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物語は限りなく紡がれて。

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 どこまでいっても終わりのない取材と調査と文章書きにとり憑かれて、この11月24日で丸12年になった。きょうの記事から13年目に入るのだが、2004年(平成16)から十二支がひとめぐりし、訪問していただいた方々(PV)は東京都の人口を、そろそろ超えようとしている。単純計算で平均すると、ひとつの記事に7,000人以上の方々がアクセスしてくださっていることになる。わたしとしては、とてもありがたいことだ。
11月25日 15:40現在
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 貝化石が産出する落合地域……、というか江戸東京の東京層(後期更新世)の時代から、各種の機械学習技術をベースとしたAIエンジンが普及しつつある21世紀の今日まで、さまざまなテーマや課題について書いてきたけれど、それでもこの地域の概要を“鳥瞰”したことには、まったくならない気がしている。……なぜ、だろうか?
 そろそろ、大量の資料類も手にあまるようになってきた。紙の資料類だけでも資料ボックスに13箱、参照した書籍は、図書館や資料館で閲覧したものをすべて除外するとしても、記事のテーマに絡んだ700冊を超える書籍が手もとにあふれている。そのほか、インタビューの録音データやメモ類を記したノートなど、そろそろ整理をしないと、わたしの部屋からあふれそうな気配だ。ひとつの記事を書くのに、現場を訪れて調査・取材するのはもちろん、参照するデータや文献はコピーした紙資料にして数枚で済むこともあれば、10冊以上の本を参照して資料が数十枚にわたることもある。
 こんなことを繰り返していれば、当然、資料の山に埋もれるわけで、本格的な画像&テキストデータベースでも構築しない限り、すべてのデータをすぐに参照できる環境を維持できなくなる。でも、仕事をしながら深夜や休日に調査し記事を書くのが精いっぱいの現状では、すべての資料を分類して整理し、ヒモづけしながら本格的なDBを構築するなど、夢のまた夢物語だ。そんな環境で困るのが、資料の出どころを訊ねられることだろうか。
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 できるだけ、資料の出典は書くようにはしているけれど、研究論文ではないので文章の末尾が「出典」あるいは「参考文献」だらけになるのは避けたい。たまに見かけるけれど、本文よりも注釈や参考文献のボリュームのほうが多いんじゃないかと思う研究論文がある。あれほど取っつきにくくて、読みにくい(読みたくない)文章はないと思う。どこか、机上で編集した“お勉強発表会”のような気配がして、“現場”のフィールドワークを重視したいわたしは、そして誰にでも理解できる文章で書きたいわたしとしては、できるだけ避けたい形式であり表現なのだ。
 だから、掲載の写真やテーマの支柱となる資料については本文、または末尾でできるだけ出典に触れるようにはしているが、その他の細かいことについては、落合地域の方々が周知のこととして、あるいはもう少し広く江戸東京を地元とする方々には既知のこととして、さらには「自分で主体的に調べてください」wとして省略するか、あるいはブログ内の関連記事にリンクを張って避けることになる。
 たまに、10年近く前に書いた記事の参考文献を訊ねられることがある。おそらく訊ねられた方は、リアルタイムでネット上に掲載され参照できる文章なので、執筆者に訊けばすぐにわかると判断されているのだろう。So-netのタイムスタンプ(記事の末尾に小さく表示されている)はわかりにくく、その記事が2005年とか2007年に書かれたものであることに気づかれないこともある。……さ~て、困った。
 その資料の記憶は鮮明にあるのだけれど、13箱(現在は14箱目に収納しているのだが)のどこかに、図書館でコピーした資料が埋もれているのか、あるいは資料館でメモした紙がいずれかの書籍に挟まっているものか、どこか博物館か資料館の紀要に記述があったものを記憶しているのか、仕事をお休みしてこと細かに調べるわけにはいかないのだ。
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 むろん、画像データベース化している資料はすぐに見つかるのだが、コピーや撮影が禁止の図書館や資料館、ある種の本に限りコピー・撮影ができない資料もゴマンと存在している。だから、ノートにメモ書きをせざるをえなくなるが、そのメモをいちいち画像データ化などしてない。(いまだ閉架閲覧室へは、PCやカメラの持ちこみ禁止のところが多い) データの入力や整理・収納、つまりデジタルライブラリーづくりに時間をとられ、かんじんの記事を作成している余裕がなくなってしまうからだ。そうなると、大学の研究者でも博物館の学芸員でもないわたしは“本末転倒”となり、仕事そっちのけでいったいなにをやっているのか、わけがわからなくなってしまう。
 そんな資料の山に埋もれながら、この地域についていくら書いても書き足りない気がするのは、おそらく表現のしかた、方法論ではないかと考えている。わたしの文章の基盤にあるのは、ある「出来事」や「事件」の展開とその結果ではなく、そこで暮らして生活をしていた「人」だ。歴史本や教科書、ときに報道記事などを記述するには、事実経過とその顛末を書くだけでこと足りるのだろうが、その時代のとある地点で生きていた人の“想い”まではすくい取れない。換言すれば、そこに登場する人々の想いや、広義の思想的な背景、生活観、社会観といったものが、わたしには非常に気になるのだ。
 だから、とある出来事や事蹟について書くということは、限りなく登場人物の“個”に寄り添い、その現場にいた人々の想いにフォーカスしていくことになり、時代や社会全体の状況へと敷衍化した鳥瞰的な眺めや、一般化された大状況的な記述から、結果的にどんどん遠ざかることになる。ましてや、4,000文字前後にまとめて、「1話完結」型で描くには、あまりにも荷が勝ちすぎるということだろう。
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 さまざまな人々の軌跡を追いかけ、彼らの“想い”を逐一あぶり出しながら、とある時代の状況を全的に象徴化させるのは、個としての「人」を追いかけるドキュメントではつくづくむずかしいと感じる。おそらく、その時代を代表する思想が都合よく数人の人物によって語られ、その時代を抽象化したような出来事や事件が起こり(それを人々が共有し)、物語の展開に有利な主人公または狂言まわし役が跳梁する、フィクションとしての「全体小説」的な手法をとらない限り、この地域のある時代を描いた(切り取ってプレパラート化した)、ないしは歴史を“鳥瞰”したというような感慨や充足感は、いつまでたっても得られないのかもしれない。
 でも、ある時代の「国民」とか「市民」、「町民」、「~階級」、あるいは「日本人」や「東京都民」、「新宿区民」、「淀橋区民」、「落合町民」などと、非常に大雑把かつ漠然とした“くくり”、人々の存在を易々と集約化し表現したコトバを主体Click!にした文章を書きたくないわたしとしては、このサイトの文章を1万本書いたとしても、落合地域とその周辺域、ひいては江戸東京の(城)下町Click!の事績を象徴的に描ききったとはまったく思えず、決して充足感は得られないような気がする。
 なぜなら、たとえ同一の地域や環境で生活し、同じ思想を共有している(と思いこんでいる)人々であろうと、その暮らしや生活観、社会観、ひいては感性的な認識にいたるまで、まったく同一のものとはなりえず、個々別々のはずだからだ。それを「同一」だと幻想・錯覚するところに、国家や組織、ときに誰かにとってまことに都合のよい記録や、恣意的な総括や、事実を歪曲した歴史が、無理やり形成されていくように思うからだ。
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 なんだか、グチとも弁解ともつかない文章になってしまったけれど、12年間もここの文章アップに縛られていると、どこか遠くへも行けないし、惹かれるテーマをじっくり掘り下げられないのも確かだし、データの使用領域がMAXを迎えそうだし(So-net会員なら5GBまで使えるのかな?)……ということで、再び気まぐれでナマケモノらしい好きなことし放題の生活にもどろうかと、あれこれ思案中のこのごろである。
 記事中の引用文は別にして、この12年間でほとんど初めて「である。」表現で文章を終えてみた。そう、この文末が「である。」で終わる、明治期の文語体を引きずる木で鼻をくくったような高踏・高級を装う論文調の文章が、わたしは大キライなの「である」。

◆写真:この12年間で、下落合(現・中落合/中井含む)地域から消えた風景いろいろ。


動物好きな画家たちのエピソード。

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 動物が好きで、いつも身辺にペットを飼っては、ときどきモチーフにしていた画家たちがいる。下落合753番地(のち741番地)に住んだ洋画家・三上知治Click!は、とっかえひっかえイヌを飼っていた。三上アトリエの東隣り、下落合741番地に住んでいた満谷国四郎Click!も庭先でイヌを飼っていたようで、親イヌの前で仔イヌがじゃれる『早春の庭』Click!(1931年)を残している。
 大正期から昭和初期にかけ、東京郊外では広めの住宅敷地にイヌを飼い、散歩をさせるのが大流行していた。イヌを飼うと必然的に散歩をさせなければならず、「生活改善運動」Click!をべースにした空気のいい郊外暮らしでの健康増進にはもってこいだったのと、当時は郊外に多く出没したドロボー除けClick!という切実な課題もあった。もうひとつ、血統書つきの洋犬を飼うことは、当時のセレブたちの仲間入りをすることであり、一種のステータス的な意味合いもあったのだろう。イヌを連れた吉屋信子Click!が、目白文化村Click!を毎日散歩していたエピソードClick!は以前にご紹介している。
 だが、あまり裕福でない画家がイヌを飼ったりすると、その経費が徐々に家計を圧迫して、台所をあずかる夫人がどんどん不機嫌になっていき、しまいには自分たちの食費よりもイヌの経費のほうが高くついてしまうというような事態が生じた。先の三上知治も次々とイヌを飼うが、最初は雑種犬だったもののすぐにコリー種を飼いはじめた。当時、コリーはめずらしく、散歩に連れ出すと「犬と羊と掛合せたものだ」とか、イヌとキツネの合いの子の「フオツクステリアだ」とか、さんざんひどいことをいわれている。
 フランスの遊学からもどったあと、コリーの次は「K伯爵」からもらった血統書つきのセッターを飼いはじめている。庭に立派な犬舎を建てて飼いはじめるが、これがとんでもないカネ食い虫ならぬカネ食いイヌだったのだ。その様子を、1931年(昭和6)に発行された「アトリエ」9月号掲載の、三上知治『犬の事など』から引用してみよう。
  
 早速庭の一隅に犬舎を建設した、広さは一坪半で二室に仕切り東と南は硝子窓にしたりなぞしてあら方百円かゝつた、僕としては分不相応の贅沢だ、後から聴いた話であるが英国ではセツター愛着家は犬舎の床をキルク張りにして被毛の痛まぬ様に注意するそうだが、私の家の六分板の床なぞは貧弱極るものだ、誰でも道楽となると金を惜まぬものケチケチして居たのでは道楽にならぬ訳だが、生物道楽はなかなか費用と時間がかゝるので時に家庭争議が起る、犬も病気をし初めるとチヨイチヨイ病気にかゝる Aが癒ればBがやるといふ風で獣医に払ふ金が毎月相当なものになる、御自分達の食料問題も解決し兼て居る様な貧乏絵かきにとつては大負担となる訳で勝手元から抗議を申込れるのも無理も無い、
  
 このセッターに仔イヌが生まれると、三上知治は友人の画家に上げている。だが、この友人の家では妻子よりもイヌのほうが大切にされるので、夫婦間ではしばしば不協和音の原因となったらしい。
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 確かにイヌを飼うと、犬舎の建設や毎日の散歩に加え、純血種だと病気に弱いため予防注射が欠かせず、残飯を与えるわけにはいかないのでイヌ独自のエサをつくらなければならない。当時は、現在のようにドッグフードなど出まわっておらず、いちいち栄養のバランスを考えて毎食つくらなければならなかった。
 また、一度病気になって獣医にかかり手術などを受けると、今日のようにペット保険など存在しないので、膨大な経費が必要になる。日本の雑種犬ならともかく、血統のいいイヌを飼うことはカネ持ちの道楽と考えられていた時代だった。つづけて、三上の『犬の事など』から引用してみよう。
  
 僕のセツターの仔を一匹友人に進呈したが折しも冬の事で仔犬は日中はアトリエの中に閉込て置きストーブは燃し詰め、夜は犬の寝床の中に電気あんかを入れてやる仕末(ママ)、仔犬はお構ひなく大小便を画室の中でやらかすといふ騒ぎ、友人は雑巾とバケツを持つて監督するといふ珍景を演じたものが、此の人二ケ月間の旅行から帰つて来て久振りで宅に入るや『犬は何うした』と諮いたものである、奥さんたる者犬の存在も(ママ)貴いか妻子の存在は第二かといふ問題に逢着したのである、或友人は仔犬がヂステンパーに掛つたので、いろいろ手当をしたが遂に呼吸器を買つて来て犬に吸入をかけたもので、子供には吸入もかけさせないのに犬の仔には吸入器を買つて来てやるんですよと奥様当座は知人を捕へて夫の非を鳴した、
  
 セッターのあと、三上は再びコリーを飼っているが、このイヌがちょっとオバカで団子を串ごと飲みこんで獣医学校付属病院へ入院したり、腹が減ってアトリエで油絵具の鉛管を食べてしまったりと、医療費のかかりが半端ではなかったようだ。また、コリーのいる庭が下落合を斜めに横断し、目白通りへと抜ける子安地蔵通りに面していたため、そこを通行する誰かれなしに激しく吠えかけ、しまいには騒音に腹を立てた近所の誰かに憎まれ、毒を盛られて死んでしまった。
 目白通りの北側、下落合540番地に住んでいた大久保作次郎Click!も、自邸や庭にいろいろな動物を飼っていた。その動物を写生させてもらいに通っていたのが、長崎1721番地から下落合604番地へ転居してくる牧野虎雄Click!だ。シラキジをはじめ、クジャクないしはシチメンチョウも飼っていた様子が画面からかがえる。牧野は、大久保邸で飼われていたシラキジが気に入ったのか、サイズの大きなタブローに仕上げている。1931年(昭和6)に発行された、「アトリエ」10月号のアトリエ・グラフから引用してみよう。
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吉田博「あうむ」1926.jpg 安井曾太郎『女と犬』1940.jpg
  
 牧野さんはビールを片手に未完成の作を眺めて居られる。「大久保君のところで白鷳(ママ:シラキジ)を描いたのです。自宅で筆を入れてまた大久保君のところへ出かけてまたやります」と語つた。
  
 相変わらずアルコール片手Click!に、作品を仕上げている様子がとらえられている。この当時はウィスキーではなく、まだビールだったようだ。この写真が撮影されたのは、時期的にみて長崎1721番地のアトリエClick!だろう。
 哺乳類や鳥類ではなく、昆虫が好きだった画家もいる。下落合801番地に住んだ鶴田吾郎Click!もそのひとりだ。ことに秋の虫が好きだったらしく、虫を入れた籠を携帯しながら旅行をするほどだった。1931年(昭和6)発行の「アトリエ」10月号に掲載された、鶴田吾郎『草雲雀』から引用してみよう。
  
 奈良の宿にも此虫を供に連れた、朝目が醒めるのは、いつも蚊帳の外にをかれた此虫の声からであつた、奈良のあさぢが原は、草雲雀が多い、武蔵野だけが多いと思つたが、奈良には沢山ゐる。/帰る時、急行列車の窓のところへ此虫をぶらさげてをいた、東海道をひたぶるに走つてゐる時、大井川のあたりで、ピリピリピリ――とまた鳴き出した、急行列車の突進して行く大音響の中にあつて、一つの虫が耳に充分入るだけ声を聞かしてゐるのだ、自分は一人で此籠を眺めて微笑させられたのであつた。
  
 鶴田吾郎が飼うクサヒバリとは、いまでも東京のあちこちで鳴き声を聴くことができる小型のコオロギのことだ。夏のセミ時雨は、早朝から夜中まで間近で鳴かれるとわずらわしいが、秋の虫の音は不思議とうるさく感じない。
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 三上知治が『護羊犬』を描いたころから、裕福な家庭でシェパードを飼うことが流行している。これは、別にシェパードの人気が急に高まったからではなく、軍用犬として陸軍へ寄付する“運動”が顕著になったからだ。上落合186番地の村山籌子Click!は、シェパードのブリーダーを副業にしていて、仔犬を下落合2108番地の吉屋信子Click!へ無理やり押しつけたらしく、息子の村山亜土Click!によれば「ずいぶんこわい」顔をされている。

◆写真上:下落合753番地(のち741番地)に建っていた、三上知治アトリエの現状。
◆写真中上は、英国産の大型犬アイリッシュ・セッター。は、1936年(昭和11)に自邸で飼っていたコリーを描いた三上知治『護羊犬』(版画)。
◆写真中下は、1934年(昭和9)に撮影されたシェパードをキャンバスへスケッチする三上知治。下左は、1926年(大正15)に描かれた吉田博Click!『あうむ』(版画)。下右は、1940年(昭和15)制作の安井曾太郎Click!『女と犬』。
◆写真下は、通行人へコリーが吠えたてた三上アトリエに接する子安地蔵通り。は、1931年(昭和6)9月に撮影された大久保作次郎邸のシラキジを描く牧野虎雄。

長崎で焼け残ったクサカベ絵の具工場。

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 少し前の記事で、池袋駅に近い豊島師範学校の焼け跡バラックで、酒場「炎」Click!を経営していた“チャコちゃん”こと、北村久子Click!について書いたことがある。その記事で、東京ではめずらしく戦災に遭わず、製造設備も含め戦後まで焼け残っていた、長崎のクサカベ絵の具工場についてご紹介していた。
 東京美術学校の門前で、画材店「佛雲堂」を経営していた浅尾丁策Click!は、クサカベ絵の具工場が無事なことを伝え聞き、戦後、すぐに取るものもとりあえず油絵の具を仕入れに出かけている。東京市街地にあった絵の具工場や、海外から絵の具を輸入していた画材商社は全滅してしまい、長崎のクサカベ絵の具はほぼ唯一、油絵の具を生産できる工場として貴重な存在になっていた。このクサカベ絵の具工場が長崎地域のどこにあったのかが、記事を書いた当時は不明だったのだが、わざわざ地元の資料を追いかけて調べてくれた、ものたがひさんClick!から工場の所在地をご教示いただいた。
 クサカベ絵の具工場は戦災に遭わず、「豊島区長崎5丁目15番地」で操業していたことが判明した。現在の住所でそのまま規定すれば、西武池袋線の東長崎駅を下車し、北北西へ直線距離で200mほどのところにある一画だ。しかし、まったく統一性がなく、なんら脈絡のない豊島区の町名変更や地番変更には細心の注意が不可欠なのは、以前、造形美術研究所Click!プロレタリア美術研究所Click!の所在地を探っているときに身にしみているので、今回もほどなく身体じゅうが警戒モードに入った。「長崎5丁目15番地」は、現在の住所位置とはまったく関係のない、かなり離れた別の場所だったのではないだろうか? ……わたしの予感は、的中した。
 戦後すぐのころ、すなわち1945年(昭和20)から1964年(昭和39)まで、「長崎5丁目15番地」は豊島区千早4丁目に接しようとする、千川上水Click!沿いの地番だったのだ。ほどなく、ものたがひさんから1964年(昭和39)に発行された、地番変更の資料をお送りいただいた。いまの住所でいうと、豊島区長崎5丁目32番地=「長崎5丁目15番地」であり、現在の長崎5丁目15番地から北へ250mも離れた町境の位置に当たる。前回も書いたけれど、なぜ豊島区が各時代にわたり、このようなわけのわからない地番変更をするのか何度経験しても、わたしには理解できない。
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 さて、敗戦直後にクサカベ絵の具を訪ねた浅尾丁策は、敗戦直前に亡くなった創業者・日下部信一に代わり会社の跡を継いだ、まだ20歳そこそこの日下部松助から打ち合わせがてら、かき氷を食べにいこうと近所の店へ誘われている。1996年(平成8)に芸術新聞社から出版された、浅尾丁策『昭和の若き芸術家たち-続金四郎三代記[戦後編]』から、かき氷屋の様子を引用してみよう。
  
 連日三十二、三度の猛暑つづきの一日であったので、松助君は氷を飲みに行こうと言って、すぐ近所の店へ連れていかれた。土間には縁台が並んで、氷と染め抜いた青い旗がダランと下がり時々微風に揺られていた。/ギラついた太陽から逃れるようにして中へ入る。古い家なので庇が長く屋内は薄暗い中で姉妹らしい二人が働いていた。家構えに似合わず両人とも可愛らしい美人揃い。ここの氷あずきはとても美味しいです、と注文してくれた。姉と覚しき女の子が、先刻飲んだばかりなのに、またまた、大丈夫ですかと、ニッコリほほ笑む、私は秘かに、ハハーン、松助君のお目当てはこれだナ、と思ったが、甘んじて山車になった。あずきを食べ終わると、今度はイチゴはどうですと言ってまた頼んだ。何のかんのと私は三杯。松助君は五杯平らげてしまった。この姉妹の兄貴が、現在美術ジャーナル画廊の羽生道昌さんであり、それから間もなく、迎えられて、クサカベ絵の具の営業部に入り、のち営業部長として大いに辣腕を振った。
  
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 余談だけれど、この年代の人たちがカワイイ女の子を発見すると、すぐに「美人」「美女」と書きたがるのは、どの資料や文章を読んでいても感じる共通項だ。とある下落合の古い資料では、ひとつの章立ての中に10ヶ所以上も「美人」「美女」が出てきて辟易することがあり、この方たちの年代が天地茂の「江戸川乱歩Click!美女シリーズ」の視聴率を支えていたんじゃないかとさえ思えてくる。w
 さて、このかき氷屋さんがあったのは、クサカベ絵の具工場の目の前を流れていた、比較的人通りが多かったとみられる千川上水沿いの表通りだろう。現在は、千川上水がすっかり暗渠化され、道幅も拡幅されて千川通りの下になってしまっている。
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 クサカベ絵の具は、もともと薬剤店から出発している。神田小川町で薬剤店を経営していた日下部信一が、扱う化学薬品や油、色素などから絵の具分野にまで手を拡げたのだが、神田小川町にあった本社の薬剤店は空襲で灰燼に帰した。幸か不幸か、本業ではない焼け残った長崎の絵の具工場が、クサカベのメイン事業へと成長していく。そして戦後の焼け跡で、いち早く貴重な絵の具を画家たちへ供給しはじめたクサカベは、国産絵の具メーカーとして不動の地位を築いていくことになる。

◆写真上:旧・長崎5丁目15番地のクサカベ絵の具工場跡。(撮影:ものたがひさん)
◆写真中上上左は、1945年(昭和20)の1/10,000地形図にみる長崎5丁目15番地のクサカベ絵の具工場。上右は、1957年(昭和32)の同地図にみるクサカベ絵の具工場。工場の建屋をリニューアルしたのか、建物が大きく描かれている。は、1964年(昭和39)に実施された豊島区の地番変更。長崎5丁目15番地が、32番地へ変更されている。
◆写真中下は、1960年(昭和35)作成の「住宅明細図」にみる「クサカベ油絵具製造KK」。は、1947年(昭和22)の空中写真にみるクサカベ絵の具工場。浅尾丁策が目にしたのは、この工場建屋だろう。下左は、1950年(昭和25)に撮影された千川上水で右手が当時の千川通り。下右は、クサカベ油絵の具のバーミリオン(No.166)。
◆写真下:1925年(大正14)から1928年(昭和3)にかけ、美術専門誌に掲載された各種絵の具の媒体広告いろいろ。は、1925年(大正15)の「木星」()と1926年(大正15)の「みづゑ」()から。は、1927~28年(昭和2~3)の「中央美術」から。

郊外風景にあこがれる千家元麿。

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 このサイトでは、詩人・千家元麿Click!の父親であり出雲王家の末裔である、東京府知事もつとめた千家尊福Click!のことについてはご紹介済みだ。出雲圏と南関東の江戸(エト゜=岬)圏とが、おそらく1600年ほど以前の古墳期以来、もっとも接近した事蹟だろう。ただし、その時代の「出雲」は、ナラから数日で“国境”にたどり着ける距離感、すなわち中国地方のほぼ全域(吉備南部を除く)から四国にまたがる、明治初年に千家尊福が“行幸”したエリアの巨大なクニだったとみられる。
 千家元麿は、尊福の子どもとして1888年(明治21)に乃手Click!の麹町で生まれている。父親に反抗して家出し「不良少年」となった彼は、上野や浅草を遊び歩いては新聞に短歌の投稿を繰り返しており、最初は歌人になりたかったようだ。次に自由劇場のイプセンを観て感激し、劇作家あるいは小説家になろうとしていたらしい。だが、1912年(大正元)の24歳のときに、決定的な出会いがあった。同年10月に、読売新聞社で開かれた「ヒュウザン会」(のちにフュウザン会)の展覧会で、岸田劉生Click!木村荘八Click!と知り合い、やがては武者小路実篤Click!との交流がはじまった。
 翌年から劉生、荘八、実篤、長与善郎、高村光太郎Click!など白樺派との交流が進み、次々と戯曲を発表している。千家元麿が本格的に詩作をスタートするのは、1916年(大正5)ごろからといわれている。そして、翌1917年(大正6)に30歳で発表した『自分は見た』(翌年に玄文社から出版)など16編の代表作で、詩人としての本格的な創作活動に入った。
 千家元麿の詩は、おもな代表作を読む限り性善的かつ楽天的で、いかにも白樺派の影響が大きい善意に満ちた感覚の作品が多い。岸田劉生や木村荘八と親しかったせいか、絵画にも強く惹かれていた様子がうかがえる。新潮社から出版された『日本詩人全集』(1969年)第27回付録に掲載の、中西悟堂「千家元麿と佐藤惣之助」から引用してみよう。
  
 画が好きで、ゴッホだのドーミエだのに凝っていたが、そのゴッホの墓に咲いていた向日葵の種を千家は誰からか貰って、その種から庭に生やし、これを大事に育てていた。飯能に千家を好きな青年がいて、或る日、千家一家が不在の日に訪ねたところ、草蓬々の庭である。ほんの好意からそこにあった鎌で綺麗に草を刈ったのは殊勝だったが、ゴッホの向日葵もさっさと刈ってしまった。あとで千家のしょげようといったらなかった。散歩の時もまっしぐらに風のように、チビ下駄で飛ばすせっかちの千家。無類に優しい孤独の目がいつも不安に閃いて休止符というものが碌にないのが、萩原朔太郎ともどこか似ていたが、その善意は底なしであった。地獄と天国を同時に持っていたような天真の詩人。そんな千家が、限りなくなつかしい。
  
 ここでは、千家が誰かからもらった、ゴッホの墓に咲くヒマワリの種が登場している。まったく同様に曾宮一念Click!も、誰かからゴッホの墓に植えられたヒマワリの種Click!をもらい、自宅の庭で育ててはよく作品のモチーフに使っていた。曾宮のケースは、1925年(大正14)にゴッホの墓参りをした佐伯祐三Click!から、帰国のフランス土産でもらったのではないかと想像していたが、もし千家と曾宮が同一人物からヒマワリの種をもらっていたのだとすれば、その人物は佐伯祐三ではない。曾宮一念は、京都で岸田劉生と待ち合わせをするなど、元・草土社の画家たちとも交流があったからだ。
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 ちなみに、劉生は千家の肖像画を描いていることが、1941年(昭和16)に河出書房から出版された岸田劉生『美乃本体』からもわかるが、作品がいまどこにあるのかは不明だ。ひょっとすると、“首狩り”Click!にあった千家が譲り受けて、そのまま行方不明になっているのかもしれない。同書所収の、「自分の踏んで来た道」から引用してみよう。
  
 次に真田氏の肖像、Y氏の肖像、千家兄の肖像、繃帯した少女の顔等の肖像画があるが、皆さういふ時期の製作である。だんだんに表現に新しい画らしい型がとれて行つて、大まかな筆ではあるが素直な自然の追求になつてゐる。真田氏の肖像や千家兄の小さい方なぞは、がつちりした感じが割に掴んである。
  
 劉生が描く千家元麿の肖像画は、同書にによれば大小2サイズの画面があるようだが、残念ながら日記に描かれた似顔絵しか発見できなかった。(冒頭写真)
 さて、千家元麿は詩人として華々しく詩壇にデビューし、処女作の『自分は見た』をはじめ『虹』(新潮社/1919年)、『野天の光り』(同/1921年)、『新生の悦び』(芸術社/1921年)など次々に詩集を発表している。芸術家には、初期に出した作品群で自己表現のすべてを出しきってしまう早熟型の人と、少しずつ作品を積み上げてはついに代表作と呼べる作品を生みだす晩成型の人とがいる。千家元麿は、中西悟堂が「その流れは初めに太く終りに細くなっている」と書くように、典型的な早熟タイプの詩人だった。
 千家元麿は、より理想的な詩作の環境を求め歩いたのだろうか、30代には頻繁に転居を繰り返す引っ越し魔だった。その転居先は巣鴨、池袋、練馬、長崎、落合と、東京の西北部を中心として頻繁に移動している。その様子を、『日本詩人全集』12巻(新潮社/1969年)の尾崎喜八の文章から引用してみよう。
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千家元麿1925根津山.jpg 千家元麿一家1927頃北荒井(要町).jpg
  
 彼はたびたび居を変えたが、多くは東京北部の郊外、都会と田園とが接触して一種独特な庶民的生活風景と憂鬱な雰囲気とを持つ巣鴨、池袋、練馬のあたりを、家族をかかえて転々と借家住まいしていたように思われる。しかもその間に画期的な『自分は見た』以後、『虹』、『野天の光り』など十冊の詩集に加えて、ほかに二冊の短篇と戯曲の集、一冊の随想集を次々と出版させた。この間に変調を来たして幾らかの空白の時も持ったらしいが、やがて大東亜戦争が始まって、昭和十九年には長男宏がビルマで戦死し、翌年三月糟糠の妻千代子が疎開先の埼玉県吾野の田舎で病没した。
  
 千家元麿の年譜には、その一部の住居が記載されているけれど、地名や住所の表記がかなりおかしい。そのまま転載してみると、彼は巣鴨村新田、鎌倉町大町、横浜、埼玉県飯能(夫人の実家)、大井町滝王子、豊島郡北荒井村(?)、長崎町五郎窪、下落合葛ヶ谷(?)、江古田2丁目、豊島区長崎町(?)、長崎南町(?)……などとなっている。これらは、千家が暮らした住所の一部とみられ、実際にはもっと転居先があるのだろう。
 この中で特におかしいのは「豊島郡北荒井村」で、このような地域は存在しない。豊島郡長崎町(字)北荒井のまちがいだろう。大正末から昭和初期に住んでいた住所なので、1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」を参照すると、長崎町北荒井489番地(現・豊島区要町1丁目)に、「千家」邸を確かに見つけることができる。この千家邸は、いまでは要町通りの真下になり消滅してしまった敷地だ。
 さらに、「下落合葛ヶ谷」も落合町葛ヶ谷の誤りで、千家が住んでいたのは落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)だった。この敷地は、オリエンタル写真工業Click!の第1工場から、東へ100mほど歩いた角地の一画だ。また、「横浜」や「豊島区長崎町」だけで地域名や字名がなければ、広大な街中のどこに住んでいたのかまったくわからず、「長崎南町」は1932年(昭和7)に東京35区が誕生した大東京時代に、長崎町の一部に誕生した新しい町名であって、それ以前に千家元麿の住所とするのは明らかにおかしい。このように、彼が頻繁に転居を繰り返したせいか、年譜の旧居記述はかなり混乱しているようだ。落合町も葛ヶ谷640番地の1ヶ所だけだったものか、さらに研究の深化を期待したい。
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 1925年(大正14)のことだから、そろそろ巣鴨町から長崎町への引っ越しを考えていたころだろうか、池袋駅の東口に拡がっていた根津山Click!をハイキングする、千家元麿をとらえためずらしい写真が残されている。草深い山道に腰を下ろした記念写真だが、千家は田畑や住宅地が拓け近くに里山が残る、このような風情の地域を探しては引っ越しを繰り返していた様子がうかがえる。そこには、いつも自然と人とが共存し、ときにはせめぎ合う「接点」のようなエリアの郊外風景が、各地域で展開していたにちがいない。

◆写真上:1922年(大正11)11月7日の『劉生日記』に描かれた、千家元麿の似顔絵。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」で確認できる千家邸。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる千家邸。は、長崎町北荒井489番地(現・豊島区要町1丁目)の千家邸跡の現状で要町通りの下になっている。
◆写真中下上左は、1918年(大正7)に出版された千家元麿『自分は見た』(玄文社)で装丁は岸田劉生。上右は、1941年(昭和16)に出版された岸田劉生『美乃本体』(河出書房)。下左は、1925年(大正14)に根津山を散策する千家元麿(右)。下右は、1927年(昭和2)ごろに長崎町北荒井の家庭で撮影された千家一家で、背後の自邸は西洋館のようだ。
◆写真下は、晩年の千家元麿。は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)界隈。は、同住所の現状。

神田川沿いの薬剤製造工場。

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 落合地域の川沿いには、昔から染色業や印刷業に加え、化学薬品を製造する企業や工場が多い。それは、神田川(旧・神田上水)の清廉な水質が、化学工業に適していたからだろう。たとえば、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)を参照すると、明らかに化学工業会社とみられる社名の企業や研究施設は、すでに5社を数えることができる。すなわち、坂上免疫剤(株)、亀井薬品研究所、三菱薬品研究所、池田化学工業(株)Click!、そして戸塚化学工業(株)の5社だ。
 『落合町誌』の「産業」章から、その一部を引用してみよう。
  
 旧神田川沿岸一帯は水質良好なる関係上晒染、製氷、衛生材料等、概して利水の工場多く設立せられて、工業地帯を形成す、商業は未だ賑はず、日用食料の小売業者多きを占む、昭和六年末町内に於ける会社の数は三十三社にして、其種別は株式会社十七、合資会社十四、合名会社二である。
  
 この事情は、神田川の南側に位置する戸塚町(現・高田馬場/早稲田地域)でもまったく同様で、1931年(昭和6)の『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)によれば、テーエス東京製剤(合資)や(合名)河中工業所などの工場名が挙げられている。
 また、神田川の北側に位置する高田町(1920年までは高田村)でも薬品製造の工場は早くから進出し、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)には、規模の大きな工場が紹介されている。以下、『高田村誌』の「工業地としての高田」から、水野製薬所についての紹介文を引用してみよう。
  
 大正六年五月中の創立に係り、場主は水野善一氏たり、現在生産品は炭酸マグネシウムにして即ち軍艦汽船の塗料剤及はみがき、ごむ製品材料としての用途に充つ。販路は日本内地及輸出向とし、刻下孜々として諸製薬研究の続行中に属せり。場所は高田五三四と成す。
  
 戦時中に、これら川沿いの工場は軍需品の製造現場となっていたので、B29による空襲の目標となり、ほとんどの工場が爆撃で破壊されるか、それ以前に空襲に備えた建物疎開Click!で郊外へと移設されている。戦後、いち早く復興したのも、これら神田川の水を利用できる沿岸の工場群だった。1955年(昭和30)に出版された『新宿区史』(新宿区)によれば、1949年(昭和24)の時点ですでに24社の化学薬品企業が操業をスタートしている。また、3年後の1952年(昭和27)には30社へと増えている。
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 現在でも、これら地域の神田川沿いには、製薬会社あるいは化学研究所は多いが、戦前はこれらの企業や研究所と軍部(おもに陸軍)が結びついている例も少なくなかっただろう。陸軍では、特に軍事機密(化学兵器)ではない薬剤に関しては、製薬会社に委託して研究開発を進めているケースが見られる。特に落合町をはじめ、中野町、戸塚町、高田町など神田川沿いの製薬会社や研究所は戸山ヶ原Click!も近く、陸軍の化学兵器開発の本拠地である陸軍科学研究所Click!や軍医学校などに近接していたからだ。
 さて、台東区が発行した資料『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正。昭和』第7巻に、薬剤店の息子が神田川沿いにあった神田和泉町の東京衛生試験場へ入所し、陸軍向けの毒ガス解毒剤を開発していた証言が残されている。当時、薬剤の専門家をめざすには、明治薬学専門学校か東京薬学専門学校のいずれかを卒業する必要があり、著者は1939年(昭和14)に明治薬専を卒業している。
 当初、陸軍は毒ガスの解毒剤を製薬会社に作らせようとしたが、採算が合わないと断られ、著者が入所していた東京衛生試験場で製造することになった。以下、同書所収の藤田知一郎「千束町二代、薬店から工業薬品へ」から引用してみよう。
  
 そのころ試験所では戦時医薬品を作れという事で、新しく製薬部っていう所が出来た時なんです。/この製薬部は三つに分かれていました。一つは窒息性毒ガスの解毒剤を作る所、一つは睡眠剤で今でいう精神安定剤を作る所です。これは戦場で狂う人ができるんでその安定剤なんです。もう一つは殺菌剤で、アメーバ赤痢の特効薬でキノホルムって有機性の薬品を作るところです。これはヨードチンキの代わりに傷にもきくんですが現在は発売禁止になっている薬です。/私は毒ガスの解毒剤を作る製薬部にまわされました。この解毒剤はロベリンというんですが、それまではドイツから買っていたんです。ところが当時で一グラム百二十円もするものですから、とても買い切れないので日本で作ろうという事になったんですね。製薬会社で作らせようとしたんですが、とても採算が合わないというので引き受けてがなくて、それでは国で作ろうという事になったんです。
  
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 もうひとつ、著者の文章には貴重な証言が含まれている。陸軍の召集令状である「赤紙」Click!については広く知られているが、「青紙」の役割りについてはあまり知られていない。陸軍の公式的な資料から「青紙」=“防衛招集”などと解説する資料もあるけれど、戦時中に「青紙」が果たしていた役割りはまったくちがう。以下、同書からつづけて引用してみよう。
  
 それから間もなく、五月になって軍から青紙が届いたんです。青紙というのは赤紙の召集令状が来る前の待機命令で足止めなんです。赤紙が来たら宇都宮の軍隊に入る事になっていました。それではというので覚悟して準備をしていましたら八月十五日の終戦になったんです。
  
 戦争も情勢が不利になってくると、「青紙」が居住地からの移動や地方疎開の禁止、つまり召集者へ「赤紙」がとどく前の“禁足”措置として機能していた様子がうかがえる。わたしの親父も話していたが、「青紙」がとどくと当人は現在居住している地点から移動できなくなり、転居や疎開Click!ができなかった……という証言とも一致する。召集予定の当人を除き、家族だけで転居や移動(疎開)ができない家庭では、そのまま親や妻、子どもたちも「青紙」にしばられて現在地へ残ることになる。
 この「青紙」により現居住地に“禁足”され、東京大空襲Click!山手空襲Click!などに巻きこまれて、その家族たちも含め生命を落とした人々がどれだけいたものだろうか。いまでは記録も残されてはおらず、「青紙」犠牲者のすべてが闇の中だ。
 また、製薬研究所や製剤会社へ陸軍が発注した劇薬がもとで、死亡した職員や社員がどれほどの数にのぼるのか、こちらも統計がないのでまったく不明だ。彼らは、単なる職場の「労災」として片づけられただろうが、まちがいなく戦争の犠牲者たちだ。
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 大正中期あたりから、さまざまな新聞や雑誌、書籍などの広告欄に製薬会社だけでなく、薬品を小売りする薬局の広告が急増してくる。このころから、いわゆる市販薬・民間薬の製造工場が川沿いを中心に急増し、高い診察料をとる医院にはかかれない庶民たちが購入するようになった。現代のように、「国民皆健康保険制度」が完備するのは、戦後の東京オリンピックが開催される3年前、1961年(昭和36)になってからのことだ。

◆写真上:現在でも神田川沿いには、大手製薬会社やケミカル会社が営業つづけている。
◆写真中上は、1919年(大正8)出版の『高田村誌』に掲載された水野製薬の媒体広告。は、1955年(昭和30)に撮影された田島橋下流の工業地域。は、上掲の写真とほぼ同じ位置からの撮影で戦後の下落合に設立された代表的なケミカル会社。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に作成された「各区便益明細図」にみる高田馬場駅周辺で、化学や製薬の会社・工場が各所に見えている。下左は、池袋の津村敬天堂が1928年(昭和3)に制作した媒体広告。下右は、大日本麦酒の製薬部門が1943年(昭和18)に週刊誌の裏表紙へ掲載しためずらしいカラー広告。
◆写真下は、1919年(大正8)の『高田村誌』掲載の薬局と医院の広告。は、中野区の写真資料館に掲載された昭和初期の薬局。なんだか副作用がたくさん出そうな薬局で、「わいは危険ちゅうわけやな」…とあまりこの店では買いたくない。w

高田馬場駅の階段でボケる小林多喜二。

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 小林多喜二Click!は、少し間をおいてうしろを歩く伊藤ふじ子Click!を笑わせようと、高田馬場駅の階段でわざとボケてみせている。1931年(昭和6)ごろのエピソードと思われるが、小林多喜二はおかしなことをして人を笑わせるのが好きだった。階段を上っているとき、2段上に下駄の歯が落ちていたのを多喜二がひろい、彼女に見せたあと自分の下駄の歯が取れたのではないかと、マジメな顔をしながらさかんに合わせようとしている。
 森熊猛と再婚後、1981年(昭和56)に死去した森熊ふじ子(伊藤ふじ子)の遺品から、小林多喜二のことをつづった未完の「遺稿」が発見されている。それを初めて収録したのは、1983年(昭和58)に出版された澤地久枝『続・昭和史のおんな』(文藝春秋)だった。小林多喜二の妻だった女性からの、初めての直接的な思い出証言だ。以下、同書から孫引きで多喜二の素顔をかいま見てみよう。
  
 人に言うべきことでない私と彼との一年間のことどもを又何のために書き残す心算になったのか、まして彼は神様的な存在で、この神様になってにやにやしている彼を、一寸からかってやりたい様ないたずら気と、彼がそれほど悲壮で人間味を知らずに神様になったと思い込んでいられる方に、彼の人間味のあふれる一面と、ユーモアに富んだ善人の彼を紹介し、彼にかかわって案外楽しい日も有ったことなど書きとめて、安心してもらいたかったのかも知れません。/元来彼はユーモリストと申しましょうか、彼の生い立ちとは正反対に、彼と一緒に居るとだれでも楽しくなるところが有りました。
  
 このあたりの証言は、上落合の村山知義Click!村山籌子Click!の息子である村山亜土Click!の、「ケケケ」と妙な笑い声を立てながら彼を捕まえようと追いかける、多喜二の姿(村山亜土『母と歩く時』)と少なからずダブってくる。
 さて、伊藤ふじ子が住んでいた下落合の家は、どこにあったのだろうか? 彼女の下落合における軌跡を、引きつづき追いかけてはいるのだけれど、残念ながら住所は相変わらず判明していない。それでなくとも、特高Click!に目をつけられていた彼女は、下落合では目立たぬように暮らしていたのだろう。彼女は画家になりたかったので、多喜二が築地署の特高に虐殺されたあとも、1932年(昭和7)から翌年にかけ従来と変わらずにプロレタリア美術研究所Click!へ通っている。
 ただし、彼女はこの時期、黒っぽいワンピースばかりを着ながら同美術研究所へ通っていた。小林多喜二と伊藤ふじ子の関係をよく知っていた秋好一雄は、夫が殺されたので大っぴらに喪服は着られないものの、喪服がわりの黒っぽいコスチュームだったのだろうと回想している。伊藤ふじ子は、「あんたが(小林多喜二の)女房だなどと言ったら、どういうことになると思うの」という、特高の残虐さを十二分に認識していた原泉Click!の忠告を守り、ひたすら多喜二との結婚を世間には隠しつづけた。
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 伊藤ふじ子は、1928年(昭和3)に画家になるため山梨から東京へやってくると、さっそく造形美術研究所Click!へ通いはじめた、同研究所の最初期からの研究生だ。1929年(昭和4)に長崎町大和田1983番地へ同研究所が移転すると、そのまま彼女は目白駅を利用して通ってきている。1930年(昭和5)6月に造形美術研究所がプロレタリア美術研究所Click!へと変わり、さらに1932年(昭和7)12月に東京プロレタリア美術学校Click!へ改称されてから憲兵隊に破壊されるまで、彼女は一貫して研究生だったことになる。
 また、伊藤ふじ子は絵画を習いに通いつつ、夫の死後に手に職をつけようと下落合で洋裁も習いはじめた。そして、彼女が通っていたクララ洋裁学院が、下落合1丁目437番地(現・下落合3丁目)にあったことがようやく判明した。大正期には、目白中学校Click!が開校していた敷地の中だ。
 わたしは、「クララ洋裁学院」Click!という看板を1970年代末の学生時代、確かに目白通りで目にしている。目白駅から歩くと、ほどなく目白福音教会Click!の手前左手の路地口にその看板は建っていたと記憶している。そのおぼろげな記憶をたどりながら、各年代の事情明細図に当たっていたところ、戦後1963年(昭和38)作成の「下落合住宅明細図」でついに見つけることができた。時代をさかのぼらせ、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、すでにクララ社の社主・小池四郎の名前が採取されている。クララ洋裁学院は、なんと2000年(平成12)まで存続していたらしい。
 クララ洋裁学院は、小池四郎の妻・小池元子により夫の出版社・クララ社が1932年(昭和7)以降に出版事業を停止したあと、家計を助けるためにスタートした学校だった。小池四郎のクララ社について、1983年(昭和58)に出版された『豊島区史』(豊島区)から引用してみよう。ちなみに、クララ社は高田町雑司ヶ谷1117番地(現・西池袋2丁目)の小池邸に設立されているが、昭和に入ると小池夫妻は下落合へ転居してきている。
  
 大正一三(一九二四)年、高田町大字雑司が谷字池谷戸浅井原一一一七(現在の西池袋二丁目二五番地)に、社会民衆党系出版社クララ社は小池四郎によって創設された。/小池は明治二五(一八九二)年東京に生まれ、東大<ママ:東京帝大>を卒業し、神戸鈴木商店の帝国炭業神の浦鉱業所に入所した。同所長を経て大正一一(一九二二)年同社木屋瀬鉱業所長に昇進したが、社会運動への思いを断ち切ることができず運動に身を投ずる決意で一三年退社した。その後帰京して始めたのがクララ社である。小池の思想をみるに、大学卒業後急速にマルクス主義に接近し、一時期は「公式通りのマルキシスト」(『無産運動総闘士伝』野口義明著、社会思想研究所、一九三一年)であったが、次第に社会民主主義への傾斜を強めていった。クララ社の運転資金はこうした時期に小池みずからが、準備したものであった。(<>内引用者註)
  
 クララ社の周囲には、社会民主主義者を中心に吉野作造Click!をはじめ安部磯雄Click!、片山哲、白柳秀潤、赤松克麿、宮崎龍介Click!、亀井貫一郎、鈴木文治、馬場恒吾などが集まって、盛んに執筆・出版を行っている。
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 伊藤ふじ子の住まい(下宿)は、おそらくクララ洋裁学院の近くではなかったかと想定している。そして、彼女はそこから同洋裁学院とプロレタリア美術研究所の双方へ通っていたと思われるのだ。彼女は、1933年(昭和8)11月30日にクララ洋裁学院を卒業すると、帝大セツルメントへ洋裁の講師として勤めはじめている。おそらく、小池四郎から帝大の吉野作造が設立した同施設への紹介だったのだろう。
 クララ洋裁学院の卒業年月日が判明しているのは、伊藤ふじ子の遺品の中に「右者本学院婦人子供服洋裁速成科ヲ卒業セシコトヲ証ス」という卒業証書が、たいせつに保存されていたからだ。元来、手先がとても器用だった彼女は、きわめて短期間で洋裁のコツを習得してしまったのだろう。森熊猛と再婚したあと、彼女の洋裁の腕は子どもたちの着るものも含め、生涯にわたり存分に発揮されることになる。
 小林多喜二との思い出をつづる発見された遺稿は、最後の「彼は」……という書き出しを消したまま止まっている。その直前の文章は、高田馬場駅でボケてみせるひょうきんな多喜二の姿だった。改めて、「遺稿」からそのまま引用してみよう。
  
 その時も面白いことが有りました。彼と高田の馬場の駅の階段を上っていました。すると二段上に下駄の歯が落ちていました。彼はそれをひろって自分の下駄に合わせてみるのです。私は腹をかかえて笑いました。だって階段の二段上に有った歯が下にいる彼のもので有るはずがないではありませんか。/彼は……
  
 伊藤ふじ子は、再婚した夫の森熊猛にさえ小林多喜二とのことを詳しく語ってはいない。それは、弾圧の嵐が吹きすさぶ中でふたりが出逢って結婚したとき、言わず語らず生涯の約束事のようにもなっていたのだろう。それが、ふたりの恋愛から結婚への経緯を知る友人知人たち(と彼らによる証言)を知らない、第三者による「ハウスキーパー説」(平野謙など)となって、1960年代以降に広まっていったのだろう。平野謙が「謝罪」(川西政明)したあとも、いまだこの“説”をもとに書かれている文章を見かける。
 ときどき訪問する、伊藤ふじ子の母親と彼女との会話が偶然耳に入り、森熊猛は彼女が多喜二の死後、彼の子どもを妊娠していたらしいことを知ることになる。だが、森熊自身はそれ以上深く知ろうとはしなかった。
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 もし、伊藤ふじ子があと数年生きて「遺稿」が完成していたら、これまで不明だった小林多喜二の日常生活や「地下生活」が、ずいぶん判明していたのではないかと思うと残念だ。「彼は」の次に、いったい彼女はなにを書きかけていたのだろうか? そして、プロレタリア文学の“神様”のように祀りあげられてしまった彼だが、もっとも近しい恋人であり妻が見た人間・小林多喜二の姿が、鮮やかに浮かびあがっていただろう。

◆写真上:「クララ洋裁学院」が建っていた、下落合1丁目437番地あたりの現状。
◆写真中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる小池四郎・元子邸(クララ洋裁学院)。は、1963年(昭和38)作成の「住宅明細図」にみる同学院。
◆写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみるクララ洋裁学院だが、建物が見えにくいので建設の途上だろうか? は、1944年(昭和19)に米軍のB29偵察機が撮影したクララ洋裁学院。は、学生時代に看板(左手)を見かけた学院の入り口。目白通りをはさんで向かいは、徳川邸(徳川黎明会)Click!の正門へと抜ける道筋。
◆写真下は、小林多喜二()と伊藤ふじ子()。は、再婚後の森熊猛とふじ子。

昭和二年四月下落合ニテ佐伯祐三君。

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 先日、笠原吉太郎Click!の三女・昌代様の長女である山中典子様Click!より、親戚の家で新たな画面が見つかったというお知らせを受けた。この11月に、山中様が東京にみえられた折に、さっそく画面を拝見した。風景画だということで、わたしは「下落合風景」を期待したのだが、残念ながら下落合を描いたものではなかった。
 もっとも、「下落合風景」じゃないことに落胆するのはわたしぐらいのもので、1930年協会にも出品し東京朝日新聞社の展覧会場で何度か個展を開いていた、笠原吉太郎Click!の新たな作品が見つかったことは美術の関係者、特に近代美術の領域では意義のあることだろう。さっそく、山中様が持参した写真の画面を拝見すると、笠原吉太郎が「満州」へ旅行したときに描いた、一連の中国シリーズの1作だということがわかった。描かれた人々は、明らかに日本の風俗ではない。
 絵筆をまったく使わず、ペインティングナイフだけで表現された画面は、どこかフォーカスがやわらかい独特な温かみと“丸み”を持っている。外山卯三郎Click!は、「一見すると、その作画が非常にスピードをもった一筆描きのように強く」(1973年発行の『美術ジャーナル』復刻第6号に所収の「画家・笠原吉太郎を偲ぶ」)と書いているけれど、わたしは逆に制作のスピードはともかく、キャンバスへ絵の具をやわらかく盛り上げて重ね、ていねいにのばしていく、絵筆の“さばき”による鋭角な表現の少ない優しいタッチの画面に見えている。だから、笠原作品を部屋に架けておいても、すんなり環境に溶けこんで落ち着き、しつこくて強い主張をしてこない。ホテルのオーナーに笠原ファンがいて、現在は閉業してしまった十和田湖畔のホテルの壁面に作品群を架けていたというエピソードをうかがったが、雰囲気のバランスを崩さない笠原作品は同環境に最適だったろう。
 新たに見つかった『満州風景』(仮)は、広い通りに面した大きな煙突のある工場(満鉄の工場だろうか?)を背景に、手前の歩道では女性たちが、リヤカーのような俥に積んできたとみられる果物か野菜を売っている。季節は、中国北部の夏のよう風情なので、売っているのは収穫したてのスイカかカボチャだろうか。佐伯祐三が描く風景画は、画角が“標準レンズ”に近いけれど、笠原吉太郎の画角はいつも広く28mmぐらいの“広角レンズ”を連想させる。これは、一連の『下落合風景』Click!や房総シリーズでも感じることだ。
 笠原吉太郎(下落合679番地)は、中国シリーズの作品を近隣(下落合680番地)に住んでいた高良武久Click!高良とみClick!夫妻に譲っていたらしく、その作品群は転居後の妙正寺川沿いにあった高良興生院(更正院)Click!、あるいは隣接する自宅の壁面にも架けられていたのだろう。神経症の治療が目的の病院に架けられる絵画としては、高良武久の希望にかなった画面だったのかもしれない。佐伯祐三Click!の、特にヴラマンク以降の画面などを病院の壁面に架けていたら、よけいに患者の病状が悪化しそうだ。
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 もうひとつ、わたしは山中様にお願いすることがあった。もちろん、笠原吉太郎が1927年(昭和2)4月に描いた、『下落合風景を描く佐伯祐三』のゆくえを探っていただくことだ。もっとも、この『下落合風景を描く佐伯祐三』というタイトルは朝日晃がつけたもので、実際のキャンバス裏には笠原吉太郎の筆致で「昭和二年/四月/下落合ニテ/佐伯祐三君」と書かれている。だから、笠原の記載を尊重するなら、『下落合ニテ佐伯祐三君』がタイトルとしては適切だろうか。第2次渡仏の4か月前、1927年(昭和2)6月に開かれた1930年協会の第2回展へ出品する、納邸Click!がほぼ竣工した『八島さんの前通り』Click!を描く1~2ヶ月ほど前に、下落合風景を写生する佐伯祐三をとらえた貴重な画面だ。
 2001年(平成13)に大日本絵画から出版された朝日晃『そして、佐伯祐三のパリ』には、同作の画面が収録されている。しかし、この画面がキャンバス全体なのか、それとも佐伯祐三の姿を一部分だけ拡大したものなのかが不明だ。しかも、朝日晃は同作の実画面を見ていないことがわかっている。朝日晃の文章は、もってまわった舌たらずの表現が多くてわかりにくいのだが、どうやら大日本絵画の編集担当者が笠原吉太郎の弟子のひとりを探しだし、その方が保存していた『下落合ニテ佐伯祐三君(下落合風景を描く佐伯祐三)』の画面およびキャンバス裏を撮影した写真をコピーに取り、朝日晃のもとへとどけた……というのが経緯のようだ。同書から、該当箇所を引用してみよう。
  
 その正確な理解導入は、小著の改訂、再版を担当してくれた小林格史である。小林は、《男の顔(K氏)》から、絵を指導されたという数少ないひとりの生存者から、佐伯とK氏は、下落合時代、知友し、K氏が佐伯のイーゼルに向って《下落合風景》を描いている写生姿を描いた――と、K氏の描いた作品写真の表裏コピーを持参、やがて互いに興奮した。新資料の発見、『佐伯祐三年譜』をはじめ、小著にも欠けていたひとつの小さな?の部分の裏付けである。
  
 K氏は、もちろん笠原吉太郎のことだ。笠原は下落合で画塾を開いていたが、その弟子のひとりに、のち外山卯三郎の妻となる一二三(ひふみ)夫人Click!もいる。
 同書に掲載された画面写真は、キャンバスとしてはサイズが不自然なので、実際の画面をトリミングしている可能性が高そうだ。写真を拡大して観察すると、笠原の画面にしては薄塗りのほうだろうか、絵の具の厚塗りらしい影が見あたらない。おそらく佐伯は、黒か紺の詰め襟のついた菜っ葉服(労働者着)にオカマ帽をかぶっているような姿をしており、足元は裸足に雪駄をつっかけているらしい。左手にパレットと4~5本の筆を持ち、屋外写生用のイーゼルにセットしたキャンバスは15号サイズだろうか。
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 佐伯がキャンバスに向かう背後には、当時、下落合の崖地(バッケClick!)で多く見られた、コンクリートの井桁状に組んだ擁壁が見えているようだ。明治末から大正期にかけて多用された大谷石の擁壁ではなく、このようなコンクリート擁壁はセメントのコストの低減とその工法技術が進歩した、大正末から昭和初期にかけて造られ、佐伯アトリエClick!の近くでこのような急角度の大規模な擁壁は、西ノ谷(不動谷)Click!のある西坂や徳川邸Click!の近辺と、青柳ヶ原Click!から諏訪谷Click!へとつづく入り口に見ることができた。1927年(昭和2)の4月現在、このような垂直に近いコンクリート擁壁を確実に見ることができたのは、後者の諏訪谷への入り口、つまり西坂の徳川邸とは“対岸”にあたる下落合721番地から843番地あたりにかけての急斜面ということになるだろうか。
 佐伯の立つ地面は、それほど傾斜しているようには見えないので、現在の風景でいえば聖母坂のかなり下(南側)のほうの、目白崖線の張り出しが途切れる付近であり、光線の加減から画面の右手が南で、佐伯は家々が建ちはじめた諏訪谷Click!ないしは北側の青柳ヶ原の方角、すなわち自身のアトリエがある方角を向いて制作していることになる。徳川邸の“対岸”にあった急傾斜のコンクリート擁壁は、前年の1926年(大正15)5月ごろに徳川邸のバラ園を描いた、松下春雄Click!『徳川別邸内』Click!でも背景の中に確認することができる。ちなみに、現存している佐伯の『下落合風景』シリーズClick!に、青柳ヶ原あるいは諏訪谷の入り口を崖線の下から描いたとみられる画面は見あたらない。
 笠原吉太郎の『下落合ニテ佐伯祐三君(下落合風景を描く佐伯祐三)』は、1926~1927年(大正15~昭和2)にかけて描かれたとみられる、3種類の佐伯祐三『笠原吉太郎像』Click!(1作は海外のオークションに出品されている)に対するお礼の意味もこめられていたのだろう。でも、笠原が本作を佐伯祐三に贈ったかどうかはハッキリしない。佐伯の遺品の中に本作は見あたらないし、いまでも行方不明のままだ。
 笠原吉太郎の弟子が同作を写真に撮っていたことを考慮すると、笠原アトリエにそのまま同作が残されており(佐伯へ本作品を贈り習作が残されていた可能性)、笠原が佐伯へ贈らなかった可能性、あるいは佐伯が同作を遠慮して受け取らなかった可能性もありそうだ。だとすれば、笠原吉太郎のご子孫のいずれかのお宅に(多くの作品がそうであったように)、木枠から外されたキャンバスが丸められたまま、クローゼットの中で眠っている可能性がなきにしもあらず……ということになる。
佐伯祐三「男の顔」(山發)1927.jpg 佐伯祐三「男の顔」1927.jpg
佐伯祐三「K氏の像」192705.jpg 徳川別邸内(部分)1926.jpg
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 山中典子様によれば、笠原家のご子孫の方々は、慶事や記念日など機会があるごとに集まってよくパーティーを開かれるということなので、その席で念のために確認していただくことになった。ときに笠原吉太郎の作品を持ち寄り、ホテルなどでミニ展覧会もされるとのこと。そのような機会に、クローゼットや押し入れの奥から同作か見つかれば、非常にうれしいのだが……。山中様からの吉報をお待ちしたい。

◆写真上:新たに発見されて額に入れられた、笠原吉太郎『満州風景』(仮)。
◆写真中上は、下落合の笠原アトリエで撮影された笠原吉太郎と美寿夫人Click!は、1929年(昭和4)11月15日~19日に東京朝日新聞社で開かれた「笠原吉太郎洋画展覧会」に出品された笠原吉太郎『神戸波止場ノ船』。
◆写真中下は、1927年(昭和2)4月に制作された笠原吉太郎『下落合ニテ佐伯祐三君(下落合風景を描く佐伯祐三)』。は、同作のキャンバス裏面。
◆写真下上左は、1927年(昭和2)制作の山本發次郎コレクションClick!佐伯祐三『男の顔』Click!上右は、海外オークションで見かけた別バージョンの佐伯祐三『男の顔』。中左は、1927年(昭和2)5月に描かれた佐伯祐三『笠原吉太郎像(K氏の像)』。同作は、笠原吉太郎の葬儀Click!の祭壇にも架けられている。中右は、諏訪谷入り口の崖地に建造された大規模な井桁状のコンクリート擁壁を描く松下春雄『徳川別邸内』(1926年/部分)。は、少し前まで西坂の徳川邸前に残っていた井桁状のコンクリート擁壁。

「サンチョクラブ」の壺井繁治。

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 大正期からさまざまな詩誌を通じて創作・発表をつづけ、戦前には詩壇でゆるぎない地歩を固めていた壺井繁治Click!だが、詩集が出版されたのは遅く1942年(昭和17)の『壺井繁治詩集』(青磁社)が初めてだった。日米戦争の開戦直後であり、落合地域から竣工したばかりの鷺宮の新築住宅へ転居する直前のことだ。詩人として本格的な活動をスタートをしてから、すでに20年近い歳月が流れている。
 香川県の小豆島で生まれた壺井繁治は、1917年(大正6)3月に東京へやってくると、翌月には早稲田大学政経学科へ入学している。だが、同大を出て会社員になるという両親との約束をさっそく反故にし、わずか10日で英文科への転科手続きをとってしまった。その迷いがなくすばやい行動から、当初よりたくらんでいた計画だったのだろう。当時、東京へ出さえすれば「勝ち」と考えていた文学志望者は、決して少なくはない。この時期、彼は早大に通うため牛込区弁天町に下宿している。
 そのうち、英文科への転科が実家にバレて送金を停止されてしまう。1918年(大正7)11月に学資稼ぎのため、アルバイトで勤めた東京中央郵便局の書留係で労働争議を経験し、前年に起きたロシア革命の衝撃とも相まって「階級意識」に目ざめたらしい。翌年、大正日日新聞に学業とバイトが両立できる給費生として採用されるが3ヶ月で退職、ついでに詩作には学歴は不要だと早大も退学してしまった。
 その後、さまざまな仕事や兵役(2ヶ月で「危険思想」の持ち主として除隊)を経験しているが、1922年(大正11)11月にプロレタリア文学の出版社だった自然社へ就職したことから、数多くの作家や詩人たちと知り合っている。関東大震災Click!が起きた1923年(大正12)から翌1924年(大正13)にかけ、萩原恭次郎Click!岡本潤Click!らと創刊した詩誌『赤と黒』や『ダム・ダム』などの詩作を残している。『赤と黒』は、スタンダールの同名小説をもじったタイトルではなく、コミュニズム(赤)とアナーキズム(黒)という意味合いだ。そして、翌1925年(大正14)に同じ小豆島から東京へとやってきた岩井栄(壺井栄Click!)と結婚している。
 さて、壺井繁治・栄夫妻は現在の新宿区エリアを転々としている。荏原郡世田谷町三宿で結婚したふたりは、すぐに戸塚町源兵衛へと引っ越してきた。同年2月に転居しているので、3月に京都からやってきた戸塚町源兵衛195番地の中原中也Click!と長谷川泰子とは、近所同士だった可能性が高い。壺井夫妻が下宿していた隣りには、小野十三郎Click!が住んでいた。この時期、壺井繁治はマルクス主義へ急速に接近したため、過激なアナーキストたちの黒色青年聯盟に襲われて重傷を負っている。
 ちなみに、萩原恭次郎と小野十三郎は、下落合(4丁目)1379番地(のち1973番地)にあった第一文化村Click!中央テニスコートの小さなクラブハウスにつづけて住んでいるが、箱根土地Click!と地主の宇田川家Click!とが係争していた土地の同施設へ、1929年(昭和4)秋に引っ越してくるのがアナーキスト詩人の秋山清Click!だった。このあたり、詩人同士の間で借家をめぐる情報交換が行われていたらしい気配がわかるけれど、秋山清は事前に情報を仕入れていたわけではなく、ひとりで下落合の目白文化村界隈を散歩しいて、偶然クラブハウスを紹介され借家契約をしている。おそらく、振り子坂Click!上の雑貨店から紹介された宇田川家の差配と、じかに契約を交わしているのだろう。
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 1928年(昭和3)に、壺井は三好十郎らと「左翼芸術同盟」を結成し、全日本無産者芸術連盟(ナップ)へ加盟するが、壺井夫妻は前年からすでに上落合503番地に住んでいる。1929年(昭和4)10月から、ナップ機関紙「戦旗」Click!の編集を引き受けるが、翌1930年(昭和5)10月に特高Click!に検挙され、翌1931年(昭和6)4月まで豊多摩刑務所に投獄された。この間、詩作の余裕がなかったのか、目立った作品は残されていない。そして、1932年(昭和7)6月に再び検挙され、2年後の1934年(昭和9)5月に保釈されたときには、「共産主義運動からの離脱」上申書を書いて「転向」している。
 この保釈を機に、壺井繁治・栄夫妻は上落合(2丁目)549番地へと転居している。以前にご紹介した、鶏鳴坂Click!の早稲田通りへの出口に近い一画だが、自宅の西40mの早稲田通りから少し入った路地には人気作家の吉川英治Click!(上落合553)が、西に100mほどの路地には詩人・川路柳虹Click!(上落合569)が住んでいた。壺井繁治は「転向」を表明しつつも、政府への抵抗をあきらめていない。1935年(昭和10)より、壺井繁治や中野重治Click!小熊秀雄Click!窪川鶴次郎Click!、江森盛弥、坂井徳三、新井徹、村山知義Click!、加藤悦郎、岩松淳(八島太郎)Click!らと「サンチョクラブ」を結成し、諷刺詩あるいは諷刺画を創作していく。メンバーのほぼ全員が、特高から徹底的にマークされている人物ばかりだった。
 1968年(昭和43)に出版された『日本詩人全集』25巻(新潮社)所収の小野十三郎の文章から、同クラブについて引用してみよう。
  
 (前略) ここ(サンチョクラブ)に拠って、諷刺の刃によって時代の風潮に対して最後の抵抗を試みた。それは人眼をそば立たせるほど行動的なものでなく、ささやかな心理的抵抗であったとはいえ、その後の壺井繁治の詩の形成にもかかわるところが大きい。自伝『激流の魚』の中で、彼(壺井)は当時のことを回想して、「今度サンチョ村という風変りな自治村が生れた。これは武者小路の“新しい村”のように人道主義的な砂糖の名産地でなく、“諷刺”というトウガラシの栽培をもって村の主要産業とする」という書き出しの、機関誌『太鼓』第二号に掲載された戯文調の宣言を紹介したあと、つづいて、諷刺詩というものに対する彼の考えを次のように述べている。…(カッコ内引用者註)
  
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 「諷刺詩」について、壺井繁治は現実に存在する矛盾をそのまま現象的に表現するのではなく、矛盾を形成する基盤となっている本質的な課題を、「発展的に拡大」してアピールすることであるとしている。彼が信頼を寄せた小熊秀雄と、ほぼ同じような「諷刺詩」のとらえ方をしているとみられるが、戦争と破滅への坂道を真っ逆さまに転げ落ちていく大日本帝国への、彼らのささやかな最後の止揚行為は、まったくの徒労に終わった。このあと、1942年(昭和17)9月に壺井繁治・栄夫妻は長年住みなれた上落合をあとにし、鷺宮の新居へと引っ越していった。
 壺井繁治は戦後、貯水の堰が破れたように次々と詩集を発表していく。それは、詩の奔流とでもいうべき創作活動なのだが、わたしの印象に残っている作品は、特高に検挙された人間(治安維持法違反者)は、病気になっても「マリア病院」(下落合の国際聖母病院Click!か?)からさえ断られる『神のしもべいとなみたもうマリヤ病院』(1947年)と、松川事件Click!を扱った『影の国』(1956年)だ。
 前者の詩は、あらゆる病院で断られた患者を受け入れてもらえるよう、「マリア病院」へあの手この手でアプローチするのだが、病院側はガンとして断わりつづけるという展開だ。あげくの果てに、患者を“島原の乱”の末裔に仕立てあげるという妙案を思いつき、「マリア様」の慈悲にすがろうとするのだが……。皮肉でおかしな『神のしもべいとなみたもうマリヤ病院』から、部分的に引用してみよう。
  
 雷も鳴らぬのに/天から名案が降って来た/物は試しだ、一つやってみようと/衆議は一決した//ああ、しかし/わが背水の陣から/マリア病院へと送ったわれらの軍使は/何時間かの後、すごすご引き返し/そして院長の回答を取次いで曰く/――今は徳川の時世ではありません/神の仕事も/この節赤字だらけで閉口しています/どうか皆様に悪しからず/われわれは再び唸らずにはいられなかった/――成程ねえ/――成程ねえ/――成程ねえ
  
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 さて、かなり以前に小熊秀雄が落合地域を散策しながら、スケッチした作品をご紹介Click!している。制作の時期からみて、おそらく上落合の加藤悦郎宅で開かれた「サンチョクラブ」の集まりへ参加したあと、アパートのある千早町1丁目30番地(旧・長崎町)への帰りがけに、付近の落合風景を写生しているのではないかと思われる。手もとには、上落合の特設市場を描いたとみられる『青物市場(上落合)』の1点しかないが、途中で下落合も通過しているはずなので、道すがらもう少し描いているのではないだろうか。

◆写真上:新婚早々に壺井繁治・壺井栄夫妻が住んだ、上落合503番地の現状。
◆写真中上は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる上落合503番地と同(2丁目)549番地。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる上落合503番地。
◆写真中下は、1959年(昭和34)に撮影された仕事部屋の壺井繁治。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合(2丁目)549番地。は、同番地の現状。
◆写真下は、1935年(昭和10)に撮影された「サンチョクラブ」の面々。は、肺結核で死去する直前の1939年(昭和14)に撮影された小熊秀雄。


幻の沼袋小学校と落合の明星小学校。

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 沼袋の駅から徒歩5分ほどのところにあった、私立沼袋学園(沼袋小学校)の所在地が判明した。沼袋学園は、三岸好太郎Click!三岸節子Click!夫妻の長女・陽子様Click!が通っていた小学校だ。野方町上鷺宮407番地の三岸アトリエClick!を出ると、500mほど離れた鷺ノ宮駅から西武線に乗り3つめの沼袋で降りて、北へ約300mほど歩いたところに沼袋学園(沼袋小学校)は建っていた。9歳の陽子様が転入した1934年(昭和9)現在の住所でいうと、中野区沼袋町201番地(旧・野方町下沼袋大下201番地)ということになる。子どもの足だと、たっぷり40分前後はかかる登校距離だろう。陽子様の長女・山本愛子様Click!が、中野区教育委員会へ問い合わせて調べてくれたのをご教示いただいた。
 陽子様が、地元の鷺宮小学校をよして途中から沼袋小学校へ転校したのは、同年7月に父の三岸好太郎Click!が急死したのと、母・三岸節子Click!の足が悪かったからだ。突然片親となり、しかも母親の足が悪いことで、陽子様の回想によれば生徒たちのイジメの標的にされていたらしい。鷺宮小学校は公立だが、沼袋学園は授業料の高い私立なので、父親のいない三岸家の家計を少なからず圧迫しただろう。それでも三岸節子は鷺宮小学校を避け、無理をしても娘を沼袋学園に通わせている。
 沼袋学園(沼袋小学校)は、東京都立教育研究所が1987年(昭和62)に編纂した『東京教育史資料体系』第10巻によれば、1927年(昭和2)12月16日に設立認可願いが東京府知事に提出され、翌1928年(昭和3)3月19日に認可が下りている。同年4月1日より開校しているとみられるが、戦時中に閉校となってしまい、20年とはつづかなかったと思われる。同校の様子を、1972年(昭和47)に出版された『中野区史・昭和編2』(中野区)から引用してみよう。
  
 沼袋小学校(沼袋町二〇一、沼袋学園内)
 本校は初め区内に於ける唯一の市立小学校であつた。元成蹊学園教授高野董氏が、小学校は半ば家庭的に半ば社会的に取扱ふのが自然であるといふ見地から、毎年十五名づつの児童を募集し、九〇名を以て限度とし、家塾的学校として、日本主義的精神教育を施すの目的を以て、小学校令に準拠して昭和三年三月十九日認可を受け、設立したものである。開校したのは同年四月一日であつた。/昭和十四年五月現在に於ては教員数八名。(男六名、女二名) 児童数五三名。(男二八名、女二五名) 卒業生五〇名である。
  
 成蹊学園は、目白駅を線路沿いに北へ300mほど歩いた、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の線路ぎわに建っており、最寄り駅は廃駅になった上屋敷駅だった。今村繁三Click!岩崎小弥太Click!中村彝Click!を支援していた中村春二Click!らが学校を創立・運営しており、当時の住所表記でいえば高田町西谷戸大門原1162番地(現・目白3丁目17番地)あたりに建っていた。ここで教諭をしていた高野董(ただす)という人物が、同学園を退職して沼袋学園を創立している。
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 成蹊学園はきわめて近代的な、自立した主体的な人間を育てるという教育目標を掲げていたので、高野董が理想としていた「日本主義的精神教育」とは校風が合わず、思想的な齟齬が原因で退職しているような気がする。高野が成蹊学園に残した著作の記録を見ても、裏づけや事実的根拠のない観念的な「精神論」や、国粋主義的な臭いを感じる。おそらく、近代的で合理主義的な成蹊学園の校風からは乖離し、学園内に居づらかったのではないだろうか。
 三岸陽子様は約3年間、沼袋学園に通っているが同級生はわずか3人だったという。卒業生が少ないせいか、同校を卒業してご健在の方はきわめて少ない。しかも、1941年(昭和16)に日米戦争がはじまると、ほどなく廃校(統廃合?)になっているようだ。20年足らずだった沼袋学園の歴史だが、中野区内で唯一の私立小学校ということで行政の記録に残っている。
 同じように、戦争の影響から短期間で廃校になってしまった小学校が、落合地域にも存在している。こちらは、私立ではなく公立の小学校だった。関東大震災Click!が起き、東京の市街地から郊外への人口流入が加速すると、落合地域では昭和初期に就学児童の急増から、次々と小学校が建設されている。1932年(昭和7)に下落合1丁目292番地の御留山Click!落合第四小学校Click!が建設されると、次は上落合へ5番目の小学校が建設されることになった。ところが、同校は「落合第五小学校」とはならず、なぜか「明星小学校」とネーミングされている。
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 明星尋常高等小学校は、1937年(昭和12)に上落合の前田地区Click!=上落合1丁目537番地(現・落合水再生センター内)に建設され、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失、ほどなく廃校になっている。戦後しばらくの間は、焼けた小学校の敷地で“青空教室”がつづけられていたが、1946年(昭和21)3月に正式に廃校と決定された。明星小学校の様子を、1998年(平成10)に落合第一特別出張所から発行された『新宿おちあい 歩く見る知る』所収の、望月肇「落合の小学校事情~幻の明星尋常高等小学校」から引用してみよう。
  
 明星尋常高等国民学校(1941年4月の国民学校令により小学校→国民学校)では戦禍がはげしくなった昭和十九年八月、小学三年から小学六年までの約三〇〇人の児童が群馬県の川原湯温泉に集団疎開Click!し六軒の旅館に分宿した。/終戦直前の昭和二十年三月、六年生は卒業のため、家や両親を恋しがる五年生以下の後輩をあとに引き揚げることになり、帰郷後、母校において卒業式が執り行われた。/そして、その直後の四月十三日未明(ママ:4月13日の空襲は同日午後11時すぎから翌14日の未明にかけて)の空襲で明星尋常高等国民学校の校舎はついに灰塵と化し、上落合方面では九十五人の犠牲者をだしたと聞いている。/この日の空襲では落合第二尋常国民学校(現在の落五小の場所)も焼け落ち、結局、落合ではこの二校が焼失したことになる。/(中略) 校舎が焼け落ちたことにより、明星尋常高等国民学校は当分の間、焼け跡の青空教室での勉強を余儀なくされたが、ついに昭和二十一年三月三十一日にて廃校となり、わずか八年余りの幻の明星尋常高等小学校となってしまった。(カッコ内引用者註)
  
 廃校になった明星小学校に代わり、戦後の急激な人口回復へ対応するため新たに落合第五小学校Click!が、中井駅前から移転した落合第二小学校の跡地へ建設されるのは、1954年(昭和29)4月になってからのことだ。明星小学校は、わずか8年ほどしか落合地域に存在せず幻の小学校となってしまった。
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 明星小学校は、明らかに戦争の犠牲になった学校で少し事情が異なるが、沼袋学園(沼袋小学校)が象徴的なように、大正期から昭和初期にかけ理想的な児童教育を掲げた学校が、東京郊外を中心に次々と誕生していた。沼袋学園でも、おそらく成蹊学園と同様に中等部を設置する予定だったのかもしれない。だが、林立する学校はどこも経営が苦しく、短期間しか存続しなかった学校も少なくないだろう。創立者の高野董は、陽子様が卒業したのち三岸家へ借金に訪れているが、戦後も同学園をつづけることは困難だったようだ。

◆写真上:明星尋常高等小学校があった、旧・上落合1丁目537番地あたりの現状。
◆写真中上は、1938年(昭和13)に発行された「中野区詳細図」にみる沼袋学園(沼袋小学校)。は、1935年(昭和10)ごろに陸軍航空隊によって撮影された沼袋学園。L字型の校舎や、体育館のような建物が見える。は、沼袋学園跡の現状。
◆写真中下は、1912年(明治45)の成蹊実務学校を描いたイラスト。南を向いて描かれており、遠景に「目白ステーション」や「学習院」の文字などが見え、左手には山手線が描かれている。は、1917年(大正6)ごろに撮影された成蹊学園(成蹊中学校/小学校)。は、1937年(昭和12)に上落合1丁目537番地に建設された明星小学校。
◆写真下は、1941年(昭和16)発行の「淀橋区詳細図」にみる明星小学校。は、1945年(昭和20)4月2日に米軍のB29偵察機によって撮影された明星小学校。11日後の4月13日、同校は第1次山手空襲によって焼失した。は、明星小学校跡の現状で落合水再生センターの処理施設となっている。

感応寺の「裏」側の秘密。(上)

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 目白通りの北側、下落合の北端と接するように建てられていた、安藤対馬守下屋敷Click!(寛政年間の呼称で、のち感応寺Click!境内)の北側(裏側)にあった字名にも残る「狐塚」Click!と、その周辺に展開する古墳群とみられるサークルについて書いたことがある。池袋駅西口から徒歩5分ほどの立地にもかかわらず、大正末から昭和初期の郊外開発ブームでも、また戦後もしばらくたった住宅不足の時代でも宅地化が進まず、草原のまま放置されていた南北の細長いエリアだ。その一部は上屋敷公園となって、現在でも住宅が建設されてない。
 ちょうど、狐塚に連なる古墳とみられるいくつかのフォルムは、雑司ヶ谷村と池袋村の境界にあたる位置で、金子直德が寛政年間に書きしるした『和佳場の小図絵』の記述とも重なる事蹟だ。だが、金子の記述にはもうひとつ、長崎村との境界にある「塚」の記述も登場していた。つまり、池袋村と雑司ヶ谷村の間にある記述は「池袋狐塚古墳群(仮)」でいいのかもしれないが、それでは長崎村が除外されてしまう……という課題だ。当該箇所を金子直德の原文から、そのまま引用してみよう。
  
 同屋敷(安藤対馬守下屋敷)後ろ(千代田城から見たうしろ側=北側)中程に鼠塚、又はわり塚共狐塚共云。雑司ヶ谷と池袋長崎の堺と云。(カッコ内引用者註)
  
 「鼠塚」「狐塚」「わり(割)塚」(割塚は全国に展開する、古墳を崩して道路や田畑を拓いた一般名称)が、それぞれ別個のものを指すのか、同一のものの別称なのかは曖昧だが、塚の規模やかたちを想定するなら、それぞれ別々の塚名と考えても不自然ではないことは前回の記事で書いたとおりだ。また、この文章では「雑司ヶ谷村と池袋村と長崎村」の3村境界にある塚ではなく、「雑司ヶ谷村と池袋村」および「雑司ヶ谷村と長崎村」の境界にある塚群……というような意味にも解釈できることに気づく。
 つまり、前回の記事では、戦後まで「狐塚」の残滓がそのまま存在していた、雑司ヶ谷村と池袋村(字狐塚)の境界一帯に注目していたけれど、長崎村側に近い境界は細かく観察してこなかった。そこで、さまざまな時代の空中写真を仔細に調べてみると、先の「池袋狐塚古墳群(仮)」よりも規模が大きなサークル群を、雑司ヶ谷村と長崎村(一部は池袋村にもかかる)の境界に見つけた。
 しかも、その一部は安藤対馬守下屋敷(幕末の感応寺境内)北辺の敷地に一部が喰いこんでおり、狐塚周辺で確認できるサークルよりもかなり規模が大きい。おそらく、安藤対馬守(それ以前に安藤家は但馬守Click!を受領)の下屋敷建設のとき、さらには感応寺の伽藍建立の時期に、大規模な墳丘がならされ(下屋敷地整備あるいは寺境内整備)、整地化されているのではないかとみられる。
 さらに、これらのサークル上にあったとみられる巨大な墳丘が、江戸期に描かれた図絵や絵巻物にも残されていることが判明した。ただし、絵図に記録された“山”や、絵巻に描かれた2つの後円部とみられる巨大なドーム状の墳丘が、空中写真で確認できる崩されたとみられるサークル痕のいずれに相当するのかは、裏づけの資料が乏しいので厳密には規定できない。それぞれの表現が、明治以降の洋画作品に見られる写実的な風景描写ではなく、日本画の“お約束”にもとづく構成的で、慣習的な表現を前提としているからだ。
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御府内場末往還其外沿革圖書1854.jpg
 さて、わたしが「なんだこりゃ?」と気づいたのは、1936年(昭和11)に目白文化村Click!上空から撮影された写真を眺めているときだった。江戸前期には全体が「鼠山」Click!と呼ばれた御留山(将軍家が鷹狩りをする立入禁止の山)一帯で、江戸後期からはその東側が安藤但馬守(のち対馬守)の下屋敷となり、幕末には感応寺の境内、その後は明治維新まで小さめな大名や旗本の屋敷、寺社の抱え地が64区画ほど設置されていた敷地の北側に、直径50m余のサークルを見つけたときだった。同年の写真でも、このサークルはちょうど円の内外を木立が取り囲み、内側には住宅が建てられていない。
 別の上空から撮られた写真も含め、さまざまな角度からサークルを観察すると、当初発見したサークル(便宜上サークル①と呼ぶ)の北側にも、同じぐらいの規模のサークルらしいフォルム(サークル②と呼ぶ)のあることがわかった。そして、1947年(昭和22)に米軍によって撮影された戦後の焼け跡写真を観察すると、サークル①の痕跡は地面の色が異なることで確認でき、サークル②はうっすらと円形に拡がる地面の、段差らしい影を確認することができる。
 さらに、翌1948年(昭和23)の空中写真を見ると、サークル②の左下(西側)の円弧部分へ、“く”の字型の道路が敷設され、驚くべきことに戦後のバラック住宅がサークル②の中心点に向かって、放射状に建設されているのがわかる。つまり、この時期まで道路を直線ではなく、なにか(おそらく地面の段差にもとづく以前からの地籍に起因)を避けるように“く”の字に敷設し、バラック住宅を放射状に建てなければならない、なんらかの地形・地籍的な制約があったと想定することができるのだ。
 わたしは見つけた当初、このサークル①と②の形状に夢中になっていた。地理的にみれば、これらのサークルは安藤家下屋敷の敷地にも喰いこんでいるので、南側の雑司ヶ谷村(雑司ヶ谷旭出=現・目白3丁目)と西側の長崎村(現・目白4丁目)とにまたがっており、『和佳場の小図絵』に記載された雑司ヶ谷村と長崎村の「堺」の記述に合致するからだ。また、幕末の『御府内往還其外沿革図書』の表現からすれば、東側から安藤家下屋敷に沿って細長くシッポのように西へ伸びた、池袋村の村境にもかかる規模だったからだ。
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 でも、1947年(昭和22)の焼け跡写真を拡大して観察するうちに、より重大なかたちに気がついた。双子のようなサークル①と②は、文字通りサークルにしか見えないことだ。つまり、後円部らしいフォルムは確認できても、古墳時代の前期に多く見られた前方後円墳の前方部が、サークル①と②には確認できない。たとえば、下落合摺鉢山古墳(仮)Click!新宿角筈古墳(仮)Click!成子天神山古墳(仮)Click!などの痕跡では、土地の起伏や道の敷設のしかた、戦災後の焼けの原の土色などから容易に前方部を想定することができた。しかし、サークル①と②は、どう目をこらしても前方部と認められる正円形からの張り出しが認められない。
 前方後円墳から帆立貝式古墳、やがては前方部を省略することが多くなった、古墳時代後期の双子のくっついた円墳かと思いはじめたとき、焼け跡の空中写真からこのサークル①と②を飲みこむように、もうひとつ別の大きなかたちがふいに見えてきたのだ。それは、東の池袋村から南の安藤家下屋敷、そして西の長崎村へとまたがる、全長180mほどの鍵穴型のフォルム、すなわち巨大な前方後円墳のかたちだった。しかも、この鍵穴型のくびれの両側には、「造り出し」跡とみられる痕跡までが確認できる。
 サークル①と②の構造物とみられるフォルムは、この巨大な前方後円墳の前方部へ重なるように造られていた様子がうかがえる。つまり、前方後円墳の玄室がある後円部はそのまま残し、玄室への入り口がある羨道部から前方部に向かってサークル②が、その南西側に残った前方部にはサークル①が造られた……という経緯に見えるのだ。
 このような古墳の築造法の場合、主墳である前方後円墳の被葬者のごく近親者(親族)がサークル①と②へ、あまり時代を経ず寄り添うように葬られた倍墳のケースと、主墳の被葬者の子孫たち、つまり古墳時代もかなり進み、新たに巨大な墳墓を築く非合理性や宗教観・慣習の変化から、先祖の大きな墓の一部を崩して土砂を流用し、円墳状の墳墓を形成したケースとが考えられるだろうか。
 また、まったく別の見方として、前方後円墳の被葬者とは敵対するどこかの勢力がこの地域を制圧して、既存の墳墓の土砂を削りとって流用し、ふたつの新たな双子状の古墳(円墳)を築造した……とも考えられなくはない。蘇我氏の墳墓といわれる、玄室が“丸裸”にされてしまった飛鳥の石舞台古墳や、出雲の「風土記の丘」Click!=宍道湖の湖東勢力圏に見られる一部の古墳など、墳丘が崩され土砂を別の用途に使われてしまったのが好例だ。
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 でも、もともとあったとみられる前方後円墳の重要な玄室部、被葬者が埋葬されて眠る大きな後円部を崩さず、前方部へ後円部よりも規模がやや小さめな墳墓を築造しているように見えるので、もともとの被葬者を尊重したなんらかのつながりのある親族・係累、あるいは子孫の墳墓ととらえるほうが自然だろうか。では次に、同時期あるいはリアルタイムに近い時代に残された、絵巻や図絵の「古墳」風景を検証してみよう。
                                   <つづく>

◆写真上:安藤対馬守下屋敷(のち感応寺境内)の西端で、現在でも道筋はそのままだ。
◆写真中上は、1936年(昭和11)に下落合の目白文化村上空あたりから撮られた空中写真。は、同年に撮影された別角度の空中写真。は、幕末の『御府内場末往還其外沿革図書』に描かれた感応寺が廃寺になったあと1854年(嘉永7)現在の同所。
◆写真中下:1947年(昭和22)の空中写真にみる同所()と、同じ写真に見つけたフォルムを描き入れたもの()。は、当時の道筋が残る安藤家下屋敷の北側接道。左手の敷地がかなり高くなっており、当初は切通し状の道だったことがうかがえる。
◆写真下は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同所。サークル②に沿って拓かれた“く”の字の道沿いへ、バラック住宅が②の中心に向かって放射状に建てられているのがわかる。は、サークル②西側にある“く”の字道の現状。は、サークル②の東端あたりで巨大な前方後円墳フォルムの玄室部に近い位置。サークル①②の双子山古墳が「鼠塚」で、巨大な墳丘を貫通する道を拓いた後円部が「割塚」と呼ばれたのかもしれない。

感応寺の「裏」側の秘密。(下)

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 金子直德(1750~1824年)が書いた『和佳場の小図絵』Click!は、上巻が1792年(寛政4)に、下巻が1798年(寛政10)に脱稿している。原本は、残念ながら失われてしまったようだが、いくつかの写本が現存している。よく知られているのが、早稲田大学図書館と上野図書館に収蔵されているものだが、上野図書館の写本には金子直德が監修し絵師に描かせた、絵図『曹曹谷 白眼 高田 落合 鼠山全圖(雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図)』が現存している。
 つまり、実際に安藤対馬守下屋敷が存在していた寛政期ごろに、同地域とその周辺をリアルタイムで写生した風景図ということになる。その絵図の左端に、安藤対馬守下屋敷が採取されているが、その北側に「鼠塚」と称する大きな双子の山が描かれている。江戸期の絵図は、縮尺も方角もアバウトであり、厳密な位置規定はしにくいが、池袋村の丸池Click!が描かれた池谷戸と安藤家下屋敷の間に、ちょうどふたつの形状がよく似た山が重なるように描かれている。この「鼠塚」と付された相似の双子山が、前方部へ新たに築かれていた円墳状の墳丘であり、1936年(昭和11)の空中写真でも薄っすらと面影が確認できるサークルのように思えるのだ。
 そうだった場合、双子山のベースを形成していた大規模な前方後円墳(180m超)の後円部は、すでに寛政年間には崩されて存在せず、農地あるいは屋敷地として開墾されてしまっていた……ということになりそうだ。この時期まで残っていたのは、双子山に見えるふたつの墳丘(円墳状)だけだった。また、字名に「狐塚」が残る一帯には、特にニキビClick!状の塚は描かれていないように見える。直径20~30mほどの墳丘では、絵図に採取するほどの規模ではなかったということだろう。換言すれば、「鼠塚」と呼ばれた双子の山が非常に目立つ、付近では伝承を生むまでの大きな存在だった……ということになる。
 また、安藤家の下屋敷南側に、「鼠山」とふられている点も興味深い。安藤家下屋敷が存在しない江戸前期には、同家敷地も含めた一帯が「鼠山」と呼称された御留山Click!(立入禁止の将軍家鷹狩り場)だった。厳密にいえば、寛政期の「鼠山」と呼ばれたエリアは安藤家下屋敷の西側へ移行しつつあり、安藤家下屋敷の南側(手前)、絵図では下落合の七曲坂が通う突き当たりは、すでに下落合村と雑司ヶ谷村旭出(あさひで:高田村誌)のエリアになっていたはずだ。それでも、「鼠山」と付記されているところをみると、いまだ寛政年間まで一帯を通称「鼠山」と呼称する一般的な慣習、ないしは地域的な概念が残っていた様子をうかがい知ることができる。その後、鼠山の概念は西側の椎名町Click!寄りへとずれていく。
 さて、もうひとつの風景画を見てみよう。江戸中期だから、おそらく『和佳場の小図会』の絵図よりもかなり前に制作されたのではないかとみられるのが、武家で俳人と思われる喜友台全角という人物が描いた『武蔵国雑司谷八境絵巻』(早稲田大学所蔵)だ。同絵巻の紙質や筆跡、画風、描かれている人物の風俗などから享保年間(1716~1735年)、あるいはその少し前と推定されている。寛政年間(1789~1801年)よりも、約70年ほど前に描かれたと想定されている作品だ。
 雑司ヶ谷とその周辺の8つの風景を収録した、いわば名所絵巻といったコンセプトの作品だが、その中に「鼠山小玉 長崎之内」という画面がある。画面には、「麺棒のこだまからむやつたかつら(麺棒の木霊絡むや蔦葛)」という秋の句が添えられている。蕎麦を打つ音が、蔦かづらが絡む木立に吸いとられ、響きが遠くまで聞こえないほど草深い土地……というような意味になるのだろう。絵の解説を、1958年(昭和33)に新編若葉の梢刊行会から出版された、『江戸西北郊郷土誌資料』から引用してみよう。
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 鼠山は一名椚山(くぬぎやま)ともよばれていた。今の椎名町の東南方、目白・池袋寄りの一帯の高台の称である。元禄・享保の昔は、この辺は蔦かつらの生い茂った椚の原始林で、兎や狐狸の棲処であった。ここで猪狩を行ったという伝説もある。絵には小高い丘の麓にある田舎家で、麺棒を振って蕎麦を打っている所を見せ、家の傍は蔦のからみ付いている木立を描き添えてある。蕎麦はこの辺の名物であった。
  
 「長崎之内」と書かれているので、長崎村から「鼠山」の方角を向いて描かれていると想定することができるが、がぜん注目したいのは丘上に描かれた巨大なドーム状の、ふたつ(ないし重なりを考慮すると3つ)のふくらみだ。自然できた丘上の形状とはとても思えず、なんらかの人工的な手が加えられた構造物のように見える。
 現在の地形から考えてみると、丘の麓にあたる鼠山の西側=長崎村の平地から安藤家下屋敷のある丘陵一帯、つまり谷端川に向かって傾斜する北斜面(南東)を眺めてみても、描かれた丘陵の中段ぐらいまでの高さ感覚であり、これほどの高度や盛り上がりは感じられない。ましてや、丘上からさらに立ち上がる巨大なドーム状のふくらみなど、今日では存在していないのだ。このふたつのドーム地形は、いったいなんなのだろうか?
 前回ご紹介した空中写真、あるいは『和佳場の小図会』の記述や絵図から想定すれば、いずれかのドームが「鼠塚」であり、もうひとつの大きなドームが未知の塚ということになりそうだ。わたしは、左側の大きなドームがふたつ重なって見えるほうが、寛政期の『雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図』に描写された「鼠塚」であり、右側のドームがいまだ見つけられていない「鼠山」西部の墳丘(円墳ないしは前方後円墳の後円部?)ではないかと考えている。寛政期を迎える以前、享保年間ぐらいまで西側から「鼠山」一帯を眺めると、このような異様なドーム状の“なにか”が丘上に起立し、いまだ崩されずに存在していたのだと思う。
 また、これらの大規模な古墳を形成する経済的な基盤、すなわち古墳時代の集落跡や遺構が周辺に存在しているかという課題だが、豊島区側にも下落合側にも部分的だが古墳時代の遺構が発掘・確認されている。大規模な集落跡などは、すべてが住宅街の下になってしまっているので、これからも発見・発掘するのは困難かもしれないが、古墳期になにもない“原野”に、突然巨大な古墳群が出現しているわけではないことを、いちおう確認しておきたい。「鼠塚」とみられる画面左手に描かれたドーム、すなわち空中写真では安藤家下屋敷の北辺に確認できる3つの大きな古墳群を、これからの便宜上「安藤家鼠塚古墳群(仮)」と呼ぶことにしたい。
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和佳場の小図会写本下巻(早稲田大学).jpg 武蔵国雑司谷八境絵巻巻頭(早稲田大学).jpg
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 古墳とみられる巨大な塚を築造した勢力が、落合側にいたのか長崎側、あるいは雑司ヶ谷・池袋側にいたのかは不明だが、これらの墳丘が見下ろしている谷間を前提とすれば、そしてそのような古墳築造をめぐる古代人の「宗教観」や死生観的な慣習、すなわち「先祖が見守ってくれる高台の位置」を意識するのであれば、古墳群の集落基盤は谷端川(もちろん古代の流域は大きく異なっていたかもしれない)が通う長崎一帯(現・長崎、南長崎、目白5丁目、西池袋4丁目など)にあったのではないかと考えている。
 さて、「鼠山小玉 長崎之内」画面で手前の蕎麦を打つ農家は、長崎村のどこにあったか?……というような詮索は、おそらくムダだろう。画面は、日本画の手法で描かれているのであり、構成的な要素が強いとみられるからだ。この蕎麦打ち農家は、「鼠山」の丘がこのように見通せる田畑の中ではなく、比較的にぎやかな清戸道Click!(せいどどう=現・目白通り)沿いの長崎村に建っていたのかもしれず、また雑司ヶ谷村でスケッチしておいた農家を、「鼠山」が画題の下に配置しているのかもしれないからだ。ただし、「鼠山」の情景は他の名所と同様、実際に現場を歩いてスケッチしているのだろう。
 寛政年間には見られた「鼠塚」をはじめ、これらの墳丘とみられるドーム状の巨大な構造物は、おそらく幕末までは残らなかったのではないだろうか。それは、幕府が安藤家の下屋敷地に指定したときに、最初の大規模な土木工事が行われ、また幕府が感応寺の境内として大々的に整備した際には、念押しの整地化によって徹底的に崩され、さらに大名屋敷や旗本屋敷に区画割りされたときに整地化が行われているのかもしれない。また、周辺の村々のニーズとして、田畑の拡張や増産をめざす開墾も、幕末に向けては常時つづけられていただろう。明治期の早い地形図を参照しても、すでにこれら巨大なドーム状の「塚」ないし「山」は、特異な地形として記録されてはいない。
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 『武蔵国雑司谷八境絵巻』の「鼠山小玉 長崎之内」に描かれた左手の大きなドーム、「鼠山」のさらに西寄りとわたしが考えている右手のドームは、まったく未知の存在だ。戦後の1947年(昭和22)に、焼け跡を撮影した空中写真を参照すると、小規模なサークルらしい痕跡はいくつか発見できるが、描かれたほどの巨大な塚状サークルは、いまだ発見できていない。非常に興味深い事蹟なので、引きつづき調べていきたいテーマだ。
 
◆写真上:「安藤家鼠塚古墳群(仮)」のうち、ベースとなる巨大な前方後円墳の後円部とサークル②のちょうど境界あたりに建つオシャレな邸宅。
◆写真中上は、上野図書館収蔵の『和佳場の小図会』に付属する『雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図』(部分)。は、その「鼠塚」部分の拡大。は、「安藤家鼠塚古墳群(仮)」にあるサークル②の西北辺にあたる空き地。
◆写真中下は、早稲田大学収蔵の『武蔵国雑司谷八境絵巻』のうち「鼠山小玉 長崎之内」。中左は、『和佳場の小図会』の下巻(早稲田大学蔵)。中右は、『武蔵国雑司谷八境絵巻』の巻頭(同)。は、鼠山エリアにある「目白の森公園」内の池。
◆写真下:いずれも、鼠山エリアにあたる現在の街並み。

下高田村「富士見茶屋(珍々亭)」異聞。

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 東京メトロ東西線の落合駅から西へ250m、歩いて3分ほどのところに正見寺がある。落合地域の外れの同寺に、水茶屋(江戸期の喫茶店)「鍵屋」で働いていた大江戸稀代のアイドルで、看板娘の笠森お仙Click!は眠っている。もっとも、正見寺はもともと江戸の市街地にあって、1909年(明治42)に上高田へ移転してきた。
 美人薄幸なんていうけれど、お仙は武家の養女に迎えられ、幕府の御家人と結婚し9人の子どもをもうけて幸福な生活をつづけながら、当時としてはかなり長寿の76歳で没しているようだ。さて、2016年も押し詰まった暮れのオバカ物語は、笠原お仙がとうに結婚し江戸市中で50代の日々をすごしていたころ、江戸郊外の下高田村が舞台だ。時期は1800年(寛政12)ごろ、場所は俳句の句号が杲山楼宗周こと金子直德Click!の自宅にて。
  
 「直さん、聞いたかい? 南畝Click!さんが連日、また水茶屋通いだとよ」
 「あの人ぁ武家だろ、マジメに勤めりゃいいのにさ。いい歳をして困ったお人だねえ」
 「ありゃ、ほとんど病気だわな。これ、読んでるかい?」
 「なんだい八兵衛さん、この本は? …なになに、『売飴土平伝』?」
  
 俄かにして一朶の紫雲下り 美人の天上より落ちて 茶店の中に 座するを見る 年は十六七ばかり 髪は紵糸の如く 顔は瓜犀の如し 翆の黛 朱き唇 長き櫛 低き履 雅素の色 脂粉に汚さるゝを嫌ひ 美目の艶 往来を流眄にす 将に去らんとして去り難し 閑に托子の茶を供び 解けんと欲して解けず 寛く博多の帯を結ぶ 腰の細きや楚王の宮様を圧し 衣の着こなしや小町が立姿かと疑う
  
 「一たび顧みれば 人の足を駐め 再び顧みれば 人の腰を抜かす……、ちっ、な~にいってやんだい、ええ? 腰が抜けそうな、いい歳をしたモモンジイがさ」
 「いや、直さん。こりゃ南畝さん20歳んときの、お仙追っかけの記なんだけどさ」
 「じゃあだんじゃねえや、還暦が近くなって小娘の追っかけしてりゃ世話ねえやな。今度ぁ、どこの水茶屋の小娘に首ったけなんだい?」
 「まぁ、そいつぁ置いといて。ところで清風さんが水茶屋を出すの、知ってるかい?」
 「なに、珍々亭が? 相変わらず八兵衛さんは、早耳だねえ」
 「いんや、直さんが『和佳場の小図絵』Click!の下巻にかかりきりだったから世間知らずなだけ。このあたりの連中(れんじゅ)は、みんな知ってるさ。そこのよ、大ノ山の向こっかわ、溜坂Click!脇の眺めのいいバッケClick!の張り出しだってよ」
 「ふ~ん、そいつぁ初耳だな。富士がきれいに見えそうなとこさね」
 「そうそう、いま富士山がよく見えるようにてんで、木を伐らしてるとこなんだ。そこで富士でも愛でながら珍々のやつ、句会でも開こうかてえ寸法らしいや」
 「そりゃ珍々の清風さん、さすが風流でいいやね。南畝さんとは、大ちがいさな」
 「そいでね、珍々亭の茶屋を手伝うてえのが、清風自慢の娘のお藤ちゃんなんだと」
 「…お藤? …さぁて、あたしゃ知らないよ。会ったことないなぁ」
 「今度18んなるんだけどもね、そりゃあんた、べらぼうなんだな、直さん」
 「そんな、箸にも棒にもかからない、オバカ娘なのかい?」
 「いやいや、親に似ず、大べらぼうの別嬪なんだな、これが」
 「おいおい、八兵衛さんまで南畝のマネかい? 冗談は、馬の尻(けつ)みたいな顔だけにしといてくれろ。まあ、清風のさ、あれよりゃマシてえこったな、へへ」
 「あれ? あれたぁ、なんだい?」
 「清風のあれさ、モモンガアみてえなおかみさんが見世前に立ちゃ、おっかながってお客が寄りつっかどうか、へへ、心配になるてえもんだわなぁ」
 「あの芭蕉翁Click!までがさ、【目にかゝる時や殊更五月ふじ】なんてえ句を詠んでるぐらいだからさ。…今度お目にかかるときは、ことさら若葉の梢がゆれる五月の気持ちがいいおてんとう様の下でね、お藤ちゃん、チュッ…な~んてな」
 「ふ~ん、なんだか芭蕉翁にしちゃ、ずいぶんくだけた句詠みだねえ」
 「芭蕉先生も、岡惚れしてたんだろうさ」
 「…芭蕉翁は、お藤ちゃんが生まれる100年前(めえ)に死んじゃいなかったかい?」
 「ま、細かいこたぁいいっこなし。直さん、今度、珍々の句会へいっしょにいこ」
鈴木晴信「笠森お仙」1768頃.jpg 大田南畝「売飴土平伝」1769.jpg
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 「直さん、どうだい、いった通りだろ? なっ、句会へ出てよかったろうよ?」
 「うん、…まあな」
 「みんな、お藤ちゃんに見とれてさ、富士山なんか見ちゃいねえのさ」
 「八兵衛さん、【ふじを見る国に生れて男たり】は、あんまし直截的すぎて野暮だねえ。だいいち句の品性が台なし、お話んならないきゃぼClick!さだね。…つまらん!」
 「おや、直さん、ちょいと不機嫌な大滝秀治Click!さん、入ってるよ」
 「誰だいそりゃ? …ねえ、誰?」
 「それに杲山って、これ宗周さん、ぜんたいあんたの句じゃぁないか」
 「…あ、そっか。ところで、瀾閣の【ふじも今朝浅黄着かえて時鳥】なんてのは?」
 「瀾閣さん、ずっと朝からお藤ちゃんの浅黄色の着物に見とれてたもんなぁ。だけどさ、あれ着物見てんじゃないよ、身体の線を見てんだな。助平親父だぜ、ったく」
 「マジかいClick!、そりゃ助平だ。八兵衛さんのいうとおりだ、そりゃ許せん! 毛が薄くて、髷も満足に結えねえジジイが詠む句じゃないてんだ」
 「じゃ、直さん。この、柳枝の【みな月やふじも肌着の衣かへ】は?」
 「へッ、へへへヘヘヘ」
 「おや、直さん、気に入ったかい?」
 「へへへ、…いんや、野暮で下品で、助平でつまらん! ああいう色ぼけジジイはさ、一度、四ッ家町の源庵先生にオツムでも診てもらやぁいいんだ」
 「じゃあ、お藤ちゃんの親父さん、清風の【油浮く小春の凪やふじの色】てえのは?」
 「…ヒッ、ヒヒヒヒヒヒ」
 「おや、上作かい?」
 「いやいや、だいたい実の親父の珍々亭がだ、娘の色気がなんだ、肌に浮く油がどうしたこうしたなんてえ句を詠んでるから、句会の同人にしめしがつかんのだ」
 「じゃあさ、直さんこと宗周の【心なき雲さらになしふじの春】はいいのかい?」
 「いいねえ、スッキリとすがすがしいねえ。お藤ちゃんにピッタリの句じゃないかねえ。どこかこう、ウキウキして駆けだしたくなるような、春の日の上気したお藤ちゃんなのさ。へへ、そうじゃないかい、ええ?」
 「そういうの、自画自賛てんじゃないのかい?」
 「なぁに言ってやんだい。助平そうな、三國連太郎Click!みてえな面ぁしてさ」
 「誰です、そりゃ? …え、誰?」
 「この目白山人の句なんて、見てみろい。【言外の情ありふじに三日の月】なんて、どういう了見だい? ええ? 思わせぶりで、キザで嫌味で、おきゃがれてんだClick!
 「月に三日だけ、どっかで逢引きしようと、お藤ちゃんの情けにすがった句だぁね」
 「じゃあだんじゃねえや、お藤ちゃんの身持ちはかたいんだ。まったく、どいつもこいつもお藤ちゃんばっか見て欲情してるから、句に妄想が出て助平でつまらんのだ!」
 「…自分のこたぁ、すっかり棚上げさね」
 「あん? そっち向いて、誰としゃべってんだい?」
 「来年の句会に、期待しましょうや。ええ、直さんよ」
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 「今年の句会は駒込や葛飾、遠く上総東金なんてとっからも参集して盛大だったねえ」
 「で、直さんの気に入った句はあったかい?」
 「うん、其鏡の【日の本の誉やふじの初日影】、これなんざいいねえ」
 「其鏡さんは、寒いのに正月からお藤ちゃん参りかい。ちょいと、大げさすぎやしないかねえ。日の本じゃなくて、せめて大江戸ぐらいにしといたらねえ」
 「こっちの、兆水の【桜さく色より高し雪のふじ】なんてのも、へへ、いいやな」
 「確かに、お藤ちゃんの肌ぁ雪のように白いからなあ。それがまた、春の日の薄っすら桜色に染まったお藤ちゃんの頬っぺ、たまらないねえ、ええ、直さんよ?」
 「翫之の【こがらしや夕陽をいだくふじの照】も、いいねえ。丘上に立つ、木枯らしで裾元が乱れた5尺6寸の、お藤ちゃんのスラッとした姿らしいやね」
 「こいつぁどうだい、直さん? 九園斎の【こがらしや鼻突き合すはたち山】
 「そりゃ、だめだね。こいつぁさ、木枯らしが吹いたてんで寒いふりして、お藤ちゃんに抱きつきやがったんだ。もう少しで、20歳んなったばかりのお藤ちゃんにチュしそうになんとこだった。70(ひちじゅうClick!)にもなる歯抜けジジイがいい歳してさ、牛の尻みてえな面しゃがった九園の助平斎だけは許せねえ」
 「止めに入った直さんだって、どさくさまぎれにお藤ちゃんに触ってたじゃないか」
 「あたしゃ、そんなことはせん! 八兵衛さんは、目が悪いんじゃないのかい? なんなら、雑司ヶ谷の目医者を紹介するよ。…あんな、女と見れば見境なく抱きつく色狂いのジジイは、座敷牢へでも打(ぶ)ちこんどくか、八丈へでも流しときゃいいんだ!」
 「そういう直さんも、あと10年もたたず還暦だてえのに、すっかりお藤ちゃんに入れこんじまったねえ。もはや、南畝さんを笑えねえやな」
 「あたしゃ純粋な句詠みだよ、助平で下心だらけの南畝といっしょにしなさんな」
 「…そうかなぁ。オレにゃ、どっちもどっちで、いっしょに見えんだけどなぁ」
 「それはそうと、お藤ちゃんのいる茶屋が珍々亭じゃ、あんまし可哀そうだ」
 「そうそう。だからさ、オレぁさい前から、藤見茶屋がいいんじゃねえかって…」
 「お藤ちゃんもいるし、富士もよく見えるから、ま、いいってことにすっかね」
 「『和佳場の小図絵』の次はさ、ぜひお藤ちゃんのことを書いてくれろ」
 「…そうさな。古今の句を集めた『お藤見ちんちん茶家』なんてのは、どうだい?」
 「ちんちん茶家てえのは、まずくないかい? なんだか、両国広小路Click!あたりのいかがわしい見世物小屋か、柳橋Click!の待合みたいな淫靡で下心ありそうなお題さね。ここは素直に、『富士見茶家』でいいんじゃないのかい?」
 「まあ、あとでゆっくり考えんとして。…ところで、八兵衛さんよ。あんた、珍々亭の向こっかわにある将軍様の御留山Click!の稲荷を、いつからお藤稲荷Click!なんて絵図に描きこんでんだい? この前、下落合村の衆がきてさ、ここは昔っから東山稲荷だと抗議してったそうじゃぁないか。ついでに、そこの湧水の弁天様Click!も、いつの間にかお藤弁天てなことんなっちまってるって……。村同士のもめごとは願い下げだよ、八兵衛さん」
 「だって、稲荷はともかくさ、お藤ちゃんは弁天さんよ」
 「そりゃそうだが、あたしたちの書いた本や絵図は、ひょっとすると後世に残るかもしれんじゃないか。勝手に社(やしろ)の名を変えちゃ、具合が悪かろ?」
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 「なぁに大丈夫だ、直さん。100年あとに珍々亭は残らなくても、お藤ちゃんを残せりゃ御の字さ。…直さん、悪(わり)いな、そこの煙草盆、ちょいと取っつくれ」
 「だけどさ、あんたの住む根岸の里の上にある稲荷。あれ、いつから八兵衛稲荷Click!なんて手前(てめえ)の名前で呼ばせてんだい? 冗談じゃないよ、ええ? 後世の人たちが由来を書くのに頭抱えちまうから、いい加減にしときなさいよ」
 「そういやぁ、八兵衛稲荷の木花咲耶姫もお藤ちゃん似で、いい女だったろうなぁ…」
 「……いっそ、お藤稲荷がふたつんなんなくて、よかったのかもしんねえなぁ」

◆写真上:学習院キャンパスに残る、水茶屋「富士見茶屋(珍々亭)」の遺構。
◆写真中上上左は、1768年(明和5)ごろに描かれた鈴木晴信『笠森お仙』。上右は、大田南畝(蜀山人)が1769年(明和6)に書いた『売飴土平伝』で挿画は春信。もはや、お仙が天女のように描かれている。は、笠森お仙が眠る上落合の外れにある正見寺。
◆写真中下は、富士見茶屋に建立された芭蕉「目にかゝる時や殊更五月富士」の句碑。は、安藤広重「雑司ヶや不二見茶や」Click!風に下落合を向いて撮影。
◆写真下は、バッケの淵にある富士見茶屋遺構の全景。は、溜池の東側に通っていたとみられる溜坂があったあたりの斜面。は、明治以降は「血洗池」と呼ばれることが多くなった溜池で江戸期よりもかなり縮小されている。
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文中に登場する俳句と作者は、すべて宗周『富士見茶家』所収のホンモノの作品です。

十二支にネコの入る隙間はあるか。

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 あけまして、おめでとうございます。旧年中も、みなさまにはたいへんお世話になりました。本年も「落合道人」サイトをよろしくお願いいたします。
  
 さて、このサイトをはじめてから昨年で二度めの「申年」、今年で二度めの「酉年」を迎えているわけだけれど、いつも気になるのが十二支になぜ「猫年」がないのか?……という、ネコClick!好きなわたしには気になるテーマだ。古くから人間のごく身近にいる動物にもかかわらず、干支に「猫」が加えられていない。
 干支(あるいは十二支)という概念が朝鮮半島ないしは中国からもたらされた際、そのままローカライズせずに使用してしまったのは、当時の日本にネコが棲息していなかったと説明されることが多い。ネコが輸入され、人に飼われはじめたのは平安期ごろで、干支が導入された時期にはまだ存在していなかった……と解説する文献も多いけれど、縄文遺跡からヤマネコばかりでなく、イエネコClick!の骨が見つかっている考古学的な成果を踏まえるなら、当然、もっと早くから人の近くにネコがいたと解釈すべきだろう。
 十二支に「猫年」を採用する国は、意外に多い。タイ、ベトナム、チベット、ブルガリア、ベラルーシ……とまだまだあるのかもしれないが、もともと中国では身近な動物を干支に選んだとされているので、これらの国々ではネコがことさら人間の近くで丸くなっていたのだろう。でも、「身近」といわれるわりには「辰年」などと、この世に存在しない(と思われる)架空の龍が含まれているのがちょっと不可思議だ。ほかの動物はすべて人の近くに実在するにもかかわらず、龍だけが特別なのだ。中国で“龍”は、皇帝を象徴する動物として位置づけられることが多いので、庶民の象徴として無理やり「身近」に位置づけるため、ことさら選ばれたものだろうか?
 たとえば、日本の十二支から「辰」を外し、「猫」にするとなにか不都合が起きるだろうか?w 時刻の概念から見ると、「辰ノ刻(たつのこく)」は仕事に出かける前に朝食をとる「食時」に相当する。いまの時間になおせば、午前7~9時ぐらいの感覚だろうか。こんな朝っぱらから、食事する時間が龍というのもおかしいので、「猫ノ刻」としたほうがよりフィットするかもしれない。ちょうど、そろそろご主人が起きる時間だと、ネコが寝床へやってきて、顔といわず頭といわず、「朝だにゃん、そろそろメシくれにゃん!」と前足で押し押しするか、あまりにご主人が起きないと、頬っぺたを肉食獣らしいザラザラの舌でベロベロ舐めたりする時間帯だからだ。
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湖龍斎「見立忠臣蔵七段目」1780頃.jpg
歌麿「見るが徳栄花の一睡」1801頃.jpg
 また、十二支による方位の課題はどうだろうか。「辰ノ方(たつのかた)」とは、いまでいう東南の方角だけれど、これも龍よりはネコのほうがなんとなくシックリくる。真夏を除けば、ネコClick!は朝になると陽の当たる窓辺で寝そべるか、窓の外を飽きもせず眺めているか、ヒマそうにダラダラすごしていることが多い。レースのカーテンの向こう側に入りこみ、お腹がいっぱいになった満足げな表情をして顔を洗っているか、毛づくろいをしているか、ときにレースに爪を立ててカーテンのぼりに興じたりするのは、たいがい東ないしは南の窓辺なのだ。
 暦(こよみ)のうえで「辰ノ月」は、さてどうだろう? 現代の暦でいうと3月のことだが、新しい年度がはじまる矢先、春を迎えた新鮮な気配の中、龍が天へとのぼる勢いのある季節だととらえるのは、一見ふさわしいように思えるけれど、龍の昇天は別に正月でも新年度がスタートした4月でもいいような気がする。3月を「猫ノ月」にすれば、ネコが1年のうちでいちばん元気でうるさい時期、つまり「さかり」がついてニャーオニャオとあたりかまわず鳴きまくり、ときには人間から水を打(ぶ)っかけられたりするのだが、それでもめげずに毎晩ニャーオニャオと浮かれ歩いてる時期なので、やはりここは「猫ノ月」としたほうが現実的でふさわしいような気がする。
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国芳「鏡面猫と遊ぶ娘」1845頃.jpg
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 ところで、陰陽五行の「辰」は「陽(よう)」で「土(ど)」を意味するといわれるが、まさに太陽の光が大好きで、いつも地面でゴロゴロしている、そこらの野良ネコににこそピッタリな意味づけではないか。「辰」=龍は、たいがい水中にひそむか天空を飛翔しているのであり、土の地べたでゴロゴロなどしないものだ。だから、「辰」の代わりに「猫」をもってきても、なんら問題は起きそうにない。
 ついでに、四神相応なんて概念も朝鮮半島や中国から輸入されているけれど、これもついでに「青龍」に代わりネコClick!を導入したらいかがなものか。北の「玄武」、南の「朱雀」、西の「白虎」、東のまねきネコClick!風「青猫(にゃん)」ということで、ネコ科が2匹になってしまうけれど気にしない。陰陽五行の発祥地とされる中国から見て、東に位置する日本列島は、まことに平和と安楽を好み、しじゅうゴロゴロして楽しそうな雰囲気を漂わせ、海外の観光客には大人気のエリアなのだけれど、あまりに甘くみくびりすぎると爪や牙でひっかかれて、ちょっとひどい目に遭うんだよ……ぐらいのスタンスが、平和志向のこの国のカタチにはとてもよく似合うような気がするのだ。
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芳年「新柳二十四時」1877.jpg
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 きょうは正月ということで、浮世絵に登場するネコたちを江戸の街中心に集めてみた。ネコが登場する『源氏物語』の「女三宮」に取材したものから、日本橋河岸をウロついていそうな野良ネコのたぐいまで、浮世絵には数えきれないほどのネコが描かれている。縄文期から現代にいたるまで、ネコがどうやって爆発的に全国へ繁殖・展開していったものだろうか? 大江戸の街角は、いまも昔もそこらじゅうネコだらけなのだ。

◆写真上:1770年代に描かれた豊春『菖蒲湯』。
◆写真中上は、春信『風流五色墨』(1766年ごろ)。は、湖龍斎『見立忠臣蔵七段目』(1780年ごろ)。は、歌麿『見るが徳栄花の一睡』(1801年ごろ)。
◆写真中下は、国貞『風流相生盡』(1831年)。は、国芳『鏡面猫と遊ぶ娘』(1845年ごろ)。は、国芳『艶姿十六女撰』(1850年ごろ)。
◆写真下は、国芳『妙でんす十六利勘降那損者』(1845年ごろ)。は、芳年『新柳二十四時』(1877年)。は、国周『錦織武蔵の別品』(1883年)。
おまけ:広重『名所江戸百景』(1857年)。
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ときに日本画を描く洋画家たち。

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 洋画家たちの中には、油絵ばかりでなく岩絵の具や墨を使って、日本画を描いた画家たちがいる。逆に、日本画家が油絵や水彩などの洋画を描き、その自由な表現の魅力にはまって抜けられず、洋画へ転向した画家たちも少なからずいる。日本画を“余技”として描く洋画家たちもいれば、“本気”で打ちこんでいた洋画家もいた。
 日本ならではの油彩画表現を追究しつづけ、古画好きで知られた岸田劉生Click!は、けっこう本気モードで日本画の画面へ取り組み、従来の日本画には見られない独特な表現の作品を残している。劉生の日本画への試みは、療養のために住んだ藤沢町鵠沼(現・藤沢市鵠沼松が岡2丁目)の佐藤別荘時代、1920年(大正9)ごろにはじまったとされている。画題としては、一般的な花鳥風月もあるけれど、およそ日本画家なら選びそうもないモチーフの作品も見うけられる。
 鵠沼時代からの作品を参照すると、麗子Click!や友人知人の肖像を描いた日本画風の作品をはじめ、風景をモチーフにした軸画などが見られる。また、和紙のキャンバス(色紙?)に描いた野菜や果物など、文人画に近い表現の作品も残されている。劉生が日本画に傾倒したのは、妻の岸田蓁(しげる)Click!に日本画の知識や素養があり、劉生の制作をサポートしていたからだともいわれている。蓁夫人は女学校時代に、おそらく日本画家の画塾に通い、一般教養としての日本画を描いたことがあったのだろう。ただし、劉生の作品には膠(にかわ)や岩絵の具を使った本格的な日本画は案外少なく、作品の多くはいわゆる「紙本墨画淡彩」の手法が多いらしい。劉生にしてみれば、油絵にはない柔軟かつ自在な表現がにできる日本画は、逆に自由度が高いと感じていたのかもしれない。
 下落合(4丁目)2080番地(現・中井2丁目)に住んだ金山平三Click!は、歌舞伎の舞台をモチーフにした膨大な量の「芝居絵」Click!を描いたことで知られるが、日本画の手法による軸画もいくつか残しているようだ。金山平三は、あくまでも油絵がメインの仕事なので、劉生のようにほとんど“本気”で新しい表現を生みだそうと探求し、日本画の画面にあえて取り組んでいたわけではないだろう。
 わたしの知人で、金山平三のめずらしい軸画を所蔵されている方がいる。金山平三が、日本のさまざまな郷土玩具を集めて描いたもので、大切に保存されていたのか色彩も鮮やかなままだ。郷土玩具や郷土色ゆたかな人形に趣興をそそられ、遊びの“余技”として制作した日本画だと思われる。きっと、日本各地へ写生旅行をした際、人形好きな金山が買い集めてきた郷土土産を並べて、軸画にしてみたくなったのだろう。
 きちんとていねいに軸装された作品は、自宅のどこかに架けられていたものか、あるいは誰か金山ファンに“お土産”として贈ったものだろうか。作品をあまり売ろうとはしなかった金山平三のことだから、自分で所有していたか、誰かに遊びで贈呈した作品の可能性が高いように思われる。洋画家が、プレゼント用として日本画あるいは文人画のような絵を特別に色紙などへ描くのは、それほどめずらしいことではない。
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 下落合(2丁目)679番地に住んだ笠原吉太郎Click!も、そのような日本画や文人画のような作品が、ご遺族の家に伝わっている。山中典子様Click!からお見せいただいたのは、3点の日本画表現の作品だ。ひとつは、1944年(昭和19)3月4日に古希(70歳)を迎えた笠原吉太郎Click!が、親戚へ配った『白梅』図だ。本来は、このようなおめでたい記念の絵柄には紅白梅図を描いて贈りそうだが、太平洋戦争も末期で物資が不足していたのか、朱墨または絵の具が手に入らず、やむなく墨1色で白梅としたのではないだろうか。描かれている紙質も、他の2点の作品に比べてかなり品質が悪く、思うような画紙が手に入らなかったのだろう。
 残りの作品2点は、金箔の淵がついた上質の色紙に描かれており、『白梅』図よりは以前に描かれた作品のように思われる。押捺されている印形も『白梅』図とは異なり、墨のほかに朱墨か水彩絵の具の赤も使われていて、1941年(昭和16)以前の作品のような印象だ。色紙を包む包装紙にも、高級な和紙が用いられており、物資不足をあまり感じさせない時代のものだ。ひょっとすると、『白梅』図と他の2点の作品とは、制作時期に10年前後の開きがあるのかもしれない。
 まず、『旭光』と題された作品は、水平線から昇る真っ赤な朝日を描いている。岩場や波など墨による描線が完全に乾いたあと、朱墨か赤の水彩を載せており、制作に時間をかけていねいに描いているのがわかる。写生によく訪れた、房総半島の日の出の印象風景を描いたものだろうか。絵筆をほとんど使わず、普段はペインティングナイフだけで油絵を制作Click!していた笠原吉太郎なので、筆による描画はめずらしい。
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 もう1点は、やはり同様の高品質な色紙に描かれたもので、包装和紙に筆書きされたタイトルには『牡丹』と書かれている。どこかでスケッチブックに写生しておいたボタンの花を、墨1色で描いたものか、あるいはボタンを目の前に置いて描いたのかは不明だが、薄墨ながら肉厚なボタンの花の質感がよく表れた作品だ。墨がにじむ効果も、かなり手慣れた様子で表現されている。
 笠原吉太郎アトリエの前の道(八島さんの前通りClick!星野通りClick!)を、南へ100mほど歩いたところに西坂の徳川義恕男爵邸Click!が建っていた。徳川邸では、大正期から邸の北側の庭に多種多様な大量のボタンを栽培しており、「静観園」Click!と名づけて4月末から5月にかけ一般に公開していた。笠原吉太郎アトリエから、北へ140mほどのところの第三文化村Click!に住んでいた太平洋画会の吉田博Click!は、「東京拾二題」シリーズに徳川邸の「静観園」を選んで、1928年(昭和3)に『落合徳川ぼたん園』Click!を制作している。笠原吉太郎もまた、ときに徳川邸の「静観園」を開花期に訪れては、さまざまな種類のボタンをスケッチしていたのかもしれない。
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 『旭光』図と『牡丹』図は、ともに美しい包装紙に包まれたていねいな装丁をしているので、最初から贈答用に制作された作品なのだろう。東京朝日新聞社などで開かれた個展Click!で、作品を購入してくれたファンに対してプレゼントしたものだろうか。あるいは、中元や歳暮のお返し用の“作品”として、特別に用意されていたものだろうか。誠実で律儀な笠原吉太郎の性格を考慮すると、洋画をすっかり“卒業”したあと、気軽に日本画を描いては周囲の人々にプレゼントしていた姿が想い浮かぶ。

◆写真上:1944年(昭和19)3月4日に、古希を記念して描かれた笠原吉太郎『白梅』。
◆写真中上上左は、1923年(大正12)に制作された軸画で岸田劉生『林六先生閑居図』(部分)。上右は、おそらく鵠沼時代に描かれたとみられる岸田劉生『裸の麗子』(部分)。は、大震災後の1924年(大正14)2月に撮影された劉生と麗子のスナップ。
◆写真中下は、制作時期が不詳の金山平三による軸画『郷土玩具』。画面の右下隅に、平三の落款が見える。は、1955年(昭和30)10月に撮影された写生をする金山平三。おそらく十和田湖へ写生旅行中に同行した刑部人Click!が撮影したと思われ、孫にあたる中島香菜様Click!からご提供いただいた「刑部人資料」より。
◆写真下は、昭和初期に描かれたとみられる笠原吉太郎(画号・寿禄)『旭光』(上)と『牡丹』(下)。は、色紙が収められた和紙の包装紙。は、1920年(大正9)ごろに撮影された笠原吉太郎。下落合679番地のアトリエ前庭で撮影されており、翌1921年(大正10)に下落合661番地へアトリエを建設する佐伯祐三Click!と出会ったころの姿だ。

タヌキの森と放射線と尾崎翠。

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 タヌキの森Click!の違法建築(の残骸)が、昨年10月ごろから解体されはじめている。ときおり響く、コンクリートを打(ぶ)ち壊す衝撃音が下落合一帯に響き、まるで戦場の遠い砲声を聞いているようだった。建設途中だった違法建築Click!を解体しているのは、周辺住民からのたび重なる建築基準法違反の指摘にもかかわらず、その声を無視して集合住宅の建設を強行した新日本建設(株)でもなければ、違法建築に「建築確認」を下した新宿区(建築課)ほかの担当部局でもない。
 違法建築を建てた業者は、住民説明会で万が一「違法」の裁定が裁判所から出た場合には、建設途上の建物を解体する(録音テープあり)としていたにもかかわらず、いざ違法判決が下りたとたんにまったくシカトして、そのような言質などまるでなかったかのようにふるまい、危険な違法建築を7年間にわたって風化が進み荒れるがままに放置した。また、新宿区からの再三にわたる「是正勧告(解体勧告)」にも従おうとはせず、違法建築はここ数年間でほとんど廃墟と化していた。
 そして、最終的には別のディベロッパーへ、違法建築の廃墟ごとタヌキの森を転売し、さっさと下落合から逃げていった。近隣の住民の声や、地域の環境などまったく考慮に入れず、都合が悪くなると尻に帆かけて逃亡していく、絵に描いたような没コンプライアンスで低信頼の建設業者だ。都内の各地へマンションを建てているらしい、千葉のこの業者の名前を改めて銘記しておきたい。最高裁によって違法とされた一連の行為が「ビジネス」だというなら、地域住民の声に耳を傾け周辺の環境に配慮しながら、遵法精神のもとマジメに仕事をしている建設業者が気の毒というものだ。
 さて、タヌキの森の違法建築(の残骸廃墟)を解体しているのは、新たに土地を取得した新宿区内の地元にある(株)ブレンディという不動産企業だ。詳細は、「下落合みどりトラスト基金」Click!サイトの当該記事Click!を参照していただきたいが、解体工事Click!は今年の3月末の予定となっている。それから、どのような開発(住宅などの建設)を行なうのかは、いまだハッキリとせずに不明のままだ。周辺住民のみなさんは、開発の方針が決定ししだい住民説明会を求めている。
 もともと、違法ではなく適法の建物を建設するのであれば、強くは反対しないといっていた住民の方も当初からおられるので、もし新しい業者がきちんとしたコンプライアンスのもと、正当な計画を立案して住民に提示すれば、そのまま1,000m2以下の建物(集合住宅の場合)が建ってしまう可能性が高い。だが、わたしとしては御留山Click!から野鳥の森、薬王院の森へとつづくグリーンベルトClick!のかなめともいえる地点なので、できれば緑地公園として移植してある樹木ともども残してほしいものだ。
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 さて、下落合のグリーンベルトに繁る木々からの落ち葉が、今年もわが家へ風に飛ばされ大量に降り注いだ。一昨年は多忙だったので、詳しい放射線同位元素の測定はしなかったけれど、2013年(平成25)の測定値や2014年(平成26)の数字に比べ、数値はどのように変化をしているだろうか。2014年(平成26)の測定では、福島第一原発の事故直後の測定値よりも、かなり高い箇所が南向きのベランダにたまった落ち葉の中に存在していた。これは、地中に沁みこんだ放射性物質を樹木が吸い上げ、枝葉に水分や養分がいきわたる過程で、いわゆる濃縮現象をおこしているのではないかと想定した。
 さっそく、家の周辺各所にたまった落ち葉の上や中を線量計で測定してみると、やはり南側のベランダ中央部や排水溝近くに高い数値のポイントがあった。線量計はピークで0.33μSV/h(マイクロシーベルト/時)を記録したが、これは原発事故の直後、2011年8月に測定Click!したおとめ山公園のベンチ周辺、あるいは落合第一小学校沿いの校門前にある植え込みとほぼ同等の数値だ。事故直後にベランダの同ポイントを測定Click!したところ、ピークで0.40μSV/hを記録しているが、2013年2月の測定Click!では0.30μSV/h、2014年1月の測定Click!でも0.30μSV/hとやや低減気味だったのが、0.33μSV/hと再び放射線値が上昇傾向に転じていることになる。
 いま、線量計に反応しているのは、事故直後から東京に降り注いだ半減期の長いセシウム(Cs137など)だと思われるが、放射性物質はほんとうにしつこくて頑固で、いくら洗い流して線量を低減しても一時期のことで、1年後にはもとの数値にもどってしまっている。落ち葉に限らず、それが粉状になって風に運ばれる地表の塵埃などにも含まれているのだろう。福島で「除染作業」をした地域は、いったいどのような状態になっているものか、その後の経緯がほとんど報道されていない。
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 各地に設置された線量計の周囲だけ、除染作業を行なって数値が低減している(ように見せかけている)という、地元住民が吐き棄てるように語る事実に接するにつけ、チェルノブイリ事故の際の旧・ソ連政府が実施してきたリスク管理(WHO準拠の国際基準)の施策に対して、はるかにもとる拙劣な行為が平然と福島で行われているように感じる。お粗末さを通りこして、肌寒さ(戦慄)をおぼえるほどだ。いまだメルトダウンした炉心はどこまで沈下したのか見つからず、まったく事故は終息してはいない。いつから日本は、こんないい加減な国になってしまったものだろうか?
 新宿区の原子力資料情報室(CNIC)Click!は、2015年(平成27)8月で近くにある公園の測定Click!をやめてしまっているが、わたしは線量計がとても高価だったのでもったいないのとw、こだわる性格なので測定はやめない。ちなみに、原子力資料情報室の近くにある公園は、ほとんど自然値に近い放射線量にもどっているので測定をやめたのだろう。だが、東京へ雨混じりに降り注いだ放射性物質は均等ではなく、場所によってはいまだ高い数値を示す“ホットスポット”が、事故直後から存在しているのは明らかだ。落合地域は、ホットスポットとまではいかないものの、少なくとも原子力資料情報室のある新宿区の曙橋周辺よりは、樹木が多いせいか数値がいまだしつこく高めだ。
 さて、去る2016年はここのサイトの拙ない記事にまつわる、紙メディアの出版が相次いだ年でもあった。『写真で見る新宿区の100年』Click!(郷土出版)はすでにご紹介済みだが、たいへんありがたいことに他にも何冊かが昨年中に出版されている。中でも、やはり落合地域をめぐる文学の分野では尾崎翠Click!の人気がさらに高まりつづけているようで、ここの記事に関連して2冊の本が出版された。
 ひとつは、尾崎翠フォーラム実行委員会が編纂・出版した『尾崎翠を読む』第3巻(新発見資料・親族寄稿・論文編)で、このサイトの記事をベースに上落合に住んだ尾崎翠について書かせていただいたものだ。もう1冊はPOMP LAB.(ポンプラボ)から出版された探究誌『点線面』第2号(2016年尾崎翠への旅)で、わたしのサイトを取り上げてくださっている。いずれも、尾崎翠の現時点における最新の捉え方や、21世紀の今日でも古びない彼女の現代的な表現について、さまざまな視点・角度から語られているところが魅力だ。
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 昨年の暮れは、久しぶりに風邪を引きこんでしまい、めずらしく熱まで出た。仕事の締め切りが正月明け早々だったので、少し無理を重ねたのがマズかったのだろう。いまでも体調が回復せず、体重が3kgほど減って調子がもどらない。毎年、暮れから正月にかけ、このサイトの記事をテーマ別に整理して、個別に取材を重ねながら書き溜めておくのだけれど、今年はストックにあまり余裕がない。もし定期掲載の記事が途切れたら、体調不良でダウン中だということで、気長に待っていただければ幸いだ。

◆写真上:解体工事が進む、タヌキの森の入り口からつづく4m幅路地。違法業者は、この先に8m道路に接するのと同等規模の集合住宅を無理やり建てようとした。
◆写真中上:解体工事中の違法建築(廃墟)で、写真は武田英紀様撮影。
◆写真中下:南向きベランダへ降り注いだ、落ち葉上の放射線測定。中央付近()では、2011年の事故直後の落合各地域とあまり変わらない高い数値がカウントされた。
◆写真下上左は、2016年に尾崎翠フォーラム実行委員会が編纂・出版した『尾崎翠を読む』第3巻(新発見資料・親族寄稿・論文編)。上右は、同年暮れにPOMP LAB.(ポンプラボ)から出版された探究誌『点線面』第2号(2016年尾崎翠への旅)。は、1930年(昭和5)の生田春月追悼会で撮影された尾崎翠(中央)と、エスペランティストの秋田雨雀Click!(右)に画家で日本プロレタリア美術家同盟(AR)の中央委員長(のち民俗学者)の橋浦泰雄Click!(左)。橋浦は事故か、それとも特高にでも殴られたものか左目に痣ができている。


戸山ヶ原の一本松を捜査する名探偵。

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 昨年の正月、下落合にアトリエを建てて転居してくる直前の佐伯祐三Click!が、1920年(大正9)に描いた『戸山ヶ原風景』Click!の一本松をご紹介した。そのわずか4年後に、戸山ヶ原近くの大富豪令嬢が「誘拐」されるという「大事件」が起きている。そして、身代金の受け渡しが戸山ヶ原の一本松で行われたため、事件解決を依頼されたひとりの探偵が、同松とその周辺域を捜査している。怪人二十面相の前では、「ははは…」と意味もなく笑いながら、つい自分で自分のことを臆面もなく「名探偵」といってしまったりする、性格的にやや問題がありそうな明智小五郎Click!だ。
 令嬢誘拐事件は、新聞でも12~13行のベタ記事で報道されたそうだが、日付は記録されていないのでハッキリしない。ただ、この誘拐事件を記録した明智小五郎の親しい友人が、明智と知り合って「一年程」たった冬の出来事だとしているので、おそらく1924年(大正13)の冬、つまり11月から12月あたりにかけての事件だったのだろう。
 事件を記録した筆者は、大学を出たばかりで働きもせず、かといってそれほどおカネに困っている様子もなく、熱海の温泉などにゆっくり浸かっていられる身分、つまり当時の言葉でいうなら「高等遊民」のような存在だった。
 彼が明智小五郎のことを、初めて原稿化して記録したのは1924年(大正13)の正月であり、そのテーマとなる出来事があったのは前年、1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!の余燼くすぶる9月、乃手Click!花屋敷Click!のある菊人形で有名な団子坂で発生した殺人事件だった。東京の市街地が壊滅しているのに、被害が少なかった乃手の団子坂で悠長に珈琲など飲んでる場合じゃないだろ……とは思うのだけれど、そこが「高等遊民」ならではの、何事にもあたふたしないライフスタイルなのだろう。
 のちに、『D坂殺人事件』と名づけられたこのケーススタディのとき、筆者は明智とはすでに喫茶店で待ち合わせをするほど親しい間がらであり、この事件のときが知り合ったばかりだったとしても、次の事件が起きるのは「一年程」あと、すなわち1924年(大正13)9月以降の冬季……ということになる。『D坂殺人事件』は、1924年(大正13)1月に発表されたが、『黒手組』と題された令嬢誘拐事件が筆者の手で発表されたのは、1925年(大正14)2月のことだ。
 さて、戸山ヶ原近くの屋敷街に家をかまえる大富豪のもとへ、令嬢の「富美子誘拐」と身代金を要求する脅迫状がとどくところから、同家を恐怖のどん底へ陥れた事件の幕が切って落とされる。以下、1925年(大正14)に博文館から発刊された「新青年」2月号に所収の、江戸川乱歩『黒手組』(光文社版)から引用してみよう。文章は、筆者の伯父が明智小五郎に事件の経緯を説明する一節だ。
 ちなみに、江戸川乱歩Click!というのが筆者「高等遊民」のペンネームであり、おそらく関口の大滝橋Click!から揚場町近くの舩河原橋Click!あたりまで、すなわち大正期は桜の名所として知られた江戸川Click!(現・神田川)沿いを、フラフラあてもなく散歩することが好きだったので、「江戸川」の「乱歩」とでもつけたものだろう。事実、彼は戸塚町(現・高田馬場)界隈や、早稲田鶴巻町一帯の下宿や借家を転々としている。
  
 脅迫状は警察へ持って行って今ありませんが、文句は、身代金一万円を、十五日午後十一時に、T原の一本松まで現金で持参せよ。持参人は必ず一人限きりで来ること、若し警察へ訴えたりすれば人質の生命はないものと思え……娘は身代金を受取った翌日返還する。ざっとまあこんなものでした」/T原というのは、あの都の近郊にある練兵場のT原のことですが、原の東の隅っこの所に一寸した灌木林があって、一本松はその真中に立っているのです。練兵場とはいい条じょう、その辺は昼間でもまるで人の通らぬ淋しい場所で、殊に今は冬のことですから一層淋しく、秘密の会合場所には持って来いなのです。
  
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 ここでも、実名を出してしまうと差し障りがあると感じたものか、団子坂を「D坂」と書いたように、陸軍用地だった戸山ヶ原Click!のことを「T原」と表現している。そして、戸山ヶ原の西端、つまり省線山手線の西にあった陸軍科学研究所Click!の北側に位置する一本松を、あえて「原の東の隅っこ」などと言い換えている。
 「昼間でもまるで人の通らぬ」と書いているが、それはこのあたりに詳しくない筆者の誤認で、陸軍による演習が予定されてはおらず、立入禁止の赤旗が翻っていないとき、昼間や休日は近所の人々の散歩道として、あるいは子どもたちの遊び場として、さらには近所に住む画家たちの格好の写生場所Click!として、戸山ヶ原にはけっこう人々が入りこんでいた。夏目漱石Click!が大久保の寺田寅彦宅Click!へ向かうコースも、戸山ヶ原を斜めに横断していくコースだったし、佐伯祐三の『戸山ヶ原風景』も上戸塚の南側(現・高田馬場4丁目)にあったとみられる下宿から、散歩がてら入りこんだ同原の光景を写したものだ。
 むしろ、戸山ヶ原の外周域にある住宅街では、大久保射撃場Click!からの流弾被害Click!のほうが深刻な課題だった。同射撃場の全体が、1928年(昭和3)7月にコンクリートのドームで覆われる以前の話だ。ちょうど令嬢誘拐事件が起きたころには、周辺町村の住民たちが陸軍は戸山ヶ原から「出ていけ」運動Click!を展開している真っ最中だった。
 さて、「誘拐」された富美子嬢の家、つまり実業家で大富豪の屋敷は、戸山ヶ原周辺のどこにあったものだろうか? そもそもこの誘拐事件の大前提として、文面に書かれている戸山ヶ原の一本松が「あっ、あそこだ!」とすぐに気づくエリアでなければ、脅迫状になんの意味もないことになる。かんじんの身代金の受け渡し場所が、「一本松って、なに? 警察には相談できないし、どこへ行けばいいの?」では困るのだ。だから、戸山ヶ原にある一本松の位置を知悉している、ひょっとすると大富豪の家人も散歩したことがあるエリア、そのごく近くの屋敷街ということになる。その証拠に、大富豪の伯父は「御承知の通り」などと、戸山ヶ原の様子をよく知っている口ぶりだ。
 当時もいまも、一本松のある山手線西側の戸山ヶ原を囲むように存在している街は、北側の戸塚町上戸塚(現・高田馬場4丁目)、北西側は落合町上落合、西側の中野町小滝(現・東中野5丁目)、西南側の柏木町淀橋(現・北新宿4丁目)、南側の百人町……ということになる。この中で、一代で大富豪となった筆者の伯父が、大邸宅をかまえて居住しそうな屋敷街というと、ちょうど大正期に入って華洲園(花畑)Click!が整理され、藤堂伯爵邸をはじめ大屋敷街が開発されたばかりの、中野町小滝のバッケ(崖地)Click!上にある小滝台住宅地が相当するだろうか。ひとつの敷地が600~2,600坪という、大邸宅向けの分譲地であり、いわゆる「中流上」向けの文化村住宅街とは、そもそもケタがちがう開発コンセプトだ。
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 身代金の受け渡しには、小滝台の邸宅からクルマで早稲田通りへと下り、小滝橋交差点を新宿方面へ向かう小滝橋通りへと入って200~300m、戸山ヶ原の西端に駐車すると、伯父と書生の「牧田」は原の斜面を東へ上っていったのだろう。背後には、豊多摩病院Click!の灯火がチラチラと見え隠れしていたかもしれない。あたりは初冬のことだから、昼間太陽に熱せられた地面から、薄っすらと靄が立ちこめていたかもしれない。ふたりは、まばらな林を抜けると塹壕演習Click!の跡が生々しい原っぱに出た。懐中電灯で照らされた原の中心には、ポツンと一本松の影が闇を透かしてなんとか確認できただろうか。
  
 「あのT原の四五町手前で自動車を降りると、わしは懐中電燈で道を照しながらやっと一本松の下までたどりつきました。牧田は、闇のことで見つかる心配はなかったけれど、なるべく樹蔭こかげを伝う様にして、五六間の間隔でわしのあとからついて来ました。御承知の通り一本松のまわりは一帯の灌木林で、どこに賊が隠れているやら判らぬので、可也気味が悪い。が、わしはじっと辛抱してそこに立っていました。さあ三十分も待ったでしょうかな。牧田、お前はあの間どうしていたっけかなあ」/「はあ、御主人の所から十間位もありましたかと思いますが、繁みの中に腹這いになって、ピストルの引金に指をかけて、じっと御主人の懐中電燈の光を見詰めて居りました。随分長うございました。私は二三時間も待った様な気がいたします」
  
 このとき「牧田」は、陸軍科学研究所Click!のある南側の林を密かに移動し、一本松の下で身代金を用意して犯人を待つ主人の東側へと廻りこみ、林の中で急いで変装していた。そして、黒づくめの大男を装うと拳銃をかまえ、主人からまんまと身代金1万円を奪うことに成功している。明智小五郎が一本松の下で現場検証を行い、「竹馬」らしい足跡を発見するのは、事件から5日めのことだった。
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 でも、戸山ヶ原の一本松あたりは、近所の子どもたちの格好の遊び場となっており、事件から5日もたったあとまで、事件当夜の足跡がきれいにクッキリ残されていたとは思えない。明智小五郎が天眼鏡で足跡を探しているそばから、「も~い~かい?」「ま~だだよ」と一本松でうしろ向きに数をかぞえる、“鬼”から逃げ散った子どもたちが周囲を走りまわり、「こっ、このオバカ~! ガキどもが、そこらを踏み荒らすな~! コッ、コラ~ッ、浅草の見世物小屋か、サーカスにでも売り飛ばしてしまうぞ、あっちいけ~!」と叫ぶ明智を尻目に、ウヒャヒャヒャ……と周囲の地面はグチャグチャにされていただろう。江戸川乱歩が一本松の周囲を、ことさら「人の通らぬ淋しい場所」とか「秘密の会合場所には持って来い」と強調しなければならなかった理由が、実はこれだったのだ。

◆写真上:日米開戦の直前まで、一本松があったあたりの現状。戦時中、陸軍技術本部/陸軍科学研究所Click!が北側へ拡張されたため伐採されて消滅している。
◆写真中上は、1936年(昭和11)に陸軍航空隊が撮影した空中写真にみる戸山ヶ原の一本松。は、1938年(昭和13)ごろの戸山ヶ原の様子を描いた濱田煕による戦後の記憶画『天祖社の境内から一本松を望む』(部分)。
◆写真中下上左は、2004年(平成16)に出版された短篇『黒手組』所収の光文社版『江戸川乱歩全集』第1巻。上右は、空襲からもまぬがれ現存する蔵を改造した江戸川乱歩邸の書庫。は、江戸川乱歩の小説が連載された博文館発行の「新青年」。
◆写真下は、濱田煕が描いた戸山ヶ原(西部)の鳥瞰図にみる「伯父」と書生「牧田」の身代金1万円の受け渡し想定ルート。は、「牧田」が拳銃を手にして隠れていた灌木あたりの現状で、斜面を下りたビルの向こう側に小滝橋通りが走っている。

神田川沿いへ展開する染め物工房。

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 明治期の、いまだ澄んでいた大川(隅田川)沿いに散在していた江戸小紋や江戸友禅、紺屋などの染色業Click!が郊外へいっせいに移転しはじめるのは、明治末から大正期にかけてのことだ。旧・神田上水Click!江戸川Click!(ともに現・神田川)沿いにも、数多くの染色会社や工房が移転してきて、1955年(昭和30)刊行の『新宿区史』によれば、京染めをはるかに凌駕した江戸東京染めは、実に都内染物生産額の75%を新宿区の旧・神田上水(江戸川)沿いに建っていた工場や工房が占めるまでになっている。
 郊外へ移転する前、下谷二長町で染物屋をしていた方の証言が、1991年(平成3)に出版された『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』7巻(台東区芸術・歴史協会)に収録されている。地付きの家は、江戸期から大工だったようだが、著者の親の世代から染物業に転換し、現在でも埼玉県草加市で操業をつづけているようだ。同書の長谷川太郎「江戸っ子職人三代の二長町」から、江戸小紋を生産していた工房の様子を引用してみよう。
  
 父の染めの仕事は着物の染めでした。小紋ですね。そのほかお人形さんと、羽子板の押絵に使う友禅などもやったんです。小紋というのはなかなか技術のいる仕事で大変なんです。/布地一反といえば三丈(一丈は十尺で約三メートル余り)ありますから、これを板に張って染めるのに一丈五尺のもみ板を使うんです。反物の幅は九寸から一尺位あってそれに耳をつけますから一尺四~五寸はあるんです。/それで一丈五尺の板の裏表で丁度三丈の布が張れるんですね。この板を三十枚も五十枚も揃えておいて使っていたんです。だから染屋は仕事場が広くないと出来ないんですね。/昔はね、手拭屋さんとか紺屋さんとか染屋さんがこんな小さな町にも何軒もあって、そこで働く職人さんがうんといたんです。染屋産ではいわゆる小紋をやっているのが多かったですね。それが震災後に新宿の落合方面とか、江戸川の方とかへ散って行ってしまいましてね。
  
 ここでいう「江戸川」とは、大滝橋Click!から千代田城外濠への出口にある舩河原橋Click!までの神田川のことで、葛飾区を流れる新しい江戸川のことではない。
 現在では、これらの工房は法人化され染め職人は会社員となっているが、戦前までは仕事をおぼえるまでの年季奉公ないしは徒弟制度がふつうだった。尋常小学校あるいは高等尋常小学校を終えた子どもたちは、「小僧」として工房に入り、仕事(技術)をおぼえて一人前になるまで毎月20~30銭の小遣いで働くことになる。戦前、小僧の「年季明け」は19歳の兵役検査がめやすで、たとえば20歳から2年間の兵役につき、除隊すると1年間の「お礼奉公」があった。
 お礼奉公の期間は、いちおう給料が支払われ1日あたり1円30銭~1円50銭が相場だったらしい。1年間をすぎると、一人前あつかいで1日あたり1円80銭~2円と給料が上がり、月の合計給与は当時の一般サラリーマンよりも多めになる。休日はほとんどなかったが、昭和に入ってからは会社員をならって、日曜日を休日にするところが多くなった。
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 つづけて、同書の「江戸っ子職人三代の二長町」から引用してみよう。
  
 昔は月給というのはありません。今の様に休みが多くないからまあ一年中働いていた様なもので、天長節であろうが何であろうが関係ないんです。昔の休日といえば月の一日と十五日、少し後になって第一、第三の日曜日が休みという事になったんですが、もっと昔は年に二回、一月と七月のやぶ入りだけだったんですからね。(中略)/お小遣いを二十銭とか三十銭もらってね、大体行く所は浅草ですよ。かすりの着物に鳥打帽スタイルです。映画を見て食べて帰るんですが、まあ一銭でも安い所を探すわけですよ。支那そば十銭とかね、探すと八銭の所もありましたよ。十戦のカレーライスとかね、カツレツとかフライなんかもあるんです。
  
 ここで「藪入り」の話が出てくるが、東京は新暦なので1月1日に正月(2月の旧正月は存在しない)、7月7日の七夕のあとに盆をやる習慣は当時もいまも変わらない。正月と盆に雇用人へ休暇を出すことを、藪入りといっていたのだが、現在では8月の旧盆のことを親たちの世代から藪入りと呼んでいる。従来は、東京地方の7月15~16日の盆に合わせて休暇を出していたものが、8月の旧盆のままの地方も少なくはないので、戦後は8月に休暇(夏休み)を出す会社が多くなった。したがって、本来はシンクロしていた7月の盆と藪入りが分離してしまったわけだが、それでも8月の旧盆休みを、わたしの子どものころまで東京では「藪入り」と呼ぶのが習わしだった。10月は「神無月」だが、出雲(島根)のみは「神有月」と呼ぶのと同じような感覚だ。
 でも、高度経済成長がスタートしてしばらくすると、地方から働きにくる人々が増えたため、藪入り(旧盆)のことを「盆」と呼ぶ人たちも増え、東京では7月の盆と8月の旧盆が二度あるような感覚になってしまった。それではおかしいので、7月の盆はそのままで8月の旧盆は「藪入り」ではなく、最近では「夏休み」と表現する企業も増えている。
 本来なら、8月の半ばが盆なら、正月は2月1日でなければおかしいし、七夕も8月7日でなければまったく暦(こよみ)に合わないのだけれど、1月1日が正月、3月3日が雛祭り、5月5日が端午の節句、7月7日が七夕、7月半ばが盆……という習慣を頑固に守っているのは、いまや江戸東京地方を含む関東地方だけになってしまったものだろうか。
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 さて、江戸小紋の染めつけは浮世絵の版画を何色も重ねて刷るのと同じで、非常に高度なテクニックが必要だった。浮世絵は、失敗すればその刷り紙を廃棄すればいいが、小紋は布が一尺五寸もあるので、やり直しがまったくきかない。型紙は、和紙を何重にも重ねた渋紙でこしらえるが、それに小刀で模様を切っていく。これも高度な技術が必要で、寸分の狂いもない神業のような腕が求められた。
 戦前の染めには化学染料が使われたが、ドイツからの輸入品が多かったらしい。だから、第1次世界大戦でドイツが負けると、染料の価格が高騰してたいへんだったようだ。朝方は1匁(もんめ)10円で買えた染料が、夕方には20円になっていた……などという話もめずらしくなかった。大正の中期ごろ、染め物業者は食うや食わずで染料の入手に奔走していたという。だが、戦後は和服の需要が急減し、職人の数も激減している。落合地域の江戸小紋や手描き友禅の工房も、いまや40軒あるかないかの件数にまで減ってしまった。
  
 しかしあたしはもう和服はやめました。残念ながらこれでは食っていけませんからね。それで今は無地のものの機械染めをしているんです。スポーツ用品のバッグとか、かばん類、登山用のテントとか、合成せんいの消耗品が主です。最近はこういう需要が多いんです。まあこの機械染めならば後継者もやれて永続性がありますから。
  
 落合地域の神田川や妙正寺川沿いでは、いまだ着物を染めつづけている工房Click!が少なくない。いまや、江戸小紋や江戸友禅の“本拠地”になってしまった同地域だが、少しでも地場や地域の産業を盛り上げようと、さまざまな企画や催しClick!が行われている。
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 余談だが、江戸小紋の染めに使われた長さ1丈5尺で幅1尺5寸の染め板は、戦時中に「風船爆弾」Click!の製造用に軍へ徴集されている。和紙や羽二重の布へこんにゃく糊を塗る、下敷きの作業台にされていたのだ。陸軍登戸研究所Click!による風性爆弾は、本所国技館Click!浅草国際劇場Click!などで製造されていたけれど、軍の最高機密であるにもかかわらず、親父でさえ戦時中からその存在を知っていた。ヒロポン(覚せい剤)を注射された女学生たちが徹夜で作業し、到底「作戦」とも呼べない風まかせの偶然性に依拠した風船爆弾を語るとき、「どう考えても勝てるわけがない」と苦笑していた親父を思い出す。

◆写真上:しぶい浅縹色(あさはなだいろ)の、精緻な柄が美しい波頭文様の小紋。
◆写真中上:江戸小紋の作業工程で地染め()と型紙止め()、そして型染め()。
◆写真中下は、丸刷毛と染め布。は、現在でも染めの工房が多い妙正寺川(神田川支流)沿い。は、何度かお邪魔した上落合にある染の里「二葉苑」Click!
◆写真下:戦後に撮影された、浅草国際劇場()と本所国技館()。は、江戸小紋の染め板を使いこれらの施設で製造されていた「風船爆弾」のバルーン。

第二文化村の「社宅建設敷地」の処分。

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 1925年(大正14)9月になると、箱根土地Click!は新聞紙上へ第四文化村の販売広告を出稿するとともに、目白文化村Click!の開発・分譲をほぼ終えている。また、箱根土地が翌1926年(大正15)7月17日付けで作成した第四文化村の「分譲地地割図」も残っており、全敷地が予約も含め販売を終了したように見える。でも、同年9月になると再び第四文化村分譲の小さな媒体広告を新聞紙上に展開しているので、7月の全敷地完売とされる「地割図」には疑問があることは、以前の記事Click!にも書いたとおりだ。
 また、もうひとつの課題として第四文化村の販売は、第二文化村の「売れ残り」の敷地を販売したものだ……というような記述の資料を見るが、1926年(大正15)の第四文化村の地割図は、箱根土地本社ビル(不動園Click!)の南西側にある谷間=前谷戸Click!(大正中期ごろから不動谷Click!と呼称)を、新たにひな壇状に開発・整地したもので、第二文化村の「売れ残り」ではない。では、なぜそのような証言が(あったとすればだが)、地元に残っていたのだろうか?……というのがきょうのテーマだ。
 第四文化村の開発は、ちょうど第二文化村が分譲・販売されているころ、そして第一文化村に大きく口を開けていた前谷戸の東側一帯の埋め立てClick!が実施された、1923年(大正12)の夏以前から開発がスタートしていたのではないかとみている。この時期、大量の土砂や大谷石ブロックが目白文化村に搬入され、谷間の埋め立てや急な傾斜地の緩急化、そしてひな壇敷地の造成が同時に行われていたのではないだろうか。特に第四文化村は、佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!の1作『雪景色』(スキー)Click!に描かれているように、V字型に落ちこむ急傾斜の谷間敷地が多く含まれており、近衛町Click!バッケ(崖地)Click!でなかなか売れずに再開発が必要となった44号地Click!のケースと同様、大量の土砂や大谷石のブロックを用いてひな壇状に宅地を造成するには、相当な工数と開発リードタイムを必要としただろう。
 さて、箱根土地は第四文化村の分譲販売とほぼ同時期に、第一文化村の東側にあった本社Click!の国立駅前への移転を発表している。中央線の国分寺駅と立川駅の中間へ、箱根土地は新たに「国立駅」Click!を建設・設置して鉄道省に寄贈し、「大泉学園都市」Click!の開発と並行しつつ「国立学園都市」の建設へ本腰を入れるための本社移転計画だった。この本社移転の決定を受けて、目白文化村に確保されていた一部の土地が不要になっている。1925年(大正14)に箱根土地が作成した、第一文化村と第二文化村を併せた「分譲地地割図」を仔細に観察された方なら、すぐにピンとくるのではないだろうか?
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 不要になった土地とは、第二文化村の北西部に接した区画、ちょうど第二文化村水道タンクClick!の向かい側に拡がる、当初は南角地に下落合1650番地とふられた広い空き地だ。前述の「分譲地地割図」(1925年現在)には、「箱根土地会社/社宅建設敷地」と記載されている土地だった。箱根土地本社が国立駅前へ移転する以上、もはや国立から遠く離れた目白文化村に、同社社員の「社宅」を建設する意味はない。同社では、第四文化村の販売と同時か、あるいはやや遅れてこの「社宅建設敷地」へ新たな地割りを施し、改めて一般に分譲販売しているとみられる。
 この一連の分譲販売が、1925年(大正14)の第四文化村の販売時期と重なり、第二文化村の「売れ残り」の敷地を販売したもの……というような錯覚を生んで、地元の伝承(そのような証言があったとすればだが)へとつながっているのではないか。「社宅敷地」は売れ残りではなく、また第四文化村とは場ちがいの敷地であり、改めて区画割りや生活インフラを整備して分譲された、あと追いの第二文化村エリアの宅地ということになる。
 「社宅建設敷地」は、新たに5つないしは6つの区画に分割されて販売されているようだ。ただし、そのうちの1区画は地元の地主(農家)が箱根土地から土地を買いもどしたものか、昭和期に入ると再び畑地にもどっているので、実質は4区画ないしは5区画が分譲住宅地とされたようだ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、住宅地として整備されているのは4区画、畑地が1区画、また整備済みの住宅地か畑地かハッキリしない、広い空き地が1区画という構成になっている。そして、「火保図」(1938年現在)では3棟の住宅が建っており、地番が新たに下落合1647番地あるいは下落合1658番地などと細かく変更されている。
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 3棟の住宅の中で、もっとも大きなものは下落合1647番地(旧・1650番地)の安本邸だ。「火保図」では耐火建築の表現で記載されており、コンクリート造りあるいはそれに類似した造りの大きな西洋館だったとみられる。敷地の北寄りに巨大な母家が位置し、南側には広い庭園が拡がっていた。1936年(昭和11)の空中写真を参照すると、同邸は火保図に描かれた家屋の半分ほどにしか見えないので、ひょっとすると同年から「火保図」が制作される2年の間に、母家西側に大規模な増改築を行なっているのかもしれない。安本邸は戦災に遭い母家が全焼しているが、戦後、この広い敷地へ建設されたのが下落合教会Click!下落合みどり幼稚園Click!だった。
 安本邸の北隣りには、水野邸(下落合1647番地)が建設され、南側には未建設の分譲地を残して、西隣りには居住者の記載がない小さめの邸(下落合1658番地)が建設されていた。この3邸は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機が撮影した空中写真でも捉えられており、空き地だった安本邸の南側分譲地には新たに邸が建てられているように見える。他の敷地はおそらく畑地のままだったか、あるいは投機を目的とした不在地主の所有地のままだったのだろう。同年の空襲では、4邸ともが延焼している。ちなみに、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、かなり大きめな邸にもかかわらず、安本と水野の両家とも人物紹介に採録されていない。
 また、「第五文化村」の分譲・販売が行われたとされる資料も散見するが、箱根土地が販売した目白文化村は第四文化村までであり、その後、1940年(昭和15)1月から5月にかけて、第二文化村の西側に接した南北に長い敷地一帯が、なぜか「目白文化村」として分譲販売されている。だが、この分譲地は勝巳商店地所部Click!による開発・販売であり、箱根土地はまったく関与していない。分譲地を分割した区画も、縁石や擁壁は大谷石ではなくコンクリート仕様が主体であり、また地下共同溝などの設備も敷設されず、目白文化村の開発コンセプトとはすでに大きく異なっている。
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 もし、「第五文化村」が販売されたという伝承が存在したとすれば、箱根土地による第四文化村の販売から16年後に行なわれた、勝巳商店地所部による「目白文化村」の分譲販売を、「第五文化村」と勘ちがいした方がいたということではないか?……とは、以前の記事Click!でも書いた。ましてや、勝巳商店は箱根土地とまったく同ブランドの「目白文化村」と名づけて販売しており、また敷地も第二文化村の西に隣接するエリアだったため、そのような伝承が生まれたとしても不自然には感じられないように思われるのだ。

◆写真上:第四文化村に残る、大谷石による大規模な擁壁。前谷戸つづきの谷間へひな壇状の宅地を開発するには、膨大な土砂と大谷石ブロックが必要だったろう。
◆写真中上は、1926年(大正15)9月29日に各紙へ出稿された第四文化村の分譲広告。は、1926年(大正15)7月に作成された第四文化村の「分譲地地割図」。は、1925年(大正14)作成の「分譲地地割図」にみる「箱根土地会社/社宅建設敷地」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる「社宅建設敷地」跡の分譲の様子。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地所。すでに安本邸と水野邸、さらにもう1邸が建設されているのがわかる。は、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に撮影された同地所で新たに1邸が建設されているように見える。
◆写真下は、戦後に安本邸跡へ建設された下落合教会(下落合みどり幼稚園)。は、目白文化村の大谷石による縁石と共同溝の跡。は、勝巳商店地所部による「目白文化村」開発で施されたコンクリート縁石の様子。

「岩井栄」の壺井栄と「坪井栄」の藤川栄子。

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 以前の記事で、壺井栄Click!の本名が「坪井栄」で、藤川栄子Click!の本名「坪井栄」と同姓同名だったため急速に親しくなり、窪川稲子(佐多稲子)Click!ら親しい友人を誘い合って、落合地域を散歩していたのだろう……と書いた。ところが、壺井栄の本名は正確には「岩井栄」であり、そもそも彼女の文壇デビュー作の活字から「岩」を「坪」、ないしは「壺」を「坪」と“誤植”していることが判明した。
 この「坪井栄」を、彼女の本名だとする資料もいくつかあるので(わたしは当該の資料を参照したようだ)、この勘ちがいは1938年(昭和13)に発行された「文藝」9月号に、坪井栄(壺井栄)『大根の葉』が発表されてから、かなり長期間つづいていた可能性がありそうだ。『大根の葉』以前にも、彼女は「婦女界」や「進歩」へ習作とされる作品をいくつか書いているが、本格的な小説は「文藝」に掲載された150枚の『大根の葉』が最初だった。そして、デビュー作の作品の作者名から“誤植”が生じた。
 壺井栄(岩井栄)は小豆島の実家で、少女時代から文学青年だった兄・岩井弥三郎の購読する「新小説」や「文芸俱楽部」、「女子文壇」などを読んで育った。東京へやってきて結婚したあと、夫のプロレタリア詩人の壺井繁治が治安維持法違反で豊多摩刑務所に服役中、『プロ文士の妻の手記』という作品を残している。30枚あまりの短い作品だが、婦人雑誌「婦女界」が公募していた生活記録文の懸賞に応募したもので、入選して30円の賞金をもらっている。『プロ文士の妻の手記』は小説(フィクション)ではなく、壺井繁治との生活をほぼそのまま記録した、自伝的ルポルタージュとでもいうべき作品だった。
 彼女が初めて書いた小説は、1934年(昭和9)に坂井徳三らが主催する現代文化社の文芸誌「進歩」第3号に掲載された、ペンネーム小島豊子の短編『長屋スケッチ』だ。この作品はフィクションの体裁をとっているけれど、やはり夫婦の生活上に起きた事実を記録した記録文学のような雰囲気をもつ。結婚後まもなく、世田谷町の太子堂近くに借りた長屋での生活を、周囲の人々の様子とともに記録したものとみられる。壺井繁治が二度めの服役から保釈後、彼の奨めで同作は「進歩」に寄稿されている。だが、「進歩」はマイナーな文芸誌であり、彼女がことさら大きく注目されることはなかった。
 つづいて1935年(昭和10)に、神近市子Click!編集の「婦人文藝」4月号へ、同じく短編『月給日』を発表した。この小説も彼女の実体験をベースにしており、かつて彼女が浅草橋の時計問屋に勤めていたとき、月給日に新宿で買い物をした帰り、新宿駅の切符窓口で月給入りの財布をひったくられた事件がテーマとなっている。『月給日』は、神近市子が編集する文芸誌に掲載されたことで、少なからず文学界から注目された。このころから、壺井栄は毛糸の編み物で家計を助けながら、小説家になる決心を固めていたようだ。
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 元来ユーモアたっぷりな彼女の性格は、落合地域を中心に宮本百合子Click!窪川稲子Click!(佐多稲子)たちと面白おかしく世間話を重ねているうちに、「それ、いっそ小説に書いてみれば?」と奨められることが多くなったらしい。特に宮本百合子は、彼女の小説家デビューを強力に支援したようだ。こうして書かれたのが、1938年(昭和13)に発表された『大根の葉』だった。当初は「文藝春秋」に掲載される予定だったが、彼女の担当編集者が急に北支へ転勤になって話が立ち消えになり、つづいて「人民文庫」への発表予定が、ちょうど掲載月に経営が破たんして廃刊となってしまった。
 最後に、宮本百合子が「文藝」の編集者・小川五郎(高杉一郎)に推薦して、ようやく1938年(昭和13)の「文藝」9月号に、壺井栄『大根の葉』は掲載されることになる。なかなか発表できなかった“難産”の状況から、宮本百合子は「大根の葉が、いまに乾菜(ほしな)になってしまう」と冗談めかしていっていたという。ところが、いざ「文藝」に掲載されてみると、とんでもない“誤植”が判明したのだ。かんじんの作者名「壺井栄」が、「坪井栄」になってしまっていた。ここから、ちょっとしたおかしな騒動が起きている。「文藝」9月号が書店に並んだとたん、画家・藤川栄子Click!のもとに祝いの手紙が舞いこみはじめたのだ。
 二科の藤川勇造Click!と結婚する以前、独身時代の坪井栄(藤川栄子)は、早稲田大学の文学部へ聴講生として通うほどの文学好きだった。1930年協会Click!へ出品して画家になる前、彼女はひとりで小説家をめざしていた時期がある。だから、藤川栄子の友人知人たちの何人かは、彼女の作品が「文藝」に採用されたと勘ちがいして、祝いに駆けつける者まで出てきた。そのときの騒動の様子を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。
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 いよいよ掲載誌が届いて栄が封を切ったところ、重大な誤植があった。作者の「壺井栄」が「坪井栄」になっているのだ。この作品が発表された時、画家の藤川栄子の許へお祝いの手紙が誰かから届いたという話があるが、それは彼女が彫刻家の藤川勇造と結婚するまでは「坪井栄」だったので、てっきり彼女の作品であると思って、お祝いの手紙をくれたらしい。ところで藤川栄子は、栄の少女時代に影響を与えた兄弥三郎の、高松の教師時代の教え子の一人だったということも、一つの因縁話として面白い。
  
 この時点で、初めて壺井栄と藤川栄子が知り合い、親しくなったわけではないだろう。それ以前から、早稲田通りをはさんで斜向かいの戸塚町上戸塚593番地に住んでいた窪川稲子(佐多稲子)Click!と、親しく交流していた同町上戸塚866番地の藤川栄子Click!は、彼女を通じて壺井栄とも知り合っていたと思われる。ふたりとも香川県出身の同郷で、親しくなるのにそれほど時間はかからなかったろう。しかも、藤川栄子が壺井栄の兄の教え子だったことも、ふたりを急速に接近させた要因だったのではないか。
 このあたりの「坪井栄」をめぐるエピソード、すなわち藤川栄子の旧姓だった本名「坪井栄」と、本名で掲載されるはずだった壺井栄の誤植「坪井栄」のユーモラスな混乱がきっかけとなり、壺井栄の旧姓=坪井栄とする勘ちがいが、のちの資料類にまで生じた可能性を否定できない。
 ふたりの親しい交際は、壺井夫妻が上落合549番地から短期間の上高田暮らしをへて、鷺宮2丁目786番地(現・白鷺1丁目)へ転居したあとまでつづいた。藤川栄子は、親友の三岸節子Click!アトリエClick!を訪ねたときなど、同じく鷺宮に転居していた窪川稲子や壺井夫妻を訪問していたとみられる。
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 実質の処女作となった壺井栄『大根の葉』は、軍国調の作品があふれていた小説界へ、久しぶりに本格的な味わいの小説が登場したと喜ばれ、多くの読者や批評家から好評で迎えられている。自身の作品が、初めてメジャーな文芸誌に掲載されたとき、おかしな誤植騒ぎはあったものの、壺井栄は夫に「わたし、もうこれで死んでもいいわ」といって喜んだが、彼女が次々と本格的な作品の執筆をスタートさせるのは、1945年(昭和20)の敗戦以降のことだった。

◆写真上:上落合(2丁目)549番地にあった、壺井繁治・壺井栄邸跡あたりの現状。
◆写真中上は、1937年(昭和12)ごろを想定した上落合・上戸塚地域に住む親しい女性作家・画家たちの様子。は、戦後の1955年(昭和30)に撮影された壺井繁治・栄夫妻。下左は、同じく戦後の1946年(昭和21)に出版された壺井栄『大根の葉』(新興出版社版)。下右は、三岸陽子様Click!の夫・向坂隆一郎様Click!が保存していた資料類に残る壺井栄『妻の座』(冬芽書房/1949年)の献呈サイン(提供:山本愛子様Click!)。
◆写真中下は、藤川栄子アトリエが建っていたあたりの現状。は、1933年(昭和8)に建設直後の藤川勇造アトリエ(2年後の勇造没後から藤川栄子アトリエ)。は、頻繁に訪問しあって仲良しだった藤川栄子()と窪川稲子(佐多稲子/)。
◆写真下は、早稲田通りの騒音がうるさかった窪川稲子邸跡。は、濱田煕Click!が描く1938年(昭和13)ごろを想定した上戸塚の街並み記憶画。窪川鶴次郎・稲子夫妻の借家が、中村義次郎邸の敷地内に建つ借家だったのがわかる。

牧野虎雄アトリエに見る大正の長崎風景。

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 このような文章を書いていると、どうしても欲しい資料が見つからないことがままある。その反対に、いともたやすく立てつづけに欲しい資料が、まとめて手に入ることもある。今回は、後者の典型的なケースだ。以前、下落合で転居を繰り返す松居松翁Click!の記事でも少し取りあげた、牧野虎雄Click!のアトリエについての資料だ。
 1936年(昭和11)まで長崎村(町)荒井1721番地(現・目白4丁目)にアトリエをかまえ、のちに下落合2丁目604番地(現・下落合4丁目)へ転居してくる牧野虎雄Click!は、自身のアトリエをモチーフにいくつかの作品を残している。以前、牧野が自宅と庭を描いた1922年(大正11)の『早春』をモノクロ画像でご紹介Click!しているが、カラー画像がどうしても見つからなかった。
 ところが、古書店で絵葉書になっている同作を見つけるのとほぼ同時に、その3年前に描かれ、やはり記念絵葉書になって残されていた『庭』も見つけることができ、ようやくカラーの画面を見ることができた。さらに、牧野虎雄が下落合540番地の大久保作次郎邸Click!の庭で制作した、1922年(大正11)の『百日紅の下』の絵葉書も、ほどなく実物を手に入れることができた。
 牧野虎雄が自邸を描いた『庭』は、1919年(大正8)の夏に制作され、第1回帝展に出品されている。また、『早春』は1922年(大正11)の1月ごろに描かれたのだろう、同年3月10日から7月20日まで上野で開催された、平和記念東京博覧会の美術館へ出品されたものだ。さらに、『百日紅の下』は1922年(大正11)の夏に大久保作次郎邸の庭で制作され、秋の第4回帝展に出品されている。いずれも神田美土代町1丁目44番地にあった美術工藝会によって記念絵葉書がつくられ、今日まで伝わったというわけだ。
 まず、もっとも早い時期の長崎村荒井1721番地をとらえた『庭』(冒頭写真)を観ると、なにやら庭にこんもりした土盛りがしてあり、その周辺にはヒマワリや白ユリの花が咲いているのが見てとれる。この土盛りは、牧野自身が庭づくりのために造作したものか、家を建てる前からそこに存在していたものか、それとも敷地の西側へ南北道路を拓くための工事用土砂なのかは不明だ。周囲の情景との比較からすると、直径10mほどはありそうな盛り土なのがわかる。
 背景の、木々が繁る奥に人家は見あたらず、住宅地というよりは雑木林の中にアトリエを建てているような風情だ。牧野のアトリエは洋風住宅であり、トタンを貼った屋根の下の外壁は下見板張りで、まるで昔の小学校のようにグリーンのペンキで塗られていたのがわかる。手前には、頭をかいて「ど~もスイマセン」といっているような、白い浴衣を着た女性の上半身が描かれており、セミ時雨がやかましい盛夏の庭先で唯一、動きのあるモチーフだ。こういうところが、牧野の独特なユーモアセンスなのだろう。
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 『庭』の夏景色から一転し、3年後の冬枯れが残る『早春』には、葉を落とした木々の向こう側に、新たに建てられたとみられる住宅らしいフォルムが描かれている。樹間に2~3棟が確認できるので、わずか3年の間に長崎村荒井界隈は、急速に宅地造成が行なわれているのがわかる。変わらないのは、牧野邸のすぐ左奥に見えている、アカマツのような姿の常緑樹だが、同じような樹影を残しつつも3年後にはやや成長しているのが見てとれる。庭のこんもりとした土盛りは消滅し、雨漏りでもして屋根を修繕しているのか鬼瓦状の突起が消え、屋根の印象が少し変わっている。ケヤキと思われる木々の葉が落ち、ヒヨドリの鋭い声が聞こえそうな寒々とした風景だ。
 『庭』と『早春』の2作とも、光線の射し方で自宅の南側から北東を向いて描いているとみられる。現在では、庭の左手に“>”字型にクラックのある道路が北へとつづいているけれど、1921年(大正10)現在の地図では雑木林の中をゆるやかにカーブする小道の描写はあるものの、ハッキリとした道路のかたちには描かれていない。1919年(大正8)夏の『庭』は、その小道が盛り土の手前左手に通う自宅を南側から描いたもので、1922年(大正11)冬の『早春』は、北側に住宅が建ちはじめたため、かなり明確に道路ができかかっている時期に描かれたものだと想定できるだろう。『早春』のほうが、自邸にかなり寄って描かれているため画面が狭い。
 1921年(大正10)作成の1/10,000地形図を参照すると、長崎村荒井1721番地の位置に牧野邸と思われる家屋が、1軒ポツンと採取されている。また、東側には大久保作次郎アトリエも見つけることができる。ふたりは帝展の常連でありお互いが親しく、大久保作次郎が1916年(大正7)ごろ下落合540番地にアトリエを建てているので、おそらく牧野虎雄もほぼ同じ時期に近くへ引っ越してきているのだろう。牧野アトリエから、東へ直線で200mほどのところに、目白通りの北側へ張りだした下落合の大久保アトリエがあった。
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 1922年(大正11)の夏、牧野虎雄は大久保作次郎邸の庭へ出かけ、第4回帝展用の作品を制作している。それが、同年制作の『百日紅の下』Click!だ。大久保作次郎の弟子とみられる女性が、サルスベリのもとで大久保邸の庭をスケッチしている様子を、かたわらで牧野虎雄が重ねてスケッチしている…という面白い情景だ。陽射しを除けるため、女性の頭上にひろげられた2本の雨傘が面白くて、牧野はモチーフに選んだのかもしれない。
 ピンクのワインピースに白いエプロンをした女性は、50号ほどの大きなキャンバスに向かっている。それを描く牧野虎雄もまた、同じぐらいの大きなキャンパスへ描いており、その様子は同年に発行された『主婦之友』の写真で知ることができる。牧野は、おそらく麻のスーツにシャッポ―をかぶったハイカラないでたちだが、1922年(大正11)の当時、ワンピース(しかもピンク)を着た女性は非常にめずらしかっただろう。この姿で目白通りを歩いたら、おそらく道ゆく人が次々と振り返ったにちがいない。
 紅いサルスベリの花が咲き、イーゼルを立てている女性画家の向こう側は鶏舎となっており、数多くの白色レグホンが飼われている様子が見える。鳥が好きな大久保作次郎の庭らしい風情なのだが、セミの声に混じってコケ~コッコッコというニワトリの声Click!が、制作の間じゅう耳について離れなかっただろう。のちの1931年(昭和6)に、牧野虎雄はやはり帝展出品の作品づくりに大久保邸を訪れ、庭で飼われていたシラキジClick!をモチーフに、巨大なキャンバスへ取り組む写真が残されている。
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 1922年(大正11)制作の『早春』が出品された平和記念東京博覧会には、文化村のモデルハウス14棟Click!が出展されている。同じ年、初の本格的な文化住宅街である下落合の目白文化村Click!近衛町Click!、そして東急洗足駅の洗足田園都市Click!が販売を開始し、それら洋風建築の壁面を飾る洋画のニーズが、一気に高まりを見せていた時代だった。

◆写真上:1919年(大正8)秋の第1回帝展に出品された、牧野虎雄の『庭』。
◆写真中上は、1922年(大正11)春の平和記念東京博覧会へ出品された牧野虎雄『早春』。は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる牧野邸。は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる牧野邸と描画ポイント。
◆写真中下は、長崎村荒井1721番地(現・目白4丁目)の、牧野虎雄アトリエ跡の現状。は、1922年(大正11)の第4回帝展に出品された牧野虎雄『百日紅の下』。は、「主婦之友」に掲載された大久保邸の庭で『百日紅の下』を制作する牧野虎雄。
◆写真下は、下落合540番地の大久保作次郎アトリエ跡。は、1922年(大正11)の平和記念東京博覧会場に建設された「美術館」。は、同博覧会へ出展された文化村住宅14棟の一部。いずれも、大木栄助・編『平和記念東京博覧会写真帖』(1922年)より。

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