Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all 1249 articles
Browse latest View live

目白駅のあたりき俥力・島さんは100円/km。

$
0
0

日本女子大前.JPG
 1962年(昭和37)に実施された、目白駅の大規模リニューアルClick!と翌年の跨線橋設置で、目白駅の「美化同好会」の活動Click!と連動してスタートした跨線橋での絵画展示は、1964年(昭和39)4月29日に西原比呂志が制作した油彩画『浜』(8号)が盗まれるにおよんで中止され、その後、付近の小学生が描いた児童画の展示に切り替えられた。駅の壁面を利用した児童画展示は、すぐに各駅へ広まったものか、現在でも駅の構内や地下道などでその名残りを目にすることがある。
 日本橋出身で高田2丁目に住んだ画家でありマンガ家に、行動美術家協会の永井保がいる。永井自身も、目白駅の展示スペースに作品を展示したのかもしれないが、他の画家たちによる重厚な油絵に対して、軽妙な水彩画か彩色線画、あるいはマンガだったかもしれない。空襲を受けて焼ける前の、(城)下町Click!を想い起こして描いた精密な線画は有名で、いまでもファンが多いのか画廊などでときどき展覧会を見かける。
 1932年(昭和7)に発足した「漫画集団」は、戦後、三角寛Click!の音頭とりで再出発をしている。1955年 (昭和30)4月、池袋東口の人卋坐に三角寛をはじめ、横山隆一、永井龍男、玉川一郎、近藤日出造、徳川夢声、池島信平などを集めて発足会が開かれた。再出発の催しが池袋で行われたのは、このころ周辺にマンガ家たちが多く住んでおり、千早町には南義郎、雑司ヶ谷には加藤芳郎、高田2丁目には永井保がいたからであり、発起人の三角寛の家Click!も雑司ヶ谷1丁目の金山稲荷Click!下にあった。
 ちょうど同じころ、目白駅前の線路沿いには闇市ともマーケットともつかない飲み屋街が形成されおり、1960年(昭和35)に撤去されるまで営業をつづけていた。そんな酔客をめあてにしたのか、あるいは目白駅周辺の家を訪問する乗降客をターゲットにしたものか、俥(じんりき)が現役で活躍していた。100円/kmほどの料金で、利用客は決して多くはなかったようだが、さすがに下落合や高田、目白台などの急坂にある家には着けてはくれなかったらしい。
 1986年(昭和61)発行の「広報としま」に連載された「わたしの豊島紀行<22>」(7月号)から、永井保「俥で一キロ100円」より引用してみよう。
  
 (目白)駅前に飲み屋街があった頃、出札口脇に人力車が一台常駐していたことがある。そして車夫は客まちの間をみては箒をもち、駅前を掃除していた。名前は島さんといった。歳は六十ちかかったろうか。昼間はともかく夜の客も多かった。/「あまりすごすと、仕事にこたえますんで……」と云いながらも、私たちと一緒に駅前飲み屋で一刻楽しんでから、酔客を送るのも島さんの仕事であった。また島さんの行動範囲は、主に目白通りを(日本)女子大から落合方面を往復することで、およそ一キロ百円位であったろうか。それに急な坂道の客は「……このトシじゃ、つとまりませんや」と断られた。(カッコ内引用者註)
  
永井保「人世坐」.jpg
中野駅前人力車(中野写真資料館).jpg
永井保.jpg わたしの豊島紀行題字.jpg
 確かに、いくら身体が鍛えられているとはいえ、60歳前後の人物が客を乗せ、傾斜角30度ほどもある急坂を往来するのは、さすがに無理だったろう。戦前とは異なり、坂下にはもはや「押しましょう」の“押し屋”もいなかった時代だ。戦後は幹線道路がアスファルト舗装されており、泥道に車輪をとられる心配はそれほどなかったのだろうが、そのぶんクルマの通行が頻繁で、別の危険があったにちがいない。
 俥(じんりき)の運行範囲は、「(日本)女子大から落合方面」と書かれているので、目白駅を起点にして東へ約1.4~1.5kmほど(つまり高田2丁目あたり)、下落合側ではおよそ目白文化村Click!(第一文化村)ぐらいまでの距離だ。俥のスピードや交通事情にもよるが、およそ10分前後(往復20分)ぐらいの乗車時間になるだろうか。当時のタクシーが、初乗り500mあたり50~60円ほどだから、タクシーとほぼ同じ料金だったのがわかる。ただし俥は、当時はまだ多かったクルマの入れない未舗装の細道や路地にも自在に侵入でき、家の玄関先まで送りとどけてくれるので便利だったにちがいない。
 昭和初期のように、俥屋の手配組織や電話の引かれた詰め所などない時代になっていたので、目白駅前で利用客を待つ「島さん」に、自宅まで迎えにきてもらって目白駅まで乗せてもらう……というようなことは、すでにできなかったのかもしれない。山手線の降り際、駅舎の脇にいる「島さん」をつかまえて、明日の何時に迎えにきてくれというような予約はできたかもしれないが……。今日の観光地に多い俥が、俥夫のもつスマート端末やGPSデバイスでスピーディに手配や送迎の連絡ができることを考えると、俥の存在自体が前時代的な姿とはいえ隔世の感がある。
目白駅1922.jpg
目白駅改札1929.jpg
あたりき俥力.jpg
 中村彝Click!は病気のために、佐伯祐三Click!は足の悪い米子夫人Click!のために、アトリエから目白駅まで、あるいは目的地までの俥をときどき手配していたが、電話をかけて目白駅にある俥夫の詰め所へ連絡していたものだろうか。それとも、目白通りまで出て目白駅へのもどり俥をつかまえ(中村彝の場合は友人の役割りだったろう)、アトリエまで誘導してきてから外出していたものだろうか。大正期から昭和初期にかけ、目白駅前に参集していた俥(じんりき)による交通・運行の様子が、いまいち明らかになっていない。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)には、町内で営業用の人力車はゼロ、自家用の人力車が2台と記録されている。自家用人力車は、おそらくおカネ持ちか華族の自邸に古くから備えつけられていたものだろう。また、翌1933年(昭和8)に出版された『高田町史』Click!(高田町教育会)には、1877年(明治10)に初めて高田町(現・目白地域)へ人力車が2台導入されて以来、「後に多数となるも、今はまた減少した」と報告されている。大正期から、乗合自動車Click!の路線が目白通りへ開設されるにともない、また、昭和期に入ると自家用車の普及によって、人力車のマーケットが徐々に縮小していく様子が伝えられている。
永井保「長崎アトリエ村」.jpg
永井保「雑司ヶ谷異人館」.jpg
雑司ヶ谷異人館1963.jpg
 「島さん」が、いつまで目白駅前から客を乗せていたのかはわからない。1955年(昭和30)に60歳近かったということは、1960年(昭和35)までつづけられたかどうか。当時は、コップ酒やハイボール1杯が50円、ビールの大瓶が180円の時代だった。つまり、乗客をひとり送りとどければ毎日1杯のコップ酒かハイボールが楽しめ、残りの俥賃は腹掛けに入れて家族の生活費に持ち帰ることができたのだろう。

◆写真上:俥力の「島さん」が、目白駅東側への送迎指標にしていた日本女子大学。
◆写真中上は、永井保が描く戦後の「漫画集団」再発足会が開かれた池袋東口の「人卋坐」。は、昭和初期に撮影された中野駅前の客を待つ俥列。(中野写真資料館より) 下左は、高田2丁目に住んでいた画家でマンガ家の永井保。下右は、1961年(昭和36)の「広報としま」2月号からスタートした永井保の「わたしの豊島紀行」題字。
◆写真中下は、1922年(大正11)に橋上駅化された3代目・目白駅Click!で、停車するのはダット乗合自動車Click!は、1929年(昭和4)撮影の4代目・目白駅構内と改札。は、浅草界隈で活躍する観光用の俥(じんりき)。
◆写真下は、永井保の「長崎アトリエ村」。は、同「雑司ヶ谷異人館」。は、1963年の空中写真にみる雑司ヶ谷異人館で、現在は南池袋第二公園になっている。余談だが、雑司ヶ谷異人館から東へ50mにあるうなぎ「江戸一」は、看板にある江戸(城)下町風の香ばしいうなぎとは裏腹に典型的な乃手風味のうなぎだが、これはこれで美味い。
雑司ヶ谷江戸一.JPG


関東大震災直前の生き物たちの記録。

$
0
0

旋風.jpg
 これまで、大江戸の安政大地震あるいは関東大震災についての多種多様な記録Click!や事件を、このサイトで書いてきているが、その直前の「前兆現象」とも呼ばれている出来事はあまり記事にしていない。落合地域の詳細な震災記録は、被害がきわめて少なかったせいかほとんど見かけないが、お隣りの上高田や中野地域では聞き取り調査が行われている。きょうは、関東大震災の直前に起きた現象について着目してみたい。
 大地震の直前に、生き物たちが妙な行動や通常とは異なるふるまいを見せることは、別に関東大震災に限らず江戸期の昔からいわれつづけていることだ。日常が非日常に感じ、なにかが「おかしい」と思えてくる感覚は、大地震の「前兆」現象として語られてきた。大正期の東京市街地では、すでに郊外に比べ動物の姿を見かけることが少なくなり、相対的にそのような記録は少ない。だが、当時は田畑が多く、いまだ住宅の数も少なかった中野や新宿、渋谷などを含む豊多摩郡では、動物たちの不可解なふるまいを記憶した人々が多かったのだろう。
 中でも、ヘビをめぐる話は、郊外に限らず市街地でもたまに聞かれる現象だ。市街地では、ふだんは天井裏や縁の下に棲むアオダイショウが、大地震の前日に人のいるのもかまわず庭へ出てきて、樹木の枝や灯籠、垣根にからみついていた……というような逸話だ。別に気まぐれなアオダイショウくんが、ちょっと気分転換に出てきただけなんじゃないの?……と結果論的な観察にも思えるのだけれど、大地震の前日譚として同じ話がいくつか重なると、それは偶然ではなく必然に思えてくる。
 落合地域の西隣り、上高田地域には関東大震災の前日、ヘビの異変に気づいた人たちが大勢いた。語り口調のままで記録されたその証言を、1987年(昭和62)に中野区教育委員会から出版された、『中野の昔話・伝説・世間話』から引用してみよう。
  
 この辺にねえ、とても蛇がいたんですよ。だからあのぅ、関東大震災のときにね、蛇がたくさん出たんですね。地震の前に。それでね、おかしいおかしいって言ってたときに、地震がいったっていうね、話ですね。/だから、やっぱり地に棲んでる蛇っていうものは、なにか敏感に感じるんですねえ。蛇だとか、ひき蛙とかねぇ。犬とか鶏が異常に騒いだってのはね、やっぱりそこになんかある。/もう、裏といい前といいね、もう、あらゆる蛇が出てきたそうですよ。どうしたんだろうってね。そうしたら、八月三十一日だそうです。前日のね。いったいなんでこんなにってね。それから、犬を飼ってて、犬とか鶏を放し飼いにしてる小屋があったんですよ。その鶏が落ち着かないで、ひとつもね、鳴いてコッコッコッコッ落ち着かないんで、おかしい、どうしちゃったんだろうなんてねぇ、言ってるときに、九月一日のお昼にね、あの地震だった。/だけど昔の人はね、やっぱりその理由はわかんなくても、その前の日に不思議だっていうことを感じていたわけですよね。そういうものが出てきたんで。
  
 落合地域には、いまでもヘビClick!がたくさん棲息しているが、はたして大地震の前触れにおかしなふるまいを見せてくれるだろうか。少なくとも、わが家の周辺にいるアオダイショウClick!やシマヘビたちは、ちょっととぼけたユーモラスな姿は現わすものの、いまだ「おかしい」と感じるような不可解な様子は見せたことがない。
 ヘビたちがパニックを起こしたのは、地面の近くにいて人間の鼓膜には聞こえない地鳴りのような低周波(20Hz以下)の異常音、あるいは大地震の前触れとなったプレートのズレや崩壊の直前に起きる、微小な異常震動音を感知したものだろうか。この証言は、関東大震災の前日である1923年(大正12)8月31日の出来事、つまり24時間前の異常現象として記録されたものだ。
アオダイショウ.jpg
ナマズ.jpg
 上高田地域の隣り、中野地域では旧・神田上水(現・神田川)に注いでいた桃園川(中野川)での異常が記録されていた。ふだんは川底の泥に沈んで釣れないはずのナマズが、面白いように獲れた話だ。つづけて、1989年(平成元)に中野区教育委員会から新たに出版された、『続・中野の昔話・伝説・世間話』から引用してみよう。
  
 桃園橋って橋があるでしょう、あれからねぇ、百メーターくらい行った桃園堰、その間にね、流し鈎で釣るんですよ。竹の先に紐付けて、その先にドジョウとかミミズ付けてやるわけ。それをとるとねぇ、ナマズがいっぱいとれるの。で、あすこの間ね、五、六匹もとれるの、ナマズが。こんなでっかいナマズとったの。やっぱしあの、地震の前というとおかしいけどさ。(中略) わかんねえけど、ずいぶんとったね。地震の前の一週間ぐらい。はっきり覚えてないけど。だから、やっぱし、その、地震があるんでさぁ、どっかの地層が揺れたんだか、爆発したんだか分からないけど、で、その動きをね、キャッチするんじゃないんですか。
  
 大地震の直前、フナやコイ、アユ、タナゴなどふだんの川魚ではなく、なぜかナマズが多く獲れたというエピソードは、別にめずらしい話ではない。江戸時代の元禄期から安政期までつづいた大きな地震の直前、あちこちの河川で記録された特徴的な出来事だ。
 だからこそ、大地震は地中に棲む大ナマズが暴れて起こすのだという、大江戸安政大地震の直後に浮世絵にも刷られて人気が高かった、大ナマズ“震源説”へと転化していったのだろう。他愛ないといえばそれまでだが、安政期の人々は少なくとも「日本列島」という国土概念は持っており、その細長い形状と河川のナマズに関する大地震直前の怪異現象とが結びついて、日本列島の下には巨大なナマズが棲んでいる……という概念へと結びついたのだとみられる。
 日本列島の下に大ナマズはいなかったが、太平洋から押し寄せるさまざまなプレートが複雑に沈みこんでいるのが、どうやら徐々に判明してきたのは安政大地震の100年後、1950年代に入ってからのことだ。現在、フィリピン海プレートの境界で起きる崩壊現象、つまり東南海地震(安政期の用語でいえば、きわめて短期間でドミノ倒し的に連続した東海・南海・豊予大地震)が起きる確率は、30年以内で70%といわれている。この数字は、「いつ起きても不思議でない」レベルであり、この連続した大地震の1年後に誘発されているとみられるのが、1855年(安政2)の直下型とみられる大江戸安政大地震だ。
地震計19230901.jpg
有島生馬「大震記念」1931.jpg
 内閣府の「首都直下地震モデル検討会」では、東京直下地震で揺れがもっとも大きい震度7の領域を中央区、港区、大田区、品川区、江東区、墨田区、江戸川区とし、首都圏の全壊家屋が11万6,000棟、火災による全焼家屋18万8,000棟(以上は2006年想定)、死者数は23,000人(2012年想定)としている。ただし、想定される震源としては津波をともなう東京湾北部の海底地震と、立川断層帯や三浦半島断層帯群、伊勢原断層帯などが走る多摩・神奈川直下のプレート境界地震が検討から外され、陸地の下を震源とする都心南部直下地震(想定M7.3)が大きくクローズアップされてきている。(2013年想定)
 ちなみに、相模トラフが震源とみられる元禄関東地震(想定M8.5)、延宝房総沖地震(想定M8.5)、そして同トラフが震源の大正関東地震=関東大震災(M8.2)などのプレート境界の巨大地震は、とりあえず直近で起きそうな震災の想定リスクからは外されたようだ。なお、関東大震災はM7.9と書かれた資料が多いけれど、これは以前から使われていた気象庁マグニチュード(Mj)によるもので、現代ではモーメントマグニチュード(Mw)が用いられることが多い。東日本大震災の経験から、大規模な地震にはM(j)よりもM(w)による表現のほうが有効だととらえられているからだ。
 少し余談めくが、関東大震災の様子を描いた絵画に、有島生馬Click!の『大震記念』がある。本所横網町の陸軍被服廠Click!跡に造られた、震災復興記念館Click!の展示室に架けられている600号サイズの大画面だ。この作品は、大震災の直後に描かれたように思われているが、有島生馬が同作に取り組んだのは1931年(昭和6)の夏であり、関東大震災から8年後のことだった。
 1931年(昭和6)発行の、「アトリエ」9月号に掲載された記事から引用してみよう。
  
 有島氏は六百号といふ大幅に関東大震災に取材した大構図、画面には山本権兵衛伯や後藤新平男、ベルギー大使、柳原燁子女史といふ知名な顔ぶれが画中に活躍してゐるといふ問題作です。これは制作中の或る日のアトリエ、キヤタツに登つてパレツトを持つ有島氏とモデルの柳原燁子女史です。
  
 画面中央の宮崎白蓮Click!(柳原白蓮Click!)を描くため、有島生馬は1931年(昭和6)8月に、わざわざ彼女をアトリエへ招き、震災当時のコスチュームを着せてスケッチしている。アトリエで『大震記念』を制作する、有島の様子を撮影した貴重な写真が残っているが、その傍らに画面へ描かれる女性モデルをつとめた宮崎白蓮が、画面の格好とほぼ同じコスチュームで座っている。作品に登場する人物たちを、写真などを参照しながら描くのではなく、わざわざアトリエに呼んでポーズをとらせていたとは驚きだ。
有島アトリエの宮崎白蓮.jpg
有島生馬「大震記念」宮崎白蓮.jpg アトリエ193109.jpg
 宮崎白蓮のすぐ右手に、彼女の足をスケッチしたと思われる習作のキャンバスが立てかけてある。実際の『大震記念』画面では、白蓮の裾がはだけ紅い腰巻が見えて、彼女のふくらはぎぐらいまでが露出している。アトリエに置かれたスケッチでは、そこまで裾が乱れているようには見えない。有島生馬は、はたして「脚フェチ」だったものだろうか。

◆写真上:横網町公園の慰霊堂の壁面に架かる、作者不詳の『旋風』。大火流で発生した火事竜巻により、空へ吹き飛ばされる人々を描いている。
◆写真中上は、下落合のあちこちでよく見かけるアオダイショウ。は、昔はどこの河川の川底に泥にまみれて棲息していたニホンナマズ。
◆写真中下は、関東大震災時に地震計に記録された本震と直後に起きた余震の振幅。上が本震で地震計が振りきれ、破壊されて機能していない。は、復興記念館に架かる1931年(昭和6)に制作された有島生馬『大震記念』(部分)。
◆写真下は、有島生馬アトリエでモデルをつとめる宮崎白蓮。下左は、『大震記念』の部分拡大。下右は、1931年(昭和6)発行の「アトリエ」9月号。
ご要望がありましたので、ときたま掲載する「予告編」をアップします。1973年11月10日(土)に放送された、『さよなら・今日は』Click!第6回(結婚前の浮気)から…。このころは、「家族と個」というようなテーマが、ドラマや映画などでよく取り上げられていたように思います。また、70年代前半には世代を問わず「シラケちゃう」という言葉が流行りましたね。久しぶりに聞きなおしたら、40年以上も前の本作でも首都圏の巨大地震について、どうすれば生き残れるかが家族間で話し合われていたのに気づきました。

Part01
Part02
Part03
Part04
Part05
Part06
Part07
Part08
Part09
Part10
Part11

新宿区が補助73号線を実質止めた?

$
0
0

下落合図書館1.JPG
 一昨年(2014年)に、十三間通りClick!(新目白通り)沿いに建っていた下落合が長い河野建設の社屋が解体Click!され、さらにその先にある西武線の南側に建っていた下落合の新宿区立中央図書館が戸山移転のために解体Click!されたとき、七曲坂Click!から眺める光景に少なからず慄然とした。不忍通りから早稲田通りまでを貫通する大通りの用地買収が進む、かつては閑静だった目白台の光景が目の前に浮かび上がったからだ。
 河野建設の跡地には、リフォームが専門のホームセンターが建設されたが、道幅の広い十三間通り沿いにもかかわらず低層の3階建てコンクリート建築だったことから、相変わらず補助73号線Click!の“しばり”=建築規制があることは歴然としていた。補助73号線Click!は、目白通り沿いのピーコックストアから日本聖書神学校Click!横を通り、下落合の住宅街を縦断して落合中学校の校庭を削り、鎌倉期に拓かれた七曲坂Click!を全面的につぶし、下落合氷川明神社Click!横から旧・新宿区中央図書館の敷地をへて、小滝橋Click!方向へ斜めに抜ける東京都建設局道路建設部の計画だ。
 河野建設や中央図書館が解体され、しばらく空き地状態がつづき早稲田通りまでが見通せるような風情に変貌したとき、緑が多く残る閑静な住宅街や、800年近い歴史や物語がやどる七曲坂が消滅する光景を、危機感をもってリアルに思い浮かべてしまった。いや、この問題は下落合地域ばかりでなく、上屋敷公園Click!をつぶして自由学園明日館の北側から大通りを横断的に造ろうとしている西池袋から目白地域や、同じく昔ながらの住宅街をつぶして斜めに大道路を貫通させようとしている上戸塚地域(現・高田馬場3丁目)でも、まったく同様の課題だろう。
 だが、中央図書館の跡地に新宿区の複合施設として建設されるビルと、新たな地域図書館である「下落合図書館」ビルの計画が発表されたとき、期せずして「おや?」とつぶやいてしまった。同図書館は予想に反して5階建てのビルで、建築デザインのコンセプト・キーワードに「七曲坂」をはじめ、下落合の連続したグリーンベルトClick!を象徴させる「おとめ山公園」「野鳥の森公園」「薬王院」、湧水の「目白崖線」などの言葉が散りばめられていたからだ。明らかに、七曲坂を全的に消滅させようとしている東京都の補助73号線計画とは、正面から対峙する建築コンセプトであることがわかる。
 図書館の西隣りに建設される新宿区の複合施設は、西部公園事務所・西部工事事務所・災害時備蓄倉庫などが入る予定だという。これは、中央図書館が下落合にやってくる以前、1960年代の新宿区「西部土木事務所」の役割りを一部復活させる動きだろう。また同ビルには、保育施設や介護保険施設などの民間施設も入る予定だという。つまり、これらの施設は建築の規模や意匠、その役まわりも含め補助73号線計画を前提に、いつでも計画が進捗したときに解体して移転することが「できない」、周辺住民の生活インフラづくりだということになる。
下落合図書館2.JPG
補助73号線ルート1.jpg
 さて、3年ほど前、総務省や国土交通省の統計数字をベースに、補助73号線Click!がいかに時代に見あわないものであるかを記事にしたことがあったが、あれからさらに判明した事実があるのでご紹介したい。同記事では、都市部を中心に若い子たちのクルマ離れについて書いたが、その中でそもそも運転免許さえ取得しない(取得できない)“引きこもり”の人々についても触れた。その人口が、若年層の15~34歳だけの数値でみても、63万人にものぼることが内閣府の調査(2014年)で判明している。全年齢でみれば、ゆうに100万人を超える規模だろう。また、ここ数年で高齢者ドライバーによる運転錯誤の事故が急増し、おもに都市部で運転免許の再交付がさらに厳格化・限定化される動きが顕著になりつつある。つまり、1946年(昭和21)から計画されている補助73号線は、クルマの増加と道路混雑を理由に建設が予定されたままになっているが、クルマの利用者が増加し道路が混雑する要因が、もはやどこにも存在していないということだ。
 さらに、もうひとつ明らかになった事実がある。東日本大震災のとき、NHKが各自動車会社に協力を求めて収集した毎分の膨大なGPSデータによる、東京23区内の大震災時における道路網の詳細な状況解析データだ。これは先年、ドキュメンタリーとしてTVで放映されたので、記憶されている方も多いだろう。TV番組では、ほとんど初の本格的なIoT/ビッグデータ解析による状況再現だが、2011年(平成23)3月11日の地震発生時から翌朝にいたるまで、首都圏の主要道路がほとんどマヒ状態だった事実が判明している。
補助73号線ルート2.jpg
下落合図書館3.jpg 下落合図書館4.jpg
 首都圏の外周域へ乗客を運んだタクシーや物流トラックなどが、翌日まで都内にもどれない様子や、世田谷区や杉並区では道路が渋滞し、救急車両が高齢者の自宅へたどり着けない事実も明らかにされた。つまり、急病人が発生した際の救急車ではなく、消防車が出動する緊急事態が生じた場合、消火車両が火災現場までとてもたどり着けない実態が浮かび上がったのだ。先の東日本大震災は東京が激震地ではなかったため、幸い火災は最小限で済んだけれど、東京直下の活断層あるいは相模トラフが震源となった場合、首都圏の道路に「防災道路」、つまり緊急時の物流・輸送・移動ルートとしての役割りを期待することが、いかに危険で無意味であるかが歴然としている。
 換言すれば、首都圏における「防災道路」などという言葉は、それ自体が東日本大震災時の事実にもとづかない“論理矛盾”の幻想にすぎず、渋滞を起こしたクルマが並ぶ、または乗り棄てられたクルマのガソリンタンクがどこまでも連なる、阪神淡路大震災時や東日本大震災時の東北の一部地域と同様に、大火災の“導火線”になりかねない状況が、改めて浮き彫りになったということだ。
 補助73号線の建設理由として、クルマの増加や交通混雑の緩和という名目が維持できなくなった東京都は、次に「防災道路」などという摩訶不思議な理由を持ちだして建設の目的をスリカエるとすれば、もはや大火流Click!を招き寄せるリスクを拡大するに等しい愚策といえるだろう。現在の魚市場の移転問題が象徴的なように、東京都の“見えない化”が進んだ組織は、70年前に一度決めた道路計画を危険やムダとわかっていても、止められないほど劣化・硬直化・無責任化しているのが実情なのだ。
下落合図書館5.JPG
下落合図書館6.JPG
東日本大震災渋滞20110311.jpg
 中央図書館の跡地に建設中の、下落合図書館や複合施設が入るふたつのビルだが、ひとつ気になる点がある。それは、地下室が存在しないことだ。地下室のないビルは基礎も浅く、解体・整地化は比較的容易だといえるだろう。でも、神田川に近接しているビルでもあり、大雨のときに地下水脈が膨張して地下室への浸水Click!を懸念し、あらかじめそのリスクを回避した設計構造だ……と、ここは好意的かつ前向きに解釈しておきたい。

◆写真上:新宿区中央図書館の跡地、下落合1丁目9番地に建設中の下落合図書館。
◆写真中上は、一昨年に七曲坂から撮影した解体を終えた河野建設と解体中の中央図書館。は、落合中学校り西側から七曲坂へ南下する補助73号線の計画。
◆写真中下は、七曲坂の下が空き地だらけになっていたGoogle Earthにみる2015年の様子。は、下落合図書館の完成予想図()と複合施設も含めた完成模型()。
◆写真下は、下落合図書館の工事計画。は、2016年の暮れに竣工予定の新宿区複合施設。は、NHKが車両のIoT/ビッグデータ解析で作成した2011年(平成23)3月11日午後6時24分16秒現在の東京西部の道路状況。建物を重ねているので見えにくいが、ほとんどの道路が奥の都心部道路と同様に赤色(渋滞)で機能していない。このあと、翌3月12日の午前0時すぎぐらいまで帰宅困難者の移動と重なり、さらに主要道路網はほとんどが赤色=大渋滞を招くことになった。
10月に入ったのに、相変わらずのセミ時雨に混じってヒヨドリや秋の虫の音が聞こえ、周囲にはキンモクセイの香が漂う奇妙な陽気だ。

もっと読みたい駅前医院の辻山春子。

$
0
0

辻山春子1933.jpg
 下落合4丁目1909番地(現・中落合1丁目)の中井駅前で、医院を開業していた辻山義光Click!については、少し前に「もぐら横丁」Click!に住んでいた尾崎一雄Click!らとともにご紹介している。きょうは辻山義光の妻であり、昭和初期に長谷川時雨の「女人藝術」Click!岡本綺堂Click!の「舞台」に、次々と作品を発表していた劇作家の辻山春子にスポットを当てて書いてみたい。
 辻山春子は、1903年(明治36)に福岡県で生まれ育ち、福岡女子師範学校を卒業したあと2年ほど地元で教師をしている。その後、身体を壊して教師を退職すると、1926年(大正15)に辻山義光と結婚した。おそらく、彼女の治療中にふたりは出逢っているのだろう。その間、当時の若い女性なら誰もが試みていたように、短歌や小説を次々と書いては文芸雑誌に投書を繰り返していたらしいが、結婚をする前後から戯曲を書くようになったようだ。これには、当時の演劇ブームも多分に影響しているのだろう。
 このころから「女人藝術」へ投書をはじめており、都合5編ほどの作品が同誌に掲載されている。「女人藝術」の講演会が福岡で行われた際、辻山夫妻の自宅には林芙美子Click!が宿泊しているので、このころから辻山春子と林は親しくなったらしい。そして、子どもが産まれたあと、1929年(昭和4)に東京へとやってきている。このあたりの事情を、1975年(昭和50)にテアトロから出版された『辻山春子戯曲集―ファーブルハウスの乙女・外八篇―』所収の、若城希伊子「人とその作品」から引用してみよう。
  
 昭和四年、子供連れで私達夫婦は笈を負って上京したんです。落合に住んで、主人は朝勤め、午後は慶応(ママ:慶應)の研究室、夜は家で開業してましてね、子供を育てながらのえらい貧乏生活でしたけれど、その頃が一番楽しかったですよ。林さんは近いし、芹沢光治良さんのところも近かったし、尾崎一雄さんがやはりつつましい暮し方をしてらして、子供さんが病気だとよく家へみえましたよ。その少し後で、華やかであった吉屋(信子)さんのところへ寄せていただいたんだと思います。あたしなんか田舎者で皆さんのお話を目を丸くして聞いているだけでした」/後の岡田八千代との付き合いもまた、この頃から始まっていた。二本榎の長谷川時雨亭で時々集まりがあった由。(カッコ内引用者註)
  
 中井駅前の辻山医院を中心に考えると、昭和初期の五ノ坂下にあった林芙美子・手塚緑敏邸Click!は下落合2133番地、佐伯祐三Click!の巴里風景が壁に架かる芹沢光治良邸Click!は上落合206番地、「もぐら横丁」の尾崎一雄は下落合2069番地、甲斐仁代Click!の静物画が壁に架かるアビラ村(芸術村)Click!吉屋信子邸Click!は下落合2108番地と、半径300~400m以内にすべての邸が入ってしまう。辻山春子の話に登場する人物以外にも、彼女と親しくしていた文学関係者の多くも、この円内のどこかに収まるだろう。
岡本綺堂「舞台」193111.jpg 菅原卓編「劇作」193406.jpg
 東京にきてからの辻山春子は、次々と戯曲作品を発表していく。岡本綺堂が監修する「舞台」1930年(昭和5)11月号には『或る囚人』を、「舞台」の監修が岡本から額田六福に変わったあとも『アパート小曲』や『残る者』などを執筆している。また、長谷川時雨の「女人藝術」には『にしき木』をはじめ『くに子の死』、『最後の睡眠剤』、『ニル・デスペランドム』、『俊枝のグルッペ』などを、菅原卓が編集する「劇作」には『花火』や『秋みたび』、『ある脳病院素描』を発表した。
 だが、これら戦前の作品は、辻山春子によれば「その時は一所懸命書いたはずなのに今読み直すと肩をはったような作品ばかりでどうにも」作品集へは収録できないとし、唯一の例外として太平洋戦争の直前に書かれた『ある脳病院素描』1作を除いて、すべての作品が廃棄されてしまった。したがって、テアトロの『辻山春子戯曲集』に収録されているのは戦後の作品がほとんどで、わたしとしては非常に残念なのだ。
 作家が歳をとってから、若いころに書いた作品を読み直して、その“若書き”で力みすぎた表現が恥ずかしくなるのは当然のことであり、若いころの作品まで含めて網羅してこそ、作家が歩んだ表現の全貌や思想の道筋が初めて見えてくると思うのだが、同戯曲集は「自選」を前提にしているようで、いちばん感受性が鋭く豊かだった若いころの作品が、ゴッソリ丸ごと抜け落ちているのが惜しい。『辻山春子戯曲集』(1975年)には『ある脳病院素描』を除き、戦後の“プロ”としてまとまり、そつなく完成してしまった表現作品ばかりが掲載されていることになる。また、戦前のほとんどの作品は下落合で書かれているので、そこに登場する人物たちは彼女の周囲にいた人々を象徴化させたものだったろうし、そこで描かれる風景や街角は、もちろん近所だった可能性が高いのだ。
 『辻山春子戯曲集』を読むと、日常生活のシーンをプレパラート化したような、やや緊張感をともなうホームドラマの構成がうまいと思う。ストーリーが突然断ち切られ、戦前の舞台なら観客が“消化不良”を起こしそうな、予定不調和のまま終わる作品や、逆に小津安二郎Click!のシナリオを読んでいるのではないかと錯覚してしまうほど、戦争が終わり平和を取りもどした家庭の日常を、切々と描ききる作品は読んでいても楽しい。『シャーレの中の女』や『ファーブルハウスの乙女』、『哀しきロンド』などは舞台よりも、映像のほうがクッキリと描きやすいシナリオのように思える。
辻山春子アカンサスの会1961.jpg
辻山春子戯曲集1975.jpg 辻山春子1975.jpg
 だが、戯曲集の後半に収められた、平安貴族たちを主人公とする“王朝もの”と呼ばれている作品群4編は、まったくいただけない。はっきりいって、ぜんぜん面白くないのだ。“人間”を描く文学作品であれば、別に時代はいつでも場所さえ日本でなくてもいいじゃないか?……というのは理屈だが、辻山春子は現実の生活をベースに、その上へ物語を編み上げていくと登場人物が活き活きと動きだし、その呼吸する空間が俄然リアリティを持ちはじめる劇作家だと思う。
 そもそも、平安貴族が江戸東京方言Click!らしき言語(「標準語」Click!だろうか?)をしゃべるのも奇々怪々だし(戯曲にとって、舞台上で役者から発せられる言語は最重要な課題だろう)、舞台や映像で京の公家を演じる機会の多かった俳優の梅津栄Click!が、関東弁をベラベラしゃべる貴族の非実存感から追究し、研究を重ねたしゃべり言葉のリアリティにさえ遠く及ばない。だからというべきか、彼女によって棄てられてしまった戦前の下落合時代の市井作品には、少なからず佳作が混じっていたのではないかと思うのだ。
梅津栄が今年(2016年)8月に亡くなっていたのを、KIXさんClick!からの情報で知った。抜群のユーモラスな表現で、好きな俳優だっただけにご冥福をお祈りしたい。
 辻山夫妻はその後、おそらく戦争をはさんでだろう、下落合から聖蹟桜ヶ丘へ引っ越しているようだ。若城希伊子の文章から、再び辻山春子の回想を引用してみよう。
  
 (前略)聖蹟桜ヶ丘は、百草園のある武蔵野の風情豊かなところである。この二十年来、何度かお宅を訪れていつも心からの暖かいおもてなしをいただいた。忘れられないのは、岡田(八千代)先生と御一緒にお隣りの駅の近くの川魚料理の料亭でごちそうになったこと。鮎の塩焼の味が今も遺っている。百草園を一緒に散歩したこともあった。(中略) この間、逝くなられた吉屋信子先生のお話をしていたら、「昔、下落合に住んでいた頃、真杉静枝さんや大田洋子さんや林芙美子さんと一緒によく吉屋さんのお宅をお訪ねしたものでしたよ」といわれた。吉屋先生が下落合にお住まいだったのは昭和七、八年頃だから、その頃すでに辻山さんは『女人芸術』の一員として華々しい存在であったに違いない。(カッコ内引用者註)
  
 吉屋信子は、大正末から1935年(昭和10)まで門馬千代Click!とともに下落合に住んでいるので、辻山春子よりも4年ほど下落合生活が長いことになる。大田洋子は、1931~1936年(昭和6~8)ごろには上落合545番地におり、下落合1731番地に住む武者小路実篤Click!の愛人だった真杉静枝Click!もまた、武者小路が散歩の途中に寄れる落合界隈に住んでいただろう。彼らも同様に、辻山医院から半径400mの円内にいた。
辻山医院跡.JPG
もぐら横丁井戸.JPG
 テアトロから刊行された『辻山春子戯曲集』の題字は、芹沢光治良が書いている。同書に収録された『ファーブルハウスの乙女』は、芹沢の紹介で朝日新聞社の「婦人朝日」に、戦後初めて掲載された彼女の作品だ。吉屋信子Click!と同様に、戦時中は筆を折っていた辻山春子だが、敗戦とともに旺盛な創作活動をリスタートさせている。

◆写真上:1933年(昭和8)の正月に、中井駅近くの下落合にあった写真館で撮影された記念写真。左から右へ大田洋子、辻山春子、林芙美子。中井駅近くの写真館とは、元・喫茶店「ワゴン」Click!跡にできた田中写真館の支店Click!だろうか。
◆写真中上は、岡本綺堂が(のち額田六福が)監修していた戯曲誌「舞台」1931年(昭和6)11月号。は、菅原卓が編集していた「劇作」1934年(昭和9)6月号。
◆写真中下は、戦後の岡田八千代が主催した劇作家の集まり「アカンサスの会」の記念写真。1961年(昭和36)ごろの撮影で、前列右端が辻山春子で左隣りが岡田八千代。下左は、1975年(昭和50)にテアトロから出版された『辻山春子戯曲集―ファーブルハウスの乙女・外八篇―』。下右は、1975年(昭和50)ごろに撮影された辻山春子。
◆写真下は、中井駅前の辻山医院跡(正面)。は、「もぐら横丁」に残る井戸。

ドンチャン騒ぎの落一小学校体育館。

$
0
0

落一小体育館.jpg
 最近、なにかの建物が竣工すると行われる落成記念式典は、昔に比べてずいぶん静かな催しになったと思う。式典自体も地味になったが、落成記念の行事もむやみやたらと騒がず、おとなしく「上品」なものに変わっている。たとえば、ピアノ演奏や合唱、弦楽四重奏、ハープ/フルート演奏、…etc.、まかりまちがっても歌って踊ってドンチャン騒ぎは、めったに見かけなくなった。
 昔に比べ、たかが新しい建物ができたからというだけで、お祭り騒ぎをすることが「恥ずかし」くて「カッコ悪い」という感覚に変化したからだろうか。確かに、新しい建物ができるたびに大騒ぎをしていたら、東京では毎日どこかでお祭りなみのドンチャン騒ぎが繰り広げられることになる。
 わたしが子どものころ、ちょっとした公共施設(公民館や公園など)ができるとパレードが繰り出し、広報車がまわり、花火(昼間に打ち上げる音だけ花火)が上がり、なぜか意味もなく多数の風船やハトが放たれたりしたのを憶えている。これらのハトは野性化し、いまでもあちこちで糞害が絶えないと憤慨される方も多い。
 これが商業施設(たとえば新築開店のデパートとか)だったりすると、とんでもない騒ぎが数日にわたって繰り広げられ、上空からセスナ機がキャッチフレーズと音楽を大音量で流しながら、ビラを撒いていったこともあった。(現在は禁止) 商業施設なら、派手に騒いで街での認知度を高め、購買意欲をそそるために雰囲気を盛り上げるのは当然だが、昔は公共施設の完成でもお祭り騒ぎがふつうだった。
 そんな昔の雰囲気を伝える記事に、1965年(昭和40)12月20日発行の「落合新聞」Click!で出あった。落合第一小学校Click!で行われた、体育館落成のニュースだ。
  
 (11月)二十一日は体育館落成を記念する賑やかな落一小学校の同窓会。明治・大正・昭和・現代っ子、新旧締めて四〇〇名が集まった。校庭には焼鳥屋を開店、そのうしろに喫茶店、ホットドックスナック。体育館では同窓会々長卒業生小野田増太郎氏を始めとする恒例の式次第。お笑いの蝶花楼馬楽は本校ゆかりの芸人で、リーガル千太は元下落合二丁目に住み、三人の子供が世話になった。
  
 多少の死語があるので、わたしの子ども世代以下の若い人たちのために解説すると、「現代っ子」というのは「いまの若い子たち」ぐらいの意味で、「スナック」は飲み屋ではなく「軽食」のことだ。なぜ小学校体育館の落成記念行事に、お笑い芸人が舞台へ登場するの?……などと深く考えてはいけない。まあ、おめでたいんだからいーんじゃない(↑)……ぐらいの気持ちでいないと、この先、わけがわからなくて辛いことになる。ちなみに、わたしは6代目・蝶花楼馬楽もリーガル千太も、残念ながら一度も見たことがない。
リーガル千太.jpg 蝶花楼馬楽.jpg
落一小旧校舎.jpg
 体育館でのお笑い芸が終了すると、次々と音楽バンドが舞台へ登場してくる。新旧の卒業生たちは、せいぜいハワイアンバンドぐらいまではいっしょに聴いていたようだが、演奏の後半にロックバンドが登場するにおよび、旧卒業生たちはあわてて体育館をあとにしたらしい。つづけて、記事から引用してみよう。
  
 珍芸がおわり、KOバンド、ハワイアンが済み、ジャックファイブの皆さんのエレキ演奏が始まる頃は、明治大正っ子は木造旧校舎二階特設の酒会へ。現代っ子はカブリツキに陣取って、股を叩いたり、口笛を流したり、女子卒業生は体をケイレンさせて黄色い声を出したり、遂には飛び出してゴリラ踊りをしたり、若いエネルギーを発散。やがて大向こうから官能の刺戟に耐えかねたアンコール、日が暮れて暗くなるまで電気ギターが鳴り響いた。来年もまたやってくれと大好評。/二階の酒宴会場では明治っ子が元気よく、かっぽれ、どじょう掬い。大正っ子は傍らでちびりちびりやっていたが、そのうち、どこやらへ連立って沈没した。
  
 竹田助雄Click!の文面だけ読むと、もはや修羅場(酒裸場)の様相を呈している。「KOバンド」は、慶應義塾大学の学生が結成した卒業生バンドだろうか? 「明治大正っ子」たちが席を立たず、おとなしく聴いていたところをみるとロックバンドではなさそうだ。「ジャックファイブ」がロックを演奏しはじめると、「股を叩」くというシチュエーションは、わたしにも理解不能だ。ましてや、女の子が痙攣しながら叫んだり、飛びだして「ゴリラ踊り」をするにいたっては、どのような状況だったのだろう?
 このころ日本で流行っていたロックミュージックというと、ベンチャーズやビーチボーイズといった今日からみればBGMに使われそうな曲が主流なのだろうが、「ゴリラ踊り」とは60年代に流行ったモンキーダンス、またはカリフォルニアで生まれたばかりのゴーゴーダンスのことだろうか? でも、8ビートのリズムに乗って、「股を叩いたり」する“ノリ”も「ゴリラ踊り」も知らない。「股を叩い」て(痛いだろうに)、なにをしていたものか想像すらつかない。(ひょっとして「膝」を叩くの誤植だろうか?)
ベンチャーズ.jpg
ビーチボーイズ.jpg
落一小体育館1963.jpg 落一小体育館1975.jpg
 この体育館落成の記念コンサート記事につづき、体育館へ暗幕などの記念品が寄贈されている。つづけて、同号の落合新聞から引用してみよう。
  
 視聴覚教育を健全にするためと新体育館をいっそう美しくするため(中略)、左の目録を小野田会長から岩本祝校長Click!を通じ、落合第一小学校へ贈った。
 暗幕十五教室分(十万円)
 額、佃公彦「ほのぼの君」
 壁画 永田竹丸画「ピックル君」
 同 永田松丸画「馬」
 右の中、額、壁画は佃、永田三氏からの好意による寄贈。
  
 落合新聞には、永田竹丸の壁画が「ピックル君」と書かれているが、「ビックルくん」の誤りだろう。この時期、永田竹丸はトキワ荘Click!が近くにあるため、また同荘とは関係ないが佃公彦も下落合に住んでいたものだろうか。
 さて、体育館のコンサートから流れた「大正っ子」たちの動向がとても興味深い。「明治っ子」の武骨で古臭いお座敷芸についていけず、かといって戦後のロックミュージックも御免こうむりたい心境がうかがわれるからだ。大正末に生まれた親父も、そのような気配を濃厚に漂わせていたけれど、明治と昭和の狭間に生まれた「大正っ子」は、デモクラシーが開花したハイカラで華やかで、ロマンチックな時代(とその残り香が漂う昭和初期)に幼少時代をすごしている方が多いので、明治のカビが生えたような時代遅れの文化にも、また昭和の愚劣で「亡国」的な軍国主義にも馴染めない。
星飛雄馬ゴーゴー.jpg
ほのぼの君.jpg 永田竹丸「ロボット少年アップルくん」1959講談社.jpg
 ましてや、敗戦ののち米国から大量に流入した、粗野で落ち着かない8ビートのテケテケテケテケ電気音楽など(彼らはそう感じていただろう)、イヌにでも喰われてしまえと思っていたにちがいない。そう、軍部にタテ突きつづけた淡谷のり子Click!あたりを舞台へ引っぱってくれば、「大正っ子」は昔ながらのロマンチックでしっとりとした歌曲やブルース、ジャズ、シャンソンに惹かれ、嬉々として体育館へ押しかけたのかもしれない。

◆写真上:1965年(昭和40)11月に竣工した、落合第一小学校の体育館。
◆写真中上は、漫才のリーガル千太()と落語家の6代目・蝶花楼馬楽()。は、1927年(昭和2)に建設され戦災からも焼け残った1960年代撮影の旧校舎。
◆写真中下はザ・ベンチャーズと、はザ・ビーチ・ボーイズ。は、1963年(昭和38)に撮影された空中写真に見る解体寸前の落一小学校の旧・体育館()と、1975年(昭和50)撮影の空中写真にみる建設から10年たった新・体育館()。
◆写真下は、これが「ゴリラ踊り」の正体だろうか星飛雄馬が踊るゴーゴー。は、佃公彦『ほのぼの君』()と、永田竹丸『ロボット少年アップルくん』()。

西北の曇天に黒い旗がはためくを見た。

$
0
0

中原中也旧居跡.JPG
 いまから11年ほど前の記事に、若山牧水の下落合散歩Click!について書いたことがある。穴八幡Click!のごく近く、カニ川(金川)Click!沿いの馬場下町41番地の「清致館」に、北原白秋Click!とともに下宿して早稲田大学に通っていたころだ。1905年(明治38)のそのころから約20年後、同じ下戸塚エリアにふたりの詩人が転居してきた。
 ふたりとも、おそらく早稲田通りをそのまま西へ歩いて、落合地域へ出かけたかもしれない。なぜなら、落合地域はダダイズムに感化されたダダイストたちClick!の交差点になっていたからだ。詩人のひとりは、穴八幡の裏、スコットホールClick!も近い「吉春館」に住んでいた高橋新吉Click!。もうひとりは、こちらで何度もご紹介している戸塚町の源兵衛字バッケ下Click!の西側エリアに住んだ、戸塚町源兵衛195番地の中原中也だ。
 落合地域の東隣りにあたる戸塚町源兵衛195番地という地番は、以前にご紹介済みの江戸川乱歩Click!が経営していた下宿「緑館」Click!に隣接する敷地だ。ただし、乱歩と中原中也の居住時期には3年ほどの開きがある。中原中也が住んでいたのは、同住所の林邸敷地に建てられた下宿か借家だった。関東大震災Click!で関西に避難していた松竹蒲田撮影所の女優・長谷川泰子をともない、1925年(大正14)3月に17歳で東京へとやってきている。東京へ着いた当初は、早稲田鶴巻町の「早成館」へ一時的に滞在してるので、当初から下戸塚(現・早稲田)界隈の下宿か借家を物色するつもりだったのだろう。
 長谷川泰子と中原中也は、京都・河原町の喫茶店で知り合っている。彼女が中也の詩(ダダイズムが顕著な詩作だったろう)を褒めたら、「おれの詩をわかるのは、君だけだ」とすぐに恋愛関係に発展した。一時期、中原中也とは緊密に交流していた大岡昇平Click!が、1974年(昭和49)に角川書店から出版した『中原中也』より引用してみよう。
  
 中原の生涯で成功した恋愛は、私の知る限りこれ一つである。あとは横浜の淫売と馴染むか、渋谷駅附近の食堂の女給に断わられる程度のものである。中原もその頃は若く、意気軒昂たるものがあったのである。(中略) 中原の服装は間もなくボヘミヤンネクタイに、ビロードの吊鐘マント、髪を肩まで延ばすことになるのであるが、これは多分富永太郎の影響だったろう。
  
 戸塚町源兵衛195番地の林家は、住宅地化してからの戸塚町の有力者だったものか、同番地に大きめな家を建てていたようだ。1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)を参照すると、源兵衛33番地の土地委員で町内副会長をつとめた林家が紹介されているが、昭和に入って195番地から転居後の林家を紹介したものか、あるいは195番地の林家とは姻戚関係だった可能性がありそうだ。
 戸塚町源兵衛の林家は、もともと旧・神田上水沿いに多い染色・染抜業をなりわいとしており、大正期に下落合の田島橋Click!北詰め、下落合69番地に建設された三越染物工場Click!の仕事を請け負っている。『戸塚町誌』から、源兵衛33番地の林定次郎の紹介文を引用してみよう。
  
 (前略)大正六年三越染色部落合工場の設立と共に居を本町に構へ、同工場の下店たる外、一流業界の依嘱に因る、染抜業に従事して精彩ある家礎を成してゐる氏資性温厚にして達識、夙に町自治の開発に経策を実現して功あり、現に宮本会副会長、土木委員、第一小学校野球後援会幹事兼会計等に歴任す、家庭に夫人ミツ子及び嗣子定一君早稲田実業在学中がある。
  
戸塚町全図1925.jpg
戸塚町全図1929.jpg
大日本職業別明細図1925.jpg
 当時、ふたりが住んだ源兵衛195番地の周囲には、早大の学生をターゲットにした下宿屋Click!が多かっただろう。彼のいた林家の下宿に接する、のちに江戸川乱歩が経営した源兵衛179番地の「緑館」もそのうちの1棟だ。中也自身も、立命館中学を3年で退学すると、早大受験のためにここへ下宿している。だが、早大の受験資格は中学4年修了が規定だったため、替え玉受験までたくらむが成功せずに終わった。
 1925年(大正14)の当時、中原中也と長谷川泰子が同棲していた下宿の周囲には、明治末から拓けた郊外住宅地が拡がっていた。ちょうど同年に作成された「大日本職業明細図」を参照すると、下宿から南側の早稲田通りへと抜ける道沿いの右手には高築医院が開業し、通りを早大方向へたどると芳文堂書店や荒井商店、花形屋道具店が、高田馬場駅へとたどれば熊谷薬店やマル屋菓子店、キタ屋文具店などが並んでいる。また、下宿のすぐ西側には天理教高田宣教所があり、さらに北側の源兵衛192番地には男爵・松平斎光の大きな邸宅が建っていた。
 中原中也は、京都で知り合った富永太郎を追いかけてきたようなもので、東京には知り合いがほとんどなかった。彼は人脈を拡げるためか、あるいは詩人として立つ道を探るためにか、頻繁に下宿を空けるようになる。その間、同棲していた2歳年上の長谷川泰子は将来の相談にものってもらえず、終始ほったらかしにされていたようだ。彼女には、2歳年下の周囲から「ダダさん」と呼ばれて嬉しがり、いまだ童顔の面影を残す「アプレ少年」然とした中也が頼りなく、しだいに現状を「なんとかしなきゃ」という切迫した想いにとらわれていったのだろう。
 1925年(大正14)4月に、中原中也は富永太郎を通じて小林秀雄と知り合うが、同年の暮れ近くに長谷川泰子は小林のもとへ逃げていくことになる。このときの稚拙で子どもじみた彼女との同棲生活を、中也は生涯にわたり後悔することになった。恋人を盗られても絶交できない、杉並区天沼での小林秀雄と泰子の同棲生活を横目でにらみながら、1927年(昭和2)の日記にこう書いている。1968(昭和43)年に角川書店から出版された、大岡昇平・他編『中原中也全集』4巻(日記・書簡)から引用してみよう。
  
 一月十七日(月曜)/孤獨以外に、好い藝術を生む境遇はありはしない。/交際の上手な、この澱粉過剰な藝術家さん。
 一月十八日(火曜)/私は、光を慕ふ。/併し、光の中では子供らしくも極端なエゴイストになる。(女よ、私は嫌か?)
  
 「イヤよ!」という幻の声が、中也の耳に聞こえるのを承知で書き残したものだろうか。以後、中原中也は1937年(昭和12)に30歳で生涯を終えるまで、大岡昇平のいい方を借りれば「口惜しき人」としてすごすことになった。同全集の3巻(評論・小説)所収の、中原中也『我が生活』から引用してみよう。
緑館.jpg
江戸川乱歩「緑館」跡.JPG
高橋医院.jpg 戸塚キネマ.jpg
  
 私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶めることが出来たのと確信する。つまり、私は自己統一ある奴であつたのだ。若し、若々しい言ひ方が許して貰へるなら、私はその当時、宇宙を知つてゐたのである。(中略) 然るに、私は女に逃げられるや、その後一日一日と日が経てば経つ程、私はたゞもう口惜しくなるのだつた。(中略) とにかく私は自己を失つた! 而も私は自己を失つたとはその時分つてはゐなかつたのである! 私はたゞもう口惜しかつた、私は「口惜しき人」であつた。
  
 中原中也は、死ぬまでに18回の引っ越しをしたとされているが、どこに住んでも彼の頭上に拡がる空は、ときおり薄陽が射しそうな気配があるにしても、たいがいはどんよりとした「曇天」模様になってしまった。「夜、うつくしい魂は涕いて、/――かの女こそ正当(あたりき)なのに――/夜、うつくしい魂は涕いて、/もう死んだつていいよう……といふのであつた。」(彌生書房版・中原中也詩集/1964年)。でも、彼女に逃げられたからこそ中也の詩才に火が点き、いまに残る作品群を残せたともいえるのだ。
 中原中也は、小林秀雄と長谷川泰子の暮らしを追いかけまわし、転居を繰り返していたフシさえ見える。その様子を、2007年(平成19)にNHK出版から刊行された、歌人・福島泰樹『中原中也 帝都慕情』から引用してみよう。
  
 小林と泰子はどうしたのであろうか。泰子は、語っている。「中原はその後も、天沼の家に時々やって来ました。たいていは昼間に来ましたから、小林は学校へ行っていて留守なんです。そんなとき、私は中原になぐられたこともありました」。勝手場で暴れ、突き飛ばされて窓ガラスに首を突っ込んだこともあるという。そのためもあったのだろう。すでに中原と居る頃から、その徴候があらわれていた潔癖症(神経症)は昂じ、泰子はついに家事も出来ない(複雑な神経錯綜)状態に陥る。/結果、小林は馬橋の家に戻り、泰子は(小林の)母に面倒をみてもらうことになる。小林佐規子と改名したのも(世界救世教を知ったのも)母の薦めである。その後、転地療養(中原の来襲から泰子を護る)のため、鎌倉、逗子に二人は移り住んでいる。小林は、鎌倉、逗子から大学に通うこととなるのだ。
  
中原中也プロフィール.jpg
長谷川泰子「ゆきてかへらぬ」1974.jpg 長谷川泰子.jpg
 ところで、1983年(昭和58)に思潮社から『中也断唱』を刊行した福島泰樹は、その後、中原中也の生誕地や暮らした土地を次々と訪ね歩いている。大学を出たばかりのころ、1982年(昭和57)に砂子屋書房でプレスされた、わたしには馴染み深いLP『曇天』(アテネレコード)では、すでに同作の一部が歌われている。このレコードが発売されたころ、わたしは聖母坂にいたのだが、彼もまた下落合のどこかに住んでいたようだ。
  雪が降るロシアの田舎の別荘にはた下落合のわがあばら屋に
                    福島泰樹(『中也断唱』「雪の賦」より)

◆写真上:中也と泰子が初めて住んだ、戸塚町源兵衛195番地林邸跡の現状。
◆写真中上は、1925年(大正14)に作成された「戸塚町全図」にみる源兵衛195番地界隈。は、1929年(昭和4)作成の「戸塚町全図」にみる同番地あたり。は、1925年(大正14)に作成された「大日本職業別明細図」にみる中原中也と長谷川泰子の下宿周辺の店舗。ふたりは、実際にこれらの店々で買い物をしていたのだろう。
◆写真中下は、戸塚町源兵衛195番地に隣接する179番地に建っていた江戸川乱歩経営の下宿「緑館」。乱歩は既存の建物を入手して下宿屋を営業しているので、中原中也と長谷川泰子は早稲田通りへ出る際にこの建物を目にしていただろう。は、「緑館」跡の現状。は、高田馬場駅のすぐ西側に建っていた高橋医院()と戸塚キネマ()。ちょうど1925年(大正14)に撮影された広告写真で、中原中也は落合地域へと出かける道すがら戸塚キネマ(のち戸塚東宝映画劇場Click!)には立ち寄っていたかもしれない。
◆写真下は、中原中也が街角のフォトボックスで撮った証明書用写真ではなくw、死後に修正・美化されつづけたプロフィール各種。大岡昇平Click!によれば1925年(大正14)ごろ、つまり長谷川泰子と同棲していたころに銀座の写真館「有賀」で撮影されたもの。大岡によれば、特に目と瞳が大きめに修正されて実物とは「あんまり違っているので」(『中原中也』新潮社/1985年)驚いたようだ。は、1974年(昭和49)に角川書店から出版された長谷川泰子『ゆきてかへらぬ』()と、女学校卒業アルバムの長谷川泰子()。

上落合の仲間のみなさんサヨナラ。

$
0
0

上落合01.JPG
 日本では、海外への亡命者が他国に比べて少ないといわれるが、まわりを海に囲まれていて運輸手段が不便かつ高価だった戦前なら、なおさら国外への脱出は困難だったろう。戦前、外国と陸つづきで国境が接していた数少ない地域に、カラプト(樺太)があった。相手国は、もちろんスターリニズムの嵐が吹き荒れていた旧・ソ連Click!だ。
 杉本良吉Click!は、1936年(昭和11)に演劇道場で上演された八木隆一郎『熊の唄』を演出した際、金田一京助Click!や久保寺逸彦の書籍などを通じてアイヌ文化の研究をしたことがある。登場人物にアイヌ民族の「千徳茂作」がいるため、その言語や風俗を学ぶことになったのだが、翌1937年(昭和12)の暮れ近くになると、杉本は意識的にそれらの書籍を読み返していたのかもしれない。樺太へ旅行する口実を、監視している特高Click!へ「アイヌ文化を研究するため」と説明できるからだ。
 杉本良吉は5年前、地下に潜行した日本共産党からソ連へ密行し、「コミンテルンと連絡をとれ」という指令を受けていた。実際に小樽まで出かけ、密航を計画したがうまくいかなかった。だが、1933年(昭和8)の宮本賢治の検挙で同党は壊滅状態にあり、その指令にいまだ有効な意味があるのかどうかは不明だった。それでも、彼が亡命を決意するのは、愛人で女優の岡田嘉子が越境を強く奨めたからだといわれている。なぜ彼女が杉本に越境を奨めたのかは、妻・智恵子の存在を抜きには語れないようだ。
 妻の杉本智恵子は、1934年(昭和9)から江古田の結核療養所Click!へ入所していた。だが、夫と岡田嘉子とが付き合いだしてすぐに療養所を退所、新井薬師の近くにあった家から母親とともに麹町区土手三番町へと転居してきた。妻が結核療養所で治療中、杉本良吉が暮らしていたのは大久保町の実家であり、岡田嘉子は赤坂に住んでいて、ふたりが密会していたのが九段坂にある野々宮アパートメントだった。ちょうどその目と鼻の先へ、杉本智恵子は家を借りたことになる。そのときの様子を、2012年に岩波書店から出版された川西政明『新・日本文壇史』第8巻から引用してみよう。
  
 (岡田)嘉子は戦慄した。(杉本)智恵子の執念だと思われた。嘉子と(杉本)良吉が固く肉体で結ばれ、その愛が深まっても、智恵子の執念は消せないし、良吉から智恵子の像を消し去ることもできない。/嘉子は月々十五円を良吉に渡していた。嘉子は療養中の智恵子の生活を援助しているつもりであった。(1937年)十二月二十三日、良吉は智恵子の意思を受けて、その金の受領を断った。嘉子はそれで傷ついた。/その智恵子に絶対にできないことがある。それは良吉と手に手を取って樺太の国境を越えモスクワに向かうことだ。(カッコ内引用者註)
  
杉本良吉.jpg 杉本智恵子.jpg
杉本智恵子(日比谷).jpg
全日本無産者芸術連盟ナップ跡.JPG
 当初、岡田嘉子は妻の智恵子が貧しくてなにも知らない、結核に罹患した古風な大人しい女だと想像していたようだ。だが、すぐにその誤りに気がついた。杉本の妻は、インテリで精神的にタフで、赤坂にあったダンスホール「フロリダ」の賃上げをめぐり、ダンサーたちのストライキClick!を指導したこともある、岡田嘉子よりも強い女性であり、改めて杉本良吉と智恵子は似合いのカップルに見えただろう。
 ここに「十二月二十三日」と書かれているのは1937年(昭和12)の日付けであり、この直後に杉本良吉は岡田嘉子から樺太行きを迫られたとみられる。杉本もたび重なる弾圧で活動が行き詰まり、なんら展望が見えないまま日本にいても未来がないと考えて、ソ連に亡命する決意を固めたのだろう。そして、2日後の12月25日、彼は知人宅をまわって秘かに別れを告げて歩いた。
 このとき、杉本良吉が訪ねた先は、作品の演出で旧知の間がらだった上落合1丁目186番地の村山知義Click!村山籌子Click!夫妻、すでに上落合1丁目481番地からすぐ南側の柏木5丁目1130番地へ転居していた中野重治Click!原泉Click!夫妻などが判明しているが、ほかにも上落合2丁目740番地から目白町3丁目3570番地に転居したばかりの宮本百合子Click!宅、戸塚町4丁目593番地にいた窪川鶴次郎・窪川稲子(佐多稲子)Click!宅なども、まわり歩いているのかもしれない。ただし、特高の張りこみの目がうるさい人物は、避けていた可能性が高いように思うが……。
 翌12月26日、杉本良吉・智恵子夫妻は新宿のデパート建設地をめぐる『彦六大いに笑ふ』の舞台千秋楽を、久しぶりに新宿第一劇場へ観に出かけている。同劇の舞台上には、「お辻」を熱演する岡田嘉子がいた。そのときの様子を、1980年(昭和55)に文藝春秋から出版された澤地久枝『昭和史のおんな』より引用してみよう。
野々宮アパートメント1942土浦亀城1936.jpg
窪川鶴次郎・稲子1930頃.jpg
上落合02.JPG
  
 この日、久しぶりに肩を並べて客席に坐った夫と妻の間に、なにか冷え冷えとしたものが横たわっていた。智恵子は舞台の上の岡田嘉子の、恋の火によって内側から照し出されているような姿に穏やかな心ではいられなかったであろう。率直な観客になれるような状態ではなかった。/杉本はこの夜から恒例の年末の旅へ出ることを妻に告げていた。智恵子と夕食をいっしょにする約束だったが、結局智恵子は芝居のあと一人で家へ帰る。別れぎわに「手紙くださる」と聞くと「こんどだけは書かないけど心配しないで。十五日頃帰る積りだけど、それよりおそくなったら電報打つよ」と杉本は答えた。/この夜、嘉子のアパートでは杉本と嘉子の義妹の竹内京子の三人が千秋楽祝いといってビールを抜き、鳥鍋を囲んだ。樺太への旅立ちを前にした別れの宴でもあった。
  
 1938年(昭和13)1月1日、国境警備の慰問に訪れたと告げた杉本良吉と岡田嘉子は、樺太の敷香警察署で大歓迎を受けている。特に岡田の来訪は、当地の人々にはにわかに信じられなかったのだろう。1月3日午前9時30分、零下30℃で60cmの積雪の中、ふたりは馬橇に乗って国境近くの半田沢集落へ向けて出発した。国境の警察詰所で歓迎を受けたあと、再び馬橇で国境から50mの地点まで進む。午後3時をまわったところで、ふたりは橇を下りてそのまま国境へ向けて歩きだした。彼らの挙動に不審を抱いた警察関係者が声をかけたが、ふたりはそのまま走り出し国境の向こう側へと消えていった。
 ひとり取り残された、杉本智恵子のダメージはとてつもなく大きかったのだろう。彼女は急速に衰弱して入院し、同年11月5日に肺結核で死亡している。葬儀には、窪川稲子(佐多稲子)Click!宮本百合子Click!がそろって出席した。胸元には杉本良吉の写真が置かれ、花々に埋もれた杉本智恵子を見た宮本百合子が、「ああ、きれいだ」とつぶやいたのを佐多稲子は記憶している。
 一方、ソ連に亡命したふたりを待っていた運命は過酷だった。スターリンの大粛清のさなか、杉本良吉は1939年(昭和14)9月27日に刑法第58条の「スパイ罪」が適用され同年10月23日に銃殺、岡田嘉子は同時に刑法第58条「スパイ罪」と第84条「不法入国」を適用され、ラーゲリ(強制収容所)で禁錮10年の実刑判決を受けている。
読売新聞19380105.jpg
樺太街並み.jpg
 戦後、岡田嘉子が生存しているのを確認したのは、鉄のカーテンに風穴をこじ開けシベリア抑留者の復員交渉をスタートさせた、下落合3丁目1808番地(現・中落合1丁目)の参議院議員・高良とみClick!だった。だが、この時点ではいまだ杉本良吉は、収容先の獄舎で肺炎により死亡したことにされており、事実が明らかになるのはゴルバチョフによるグラスノスチ(情報公開)が進んだ、杉本の死から50年後のことだった。

◆写真上:昭和初期の石垣や階段がそのまま残る、上落合の懐かしい街角。
◆写真中上は、舞台演出家の杉本良吉()と妻の杉本智恵子()。は、日比谷公園で撮影された健康だったころの杉本智恵子。は、上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(通称ナップ)の本部跡の現状。
◆写真中下は、杉本良吉と岡田嘉子が逢引きしていた九段坂の野々宮アパートメント。土浦亀城の設計で、1936年(昭和11)に竣工している。は、記念写真に収まる上落合界隈ではおなじみの家族たち。右から原泉、中野重治(後方)、窪川稲子(佐多稲子)、窪川鶴次郎(子ども抱く)、そして左端の中野鈴子(重治の妹)。は、旧・月見岡八幡社の境内だった八幡公園から上落合186番地の村山知義・籌子アトリエの方角を向く。
◆写真下は、杉本と岡田の失踪を伝える1938年(昭和13)1月5日発行の読売新聞。は、昭和10年代に撮影されたとみられる樺太の港町の絵はがき。

大ヒットした陽咸二の南京豆芸術。(上)

$
0
0

南京豆殻.jpg
 少し前に、佐伯米子Click!の実家である池田家から新たに発見された、5歳の佐伯弥智子Click!を写した『ひるね』(1928年)についてご紹介Click!した。作者である陽咸二の資料を読んでいると、池田象牙店Click!で江戸細工物の伝統である牙彫師をめざしながら、途中で彫刻家に転向した経歴ともあいまって、非常に特異で面白い人物だったのがわかる。そのおかしさや「変人」ぶりは、佐伯祐三Click!と肩を並べるほどだ。
 陽咸二の作品も、きわめてオリジナリティがあふれ特徴的だ。西洋の彫刻技法を十分に吸収しつつも、その作品には江戸の細工物ならではのユーモラスな感触がついてまわる。思わず「なんだこれは?」と、笑ってしまう作品も少なくない。彼は彫刻のほか植物学、義太夫、講談、民謡、踊り、舞踊演出、人形づくり、活け花、釣り、狩猟、ゲーム、マジック……となんにでも凝り、好奇心のかたまりのような性格をしていた。その多くが、専門家はだしだったという証言も残っている。
 その中で、おそらく彫刻よりも実入りが多かったのではないかと思われる仕事に、「南京豆芸術」がある。陽咸二はときどき大金を手にしているが、南京豆細工の作品が売れに売れたからだろう。最初にきっかけをつくったのは、陽咸二自身ではなく連れ合いの秋子夫人だ。妊娠中の悪阻(つわり)で食べるものに困ったとき、南京豆(ピーナッツのことだが、わたしの親の世代では南京豆)なら口に入ると買って帰ったのが、膨大な南京豆芸術のはじまりだった。陽咸二自身は、南京豆が大キライだったようだが、その殻がついた多種多様な形状の面白さに取りつかれてしまった。以来、南京豆を殻ごと活かして細工する大量の作品を生みだしている。
 ためしに展覧会に出品したところ、人気が人気を呼びアッという間に売約済みになったという記録が残っている。作品ひとつにつき2円の値札をつけたが、創っても創っても間に合わないほどの人気だったらしい。実際に、彫刻に費やす時間よりも、南京豆細工に費やす時間のほうが多かったという証言さえ残っている。その人気に火がついたのは、東京駅前に建つ丸ビルの丸菱で展覧会を開催したときがきっかけらしい。
 その人気ぶりは陽咸二の死後、東京朝日新聞が特集「南京豆芸術」の連載を13日間もつづけたことからもうかがわれる。まずは、秋子夫人の証言を聞いてみよう。1937年(昭和12)3月14日発行の東京朝日新聞より、「愛すべきこの小品/南京豆の芸術」から。
  
 実は陽は南京豆をたべる事が大嫌ひでした。それなのに南京豆を細工するやうにかつた同機は私が長男を妊娠致しまして、悪阻でたべるものがない時毎日南京豆を買つて来て紅茶でたべてゐるのを見て、南京豆を手に取つて「これはなかなか面白い形のものがある」と申して変態なものを取りあげ鋏を持つて来て御覧といふやうな事から、金魚や、鷲などが出来るやうになり以後、買つて来た南京豆を、一応陽が調べて細工物になりさうなのを選び取つて残りを私がいたゞいてゐたのでしたが、十袋づつ買つてもなかなか細工に使ふやうな変形ののものはすくなく、せいぜい六七個位しかなかつたやうでした。南京豆だけでなく、どんな塵、アクタのやうなものにも何か興味を見出すのが陽の性格でした。
  
陽咸二/風神.jpg
陽咸二/雷神.jpg
 いかにも凝り性の、陽咸二らしいエピソードだ。南京豆を10袋も買って、その中から作品に使える「変態」のものがわずか6~7個では、非常に効率の悪い素材選びだ。いまのピーナッツのように、当時の包装は透明なビニール袋になど入ってはいないから、買ってから中身を確かめることになる。
 しかも、陽咸二自身は南京豆を食べないので、家族や女中が余った豆を“処理”することになる。きっと陽咸二が死去するまで、家内では南京豆を毎日食べつづけ、脂質の摂りすぎになっていたのではないか。彼も南京豆を食べていれば、リノール酸やビタミン類の摂取で、もう少し長生きできていたのかもしれない。
 東京朝日新聞に、南京豆芸術の特集が連載されるようになったのは、陽咸二が1935年(昭和10)9月15日に満37歳で死去してから2年目に、南京豆細工の作り方を記した「手記」が新たに発見されたからだ。そして、アトリエに残されていた南京豆芸術は、1937年(昭和12)5月に上野の府立美術館で開催された、陽咸二遺作展にも出品されている。遺作展をプロデュースしたのは、彫刻家集団「構造社」の創立者・斎藤素厳だった。その様子を、同日の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 彫刻よりも楽し/故人の風格を偲ぶ素厳氏
 『…一昨年の九月陽君が臨終の時若し私の遺作展を開いてくれるなら是非、この南京豆細工も出品して貰ひたいといふ切なる遺言があつた。それに彼は、生前表芸である彫刻をやるのがとても苦しく南京豆細工や折紙などの制作をやつてゐる時間が最も幸福であると告白してゐたし事実短かつた彼の生涯では、彫刻の創作に費した時間よりもこの余技の方に費した努力の方が多い位だから芸術家たる彼の半面を知る上にも興味が多からうと思つて、発表することになつたのである……』 この南京豆細工は、頗る芸術味豊かなもので、斎藤氏は散逸するのを恐れ、陽氏の遺児達が成長するまで大切に、自邸に保管しておくといふことである。従つて、これは誰にでも真似の出来るものではないが、絵心のある人なら、ある程度までヒントを得られると思ひ斎藤氏の解説を附して本欄に連載することにしたが、この写真撮影中偶然にも陽氏の遺稿の中から、南京豆芸術に関する手記が発見されたので斎藤氏も大いに喜び、これも本紙に発表することにした(後略)
  
東京朝日新聞19370314.jpg
陽咸二.jpg 陽秋子.jpg
 よほど南京豆芸術には思い入れがあったものか、陽咸二は遺作展に南京豆芸術を並べてくれと「構造社」の斎藤素厳へ遺言している。
 このとき、新たに発見され東京朝日新聞にもその一部が掲載された、陽咸二の南京豆芸術に関する「手記」を読むと、あらかじめかたちを持っているものを工夫して、別のものにつくり変えるむずかしさや醍醐味が細かく記されている。その無理無茶のあるところが、南京豆芸術の愉快で楽しいところで、「落語にサゲがあるやうに、この玩具にも落ちと云つたやうな軽いユーモアが欲しいのです」と書いている。(城)下町Click!育ちの江戸東京人らしいユーモアのセンスであり、洒落のめし感覚だ。
 発見された陽咸二の「手記」から、南京豆芸術の妙味について引用してみよう。
  
 (前略)既に何等かの形を持つて居る物を工夫して玩具に造り上げようと云ふのですから、最初から非常な無理があります、その無理の有る所が此細工の最も愉快な所で、見る人にとつても作る者に取つても興味の中心でつまりヤマなのです、(中略)ですから必ずしも廃物利用で無くても応用の妙があればいいのですが廃物を利用した方がなほ面白い訳です。余り加工をしたため、何を材料に利用したか見当が付かないで、説明しなければ解らないと云ふよりも一目見て成程と解るやうに作る方が気が利いて居ます。洒落の説明はしない方がいいのと同じです、尤も特に加工もしないのに余り上手にピツタリと利用が出来た時は洒落に成らない場合も有りますが、こゝまで来れば洒落も何もありません。所で之は材料の持味を生かして使ふ所に趣味があるとしたなら、やたらに加工を加へて複雑にするの事は面白くない訳です。
  
東京朝日新聞19370316.jpg
 陽咸二は、一度なにかに凝りだすと“本業”そっちのけで長い間のめりこんでしまう、まるで佐伯祐三の性格にそっくり、いやそれ以上の凝り性で変人なのだ。では、次回は昭和初期に人気が沸騰した、南京豆の精密・精緻な細工作品のいくつかをご紹介しよう。
                                  <つづく>

◆写真上:陽咸二は大キライで食べなかった、南京豆芸術の素材・殻つきピーナッツ。
◆写真中上:どこか、興福寺のユーモラスな天燈鬼と龍燈鬼をイメージさせる陽咸二制作の『風神』()と『雷神』()。こんな風神雷神は、かつて見たことがない。
◆写真中下は、1937年(昭和12)3月14日発行の東京朝日新聞に掲載された陽咸二の特集「南京豆芸術」のスタート記事で、以降13回にわたって連載された。下左は、構造社展で撮影された陽咸二。下右は、南京豆を買いつづけた秋子夫人。
◆写真下:1937年(昭和12)3月16日発行の東京朝日新聞に掲載された、陽咸二の「手記」に挿入されていた南京豆細工の道具と作り方イラスト。


大ヒットした陽咸二の南京豆芸術。(下)

$
0
0

南京豆変態.jpg
 1937年(昭和12)3月18日発行の東京朝日新聞から、陽咸二Click!「南京豆芸術」Click!によって生まれた代表的な作品の連載がスタートしている。ここでひとつ残念なのは、当時の新聞写真はもちろんモノクロで、しかも製版技術が悪いせいか作品の細部までがわからず、あくまでも色合いの美しさや精緻な細工を、解像度の低い粗悪な写真から想像するしかないということだ。もし新聞だけでなく、アサヒグラフなどへ転載されていれば、もう少しマシな画像が残っているかもしれない。
 さて、同年3月16日の東京朝日新聞にその一部が掲載された陽咸二の「手記」から、南京豆芸術の具体的な作り方を引用してみよう。
  
 紙細工等と違ひ南京豆はそれぞれのもつ形によつて作るものが決定されるのでして何を作らうと思つて豆を探すと、なかなか大変ですから、豆を見てから作る物をきめるやうにします。此豆は何の形に見えるかをよく考へて最も適当な形だと思ふ物に作ります、尾を作ればそのまゝで鳩に見える豆や、金魚に成る豆が有ります。金魚に適当した豆で鳩を作らうと思つても無理ですから、よく考へる必要があります。これにはすんなり出来た豆より出来の悪い豆の方が特徴があつて面白い物が出来ます、殻は小刀では切れませんから鋏で切ります。ミシン用の先の細かい少し曲げてあるちひさな鋏が一番工合良く使へます。これなら決して殻を割るやうな事なく、綺麗に切れます。もし殻が丸くて立たぬ時には下に画鋲を着けると立ちます、殻にはゴフンか白絵の具を下塗りして其上に色を塗るやうにすると綺麗な物が出来ます。尤も殻の肌の色を利用した方が良い物もあります、又特に火でコガして其色を利用する場合もあります。
  
 まるで、おしんこ屋Click!か鼈甲飴屋のような道具立てであり解説だが、かたちの偶然性を利用して想像の翼をめいっぱい拡げ、アドリブ的にこしらえていく細工もののダイナミズムとユーモアが、ちょうど根付や錺(かざり)物などと同様に、江戸東京市民の気性に(つまり東京市街地の市場に)ジャストフィットしたものだろう。
 埋め立てられたばかりの月島の新宅に生まれた陽咸二は、生まれながらにしてそのような感性を備えており、だからこそ当初は牙彫師を志して池田象牙店Click!へ飛びこんだにちがいない。おそらく、本業の彫刻よりも南京豆芸術からの収入のほうが、はるかに多かっただろう。彼はその膨大な収入を、尾崎紅葉Click!の父親である牙彫師・服部谷斎(尾崎惣蔵)Click!と同様に、少なからず多種多彩な趣味の世界で蕩尽しているのではないか。
 絵の具による彩色について、陽咸二の「手記」からつづけて引用してみよう。
  
 白絵の具をたつぷり付けて、ヌラツと塗つてつまり絵の具を置いて来るやうにします、紙に塗るやうに何度もこすつて塗りますと下塗の白い色が溶けて来て、うまく塗れませんし、綺麗に出来ません、色を塗る時は下に針か楊枝のやうな物を差して持つやうにしますと楽に塗れます、殻に鋏を入れたら、成るべく中の豆を取り出しませんと虫がつきます、豆は砕くやうにすれば大抵は取り出せます。豆で出来ない所は手工用の粘土、糸、楊枝等を利用します、南京豆の細工は出来た物が小さく可愛い所が身上です。
  
 さて、南京豆芸術の作品紹介は東京朝日新聞の紙上に、1937年(昭和12)3月18日からスタートし、同年3月28日に終了するまで都合10回にわたり連載されている。(3月22日は休載) 作品の解説を担当したのは、構造社の斎藤素厳だった。
南京豆芸術①.jpg 南京豆芸術②.jpg
南京豆芸術③.jpg 南京豆芸術④.jpg
 まず、1回目は「松に鶴」(写真①)。南京豆の殻に白い胡粉を塗り、羽の質感を出したあと雄鶴の首は粘土でつけ、墨と朱で色づけしてタンチョウヅルに仕上げている。足はマッチ棒で、松は白い水引きを緑に染めて切りそろえている。
 2回目は「冠・面・鷹」(写真②)。冠(右)は豆殻を墨で塗り、ボール紙で精緻な立纓をつけて顎紐は糸だ。面(中)は、殻から豆を取り出して粘土を詰め、表がひょっとこで裏がおかめの面をしている。頬っかぶりは手製の豆絞りで、粘土にマッチ棒を立てている。鷹(左)は、白い胡粉を塗った背中に墨で斑をつけ、前は鳶色に塗ってある。鷹の足は細い竹製で、止まり木は朱に塗った杉箸、足下のリードは金色の水引きを利用している。
 3回目は、「白衣観音とキユーピーさん」(写真③)。白衣観音(右)は、観音立像に見える殻に胡粉を塗り、得意の筆を加えただけで南京豆以外の素材は使われていない。キューピーさん(左)は、前かがみの南京豆を選び、根つきの突起を切りとって頭に見せ、両手と背中の羽は画用紙で糊づけして全身を彩色したもの。頭は茶、ほかは桃色で塗り、股の線は赤で引かれている。
 4回目は、「孔雀と家鴨」(写真④)。クジャク(左)は、変態南京豆の殻を半分切り、粘土を詰めてマッチ棒を足にし、トサカは画用紙で作っている。あまり複雑な細工はせず、鮮やかな色合いの魅力で見せたのだろう。新聞の作品タイトルは家鴨(アヒル)となっているが、どう見てもガチョウ(右)だろう。斎藤素厳も「鵞鳥」と書いているが、嘴と頭部は粘土で尾が画用紙を加工している。身体全体は純白の胡粉を塗り、目だけが黒いようだ。
 5回目が、陽咸二らしいユーモラスな作品で「京人形と這い這い人形」(写真⑤)。京人形(右)は、頭のとがった殻の底部に画鋲を刺し、頭部は金色、両手は朱色、腹部は代赭(たいしゃ)色=くすんだ赤黄色に塗って金文字で「金」と書いてある。這い這い人形(左)は、別々の豆殻を上下マッチ棒でつなぎ、継ぎ目に粘土を接着している。帯には赤い水引きを結び、上を向いた目鼻立ちがどこかおかしい。
 6回目は、「大黒天と山羊さんとリス」(写真⑥)。なんでヤギは「さん」づけで、リスが呼びすてなのかは不明だ。大黒天(右)は、豆殻の底に画鋲を刺して固定し、上半分に胡粉を塗って墨で大黒天を描いたもの。粒子の荒い写真では、イマイチ描画がよくわからない。ヤギ(左上)は、尻尾の生えた豆殻を探し、耳を画用紙で、足をマッチ棒で細工している。リス(左下)は、ヤギと同様に耳を画用紙で、手をマッチ棒で作り、太い尻尾は粘土で表現されている。腹は胡粉の白いままで、背と顔は茶褐色に塗られている。斎藤素厳は、「眼の点描や腹毛の扱ひ方など、流石に芸術家の筆である」と書き添えている。
南京豆芸術⑤.jpg 南京豆芸術⑥.jpg
南京豆芸術⑦.jpg 南京豆芸術⑧.jpg
 7回目は、「はと」(写真⑦)。実際の小さな枝に、粘土を詰めた豆殻に針金を通し、足として枝にとまらせている。広げられた羽は、接着された殻片だろうか。着色もリアルにされているようで、動きのある面白い一作だ。
 8回目は、「金魚車と寿美田川」(写真⑧)。寿美田川(上)は、突起のある南京豆を探して嘴にし、全体を胡粉で塗り墨を少し入れただけ。足は画鋲で固定している。細竹に、「寿美田川」と画用紙に書いて糸で吊ったのはおまけ。金魚車(下)は、豆殻の半分に切りこみを入れて拡げ、背びれと胸びれ、尾びれは画用紙を切って接着し、胡粉と朱で彩色したもの。台車は、ゴールデンバット(たばこ)の空き箱で、車輪には画鋲を使っている。台車にマット棒を刺して、上部の金魚を固定している。
 9回目は、「宝船と絵馬」(写真⑨)。宝船(上)は、船体と帆は豆殻で、帆は殻をふたつに割ったもの。帆の耳は画用紙を切って貼り、擬宝珠には粘土を用いている。船の側面にある波も、ブルーに着色された粘土でできている。船体は多くの色彩で鮮やかに着色されていたようだが、色合いの詳細については書かれていない。絵馬(下)は、顔は馬で角や髭を生やした「龍頭馬面」の立体絵馬だ。龍の髭は赤い水引きを、角は竹ひごを加工してつけたもの。絵馬の土台は、木製の菓子箱を切りとって応用したもので、彫刻刀で細かな模様が彫られている。
 連載最後の10回目は、「虎と龍」(写真⑩)。陽咸二は中国玩具の蒐集家であり、その道では権威者としても知られていた。トラ(上)は、中国風のデザインをしており、豆殻に粘土の四肢と水引きの尻尾、洋紙の耳を貼りつけている。色は書かれていないが、黄色に黒の縞柄だろう。龍(下)は、胴体が豆殻でうしろに伸びた尾は粘土。髭と角は水引きを活用しており、身体全体は黄色と黒とで塗られていた。
 南京豆芸術がヒットしたおかげで、陽咸二はかなり収入が安定したようだ。だからこそ、さまざまな趣味へ手を出し、それぞれの道では一目置かれるほどの「権威」となっていったのだろう。こんなエピソードが残っている。1931年(昭和6)に開催された、構造社の「第五回展美術展覧会出品目録並ニパンフレツト第四号」から引用してみよう。
  
 思はず大金がころげ込んで、先づ第一に、一ふし何円とかにつく、釣竿を買つて、イヤハヤ其講釈のうるさい事、ところが其後数日ならずして釣に行つた帰り酔つぱらつて、折角の得物はどこかに落し、ヤカマシイ釣竿はズタズタに折つてしまつて、翌朝嘆じて曰く「誰だ俺に金なんかよこした奴は」
  
南京豆芸術⑨.jpg 南京豆芸術⑩.jpg
 陽咸二は、ほどなく病気がちになり、若いころの不摂生が祟ったのだろう、身体じゅうが悪いところだらけになって、常時6人の医者にかかるようになる。身体だけでなく、口も前から悪いと誰かからいわれたのだろう、陽咸二は「イイヤ口は達者だ達者だ」。

◆写真上:陽咸二の南京豆芸術にピッタリな、変態豆殻のひとつ。
◆写真中上からは、1937年(昭和12)3月18~21日に発行された東京朝日新聞の「趣味娯楽」欄に掲載された「これが南京豆―陽咸二氏の遺作品から―」。
◆写真中下からは、同年3月23~26日に掲載された南京豆芸術の作品群。
◆写真下は、同年3月27・28日に掲載された自宅に残された遺作群。

中村彝の病床近くにいた楠目成照。

$
0
0

二瓶等アトリエ跡.JPG
 1918年(大正7)に東京美術学校の西洋画科へ入学した画学生に、福岡県小倉出身の楠目成照(くすめしげてる)がいる。同年入学の同級生には、佐伯祐三Click!山田新一Click!二瓶等Click!などがいた。だが、おそらく楠目は東京美術学校を卒業する以前に、画学生のままフランスへ留学している。なぜなら、美校に卒業制作が残されていないからだ。
 楠目成照は、画家として仕事をしていた期間が短かったせいか、現在ではほとんど知られていない。美校在籍中にパリへ留学し、そのまま同地から帰国することができず満26歳(数え27歳)の若さで病死しているからだ。パリではピエール・ボナールに師事し、病床を見舞ったボナールから作品を2点譲られている。そのうちの1点が北九州市立美術館に収蔵されている、1920年(大正9)ごろに制作されたボナール『パリの朝』だ。
 楠目成照が、下落合464番地に住んでいた中村彝Click!のアトリエに出入りしていたのは、こちらにコメントをお寄せいただいたご遺族筋の方からご教示いただいたテーマだ。パリでの死因となったのは、中村彝を看病するうちに感染した結核だったらしい。さっそく、中村彝の書簡が収められた『芸術の無限感』をはじめ、鈴木良三Click!曾宮一念Click!などの周辺資料をひと通り調べてみたが、「楠目」の名前は見つけることができなかった。(見落としがあるかもしれないが) 自身のアトリエに出入りし、いろいろ世話を焼いてくれる人物については、書簡などへ書きとめることが多い中村彝だが、楠目とは同級生だった二瓶等(二瓶徳松)は登場するものの、楠目成照の名前は見つからない。
 ご遺族筋の伝承によれば、楠目成照は中村彝を最後まで看病したと伝えられているが、彝の死去は1924年(大正13)12月24日のことだ。その葬儀を済ませてからフランスへ留学したのでは、おそらく年齢的に計算が合わない。楠目は26歳でパリに没するわけだから、ボナールに師事して絵画を学んでいる時間的な余裕がないのだ。
 楠目の同級生だった友人たち、たとえば佐伯祐三は1898年(明治31)生まれ、山田新一と二瓶等は1899年(明治32)生まれだ。仮に楠目が1898年(明治31)生まれだとしたら、1924年(大正13)には26歳でパリで病死していることになり、同年の暮れに中村彝の臨終に立ち会うのは不可能だ。また、1899年(明治32)生まれだとしても、彝の死の翌年には死去することになるので、これもかなり無理がありそうだ。つまり、中村彝を最後まで看病したというのは誤伝で、東京美術学校へ通うかたわら彝を看病していたが、その途中で渡仏してボナールに師事したのではないだろうか。
楠目成照「フエアリーテールス」1920.jpg
中村彝アトリエ(雪).jpg
 東京美術学校へ在学中にもかかわらず、フランスへ留学するきっかけとなったのは、1919年(大正8)開催の帝展第1回展で『Pさんの庭で』が、翌1920年(大正9)の帝展第2回展では『フエアリーテールス』と題された作品が、連続入選したからではないかと想像している。2点とも帝展絵はがきになっているが、『フエアリーテールス』の画面を見ると、まるで大久保作次郎Click!の作品を見ているような錯覚に陥るほど、当時の帝展主流の表現を踏襲していたことがわかる。だが、この作風から渡仏後、どうして表現のまったく異なるボナールへ師事するようになったのかは、日記も記録もないのでいっさいが不明のままだ。
 楠目は作品が帝展に2年連続で入選したあと、それほど間をおかずにフランスへ渡っているのではないだろうか。小倉の実家は裕福だったので、渡仏資金にはほとんど困らなかっただろう。彼が美校の3年生を終えたばかりのころ……だったのではないかと想像するのだ。美校には、数年間の休学届を提出していたのかもしれない。
 楠目成照について、その面影を綴ったものに、妹の華道家だった楠目ちづの文章がある。楠目ちづ自身も、若いころから結核に苦しめられた人生を歩んでいる。彼女は1913年(大正2)生まれなので、次兄の楠目成照とは14~15歳も年が離れていた。2012年(平成24)にいきいき株式会社出版局から刊行された、楠目ちづ『花のように生きれば、人も美しい』から引用してみよう。
  
 上から2番目の、年の離れた兄は画学生でした。20代半ばで、肺病で亡くなってしまったのですが、音楽的な才能ももち合わせており、私は多くの教養を与えてもらい、とりわけピアノを専門的に習った時期もありました。兄は「女の子は音楽と美術をやっていれば大丈夫」と言うことがありました。私は兄のことを尊敬していましたから、子どもながらに、兄の言っていることはほんとうだと信じていました。兄の教えを受け、音楽に夢中になっていた私が、こうして花をお教えしているとは本人もまさか思わないでしょうね。どうして私はお花をお教えしているのでしょう? それは働かなければならず、生きる道として選んだから。でもきっと、この世に生きている魂があるとしたら、兄はとても喜んでくれていると思います。
  
 楠目成照が音楽好きであったとすれば、美校の同級生たちが参加していた池袋シンフォニーClick!にも顔をのぞかせていそうだが、こちらにも楠目の記録はない。
ボナール「パリの朝」1920頃.jpg
ボナール「ル・カネの風景」1924頃.jpg
 さて、楠目成照が中村彝の看病をしていたとすれば、周囲にいた友人の画家や画学生たちがそうであったように、彝アトリエのすぐ近くに住んでいた可能性が非常に高い。だが、中村彝とその周辺にいた人々に記録がない以上、どこに住んでいたのかはまったく不明だ。ただし、下落合には美校の同級生のつながりがある。特に、中村彝のもとへ頻繁に出入りしていたと思われる二瓶等Click!は、北海道の実家が裕福だったせいか下落合584番地に、画学生とは思えない新築の家とアトリエを建ててひとりで住んでいた。彝アトリエから、西へ150mほど歩いたところだ。
 楠目成照は、ひょっとすると同級生だった二瓶等の大きめな家に同居して、ふたりで中村彝アトリエへ毎日通い、床に伏せがちだった彝の面倒をみていたのかもしれない。でも、もうひとつの課題がある。中村彝は、周囲にいる画家や画学生の近況を、よく友人や知人への手紙に書いて送っている。ときに、彼らが取り組んでいる作品のテーマまで触れて知らせている。二瓶等のアトリエ建設も、彝の書簡の中に書かれていた出来事だ。したがって、アトリエへ頻繁に顔を見せる画学生の絵が帝展へ連続入選したら、それについて誰かにあてた手紙で触れてもよさそうなエピソードなのに、彝の書簡のどこにも見当たらない。
 この課題は、楠目成照の帝展入選が1919年(大正8)の第1回展と、1920年(大正9)の第2回展であることにカギがあるのではないだろうか。1919年(大正8)の夏から秋、中村彝は体調が思わしくなく平磯海岸へ転地療養Click!している。つまり、下落合には不在であり、この年の秋には症状がより悪化したのか、『芸術の無限感』には書簡がほとんど収録されていない。9月12日に平磯町から中村春二Click!あてに発信された手紙から、12月14日の洲崎義郎Click!あての手紙へいきなり飛んでいるのだ。楠目の入選については、誰かへあてた手紙で触れる機会を逸したとしても不思議ではない。
 また、1920年(大正9)の第2回展では、中村彝の『エロシェンコ氏の像』Click!が評判になったことで、この課題が解消できるだろうか。つまりこの年の秋、同画の制作で性も根も尽き果て、ほとんど毎日病臥して暮らしていた彝にとっては、アトリエへちょくちょく顔を見せる画学生の入選について、特に知人・友人への手紙の中で触れる余裕がなかった……ということになるだろうか。
 確かに、『芸術の無限感』に収められた書簡を見ると、『エロシェンコ氏の像』を制作する直前の夏、彝は友人の近況や知人の消息について手紙へこまめに書いているが、制作後の手紙にはパトロンや支援者への用件のみを書いたものが多い。いや、楠目成照について書いた手紙があったのかもしれないが、たまたま『芸術の無限感』へ収録されなかったという可能性もあろだろう。
ピエール・ボナール.jpg 楠目ちづ「花のように生きれば、人も美しい」2012.jpg
 楠目成照がパリへ着いたとき、ボナールはパリ近郊のヴェルノンに住んでいた。楠目はどこかでボナールの作品を目にし、彼のアトリエを訪ねたものだろう。それから頻繁に、ヴェルノンのアトリエへ通っては新たな表現法を追究したのかもしれない。だが、志なかばで結核に倒れ、病床に就くことになった。おそらく、ボナールが自作2点を手にして弟子を見舞ったのは、1925年(大正14)のことではないだろうか。ボナールは同年、南フランスのル・カネへ転居しており、そのことを楠目に告げるため作品2点を土産に、はるばる東洋からやってきた弟子を見舞ったのではないかと想定できるのだ。

◆写真上:楠目成照が同居したかもしれない、下落合584番地の二瓶等Click!アトリエ跡。
◆写真中上は、1920年(大正9)の帝展第2回展へ入選し絵はがきにもなった楠目成照『フエアリーテールス』。は、大雪の中村彝アトリエ。
◆写真中下は、ボナールが死の床の楠目成照を見舞った際にプレゼントした『パリの朝』(1920年ごろ)。は、ボナール『ル・カネの風景』(1924年ごろ)。
◆写真下は、ヴェルノンのピエール・ボナール。は、2012年(平成24)に出版された楠目ちづ『花のように生きれば、人も美しい』(いきいき株式会社出版局)。

江戸湾を眺望できた待乳山古墳。

$
0
0

待乳山古墳1.JPG
 以前、東京地方には大型の前方後円墳の墳頂部を平らに削り、数多くの寺社が建設されているケースClick!をご紹介したことがあった。平地に改めて大量の盛り土をする必要がなく、最少の工程で寺社の境内を建設できるため、各時代の土木事業には非常に“便利”な地形だったろう。エト゜(岬)の付け根にあった、柴崎村の前方後円墳Click!(将門首塚Click!)には8世紀に神田明神Click!が築かれ、より古い社である関東各地の氷川明神Click!も、大きめな古墳を活用して境内が拓かれている。
 今回は、久しぶりに浅草寺の裏側を散歩したので、待乳山(真土山)の本龍院(聖天)を訪ねてきた。おそらく待乳山へ上ったのは、親に連れられて出かけた子どものころ以来だろう。待乳山聖天は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!の際に全焼し、その年の暮れから翌年にかけて調査に入った鳥居龍蔵Click!の考古学チームによって、巨大な前方後円墳の残滓だと規定された上に建立されている。待乳山聖天に限らず、浅草地域には古墳が多く、浅草寺境内の堂がある弁天山の敷地全体も同時期の調査で前方後円墳(弁天山古墳)と規定されている。浅草界隈に古墳が多いのは、弥生末期から古墳期にかけエト゜(岬・鼻=江戸)湾における海上物流拠点である、浅草湊が発達していたゆえんだろう。
 当時の地形を前提にすると、浅草は大川(荒川・隅田川)の沿岸ではなく、深い入り江の突き当たりにあった湊(港)で、江戸湾の海辺に直接面していた。房総半島の突端で切りだされ、関東地方にある多くの古墳の玄室・羨道石材に活用された房州石Click!も、この浅草湊や品川あたりの荏原湊、三浦半島で栄えた古代の港・六浦湊(金沢八景=バッケClick!)で陸揚げされ、河川などを通じて関東各地へと運ばれた可能性がある。おそらく、これら古代湊の近くに築造された古墳群は、その地域を治めたクニの「王」、または古墳の規模によってはより広いエリアの「大王」Click!の墳墓だと思われる。
 鳥居龍蔵が調査した1923年(大正12)現在、すでに待乳山は100mほどの規模になっていたが、これは墳丘を改造する際に前方部あるいは後円部の斜面のほとんどを垂直に削り、城郭の石垣のような造りにしているからだ。595年(推古天皇3年)からつづく浅草寺の山号「金龍山」のいわれと、つづく601年(同9年)に観音の故事を生んだ山として有名だが、6世紀にはもちろん、前方後円墳のきれいな鍵穴型(周濠を含めれば巨大な釣鐘型)をしていただろう。墳丘斜面をすべて削り取り、垂直の石垣が築かれたのは江戸期の造作と思われる。
 江戸期の資料には、待乳山から削り取った土砂が、1621年(元和6)に日本堤の建設へ流用されたとあるので、古墳の斜面はもちろん墳頂部のかなりの部分の土砂を削って運んでいるのだろう。ただし、長大な日本堤(のち吉原土手Click!)を築くには待乳山の土砂をすべて使っても間に合わないと思われるので、当然、山谷堀を掘削した土砂も流用されているのだろう。日本堤は鳥居龍蔵の調査から4年後、1927年(昭和2)に撤去され新たな道路(土手通り)が建設されている。
待乳山1923.jpg
待乳山古墳2.JPG
待乳山古墳3.JPG
 鳥居龍蔵は、建物が消滅した大震災の焼け跡から次々と大小の古墳を発見しているが、浅草寺の境内にあった弁天山の古墳調査から、北に位置する待乳山へと向かっているとみられる。当時の様子を、1927年(昭和2)に磯部甲陽堂から出版された鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』から引用してみよう。
  
 又橋場にある妙亀尼塚も古墳であるが、これも能く現はれて来た。駿馬塚は今回の震災で憐れな状態になつて居るが、嘗つて此処から陶棺を掘り出したことは、碑文に刻せられて立つて居るので分る。/更に待乳山はどうかといふと、此処も其の当時の古墳であつて、これは洪積層の高台の上に作りつけした瓢箪形の墳である。此の待乳山の地は、不思議にも沖積層の中にありながら、洪積層として存在し、一つの孤島の形をなして居るのである。そこで当時此の作りつけの古墳を設けたのであつて、是れ亦今度の震災に依つて其の形が現はれたのである。
  
 さて、実際に待乳山とその周辺を歩いてみると、確かに江戸期の記録にみられるように、大量の土砂が削り取られた様子を観察することができる。境内の周囲は、ほとんどが垂直に切り取られた絶壁の石垣になっており、その擁壁へ接するように家々やマンション、公園などが建ち並んでいる。明治期の写真を見ても、境内のすぐ間際まで住宅の建っていた様子がうかがえる。都内の多くの寺社古墳と同様に、参道は前方部へと上る階段にはじまり、さらに高くなった後円部の上部を平らに輪切りにした敷地に、聖天の本堂が建設されている。おそらく、前方後円部ともに上部の土砂もかなり削られ、高さが低くなっているのだろう。
 この本堂の敷地がめずらしいのは、現在でも正円形をよく保っているということだ。つまり、その正円形の規模から、本来の斜面を含めた後円部全体の高さや規模が、おおよそ推定できることになる。垂直に削り取られた墳丘は、現在では100mほどだが、後円部につづいていた本来の斜面や、江戸期より道路や町家の開発によって掘削された前方部を含めると、150m前後の規模の前方後円墳とみられる。ただし、これは現存する墳丘からの推定であって、大量の土砂が日本堤建設へ使われたという江戸期の記録をそのまま信じるとするなら、古墳の規模はもう少し大きかったのかもしれない。
 待乳山の西側には、かなり広い待乳山聖天公園があって子どもたちの遊具も設置されているが、ちょうど前方部と後円部の境界、くびれのある部分に土を盛り上げて花壇にしているのが面白い。まるで、前方後円墳の祭祀をつかさどる“造り出し”のような風情だが、待乳山本来の由来を知るどなたかが企画した、ちょっとした“遊び心”なのかもしれない。
待乳山古墳4.JPG
待乳山古墳5.JPG
待乳山古墳6.JPG
待乳山古墳7.JPG
 さて、これだけ大きな「王」クラスの前方後円墳となると、当然ながら陪臣たちの墓=陪墳群Click!の存在を疑いたくなる。でも、江戸期より山谷堀や日本堤などの土木工事が行われてきた待乳山の北側、すなわち後円部の外周域にその痕跡を探すのは絶望的だと考えていた。だが、明治時代に撮影された興味深い写真が現存している。1911年(明治44)に出版された小川一真『東京風景』所収の、大川(隅田川)の対岸から待乳山と山谷堀をとらえた写真だ。待乳山の右側(北側)、今戸橋から見て右手の山谷堀沿いにこんもりとした森が、少なくとも明治末まで残っていたのが確認できる。
 1942年(昭和17)に陸軍航空隊によって撮影された空中写真を見ると、ちょうど慶養寺の境内あたりにそれらしいサークル痕を発見することができる。また、1947年(昭和22)に米軍が焼け跡の東京を撮影した空中写真にも、同様の痕跡が見てとれる。おそらく、待乳山古墳の陪墳のひとつが、江戸期の大規模な土木工事による開発をまぬがれ、明治期まで残っていたのではないだろうか。待乳山古墳ほどの規模の前方後円墳であれば、都内で観察できる100mを超える古墳、たとえば一部を崩されてしまった芝丸山古墳Click!(陪墳11基)や新宿角筈古墳(仮)Click!(陪墳10基前後)にも見られるように、少なからぬ陪墳群を従えていてもなんら不思議ではない。
 待乳山古墳に限らず、古代の江戸湾を一望に見わたせる見晴らしのよい場所に古墳が築かれているのは、エト゜(岬・鼻)の付け根にあたる芝崎古墳(将門首塚古墳)や、増上寺の境内にかろうじて保存されている芝丸山古墳、上野山の見晴らし台にされていた上野摺鉢山古墳Click!などに見られる共通的な特徴だ。これらの古墳の被葬者たちは農業に限らず、なんらかの海や湊に関連した事業、たとえば海上物流ないしは漁業などの組織的な事業によって豊かな経済基盤を形成していたと思われ、古墳期の南武蔵勢力Click!圏に現れた「大王」ないしは「王」たちだったとみられるが、江戸期に進んだ都市化の波とともに調査もなされずに崩され消滅してしまった墳丘は、おそらく膨大な数にのぼるのだろう。
今戸橋(明治中期).jpg
小川一真『東京風景』1911.jpg
待乳山1942.jpg
 明治末から大正期にかけ、武蔵野の「原野」が拡がり「蛮族」たる「阪東夷」が跋扈していたはず関東地方に、坪井正五郎や鳥居龍蔵らの考古学チームが次々と大型古墳を発見・発掘して以来、21世紀の今日まで続々と新発見はつづいている。いまや、古墳数からいえば北関東(毛野勢力)・南関東(南武蔵勢力)を問わず近畿地方をしのぐ勢いだ。科学的でなく神話的な妄想にとらわれた「皇国史観」Click!学者が聞いたら、とたんに顔をしかめかねない現状だけれど、それはまた、別の物語……。
 余談だが、先日、興味深いお話をうかがった。茨城県の利根川流域では、同河川の氾濫を抑えるためと称し明治政府の命令で、流域にある膨大な大小古墳群をつぶして大量の土砂を護岸工事に当てたという事績だ。関東の膨大な古墳群(特に大規模古墳)を「なかったこと」にしたい明治政府が、直接手を下した「抹殺計画」の一環だろう。もし、利根川流域にそのままの古墳群が現存していたら、常陸圏は出雲圏と並ぶ上古の歴史が宿る地域なので、日本の古墳数では現在の国内第2位の千葉県をしのいでいたのかもしれない。

◆写真上:前方部上の参道から眺めた、後円部の墳頂を削って造成された聖天の本堂。
◆写真中上は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災直後に鳥居龍蔵によって撮影された待乳山(真土山)古墳。は、待乳山西側の前方部に造られた参道への入口。は、待乳山聖天公園の側から眺めた待乳山古墳の西側現状。
◆写真中下は、本堂が建つ後円部から眺めた参道がつづく前方部の現状。は、後円部の本堂を中心に正円形に裏へとまわる敷石。は、絶壁となって落ちる後円部の西側(待乳山聖天公園側:上)と、ビルに接した北側(山谷堀側:下)の絶壁。
◆写真下は、明治中期に撮影された山谷堀の今戸橋と背景の待乳山。矢印が、現在のビルとの境界あたりの絶壁。は、1911年(明治44)に小川一真によって撮影された待乳山聖天(左手)。後円部の北側に、陪墳とみられる突起状の森(矢印)がとらえられている。は、1942年(昭和17)に撮影された空中写真にみる待乳山。斜面が削られる以前、本来の古墳サイズと慶養寺境内に残されていたとみられる陪墳位置を想定してみる。

下落合を描いた画家たち・刑部人。(3)

$
0
0

刑部人「下落合展望」1964.jpg
 画家の目は、下落合4丁目(現・中井2丁目)の裏庭に残されたバッケ(崖地)の急斜面に上り、少し望遠気味だろうか。アトリエClick!の赤い屋根(もちろんスケッチなので色はない)が手前に見え、中井駅に隣接した落合第五小学校Click!の旧・校舎や体育館が、実際の距離以上に近接して描かれている。遠景に見えているのは、上落合から西戸山、百人町、柏木などの街並みだ。
 1964年(昭和39)6月23日に発行された竹田助雄の「落合新聞」Click!には、下落合4丁目2096番地に住む刑部人Click!の『下落合展望』が掲載されている。敗戦の焼け跡や荒廃が、どうやら街並みから感じられなくなり、陸軍施設Click!が林立していた東西の戸山ヶ原には、住宅不足を補うために大規模な西戸山のアパート群が建設された。中央を左右に横切る土手状の道路は、落合地域では1950年(昭和25)ごろに開通した山手通り(環六)Click!だ。1960年代に入るとクルマの交通量は激増し、画面にもトラックや乗用車が連なる様子が描かれている。
 刑部人は、落合新聞へスケッチとともに「下落合展望」と題するエッセイも寄せており、自邸周辺の様子が書き留められている。
  
 これは私の所から見た上落合から新宿方面を望んだ風景である。目白から続いた台地の端になるこの丘からは妙正寺川を目の下に、上落合、東中野、遠くは新宿を見渡す大きな風景が見られる。私事で恐縮であるが、妻の実家がこの辺に居をかまえたのが大正十一年ということで、その時分は妙正寺川の両岸を稲田と麦畑を隔てて、落合火葬場の煙突が見えるだけだったということである。蛍が飛び小川では蜆が取れ、妻の家は庭が広かったので野兎までが出没したそうである。
  
 文中に出てくる「妻の実家」とは、近所に住んでいた吉武東里Click!大熊喜邦Click!が設計した、こちらでも何度かご紹介している下落合2095番地の島津源吉邸Click!のことだ。島津邸は、やはり吉武東里Click!設計による刑部人アトリエClick!のすぐ北側の丘上に建っていた。広い庭には大きな噴水があり、その北側には東京美術学校を出た長男・島津一郎Click!アトリエClick!が、やはり吉武東里Click!の手で刑部アトリエと同様、1931年(昭和6)ごろに設計・建設されている。戦前の島津邸の庭には、10羽前後の白い七面鳥が放し飼いにされていたと、中島香菜様Click!刑部佑三様Click!からうかがい、戦前に撮られた庭の写真までお見せいただいた。
刑部人アトリエ.JPG
刑部アトリエ1963.jpg
刑部人.jpg
 目白崖線下の妙正寺川沿いに拡がる、見わたす限りの田圃や麦畑の様子は、下落合800番地に住んだ鈴木良三Click!や、寺斉橋の南詰めの上落合725番地で暮らした林武Click!が描いている。また、大正末に五ノ坂上の「熊本村」にいた高群逸枝Click!も、『火の国の女の日記』へ坂下に拡がる田園風景を書きとめている。現在では、さすがに野ウサギは見られなくなったが、目白文化村Click!にはときどき放し飼いのウサギClick!が、道端をヒョコヒョコと歩いているのを見かける。
 つづけて、1964年(昭和39)の刑部人『下落合展望』から引用してみよう。
  
 その庭も今では庭と言えない様な樹木と雑草の茂るにまかせてあるので、おなが、こじゅけい、鶯、ひよどり、四十雀、もず、などの野鳥が集まって来て、数年前までは巣を作り雛を育てたりしていた程で、昔の下落合の面影を幾分か残してる僅かの場所ではないかと思う。ここから見下す風景は環状六号線の絶えまなく走る自動車の群れと、遠く新宿のデパート、戸山ヶ原団地のアパート等々の近代建物が蜒々と山脈の如く連なり、この樹木達もその変遷の甚しさに驚いていることだろう。
  
 登場している小鳥たちは、おそらくエッセイが書かれた1960年代よりも数が増えて、いまでも下落合の四季を飛び交っている。
 余談だが、明治神宮の杜にもどってきたオオタカが、拡張されたおとめ山公園Click!にも棲みついてくれないだろうか。下落合で確認された猛禽類は、いまのところツミClick!だけなのだが、もともと鷹狩り場だった御留山Click!に棲みついてくれれば、野ネズミやモグラ、小鳥などが多いエリアなので、おそらくエサにはそれほど不自由しないだろうし、カラスも落合地域には寄りつかなくなるにちがいない。落合地域の自然界に残るヒエラルキーの頂点にいるのが、地上ではアオダイショウClick!タヌキClick!で、空にはカラスだけではちょっとさびしく、ここは空高くタカが舞っていてほしいものだ。
刑部人アトリエ北側バッケ.JPG
刑部邸跡バッケ.jpg
 さて、画面を再び観察してみよう。遠く左手に見える建築群は、西戸山の陸軍科学研究所Click!跡に建設された戸山アパートClick!(西戸山)の一画だ。画面中央のやや左側に描かれた鉄塔は、新宿消防署の火の見櫓で、それへ重なるように描かれたもうひとつの鉄塔は、戸山アパートの水道タンクだろう。また、右手に見えている高い煙突は、明治末から小滝橋通り沿いにある豊多摩病院Click!の焼却炉だ。その煙突の向こう側に見えている大きな建物は、百人町にあった東京都衛生研究所のビル群であり、そのさらに右手に見えるビルは、現在の老人施設である柏木の「せらび新宿」だと思われる。衛生研究所の右手には、新宿駅東口のデパートがのぞいているのだろう。
 刑部人『下落合展望』が掲載された、落合新聞の1964年(昭和39)6月23日号には、妙正寺川沿いの下水道工事により地下水が枯渇してしまった記事が載っている。現在の中井通り一帯の家々では、戦前と同様に井戸水を生活水に使用していたが、下水道工事の影響で地下水脈が断ち切られ、多くの家々の井戸が枯渇して“もらい水”をしなければならない事態になった。工事中は、建設会社が敷設した臨時水道で上水が供給されていたが、工事の終了とともに撤去され、再び飲み水がなくなる深刻な状況だった。
 もうひとつ、妙正寺川の水が使えるため、中井駅周辺の住宅地には消火栓が設置されていなかったが、同河川の汚濁によって消火ポンプの濾過器が目詰まりを起こし、火事の際に消火活動ができなくなってしまったため、地元の町会が消火栓の設置を東京都へ陳情している。同年に行われた東京オリンピックを契機に、高度経済成長へ再び弾みがつき、いまからは想像もつかないほど急速に、川や空気が汚れていった時代だ。
西戸山ハイツ1963.jpg
落合新聞19640623.jpg
 『下落合展望』に見える風景も、あと5~6年ほどたった1970年前後にはスモッグで遠景が霞み、これほど鮮明には見えなかったのではないだろうか。午前10時にもかかわらず、午後3時ごろのような弱々しい陽射しが注ぐスモッグに覆われた東京の風景を、ついこの間のことのように憶えている。

◆写真上:1964年(昭和39)6月23日の落合新聞に掲載された、刑部人『下落合展望』。
◆写真中上は、刑部邸の北側崖地から眺めた刑部人アトリエ。(撮影:刑部佑三様) は、画面とほぼ同時期の1963年(昭和38)に撮影された空中写真にみる描画ポイントと画角。は、連続写真の1枚で林間で制作中の刑部人。(提供:中島香菜様)
◆写真中下は、刑部人アトリエの採光窓から見上げた描画ポイントのある崖地。(撮影:刑部佑三様) は、アトリエ解体後の北側バッケ。
◆写真下は、1963年(昭和38)の空中写真にみる小滝橋通り界隈。は、落合新聞の同号に掲載された刑部人のエッセイ。

落合地域に散在する“ニキビ”を考える。

$
0
0

諏訪塚跡1.JPG
 明治期から大正末までの地形図を時代順に重ねてみていると、すでに現在はなくなってしまった気になる地形表現がある。下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!の西側に描かれた、正円状の“ニキビ”のような突起もそのひとつだ。地番でいうと、下落合622番地と同625番地の敷地にまたがるような位置だろうか。直径が20~25mほどの、ほぼ正円形をした塚状の突起地形だ。
 この塚状の突起は、陸軍参謀本部の陸地測量部が作成した1/10,000地形図の最初期、1909年(明治42)版のものからすでに採取されているのがわかる。1909年(明治42)の当時、北側にある清戸道Click!(目白通り)沿いの「椎名町」Click!には、江戸期から拓けた街道沿いの家並みが見られるが、諏訪谷Click!の丘上にあった塚状突起の周囲には家が見えず、一面の田畑が広がっている。
 そして、同地形図によれば、この凸地の上には広葉樹の記号が挿入されているので、塚全体がこんもりと樹木に覆われていたようだ。つまり、南に谷戸(諏訪谷)が口を開けた、青柳ヶ原Click!と同じ標高である等高線32.5m上の平地へ開墾された田畑の真ん中に、まるで海上に浮かぶ島のような塚状の突起がポツンと存在していたということになる。これは、いったいなんだろうか? 曾宮一念Click!が、1921年(大正10)にアトリエClick!を建設したとき、この塚はいまだ西側に残っていたはずだ。1925年(大正14)の1/10,000地形図にも、同塚は採取されている。昭和に入ると、蕗谷虹児Click!アトリエやその南の谷口邸が建設される一帯だ。
 さらに、もうひとつ思い当たることがある。諏訪谷北側の尾根筋に通う東西道は、まっすぐに東へと向かうのではなく、この塚を避けるように斜めに拓かれていることだ。1925年(大正14)の地図では、いまだ斜めの道路表現になっているが、翌1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では、斜めだった道路が途中で直角状の鍵型に折れ曲がり、明らかに宅地の造成が行われている様子が見てとれる。
 この風情は、絵画の画面にも記録されている。1926年(大正15)の夏に描かれた二科賞を受賞Click!する直前の佐伯祐三Click!『セメントの坪(ヘイ)』Click!は、曾宮アトリエの前へ斜めにつづいていた廃止される直前の路上から、換言すればすでに宅地として整地されたらしい道路痕が残る敷地の上から、諏訪谷の大六天Click!の方角を向いてスケッチしている。そして、セメントの塀沿いに新たに拓かれた道路(現在の道筋)が、右手につづいているのが見てとれる。このとき、佐伯がイーゼルを立てた左手背後には、崩されつつある塚の残滓がいまだにあったのだろうか?
諏訪塚1909.jpg
諏訪塚1925.jpg
諏訪塚1926.jpg
 また、1921年(大正10)ごろから諏訪谷の湧水が形成した洗い場Click!(池)上の、「化け物屋敷」に住んでいた鈴木誠Click!も、この塚を毎日眺めて生活していたはずだ。この「化け物屋敷」とは、近くの農家が建てた古い借家か、農家の納屋のような建物だったのだろうか。当時の様子を1968年(昭和43)に発行された「絵」11月号(日動画廊出版部)に所収の、鈴木誠「下落合の佐伯祐三」から引用してみよう。
  
 (佐伯祐三に)翌日学校で会った時、ヴィオリンはぬらさなかった、と例のケロリとした口調で言っていたのが、私には一番古い記憶のようだ。私は卒業して結婚、下落合の昔風にいうと、洗場の上の化け物屋敷を借りて住みついた。隣りに曾宮一念氏の画室があった。/間もなく彼(佐伯祐三)が近くに画室を新築して来た。私は研究科に通うことになり彼と一緒に上野へ通っていた。(カッコ内引用者註)
  
 残念ながら日常的で見馴れた、「そこにある風景の一部」となっていたであろう塚状の突起のことを、鈴木誠は特に記録していない。ちょっと余談だが、上掲の鈴木誠の証言からも、1921年(大正10)4月にアトリエが完成し転居してきた曾宮一念のあとに、佐伯祐三が「画室を新築」して引っ越してきているのは明らかであり、佐伯アトリエの竣工は1921年(大正10)の夏以降のことだろう。
 各種地図などから推定すると、諏訪谷北側の丘上にあった塚状の突起は、1925年(大正14)ぐらいまでは残っていたのかもしれないが、その後、周辺の耕地整理とともに諏訪谷の急速な宅地化Click!が進められ、新たな道路整備や宅地開発とともに、1925年(大正15)ごろには消滅していた……と推定することができる。ちなみに、1925年(大正14)の1/10,000地形図では、塚の西側の一画を崩したものだろうか、明治期とは異なり灌漑用水とみられる小さな池が造られている様子が採取されている。
絵196811.jpg 鈴木誠.jpg
大塚浅間古墳1925.jpg
大塚浅間古墳.jpg
不動谷1925.jpg
 さて、まったく同じような“ニキビ”状の突起表現を、同じ落合地域の1/10,000地形図で見つけることができる。上落合607番地の字大塚Click!の浅間社境内にあった「落合富士」Click!、すなわち大塚浅間塚古墳Click!だ。上落合の谷間一帯を見下ろす、やはり丘上の見晴らしのいい場所に築かれている。塚の直径が20~30mほどあった同古墳は、円墳だったか小型の前方後円墳だったかは、いまとなっては不明だ。1980年代後半からつづく関東各地で実施された古墳の再調査で、従来は円墳とされていた古墳が、前方部が崩されて田畑や道路にされてしまった前方後円墳(割り塚)であることが軒並み確認されている。したがって、戦時中だった1943年(昭和18)ごろに山手通りの建設で、満足な調査も行われず崩されてしまった大塚浅間塚古墳も、現代の科学的な調査が実施されれば円墳ではなかった可能性がある。
 下落合625番地あたりの諏訪谷の丘上に採取された塚状の突起も、はたして周囲を開墾によって削られ、結果的に小型化してしまった古墳なのだろうか。谷間を見下ろす丘上のほかの場所に、同じような塚状の突起が見られるかどうか、1/10,000地形図を仔細に観察すると、ほぼ同じサイズの塚をあと2ヶ所、下落合エリアで発見することができる。そこには、近くにある湧水源の谷間(谷戸)を見下ろす丘上という、共通の埋葬儀礼的な、あるいは宗教上の“法則”のようなものが透けて見えてくるようだ。
 そのひとつは、諏訪谷のすぐ西隣りに口を開けている不動谷Click!(西ノ谷Click!)の丘上、下落合1436番地から1437番地あたりで発見することができる。谷戸を東側に見下ろす地点は、のちに小川医院Click!が建設される敷地で、斜向かいには笠原吉太郎Click!アトリエClick!が建てられている。諏訪谷の塚に比べると、やや小ぶりな20m弱ほどの印象だろうか。そしてもうひとつは、箱根土地Click!目白文化村Click!を開発する以前、「不動園」Click!と名づけた前谷戸を北に望む位置、すなわち後年には第一文化村内となる下落合1321番地に、やはり塚状で正円の突起が確認できる。塚の規模20~25mと、諏訪谷のものとほぼ同じぐらいのサイズをしている。
 はたして、これらの塚が室町期からつづく百八塚Click!の伝承に直結する古墳なのかどうか、すべてが大正末ぐらいまでに崩されているので不明だ。また、これらの塚は当初より、これほど規模が小さいものだったのか、それとも玄室部分だけを残して周囲の墳丘をすべて崩してしまったあとの残滓なのかもわからない。視野を関東地方の全域に広げれば、おもに江戸期の開拓で被葬者が眠る玄室のみを残し(羨道や玄室に用いられた房州石Click!など、大きな石材を処分するのが面倒だったせいもあるだろう)、前方部や後円部を崩して田畑にしてしまった事例は決して少なくないからだ。結果的に「小塚」となったそれらの残滓は、明治以降に宅地や道路建設などであっさりと消滅している。
前谷戸1921.jpg
諏訪塚跡2.JPG
諏訪塚1947.jpg
 下落合の伝承によれば、明治期のことだろうか自性院Click!の西側から古墳の羨道や玄室が見つかったといういわれを聞いている。やはり、葛ヶ谷の谷戸で湧いた小川が流れ、江戸期には千川分水(落合分水Click!)が開通する谷間を見下ろすよなロケーションだ。同じような塚状の正円突起は1925年(大正14)現在、安藤対馬守屋敷跡の北側にも採取されている。池袋の丸池へと注ぐ小川を見下ろすような位置に描かれているのは、もちろん本来は小規模な墳丘が連なっていたとみられる「狐塚」Click!の残滓だ。

◆写真上:正円状の塚があった、諏訪谷北側の丘上にあたる下落合622~625番地界隈。
◆写真中上は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる諏訪谷の塚。は、1925年(大正14)作成の同図にみる諏訪谷の塚で、一部を崩して池が造られているのがわかる。は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる同塚の位置で、宅地開発のために道筋が変更されている最中の様子。
◆写真中下上左は、1968年(昭和43)に日動画廊出発部から発行された「絵」11月号。上右は、旧・中村彝Click!アトリエで制作する鈴木誠。(提供:鈴木照子様) は、1925年(大正14)の1/10,000地形図に描かれた大塚浅間塚古墳(落合富士)と、同じく昭和初期に撮影された大塚浅間塚古墳(落合富士)。は、1925年作成の同図にみられる不動谷(西ノ谷)西側の丘上に採取された正円状の塚。
◆写真下は、1921年(大正10)作成の同図に採取された前谷戸を見下ろす正円状の塚。は、諏訪谷北側の下落合622・625番地に大正末まであったとみられる塚の想定図。は、1947年(昭和22)の焼け跡空中写真に描き入れた塚の想定位置と旧道筋。

釣りはフナにはじまりフナに帰るものか。

$
0
0

鎌倉稲村ヶ崎.JPG
 子どものころ、夏が近づく海岸Click!へ遊びに行くと、浜辺には点々と投げ釣りをする人たちの姿が見られた。釣り人の影と竿は、東西に砂浜がつづく湘南海岸の見わたす限り、どこまでも連なっているように見えた。おそらく、小田原リールを使って初夏のキス釣りを楽しんでいたものだろう。
 小学2~3年生のころ、クラスメートだった女の子の父親が釣りへ出かけ波に足もとをすくわれたのだろうか、岩場から転落して死亡するという事故があった。詳しくは憶えていないが、岩場で釣っていたところをみると、マダイかイシダイをねらい真鶴から伊豆半島あたりへ出かけて事故にあったのだろう。父親を突然亡くした彼女は、その後どうしただろうか? ふだんから、浜辺の投げ釣りか沖の舟釣りしか見ていなかったので、そんな危ない磯釣りがあるのをそのとき初めて知った。
 鎌倉の七里ヶ浜から稲村ヶ崎にかけても、ユーホー道路Click!(遊歩道路=国道134号線)を鎌倉へと向かう路線バス(1960年代後半)で走ると、浜釣りの竿がずっと連なっていたのをよく憶えている。キスを釣るはずが、フグばかりかかって腐っている大人たちもけっこういた。夏に浜辺を歩くと、釣り人たちに打ち棄てられカラカラにひからびた、フグの死骸が点々とつづいていたものだ。
 稲村ヶ崎の釣りで思い出すのが、俳優の山村聰と森雅之がやっていたキス釣りだ。七里ヶ浜にアトリエをかまえた、森雅之の叔父にあたる有島生馬Click!邸を根城にして、孤独なひとり釣りを好む山村聰にしては、めずらしく友人と竿を並べている。TVドラマなどで見せる、ものわかりがよくて優しい父親イメージとは裏腹に、山村聰は孤独を好みかなり気むずかしい性格だったことが伝えられている。だから、この稲村ヶ崎のエピソードがことのほか印象に残っているのかもしれない。1974年(昭和49)に二見書房から出版された、山村聰『釣りひとり』から引用してみよう。
  
 森雅之君とは、別に、そう親しい間柄ではない。ある時期、どういうわけか急に親しくなり、暫くすると、他の俳優と同じように、仕事以外では極めて疎遠になってしまった。/ ある夏の日、彼が突如として言うのである。/「君、投げ釣りっての、知ってる?」/「知ってるよ」/「じゃ、稲村ヶ崎へおいでよ。おもしろいぜ」/森君が釣りをやるとは初耳であった。/「釣りをやるの、君が?」/「ああ、やるよ。ただし、豪快な奴をね」/毎年梅雨どきになると、大磯から小田原にかけて、海浜は、キスの投げ釣りで賑わう。これは、遠投を必要とする釣りで、そのためには、滑りのいい、木製のリールが考案されていて、小田原式と呼ばれていた。特に、回転軸にベヤリングを組みこんだ小田原式リールは、威力を発揮していたが、ブレーキもストッパーもなく、投擲には相当な熟練を要した。
  
 森雅之の「釣り」は、投擲で糸がパーマネント(お祭り)になると、近くの釣り具屋へ人を呼びにいって釣り竿をまかせ、自分は海でのんびり泳ぐのが常だったようだ。しまいには、投擲も面倒になったのか「投げといてくれ」と釣り具屋にゆだね、キスがかかったときだけ海から上がってリールを巻いていたらしい。この“殿様釣り”には、山村も開いた口がふさがらなかったようだ。
山の音浄明寺ヶ谷1954.jpg
釣りをする山村聰.jpg
大磯照ヶ崎.JPG
 山村聰は、あらゆる釣りを経験したようだが、結局、最終的にはヘラブナ釣りに回帰している。そして、自身の釣り具店「ポイント」を銀座(のちに日比谷)へオープンするかたわら、ヘラブナ釣り会を起ち上げている。彼が頻繁に出かけていたのは、利根川の水郷(霞ヶ浦)一帯や牛久の竜ヶ崎あたりだったようだが、冬はヘラブナがかからないため、やむなくマブナ釣りをしていたらしい。再び、同書から引用してみよう。
  
 利根川を越したところで、水戸街道を右に折れ、竜ヶ崎への近道を行くと、街の手前に、道仙田というところがある。これは、旧小貝川の氾濫の名残の池で、川のような帯状をなしていて、奥のおんどまりの部分が釣場になっていた。/昔、関東では、冬場は、へらぶなが殆ど釣れなかった。へら鮒専門の釣り会でも、冬の二、三ヵ月は、オフシーズンとして、月例会を休んだ。従って、へらぶな師は、冬は釣堀に通い、せめてもの鬱憤を晴らしていた。関西では全盛の釣堀が、東京には、小池、金木など、ほんの二、三に限られていた時代のことである。/釣堀で釣れるへらぶなが、野池で釣れない筈はないと、熱烈なマニヤは、冬の野へも出かけて行った。私なども屡々出漁したが、まず、釣れたためしがなく、すぐ、真鮒釣りに転向してしまった。佐原の水郷地帯では、真鮒師ばかりが出ていた。岡からの、脈釣り、しもり釣り、船の並べ釣りなどが、冬の水郷の景物であった。
  
 子どものころ、わたしもいっぱし釣り竿を持っていて、近くの川や池で釣りをしていた。親には釣りの趣味がなく、友だちに教えられて釣り具屋で竿をそろえ、川や池へと出かけた。いまでは、埋め立てられて住宅地になってしまったが、いくらかゴミが棄てられ決してきれいとはいえない池で、小さなマブナをときどき釣っていた。釣りは嫌いではないが、その後、趣味として根づくことはなかった。
西湘夕暮れ.JPG
山村聰「釣りひとり」(二見書房).jpg 陽咸二.jpg
 山村聰がクルマ(クラウンだろうか?w)で出かけた水郷へ、昭和初期に汽車を乗り継ぎ半日かけて通った釣り人がいた。なにごとにも凝って、プロはだしの腕にならないと気がすまない、構造社の彫刻家・陽咸二Click!だ。めざす獲物は、マブナとタナゴが多かったようだが、陽咸二の家ではどちらも好まれず、タナゴはかろうじて女中が食べていたらしい。東京湾が目の前に拡がる月島育ちの陽咸二は、もの心つくころから釣りに親しんでいた。1931年(昭和6)に発行された、「構造社第5回展美術展覧会出品目録並ニパンフレツト第四号」から引用してみよう。
  
 鮒もタナゴも僕の家の者は食べない、たゞ女中がタナゴの佃煮が好きで時々煮て居るがこの魚は大き過ぎて佃煮には工合が悪いと云て居る、一度煮ると十日位はあるので毎日釣つて来る魚は遂に貰ひ手が無くなる。/鮒はタナゴより貰ひ手が少ないので釣て来て閉口する、女房からは帰りに捨てゝ来て貰ひたいと拝まれるのだがまさか釣場に捨てる訳にも行かない、殊に尺鮒となるととても立派で人にやるさへ惜い気がする。鮒釣は足に時間を取られるのでつらい、佐原十六嶋、神崎、滑川、龍ヶ崎位まで行かないといゝ釣が出来ないのだからやり切れない。一番で出発して釣場に着くと昼飯だ、六時の汽車で帰ても家に着くと十二時と云ふ労働だから綿の様に疲れて仕舞ふ。此の位熱心に彫刻をしたらと皆も云ふし自分も思ふのだが……。
  
 遠出のマブナ釣りの合い間、毎年4月になると近所の川でのドジョウ釣りにもはまっている。川岸に竿を7本ほど並べ、端から順番に上げていくと、5本ぐらいの竿にドジョウがかかっていたそうだ。それを繰り返すと、短時間のうちに200~300匁(もんめ:750~1,125g)ぐらいの収穫にはなったらしい。
 ドジョウは、マブナやタナゴとはちがって家族の人気は高く、釣って帰ると家では機嫌のいい顔をされたようだ。おそらく柳川か唐揚げ、天ぷらにして食べたのだろう。構造社展のパンフレットから、つづきを引用してみよう。
  
 此の時分にはまだ余り市中で売つて居ないので貰い手も多いし家でも歓迎して呉れる。釣としては鮒釣と同じく面白味は少ないがのんきな釣だけに野趣捨て難い所がある、タナゴ釣が禅ならこれは又俳味と云ふ様な趣がある。そして嬉しい事には釣つた魚を邪魔にされないから有難い、本年も又ドゼウを釣らう。
  
平塚袖ヶ浜.JPG
陽咸二鯉釣り.jpg
第5回構造社展1931.jpg
 わたしの印象に残る釣りといえば、近所の池で釣った先のマブナと、真鶴のマダイ、軽井沢のアユぐらいだろうか。マダイもアユも、竿はみんなその場で借りて釣ったものだ。子どものころに住んでいた家の前浜では、毎朝、地曳き漁が行われていた。曳くのを手伝うと、一網打尽にされた小サバやムロアジ、マアジなどがすぐにもらえるせいか、竿1本でジッと待ちつづける釣りとは、なんて効率が悪いのだろうと感じていたにちがいない。そう、せっかちなくせに不精な性格は、到底、釣りには向きそうもないのだ。

◆写真上:山村聰と森雅之がキス釣りを楽しんだ、引き潮の鎌倉・稲村ヶ崎。
◆写真中上は、鎌倉の浄明寺ヶ谷(やつ)が舞台となった成瀬巳喜男『山の音』(1954年)の山村聰(左)と原節子(右)。は、水郷に出かけてヘラブナを釣る山村聰。は、釣りの合い間に家族と磯遊びも楽しい大磯・照ヶ崎。
◆写真中下は、昔ほど釣り人がいない西湘の夕暮れ。下左は、1974年(昭和49)出版の山村聰『釣りひとり』(二見書房)。下右は、アトリエの陽咸二。
◆写真下は、やはり釣り人の姿が少ない平塚・袖ヶ浜海岸で、平塚新港フィッシャリーナ防波堤の先端に見えているのは茅ヶ崎沖の烏帽子岩。は、芝生でコイ釣り遊びをする陽咸二。は、1931年(昭和6)に開かれた構造社の第5回展会場。

関屋敏子のオペラを協作をする川路柳虹。

$
0
0

川路柳虹旧居跡1.JPG
 1933年(昭和8)12月10日、関屋敏子はパリの舞台で創作オペラ『お夏狂乱』を発表したとされている。西鶴や近松の『姿姫路清十郎物語』で、すでに芝居や浄瑠璃ではポピュラーな演目だった同作を、オペラ仕様にして作詞したのは詩人・川路柳虹、作曲したの関屋敏子自身だった。もし、同日にオリジナルオペラ『お夏狂乱』がパリで実際に発表されていたとすれば、日本の本格的な創作オペラの海外初上演となるだろう。
 だが、当日のパリ新聞社が主催した「グランド・コンサート・シンフォニック」のプログラムに、歌曲『お夏狂乱』(オペラ『お夏狂乱』の一部)はあっても、オペラ上演の記載がないことを澤地久枝Click!が指摘している。プログラムの第1部では、モーツァルトの交響曲とバッハのカンタータ、そのあとに当時はイタリアを中心にヨーロッパではプリマドンナ(コロラトゥーラ・ソプラノ)として活躍し、すでに高名だった関屋敏子(マドモアゼル・トシコ・セキヤ)が、日本民謡の『秋田おばこ』とオリジナル歌曲『お夏狂乱』を歌っている。だが、創作オペラ『お夏狂乱』が舞台で上演された形跡はない。
 翌1934年(昭和9)に、関屋敏子は二度めの訪欧から日本へともどっているが、同年6月には歌舞伎座の舞台で「新作大歌劇」と銘打たれたオペラ『お夏狂乱』が上演されている。これが、オペラ『お夏狂乱』の全幕を通した初演ではないだろうか。ヨーロッパから帰国した関屋敏子は、「日本の鶯(ウグイス)」「国宝的歌手」としてまたたく間に人気が沸騰した。つづけて1935年(昭和10)11月には、安倍晴明Click!が登場するやはり歌舞伎の『蘆屋道満大内鑑』をベースにしたオペラ『二人葛の葉』を、藤原義江らとともに初演している。『二人葛の葉』もまた、作詞は川路柳虹で作曲は関屋敏子だった。本作は、1936年(昭和11)にビクターレコードへ吹きこまれ、「葛の葉」役を歌う関屋のソプラノを耳にすることができる。
 さて、関屋敏子は新作オペラを作曲するにあたり、何度か落合地域にも足を運んでいるとみられる。なぜなら、作詞を担当していた詩人・川路柳虹の自宅が、インドへのガンダーラ遊学や、パリへ東洋美術史を学ぶために留学したほんの一時期を除き、大正期から太平洋戦争の末期でそろそろ空襲Click!が予想されるようになった1944年(昭和19)まで、ずっと一貫して上落合にあったからだ。1944年(昭和19)10月に、56歳を迎えた川路柳虹は家族を連れて千葉県市原郡南総町へと疎開している。翌1945年(昭和20)の山手空襲Click!で、上落合の自邸は全焼して蔵書のいっさいを失っている。
 川路柳虹の曾祖父は徳川幕府の外国奉行・川路聖謨で、代々が旗本の家柄だった。京都美術工芸学校から東京美術学校の日本画科へ進んだあと、おかしなことに二科展へ“洋画”を出品して入選し洋画家をめざしていたのだが、のちに自信作のひとつが二科で落選したのをきっかけに、あっさりと画家を廃業してしまった。このあたり、一度ヘソを曲げると二度と容易にはふり返らない、いかにも頑固な江戸東京人の血筋らしい。
 画家への道をあっさり棄てた彼は、すでに東京美校時代から『早稲田文学』や『文章世界』などへ発表していた、詩作の道へ注力することになる。そして、明治以来の古くさい新体詩の世界へ、彼は文字どおり今日までつづく革命的な表現“口語自由詩形”の作品『新詩四章』を、早くも1907年(明治40)に発表している。そして、1910年(明治43年)に、処女詩集『路傍の花』を刊行した川路は、詩壇の台風の目のような存在になっていく。
 関屋敏子ヨーロッパ舞台.jpg
関屋敏子1927.jpg 関屋敏子1934.jpg
 大正期に、上落合の川路邸へ足しげく通っていた村野四郎の文章を、1969年(昭和44)に新潮社から出版された『日本詩人全集』12巻より引用してみよう。
  
 私が、落合の川路邸に出入りしていた若い頃、一冊の薄い詩集をしめして、「これは素敵に面白い本だ。きっと君のためになるから読んでみたまえ」といって手渡してくれたが、それが西脇順三郎がロンドンで出した英詩集“Spectrum”であった。大正の末の頃のことであって、当時わが国詩壇の大家のうちで、このモダニズムの作品を理解し、その新しい詩的思考の方向を予測しえた詩人が果して何人あったであろうか。柳虹は芸術院賞を受賞した翌年死亡したが、死去の年まで机上に天眼鏡をおいて、ミショー、クノー、ポンジュなどフランス前衛詩人たちの原書に読みふけっていた。
  
 1913年(大正2年)に東京美術学校を卒業すると、川路柳虹は翌年、さっそく東雲堂より象徴詩的な第2詩集『かなたの空』を出版している。
 1921年(大正10)になると、川路柳虹は室生犀星、萩原朔太郎Click!千家元麿Click!、百田宗治、白鳥省吾、福士幸次郎らとともに「日本詩人」(新潮社)を刊行。このころから、彼のもとへは若い詩人や詩人志望の学生たちが集まりはじめている。その中には「日本未来派宣言」の平戸廉吉や、プロレタリア詩派の前衛詩人・萩原恭次郎Click!もいた。萩原恭次郎の場合は、1925年(大正14)から川路邸にほど近い目白文化村Click!の第一文化村内にあった、下落合1379番地のテニスコート内クラブハウスClick!へと引っ越してきている。この小さなクラブハウスでは、のちに秋山清Click!が母親とともに暮らすことになる。
 川路柳虹が上落合へとやってきたのは、1918年(大正7)とかなり早い。当初は、上落合581番地に邸をかまえているが、1927年(昭和2)からインドのガンダーラ地方への美術遊学、そしてパリへの留学で5年後に帰国している。1932年(昭和7)からは、上落合2丁目569番地に住んでいるが、もとの住居からわずか東へ20mしか離れていない、路地をはさんだ向かい合わせの隣家だった。早稲田通りにもほど近い上落合エリアの風情が、川路はよほど気に入っていたらしい。
川路柳虹モンテカルロ1927.jpg 川路柳虹1958.jpg
川路柳虹「路傍の花」1910東雲堂.jpg 川路柳虹「かなたの空」1913東雲堂.jpg
 1921年(大正10)に玄文社から出版された川路柳虹『曙の声』には、上落合581番地のわが家の庭を眺めた詩「庭」が収録されている。一部を引用してみよう。
  
 ここはもの音のきこえない片隅/ここは日光のしづかな庭、/八ツ手はその葉を青々と伸し/楓は今年も涼しい蔭をつくる。/私におとづれる夏は、/この小さな蔭に置く籐椅子と、/運ばれる卓の上の紅茶と、/妻と、子供と、書籍と、絵と、/ゆるやかな日曜の休息と、/まづしい乍ら落ちつける/安らかな自分の部屋。
  
 『曙の声』が出版された1921年(大正10)当時の上落合は、一部で郊外住宅地が形成されはじめてはいたが、ほとんどがいまだ田畑のままだった。ちょうど、川路柳虹の作品が収められた『日本詩人全集』12巻の表紙にある、田園風景のような風情だった。関屋敏子が訪れたとみられる1935年(昭和10)前後には、上落合地域はとうに耕地整理が終わり、ほとんどの田畑は消滅して新興住宅地としての街並みが形成されていただろう。
 上落合581番地(1918~1927年居住)と、隣接した上落合(2丁目)569番地(1932~1944年居住)にあった川路柳虹邸の周囲には、軒並み詩人や作家たちが暮らしていた。詩人では今野大力(上落合501)、野川隆(同630)、安藤一郎(同602)、壺井繁治Click!(同543)、詩人で画家の柳瀬正夢Click!(同602)、小説家では吉川英治Click!(同553)、壺井栄Click!(同543)、今野賢三(同502)、細野孝二郎(同596)、上野壮夫(同599)、小坂たき子(同599)、大江賢次(同732)、評論家では神近市子Click!(同506)と、川路邸を四方から囲むように人々が往来している。
 日本ならではの国産オペラを協作した川路柳虹が、千葉県の南総町へ疎開した約1ヶ月後、関屋敏子は声の衰えが主因とも鬱病が原因ともいわれているが、1944年(昭和19)11月に睡眠薬を大量に服用して37歳で自殺している。ヨーロッパで通用した、日本の数少ないオペラ歌手だった関屋敏子は、三浦環や原信子とは異なり、しだいに世間から忘れられた存在になっていった。川路は、疎開先での不自由な生活を送りながら、彼女の突然の死を新聞で知ったのだろう。
川路柳虹旧居跡2.JPG
上落合1929.jpg
日本詩人全集12加山又造.jpg
 大正期の「日本詩人」(新潮社)では、川路柳虹といっしょだった千家元麿も落合にいた。千家は目白学園の北側、オリエンタル写真工業Click!の第1工場の東並び、落合町葛ヶ谷(現・西落合)640番地へ住んでいる。千家元麿が登場すると、すぐにも岸田劉生Click!武者小路実篤Click!などとのエピソードが思い浮かぶけれど、それはまた、別の物語……。

◆写真上:大正期から戦時中にかけての川路柳虹邸の跡で、左手が上落合581番地で行き止まりの路地をはさみ右手が上落合569番地の現状。
◆写真中上は、ヨーロッパの舞台でオーケストラをバックに歌う関屋敏子。下左は、1927年(昭和2)に撮影されたオペラ衣装の関屋敏子。下右は、1934年(昭和9)に撮影された絶頂期の関屋敏子。10年後に自殺するとは、誰も想像できなかったろう。
◆写真中下上左は、1927年(昭和2)にモンテカルロで撮影された川路柳虹。上右は、1958年(昭和33)に撮影された川路柳虹。は、東雲堂から1910年(明治43)に出版された川路柳虹『路傍の花』()と、1913年(大正2)出版の『かなたの空』()の各内扉。
◆写真下は、上落合569番地の川路柳虹邸付近から妙正寺川への北向き斜面が下っている。は、1929年(昭和4)の「落合町市街図」にみる川路柳虹邸と周辺。は、1969年(昭和44)に新潮社による『日本詩人全集』12巻表紙の加山又造による装画。


江戸期へたどるニホンオオカミ伝承。

$
0
0

三峯社1.JPG
 落合地域とその周辺域で、引きつづきニホンオオカミClick!の伝説・伝承を調べているが、残念ながらいまだ確かなものは見つからない。大神を主柱とする三峯社Click!は、旧・東京15区時代の外周域、すなわち郊外の随所で見つかるのだけれど、これらは田畑の害獣除けの神として江戸期に勧請されたもので、実際にニホンオオカミが棲息していたわけではないだろう。
 時代を江戸期までさかのぼらせても、大江戸市街とその外周域にはすでにニホンオオカミの姿は見られない。以前にご紹介した瀧亭鯉丈の『花暦八笑人』Click!には、高田地域(現・目白地域)にはキツネとともに「大神」が出没していたことになっているけれど、これは市街地として拓けた大江戸市内の住民が、朱引墨引の境界も近い「場末」(江戸期には郊外という意味)の農村部を揶揄した表現だろう。キツネは実際に棲息Click!していたが、人の気配を嫌い警戒心のきわめて強いニホンオオカミはとうにどこかへ退散するか、市街地の近くでは絶滅していたと思われる。
 もうひとつ、山東京伝の『猿猴著聞水月談』には、墓地に埋葬された遺体をニホンオオカミと思われる動物(山犬)があばく場面が登場するけれど、この著作は山東京伝が全国の風聞を集めて記録したもので、大江戸の出来事とは思えない。また、江戸期にはニホンオオカミのことを「山犬」と記載されることがほとんどなので、それが実際にニホンオオカミなのか、山野に棲む野生化し凶暴になった野良イヌなのかが、リアルタイムの詳細な観察記録がない限り区別できない。
 江戸期以前からつづくと思われる墓地の風習に、埋葬した遺体を「山犬」に掘り返されないよう、土饅頭に細工をほどこす地域が見られる。秩父山系が近い奥多摩地域には、新墓の土饅頭の上に3本の竹を組みあわせ、上から縄で大きな石を吊るす習慣が明治期まで残っていた。動物が新墓を掘り返しはじめ、組まれた竹に触れると真上から大きな石が落下する仕掛けだ。また、北関東では、細い孟宗竹を切って何本か土饅頭に立て、その片方を浅く地面に刺しておく。墓をあばきにきた動物は、掘りはじめたとたんバネじかけのような竹に叩かれて驚き、逃げていくという仕組みだ。
 江戸期には山野の開墾が進み、ニホンオオカミのテリトリーを侵食することが多くなったのだろう、明らかに野犬とは異なる容姿をした「山犬」の記載が多くなる。換言すれば、ニホンオオカミを見かける機会が多くなった里人たちは、野犬とニホンオオカミとのちがいを明瞭に見分けられるようになったということだろう。特に山里の仔馬など家畜をねらった、ニホンオオカミの群れとみられる記録は信憑性が高い。
 1992年(平成4)に『狼―その生態と歴史―』を著わした平岩米吉によれば、その形態から明らかにニホンオオカミと思われる「山犬・狼(やまいぬ)」を仕留めた記録が、江戸期には全国で21例ほど見つかるという。でも、すでに大江戸とその周辺域にはこの種のエピソードはまったく存在せず、江戸地方にもっとも近い記録としては、相模(神奈川県)の丹沢山塊に出没したニホンオオカミの逸話が収録されている。平岩米吉『狼―その生態と歴史―』(築地書館)から引用してみよう。
  
 貞享四年(一六七八年)に相模足柄上郡山北村の大野山(七二三m)で狼が荒れたことがあり、同村皆瀬川の名主、大野茂衛門が討ちとった話が伝えられている。以来、名主は「狼の茂衛門」とその勇名を近隣にうたわれたという。この狼は三歳ぐらいの雄で、しかも、その頭骨は、今も子孫の大野君麿さんの宅に家宝として保存されている。先祖の武勇を物語るばかりでなく、狼の頭骨は魔除けになると信じられているからである。
  
 オオカミが「荒れた」というのは、人里まで下りてきて家畜を襲ったケースがほとんどだ。この頭骨は、1956年(昭和31)に横浜の野毛山図書館で開かれた「民俗資料展」に出品されたが、前頭部に傷跡があることから撲殺されたと推定されている。後年、早稲田大学のチームが調査し頭骨の全長が217mm、下顎骨が159mmと計測されている。
三峯社2.JPG
江戸後期「諸獣之図諸鳥獣の内狼」.jpg
 丹沢山塊にはニホンオオカミが数多く棲息し、秦野市に住む海沢英三という人の調査によれば、農家に保存された江戸期に由来するとみられる頭骨は、同地域だけで9個が確認できるという。だが、ニホンオオカミの頭骨は、江戸期には大神信仰から「魔除け」あるいは田畑の「害獣除け」の効果があると信じられていたので、すべてが同地域で捕獲されたものとは規定できない。どこか別の地域から農村へ売りにきたのを、村民が購入した可能性もあるからだ。
 大江戸の近くでは、もうひとつ埼玉県大里郡のひかや村で記録されたエピソードが残っている。引きつづき、同書から引用してみよう。
  
 武州榛沢郡ひかや村(現、埼玉県大里郡岡部町)の庄左衛門という農夫は、ある日、耕作に出て、運悪く狼におそわれ、食い殺されてしまった。二十歳ばかりの妻は、これを口惜しく思い、なんとしても狼を討ちとってやろうと、九尺柄の手槍をさげて、方々たずね歩いたところ、ある畔(くろ)に大きな狼が伏しているのを見つけた。「これぞ夫の仇」と勇みたち、手にもった槍を取り直し、見事に狼の咽から上へ突き立てた。狼は怒って荒れ狂い、起きあがろうとしたが、一生懸命、槍を放さず、大声で叫んだので、村人が大勢駆けてきて、とうとう狼を打(ぶ)ち殺してしまった。(カッコ内引用者註)
  
 この逸話は、実際に農夫が襲われる現場を誰も目撃していないので、飢えた野犬か狂犬病にかかった野犬の群れに襲われたのか、ニホンオオカミに襲われたのかは不明だ。だが、激高していた妻が仕留めたのは、どうやらニホンオオカミだったらしい。人の気配を嫌うニホンオオカミだが、たまたま家畜をねらいに山から下りてきた個体が、夫殺しの濡れぎぬを着せられて殺された可能性もありそうだ。
 これらの記録は、1670年(寛文10)から1848年(嘉永元)までの約180年間に起きた、野犬ではなくニホンオオカミとみられる動物を仕留めた事例だが、その間、わずか21例ほどしか記録されていない。もっとも多い記録は、長野の4件をはじめ、京都・岩手・宮城が各2件、秋田・茨城・埼玉・神奈川・新潟・岐阜・愛知・三重・広島・島根・高知が各1件の計21件だ。でも、これらがニホンオオカミの棲息エリアというわけではなく、目撃例や家畜の被害からニホンオオカミが棲息していたのは、北海道を除く日本全土にわたっていたと考えられている。ちなみに、北海道には大陸オオカミに近い大型のエゾオオカミが棲息していた。
三峯社3.JPG
田中芳男「オオカミ」1876.jpg
 明治期を迎えると、明治政府に雇われた外国人の助言にしたがい、輸入した硝酸ストリキニーネによる毒殺で絶滅したと考えられているニホンオオカミだが、戦後になっても目撃情報がつづいている。もっとも多発しているのが、関東地方では三峯社の本拠地である奥秩父山系だ。山歩きをしていて、イヌとは明らかに異なる様子の動物に、突然出くわしてしまった記録はあとを絶たない。共通しているのは、相手を威嚇する際の明らかにイヌとは異なる、低音(低周波)で遠くまでよく響くうなり声だ。
 奥秩父での典型的な目撃例として、1993年(平成5)に出版された柳内賢治『幻のニホンオオカミ』(さきたま出版界)から引用してみよう。出くわした瞬間は、野犬化したシェパードだと勘ちがいしたが、山歩きに馴れた林業が専門の人たちによる記録だ。
  
 突っ立ったという感じは腰をやや落とした姿勢ながら、前脚をしっかり踏ん張っていたので、そう見えたのかもしれない。脚は前も後も普通の犬より太いなと思った。毛は茶色がかった灰褐色だったと記憶している。鼻筋が水平に見えるほど顔をあげていた。その姿勢は二五年以上経った今でも私の瞼に焼きついたままである。/尾は垂れていたと思う。上に巻いていなかったことは確かである。それは相手が警戒姿勢であったことを意味する。耳は体に比べ小さく感じられた。ときどき耳をピクッ、ピクッと動かしていたのは周囲の動きに気を配っていたのであろう。/かなり後になって、ブラウンスという東京帝国大学の雇い教師だった人が描いたオオカミの絵を見たが、ちょうど私が見たのとそっくりであった。絵はオオカミの右側を描いていたが、私が見たのは四五度斜めの姿勢をとっているオオカミの、左側面であった。そういう角度から見ただけに確かな観察ができたと思っている。(中略) 相手は口を結んだままであったので、それほど恐ろしさを感じなかったが、その眼光の鋭さ、威風堂々たる態度を見ると、理屈抜きに射すくめられてしまった。それは私ばかりでなく、同行の二人も同じような恐怖感を受けたのではないだろうか。その証拠に、誰もひと言も口がきけなかったのである。
  
三峯社4.JPG
ブラウンス「ニオンオオカミ」1881.jpg
秩父両神山.jpg
 山々に棲息する哺乳類では、ヒエラルキーの頂点にいたニホンオオカミを滅ぼしてしまったせいで、100年以上たった今日まで日本の山里や農村部ではツキノワグマやニホンカモシカ、ニホンザル、イノシシ、ニホンジカなど、年間170億円にものぼる膨大な獣害(鳥害を除く)を受けつづけることになった。東欧におけるヨーロッパバイソンの復活のように、なんとかニホンオオカミを甦えらせる方法はないものだろうか。

◆写真上:とある住宅の軒下に貼られた、魔除け・厄除けの三峯社札。
◆写真中上は、杉並区西荻北にある三峯社の本殿と狛大神。は、東京国立博物館蔵の江戸後期に描かれた『諸獣之図』の諸鳥獣の内「狼(ヤマイヌ)」。
◆写真中下は、狛大神が出迎える上荻窪村(現・杉並区西荻北)の三峯社。は、上野動物園を創立した田中芳男が1876年(明治9)に描いた『ニホンオオカミ』。
◆写真下は、上荻窪村の三峯社拝殿。は、ドイツの地質学者で東京帝大の教師をしていたブラウンスが1881年(明治14)描いた『ニホンオオカミ』。は、ニホンオオカミと思われる獣が目撃された秩父山系の両神山とその周辺域。

目黒鬼子母神の正岡と大塚山の墳丘。

$
0
0

正覚寺三澤初子像1.JPG
 入谷の鬼子母神Click!(きしもじん)に雑司ヶ谷の鬼子母神Click!ときたら、次は目黒の鬼子母神ということで、さっそく中目黒駅を降りて実相山正覚寺(目黒鬼子母神)を訪ねてきた。東横線の中目黒駅前には、めずらしくカシコネとオモダルの夫婦神が2柱そろった第六天社Click!が健在だ。江戸期から上目黒村と中目黒村の入会地にあった境内が、改正道路(山手通り)Click!の工事で消滅させられそうになったとき、南西80mほどの中目黒駅前の位置へ遷座しているとみられる。
 目黒鬼子母神(正覚寺)は、中目黒駅から南東へ300mほどのところ(現・中目黒2丁目)に境内がある。同寺は1619年(元和5)に日栄が開山し、仙台藩第4代藩主の伊達綱村の母・三澤初子が開基した寺だ。もう芝居好きな方ならピンとくると思うが、入谷鬼子母神というと直近の蕎麦屋が舞台の河竹黙阿弥『天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)』、雑司ヶ谷鬼子母神は時代が下って村松梢風・原作の新派芝居『残菊物語』とくれば、目黒鬼子母神は歌舞伎の『伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』だ。
 『先代萩』は、実際に江戸期に起きたとされる仙台藩の「伊達騒動(寛文事件)」を、鎌倉時代の事件Click!ということに置き換えて書かれた芝居で、近年の時代小説ブームでは山本周五郎の『樅の木は残った』として記憶されている方も多いのではないだろうか。目黒鬼子母神には、同芝居に登場する「鶴千代」(亀千代=4代藩主綱村)の乳母でありヒロインの「政岡」(実際は母・三澤初子)の墓があることで知られている。「鶴千代」の身代わりに実子「千松」を殺されたとき、涙を見せなかった「正岡」が、陰で「三千世界に子を持つた親の心は皆一つ」という口説きゼリフとともに泣くシーンはあまりにも有名だ。
 実際の「正岡」こと三澤初子は、非常に美しく聡明だったようで、3代藩主・伊達綱宗の側室となったが、綱宗には正妻がいないので彼女が実質の正室だった。三澤初子は1659年(万治2)に、江戸の仙台藩屋敷で亀千代(4代藩主・伊達綱村)を産んでいる。そして、翌年に伊達綱宗が隠居をすると、わずか2歳の綱村が4代藩主となった。その後見人として、伊達宗勝が藩政を仕切ることになったのだが、政務に偏りがあったため藩士・藩民に不満がたまり、思いあまった伊達安芸が幕府(徳川家綱)へ訴える……という、ドロドロのお家騒動に発展してしまう。
 詳細は、膨大な書籍や資料が出ているので参照していただきたいが、のちにフィクションが多く実際の事件展開とは乖離している『伽蘿先代萩』に代わり、河竹黙阿弥Click!が史実に合わせた『実録先代萩』を書いている。『実録先代萩』では、「正岡」は「浅岡」の名前で登場しているが、相変わらず烈婦として描かれているので、三澤初子の実像とはやはり乖離しているのだろう。
三澤初子像1953.jpg
正覚寺三澤初子像2.JPG
6代目尾上梅幸(戦前).jpg
 目黒鬼子母神の山門を入ると、本堂前の大きな三澤初子の銅像が目につく。1934年(昭和9)に篤志家が建立したもので、彫刻家・北村西望、建畠大夢、新田藤太郎の3者合作による。三澤初子は、もちろん江戸期の1686年(貞享3)に47歳で死去しているため、当時『先代萩』の「正岡」役が多かった6代目・尾上梅幸がモデルだ。だが、梅幸は舞台に忙しかったためか、実際にアトリエでモデルになったのは、面影が似ている弟子の尾上梅朝と伝えられている。戦時中の金属供出で溶かされなかった、東京の銅像としてはめずらしい存在だ。
 三澤初子のポーズを見ると、打ちかけを着て右脚をやや前に出した彼女は殺気だっているのがわかる。左手で、帯に指した刺刀Click!(さすが=短刀)の刀袋をほどき、いまにも右手が柄にかかって抜刀しようとしている姿だ。彼女の刺刀は、江戸前期の新刀の中では最上大業物(さいじょうおおわざもの)に指定された、伊達藩藩工で初代・本郷国包の作だったかもしれない。自分の子どもを守り抜く、いかにも母親の死にものぐるいの“殺気”であり、瞬時に駆けだして相手を刺し殺しかねない怖い姿勢だ。
 目黒鬼子母神をあとにしてめざしたのは、南へ直線距離で1,000mほどのところにある目黒大塚山古墳だった。中目黒のこの一帯も、上落合Click!と同様に昭和初期まで「大塚」という字名が残されている。その中で、現代まで伝えられているのが目黒大塚山古墳だ。古い調査では円墳とされているが、最新の科学的な調査技術を用いれば前方後円墳だった可能性が高い。都内では、1980年代から古墳の再発掘調査がつづいているが、従来は円墳だとされていた古墳が次々と前方後円墳であることが判明しているからだ。比較的墳丘が低く、整地化しやすい前方部を開拓して農地ないしは宅地にし、玄室のある崩しにくい後円部だけをかろうじて残したケースが多いと見られる。
正覚寺本堂.JPG
大塚山古墳地形図1916.jpg
大塚山古墳1.JPG
 目黒大塚山古墳(現・大塚山公園)に着いてみると、墳丘とおぼしきふくらみはほとんど崩されてすでに失われ、拡幅された道路と宅地、そして児童公園にされていたのでガッカリした。公園内に土留めを施された、北側へ円形にカーブをする急斜面が見られるので、おそらく墳丘(前方後円墳なら後円部)は公園北側にあるのだろう。現状では同エリアは立入禁止になっているので、古い時代に撮影された空中写真を観察してみることにする。
 目黒大塚山古墳は、谷間に目黒川の支流だった谷戸前側(現・暗渠化)を見下ろす東向きの斜面に築造されている。1936年(昭和11)の空中写真を見ると、やはり北側に円形らしいフォルムが見えるので、これが墳丘(後円部)だろう。また、戦後の1947年(昭和22)に米軍が撮影した写真では、北側の円形から中央のくびれを経て南側へつづいている様子が見てとれるので、これらの写真から判断するかぎり、前方後円墳ないしは初期の帆立貝式古墳のように見える。墳長は100mほどだろうか、東京の同型古墳にしては中規模のものだ。
 目黒川の両岸に展開した河岸段丘にも、数多くの古墳があったとみられるが、江戸期の農地開拓あるいは大正期末から昭和初期にはじまる宅地開発で、そのほとんどが破壊され消滅している。目黒地域ではほかに、東京ではめずらしい方墳である、碑文谷狐塚古墳が確認されている。目黒に限らず、都内各地では「狐塚」Click!とされていた古墳があちこちに多い。西池袋の「狐塚」Click!も、おそらくそのひとつだったのだろう。
 目黒大塚山古墳は、前澤輝政Click!の『東国の古墳』(三一書房/1999年)でも、そのほかあまたの古墳本や資料でも、待乳山古墳Click!御茶ノ水地下式横穴古墳群Click!、地形図で明らかな新宿角筈古墳(仮)Click!などと同様に、まったく古墳としてカウントされていない。江戸期から古墳の伝承が残り、また戦前には実際に発掘調査が行なわれ古墳と規定されている遺跡にしても、東京では政府によって「なかったこと」に、あるいは「無視」されるケースが明治期から現代までつづいている。
大塚山古墳1936.jpg
大塚山古墳1947.jpg
大塚山古墳2.JPG
 おそらく、同じ関東の千葉県(南武蔵勢力圏)や群馬・栃木県(上・下毛野勢力圏)と同様に、江戸東京とその周辺エリア(南武蔵勢力圏)にある古墳のボリュームやサイズ、その築造時期などが、近畿圏を超えて上まわる(古くなる)のを非常に怖れているのだろう。文科省の「科」は、人文科学や社会科学の「科」だ。明治政府に根のある前世紀の「皇国史観」(関西史)の妄想を棄て、そろそろ21世紀の科学的な「日本史」を築きたい。

◆写真上:目黒鬼子母神(正覚寺)境内にある、6代目・尾上梅幸がモデルの「正岡」像。
◆写真中上は、1953年(昭和28)撮影の「正岡」像。は、銅像正面の現状。は、戦前に撮影された『伽蘿先代萩』で「正岡」を演じる6代目・尾上梅幸。
◆写真中下は、目黒鬼子母神の本堂。は、1916年(大正5)に作成された1/10,000地形図にみる中目黒村の大塚周辺と大塚山古墳の位置。は、墳丘があったとみられる大塚山公園の北側にある立入禁止エリアの現状。
◆写真下は1936年(昭和11)の、は1947年(昭和22)の空中写真にみる大塚山古墳。特に1947年(昭和22)の写真では、円墳ではなく後円部を北にした前方後円墳の形状に見える。は、前方部とみられる位置から後円部の方角を見る。

「眉目秀麗・挙止端正」な画家・田口省吾。

$
0
0

田口省吾アトリエ跡1.JPG
 たとえば、ある画家が同じ画家の作品を評する場合、批評対象となる画家の父親が時代を代表する主要美術誌の経営者だったりしたら、「あとあとのことを考えるとさ、うっかりしたこたぁ書けねえぜ」……と思うにちがいない。だが、その作品をどうしても気に入らない場合は、遠まわしに皮肉っぽい評論を書くか、イヤミったらしく褒めに褒めるか、あるいは当該の作品評をあえて避け、これから先の表現についての希望や展望を書いて逃げたりするのだろう。
 長崎村字新井1832番地(のち長崎町1832番地=現・目白5丁目)に中央美術社を創立した田口掬汀(田口鏡次郎)は、同じ広い敷地内へ息子のために乳母もいっしょに住める大きなアトリエを建設している。息子とは、以前に淡谷のり子Click!の怪談話に登場した、二科の田口省吾Click!のことだ。父親の田口鏡次郎が美術誌「中央美術」の経営ばかりでなく、編集の責任者までつとめているとなると、執筆する人々の批評は、こと息子の田口省吾に関しては“萎縮”して甘くなっただろう。ましてや、「美術大鑑」や「美術全集」をも出版しているところともなれば、もし息子をけなすようなことを書いて、万が一にも自分が選ばれず収録から漏れたらタイヘンだ。
 しかも、同社が主催する中央美術展で息子の作品をお手盛りで入選させ、二科会の有力者との太いパイプまで形成されてしまうと、同誌に批評を載せる執筆者はいろいろと気をつかわなければならない。たとえていうなら、TV局の経営者が俳優になった息子を自局のドラマへ無理やり出演させ、映画界との太いパイプを利用しながら映画賞の受賞まで働きかけている、というような構図に見えるだろうか。どんな失敗をしても、プロデューサーでさえ文句をいえない状況……。息子がかわいいのは理解できるし、親としての身びいきもわかるけれど、周囲はつかわなくてもいい気をすり減らさなければならないので、少なからず辟易したのではないか。
 以前、外山卯三郎Click!里見勝蔵Click!を評して「野に咲くアザミの花」と書いた、1928年(昭和3)発行の「中央美術」2月号をご紹介Click!したが、同号には中川紀元Click!による田口省吾評が掲載されている。当然、原稿は父親である編集長がチェックするので、5歳年下の田口省吾を批評するのに細心の注意を払っている表現だ。同号の中川紀元「眉目秀麗・挙止端正」から引用してみよう。
  
 田口君は人も知るとほり「中央美術」の息子である。お父さんが眼に入れても痛くない、世に仕合せな息子さんである。/彼資性温厚よく人と和し、加ふるに眉目秀麗、挙止端正にして正に貴公子の風がある。そんじよそこらに秘かに彼に思を寄せるモダン・ガールが定めて多数のことゝ思ふ。/しかし省吾君ももう部屋住の齢でもない。お仲間も大抵は嫁さんを取つて収まつて居るのだから、この辺で一つ何とかいゝ人を一人きめたらどうかと思ふ。あのゆつくり構えてゐた亜夫君もいよいよ目付かつた様子だからね。/君も以前兎角身体が弱くて幾度も切開の大手術を受けたりしたが、この頃はすつかり丈夫になつたのは何よりだ。/田口君が二科会へはじめて入選したのは確か震災の年だつたと思ふ。あの頃のことを考へるとその後の君の進歩は著しいものだ。家があれだからいつも新しい西洋の本や絵なぞを見る便宜はあるし、立派な画室で何の心配もなく只管絵だけ勉強してゐればよいのだから何としても境遇は結構なものだ。
  
 「亜夫君」とは、1930年協会に参加していた鈴木亜夫Click!のことだ。この文章はヨイショしているようでいて、読みようによっては皮肉たっぷりに書き綴った文章ともとれるだろう。中川紀元が、はからずも文中につかっている「家があれだから」というワードは、画家の仲間うちで羨望と軽蔑と揶揄の入り混じった表現として、田口省吾を語るときに用いられてやしなかっただろうか?
中央美術192802.jpg 田口省吾1928.jpg
中央美術192708.jpg
 つづけて、中川の「眉目秀麗・挙止端正」から引用してみよう。
  
 「田口の絵はすこしあまい」といふやうなことを云ふ者が以前にはあつたが、自分は省吾君にそのあまさをこれからもモツトあまくして欲しいと注文する。どうもイヤに萎びた貧粗な絵が多すぎる。砂糖が足りなくてからくなつたからさは困る。/田口君のあまさは一つは普段のその豊かな生活から来てゐるだらうが、大体画面にくばる用意の極めて緻密なところに原因してゐるやうに思ふ。君の絵にはやりつぱなしがない。砂糖やダシをよく効かせてゐる。そしてすつかり火を通して煮つめる。支那料理だ。/省吾君は頭がいゝ上にうまい技巧を持つてゐる、現代美術の精神をよく呑込んだ新時代の画家であると同時に、そのほか文学演芸音楽等すべての事柄に興味と理解を持つ好個のゼントルマンである。
  
 これも、読みようによっては「カネ持ち息子の手ずさび」と書いているようなニュアンスが感じられる。確かに、当時の画家たちの顔つきと比べてみると、田口省吾のマスクは「眉目秀麗」かどうかはともかく、女性うけするような非常に甘い表情をしている。
 この文章が書かれた時期、田口はほとんど毎日、午後になると通ってくるモデルの霧島のぶ子(淡谷のり子)をモチーフに、せっせと筆を走らせていたころだ。淡谷家は、雑司ヶ谷(現・南池袋)の東洋音楽学校(現・東京音楽大学)にも通いやすく、画家たちのアトリエも近い下落合や上落合の借家で暮らしていた。前々年の1926年(大正15)から、淡谷のり子は田口省吾の学費援助で休学していた東洋音楽学校へ復学し、生涯の師ともいうべき久保田稲子から徹底した歌唱指導を受けるようになった。
 また、前田寛治Click!から専属モデルの霧島のぶ子(淡谷のり子)を貸してくれと頼まれ、田口は快く承諾はしたものの、だんだん彼女のことが心配になり、気が気ではなかった時期でもある。1928年(昭和3)の秋、前田寛治は第9回帝展に彼女をモデルにした『裸婦』を出品している。田口にしてみれば、里見勝蔵のお気に入りモデル・中村恒子Click!のように、片時も離れずそばでマネージャーのように、いっしょにいたかったのではないか。
中央美術192211.jpg 中央美術192506.jpg
中央美術192803.jpg 中央美術192811.jpg
田口省吾1932.jpg
 さて、周囲の画家たちは当時、田口省吾のことをどのように見ていたのだろう。前田寛治と同じ1930年協会Click!木下義謙Click!が、友人の田口省吾の様子についてのちに証言している。1989年(昭和64)に文藝春秋から出版された、吉武輝子『ブルースの女王 淡谷のり子』から引用してみよう。
  
 「『おのぶは東洋音楽学校の声楽家の学生だが、稀にみる美声の持ち主で、将来を嘱望されているそうだ。だが、家庭の事情で一時休学して、モデルで稼いでいるらしい。おのぶなら必ず声楽家として成功する。そのためにも、ちゃんと学校に通わせてやりたいと思う』/と、無口でおとなしい男にしては、珍しく興奮気味で、饒舌になっていた田口省吾のことをよくおぼえている。/『あいつは、ひょっとしたら、女嫌いなのではないか』/と噂されるほど、それまでの田口省吾にはスキャンダルめいたはなしが一切なかった。/最初は、淡谷のり子の才能に惚れこみ、次第に淡谷のり子という女性に惚れこむようになっていったのではないか。結婚を真剣に考えていた時期もあったが、それは所詮かなわぬ夢であった。息子の画才に夢を賭けていた父親は、裕福な家の娘と結婚させる心づもりでいた。貧乏は才能の最大の敵だというのが、掬汀(田口鏡次郎)の不動の信念でしたからね」/と、かつて田口省吾と親交があり、現在、一水会の審議委員をつとめている木下義謙は、過去を追憶する。(カッコ内引用者註)
  
 田口省吾が、音楽家としての彼女の才能を見抜く眼差しは確かだったようで、淡谷のり子は東洋音楽学校が開設されて以来、初めての女性首席として卒業している。だが、父親をうまく説得するすべを知らない焦りが、そして自分の思い通りにことが運ばないイラ立ちが、甘やかされて育った野放図な“自我”とあいまって、前後の見境なくモデルをつとめる淡谷のり子へ襲いかかるという、致命的な失態を演じてしまったように見える。
田口省吾アトリエ跡2.JPG
淡谷のり子1929.jpg 淡谷のり子1931.jpg
 もし、アトリエでオバカな行為におよばず、父親を少しずつ説得して、あるいはどうしても説得できなければ、彼女と駆け落ちしてまでもいっしょになっていたら、まったくちがうその後の人生が田口省吾の前に開けていただろう。たとえ、「田口の絵はすこしあまい」ままで作品の売れいきはよくなかったにしても、クラシックにジャズ、ブルース、のちにシャンソンとジャンルを股にかけて稼ぐ女房が傍らにいれば、失意のうちにわずか46歳で死去することもなかったように思うのだ。

◆写真上:長崎町1832番地(現・目白5丁目)にあった、田口省吾アトリエの現状。
◆写真中上上左は、1928年(昭和3)発行の「中央美術」2月号に掲載された中川紀元「眉目秀麗・挙止端正」。上右は、同じころ撮影された田口省吾のポートレート拡大。は、1927年(昭和2)発行の「中央美術」8月号の奥付。中央美術社の所在地は、編集部のある長崎ではなく営業部の京橋になっている。
◆写真中下:年代別にみる「中央美術」の表紙で、1922年(大正11)11月号(上左)、1925年(大正14)6月号(上右)、1928年(昭和3)3月号(中左)、同年11月号(中右)。下は、1932年(昭和7)に長崎町1832番地のアトリエで撮影された滞仏から帰国後の田口省吾。
◆写真下は、霧島のぶ子(淡谷のり子)が目白通りをわたり下落合側から田口省吾アトリエへ通った道筋。下左は、1929年(昭和4)に撮影された東洋音楽学校卒業時の淡谷のり子。下右は、大岡山へ家族とともに新居を建設した1931年(昭和6)撮影の淡谷のり子。

郊外へとつづくトンネルはあったか?(上)

$
0
0

根津山01.JPG
 わたしは何度か、そのウワサを資料で断片的に見かけたことがあり、また周辺にお住まいの何人かの方から、お話をうかがったことがある。当初は、戦前あるいは戦中に生まれた、ありがちな「都市伝説」のひとつではないかと半信半疑だった。でも、戸山ヶ原Click!にこれまで60数本の地下トンネルが発見されて埋められ、あるいはそのままフタをされたという事実を知るにつけ、ありえない話ではないと思いはじめていた。
 当初は昭和初期、明治通り(環5)沿いに造られたとみられる、大人が立って歩けるほどの高さをもつ地下共同溝(電力や通信のケーブル埋設用)が、どのような使われ方をしているのかに興味を持ち、ときどきヒマを見つけては資料に当たっていた。明治通り沿いには、建設当初から電力ケーブルの電柱や通信線の電信柱が建ち並び、地下共同溝には埋設されているようには見えなかったからだ。また、まとまった記述のある資料がないかどうか、新宿区や豊島区の資料をときどき参照してきた。でも、そんなウワサ話をまともに取り上げている論文や書籍は、これまで目にしたことはなかった。
 そのウワサとは、「学習院の地下から東京西北部の郊外まで、戦前に皇族退避用の地下トンネルが掘られていた」というものだ。地元の事情に詳しい、何人かの友人知人に訊ねても「ありえるねえ」という答えは返ってくるものの、「裏づけや証言として、こういう資料が残ってるよ」という、具体的な指摘や規定は皆無だった。ところが、ひょんなことから敗戦直後の根津山をテーマにした小説を読んでいて、学習院から北上し郊外までつづくトンネルについて書かれていることに気づいた。
 わたしは昔から怪談Click!好きなので、江戸期から落合地域を中心に語られてきた、さまざまな怪談や奇譚、幽霊話などに目を通している。今年の夏も、そんなひとつをご紹介しようと、手もとにある本や資料をひっくり返していた。その中に下落合の北側、池袋駅近くの小学校に通っていたとみられる、作家の作品が収録された本に気がついた。2008年(平成20)にメディアファクトリーから出版された『怪談実話系』だ。同書に収録されている、小池壮彦『リナリアの咲く川のほとりで』には、学習院から根津山の下を経由し、東京郊外へと抜ける地下トンネルの話が記述されている。ちなみに、池袋駅前の広大な緑地は東武鉄道の根津嘉一郎が所有していたことから、根津山と名づけられている。
 『リナリアの咲く川のほとりで』は、「実話系」というおかしな「系」のショルダーが付加されているけれど、登場人物たちはあくまでもフィクションだと思うのだが、戦前はサーカスなどの見世物小屋が建ち、戦争末期の1945年(昭和13)4月13日の第1次山手空襲Click!とともに語られる、根津山に掘られた防空壕や空襲による犠牲者の遺体埋葬の話、そして戦後その場所には住宅やビルが建たず、長期にわたり原っぱになっていたのはフィクションではなく事実だ。その史的経緯の中で、洞窟に住みついた登場人物たちの話として語られている。時代は1950年(昭和25)前後と思われ、ここに登場する「都電」とは池袋駅東口から江戸川橋、さらに神楽坂方面へと抜ける、根津山を横断したグリーン大通り(G大通り)上の軌道のことだ。
震災復興道路計画模型.JPG
根津山1936.jpg
根津山1947.jpg
 小池壮彦『リナリアの咲く川のほとりで』から、少し引用してみよう。
  
 すぐ近くに都電が通っていて人が頻繁に通る道沿いなのに、大人は誰もその穴を知らなかった。知っていて忘れたふりをしていたのだろう。というのは、いまになって思うことである。覚えていても、よい気分になる記憶ではない。穴は防空壕の跡だった。その奥に道が延びていて、ミオの住処があった。さらに奥はまた別に(ママ)洞窟につながっている。私がよく知る洞窟は四つあった。雑司が谷から神楽坂までの道沿い、そこへ行くまでの都電通りの道沿い、巣鴨監獄からしばらく歩いた広場の横、池袋の都電通りの道路沿い。いまでも駅前から大通りが延びているのは、もともと都電を通すための設計だったからである。(中略) 池袋のG通りもそのひとつだが、この通りの付近はかつて根津山と呼ばれていた。そこにあった大きな穴は、近所の家族がいくらでも入れるような地下壕だった。昭和二十年に下町が空襲されたとき、次は山の手がやられるというので整備された穴である。(カッコ内引用者註)
  
 道路沿いに垂直に掘られた穴は、防空壕ではなく退避壕のことだろう。1945年(昭和20)4月13日の午後11時、米軍が公開した資料では330機(日本側発表は160機)のB29が、豊島や荒川、王子、足立、滝野川、本郷などの各地域へ絨毯爆撃を加えた。空襲は、翌4月14日の午前2時22分まで約3時間半にわたって繰り返された。死者は判明しているだけで2,459人、負傷者は4,746人、罹災した家屋は17万1,370戸余、罹災者は64万人をゆうに超えた。
 池袋駅周辺から雑司ヶ谷の住民たちは、広い草原と雑木林が拡がり大きな防空壕がいくつもあった根津山へと逃げこんでいる。当時の惨状を、1981年(昭和56)に出版された『豊島区史』(豊島区史編纂委員会)所収の、空襲時は雑司ヶ谷5丁目に住んでいた風間洋郎という人の証言から引用してみよう。
根津山1924.jpg
池袋駅(むさしの表紙)1924.jpg 怪談実話系2008.jpg
下水道?.jpg
  
 あれだけ多数の焼夷弾が落とされたのにことごとく根津山をそれて、直撃による死傷者は出なかった。しかし、周囲の空気が熱く林の中の空気が冷たいせいか、旋風が間断なく発生し、火の粉の竜巻が林の中を東西南北縦横無尽に走り抜け始めた。その風の強さは目撃者以外は信じられぬほどのもので、自転車などはまるで紙きれのように軽々とどこまでも吹き飛ばしたし、家財を荷綱で結びつけたリヤカーでも、ゴロンゴロンと十五、六間も転がしていったほどで、そこら中に積み重ねてあった避難者の家具や寝具は、火の粉の渦巻きとともに高く舞い上がり、あちこちの樫の木の枝に引っ掛かったまま燃えていた。次から次へと発生して根津山に入り込み、林の中を走り抜けて行く火の竜巻は……ただ立っていれば、吹き倒され転がされた。
  
 根津山にも、同年3月10日の東京大空襲Click!のときと同様に、火事竜巻が発生していたことがわかる。根津山の竜巻では1町(109m)も飛ばされ、地面に叩きつけられて死んだ女性が記録されている。火事竜巻が起きるということは、住宅密集地では大火流Click!も発生していたのだろう。根津山では、火の竜巻による犠牲者ばかりでなく、大きな防空壕に避難していた大勢の人々が大火災により急激に酸素を奪われ、全員が窒息して蒸し焼きになっている。すでにこちらでご紹介している、早稲田の夏目坂沿いにあった喜久井町の300人は収容できる大型防空壕Click!や、江戸川公園にあった大規模な防空壕で起きた大惨事と同じことが、根津山でも起きていた。
 この空襲で亡くなった人々の遺体は、周囲から根津山へ集められ、防空壕内の多くの遺体とともに仮埋葬された。だが、仮埋葬とはいっても実際に遺体を掘り起こし、身元を確認して本埋葬が行われたのは一部だけで、多くの遺体は当時から根津山に埋められたままだ。再び、『リナリアの咲く川のほとりで』から引用してみよう。
  
 (前略)焼夷弾は油を散らして燃えるから、通常爆弾の被害を想定した防空壕に入っても無駄だった。穴の中で押しくら饅頭になり、その上が火の海になったものだから、みんな蒸されて死んだのである。戦後になって穴は仮埋葬の場所と呼ばれたが、早い話がそのまま埋めたということだ。あそこにはまだ死体があるという話を子供の頃に私は何度も聞いた。大人になってからも聞くことがあった。死体があるならなぜそのままなのか疑問に思ったが、年寄りはこういったものである。/「掘れば骨の身元が問題になる。そのままなら行方不明ですむ」/空襲の後、家族で消えた人々がいる。地面が燃えたあの日以来、どこに行ったのかわからない。すべてなかったことにする。歴史からなくしてしまう。
  
 この空襲では、巣鴨監獄(東京拘置所)に入れられていた囚人たちが、安全な建物や場所へと避難させられている。ただし、避難を許されたのは通常の刑法犯などだけで、共産主義者や社会主義者、民主主義者、自由主義者、無政府主義者などの政治犯・思想犯は、大火災に囲まれた房内に監禁されたまま放置された。
根津山02.JPG
根津山19450402.jpg
根津山19450517.jpg
 防空壕跡や仮埋葬地となった根津山の跡地には、南池袋公園や隣接する本立寺の墓地などが拡張されて造られたが、1974年(昭和49)の公園改装工事の際、大量の白骨が見つかっている。同時に、防空壕とは別のコンクリート地下壕、すなわちトンネルが発見されているのだが、そのまま塩で清めただけで埋めもどされた。白骨は、北側のビル工事でも見つかったといわれているが、こちらも埋めもどされているので詳細は不明だ。問題は、何十年ぶりかで地中から姿を見せた、防空壕ではないコンクリートの構造物のほうだ。
                                  <つづく>

◆写真上:今年(2016年)にリニューアルオープンした、南池袋公園を北から南への眺望。正面の向こう側は、戦後に拡張された隣接する本立寺の新しい墓地エリア。
◆写真中上は、関東大震災の復興計画で立案された大正末の幹線道路断面模型にみる共同溝の様子。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる根津山。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された根津山で食糧増産の畑にされているようだ。戦後の区画整理により、道筋が全的に変更されている。
◆写真中下は、1924年(大正13)に池袋停車場から撮影された根津山(左端)。右端の太い煙突は、東京パン工場のものだろうか。中左は、上の写真が掲載された1924年(大正13)発行の「むさしの―武蔵野線沿道案内―」。中右は、小池壮彦『リナリアの咲く川のほとりで』が収録された『怪談実話系』(2008年)。は、学習院に保存されている関東大震災直後に撮影されたといわれる「下水道」施設の写真。照明用の電線と別の配線が天井と通路下に引かれ、どう見ても「下水道」には見えないのだが……。
◆写真下は、南池袋公園の東側に拡がる駐車場(?)の広大な空き地。1950年代には一部に住宅も建っていたようだが、解体されて現存していない。は、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲直前の4月2日にB29偵察機から撮影された根津山。は、同年5月25日の第2次山手空襲Click!直前の5月17日に撮影された根津山。池袋駅周辺と山手線沿いを、集中的に爆撃されている様子がわかる。

郊外へとつづくトンネルはあったか?(下)

$
0
0

根津山03.JPG
 2016年(平成28)に南池袋公園は再リニューアルされ、カフェテラスのある明るい公園へと生まれ変わった。池袋駅前(東口)の、防災設備も備えた豊島区の震災1次避難所としての役割りも果たすという。もはや、昔日の根津山Click!の面影はどこにもない。ただ、公園の東端にある空襲で亡くなった人々を慰霊するプレートのみが、戦災当時の記憶をとどめているのみだ。
 公園の南側には、戦後に改葬あるいは拡張された本立寺の墓地が静かに横たわり、東側はビルや住宅の立たない駐車場(?)のような広い空き地が拡がるばかりだ。以前の南池袋公園ほどに樹木はいまだ繁ってはおらず、公園の敷地全体が広い芝庭のような風情となった。まだグリーン大通りに都電が走っていたころ、夜間に根津山を通りかかると車窓から防空頭巾をかぶった大勢の人々が樹間に見えた……とかいうたぐいの怪談も、これからは語られにくくなるのだろう。
 1974年(昭和49)に行われた南池袋公園の再整備工事の様子を、1988年(昭和63)8月18日発行の朝日新聞に掲載された記事から引用してみよう。
  
 池袋根津山の白骨/公園工事で姿現し/塩で清め埋め戻す
 池袋周辺は(昭和)二十年代に行われた戦災土地復興整理で区画が大幅に変更され、根津山の雑木林も姿を消した。仮埋葬の遺体も別の場所に本葬された。その後、根津山の跡地に南池袋公園がつくられたが、四十九年の公園改修工事の際、コンクリート製の別の地下壕に行き当たった。その近くで、かなりの数にのぼるとみられる白骨が土中から姿をのぞかせていた。が、工事を急ぐあまり塩でお清めをして、そのまま埋め戻した、と当時の工事関係者は証言する。/やがて巣鴨プリズンも取り壊され、跡地には、戦後の繁栄の象徴ともいえる、日本一の高さを誇るサンシャインビルがそびえ立つ。しかし、夏休みの親子連れが歓声を上げて見下ろす繁華街の地下の片隅には、今なお本葬されなかった白骨が眠ったままでいる。(カッコ内引用者註)
  
 記事では、「仮埋葬の遺体も別の場所へ本葬された」と書きつつ、「本葬されなかった白骨が眠ったまま」と頭尾で矛盾した記述となっている。前者が、区役所または周辺住民への取材から得たとみられる情報であり(そう思いたかったのだろう)、後者が1974年(昭和49)現在に突きつけられた事実だということを示している。
 さて、記事中に見える「コンクリート製の別の地下壕」とはなんなのだろうか? 南池袋公園は、池袋駅東口のすぐ駅前であるにもかかわらず、戦後しばらくの間はビルや住宅の建たない空き地として放置されていた。1951年(昭和26)に南池袋公園として整備されるが、それまでは柵で囲われた広い空き地のままだった。コンクリートの地下壕は、朝日新聞の図版によれば公園敷地の最南端、本立寺の墓地との境界あたりで発見されている。
 ここで、再び小池壮彦『リナリアの咲く川のほとりで』のヒロインである「ミオ」に登場してもらおう。ただし、本作品は小説という形態をとっているので、戦後すぐに防空壕へ住みついた「ミオ」や「軍服」をはじめとする登場人物たちは、すべて架空の存在だと思われる。
  
 「その空き地よ」/ミオと軍服が同時にいって笑い声が起きた。夏に盆踊りをやる空き地。見世物小屋が出ることもある。ほかの目的で使われているのは見たことがない。ふだんは鉄条網で覆われている。駅前なのに、なぜいつまでも空き地なのか。あそこは国の持ち物ではなくてS鉄道の敷地ではないか、と担任の先生がいっていたかもしれない。もしくはS鉄道が国の土地を買ったのである。軍服によれば、爆弾が落ちたのは、まさにそこだった。地面に大きな穴が開き、疎開から戻った人たちが、よく見物していたものだという。やがて穴は埋められたが、もともとそこにあった地下の通路は確保された。通路の起点は、皇族方の通う学校である。その地下道と都電通り沿いの穴はつながっている。
  
根津山04.JPG
根津山1956.jpg
根津山1963.jpg
 文中の「S鉄道」は西武鉄道のことであり、「大通り」とは都電が走るグリーン大通りのことだろう。ここで語られている「皇族方の通う学校」は、目白駅前から環5(明治通り)へとつづく学習院のことで、学習院から根津山をへてグリーン大通りの地下へと抜けるトンネルの存在を示唆している。
 そもそも、このようなトンネルが存在するとすれば、航空機による空襲を防ぐ必要性、つまり防空の概念が顕著になった時期に造られたものだろう。すなわち、1930年代に入ってからということになるだろうか。池袋東口駅前から学習院前の千歳橋まで、環5(明治通り)が貫通したのは1932年(昭和7)、現在のグリーン大通りである、根津山を東西に横断する舗装道路(舗装されない道路は以前からあった)ができたのが1937年(昭和12)であり、そこに東京市電が開通するのは1939年(昭和14)のことだ。つまり、1930年代に入ってから、学習院と現在のグリーン大通りとの間は、あちこちで地面を大きく掘り返す工事中の風景が見られていただろう。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)によれば、この時期に町内各地で道路整備工事が行われている。
 『リナリアの咲く川のほとりで』の記述をそのまま踏襲すれば、根津山の空き地からトンネルはグリーン大通りへとつづいているわけだから、その南から北上してきていると思われる。つまり、学習院の東端から明治通り沿いを北上し、旧・雑司ヶ谷小学校あたりから北北東へ進路を変えて、グリーン大通り下の地下道へとつながっていることになるだろうか。ちなみに、現在の南池袋公園には東京メトロ・有楽町線が通っており、グリーン大通りの下には東京メトロ・副都心線が走っている。
 さらに、上記の副都心線の敷設コースがとても気になる。なぜなら、同線はあちこちでトンネルが発見された戸山ヶ原Click!のまん真ん中を通っており、学習院の東端をかすめて雑司ヶ谷から池袋駅へ、さらには練馬の郊外(小竹町/向原町方面)へとつづいているからだ。停車駅でいうと、「西早稲田」(陸軍戸山学校の北側=近衛騎兵連隊敷地)-「雑司が谷」(学習院東端の千登世橋際)-「池袋」(同駅地下)の西へとカーブを描くコースだ。南池袋公園へと向かう、明治通りの地下コースとは別コースになるが、戸山ヶ原に展開した陸軍各施設と学習院、そして郊外とを結ぶ非常に効率的なルートといえる。空襲でトンネルのひとつが崩落した場合、別ルートのトンネルをバックアップとして担保しておくのは、誰でも考えそうなことだ。
朝日新聞19880818.jpg
明治通り工事1932.jpg
グリーン大通り工事1937頃.jpg
 もうひとつ、面白い記録が残っている。1934年(昭和9)に、グリーン大通りの北側にあった陸軍による「東京在営諸兵隊対抗実地演習」の明治天皇「野立所」跡を、公園化する動きだ。同演習は1875年(明治8)12月27日に実施されたもので、「野立所」は南池袋公園からグリーン大通りをわたり、北北東へ100mほど離れた位置にある。1934年(昭和9)7月13日の読売新聞によれば、東京府と文部省はすでに「重大問題」として調査をはじめており公園事業化が進んでいた。
 こののち、「野立所」の土地は非公開のまま根津育英会が所有していたことになっており、1941年(昭和16)に同会が豊島区へ寄付し、豊島区が東京市へと寄付するかたちで、1943年(昭和18)に東京市立「根津山公園」として開園している。もっとも、当時は日米戦争が熾烈化する一方の時期で、根津山公園の開園は目立たないニュースだったかもしれない。
 さて、これをお読みの方はすぐに気づかれると思うのだが、文部省が公園事業化を決定してから、実際に根津山公園が開園するまで9年もの歳月が流れている。その間、たいして広くもない公園に、いったいなんの「工事」を施していたものだろうか? 根津山公園は、現在の副都心線のほぼ真上にあたる施設であり、現在では「明治天皇野立所碑」がポツンとニッセイ池袋ビルの裏に残されているだけだ。根津山公園の開園を伝える、1943年(昭和18)1月17日に発行された読売新聞の記事を引用してみよう。
  
 根津山公園を公開
 畏くも明治天皇には、明治八年十二月二十七日雑司ケ谷の地に行幸あらせられ、在京諸兵の対抗演習を御統監遊ばされたが、その御縁りの地、俗に根津山といはれる広潤な林野の一部を今度帝都の百八十五番目の公園「雑司ケ谷野立所」公園として市民に公開することになつた。/これは明治天皇の聖蹟地として昭和十六年七月根津育英会から地元豊島区へ寄附されたものを同十六年十二月同区から(東京)市へ寄附移管されたもので、(東京)市では直ちに工費四千六百円で装景工事に着手したものである。
  
 ここで不可解なのは、1934年(昭和9)に「重大問題」として事業化に着手したはずの文部省と東京府の姿が、まったく消えてしまっていることだ。表面的には、豊島区と東京市のみが登場しており、文部省と東京府は9年の間になんらかの“役割り”をすでに終えた……ということなのだろうか。
読売新聞19340713.jpg
根津山05.JPG
根津山06.JPG
 現在、南池袋公園では空襲の犠牲者を慰霊する「小さな追悼会」が毎年開催されている。再び『リナリアの咲く川のほとりで』から、主人公との初対面のときに射るような目つきで話す、「ミオ」の言葉を引用してみよう。「どうせ昔のことなんか、誰も知らなくなるから、知らないといっておけばそれですむのさ。すべてはなかったことになる。歴史からなくなってしまう。でもなくならないよ」。

◆写真上:南池袋公園を南から眺めた現状で、右手のビルはサンシャイン60。
◆写真中上は、空襲の焼け焦げとみられる跡が残る本立寺の石塀。は、1956年(昭和31)の空中写真にみる南池袋公園。は、1963年(昭和38)の同公園。
◆写真中下は、1988年(昭和63)8月18日の朝日新聞記事。は、1932年(昭和7)に撮影された目白通り(環5)工事。は、1937年(昭和12)に撮影されたとみられるグリーン大通りの舗装工事。池袋駅へと向かう東京市電は、いまだ敷設されていない。
◆写真下は、1934年(昭和9)7月13日の読売新聞に掲載された根津山記事。は、哀悼碑のある南池袋公園の東側で、高層ビルは豊島区役所の入る「としまエコミューゼタウン」。は、1995年(平成7)に設置された根津山の「哀悼の碑」。

Viewing all 1249 articles
Browse latest View live