に目白町3丁目3553番地)の家で撮られた中條百合子(左)と湯浅芳子。キャプションとして「目白上り屋敷3553番地」と書かれている資料がほとんどだが、近くの省線・目白駅と武蔵野鉄道・上屋敷駅の駅名をつなげただけで、そのような住所は存在しない。おそらく、湯浅芳子が写真の裏面に記したメモ書きだろう。いまの街並みでいうと、「太古八」Click!のある小道を100mほど北へ入った左手の一画にあたる。百合子は目白駅周辺が気に入ったものか、1937年(昭和12)にも目白町3丁目3570番地に住んでおり、上戸塚の窪川稲子(佐多稲子)Click!藤川栄子Click!と頻繁に往来している。


彝から何かと頼まれちゃう鈴木金平。

$
0
0

彝アトリエ雪景1.JPG
 鈴木金平Click!が、初めて中村彝Click!と出会ったのは、1915年(大正4)に岡田虎二郎Click!本行寺Click!で主催した「静坐会」でのことだった。その後、鈴木金平は本行寺のすぐ近く、下谷区谷中初音町3丁目12番地の桜井方に下宿していた中村彝を訪ねている。だが、当時の彝は作品を手に訪ねてきた若い画学生に、かまっている精神的な余裕などなかっただろう。
 福島県白河に住むパトロンのひとり、伊藤隆三郎あてに出した手紙では「被害者」意識を丸出しにして、「パン屋」(新宿中村屋)のことを悪しざまにいっている。9月になると、相馬俊子Click!への諦めが少し入りこんだものか、「悲惨なもの」として状況をわずかながら客観視できる程度までは落ち着いたようだ。1915年(大正4)9月6日に、彝が伊藤あてに出した手紙の一部を、1926年(大正15)に出版された『芸術の無限感』(岩波書店)から引用してみよう。
  
 吾々のラブは到底報告するに堪へない程悲惨なものとなつて終ひました。私は狂人視され、〇ちやんの人格は蔑視されて、二人は無法なる法律と親権によつて絶対に隔離されて終ひました。〇ちやんは監禁されて了ひました。吾々は只心の中に吾々の愛を信じその力に希望を抱きつゝ、無惨なる物力の屈辱に堪へて時を待たなくてはならなくなりました。
  
 「〇ちやん」とは、もちろん「俊ちゃん」のことであり、彼女が「監禁」されたのは新宿停車場の西口にある女子学院高等科Click!(現・東京女子大学)へ入学し、キャンパス内での寮生活がはじまっていたことを指している。中村屋にいては危険だからと、両親が品川の知り合いの家へ俊子を預ければ、彝はその人物を尾行して夜中になると住宅へ石を投げつけたり、日本刀を片手に中村屋の相馬夫妻のもとへ押し入るなど、「狂人視」されないほうがむしろ不思議な行状を繰り返していた。
 1916年(大正5)8月20日に、中村彝のアトリエClick!が下落合464番地へ竣工すると、鈴木金平はさっそく彝を訪問して中原悌二郎Click!と知り合った。貧乏な鈴木と中原は、ともにペンキ画描きのアルバイトをして糊口をしのぐことになる。1918年(大正7)には、彝を通じて今村繁三Click!からの支援を受けられるようになった。翌1919年(大正8)の夏、日光へ写生旅行に出かけ、そのあと新潟県柏崎に住む彝のパトロンのひとり洲崎義郎Click!のもとへ滞在し、『レンガの焼きガマのある風景』(25号)を制作している。このように、鈴木金平は中村彝と親しくなり、常にその周囲へ身を置いていたことがわかる。
中村彝・鈴木金平ハガキ.jpg 鈴木金平19241227.jpg
彝アトリエ雪景2.JPG
 そのせいだろうか、鈴木金平は自由に出歩けないほど病状が進行した彝から、いろいろと頼まれごとを引き受けるようになる。まず、1920年(大正9)1月10日ごろ、面倒をみてもらっていた岡崎キイClick!が持病の腎臓病で倒れた。困った中村彝は、鈴木金平に岡崎キイを入院させるよう頼んでいる。同書より、同年1月21日付けの兵庫県に住む伊原彌生あての手紙から引用してみよう。
  
 去年いらした時に居た婆やは、持病の腎臓病がひどくなつて、十日許り前に倒れたので、知人に頼んで一昨日東京の施療病院へ入院させました。年を取つて頼る辺もなく、病身で、正直でほんとに気の毒な婆やでした。僕の事については近所に居る画かき夫婦が朝夕来て親切に世話してくれるので、少しも困りません。
  
 同年1月19日に、鈴木金平は岡崎キイに付き添って病院へ入院させているようだ。下町育ちの金平だから、「婆さん、早く支度していくよ」と気短かにいうと、勝ち気で気位の高い岡崎キイが「あたくし婆さんなんて、あんたに呼ばれる筋合いはありません」、「ほら、じれってえな、早くいくよ!」、「婆さんじゃありません!」、「金平君、オバサンと呼んだげて」……といった3者の会話を想像してしまうのだがw、そんな会話を聞きながら彝は少しホッとしていたのかもしれない。
 近々、新潟県柏崎から新しい婆やが、のちに洲崎義郎あての手紙で「あゝほんとに親切な婆やです」と書き送る女性がやってくることになっていた。裏返せば、ときおり彝と岡崎キイは激しく衝突し、彝にしてみれば“ぞんざいな扱い”を受けていると感じていた気持ちの裏返しなのだろう。また、岡崎キイは胃痙攣の持病もあり、夜中に発作が起きると、彝が江戸からつづく民間療法の「梅生番茶(うめしょうばんちゃ)」(ただし彝はなぜか醤油の代わりに白砂糖を加えている)をつくって飲ませたり、温めたコンニャクを手ぬぐいにくるんでお腹に当てる「蒟蒻湿布」をしたりと、どちらが病人の介護をしているのかわからない状況になったからだ。
 1923年(大正12)7月、鈴木金平は彝から今村繁三のところへ出かけ、所蔵しているピエール・ラプラードの作品を借りてくるよう頼まれている。これは、鈴木金平にあてた彝のハガキが現存しており、7月4日に依頼したことがわかる。同書より引用してみよう。
鈴木金平「香水屋の二階より」1920.jpg
彝アトリエ雪景3.JPG
  
 こちらはもう二三日前からさきがけの蝉がおづおづとなき始めた。僕は相変らず思はしくないが、モデルが済み、頭をクリクリ坊主にしたので何んとなくサツパリした。君は何か制作してゐますか。澄ぼうや、ママ達は元気ですか。目白派の連中は皆な元気で制作してゐます。河野、長谷部の両君はモデル、一念は友人の肖像、良三氏の風景……。若し暇があつたら例の画を(誰れのでもいゝ)今村さんから借りて来て呉れまいか、(ラプラード?のでもいゝ)。この間はロダンの素敵な奴を遠山君に見せて貰つた。
  
 「河野」は酒井億尋Click!が佐渡から連れてきた画家志望の河野輝彦Click!、「長谷部」は長谷部英一Click!、「一念」はもちろん曾宮一念Click!、「良三氏」は鈴木良三Click!のことだ。鈴木金平は、彝の「ラプラード?」の記述で同作をアトリエへとどけていると思われる。「澄ぼう」は、彝が名づけ親になった鈴木金平の娘・澄子のことで、「ママ」はよね夫人のことだ。
 このハガキのひとつ前、同年5月26日付けの鈴木金平あてのハガキで、彝は薬の礼をいっている。その文面から、おそらく今村繁三がどこかで手に入れた結核によく効く特効薬のようなものを、鈴木金平が彝から頼まれて今村邸へ取りにいき、下落合のアトリエへとどけているのだろう。彝は、なにかと鈴木金平を身辺の用事で頼りにしている様子がうかがえるが、鈴木自身も頼まれたらイヤとはいえない下町育ちの性格からか、こまめに彝の用事をこなしていたらしい。
 関東大震災Click!のあった1923年(大正12)の暮れ、鈴木金平は中村彝から名刺をつくってくれるよう頼まれている。この年の秋、彝は久しぶりに体力が回復して意欲が湧き、再びアトリエで制作ができるようになった。また、今村繁三が1918年(大正7)に取得した国分寺の恋ヶ窪Click!の土地へ、大きな別荘Click!を建てているのを知っており、彝は落成間近な別荘の壁面を自分の作品で埋めたいと思っていたようだ。『芸術の無限感』より、同年12月31日付けで出された今村繁三あての手紙から引用してみよう。
  
 震災以来の御繁忙にも拘らず益、御清健の由、曾宮君達から承つてかげながらおよろこび申上げてゐました。国分寺の方の御普請も定めし御進捗の事と存じます。御落成は何時頃になりますか。早くよくなつてそれ等の壁面を自分の絵で埋めることが出来たらどんなに愉快でせう。
  
鈴木金平「ざくろの静物」1920頃.jpg
彝アトリエ雪景4.JPG
 秋の仕事がたたり、彝はこのとき再び病臥していたのだが、完成した作品が5枚あり、また春になったら大きな画面を2~3点まとめたいとも書いている。おそらく、今村繁三が援助している画家たちの作品が、壁面に多く架けられた国分寺別荘の落成祝賀会に、中村彝も招かれていたのではないか。だから、そのパーティで出会う初対面の人々に渡せるよう、鈴木金平に名刺の作成を依頼した。でも、俥(じんりき)や汽車を乗り継いでいく国分寺の恋ヶ窪は、彝に残された体力を考えればあまりにも遠すぎたのだ。

◆写真上:大雪の日の中村彝アトリエ。
◆写真中上左上は、鈴木金平にあてた中村彝のハガキ。上右は、1924年(昭和13)12月27日に撮影された中村彝の葬儀における鈴木金平で、手前は1920年(大正9)1月に入院で付き添っていた岡崎キイ。は、中村彝アトリエの居間から眺めた雪の庭。
◆写真中下は、ちょうど彝から岡崎キイの入院の面倒を頼まれたころに制作された鈴木金平『香水屋の二階より』(1920年)。おそらく京橋区竹川町11番地(現・銀座7丁目)にあった、開店して間もない資生堂化粧品店2階からの眺めで、日本初の日本人女性向けの香水「花椿」が発売され人気をさらっていたころだ。は、彝アトリエ庭の雪景で右手の樹木はツバキ。
◆写真下は、同じく1920年(大正9)ごろ描かれたとみられる鈴木金平『ざくろの静物』。は、彝アトリエ裏の一吉元結工場Click!干場跡に降る雪。目白福音教会のメーヤー館Click!(宣教師館)は、2軒の西洋館にはさまれた路地の突き当たり正面に見えた。

下落合を描いた画家たち・松本竣介。(4)

$
0
0

松本竣介「ごみ捨て場付近」194206.jpg
 本来なら、この原稿を松本竣介の(1)として書くべきだったのだが、以前に田島橋と目白変電所を記事Click!に取り上げた際、その作品類にも多少触れていたので、わたしの怠惰な性格から改めて取り上げることをしなかった。きょうは、『立てる像』と『ごみ捨て場付近』など一連の作品について、再び詳しく書いてみたい。
 松本竣介Click!は、1936年(昭和11)に結婚して下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)にアトリエClick!をかまえた。目白崖線の丘上を、禎子夫人とともにブラブラ散歩していた際、南斜面の坂道から眼下に拡がる風景を眺めたとき、いくつかの大きな建物が見えていただろう。ひとつのビル群は新宿駅の東側に見え、ほていや百貨店Click!を吸収して神田から進出してきた伊勢丹デパートと、日本橋から支店を出した三越デパートだ。もうひとつが、戸山ヶ原Click!にあるドーム状をした大久保射撃場Click!の向こう側に見えている、建設されたばかりの陸軍衛戍第一病院Click!とその周辺のビル群だった。
 だが、もう少し手前の下落合寄りの位置にも、拡がる住宅街の間から特徴ある建物がふたつ、ニョッキリと地面から突き出すように見えていただろう。ひとつは、戸塚町下戸塚(現・戸塚町1丁目)にある早稲田大学大隈講堂Click!の時計台だ。もうひとつが、戸塚町上戸塚(現・高田馬場4丁目)の田島橋Click!南詰めに建っていた東京電燈谷村線の目白変電所だった。このふたつの建築は、特に蘭塔坂(二ノ坂)Click!上から眺めると前後に重なって見え、その情景は佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!の中で画面Click!に描いている。松本竣介は、いちばん手前に見えている旧・神田上水(1966年より神田川)沿いの、独特なフォルムをした目白変電所に画因をおぼえたようだ。
 松本竣介は、川沿いに展開する風景や建築物をよく描いている。下落合でも、妙正寺川沿いの落合第二小学校Click!(現・第五小学校Click!)や中井駅、染物工場(二葉Click!)などをモチーフに、タブローやコンテ画、スケッチなどを残している。妙正寺川が旧・神田上水へ合流する先に、目白変電所の独特なコンクリート建屋は建っていた。これは、松本竣介が川沿いの風景をモチーフに選ぶのが好きだった……というよりも、川沿いには彼のインスピレーションを刺激し、画因となりうる面白いかたちをした建築物が多く建てられていた……といったほうが正確だろう。そういえば、彼が好んで描いたニコライ堂も、神田川沿いの丘上(江戸初期に崩された旧・神田山)に建っていた。
 1941~43年(昭和16~18)にかけ、松本竣介は川沿いを歩いてか、あるいは中井駅からひとつ西武線に乗って下落合駅で下車し、何度か田島橋まで足を運んでいる。下落合駅の近くでは、煙突から排煙をモクモク吐き出している堤康次郎Click!東京護謨Click!の工場を右手に見て、整流化工事を終えて直線化した旧・神田上水の護岸沿いの道を、ほぼ真東へ歩いて行っただろう。高い建物のなかった当時は、目白変電所へとつづく谷村線の高圧鉄塔Click!の列とともに、すでに同変電所の建屋が遠くからでも目視できた。ほどなく、彼は田島橋の北詰めにたどり着いた。
松本竣介「立てる像」1942.jpg
松本竣介「立てる像」194106.jpg 田島橋19450517.jpg
 田島橋は、西落合の落合分水Click!沿いから、氷川明神社Click!前にあった旧・下落合駅Click!前を経由し、栄通りを拡幅して高田馬場駅へと抜ける、大正末の十三間道路(現・新目白通り)計画Click!が具体化するとともに、早くも大型の鉄筋コンクリート橋に建て替えられている。しかし、同計画が変更され下落合駅が西へと移転Click!したあと、田島橋は十三間道路の橋梁として位置づけされなくなった。1935年(昭和10)前後に行われた、旧・神田上水の整流化工事にともない、田島橋も大正期より20mほど上流に架け替えられている。
 松本竣介は、新しくなった田島橋の北詰めに立ち、画道具を拡げてスケッチをはじめただろう。橋の手前、すぐ左手(東側)には蒸し工程の蒸気が絶え間なく立ちのぼる、三越デパートの染物工場Click!があり、また右手(西側)には豊菱製氷工場の社屋と、製造した氷を保存する貯氷蔵の“」”型をした建物が見えていた。田島橋の正面、南詰めには東京電燈の目白変電所が、大きく橋のゆく手を遮るように建っていた。目白変電所は、ひとつ下流に建設されたレンガ造りの早稲田変電所とは異なり、よりモダンな総鉄筋コンクリートの仕様で建設されている。
 いちばん最初に、田島橋と思われる橋梁がとらえられたのが、1941年(昭和16)6月に描かれた『立てる像』の初期素描だ。だが、背景に描かれているのは、パースペクティブのきいた大きめな橋らしいフォルムではあるものの、その先には目白変電所と思われる構築物は入れられていない。また、描かれた周囲の家や人間も比率がバラバラで、かなりイメージ構成的な要素が強い画面となっている。
松本竣介「ごみ捨て場付近」194204.jpg
スケッチ帖「TATEMONO2」.jpg
 翌1942年(昭和17)に描かれたタブローの『立てる像』では、田島橋の北詰めに建つ自画像とともに、田島橋と左手(東側)にある三越染物工場の一部が描かれている。遠景に描かれた大きめな煙突は、実景ではもう少し左(東)寄りに見えていた千代田塗料会社の工場煙突だろうか。橋の突き当たり、松本の右手に見える目白変電所は、建物がかなりデフォルメされて描かれ、二等辺三角形の屋根をもつファサードが鋭角に変形されている。また、田島橋の手前右手(西側)には豊菱製氷工場が立っていたはずであり、実際にはこのような風景は存在していない。田島橋からつづく道筋も、画面では直線状になっているが実際には右(西)へカーブしており、実景に照らし合わせると松本竣介の立ち位置は、三越染物工場の塀際か敷地内になってしまう。
 一方、1942年(昭和17)4月に描かれたコンテ画『ごみ捨て場付近』、そして同年6月に制作されたタブロー『ごみ捨て場付近』(冒頭写真)では、目白変電所の建物が比較的(あくまでもデフォルメが軽度という意味で)正確に描かれている。画面左手(東側)の、三越染物工場の表現は『立てる像』とあまり変わらないが、その向こうに描かれている千代田塗料の煙突が、より強調されている。千代田塗料の工場は、実際には旧・田島橋から下流100mほどの旧・神田上水沿い(右岸)にあり、松本がイーゼルを立てた位置からでは三越染物工場の建物群に遮られ、実際には見えなかったと思われる。
 さて、1942年(昭和17)の田島橋付近に、絵のタイトルにある「ごみ捨て場」があったかどうかは不明だ。松本竣介が描いている道路は、川の整流化工事が行われる以前は、旧・神田上水の流れそのものであり、旧・川筋を埋め立てて造成されたのが、新たな田島橋からつづく道路だった。松本がイーゼルを立てている背後には、昭和初期まで水車小屋が残っていたが、流れを埋め立てて道路にした1935年(昭和10)前後には水車小屋も消え、一帯は赤土の空き地が拡がるような風情だったろう。その際に、付近の住民がゴミ捨て場として利用したものだろうか。あるいは、付近に点在する工場の廃棄物置き場が、田島橋近くの空き地に設けられていたのかもしれない。
松本竣介「ごみ捨て場付近」194302.jpg
田島橋194504.jpg
田島橋1955.jpg
 さて、松本竣介が最後に描いた田島橋の風景は、1943年(昭和18)2月の鉛筆(+墨)画『ごみ捨て場付近』だ。だが、実際に田島橋の北詰めまで出かけて、スケッチブックを拡げたかどうかは不明だ。この時期、市街地で工場や変電所をスケッチしている画家がいたら、すぐに地元の隣組ないしは防護団から通報され、警察に引っぱられていただろう。したがって、前年に描きためていたスケッチをもとに、もう一度アトリエで描きなおしたものかもしれない。翌1944年(昭和19)になると、旧・神田上水の両岸は幅80mにわたって防火帯36号江戸川線Click!敷設のため、工場を除いた建物疎開Click!が次々と行われ、再び空き地だらけの一帯となっている。

◆写真上:1942年(昭和17)6月に制作された、松本竣介『ごみ捨て場付近』。
◆写真中上は、1942年(昭和17)制作の松本竣介『立てる像』。下左は、1941年(昭和16)6月に描かれたスケッチ『立てる像』。下右は、1945年(昭和20)5月17日の第2次山手空襲Click!の直前にB29偵察機によって撮影された田島橋周辺。
◆写真中下は、1942年(昭和17)4月に描かれたコンテ画『ごみ捨て場付近』。は、松本竣介のスケッチ帖に残る1942年(昭和17)ごろの「TATEMONO2」。
◆写真下は、1943年(昭和18)2月に制作された鉛筆+墨画『ごみ捨て場付近』。は、1945年(昭和20)4月にB29偵察機が撮影した第1次山手空襲直前の田島橋付近。すでに防火帯36号江戸川線の建物疎開が進み、三越染物工場も南側が解体されている。は、松本竣介が『ごみ捨て場付近』を描いてから13年後の1955年(昭和30)に撮影された田島橋。現在とは、橋柱や欄干のデザインがまったく異なっている。

近衛町の長瀬邸を拝見する。

$
0
0

長瀬邸01.jpg
 わたしが学生時代、二度の山手空襲Click!にも焼けなかった長瀬邸Click!は、近衛町30号Click!すなわち下落合1丁目416番地(現・下落合2丁目)に建っていた。わたしも実際に目にしているのだが、印象が薄いのは邸を取り囲む屋敷林が濃くなり、周囲の道路から屋敷が見えにくくなっていたからだ。樹間から垣間見える邸は、建築時の薄いブルーグレイの外壁とは異なり、白っぽい色合いをしていたように記憶している。
 近衛町Click!の新しい長瀬邸は、1937年(昭和12)3月に竣工しており、建坪184坪の巨大な西洋館だった。それ以前の旧邸は、1933年(昭和8)に学習院昭和寮Click!を上空から低空飛行で撮影した、学習院に残る空中写真Click!を見るかぎり大きな2階建ての和館だったのが確認できる。おそらく、近衛町が売り出されてからほどなく第30号敷地を入手し、大正末に建てられているのだろう。新たに清水組の手で建設された長瀬邸は、従来の和館とは外観が正反対のモダンな木造2階建て西洋館で、大きなバルコニーに広い芝庭を備え、玄関に向かうエントランスには「水蓮プール」が設置されている。
 1937年(昭和12)に竣工した新・長瀬邸は、大きな屋根を和瓦で葺き、外壁は先述のようにブルーグレイで塗られていた。洋室は、チーク材や梻(たも)、桐(きり)、グレイウッドが用いられ、床は寄木貼り、和室は檜(ひのき)に杉、米栂(つが)などが使われている。だが、外観が洋風にもかかわらず、洋室は居間、書斎、客間、客間控え室、化粧室の5室しかなく、残りの10部屋はすべてが和室だった。芝庭に散在する、まるで石庭を思わせる名石類の配置や、先の水蓮プールなど、和と洋とが微妙に混合した独特の風情をしていた。
 門を入ると、すぐ目の前に水蓮プールがあり、季節には水面に紅と白の花々を咲かせていただろう。プールは、内面や底がモザイクタイル貼りで、底の中央が深く落ちこんでおり、南側に設置されたテラコッタ製のブタ顔から給水されていた。なぜ給水が、獅子顔でも龍首でもなくブタ顔なのかは、長瀬さんに訊いてみないとちょっとわからない。花王石鹸のイメージだと、三日月マークの商標顔でもいいはずなのだけれど……。
長瀬邸1933.jpg 長瀬邸1947.jpg
長瀬邸02.jpg
 水蓮プールの前は、玉砂利を敷き詰めた広場のような風情で、そのまま右手の屋敷東南端に設置された玄関までつづいていた。玄関を入ると、すぐ前が2階まで吹き抜けとなっている広間があり、目の前が来客用の「取次室」になっている。訪問者はここでしばらく休息し、2階の階段脇にある広い客間(応接室)へ通されたのだろう。1階の廊下を奥へ進むと、8畳敷きに大きな押し入れ収納が付属した女中部屋がある。当時の女中部屋にしてはかなり広く、同邸の居間や座敷と同じサイズであり、庭に面した茶の間よりも広い。
 また、1階の奥には長瀬邸ならではの面白い工夫が見られる。化粧室Click!は、当時のブームだったのでそれほどめずらしくはないが、アイロンかけやミシンかけ専用の「アイロン室」、洗濯を行なう乾燥室が付属した「洗濯室」が設けられていた。そして、これらの部屋は、風呂場も含めて総ガラス張りの平面屋根で造られており、陽光をふんだんに取り入れられるような設計が施されていた。風呂場は、洗い場と上り湯のふたつに分かれており、それぞれに湯船が設置されていて、いずれの風呂場からも透明なガラス張りの天井を空かして、樹木や空が見えるようになっていた。
 1階をさらに奥へ進むと、子どもたちの勉強部屋(和室)がふたつ配置され、その西側には土蔵ならぬ2階建ての倉庫が設置されている。外観が洋風のため、あえて土蔵ではなく洋風デザインにマッチするよう倉庫としたものだろう。
長瀬邸03.jpg
長瀬邸04.jpg
長瀬邸05.jpg
 2階は、先述した階段脇の大きな客間のほか、客間の控え室と書斎が洋間であり、残りの3部屋が和室で東西方向に配置されている。2階で特徴的なのは、広くて長いバルコニーだろう。南庭に面したバルコニーは、東側の玄関上から西側の倉庫まで、ほぼ長さ25mにわたってつづいており、邸の南側にあった学習院昭和寮はもちろん、母家と倉庫の間からは北側に広がる近衛町の全景が見わたせたかもしれない。冒頭写真では、2階の座敷と次の間のバルコニーに、縞模様のオーニングテントが拡げられている。
 高麗芝を用いた南側の芝庭にも、面白い工夫が施されている。洋間だった居間の前には、コンクリートのテラスの向こうに洋風の花壇が設置されていたが、和風の茶の間や座敷の前には、先述したように石庭を思わせる石が配置されていた。この庭の和と洋とを分ける境界には、相互の庭が目に入らないよう背の低い生垣が設けられ、自然石で造作された手水鉢が置かれている。また、広い庭園はコンクリートの塀で囲まれていたが、洋風の居間側は屋敷林が薄く、和風の茶の間や座敷側は屋敷林が濃く植えられている。これは明らかに、学習院昭和寮のモダンな南欧風の建築群を意識したもので、洋の側の居間と庭は、昭和寮舎監棟のモダンな意匠を取りこみ“借景”としているのに対し、和の茶の間と座敷は、昭和寮本館の建物ができるだけ隠れるように、密度の濃い樹木が植えられている。
長瀬邸06.jpg
長瀬邸07.jpg 長瀬邸08.jpg
 長瀬邸の庭をとらえた写真を見ると、塀の向こう側に学習院昭和寮の各建物が透けて見えており、昭和初期の近衛町に展開した風景を知るには、願ってもない貴重な写真となっている。できれば、2階のバルコニー上から南北の風景を撮影した写真が残っていれば、さらに貴重なものとなっただろう。長瀬邸は現在、いくつかの敷地に分割されて低層マンションなどが建っているが、できれば学生時代にもどって、しげしげとこの長瀬邸を樹間から眺めてみたいものだ。

◆写真上:南の芝庭から撮影された、1937年(昭和12)3月竣工の長瀬邸(新邸)。
◆写真中上上左は、1933年(昭和8)に撮影された長瀬邸(旧邸)。上右は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる戦災からまぬがれた長瀬邸。は、近衛町30号の敷地に建っていた長瀬邸の全体フカン図で下が北側。
◆写真中下は、テラコッタ製のブタ顔が給水するモザイクタイル貼りの水蓮プール。は、座敷から眺めた庭で“借景”にわずかに見えているのは学習院昭和寮の舎監棟の塔。は、長瀬邸の1・2階平面図で右手が北側。
◆写真下は、2階の階段脇にある広い客間。下左は、居間のテラスと茶の間の和室を区切る生け垣と手水鉢。下右は、居間から眺めたテラスの様子で昭和寮本館が垣間見える。バウハウス風のパイプ椅子やパイプテーブルは、ドイツからの輸入品だろうか。

『新宿区の100年』の修正箇所3つ。

$
0
0

新宿御苑.JPG
 今年2015年9月に出版された写真集『新宿区の100年』(郷土出版社)で、わたしはリード18本とキャプション59本を書かせていただいた。10月に入って同書は新聞でも紹介されたので、ご存じの方も多いかもしれない。その中で、3箇所の修正が出てしまったのでご報告したい。制作期間が短く、実質1日だけの校正時間しかいただけなかったので、どうしても仕事の合い間の片手間作業となり、綿密に再検証しての校正できなかったのがとても残念なのだが、もし増刷されるようであればさっそく訂正したい。
 同写真集は、街で暮らす一般市民の視点から地域の歴史を掘り起こし眺めてみる……というコンセプトで編集されており、歴史的に“有名”な写真や人物たちはあまり登場してこない。その企画に共感して、原稿書きをお引き受けすることにした。新宿区に限っていえば、従来の地域資料ではどうしても新宿駅周辺の繁華街(角筈・淀橋地域)が中心となり、また江戸期に旧・内藤新宿のあった四谷地域がクローズアップされることが多い。さらに、外濠沿いの市谷から神楽坂にかけても取り上げられる機会が多く、新宿区の西北部の街並みにはなかなかスポットが当たってこなかった。
 このような傾向は、明治期から市街地化が進んでいた四谷区や牛込区、そして新宿停車場周辺には数多くの物語や事績が蓄積されているので、いた仕方のない事情があるのかもしれない。芝居や新派でも、市谷や四谷が登場することはあっても、新宿区の北側が舞台になることはまれだ。たまに新宿区の西北部が取り上げられるとすれば、ピンポイント的に焦点を当てられた夏目漱石Click!小泉八雲Click!佐伯祐三Click!中村彝Click!林芙美子Click!など行政による記念館や公園が設置された人物たち、また早稲田大学Click!のような教育機関に集約されるような企画が多かったように思う。当然、これらをテーマとする資料は充実しているけれど、それ以外の地域の「100年史」はかなり手薄とならざるをえないのだろう。
 これでは、あまりにアンバランスなので、わたしは新宿区の西北部の街並み、戸塚・落合地域にこだわって手もとの写真類を整理し、さっそく編集部にお送りした。その中で、採用されたのはお送りした写真の半分ほどなのだが、それでも既存の同種の資料よりは圧倒的に新宿区西北部がクローズアップされていると思う。また、すでに新宿区に十分な資料がある有名な夏目漱石や佐伯祐三、中村彝、林芙美子といった人々はほとんど割愛し、落合地域に限っていえば、三ノ輪通り商店街の古い街並みに重ねて、いま熱心なファンが急増中のより現代的な尾崎翠Click!や、アビラ村Click!の紹介に合わせて金山平三Click!刑部人Click!満谷国四郎Click!林唯一Click!吉武東里Click!大熊喜邦Click!などが登場している。
新宿区の100年201509.jpg 新宿区の100年目次.jpg
 さらに、たとえば落合地域に限れば、大正期における日本初の本格的な「郊外文化住宅街」Click!の形成を近衛町Click!目白文化村Click!アビラ村Click!、その他のエリアに分類し、できるだけ多くの近代建築の街並みをご紹介した。近衛町では、酒井邸Click!藤田邸Click!杉邸Click!小林邸Click!、そして近衛文麿邸Click!。目白文化村では、いつも書籍や資料に掲載される「目白文化村」絵はがきClick!ではなく、入手ずみだった「目白文化村の一部」絵はがきClick!神谷邸Click!石橋湛山邸Click!松下邸Click!末高邸Click!鈴木邸Click!中村邸Click!安食邸Click!(のち会津八一邸Click!)を掲載している。
 アビラ村では島津源吉邸Click!刑部人邸Click!林唯一邸Click!金山平三邸Click!吉屋信子邸Click!を掲載し、その他の下落合では御留山Click!の巨大な相馬邸Click!、ヴォーリズ設計の目白福音教会のメーヤー館Click!、七曲坂の大島邸Click!、そして遠藤新建築創作所が手がけた現代住宅の嚆矢的な存在である小林邸Click!をご紹介している。また、新宿区(旧・四谷区/牛込区/淀橋区)の80%以上が焦土と化した、戦時下あるいは空襲関連の写真も数多く編集部へお送りし、25ページ以上が戦争とそれによる惨禍のページで構成されている。ただし、「軍都・新宿」の象徴ともいうべき、戸山ヶ原の陸軍施設をあまり紹介できなかったのが心残りだ。
 改めて、同書に用いる貴重なアルバム写真の使用を、こころよくご承諾いただいた落合地域にお住いのみなさま、またかつてお住まいだった方、あるいは落合地域に興味を持たれている方々に心から感謝申し上げたい。
 さて、修正個所は堀尾慶治様Click!よりご提供いただいた写真のキャプション部分だ。まず、83ページの「落合第四小戦勝祈願」のキャプションで、国民学校のスタートが「昭和10年3月より国民学校」となっている。わたしは原稿の年号をすべて西暦で記述しているので、国民学校令(昭和16年勅令第148号)の公布を「1941年3月より国民学校」と書いたはずなのだが、それを編集部で昭和元号に“翻訳”する際に勘ちがいをされたようだ。つづいて、84ページの「落合第四小学校」Click!のキャプションで、わたしは1940~1941年=「昭和15~16年」と書いたが、堀尾様から1940年(昭和15)に規定できるとのご教示をいただいた。
P83氷川明神.jpg
P84落四小校庭.jpg
P85林間学校.jpg
 また、85ページのキャプションだが、これは完全にわたしのミスだ。「落合第四小林間学校」は「小学校の林間学校」が正しく、淀橋区の小学校が合同で主催した林間学校の写真だ。行き先も「御殿場」ではなく「那須高原」で、落四小からの参加は堀尾様ひとりだった。おそらく、わたしが堀尾様に写真を何枚か見せていただいた際の、記録自体がまちがっていた可能性が高い。つつしんで、訂正とお詫びを申し上げたい。同キャプションを書きなおすとすれば、下記のようになる。
  
 小学校の林間学校 (昭和10年代)
 太平洋戦争が始まる前、栃木県の那須高原で行われた新宿周辺の小学校による夏休み林間学校。学童疎開の光景とは異なり、生徒たちの表情はみな明るく食事も豊富で多彩だ。当時の小学校で催される遠足や小旅行の行き先には、羽田海岸の穴守稲荷や鎌倉、石神井公園の三宝池、高尾山などが選ばれている。
  
 さて、同写真集の執筆をお引き受けする際に、隣接する豊島区をテーマにした『豊島区の100年』を見本としていただいた。その中で、直近で判明した事実に照らし合わせ、訂正が必要と思われるキャプションを見つけたので、とてもおせっかいなのだがついでに指摘させていただきたい。68ページの「目白駅舎」に関するキャプションだが、1941年(昭和16)現在で写っている橋上駅化された目白駅Click!は2代目ではなく、1928年(昭和3)竣工の4代目・目白駅だ。地上駅が日本鉄道時代と鉄道院(省)時代とで2代あり、1922年(大正11)に初代橋上駅(目白橋西詰めの駅前広場がある3代目・目白駅)の次にできた駅になる。また、1962年(昭和37)に実施の目白駅大改修後の同駅を5代目と勘定するなら、2000年(平成12)に竣工した現在の駅舎は3代目ではなく、6代目・目白駅(1962年の大改修を勘定しなければ5代目)ということになる。
豊島区の100年201408.jpg 豊島区の100年目次.jpg
 『新宿区の100年』は、出版に先駆けて予約を募っていたのだが、高価な写真集なのでそれほど売れはしないのではないかと予想していた。ところが、当初の予約が出版部数を上まわり、急遽初版の発行部数を増やしたのだそうだ。それでも出版社の在庫は払底し、各書店でも売り切れがつづいて、現在では新宿紀伊国屋書店に多少の在庫がある程度になっているという。もし、再版される機会があれば上記の箇所を修正して、より完成度の高い内容にしたい。

◆写真上:朝霞が立ちこめる、ほとんど人のいない早朝の新宿御苑。
◆写真中上:この秋に出版された写真集『新宿区の100年』(郷土出版社)。
◆写真中下:同書P83~85にかけての修正箇所。
◆写真下:2014年8月に出版された『豊島区の100年』(郷土出版社)。

時代劇の映画ロケ隊はどこから?

$
0
0

上戸塚タネトリ跡.JPG
 下落合で行われた映画ロケについて、これまで何度か記事でご紹介Click!してきた。それらは、ほとんどが現代劇だったのだが、御留山Click!相馬邸Click!正門、すなわち「黒門」Click!の前で行われていた時代劇映画のロケ隊が、はたしてどこからやってきたのかがきょうのテーマだ。地元の伝承によれば、阪妻Click!の映画撮影も行われていたらしい。
 ずいぶん前になるが、大久保百人町に住んだ梅屋庄吉Click!が自宅敷地に映画スタジオを設置し、また隣接する戸山ヶ原Click!で現代劇や時代劇を問わず、盛んにロケをしていた様子を記事にしている。日本初の映画プロダクションなのだが、中国革命を支援した梅屋の映画制作は明治後期がメインなので、下落合でのロケはそのもう少しあとの時代だ。なによりも、相馬家Click!が赤坂から下落合へ転居したのは1915年(大正4)であり、その少し前から邸が竣工していたとしても、ロケは相馬家に断って実施された同年以降と考えたほうが自然だろう。
 さて、大正初期に下落合の近くでロケを敢行するような、映画の制作プロダクションが存在していただろうか? かなり長い間、該当する資料を探していたのだが、下落合の南側に隣接する上戸塚に、その答えがあった。大正の初期から昭和の最初期ぐらいまで、映画の撮影所(スタジオ)が早稲田通りに面して存在している。もっとも、撮影所は今日のように映画スタジオなどとは呼ばれず、当時は明治期と変わらずにタネトリ(種取)と呼ばれていた。場所は戸塚村上戸塚135番地(現・高田馬場4丁目)で、現在の早稲田予備校13時ホールの裏あたり、高田馬場停車場から歩いても1分ほどの距離だ。
 神田の小松商会が経営していたタネトリについて、戸塚第三小学校で発行された小冊子『周辺の歴史-付 昔の町並み』(1995年)の「撮影所」から引用してみよう。
  
 高田馬場四丁目十一番地には、早稲田通りに面して、十軒の長屋作りの商店が並んでいました。この長屋の奥行きは六間(十・八メートル)裏に細い路地が、長屋の勝手口を繋いでいる、私の家の裏の辺に手押しポンプの井戸がありました。その路地の裏。約六百坪(一九八〇平方メートル)に、大正初期から末頃まで、松竹の大谷竹次郎氏と親交のあった、神田和泉町の小松商会(香具師)が経営する、映画の撮影所(当時は種取と言っていた)がありました。阪妻、栗島すみ子、伏見直江等、往年の名優が撮影をしたそうです。/中村長生さんの屋敷の門前は、周囲の椚林と名主屋敷の門が、時代劇撮影にマッチしたのかよくあり、子供だった長生さんは「タネトリ現場」を何回も見たそうです。
  
 この文章の筆者は、十軒ならぶ商店のいちばん西側に位置する、「木村屋パン店」で生まれ育っている。
 小松商会の香具師は、おそらく映画会社から独立した独自のレンタルタネトリ(撮影スタジオ)を建てて商売をしていたのだろう。阪東妻三郎や栗島すみ子の名前があるので、このスタジオでは時代劇の撮影も多かったにちがいない。
相馬邸正門.jpg
坂東妻三郎.jpg 栗島すみ子.jpg
 早稲田通りのこの位置であれば、なにもない野原(のっぱら)のチャンバラ撮影なら南側の戸山ヶ原Click!をすぐに利用でき、また武家屋敷街を想定したシーンの撮影なら、電柱や電線をうまく樹木や竹竿で隠す工夫Click!をしている下落合の相馬邸が活用でき、さらに大正後期から昭和初期の現代劇であれば、目白文化村Click!や近衛町、アビラ村など大正の最先端をいくモダンな街並みClick!を、まるで映画のセットか書割のように自在に使えたのだ。映画の作品ごとに、いちいちロケハンで事前にロケ地を探す必要がなく、近隣ですべての撮影が間に合ってしまうこのスタジオは、おそらくコスト面でも映画会社に重宝されただろう。
 やがて昭和初期になると、このタネトリは閉鎖されたか、どこかへ移転してしまったようだ。それは、大正末から昭和初期にかけ映画各社が京都の太秦へ、おもに時代劇の撮影スタジオを次々に建設したことと無関係ではないように思われる。つづけて、同小冊子から引用してみよう。
  
 昭和になって、何処へ移転したのか、荒れ放題の跡地は、屋根のない板を敷き詰めた部分と、桐の木・紅葉の木・竹藪があり、近所のガキどもの絶好の遊び場でした。その一角に合田さんという差配が、昭和十年頃まで住んでいて、時々子供達を叱りに出てきました。/その空き地も昭和十二・三年頃には、二階建のアパートが建ち並び、遊び場は、だんだん狭くなりました。/十軒の商店は、駅よりの端が渥川自転車店、小滝橋寄りの端は、私の家、木村屋パン店です。
  
上戸塚タネドリ1918.jpg 上戸塚タネドリ1929.jpg
上戸塚タネドリ空中写真1936.jpg
 1936年(昭和11)の陸軍が撮影した空中写真を見ると、戸塚町135番地には筆者が書いている「十軒の長屋作りの商店」の裏に、かなり広い空き地を確認することができる。この600坪ほどの土地に建っていたタネドリ(スタジオ)を、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図で確認すると、“」”字型をしたかなり大きな建物だった様子がうかがえる。
 1918年(大正7)の当時、周辺はいまだ空き地だらけで南側につづく丘をひとつ越えれば、映画撮影にはもってこいの戸山ヶ原が拡がっていた。陸軍の旗竿に赤旗が掲揚されず、大久保射撃場Click!実弾演習Click!のない日は、山手線の西側に拡がる広大な野っ原で周囲を気にする必要もなく、自由に時代劇の撮影ができただろう。大久保百人町の北側に隣接する陸軍科学研究所は、まだ数棟の建物しか建設されておらず、北側へ大きく敷地を拡げてはいなかった。
 上戸塚135番地のタネトリから、ロケ隊は撮影機材や俳優たちを乗せた自動車で移動して、下落合までやってきたのだろう。当時の舗装されていない道路事情を考慮すると、下落合の坂道を重たい撮影機材を載せてクルマで運ぶのは、かなりたいへんだったのではないだろうか。戸山ヶ原での撮影とは異なり、住宅街の下落合での撮影には多くの近隣住民が“見学”にやってくるため、撮影スタッフは彼らが画面に映らないよう、野次馬の整理がたいへんだったにちがいない。
十軒長屋商店1938.jpg
十軒長屋商店.JPG
 いまだ活動弁士が活躍する無声映画の全盛時代だったので、「まあ、奥様ったら、活動のバンツマよバンツマ、ご覧あそばせ! あら、田村正和よりいい男じゃなくて 」というような、周囲の雑音を気にする必要はいっさいなかったのだろうが……。

◆写真上:上戸塚135番地にあった、タネドリ(スタジオ)跡の現状。
◆写真中上は、1915年(大正4)に赤坂から移築を終えたとみられる相馬邸の正門(黒門)。は、当時のスターだった阪東妻三郎()と栗島すみ子()。
◆写真中下上左は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる上戸塚の撮影所。上右は、1929年(昭和4)の「戸塚町全図」にみる同所。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる撮影所跡とその周辺。
◆写真下は、『周辺の歴史-付 昔の町並み』(戸塚第三小学校/1995年)に掲載された濱田煕・作図による撮影所があったあたりの「十軒の長屋作りの商店」(1938年現在)。は、同所の現状で右端の街灯のある位置が元・木村屋パン店。

金川(カニ川)の流域を概観してみる。

$
0
0

戸山公園人工湧水.JPG
 先日、目白不動Click!幸神社(荒神社)Click!の北側を流れていた金川(弦巻川)について書いたので、旧・平川(現・神田川)をはさみ、南側を流れていた下戸塚の金川Click!(江戸後期から別名カニ川とも)について書いてみたい。先日、金川の湧水源である番衆町(現・新宿5丁目)から東大久保(現・新宿6丁目)の西向天神、和田戸山(戸山ヶ原Click!=現・戸山3丁目)の尾張徳川家下屋敷Click!から早稲田大学の大隈邸(現・大隈庭園)Click!へとつづく、金川の流れを追いかけてみた。
 もちろん、これは金川の流れのひと筋にすぎず、もうひとつの湧水源としては江戸期に作成された「御府内場末往還其外沿革図書」によれば、西向天神前で合流する水源を西大久保(現・歌舞伎町)あたりまでたどることができる。また、最近の調査によれば角筈まで水源がたどれるそうなのだが、わたしはそれをいまだ確認していない。
 早大の大隈邸から、旧・神田上水へと注ぐ小流れが明治初期の地図で確認できるけれど、本流は早稲田田圃Click!を横断するように東へ向かい、ひと筋は大堰Click!(現・大滝橋Click!あたり)の下流で江戸川(現・神田川)に合流し、もうひと筋は江戸川橋の下流で合流している。大隈邸から旧・神田上水へと注ぐ流れは、大隈庭園の庭池が造成された明治以降に掘削されたものかもしれない。
 また、新宿区の地形をご存じの方が、上記の金川の流れをご覧になれば、その下流域に“人工的”な匂いを強く感じるだろう。番衆町(現・新宿5丁目)の湧水池や、西大久保(現・歌舞伎町)から湧き出た水流が、東大久保(現・新宿6丁目)にある西向天神の谷間で合流し、戸山ヶ原を経て現在の早大キャンパスの記念講堂の南側を貫通するぐらいまでは、地形通りの谷間や斜面を流れ下っているので、あまり不自然さを感じない。
 しかし、旧・神田上水の南岸に拡がっていた低地になると、いきなり金川は妙な蛇行や流域を形成することになる。これは、金川の流れを灌漑用水に使うため、江戸期以前から行われていたとみられる土木工事によるものだろう。古代の金川が、旧・平川(現・神田川)へと注ぐ流路を想定すれば、現在の早大文学部キャンパスの中ほどを横切った流れは、早稲田中学校のある斜面をそのまま流れ下り、大隈庭園の東側から一気に旧・平川へと合流するルートが自然なのだ。
 少し横道へ逸れるが、番衆町(現・新宿5丁目)に箱根土地Click!堤康次郎Click!が建設した遊園地「新宿園」Click!の池は、江戸期に形成された金川の湧水池のひとつ、すなわち松平志摩守の下屋敷(のち“新宿将軍”と呼ばれた浜野茂邸)にあった庭園池をそのまま活用したものだろう。また、西大久保(現・歌舞伎町)の湧水源(のち大村純英邸の庭園池)は、先の「御府内場末往還其外沿革図書」と重ね合わせてみると、旧・新宿コマ劇場の前にあった噴水池あたりまでたどれるのが面白い。ここが金川(カニ川)の湧水源、あるいは「大村乃森」の庭池だったという、なんらかのいわれや由来を知っている人物が、劇場前に噴水池を設置した可能性が高い。
金川1947.jpg
番衆町.JPG
西向天神.JPG
 金川(カニ川)の流れを旧・平川(現・神田川)までたどってみると、そこここに崖地や急斜面のある地形であるのは、雑司ヶ谷と目白台の間を流れる神田久保の金川(弦巻川)と同様だ。おそらく、鎌倉期以前から拓けていた一帯であることは、鎌倉街道の存在もさることながら、野方村や長崎村と同じように、和田氏Click!(下戸塚では「和田戸氏」と伝えられることが多い)の事績を伝承しているとみられる、戸山ヶ原の「和田(あるいは和田戸山)」の地名に残されている。金川沿いの崖地や急斜面では、旧・平川(現・神田川)の流れをさかのぼっていった大鍛冶集団が支流域へと入りこみ、あちこちで森林を伐採し傾斜地を利用したカンナ流し(神流)や、タタラ製鉄を行っていたと思われるのだ。
 おそらく、古い時代の金川(カニ川)流域を丹念にたどると、荒神社(後世の習合により庚申にまつわる社)や、江戸期の農業神にしては由来が古くて田畑のあった平地ではなく、斜面に建立されたいわくありげな鋳成社(稲荷社)、さらに荒神谷遺跡を見るまでもなくタタラ製鉄には優れていたとみられ、出雲から関東のクニグニへと亡命した人々Click!が奉ったと思われる出雲神(スサノオ/クシナダヒメ/オオクニヌシ=オオナムチ/タケミナカタなど)由来の社が、随所で発見できるかもしれない。
 ちなみに、江戸東京総鎮守である神田明神の主柱が、オオクニヌシ=オオナムチというのは非常に意味深い。日本語の地名転化に特徴的な言語学の「たなら相通」にならえば、神田明神はそのまま神奈(カンナ)明神へと直結する。もともと、神田山の南麓・芝崎村にあったものが神田山の山頂に移され、さらに江戸期に入ると神田山Click!を崩して土砂が海岸線の埋立てに使われたため、さらに北側の外神田へと移されている。そして面白いことに、神田明神で奉納される出雲神の「国譲神楽」が、別名「荒神神楽」と称されていることだ。大鍛冶と神田(=カンナ)明神が、まさに直結する痕跡といえるだろう。
金川跡1.JPG 金川跡2.JPG
駒留橋と金川.jpg
金川跡3.JPG
 さて、大久保から下戸塚を流れ下る金川(カニ川)に話をもどそう。現在の金川跡をたどろうとしても、ほとんど上流域全体が新宿に建つビル群の下になっており、元の姿を想像することすらできなくなっている。かろうじて、リアルな流れを地形とともに想定できるのは、江戸期に尾張徳川家の下屋敷跡であり、明治以降は陸軍の施設が林立していた戸山ヶ原Click!、現・都立戸山公園Click!の一帯だ。尾張徳川家の下屋敷時代、ここには金川の流れと近くの崖線からの湧水を利用して、大きな庭池(東海道五十三次のうち琵琶湖に見立てたもの)が造成されている。
 江戸期の「御府内場末往還其外沿革図書」では、この庭池から流れ出た金川は、そのまま北へと流れ下り旧・平川(現・神田川)へと注いでいるわけだが、その沿岸には前方後円墳の富塚古墳(高田富士)Click!をはじめ、羨道や玄室らしい洞窟が数多く見つかっており、古墳らしい史跡Click!がいくつか散在している。そのような視点で金川沿いを眺めてみると、戸山公園の造成に活用された尾張徳川邸の庭石には、かなりの確率で房州石Click!が混じっていると思われるのだ。もちろん、江戸期に多く用いられた伊豆地域一帯の石材(小松石や根府川石など)も多いのだろうが、古墳の結構に用いられた房州石の数も、決して少なくないように見える。
 そう考えてくると、下戸塚地域に伝承された「百八塚」Click!の故事は、旧・平川(現・神田川)沿いばかりでなく、下戸塚から南側の金川沿いにまで拡がっていた可能性を強く感じるのだ。つまり、金川沿いに上流へとさかのぼる沿岸もまた、大鍛冶たちのタタラ遺跡とともに、古墳が密集する地域ではなかったかというリアルな仮説が成り立つ。西向天神の天神山Click!には、江戸期からつづく「大久保富士」が存在している。しかし、この「富士」の下がどうなっているのか、過去に調査された記録はない。
房州石公園1.JPG 房州石公園2.JPG
房州石箱根山1.JPG 房州石箱根山2.JPG
金川(カニ川)の流れと、その流域に拡がる風景や痕跡を駆け足で見てきたけれど、現在は暗渠化されてしまった同河川をたどるのは容易ではない。ましてや、多くの流域がオフィスビルやマンションの下になってしまっているので、地形の観察さえおぼつかない現状となっている。もし機会があれば、金川の流域をたどって大鍛冶にまつわる社あるいは祠の史跡や、現代まで語られ記録された物語の伝承を探ってみたいと思っている。

◆写真上:金川(カニ川)の風情を再現したとみられる、戸山公園内に造られた人口の渓流。尾張徳川家の下屋敷が建てられた当初は、いまだ金川と呼ばれていただろう。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の地形がよくわかる焼け跡の空中写真に金川(かに川)を描き入れたもの。は、地上からでは風景全体が捉えられないためビルに上って眺めた各湧水源。は、西大久保(現・歌舞伎町)と番衆町(現・新宿5丁目)の湧水が合流していた、東大久保にある西向天神社の参道下。
◆写真中下は金川の川筋跡で、戸山公園に隣接する早大の学生会館()を貫いたあと、記念講堂の南側から文学部キャンパスを横断し早稲田通り沿いの宅地()へと抜ける。は、昭和初期の雪の日に撮影されたとみられる金川(かに川)と駒留橋。は、とても同一場所とは思えない駒留橋の現状。金川(かに川)は右手のドトールコーヒー店脇から流れ出て、早稲田通りの手前あたりに架かっていた駒留橋下をくぐり抜け、蕎麦屋「三朝庵」Click!の東側から早稲田中学へと抜けていた。
◆写真下:戸山公園に散在する、旧・尾張徳川家下屋敷に配置されていた庭石だが、中には同屋敷の建設と庭園の造成時に出土したとみられる、古墳の羨道や玄室の結構に用いられた房州石らしい石材も混じる。

どこへもどるのか上落合「もどり橋」。

$
0
0

もどり橋跡.JPG
 下落合駅の踏み切りをわたり、上落合のせせらぎの里公園から落合水再生センター横の道を南西へ歩いていくと、道が二股に分かれる。関東バスClick!のルートになっている左へ曲がると、村山知義Click!のアトリエ跡や戦前の月見岡八幡社Click!の境内跡を通って、ほどなく早稲田通りへと抜ける。また、二叉路を右へいくと現在の落合第二小学校Click!の北側をグルリとまわり、吉武東里Click!の邸跡から上落合郵便局前、そして山手通りを無視すれば最勝寺Click!の南側を通る道に入り、上落合銀座通り商店街へと抜けていく。この2本の道路の付け根にあたる二叉路に、その昔「もどり橋」と呼ばれる橋が架かっていた。
 もともと、妙正寺川のバッケ堰Click!から分岐した灌漑用水の末流で、上落合の前田地域Click!(現在の水再生センター一帯)に拡がる田圃を潤していた小川なのだが、そこに架かる橋が「もどり橋」と呼ばれていた。この橋は、大正末ごろまでは存在していたようだが、1925年(大正14)の1/10,000地形図を見ると、用水路が道端の下水道のようになっており、「もどり橋」も影がかなり薄くなっていたらしい。同橋の様子を、1983年(昭和58)に発行された『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)から引用してみよう。
  
 「仲通り」の方は西ノ橋を渡って下落合駅前を通って磯ヶ谷ビルの前を通って左に行くと今の汚水処理場の中程辺りに旧八幡神社の前の道があり、「早稲田通り」に通じて居りました。/磯ヶ谷ビルの所に「もどり橋」があったのです。その橋は、中井駅のソバの「マルコ」前から、前会長の小林さんの家の前を通って用水が流れて居り、それが前田のタンボに入っていました。「もどり橋」はその用水にかかっていたのです。
  
 上記の文章は、下落合側から上落合へと抜ける道順で記述されており、もともと下落合側に住んでいた方の文章なのかもしれない。下落合駅前の西ノ橋Click!(比丘尼橋)から上落合へ向かって進むと、やがて既述の二叉路の手前に架かっていた「もどり橋」に出る。その先を左へいくと、既述のように早稲田通りへと出るが、右へいくと文中で「仲通り」と書かれている、上落合の三ノ輪通りと並ぶメインストリートの1本へ入ることになる。のちに、上落合銀座と呼ばれる商店街へと抜ける道だ。明治期なら二叉路を左へ曲がれば、了然尼がいた泰雲寺Click!の廃墟が残っていただろう。
もどり橋1850年代.jpg
もどり橋地籍図1910.jpg
もどり橋1910.jpg もどり橋1925.jpg
 さて、この橋はなぜ「もどり橋」と呼ばれたのだろうか? 前掲書にもその理由は書かれておらず、また他の資料でもわたしは「もどり橋」の由来を目にした記憶がない。だが、江戸期から明治期にかけての状況を想定すれば、どうして「もどり橋」の名称がついたものか、その理由を想像することができる。
 ヒントは、上掲の文章を書いた執筆者の視点にも関係してくるが、この「もどり橋」のもどる方角は、上落合側から「もどり橋」へ差しかかり、なんらかの理由で気が変わって上落合側へと「もどる」のではない。下落合側から「もどり橋」にたどり着き、そこでなんらかの理由から「もどる」必要性が生じたので下落合側へ、すなわち古い街道筋である鎌倉街道(雑司ヶ谷道Click!)が通う下落合方面へ「もどらなければならなかった」のだ。もっといえば、下落合へ「もどる」のではなく、江戸東京の市街地へと「もどる」必然性が生じたからだ。
 落語の「らくだ」Click!を聞かれた方は多いだろう。最近は、最後の落合火葬場(現・落合斎場)まで演じられることが少なくなったが、死んだ“らくだ”を早桶に入れて背負い、長屋から火葬場までエッチラオッチラ背負ってくるあの噺だ。どこかで死骸を落っことし、代わりに面影橋あたりで泥酔して寝ていた男を早桶に入れて、落合火葬場までやってくる。つまり、江戸の市街地(主に西北部)で死人が出て土葬ではなく火葬にする場合は、千代田城の外濠をまわって舩河原橋Click!から江戸川Click!をさかのぼり、神田上水沿いに鎌倉街道を落合までたどり、下落合本村に架かる西ノ橋をわたって南へ抜ける。
東京護謨1917.jpg
上落合仲通り.jpg 上落合銀座1960.jpg
上落合銀座.JPG
 そして、「もどり橋」をわたって、のちに「仲通り」あるいは「上落合銀座通り」と呼ばれる道をたどると、その突き当たりには落合火葬場があった。この“葬送”の道筋は、まさに「らくだ」で描かれた情景とピタリと重なることになる。
 再び、先の『昔ばなし』からつづけて引用してみよう。
  
 磯ヶ谷ビルから右に曲り、やぶ重さんのところら出て、光徳寺の前を通って仲通り商店街を通って郵便局の前を通り、最勝寺の横を通って落合銀座の商店街を通って右に行くと火葬場で左に行くと新井薬師に通じて居りました。古典落語の「らくだの馬さん」に「馬さん」を火葬場に運ぶとき、この道を歩くようになって居るそうです。
  
 さて、「もどり橋」に話をもどそう。江戸期あるいは明治期は、死亡診断または死亡認定がいまほど科学的に発達してはおらず、仮死状態や意識不明でも死亡したと判断して葬式を出してしまったケースが多い。葬儀の席で、いきなり仮死状態から醒めた死者がムックリと起きあがり、悲喜こもごもの逸話も生まれている。葬儀で目ざめればいいが、火葬場へ向かう途中、棺桶を運ぶ振動で目ざめた「死者」もいたかもしれない。
 つまり、「もどり橋」とは落合火葬場へと向かう葬列が、被葬者がほんとうに死んだかどうかを最後に確認する“場”であり、もし生き返っていれば家へと「もどる」、生死つまりあの世とこの世を分けた悲しい別れの橋ではなかっただろうか。また、この橋をすぎれば火葬場までは1,000m前後であり、前田地域の灌漑用水がどこか黄泉の国の入り口を流れる、三途ノ川(それにしては川幅が狭いのだがw)のようなとらえ方をされていたものだろうか。あるいは、「もどり橋」の付近で「死者」が目ざめ、あわてて棺桶ごと引き返していった葬列のエピソードが、実際に江戸期または明治期にあったのかもしれない。
もどり橋広域1925.jpg
光徳寺.JPG 最勝寺.JPG
 大正の中ごろになると、「もどり橋」の手前には堤康次郎Click!の東京護謨工場(現・せせらぎの里公園一帯)が進出し、煙突からは黒い煙が立ちのぼり、もはや「もどり橋」の哀し気な由来は忘れられ、しめやかで侘し気な風景は一変しただろう。西部電鉄Click!が開業し、しばらくして下落合駅Click!が西へと移転Click!聖母坂Click!が拓かれる昭和初期のころから、郊外住宅街の発展とともに朝夕は勤め人や学生たちで「もどり橋」の道はにぎわい、もし当時も橋の痕跡がかろうじて残っていたとすれば、駅から郊外の文化住宅街に建てたわが家へ帰る、楽しい目印としての「もどり橋」になっていたのかもしれない。

◆写真上:上落合の「もどり橋」跡の現状で、当時の面影は皆無だ。
◆写真中上は、1850年代(安政年間)に完成した「御府内往還其外沿革図書 九」に採取された「もどり橋」。は、1940年(明治43)作成の地籍図にみる上落合160-2の同橋。下左は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる「もどり橋」。下右は、1924年(大正14)の「落合町全図」にみる同橋。
◆写真中下は、1917年(大正6)に操業をはじめた当初の東京護謨工場。工場の背後に描かれているのは蛇行する旧・神田上水(現・神田川)だが、スケッチした人物は不明。中左は、上落合仲通りの現状。中右は、1960年(昭和35)に撮影された上落合銀座通り。は、1960年(昭和35)の写真と同じ場所の上落合銀座通り。電柱の「酒井産婦人科」の看板はそのままで、右手にモノクロ写真に写る同じ魚屋がある。
◆写真下は、1925年(大正14)の「落合町全図」にみる「もどり橋」から落合火葬場への道のり。下左は、上落合仲通りに面した光徳寺。下右は、上落合銀座通りの入り口にあたる最勝寺。


水利をめぐり下落合と上戸塚が大喧嘩。

$
0
0

妙正寺川洪水1938.jpg
 1938年(昭和13)に撮影された、1枚の水害写真がある。(冒頭写真) いまの場所でいうと中井駅の南側、妙正寺川に架かる寺斉橋Click!と橋の北側に建っている喫茶店「コロラド」のあたりを、対岸(南側)から撮影したものだ。大雨による妙正寺川の洪水で、寺斉橋と同橋の北詰めに建っていた下落合3丁目1924番地(現・中落合1丁目)の家屋が押し流され、跡形もなくなっている。寺斉橋は石造りのはずだったが、周辺の積み石の護岸とともに丸ごと流出し、強大な洪水の水圧を物語っている。
 手前に建っていた川端の家屋を流され、いまにも崩れそうな岸辺の上にかろうじて建っているのは、1938年(昭和13)の当時は「田中写真館」の中井駅前出店(支店)だが、ほんの数年前までは萩原朔太郎の元・萩原稲子夫人が経営していた喫茶店「ワゴン」Click!だった。その様子は、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の巻頭グラビア(次写真)に、偶然とらえられている。同店の南側には、商店家屋が近接して建てられていたため、店舗の規模や側面の様子がよくわからなかったが、この水害写真でハッキリと観察することができる。
 下駄・履物屋の物置きを、1931年(昭和6)春に小さな喫茶店の店舗へと改造したのは、上落合に住んでいた詩人の逸見猶吉だった。同年、萩原稲子と恋人の学生が喫茶店「ワゴン」を開くのだが、おそらく1935年(昭和10)前後には閉店している。冒頭の写真は、「ワゴン」閉店後に入った田中写真館の出店が偶然とらえられたものだ。喫茶店「ワゴン」の開店中は、改築を引き受けた逸見猶吉をはじめ、近くに住む宍戸儀一や石川善助、草野心平、檀一雄Click!古谷綱武Click!、百田宗治、伊藤整Click!太宰治Click!尾崎一雄Click!林芙美子Click!らが通ってきており、ちょっとした「文学サロン」のような趣きの情報交換の場所だった。
 1938年(昭和13)の洪水の模様を、1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会から出版された『昔ばなし』から引用してみよう。
  
 昭和十三年六月の大雨のとき、今の落五小の上のあたりから大正橋あたりが大水で大変な被害を出しました。特に寺斉橋(中井駅のソバの橋)から上落合側の方は、大水で土台をえぐられ、次々と民家が川の中に倒れ、見ているうちに流されてしまいました。当時は「川」が曲りくねっていたためでした。それから現在のように改修されたのです。
  
 妙正寺川は、寺斉橋と隣接家屋を押し流した大洪水の前年、1937年(昭和12)にも周辺の商店街や住宅街が床上浸水する深刻な洪水被害をもたらしている。同様に、妙正寺川が流れこむ旧・神田上水(現・神田川)も、台風などによる大雨が降ると頻繁に氾濫を繰り返し、その流域へ毎年のように大きな被害をおよぼしていた。妙正寺川や旧・神田上水は、流域の田畑へ豊かで清廉な灌漑用水をもたらす反面、一度氾濫すると手がつけられない暴れ川と化した。その繰り返しは、つい最近までつづいていた。
妙正寺川寺斉橋1932.jpg
妙正寺川洪水1937.jpg
妙正寺川急カーブ.JPG
 1980~1990年代にかけ、少し多めの雨が降ると神田川はすぐに危険水位を超え、わたしの家からも夜中に鳴り響く洪水警報のサイレンがかすかに聞こえていた。洪水は神田川流域のどこかで、ほとんど毎年のように繰り返し発生していたが、下落合の下流域、おもに高田馬場駅から東側で洪水が発生するようになったのは1958年(昭和33)からだ。上流の中野区や杉並区の住宅地化や道路舗装が急速に進み、妙正寺川や神田川へ雨水の流出率Click!が急激に高まったからだろう。
 わたしが下落合へ初めて足を踏み入れて以降、印象深い洪水は1974年(昭和49)、1978年(昭和53)、1981年(昭和56)、1989年(昭和64)、そして1993年(平成5)と頻繁に起きている。2011年(平成23)にも、大雨つづきで水位が護岸のギリギリにまで達し、沿岸にお住まいの方々は不安な夜をすごしている。
 特に、1993年(平成5)は台風11号の大雨により、神田川水系の上流域と下流域で洪水被害が相次ぎ、沿岸の住宅地に甚大な被害をもたらした。飯田橋の舩河原橋周辺(文京区後楽)から、白鳥橋の南側(新宿区新小川町)の住宅街が冠水しているが、これは典型的な「内水氾濫」によるものだった。内水氾濫とは、神田川の水が直接あふれなくても、住宅街に降った雨水を川へ流す下水道が機能しなくなり、神田川を流れる水の圧力で逆流し下水道のマンホールから水が噴き出して起きる洪水のことだ。
 また、善福寺川と神田川の合流域では、中野区弥生町の和田見橋から新宿区西新宿の相生橋にかけて神田川があふれ、周辺の住宅街を水浸しにしている。このところ、地下貯水池や地下分水流の設置で、神田川の洪水はなんとか食い止められているように見えるが、妙正寺川では川筋が急激にカーブする箇所で、増水による水圧から護岸が崩落する被害が出たのは記憶に新しい。
神田川洪水1974.jpg
神田川洪水1981.jpg
 さて、神田川や妙正寺川の水害ばかり書いてきたが、この両河川による水利は明治期にいたるまではかり知れないほど大きかった。水害とは裏腹に、江戸期の千代田城Click!城下町Click!へ配水する上水道基盤Click!を、小石川上水時代を加えれば310年以上にわたって支えつづけ、また流域のかけがえのない灌漑用水として田畑を潤しつづけてきた。1901年(明治34年)まで東京市の上水道インフラとして使用され、その後も流域の農業用水として活用されつづけたが、重要な水資源であるがゆえに近隣の村々では激しい水争いの原因ともなった。
 1908年(明治41)ごろ、田島橋Click!の上流にあった下落合の水車小屋Click!の水利をめぐり、旧・神田上水(現・神田川)の南側で田畑を耕す戸塚村上戸塚(現・高田馬場3丁目)の農民たちと、北側の落合村にある水車小屋を運営する経営側との間で深刻な水争いが起きている。対立は「武装」した両者の大喧嘩にまで発展し、双方に重軽傷者が数多く出たらしい。このときの重傷者は、下流の御茶ノ水にあった順天堂病院まで戸板に乗せられ搬送されている。以下、1983年(昭和58)出版の前掲書から引用してみよう。
  
 下落合の「田島橋」のソバに上落合の水車より大きい水車がありました。今から七十五・六年前、戸塚側のお百姓さんと、水車側が水利のことで大喧嘩となり、鳶口で叩かれ、重傷者を出し、戸板でお茶の水の順天堂病院までかつぎ込んだそうです。/これらの水車は次第に穀物をつかなくなり、鉛筆の芯の黒鉛をついていましたが、何れも大正の中頃には姿を消してしまいました。
  
 人が家を建てて住むようになると、初めて詳細な「洪水被害」が記録されるようになるのだが、それ以前の農地だった時代の水害記録はほとんど残されていない。神田川水系の流域はあらかた耕作地か森林であり、大雨が降っても土の地面への浸透率が高く、それほど大規模な洪水が起こりにくかったせいもあるのだろう。だが、蛇行を繰り返す旧・神田上水や妙正寺川の流れが一度氾濫すると、沿岸に展開する田畑の農作物が全滅しかねない、深刻な被害をもたらしていたにちがいない。
神田川高田馬場峡谷.JPG
神田川洪水1993.jpg
神田川神高橋.JPG
 1880年(明治13)に作成された落合地図Click!を参照すると、河川沿いの集落は川面から少なくとも3m以上の高台に形成されているのがわかる。洪水で田畑を流されても、被害が人家まで及ばないよう、経験にもとづく当時の危機管理の様子が透けて見えるのだ。

◆写真上:1938年(昭和13)の妙正寺川洪水で流された、寺斉橋跡と北詰めの民家跡。岸辺に見えている田中写真館出店は、数年前までは喫茶店「ワゴン」だった。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に撮影された寺斉橋と喫茶店「ワゴン」周辺。冒頭の写真と比較すると、寺斉橋上流の護岸から「ワゴン」隣りの民家まで丸ごと削られ流出しているのがわかる。は、1937年(昭和7)の妙正寺川洪水で床上浸水した家々や商店。は、大雨のあとに撮影した落合公園の南側を流れる妙正寺川の急カーブ。
◆写真中下は、1974年(昭和49)に起きた神田川洪水時の上落合における増水。は、1981年(昭和56)に起きた洪水時の下落合に架かる田島橋周辺の増水。
◆写真下は、水量が通常時の山手線神田川鉄橋下「高田馬場峡谷」Click!。水量が少ない通常時でも足にかかる水圧はかなり強く、子どもやお年寄りは耐えきれずに流されるだろう。は、1993年(平成5)の洪水時における「高田馬場峡谷」の奔流。は、アユが遡上するまで水質が改善Click!し染物の水洗いClick!もできる通常時の穏やかな神田川。

白蓮が火をつけた大正期の離婚論議。

$
0
0

現代結婚式01.jpg
 1921年(大正10)の秋、柳原白蓮Click!(伊藤白蓮)と宮崎龍介Click!の「恋愛事件」が新聞Click!や雑誌を賑わしたあと、翌年から婦人雑誌を中心に日本における「離婚事情」をテーマにする記事が急増している。1922年(大正11)に発行された「婦人之友」12月号に掲載の、平林初之輔「現代に於ける離婚の自由」もそんな評論のひとつだ。
 平林初之輔は、多くの興味本位でセンセーショナルな「離婚騒動」記事とは異なり、なぜ愛情もない夫婦が別れもせずに結婚生活をつづけているのかを、大正デモクラシーを背景にした社会情勢や思想的な背景を踏まえつつ、分析的にとらえている点でめずらしい記事だ。当時の平林は、国際通信社に勤めながら東京版の雑誌「種蒔く人」の創刊に関わっていたころで、さまざまな社会評論や記事を精力的に執筆していた。平林の「現代に於ける離婚の自由」から、その冒頭部分を引用してみよう。
  
 伊藤白蓮夫人の離婚問題が世の中を騒がした時、輿論は多く白蓮夫人に同情し、その離婚を正常だとした。そして、互いに理解のない夫婦や愛情のなくなつた夫婦は速かに離婚するのが当然だと主張する議論が優勢だつた。その後に生じた色々の離婚問題についても世人の輿論は、大抵これに類似の自由主義の見解に傾いてゐた。愛のない、理解のない結婚などは須らく解体してしまうがよいといふ説が大部分だつた。これに反対するのは、たゞ旧式のわからずやだけだつた。
  
 「婦人之友」の平林は、「結婚は恋愛の墓場」あるいは「結婚は幸福の墓場」だというアフォリズムを認めたうえで、日本人はなぜ退屈で事務的な夫婦生活をつづけるのかという課題を、もう一歩踏みこんで考察している。しかも、「甲斐性」のある男は、芸者遊びや売春婦相手の「女道楽」を少しぐらいやったとしても、ほめられこそすれ離婚の原因とはならず、妻も「黙認」して平然と結婚生活を継続するには、そこに大きな理由がなければならないとしている。
 また、夫婦(男女)間で対話や理解もなく、むしろお互いに心の底からが憎みあって、家庭内でも満足に口をきかず、よそへ出かけると連れ合いの悪口をさんざんいいふらしながら、それでも離婚せずに「くされ縁」をつづけるような奇妙な現象はどうして起きるのか?……。宮崎白蓮を端緒とした「離婚」という、どちらかといえば興味本位でセンセーショナルな記事が多い婦人誌の中で、「婦人之友」(婦人之友社Click!)というメディアのせいもあるのだろう、平林はマジメな分析をつづけながら“婦人”たちに語りかけていく。
婦人之友192112.jpg 江戸期婚礼.jpg
 自由主義的な思想基盤に立てば、まったく「愛のない」「理解のない」結婚生活を送ることは、偽善であり不道徳だということになるが、換言すればお互い愛のある理解に富んだ夫婦が、はたしてどれほどの割合いで大正期の日本に存在しているのかも疑問だとしている。それにもかかわらず、別に離婚もせずに形式主義的な夫婦生活をつづけている理由は、なにか別の要因がなければならないとして、女性の経済的な基盤の不在を指摘している。再び、同誌から引用してみよう。
  
 その理由の第一は経済的の(ママ)理由である。今日は離婚に対して法律で別段厳しい制裁が加へられてゐるわけではない。(中略) しかし今日では日本でも西洋でも、結婚は大抵民事結婚になつてゐるので、離婚は法律上では比較的容易である。離婚に対する権利が男女全く平等であるとは言へないが、多くの国では婦人の離婚請求権も認められてゐる。然るに離婚が比較的尠い。殊に「愛」や「理解」のための離婚はごく少ない、それだからこそ新聞種になるのであるが----。それは単に法律上の手続きが面倒な(ママ)からであらうか。否、今言つたやうにそれは経済的の(ママ)理由によるのである。(カッコ内引用者註)
  
 このあと、夫婦関係と雇用関係とは次元のちがうテーマだと断りつつも、雇い主と社員との契約はまったく自由であるにもかかわらず、ひどく踏みつけにされている悪条件の労働環境なのに、会社を辞めて別の会社へ再就職しないのは失業することを極端に怖れているからであり、多くの場合、労働者が独立して生活を営むだけの技術やノウハウが未熟で、ひいては経済的な実力を備えていないからだと分析している。
大正結婚式.jpg
昭和初期結婚式.jpg
 そして、夫婦関係がより深刻なのは、女性に経済的な基盤を形成させるだけの仕事が、日本の現実社会(大正期)にはきわめて稀有であり、それは労働者の経済的な基盤以上に、輪をかけて深刻な課題であるとしている。
 嫁入りを前に、当時の親たちがよく娘婿に向かって依願するセリフとして、「あまり困らずに食はせてさへ貰へたら……」という、女性にとっては屈辱的な言葉を引用し、あえて「恐ろしい言葉である」と書く平林初之輔は、大正期とは思えない今日的な視点や感覚を備えていたのがわかる。そして、このような封建的(江戸期以前の武家的)な社会規範や男女関係を支える社会秩序は、(大正期の)日本から「廃止」されなければならないと結論づけている。つづけて、同記事から引用してみよう。
  
 既にして結婚が経済的必要によりて行はれるとすれば、離婚も亦経済的必要に支配されるのは当然である。愛のない結婚や、理解のない結婚がつゞけられてゐる主要原因はこの経済的原因なのである。労働者にとつて失業の自由、雇主から独立する自由が、餓死の自由に過ぎないと同じやうに、婦人にとつては離婚の自由の(ママ)矢張り餓死の自由に外ならぬからである。愛がなくなつた、理解がなくなつたといふだけの理由できれいさつぱりと離婚できないのはこのためである。男子が支配権をにぎつてゐる今日の社会秩序は、実に、男子が婦人の経済的独立を奪つて、その咽喉首をおさへてゐるために維持されてゐるのである。そこで婦人の経済的独立は今日の社会秩序の廃止を意味する。
  
 まるで、「婦人之友」の読者諸君に「蹶起せよ!」とアジッている檄文のような記事だが、平林が書いている「廃止」すべき封建的な残滓を多分に残した時代遅れの「社会秩序」は、膨大な犠牲を払って1945年(昭和20)8月15日を境に破滅した(はずだった)。
現代結婚式02.jpg
現代結婚式03.jpg
 現在、この文章を読んで「なんのこと? どーゆーことよ?」と不可解に感じる女性もいれば、「平林がこれを書いてから94年もたつのに、相変わらずの社会なんだよね」と、憤りをおぼえる女性もいるだろう。「男女平等」や「女性の社会進出」とかがいわれて70年近くが経過しているが、貧富の格差がますます拡がる社会状況の中で、実際にリアルな餓死の危機にさらされている母子家庭がある。戦後の食糧難時代じゃあるまいし、「欠食児童」がニュースで取り上げられる戦後政治とは、いったいなんなのだろう?

◆写真上:現代の結婚式(浅草寺にて)。
◆写真中上は、平林初之輔の「現代に於ける離婚の自由」が掲載された1922年(大正11)発行の「婦人之友」12月号。は、江戸時代の結婚式。
◆写真中下は大正期の結婚式(築地本願寺にて)と、は昭和初期の結婚式。
◆写真下:現代の結婚式で、下落合にて()と下町にて()。

有楽町で逢いたくなんかないわ。

$
0
0

鈴木金平カメレオン.jpg
 1954年(昭和29)の暮れ近く、わたしの母親は“彼”から映画に誘われて有楽町で待ち合わせをした。“彼”とはもちろん親父のことで、ふたりにとっては初めてのデートだった。母親は映画と聞いて、「きっと原節子Click!が好きな彼のことだから、前年にヒットした小津安二郎Click!の『東京物語』と『早春』の2本立て上映館とか、彼はグレース・ケリーも好きだから、わたしも大好きなヒッチコックの『ダイヤルMを廻せ』あたりに連れてってくれるのよ」……と、楽しみにしていたようだ。
 ほかにも当時、映画館では『グレンミラー物語』や『波止場』、『七人の侍』など、母親が観てもいいと思う映画が、この年、あちこちで上映されていた。『グレンミラー物語』はすでに観ていたが、もう1回、彼と観てもいいかなと思っていた。親父に連れられて入ったのは東宝館で、あまり耳慣れない作品だったがスクリーンがほの明るくなると、「賛助 海上保安庁」という文字が映し出された。同時に、戦災復興事業の杭打ちのような音が鳴り響き、なにか動物の鳴き声のようなうるさい重低音が館内を震わせると、伊福部昭の不気味な弦楽曲が流れはじめた。
 それから4年後のヒット曲になるけれど、「♪今日のシネマはロードショー かわす囁き~ ♪あなたとわたしの合言葉~ 有楽町で逢いましょう~」というような情景を想像していた母親は、「ゴジラってなに??」、「これ、なによ。なんなのよ!」と初デートでひどいめに遭っている。しかも、芹沢博士の平田昭彦が魚の水槽にカプセルを入れると魚が“消滅”し、山根博士のお嬢様・河内桃子がキャーッ!と叫び声をあげるところで、親父は「オキシジェン・デストロイヤーだよ」と囁いたらしい。「おっ、おい、1回観てんじゃん!」と山田奈緒子なみに、すかさず突っこみを入れたくなったと思うのだが、最後までがまんして観ていたらしい。
 それからというもの、ゴジラClick!がトラウマになったのか、わたしが小学生のとき『モスラ対ゴジラ』(1964年)が観たいというと、母親は「ハァ~~~」とあからさまな溜息をついていた。きっと、「この父親にして、この子ありだわ」とでも思っていたのだろう。「モスラって、ただの蛾よ蛾。ほら、お庭にいっぱい飛んでる蛾よ」とハマユウが咲くClick!を指さして、わけのわからないことを何度か口走っていたが、結局、街の映画館へ連れていってくれた。
ゴジラ1954.jpg
 少し前置きが長くなってしまったけれど、映画好きだった母親は、わたしをよく映画館へ連れていった。内容はほとんど憶えていないのだが、いちばん最初に連れていってもらったのが、ディズニーの動物記録映画『ペリとポロ』だった。余談だが、同映画のタイトルをいまは原題どおりに『ペリ』(1957年)と紹介する資料が多いけれど、当時の邦題(リバイバル上映だったからか?)は『ペリとポロ』だったように記憶している。リスの子どもたちが成長する過程を、まるでディズニーアニメのように甘ったるく描いた、自然界の法則や厳しさを無視した内容だったと思う。しばらくすると、母親は同じタイトルの絵本を買てくれた。この絵本が、わたしが手にした最初のものだった。おそらく、幼稚園に入るころではなかったかと思う。
 母親は、次々と映画に連れていってくれたのだが、ディズニー映画や物語アニメが多かったようだ。その内容をほとんど憶えていないのは、少女趣味のものが多く、わたしの興味をまったく惹かなかったからだろう。おそらく、戦争で大切な子ども時代を奪われた母親は、わたしをダシに観たい映画を片っぱしから観ていたような気がする。確か、分厚くて装丁もていねいな、ディズニーのアニメ映画『シンデレラ』や『白雪姫』などの豪華な絵本も買ってくれたように思うのだが、面白くなかったのでほとんど読んでいない。あれは、母親が自分で欲しかったのだろう。男の子に「Some day my prince will come」というような物語を与えても、まったく説得力がないのだ。
 このあと、小学館の学習図鑑シリーズを買ってもらうまで、わが家の絵本は不作、というかわたしの趣味に合わない本棚の状況は変わらなかった。ただ小学校1年生のとき、教室には絵本が何冊か置かれていたが、その中でアフリカの動物たちを描いた絵本を読みたいがために、わたしは始業時間の40分も前に、まだ誰もいない教室へ登校していたのをかすかに憶えている。
鈴木金平オウム.jpg
 さて、新たに買ってもらった小学館の学習図鑑シリーズは、「動物」や「昆虫」、「宇宙」、「地球」……と各テーマ別に分かれたカラーページの多い美しい印刷で、何時間見ていても飽きなかった。おそらく、そこに描かれた挿画の中には、今日からみればけっこう有名な画家やイラストレーターたちの作品が混じっていたのかもしれない。洋画家が、アルバイトに図鑑や絵本の標本画や挿画を担当するのは、別に戦前からめずらしいことではなかった。
 冒頭のカメレオンの絵は、少し前に記事に書いたばかりの鈴木金平Click!の作品だ。1927年(昭和2)に発行された「コドモノクニ」(東京社)に掲載されたもので、絵を見て楽しみながら動物の名前を憶えられるようになっている。図鑑の中で、特にわたしの興味を惹いたのは「動物」や「昆虫」などのほか、地質学をテーマにした「地球」の巻だった。親にねだって、ハイキングがてら五日市(東京)や山北(神奈川)、大磯(同)へ、わざわざ化石採集にも何度か出かけている。夏休みに昆虫採集をして、家じゅうを虫だらけにしたのもそのころだ。母親は、「もうカンベンしてほしいわ、モスラの芋虫の次は本物の虫なのよ」と、今度はモスラのトラウマで内心悲鳴をあげていたにちがいない。
 わたしの学習図鑑は、はたしていつごろまで本棚にあったのだろうか。あまりハッキリした記憶がないのだが、小学校を終えるころ、もったいないことに棄ててしまったらしい。いまでも手もとにあれば、かなり楽しめたと思うのだけれど、その本棚に空いた図鑑の穴を埋めたのは、確か子ども向けに学研が出版していた原色学習百科事典シリーズだった。わたしは、今度はそれに夢中になり学校の勉強などまったくせず、そればかり眺めていたのを思いだす。絵本仕様の図鑑とは異なり、学習百科事典の項目には現物のリアルなカラー写真が掲載されていたからだ。
 でも、いまになって思い当たるのだが、専門家が用いる「図鑑」は写真ではなく、図版や絵画仕様のものが多い。特に鳥類や昆虫、植物などではそれが顕著だが、写真では正確にとらえきれない対象物の特徴を、絵画ではより的確にわかりやすく表現することができるからだ。そのような観点からすると、画家やイラストレーターがアルバイトで描いていたと思われる図鑑を、惜しげもなくどこかへ廃棄してしまったのはいまさらながら残念でならない。
コドモノクニ192405.jpg 小学館学習図鑑.jpg
武井武雄七面鳥.jpg
 学習図鑑シリーズの「地球」では、ジュラ紀から白亜紀にかけての肉食恐竜たち、たとえばアロサウルスやティラノサウルスは、まるでゴジラがノシノシと歩くような描き方で表現されていた。21世紀の古生物学ではありえない姿勢であり歩行なのだが、60年後の昨年(2014年)にサンフランシスコへ上陸したゴジラは、相変わらず米国の西海岸を直立姿勢のままノシノシと歩きまわっている。

◆写真上:1927年(昭和2)の「コドモノクニ」掲載の鈴木金平「虫類の保護色」で、(1)(2)カメレオン、(3)(4)トビナナフシ、(5)アゲハテフ(アゲハチョウ)ノ幼虫。
◆写真中上:1954年(昭和29)の暮れに公開れた『ゴジラ』(監督・本多猪四郎)。
◆写真中下:1926年(大正15)の秋に発行された「コドモノクニ」より、鈴木金平が描いた「アウム(オウム)」と「青セキセイインコ」。
◆写真下上左は、1924年(大正13)発行の「コドモノクニ」5月号。上右は、1960年代に出版された小学館の学習図鑑シリーズ「昆虫の図鑑」。は、「コドモノクニ」から武井武雄Click!が描く「七面鳥」。詩は北原白秋で、七面鳥をできるだけ肥らせクリスマスに絞め殺して食べようとするコックを描いている。どこか偽善的で砂糖菓子のような「ペリとポロ」よりも、子どもはこういう情景に想像力や情感の翼を大きく拡げるのだ。

落合地域に棲息した動物たち。

$
0
0

タヌキ1.jpg
 戦前まで、落合地域にはどのような動物たちが棲息していたのだろうか。1936年(昭和11)に陸軍が撮影した空中写真を見ても、落合地域にはいまだ緑の濃い森林や田畑が拡がり、神田上水や妙正寺川沿いに灌漑用水として引かれた小川が随所に流れていたのが見てとれる。そこには、おそらく幕末から明治期にかけての目撃談だろう、いまでは絶滅してしまったといわれているニホンカワウソの姿も含まれている。
 カワウソの伝承は、妙正寺川ではなく神田川の目撃談として採取されている。カワウソは、川から上って陸上を自在に往来できるため、川から少し離れた用水池の鯉や農家の家畜までが狙われたようだ。その様子を、1983年(昭和58)に出版された『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)から引用してみよう。
  
 『かわうそ』は妙正寺川より神田川の方に多く棲んでいた。川辺には、たくさんの穴があいていたそうです。川から随分離れた農家の池の鯉を獲りに来たり、鶏を獲ったりしたそうです。「いたち」だったのではないか? と言ったところ古老達は「かわうそ」に間違いない! と云っておりました。
  
 村内の動物を見馴れている古老たちのいうことだから、おそらく当時の神田上水(現・神田川)沿いの岸辺に空けられた巣穴から、カワウソたちは自在に付近を歩きまわっていたのだろう。ときには、カワウソを見馴れない武家たちから、川辺に棲む得体の知れない妖怪Click!と見まちがえられることもあったかもしれない。カワウソ目撃譚は、幕末か明治初期のころの落合風景Click!だと思われる。ニホンカワウソは、日本各地で目撃されたどこにでもいる動物だったが、残念ながら2012年(平成24)に絶滅種として規定されている。
 また、イタチやモモンガも頻繁に目撃されていた。イタチは、いまでもいそうな気がするのだが、聞こえてくるのはハクビシンの情報ばかりで、イタチらしい姿が目撃されたウワサを聞かない。つづけて、同所から引用してみよう。
  
 『いたち』はたいてい農家の廻(ママ:周)りに巣を作り「ねずみ」を獲っていました。チョコチョコと歩いては、ヒョイ……と振りむくくせがあり、水泳の達人でもあります。
  
 ネズミやモグラはいまでもたくさんいるが、それらをエサにしているのはヘビやハクビシンなのだろう。外来種で環境適応力がより強いハクビシンが、ひょっとすると明治以降にイタチを駆逐してしまったのかもしれない。
ハクビシン1.jpg
ハクビシン2.jpg
 カワウソやモモンガ、イタチに比べ、キツネの目撃情報は戦前までつづいている。おそらく、キツネはこの地域における食物連鎖の頂点にいた動物だと思われ、キツネの姿が見えなくなったあと、タヌキやヘビ、そして野良ネコがヒエラルキーのトップに君臨するようになったのだと思われる。では、上落合の前田地域Click!で頻繁に目撃されていたキツネの様子を、つづけて引用してみよう。
  
 前田(汚水処理場のある場所の昔の呼び名)に大きな狐が棲んでいた。秋の暖かい日の午後、日あたりの良い凹地で、よく大イビキをかいて寝ていたそうです。畑仕事の行き帰りの村人達は、大狐の目をさまさせると恐ろしいので、いつもソーッと逃げ出したそうです。この狐のシッポには「ホーシの玉」がついていたそうです。
  
 このあと、ありがちな村人がキツネに騙された話Click!へとつづくのだが、人間が近くへ寄っても平気で寝ており、本来は神経質なはずのキツネが敏感に反応しない姿がめずらしい。キツネは農業神の使いだと信じられ、稲荷社Click!との関連でことさら大切にされていたので、人里近くに棲みついたキツネは、それほど人間を警戒しなかったものだろうか。
 「ホーシの玉」とあるのは、稲荷社ではキツネが口にくわえていたりする「宝珠玉」Click!のことだ。また、キツネの個体数が多かったからこそ、現代ではありえない人間がキツネに化けた詐欺Click!が通用する下地があったということなのだろう。
 また、落合第一小学校Click!の校庭に棲みついたキツネの目撃談も残っている。
  
 私の亡父が落一小の生徒であったとき(今から八十年位前のこと)、授業中に校庭の先にある竹ヤブを見ると、二匹の子狐が穴から出たり入ったりして遊んでいたので、放課後家からトンガラシを持って行き、他の穴を土で塞ぎ、トンガラシに火をつけ、その煙を団扇で穴の中にいぶし込んだところ、子狐が二匹獲れたそうである。
  
 1983年(昭和58)の時点で80年前だから、明治末ごろの落合小学校時代Click!(落合第一小学校はのちの呼称)の校庭で見られた光景のようだ。
タヌキ2.jpg
タヌキ3.jpg
 さて、タヌキはいまも昔も変わらずに棲んでいた。特に目立って多く棲息していたのは、上落合の南隣りにあたる小滝台(華洲園)Click!の丘だ。この丘は、その昔「センバ山」と呼ばれていたそうだが、それだけタヌキが多かったということだろう。
  
 『狸』は、小滝台(昔センバ山と呼んでいた)にたくさん棲んでいた。夕方になると子狸を連れて、山の下の農家のお勝手まで入って来て、餌を食っていたそうである。童歌に「センバ山には狸がおってサ」といいますが……このことではないでしょうか?
  
 ……と書かれているけれど、もちろん童謡のタヌキ山は肥後熊本の「仙波山」であって、小滝台のことではない。落合地域が農村だった当時から、タヌキは人間によく馴れていて、ちゃっかり台所でエサをもらっていたのがおかしい。
 ほかの動物についての記録はないのだが、あまりにも当たり前のように存在する動物たちは、『昔ばなし』でも逸話として採集の対象にはならなかったのだろう。いまでも、下落合全域で棲息している動物には、タヌキのほかに爬虫類のヘビやヤモリなどがいる。田圃の多かった昔は、もちろんマムシもいたのだろうが、わたしはまだ一度も見たことがない。わが家の周囲で頻繁に出没するのは、アオダイショウClick!にシマヘビの2種で、ずいぶん前だが、たった一度だけヤマカガシの子どもを見たことがある。
アオダイショウ.jpg
野良ネコ.jpg
 このところ、野良ネコの姿を下落合の街角で見かけることが、なぜか少なくなった。緑が濃い公園の近くでは、まだ数多くのネコたちを見かけるのだが、住宅街で出会う頻度が減っているような気がする。ヘビの天敵は野良ネコなのだけれど、その数が減ったぶん、今年はヘビたちがのんびりできた夏なのかもしれない。

◆写真上:人間に馴れていそうな、おとめ山公園の子ダヌキ。(撮影:武田英紀様)
◆写真中上:近衛町の屋根裏に出入りするつがいのハクビシン。(撮影:野口純様)
◆写真中下は、おとめ山公園の子ダヌキ。(撮影:武田英紀様) は、下落合東公園でちゃっかりキャットフードをいただくタヌキ。(撮影:西田真二様)
◆写真下は、いまだあちこちで見かける住宅街に多い代表的なヘビのアオダイショウ(幼体)。今年の夏も、わたしの部屋にある窓の面格子に悠然と巻きついていた。は、おとめ山公園にいるヘビの天敵の野良ネコ。

お岩さんの家は目白のどこだ?

$
0
0

四谷怪談豊国.jpg
 四世・鶴屋南北Click!(大南北)が、71歳のときに書き下ろした芝居『東海道四谷怪談Click!(あずまかいどう・よつやかいだん)』のヒロイン、お岩さんは目白のどこに住んでいたのかがきょうのテーマだ。江戸時代の目白のエリア概念Click!はもっと東側、現在の目白坂や椿山Click!のある一帯だから、厳密にいえばお岩さんは目白に住んでいたのではない。
 芝居に登場する民谷伊右衛門が提灯貼りの内職をしている長屋は雑司ヶ谷村であり、芝居の場面も「雑司ヶ谷四谷町之場」ということになっている。でも、舞台となっている「四ッ家(谷)」は、雑司ヶ谷村と下高田村、そして小石川村の境界に位置する微妙な街並みだ。特に、江戸期の『御府内場末往還其外沿革図書』では「高田四家町」と採取されているので、もともとは下高田村側から拡がっていった街道沿いの街だったのかもしれない。また、江戸期の崇敬を集めた鬼子母神がある関係で、北側から参道沿いに伸びてきた雑司ヶ谷町と交わるかたちで、雑司ヶ谷村側にも「四家町」と名づけられた街並みが形成されていると思われる。
 ここでややこしいのが、「村」の中に「町」があることだ。高田村の四ッ家町とか、雑司ヶ谷村の四ッ家町とかの表記は記述のミスではない。江戸期には、村落の中の繁華街にも町名(丁名)がついているので、現在の自治体概念からすると町村が“逆転”している。落合地域でいえば、長崎村側の椎名町あるいは下落合村側の椎名町という具合に、主要街道だった清戸道(現・目白通り)沿いでは、しばしば“逆転”現象が見られる。
 町名の由来となった「四ッ家」は、下高田村の四つ辻にあった4軒の大きな造り酒屋だと思われるので、厳密にいえば幕府が採取した『御府内場末往還其外沿革図書』にあるとおり、下高田村の“高田四ッ家町”というのが本来の表現なのだろう。大南北と同時代を生きた金子直德による、寛政年間に記録された『和佳場の小図絵』の現代語訳版、海老沢了之介による『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会/1958年)から、「四ッ家町」について引用してみよう。
  
 尾州公御門の所より北へ道があって四辻のあった所である。今の辻より東北の角が大澤三右衛門屋敷といい、草分け四軒の内の一軒である。いま一軒は東にあって蓮華寺領の地に住んでいた。それは大平七五郎、すなわち今は中町に住む豊島屋源右衛門跡の七五郎である。三軒目は新倉四郎右衛門であって川越道新倉から出ている。これは上町四郎右衛門の先祖であろう。四軒目は大たんご権兵衛といった者で、皆酒をつくり、或は売ったりしている。此処の字名を酒林と水張を載せているのはこのためである。/この四軒をのぞいた以外は皆とびとびの村家のみである。
  
 幕末から明治期にかけて、「四ッ家」由来の4軒の家がクルクル入れ替わったようだ。ときに、名主中心の4軒になったり、そのときの有力者がメインの4軒になったりと、さまざまな付会や尾ひれが語られていたらしく、四ッ家創成期に在住していた肝心の造り酒屋4軒、すなわち四つ辻の北角にあった大澤三右衛門(下高田村)、その東側の大平七五郎、川越の新倉村出身の新倉四郎衛門Click!(雑司ヶ谷村)、そして大たんご権兵衛の4人は、一時期どこかへ追いやられていた。
雑司ヶ谷鬼子母神.JPG
四谷怪談舞台(戦前).jpg
 ここに書きとめられたのは寛政年間の街並みであり、『四谷怪談』が書かれた数十年後に比べると、いまだ付近は寂しい村落の風情のままだ。化政年間から幕末にかけ、このあたりは鬼子母神への参詣客や大江戸郊外の大名・旗本寮(別荘)の形成、富士見や蛍狩り、月見などの観光客で賑わい、街道沿いには茶屋や料理屋、土産物屋などを表店(おもてだな)とする街並みが徐々に形成されていく。
 さて、『四谷怪談』に登場する仕官をめざして貧乏な暮らしをつづける民谷家は、どのあたりを想定していたのだろうか? 1977年(昭和52)に世界文化社から出版された『日本の古典』第18巻所収の、四世・鶴屋南北『東海道四谷怪談』二幕目からお岩さんの住まいの様子を引用してみよう。なお、同芝居の台本は山本二郎の現代語訳による。
  
 雑司ヶ谷四谷町の民谷伊右衛門の侘住居(わびずまい)では、女房のお岩が産後の肥立ちが悪く、床についていた。臨時に雇った下男の小仏小平が、民谷家家伝の薬を盗んで逃げたため、小平を世話した按摩宅悦が介抱にあたり、今も七輪で薬を煎じていた。/伊右衛門は賃仕事の傘を張っていた。眉の濃いきりりとした男前の顔にも、どこか暮しの疲れがにじんで見えた。蚊帳の中から赤児のしきりに泣く声が聞こえてくる。「エゝ、よく泣く餓鬼だ。このなけなしのそのなかで、餓鬼まで生むとは気が利かねえ。これだから素人を女房に持つと亭主の難儀だ」/と小言を言いながら仕事を続けるのだった。
  
 情景は、明らかに裏店(うらだな)の長屋の風情だが、この家で小平殺しやお岩さんの最期の修羅場があるので、長屋であれば近所じゅうに筒抜けになって、伊右衛門や宅悦の悪だくみはすぐに露見しただろう。だから、ここは街道筋から少し離れた、周囲には草原の多いあばら家ながらも、四ッ家町の1軒家でなければならない。ましてや、お岩さんと小平の死骸を戸板の裏表に釘で打ちつけ、それをエッチラオッチラと神田上水まで運ばなければならないので、なおさら長屋では都合が悪いのだ。
東駅四谷怪談.jpg
四谷怪談国周1.jpg 四谷怪談国周2.jpg
 もうひとつ、民谷家の隣家が伊藤喜兵衛宅、つまり喜兵衛の孫娘・お梅の婿に民谷伊右衛門を迎えて家督の安泰を謀ろうと、お岩さんへ「血の道」の妙薬と称して毒薬をとどけさせた謀略じじいの屋敷の課題もある。この謀略じじいの喜兵衛は、なにを血迷ったのか薬の礼をいいにきた伊右衛門に、その場で家族ともどもわざとらしい愁嘆場を演じて、妻帯の伊右衛門と孫娘・お梅との祝言を「コレ、女房じゃぞ」と決めてしまう。
 ここで重要なのは、謀略じじいの伊藤喜兵衛ではなく、あばら家と思われる民谷家の隣家が武家屋敷であるという事実だ。先の『御府内場末往還其外沿革図書』や、尾張屋清七版の江戸切絵図『雑司ヶ谷音羽絵図』を参照すると、街道の清戸道(現・目白通り)をはさんで南側の下高田村四ッ家町は、松平佐兵衛や阿部伊勢守、松平大炊守、大岡主膳正Click!とほぼ周囲を大旗本や大名の大きな下屋敷で囲まれている。ところが、街道の北側に位置する雑司ヶ谷村の四ッ家町は、周囲を畑地や鬼子母神の参道沿いに伸びる雑司ヶ谷町に接していて、武家屋敷がほとんど存在しない。
 唯一、雑司ヶ谷村(下雑司ヶ谷村とも)四ッ家町で例外的に武家屋敷に接しているのは、鬼子母神Click!の参道右手(東側)にある一画だけなのだ。武家屋敷は旗本の家だろうか、切絵図には「清水市三郎」の名前が収録されている。それほど大きくはないこの屋敷をはさみ、東西に雑司ヶ谷村の四ッ家町と思しき宅地があるのだが、四世・鶴屋南北はこのあたりを民谷家のある『四谷怪談』のモデルに選ばなかっただろうか。ただし、武家屋敷の東側の四ッ家町は、すぐに広めの道路に面していて賑やかそうなので、お岩さんが「恨めしいは伊右衛門殿、伊藤親子の者どもも、なに安穏におくべきか~!」などと叫べば、隣り近所が「なんでぇ、どうした?」と集まってきそうなので、ここは北側に畑地を背負った武家屋敷西側の、やや寂しげな四ッ家町でなければ具合が悪い。
 すなわち、民谷伊右衛門とお岩さんが暮らしていた家は、清水市三郎屋敷がある西側の雑司ヶ谷四ッ家町であり、鬼子母神の参道からかなり外側(東側)へ外れた、畑地に接する家もまばらなエリア、そして隣接する清水屋敷(芝居では伊藤喜兵衛屋敷)の練塀が庭先から見えるような位置に想定されていたと思われるのだ。現在の住所でいうと、豊島区雑司が谷2丁目15番地の北寄りに、鶴屋南北ないしはその若い弟子たちがロケハンをした家が建っていたのかもしれない。
四ッ家町切絵図1857.jpg
雑司ヶ谷四ッ家町界隈.jpg
 『東海道四谷怪談』の中で、四幕目の「深川三角屋敷之場」のみが四世・鶴屋南北の自筆で書かれているという。つまり、他の場面は立作者(台本部長)としての鶴屋南北が、弟子たちにプロットを説明して書かせた可能性が高い。だから同作の原本を読むと、各幕によって民谷伊右衛門のキャラクターが冷酷無比な大悪党になったり、小心でややユーモラスな小悪党になったりと、刻々と変化する性格がおかしい。芝居の舞台ではなく台本そのものを読む楽しみは、このあたりにあるのかもしれない。

◆写真上:蚊帳を質草にしようと奪う伊右衛門、豊国「元伊右衛門浪宅之場」。
◆写真中上は、雑司ヶ谷鬼子母神の参道。雑司ヶ谷四ッ家町の民谷宅は写真の背後、清戸道(現・目白通り)から参道へ向かう道の1本を少し入った東側に想定されていると思われる。は、昭和初期に上演された『東海道四谷怪談』の舞台。伊右衛門は十五代目・市村羽左衛門、宅悦は四代目・片岡市蔵、小佛小平は六代目・尾上梅幸。
◆写真中下は、『東駅四谷怪談』の挿画に描かれたお岩。は、国周が描く「砂村隠亡堀之場」の戸板返しに描かれたお岩と小平。
◆写真下は、1857年(安政4)の尾張屋清七版『雑司ヶ谷音羽絵図』にみる雑司ヶ谷四ッ家町界隈。は、民谷宅が設定されたあたりの現状。

“物証”としての曾宮一念の年賀状。

$
0
0

曾宮一念年賀状表.jpg
 1921年(大正10)1月1日の元旦、福島県白河町に住むパトロンのひとり、伊藤隆三郎Click!あてに出された年賀状がある。差出人は、この当時は下落合の借家Click!から淀橋町の柏木へと転居していた、アトリエを建設中の曾宮一念Click!だ。いつも拙記事を読んでくださる、お隣りの地域にお住いのものたがひさんClick!から、拙ブログの祝10周年記念としてお送りいただいたものだ。以下、裏面の曾宮一念が記載した全文を引用してみよう。
  
 恭賀新年
  (大正)十年元旦 東京淀橋柏木一二八 
               曾宮一念
  近々左ニ移ります.
      下落合六二三
  
 年賀状の消印は淀橋局で押されたもので、5銭ハガキに「10.1.1」のスタンプが明確に読み取れる。この年賀状は、洋画史において重要な“物証”的意味を持っている。
 ひとつは、曾宮一念のアトリエClick!が竣工したのは1921年(大正10)であり、引っ越し月である3月は同年のものであるということ。いまだに、佐伯祐三Click!のアトリエ竣工を1920年(大正9)とする資料には、曾宮一念のアトリエ竣工も1920年(大正9)としている一部の記述や年譜が残っているので、その規定が明確に誤りであることがこの年賀状で証明できることだ。また、曾宮一念と佐伯祐三が知り合ったのは1921年(大正10)の3月以降であり、1920年(大正9)に知り合ったという記述もまた誤りだ。
 曾宮一念は、目白通りの北側、下落合544番地の借家でドロボーに入られたあと、淀橋町の柏木128番地に短期間住んでいること。そして、この年賀状の日付けの4ヶ月ほど前、前年の1920年(大正9)9月9日に山手線内で偶然、中村彝Click!のアトリエへと向かう鶴田吾郎Click!エロシェンコClick!を見かけ、そのまま彝アトリエまで同行したのは、柏木128番地の借家から外出した直後の出来事だったこともわかる。曾宮は、そのまま彝アトリエでエロシェンコをモデルとする、中村彝『エロシェンコ氏の像』と曾宮一念『盲目のエロシェンコ』の制作を見学Click!している。
 このころの曾宮一念は、1918年(大正7)8月に秋好綾子と結婚したあと、同年11月に福島県石川町にある私立石川中学校へ美術講師として赴任。翌1919年(大正8)3月に綾子夫人が病気になったために退職し、夫人の実家である兵庫県西宮ですごしている。福島県白河町に住む伊藤隆三郎は、中村彝のパトロンのひとりでもあるため、曾宮が伊藤へ年賀状を出しているのは彝の仲介で、伊藤が同県の石川中学校講師の職を紹介したものだろう。福島県石川町の曾宮一念にあてた、1919年(大正8)3月3日付けの彝の手紙が残っている。1926年(大正15)に出版された、『芸術の無限観』(岩波書店)から引用してみよう。
  
 久しく便りがないのでどうして居るか知らんと時々心配になる。無論玄米と納豆の功徳で益、元気だらうとは思つて居るが、余り久しく便りがないから若しか綾子さんでも悪いのではないかと気になつて来る事がある。こちらは此頃恐しく春めいて来たが御地は如何。北国の春は殊に春生の感が鮮かだ相だから、或は今頃は大に野外写生に熱中して居るのではないかとも思ふ。
  
曾宮一念年賀状裏.jpg
 この文面を読むと、綾子夫人の病気は福島に赴任する前後から、彝の耳にも入っていたようだ。このあと、1920年(大正9)9月に曾宮は中村彝の奨めで兵庫県西宮から帰京し、先の下落合544番地の借家に住んでドロボーに入られたあと、淀橋町柏木128番地に転居して自身のアトリエを建設する決心をする……という経緯だ。
 淀橋町柏木128番地は、当時の住所表記で正確に表現するなら、「淀橋町(大字)柏木(字)成子町北側128番地」ということになる。同番地の借家は、中央線の大久保駅まで直線距離で300mほど、山手線の新宿駅までは600~700mほどの距離で、小島善太郎Click!が通っていた淀橋小学校Click!のすぐ北東側に当たる街角だ。曾宮一念は、この借家で長男・俊一Click!を妊娠中の綾子夫人とともに、下落合のアトリエが完成するのを楽しみにしていた。そのときの様子は、1921年(大正10)1月16日に彝から野田半三Click!に出された手紙にも記録されている。再び、同書から引用してみよう。
  
 中原君は去年の夏以来体が悪く、院の研究所へも通はず、この半年ばかり殆んど室に蟄居して身体のよくなるのを待つて居る始末で、曾宮君は今僕の近所へ画室を新築中で、近くに子供も生れるし、借金もあるし、かなりこれから苦しいだらうと思ふ。勉強だけは相変らず盛んにして居る。
  
 そして、1921年(大正10)3月21日に柏木の仮住まいで長男・俊一が生まれると、曾宮一念はおそらく3月末に下落合623番地の完成した自宅+アトリエへと引っ越している。
 さて、同年3月に曾宮アトリエが完成し、一家で引っ越してきてからしばらくすると、佐伯祐三と松葉杖をついた米子夫人Click!がそろって訪ねてくる。自身の自宅+アトリエを建設中だった佐伯は、アトリエのカラーリングの参考にと、竣工したばかりの曾宮アトリエの内部を見学したいと訪問したのだ。
 このとき、佐伯夫妻は下落合の仮住まいClick!から、下落合661番地に建設中の自宅+アトリエ建設工事の進捗を見にきていたかもしれず、その道すがら完成して人が住むようになった曾宮アトリエに立ち寄ったものだろう。そのときの様子を、1992年(平成4)に発行された「新宿歴史博物館紀要」創刊号に掲載の、曾宮自身への取材「曽宮一念氏インタビュー」(奥原哲志・編)から引用してみよう。
佐伯アトリエ内部1.JPG
佐伯アトリエ内部2.JPG
佐伯アトリエ内部3.JPG
  
 私の家がやっとのことでできた時、家ができて一週間もたった頃でしょうか、それは大正10年(1921)の夏か秋だったろうと思います。ひょっこり佐伯祐三がうちに来たんです、足の悪い松葉杖の奥さんを連れてね。それまで僕は会ったことがなかったけど、来まして。何しに来たかと思ったら、自分も今この先にアトリエを建てていると。だから私の家が建った時とほとんど同時ですね。「君んとこの窓の鎧戸だの、柱の塗り方の色がいいからこれを見に来たんだ」と。ちょうど私の家は、佐伯のうちから駅のほうへ歩いて行く途中にあったんです。で、それが目についたんでしょう。この時初めてうちに上がりまして、中を見たりなんかして、それで自分の家のペンキを塗ったそうです。それが佐伯とのつきあいの初めです。
  
 このインタビューが行なわれたとき曾宮一念は99歳であり、多少記憶の齟齬やズレがあったかもしれない。文中で佐伯夫妻が訪ねてきたのを、1921年(大正10)の「夏か秋だったろう」としているが、自身が若いころの別証言では、曾宮アトリエが竣工してまもなくのころ(4月ごろ)としている文章もある。
 しかし、曾宮アトリエの竣工が3月末であれば「一週間もたった頃」は4月であり、以前の証言のほうが正確な記憶にもとづくものだった可能性が高い。いずれにしても、佐伯夫妻は曾宮アトリエが完成した1921年(大正10)の4月以降、自宅+アトリエのカラーリングの参考にと、建設工事の途中で曾宮邸を訪ねているのは明らかだ。曾宮の「夏か秋だったろう」は、佐伯アトリエの竣工時期の記憶と重なったのではないか。
 この年賀ハガキの存在や曾宮家の記録、中村彝の手紙に残る文面などとともに、曾宮アトリエが竣工したのは1921年(大正10)の3月であり、それより遅れて竣工する佐伯アトリエも同年じゅうであることはまちがいないだろう。これにより、1980年代まで一般化していた米子夫人の年齢サバ読みClick!による佐伯祐三の年譜や、古い資料のアトリエの建設年にまつわる誤記載(1919年/1920年説)は、明確な誤りであることがハッキリしたのではないかと思う。
淀橋町柏木1918.jpg
下落合1921.jpg
 わたしは、佐伯アトリエの竣工は少なくとも1921年(大正10)の後半期(8月以降)ではないかと考えている。なぜなら、建設工事を請け負った大工の棟梁が佐伯家へ記念のカンナをプレゼントするのだけれど、それは夏の中元としてではなく、年末の歳暮として持参しているからにほかならない。

◆写真上:曾宮一念から、福島の伊藤隆三郎に出した1921年(大正10)の年賀状。
◆写真中上:同年賀状の裏面で、淀橋町柏木128番地の借家にいたことがわかる。
◆写真中下:佐伯アトリエの配色で、解体前の内部意匠。鶴田吾郎が描いた『初秋』Click!(1921年)にみえる、曾宮一念アトリエの内部とほぼ同じような配色で、佐伯アトリエの室内は当初からこのカラーリングだった可能性が高い。
◆写真下は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる淀橋町柏木128番地界隈。は、1921年(大正10)の同地形図にみる採取された曾宮一念アトリエと、いまだ採取されていない建築途上だったとみられる佐伯祐三アトリエ。同地形図は毎年夏ごろに修正・改訂発行されることが多いため、少なくとも1921年(大正10)の上半期の状況を示していると思われる。

下落合を描いた画家たち・濱田煕。

$
0
0

濱田煕「三角山から高田馬場駅」.jpg
 早稲田通りの木村屋パン店Click!に生まれ、油彩と水彩の双方を描いた東京美術学校出身の画家に濱田煕Click!がいる。こちらでも、高田馬場駅から小滝橋までつづく早稲田通り沿いの商店街のイラストで、何度かご紹介してきた。濱田は、1938年(大正13)現在の早稲田通り沿いのスケッチはもちろん、山手線の東西に拡がっていた戸山ヶ原Click!に入りこみ、1935~1938年(昭和10~13)現在の風景画を多数残している。
 冒頭の画面も、そんな作品の1枚だ。画面を斜めに横切っているのは、1938年(昭和13)現在の山手線の線路で、遠景に見えている丘は下落合の目白崖線だ。左上には、学習院昭和寮Click!の白いコンクリート建築が見え、その左手(西側)には御留山Click!(現・おとめ山公園Click!)をはさみ落合第四小学校Click!の校舎が見えている。手前に拡がっているのは戸塚町3丁目(現・高田馬場4丁目)の街並みで、手前の赤土がむき出しの敷地が陸軍施設が展開する戸山ヶ原の陸軍用地ということになる。
 濱田煕がイーゼルを立てている(と想定している)のは、射撃場の流弾防止用に築造された土塁、すなわち山手線沿いに並んでいた土塁の、いちばん北側にあった通称「三角山」Click!の北端山頂ということになる。三角山の山頂には、幅1mほどの“尾根道”が南北つづき、演習のない日は誰でも(特に子どもたちは)自由に入りこむことができたようだ。
 この作品は、1938年(昭和13)現在の風景ということだが、実際に濱田がこの画面を描いたのは1982年(昭和57)のことであり、当時の情景を思いだして描いたことになる。だから、学習院昭和寮のかたちがかなり曖昧(実際には4棟見えなければならない)だったり、落合第四小学校の位置が昭和寮にかなり近く、御留山との距離が狭すぎたりするのだろう。(建物を実際に見えるサイズより大きめに描きすぎているせいかもしれない) また、戸塚町3丁目の北端、田島橋Click!の南詰めには東京電燈目白変電所Click!がかなり突出して見えそうなのだが、手前にある戸塚3丁目の丘に遮られ、建物が隠れているのか描かれていない。
 ただし、濱田の記憶力は抜群で、それは早稲田通りの商店街を描いたイラストでも、その精緻さや正確さをうかがい知ることができる。以下、1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された濱田煕『記憶画・戸山ヶ原』より、冒頭の水彩作品に添えられた濱田のキャプションを引用してみよう。
  
 当時は高い建物など少ない。三角山の上に立つと優越感を感じる。線路の右はしが高田馬場駅になる。遠く目白の高台が望め、学習院宿舎の白亜の建物が際立って目立つ。ずっと左に目を移すと日当りの良い落合第四小学校、そして薬王院の屋根と続く。この高台の建物は落合四小以外ほとんど昔と変らなかったが、最近急に変りつつある。手前の台地には、端の方に車止めのあった記憶がするのだが、いまだにあいまいだ。
  
 同書が出版されたのは1988年(昭和63)と、バブル経済の真っ盛りだった時代だ。下落合でも、次々と“地上げ”による集合住宅の増加や、古い住宅の建て替えが連続していた時期にあたり、遠くから眺めていてもその変化をハッキリと感じ取れるほど、街並みが大きく変わっていくのが判然としていたのだろう。
三角山跡1.JPG
三角山1925.jpg
山手線&西武新宿線.JPG
 同じ三角山の山頂北端(を想定した視点)から、西を向いて描かれた情景と、南を向いて描かれた作品も残されている。これだけ風景を精密に記憶しているのは、当時、濱田がしじゅう三角山を遊び場にしていたせいだろう。わたし自身のことを考えてみると、大人になってからよりも子どものころの情景のほうが鮮明でハッキリと憶えており、いまでもその時代に見た情景をある程度正確に描くことができる。だが、学生時代の情景をできるだけ精密に描けといわれても曖昧模糊として、かえって正確には思いだせない。
 射撃場のいちばん北側にあった、三角山の山頂から西を向くと富士山がよく見えていた。天祖神社は、現在地へ移転する前の古い位置にあり、その手前には陸軍の兵士が塹壕戦Click!の演習を行なっていたものか、あちこち運河のように掘られた窪地が連続している、西側の戸山ヶ原が拡がっている。この画角からは、百人町に建設され年々その規模を拡大していった、陸軍科学研究所や陸軍技術本部の施設は見えない。
 濱田が立っている三角山の西麓、山手線に接した部分は線路に沿って排水溝がつづき、線路沿いの道路は存在していない。おそらく、当時は戸山ヶ原へ建築資材などを運ぶ引き込み線Click!の線路が、南へ向けて何本か敷設されていただろう。この西側の麓が大きく切り崩されたのが、戦後に行なわれた西武新宿線の新宿までの延長工事だ。
濱田煕「三角山から富士山」.jpg
濱田煕「三角山の頂上から新宿」.jpg
三角山跡2.JPG
 濱田の立つ三角山の北端から南側を向くと、“尾根道”の向こうに新宿駅周辺の大きなビルが3つ見えていた。いちばん左手(東側)に位置するのは伊勢丹デパート、真ん中が三越デパート、いちばん右端が1925年(大正14)に竣工したコンクリート建築の3代目・新宿駅舎だ。右手には、山手線に沿ったもうひとつの防弾土塁(三角山)が見え、左手には1928年(昭和3)に竣工した射撃場のコンクリートドームと、ドーム工事の際にかなりの手が入れられた南側の土塁(三角山)の残滓が見えている。この画面に添えられた濱田の文章を、前掲書から引用してみよう。
  
 三角山の頂上は、幅約1m弱で擦れ違うのがやっとという感じであった。高さは3~4階建ての団地ビル位はあったろう。チョッとした尾根歩きの雰囲気になれる。左手に射撃場の丸い屋根が大きな波のように連なって見える。今の早大理工学部の場所である。正面に保善商業、遠く新宿の伊勢丹その他のビル群が望める。海城中学、戸山小学校は右手の山の陰になる。
  
 このほかにも、濱田は戸山ヶ原の油彩・水彩の記憶画の作品群を数多く残している。それらは、主に濱田の実家があった山手線の西側、すなわち戸塚3丁目側が多いのだが、もともと陸軍用地内のため当時の写真もあまり残されてはおらず、いまとなってはすべてが貴重な記憶画といえるだろう。
 山手線をはさみ、戸山ヶ原の西側を数多く描いている濱田の作品には、もうひとつこのブログの課題のひとつを解決する糸口がありそうだ。それは、佐伯祐三Click!が高田馬場駅の近くに下宿していたとき、1920年(大正9)に制作された『戸山ヶ原風景』Click!の描画ポイントがどこなのか?……という、10年来の懸案テーマだ。
三角山跡3.JPG
三角山跡4.JPG
三角山1936.jpg
 その戸山ヶ原(西側)の情景には、佐伯と濱田との間に18年ほどの時間経過が存在しているのだが、周辺に展開する街並みの変化(市街地化)はあっても、戸山ヶ原の地形はそれほど大きく変わってはいないだろう。濱田の作品群を追いかけていると、いったいなにが見えてくるのか、これから少しずつ分析していきたいと思っている。

◆写真上:1938年(昭和13)現在の様子を1982年(昭和57)に描いた、濱田煕の記憶画「三角山から高田馬場駅の方を見る」。以下『記憶画・戸山ヶ原』(光芸出版)より。
◆写真中上は、現存する大久保3丁目の土塁(三角山)の残滓。山手線沿いに3本あった土塁のうち、大久保射撃場ドームの西側にあった土塁の一部が残されている。は、1925年(大正14)の1/10,000地形図にみる土塁(三角山)の様子。印は、現存している土塁の残滓位置。は、大久保側から線路沿いに高田馬場駅方面を眺めた現状。
◆写真中下は、1938年(昭和13)11月現在の風景を描いた濱田煕「三角山から富士山が見える」。は、同年現在の情景を描いた濱田煕「三角山の山頂から、新宿方面を望む」。は、戸山公園内から南側を眺めた土塁(三角山)残滓の現状。
◆写真下は、諏訪通りと山手線が交差するガードClick!の南東側にあった土塁(三角山)跡の現状。左手に見える、建設中の高層ビルのあたりが北側の土塁跡。は、大久保3丁目に残る土塁(三角山)の一部。は、濱田煕が描い記憶画の2年前(1936年)に撮影された空中写真にみる大久保射撃場界隈。


一網打尽になった「なりすまし彰義隊」。

$
0
0

早稲田通り月見岡八幡付近.JPG
 以前、落合地域や隣りの上高田地域で起きた、「彰義隊」の「残党」事件をご紹介Click!している。上野戦争を落ちのびた、「彰義隊」の「隊員」たちが大江戸の郊外まで逃げてきて、飲食代を踏み倒したり農民たちを脅したりした事件だ。以前の記事は上高田村側の資料に残った記録だが、この事件では上高田村と下落合村の農民たちが協力して、「残党」たちを“制圧”している。およそ、「彰義隊」らしからぬふるまいなのだが、落合地域では別の事件で犯人たちを追及し、町奉行所を巻きこみ身元の探索まで行って、ついに犯人たちの居どころや正体を突き止めている。
 上野戦争は、1868年(慶応4)5月15日にはじまった。この日、落合地域(上落合村/下落合村/葛ヶ谷村)では農作業を休み、どの家も雨戸をかたく閉じて村全体がひっそりとしていたらしい。朝から、アームストロング砲の砲声が響き、障子がピリピリと振動するほどだったと伝えられている。いまでも、大川(隅田川)で打ち上げられる花火の音Click!が、わたしの家の3階からもよく聞こえるが、大川よりも1.5kmほど落合地域に近い上野山Click!なら、砲声はさらに大きく聞こえてきただろう。上野山の戦闘はほぼ1日で終わり、彰義隊Click!は敗走した。
 さて、その日の夕暮れ、上落合村の街道(現・早稲田通り)に面した、笊屋(ざるや)の雨戸をたたく男の声が聞こえた。家人が用を訊ねると、そこで連れが用を足しているが尻を拭く紙がないので、少し分けてくれないかという頼みだった。笊屋は、雨戸を開けるのは物騒なので、“人見窓”から紙をひとつまみ差しだした。人見窓というのは、江戸期の商家が備えていた表戸に面した小さな覗き窓のことで、誰がきたのかを目で確認したあと、くぐり戸などの錠を開けて知人を招き入れる盗賊除けの防犯装置だ。
 雨戸をたたいた男は、人見窓から差し出された紙をすぐには受け取らず、もう少し前へ出してくれと頼んだ。そこで笊屋の家人は、腕を少し外へ出すといきなり腕をつかまれて引っぱられた。以下、1983年(昭和58)に発行された『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)から引用してみよう。
  
 (前略)いきなりその腕をムンズとつかみ「俺たちは彰義隊だ。雨戸を開けろ。開けなければこの腕を切り落すゾ……」と大きな声で怒鳴った。これを聞いた家人は、ビックリして雨戸を開けると、二人の侍がヅカヅカと入って来て、そのうちの一人がいきなり主の肩先を斬りつけた。主は肩に手をあててドーッと倒れた。家人はこれを見て「主人が斬られたのだから、もう何んにもいらないョ!」と言って銭を放り出したそうである。二人の侍はその銭を拾って立ち去った。しばらくして主人は息を吹き返した。刀のみね打ちであったと云う。
  
上落合村(幕末).jpg
上落合村(幕末)拡大.jpg
 この「彰義隊」を名のる2人組の「武家」強盗は、数日後に新井薬師の門前茶屋に現れ、主人を脅して無銭飲食をしようとしたふたりと、同一人物だった可能性がある。新井薬師の2人組が、江古田村方面へ逃走しようとしたのも、のちの町奉行所による「彰義隊」強盗団の下手人捕縛を考えると、そのような感触がより強くするのだ。もっとも、新井薬師で茶屋を脅して食い逃げしようとした2人組は、怒った村民たちに四村橋Click!あたりで打殺(ぶちころ)された。
 ここで余談だけれど、以前、子どもたちが学校の教科書で「江戸時代の打壊し」を「うちこわし」と習っていたようなので、「どこの言葉だい、なにいってんの?」と口をはさんだことがある。江戸東京地方の方言で、山手言葉なら「ぶちこわし」で(城)下町方言なら「ぶっこわし」と読まなければ、ここは地元なのだから笑われるぞと注意した。「何もかもうちこわし」じゃおかしいだろ?……というと、子どもは納得したようだ。打殺しも、「ぶちころし」ないしは「ぶっころし」であって、「うちころし」ではない。「地域教育」とはよくいわれる言葉だが、ちゃんとその地方・地域の言葉を尊重した教育をするのが第一歩ではないだろうか。
 もうひとつ、ついでに上記の文中で「刀のみね打ち」という言葉が出ているが、これは大正以降の時代劇用語だ。刀剣に、「みね」などという部位は存在しない。おそらく、「棟(むね)」を脚本家の誰かが「みね」と誤記したのが最初ではないかと思うのだが、強いていうなら「棟(むね)打ち」であって「みね打ち」ではない。もっとも、鍛錬に使われる硬軟多種多様な目白=鋼Click!の皮鉄や芯鉄、刃鉄、棟鉄などの性質や製法を熟知し、刀を大切にする武家であれば、平地(ひらぢ)側の柔軟な刃先(刃鉄)へ大きなダメージを与えかねない「棟打ち」など、まず行わないはずだ。
 さて、笊屋の事件が上落合村に知れわたると、当時の村内五人組の組合が共同で防衛隊を組織することになった。それから間もなく、落合富士Click!のある浅間社Click!近くの街道(現・早稲田通り)沿いに建っていた高山家に、やはり「彰義隊」を名のる5~6人組の「武家」が覆面姿で押し入った。だが、高山家では防衛の準備を進めていたので、家人や使用人たちが六尺(約182cm)の鳶口(とびぐち)Click!を手にして応戦し、同時に家人が提灯を振って近接していた宇田川家に応援を求めた。
上落合村1880.jpg
上落合村1880拡大.jpg
 以下、上落合郷土史研究会の『昔ばなし』からつづけて引用しよう。
  
 宇田川家ではソレッ!とばかり、家の子郎党がやはり六尺の鳶口を持って加勢に行った。上落合村連合軍は優勢となり、夜盗軍は裏の畑の方へととん走した。しかも一名の犠牲者を置きざりにして。その翌日の夕方検死があった。時代劇で見るように、短い羽織に十手を持った同心と下っ引きが来たそうである。私は母に、この同心が八丁堀から来たかどうかを聞くことを忘れてしまったので、今だに何所から来たのか不明である。/後日、この一団は、侍でも彰義隊員でもなく江古田の方のドラ息子達で、彼等は遊ぶ金欲しさに、彰義隊と名乗れば、百姓どもはビックリして金を出すと思ってやったものとわかった。又、死んだ男は質屋の息子であったという。
  
 江古田村の商家の「ドラ息子」たちが、武家のコスチュームで徒党を組み「彰義隊」の「残党」を装って、少し離れた村々で押しこみを働いていたようだ。おそらく、一網打尽になった彼らは、奉行所で余罪をきびしく追及されただろう。
 筆者は、やってきた同心が八丁堀Click!かどうかを気にしているが、東海道の品川宿や甲州街道の内藤新宿Click!が江戸府内へ組み入れられ、朱引き・墨引きが大きく拡大していた大江戸Click!時代には、奉行所同心の役宅が江戸前期の八丁堀だけとは限らない。おそらく、内藤新宿(現・四谷地域)の町場に近い御家人用の役宅から、上落合村まで出張ってきた役人だろう。
 下手人の「彰義隊」をかたる「残党」たちが、江古田村の商家の若者たちだったというと、中野区(いまは練馬区も入るのかな?)の江古田地域の方々は「ゲッ!」と思われるかもしれないが、なにもせずに暮らしてゆける不良がかった「ドラ息子」が出現するのは、しつけがより厳しいカネ持ちや裕福な商家がある地域特有の現象で、それは江古田村も下町も変わらない。それだけ、近隣の村々に比べ江古田村は特別な農作物の収入か、なんらかの事情で景気がよかったのだろう。
早稲田通り浅間塚付近.JPG
浅間社(落合富士).jpg
 だが、急展開する時代の変化を肌でひしひしと感じていた、“大人”たちの強い緊張感や危機感をまったく読めなかったところに、一連の「彰義隊」をかたる彼らの悲劇が生まれた。彼らは面白半分にやっていたのかもしれないが、「ドラ息子」たちの“悪ふざけ”がすぎて、ついには生命まで落とすことになったのだ。

◆写真上:月見岡八幡社へ向かう入口を、街道(現・早稲田通り)の南側から。
◆写真中上:幕末に作成された「上落合村絵図」()と、事件現場の周辺拡大()。
◆写真中下:事件から12年後の、1880年(明治13)に作成された1/20,000地形図()と、高山家や宇田川家があった事件現場周辺の拡大()。浅間社と落合富士は、昭和10年代に行われた改正道路(山手通り)工事で消滅した。
◆写真下は、浅間社跡に近い街道(現・早稲田通り)の現状。は、大正末から昭和初期ごろに撮影されたとみられる浅間社と落合富士(落合浅間塚古墳)。

江戸川乱歩の転居先を追いかける。

$
0
0

戸山ヶ原.JPG
 新宿区エリアに残る、江戸川乱歩Click!の足跡を調べていると目がまわってくる。大正期から1933年(昭和8)までの代表作は、ほとんどがこのエリアで書かれているせいか、居住地の周辺が作品の舞台に登場することもまれではない。以前、怪人二十面相の諏訪町にあったとみられるアジトClick!をご紹介したが、きょうは作者の乱歩自身が新宿エリアを転々としていた軌跡を追いかけてみたい。
 まず、夏目坂Click!沿いの牛込区喜久井町に家を借りたのは、いまだ早大の学生時代のことだ。1913年(大正2)3月から翌1914年(大正3)4月まで、江戸川乱歩こと平井太郎はこの家から早大へ通っている。ほんの5ヶ月ほど、小石川区西江戸川町(現・文京区水道1丁目)に家を借りたあと、1914年(大正3)8月ごろから同年暮れまで、戸塚町下戸塚308~621番地の早大運動場(のち早大野球場Click!)近くの家に住み、同年の暮れから翌1915年(大正4)2~3月ごろまで、再び喜久井町にもどって家族で家を借りた。
 同じく1915年(大正4)の2~3月から4月ぐらいまでの数ヶ月、神楽坂も近い赤城下町で暮らしたあと、平井家は丸ノ内の三菱ビル地下室で半年ほど暮らしている。同年10月ごろから翌1916年(大正5)1月にかけ、牛込区新小川町に短期間住んでいるが所在地がハッキリしない。1916年(大正5)1月から、おそらく近所の家を借りて同年7月まで新小川町3丁目19番地に住んでいる。この地番は、神田川の大曲を早稲田方面へ少しすぎたところにある、現在のNPO自立生活サポートセンターのあたりだ。
 同年の夏から1921年(大正10)にかけ、乱歩は大阪、東京、朝鮮、鳥羽(三重県)などを転々とするが、1921年(大正10)5月には牛込区早稲田鶴巻町38番地にもどってきている。現在の鶴巻南公園の北側にある、マンション「サンフラワー早稲田」のあるあたりで、ここに翌1922年(大正11)2月まで住んでいる。このあと、神田錦町や大阪を再び転々としたあと、1926年(大正15)1月から翌1927年(昭和2)3月まで、牛込区筑土八幡町32番地に転居してきた。現在の牛込消防署の北側にある、崖地の絶壁上に建っていた家だ。そして、同年3月から翌1928年(昭和3)3月にかけ、戸塚町下戸塚62番地の「筑陽館」に住んでいる。早大正門のすぐ近くで、現在の川田米店があるあたりの地番だ。
緑館ポスター.jpg 江戸川乱歩1957.jpg
平井太郎表札.JPG
 つづいて1928年(昭和3)3月にほんの一時期、戸塚町の諏訪115番地、すなわち早稲田通りから少し南へと入った路地の突き当り、現在の名画座・早稲田松竹の南西側に住んでいたが、同年4月には戸塚町源兵衛179番地の「緑館」、すなわちこちらでも何度かご紹介している小字バッケ下Click!の地名が昭和初期まで残っていたエリアへ、企業の合宿所を丸ごと買い取って引っ越した。早稲田通りから北へ少し入った源兵衛179番地(現・西早稲田3丁目)は、ちょうど源兵衛郵便局の真北に隣接する区画で、乱歩はそこに1933年(昭和8)まで「緑館」と名づけた下宿屋を経営しながら住むことになる。もっとも、「緑館」は1931年(昭和6)に、下宿屋を廃業してしまうが……。下落合の氷川明神社前から移転した、現在の蕎麦・浅野屋Click!があるあたりだ。
 このあと、芝区車町から麻布区のホテル住まいを経て、翌1934年(昭和9)7月に豊島区池袋3丁目1626番地(現・西池袋3丁目)の自宅(現・立教大学旧江戸川乱歩邸)を取得し、1965年(昭和40)に死去するまでそこに住んでいる。こうして見てくると、新宿区エリアに限った引っ越しだけで11ヶ所、その生涯には40ヶ所ほどの転居を繰り返している。1934年(昭和9)に、池袋3丁目の自宅を取得したのがちょうど乱歩40歳なので、平均すると生まれてから40歳まで1年に1回は引っ越しをしていた勘定になる。
 さて、新宿エリアの転居先をみると、住所が北側に偏っているのがわかる。すなわち、戸塚町や牛込区北部の住居がほとんどで、同エリアの南側には住んでいない。これは、通っていた学校が早稲田大学だったせいもあり、その周辺に学生時代から馴染みが深かったからなのだろう。中でも、牛込区喜久井町や戸塚町諏訪は、陸軍の戸山ヶ原(旧・尾張徳川家下屋敷)に隣接しており、乱歩の作品にはしばしば登場する物語の舞台だ。以前、記事でご紹介した怪人二十面相のアジトも諏訪界隈だったらしく、大久保射撃場が望見できるエリアだった。
江戸川乱歩1939.jpg
 また、1926年(大正15)1月から11月まで雑誌「苦楽」(プラトン社)に連載された『闇に蠢く』にも、洋画家・野崎三郎のアトリエが戸山ヶ原Click!に建っていたことになっている。1969年(昭和44)に講談社から出版された『江戸川乱歩全集』第1巻(屋根裏の散歩者)所収の、『闇に蠢く』から引用してみよう。
  
 お蝶がはじめて三郎のアトリエに現れてから、数週間は夢の間に過ぎて行った。彼女ははじめのあいだは、本所の方にあるという彼女の家庭から、戸山ヶ原の三郎のアトリエまで、毎日通勤していたけれど、いつのまにか、家へ帰ることをよして、三郎の家に寝泊りするようになっていた。「うちで心配しやしないか」と聞くと「構わないわ」彼女は投げ出すように答えるのが常であった。
  
 戸山ヶ原Click!は、ほぼ全域が陸軍の敷地なので、その中にアトリエを建てて住むことなどできないはずだが、大正期から昭和初期にかけ戸山ヶ原は射撃訓練Click!がない限り、比較的自由に近隣の人々が散策を楽しみ、近所の子どもたちは格好の遊び場にしていた。付近に住む画家たちは、スケッチブックを片手に戸山ヶ原へ入りこみ、映画制作会社による撮影ロケが行われ、夏目漱石Click!をはじめ付近に住む作家たちの散歩コースになっていた。だから、「戸山ヶ原に家がある」といっても、それほど不自然さを感じなかった時代なのだろう。
 『春に蠢く』に登場する野崎三郎のアトリエは、おそらく戸山ヶ原に面した戸塚町諏訪か西原(現・高田馬場1丁目~西早稲田2丁目)、あるいは山手線の線路をまたぎ、西側の着弾地Click!に隣接する戸塚町上戸塚(現・高田馬場4丁目)あたりを想定していると思われる。ちなみに、佐伯祐三Click!戸山ヶ原Click!に接したエリアに家を借りて、1920年(大正9)初夏ごろ一時的にそこへ住んでいる。ものたがひさんClick!の考察によれば、山手線西側の着弾地に隣接した上戸塚の南側(現・高田馬場4丁目)あたりだったようだ。
早稲田松竹裏.jpg 浅野屋.jpg
横尾忠則「闇に蠢く」1969.jpg
 佐伯祐三は、変人だったが変態ではなかった。「食人鬼(カニバリスト)」になり果てる洋画家・野崎三郎はまちがいなく変態なのだが、彼に限らず江戸川乱歩の作品に登場する人物の多くは、なんらかの異常性向を備えているかパラノイア的な傾向が強い。陸軍の乾いた射撃訓練の音を聞きながら、陰鬱な表情を浮かべつつ、ときに淫靡な笑いで口もとをゆがめる「緑館」の主人が書いていたのは『陰獣』をはじめ、『芋虫』、『押絵と旅する男』、『蟲』、『蜘蛛男』、『吸血鬼』、『盲獣』などだった。

◆写真上:夏草が繁った戸山ヶ原で、旧・細菌研究室/防疫研究室Click!の敷地跡。
◆写真中上上左は、戸塚町源兵衛179番地で乱歩が経営していた「緑館」のポスター。上右は、1957年(昭和32)5月に撮影された池袋3丁目1626番地(現・西池袋3)の自宅書斎で執筆中の江戸川乱歩。は、池袋の江戸川乱歩(平井太郎)邸に残る表札。
◆写真中下:1939年(昭和14)に、池袋3丁目の自宅土蔵で撮影された江戸川乱歩。背後には、乱歩が好きだった村山槐多の『二少年図』が見えている。
◆写真下上左は、戸塚町諏訪115番地の旧居跡で現在の早稲田松竹裏あたり。上右は、戸塚町源兵衛179番地の「緑館」が建っていたあたりの現状。手前に見えている蕎麦屋が、下落合の氷川明神社前から移転した浅野屋。は、1969年(昭和44)の『江戸川乱歩全集』第1巻(講談社)に掲載された挿画で横尾忠則『闇に蠢く』。

九条武子と柳原白蓮の「あけがらす」。

$
0
0

あけがらす.jpg
 先日、西武デパートで開催されていた「生誕130年・柳原白蓮の生涯展」を見に出かけたのだが、その展示物のひとつを見て思わずのけぞってしまった。展示の中に、柳原燁子(白蓮)Click!九条武子Click!がお揃いであつらえた、紋入りの黒羽織が架けられていた。それだけなら、「揃い羽織だなんて、ふたりは相変わらず仲がいいんだな」……で通りすぎたのだが、その裏地の柄と羽織の名称を見てビックリしてしまった。
 羽織の裏には、朱色も毒々しい山の朝焼けが描かれ、2羽のカラスがカーカーと飛んでいる絵柄であり、羽織名もその絵のとおり「あけがらす」となっている。館内は撮影禁止で、また同展の図録にも収録されていない展示品だったので、思い出しながら描いたのが冒頭の拙画だ。ウロ憶えなので、実物の羽織とはかなり異なっているかもしれないが、いちおうお読みいただく方にイメージが伝わるよう、拙くて恥ずかしいが描いてみたしだい。
 柳原白蓮は夫への“三行半”を新聞紙上で発表し、九条武子は下落合の丘上でネコを手に“道路工事”をするなど、大正期を象徴するようなこのふたりの女性は、もともとどこか「とんでいる」とは思っていたが、実は、ものすごく「ぶっとんでいた」のではないだろうか?
 江戸東京地方で「あけがらす」といえば、いま流行りの「江戸東京本」や落語をかじったことのある方なら、説明はまったく不要だろう。江戸の新吉原Click!を舞台にした、「黒門町の師匠」こと8代目・桂文楽が得意とした古典落語の噺だ。堅物の若旦那が世間知らずだと困るので、大店の主人がふたりの遊び人に頼んで、若旦那を吉原へ連れていってもらう。遊郭の2階に連れこまれ、なんとか逃げ出そうとジタバタする若旦那だが、ふたりの遊び人に脅されて、きれいな花魁とひと晩すごすハメになってしまう。
 ふたりの遊び人はといえば、遊女たちにあっさりフラれて不首尾のまま手持無沙汰で朝を迎えるのだが、若旦那は花魁の部屋からなかなか出てこない。若旦那があまりにウブなので、気に入った花魁がなかなか離さない。若旦那のほうも、初めての経験に恍惚となって帰ろうとしない。遊び人たちは呆れてふてくされ、最後のオチはともかく、ふたりそろって寂しく明け方に開いたばかりの大門をくぐって帰路につく……というようなシチュエーションだ。つまり、女たちにフラれて、すごすごと吉原から朝イチに引き上げるみじめな男たちのことを、象徴的に「あけがらす」と呼んでいる。
白蓮展2015.jpg みどり丸.jpg
 さて、この噺を柳原白蓮か九条武子のどちらか、あるいは両人が知っていて、お揃いの羽織をこしらえたとするなら、羽織の裏に縫いこまれた2羽のカラスは、不首尾ですごすごと寂しく帰っていく、くだんの遊び人の男ふたり連れということになる。あるいは、落語よりも古い江戸新内Click!で有名になり、清元Click!でも取り入れられた『明烏夢泡雪』を下地とする心中物語とするなら、縫いこまれたカラス2羽は男女の道ゆきとなるのだが、どうもこちらはふたりの揃い羽織に似つかわしくない。
 この羽織がお揃いで縫われたのは、九条武子と白蓮が知り合った1921年(大正10)6月から、九条武子が急死する1928年(昭和3)2月までの間、6年4ヶ月にわたる間のどこかだ。このふたりが、江戸の古典落語や新内・清元に通じていたとはとても思えないが、宮崎龍介Click!のもとに走った白蓮は、なぜか吉原と急接近をすることになる。吉原の遊女たちの間には、歌人としての白蓮ファンが大勢いたのだ。
 まず、1926年(大正15)に吉原の花魁・森光子が駆けこんで助けを求めたのを皮切りに、白蓮のもとには吉原を脱出した何人かの娼妓たちが逃げてきて、宮崎家はまるで遊女たちの“駆け込み寺”のようになった。頼られた宮崎家では彼女たちを食客として保護し、宮崎龍介が関係していた労働総同盟の仲立ちで、彼女たちが遊女を「自由廃業」する手助けをしている。おそらく、白蓮が「あけがらす」の噺を吉原遊女の口からエピソードとして聞いたのは、この時期ではないだろうか。
 大正末の当時、九条武子は下落合753番地Click!に住んでいて、白蓮のいる宮崎家は高田町上屋敷3621番地Click!(現・西池袋2丁目)にあった。双方の家は、直線距離で800mほどしか離れておらず、ふたりはよく目白駅界隈で落ち合っては、当時開店していたパーラーでお茶を飲んでいたらしい。なにかとウワサのこのふたりが、喫茶店でおしゃべりをしていたら、周囲の客たちはシーンとなって耳をそばだてていたのではないかと思うのだが、地元の伝承によればふたりは喫茶店でよくおしゃべりを楽しんでいたようなのだ。
宮崎白蓮.jpg 九条武子.jpg
 そんなある日、宮崎白蓮が「ねえ武子さん、“あけがらす”ってご存じ?」と、逃げこんできた花魁から聞いたエピソードを話しはじめたかもしれない。「まあ、お茶のお道具かなにかかしら?」と九条武子は思いつくまま答えたのかもしれない。「そうじゃなくてね……」と、白蓮は落語「あけがらす」のあらすじを語って聞かせた。「まあ、遊女にフラれて寂しく帰る、殿方のふたり連れですって?」と、九条武子はティーカップを置くと「すみません、お代わりをくださいな」とウェイターに手をあげ、「お姉さま、そのお話、もう少し詳しくお聞きかせいただけませんこと」と身を乗りだした。
 しばらく、ふたりでヒソヒソ話していたかと思うと……、
 「ねえ、お姉さま、お揃いの羽織をあつらえませんこと?」
 「あのね、いま、わたくし昔とちがって手許不如意なの」
 「ううん、わたくしに任せて。三越呉服店にいい知り合いがいるのよ」
 「……でも」
 「羽織裏は、もちろん真赤な朝焼けに“あけがらす”がいいわ」
 「2羽そろって、飛んでゆくの?」
 「そうなの、寂しくて真っ黒なカラスなのだわ。来週あたり、ご都合どう?」
 「じゃあ、わたくしも久しぶりに、日本橋までご一緒するわ」
 「羽織の裏に凝るなんて、江戸東京らしくていいことよ。一度やってみたかったの」
 「武子さん、カラスはすごく寂しそうじゃなければダメよ」
 「はい、もちろん心得ております、お姉さま」
 「ホホホ。すごく真っ黒で、ちょっとおまぬけなカラスが、カーカー2羽よ」
 「黒いモーニングと石炭で、カーカー。……オ~ホホホホホホ」
 ……と、このふたりが口に手をあてて笑ったりしたら、店内の客はみんなふり向いたかもしれない。そして、ふたりとも上機嫌で喫茶店をあとにした。
 この想定が大筋でまちがっていなければ、羽織裏に飛んでいるちょっととぼけた“あけがらす”は、ふたりにフラれた(見放された)“遊び人”の男たち、男爵・九条良致と炭鉱王・伊藤伝右衛門にほかならない。
宮崎白蓮邸跡.jpg 九条武子邸跡.jpg
 白蓮が花魁の話を聞いて、自由に生きられなかったこれまでの自分も、吉原の遊女たちとさほど変わらないと感じていたとすれば、その話を聞いた九条武子もまた、思いあたるフシが多々あっただろう。“籠の鳥”をなんとか脱した当時の彼女たちは、遊女に拒否された遊び人ふたりが、すごすごと寂しく大門をくぐる「あけがらす」Click!の小噺に、どこか小気味よい共感をおぼえたかもしれない。目白駅界隈でときどきお茶してたこのふたり、いったいなにをたくらんで、楽しんでいたものだろうか?w

◆写真上:「生誕130年・柳原白蓮の生涯展」に展示されていた、羽織「あけがらす」を思い出して描いたイメージ拙画。現物とは、かなり異なるかもしれない。
◆写真中上は、同展のパンフレット。は、白蓮がかわいがっていた京人形「みどり丸」。かなり大きな人形で、かわいいというよりも存在感がかなり不気味だ。
◆写真中下:下落合と上屋敷の近所で、仲がよかった宮崎白蓮()と九条武子()。
◆写真下は、下落合の九条邸から歩いて10分ほどの高田町上屋敷3621番地の宮崎白蓮邸跡。は、秋草がしげる下落合753番地の九条武子邸跡。

ブログの丸11年がすぎて想うこと。

$
0
0

下落合2015.jpg
下落合1941.jpg
 この24日で、このブログをスタートしてから丸11年がすぎ12年めに入った。根は飽きっぽい性格なのに、われながらよくつづくものだ。最初は、単なる落合地域とその周辺に拡がる地域の人物や、付随する物語・逸話などをご紹介していただけだが、不明なテーマやわかりにくいエピソード、既定の概念では説明のつかない事象について多種多様な資料をそろえ、さまざまな事実や記録を積み上げたうえで、多角的に検証・推理していくのが面白く感じだしたからだろうか。
 ある人物に焦点を絞って調べていると、その人物に「入りこむ」というような感覚を味わえることも面白い。このような性格の人物だったら、どのような感覚で周囲のものごとを認識し、どのように考え、またどのように表現あるいは行動していくのかを想定するのは楽しいことだ。その人物の思考や性格、表現、言動を追いかけていると、ある一定の指向やパターンが浮かび上がることがある。
 それは、記録された資料や証言によって裏づけがどうしても取れないことでも、非常にリアルな仮定や想像を働かせることができ、また同時に、その人物が暮らしたり歩いたりした“現場”、すなわち周囲の環境や風景を、当時の社会的な状況も重ねてトレースし、できるだけリアルにたどることにより、期せずして見えてくることもある。
 その想像する過程で、もうひとつ面白いのが各時代の環境や風景を、あたかもレイヤ構造のように、視覚的に把握して重ねあわせる作業だ。たとえば、ある人物が1924年(大正13)にこの道を歩いたとき、あるいはこの坂の上に立ったとき、道路は拡幅され整備されていたのか、下水の側溝は敷設されていたのか、森は伐採されずにそのまま残っていたのか、あの特徴的な屋敷は2年後に建設されるはずだから目にしてはいない、川は北へ大きく蛇行していたはずで、橋の位置も現在とは10mほど異なっていたはずだ、ニセアカシアの街路樹はまだ植えられていない、ここの墓地を近くの寺へ改葬している最中だった、数軒先でハイカーのタバコの不始末で火災が起きている、電燈・電力線の電柱の手前に電話ケーブルを架設した白木の電信柱が設置されたはずだ……etc.、当時の空中写真や地図なども参照しながら、多種多様な事象を組み合わせていくと、その当時の街の姿や風情が最初はボンヤリと、やがて少しずつ確実に浮かび上がってくる。
下落合東部2015.jpg
下落合東部19450517.jpg
 各年ごとに輪切りにしたような、そんな時代層の上に、とある人物を立たせて想像することは、まるで自身がタイムマシンに乗って、その時代の街中へ降り立ったような興味とスリルを味あわせてくれる。各時代ごとに(といっても近代が圧倒的なリアルさで浮かぶのだが)、この街の風景や様子がところどころ灰色に霞んで途切れながらも、かなり具体的に見えてきているので、どの時代のどの年代に、どこで暮らしていた人物にスポットを当てるかで、自身がタイムスリップして降り立つレイヤを選ぶことができるのだ。
 そのテーマによっては、楽しいこともあればイヤなこと、気味(きび)の悪いこと、気持ちの悪いこと、腹立たしいこと、不思議なことなどもあるのだが、それがおしなべて表現することへの“楽しさ”へとつながっているのだろう。そうとでも解釈しなければ、11年もつづいている理由が説明できない。
 わたしは昔から、なにか課題を与えられて学習すること、つまり学校の決まりきった勉強が苦手だったが、自分でなにかテーマを見つけては主体的に調べ、それをなんらかのかたちに仕上げ、表現していく作業は大好きだった。だから、学校の成績は夏休みの自由研究で稼いでいたようなものだし、大学の講義も教養課程の前半は退屈きわまりなかったが、卒論(ゼミ論)へ向けた調べものや執筆はとても楽しかった。こういう人間は、自分の興味を惹くもの以外にはやる気が起きず、たいがいいい加減で成績は芳しくないものだ。
 図書館や資料室に閉じこもり、机上でなにか参照しては“受け売り”で書くことが、非常に危険でマズイこと、大きな錯誤を生むもとだと教えてくれたのは、大学のわたしの担当教授だった。必ずその“現場”に立つこと、そして周辺を丹念に取材・調査すること、つまりフィールドワークの重要性を教えられたわけだが、その方法論はわたしの性格へ抵抗なく、すんなりとフィットしていったようだ。
学習院昭和寮2015.jpg
学習院昭和寮1933.jpg
 教授の口ぐせは、おそらく寺山修司Click!の『書を捨てよ町へ出よう』をもじったものなのだろう、「書を捨てよ現場を歩け」だった。フィールドワークで眺めた風景や調査・検証した内容を、既存の論文や資料へフィードバックして重ねあわせたとき、その間で大きな齟齬や乖離を生じるようであれば、そこにこそ大きなテーマや新たな課題が横たわっている……という意味なのだろう。
 この11年の間に、わたしの頭の中には落合地域をめぐる各時代の“ストリートビュー”が、まだかなり不完全なかたちながら、できあがりつつあるようだ。その視覚的な街並みは、各時代の空中写真や地図、さらには風景画や写真を眺めつづけてきた、ひとつの“妄想”であり“成果”なのかもしれない。とある歴史上の人物をドラッグ&ドロップして、ある年代のレイヤに拡がる落合地域の街角へポツンと降り立たせると、その周囲の風景がまるで大正時代の電燈のように、徐々にハッキリと明るく見えてくる。
 そのとき、近隣にはどのような家々が展開し、またどのような事件が記録され、どのような人々が暮らしていたのかが、ようやく透けて見えるようになってきた。各年代ごとに重なるレイヤは、少しずつキメが細かくなり、さらに水平方向へワイドに拡げていきたいのは山々なのだが、わたしのよくない頭ではキャパシティに限界がある。どこかに、多種多様な資料やデータを集積していくと、「それはまちがいなくあの人だよ」とか「それだったらあそこの家が怪しい」とかw、「類似の現象がここにもあるよ」とか「これは論理的に不可能でダメじゃん(爆!)」とか、ディープラーニングの優れたアナリティクス・エンジンはないものだろうか?
早稲田2015.jpg
早稲田1945.jpg
 AI(各種機械学習)の仕組みが、ようやく大規模なHPCクラスタシステムを前提とする高価なクラウド・レベルではなく、効率的なアルゴリズムやメモリ処理さえうまく設計・活用すれば、手もとの汎用サーバや安価なストレージ上でもできるような時代になりつつある。もし煩雑なチューニングを必要としない、そんなアプライアンスベースのデータアナリティクスがPCサーバ上で手軽に実現できるようになれば、記事を書くスピードや調べもののリードタイムも格段に短縮されるだろう。いや、そんなアナリティクス・エンジンがひとつあれば、もうこんな拙ないサイトはまったく不要になって、ただ問い合わせ用の入力フォームだけを画面に表示しておけば、それで事足りるのかもしれないのだが……。

◆写真上:落合地域西部の現在()と、開戦直前の1941年(昭和16)に斜めフカンから陸軍が撮影した同所()。現在の空中写真は、いずれもGoogle Earthより。
◆写真中上:下落合東部の現在()と、1945年(昭和20)5月17日に撮影された第1次山手空襲後の同所()。東を向いて撮影しており、下落合の近衛町など東端が下に写り、中央を横切っているのは山手線で奥を横切るのは明治通り。また、右手には旧・神田上水の流れ、左手には目白通りが見え、中央の濃い緑は学習院のキャンパス。
◆写真中下:学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)の現在()と、1933年(昭和8)に学習院が低空飛行で撮影した竣工5年後の同寮()。
◆写真下:下戸塚地域(早稲田鶴巻町/早稲田南町/喜久井町など)の現在()と、1945年(昭和20)夏のB29が低空飛行する同地域()。左上に見えているのが早稲田大学で、中央を早稲田通りが横切り、右手には外苑東通りが南北に走る。中央に焼け残っている逆「コの字」型の校舎は、震災後に建て直された耐火建築の早稲田小学校。

戸山ヶ原の小島善太郎『晩秋』。

$
0
0

小島善太郎「晩秋」1915.jpg
 小島善太郎Click!が描いた初期作品のひとつに、1915年(大正4)制作の『晩秋』がある。戸塚町(現・高田馬場)をはさみ下落合の南東側に拡がる、冬が近い戸山ヶ原Click!の風景を描いたものだが、画家自身がそのときの制作状況を著作へ記録しているのがめずらしい作品だ。しかも、制作されたのが大正の初期であり、のちに続々と建設される陸軍の膨大な施設や建物があまり見られない、明治期の姿をとどめた当時の貴重な記録画ともいえるだろう。(冒頭写真)
 さて、『晩秋』の制作状況を1968年(昭和43)に雪華社から出版された、小島善太郎『若き日の自画像』から引用してみよう。文中に登場する、戸山ヶ原で落ち合った「彼」とは、太平洋画研究所で知り合った「武藤」という友人のことだ。ふたりはよく連れだって、研究所からの帰りに付近の風景を写生してまわった。
  
 研究所の帰途、彼と風景写生の約束をして戸山ヶ原に落ち合った。彼は学資の関係だと云って、水彩画の道具を携げて来ていたが、やがて丘を降りて行った。僕は射的場を東にした高所から、戸塚の森と丘とを背景にして描き出した。/時は晩秋にかかり、曇天に朦靄(もや)が立ち籠め、一望を紫色に包んでいた。丘から見下ろした原の道を画面半分に近景として斜めに入れ、中景に楢の木が二本、道の終りに立って、遠景に戸塚の高台の丘が檜の大きい森で山形に入り、その彼方に目白の丘が煙って空と接している。
  
 この文章を読み、わたしは当初、小島善太郎は山手線のすぐ東側にある大久保射撃場Click!に築かれていた、3本のいずれかの防弾土塁(三角山)Click!の上にイーゼルを据え、東を向いて描いてるのだと想定していた。だが、明治期から大正期の地図を順次確認しているうちに、すぐにそうではないことに気づいた。大久保射撃場Click!の東側前方を、画面のように斜めに横切る道など存在しないからだ。では、この射撃場(小島は「射的場」と表記)とはどこのことなのだろうか?
 大久保射撃場のすぐ東隣りに、明治期から陸軍戸山学校の練兵場が設置されていた。その敷地の南側一帯に、戸山学校の射撃場が建設されている。この射撃場は、昭和初期にはすでに廃止されているので、おそらく関東大震災Click!の直後より、戸山学校の周辺へ市街地から押し寄せてきた家屋が急増するにつれ、住宅地に隣接して危険なので廃止されたとみられる。以降、戸山学校では大久保射撃場で訓練を行っていたのだろう。
 この戸山学校射撃場の東側には、確かに風景を斜めに横切る道が存在している。小島善太郎は、研究所の帰り道に早稲田通りの穴八幡Click!あたりから戸山ヶ原へ入り、のちに近衛騎兵連隊の兵舎(現・学習院女子大学Click!)が建てられるあたりから南に折れ、大久保射撃場と戸山学校の間を通る道路を南に歩いて、道の左手(東側)に築かれていた2本の防弾土塁(三角山)のうち、北側の土塁に上りイーゼルを据えていると思われる。この散策コースは、まさに夏目漱石Click!が西大久保へと抜ける、戸山ヶ原の散歩Click!の道筋のひとつと重なっている。
小島善太郎(書生時代).jpg 若き日の自画像2011武蔵野書房.jpg
若き日の自画像ノート.jpg
 その土塁上の位置から、画家の望遠気味の眼差しで風景を切りとると、手前を斜めに道路が横切り正面には戸塚の森、すなわちのちに軍医学校Click!早稲田高等学院Click!(現・早大文学部)などが建てられる丘が北へ大きく張り出し、丘の斜面から向こうには、はるか遠くに目白崖線が望めるという構図を得ることができる。画角は、それほど広くはない。
 ちなみに、小島が「目白の丘」と呼んでいるのは、「目白駅がある丘」という意味ではなく、本来の地名位置であり画面の遠景として描かれた丘陵、すなわち目白坂の途中にいまだ新長谷寺(目白不動堂Click!)が存在していたため、そう呼称している可能性が高いだろう。すなわち、遠景に描かれている目白崖線は、胸突坂(胸衝坂)Click!から山形有朋別荘(現・椿山荘Click!)あたりの丘であり、「目白の丘」は当時の小石川区関口台町、現在の住所でいうと文京区目白台1~2丁目のあたりの崖線のことを指している。目白不動が1,000mほど西へ、すなわち現在の金乗院の位置へ移動したのは戦後のことだ。
 少し余談になるけれど、先日、知人より関口台町(現・目白台)の北西側にある「神田久保」(もともとはカンナクホClick!と呼ばれていた“たなら相通”Click!地名だと思われる)界隈から、金糞(金液)が出土するタタラ遺跡Click!が見つかっているという情報をご教示いただいた。つまり、旧・平川(ピラ川=崖川)Click!の斜面では、段々畑のようなカンナ流し(神奈流/神田流)とともに行われていたのだろう、タタラの遺跡のある場所に建立されていたのが目白(=鋼の古語)Click!の不動堂であるというのは、おそらく偶然ではありえない。このタタラ遺跡については、「目白」地名の本質を探る決定的なテーマでもあるので、詳細が判明したら改めて書いてみたい。
戸山学校練兵場1910.jpg
晩秋描画ポイント1910.jpg
 さて、小島善太郎の『若き日の自画像』からつづけて引用してみよう。
  
 射的場の射つ弾丸の音がドォン、ヒュッと断続して聞こえて来る。丘の彼方の檪株(ママ:林)の中で教練をしている兵隊の声が怒鳴る。女学生らしい女の声も交って空に反響(こだま)する。/何時か背後には描写を見んと人がたかってきた。一人になったと思うと四、五人になる。粗末な服の兵隊もいる。/「オイ、行こう――」/そうした声もする。僕は夢中で描き続けていった。枯葉を載せた二本の楢の木が絨毯の様な赤や黄、緑を交えた色を湛えて、その上に高台の畠が覗き、畠には漬け菜が黄色に見え、丘が山高に右から左に下りて来る。丘の頂に檜の森が藍色の屏風のように立っている。目白の丘が遙かに水色に煙って、薄曇りの晩秋の空に明暗を与える。(中略)/此の日も武藤が描き終えたと見え、画の中の一本道のうねった坂下から、画と携帯箱を持って登って来た。やがて僕の傍に来ると、道具を草原に置き、枯草の上に腰を下ろすと膝を立て、腕を組んで僕の描写を見ていた。
  
 画家の仕事を、通りがかりの人たちが背後から見物するのは、下落合でも戸山ヶ原でも変わらないようだ。射撃場の土塁の上だから危険だと思うのだが、近くの道路を通行する散歩人や女学生、兵隊たちがわざわざ丘を上ってきて、うしろから画面をのぞきこんでいったらしい。
 それにしても、銃声がして弾丸が空をきってかすめる音がしているにもかかわらず、小島善太郎は気にせずに描きつづけている。兵隊たちも、背後からキャンバスをしばらくのぞきこんでゆくなど、明治が終わったころはいまだにおおらかな時代だった。文章から、友人の武藤は小島が描く道路の坂下、つまり画面の左枠外(北側)のどこかで写生していたものと思われる
戸山ヶ原1981.jpg
箱根山近況.JPG
 現在、この風景を眺めようとしても不可能だ。戸山学校の土塁は、現在の明治通り沿いにあったのだけれど、とうに崩され整地されて通り沿いのマンション群となっており、描画ポイントには立てない。眺望もなかなかきかなくなっているのだが、わずかに大正初期の面影を残しているのは、戸山公園内に残る箱根山Click!とその周辺の風情だろうか。

◆写真上:1915年(大正4)に、戸山ヶ原で制作された小島善太郎『晩秋』。
◆写真中上上左は、柏木の蜀江山にあった中村覚邸で書生をしていたころの小島善太郎。上右は、絶版になった雪華社Click!に代わって武蔵野書房より再出版された小島善太郎『若き日の自画像』。は、『若き日の自画像』の創作ノートだが書籍の出版時のボリュームは3分の1まで圧縮されている。
◆写真中下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる2本の土塁が築かれた戸山学校練兵場。は、『晩秋』の描画ポイントと画角の想定。
◆写真下は、1981年(昭和56)に撮影された戸山ヶ原跡。手前のビルは国立国際医療センター病院で、点線は『晩秋』の描画方向。は、もともとは尾張徳川家下屋敷Click!の庭園の一部だった戸山公園内に残る箱根山の現状。

Viewing all 1249 articles
Browse latest View live