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落合の淡谷のり子と画家の亡霊。

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淡谷のり子(卒業写真).jpg
 関東大震災Click!の直前、郊外の恵比寿(祐天寺とする説もある)に転居して被害をまぬがれた淡谷家は、大正末から昭和初期にかけ、下落合と上落合で暮らしている。青森からやってきた家族は、淡谷のり子と母・みね、そして妹・とし子の3人暮らしだった。この時期、落合地域で暮らしていた淡谷家は、一家の支えとなっていた淡谷のり子のモデルの仕事を優先し、画家たちのアトリエ近くに住まいを移したものだろう。残念ながら下落合と上落合ともに、いまとなっては淡谷宅の住所はわからない。
 淡谷のり子は1924年(大正13)3月、学費が払えないため東洋音楽学校を一時休学し、病気の妹と困窮する家庭を助けるために、宮崎モデル紹介所Click!でモデル名「霧島のぶ子」として美術モデルの仕事をはじめた。太平洋画会研究所の画学生だった、叔父の桂井節雄の紹介だった。モデルの同僚には、上落合に住んでいた原泉Click!がいる。淡谷は上野桜木町の宮崎モデル紹介所で、5年にわたりモデルの仕事をするのだが、たった一度しか「モデル市」へは参加していない。「モデル市」とは、宮崎モデル紹介所へでかけ東京美術学校や画家たちのオーディションを受けることだ。当時、宮崎モデル紹介所を経営していた宮崎幾太郎は、彼女がオーディションを一度しか経験しなかったことについて、「こんなことは創立以来のことだ」とのちに語っている。
 彼女がモデル市に顔を出した初日、アッという間に恒常的な仕事が決まってしまった。午前中は、東京美術学校の朝倉文夫Click!教室の彫刻モデル(のち岡田三郎助Click!教室の絵画モデル)、午後は金持ちの息子である二科の田口省吾Click!の専属モデル、夜は錦町絵画研究所の専属モデルと、1日じゅうめまぐるしく仕事が入り、二度と「モデル市」へ顔を出す必要がなかったのだ。東京美術学校のギャランティーは3時間で5円80銭、錦町絵画研究所は同じく7円20銭、個人の田口省吾は3時間で10円を支払うとの契約だった。1日で20円以上も稼ぐ美術モデルは、一般のサラリーマンよりもはるかに高給とりだったが、妹の治療費などで家族の暮らしはなかなか楽にならなかった。
 淡谷のり子が落合地域に住んでいたのは、上野へ出るにも交通の便がよく、長崎1832番地に乳母とともに暮らしていた田口省吾アトリエ(父親・田口掬汀の中央美術社と同一敷地)の近くであり、また1930年協会Click!を起ち上げたばかりで長崎や下落合を転々とする、前田寛治Click!のモデルをつとめるのにも便利だったからだろう。もちろん、落合地域には画家が大勢暮らしていたので、彼女には当初から「マーケットイン」の読みもあったのかもしれない。
 さて、専属モデルをつとめた田口省吾が、彼女から執拗に離れなくなり様子がおかしくなりはじめたのは、東洋音楽学校の月謝をモデル代の一部として出してやる(もともと親からの生活費なのだが)……といいはじめた、1927年(昭和2)のころからだろうか。当時の様子を、1989年(昭和64)に文藝春秋から出版された吉武輝子『ブルースの女王 淡谷のり子』から引用してみよう。
  
 「坊ちゃん育ちのせいか、サッパリとした性格で、前田寛治にたいしてもライバル意識が希薄であった」/と、木下義謙が評するように、友人の前田寛治に頼まれると、個人モデルののり子をアトリエにさしむけるような人のよすぎるところが田口省吾にはあった。だが、フランスでも艶聞のたえなかった前田寛治とさし向かいにのり子をさせておくのが心配であったのだろう。結婚の意志がポツポツ芽生えはじめたのもこの頃であった。のり子にはモデル代と称して十分すぎるお金を渡してくれていた。相変わらず、ドレスや靴やハンドバッグを次々に買い与え、コンサートやオペラには欠かさず連れて行ってくれた。
  
 破局は、すぐにやってきた。1928年(昭和3)秋のある日、アトリエでポーズをとる淡谷のり子に田口省吾は突然襲いかかり強姦してしまった。この日を境に、田口のアトリエへ彼女が姿を見せることは二度となかった。
田口省吾「帽子を配せる裸婦」1926.jpg
吉武輝子「ブルースの女王淡谷のり子」1989.jpg 淡谷のり子1929.jpg
 翌1929年(昭和4)3月、淡谷のり子は東洋音楽学校を首席で卒業し、モデルの仕事もやめてクラシック歌手、やがてはジャズ・ブルース、そしてシャンソン歌手の道を歩みはじめている。一方、田口省吾は精神的におかしくなってしまったものか、潤沢な生活費で再び個人モデルを雇うと、周辺の友人たちに「霧島のぶ子」(淡谷のり子)だといって紹介して歩いた。田口は1943年(昭和18)に46歳で死去している。
 さて、敗戦後の1949年(昭和24)に山口県宇部市へ歌いにやってきた淡谷のり子は、宿舎に宇部市内でもっとも上等な旅館の離れをあてがわれた。彼女が横になって眠ろうとすると、誰かが縁側からスーッと室内に入ってきた気配がする。そのときの様子を、2008年(平成20)に筑摩書房から出版された『文藝怪談実話』所収の、淡谷のり子「私の幽霊ブルース」(1956年)から引用してみよう。
  
 「泥坊かな」と思って目を据えて見ると、蚊帳の周りを誰かが歩いている。そして人の動く箇所だけ、蚊帳が動いている。泥坊が忍び足で歩くのとはまた違った、いかにも力なく歩く様子だ。私の目に、麻みたいな白い飛白(かすり)に黒い兵児帯を〆めた男の姿が映った。/彼はグルッと周って私の枕許へ坐り、私を見下している。私はその男の顔を見て驚いた。彼はかつて私と結婚の約束までした画家である。/苦学生時代、私はモデルをしたことがあって、そのときの画家の一人に、一方ならぬ御世話になった。勉学の意志が挫けそうになると、彼は精神的、物質的に励ましてくださった。その彼が私に求婚したのだ。あまりに心から求められるので「そうですね」と生返事ながら承諾を与えたので、彼が当てにしたのも無理もない。
  
 ここでは、彼女が「結婚なんて馬鹿くさい真似はごめんだ」と、一方的に婚約を破棄したという経緯で書かれており、強姦の事実は伏せられている。1956年(昭和31)当時は、いまだ関係者が多く生存していたので配慮したものだろう。彼女が吉武輝子の取材に応じて、事実をありのままに語りだすのは、1980年代末になってからのことだ。
 淡谷のり子がアトリエに通うのを拒絶してから、田口省吾は自殺未遂事件を起こしているらしい。先述した「霧島のぶ子」と称するモデルをともなって、フランスへ留学したのはその直後のことだ。つづけて、淡谷のり子の文章を引用してみよう。
田口省吾アトリエ1926.jpg 田口省吾アトリエ1936.jpg
中央美術192708.jpg 前田寛治「1930年協会展評」1927.jpg
  
 その彼が、今、枕許に坐って私を見つめ、そして、両手で私の首をしめようとする。しかし私には声がでない。彼は手に力を入れてグーッグーッとしめつけてくる。それが蚊帳の外からかどうかは意識にないが、蚊帳がうるさく私の顔をなでまわしていた。私は気が遠くなった。/「のりちゃん! のりちゃん! どうしたの、苦しそうにうなってるわ」/マネージャーの彼女が私をゆり起こした。/「何うなっているの?」/「私、殺されそうなの、こわいわ」/「馬鹿な! あなた夢見てるのよ」/ガタガタふるえ出した私は、どうしても寝つかれなくなってしまった。夜が明ければよい、それだけを願った。
  
 彼女の枕もとには、1冊のサイン帖が置かれていた。昨夜、宿の女将が「サインをお願いします」と預けていったものだ。翌朝、何気なくサイン帖をめくって、淡谷のり子は愕然とした。田口省吾のサインがあったからだ。さっそく、宿の女将に事情を訊いてみると、この離れ座敷は田口省吾のお気に入りで、ときに1ヶ月も滞在して作品の制作をつづけることがあったという。宿にも、彼の作品が何点か残されていた。
 彼が馴染みだった旅館の離れに泊まったせいか、あるいは署名したサイン帖を枕もとに置いていたせいかは不明だが、彼女は自分のまわりをさまよう霊を慰めるために、田口省吾のサインの横へ寄り添うように「淡谷のり子」と書いている。
 その後、田口省吾が手もとで大事にしていた作品を淡谷のり子へわたしてほしいと、友人に遺言して死んだことが判明した。その作品は彼女が着衣でモデルをつとめ、その横に並んで田口の自画像が描かれている画面だった。田口の友人から絵を受けとった彼女は、自宅の座敷にその絵を架けていた。すると、事情を知らない「見える」知人が来訪したとき、「この絵には何かがあります。この絵を掛けていらっしゃると、あなたは自殺したくなりますよ」といわれ、思いあたることだらけだった彼女は、さっそく寺へ納めて供養をしてもらっている。
 淡谷のり子は戦時中、軍歌を唄わせようとする軍部へ徹底的に抵抗し、繰り返される憲兵隊の恫喝と、数えきれないほどの始末書を書かされたのは有名な話だ。軍部からカネをもらうと好きな歌が唄えなくなるため、「無料奉仕」という体裁で前線へ送られた。禁止されていたパーマやナイトドレス、アクセサリーを身にまとい、たっぷりと化粧した姿で日本兵や捕虜の欧米兵士たちを前に、当時は厭戦歌あるいは敵性音楽とみなされていた『愛の讃歌』などを唄った歌手は、淡谷のり子ひとりしかいない。彼女がくると、将兵たちの拍手がひときわ高かった様子が記録されている。ときに、憲兵から軍刀で斬られそうになるのだが、それはまた、機会があれば、別の物語……。
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前田寛治「裸婦」1927.jpg
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 余談だけれど、先日、樹上からパサッとなにかが落ちてきた。落下したものを撮ったのが上掲の写真で、どうやらケヤキの枝から足をすべらせた(足ないし)アオダイショウClick!赤ちゃんClick!だ。なんだか、水曜スペシャル・川口隊長の「そのとき! 恐怖の猛毒ヘビが、空から隊員たち目がけて襲いかかってきたのだ!!」というような、田中信夫のナレーションを思い出してしまったのだけれど、ヘビ嫌いの人にとっては淡谷のり子の怪談などよりも、頭上からヘビが降ってくる下落合散歩のほうが、よっぽど怖いかもしれない。

◆写真上:1929年(昭和4)に、東洋音楽学校を卒業したときの淡谷のり子。
◆写真中上は、1926年(大正15)に淡谷のり子を描いた田口省吾『帽子を配せる裸婦』。下左は、1989年(昭和64)に出版された吉武輝子『ブルースの女王 淡谷のり子』(文藝春秋)。下右は、1929年(昭和4)に撮影された歌手デビュー当時の淡谷のり子。
◆写真中下上左は、1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」にみる父親・田口掬汀が創設した中央美術社。田口省吾は長崎1832番地の同じ敷地内へ、大きなアトリエを建ててもらい乳母といっしょに暮らしていた。上右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。下左は、田中省吾が淡谷のり子を夢中で描いていた1927年(昭和2)に発刊された『中央美術』8月号。下右は、同号に掲載された前田寛治「1930年協会展評」に添えられた小島善太郎、佐伯祐三、里見勝蔵、林武の出品作。佐伯祐三は、1926年8月以前から取り組んでいた『下落合風景』Click!を出品しているのがわかる。
◆写真下:前田寛治が淡谷のり子を描いた、1926年(大正15)の『裸婦』()と1927年(昭和2)の『裸婦』()。は、樹上から降ってきたアオダイショウの赤ちゃん。「とんでもないところを人間に見られちゃった」と、あわてて隠れようとする姿がおかしい。


下落合を描いた画家たち・吉田遠志。

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吉田遠志「徳川牡丹園」1965.jpg
 今回ご紹介するのはリアルタイムの情景ではなく、昭和初期の子ども時代を回想した画面だ。作品は、1965年(昭和40)5月3日の「落合新聞」Click!に掲載された、吉田遠志の『徳川牡丹園』。おそらく竹田助雄から、当時の思い出を挿画とともに依頼されたものだろう。画面には、西坂・徳川邸Click!のボタンの庭「静観園」Click!を家族連れが鑑賞し、画家がイーゼルを立ててスケッチしている様子が描かれている。
 この情景は、吉田遠志が大正末から昭和初期にかけ、静観園を訪れた際に記憶した園内の様子を再現したものだろう。徳川邸では、4月末から5月にかけて園内のボタンが咲きはじめると、門戸を開いて一般に公開していた。その評判は、新聞記事などを通じて広く知られ、吉田遠志の父・吉田博Click!は「東京拾二題」の版画シリーズの1作に、『落合徳川ぼたん園』Click!(1928年)として取り上げている。静観園が開放される期間は、まるで寺社の祭礼日のように徳川邸の門前には縁日が立ち、近所の子どもたちは春の開園を楽しみにしていたようだ。
 西坂の徳川邸は、明治末に下落合700~714番地へ別邸を建設しているが、最初は庭園に菊を栽培していたようだ。ボタンで知られるようになった静観園は、赤い屋根の別邸母屋Click!の北側に位置しており、開放されている期間は八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)側から、誰でも自由に出入りできた。西坂を上りきった、現在の西坂公園のあるあたり一帯だ。
 だが、のちにここが徳川家の本邸となり、1935年(昭和10)前後に静観園の位置へ家々(家令住宅だろうか?)が建設され、1940年(昭和15)前後に新たな母屋が旧邸の南側へ建設されはじめると、当代の徳川様Click!によればボタン園は母屋の南側にあったバラ園の東側斜面に移され、一般公開はされなくなってしまったらしい。
 徳川邸がいまだ別邸の時代、吉田遠志の思い出を落合新聞から引用してみよう。
  
 「昔は良かった」というほどの年になったと自分では思っていないが、私の住んでいる下落合の翠ヶ丘のあたりは「昔は良かった」と思う。昭和九年から此処に住みついたのだが、大正十年頃、私がまだ小学生だった頃から知っていた。/高田馬場駅から西のほうの川のほとりは田になっていて、水車小屋があった。西坂下には「西坂だんご」といって名物の団子を売る昔風の店があった。この坂を登った岡の上に徳川邸の牡丹園があって東京附近の花の名所の一つになっていた。附近は人家も少く、聖母病院のあたりは雑木林で、谷には清水が湧き出で、沼があった。牡丹園は先代の徳川義恕男爵の別荘で二千坪以上の広い庭にはバラや草花の咲く花壇があり、斜面はつつじが咲いていて、地勢を利用したトンネルがあり、池があって藤棚があり、温室があって熱帯植物があった。一日中遊んでも、あきないような所だった。此処に庭園を造ったのは明治四十年頃で、初めは菊を作っていたが、大正の初めから牡丹を集め、兵庫県のもの、フランスなどの外国種や、しゃくやくの種も集めてあった。珍しいものでは人の背よりも高い牡丹の古木があった。これは山梨の農家から移植したものだとの事である。
  
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 吉田遠志が、下落合667番地に父・吉田博のアトリエが建設される1934年(昭和9)以前に、小学生時代から徳川邸の静観園を知っていたのは、父に連れられて下落合を訪れ馴染みが深かったからだろう。徳川邸を訪問し静観園を見物する目的もあったのだろうが、吉田博は下落合753番地にアトリエClick!をかまえていた同じ太平洋画会仲間の満谷国四郎Click!を、ときに訪問していたかもしれない。
 吉田遠志は、徳川邸のある西坂一帯を「翠ヶ丘」と表現しているが、大正期の六天坂や見晴坂の上もまた、「翠ヶ丘」と呼ばれている。この名称は、同エリアが改正道路(山手通り)Click!の工事によって空き地が増え、樹木が伐採されて赤土の斜面がむき出しになり「赤土山」と呼ばれるようになった昭和初期ごろ、南から北へと拡大したものだろうか。
 文中の「水車小屋」は、目白変電所Click!田島橋Click!の少し上流にあった下落合953番地付近の水車小屋Click!のことで、吉田遠志は父親とともに高田馬場駅から現在の栄通りを抜け、田島橋をわたって下落合氷川社Click!前の雑司ヶ谷道Click!へと出て、西坂下まで歩いていった様子がうかがえる。聖母病院のあたりの「雑木林」は青柳ヶ原Click!のことであり、清水が湧き出る「沼があった」場所は、諏訪谷Click!洗い場Click!のことではなく、不動谷(西ノ谷)Click!側にあった沼(第2の洗い場Click!)のことだ。佐伯祐三Click!は、沼のほとりのほどよいサイズの立ち木を伐り倒し、自宅でクリスマスツリーを飾っている。
 吉田博は、この第三文化村として開発された谷間の風情が気に入ったものか、尾根筋にあたる下落合667番地の土地を購入して、のちに大きな西洋館のアトリエClick!を建設している。なお、1935年(昭和10)ごろから谷間の出口には、湧水を活用した釣り堀屋が営業していた。おそらく、アユやヤマメを養殖し放っていたのだろう。つづいて、吉田遠志のエッセイから引用してみよう。
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 徳川氏は油絵を描き、私の父が画を教えていた関係で、私もよく両親につれられて此処に来たのだった。毎年、花の頃には多くの見物人が集り、門前には縁日のように店が出るほどであって、知名人の訪問も多く、あちこちで画家が写生しているのも見られた。牡丹を両側に見ながら歩く道は一方交通になっていて、見物人は丁度此の頃の目白通りの自動車のようにノロノロと進行する始末だった。/徳川氏は毎年、太平洋画会の展覧会に油絵を出品していて、或る年、此処で其の会員園遊会を催したことがあった。庭には、すし屋があり、オシンコ屋などがあった。彫刻家は其のオシンコを捏ねて傑作を作って陳列した。画家は早描きの自画像を描いて誰かが賞品をとったりして一日遊んだのだった。昔は、ゆっくりと楽しむ余裕があったと思う。そして今の落合には、もうこんな楽しい雰囲気の所がなくなってしまったのは残念である。
  
 ここで、重要な証言がある。吉田博は徳川家の人々に絵を教えており、その作品は太平洋画会の展覧会へ出品され、画家を集めての園遊会までが催されていたというくだりだ。もちろん、招かれた画家たちは太平洋画会の会員や出身画家もいたのだろうが、当然、帝展へ出品する常連の画家たちも多く含まれていただろう。松下春雄Click!有岡一郎Click!が、徳川邸の庭の奥深くまで入りこみ、赤い屋根の徳川邸母屋やバラ園を写生できた理由は、このあたりにありそうだ。同家で催された園遊会へ、松下や有岡も顔を見せているのかもしれない。
 いまの若い子たちには、おそらくピンとこないだろうが、露店の「オシンコ屋」とは漬け物を売っているわけでなく(江戸東京方言Click!では浅漬けのことをお新香=オシンコという)、飴細工の見世のことだ。江戸期からつづく露天商のひとつで、おもに水飴をベースに新粉(米粉)を溶かしたもので、さまざまな動物や花、縁起物、人形などのかたちを、注文するとその場でたちまち飴細工にしてくれる飴売りのことだ。
 わたしが子どものころは、寺社の祭礼に出かけるとたまに見世をだしていたものだが、最近は細工の技術が継承できなかったのか、あるいは人気が衰えてしまったものか、ほとんど見かけない。また、細工ものの鼈甲飴を並べている見世も、広義にはオシンコ屋と呼ばれることがあったように思う。
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 彫刻家がこしらえた飴細工のモチーフは、いったいなんだったのだろう。子どもが大勢集まる手前、女性のヌードはありえなかっただろうが、馴染みのある動植物でもこしらえていたものだろうか。「オシンコ」のプロは、わずか数十秒でけっこう複雑なモチーフでも鮮やかに手際よく仕上げるが、彫刻家たちはまるで粘土のようにペタペタと飴をこね、継ぎ足し継ぎ足ししながら、時間をかけてこしらえていたような気がする。手垢がたっぷりついていそうなそんな彫刻飴、飾るだけで誰もなめたくはなかったにちがいない。

◆写真上:1965年(昭和40)に「静観園」の想い出を描いた、吉田遠志『徳川牡丹園』。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に撮影された徳川義恕邸の「静観園」。は、1928年(昭和3)制作の吉田博『東京拾二題』のうち「落合徳川ぼたん園」。下左は、文房堂の資料に残る吉田博のポートレート。下右は、1934年(昭和9)に竣工した第三文化村(下落合667番地)の吉田博アトリエ。(提供:吉田隆志様Click!)
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる徳川邸と吉田博アトリエ。中左は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真の拡大で徳川邸はいまだ旧建築のまま。「静観園」があったエリアにはすでに住宅の屋根が連なり、ボタンは東側の斜面へ移植されているのだろう。中右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる徳川新邸で、戦時中からバラ園やボタン園は食糧難のため畑にされていたと思われる。は、大正期には湧水沼があった不動谷(西ノ谷)の谷間で、大谷石による築垣は第三文化村の開発当時のもの。
◆写真下は、吉田アトリエにおける吉田家記念写真。子どもたちを除き、右から左へ吉田穂高、吉田博、ふじを夫人、吉田遠志、きそ夫人。は、1953年(昭和28)に米国を旅行中の吉田遠志。(ともに提供:吉田隆志様) は、落合新聞1965年(昭和40)5月3日号の吉田遠志エッセイ「徳川牡丹園」。

ウェアラブル端末でタイムトラベル街歩き。

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 街歩きのメンバーが20人を超えると、かなり大声を出さなければ説明が全員の耳にとどかない。わたしも何度か街歩きのグループへ随行し、街角で説明をさせていただいた経験からの実感だ。クルマの騒音があるような場所や、広めの公園では大声は目(耳)立たないが、静かな住宅街ではかなり遠くまで説明員の声がとどく。参加者たちの会話やざわめきは、生活音にまぎれて気にならないが、やはり静寂な住宅街での説明者の大声は、「何事か?」と耳をそばだててしまうことが多い。
 落合地域に限らず、東京じゅうの住宅街ではゾロゾロ歩く街歩きの騒音に、迷惑そうな顔をする地元住民の姿を少なからず見かけている。大通り沿いや商店街では、別に大きな声が響いても気にはならないだろうが、問題は住宅街に入ってからの静寂な道筋だ。わたしも街歩きClick!が好きなので、あちこち歩いて迷惑がられても困る。そこで、これらの課題を解決するために、こんな街歩きのスタイル変革はいかがだろうか?
 ウェアラブルデバイスは、すでにビジネスの一部ではあたりまえに使われている、クラウドとオンプレミスの双方に対応した仕組みだ。導入の多い現場は、プラント設備や機器類、配線配管などの保守/点検、物流(調達・配送を問わず)、流通(卸業)などの業務が中心だろうか。ウェアラブルグラスという、いわはメガネ端末を装着すると視野の一部にAR表示やポップアップウィンドウが開かれ、そこに片づけるべき業務の指示が現れる。必要なら、ネットを通じて音声による確認も可能だ。指示にしたがい、ウェアラブルバンドで腕に表示されるキーボード(別にJIS規格キーボードとは限らない)へ、必要な数値や情報、確認チェック事項を入力していくだけで作業が完了する。
 熟練した作業員が、遠隔地(ネットで国内-海外でも可能)に設置された運用管理ルーム(あるいはPC端末の前)にひとりいれば、現場要員からもたらされる映像をチェックしつつ適切な指示だしができ、たとえ非熟練者が作業をしても的確にサポートできる。スマホなどモバイル端末でよく使われる、ARマーカーの設置さえもはや不要だ。カメラがとらえた3D画像認識で、瞬時に作業員がどこにいるのか、あるいは正確に当該の建物や設備、機器の前に立っているか、危険なエリアや設備へ近づいてないか……などを、そのつど自動的にチェックしながら業務を進めることができる。
 ウェアラブルデバイスのいちばんのメリットは、ハンズフリーということだろう。片手に入力端末や紙の作業指示書を持ちながら、片手で作業をするという従来の手順が一掃される。両手が使えれば、より安全かつスピーディに仕事をこなすことができる。いちいち操作を憶える必要もなく、表示の指示にもとづいて直感的に操作できるのも楽だ。おそらく、銀行のATMの画面表示なみに迷いがなく簡単だろう。腕に表示されるバーチャルキーボードは、そのつど必要なボタンしか現れないので、操作に迷うことがないのだ。また、キーを押すと身体感覚があるので、接触・非接触を確実に認識して入力することができる。さらに、地下鉄ホームなみの騒音下(90db以上といわれる)でも、大声や身ぶり手ぶりで意思疎通を図る必要がなく、スムーズに仕事が進行する……。
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 上記の特徴は、あくまでも業務におけるウェアラブルデバイスの活用だけれど、これを博物館/美術館めぐりや街歩きに用いたらどうなるだろう。まず、ハンズフリーなので紙資料の持ち歩きは必要がなくなる。ある史跡や作品の前に立てば、自動的にそれを認識して解説文や、関連する図版・写真、今昔地図などを必要に応じて表示させることができる。自身が興味のある対象であれば、より詳しく史跡や作品の解説も参照できる。操作は、腕に表示される「概要」「詳細」「関連図版」「人物」などのボタンを押すだけで、グラス内へ必要な情報がディスプレイされる。
 美術館などで見かける、ヘッドホンなどを使った単純な音声ガイダンスとは本質的に異なり、表現できるコンテンツはマルチメディアで豊富だ。解説のミスや説明のし忘れも防止できるし、随行員は安全性やほかの気配りに集中できる。もちろん、肉眼でいろいろ観察したければ、ただウェアラブルグラスを外せばいいだけだ。観光地では、ハンドマイクを使ったガイドの耳障りな騒音も解消されるだろう。
 この仕組みを街歩きに活用すれば、資料片手にうつむいて読みこむ必要もなければ、随行員が大声で解説することもないし、スマホやタブレットの情報に気をとられ電柱に衝突することもない。また随行員(リーダー)は必ずしもその街について細部まで知悉している必要もない。道をまちがえそうになったら、リーダーのウェアラブルグラスへ「どこ行こうてんだい、崖から落っこっちまうぜ。そこを右折に決まってらぁな」と音声ガイダンスが伝えられる。w
 つまり、グループリーダーさえいれば、たとえその街に詳しい人物がひとりもいなくても、それなりに街歩きができてしまうのだ。でも、やはり詳しい人物がひとりいないと、参加者からの個々の質問には答えられないので、実際には仕事上はラクになったとはいえ、街の歴史や地場の記憶に通じた随行員の付き添いが必要かもしれない。
 また、事前に表示されるコンテンツを、街歩きの性格や参加者の興味に従って、自由にカスタマイズしておくのも面白い。「美術」「文学」「建築」「近代史」「自然」「江戸」……などなど、テーマ別にコンテンツをつくり分けることができる。その“現場”に立ち、昔の風景や建物の写真、作品、古地図などを、解説とともに実景に重ねて表示することができるのだ。森林公園で鳥の鳴き声が聞こえたら、その鳥の画像や解説をすぐに表示させることも可能だろう。WiFiアクセスポイントのない地域であれば、クルマかバイクにインフラレス対応の広域中継APを積んでおけばいいだけの話だ。
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第二文化村.jpg
 ひとつ難点があるとすれば、ウェアラブルグラスはメガネと同じなので、製品デザインによっては視野のすみがフレームでさえぎられることだ。つまり、グラス内の表示に気をとられすぎて、クルマの接近には注意が必要だろう。(ただし、スマホをうつむいて見つづけるゲームよりは安全だ) 周囲の音は通常どおり聞こえるので、解説の負荷が低減されたリーダーが気を配れば大丈夫だとは思うが……。もうひとつ、歩いたコースの資料が欲しいという参加者へは、あらかじめ作成しておいた資料データを、PCやスマホ/タブレットなどの端末へ向け自動配信する必要があるだろうか。腕のキーボードに「資料ちょうだい」ボタンを備えていれば、PPTやPDF資料を事前に登録してもらっていたメアドへ、すぐに配信できる仕組みにすれば可能だろう。
 以上は、おもに街歩きをする参加者側のメリットを書いたけれど、主催者側のメリットもいろいろと考えられる。随行員の都度による下準備や資料作成の負荷が、大きく軽減されるのもそのひとつだけれど、街歩きを重ねるごとに多種多様なデータが蓄積されていくことだ。参加者がなにに興味を多く持ったのか、どこでどのような操作が行われ、どのようなタイミングで誤操作が発生したのか、どの解説がもっとも読まれているのか、どこで道をまちがえそうになったか、トイレの位置確認はどのあたりが多かったか、参加者からの質問内容にはなにがあったのか…etc.、リアルタイムで蓄積されていくデータの傾向分析を通じて、いろいろなことが見えてくるだろう。それを、次回の街歩きや新たな催しに反映させれば、より的確でスムーズな実施が可能になるにちがいない。
 ウェアラブルデバイスへの問い合わせは、すでに博物館や美術館、病院(病院は腕時計や金属バンドは禁止)などからもきていると聞いている。だが、それはあくまでも館内/構内での用途だ。せっかく「ウェアラブル」な仕組みなのだから、屋外で活用してこそ高度な3D画像認識機能も含め、本来の機能を発揮できるのではないかと思うのだ。下落合のあるポイントに立つと、目白文化村Click!近衛町Click!の街並みがよみがえり、道を歩いていると佐伯祐三Click!『下落合風景』Click!が描画ポイントで表示される……、そんな日が案外早くやってくるのではないかと思う。道端へ記念プレートや史跡看板を建てるよりも、圧倒的にスピーディかつ低コストで実現することができる。しかも、新たな発見による記述の変更や更新も、一度設置されてしまったプレートとは異なり瞬時に完了する。
ウェアラブルグラス.jpg
 ウェアラブルグラスなどのデバイスは、市販の製品を活用できるマルチベンタ―対応で、OSSを含むマルチプラットフォームの環境が望ましい。できれば、クラウドばかりでなくオンプレにも対応して、既存システムを抱える自治体やNPOなどへ導入しやすい環境が望まれる。記念プレートをひとつ建てるのに、地代も含めてひとつ50万円以上かかるとすれば、おそらくその数個ぶんで、ある地域全体をカバーできる「ウェアラブル遠隔街歩き支援システム」ができてしまうだろう。発生するのは、基本的にデバイス費用とアプリケーションだけで、システム基盤への新たなイニシャルコストはほぼ不要と思われる。

◆写真上・中:ウェアラブルグラスの視界内へ、周辺の画像認識によりこのような情報を表示させるのは技術的には可能だが、あくまでもイメージとしてお考えいただきたい。ベースになっている街角写真は、Googleのストリートビューより。
◆写真下:一例として、NECの「ウェアラブル遠隔業務支援システム」サイトClick!より。ウェアラブルグラスは単眼例で、腕のキーボードやボタンは自在にカスタマイズできる。

下落合を描いた画家たち・伊藤応久。

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伊藤応久「目白駅」1964.jpg
 描いた画面は、厳密には下落合ではなく豊島区目白町(旧・高田町字金久保沢)なのだが、画家が下落合1丁目445番地(現・下落合3丁目)に住んでいたので、ごく近所を描いた風景としてとりあえず「下落合を描いた画家」に入れてみた。描かれているのは、この地域に長くお住まいの方なら誰でもすぐにわかる、1962年(昭和37)に大改修を終えたばかりの5代目・目白駅Click!だ。
 翌1963年(昭和38)には新しい跨線橋も竣工するのだが、この目白駅「本屋」の大改修を数えずに、戦前と同じ駅舎だと規定(解釈)すれば、4代目・目白駅ということになる。あと60~70mほど駅から西へ寄れば下落合であり、画家のアトリエはそこにあった。1964年(昭和39)3月12日発行の「落合新聞」Click!(竹田助雄Click!主幹)に掲載されたのは、光風会の伊藤応久が描いた『目白駅』(仮)だ。この5代目・目白駅は、わたしも学生時代からお馴染みの駅舎であり、この前を歩いた回数は数が知れない。また、下落合に住むようになってからは最寄り駅のひとつとして、地下鉄のある高田馬場駅とともにしじゅう利用してきた。
 伊藤応久は、目白駅から直線距離で100mほどのところに住みながら、同駅をほとんど利用しなかったようだ。下落合1丁目445番地の敷地は、金久保沢Click!の東西に窪んだ谷間の北向き斜面にあたり、突きあたりが行き止まりのゆるい坂道を南へやや上がった左寄り(東寄り)に、伊藤はアトリエを建てている。ふだんの移動にはクルマを用いており、山手線はあらかじめ飲んで帰るとき以外は利用しなかったらしい。落合新聞の同号に掲載された、伊藤応久のエッセイから引用してみよう。
  
 竹田主幹から目白駅の事を何か書く様にとの事ですが、正直に云って、小生ここ十数年来あまり目白駅を利用していない。悪友にさそわれて銀座方面に飲みに行く夜等は、車の運転を中止して電車を利用する位のもの、駅から三分位の処に住まっていながら駅の事を余り知らなくて甚だ申訳ない次第。/大久保先生や長谷川大兄の作品が出陳されていると聞き先日わざわざ見に行って来ました。/以前は正面玄関にポスター等がはられて、黒ずんだ駅でしたが、それが立派な作品と入替になって文化的な駅になった事は、近くに住む者として大変うれしく思います。/苦言を申すなら、陳列ケースでも有れば、作品のためにも、見る方からしてももっといいと思います。
  
 付近に住む画家たちや、絵画好きな人たちの希望が入れられたのかどうか、目白駅へ新たに設置された跨線橋には美術品の展示コーナーが設置されていた。文中の「大久保先生」とは、下落合540番地Click!にアトリエがあった大久保作次郎Click!のことだが、「長谷川大兄」とは近所の徳川義親と親しかった日本画家・長谷川路可のことだろう。
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 伊藤応久の描画ポイントは、目白駅近くにお住まいの方ならすぐにおわかりだろう。画家は山手線の内側、目白町2丁目1684番地(現・目白2丁目)にある目白幼稚園の際あたりから、南南西を向いて目白橋と目白駅を描いている。現在の6代目・目白駅(先の数え方をするなら5代目・目白駅)は、駅舎が南へ後退して駅前広場が造られ、また目白橋も歩道が拡幅され大きく意匠変えをしているので、このような風情には見えない。この時期、目白貨物駅Click!はいまだ機能しており、ときおり複々線内側の貨物線を走る貨物列車が停車していたのだろう。
 落合新聞の同号が発行された1964年(昭和39)当時、目白駅にはあちこちに花壇が設けられ、四季を通じて花々が咲き乱れていたようだ。目白駅を花で埋めていたのは、会長を徳川義親Click!がつとめる「目白駅美化同好会」で、徳川家の娘たちや川村学園の生徒たち、近くの町会婦人会、目白幼稚園などがボランティアで参加していた。写真には、目白駅のホーム上に設けられた花壇に水をやる、川村学園の生徒たちの姿がとらえられている。ラッシュアワー時に、ブロックを積んだ四角い花壇がホーム中央につづいていると危険だし、乗車の行列もつくりにくくて邪魔なので、もちろん現在では撤去されている。「目白駅美化同好会」は、いまでも駅周辺で活動をつづけているようだ。
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 この当時、毎日新聞社と「日本花いっぱい協会」、「新生活運動協会」などが主催する「花いっぱい運動都市対抗」大会で、目白駅は運輸省から全国一の「綺麗な駅」として表彰されている。また、「週刊現代」が主催する「綺麗な便所」コンペティションでは、原宿駅を抑えて目白駅がNo.1に選ばれている。いまなら「マジですか?」Click!といわれそうなコンペだが、当時は国鉄の各駅間でけんめいに競われていたのだろう。その様子を、同号の記事から抜粋してみよう。
  
 愛される目白駅/花と美術の薫りを漂わせて
 目白駅のホームには寒い冬の季節でも可憐な桜草の花が咲き、改札口附近の窓辺では三色すみれやシクラメンが咲き続いた。また渡線橋に飾られた絵画はこの駅をいっそう清潔にしている。人通りの多い駅の廊下に沢山の美術品が飾られるなどは、ほかの駅では到底できぬこころみで、目白駅ならではの風格を漂わせている。
 東京一もう一つ
 「週刊現代」(号数忘却)にこんなことが記載。「便所でいちばんきれいな所を比較すると、原宿、目白ときまっていたものだが、今年も目白駅が一番きれい。原因は客の素質がよいのと、学生が多いからだろう」と。/この駅は平均乗降客一日約九万のうち二万四千が学生。
  
 跨線橋に設けられた美術展示場に飾られたのは、初回が根岸清治『黒い壺の幻影』、吉田遠志『くらげ』、西原比呂志『浜』と『浅間山』、吉田ふじを『花』、長谷川路可『女の顔』、つづけて大久保作次郎『谷間』、足立真一郎『槍ヶ岳』、長谷川路可『半島』などの洋画と日本画をとり混ぜた作品群だった。でも、駅の跨線橋に監視員なしで有名な画家たちの絵画を展示したら、あたかもドロボーに盗ってちょうだいといってるようなものだろう。案のじょう、さっそく作品が盗まれているのだが、それはまた、別の物語……。
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 当時90,000人を数えた1日の乗降客だが、現在は75,000人(JR東日本2013年)にまで減っている。おそらく、学生や生徒の通学利用が多いため、少子化の影響も少なからずあるのだろう。山手線では、鶯谷駅の48,000人(同年)に次ぐ乗降客の少ない駅となった。また、山手線しか利用できないのも“不便”に感じる要因だろうか。わたしも学生時代から相変わらず、山手線に加え都内を横断して飯田橋や九段下、大手町、日本橋、深川へと抜けられる地下鉄に連結した高田馬場駅まで、つい歩いてしまうのだ。

◆写真上:1964年(昭和39)に落合新聞用に描かれた、伊藤応久『目白駅』(仮)。
◆写真中上は、1967年(昭和42)撮影の目白駅舎。は、1970年(昭和45)前後に撮影された目白駅前。は、伊藤応久『目白駅』(仮)が描かれた位置から目白駅を望む。実際にはもう少し北側だが、現在はビルが線路際まで迫り描画ポイントには立てない。
◆写真中下は、1963年(昭和38)の「住宅明細図」にみる伊藤応久アトリエ。は、伊藤アトリエ跡の現状で突き当たりのやや左手に建っていた。
◆写真下は、目白駅ホームの花壇へ水をやる川村学園の生徒たち。は、1964年(昭和39)3月12日に発行された落合新聞の目白駅をめぐる記事。

落合・東中野上空で転回するB29。

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 1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!のとき、丘陵から強い北風が吹きぬける夜空を、落合と上高田の地域住民は見あげていた。トンボほどの大きさに見えるB29の大編隊が、(城)下町Click!の大空襲による大火災の照り返しを受け、銀色の機体をキラキラ光らせていた。「ミーティング・ハウス2号」作戦と呼ばれた東京大空襲には、マリアナ諸島に配備された325機のB29が投入されている。
 東京大空襲は大川(隅田川)の沿岸地域と、おもに大川の東岸地域を中心に行なわれ、山手の深部地域には焼夷弾および爆弾をほとんど投下していない。したがって、空襲警報の当初は防空壕などへ退避したものの、ねらわれたのが乃手地域ではないことがわかると、防空壕から出て丘上などから(城)下町が真っ赤に燃える様子を眺めながら、「明日はわが身だ」と感じていた住民たちが数多くいた。
 上高田300番地のヤギ牧場Click!を閉業し、少し離れた同じ東中野の駅近くに住んでいた秋山清Click!も、下町一帯の大火災を唖然としながら見つめていた。彼は乃手の空襲ではないとわかると、防空壕ではなく妻や子を連れて自宅の部屋へともどり、窓からその様子を眺めている。昼夜の別なく、警戒警報や空襲警報が出るので慢性の睡眠不足がつづき、少しでも空いた時間があればすぐに熟睡できるような状態だったが、秋山は窓外から空襲の様子を熱心に見ていた。上高田から本所・深川地域までゆうに15kmほどはあるが、燃える下町の大火焔で部屋の窓近くでは新聞が読めるほどだったという。秋山は、「四号くらいの活字」がハッキリ読めたと記録している。
 いくつかに分かれたB29の大編隊は、(城)下町方面から東中野あるいは落合方面へと低空で侵入すると、その上空で大きく転回しながら再び燃える下町の上空へと引き返していった。そのときの様子を、1986年(昭和64)に筑摩書房から出版された秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』から引用してみよう。
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 そこにあの夜のB29大編隊の爆撃が来た、その夜、空の、夜半から夜明けまでの攻撃が来たのだ。二組の母子が、狭い家の部屋の中に坐っていて、本所、深川、銀座、日本橋、上野、浅草、芝、神田、麹町、と自由勝手に空を埋めんばかりの襲撃を、ただただ見ているばかりだった。巨大なトンボがギラギラ光る腹を見せて、ちょうど自分らの頭の上に来て方向転回して飛去る。五〇〇メートル、七〇〇メートル、一〇〇〇メートル、そんなそらの近くを自在に上から焼夷弾を落として行く。紙と材木で出来た家の燃えること。夜の底にうごめいて、東西南北の方角のただ一つ西の方が、いくらか暗いが、それ以外の空の広さが燃えさかる。あの夜はひどい北風で、焼けただれる条件があますところなく備わっていた。/いま私はあの暴虐な襲撃について、そんな記憶だけを持っている。
  
 おそらく、B29の大編隊が東中野から落合地域の上空で転回し、再び攻撃目標である(城)下町地域へともどって反復爆撃を行なう戦術は、あらかじめ図面上で綿密に練られた作戦上のフォーメーションだったのだろう。
 東京大空襲は、高度わずか1,000~2,000mほどで実施された、これまでにない超低空夜間爆撃なので、地上の目標物を目視で探すのも容易だったとみられる。落合や東中野、あるいは上高田の地域に見える、地上のなにを目標にして、次々とやってくるB29の編隊は転回していたものだろう。
 ひょっとすると、山手線と中央線が北へ二股に分かれて見える、特徴的な新宿駅を目印にし、その上空をすぎた時点で再び攻撃目標を探すために、大火災で赤々と照らし出された下町の方角へ向け、大きく転回していたのかもしれない。そう仮定すれば、東中野や上高田、落合地域の上空へ次々と大編隊が飛来しては、ふたたび下町方面へと飛び去っていく理由が説明できるのだ。
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 翌日、秋山清は勤め先である深川の木場にあった事務所へ“出勤”しようとしている。そこで、中央線がいつものように平然と運行されているのに驚く。東中野駅から四谷駅までの短い区間だったが、そこから歩いて大川の永代橋をめざして歩いている。そして、動いている電車がすべて無料であることに気がついた。すでに、料金を徴収し客を乗せて運行するという東京じゅうの交通事業が、一夜にしてすべて崩壊しているのを知った。その様子を、同書から再び引用してみよう。
  
 その時私ははじめて、人々が誰もかれも乗車賃を支払わないで、改札口を渡り、外に出て、それぞれの方向に動いてゆくのを見た。ちょっと不思議に思えたが、これはたしかに私の方が理解を間違えていたのである。/電車は出来るだけ運転されて、市民を運べばよく、人々は目的地に向かって、少しでも、うごいている電車を利用すればいい。/いいかえれば、ニッポン国の「国鉄」といえどもあまりな敗北と壊滅のなかに、自分らが、国民から国家として料金を徴集するすべをうしなっていたのである。ある変革に伴って必ず起こるべき現象にすぎなかったのである。起こらねばならぬ変化が、ふと指導も指揮もない街に出現したのである。
  
 このとき、軍隊や警察、行政の各役所は死者・行方不明者10万人以上、罹災者数百万人の壊滅的な東京市を目の前に、ただ立ちすくむだけだった。仕事がある人間は、その惨状の意味を深く考えることをやめ、ただ目先の業務をいつものように機械的にこなすだけだった。秋山清が、すでに跡形もない会社へ出勤しようとしているのも、そんな心理のあらわれだろうか。
 そして、彼はハタと気がついた。秋山が夢想していた、文字どおり「無政府」状態が眼前に出現していたのだ。永代橋には、「用なき者が被災地に行くのは許さぬ」と、深川方面へ渡ろうとする人間を阻止するために、形ばかりの兵士たちが着剣姿で派遣されていたが、彼らはなにもせず、ただ呆然と焼け跡や避難民を見つめているだけだった。
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 1946年(昭和21)の春、秋山清は金子光晴や岡本潤、小野十三郎の4人で詩誌『コスモス』を創刊している。同誌に掲載された、秋山清が東京大空襲を回想して創作した「赤いチューリップ」の一部を引用してみよう。
 私はみた。
 泥にまみれた五つのシャレコウベを。
 木屑のように積みあげられた
 手の骨と足の骨を。
 ビール瓶に
 赤いチューリップをさし
 せんべいとアンパンが供えてあるのを。
 水道工事が掘りだした骨のまえで
 十四五人の子供と
 おかみさんが五六人拝んでいるのを。
 木場のちいさな運河のほとり。
 風もないひるどきの五月の光りのなかに
 線香の煙がまっすぐ立ちのぼっていた。

 現在でも、ビルの建て替え現場などの地下工事で、東京大空襲のときにやむをえず仮埋葬された、あるいは行方不明だった被害者たちが見つかっている。何度も書くが、夏になると「心霊スポット」や「怖い話」などが話題になるけれど、東京の市街地全体が膨大な犠牲者(関東大震災Click!の犠牲者も含む)の眠る「事故物件」であり、街丸ごとが「心霊スポット」であることを、決して忘れてはイケナイ。

◆写真上:下落合の斜面から見上げた初秋の空。
◆写真中上は、上空の編隊に合流するためだろうかゆっくりと右旋回をはじめたB29の編隊。は、2010年(平成22)3月に撮影した下落合の空。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機によって撮影された第1次山手空襲Click!直前の落合・上戸塚・上高田・東中野地域。は、2011年(平成23)3月10日の東京大空襲記念日に写した下落合の空。東日本大震災が起きる前日の空でもある。
◆写真下は、1947年(昭和22)7月9日に撮影された落合・上戸塚・上高田・東中野地域。は、2013年(平成25)3月に撮影した下落合の空。

空襲の消火に必死の国際聖母病院。

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 1945年(昭和20)4月13日午後11時すぎにはじまった第1次山手空襲Click!で、焼夷弾が雨あられのように国際聖母病院のフィンデル本館Click!に降りそそいだ様子が、当夜、病院に勤務して必死に消火をつづけた医師の証言として残されている。勤務していたのは、下落合2丁目570番地で幡野歯科医院Click!を開業していた幡野義甚だ。おそらく、医師不足から自宅に付属した医院を閉鎖して、聖母病院勤務になっていたのだろう。
 同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!では、B29の編隊が北からやってきたのに対し、4月13日の空襲では南側から飛来している。これは、目白文化村Click!の空襲のとき、B29の編隊が東南上空から飛来したという証言とも重なる。おそらく、米軍は落合地域の地図を参照して空爆計画を立てており、江戸期から清戸道Click!(現・目白通り)沿いでもっとも家々が稠密だった繁華街「椎名町」をねらったものだろう。
 ちなみに、昔ながらの「椎名町」Click!は西武池袋線の椎名町駅周辺ではなく、大正期から昭和初期にかけての地図を参照しても明らかだが、現在の目白通りと山手通りが交差する、長崎と下落合にまたがる一帯の地域名だった。だから、江戸期から明治期にかけ長崎村の「椎名町」であり、落合村の「椎名町」でもあったのだ。米軍は、商店街や住宅が密集して描かれた、1935年(昭和10)以前の地図を参照しているとみられる。
 南側から侵入したB29の大編隊は、おそらく聖母病院のフィンデル本館を目標に、爆撃の照準器を合わせていたのだろう、同病院は大量の焼夷弾をあびることになった。聖母病院空爆の様子を、1967年(昭和42)8月10日に発行された「落合新聞」Click!の、幡野義甚の証言から引用してみよう。
  
 聖母病院爆撃
 幡野 当時、私は聖母病院に勤務していて、一切疎開はまかりならんということで、家族もみんなうちにいました。/私は国際聖母病院があるからこの辺は爆撃はないだろうと考えていたわけです。これは私の非常な間違いで、昭和二十年四月十三日、突然、夜ですね。B29の絨毯爆撃、どんどんどんどん無差別に落ちてきましたね。/私は患者を全部地下室に入れまして、それから屋上へ登ったわけです。現在は亡くなられた大越という医長、その人と一緒に屋上にのぼっておりました。/屋上にもずいぶん落ちましたですね、焼夷弾が。それを患者の干したいろいろなもので消したんですが、火災がくるのでのどが乾きましてね。そのうちに、正門に向って右に門衛があったでしょう、それも直撃弾で燃えて、それをみんなで消すわけですね、消火器もいまのような立派なものじゃありません、炭酸ガスの入っている、そういうもので消すんです。いまはあの門はありませんね。
 司会 国際聖母病院は爆弾は落とさなかったと聞いていましたが、受けたんですね。
 幡野 受けたんです。落ちました。あれだけ沢山来たんですから、落とさないわけにはいかんでしょう。(笑い)
  
 幡野医師が「爆撃がないだろう」と想定していたのは、国際赤十字による「ジュネーブ条約」(戦時国際法)を意識してのことだろう。この日、東京の山手上空へ来襲したB29は、160機とも170機ともいわれている。
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 この証言でも、戦後になってコンクリート建築で焼け残った病院の周辺へ、米軍は「病院への爆撃を避けた」という結果論的な情報操作(虚言流布)が、おそらくGHQの諜報機関Click!(日本人で組織された諜報・謀略機関Click!含む)によって意図的に流されていたのがわかる。「文化財が多い歴史的な街への空爆は避けた」というデマClick!ともども、1995年(平成7)以降に米国公文書館で次々と情報公開された記録からも明白だ。
 この種のデマは、戦後いち早く広島や長崎へ調査に入った米軍の研究機関によっても流された。2013年(平成25)に岩波書店から出版された綾瀬はるか『「戦争」をきく Ⅰ』(TBSテレビ「NEWS23」取材班)には、病院で治療を受けている重症の被爆患者たちに対し、米軍が「お詫びをして治療するため」に広島へやってくるという説明があった……という証言が採取されている。(片岡ツヨ証言) だが、実際には核兵器による爆撃効果の人体的測定、あたかも核被曝による破壊効果=人体被害のモルモット的な観察・研究・分析のための現地入りだったのだが、この虚言流布がその後につづく意図的なデマ流しによる、世論・情報操作のさきがけのように思われる。
 広島や長崎に流されたのは、占領米軍の諜報機関(デマゴーグ)が地元の自治体ないしは警察を利用し、短期間でバラまいたものと推定できるが、のちの「病院」や「歴史的都市」への空爆を避けたというデマは、より組織的なルートにより占領政策の一環として、当時のマスコミ(へ送りこんだ諜報員)をも動員しつつ、占領下の日本人の抵抗や反感を抑えるために流布されているとみられる。
 証言する幡野義甚の自宅は、聖母病院から東へわずか200mほどの位置にあったのだが、同日の空襲で全焼している。つづけて、幡野医師の証言を引用しよう。
  
 焼けるわが家を見詰める
 司会 幡野さんのうちも焼けましたね。
 幡野 焼けました。聖母病院の消火に夢中になっていまして、そのうち「先生のところがあぶないようです。お帰りになって下さい」というんですが、責任感にかられましてね、消すまでやってたんです。しばらくして帰りました。もうそのときはうちの方は焼けておりまして、私のうちのそばに錦袋クラブという寄席がありましたが、そこがすでに焼けていて、私のところは火に包まれていた。それで、息子や家にいた学生と一緒に庭のプールから水を運んでかけると、瞬間的にちょっと消えますが、またすぐパッと燃えてしまう、焼夷弾は熱が強いから。であきらめて、私はプールに入って、すっかり焼け落ちるのを見ていた。自分の家が焼け落ちるのを見るのは、つらいもんですね。大きな戦争の犠牲にしては小さなことかも知れませんが。/あの辺の人は丁度七曲りの方に逃げたんです。大倉さんのいた大倉山に逃げて、一夜を明かしました。
  
 文中の「大倉山」は、七曲坂の東側に拡がる大倉財閥が所有していた山で、バッケ坂Click!のひとつ権兵衛坂が通う別名「権兵衛山」Click!のことだ。
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 第1次山手空襲のあと、同年5月25日夜半の第2次山手空襲でも国際聖母病院は焼夷弾による空爆を受け、つづけて同年7月ごろ硫黄島から飛来したP51か、あるいは館山沖にやってきた米空母部隊の艦載機(F6F)かは不明だが、フィンデル本館がねらわれて屋上に250キロ爆弾を投下されている。その被害の様子は、以前の記事でも取り上げたが、野方配水塔が繰り返しP51とみられる戦闘爆撃機の機銃掃射Click!を受けているところをみると、聖母病院をねらったのは硫黄島から飛来したP51なのかもしれない。
 日本がポツダム宣言を受諾したあと、ドラム缶にパラシュートをつけ救援物資を抑留者に向けて投下する様子をとらえた、フィンデル本館の屋上写真(1945年8月29日/日本時間)を観察すると、戦闘爆撃機がどのような角度から250キロ爆弾を投下したのかが推測できる。同機は、フィンデル本館の西側から急降下し、同館の東へつづくウィングの屋上めがけて爆撃を加えているとみられる。
 だが、爆弾は屋上の中央には命中せず、ウィングの東端に着弾して炸裂したのが見てとれる。関東大震災Click!の教訓を踏まえて建設された聖母病院は、建物の外壁や屋上が厚さ60cmの鉄筋コンクリートによる“装甲”で覆われていたため、屋上東端の床面をすり鉢状に陥没させはしたものの貫通せず、屋上を囲む外壁つづきの分厚いパラペットにも阻まれて、どうやら跳ね返されているようだ。
 さて、下落合へ雨あられと降りそそいだM69集束焼夷弾だが、直径8cmで長さ49cmほどの焼夷弾の残骸を、戦後に花立てとして改造していたお宅があったようだ。被弾した家庭に数個は保管されていたらしい、膨大な筒状の残骸は近所で穴を掘りまとめて棄てられるか、別の用途に“有効活用”されていた様子が伝わっている。1962年(昭和37)8月15日に発行された落合新聞のコラム、「翠ヶ丘」から引用してみよう。
  
 戦前淀橋区内の戸数は四万三千百二十であったが、昭和二十年六月には五千七百九十と減った。約七割四分弱灰燼に帰したわけで、新宿区全体では約九割焼けている。(中略) (焼夷弾は)多い処は一軒に二十数発落ちた家もあるし、当落合新聞の戦前の家約八坪の狭い処にも十四発落ちた。家根をぶち破って畳の上でパチパチ燃えている全く人騒せな奴で、縄箒で叩いたり、水をぶっかけたりしたが、あまり効きめはなかった。戦後はそこここの焼跡で畑を作ると随分出てきたし、ごっそりまとめて埋めた記憶もある。場所も知っているが最早やその上に家が建っている。あれから十七年、残り少なくなると珍しくなり、最近では物騒な火薬を詰め込まれるよりも花のほうがいいと、花立などに化け平和な雰囲気をかもし出しているお家もあった。(カッコ内引用者註)
  
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 以前にも書いたが、わたしの祖父は撃墜されたB29の、ジュラルミンでできたパイプ状の破片をコッソリ持ち帰り、切断・改造していくつかの書画用筆立てに“活用”していた。直径15cmほどはあった銀色に光る筒だが、大きさのわりには驚くほど軽かったのを子ども心に憶えている。当時は、いまだ戦争のキナ臭い遺物が、よく見ると日常のあちこちに転がっていた時代だ。おそらく、祖父が死ぬと棄てられてしまったのだろうが、あのとき祖父にねだっておかなかったのが、いまさらながら悔やまれる。当時の“モノ”が身近にひとつでも残っていれば、よりリアルに「戦争」を子孫へ語り継げたのにと思うのだ。

◆写真上:250キロ爆弾が命中した瞬間、このような閃光が屋上で光っただろうか?
◆写真中上は、第1次山手空襲が行われる11日前の1945年(昭和20)4月2日に米軍の偵察機が撮影した空中写真。は、1945年(昭和20)5月17日に米軍偵察機によって撮影された国際聖母病院界隈の空中写真。同年5月25日の第2次山手空襲のために、乃手の焼け残り地区を撮影したものとみられる。は、同年7月ごろに聖母病院のフィンデル本館をねらって投下された250キロ爆弾の想定投下-着弾の軌跡。1945年(昭和20)8月29日(日本時間)に聖母病院上空で撮影された、救援物資の投下写真へ描き加えたもの。
◆写真中下は、別角度からの救援物資の投下写真にとらえられた東ウィングの破壊地点拡大。は、戦前のフィンデル本館写真へ250キロ爆弾の投下-着弾の想定軌跡を描き加えたもの。は、昭和初期に撮影された東ウィングの屋上と着弾位置。
◆写真下は、1967年(昭和42)の夏に落合新聞主催で開かれた座談会で、左端の人物が幡野歯科医院の院長・幡野義甚。は、落合新聞1967年(昭和42)8月10日号の座談会記事。は、落合新聞1962年(昭和37)8月15日号に掲載された焼夷弾コラム。

「暁」水雷長から下落合の聖書神学校長へ。

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 以前、太平洋戦争中に駆逐艦「巻波」の水雷長(魚雷戦の指揮官)として勤務し、1943年(昭和18)2月のブカ島沖夜戦で戦死した下落合の稲垣米太郎Click!をご紹介したが、今回は1942年(昭和17)11月に第三次ソロモン海戦で撃沈された駆逐艦「暁」で同じく水雷長をつとめていた、のちに下落合の日本聖書神学校Click!(建物は通称メーヤー館Click!)の校長になる海軍中尉・新屋徳治の物語だ。
 1942年(昭和17)11月13日に、ソロモン海域で行われたガダルカナル島をめぐる艦隊同士の夜戦は混乱をきわめた。日本側の呼称では第三次ソロモン海戦、米側ではガダルカナル海戦と呼ばれる同戦闘で、日米両軍は大きな被害をだしている。「夜戦が得意」だったはずの日本海軍だが、このガダルカナル島をめぐる一連の海戦で日本側は戦艦2隻を失うなどより大きなダメージを受けた。
 戦闘がどうやってはじまったのか、日米両軍ともハッキリとはつかめていない。日本艦隊は、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を砲撃する目的で出撃しており、戦艦2隻の主砲には飛行場の設備を焼き払う三式弾(おもに対空戦闘用の収束焼夷弾頭)が装填されていた。米艦隊はレーダーが十分に機能せず、先頭を航行していた駆逐艦が、日本艦隊の出現に驚いて転舵したことで、米艦隊は混乱におちいった。同時に、日本艦隊は米艦隊の出現に驚愕して艦隊戦を決定するが、かんじんの戦艦2隻の主砲には砲撃戦用の徹甲弾が装填されていなかった。
 米軍側は、日本艦隊の先頭を航行していた駆逐艦「暁」の探照灯(敵艦を照らして味方艦の砲撃を支援する大型ライト)照射からはじまったとしているが、日本側は敵味方不明の吊光弾により、なしくずし的に戦闘がはじまったとしている。戦闘は混乱をきわめ、日米両軍とも何度か味方の艦を誤射し、同様に日米艦隊ともに味方の艦から反撃を受けて大きな被害をだしている。このとき、日本艦隊で緒戦に損害を受けたのは、探照灯で米艦隊を照らし、格好の攻撃目標となってしまった駆逐艦「暁」だった。「暁」に水雷長として乗艦していた新屋徳治の証言を、1975年(昭和50)に聖文舎から出版された『死の海より聖壇へ』から引用してみよう。
  
 グァーン!!/ものすごい音響とともに目の先がくらむ。足もとがぐらぐらっとする。《あっ》という間もなく、抵抗することのできないすさまじい爆風の圧力が、私の体を艦橋の甲板上に吹き倒してしまった。《やられた》と直感する。どこかわからないが、すぐ近くに敵弾が命中したのだ。《ああ、これで自分は死んで行くんだな》。一瞬、どこかに引き入れられるような、気が遠くなるような、静かな気持ちに襲われる……。だがしかし、どうも死んではいないらしい。次の瞬間には《なにくそ》と、反射的にわれとわが心に叫んだ。/腰から上を起こしてみると、起きることができた。頭全体がガーンとしてしまい、右の頬が熱い。右の目には前額から血がたれてくる。この砲弾の炸裂で、すっかり心機転倒、あがってしまっていた。(中略) 司令が振り返って、「取舵」と言う。/後を向くと、そこにはもう操舵員の姿は見えなかった。どこに吹き飛ばされたのか。死んでしまったのであろう。そこで、尻餅をついたままの姿勢で自分が舵を動かしてみると、もう舵輪はぶらぶらで役をなさない。/「舵ききません」と答える。/敵の一弾は、艦橋の操舵装置を破壊し去っていた。
  
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 「暁」は舵と機関に被弾し、米艦隊の洋上へ取り残されて停止した。艦体は、左舷に傾きながら沈みはじめていた。艦橋で生き残ったのは艦長と航海長、そして新屋水雷長のわずか3人だけだった。ほどなく「暁」は沈没し、新屋徳治は海へ投げ出された。彼は近くに大きく見えている、ガダルカナル島をめざして泳ぎ着こうとした。
 それからの新屋は、「いかに死ぬか」だけを考える主体になっていく。「帝国軍人」は、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓をたたきこまれていた。米軍の艦船が近づくと、発見されないようにできるだけ離れるようにして泳いでいた。だが、一昼夜も泳いでいるうちに、徐々に体力がなくなっていく。ついに米艦に発見された彼は、上陸用舟艇へ収容されそうになるが、「No thanks(けっこう)」といって舟艇から離れようとする。しかし、すでに体力を使い果たしていた新屋は泳げず、2人の水兵に引き揚げられてしまった。
 それから、彼は死ぬ機会をうかがいながら南洋の島々に設置された臨時の捕虜収容施設を転々としていく。最終的には、ニュージーランドの正式な捕虜収容所に落ち着くのだが、その過程はすべて容易に「死ねない」自分の「弱さ」との葛藤に費やされた。
  
 (前略)穏健派の人々の考えは、われわれが死ねないでこうして生きている以上、それが最善の道ではないにせよ、捕虜条約の規定に従って、その中で生活するよりほかにないというのである。これはきわめて穏健な考え方ではあるが、それとてもわれわれの気持ちを満たしてくれるものでもない。結局つまるところは、生きていてはならないものが生きているという事実、日本軍隊のみのもつ特殊な伝統に、すべての矛盾、混乱の源があった。
  
 捕虜収容所には新聞や雑誌、日・英語の書籍類、楽器などがもたらされ、クリスマスにはケーキや菓子類などが周辺の慈善団体や住民から差し入れられて、収容者たちは日米戦争の戦況を正確に把握することができていた。大本営が、ラジオを通じて華々しい「戦果」のデマを流しているころ、確実に追いつめられてあとがない絶望的な日本の状況を、収容者たちはクールに観察することができた。
 そんなとき、新屋徳治は収容所に備えられた図書コーナーで、徳富蘆花の文章に出あう。少し長いが、『死の海より聖壇へ』から再び引用してみよう。
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 この文章というのは、あの日露戦争が終わったころであったか、私の記憶にもしも誤りがなければ、彼が当時の第一高等学校の学生に対して行なった一場の講演であり、題して『勝の哀しみ』という。/これを最初に読んだ時はそれほどにも感じなかったのであるが、それでも何か印象を残し、それからしばらくおいて、つれづれなるままに二回、三回と読むうち、次第に強く私の心を惹きつけてきた。捕虜という予期しなかった境遇に落ち込むことにより、はじめて深刻な人生の問題に開眼させられ、人間とか世界とか歴史といったことが、何が何やらわからなくなった現在の自分、しかもそれゆえに死と懐疑と苦痛の中に悩む現在の自分が、なんとかして得たいと求めているものに、この文章は一条の光を投げかけ、新しい希望と勇気とを奮い起こさせてくれるのであった。(中略) 蘆花はここで永遠なるものにわれわれの心を向ける。それのみがすべてを価値づけ、決定すると説く。「戦勝が却って亡国の基となるかもしれない。或は世界大乱の基となるかもしれない」。この言葉は、いまから何十年も前に語られたのであろう。しかし現実の世界を眺めたとき、あまりにもよく状況が符合しているように見えるその真実さが、恐ろしいほどであった。私はいま戦われている太平洋戦争に、日本が負けるとは日本人として思いたくもなかった。しかし他方ではこの言葉のように、日本はそのすべてをなくしてしまうのではないかといった予感にまとわれざるを得なかった。この言葉は、何か偉大な予言として私に迫るのを覚えた。それとともに、彼の言う「一刻の猶予を容れざる厳粛なる問題」が、私の心の中に、それこそ一刻の猶予を容れない切実な問題として自覚され始めた。
  
 この時点で、若い彼は軍人として、あるいは戦前の学校教育などで叩きこまれた「マインドコントロール」の呪縛から解き放たれ、多角的なものの見方や広くて自由な発想、新たな世界観や社会観、そして人間観を主体の中で再構築するきっかけをつかんだのだろう。ほどなく、徳富蘆花の「予言」どおり明治政府由来の大日本帝国は、連合軍の前に完膚なきまでにたたきのめされ、膨大な犠牲者をともないつつ敗戦と亡国状況を招来することになった。
 新屋徳治は、それまで見向きもしなかった収容所に備えつけの聖書を読みはじめ、捕虜生活の末期にニュージーランドの牧師から洗礼を受けている。そして、新たな“愛国者”となった新屋の、この間の心の葛藤や心理的な推移は、とてもひとつの記事では書ききれないので、ぜひ『死の海より聖壇へ』を参照いただきたい。
 1946年(昭和21)2月、新屋徳治は長い捕虜生活を終え、ニュージーランドから横須賀へ引き揚げてきた。両親と姉の家族は全員無事だったが、3年前の1942年(昭和17)に彼の葬儀はとうに済ませており、彼の姿を見た牛込区(現・新宿区)に住む姉は驚愕している。引き揚げから2ヶ月後、下落合に創立された日本聖書神学校へ入学し3年後に卒業したあと、日本各地の教会へ赴任。やがて同書の第2版が出版されるころには、下落合3丁目14番地の日本聖書神学校(メーヤー館Click!)の校長へ就任している。
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 同書は、1957年(昭和32)に待晨堂書苑から新屋徳治『死の海より講壇へ』と題されて出版されたのち、1975年(昭和50)に聖文舎からタイトルを『死の海より聖壇へ』と改めて再出版され、1988年(昭和63)より同出版社から同じタイトルで、つづいて『死の海から説教壇へ』と改題されて版を重ねている。最新版は、下落合のご子孫の方からお借りすることができた。ありがとうございました。>新屋様

◆写真上:移築直前に撮影した、ヴォーリズ設計のメーヤー館(日本聖書神学校)。
◆写真中上は、日米開戦直前の昭和15年前後に僚艦から撮影された駆逐艦「暁」。は、1975年(昭和50)に聖文舎から出版された新屋徳治『死の海から聖壇へ』()と、同出版社から新装再版された1988年(昭和63)の同書()。
◆写真中下は、1912年(明治45)の竣工間もない目白福音教会Click!の宣教師館(のちの日本聖書神学校)。は、千葉県東金へ移築された同館。(小道さんClick!撮影)
◆写真下下左は、メーヤー館の内部。(同じく小道さん撮影) 下右は、タイトルを『死の海より説教壇へ』(聖文舎)と改題した最新刊。

海上に写る敗戦直後のモノたち。

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 これまで、さまざまな記事に1945年(昭和20)から1947年(昭和22)ぐらいにかけての、米軍が撮影した空襲直前・直後の偵察写真、または戦後になって爆撃効果測定用に撮影された空中写真を頻繁に参照してきた。関東大震災Click!の直後、焦土を観察してまわった大正期の鳥居龍蔵Click!をまねて、東京市街エリアの焼け跡にいまだ発見されていない古墳の痕跡(フォルム)を探したり、実際に爆撃を受けて炎上した空襲被害の実態を確認したり、当時の住宅街の様子を鳥瞰したり、さらには戦中・戦後の陸軍施設を観察したりするのが目的だった。また、それらの写真を引用して書いた記事は、かなりの点数にのぼる。
 それらの写真はおもに東京地方が中心だったが、記事のテーマや物語、事件などの展開や必要に応じて、日本各地の空中写真を探して参照している。もちろん、観察するのは東京以外の都市部や町村が、すなわち日本列島の各地=陸上が多いのだけれど、ときどき海上に目を移すと、そこにも戦争の生々しい痕跡やツメ跡が色濃く残されているのが発見できる。これまで、ここで取り上げてきたのは旧・陸軍の諸施設や、空襲による焼け跡写真など陸上が圧倒的に多いが、それらの空中写真に撮られた海上における旧・海軍の“惨状”も、たまにはご紹介したい。
 1945年(昭和20)の当時、東南アジアからの船舶による石油輸送の海上ルートは米軍によって寸断され、もはや日本に石油はほとんど入ってこなくなっていた。前年の8月には、軍需省が「物的国力の崩壊」をすでに政府へ報告しているようなありさまだった。艦艇は重油を燃料として航行するが、日本の重油備蓄はすでに底を尽きかけていた。実質、1945年(昭和20)4月7日に発動された「天一号作戦」(第2艦隊による「沖縄特攻」)が、呉海軍工廠の周辺に備蓄されていた重油により、残存艦隊がまともに行動できた最後の大量消費ということになる。
 ちょっと余談だけれど、この作戦の旗艦だった戦艦「大和」Click!は、「特攻作戦」だったので沖縄までの片道燃料しか給油されなかった……というのが通説になっている。だが、戦後まもなくのインタビューに答えている呉工廠の給油要員は、沖縄と本土を2往復できるぐらいの重油(埋蔵油)を給油したと、ハッキリ証言している資料を読んだことがある。また、実際に片道燃料分の重油だったら、沈没時にあれほど乗組員たちが海上に漂う分厚い重油の層に苦しめられず、もう少し生存者も多かったのではないか……という非常に重要な証言だ。
 給油の担当責任者は、戦艦「大和」は“不沈艦”であり撃沈されずに柱島泊地へもどれるのではないか……という、“神話”を信じ期待して通常の給油を指示したか、あるいは「大和」に乗り組んだ指揮官たちと同様に、航空機による援護もなく作戦とも呼べない愚劣な「特攻作戦」に強い反発をおぼえ、「片道燃料」という作戦要項を無視して燃料タンクを満たした可能性がある。しかし、なぜか給油現場のこの証言はその後まったく取りあげられず、「片道燃料」で沖縄へ向かった第2艦隊の悲壮感と悲劇性だけが、ことさら強調されるようになった。いまになって、ずいぶん前に読んだ呉海軍工廠で給油任務に就いていた人々の証言が、どこの資料に掲載されていたものか記録していないのが残念だ。
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 さて、敗戦後に撮影された横須賀海軍工廠Click!跡の空中写真(冒頭写真)には、日本の無条件降伏文書の調印式が行なわれた戦艦「ミズーリ」と入れ代わるように、東京湾(横須賀港)へ入港した戦艦「アイオワ」の姿がとらえられている。() そのアイオワのすぐ北側には、出港準備と機関整備が行なわれているとみられる、白い排煙を吐く旧・海軍の戦艦「長門」()の姿が見える。敗戦の間際に横須賀港Click!に係留され、もはや航行する燃料がないため「移動砲台」とされて、敗戦時に唯一海上に浮かんでいた最後の戦艦だ。このあと、1946年(昭和21)7月に行なわれた、ビキニ環礁の水爆実験Click!で標的艦にされて沈没している。
 視点を東京湾から瀬戸内海に移してみると、呉海軍工廠や江田島周辺の海域には、1945年(昭和20)の本土空襲で撃沈された、旧・海軍のさまざまな艦艇を発見することができる。やはり目につくのは、戦艦「長門」と同様に「移動砲台」にされていた数隻の大型艦だ。そのほとんどが、米軍により繰り返された激しい攻撃によって大破・沈没し、浅瀬に着底している様子が記録されている。
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 まず、呉海軍工廠のガントリークレーンが建ち並ぶ巨大な船渠(ドック)をのぞいてみると、いちばん右手のドックでは練習艦「磐手」(旧・装甲巡洋艦)とみられる旧式艦が解体されている様子が見える。() その左手に見えている屋根つきの巨大なドックが、戦艦「大和」が建造された船台だ。ドック後尾に見える大屋根は、第1号艦(「大和」の計画仮艦名)の建造時、艦の規模を遮蔽して秘匿するために設置されている。また、異なるタイムスタンプの空中写真で同ドックを観察すると、航空母艦らしい艦が解体中であるのが見てとれる。() この艦は、付近の海域で撃沈され、大きく傾斜して着底していた空母「天城」かもしれない。()
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 呉港の周辺を眺めてみると、武装解除されスクラップ化されるのを待つ駆逐艦や海防艦など小型艦船の姿が目につく。(⑥⑦) またが撮影される少し前、呉港には練習艦「磐手」が係留されている様子もとらえられている。艦上を仔細に観察すると、主砲塔がすべて取り払われ、対空用の12.7cm高角砲や25mm機銃座が設置されている様子がうかがえる。おそらく、空襲に備えて練習艦から防空艦へ改装されていたものだろう。()
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 目を江田島の周辺海域へ移すと、三子島の海岸には戦艦「伊勢」が大破・着底している。() また、近くには同型艦の戦艦「日向」も、同様に撃沈され着底しているのが見える。(⑩⑪) 両艦とも艦尾に飛行甲板を備えた、「航空戦艦」という独特な艦影をしており、いくら飛行甲板などを樹木で覆い迷彩をほどこしたとしても、燃料がなく動けない艦船は米軍の攻撃機には格好の標的になっていただろう。さらに、同じく戦艦「榛名」も無惨な姿をさらして、海岸近くに沈没・着底しているのが見てとれる。()
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 いずれの艦も、あらかじめ海岸線近くに係留されているのは、沈没しても艦全体が水没せず艦底が海底に着底するだけで、その後も砲台として使用できるかもしれないという、淡い期待があったからだとみられる。だが、米軍の空襲は激しく、艦上の兵器や設備はほとんどが破壊され、空襲が終ると使いものにならなかったケースが多かった。(戦艦「榛名」の空襲) 「榛名」は、4番砲塔を残してすでに解体がかなり進んでおり、このあと浮揚作業ののちに解体・スクラップ化された。このほかにも、付近の海岸線には重巡「利根」()や軽巡「大淀」()、傾斜して着底している駆逐艦()など数多くの残骸が、無惨な姿をそのままさらしているのが見てとれる。
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 めずらしいのは、米軍のB29偵察機が1945年(昭和20)4月6日に柱島泊地の上空から撮影した、「天一号作戦」が発令される前日の戦艦「大和」の姿だ。() 左舷に見える船は最後の物資補給船か、あるいは可燃物を陸揚げするために接舷された運搬船だろう。翌日の午後2時20分すぎに、同艦はのべ400機近くの米軍機による攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。
 また、戦争による直接の破壊跡ではないが柱島の南、福良島の西2kmほどのところにある海域から、油が漏れだして帯状の形跡を引いているのが、戦後の空中写真からもはっきりと確認できる。() この位置には、1943年(昭和18)6月8日に謎の爆沈事故を起こした、戦艦「陸奥」が沈んでいるはずだ。燃料不足から、翌1944年(昭和19)には海底の「陸奥」のタンクから600tほどの重油が回収されたが、大半は「陸奥」が引き揚げられる1970年代まで、ときおり漏れでるままに放置されていた。

◆写真:1945年(昭和20)から1948年(昭和23)ごろまで、米軍機によって撮影された日本沿岸の偵察用、攻撃時、爆撃効果測定用の各種空中写真。


新発見の『ひるね(弥智子像)』。(上)

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陽咸二「ひるね」1928_1.JPG
 今年の「夏休みの宿題」は、下落合のアトリエで暮らした佐伯一家の記事から……。
  
 先日、新宿歴史博物館Click!の守谷様より、佐伯祐三Click!の娘・弥智子Click!の彫刻(ブロンズ像)が発見されたので見にこないか……とのお誘いを受けた。彫刻は、佐伯米子Click!の実家である池田家に保存されている、佐伯一家の遺品の中から発見されたもので、首から上のほぼ実物大と思われるブロンズ像だ。近々、同家より新宿歴史博物館への寄贈が予定されており、守谷様を通じてこのサイトでの公開を池田様が了承くださっているので、さっそくご紹介したい。
 ブロンズの弥智子像は、1972年(昭和47)に佐伯米子が死去したあと、遺品整理の際に池田家に引きとられ保存されてきたものだ。制作年は守谷様が指摘されたように、裏面へ「昭和三年」と書かれているようだ。1928年(昭和3)は、佐伯祐三と娘の弥智子が相次いで死去した年であり、当然、拝見した当初はパリでいっしょだった彫刻家の作品を疑った。彫刻の表の首下にはサインが彫られているが、崩し字で判読しづらく「〇二 作」としか読めない。また、裏面の中央には「呈佐伯米子氏」とハッキリ読みとれる書きこみがあるので、最初から米子夫人あてに贈呈したものだということがわかる。
 さらに、サインのほかにも裏面にはタイトルと思われる「〇〇ね」とみられる崩し字や、いくつかの書きこみが見られる。「〇〇ね」のほうは、2010年(平成22)に「佐伯祐三―下落合の風景―」展Click!図録執筆Click!でご一緒し、像を拝見するために同行していた美術の専門家・平岡厚子様Click!が、その場で「“ひるね”だ!」と解読してくれた。だが、サインも含めほかの文字についてはハッキリしたことがわからず、さまざまな角度から写真を撮影させていただき、帰ってから調べることにした。
 佐伯祐三の近辺にいた彫刻家というと、1928年(昭和3)の第2次渡仏時のパリでは、山田新一Click!に佐伯のデスマスクを依頼された日名子実三Click!、同じく佐伯米子からデスマスクを依頼された同じアパートの清水多嘉示が思い浮かぶ。そのほかの時期では、佐伯米子の和服をパリへとどけた福澤一郎Click!の友人である岩田藤七や木内克、佐伯ら1930年協会のメンバーがよく遊びに出かけていた近くの藤川栄子Click!の夫・藤川勇造Click!、ご子孫の方からこちらへもコメントをお寄せいただいている下落合の雨田光平Click!……などだろうか。でも、「〇二」のサインに該当する人物は見あたらない。
 まず、サインの「〇二」の「〇」だが、調べてみると「咸」という字の崩し字に酷似していることが判明した。さらに、佐伯と同時代に「陽咸二」という彫刻家がいることがわかった。しかも、1898年(明治31)の生まれで佐伯とはまったく同い歳だ。さっそく、「陽咸二」の名前をメールでお知らせすると、折り返し平岡様より「昭和三年 夏日いる(鋳る)」ではないかとのリプライをいただいた。また、筆で書いたとみられる崩し字も、改めて「陽咸二」の名前を意識してみると、確かにそう読める。
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 佐伯一家と陽咸二……、かつて聞いたことのない人間関係だが、これでハッキリしたことがひとつある。この彫刻・弥智子像の『ひるね』は、佐伯祐三や弥智子が死去する1928年(昭和3)の夏、フランスで造られたものではないということだ。陽咸二は同年現在、フランスへは渡航しておらず、ずっと日本にいたはずだからだ。そして、彼は同年8月にフランスで佐伯祐三と弥智子が相次いで死亡したことを新聞記事あるいは美術仲間などから知り、かつて制作していた弥智子の寝顔を写した粘土像(石膏像にしていただろう)を、ブロンズ像へと鋳造したことになる。
 そして、弥智子の昼寝の様子を写しているとすれば、表現された弥智子の年齢や表情から、制作された時期は1926年(大正15)の3月から1927年(昭和2)の8月まで、佐伯一家が第1次滞仏から帰国し、次の第2次渡仏へと向かう日本ですごした期間、すなわち、わずか1年半のどこかで……ということになる。
 もうひとつ、わたしにはひっかかることがあった。もし陽咸二が佐伯祐三の友人であれば、当の友人自身が死んでしまい娘の弥智子も死去して、悲しみに暮れる連れ合いの米子夫人へ、死んだばかりの娘の像を贈るだろうか?……という大きな疑問だ。やすらかに昼寝をする弥智子像など贈れば、むしろ娘を亡くした悲しみに拍車をかけるようなもので、夫人の傷口へ塩をすりこむような行為ではないかと思ったからだ。陽咸二は佐伯祐三の友人ではなく、佐伯米子のきわめて親しい知り合いではなかったのか?……と感じた。
 当初、わたしは1927年(昭和2)の夏、避暑に出かけた大磯Click!別荘街Click!での交流を想定した。画家や彫刻家の別荘も、大磯には数多く建てられていたからだ。佐伯の避暑宅に近い北浜海岸か、照ヶ崎海岸Click!のパラソルの下で昼寝をする、百日咳が癒えたばかりの弥智子の寝顔をとらえたものではないか。しかも、佐伯祐三が大阪へともどっていた留守時の出来事であり、米子夫人と弥智子が避暑に来ていた陽咸二と親しくなったのでは?……と、想像をめいっぱいふくらませていた。でも、陽咸二と大磯の関係は、調べても調べてもどこからも出てこない。
 意外な謎解き資料は、平岡様よりあっさりととどけられた。陽咸二は、新橋駅も近い土橋の南詰め、二葉町4番地に建っていた池田象牙店Click!へ、14歳のとき牙彫(きばほり/がちょう)の徒弟として就職している。牙彫師とは、江戸期から女性の装飾品(櫛・笄・簪)や刀装具(笄・縁頭・鞘)、煙草の根付などを制作する彫刻家であり、明治以降はおもに欧米へ輸出する錺(かざり)物や象牙細工を制作する、高給とりの花形職業のひとつだった。地元の月島出身だった陽咸二は、1911年(明治44)に高等小学校を卒業すると池田象牙店に入り、牙彫師をめざすところから彫刻家への道を歩みはじめている。
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 以下、1936年(昭和11)に「構造社」の斉藤素巌が私家版として出版した、『陽咸二作品集』の「陽咸二氏略歴」から引用してみよう。
  
 陽咸二氏は明治卅一年五月四日、東京市京橋区月島に生れた。生粋の江戸ッ子である。泰明小学校、明石小学校を経てから新橋の池田某氏に就き牙彫の徒弟となつた。十八歳から小倉右一郎氏の門に入り彫塑を学ぶ。帝展に初めて入選したのが(中略)、廿一歳の作「老婆」、特選を〇ち得たのが廿五歳の作「壮者」である。此の間帝展に出品する事六回、一方束臺彫塑会(ママ:東臺彫塑会)の会員としても活躍した。三十歳で帝展を去り構造社客員となり、昭和四年三十二歳で会員になつた。/生来蒲柳の質であつたが、昨年の四月から臥床する身となり、九月遂に芝の済生会病院で逝いた。享年卅八歳。
  
 文中の「帝展に初めて入選」とあるのは、1918年(大正7)の第12回文展のことだ。最後の「昨年」とは1935年(昭和10)で、9月15日に満37歳で死去している。彫刻家・小倉右一郎へ弟子入りしたあと、東台彫塑会の朝倉文夫と内藤伸のあと押しで東京美術学校Click!へ入学するが、学費滞納で停学中に『壮者』の帝展特選を知らされている。
 さて、陽咸二は14歳で池田象牙店へ就職してからは、当然のことながら、そこのお嬢様だった池田米子とは顔見知りであり、年齢が近いせいもあって親しくしていたにちがいない。1915年(大正4)には小倉右一郎の門下生となっているので、池田象牙店は辞めているのだろう。あるいは、彫刻では当面食べられないため、ときどき店に立ち寄ってはアルバイトで牙彫をつづけていたのかもしれない。
 1926年(大正15)の春、陽咸二は誰かから画家と結婚したお嬢様がフランスから帰国し、実家にもどっていることを聞いたのかもしれない。すでに結婚もし、彫刻家としての地位を確立していた彼は、持ち前の飾らぬ気やすさから、親しかった池田(佐伯)米子に会いたくなり、池田象牙店を「こんちはッ」と訪ねたのだろう。「彫刻家なんぞになりゃがって」と、かつての牙彫の師匠がジロッとにらむのに、肩をすくめてていねいに挨拶したあと奥座敷へ案内され、おそらく4~5年ぶりにお嬢様と再会した。傍らには、4歳になったばかりの弥智子がスヤスヤと昼寝をしている。
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 二科の佐伯とかいう、新進気鋭の画家にも挨拶しようと思ったのだが、あいにく新橋駅近くのガードへ写生に出ているとかで会えなかった。「もうすぐ帰ると思うから、陽ちゃん、ゆっくりしてきなさいな」という米子に、「かわいい寝顔さね。ちょいと、お嬢ちゃんを写さしてくださいな。目が醒めないうちに済ましちまいまさぁ」(陽咸二は江戸東京下町方言の職人言葉を、日常的につかっていたようだ)と、袂から紙と鉛筆を取りだしてサラサラと、いろいろな角度から写生しはじめた。あるいは、粘土を買いに近くの銀座にある画材店まで走っただろうか……。
                                   <つづく>

◆写真上:1928年(昭和3)夏に造られた、陽咸二『ひるね(弥智子像)』(『ねむり』)。
◆写真中上は、『ひるね』を下面から。は、裏面中央に書かれた「呈佐伯米子氏」。は、裏面端にある「ひるね/昭和三年/夏日イル」と読める書きこみ。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に制作された陽咸二『鶏舞踏メダル』にみるサイン。陽咸二の演出で、花柳壽二郎が舞台で演じた舞踏「鶏」の記念メダルだろうか? は、構造社へ参加したあとのこざっぱりとした身なりの、1927年(昭和2)ごろ()と1929年(昭和4)の陽咸二()。は、『ひるね』表面に刻まれた「咸二 作」サインの拡大()と、裏面に書かれた「陽咸二」のサイン()。
◆写真下は、昼寝をする4歳の佐伯弥智子像。下左は、1925年(大正14)の暮れにパリで撮影されたもうすぐ4歳の弥智子。下右は、1927年(昭和2)に下落合のアトリエで撮影された弥智子。おそらく渡仏直前の撮影で、5歳になったばかりのころだろう。

新発見の『ひるね(弥智子像)』。(下)

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 牙彫(きばほり/がちょう)という職業は、江戸後期から男にとってはあこがれの職業のひとつだったろう。動物のキバやツノなどへ彫刻をほどこす精密細工の修行は、長く厳しいものだったらしいが、いったん技術をマスターしさえすれば、高給を約束された専門職だったからだ。有名な牙彫師に、『金色夜叉』を書いた尾崎紅葉Click!の父親、服部谷斎(尾崎惣蔵)がいる。
 服部谷斎は、高級で好きな仕事を少し引き受けては、芝居に相撲に日本橋・柳橋の料亭にと、年がら年じゅう遊び歩いていた。牙彫師・谷斎の姿を、1952年(昭和27)に住吉書店から出版された、平山蘆江『東京おぼえ帳』から引用してみよう。
  
 岩谷天狗が銀座に赤ぞなへをしてゐる頃、一年両度の大相撲を中心に両国柳橋界隈にも赤いものをちらつかせて名物男といはれた異風人があつた、服部谷斎といふ象牙彫りの名人である、五十前後の小づくりな人物だつたが、いつもいつも緋ちりめんの羽織に、濃みどり太打の丸紐を胸高に結び、扇子をひらつかせて群集の中を蝶々のやうにかけまわつてゐた。/この赤羽織老人こそ、金色夜叉の作者であり、硯友社の領袖であり、明治の文豪と立てられる尾崎紅葉の実父である、(中略) 本業の牙彫りに親しむよりも、恐らく、芝居と相撲の空気の中で、漂々としてくらすのが好きであつたのだらう、時とし牙彫りの刀をとつても、出来上つた作品は金にしようともせず、好きな人には只でやった形跡がある、横尾家に残つてゐる牙彫りの中、竹竿に蝸牛のとまつてゐるうしろざしなど、遉(さす)がに名作といへよう、(カッコ内引用主柱)
  
 おそらく牙彫をめざした陽咸二Click!も、ちまたの牙彫師の優雅な暮らしぶりと、鮮やかな仕事ぶりやカネづかいを見てあこがれたのだろう。いまでも、日本橋界隈には粋な牙彫師の伝説が、根付や錺(かざり)の仕事とともに残っている。牙彫師に限らず江戸東京の高級職人には、このようなエピソードが数限りなく眠っているだろう。
 陽咸二は、彫刻に限らずさまざまなものに興味をもち、凝り性だったものか、とことん突き詰めなければ気が済まない性格だったようだ。前掲の『陽咸二作品集』に収録された、斉藤素巌「陽君を憶ふ」から引用してみよう。
  
 長髪を肩まで垂らし、鉄扇片手に朱羅宇の長煙管を腰に、手製の大きな下駄をはいて、瘠せた肩で風を切つて歩いたのが十五六年前の陽咸二君であつた。/構造社の会員となつてからは、髪も普通にわけ、リユウとした背広で、紅いハンケチを胸ポケットに覗かせた若紳士となつた。(中略) 「軍中膏がまの油」から「八木節」「真田三代記」に「手品」、食ひ物の講釈から植物学?の講義、舞踊の演出(舞踊「鶏」は殊にいゝもので、花柳壽二郎が仁壽講堂で踊つたのが、今でも目に残つて居る)折紙人形と南京豆の彫刻的おもちやは正に堂に入つたもので、松坂屋で展覧会をやつたら、南京豆一個が二円づゝで飛ぶ様に売れた。花も生ければ、鳥も射つ。この四五年は釣と麻雀に凝り切つて居た。酒は大して強くなく、酔へば鎗さびなんかを口ずさみ、帰りの電車は、線路の方へ降りる程度にいゝ気持ちになつた。/君は生粋の江戸ツ子「人混みをこわがつた日には、江戸ツ子はすり切れてしまひまさア」と称し、お祭や縁日が大好き、子供の頃、象牙彫刻師の徒弟だつた頃、両国の花火に見とれて、主人の車を置き忘れて来たといふ逸話がある。/口のわるい事も天下一品で、相手かまわず、当るを幸ひ薙ぎ倒した。然しわる気は微塵もなく、全く五月の鯉の吹き流しであつた。
  
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 まるで、うちの母方の祖父(自称:書家/日本画家)の行状を読んでいるような趣味人ぶりだ。彫刻のほかに、露天商のバイ(売)や義太夫か講談、民謡、踊り、舞踊演出、人形づくり、活け花、釣り、狩猟、ゲーム、マジック……となんにでも凝り、おそらくみな玄人はだしの腕(喉)だったのだろう。
 佐伯米子に会いに、久しぶりに土橋際の池田象牙店を訪ねたとき、帝展に背を向けて構造社へ参加する前だった陽咸二は、いまだ直径90cmほどの麦藁帽をかぶり、長髪で鉄扇を片手に腰へ赤い長煙管を指した、異様な風体だったのかもしれない。池田家では、彫刻家になりたいという彼のわがままをかなえ、店から出してやっているところをみると、主人のお気に入りだったものだろうか。店での修行を途中で放りだし、勝手に辞めていった店員にもかかわらず、再び敷居をまたぐことをたやすく許しているところをみると、地場出身でやや間の抜けた気風(きっぷ)のよさと、憎めないサッパリとした気性が、主人や米子にことさら好印象を残しているのかもしれない。
 そんな彼のことだから、おかしなエピソードは山のようにあるようだ。池袋へ出かけようと、高円寺から省線(中央線)に乗り、新宿で乗り換えたら再び高円寺のホームへ降りていた……などという逸話はほんの序の口で、朝倉文夫が長髪を見かねて理髪店へ引きずっていったりと、その種のエピソードには事欠かないらしい。また機会があれば、いろいろと書いてみたいけれど、きょうはひとつだけご紹介するにとどめたい。
  
 陽咸二、酔ぱらつて往来に寝ころび、巡査にとがめられた。『こらこら、貴様は何ちう名前か』 『ヨウ、カンジ』 『何? 羊羹?』 『羊羹ぢやない。ヨウ、カンジだ』 『ヨウとはどんな字か』 『太陽の陽の字だ』 『カンとはどんな字か』 『教育勅語の中にあるミナと云ふ字だ』 『ミナとはどんな字か』 『ミナと云ふ字を知らないのか。貴様は教育勅語も知らないで、よくも巡査がつとまるなア』 こゝで陽咸二、いやと云ふ程巡査になぐられ、病床に伸吟する事三日間、とは変な災難なり。
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 「何ちう」という方言でも類推できるが、おそらく巡査は薩摩人とともに多かった土佐人だろう。江戸東京とは、なんの縁もゆかりもない人間が高圧的に威張り散らしていた当時、陽咸二は常日ごろからシャクに触ってしかたなかったにちがいない。
 さて、佐伯米子の実家を久しぶりに訪れた陽咸二は、スケッチを終えるとアトリエに帰り、印象が薄れないうちに大急ぎで粘土をこねたか、または池田象牙店を訪れたときたまたま粘土を持っていたか、あるいは銀座の画材店へ出かけ大急ぎで粘土を手に入れてきて、弥智子が目ざめないうちに写したかは不明だが、1926年(大正15)のうちには石膏型を造っているのかもしれない。当初のタイトルは、『ひるね』ではなく『ねむり』としていたのが、『陽咸二作品集』所収の石膏像写真からうかがえる。
 いつかブロンズ像にして、佐伯米子のもとへとどけようとしているうちに、帝展からの脱退に加え、1927年(昭和2)に日名子実三Click!と斎藤素巌が結成した新彫塑団体「構造社」への参加など、身辺がバタバタしているうちに、なんとなくあとまわしになってしまったのではないか。翌1928年(昭和3)の夏、新聞でパリの佐伯祐三と娘の弥智子が死んだことを突然知ることになる。陽咸二は、急いで石膏像『ねむり』を取りだすとブロンズ像に仕上げ、表面にはサインを刻み裏面には「呈佐伯米子氏」と、『ねむり』では死顔のように生々しく感じてしまうため、新たなタイトル『ひるね』、「昭和三年/夏日イル」、そして改めて「陽咸二」とフルネームを書き添えた。
 『ひるね』は、同年中に池田象牙店へととどけられたのかもしれない。下落合の佐伯アトリエClick!には、留守番を頼まれた鈴木誠Click!一家がいまだに暮らしており、佐伯の第2次滞仏作品はすべて外山卯三郎アトリエClick!に集められていたのを、どこかから消息を聞いて知っていた可能性が高い。佐伯米子自身も、大阪で夫と娘の葬儀を済ませたあと、下落合のアトリエではなく実家へしばらく身を寄せることになる。
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 陽咸二が『ひるね』を制作しているとき、はたして佐伯祐三Click!はどこかに出かけて不在だったのだろうか。このふたりが邂逅していれば、なんとなくとぼけた気質や変わり者同士の性格で、かなり気が合いそうな気もするのだが、残念ながら佐伯祐三と陽咸二をめぐる物語は、いまに伝えられてはいないようだ。

◆写真上:1928年(昭和3)の夏に制作された、陽咸二『ひるね』の顔正面。
◆写真中上:ブロンズ像『ひるね』を、さまざまな角度から。
◆写真中下:『ひるね』を下部から眺めたところ。は、1928年(昭和3)2月にパリ郊外のヴィリエ・シュル・モランで撮影された6歳になったばかりの佐伯弥智子。右に立つ足は佐伯祐三で、6か月後にはふたりとも死去することになる。
◆写真下は、おそらく1926年(大正15)にとられた『ひるね』の石膏型『ねむり』。は、1929年(昭和4)にアトリエで『降誕の釈迦』を制作する陽咸二。

下落合を描いた画家たち・宮本恒平。(2)

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 下落合の第二文化村Click!にアトリエをかまえていた、宮本恒平Click!の風景画『画兄のアトリエ』を手に入れた。1945年(昭和45)1月に描かれたもので、上高田の丘から西落合や下落合方面を入れて描いたものだ。おそらく、戦争末期に描かれているのでキャンバスが手に入れにくかったのだろう、画面は古い3号サイズの板材に描かれている。ひょっとすると、第二文化村にClick!を建設した際に余った部材を物置にでも保管していて、それに描いているのかもしれない。
 板の裏面には、「呈耳野画伯/“画兄のアトリエ”/昭和二十年一月スケツチ/宮本恒平」と書かれた紙が貼付されている。この記載により、描画ポイントは妙正寺川にかかる北原橋の西側、中野区上高田422番地の急斜面……というか崖地であることが判然としている。宮本恒平は、画面右寄りに描かれている耳野卯三郎アトリエClick!を入れ、さらにその背後(西北側)の丘に上って、アトリエを見下ろしながらスケッチをしている。このアトリエには戦後もしばらくの間、曾宮一念Click!が東京へ来るたびに立ち寄っている。画面左隅には、「K.Miyamoto 2605」とサインが入れられており、描いた直後には西暦ではなく、戦時中らしく大日本帝国の紀元2605年の年号が記入されている。おそらく、裏面に貼られた紙は、戦後になって耳野卯三郎へ本作をプレゼントする際、改めて画題とともに貼付されたものだろう。
 急斜面に建つ耳野アトリエの下、北原橋のたもと近くには、死去した二科の虫明柏太の夫人からアトリエを借りて、1928年(昭和3)ごろより住んでいた甲斐仁代Click!中出三也Click!のアトリエ(野方町上高田422番地)があったが、1945年(昭和20)現在でもそのまま建っていたかどうかは不明だ。ブタ小屋が近くにあった新バッケ堰Click!の北側、北原橋の南詰めにあたる甲斐・中出アトリエには、甲斐仁代の「半晴半曇な絵」が好きな林芙美子Click!がときどき通ってきている。
 さて、最初に画面を観たとき、わたしは耳野卯三郎アトリエが建つ丘の急斜面から、南を向いて描いていると考えていた。つまり、アトリエの向こうに拡がる雪景色の原っぱは、耕地整理が終わったバッケが原Click!だと想定したのだ。ちなみに、耳野アトリエがあった急斜面の現状は、3~4段のひな壇状に造成されて家々が建てられているが、崖地自体は崩されておらず当時の面影をよく残している。また、前方に見えている丘の連なりは、金剛寺や功運寺Click!などの寺町から新井薬師方面へとつづく丘陵であり、アトリエに接して繁る常緑樹の右手枠外には、光徳院Click!の本堂屋根が見えているのだろうと、当初は想像していた。
耳野アトリエ1947.jpg 宮本恒平「画兄のアトリエ」板裏シール.jpg
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 ところが、画面を間近で観察したとき、すぐにアトリエの向きと枯れ木の向こう側に描かれた家屋の向きがおかしいことに気がついた。通常、長方形の住宅は切妻を東西に向け、どちらかの長辺が南面するように建てられるのがふつうだ。画面に描かれた家々は、2軒とも斜めになっており、その向きや光線の加減からすると、右手が南側ということになる。つまり、画家は耳野卯三郎アトリエの背後にある丘上へと上り、東南東の方角を向いて描いていることになる。
 当時の地図や空中写真を確認すると、やはり思ったとおりであることが判明した。耳野アトリエは、切妻を東西に向けて建てられているようだ。左端の枯れ木や常緑樹に隠れて見えないが、急斜面の下には北原橋が架かっているはずで、アトリエのすぐ左側に見えている雪原に描かれた道路のような灰色の太い影は、妙正寺川の左岸土手だろう。
 そして、川の向こう側に建っている家のあたりが、西落合2丁目570番地(現・西落合1丁目)界隈ということになる。また、やや遠くに描かれた丘の連なりは、下落合4丁目(現・中井2丁目)から西落合2丁目(現・西落合1丁目)へとつづく丘であり、中央右寄りから右端の丘上には目白商業学校Click!(現・目白学園)の校舎と思われる、細長い屋根が描かれていそうだ。
 宮本恒平は、1945年(昭和20)1月2日(火)の午後か3日(水)に、耳野卯三郎アトリエへ年始の挨拶に訪れたのだろう。1月2日は、午前中から雪が降っており、東京中央気象台の記録によれば6.4mmの降水量を記録している。あるいは、雪が降る2日の年始まわりをあきらめて、翌3日の青空が見えたときに出かけているのかもしれない。
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 第二文化村の下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)にあった宮本アトリエから、上高田422番地の耳野卯三郎アトリエへと向かうには、そのまま下落合4丁目に通う尾根沿いの三間道路(西に向かうにつれ道幅は狭まった)を南西に歩き、目白商業と御霊社Click!の間を通って落合分水Click!に架かる小さな橋をわたり北進すると、すぐに丘下へと下る細い坂道があった。当時は、丘下に住宅が密集しておらず、ほとんど原っぱが拡がるエリアだったので、積雪があったとはいえ原っぱを斜めに横断して、北原橋までの最短距離を歩いている可能性が高い。おそらく、当時は見とおしがきいただろうから、耳野アトリエはかなり離れた位置からでも遠望できただろう。
 ただし、当時の景色と現在の風景が大きく異なるのは、遠景を左右へ横切るように描かれた丘陵の連なりだろう。おそらく、現在の風景をスケッチすると、下落合4丁目の丘はもう少し高めの印象で描かれるのではないだろうか。特に、右手(南側)に見える目白学園の丘は大きな樹木が密に繁っているので、画面のような薄い線ではなく、もう少し“右肩上がり”の盛り上がった表現になりそうだ。
 冬ですっかり落葉しているせいか、また現在よりも樹木の背丈がかなり低かったか、あるいは戦時中の燃料不足から、大きな木々は次々と伐採されてしまった可能性もあるけれど、下落合の丘はもう少し高めの印象が強い。でも、宮本恒平が遠景に黒々とした下落合の太い丘陵の線を描き(雪景色なのでよけいに黒々として見えただろう)、画面を上下に2分したくはなかったのだ……といわれれば、それまでなのだが。
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 現在、耳野卯三郎アトリエが建っていた位置には、ひな壇状に造成された敷地へ住宅が密に建ち並び、近づくことができない。また、北西側のさらに高い位置にも家々が密集しているため、描画ポイントに立つことはできない。だが、妙正寺川に面した崖地に近い急斜面は、ほとんど昔のままの形状で残されているので、『画兄のアトリエ』が描かれた当時の風情は、なんとか感じとることができる。

◆写真上:戦時中の1945年(昭和20)1月に制作された、宮本恒平『画兄のアトリエ』。
◆写真中上上左は、1947年(昭和22)撮影の耳野卯三郎アトリエ。上右は、板の裏に貼付された画題シール。は、『画兄のアトリエ』画面の部分拡大。
◆写真中下は、1940年(昭和15)作成の1/10,000地形図にみる描画ポイント()と、翌1941年(昭和16)に撮影された斜めフカンの空中写真にみる描画ポイント(中)、そして山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された空中写真にみる描画ポイント()。は、北原橋から眺めた耳野卯三郎アトリエ跡の丘。は、画面奥に見える赤い屋根の住宅の右手前あたりが耳野卯三郎アトリエが建っていた敷地。
◆写真下は、描画ポイントに立てないので丘上から南のバッケが原方向を眺めたところ。は、丘上からバッケ階段が設置された北側の眺めで4階建てビルの高さぐらいだろうか。は、第二文化村の宮本恒平アトリエから耳野アトリエまでの年始挨拶ルート。

改めて島津源吉邸を拝見する。

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 下落合4丁目2095番地(のち2096番地)に建てられていた、島津製作所の島津源吉邸Click!母家と、その東隣りに建設された島津一郎アトリエClick!など、敷地内の全体像がつかめてきたので、写真類も含めまとめて書きとめておきたい。不鮮明だった間取り平面図も、改めて各階の鮮明な図面を入手したので、手もとにある炭谷太郎様Click!などからいただいた写真とともに、撮影ポイントを規定しておきたいと思う。
 また、1932年(昭和7)に作成された、島津邸の敷地に建てられている建物配置図「豊多摩郡落合町大字下落合字小上二〇三八/二〇九六番地家屋配置実測図」(以下「島津邸実測図」)と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」とを見くらべていると、面白いことに気づく。この6年間で、建物の一部が移動しているのだ。その建物とは、現在、島津一郎アトリエの東隣りへ接するように建っている、島津一郎の「彫刻アトリエ」と伝えられている小さな建物だ。本来の建っていたと思われる位置から、南へ20mほどずれて移築されているとみられるのだ。
 東京美術学校を卒業し、満谷国四郎Click!へ師事していた島津一郎Click!は、1931年(昭和6)の刑部人アトリエClick!の竣工とあい前後するように、島津邸母家の東側へ吉武東里Click!設計の巨大な絵画制作用のアトリエを建てている。このアトリエは下落合はおろか、日本全国でも最大クラスの規模のアトリエ建築だろう。それとほぼ同時期だろうか、アトリエの北北東に小さな「彫刻アトリエ」を建設しているようだ。1932年(昭和7)作成の「島津邸実測図」には、すでに小さな建物が北側の道路沿いに描かれている。だが、6年後の「火保図」では、この小さな建物は20m南側へと移動し、しかも従来の建物の向きではなく、反時計まわりに90度異なる角度で移築されているように見える。
 広くゆったりとした島津邸の敷地にもかかわらず、この「彫刻アトリエ」の移築はなぜ行われているのだろうか? 島津一郎自身が、絵画と彫刻のアトリエ同士が20mほど離れていると、なにかと使いにくかったから……というような理由ではないように思われる。「彫刻アトリエ」の移動によって、島津邸敷地の北側接道沿いには住宅を2棟ほど建てられる、300坪ほどのスペースができることになる。ひょっとすると、島津家による三ノ坂と四ノ坂にまたがる大規模な宅地開発Click!(その出発点は、大正期の東京土地住宅Click!によるアビラ村Click!開発にまでたどれるだろう)と、どこかで連携している事象なのかもしれない。
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 さて、島津邸の母家へ話をもどそう。島津邸は、上落合470番地に住んでいた建築家・吉武東里Click!と、同じく吉武邸から数分の近所に住んでいたとみられる大熊喜邦Click!とのコラボレーション設計で、1920年(大正9)に建設されている。一説には、1917年(大正6)とされる記述も見えるが、1921年(大正10)現在の1/10,000地形図では島津邸の位置に、いまだ建物は採取されていない。だが、1921年(大正10)に建設された上落合470番地の吉武東里邸は採取されているので、島津邸は母家が竣工していたものの、敷地内でなんらかの工事(たとえば造園や築垣工事など)が継続していたのではないかと思われる。1/10,000地形図は、おしなべて工事が完全に終わっていない住宅は、図面に採取しない傾向が多々見受けられるからだ。
 建物平面図を見ると、東西で洋館と和館が分かれた島津邸には、書斎が4部屋もあったことがわかる。洋館の2階にあるもっとも大きな書斎は、「書斎兼客間」と書かれているので、訪問客が宿泊する際の寝室としても使われたのだろう。面白いのは、和館の西端2階にポツンと独立して設置されている、8畳サイズほどの書斎だ。和館にあるトイレの廊下突き当たりの壁の向こう側(北側)、納戸に接して“隠し階段”が設置されており、この書斎へは母家のどの部屋や廊下を通ってもたどり着けない。いったん庭へ出て、母家を北へ大きく迂回しながら、北面の中庭に面した外扉を開けて入らないと、この書斎へつづく階段は発見できない仕組みになっている。
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 おそらく、この西端2階の独立した書斎が島津源吉の「本書斎」であり、他の3つの書斎は訪問客の目を意識した、いわば表向きの書斎だったのではないだろうか。洋館2階に設置された書斎3室は、いずれも来客の目に触れるか、あるいは来客が多い場合はすべて客室として使われていた可能性が高いように思える。そう考えると、母家の西端2階に設置された「本書斎」は1階部が納戸であり、この納戸には書斎に収まりきれなくなった膨大な蔵書類などが、一括して収納されていたのではないだろうか。
 もうひとつの特徴は、書斎(来客用に転用部屋含む)が多いのに対して、トイレは3つあるものの、浴室がひとつしか存在しないことだ。家族が増え、また宿泊する来客が多いときには、ひとつしかない浴室にかなり不便を感じたのではないだろうか。もっとも、現代のように毎日風呂に入る習慣のない当時としては、それほどの課題ではなかったのかもしれないが……。そのかわり、多くの宿泊客があったとしても、食事の準備はそれほど困難ではなかったと思われる。10畳サイズほどはあったとみられる広い台所には、海外製のキッチン設備を含む最新式の機器類が揃っていた。
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 今年の夏、島津邸敷地の北側道路に接した住宅が、建て替えのために解体された。それにともない、島津一郎アトリエの採光窓がある北面を、おそらく中谷邸Click!と同様に50年ぶりぐらいで観察することができる。(冒頭写真) 南側へ20mほど移築された「彫刻アトリエ」は、現在赤土がむき出しの更地となっている敷地の、左端(東側)へややかかる位置に建っていたと思われる。

◆写真上:北側の接道から眺めた、巨大な採光窓のある島津一郎アトリエの北面。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に作成された「島津邸実測図」と、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる島津邸敷地。は、島津一郎の「彫刻アトリエ」と伝えられる小さな建物。は、竣工直後とみられる島津邸の外観。
◆写真中下は、撮影ポイントを描き入れた島津邸の平面図。は、島津邸の洋館部にあったテラスへ抜けられる応接室と庭へ出られる談話室。
◆写真下は、談話室から和館部の廊下方向を眺めたところ。は、籐椅子が置かれた和館部の廊下。は、最新設備が導入された台所。この写真の撮影時、台所中央に置かれた調理カウンターは、平面図の採取時より角度が90度変更されていたようだ。

高田農商銀行のピストル強盗事件。

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 秋山清Click!といっしょに住んでいた母親は、着物の仕立てや洗濯が上手だったらしく、人づてに依頼されては生計の足しにしていた。秋山家は、第一文化村内の家Click!を借りて住んでいたので、隣り近所から依頼される仕立ての仕事はほとんどなかっただろう。目白文化村Click!では、大正期から和服ではなく洋装の生活がふつうであり、町内での着物姿は逆にめずらしかったにちがいない。
 仕事がていねいだったらしい秋山清の母親へ、仕立てや洗濯を依頼していた人物の中には、上屋敷(あがりやしき)の宮崎白蓮(柳原白蓮)Click!もいた。ときに、白蓮はわざわざ第一文化村の秋山家を訪ねて挨拶をしている。彼女が、アナーキストの秋山清宅を訪ねるのは奇異に思えるが、当時、夫の宮崎龍介Click!も全国労農大衆党の仕事をしていたので、それほど違和感を感じなかったのだろう。また、白蓮自身も近所の九条武子Click!などの知り合いを訪ねるかたらわ、目白文化村のモダンな街並みを見学しながら、吉屋信子Click!のように散歩したかったのかもしれない。
 そのときの様子を、1986年(昭和61)に筑摩書房から出版された秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』から引用してみよう。
  
 かくして知人友人は多くなっていったが、食うためにどう働いていたのかがさっぱり思い出せない。丘を下りて、すぐ近い西武電車の中井駅、たびたび書いて来たようにその近くにはかつて黒色戦線社があり、なおこのあたりには知人がいた。同じ文化村のずっと西の方には『解放劇場』以来の八木(秋子)さんがいた。/ある日彼女は母をどこかへ連れて行った。後にきくところでは、西武電車の池袋線に当時在った「あがりやしき」駅の近くにいた歌人の宮崎白蓮(または柳原白蓮)さん宅に母を伴って行った由であった。それから母は白蓮さん宅の、キモノの仕立や洗濯など、引受けることになり、ある日皮膚のきめの細かい、細面貌の人が来て、挨拶したこともあった。あの有名な大正の恋愛事件の主人公だなとすぐわかった。/それから二、三近所の家の人たちともそんな往来があるようだった。この頃のわが家のかまどの煙は多く母のはたらきにかかっていた。
  
 文中にある「西武電車の池袋線」は戦後の呼称であり、当時は武蔵野鉄道Click!上屋敷駅Click!のことだ。「女人藝術」Click!執筆者のひとりだった八木秋子(八木あき)が暮らしていたのは、高群逸枝Click!らがいた「熊本村」の近く、勝巳商店Click!が1940年(昭和15)1月から売り出した目白文化村(通称は第五文化村?Click!)の西側だったと思われる。
 おそらく、秋山清の困窮を知っていた八木秋子が、白蓮を秋山家に紹介したものだろう。ちなみに、しばらくすると八木秋子は、群馬県の陸軍大演習で「武装蜂起」を画策したという特高Click!のデッチ上げにより、1934年(昭和9)秋に逮捕され投獄される。
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 秋山清たち、落合地域に住むアナーキストが行きつけだったのは、下落合の丘を下ったところにある中井駅前の喫茶店「ワゴン」Click!ではなく、上落合を越えて中央線・東中野駅のすぐ近くにあった喫茶店「ラ・モンド」だった。コーヒー1杯が10銭で、新聞を読みながら友人と話すのが楽しみだったらしい。秋山は万昌院功運寺Click!北側の崖下、上高田300番地で「ヤギ牧場」Click!を経営するようになってからも、頻繁に「ラ・モンド」へコーヒーを飲みに通っている。
 1935年(昭和10)11月のある日、秋山はそこで読売新聞の夕刊を見て愕然とする。目白にある高田農商銀行Click!にピストル強盗が押し入り、なにも盗らずに逃亡したという見出しが躍っていたからだ。「非常時下の計画/アナ系の陰謀発覚/銀行ギャングの首魁逮捕」の大見出しで、同年11月6日に起きた銀行強盗事件が報道されていた。ギャングのふたりは、「無政府共産党」に属するアナーキストの相沢尚夫と二見敏夫であり、相沢は逮捕されたが二見は逃亡中と書かれていた。
 高田農商銀行は雑司ヶ谷村の戸長で、のちに高田村村長になった新倉徳三郎Click!らが創立した銀行で、しばらくすると箱根土地の堤康次郎Click!に乗っ取られている経緯はこちらでご紹介している。同行は山手線・目白駅近くではなく、大正期までは高田町でもっとも繁華だった鬼子母神参道の東側、四ッ家通り(目白通り)に面した雑司ヶ谷四ッ家(谷)町Click!310番地(現・雑司ヶ谷2丁目2番地)に開店していた。以下、銀行強盗事件が起きたあとのアナーキスト大量検挙の様子を、1935年(昭和10)11月13日に発行された報知新聞から引用してみよう。
  
 潜行運動暴露しアナ系の総検挙/銀行ギャング逮捕から発覚/市内に同志三百名
 豊島区高田農商銀行を襲つた銀行ギヤング犯人が意外にも当局要視察中のアナキスト相澤尚夫であり、しかもその目的がアナ系組織の結成とわかつたので警視庁特高部では果然緊張、十一日夜は安倍特高部長、毛利同課長以下鳩首協議の上中川、矢野両主任警部を中心に神戸へ出張中の片岡警部補と直通電話で連絡しつゝ特高課員を総動員各署と協力して疾風的に市内に散る三百余名のアナ系人物の総検挙に乗出し、西神田署では神田区神保町一の三六全国労働組合自由連合会本部を襲ひ三田利一(二一)外婦人をまじへて十七名、ギヤング事件の捜査本部に当てられた目白署では五名、杉並署では六名の検挙を初め各署の検挙は徹底して行はれ多数に上つた、
  
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高田農商銀行1925.jpg
 秋山清は、「無政府共産党」とは思想路線上のちがいから無縁だったが、構成メンバーの何人かとは知り合いだった。だから、この事件後には遅からず、必ず特高が自宅へ検束にやってくることを予期していた。その前に、牧場で飼育しているヤギ15~16頭の世話を誰かに頼み、母親にしばらく帰れないかもしれない事情を説明する必要があった。
 上掲の記事にもあるとおり、東京市内各署の特高係がアナーキストたちの家へ踏みこんで検挙したのは、1935年(昭和10)11月11日の深夜だった。おそらく、秋山清が「ラ・モンド」で事件の記事を目にしたのは11月7日のことであり、その4日後に彼はなんの容疑かは不明のまま特高に連行されている。秋山清は逮捕される直前、4日間の猶予を利用してヤギ牧場の経営委託を、西落合にいる知人(目白文化村時代に知り合った、ヤギを分けてくれた人物だろう)へ依頼しに出かけている。再び、前掲書から引用してみよう。
  
 そこで夕刊の記事を読み、家に帰り、出来ていた夕飯を食べながら、母に話した。/今夜か、明日の朝は来るだろう。だが「無政府共産党」の名で起こったことが事実でも、しかし無関係とはいえない人々が事件を起こしたとすれば来るだろう。何事かは来る。これまでも、留置されたことはままあったのだから、母にそんなくらいならと思わせるために、気軽くそういった。いくらか長いかもしれないが、というと母は「山羊の世話があるからな」といった。それからシャツや股引きの洗濯したのを包んで、手製の寝台の横に置いてから出かけた。/少し遠まわりだが垣根の向うの墓地を通り、乞食村を抜け、妙正寺川を越して山羊のことを頼みに行った。やっぱり十匹ばかり飼って、「オリエンタル写真」の向うに家があり、その人の弟子みたいに山羊を買い覚えたのだ。四、五日くらいになるかもしれんから、と頼んで来た。
  
 11月11日深夜11時に、特高の刑事10人は秋山宅へいきなり土足で踏みこみ、寝ていた秋山清を押さえつけた。やってきたのは杉並署の特高だったが、連行されたのは上高田エリアが管轄の中野署だった。彼はそこで1ヶ月ほど拘留され、「無政府共産党」の銀行強盗事件とは無関係だったことが判明したせいか、あるいは家に残された母親が病気になったからなのかは不明だが、意外に早く釈放されている。
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 秋山清のヤギ牧場は、翌1937年(昭和12)5月までつづいたが、仕事がたいへんなわりには収入が少ないのと、母親が身体をこわしたのとで存続できずに閉業している。牧場をやめると同時に、秋山一家は功運寺墓地の北側から、東洋ファイバー工場の西側にある住宅街へ、つまり同じ上高田の小さな借家へと引っ越している。同年7月より、秋山清は茅場町にあった「材木通信」社へと勤めることになった。

◆写真上:下落合側からヤギ牧場跡へ向かう、稲葉の水車Click!があった水車橋。
◆写真中上上左は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」にみる四ッ家(谷)町の高田農商銀行。上右は、1919年(大正8)に出稿された高田農商銀行の媒体広告。は、アナーキスト大量検挙を報じる1935年(昭和10)11月13日発行の報知新聞。
◆写真中下は、1919年(大正8)に撮影された四ツ家(谷)町通りで黄色矢印が高田農商銀行。は、1925年(大正14)に撮影された同銀行外観。
◆写真下は、高田農商銀行強盗事件を報じる1935年(昭和10)11月7日発行の東京朝日新聞。は、喫茶店「ル・モンド」があったとみられる東中野銀座商店街の現状。

十三間通りの工事あれこれ。(上)

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 今年の「夏休みの自由研究」はこれ、十三間通り(新目白通り)の工事について。
  
 冒頭の写真は、十三間通りClick!(新目白通り)=放射7号線の工事で消滅してしまう、目白文化村Click!(第二文化村)の道路沿いの一画だ。家の前に、コンクリート製のゴミ箱が設置されているのが懐かしい光景だが、現在、手前に写る街並みはすべてが十三間通りの下になっている。この道路工事で、目白文化村は第一文化村と第二文化村の途中が大きく分断され、ひとつのまとまった共同体としての“街”の維持がむずかしくなった。
 1964年(昭和39)2月13日発行の「落合新聞」Click!に掲載された写真の道は、第一文化村側から第二文化村側へと抜ける二間道路の1本で、この道を北上すると神谷邸Click!の“「”字型の曲がり角にさしかかる。画面の中央付近に立っている人物と、電柱の右手あたりが菅瀬邸で、その手前の石垣が林邸から田原邸、手前の左手が斉藤邸でその先が高峰邸という家並みで、下落合3丁目1367番地(現・中落合3丁目)の風景だ。この画面の背後には、外観が洋風で内部がほとんど和室だった鈴木邸Click!が、空襲で焼けるまで建っていたはずだ。
 道路右手に写る人物の先には、安倍能成邸Click!の大きめな屋根が見えている。大正期から住んでいた第二文化村の安倍邸Click!敷地(下落合4丁目1655番地)は、この時期になると息子の安倍浩二に譲っており、安倍能成はそこから東へ70~80mほど離れた第二文化村の旧・石川邸敷地(下落合3丁目1367番地)へ新たに家を建てて住んでいた。戦後の新・安倍邸の南隣りには、やはり空襲で焼けてしまったテラスにソテツが目立つ、松下邸Click!の大きな西洋館が建っていた。
 目白文化村の真ん中を十三間通りが横切ることについて、当初からいろいろと紛糾したようだ。だが、少子化や高齢化の進行とともにクルマが急減しつづけている現在Click!とは異なり、当時は高度経済成長のさなかでクルマの台数は増えつづけ、住宅街の細い道路まで交通渋滞が起きるような状況だった。したがって、目白文化村の町会はしぶしぶ同意している経緯が透けて見える。落合新聞の1964年(昭和39)2月13日号から、竹田助雄Click!の記事を引用してみよう。
  
 去る人の立場に
 文化村一帯は都内二十三区の中でも最も快適な環境をたもっていることで有名である。関東大震災以降、とくに西武鉄道が昭和二年に開通してからこの辺は急速に高燥住宅地として発展し、のどかな住宅街を形成した。したがって三十年四十年と住みなれた人が多い。また文化村という名前はもはや個人の姓名の一部にもなっている。このことを考慮しこれを捨てさることの気持は、現在いきづまっている交通事情を緩和し、残る居住者へ影響する利益も加味して補償問題なども考慮しなければならない、というのが残る多くの人々の良識になっている。
  
菅瀬邸1960.jpg 菅瀬邸1966.jpg
菅瀬邸跡.JPG
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 さて、落合地域における十三間通りの用地買収および工事は、山手通り(環六)より北西側からスタートしている。以下、落合新聞に掲載された工事進捗の写真とともに、その様子を年代を追って紹介していこう。
 まず工事がスタートしたのは、すでに西落合に沿って戦時中から完成していた十三間通りと、目白通りとが交差する地点の南側だった。写真①は1965年(昭和40)4月現在で、目白通りから南下した165mほどの工事が進められている。撮影ポイントは、工事中の道路に入りこみ北西を向いて撮影されたもので、画面をを左右に横切っているのが、目白通りの西端から新青梅街道へと抜ける地点だ。同年春の時点で、西落合の目白通り交差点から下落合駅前までの用地買収は、いまだ50%ほどしか進んでいなかった。
 つづいて同年6月には、目白文化村が分断されてしまうため、第一文化村側から第二文化村側の下落合みどり幼稚園Click!(下落合教会Click!)へ通う園児たちのため、また同じエリアから落合第二中学校へと通う生徒たちのために、歩道橋を設置する計画が持ちあがっている。これは、同じ十三間幅(約24m幅)をもっていた環状七号線で、同時期に事故が多発していたからで、道路を渡りきらないうちに歩行者がクルマにはねられる、老人や子どもの事故が急増していた。その交通状況を踏まえ、落合第二中学校と同PTA、のちに落合第一小学校Click!も加え、東京都に歩道橋の設置を申し入れしたものだ。当初は、落合第二中学校の前通りの東側にあたる升豊酒店(現・セブンイレブン)の前に想定されたが、その建設位置をめぐり、のちに東京都と住民側とで対立を生むことになった。
 この時期になると、下落合駅前あたりの工事予定地の土地買収が少しずつ進み、あちこちに「用地買収済み」の立て看板が建てられている。写真②は、下落合駅近くの閑静な住宅街で、現在の聖母坂Click!と十三間通りの交差点西側から、東を向いて撮影されたものと思われる。地番は下落合3丁目1119番地あたりで、戦前は西坂Click!の下に陸軍元帥の川村景明邸Click!が建っていたあたりだ。
十三間通り平面図.jpg
十三間道路工事196504.jpg
十三間道路工事下落合駅前196506.jpg
 土地買収で立ち退きを迫られた人たちは、当初、大きな誤解をしていたらしい。道路用地の買収で退去ということは、東京都が土地や家を丸ごと買い取ってくれて、さらに同等の価値をもつ土地と家屋を近くに用意してくれる……という、漠然とした補償計画を想定していたらしい。だが、東京都が買うのはあくまでも土地だけで、上に載っているものは基本的に「どうするかは知らない」なのだ。だから、立ち退きを迫られた住民は、新たに土地を見つけて購入し、そこへ既存の建物や庭を移築するか、新たに家を設計して建てなければならない。しかも、移築や新築の期間はどこかへ仮住まいをしなければならず、生活に大きな支障をきたすことになった。
 もちろん、移築費や新築費、仮住まいの経費、転居費用などは東京都へ請求できたのだが、道路計画予定地には戦時中に空襲で焼けた家々も多く、戦後になって建てた築15年ほどの住宅が多かった。したがって、家がボロボロで移築に耐えられず(都が判定したのだろう)、よその土地へ家を新築するケースよりも、既存の住宅を移築するケースが圧倒的に多かったとみられる。用地買収で立ち退きになり、練馬へ転居した元・目白文化村の住民から、落合新聞編集部あてに手紙がとどいている。
  
 こちらは静かなところです。ヒバリも啼いています。でも、ひどく不便です。住めば都で慣れると思いますが、文化村のような便利で、しかも静かなところで、小鳥のくるような処が都会の山の手から消えていくのですね。
  
 1965年(昭和40)11月12日の落合新聞には、目白文化村の邸宅で造園業者が、大きな庭石の移転作業をする様子(写真③)がとらえられている。
 1966年(昭和41)の夏ごろ、下落合駅前から山手通りまでの用地買収が、ようやく完了しているようだ。同年11月までに道路用地の立ち退きは完了し、東京都は1968年(昭和43)3月末までに完成する計画を立てている。また、このころになると十三間という幅広い道路沿いに、いち早くビル状の高いマンションを建てる工事も進捗している。写真④は、下落合駅のある側から山手通りのある方角を向き、右へカーブする工事中の十三間通りを撮影したものだ。住所は、下落合3丁目1146番地(現・中落合1丁目)あたりの情景ということになる。
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 工事中の道路左手には、すでに8階建て(ペントハウス含む)の中落合マンションが建設中で、その前後には白っぽいプレハブの建屋が見えている。いずれも、工事関係者の事務所や宿泊施設だが、中落合マンションの先に見えているのが、東京都が工事用に設置した第一特別街路建設事務所だ。この区間は住民が立ち退いたあと、写真の前方に見えている山を切り崩し、切り通し状に道路を建設しなければならず、山手通りとの交差点下をくぐるアンダーパスも含め、工事リードタイムを非常に要する工事計画が目白押しだった。
                                        <つづく>

◆写真上:十三間通りの工事前、下落合3丁目1367番地界隈の第二文化村は二間道路沿いに建っていた、菅瀬邸(手前)と安倍能成邸(奥)をとらえた写真。
◆写真中上上左は、1960年(昭和35)の「住宅明細図」にみる冒頭写真の撮影ポイント。上右は1966年(昭和41)の同図にみる撮影ポイントで、左上から道路工事の進捗している様子が採取されている。は、撮影ポイントから見た二間道路跡の現状。右手の茶色いマンションが、下落合3丁目1367番地の安倍能成邸跡。は、1982年(昭和57)の住宅明細図にみる撮影ポイント。
◆写真中下は、1960年代初めごろの十三間通り(放射7号線)計画平面図。は、工事がスタートした現在の西落合1丁目と中落合3丁目の境界あたり。は、消滅してしまった下落合3丁目1146番地界隈(下落合駅前)の住宅街。
◆写真下は、庭石を運びだす目白文化村の立ち退き住宅。は、工事が進捗しはじめた下落合駅前交番前を西に向いて撮影したもので、建設中の中落合マンションがとらえられている。は上掲写真の現状を撮影したもので、中央の空港管制塔のようなペントハウスを備えた茶色いビルが中落合マンション。

十三間通りの工事あれこれ。(下)

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 さて、1967年(昭和42)に入ると落合地域の各地では、十三間通り(新目白通り)の建設工事Click!のスピードがかなりアップしている。だが、第一文化村側と第二文化村側を結ぶ、歩道橋の設置計画はこじれにこじれていた。双方の住民は、当初の要望どおり目白文化村の北側、升豊酒店(現・セブンイレブンあたり)の十字路(通学路)に歩道橋が設置されるものとばかり思っていた。ところが、実際に工事がスタートしたのは、そこから50mほど南東側の下落合みどり幼稚園(下落合教会)の真ん前、つまり目白文化村Click!に隣接した位置だった。
 これは、落合中学校や同校PTA、落合第一小学校なども含め、工事がスタートした地点の周辺住民にも寝耳に水だったらしく、猛烈な反対運動が起きている。周辺の反対住民の中には、工事は「体を張って妨害」するという人々まで現れた。そもそもボタンのかけちがいは、東京都が地元の住民たちにまったく周知せず、勝手に歩道橋の位置を変更したことにあるようで、都側は苦しまぎれに町会には照会して「了解をとっている」と弁明したが、町会側は工事を進めるという話を「関知していない」と、地元住民と東京都の対立にまでこじれそうな気配になった。
 歩道橋周辺の住民にしてみれば、高い橋の上から家々をのぞかれて防犯上まずいのは当然だが、塀や樹木で家の中が見えないよう遮蔽するためのなんの補償もなく、また商店の看板や店先も橋柱に隠れてしまうため営業に不都合が生じるなど、さまざまな理由を挙げて反対しているが、いちばん腹立たしかったのは工事計画の変更が役人の机上で勝手に決められ、かんじんの地元住民にはまったく説明されていなかった点だろう。
 1967年(昭和42)3月1日の落合新聞には、突然、歩道橋の建設がふってわいた下落合みどり幼稚園(下落合教会)と、目白文化村の住宅街との間になる歩道橋架設の予定現場(写真⑤)が掲載されている。左手に見えている、尖塔のある建物が下落合教会で、その左手には下落合みどり幼稚園がある。歩道橋は下落合教会のあたりから、手前の目白文化村側へと渡される計画に、ある日突然に変更されていた。住所は、下落合4丁目1644番地(現・中落合3丁目)界隈にあたる。
 同号の記事によれば、歩道橋を利用する生徒たちの人数が想定され、往復で算定すると落合第一小学校の生徒100人、落合第二中学校の生徒180人、下落合みどり幼稚園の園児140人、落合第三小学校の生徒50人、目白学園の生徒30人で、1日に計約500人の子どもたちが利用する歩道橋になる予定だった。
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十三間道路工事下落合駅前交番196703.jpg
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 1967年(昭和42)年4月になると、十三間通りは下落合の駅前交番のある133m区間が完成している。ただし、交番裏を通る旧道の雑司ヶ谷道Click!(鎌倉街道)を整備したあとに、十三間通りは開通する予定だった。また、当初の計画では4月末までに下落合駅前から山手通りまでの工事を完了したいとしているが、もちろん工事に時間を要する山手通りと十三間通りの立体交差(アンダーパス)は、あとまわしの計画になっている。1967年(昭和42)3月31日の落合新聞には、舗装工事を終えた下落合駅前交番前の十三間道路写真⑥が掲載されている。現在の高木ビルの前あたりから、下落合駅のある方角(東)を撮影したもので、住所は下落合3丁目1122番地(現・中落合2丁目)あたりということになる。
 さて、下落合みどり幼稚園前の歩道橋工事は、どうなっただろうか? 落合新聞の1967年(昭和42)6月25日号には、完成しつつある歩道橋の写真⑦が掲載されている。周辺の住民たちが、どうして歩道橋工事を黙認しているのか、その理由はあえて書かれていない。おそらく、家々を塀や樹木で遮蔽する補償金が支払われたと思うのだが、住民にインタビューしても具体的な話が聞けなかったのか、竹田助雄は記事にしていない。同号から、歩道橋の記事を引用してみよう。
  
 中落合四丁目みどり幼稚園裏の歩道橋は、去る五月三十一日橋ゲタの架設をおわり、六月二十日完成の予定で工事を進めた。道路は七月十五日開通予定で、道路開通以前に橋の出来るのはめずらしいケース。放七の交通量は当初一日約一万台と推定されている。/中落合西交番前通りとの交差地点には、多少遠回りをしても命を大切にする努力を払うべきであるという見地から、横断歩道はつけない。
  
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下落合みどり幼稚園歩道橋1.JPG
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 記事の中で、「中落合西交番前通りとの交差点」とは、先述した升豊酒店(現・セブンイレブン)前に設置されるはずだった歩道橋の計画位置にあたる中落合四丁目交差点のことだが、現在ではもちろん信号と横断歩道が設置されている。歩行者優先の今日的な視点からは、ちょっと想像しにくい“論理”だが、多少遠まわりをしても命を大切にする努力を払うのは歩行者ではなく、多少信号で待たされたり遠まわりをしても歩行者を優先する努力を払うべきなのは、もちろんクルマのほうだ。
 1967年(昭和42)7月25日、西落合1丁目の目白通りから山手通りまでの650m区間の十三間通りが開通した。(写真⑧) 開通時の交通量は、1日で1万5千台を数えている。夏休み期間中のため、くだんの歩道橋の利用者は毎時30名弱と少ないが、道路をそのまま横断しようとする歩行者があとを絶たなかったようだ。また、さっそく交通事故も4件発生している。
 同年8月10日に発行された落合新聞には、警視庁が撮影した工事中の十三間道路の写真⑨が掲載されている。画面の手前が下落合駅側で、建設中だった中落合マンションが完成している様子がとらえられている。山手通り(環六)との交差点は、画面のやや左上にあたるが、その手前の工事が遅れているのが一目瞭然だ。ここは、六天坂Click!見晴坂Click!の丘上にあたり、十三間通りの工事でもっとも難航した地点だろう。丘を約30m幅で丸ごと掘削しなければならず、5~8mほどの切り通しを造成して道路を通さなければならなかった。したがって、翠ヶ丘Click!あるいは改正道路Click!(山手通り)工事がスタートしてからは赤土山Click!と呼ばれた麓から山頂までの、大量の土砂を運びださなければならなかったのだ。また、写真では山手通りと十三間通りとの交差点に計画されている、アンダーパス(立体交差)の工事も手つかずなのが見てとれる。
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十三間道路工事下落合駅前まで196708.jpg
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 さて、西落合1丁目の目白通りから聖母坂下の下落合駅前まで、なんとか開通するめどが立った1967年(昭和42)だが、それより東側の山手線までの区画では、相変わらず土地買収が難航していた。山手線の駅が近く、その利便性から土地を手放したくない住民も多かったと思われるが、この区画では十三間通りの計画にひっかかる製造工場の数も多かった。だから、工場を別の場所へ移転するか工場の規模を縮小する間は、生産をストップさせるか減産しなければならず、企業にとっては死活問題となるテーマを抱えていたのだ。おそらく住宅地以上に、補償交渉がスムーズに進展しなかったのだろう。

◆写真上:霞坂と清風園の間に架けられた歩道橋上から、下落合駅方面を眺めたところ。中央の茶色いビルが、道路工事と同時に建設された中落合マンション。
◆写真中上は、1967年(昭和42)2月撮影の目白文化村側から眺めた工事中の十三間通り。左手に見える尖塔が、下落合教会と下落合みどり幼稚園。は、同年3月に撮影された下落合駅前交番へと向かう工事中の十三間通り。は、上掲写真の現状。
◆写真中下は、1967年(昭和42)6月撮影の紛糾した歩道橋の架設工事。は、現在の歩道橋の様子で左側階段の緑が残るところが下落合教会(下落合みどり幼稚園)。は、同歩道橋上から西落合方向を撮影したもの。中央に見えている横断歩道の位置が当初の歩道橋架設予定位置で、左手のセブンイレブンが升豊酒店跡。
◆写真下は、1967年(昭和42)8月に目白通りから山手通りの交差点までが開通した様子。は、1967年(昭和42)8月に撮影された工事がつづく山手通り交差点から下落合駅前にかけて。は、山手通りをくぐる十三間通り(新目白通り)のアンダーパスの現状。


大久保文学倶楽部と洋画展覧会。

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 明治末から大正期にかけ、新聞紙上には「大久保文学倶楽部」という言葉が頻繁に登場する。のちに日本評論社を創立する茅原茂が、1910年(明治43)4月に西大久保の自宅を開放して、文学サロンをつくったのがはじまりだったとされる。たとえば、文学倶楽部へ集まったメンバーには、吉江孤雁や前田夕暮Click!、中田貞市、神崎沈鐘、桝本清、柳川春葉、鈴木悦、多田鉄雄、鈴木悦、北村季晴、天野初子などがいたという。
 大久保町は、さらに北側に位置する戸塚村や落合村よりも早くから住宅街として拓けており、明治時代の新聞には同地域のニュースが頻繁に取り上げられている。もっとも、ここでいう大久保エリアとは現在の山手線・新大久保駅や中央線・大久保駅の位置ではなく、もっと東寄りの地域概念だ。両駅は大久保町の西はずれ、江戸期には鉄砲組の同心屋敷があった百人町にあって、明治期には「躑躅名所の百人町」ではあっても大久保町内の感覚は希薄だったろう。山手線の停車場ができるとき、当初は「百人町停車場」と地図にも記載されており、地元では「新大久保停車場」とは呼ばれていない。
 大久保文学倶楽部の「大久保」概念とは、大久保町の西大久保と東大久保、すなわち現在の新宿6~7丁目から歌舞伎町2丁目、大久保1丁目にかけての地域で、すべて山手線の内側だ。新宿停車場にも近く、また百人町のツツジ園が東京の花見名所となっていたため、毎年4月になると遊山客でごったがえす街だった。ただし、シーズンをすぎると武蔵野Click!の面影を残す閑静な住宅地となるので、新宿の繁華街に近いこともあって文士たちに好まれたのだろう。
 大久保文学倶楽部にはビリヤード台が設置され、また闘球と呼ばれたコリントゲームに似た遊戯が盛んに行われていたらしい。だが、新聞に報道されたのは、そのような内々のゲーム大会のみではなく、もっと規模の大きな運動会などの催事だった。たとえば、1911年(明治44)4月13日の読売新聞には、大久保文学倶楽部の催事が「よみうり抄」へ告知されている。
  
 ◎大久保文学倶楽部
 
府下西大久保の同倶楽部にては増築落成並に創立一周年記念として十六日(日曜)新築会場にて闘球会を二十三日(日曜)にテニス会を催ふす、何れも飛入随意の由
  
 このようなゲーム大会やスポーツ大会、文学講演会などが頻繁に開かれていた様子が、当時の新聞記事からうかがえる。また、同倶楽部は茅原茂の自宅を増築して、より大きな“サロン”を確保したのだろう、その活動は徐々に規模が大きくなっていく。
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茅原健「新宿・大久保文士村界隈」2004.jpg 大久保町全図1914.jpg
 たとえば、新聞記者(おそらく文芸部の記者)たちとの野球大会も新聞には記録されている。野球大会は、早稲田大学の運動場を借りて行われ、1911年(明治44)12月17日の午後1時から試合がスタートしている。同日の新聞には、「本日の運動」という欄が設けられ、「新聞記者対大久保文士野球 午後一時早大運動場」という告知が載せられている。翌12月18日の読売新聞から、試合の様子を引用してみよう。
  
 記者団勝つ
 
天狗を一蹴し稲門混成団に破れた記者団は昨十七日正午より大久保倶楽部の挑戦に応じて戸塚に本社の小泉氏の参列に依つて戦ふ、記者団は谷、野尻、大久保は山下(明大選手)若松(旧青山選手)のバツテリーなりしも記者方頗る振ひ結局五プラスA対零(五回ゲーム)を以て記者方の大勝に帰したり
  
 午後1時から試合スタートと、前日に紙上へ告知しているにもかかわらず正午からはじめてしまうおおらかさ(いい加減さ)や、自社の人間に「氏」をつけてしまうていねいさ(非常識)はさておき、「天狗」とは当時のタバコメーカーである「天狗煙草」Click!の社内野球チームだと思われ、稲門混成団とは早稲田大学野球部のOBたちがつくったチームなのだろう。5プラスA対0という試合結果が、どのような得点の上げ方なのかは不明だが、とにかく大久保文学倶楽部側はバッテリーに大学野球の助っ人を連れてきたにもかかわらず、記者団チームに敗れているようだ。
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 このあと、大久保文学倶楽部の常連となった人々には、斎藤弔花や岩野泡鳴、岩野清子、水野葉舟、神崎沈鐘(画家)、徳田秋声、柳川春葉、平塚断水、正宗得三郎(画家)、徳田秋江、吉江孤雁、前田夕暮、中田貞市、桝本清、鈴木悦、田中冬二らの名前が見える。
 当初は文学関係者のみのクラブだったが、メンバーには大久保町界隈に在住する画家たちの名前も加わるようになっていた。そのせいだろうか、1911年(明治44)10月28~30日の3日間にわたり、大久保文学倶楽部で初の洋画展覧会が開催されている。同年10月29日付けの読売新聞から、洋画展覧会の様子を引用してみよう。
  
 大久保の洋画展覧会
 青年画家藤田、小寺、鈴木の三氏が発起となつて昨日から三日間大久保文学倶楽部に第一回の洋画展覧会を開いた、大久保の秋景色を見晴す各室内に中澤、三宅、正宗、南諸氏以下の絵画数十点を懸け連ねてあつたが、その中で正宗氏の海は極めて小いさな物であるが、甚だ感じの好いものであつた、藤田氏の「湖畔の朝霧」は木立の中に霧の立こめた柔かさうな色合が多くの人の眼を惹いた、また同氏の「兵士」の顔付き工藤氏の「浜辺」の船の形、小寺、田崎氏の花等夫々能く出来て居た、中澤、三宅氏の水彩画 南氏の倫敦、巴里の風景画は何れも淡さりした美しかつた(ママ)
  
 当時、大久保界隈に住んでいた洋画家たちの名前が何人か登場しているが、「藤田」は藤田嗣治Click!、「小寺」は小寺健吉、「鈴木」は鈴木秀雄、「中澤」は中澤弘光、「三宅」は三宅克己Click!、「南」は南薫造Click!、「工藤」と「田崎」は不明だ。
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 大久保町界隈の住民にとっては、年に一度の大きな楽しみのひとつだった大久保百人町のツツジ園は、大正期に入ると急速な宅地化の波に押されて規模を縮小していく。臨時列車が増発され、東京じゅうから花見客を集めた広大なツツジ園だったが、1913年(大正2)4月には「日の出園」と「躑躅園」のわずか2園を残すのみとなっていた。大久保文学倶楽部でも4月の花見は行われ、洋画家たちはツツジ園の情景を描いているのだろうが、目立った作品は残されていない。

◆写真上:新宿側から眺めた、たそがれの東大久保(現・新宿6丁目)界隈。左手の緑は西光庵と西向天神で、正面の高層ビルは西巣鴨(現・東池袋3丁目)のサンシャイン60。
◆写真中上は、1915年(大正4)制作の三宅克己『冬の小川』。大久保町の北側に接する、戸山ヶ原Click!の情景を描いたとみられ小川は大久保から流れこむ金川(かに川)Click!の可能性が高い。下左は、大久保地域に集った作家たちを丹念に調査した茅原健『新宿・大久保文士村界隈』(日本古書通信社/2004年)。下右は、1914年(大正3)作成の「大久保町全図」に収録された大久保百人町のツツジ園界隈。左側が中央線・大久保停車場で、右側が山手線・百人町停車場(現・新大久保駅)。
◆写真中下:大久保町の南側に隣接していた繁華街の新宿通りで、1901年(明治34)に撮影された新宿通り()と高野果実商店(現・タカノ)の店先()。
◆写真下は、1911年(明治44)10月28~30日に開かれた大久保文学倶楽部の第1回洋画展覧会記念写真。右から左へ藤田嗣治、茅原茂、鈴木秀雄、小寺健吉。は、1906年(明治39)ごろに発行された人着「大久保躑躅園」の記念絵はがき。

下落合の製本工場が支えた円本ブーム。

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 大正末の出版界は、関東大震災Click!の深い痛手から立ち直れず、業界は不況にあえいでいた。本のもとである用紙のストックが大震災で大量に焼失し、印刷機や裁断機、製本機なども破壊された。用紙は値上がりし、印刷・製本に必要な機器類は改めて購入しなければならず、新たに膨大な設備投資が発生することになった。
 余談だけれど、東日本大震災のとき、さまざまな用紙が少なからず値上がりしたのが記憶に新しい。大量の用紙ストックが、東北地方の倉庫に保管されていたため被害を受け、また被害が少なかった倉庫でも交通網の寸断で、東京の印刷工場へジャストインタイムで配送できなくなってしまったのだ。破壊された印刷・製本機器も少なくなかった。ご存じの方も多いだろうが、これらの機器は構造が数ミリ歪んでわずかな誤差を生じただけで、もはや使いものにならない。
 大正末の出版不況を打破したのは、円本ブームと呼ばれるシリーズ本の大量出版だった。円本ブームに火をつけたのは、改造社が企画した『現代日本文学全集』だった。当時、改造社は出版不況にあえぎ、倒産の危機にさらされていた。1円本の出版は、書店での一般売りはせず全巻予約制という、これまでにない薄利多売の販売方法を採用していた。上製本が1円というのは、当時の函入り単行本の価格からするとケタちがいに安い。大正末の本の価格は、一般書籍なら数円、高級な専門書なら10円前後はしていた。
 1926年(大正15)12月、改造社は社運を賭けた『現代日本文学全集』の第1回配本『尾崎紅葉集』を刊行している。全集の予約者は、すでに23万人に達していた。殺到する予約状況をみた改造社は、「こりゃいける、やった!」と胸をなでおろしていただろう。そのころ、やはり「こりゃいける!」と改造社の様子を注視していた企業があった。同様に出版不況にあえいでいた、製本会社の共同製本だ。
 共同製本は、思いきった賭けに出た。これからは1円本がブームになると判断した経営陣は、ドイツのブレーマー社が製造した糸篝(いとかがり)機を模倣し、国産糸篝機を20台まとめて国内の製作所へ発注した。池袋の加藤製作所が製造した製品が、糸篝機の国産第1号となる。上製本の部門では、糸篝機の国産化や各種機器の増設、同部門へベテラン工員を集中配置するなどの体制を整えていった。そして、共同製本のマーケット読みは、まさに的中した。
 大正末から昭和初期にかけての円本ブームは、出版界の不況を一掃することになった。共同製本へは改造社をはじめ、講談社、新潮社、中央公論社、平凡社、博文館などから全集ものを中心に注文が殺到した。あまりの発注量に、同社のベテラン工員37人を動員した上製本の作業場は、すぐさまパンクした。
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 ちょうどそのころ、共同製本の会長・金子福松が共同で経営していた製紙工場が閉鎖された。下落合64番地に設立された合資会社の池添製紙所は、社長の池添馬太郎の急死によって操業が頓挫していた。その工場を金子が譲り受け、共同製本の上製本工場に改造したのは1928年(昭和3)4月のことだった。そのときの様子を、1962年(昭和37)に共同製本から出版された『共同製本と金子福松』から引用してみよう。
  
 ここにおいて、当社は昭和三年四月、府下豊多摩郡落合町下落合(現在の新宿区下落合)に、敷地五百坪、平屋建工場二棟(旧池添製紙工場)、建坪二百九十坪を入手、上製本専門工場として発足した。/当時、落合分工場の付近は、いわゆる新開地で、いまだ武蔵野のおもかげをのこし、人家もすくなく、工場前には、村山、所沢方面行の、西武電鉄の軌道のみが、いたずらに光り、背後には学習院の森が、うっそうと茂り、付近には大黒葡萄酒工場はじめ、製紙工場、鉄工場の煙突が目につく程度だった。/落合分工場は、会田豊太郎分工場長以下、従業員およそ百名、当時の従業員中で、現在も当社に籍をおく者に片山茂、中村義三諸氏その他がある。分工場の機械設備は、裁断機二台、糸かがり機(池袋、加藤製作所製、国産品として最初のもの)十六台、針金綴機二台、ならし機一台、締機(大小)二台、パッキング二台、見返し締機一台、軽便箔押機三台、ドイツ製三段式自動巻取箔押機一台などであった。
  
 同書には、池添製紙所の社長が「池添島太郎」と記述されているが、『落合町誌』によれば池添馬太郎の誤りだと思われる。下落合64番地の池添製紙所は、藤稲荷社Click!から南につづく南北道の西側に建っていた大きな工場で、現在ではその半分の敷地が十三間通りClick!(新目白通り)の下になっている。その工場の建屋をそのまま活用するかたちで、共同製本の上製本工場が設立された。
 文中に「学習院の森」と書かれているのは、今日の学習院大学キャンパスのことではなく、工場のある背後(北側)の丘上から斜面にかけての下落合406番地、すなわち近衛町42号・43号Click!の敷地に建設されていた学習院昭和寮Click!の森のことだ。また、共同製本の上製本工場は、文中に登場している下落合10番地の大黒葡萄酒工場Click!から、西へ工場2棟ほど隔てた位置に建っていた。「従業員およそ百名」は、男ばかりでなく女性の工員も含まれている。
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 下落合の共同製本工場では、出版各社の全集ものやシリーズものを中心に開業早々からフル稼働をはじめ、昭和初期を代表する書籍群を世に送りだしている。ちょっと挙げただけでも、改造社の『経済学全集』、講談社の『講談全集』『修養全集』『落語全集』、アルスの『日本児童文庫』、平凡社の『現代大衆文学全集』、新潮社の『世界文学全集』、春陽堂の『明治大正文学全集』、日本評論社の『現代法学全集』、博文館の『帝国文庫』日本名作全集刊行会の『名作全集』……などだ。
 大正末からはじまった円本ブームは、大恐慌をはさんで5年ほどつづいている。でも、1930年(昭和5)を迎えるころからブームが落ち着きはじめている。どの家庭にも、なんらかの全集本Click!がいきわたり、全巻購入したはいいけれど流行りに乗ってみただけで、結局は読まないじゃんか……と気づいたからだろうか。下落合の共同製本工場は、1930年(昭和5)5月にその役目を終えて、白山御殿町の分工場と合併している。再び、『共同背本と金子福松』から引用してみよう。
  
 下落合の分工場は、全集物専門工場として、およそ三年間存続の予定で計画し、設置したものだった。/ところで、昭和五年五月、さすがの全集物流行も、ようやく、下火となり、下落合分工場も、一応その役目を果したので、これを機会に、本工場および、白山御殿町の福山分工場(管理人福山富五郎氏)と下落合分工場を合併し、それまでの個人組織を、会社組織に改め、資本金二十一万二千円の合資会社共同印刷製本部と改称した。
  
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 さて、昭和初期に急死した池添製紙所の池添馬太郎だが、弟の池添馬吉も印刷関連の事業を起ち上げていた。六ノ坂上の東側、下落合(4丁目)2123番地に住んでいた池添馬吉は、製本に不可欠な印刷用紙の折りを行う、江戸川兄弟折紙場を経営していた。ここでいう「江戸川」Click!とは、もちろん今日の神田川のことで、おそらく製紙業や印刷業の多い江戸川橋の近くに工場を設立したものだろう。

◆写真上:共同製本の上製本部門、下落合分工場のあった下落合64番地の現状。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる池添馬太郎の池添製紙所。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる共同製本下落合分工場跡。
◆写真中下は、下落合分工場で円本の製本作業をする約100名の従業員たち。は、当時の典型的な円本仕様をした平凡社『新進傑作小説全集』の表紙()と奥付()で、写真は第5巻の「片岡鉄兵集」Click!
◆写真下は、改造社の『現代日本文学全集』()と講談社の『落語全集』()。下左は、新潮社の『世界文学全集』。下右は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる江戸川兄弟折紙工場を経営していた下落合4丁目2123番地の池添馬吉邸。

池袋西口の酒場「炎」のゆくえ。

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 毎夜、池袋界隈に住んでいる画家たちを集めて人気が高かった、池袋駅西口の豊島師範学校Click!の焼け跡バラックで営業していた酒場「炎」Click!は、再開発のため東京都からの立ち退き命令を受けて、突然閉店を余儀なくされた。その後、経営者の“チャコちゃん”こと北村久子は、上野へともどってしばらく休養をしていたようだ。昼間は、浅尾佛雲堂の「プール・ヴ―モデル紹介所」Click!のディレクション業務をつとめ、夕方から池袋の酒場「炎」に勤務していたわけだから、かなり疲労がたまっていたのだろう。
 北村久子は、昼間のモデル紹介所の仕事が終わると、洋画家・原精一の夫人の弟子になって蝋纈染めを習いはじめている。もともと、編み物などの手芸が好きだったらしい彼女は、のちに太平洋画会工芸染織部の会友になって作品をつくりつづけることになる。池袋の酒場「炎」が閉じたた直後の様子を、1996年(平成8)に芸術新聞社から出版された『昭和の若き芸術家たち-続金四郎三代記・戦後篇-』より引用してみよう。
  
 原<精一>さんの恋女房であった奥さんは蝋纈染めを得意として美しい壁掛けや衣装などを作っていた。さて、池袋の空き地の飲み屋街で開いていた「炎」の店も立ち退きで止むを得ず閉店した北村久子(プール・ヴ―モデル紹介所事務担当)さん、元来手工芸が好きで、仕事の合い間を見ては、編物等に余念がなかったが、フトしたことから原夫人の蝋纈染め衣装を見て心引かれ弟子入りした。毎晩のように原さんの所へ勉強に行った。生来器用な北村さんは僅かの間にその技法を体得し、後年には太平洋画会工芸染織部の会友になったほどであった。赤羽で作品展を開いた時はほとんど赤札がつき、そのうちの衣装の一点は伊藤清永さんの手元へ行っているはずである。(< >内引用者註)
  
 だが、無類の酒好きであり芸術(家)好きの彼女は、しばらくするとやはり池袋で閉じてしまった酒場「炎」を継続して営業したくなったようだ。
 北村久子は、プール・ヴーモデル紹介所の仕事をこなしながら、新たに「炎」を開店できる物件を探しはじめた。やがて上野松坂屋Click!の向かい、上野広小路に面した風月堂の裏手に、閉店したスタンドバーの空き店舗を見つけている。小さい溝(どぶ)沿いにあったスタンドバー跡は、池袋西口に建っていた「炎」と、たいしてちがわないほど狭いスペースだったらしい。彼女は、ここで酒場「炎」を再開している。
 再スタートした第2次「炎」は、今度は上野界隈から桜木町、谷中一帯にアトリエをかまえる酒好きの画家たちを集めて繁盛した。店のオリジナル「カルバドス」も池袋時代と同様、相変わらずメニューに加えられたのだろう。浅尾丁策は「炎」のリスタート祝いに、大きな骨董品のパレットへ「炎」と書いた看板を贈っている。
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 だが、今度は「炎」の仕事が池袋以上に多忙をきわめ、昼間のモデル紹介所の仕事に少しずつ支障をきたすようになっていった。おそらく池袋西口と、東京藝大の地元であり数多くの美術団体がひしめく上野とでは、来店する客の数も大きくちがっていたのだろう。彼女は昼も夜も通して働いているので、朝が起きられずモデル紹介所へは頻繁に遅刻するようになり、また夕方は店の仕込みや準備から早退することが多くなった。困った浅尾丁策は、彼女にアシスタントを付けて多忙なモデル紹介業務をしのいだ。
 池袋時代と変わらず、北村久子がケンカっ早(ぱや)いのも同じだった。気に入らない客がくると、柔道初段の彼女は「表へ出ろ!」といって取っ組み合いのケンカとなり、翌朝、全身傷だらけでモデル紹介所へ出勤することもあったようだ。長時間ジッとしていなければならない、元モデルとはとても思えない気短かな気性だが、その様子を同書から再び引用してみよう。
  
 ある朝手足あちこちに包帯を巻いて出勤してきたのでビックリして、どうしたのか、と聞いてみた。昨夜酒くせの悪いお客さんが来て些細な事から喧嘩になり口論の末表へ出ろということになり、取っ組み合いになり二人でそばの溝へ墜落しかくの通りの有り様とのこと。総じてバーのマダムは飲むふりをして客扱いをするのが鉄則になっているが、酒好きの彼女は自分が先に酔っぱらってしまうので時々このような失敗を繰り返している。女傑(?)気質は困ったものであった。
  
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 その後、酒場「炎」は上野御徒町で1年ほど営業をつづけたあと、すぐに鶯谷駅の西側へと移転している。このころから妹との共同経営になったらしく、仕事が楽しいのか午後4時にプール・ヴーモデル紹介所を退社すると、嬉々として鶯谷へ出勤していた。
 このサイトでも、柳瀬正夢Click!との関係で登場している岩波書店の小林勇Click!は、北村久子とは古くからの知り合いだったらしく、神田駅裏の建物にかなり広いスペースがあるので、美術関係者のクラブ経営を計画していた。小林勇は、そのゼネラルマネージャーとして北村久子に白羽の矢を立てている。酒場「炎」とは異なり、今度は岩波書店が肝煎りの大がかりな美術関連のクラブなので、プール・ヴ―モデル紹介所の業務との“二足の草鞋”は無理だった。
 モデル紹介所を辞め、おそらく鶯谷の「炎」は妹にまかせて、北村久子は神田に開店した岩波書店の「美術家クラブ」へ全力投球することになる。だが、小さな酒場「炎」とは異なり、大きなクラブの経営は生やさしいものではなかったようだ。もともと、美術や文学の関係者、あるいは出版人など金銭感覚がアバウトな相手の社交場的なクラブなので、飲食費の立て替えや焦げつきが徐々に増えていき、数年後には経営にいき詰まってしまったらしい。わずか数年で、岩波書店は「美術家クラブ」を閉店している。
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 閉店の直後、浅尾佛雲堂を訪れた北村久子は、よほど仕事がたいへんだったのか、酒場の経営はもうこりごりだと訴え、モデル紹介所を経営したいと浅尾丁策に依頼している。やがて、浅尾佛雲堂の全面バックアップで紹介所の認可をとり、彼女は北村モデル紹介所を開業することになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:大雪が降った翌日、全面氷結した不忍池(蓮池)。
◆写真中上は、上野精養軒から不忍池を眺める。は、北村久子が上野桜木町から上野御徒町の「炎」へ通うたびに眺めていた上野東照宮の唐門と寛永寺五重塔。は、やたらと人に寄ってくる不忍池のキンクロハジロ。
◆写真中下:東京国立科学博物館()と旧・岩崎邸のバルコニー()。上野山から谷中にかけては、あまり空襲被害を受けておらず古い建築が数多く残っている。は、やはり人に馴れている不忍池では定番のユリカモメ。
◆写真下は、浅尾丁策が心中火災Click!現場へ駈けつけた谷中の天王寺五重塔の残骸。は、1960年代に撮影された上野広小路を走る都電上野線。は、上野界隈の美味いもんで広小路の洋食「黒船亭」(上)と、鶯谷「炎」時代には北村久子も通ったと思われる根岸のうなぎ「根ぎし宮川」(下)。

1937年(昭和12)の目白通りバス停。

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 手もとに、1937年(昭和12)2月に発行された、目白通りを走る東京環状乗合自動車Click!(東環バスClick!)と、聖母坂を走る関東乗合自動車Click!の停留所を記載した路線図がある。現在のバス路線でいうと、目白通りの東環バス停留所は新宿東口から曙橋、江戸川橋を経由し、練馬駅前あるいは練馬車庫(桜台)へと向かう、都バス「白61系統」に相当する路線バスだ。東環乗合自動車は、もともと目白通りを走っていたダット乗合自動車Click!を合併・吸収した路線バスだった。もちろん、ダット乗合自動車が運行していた時代とは、バス停の位置もその名称も変わっていると思われる。
 この路線図を見ると、下落合のバス停が現在の名称とは大きく異なっているのが、とても面白い。目白駅から東側、つまり目白駅から新目白坂を下って江戸川橋Click!へと向かうバス停は、ほぼ現在と同じ名称なのがわかる。現在は、「目白駅前」-「目白警察署前」-「鬼子母神前」-「高田一丁目」-「日本女子大前」…だが、昭和初期には「目白駅前」-「学習院前」-「目白警察前」-「千登勢橋」-「鬼子母神前」-「高田本町」…と小刻みに停留所があり、距離があまりに近いため廃止になってしまったバス停はあるものの、基本的に停留所の名称はそれほど変わっていない。
 ところが、目白駅から西側につづく下落合の停留所名が、いまとはまったく異なっている。現在は「目白駅前」-「下落合三丁目」-「下落合四丁目」-「聖母病院入口」-「目白五丁目」-「南長崎二丁目」…とつづくが、当時は「目白駅前」-「貯金銀行前」-「家庭組合前」-「落合交番前」-「東京パン前」-「郵便局前」-「中央薬局」-「椎名町百花店前」-「椎名町」…と、いまに共通するバス停名称がただのひとつも存在しない。だが、1941年(昭和16)に作成された「淀橋区詳細図」を参照すると、バス停の数が半分に減っている。つまり、目白駅の東側と同様に距離があまりにも近すぎるバス停が、戦前からすでに廃止されているのがわかる。
 このことから、東環乗合自動車が設置していたバス停が大きく改変され、ほぼ現在と同じバス停の数に再編されたのは、1937年(昭和12)から1941年(昭和16)までの4年間のどこかであることがわかる。残されたバス停は位置的に見て、町名変更Click!が行われた1966年(昭和41)以降にふられた現在の「下落合三丁目」はすなわち「家庭組合前」、いまの「下落合四丁目」に相当するのは「落合交番前」か「東京パン前」、「聖母病院入口」に相当するのは「郵便局前」または「中央薬局」、「目白五丁目」に相当する「椎名町百花店前」、そして「南長崎二丁目」に相当する「椎名町」ということになる。
 ここで「椎名町」という名称が頻出するが、別に当時のバス路線のコースがいまとは異なり、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の椎名町駅のほうへ曲がっていったわけではなく、椎名町の位置概念が江戸期からつづく認識のまま、すなわち長崎と下落合にまたがる街道の清戸道Click!(現・目白通り)沿いに拡がる街並みとして認識されていたということだ。むしろ、武蔵野鉄道の椎名町駅が、本来の長崎村椎名町または落合村椎名町の位置から、大きく北へとズレた位置に設置されている。
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 この「椎名町」バス停は、関東乗合自動車(現・関東バス)の停留所名にも採用されている。「小滝橋」から北上する関東乗合自動車は、西武電鉄の踏み切りをすぎてから「下落合駅前」-「下落合」-「国際聖母病院前」…と聖母坂を上がってくる。そして、聖母坂上にターンテーブルが設置されていたあたり、つまり現在の上智大学目白聖母キャンパスの北側あたりにあった終点、目白通りへ出る直前の停留所名が、やはり「椎名町」だった。これを見ても戦前までの認識が、目白通りの南側にあたる下落合の街並み、および北側にあたる長崎(のち椎名町)の街並みが、ともに江戸期と変わらずに椎名町のままだったことがわかる。
 先にも書いたように、東環乗合自動車にも長崎バス通りClick!、すなわち通称「目白バス通り」Click!へ斜めに入る直前にも「椎名町」(現「南長崎二丁目」)のバス停があり、関東乗合自動車の聖母病院近くに設置された終点「椎名町」のバス停(現在は廃止)ともども、混同してまぎらわしい。当時の住民たちは、「椎名町」のバス停と聞くと「東環バスと関東バスのどっちの停留所?」と、いちいち確認をしていたにちがいない。両停留所は、直線距離でさえ450mほども離れていた。
 さて、東環乗合自動車が設置したバス停には、当時の目白通り沿いにあった施設や店舗名が採用されている。目白駅にいちばん近い「貯金銀行前」は、目白通りの北側にあたる目白町3丁目1720番地あたりに開店していた国内貯金銀行のことだ。次の「家庭組合前」は、目白中学校の跡地に建設された下落合1丁目437番地の落合家庭購買組合Click!のことで、現在の「下落合三丁目」バス停に相当する。つづいて「落合交番前」は、下落合1丁目494番地にあった下落合二派出所のことで、つい先ごろ廃止されたピーコックストアや喫茶店「ポラーノ」に隣接した交番だ。
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 次の「東京パン前」は、1927年(昭和2)に作成された淀橋区の「大日本職業別明細図」を参照すると、下落合2丁目574番地付近に東京パンClick!を販売する店舗が採取されている。また、1938年(昭和13)の「火保図」にも店舗の建物は描かれているのだろうが、ネームまでは採取されていない。「郵便局前」は、下落合2丁目567番地にあった落合長崎郵便局Click!、すなわち現在の新宿下落合四郵便局の前にあったバス停だ。
 さらに、「聖母病院入口」に相当する「中央薬局」は、先の「大日本職業別明細図」には中央クスリと採取されている聖母坂への入り口近く、下落合2丁目638番地にあった薬剤店だ。「椎名町百花園前」も、一見店舗名を採用したと思われる名称だが、どの地図を参照してもそのようなネームの植木屋も生花店も発見できない。ひょっとすると、戦前まで落合府営住宅Click!の中にあった、「火保図」では遊園地として記載されている下落合3丁目1500番地の公園緑地の名称が、通称「百花園」だったのかもしれない。
 小刻みに設置されていた東環乗合自動車のバス停だが、太平洋戦争の少し前に現在のバス停の数に再編されいる。それは、バスの車両自体の性能が向上しスピードを出せるようになったため、バス停同士が近すぎるノロノロ運転だとあまり利便性を感じなくなったせいがあるだろう。また、大正から昭和初期にかけ雨が降ると泥のぬかるみになった目白通りだが、少なくとも城西の主要幹線道路の1本として路面に砂利やコンクリートを敷いて固めるなど、道路自体の整備が進んだという要因もあったのかもしれない。ちなみに、目白通りの本格的なアスファルト舗装Click!は戦後になってからのことだ。
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 さらに、自家用車の普及も大きなファクターのひとつだろうか。昭和10年代になると、下落合に建っていた多くの邸では車庫の設置が目立つようになる。住宅の前の道路と車庫の出口を水平にするため、宅地の周囲にあった大谷石による築垣や縁石が、次々と壊されていくようになる。目白通りの交通もスピードや効率化が求められ、それに合わせてバスの運行スピードもアップするとともに、バス停の数も再編されていったのだろう。東京環状乗合自動車は太平洋戦争の開始後、1942年(昭和17)2月に東京市電気局へ事業を丸ごと譲渡している。

◆写真上:東京環状乗合自動車と同ルートで目白通りを走る、「白61系統」の都バス。
◆写真中上は、1937年(昭和12)2月に発行された東環乗合自動車の路線図。は、長崎バス通りの営業所前に集う東環乗合自動車。(以下、当時の写真提供は小川薫様Click!) は、1941年(昭和16)の「淀橋区詳細図」に記載された目白通りと聖母坂のバス停。
◆写真中下は、東環乗合自動車を運転するドライバー。は、桜台にある練馬車庫で撮影されたとみられる東環乗合自動車。は、現在も聖母坂を走る関東バス。
◆写真下は、関東乗合自動車のターンテーブルが設置されていた聖母坂上の終点「椎名町」付近の現状。は、1938年(昭和13)の「火保図」からターンテーブルの設置位置と思われる空き地。関東乗合自動車の車庫のひとつは、聖母坂の下にあった。は、昭和10年代の目白駅近くの目白通りで、なんらかの舗装処理がなされているように見える。左に写る女性は、東環乗合自動車のバスガール。

下落合と長崎を転々とする松居松翁。

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 以前、長崎町荒井1801番地の草土社Click!仲間である河野通勢Click!を訪ねたが留守で、行き先として教えられた長崎バス通りClick!にある映画館「洛西館」Click!(のち目白松竹館Click!)を訪ねても館内に河野の姿は見あたらず、カンシャクを起こす寸前で目白通りを目白駅まで引き上げてきた、岸田劉生Click!のエピソードを書いたことがある。このあと、日本橋にあった滞在先の友人宅へ帰るのだが、カギがかかっていて締め出され2階の窓伝いに滞在していた部屋へともどり、ついにはキレて怒り狂ったらしい様子が記録されている。劉生が関東大震災Click!の避難先である京都から、二度めに東京へともどった1924年(大正13)8月15日のことだ。
 そのほぼ同時期に、河野通勢Click!が描いた『長崎村の風景』の画像を、ある方からお送りいただいたのでご紹介したい。1924年(大正13)は関東大震災が起きた翌年であり、東京15区の市街地に住んでいた人々が、より安全な郊外の郡域へと“民族大移動”をはじめた年でもある。以前から「生活改善運動」Click!の概念とともに、目白文化村Click!洗足田園都市Click!などをはじめとする郊外住宅ブームは顕在化していたが、大震災をきっかけに郊外への爆発的な人口流入に拍車がかかった。1924年(大正13)は長崎村の最後の年度であり、翌1925年(大正14)には町制が施行されて長崎町となっている。
 大正末から昭和初期にかけ、落合地域や長崎地域には持ち家や借家を問わず次々と住宅が建てられ、一大建築ブームが起きている。そんな建設ラッシュや工事中の街角を写した画面が、佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!であり河野通勢の『長崎村の風景』ということになる。画面の裏には、「東京長崎村之風景也/小生関東大震災に会いしはこの所にて左手の門のある処には劇作家松居松翁氏が住み居られなり」と記載されている。つまり、左端に白く門柱の描かれた家が松居松翁邸だ。住所でいうと、長崎村荒井1721番地(現・目白4丁目)ということになる。
 松居松翁Click!についても、かなり前に「光波のデスバッチ」とともに、最晩年の下落合(2丁目)617番地の住まいをご紹介したことがあった。それ以前、松翁は下落合を転々としている。以下、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌編纂委員会)から、松居松翁の人物紹介を引用してみよう。ちなみに、『落合町誌』は名前の「眞玄(まさはる)」を「玄眞」と逆さまにまちがえる、失礼な大ミスをおかしている。
  
 劇作家 松翁 松居玄眞(ママ)   下落合
 劇作家としての松居松翁氏の名は余にも有名で馴染深ゐが、物理の方術を以て人類救済に尽してゐることは知る人ぞ知る、一度氏によりて「隻手療法」が発表されるや、世を挙げて其起死回生的効験に驚異し、都下新聞は国民保健の大運動を捲き起すに至つてゐる、この療法の科学的根拠は光波のデスバツチで、それが動物の身体に応用される時、体内の血行を盛んならしめ、あらゆる疾患を一掃するもので、決して精神的とか霊的とかいふものでなく、この現象は医学者としても看過すべき出ないと思ふ、兎に角医者に見放された病者、内科は勿論切傷、火傷等にも全く医薬療法の及ばない威効を奏する実例が多いから一度翁の門を叩いて見るも決して無駄ではあるまい。
  
 「光波のデスバッチ」は自身の病気には効かなかったものか、松居松翁は『落合町誌』が出版された翌年、63歳で下落合に没している。また、同様にあらゆる病気をはねつけ、あるいは治癒し、心身の鍛錬とバランスをとる「静坐法」の岡田虎二郎Click!は、47歳になると同じく下落合で急死している。
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地形図1932.jpg
松居松翁邸1936.jpg
 松居松翁が、現在の新宿区エリアへとやってきたのは古く、1907年(明治40)の夏ごろだ。最初は、大久保村東大久保(上ヶ地)16番地に建つ観音庵境内にあった建物に住んでいる。当時、作家たちの間にも郊外ブームがあったらしく、同じく小説家で劇作家の岡本綺堂Click!も大久保百人町へ転居してきている。いわゆる「大久保文士村」Click!が形成されたころだ。松翁が東大久保に住んだのは、1915年(大正4)暮れまでの8年間で、翌1916年(大正5)1月から下落合436番地へと転居してきた。近衛町Click!が開発される以前、近衛旧邸Click!の北側に舟橋了助Click!が敷地内へ開発した、東へのびる借家群の1軒に住んでいる。ちょうど、目白中学校Click!の校庭に南接するあたりだ。住宅を設計したのは、夏目利政Click!だったかもしれない。
 下落合436番地に住んだのは1920年(大正9)までの4年間で、翌1921年(大正10)にはよほど下落合が気に入ったのか、同じ町内の下落合604番地へ引っ越した。ちょうど曾宮一念Click!が下落合623番地にアトリエClick!を建てたのと同時期であり、転居先の松居邸はごく近くにあった。曾宮アトリエの道をはさんだ東隣り、佐伯祐三の制作メモClick!にある「浅川ヘイ」Click!の浅川邸も下落合604番地だ。松居松翁は、1923年(大正12)まで2年間にわたり同地番に居住している。そして、翌1924年(大正13)には下落合735番地へと転居した。この住所は、教育紙芝居で有名な高橋五山Click!邸と同一地番であり、下落合604番地の旧居から、南へわずか130mほどしか離れていない。
 さて、ここで落合町下落合735番地と長崎村荒井1721番地の住まいが、同じ年の記録で重複することになる。おそらく、下落合735番地は長崎の新居が竣工するまで、あるいはもう少し条件のいい家が探せるまでの仮住まいであり、家が完成してから(見つかってから)長崎村荒井1721番地へ引っ越していると思われるのだ。1/10,000地形図で確認すると、1924年(大正13)現在の修正図では、長崎村荒井1721番地界隈には住宅がほとんど採取されていないが、2年後の1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」では住宅が急増しており、同地番には松居真玄(松翁)邸も採取されている。
 ちなみに事情明細図で、長崎村荒井1721番地に建つ松居邸の西隣りに「牧野」とあるのは、下落合(2丁目)604番地へ引っ越してくる前の牧野虎雄Click!アトリエだ。ふたりは隣人同士なので、おそらく親しかったのだろう。下落合604番地は、松居松翁が少し前に住んでいた地番であり、少しして牧野虎雄が転居する先の地番と同一な点に注意したい。松居が牧野虎雄へ、下落合604番地界隈の借家を地主を通じて紹介したのかもしれない。また、松居自身も1932年(昭和7)になると下落合(2丁目)617番地へともどってくるが、牧野虎雄アトリエClick!のすぐ北側に位置している点にも深く留意したい。
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松居松翁.jpg 松翁戯曲集1巻春陽堂1926.jpg
火保図下落合617番地.jpg
 長崎村荒井1721番地の界隈は、南側へ東西に横たわる下落合の丘陵域から見て北向き斜面の麓にあたり、現在でも丘上を貫通する目白通りから北へ向けて、なだらかな坂道が下っている。河野通勢は坂道ないしは路地状の道の中途、長崎村荒井1862番地あたりにイーゼルをすえ、2階家ほどの視点から北東を向いて写生しているのがわかる。現在の風情でいうと、目白の森公園(手前の広い赤土の地面がその一部)の西側に通う坂道(左端の松居邸の門前から画家の手前に向かう道筋)の途中から、建設中あるいは完成間もない住宅群を描いていることになる。
 では、「長崎町事情明細図」を参照しながら、それぞれ家々の住民を特定してみよう。デフォルメされている可能性があるので実景とは必ずしも一致しないかもしれないが、左端の門柱が長崎村荒井1721番地の松居邸だとすると、広い原っぱを横(東西)に走り主婦が立ち話をしている道路沿いの手前、右端に見えている宅地の石垣は鮭延邸(1877番地)、道をはさんで向こう側の平屋が大原邸(1719番地)、その北側が河合邸(1718番地)、位置的に見て河合邸の右横には相原邸(1717番地)が見えていなければならないが、どうやら1925年(大正14)ごろは未建設だったようだ。右側の、壁面が卵色に塗られた三角屋根の西洋館が前田邸(1716番地)、そのさらに北東奥に見えている大きな屋根(右端で画面が切れる)が千秋邸(1715番地)だろう。
 また、大原邸の上に見えている横にやたら細長い屋根は山口銀行寄宿舎(1712番地)、河合邸の左手に描かれた家々はおそらく建設中あるいは竣工したばかりの家々(借家群?)で、「長崎町事情明細図」でも住民名が採取されていない。中央に描かれた建設中、あるいは竣工したばかりの家々の左手には、1926年(大正15)になると銭湯「倉田湯」(1732番地)が開業するあたりだ。左手の奥に見えている、西洋館と思われるバーミリオンの大屋根は、武蔵野鉄道の線路にほど近い栗林邸(1725番地)だろうか。
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 松居松翁は、長崎村(町)荒井1721番地には1924年(大正13)から1931年(昭和6)まで、足かけ7年ほど住んでいたようだ。そのあと、彼は再び目白通りを南に越え、1932年(昭和7)から下落合へともどっている。松翁が転居したのは下落合(2丁目)617番地で、この家が彼の終の棲家となった。銭湯「福の湯」Click!の裏にあたる下落合617番地は、下落合630番地に住んでいた森田亀之助Click!邸の東並びにある家だ。売れっ子だった松居松翁のことだから、1938年(昭和13)作成の「火保図」に収録されている、「四恩学寮/矢吹」と書かれた大きな邸宅が旧・松居邸ではないだろうか。

◆写真上:長崎村荒井1721番地(現・目白4丁目)にあった、松居松翁邸跡の現状。
◆写真中上は、1924年(大正13)ごろに制作された河野通勢『長崎村の風景』。は、1932年(昭和7)の1/10,000地形図にみる長崎村荒井1721番地あたり。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地番界隈。
◆写真中下は、河野通勢がイーゼルをすえたとみられる北向き斜面(坂道)あたり。右側には、目白の森公園の西門がある。中左は、松居松翁のポートレート。中右は、1926年(大正15)に春陽堂から出版された『松翁戯曲集』第1巻。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる松居松翁の終の棲家となった下落合617番地の住宅。
◆写真下は、河野通勢『長崎村の風景』に当時の邸名を想定して加えたものと、1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」にみる松居松翁邸界隈。は、Google Earthの空中写真から描画ポイントと画角を想定する。は、河野通勢が『長崎村の風景』で手前に入れて描いた赤土斜面の現状。

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