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下落合で「狂い死に」した近藤芳男。

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 落合地域には、すでに名を成した誰もが知る芸術家たちが数多くアトリエをかまえていたが、もちろん東京美術学校Click!を卒業して間もない画家の卵や、「さあ、これから!」というときに病気で夭折した画家たちも大勢暮らしている。きょうは下落合に住み、曾宮一念Click!に画道具の買い方を教えてくれた、彼より2年先輩の洋画家・近藤芳男について書いてみたい。
 近藤芳男は、美校研究科在学中から光風会展に出品し、1912年(明治45)の第1回展で今村奨励賞を受賞している。つまり、近藤芳男もまた中村彝Click!曾宮一念Click!と同様に、成蹊学園の中村春二Click!を通じて今村繁三Click!の支援を受けていた画家のひとりだ。2007年(平成19)に東京藝術大学で開催された「自画像の証言」展図録に、近藤の自画像が収録されているが、メガネをかけ痩せぎすで神経質そうな風貌をしている。
 東京美術学校へ入学したてのころは、しばらく石膏室Click!でデッサンの実技を繰り返し勉強するので、絵の具やパレットなどの画道具を持たない学生も多かった。曾宮一念もそのひとりで、入学後しばらくしてから課題の必要に迫られて、ようやく画道具を買い揃えている。そのとき、画材の揃え方について買い物のアドバイスをしてくれたのが、2年上のクラスにいた近藤芳男だった。
 曾宮が紹介されて出かけた画材店とは、神田の文房堂か隣接する竹見屋、または丸善神田店のいずれかだったと思われるが、関東大震災Click!ののち、画材を揃えるのにもっとも便利な美校校門前の浅尾沸雲堂Click!は、いまだこの時期には開店していない。曾宮と近藤は、すでに以前から水彩画会を通じて顔なじみだったようだ。
 そのときの様子を、1985年(昭和60)に文京書房から出版された、曾宮一念『武蔵野挽歌』から引用してみよう。
  
 五月第二週から半月、風景競技でデッサンは休みとなり好きな風景を描けるのは有難かった。しかし英語と体操に週四度出席は有難からず、油画の道具を持たないので、水彩画会で知り合いの近藤芳男が二年上にいたので、買い方を聞いて買いに行った。十円で、箱、絵具、筆、油、カンバス、筆洗一揃を買って帰宅し、すぐ夏蜜柑とリンゴを四号に描いた。案外油画は便利なものだと喜んだ。この処女作は今もって行方不明である。
  
 曾宮一念はデッサンの授業が苦手だったらしく、早くキャンバスに向かって油絵を描きたかった様子が伝わってくる。授業の中に「英語」が出てくるが、美校の洋画を志望する学生は、ほとんどがフランス語を選択したので、英語を選んだ学生は曾宮を含め同じクラスでわずか3人しかいなかった。このとき、美校で英語の教師をしていたのが森田亀之助Click!で、教科書には彫刻家の『フランソワ・リュード伝』を用いている。佐伯祐三Click!に英語を教えたのも森田亀之助だが、彼は曾宮や佐伯がアトリエを建てて暮らしはじめるよりも、かなり早くから下落合に住みはじめている。
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 美校の学生を終えた近藤芳男は、このあと研究科に残って制作をつづけていたようだが、このころから異常な様子や行動が見えはじめていたらしい。研究科の教授たちも、彼をもてあましていたようだ。同じ水彩画会に属する曾宮一念に会っても、彼を誰だか認識できなくなっていた。
 近藤芳男が、いつ家族とともに下落合で暮らすようになったのか、その経緯はまったくの不明だ。曾宮一念は、近藤の消息をのちに下落合で聞くことになる。それは、近藤がすでに「狂い死に」したあと、中村彝アトリエClick!でいっしょになることが多かった、鈴木金平Click!を通じてだった。前掲書から、つづけて引用してみよう。
  
 水彩画会の先輩近藤芳男に油絵具の買い方を聞いたことは先に記した。この近藤は大正三年卒業後研究科にいたので、私と顔を合わせたが口もきかず横向いて私を逸した。身体がひどく痩せていた。光風会に裸婦の大作が出ていたのを私は感心して見ていると、彼の親しい教授小林万吾がいて「近藤には大いに困っている」とだけ漏らした。その裸婦は色も良く達筆な力作だがどこか不気味さに満ちていた。その後のある日、落合で鈴木金平に会うと、「いま近藤芳男の家の前で屑屋からこれを五円で買った」と言って絵具箱と十数点の画布を見せた。裸婦や静物が例の流動的な筆で描かれて、何か異常な匂いがあった。近藤は結核が脳に来て狂い死にしたので、家族が遺作を売り払ったことがわかった。
  
 近藤芳男は、1917年(大正6)に死去しているので、このときの鈴木金平は中村彝アトリエのすぐ北側、清戸道(現・目白通り)に面した藁葺家の2階を借りて住んでいたころのことだろう。つまり、鈴木金平の文章から近藤芳男の家は、目白停車場から中村彝アトリエの近くへといたる、どこか途中にあったのではないかと想定することができる。このとき、曾宮一念はまだ下落合に住んではおらず、おそらく中村彝を訪ねて鈴木金平に出会ったと思われるのだ。
 すでに研究科にいたころから、近藤芳男は曾宮一念の顔を認識できなかった様子なので、結核菌が脳に入って炎症を起こす結核性髄膜炎により、重度の記憶障害を起こしていたことがうかがえる。症状としては、焦燥感をともなう認知症のような状態がつづき、ストレプトマイシンが存在しない当時としては手の打ちようがなく、文字どおり「狂い死に」のようなありさまだったのだろう。
 いろいろ探してはみたものの、近藤芳男の作品は東京藝大の美術館に保存されている『自画像』の1点を除き、まったく発見することができなかった。ひょっとすると鈴木金平か、あるいは家族が遺作の一部を自宅に保存しつづけ、その後、どこかへ伝わっているのかもしれないが、「何か異常な匂い」のするそれらの作品は、もはや行方不明で目にすることができない。
近藤芳男1914.jpg 自画像の証言2007.jpg
 さて、曾宮一念は妙正寺川をはさみ、下落合のすぐ西に隣接して住む、耳野卯三郎Click!のアトリエについても貴重な証言を残している。耳野は、雑司ヶ谷のアトリエから下落合を飛びこえ、大正末から上高田421番地にアトリエをかまえていたのだが、これは上高田422番地の甲斐仁代Click!中出三也Click!が暮らしていたアトリエのすぐ隣りの地番だ。甲斐・中出アトリエClick!は、二科の洋画家・虫明柏太が34歳で死去したあと、未亡人からそのアトリエを借り受けて住んでいたものだが、その隣接する区画、つまり妙正寺川に架かる北原橋の西詰めには、ほかにもアトリエが建ち並んでいた様子がうかがえる。曾宮一念の前掲書から、引用してみよう。
  
 耳野卯三郎の家の近くのこの川を私は幾度か描いた。画を描きながら泳ぎ好きの私は飛込みたくなったのに、戦後耳野を訪ねて川辺を通ると泥みぞと化し、猫の死体からボロ蒲団まで捨てられて、呼吸をとめて歩くほどに汚れていた。私は日本人慢性の悪癖を嘆いた。私が落合川と名付けた川は落合から関口の幽邃(ゆうすい)な崖下で渓谷風景をつくり、その西側には大きな筧が道の上に釣られて水車を廻していた。
  
 曾宮一念が描いた妙正寺川の風景作品を、わたしはまだ一度も観たことがない。おそらく、当時の妙正寺川沿いの風景は鈴木良三Click!が描く『落合の小川』(1922年)や、林武Click!の『下落合風景(仮)』(1924年)のような風情だったので、同じような画面だと思われるのだが……。
 曾宮もまた、旧・神田上水(現・神田川)のことを「落合川」と呼んでいたのがわかる。耳野卯三郎は、大正末から戦後の1960年代まで上高田421番地に住んでいて、曾宮が訪ねたのは妙正寺川が腐臭漂うドブ川となっていた、1960年代ではないかと想定することができる。耳野アトリエの住所は、大正期の上高田421番地から昭和初期には上高田2丁目421番地、戦後の1960年代には上高田5丁目11番地と変化しているが、北原橋西詰めの位置を動いてはいない。
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耳野卯三郎「鞦韆」1936.jpg キンダ―ブック「ぞうさん」1950.jpg
 曾宮一念が嘆いた「落合川」=神田川の汚濁だが、いまでは澄んだ川面をアユがさかのぼってくる様子を見たら、どのような感慨を書きとめるのだろうか? もう一度、神田川や妙正寺川を描きたくなり、幼いころから夏になると日本橋浜町も近い隅田川の水練場Click!で泳ぎを練習したであろう曾宮一念は、「飛込みたく」なるだろうか?

◆写真上:鈴木金平が借りていた、藁葺き2階家があったあたりの目白通りの現状。
◆写真中上は、1930年(昭和5)ごろに撮影されたダット乗合自動車Click!が走る目白通り。左手につづく塀は目白福音教会Click!の敷地と思われ、右手に写る「〇鳩時計店」については不明だ。は、1933年(昭和8)に撮影された目白通り。
◆写真中下は、1914年(大正3)に制作された20代半ばで病没する近藤芳男『自画像』。は、東京藝術大学美術館に保存されている明治期から現代までの自画像を集めた「自画像の証言」展図録(2007年)。
◆写真下は、妙正寺川の近影で中央に飛んでいるのはセキレイ。下左は、1936年(昭和11)に制作された耳野卯三郎『鞦韆(しゅうせん)』。下右は、戦後は児童書の挿画家としても活躍した耳野卯三郎の表紙絵で、1950年(昭和25)にフレーベル館から出版された佐藤義美・他による『キンダ―ブック/ぞうさん』。


九条武子の手紙(4)/下落合への転居。

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 1923年(大正12)の10月半ば、関東大震災Click!を逃れた九条武子Click!は、青山で東京郊外の仮住まい物件を探していた。そして、中野駅の近くにとりあえずの仮住まいが決まると、そこから本格的な自宅探しをスタートさせている。この時期の九条武子は、身のまわりのものをすべて震災で焼いてしまい、装おう着物にさえ日々不自由していた。
 佐々木信綱Click!の妻・雪子が、娘の結婚式へ出席してくれるよう九条武子に依頼すると、「実は震災で何もかも焼いてしまひ、紋服もまだつくりませぬので、京都ですと兄の妻のが借りられますが、東京では知つた方に私のやうな背の高い方がありませんので」という、彼女の言葉が記録されている。身長が160cmをゆうに超えていたと思われる九条武子は、自身であつらえた着物や洋服を築地で失うと、同じサイズのものを手に入れたり、改めてつくり直したりするのはたいへんだったにちがいない。
 1923年(大正12)10月下旬の手紙には、中野駅近くの仮住まいを決めた直後の様子が書かれている。1929年(昭和4)に実業之日本社から出版された、佐々木信綱・編の『九條武子夫人書簡集』から引用してみよう。
  
 1923年(大正12)10月22日 青山より渡辺夫人に
 私の家さがしも、どうやらすみました。やつぱり不自由とは存じますけれども、暫く都を離れます。中野にいたしました。ほんとにほんとに小さな家。そして吹いたら飛ぶやうなお粗末なもの。けれども自分は、何の不足もなくそこに入ります。そして、どんなに静かに暮らせるかと思ふ楽しみさへ加はりまして、一日も早う移りたいやうにも存じますが、只今をられる人も、この場合、すぐにかはりの家もなし、まあ来月五日頃までには出ると申す約束になりました。中野のステーシヨンから女の足で十分ほど、五六町は御座いませうか。車も御座いますから、よろしう御座います。かたつむりの殻のやうな家……でも、どうぞ落ちつきましたら、御出で遊ばして頂戴。
  
 下落合へ自邸を見つける前、九条武子は中野駅近くに仮住まいを決めているが、実際に青山から中野へ転居したのは11月に入ってからだと思われる。そして、仮寓を拠点にして東京郊外における本格的な自邸探しをスタートしているようだ。11月に入ると、彼女は山手線の外側に拓けつつあった、いまだ田園地帯の面影が色濃く残る住宅地を数週間にわたって見学してまわり、おそらく11月20日ごろ下落合に好みの家を見つけると、そのままいったん京都の実家に帰省している。
 短歌の師である佐々木信綱の妻・雪子には、帰省したあと20日ほどすぎた12月10日に、自邸を下落合に決定した報告を入れている。同書から、再び引用してみよう。
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 1923年(大正12)12月10日 京都より雪子夫人に
 御心配にあづかりました住の問題も、ほゞ目はながつきまして、いろいろの交渉ごとが終りましたら、正月までには移ることが出来ようかといふ迄にいたりました。場所は美術村とやら異名されてをります落合の高台で、ほんたうに小さな小さな宅で御座います。いづれ近く帰京の上、萬々つもる御話申上たう存じてをります。/先生に何卒よろしく、寒さにむかひ、御身くれぐれも御大切に願ひます。
  
 この手紙で興味深いのは、すでに大正の中期には下落合が「美術村」だと、人口に膾炙されていた点だろうか。九条武子が、「文化村」とは書かずあえて「美術村」と書いたのは、実際に現地を歩きながら画家たちのアトリエが点在する様子を見て、「美術村」という呼称に納得していたからだとみられる。
 同時に、几帳面な彼女は現地をくまなく調べ、下落合の「文化村」と呼ばれる箱根土地Click!目白文化村Click!のエリアを明確に認知しており、漠然と下落合のことを「文化村」とは呼ばずに、彼女の自邸は文化村よりもかなり東側、より山手線に近いエリアであることも意識していたと思われる。このころ、東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画は端緒についたばかりで、いまだそれほど広くは知られていなかっただろう。だから、大正初期より画家たちが多く集まりはじめていた下落合東部が、現代では耳馴れなくなった「美術村」という表現で呼ばれることに、あまり抵抗感をおぼえなかったのではないか。
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 もうひとつ、九条武子も日本画家・上村松園の門下生であり、ときどき軸画を描いたり、陶器を手づくりして焼いたりしていることから、地元の「美術村」という呼称にことさら惹かれて下落合に落ちついた……といえるのかもしれない。
 1923年(大正12)12月29日に、下落合への転居を終えた九条武子は、翌年の1月10日にさっそく佐々木信綱・雪子夫妻へ転居通知を出している。
  
 1924年(大正13)1月10日 下落合より佐々木夫妻に
 昨年のわざわひには、一方ならぬ御同情をいたゞき、恐れ入り候。おかげさまにて、やうやくさゝやかなすまひを得、旧冬二十九日におちつき申候。あまりの忙がしさ、馴れぬことにあたり、夢中に日をすぐし候。つくづく家とゝのふるわざのなみなみならぬこと知り候も、此としになりてと思へば、世の笑はれ者かと、はづかしう存ぜられ候。承り候へば、此たび富士子様御良縁とゝのはせられ候よし、栄の御まとゐに御招きいたゞき恐れいり候。是非にとは存じ候へども、やむなきことの為出かね、まことに御のこり多く存じ候。
  
 「富士子様」とは、結婚式をひかえた佐々木夫妻の娘であり、九条武子は披露宴に招かれていたのだが、残念ながら出席できないと返信している。その理由が、震災ですべてを焼いてしまったので着ていくものがないという、冒頭の言葉へとつながっている。だが、実際にはサイズの合うレンタル紋付をなんとか見つけ、結婚式には出席している。
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 九条武子は、いまや歌人としてのイメージが定着しているが、ときに絵画や陶器を制作するクリエイターでもあった。また、自らつくるばかりでなく、頼まれれば絵画や彫刻のモデルにもなっている。1923年(大正12)の夏、彼女は建築家・武田五一Click!が九段上に設計中の尼港遭難記念碑に添える女神像のモデルになるため、彫刻家・武石弘三郎のアトリエを訪ねている。だが、敗戦とともに彼女がモデルになった「嘆きの天使」像は撤去され、現在は台座部分しか残されていない。

◆写真上:下落合の自邸でくつろぐ九条武子。彼女の背後には提燈が置かれ、手前には西洋人形やレース編みのクロスが見える和洋折衷のチグハグな室内だ。
◆写真中上は、九条武子が目にしていた大正期の中央線・中野停車場。は、自宅の縁側で下落合の野良ネコをかわいがる九条武子。
◆写真中下は、九条武子(松契)が大正期に描いた軸画。は、大震災の被災見舞いの返礼として贈った自作の隅田川焼き水さし。彼女は隅田川焼きの陶工・白井半七(=隅田川半七/7代目)に入門しており、贈答品には自作の陶器を贈ることも多かった。
◆写真下:実業之日本社などから出版されていた、九条武子による歌集・著作の広告。これらは、大正末から昭和初期にかけ、次々とベストセラーを記録した。下右は、1929年(昭和4)に出版された佐々木信綱・編『九條武子夫人書簡集』の奥付。4月25日の発売から、わずか27日で17版を重ねている。

高い視界と空に憧れる子どもたち。

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 子どものころ、よく木登りをした。下が砂地の地域がらClick!、クロマツの木が多かったのだが幹がザラザラしていて瘤や枝葉も多く、子どもにとっては非常に登りやすい樹木だった。ときに樹液(マツヤニ)を触ってしまい、石鹸をつけてごしごし洗ってもとれず、親にベンジンで拭いてもらったことも再三あった。ただし、夏になるとクロマツは7~8cmほどの太い毛虫(スズメガの幼虫)だらけになり、木登りはできなくなった。母親から、たびたび「オバカほど高いところに登りたがる」といわれた。
 よく、子どもたちは樹上に板や木材をわたして、トム・ソーヤやスタンド・バイ・ミーのような「秘密基地」をつくりたがるものだが、クロマツClick!の樹は脂分が多くて枝がしないやすく、「基地」づくりにはまったく適さなかった。だから、茶色に枯れて落ちたクロマツの葉を高く積みあげ、樹の根本に「基地」をつくっては遊んでいた。あたりの様子を「偵察」したければ、「基地」の中心にあるクロマツに登って、周囲や空を見わたせば済むというわけだ。でも、クロマツは防砂林として密生していることが多く、樹上に登っても周辺はマツだらけで見通しがきかず、「偵察」はあくまでも「基地」遊びのポーズのひとつにすぎなかった。
 一度、クロマツに登る途中で樹脂に足を滑らせ、背中から地面に墜落したことがある。2~3mほどの高さだったのだけれど、人間は背中や胸を強打すると息ができなくなる。10秒ほど息がつまり、呼吸ができなくて死ぬかと思ったが、意識して力むと少しずつ空気が吸えるようになった。下が砂地だったのでクッションがわりになり、窒息をまぬがれたのだろう。体重が重い大人で、下がコンクリートやアスファルトなどの固い地面だったりすると、墜落と同時に気を失ってそのまま窒息する事例もあるだろうか。「全身打撲」という死因のうち、いくばくかは窒息死のケースがあるのかもしれない。
 木登りのほか、小学校の前にあった古河電工の敷地で、4m前後はあるコンクリートブロックの擁壁をよじ登っては、飛び下りる遊びも流行った。いま風にいえばボルダリングということになるが、中には足をくじく子も出て、最終的には学校で禁止されたように記憶しているけれど、木登りと同様にスリルのある面白い遊びだった。そういえば、戸山ヶ原Click!にあった陸軍戸山学校Click!の校庭に、巨大なコンクリートの人工絶壁が構築され、兵士たちの山岳登攀訓練に使われていた。戦後、このコンクリート崖はそのまま残され、山男や山岳部の学生たちのフリークライミング訓練施設として、あるいは周辺の子どもたちの遊び場として使われていたようだ。(冒頭写真)
 小説や物語では、主人公が大きな樹木(神木のような大樹の場合が多い)から落ちると、未来や過去へタイムスリップしてしまう……というプロットをよく見かける。芥川龍之介Click!も、そのようなSF的またはオカルト的な木登り作品『仙人』を書いている。彼は晩年、自身が木登りする姿を自死する直前に映像へ残している。菊池寛Click!や子どもたちと映る同フィルムは、おそらく初夏らしい装いなどから芥川が睡眠薬で自殺する数ヶ月前に撮影されたと思われるのだが、彼の異様な眼光が強く印象に残る映像となった。
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 芥川龍之介が、なぜ庭先で木登りをする姿を映像に遺したのかは不明だが、庭木に登ったあと屋根の庇伝いに歩き去るところをみると、外から2階の書斎へ入ってみたくなったものだろうか。“木登り小説”の『仙人』は、無心で地道にコツコツと努力をつづけていれば、ありえないような大望もかなえられることがある……という、芥川にしてみれば相対的に明るいテーマの小説だと思うのだが、最晩年の映像は眼の光りの異常さとともに、とても子どもたちと明るく楽しい木登りをしている映像には見えない。
 1922年(大正11)に発表された『仙人』から、ちょっと引用してみよう。
  
 「それではあの庭の松に御登り。」/女房はこう云いつけました。もとより仙人になる術なぞは、知つているはずがありませんから、何でも権助に出来そうもない、むずかしい事を云いつけて、もしそれが出来ない時には、また向う二十年の間、ただで使おうと思ったのでしょう。しかし権助はその言葉を聞くとすぐに庭の松へ登りました。/「もっと高く。もっとずっと高く御登り。」/女房は縁先に佇みながら、松の上の権助を見上げました。権助の着た紋附の羽織は、もうその大きな庭の松でも、一番高い梢にひらめいています。/「今度は右の手を御放し。」/権助は左手にしっかりと、松の太枝をおさえながら、そろそろ右の手を放しました。/「それから左の手も放しておしまい。」/「おい。おい。左の手を放そうものなら、あの田舎者は落ちてしまうぜ。落ちれば下には石があるし、とても命はありゃしない。」
  
 子どものころの木登りで、ことさら強く印象に残っているのは、鎌倉の極楽寺Click!の境内にあるサルスベリの木だ。クロマツとは異なり、幹がスベスベしていて最初は取っつきにくいのだけれど、子どもでも容易に登りやすい樹木のひとつだろう。実際に登ったことのある方ならご存じだろうが、サルスベリは横へ張りだす枝が多いため、足がかりが多くてスルスルと登れる楽な木だ。しかも、非常に堅い幹や枝をしており、クロマツのように足をかけた枝がたわんで、登る途中の身体がグラグラと不安定になることが少ない。
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 わたしは小学生のとき、極楽寺の山門を入って本堂へと向かう、参道正面のやや左手にあるサルスベリに登って遊んでいたのだが、さっそく当時の住職に見つかり叱られたのを憶えている。このとき、親もいっしょにいたはずなのだけれど、本堂内を拝観していたのか、あるいは方丈で話しこんでたものか、境内の別の場所を散歩してでもいたのだろうか、木登りをしているわたしはひとりだった。1960年代半ばごろのことで、当時、極楽寺界隈はもちろん鎌倉全体でも観光客や散策する人は少なく、舗装されていないほとんどの住宅街では、表に人っ子ひとりいないこともめずらしくなかった。まさに、小津映画Click!に出てくる鎌倉の風情がそのままの時代だったのだ。
 なぜ、極楽寺のサルスベリへ登ってみようと思い立ったのか、いまとなってはまったく憶えていないが、きっとクロマツにはない幹のスベスベした感触と、登りやすそうな枝ぶりが気に入って、迷わず取っついたものだろう。当時の極楽寺は、別に参道と両脇の庭園との間を仕切る柵など設けられておらず、特に立入禁止にもなっていなかった。だから、参道を歩いていくと本堂の手前で、サルスベリが眼前に現われて「登ってみな~」と、子どもにはいかにも誘われているように感じられたのかもしれない。
 先年、カメラワークともども21世紀の小津映画のような『海街diary』Click!(2015年/是枝裕和監督)を観ていたら、わたしが登ったサルスベリが3倍ぐらいに巨大化して、拡げた枝が大きく参道まではみだしているのを見つけた。近所にある食堂のオバさんの葬儀で、4人姉妹が立ち止まって話しはじめるシーンだ。ちょうど、綾瀬はるかや長澤まさみの右手に映っているのが、木登りで叱られた想い出のある信じられないほど大きく成長したサルスベリだ。同作には梅酒づくりのために、青梅が実るウメの木へ登るシーンも挿入されており、よけいに木登りの記憶を刺激されたものだろうか。
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 そういえば、『海街diary』では鎌倉市街地を東側から一望できる、ラストシーンに近い衣張山Click!の情景も懐かしく、このサイトでは1960年代半ばの山頂ハイキング写真を掲載している。数年前にも歩いた衣張山のハイキングコース(全長は山道4kmほど)は、浄妙寺ヶ谷(やつ)から少し急な山道を登り、尾根筋を南へ大町方面(長勝寺)へと抜けなければならず、いまも昔も、散策する人はあまり見かけない。

◆写真上:戸山ヶ原に戦後まで残されていた、陸軍戸山学校の山岳登攀訓練用のコンクリート人工崖。戦後は、山男たちのクライミング訓練施設として使われた。
◆写真中上は、1927年(昭和2)の初夏に撮影された子どもたちと木登りをする芥川龍之介で眼光が異様だ。は、芥川が服毒自殺した滝野川町田端435番地の自邸跡。は、1923年(大正12)のおそらく関東大震災Click!直後に撮影された田端駅。
◆写真中下は、枝が多く子どもたちにも登りやすい下落合に残るクスの木。は、昭和30年代の半ばごろに撮影された極楽寺の茅葺き山門。
◆写真下は、『海街diary』の極楽寺シーンで右手に見えているのが巨大化したサルスベリ。わたしが登ったときは、小学生低学年でも登りやすい半分以下のサイズだったはずだ。は、杉本寺前の“いぬかけ橋”から滑川をわたり山道を20分ほど登るとたどり着ける衣張山山頂。左手に稲村ヶ崎、中央には江ノ島が尾根筋から突き出て見えるが、曇っているので箱根・足柄連山や伊豆半島、富士山などは見えない。下左は、衣張山の北麓にある杉本寺。子どものころ駆けあがった石段は、磨耗・風化のために立入禁止となって久しい。下右は、同じく東麓の報国寺脇にある旧・華頂宮邸。

事件2年後に自伝を綴る鎌田りよ。

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 鎌田りよが、疎開していたふるさとの小樽から東京へ、すなわち下落合4丁目2015番地(現・中井2丁目)にある大日本獅子吼会Click!や、三菱銀行中井支店Click!の北側にあるアパートないしは下宿を借りてもどったのは、戦後も間もなくのころだ。空襲が激しくなり、1945年(昭和20)4月に小樽へともどったところまでしか、1950年(昭和25)に公論社から出版された彼女の自叙伝『生命ある限り』には書かれていない。
 成人した長女と次女は戦時中から働きはじめており、三女も20歳近くで手がかからなくなっていただろうから、おそらくひとり暮らしだったのではないだろうか。娘たちは、若死にした夫との間にできた子どもたちだった。小樽では、女学生時代から文学少女であり、また洋画を習いに平沢貞通の画塾「三味二」へと通っていた。妻子のある平沢と付き合いはじめたのは小樽時代からで、ふたりは心中未遂事件まで起こしている。結婚後、しばらくは絵画から離れていたが、平沢と再会してから再びはじめているようだ。
 3人の子どもたちを抱え、小樽では生活しにくかった鎌田りよは、東京へ出て働きはじめた。大塚駅近くの下宿屋で、最初は4人暮らしだったようだが、娘たちが次々と独立して働きはじめると、太平洋戦争がはじまるころは母と三女のふたり暮らしになった。平沢との交渉も、この大塚時代から復活した。鎌田りよは、娘たちと平沢との板ばさみでノイローゼとなり、この下宿で蓚酸を呑み自殺未遂事件を起こし入院している。
 戦後、東京へもどり下落合に住むようになってから、平沢貞通は頻繁に彼女のもとを訪れるようになった。平沢一家は、東中野の氷川社近くに自宅を建てて住んでおり、下落合の鎌田りよのいる家とは、直線距離で1,500mほどしか離れていない。工事中の改正道路Click!(山手通り)沿いを歩いていけば、雨や雪でも降らない限り、おそらく15~20分前後でたどり着けたと思われる。
 鎌田りよは『生命ある限り』の中で、大塚駅近くに借りていた下宿屋の次に移ったアパートの2階の描写をしているが、これが下落合の住まいと同一のアパートだったかどうかは不明だ。2階の窓外にはサクラの木があり、風があると花弁が舞いこむような部屋だったようだ。同書から蓚酸による自殺未遂直前の、アパートの描写部分を引用してみよう。灯火管制下で、部屋は真っ暗だった。
  
 窓を静かに開けました。誰にも聞えない程静かに開けたのでしたが、全身が固くなりすぎて、さつと音高く開けてしまつたですの。(ママ)/月の光りと、幾枚かの花びらが、殆んど一緒に部屋へこぼり込みました。此の光りと花びらを見ていると、不思議に私の気持も落ちついたので御座居ます。/そつと、それこそ、私は布団の上に仰向けになりました。
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鎌田りよ「生命ある限り」1950.jpg 鎌田りよ.jpg
鎌田りよ宅前道.JPG 三菱銀行中井支店跡1.JPG
 さて、1988年(昭和63)に出版された和多田進の本に、『ドキュメント帝銀事件』(筑摩書房)がある。そこには、下落合に住んでいた鎌田りよの家の所在地図が掲載されている。同図は不可解な地図で、下落合の道筋を知っている方が見たら、こんな場所はありえない……と、すぐに気づかれるだろう。
 まず、道路の描き方がメチャクチャで、このような道筋は大日本獅子吼会や旧・三菱銀行中井支店の周辺にはありえない。蘭塔坂(二ノ坂)Click!金山平三アトリエClick!をはさんで、三ノ坂と連結している。下落合にお住まいの方なら、獅子吼会南側の接道を西に歩いても、三ノ坂へは抜けられないぜ……とすぐに気づかれるだろう。
 金山アトリエの西隣りは、東京土地住宅Click!によるアビラ村計画Click!では南薫造アトリエClick!が建設される予定地の一部で、西側は三ノ坂に面する切り通しの崖地だ。現状も同様で、マンションが建つ三ノ坂に面した西側は擁壁となっており、大正期から戦前までどの地図をひっくり返しても、金山アトリエの先が三ノ坂へつづく描写は存在せず、道は「く」の字に折れて北の“上の道”Click!へとつづいている。
 さらに、獅子吼会の北側にある接道も、そのまま東へとつづいてはいない。この道を東へ進めば、正面の獅子吼会施設(事件当時は卍型屋根の同会施設)にぶつかり東へは抜けられない。そのまま東へ進むには、獅子吼会北側の接道の角、すなわち三菱銀行中井支店のあった角から北へ20mほど上がったところにある東西道を右折しなければならない。地図によれば、鎌田りよは東西道を少し入った左手(北側)、すなわち下落合4丁目2006番地(現・中井2丁目)に住んでいたことになる。また、三菱銀行中井支店の場所もおかしい。同支店は、現在の獅子吼会敷地の北東角にあったのであり、獅子吼会北側の接道と同支店との間に距離はないのだ。要するに、この地図はデタラメということになる。
 ただし、下落合で代々作成されてきた地図のうち、和多田進が起こした地図によく似ている唯一の例外は、1960年(昭和35)に作成された住宅明細図だ。この地図では、獅子吼会の南接道は西側で三ノ坂へと抜け、北の接道はカギ型に折れ曲がらず東側へと突きぬけている。しかし、この地図の描写は随所に不正確な表現が見られるため、わたしは当時の住民を確認する以外の目的で参照することはまずない。見方を変えれば、和多田進はこの1960年(昭和35)の不正確な住宅明細図をベースにして、『ドキュメント帝銀事件』用に地図を描き起こしているのではないか?……とも解釈できる。
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 さて、この記事をお読みの方は、すぐにおかしなことに気づかれるだろう。帝国銀行椎名町支店の事件(通称「帝銀事件」)と同じような未遂行為が1週間前に行なわれた、下落合の三菱銀行中井支店(1948年1月19日は、たまたま同銀行高田馬場支店の支店長も同席していた)で、顔を行員たちにしっかり見られている「犯人」が、同支店に近接する鎌田りよの家へ犯行後もノコノコと通いつづけてきた……ということになる。
 換言すれば、愛人宅のすぐ目の前にあった銀行を強盗目的で、あるいは何ものかへのデモンストレーションの「人体実験場」として、陸軍科学研究所Click!が開発したアセトンシアンヒドリン(青酸ニトリール)Click!の使用場所に選んだことになるのだ。通常の感覚なら、ありえない行為だ。なにをするかわからない、検事調書の供述もメチャクチャな平沢の性格なら、別に「ありうる」といってしまえばそれまでだが、「コルサコフ症候群」の罹患経験がないわたしには、あまりにも不自然かつ不用意な行動だと感じる。
 鎌田りよは、帝銀事件のあと再び小樽へと帰り、『生命ある限り』のあとがきは2年後の冬、北海道で書かれている。平沢貞通が、帝銀事件の犯人として逮捕されたのち、彼女の想いをつづった最初で最後の文章なのだろう。同書より、再び引用してみよう。
  
 此の物語りの中では、つとめて平澤さん個人に、触れないように綴りました。/世の多くの方々は、新聞や雑誌によつて、例え悪い面だけにしろ、平澤さんと云う人間を大体御存知のことゝ存じます。/私は、敢えて平澤さんのために、弁明も弁解もいたしません。帝銀事件の平澤さんが、これからどのような道をたどり、どのような姿の人にならうと、それは私の知る必要はないのです。/三十年近くの、永い間私が愛し、私が尊敬してきた、私の平澤さんは、やはりその頃の姿のまゝで私の胸奥にいらして下さいます。/今も尚、静かに燃え続けている心の炎が、私の小さな生命と共に燃えはてるまで、私の平澤さんは変りございません。/世の中で、誰にも信じられないことを、自分だけがこつそり信じきることも、私には嬉しいのでございます。
  
 この文章を読むと、鎌田りよは平沢の無罪を「信じきる」といっているようにもとれるが、「帝銀事件の平澤さん」とか「悪い面」などの表現では、たぶん犯人は平沢貞通だろう……というような感触でいるようにも思える。おそらく彼女は帝銀事件の以前、銀行を舞台に詐欺事件を何度か繰り返すような平沢の裏面を、かなり詳しく知っていたと思うのだが、それについてはいっさい黙して語らない。
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 もし、和多田進が『ドキュメント帝銀事件』で作成した地図のどこかに大きな錯誤があり、鎌田りよの家も大日本師子吼会や旧・三菱銀行中井支店の直近ではなく、下落合のもっと離れた場所にあったとするならば、話はまったくちがってくる。なお、地図に記載されている、帝銀事件になんらかの関係があったと想定されている他の人々については、和多田進の同書か、1996年(平成8)に出版された佐伯省『疑惑α―不思議な歯科医―』(講談社)、あるいは2002年(平成14)出版の佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件―』(批評社)を参照されたい。

◆写真上:和多田進『ドキュメント帝銀事件』で、平沢貞通の愛人である鎌田りよが住んでいたとされる下落合4丁目2006番地(現・中井2丁目)界隈。
◆写真中上上左は、1950年(昭和25)に公論社から出版された『生命ある限り』。上右は、著者の鎌田りよで表紙や挿画も彼女自身が描いている。は、鎌田宅前の東西道()と三菱銀行中井支店(左手)があった蘭塔坂つづきの南北道()。
◆写真中下は、『ドキュメント帝銀事件』で和多田進が作成した大日本獅子吼会周辺の地図。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる獅子吼会周辺の正確な道筋。は、1960年(昭和35)に作成された住宅明細図の不正確な道筋。
◆写真下は、獅子吼会敷地の北東角にあたる三菱銀行中井支店跡。は、まさに1948年(昭和23)1月19日の三菱銀行中井支店未遂事件の前日1月18日に撮影された空中写真。下左は、逮捕後の平沢貞通(大暲)。下右は、鎌田りよのスケッチで「香を焚く平沢大暲」。平沢は鎌田りよのもとで、よく香を焚いては瞑想していた。

動物で男を分類する矢田津世子。

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 下落合の一ノ坂上に住んだ矢田津世子Click!は、大正期の吉屋信子Click!と同じように近未来へ向けた不安を、より具体的な表現で口に(文章化)している。吉屋信子は、関東大震災Click!の直後に戒厳令が布告された東京市街を見て、自由にモノがいえず、想いがそのまま書けなくなるファシズム的な軍国主義の招来を早くも予言Click!している。一方、矢田津世子はそれから13年余ののち、二二六事件Click!から1年後の「不安な時代」といわれた1937年(昭和12)に、大日本帝国が破産へ向けて助走し、人々が刹那的に生きる様子を見て社会の目に見えない動揺を、期せずして的確かつ敏感に記録している。
 矢田津世子は1933年(昭和8)7月、共産党へのカンパ容疑を名目に戸塚署の特高Click!に検挙され、10日間にわたり拘留されている。もちろん特高は、作家としての矢田津世子に対する自由表現への弾圧が主目的だったのだろうが、彼女はこの10日間の留置で身体を壊し、のちの肋膜炎や肺結核を発症するきっかけとなった。危機を予感させる社会不安をストレートに表現したこの文章も、当然ながら特高の検閲係が目を光らせていただろう。1937年(昭和12)2月9日発行の「北海道帝国大学新聞」に掲載された、矢田津世子『三畳独語』から引用してみよう。
  
 「不安な時代」といふことが云はれてゐる。会ふ人毎にそれを口にして、一体私たちはどうなるんでせう? と落ちつきのない暗い顔をする。街を歩いてゐても、電車に乗つてゐても、その顔に行き会ふ。誰でもが新聞の政治面に気をとられる。「国家」とか「増税」とか「戦争」とかの言葉が、易く人の口にのぼる。食堂でも、プラツト・ホームでも、家庭でも、新内閣の誕生が語られる。誰でもそれに期待をもち、こんどの内閣こそは不安を払つてくれるだらう、と、もう信頼したやうな気もちでゐる。これまでに、何度このやうな期待をかけてきたかをもう忘れてしまつて……/今までにないことである。人々の表情にこのやうな動揺があらはれ、一種の殺気が感じとられるのは。何ものかに追はれてゐるやうな遽(あわただ)しい心になつて、せかせかとその日その日を過してゐる。(カッコ内引用者註)
  
 なんだか、現代の状況を表現しているようにも聞こえるが、矢田津世子が書いているのは79年前の日本の世相だ。ちなみに「新内閣」とは、同年2月2日に成立した陸軍大将(予備役)の林銑十郎内閣のことだが、わずか4ヶ月後の6月に「何もせんじゅうろう内閣」などといわれて瓦解し、そのあとを受け戦争と亡国・破産への道を転がり落ちていったのが近衛文麿Click!内閣だった。
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 さて、矢田津世子が特高に検挙される以前、いまだ自由にモノが書けていた時代に、彼女は本来の小説作品とは別に、面白いエッセイをあちこちに残している。中でも、男をアニマルにたとえて分類した文章は秀逸で、読んでいてつい笑ってしまった。こういう男を揶揄し笑いとばす文章にも、おそらく当時の男女観からすれば、特高の検閲係や刑事たちには苦々しく感じられていたのだろう。ちなみに、彼女の内面にはその外見とは裏腹に、非常に“男っぽい”側面を感じることがある。
 1930年(昭和5)の「正鞜派文学」8月号に発表された、矢田津世子『獣化した男二三』には狐男(キツネ)をはじめ、熊男(クマ)、鷺男(サギ)、羊男(ヒツジ)、猫男(ネコ)、栗鼠男(リス)、野守男(ヤモリ)などが登場している。それぞれ男の性格を細かく引用すると、記事が長くなるばかりなので、一覧表にして分類してみよう。
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 このほかに、矢田津世子はネコ男やリス男、ヤモリ男などの名前を上げているけれど、残念ながら原稿の紙数がつきて省略してしまっている。ヤモリ男などは、彼女のあとを尾行して下落合の家に張りついて離れない、ストーカー的な誰かを連想させる。もっと読みたくてしかたないのだが、「他日に譲」るとしているものの、続編は彼女の全集からいまだ発見できていない。
  
 また猫のやうな男もゐる。リスのやうなのも生きてゐる。野守の如きも幅をきかしてゐる。併し、紙数に限りがあるから他日に譲らう。
  
 矢田津世子のもとには、さまざまな男が立ち現われ、いい寄っては消えていっただろう。それら男たちの生態や性格を、彼女は小説家の眼でクールに突き放して観察しては、それぞれの類型に分類してニヤニヤしていたにちがいない。
 矢田津世子の『獣化した男二三』は前年、1929年(昭和4)発行の「女人藝術」2月号に掲載された「文壇動物園(女人入園無料)」Click!に刺激され、「わたしもやってみよう!」と思いついたのかもしれない。だが、「女人藝術」の編集部は、作家たちを単純にイメージで動物にたとえているのに比べ、『獣化した男二三』では明らかに女にいい寄る男を、いろいろな動物にカリカチュアライズしているのが特徴だ。前者はただ面白おかしいだけだが、後者はどこか艶やかで色っぽい。
 いわゆる世間から、当時は「美人」といわれていた女性の多くが備えていたであろう性格や習性、さらには考え方や感じ方をあらかじめ想定し、自身の経験や既知の規範をベースに、自信たっぷりな男たちは彼女へアプローチを繰り返したのだろうが、どうやら彼女はいずれの範疇にも当てはまらず、逆に人間観察の格好な標的や肥しにされてしまっていたようだ。男たちは、矢田津世子が「女」や「美人」であるよりも以前に、独自のオリジナリティをたいせつにする、怜悧な観察眼を備えた「作家」であることを忘れがちだったのかもしれない。
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 さて、わたしはどの類型に分類されるのだろうか。どうやら草食系男子ではないと思われるので、肉食獣に分類されるのだろうが、寒さが苦手で冬はいつもヌクヌクしていたく、またひがな1日ウトウトと寝ているのも好きなので、きっと猫男に分類されるのかもしれない。でも、彼女が類型化していない動物に、異節上目有毛目のナマケモノがいる。

◆写真上:1935年(昭和10)前後の撮影と思われる、洋花の花束をもつ矢田津世子。蓮根か大根(?)干しだろうか、背後に写る農家の軒下とみられる風情との対比が面白い。
◆写真中上は、外出先で撮影された矢田津世子。外出には洋装で、家では和服が多かったようだ。は、1989年(平成元)に小澤書店から出版された『矢田津世子全集』。
◆一覧中下:矢田津世子『獣化した男二三』(1930年)に登場するアニマル男たち。
◆写真下:矢田津世子邸が面していた一ノ坂からは、新宿方面が一望できる。

下落合に住んでいた柿ノ木坂機関の総帥。

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 戦後に起きた米軍のG2あるいはCICと、それら組織に所属する下請けグループによる謀略と思われる出来事で、下落合に関連した事件として松川事件に絡む亀井事件Click!と、さらに帝銀事件Click!について記事に書いた。そればかりでなく、下落合には下山事件にも深くかかわっていた人々も住んでいる。
 「死後轢断」の司法鑑定をし、東京地検と警視庁捜査第二課の他殺捜査を支えた、下落合1丁目473番地の東大法医学教室教授・古畑種基Click!(執刀医は同大学教授・桑島直樹)もそうだが、広津和郎Click!や木下順二、開高健、桑原武夫、松本清張Click!、そして都立大学や東京大学、京都大学、立命館大学の法学関連教授らも参加して、自他殺の判定をGHQの圧力で放棄した警視庁に代わって追及しつづけた、「下山事件研究会」の代表幹事をつとめた下落合2丁目702番地の元東大総長・南原繁Click!もいる。
 現在、米国の公文書や元・機関員たちの証言・告白などによって判明している、GHQの参謀部の下に展開していた下部組織について、ちょっと“おさらい”的に整理しておこう。GHQ参謀長の下には、米軍第8軍の諜報機関であるG2があり、その下には日本の警察組織を統治・管理するCICが存在している。ある国が、他国や他民族を統治・支配するためには、被統治国の人々を手足のように使ったほうが抵抗が少なく、効率的なのは自明のことだ。このあたり、日本の敗戦から25年後のニクソン・ドクトリンによるベトナミゼーション、すなわち「ベトナムのベトナム化」政策へと還流しているのだろう。
 明治の薩長政府が、そっぽを向いてまったくいうことをきかない、反感が渦巻く江戸東京市民を統治するために、地元で知名度の高い人気のある旧・幕臣や町人の有力者(町名主・町年寄などの町役人)たち、あるいは江戸東京総鎮守・神田明神の主柱に関連深い人物Click!などを、次々と登用Click!せざるをえないハメになったのと同様、米軍も米国人が直接日本人に接して統治するよりも、日本人あるいは容姿が似ている日系2世に“仕事”をさせたほうが、よほど効率的だと当初から考えていたフシが見える。これらの直接的な仕事をしたCICや日本の警察組織のほか、G2には警察に対して命令しにくい“陰”の仕事をさせる、日本人による諜報・謀略グループが数多くつくられている。
 そこに集められた日本人は、元・陸軍憲兵隊Click!の士官や特高Click!の刑事、思想検事、陸軍中野学校Click!出身者、大陸の特務機関員、右翼の構成員など、戦犯として巣鴨プリズンに収容されている人物たちも多かった。判明しているだけでも、柿ノ木坂機関、有末機関、服部機関、馬場機関、日高機関、矢板機関、辰巳機関、伊藤機関……など、のちに証言で次々と明らかになっているものだけでも相当数にのぼる。その様子を、2005年(平成17)に祥伝社から出版された、柴田哲孝『下山事件 最後の証言』から引用してみよう。
  
 長光捷治は、キャノン機関の筆頭直属組織だった「柿ノ木坂機関」の総帥である(長光自身は「ウィロビーの直属機関だった」と証言している)。湯島の岩崎別邸(ママ)にキャノン機関が開設された昭和二三年から二四年春にかけて、キャノン中佐は巣鴨プリズンに連日のように通いつめていた。旧満州や北朝鮮などの極東の情報に精通する“協力者”を、巣鴨に残る戦犯者の中からリクルートすることが目的だった。キャノンは「G2の協力者になれば戦犯を解除し、日本人の一般知識人労働者の一〇倍の収入を保障する」ことを条件に、旧日本軍の特務機関員などを中心に交渉を続けた。その中の一人が、元上海憲兵隊中佐の長光だった。長光は中国に対する広い知識と語学力が評価され、G2直属の特務機関長に抜擢されることになる。長光が機関長を務める柿ノ木坂機関は、衣笠丸事件(キャノン機関が関連した密輸事件)の際にも「主犯の塩谷英三郎を拉致監禁した」実行犯として名前が挙がっている。
  
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 G2あるいはZ機関(通称キャノン機関)の命令で、書かれている衣笠丸事件をはじめ、松川事件に関連した亀井事件に関わったとされる柿ノ木坂機関を組織した長光捷治は、下落合4丁目2144番地(現・中井2丁目)に住んでいた。この住所は、ちょうど六ノ坂下の西側、戦前戦後を通じてたった1軒の住宅の地番にしかふられておらず、林芙美子・手塚緑敏Click!が住んだ“お化け屋敷”Click!(下落合4丁目2133番地)のすぐ西側に位置する家だ。
 しかも、下落合4丁目2135番地にあったキャノン機関による鹿地事件の鹿地亘Click!の自宅とは、なんと六ノ坂をはさんで50m弱しか離れていない。以前、吉屋信子Click!が愛用のカメラで撮影した「牛」Click!をご紹介したが、そこに写る道路の左手の一角が下落合(4丁目)2144番地だ。
 のちに、下落合から福岡へと転居する元・憲兵中佐の長光捷治について、1989年(昭和64)に築地書館から出版された斎藤茂男『夢追い人よ』から引用してみよう。ちなみに、池之端の岩崎本邸=本郷ハウス(本郷ブランチ)を接収したキャノン中佐(のち大佐)は、米国へ帰国後CIAの仕事をしていたが、自宅のガレージで何者かに射殺されている。
  
 ところでこの長光氏が亀井さん誘拐事件のあった二十九年二月当時には、新宿区下落合四ノ二一四四に家を持っていたことを知り注目した。しかし「亀井供述」や長光氏の話などから、事件に結びつくものは見当たらなかった。同氏は亀井さんの写真を見てもちろん「知らない」と答えた。
  
 下落合4丁目2144番地は、中ノ道をはさんで目の前が西武新宿線の線路に面しており、亀井よし子が拉致・誘拐され監禁されたのはこの家ではない。なぜなら、彼女は通行人に駅の所在を訊ねているが、もし長光宅が監禁現場であったとすれば、目の前を走る西武線の線路をたどることで最寄り駅へたどり着けることは、すぐにわかったはずだ。また、長光宅の周辺で最寄りの駅を訊ねれば、そこから1kmも離れた下落合駅ではなく、当然、400mほどしか離れていない中井駅を教えられていただろう。やはり、アジトは下落合駅周辺と考えたほうが自然なのだ。
 ただし、大阪で孤児として養育施設で育てられた亀井よし子が、松本善明邸の純粋な“お手伝い”としてではなく、戦時中に吉田茂邸へ送りこまれていた憲兵隊あるいは陸軍兵務局分室Click!=工作室(ヤマ)による女中たちのように、CICないしはいずれかの機関による諜報員だったとすれば、まったく異なる筋書きが見えてくることになる。
 その場合、松川事件の真犯人のひとりとみられる人物が、名古屋から弁護士・松本善明あてに告白の手紙を寄せたことは、亀井よし子から某機関へすぐにレポされたかもしれず、手紙数通が松本家から盗まれたのは彼女による窃盗犯の引きこみ、ないしは内部の犯行ということになってしまう。また、松本家での諜報活動に嫌気がさした彼女が、機関の指示に従わなくなり、改めて恫喝・洗脳のために拉致された……というような、まったく別のストーリーが見えてくるのだが。
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 また、G2傘下の機関員あるいは企業(工場)には、「油」を使用して石鹸や染料(絵具・クレヨン)などの仕事をする人物が、数多く登場してくる。ここで必然的に想い浮かぶのが、国鉄総裁・下山定則の遺体のシャツや下着などへ、絞れば滴るほど大量に付着した(上着表面にはほとんど付着していなかった)米糠油や、染料の出所についてだろう。
 引きつづき、共同通信記者だった斎藤茂男の『夢追い人よ』から引用してみよう。
  
 亀井さんが死んだのは、彼女の満二十一歳の誕生日――偶然の一致だろうか?/われわれはふたたび誘拐現場に戻った。「亀井供述」から引き出される唯一の手掛かりは「下落合駅」である。しかし、他の手掛かりはないだろうか。松本氏の友人をねらったと思われる一連の事件(私信盗難、尾行、誘拐)、とくに誘拐事件の手口は鹿地事件、佐々木大佐事件、衣笠丸事件など多数の例とよく似ているように思われる。これらの事件にはいずれもアメリカ情報機関またはその下部組織が関係していたと伝えられる。/そこで、これらの事件にかかわりのあった人物を捜してみた。衣笠丸事件の被告だった塩谷英三郎氏(東京都豊島区要町)は「柿ノ木坂グループ」に誘拐監禁されたと述べた。二十四年ごろから、東京目黒区柿ノ木坂の邸宅に本拠を置き、アメリカ情報機関に協力する仕事をしていた元憲兵中佐・長光捷治氏(五十七歳)は、いま福岡市内で舟山卓衛氏とともに米軍基地からの払い下げ油を売買する仕事をしている。(註釈番号略)
  
 亀井よし子の急死後、臨終を看とり死亡診断書を書いた弘済病院の植村医師は、ほどなく病院の窓から墜落死し、養育施設では彼女の母親代わりだった香川緑は、なにかを怖れて間もなく失踪し行方不明となっている。まるで、できの悪い2時間サスペンスドラマのような、こんなコテコテの事件や成り行きでも、たいして注目を集めなかったのは、いまだ敗戦直後の大混乱がそのままつづいており、人々は世の中の出来事へ細かくていねいに目を配る余裕がなく、日々の生活や食べるのにせいいっぱいの世相だったからだ。
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 1947~1952年(昭和22~27)のわずか5年間で、列車妨害事件は19,253件も発生しているが、そのうち単独犯ではなくチームとして人数をそろえ、専用の工具を使い軌道敷設の専門知識がなければ不可能な、犬釘抜きや継ぎ目板外し、レール取り外しなどによる列車脱線・転覆事故は94件。悪質な未遂事件も含め、今日でもほとんどが犯人不明のままとなっている。米国公文書館の情報公開で明らかになった、「鉄道破壊には日本駐在のCIA特別技術チーム(CIA special technical team in Japan)を必要とした」という記述は、GHQの諜報機関がCIAへと改編されたのち、元G2傘下のいずれかの機関、あるいは特別に編成されたCIC要員のエキスパートチームを指している可能性がきわめて高い。

◆写真上:柿ノ木坂機関の元・上海憲兵隊中佐・長光捷治が住んでいた、下落合4丁目2144番地の現状。道路左手の、茶色いタイル張りの住宅あたりが長光宅跡。
◆写真中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる下落合2144番地。鹿地亘の自宅(戦後)とは、50mと離れていない。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる長光捷治宅。は、1965年(昭和40)作成の「住居表示新旧対照案内図」。2144番地は、戦前戦後を通じて1軒の住宅にしかふられていない。
◆写真中下は、1949年(昭和24年)8月17日未明に福島県松川町で起きた松川事件で機関車乗務員の3名が死亡した。下左は、同事件弁護士のひとり松本善明あてに配達された真犯人からの手紙。CIC日系2世軍人2名に実行犯7名の計9名記述は、現場の目撃証言と一致している。下右は、1989年(昭和64)出版の斎藤茂男『夢追い人よ』(築地書館)。
◆写真下上左は、G2を指揮した准将C.ウィロビー(退役時少将)。上右は、Z機関(キャノン機関)のボスだった中佐J.キャノン(退役時大佐)。は、米軍が接収しZ機関が設置された池之端の岩崎本邸。別名、本郷ハウスまたは本郷ブランチとも呼ばれた。

九条武子の手紙(5)/白蓮と。

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 九条武子Click!と伊藤燁子(白蓮Click!)が初めて対面したのは、1920年(大正9)7月のある日、蒸し暑い京都の六条御殿(西本願寺)においてだった。九州から京都へやってきた伊藤燁子は、宮崎龍介Click!との逢瀬の合い間に西本願寺を訪れたものだろう。
 1929年(昭和4)に出版された『九條武子夫人書簡集』(実業之日本社)に掲載の、佐々木信綱・雪子夫妻にあてた九条武子からの手紙では、あえて7月の日付が公開されていない。他の書簡類には、すべて年月日が記載されているのだが、この手紙にだけに日付がないのだ。これは、1929年(昭和4)現在の「白蓮事件」Click!関係者に佐々木信綱が配慮したものか、あるいは九条武子が気をまわして、そもそも邂逅の日付を記載しなかったものだろうか。
 同書から燁子(白蓮)に会ったばかりの、九条武子の手紙を引用してみよう。
  
 1920年(大正9)7月 京都より佐々木信綱に
 昨日、かねての思ひがとゞきまして、燁子様に義弟の方の御紹介にて、初めて御目にかゝりました。今迄に、私の親類つゞきより、御噂をよく承つてをりました故か、初めてお目にかゝつたといふ気も致しませず、屹度むかう様も、さう仰しやつてましたらうと信じられますほど、親しく御話が出来ましたから、先生にも御喜び遊ばして頂きたいと存じます。なぜならば、私とあの方と、是非一度会はせたいものと、よく仰しやつてくださいましたから。どうして知りましたか、新聞社の人がまゐり、庭で写真をとりました。この写真は、夕方でよくとれてはをりませんが、うしろには白い蓮が、朝のなごりの花を包みかねて咲いてをりました。人も花も濁りにしまぬ清さ、はからずも白蓮の咲く池のみぎはにこの君をたゝずませて、思出のうつしゑをとりましたことは、私としては嬉しいことで御座いました。
  
 ふたりが会う場面に、すでに新聞記者がきているということは、燁子(白蓮)の義弟がその情報を地元の新聞社へリークしていたものだろうか。西本願寺の庭で夕方に撮影したと書いているが、確かに現存している写真は暗めで、あまり写りがよくない。
 また、佐々木信綱と燁子(白蓮)とが短歌誌「心の花」つながりで、かねてより一度ふたりを会わせてみたいと、九条武子へ勧めていたことも文面からうかがえる。つづけて九条武子の手紙から、白蓮の印象を引用してみよう。
  
 輪郭の正しい御目と鼻の線に、男性の理智を見るやうに、細い、きりつとした御姿は亡き姉のやうで、もしや御気性まで似ていらつしやるのではないか、否、おなじ藤原氏の血をうけた女性として、屹度近い時間に、似ていらつしやる点を私は見出すにちがひないと思ひました。そして「私は、亡き姉を思ひ出します」と申上げたかつたのですが、初めて御目にかゝつた日に、それは、あまりかるはづみとお思ひになることを恐れてやめました。それで、この日の印象を、忘れぬうちにと書きつゞつて御覧に入れます。
  
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 九条武子は、早くも「亡き姉を思い出」すと書いているとおり、彼女の中にあった姉の死による欠落感を埋める存在として、白蓮が強く意識されたことがわかる。また、九条武子は「親類つゞき」と書いているが、白蓮もまったく同じような感想を抱いたようだ。京都での邂逅のあと、白蓮は九条武子の歌集『金鈴』の批評を、佐々木信綱の歌誌「心の花」へ早々に寄せている。
 しかし、白蓮の文面は同じ歌詠み同志というよりも、「小指の先の一雫にも、同じ血の通つてゐようとは」、同じ祖先の血を引く遠い姻戚でありながら、自身の現在の境遇(伊藤伝右衛門の妻であり福岡に住んでいること)を必要以上に卑下し、「現在の私として、仮初にも、そんな誇りかな(ママ)事を申すのは、作者に対して礼を忘れたものゝ様に気がひけてなりませぬ」などと書いている。これは単なる謙譲表現を超えて、伊藤家側に対してずいぶん失礼ないい方であり、「平民」との望まない結婚をした恥ずべき「華族」意識が、いまだ強く残っていた様子がうかがわれる。
 換言すれば、「平民」であり、さらには階級意識を明確に備えた帝大黎明会「解放」(吉野作造Click!)の主筆だった宮崎龍介Click!との間が、いまだ思想や社会観を共有するまでに深まっていないことを表しているともいえるだろうか。佐々木信綱あての、白蓮の手紙をつづけて引用してみよう。
  
 此度初めて、あの六条の御殿の中でお会ひ申した時、次から次にとお話のつきない時も、知らぬ方との初対面のやうな感じは少しも致しませんでした。それは、萬もの馴れた御もてなしもありましたらうけれども。/その時、作者から手づから戴いた歌集金鈴は、筑紫に帰る途々、汽車の中でも、船の上でも、間さへあれば取り出して読みました。(中略) 大方は作者が真実に触れたもの、愛か、涙か、恨か、情か、但は迷かも知りませぬが、あらゆる女の弱さ、強さ、其まゝうちつけに現はしてあります。ふと私は、自分の事ではなかつたかとさへ思ふほどに、私のいひたいと思ふ事を歌つたのもありました。(中略) お目にかかつた時、私はお月様を見るのが本当に好きなのですと、たしかそんなお話もありました。あの方の友として、月は何を教へるでせう。宵々ごとに円くなる月のかげ、やがて時がくれば欠けてゆくその有様を、幾度空しく見て暮さねばならぬ方なのでせう。
  
白蓮「踏絵」1914.jpg 九条武子「金鈴」1920.jpg
さしのぞけば.jpg 九条武子と柳原白蓮.jpg
 九条武子は、白蓮と京都で会った直後から、さまざまな雑誌社より印象記を書くように依頼されている。だが、その原稿は白蓮に譲るとして断りつづけていた。彼女が書いた白蓮の印象は、歌誌「心の花」へ送った原稿のみだった。同書より、鎌倉へ避暑に出かけた佐々木信綱あての手紙を引用してみよう。
  
 1920年(大正9)8月2日 京都より佐々木信綱に
 白蓮さまと御会ひ申あげた時の心もち、かざり気もなく御たよりいたしましたのを、心の花の誌上に御のせ下さるとのこと、少々はづかしう御座います。実はいろいろの雑誌社から会見の印象を贈つてくれと、たつて頼んでまゐりますけれども、何も別にまとまつてかくといふことも御座いませんし、きつと白蓮さまへも、おなじこと御願ひ申上て居られるにちがひないと存じ、これは白蓮さまに御ゆづり申上、私は皆々御ことわり申上たことで御座います。
  
 このとき、九条武子は歌集『金鈴』の出版を記念して、師である佐々木信綱へ『水のほとり(自画像)』を贈っている。手紙にある、「自分の姿をスケツチしました、長い髪を垂らして立つてをる絵」は、おそらく上村松園じこみの軸画だったと思われる。
 暑い京都に帰省していた九条武子は、9月に入ると白蓮の訪問への答礼に、四国へ旅をするついでに別府の伊藤別邸で白蓮と落ち合う約束をしている。だが、当日は九州への連絡船が欠航し、楽しみにしていた約束が果たせなかった。
  
 1920年(大正9)9月11日 京都より佐々木信綱に
 師の君には、七日御立ちにて、奈良より京へ御立寄のよし、まことの我も、画の人も御待ち申上げ居候と御申入れたまわり度候。この間は、燁さまも私も、たがひに都合よく日どりさだめ、いかばかりか別府の日を楽しみ居りしものを、その日、紅丸臨時休航とのことにて、四国の旅もうはの空、すごすごと二十六日朝神戸に上り候。
  
 手紙のやり取りで急速に親しくなったのか、九条武子は白蓮のことを「燁さま」と呼んでいる。このあと、九条武子は改めて別府の別邸へ白蓮を訪ねている。
宮武外骨「美人」1.jpg 宮武外骨「美人」2.JPG
 九条武子と白蓮の間にかわされた書簡は有名だが、同時期に他者へ向けた手紙に描かれる両者の印象記はめずらしい。ふたりは、確かに初対面で話しはじめてからすぐに意気投合したようで、その親しさはそのまま目白通りをはさんだ下落合(九条武子)と上屋敷(宮崎白蓮)の時代Click!までつづき、揃いの羽織「あけがらす」Click!をあつらえるまでの、気の置けない親密な「華族」同士ではなく、女同士の関係へと深化していったのだろう。

◆写真上:下落合753番地の自邸書斎で執筆する、ややピンボケの九条武子スナップ。
◆写真中上:同じく親友の“清子さん”撮影による、事態の文机の前で歌想を練っているらしい九条武子のスナップ。火鉢から煙が立ちのぼっているので、朝の掃除を終えて炭をおこしたばかりの、午前7時Click!ごろの情景だろうか。
◆写真中下上左は、1914年(大正3)に自費出版された伊藤燁子(白蓮)の処女歌集『踏絵』。上右は、1920年(大正9)に竹柏会から出版された九条武子の処女歌集『金鈴』。下左は、立川準様が所蔵される宮崎白蓮の歌軸。(撮影も立川様) 白蓮が九条武子の死後、下落合の九条邸跡を散策して詠んだ歌で、「さしのそけハむか志友ゐし落合に(差し覗けば昔友居し落合に) 知らぬ人住む紅梅の花」。下右は、1920年(大正9)に西本願寺の庭で撮影された九条武子と伊藤燁子(白蓮)。
◆写真下宮武外骨Click!が創設した、東大法学部の明治新聞雑誌文庫Click!に残るアルバム『美人』()と、『美人』所収の九条武子のブロマイド()。全ページを拝見したが柳原白蓮の写真はなかったように思うので、外骨の好みではなかったのだろう。

「下山事件研究会」を主催した南原繁。

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 1964年(昭和39)7月12日、下落合2丁目702番地の元東京大学総長・南原繁Click!らを中心に、ひとつの研究会が発足した。警視庁が自他殺の判定を放棄した下山事件について、改めて当時の資料や新たな証言、より進んだ科学的な分析技術などを集め、改めて同事件について考察する「下山事件研究会」だ。下山事件(1947年7月5日発生)の時効が成立した、わずか7日後のことだった。
 同事件は、東京地検と捜査二課が他殺を確信して捜査をつづけ、捜査一課が自殺を前提に傍証を集めるという異例の展開となっていたが、警視庁の上層部が捜査一課の方向に傾き「自殺」を発表する直前に、GHQからの圧力で発表が無理やり抑えられた。また、他殺説をとっていた捜査二課の捜査員や東京地検の担当検事が、次々と「栄転」あるいは異動させられて捜査本部が瓦解し、自他殺不明のまま今日にいたっている。
 内村鑑三Click!の弟子でもあった南原繁が代表幹事をつとめる「下山事件研究会」は、参加メンバーに作家の広津和郎Click!や劇作家の木下順二、作家の開高健、京都大学の仏文学者・桑原武夫、作家の松本清張Click!などをはじめ、都立大学(塩田庄兵衛・沼田稲次郎)や東京大学(団藤重光)、立命館大学(佐伯千仭)など当時日本の主だった法学関連教授、さらには弁護士など法律のエキスパートたちも参集して検証が行なわれている。事件の時効成立後に同研究会が旗揚げしているのは、事件にかかわる新たな証言を期待してのことであり、事実、事件当時に米軍の諜報要員だった人物(元CIA要員)の証言が得られている。
 下山事件研究会の設立趣意は、同事件が国民に与えた異常な衝撃ははかり知れないものであり、この衝撃を利用して行なわれた占領下の諸政策は、その後の日本の進路を決定したといっても過言ではないとし、わたしたちの想像を超える“なにか”が実行された可能性があるとしている。また、つづいて起きた三鷹事件や松川事件Click!に大きな影響を与え、日本の国際的な位置づけや政治の潮流を決定づけた、戦後民主主義の流れに位置する“起点”であり一大転機だったと規定している。
 そして、治安当局が時効成立とともに、永久に真相を究明することができなくなったいま、有志を結集して事実と真相の究明につとめ、「私たちは、これ以上、時日が経過しない間に下山事件についての関係者の証言や知識を集め、科学的・実証的に、事実の一つ一つを歴史の中にきざみこんでゆきたいと思います」と宣言している。同研究会へ証人として参加したのは、下落合1丁目473番地の東大法医学教室教授・古畑種基Click!(鑑定医)をはじめ、下山常夫(下山定則実弟)、加賀山之雄(国鉄副総裁)、桑島直樹(解剖執刀医)、矢田喜美雄(朝日新聞記者)、GHQの元・諜報機関員たちなどだった。(カッコ内の役職は事件当時)
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南原繁邸1947.jpg 古畑種基邸1947.jpg
 1969年(昭和44)8月にみすず書房から出版された、下山事件研究会編『資料・下山事件』より南原繁の言葉を引用してみよう。
  
 死体の解剖と死因の鑑定は、直ちに東大医学部の「法医学教室」に、ついで着衣の附着物質については、同「裁判化学教室」に、検察当局から依頼があった。これは、たまたま私が東大に在職していたときのことである。解剖の結果や、それに伴う各種試験の経過は検察当局に随時報告されたが、鑑定書の最後の完成までには、あるものは数ヵ月、あるものは一年半を要した。それほど徹底的にあらゆる疑点にわたって、関係教室の教授・助教授・講師・助手、一体となって、時に昼夜にわたる試験研究の結果であった。/古畑教授(法医学主任)と秋谷教授(裁判化学主任)は、しばしば総長室に見えて、その経過を語られたが、東大医学部の結論は「死後轢断」、すなわち他殺を意味するものであった。
  
 発足から5年後、1969年(昭和44)7月5日に下山事件研究会は、日比谷公園の一画にあった松本楼で記者会見し、下山事件20周年に当たっての声明「国民のみなさんへ」を発表している。この5年間の活動を報告するとともに、結論として「下山国鉄総裁はなにものかによって殺害されたものであるという疑いを、到底払底することはできない」という結論を発表した。また、同研究会が発足した当時の日本政府も、初めて「他殺」の可能性がきわめて高いという姿勢(1964年6月26日衆議院法務委員会)を表明し、一部の鑑定資料などの情報公開をはじめていたが、同研究会では捜査資料の全面情報開示をするよう改めて強く要請している。
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腕の生前死後反応所見.jpg 生体反応皮下出血.jpg
 これらの膨大な研究成果は、上掲の下山事件研究会編『資料・下山事件』として刊行され、その後に同書は下山事件を追及する重要な基礎資料の役割りを果たすことになった。同書の「あとがき」から、再び引用してみよう。
  
 (前略)当会の目的は、ただ単に下山元国鉄総裁の死が、自殺であるか他殺であるかの論争を、追求するだけのものだけではないということである。法医学、裁判化学によって明らかにされた真実をまもり、政治学、歴史学、その他あらゆる社会科学がさし示す真実を記録し、占領下日本の政府がうやむやにしたこの事件の真相を総合的に明確にして後世に残すことが、当会に結集したわれわれの希求するところである。(中略) だから「自他殺論争」として読者が本資料を読まれる場合は、本書の資料が主として、一九四九年の事件発生直後に活字になったものが多いことに注意をはらっていただきたい。これらはいずれも、まだ東大鑑定書が公表される以前のものであり、また、プレス・コードおよび政令三二五号(占領目的阻害禁止令)によって、憲法上の言論の自由が侵害されていた当時の物である。
  
 さて、それからさらに40年以上の年月が流れた今日、さまざまな捜査書類の開示や発見、新たな証言者の登場や告白などにより、下山事件の実行部隊はG2と太いパイプをもち、日本橋室町のライカビルで亜細亜産業を経営していた矢板機関とその関係筋である可能性が高いことが、柴田哲孝『下山事件 最後の証言』(祥伝社/2005年)に収録された、当の機関総帥・矢板玄(くろし)の「最後の証言」などによって濃厚になっている。
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下山事件研究会「資料・下山事件」1969.jpg 柴田哲孝「下山事件最後の証言」2005.jpg
 自殺説を補強するために、捜査一課が集めた「目撃情報」(特に五反野を徘徊していた人物の人相風体)の大半は刑事たちの“創作”であり、調書を取られた目撃者たちが抗議していた様子も判明している。また、もっとも重要かつ「詳細すぎる」目撃証言の提供者、五反野駅近くにあった末広旅館の女将の夫が、元・特高警察の刑事であり、いずれか米軍機関のG2ないしはCICとのつながりが想定されるなど、現代にいたるまでいまだに事件の追及がつづいている。一方、事件直前に五反野駅や常磐線ガード付近をウロウロ歩いていた、「下山総裁」の替え玉の人物特定さえ、すでに示唆される段階になっている。

◆写真上:1949年(昭和24)7月5日に起きた下山事件の、常磐線の轢断現場検証。
◆写真中上は、下落合2丁目702番地に住んだ南原繁()と南原邸界隈の現状()。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる南原邸()と古畑種基邸()。
◆写真中下は、東大の死体検案書にみる下山総裁の遺体損傷状況。下左は、解剖所見資料にみる左腕の生前傷痕と死後傷痕の様子。下右は、同解剖資料の顕微鏡写真にみる生前の打撲によって生じたと思われる陰茎部の③皮下出血。
◆写真下は、下山事件研究会が作成した手描きの現場検証図版。下左は、1964年(昭和49)に出版された下山事件研究会編『資料・下山事件』(みすず書房)。研究白書ないしは資料集の体裁をしており、装丁はなく真っ白だ。下右は、2005年(平成17)出版の柴田哲孝『下山事件 最後の証言』(祥伝社)。


犬がうるさい「もぐら横丁」の尾崎一雄。

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 尾崎一雄Click!が、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の通称「なめくぢ横丁」Click!長屋Click!から、下落合4丁目2069番地(現・中井1丁目)の「もぐら横丁」に転居したのは、1934年(昭和9)9月21日だった。この日は、まさに“室戸台風”が日本に上陸していた当日で、東京では屋根瓦が飛ばされ樹木がなぎ倒されるなどの被害が続出している。
 下落合4丁目2069番地は、ちょうど目白崖線の四ノ坂と五ノ坂の間、中ノ道沿いにある路地を南へ10mほど入った右手(西側)、西武線を通る電車の音が間近に聞こえる一画にあった。「もぐら横丁」という名称は、「なめくぢ横丁」のように以前からそこに住む人々が呼びならわしていた名称ではなく、周囲にはモグラがやたら多く棲息し、外から台所の土間にまで侵入してくるので、尾崎家がそう呼びはじめたものだ。
 ちなみに、現在でも下落合にはモグラが多く、わたしの家の裏にもモコモコと土の盛り上がりが頻繁にできる。だから、野鳥やネズミの多さも含め、2mクラスのアオダイショウClick!が何匹も棲息できるのだろう。尾崎一雄の伝でいえば、落合地域じゅうが「もぐら横丁」になってしまいそうだ。さて、嫌がる周旋屋を急き立てて、大嵐の中、上落合から下落合へ直線距離で400mほどの引っ越しは強行された。その様子を、1952年(昭和27)に池田書店から出版された、尾崎一雄『もぐら横丁』から引用してみよう。
  
 十六七年前といふが、私は、上落合二丁目から下落合四丁目へ引越した日を、はつきり覚えてゐる。昭和九年九月二十一日、大風の吹いた日である。引越しの手伝ひに来てくれた光田文雄――私より十ばかり下の、同じ学校の下級生で文学青年、大東亜戦争末期に、フィリピンで戦死した――が、私共の全家財を積んだ荷車の後押しをした。私は、車を横から押してゐた。大風で、車が横倒しになりさうなのだ。私一人で間に合はなくなると、光田も横押しの方に廻つた。/この日の暴風は、東京では屋根瓦が飛び、塀や植木が倒れた程度だつたが、関西、殊に神戸を中心とする地方は、非常に厳しかつた。死者二千五百余、負傷者八千余、行方不明五百余の外に、当時の金で十億円に上る物的被害が報告された。
  
 尾崎夫妻が、「なめくぢ横丁」に住んでいた檀一雄Click!の家を出ることになったのは、檀の妹が絵の勉強をするために、東京へ出てきていっしょに暮らすことになったため、結果的に彼らが追い出されたからだ。尾崎一雄は、できるだけ家賃の安い物件を見つけるために、周辺の落合地域をあちこち探しまわっている。彼によれば、家賃さえ気にしなければ貸し家はいくらでも見つかったが、駆け出しの作家が借りられる家賃10円ちょっとの物件は、なかなか見つからなかったようだ。
 昭和初期の落合地域は、関東大震災Click!による市街地からの人口流入が一段落し、金融恐慌やがては大恐慌の時代を迎えると、おカネをかけた西洋館を維持できなくなった住民の転出や、郊外住宅ブームに乗った市街地からの転入者を当てこみ、次々と田畑をつぶしては地主が建てた借家にも、あちこちで空き家が目立つようになっていた。
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 下落合4丁目2096番地に建っていた借家の様子を、同書から引用してみよう。
  
 檀君の妹が、画を習ふために上京して、檀君と同居生活を始めることになつた。したがつて、私共一家は、檀君の家を去らねばならない。転がり込んで丁度一年になるから、好い汐時とも考へて、私は空家捜しを始め、直ぐ見つけた。西武線中井駅から少し西へ歩いた、線路の北側の、三間の家だつた。古家だが、家賃十三円といふのはいかにも格安だから、私は見つけものをしたと思つた。その頃は、大中小さまざまの空家が、いくらでもあつた。家賃さへ気にしなければ、いつでも引越しが出来た。ただ、私共は家賃として支出し得る金額の制限を受けてゐたから、おいそれと運ばぬだけである。しかし、この十三円の家は、見つけものと思へた。
  
 「もぐら横丁」の借家の南側には、犬の飼育場が設置されていてシェパードが何匹か飼われていた。おそらく、当時の落合地域で流行っていた、仔犬が生まれると高値で売りさばくブリーダー稼業の家だったのだろう。上落合186番地の“おカズコねえちゃん”こと村山籌子Click!が、シェパードの仔犬が生まれると下落合2108番地に住む吉屋信子Click!へ無理やり売りつけ、嫌な顔をされた記録が残るように、当時の落合地域では洋犬の飼育ビジネスが盛んだった。そんなブリーダー業の隣家に転居した尾崎一家は、犬の吠える声にしじゅう悩まされることになる。
 この「三間の家」から、路地を北へ抜け中ノ道へと出ると、ほぼ正面右寄りには陸軍元帥・武藤信義邸がそびえていた。また、中ノ道を左折(西進)すると、すぐに五ノ坂下に差しかかり、坂の向こう側には『放浪記』がヒットして上落合850番地から2年前に転居した、下落合4丁目2133番地の林芙美子・手塚緑敏邸Click!が見えた。林芙美子Click!“お化け屋敷”Click!と呼んでいたこの大きな西洋館には、尾崎夫妻も娘を連れて何度か遊びに出かけている。
 また、現在の街の様子でいうと、「もぐら横丁」の路地から中ノ道を右折(東進)すれば、新しい林芙美子・手塚緑敏邸Click!(下落合4丁目2096番地=現・林芙美子記念館)や刑部人アトリエClick!跡(同)がある四ノ坂下へと抜けた。そのまま真っすぐ進めば、ほどなく西武電鉄の中井駅で、檀一雄や太宰治Click!たちが飲んでいた寺斉橋北詰めにあるたまり場、喫茶店「ワゴン」Click!へとたどり着けた。
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もぐら横丁1953_1.jpg もぐら横丁1953_2.jpg
 ある日、尾崎一雄が「ワゴン」へ立ち寄ると、背の高いきれいなママさん=萩原稲子Click!(上田稲子)から妙なことを聞かされた。「もぐら横丁」の尾崎宅の隣りに住んでいた、自称アドライター(現在のコピーライター)のS君が、あちこちで「新進作家・尾崎一雄」の名前を出しては、いかがわしい薬を売って歩いているというのだ。「ワゴン」の萩原稲子と尾崎一雄の会話を、少し長いが全文引用してみよう。
  
 うちの隣りのアド・ライターは、少し変つた人らしく、時々私方の縁側に掛けたり、窓からのぞき込んだりして私に話しかけた。少し風変りなその話振りには、私も対応に窮する時があつたが、それは余裕があつたらのちに書くとして、私共が来て半年後、夜逃げ同様に彼がそこを出て行つて間もなく、ある日『ワゴン』へふらりと立寄つた私は、女主人からこんなことを云はれた。/「あの変な人、あなたのお隣りのSさんて方もう居ないんですつてね」/「越しましたよ」/「そんなら云つちやはうかな」/「何をです」/「あなたのこと、いろんなこと云つてましたよ」/「へえ、いやだな」/「尾崎さんはどうもつき合ひにくくつていけない。もう少し打ち解けてくれると、僕も大いにうれしいんだけど、つて。それから、あの人も貧乏らしいが、僕は月収は二百円位あるから、もつと心安くしてくれれば、飲むのを倹約して手助けして上げてもいいんだけどつて、そんなこと云つてましたよ」/「なんだい、居るうちに云つてくれりやいいのに」/「それからね」/「まだあるのか」/「いつか、痔の薬を持つて来て、お客さんにすすめてましたよ。そのとき、これは尾崎さんにも一つ頒けて上げたが、よく効くつて喜んでたつて」/「驚いたね」/「花柳病の薬もよ」/「えッ、僕がよく効くつて喜んでたつて?……」/「それは違ふの」/この調子だと、どこへ行つてどんなことを云ひふらしてゐるか知れたものではないぞ、と思つた。
  
 ちなみに、尾崎一雄の『もぐら横丁』が出版された翌年、1953年(昭和28)制作の映画『もぐら横丁』(監督・清水宏)では、このいかがわしくていい加減なアドライター「S君」を、口八丁手八丁の森繁久彌Click!が演じていた。
 映画『もぐら横丁』には、その舞台として下落合や戸塚町2丁目(現・高田馬場2丁目)、目白町3丁目(現・目白3丁目)などとされる街並みが登場するのだが、いずれも下落合や目白の街並みには見えない。そもそも、下落合は標高35m前後の丘が連なる坂の街なのだが、映画では平坦で空き地の多い街並みになっているので、おそらく世田谷の撮影所近くで撮られた風景ではないだろうか。
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萩原稲子1929.jpg もぐら横丁1945.jpg
 現在の「もぐら横丁」には、当時の面影はほとんどない。1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲Click!で、五ノ坂下の家々はほとんど焼かれ、いまでは戦後に建てられたきれいな住宅やマンションが並ぶエリアとなった。西武新宿線が近く、電車の音が聞こえるのはそのままだけれど、およそ「横丁」と呼べるような風情はいまや皆無だ。

◆写真上:「もぐら横丁」の路地で、突き当たりが目白崖線と中ノ道。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合4丁目2069番地の尾崎一雄宅。西側には、同一規格の借家で自称アドライターの怪しい「S君」の家がある。は、尾崎宅跡の現状で路地の右手(西側)。
◆写真中下上左は、1952年(昭和27)に池田書店から出版された尾崎一雄『もぐら横丁』。上右は、碁を打つ尾崎一雄で手前のうしろ姿は大岡昇平Click!は、1953年(昭和28)に制作された『もぐら横丁』(監督・清水宏)のシーン。尾崎が佐野周二、松枝夫人が島崎雪子、馬場下町の下宿屋親父が宇野重吉、S君が森繁久彌など豪華な顔ぶれだ。
◆写真下は、1941年(昭和16)に南から斜めフカンで撮影された「もぐら横丁」とその周辺。下左は、1929年(昭和4)ごろ「ワゴン」で撮影された萩原稲子。下右は、空襲直前の1945年(昭和20)春に撮影された「もぐら横丁」界隈。

大正期からの神高橋はなぜ斜め?

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 学生時代から下落合方面への帰路Click!、あるいは仕事の帰り道Click!で帰宅するために、神田川Click!に架かるあちこちの橋をわたってきた。その中で、おそらくわたった回数が多くとても印象的だが、現在では当時の橋桁が丸ごと存在せず、南詰めの位置が下流へ10mほどズレてしまった橋がある。高田馬場駅のすぐ北東側、山手線や西武新宿線の神田川鉄橋Click!と並んで架かる神高橋Click!だ。
 早稲田通りを明治通り方面から、山手線・高田馬場駅前の広場に差しかかり神田川をわたろうとすると、1990年代まで東映の映画館が入っていた稲門ビルの角を右折して北上しなければならない。ほどなく、100mほどで神高橋をわたることになるのだが、昔はこの橋を利用すると距離的にちょっと損した気分になった。西側の下落合へと抜けるには、橋をわたるとほんの少し東側へ逆もどりすることになるからだ。つまり、神高橋は西から東へ向けて、神田川の上へ斜(はす)に架かっていた。
 高田馬場駅から北上したクルマも人も、そのまま直進すると神田川の護岸コンクリート壁に衝突してしまうことになる。神高橋をわたるためには橋の手前、南詰めにあった小さな児童遊園(現・戸塚地域センター)の前で西へ左折し、すぐにハンドルを右に大きく切って神高橋へ侵入しなければならなかった。歩行者は、橋上に歩道がなかったため、急に背後から橋上へ侵入してくるクルマに注意しなければならず、夜間は街灯もなかったのでクルマと橋桁の間に挟まれないよう注意しなければならなかった。
 また、橋桁自体も人がわたるような風情に造られておらず、まるで電車の鉄橋のような、太い鉄骨とそれをとめる大きな鋲がむき出しのままの仕様だった。しかも、橋全体が濃い緑色に塗られており、ますます鉄道の鉄橋を思わせる趣きだった。橋をわたり終えると、角に自転車屋さんのある道路へと出て、そのまま十三間通りClick!(新目白通り)へと抜けられるのだが、ふり返ると神高橋が斜めに架かっているため、東へ10mほどあともどりしたようで、なんとなく損をした感じを受けるのだ。
 神高橋が、なぜ斜めに架けられていたのか、昔の地図や地籍図をたどれるだけたどって調べてみた。1885年(明治18)に日本鉄道によって品川・赤羽線Click!(現・山手線の一部)が敷設されると、神田上水を渡河する鉄橋が架橋されている。もちろん、当時の神田上水(1966年より神田川)は直線状に整流化されておらず、あちこちで大きく蛇行を繰り返す、江戸期からの川筋のままだった。1935年(昭和10)ごろからスタートした、旧・神田上水の蛇行を修正する整流化工事を実施する際、この山手線が通過する明治期のレンガ造りの鉄橋がひとつの“基準”となっている。つまり、旧・神田上水を直線化するために鉄橋を別の場所へ移動するわけにはいかないので、この鉄橋下を流れる川筋が、計画当初から工事後も変わらぬ川筋として想定されていたわけだ。
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 もうひとつ、1927年(昭和2)に開業した西武電鉄Click!も、翌1928年(昭和3)の省線・高田馬場駅への乗り入れ工事Click!の際は、山手線の鉄橋に近接してすぐ東側の旧・神田上水上へ鉄橋を架けている。このふたつの鉄橋位置を“基準”として、川筋の直線化・整流化工事の図面が引かれていることになる。だから、必然的に当時は西武線鉄橋の10mほど東側に、斜めに架けられていた神高橋もまた、架橋当時からその位置を変えていなかったことになる。昭和初期に整流化工事を終えた、現在の神田川をわたる橋で、橋名は同一でも当初から同じ位置に架かり、場所を移動していない橋の数はそう多くはない。
 なぜ、長々と山手線や西武線の鉄橋について触れたかというと、わたしが学生時代に目にしていた神高橋は、架橋当初から変わらず同じ位置へ斜めに架けられていたのであり、ある時期になんらかの事情で斜めになったのではない……ということなのだ。その要因は、大正期の道路事情によるものだが、もっと古い時代までたどるなら、すなわち山手線が走りはじめた明治期ぐらいまで時代をさかのぼると、戸塚村側(現・高田馬場2丁目)と高田村側(現・高田3丁目)に拡がっていた田畑の間をぬう畦道あるいは用水路の跡が、川を挟み南北で食いちがっていた……という点にまで帰着する。
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 1915年(大正4)に作成された戸塚村地籍図を見ると、すでに田畑はつぶされて空き地(草原)となっており、一帯は「鉄道用地」あるいは「軌道用地」となっている。おそらく、鉄道省の敷地だが、旧・畦道だったと思われる戸塚村25番地の道路の先に、いまだ神高橋は架かっていない。また、同時期の高田村側、つまり川の北側は水田のままであり、耕地整理はなされていなかった。つづいて、3年後の1918年(大正7)の1/10,000地形図を見ると、神高橋あたりに臨時で設営されたとみられる仮橋のような記号が見えている。これは、実際にプレ神高橋の仮橋があったのか、あるいは神高橋の架橋工事がスタートしており、なんらかの構造物があるのを示す記号かは不明だが、高田町側を見ると水田が拡がるだけで、いまだ道路は敷設されていない。
 さらに4年後、1922年(大正11)の1/3,000地形図には、すでに後世の神高橋と同じ位置へ斜めに架橋されているのがわかる。つまり、神高橋が建設されたのは、1918年(大正6)から数年の間にかけてということになる。この時期になると、北側の高田村の水田も耕地整理が終わって埋め立てられ、もともと畦道だったと思われる道筋が拡幅され、市街用の道路へと敷設し直されているのがわかる。しかし、この北側から川へ向けて南下する道路と、南の早稲田通りから川へ向けて北上する道路とは、10m余にわたりズレていたのが歴然としている。そのズレを修正するために、早稲田通りから北上する道路の先を、東側へ向けてやや折り曲げ、さらに神高橋を斜めに架けざるをえなかった……という経緯だ。
 大正の架橋時から戦後まで、早稲田通りから北上する神高橋と道路はそのままだったが、1960年代後半にはじまる高田馬場駅前の再開発で、旧来の北上する道路は途中でふさがれ、道幅の広い新たな道路が東側へ敷設されたため、その道路筋から眺めた神高橋がおかしな位置になってしまった。つまり、新しい道路をまっすぐに北上すると、神田川の護岸壁に衝突してしまうので、道路の先を旧道とは逆に、今度は西側へ向けて屈曲させざるをえなくなったのだ。こうして、わたしが学生時代から経験した、なんとなく東へ逆もどりして損をした気分になる神高橋の時代がはじまった。
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 現在の神高橋は、2000年前後に行われた架け替え工事で直線化され、80年間もつづいた斜めの神高橋は取り払われた。十三間通りへと抜ける高田側の道路も拡幅され、旧・神高橋の南詰めにあった児童遊園は廃止されて戸塚地域センターとなった。神高橋はわたりやすくなったのだが、「ヘンテコリンな橋だな」と思いながらわたっていた学生時代の神高橋が、妙に懐かしい。

◆写真上:橋の南詰めが10mほど東寄りになり、直線化された神高橋の現状。
◆写真中上上左は、1915年(大正4)の戸塚村地籍図にみる戸塚村向原25番地界隈。上右は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる同位置。神高橋の位置に、仮橋あるいは工事中のような記号が描かれている。は、1922年(大正11)の1/3,000地形図に描かれた神高橋。高田村側から南下する道路と繋げるため、戸塚側の道路を東に折り曲げ神高橋を斜めに架けた様子がよくわかる。は、昭和初期に作成された同1/3,000地形図の修正図。すでに西武線が敷設され、2本の鉄橋と神高橋の位置関係がよくわかる。
◆写真中下は、敗戦直後の1947年(昭和22)に撮影された神高橋。下左は、わたしが初めて下落合を散策したときにわたった1974年(昭和49)撮影の空中写真にみる神高橋。下右は、2001年(平成13)に制作された「江戸東京重ね地図」(エーピーピーカンパニー)の神高橋。すでに橋の架け替え工事がスタートしており、神高橋の下流側(東側)に直線状の細い仮橋が架けられているのがわかる。
◆写真下は、1976年(昭和51)に撮影された神高橋。は、高田側から戸塚側の高田馬場駅方面を眺めたもので、早稲田通りから北上する道路は神田川護岸壁にぶつかり直進できなかった。は、神高橋の真下から眺めた高塚橋。

戸山ヶ原の陸軍科学研究所跡を歩く。

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 先年の暮れ、戸山ヶ原(現・百人町)にあった陸軍科学研究所Click!/陸軍技術本部、正確には1941年(昭和16)6月10日から「技術本部改正令」(第4088号)の公布で、陸軍技術本部付属の科学研究所となった施設の跡地をゆっくり散歩してきた。
 戦後の大規模な宅地開発や、東京都や国の施設が林立することになったので、科学研究所の痕跡はほぼなくなっているだろうと想定していたのだが、予想に反してあちこちに当時の痕跡がいまだに残っていた。これは、戸山ヶ原が全的にアパートや戸建て住宅を建てるような宅地開発が行なわれず、都や国の所有地のまま研究所や庁舎、博物館分館、病院、消防署、学校、郵便局など比較的大きめな敷地を必要とする建物が数多く建設されたからだろう。それらの敷地内の庭や空き地には、いまでも科学研究所のさまざまな残滓が残されている。
 早稲田通りを南に折れ、バッケが原Click!と呼ばれたコーシャハイムの崖地を抜けて、旧・天祖社や神木の大ケヤキがあった境内跡から歩きはじめた。ちなみに、旧・天祖社があった敷地は、いまでは高層化された都営百人町四丁目アパートの前庭になっている。一本松Click!があったあたりに開店している蕎麦屋の横から、住宅の間を抜けて陸軍科学研究所の跡地へと入った。陸軍科学研究所跡に敷設された道路は、研究所内にあった通路の道筋をそのまま踏襲して造られたものだ。
 同研究所の様子を、北側から眺めた濱田煕Click!記憶画Click!が残っているが、1938年(昭和13)現在、戸山ヶ原に面した研究所の北面は背の低いフェンスで仕切られ、その奥は高さが3~4mはありそうな金網のフェンスで、二重に遮断されていた様子が描かれている。奥の金網フェンスには、ひょっとすると電流が流されていたのかもしれない。その様子を、1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された濱田煕『記憶画・戸山ヶ原』所収の、「現在の西戸山公園のあたり」に付随するキャプションから引用してみよう。
  
 この辺は南北両方から低地となっている。陸軍科学研究所から溝がうねりながら流れ出ている。幅約1.5m深さ約1m。ところどころの橋以外に、約2mおき位に幅20cm程度のコンクリ―の桁が渡されてあり、恰好の遊び場となっていた。溝は山手線の土手に沿って、やがて神田川にそそぐ。研究所の変った形の煙突や、疳高い独特の音のサイレンが印象的であった。栗や椎・楢の木の林の傾斜地である。
  
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 まず、歩きだしてすぐに気づいたのが、すでに使われなくなった建物が多いということだ。戦後間もなく建てられた、いわゆる団地仕様の4階建てアパートがいまでも残っていたが、ちょうど住民がいなくなり解体されている最中だった。ほどなく、新たな集合住宅の建設がはじまるのだろう。戸山ヶ原のゆるやかな南斜面を、南へゆっくりと下りはじめると、左右に大きな建物がつづく。都や国の公共施設が多く、ほどなく左手に実物大のフタバスズキリュウ(首長竜)が彫りこまれた門のある、東京国立科学博物館の分館が姿を現すが、この建物も窓が真っ暗ですでに使用されていない。
 出かけたのが日曜のせいか、公共施設はひっそりとしているが、住宅街がごく近くにあるにもかかわらず、人の姿や気配が建物の数に比べて非常に少ない。また、廃墟とまではいかないまでも、使われなくなって門前に養生が張られた、立入禁止になっている建物が目につくのだ。ちょうどいまの時期が、施設の建て替えサイクルのタイミングに当たっているのだろうか。使用を終えた建築群とともに、別に陸軍科学研究所の跡地だということを意識しなくても、一帯には通常の街角とはちがう異質な雰囲気が漂っている。
 首長竜のいる東京国立科学博物館Click!の分館には、いったいなにが展示されていたのだろう? 今後も同様に、科学博物館の施設に利用されるのであれば、ここは陸軍科学研究所の本拠地なので、せっかくの「科学博物館」なのだから一隅にそれを記憶する展示や資料室を設置してはいかがだろう? 現在は明治大学生田校舎となっている、第9研究所(登戸出張所=通称・登戸研究所)でも、旧・研究所の建物の保存とともに戦争のツメ跡を記念した資料館が設置されている。また、慶應義塾大学の日吉校舎に残る連合艦隊司令部や、艦政本部など地下壕の保存や資料展示も同様だが、民間が積極的に戦争記憶の保存や資料展示を行なっているのに、かんじんの国や都が戸山ヶ原の本部・本拠地でなにもしないというのは、いかがなものだろうか?
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 さて、東京国立科学博物館分館からそのまま南へダラダラと下ると、すぐに百人町通りへ出てしまうので、西に折れて旧・陸軍技術本部の跡地へとまわってみる。ここには、人工的な小川が流れる西戸山ふれあい公園があるのだが、ここでようやく10人前後の大人や子どもたちに出会えた。公園内には大小さまざまな石や、大きな玉砂利の混じるコンクリートブロックClick!などが散在しているが、おそらく中には戦前から残っていた建物や施設の資材や部品が、そのまま流用されているものもあるのだろう。園内の木々には、大きなクスやケヤキもあるので造園時に植えられた樹木だけでなく、戦前からそのまま生えている木も混じっているのかもしれない。
 公園から坂を下り、百人町通りへと出て東に向かい、俳人協会・俳句文学館をすぎてしばらく歩くと、陸軍科学研究所の正門があった位置へとたどり着く。現在は、ホテルやマンションになっている一画だが、この斜向かいにはその昔、作家の岡本綺堂邸Click!が建っていた。正門跡をすぎると、左手には看護学校や東京山手メディカルセンター(旧・大久保病院)などの医療施設がつづいている。これらの施設は立入禁止ではなく、広い病院の庭にはあちこちにベンチが設けられているのでじっくり散策してみる。
 すると、すぐに科学研究所の重要施設の周囲に築かれた土塁の痕跡を発見した。この土塁は、大正末の早い時期から築造されていたもので、なんらかの研究・実験施設を四方から取り囲むように築かれていたものだ。土塁の目的は、火薬ないしは発火や爆発の怖れがある薬物の取り扱いをしていたか、小型兵器の試射が行なわれていたか、あるいは建物内の様子を周囲の目から遮断するためのものだったのだろう。1925年(大正14)8月の「陸軍科学研究所完成後配置図」(青焼き)では、「〇〇〇実験室」とあるが読みとれない。戦後に崩されているとはいえ、北西側の一画が“「”型にふくらんだまま、当時の様子をそのまま伝える遺物だ。
 また面白いことに、新たに建てられた建物も、この四角い土塁跡にスッポリと収まるように設計されている。科学研究所時代に造られた、コンクリートの建物基礎をそのまま活用した可能性が高そうだ。土塁の東と南側は建物のエントランスや駐車場となっているので、盛り土はすっかり取り除かれてはいるが、北西側はほぼ当時のままの地面で、低くなったとはいえ土塁の痕跡はそのままだ。また、建物の東側にまわって驚いた。山手線東側の戸山ヶ原でもよく見かける、戦前の古い石組みの石材を再利用したと思われる歩道の脇に、地下室へと下りる階段が設置されていたのだ。この地下室は、戦後新たに建てられたビルの基礎とともに、科学技術研究所の時代から設置されていたものではないか。
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 山手線の百人町ガードへと抜ける通りを歩くと、旧・陸軍科学研究所の敷地内にはレンガ塀の破片や、大きな玉砂利が混じるコンクリート塊など、同研究所の建物や施設の残滓と思われる遺物をあちこちで発見できる。立入禁止の公共施設も多いので、それらの敷地内をすべて仔細に観察すれば、当時の痕跡をさらに多く発見できるかもしれない。特に土塁を築いた跡の地面の盛り上がりや、強固に造られたコンクリート建築の基礎などは早々に掘り返して取り除くことができず、そのまま放置されるか、埋めもどされているか、なんらかの別用途の施設として再利用されている可能性が高い。

◆写真上:「〇〇〇実験室」の土塁跡のふくらみを、南西側から眺めたところ。
◆写真中上は、濱田煕による1938年(昭和13)の記憶画「現在の西戸山公園あたり」で正面に見えているのが陸軍科学研究所の東側。は、1944年(昭和19)に撮影された同研究所の空中写真に散歩コースを重ねてみる。は、解体が進む旧タイプのアパート。
◆写真中下上左は、人が住まなくなった昔の低層アパート。上右は、同研究所内の通路がそのまま拡幅されて道路になっている。は、フタバスズキリュウが迎える東京国立科学博物館の分館だが現在は閉鎖され使われていない。下左は、百人町ふれあい公園の様子。大きな樹木もあるため、陸軍科学研究所時代のものも混じっているかもしれない。下右は、随所で見かけるレンガ塀の破片やコンクリートの破砕塊。
◆写真下は、同様に同研究所で使われていたとみられるコンクリートやレンガの破砕塊。は、土塁跡のふくらみを北西側から見たところ(上)と、古い石積みの下に設置されている地下室(下)。下左は、戦前に多くみられる古い石材が活用された歩行者通路。下右は、いまでも戸山ヶ原を彷彿とさせる風景が残されている。

池田元太郎の「緑柳」と「緑蛙」。

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 多くの資料類では、下落合にあった池田元太郎の研究所兼工場を「下落合17番地」、あるいは「下落合1ノ7」としているようだが、下落合71番地の誤りだ。この下落合71番地という地番は、田島橋Click!の北詰めにあたる住所で、三越呉服店染工部(三越染物工場Click!/下落合69番地)の北隣りに接する敷地だ。1926年(大正15)現在、「下落合事情明細図」の同地番には池田化学工業が採取されている。
 池田元太郎は、大正期から昭和初期にかけ色彩について研究した、色彩学のオーソリティのひとりだ。天然色素や人工色素を問わず、あらゆる“色”に関する最新研究を、欧米での最新知見を取り入れながら日本に紹介している。また、自身でも下落合71番地(のち下落合1丁目71番地)に池田化学工業を設立し、人工色素を中心に絵具や顔料、染料、インク、塗料などの研究および生産を事業として起ち上げている。
 池田は、色彩についてのとらえ方を「人類の文化のバロメーター」と位置づけ、日本人における色彩感覚の「欠如」あるいは「鈍感」さを、文化程度が低いからだと嘆いている。彼の色彩に対する基本的な考えを、1926年(大正15)に丸善から出版された、池田元太郎『色彩常識』から引用してみよう。
  
 一般に文化の程度の低い人々は色彩の「統一美」とか「調和美」とかに至つては其の鑑賞力が非常に劣つて居る。之に反し文化人は深い趣味と高い鑑賞力とを持つて居り色彩を以つて単なる外界的事象として止めず、進んで内界的に思索をめぐらし深遠なる哲理と結合し、精神生活上の重要なる一要素として尊重し、以つてより幸福なる生活を営まんと力めつゝあるのである。故に此の点より考察すれば色彩は実に人類の文化のバロメーターなりと云ふも過言ではない。
  
 以上のような考えにもとづき、日本人の色彩感覚は曖昧模糊としており、ひと口に「赤」といっても多彩な「赤」があることを、客観的に規定し得ていないと嘆いている。たとえば、文房具店からクレヨンを何十種類か買い集め、その中から「赤」のみを取り出して比較すると、緋色・朱色・紅色・赤色・桃色とさまざまであり、国民の基礎教育を行なうべき小学校の色彩教材としては不適切だとしている。
 このような色彩の混乱や乱脈は、色の規定が厳密に行われないから起きるのであり、「合理的根拠に立つ標準色」を定めなければ、色彩学用品としては不適切だとし、緋色・朱色・紅色・赤色・桃色などをひとくくりに「赤色」というのは、「通俗的」だと批判する。確かに、同じ「赤色」にも多種多様な「赤色」があり、それを美術や図画工作などで生徒たちに気づかせる、あるいは教えるのはとても重要なことだろう。
 でも、池田の批判は言語表現における色彩の表現法、すなわち日本語の一般的な色彩表現や生活言語の慣用的な、あるいは地方・地域における方言上の慣習的な色表現のちがいさえ認めず、それらの批判にまで及んでいく。つまり、色彩の表現や規定に対する文字どおり「地方・地域色」や「曖昧」さが、彼の論旨によれば日本の文化程度を低めいている……ということになる。同書の中では、徳富蘆花の文章をやり玉に挙げて次のように書いている。
  
 又前記徳富蘆花氏の文中に「青葉茂りて云々」とあり、大震災印象記の「青」と題する短文中にも「青々とした芝生を見た」とあるが、此等青葉の青や青々とした芝生の青は果して青と指摘して間違は無いのであらうか。(欧米のさまざまな文献からgreen leavesやgreen grassの表現箇所を引用/中略) 右の如く外国の普通読本に於て何れも木の葉や芝生を正しく緑と指摘して居るのを見るとき、吾々日本人は仮令永い習慣性に因るとは云ひながら色彩に対する名称の唱へ方が実にぞんざいではないか。/此の外欧米では緑柳(a green willow)、緑蛙(a green frog)と書物にも明記して居るが吾人は青柳、青蛙などと唱へて居る。
  
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 池田にとっては、アオムシは「ミドリムシ」であり、安全を意味する青信号は「緑信号」、青果店は「緑果店」と呼ばれなければ気持ちが悪いのだろう。事実、彼はこのあとグリーンピースを青豌豆と呼ぶのはおかしいにはじまり、さまざまな「青」がついた名詞の事例を出して、日本における色彩表現のおかしさ、非合理性、非論理性について言及している。
 さて、こういう人をなんと呼べばいいのだろうか? 「言語権威」のひそみに倣うなら、欧米の色規定に文字どおり染まってしまった「色彩オーソリティ」とでもいえば適切だろうか。たとえば、「美しい日本語」とか「美しい大和言葉」とかいう怪しげな表現を、なんの不可解さや不自然さを感じずに用いる人がいる。よくよく読んでみると、地域方言や生活言語をいっさい無視した、得体の知れない人造語「標準語」Click!に由来したり、一部を江戸東京方言の山手言葉や下町言葉の丁寧語、ないしは敬語・謙譲語から拝借したりする、生活言語や言語文化の野放図なゴッタ煮ケースが多い。「大和言葉」というからには、ナラや京都あたりの関西方言かと思えば、どうもそうではなくて南関東の方言に由来・依存しているものが多そうなのだ。
 たとえば、山陰地方の方に「因幡の白ウサギに登場するのは、ワニじゃなくてサメだよサメ。日本海にクロコダイルがいるわけないじゃん!」といったところで、「そげ魚は、ここでは昔っからワニだっちゃ」と、冷笑とともに素っ気なくいわれるだけだ。「お礼をいうときは、おおきにじゃないだろ? ありがとうございますとちゃんといえ!」と大阪人にいえば、たちどころに「あんた、大阪には二度と来(こ)んといて」と突き放されるだけだろう。色彩の表現とて、まったく同じだと思うのだ。
 確かに、画家やイラストレーター、各界のデザイナー、染色家などを職業とする方、つまりプロフェッショナルには色彩の厳密な規定と「標準色」化は不可欠だ。同様に、放送局でアナウンサーを職業にしている人には、「標準語」のマスターは必要なのかもしれない。だが、地方や地域にそれを無理やり当てはめ、その地方・地域ならではの色彩感覚や生活言語を押しつぶそうとするのは、「文化程度を向上」させることではなく、逆に文化の多様性や豊かさを否定する偏狭な誤りではないか。
 江戸東京郊外で採れた多彩な近郊野菜や果物を売る店のことを、わたしの地方では江戸期の昔から青物店あるいは青果店と呼んでいた。(関西では「八百屋」が主流だそうだが) 信号機が日比谷交差点に設置されれば、緑色をしていた進めの「安全色」はさっそく青信号と呼ばれている。森林や芝生は青々と茂り、山並みは青く連なり、まかりまちがっても「緑々」していない。それでも、空の青さと木々の青さを、「アオスジアゲハ」の青と「アオダイショウ」の緑を混同することはありえない。
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 これは、その地方・地域における方言、あるいは生活言語における慣習的な色彩表現であって、それが厳密な色彩規定ではないからといって、欧米に比べ「文化程度」がいつまでたっても低い……などとは思わない。それは、山陰地方の方がサメのことを「ワニ」と呼称しても、京阪神の人が礼をいうとき「おおきに」といったところで、「文化程度」が低いとはまったく思わないのと同様だ。
 池田元太郎が、どこの出身者かは知らぬが、昔の「青信号」に比べ現在の信号機はブルーグリーンの、まるでアオダイショウのようなw、微妙な色合いをしている。「青信号」なのに緑色じゃおかしい……と、きっと池田先生か、彼の本を読んだ誰かが戦後の東京でいいだしたのだろうか?w でも、「安全色」である緑色を完全になくしてしまうわけにはいかないのか、「曖昧」なままどちらとも取れる色合いにしたのかもしれない。
 また、池田はファッション界でブームになる「流行色」にも噛みついている。その文面から推察するに、「商売人」が一国の流行色を決めるのはケシカランといっているようだ。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 然るに流行色が商策上、人為的に特定の人に依つて決定せられる場合が少くない。即ち有数な呉服店が協議し、一般の要求を斟酌せず、只管利益上の打算より或る色彩を決定し、而して盛にその色彩の衣服地を製造して、此れが流行色であると広告し宣伝する。かくて人々は自然此の商策に乗せられて何時かそれを以つて流行色と認めて了ふに至るのである。(中略) 其の色彩を使用することが、其の時の社会的事情・社会的気分に調和し、或る満足と安易な精神状態を保ち得るものでなければならない。此の点から考へても一部の者の商策等から流行色が決定せられる様なことではならない。
  
 池田化学工業に隣接する、三越デパートClick!染物工場の開発担当者が聞いたら、「お客様への詳細な市場調査を実施して、お好みの流行色を決めるようにいたしているのでございますが」と、さっそく池田先生に反論するかもしれない。w この本が出されてから15年後、「社会的事情・社会的気分に調和」するよう、軍国主義の「流行色」は国民服のカーキ色と国家的に決められたことで、池田ははたして満足していたのだろうか? また、戦後の中国で主流となった人民服を見て、統一された美しさだと感じただろうか?
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 文化面や生活面において「標準化」に寄り添う、あるいは「標準化」を推進しようとすると、逆に「曖昧」性が生じるという現象……。それは「標準語」を地方・地域の生活言語=方言(もちろん江戸東京地方の方言含む)に無理やり取りこもうとして生じる「曖昧」さや混乱に、どこかとてもよく似た現象のようにも思える。池田元太郎には、日本橋の「すずめ色」Click!というような曖昧模糊とした色彩表現は、きっと欧米に比べ「文化程度」が低い象徴のような、きっと許せない色名だったにちがいない。

◆写真上:田島橋の北側、下落合71番地に建っていた池田化学工業跡の現状。
◆写真中上は、1926年(大正15)に出版された池田元太郎『色彩常識』(丸善)。下左は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に採取された池田化学工業。下右は、1935年(昭和10)作成の「淀橋区詳細図」にみる同社。
◆写真中下は、『色彩常識』より、絵画を日光の下で見た場合(上)と室内灯の下で見た場合(下)の色彩差異。このほか、同書には部分的にカラー印刷が挿入されている。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる池田化学工業。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる池田化学工業。は、いまや「青」とも「緑」とも表現しづらい信号機の青信号。

江戸東京方言でも七は「ひち」だ。

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 ふだん“ベストセラー”とうたわれる本は、たいがい読むとガッカリして後悔するケースが多いのであまり手にしないが、昨年(2015年)の秋に出版された井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)は、子どものころから数えておそらくゆうに50回以上は訪れている街がテーマなので、ついネットで注文してしまった。
 もっとも、大人になってから訪れた回数は少なく、最近では一昨年に旅行と出張で二度ほど出かけているだけで、しかも仕事では打ち合わせのみのわずか3時間ほど滞在しただけだった。したがって、この街を訪れたのは子どものころから学生時代までが圧倒的に多い。それは、建築土木畑Click!出身の親父が仏教彫刻や建築に興味があったせいだが、同時に奈良を訪れる機会も多かった。いや、むしろ彫刻では奈良のほうが圧倒的だろう。
 京都の仏教彫刻には、著者が差別を受けて「京都ではない」とされる洛中以外の場所に、注目すべきいい作品が多い。著者の故郷である嵯峨(京都ではないそうだが)の、いわゆる清凉寺式の釈迦をはじめ、子ども心にも面白いと感じた宇治と日野の“定朝伝承”が残る阿弥陀如来の比較、鄙びて味わい深い大原の跪く観音・勢至など、「京都」ではない地域の仏像に興味を惹かれた憶えがある。
 さて、著者が「洛中以外は京都ではない」と徹底した差別を受けてきた本書の内容は、わたしにとってはめずらしかった。そんなに根強い差別意識がいまだに残る街だとは正直、外から眺めていただけではわからなかった。「洛中=京都」であり、そのエリアが尊くて特別に貴重であるためには、「尊くなくて貴重じゃない」エリアを相対的な概念としてつくらなければならない。なにやら、尊い人々をつくるためには尊くない、卑しい人々を形成しなければならず、特別に尊い人々をつくるためには、特別に卑しい人々を設定しなければならない……という、シンプルで概念的な(政治制度的でなく)階級形成にもとづく「天皇制」論を思い出してしまった。事実、嵯峨よりも外側の人々を洛中=京都からさらに遠く離れた田舎だと、著者の地域では差別していたフシもうかがえる。
 たとえば、これを江戸東京に置き換えてみると、どうだろうか? わたしは、ここの記事で江戸前期の江戸時代の市街地と、江戸後期の大江戸Click!(おえど)時代の朱引墨引の市街地とを意図的に規定して記述している。また、明治以降の東京15区エリアと、1932年(昭和7)以降の東京35区も意識的に区別して記述している。でも、それは歴史を正確に表現するうえでの境界規定上の区別であって、別に大江戸時代の市街地以外は「江戸」でも「東京」でもないなどと思って書いているわけではない。
 わたしはいま、江戸期の市街地から遠く離れ、かろうじて神田上水(現・神田川)がかよう大江戸Click!期の境界規定でいえば、朱引墨引の境界線内ギリギリのところに住んでいる。1964年(昭和39)の東京オリンピックで、防災インフラの破壊Click!を含め“町殺し”Click!が徹底して行なわれた大江戸の日本橋エリアより、江戸期には「場末」(当時は「郊外」というほどの意味)と呼ばれたエリアのほうが、よほど緑が多くステキな土地柄で住みやすいからだ。ここに住んで37年になるが、日本橋にしろ神田にしろ、尾張町(銀座)にしろ、別に「落合人」を蔑んだり差別したりはしない。
 ただし、親の世代以前ではオリンピックで破壊された街を離れる際、山手線の西側=日枝権現社の氏子町のさらに外側へ転居することを、「郊外へ引(し)っ越す」といっていた。山手線の西側エリアのことを、「東京郊外」だとする意識は、そのエリアを差別しているというよりも、明治期以来の東京15区+外周の郊外(武蔵野Click!)意識の名残りが、60年代まで(城)下町の地元でつづいていたのと、日本橋をこよなく愛する気持ち=郷土愛のほうが強く、その裏返しの自虐的な意識をこめた揶揄だったのだろう。『京都ぎらい』の著者が描く、洛中と洛外のような「いけず」で性悪で、陰湿で執拗な差別意識ではなかったように感じている。
 ちょっと余談だけれど、著者がいう京都=洛中(著者によれば敵地w)を歩いているとき、一度だけ親父が明らかにイラついた表情を見せたことがあった。当時、創業250年を超える漬物屋(現在は300年近いだろう)で、“からし茄子”を購入しているときだった。京都の老舗へやってきた東京人ということで、創業から製品の史的工夫までをクドクドと15分ほどかけて亭主が長話したときのことだ。「たかが漬物(つけもん)で、なに大層なご託を並べてんだい」と、親父の顔には書いてあった。江戸期から営業をつづける店舗や企業が、軒なみ建ち並ぶ日本橋Click!で育った親父にしてみれば、「創業250年で、なにをもったいぶってやがる」という反感をおぼえたのだろう。
 執拗でクドいのはわたしも苦手だが、確かに商売人が、たかが漬物で顧客の(しかも旅行者の)足を止めるものではない。そういう“気づき”や“気づかい”がなく、とても客商売らしくない傲慢な点、わたしもどうしようもなく野暮で洗練されていない店だと思う。著者がいう、「東京」のマスメディアにかつがれ、おだてられて勘ちがい(心得ちがい)をしている、わきまえない漬物屋のひとつだったものだろうか。
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 さて、本書を読んでいてゴリッとひっかかり違和感をおぼえた記述がある。もちろん、「七」の発音についてだ。同書から、当該箇所を引用してみよう。
  
 七七禁令では、「しち」もやむをえないと判断した。それ以降、私は歴史の用語もふくめ、東京へあわせるふんぎりをつけている。生涯を京都ですごした七条院も、後鳥羽天皇の母だが、「しちじょういん」でいい。七卿落ちの場合でも、みんな幕末の京都人だが、「しちきょうおち」にしておこう、と。/しかし、地名だけは、ゆずりたくない。私もふくめ、京都およびその周辺ですごす人々は、みな上七軒を「かみひちけん」とよぶ。誰も「かみしちけん」とは言わない。七条院の名を知らない人々も、地元にはおおぜいいる。しかし、上七軒は「かみひちけん」という音で、多くの人になじまれてきた。地名では譲歩をしたくないと思うゆえんである。/鎌倉の七里ヶ浜まで、「ひちりがはま」にしたいと言っているわけではない。あちらは、「しちりがはま」でかまわないと思っている。ただ、「かみしちけん」だけはかんべんしてくれと、そう言っているにすぎない。
  
 わたしは、子ども時代を湘南の海辺Click!ですごしているので、七里ヶ浜は「しちりがはま」と発音するのに抵抗感は少ないが、唱歌『鎌倉』を唄うときは「ひちりがはま」と発音する。「♪七里ヶ浜の磯伝い~」は、「♪ひちりがはまのいそづたい~」だ。同じように、7番の「♪歴史は長き七百年~」も、「♪れきしはながきひちひゃくねん~」だ。これは、親父が千代田小学校Click!で習った当時のまま唄っているのを聞き、そのまま憶えてしまったから、ついそう歌うクセがついてしまって抜けない。
 千代田小学校の音楽教師は、「ひちりがはま」ではなく、「標準語」Click!を押しつけて「しちりがはま」だと訂正しなかったらしいところをみると、地付きの教師だったのだろう。江戸東京方言(とりあえず日本橋地域の方言で話を進めるが、近隣地域も同様だと思う)では、「…5、6、7、8」は、「…ごう、ろく、ひち、はち」で「しち」とは発音しない。
 だから、「東京」Click!(方面から)の影響で、七条は「ひちじょう」が正しいにもかかわらず、「しちじょう」と無理やり呼ばされるようになってしまった……というようなニュアンスで書かれるのは、できればやめていただけないだろうか?
 江戸東京方言でも、本来的にいえば七五三は「ひちごさん」だし、七軒町は「ひちけんちょう」、五七五七七は「ごうひちごうひちひち」、「七三分け」は「ひちさんわけ」が正しい。親の世代からこっち、学校で教える「標準語」の影響からか、七を「ひち」と呼ばなくなってしまった言葉には、七福神や七面鳥、七五調Click!などがあるけれど、質屋は「しちや」ではなく「ひちや」が正しいというように、いまだ明治期の教部省(のち文部省)がこしらえた得体の知れない「標準語」と対立している江戸東京方言は、発音に限らず言葉のイントネーションも含め、著者の故郷「京都」と同様に数が知れないほど多いのだ。
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 著者は、朝日新聞社の出版局が「七七禁令」の項目を、「ハ行」ではなく「サ行」の項目に加えたことを批判している。再び、同書から引用してみよう。
  
 ただ、当時の私は七七を「ひちひち」としてしか読まなかった。五十音順となる索引づくりにさいしても、最初はこれをハ行のならびにおいている。非常時、七七禁令、ヒトラーという順番で。/私のこしらえたこの索引案に、しかし東京の編集部は、強い拒絶反応をしめした。どうして、七七禁令を、非常時とヒトラーの間に、はさむのか。これは「しちしちきんれい」であり、とうぜんサ行のところに記載されるべきである。けっこうえらそうに、そう要求してきたのである。/七七を「ひちひち」とよびならわしてきた私は、もちろんあらがった。「しちしち」などという日本語は、ありえない。これは、あくまでももとどおりに、ハ行へならべられるべきである。はじめのうちは、東京の編集部にもそう言いかえした。
  
 「しちしち」などという「日本語」が「ありえない」かどうかは、日本語のすべての方言を押さえていないので知らないけれど、少なくともこの地域の(城)下町方言に立脚すれば、著者の地域と同様に江戸東京地方でもありえない。
 でも、「標準語」では「しちしちきんれい」と読むのだから、「標準語」を意識的に社是あるいは表現規範として導入しているマスメディア(企業)なら、いたしかたないのだろう。編集部の担当者が江戸東京の出身者であれば、もう少していねいな対応をしてくれたのかもしれない。いわく、「わたしも、できればハ行に入れたいのですが、社の表現規定で“七”はサ行に入れなければならないんです」……と。
 おそらく、江戸東京方言に疎かったらしい「えらそう」な編集担当者は、1920年代以降に東京へやってきた方(この年代の方の子どもが小学校へ上がるころから、授業における「標準語」の徹底化が実施されているようだ)の子孫か、あるいは戦後のより徹底した「標準語」教育を学校で受けてから(または、東京弁=「標準語」だという根本的な錯誤に気づかないまま)、東京地方へこられた方だろう。つまり、わたしとしては「東京」の新聞社ないしは出版社だから、そのせいで“七”がサ行に入れられるのではないことを、著者に了解してほしいのだ。
 朝日新聞社が、古くは薩長政府の教部省(のち文部省)ないしは戦後の文部省(のち文部科学省)が推進する「標準語」にことさら忠実なだけで、同じ社内規定をもつ新聞社や出版社であれば、札幌だろうが大阪だろうが、福岡だろうが「七七禁令」はなんの疑問も抱かれず、サ行の索引に入れられてしまうだろう。当の文部省(文科省)があるのは「東京」なのだから、どこか江戸東京言葉らしきものを押しつけられているという印象(イメージ)が、ひょっとして著者にはあるのかもしれないが、江戸東京方言もまた「標準語」の被害者でありつづけている点に、深く留意していただければと思う。
 著者が洛中とのこだわりで書く、洛外・嵯峨を起源とする「南朝」は56年つづいたが、13年間しかなかった豊臣政権を例外とすれば、薩長の大日本帝国は未曽有の犠牲者を生みながら、わずか77年(ひちじゅうひちねんw)で破産・滅亡した。日本史上では総じて短命な国家(室町期以前の「こっけ」概念含む)であり政治体制だが、その過程で「標準語」を推進してきたのは江戸東京地方でもなければ、地付きの江戸東京人でもない。
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 なるほど、地域言語の尊重に不熱心で地名(音)の保存にも無頓着な、著者が怒りをこめて書く「霞が関の役人」は、現在でも江戸東京地方にいるのだけれど、できれば苦情やお怒り、批判、非難、罵詈雑言のいくばくかは江戸東京の方角ではなく、その基盤となる怪しげな「標準語」なるものをこしらえた出身者たちが顕彰されている山口県と鹿児島県の方角へ、ほんの少しばかり向けていただければ、ありがたいのだが……。

◆写真上:江戸東京のカナメ、日本橋をくぐって真下から橋底をのぞく。2011年(平成23)に補修を完了した箇所や、石材を洗浄した跡が見えている。
◆写真中上上左は、2015年(平成27)に出版された井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)。上右は、京都の町家(町屋)路地裏。は、本書にも登場する徳川幕府が再興に全力で取り組んだ華頂山・知恩院。は、御池大橋から眺めた鴨川の流れ。
◆写真中下は、大川(隅田川)に架かる大橋(両国橋)の橋底を真下から。は、江戸東京の大動脈だった大川(隅田川)。は、千代田城を本丸側から眺めた朝靄の富士見櫓。
◆写真下は、雪が降りしきるひっそりとした東山・八坂ノ塔。は、松原橋から川上を眺めた鴨川右岸。は、木屋町あたりにつづく町家建築。
いわずもがなだが、江戸東京では「まちや」は多くの場合「町家」と書いて、関西地域や「京都」をおだてる『家庭画報』あるいは『婦人画報』wなどで見うけられる「町屋」とは書かない。

川辺で光るホタルを殺せ。

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 1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!以降、B29による市街地の絨毯爆撃をかわすため、川辺に棲息して光を放つホタルまで殺せと灯火管制下の軍当局、あるいは自治体か地域の防護団Click!が命じたという話を聞いたことがある。おそらく、もはやホタルなど飛び交っていそうもない(城)下町Click!の話ではなく、東京大空襲を目のあたりにして「明日はわが身だ」と予想Click!するようになった東京郊外、または東京の外周域での話だろうか?……と、長い間、疑問に思ってきた。あるいは戦時の混乱期に生まれた、どこか皮肉や揶揄をこめた東京の「都市伝説」のひとつかとも考えた。
 少し考えてみれば自明のことだが、米軍の数百機を数えるB29の大編隊が、地上のホタルが放つかすかな明かりを探しまわり、それを頼りに爆撃を行うことなどありえない。それは、前年の秋からはじまっていた夜間空襲の模様や経験を踏まえれば、すでに明らかになっていたはずだ。昼間と見まごうほどの、大量の照明弾を投下して街を明々と照らしだし、爆撃の照準器が通常の目視で使えるほどの明るさを確保してから、爆弾や焼夷弾を目標に向けて正確に投下している。
 また、そもそもホタルが乱舞するような環境に、重要な都市機能や軍事目標など存在しそうもないことは、地上にいるふつうの感覚の人間なら判断しえただろう。B29の「合理的」な空襲をすでにいくたびか経験していながら、川辺のホタルが灯火管制の邪魔になると、本気で考えていた軍当局や自治体、防護団があったとすれば、もはやアタマの中が錯乱状態で、まともな判断すらできなくなっていたとしか思えない。
 きょうは東京大空襲から71年目の3月10日なので、当時の空襲下にいた東京人の日記を引用してみたい。今回は、いつもの下町ではなく、乃手に住んでいた『断腸亭日乗』でおなじみの永井荷風Click!だ。永井荷風は空襲当時、麻布区市兵衛町1丁目6番地(現・六本木)の「偏奇館」と名づけた自宅に住んでおり、わたしの義父の家とは非常に近かったので、ほとんど同じ情景を目撃していただろう。ちなみに、永井荷風は3月10日の空襲を、前日9日の日記に記載している。
  
 天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。火は初長垂坂中ほどより起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す。余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のただならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり。谷町辺にも火の手の上るを見る。また遠く北方の空にも火光の反映するあり。火星(ひのこ)は烈風に舞い紛々として庭上に落つ。余は四方を顧望し到底禍を免るること能わざるべきを思い、早くも立迷う烟の中を表通に走出で(中略) 余は風の方向と火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもやや知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。(中略) 余は五、六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能わず。唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ。(カッコ内引用者註)
  
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 義父は、4年前に退役していた麻布1連隊Click!(第1師団第1連隊)に戦時動員されており、このあと東京大空襲で負傷した(城)下町の人々をトラックに積んで、いまだ空襲を受けていなかった下落合の聖母病院Click!まで、ピストン輸送することになる。義父と下落合とのつながりができたのは、この大空襲のとき以来だ。
 永井荷風は後日、「偏奇館」の焼け跡を避難先から訪ねているが、自宅跡に陸軍が大きな穴を掘っているのを目撃する。現場の作業員に訪ねると、空襲で焼けた民間の土地は軍が接収して随意使用することを伝えられた。この瞬間から、荷風の国家に対する不服従、冷淡な無関心がはじまっている。「軍部の横暴なる今更憤慨するも愚の至りなればそのまま捨置くより外に道なし。われらは唯その復讐として日本の国家に対して冷淡無関心なる態度を取ることなり」と日記に書きしるしている。
 さて、話を空襲下に流れたホタル殺しの「都市伝説」にもどそう。これが「伝説」などではなく、事実だと知ったのは、昨年(2015年)の暮れに亡くなった野坂昭如Click!の文章を読み返していたときだ。野坂昭如は、1945年(昭和20)6月5日の神戸空襲で被災している。空襲の様子を、2002年(平成14)に日本放送出版協会から発行された野坂昭如・編著『「終戦日記」を読む』から引用してみよう。
  
 背後に強烈な炸裂音。次に気づいた時、その家の庭に突っ伏していた。もはや他家の火を消すゆとりはなく、戻ろうとして、うちの屋根や庭木に点々と火の色。焼夷弾そのものは爆発しない、ただ火が撒き散らされる、筒から火のついた油脂が流れでるだけだ。B29は、焼夷弾と同時に、人間殺傷用の小型爆弾を落とし、これが、玄関を直撃したらしい。/この後の記憶がとぎれとぎれ、ただ家の前をうろうろするばかり。養父のいた玄関を目にしたはずだが、何を見たのか覚えていない。家の中は真っ赤な炎。「お父さーん、お母さーん」。二度叫んだが、返事がない。家並みは、黒煙で、夕暮れより暗い。ぼくは山へ向かって一目散に走った。
  
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 神戸空襲の場合、山へ逃げればまだ爆弾や焼夷弾は避けられたようだが、全体が市街地で山や緑もない、また下町の街々を囲むように外周を爆撃して火災で包囲し、住民の逃げ場をなくしてから焼夷弾やガソリンを内側へまき散らした東京大空襲に比べれば、まだ退避にはいくばくかの余裕があったようにも思える。
 空襲が終わったあと、B29がまいていった時限爆弾がときおり炸裂する音が鳴り響く中、家族が離ればなれになったときに約束していた落ち合う場所へたどり着くが、もはや家族は誰もおらず、近くの国民学校で全身火傷の養母と負傷した妹にようやく再会している。ホタル殺しが記録されたのは、重傷の養母と妹を抱え、その看病に明け暮れていたときだ。再び、同書から引用してみよう。
  
 ぼくと妹は、西宮、甲山に近い養父の知人の家に世話になることになった。毎日二食、母の食事を作ってもらい、山から海まで夙川沿い、約六キロを、朝夕運んだ。弁当箱へ入れた野草沢山の雑炊。/近くに市の貯水地(ママ)があり、ここから流れる小さな川のあたり、一面、ホタルだらけだった。ホタルを目標に爆弾を落とされるから、ホタルをすべて殺すべしという回覧板がまわったらしい。寄寓先のお宅で、気まずい思いをしたり、病院の行き帰り艦載機による機銃掃射を受けたり、二つ年上の女性に想いを寄せたり、空襲までの日々と、まるで違う明け暮れのなかで、灯火管制でまっ暗、夜の底が明るければ、まず空襲による火災の熾(おき)。まったく異なる深い闇にホタルの、小川沿いびっしり光を点滅させる光景は忘れられない。妹を背負い、よく見入っていた。以後、ぼくは唱歌「蛍の光」を唄えない。(カッコ内引用者註)
  
 野坂昭如のホタルに対する特別な想いは、空襲やその後の生活で脳裏に焼きついた悲惨な光景と、川辺に展開する美しく印象深い夜景とが、単純にセットになってイメージづけられたものではないことがわかる。
 そこには「ホタル殺し」という、冷静で正常な思考回路では明らかに狂気の沙汰としか思えないような行為が、戦時の錯乱した状況ではなんの疑念も抱かれず、なんら理不尽さ不可解さもおぼえずに「ホタルを全滅」させることに狂奔していく、回覧板をまわした隣組(町会)や自治体、ひいては軍部のパニックで狂気じみたアタマの象徴として、暗黒の灯火管制下に「ホタルの光」が存在していた……ということなのだ。
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 東京大空襲のあと、東京近辺で囁かれていたらしい伝聞なので、おそらく3ヶ月後の神戸空襲がよもや「ホタル殺し」の発祥地ではないだろう。東京地域か、あるいはその周辺域かはわからないが、B29の空襲に際して「ホタルの光が灯火管制の邪魔になり、爆撃の目標になる」などというようなタワゴト(デマ)をいいだした地域が、あるいはパニックを起こした組織がはたしてどこだったのか、わたしは非常に知りたいと思っている。

◆写真上:パラシュートつきの照明弾で真昼のように照らされる、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!下の新宿駅周辺。写真中央で光りながら落ちていくのはM69焼夷弾で、壊滅直前の新宿駅とその周辺域をB29からとらえたもの。
◆写真中上:250キロ爆弾や焼夷弾が着弾寸前の、新宿駅東口に拡がる街並み。
◆写真中下:同じく、壊滅直前の新宿駅西口と淀橋浄水場界隈。新宿駅の周辺には、市立大久保病院や武蔵野病院、淀橋病院など規模の大きな病院施設が集中している点に留意したい。「米軍は病院への空襲を避けた」というデマが、戦後、おそらく米軍への反感を低減するために対日世論工作の一環で流されたと思われるのだが、米国公文書館で情報公開された新宿地域への絨毯爆撃の写真が、事実を明白に物語っている。
◆写真下:1945年(昭和20)5月17日に、B29偵察機から斜めフカンで撮影された下落合と周辺域。4月13日夜半の空襲で、鉄道駅や幹線道路沿いの被爆が見てとれる。

佐伯のスケッチは大阪の淀川周辺では?

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 わたしが以前から不可解に感じる、佐伯祐三Click!「下落合風景」Click!とされているスケッチが何枚かある。冒頭の画面がその1枚なのだが、わたしは下落合の旧・神田上水(現・神田川)に帆掛け舟が通っていたのを、これまで古老たちの証言でも聞いたことがないし、資料でも見かけたことがない。これは、「下落合風景」ではないだろう。
 そもそも、大正当時の旧・神田上水は江戸期のままで底が浅く、深く掘削されてはいない。現在の神田川Click!のように、川底が洪水対策でかなり深く浚渫されたのは佐伯の死後、川筋の直線化・整流化工事が進んだ1935年(昭和10)前後のことだ。しかも、上掲のスケッチを見てすぐにお気づきだと思うのだが、こんな帆を張る舟が旧・神田上水を通っていたら、川の随所に架かっていた橋をどうやってくぐったのだろうか? たとえば、下落合地域だけ見ても宮貝橋(のち宮田橋)Click!にひっかかり、田島橋Click!で鉄筋の橋脚にひっかかり、果ては山手線の神田川鉄橋Click!の急流でもみくちゃにされながら勢いがつき、神高橋Click!へ帆柱ごと激突していただろう。
 同時に、旧・神田上水の水深も大きな問題として浮上する。現代でさえ、カヌーで同河川を下ろうとすると、随所でガリガリと船底を擦ってしまうほど水深が浅いのだ。雨の少ない冬や、夏の渇水期にはさらに水量が減るので、少なくとも飯田橋の舩河原橋から上流は、とても荷積みをともなう帆掛け舟など通行できないだろう。
 帆掛け舟が通うのは、港湾の近くにある橋がほとんど架からない河川か、または当初から水運用に拓かれた、ある程度の水深が確保され、たとえば橋げたを相当に高くして舟がくぐれるようにした、文字どおり高橋(たかばし)Click!が架かる小名木川のような物流目的の運河だ。下落合を流れている旧・神田上水には、そのような仕様も設備も施されていない。同様に、下落合(現・中落合/中井エリア)を流れていた妙正寺川は、大正期には跳び越えてわたれるほどの“小川”であり、また途中にはバッケ堰Click!の存在や寺斉橋Click!西ノ橋Click!など小さな橋がいくつか架かっていて、とても帆掛け舟などは通れない。
 当時の神田川流域で、舟が比較的多く往来していたのは、大洗堰Click!から舩河原橋Click!までの江戸川Click!(現・神田川)と、飯田橋の揚場町から柳橋Click!も近い神田川の下流域だ。江戸川の舟は花見舟や涼み舟が主体であり、大川(隅田川)への出口が近くなるほど荷運び舟や川遊びの舟の数が増えていった。しかも、途中で橋が随所に架かっているため、帆掛け舟ではなく喫水の浅い猪牙舟や平舟、家舟、屋形舟などの舟種がほとんどだった。
 幕末の『東都歳時記』には、神田川でもっとも大きな舟は「神田一丸」という舟だったことが記録されているが、荷運び用の舟ではなく帆のない屋形船だった。しかも、「神田一丸」は大川(隅田川)が近く水深も深い柳橋界隈の舟で、今日のような大型のモーター船ではなく、少し大きめな数名の船頭が操る屋形舟だったのだろう。
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 さらに、現代では高い建物が増えて忘れられがちだが、旧・神田上水はおもに南北を急峻なバッケClick!(崖地)や河岸段丘の緩急斜面に挟まれて流れており、ゆるやかなU字型、ときにV字型地形の下、つまり谷底を流れているのであって、スケッチに描かれたような平地を流れているのではないということだ。崖や丘ひとつ見えない同作は、明らかに落合地域の風情ではない。このような平地を流れる川は、港湾の近くでよく見られる風景だろう。また同作が、佐伯アトリエClick!竣工Click!したばかりの1921年(大正10)ごろに描かれたにしろ、第1次滞仏からもどった1926年(大正15)ごろに制作されたにせよ、これだけの広いスペースに建物が1軒も存在しないエリアなど、落合地域にも戸塚地域にも、また高田地域にも存在しないということだ。
 もうひとつ、冒頭のスケッチには同時期に描かれたとみられる作品が、何点か存在している。その中に、座ってキセルで一服している農婦たちを描いたと思われる河畔の向こうに、本流と思われる大きな川が描かれた風景作品が残っている。このような風景は、もちろん落合地域には存在しないし、たとえ東京地方であっても大川(隅田川)のさらに東側、旧・中川か荒川の流域まで出かけなければ、大正期にはこのような風景は展開していなかったはずだ。佐伯が、そのような方面にまでスケッチに出かけたとは、まったく記録に残っていないので、わたしはおそらく東京の風景ではないと考えている。
 佐伯の実家は、大阪市の大きな淀川べりにある北区中津の光徳寺だが、大正期の淀川を南西へたどって歩いていった下流域には、さすがに水運都市らしく淀川を中心に、古くから大小の運河が開拓されている。わたしは当初、佐伯が『滞船』Click!を描きに出かけた、市街地から大阪湾へと流れる安治川を疑ったのだが、さすがに大正末ともなれば、安治川の下流域や河口近くはこれほど鄙びてはいなかっただろう。
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 むしろ、大きな淀川が遠望できる、佐伯の実家から歩いて3~5kmほど下流域にある、現在では半分ほどが埋められてしまった安治川へと抜ける六軒家川、淀川と並行して流れほどなく大阪湾へと注ぐ、ほぼ全域が埋め立てられてしまった正連寺川、正連寺川から分岐して淀川へと抜ける、やはり全域が埋め立てられた伝法川などの周辺が、一連のスケッチのモチーフになっているのではないかとにらんでいる。
 中でも、わたしは手前の川筋と遠景の川筋が並行に近い様子、そして手前の川と遠景の大きめな川との間の距離感から、佐伯の中津にある実家から淀川べりを4kmほど下流に歩いた、すでに埋め立てられて久しい正連寺川沿いの農村風景ではないかと想像している。冒頭画面の帆掛け舟は、正連寺川を川上(東)へ、あるいは淀川から伝法川を経て正連寺川へと抜ける荷運び舟の1艘を描いたものではないか。
 第1次渡仏前か、あるいはフランスから帰国したあと、佐伯は大阪の実家へもどった際、スケッチブックを片手に淀川べりをブラブラと下流域へ歩いていったのだろう。佐伯がフランスで見せた、モチーフ探しの貪欲さを考慮すれば、4kmほどの道のりはたいしたことなかったにちがいない。また、ここは彼の地元であり故郷の大阪なので土地勘も十分にあり、子どものころから淀川べりを歩きなれていた可能性さえある。
 煙突からモクモクと煙を吐きだす工場が、大阪湾岸沿いにポツポツ建ちはじめた淀川べりをブラブラ歩きながら、手前で黙々と農作業をする人々との対比を面白く感じた佐伯は、正連寺川の土手に上って大正期の淀川河口域に広がる風景を、東京近郊の風景とはまたちがった感興から、スケッチブックに描きとめたのではないだろうか。
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 余談だが、昨年(2015年)の秋に放映された「開運・なんでも鑑定団」で、同様のスケッチが出品Click!されていた。その中で、美術の鑑定家が「下落合風景」だと断定していたのだが、その根拠が「現在下落合には佐伯祐三の記念館があり、下落合で描いたスケッチやデッサンが何点か展示されている。依頼品のような風景のスケッチもある」(同番組サイトの記述ママ)とされているのだが、わたしは明らかにまちがいだと思う。

◆写真上:佐伯祐三が描いた帆掛け舟が通う田園地帯だが、「下落合風景」ではない。
◆写真中上は、1877年(明治10)に撮影された安治川河口。貨物船が数多く係留され、すでに大きく拓けている様子がわかる。は、遠景に大きな川が流れ手前にも川が流れる同時期で同地域とみられる一連のスケッチ。
◆写真中下は、佐伯と同時代の1927年(昭和2)6月に撮影された「アサヒグラフ」掲載の安治川河口。佐伯が描いた『滞船』が、数多く停泊している様子がわかる。は、他のスケッチと同時期に描かれたとみられる農夫。
◆写真下は、やはり同時期の同じ地域の農婦を描いたと思われるスケッチ。は、1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる淀川と周辺の河川(運河)。もちろん、大正当時に比べ川幅は大きく拡幅され流域全体が整備されているだろう。


外では「虚空」を貫いたポルカ老人。

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 敗戦の翌年である1946年(昭和21)、空襲で焼け野原になった住宅不足を補うため、山手線の西側、上戸塚(現・高田馬場3~4丁目)をはさんで下落合の真南に拡がる戸山ヶ原Click!に、すなわち敗戦までは陸軍技術本部Click!(陸軍学研究所Click!)があった敷地の北側に、6畳ひと間の小さなバラック住宅や長屋が次々と建てられた。まるでマッチ箱のような粗末な家だが、そこへ入居できたことさえ幸福な時代だった。
 ある日、土ぼこりが舞う戸山ヶ原を「乞食」のような格好をし、折れた松葉杖をついて歩く夫婦者の姿があった。中央線・大久保駅から歩いてきた男の松葉杖は、下部でポッキリと折れており、折れた杖をそのまま継ぎ足し縄でグルグル巻きにして修繕していた。通りかかった元・陸軍兵士で傷痍軍人だった男は、あまりのみすぼらしさに自分が使っていた松葉杖をその男に譲ってやった。「乞食」のような男の足は、糖尿病による壊疽を起しており、歩行時の激痛をやわらげるために松葉杖が欠かせなかった。
 このときから、10年ほど時代をさかのぼらせた1935年(昭和10)の春、ひとりの男が新宿駅にやってきた。帝劇オペラ部の出身だった彼は、佐々木千里が主宰する新宿ムーラン・ルージュの舞台に立つため、新宿駅の南側に建っていた赤い電飾の風車がまわる建物に入っていった。男の名は、三ヶ島一郎といった。1977年(昭和52)に出版された三ヶ島糸『奇人でけっこう』(文化出版局)から、伊馬春部のまえがきから引用してみよう。
  ▼
 ムーラン・ルージュにはいって来たのが、昭和十年三月、経営者の佐々木千里は、すぐさま、左卜全なる芸名を名のらせたが、佐々木さんのセンスは的をはずれていなかった。たぐい稀なる個性にぴったりの芸名であった。左さんはあっというまにムーラン・ルージュの特異な存在となった。それには、われわれ文芸部仲間の小崎正房によるキャラクター発掘の努力が、どれほど並並ならぬものであったか計りしれないものがあるが、それが後年の映画俳優としての数々の名演技にもつながるのである。/入座当時の卜全さんについては、三ヶ島なにがしと名のる、松旭斎天華一座にいた人といった知識しか私にはなかったが、のち、女流歌人の三ヶ島葭子女子がその令姉だとわかって、私はとくべつのまなこでもって左さんに接したことを思い出すが、そもそもの芸能人としての出発は、ローシー指導するところの帝劇オペラであったこと、そしてのち、大阪で新派役者として修行時代のあったことなど、この書ではじめて教えられたところであった。
  
 「左卜全」という芸名は、左甚五郎の「左」に塚原卜伝の「卜」、丹下左膳の「膳」を「全」に変えた命名だという伝説があるが定かでない。確かに、三ヶ島一郎には日本刀の趣味があり、後年、木刀や剣の素振りを庭でよくしていたようだ。
 新宿ムーラン・ルージュでの左卜全は、自身に合う役柄がなかなかつきにくく、また変わった性格から劇団員に誤解されることも多く、彼の生涯を通じていちばん苦しい時代だったようだ。当時の様子を、本人の証言(同書)から引用してみよう。
  
 僕はムーランにはいってから、随分、みんなに苛められた。それまでは地方回りとは云え、大舞台の芝居ばかりしていたのに、いきなり、池ならまだしも、小さな水溜りで、こちょこちょ泳ぐような、ちっぽけな劇場で芝居をするのでは、身も心も芸も、動きがとれなかった。僕の芝居も他人とは合わなかったし、持前の性格で、誰一人とも協調しなかったから……みんなは僕を追い出そうとかかった。(中略) その僕の個性を見極めて、僕に当てはめた脚本を次々と書き、僕の芝居を作ってくれたのが、作者の小崎正房氏だった。小崎氏は、もと大都映画の二枚目俳優だった。/小崎氏の書いたいい脚本の為に、僕は三年目になると、狭い舞台でも障りなく、大きく、自由自在に、自分の思いのままの芝居が出来るようになった。/やがて、ムーランでの僕の時代が出現した。
  
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 『奇人でけっこう』の表示題字を書いた森繁久彌Click!は、夫人とともにボロボロの衣服で松葉杖をつき、高価な葉巻きをくゆらせながらスタジオへ現れる左卜全の性格を「左さんは、非常にケチな面と非常に無駄使いの面があるねえ」と評している。
 だが、左卜全のとぼけて飄々とした姿は、演技のみならず外で他者と接するときの「虚」の姿であることを、周囲にいた多くの人たちは気づかなかった。「実」の彼は、キャパシティの広い糸夫人でさえ辟易するほどの、真摯な哲学者であり思想家・宗教家だったのだ。演技ではオバカで奇妙な老人を装い、おかしな口調やとぼけたしぐさで人を笑わせる芸が多かったが、遠くを見つめるような眼差しは呆けてはおらず光っている。彼の実像を見抜いていた人物は少なく、そのとっつきにくい性格から親しい友人ができずに、唯一の例外は帝劇時代にいっしょだった、岸田劉生Click!の実弟である岸田辰也だけだったという。このあたり、どこか喜劇俳優の渥美清Click!とか、芝居でいえば一条大蔵卿Click!のような人物像に似ているだろうか。
 岸田劉生つながりだったせいか、左卜全は絵が好きだった。夫人同伴で銀座の画廊や骨董店を見てまわり、そのあとでコーヒーを飲むのが休日の恒例だったらしい。オペラ歌手や俳優にならなかったら、自分は画家になっていただろうと記者のインタビューに答えている。1966年(昭和41)に発行された、『月刊時事』1月号から引用してみよう。
  
 ダンスが得意でしたが、それよりもっと絵が好きでした。絵筆をもっていたら、貧乏かも知れないが、今頃はその道で名を売っていたかも知れないですね。/昼でも夜でも、自然の風景が気に入れば、何時間でも平気で見つめていられるくらいだから、眼も耳も人並み以上にいいと自負しています。/他人が何でもないものがわたしには分かるし、景色の色彩も人以上にわかる。異常に感受性が鋭い、家の系統は芸術的というより気違いじみているんでしょう。/青年時代の死ぬ以上の哲学的苦悩で、わたしの頭は今でもメチャクチャになっている。でも、やっと世帯を持ってから落ち着いていますがね。人とは次元が違うかも知れません。偉いっていうんじゃあないですよ。ろくでもないんです。
  
 若いころ、左卜全は中村不折Click!のモデルをつとめている。首から肩にかけての線が気に入られたらしく、戦場へ向かう若い武者が草鞋をはく仕草を描いた『黎明』のモデルだ。大正初期のことで、『黎明』は1916年(大正5)の第10回文展へ出品されている。モデル代として、彼は中村邸でマスカットをたらふくご馳走になったという。
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 もともと三ヶ島家は神官の出で、小手指で生まれた左卜全はすぐに麻布へと転居し、幼少時代を乃手Click!ですごしている。そのせいか、彼の根底には人間は自然から生まれ自然に帰るという、アニミズムを基盤とした神道思想が期せずして形成されていたのだろう。戸山ヶ原から庭つきの世田谷の家へ移ると、庭の手入れをする夫人(自分はなにもしないのだが)に雑草を抜いてはならぬと指示している。雑草ばかりでなく、草花にたかる害虫さえ殺すことを許さなかった。野草が好きで、ことに“都わすれ”が好みだったようだ。
 毎朝、庭に咲く野花を1輪つんではそれを眺め、夫婦でゆっくり3杯の茶を飲んでから、ふたりで仕事に出かけるのが習慣だった。仕事がないときも、たいがい夫人同伴で東京じゅうを散歩していたらしい。彼が夫人にぼそりと語った、「花屋の花には人間の欲がついている、美人には人の見垢がついている」は至言だろう。左卜全の足先の壊疽は、夫人による食事療法のせいか年々痛みが薄らぎ、昭和30年代に入ると完治している。
 再び、糸夫人が書いた『奇人で結構』から引用してみよう。
  
 夫は、穏やかな反面、また激しかった。時には仙人の如くはあっても、また一面、強い煩悩の人でもあった。王侯貴族のように気位は高くとも、ルンペン乞食のような低さの堕落もあった。(中略) 家庭では思考思索、瞑想の人だった。そんな夫に私は聞いた。/「何をそんなにお考えになってらっしゃるのですか」/「宇宙のあらゆること、小は糞をたれることから、無限の神秘まで、森羅万象……」/ああ、普通の女にこんな生活が耐えられるだろうか。/「昔、俺のことを好きだと云って、多くの女が後から後から寄ってきたよ。だが、一皮うちを見ると、どいつもこいつも向こうから去っていった。女とは現実的なもの、薄情なものだ」
  
 左卜全が広く知られるようになったのは、1950年(昭和25)に東宝で黒澤明Click!監督の『醜聞』に出演以降、黒澤作品には不可欠なバイプレイヤーになってからだ。
 左卜全は1970年(昭和45)、Polydorへ左卜全とひまわりキティーズの『老人と子供のポルカ』Click!を吹きこみ、24万枚の大ヒットを記録している。わたしの子どもたちが、「♪ズビズバ~パパパヤ~ やめてけれやめてけれ…」と同曲を3番まで歌えるのは、わたしが風呂場で教えたせいだが、子どものころリズムにワンテンポ遅れて唄うわけのわからない、呆けたような老人の歌を聴いたとき、やはり異様に感じたものだ。だが、それは彼が装う外面=「虚」の姿であり、「実」は精神的に研ぎ澄まされた厳しい言葉を繰りだし、常に緊張感を強いられたであろう糸夫人の存在など、当時は知るよしもなかった。
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 1971年(昭和46)、前作の大ヒットに味をしめたPolydorは、第2弾として左卜全とひまわりキティーズの『拝啓天照さん』を録音している。渥美清主演の『拝啓天皇陛下様』(1963年/松竹)を、どこかもじったようなタイトルなのだが、同曲は発売されずにお蔵入りとなった。同年5月、左卜全が癌で死去したからだ。どこかの倉庫に、いまだマザーテープが残っているとすれば、ちょっと聴いてみたい気もするのだが……。

◆写真上:1941年(昭和16)に制作された堀潔『新宿武蔵野館』で、左手の奥に描かれた赤い風車のある建物が「新宿ムーラン・ルージュ」劇場。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる戸山ヶ原のバラック住宅群。は、1936年(昭和11)制作の松本竣介Click!『風景』にみる新宿ムーラン・ルージュ。下は、堀潔Click!『新宿武蔵野館』とほぼ同じ位置から眺めたムーランルージュ跡方向(上)。ムーランルージュ跡は再開発中(中・下)で、新たなビルが建設中だ。
◆写真中下は、新宿ムーラン・ルージュの舞台で明日待子(中央)と左卜全(右端)。中左は、1932年(昭和7)制作の木村荘八Click!『東京今昔帖』にみる新宿ムーラン・ルージュ。中右は、1977年(昭和52)に出版された三ヶ島糸『奇人でけっこう』(文化出版局)で題字は森繁久彌。は、厳しく激しい記述が多い「左卜全日記」。
◆写真下上左は、1916年(大正5)制作の第10回文展に出品された中村不折『黎明』のデッサンでモデルは三ヶ島一郎(左卜全)。上右は、下谷区上根岸にあった中村不折邸で正岡子規庵の斜向かいだ。は、自宅でくつろぐ左卜全と黒澤明『七人の侍』出演中の卜全。は、冬の高村光太郎Click!山荘で一服する左卜全と糸夫人。

「鶏鳴坂」に朝霧がたなびいた。

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 現在は、大正期からの地形改造で名前さえ残っていないが、上落合には「鶏鳴坂(とりなきざか)」という坂道があった。上落合村から江戸市街へ向かう街道(現・早稲田通り)へと出る坂道のひとつだったが、この名称は地元の上落合村の村民たちが付けたのではなさそうなのがめずらしい。上落合村から、さらに東側ないしは北側のエリアから街道筋へと向かう人々が、便宜上そう呼んだ坂道のようなのだ。
 「鶏鳴坂」とは、文字どおり坂を上っているとニワトリが鳴くからそう呼ばれていたのだが、地付きの人間が付けたのではない証拠に、当時、たいがいの農家で飼われていたはずのニワトリClick!が鳴く坂は、上落合はもちろん落合地域のあちこちに存在していただろう。それでは、あえて坂の特色や個性を表現すべき坂名としては、あまりに一般的すぎて不適格ということになる。「鶏鳴坂」という名称が意味を持つのは、この坂にさしかかるころ、ちょうどニワトリが鳴きだす時刻になるから、そう呼ばれていたのだ……という伝承が、地元の上落合村にも残っている。
 つまり、上落合の村民ではない別地域の村民が、まだ明けやらぬ朝早くから江戸市街地へと向かうために家を立ち、上落合村から街道筋へ出ようと坂を上るころになると、ちょうどニワトリが鳴きだす刻限(午前4時すぎごろか)と重なったことから「鶏鳴坂」と呼ばれるようになった……という経緯だ。坂名は、おもに地元の村民が付けるのがふつうだけれど、大きな街道に近いエリアの坂道は、その利用者の共通認識、より広いエリア概念の生活習慣的な必要性によって広く呼称されるようになり、それが実際に坂のある地元の村へも還元・浸透していったということだ。
 「鶏鳴坂」について、1983年(昭和58)に発行された上落合郷土史研究会による冊子『昔ばなし』に収められた、「坂」から引用してみよう。
  
 「鶏鳴坂」は、昔は旧八幡通りあたりから右にそれて、今の落二小の正門前に出て、伸びる会の坂の上を早稲田通りとなっていたようです。それは、小滝台の山アシが北の方にのびて来ていて、その山アシに沿うて道があったのでしょう。それを、江戸時代の中頃に山アシを切り開いて切り通しにして道にしたところにして(ママ)、今のように大体真すぐな坂道にしたものと思われます。
  
 著者の視点は北側、すなわち下落合村の方角から見た記述をしているので、旧・月見丘八幡社Click!(村山知義アトリエClick!の斜向かい)から「右にそれ」るは、西側へ折れるという意味であり、「落二小の正門前」の道とは江戸期の上落合村伊勢宮下を東西に通う村道を通るということだ。「伸びる会」とは、「鶏鳴坂」の中腹に面した伸びる会幼稚園のことを指している。したがって、同幼稚園の東側に接した道で、早稲田通りにある地下鉄・東西線の落合駅4番出口へと向かう坂道が、「鶏鳴坂」と呼ばれていたことがわかる。
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 江戸郊外の村々の人々が、未明に「鶏鳴坂」を利用した理由は、江戸郊外で採れた近郊野菜Click!を大八車で運び、主要街道を経由して街場の青物市場へ運んで売るためだった。当時の野菜集積場として機能していた青物市場は、甲州街道沿いの内藤新宿(現・四谷4丁目あたり)や、江戸市街へ江戸川Click!(現・神田川)から舩河原橋Click!を経由し、神田川(外濠)をへて水運で野菜を運ぶ江戸川橋の市場が知られている。さらに、より有利な卸値取り引きをするために足をのばし、直接神田の青物市場へと野菜を運んだ農民もいただろう。
 当時の「鶏鳴坂」や街道筋(現・早稲田通り)は、現在とは異なり連続する神田上水(旧・平川)の河岸段丘や、小滝台からつづく丘の中腹を切り拓いて造成されていた。したがって、上落合村から街道筋に出るには、丘を切り崩した切通しの坂を上らねばならず、また神田上水の小滝橋Click!から上落合村方面へと抜けるのも、かなりの勾配がある坂道を上らなければならなかった。この地形の名残りは昭和初期まで色濃く残っており、当時の子どもたちにもハッキリと記憶されている。つづけて、同資料から引用してみよう
  
 私が子供の頃には落合建材屋さんのあたりにまだ、山が残って居りました。昭和の初め頃までは道巾も今の半分位で、勿論、砂利道で、馬力車が音を立てて上って行きました。時々、馬も疲れて荷車がひけなくなり、坂道の真中で横倒しとなってしまうようなこともありました。坂の途中に「源氏」と言う「かばやき屋さん」があり、大雨が降るとうなぎが逃げ出して、この坂道をニョロニョロと下りて来たこともときどきありました。
  
 書かれている「かばやき屋」は現存しており、店舗は早稲田通り沿いの「鶏鳴坂」から上落合銀座商店街Click!へと移転し、「うなぎ・源氏」として営業をつづけている。おそらく、早稲田通りや「鶏鳴坂」が拡幅された戦前に、現在地へと移転しているのだろう。
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 いまでこそ、一帯の地形の大規模な改造が進められ、上落合側の丘はほとんどすべてが崩されて、「鶏鳴坂」の傾斜もかなり緩やかなダラダラ坂状となった。また、早稲田通りもより深く掘削されて、小滝橋から上落合側へと抜ける道筋も、それほど上り勾配が急ではなくなっているのだろう。ただ、小滝台(旧・華洲園Click!)側の高台と早稲田通りとの間に、かなり切り立った崖地がそのまま残されているので、昔日の切り通しだった街道の面影を感じとることができる。
 小滝橋から上落合へと抜ける街道筋(現・早稲田通り)は、かなり傾斜のきつい上り坂がつづいたせいか、「立ちん棒」と呼ばれる“押し屋”がいたことも記録されている。同資料の「坂」から、引きつづき引用をしてみよう。
  
 その頃、小滝橋のタモトに「立ちん棒」と呼ばれる人が四・五人いて、荷車や、リヤカーが通ると、後からヨイショヨイショと山手通りの交叉点あたりまで押して、何がしかのお駄賃を貰って居りました。
  
 大八車やリヤカーが通りかかると、「押しましょう、押しましょう」といって数人の男たちが群がり、うしろから無理やり押しはじめる商売は、江戸東京の起伏が多い乃手地域には昔からあった。牛車や馬車を使わず、野菜を山と積み手押しでやってくる近郊農民は、彼らにとってはかっこうの顧客だったろう。市場へ向かう要所の急坂では、農民たちも彼らの人力を当てにしていたのかもしれない。
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 もともとは切通し状に整備され、上落合の北斜面に通っていた急勾配の坂道が、おもに昭和期に行われた地形の大改造(道路拡幅工事など)で、小滝台からつづく丘陵全体が取り払われ、急傾斜がそれほど目立たなくなると同時に、いつの間にか坂名も廃れてしまい、人の記憶からも忘れ去られたのだろう。

◆写真上:現在の上落合2丁目に通う、勾配が緩やかになったとみられる鶏鳴坂。
◆写真中上は、江戸末期の「上落合村絵図」に描かれた鶏鳴坂。は、1880年(明治13)に作成された1/20,000地形図に描かれた鶏鳴坂。
◆写真中下は、『今昔散歩重ね地図』(ジャピール社)の明治地図で地形を3D表示にした鶏鳴坂。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる鶏鳴坂。
◆写真下は、早稲田通り側の坂上から眺めた鶏鳴坂。下左は、小滝橋交差点へ向けて上落合側からダラダラ坂がつづく早稲田通りの現状。下右は、現在は早稲田通り沿いから上落合銀座商店街に移転している1928年(昭和3)創業の「うなぎ・源氏」。

大正中期の目白駅前にあった店舗。

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 大正中期に営業していた、目白駅前の企業や商店についてちょっと書いてみたい。ここでいう目白駅Click!とは、1922年(大正11)に鉄道省より発行された『国有鉄道現況』でようやく竣工が報告される、目白橋西詰めに橋上駅化された3代目・目白駅のことではなく、金久保沢の谷間にあった日本鉄道による初代の駅舎から数え、鉄道院がリニューアルした2代目・目白駅(地上駅)のことだ。
 当時の目白駅前にあった企業や店舗については、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)に掲載の媒体広告や、ほほ同期の住宅明細図などに掲載された店舗一覧広告などが教えてくれる。『高田村誌』には、高田村へ進出してきた製造工場や金融機関、各種事業所についての記述が詳しいが、店舗などの情報については巻末の媒体広告が参考になる。その中で、特に「目白駅前」あるいは「金久保沢」という記載のある店舗や企業について見ていきたい。
 これらの企業や店舗は、目白駅を利用した下落合に住む中村彝Click!佐伯祐三Click!ら画家たちが、同駅前とその周辺で実際に目にしていたものだ。当時、金久保沢の目白駅前にあたる地番は、東京興信所Click!が地価を調査した住所番地、すなわち高田村(大字)高田(字)金久保沢1113~1135番地界隈ということになる。ちなみに、高田村は翌1920年(大正9)から村制を廃し、念願の町制へと移行して北豊島郡高田町となる。今日、高田地域の繁華街は目白駅から西へ伸びる目白通り沿いだが、大正中期の繁華街は高田豊川町Click!四ッ家町Click!界隈が、同村誌によれば「商戸軒を並べ、頗る繁栄の況」であり、また雑司ヶ谷(鬼子母神Click!)から学習院馬場Click!(現・目白小学校Click!)までが「唯一の目抜所」だったことが記録されている。
 駅前というと、今日ではまず金融機関の存在を思い浮かべるが、当時の高田地域では高田農商銀行Click!本店が雑司ヶ谷鬼子母神の参道近くに開業しており、地元金融の中核だった。しかし、1918年(大正7)に池袋駅前支店を設置した大信銀行(本店・神田須田町1番地)が、駅前の利便さに目をつけて目白駅前にもほぼ同時に進出している。同銀行の概要を、『高田村誌』から引用してみよう。
  
 大正七年度の創業に係り、取締役に久保田勝美氏あり、松山棟菴氏川田豊吉氏同じく取締に当る、監査役は甲藤大器氏たり。(中略) 銀行設立の趣旨は此附近に於ける金融の便益を計らん為にして、東上鉄道武蔵鉄道等の開通を見しも両鉄道沿道に於て交換組合銀行に加入せる銀行皆無にして、是等沿道の人々の不便不利を救はんとするの所謂時代的要求に促されて創立を見しもの也。編者に隣接町村銀行として是非とも筆を執れる所以である、
  
 目白駅前にあった大信銀行目白駅前支店に接し、そのすぐ南側にあった企業が高田倉庫株式会社だ。当時の目白駅は、山手線の東側(学習院側)に貨物駅Click!が設置されており、全国から同駅へとどく荷の保管場所が不可欠だった。高田倉庫は1916年(大正5)に開業しており、駅周辺の市街地化とともに次々と金久保沢の目白駅前に倉庫を建設している。目白駅は、いわば東京郊外の西北部における物流の拠点だった。
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 高田倉庫は、高田農商銀行が肝煎りで設立した企業で代表に吉倉清太郎、相談役には元・高田村村長で高田農商銀行頭取の新倉徳三郎Clickが就任していた。1919年(大正8)現在で、目白駅前に100坪の倉庫2棟、池袋駅前に数棟を建設し、常時倉入れしている荷は10万円をゆうに超えていた。そのおもな荷は、各地から運びこまれる米や雑穀の類だった。同誌から、高田倉庫について引用してみよう。
  
 今茲に千俵の米を有し、之を倉庫に寄託せんが、倉庫は之に、倉庫券を発行し、倉庫券は銀行を通じて、直ちに金融の自由を獲ることが出来得る、而も倉庫には幾多の在荷があるから、今売買するとしても、幾多の取引人に自由に知られてゐるから、至つて都合が宜しく、容易に取引も成し得るのである、換言すれば幾十種の商品を陳列してゐる勧工場に於ての取引のやうな関係とも見ることが出来るのである。/なほ倉庫券を有するものゝ便益なるは、之によつて、最も簡単に僅の日数と雖も銀行との金融を成し得る事である、且は所有物の保管のために、土蔵を見卓志、貯蔵庫を設くる等の事なく、至つし(ママ)経済的となる。而も倉庫の蔵敷料の如きは至つて、僅少なるものである。倉庫は設備完全なるが故に、貯蔵に安全に寄託に確実である。加うるに保管物品に就ては、在庫中火災の責任を確保するから此点に於ては少しの懸念もない。
  
 当時、高田倉庫が倉入れ品(収蔵品)を担保にした倉庫券を発行し、金融機関との間でいつでも換金できる信用取り引きの仕組みを確立していた様子がうかがえる。また、実際のビジネスでは現金や小切手、手形などとともに、代価を価値に見あう倉庫券で支払うようなケースもあっただろう。
 目白駅に貨物駅が付随していれば、当然駅前には「物」を「流」通させる運送業が開店するのは必然だった。また、地上駅時代の目白駅前には、山手線の小荷物預り所があったため、それらを各事業所や家庭に配送する小口の運送業(今日の宅配便のようなもの)も欠かせない存在だった。
 古口運送店は、目白駅前で開業したあと、池袋駅前にも支店を出すほど急成長した運送企業だった。当初、地上駅時代は金久保沢の谷間にあたる目白駅前に本店があったが、1922年(大正11)に橋上駅が竣工し、目白橋の西詰めに小さな駅前広場ができると、その西並びへ本店社屋を移転しているとみられる。同村誌には、高田倉庫と並んで大版の1ページ広告を掲載しており、古口運送店の繁盛していた様子がうかがえる。
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 同じく、全国からとどく食料品を扱うとなみ屋商店も、ほぼ同時期に目白駅前に開店している。古口運送店し同じく同村誌へ1ページ広告を出稿し、「食料品其他御進物諸品調進仕候」とキャッチフレーズを入れているので、いわゆる街中にある通常の食料品店ではなく、遠方からとどく地元では手に入れにくい、進物などにも使えるめずらしい食材も販売していた店舗のようだ。店舗の位置が「目白停車場際」とあるので、現在の豊坂Click!へと上る坂下あたりで営業していたものだろうか。
 そのほか、人が集まりやすい駅前近くには、医院や歯科医も開業している。広告に「目白駅上」と記載されている式部歯科医院は、目白駅の改札を出てから右手を見あげた土手上、すなわち当時は桜並木がつづく高田大通り(目白通り)沿いに開業していたのだろう。1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」を確認すると、院長だった東京歯科医学士の式部秀夫邸を、目白通りをわたった高田村字大原1678番地に確認することができる。おそらく自宅で開業していたか、あるいは目白通り沿いの建物を借りて営業していたものだろう。
 もうひとつ、園芸店の富春園という店も開業している。目白駅前ではなく、「目白駅北二丁」と書かれているので、おそらく駅前から目白通りへと上り、道路をわたって山手線沿いに歩いた左手で営業していたとみられる。大正中期にブームになった、ダリヤの専門店をうたう広告を出しているが、園芸用の他の花々も扱っていた。急速に拓けつつあった、東京郊外の住宅地の造園用に、おもに海外の園芸植物を売っていたようだ。「ダリヤ及園芸植物種苗のカタログは各郵券四銭添へ申越次第御贈呈仕候」と書かれているので、種苗の通信販売なども手広くしていたようだ。
 ただし、7年後に作成された「高田町北部住宅明細図」には、同じく庭の植木を販売していたとみられる翠紅園は見つかるが富春園は見あたらないので、どこかへ移転しているのだろう。草花の種苗を育て、いつでも出荷できる状態にしておくには、かなり広い面積の栽培施設や苗床などが必要で、関東大震災Click!後の目白駅前の近くでは住宅が急激に押しよせ、郊外に点々と展開していた「東京牧場」Click!と同様、さらに余裕のある地域へと移転せざるをえなくなった可能性が高い。
 目白駅前に進出した初期の企業は、目白貨物駅へとどく荷を扱う物流の企業と、関連事業や店舗を支える金融機関がメインだった。そして、1921年(大正10)ごろから具体的な計画がスタートする東京郊外の文化住宅街、すなわち目白駅西側に展開する下落合の近衛町Click!目白文化村Click!が形成されるころから、金久保沢の地上駅前と土手を上がった目白通り沿いには、多彩な企業や店舗が進出してくることになる。
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 『高田村誌』(1919年)は目白駅の今後も含め、高田地域の将来を的確に予言している。著者は、「もと商業地としての高田村でないから、取引輻輳商品集散の一大商業地として目せらるゝ如きは決して望み得らるゝ当地ではなからう」と書いた。それからおよそ100年後の今日、一大商業エリアであり日本最大のターミナルとしての新宿駅と池袋駅とに挟まれた目白駅は、相対的に地味な存在となっている。その効用というべきだろうか、乗り換えの鉄道もなく「一大商業地」には及びもつかないが、新宿区北部(下落合地域)あるいは豊島区南部(目白・高田地域)に位置し新宿都心にもほど近い、便利で良好な住環境を比較的よく保っているようには見える。

◆写真上:1922年(大正11)まで、2代・目白駅(地上駅)があった南側の現状。
◆写真中上は、1900年(明治33)に東京市役所の東京市区改正委員会が作成した目白駅から巣鴨へと抜ける予定の豊島線図面。巣鴨監獄(現・サンシャインシティ)と雑司ヶ谷墓地の間を抜ける計画予定線だが、途中に雑司ヶ谷駅が想定されている。は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる旧・目白駅前あたりの様子。は、目白駅前で営業していた高田倉庫が出稿した媒体広告。
◆写真中下上左は、同じく目白駅前にあった古口運送店が制作した媒体広告。上右は、おそらく目白駅(地上駅)前から橋上駅化された目白駅改札(駅前広場)の西並び、目白通り沿いへ移転した1926年(大正15)現在の古口運送店。は、目白駅(地上駅)前にあった贈答品レベルの食料品を扱うとなみ屋商店の媒体広告。
◆写真下は、ダリヤを中心に庭園用の種苗を販売していた富春園の媒体広告。下左は、目白通り沿いに開業していた式部歯科医院の広告。下右は、1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」にみる式部秀夫邸。
1974年(昭和49)の当時、下落合から能登へと向かうには、山手線・目白駅から上野駅へ出て北陸行きの特急に乗る必要があった。今日のように北陸・上越新幹線、ましてや深夜バスなど存在しない時代なので、いつも下落合から地下鉄のある高田馬場駅を利用していた吉良家の人々も、スーツケースを下げて目白駅まで歩いたのだろう。同年3月16日放映の、第24話「能登路の姉妹」より。

Part01
Part02
Part03
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生産過剰だった関西セメント事業の消費先。

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 大正末から昭和初期にかけ、セメント業界Click!は減産してまで余剰在庫の解消に四苦八苦している。1927年(昭和2)4月の時点で、セメント業界の総在庫は約140万樽にもおよび、この在庫量は全国における1ヶ月の総消費量に匹敵する膨大なものだ。セメント業界では、15%の生産制限を実施していたが、さらに在庫がふくらむ傾向にあったので、その制限率を拡大しようとしていた。
 だが、関東大手の秩父セメントが減産には反対で、生産制限40~50%をめざすセメント事業連合会総会では、「反対」にまわっている。それはそうだろう、多摩湖Click!(村山貯水池)の建設につづいて、関東大震災Click!による復興需要はもちろん、戸山ヶ原Click!に建設が予定されている膨大な陸軍施設の需要と、高田馬場駅から戸山ヶ原の北辺を抜け、早稲田まで貫通する地下鉄「西武線」Click!の敷設が見こめる同社では、減産どころではなく増産体制を整えたかったにちがいないからだ。
 特に、1927年(昭和2)3月に起工した巨大なコンクリート製の大久保射撃場Click!を皮切りに、山手線をはさみ戸山ヶ原の東西には、鉄筋コンクリート製のビルを前提とする数々の陸軍施設Click!が昭和10年代にかけて計画されており、秩父セメントとしては「いまが稼ぎどき」と受注を待ちかまえていたにちがいない。そんな“ひとり勝ち”する秩父セメントを牽制するために、セメント事業連合会では緊急総会まで開いて減産率のアップを議題にすえ、各メーカーの在庫を一掃できるよう協議していたように思える。1927年(昭和2)4月27日発行の、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
  
 セメント減産率 更に拡張されん
 月末大阪で緊急総会開催

 セメントの在荷は現在約百四十万樽(略一ケ月の生産量)であるがモラトリアムの結果約定品の受渡しが出来ず取引は全部現金で行はれてゐるといふ有様であるので滞荷は一層増加気配にあるのでこの処分難に至つた そこでこの対策として生産制限率(現在は一割五分)の拡張によつて難局を切抜けんとしまづ大阪側が歩調を合はせ東京側に制限率を提議するところあつた これに対し東京側は二十六日工業クラブに会合し協議したが秩父セメントが賛成を保留したため、当日は最後の決定を見るに至らず月末大阪において連合会緊急総会を開き付議することになつた しかして秩父を除く外の意向としては需要期に現在の如き滞荷に遭遇しては梅雨期に一層これを増しセメント界の立直りを著るしく困難ならしむるのでこの際制限率を拡張する外なしといふ意見に一致してゐるので月末の緊急総会では多分四五割までに制限率を拡張するものと見られる。
  
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 工事現場を十分に遮蔽できなかった当時、梅雨どきになると工事が困難となり、セメントの需要が急減していた様子がわかる。
 「大阪側」の減産要求に対し、「東京側」の秩父セメントが「うん」といわないのは、急ピッチで進められていた関東大震災による復興事業が、東京を中心に関東各地で行われていたからであり、関西のセメントメーカーの在庫を調整するための減産要求など、むしろ「東京側」には関東のスムーズな復興事業を阻害し、セメントのコスト高(関西からの物流費上乗せ)を招来する、復興そのものを妨害するような提案行為として映っていた可能性も否定できない。「東京側」は、むしろ早期の“燃えない首都圏”復興のために、セメントの増産が一大命題だったと思われるからだ。
 もうひとつ、セメントの大量需要が見こめる計画に、1927年(昭和2)3月末に東京府が発表した、28線にものぼる大道路計画Click!がある。しかも、この中には十三間道路と呼ばれる、道幅25m(約13間3尺)の大道路が16線も含まれていた。道路表面は、もちろん先進のアスファルト舗装が想定されていたと思うのだが、歩道や側溝・排水溝、地下設備などの付随施設はコンクリート製であり、セメントの膨大な使用が前提となる。
 翌4月のセメント事業連合会総会で、「大阪側」があえて減産を提案しているのは、この東京府による一大土木計画を、関西地域のメーカー在庫を一掃する契機とみた可能性もある。以下、1927年(昭和2)4月1日発行の東京朝日新聞から引用してみよう。
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 府が十年計画で道路大改修
 郊外発展と交通の混雑に備へ二十八線の大道路

 最近東京郊外の発展はすばらしく家屋は日毎に殖える一方であるがその道路は全く無茶苦茶で自動車の出入等は全く不可能の所多く不便が甚だしいのでもしこのまゝ放置しておくと、今後の道路改修工事に非常な困難と多額の費用を要するので、先に東京府では郊外道路網の調査をし去る二月廿六日の都市計画委員会に付議されたが、東京府では委員会の決定をまつてゐては容易に着工出来ないので、府会の議決を経て工費五千三百三十一万余円で昭和二年から十ケ年計画をもつて、二十八線の道路の改修を行ふ事になつた、この道路は東京市を中心として環状線に放射線の交錯したもので、昭和二年度の予算は百万円三年度から六年まで二百万円、七年度から八百八十六万三千円である 右二十八線は二十五メートル(約十三間半)を最広とし、二十二メートル(十二間余)十八メートル(約十間)十五メートル(八間余)の四種で二十五メートルになるのは左の十六線である/▲大崎桐ケ谷環状線より池上村洗足池に至る▲下目黒環状線より碑衾村柿木坂に至る▲淀橋町放射線終点より松沢村代田橋南に至る▲中野町淀橋より井荻村中央線踏切に至る▲落合町高田町界より下練馬谷戸に至る(以下略)
  
 1960年代になってようやく開通(下戸塚一帯は1970年代の開通)する、落合地域の十三間道路(新目白通り)なのだが、当初の道路計画は二転三転し、山手線ガードをくぐって高田町側へと抜けるルート計画が確定したのは戦後のことだ。
 それまでは、下落合氷川明神前にあった西武電鉄の旧・下落合駅Click!前を経由して田島橋をわたり、栄通りを拡幅して省線・高田馬場駅前から早稲田通りへと合流する計画だった。しかし、下落合駅が1930年(昭和5)7月に西へ移動してしまうと、同駅前を通る必然性がなくなり、田島橋の下流にもうひとつ大型橋を架けて高田馬場駅まで抜けるルートに変更されている。この計画が、山手線をくぐり抜けて高田町側へと再び変更されたのは、戦後の1947年(昭和22)ごろのことだ。
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 セメントを秩父地方から東京市街地へスムーズに運ぶため、中央線も西武電鉄(現・西武新宿線)も、ときにセメント会社まで創業した武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)も貨物輸送に力を入れている。セメントの「減産」により、首都圏でどれだけセメントが不足して工期が遅れたか、あるいは関西のセメント在庫がどれだけ削減されたのかは不明だが、もうひとつ、河川で採れる良質な玉砂利の需要もウナギのぼりだったはずだ。

◆写真上:戸山ヶ原の陸軍軍医学校本部近くに残る、頑丈なセメントの擁壁。
◆写真中上は、1927年(昭和2)4月27日発行の東京朝日新聞に掲載されたセメント減産記事。は、戸山ヶ原に残る陸軍防疫研究室・細菌研究室跡の構造物残滓。軍医学校とともに、河川から採取された良質な玉砂利が用いられている。
◆写真中下は、1927年(昭和2)4月1日発行の東京朝日新聞に掲載された東京府の大道路計画。は、1927年(昭和2)に竣工した多摩湖(村山貯水池)の堤防断面。
◆写真下:1926年(大正15)夏に制作された、佐伯祐三の下落合風景シリーズClick!『セメントの坪(ヘイ)』Click!の塀跡。大正末の諏訪谷開発にも、大量のセメントが用いられた。

戸山ヶ原で遊ぶ上落合の子どもたち。

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 昭和初期に、上落合からわざわざ戸山ヶ原Click!まで遊びに出かけていた、子どもたちの証言記録が残っている。上落合と戸山ヶ原は、小滝橋Click!の交差点でかろうじて近接しているので、豊多摩病院が建っていた小滝橋通りから雑木林を抜け、戸山ヶ原の西端斜面を登って入りこんだものだろう。
 証言しているのは上落合に住む、のちに近衛歩兵第一連隊Click!から1944年(昭和19)に陸軍予備士官学校へと進み、戦争末期には陸軍中野学校Click!へ通っていた人物だ。陸軍中野学校といっても、戦争末期には南方の島嶼や日本本土での特殊戦(ゲリラ戦)を展開する軍人の養成学校に変貌しており、ルバング島の小野田寛郎が体験したようなカリキュラム内容に変わっていた。陸軍中野学校が本来めざしていた、軍人色を徹底的に払拭した諜報・謀略要員Click!を養成する、いわば怪しまれないよう“一般教養人”化するための「自由主義」教育は中止され、戦局の悪化からすぐに戦闘に役立つ実践的な演習が行なわれている。著者も、従来の中野学校ではほとんどなかった、戸山ヶ原での校外戦闘訓練に参加していた。
 さて、上落合から戸山ヶ原へ入りこむ子どもたちの様子を、1983年(昭和58)に発行された『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)に掲載されている、「戸山ヶ原附近」から引用してみよう。
  
 戸山ヶ原は小滝通りに沿うて「ケヤ木」や「ナラ」が繁っていて、木立のダラダラ坂を登ると平坦地となっていて、原っぱである。ケヤ木やナラの木立は、夏はカッコウの休み場であり、店員さんたちは自転車を置いて腰を下して休んでいた。アイスクリーム屋なども屋台を出していた。子どもたちは夏になると早起きしてこの木立にカブト虫などを獲りに行った。
  
 小滝橋も近い戸山ヶ原への入り口には、中で遊ぶ子どもたちや散策する人たちを当てこんで、屋台が並んでいた様子がわかる。
 著者は、おもに山手線をはさんだ戸山ヶ原の西側、つまり上戸塚や上落合の側で遊んでいたようだが、ときに日曜日などの休日には山手線の東側に拡がる、より広大な戸山ヶ原へも出かけていたようだ。わざわざ遠くまで遊びにいく目的は、土中に埋もれたままになっている実弾ひろいだった。つづけて、同資料から引用してみよう。
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 新らしい射撃場は日曜日は兵隊さんが実弾射撃に来ないので、私達はこれに侵入し、なかの砂山にかけ上り、砂の中から弾丸をひろったが面白いほどひろえた。ときどき見廻りの人が来るので、これに見つかると追いかけられるが、幸運にも一回も捕らなかった。この「新」「旧」射撃場の前、即ち、明治通りをハサンで今の学習院女子校のところに近衛騎兵連隊(東部第四部隊)があり、正門は穴八幡の方にあった。その右側、今の戸山ハイツは陸軍中央幼年学校と陸軍戸山学校であり、国立医療センターのところが東京第一陸軍病院であった。そのうしろに陸軍々医学校があった。
  
 また、雪が降った日などには、山手線の東側、諏訪町のすぐ南側に連続して築かれていた旧・射撃場の防弾土塁や、山手線の線路沿いに築かれたいわゆる「三角山」Click!の土塁で、目白文化村Click!の急斜面を利用した“スキー場”Click!と同様に、近所に住む人々によるソリ遊びやスキーが盛んに行われていたようだ。
 山手線をはさみ東側に拡がる戸山ヶ原は、江戸期にはおもに尾張徳川家Click!下屋敷Click!の敷地が多かったが、山手線西側の戸山ヶ原は、百人町に住んだ幕府の御家人=百人組鉄砲同心たちの組屋敷による“抱え地”、つまり百人組鉄砲隊Click!の射撃演習場として使用されていた。戸山ヶ原は、よほど射撃訓練Click!に縁がある土地なのだろう。
 上落合の子どもたちは、東側ばかりでなく南側の中野方面にまで遠出の遊びをすることがあったらしく、昭和初期の中野駅周辺の様子も記憶している。特に目立つ無線塔が集中して建てられていた、「中野の電信隊」の様子がことさら印象的だったようだ。当時は、高い建物がほとんどなかったため、中野駅に近い電信隊の無線塔は、上落合からも垣間見えていたのだろう。上落合の南側に住んでいた子どもたちは、下落合側へ出て遊ぶよりも戸山ヶ原や、柏木駅(東中野駅)および中野駅のある中野地域のほうがよほど近く、馴染みが深かったにちがいない。つづけて、「戸山ヶ原附近」から引用してみよう。
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 私達は学校から帰って来ると時々戸山ヶ原に行き兵隊さんの演習を見に行った。歩兵の兵隊さん、騎兵の兵隊さん、それに中野の電信隊の兵隊さんたちが、泥にまみれて一所懸命やっているのを見入っていたものである。ついでに中野駅の前今のサンプラザと区役所のあるところに、昭和の初めまで陸軍電信隊があり、私達はこれを中野の電信隊と呼んでいた。その後、電信隊が陸軍憲兵学校となり終戦を迎えた。そのうしろ、即ち今の警察学校のところに、電信柱が五・六本つなぎ合わせて立っていて無線の塔となっていた。その建物の門柱に「陸軍通信研究所」と看板が出ていた。これは別名を「参謀本部軍事調査部」とか「東部第三十三部隊」と言われていたが、実の名は「陸軍中野学校」である。
  
 著者が、実際に陸軍中野学校へ入学するころは、ゲリラ戦闘員の養成学校のような存在になっていたが、開校当初はさまざまなカムフラージュが行われ、敷地内に複数の無線塔を建てたのも研究所に見せかけるためだった。また、著者が通った当時は軍服姿だったろうが、本来のカリキュラムによる教育が行われていたときには軍服は厳禁で、全員が背広の私服で登校しなければならなかった。
 東に隣接する陸軍憲兵学校の出身者は、戦後になっても西隣りが陸軍の特殊な諜報・謀略の専門学校だとは気づかずにいたぐらいだから、徹底的な秘匿とカムフラージュが行われていたのだろう。戦争末期を除き、陸軍中野学校の出身者は、出身大学などの名簿の多くは「行方不明」として記載され、中には作戦任務の関係から戸籍さえ改変・抹消された人物も存在している。
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 「戸山ヶ原附近」の著者は陸軍軍人だったため、なにか演習があると実家近くの戸山ヶ原へ頻繁にやってきていた。陸軍のトラックに乗せられた彼は、頻繁に実家の前を通ることがあったらしい。そんなときトラックの上から、あるいは部隊が小休止の合い間に、「家に帰りたいナー」「家の畳の上で寝そべってみたいナー」と思いつづけていた。

◆写真上:小滝橋通りに近い、旧・戸山ヶ原の西端跡の現状。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合から戸山ヶ原への通いコース。は、1933年(昭和8)撮影の旧・神田上水に架かる小滝橋。
◆写真中下は、1931年(昭和6)に撮影された小滝橋通り沿いの東京市立豊多摩病院。は、山手線の線路沿いにあった防弾土塁(通称:三角山)跡あたりの現状。は、いまでも雪が降るとあちこちでスキーやソリ遊びができる坂道が多い落合地域。
◆写真下:いずれも1933年(昭和8)の撮影で、は中野駅前にあった陸軍第1電信連隊(通称:中野電信隊)、は中野駅舎、は東中野駅の踏み切り。

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