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戸山ヶ原で生まれた「陸軍中野学校」。

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兵務局分室1.JPG
 多くの書籍や資料では、1936年(昭和11)の秋ごろに陸軍省兵務局(局長は阿南惟幾)によって設立された謀略・防諜機関、「陸軍中野学校」の準備組織(兵務局分室)が「牛込若松町」にあったとされているが、当時の町名でも現代の町名でも場所ちがいの誤りだ。正確には、陸軍施設が林立していた山手線内側(東側)に拡がる戸山ヶ原Click!のほぼ真ん中あたり、陸軍戸山学校Click!軍医学校Click!の北側に位置する戸山町番外地(現・戸山3丁目)に、同年の秋から翌1937年(昭和12)の春にかけて建設されている。
 兵務局分室のある敷地の西側には、近衛騎兵連隊の広い馬場や、広大な射撃場Click!が拡がり、その谷間を縫うように小流れの金川(カニ川)Click!が流れていた。北西側には、少し高い位置に近衛騎兵第1連隊のレンガ造りの兵舎Click!(現・学習院女子大学)があり、北東側には防疫給水部(のち防疫・細菌研究室=石井部隊)、東側には化学兵器研究室と標本図書館、南東側には陸軍軍医学校の本部と校舎群、陸軍東京第一衛戍病院Click!(現・国立国際医療センター)、南側には箱根山Click!と陸軍戸山学校や軍楽隊の舎屋が建っており、兵務局分室はその真ん中に位置する目立たない低地に建設されていた。
 2003年(平成15)に新潮社から出版された畠山清行『秘録 陸軍中野学校』(保坂正康・編)から、中野学校の前身となる兵務局分室が設立された様子を引用してみよう。
  
 そして十一年の秋から、牛込若松町(ママ)の陸軍軍医学校と騎兵第一連隊の境界の谷のように低い、めだたない場所に、木造二階建て二百坪の庁舎建設がはじまったのだ。(この機関員だった藤井義雄氏=当時准尉。本人の希望によりとくに仮名=によれば『陸軍省付となったのが十一年八月一日付』とあるから、その夏から設計準備がはじまって、秋から建築に着手したものと思える) これの完成が翌十二年春。『兵務局分室』の看板をあげた庁舎こそ、日本にはじめて生まれた科学外諜防衛機関であったが、これと前後して同じ場所に、もう一つできたものがある。/陸軍省医務局長・小泉親彦中将(後の厚生大臣、終戦時自決)の提案で、『細菌戦研究部隊』が設けられたのだ。
  
 兵務局分室が竣工した1937年(昭和12)春になると、陸軍省兵務局では正式に防衛課が発足し、防諜や謀略を専門に扱う組織体制が整うことになる。同時に、陸軍省官制が改正され、初めて「防諜」という言葉が正式に官制内へ登場している。また、陸軍中野学校の前身とともに、そのすぐ北東側に隣接した敷地には防疫給水部・細菌戦研究部隊(いわゆる石井部隊=731部隊)が設立されているのが興味深い。
 兵務局分室へ勤務する機関員たちは、この谷間にあった建物には直接出入りをせず、必ず軍医学校の南にあった正門を通過し、正面の学校本部の中を通り抜け、軍医学校の患者か同校の通勤者のように見せかけている。軍医学校本部の2階渡り廊下をくぐり抜けると、本部西翼棟(本部講堂・手術演習室・射撃試験研究室・庶務室・経理室などが入っていた)に沿い北側の森へと出て、金川(カニ川)の小流れがある西へと下るダラダラ坂を左折する。(この道は舗装されて現存している) 坂の右手には、防疫給水部(防疫研究室)のコンクリート2階建ての目立たない低い建物が見え、左手には軍医学校の玉砂利Click!が詰まったコンクリート擁壁がつづいているが、坂の正面突き当たりには木造2階建てで、竣工したばかりの兵務局分室の庁舎が見えてくる。
兵務局分室2.JPG
秋草俊.jpg 陸軍中野学校跡碑.jpg
 兵務局分室の西側に隣接して、軍医学校の講堂が建設されていたが、それが近衛騎兵連隊の馬場側から兵務局分室の建物をよけいに目立たなくさせていた。当時、軍医学校の勤務者でさえ、新たに建設された兵務局分室の建物を、伝染病患者の隔離施設として記憶している人が多いようだ。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 患者の出入りのはげしい軍医学校の門から出入りするのだから、患者と機関員を区別することはむずかしく、完全に世間の目をのがれる工作は成功したのである。機関員には、陸軍省から秋草俊、福本亀治の両少佐(ここでの在任中に中佐となる)、参謀本部から上田、宇都宮の両少佐、憲兵隊からも、若干の将校と竹内長蔵、藤井義雄(仮名)両准尉をはじめ、よりぬきのベテランが配属された。
  
 防諜活動を開始した兵務局分室では、防諜要員(スパイ)の養成機関を創設する計画を立て、1937年(昭和12)の暮れに「情報勤務要員養成所設立準備事務所」が設置され、メンバーには上記の両少佐に加え軍務局から中佐・岩畔豪雄が赴任し、「後方勤務要員養成所」が設立された。これが、のちに中野駅の北側(中野囲町)に移転して「陸軍中野学校」と呼ばれるようになる、防諜・謀略要員の秘密養成機関が生まれた当初の姿だ。
 ちなみに、福本亀治少佐は兵務局分室へ配属になる前は東京憲兵隊特高課長であり、1936年(昭和11)の二二六事件Click!では関係者の取り調べに当たっている。したがって、警視庁の特高課(部)Click!とも濃いつながりがあったとみられ、軍民にわたる思想犯の取り締りには警視庁と連携する機会も多かっただろう。
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兵務局分室3.JPG
戸山ヶ原1940.jpg
 さて、「後方勤務要員養成所」の諜報員養成には、どのような人物像が望まれたのだろうか? ひと口にいうと、軍人らしい人物はすべて不合格でハネられている。「軍人勅諭や典範令で、しゃにむに軍人精神をたたきこまれた、士官学校出身の将校に、この複雑多岐な諜報勤務は勤まるはずはない」(同書)とまでいわれ、一見軍人とは対極にあるような人物が入学を許されたようだ。以下、同書からつづけて引用してみよう
  
 (後方勤務要員養成所の)試験には、工兵がきていなかっただけで、ほかの兵科からは全部きていた。われわれの騎兵学校出身者から五人推薦されて、うち三人は慶應ボーイ、もう一人は東大出だったが、この東大出の男は、すでに妻帯していたので試験ではねられた。
  
 兵務局分室では、志願者の家族関係から思想傾向、性格、趣味嗜好まで憲兵隊をつかって調べあげ、書類審査で適・不適を選抜していた。上記の帝大卒業生がハネられたように、両親の存在はともかく妻や恋人がいたり交友関係が広い人物は、書類審査の段階で除外されている。できるだけ目立たず、周囲に係累も少ない“孤独”な人間が、1938年(昭和13)1月に九段下の皆行社で実施された選抜の本試験を受けることができた。
 後方勤務要員養成所の詳細については、数多く出ている「陸軍中野学校」関連の本を参照していただきたいが、当初は九段下の愛国婦人会に隣接する粗末な木造2階建ての校舎だった。軍服や短髪は禁止で全員平服であり、「天皇」と聞いて直立不動の姿勢をとろうものなら、「バカ者ッ(中略) 第一番に天皇もわれわれと同じ人間だということを知っておけ!」(同書)と怒鳴られるような教育で、天皇批判さえ許されていた。
 第1期生20名のうち、ひとりは病気のために途中で脱落し、もうひとりはスパイ活動に嫌気がさして退学したため、卒業時には18名となっていた。いまだ軍人臭が濃かった第1期生に比べ、1939年(昭和14)に合格した第2期生は、大学や専門学校の文科系や理工系、医科系の卒業者などから幅広く採用され、より「一般人」化が進んだようだ。
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 さて、ほぼ同時期ごろ、戸山ヶ原の兵務局分室から北東へ直線距離でわずか600m弱、牛込区馬場下町35番地に日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を出た人物が歯科医院を開業していた。警視庁の特高課に勤務する父親のいるその男は、石井伯亭の愛弟子を名乗り日本水彩画会の会員でもある洋画家だった。下落合をも舞台にした帝銀事件Click!で、同事件の「犯人」として平沢貞通が逮捕される2ヶ月ほど前、この歯科医の画家は帝銀事件の重要参考人として東京検察局に逮捕された。だが、“ある筋”からの圧力で歯科医はほどなく釈放されるのだが、それはまた、ある本が出版されてからの、別の物語……。

◆写真上:兵務局分室跡の西側に残る、近衛騎兵連隊馬場との間を仕切る土塁。
◆写真中上は、兵務局分室跡の現状。下左は、後方勤務要員養成所の初代所長・秋草俊中佐。下右は、陸軍中野学校跡地(中野区中野4丁目)に残る記念碑。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる軍医学校正門から兵務局分室(未建設)へのコース。は、軍医学校から兵務局分室へと向かう左側にある軍医学校のコンクリート擁壁。は、1940年(昭和15)の1/10,000地形図にみる兵務局分室。すでに戦時体制のせいか、建物の位置も形状も正確に描かれていない。
◆写真下は、1944年(昭和19)の空中写真にみる兵務局分室と思われる建物。中上は、石井部隊(731部隊)の防疫給水部(防疫研究室)ビルが建っていた跡の現状。中下は、1944年(昭和19)の空中写真にみる中野囲町の陸軍中野学校(現・警察病院あたり)。は、戦後に南側から撮影された中野学校で正面が本部校舎。


古いアルバムを眺めていると。

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神田祭1929_1.jpg
 昔のアルバムを眺めていると、どうしても気になる写真がある。うちに伝わるアルバムは、たった1冊しか現存していない。明治期から大正期の写真を収めたアルバムは、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!で焼失し、それから新たに撮られた写真を収録した戦前のアルバムは、1945年(大正20)3月10日の東京大空襲Click!で焼失している。唯一助かったのは、親父が学生時代に下宿していた諏訪町Click!へ大空襲の直前に持ち出した、自身の子ども時代が多く写るアルバムClick!1冊だけだ。
 親父のアルバムをめくっていると、神田明神Click!の祭礼がらみの写真が数多く目につく。中でも、神田祭へ参加したときの稚児姿(冒頭写真)や、日本橋の町内神輿が繰り出すときに撮影した祭りの写真など、旧・神田区とならび旧・日本橋区内の町々に神田明神が浸透していた様子がうかがえる。いずれも、日本橋人形町Click!あるいは東日本橋(西両国Click!)の写真館で撮影したもので、1929年(昭和4)9月のタイムスタンプが入っている。現在、神田祭は5月に行われているけれど、もちろん当時は9月の中旬だった。
 いつだったか、神田のご出身である斎藤昭様Click!にお話をうかがったとき、戦前はなにかというと日本橋側と尾張町(銀座)側は、京橋から八重洲あたりを境に「競い合い」ときに「ニラミ合っていた」という逸話をうかがったが、これはもちろん神田明神(おもに江戸市街東側の町々)と山王権現(おもに江戸市街西側の町々)の氏子町あるいは氏子連中(れんじゅ)のちがいによる、見えない“境界線”が存在したからだ。
 八重洲界隈が、ちょうどそれぞれ膨大な氏子町や氏子連の境目(フロント)にあたる。といっても、そこは祭り好きな土地柄だから、日本橋側でも徳川家の産土神である山王権現の祭礼に参加する町内はあったし、その逆もまたしかりなのだが、おおよその地域分けをすると神田・日本橋から東側は神田明神の氏子、京橋・尾張町(銀座)から西側は山王権現の氏子となって、大江戸Click!に繰り広げられた天下祭りClick!の覇を競っていた。だけど、そうやってときに競い合い、ときには手をつないでこの400年以上にわたり、両地域は大きく発展してきたのだろう。
親父アルバム.jpg 神田祭1929_2.jpg
神田祭1929_3.jpg 軍服姿人形町.jpg
 戦前には、祭りの時期が近づくと祭礼装束を着て写真館で記念撮影をし、それぞれの氏子町内の神輿を繰り出しては神田明神あるいは山王権現の祭礼へ参加していた。もっとも江戸期とは異なり、明治末ごろから東京市電の電線が道路の上空をふさぐようになると、二大天下祭りの見どころである豪勢な山車の練り歩きは見られなくなり、徐々に神輿が主体の祭礼へと転換していくことになるのだが……。東日本橋からは、神田川をさかのぼって神輿舟Click!が神田明神をめざす。でも、戦後に都電やトロリーバスが廃止され、電線や通信線が共同溝に収容されて電柱が少なくなった現在、少なくとも神田明神では再び山車=練り物行列の気運が高まりつつある。
 1929年(昭和4)の稚児写真を見ると、色彩は不明ながらいまよりもデザインが少しおとなしめだろうか。現在は、圧倒的に氏子町や氏子連の女子が多い神田明神祭の華やかな稚児姿だが、戦前は男の子の参加もふつうに多かったにちがいない。確かに、女の子のほうが着栄えがするし華やかでカワイイのだが、江戸東京総鎮守の天下祭りが、文字どおり「女子天下祭り」になってしまわないことを祈るばかりだ。w まあ、それも江戸東京地方らしく、平和で美しくていいのだけれど。
 さて、わたしの連れ合いの家には関東大震災にも遭わず、山手の住宅で空襲被害にも遭わずに焼け残ったアルバムが伝えられている。もっとも古い写真は、あちこちの街角に写真館Click!が開業しはじめたころ、日露戦争のさなかに撮影された1905年(明治38)のタイムスタンプが押されているものだ。そのアルバムをめくっていると、ひときわ目を惹く女性がいる。彼女はわたしの連れ合いの祖母であり、旧姓・宮武シカノの娘にあたる女性だ。宮武シカノの名前は、以前こちらのサイトでも何度か登場Click!している。
三井アルバム.jpg 三井テル1.jpg
三井テル2.jpg
 宮武外骨Click!の愛妹であるシカノは、結婚をすると男女ふたりの子どもを産んでいる。そのひとりが、シカノによく似ているといわれている、わたしの目を惹いた女性、すなわち義祖母の三井テルということになる。アルバムに残っているのは結婚後の丸髷姿で、いずれも写真館で撮影されたものが多いが、おそらく30歳前後のころだろう。テルは子どもを病気で亡くしたあと、弟・三井新の娘を養女に迎えているが、それが連れ合いの母親、つまりわたしの義母ということになる。1941年(昭和16)の春、東京帝大の法学部地下に開設されていた明治新聞雑誌文庫Click!に宮武外骨を訪ねたのは、このテルと義母のふたり連れClick!だった。
 明治期の多彩なメディア資料を、日本全国にわたり東奔西走して蒐集・研究し資料棚に収めていた宮武外骨が、多忙なさなかにわざわざ時間をつくって、姪のテルとその娘を喜んで迎えた理由が、写真を見てなんとなくわかったような気がした。テルは、とても明治女性とは思えないアカ抜けた容姿や上背をしており、まるで現代女性のようなバタ臭い雰囲気さえ漂わせている。きっと外骨は、テルとその娘に会うのを楽しみにしていたにちがいない。だが、テルは外骨が死去したわずか5年後の1960年(昭和35)に逝き、1918年(大正7)生まれの義母もこの11月に97歳で鬼籍に入った。
 連れ合いの家に伝わるアルバムから、シカノの愛娘である三井テルの写真を高精細スキャニングさせてもらい、大きなサイズに伸ばして、わたしの部屋へポスター代わりに貼ってみた。きっと、連れ合いの親戚からはヘンな目で見られているにちがいない。w
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 髪を下ろしてロングヘア―にし、現代風のややきつめなアイラインのメイクをしてコスチュームを変えれば、おきゃんで気の強そうな、どことなく黒木メイサ風になるんじゃないだろうか?……そんなことを考えつつ、義祖母の写真をニヤニヤしながら眺めている。こういうのを、「親バカ」ならぬ「孫バカ」……とでもいうのだろうか。

◆写真上:1929年(昭和4)9月に両国の写真館で撮られた、神田祭の稚児姿をした親父。
◆写真中上上左は、戦災をかろうじてまぬがれ唯一残る戦前のアルバム。上右は、上記と同日に撮影された神田祭の稚児姿。下左は、同じく1929年(昭和4)9月の神田祭時のもの。下右は、人形町の写真館で撮影された1930年(昭和5)ごろの親父。
◆写真中下上左は、1905年(明治38)の写真からスタートする連れ合いの家の古いアルバム。絞り染めを使い、ていねいに函押しまでした写真帖は手作りだ。上右は、1907年(明治40)2月に撮影された三井テル。は、1913年(大正2)に撮影された同女。
◆写真下:1914年(大正3)1月に撮影された、少し近視になったころの義祖母。

薬王院の森への仮埋葬は喜久井町の遺体?

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喜久井町防空壕慰霊碑.JPG
 敗戦間近の出来事だが、薬王院の森Click!を伐採したあとの空き地へ、空襲の犠牲者を仮埋葬Click!している記事を以前に書いている。当時、その様子を目撃されていたのは、勤労動員で国立の中島飛行機武蔵製作所Click!(1945年より第一軍需工廠)に徴用されていた、落合の緑と自然を守る会代表の堀尾慶治様Click!だ。このときの情景が、1945年(昭和20)5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!のあとである可能性が高いことが判明した。
 その様子を、堀尾様からお送りいただいた原稿から引用してみよう。
  
 (前略)昨日落四小の同級生のT君と昔話をしていて薬王院の森の話になった時、現在の薬王院の新墓地は私たち小学生の頃、野鳥の森公園の坂を降りる社宅のある所から本堂裏まで深い森でした。戦況が厳しくなってきた時森の木は全部伐採されました。旧墓地と新墓地の境のコンクリート塀は当時のままで、その塀の現在の新墓地際、塀に沿って戦災犠牲者(無縁者?)が仮埋葬されました。その数30名?(のちに『東京都戦災史』により20名と判明)判然とした数は判りませんが、160~170cm×10m?程の横長の穴を掘り、そこに頭の方に番号札を付けた識別の竹、国民服、モンペ、防空頭巾姿、煤けた状態でしたが、恐らく防空壕に閉じ込められ一酸化炭素中毒で亡くなられたのでしょう、河岸のマグロの様に、並べて埋葬されました。私が下落合駅周辺で見た黒焦げ状態とは違いました。(カッコ内引用者註)
  
 この目撃談を、同じ下落合にお住まいで落合第四小学校Click!の同級生だった「T君」に話されたところ、彼の早稲田にいる友人が5月25日の空襲直後に、防空壕で亡くなった大勢の人たちの遺体を、勤労動員で搬出する作業にかり出されたことが判明した。
 その遺体の一部が、下落合の薬王院墓地(旧墓地)の北側、空き地となっていた森跡に運ばれ、埋葬されたのではないかというのが堀尾様の想定だ。引きつづき、堀尾様の原稿を引用してみよう。
  
 話で避難者は800名以上(ママ)となると地域の共同壕で陸軍関連の施設として造られた物? なのでしょうか。場所は馬場下、喜久井町の辺りの崖部分? その地域の古老にでも聞いて確かめてみたいと思います。その多くの方が閉じ込められた壕は入り口近くの方は黒焦げ状態、奥の方の人は綺麗だったそうです。その亡くなった方々が陸軍のトラック(当時軍関係以外の車両は無かった)に積まれ、早稲田通りを高田馬場方面へ走り去ったという話です。当時は燃料不足、その上それだけの数の犠牲者の処置は大変困難な状況です。それで遺体の処理はこの方面の各寺に分散、埋葬処理されたと考えられ、それが薬王院にも分担させられたのでしょう。また周辺の各寺院にもそういう事実があったか確かめたい思いです。(カッコ内引用者註)
  
 この原稿をお送りいただいたとき、わたしは喜久井町7番地の旧・早大理工学研究所(現・理工学総合研究センター事務所)にあった、大型防空壕における悲劇をすぐに思いだした。ここには、早大職員や学生、近所の住民たちがまとめて避難できるよう、崖地に300人以上を収容できる大規模な防空壕が造られていた。ちょうど、現在の東西線・早稲田駅のすぐ前、安倍能成Click!による夏目漱石誕生之碑Click!がある裏側の丘だ。
旧早大理工学研究所跡1.JPG 旧早大理工学研究所跡2.JPG
旧早大理工学研究所跡3.JPG
 5月25日夜半に行われた空襲で、防空壕の周囲の住宅街は大火災にみまわれ、中に退避していた人たちの多くは酸欠による窒息死ではなかったかと思われる。遺体の数が300体を超えていたので、周囲の寺々に分散されて運ばれたが、とても街中の小寺で処理できる遺体数ではなかった。その空襲直後の惨状は、地元の下戸塚研究会がまとめ1976年(昭和51)に出版された、『我が町の詩・下戸塚』の中にも記録されている。同書の中の、森矢達人という方の書いた「空襲」から引用してみよう。
  
 空襲が終って翌朝、戸塚町近辺は一、二丁目の一部を残して、新宿、牛込方面と周囲は見渡すかぎり焼野原です。町を歩いてみると、高田南町のお寺の焼あとの境内には逃げおくれたか、焼け死んだ人々の遺体が何十体と地面に並べて置いてあります。焼けこげてぼろぼろの木片の様な人間の形をなさないひどい人々から、列ごとに少ししか焼けていない人まで順に並べてあります。喜久井町のお寺の境内にも同じ様に焼死者が並べてあります。グランド坂下から江戸川橋にかけての大通りを歩いてゆくとまだ、そちらこちらに死んでたおれたままの人がいます。都電の焼けただれた残骸の下には手の指の骨だけ白く見えるので人間と分る真黒な焼死体が見えます。同じ通りの関口町あたりだったでしょうか。地面に赤子がたおれ、二、三歩さきに母親らしき女性が半ばうつぶせにたおれ、そのそばに五、六歳の子供がたおれて皆死んでいます。煙に巻かれただけなのか、髪の毛一本焼けておらず、まるでロウ人形のような静かな姿でした。
  
 ここに記述されている証言の中で、喜久井町にある寺(正法寺だと思われる)の境内や、喜久井町の東側に隣接した高田南町の焼けた寺(宗参寺だと思われる)の境内に並べられている数多くの遺体が、喜久井町7番地の丘にあった大型防空壕の300人を超える犠牲者の一部だった可能性が高い。
 防空壕があった旧・早大理工学研究所の跡地には、1955年(昭和30)に早稲田大学や被災者の遺族、そして近隣住民によって建立された慰霊の記念観音像(彫刻家・永野隆業)がある。いまでも毎日、水や食べ物、線香などが供えられつづけているようだ。おそらく、大型の防空壕は現在のテニスコートになっている、丘上の敷地の真下あたりにあったのだろう。堀部安兵衛が立ち寄ったという伝説が残る、小倉屋酒店Click!の裏手あたり、夏目漱石が生まれた実家の屋敷があったエリアだ。
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 もうひとつ、江戸川(現・神田川)Click!沿いの江戸川公園では、やはり同日の空襲で200名を超える人たちが一度に亡くなっている。こちらのケースも、おそらく戸山ヶ原Click!からやってきたのだろう、陸軍のトラックが動員されて、防空壕から次々と搬出される遺体をどこかへ運び去っている。江戸川公園の事例も、焼夷弾が椿山の森林に落ちて大火災を起こし、防空壕へ避難した200名を超える人たちの呼吸を、酸欠により一瞬のうちに奪ったのではなかろうか。同書から、江戸川公園の惨状を引用してみよう。
  
 眼が痛い、空の青さに涙した。水道で目を洗ったが仲々とれない。昨夜から一緒の友に下瞼を返して貰ったら、マッチ棒位の太さの真黒な木片が一センチ位の長さでへばりついていた。すっきりした眼で見上げる雲一つない日本晴! しかし、早稲田大学の緑の見事な欅の姿はなく、江戸川公園を覆った樹々の緑も枯木同然の丸裸、その前の電車通りでは、その公園の横穴防空壕に逃げこんだ何百人もの遺体が焼け、トタン板に寝かされて並んだ。死臭が鼻をつく、正に無感覚でなくてはトラックの積込み作業はやり切れない。心は重く、神経は乾いた。
  
 大規模な火災が起きると、焼け死ぬよりも前に空気中の酸素が急速に奪われ、窒息死してしまうケースを親たちから数多く聞いている。それは、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!でも見られたし、またそれより前の1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!でも、語り伝えられている怖い現象だ。別に、焔炎に直接さらされなくても、あるいは大火から逃れて広場や川辺に避難しても、迫る大火流によって起きる烈風とともに酸素が急速に奪われていく。「焼死」とされた遺体が、実は窒息死だったケースは決して少なくないにちがいない。
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 少し前に、関東大震災のとき本所の被服廠跡地Click!へ避難して、九死に一生をえた人物の証言について記事Click!に書いたが、避難した約34,700人の人々のうち生き残れたのはわずか200人前後だった。明らかに焼け焦げている焼死体以外に、一見、寝ているように見える遺体も数多くあったというが、それらは火炎による焼死ではなく、大火流で一瞬のうちに酸素が奪われたことによる、窒息死だった可能性が高い。

◆写真上:早大理工学総合研究センター事務所の敷地にある、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で犠牲になった防空壕の300名余を記念する慰霊碑。
◆写真中上:早大理工学研究所跡(現・早大理工学総合研究センター事務所)の現状で、の写真左手の崖地に大型の防空壕が設置されていたと思われる。
◆写真中下下左は、丘上から早稲田通りへと下りる坂道。下右は、早大敷地に隣接する正法寺墓地。同寺の東側に、高田南町の宗参寺の境内がある。
◆写真下は、1945年(昭和20)5月17日に米軍偵察機が撮影した空襲8日前の喜久井町界隈。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる喜久井町7番地の早大理工学研究所(焼け跡)。は、犠牲者が並べて仮埋葬された薬王院の旧墓地北辺のコンクリート塀。

落合村の帝国在郷軍人会分会1913年。

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 きょうは、長いわりに面白くない話なので、時間のない方はどんどん読み飛ばしていただきたい。わたしも、“地域の記録”としてのみ記述しているにすぎず、この記事が存在しないと今後の記事展開における説明がわずらわしく、引用リンクなどがしにくくなりそうだから、あえて書きとめているにすぎない。
 1913年(大正2)に結成された、豊多摩郡落合村の「帝国在郷軍人会落合村分会規約」原本を、ある方からお譲りいただいた。在郷軍人会の落合村分会は当時、麻布区(現・港区の一部で第1師団司令部があった)に置かれた在郷軍人会麻布支部の管轄下にあったことがわかる。また、在郷軍人会落合村分会の会務所は、下落合1422番地に建っていた落合村役場内に置かれていた。
 さて、当時の帝国在郷軍人会総裁は陸軍大将の貞愛親王であり、会長は同じく陸軍大将の寺内正毅、また会老として元帥陸軍大将・山県有朋Click!が就任している。在郷軍人会の「規約」には、巻頭に貞愛親王の令旨、寺内の宣言、山県の式辞が掲載されており、つづいて18条にわたる「規約(会則)」が収録されている。会長・寺内正毅の宣言文を、引用してみよう。
  
 帝国臣民ノ武士的精神ニ富ムハ一国ノ精華トシテ宇内ノ称揚措カサル所ナリ 最近戦役ノ大捷亦首トシテ之ニ因由スルヤ論ヲ候タス 而シテ国軍ノ要素タル在郷軍人ニ在リテハ一層此ノ精神ヲ発揚シ軍事ノ知識ヲ増進シ砥励淬磨以テ皇室ノ屏翰タリ国家ノ千城タル負荷ニ堪フルコトヲ期スルハ蓋シ当然ノ義務ナリ 近時各地ニ勃興セル在郷軍人ノ団体ハ概しシテ上述ノ目的ヲ有スト雖統一指導其ノ機関ヲ欠キ随テ其ノ効果顕著ナルヲ得ス 時ニ或ハ其ノ行動正鵠ヲ失フノ処ナキ能ハズ 仍テ本官等相図リテ帝国在郷軍人会ヲ設立シ総裁貞愛親王殿下ノ旨ヲ奉シテ之カ糾合指導ノ任ニ当ラントス (中略) 本会会員ハ一億専心此ノ趣旨ヲ尊奉シ規約ノ定ムル所ニ従ヒ至誠以テ本会ノ発達ヲ期セサル可カラス 万一本会々員ニシテ此ノ団結力ヲ利用シ政治ニ干与スルカ如キコトアラン乎 啻ニ軍人会設立ノ本旨ニ乖戻スルノミナラス弊害ノ及フ所実ニ測ルヘカラサルモノアラントス 是レ最モ慎戒ヲ要スル一事ナリ 茲ニ本部ノ発会ニ臨ミ各員ノ努力ヲ前途ニ切望スト云爾
  
 この中で、違和感をおぼえる文章があるのにお気づきだろう。在郷軍人会の団結力を利用して「政治ニ干与スルカ如キコト」は「慎戒ヲ要スル一事」、すなわち退役軍人たちはその組織を利用して政治的な活動をしてはならない……と、わざわざ宣言文で厳禁していることだ。これは、のちの在郷軍人会を動員して地域の津々浦々まで、ファシズム的な「大政翼賛」あるいは「軍国主義」をベースとする、国家主義的な思想や政治体制を浸透させていった、昭和期の情勢とはまさに正反対の矛盾する表現だ。
 寺内正毅の危惧は、帝国在郷軍人会が設立された1910年(明治43)の直後からあったと思われるのだが、大正期に入るとその危惧が次々に現実化してくることになる。徴兵制によって兵役に就き、退役したあと帰郷した退役軍人たちは、例外なく地元の在郷軍人会に帰属することになるのだが、彼らは「軍隊ト人民トノ親昵シアルコト」あるいは「国民ノ衣食住ハ兵営生活ノ状態ト略ボ同一ナルコト」以前に、元・軍人たちは地域の「人民」であり社会人であり、生活者そのものだったのだ。
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 だから、軍隊生活で経験・獲得した規範よりも、地域の社会観や生活思想のほうがはるかに優先されることになる。また、そうしなければ地域では生きてはいけなかったのだ。したがって、大正期に入ると早々に米騒動に代表される農民運動や小作争議、あるいは工場における労働争議の先頭に、「此ノ団結力ヲ利用シ政治ニ干与」する在郷軍人会の姿が、立ち現われてくることになる。軍の上層部にとっては、まさに「飼い犬に手を咬まれた」あるいは「獅子身中の虫」のような状況に映っていただろう。
 つづけて、落合村分会規約の冒頭「第一 総則」の4ヶ条を引用してみよう。
  
 第一条 本会ハ帝国在郷軍人会落合村分会ト称ス
 第二条 本会ハ会務所ヲ落合村役場内ニ置ク
 第三条 本会ハ帝国在郷軍人会麻布支部ノ管轄ニ属ス
 第四条 本規約ノ改正ヲ要スルトキハ評議員会ニ於テ之ヲ議決シ所属支部長ニ
              報告スルモノトス
  
 「軍人勅諭」によって、天皇中心主義を推進するための「国家ノ千城」であり、滅私奉公の精神を理想とする「国民ノ最良規範」であるはずの退役軍人たちが、故郷へ帰ると同時に現実の社会的な矛盾や問題意識に直面し、「近代人の自我」にめざめて社会運動や政治運動に参加していく状況は、軍当局にとってみれば“悪夢”的な展開だったと思われる。
 この軍当局の組織や集団から機械的に与えられ、植えつけられた思想や価値観によって演繹的に眺めていた世界が、現実の社会へ直面するとともに次々と崩壊し、個々人あるいは地域の視座から帰納的に世の中を眺められるような、複眼的な視点の獲得へと転回したとき、在郷軍人会は上層部が危惧した方向へと、その「団結力」を発揮しはじめたといえるだろう。封建時代の社会ならともかく、20世紀に生きる彼らとすればまさに必然的な道筋であり帰結だった。
 だが、1923年(大正12)に関東大震災Click!が起き、東京に戒厳令が敷かれた時点から、在郷軍人会の役割りや様相は徐々に変貌しはじめているようだ。政府の決定に対し、軍隊の役割りや行動が優先されるような状況を生んでいるのは、きわめて鋭敏な吉屋信子Click!の感じた空気感にも表れている。
 さらに、二二六事件により再び東京に戒厳令が敷かれるころになると、政治のヘゲモニーは完全に軍当局(陸軍)がにぎるようになった。テロルを背景とした陸軍の脅威から、政党政治は限りなく萎縮と妥協をつづけていくことになる。在郷軍人会もこれらの現象に応じて、その性質も徐々に変化していったように見える。
帝国在郷軍人会落合村分会規約03.jpg
落合町役場地図1932.jpg
 1932年(昭和7)に刊行された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の時代になると、在郷軍人会落合分会はすでに陸海軍の出先機関のようになっている。ただし、在郷軍人会のメンバー全員が国家主義的な軍国主義者だったかというと、どうもそうとは思えない。なぜなら、戸山ヶ原の陸軍射撃場による流弾被害Click!に関連し、陸軍施設の郊外移転や近衛連隊そのものの“追い出し”運動に、少なからず近隣町村の在郷軍人会が関与していると思われるのは、すでに記事Click!に書いたとおりだ。昭和初期において、彼らは元・軍人であるよりも前に、地元のことを優先する共同体(社会)の一員、すなわち個として自から獲得した価値観や社会観の視座をもつ傾向が、より強かったと思われる。
 『落合町誌』から、在郷軍人会の地域活動を引用してみよう。なお、当時はすでに町制が敷かれていたので、在郷軍人会落合町分会となっている。
  
 毎年一回総会を開催して会員相互間に意思の疎通を謀り、軍事に関する講演等に依りて軍事能力の増進に努め、此の際戦病死者の招魂祭を営むことに慣例されてゐる、国家の為めに一身を鴻毛の軽きに比したる、忠烈なる勇士の英霊を弔ひ、永久に朽ちざる名誉と高き勲功とを忍ぶことは、洵に分会の事業として相応しい、其他徴兵検査、簡閲点呼の指導竝に補助、又入営兵の予備教習及入退兵の送迎に、或は青年訓練所入所生の勧誘等に尽力する外、非常事変に当りて集合団結の下に、公安の維持に努むる訓練も概ね完備しあり。要するに落合分会が、昭和六年以来の支那動乱事件に於て、真に在郷軍人たるの本分を自覚し、出征軍人の行を盛んならしめ、或は留守宅の慰問に努めたる如きは近き事例として、皇国を護る赤誠の充溢に外ならない。
  
 1940年(昭和15)の北部仏印進駐で退役した義父は、在郷軍人会麻布支部に所属していた。もし義父がこの文章を読んだとしたら、「バカヤロー、皇国を護るどころか亡国だ。とんでもねえ犠牲を払って、大日本帝国自体が滅んじまったじゃねえか」と、“六本木のキン坊”Click!は麻雀牌を持つ手を震わせながら憤るかもしれない。
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 同規約には、「第六条十四 軍隊ノ通過又ハ宿営等ニ際シ成ルヘク其便宜ヲ図ルコト」という項目がある。この規約にもとづき、1932年(昭和7)3月4日の夜、赤羽方面から新宿方面へ通過する特別編成の軍用列車を警備するために、落合町の在郷軍人会の退役軍人たちは山手線の線路土手に動員されている。だが、軍用列車はそのまま通過したものの、その列車を見送っていた下落合側の観衆へ、品川方面から貨物列車783号Click!が急接近してくるのを、警備していた彼らもまた気づかなかった。

◆写真上:在郷軍人会落合村分会会務所が置かれた、落合村役場跡の現状。
◆写真中上は、1913年(大正2)に発行された「帝国在郷軍人会落合村分会規約」。は、規約の冒頭「第一 総則」と「第二 目的及事業」。
◆写真中下は、帝国在郷軍人会会長・寺内正毅の宣言文。は、1932年(昭和7)作成の1/3,000地形図にみる落合町役場。町役場の真ん前にある落合第一小学校が、「第一落合小学校」と妙な名称で記録されている。
◆写真下:1932年(昭和7)に撮影された、在郷軍人会会務所を兼ねる落合町役場。

煙突の形状が気になる陸軍科学研究所。

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 落合地域の空中写真や地図類を眺めていると、昭和初期から1945年(昭和20)の敗戦時にかけ、同地域の南側で爆発的に膨張をつづける陸軍施設を見ることができる。山手線の西側に拡がる戸山ヶ原Click!の南側、大久保百人町の「陸軍科学研究所」だ。陸軍科学研究所は、1919年(大正8)4月12日に公布された「陸軍科学研究所令」(勅令110号)により、陸軍火薬研究所をベースとして発足している。
 翌1920年(大正9)には、小石川から戸山ヶ原への移転が計画(陸軍第2821号)され、施設内に建設する建物の設計図面が稟議にかけられている。大正末までには、全研究施設の移転を終えているとみられ、1925年(大正14)現在の敷地拡張に関する研究所の考え方、すなわち敷地をできるだけ目立たぬようコンパクトのままにし、戸山ヶ原北側のスペース(山手線西側の着弾地)を練兵場として活用することで、周辺住民による立ち退き要求を避けたい旨の書類(第1582号)が残されている。
 陸軍科学研究所が移転の危機感をおぼえ、上記の書類を作成したのは、流弾被害Click!による住民の死傷者が絶えない大久保射撃場Click!立ち退き要求Click!が、陸軍施設はすべて市街地化した戸山や大久保から丸ごと「出ていけ運動」Click!として周辺の自治体に拡がり、ついには政府の議会レベルにまで取り上げられるようになったからだ。科学研究所の北側に拡がる広大な森や敷地に、周辺住民の散策エリアや子どもたちの遊び場として自由な出入りを許したのも、そのような社会的背景があったからだと思われる。以下、第1582号の陸軍稟議書「科学研究所拡張敷地及大久保射撃場被弾地保有ニ関スル件」から引用してみよう。
  
 決裁案 研究設備改善ノ為拡張ヲ要スル科学研究所ノ敷地ハ現在地の北方ニ接続スル大久保射撃場避弾地ノ一部ヲ以テ之ニ充当シ且其面積ハ最小限ニ縮少スルコトゝシ同避弾地ノ大部分ハ之ヲ練兵場トシテ保有スルコトト致度右乞決裁
 理由 一、科学研究所ヲ現在地ニ於テ拡張スルハ練兵場トシテ緊要欠クヘカラサル大久保射撃場避弾地ヲ縮少スルト共ニ将来民間ヨリ移転ヲ強要セシメラルゝ懼れアリト雖モ本研究所ヲ他ニ移転セシムルハ研究上業務上共ニ不便不利アルト共ニ(後略)
  
 このあと、同稟議書は毒物の排出や爆発の影響で、周囲の住宅街に被害が及びそうなのを懸念し、人家から離れた実験場の設立を要望している。
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 大正末の時点における陸軍科学研究所の編成は、第1部が物理的研究(力学・電磁気学)、第2部が化学研究(火薬・爆発)、そして第3部が化学兵器研究(毒ガスや毒薬など)という3部構成になっていた。ところが、昭和に入ると同研究所は市街地の中に位置するため、さまざまな実験(爆破実験や毒ガス実験、有毒排煙など)が実施しにくくなり、各地に試験場・実験場を分散させることになる。そのうちのひとつが、1939年(昭和14)に神奈川県橘樹郡生田村に設立された、秘密兵器の研究開発施設としてもっとも有名な登戸実験所=登戸出張所(通称登戸研究所でのち陸軍技術本部第9研究所)だ。
 ただし、戸山ヶ原にあった本拠地としての陸軍科学研究所でも、当然ながら多種多様な化学兵器の開発はつづけられていたとみられ、戦後も西戸山の宅地開発現場からイペリット・ルイサイトなど毒ガス弾などが発見されているのを見ても明らかだろう。陸軍科学研究所は、1941年(昭和16)6月10日の「技術本部改正令」(第4088号)の公布で再編され、技術本部が統括する研究所として改めて位置づけられている。
 また、1937年(昭和12)に山手線の東、軍医学校の北側へ建設された兵務局分室Click!(後方勤務要員養成所→陸軍中野学校)や習志野学校、憲兵学校(特に特殊憲兵)の機関員用に、さまざまな謀略器材の開発も科学研究所で行われていた。2003年(平成15)に新潮社から出版された畠山清行『秘録 陸軍中野学校』(保坂正康・編)から、陸軍科学研究所と兵務局分室(のちの陸軍中野学校の母体)の密接な連携の様子を引用してみよう。
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 「はじめは、録音するのにテープや円形のロウ盤などもなかったので、針金みたいなものに録音するなどいろいろ苦心し、そのたびに、戸山ヶ原の陸軍科学研究所の中にあった篠田篠田鐐大佐の研究室に駆けこんでは、教えてもらったり、研究してもらった」(当時機関員、福本亀治少将)/とあるのをみても、実情がしのばれるのである。その篠田鐐大佐(終戦当時中将、理学博士)の研究室が、昭和十四年四月に独立拡大強化され、風船爆弾を発明したり、中野学校出身者の、諜報謀略に用いる器材の研究発明をした登戸研究所となったのだが……。
  
 1941年(昭和16)12月の開戦直前に、南方へ展開した中野学校の機関員たちには、同研究所が製作した手のひらにスッポリ入る小型拳銃や、インキの代わりに毒薬を挿入した殺人用万年筆、遅効性・即効性の毒薬各種(同年に中国の南京で人体実験を行ったばかりの遅効性シアン系化合物“アセトンシアンヒドリン”も含まれていただろう)、睡眠薬、缶詰型・レンガ型・石炭型時限爆弾などの謀略機材がいっせいに配布されている。これらの器材は、開戦の「ヒノデハヤマガタ」の陸軍暗号を受けとったのち、実際に現地で暗殺などに使われているのだろう。
 濱田煕Click!が描いた1938年(昭和13)ごろの戸山ヶ原記憶画Click!には、南を向いた画角に必ず妙な形状の煙突群が描かれている。通常の煙突の先端に、キャップをかぶせたようなかたちをしているのだが、これは化学プラントの煙突から有毒な物質が排煙に混じって外部へ出るのを防止する、排煙濾過装置(フィルタリング装置)だと思われる。煙突は、先端部で太くなっていたり、斜めに折れ曲がっているように見えたり、まるで笠をかぶったような形状をしているのだが、換言すればフィルタリングを行わなければマズイほどの有毒な化学物質を扱っていた証拠だ。
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 戸山ヶ原で陸軍科学研究所の化学プラントがフル稼働していたころ、煙突に濾過装置が装着されていたであろうとはいえ、当時の技術ではどのような有毒物質が漏れだしていたかはまったく不明だ。国内外の地中から発見される、毒ガス弾など旧陸軍の“負の遺産”を見るにつけ、戦後はいまだ終わっていないとつくづく感じるのだ。

◆写真上:1932年(昭和7)に撮影された、大久保百人町の陸軍科学研究所正門。
◆写真中上は、1935年(昭和10)10月2日の午後4時すぎ陸軍科学研究所の見学を終えた昭和天皇。は、1936年(昭和11)8月3日撮影の同研究所の記念写真で8名の女性所員が確認できる。は、百人町住宅街に面した陸軍科学研究/陸軍技術本部の正門跡。
◆写真中下上左は、1919年(大正8)4月12日に研究所の設置を決定した「陸軍科学技術研究所令(勅令110号)」。上右は、1941年(昭和16)6月10日に同研究所を統合する「陸軍技術本部令改正」。は、1925年(大正14)8月現在の陸軍科学研究所平面図。
◆写真下は1936年(昭和11/上)と1945年(昭和20/下)5月17日の空中写真にみる大久保百人町の陸軍科学研究所。戦争とともに数多くの施設が追加され、その敷地を北側へ大きく拡張しているのがわかる。は、現在の百人町通りで陸軍科学研究所跡は道路の左手。は、濱田煕が描いた作品(部分)にみる陸軍科学研究所の煙突群。1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された濱田煕『記憶画・戸山ヶ原』より。

落合のウシガエルを帝大に放した檀一雄。

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 上落合2丁目829番地の“なめくぢ横丁”Click!に建っていた、月15円の「心中長屋」Click!で貧乏暮らしをする帝大生の檀一雄Click!は、画道具を手に付近の丘をほっつきまわっては「下落合風景」を描きつづけていた。東京帝大の経済学部へ入学してしばらくたったころ、1932~33年(昭和7~8)ぐらいの時期だ。
 ちょうど同人誌「新人」に、処女作の『此家の性格』(1933年)を発表する前後のころではないかと思われるが、その様子を1956年(昭和31)に筑摩書房から出版された、檀一雄『青春放浪』から引用してみよう。
  
 幸いに、私はまだ油絵の道具箱と、若干の油絵具を持っていた。私は屡々バッケイの原ッパや、下落合の方に、その油絵具を肩にして、際限もなく迷い出し、キャンパスの上を分厚く絵具でぬりつぶしたが、そこらの景色を写してみたいというような平静な風流心とは違っていた。/まるでこう、盲目の絵師がキャンパスに向ってでもいるようで、塗りこめるものは、もう自分の肉と血だというふうの、嗜虐的なもどかしさに絶えず追い立てられていた。/私は経済科。坪井と水田が仏文科。内田が心理学科とそれぞれ、東大に籍だけはおいていた。
  
 文章に登場する「バッケイの原ッパ」は、下落合や上落合の西端から上高田に拡がる、大正期からやや西側Click!へズレつづけていたバッケが原Click!のことだ。1933年(昭和8)ごろといえば、上高田でも前年の耕地整理組合の設立とともに、田畑をつぶして住宅地化を前提とする耕地整理Click!がスタートしたばかりのころだ。すでに田畑は耕されなくなり、あちこちに原っぱが拡がっているような風情だったろう。
 バッケが原は、故郷の九州に住んでいる遠縁の親戚姉妹が東京へ遊びにきたときにも、弁当片手に案内している。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 私達は久方ぶりに野弁当をつくり、勢揃いして、春の野に迷い出した。/私が先頭に立って、彼女達を案内し、落合の野山をここかしこうろつき廻るのである。/もう春は来ていた。/バッケイの原ッパの上の山に、アシビの花が淡い白い美しさで開きつづいておった。/丘の傾斜面に腰をおろし、私達は野弁当を喰べる。何かこうやたらに愉快になって、私は上手でもない逆立ちを何度も繰り返してやってのけた。私の青年の終りの日であるような甘い感傷に呑まれたせいでもあったろう。
  
 ここで、バッケが原の「上の山」と書いているのは、目白商業学校Click!のある“台山”のことだと思われ、目白崖線ではもっとも標高が高い37m超の丘だ。1933年(昭和8)の当時、バッケが原を散歩した一行は、御霊橋Click!からバッケ坂Click!を上がって、近辺の見晴らしのいい斜面で弁当を食べたのだろう。
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 学校の講義へはほとんど出席せず、こんなことを繰り返していた檀一雄だが、退屈まぎれに心理学科の内田を連れて帝大の三四郎池で釣りをしている。ただ釣りをするだけのために、ふたりは久しぶりに学生服を着て帽子をかぶり学校へ出かけるのだが、授業にはまったく出席していない。
 さすがに、真っ昼間から三四郎池でおおっぴらに釣りをするわけにはいかないので、夜陰にまぎれ「夜間部の学生」になりすまして登校している。同居人たちには、「大鯉を釣り上げて来るゾ。明日の朝は鯉コクたい」と宣言して出かけたので、なんとしても獲物を釣り上げたかった不良学生ふたりは、ロックフェラー図書館からもれる灯りの下、「東京というところは良かろうが?」「帝国大学というところは、上等じゃろうが?」などと、わけのわからないことを話しながら三四郎池で粘りにねばった。
 でも、そう簡単に鯉は釣れなかった。三四郎池の鯉は昼間の部ばかりで、夜間部がないのではないか……などとオバカなことを考えながら、帝大は卒業できなくても帝大の鯉は釣りあげてやると、意地になって通いつづけている。そして、ついに1尾の大鯉を釣り上げて持ち帰った。檀一雄は、「私が帝大から何らか得るところのものがあったとするならば、あの鯉一匹だ」とのちに書いている。
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 さて、しばらくすると少し良心が咎めたものか、三四郎池から大鯉を盗んで唐揚げや鯉コクにして食べたからには、なにか代わりのものをお返ししなければならないという形勢になった。お返しにはメダカやハヤ、フナ、金魚といろいろな候補は挙がったけれど、いまいち大鯉に比べて貧相だ。そこで、近所の貧乏画家の息子「ツンちゃん」が捕まえてきた、ウシガエルのオタマジャクシを2匹、三四郎池へ放すことになる。
  
 いかにせん。東京は落合村である。まさか金魚一匹を鯉の代りに帝大の池に奉納したとあっては、後世モノ嗤いになるだろう。(中略)/「おう。ツンちゃん。それ何だ?」/私達は立ちどまってブリキ缶の中をのぞき込んでみた。何かこう、オタマジャクシの長大な奴が、人を喰った格好で、プカリと水の中に浮かび上っているようだが、/「何だい? ツンちゃん」/「これか? こりゃ、食用蛙の子供だよ」(中略)/知らなかった。夜なんぞ、バッケイの原っぱから、落合長崎の方に抜けてゆくと、そこここの水溜りで、/ブォーン、ブォーン/と啼いている奴がある。あいつが食用蛙だと云うことは聞いていたが、その恐るべき子供達に対面したことはかつてない。/「おう。これだ……」/私の頭の中に電光のように閃くものがあった。こいつを帝大の池の中に放流(?)して、大いにハン殖させてやったならば随分と愉快だろう
  
 さっそく、「ツンちゃん」からオタマジャクシを2匹分けてもらい、帝大の三四郎池へと放してきた。以来、檀一雄は『青春放浪』を書くまでは、三四郎池へ放ったオタマジャクシのことなど気にもとめなかっただろう。
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檀一雄.jpg 檀一雄「青春放浪」.jpg
 さて、80年後の東京大学では「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」にもとづき、三四郎池の生物環境調査を実施している。その中で、駆除すべき「特定外来生物」としてブルーギル、オオクチバス、ニシキゴイなどに加え、ウシガエルの名前も挙がっている。どうやら、檀一雄が池に放ったオタマジャクシはその後繁栄し、夜になるとキャンパスに「ブォーン、ブォーン」という鳴き声を響かせていたようなのだ。

◆写真上:駆除すべき「特定外来生物」のウシガエルがいる、東京大学の三四郎池。
◆写真中上は、1933年(昭和8)の檀一雄と同時代の1/3,000地形図にみるバッケが原界隈。すでに前年から耕地整理が開始され、田畑だったところは草地の地図記号に変更されている。は、ハイキング一行が立ち寄ったかもしれない上高田氷川明神社。
◆写真中下は、上落合(2丁目)829番地の「なめくぢ横丁」界隈の現状。は、目白崖線ではもっとも高い標高37m超の台山へと通うバッケ坂。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる檀一雄一行のハイキングコース(想定)。下左は、若き日の檀一雄。下右は、1976年版の檀一雄『青春放浪』(筑摩書房)。

わたしも「山の怪談」をひとつ。

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 今年の秋、美しいブルーグリーンをした2mほどの大きなアオダイショウが、前のお宅の塀を散歩(足がないし)していたそうで、うちの子どもたちがさっそく触りに出たようだ。このアオダイショウは、以前からご近所の家の縁の下に住み、春になると庭いじりをする奥さんが悲鳴Click!をあげるお宅の主(ぬし)か、あるいは10年前の幼蛇のときにヤモリを追いかけ、うちの風呂場へ落ちてきたアオダイショウClick!の成体なのかもしれない。
 人によく馴れ、性格もおとなしい益獣のアオダイショウは、映画「若大将」シリーズに出ていた青大将(田中邦衛)とともにわたしも好きでw、海辺に住んだ子どものころから、出現するとどこかをそっと撫でてやるのが“お約束”になっていた。そんなことを話していたせいか、うちの子どもも下落合のアオダイショウたちには優しい。でも、美しいヘビを意識して触るのはいいが、ヘビのいるところへ知らずにいきなり手ついてしまうのは、あまり気持ちのいいものではない。刑部人アトリエClick!に住んでいたヘビは、夜になると階段の手すりを伝って移動していたようで、トイレに起きて暗闇でヘビをつかんでしまった刑部昭一様Click!のお話を、以前こちらでもご紹介Click!している。
 わたしが、マムシあるいはヤマカガシと思われる胴体に手をついてしまったのは、丹沢で子どものころにキャンプをしていたときだった。当時のキャンプ場は、現在のように炊事施設やトイレ、燃料、水、照明などあるはずもなく、すべてを自分で用意するか、探すか、あるいは造らなければならなかった。キャンプ場に着いて、まずやらなければならないのは飲料水の確保と、炊事の燃料となる焚き木や落ち葉の採集だ。固形燃料やボンベ式のガスコンロを使うのはキャンプの邪道で、キャンパーたちからバカにされかねない時代だった。もちろん、オートキャンプなどは論外で、自然を楽しむのではなく自然を壊しにくる連中だと冷たい目で見られていた。
 そんなストイックなキャンプを、親たちとともにしていたわたしは、まず飲料水を確保するために、湧水源のありかを粗末な小屋の管理人に訊きにいった。すると、沢を50mほど遡った左岸にある崖地の窪みに、岩の間から湧きでる飲料用に適した清水があるという。さっそく、布バケツ(ビニール製の軽いバケツは普及していない)を持ってその場所へいってみると、湧き口に竹の筒を半分に裂いてわたした注ぎ口が設けられ、美味しそうな清水がチョロチョロと流れでている。さっそく、布バケツをその下に差しだそうとした瞬間、手前の岩肌に足をとられた。
 おそらく、水場なので岩の表面が苔むしていたのだろう、滑った瞬間、とっさに草で覆われた左側の岩場へ左手をついたのだが、その手のひらの下をスーッと冷たく這っていったものがいた。急いで手もとを見ると、焦げ茶と薄茶の丸い模様が入ったシッポの部分が草藪に消える瞬間だった。胴体がハッキリと見えなかったので、なんとも判断がつかなかったのだが、どう考えても体色やシッポの模様からして、あれはヤマカガシかマムシのどちらかだ。全身に鳥肌が立ったけれど、水汲みをやめるわけにはいかないので、そそくさと布バケツに半分ぐらいの水を汲み、急いでキャンプ場へ引き返した。
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 わたしがよくキャンプをしていたのは、岳ノ台(標高899m)の東にある丹沢のヤビツ峠(761m)までエンジン音も苦しいバスで出かけ、そこを拠点に宮ヶ瀬方面へと下る沢沿いのところどころに散在していた、管理人の小屋がある以外なにもないキャンプ場だった。ヤビツ峠から、半径8~10kmほどの山道を歩いてキャンプ場へと向かうのだが、現在のように舗装された道に喫茶店まである光景を見ると、思わずのけぞって笑いがこみあげてくる。夏場のヤビツ峠とその周辺は、すぐに雲か斜面を這い上るガスにおおわれホワイトアウトもめずらしくなかったので、天候が不安定だと1,000m以下の低山とはいえ、キャンプ場へ急いで向かわないと厄介なことになる。
 当時のキャンプ用具は、すでに少し書いたけれど軽いビニール製やナイロン製のものなどほとんどなかった。テントはもちろん防水加工された布製で、シートや支柱、ペグ、ロープ、雨に備えた天幕まで入れると、およそ30kgほどの重さになる。テントは親が担いでくれるが、飯盒や食糧、まさかのときの固形燃料、ランプ、懐中電灯などはリュック(布製)に入れ、寝袋(布製)とともに子どもも担がなければならない。おそらく、10kg前後はあっただろうか。キャンプ場に着くと、テントの設営や排水溝掘り(現代のキャンプでは不要)、竈造り(これもたいがい不要)、トイレ造り(不要)などを手伝い、その合い間に焚き木ひろいや水汲みをする。キャンプの初日はいろいろと雑用が多いので、夕食を終えるのは薄暗くなりかけた午後7時ごろだったろうか。それから、夜は冷えてくるので焚き火を囲みながら明日の登山計画を立て、就寝するのは9時ごろだった。
 さて、最近“山の怪談”がブームなのだそうだ。月夜のうずのしゅげさんClick!も、このところ5冊ほど本を紹介されているが、わたしもキャンプをしているとき不可思議な経験をしたことがある。やはり子どものころの話だが、キャンプに出かけると子どもは興奮してなかなか寝つけないか、寝床に慣れないため夜中にふと目を覚ましてしまうことが多い。わたしもそのひとりで、寝袋にくるまれながら夜中に目が開いてしまった。しばらく、黒く影になって見えるアルミの支柱を見つめていたのだが、なかなか眠りに落ちない。すると、ありがちな怪談話で恐縮だが、テントの周囲をガサガサと歩く音がする。
燕岳.jpg 燕山荘近く.jpg
表銀座.jpg 槍ヶ岳.jpg
 最初はキャンプ場の管理人が、火の始末などの見まわりをしているのだろうと思っていたが、それにしては懐中電灯の光がテントを透かして見えない。森の下草をかき分け、落ち葉や小枝を踏む音は、私のいるテントのほうへ近づいてくるのか徐々に大きくなるのだが、人が歩くような気配を感じない。丹沢に多い動物、たとえばニホンカモシカやイノシシが、エサのありそうなキャンプ場に下りてきたのかとも思ったが、それにしては地面を踏む音が規則的で、二足歩行をしているとしか思えない。音が近くまできたので耳を澄まして聞いていると、踵が地面を踏むたびに響く重たい登山靴をはいた足音のように聞こえる。寝袋とシート1枚の地面から耳もとに、その振動が伝わってくるようだ。
 この真夜中に、誰かが沢登りでもしているのかとも思ったが、そんな非常識な登山者は丹沢山塊へ入りこまないだろう。私のテントから20mほど離れた位置に、学生たちと思われる別のテントが張ってあったので、きっと誰かが起きて用足しにでもいったのだと思いこもうとするのだが、足音は反対側の斜面から下りてきて、キャンプ場の平地を通り抜け、沢沿いのガレ場まで抜けようとしているように聞こえる。足音は、私のいるテントと隣りのテントの間あたりまできたとき、急に音が消えて静寂にもどった。
 わたしは、誰かがそこに立ちどまって様子をうかがっているのではないかと思い、緊張して耳を澄ましたがなにも聞こえない。しばらく、そのまま足音のつづきを待っていたけれど、その位置から再び歩きだす気配はなかった。ひょっとすると、遭難者の幽霊が死んだことに気づかず、いつまでも丹沢の山々を彷徨しているのではないかと、すっかり怖くなって身体をちぢめたままジッとしていた。
 結局、わたしは明け方まで眠れず起きていたのだけれど、足音はテントとテントの間で消えたまま、二度と聞こえてくることはなかった。明らかに底が厚くて重たいトレッキングシューズをはき、落ち葉や枯れ枝を踏みしめながらドッドッドッと、一歩一歩ゆっくり地面を踏み歩く足音は登山者のものに聞こえていたのだが、いったいあれはなんだったのだろう? 意識がハッキリしていたときの体験なので、いまだに夢だとは思えない。翌日、寝不足から山歩きでバテ気味だったのも、その体験が現実だったことの証左だ。
丹沢キャンプ1.jpg
丹沢キャンプ2.jpg 丹沢キャンプ3.jpg
 わたしが山よりも、よほど海のほうが好きなのは、ひょっとするとこの体験が大きく作用しているのかもしれない。いまだに、あのときの足音とテントを通して感じる怜悧な空気感をハッキリと憶えている。山には得体の知れない、気味の悪いものがひそんでいる。

◆写真上:大きなアオダイショウが出現したとき、わたしは不在だったので代わりに鎌を伸ばすと20cmはありそうな、毎年晩秋になると出現するオオカマキリ。
◆写真中上は、多くのヘビが棲息している目白崖線。下落合(現・中井2丁目)の撮影場所は、刑部人アトリエの跡地(撮影:刑部佑三様) は、手前の藪に3mはありそうな巨大なアオダイショウが棲息していた大磯の南欧風邸(1970年ごろ)。
◆写真中下は、キャンプや登山が好きだった親父のアルバムから燕岳(つばくろだけ)の縦走()と、おそらく燕山荘付近()のハイマツ帯か。は、北アルプスの表銀座()とピーク下にある槍ヶ岳山荘()か。いずれも、1940年代の撮影。
◆写真下は、装備を合わせると30kgは下らない大昔の布製テント。は、丹沢山塊の宮ヶ瀬側へと下る渓流沿いのキャンプ場とその周辺。いずれも、1960年代の撮影。

地下鉄「西武線」は1929年3月開通予定。

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下落合駅.JPG
 1928年(昭和3)2月に東京市役所まとめた、『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』という報告資料が残されている。その中で、西武鉄道と武蔵野鉄道などが紹介されているのだが、交通網の整備の視点から郊外に展開する町々が紹介されているのが面白い。その中から、落合地域に関連が深い西武電鉄Click!と、当時の落合町の様子を取りあげてみたい。
 同報告資料は、1927年(昭和2)の後半から翌年の早い時期にかけてまとめられたと思われ、西武電鉄の終点は相変わらず高田馬場仮駅Click!のままだった。この仮駅で降りた人々(実際には仮駅は短期間しか運用されず、実質は“折り返しの場”=操車場を備えた下落合駅Click!が終点だったとする地元の証言がある)は、旧・神田上水(現・神田川)に架けられたおそらく木製の「桟橋」(歩道橋)Click!をわたり、早稲田通りへと抜ける山手線の線路土手沿いにつづく仮設道をたどって、省線・高田馬場駅まで歩いていた。
 この時期、戸山ヶ原Click!に展開する陸軍施設建設Click!のために、膨大なセメントや砂利など建築資材を運んでいた同線の貨物輸送Click!は、高田馬場仮駅で貨物の積み替え作業を行なっていたのではなく、ひとつ手前の氷川明神社Click!前にあった旧・下落合駅で行なっていたのだろう。高田馬場仮駅に設置された乗客用の「桟橋」(歩道橋)では、重量のあるセメントや砂利を効率よく積み替えて運搬することができないからだ。
 以下、『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』に掲載された、西武鉄道株式会社の企業概況から引用してみよう。
  
 西武鉄道(昭和二年五月末日現在)
  創 立 大正十一年八月
  開 業 同十一年十一月
  資本金 公称:一千三百万円 払込:五百五十万円
  営業線亘長 総長:四十七哩十一鎖 都市計画区域内:十二哩十九鎖
  軌 間 三呎六吋
  車 輌 ボギー車:四十二輌 単車:三十四輌 電気機関車:五輌
       貨車:七十七輌 計:百五十八輌
  運輸従業員 七百五十四名
  兼 業 コンクリート採取及製造販売、砂利、砂、玉石、砕石
  
 下落合駅前で、おそらく陸軍のトラックに積み替えられたセメントや砂利は、十三間道路計画Click!のため大正末には鉄筋コンクリート橋に架け替えられていた田島橋Click!を通り、栄通り→早稲田通り→諏訪町と一気に南下して、戸山ヶ原まで搬入されていたと思われる。
 東京市が同報告書を作成したとき、大久保射撃場Click!の巨大なコンクリートドーム工事はかなり進捗していたと思われ、同年7月の竣工予定に向けて大量のセメントや砂利が消費されていただろう。西武電鉄による建築資材のピストン輸送が、この時期から昭和10年代にかけ多忙をきわめる端緒となった工事だ。このあと、戸山ヶ原には次々と陸軍の大規模なコンクリート施設が建設されることになる。
 西武鉄道(株)は、1922年(大正11)に設立された法人だが、西武軌道(株)自体は1907年(明治40)11月に資本金35万円で創立されている。その後、西武軌道は武蔵水電(株)に合併吸収され、武蔵水電が今度は帝国電燈(株)に合併吸収され、同時に鉄道事業を分離して西武鉄道が誕生するという、かなり複雑な沿革をへて誕生している。
交通機関の発達と人口の増加1928.jpg 交通機関の発達と人口の増加奥付.jpg
 さて、西武高田馬場駅が竣工する前後を見はからって、西武鉄道は高田馬場駅から早稲田を結ぶ地下鉄「西武線」Click!の計画を進めていた。東京市の同報告書によれば、1928年度末すなわち1929年(昭和4)3月末までに竣工予定となっている。つまり、西武鉄道が東京市へと提出した工事計画書では、1年後には早稲田への地下鉄による西武線の乗り入れが完成するとしているのだ。つづけて、同報告書から引用してみよう。
  
 次に当社(西武鉄道)の計画線は村山線の未成区間たる高田馬場より早稲田市電終点附近に至る一哩五十五鎖及ひ大宮線と川越線を結ふ川越市内線一哩二十鎖、新宿駅前より大体当社の新宿線に併行して一直線に立川に至る十六哩四十鎖等かあるか、早稲田延長線は昭和三年度末迄に完成の見込てあると云ふ。(カッコ内引用者註)
  
 この時点で、西武線の「未成区間」Click!の中には下落合駅から山手線のガード下をくぐり、省線・高田馬場駅へと乗り入れる区間のことも含めているのだろう。早稲田までの地下鉄形式による乗り入れが、同報告書が発行された翌年の3月末までということは、すでに地下の掘削工事が進んでいた可能性が高い。地下鉄「西武線」は、陸軍の戸山ヶ原の北辺地下を通過するため、西武鉄道は特に陸軍からの面倒な許諾および鉄道省の地下鉄免許と、双方から難しい認可を受ける必要があった。
 しかし、西武鉄道は戸山ヶ原に計画されている陸軍施設の建設へ全面的に協力しているため、陸軍の認可は「陸軍省送達(陸普第二〇六六号)」として、また鉄道省からの地下鉄免許は「監第一〇〇号/免許状」として、いずれも1926年(大正15)5月の時点で、申請から1ヶ月半の審議をへてスムーズに取得済みだった。おそらく、その直後から工事がスタートしていると思われるのだが、工事の中止にともない地下鉄用に掘削されていたトンネルClick!が、その後どうなっているのかは判然としない。
井荻駅.JPG
上井草駅.JPG
 また、東京市の同報告書には、交通機関の観点から当時の落合町の様子について次のように記している。引きつづき、同報告書から引用してみよう。
  
 従来当町(落合町)内には鉄道、軌道は無かつたか、昭和二年四月に至り漸く西武鉄道の村山線か開通した。但し四隣の町村に於ける交通施設は相当に整つて居たのて、間接に之れ等の交通機関に依つて当町の発展を余程促進された様てある。即ち地理的に見て当町の交通は南は中野町(東中野駅)を通して中央線に頼り東は戸塚町(高田馬場駅)及西巣鴨町(目白駅)を経て山手線に頼る外、北は長崎町(椎名町駅)に武蔵野線の利便かある。又目白、下練馬間のダツト乗合自動車(大正一四、七開通)か当町の北域内外に沿ふて走つてゐる。当町の発展乃至人口の増加は北隣の長崎町等と相似て大正十一年以降に於、特に顕著である。(カッコ内引用者註)
  
 文中で、山手線・目白駅の設置場所を「西巣鴨町」としているようだが、西巣鴨町代地は目白通りの北側に位置する区画なので、「高田町金久保沢」の誤りだろう。
 また、箱根土地Click!目白文化村Click!の宣伝用として、1923年(大正12)春に大量にばらまいたDMClick!のコピーに、「駅より文化村迄乗合自動車の便があります」は、現実に存在しているバス路線ではなく、同年時点では予定路線であった可能性がある。いかにも不動産広告らしい表現だが、1925年(大正14)7月と2年後に開通するバス路線を「便があります」と書くのは、今日では明らかに違法コピーだ。それとも、「バスなんて走ってないじゃないか!」と顧客に怒られたら、箱根土地本社Click!から目白駅までを往復する、現地見学の弊社送迎用バスClick!のことです……などと逃げるつもりだったのだろうか。ただし、1922年(大正11)の第一文化村が販売された時点で、すでに定期バスが運行されていたという資料も存在している。
西武線図版.jpg
地下鉄早稲田駅.jpg
 東京市がまとめた『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』は、当時の東京郊外を走る鉄道やバスの状況を概観し、1928年(昭和3)初頭の報告書として貴重な存在だ。東京市役所が、あえて東京市外の交通インフラについてレポーティングを実施したのは、もちろん5年後に予定されている市街区域の拡大、すなわち東京35区編成を見すえた大東京市Click!時代を予想してのことだろう。


◆写真上:西武新宿線の西武新宿行きが到着する下落合駅のホーム。
◆写真中上は、東京市役所が1928年(昭和3)2月に発行した『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』の表紙。は、同報告書の奥付。
◆写真中下は、井荻駅に停車する西武新宿線。は、敷設当初の鉄道連隊を含むレールClick!がホーム屋根の支柱に数多く残されている上井草駅。
◆写真下は、『東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加』に掲載された西武線の高田馬場駅周辺。すでに、高田馬場駅から早稲田駅への地下鉄予定線が描きこまれている。は、休日の早朝で人が誰もいない地下鉄東西線のめずらしい早稲田駅。


戸山ヶ原から垣間見える下落合風景。

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 濱田煕Click!『記憶画 戸山ヶ原』Click!を眺めていると、戸塚町の側からチラリと下落合風景の垣間見られるのが気になる。それは、山手線の線路際から見える下落合の丘だったり、戸塚第三小学校の正門前から見える下落合の森だったりするのだが、当時の緑ゆたかな目白崖線の姿が記録されている。わたしの学生時代も、目白崖線は緑がふんだんに生い茂る丘だったが、濱田も書いているように、その風景が大きく変りはじめたのは1980年代末ごろからのことだ。
 いつだったか、陸軍士官学校Click!の学生たちが測量演習で描いた、落合地域から戸山ヶ原にかけての1/5,000地形図をご紹介したことがあった。この演習地図Click!の着弾地(避弾地とも=山手線西側の戸山ヶ原)に描かれた一帯に、土塁のような細い筋が縦横に描きこまれ、わたしは塹壕を掘ったあとの痕跡ではないかと推定していた。演習地図が作られたのは、第1次世界大戦の真っ最中だった1917年(大正6)6月であり(発行は8月)、ヨーロッパの前線で重要な戦術となった塹壕戦の情報が日本にも伝わり、陸軍でも塹壕造りや塹壕戦の演習を行ったのではないかと推測していた。
 だが、昭和に入ると時代遅れの塹壕戦はあまり重要視されなくなり、濱田煕がよく入りこんで遊んだ山手線の西側に拡がる戸山ヶ原には、近衛騎兵連隊が演習する馬場が新たに設けられていたらしい。濱田煕は、1937年(昭和12)の記憶として馬場を描くと同時に、大正期に造られたとみられる、山手線の線路際にポツンと残った塹壕も画面に記録している。この時期の戸山ヶ原に造られた塹壕は、地面を掘ったあと穴の壁面が崩れないよう、レンガで固めるという本格的なものだった。上を戦車が通過しても、崩れないように補強した機甲戦が前提の塹壕演習だったかもしれない。
 以下、冒頭の作品に添えられたキャプションを、1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された濱田煕『記憶画・戸山ヶ原-今はむかし…-』から引用してみよう。
  
 新大久保寄りの台地から目白の方向を見る(昭和12年)
 芝生のように低い草の原。煉瓦で築いた塹壕がくの字型に2ツばかり連っていた。左手に(陸軍)科学研究所、右手は山手線、遠く目白の高台に白い学習院のモダンな宿舎が林越しに望めた。現在は此の地の上に超高層の西戸山タワーズホーム群と、シェークスピアの時代を模した東京グローブ座が建っている。(カッコ内引用者註)
  
目白方向を見る.jpg
戸塚第三小学校.jpg
戸塚第三小学校1931.jpg
高圧線鉄塔1968.jpg
 中央の正面に描かれているのは、下落合1丁目406番地の学習院昭和寮Click!の寮棟なのだが、濱田が立っている位置(現・百人町4丁目界隈)から、同寮がこれほど大きく見えたはずはないので、画家の眼による「望遠レンズ」の画面だろう。手前の草原に掘られているのが、レンガ積みで壁面を補強されている塹壕の残滓だ。右手の線路は山手線だが、走っているのは機関車が牽引する山手貨物線で、線路の向こうには射撃場の防弾土塁(三角山)Click!が、線路際と少し離れた位置にふたつ見えている。
 さて、もうひとつの作品は戸塚第三小学校を描いたものだ。西門前と校庭の2作品があるが、下落合の丘が見えているのは西門前の情景だ。1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)には、濱田煕の描画ポイントとほぼ同位置から撮影された、同小学校の写真が掲載されているが、やはり遠景には下落合の丘がとらえられている。同作品のキャプションを、前掲書から引用してみよう。
  
 戸塚第三小学校/校舎前道路の南方面から、下落合方面を見る。
 昭和元年開校だから、丁度新築4年目から6年間通った校舎である。関東大震災後の建築だが、震災後の急な人口増に間に合わせるためか、或は郡部であったせいか木造校舎である。ただ防火壁とシャッターは4箇所あった。この校舎も昭和20年5月の東京空襲でキレイに焼失してしまった。/冬になると、各教室からニョキニョキと煙突が立ち、登校時学校に近づくにつれ濃くなるダルマストーブの吐き出す乳白色の煙と、石炭特有の匂を今も思い出す。
  
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西部電車の終点1936.jpg
高田馬場駅.jpg
 画面には、パースペクティブのきいた西門つづきの校舎の向こうに、目白変電所Click!へと向かう東京電燈谷村線Click!の高圧鉄塔のひとつがとらえられ、さらに、鉄塔の向こう側には下落合の緑の丘が描かれている。当時の高圧線鉄塔は、1960年代まであちこちに建てられていた“Π”型をしていたことがわかる。おそらく、戦前の最新型ではなかっただろうか。谷村線は、目白変電所の終端が目前なので、高圧線の分岐が柔軟にできる同型の鉄塔を建てているのかもしれない。
 この位置から見える下落合の丘は、急な久七坂の通うあたりの丘で、佐伯祐三Click!が丘上にイーゼルを据えて『下落合風景』Click!の1作、「見下シ」Click!池田邸Click!を描いたと思われる散歩コースClick!の一角だ。目白崖線に多い文字どおりバッケClick!(崖地)状をした急斜面で、段差の大きなひな壇状に土地を造成しなければ、住宅が建てられなかったエリアだ。
 濱田は、戸塚第三小学校を卒業すると早稲田中学校Click!へと入学し、そのあと東京美術学校へと進むことになる。戦前から、おもにインダストリアル・デザインの分野でデザイナーとして活躍したようだが、仕事の合い間を見つけては自宅の近所の風景を、こまめにスケッチしてまわっていた。それらのスケッチ類は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲ですべて焼けてしまうのだが、抜群の記憶力から戦後に思い出して描いたのが、これらの精細な「記憶画」作品群ということになる。
 濱田煕が描く風景画は、昭和初期の情景がわかって貴重なのはもちろん、当時の「色」がハッキリとわかることだ。たとえば、昭和初期のダット乗合自動車Click!関東バスClick!がどのようなカラーで車体を塗られていたのか、あるいは西武電鉄Click!や山手線はどのような色をしていたのかがよくわかる。また、市街地化が進むにつれ、崩されてしまった丘や崖、勾配が修正されて坂がなくなってしまった早稲田通り、高圧線鉄塔の形状や煙突の位置、暗渠化され埋め立てられた小流れや池などがそのまま描きこまれている。
山手線から諏訪社1938.jpg
明治通りから諏訪社1938.jpg
諏訪通り1.JPG 諏訪通り2.JPG
 たとえば、山手線のガード側から諏訪通り(諏訪社方面)を描いた作品と、その逆に明治通り側から諏訪通りを描いた作品が残されている。地下鉄「西武線」Click!が通る予定だったルートだが、空中写真や地図からは具体的な情景がうかがい知れなかった。だが、濱田の画面を見ると、昭和初期の諏訪通りの風情がそれこそ手に取るようにわかる。現代の諏訪通り沿いに拡がる光景とは、とても同一場所の風景とは思えないほどだ。このほかにも、濱田煕『記憶画 戸山ヶ原』には興味深い画面が掲載されているので、機会があればまたご紹介したいと思っている。

◆写真上:1937年(昭和12)当時を描いた「新大久保寄りの台地から目白の方向を見る」。
◆写真中上は、「新大久保寄りの台地から目白の方向を見る」描画ポイントあたりの現状。中上は、昭和初期の「戸塚第三小学校/校舎前道路の南方面から、下落合方面を見る」。中下は、1931年(昭和6)に撮影された描画ポイントとほぼ同位置からの戸塚三小。は、1960年代末に東海道線の車窓からよく見られた多摩川近くの“Π”型高圧線鉄塔。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚三小から下落合にかけての眺め。は、1936年(昭和11)当時の高田馬場駅を描いた「西部電車の終点」。は、同作の描画ポイントあたりから見た山手線と西武新宿線の高田馬場駅。
◆写真下は、1938年(昭和13)当時の「山手線の側から、諏訪神社の方角を見る」。は、同年の「明治通りの方から諏訪神社の方角を望む」。は、諏訪通りの「山手線の側から……」の現状()と、「明治通りの方から……」の現状()。

大磯のヨハンセンを諜報・監視せよ。

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 今年も、「落合道人」サイトをお読みいただきありがとうございました。来年も、よろしくお願いいたします。今年最後の記事は、戦時中のちょっと長い物語がテーマです。
  
 1945年(昭和20)の4月13日夜半、乃手はB29によって大規模な第1次山手空襲Click!を受けた。この空襲で、陸軍軍医学校Click!や防疫給水部の防疫研究室Click!陸軍第一衛戍病院Click!などの建築群にはさまれるように建っていた、木造の兵務局分室Click!も焼けている。のちの陸軍中野学校の母体であり、防諜・謀略機関の工作本拠地として設置された同分室(工作員からは工作室=“ヤマ”という符牒で呼ばれた)は、このあと戸山ヶ原Click!陸軍科学研究所Click!をはさんで下落合の南側に位置する、4月13日の空襲から焼け残っていた百人町のアパートへと移転している。
 空襲で焼ける前の兵務局分室は、陸軍第一衛戍病院Click!の入院患者からも頻繁に目撃されていた。同病院の西側に隣接していた、秘密工作機関の本部建物よりも出入りが厳重だったようだ。その様子を、1971年(昭和46)に番町書房から出版された畠山清行『秘録 陸軍中野学校』から引用してみよう。
  
 工作室の古ぼけた二階家は、真夏といえども、まわりの窓硝子には竹すだれをおろし、外界からの目をさえぎっていたので、付近の住民は『幽霊屋敷』と呼んでいたが、当時、南支で戦傷して、陸軍病院に入院していた鹿島誠氏(略)は、/「あの建物は、病院の窓からもよくみえました。朝夕には背広服の男たちも出入りしたし、どこかの会社の研究室という話で、そのため毎晩電燈もつけっ放し。だれかが屋内を動きまわっている気配が感じられたが、われわれも別に疑わなかった。(後略)」
  
 さて、工作室(ヤマ)で行なわれていた重要任務のひとつに、自由主義者や和平主義者、終戦工作をしそうな親米英派の人物に対する諜報活動がある。太平洋戦争がはじまると同時に、憲兵隊は彼らの行動を監視しはじめているが、兵務局分室でも彼らをマークして監視する工作がはじまった。具体的には、中野学校出身の特務工作員を対象者の家に書生として住まわせたり、隣家へ住まわせて様子を探らせたり、あるいは特別な訓練を受けた女性を女中として送りこむ、いわゆるスパイ工作だった。
 ここで面白いのが、憲兵隊と陸軍中野学校の“ヤマ”(工作室)との間で、まったく情報共有がなされていないことだ。これは、憲兵隊特高課と警視庁特高課Click!との間で情報交換がなされず、ときにはマークした相手に憲兵隊へ書類を提出する法的義務はないなどと、「親切」に憲兵隊の資料収集を妨害する“憲兵隊除け”Click!を教示していった特高刑事の例(長崎のプロレタリア美術研究所Click!など)でも見られるが、陸軍内部の組織間においても同様の傾向が顕著だった。
 戦時中、中野学校が母体の“ヤマ”が目をつけていた人物は30名以上にのぼっており、近衛文麿Click!鳩山一郎Click!、原田熊雄、幣原喜重郎、池田成彬Click!、久原房之助、鈴木貫太郎、米内光政Click!吉田茂Click!澤田廉三Click!、岩淵辰雄、賀川豊彦らの名前が挙げられていた。彼らは工作員の間では名前ではなく暗号で呼ばれ、たとえばハリス(鳩山一郎)、ヨハンセン(吉田茂)、シーザー(幣原喜重郎)、イワン(岩淵辰雄)などといった具合だ。この中で、“ヤマ”が特に力を入れていたのが、もっとも和平工作に積極的だとみられる吉田茂と近衛文麿のふたりだった。
 “ヤマ”では、対敵諜報を7種類に分類していたが、マークしている人物に対しては「辛工作」あるいは「己工作」を実行しようとしている。「辛工作」は工作員潜入であり、「己工作」は偵察訓練を受けた女中や書生の自宅潜入だった。ヨハンセン(吉田茂)工作では「己工作」が採用され、大磯の別邸へは東京麹町の本邸へすでに入りこんでいた女中スパイと、陸軍中野学校出の東輝次が書生として派遣されることになった。東京の吉田邸を電話盗聴していた“ヤマ”では、本邸にはすでに憲兵隊の女中スパイがひとり送りこまれているのを探知していた。したがって、中野学校が母体の工作機関本部では、大磯の別邸工作へと力を入れたものだろう。
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 このスパイの女中と東輝次が、平塚からバスに乗って大磯へと向かう様子は、地元の大磯住民によって早くも目撃されている。同書から、再び引用してみよう。
  
 (前略)あれは、十九年の十一月二十九日でした。(中略) 平塚からバスへ乗った若い男女が私と同じ、“西小磯の切通し”といって切符を買った。(中略) だから『切通し』と聞いたとたんに“おやッ”と思って顔を見たが見覚えがない。娘はもんぺ姿で大きなふろしき包みをかかえ、二十四、五歳の男は、当時流行の満州国の協和帽をかぶっていた。服は国民服で、胸に傷痍軍人記章をさげている。切通しのバスの停留所は、吉田さんの邸へのあがり口(中略)にあります。この切通しで、私の前に下車した二人は坂をのぼっていく。(中略) 翌日から吉田さんのところに新しい書生さんの姿が見えるようになった。そのときのもんぺの娘が本邸女中のおマキさんで、男が書生の東さんでした。
  
 東輝次は、この仕事を遂行するにあたって戸籍の偽造や身分・経歴の詐称、傷痍軍人らしい身のこなし方にいたるまで、徹底的な訓練を受けている。
 吉田茂の別邸は、大磯町西小磯に拓かれた切通しの海岸側にあり、北側とは国道1号線をはさんで三井別荘Click!(現・城山公園)と向きあっている。吉田の養父が、約1万坪の土地を取得して別荘にしていたもので、当初の建物は関東大震災Click!で倒壊し、間に合わせに建設した小さなバラック建築が吉田の別荘だった。のちの広大な「海千山千楼」に比べて10畳が2間に4.5畳と台所、それに離れの8畳間がついたささやかな建物だった。スパイの女中は4.5畳で、東軍曹は離れの8畳間で起居することになった。やがて、東京の本邸が焼けると、吉田は愛人の小りんを連れて大磯へ引っ越してきた。
 当時の別荘には水道が引かれておらず、東は書生として別荘の水汲みという重労働を毎朝こなすことになった。吉田邸を訪れた方はおわかりだろうが、邸は小高い丘の頂上にあり、ふもとの井戸水を丘上へ汲みあげるには何度も往復しなければならない。また、隣り町の二宮へ毎朝牛乳をもらいにいったり、広大な敷地の掃除など東の仕事はきつかった。ヨハンセン(吉田茂)は、家の重労働を黙々とこなす東輝次が気に入り、しだいにいろいろな会話をするようになった。吉田は歯に衣を着せないので、「このままでは、日本は敗戦必至、国が亡びる」といった意味のことまで平然と話すようになる。スパイとして入りこんだ東は、それに反発を感じないばかりか陸軍中野学校の天皇批判も許容されるような、「忠君愛国」とは正反対の「自由主義」教育に触れたせいか、冷静に状況を分析すると、徐々に吉田のいっていることが正しく思えるようになっていった。
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大磯切り通し.JPG 大磯池田邸.JPG
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 東京は空襲が激しくなり、工作機関の本部や“ヤマ”(工作室)も空襲の被害を受けた。いちいち特務員が東京へ出て、詳しい報告をまとめるのが困難になりつつある中で、いっそ大磯へ“ヤマ”(工作室)の出張所を設置してしまおうとするプランが具体化した。場所は、統監道の手前(東側)の国道1号線に面した北側で、現在の大磯中学校の斜向かいあたりにある2階家を借り上げることになった。このころには、吉田茂自身はもちろん東輝次やマキにまで憲兵隊の尾行がつくようになっていたので、工作機関本部では憲兵隊にふたりの素性が露見しないよう細心の注意が払われている。
 1945年(昭和20)4月15日の早朝、吉田邸は憲兵隊に包囲され吉田茂は逮捕された。直接はスパイ容疑だったが、憲兵隊では近衛上奏文Click!の作成に関与したとみて、その写しかメモを家宅捜査で探しまわった。憲兵隊の来訪とともに、東輝次は上奏文の写しが女中の手で台所のかまどですばやく燃やされるのを見ていたが、すでに大磯の新しい“ヤマ”で写真撮影が済んでいたのと、憲兵隊への反発からまったく止めようとはしなかった。結局、近衛上奏文は見つからず、吉田が樺山愛輔へ送った手紙の文面、「陸軍はもはやこの戦争遂行に自信を失い、士気の沈滞は蔽うべくもなく敗戦必至と存候」が反戦思想に問われ、陸軍刑務所に収監された。同刑務所が1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲で焼けると、吉田はそのまま釈放されている。
 それからの東輝次は、もはや吉田邸に用はなくなり、東京の本部からも早く書生を辞めて帰還せよという指令を受けていた。だが、吉田茂に対する罪悪感からか、食糧の配給が少なくなったのを心配して吉田邸の庭へ次々と畑を開墾し、苦労して手に入れた四季折々の野菜の種をまいて、吉田一家がこの先当分は食べ物に困らないようにしてから、吉田茂へは「母のもとへ帰りたい」といってヒマをもらい、近所の人たちには「憲兵隊がくる家だから、おっかないので辞めた」といって大磯をあとにしている。
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大磯工作室跡.jpg
畠山清行「秘録陸軍中野学校」1971.jpg 東輝次「私は吉田茂のスパイだった」2001.jpg
 戦後、東輝次は憲兵隊とは別組織の、陸軍中野学校を母体とする工作機関のスパイだったことを詫びようと、吉田邸を訪ねている。東が土下座して詫びると、しばらく沈黙したあと吉田は「当時は君が勝ったけど、いまはわたしが勝ったね」と上機嫌でいい、横にいた小りんからは「まアまア、あなたがスパイとは(中略) 私たちには恨みどころか、感謝していますよ。あの物のないときに、あんな苦労までして、私たちに畑をつくってくれた恩人ですもの」といわれている。事実、若い男がいなかった時代、「いい人がスパイとしてきてくれて、よかった」とでも感じたのではなかろうか。吉田茂のクルマで駅まで送られた東輝次は、吉田から記念にハマキをもらった。この日から、吉田家と東家は家族ぐるみの付き合いになっていくのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:バス停「切通し」(現・城山公園前)も近い、大磯町西小磯にある吉田茂邸。
◆写真中上は、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲後5月17日にB29偵察機から斜めフカンで撮影された戸山ヶ原の陸軍施設。コンクリート建築は焼けていないが、陸軍兵務局分室をはじめ木造家屋が全焼している。は、1944年(昭和20)に陸軍機から撮影された百人町界隈。は、百人町の工作室(ヤマ)があったあたりの現況。
◆写真中下は、大磯町西小磯に建っていた吉田別邸の間取り。中左は、バスの「切通し」停留所があったあたりの現状。中右は、吉田邸から東へ1,000mほどのところにある池田成彬の別邸。は、1946年(昭和21)に撮影された西小磯の吉田邸。小さなバラック別荘の前に、東輝次が開墾した広い畑が見えている。
◆写真下は、大磯町東小磯の国道沿いに設置された工作室(ヤマ)の位置。大磯をよく知らない方が作成した地図のようで、あちこちにおかしな地形や配置が見られる。は、工作室(ヤマ)があったあたりの現状。下左は、1971年(昭和43)に番町書房から出版された畠山清行『秘録 陸軍中野学校』。下右は、2001年(平成13)に光人社から出版された東輝次『私は吉田茂のスパイだった』。

佐伯祐三『戸山ヶ原風景』の描画ポイント。

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佐伯祐三「戸山ヶ原風景」1920.jpg
 謹賀新年。本年も「落合道人」サイトをよろしくお願いいたします。さて、お正月の第1弾は佐伯祐三Click!の作品で、描画ポイントが不明だった『戸山ヶ原風景』から……。
  
 佐伯祐三が1920年(大正9)に描いた、『戸山ヶ原風景』Click!の描画ポイントがほぼ判明した。10年前の記事では、あまりに漠然とした風景画に感じられていたので「どこだかわからない」と書いたが、戸山ヶ原の様子が各年代にわたり具体的につかめてきた現在、佐伯は特徴的な風景を画面に描いていたことがわかる。
 佐伯祐三は、他の画家たちのように戸山ヶ原の風景を、「郊外風景」や「武蔵野風景」といった一般的かつ単純なテーマをペースに、画面を構成しているのではない。そこには、人工的な手が大きく加えられ、他の戸山ヶ原エリアや近くの野原などには見られない、まるで工事現場か発掘現場のような殺伐とした風情を、意図的に画因に選んで描いている。このモチーフ選択は大正末から昭和初期にかけ、当時あちこちで道路工事が行なわれ建設現場が点在していた落合地域を散策し、あえてそのような殺風景な情景を好んで描きつづけた『下落合風景』シリーズClick!に通底する制作コンセプトだ。
 まず、以前にものたがひさんClick!が「『高田馬場』の佐伯祐三」記事Click!で分析されているように、佐伯が高田馬場時代に下宿していたのは、高田馬場駅から西へ歩いてすぐの界隈、すなわち戸塚町上戸塚(現・高田馬場4丁目)にあったとわたしも思う。それは、佐伯米子Click!をはじめ山田新一Click!など佐伯周辺の人々の証言を総合すると、佐伯の下宿は山手線の東側に拡がる、より陸軍施設Click!が多かった戸山ヶ原のエリアではなく、当時は陸軍科学研究所Click!の建物がほとんど存在せず、陸軍技術本部も移転してきていない、いまだ線路際が「着弾地」あるいは「避弾地」などと呼ばれていた山手線西側に拡がる戸山ヶ原エリアに近い位置だ。
 佐伯の画面を見ると、山手線の西側に拡がっていた戸山ヶ原(現・西戸山)の、非常に特徴的な風景をとらえているのがわかる。すなわち、戦後に北側へ80mほど遷座する以前の天祖社Click!の、南西約100mほどのところにポツンと立っていた、周辺に住む地元の人たちからは「一本松」と呼ばれていた、クロマツの大木が画面に取り入れられている。この一本松のほか、天祖社の境内にあった大木で、神木とされ注連縄が張られていた大ケヤキの樹木2本が、山手線西側の戸山ヶ原では特に目立つ樹木だった。佐伯は、天祖社の神木である大ケヤキではなく、原っぱの真ん中にポツンと立っていた一本松を、左端に入れて画面を構成しているのがわかる。
 そして、前面の随所で掘り返され、赤土がむき出しの戸山ヶ原の拡がりが、佐伯の制作意欲を強く刺激したのだ。実は、この西に拡がる戸山ヶ原独特の風情は、以前に陸軍士官学校Click!「演習地図」Click!として、すでにご紹介していた。陸士の測量演習によって作成された「演習地図」は、1917年(大正6)の戸山ヶ原をとらえたものだが、佐伯が『戸山ヶ原風景』を制作する3年ほど前の姿だ。同地図には、戸山ヶ原を縦横に走る土塁の表現が描かれてる。第一次世界大戦が終結して間もない時期、おそらく同戦争の最前線で重要な戦術のひとつとして注目された、「塹壕戦」に備えた演習が行なわれていたのだろうと想定したが、濱田煕Click!『記憶画・戸山ヶ原』Click!にも塹壕戦演習が行なわれていた事実がとらえられており、濱田の作品によって裏づけがとれたかたちだ。
一本松(拡大).jpg 塹壕(拡大).jpg
戸山ヶ原1909.jpg
戸山ヶ原塹壕1917.jpg
 ただし、濱田がとらえた塹壕は1938年(昭和13)のものであり、戦略的にも戦術的にも歩兵や騎兵を中心とする「塹壕戦」というような戦闘概念が時代遅れで、あまり重要視されなくなった時期のものであり(機甲部隊による歩兵も加えた機甲戦が最優先で想定されていただろう)、塹壕の側面をレンガで固めるなど、大正期の演習より塹壕の形態も仕様も進化し、強化されているのがわかる。濱田が思いだして描いた1938年(昭和13)現在、大正期に塹壕が縦横に掘られていた広い原っぱは、近衛騎兵連隊の演習が行なえるよう馬場として整備されており、馬術用の障害などが点在するような光景に変わっていた。
 さて、佐伯の『戸山ヶ原風景』には、3年前に陸軍士官学校による測量演習でとらえられた地表が、具体的な様子として描写されている。原の一面に見える茶色の土手のような“段差”は、小崖線が戸山ヶ原の丘を縦横に走っているのではなく、塹壕戦演習であちこちの地面が掘り返された跡だ。本来なら、平坦な草原が斜面一面に拡がっていたはずなのだが、陸軍の塹壕戦演習が毎年、戸山ヶ原のあちこちで繰り返されるうちに、このような姿になってしまったのだろう。塹壕戦演習は当初、市谷にあった陸軍士官学校の校庭を使って行なわれていたようだが、やはりスペースが狭隘で大規模な塹壕戦演習には適さず、戸山ヶ原や代々木練兵場まで出かけなければならなかった。
 佐伯の画面を見ると、光は正面の右手から射しているように見え、ほぼ南側を向いて描いていると考えられる。地面の盛り上がり、すなわち緩やかな丘のピークは正面やや右寄りにあるとみられ、地面は左にも右にも、また手前にも少し傾斜して下っているように見える。一本松が左端にとらえられているので、佐伯がイーゼルを据えているのはやや西側の位置であり、佐伯はキャンバスを南南東に向けて描いていると思われる。つまり、佐伯は戸塚町上戸塚795番地あたりの道路から戸山ヶ原へ入り、一本松を視界の支点にしながら南西に向かって歩いていった。換言すると、その地番の近辺に佐伯の下宿があった公算が高いことになる。高田馬場駅から、西へ歩いておよそ7~8分のエリアだ。
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塹壕戦演習(戸山ヶ原).jpg
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 戸山ヶ原を歩きはじめた佐伯は、一本松がちょうど左端に位置し、前面には掘り返された塹壕戦演習の土手や“段差”が、まるで波のように幾重にも重なるように見えるポイントで足を止めると、「おもろいがな」と画道具を下ろしてイーゼルをセッティングしはじめた。ただし、そのとき丘の遠景に頭をのぞかせている、山手線の東側に建っていた東京菓子工場の煙突の先端が気になっただろうか? 佐伯は、煙突を描かずに画面からあえて消してしまうか、あるいは一本松の陰に隠してしまうかで、ほんの少し逡巡したかもしれない。佐伯は、イーゼルと画道具をもったまま、少し北側へ後もどりすると斜面を少し下るかたちになり、うまく手前の一本松の陰に煙突が隠れた。
 佐伯が『戸山ヶ原風景』を描くのに、どれぐらいの時間をかけているかは不明だが、第1次渡仏前の作品なので、その筆致から比較的ゆっくりとしたスピードだったのかもしれない。絵具の黒は使われていないようで、茶と緑、青、白の濃淡で構成された画面だ。戸山ヶ原を覆う草がすっかり枯れているので、季節は冬と思われるが木々の緑には微妙に茶が混じっており、これらの樹木が常緑樹(遠景に見える百人町側の緑も針葉樹?)であることがわかる。ちなみに戸山ヶ原の地図では、山手線の線路際には広葉樹(多くは落葉樹)が多く、南側の百人町へ下る斜面には針葉樹が生えていたことが記録されている。
 『戸山ヶ原風景』は、佐伯が東京美術学校2年生のとき、1920年(大正9)の新春ないしは早春ごろの制作で、戸塚町に下宿してから半年ほどがすぎたころの制作だ。風が吹くと、赤土の土埃が舞って目を開いていられないほど散歩者を苦しめた戸山ヶ原だが、佐伯の画面には風が吹いているように見えない。冬のどこか春めいた陽射しを感じさせる暖かな昼、下宿を抜け出した佐伯は画道具を肩に、以前から気になっていた戸山ヶ原の写生にやってきた……そんな雰囲気を感じる画面だ。ちなみに、佐伯の描画ポイントには現在、「都営百人町四丁目アパート」群の高層建築が建っていて現場に立つことができないのはもちろん、『戸山ヶ原風景』のような眺望もまったくきかなくなっている。
 関東大震災Click!ののち、戸山ヶ原には陸軍の大規模な施設が続々と建てられはじめ、佐伯が描いた山手線西側の風景も大きく変貌しつづけることになる。その変化は、昭和期に入るとより顕著となり、1931年(昭和6)に日中戦争がはじまるころから、戸山ヶ原の穏やかな風景は一変する。そして、1941年(昭和16)を境に、さまざまな地図から戸山ヶ原は白く抹消され、陸軍の機密エリアとして秘匿されることになる。
一本松跡.JPG 天祖社跡.JPG
濱田煕「天祖社の境内から一本松を望む」1938.jpg
濱田煕「戸塚三丁目の家並み」1937.jpg
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 佐伯祐三の『戸山ヶ原風景』は、陸軍士官学校や戸山学校、近衛連隊などによる塹壕戦演習の痕跡も生々しい、どこか将来の戦争を予感させるキナ臭い情景の画面とはいえ、いまだ大正期のどこかノンビリとした平和な1日の昼下がりを切りとった、二度と見ることができない戸山ヶ原の穏やかな表情といえるかもしれない。

◆写真上:1920年(大正9)の初頭に描かれたとみられる佐伯祐三『戸山ヶ原風景』。
◆写真中上は、『戸山ヶ原風景』に描かれた一本松()と塹壕部分()の拡大。は、1909年(明治42)に作成された1/10,000地形図にみる山手線西側の戸山ヶ原。は、1917年(大正6)に陸軍士官学校の測量演習で作成された「演習地図」の同所。あちこちに土塁と思われる長い線が描かれ、塹壕戦演習が行われていた様子がうかがえる。
◆写真中下は、いずれも塹壕戦の演習を昭和初期に撮影したもので、市谷の陸軍士官学校で行われた演習()と、戸山ヶ原で行われた演習()の様子。陸士の演習では、兵士たちが防毒マスクを着用しており、明らかに第1次世界大戦の塹壕戦を想定している。は、1923年(大正12)作成の1/10,000地形図にみる描画ポイント。は、1936年(昭和11)に撮影された同所。陸軍科学研究所の敷地が北側へ大きく拡張されているが、天祖社の南西にある一本松はそのままで、いまだ伐採されていない。
◆写真下は、一本松跡の現状()と天祖社があったあたりの現状()。は、1938年(昭和13)ごろを描いた濱田煕『天祖社の境内から一本松を望む』(上)と同『戸塚三丁目の家並み』(下)。後者は一本松あたりから天祖社を見ており、大ケヤキの神木がとらえられている。は、現在の天祖社()と遷座とともに移植された神木の大ケヤキ()。

居間や応接室には全集本があった。

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 1908年(明治41)に戸田康保は、目白駅近くの雑司ヶ谷旭出41番地(のち42番地=現・目白3丁目)へ自邸を建設しているが、戸田邸Click!は1933年(昭和8)ごろに解体され、その跡地には尾張徳川家の徳川義親Click!自邸Click!(現・徳川黎明会+徳川ドーミトリーClick!)を建設して転居してきている。戸田家は、1938年(昭和8)の『高田町史』によれば雑司ヶ谷旭出から下落合に引っ越したことになっているが、実は子女のひとりが病気に罹患し、急遽、海岸近くの大井町へ転居している可能性が高いことはすでに記事Click!へ書いた。原因不明の発熱がつづく病気だった娘は、その後に全快しているようだ。
 『高田町史』が編集されていたころ、戸田邸の解体した部材を活用し改めて建設された住宅が下落合に残っている。タヌキの森Click!の近く、オバケ坂Click!を上りきったところにある、昔日の夏目貞良アトリエClick!九条武子邸Click!が建っていた斜向かいにあるA邸Click!だ。おそらく、明治建築の移築や部材活用の事業を積極的に展開していた、隣接する服部政吉の服部土木建築事務所Click!の仕事ではないかとにらんでいる。
 このA邸に、昨年の秋から「売り家」のポスターが貼られているのが気になっている。東日本大震災で、東側の屋根が傷んだものかビニールシートで覆われていたけれど、修理する様子もなくそのまま売り家になってしまった。
 戸田邸は、大温室が自慢の大きな木造西洋館だったと思われるが、その柱や窓の部材を活用したと思われるA邸は、外観が独特な意匠をしている。明治期の上質な木材をふんだんに使ったとみられる戸田邸なので、おそらくA邸の内部にもその部材が用いられているのだろう。買った方が、邸の傷んだところを修復してそのまま住んでくださればいいが、上物を解体してしまい、まったく新しい住宅を建設することになると、またひとつ明治期の面影を宿す住宅が下落合から消えてしまうことになり、ちょっとさびしい。宝くじにでも当たれば、わたしが引っ越して住みたいぐらいなのだが……。
 A邸の西側、道路に面したファサードは木造に漆喰の西洋館で、東側の半分は伝統的な和館の造りとなっている。おそらく、玄関を入ると南側の生垣に面して応接室か居間があり、建設当初の昭和初期には白い布カバーがかけられたソファーセットや、大きなラッパのついた蓄音機が置かれていたかもしれない。乃手Click!らしくアップライトピアノが置かれ、休日などにはショパンのエチュードが流れていただろうか。まちがっても、三味の音Click!は聞こえてこなかっただろう。居間や応接室の目につくところには、丸善の洋書や文学全集、美術全集などが並べられていたのかもしれない。
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 居間や応接室、書斎などにさまざまな全集本を並べるブームは、昭和初期ばかりでなく1960年代にも起きている。出版各社は競って名作文学全集や美術全集、大百科事典などを刊行したが、それが飛ぶように売れた時代だった。わたしも近所の家へ遊びにいくと、通された居間や応接室などには必ず「世界名作文学全集」とか「日本近代文学全集」、「日本の美術全集」、「日本近代洋画全集」、「現代日本文学全集」、「日本古典文学全集」、「世界哲学思想全集」、「世界大百科事典」……といった類の全集が並んでいた。また、ステレオ(ときに4chシステム)がある家には、「世界名曲全集」や「世界作曲家全集」といったレコード全集までも置かれていた。
 現代の感覚からすると、好きな作家の作品や音楽だけ買って揃えればいいのに……と、まことに奇妙な光景に映るのだが、当時は「宅はなによりも教養を重んじてますの」とか、「うちは知的水準が高いんですのよ」、「宅は高尚でもなんでもございませんの、主人が好きで並べてるだけですのよ、ほほほ」といった一種の訪問者へのポーズ、ときには訪問客へのささやかな「知的威嚇」の意味合いもこめて、せっせと全集を並べていたのかもしれない。また、敗戦の貧困や混乱からようやく立ち直り、生活に余裕が出てきたこと、やっと生活水準が戦前の状態を超えはじめていることを、家内で視覚的にも物質的にも実感したかったのかもしれない。
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 この60年代の全集ブームで、どれだけ出版社や作家、批評家が助かったのかわたしは知らないが、当時の全集セットを古書店で見かけて開いたりすると、ページとページの間が薄っすらつながったままの状態で、とても読んだとは思えない新品同様のものが出ていたりする。きっと、当時から長い長い期間にわたり応接室や居間に置かれ、“文化の神器”としての役割りを終えたものなのだろう。ブームに乗って、当時は大量に出版されたせいか、いまにしてみれば文学にしろ美術分野にしろ、全集本の価値は大暴落して驚くほど安価だ。
 さて、このサイトの記事を書くにあたり、過去のいろいろな新聞や雑誌などのメディアを調べ参照していると、1930年代と1960年代のものに必ず頻出する特徴的な媒体広告がある。もちろん、「全集本」の出版案内だ。特に60年代の広告は、わたしも近所のお宅で一度は実物を目にしたことがあるせいか、どこか懐かしい感触をおぼえる。かくいうわたしも、「少年少女世界の名作文学全集」Click!を親に買ってもらったが、半分も読まずに放置していた前科があった。文学全集や美術全集は、月1回の配本で少しずつ“部品”を組み立てていくパズル的な、あるいはプラモデル的な楽しみのダイナミズムや、全巻揃ったときの達成感が面白いのであって、隅々までていねいに読むものではないらしい。
 売り家になってしまったA邸だが、昔日のよき乃手生活を味わうには、静寂で、野鳥の声とピアノの音色がときおり聞こえ、庭先にはタヌキが出没するもってこいの環境であり、意匠に明治の香りが宿るいまや貴重な住宅物件だと思う。おそらく居間か応接室、書斎には窓の下までの低い書棚を設け、レコード(CDではなく)や全集本を並べるととてもよく似合いそうだ。建物を少しだけリフォームして、そんな生活に憧憬をおぼえる奇特な方は、どこかにいらっしゃらないだろうか。
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 A邸から北へ30mほどのところにある、九条武子Click!が住んでいた邸跡もいまだ空き地のままになっている。このサイトをご覧になり、にわかに下落合に興味をおぼえ好きになった方にはピッタリな、いかにも下落合らしい住宅への転居をお考えの方、一度散歩がてら歩かれてみてはいかがだろうか。山手線の目白駅と高田馬場駅、そして西武新宿線・下落合駅の3駅が徒歩10分以内で利用可能だ。マンションのような集合住宅では得られない、下落合の臭いや音、眺望、空気感を存分に味わえる住まい環境だと思われるのだが、近代建築のため厳冬期には少々重ね着が必要かもしれない。(ブルブル) さて、わたしはいつから、不動産屋のまわしものになったものだろう?w

◆写真上:売り家のポスターが貼られた、戸田邸の一部移築とみられるA邸。
◆写真中上は、1960年代にはよく全集本が並べられていた応接室()と書斎()。は、昭和初期の全集ブームのときに文藝春秋から出版された「小学生全集」。
◆写真中下は、昭和初期のブーム時には主婦向けの百科全集も出た主婦之友「実用百科双書」。下左は、1960年代に講談社から出版された「日本現代文学全集」(全108巻)。下右は、同社から60年代に出版された「20世紀を動かした人々」(全16巻)。
◆写真下:同じく、講談社から60年代に出版された「日本近代絵画全集」(全24巻)。

事故が頻発していた陸軍科学研究所。

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 落合や戸塚はもちろん、百人町や柏木の住民も知らなかったことだが、戸山ヶ原の陸軍科学研究所ではさまざまな事故が起きていた。各種火薬や毒ガス、毒性の強い化学物質、細菌、微生物などを扱う危なくてしょうがない施設なのだが、研究内容は軍の機密や極秘扱いなので、当然ながら周辺の住民は中でなにが行われているのか知るよしもなかった。
 陸軍科学研究所Click!に勤務し、敗戦間際には第9研究所(旧・登戸出張所)の中枢にいた伴繁雄は、2010年(平成22)に出版された『陸軍登戸研究所の真実』(芙蓉書房出版)で、戸山ヶ原時代の同研究所について次のように証言している。
  
 秘密戦資材、兵器の研究開発は爆発物のほか劇薬、毒物を取り扱うことが多く、危険、有害な研究に携わるものには、規則により化学兵器手当などが支給されていた。しかし、実験中などの事故がたびたび起きた。私の同僚にもこうした犠牲者がでたことを今も忘れることができない。
  
 陸軍科学研究所は、戸山ヶ原の百人町側にある正門から入ると陸軍技術本部の敷地を通り、もうひとつ設置された敷地内の門を通過しないと入れない厳重な構造になっていた。所員の出入りはこの1箇所であり、戸塚側の住民や子どもたちが入りこむ北側は、大正期には土塁が築かれて視界を遮蔽し、衛兵か憲兵の建物らしい詰所が設けられていた。昭和期に入ると、北側は近接禁止の低い柵と、3mほどはありそうな金網を張った鉄柵が設置され、鉄柵には電流が流れていたのかもしれない。
 同研究所で植物謀略兵器を研究していた、東京農業大学出身の所員の話を聞いてみよう。ちなみに、植物謀略とは植物や農作物、果樹などを死滅させるために細菌やウィルス、破壊菌など感染力の強い微生物をバラまいて、収穫に壊滅的なダメージを与える兵器のことだ。1938年(昭和13)に、陸軍科学研究所の植物謀略創設期に入所した松川仁という人物の証言だ。
  
 そんな時、陸軍技術本部で写真の技師をしていた知人から、科学研究所に勤めないか、という誘いがあった。たいして前後のことも考えず応募したのは昭和十三年も押し詰まった頃だったと思う。/陸軍科学研究所は戸山ヶ原の大久保寄りの一角に位置し、門は技術本部から入って右側にあった。(植物謀略兵器の研究)部屋は一室だけで、東大農学部植物病理学研究室の小川隆助手が嘱託として週二度出勤するほかは、毎日出勤するのは私だけだった。(カッコ内引用者註)
  
 これは、対植物に対する謀略兵器だが、対人間に対する毒物や病原菌などの謀略兵器が、大正後期から盛んに研究されていたことは広く知られている事実だ。同研究所に設置された各種プラントの煙突先端に、奇妙なかたちの濾過装置(特殊フィルター)が取りつけられていたのを見ても、周辺の住民へ健康被害を及ぼしかねない毒性の強い物質が取り扱われていたことを示唆している。
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 同研究所で研究開発が行われていた毒物(1941年より組織改編にともない戸山ヶ原から陸軍技術本部第9研究所=通称・登戸研究所へ移管)、すなわち研究分類としては「毒物鑑識」→「毒物の種類及鑑識」→「消化器障碍毒物」→「遅効性経口用」として、今日もっとも有名なものにアセトンシアンヒドリン(青酸ニトリール)がある。伴繁雄の同書から、再び引用してみよう。
  
 新製品は、青酸と溶剤のアセトンを主原料とし炭酸カリを加えたもので、この青酸化合物を登戸研究所では、アセトン・シアン・ヒドリン(青酸ニトリール)と呼んでいた。(中略) 無色、無味、無臭といってよく、青酸カリに比べ安定している特長があった。青酸カリが固体なのに対し、水にもアルコールにもよく溶けて飲食物に混合しやすい液体である。そのままでは青酸が揮発するため氷で冷却する必要があるが、注射用のアンプルに封入すれば保存と運搬が容易、という謀略毒物として優れた性質を備えるものだった。胃液の中で青酸が遊離して青酸ガスを発生させ、中枢神経を刺激しマヒが起こる青酸中毒死であるのは青酸カリと同様である。
  
 1941年(昭和16)6~7月に、アセトンシアンヒドリンの人体実験が中国の南京で、中国人の捕虜などを対象に行われている。陸軍科学研究所と関東軍防疫給水部(731部隊)との合同実験で、後者は細菌戦研究のほか青酸化合物の研究も行っていたのがわかる。
 また、長野県へ疎開した同研究所から敗戦直後、アセトンシアンヒドリンのアンプル200本が行方不明になっている。陸軍の士官が「自決用に」と持っていったきり、膨大な量のアセトンシアンヒドリンがいまだに行方不明のままだ。
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アセトンシアンヒドリンの化学式(分子構造).jpg 陸軍科学研究所1940.jpg
 このような劇薬や毒物、爆発物を扱う研究であれば事故はつきもので、伴繁雄自身も公開実験中の事故で全治6ヶ月の重傷を負っている。秘密兵器の研究開発のため、研究室相互の交流が希薄なためかお互いに事故情報の共有がなく、どのような事故や被害が生じていたかの詳細は不明だ。したがって、個人的な証言から判明している事故はほんの一部とみられ、伴繁雄の記録もすべて自身がかかわった実験中の事故のみとなっている。
 伴繁雄が大火傷を負ったのは陸軍科学研究所の北西側、戸山ヶ原の練兵場で昭和天皇に見せる実験会場においてだった。1930年(昭和5)10月に行われた「天覧実験」の様子を、伴繁雄の同書から引用してみよう。
  
 (前略)終わりに科学研究所から、試作したばかりの時限式焼夷筒を私が実演することになった。/ところが、若さのあまり緊張したためか、実演の開始直前誤って点火液を右手にかけ大やけどをしてしまった。痛みをこらえて時限点火を行い、直立不動のまま約三分後の発火を待った。焼夷筒は見事に発火燃焼し、三メートルの火炎が上がり実演は大成功に終わった。(中略) 医務室に行ったが、軍医が帰室していなかったため応急の手当で、軍医の治療はさらに一時間半あとになった。このやけどは化膿し、回復までに半年あまりもかかるものであった。
  
 伴はケガで済んだケースだが、彼が記憶している目撃証言だけで3名の同僚が死亡している。他の研究室を含めれば、危険な研究開発では膨大な死傷者が出ていると思われるのだが、すべてが極秘事項だったせいか詳細な統計記録は現存していない。同研究所の敷地内に、殉職者を奉った社(やしろ)が建立されているのを見ても、事故死した研究員の多さがうかがわれるのだ。
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 伴繁雄は火薬やマグネシウム、焼夷剤など爆発や燃焼の研究領域なので、毒ガスや細菌、毒物などは扱っていなかったようだが、戸山ヶ原の陸軍科学研究所には当然、それらの研究施設も設置されていた。大正期に頻発した大久保射撃場Click!からの流弾被害Click!に加え、研究所からの排煙・排気などで漏れ出た物質により、百人町や上戸塚界隈で原因不明の病気や症状に悩まされた方々の証言は、どこかに残っていないだろうか?

◆写真上:戸山ヶ原に建設された、陸軍科学研究所の中枢部があったあたりの現状。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に西側から東向きに斜めフカンで撮影された戸山ヶ原(百人町)の陸軍科学研究所/陸軍技術本部。北側の練兵場には、防諜用に視界遮蔽の植林が行われたのか森が形成されており、奥に見える山手線東側のドームが大久保射撃場。は、あちこちに残る科学研究所のものとみられる土塁跡や残骸。
◆写真中下は、関東軍防疫給水部(731部隊)の元・隊員に対するGHQ尋問調書の現物。下左は、アセトンシアンヒドリン(青酸ニトリール)の化学式(分子構造)。下右は、1940年(昭和15)に1/10,000地形図に描写された陸軍科学研究所/陸軍技術本部。翌年から同エリアは防諜のため、すべて「白地図」化されてなにも描かれなくなる。
◆写真下は、1944年(昭和19)10月から第9研究所(登戸研究所)で開発された「風船爆弾」に関する元・所員へのGHQ尋問調書の現物。は、1941年(昭和16)に撮影された神奈川県橘樹郡生田村の登戸出張所(のち陸軍技術本部第9研究所)。

九条武子の手紙(1)/下落合のご近所。

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 九条武子Click!が死去すると、その生活や生涯は徹底的に美化されはじめ、彼女の“おつとめ”や奉仕活動など表の顔が大きくクローズアップされる反面、飾らない素の顔や本来の性格へ覆いがかけられ、徐々に語られなくなっていく。中には、意図的に隠された美化を阻害するエピソードも多いだろう。彼女が敗血症により40歳で死去しているのも、美化に拍車をかけているのかもしれない。このシリーズでは、彼女の親しかった友人あての手紙に注目し、その装わない素の性格の一端をかいま見てみたい。
 まず、九条武子は誰も彼もが「美人」というのだけれど、わたしにはそうは見えていない。一見しておわかりのように、高麗屋が舞台で“おやま”を演じたような、女形の役者のような男っぽい風貌をしており、彫りが薄くてのっぺり顔が好まれる近畿圏では「美人」なのかもしれないが、こちらではさっそく“おやま”のニックネームがつきそうだ。声も兄にそっくりで、女性にしては低い男っぽい声をしていたことが、佐々木信綱の証言に残されている。おそらく、彼女の言動やよそいきの立居振る舞いから、おしなべて「美人」とされていたのではないだろうか。
 こんなことを書くと、下落合のご近所なので、あの世から「悪うございましたわね!」と化けで出て(いや、化けるときは東京弁山手言葉ではなく京都弁かな?w)、わたしも「あけがらす」Click!の仲間にされてしまうのも困るが、九条武子Click!はそういう茶目っ気のある“化け方”を、飾らない手紙の中でチョロチョロとかい間見せているように思えるのだ。羽織「あけがらす」の存在を知り、従来の九条武子観が少なからず揺らいだのも、私信を仔細に見直してみる契機となったしだい。ちなみに、九条武子はよく羽織や着物をこしらえては友人や知人に贈っており、羽織「あけがらす」も彼女があつらえて宮崎白蓮Click!とお揃いにした可能性がきわめて高い。
 下落合753番地に住む九条武子Click!から、ご近所の下落合1147番地に住む佐々木清香Click!へあてた手紙が何通か残されている。佐々木清香は尾崎行雄Click!の愛娘だが、佐々木久二Click!と結婚して下落合にいた。また、妹の相馬雪香Click!も下落合310番地の相馬邸Click!におり、いずれも歩いて5分前後のご近所だった。以下、九条武子の手紙を1929年(昭和4)に実業之日本社から出版された、佐々木信綱・編『九條武子夫人書簡集』から引用してみよう。
  
 1927年(昭和2)3月4日 下落合より清香夫人に
 木かげの雪いまだとけやらず、春ながらこのお寒さをいかゞ御過し遊ばされ居候や。御近くにすまひ申つゝ、御無沙汰のみかさね、御ゆるし給はりたく候。(中略) 品川の方も、昨夏頃、御母上様より御手紙いたゞきしまゝご無さたに相成、御様子もいかゞやらと御案じ申上候。何卒御序の節によろしう御申上たまはりたく候。(中略) 此くだもの、今頃のとて味のほどはいかゞかと存じ申され候へども、ふと見あたり候まゝ、御覧にいれたく持たせ上候。御主人様にも宜しく御申上いたゞき度、御無沙汰の御わびかたがた、右までかしこ。やよひ四日。武子。清香様。
  
 「品川の方」とあるのは尾崎行雄邸のことで、清香夫人の実家のことをさしている。また、なんらかのフルーツを贈っているようだが、日本橋三越Click!で買い物をすることが多い九条武子は、その並びにある千疋屋Click!でなにか見繕っているのだろう。
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 九条武子は、ことのほかカステラ好きだったようで、手紙のところどころにも登場している。当時、カステラといえば日本橋文明堂だったと思うのだが、彼女は長崎旅行へ出かけたおり、わざわざ長崎本店へ寄って大量のカステラを注文し東京へと送っている。これは、佐々木清香が開園したばかりの白百合幼稚園へ、園児全員が食べられるように大量注文したものだ。白百合幼稚園Click!について、九条武子の手紙から引用してみよう。
  
 1927年(昭和2)9月16日 下落合より清香夫人に
 近頃は御健かにいらせらる候よし、何よりと存じ候。私ことも元気に暮らし居、例の、あちこちかつぎまはされ、おみこしに乗りをり候。つひ、それゆゑ、思はぬ御無沙汰ばかりいたし、御許しいたゞき度候。幼稚園は、いかばかりかはいらしき御仕事と存じあげられ、一度拝見にあがりたく思ひ居候。(中略) 御散歩かたがた御遊びに御出遊ばされたく、御まち申あげ居候。昨日御使いいたゞき候をり、買物に外出いたし居候ことゝて、たゞちに御礼もしたゝめあげられず、失礼申あげ候。
  
 佐々木清香が、下落合1820番地に白百合幼稚園を開園したのは1927年(昭和2)9月の初めだったことがわかる。その後、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、焼夷弾が同幼稚園の石炭置き場を直撃しアッという間に炎上してしまう様子は、高良とみClick!の目撃情報として以前にもこちらでご紹介Click!していた。白百合幼稚園は戦後に復興し、下落合では同園を卒園された方も少なくない。
 つづけて、九条武子によるカステラの大量プレゼントの手紙を引用しよう。おそらく、彼女は自分の家にも何箱かを、旅先の長崎からわざわざ配送しているのだろう。また、ここでも彼女は、親しい友人に着物か半襟を贈っているのがわかる。
  
 1927年(昭和2)10月8日 下落合より清香夫人に
 さき頃電話にて伺ひましたに、今日は御留守との御事、残念に存じました。私出ます筈で御座いますが、失礼しまして、使で御免遊ばしませ。/御めずらしからぬものながら、(カステーラを)園の御子さまの御やつにでも遊ばしていたゞきたく 御襟はあまりいゝ色がなく、かこしおじみかも知れませぬが、御不断に召していたゞきましたらば嬉しう存じます。/此頃のさだまらぬ御天気加減、実にうつたうしう御座いますが、御元気さうにて、まことに喜ばしう存じあげます。今日、お父上様の全集をいたゞきました。(中略) 先日の鮎は、ほんとに結構で、七十五日生きのびました。まづは右のみかしこ。(カッコ内引用者註)
  
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 長崎から贈ったカステラは、速達に指定されたとしても、傷まず無事に下落合の佐々木邸へ配達されただろうか。飛行機便や宅配便のない当時、また保存料など添加されていないカステラは汽車に揺られ、また海峡を船でわたって再び延々と汽車に揺られて新宿駅ないしは目白駅の貨物駅に着き、大急ぎで配送されたとしても、賞味期限がギリギリの状態だったと思う。園児たちが、「お腹いた~い!」になっていなければいいのだが……。なお、文中の「お父上様の全集」は、1926年(大正15)に平凡社から刊行がはじまっていた『尾崎行雄全集』(全10巻)のことだ。
 彼女は、津軽照子のアトリエ開きにも出かけている。この津軽邸のアトリエとは、六天坂Click!の上にあったギル邸Click!の敷地に近接して建てられた可能性がある。昭和に入ると、下落合1775番地の旧ギル邸敷地全体が津軽義孝邸Click!に変わっており、義孝の養母である津軽照子はそこにいたからだ。ギル夫人は、草花を栽培し研究する趣味をもっていたようだが、津軽照子の「植物の御研究室」もそれに通じる趣味だ。つづけて、九条武子の書簡を引用しよう。
  
 1925年(大正14)2月12日 下落合より津軽夫人に
 先日は御つかれのなかを夕刻にうかゞひ、御迷惑なりし御ことゝ御わび申上候。まことに御立派なる御作品を拝見いたし、かねて御噂には承りをり候へども、たゞたゞ感じ入り、言の葉もこれなく候。植物の御研究室、御歌の御部屋、拝見御ねだり申あげ、あなた様ならではと、心づよくも存じあげ候ことに候。(中略) 先日鳥渡御はなし申上候私知人小野と申さるゝ方の家内の手芸品、もしその辺御序もあらば御覧給はりたく、十六日まで三越にて開きをられ候。御心づきも候はゞ御指示いたゞきたく、喜ばれ候ことと存じ候。
  
 九条武子の手紙で興味深いのは、自身が華族出自の裕福な“有閑夫人”でありながら、同じ有閑夫人あての手紙には明らかな温度差のあることだ。同じ既婚の女性でもなにかしらの奉仕活動へ専念していたり、佐々木清香のように自らの意思で働いている女性に対しての手紙は、文面の温度が高くてやさしい表現なのだが、そうではない女性に対してはどこか形式的で、文面の温度も相対的に低い。
 趣味におカネをたっぷりとつかい、華族の夫人連を招いて自慢したらしい津軽照子への手紙は、どこか形式的でよそよそしい文面になっている。大正末から昭和初期の思想状況の中で、ハッキリとした階級観とまではいかないまでも、有閑夫人連への皮肉や小さなトゲのようなものが隠されているのを、勉強好きな九条武子の文面へひそかに感じるのはわたしだけではあるまい。
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 この時期の九条武子は、関東大震災Click!の復興が遅れに遅れていた、本所や深川の窮民救済に奔走していたはずで、こののち歌舞伎役者たちとタイアップしたイベントを企画し、歌舞伎座の席をぜんぶ残らず買いきって裕福な夫人連をまとめて芝居に呼び、やや高額な席料を払わせて興行収入の何割かを復興支援資金にまわしたりしている。今日の広告代理店でも及び腰になりそうな、そのような大がかりなプロデュースをこなす彼女にしてみれば、危機的な状況を目前にしてなにもしない有閑夫人たちは、非常に歯がゆく映っていたにちがいない。さて、次回は九条武子の“ハゲ好き”について……。

◆写真上:上背もあるので、よけいに歌舞伎の女形に見えそうな九条武子。死去するわずか1ヶ月前、1928年(昭和3)1月に写真館で撮影された生涯最後の記念写真。
◆写真中上上左は、上掲写真の全身像。上右は、1929年(昭和4)に出版された佐々木信綱・編『九條武子夫人書簡集』(実業之日本社)の表紙。は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合753番地の九条武子邸。
◆写真中下は、1936年(昭和11/)と1963年(昭和38/)の空中写真にみる下落合1820番地の白百合幼稚園。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同園。
◆写真下は、1936年(昭和11/)と1941年(昭和16/)の空中写真にみる津軽邸。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された同邸。

戦前のアルバムにみる日本橋の人々。

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 昨年の秋に出版された『新宿区の100年』Click!(郷土出版)を含む写真集「目で見る100年」シリーズでは、2003年より順次東京の各区を出版しつづけ、現時点で東京21区までが完成している。残るは江戸東京の中核である、お城の千代田区と中央区の2区(2016年3月刊行予定)のみとなっていたのだが、出版社の都合で新宿区を最後に出版を中止してしまうようだ。このシリーズは赤字ではないようなので、たいへん残念だ。
 わたしは、次の中央区(特に旧・日本橋区)について、家に残ったアルバム写真Click!の提供も済み、その原稿書きを依頼されて楽しみにしていたのだが、ちょっと肩透かしをくらった気分だ。東京23区(旧・35区Click!)を写真集としてシリーズ化し、かんじんカナメの千代田区と中央区だけがないのは、文字どおり画龍点睛を欠くにちがいない。江戸期からつづく神田・日本橋、さらに明治からの銀座・京橋の街並みが目で見る写真集成として欠けているのは、なんとも残念でならない。
 同シリーズは歴史的な記念写真や有名な旧跡、絵ハガキなどになるような名所、どこかで目にしたことのある公式写真や報道写真など、従来の写真集にありがちな視点ではなく、あくまでも市民(庶民)の視線を通じて眺めた街角風景の写真集であることが気に入っていた。したがって、掲載される街並みや人々の写真類は個人のアルバムに保存されたものが中心であり、そういう意味からこの100年間を通じて当時の貴重な街の風情が、妙に飾らずありのままの姿で記録されている。
 もうひとつ、現在の千代田区と中央区の街並み、昔の呼び方をするなら神田区と麹町区、および日本橋区と京橋区は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!および1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!により、ほとんど壊滅的なダメージを受けている。だから、個人宅に保存されていたアルバムの多くは、明治から大正までの写真は関東大震災で、大正から戦前・戦中までの写真は東京大空襲で失われた。そこが乃手Click!の地域とは大きく異なる点であり、だからこそ同写真集シリーズに期待し、楽しみにしていたところなのだ。同シリーズの中央区に掲載される予定だった、家に残る旧・日本橋区の写真類Click!を、このまま埋もれさせてしまうのはもったいないので、全部はとても無理だが、その一部を当サイトの記事としてご紹介したい。
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 余談だけれど、出版予定の中央区を意識して親父のアルバムをもう一度ていねいに見ていたら、現在の新宿区北部がずいぶん写っているのに気がついた。親父のアルバムは日本橋の情景が中心という先入観があったため、あまり詳しくは見なおさなかったのだ。親父が下宿していた戸塚界隈(現在の早稲田・高田馬場地域)がメインなのだが、中には解体前の大隈重信邸前の芝庭でくつろぐ学生たちなども写っており、灯台下暗しのたとえ通り『新宿区の100年』へ提供しそこなっている。実家から1冊だけアルバムを持ち出して、そのうしろの余白ページへ学生時代に貼りつけたものだろう。
 さて、冒頭の写真からご紹介しよう。1936年(昭和11)の秋に、千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)の5年生が学芸会で上演した、「智恵の実」(『旧約聖書』創世記)の第1幕だ。アダム役は親父だが、イヴ役の女の子がその後どうなったかは聞いていない。ひょっとすると、東京大空襲で命を落としたかもしれない。次はエデンの園を追放された、2幕目「失楽園」の記念写真だと思うのだが、この生徒たちのうち、いったい何人が戦後まで生き残れたのだろう。男子たちは、ちょうど1943年(昭和18)の学徒出陣Click!の時期と重なり、学生生活を送っているはずだ。親父は理系に進んだため、数年の徴兵免除でなんとか生きのびられた。
 乃手の小学校は、男組と女組とに分かれていたようだが、これらの写真でもわかるように下町の小学校は昔から男女混成組で、それは戦前戦後を通じて一貫している特徴だ。また、学芸会は千代田小学校の講堂で行われたとみられるが、舞台は木造なものの、周囲が鉄筋コンクリート造りの耐火建築なのにも注目したい。千代田小学校は関東大震災のあと、先進的な防災・耐火建築として設計・建設された復興小学校のはしりだ。
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 同校を嚆矢として、日本橋区や京橋区(現・中央区)には次々と同じ仕様で設計された耐火コンクリートの小学校Click!が建てられていった。現在では、復興小学校Click!の建築は次々と壊され、戦災をくぐり抜け戦後も使われていた千代田小学校の耐火校舎も、日本橋中学校へ移行してから解体されている。
 もうひとつ目を惹くのは、静岡県の興津海岸で行われた1935年(昭和10)=4年生と1936年(昭和11)=5年生、そして1937年(昭和12)=6年生と三度にわたる臨海学校の記念写真だ。男子はみんな褌(ふんどし)だが、女子はおそらく日本橋三越Click!あたりで買ってもらったのだろう、実にさまざまなデザインのカラフルな水着を着ているのがめずらしい。5年生の臨海学校では男子と女子がちようど21人ずつ半々だが、6年生では男子24人に対して女子26人と、少し女子のほうが増えている。
 人形町の写真館で撮影された、女性たちの髪型の推移も面白い。大正末ごろまでは、いまだ圧倒的に桃割や丸髷が多いのだが、昭和期に入ると様子が一変する。電髪(パーマネント)の普及で、ロール巻きや耳隠しが急増していたのがわかる。わたしの祖母も、おそらく早々に美容院へ出かけて長い髪を切り、洋髪にしてせいせいしたのだろう。昭和に入って撮影された写真には、丸髷姿の女性は見えなくなっている。
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 街角でとらえられた子どもたちや、中学生・女学生など学生たちの写真も数多く貼られている。でも、彼らの無心な笑顔や彼女たちのオシャレで美しい姿を見ているのは、やはりつらい。乃手に残るアルバム写真とはちがい、下町の写真に残る人々は、死亡率がまったく異なるからだ。アルバムに写る人々の中で、親父を含めていったい何人の方々が東京大空襲から逃れ、かろうじて戦後まで生きながらえることができたのだろうか?

◆写真上:1936年(昭和11)秋に行われた、千代田小学校5年生の学芸会「智恵の実」。
◆写真中上は、同年学芸会の記念写真で撮影は小石川区白山下にあった斎藤写真館。は、耐火建築の復興小学校として絵はがきにもなった同小学校。親父の1年上には三木のり平Click!が、5年下には小林信彦Click!がいた。右側のウィングは「天覧台」と呼ばれ、明治期から代々の天皇が参観する公立の尋常小学校ということで、その住まいの「千代田城」からとって千代田小学校に呼称されるようになったと聞いている。
◆写真中下:千代田小学校の臨海学校記念写真で、静岡県の興津海岸で撮影されたもの。親父が4~6年生にあたり、1935年(昭和10/)・1936年(昭和11/)・1937年(昭和12/)の写真だが、女子の水着のデザインが個性的で面白い。
◆写真下は、親戚の女性たちの写真で大正期の丸髷()と昭和期の電髪=パーマネント()。は、昭和初期の子どもたちで学童自転車がめずらしい。


九条武子の手紙(2)/ハゲ好き。

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 九条武子の兄であり、真宗本願寺派Click!の僧侶だった光瑞の声音と、彼女の声とがそっくりだったのを短歌の師である佐々木信綱Click!がのちに証言している。目をつぶって声を聞けば、どちらがどちらだかわからないと書き、佐々木は「男子たらしめば」とか「誤つて婦人と生まれた」とまで書いている。
 1929年(昭和4)に実業之日本社から出版された佐々木信綱・編の『九條武子夫人書簡集』から、佐々木の証言を引用してみよう。
  
 (前略)僕は、武子夫人をして男子たらしめばといふ感じを起した。それは、夫人の声音から、話の調子も気分も、令兄光瑞師とあまりよく似ている。いや、眼をつぶつて聞けば、光瑞師その人の如き感があつた。(中略) あの堂々たる体躯、端麗なる風姿、その気魄、その識見、その文章、その弁論、殊に雑談に至つては、男子としての光瑞師は、まさしく婦人としての武子夫人である。(中略) また誤つて婦人と生れた、少くとも、法燈の奥深きところあまりに由緒の尊とすぎるところに生れた超人に武子夫人がある。
  
 この証言から、九条武子の声は女性にしてはかなり落ち着き、兄の声と聞きちがえるほど低音だったことが想像できる。「男子たらしめば」とか「誤つて婦人と生まれた」などと、故人に対して明らかに失礼な表現だが、九条武子を知る人間には、それがすんなり納得できてしまう特徴を彼女が備えていたからこそ書ける表現なのだろう。また、そんなことを書いても故人には怒られない感触が、親しかった佐々木信綱にはあったにちがいない。九条武子もまた、親しくなった人物を相手にするときは遠慮のない性格だったらしく、ズケズケと「失礼」ととられかねない冗談を平気でいっている。
 下落合753番地に住んだ九条武子は、同地番の北隣りに住み太平洋画会を主宰していた帝展の満谷国四郎Click!と親しかったにちがいない。毎年、帝展を観賞していたらしい彼女は、和田英作Click!や横山大観とは特に親しかった様子が手紙にも書かれているが、隣家同士の満谷国四郎とも交流はあっただろう。帝展画家の有力なパトロンだった今村繁三Click!から、“小使いさん”にまちがえられた満谷国四郎Click!は、洋画界ではなにかと“ハゲ”をトレードマークClick!にして“自慢”していた画家だ。そんな人物が隣りに住んでいたら、彼女がそれをそのまま黙って見すごしておくとはとても思えない。
 そう、九条武子はなにかとハゲ頭について、お茶目で「失礼」なことをいっているのが、何通かの手紙に記録されている。しかも、親しいハゲ頭の人物に対しては面と向かって突っこみを入れている場面もあり、彼女がハゲ頭を見るとひと言いじりたくなる、“ハゲ好き”だったことがうかがわれるのだ。
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 早朝5時に起きて、家の内外の掃除をはじめる九条武子Click!は、満谷邸とは北西の敷地が接しているので、庭掃除をしているときなど生け垣ごしに挨拶を交わしたかもしれない。竹ぼうきで落ち葉を集めながらお互いを認めると、若い女性が大好きな満谷国四郎Click!は常に満面の微笑みを浮かべながら、さっそく生垣ごしに挨拶をしただろう。
 「これは九条さん、おはようございます」
 「まあ満谷さま、おはようございます。朝から、ご精がでますのね」
 「きょうも秋日和で、気持ちがいいですな。もう帝展はご覧になりましたか?」
 「ほんとうに気持ちのよろしいこと。お陽さまが、あちらこちらで輝いてますのよ」
 「あ~はっはっは、こりゃ朝から一本とられましたな」
 「自画像のお作品、帝展ではまぶしゅうございましたわ。オ~ホホホホ」
 ……というような会話が交わされたかどうかは不明だが、彼女は隣人に出会ったら、頭を見ながらなにかいじりたくてムズムズしていたのではなかろうか。w
 ※満谷国四郎のモチーフは風景がメインであり、自画像はあまり描いていない。
 九条武子は1927年(昭和2)の夏、帽子をかぶったハゲ頭から流れ落ちる汗に難渋していた高島米峰へ、書斎のデスクに置かれたインクを乾かすプロッターの吸い取り紙を、帽子の中に仕こんで汗を吸着すればいい……などと、面と向かってまことしやかに奨めている。そんなことをいわれてしまった高島米峰当人の証言を、同書から引用してみよう。
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 九条さんは、謹厳の中にも滑稽を解し、洒落を解し、時に皮肉を浴せることさへ心得て居られたのであります。(中略) 私は御覧の通り頭が禿げて居ますが、夏になると汗が流れて始末が悪い。帽子を被つて居る時は流れ出ないが、帽子をとると溜つて居る汗が、堤の切れたやうに一度にどうツと流れて困るといふ実感を話しましたところ、九条さんは、「それならば帽子の中へ吸取紙を入れてお置きになつてはいかが」、と言つて互に大いに笑つたことがありました。
  
 このあと、九条武子は高島あての手紙には、「御つむりの御汗に、何か御良策つき候や」と書き添えることになる。彼女の頭の中では、帽子の中へプロッターごと吸い取り紙を入れ、帽子をとるたびにそれをハゲ頭へ押し当てて使う、高島米峰のおかしな姿が浮かんでいたのではないだろうか。「御良策つき候や」の問いの裏には、自分の思いつきを超えられるアイデアはございませんでしょ?……というようなニュアンスが感じられ、彼女は書斎で手紙を書いてプロッターを使いながら、お腹をよじって笑っていたのだ。
 こののち、高島米峰のハゲ頭は、九条武子が突っこみを入れる格好の標的になっていく。なにかというとハゲについて、手紙の最後に一筆書き添えるようになった。高島が自著の随筆集『思ふまゝ』を九条武子へ贈った際も、待ってましたとばかり“ハゲ好き”な彼女の餌食になっている。『思ふまゝ』の巻頭には、和田英作が描いた高島の似顔絵が掲載されていたが、九条武子は「巻頭のさし絵は、少し御気の毒にお見あげいたし、後世の為、申のこし度いやうにも思はれます」などと、さっそく返信に書いている。つづけて、高島自身の証言を聞いてみよう。
  
 (前略)「思ふまゝ」の口絵に、和田英作君が書いてくれられた私の似顔絵を掲げたのでありますが、それが実物以上の大禿げになつて居ましたので、可愛想だと思はれたのでせう。後世の為にこんなに禿げてはゐなかつたといふことを、申のこしてやりたいとか、美男にうつさせて貰うものをとか、大いに同情してくれられた訳であります。
  
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 随筆集の巻頭に、和田英作が描く大ハゲの高島像を見つけたとき、文机の前で腹をよじってククククッと大笑いをこらえる、九条武子の姿が目に浮かぶようだ。同時に、さっそく手紙で突っみを入れてやろうと、すぐにもプロッター片手に筆をとったかもしれない。おそらく、高島米峰は彼女と顔を合わすたびに、なにかおつむについて冗談をいわれていたのではないだろうか。そんな彼女が、なにかというとハゲ頭を自慢にしていた、隣りに住む満谷国四郎を放っておくはずがないのだ。さて、次回は関東大震災Click!の大火流から逃れた、九条武子の避難コースについて…。

◆写真上:午前5時に起床して、下落合753番地の自邸の庭を掃除する九条武子。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる満谷国四郎アトリエと九条武子邸。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる九条邸と満谷邸。すでにふたりは死去して、この下に住んではいない。
◆写真中下は、アトリエで撮影された満谷国四郎のおつむのアップ。下左は、満谷国四郎アトリエ跡の現状。下右は、書斎の机上には不可欠だった吸い取り器=プロッター。
◆写真下は、下落合の野良ネコとともに庭の芝刈りをする九条武子。は、九条武子が早朝に竹ぼうきで掃除をしていた南面の庭あたり。。

湧水源に多い龍の伝説。

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 落合地域とその周辺域には、「龍の伝説」があちこちに残っている。ときに、龍はヘビと習合して大蛇伝説や、農産物を害獣から守る蛇神伝説と結びついたりしている。このサイトをはじめた最初期に、七曲坂のヤマタノオロチ伝説をご紹介Click!したけれど、これは坂下にある氷川明神社Click!(クシナダヒメ)の出雲神話と、七曲坂の形状からくる大蛇伝説と、さらに湧水源に奉られた龍神伝説とが混合して生まれた、後世の付会物語のような気がしてならない。また、龍神を奉った湧水源や湧水池は、おもに江戸期になると弁財天Click!の信仰と習合して、弁天社Click!あるいは弁天堂が建立されるようになる。
 元来は、インドの蛇神であり水神だった「ナーガ」が、中国に伝わった際に「龍」あるいは「龍王」の当て字がつかわれたため、大蛇(おろち)や水神のイメージを残しつつ独特な「龍」という架空の動物が想像されたといわれている。だから、龍は大蛇と同一であり、また水神とも同体であるという信仰が、その後も長くつづくことになったのだろう……というのが、教科書的な解釈のしかただ。だが、日本にはすでに縄文時代から蛇信仰が認められ、原日本においては荒神祭とともに奉られる「龍蛇様」(出雲ケース)などに象徴されるように、少なくとも「龍」と習合する前後には大蛇信仰があったと思われる。
 また、日本では蛇=龍=水(泉)=雨(雷雨)というような祭祀の系統が顕著であり、近世に入ってから弁天(弁財天)がこの流れへ積極的に習合している。したがって、龍神を奉ってある古い社(やしろ)ないしは祠(ほこら)へ、後世に弁天(弁財天)が付け加えられている場所も多く、その代表例は相模湾の江ノ島に見ることができる。江戸期における江ノ島の物見遊山地化(大山詣でClick!帰りの観光地化)には、ややエロチックな姿で大きく開脚する弁財天が、格好の「人寄せパンダ」になっただろう。
 落合地域と周辺域には湧水源が多いせいか、あちこちに龍神が棲みついていた。龍神の移動も数多く目撃され、特に下落合の斜面や川沿いの道筋から、龍が飛翔する姿を見たという江戸期からの記録が残っている。その代表的な例として、妙正寺川沿いにおける目撃ケースから引用してみよう。1983年(昭和58に出版された『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)へ収録されたものだ。龍神が棲んでいたのは、下戸塚(現・西早稲田)の富塚古墳Click!に建立されていた水稲荷社の境内池で、すぐ南には龍泉院という寺建立されている。
  
 この水稲荷の境内には、比較的大きな池があり、そこには竜が棲んでいる。……と云われていた江戸時代の末頃のことである。ある春先の日のことです。朝から大変強い風が吹いて、池の水は波立って居りました。そのうちに、その波が大きく荒れ狂い、その中から黄金色の竜がまい上がり、空高く登って行きました。その日のことである。一人の村人がバッケガ原(目白学園の下の原)の妙正寺川で釣りをしていましたが、突然風が吹き出し、そのうちに突風が吹きまくるようになったので、とても釣りなどしては居られないと思い、帰り支度をしながら空を見上げると、雲の上に黄金色の竜がのり、江古田の方に飛んで往くではありませんか!! 村人はビックリして声を立てた途端、竜はギラギラと光る目で村人を見下ろしたそうです。村人は一目散に家に帰えり、フトンを敷いて貰ってもぐり込んで寝てしまったそうですが、三日三晩物凄い熱で死ぬ苦しみにあったそうです。
  
角筈十二社滝.JPG
 この目撃談はバッケが原Click!の釣り人だけでなく、稲葉の水車Click!近くの斜面からも村人が目撃した伝承が残っている。おそらく、同一時期の目撃譚ではないかとみられる。
 ほかにも、上高田村の南側にあたる池(現・中野駅北側にあった灌漑用の打越池?)から、龍が飛びだす伝承が残っている。この沼は付近の村人も近づかない、鬱蒼とした暗い湧水沼だったようで、「龍が出るからあすこへは行くな」というのが、近くに住む村人たちの“お約束”だったらしい。少し離れた角筈十二社Click!には、龍の原型と思われる蛇伝説があり、神田上水の湧水源である井ノ頭池の蛇神とも共通している。また、中野坂上には「蛇姫様」の伝承があり、社としてはその名もズバリ白金龍昇宮が鎮座している。
 ときに、湧水源や湧水池に棲みつく龍たちは、居場所を変えるための“引っ越し”をするようで、その転居を「目撃」した村人たちが、いくつもの説話を伝えたものだろう。その正体は、雨雲の切れ目に傾いた陽光があたり、雲の移動とともにそれが飛翔する龍の姿にみえたものか、あるいはつむじ風や竜巻が上空で発生し、渦を巻いて上昇するその様子を見て「昇龍」だと拝んだものか、いまとなってはいっさいが不明だ。
桜ヶ池不動堂龍神.JPG
瀧泉寺目黒不動.JPG
 一方、落合地域の北部でも、龍と白蛇伝説とが集合した湧水池のフォークロアが伝わっている。おそらく江戸期の説話だとみられ、葛ヶ谷村(現・西落合)の弁才天池にまつわる龍神(白蛇)信仰だ。1932年(昭和7)に発行された『自性院縁起と葵陰夜話』Click!から引用してみよう。
  
 弁才天池のことに就て前に葛ヶ谷の起りの所に一寸申しましたが、この神泉は数ヶ所あり中央を千川浄水(ママ)(井草川)流れこゝに祀る弁才天の利益によつて四時滾々(こんこん)と清泉流れ絶えないと、旱魃の際などは此の神泉に雨請を祈る時は必ず龍神雲を呼び来つて、祈祷会の未だ終らない中に忽ち豪雨を降す甚だ霊験のあらたかな池で里人此の池に白蛇棲むと伝へました。近年耕地整理の為めその跡小川と化してしまいました、是れ旧の井草川で一名千川浄水(ママ)といひました。
  
 ここに書かれている「千川浄水」は千川上水のことであり、「井草川」とはその分水流で、大正期には稲葉水車あたりから妙正寺川に注いでいた落合分水Click!のことだ。昭和期になると落合分水は暗渠化が進み、現在の目白学園西側のバッケ下で妙正寺川に流れ下っていた。
中井御霊社龍王神筵旗.jpg
 このほかにも、落合地域とその周辺域には龍神伝説が多数残っており、それらはすべて湧水源や湧水池に住む主神(ぬしがみ)として語られている。上掲の記述にもあるとおり、日照りがつづき田畑の農作物が旱魃に襲われると、当時の農民たちは「龍」や「龍王」の旗を押し立てて祈祷会を開き、雨乞いの龍神頼みをしている。そんなときに使われた「龍王神」の筵旗(むしろばた)が、中井御霊社に現代まで伝わっている。

◆写真上:湧水源や湧水池があるところには、必ず龍神や蛇神の伝説が生まれている。
◆写真中上:蛇神が棲むといわれる、角筈十二社(じゅうにそう)の人工滝。滝も十二社池も埋め立てられ、蛇神が棲むといわれた当時の面影は皆無だ。
◆写真中下は、上高田にある桜ヶ池不動堂に設置された龍神手水。もうひとつ、龍の宗教的な位置づけには仏教の不動明王との習合というテーマもある。は、目黒不動(瀧泉寺)の滝に建立されている剣呑龍。滝の龍神を奉っているのではなく、本来は龍神とは無縁な剣呑龍=不動明王を表現している。ちょうどカトリックで白百合が聖母マリアを象徴するように、剣呑龍または剣巻龍は不動明王の象徴だ。
◆写真下:中井御霊社に1棹だけ伝承された、雨乞い用の筵旗「龍王神」。

質屋の看板が目ざわりだった一ノ坂。

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一ノ坂1.JPG
 下落合4丁目1982番地(現・中井2丁目)に住んだ矢田津世子Click!は、関東大震災Click!ののち1925年(大正14)から1927年(昭和2)にかけ、身体の具合がよくない役人の父親が静養できるよう、年譜によれば郊外の「野方町大字新井56番地」から「野方町上高田216番地」に住んでいる。
 中野区に古くからお住まいの方は、上記の住所表記に「おや?」と思われるだろうか。ふたつの時代の住所表記が、そのまま併記されてしまっているので、昭和初期にお生まれの方には非常にわかりにくいだろう。前者の住所表記「野方町大字新井56番地」を、後者の「大字上高田」と同時代に合わせて表記すると、「野方町(大字)上高田(字)道南56番地」(現・中野区上高田1丁目10~11番地)のことであり、後者を当時の住所で正確に表現すれば、「同町(大字)上高田(字)道中216番地」(現・同区上高田3丁目38番地)ということになる。
 新井56番地の借家は、西武電鉄Click!の新井薬師駅で降りると南東へ直線距離で700mほどのところにあり、同家から北東へ900mほどのところにある中井駅との、ほぼ中間点に位置する地点だ。どちらの駅へ歩いても、省線(山手線)の高田馬場駅へと出る時間は、さほど変わらなかったのではないだろうか。
 したがって、矢田津世子をはじめ家族は落合地域にも馴染みが深かったとみられ、のちに下落合へ転居するきっかけとなったのかもしれない。その当時の様子を、1934年(昭和9)発行の「日本女性」9月号に掲載された、矢田津世子『月と父の憶ひ出』から引用してみよう。
  
 中野の新井薬師裏に住んでゐた。/家の裏手は広い原になり、原を越えた遠い丘の上に哲学堂の五重塔がちよつぺり(ママ)みえてゐた。電車の音がしないだけでも助かる、と云ひ、父はそこへひき移つてから幾分元気になった。(中略) 庭を越えて原一面が白銀に波立つてゐた。ふと、原の中に私は人影をみつけた。父に違ひない。
  
 彼女の父親は、深夜にバッケが原Click!を散歩するこのエピソードがあった2ヶ月後、新井56番地の家で胃癌により死去している。このあと、上高田216番地へ転居するのだが、「新井薬師裏」は同地番の借家であり、父親が死去した新井56番地とするのは彼女の記憶ちがいだろう。むしろ、バッケが原ごしに井上哲学堂Click!が見える同家は、功運寺Click!門前と表現したほうがいい位置に建っていた。
 また、「哲学堂の五重塔」も記憶ちがいだと思われ、和田山Click!の麓にある光徳院Click!の伽藍と、哲学堂の六賢台Click!とを混同しているように思われる。
上高田功運寺.JPG
上高田正見寺.JPG
 さて、改正道路(山手通り)の工事Click!により、自邸を大家が譲ってくれたひとつ西側の敷地へ引っぱっている矢田邸Click!は、矢田坂から一ノ坂に面するようになった。その家の様子を、1941年(昭和16)7月18日発行の「新潟毎日新聞」に掲載された、矢田津世子『坂の上』から引用してみよう。
  
 私の家は、坂の上のとつつきに建つてゐるので、眺望がひらけ、晴れた日には、遠い空に、くつきりと富士もみえる。/こんど、新道路出来(ママ)のため、下のはう(ママ)の家並がとりはらひになつたので、よけいに見晴らしがきくやうになつた。それだけに私の家は、どこからでも、よく見える。まるで、舞台の上の家みたいだと、坂をのぼつてくる知り合ひが悪口をいふ。/明朗で、開放的でなかなかいゝでせう。と私は口惜まぎれに、うそぶいておく。
  
 ところが、改正道路(山手通り)工事にともない一ノ坂から坂下の中ノ道へと抜ける斜面の南半分が、長さ60~70mにわたって断ち切られたため、矢田邸はのちに絶壁の上に建っているような風情となってしまう。また、この文章が書かれた当時、一ノ坂に沿った家々が改正道路工事で立ち退き、周辺の樹木も伐採されはじめていたため、夏になると訪問者は日蔭のない急坂を上らなければならなかった。
 さらに工事が進むと、改正道路の坂下を水平面として、一ノ坂をより急勾配の坂道へと改造しなければならなくなった。これは、山手通りの拡幅工事が済んだ現在でも同様で、あまりに急な斜面にはコンクリートの階段が新たに設置されている。つづけて、矢田津世子『坂の上』から引用してみよう。
  
 二階の私の部屋からは、坂を上り下りする人がよく見える。/汗をふきふき、息をきらして上つてくる知り合ひが、チヨイトこちらを見上げて、恨めしさうな眼つきをする。さうやつて坂を上る難渋を、まるで私のせゐにして大分、心臓が悪くなつたなどと厭がらせをいふのである。(中略) 坂の上ぐらしの、私の家のものたちは、肩身の狭い思ひである。
  
 いまでこそ、山手通りは大幅に拡張され、一ノ坂の長さもかなり短くなってしまった。だが当時は、赤土がむき出しのままの斜面を急傾斜の坂が、いまだかなりの長さでつづいていたものだろう。おそらく、同じ下落合に通う坂道にたとえれば、近衛町Click!に通うバッケ坂Click!や大倉山の権兵衛坂Click!聖母坂Click!と並行に上る久七坂Click!徳川邸Click!へ向かう西坂Click!などに匹敵するほどの急勾配だったとみられる。
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 1941年(昭和16)現在だから、山手通りが貫通する予定地の家々が立ち退き、道路沿いの地面を切り崩す工事の真っ最中で、原稿が書かれたのと同時期の1941年(昭和16)の空中写真を観察すると、矢田邸の南側と東側が深く落ちこんだ切り通しのような光景になりつつあるのが確認できる。だから、一ノ坂からは“障害物”が徐々になくなり、周囲から広く見通せるような状況になったのだろう。さっそく一ノ坂の電柱には、大きめな広告がベタベタと設置されたらしい。中でも、質屋の看板が矢田津世子には気に入らなかった。
  
 坂をながめてゐて、気に入らないのは、二本の電柱である。二本ともに、仰々しくペンキで質屋の広告が出てゐる。「森川質店」ともう一つは「質ハ石神へ」といふのである。この界隈には、質屋へ用のある人が多いと見られても、これでは弁解の余地もない。/坂を上り下りする人たちの眼がしぜん、この電柱へ行く。私は、なんだか済まないやうな気がしてならない。坂を通るたびに、とても、引け目である。
  
 自邸の周囲が、道路工事で赤土がむき出しの崖地になりつつあり、あれこれなにかと気に入らない矢田津世子だが、最後にひとつ、下落合の自慢を書き添えている。彼女の『坂の上』から、再び引用してみよう
  
 この下落合の辺の自慢は、空気の清澄さにつきると思ふ。街の中から帰つてきて、中井の駅に降りると、いつも、きまつてスツとした肌さむさを感じる。どのやうに暑い日でも、うちわを用ひるやうなことはないといつてよい。家にさへ居れば、風が通り汗ばむやうな暑さを覚えることがないのである。/先夜も、ある集まりのかへり、林芙美子さんといつしよに、中井の駅に降りると、思はず二人して深呼吸してしまつた。/「この辺の空気は、うまいね」/と、林さんもしみじみとそれを感じてをられるらしい。林さんも下落合には、もう長いのである。(中略) きれいな空気を沢山吸つて、それが節米にでも役立てばよいけれど、などとつまらぬことを考へたりした。
  
 この原稿が書かれた当時、すでに米は「非常時」の配給制となり、米屋から好きなだけ手に入れることができなくなっていた。だから、米を食べたいだけ食べられない心細さから、米どころ秋田出身の彼女は、思わず「節米」などと書いているのだろう。
矢田邸1941.jpg 矢田邸1945.jpg
近衛町バッケ坂.jpg
 『坂の上』が書かれた、わずか2年半後の1944年(昭和19)3月14日、矢田津世子は37歳で肺結核により死去している。もう少し食糧事情がよければ、戦後まで生きのびてなんとか治療の手立てもあったのかもしれないが、作家としてもっとも脂がのる時期が戦時中で、病状が日を追うごとに悪化したのは、なんとも不運としかいいようがないのだ。

◆写真上:一ノ坂の急勾配には、コンクリートの階段が設置されている。松本竣介Click!が撮影した写真には、電柱に「丸喜多質店」の大きな看板が設置された一ノ坂の上り口らしい風景が1枚残っているが、確証がつかめないでいる。
◆写真中上は、野方町新井56番地の矢田邸近くにある功運寺。は、やはり同地番の矢田邸に近い正見寺。江戸三美人のひとり、笠森お仙の墓所としても有名だ。
◆写真中下は、坂下が山手通りへと突き当たる一ノ坂の現状。は、一ノ坂から中井駅前へと抜けるために二ノ坂へ向けて設置された逆S字型道路。
◆写真下は、1941年(昭和16/)と1945年(昭和20/)の早い時期に撮影された空中写真にみる一ノ坂と矢田邸の様子。は、道路工事でほとんど消滅した一ノ坂を彷彿とさせる近衛町に通うバッケ坂。

九条武子の手紙(3)/関東大震災。

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 築地本願寺で関東大震災Click!に遭遇した九条武子Click!は、兵庫県に住む知人あてに「もうあれから半月になりますのに、まだ都は、ものものしいつけ剣の兵隊がまもつてをります」ではじまる長い手紙を書いている。彼女は1923年(大正12)9月1日の午前11時30分すぎに、女中をひとり連れ日本美術院の院展を見終えて帰宅している。
 汗をかいた着物を脱いで、浴衣に着替えた九条武子はソファに座り本を2ページほど読み進めたところで、いきなり強震が襲った。そのときの様子を、1929年(昭和4)に実業之日本社から出版された、佐々木信綱・編『九條武子夫人書簡集』から引用してみよう。
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 1923年(大正12)9月17日 青山より兵庫県魚崎海岸小西夫人に
 (前略)いつものとほりと、庭に面した柱によつて見てをりますうち、段々ひどくなり、たうとうはだしで、中庭に飛びおりましたが、瓦が落ちますので、あぶなくて、また家のうちに入つたり、さうする間に、台所に通ひます廊下と、台所の閾とが、三寸ほども開いてしまひますし、どうにも歩けませんの。でも、やつと裏の物干へ飛び出し、立木をしつかりつかまへてをりました。この時、本堂のゆれましたこと。今にもあの大きな建築が倒れるかと思はれました程。勿論、第二震で、私のすまひの屋根の瓦や壁は、大方ふりおとされ、五分間ほどの間に、あばら屋の様になりました。
  
 このときの築地本願寺は、江戸期からつづく大屋根を載せた巨大な本堂のままだった。この大屋根は、安藤広重Click!が日本橋界隈をモチーフにした風景画の随所に、江戸の街並みの中から突出して描かれるほど大きかった。本堂は震災の揺れで瓦1枚落ちなかったが、このあとに発生した大火流に呑みこまれて全焼している。
 九条武子が「いつものとほり」と書いているように、関東大震災が発生する以前には、かなりの頻度で予震が発生していた可能性が高い。この大震災への予兆は、鵠沼海岸の岸田劉生Click!も日記へ記録Click!している。この当時、九条武子はいまだ夫の九条良致といっしょに暮らしていた。つづけて、彼女の手紙から引用してみよう。
  
 ほんとに私どもは今から思へば馬鹿で御座いました。たゞ地震にばかりおそれて、内に入りませず、半日を暮らし、三時半頃良致帰宅いたし、これも大呑気で、本堂前の避難者など見まはりにまゐたりしてをりますうち、日も暮れかゝり、人の顔もうすうすの夕方になつて、俄然風の向きがかはり、今度は風下になり、一方は八町堀(ママ)から、一方は銀座から、どんどん焼き進んでくる有様で、もうかうしてはをられないと、表の者の注意にせき立てられ、着物を着かへましたのと、小さな手かばんに、その晩の野宿の用意にと、毛布や大ぶろしき二三枚つつこみ、少しばかり、手近にあつた貴金属のたぐひをほりこみました。(カッコ内引用者註)
  
築地本願寺.jpg 海軍参考館.jpg
 火災が迫る築地本願寺をあとにした九条武子は、近くの海軍参考館前へと逃れている。しかし、火の手のまわるのが速く、このときはすでに歌舞伎座のあたりまで火災が迫っていた。歌舞伎座から築地までは、まだかなりの距離があるはずなのだが、すでに強風で銀座から火の粉が盛んに飛んでくるような状況だった。このとき発生していた風が、いわゆる「大火流」Click!と呼ばれる現象を起す暴風だったと思われる。
 築地の端に追い詰められた九条武子たちは、群衆にまぎれて芝方面へ脱出するが途中で海軍軍楽隊の建物で休憩し、築地の精養軒(旧・西洋館ホテル)や農商務省が焼けるのを目撃した。また、すぐに築地本願寺にも火がまわり、江戸期からの巨大な本堂建築だったため「そのあたりの炎の物すごさ」を目のあたりにしている。この直後、九条武子たちは開放された浜離宮の外苑へと避難した。
 築地の様子を見にいった者がもどり、すでに本願寺は火がまわっているということで、さらに山側へ逃げようと、九条武子たちは別院のある青山高樹町めざして出発した。彼女たちは、東京湾の海沿いをたどりながら南へ向けて避難しているが、日が暮れたあと芝公園のあたりから一気に西に向かって内陸部に入り、火災が起きてない方角をめざしている。つづけて、青山までの避難路の様子を引用してみよう。
九条武子ハガキ1.jpg
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 私どもは徒歩にて、あちこちの焼ける爆発の音を後にして。淋しいともなんともいはれぬ心もちで、芝公園をさしてあるいてまゐりました。ときどきうしろを見ますと、一面の火の海で御座います。なんといふ怕ろしいことになつたのでせうと思ひつゝ、十一時頃、高樹町の宅に着きましたが、こゝは殆ど別世界の様に静かで、風もなく、月が秋らしう静かに澄んでをりました。うまれかはつた様な心持が致しました。翌日、別院の人達もまゐり、その後の恐ろしい有様を聞きまして、よく早く出たと思ひました。本堂は、九時四十分に棟がおちました由。私どもの逃げた芝公園附近も、やはり其あとで焼けましたり、離宮の橋も、御門も、避難の船も、皆焼けて、たうとう一萬人余の避難者は、内苑に入れていたゞいて、やうやう、被服廠あとのやうな、むごたらしいことはならずにすみました由。
  
 九条武子はこのあと、1923年(大正12)10月末まで青山高樹町で避難生活をつづけ、その間に中野駅から「女の足で十分ほど」のところに仮住まいを探して決め、11月に京都へ一時的に帰省したあと、彼女が「美術村とやら異名されて」いる下落合へは、同年も押しつまった12月29日に転居してくることになる。1924年(大正13)の正月早々に、下落合から投函された佐々木信綱・雪子夫妻あての手紙には、ようやく落ち着いた彼女の様子が伝えられている。
九条武子避難路.jpg
 1923年(大正12)9月17日の手紙には、築地本願寺の大本堂に火災が迫り一部が燃えだしたとき、ふたりの老婆が本堂へ自死しにきた様子が伝えられている。ふたりは、おそらく東京じゅうが炎に包まれるのを見て絶望したのだろう、燃える本堂の中へ入っていった。翌朝、きれいな白骨になって出てきたことが書きとめられている。自死したふたりの老婆のほか、築地本願寺では逃げ遅れた焼死体が7~8体も見つかっている。おそらく、火災を防ごうと本堂へ参集した信者たちが、火災に巻きこまれたのではないだろうか。さて、次は下落合への転居をめぐる、九条武子の手紙から……。

◆写真上:下落合753番地の自邸で、庭に面した南端の座敷縁側で縫い物をする九条武子。陽射しの角度から、午前10時ごろの撮影だと思われる。
◆写真中上は、江戸期から変わらない明治期に撮影された築地本願寺の大屋根。は、九条武子たちが一時的に避難した築地の海軍参考館。
◆写真中下:いずれも、九条武子が1921年(大正10)4月に鹿児島へ旅した際に投函した自筆の絵葉書。彼女は、日本画家・上村松園の門下生でもあった。
◆写真下:関東大震災時における九条武子の避難ルートを、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真に描きこんだもので、約6~7kmほどの行程になるだろうか。

上戸塚にも「バッケが原」があった。

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戸塚バッケが原跡.JPG
 濱田煕Click!が、戸塚町上戸塚(現・高田馬場)や戸山ヶ原Click!の周辺を描いたのは、おもに早稲田中学へ通っていたころのようだ。スケッチブックを片手に、自宅近くに拡がる風景を描いていたのは、東京美術学校Click!への進学をめざしていたからだろう。同中学を終えると、濱田は希望どおり東京美術学校へと入学している。
 以下、1988年(昭和63)に出版された濱田煕『記録画・戸山ヶ原』(光芸出版)の「まえがき」から、近所の記録画を残す経緯について引用してみよう。
  
 故郷がどんどん破壊されつつある今日此の頃である。東京で生まれ東京で育った私には“兎追いし彼の川”(ママ)で表現されるような故郷はない。しかし幼児期から少年期を過した所を故郷とするならば、まさしく戸山ヶ原が故郷の風物ということになるだろう。イナゴ追いし彼の原なのだ。/新宿区高田馬場、当時の淀橋区戸塚町に住んでいたのは、大正11年(1922)豊多摩郡上戸塚町で生まれてから昭和43年(1968)まで約48年間である。昭和5年秋から7年夏までの2年間、現在の銀座二丁目で育った以外は戸山ヶ原の傍を離れることなく過して来た。昭和7年再び戸塚町に戻って来た時、父は当時の戸塚町四-791に仮寓した。戸山ヶ原の目の前である。その後戦争をはさんで何度か住いは変ったが、200mと原から離れることは無かった。/これら一連の水彩は、主に中学時代にスケッチして記憶に残っている戸山ヶ原を、思い出しながら再現したものである。原画は昭和20年5月25日の空襲で焼失してしまったので15年位前から思い出す毎に描いてみたものである。
  
 濱田煕は、美校を卒業すると大手の自動車メーカーやデザイン会社へ勤め、その後フリーの工業デザイナーかイラストレーター、あるいは油彩・水彩画家となっている。
 濱田の『記録画・戸山ヶ原』には、ところどころに昭和初期を回想した気になる記述がみられる。上戸塚の「バッケが原」も、そんな気になるテーマのひとつだ。これまで、目白崖線沿いの下落合4丁目(現・中井2丁目)の前に拡がる大正期のバッケが原Click!、妙正寺川に築かれたバッケが原のバッケ堰Click!、上落合地域へ宅地化の波が押し寄せると田畑をつぶして耕地整理が行われた、目白崖線西側の上高田に拡がるバッケが原Click!についてご紹介してきた。また、戸塚町側では下戸塚(字)源兵衛Click!の急斜面下にふられ、昭和初期まで残っていた小字、バッケ下Click!もご紹介している。
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 落合地域や戸塚地域(現・高田馬場・早稲田地域)、あるいは高田地域(現・目白地域)の界隈で、川沿いの崖地や急斜面のある地形およびその近くの風情、そして地表近くに水脈があり湧水が噴出するような場所を、「バッケ」Click!と呼称していた昔日の様子がうかがえる。そのような斜面に通う坂道のことを通称バッケ坂Click!と呼び、バッケの意味が通じにくくなった明治以降、バッケ坂は「オバケ坂」や「幽霊坂」に転化し、坂名に見あうもっともらしい逸話が付会されていそうなことにも触れてきた。
 そのバッケの名称が、現在の下落合の南、早稲田通りのさらに南側の上戸塚にも、戦前まで存在していたことが判明した。バッケが原と呼ばれていた原っぱは、戸塚町3丁目892~896番地(現・高田馬場4丁目)あたりの戸山ヶ原にほど近い敷地だ。昭和初期の地番表記でいうと、戸塚町(大字)上戸塚(字)稲荷前892~896番地界隈ということになる。高田馬場駅から南西へ200mほど歩いたところ、現在のコーシャハイム高田馬場の集合住宅が3棟並ぶ、もともとは戸山ヶ原へと抜ける丘の崖地ないしは急斜面だった一帯だ。
 上戸塚に展開していたバッケが原の様子を、同書から引用してみよう。
  
 緑色の部分が戸山ヶ原で、軍の用地であったが一般の人が自由に出入りしていた。科学研究所や射撃場は軍の管理下であった。戸塚三丁目内の緑地は当時バッケが原といわれ、樹木の茂った崖下の小さな原ッパであった。
  
 著者は「崖下の小さな原ッパ」と書いているが、これは著者がそう呼んでいた少年時代の姿であり、より古い時代にはもっと範囲が拡がっていたかもしれない。
 関東大震災Click!以降、東京市近郊へ宅地化の波が押し寄せてくると、戸塚町に残っていた農地や草原、森林は急速に消滅していった。上落合も宅地化が進んだのは同様だが、大正期の妙正寺川沿いに拡がるバッケが原は範囲を縮小せず、昭和に入り田畑をつぶして耕地整理が進められ、一面に草原が拡がっていた上高田のある西側へと“移動”していったと思われる。だが、上戸塚のバッケが原は周囲を住宅に囲まれつづけ、徐々にその範囲が狭められていったのではないだろうか。
早稲田通り崖地.JPG
戸塚バッケが原1944.jpg
 濱田煕は、残念ながら上戸塚のバッケが原風景を作品に残していないようなのだが、この北側へと下る斜面のはるか下に流れているのは、旧・神田上水(1966年より神田川)だった。上戸塚のバッケが原は、戸山ヶ原へと抜ける南の丘の崖地北側に拡がっていたことになるが、この斜面を北へ下るともう1段、早稲田通りの北側へ急激に落ちこむ険しい崖地Click!がある。つまり、旧・神田上水側から南を眺めると、遠くひな壇状に見えたであろう1段目と2段目の崖地の間に、上戸塚のバッケが原が拡がっていたことになる。この地名(地形)呼称は、ちょっと重要だ。
 従来、「バッケが原」「バッケ下」「バッケ坂」などの名称は、河川によって削られた崖地そのもの、あるいは河川沿いの崖地付近にふられた地名(地形名)として呼称されていた……と解釈してきた。実際にバッケの地名が残る一帯は、そのような地形や風情をしているのだが、戸塚町上戸塚のケースを見ると川からかなり離れた場所、すなわち“内陸部”でもバッケと呼称されたであろう地名があったことがうかがわれる。実際に、上戸塚のバッケが原は旧・神田上水から南へ300m以上も離れており、川沿いの地名として解釈するには明らかに遠すぎて無理があるのだ。
 すなわち、「バッケ〇〇」とはいちがいに川沿いの地名(地形呼称)とは限らず、かなり河川から離れた“内陸部”でも存在する可能性がある地名ということになる。その意味する共通項は、「水脈が地表近くまで迫り湧水源のある崖地または急斜面」ということになるだろうか。いままでは、おもに河川沿いでバッケの地名Click!を探してきたのだが、河川から遠い崖地や急斜面でも上記の条件を満たしている風情であれば、江戸東京地方ではバッケと呼称していた可能性が高いことがわかる。バッケ=河川沿いの地名(地形)……という先入観は、どうやら棄てたほうがよさそうなのだ。
戸塚バッケが原1909.jpg
濱田煕「戸山ヶ原」表紙.jpg 濱田煕「戸山ヶ原」扉.jpg
 濱田煕が描いた作品の多くは、新宿歴史博物館に収蔵されているようだが、その画面には上戸塚側から下落合を眺めた作品も少なくない。ぜひ現物の画面を見てみたいものだが、また機会があれば、下落合を望んだ何点かの作品をご紹介したいと考えている。

◆写真上:戸塚町3丁目(現・高田馬場4丁目)の、バッケが原と呼ばれた斜面の現状。崖地をひな壇状に整地したようで、集合住宅の高さが3棟とも異なっている。
◆写真中上は、濱田煕『記録画・戸山ヶ原』(光芸出版)掲載のマップに描かれたバッケが原。は、1936年(昭和11)の空中写真に見る同原。このとき、バッケが原は住宅に囲まれて縮小し、大正期とは比べものにならないほど狭くなっていただろう。
◆写真中下は、早稲田通りへの急坂が通う崖地だったあたり。は、1944年(昭和19)の空襲直前に撮影された空中写真にみるバッケが原。
◆写真下は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる住宅街が押し寄せる以前のバッケが原界隈。は、濱田煕『記録画・戸山ヶ原』の表紙()と扉()。

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