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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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作家たちの主治医だった辻山義光。

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辻山医院跡1.JPG
 1935年(昭和10)前後、寺斉橋の北詰めにあった喫茶店「ワゴン」Click!の、北側に通う路地の突き当たり右手、すなわち下落合4丁目1909番地(現・中落合1丁目)に辻山医院は開業していた。医師の辻山義光は、いま風にいえば脳神経内科が専門であり、晩年の慶應義塾大学Click!医学部では神経病理学を研究していた医学者だ。また、妻の辻山春子は、長谷川時雨Click!「女人藝術」Click!へ作品を発表する新進の劇作家だった。
 当時、開業医だった辻山義光は、落合地域のあらゆる患者を診ており、内科や神経科、婦人科、小児科などあらゆる病気の治療を行う町医者だった。辻山は、大脳生理学者で当時は「新青年」へ作品を発表していた作家の林髞(木々高太郎)の弟子で、また妻が「女人藝術」の劇作家だったこともあり、自然、落合地域に住む作家たちの主治医のような存在になっていった。辻山医院は、貧乏な作家たちとその家族の病気を治す、「融通」がきく医院として知られ、その待合室はまるで文学サロンのような趣きとなった。同医院へ出かけると、ウィスキー入りの紅茶がタダでふるまわれたのも、貧乏な作家たちを集める大きな要因となったのだろう。
 当時は、下落合4丁目2069番地(現・中井1丁目)の「もぐら横丁」Click!に住んでいた尾崎一雄Click!も、「なめくぢ横丁」Click!時代に近所の古谷綱武Click!から辻山医院を紹介されている。1952年(昭和27)に池田書店から出版された『もぐら横丁』から、辻山医院について引用してみよう。
  
 中井駅の踏切りを南へ越したところに、『ワゴン』といふ喫茶店があつた。体格の立派な三十位の婦人が経営していた。(萩原朔太郎氏の別れた夫人だといふことを、あとで聞き知つた。) 『ワゴン』の側の横丁を入ると、行止まりの右手に、辻山医院があつた。主人は辻山義光氏、夫人は春子さんと云つて、戯曲を書いたりするが、しかし、淑かな家庭夫人らしい人だつた。この辻山医院には、なめくぢ横丁時代、古谷綱武君の紹介で世話になり、当時二歳の長女が時時厄介になつた。この医院には、一人前、半人前の文学者たちが、何の彼のと集まつてよく雑談をしてゐた。辻山義光氏が、お医者としては林髞博士の弟子であり、夫人が劇作家でもあるから、自然と一種のサロンを形づくつたものと云へよう。常連としては、芹澤光治良Click!片岡鉄平Click!林芙美子Click!、古谷綱武、檀一雄Click!、大江賢次、荒木巍、その他の諸氏が居た。私は、単に話をしに行くといふことは無かつたが、長女が病気勝ちだつたため、自然にこれらの人と落ち合ふ機会が多かつた。
  
 辻山医院には、「もぐら横丁」にいた尾崎宅の隣りに住んでいた、怪しい自称アドライターの「S君」も通ってきていた。彼は尾崎一雄へ、落合地域に不眠症が多く身体を壊す住民が多いのは、「家の直ぐ向うを通つてゐる西武線の高圧線」のせいだと話していた。
辻山義光.jpg 尾崎一雄「もぐら横丁」中扉1952.jpg
 雨が降ると、高圧線鉄塔のほうから「ビシビシビシビシ」と、放電する音が「もぐら横丁」までよく聞こえていたようだ。尾崎は「西武線の高圧線」と書いているが、これは西武鉄道が設置した鉄道用の高圧線鉄塔ではなく、それ以前から妙正寺川に沿って建てられていた、山梨県谷村から目白変電所Click!へと引かれた東京電燈谷村線Click!のことだ。1927年(昭和2)に西武電鉄Click!が開通すると、東京電燈谷村線は線路を跨ぐような「Π」字型の鉄塔Click!へと建て替えられていた。
 また、もぐらがたくさん棲息し、台所の土まで持ち上げるようになると身体に悪い……といったようなことまで尾崎に話したらしいが、彼が相手にしないでいると、そのうちS君は夜逃げをして行方不明になってしまった。
 ほどなく、尾崎一雄が辻山医院を訪れると、林芙美子も来院していて、とんでもないことを聞かされることになる。つづけて、同書より少し長いが引用してみよう。
  
 それから間もなく、辻山さんへ行つたら、丁度林さんも居て、いろいろ話の末、S君のことが出た。私が、あの人についてはいろんな面白いことがあるから、そのうち一つ書かうと思つてゐると、云ふと、辻山さん夫妻が一度に笑ひ出して、/「駄目ですよ尾崎さん。向うの方が一枚上手ですよ。あなた書かれてゐるのを知らないんですか」さう云つたので驚いた。/「へえ!」と目をぱちぱちやつてゐると、散々笑はれ、林さんにまで、/「駄目だなア、尾崎さんは」と云はれてしまつた。/聞くと、こんなわけだつた。ある日S君が辻山さんへやつて来て、神経衰弱の薬と、その広告文案とを出して見せた。――これは大変よく効く薬で、隣に居る青年文士の尾崎一雄君にも一ビン上げたら、非常に良いからもう一ビン呉れとのことだつたが、さうただでも上げられないから、あとは直接製造元へ云つてくれと上げるのを断わつた――広告文にはそんなことが書いてあつたさうだ。さう話して、みんなはまた大笑ひをした。私は呆れて、応へやうが無かつた。/S君は、自分でつくつた薬と、自分で書いた広告文とを、一緒にどこかへ売り込まうとしてゐたのである。彼は、どんな薬でもつくることが出来たらしい。いつもポケットに五、六種類の薬を入れてゐたさうである。そして喫茶店などで、話を病気の方へ持つて行つては、誰かに売りつけようとしてゐたのだ。『ワゴン』でもこの伝をやつたが、余り売れなかつたさうである。
  
寺斉橋路地.jpg
尾崎一家.jpg
 詐欺師S君は、話に真実味を持たせるためか、尾崎一雄の家へは不要だというのに薬箱を無理やり置いていっている。尾崎は気味悪がって、その桐箱に入った「痔の薬」をうっちゃっといたらしいが、それが落合地域では「神経衰弱の薬」に化けて売られていたようだ。さらに、「花柳病の薬」も「ワゴン」で売っていたらしいが、萩原稲子の証言では尾崎一雄がよく効くといっていた……というセールスはしていない。
 大脳生理学あるいは脳神経内科が専門の辻山義光のもとへ、「神経衰弱の薬」を売りにやってきた詐欺師S君は、いい度胸をしているといえばいえるだろう。化学的な成分や、その効能を訊かれたりしたらどのような対応をしたものか、そこまでの記録がないので不明だが、S君をモデルにどこかで春子夫人が作品へ取り入れてやしないだろうか。
 辻山医師の姉は、九州の大都市で産婆会の会長をつとめるほど熟練した助産婦で、尾崎夫人が「もぐら横丁」で二子を出産する際、たまたま辻山医院に滞在していて取りあげてもらっている。つまり、辻山義光の姉が辻山家にいる間、同院は内科から産婦人科まで、外科を除きあらゆる病気の相談を持ちこめる総合医院のような存在となっており、日々の生活費に事欠く作家たちには頼もしい施設となっていたのだろう。
 松枝夫人が第二子を出産したとき、尾崎一雄は作家たちの会合に出席していて留守だった。すっかり酔っぱらいご機嫌で帰宅した尾崎を、辻山義光の姉である助産婦は「もぐら横丁」の家でキセルをふかしながら待っていた。
  
 はるばる下落合の家に着いた時、私は未だ好い気持に酔つてゐた。「犬が西向きや尾は東」などと出鱈目に唄ひながら、がらりと玄関を開け、「御帰館(ママ)だぞ」と上ると、そこに女物のコートと、黒革の小さいカバンが置いてあつた。客かな、しかしこの夜更に、と思つてゐると、リゾールの臭ひが鼻に来た。私は少し慌てて奥の方へ入つて行つた。/押出しの堂々とした辻山さんの姉さんが、坐つて煙管で煙草をのんでゐたが、私の方をゆつくり見上げるやうにして、/「お帰りですね」と云つた。/「どうも。――今日はのつぴきならぬ会合がありまして。どうもいろいろ……」/私は坐つて、深く頭を下げた。妻の床のわきに、新しい小さなのが眠つてゐるのを発見した。「生まれたわけですね。」/「大変御安産で」/「有難うございました。酔つぱらつたりして、どうも済みません」また頭を下げた。/今まで黙つてゐた妻が大声で笑ひ出した。産婆も微笑した。/「男か女か」と妻の方から云つた。/「どつちでも結構だ」/「お坊ちやんですよ」と産婆さんが当り前の顔で云つた。/「さうですか。どうも有難うございました」/産婆に向つて、お叩頭をした。
  
辻山医院跡2.JPG
尾崎一雄(早稲田文学会).jpg 時雨と八千代.jpg
 落合地域の作家たちの生活を題材に、辻山春子はどこかの戯曲へ書いているかもしれない。戦後に岡田八千代Click!の「アカンサスの会」や、「女流劇作家五人の会」に所属した辻山春子だが、その作品群のテーマについては、またもうひとつ、別の物語……。

◆写真上:下落合4丁目1909番地の、路地の突き当たりにあった辻山医院跡の現状。正面に見える灰色の建物が、辻山義光・辻山春子邸が建っていた敷地跡に重なる。
◆写真中上は、戦後の慶應義塾大学医学部時代の辻山義光。は、1952年(昭和27)に出版された尾崎一雄『もぐら横丁』(池田書店)の内扉で挿画は中川一政。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる辻山義光・春子邸とその周辺。は、戦後に小田原で撮影された尾崎一雄(右)と松枝夫人(左)。
◆写真下は、辻山医院のあった路地から寺斉橋北詰めの通り(工事中の中井駅方面)を眺めたところ。下左は、早稲田文学会で発言する尾崎一雄。下右は、岡田三郎助Click!のアトリエで撮影されたとみられる岡田八千代(左)と長谷川時雨(右)。


「池袋シンフォニー」と小泉清。

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西池袋文化住宅.JPG
 1920年(大正9)のある日、里見勝蔵Click!は新大久保駅から歩いて5~6分ほどの、西大久保405番地(現・大久保1丁目)にある小泉清Click!の自宅を訪ねている。西大久保の小泉清の家とは、もちろん故・小泉八雲邸Click!(現・小泉八雲記念公園)だ。小泉清は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の3男として生まれ、会津八一Click!が英語教師をしていた早稲田中学校を卒業したあと、1919年(大正8)に東京美術学校Click!へ入学している。
 小泉清が1年生のとき、同級には内田巌Click!が、2年生には佐伯祐三Click!山田新一Click!が、3年生には前田寛治Click!が、そして5年の研究科には里見勝蔵Click!がいた。5年生の里見が1年生の小泉清を訪ねたのは、小泉家にはストラディバリのヴァイオリンがあると聞いたからだ。このころの洋画家をめざす美校生は、里見に限らず美術ばかりでなく音楽や文学にも傾倒する学生が多かった。
 里見は音楽に興味をもち、ヴァイオリンを“佐藤”というプロのヴァイオリニストへ習いに通っていた。小泉家と親しくなったのは、年級が大きく異なるものの音楽趣味が一致したからだろう。初めて小泉邸を訪れたときの様子を、1973年(昭和48)に求龍堂から出版された『小泉清画集』所収、里見勝蔵の「告別辞」から引用してみよう。
  
 美校の多くの生徒は帝展に(ママ)志すのだが、僕は二科会に出品していたので、新傾向を志す若い者は池袋の僕の家に集った。/その連中は文学も好きだったが、殊に音楽を愛好し、皆連れ立って、しばしば音楽会に出かけて行った。又、その頃、レコードは、日本では家庭に於て、手軽に外国の最高の音楽を自由に聞く機関として、僕等はこれに傾倒した。/小泉さんがストラバリウス(ママ)のヴァイオリンを持っていると言うので、僕は大久保のお家を訪ねて行った事を忘れない。2階家で、道路を隔て、広い原っぱが見えた。小泉さんはその2階の部屋で《ドクダミ》のしげみを描いた4号や3号などの画を私に見せた。この様な雑草を描く小泉さんのゆたかな詩的な人となりや素朴な心境を僕は非常に感激したのであった。思えば小泉さんは生涯この思想を描き貫いたと言い得よう。
  
 ほどなく、西巣鴨町池袋にある里見勝蔵の下宿では、弦楽四重奏曲を演奏するカルテットが結成された。初期のメンバーは、小泉清が第1ヴァイオリン、西村叡Click!が第2ヴァイオリン、里見勝蔵がヴィオラ、菅原明朗がチェロというメンバー構成だった。毎週土曜日になると、この4人は池袋の里見下宿に集まり、食事も忘れて深夜まで練習をつづけた。当時は、池袋駅のかなり近くでも人家がまばらで密集しておらず、弱音器をつけず夜間に楽器を鳴らしていても苦情は出なかったのだろう。
池袋駅西口1926.jpg
小泉八雲邸跡.JPG
小泉清.jpg 小泉清「自画像」.jpg
 やがて、菅原明朗が武井守成の主宰するマンドリン楽団「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」の仕事が忙しくなったのかカルテットを抜け、つづけて西村叡も抜けると、メンバーは大きく入れ替わっている。チェロの奏者がいなくなったので、今度はトリオを編成し第一ヴァイオリンが里見勝蔵、第二ヴァイオリンが佐伯祐三、ヴィオラは小泉清が担当することになった。そして、土曜日の練習には山田新一やプロのヴァイオリニストをめざす林龍作Click!鈴木亜男Click!なども顔を見せるようになる。
 林龍作が加わったことで、第一・第二ヴァイオリンが里見勝蔵と林龍作、ヴィオラが小泉清、チェロが佐伯祐三というカルテット編成になった。山田新一はマンドリンが弾けたため、ときに加わって五重奏団(クインテット)で演奏したことがあったかもしれない。いつとはなしに、この楽団のことを里見が下宿する最寄りの駅名からとって、「池袋シンフォニー」と呼ぶようになっていたが、池袋にある里見の下宿で演奏がつづけられたわけではなかった。ときに、新たな参加メンバーの交通の便を考慮し、大久保町の当時は美校3年生だった鈴木亜夫の家に集まることが多くなっていった。だから、「池袋シンフォニー」から実質は「大久保シンフォニー」へと移行したわけだが、どうやら楽団名は「池袋シンフォニー」を踏襲していたらしい。
 里見勝蔵が渡仏する直前、「池袋シンフォニー」の様子を、1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された、山田新一『素顔の佐伯祐三』Click!から引用してみよう。
  
 (前略)しばしば手近な里見の家で音楽会を催した。しかし皆が集まるのに比較的都合の便がいい、大久保駅を降りて徒歩で十分とかからない、やはり絵仲間で美校の僕より一級上の鈴木亜夫のアトリエで催すことも多かった。亜夫、本当の訓みは“つぐお”であるが、彼のところで音楽会を開くと共にレコードコンサートをも度々開いた。勿論、当時はステレオなどないし、手廻しのビクターの蓄音機で、カッターで竹製の針を截り、針先を三角形に尖らせ、重いピックアップに差込み、シェラック製のSPレコードの溝にタッチさせる方式であった。音が鋼鉄製の針よりふやけるという難もあったが、レコードの針はこれに限るといって、繰り返し聴いた。曲目は、ショパンやモーツァルト、またシューベルトやメンデルスゾーンが多かった。それに散歩する時も、あの有名なメロディーを繰り返し口ずさむことが、仲間の流行になった。チャイコフスキーの「アンダンテ・カンタヴィーレ」などであった。
  
小泉清アトリエ内部.jpg
小泉清「夜景(隅田川)」.jpg
小泉清「岩と海」.jpg
 このあと、東京美術学校を中途退学した小泉清は、母親や兄の猛反対を押し切って、絵画のモデル・間針シズと駆け落ちすることになる。駆け落ちした先は、彼にはまったく馴染みのない京都だった。絵筆は棄ててしまい、京都市京極にあった松竹館の専属オーケストラでヴァイオリンを弾く、楽団員の仕事をはじめている。
 フランスからもどったばかりの里見勝蔵は、1925年(大正14)に京都の実家へ帰省していたが、ある夜、四条通りを散歩しているとヴァイオリンケース抱えた小泉清とバッタリ路上で出会った。このころの小泉には長男が生まれ、伏見稲荷社の近くに家を借りて住んでいた。ふたりは遠く離れた京都で、「池袋シンフォニー」以来のデュオを再現することになった。そのときの様子を、『小泉清画集』の里見勝蔵「告別辞」から、再び引用してみよう。
  
 昔僕等が学生の頃、クワルテットをやっていた時、僕らの中の誰かが、ヴァイオリンでメシを食う……とは思いもよらなかった。しかし小泉さんだけではない。やがて菅原が新作曲家として花々しくデビューしたのを思えば、僕らはヴァイオリンを画より前にはじめて、すでに10年も経ていたのであった。/京都でも小泉さんと僕とは、以前レコードで感激していたクライスラーとジンバリストのバッハのヴァイオリン二重奏協奏曲を毎週熱心にやった。小泉さんがクライスラーで、僕がジンバリスト分を引き受けたのであった。やがて第一楽章は完全に出来て、第二楽章の半ばまで来た所で、僕が東京へ出る事になって、ついに僕らの二重奏は終った。もし今日の如くテープ・レコーダーが容易く入手出来たなら、僕等の二重奏をレコードする事が出来たかも知れない。
  
 その後、小泉清は指にリューマチを患って、ヴァイオリンが演奏できなくなり、油絵の仕事へもどってフォービズムを追究することになった。そのときも、里見勝蔵は西武線の車内で小泉清と偶然に邂逅し、お互いが沿線に住んでいることを初めて知った。
 里見勝蔵は下落合から転居して井荻駅Click!の南、井荻町下井草1091番(のち杉並区神戸町116番地)へアトリエを建設し、1934年(昭和9)に小泉清は母親の遺産で鷺ノ宮駅の駅前、中野区鷺宮3丁目1197番地にアトリエとビリヤード場を開設したころだ。おそらく、ふたりが西武線車内でいっしょになったのは、1935年(昭和10)前後のことだろう。
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鷺宮八幡橋.JPG
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 小泉清は、戦後の1946年(昭和21)に第1回新光日本美術展で読売賞を受賞し、次々と作品を制作していく。小泉は16年間、1962年(昭和37)にガス自殺をとげるまで、鷺宮のアトリエで描きつづけた。『小泉清画集』(求龍堂)には、生前の小泉と関係が深かった下落合にもゆかりのある武者小路実篤Click!や里見勝蔵、曾宮一念Click!、石川淳、岡田譲などがさまざまなエピソードを紹介しているが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:西池袋(旧・雑司谷町)に残っていた、オシャレでかわいい西洋館。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「西巣鴨町西部事情明細図」にみる山田新一が下宿していた池袋1125番地界隈。佐伯祐三から山田新一あてのハガキClick!では、里見勝蔵へ円とフランの通貨レートを問い合わせる依頼しているので、里見の下宿は山田の下宿に近接していたと思われる。は、小泉邸が建っていた西大久保405番地の小泉八雲邸跡の現状。は、小泉清()と制作年が不詳の『自画像』()。小泉清は、あまり展覧会へ作品を出さなかったため制作年のハッキリしない作品が多い。
◆写真中下は、鷺宮の小泉清アトリエの内部。は、やはり制作年不詳の小泉清『夜景(隅田川)』と同『岩と海』。後者は太海Click!の岩場風景と思われ、たびたび房総半島へ写生に出かけており曾宮一念との交流は深く長かった。
◆写真下は、1960年(昭和35)の「東京都区分地図」にみる鷺宮3丁目1197番地界隈。は、鷺ノ宮駅前に架かる八幡橋Click!は、制作年不詳の小泉清『不動明王』。
下落合サウンド(おまけ)
朝っぱらから、裏のケヤキで目覚まし並みにうるさいウグイス。午前5時前から大声で「ケッキョッケッキョッケッキョ」と絶え間なく鳴かれると、正直、なにかぶつけて追い払いたくなる。3月も終わり、ようやく上手に鳴けるようになったみたいだ。


下落合を荒らしまわる説教強盗。(上)

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安東義喬邸界隈.JPG
 以前、目白文化村Click!の北側に位置する第2府営住宅Click!へ入った、説教強盗Click!の伝承をご紹介したことがある。でも、警視庁の捜査記録を参照すると第2府営住宅の住所および住民名は見つからず、下落合で被害を受けた邸は3軒ということになっている。しかも、この記録は誤りだらけで、住所から住民名まで随所に誤記が見られる。
 1926年(大正15)から顕著になった、妻木松吉(いわゆる説教強盗一世)による強盗事件は1929年(昭和4)2月23日の逮捕時までつづき、被害家屋は65件ということになっている。しかし、上記の第2府営住宅の被害はその中に含まれておらず、捜査記録にはまったく異なる場所が3ヶ所記載されている。これは、第2府営住宅の被害が最初から漏れているか、あるいは説教強盗二世の犯行ということだろうか。以前にこちらでご紹介した、下落合の「ルパン二世」事件Click!と同様に、説教強盗にも模倣犯が何人か出現している。
 本来の説教強盗(妻木松吉)は、西は小石川南西部から雑司ヶ谷、西巣鴨(現・池袋界隈)、高田(現・目白界隈)、東は長崎(現・椎名町界隈)、下落合、野方(現・江古田界隈)、練馬、板橋などの大きめな邸宅を選んで犯行をつづけていた。犯行地域が城北部の特定地域に集中していることから、警視庁では早くから目白駅あたりを中心に犯人のアジトがあると目星をつけ、戸塚署や小石川署、中野署、高田署、練馬署、板橋署などにまたがる事件にもかかわらず、高田警察署(現・目白警察署)に特別捜査本部を設置している。
 説教強盗の手口は巧妙で、押し入る前に綿密な下調べを行なっている。標的にした邸の間取り図の作成や隠れ場所、逃走経路、交番の位置など、周辺の地勢や地理、道路網、交通網、各種施設の存在などをすべて頭の中にたたきこんでいる。強盗という犯罪は、警察では通常「強力犯」という粗暴犯罪のカテゴリーに分類されるのだが、警視庁が4年あまりにわたって翻弄されたのは、説教強盗が「知能犯」的な側面を色濃く備えていたからだ。
 宵のうちから、強盗目的の家屋に忍びこんでは敷地内のどこかに隠れ、深夜になり家人が寝静まるのを待ってから、ようやく隠れ場所を抜け出して家内に侵入して犯行に及んでいる。たいていの手口は、家人たちを全員縛りあげ、家族の女性を脅しては現金や貴金属を次々と出させていた。しかも、一度ぐらい出しただけでは引きあげず「まだあるだろう」と粘り、なかなか退散しないのも説教強盗の特徴だ。
 そして、さんざん脅して金品を巻きあげると、最後に「物騒だから犬を飼いなさい」とか、「お宅は戸締りがなってない」とか、防犯の脆弱性とその対策を指摘して、「こんな心がけだから強盗に入られるのだ」と説教をして立ち去ったことから、いつしかマスコミから“説教強盗”と呼ばれるようになった。
 説教強盗の被害がもっとも多かったのは野方町で、自供した65件の犯行のうち10件が集中している。当時の野方町は、武蔵野鉄道Click!沿いの郊外新興住宅地が形成されはじめたエリアで、家々が密集しておらず交番の数も少なく、またところどころに林や畑なども残っていて、犯行がやりやすかったのだろう。野方町の次に多いのが、長崎町(現・椎名町界隈)と西巣鴨町(現・池袋界隈)の各8件、次いで少し北寄りの練馬町と上板橋村、小石川の各5件、そして杉並町の4件、板橋町と井荻町、落合町下落合の各3件ということになっている。
防犯科学全集第4巻.jpg 防犯科学全集奥付.jpg
防犯科学全集目次.jpg 防犯科学全集月報.jpg
 しかし、下落合の地元では捜査記録に残る3件のほか、もう1件の伝承が残っているのは前述したとおりだ。この65件という数字は、警視庁が妻木松吉を逮捕したあと、検察局へ立件した起訴状の記載件数であり、実際にはもう少し多かった可能性がありそうだ。当時の説教強盗による犯行の手口と、警視庁の捜査体制について、1935年(昭和10)に中央公論社から出版された『防犯科学全集・第4巻/強力犯編』から引用してみよう。同書所収の「説教強盗始末記」の著者・中村勇は、説教強盗事件が頻発していた当時、警視庁の警部補だった人物で、この本が出版された当時も現職だったかもしれない。
  
 大体『説教強盗』が所謂『説教』の名によつて問題になり出したのは、昭和二年の花の散る頃からで、当時目白、板橋等の管内に於て、頻々として同一手口の強盗被害が続出していたからである。先ず窓を破つて押入り、目的を達して引上げる時には誠に鹿爪らしく、実に真面目くさつて、例の説教口調で、戸締りの不完全と、犬の飼育を注意するのである。かういふのが続けさまに七八件出て来て、その遺留品等により足取りを捜査して見ると、犯人はどうしても目白近傍、即ち高田署管内に居住する者であると認定されるのであつた。そこで目白を中心に極めて緻密な捜査網を張り、種種人的方面の探査に手を尽して見たがどうも分らぬ。大体当局で気がついた頃には、彼『説教』の犯行も非常に巧妙になつてゐたものであるから、『之は相当の前科者に違ひない』と推定されるのも已を得ない事で、さういふ方面を極力洗つて見たが、中々人的ではとれさうにもない。まごまごしてゐるうちに『説教』の被害は遂に六十件に達した。同一手口の同一犯人と目される事件が、六十件も累なるといふことは実に異例である。世間の騒ぐのも無理ではなく、人心恟々として重大な社会問題となり、当局の無為無能を糾弾する声は巷に充ち満ちて来た。遂に議会の問題となり、帝都治安の維持に関して決議案が提出されさうな形勢にまでなつて来た。
  
 そもそも警視庁による犯人像の想定、すなわち「相当の前科者」というプロファイリング自体が、初期捜査の段階からまちがっており、犯人・妻木松吉の日常は非常にマジメで頭がよく、職場や近所でも仕事がよくできるいい腕をした左官職人で、酒も博打もやらず家族思いで子煩悩なよき父親として、きわめて評判のいい人物だったのだ。
 西巣鴨町字向原(現・サンシャインシティの南側)にあった、犯人の自宅隣りには警察官が住んでおり、隣人が説教強盗で逮捕されると驚愕しいるようなありさまだった。また、被害者のひとりの陳述により、イラストによる全身の人相書きもつくられたのだが、これがまったく犯人と似ていなかったことから、さらに捜査が混迷・混乱の度合いを増すことになった。
島田鈞一邸界隈.JPG
安藤仁三郎邸跡.JPG
 ここで「世間の騒ぐのも無理ではな」いと書かれている要因は、犯行が60件以上も重ねられているのに、高田警察署(現・目白警察署)に特別捜査本部を設置した警視庁が、犯人をなかなか逮捕できないことに、「世間」が単純に苛立っているからではない。
 警視庁では、犯人を下落合の山手線ガードClick!と、椎名町駅近くの長崎神社Click!などで三度も捕捉しながら、やすやすと逃げられるという“ふがいなさ”に対する苛立ちからだった。新聞であからさまに報道されなくても、このような失態は世間へ口コミで急速に広まる時代だった。この三度にわたる失態については後述するとして、警視庁の記録にみる下落合の被害邸の様子を、同書から引用してみよう。
  
 同年(1927年)同月(12月)五日午前二時頃、府下落合町下落合一七三番地安藤義矯方を襲つて現金五六円を強奪した。(中略) (1928年)同月(6月)二十六日午前二時半にはもとの地盤に戻つて府下落合町下落合八三六番地の学校教員島田欽一方を襲ひ、現金四十円金鎖付懐中時計一箇を強奪してゐる。(中略) (1928年)同月(9月)十六日午前二時半、下落合七一二番地安藤仁三郎方に押入り現金九十円を強奪。(カッコ内引用者註)
  
 この記録の中で、1927年(昭和2)に起きた「下落合一七三番地」の事件から検証してみよう。まず、下落合173番地などという地番は1927年(昭和2)当時、下落合には存在していない。大正初期までは藤稲荷社Click!の南側、旧・神田上水(現・神田川)沿いに存在していた地番だが、耕地整理にともない広い敷地に工場が進出してくると同時に整理され、犯行当時は欠番となっていた地番だ。
 もともと下落合173番地だった敷地は、下落合45番地に集約され、大正末には硝子活字工業社目白研究所の広い敷地の一部になっている。また、「安藤義矯」という邸名も誤りだ。正確な表記は、目白文化村の第二文化村に位置する、下落合1739番地の安東義喬邸Click!だ。
 次の「下落合八三六番地」の「島田欽一」邸も住所・邸名ともに誤りで、正確には鎌倉街道の雑司ヶ谷道Click!に面した、下落合830番地の島田鈞一邸のことだ。また、「下落合七一二番地安藤仁三郎」邸も、地番および邸名ともに誤っている。正確には、第二文化村内にあたる下落合1712番地の安藤又三郎邸だ。第二文化村の安藤家は、1938年(昭和13)以降に邸を手離し、そのあとに転居してくるのが石橋湛山Click!ということになる。
 もっとも、説教強盗の逮捕から5年余りしか経過していない当時の「説教強盗始末記」では、新聞記事とは異なり住所や邸名をあえてボカしている可能性も否定できないのだが……。
安東義喬邸1926.jpg 島田鈞一邸1926.jpg
安藤又三郎邸1938.jpg
 警視庁の現役警部補(?)らが書いた「説教強盗始末記」だが、あちこちに基本的な誤りが存在して頼りなく、どこまで信用していいのかわからない。……しかり。警察の「科学捜査」(おもに指紋照合捜査)によって説教強盗を逮捕したことを誇らしげに記述している同書だが、犯人を突きとめたのは、実は高田警察署の特別捜査本部ではない。事件を綿密に調べあげて報道をつづけ、犯人を追跡して突きとめたのは東京朝日新聞の三浦守記者だった。
                                  <つづく>

◆写真上:下落合1739番地の第二文化村、安東義喬邸があったあたりの現状。
◆写真中上左上は、1935年(昭和10)出版の『防犯科学全集・第4巻/強力犯編』(中央公論社)。上右は、同全集の奥付。下左は、「説教強盗始末記」が掲載された目次の一部。下右は、同全集の刊行とともに配布された月報。
◆写真中下は、下落合830番地の島田鈞一邸が建っていたあたりの現状。は、下落合1712番地の第二文化村内にあった安藤又三郎邸あたりの現状。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる安東義喬邸()と島田鈞一邸()。は、1938年(昭和13)制作の「火保図」にみる安藤又三郎邸。

下落合を荒らしまわる説教強盗。(下)

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 説教強盗Click!の逮捕に、警視庁は三度失敗している。最初は1927年(昭和2)10月26日の午前3時ごろ、上板橋村119番地の米穀店へ押し入り、約35円の入った木製金庫を盗んで逃走をはかったときだ。説教強盗対策で、深夜に張りこんでいた私服の警官がこれを発見・追跡し、捕縛しようとしたところを金庫で殴られ逃げられている。
 もっとも、この取り逃がしに関する警察の発表は、「米穀店の息子」が説教強盗を追尾したが途中で見失ったという経緯にすり替えられている。追跡したのが板橋署の白木巡査であり、彼はこの失態がもとで密行係の私服刑事から平の制服巡査に降格され、王子署へ左遷されたことは秘匿された。
 二度目の説教強盗の取り逃がしは、翌1928年(昭和3)6月26日の深夜、午前2時30分ごろの下落合で起きている。この日、下落合830番地の島田鈞一邸(警視庁記録の下落合836番地の島田欽一宅は誤り)に押し入った説教強盗は、雑司ヶ谷道(旧・鎌倉街道)を東へ歩きながら、山手線の下落合ガードClick!に差しかかった。懐には、盗んだ現金40円と金鎖付きの懐中時計が入っていた。ちょうど山手線のガードをくぐり、学習院の東側に通う椿坂Click!へ抜けようとしたとき、高田署の警官による不審尋問にひっかかった。
 そのときの様子を、2010年(平成22)に出版された礫川全次『サンカと説教強盗―闇と漂泊の民俗史―』(河出文庫版)所収の、『警視庁史』の記述から孫引きしてみよう。
  
 当日の午前四時ごろ、同署の一外勤巡査部長が、自転車で巡視の途中、このガード(下落合の山手線ガード)付近で一人の男に行き会った。時間的に怪しいとにらんで、型のごとく不審尋問をしてみると、答弁は実にはっきりしているが、年格好も人相も、特にはなはだしい「ガニ股」の点など、手配中の説教強盗に酷似している。幸い本署も近いので、厳重に取り調べるため同行することにした。/…あと十二三メートルで、本署の玄関というところに来たとき、この男は突然からだをぶっつけてきた。/…とたんにだっとのごとくに逃げ出したその男は、垣を乗り越えて学習院の森の中に姿を消してしまった。…同署では直ちに当番員を非常招集して、院内の捜索を開始し、続いて非番員まで召集して、文字通り草の根を分けて捜したが、男の姿はついに見当らなかった。
  
 このあと、特別捜査本部や高田署員には箝口令が敷かれ、説教強盗の取り逃がしが秘匿されたことは『警視庁史』でも明かされている。
 さらに、その次の取り逃がしは下落合のすぐ北側、武蔵野鉄道・椎名町駅近くの長崎神社横に張られた非常線で起きている。時期は明らかにされていないが、説教強盗を追いつづけ深夜の非常線を片っ端からわたり歩いては取材していた、東京朝日新聞の三浦守記者によって記録されている。おそらく、説教強盗は長崎町エリアで“仕事”をした帰途だったのだろう。同書から、三浦記者の記述を引用してみよう。
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 非常線が毎晩張りめぐらされている時のことであった。長崎の椎名町の神社横の非常線に説教がひっかかった。捕まえた高田署(今の目白署)の巡査部長は、捕まえてい乍ら、まんまと飛ばされてしまった。その時の説教の逃げっぷりは超人的で、横っ飛びに飛んだ(ママ)のだが、その歩幅は、普通人の三倍もあった。刑事たちは、翌朝、その現場で、犯人の足あとに合せて飛んでみたが、迚も、一躍や二躍では、彼の一歩の歩幅を跳べなかった。…/こんな点から誰言うことなく「説教はサンクワではあるまいか」という風評が起こったらしい。私もこの噂を、どこからともなく耳にした。
  
 この逮捕失敗で、説教強盗の犯人は犯行の手口や逃亡の鮮やかさから、運動神経が極端に発達したサンカ(おもに山地で生活する流浪民)ではないかという疑いが、警視庁に生まれていたのがわかる。だが、この想定は結果的にまったく見当ちがいであり、犯人の妻木松吉はサンカとは関係のない人物だった。この事件を機に、「サンクワ(山窩)」に興味を持つようになった東京朝日新聞の三浦記者は、のちに雑司ヶ谷(字)金山Click!へ住み「三角寛」という筆名で、サンカに関する民俗学や小説などの著作を次々と発表することになるのだが、それはまた、別の物語……。
 犯人の追尾も、当時の警察より新聞記者のほうが優れていたようだ。説教強盗が逮捕される2ヶ月ほど前、1928年(昭和3)12月末には、三浦記者は犯人の自宅を突きとめて記事を書いている。しかし、さすがに警視庁の面目を丸つぶれにしてしまうのはマズイので、記事の文章はあくまでも警察が犯人の自宅を絞りこんで、逮捕は時間の問題……というような表現にとどめている。このとき、三浦記者には説教強盗こと妻木松吉が住む、西巣鴨町(字)向原3340番地(現・東池袋4丁目)の自宅がすでにわかっていた。以下、1928年(昭和3)12月30日発行の東京朝日新聞の記事を、同書から孫引きしてみよう。
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 新事実を握つた 説教強盗の足跡
 捜査の範囲だんだん狭つて 年内に捕縛の意気

 まだ正体を現さぬ説教強盗の検挙に躍起になつてゐる警視庁では廿九日払暁管下の大警戒を行ふと共に中村捜査課長、出口同係長等は彼のなは張りになつてゐる淀橋、中野、杉並、戸塚、高田、池袋、板橋、大塚の八署を巡視して新材料に基きち密な調査を遂げたがその苦心の結果廿九日に至つて突然犯人の住居してゐる範囲が判明し、これがため大いに捜査範囲が狭つていよいよ近く捕縛の見込がついたと、こ踊りしている。/即ち去る九月十六日四十六回目に府下高井戸町中高井戸青山師範学校教諭赤沢隆明氏方に押いつた際、彼は犯行後高円寺駅から一番電車に乗つて目白駅に下車し、目白学習院前を通過して鬼子母神前から王子電車で大塚駅に下車した事実並に……
  
 この記事を読んだ、高田署(現・目白署)にある特別捜査本部の刑事たちは驚愕しただろう。この時点で、説教強盗が妻木松吉の犯行であることを、警察側でも三浦記者からの聴取などを通じて、ようやくはっきり認知したと思われる。だが、翌1929年(昭和4)2月23日まで、警察は内偵を進めるだけで妻木を逮捕していない。犯人の妻木も、警察の内偵を察知したのだろう、同年に入ってからは事件を1件も起こしていないようだ。
 捜査本部では、なぜ説教強盗が妻木の犯行であると規定しえるのかの、捜査上の“裏づけ”を懸命にこしらえていたフシが見える。この間の事情については、礫川全次『サンカと説教強盗』に詳しく述べられている。警視庁では、説教強盗を追跡した新聞記者からの情報が、犯人逮捕へ直接つながった……という発表はありえないので、妻木を逮捕する合理的かつ必然的な理由をデッチ上げなければならなかったのだ。そこでは、さまざまな「証拠品」づくりや「指紋照合」のトリックなど小細工が行なわれているようなのだが、詳細は同書を参照していただきたい。
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 説教強盗の逮捕まで、警視庁ではのべ12,000人の警察官を動員して捜査にあたった。逮捕された妻木松吉は、1930年(昭和5)12月18日に東京地方裁判所で無期懲役の判決を受けている。だが、戦後の日本国憲法が発布される際の恩赦で、1947年(昭和22)12月16日に出所したあと、妻木のもとには全国の警察署や自治体、各種社会団体から防犯講演の依頼が次々と舞いこみ、彼は「防犯講師」のような活動をつづけ、新たに人生を踏み出していくことになる。

◆写真上:説教強盗が高田署の巡査から不審尋問を受けた、下落合の山手線ガード。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる山手線ガードから椿坂にかけての連行ルート(左が北側)。は、椎名町駅前の非常線が張られた長崎神社横の道。は、妻木松吉の自宅があった西巣鴨町向原3340番地界隈の現状。
◆写真中下上左は、1937年(昭和12)作成の「火保図」にみる椎名町駅前と長崎神社。上右は、犯人を追跡した東京朝日新聞記者の三浦守(のち三角寛)。は、いまも雑司ヶ谷に残る三角寛邸。は、1929年(昭和4)の地図にみる妻木松吉が住んでいた西巣鴨町向原3340番地界隈。巣鴨刑務所(現・池袋サンシャインシティ/造幣局)の南側に拡がる街角で、何度か火災が発生し妻木自身も焼け出された経験を持っている。
◆写真下は、1929年(昭和4)2月24日の説教強盗逮捕を伝える東京朝日新聞。下左は、2010年(平成22)に出版された礫川全次『サンカと説教強盗―闇と漂泊の民俗史―』(河出文庫)。下右は、逮捕された直後の妻木松吉。

「新道」は「じんみち」ではないかと。

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 山手に住んでいると、わたしの出自では不可解に感じる発音がある。以前、鬼子母神(きしもじん)の読み方Click!について書いたが、これもそのような事例のひとつだろうか。雑司ヶ谷鬼子母神は、住民の入れ替わりが激しかった戦後から、どうやら「きしぼじん」と訛った呼ばれ方(標準語?Click!)をするようになったことが町史などからうかがえる。もうひとつ、乃手で「新道」は「しんみち」と発音されるようなのだ。
 たとえば、「四谷新道」通りのことを「よつやしんみち」と発音しているのを聞いて、「あれっ?」と思ったのが最初だったろうか。神楽坂の「芸者新道」は「げいしゃしんみち」と紹介されることが多いようだ。この通り名を「げいしゃじんみち」と、おそらく本来の呼び方で発音していたのは、TVに出ていた台東区出身のタレントひとりだけだった。ちなみに、芸者新道に「げいしゃしんどう」とルビをふっている出版物を見たけれど、これは論外とさせていただきたい。神楽坂の新道を、自動車専用道路の「横浜新道(よこはましんどう)」と一緒にしないでほしい。
 新道(じんみち)の起源は、江戸期にまでさかのぼる。表通りと表通りの間、つまり表店(おもてだな)が並ぶうしろ側に形成された裏店(うらだな)が、軒を連ねて向かい合う間を通る筋が、「板新道(いたじんみち)」あるいは「石新道(いしじんみち)」と呼ばれている。これは、裏店の真ん中を下水溝が流れており、その溝(どぶ)を板や石材で覆って人が往来できるようにしたから名づけられたのだろう。
 時代が下るにつれ、新道(じんみち)という呼称は“ひとり歩き”をはじめ、別に下水溝などない広い通りと通りの間を抜ける路地や道路も、そう呼ばれるようになっていく。新道と同時に普及したのが、「横丁」という呼称だったのだろう。明治期に入ると、このような路地や細道は「〇〇新道」あるいは「〇〇横丁」と呼ばれることが多くなっていったようだ。ちなみに、「芸者新道(げいしゃじんみち)」ないしは「芸妓新道(げいしゃじんみち)」は、ともに日本橋と柳橋が発祥地だ。
 木村荘八Click!は、日本橋の吉川町や米沢町、元柳町、博労町(のち馬喰町)、横山町、通油町Click!、あるいは柳橋Click!などあちこちにあった新道について、1953年(昭和28)年に東峰書房から出版された『東京今昔帖』で、次のように記述している。
  
 永井さんの文中にある「横山町辺のとある路地の中」といふのは、浅草橋から見て西へ、馬喰町の四丁目から一丁目へかけての片側と、横山町の三丁目から一丁目迄、それから少し通油町へかけて、この町家の中をまつすぐに貫いてゐる路地を指すものに相違ないが、これはやがて南北竪筋のみどり川へぶつかり、これに架る油橋で止まる。それまで相当細長い道中を、板じんみち、石じんみち、と一丁目毎に区切つて呼んでゐる。(中略) しかもこのドブの蓋の上の狭い通路をはさんで両側から、家々が背を向けやうどころか、対々に堂々と正面向きで相向つてゐる賑はしさが、この細長い【しんみち】の尽きぬ面白さであつた。(【 】の原文は傍点)
  
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 上掲の文章の中で、【 】をつけた「しんみち」には傍点がふられており、地図や看板などにしるされていた表記であり、実際には「じんみち」と発音されていたのがおわかりだろうか。昔の表記は、「にほんはし(日本橋)」や「やなきはし(柳橋)」、「かくらさか(神楽坂)」、「こひなた(小日向)」のように、濁音をあえてふらない例が多い。「にほんはし」は「にほんばし」と発音し、「やなきはし」は「やなぎばし」、「かくらさか」は「かぐらざか」、「こひなた」は「こびなた」と発音するのは、地元では自明の“お約束”だったからだ。したがって、「しんみち」と表記されてはいても、「じんみち」と呼ぶのが江戸東京地方の方言的な習わしということになる。
 ちょっと余談になるけれど、「すみたかわ(隅田川)」というように川に関する固有名詞に濁音がふられないのは、川が濁るのを嫌ったからだ……というような、まことしやかな説明を聞くけれど、おそらく後世に取ってつけられたあと追いの付会だろう。川に限らず、江戸期から明治期にかけての仮名表記は、別に河川に関する名称のみならず、各地の地名などにも濁音がふられない例が多い。川名や橋名に濁音表記がないのは、他の地名と同様に江戸期からつづく当時の表記に関する“慣習”であり、別に「川」関係の名称に限ったことではない。
 さて、木村荘八の文章にも登場している永井荷風Click!が、明治末から大正期にかけて下町のあちこちに存在した、新道(じんみち)に関する印象をつづった文章がある。1915年(大正4)に籾山書店から出版された永井荷風『日和下駄』から引用してみよう。
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 路地は公然市政によつて経営されたものではない。都市の面目体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の地響に午睡の夢を驚かさるる恐れなく、夏の夕は格子戸の外に裸体で涼む自由があり、冬の夜は置炬燵に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞は買わずとも世間の噂は金棒引きの女房によつて仔細に伝へられ、喘息持の隠居が咳嗽は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種云ひがたき生活の悲哀の中に自ら又深刻なる滑稽の情趣を伴はせた小説的世界である。而して凡て此の世界の飽くまで下世話なる感情と生活とは又この世界を構成する格子戸、溝板、物干台、木戸口、忍返など云ふ道具立と一致してゐる。この点よりして路地は又渾然たる芸術的調和の世界と云はねばならぬ。
  
 この文中の「路地」を、「じんみち」と読み換えていただくと、およそ江戸期から荷風の時代までつづいていた、新道生活や風俗などをうかがい知ることができる。
 おそらく先の「四谷新道」と神楽坂の「芸者新道」は、名称がつけられた当時は「よつやじんみち」あるいは日本橋や柳橋と同様に「げいしゃじんみち」と呼ばれていたのだろう。それが、時代をへるにしたがって(おそらく戦後?)、住民の入れ替わりが激しくなるとともに、いつの間にか「しんみち」と呼ばれるようになってしまったのではなかろうか。だから、いまだに新道と書いて「じんみち」と呼ぶケースが多い、東京の(城)下町から見ると不自然さを感じるようになり、鬼子母神(きしもじん)と同様に齟齬感や違和感をおぼえるようになってしまった、そんな気がするのだ。
 余談だけれど、木村荘八の『東京今昔帖』を読んでいて、明治末ごろ薬研堀Click!に接した日本橋米沢町Click!界隈に、5代目・中村芝翫(のちの5代目・中村歌右衛門)が住んでいたのを初めて知った。芝居好きの親父は、おそらく地元が同じだったせいか、フグ毒に当たって死んだ8代目・坂東三津五郎Click!とはハガキのやり取りをしていたが、5代目・芝翫(歌右衛門)について話してくれたことは一度もない。木村荘八は、芝翫の家を「隠宅」と書いており、公の自邸とはまた別のプライベートな妾宅あるいは“隠れ家”的なもので、親父がもの心つくころには、とうにたたまれてしまっていた可能性がある。
湯島天神下1.jpg 湯島天神下2.jpg
東日本橋略図(明治末).jpg
 もうひとつ、余談ついでに大川(隅田川)の「水練場(いすいれんば)」Click!が、明治末ごろまでは薬研堀の南側、つまり右岸の日本橋側にあったことも初めて知った事実だ。おそらく大正期には、対岸の本所側へ移されているとみられ、本所側で泳ぎを習い育った親父は知ってか知らずか、これも生前には話してくれていない。

◆写真上:新小川町方面から眺めた、神楽坂の通う丘の夕暮れ。
◆写真中上は、神楽坂の芸者新道。は、山手なので「新道」とは呼びづらいが小さな商店がお互いに向かい合っていた「下落合新道」もどき。
◆写真中下:同じく山手なので「新道」よりは「横町」のほうがふさわしいかもしれない、「上落合新道」()と「池袋新道」()もどき。
◆写真下上左は、昭和20年代に撮影された湯島天神から眺めた天神下の街並み。左手には不忍池が拡がり、あちこちに「新道」が通っていそうだ。上右は、「新道」と呼ぶにはあまりに狭い湯島天神下の路地。は、木村荘八が描く東日本橋(旧・西両国=両国橋西詰め)界隈の概略図。薬研堀の下に、「スイレンバ」の記載が見える。

肥溜めへ放りこまれた外山卯三郎。

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 井荻駅の南側、井荻町下井草(のち杉並区神戸町)の隣接する区画に、仲よく家を建てて住んでいた外山卯三郎Click!里見勝蔵Click!が、ある時期を境にピタリと交流をやめてしまっている。ケンカの原因がなんだったのか、わたしはずっと疑問に思ってきた。両邸は、文字どおりスープが冷めない距離、わずか数十メートルしか離れておらず、田上義也が設計した外山邸Click!の室内には里見の作品が壁面を飾っていた。
 おそらく1930年協会Click!を解散する際、あるいは独立美術協会Click!を旗揚げする際に会の方向性をめぐる対立か、芸術思想上の齟齬が深刻化して絶交したのではないかと想像していた。なぜなら、外山卯三郎は里見と訣別したあと、1930年(昭和5)に夭折した前田寛治Click!の業績をことさら大きく取りあげ、1930年協会における中核的な存在と規定している。同時に、里見勝蔵のことを周囲がその「野心を非常に危険視」Click!していたとし、同協会をかろうじて結束させていたのは前田の手腕だとして、あたかも里見が結束を乱す元凶だったように記述している。
 やはり、1930年協会から独立美術協会へと移行する前後に美術的な、あるいは表現路線上におけるなんらかの深刻な対立が、ふたりの間に生じたのだ……と、わたしはより明確に想像しはじめていた。ところが、ふたりの絶縁はそんなことではないことが、鷺宮にアトリエをかまえていた峰村リツ子の証言から明らかになった。峰村リツ子は1930年協会や二科、独立美術協会などの展覧会へ作品を出展しつづけていた、女流画家の草分け的な存在のひとりだ。特に里見勝蔵や野口彌太郎Click!、児島善三郎らから指導を受け、同じ鷺宮の近くに住む三岸節子Click!とも交流があっただろう。
 峰村リツ子の証言によれば、彼女と里見勝蔵、あるいは外山卯三郎と里見勝蔵の関係がギクシャクしはじめたのは、大阪からやってきたとある美人モデルの出現からだった。大阪の金持ちの娘で、中村恒子と名のったその女性は画家志望だったようだ。峰村リツ子によれば、画家たちの間を「いつもヒラヒラヒラヒラ」歩きまわっていた中村は、峰村のモデルになったとき、ちょうど里見勝蔵とつき合っていたらしい。モデルにして描きたいと峰村が中村恒子へ告げると、ほどなく里見勝蔵から自分のアトリエにきて仕事をするなら彼女を描いてもいいとの連絡が入った。
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 峰村リツ子が、井荻の里見アトリエへ出かけてみると、里見勝蔵がまるで中村恒子の付き人のようなことをしているのを見て驚いた。峰村の証言を収録した、1985年(昭和60)出版の洲之内徹『気まぐれ美術館』(新潮社)から引用してみよう。
  
 それで、この絵は井荻の里見氏のアトリエで描いたのだが、暑い盛りで、峰村さんが描いているあいだ、里見氏はずっとそばにつきっきりで、団扇で彼女を煽いでやっているのであった。とても落ち着いて描いてなんかいられない。おまけに、絵の中の彼女の顔を、里見氏が筆をとって自分流に直したりしたので、肚を立てた峰村さんは、とうとう絵を提げて帰ってきてしまった。/それでも、紅い襦袢の透けて見える黒い絽の着物を着た彼女はじつに美しかった、と、いまも峰村さんは言う。歳はだいたい峰村さんと同じくらいだったというから、昭和五年のこの絵の頃で二十くらいだろう。
  
 峰村リツ子が描く間、師匠格である里見がモデルのそばを片ときも離れず、かいがいしく面倒をみていたとすれば、彼女としては非常に困惑しただろう。中村恒子は里見勝蔵とくっつく前、共産党の福本和夫Click!の恋人だった。里見勝蔵は、おそらく前田寛治Click!とのつながりから中村恒子と知り合ったのだろう。
 このような状況を迎える前後に、里見勝蔵と外山卯三郎は仲たがいをすることになる。おそらく、中村恒子にうつつをぬかす夫に呆れはて、里見夫人は近所の外山邸を訪れ、親しい外山夫妻にグチをこぼしていたのではないだろうか。非常にマジメな外山卯三郎は、里見夫人の訴えを親身になって聞いてやったのかもしれない。それが里見勝蔵から見れば(自分のことは棚にあげて)、外山卯三郎が里見夫人とことさら親密になっているように見えたものだろうか。あるいは、里見に自制するよう、外山がおせっかいな「犬も喰わない」忠告をしたのかもしれない。再び、同書から引用してみよう。
  
 このカノジョの現われる前かもしれないが、里見勝蔵が、当時の里見夫人と批評家の外山卯三郎との仲がよすぎると言って怒りだし、井荻の駅から家までの野道で喧嘩になって、里見が外山を肥溜めの中へ放り込んだ。そのあとしばらくは、外山卯三郎の家へ行くと、何となく臭かったという話がある。/里見勝蔵とは肥溜めや川のそばを歩かない方がいいのかもしれない。
  
 田上義也設計の美しい外山邸が、肥溜めの臭いで台無しになったようだけれど、どうやらこの事件が契機となって、ふたりは絶交しているようだ。里見勝蔵がのぼせあがった中村恒子は、その後、さっさと里見を見かぎって次の男のもとへ去っていった。
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 さて、当の中村恒子は1933年(昭和8)ごろ下落合に住んでいた。同年に改造社から出版された林芙美子『落合町山川記』(岩波文庫版)から、下落合4丁目(現・中井2丁目)の近所に住む中村恒子の様子を引用してみよう。ちなみに、林芙美子が住んでいた当時の家は、五ノ坂下にあった大きな西洋館=“お化け屋敷”Click!のほうだ。
  
 また、夏になった。もう前ほど女流のひとたちも来なくなった。城夏子さんや辻山さんがやって来る位で、男のひとたちの来客が多い。山田清三郎さんもこの辺では古い住みてだし、村山知義さんも古い一人だ。また、私の家の上の方には川口軌外氏のアトリエもあって、一、二度訪ねて来られた。素朴なひとで、長い間外国にいた人とも思えないほど、しっとりと日本風に落ちついた人である。風評で有名な中村恒子さんもうちの近くの二階部屋を借りて絵を描いているし、有望な絵描きの一人に入れていい独立の今西忠通君も、私の白い玄関に百号の入選画をかけてくれて、相変らず飯屋の払いに困っている。
  
 文中に苗字しか出てこない「辻山さん」とは、喫茶店「ワゴン」Click!裏で医院を開業していたにいた辻山義光の妻・辻山春子Click!のことだ。
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 「肥溜め事件」以来、外山卯三郎の文章から里見勝蔵の影が限りなく希薄になっていく。代わりに取りあげられる機会が増えたのは、とうに死去していた佐伯祐三Click!前田寛治Click!だ。そして、戦後の1949年(昭和24)に下落合の外山邸Click!で書かれた『前田寛治研究』(建設社)では、木下兄弟の言質を引用しつつ「野心家」という言葉で、里見への敵意をむき出しにしている。戦災で邸を焼かれた井荻を離れ、下落合1146番地の実家にもどった外山卯三郎は、もはや肥溜めに放りこまれる心配がなくなったからだろうか。

◆写真上:いまでも、井荻駅の近くで見ることができる畑地。
◆写真中上は、井荻町下井草1100番地(のち杉並区神戸町114番地)の外山卯三郎邸跡。は、井荻町下井草1091番地(のち神戸町116番地)の里見勝蔵邸跡。外山邸と里見邸との間は、直線距離で50mと離れてはいない。
◆写真中下は、1930年(昭和5)に制作された峰村リツ子『女の肖像』。は、1928年(昭和3)の三・一五事件Click!を報じる新聞記事に掲載された中村恒子。
◆写真下は、井荻界隈に残る懐かしい家並み。は、すっかり遅くなってしまったが北海道立文学館で開催された開館20周年特別展『「さとぽろ」発見―大正昭和・札幌 芸術雑誌にかけた夢―』展(2016年1月30~3月27日)の図録()とリーフレット()を、同館学芸員の苫名直子様Clickよりお送りいただいた。札幌における外山卯三郎の青春時代を知るには、格好の資料となっているありがとうございました。>苫名様

安藤家下屋敷(感応寺)裏の鼠塚・狐塚・わり塚。

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 江戸期の寛政年間に書かれた金子直德『和佳場の小図絵』Click!は、落合や戸塚、高田、西巣鴨、小石川などの地域、現代のエリアでいうと新宿区の北部や豊島区の西南部、文京区の西部一帯の伝承や風物を記録した貴重なレポートだが、ときどきひっかかる記述に出会う。雑司ヶ谷(現・西池袋~目白)と西巣鴨(現・池袋)の境界あたりに展開していた、多彩な名称で呼称されている「塚」の存在だ。
 これらの塚は、地名として大正期まで残った「狐塚」Click!がもっとも有名だが、そのほかに「鼠塚」や「わり塚」という呼称も記録されている。狐塚は小字にも採用されており、雑司ヶ谷字西谷戸大門原(狐塚)と呼ばれていた一帯だ。現在は西池袋2丁目となっており、雑司ヶ谷6~7丁目の地名が消えてしまうのを拒否して、地名存続が最高裁まで争われたエリアClick!としても有名だ。このあたりの風情は、女子美を出たばかりの三岸節子の下宿先としても、以前に記事でご紹介Click!している。
 しかし、『和佳場の小図絵』の現代語訳である海老沢了之介『新編・若葉の梢』では、3つ記録された塚のうち、「狐塚」と「鼠塚」の記述はあるものの、なぜか「わり塚」の記述は省かれている。そこで、金子直德が記録した寛政年間の様子を、より正確に把握するために、原文の『和佳場の小図絵』から引用してみよう。
  
 同御屋敷後ろ中程に鼠塚、又はわり塚共狐塚共云。雑司ヶ谷と池袋長崎の堺(ママ)と云。(源頼朝の)奥州征伐の時御凱陣ありしが、夜討の沙汰ありとて、もの見を爰(ここ)に出し給ふ故に、名を不寝見塚と云よし。鼠山もその軍兵夜不寝にありし故と云、その年限を不知。(カッコ内引用者註)
  
 ここで「御屋敷」と書かれているのは安藤対馬守(古くは安藤但馬守)の下屋敷のことで、のちにその屋敷跡へ7年間だけ、芝増上寺を上まわる巨刹となった感応寺Click!が建立されている経緯も、すでに記事に書いた。その「後ろ」側に塚の名称が3つ採録されている。この記述によれば、「鼠塚」の別名が「狐塚」または「わり塚」ともとれるが、海老沢了之介は「狐塚」と「鼠塚」を別々の塚として解釈している。そして、「鼠塚」の位置を安藤対馬守下屋敷の西南側、現在の目白の森公園のやや東側で、目白通りの沿道近くに比定している。
 これは、鼠山と呼ばれた将軍家の御留場Click!(狩り場)が、安藤対馬守下屋敷の西側に展開していたので、そのエリアにできるだけ近接した位置へ比定したものだろうか? だが、これでは「御屋敷」の「後ろ」ではなくて「前(表)」になってしまい、本来の『和佳場の小図絵』の記述とは一致しない。江戸期の「前後(表裏)」概念あるいは「縦横」概念は、すべて千代田城を基準に表現・記述されているからだ。
 千代田城から眺めて、タテに見える川や堀割は東西に流れていようが「堅川」であり、千代田城から見て横に流れている川は南北に流れていようが「横十間川」だ。同様に、千代田城から見て「後ろ」側は、城北部の場合は北側であって「表」の南側ではない。つまり、安藤対馬守下屋敷の「後ろ」といえば北面を指すのであり、海老沢了之介の『新編・若葉の梢』が比定している南側の位置概念は、江戸期の当時ではありえそうもない……と、わたしは解釈している。
鼠塚全体1936.jpg
鼠塚1936.jpg
鼠塚拡大1936.jpg
 海老沢了之介が、なぜ「狐塚」と「鼠塚」だけ取りあげ、「わり塚」を省いたのかは不明だが、わたしは本来は3つとも別々の塚にふられた名称だったのではないかと思う。なぜなら、小字のもととなった「狐塚」とみられる塚は地図にも採取され、その一部が戦前まで破壊されずに残っているが、その周囲には同様の塚とみられる、直径30m前後の正円形が1936年(昭和11)現在の空中写真に見てとれるからだ。
 もうひとつ、「狐塚」と「鼠塚」は明らかに塚の規模や形状を示唆している表現とも解釈でき、幕末あるいは明治期につくられたとみられる「屋敷の築山に狐が住んでいたから狐塚」は、どこか稲荷信仰とからんだ付会の臭いがするからだ。つまり、「鼠塚」は「狐塚」よりも規模が小さかったからそう呼ばれた、相対的なサイズ(または形状)を表す名称とも想定できる。また、「わり塚」(割塚と書かれることが多い)は全国に展開する古墳地名であり、もとから存在していた塚状の地形を崩すか、あるいは塚のどこかへ切り通し状に道路(農道や街道)を敷設して付けられる、一般名称に近い呼称だ。だから、これら3つの塚は元来別々に存在していたのであり、寛政年間に書いた金子直德は伝聞のみで現地を詳細に検証しておらず、安藤対馬守下屋敷の「後ろ」に連なる塚を混同して記録しているのではないか?……というのが、わたしの問題意識だ。
 しかも、これらの塚が連なっている敷地は後年まで宅地開発が進まず、周囲を住宅に囲まれながら戦後すぐのころまで空き地のままとなっていた。そこには、なんらかの伝承(古墳にみられる屍屋=しいや的で禁忌的なもの)が存在したか、あるいは大正期あたりの宅地開発の過程で玄室や羨道、人骨が出土しているのではないだろうか? 池袋駅へ徒歩5分ほどの立地でありながら、空き地のままの状態が戦後まで長くつづいた経緯に強く惹かれるゆえんだ。しかも、塚が連なる南側の一部は、現在でも住宅街ではなく上屋敷(あがりやしき)公園として保存されている。
 さて、安藤対馬守の下屋敷について、幕末に作成された『御府内場末往還其外沿革図書』の図版に添えられた解説から引用してみよう。
  
 天保五午年五月安藤対馬守元但馬守 右下屋敷一円御用ニ付被召上 本所押上吉川四方之進屋敷の内被召上為代地被下 感応寺境内ニ成 同十二丑年十月思召有之感応寺廃寺被仰付上ヶ地ニ成
  
 1834年(天保5)から感応寺の境内となる、この安藤対馬守下屋敷の近くの道端からは、1772年(安永元)正月に鬼子母神が出現した伝承が残っている。鬼子母神は、いったんは雑司ヶ谷の大行院へと奉納されたが、再び安藤家の下屋敷内の社殿へ奉り直されている記録が残る。一度は近くの寺へ納められたが、屋敷内へ社殿を建立し、“神”として改めて勧請されたようだ。
安藤対馬守(延宝年間).jpg 感応寺(天保5).jpg
狐塚1922.jpg
1号墳(鼠塚?).JPG
 再び、金子直德の『和佳場の小図絵』から引用してみよう。
  
 (鬼子母神を)願て又家内に勧請し奉りぬ。出現の時は安永元年正月初八日なり。寛政四年の春より内殿に奉、同九年八月、母の病気に付守来ぬ。附て云、八咫大蛇(やまたのおろち)の前歯一基、保元・平治の頃より伝ふ。脇差・鎗・旧書の類、其外に伝り物。(カッコ内引用者註)
  
 ここで気になるのが、もちろん同屋敷に伝わっていた「八咫大蛇の前歯一基」だ。安藤対馬守(古くは但馬守)が、江戸市街へもどるときに利用していた坂が、下落合氷川明神社Click!へと抜ける七曲坂Click!であり、田島橋(但馬橋)Click!の由来となった道筋に残るヤマタノオロチ伝説Click!に連結可能な記録だからだ。高田氷川明神(スサノオ)と下落合氷川明神(クシナダヒメ)をセット(男宮=女宮)としてとらえ、七曲坂に同伝説が付与された由来は、江戸期に「八咫大蛇の前歯一基」を安置していた、安藤家の下屋敷が設置されたあたりではないかと想定できる。この「前歯」とは、龍骨とよばれる奉納物がナウマンゾウの歯化石だったひそみにならえば、なんらかの動物化石だった可能性が高い。
 3つの塚名が記録された狐塚周辺は、池袋の地名由来となった丸池へ向け、なだらかな北斜面のほぼ丘上にあたる。『御府内場末往還其外沿革図書』には、狐塚あたりから丸池へと注ぐ小流れが採取されており、同池を形成する重要な湧水源だったことがうかがわれる。丸池から流れ出た川筋は、東側に拡がる雑司ヶ谷の谷間へ向け弦巻川Click!の流れとなる。海老沢了之介の『新編・若葉の梢』には、川柳がふたつ収録されている。
 大江戸の しつぽのあたり 鼠山
 鼠山 猫また橋の つゞき也

 幕府の御留場である長崎地域の「鼠山」は、江戸後期の大江戸(おえど)Click!概念を形成した朱引墨引の境界線ギリギリにあたるため、揶揄気味にネズミの「しつぽ」と表現されている。また、「鼠山」と小石川養生所(植物園)前の千川に架かる「猫股橋」とをひっかけて、街道筋をネコとネズミの関係に洒落のめしている。もし川柳の作者が、「狐塚」という小字を発見していたら、巨刹がアッという間に廃寺になったいきさつを皮肉って、「鼠山 狐も仏も ちゅうこん下(げ)」とでも詠んだだろうか。w
2号墳(狐塚).JPG 3号墳.JPG
4号墳.JPG 猫又橋袖石.JPG
 安藤対馬守下屋敷の北側に展開していた直径30m前後の塚は、それぞれ独立した古墳ではなく、周辺各地で見られる大きな主墳Click!“陪墳”群Click!だととらえられるとすれば、いったいなにが見えてくるだろうか? でも、古墳群とみられる塚の南西側は、安藤家の下屋敷や感応寺建立で早くから開発されつづけ、塚の東側は品川赤羽鉄道(のち山手線)や池袋駅の工事あるいは駅前開発で、地形が大きく改造されている。戦後の焼け跡写真に目をこらしても、より大きな主墳らしいフォルムはいまだ発見できないでいる。

◆写真上:安藤対馬守下屋敷(感応寺)跡に現在も残る、同敷地につづく北辺の道。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる狐塚周辺。は、それぞれ塚の痕跡と思われるサークルへ古墳番号(仮)を付けたもの。安藤家下屋敷の「後ろ」にもっとも近接していたのが「鼠塚」(現・上屋敷公園)だろうか。
◆写真中下は、『御府内場末往還其外沿革図書』に描かれた延宝年間の安藤対馬守下屋敷()と、1834年(天保5)の感応寺境内()。すぐ南側は下落合村と接しており、南端に描かれた街道が清戸道Click!(現・目白通り)。は、1922年(大正11)作成の地形図にみる狐塚。1936年(昭和11)の空中写真でも確認できるが、狐塚の墳丘残滓はかなり後年まで残っていた。は、安藤家下屋敷に接した1号墳(鼠塚?)跡の現状。
◆写真下上左は、2号墳(狐塚)跡は巨大なマンションが建っている。上左は、3号墳跡の現状で南側の道は商店街になっている。下左は、北側へと下る斜面の4号墳跡の現状。下右は、小石川氷川(簸川)社の谷間を流れる千川に架かっていた猫股橋の袖石。

昭和初期に急増した上落合の飲食店。

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小滝橋交差点.JPG
 落合地域と下戸塚(現・高田馬場3~4丁目)、戸山ヶ原Click!(現・百人町4丁目)、柏木地域(現・北新宿4丁目)、そして中野地域(現・東中野4丁目)と、数多くの地域が落ち合う地点に、神田川の小滝橋交差点がある。現在は大型スーパーやドラッグストア、AVチェーン店など大型店が進出し、周辺の商業拠点になっている交差点だが、大正末から昭和初期にかけても同交差点を中心に、商店街が四方へ伸びていっている。
 同交差点へ行かれた方はご存じだろうが、上落合や東中野側からは早稲田通り、山手線・高田馬場駅方面からも早稲田通り、戸山・大久保方面からは諏訪通り、柏木・百人町(現・新宿)方面からは小滝橋通り、そして少しズレてはいるが下落合方面からはバス通りとなっている聖母坂Click!筋(補助45号線Click!)の通りが合流し、付近を貫通する大通りの期せずして集合場所になっている。ちなみに、いまだ計画が廃止になっていない補助73号線Click!は、高田馬場3丁目の住宅街を斜めにつぶして、小滝橋のすぐ手前の早稲田通りへと貫通・合流する予定になっている。
 小滝橋は、交通の要所のせいか、関東乗合自動車Click!(現・関東バス)の営業所や車庫も1932年(昭和7)に開設され、現在も都バスの車庫・営業所として運営されている。大阪から出てきた作詞家の喜多條忠が、クルマで小滝橋近くを通りかかったとき、学生時代の懐かしい情景を想い出しながら作詞したのが『神田川』Click!だというのを、新聞記事かなにかで読んだ記憶がある。
 大正期の中ごろまで、旧・神田上水に架かる小滝橋は木造だったが、大正末ごろに石造りの橋に架け替えられ、上をクルマやバスが通れるようになった。新たな小滝橋の位置も、江戸期からの橋の位置からはやや西にズレて設置されているようだ。大正末ごろ、わたりの季節になると小滝橋周辺にはカモやシラサギの群れが飛来して、旧・神田上水に近い小滝台Click!周辺に羽を休めていたらしい。その様子を、1983年(昭和58)に発行された冊子『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)所収の、「トリの話」から引用してみよう。
  
 小滝(華洲園の東方にある低地)に永井さんと言う大きなお屋敷があった。この屋敷のなかを神田川が流れていた。秋になるとこの屋敷の川辺に沢山の鴨が下りた。この鴨は大変利口でなかなか庭から外に出て来ませんでした。たまに出て来るとズドンとやられるからである。白鷺は神田川・妙正寺川添(ママ)にあったタンボに沢山下りていた。全く良き田園風景そのものであった。
  
小滝橋木造.jpg
小滝橋1933.jpg
 いまでこそ、神田川や妙正寺川沿いではカモやシラサギ、セキレイなどはめずらしくなくなったけれど、わたしが学生時代には水鳥などめったに見かけず、夕方になると橋下に営巣するアブラコウモリたちが飛びまわるぐらいだった。
 小滝橋周辺に限らず、農家では鶏卵を採るためにニワトリをたくさん飼育しており、夜中にコケコッコーと鳴くと、住民は就寝中でも急いで起きだして、ニワトリが鳴きやむまで箕(み)を団扇がわりにパタパタ扇ぎつづけたという。夜中にニワトリが鳴くと「火を呼ぶ」という、東京郊外の古い迷信からきているものだ。上落合では、中小の工場が建ちはじめ、特に火事が多かった川沿いの前田地区Click!を抱えていたので、付近の農家はよけいに敏感になっていたのだろう。ちなみに、下落合では1980年代までニワトリの鳴き声が聞こえていたが、夜中に鳴くのはクルマのヘッドライトに反応していたからだ。
 古くから交通の要所だった小滝橋には、早くから企業や施設、商店などが開店していた。関東バスの車庫・営業所のほか、当時は切通しの道だった小滝橋通りを新宿方面に歩くと、柏木985番地のゲルンジーミルクプラントClick!や同1279番地の豊多摩病院Click!があり、高田馬場駅へ向かう下戸塚の早稲田通り沿いには、野菜を市街地の市場へ運ぶ近郊農民を相手の、あるいは付近の商店や工場の従業員相手の、茶店や飯屋「橋本や」などが店開きしている。
 また、上落合側の早稲田通り沿いは、大正末ごろまで両側は田畑のままが多く、南西を見ると日本閣(鈴木屋)Click!の建物が、北東を見ると下落合の駅舎までが見通せたらしい。このころの店舗というと、豆腐屋や酒屋、日用雑貨屋などがポツンポツンとできはじめたが、いまだ商店街を形成するほどではなかった。
東京府中野授産場1933.jpg
柏木駅.jpg
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 再び、『昔ばなし』所収の「小滝橋附近」から引用してみよう。
  
 関東大震災後に次第に発展し、昭和の初め頃には、早稲田通りの両側は立派な商店街になりました。勿論小滝橋も石の橋になり、名物の「橋本や」さんは姿を消してしまいました。商店街の中には「ミルクホール」と呼ばれるお店があり「コーヒー」や「ミルク」や「ライスカレー」などを売って居りましたし、「落合亭」という「カフエー」もあり、夕方になるとお店の前に水をまいて、若い女の人がきれいになって、(着物姿に白いリボンのついたエプロンを着ていた)店先に立って、お客を呼んでいました。/八幡さまの前の道は「八幡通り」と言って商店が軒を並べて居り、「郵便局」や「マーケット」がありました。早稲田通りは昭和の初め頃、今の関東バス側が拡がりました。丁度、家一軒分位が道路となったわけです。道が拡がっても商店が並んで居りましたが、都バスの車庫が出来るようになってから、次第に商店の姿が消えてしまいました。
  
 東京郊外への人口流入に比例し、早稲田通り沿いには市街地から喫茶店やバーなど流行りの店舗が進出している。このころになると、川沿いの工場からの排水や住宅からの生活排水で旧・神田上水の水質は濁り、魚や沢ガニが採れにくくなっている。小滝台の周辺に飛来していた、シラサギやカモの姿もめっきり減ったのだろう。
 上落合の子どもたちは、いまだ自然が多く残っていた小滝台に拡がる華洲園Click!の雑木林に出かけ、小枝に鳥もちを塗ってメジロやウグイスなどをよく捕まえたそうだ。もちろん、鳥商人に売ったり鳥籠に入れて自家で飼うためだが、樹木のてっぺん近くで鳴くモズは、そこまで鳥もちを塗りに登れないので採れなかった。小島善太郎Click!が飼っていたホオジロClick!も、そのようにして捕まえたものなのかもしれない。そういえば、「ホオジロを捕まえると火事になる」というジンクスも、東京郊外には語り継がれていた。
小滝橋1918.jpg 小滝橋1930.jpg
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小滝橋交差点2_1938.jpg
 大正末から昭和初期にかけ、小滝橋とその周辺域は“激変”と呼んでも差しつかえないほどの、急激な変化にみまわれている。濱田煕Click!が描いた、1938年(昭和13)ごろの小滝橋交差点のイラストは、商店がギッシリと通り沿いに建ち並び、もはや田畑などどこにも存在しない。わたしが学生時代に見た、高層建築があまりなく銭湯の煙突ばかりが目立っていた小滝橋の情景も、このイラストに近いものだった。『神田川』の喜多條忠が学生時代をすごしたころは、もっとイラストに近い風情ではなかったろうか。

◆写真上:上落合側から見た、早稲田通りに架かる小滝橋の橋柱。
◆写真中上は、大正中期までの木造小滝橋でたもとに茶店が描かれている。(『昔ばなし』の挿画より) は、1933年(昭和8)に撮影された石造りの小滝橋。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された旧・神田上水沿いの小滝にあった東京府中野授産場。は、大正初期に撮影された小滝橋からほど近い中央線・柏木駅(のち東中野駅)。小島善太郎が踏切番のバイトClick!をしていたとみられる当時の駅舎で、現在の東中野駅の位置とは異なり柏木地域(現・北新宿)寄りに建っていた。は、営業所や整備場、乗員宿舎も備えた都バスの小滝橋車庫。
◆写真下は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる小滝橋()と、1930年(昭和5)の同地図にみる小滝橋()で、急速に市街地化していく様子がわかる。は、濱田煕が1938年(昭和13)ごろを想定して描いた小滝橋交差点で戸山ヶ原の西端が見える小滝橋通り。は、下落合の丘陵が見える小滝橋から上落合方面の早稲田通り。目白崖線が実際より高めの印象で描かれているのは、当時の下落合は樹林が密だったため実際の標高よりも高く見えたものだろう。


久高島の巫女と江戸東京の巫女。

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 大重さんから電話をいただいたのは、何年前のことだったろうか。電話に出ると、「あっ、〇〇くん?(わたしの名前) ど~も、おーしげです。しばらく……」と、きのう別れたようなしゃべり方で、いきなり映画の話をしはじめたのを憶えている。電話の向こうでは、相変わらず若いころから蓄膿症に悩まされていた(本人談)という息づかいも荒く、生涯のテーマだった沖縄の映画について話しはじめるのだった。たいがい、映画の話を20~30分ぐらいして、「今度、東京でも上映するから、ぜひ観にきてよ」で電話が切れた。
 記録映画の大重潤一郎監督が、映画畑の人間でもないわたしにときどき電話をくれていたのは、若いころ同じ職場で仕事をしていたからだ。大学を出て間もないころ、勤めていた会社の映像部に、まるで井上陽水のようなヘアとサングラス、真っ黒に日焼けした顔で、大重監督は座っていた。当時から、ときどき沖縄へ出かけてはロケだかロケハンをしていたようで、わたしはたまたま読んでいた島尾敏雄の資料(おそらく「ヤポネシア考」関連の書籍だったろうか)を、コピーしてとどけたのがきっかけだったと思う。
 その後も、当時の雑誌に連載されていた鶴見良行の文章(たぶん『マングローブの沼地で』だったと思う)を、定期的にコピーしてはお渡ししていた。いまほど、Sundaland(スンダランド)学説が注目されていなかったころのことだ。そのせいか、義理がたい大重監督はなにか作品ができ上がると、ときどきわたしに電話をくれていたようなのだ。だが、せっかく電話をいただいても、仕事が多忙をきわめていた時期だったりすると、とても映画館へいく余裕などなかった。また、上映日が平日の夜だったりすれば、まずPCの前やデスクを離れるのは絶望的だった。記録映画の上映会はたいがい短期間で、ひとたび見逃すと、なかなか再上映のチャンスはめぐってこない。
 あれは、大重監督が鎌倉の材木座から神戸へと転居して、しばらくたってからのことだから、ずいぶん昔のことになる。一度、沈んだ声で電話をかけてきたことがあった。「あっ、〇〇くん? ど~も、おーしげです……」は、いつもと変わらない出だしだったのだが、声のトーンが常ならず低い。お話をうかがうと、このところ奥様の具合がよくないのだという。阪神・淡路大震災で住居だったマンションが罹災し、それが原因で倒れられたとうかがった。
 大重監督は、わたしの義父Click!がクモ膜下出血で倒れ、意識不明で病院の医者からも見放されていたとき、連れ合いが「自然療法」を試みて医師が唖然とするほどに、後遺症ゼロで治した経験があるのを知っていた。義父はその後、20年も長生きし85歳で天寿をまっとうした。だから、医師の治療と併せ、同時に奥様へ自然療法も試みたいのだという。さっそく、連れ合いに電話を代わったのだが、ふたりで1時間近くも話していただろうか。
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 大重潤一郎監督は、山本薩夫Click!の助監督をへて岩波映画製作所に入り、そこで映画監督の黒木和雄Click!らと知り合ったらしい。独立後は、次々と記録映画や産業映画を制作していくことになるのだが、わたしの印象に残っているのは大島渚と小川紳介Click!とが登場する、『小川プロ訪問記』(1981年)だろうか。こちらでも、何度か記事の中でご紹介している小川紳介監督の、『ニッポン国・古屋敷村』Click!(1982年)が発表される前年のことだ。阪神・淡路大震災のあとは、梅原猛の監修で制作された『縄文』(2000年)や『魂の原卿ニライカナイへ』(2001年)など、いわゆる「古層三部作」と呼ばれる作品を次々と発表していく。
 わたしが、大重監督と最後に電話で話したのは、おそらく「古層三部作」の直後、2002年ごろに沖縄へ移住されているから、その直前あたり……ということになる。つまり、10年以上もご無沙汰がつづいてしまったわけだ。だから、監督が2004年10月に脳出血で倒れて以来、右半身が不自由になったのも知らなかった。ときおり、『久高オデッセイ』のウワサを耳にして、沖縄で元気に制作されているとばかり思っていた。そして、うかつにも昨年(2015年)7月22日に肝臓がんで亡くなったのも、だいぶたってから知ったしだいだ。まだまだ、仕事ができるはずの69歳だった。
 いま、渋谷の「アップリンク」Click!では、大重監督の遺作となった『久高オデッセイ/第3部 風章』を上映中だ。さっそく、同作を観に渋谷へと出かけた。
 わたしは子どものころ、海からわずか100m前後の住宅Click!で育っているせいか、海の匂いのするモノが大好きだ。しかし、映像に切りとられた久高島の海は、同じ太平洋といっても、わたしの原体験として染みついている海辺の情景や感覚とは異なり、まったく馴染みのない異質な空間だった。沖までサンゴ礁がつづく浅瀬でできた久高の渚は、わたしの知る太平洋の潮の音でも波の音でもない。浜辺の植生も、木々を揺らす風の音も、海や空の色も光も、鳥たちの鳴き声も、そして獲れる魚たちの姿も、すべてがちがう。同じ太平洋でも、まるで別世界のような空間であり、わたしとは関わりのない「異国」のように感じたのだが、その中でどこか深いところで繋がりをおぼえたのは、意外にも神人(カミンチュ)たち、つまり祭祀をつかさどり神に祈る巫女たち女性の姿だった。
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作者不詳「神楽巫女」.jpg 中山太郎「日本巫女史」1930・2012.jpg
 ここの記事で、江戸東京地方(関東地方もだが)は、いまだ「原日本」の風俗や民俗、文化、慣習などを少なからず残している地域であることを、わたしは多彩な角度から繰り返し書いてきている。戦前まで、街中には政治(まつりごと)の巫女と生活(たつき)の巫女が、江戸期からの町内にひとりやふたりは存続していた土地がらだ。彼女たちの系譜は戦後、巫女とは名のりづらい時代のせいか、「占い師」に姿を変えて相変わらず“活躍”していることも書いた。
 今回は、現代の川田順造Click!ほど新しくはなく、少し古くさい書籍で恐縮だが、民俗学者・中山太郎の文章を思い出したので引用してみよう。1930年(昭和5)に出版された、中山太郎『日本巫女史』(最新再版:国書刊行会)からだ。
  
 [前略]山ノ神の研究が目的ではなく、ただ山ノ神が女性であるということだけが判然とすればよろしいのであるから、他は省略する。これから見るも、木花開耶姫命[コノハナサクヤヒメノミコト]が富士の山神であるという伝説の古いことが知られるのである。しかしこれらの民間信仰を基調として、さらに前掲の「伊豆国風土記」の逸文を読み直して見ると、八枚の神坐を構えて祭儀に従ったのは巫女であって、しかもこの巫女が、古くは狩猟[漁撈・農作]の良否を占問いする役目を有していたのではないかと考えられる。琉球にはウンジャミ祭と称して、各地にノロ(巫女)を中心とした狩猟[漁撈・農作]の神事が行われているが、その中でやや原始的なもので、しかも極めて簡単なものを一つだけ抽出して、古くは我が内地にも、かかる神事が挙げられたのではないかと信ずべき傍証とする。([ ]内引用者註)
  
 中国や朝鮮半島の儒教思想をはじめ、学問や文化にことさら忠実な明治政府は、神事を男のみで行う「国家神道」(戦後用語)を推進し、女性たちを締めだす目的のため、1873年(明治6)に「巫女禁断法令」を発令する。だが、薩長政府にそっぽを向いている江戸東京市民Click!がすんなり従うはずもなく、社(やしろ)などから無理やり追いだされた巫女たちは、市民たちの「コンサルテーター」あるいは「スーパーバイザー」的な存在として、各町内へ溶けこみ大切にされることになった。
 ちなみに、ここでいう巫女Click!とは明治以降、神主の“助手”であり正月になるとアルバイトとして募集する「巫女もどき」のことではない。彼女たちは多彩な社(やしろ)の神主そのものあり、沖縄でいえば神人(カミンチュ)に連なるもののことだ。
 江戸東京においてさえ、古代の卑弥呼(日巫女)から、いや、縄文に由来するかもしれない「日本」の基層をめぐる、多種多様な抵抗Click!繰り広げられたClick!のだから、ましてや沖縄の人々はこの「巫女禁断法令」へ真っ向から対峙したのだろう。そのあたりの「日本」の宗教観、あるいは文化的な匂いといったものに違和感なく共感、ないしは色濃い共通性を、映像の中に改めて見いだしたせいなのかもしれない。
 この土地出身の人間として、心の奥底の肌合いにどこかしっくりくるのが、久高島の自然でも環境でも人々の生活でもなく、巫女たちがつかさどる神事の情景だったというのは、さて、生来のわたしにインプットされている、なにが感応したものだろうか。女神の“お札”が天から降ると、仕事や職場を放棄して感応しながら「ええじゃないか」を踊狂する江戸期の人々と、秋葉原の舞台上の女子アイドルに合わせシンパサイズしながら踊る人々と、薩長政府が異質な「日本」以外の思想をやっきになって植えつけようとしたにもかかわらず、「日本」の基層部はたいして変わっていないのではないかと思うのだ。
四宮鉄男構成・編集「友よ」(映像Sプロジェクト)2013.jpg 大重潤一郎(風がご馳走).jpg
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 鹿児島出身の大重監督は、子どものころ沖縄から働きにきている人々が祭日にか、あるいはなんらかの祝いごとがあった日に、近くの公園で音楽に合わせて楽しそうに踊っている光景に何度か出くわしたという。それが、のちに沖縄(琉球弧)へと惹かれていく端緒となり、映像で記録・表現するモチーフを見いだす原体験だったと述懐している。生涯をかけて取り組むことのできるテーマとは、案外、子どものころの何気ない光景や経験にひそんでいるのかもしれない。大重潤一郎監督のご冥福をお祈りしたい。
 ◇渋谷「アップリンク」
  『久高オデッセイ/第3部 風章』
  4月29日(金)まで 午前10時30分~
  (ネットから座席予約が可能)
  http://www.uplink.co.jp/movie/2016/43248

◆写真上:沖縄の海に立つ大重潤一郎監督で、2013年(平成25)制作の四宮鉄男・構成/編集『友よ』(映像Sプロジェクト)から。以下、大重監督と作品写真は同作より。
◆写真中上は、1995年(平成7)に制作された大重潤一郎・監督『光りの島』の1シーン。は、2000年(平成12)に制作された同『縄文』の1シーン。
◆写真中下は、描かれた巫女たちで1856年(安政3)制作の国貞『かぐらみこ』()と、おそらく明治期に描かれた尾形月耕『巫女』()。下左は、江戸期に制作された肉筆浮世絵で作者不詳の『神楽巫女』。下右は、1930年(昭和5)に出版され2012年(平成24)に国書刊行会から再版された中山太郎『日本巫女史』。
◆写真下上左は、2013年(平成25)制作の四宮鉄男・構成/編集『友よ』(映像Sプロジェクト)。上右は、沖縄は「風がご馳走」と語る大重監督。は、2006年(平成18)に制作された大重潤一郎・監督『久高オデッセイ/第1部 結章』の1シーンより。

杉並区和田堀にあった「小唄学校」。

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杉並街並み.JPG
 戦後しばらくして、読売新聞に掲載された安藤鶴夫Click!の「小唄学校」というエッセイがもとで、入学したさに杉並区和田堀界隈を探しまわった人たちがいたらしい。小唄に三味Click!なら、江戸東京の旧市街地=(城)下町Click!だろうと誰しもが思うので、なぜそれが杉並区にあるのか不思議に感じた読者も少なからずいたようだ。
 洋画家で医師の宮田重雄は「小唄楽校」と呼び、新派Click!の伊志井寛は「小唄楽交」、林房雄Click!は「古唄楽校」、木村荘八Click!は「小唄ガッコ―」と書く、所在の知れない「和田堀小唄学校」は、以下のような教授や学生(楽生)たちで構成されていた。
 -校長(香蝶)…木村荘八
 -給食課…木村荘八夫人
 -徒監…伊志井寛
 -校医・録音班…宮田重雄
 -人事課…安藤鶴夫
 -楽生総代…伊志井寛夫人
 -楽生(入学順)…水谷清、宮田重雄夫人、大澤善治、杵屋三輝、荒木氏、大草夫人、
   花柳梅静、濱田百合子、牛尾青年、水谷八重子(虫子)Click!島田正吾Click!夫人、
   辰巳柳太郎Click!夫人、林弘高夫人、河盛好蔵夫人、安田金太郎、高橋直治
 -顧問…喜多村緑郎Click!、下谷福の家福子(石井ふく子)
 -常任教授(師範)…田村万津江
 -教授顧問…田村小伊都、田村千恵

 なんだか、歯切れのいい江戸東京方言Click!が、あちこちから聞こえてきそうな錚々たるメンバーだけれど、「楽生」の中に大阪人と思われる人々が、何人か混じっているのが興味深い。吉本興業社長の林弘高やフランス文学者の河盛好蔵などの、それぞれ夫人たちが楽生として浚いに参加している。
 東京で集まりがあり、その流れた酒の席で「どうですか、ちょいと小唄のひとつふたつ、頼みますよ」といわれるケースが多かったのだろう。おそらく江戸東京とは異なり、大阪には細竿で「線道をつける」Click!というような下町の習慣がなかったのではないだろうか。そこで恥をかかないためにも、小唄と三味の双方を習いに通っていたと思われるのだ。また、新派と新国劇の関係者が、仲よく小唄を浚っているのも面白い。
 さて、この「小唄学校」は杉並区和田本町832番地に実在していた。新宿から都電杉並線に乗り、「西町」か「天神前」の電停で下りて南へ500mほどのところ、畑や雑木林が残る道を5分ほど歩くと、女子美術短期大学を右手に見ながらアトリエ付きの瀟洒な住宅にたどり着く。その建物が「和田堀小唄楽校」の「校舎」なのだが、なんのことはない木村荘八の自邸+アトリエ(通称:和田堀軒)だった。どうやら、東京の市街地が戦争で焼け野原になってしまったため、空襲の被害を受けなかった木村荘八邸が「小唄楽校」の校舎に選ばれたらしい。
木村荘八「東京今昔帖」1953.jpg 杉並区和田堀832_1947.jpg
杉並区和田堀832_1948.jpg
 少し前、おもに洋画家で構成された「池袋シンフォニー」Click!の記事を書いたけれど、あちらがヨーロッパの洋楽だったのに対し、こちらは和楽(俗楽)の、しかも東京地方に限定された江戸小唄の集まりだった。1952年(昭和27)の春に「和田堀小唄楽校」は開校しているが、木村荘八と小唄とのつながりを、1953年(昭和28)に東峰書房から出版された、木村荘八『東京今昔帖』所収の「和田堀楽校の記」から引用してみよう。
  
 一体、どうしてかういふコト(楽校開設)が起つたかといふと――/今から二年程前のことになりますが、久保田万太郎さん(傘雨子)がAKの俗曲司会に当られた時に、かねての約に依つて、伊志井夫人ノブ子が三味線を弾くことゝなり、その組合せ番組の「唄ひ手」を俄かに元の古巣の下谷へ駈けつけて、物色したところ、当時、福子も、つや菊も、大事をとつて、出ません。それで誰か唄ひ手は無いかと鳩首協議した結果が、白羽の矢をいきなり何も知らぬ小生へ持つて来て、それがしかも押しつまつた十二月三十日の強談です。下谷組の談合が正月のAKの俗曲の時間へ、小生に唄で出てくれ、といふのでした。「唄」は元々私は下谷の人達に恩と縁があります。福子は稍先輩として、ノブ達はどうかすると後輩かも知れず、私は昔本郷にゐた頃、当時の妻子(つまこ)、里次なぞと同輩の、古くはおいねさん、久しくお俊さん、お八重さん達「大先輩」について、度々歌を教はつたものでした。(中略) 「おさらひ」へはあつちこつち出ましたし、芸妓の踊りの会へ手伝ひに出かけて、チビの小唄振りの地を何番も引受けて、唄つたこともあります。皆「森木」といふ名でやりました。本郷森川町の木村といふ意味。
  
木村荘八「田村の大おしょさん」.jpg 木村荘八「自画像」1918.jpg
 AKは、NHKラジオの東京JOAKのことだ。「ノブ」は小唄の師匠で伊志井寛夫人の三升延、「福子」は養女になったTVプロデューサー・石井ふく子のことだろう。
 うちの親父も、おそらく何人かの女お師匠さん(おしょさん)に付いて、実家が数百メートルしか離れていない、日本橋吉川町1番地(現・東日本橋)生まれの木村荘八Click!と、まったく同じような通い稽古をしていると思われるのだが、わたしは昭和30年代の生まれなので、三味は手もとにあったがすでに「線道」とはまったく縁がない。
 和田堀小唄楽校には、「校長訓示」が9つに「徒監訓示」が2つほど存在しているのだけれど、面白いので機会があればまたご紹介したい。「大正以降の小唄は正科に認めない」と第1条で宣言しているように、ここでいう「小唄」とは日本橋や柳橋Click!あたりで三味片手に口ずさまれていた江戸東京風の小唄であって、どうやら明治以降に役人や政治家たちが贔屓にしていた新橋や赤坂の花柳界を外しているらしい点にも、大阪人を含めた彼ら町人文化の意気地が薄っすら見てとれるのだ。
 以前に住んでいた、聖母坂Click!にあるマンションの隣りの建物には、常磐津のお師匠さんとみられるいい喉をした女性が暮らしていた。ときどきお浚いの三味と唄声が聞こえていたのだが、おそらく小唄もさすがに上手だったろう。思い返せば芸のないわたしは、戸をたたいて弟子入りし、習っておけばよかったとつくづく思う。
 「池袋シンフォニー」と「和田堀小唄楽校」、どちらかに通っていいといわれれば、昔なら迷いなく佐伯祐三Click!や小泉清、里見勝蔵Click!らに会える洋楽の「池袋シンフォニー」を訪ねてみたいと思っただろうが、この歳になるとちょっと迷う。岸田劉生Click!が生きていたら、おそらく「名誉校長」あるいは「理事長」としてふんぞり返っていたかもしれない、「和田堀小唄楽校」をのぞいてみたい気がするのだ。
木村荘八「窓外風景」1952.jpg
小唄楽校界隈.jpg
 和田堀小唄楽校が、はたしていつまで開校していたのかは不明だが、1956年(昭和31)に木村荘八はNHKの邦楽部委員に就任しているので、おそらく2年後に木村が死去する、1958年(昭和33)ごろまでつづいていたのだろう。この「小唄楽校」へ通っていた「楽生」たちの感想が、どこかの随筆に残されていやしないだろうか。

◆写真上:いまだに生け垣が多く残る、落ち着いた杉並区内の街並み。
◆写真中上上左は、1953年(昭和28)に出版された矢鱈縞の装丁が美しい木村荘八『東京今昔帖』(東峰書房)。上右は、1947年(昭和22)の1/10,000地形図にみる「和田堀小唄楽校」があった杉並区和田本町832番地界隈。は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同じく杉並区和田本町832番地界隈。
◆写真中下は、木村荘八が描く「田村の大しょさん」こと多村派家元の田村てる。は、1918年(大正7)に描かれた木村荘八『自画像』
◆写真下は、1952年(昭和27)制作の木村荘八『窓外風景』。は、「和田堀小唄楽校」があった杉並区和田本町832番地界隈の現状。

矢田津世子は「ボクちゃん」を許せない。

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二ノ坂近代建築.JPG
 下落合に住んだ矢田津世子Click!は、ほとんど他人の悪口や皮肉をいったり書いたりはしていないが、中には例外的な人物評が残っている。彼女としては、よほど腹にすえかねたのだろう。標的になったのは、まったく生活に心配がない岡山のボンボンで髪結いの亭主だった、タダイストの吉行エイスケClick!だ。
 1932年(昭和7)に発行された「新潮」2月号に、『吉行エイスケ氏』と題する皮肉たっぷりな人物評を載せている。矢田津世子は、吉行エイスケを乃手Click!のお城に住む「王子」様にたとえ、彼が下界に降りていってする仕事を「手すさび」だと辛辣に評している。冒頭から引用すると、こんな具合だ。
  
 山ノ手の、緑濃い樹々に覆はれた小高い丘の上に一ツのお城がありました。お城の中には、この世に稀な、貌(みめ)麗はしい王子が住んでゐました。王子のたつた一ツの愉しみは、窓に凭れて、眼下の街々を眺めることでした。/街には――沢山の窓を持つたビルデイング。白い舗道。その上を走る鉄砲玉のやうな自動車。色彩り彩りな家々の瓦……そして、夜は、華やかなネオンサインの明滅です。/王子は端正な趣味の持主でした。窓枠から躰を起して書斎へ戻ると、彼は、ライトデスクに向つてペンを走らせるのでした。(中略) けれど、王子は、ペンが走れば走る程、云ひやうのない或る不満をロマンの中に見出していくのでした。/「アア、僕の書くものは、全てプリンのやうに歯応へのないものばかりだ! それといふのも――」/そして、王子は、或夜秘かにお城を抜け出しました。
  
 王子様は、下界のいろいろなモノに興味を抱き、「進歩的な感覚」でちょっと手を出しては、すぐに次の新しいモノへと移っていく、めまぐるしい「冒険譚」として表現している。これを目にした吉行エイスケは憤慨したかもしれないが、彼を知る人々はニヤニヤ皮肉な笑いを浮かべ、うなづきながら読んでいたのかもしれない。
 常に沈着で穏和な矢田津世子が、なぜこれほど皮肉たっぷりな文章を書くまで腹を立てたのかは不明だが、どこかで出会って反りが合わなかったか、妻帯者なのに彼女を口説いたか、あるいはピントはずれな言質で彼女の仕事を侮蔑するかしたのかもしれない。
矢田津世子.jpg 矢田津世子と大谷藤子.jpg
 もうひとつ、矢田津世子が不快感を露わにしたエッセイが残っている。おしなべて、乃手の男が大人になってもつかう「ボク」だ。彼女は、子どもに「ボクちゃん」と呼びかける母親に嫌悪感をおぼえており、どうやらわたしと……というか江戸東京の町場と同じような感覚をしていたらしい。彼女は秋田出身であり、ふだんの飾らない親しい友人との会話では、自身のこと「オレ」と表現している。秋田方言で「オレ」は、「わたし」という意味であり、女性でも男性でもつかう1人称の代名詞だ。
 東京では、「オレ」は男の1人称代名詞であり、ほかに男では「わたし」「わたくし」「あたし」「自分」、古い地付きの年寄りでは「おらぁ」「おいら」etc.…などの表現があるが、「ボク」は基本的に子どもがつかう言葉(せいぜい高校生ぐらいまで)か、あるいはごく親しい友人や幼馴染み、同窓会などでつかう言葉で、わたしの育ちからいえば大のオトナの男が日常的につかっていると、「母親に甘やかされ放題で育った、野放図なわがままマザコン男か?」というような感覚で、かなり奇妙に聞こえる。
 ただし、関西圏では大人も「ボク」と表現するのが普通のようなので、これは中部(長野や静岡あたり)から東日本にかけての地域(東京では主に旧市街地の城下町Click!)にある感触なのかもしれない。「ボクはぁ~小さな子供が好きなんで~!」と記者会見でデスクをたたいて子どものように泣きじゃくる、薄らみっともない兵庫県議の姿は、関西圏より以上に、東日本では輪をかけて情けなく、ガキ同然のありえない異様な姿として映っている。ちなみに、この感覚は以前にも一度記事Click!に書いたことがある。
 余談だが先日、NHKが収録した曾宮一念のインタビューを見ていたら、ドンピシャで「あたし」「あたしゃ」といっているのが嬉しかった。いつか、オバカな「サエキくん」のエピソードClick!を書くとき、曾宮の1人称は「オレ」か「あたし」のどちらかで迷ったのだが、あの雰囲気と性格でもともと日本橋浜町出身の彼のことだから、きっと「あたし」「あたしゃ」にちがいないと想定したのだ。早くから乃手地域に住み、歳をとってからは静岡に住んでいた曾宮一念だけれど、インタビューでのしゃべり言葉は一聴して東京の(城)下町方言であり、それは死去するまで変わらなかったのだろう。
 矢田津世子は、乃手の“奥様”が子どもへ呼びかける「ボクちゃん」に、甘やかされて育つマザコン男の典型を見たようで、ムズムズして我慢ができなかったらしい。1937年(昭和12)3月7日に発行の「東京朝日新聞」に連載された、エッセイ『浅春随想』の1編「唐梅」から引用してみよう。
矢田津世子(目白会館にて).jpg
  
 「なあによ、ボクちやん」/肥つた母親はかう呼びかけながら、愛情の度がすぎた甘い顔で舐めるやうな風に子供をのぞきこんだ。/「ボクちやん」とは「僕ちやん」の意味であらう。なんといふ、子供を甘やかした呼びかただらう。私は厭な心もちがした。/初め、母親は箸で和菓子をひとつ取つて子供に与へた。瞬く間にそれを食べてしまふと、子供は、ちよつとの間私どもの方を窺つてゐたが、上眼づかひで偸み見ながら、自分から手を出してひとつ取り、そこらを飛び跳ねながら半分ほど食べたのこりを食卓へ投り出して、また、菓子鉢へ手を突つ込んだ。/「ボクちゃん、おなかを痛くしたらどうするの」/母親は、ちらと子供を振りかへつたゞけで、咎めようともしない。
  
 わたしの子どもが訪問客の前で、こんな行儀の悪いわきまえない行為をしたら、おそらく迷わずに頭を打っ(ぶっ)たたいているだろう。
 ちなみに、(城)下町でも「ボクちゃん」はつかうが、自分の子どもではなく「ボクちゃん、危ないからおやめ」というように、女性が名前を知らない男の子へ呼びかける場合がメインだ。男の場合は「ボクいくつ?」というように、やはり名前を知らない男の子へ呼びかけるときにつかうが、まず「ちゃん」付けはしない。また、自身の雇用主や目上の人の既知の子どもに対し、「ボッちゃん(坊ちゃん)」と呼びかけることはある。
 ちょっと横道へそれるが、最近、自分の妻を人に紹介するとき、「ボクの奥さんです」などという言葉を聞くのだけれど、ゾクッとむしずが走って吐き気がする。(まさか乃手方言の慣用句じゃないよね?) どこか、自分の子どもを「ボクちゃん」と呼ぶキザ(気障り)で嫌味なイヤらしさにも似て、ちょっと品のない東京町場の職人風言葉か、怒りっぽい岸田劉生Click!風にいえば……、「てめぇの女房を他人(ひと)に紹介すんとき、敬称つけてどーすんだよ。バッカじゃねえのか?」(失礼)と思うのだ。
 つづけて、矢田津世子の『浅春随想』から引用してみよう。
  
 帰りみち、老母も私も、すつかりふさぎこんで、無口になつてゐた。「ボクちやん」で甘やかされ放題に育てられたあの子供は、「ボクちやん」で成人になつていく。二十歳になつた時の、三十歳になつた時の、あの「ボクちやん」の、人を、世の中を甘く観ることに馴らされた頭脳を想像すると、怖ろしい気がする。/こんなことがあつてからといふもの、電車の中などで、この「ボクちやん」を耳にしたりすると、私は、ぞつとする。
  
三ノ坂近代建築.JPG
 このように、町場で「ボク」は基本的に子どもに(が)つかう1人称代名詞なのだが、おそらく山手に住んだ矢田津世子は、オトナの男がつかうのを聞いて薄気味悪く感じていたのではないか。秋田では、女性も自分のことを「オレ」というぐらいだから、大の男が「ボク」というのにきっと馴染めなかっただろう。ちなみに、秋田に限らず東北方言の多くは、女性の1人称代名詞は「オレ」だ。ただし、矢田津世子のようなタイプが「オレ」といったりすると、なんだか「宝塚」の男役を想像してしまうのだけれど。w

◆写真上:洋の応接間を備えた、大正末から昭和初期の典型的な和洋折衷住宅。矢田津世子邸のすぐ近く、二ノ坂に建っていた邸だが昨年解体された。
◆写真中上:大正末ごろの矢田津世子()と、大谷藤子とともに()。
◆写真中下第三文化村Click!の、目白会館文化アパートClick!で撮影された矢田津世子。
◆写真下:一ノ坂の矢田津世子邸から歩いて5分前後の、三ノ坂の中腹に建っていた近代建築の和館だが、やはり昨年に解体された。

第一文化村のアナーキスト詩人・秋山清。

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 アナーキストで詩人の秋山清は、下落合内を何度か転居したあと(当初は西武線の近くに住んでいたらしい)、下落合4丁目1379番地に住んでいた。この地番は、目白文化村Click!のうち第一文化村の中央にあたる位置だ。ちょうど、下落合(4丁目)1328番地に建っていた神谷邸Click!の、二間道路をはさんで西隣りにあたる家だ。ときに萩原恭次郎Click!が暮らしていたり、詩誌『弾道』を発行した弾道社として小野十三郎Click!も一時住んでいたことがあったらしい。あるいは、どちらかと同居していた重なる期間もあっただろうか。
 秋山清が借りていた第一文化村の住宅は、もちろん自宅ではなく借家で、もともとの所有者は北原安衛という社会局の事務官だった。邸宅の所有者が労働や福祉に関する国家公務員であり、労働争議に関する調停者あるいは労働問題研究家だったというのもどこかおかしいが、もし北原家が文化村の家をそのまま借家にして貸し出していたとすれば、秋山清や萩原恭次郎、小野十三郎たちの大家は北原安衛だったということになる。しかも、目白文化村の家に特高警察Click!が踏みこむなど、ちょっと隣り近所の住民たちには想定外の光景だったにちがいない。
 『詩戦行』に関わっていたころの秋山清は、母親とともに大久保町東大久保83番地に住んでいた。戸山ヶ原にあった陸軍戸山学校Click!の、大久保通りをはさんですぐ南側あたりだ。それが、下落合に転居するきっかけとなったのは、文芸雑誌『黒色戦線』(第1次)の編集へ関わりはじめた1929年(昭和4)の秋ごろからだった。
 『黒色戦線』の編集・発行所は、西武線の中井駅前から寺斉橋をわたってすぐの上落合689番地Click!にあった。この印刷所は、少し前に全日本無産者芸術連盟(ナップClick!)の機関誌『戦旗』Click!の編集・発行所と、まったく同一の地番だ。つまり、この印刷所には少し前まで『戦旗』を発行していた印刷機があり、1929年(昭和4)の春以降は同じ印刷機で『黒色戦線』が発行されていたことになる。あるいは、2誌を重ねて同時に印刷していたのだろう。
 西武電鉄が開通したばかりの下落合の様子を、1986年(昭和61)に筑摩書房から出版された秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』から引用してみよう。
  
 下落合に住んだのは一九二九年(昭和四)の秋からで、その頃はまだ高田馬場までの西武新宿線に近いところだった。そのはじめが『黒色戦線』の編集会議に出席した時で、以後国電の東中野駅と西武線の中井、新井薬師前駅を結ぶ地域のあちらこちらと移っての借家住居は、数えてみれば五十年以上に及ぶ。(中略) 今は東京都新宿区となっているが落合という地名は、上と下とに分れ、面白いことに下落合の方が上落合より土地が高く、国電の目白駅付近から西武電車の下落合、中井の二駅を過ぎるまで低い丘がつづき、下落合四丁目は中井駅から北に坂を登り、その当時はまだ物めずらしい土地会社が、その丘陵を拓いて住宅地としてそこを文化村と呼んだが、落合ではなく、上に目白を冠せて目白の文化村と呼んでいた。さすがに敷地をゆったりとって、建物は文化住宅の名で関東大震災の郊外に建ちはじめた安普請よりは、いくらか良く見えた。その丘のまん中付近に在った二間の小さい家を借り、以後この付近に右往左往する私の生活となった。
  
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 当時、秋山清は東京朝日新聞社のエレベーターボーイとして働いており、無政府活動を理由に同社をクビになるまで、秋山を訪ねて尺八を提げた辻潤Click!をはじめ、さまざまな人間が東京朝日新聞社を訪ねて交流している。それまで、同新聞社の守衛たちは秋山への訪問者を黙認していたが、1929年(昭和4)9月に秋山は守衛と警官にロックアウトを喰らっている。そのまま無理やり辞表に署名・捺印させられ、会社側が「せいいっぱい」用意したと称する600円の退職金とともに放り出された。
 文芸誌『黒色戦線』には、秋山や小野十三郎、萩原恭次郎をはじめ新居格、丹沢明、植田信夫、塩長五郎、森辰之介らアナーキズムの論客や、斎藤峻、金井新作、杉山市五郎らの詩人、高群逸枝Click!、上杉佐羅夫、八木秋子、正木久雄、飯田豊二といった、下落合にもゆかりのある小説家や文芸評論家が参加している。
 秋山清が参画していた『詩戦行』は、1927年(昭和2)6月には終刊となったが、そのあとに参加していたのが詩誌『矛盾』であり、それと対抗するように発行されていたのが、1928年(昭和3)6月の詩誌『黒旗は進む』だった。『戦旗は進む』の執筆陣には、萩原恭次郎や小野十三郎、高群逸枝、飯田豊二、土方定一らがいて、そのメンバーの多くが翌年からスタートする『黒色戦線』へ合流していることになる。つづけて、秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』から引用してみよう。
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 一九二九年(昭和四)の秋には所謂目白の文化村の真中というべきところに独りで住んでいた。そこが下落合四丁目一三七九番地、西武新宿線の中井駅から北へ上っていったあたりで、その年の初めから十二月いっぱい、中井駅に近い妙正寺川という川を渡るとすぐ『黒色戦線』の発行所があった。この雑誌は『戦旗』や『文芸戦線』がマルクス主義を背負って、文学の世界を揺りうごかしつつあった時期に、アナキズムの旗を立てたものとして記憶されるが、前に述べた、純正アナキズムとサンジカリズム派との対立のなかでは、一年の命しかなかった。その同人会を解散するときまって、外に出て、中井駅前の坂道を登って家にかえると暗い家かげから二人の男が出て来て、早稲田警察署に連れて行かれたが、二晩泊められただけで帰された。何を訊ねられてもはかばかしく運動の全体にわたって答えられることのなかった私の素人ぶりを認めたからだろう。
  
 文中、「早稲田警察署」とあるのは戸塚警察署にいる特高の誤りだが、数年後、同様に戸塚署の特高へ引っぱられた矢田津世子Click!は鞭で叩かれ、10日間にわたって留置場のコンクリート廊下の筵(むしろ)の上に正座させられ、同じ場所で寝かされつづけて身体を壊している。秋山清の「二晩」は、まだはるかにマシな時代の“待遇”だった。
 秋山清が第一文化村に住んでいたときから、庭で「生活手段のために山羊を飼育」していたようだ。当初は乳を搾るための1頭だったのかもしれないが、同じ落合町の葛ヶ谷(西落合)へ転居するころには、10数頭を数える“牧場”に近いものになっていった。上高田のバッケが原Click!に住むころは、自ら「山羊牧場」と称している。ここで思い出されるのが秋山邸の西側、斜向かいの隣家にあたる下落合(4丁目)1639番地あたりに住んでいた、元マヴォで「のらくろ」Click!漫画家の田河水泡Click!が、第一文化村の“中央テニスコート”跡の空き地付近で頻繁に「羊」を目撃していることだ。
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 これは、秋山清が同時期に自宅で飼っていた、ヤギ(山羊)のことを指しているのではないか。田河がヤギとヒツジの見分けがつかなかったとも思えないので、「山羊」と書くところ原稿に「羊」と書いてしまった可能性がある。秋山は、第一文化村時代からヤギを飼っていたとみられ、田河水泡が“中央テニスコート”跡の空き地で目撃しているのは、秋山が「放牧」がわりに原っぱへつないでおいたヤギではなかっただろうか。秋山清が飼っていたヤギについては、このあと多彩な物語が付随して「山羊たちをめぐる冒険」が繰り広げられるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:秋山清が借りて住んだ、下落合4丁目1379番地の閑静な第一文化村邸跡。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる秋山清邸。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる秋山邸。「二間の小さい家」と書いているが、とても小さな家には見えず、一部を借りていたか建て替えられているか、大家が庭に小さな借家を建てていた可能性がある。
◆写真中下は、晩年の秋山清()と早世した萩原恭次郎()。下左は、小野十三郎。下右は、1929年(昭和4)8月に発刊された『黒色戦線』8月号。
◆写真下は、大正期の神谷邸側から見た北原安衛邸(一時期は秋山清邸)が建設されるあたり。すでに北側に、東京美術学校教授の結城林蔵邸を建設中なのが見える。は、1925年(大正14)夏に撮影された第一文化村の二間道路Click!で、突き当たり神谷邸の裏側やや右手に北原安衛邸(秋山清邸)は建設されている。

下落合の町名変更に住民91.2%が反対。

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 やはり、当然というべきだろうか。下落合の西側を、「中落合」あるいは「中井」という町名に変更する動きが自治体で顕著になったとき、下落合の住民へアンケート調査が行われている。竹田助雄Click!が発行していた「落合新聞」Click!1965年(昭和40)6月9日号によれば、実に91.2%の住民が「反対」と回答している。「賛成」は、西武線・中井駅周辺のわずか3.5%にすぎなかった。また、同時に2,102名の反対署名が新宿区へ提出された。
 それでもなお、なぜ不可解な町名変更がなされてしまったのかを想像すると、乃手では明治以降に移り住んだ人々が多く、(城)下町Click!のように地名や町名に強烈な愛着やアイデンティティをもつ方が少なかったので強い反対運動が起きなかったからだろう……と、適当に想像していた。たとえば、中央区が佃島Click!の地名を「三角」か「住江」へ変えようとしたとき、激怒した佃島住民たちが中央区役所へ連日抗議に訪れ、あわや打(ぶ)ち壊し寸前の険悪な状況になった。また、神田の三崎町Click!の名称を変更しようとしたとき、やはり怒った住民たちが千代田区長宅を取り巻き、区長を出勤させずに「団交」状態へ持ちこんでいる。三崎町ケースが特異なのは、町内会が勝手に町名変更に賛成したのを住民たちが許さず、変更を阻止した点にある。のちに、町内会の責任が問われたのはいうまでもないだろう。
 それほど、住民のアイデンティティを形成する地名や町名が重要なことを、その地域や街の出身でもない無関係な人間がお手軽に変えることが、いかに“とんでもないこと”なのかを徹底的に思い知らせる必要があったからだ。下落合ケースの場合、乃手Click!の上品な住宅環境のせいか、そのような強い反対運動は起きにくかったのだろうとも想像していた。だが、前掲の「落合新聞」によれば、さまざまな反対運動が行われていた。
 ここの記事では、中落合や中井2丁目の街で、「下落合4丁目」の住所プレートを外さないお宅や、同地域に建つマンションにあえて「落合」地名と旧・下落合4丁目の地番を冠する名前をつけている事例などを、いくつかご紹介している。それほど、町名変更は現代にいたるまで、50年以上もくすぶりつづけている課題だ。このサイトをはじめて12年目になるけれど、いまだに「それほど広い地域ではないのに、ずいぶんいろいろな人たちが住んでたんですね」といわれることがある。もちろん、現在の「下落合」という住所のみを意識された誤解だ。いまの下落合エリアは、本来の下落合の3分の1ほどの面積しか残っていない。
 このサイトのスタート時にも書いたが、「下落合風景」Click!を描いた佐伯祐三Click!のアトリエが下落合にないのも、『落合山川記』を書いた林芙美子Click!の家が下落合にないのも、大正期における文化住宅街の嚆矢である目白文化村Click!が下落合にないのも、『雑記帳』Click!を発刊していた綜合工房Click!が下落合に存在しないのも、また第二文化村の「下落合教会」(下落合みどり幼稚園Click!)が下落合にないのも、不自然に感じなくなること自体がマズイことだと思う。資料に見られる1965年以前の「下落合」表記と、実際の地図とを見比べて首をかしげる人があとを絶たないのだ。
 それは、佃島が消滅して「三角〇丁目」になるのと同様に、地名や町名とともに地域にやどる歴史や物語を限りなく薄め、“否定”するのと同様だからだ。為政者や町名変更の推進者(たいがい地付きの人間でも地域の出身者でもない)は、行政の「効率化」のため、あるいは商店や企業による目先の経済効果のために、太古の昔ないしは数百年間もつづく地名や町名をやすやすと変更したがる。それによって、後世にこうむるであろう史的な、あるいは文化的な「損害」を“あとは野となれ山となれ”Click!で、まったく先読みもしなければ想像すらしないのだ。
落合新聞19620503.jpg
落合2189マンション.jpg
 さて、下落合の町名変更に関する反対運動を、その真っただ中で取材していた「落合新聞」同号から引用してみよう。ちなみに、竹田助雄自身も下落合4丁目にある自宅が、「中落合」などという得体の知れない地名になってしまうので、もちろん反対だったろう。
  
 報告義務怠る
 地元審議委員は地区の総意を按排して委員会に提出しなければならない。まして以前に六百名の署名陳情が出ているし、下落合、落合を主張した人も多い。したがって委員は、中井、中落合の新町名に決めるならば一応“むら”に帰って区域を明らかにして報告する義務があった。町名は住民全体のものなのだから、その義務を怠ったことは否定できない。また審議委員が住民感情をどの程度情勢把握していたか、という疑問も生じる。/先頃行われていたような新町名に対する賛否を問うアンケートをなぜ決定以前にしなかったか、地域住民が最も残念がっているのもこの点である。アンケートは決して時間のかかる作業ではないし、やれば大義明分(ママ)が立つというもの。
 焦った事務局/指導性に欠く
 (前略)町名を変更する時にはその町全体を対象にして総括的に話合う用意が必要であった。下落合一丁目から全部。アンケートによる九〇%以上の反対といい、二一〇二名もの反対署名といい、このような事態をまねいたことは、指導的立場にある事務当局に欠陥があったのではないか。西落合作業の遅れを取りもどすためとはいえ、いちばんむつかしい筈の下落合町名変更をいとも簡単に決めてかかっている。その事自体がすでにおかしい。また、地元審議委員の大半が住居表示に関する法律第三条、「…住民にその趣旨の周知徹底を図り、その理解と協力を得て行なうように努めなければならない。」のあることを知らずにいたことは、指導性の欠如といわねばなるまい。住居表示みたいに、七めんどくさい作業は、当局の教育如何によって左右されるのである。
  
 竹田助雄は、くだんの地元審議委員とは知己のせいか「欠陥があったのではないか」と柔らかめな表現にしているが、審議事項を地元へまったくフィードバックせず、下落合全地域の住民へ可否を問うこともせずに、そのまま唯々諾々と町名変更に従っている不勉強な担当者と事務当局そのものが、丸ごと存在意味のカケラもない欠陥組織だ。
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 その結果、どうなっただろうか? つづけて、「落合新聞」から引用してみよう。
  
 部長と課長が/ひたすら謝りに
 新宿区々民部長・渡辺八太郎氏および戸籍調査課長・荻野光忠氏は、中井、中落合反対陳情に対して、地元署名発起人代表上田篤次郎さん、北島寿子さん、渡辺栄子さんらと、下落合四丁目区第二出張所階上で、これまでの経過などを話合い、終って渡辺部長は議会で決定されたこの問題に頭をかかえ、ひたすらあやまり、「できればこのままに…」と詫びていた。
  
 「できればこのままに…」と、なし崩し的に50年がすぎたわけだけれど、まるで熾火のように、この課題は下落合西部でわだかまりとなってつづいているように見える。竹田助雄は、事務当局へも取材しているが、地元審議委員が無知で怠惰だからといわんばかりで、「その人達が責任を負うべきだ」と回答されたため、紙上でも怒りをあらわにしている。
  
 あいた口がふさがらないとはこのことだ。これが指導的立場にある事務局員ら(複数にする)の言葉かと思うとあきれかえる。反省の色は全く見えない。(中略) 当局員の名前までは勘弁しておくが、そのような不誠意で刺激的な答えしかできない態度だからこそ作業もろくにできないのだ。
  
 江戸東京の地名や町名の変更案件が、1960年代半ばに集中的に起きているのは、1962年(昭和37)に施行された「住居表示に関する法律」にもとづくからだ。東京オリンピックで来日する外国人に対し、「細々とした地名や住居表示が存在するのが、わかりにくいし恥ずかしいから」(地方行政委員会)というのが、その施行理由だったのをこちらの記事でもご紹介Click!している。だが、下落合ケースの場合は(城)下町ケースとは正反対に、せっかくまとまっていた「下落合」という地域名を細々と分割し、よりわかりにくい町名へと変更した特異な事例だ。
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 自国の歴史や文化が営々と宿る地名や町名を、外国人に対して「わかりにくいし恥ずかしい」と称して町名変更の理由としている、卑屈で自虐的で「植民地根性」的な行政担当者のアタマのほうが、よほど「日本人」として恥ずかしいと思うのだが、さて下落合ケースの町名変更では、どのような「事情」が変更理由とされたものだろうか。竹田助雄は、新宿区の事務当局の担当者とも顔見知りだったものか「名前だけは勘弁しておく」としているが、わたしは乃手人ほど優しくはないので、当時の様子や詳細が判明ししだい、さっそく具体的かつありのまま記事に書きたいと思っている。そういえば、深く考えもせずに変えてしまった町名を元にもどす、町名復活事業へじみちに取り組んでいる、石川県の城下町・金沢市のケーススタディClick!も、こちらでご紹介していた。

◆写真上:およそ90年ぶりに坂名が復活した、旧・下落合4丁目の蘭塔坂(二ノ坂)。
◆写真中上は、1962年(昭和37)に発刊された竹田助雄「落合新聞」創刊号。は、旧・下落合4丁目2189番地(現・中井2丁目)に建てられた集合住宅。
◆写真中下は、町名変更の不可解さを報じる1937年(昭和62)6月9日の「落合新聞」。竹田助雄の記事にはめずらしく、筆が怒っている。は、旧・下落合2丁目(現・中落合2丁目)の邸に残された住所プレートで、もちろん意識的に撤去されないのだろう。
◆写真下は、同様に町名変更の“没論理性”を報じる「落合新聞」。は、記事にはまったく関係ないがめずらしい角度の中谷邸Click!。北隣りの邸の建て替えで、おそらく50年ぶりぐらいにこの角度から見られる美しいスパニッシュ風の大正建築だ。

目白崖線沿いが震えたピストル強盗事件。

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 1929年(昭和4)1月19日の深夜、東京の城北部は警視庁が敷いた非常線だらけで、住宅街の各所を密行するふたり1組の私服刑事たちは緊張していた。すでに記事でご紹介した、「説教強盗」事件Click!の捜査が大詰めを迎えていたからだ。このとき、説教強盗が犯行を繰り返していた中心と目される目白駅の東約2kmと少し、目白崖線つづきのバッケClick!がつづく小日向台地で、もうひとつ別の大事件が持ちあがっていた。
 むしろ、小日向で起きた事件のほうが、警察官ふたりをピストルで殺傷しているので、説教強盗などよりもはるかに凶悪な強盗殺人事件だった。犯人は、まず小日向台町1丁目75番地の農学博士・新渡戸稲造Click!邸へ侵入し、1階で就寝していた萬里夫人の部屋を物色したがカネが見つからず、2階に寝ていた新渡戸稲造の枕元を物色中に見つかり、博士にピストルを突きつけて居直った。物音を不審に思った夫人が2階へ上がってくると、改めて夫妻に向かって「千円出せ」と要求したが、カネがなさそうなのを感じたのか、すぐに「五百円でもいい」と値を下げている。萬里夫人が財布の40円をわたすと、「まだあるだろう」と脅したが、1階から女中を呼んで確認したところ、ほんとうにカネのなさそうなのが判明し、犯人は夫人が差しだした40円を奪ってそのまま逃走した。
 つづけて同日の午前3時40分ごろ、隣家の戸田半平邸に侵入しようとしたところを、折りから説教強盗を警戒中だった大塚署の巡査2名に発見され、そのうちのひとり細川巡査に発砲して肩に重傷を負わせた。この時点で、侵入犯が説教強盗ではなく、ピストルを所持した別の凶悪犯であることが被弾をまぬがれた横山巡査にもわかり、付近を警邏中だった警官たちの応援を求めようと、犯人を追跡しながら非常警笛を吹き鳴らした。
 この警笛を聞きつけたのが、現場近くに自宅のある大塚署の寺崎巡査だった。彼は警棒を持って玄関を飛びだすと、警笛が聞こえる方角へ走った。だが、逃走する犯人の前へ立ちはだかるように鉢合わせをしてしまい、非番だった寺崎巡査はその場で射殺された。連絡を受けた警視庁では、総動員体制で小日向から江戸川橋、目白界隈に非常線を張りめぐらしたが、犯人の姿は忽然と消え失せてしまった。そして、夜が明けてしばらくたった同日午前9時に、一帯の非常線は解除された。
 同日午前11時すぎ、犯行現場近くの小日向水道町(宅地開発後の「久世山」住宅地)に新築中だった鬼(おに)邸の建設現場で、大工のひとりが天井裏の工事にかかろうと足場から奥の間をのぞいたところ、印半纏を着て痩せた青白い顔の男が隠れているのが見えた。てっきり、雨露をしのぐために入りこんだルンペンだと思い、追いだそうと声をかけたところ、いきなり鼻先へピストルを突きつけられた。大工は、とっさの判断で足場を飛び下りると近くの交番へ走った。
 その間に、犯人は小日向台地の崖沿いを逃げ、敷地が隣接する小日向水道町108番地の元首相・浜口雄幸邸(すでに浜口は死去)へ塀を乗りこえて侵入し、敷地をそのまま突っ切ると、さらに路地を隔てた隣りにある同番地の詩人・堀口大学Click!邸の庭垣の陰に腹ばいになって隠れていた。強盗の様子を目撃していた堀口大学の陳述調書を、1935年(昭和10)出版の『防犯科学全集/第四巻』(中央公論社)から、そのまま孫引きしてみよう。
  
 私ハ昭和四年一月十九日午前十一時二十分頃自分ノ書斎デ仕事ヲシテ居リマシタガ、表ノ方ガ大分騒シイノデ、其朝強盗騒ギガアリマシタ事トテ捕ヘラレルカドウカ致シタ事ト考ヘ東ノ方ノ窓ニ引イテアツタ白布ノ下部ヲ上ゲテ表ノ方ヲ見マシタ。/処ガ私ノ窓カラ二間半位ノ先ニ下テ石ヲ積ンデ其上ガ太イ木デ格子ニ成ツテ居ル塀ガアリ、其塀カラ三尺位ノ手前ニ南向ニ四ツ匍匐ニナツテ顔ヲ東ニ向ケ塀ノ隙カラ、外部ノ様子ヲ窺ツテ居タ男ガアリマシタノデ、キツキリ(ママ:テツキリ)強盗ト思ヒ、父ヤ女中ニ其旨ヲ告ゲマシタ。(中略) 私ガ東ノ窓カラ見マシタ時ハ其男ハガタガタ震ヘテ居リマシタ。/年齢ハ二十三歳位、丈ハ五尺ソコソコデ細ツテ居テ、体重ガ十二貫モアルカドウカ位デ、頬ハコケテ、色ハ蒼ク、頭髪ハ油気ノナイ、余程ノビテヰタモノデ、其模様カラ見テ、非常ニ窮迫シタ家庭ノ者ラシク、字ハ判リマセンガ、印半天ニ黒イ股引ヲハキ、尚腰ヲ何カデ締メテ居リマシタガ、腰ノ辺ガキチントシテ居リ、普通ノ紺足袋ヲ穿イテ居リマシタ。
  
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 堀口大学は、2階の窓から犯人を2~3分ほど観察していたので、人相風体をよくおぼえていた。書かれている印半纏は、目撃者が共通して指摘する着衣で、襟には「新宿合同運送株式会社」の文字が入っていたことが判明している。
 このあと、警戒の目をくぐって小日向水道町108番地の堀口邸の庭を脱出した犯人は、江戸川橋か目白台の方面へ逃走した様子なので、当時の目白崖線沿いの関口台、目白台、高田老松町、高田町、そして落合町地域の家々は、いつピストル強盗が飛びこんでくるか気が気ではなかっただろう。犯人の足取りをみると、目白崖線のグリーンベルト沿いに逃走しているのが透けて見える。つまり、市街地化が進み住宅が建てこんでいた江戸川橋から鶴巻町、早稲田方面へは逃げずに、崖地が多く緑が鬱蒼と繁っていた崖線沿いの丘上、あるいは斜面を西へ逃走した気配がうかがえる。
 この強盗殺人事件が起きたことで、高田地域(現・目白地域)や落合地域は震えあがっただろう。それでなくても、ここ数年間に説教強盗の被害を受けつづけていた両地域では、住宅地の警備強化が大きな課題として浮上したと思われる。下落合の住民による自治組織だった同志会Click!では、説教強盗が各地で頻発していた1927年(昭和2)、第19回総会で常設委員の中から9名も「警備係」を選出している。
 また、町内に夜警詰所を設置し、防犯・防火の警備を活発化させている。そして、ピストル強盗事件が発生した1929年(昭和4)には、同志会会員だけでなく他の住民からも夜警費を徴収することに決定した。同年当時の警備詰所は、諏訪谷Click!大六天Click!北側に設置されており、現在の消防団倉庫や集会場となっているところ、すなわち曾宮一念アトリエClick!の向かいにあった。1939年(昭和14)に出版された『同志会誌』(下落合同志会・編)から、1929年(昭和4)の秋に開かれた定例役員会の模様を引用してみよう。
  
 十一月六日 定例役員会
 十一月の例会を六日開催、夜警詰所を第六天(ママ:大六天)北地へ移転することに決した。尚夜警は十二月一日から三月末日までとした。
 十一月二十八日 役員会
 十二月例会を繰上げて十一月二十八日に開催、会員外から夜警費を徴収することゝとし、又警備員若干名を選定してホースを使用して消防に当らせることゝしたが、警備員として小日向健司、平澤峯次郎、佐久間兼吉、田中多吉、喜多川浅太郎、配島隆雄、小林松蔵、高橋力蔵、鈴木順吉、武笠徳太郎、島崎芳太郎の諸氏が選ばれた。
  
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 さて、犯人が所持していた拳銃は、ほどなく牛込区納戸町の商工省技師・山川元邸から盗まれた、米国S&W社製の5連発リボルバーで、実弾100発と空弾50発も持ち去られていることが判明した。この拳銃は、犯人が浜口雄幸邸の敷地を突っ切る際に棄てていったが、山川邸から盗まれた拳銃にはもう1挺、当時の陸軍が採用していた南部式8連発拳銃と実弾16発があることもわかった。したがって、ピストルを棄てて逃亡したにもかかわらず、いまだに拳銃1挺を所持する危険な犯人であることに変わりはなかった。
 犯人の目撃証言にあった、「新宿合同運送株式会社」の文字入り印半纏は有力な証拠と見られたが、印半纏の配布先があまりにも多く、また盗まれたものも少なくないので、まったく犯人の手がかりにはならなかった。盗みに入るときに用いたノミやヤットコ、キリ、出刃包丁などの遺留品は、市内の金物店がシラミつぶしに捜査され、それぞれ野方町、四谷伝馬町、中野町で販売していることがわかった。だが、これらの“商売道具”からも、犯人につながる有力な情報は得られない。犯行から2ヶ月がすぎても、警視庁では犯人の居住地域すら絞りこめず、新聞の見出しには早くも「迷宮入り」という活字が見られはじめていた。
 犯人逮捕の突破口となったのは、大工が夜仕事などで使うことが多い、遺留品のひとつ亜鉛板(ブリキ)製の安全燈(カンテラ)だった。市販されているカンテラとは異なり、特注らしい独特な形状をしていた。犯人が邸内へ侵入する際、ガラス戸や窓をカンテラで焼ききる手口が見られ、遺留品のカンテラが用いられたと推定された。燈火の周囲をすべてブリキで囲い、一方の細い穴から強い火力が出るような仕掛けに変造されている。素人にしては出来がいいので、専門のブリキ職人が製造したものと判断され、今度は市街地のブリキ職人が片っ端から捜査された。
 すると、犯人と思われる人相の男が特注のカンテラ製造を依頼し、断られているブリキ職が何店か見つかった。その店筋を時系列でたどると、どうやら犯人は中野駅周辺に居住しているらしいことがわかってきた。最後に立ち寄ったブリキ職は、中野区打越にある店舗だった。この店のブリキ職の目撃情報から、犯人の福田諭吉は1929年(昭和4)3月30日に、中野の自宅近くの路上でついに逮捕された。
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 中野区打越952番地の福田の自宅からは、山川邸で盗まれた南部式8連発拳銃と実弾や、盗品とみられる貴重品の山が発見された。同時に、女性の写真や恋文が数通発見されたけれど、いずれも犯人が女装した写真であり、またラブレターも彼が自分で書いたものであることが判明すると、この事件は凶悪犯が起こしたピストル強盗殺人事件から、変質者が起こした異常な強盗殺人事件として、再びマスコミの注目を集めることになる。

◆写真上:いまでも樹林がつづく、小日向崖線の濃いグリーンベルト。
◆写真中上上左は、1929年(昭和4)に警視庁の捜査本部が作成した現場見取図の一部。上右は、小日向水道町108番地に住み犯人を目撃した堀口大学。は、明治末の市街図に犯人の逃走経路(想定)を描き入れたもの。
◆写真中下は、小日向水道町108番地から江戸川橋・目白坂方面へと下る坂道。は、1935年(昭和10)に撮影された椿山の麓にある関口芭蕉庵。
◆写真下は、1935年(昭和10)撮影の江戸川橋。下左は、犯人が着ていた「新宿合同運送」の印半纏。下右は、犯人逮捕のきっかけとなった特注のカンテラ。

下落合を描いた画家たち・松下春雄。(2)

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 竹田助雄Click!「落合新聞」Click!(1962年5月3日~1967年10月26日/全50号)には、松下春雄Click!の作品が繰り返し取り上げられている。たとえば、1962年(昭和37)5月19日号には、松下春雄が1925年(大正14)に制作した『下落合文化村入口』Click!が紹介されている。松下春雄は、作品のタイトルで常に「下落合文化村」と表現しているが、これはもちろん目白文化村Click!のことで、同作は第一文化村の西端に建っていた箱根土地本社ビルClick!の庭(不動園Click!)から、ほぼ真北を向いて描いた風景画だ。
 『下落合文化村入口』Click!の記事が掲載されたのは、「落合新聞」が発行されていた当時、西落合1丁目303番地(旧・落合町葛ヶ谷306番地Click!)の松下春雄アトリエClick!で健在だった淑子夫人Click!が、「落合新聞」の編集部へ同作品を寄贈したためだ。同作は現在、新宿歴史博物館に収蔵されており、のちに竹田助雄から新宿区へ寄贈されたものだろう。わたしは、淑子夫人には残念ながらお逢いできなかったが、長女でご健在の彩子様Click!と、先年10月に亡くなられたご主人の山本和男様Click!からは、いろいろなお話を聞くことができた。
 『下落合文化村入口』が紹介された、同号の記事から引用してみよう。
  
 故・松下春雄と落合風景/下落合時代の遺品から
 このほど、西落合四ノ二二、松下淑(ママ)さん(61)から、何かのお役にたてばと、左の絵を頂戴した。/この絵は、大正から昭和初期にかけて華々しい活躍を示し、数々の逸品を残している、故松下春雄の下落合風景の一点で、描かれた絵の場所は、今は全くその面影を残していない。/絵は一九二五年(大正十四年)作、水彩画、画名は「下落合文化村入口」となっている。六八センチ×五〇センチ、場所に記憶のある方は、当時を思い浮かべることができるでしょう。/絵の中央に交番、ここには今、落合消防出張所の鉄塔の火の見やぐらが建つ。右の建物は煉瓦造りの箱根土地本社で、左の道は落一小学校に通ずる一方交通路。(松下春雄の略歴/中略) 下落合付近の風景画も多く、「落合風景」「下落合の雪」「文化村」「文化村の冬」のほかに「下落合男爵別邸」や「薔薇の園」などがある。/松下春雄は下落合三ノ一三八五番地時代から、晩年は西落合に移り、昭和八年十二月三十一日、三十一才で亡くなられた。
  
 この記事中には、いくつかの誤りが見られるので訂正しておきたい。松下春雄が下落合生活をスタートしたのは、1925年(大正14)に住んだ下落合1445番地の鎌田邸の下宿Click!が最初であり、下落合1385番地は淑子夫人と結婚して新婚生活を送るため、1928年(昭和3)の春に転居した第一文化村北側の借家Click!だ。
 また、『下落合文化村入口』に描かれた、箱根土地本社の敷地に沿って通う「左の道は落一小学校に通ずる一方交通路」ではなく、第一文化村を南南西へ向けて下る二間道路で、落一小学校へと通う道は交番の手前、見えにくいが画面を左右に横切っている二間道路だ。交番の左側に見えている立て看板と樹木は、1923年(大正12)に埋め立てられたばかりの前谷戸Click!の一部で、のちに長谷川邸が建設される敷地(下落合1340番地)だ。記事では同作の画角を、ちょうど東へ90度誤って解説されている。
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 「落合新聞」の取材を受けて、当時は松下春雄アトリエや鬼頭鍋三郎アトリエClick!から江古田方面へ500mほど、江原町2丁目29番地に住んでいた大澤海蔵Click!は、次のように語っている。
  
 はじめは、落合小学校の前に火の見やぐらがあって、天理教の建物があって、そのそばの小さな家に松下さんは二年ぐらいいた。/それから、箱根土地の入口の交番の近くに新しい家が建ったので移った。上が一間、下が一間で、私はそこで松下さんと一緒に暮らした。近くには、つい最近まで健在だった有岡一郎、これも亡くなられた橘作次郎、それから女子美術を出た人やそのほかに二、三人たむろしておった。毎日集まっていた。画描きばっかりなもんだから話が毎日はずんだ。/他に近くには、佐伯祐三Click!曽宮一念Click!、青柳優美、吉田博Click!がいた。丘をおりた処がぼたん園だった。箱根土地には金山平三さん、作家の吉屋信子さんもいた。/松下さんは水彩をやって非常に評判がよくて、それから油もやり出した。最も堅実な写実から入ったかただった。水彩が評判がよかったから、油も次から次に特選になった。
  
 天理教の建物そばの「小さな家」が、下落合1445番地の鎌田家下宿であり、文化村の交番近くの「新しい家」が、下落合1385番地の結婚したあとの借家だ。大澤海蔵は、松下春雄・淑子夫妻の新婚家庭へ居候していた“お邪魔虫”ということになる。w また、下落合1385番地近くで「女子美術出た人」とは、もちろん吉屋信子Click!がときおり立ち寄っていた、中出三也Click!と暮らす甲斐仁代Click!のことだろう。
 丘を下りたところの「ぼたん園」は、西坂の徳川邸Click!にあった「静観園」Click!のことであり、「箱根土地」と書かれている金山平三Click!吉屋信子Click!は、東京土地住宅Click!が開発したアビラ村(芸術村)Click!の誤りだ。大澤海蔵は、アビラ村も箱根土地が開発した目白文化村の延長だと勘ちがいしていたフシが見える。また、想像したとおり松下春雄と下落合800番地Click!に住んでいた有岡一郎とは親しい間がらで、連れだって西坂の徳川邸を描いていた様子がうかがえる。
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 さて、つづく「落合新聞」1962年(昭和37)6月25日号にも、松下春雄の作品『下落合男爵別邸』が紹介されている。(冒頭写真) ここの記事をお読みの方なら、すぐにどこを描いた画面かがおわかりだろう。西坂の徳川邸の庭、やや東寄りに造成されていたバラ園の入口を描いたものだ。これとそっくりな構図の作品である松下春雄の『徳川別邸内』(1926年)も、すでにこちらでご紹介していた。
 新たに見つけた『下落合男爵別邸』は、『徳川別邸内』に比べて視点がやや低いように感じるが、見えているモチーフはほぼ同じだ。手前には屋根の低い温室、正面にはバラ園への入口である、おそらくモッコウバラをはわせたアーチが描かれている。また、バラ園の向う側には諏訪谷Click!不動谷(西ノ谷)Click!をはさみ、対岸の崖地に建つ家や、斜面のコンクリート擁壁が見えている。異なっているのは、『徳川別邸内』ではバラのアーチの奥にふたりの少女がたたずんでいるのに対し、「落合新聞」に紹介されている『下落合男爵別邸』では、少女がバラのアーチの下で椅子に腰かけている。
 この作品が、現在どこに収蔵されているのかは不明だが、竹田助雄が撮影した当時は、西落合の松下家の壁に架けられていたのかもしれない。ぜひ、実物の画面を一度見てみたいものだ。西坂の徳川様によれば、当初の「静観園」(ボタン園)は邸の北側にあったが、その後、昭和初期の新邸建設にともない、『下落合男爵別邸』に描かれたバラ園の向う側、谷間に沿った東側の斜面へ移されている。つまり、松下春雄が『下落合男爵別邸』や『徳川別邸内』を描いた10数年ほどのち、このバラ園を通り抜けて東側の斜面を眺めると、一面のボタン園だった時代があった。
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 さて、1932年(昭和7)4月に松下春雄・淑子夫妻は、杉並町阿佐ヶ谷520番地から落合町葛ヶ谷306番地(のち西落合1丁目303番地)へアトリエを新築してもどってくるが、そのとき玄関先にモッコウバラのアーチをこしらえている。ひょっとすると、西坂の徳川邸でスケッチしたバラ園のアーチが、強く印象に残っていたからかもしれない。

◆写真上:「落合新聞」の1962年(昭和37)6月25日号に掲載の、1926年(大正15)に西坂・徳川邸で制作された松下春雄『下落合男爵別邸』。以前にこちらでご紹介している松下春雄『徳川別邸内』(1926年)のバリエーション作品だ。
◆写真中上は、1925年(大正14)に制作された松下春雄『下落合文化村入口』。は、1926年(大正25)に描かれた同『徳川別邸内』。
◆写真中下は、やはり徳川邸のバラ園を描いた1926年(大正15)制作の松下春雄『下落合徳川男爵別邸』。は、1925年(大正14)に制作された同『五月野茨を摘む』Click!で、奥に見えているのは第一文化村の水道タンク。
◆写真下は、松下邸に架けられていた松下春雄が描く長女・彩子様のスケッチ。は、玄関先にバラのアーチが設置された西落合の松下春雄アトリエ。


目白崖線に残るグリーンベルト。

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 当ブログへの訪問者が先日、1,200万人を超えました。落合地域とその周辺域の方たちに読んでいただくつもりが、ときに故郷の(城)下町Click!のことも書いているので、よろしければ江戸東京つづきの旧・市街地の方々にもお読みいただければ幸いです。もうすぐPVが東京の人口を超えそうですが、これからも拙サイトをよろしくお願いいたします。
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 少し前に、目白崖線の濃いグリーンベルト沿いを、犯人が中野方面へ逃走したとみられる、小日向で起きたピストル強盗事件Click!について書いた。昭和初期の目白崖線は、武蔵野の巨木が生い繁る森林が東西へ長くつづき、低い位置から丘を眺めると、それら大木によって実際の標高よりも高く見えていただろう。目白崖線でもっとも高い位置は、旧・下落合4丁目の大上(現・目白学園あたり)の標高38m弱にすぎない。
 わたしの学生時代でさえ、いまだに崖線の斜面には緑の帯がつづき、黄昏どきになると黒々とした帯状になって見えていた。その緑が急速に薄れてきたのが、濱田煕Click!も指摘しているように1980年代の後半あたりからだ。街中の“地上げ”ほど悪どくはないまでも、一戸建ての住宅を何軒かまとめてつぶして集合住宅を建てるか、あるいは広い一戸建ての敷地を不動産会社が取得して、建蔽率ギリギリのビルを建てるケースが増えた。当然のことだが、家々の庭に繁っていた樹木は、ほとんどが伐採されることになる。
 新宿区における緑の減少率で、落合地域が長年“トップの座”にいたのも記憶に新しい。1980年代後半から約20年間で、落合地域の緑は50%以上も消滅しただろうか。その様子は、空中写真を年代順に追って観察していくと歴然としている。特に、山手線に近い落合地域の東部よりも、目白文化村Click!から中井御霊社まで、落合西部における緑の減少が圧倒的に目立つ。昔見た、樹林の間に邸宅が建ち並んでいた目白文化村からアビラ村Click!にかけての街並みは、それらの樹木がほとんど伐採されて当時の面影がない。
 春日の西側から小日向、江戸川公園、椿山、新江戸川公園、目白台、学習院、下落合、西落合、和田山(井上哲学堂)Click!へとつづくグリーンベルトが、あちこちで分断されて連続性が薄れつつある。中野北部の上空から、南東を向いて撮影された斜めフカンの空中写真(2015年)を見ると、椿山から下落合にある薬王院の森までは、なんとかグリーンベルトと呼べるような緑の連続性が確認できるのだが、聖母坂Click!を境に緑地がプッツリと途切れてしまう。目白崖線沿いで、次にまとまった緑地が確認できるのはあけの星学園と林芙美子記念館、目白学園と中井御霊社で、その次が西落合公園と和田山(哲学堂)というように、飛びとびの“島嶼”状態になってしまうのだ。
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 これは、わたしが学生時代に歩いた下落合の風情とはまったく正反対で、むしろ下落合西部(現・中落合/中井2丁目)の住宅地のほうが、緑がよほど濃かった情景が目に浮かぶ。通常の感覚で考えても、主要な鉄道や駅、ターミナル、繁華街に近い住宅街ほど緑が急速に失われ、そこから遠いほど比較的豊かな緑が保全されるケースが圧倒的に多い。それは、東京の各地域で一般的に見られる傾向なのだが、下落合のケースは特異で、山手線や新宿・池袋などのターミナルに近い東部に緑が多く、本来は東部よりもよほど樹木が繁っていたはずの西部が、現在ではまとまった緑地を探すのさえ困難になっている。
 おそらく、戦前からつづく住宅の敷地が、東部に比べて西部のほうが相対的に広くゆったりとしていて(300坪を超える敷地はざらにあった)、また地付きの地主や住民なども多く住んでおり、ひとたび相続などの課題が発生すると、土地を細分化せざるをえなかったのではないかと思う。その際、手離していったのは濃い樹木が繁っていた庭や、斜面に拡がる緑地だったのだろう。そのような土地を開発するためには、樹林を根こそぎ伐採しなければ住宅敷地が確保できない。それが、1980年代から90年代にかけ、下落合の西部で連続して起きていた現象なのではないか。
 もちろん、下落合の東部でもそのような話は数多く聞くけれど、崖線沿いの斜面には地元の人たちが熱心に保存運動をつづけた御留山Click!(現・おとめ山公園)をはじめ、野鳥の森公園、違法建築を止めたタヌキの森Click!、そして薬王院や藤稲荷などの寺社の杜、区立学校……というように、グリーンベルトをなんとか失わずに確保できる好条件が生まれ、育っていたともいえる。それが30年後の今日、下落合の東部と西部で“逆転現象”が生じた理由だろうか。わたしはもう一度、緑に覆われた目白文化村やアビラ村を見てみたいが、おそらく二度とかなわない夢なのだろう。
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 先日、友人から明治末に作成された地形図をベースに、大正期に着色された目白崖線の地図をコピーしていただいた。小日向の崖線から、下落合の前谷戸(目白文化村)あたりまでの地形図なのだが、標高が高くなるほど茶色が濃くなる色分けがなされている。神田上水(現・神田川)あるいは妙正寺川の北側に連続している、濃淡茶色いエリアの南斜面には、戦前まで鬱蒼とした樹林が形成されていた緑地帯だ。わたしが初めて、下落合へ足を踏み入れた1970年代の半ばごろには、いまだ緑地帯の面影があちこちに残っていた。だが、いまやそれは旧・下落合の東部と、山手線をはさんだ学習院のキャンパスあたりまでに“縮小”している。
 緑が少なければ、周辺の気温は急激に上昇するし、二酸化炭素は減らず新たな酸素も生産されない。非常に(生物学的に)生きにくく暮らしにくい住環境へと変質していくのは、誰もが知っている自明のことなのだが、樹木を伐採してビルを建てる行為は止まらない。たとえ違法性が確定して、ビルの建設が止まったとしても、工事現場を廃墟にしたまま“あとは野となれ山となれ”Click!の無責任さで、工事前の原状へもどそうともしない。これは、もはや企業が実施するまともなプロジェクトの姿勢や、最低限の商売の信義さえわきまえない、地域や環境を破壊し収奪してはトンヅラしたまま去っていく、黒澤映画に登場しそうな山賊のたぐいで、もはや企業のビジネスにさえ値しない。
 さて、いただいた大正期に着色された地形図のコピーには、興味深い記載が見えている。現在の聖母坂が通う西側の谷、つまり青柳ヶ原Click!の西側にある谷の真上に、「不動谷」Click!の名称が採取されている。そして、目白文化村の第一文化村まで切れこんだ谷間の南には、「前谷戸」とおぼしき名称が記録されている。この明治期に作成された地図から読みとれることは、「不動谷」は谷間にふられた名称のままで、のちに谷のすぐ西側へふられる字名とは認知されていないようだが、「前谷戸」はすでに谷間から離れ、谷の南側に拡がる一帯の字名化が進んだ時期のもの……というように解釈できる。
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 江戸東京地方の地名表記(表現)では、その地域の地主や集落(本村など)から見て、谷戸のすぐ“前”にある土地は「谷戸前」と呼ばれるのが慣例であって、「前谷戸」とは呼ばない。「前谷戸」は、その地域の地主や集落から見て目の前にある谷戸、つまり谷間そのものを指す名称にちがいなく、わたしはそう解釈している。

◆写真上:下落合の畑地周辺に残る、昔ながらの常緑・落葉の雑木林。
◆写真中上は、下落合東部からさらに東に連なる目白崖線のグリーンベルト。は、いずれも御留山(おとめ山公園)へ切れこんだ谷戸。
◆写真中下:いずれも旧・下落合の空中写真で、旧・下落合中部()と西部()。は、旧・鈴木邸の敷地だった野鳥の森公園の脇を通るオバケ坂(バッケ坂)。
◆写真下は、1965年(昭和40)4月12日に大蔵省所有地になっていた御留山の緑地公園化を陳情する下落合住民たち。当時は蔵相だった目白台の田中角栄Click!(左端)邸で撮影されたもので、図面を覗きこむ右端の人物が「落合新聞」主幹の竹田助雄。は、明治末の地形図へ大正期に着色した標高図。は、同地図に記載された「不動谷」部分の拡大。

鷺宮の小泉清アトリエを拝見する。

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 洋画家の小泉清Click!早稲田中学校Click!時代に、英語教師だった会津八一Click!の自宅に下宿していた。小泉清の母・セツが、英語のできない息子を心配して会津にあずけたもので、彼は会津の家から早稲田中学へ通っている。
 小泉清は1912年(明治45)に入学し、留年も含めて1918年(大正7)に卒業しているから、この当時の会津は牛込区の下戸塚(現・早稲田界隈)、または小石川区の高田豊川町(現・目白台3丁目界隈)に秋艸堂Click!をかまえていたころだ。会津八一が下落合へ転居し、改めて秋艸堂Click!を名のるのは1922年(大正11)以降のことなので、小泉清は残念ながら下落合で暮らしたことはないはずだ。会津邸での指導は厳しく、学校の勉強が不得手な小泉は、会津八一から殴られたという伝承が残っている。
 1995年(平成7)に恒文社から出版されたワシオ・トシヒコ編著『画家・小泉清の肖像』に収録の、曾宮一念Click!「英語ができぬ八雲の三男坊」から引用してみよう。
  
 今の画家志望者は秀才型というが、私たちのころ、清もご同様で中学も優秀でなく、母親の心配で會津八一方に寄宿させているあいだに、この英人の息子は英語で落第して、會津に擲られたのは伝説とのみは思えない。折り目正しい青年に見えた清は、せっかくはいった美校を二年目にやめてしまった。在学中、彼の風景小品一点しか私は見ていないから、何をしていたのか。/もっとも、私も美術なるものは退屈つづきで、我慢できたのは月謝が安く、教室にストーブが焚いてあり、モデルもただで描けたからと思う。
  
 美校在学中に、音楽好きの学生たちが集まって楽器を演奏したのが「池袋シンフォニー」Click!であり、小泉清は母親や兄の反対を押しきってモデルと駆け落ちしたあと、しばらくは京都で映画館専属のオーケストラの仕事をしていたことは、前回の記事にも書いたとおりだ。母親が死去すると東京へもどり、その遺産を元手に鷺ノ宮駅前へビリヤード場とアトリエを建設している。
 小泉清のアトリエと、シズ夫人が経営していたビリヤード場が建っていた中野区鷺宮3丁目1197番地とは、ほんとうに鷺ノ宮駅を出た真ん前にあたる敷地だ。現在でも、鷺ノ宮駅の北側へと出る階段を下りた目の前、1階に通信キャリアの店舗が入っている茶色のマンションが小泉邸跡だ。小泉清がアトリエを建てた1934年(昭和9)の当時、鷺宮界隈には洋画家のアトリエがポツリポツリと散在していた。
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小泉清(学生時代).jpg ワシオ・トシヒコ「画家・小泉清の肖像」1995.jpg
 戦前戦後に住んでいたおもな画家たちを見ると、鷺ノ宮駅前から北へ中杉通りを直進し、新青梅街道を右に折れて左に少し入ると峰村リツ子のアトリエがあった。また、新青梅街道を左折しやがて右に少し入れば、三岸好太郎Click!が死去したのちに三岸節子Click!が建設した三岸アトリエClick!が建っていた。また、新青梅街道を曲がらずそのまま中村橋方向へ直進すると、渡辺貞一のアトリエや、吉岡憲Click!と親しかった松島正幸のアトリエがあった。三岸好太郎Click!が、藁葺き屋根の農家がよく見えるようにと設計したアトリエだが、1934年(昭和9)当時は周囲が田畑だらけの田園風景だったろう。
 小泉清は、このアトリエに籠りつづけながら、太平洋戦争がはじまっても、それとは無縁な作品の数々を産み出していく。彼のアトリエを訪問した詩人・高橋新吉Click!は、小泉邸の様子を次のように記憶している。同書に所収の「小泉清の死」から、詩人・高橋新吉の証言を引用してみよう。
  
 私が彼を知ったのは、戦後、里見勝蔵氏のところで、紹介されたのであった。鷺の宮に彼は住んでいたので、一緒の電車で帰ったこともある。彼の自宅を訪問したのは、「すずめ」という美術論集を、私が出すことになって、二、三回行ったが、健康そうな奥さんが、いつも留守居していた。/彼は私の家へも、一、二度来たことがあるが、娘が結婚してアメリカへ行っている話や、長男と別居していることなど語った。彼は日本酒が、好きのようで、上高田に安い酒場があるというので、一緒に行ったことがある。
  
 小泉清が下落合のすぐ西隣り、「上高田の安い酒場」を知っていたのは、曾宮一念つながりで上高田421番地の耳野卯三郎Click!アトリエを訪ねている可能性がある。
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早稲田をめぐる画家たちの物語2012.jpg 小泉清「向日葵」1944.jpg
 早稲田中学の恩師だった会津八一と、小泉清は戦後まで手紙のやり取りをつづけている。会津は、小泉が描く作品を中学時代からずいぶん気に入っていたらしく、美術部委員をしていた彼の作品をもらいうけ、秋艸堂の壁面に飾っていた。おそらく、下落合の霞坂秋艸堂Click!にも架けられていたと思われるので、目白文化村Click!の第一文化村に転居したあと、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲時に、文化村秋艸堂Click!で灰になっている可能性が高い。
 1947年(昭和22)の秋、小泉清は銀座のシバタギャラリーで初めての個展を開くが、その案内状に会津八一が推薦文を寄せている。同書より、会津八一「小泉清君を推薦する」から引用してみよう。
  
 いまから三、四十年も前、私が早稲田中学の教師をしていたころ、生徒の絵の展覧会に一枚の絵を見て、まだ一年生であったその作者に懇望して、もらい受けて自分の下宿に懸けていたことがある。それが清君を知った最初であるが、その頃から清君は、おちついた、考えぶかそうな、自信ありげな、その年配としては珍しい少年であった。/のちにこの少年を上野の美術学校へ入れるということになって、しばらく私の内へ清君を引き取って半年あまりもいっしょに暮らしたこともある。/それから私の身の上も清君の方もいろいろに変わってきたが、身の上がどう変わっても、清君は、いつも澄みわたった気持で、自分の芸術を見つめながら、大切にしてきているのは変わらぬらしい。
  
 めったに人を褒めない、美術にはうるさい傲岸不遜の会津八一がこれだけ褒めるのだから、彼は早くも中学生の小泉清の才能に感嘆し、画家の素質を見抜いていたのだろう。
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 1951年(昭和26)ごろ、新宿中村屋Click!のレストラン部の壁には小泉清の作品が架けられていた。どのような作品だったのかは不明だが、たまたま東京にいて中村屋を訪れた会津八一は、絵を買い取ろうとさっそく財布を取りだした。だが、残念なことに懐具合がさびしかった会津は、あきらめて新潟に引き上げている。

◆写真上:小泉清のアトリエが建っていた、マンション裏の自転車置き場あたり。
◆写真中上は、1936年(昭和11/)と1949年(昭和54/)の右空中写真にみる小泉清邸。大きな建物はビリヤード場で、背後(北側)に母家とアトリエが建っていた。下左は、学生時代の小泉清。下右は、1995年(平成7)出版のワシオ・トシヒコ編著『画家・小泉清の肖像』(恒文社)。
◆写真中下は、かつてビリヤード場が開店していた小泉邸跡のマンション。は、東側の空き地から眺めた小泉邸で左から右へビリヤード場店舗・母家・小泉清アトリエ。下左は、小泉清の人間関係が詳しく紹介されている2012年(平成24)出版の『早稲田をめぐる画家たちの物語』(早稲田大学會津八一記念博物館)。下右は、1944年(昭和19)制作の小泉清『向日葵』。
◆写真下は、鷺宮の小泉清アトリエ内部。中央右寄りの床面には、『猫』のキャンバスが見える。は、1945年(昭和20)に描かれた小泉清『猫』。

秋山清のヤギ牧場と裕福な「乞食村」。

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 アナーキスト詩人である秋山清Click!は、下落合4丁目1379番地の目白文化村Click!から葛ヶ谷(現・西落合)、さらにバッケが原Click!に面した中野区上高田2丁目300番地あたりへと転居するうちに、飼育していたヤギの頭数を増やしていったようだ。上高田のヤギ牧場が、いちばん規模も大きかったらしく、ちょうど東側にある万昌院功運寺Click!の墓地と西側の工場とにはさまれたあたり、1932年(昭和7)に耕地整理組合Click!が設立され農地をつぶして宅地にする耕地整理中だった、バッケが原の最南端に位置するエリアだ。
 秋山清がヤギを飼いはじめ、ついにはヤギ牧場を経営するようになったのは、新聞社のエレベーターボーイをクビになり、ヤギの乳を搾り出荷して、少しでも生計の足しにしようと思ったからだ。彼には、養わなければならない母親が同居していた。上高田にあったヤギ牧場での暮らしを、1986年に筑摩書房から出版された秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』から引用してみよう。
  
 その頃親しみを持っていた乞食村の人々のことを、ここで少し語ってみよう。(中略) 上落合の火葬場に近い、北向きの崖の中途に彼らの集団があった。/私が山羊と共に住んでいたのは、東洋ファイバーKKという堅紙工場と墓地との間の五百坪程の空地、そこを所有しているのは万昌院という寺で、吉良上野介や大岡越前などの墓があり、(中略) 友だちが遊びに来ると、よく垣根を越えてそこに案内したものだった。その墓地の向うで、北側が急な崖になっているあたり、小径の両側に沿って小さい家が十六、七軒あった。(中略) ここの人々は落合の火葬場の乞食権(そんな言葉があるかないか)を自分たちのモノにして、そこの入口の左右に女や子どもが毎日並んで、出る人、入る人に、例の「戴かせてやって下さいまーし」と連呼していた。私など多少の顔見知りが通っても、まるで見知らぬ人のようにしていた。これもついでに言って置けば、有楽町や当時はまだ在った数寄屋橋の袂や銀座通のデパートの松屋の前にも彼らは出ばっていたが、目が合ったとてけっして知っている人らしくは振舞わなかった。さすがという他はない。集落の下まで松葉杖をついてヨタヨタ来た男が、崖のすぐ下から、いきなりそれを肩にかついでさっと上って行くことなどにも、いつの間にか驚かなくなった。つづめていえば、仲よしになったということであろう。
  
 秋山清は、急速に「乞食村」の人々と親しくなり、集落の中央に設置された風呂小屋の、一番風呂を奨められるまでになっている。
 この「乞食村」については、中野区に詳細な聞き取り調査の民俗資料が残されている。上高田の住民たちは、「乞食村」を怖がって近づかず、夜警などもこのエリアを避けてまわっていたようなのだが、秋山清はアナーキズムという思想と飾らぬ性格からか、またヤギ牧場を経営していたせいで「乞食村」の子どもたちとも親しくなったせいか、このコミュニティでは“優遇”されていたらしい。
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 また、「乞食村」の内情を知るにつれ、自分よりもかなり裕福な暮らしをしているのもわかってきた。当時の一般家庭では、米は1~2等米を食べるのが普通だったが、米屋のご用聞きは「乞食村」へは特等米をとどけないと怒られた。肉屋での買い物も最上級の牛肉を買い、村じゅうですき焼きをたべることも多かったらしい。中野区の民俗資料で、1998年(平成10)に出版された口承文芸調査報告書『続中野の昔話・伝説・世間話』(中野区教育委員会)から引用してみよう。
  
 あたしら、もう貧農だったもんですから、ほんで、あたしら、「たまには肉のおかずしようか」って、こま切れ買いに行くの、肉屋に。/そんと、おこもさんはね、「いちばんいい肉くれ」と。ねっ。乞食の親分に言われて、その下っぱが。こうも違うもんかなあと。(中略) まあ、乞食が多かったっていうのは、ほら、あすこにあのぅ、火葬場があったでしょう。そいでお薬師さんの縁日、そこで、二つの稼ぎ場所があるわけですよ。/お葬式があるでしょう。そうすると乞食がみんな並んで、そこでまあ、故人の仏様の冥福のために、お金をやるんですよ。そのもらいと、毎月八日と十二日のお薬師様の縁日、これはもう大変なもんだったでしたねえ。そこへみんな稼ぎに行って、それで、頭(かしら)がいるわけですよ。親分、大親分がね。/親分は足が悪くって動けないから小っちゃな家へ入って座ってて、それで犬が脇にいてね、夕方んなるともう、必ずすきやきなんですよ。好きなんです。その匂いがまた、すばらしい。食べたことないようないい匂いがするんです。
  
 上高田ではクヌギ山と呼ばれていた、崖地に沿って建っていた「乞食村」の村長格、足が不自由で箱車に乗り、2匹のイヌに引かせて移動する親分は、桃園郵便局に「乞食村」の預金口座を開設しており、その日の上がりを郵便局では箱車から“下りて”、毎日フロアの椅子で窓口の記帳を待っていた。
 「乞食村」では、よそ者が入るのを極端に警戒していたようなのだが、村民から「乳屋の兄さん」といわれて親しまれた秋山清は、このエリアのどこへ入ってもフリーパスだったらしい。ときには、生産したヤギの乳を分けてあげていたのだろう。
 新宿区側にも、「乞食村」の様子が民俗資料として記録されている。1994年(平成6)に出版された『新宿区の民俗(4)落合地区篇』(新宿歴史博物館)所収の、福田アジオ「都市化の葬墓制の変化」から引用してみよう。
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 現在の老人方の記憶に残る火葬場の印象は乞食がその周辺に多数住んでいたという点である。火葬場近辺には人家はなく、裏手は森となっていた。乞食が小屋掛けして多く住んでいたのは、その一角であった。乞食はオモライサンとかオコモサンと呼ばれていた。昼間は火葬場の横に並んで座っており、火葬に来た人々が出す食物などを貰っていた。また、火葬場に近い落合の各家での葬儀に際して祭壇に供えた食物も風呂敷に包んで持参して乞食に与えたという。/ここに住む乞食の人々は常時火葬場近辺にいるのではなく、新宿方面に出かけていた。一定の秩序があり、オヤブンもいたという。記憶されている親分は犬二匹に引っ張らせて新宿の伊勢丹横まで毎日出かけていたという。/乞食が大勢いたのは戦時中までで、戦争末期には食糧不足となり、乞食に与えることもできなくなって、姿を消した。/落合の住民から見た乞食像は、定住生活者の漂泊移動の民に対する認識、観念を示すものであり、重要な意味をもつものであろう。
  
 「火葬場近辺に人家はなく」と書いているが、北西側には牧成社牧場Click!と、牧場を囲むように住宅が建っていたはずだし、「乞食村」に隣接したところにはヤギ牧場と、秋山の自宅が建っていたはずだ。それとも、彼のヤギ牧場も「乞食村」の一部と、周囲からは見られていたのだろうか。w
 秋山清は、自身で若書きの「下手な詩」としているが、1936年(昭和11)に「乞食村」についての『早春』と題する作品を残している。
 門の両側にすわって
 年よった女 膝から下のない男 子供。
 みんな汚れてくろい顔だ。
 あごひげを垂らしたのもいる。
 雨が南風にあおられてパラパラ落ち
 煙突から煙が突きおとされるように散っている。
 電気ガマのモーターがごうごうと渦巻く。
 門のなかは玉砂利の広場に自動車が充満し
 控所は紋つきの女やフロックや羽織袴や。
 東京市淀橋区上落合二丁目落合火葬場。
 出入する自動車目がけて
 彼らはうたうように呼びかける。
 ――供養にいただかせてやって下さいまーし。
 自動車が通りすぎると、私語し、ほがらかにわらい
 口汚く子どもをののしり
 菓子をほおばる。
 型のごとき蓬頭襤褸のなかに
 炯々とひかる目をもち
 たくましく健康でさえある。
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 上落合や上高田の住民たちは、両地域やその周辺域、せいぜい新宿あたりまで足をのばして、「乞食村」の人々は稼いでいたと思っていたようだが、遠く銀座や有楽町、数寄屋橋まで“出張”し、東京のメインとなる繁華街を大きな収入源としていた事実を知らなかったようだ。また、「食物などを貰」っているのはごく一部の稼ぎであり、その多くが現金収入であったことも知らなかったのだろう。秋山清のレポートのように、やはり“現場”へ出向いて溶けこみ、実際に当事者たちからの聞き取り調査=フィールドワークwwをしないと、実態を大きく見誤ることになる典型的な事例だと思われる。

◆写真上:500坪もあった秋山清のヤギ牧場では、ヤギが放し飼いにされていただろう。
◆写真中上は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる万昌院功運寺とヤギ牧場の界隈。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地域。
◆写真中下:万昌院功運寺の本堂()と、北側にある同寺の墓地()。
◆写真下は、万昌院功運寺墓地の崖近くにある吉良上野介義央Click!と家臣たちの墓所。は、バッケが原から見上げたヤギ牧場跡の現状で右手に見える丘上が功運寺墓地。

チャコちゃんが池袋にやってくるまで。

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 先週末から今週にかけ、1日で110,000PVという日があった。これまで、12,000PV超えという日はときどきあったが、こんなにアクセスが集中(通常の20倍)して混雑するのは初めてだ。どこかで紹介されてPVが激増したものか、それとも新手のリファラスパムか、連日50,000PV超えはちょっと気味が悪い。Android端末でYahoo! JAPAN経由が多いようなので、タブレットあるいはスマホのデバイスからの大量アクセスだろうか。
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 東京藝大の門前に近い浅尾沸雲堂Click!浅尾丁策(金四郎)Click!は、敗戦直後から豊島区長崎へ頻繁に足を運んでいる。東京市街地が空襲で焼け野原になってしまい、それまで仕入れていた国産絵の具メーカーの工場がほとんど全滅してしまったため、ほぼ市内で唯一焼け残った長崎のクサカベ絵の具工場へ、油絵の具を仕入れに出かけていた。
 1928年(昭和3)に創業した絵の具メーカーのクサカベは、いまでも埼玉県朝霞市で健在だが、長崎の製造所は家族総出による家内制手工業の典型的な工場だったらしい。クサカベの本社は神田小川町にあったはずだが、たび重なる空襲でとうに焼けていただろう。創業者の日下部信一は敗戦直前に死去し、二代目が引き継いで長崎の工場で油絵具を生産していた。当時の様子を、1996年(平成8)に芸術新聞社から出版された浅尾丁策『昭和の若き芸術家たち-続金四郎三代記[戦後編]』より引用してみよう。
  
 絵の具メーカーはほとんど戦災に遭い焼失したがクサカベ絵の具の長崎町の工場は幸運にも難をのがれた。そして製造再開の知らせがあったので早速行ってみた。/創始者の日下部信一さんは終戦間際に亡くなり、息子の松助君は二十代前半位で坊主頭のまだ学生気分の抜け切れない青年であった。松助君とヤブさんと呼ばれていた中年の人が絵の具練り仕事やチューブ充填等をやり、お母さんと女中さんが、チューブにレッテルを張ったり箱詰めを忙しそうにやっていた。外歩きは従兄の早川さんが一生懸命に働いていた、というような本当の家内工業であった。連日三十二、三度の猛暑つづきの一日であったので、松助君は氷を飲みに行こうと言って、すぐ近所の店へ連れていかれた。
  
 このクサカベ絵の具の長崎工場が、どのあたりに建っていたのかは不明だが、戦後間もない時期に操業を再開しているので、空襲の被害をほとんど受けなかった千早町あたりか、西落合寄り(南長崎)のほうではないかと想定している。
 このとき、日下部松助に連れられて浅尾丁策が入った氷屋は、きれいな姉妹が切り盛りをしていた。この姉妹の兄は、のちにクサカベ絵の具の営業部に入り営業部長をつとめたあと、独立して美術ジャーナル画廊を起ち上げる羽生道昌だった。
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 さて、浅尾丁策は西落合や長崎地域にアトリエをもつ画家たちへも、敗戦直後から画材をとどけたり制作を見学したりしているが、もうひとつ池袋駅でよく下車する理由があった。それは、敗戦と同時にニーズが急増した絵画モデルを、東京藝大や画家のアトリエへ派遣するために、宮崎モデル紹介所Click!のビジネスにならい浅尾沸雲堂に隣接してモデル紹介所(プール・ヴーモデル紹介所)を設立したが、その事務所のディレクターをしていた元モデルの北村久子が、昼間の仕事を終えたあと、夜は池袋駅前に酒場「炎」を開店していたからだ。
 北村久子は結婚前、岡田三郎助Click!や平岡権八郎、田辺至などに気に入られて“専属モデル”をしていたが、どうやら酒を飲むと性格が一変するらしく、誰彼となくケンカをふっかけては取っ組みあいになったらしい。下町言葉Click!を流ちょうにしゃべる、もともと東京出身の女性だったらしいが、酒席で気に入らない人間がいるとケンカを売り、柔道初段の心得があった“チャコちゃん”から、ひどいめに遭わされた画家もいたようだ。北村久子の性格を知る人々は、まったく根に持たない、明日になればすべてを忘れるサッパリした気性なのを知っていたが、その酒癖が災いしてほどなく離婚されたらしい。
 酒場「炎」は、池袋西口の空襲で焼けた豊島師範学校Click!(現・東京芸術劇場界隈)跡の空き地に建ったバラックだが、原っぱや水たまりが拡がる焼け跡には、やき鳥屋やおでん屋、飲み屋が10軒ほど固まって営業していた。酒場「炎」のバラックは、ちょうどその真ん中あたりに建っていたらしい。「炎」の後援会の会長になったのは浅尾丁策で、池袋や長崎、目白、落合の各地域に住む若い画家たちへ、開店の通知をガリ版で刷っていっせいに配布している。その全文を、以下に引用してみよう。
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 MADAM CHAKO後援の会
  CHAKOは江戸ッ子
  竹を割ったような はげしさの
  裏をかえせば、とてもとても淋しがりや
  面倒くさい特定の一人を守るより
  大勢に愛されたい、と願う
  本当に女らしくない 女性です
  若いころの彼女を知ってゐる皆さん
  素晴らしかったでネ
  良かれ悪しかれ、誰もが、そのイメージを
  大なり、小なり、心のどこかに
  持ってゐない方は 無いでしょう
  大勢に愛されたい、彼女の生き甲斐は
  どこかに酒場らしい酒場を持ちたいと
  訴えてゐます
  皆のイメージをサインにかえて
  後援者の一人になってやってください
  そして命ある限り
  アルコールと共に
  楽しく明るく 永らえましょう
             発起人 浅尾丁策
  
 開店してみると、酒場「炎」は池袋西口で大当たりをした。もともと画家たちの間で、彼女の人気が絶大だったのだろう。周辺に住む画家たちや美術関係者らが押しかけ、連日満員の盛況だったようだ。「炎」の常連客には、大河内信敬や南正善、藤本東一良、柳瀬俊雄、金子徳衛、榑松正利、鈴木栄二郎、笹鹿彪、原精一、寺田政明Click!、木内岬、川瀬孝二、大橋純らがいた。豊島師範学校跡地の原っぱ飲み屋街でも、酒場「炎」はひときわ繁盛している店となった。
 「炎」のメニューには、画家にはおなじみの「カルバドス」があったけれど、敗戦直後の物資のない時代に、本物のカルバドスが手に入るわけがない。リンゴ酒のカルバドスは、銀座にあったカフェ「プランタン」の松山省三が、大正期にフランスから輸入していた酒だが、画家たちの間で特に人気の高かった安いリキュールだ。「炎」の和製カルバドスは、焼酎を水で割りライムジュースを加えて香りをつけたもので、実際のカルバドスとは似ても似つかない風味だったが、ほかの酒類をおさえて圧倒的な人気だったらしい。1杯50銭で飲ませたらしいが、毎日売り切れるほどだった。
 北村久子は姐御肌で、若いモデルたちにも人気があったらしく、店の仕事を手伝いに樋田真代や中村豊子、大畑せい子、高野桂子、大島節子、北村啓子といった、当時は名の知られたモデルたちも大勢集まっていた。
 酒場「炎」は、地元の画家たちも印象に残ったのか記録している。二科の桑原実が書いた随筆、「“炎”という店」から引用してみよう。
  
 旧豊島師範の校舎跡が、附属小学校との間に一本の道路を残して全て闇市となったが、その道路に一番近いところに、師範の書庫が鉄筋建てだったので焼けのこり、そのまま簡易診療所か何かに改装されていた。それに添って上原組のバラックが並んでいたのだが、そこの一隅に“炎”という店が開店した、上野プールブ(浅尾仏霊堂経営のモデル屋)のモデルさんが経営していて、夜になるとモデル嬢が交代でホステスをつとめていた。名前のように、毎夜、画家が集り炎のような熱気を発散していたものである。
  
 藝大門前の浅野佛雲堂のことを、「浅野仏霊堂」とはあんまりな書きようだろう。まるで、葬儀屋か仏具店がモデル事務所を開いていたようだ。w
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 酒場「炎」で真っ先に酔っぱらってしまうのは北村久子だったが、機嫌が悪いと気に入らない画家へケンカを売った。さんざん大ゲンカして別れたのに、翌日になるとケンカ相手の画家は平然とやってきてはカルバドスを注文し、チャコちゃんも前日のことなどケロッと忘れてもてなしていたというから、彼女はよほどの“人格者”か“健忘症”のサッパリした性格で、周囲からモテたのだろう。戦後もしばらくすると、豊島師範学校の跡地は再開発されることになり、酒場「炎」は閉店を余儀なくされている。

◆写真上:原っぱに北村久子の酒場「炎」が開店して和製カルバドスが人気だった、池袋西口の東京府立豊島師範学校の跡地(現・東京芸術劇場)の界隈。
◆写真中上上左は、クサカベ絵の具の創立者・日下部信一。上右は、敗戦でほとんどの絵の具メーカーが壊滅した中で生産をつづけたクサカベ絵の具。下左は、1996年(平成8)に芸術新聞社から出版された浅尾丁策『昭和の若き芸術家たち-続金四郎三代記[戦後編]』。下右は、1980年(昭和55)の「林武の会」における浅尾丁策。
◆写真中下は、1937年(昭和12)ごろ撮影の豊島師範通り。中左は、通りの突き当たりにあった東京府立豊島師範学校の本館。中右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる豊島師範学校の焼け跡。原っぱのどこかに、北村久子の酒場「炎」があるはずだ。は、消滅した豊島師範学校通りの駅前起点あたりの現状。画面の左方向に見えた豊島師範へ向け、斜めに通りがつづいていたが現在はすべてが消滅している。
◆写真下は、1950年(昭和25)に東京藝術大学のおそらく「大浦食堂」で開かれた画家たちのパーティ。中央にいる女性が“チャコちゃん”こと北村久子で、その左横に立っているのが浅尾丁策。は、現在の東京藝術大学のキャンパス。

神田川で泳げる日はいつごろか?

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 明治時代に、神田上水Click!(現・神田川)で釣りをしていて捕まった男の記録が残っている。1876年(明治9)7月11日の新聞記事なので、おそらく前日の出来事だろう。関口台町で釣りをしていた男が、水道番に現行犯で検挙され罰金刑に処せられている。おそらく大洗堰Click!の上流か、あるいは大洗堰手前から分岐した小日向までつづく開渠Click!で釣りをしていて見つかったのだろう。また、1877年(明治10)7月2日には、上流の中野村を流れる神田上水で泳いでいた子どもがふたり捕まり、同じく罰金を払わされている。これらは一例にすぎず、当時は神田上水流域のあちこちで同様の事件が発生していたのだろう。
 1899年(明治32)に淀橋浄水場Click!が竣工し、2年後の1901年(明治34)まで神田上水は東京市街地へ水道管Click!で生活水を供給する上水道として使われており、江戸期の御留川Click!のままだったのだ。だから、神田上水でゴミを棄てたり釣りをすることはもちろん、水泳も全面的に禁止されていたのは江戸期とまったく変わらなかった。流域のあちこちにあった水道番屋(警備所)が、明治期にもそのまま機能していた様子がうかがえる。
 旧・神田上水沿いや、大洗堰(現・大滝橋あたり)から下流の江戸川Click!沿いに住んだ人々の証言を掘り起こしていると、明治末から昭和初期にかけて、水泳を含む川遊びが盛んだったことがわかる。子どもたちは、流れがよどんで少し深くなった淵で泳ぎを楽しみ、大人たちは川に舟を浮かべては花見や夕涼み、月見Click!、雪見、ホタル狩りClick!をしたり、アユやフナ、タナゴ、コイ、ヨシノボリ、ウナギなど釣っては楽しんでいた。
 1993年(平成5)8月から1994年(平成6)5月にかけ、朝日新聞東京版にはルポ「神田川」が120回にわたって連載されている。当時は、1970年代から80年代にかけて汚染のピークだった神田川(旧・神田上水と江戸川を1966年に名称統一)の状況を引きずっており、神田川の水質は現状からは想像できないほど、いまだにひどい状態だった。川に近づくだけで、まるでドブ(下水)のような生臭い悪臭が鼻をついた時代だ。当時の水質について、ルポ「神田川」で証言しているダイワ工業の平根健という方の文章から引用してみよう。
  
 [落合処理場] アンモニア性の窒素(八・〇-一一・六ppm)とリンは高すぎて魚の住める環境ではなく、ヘドロの大量発生を促す水質でもある。/[高戸橋] 落合処理場の影響を受けてアンモニア性の窒素が最大八・六ppmと魚の住めない状態。総窒素も高すぎ、藻類の異常発生を促している。その結果、海水の遡上する飯田橋付近ではヘドロとして滞留し、一部はスカム(浮上汚泥)として悪臭を放っている。(中略) [提言] 落合処理場からの放流水は、中、下流の水量の九割をも占めるため、神田川に清流を取り戻すためには、その処理水の改善が第一とせねばならない。ここの処理水は、窒素やリンを取り除く処理がないために、下流部で大量のヘドロの生成原因となっており、排水出口としての東京湾の水質も、富栄養化によって、ますます悪化することが懸念される。
  
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 記事中にもあるとおり、東京都水道局が建設した落合下水処理場(現・落合水再生センター)の処理水が、神田川の水質を大きく左右していたわけだが、下水道を普及させ生活排水の流入を完全に食いとめるのも、大きな課題だっただろう。当時、目標とされていたのは、せめて「鯉が棲める水質」だった。
 浄水の過程で薬物を添加せず、生物が棲息できる水質改善技術はここ数十年で飛躍的に向上し、落合水再処理センターから排出される水は「金魚が棲める水質」にまで改善されたと聞いている。その成果は、アユの遡上やギンヤンマなどトンボのヤゴ復活となって如実に表れている。文中にある高戸橋は、アユの棲息が多く確認されている場所だ。水質が格段に清浄化したことで、染め物の水洗いClick!や子どもたちの川遊びClick!が一部で復活していることは、以前の記事でもご紹介している。
 ルポ「神田川」には、川沿いで子ども時代をすごした人たちが、1990年代初頭の神田川を訪れてガッカリする様子や、子どものころ清廉な神田川で遊んだ思い出を回想する記事が数多く掲載されている。下落合の南側、上戸塚(現・高田馬場3丁目)に住み静岡県伊東市へと転居した、平野吉三郎(74)という方の思い出を少し長いが引用してみよう。
  
 五十年ぶりに懐かしの故郷、高田馬場駅に降り立った。幼い頃、兄や友達と兵隊ごっこをして遊んだ山や川、戸塚ヶ原(ママ:戸山ヶ原)練兵場は昔日の面影なく、住宅やビルの密集で変わり果てていた。/神田川。きれいな川だった。私の母校、戸塚第三小学校の校歌に「神田の流れ、水清らかに、富士は野末に真白くそびゆ」という一節があったが、この歌の通りの川だった。川底もほとんどが石。宮田橋の上流の浅瀬には馬の蹄のような模様があり、あれは昔、太田道灌が水馬をした時のものだ、と古老が教えてくれた。真偽はともかく、そのくらい、川底がはっきり見えた。/昭和初期ころには、鯉がたくさんおり、父がリーダーとなって、町内のおじさんたち十数人と漁もした。みんな越中ふんどし一本となって胸の辺りまでくる水に入り、岸から岸へと大きな網を張る。当時で川幅四メートルから五メートル。(中略) 四、五〇センチの真鯉、緋鯉がざくざく捕まり、網の中で勢いよく跳ね上がる。私たち子供は、水泳の飛び込み台にしていた大きな岩の上から眺めて、ワァーワァー拍手喝さいを送ったものだ。(カッコ内引用者註)
  
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 昔もいまも、40~50cmぐらいのコイが悠然と泳いでいるのは、神田川の変らない風情のようだ。また、子どもたちが「飛び込み台」にしていた大岩が、昭和初期まで下落合と上戸塚の流域に残っていた様子がうかがえる。この岩が、江戸期に「一枚岩」Click!と呼ばれた大岩の残滓なのかもしれない。
 また、下落合氷川明神社Click!の近くで大正末に生れ、記事の当時は練馬区に住んでいた高田源一郎(67)という方の証言を聞いてみよう。もちろん、当時の神田川は現在の流れではなく、氷川社の南東で大きく北へとカーブしていた、整流化工事以前の風情だったのだろう。田島橋Click!も現在地ではなく、10mほど下流に架かっていた時代だ。
  
 JR高田馬場駅に近い、氷川神社の前辺りで大正十五年に生まれ、四十年近く住みました。すぐそばを流れていた神田川は、子供のころ、現在のような護岸構造もなく、両側は土手で、どんよりとした流れの川でした。増水による被害が多く、私が四歳の時に死んだ父も、消防の組頭として治水に尽力した、とよく母に聞かされました。/小学生のころ、母と一緒に橋の上を通りかかった時、川の中で働いている染物職人を見て、母が言った言葉が忘れられません。それは「こんな川でも、染め物の水洗いには、大変、よく合う水なんだよ。人間だって何か一つ、取り柄があれば世間様に通用する。学校の成績だって一つでも得意なものがあればいい」/それまで暗い印象で、ややもすると嫌いな川でしたが、この言葉で、子供心に何か愛着がわくような気がしたのを覚えています。
  
 さて、そろそろ神田川で泳ぐことはできないだろうか? それには、いまの晴天時のふくらはぎまでの水深では足りず、また流れの速さ=水圧では子どもが流されかねないので危険だろう。ある程度の水深が必要なのと、流れを緩める、あるいはよどませる仕組みが不可欠なのだが、その方法はすでに戦前に確立されている。隅田川をはじめ、全国各地の河川に設置された水練場Click!の構造だ。川岸に水を引きこむ囲いを造り、流れの影響を直接受けないようにして1~1.5mほどの水深を確保する、おもに夏季だけの臨時施設だ。
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 戦前の水練場は網や浮き、杭、板などを使い川岸に囲いを造っただけで、生簀状のかなり原始的な構造だったようだが、現在ならもっと効率的に安全な機材で工夫ができる。川の増水時でも、容易に流されない基礎造りを含め、都会の子どもたちが楽しめる親水施設はかなり魅力的だろう。せっかく川のそばで生まれ育っても、一度も泳いだことがない子どもの寂しい記憶を、これから少しは減らせるのではないだろうか。文字どおり「神田川で産湯をつかい」が、単なる夢物語ではない時代になってきたように思うのだ。

◆写真上:わたしの学生時代に比べ、信じられないほど清浄化された神田川。
◆写真中上は、昭和初期に早稲田界隈で撮影された旧・神田上水(神田川)で水遊びを楽しむ子どもたち。は、落合水再生センターの神田川排水口。
◆写真中下は、明治末に撮影された江戸川(現・神田川)の大曲付近で、花見用に臨時の桟敷席が川へ張りだして設置されている。は、神田川両岸に植えられたサクラ並木の開花期には世界じゅうから花見客が訪れる。は、神田川の川底に露出するシルト(東京層)Click!にとまるシラサギで、このところ野鳥の数や種類が飛躍的に増えている。
◆写真下は、1938年(昭和13)撮影の神田川支流の妙正寺川で行われていた染め物の水洗い。は、千代田城の外濠を兼ねた神田川の中央線・御茶ノ水駅下の流れ。は、渇水時でも流れが急な山手線・神田川鉄橋Click!の真下。この付近の流れは危険で、子ども用の“水練場”の設置には向かないだろう。

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