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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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戦後の松下春雄と鬼頭鍋三郎のアトリエに。

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松下春雄アトリエ.JPG
 西落合に隣接して建っていた荒玉水道Click!野方配水塔Click!は、敗戦間近になると繰り返し米戦闘機の機銃掃射にさらされている。その近く、西落合1丁目208番地(現・西落合3丁目)にアトリエをかまえていた洋画家・大内田茂士は、その様子をのちに取材にやってきた「落合新聞」Click!の竹田助雄に語ってる。
 落合新聞の1964年(昭和39)9月10日号に、大内田茂士が描く野方配水塔のイラストとともに掲載された記事、「給水塔と弾痕」から引用してみよう。
  
 給水塔と弾痕
 戦争の禍痕は表面的にはだんだん見かけなくなってきたが、江古田の水道タンクにはいまでも当時の機銃弾の跡が生々しく沢山残っている。あの銃撃の跡は、あれは太平洋戦争の末期、館山沖にやって来たアメリカ機動部隊から飛来した艦載機(ママ)P51機銃弾の跡で、もしあの給水塔が破壊されたなら、江古田落合をはじめ豊島文京に至るまで即座に飲料水に窮するところであった。/塔高三十三,三三メートル、飛行機には格好の攻撃目標であったのかも知れない、まるでこの辺の目標であるかのように高くそびえ立っている。
  
 おそらく、竹田助雄は大内田のアトリエで取材したとおりの内容を記述しているのだろうが、実際に館山沖にやってきた米機動部隊から来襲した戦闘爆撃機なら、米海軍のグラマン(F6Fヘルキャット)のはずであり、もし上空の機影がP51(ムスタング)にまちがいなければ、硫黄島から飛来した米空軍の戦闘爆撃機だったのだろう。
 当時の落合地域を鳥瞰すると、高さ30mを超える野方配水塔は、米軍のパイロットがなんの施設か把握しているいないにかかわらず、格好の標的になったと思われる。記事にもあるとおり、もし野方配水塔が破壊されていたら水道に圧力をかけることができなくなり、敗戦後の断水状況はより長くつづいていただろう。
 敗戦間際の機銃掃射による弾痕は、壁面のものはほとんど補修されているとはいえ、一部は配水塔下のプレートにも書かれているように、現在でもそのまま残されている。つづけて、同記事から引用してみよう。
  
 あの日、P51艦載機(ママ)二機は高射砲の弾幕をやぶり大谷口方向より飛来し、野方給水場上空において再度急降下、給水塔目がけて攻撃を加えた。無数の機銃弾は塔に命中民家をも掃射す。銃音あたりをつんざき、敵機はヒマラヤ杉の梢をも蹴って飛翔した。よくぞ助かったものである。
  
 米軍の戦闘機が館山沖の機動部隊から、あるいは硫黄島からにせよ来襲するようになっていた戦争末期、落合上空に高射砲あるいは機銃の“弾幕”が張れたかどうかははなはだ疑問だ。散発的な迎撃の対空砲火はあったかもしれないが、“弾幕”が張れるほどの銃火器や弾薬が、山手の住宅街へ潤沢に配備されていたとは思えない。
 第2次山手空襲(5月25日夜半)の直前、1945年(昭和20)5月17日の真っ昼間に、高度2,000m前後とみられる低空から撮影されたB29偵察機の連続写真にさえ、対空砲火の弾幕はすでに発見できないからだ。もっとも、敵機が偵察機だとわかっていたので、弾薬を節約していた可能性もあるけれど……。
落合新聞19640910.jpg
野方配水塔.JPG
 さて、敗戦時の西落合地域はほとんど空襲の被害を受けておらず、戦前とそれほど変わらない街並みを見せていた。もちろん、西落合1丁目303番地(現・西落合4丁目)の松下春雄アトリエClick!鬼頭鍋三郎Click!アトリエも、戦災をくぐりぬけて健在だった。松下春雄Click!淑子夫人Click!は、夫の死後に池袋の実家・渡辺医院Click!へ子どもたちを連れて帰っており、また鬼頭鍋三郎Click!は戦時中に名古屋へともどり、ふたつのアトリエは空き家になっていた。
 ある日、藝大前の浅尾佛雲堂Click!浅尾丁策Click!のもとに、1本の電話が入った。電話は彫刻家・木内克からで、30年ほどの滞仏生活を終えた彫刻家・高田博厚が帰国したので、彫刻の道具を一式そろえてくれないかという依頼だった。以下、1996年(平成8)に芸術新聞社から出版された、浅尾丁策『昭和の若き芸術家たち―続・金四郎三代記[戦後篇]―』から引用してみよう。
  
 木内先生から電話と言われて急いで受話器を手にした。今友人の高田さんが来ている、紹介するから来ないか、とのこと、仕事を中断して行ってみた。木内さんが永い滞仏中特に親しくしていた彫刻家、高田博厚さんであった。三十年ほどのフランス生活に休止符を打ち先頃帰国され落合に仮寓している、彫刻の道具が何一つないので色々と作ってもらいたいとのことであった。ご両人滞仏中の面白く興味あるお話に時を忘れ聞き入っているうち、木内夫人の手料理が卓上を飾り、夫人もご同席され、話はそれからそれへと延々とつきることなく深更になってしまった。/さてお約束した日に落合の高田さんの家を訪ねていってビックリした。そこは何と元光風会の松下春雄さんのお宅であった。
  
野方水道塔1947.jpg
大内田茂士アトリエ.jpg
鬼頭・松下アトリエ1.JPG
 わたしが松下春雄アトリエClick!へ何度かお邪魔をしたとき、故・山本和男様と松下春雄の長女・彩子様が話されていた、アトリエを借りていた「ある彫刻家とその弟子たち」とは、敗戦直後の1946年(昭和21)にフランスから帰国したばかりの高田博厚だったことがわかる。このあと、高田博厚が自身のアトリエを鎌倉に建てて転居すると、淑子夫人は山本様と結婚された娘の彩子様Click!とともに、西落合の松下アトリエへもどってくることになるのだろう。
 ただし、山本夫妻の記憶には、淑子夫人と子どもたちが西落合の松下アトリエへもどった時期と、高田博厚にアトリエを貸していた時期に関して、数年の齟齬がみられる。夫妻の証言によれば、家族が西落合へともどったのは1942~1943年(昭和17~18)の戦時中であり、そのあと池袋の渡辺医院が建物疎開の防火帯にひっかかり、実家も移転したとうかがった。だから、敗戦時の松下アトリエには淑子夫人と子どもたちがもどっていたはずであり、高田博厚はアトリエのみを借りていたものだろうか? あるいは敗戦後の短期間、淑子夫人と家族はどこかへ疎開したままで、アトリエが空いていたものだろうか。山本夫妻および鬼頭伊佐郎様Click!の証言も含めて整理すると、1934年(昭和9)以降に松下アトリエを借りていたのは、柳瀬正夢Click!→洋画家・糸園和三郎→彫刻家・高田博厚ということになりそうだ。
 また、松下アトリエの敷地に隣接して建てられていた鬼頭鍋三郎アトリエClick!には、のちに松下春雄と同じ光風会Click!の洋画家・村岡平蔵が入居して仕事をするようになる。引きつづき、同書から引用してみよう。
  
 松下春雄さんは名古屋の方で、光風会太田三郎さんのお弟子さんで、同じく名古屋の鬼頭鍋三郎さんの先輩であった。鬼頭さんは松下さんにすすめられ、すぐ隣りの空地にアトリエを造り、時々名古屋から出張、帝展、光風会等の出品画を制作された。そしてこのお宅は現在、やはり光風会の村岡平蔵さんのアトリエになっている。
  
鬼頭・松下アトリエ2.jpg
山本和男・彩子夫妻.JPG
鬼頭鍋三郎「牛」193208.JPG
 敗戦直後のこの時期、画家たちの画材ばかりを扱っていた浅尾丁策は、初めて手がける彫刻道具の制作に苦労している。彫刻台や回転台、粘土板などを彫刻家や藝大彫刻科へ取材し、回転台の機構は鍛冶屋へ注文して作らせた。さっそく、彫刻道具一式を西落合の「松下アトリエ」へとどけると、高田博厚は彫刻ができないため静物のパステル画ばかりを描いていたという。

◆写真上:西落合1丁目303番地に建っていた、桜が満開の松下春雄アトリエ跡。
◆写真中上は、1964年(昭和39)9月10日に発行された落合新聞に掲載のコラム「給水塔と弾痕」。は、公園内に残る防災用貯水施設となった野方配水塔の現状。
◆写真中下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる野方配水塔。は、1960年(昭和35)の「住宅明細図」にみる西落合1丁目208番地の大内田茂士アトリエ。は、鬼頭鍋三郎アトリエ跡(左)と松下春雄アトリエ跡(右)の現状。
◆写真下は、1932年(昭和7)8月3日に北側の畑地から撮影された松下春雄アトリエ(左)と鬼頭鍋三郎アトリエ(右)。は、両アトリエについていろいろなお話をうかがった山本綾子(松下彩子)様と故・山本和男様。は、1932年(昭和7)8月に鬼頭鍋三郎が連作していたデッサン『牛』。近くの籾山牧場Click!で、スケッチしていたものだろうか。


上落合の子どもたちの下落合通い路。

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吉武東里邸跡.JPG
 1921年(大正10)に、上落合470番地へ建設された建築家・吉武東里邸Click!については、これまで何度か記事Click!に取りあげてきた。特に関東大震災Click!の直後には、壊滅してしまった大手町の大蔵省営繕局Click!が入った庁舎に代わり、国会議事堂Click!の企画・設計は上落合の吉武邸内でつづけられている。
 また、吉武邸が1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で焼けてしまったあと、子息が通った落合第二小学校へ屋敷の部材である大谷石のブロックを寄贈し、それらが現存していることもご紹介Click!した。もっとも、今日では別の場所へ移転してしまった落合第二小学校ではなく、そのあとに建設された中井駅前の落合第五小学校の校庭に敷石として保存Click!されている。きょうは、その上落合の吉武邸で少年時代を送り、のちに父親と同じ分野の建築学者(建築計画学)になった吉武泰水(やすみ)について書いてみたい。
 吉武泰水Click!は1916年(大正5)、吉武東里の故郷である大分で生まれたが、すぐに家族とともに東京へと出てきている。1997年(平成9)に工作舎から出版された吉武泰水『夢の場所・夢の建築―原記憶のフィールドワーク―』には、22年間住んでいた上落合の様子が記録されている。この書籍をご紹介いただいたのは、吉武東里設計による島津一郎アトリエClick!でご一緒した、吉武東里のご子孫にあたる渡鹿島幸雄様だ。
 本書は、夢の中に登場する建築や空間、場所などを日々記録し、それがなぜ夢の中に現れたのかを、精神分析学を基盤に探っていくのがメインテーマなのだが、そこには当然、多感な少年から青年への時期をすごした、上落合の吉武邸とその周辺が頻繁に登場してくる。それは、おもに吉武泰水が少年時代をすごした学校への登校路だったり、友だちの家への道順だったり、友だちと遊びに出かけた場所への順路だったりする。
 吉武泰水は、上落合720番地へ1925年(大正14)1月に竣工した落合第二小学校へ、3年生のときから通いはじめている。それまでは少し離れた落合尋常小学校Click!、つまり落合第二小学校Click!が完成すると同時に、落合第一小学校Click!と呼ばれるようになった学校へ通っていた。吉武泰水『夢の場所・夢の建築』から、当時の様子を引用しよう。
  
 私の家がここに移った頃までは、妙正寺川の流域にはまだ狭い水田が連なっていたが、次第に宅地化したり、町工場が建ったりして、その間に小さな畑や原っぱが残り、私たち子どもにとって格好の遊び場所になっていた。/落合に移り住んで二年後、下落合の落合尋常高等小学校に入った。私にとって通学は三〇分たっぷりかかる道程でかなり大変だった。西の方から行くと、学校の下を通り過ぎ、大きく東寄りに迂回して正門に達するのだが、途中から崖を登ればかなりの近道になる。しかし、雨や雪解けの日は、この赤土の急な坂は滑りやすくてなかなか登れず、転べば泥だらけになる始末で、小さい子どもにはひどい難所だった。関東大震災に襲われたのは、大正一二年、私が小学校一年の二学期の初日であった。(中略) 二部授業はさらに一年続いたが、上落合に新しく落合第二小学校ができあがり、三年からはここに通うようになったので、遊びに学習に子どもらしい生活を満喫できるようになった。
  
 関東大震災ののち、落合(第一)小学校では1ヶ月の臨時休校のあと、10月から再び授業がスタートするのだが、市街地から避難してきた学童の急増で、授業は二部授業制が取り入れられている。
吉武東里邸1938.jpg
吉武泰水「夢の場所・夢の建築」1997.jpg 吉武邸大谷石.JPG
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 文中に書かれている落合小学校への登校路は、上落合から昭和橋Click!(大正期は位置も異なり、別の橋名だったろう)をへて妙正寺川をわたり、鎌倉街道(雑司ヶ谷道Click!)へと出て東へしばらく歩いていき、徳川邸Click!のある西坂Click!から落合小学校の前へと出るコースだろう。小学校を丘上に見ながら、かなり東へと遠まわりする面倒な登校路だが、近道で利用した「赤土の急な坂」とは、登りきると落合小学校のすぐ南東側へ出ることができる、会津八一Click!秋艸堂Click!があった霞坂Click!のことだ。上落合470番地から西坂経由で登校すると、確かに小学校低学年の子どもの足では30分ほどかかったかもしれないが、霞坂を利用すれば15分ほどで登下校できたのではなかろうか。
 3年生になると、中井駅のすぐ南に開校した落合第二小学校(現・落合第五小学校)へと通うようになるが、吉武邸からわずか200mほどの距離なので、ほんの数分で登校できただろう。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 さらにこの頃、西武鉄道Click!が敷設されて、妙正寺川流域の姿は一変し、宅地化は一層急速に進みはじめた。同時に工場の公害も目立ちはじめて、「ばっけ」Click!の奥にオリエンタル写真工場Click!、下落合駅の近くに染め物工場等ができ、薬の臭いや水の濁りは子どもにも不快、不安を与えるほどになっていた。一方、学齢が進むにしたがって、生活圏や遊び場の範囲は拡大し、小学校を終える頃には、東は八幡神社から小滝橋Click!戸山ヶ原Click!へ、南は東中野駅周辺商店街、北は下落合文化村、西は最勝寺Click!から遠く目白商業学校Click!井上哲学堂Click!方面まで、ほとんど徒歩によるものだが、行動範囲が広がっていった。
  
 この中で、吉武泰水が「下落合文化村」と書いているのは、松下春雄Click!が用いた下落合文化村=目白文化村Click!のことではなく、下落合に拡がる西洋館を中心とした大正期のハイカラな街並み……という意味でつかっている用語だ。また、下落合駅近くの「染め物工場」とは、西武線の開業当時に氷川社前にあった旧・下落合駅Click!の近くという意味で、田島橋Click!の北詰めにできた大きな三越染物工場Click!のことだ。下落合駅は、1931年(昭和6)に現在地へと移転するが、その前(前田地区)に建設されたのは堤康次郎Click!東京護謨工場Click!だった。
 上記の一文で、上落合で暮らしていた小学生が、およそどこへ遊びに出かけていたのかがよくわかる。自転車など持っていない子がほとんどだった当時、これらの場所へはすべて徒歩で出かけており、その行動範囲は半径1,500mほどにもなる。しかも、平坦な道ではなく丘陵が連なる地域なので坂道の上り下りが多く、遊びにも相当なエネルギーを要しただろう。今日、落合地域の自転車を持った小学生でさえ、これほどの行動範囲を持つ子どもは少ないのではないだろうか。
 少し横道へそれるが、吉武泰水が井上哲学堂について書いた一文で、哲学堂が建設される以前の丘がいまだ和田山Click!と呼ばれていた時代、そこには「和田山古墳」が存在していたことを証言している。哲学堂が建設される際、同古墳は崩されているとみられるが、東京の古墳は戦前、ほとんどが調査もなされず次々と破壊されつづけているので、同古墳がどのようなタイプの古墳だったのか、あるいは古墳期のいつごろの墳墓なのかは、まったく不明のままだ。同古墳については、継続して注意を向けていきたいテーマだ。
吉武泰水導線2.JPG
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公楽キネマ.jpg 便益明細地図1933.jpg
 文中の「八幡神社」とは、当時は村山知義アトリエClick!の斜向かい、上落合204番地に境内があった月見岡八幡社Click!のことだ。その祭礼の日の様子も、吉武泰水は記録しているので再び引用してみよう。
  
 八幡神社の祭りはなかなか盛大で、町中を神輿が練り歩き、境内は屋台の店で賑わい、神楽が奉納された。寺社の境内はふだんは子どもたちの遊び場で、授業の終わりに近くなると口伝に集合場所がささやかれ、放課後は友達とかくれんぼ、石蹴り、蝉採り、ときには戦争ごっこや泥合戦に興じたものである。メンコべいごまはわが家では一種の賭けごととして禁じられていたので、友人の興奮をうらやましく思った。家には風呂があり、たいてい自宅で入浴したが、ときどき近くの銭湯に行き、その雰囲気を楽しんだ。映画は当時、「活動写真」といった。歩いて数分のところに公楽キネマがあり、良いだしものがかかると家族で見に行くこともあった。(中略) 成蹊に通うようになると、家の中での生活も変わり、二階が兄と私の寝室兼勉強部屋になった。南は隣の野々村邸の林に遮られて視界は狭かったが、北側は見晴らしがよく、遠く川向こうの下落合文化村の家々や景色が眺められた。これら家からの眺めは、いろいろヴァリエーションが加えられて夢にたびたび出てくる。
  
 ちなみに、文中に出てくる上落合472番地の広大な野々村金吾邸が、中井駅前から移転してきた現在の落合第二小学校の敷地になっている。また、上落合521番地にあった「公楽キネマ」Click!は、吉武邸から直線距離で250mほどのところの映画館で、手軽に出かけられる吉武家の娯楽施設だったのだろう。
 同書には、1925年(大正14)に作成された1/10,000地形図へ、吉武泰水がたどった登校路や、東中野商店街への道などが描きこまれた図版が挿入されている。しかし、この地形図は1921年(大正10)に作成された同図の“修正図”であり、落合地域の表現はほとんどが1921年(大正10)当時のままで変更が加えられていない。同年に建てられた吉武邸も、いまだ採取されていなかった。むしろ、もうひとつあとの改訂版である1929年(昭和4)の1/10,000地形図のほうが、より大正末から昭和初期の様子、つまり小学生の吉武泰水が目にしていた町の様子に近いのではないかと思っている。
吉武泰水動線4.JPG
吉武泰水動線1929.jpg
 『夢の場所・夢の建築』の図版には、東中野へと向かう道筋の1本に、上落合の鶏鳴坂Click!を上って南下するコースが描かれている。東中野駅(旧・柏木駅Click!)前へと抜けるには、少し遠まわりになる道順だが、華洲園Click!の丘麓を通るバッケ下のさびしいオバケが出そうな道よりも、こちらのほうがやや商店が多く賑やかだったのかもしれない。

◆写真上:上落合470番地に建っていた、建築家・吉武東里邸跡の現状。
◆写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる吉武邸。中左は、1997年(平成9)出版の吉武泰水『夢の場所・夢の建築』(工作舎)。中右は、落合第五小学校に残る吉武邸の大谷石ブロック。は、吉武泰水が落合(第一)小学校へ通う際に正面の角を左折(北上)していた通学路の現状。
◆写真中下は、吉武泰水が落二小学校へ通うときに西進した通学路。は、東中野方面へ出るとき南下した鶏鳴坂から早稲田通りへ出る道。下左は、昭和初期の公楽キネマ。下右は、1933年(昭和8)作成の「便益明細地図」に収録された公楽キネマ。
◆写真下は、吉武泰水が歩きなれた吉武邸西側のカーブ道。は、1929年(昭和4)の1/10,000地形図へ同書の図版をベースに、吉武泰水の記述に登場する場所や建物を新たに追加した図。落二小学校が記載されていないので、1929年(昭和4)とされているものの大正末から昭和最初期の表現である可能性が高いとみられる。

大橋の橋桁崩落からもうすぐ120年。

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両国橋1.JPG
 以前、1807年(文化4)8月19日(旧暦)に起きた、永代橋Click!崩落事故Click!について書いたことがある。深川八幡(富岡八幡宮Click!)の祭礼が行われている最中に、大勢の見物客で賑わっていた永代橋が突然崩落し、死者・行方不明者1,500人以上の大惨事となった事故だ。目黒に移転した海福寺の山門前には、「文化四年永代橋崩落横死者供養塔」がいまでも残されている。
 永代橋の崩落事故から90年後、1897年(明治30)8月10日に今度は大橋(両国橋)Click!の欄干が崩落する事故が起きている。折から花火見物の観光客で賑わっていた橋上から、鮨詰めになっていた200人ほどの人々が、大川(隅田川)あるいは涼み舟の上に落下する大きな事故となった。同年8月12日に発行された、「時事新報」の記事から引用してみよう。
  
 欄干破壊して二百余名河中に墜落
 文化四年八月十九日深川八幡祭礼の当日永代橋落ちて千人以上の溺死者を生じたるは、今も伝へて稀有の惨事とする所なるが、今年はその九十年目に相当するとて深川永代寺に於ては、来る十九日を卜して、大川に大施餓鬼を催すの計画さへあるに際し、月も変らぬ八月十日祭礼ならねど川開きの賑ひし真最中に、両国橋の欄干落ちて死傷者数十名を出したるこそ由々しけれ。昔は兎もあれ建築土木の行届き得べき今の世に斯る事のあるべしとは何人も夢想せざりし所なるべきに、現在にこの凶事を見ること悲しくも亦怖ろしく、畢竟当局者の不注意と見るの外他の罪の帰すべきなきを奈何せん、
  
 このとき、東京の町々には号外が出るほどの大きな騒ぎとなった。大川(隅田川)に架かる大橋(両国橋)と日本橋川に架かる日本橋Click!は、江戸東京の繁華街の中心あるいはこの街のヘソのような中核であり、市民にとっては特別な存在だった。それが崩落することは、永代橋の崩落事故以上に「ありえない」ことだったろう。今日の感覚でいえば、東京駅か東京タワーが倒壊したというほどの衝撃だったにちがいない。
 この記事の中で、8月10日の「藪入(旧盆)」近くにもかかわらず、「川開き」という言葉が出てくる。旧暦では、5月28日ごろが大川の川開きにあたるのだが、新暦になおすと7月の初旬ぐらいに相当する。7月7日に七夕の竹飾りが街を賑わし、7月15日前後に盆の中日を迎え、8月に入ると雇い人たちがいっせいに帰郷あるいは夏休みをとる藪入(旧盆)となる。事故が起きたのは、とうに川開きが終わっている8月10日なのに「川開き」と書かれているのは、両国橋で花火が打ち上げられるのは、原則として川開きの最中のみの“お約束”だったからだ。つまり、「川開き」という表現は旧暦8月28日ごろまでつづく川開き期間中、ないしは大川の納涼期間中という意味になる。
 さて、事故の続報を「時事新報」からつづけて引用してみよう。
貞秀「東都両国ばし夏景色」1859.jpg
両国橋旧1.jpg
国民新聞189708.jpg
  
 花火見物かたがた納涼の客は陸又は川に推出し詰かけて、たそがれ頃には大川筋及び其両岸とも立錐の余地だになき有様なりしが、就中両国橋上は溢れん許りの見物人押よせ押戻してひしめき合へる其勢凄まじければ、警官数十名特に出張して警戒を加へ、僅かに中央なる車道の一部を排きて此を往来の用にあて、其の両傍の人道をば、見物の場と定めたり、されば、花火の打ちあげらるる毎に鍵屋、玉屋の声は、天上の月を驚かし、水底の魚を躍らしむるかと疑はれたるが、清興今や酣(たけなわ)にして、数番の花火並に仕掛花火の数々もすみ、中村楼前なる仕掛花火八方矢車の奇観未だ消えんとして花光漸く褪めかかれる午後八時廿分の頃、突然橋上に当つて数万の人々一斉に鬨の声をあぐるよと見る間に、川の西岸より十三間余距りて橋の十駒目より三駒、この長さ四間三尺丈けの欄干は、よりかかれる群集の力にまけて、まづ西の方よりメリメリと破れ初め(ママ)、人々の身をひくまもあらせず、堤の倒るゝ如く川中に落込みたれば、之と同時に数十人は箕より豆の落つるが如く一度に川中に墜落し其儘溺死をとぐるもあり橋下の船又は橋柱に身体を打ちつけて重軽傷を負へるものあり、ソレ橋が落ちた、欄干がおちたと泣く声喚く声すさまじく、橋上の人、橋下の船は乱れに乱れ狂ひに狂ひ今迄の歓楽境は忽ち化して修羅場となり、花火も茲に立消えとなりたるは実に近来の大椿事にして其の騒動名状すべくもあらざりし。(カッコ内引用者註)
  
 記事は、かなり詳細に事故現場の様子を伝えているが、これは花火大会へ同新聞社の記者が取材に出かけており、たまたま事故に遭遇したからだろう。
両国橋2.jpg
両国橋3.JPG
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 記事によれば、大川の西岸=日本橋側から13間余(24~25m)ほど本所側へわたったあたり、欄干の駒数でいうと10~13駒までの4間3尺(8m強)が、押し寄せる群集の圧力で崩落し、初期の報道では200人、続報では数十人が大川へ転落したとされている。事故が夜間に起きたこともあり、当日の日本橋警察署は落下した人数の把握ができず、また積極的な被害者の捜索も行っていない。警察では、行方不明者の届け出によって被害者数を割りだそうと試みることにしたようだ。
 8月14日の時点で、生死不明の行方不明者が154人のうち、12日午前中までに82人の無事が確認され、12日の夜までに残り72人のうち15人の無事がわかり、さらに13日午前中までには残り57人のうち30人ほどの無事が確認されている。したがって、死者・行方不明者は30人弱ほどと結論づけられた。
 大きな事故だったにもかかわらず、永代橋崩落事故とは異なり、被害者がケタちがいに少なくて済んだのは、橋脚自体が折れて崩落する事故ではなかったことと、当日の大橋(両国橋)の下には涼み舟や屋根舟、屋形舟、傳馬船などがひしめき合って停泊しており、落下した人々が川下へ流される前に、それらの舟が次々と被害者を救助できたことも、被害を最小限に抑えられた要因なのだろう。
両国橋旧2.jpg
両国橋5.JPG
永代橋崩落慰霊塔.JPG
 両国橋には、第六天社Click!による「川開き」の伝承が残っている。現在、付近の第六天社(榊神社)といえば蔵前にあるが、江戸期には両国橋の西詰めエリアにあたる柳橋Click!に鎮座していた。柳橋の第六天については、また機会があれば書いてみたい。1873年(明治6)に神田明神Click!と同様、明治政府の廃社圧力に抵抗して第六天社(宮)の社名を「榊神社」へと改名しているが、いまだにカシコネとオモダルの2柱がそろって健在な社だ。

◆写真上:大橋(両国橋)の東寄りから、本所側を向いて現在の欄干を眺めたところ。
◆写真中上は、1859年(安政6)に貞秀が描く『東都両国ばし夏景色』。は、明治中頃に撮影されたとみられる両国橋。は、1897年(明治30)8月10日直後に発行された「国民新聞」掲載の両国橋崩落事故のイラスト。
◆写真中下は、大川(隅田川)の川面から大橋(両国橋)を見る。は、黄昏の両国橋から川下を見る。は、両国橋下の川面から川上の総武線鉄橋を見る。
◆写真下は、明治中期に撮影されたとみられる両国橋と大川端の老柳。は、両国橋をくぐり抜けた右岸=日本橋側の現状。すずらん通りClick!のカゴメビルが旧・ミツワ石鹸ビルClick!跡で、その左手(南側)には日本橋中学校(旧・千代田小学校Click!)が建っている。は、目黒に移転した海福寺の山門前にある「永代橋崩落横死者供養塔」。

地主と箱根土地に板ばさみの秋山清。

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秋山宅クラブハウス跡.JPG
 秋山清が第一文化村で暮らしていた、借家の所在地が悩ましい。以前、特定した下落合4丁目1379番地の北原安衛邸Click!は、たとえその一部を借りていたとしても、とても当時の秋山の収入では借りられる建物でも立地でもない。また、下落合4丁目1379番地は、ちょうど秋山が住んだころ微妙に地番変更が行われ、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみえる同地番の3軒の住宅だけではなかったようだ。
 当時の地図類から推定すると、1929年(昭和4)以前の下落合(4丁目)1379番地は、それ以降の同地番より住宅の敷地1~2軒ぶん、北側へ縮小されているらしい。つまり、秋山清が1929年(昭和4)9月に下落合へ転居してきたときは、地番変更の真っ最中だった時期と重なるようだ。秋山清が引っ越してきた当初、当該の借家は下落合(4丁目)1379番地だったものが、翌年から下落合(4丁目)1373番地に変わっている可能性が高い。
 すなわち、秋山は転居した当初の地番を記憶していて著作に記しているが、実は下落合で暮らしていた大半の時間、秋山宅は下落合(4丁目)1373番地だったことになる。それでも不自由を感じなかったのは、下落合(4丁目)1379番地と宛名に書いて秋山宅へ郵便物を出しても、配達員は旧地番をいまだ記憶しており、秋山宅が1379番地から南隣りの家であることを、配達員が熟知していたからだと思われる。また、秋山があえて下落合4丁目と認識しているのは、淀橋区が成立する1932年(昭和7)以前から、下落合では丁目表記Click!が導入され、ふつうに使われていた“証拠”でもあるだろう。
 地番のズレに気がついたのは、1986年(昭和61)に筑摩書房から出版された秋山清『昼夜なく-アナキスト詩人の青春-』所収の「山羊をやめる」の一節から、次のような記述を見つけたからだ。以下、同書より引用してみよう。
  
 折から九月半ばの、朝は郊外の道や草が露っぽく、涼しい季節、西武電車(新宿線)の中井駅付近は郊外も郊外、人家は少なく、畑と森の多い、閑静な地域で、五十年後の今は道さえも変貌してしまって、似ても似つかない。小川にタナゴが釣れ、秋の木の葉が黄に彩られていた。(中略) 西部電車の中井駅から行く、いわゆる目白の文化村の名はその頃すこしは知られていた。中井駅の東一帯の丘陵を開発して地所を売る、土地会社という名もめずらしかった。/朝日新聞をやめたすこし以前、黒色戦線社にはじめて行った日、図らずもその丘の上を歩いて、閑散たる様子が気に入り、丘を登りつめた木立の下に在った雑貨屋に立ちよって、小さい貸家はないかとたずねると、そのおやじは声をひそめるようにして「いいのがある」といってすぐ私を案内した。行ってみて気に入り、契約した。四畳半と八畳の部屋、小さい台所、東の方に広い出口、そこから目の前のテニスコートに出て行ける、つまり私が借りたのは、文化村開発のために特に設けられた、軟式テニスコート付属のクラブハウスというべきものだった。月額八円の家賃も高くない。翌日すぐ引っ越した。
  
目白文化村分譲地地割図1925.jpg
目白文化村テニスコート1936.jpg
 秋山は、「中井駅の東一帯」と書いているが、目白文化村は同駅から見るとほぼ真北に位置している。また、彼が丘上へ上っていったのは一ノ坂Click!とみられ、坂を上りきった右手の一画には第二文化村に面した雑貨屋Click!が開店していた。ちなみに、現在も店舗が残る川口軌外アトリエClick!のすぐ北側、下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)の雑貨屋さんは、取材させていただいた栗原様のおばあちゃんによれば1934年(昭和9)に青果店として出発し、戦後から食品雑貨までを扱うようになったので、秋山が訪ねたのはこの店ではない。おそらく、第二文化村の三間道路沿いに並んでいた商店の1軒だろう。
 さて、当サイトの目白文化村Click!をテーマにした記事をじっくりお読みの方なら、このテニスコートClick!とクラブハウスが、もともとは箱根土地Click!堤康次郎Click!の趣味から相撲場や柔道場が建設された跡地の再利用であることに、すでにお気づきだろう。
 しかも、箱根土地はこの土地を取得できず宅地として販売できないまま、地主へ借地料を払って福利・遊戯施設を次々と建てていたエリアだ。すなわち、箱根土地の強引な事業の進め方に反発した下落合の地主と、第一文化村内に残った未買収地を手離させようと、嫌がらせClick!を繰り返す箱根土地との間で、最後まで土地の売買契約が成立せず、両者が確執や対立を深めていったエリアでもある。そして、堤康次郎の傍若無人な開発ビジネスに反発していた地主とは、もちろん佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!をめぐり、当サイトへ何度も登場していただいている宇田川様Click!だ。
 家賃が8円/月の第一文化村の家は、かなり狭いながら“事故物件”でもない限り、当時としては破格の安さだったろう。おそらく、同じクラブハウスに住んでいた萩原恭次郎Click!や小野十三郎も、この安い家賃が非常に気に入って文化村に住んだにちがいない。そして、このテニスコートの二間道路をはさみ西隣りの敷地に住んでいた、漫画「のらくろ」の田河水泡Click!が見た「羊」とは、まちがいなく秋山清が飼っていたヤギであり、田河が書いている「羊」は「山羊」の誤記ないしは誤植だと思われる。
 秋山清が家賃を払っていたのは、テニスコートを設置した箱根土地ではなく、地主の宇田川家が管理を委託していた差配に対してだったのだが、ここで摩訶不思議なことが起きる。家賃が月を重ねるうちに5円、3円と値引きされ、しまいにはタダになってしまったことだ。引きつづき、同書から引用してみよう。
目白文化村テニスコート跡1938.jpg
目白文化村テニスコート1945.jpg
  
 目白の文化村に借りた家の家賃は、はじめ月八円、やがて五円に値引きされ、さらに三円、も少しすると無料でいいといって来た。そこにはこんなわけがあった。文化村を開いたのは箱根土地会社、それと土地の所有者とに争いが起こり、私に貸した方の地主の側に、その差配はついていた。そこで自分らの手で家を貸借していることを証拠立てるために、私がいつまでも引っ越して行かぬことを希望して、家賃を値引きしたのである。/土地会社の方は、この地域の悶着が片づくまで家賃は不要、あの差配に支払う必要はない、大威張りでここに住んでいろ、ととんだ内幕をさらけ出し、とうとう双方のすすめるままに、三年くらいの間ただ住まいということになった。近所の空地に野菜をつくったり、人を集めてテニスをしたりしているうちに、土地の争いはようやく終わったらしく、それは昭和八年のことだったが、地主と土地会社の二人の男が来て、立ち退いて貰いたい、ついては意見もあろうから考えておいて欲しいといい出した。/抗争の間、いつまでも居てくれといったのを、そちらの都合で立ち退いてくれとは虫が好すぎる、と回答すると、もっともと帰っていった。
  
 地主と箱根土地との“板ばさみ”になったおかげで、秋山は目白文化村で3年間、家賃を払わずに母親と暮らせた。しかも、空き地で野菜を育て、ヤギを譲り受けて飼いながら、ヒマなときには仲間とテニスを楽しむという、信じられないような優雅な生活がつづいた。まさか目白文化村のテニスコートで、特高Click!から目をつけられていたアナーキストたちがテニスに興じていたなど、にわかには信じられない出来事だろう。
 さて、このクラブハウスのあった位置が、地番変更前は下落合(4丁目)1379番地であり、おそらく1930年(昭和5)からの変更後は下落合(4丁目)1373番地となる敷地だ。1938年(昭和13)作成の「火保図」でいうと、以前に誤って特定した下落合1379番地の北原邸から、前田邸をはさんで1軒南隣りの家、すなわち「火保図」では下田邸と記載されている敷地にクラブハウスは建っていた。
 1936年(昭和11)の空中写真では、テニスコートは残っているものの、クラブハウスの跡には、すでに下田邸と小南邸が建設されている。その直後、箱根土地はテニスコートも宅地として販売したらしく、広い敷地にはその南東側にあったはずの白石邸が移り、改めて大邸宅を新築(移築?)したらしい様子が、2年後の「火保図」から見てとれる。
第二文化村雑貨店.JPG
第一文化村テニスコート跡.JPG
 地主と箱根土地との対立に巻きこまれた秋山清は、立ち退きの際にクラブハウスの建物を譲り受け、家賃8円×8ヶ月分=64円の立ち退き料をもらっている。おそらく支払ったのは、宇田川家との交渉でようやく土地買収に成功した箱根土地側だったろう。秋山は、これらの資金をもとに西落合でヤギを多く飼いはじめ、やがて万昌院功運寺Click!の北側、上高田300番地に500坪の土地を借りて、本格的なヤギ牧場Click!の経営をはじめている。

◆写真上:第一文化村のテニスコート北側、クラブハウスがあったあたりの現状。
◆写真中上は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」にみるテニスコートと観覧席。クラブハウスは、のちにコートの北側に造られていると思われる。は、1936年(昭和11)の空中写真に見る同エリア。テニスコートは残っているが、クラブハウスが建っていた位置にはすでに下田邸と小南邸が建設されている。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」でテニスコートは消滅し白石邸が建設されている。は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機から撮影された同エリア。山手空襲Click!直前の、最後の目白文化村をとらえた貴重な写真だ。
◆写真下は、一ノ坂上の角にある第二文化村に面した1934年(昭和9)開店の当初は青果店だった店舗。は、第一文化村にあった“中央テニスコート”跡の現状。

焼け跡から復興する目白文化村。

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第一文化村1954(番号なし).jpg
 1954年(昭和29)の夏、落合地域の上空を低空で旋回する飛行機から撮影された空中写真が残されている。竹田助雄Click!「落合新聞」Click!編集室がある下落合の中部、目白通りに近い目白文化村Click!の第一文化村が中心の撮影で、同じ飛行機から目白駅寄りの下落合東部や、西部のアビラ村界隈が撮影されているかどうかは不明だ。
 1962年(昭和37)8月15日、敗戦から17年めに発行された「落合新聞」には、落合第一小学校Click!あたりの上空から北西を向いて撮影された、斜めフカンの空中写真が掲載された。(冒頭写真) 目白通りの南側に拡がる、第二府営住宅Click!から目白文化村のほとんどは、二度にわたる山手空襲Click!で焼失しているが、焦土から9年が経過した1954年(昭和29)現在、戦後すぐのころのバラック住宅も散見されるが、かなりの敷地で住宅が復興している様子が見てとれる。道路に対し屋根が斜めを向いている邸が増えているが、戦後、テラスを真南に向けて敷地に住宅を設計したお宅だ。分譲敷地が広い目白文化村では、家を斜めに建設しても、まだかなり余裕のある庭を確保することができた。
 手前に見えるの敷地が、箱根土地の本社ビルClick!と前庭の不動園Click!があった跡地だ。戦時中は、改正道路(山手通り)Click!工事で敷地の東側が大きく削られ、淀橋消防署の分署が設置されていた。この写真が撮られた当時も、新宿消防署の落合出張所があったはずで、戦後の火の見櫓はいまだ建設されていない。箱根土地本社の敷地のすぐ西側、1923年(大正12)に埋め立てられた前谷戸Click!の敷地には、第一文化村の“北側テニスコート”があったが、コートの跡地には真ん中の空き地を残して、すでに2軒の住宅が東西に建てられているのが見える。
 また、箱根土地本社跡の左側(南側)に目を移すと、濃い緑が繁った宇田川邸Click!の敷地が鳥瞰できる。強引な土地買収に反発して、第一文化村の“中央テニスコート”周辺の土地を最後まで売らずに抵抗し、秋山清Click!がその板ばさみになって文化村で“快適な生活”を送っていたエピソードは、ひとつ前の記事でご紹介Click!済みだ。宇田川邸の敷地は戦災を受けておらず、江戸期の建物(のち部分改築)をはじめ、大正期から昭和初期に建設された邸宅や、移築された「コ」の字型の西洋館(寮建築)などが並んでいる。
第一文化村1954(番号あり).jpg
目白文化村1947.jpg
目白文化村1957.jpg
 秋山清のヤギClick!がいた中央テニスコートの跡地には、第一文化村では初めてのケースとみられる本格的な集合住宅の「斉家荘」の建設が進んでいる。その左上に見えている広場状の敷地が、戦後すぐに建設され、うちの子どもたちも通っていた下落合みどり幼稚園Click!下落合教会Click!だ。「斉家荘」と下落合みどり幼稚園との間には、現在、十三間通り(新目白通り)が貫通していて、第一文化村から第二文化村へと抜けられるこのあたりの家並みや道路は消滅し現存していない。下落合みどり幼稚園の上に見えているのが、の落合第二中学校との落合第三小学校だ。さらに、西落合地域から写真の上部へと目を向けると、井上哲学堂Click!野方配水塔Click!がとらえられている。
 さて、第一文化村に視点をもどそう。現在と大きく異なる点は、第一文化村から宇田川邸敷地、そして第二文化村にかけての街並みに、木々の緑が圧倒的に多いことだろう。目白文化村の多くの家並みは、二度にわたる山手空襲Click!で焼け野原になったけれど、樹木は延焼の炎であぶられたにもかかわらず、戦後すぐのころから新芽をふいたことが伝わっている。これらの濃い緑は、現代に撮影された空中写真Click!と見比べてみると、そのほとんどが消滅していることがわかる。
 第一文化村の中央、ひときわ緑が濃いところが前谷戸の弁天社があるあたりだ。その左手には、戦後いち早く再建された神谷邸Click!をはじめ、こちらのサイトではお馴染みの邸Click!が改めて建設されている様子が見えている。この写真が撮られた当時、戦前からのほとんどの住民は、そのまま焼け跡の敷地へ再び邸を建設している。
①箱根土地本社跡.jpg
②宇田川邸敷地.jpg
③④下落合みどり幼稚園.jpg
 だが、安食邸Click!のあとに引っ越してきた文化村秋艸堂Click!会津八一Click!は、邸が空襲で焼けたあと故郷の新潟へともどり、1954年(昭和29)現在は居住していない。この写真でも、会津邸があった敷地は焼け跡の空き地のままのように見える。また、会津邸の北側、弁天社から三間道路をへだてた南側斜向かいの高島邸Click!跡には、屋敷林が繁る賀陽邸(皇道派Click!で元・陸軍中将の賀陽宮)が、すでに建設されているのがわかる。
 第一文化村の西端には、空襲からも焼け残った家々が、この時期でも10軒以上は建っていた。わたしが以前にお邪魔をした、渡辺邸Click!(渡辺玉花アトリエ)や井門邸Click!をはじめ、大正末から昭和初期に建てられた、戦前の空中写真にとらえられている家々がそのまま見てとれる。ただし、延焼の炎にあおられて傷んだ家々の多くは、この写真が撮影されたあと建て替えが進み、現在は数軒を残すのみとなっている。
 また、第一文化村の西に隣接していた第三と第四の落合府営住宅Click!も、空襲の火災をまぬがれて戦前の姿を残しているが、写真の右端に写る目白通りに面した第二府営住宅は全域が焼け、戦後に建てられた家々やバラックが建ち並びはじめている。
⑦⑧井上哲学堂.jpg
第一文化村弁天社.jpg
第一文化村西端.jpg
 目白通りの向こう側には、の長崎中学校(現・南長崎スポーツセンター)が見えている。その向こう側、西落合との境界は住宅がとぎれ、すでに戦時中から工事がはじまっていた新目白通りつづきの十三間道路(現・目白通り)が望見できる。なお、西落合は空襲の被害をほとんど受けていないので、戦前の風情を残した街並みが拡がっている。

◆写真上:1954年(昭和29)に撮影された、第一・第二文化村界隈の空中写真。
◆写真中上は、同写真へ記事に付随する番号をふったもの。つづいて敗戦直後の1947年(昭和22/)と1957年(昭和32/)に撮影された空中写真でみる写角。
◆写真中下は、箱根土地本社と不動園の跡で新宿消防署落合出張所の火の見櫓はまだ建設されていない。は、江戸期から昭和初期までの多彩な建築が残っていた宇田川邸敷地。は、中央テニスコート跡地に建設中の「斉家荘」と下落合みどり幼稚園界隈。
◆写真下は、西落合から井上哲学堂と野方配水塔の遠望。は、第一文化村の弁天社とその周辺。は、かろうじて空襲による延焼をまぬがれた第一文化村西端。メインストリート沿いには、現存する井門邸や渡辺邸(渡辺玉花アトリエ)が見える。

小島善太郎アトリエ(百草画荘)を拝見する。

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小島善太郎アトリエエントランス.JPG
 先日、日野市の百草園近くにある百草776番地の小島善太郎アトリエ、すなわち百草画荘へお邪魔してきた。小島善太郎Click!は、拙サイトでは何度も繰り返しご紹介している1930年協会Click!、あるいは後継団体である独立美術協会Click!の画家で、お嬢様の小島敦子様および記念館の立川準様Click!のお招きでうかがったしだいだ。
 こちらでも、「佐伯祐三―下落合の風景―」展Click!の際や、八王子市の夢美術館で開催された「前田寛治と小島善太郎―1930年協会の作家たち―」展の展示物Click!など、大正末から昭和初期にかけての1930年協会に関わる貴重な資料Click!をご紹介してきたが、その多くが小島善太郎アトリエでたいせつに保存されてきたものだ。また、小島家が淀橋町へ移り野菜の仲買いや漬け物事業をスタートする以前、もともとの実家は所有していた田畑も含めて下落合にあり、目白崖線沿いの宅地化にともなう耕地整理とともに、落合村の川村辰三郎村長の立ち合いのもと、小島家の墓地を近くの寺へ改葬Click!したエピソードもご紹介している。
 さっそくアトリエへお邪魔すると、室内は佐伯祐三アトリエClick!のおよそ2倍ほどのスペースはあるだろうか。壁一面には、小島善太郎の初期作品から1984年(昭和59)の絶筆作品までが、ところ狭しと架けられている。中でも特に目を惹いたのは、大正期の額にそのまま入れられた初期の作品群Click!だ。画家の図録や画集でしか目にしたことのない作品が、生前に使われていたイーゼルに置かれ、また手近な壁面に何気なく架けられていたりする。小島善太郎は、多くの初期作品を手放さず、ずっとアトリエに置いていたせいか、散逸せずに今日までまとまって保存されてきたという。
 初期作品が保存された理由を、次女の小島敦子様は「画面の表現に迷ったり、制作に行き詰まったりすると初期作品へともどり、そこから次の発想や新しい表現の方向性を得て、作品を産みだしていました」と語られた。おそらく、それは実際に描かれた画面から新たなインスピレーションを得るという目的ばかりでなく、初期作品を描いていた当時の小島善太郎が置かれていた境遇や、制作へ必死に取り組んでいた当時の精神的な記憶を呼び起こし反芻する(=初心に帰る)ことで、新鮮な制作意欲をかき立てていたものだろう。
 わたしがまだ一度も目にしたことがない、板に描かれた最初期の油彩『自画像』もお見せいただいた。小島善太郎が10代の終わりごろ、太平洋画研究所へ通いはじめた明治末ごろの作品で、板の裏面にはほぼ同時期とみられる風景画が描かれている。おそらく、浅草区七軒町にあった奉公先の八百屋を辞め、下落合の妙正寺川沿いにあった旧・バッケ水車小屋を改造した風呂屋Click!で父母とともに暮らしたあと、大久保の陸軍大将・中村覚邸の書生になったころの作品、すなわち、同家で初めて油彩の画道具一式を揃えてもらったころの風景画だろう。大久保から下落合へ、足にケガをした父親や病気がちな母親の様子を見舞った際に、家の近くで描いた画面なのかもしれない。
小島善太郎アトリエ外観.jpg
小島善太郎アトリエ内観.JPG
小島善太郎初期作品1「エチュード裸婦」1922.JPG 小島善太郎初期作品2.JPG
 かなりくすんだ画面は、バッケClick!状の丘陵の下につづく、曲がりくねった街道筋を描いたものだが、そのカーブの風情を見て、すぐにとある描画ポイントを想定することができた。その明治末に描かれたとみられる貴重な「下落合風景」については、また稿を改めてご紹介したい。新宿歴史博物館Click!に保存されている、1913年(大正2)制作の『目白駅より高田馬場望む』Click!より、1~2年ほど早い時期の作品だと思われる。
 17歳のころ、家族とともに下落合の旧・バッケ水車小屋で、生存の危機にみまわれた小島善太郎は、あらゆるものをていねいに使いつづけ、たいせつに保存していたように感じる。油絵をはじめた初期のパレット(おそらく太平洋画会研究所へかよいはじめた明治末のものだろう)が、そのまま残されているのにはビックリした。また、アトリエで制作の際に履いていた青足袋を拝見したが、何度も何度も重ねて繕った跡がみられる。
 小島善太郎が、のちの夫人になる日野出身の土方恒子あてに書いたラブレターが、きれいに保存されているのにも驚いた。几帳面な文字が便箋にぎっしりと並び、恒子夫人へあてた想いが切々と語られている。「落合道人」のようなサイトには、美術的な専門資料よりも小島善太郎のラブレターのほうがピッタリだ……と判断いただいたのかどうかはわからないが、確かにお見せいただいてとっても嬉しい。w これらのラブレターは、近々『恋文―土方恒子への手紙―』として刊行される予定であり、小島善太郎自筆の年譜が掲載されたそのゲラ刷りまでいただいてしまった。
小島善太郎パレット.jpg 小島善太郎青足袋.jpg
小島善太郎「自画像」明治末.JPG
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 小島善太郎Click!は、大久保の陸軍大将・中村覚邸Click!へ書生として住みこみ、そこから大正期の洋画壇へ、そして野村證券の野村徳七による支援でフランス留学へと羽ばたき、帰国後にパリでいっしょだった前田寛治Click!里見勝蔵Click!佐伯祐三Click!、そして木下孝則Click!らとともに1930年協会を結成することになる。その様子を、2013年(平成25)に出版された『百草画荘』所収の、里見勝蔵Click!「巴里時代の小島君」(1978年)から引用してみよう。
  
 やがて小島善太郎は欧州の美術館めぐりをすることになり、その不在中はやはり、画家の佐伯祐三夫妻が娘の弥智子と3人で(クラマールに)住むことになった。/風景画家の佐伯祐三はパリ郊外の風景を描くことに喜悦して、毎日朝早くからスケッチに家を出た。/ある日、森の中のモティフを求めて入って行った。一枚の20号のキャンバスが落ちている。拾ってみると、確に小島善太郎の画である。-未完成であるとはいえ小島君の出来上った画よりも好きだ-と。小島のところへ持ってゆくと、小島-僕はいこずって捨ててきたのだから、もし君がすきなら描きたまえ。上げるよ-。といった。(中略) 佐伯はもらった小島君の画を来る人々に見せて自慢をしていたが、佐伯が亡くなった時、米子夫人が佐伯の片身(ママ)として、その小島の画をくれた。/僕よりさきに帰国した友だちはみな二科や帝展で受賞したり会友になったりして活躍していた。それらの人たちに迎えられたので僕はかつてパリで仲間であった人々に、ミレーやコローが友情のある画家たちの集まりとして一八三〇年派として活躍していたのにちなんで、一九三〇年協会を創設した。(カッコ内引用者註)
  
 小島アトリエには、里見勝蔵によるストーンペインティングが数点か飾られている。ともに、60年越しの深い付き合いで結ばれていたのだろう。
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 アトリエには、パリから持ち帰った記念品「巴里での愛用品」もケースに入れられ展示されているが、そのケースの向こう側に少し場ちがいな人形が置かれていた。亜麻色の髪をした、ヨーロッパ系の女の子人形なのだが、彼女の名前は「テレサちゃん」。w 壁に架けられた、若き日のフェニックス小島善太郎Click!の写真ともども非常に楽しく、つい時間がたつのを忘れて話しこんでしまった。小島敦子様はじめ記念館スタッフのみなさま、ほんとうにありがとうございました。

◆写真上:小島善太郎アトリエのエントランスは、緑の中を階段を玄関まで上っていく。
◆写真中上は、小島善太郎アトリエ「百草画荘」の外観。は、作品群が壁面にぎっしりと架けられたアトリエ内観。右手には“フェニックス小島善太郎”のパリ写真が飾られている。は、大正期の額へ入れられたままで落ち着いた色調の初期作品群。
◆写真中下上左は、小島善太郎が使っていた最初期のパレットで保存されてきたこと自体が驚きだ。上右は、アトリエで制作中に愛用していた青足袋。は、明治末に制作された小島善太郎『自画像』。板の裏面には、「下落合風景」とみられる風景画が描かれている。は、土方恒子にあてた小島善太郎のラブレター。
◆写真下は、小島善太郎の自筆年譜で『独立美術』の「特集・小島善太郎」のために書かれたものだろうか。は、小島善太郎がパリで愛用していた記念の品々。下左は、「巴里での愛用品」ケースの向こうに見える亜麻色髪の「テレサちゃん」人形。下右は、1983年(昭和58)に小島敦子様を描いた小島善太郎『敦子像』。

奇妙な強盗被害者の座談会。

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 今日ではありそうもない企画だが、強盗の被害者ばかりを集めた「強盗被害者座談会」が新聞紙上へ連日連載されていた。座談会は、1929年(昭和4)1月に東京朝日新聞社の本社で開かれている。被害者とは、同年1月の段階でいまだに逮捕されていなかった、「説教強盗」Click!「ピストル強盗」Click!に遭遇した人々だ。
 ふたつの強盗事件の犯人にねらわれたのが、山手に住む比較的大きな邸宅の住民であり、しかも各分野の著名人が多かったことから、このような座談会が実現したのだろう。当時の東京市長だった市來乙彦邸さえ、ピストル強盗に押し入られて被害を受けている。座談会には、以下の強盗被害者たちが出席していた。
 ・新渡戸稲造(法・農学博士)
 ・三宅やす子(小説家)
 ・高津清(逓信省電気試験所長)
 ・堀江恭二(東京市立電気局病院長)
 ・赤津隆助(青山師範学校教授)
 ・十代田三郎(早稲田大学教授)
 印は警官を殺傷した凶悪なピストル強盗の被害者、印は説教強盗の被害者で、出席者の中で拳銃を突きつけられて生命の危険にさらされたのは、新渡戸稲造だけだった。このほか、前・警視庁警務部長だった中谷政一に、東京朝日新聞社からは鈴木文四郎や庄崎俊夫など記者4名が出席している。
 上記の被害者の中で、説教強盗の起訴状に記載されたとみられる65件の被害宅のうち、高津清邸(杉並区天沼)と十代田三郎邸(小石川区雑司ヶ谷)は見えるが、三宅やす子邸と堀江恭二邸、さらに赤津隆助邸の3件が記載されていない。つまり、説教強盗の被害宅は65件どころではなく、もっとケタちがいに多かったことがうかがわれるのだ。65件という数字は、やはり起訴状に書かれて立件された被害者宅のみで、ほかにも数多くの被害が出ていたことを示唆している。
 当座談会は、1929年(昭和4)2月23日に「説教強盗」こと妻木松吉が逮捕される前、また同年3月30日に「ピストル強盗」こと福田諭吉が検挙される以前に行われており、「強盗に侵入されないために」という防犯の意味合いが強い座談会となっている。では、1929年(昭和4)1月25日からスタートする連載「強盗被害者座談会」の概要と趣旨を、同日の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 夕刊既報の如く説教強盗、ピストル強盗等の被害者座談会は二十四日午後四時から本社楼上で開かれ、まづ被害者各人の盗賊実験談よりはじまり、事前の防御方法、盗賊に入られた後の処置、予防方法等の実体験から警察制度の根本的欠陥に関する意見にいたるまで、怪強盗に関するあらゆる問題につき午後九時まで実に五時間にわたり諸氏の熱心なる有益な談話があつた、主催者はこゝに出席諸氏に対し改めて謝意を表する次第である
  
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王子電気軌道.JPG
 座談会の司会は、東京朝日新聞の鈴木文四郎がつとめている。ちなみに、鈴木文四郎Click!の家は上落合470番地にあり、道路を挟んで西隣りが古川ロッパ邸Click!(上落合670番地)、また東隣りは神近市子邸Click!(上落合469番地)が建っていた。
 説教強盗の被害者が多いので、座談会の内容は当然ながら説教強盗の侵入方法や経路が中心となった。共通しているのは、被害宅の電話線を切ったあと、便所の格子が入った窓をこじ開けるか、あるいは便所の汲み取り口から侵入しようと試みている点だ。ただし、犯人の妻木はできるだけ汲み取り口から侵入したくはなかったのだろう、かなり頑丈な格子や窓でも破って侵入する技術を習得していたようだ。そして、被害者は電話線が切られているので、被害を最寄りの交番へ走って知らせなければならず、その時間が犯人の逃亡を容易にしていた様子がうかがえる。いいかえれば、交番から徒歩5分以上と、ほどよく離れた邸宅ばかりがねらわれていたことがわかる。
 また、説教強盗がなぜ東京の中心部をねらわず、外周域である郊外に“仕事”の重点を置いていたのかも判然としている。東京の市街地は便所の水洗化が進んでおり、もし便所の窓破りに失敗した場合は、最終手段として便所の汲み取り口を活用できないからだ。したがって、①最寄りの交番まで距離があり、②住宅が密に建てこんでおらず人通りも少なく、③おカネ持ちの大きめな屋敷が建っている確率が高く、④侵入経路が確実に1ヶ所は確保できる汲み取り式便所が多い地域……というと、必然的に東京郊外に建設された邸に目星をつけたほうが安全であり、また“仕事”も効率的だったことがわかる。
妻木松吉指紋.jpg
西巣鴨町向原3340.JPG
 もうひとつ、説教強盗こと妻木松吉は凶器を被害者へ見せない、つまり凶器なしのケースが多かったことがわかる。これは、被害者へ必要以上に脅威を与えて騒がれるのを防ぐためとみられ、まず相手を落ち着かせて自分の“来意”を告げ、大人しく円滑に現金を出させることを考えた手口なのだろう。
 しかも、被害者からタバコをもらって吸ったり、相手へ積極的に話しかける、つまり戸締りや防犯のアドバイス(説教)をすることで、被害者とコミュニケーションを図ろうとさえしているのは、パニックを起こさせないための防止策の意味合いと、「迷惑をかけたが、そろそろ引き上げるから」というときに、逃走に必要な着替えをスムーズに出してもらうための、経験にもとづくノウハウだったのだろう。
 新渡戸稲造は、説教強盗の言葉づかいに興味があったらしく、押し入ってきた際ていねいな言葉づかいだったか、敬語はつかったか、それとも恫喝するような口調だったのかを細かく訊いている。どうやら、侵入した先の住民の対応のしかたで、説教強盗はていねいな接し方をしたり、ぞんざいで脅かすような口調になったりと、侵入宅ごとに話法をつかい分けていたらしい。
 被害者のひとり堀江恭二邸では、比較的ていねいな言葉づかいだったらしく、「犬をお飼ひなさい」と奨められている。だが、堀江邸にはちゃんと番犬がいたのだ。いや、そればかりでなく堀江邸の周辺にはイヌを買っている家が5~6軒もあったのだが、説教強盗はやすやすと侵入できてしまっている。ドロボー除けのイヌについて、被害者・堀江恭二と説教強盗との対話部分を引用してみよう。
  
 鈴木 あなたのところでも「犬をお飼ひなさい」といひましたか。
 堀江 「犬をお飼ひなさい」といひました。そんな事をいふので少しも恐いといふ
    感じがしませんでした。
 鈴木 犬を飼へといつたのはいつ頃でしたか。
 堀江 隣の室から金を持つて来て煙草を半分ばかり吸つてゐる間に「犬をお飼ひな
    さい」といつたので「犬は飼つてある」といつたら「あんな犬では駄目だ」
    といひました。家には犬が飼つてあり近所にも五六匹もゐるのですが雨が降
    つてゐましたし、怠けてゐたワケですな。
  
 その後、堀江家の役立たずなイヌが、お払い箱になったかどうかは不明だが、説教強盗の場合、イヌを飼っていても吠えられることなく侵入しているケースが多い。
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東京朝日新聞19290126_2.jpg
 説教強盗こと妻木松吉は、イヌに怪しまれて吠えられない独特な技術を習得していたという話もあるが、事実かどうかはわからない。また、当然ながら公開された警察の記録にも、それがどのような方法だったのかが明かされていない。確かに、イヌになつかれやすく吠えられにくい気配の人はいるが、それが生来の気質なのか、それとも訓練を積めば身につけられる後天的な技術なのか、いまだに不明のままだ。

◆写真上:1929年(昭和4)1月24日の午後4時、東京朝日新聞社に集まった強盗の被害者たち。左から2人めに新渡戸稲造が、右から2人めに三宅やす子がいる。
◆写真中上は、1929年(昭和4)1月25日発行の東京朝日新聞に掲載された「強盗被害者座談会」の第1回。は、説教強盗が“仕事”によく利用した西巣鴨町向原(現・東池袋)あたりの王子電気軌道=王子電車(1974年より都電・荒川線)。
◆写真中下は、説教強盗が犯行現場へ残したとされる妻木松吉の指紋。は、戦前の住宅地の風情が残る妻木松吉宅があった西巣鴨町向原界隈。
◆写真下:翌1月26日の東京朝日新聞に掲載された、「強盗被害者座談会」の第2回。

下落合を描いた画家たち・小島善太郎。

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小島善太郎「落合風景」明治末.jpg
 これまで「下落合風景」を描いた画家として、あるいは下落合西部(現・中井2丁目)あたりに少なくとも明治中期まで実家(田畑や墓地含む)があった画家として、小島善太郎Click!とその作品を何度となく取りあげてきた。だが、小島が描く風景は明治末ということもあり、下落合の丘や坂を描いたものか、書生だった大久保の中村覚邸Click!の周辺を描いたものなのか、あるいは画角が狭く部分的であり、周辺の地勢や目標物がつかめなかったりと、描画ポイントをハッキリ特定できた画面は意外に少ない。
 先日、百草776番地の小島善太郎アトリエClick!(百草画荘)をお訪ねしたとき、板へ明治末に描かれたとみられる最初期の『自画像』をお見せいただいた。その裏面(表面?)には、風景画が描かれていたのだが、17~18歳前後とみられる表面の『自画像』と裏面の風景画と、どちらが先に描かれたのかは判然としない。でも、時期としては中村覚邸の書生に入り、初めて油絵の画道具一式を買ってもらったころ制作された作品であり、しかも太平洋画会研究所へ通うかたわら、落合地域や戸山ヶ原Click!などをスケッチしてまわっていたころの画面だ。
 ようやく油絵の具が使えるようになった初期の様子を、1968年(昭和43)に雪華社から出版された小島善太郎『若き日の自画像』から引用してみよう。
  
 大久保から落合に通ずる戸山ヶ原の西端。道に面して牧場が楢林に囲まれ、畠から林越しに牛と牧舎が見える。その道を落合の方に向かうとだらだら坂で、東側は丘、丘につづいて杉林があり道が暗かった。丘には樫の木が鬱蒼として根張りを丘なりに張り合って見せ、西に沿って降りた地平には大欅が立ち並んで、間に檜、楢、杉等が麓まで続いている。欅も楢も霜に耐え兼ね、葉が吹く風に舞って灰色の裸木が親しい落着きを見せていた。/自分はそこに立って構図を練ると、やがて油絵で描き出したのである。新しいカンバス、新しいパレット。誰でも味わうであろう初手の感動で新しい管から締り(ママ)出す絵具の心地好さ、テレピン油の香に酔い乍ら静かに筆を進め出した。新しい筆に湿む色地の水々(ママ)しさ、一触毎に味わう心地には最早や、我も無く浸り出し、自然の持つ色調をパレットの上に調合せては白地のカンバスの上を、大きなタッチで段々に塗り重ね描き埋めて行った。
  
 文章の様子から、小島善太郎は中村邸のある大久保方面から小滝橋通りClick!を歩いて、左手(西側)にゲルンジー農園(ゲルンジーミルクプラントClick!)を、右手(東側)には戸山ヶ原Click!西端の小高い丘を眺めながら、旧・神田上水に架かる小滝橋Click!へと歩いているのがわかる。おそらく、小島は小滝橋周辺の風景を描いているとみられるが、このときは板ではなく布のキャンバスを用いている。
小島善太郎「落合風景」明治末(構成).jpg 小島善太郎アトリエ中村覚.JPG
描画ポイント地形図1918.jpg
 板に描かれた『自画像』の裏面を拝見したとき、左手につづく丘の急斜面と崖線下につづく街道のような道筋、そのカーブの様子や周辺の風情から、すぐに下落合のとあるポイントが脳裏に浮かんだ。描かれてから100年以上も経過した画面なので、かなり褪色やくすみが激しいけれど、この独特なカーブの道筋や、正面の半島状に大きく張りだした丘陵の様子など、旧・下落合広しといえどもこれに見合う描画ポイントは、たった1ヶ所しか存在していない。
 画面の光線は、ほぼ真上のやや右手から射しているように見えるけれど、デッサンの陰影がいまひとつハッキリしない。このあたり、小島善太郎が絵を勉強しはじめたばかりで、若描きのせいなのかもしれない。中央には、まず「S」字型にカーブした道が描かれているが、左手から出っ張った斜面は前方につづく道を隠してしまうほどの大きなものではなく、正面の丘の下まで道がつづいている様子が描かれている。
 正面の丘は、左手から右へ大きく張りだした丘陵で、まるで海に突き出た半島のように見える。その丘つづきである手前左手の丘麓を見ると、道をやや掘削したように描かれているが、左手のバッケClick!状になった急斜面から、雨で土砂が道へ崩落するのを防ぐ土砂止めがほどこされているようにも見える。
 おそらく、描かれているのは下落合の目白崖線であり、その丘陵の地形やカーブする道路の様子などを考慮すると、描画ポイントは中ノ道Click!(新井薬師道)の路上で、のちに武藤邸が左手の斜面に建設される、下落合2073番地(画面左手の地番)のまん前(南側)あたりだろう。ちょうど土砂の山か、土砂止めの板でも積みあげられていたのか、少し高い視点から眺めているのがわかる。
 現在の様子に置き換えれば、描画ポイントは四ノ坂Click!五ノ坂Click!の間、より五ノ坂寄りの路上から、小島善太郎は東北東を向いてスケッチブックを広げており、中央やや上の出っ張った斜面や、その前面にある「S」字カーブの向こう側には、林芙美子記念館Click!が見えることになる。画面のすぐ右手には、のちに尾崎一雄Click!が暮らすことになる「もぐら横丁」Click!の路地が通うことになるが、当時はいまだ小川状で大きく蛇行を繰り返す妙正寺川沿いに、麦畑Click!を中心とする田畑が拡がっているのだろう。
 そして、小島善太郎が立っている右手の枠外50m足らずのところには、明治の後半になって川筋の変更とともに南側へ新たな水車小屋が造られ、廃止になって間もない妙正寺川の旧流沿いに残っていた、旧・バッケ水車小屋が見えていたはずだ。この旧・水車小屋は、付近の農民が農作業の帰りに立ち寄る風呂屋Click!に改造され、この時期、小島善太郎の両親が借りて移り住んでいた。
旧バッケ水車跡.JPG
描画ポイント空中写真1936.jpg
小島善太郎描画ポイント現状.JPG
 太平洋画研究所の帰り道か、あるいは休日に大久保の中村邸から実家まで出かけてきたものかは不明だが、小島善太郎は足にケガをした父親の見舞い、または妹の死から落胆して病気がちになった母親の見舞いに訪れた際、実家から北側の中ノ道へ抜けるとやや西へ歩き、明治末の「下落合風景」をスケッチしたものだろう。
 現在、描かれた道路は大きく拡幅され(拡幅工事は大正期にも一度行われているとみられる)、クルマが往来する2車線道路となっている。画面の左側から正面、さらに右側へと連なる丘陵斜面は、大正中期からのアビラ村(芸術村)Click!の宅地開発でひな壇状に造成され、明治期の面影はほとんど残っていない。宅地化の進行とともに、現在では斜面に繁っていた樹木もほとんどが伐採されており、画面のようなこんもりとした樹林の風情も、大木が繁り実際の標高よりも高く見えた目白崖線の森も消えてしまった。ただし、中ノ道(新井薬師道)のカーブのみが、当時の面影をとどめている。
 1936年(昭和11)に撮影された空中写真を見ると、小島善太郎が描いた「下落合風景」の風情が、まだ少しは残っていたことがわかる。空中写真の妙正寺川は、整流化工事が進められている最中だが、いまだ旧流の跡が見てとれる。また、1927年(昭和2)に開通する西武電鉄Click!はもちろん存在しないし、山梨の水力発電所からつづく東京電燈谷村線Click!の高圧線塔さえ、この画面が描かれたころには存在していない。空中写真を観察すると、小島善太郎は実家から周辺を散策していたとき、「S」字カーブの道筋と連なる崖線の重なりに画因をおぼえ、スケッチブックを開いたのだろう。
 多くの画家たちが、「下落合風景」を描きはじめるのは大正の中期以降なので、明治期の「下落合風景」はきわめてめずらしい。参謀本部陸軍部測量局が、1880年(明治13)に作成した1/20,000地形図欄外に描かれた、火災直後の稲葉の水車Click!が明治初期の絵として思い当たるが、小島善太郎の明治期に制作された風景作品は、それに匹敵する貴重な記録だ。江戸期とさほど変わらなかったと思われる下落合の風景だが、当時の様子を知る手がかりは古地図Click!のみで、わたしとしてもその風景はいまだに未知の世界なのだ。
バッケ水車跡.jpg 中村覚.jpg
佐伯祐三「下落合風景」1926.jpg
 さて、小島善太郎が『下落合風景』(仮)を描いてからおよそ16年後、小島の描画ポイントから東へ250mほど歩いた同じ路上の、少し高めの位置へイーゼルを立てた画家がいた。画家は、左手(北側)の丘陵をほとんど画角には入れず、道路工事の真っ最中だった曲がりくねった道筋と、その向こうに白煙を上げる草津温泉Click!の煙突や青物市場などの建物を入れ、開発されつつある東京郊外の雑然とした情景を好んでモチーフに選んでいる。その画家とは、もちろん1930年協会Click!で小島善太郎といっしょになる、『下落合風景』シリーズClick!を描きつづけていた佐伯祐三Click!だ。
 小島善太郎が明治末から大正初期に描いた作品には、下落合とその周辺や大久保、戸山ヶ原、四谷など故郷の現・新宿区を描いた作品が少なくない。それらを集めて、新宿歴史博物館で「小島善太郎-明治から大正の新宿風景-」展という企画はいかがだろうか? 特に、明治末から大正初期の新宿北部が描かれた作品は、新宿歴博に収蔵されている『目白駅より高田馬場望む』(1913年)も含め、小島善太郎の画面しか見あたらないからだ。

◆写真上:明治末の制作とみられる、板に描かれた小島善太郎『下落合風景』(仮)。
◆写真中上上左は、画面を構成している情景。上右は、百草の小島善太郎アトリエ(百草画荘)の内部で、手前に置かれたチェストの中央には陸軍大将・中村覚の肖像写真が見える。は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる描画ポイント。
◆写真中下は、妙正寺川の古い川筋の跡で旧・バッケ水車小屋(小島宅)が建っていたあたりの現状。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。は、中ノ道(新井薬師道)の路上から眺めた『下落合風景』(仮)の現状。
◆写真下上左は、美仲橋から妙正寺川の川下を撮影。流れの右手のあたりに、明治後期の新たなバッケ水車小屋が造られた。上右は、小島善太郎が書生として仕えた陸軍大将・中村覚。は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『下落合風景』。


山手線と山手貨物線が走る切り通し。

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佐伯祐三「線路(山手線)」.JPG
 もともと簡易なスケッチなので、色彩の規定もハッキリしたフォルムの描写もないため、厳密な風景の特定はむずかしいのだが、佐伯祐三Click!がこの画面を下落合の周辺で描いているとすれば、思いあたる場所は2箇所ほどある。
 描かれた線路は、手前から向こうへ4本ほど(複々線)が確認でき、いちばん向こう側の線路上を蒸気機関車が牽引する貨物列車、ないしは戦前にはよく見られた貨客列車が走っているようだ。さらにその向こう側には、高めの崖地がつづいており、崖上には住宅と思われる家屋が数棟確認できる。また、右手の電柱が並ぶ側も、草木の生えた崖ないしは斜面のように見え、そこにも家々がありそうな表現で描かれている。列車の向う側には、遠景に煙をあげる煙突が1本描かれている。
 佐伯が下落合で暮らしていた大正当時、その周辺で線路が4本敷かれた鉄道は山手線以外に存在していない。すなわち、画面でいえば手前(西側)の2本が、電車が走る外回りと内回りの山手線であり、向こう側(東側)2本のレールが貨物列車や長距離の特別列車が蒸気機関車に引かれて走る、いわゆる「山手貨物線」だ。そして、このような切り通し状になった地形は、下落合の近くでは目白駅と武蔵野鉄道(現・西武池袋線)山手線ガードClick!の間、そして高田馬場駅をすぎた東西の戸山ヶ原Click!附近にしか存在していない。
 最初、わたしはこのところ戸山ヶ原のことを調べる機会が多いためか、対岸の崖または山を防弾土塁Click!、すなわち山手線東側の線路沿いに築かれていた通称「三角山」のひとつかととっさに考えた。だが、線路土手がなく線路際から急にせり上がっているのが不自然に感じ、また防弾土塁の上に建物などあるはずがなく、崖地の上が住宅街だと仮定すれば、高田馬場駅から南側の風景ではないように感じた。
 そうなると、山手線の軌道が4本そろってきれいに見え、しかも両側が崖地のように切り立っているように描かれた、まるで掘削された切り通しのように見える場所は、金久保沢Click!の谷間から池袋駅へと抜ける、目白駅の北側ということになる。しかし、それにしては画面左手の崖地の高さがやや高すぎるような気もする。樹木が繁っていた大正末、実際の高さよりも切り通しの崖地は高く見えていたものだろうか。
 さて、佐伯の連作「下落合風景」シリーズClick!の描画ポイントを考慮に入れると、ここの記事をお読みの方なら、もうすでにお気づきだろう。佐伯祐三は、武蔵野鉄道の山手線ガード近くに設置されていた踏み切りを、1926年(大正15)ごろに『踏切』Click!として描いている。もうひとつ、同じく「下落合風景」ではないが、山手線をはさんだ西側の陸軍演習場を描いた『戸山ヶ原風景』Click!も描いている。だから、複々線化された山手線を描いているとみられる本作は、どちらのポイントにも可能性がありそうなのだが、とりあえず鉄道の踏み切りと線路に興味をもった、池袋-目白間の想定で書き進めてみたい。
目白駅西側線路.jpg 池袋駅南側線路.jpg
目白池袋間.JPG
戸山ヶ原山手線.JPG
 佐伯の『踏切』位置から、武蔵野鉄道のガードをくぐって南側に展開していたのが、このスケッチに見られるような光景だったろうか。しかし、佐伯祐三は踏み切りから山手線の線路沿いを歩きだし、武蔵野鉄道のガードをくぐって描画ポイントまで歩いているわけではないだろう。そんなことをすれば、その場にいた赤と白の旗をもつ踏み切り番Click!に制止され、たちどころに捕まっていたにちがいない。
 佐伯祐三は、高田町西谷戸大門原3580番地付近の踏み切りで、60分ほどの制作(20号F)を終えたあとか、あるいは当日に見当をつけておいた描画位置へ後日、改めてスケッチブックを手に出かけていると思われる。『踏切』と同日であれば、踏み切りの南側にうがたれた武蔵野鉄道の「浮雲ガード」Click!をくぐり、佐伯は山手線沿いの切り通し状になった土手上の道を、目白駅方向へ向け歩きだした。しばらく歩くと、線路際へ下りられそうな、やや傾斜がゆるやかになった場所を見つけると、しばらく立ちどまって眺めた。
 やがて、池袋駅へすべりこむ山手線の外回り電車が通過したあと、先ほどまで写生していた踏み切りのほうを見やると、ちょうど踏み切り番の小屋が武蔵野鉄道のガード橋脚の陰になって見えず、佐伯の姿は番小屋から死角になっている。佐伯は、背負ったイーゼルと画道具、キャンバスなどをその場に置くと、鉛筆とスケッチブックを手に斜面を線路際まで下りていった。急いでパースのきいた軌道面を描き、右手に電柱が建ち並ぶ様子を写しはじめたとき、背後から機関車の音が聞こえてきた。
佐伯踏み切り跡.JPG
佐伯ガード土手上.jpg
西谷戸大原踏切1933.jpg
 ふり返ると、池袋駅方面から貨物線の内回りを、蒸気機関車に牽引された貨車と客車がやってくるのが見える。佐伯は、山手線の両側に切り立った崖地を急いで描き入れると、貨客列車が通過するのを待ちかまえた。列車は、大きな音を立てて佐伯の横を通過し、石炭の燃える匂いがあたり一面に立ちこめた。貨客列車の最後尾が、佐伯の横を通りすぎたあたりから、佐伯は鉛筆を忙しく動かしはじめた。列車はどんどん遠ざかり、やがて目白橋の向こうに見えなくなった。
 佐伯が目白橋と、橋上駅化されたばかりの目白駅Click!を描こうとしたとたん、背後から新宿駅方面へと向かう山手線内回り電車が接近し、画家の姿を見つけたのか鋭い警笛をひとつ鳴らして通りすぎた。佐伯は、そろそろ潮時だと判断して山手線の急な斜面を駆け上り、再び画道具を背負うと下落合めざして歩きはじめた……。そんな物語が、見えてきそうなスケッチの1枚だ。w
 ただし、この描画ポイントの弱点には、目白橋と目白駅が「省略」されているほか、列車の向こうに煙突が描かれている点だ。目白の線路際に、銭湯や工場など煙突が建つ施設は見あたらない。大正末、ゴミ処理施設かなんらかの企業の焼却炉が、この位置にあったのだろうか。1944年(昭和19)の空中写真には、この位置から煙突からとみられる西へたなびく白い排煙が撮影されているのだが、大正末から存在したかどうかは不明だ。
 また、この描画ポイントが戸山ヶ原の線路土手沿いだとすれば、この煙突はまちがいなく東京製菓工場Click!の煙突ということになるだろう。でも、着弾地の防弾土塁上に住宅らしいフォルムが描かれているのが不可解なのと、スケッチの時期にもよるが写真などでも線路上から突出して見え、遠くからでも視認できた2代目ないしは3代目(1925年竣工のビル)の大きめな新宿駅が見えないのだが……。
 そして、スケッチが池袋駅-目白駅間にしろ高田馬場駅-新大久保駅間Click!にしろ、山手線が走る手前の複線に、電車のパンタグラフを接触する細い電柱が描かれていない。あくまでも、瞬間的に風景を写しとる速描きの画面なので、本格的なタブローとは異なり微細な描写はかなり省略されているとみられるのだが、そのぶん細かな点まで規定できない悩ましい課題が残る画面だ。
山手線1936.jpg
目白駅池袋駅間1933.jpg
防弾土塁.JPG
 佐伯は一連のスケッチを、2Bか3Bあたりのデッサン鉛筆を使って描いている。当時は、どこのメーカーの鉛筆を使っていたのか記録がないので不明だが、佐伯のことだから国産の大日本鉛筆やトンボ鉛筆ではなく、文房堂Click!か竹見屋、丸善あたりで手に入れたフランス製の鉛筆だったのではないだろうか。

◆写真上:1926年(大正15)ごろに描かれたとされる、佐伯祐三『線路(山手線)』(仮)。
◆写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」に描かれた池袋駅()と目白駅()付近の線路。は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)のガードあたりから目白橋と目白駅方向を望む。は、三角山が連なっていた下を走る山手線・埼京線・湘南新宿ライン・西武新宿線で現在は複々々線となっている。
◆写真中下は、佐伯が描いた踏み切り跡と西武池袋線のガード。は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『下落合風景』Click!のガード上を走る山手線などの線路4本。は、1933年(昭和8)撮影の山手線踏み切りと武蔵野鉄道ガード。佐伯祐三『踏切』とスケッチ『線路(山手線)』(実際は橋脚の向こう側)の、双方の描画ポイントを記入。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。(地名は大正期のものを記載) は、1933年(昭和8)の踏み切り写真を拡大したもの。山手線の西側には、佐伯祐三が描くように電柱が密に並んでいたのが見てとれる。は、早大理工学部の西側に現存する最南端の防弾土塁(通称:三角山)の残滓で立入禁止になっている。

矢田津世子の『獄中の記』。

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戸塚警察署.JPG
 矢田津世子Click!が遺したノートから、特高に逮捕された記録を詳細につづった『獄中の記』が、1989年(平成元)に発見された。釈放されてから間もなく書かれたとみられ、すべての刑事や看守が実名で書かれており、彼女の記憶力のよさとともに戸塚警察署2階にあった特高室の様子が生々しく刻銘に記録されている。
 敗戦と同時に、警視庁特高課Click!(のち特高部)や憲兵隊に勤務していた警察官や陸軍特務Click!の士官は、ドイツのゲシュタポ同様に思想弾圧にともなう殺人・傷害などの告発や、戦犯容疑で拘引されないようGHQと接触して取り引きし、米軍の手先となって防諜・諜報活動などをしていたことは、今日かなり明らかになってきている。米軍も積極的に彼らへ「収監」をチラつかせて脅しては利用し、日本国内ばかりでなくアジア地域で、ことさら「危ない仕事」をさせていた。戸塚署に設置された特高室の幹部たちが、戦後どのような運命をたどったかは不明だ。
 1933年(昭和8)7月21日(金)の午前10時30分、矢田津世子は下落合1986番地の自宅Click!2階で訪問客の大谷藤子と話しているところを、戸塚町2丁目67番地にある戸塚署の特高係刑事3名(板倉、高橋、高橋)に検挙された。このとき、3名の刑事は彼女のアルバム、手紙類、手帳などを風呂敷に包んで押収している。署に着くと、昼食のあと早々に留置場へ放りこまれているが、彼女は房の中には入れられず、留置場の幅90cm余しかない石廊下の突き当たりに敷かれた筵(むしろ)の上へ、他のふたりの女とひがな1日正座させられ、夜もこの筵の上で寝ることになる。
 戸塚署の特高室に着いてから、留置場へ放りこまれるまでの様子を、矢田津世子ノートの『獄中の記』から引用してみよう。
  
 戸塚署二階特高室。――異状な感じである。十二時近し、板倉といふ刑事が私の係りになるらしく、何かと調べる。昼食をといひ、牛乳とパンと玉子を頼む。泰然とはしてゐたが何とは無しに顔色の白む気がする。十二時半すぎ、階下へ。留置場は署の内勤室裏手にある。六十近い看守、(山崎さん)が何かと、やさしく私に話しかけてくれる。(中略) 房の格子から沢山の顔がのぞく。顔は青白く、動物的に光る眼が私を注視してゐる。幅三尺程の石の廊下がある。その突き辺り(ママ)、窓の下に筵が敷かれ、二人の女のひとが細紐ひとつの姿で座つてゐる。私は、帽子、ハンドバツク、靴などを看守にとり上げられ、女のひとのゐる筵に座らせられる。私の座つてゐるすぐ左側は保護室、右は第二保護室、第二の次が第一留置、第二留置、第三留置となつてゐる。
  
 この一文でもちらりと触れられているが、看守には親切な老人や東北(山県)出身の男もいて、いろいろ彼女の面倒を細かくみてくれたようだ。そういう人物に対しては、文章ではあえて「さん」付けで書かれている。
戸塚警察署留置場平面図1933.jpg
 矢田津世子は、戸塚警察署の留置所平面図を残している。赤い×印のところが、彼女が寝起きしていた筵の敷かれた場所で、手を細紐で縛られてすごしていた。留置場は戸塚警察署の建物内ではなく、その裏手にある独立した家屋ないしは張り出し建築だったらしい。検挙当日は、細谷という刑事による短時間の取り調べが行なわれただけで、特に暴力をふるわれていない。筵へずっと座らされたまま夕方を迎えると、留置場では夕食が配られた。
  
 夕食。木綿の縞の大風呂敷に朱塗の平べつたい箱が約二十位づゝ二列に積まれてある。その包ミが二ツ。雑役係りといふのがあつて(宇野といふ若い男)それが房の人数だけ配る。看守がみ廻る。看守は一時間交替である。体格のよい若い看守(新田氏)が山崎さんに代る。東北的な、どこか柔和な顔立ちの人。/筵の上の私達女三人にも箱弁が配られる。トン、トン、トン、トン……。房中では、あつちでも、こつちでも箱弁の裏を叩く音でうるさい。最初は何かと思つた。やがて、中身の飯とお菜を蓋にあけて了ふと、味の方に湯を貰ふ。雑役が大声で房の中の人々を怒鳴りつゝ(これは看守にきこえよがしに。)湯を配る。
  
 おかずは、湯葉とがんもどきの煮たもの、沢庵がふたきれだったが、矢田津世子はのどにつかえてまったく食べられなかった。留置場の臭気と暑さで、彼女の体調は徐々に悪化していった。ひとりひとり便所へ入ったあと、夜は8時で就寝になる。寝具は毛布1枚だけ支給されたが、真夏なので凍えることはなかった。だが、この日から彼女は夜中じゅうノミに悩まされ、満足に眠れない日々をすごすことになる。
 特高室の取り調べは、絵に描いたような方法で行なわれたらしい。刑事の細谷は、あくまでも矢田津世子へ同情するようにやさしく柔和な取り調べ、つまり“泣き落とし役”を演じ、部長刑事の高原は皮製のムチや竹刀をふるう“脅し役”を演じて、彼女を徹底的に痛めつけた。この役は、それぞれ刑事たちペアにふられていたものらしく、彼女はクールに彼らを観察しつづけ、名前までわかる検事や刑事はフルネームを記録している。
戸塚警察署1935.jpg 戸塚警察署1936.jpg
  
 細谷主任は温厚な人である。いつも伏眼になり、低い控へ目な声でものをいふ。高原部長は私の最も苦手だつた。怒鳴られたのも、おどされたのも、この人である。背のづんぐりしたべつ甲ぶちの眼鏡をかけた人。この人が皮の鞭やしなひをもつと私はぞつとする。又ゴーモンがはじまるからである。阿部さんは好人物である。会社での課長級のかつぷくを供へてゐる。我々に寛大で、夜など暑いからといひ、九時すぎ迄二階においてくれた。誰れも阿部さんをわるくいふ人がなかつた。私を「小母さん」といつてゐた、二人の高橋さん。一人は胸毛のある、赤ら顔の、人のよい高橋さんであり、他は若い顔色のわるい、不愛想な高橋さんである。板倉氏は私の係り。最初のおどかしは今考へてもこつけいであるが、紳士的なところが好もしい。大の月、検事は中村義頼氏。高原部長に抱いたと同じ嫌悪感がこの人にも感じられた。又、本庁の係りの警部は野中満氏。
  
 矢田津世子は、細谷を特高室の刑事だと思っていたようだが所属は営業係であり、『戸塚町誌』Click!(1931年)によれば「細谷義」の役職は営業係長で、特高担当ではない。
 ちなみに、全国で特高により拷問死した敗戦までの「思想犯」(共産主義者、社会主義者・自由主義者・反戦主義者・アナーキストなど)は114名、留置場や刑務所での死亡は1,503名、重軽傷者はそれこそ無数でカウントできないが、戸塚警察署ではいったい何人の人間が死傷したものだろう。革製のムチや竹刀で身体をぶっ叩かれた負傷者の中には、当然、矢田津世子も含まれている。
 彼女は共産党へのカンパ容疑(当時の物書きを威嚇し抑圧する、検挙の典型的な口実だと思われる)なので、二度と共産党とは関わりをもたないという手記を書かされ、10日ほどの取り調べ(拷問)と留置で釈放されている。だが、この10日間の異常な生活が、矢田津世子の身体へ取り返しがつかないダメージを与えていた。以降、彼女は肺炎や肋膜を患い、やがては結核へと重症化していくことになる。
 矢田津世子の『獄中の記』は、特高刑事や看守たちの様子を克明に記録しているが、留置場に収監されていた人々を書きはじめたところで、ノートは未完のまま終わっている。おそらく本稿が書かれたのは、記憶も生々しい1933年(昭和8)の秋から暮れにかけてだと思われるが、彼女はつづきを書きたかっただろう。だが、戦争へと突き進む当時の社会情勢から、彼女は執筆や発表をついにあきらめざるをえなかったのではないだろうか。
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 ましてや、再び特高に取り調べを受けることにでもなれば、戸塚警察の内情を実名入りで記録したノートが発見・押収されて追及されかねないと考え、執筆を断念したものだろうか。矢田津世子が戦時中の1944年(昭和19)に病死しなければ、おそらく『獄中の記』は書き継がれて完成し、戦後まもなく発表されていたにちがいない。ノートが下落合の矢田邸で発見されたのは、彼女が特高に検挙されてから実に56年ぶりのことだった。

◆写真上:現在は、明治通り沿いに移転している戸塚警察署。それまでは、戸塚町2丁目67番地(現・西早稲田2丁目)にある銭湯「金泉湯」の南側にあった。
◆写真中上:矢田津世子が『獄中の記』でノートに記録した、戸塚警察署内の留置場平面図。赤い×印のところに筵が敷かれ、3人の女たちが寝起きしていた。
◆写真中下は、1935年(昭和10)に作成された「戸塚町市街図」にみる戸塚警察署。は、翌1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同署。本署建物の南西側に見えている、屋根が白く反射した小さな建築物が留置場だろうか。
◆写真下:ほぼ同時期の1930年に撮影された、牛込区の神楽坂警察署。当時の戸塚警察署も、おそらく似たような意匠の建物だったろう。

学習院の乃木希典vs哲学堂の井上円了。

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 このサイトでは、夏になると落合地域とその周辺域で語られてきた“怪談”を、これまで何度となくご紹介してきた。でも、今回はそれらの怪談に真っ向から「ウッソだぁ~!」と反駁している、井上円了Click!についてご紹介したい。
 1912年(明治45)に自裁した学習院Click!乃木希典Click!と、そこから西へ2,500mほどの井上哲学堂Click!にいた井上円了とが、乃木生前より面識があったかどうかはわからない。おしゃべり好きらしい乃木希典は、ことあるごとに学生や生徒たちを集めては怪談話を聞かせ、それを聞きつけた新聞記者までが学習院を訪れて取材していることも、こちらの記事でご紹介した。そのせいか、学生・生徒たちの親はもちろん、学内の進歩的な教師や学生たち(白樺派など)からは、繰り返し顰蹙をかっている。
 乃木希典の死後、井上円了は1919年(大正8)に丙午出版社から『真怪』を刊行しているが、この中で乃木が体験したさまざまな怪談について質疑応答の形式をとりながら、そのすべてを批判・否定している。質疑応答は、実際に行われた講義あるいは講演会で行われたものかもしれない。その内容は、ひと言でいえば科学と論理の時代に、古くさい江戸時代の迷信を引きずった心理的な作用がもたらす、他愛ない迷信と変わらぬ世迷言のたぐいと一蹴している。
 では、こちらでもご紹介している1909年(明治42)の報知新聞にも掲載された、乃木が山口県の萩にある「玉井山」で遭遇した、顔が見えないのになぜかは不明だが「美人」としている物の怪の話Click!について、井上の具体的な反駁を引用してみよう。出典は、1919年(大正8)出版の井上円了『真怪』より。
  
 乃木大将は如何に智人勇兼備であつても、妖怪専門の学者ではない、諺に餅屋は餅屋、酒屋は酒屋である如く、各専門家の判断を待たなければならぬ、此記事を熟読するに、臆病と深夜と暗黒と濃霧と疲労と山上深森の境との諸事情を綜合すれば、恐怖心より幻覚妄覚を生ずるに最も好都合の状態であるから、大将が自己催眠の状態に陥りて、幻影を見られたに相違ないと思ふ。
  
 つまり、これは「真怪」Click!などではなく、乃木希典が深山で経験した「催眠」状態の一種で、怖い怖いと思うからあらぬ幻覚が見えてしまうのだ……と、顔を隠した「美人」妖怪を全否定している。
 確かに、登山などで心理的に追いつめられるような極限状態に置かれると、見えないものが見え、聞こえない声が聞こえるという話はよく聞くケースだ。そのようなときは先を急がず、ひと休みしてタバコを一服すると“正気”にもどるという話も、山男の間ではポピュラーな逸話だ。これは、キツネに騙されたClick!ときは、タバコを吸うとよいというエピソードにもつながりそうだ。
井上円了「真怪」1919.jpg 井上円了.jpg
 これに対して質問者は、玉井山の「美人」妖怪は「幻覚妄覚」でも片づきそうだが、同じ報知新聞に掲載された、北陸・金沢の宿で出会った髪をふり乱す女の幽霊Click!は、どう解釈するのか?……と迫っている。井上円了は、この話は「論理的におかしい」とし、惨死をとげた女が殺した相手を恨むのならわかるが、縁もゆかりもない乃木を悩ますのは理にかなわないではないかとしている。
 しかも、同じ宿の3階の部屋に居つくのも不可解で、幽霊は「無礙自在」とされているのだからどこへでも移動できるはずであり、あるひとつの部屋に「固着」するのは理屈に合わない。もし、「怨霊」がなんの関係もない人間を苦しめるのであれば、人間の「狂人」でさえ自他を区別できるのに、これではそこらの「狂犬」と同じ道理ではないか。「怨霊」など存在せず、人が迷信からそのような妄想を抱いているにすぎない……としている。その上で、井上は次のように総括している。
  
 只今の三階の幻影は乃木大将が惨死のありしことを知らぬ時に起つたから、大将の予想ではないことは明らかである、就ては其夜の乃木大将の精神の内状如何の探検をしなければならぬ、併し今日にてはもとより其探検は出来ぬから、推想するより外に方法がない、余の推想によるに、其夜は大将の精神に過労を感じて居たか、若くは胃中に不消化を起して居ると、怖い夢を見たり、ウナサれたりするものである、そうして婦人の姿を見たのは、夢現中に起りし幻影に相違ない、即ち一種の夢である、斯く解釈し来らば、是れ亦不思議とは見られぬ。
  
 こうして、金沢の萩原家にいた妾の「怨霊」は、乃木による日本海の美味いもん食いすぎの消化不良と、単なる疲れと夢見のせいにされてしまった。
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 それでは納得できなかったのか、質問者たちは乃木のもっとも有名な幽霊譚を持ちだして、井上に質問している。それは説明するまでもなく、1904年(明治43)の報知新聞に掲載された、日露戦争の二〇三高地攻略戦で乃木の息子・乃木保典少尉が戦死したとき、8kmほど離れた乃木のもとへ別れの挨拶に出現したエピソードだ。質問者はどうだといわんばかり、「此話はドー説明したら宜うござりませう」と挑戦的に問うた。井上は、あらかじめこの質問を予想していたものか、次のように答えている。
  
 戦争当時にあつては兵隊の父兄は毎日其安否計りを気に掛けて居る、殊に何方面に今日激戦があるとの電報や号外があると、兵隊の父兄にはすぐに己の子弟は討死するであらうとの予想が起つて来る、其予想が原因となつて幻覚妄覚を描き出すなどは有り勝ちの事柄である、そうして其幻妄と戦死とが正しく相合すると、すぐに幽霊が戦死を知らせに来たときめて了ふ、此等は予想し得らるゝ範囲内であるから、決して不思議ではない、只今の乃木大将の話は、令息の戦士を予想し得らるゝ事情を有して居る、其予想が内に動いて夢現の間に幻影を見るに至り、戦死の事実と偶合したのである、例へば前夜寝る時に気候が蒸しあついから雨が降らうと予想して眠つた場合に雨の夢を見たが翌朝目がさめて見るに、果して雨が降つて居たと同類の話であるから、まだ真の不思議とすることは出来ぬ。
  
 またしても、夢見と幻覚妄想のたぐいの世迷言にされてしまい、乃木がこれを聞いたらかなり不満に思い腹を立てただろうか。井上円了によるほかの幽霊話に対する回答も、たいがい疲労や身体の不調、精神的に追いつめられたあげくのストレス、迷信や旧弊に起因する妄想幻覚とされてしまっている。さて、『真怪』の質問者たちは、井上の解説に満足して会場をあとにしたのだろうか。
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 井上円了が『真怪』を表してから、100年近くが経過した21世紀の今日、井上の人文科学的な視座が社会の隅々にまでいきわたり、幽霊譚や怪談のたぐいが一掃・駆逐されたかというと、まったく正反対に、大正当時よりもはるかに激増しているのが面白い。疲労と消化不良、夢見、幻覚妄想のせいにされてしまった乃木希典が、腹を立てて目白通りの上空を西へ向かい、井上哲学堂に化けてでたかどうかは、記録がないのでさだかではない。

◆写真上:怖い幽霊姉さんではなく、年とって優しい表情になった哲理門の幽霊母さん。
◆写真中上は、1919年(大正8)に刊行された『真怪』(丙午出版社)の奥付。は、著者で東洋大学の創立者である“妖怪博士”こと井上円了。
◆写真中下は、井上円了が眠る哲学堂前の蓮華寺。は、昭和初期の哲理門。
◆写真下:朱も鮮やかな六賢台へ上り、四聖堂と宇宙館を見下ろす。

下落合を転居していたらしい阿部展也。

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 下落合で「アトリエ研究会」を開催していた、阿部展也Click!のアトリエの記録がまちまちで悩ましい。人によって、書いていることがバラバラで、正確な状況が不明なのだ。敗戦の直後、抑留先のフィリピンから引き揚げてきた当初の仮住居は滝野川であり、進駐軍の将校住宅「グランドハイツ」へ絵を教えに通っていたころだ。その後に転居したのが、下落合2丁目679番地(現・中落合2丁目)でどうやらまちがいないようだが、彫刻家・松浦万象はアトリエを借りて仕事をしていたと書き、浅尾沸雲堂Click!浅尾丁策(金四郎)Click!は結婚したての新居兼アトリエを建てたとしている。
 しかし、同地番に阿部展也がアトリエを建てて住んでいたら、地元になんらかの伝承が残っているはずだが、そのような話をわたしは聞いたことがない。この地番へ大正期にアトリエを建てて住んでいたのは、1930年協会Click!へ出品していた笠原吉太郎Click!であり、わたしは前回の記事で笠原アトリエを借りていたのだろうかと疑問形で書いていた。しかし、笠原吉太郎の三女・昌代様の長女である山中典子様Click!にうかがっても、そのような記憶はないといわれる。昌代様は結婚して下落合を離れているので、アトリエを人に貸していたとすればそのあとの時代ではないかと、わたしも山中様も想像していた。
 だが、浅尾丁策の文章を読むと、ハッキリと「阿部さん自身の設計」による「瀟洒なホワイトハウス」だったとしている。また、川口軌外Click!の住居近くとも書いている。では、阿部展也がいたアトリエは、一ノ坂付近に建っていたのか?……というと、ことはそう簡単ではないのだ。なぜなら、先に書いた下落合2丁目679番地、つまり笠原吉太郎アトリエClick!の隣接地には、一ノ坂にアトリエを建てる間の仮住まいだったものだろうか、川口軌外が一時期住んでいたのを、同じく下落合(2丁目)679番地に住んでいた高良興生院Click!高良武久Click!が証言しているからだ。
 このような証言類を総合すると、下落合2丁目679番地の笠原アトリエの並びには、画家が借りて住めるようなアトリエ付き借家が建っていた……と解釈するのが、いちばん自然だろうか。この一画は戦災で焼けてはいないので、戦前の一時期に住んでいたのが川口軌外であり、戦後の一時期に住んでいたのが阿部展也だった……ということになる。でも、そう解釈はできても、浅尾丁策が書く「阿部さん自身の設計」した新築の「瀟洒なホワイトハウス」という課題がクリアできない。浅尾自身の記憶ちがいか、どこかで時系列の齟齬が生じているものだろうか。
 浅尾丁策が、下落合のどこかに建っていた阿部展也アトリエを訪ねたときの様子を、1996年(平成8)に芸術新聞社から出版された浅尾丁策『昭和の若き芸術家たち-続金四郎三代記[戦後編]』より引用してみよう。
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 真夏の太陽がジリジリと照りつけるある日のこと、洒落た網シャツに白ズボン、小肥りのニコやかなお客さんが入ってきた。フィリピンに抑留されていた写真家であり絵も描かれていた阿部展也さんであった。引き揚げ間もない当時、滝野川に仮住居しておられ、綺麗な女性を連れておられた。フィリピン抑留中、現地の女優さんと結婚しお子さんが二人おられたが、どんな事情か、三人とも現地に残して帰国されたとのことであった。/その後、下落合の川口軌外さんの近くに新居を設け絵画一本に専念、当時の美術文化協会に籍を置き大いに活躍しておられた。その極めて明るい画面とユニークな着想が当時の美術文化展の花形となった。彼のアトリエには桂ゆきさんや杉全直さんなども時々顔を見せていた。下落合の新居は外地仕込みの阿部さん自身の設計になる瀟洒なホワイトハウスで、ここで前に連れてこられた綺麗な女性と結婚された記念にフィリピン在住の折、長時間を費やして描かれた貴重なデッサンを一点頂いて、今も大切に所蔵している。
  
 もし、浅尾丁策の記述が勘ちがいでなく事実だとすれば、阿部展也は川口軌外と同じように、一ノ坂の近辺に自宅兼アトリエが完成するまで、下落合2丁目679番地のアトリエ付き借家で仮住まいをし、のちに竣工した新築「ホワイトハウス」へと移っている……ということになるだろうか。だが、少なくとも1949年(昭和24)の秋まで、阿部展也のアトリエ兼住宅は下落合2丁目679番地にあったとみられ、「画家・阿部展也発見」展(2000年)の図録では同地番のアトリエで撮影された写真が掲載されているし、先の松浦万象の証言も西坂Click!上の同地番のアトリエを訪ねたときのものだ。
 換言すれば、浅尾丁策が阿部展也アトリエ=「ホワイトハウス」を訪ねたのは、1949年(昭和24)の秋以降であり、それは一ノ坂上の川口軌外アトリエの近くに新居が竣工したあとということになりそうだ。そのつもりで、1960年(昭和35)に作成された「下落合住宅明細図」を参照すると、一ノ坂の途中に「阿部」家を発見することができる。下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)の川口軌外アトリエから、一ノ坂を南へ70mほど下った左手、下落合4丁目1986番地に阿部邸が採取されている。この下落合4丁目1986番地という地番は、1932年(昭和7)11月から1939年(昭和14)7月まで、矢田津世子Click!が家族とともに暮らしたとみられる借家の敷地に隣接している。
 ちなみに、「美術年鑑」に掲載の阿部展也の住所は、1957年(昭和32)まで下落合2丁目679番地となっていて、西坂上にいたことになっているけれど、彼が笠原吉太郎アトリエに隣接して新妻と住むアトリエ兼自宅を新築した……という伝承は地元では聞いたことがないし、川口軌外アトリエとは直線距離で600mも離れている。画家の最寄りのアトリエといえば、笠原アトリエをはじめ吉田博アトリエClick!佐伯祐三Click!アトリエということになるだろう。「美術年鑑」の表記は、フィリピンに残してきた現地の妻および子ども2人と、下落合での新たな結婚と、なんらかの関係がある現象だろうか? また、阿部展也アトリエの近くには、美術文化協会の所属していた杉全直(すぎまたただし)のアトリエも建っていた。
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阿部アトリエ1961.jpg
 さて、その阿部展也だが、落合地域では瀧口修造Click!と仲がよかったことでも知られている。阿部は浅野丁策へ、なにかの機会に西落合に住んでいた瀧口修造を紹介している。浅尾は、神田神保町にあった画材店「竹見屋」の再建プランナーとして、瀧口修造がピッタリだと思いあたった。竹見屋は、浅尾丁策が独立して店をもつ前に修行をしていた伝統のある高名な画材店であり、当時の経営者が死去したあと、画材には素人の弟があとを継いで、戦後の混乱期からなんとか再起しようと浅尾丁策に相談したのがきっかけだった。そのときの様子を、浅尾の前掲書から引用してみよう。
  
 幸いにも、私は阿部展也さんを通じて瀧口修造さんを識っていた。当時の瀧口さんはモダンアート評論家として名実ともに高く、お人柄も清廉潔白の方とお見受けしていたので、この方をおいて他にないと考え、早速下落合(ママ)のお宅を訪れ頼み込んでみた。原稿を書かれたり絵を描いたりのお忙しい日常の先生のことゆえ、お引き受けしていただけるかどうか危惧していたが、案に相違し大変喜ばれ、今、目をかけている若い作家が何人かいるが、その作品の発表の場がなくて困っていたところだ、しかも無料で使わせてもらえるとのこと、こんな都合の良いことはない、と話はトントン拍子にまとまり、やがて新進有望作家の展覧会が次々と開かれ、その都度新聞美術欄や美術雑誌に画評が掲載されるや、竹見屋画廊は日一日と観客の出入りが多くなり、したがって奥の画材店も繁盛するようになった。
  
 文中で「下落合のお宅」と書かれているが、西落合1丁目149番地(現・西落合3丁目)に建っていた瀧口修造邸、すなわち「西落合のお宅」の誤りだろう。
阿部展也邸?.JPG
阿部展也「四人の愉快な仲間達」1961.jpg 瀧口修造.jpg
 このとき、瀧口修造は各展覧会の初日には必ず竹見屋画廊へ詰めて、1日じゅう若い画家たちや画廊を訪れる観客と歓談していたらしい。中には、作品よりも瀧口に会いたくてやってくる訪問客もいただろう。各展覧会ごとに、浅尾丁策が用意したプランニング&顧問料を瀧口は固辞し、ついに一度も受け取ってはくれなかったようだ。

◆写真上:下落合2丁目679番地に建っていた笠原吉太郎アトリエ(道路右手)前に通う、西坂筋の尾根道=星野通りClick!(八島さんの前通りClick!)。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる笠原吉太郎アトリエとその周辺。笠原邸の南側に同じ仕様の家屋が2軒並んで建っているが、これがアトリエ付きの借家だろうか? は、一ノ坂に面した下落合4丁目1995番地の川口軌外アトリエ跡の現状。
◆写真中下は、1960年(昭和35)に作成された「下落合住宅明細図」にみる川口邸と阿部邸。は、1961年(昭和36)撮影の空中写真にみる同所。
◆写真下は、阿部邸があった路地(右手)の現状。下左は、1961年(昭和36)に制作された阿部展也『四人の愉快な仲間達』。下右は、西落合にあったアトリエの瀧口修造。

緑深い下落合の風景写真1963年。

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七曲坂目白御留山DPRX.JPG
 東京オリンピックの前年、1963年(昭和38)に撮影された下落合の風景写真が2枚残っている。いずれも、竹田助雄Click!「落合新聞」Click!に掲載されたものだが、十三間通り(新目白通り)ができる以前の下落合の情景で、いまとなっては大通りの下になってしまった街並みを知るうえでは貴重な写真だ。
 まず、1枚目は下落合の目白崖線に通う久七坂Click!界隈から、御留山あたりまでを上戸塚(現・高田馬場3丁目)側から撮影したパノラマ写真だ。広角レンズによる1枚写真ではなく連続写真で撮影し、のちに真ん中あたりで合成したのではないかとみられるが、丘の下には西武線と旧・神田上水(1966年より神田川)、そして画面の左端(西側)には旧・神田上水と落ち合う妙正寺川があるのみで、新目白通りが存在しない街並みがめずらしい。
 画面の中央右寄りには、目白変電所へとつづく高圧線(東京電力谷村線)の鉄塔が写っており、このあたりには火の見櫓が存在しないので、撮影ポイントはおそらく戸塚第三小学校Click!の北側に建つ校舎の2階か屋上だろう。写真と同じ1963年(昭和38)の空中写真で確認すると、手前に写る建物の角度などから、戸塚第三小学校の高所に三脚を立てると、下落合に連なる丘がこのように見えたのではないかと思われる。
 まず、風景の左手(西側)から見ていこう。丘の斜面に見えている白いコンクリート建築は、久七坂筋に建っていたアパート2棟だ。アパートのすぐ右手前には、つばめドライクリーニング工場が見えている。同じ位置角度の写真は4年後、新宿区教育委員会が下落合の横穴古墳群Click!を発掘する1967年(昭和42)にも撮影している。画面左端に写る煙突は、妙正寺川の北岸に建っていた朝日工業の工場、あるいはKK正人刃物製作所の作業場のものだろう。さらに、画面の左下には北詰めの細い道路が行き止まりで、当時は無名の小さな私設橋(滝沢家で設置したものだろうか?)がとらえられている。この橋は現在もそのまま架かっており、「滝沢橋」と呼ばれている。
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 視点をやや右へずらしていくと、薬王院の屋根とともに門前のすぐ南側にあった火の見櫓がとらえられている。そして、戸塚第三小学校からは戸塚側から薬王院門前へと向かう参道が、西武線の踏み切りをクロスして真正面から写っている。路上を歩く人影までとらえられており、道は右側(東側)へゆるやかにカーブし、薬王院の山門前へつづいていたのがわかる。薬王院の左上、墓地に隣接した東側には、屋上に水道タンクを載せた大きなアパート状の建物が写っており、できたばかりのNHK落合寮か銀行の落合アパートだろう。少し前までは、ここにルリ幼稚園が開園していた。
 写真の中央やや右寄りには、下落合氷川明神社の周辺がとらえられているが、その左横に建つ焼却炉風の細めな煙突は三馬グラビア印刷工場か、あるいは河野建設のものだろうか。そのさらに左手には、濃い屋敷林が繁った邸宅があり、庭で焚き火をしているらしい白煙が立ちのぼっている。この位置にあるのは、西武線の線路に面して大きな敷地をもっていた蔵手木邸だと思われる。
 画面右へ目を移すと、の御留山との落合第四小学校の校舎の一部が写っている。落四小学校のすぐ左手(西側)には、大倉山(権兵衛山)へと通う権兵衛坂Click!の途中に、大きめな集合住宅が建てられているのが見える。戦前には、落合キリスト伝道館Click!が建っていた敷地のすぐ上だ。そして、画面右端には新宿区の土木部淀橋工事事務所(1972年より新宿区立中央図書館)の、モダンなビルが建っている。
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 さて、もう1枚の貴重な写真は、下落合の七曲坂Click!から早稲田通り沿いに建っている西友ストアのビルを中心に、南南東の方角を向いて撮影した風景だ。三脚をすえた撮影ポイントは、旧・大島邸跡に建っていた東京大飯店を経営する李合珠邸(現・目白御留山デュープレックス)の庭園南端からで、下落合から上戸塚にかけ高いビルや住宅が存在しないため、小高くなった早稲田通り沿いの建物までが見とおせる。
 画面の右手(西側)には、緑が濃い下落合氷川明神社Click!の境内が見え、手前の瓦葺き屋根の住宅の下が七曲坂だ。氷川社の向こう側には、1968年(昭和43)より富士女子短期大学(現・東京富士大学)の高田記念館が建設されるはずだが、下落合の丘から眺めるとひときわ突出して見えた特徴的な時計塔Click!は、いまだ存在していない。画面中央の西友ストアビルから、左手(東側)へ目を移すと田島橋Click!あたりが視界に入るはずだが、残念ながら樹木の枝とぼやけた画像でよく見えない。田島橋の南詰めには、大正初期に建設された東京電燈谷村線の目白変電所Click!(当時は東京電力)のコンクリート建屋が、大きく見えているのだろう。
 いずれの写真も、撮影ポイントからの距離が遠くなるにつれ、まるで霧でも出ているように風景がぼんやりとして見えるが、1963年(昭和38)に東京じゅうを覆っていたスモッグのせいだ。当時は午前11時前なのに、まるで午後3時ぐらいのような陽射しで、東海道線に乗ると横浜をすぎるあたりから、空気がクリアになって本来の陽射しにもどったのを、車窓から眺める風景とともに憶えている。
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 いまでは空気が澄んでいる日が多く、下落合の丘上からは遠景までクリアに見えることが多いけれど、そのかわり1960~70年代には存在しなかった高層のオフィスビルやマンションが急増Click!したため、それらに視界を遮られて遠景が見えにくくなっている。竹田助雄が撮影したパノラマ写真だが、同様に遠くまで見とおせるパノラマ写真を撮ろうと思ったら、カメラをセットしたドローンでも飛ばす以外になさそうだ。

◆写真上:七曲坂の李合珠邸跡(現・目白御留山デュープレックス)ら新宿方面を眺めたところ。いまだ、新宿区の中央図書館と河野建設が建っていた時期のもの。
◆写真中上:「落合新聞」1963年(昭和38)6月12日号掲載の、下落合東部の丘陵写真()と目標物番号をふった画面()。は、同年の空中写真にみる撮影角度。
◆写真中下からへ順番に、の無名橋(滝沢橋)から久七坂方面の風景。下は1967年(昭和42)に新宿区教育委員会が撮影した、下落合横穴古墳群の発見斜面と久七坂界隈。薬王院界隈で、上戸塚から山門へとつづく参道が正面からとらえられている。下落合氷川社あたりの様子で、手前の高圧線鉄塔は目白変電所へと向かう東京電力谷村線。御留山と落合第四小学校界隈の遠望で、右端に見えるモダンなビルは新宿区土木部淀橋工事事務所(1972年より新宿区立中央図書館)。
◆写真下は、「落合新聞」1963年(昭和38)8月11日号に掲載された、七曲坂の李合珠邸から眺めた上戸塚(現・高田馬場3丁目)方面。は、同年の空中写真にみる撮影角度。は、下落合氷川社の周辺および目白変電所と西友ストアビルの遠望。当時はスモッグがひどく、遠景がぼやけてハッキリ見えない。

1966年3月7日の「下落合風景を囲んで」。

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下落合風景を囲んで19660307.jpg
 落合第一小学校で撮影された1枚の写真を、かなり以前にご紹介Click!していた。(冒頭写真) それは、会議室か教室に集まった人々が、イスに立てかけられた1枚の絵に見入っているシーンだ。1977年(昭和52)に刊行された国友温太『新宿回り舞台―歴史余話―』に掲載されていた写真だが、解説には1966年(昭和41)3月6日に落合第一小学校の会議室で、佐伯米子Click!を招いて佐伯祐三Click!の1作、『下落合風景(テニス)』Click!(50号)を鑑賞しているシーンだと書かれていた。
 この写真について、詳細な情報が判明したので改めて記録しておきたい。まず、上掲の『新宿回り舞台』に記載されたタイムスタンプが、誤りである可能性の高いことだ。当時、落合第一小学校Click!の岩本祝校長が主催した「下落合風景を囲んで」の集いは、1966年(昭和41)3月7日の午後に、同校会議室で開かれているとみられる。そして、同書掲載の写真には、岩本校長の姿はとらえられていない。左端は、岩本校長に招かれた佐伯米子Click!だが、校長はその陰になって頭の一部しか見えていない。立って発言しているのは、下落合3丁目1736番地にあった熊倉医院Click!の院長・熊倉進であり、その右横に座っているのは歴史作家の中窪愛之進だ。
 なぜ、このシーンの詳細が判明したのかといえば、同日に「落合新聞」Click!竹田助雄Click!もまた、落合第一小学校で開かれた「下落合風景を囲んで」に参加しており、同年に発行された落合新聞4月19日号に記事が掲載されているからだ。また、竹田助雄が撮影したこの集いのバリエーション写真も、同号の紙面に掲載されている。そして、そこには冒頭の写真とは異なり5人の人物が写っており、佐伯米子の陰になって見えなかった落合第一小学校の岩本祝校長もとらえられている。このとき、岩本校長は定年退職まで、あと20日あまりを残すだけとなっていた。
 第19代校長だった岩本祝は、ことのほか文化的な活動や催しが好きだったらしく、落合地域でもっとも古い小学校である同校の沿革が、まったく記録されていないことを惜しみ、長期間かけて『落合第一小学校沿革誌』をまとめている。岩本校長が退職した当時、同校は創立74周年を迎えていた。現在(2016年)、創立124周年を迎える同校は1892年(明治25)7月7日、蘭塔坂Click!(二ノ坂)上にあった宇田川徳左衛門の旧邸で授業をスタートしたのがはじまりで、初代校長には葛ヶ谷Click!(西落合)で私塾を経営していた牧頼元が就任している。当時の全校生徒は、わずか30人にすぎなかった。
 その後、1898年(明治31)に現在地となる下落合1309番地(現・中落合2丁目)へ、校舎を新築して移転している。この新校舎は、1903年(明治36)9月23日の台風によって全壊したが、教員の機転で生徒たちを早退させていたため、死傷者を出さずにすんだ。この台風については、淀橋小学校へ通っていた小島善太郎Click!記事Click!でも過去に少し触れている。淀橋小学校でも校舎が全壊し、在校していた生徒や教員たちの多くが死傷している。そのほか、『落合第一小学校沿革誌』には関東大震災Click!の際の被害や学童疎開Click!山手空襲Click!のときの様子などが記録されており、過去に出版されているとすれば、入手して一度は読んでみたい資料だ。
落合新聞19660419.jpg
落合尋常高等小学校190803.jpg
下落合風景を囲んで19660307(落合新聞).jpg
 さて、「下落合風景を囲んで」のシーンにもどろう。佐伯祐三アトリエClick!の隣りに住み、同校の教師だった青柳辰代Click!によって寄贈された『下落合風景(テニス)』は、校長室に架けられたまま戦後を迎えた。そして、落合第一小学校が創立70周年を迎えた1962年(昭和37)11月16日に、記念行事の一環として同校で一般公開されている。この直後、1963年(昭和38)4月に岩本校長が就任すると、制作メモClick!によれば1926年(大正15)10月11日の制作時から戦後まで、一度もクリーニングされたことがなくクラックなどの傷みが激しかった画面へ、おそらく初めて修復の手が加えられている。以下、1966年(昭和41) 4月19日発行の落合新聞から引用してみよう。
  
 佐伯祐三画伯の油絵と南原先生の「自主創造」
 ほかに沿革誌には、昭和二年頃の作と思われる佐伯祐三画伯描く「下落合風景」(五十号)と、昭和二十六年に頂戴した南原繁元東大学長筆「自主創造」の書のあることを両氏の略歴と共に記載。「下落合風景」は同校七十周年記念(昭和三十七年十一月十六日)事業のとき父兄一般に公開されたことがある。この絵は戦災などで汚れていたため、岩本校長が元芸大講師竹内健氏に依頼して修復なされた。
  
 わたしが1980年代に、初めて間近で目にした『下落合風景(テニス)』はあちこちにクラックが走り、厚塗りの一部の絵の具が剥落していたのを憶えている。したがって、1963年(昭和38)ごろに行われた最初の修復は、ほんの短期間で一時的な間に合わせのものだった可能性が高い。小学校の予算では、あまりコストをかけられなかったせいもあるのだろう。
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テニス1979.jpg
テニス(現在).jpg
 佐伯の全画集でいうと、1968年(昭和43)に講談社から出版された『佐伯祐三全画集』には、一度も修復されず制作時からそのまま伝えられてきた、あちこちにクラックが走り絵の具の剥落が見られる画面写真が掲載されている。この写真が、1963年(昭和38)以前に撮影された修復前の画面の様子だろう。つづいて、1979年(昭和54)に朝日新聞社から出版された『佐伯祐三全画集』の収録画面は、岩本校長が第1次修復を終えたあとの画面で、現在の画面とはかなり異なっている。
 わたしが1980年代に観た画面は、その応急処置的な第1次修復の画面が再び傷みだし、佐伯独特の厚塗りと下塗りが影響してか、クラックや絵の具の剥落が止まらなくなった時期のものと思われる。そして、新宿歴史博物館で保管されるようになってから、ようやく本格的な第2次修復が行われたという経緯なのだろう。ちなみに、文中に登場している南原繁Click!の書「自主創造」は、残念ながら一度も見たことがない。
 同記事に添えられた写真には、冒頭写真の3人ではなく5人の人物がとらえられている。左端に立って、おそらく寄贈された『下落合風景(テニス)』の想い出を語っているのは、落合第一小学校の第7代校長の佐口安治、佐伯米子の斜めうしろに座るのが定年退職が間近な第19代校長の岩本祝だ。このとき、佐伯米子は「この絵、覚えていますわ」と答えたきり、あまり発言はしなかったようだ。当然、「佐伯画伯は、どこのテニスコートを描かれたのか?」という質問も出たのだろうが、足の悪い彼女が佐伯の制作に同行することはなく、また落合新聞にも具体的な描画ポイントClick!が紹介されていないので、目白文化村Click!のあたりぐらいで話が終わっているのだろう。
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 注目したいのは、写真にとらえられている『下落合風景(テニス)』の額だ。現在、同作はまるでフランスのルイ王朝時代を思わせる、金きらきんの派手な額に入れられているけれど、同画面には、いや佐伯の「下落合シリーズ」Click!の画面には、しぶくて落ち着いた木製額が似合うと思う。写真にとらえられている額は、おそらく青柳辰代Click!のセンスであつらえられたのだろう、寄贈当時のままの姿だと思われる。

◆写真上:1966年(昭和38)3月7日の午後に、落合第一小学校の会議室で開かれた「下落合風景を囲んで」の様子で左から佐伯米子、熊倉進、中窪愛之進。
◆写真中上は、1966年(昭和38)4月19日の落合新聞に掲載された岩本校長の退職と『落合第一小学校沿革誌』の記事。は、1908年(明治41)3月に撮影された落合尋常高等小学校の卒業写真。背後の建物は、1903年(明治36)9月の台風で全壊した校舎を再建したもの。は、落合新聞の同号に掲載された「下落合風景を囲んで」写真。左から第7代校長・佐口安治、佐伯米子、第19代校長・岩本祝、熊倉進、中窪愛之進の順。
◆写真中下は、1960年代に撮影された落合第一小学校の校舎。は、1963(昭和38)ごろに行われた岩本校長による第1次修復後に撮影されたとみられる画面。大きなクラックの補修と、とりあえず絵の具の剥落を抑える処理のみが行われたとみられる。は、新宿歴史博物館に収蔵された現在の画面。
◆写真下:佐伯の厚塗りと独特な下塗りのせいで、画面の随所にクラックや剥落が生じて抑えるのがむずかしい。『下落合風景(テニス)』の空()と雲()と地面()。

下落合を描いた画家たち・大内田茂士。

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大内田茂士「落合の街角」1986.jpg
 西落合1丁目208番地(現・西落合3丁目)にアトリエをかまえていた大内田茂士Click!は、1986年(昭和61)に『落合の街角』と題するタブローを残している。(冒頭写真) 福岡県立美術館に収蔵されている同作は、大石田が73歳のときの作品で、アトリエの近所を描いた画面ということになっているらしい。1986年(昭和61)といえば、わたしの下落合時代とはすでに同時代であり、そのどこかの街角を描いたものであれば、その特定は容易なはずだった。だが、どこかで見たことがありそうな街角にもかかわらず、これが落合地域のどこを描いたものか、わたしにはさっぱり思いあたる街角がない。
 結果からいえば、このような街角は80年代の落合地域には存在しないし、電柱に貼られた看板の「上田外科」も、少なくとも1986年(昭和61)現在には存在していない。そもそも、この画面には不思議な情景が数多く描かれている。まず、遠くの電線にとまるカラスが、手前の交通標識にとまるカラスよりも、はるかに大きく描かれている。手前のカラスを“実物大”だと解釈すれば、奥のカラスは羽を広げると3mほどにもなる、南米のコンドルほどのサイズになるだろうか。
 また、画面を右から左へ横切る道路を観察すると、どうやら2車線ではなく一方通行の1車線であることがわかる。「30」と描かれた制限速度が見えるので、2車線道路とすれば右側通行になってしまってありえないからだ。つまり、画面を横断する道路は右から左への一方通行なのだと想定できる。だが、よく交差点の路面などに塗布されている、ブレーキのききをよくする茶色いスリップ防止塗料と制限速度を表す数字が、1車線で左右に分かれて表示されている場所をわたしは知らない。画面の状況をそのまま解釈すれば、クルマの左側タイヤだけブレーキのききをよくする塗装のしかたなのだが、少なくとも落合地域の1車線道路でこのような路面の施工を、わたしは見たことがない。
 もうひとつ、制限速度が「30」(時速30km)の表記についての課題がある。下落合(現・中落合/中井2丁目含む)と上落合は、昔ながらの道筋がそのまま舗装されているのでカーブや入り組んだ道路が多く、またガードレールを設置するスペースもとれないため、ほとんどの1車線道路は制限時速が「20」(時速20km)に設定されている。落合地域で「30」が多いのは、耕地整理で碁盤の目のように比較的ゆったりとした広めの道路が確保でき、ガードレールが多く設置された西落合地域だ。換言すれば、「30」の制限速度表記のある一方通行の道路は、必然的に西落合の可能性が高いことになる。
大内田茂士「落合の街角」拡大1.jpg
大内田茂士「落合の街角」拡大2.jpg
 次に、ガードレールの課題だ。手前に描かれたガードレールは、緑と白に色分けされた特徴的なものだ。この意匠のガードレールは、小学校か幼稚園のごく近く、つまり子どもたちが集まりやすい登校路の周辺にしか存在しない。同じかたちのガードレールでも、学校や児童施設から離れた通常の街角であれば、白1色に塗られるのが東京都建設事務所の“お約束”になっている。これらのことを前提に、西落合の落合第六小学校の周囲をいくらあたってみても、このような道筋も街角も存在していない。いや、落合地域じゅうの学校や幼稚園の周辺、緑と白に色分けされたガードレールが存在しそうな、落合第一小学校から落合第六小学校までの周囲をあたってみても、このような風景は存在しない。
 画面の中で唯一、具体的な名称が描かれている先に触れた電柱の「上田外科」看板だが、下落合(現・中落合4丁目)の下落合みどり幼稚園Click!前には、ドラマのロケにも使われる上田医院Click!が実在するけれど、内科・小児科が診療科目であって外科ではない。ただし、西落合には「城田外科」医院が実在している。この電柱看板の向きをはじめ、各種の交通標識やカーブミラーが向いている方角も、画面を右から左へ横切る一通の道路用なのか、それとも左から画面奥へとつづいているらしい、より細めな路地状の道路へ向けた標識なのか、その角度や向きが曖昧だ。
 陽光は、手前の右寄りから射しているように見えるのだが、空が単純な青ではなく青紫がかっているところをみると、早朝か夕暮れに近い時間帯のような空気感をおぼえる画面だ。だが、光線に色はないようで、道路向こうに建つ3階建て(?)の住宅(低層マンション?)の壁は真っ白く輝いて見える。道路標識からすると、画面左手にはより細い道路があり、そのまま右から左へ走る一通道路の向こうへ、つづきの細い道路が“十字”にクロスしているような雰囲気だ。緑が繁る道路の向こう側は、土地がやや低くなっていく斜面状の地形なのか、樹木のてっぺんが画家の視線とほぼ同じ高さに描かれている。
落合第六小学校1989.jpg
大内田茂士「仮面と卓上」1986.jpg 大石田茂士「張り子の仲間たち」.jpg
 以上のようなテーマや課題を総合すると、このような地形や道筋を備えた学校ないしは幼稚園近くの風景『落合の街角』は、大内田アトリエのある西落合にも下落合にも、また上落合にも、1986年(昭和61)当時あるいはそれ以降も実在しない。作品とほぼ同時代である、1984年(昭和59)および1989年(昭和64)にカラーで撮影された空中写真を仔細に観察しても、描かれたような地点は落合地域にはないのだ。
 大内田茂士は、興味をおぼえたさまざまなモチーフを集め、コラージュ手法で画面を構成するのが好きな画家だったようだ。画面に登場するカラスも、大内田が好きなモチーフのひとつだったらしく、そのサイズや姿態は遠近法をまったく無視して自由に“構成”され描かれている。ということは、落合地域のさまざまな場所で採取し、スケッチをしていたモチーフを、まるで部品を組み合わせるようにコラージュし、心象風景として象徴させたのが『落合の街角』ではないだろうか。
 わたしの「どこかで見たような風景」という感触は、1986年(昭和61)当時に落合地域のあちこちで目にし、記憶していた風景の断片、その部分部分が画面のあちこちに散りばめられているせいなのかもしれない。
 この作品を描いたとき、大石田茂士は73歳になっていた。ひょっとすると、重たい画道具一式を下げて写生現場へと出かけていったのではなく、アトリエにこもって以前に各地で描きためておいた落合風景のスケッチ帳を参照しながら、キャンバスの前で自由自在に画面構成をしていたのではないか?……、そんな気もする作品なのだ。
大内田茂士アトリエ1984.jpg
大内田茂士アトリエ跡.JPG
 ある友だちに、大内田茂士の『落合の街角』を「どこだろ?」と見せたところ、やはりわからなかったらしく、画面の時間帯は夜明けで真っ黒な2羽のカラスは「あけがらす」Click!にちがいなく、九条武子邸Click!の周辺を描いたもの、すなわち落合第四小学校Click!の周辺を描いたものにちがいないといわれ、思わず噴き出してしまった。w

◆写真上:1986年(昭和61)に制作された、大内田茂士『落合の街角』。
◆写真中上:『落合の街角』に描かれたカラスと、一通の道路面を拡大したもの。
◆写真中下は、1989年(昭和64)の空中写真にみる西落合の落合第六小学校とその周辺。下左は、1986年(昭和61)に制作された大内田茂士『仮面と卓上』。下右は、同じころに描かれたとみられる大内田茂士『張り子の仲間たち』。
◆写真下は、1984年(昭和59)の空中写真にみる西落合1丁目208番地の大内田茂士アトリエ。は、大内田アトリエ跡の現状。


しばしば盗まれた展覧会の絵画。

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 ドロボーによる被害が多かった曾宮一念Click!だが、1920年(大正9)に借りていて被害に遭った下落合544番地Click!の界隈は、どのような風情をしていたのだろう。当時の借家周辺を描写したエッセイを見つけたので、引用してご紹介したい。
 下落合544番地の借家は、中村彝Click!アトリエの西側接道から北へ120mほど歩き、清戸道(現・目白通り)をわたった左手の一画に建っていた。この借家に曾宮一念は、ほんの短期間しか住んでおらず、すぐに淀橋町柏木128番地の借家Click!へと転居しているせいか、記憶にはいくらか思いちがいや事実誤認がみられる。では、1985年(昭和60)に文京書房から出版された、曾宮一念『武蔵野挽歌』より引用してみよう。
  
 大正九年、落合の地所を借りた時は畑の畝にヒメムカシヨモギが藪をなしていた。練馬街道の南が落合村、北側が長崎村、この街道で交通のもっとも多いものは野菜、ことに大根の車で、菅笠姿の少女が車を後押をして行った。秋の練馬大根のぬかみそはうまかった。家の半ばは茅葺で大きな飯屋の前には馬を繋ぐ杭があった。川柳「柳多留」の「煮売屋の柱は馬に喰われたり」を思い出す。未明に馬力車がガタガタ鳴る音で目が覚めた。長崎村は殆ど麦畑で、画布をささげて(ママ)行くと湧水の洗い場に熟麦と大根の花が映っているので描きはじめた。
  
 この記述の中で、練馬街道と書かれているのが清戸道(せいどどう)Click!、すなわち現在の目白通りのことだが、この街道の南側のみが落合村なのではなく、曾宮の住んでいた街道の北側も、住所から自明のように落合村だった。(現在でもこの境界が豊島区と新宿区の区境になっている) また、曾宮が住んでいた目白通りの北へ食いこむ下落合に接していた、さらに北側の地域は「長崎村」ではなく、高田町雑司ヶ谷旭出(現・目白3~4丁目)だ。長崎村は、さらにその北または西方向に拡がるエリアだ。
 ここに書きとめられている、「長崎村」の洗い場Click!がどこにあったのかは不明だが、周囲に麦畑が拡がっているところをみると、西側の長崎村荒井にあった泉が湧く傾斜地あたりまで、画道具を持って散策しているのかもしれない。
地形図1921.jpg
下落合544.jpg
 その後、曾宮一念は1921年(大正10)の3月、下落合623番地へ自宅+アトリエClick!を建てて引っ越してくるが、ここでもまたドロボーClick!に入られている。盗まれたのは、佐伯祐三Click!から第2次渡仏前にもらった黒いニワトリ7羽Click!で、佐伯が建ててくれた庭先の鶏舎から全羽が消え失せた。
 大正期から昭和初期にかけ、東京郊外の住宅街には強盗Click!ドロボーClick!による事件が頻発していたが、絵画の展覧会をねらったドロボー事件も、頻繁に起きていたようだ。同書から、ふたたび引用してみよう。
  
 もっと我々に近い、展覧会での盗難が時々起った。だれも振り向いてくれない。我々は盗まれると新聞に載るから入場者が増えると笑ったが、大先生方には恐慌であったろう。画泥棒は流行のように広がり、東京から京阪を襲い、ロートレックの盗難も紙上で知った。だいぶ前モナリザが盗まれたのは伊太利人がナポレオンの戦利品と誤解して盗んだと言われる。私の友人高橋泰雄の日展出品画が盗まれ、彼は犯人だと疑われ迷惑したそうである。
  
 展覧会で絵が盗まれても、周囲からはどこか愉快犯的な捉えられ方をしていて、大事件ではないと思われていたフシがうかがえる。おそらく警察でも、別に深刻な被害が出たとは感じていなかったのか、親身になって捜査している様子が見られない。
武蔵野挽歌1985.jpg 曾宮一念.jpg
 当時は、「たかが絵じゃない。また描けばいいじゃないか」というような感覚が、世間ではいまだ一般的だったのだろう。だが、ある程度名前が知られている画家にとってみれば、長時間かけて制作した作品を一瞬で盗まれるわけだから、納品先が決まっていたとすれば取り返しのつかない深刻な被害だったろう。
 曾宮一念も、実際に作品を盗まれている。こちらでもご紹介している、1925年(大正14)に描かれ第12回二科展に出品されて、樗牛賞Click!を受賞している『冬日』Click!だ。作品は、展覧会会場で盗まれたものではなく、作品を後援者に寄贈したあと、めぐりめぐって東京の企業で盗難に遭っている。つづけて、『武蔵野挽歌』から引用してみよう。ちなみに、文中にある「私の家」は、下落合623番地へ1921年(大正10)に建てた自宅+アトリエClick!のことだ。
  
 野菜の洗場は谷さえあれば必ずあり、私の家から見下す谷にも、四角な湧水が雲を映していた。幾度か描いたこの洗場の画の一つが戦後盗まれた。金にもならぬこの画は私には落合の形見として惜しい。(中略) 私は詐欺横領ともつかぬ不払には度々あった。これは画描きなら誰も泣寝入りで終る。大正の末年の唯一残っていた「冬日」は落合の住いの記念でもあった。当時私の後援者に寄贈したのが、転じて東京の住友化学社にあったのだが何人かに持ち去られた。こんなもの盗人には金にならず何のための盗みかわからない。花盗人は窃盗に入らず、我々の旧作はさがされず、犯人も捕われない。
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 『武蔵野挽歌』が書かれた1985年(昭和60)当時、曾宮が哀惜をこめて書く『冬日』(1925年)の盗難だが、その後、同作は無事に発見されて、現在では静岡県菊川市の常葉美術館に収蔵され、展覧会などで目にすることができる。作品の転売ルートを通じて、犯人が逮捕されたかどうかは、さだかでない。
 余談だが、1962年(昭和37)に5代目・目白駅Click!が完成し、翌年には新しい跨線橋が竣工している。その跨線橋に絵画の展示スペースが設けられたのだが、さっそく展示作品を盗まれている。その詳細に関しては、機会があれば、また、別の物語で……。

◆写真上:早稲田大学図書館に収蔵されている、1923年(大正12)11月に制作された曾宮一念『風景』。下落合へ画室を新築する際に援助してくれた津田左右吉Click!へ寄贈したもので、落合地域かその周辺域を描いた一連の作品とみられる。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる曾宮一念が短期間住んでいた下落合544番地界隈。は、目白通りに面した同地番の現状。
◆写真中下は、曾宮夕見様Click!の装丁による曾宮一念『武蔵野挽歌』。は、1988年(昭和63)にアトリエで撮影された95歳の曾宮一念。
◆写真下:一時盗難で行方不明になっていた、曾宮一念『冬日』(常葉美術館蔵)。

「風花」に集った人々の記録。

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 1976年(昭和51)の3月、わたしはなにをしていたのかを細かく思い出せる、すでにリアルタイムに近いタイムゾーンだ。なぜ藝大の試験に数学があるのかと、部屋のアグリッパと油絵の具(クサカベ製Click!だったと思う)を横目でにらみながら、あきらめ切れずにため息をついていたころだ。もう、デッサンの練習にはウンザリだった。そのころ連れ合いは、信濃町の杉村春子Click!邸の敷地内にあった演技研究所の帰途、ロングランをつづける『JAWS』を友だちと観にいき、信じられないサイズのホオジロザメの出現に飛び上がり、映画館のイスから転げ落ちていたころだ。
 そんな時代の目白通りに、「風花(かざはな)」という名の小さなスナック(死語かな?)が開業していた。ママさんは安倍佐恵子という看護師だった人で、交通事故に遭い脊髄を損傷して車イスの生活だった。1975年(昭和50)に開店した「風花」には、近所の下落合や目白に住む多彩な人々が集まっている。画家やインスタレーター、作家、新聞記者、雑誌記者、編集者、イラストレーター、モデル/DJ.、医師、テレビマン、銀行員、ゲームセンター支配人、会社員、新宿ゴールデン街の飲み屋の元経営者……と職種もさまざまだ。この店に通ってきていた人々の間では、まるで喫茶店「桔梗屋」Click!と同様に、下落合の“伝説の店”になっているのかもしれない。
 「風花」が開店していたのは、目白駅から西へ500mほど歩いたところ、目白通りに面した下落合4丁目27番地だ。わたしも学生時代を含め、「風花」の前を頻繁に往来していたはずなのだが、喫茶店ではなく夕方から開店するスナックだったせいか、あまり外で飲む習慣がないので残念ながらまったく憶えていない。おそらく、このサイトをお読みの方の中には、カウンターにいる車イス姿の美しいママさんともども、小さなスナック「風花」を記憶しておられる地元の方がいるかもしれない。ちょうど政治家や陳情団が、庭池のニシキゴイへこれ見よがしにエサをやる首相宅に押しかけ、「目白詣で」という言葉が流行り、その娘が下落合のピーコックストアで買い物をする姿が、ときどき見かけられるようになったころのことだろう。
 経営者の安倍佐恵子は、1973年(昭和48)11月に子どもを保育園にあずけ勤務先の病院へ向かう途中、突然バックしてきたトラックから子どもをかばうために背中を轢かれ、下半身不随になってしまった。それから、2年間の治療とリハビリテーション期間を経て、夫や子どもと別れたあと、30歳で目白通りに「風花」を開店している。北陸・金沢が故郷の彼女は、日本海の空から街へ舞い落ちてくる細かな雪にちなんで店名をつけたものだろう。やがて、あたりが暗い雪雲に覆われる冬を迎える前兆を、当時の心境にあわせて店名にしたものだろうか?
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 先日、古書店で「風花」に集った人たちが執筆し、1976年(昭和51)3月に発行された『風花』創刊号というミニコミを見つけた。編集後記にも書かれているが、「絶対に二号が発行されると信じている」のは執筆者のひとりだけで、おそらく創刊号で終焉してしまったミニコミ誌のひとつなのだろう。この当時、「ピア」や「シティロード」の全盛時代で、巷には情報誌やタウン誌、ミニコミ誌がどこの街にもあふれており、ネット時代の今日からは想像もつかない紙メディアの爛熟期だった。仲間が数人集まれば、なんらかの情報誌や同人誌、機関誌、文芸誌が企画された時代だ。
 『風花』創刊号には、22人の常連客が執筆しており、内容も多種多様にわたる。目白・下落合界隈のことについても、さまざまな紀行文やエッセイが掲載されているのだが、1922年(大正11)に第一文化村の販売がスタートした目白文化村Click!を「大正十三年」の開発としたり、会津八一Click!秋艸堂(秋草堂)Click!を「秋林堂」と書いたり、ヒットしていた『JAWS』のホオジロザメを「オオジロザメ」と呼んだりと、ちょっと「あらら」と“赤入れ”したくなる原稿が目立つ。おそらく、執筆する際の誤記というよりは、写植屋さんの「誤植」が見すごされた校正ミスのような気がする。
 そんな中で、当時の空気感が色濃く感じられ、面白く拝読したのは後藤伸という人の書いた『目白あれこれ』だった。著者は男子校の高校生のとき、生徒会で企画した「高校生座談会」のために、女子校にねらいをつけて目白駅前の川村学園Click!を訪れた。だが、「本校生徒をそのような座談会には出席させられない」と、けんもほろろに断られている。おそらく、記述からして1966年(昭和41)前後のことだろう。少しだけ、『目白あれこれ』から引用してみよう。
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 小学生の頃、演劇鑑賞と称してこの大学の講堂まで引卒(ママ:引率)されて来た時には、学生も疎で緑の繁い茂った、いわば幽閑な学林という装を有していた。私達小学生が観た芝居は「王子と乞食」であった。その十数年後、同じ講堂で私はヤマトヤとかワカマツとかいった映画人の作ったシロクロ・フィルムを見ていた。校内は盛り場同様人で混み合い、ほこりっぽく、講堂の向い側にはセメントの塊りのような新築間もない学生会館がそびえ立ち、その窓ガラスは方々が割られ屋上にはコンクリートの破片が散乱していた。そのようなどうでもいいような時期、私は仲間と連れ立ってあの道路の彼岸たる目白の友人宅に一晩やっかいになったことがある。徹夜で疲労し、草煙(ママ:煙草)の吸い過ぎで咽がいがらっぽくなりながら、翌朝、西田佐知子(?)の物憂い歌を聞いた時、道路の此岸も彼岸から大して変わりないことに気付いた。それから幾年かが過ぎ、再び目白の地が具体的な形象を伴って現われてきたのは、私の友人がこの地に新居を構え、「風花」に案内してくれた昨年のことである。彼曰く、「おもしろい店がある。行くベ、行くべ」。
  
 著者は、わたしより10歳前後は離れている世代だろうか。その世代特有のキーワードが、文章のあちこちに散りばめられている。「ヤマトヤ」と「ワカマツ」は、映画の大和屋竺と若松孝二のことであり、わたしの世代では前者は映画やドラマ、アニメの脚本家としての印象が強く、後者は池袋の文芸地下あたりで作品のオールナイト上映が行われ、学生時代に朦朧としながら観ていた記憶がある。
 「この大学の講堂」とは、早稲田大学の大隈講堂のことで、「新築間もない学生会館」とは大学当局と学生側が管理運営権を争い、ロックアウト状態がつづいていた第二学生会館のことだろう。わたしの世代では、友だちの間を泊まり歩いても西田佐知子の歌声ではなく、ウェザー・リポートのウェイン・ショーター(ss,ts)が奏でる『In A Silent Way』が流れ、常に「マイルス待ち」の状態だった。友人の「行くベ、行くベ」は、関東地方の海岸線に展開する方言のような気がするけれど、わたしも神奈川の海辺Click!に出かけると、つい口をついて出てしまいそうなフレーズだ。
目白駅1970年代.jpg
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 スナック「風花」が、いつまで開店していたのかはわからない。ネットの書きこみによれば、安倍佐恵子は1997年(平成9)ごろ50歳余で死去しているようなので、店じまいはもっと早かったのかもしれない。早すぎる死は、脊髄へ受けた重傷にもよるのだろうが、それ以上に、精神的なダメージのほうが大きかったのではないか、そんな気がするのだ。

◆写真上:スナック「風花」があった、下落合4丁目27番地3号の現状。
◆写真中上は、1974年(昭和49)に撮影された新宿区信濃町10番地にある杉村春子邸。路地奥の右手にあるオレンジの屋根の大きな西洋館が、演技研究所が付属する杉村邸。2015年に出版された『新宿区の百年』(郷土出版社)より。は、1976年(昭和51)3月に発行された『風花』創刊号の表紙()と目次()。
◆写真中下は、1979年(昭和54)の空中写真にみる「風花」周辺。は、『風花』創刊号に掲載された後藤伸『目白あれこれ』。
◆写真下:1970年代半ばに撮影された、夜の目白駅前()と目白貨物駅Click!跡()。

下落合を描いた画家たち・三上知治。(2)

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 洋画家の三上知治Click!が、下落合(2丁目)753番地(のち741番地)にあった満谷国四郎アトリエClick!の西隣りへアトリエを建設したのは、フランスへわたる以前の1921年(大正10)ごろのことだと思われる。渡仏中は、下落合752番地(のち753番地)に建っていた三上邸は、一時的に北島という人物が借りていたようで、1925年(大正14)の「出前地図」Click!で名前を確認することができる。太平洋画研究所のつながりから、満谷国四郎が三上を近くへ呼び寄せたものだろう。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、満谷国四郎Click!と三上知治がともに掲載されているけれど、満谷が人物紹介までされているのに対し、三上は「洋画家 三上知治 下落合七五三」と、住民の一覧に名前を載せているにすぎない。これは、12歳年上の師匠格にあたる満谷に対して遠慮したものだろうか。もうひとり、三上の太平洋画研究所を通じての師に近い先輩として、下落合(2丁目)667番地にアトリエをかまえていた吉田博Click!がいる。
 戦後の1964年(昭和39)5月20日に発行された竹田助雄Click!「落合新聞」Click!には、三上知治の描いたスケッチとともにエッセイが掲載されている。この記事のとき、三上知治は下落合に住みはじめてから、ちょうど40年と少しが経過していたはずだ。このあと、1974年(昭和49)に87歳で死去するまでの50年余を下落合ですごしており、画家の中では下落合(1丁目)540番地の大久保作次郎Click!(1973年歿)や、下落合(2丁目)661番地の佐伯米子Click!(1972年歿)に匹敵する、長い下落合暮らしだった。
 落合新聞の同号から、「下落合の住居」と題された三上の文章を引用してみよう。
  
 下落合に住着いてから四十余年になる。関東大震災の前に此処に家を建てたが、其頃の落合村は鄙びた趣があって狸が出るという噂があった位、鬱葱たる森があって却って風雅な処であった。/目白大通りは早暁から汚穢車が轣轆(れきろく)として列を成し、頗る異観であった。今の自動車混雑を思へば今昔の感が深い。道は砂礫を上へ上へと布(ふ)くので中央が高くなって蒲鉾型になり、道端を歩く時は躰が斜めになって甚だ歩きにくい。其後今の道路に改装されたが、其道普請工事が又頗るノロノロ工事で一年余もかかり、人通りも寡くなって店は商売が無く、夜逃げをした商人もあるという噂もあった位だ。
  
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 「噂」ではなく、都心となった21世紀の今日でもタヌキClick!は出るのだけれど、「鬱葱たる森」は旧・下落合の東部Click!にしか、もはや残されていない。
 三上知治のエッセイとともに掲載されたのが、高所から鳥瞰した下落合の風景だ。(冒頭写真) この絵が掲載された当時、下落合はいまだ江戸期と同様に目白学園西端までの広さClick!があり、東は山手線沿いの近衛町Click!から、中央の目白文化村Click!、そして西のアビラ村(芸術村)Click!を含む、東京の市街地でも屈指の町域だったろう。画面の右手遠方には、井上哲学堂Click!の森と荒玉水道Click!野方配水塔Click!が見え、手前には大きな西洋館がポツンと描かれている。
 三上知治によれば、敗戦直後に国際聖母病院Click!の屋上から西を向いて描いているとのことなので、手前の西洋館は第三文化村の吉田博アトリエClick!だ。太平洋画研究所の大先輩ということで、吉田アトリエを入れて描いたものだろう。描画ポイントは、吉田アトリエの南壁面が斜めに見える、“L”字型をしたフィンデル本館の屋上南端あたりだ。空襲の焼け跡があちこちに拡がる情景なのだろう、バラックのような小さな家々の屋根が描かれている。この角度から見える風景は、第三文化村から第二府営住宅Click!、そして画面の中央から左寄りが第一文化村界隈ということになる。
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 再び、三上知治のエッセイ「下落合の住居」から引用してみよう。
  
 茲は池袋と新宿の中間で空気も良く、住宅街としては尤も好適である。住宅街の樹々の美しさは都会と自然との佳き聯絡(れんらく)であり憩である。早く電信柱が無くなって不体裁な広告版が消えて無くなる時代が来ればよいと思う。/四月廿八日記/(示現会委員)
  
 なんだか、大正期に下落合の土地を売る箱根土地Click!や、東京土地住宅Click!の広告コピーのような表現だけれど、よほど下落合が気に入っていたのだろう。
 道路沿いの共同溝化による電柱の撤去は、いまようやく新目白通りや聖母坂、目白通りなどの大通り沿いで進んでいるものの、住宅街の中まではいまだ進捗していない。電線(電力線)は共同溝へ埋設することができても、技術的な進化が非常に速く、メンテナンスが頻繁に発生する通信キャリアのデジタルケーブルの扱いが、今後の大きな課題だろうか。現状はまだ1Gbps回線が主流だが、少し前までデータセンター仕様だった10Gbpsのケーブルが、家庭までとどく時代がすぐそこまで迫っている。
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 三上知治はイヌ好きとして知られており、昭和初期にはイヌをモチーフにした作品を数多く残している。いちばん好きなのがシェパードだったらしいが、下落合のアトリエでも何匹か飼っていたのだろう。だが、戦争でイヌを飼うどころではなくなり、人間が口にする食べ物も満足に入手できなくなったとき、三上はイヌたちをどうしたのだろうか?

◆写真上:敗戦直後に国際聖母病院から描かれた、三上知治『下落合風景』(仮)。
◆写真中上上左は、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』に掲載された三上知治。上右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる三上知治邸。同図は、ときどき地番もまちがえて採取している。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる三上知治の描画ポイント。
◆写真中下は、1945年(昭和)8月29日(米国時間28日)に米軍の抑留者救援機から撮影された国際聖母病院。は、2006年撮影の懐かしい第三文化村の街角。
◆写真下は、落合新聞1964年(昭和39)5月20日号に掲載された三上知治のエッセイ「下落合の住居」。は、1934年(昭和9)に渡辺仁の設計で建設された下落合667番地(第三文化村)の吉田博アトリエ。(提供:吉田隆志様Click!)

「赤線」がもらえた水練場の進級試験。

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 落合地域でも、近くの川で泳いだ記憶を持つ方は多い。ここの記事では、妙正寺川にあったバッケ堰Click!のさらに上流、バッケ坂Click!と上高田の境目あたりにできた新バッケ堰で泳いでいた子どもたちの様子をご紹介している。
 旧・神田上水や旧・江戸川(現・神田川)では、面影橋Click!のたもとや大洗堰Click!(現・大滝橋)あたりが、格好の水練場(すいれんば)となっていたらしい。ただし厳密にいえば、「水練場」とは泳ぎを教える水泳教師や助教たちのいる組織化された施設で、旧・神田上水や妙正寺川では年上の子どもたちが年下の子どもたちに泳ぎを教える、あるいは自然に泳ぎをおぼえるプールのような存在だったので、「遊泳場」と表現したほうが的確なのだろう。
 昭和期に入ると、小学校には体育で水泳を教えるプールClick!が建設されたり、町営プールClick!が出現したりするので、川で泳ぐ子どもたちは急減したと思われる。また、河川沿いには各種工場が進出し、工業排水がそのまま河川へ流れこんだため、昭和期に入ると水質の汚濁もかなり進んでいたとみられる。親たちも、川で泳がせると溺死事故が心配なので、川泳ぎを禁じて安全なプールへ行くよう指導していたにちがいない。
 中小の河川では、灌漑用水のために造られた堰のすぐ下流域や橋のたもと、用水池などでの遊泳が多かったが、大きな河川には早くから水練場Click!が設置されていた。少し前の記事で、大橋(両国橋)Click!からすぐ下流の大川(隅田川)Click!右岸、薬研堀Click!の南側に水練場が設置されていたのを、木村荘八Click!の随筆で知って書いた。明治後期から大正期にかけてのことで、おそらく関東大震災Click!を境に、水練場は大川の右岸から左岸へと移動し、親父が通っていたのは本所の川岸に設置された水練場のほうだった。
 明治期に薬研堀へ設置された「伊東の水練場」について、1953年(昭和28)に東峰書房から出版された木村荘八『東京今昔帖』から引用してみよう。ちょうど大橋(両国橋)の欄干が崩落した事故当日の出来事で、1897年(明治30)8月10日に荘八の兄・木村荘太が花火見物へ出かけたままもどらないのを、家族全員が心配してる場面だ。
  
 (両国橋崩落事故のとき:註記) 実兄の木村荘太がその時家にゐなくて(事件はその日大花火最中の午後八時廿分頃に起つたといふ)、橋でやられはしないかと、家中で心配をした。しかし実は荘太は水練場の伊東に花火見物をしてゐたので、無事だつた――といふことのあつたのを、印象歴然とおぼへてゐる。しかしこれは或ひはあとから家のものの云ひする話を、それをおぼへてゐるものかもしれない。僕自身としては、兄貴の失踪を「心配した」実感は少しも記憶に無い。兄貴はその時九歳だつたから、水練場へ花火見物に行つてゐたことは、有り得ただらう。(僕もやがて九つともなれば、同じく伊東へ毎夏水練に通つた。)
  
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大滝下2(昭和初期).jpg 面影橋下(昭和初期).jpg
 水練場「伊東」には、泳ぎが上達するつれて進級していく、泳法「向井流」のカリキュラムが導入されていた。助教たちが立ち合いのもとに「進級試験」が行なわれ、進級するごとに白い水泳帽へ赤線が1本増える。まず、赤線を1本もらうためには水練場のある薬研堀、つまりのちの千代田小学校Click!(東日本橋の現・日本橋中学校)あたりから泳ぎはじめて、大川(隅田川)を向こう岸の本所まで泳ぎきらなければならなかった。途中、子どもたちの体力が尽き、泳ぎに付き添う舟につかまって休んだりすると、試験は落第で赤線はもらえなかった。
 いくら川幅が広く、流れがゆったりした大川(隅田川)といえども、水流の圧力に逆らって本所までわたるのは、子どもたちにとっては大きな試練だったろう。本所側の向こう岸へあと少しというところで、目の前に口を開けた堅川へ吸いこまれそうになる子どももいただろう。大川の下流域は、あちこちに水運用に拓かれた川の河口があるため、東京湾からの潮の干満と相まって、流れがかなり複雑だったにちがいない。“赤1本”の水泳試験の様子を、同書から引用してみよう。
  
 水練場の伊東から向ふ川岸の中州の芦までは、どのくらゐあつたか、進級試験には、赤フン赤帽の「平さん」といふ助教の先導で、われわれチビが、一列に並んで、この川を泳ぎ渡るのである。これを「川越し」と云つた。ハイヨー、といふ先達の声につれて力泳、又力泳、向ふ川岸まで泳ぎ渡る。途中舟へ上がらずに向ふ川岸まで泳ぐと、赤一本になる。(われわれ泳ぐにはかなきんの白帽をかぶるが、これに毛繻子の赤い細い線を一本ぐるりと縫ひつける、赤一本である。)
  
 試験には“赤3本”までがあったようで、木村荘八はそれに合格して白い水泳帽に赤線を3本入れていた。“赤3本”は、大川(隅田川)を下り東京湾へと出て、お台場まで泳ぎきる遠泳だった。この試験でも、子どもたちの傍らには助教たちの舟が付き添い、途中で力が尽きた子どもたちを拾いあげていた。
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小林清親「元柳橋両国遠景」1879.jpg
 大川(隅田川)から流れ下る水流に逆らわず、上手に身体をあずけて泳げば、大橋(両国橋)のたもとからお台場まで泳ぎきれたようだが、約8kmはたっぷりありそうな遠泳なので、水流や潮流の中を泳ぎきって“赤3本”をとるのは容易ではなかっただろう。ちなみに、わたしは大川ならいまでも泳いでわたれると思うのだが、中学生のころならともかく両国橋からお台場までは、とても息がつづかずムリだろう。同書から“赤3本”の進級試験について、再び引用してみよう。
  
 三本と云ふのは、「流れ」と云つて、(かたく云へば遠泳)、両国から品川のお台場迄流れるのである。――この流れつゝあつた途中、すでに万年橋のところが、枝川へ吸ひ込まれさうで、万年橋は大川の上げ汐・引汐に土左衛門のたまりとも聞き、しんぞコワかつたものだが、相生橋から先きのミオへ出た頃には、神疲れ、いキも絶え絶えとなりながら、そばを泳ぐ板じんみちの鼈甲屋の人(助教)が、「荘ちゃん、もうぢきだ、上るんぢやないヨ」 上るんぢやないよ、とは、舟へ上るんぢやないよ(棄権するんぢやないよ)といふ意味である。僕と並行に泳いで、助教さんが水の中からさう云つてはげましてくれるのを聞きながら、歯をくひしばり、涙をぼろぼろ流して、ガン張つた。(中略) 何杯水をのんだかわからぬ。そしてとうとうせいの立つ台場のそばのシビのところ迄やつとたどりついた時には、ヘトヘトで、足は膝つ小僧がガタガタして、立てなかつた。
  
 木村荘八は、白帽に“赤1本”と“赤3本”を獲得する進級試験の様子を書いているが、“赤2本”の試験については書き残していない。試験の様子からすると、両国橋のたもとから相生橋をすぎたミオ(澪筋)あたりか、あるいは埋め立てられて間もない月島の先、東京湾の出口ぐらいまでを泳ぎきると、“赤2本”がもらえたものだろうか。
 わが家には、2本線の入った白帽をかぶる小学生時代の親父の写真が残っている。ただし、昭和10年代まで「向井流」による古式泳法が大川で行われていたとは思えないので、新たに本所側へできた水練場では、現代的な水泳試験が行われていたのかもしれない。
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 水練場「伊東」で教授されていた「向井流」泳法とは、江戸初期に船手奉行だった向井正綱・忠勝親子が完成させた古式泳法のひとつだ。甲斐の猿橋から水中へ飛びこむ、「逆下」(飛込泳法)を将軍家の前で披露したことから、幕府の泳法として採用されている。いま風にいえば、平泳ぎや横泳ぎのバリエーション泳法といったところだろうか。

◆写真上:薬研堀に、元柳橋が架かっていた界隈の現状。明治末の水練場「伊東」は、左手の日本橋中学校(改修中)の左手あたりにあった。
◆写真中上:旧・江戸川(現・神田川)で遊泳する子どもたちで、下左は江戸川の起点である大滝(大洗堰)下あたり。下右は、旧・神田上水の面影橋あたりで泳ぐ子ども。
◆写真中下上左は、1859年(安政6)に作成された尾張屋清七版の切絵図「日本橋北内神田両国浜町明細柄図」にみる薬研堀で、すでに北西に入りこんだ堀が埋め立てられている。上右は、明治末の市街図にみる埋め立てられた薬研堀。水練場「伊東」は、日本橋米沢町から矢ノ倉町の間にあったと思われる。は、1879年(明治12)制作の小林清親Click!『元柳橋両国遠景』だが元柳橋自体は描かれていない。
◆写真下は、大正初期ごろに薬研堀側から撮られた両国橋。は、明治前期に描かれた井上安治『元柳橋』で橋の下が薬研堀。は、1935年(昭和10)に撮影された千代田小学校の水泳写真で、褌姿の生徒たちの白帽に赤色とみられる2本線が入っている。

下落合を描いた画家たち・松下春雄。(3)

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 東京藝大の門前に店をかまえる浅尾佛雲堂Click!浅尾丁策Click!は、数多くの画家たちとのつき合いが長く、自身でも国内外の作家を問わず作品のコレクションをつづけている。その中に、1929年(昭和4)ごろに描かれた松下春雄Click!の風景作品があった。時期的にみて、この風景画は松下春雄が下落合1385番地の借家Click!に住んでいたころの作品で、描かれているのは「下落合風景」の可能性が高い。
 浅尾丁策は、松下春雄の遺作展で入手した『太海風景』を所有していたが、友人に貸したまま行方不明になっていた。新たに松下の風景画を手に入れた経緯を、1980年(昭和55)8月13日に書かれた彼の日記から引用してみよう。
  
 松下春雄さんは鬼頭鍋三郎さんの同郷の名古屋出身と聞いていた。同じく同郷の太田三郎先生の紹介で色々と仕事を貰うようになった。岡田三郎助先生に師事し毎年春は春台美術展に、そして秋は帝展に出品されていた。帝展特選は鬼頭さんより少し早く受賞していたように記憶している。江古田の水道タンクのすぐ傍に隣り合ってアトリエを作り互いに将来を競っていたが、当時、白血病の奇病に侵され夭折された。没後遺作展の時、太海風景(〇号二枚つづき)を買い求めたが、その後友人に貸したまま行方不明になって甚だ残念に思っていた。何年ぶりかで、モチーフは異なれど、彼の作品にめぐり会えた喜び、即刻買い求めコレクションに収納した、(ママ)この作品の額縁も当時私の製作にかかったものであった。
  
 江古田の水道タンクは、野方配水塔Click!のことであり、松下春雄と鬼頭鍋三郎Click!アトリエClick!が建っていたのは、西落合1丁目306番地(のち303番地)だ。
 さっそく、画面を観察してみよう。画家の視点は、斜面のやや高い位置から住宅街を見下ろしており、光線は背後のやや左上から射しているように見える。昭和の最初期にしては、家々の屋根が重なるように並んでいるので、市街地化が比較的早く進んだエリアだろう。遠景の右手には、ほとんど傾斜角45度ほどもありそうなバッケ(崖地)が見え、その上部にも住宅のようなフォルムが見えている。その住宅が描かれたところが丘上か、または斜面にひな壇状の敷地を設けた丘の中腹なのかは、右端が切れているのでわからない。また、左手の遠景には西洋館の切妻か、ないしは家の向こう側に繁る樹木かが不明な、三角に突出した曖昧なかたちの表現が見える。手前の家々は、当時の勤め人が住んでいそうな一般的な戸建て住宅で、特に凝った建物の意匠はしていない。
 遠景右手に見える急斜面が、目白崖線につづく丘の斜面だとすれば、この風景は丘の麓に拡がる住宅街ということになる。しかも、丘が右手から突き出しているので、松下春雄は目白崖線の麓のどこかから、西側を向いて描いていることになる。太陽の光やモチーフの影も、その方向感覚と矛盾しない。すなわち、画面の右手が北側で、左手が南側ということになる。
 だが、昭和の最初期に崖線が見える丘のすぐ下で、このように住宅が密集しているエリアとなると、そう多くはない。下落合の西部よりは、東部の可能性が高いだろう。1936年(昭和11)に撮影された空中写真でさえ、下落合西部の丘下にこのような住宅が建ち並び、北側から急斜面の崖地が張りだして見える場所は存在していない。むしろ、江戸期から拓けて家屋が建っていた、下落合の東部にある雑司ヶ谷道Click!沿いの小字・本村あたりが、もっとも適合する地域に思える。
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七曲坂下部.JPG
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 わたしは当初、右手から張りだしている崖地を、西坂Click!が通う徳川邸Click!の丘だと考えた。松下春雄は、何度も西坂の徳川邸を訪ねて、庭のバラ園Click!や旧・徳川邸の母家を描いているからだ。だが、聖母坂Click!が造成される前のそのあたり一帯は、ところどころに湧水池が散在する湿地帯で、このような住宅街は形成されていない。しかも、西坂の丘のすぐ東側には、久七坂の通う丘が大きく張りだすように迫っており、このような開けた空間はない。
 当の松下春雄が描いた『徳川別邸内』Click!(1926年)には、徳川邸の南庭の東寄りに造園されたバラ園ごしに、まるでベルギーワッフルのようなコンクリートの擁壁が築かれた、久七坂が通う丘の崖地が大きく南へせり出している様子が見てとれる。1930年(昭和5)の1/10,000地形図(1929年修正図)を参照すると、現在の聖母坂の下にあたる低い位置には、いまだ人家もまばらで住宅の建ち並ぶような風情は存在しない。だが、もう少し東へ視線を移すと、このような崖地が西側に突き出して見え、比較的人家が多いエリアに下落合氷川社Click!の手前、すなわち七曲坂Click!の下がある。
 七曲坂は、非常にうまく開拓された坂道だと思う。鎌倉時代に、丘下を通る鎌倉街道(雑司ヶ谷道)から北側へ向けて拓かれたと伝えられているが、確かに相州鎌倉の周囲に造成された街道の切り通しと、とてもよく似ている。東側を大倉山(権兵衛山)Click!に、西側をタヌキの森Click!(下落合東部では最高点の標高36.5m)に挟まれた、急斜面のバッケClick!(崖地)を切り拓いている。そのまま坂道を敷設すると、とんでもない急角度のバッケ坂になってしまうため、坂の上部から中ほどにかけて深く掘削して切り通しにし、しかもいくつかのカーブをつけることで傾斜角を抑えている。
 そして、坂の下部は街道筋へ抜けるまで、上は厚く下は薄く盛り土をして土手を築き(おそらく切り通しの掘削で出た土砂を盛っているのだろう)、その土手の上に坂道をつけて坂上からの傾斜角を緩め、丘下の街道筋へと繋げている。つまり、坂の下部をタテに切りとると、盛り土をした土手部分に三角形の断面ができることになる。
 こうして、坂道の傾斜角をできるだけ緩和し人馬、ときに幕府の騎馬軍団がたやすく通れるようにした切り通し状の坂道は、まさに「鎌倉方式」とも呼べる土木手法だ。ただし、現在は斜めだった坂下の土手部分が切りとられ、坂道を支える垂直のコンクリート擁壁ができ、坂道のギリギリまで住宅敷地が確保されて家が建っている。ちなみに、七曲坂の下には鎌倉時代の1307年(徳治2)の記銘が入った板碑(薬王院収蔵)が見つかっており、このエリアに鎌倉時代から集落のあったことがうかがわれる。
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 さて、画面の風景にもどろう。松下春雄は、七曲坂の最下部から西側の土手へと少し下り、西南西を向いてスケッチしはじめているのではないか。手前の家々は建設されたばかりで、大正期までは“「”型をした大きな農家・高田家が建っていた敷地だ。1899年(明治32)10月の下旬、近くのダイコン畑で捕獲されたニホンジカを、この家の高田九兵衛が引きとって飼っていたエピソードはこちらでもご紹介Click!した。当時、高田九兵衛は“鹿男”として近隣では有名だったろう。おそらく昭和に入って高田家が広い庭に借家を建てたか、あるいは土地会社に敷地を売却したかで、住宅が建てられたのだろう。
 遠景右手から半島状に張りだしている崖地は、1967年(昭和42)に宅地開発で大きく崩されることになる、下落合横穴古墳群Click!が発見された薬王院西側の急斜面だ。西坂・徳川邸の崖地は、その陰に隠れて見えない。高い木々が生えていないように見えるが、この時期にもなんらかの造成工事が進行中だったのかもしれない。すなわち、崖の上に描かれている住宅らしいフォルムは、位置的に見て池田邸Click!の可能性が高い。だとすれば、この位置は丘の頂上ではなく、丘上から1段下がったひな壇状の敷地ということになる。そして、丘の頂上から池田邸を見下ろすように描いたのが、佐伯祐三Click!『下落合風景』Click!(1926年10月1日/見下シ?)ということになる。
 諏訪谷から薬王院の墓地(旧墓地Click!)、そして久七坂にかけては1926~1927年(大正15~昭和2)の佐伯祐三の散歩コースClick!であり、4年前の描画ポイントだらけなのを知ってか知らずか、松下は薬王院沿いのいずれかの坂から斜面を下り、崖下の雑司ヶ谷道へと抜けた。薬王院の門前から東へ少し歩くと、ほどなく下落合氷川社の杜がこんもり繁る七曲坂の真下に出た。当時は、氷川社のすぐ南側に下落合駅Click!があったので、松下は西武線に乗って省線の高田馬場駅まで出るつもりだったのかもしれない。
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 松下春雄は、七曲坂の坂下に築かれたなだらかな土手に腰をかけ、いま歩いてきた西の方角をしばらく眺めたあと、おもむろにスケッチブックを開いた。初夏の強い光が新築住宅の屋根瓦やスレートに反射し、気の早いトンボが彼の目の前を横ぎっていく。

◆写真上:1929年(昭和4)ごろに描かれた、浅尾家所蔵の松下春雄『下落合風景』(仮)。
◆写真中上上左は、鎌倉時代の年紀が入った板碑。上右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる七曲坂の下部で、このころまでいまだ坂道の土手がつづいていたとみられる。は、七曲坂の現状。は、1955年(昭和30)8月に撮影された七曲坂。
◆写真中下は、突き出た右手の丘が宅地造成のために崩される様子。1966年(昭和41)1月16日の撮影で、下落合横穴古墳群の発見で工事がストップした直後の様子と思われる。(撮影:竹田助雄) は、現在も土手の痕跡がハッキリ残る坂下の道。は、松下春雄『下落合風景』(仮)の描画ポイントの現状。ここにも土手跡が残っており、松下春雄は土手の上部に腰を下ろしてスケッチをしたのだろう。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイントと画角。は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる描画ポイント。シカを飼っていた高田家の大きな家が、いまだに描かれたままになっている。は、1926年(大正15)の秋に描かれた佐伯祐三『下落合風景』。丘上から1段下に建つ、池田邸の屋根を見下したところ。

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