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「厄病神」平林たい子と「救いの女神」壺井栄。

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壺井宅(上落合549).JPG
 なにか困ったことが起きたとき、あるいは自分だけでは到底解決できない困難な課題を抱えているとき、なんの前ぶれもなく、それを見透かしたかのように突然現れる「救いの神」=人物がいる。仕事でも趣味でも、わたしはそんなありがたい方々に運よくお会いして支えられ、これまでなんとかやってこれたような気がする。太平洋の黒潮が洗う犬吠埼へ、経済的な困窮と避寒のために出かけた壺井繁治Click!の前に、同郷の小豆島からとびきりの「女神」が降臨した。
 詩誌「赤と黒」につづき、1924年(大正13)11月に発刊された詩誌「ダム・ダム」は創刊号を出したとたんに終刊号となってしまい、編集人のひとりだった林政雄が同人費と広告料を持ち逃げして終わった。壺井繁治をはじめ萩原恭次郎Click!、橋爪健、林政雄、岡本潤Click!小野十三郎Click!高橋新吉Click!らアナーキズム色の強い同人たちが集まり「ダム・ダム」を刊行したのは、マルキストたちが文芸誌「種蒔く人」につづいて「文芸戦線」を創刊したのに対抗する意味もあったようだ。「文芸戦線」の同人には小牧近江や金子洋文、今野賢三Click!、村松正俊、柳瀬正夢Click!佐々木孝丸Click!平林初之輔Click!らが名を連ねていた。
 「文芸戦線」に対抗するどころか、明日からの生活にも困った壺井たちは、銚子出身の警察署長の息子だった飯田徳太郎の提案に一も二もなく飛びついた。飯田徳太郎は、陸軍の甲府連隊へ反戦ビラをまいて検挙され、保釈後に「ダム・ダム」へ参画するようになっていた。飯田のアイデアは、下宿の食事を止められ明日にでも追い出されそうになっていた壺井たちには、バラ色の提案に思えただろう。以下、そのときの様子を1966年(昭和41)に光和堂から出版された、壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。
  
 (前略)「ダム・ダム」が廃刊となり、みんなの気持が支えどころなくバラバラとなっていた時、彼(飯田徳太郎)の口から故郷の銚子へゆかぬかという話が持ち出された。そのころわたしは下宿代が滞り、食事を止められ、何処かへ逃げ出さねばならない状況に追い詰められていた。そういうわたしにとって飯田の話は渡りに舟だった。彼の話によれば、犬吠岬燈台の近くに日昇館という夏向きの貸別荘があり、冬の間は誰も客はなく、非常に安く借りられるから、出来るだけ多勢を誘い、そこで共同生活をしながら原稿を書こうというのだ。そして米や魚や野菜その他の物資は俺の故郷だからなんとか安く調達する、と大変うまい話であった。/この銚子行きに参加したのは、飯田をはじめとして、萩原恭次郎の第一詩集『死刑宣告』に独特なリノリユームの版画を添えた「マヴオ」同人の岡田竜夫、おなじく「マヴオ」同人の矢橋公麿、安田銀行員で、わたしや萩原の下宿によく出入りし、勤めをサボって首になる一歩手前の、肺病で、文学青年の福田寿夫、わたし、それからただ一人の女性平林たい子の六名であった。平林がこの一行に加わったのは岡田の誘いである。(カッコ内引用者註)
  
 実際に利根川の河口にある日昇館に着いた一行は、怪訝な顔をする老管理人に迎えられた。長髪のむさい男5人の中に、女がひとり混じっているのが当時の常識では信じられない光景だったからだ。のち、平林たい子Click!は別荘の管理人夫妻から、「誰かの女房でもない者が、こんな男の中へ交ってくるわけはない」と、執拗にどれが彼女の亭主なのかを問いつめられることになる。
 「別荘」といわれてやってきた一行は、まるで古びた廃病院のような建物にガッカリした。いちおう「貸別荘」として建てられた家には、長い廊下の両側に20室もの部屋が並び、海岸がすぐそこまで迫っているので、潮風が絶え間なくカタカタと雨戸を鳴らすようなわびしい環境だった。一行は、そこで原稿の執筆に取り組んだり読書に励むはずだったが、のんぴり遊びに興じて誰も仕事をしようとはしなかった。
犬吠埼(君ヶ浜から).jpg
壺井繁治「激流の魚」1966.jpg 壺井栄(小豆島)1915.jpg
 毎日、トランプや花札ばかりしては歌を唄い、ゲームに飽きると散歩に出かける生活がつづいた。そんな暮らしが数週間もつづけば、「銚子の街も、太平洋の荒波も、波間に浮かぶ白い鴎も、君ヶ浜の砂丘も、犬吠埼の燈台も」みんなどうでもよくなり、退屈きわまりない風景に変じてしまった。6人いた「合宿」のメンバーは、ひとり減りふたり減りして、ついには壺井繁治と福田寿夫のふたりだけになってしまった。カネが底をつき、飯田徳太郎と平林たい子は東京で金策をしてくるといいだして、交通費の名目で福田寿夫から有りガネすべてを巻き上げると逃走し、二度と犬吠埼にはもどってこなかった。
 壺井たちは数日、水だけですごし、ひと口も食べ物が摂れない状態がつづいて指先の感覚が鈍り、だんだんしびれてくるような状態になる。敷き布団に横たわったまま、海の音を聴きながら染みだらけの天井を見上げるだけの、典型的な飢餓状態に陥った。そんな飢餓地獄のような犬吠埼の日昇館へ、突然、なんの前ぶれもなく岩井栄(のち壺井栄Click!)がやってくる。そのときの様子を、同書からつづけて引用してみよう。
  
 そこへ、突然岩井栄がやってきたのだ。彼女はわたしの隣村の役場にいて、黒島伝治と交際していた関係から、わたしとも知り合っていた。といってそれほど深いつき会いではなく、ときたま手紙をやり取りする程度だった。彼女が文学好きのことは黒島から聞いていたので、「ダム・ダム」が創刊された時、読者になってもらったりした。わたしがここへきて間もなくのころ、「一度遊びにきませんか。」と手紙を出したが、その誘いに応じて、彼女がはるばる小豆島から銚子までやってこようとは、考えてもいなかった。それだけに驚きもしたが、文字通り飢えて死の一歩手前にあったわたしたちにとって、彼女の突然の来訪はまるで天国からの使いみたいだった。/彼女はわたしたちが腹を減らしているのをちゃんと知っていたかのように、ここへ着くと折詰の鮨を二人の前に差し出した。わたしたちはロクにお礼もいわず、それを頬張った。それほど二人は腹を空かしていた。
  
平林たい子.jpg 壺井栄.jpg
壺井宅(上落合).JPG
 壺井栄は、近くの商店から米や魚、野菜などを買いこんでくると、テキパキと料理をつくりだした。男ふたりは、それをむさぼるように食いつづけたらしい。彼女は、小豆島から休暇をとって遊びにきたのではなく、島の村役場を辞めて文学に専念するために東京へやってきていた。つまり、犬吠埼の飢餓別荘へ鮨折りをもって何気なく出かけたことが、文学をめざす壺井栄の第一歩になったわけだ。
 彼女は、ふたりの男を連れて東京にもどると、一時的に義兄の家へ身を寄せている。そして、1925年(大正14)2月に世田谷三宿の山元オブラート工場近くにある2階建ての借家で、壺井繁治とふたりだけの結婚式を挙げた。ほどなく、世田谷町の太子堂近くで北側が騎兵連隊の駐屯地に接し、消灯ラッパが毎日聞こえる棟割り長屋へと転居している。この棟割り長屋には、すぐに玉川の瀬田から野村吉哉と林芙美子Click!が引っ越してきていっしょになり、つづけて道路をはさんだ向かいの床屋の2階には、犬吠埼の「別荘」からなけなしのカネを持ち逃げしてトンヅラした飯田徳太郎と平林たい子が、悪びれる様子もなく夫婦仲となってケロリとした顔で転居してきた。
 文学をめざす、これらの人々の世田谷生活は長つづきせず、ほどなく飯田徳太郎と平林たい子は1926年(大正15)8月に、林芙美子は1930年(昭和5)5月から、壺井繁治・壺井栄夫妻は1932年(昭和7)6月から、期せずして落合地域へ次々に転居してくることになる。壺井繁治・栄夫妻に関していえば、アナーキストたち(黒色青年連盟)による「裏切者」の繁治へ加えられたテロルが、世田谷町若林の家を離れさせるきっかけになったようだ。
壺井宅(鷺宮).jpg
壺井繁治・栄夫妻(鷺宮).jpg
 テロの直後、萩原恭次郎に抱えられて自宅へ担ぎこまれた壺井繁治は、全身の痛みで眠れず夜通しうめき声を上げつづけたが、深夜まで身体をさすりつづけてくれたのは壺井栄だった。壺井繁治にしてみれば、妻はほんとうに自身のもとへ降臨した「廬舎那仏」、…いやもとへ、「女神」のように映っていただろう。だが、幸運の「女神」を得た彼が、思想弾圧と戦争の嵐の真っただ中へ叩きこまれるのは、それから間もなくのことだった。

◆写真上:上落合では二度めの転居となった、上落合549番地の壺井繁治・栄旧居跡。
◆写真中上は、北側の君ヶ浜から眺めた銚子の犬吠埼燈台。下左は、1966年(昭和41)出版の壺井繁治『激流の魚』(光和堂)。下右は、1915年(大正4)に小豆島で妹たちとともに撮影された16歳の岩井栄(壺井栄:後列左)。
◆写真中下は、1924年(大正13)冬の犬吠埼で「厄病神」だった平林たい子()と救いの「女神」だった壺井栄()。は、落合地域の友人知人を訪ねるたびに壺井夫妻が自宅を出て下っていた、鶏鳴坂Click!の1本西側に通う上落合の坂道。
◆写真下は、鷺宮(現・白鷺1丁目18番地)の壺井夫妻が住んでいたあたりの現状。は、鷺宮の自宅縁側でくつろぐ壺井栄(左)と壺井繁治(右)。


最後に小泉清と会った画家。

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鷺宮中杉通り.JPG
 小泉清Click!は、1962年(昭和37)2月21日の夜、中野区鷺宮3丁目1197番地のアトリエClick!でガス自殺をとげた。同じく、鷺宮にアトリエをかまえていた峰村リツ子Click!は翌2月22日、前日に小泉清からもらったチケットを手にして、上野の美術館へ出かけている。展覧会場へ着くと、知り合いから小泉清が死んだことを聞かされた。
 にわかには信じられず、「昨日会ったばかりよ」というと自殺したことを知らされた。峰村リツ子は、そのまま美術館を飛びだすと鷺宮へ駆けもどっている。そして、ベッドの上に横たわる小泉清の額に手を当てて、その冷たさにようやく彼の死を実感として受けとめた。
 峰村リツ子のアトリエは、周辺に住む画家たちが4~5人ほど定期的に集まり、モデルを雇ってクロッキーを行う“研究室”になっていた。峰村が誘うと、モデルを呼ぶカネのない小泉清は必ず顔を出したようだ。絵を売らない小泉清は、シズ夫人が経営するビリヤード場の収入だけで食べていた。峰村アトリエでは、小泉はクロッキーを行うのではなく油絵や水彩、ガラス絵などの画道具を運んできては、ウィスキーをチビチビ飲みながら描いていた。「絵を描くときはこれが一番です。とくに、はだかを描く時はこれに限ります」と、小泉清は手にしたポケットウィスキーを彼女に見せた。
 小泉清アトリエのモノクロ写真が何枚か残されているが、それを見ていると妙な感じがする。画家のアトリエには不可欠な、フロア据え置き用の大きなイーゼルが見あたらないのだ。壁や窓辺には、大小さまざまなキャンバスが立てかけられているけれど、通常画家のアトリエを撮影すると必ず画角に入る大型のイーゼルが見えない。峰村リツ子は、シズ夫人が死去した直後、小泉清が峰村アトリエで絵を描く様子を記録している。1971年(昭和46)に時の美術社より発行された、『美術グラフ』2月号から引用してみよう。
峰村リツ子.jpg 峰村リツ子「X氏像」1950.jpg
小泉清(京都時代).jpg 小泉清ポートレート.jpg
  
 それはすさまじい絵の描きようだった。キャンバスを床の上において、絵の具をつけた筆を「こん畜生!」とつぶやきながら恐ろしい勢いでぶっつける。やがて大きな目玉をむきだしにした、少し不気味な裸婦の絵ができあがる。小泉さんの絵は、たいてい浮き彫りのように、絵の具を凸凹に盛り上げ、長い時間をかけるのだが、時には墨象のように描きあげるのだ。/いつでも私のところで描くときには、絵の具が乾くまで置いて、四、五日後にとりに来る。ある時、絵をとりにこられて、そして自分の絵をみながら、「この絵は、里見には似ていないでしょ?」と言われた。突然だったので、私は返事ができなかった。それよりも、びっくりしたのだ。小泉さんが、そのことをそんなに気にしていたことに。
  
 小泉清の画面は、里見勝蔵のそれとはまったく似ていない。わたしは、小泉清の画面には惹かれるが、里見勝蔵の作品で惹かれるものには、いまだ出合っていない。ゴテゴテと絵の具を塗り重ね、これでもかというくらい厚く塗りたくっているにもかかわらず、小泉清の絵からはサッパリとした、澄んだ透明感さえ感じるのはどうしてだろうと、いつも不思議に思うのだ。
 1962年(昭和37)2月21日の午後、峰村リツ子は石膏デッサンをやりたいといい出した娘を連れて、鷺ノ宮駅前の小泉アトリエに向かっていた。すると、中杉通り沿いの鷺ノ宮駅前郵便局から出てくる小泉清を見かけ、急いで娘といっしょにあとを追いかけた。途中で捕まえることができず、小泉アトリエの玄関までいくと、「外出するからるすにします」と書いた紙がドアに貼ってあった。おそらく、いま郵便局からもどったばかりだろうと峰村リツ子がノックをすると、小泉清はビックリした顔でドアを開け、「どうぞ」とふたりを中へ入れた。上掲の『美術グラフ』から、再び引用してみよう。
小泉清写生旅行.jpg
小泉清「裸婦」1956.jpg
  
 私はすぐ帰るつもりだったが、しばらくおじゃまして用件を言った。小泉さんは棚の上にのっていた石こうを取り出してきて、「お茶もさしあげませんで」と言われた。そのそぶりが何となく落ち着きなく、そわそわしていられる感じだった。そして「あしたから息子夫婦がここにきます。峰村さん、よろしくたのみます」と言われる。私は「それはよろしいですね。これからは食事なんかも……」と言いかけたが、小泉さんはまるで聞いていられない様子だった。かたわらの煙草を一本口にくわえたまま、ぼんやりと火をつけるのも忘れていられる。私はマッチをすって、煙草に火をつけてあげた。/私は、多分お忙しいのだろうと、いとまをつげた。するとまた、「お茶もさしあげませんで」と言われるのである。玄関を出ると、小泉さんは石こうにはたきをかけながら、「この石こうはいい物なのですよ、たかいのです」と言われた。私が「ひと月ほどお借りしたいのです」と言うと、小泉さんは「お返しにならなくていいのです。僕はもうかきませんから、どうぞお持ちになっていいのです」とくり返された。そして、くもった冬の空を見上げながら「春ももうすぐですなあ」と、静かな口調で独言のように言われた。それが小泉さんの死の直前の出来ごとなのだった。その夜、小泉さんは亡くなられた。
  
 鷺ノ宮駅前郵便局から発送したのは、おそらく友人知人あてに別れを告げる遺書なのだろう。あすから「息子夫婦がここに」くるというのは、もちろん自分の通夜や葬式の席を意識してのことだ。郵便局を出て自宅もどり、玄関のドアに途中で邪魔が入らないよう「外出するからるすにします」の貼り紙をしたところで、小泉清は死へ向けたすべての準備が済んだことを意識しただろう。だから、その直後にドアをノックして峰岸リツ子と娘が現れたとき、ふいを襲われたように狼狽したのだ。
 峰岸リツ子へは、すでに2~3日前に最後の別れの挨拶を終えていたはずだった。小泉清はイチゴの箱を抱えて、ふいに峰岸アトリエを訪問している。なにか用事でもないかぎり、峰岸アトリエを訪ねることなどなかった小泉が急に現れたので、彼女は不思議な感覚をおぼえている。そして、季節にはまだ早い高価なイチゴを、ふたりはアトリエでゆっくり味わった。それが、小泉清にとっては彼女とすごす、最後の時間になるはずだった。
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小泉ビリヤード場跡.JPG
 小泉清は、峰岸リツ子と娘の話を、つとめて耳に入れないようにしていたらしい様子がうかがえる。死への決心をかため、すべての準備が整ったとき、「明日」の話をしに訪れた母娘を、彼はわずらわしく感じただろう。小泉清は、3ヶ月前に死去したシズ夫人を思い、来し方をぼんやりふり返りながら、「これから」の話をしないよう思考を停止しているようにも見える。おそらく、このとき交わした会話と1本のタバコが、人とかかわった小泉清の最後の時間だったのだろう。

◆写真上:鷺ノ宮駅の踏み切りから眺めた、駅前郵便局のある中杉通り。
◆写真中上上左は、鷺宮にあるアトリエの峰村リツ子。上右は、1950年(昭和25)に制作された峰村リツ子『X氏像』。下左は、オーケストラでヴァイオリンを弾いていた京都時代の小泉清。下右は、晩年ごろアトリエで撮影された小泉清。
◆写真中下は、外房の海岸だろうか写生旅行で海辺の崖上に寝ころぶ小泉清。は、1956年(昭和31)に制作された小泉清『裸婦』。
◆写真下は、鷺ノ宮駅前(鷺宮3丁目1197番地)にあった小泉シズ夫人の経営によるビリヤード場。は、ビリヤード跡の現状。

思想弾圧の象徴としての豊多摩刑務所。

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 後藤慶二Click!が設計し1915年(大正4)に竣工した豊多摩刑務所(中野刑務所)だが、唯一残されている表門の保存が揺れているらしい。野方小学校と沼袋小学校の統合をめぐり、新たな小学校の新校舎建設予定地として、表門を含む法務省矯正研修所の跡地を利用しようとする動きのようだ。また、道路整備の一環だというお話もうかがった。いずれにしても、戦前のあらゆる思想弾圧の代表的なモニュメントとして、豊多摩刑務所の表門と関連展示室はぜひ残してほしい。
 1932年(昭和7)に、壺井繁治Click!は特高に治安維持法違反の容疑で再び検挙され、6月になると豊多摩刑務所に送られている。豊多摩刑務所は、同年4月に釈放されたばかりだが、出所するのを待っての警察による嫌がらせ的な検挙だった。同時期に逮捕されたのはロシア帰りの蔵原惟人Click!をはじめ、寺島一夫、平田色衛、劇場同盟の村山知義Click!と生江健次、作家同盟の中条百合子Click!中野重治Click!たちだった。
 壺井繁治は再び収監されると、豊多摩刑務所の内部における拘禁の様子を細かく観察して、のちに記録を残している。1966年(昭和41)に光和堂から出版された、壺井繁治『激流の魚・壺井繁治自伝』から引用してみよう。
  
 刑務所へ収容されると、誰でも何か隠してはいないかと、昔の徴兵検査の時みたいにまず素っ裸にされる。さして未決の被告は青い着物を、既決囚は赤襦袢といわれる柿色の着物を着せられる。わたしも一旦素っ裸にされた上で、青い着物を着せられ、看守に連れられて指定の独房に入れられた。それは「西上」の二三号室であった。扉がガチャンと閉められ、鍵がかけられた時、これで自分は娑婆から完全に遮断されたという実感がきた。/二度目の入獄なので、自分としては割り合い落ち着いている積りだったが、それでもわたしはコンクリートの壁に取り囲まれた二畳余りの部屋を見廻し、落ち着きを取り戻すために暫くの間、檻の中の動物のように狭い部屋を歩き廻った。ふとある友達の顔を思い出したが、彼の顔はイメージとしてはっきりしているのに、その名前を度忘れしてしまった。別に今すぐ思い出す必要はないのだが、それを思い出せぬことがわたしを不安に陥とし入れた。「俺は神経衰弱になっているのかなあ?」と考えたが、そう考えれば考えるほど、どうしてもその友達の名前を思い出そうとする焦燥に駆られた。
  
 拘禁症にかかりそうな精神状態を励ましながら、できるだけ前向きな獄中生活を送ろうと努力している様子がわかる。壺井繁治は、あり余る時間ができたのでドイツ語講座のテキストと独語辞書、ハイネ全集の原書を差し入れてもらい、本格的なドイツ語の勉強をはじめている。
 壺井繁治が捕まってからも、日本プロレタリア文化連盟(コップ)に加盟する団体への弾圧はすさまじかった。同年5月には、築地小劇場で開催された日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の大会は、乱入した警察によって解散させられ、徳永直をはじめ池田寿夫、川口浩、橋本英吉、松井圭子らが検挙された。また、同年7月には労働運動家の岩田義道が、特高Click!の拷問によって虐殺されている。
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 翌1933年(昭和8)の2月下旬、刑務所の壺井繁治のもとへカーネーションとフリージアの鮮やかな花束が差し入れられた。差し入れ人は、小林多喜二Click!の母・小林セキの名義になっている。当初は素直に喜んだ壺井だが、すぐにおかしいことに気がついた。小林セキとは面識があるけれど、それほど親しい間がらではない、この花束にはなにかメッセージがこめられているのではないか?……と疑いだしたのだ。妻の壺井栄Click!は、ナルプで逮捕された拘留者たちの支援活動を盛んに行っており、この花束は妻が自分に差し入れたのではないかと、改めて不吉な思いにとらわれた。
 ほどなく、面会人の呼び出しがあり壺井繁治が面会所で待っていると、ドアの向こうで妻の高い声が聞こえてきた。その様子を、同書より引用してみよう。
  
 「友達が死んだのですから、知らせるぐらいよいでしょう。」/「いや、いかん、絶対にいかん。それをいうのなら、面会は許さんぞ。」と看守と激しくいさかっている声が聞こえてきた。やがて話し合いがついたのか、いさかいの後の、まだ昂奮のさめきらぬ顔つきのままで、女房は、わたしの前にあらわれた。わたしの予感は当たったが、まだ誰が死んだのか分からず、不安で堪まらなかった。そのころ面会の際には、立ち会い看守がわたしたちの話の内容を筆記することになっていた。わたしたちが立ったまま向かい合って話す片言隻語を書き落とすまいと、看守はわたしたちを隔てる大きなテーブルの上にうつむいて、筆記に懸命だった。わたしたちはその看守を完全に見下ろせる姿勢にあったので、筆記に気を取られている看守は、わたしたちの動作に細かく眼を配る余裕などなかった。そのスキに乗じて女房から手帳の端に「コバヤシコロサレタ」という鉛筆の走り書きをチラッと見せられ、はじめて小林多喜二の死を知ったわけである。
  
 同じく、豊多摩刑務所に収監された村山知義Click!も、妻の村山籌子Click!からハンドバッグの裏に書かれた白墨の文字で「タキジ コロサレタ」を見せられ、小林多喜二の虐殺を知らされている。看守が机に向かい、うつむいて面会記録を筆記している間に、知らせたいことがらを書いた走り書きをチラッと見せるというやり方は、おそらく村山籌子や壺井栄を含む拘留者・収監者への支援グループの中であらかじめ相談された、共通の情報伝達法だったのだろう。
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豊多摩刑務所十字舎房.JPG 豊多摩刑務所独房内部.JPG
豊多摩刑務所高窓.JPG 豊多摩刑務所監視所.JPG
 壺井繁治が保釈になり、上落合503番地の自宅に帰ったのは1934年(昭和9)5月のことだった。その直後、黒色青年連盟によるテロClick!以来、交渉を絶っていたアナーキスト岡本潤と実に10年ぶりに再会し、連れ立って牛込余丁町の金子光晴Click!を訪ねている。金子光晴は、サンボリックな言語を駆使して当局への抵抗をしめしつづけていた詩人だ。
 余丁町からの帰り道、壺井と岡本は戸山ヶ原Click!で一服しながら、空白の10年間を埋めるように話し合っている。そのときの様子は、翌1935年(昭和10)に岡本潤が発表した「途上」という詩にまとめている。詩の中で、「出て来てみたら」と語っているのが、保釈されたばかりの壺井繁治だろう。「途上」の一部を引用してみよう。
  
 冬がハガネの牙をかくし/一月にしてはめずらしく、陽炎でもうらうら燃えていそうな天気で、/戸山ヶ原の空はやわらかな風が流れ、/子供達に交って大人達も天下泰平に凧をうならしていた。/――四、五年ぶりかな。/――いや、もっとなるだろう。/――出て来てみたら何しろ世の中がひどく変ってるんでね。/湿り気のある枯草の傾斜に腰をおろし、/変らない十年前のボクトツそのものの口調をおれは熱い胸で聞いていた。/きわだって目につくのは、突き出た頬骨とぐりぐりの坊主頭。/――おれ、ずいぶん齢とったろう。/――おれはまだまだ青年のつもりだが……
  
 長い時の流れと、以前にも増して激しくなった当局の弾圧が、戸山ヶ原の草が生い茂るうららかな日なたの斜面で、かつてふたりが経験した思想的な対立を徐々に溶解していったようだ。岡本潤は、出獄したばかりでやつれ果てた昔日の同志の面貌に、少なからぬショックを受けていたのがわかる。
 そして、思想弾圧を強化しながら、ひたすら戦争への道を突き進む大日本帝国を相手に、再び起ち上がって前に進む決意をし「冬が牙をむくジグザグの時を思いながら……」と、詩は唐突に終わっている。
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 1935年(昭和10)以前は共産主義者や社会主義者、アナーキストたちが豊多摩刑務所に収監されたが、太平洋戦争が近づくにつれ民主主義者や自由主義者、リベラリスト、そして左右を問わず“大政翼賛”と“軍国主義”に逆らう、ありとあらゆる思想・宗教弾圧の象徴的な拘禁装置として、豊多摩刑務所は機能していくことになる。二度とこのような時代を日本に招来しないためにも、同刑務所の表門は「暗黒時代」の象徴として、そして破産・滅亡した大日本帝国の「亡国思想」の権化として、永久に記念されるべきだろう。

◆写真上:豊多摩刑務所(中野刑務所)の、表門の内側に装備された鉄門扉。
◆写真中上は、豊多摩刑務所の表門。は、同門の頑丈な表扉。は、1948年(昭和23)に米軍によって撮影された空中写真にみる豊多摩刑務所。
◆写真中下は、1965年(昭和40)の解体直前に撮影された豊多摩刑務所の全景および表門(手前)と庁舎(奥)。は、独房が並ぶ所内南西側の十字舎房()と独房の内部()。は、独房の高窓()と塀に沿って設置された監視所()。
◆写真下は、1968年(昭和43)に新潮社から出版された『日本詩人全集』25巻の挿画。壺井繁治や中野重治を含む詩集で、岡本潤の「冬が牙をむくジグザグの時」を想起させる。は、豊多摩刑務所表門の意匠。は、1953年(昭和28)に鷺宮2丁目786番地の壺井邸で撮影された壺井繁治(中央)と壺井栄(左)。
相変わらずRSSがエラーのままで、更新を「取得できません」状態がつづいている。どのサイトが更新されているのか不明というのは不便なので、早く復旧してほしい。

ぜんぜん面白くないクイズや娯楽コラム。

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顔ふたつ.jpg
 記事の資料にするため、とあるテーマを抱えながら昔の雑誌や新聞をひっくり返していると、必ず読者向けの娯楽コラムや懸賞クイズが掲載されている。いまでも、新聞や雑誌などに囲碁や将棋、クロスワードパズルのコーナーがあるのと同じように、戦前のメディアにもおそらく記者たちが頭をひねって考案したのだろう、読者が喜びそうなクイズやお笑いコラムなどが載っている。
 だが、どこが面白いのかサッパリわからなくてぜんぜん笑えず、逆に首をひねってしまう“迷作”も少なくない。たとえば、冒頭の写真は雑誌に掲載された読者クイズなのだけれど、ふたりの有名人の顔をタテに切って左右を継ぎ合わせた、ちょっとグロテスクな出題となっている。いま、こんなことをしたら「あたしの顔を半分に切ったりして、なにすんのよ! どーゆーこと?」と、即座に本人たちからクレームがきそうだが、当時はたいして問題にならなかったようだ。
 また、新聞社が発行する写真雑誌のため、新聞によく目を通している読者、つまり人物の顔を紙上で記憶している読者に有利な出題となっている。いまのようにTVが存在しないので、たとえ有名人といっても顔は広く知られてはいなかった時代だ。誰と誰の顔をくっつけたのか、読者のみなさん当ててみよう!……というのが懸賞クイズなのだ。当たった人には、抽選で2名の読者に現金5円がプレゼントされる。大正末の5円というと、だいたい今日の4,000~5,000円ぐらいだろうか。ちょっとしたお小遣い程度の金額だが、家計の足しにと応募者は多かったとみられる。
 さて、このブログをお読みの方なら、下落合のテーマとともに何度か登場している人物の顔(半分)なので、冒頭の写真を見てピンとくる方も多いのではないだろうか。1924年(大正13)に東京朝日新聞社から発行された、「アサヒグラフ」10月29日号の「読者のおなぐさみ」懸賞クイズから引用してみよう。
  
 読者のおなぐさみ/懸賞『誰と誰?』
 二人の顔を真中から継ぎ合わせた写真です。二人共有名な歌人で、その一人は男爵夫人で、本願寺に関係あり、一人は子福者で夫君と共に明星派の重鎮歌道、古典、其他新しい婦人運動にも関係してゐられます 右は誰左は誰でせう。(半分宛顔を隠して御覧なさい)/官製はがきに左誰れ、右誰れと姓名を記し本社グラフ部懸賞係宛でお送下さい。/締切十一月七日/正解者二名に金五円宛贈呈(正解者多数の場合は抽選による)
  
 正解はもちろん、右が下落合の九条武子Click!で左が与謝野晶子なのだが、「アサヒグラフ」の愛読者か、新聞の文化欄を注意深く読んでいる読者には、比較的やさしい問題だったのではないだろうか。もう少し賞金の額や、当選者の数を増やしてもよさそうなものだが、東京朝日新聞のクイズはおしなべてケチなのだ。
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 当時の主婦向けの雑誌にも、同じような懸賞クイズが掲載されている。こちらは、ウォーリーを探せならぬ「道夫さん」を探せクイズだ。いまから見ると、なんだか読者をバカにしてるんじゃないかと思うような出題だが、主婦の中には懸賞クイズを毎号楽しみにしていた読者もいたのだろう。こちらの賞品は現金ではなく、女性向けのファッションアイテムや化粧品などのグッズ、絵はがきなどとなっている。1928年(昭和3)に主婦之友社から発行された、「主婦之友」2月号より引用してみよう。
  
 懸賞考へ物新題
 お母さんは、道夫さんと、龍夫さんに、お揃ひの着物を着せて、お稲荷さんへお詣りに来たかへりがけに、兄さんの道夫さんを見失つてしまひました。お母さんは血まなこでさがしてをりますが見当りません。皆さん、道夫さんは、どこに何をしてゐるのでせうか、よーく探してやつてください。あてた方には公平な抽籤のうへ、五名に大流行の革製ハンドバッグ一箇づゝ、二十名にルビー入白銀洋髪飾ピン一本づゝ、三十名に化粧直しコンパクト一箇づゝ(略) 千名に川原久仁於画伯筆の美しい三色版絵はがき一組(四枚)づゝを差上げます。用紙は必ずハガキを用ひ、答と並べて裏面に住所姓名をハッキリと書き、二月廿八日までに、東京都神田駿河台主婦之友社編集局、懸賞係り宛にお送りくたさいませ。
  
 この「道夫さんを探せ」クイズの絵を描いたのは、サインに「クニオ」とあるので挿画家・児童文学作家の川原久仁於その人なのだろう。一見しておわかりのわうに、「道夫さん」は風船をふくらませて売る露天商の前で、両手を開いて夢中になっているのが数秒で見つかり、いま風のツッコミでいうと「ヘタクソか?」となるのだけれど、漫画が流行しはじめた当時としては新鮮で面白い、画期的なクイズだったのかもしれない。
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 雑誌に限らず、新聞にも娯楽コラムあるいは面白記事のコーナーがあって、そのときのタイムリーな話題に合わせて読者を笑わせようと試みている。時事マンガと呼ばれるジャンルのほか、「笑い話」的な記事を載せるのが流行った時期があった。特に、日中戦争が泥沼へとはまりこんでいく日本の、重苦しく暗い世相を背景に、新聞にさえわずかな笑いを求めた読者がいたのだろう。新聞にネタを寄せる側も、笑いを誘う読者ウケをねらったような投稿がめずらしくなかったようだ。でも、今日から見ると、その多くはユーモアにさえとどかない、ピクリとも笑えない内容が多い。時代とともに、笑いの質が大きく変化してしまったせいもあるのだろう。
 たとえば、帰国途中の近衛秀麿Click!が太平洋上の日本郵船・氷川丸Click!から、東京朝日新聞社へ打電した悲鳴短歌が掲載されている。当時の読者は大笑いしたのかもしれないけれど、いまとなっては「だから、どうしたってんだ?」とクールに返されてしまいそうな作品だ。1937年(昭和12)3月に発行された、東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
  
 まぐろでも泳ぎにくかろこのウネリかな/帰朝船中から近衛子の悲鳴
 欧米各国の指揮棒行脚にすばらしい成功を収めた近衛秀麿子は、十九日横浜入港の氷川丸で帰朝する予定のところ、先般東京近海を荒した低気圧に途中で遭遇、連日のシケ続きに船足が進まず、予定より二日も遅れて二十一日早朝横浜入港となつた。さるにてもこの時化は、よほどカラダに応へたものと見えて、十九日船中から本社に無電を寄せて曰く、/海シケ通しで元気なし/〇/海の中いま喰ひ頃のマグロかな/〇/静むなら刺身包丁にワサビとり、マグロの群を切つて果てなむ/〇/マグロでも泳ぎにくかろこのウネリかな/(呵々)
  
 これも現在では、「ヘタクソか?」といわれてしまいそうだけれど、もともと生マジメな近衛秀麿が詠んだ、おかしな俳句や短歌ということで、ウケる人にはウケたのだろう。当時の東京朝日新聞の紙面らしい、また近衛秀麿もそれを意識したユーモアセンスだ。
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 さて、最後に余談だが、日本にコカコーラが輸入されたのは大正時代の初めとされているけれど、高村光太郎Click!の詩などに見られるだけで、輸入元が出したであろう広告がなかなか見つからなかった。高村が『道程』に書いている「コカコオラ」は、明治屋が日本代理店となって発売される前、芥川龍之介Click!が「コカコラ」と書く以前のものであり、日本に輸入された直後の製品だったとみられる。ようやく、大正初期から「日本一手輸入販売元」としてコカコーラを販売していた、斎藤満平薬局(現在も千代田区で営業)の媒体広告を見つけたのでご紹介したい。そう、当初コカコーラは疲労回復の健康薬剤として売られており、下落合の中村彝Click!カルピスClick!とともに飲んでいたかもしれない。

◆写真上:1924年(大正13)発行の「アサヒグラフ」10月29日号に掲載のクイズ写真。
◆写真中上は、「アサヒグラフ」(東京朝日新聞社)の同号に掲載された懸賞クイズ。は、下落合753番地の九条武子邸跡で現在は新築住宅が建っている。
◆写真中下は、1928年(昭和3)発行の「主婦之友」2月号に掲載された懸賞クイズ。は、1937年(昭和12)3月の東京朝日新聞に掲載された近衛秀麿の“迷作”。
◆写真下は、下落合436番地の近衛文麿・近衛秀麿邸跡。は、1919年(大正8)8月18日の東京朝日新聞に掲載された斎藤満平薬局の「コカ、コラ」媒体広告。

ほとんど人が歩いていない鎌倉。

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 わたしが子どものころ、親に連れられてバスに乗りユーホー道路(遊歩道路)Click!=国道134号線をそのまま東へたどって鎌倉で降りると、ほとんど人に出会わなかったのを憶えている。もちろん、鶴ヶ岡八幡宮や高徳院の大仏、円覚寺などの観光スポットには、それなりに修学旅行の学生や生徒たちが50~100人とかたまっていたのだが、ちょっと脇道にそれると人の姿を見ることはめったになかった。ほぼ隔週おきに鎌倉へ遊びに出かけたのは、北鎌倉に母親の親戚が住んでいたせいもあっただろう。北鎌倉は、鎌倉に輪をかけたように“無人”のような風情だった。
 たまに家の庭先で焚き火などをしている人に出会うと、今日でいう“街歩き”のようなわたしたちの姿を見て、「あなたがた、こんなところでなにしてるの?」というように、怪訝な表情で見られたものだ。ユーホー道路Click!や若宮大路、鎌倉駅前、大仏へと向かう長谷の通りなどはかろうじてアスファルトが敷かれていたけれど、ほとんどの道路は舗装もされておらず、小町通りは風が吹くと土埃が舞うような風情で、駅前なのに人の姿はあまりなかった。クルマもいたって少なく、たまに走り抜ける修学旅行の観光バスが目立っていた時代だ。
 それでも夏になると、多くの海水浴客がわたしの子どものころから横須賀線や小田急線で押しかけて、由比ヶ浜や材木座海岸、片瀬・江ノ島海岸(ちなみに江ノ島は藤沢市)、鎌倉水族館(のち閉館)などは芋の子を洗うような混雑ぶりだった。七里ヶ浜は、関東大震災Click!とそれにともなう津波Click!で海底の地形が大きく変わってしまい、一般客の遊泳が禁止されていたのを憶えている。この浜で見かけたのは、流行りはじめた波乗り(サーフィン)のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちか、釣り人Click!だけだった。
 だから夏の鎌倉というと、できるだけ海岸近くは避け、わたしたちは山側のハイキングコースをよく歩いていた。山々へ入りこむ谷(やつ)にはかなり奥まで田畑が拓かれていて、いまのような新興住宅地が谷奥まで開発される前の姿だった。そういうところでは、よくマムシやヤマカガシなど毒ヘビClick!に遭遇し、草が微妙に横ゆれするマムシはそっと避けて通るか、ヤマカガシは予想外のスピードで“追いかけて”くるので走って逃げた。わたしの高校時代ぐらいまで、鎌倉のマムシによる被害はあとを絶たず、市内のとある病院ではカーテンを閉めようとした看護婦が、中にくるまっていたマムシに気づかずに噛まれて亡くなったというニュースが流れたのを憶えている。
 鎌倉(海側)の混雑も夏の間だけで、秋冬春はもとの静かなたたずまい……というか、当時の資料に書かれた表現を借りるなら「さびれてうら寂しい」、誰もいない海や街並みにもどっていた。「有名な寺々もさびれて、朽ちそうなほどボロボロだったんだよ」とか、「春先の風が強い日の午後は、土埃がひどい小町通りには人っ子ひとりいなかったよ」とか、「国道134号線はクルマがあまり走らず、稲村ヶ崎から腰越までの散歩にはもってこいだったんだ」とか友人知人に話しても、「信じられない」という顔をされるのだが、やたら鎌倉に人が押し寄せるようになったのは1970年代の半ばあたりだろうか。確か極楽寺を舞台にした鎌田敏夫のドラマがヒットし、その少し前から「an・an」や「non-no」といった女性誌が、競うように“鎌倉特集”を組みはじめたころだ。
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 東京でいうと、ちょうど原宿が繁華街化した時期と、鎌倉の混雑とが妙にシンクロしているような印象がある。原宿も、駅前からすぐに住宅街が拡がり、ときおり犬を散歩させる地元住民に出会うだけで、声高に話すのもはばかられるような静かな乃手Click!の街並みだった。外国人が多く住んでいたせいだろうか、帰国する彼ら相手のアナクロで妙ちくりんな日本土産の店や刀剣店が、ところどころに開店していたのを憶えている。この街が“ファッション化”したのも、1970年(昭和45)すぎであり、若い子たちの姿を多く見かけるようになったのも70年代の半ばなので、やはり「an・an」や「non-no」の“原宿特集”からだろうか。
 さて、わたしが子どものころの鎌倉の街並みについて、あちこちで懐かしそうに語るものだから、「きっと、こんな感じだったんでしょ?」と1冊の写真集をいただいた。1955年(昭和30)に朋文堂から出版されたツーリストガイドブックス1『鎌倉』だ。ご両親の書棚を整理していたら見つかったそうで、ページをめくると子どものころに眺めていた鎌倉の風景写真が大量に掲載されている。わたしが生まれる前に出版された本だが、「そうそう、まさにこの光景だったんだ!」と反応すると、「確かに人が、ほとんどまったくいないねえ」と納得してくれたようだ。
 若宮大路やユーホー道路はクルマの姿もめずらしく、人がポツンポツンと歩いている程度だった。フェンダーミラーのセドリックで、ほんとうに「ぶっ飛ばせた」時代だ。どこの寺々も、修繕費にこと欠くのかボロボロで、建長寺にいたってはいまにも茅葺きの屋根から倒壊しそうな風情だったのだ。鶴ヶ岡八幡宮はハトClick!ばかりが多く、人の姿があまり見えない。浄明寺ヶ谷(やつ)の杉本寺では、子どもたちが現在では立入禁止の風化して朽ちかけた石の階段(きざはし)で遊び、瑞泉寺では庭の樹木が小さく、建立された当初の庭園の姿をよく踏襲し、極楽寺Click!では子どもの木登りに最適なサルスベリClick!が、「ちょっと登ってみれば?」と囁いて誘惑している。w 江ノ島の展望台は古い姿をしていて、東京オリンピックでヨットハーバーが造成された東側の島影も、もとのままなのが懐かしい。ちょっと、同書の「プロローグ」の一部を引用してみよう。
  
 鎌倉は、単に旧蹟の地というだけではありません。静かな雰囲気、夏は涼しく冬は暖い温和な気候、海岸と松林に恵まれた新鮮な空気、東京・横浜に近接した便利の良さから保養地、別荘地として人々に愛され、とくに著名な文化人の移り住むものが多く、作家や音楽家、演劇・映画人など、「鎌倉文士」という言葉さえ一般化しているほどです。この点、鎌倉は古い歴史とともに、近代的な文化の雰囲気を常に呼吸している土地といえるでしょう。最後にまた、海水浴場であるということが、鎌倉の大きな魅力です。夏の訪れとともに、江ノ島をひかえたこの海岸は、俗に「海の銀座」と呼ばれるほどの賑わいを見せ、年中行事のカーニバルを中心に、鎌倉の人出は最高潮に達するのです。/これほど観光地としてのさまざまな要素を、一つの土地に併せもっているところも少いでしょう。
  
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 現代的な視点からいえば、この文章の中で「鎌倉」の地名を「大磯」に入れ替えれば、多くの点で記述が一致するだろう。「静かな雰囲気」が消えてしまった鎌倉ではなく、夏になると大磯へ出かけるのは、子どものころに体験した鎌倉の雰囲気を、どこかで味わいたいからなのかもしれない。
 観光客の誘致が目的のツーリストガイドブックス1『鎌倉』なので、盛んに歴史的な名所や散歩に適した場所を紹介しているのだが、同書が出版されてから10年以上たった1965年(昭和40)の時点でも、前年の東京オリンピックにより江ノ島のかたちは大きく変わったが、鎌倉はたいして変化のない風情を見せていた。同書の記述では、あちこちで「鎌倉時代当時の風情を味わい、その<よすが>を偲ぶことができる」というような表現が頻出するけれど、確かに中世で時間が止まってしまった感覚を味わうことができる街並みや山里が多かった。
 わが家には、1950~60年代の鎌倉と箱根、大山・丹沢Click!をとらえたアルバムがいちばん多いが、それだけ親がわたしを連れ歩いて遊びに出かけた“証拠”なのだろう。わたしの世代になってから、クローゼットの奥にしまいこまれたアルバム類は整理してないけれど、きっと懐かしい風景写真が横溢しているにちがいない。時間に余裕ができたら、探し出してきてエピソードとともにご紹介してみたい。
 わたしの記憶にあるなしにかかわらず(わたしが物心つく以前の、幼稚園時代から鎌倉へは通いつづけていた)、鎌倉のありとあらゆる地域を巡ったと思うのだが、唯一、連れて行ってくれなかった場所に飯島崎の先(沖)にある、鎌倉幕府Click!が築造した貿易湊(みなと)「和歌江島」だ。全国をめぐる幕府の交易船はもちろん、宋からの貿易船も来航していた可能性の高い湊だが、満潮時にはすぐに水没してしまうし、飯島崎で舟を雇わなければ渡れないので親たちは面倒を避けたのだろう。GoogleEarthで確認すると、干潮時に撮影されたのか、湊の築造跡をいまでもクッキリと確認することができる。
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 幼児のころから学生時代ぐらいまで、わたしは鎌倉をよく散歩していたが、以前は800年前の鎌倉時代を想像しながら、その面影や片鱗を求めてあちこちを歩いていたように思う。ところが、最近では鎌倉を歩くと、わたしが子どものころに歩いていた鎌倉の風景、つまり、1960年代の風情を思い出しながら歩いていることに気づく。幼いころに見た光景や風情にことさら哀惜を感じるのは、やはり年をとった証拠だろうか。

◆写真上:室町幕府を開いた、北関東は足利出自の鎌倉幕府御家人・足利尊氏の墓所である北鎌倉の長寿寺。足利尊氏の墓所から白旗社の源頼朝の墓、そして報国寺の足利一族代々の墓を結ぶと直線になる。また、尊氏と頼朝と寿福寺にある政子さんClick!の墓を結ぶと、鶴ヶ岡八幡宮を底辺の一画とした面白い直角三角形ができあがる。もうひとつの安養院にある政子さんの墓を起点にすると、なにが見えてくるだろうか?
◆写真中上は、ほとんどクルマも人もまばらな1955年(昭和30)ごろの若宮大路で、1960年(昭和35)すぎも相変わらず同じだった。右上に見えている岬は稲村ヶ崎。十王岩から鎌倉市街地を見下ろすと、若宮大路にはクルマが渋滞しているのが見え(下)、沖の島影は伊豆大島。は、子どもたちがよく遊んでいた杉本寺の風化した階段(きざはし)で、わたしも上下してよく遊んだ(上)が、現在は立入禁止になっている(下)。
◆写真中下は、茅葺きのままの覚園寺を百八やぐらClick!が密集した斜面から眺めたところ。奥の小谷(こやつ)・亀ヶ淵には、いまだ水田が拡がっているのが見える。は、茅葺きの屋根がボロボロでいまにも倒壊しそうな建長寺の山門(上)。さすがに茅葺き屋根はなくなった現代の建長寺で、沖の遠景は伊豆半島(下)。は、人っ子ひとりいない名越切通し近くの曼陀羅堂やぐらClick!で、奥に写っているのは10歳ぐらいのわたし。鎌倉時代の無数の死者が眠る五輪塔に囲まれて、とても楽しそうだ。w
◆写真下は、山門の龍眼が光るといわれる飯島崎の手前の光明寺。は、飯島崎の沖にある和歌江島(上)といまも残る鎌倉湊跡(GoogleEarthより)。は、東側に東京オリンピックのヨットハーバーができ島影が変わるほどの大改造が施される前の江ノ島。

江戸の屋敷や商家跡から出土するもの。

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 近ごろ東京のあちこちで、江戸期に建てられていた屋敷や商家の遺構の発掘調査を耳にする。数年前に新宿歴史博物館Click!の近く、三栄公園で埋蔵文化財の発掘調査が行われているのを目にした。江戸時代は北伊賀町にかかるエリアなので、なにか商家の遺構でも発見されただろうか。
 同博物館が建設される以前、江戸期には伊賀の組屋敷が建っていた敷地あたりから、大量の獣骨が出土している。幕府の御家人である伊賀組屋敷や扶持が多めな屋敷は、その一部が町域となっていて町人たちも隣接して住んでいたようだ。ひょっとすると、組屋敷の敷地の一部をナイショで町人に貸与し(幕府により敷地の賃貸は原則的に禁止)、管理する差配を置いていたものかもしれない。発見された獣骨は、判明しているだけでもイノシシ(最少個体数97頭)、ニホンジカ(同32.71頭)、ニホンカモシカ(同7.11頭)、ツキノワグマ(同3頭)、ニホンオオカミClick!(同3頭)などだった。発見された限りの骨は完全骨格のものは少なく、身体の一部の骨が多かったという。狭い敷地でこれだけの獣骨が発見されるということは、さらに多くの獣肉が集積していた可能性が高い。
 つまり、1頭の動物をいくつかの部位に解体したあと、江戸にめぐらされた専門の物流ルートを通じて肉が町場へ配送されていた……と考えるのが自然だろうか。その個体数の多さから、武家屋敷が多い乃手Click!のエリアだった四谷三栄町にも、(城)下町と同様にももんじ屋Click!(肉料理屋)が開店していたと想定することができる。中でも、牛肉より美味だとされるアオジシ(ニホンカモシカ)や、非常に美味しいニホンジカの肉は人気があったと思われ、シシすき(焼き)や江戸風シシ鍋(いわゆるボタン鍋とは別物で牛鍋に近い)と同様に好まれていたのではないだろうか。この獣類や鳥類(日本橋ではカモなど)の“すき焼き”料理Click!や鍋料理をひな型に、明治以降になると肉の素材にウシが加わり、東京には濃い“したじ”(醤油の江戸東京方言)ベースで甘辛の牛すき焼きや牛鍋Click!が誕生することになる。
 さて、江戸時代の発掘現場からは、思いもよらない遺物が出土することがある。幕府の大旗本(時代により譜代大名)だった柳生家の菩提寺・広徳寺の墓所から、ツゲの木で精巧につくられた入れ歯(全部床義歯)が出土している。柳生宗冬が使用したとされているけれど、厳密に規定できるかどうかは知らない。現在のおカネに換算すると、制作には2,000万円ほどの経費が必要だったようだ。以前、下落合の第二文化村Click!に住んだ歯科医学のパイオニアであり、東京医科歯科大学Click!の創立者・島峰徹Click!のことを書いたとき、江戸期の専門職だった「入歯師」Click!について触れたことがある。
 精巧な木製入れ歯は、現在でも制作するのは困難で、自在に木彫ができる彫刻の巧妙な技術をマスターした専門家でないとできないようだ。浅草の阿部川町(現・元浅草界隈)に住んだ仏師(仏像の彫刻師)が、柳生家の墓所出土の入れ歯を再現した記録が残っている。某大学教授からの依頼で、どうやら大もとは宮内庁を通じて興味をもった昭和天皇からのオーダーだったようだ。
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 1991年(平成3)出版の『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』7巻(台東区芸術・歴史協会)所収の、大川幸太郎「江戸っ子阿部川町九代目」から引用しよう。
  
 私もこないだ、ツゲで作ったんですけど大変ですよ、型をはめてやるんでなく、木で彫って口の中へ入れて、さわるとこを削って、口の中へ入れたり出したり、相当長い間かかるんでしょうからね。仏師の手間が一日いくらで来るんでしょうから。全部仏師がやったもんです。仏師でなければ、そういう細かい仕事はできないんですよ。/普通の彫刻師は、下へ置いて彫るんです。仏師は手で持って彫るんです。入れ歯は立体ですから手で持って彫れる仏師でなければ出来ないわけなんですね。/広徳寺の現物、今うちに来てます。すごい貴重品だから気をつけて下さいって、大学の先生が持って来たんですけどね、この歯のところは象牙です。今世界中で日本の入れ歯を随分外人の歯科医が研究に来るらしいですよ。
  
 腔内の微妙なカーブや、口当たりを細かく絶妙に調整できる高い技術力がないと、とても木製の入歯師はつとまらなかった様子がうかがえる。現代では、その技術を継承しているのは、木彫の仏師しかいないようだ。もっとも、手先が非常に器用な彫刻家(陽咸二Click!レベルかな?)なら、なんとかつくることができるかもしれない。
 大川幸太郎という人は、8歳になった小学生のときから仏像彫刻を修行しはじめ、22~23歳になった兵役後の年季明けで独立している。この文章を書いたときは、すでに50年以上のキャリアがある仏師だった。柳生家の墓から出土した入れ歯は、ツゲ木の歯茎に象牙の歯でつくられたものだったが、そのほかにも歯の部分がコクタンで仕上げられた入れ歯も出土している。日本でもっとも古い入れ歯は、室町時代の遺構から出土した450年前のものだそうだが、女性が使っていたらしい。
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 それほど大昔から、歯周病による歯抜けに悩んだある程度の身上のある人々は、彫りが巧みな専門家(おもに仏師)に依頼して入れ歯を制作していたようだ。もっとも、江戸初期の柳生家とそのつながりが強い伊賀家などでは、“草”(忍び=諜報員)の仕事がら永久歯が生えると抜歯してしまい、総入れ歯にしてしまったという伝承が残っている。もちろん、情報収集を行なうためにどこかへ潜入する際、怪しまれないよう人相風体を変える必要があったからだ。江戸期に“草”を職業にしていた人々の墓所を発掘すると、数多くの入れ歯が見つかるのかもしれない。
 入れ歯が特殊な階級や、一部のおカネ持ちだけでなく、一般の町民にまで浸透してきたのは江戸後期になってからのことだ。ほとんど木製のものが多かったのだろうが、専門の技工を身につけた入歯師が街中に看板をかかげることになる。木製の歯茎にコクタンの歯を嵌めこんだ、女性専用の鉄漿(歯黒)いらずの入れ歯も多くつくられている。
 さて、阿部川町で仏師をしていた大川幸太郎という人は、戦前から川柳(せんりゅう)の句会も催していた。江戸期に町名主だった柄谷川柳(八右衛門)が、龍宝寺の門前町とみられる阿部川町に住んでいたことから、それにちなんで川柳をはじめたらしい。ところが、戦時中に「反戦川柳」を詠んで殺された、鶴彬(つるあきら)という人物(同句会のメンバーだったのかもしれない)の証言を残している。以下、同書から再び引用してみよう。
  
 戦争中に反戦川柳を作りましてね、それで殺されちゃった人がいるんですよね。最初は戦争反対ということでもって警視庁へひっぱっていかれて、散散ひっぱたかれて、幾日か留められて釈放されるんですね。帰されるとまた発表して捕まる。それを繰り返してるうちに、特高が怒っちゃって赤痢にしちゃって病死にしちゃうんですね。/拷問したりすると問題になるから、たまたまそういう病気に運悪くなったというふうにするために菌食わしちゃったんですね。その人の川柳は本当にすごいです。/落語家などが変な川柳をやるので川柳はふざけたもんだと思ってる人が多いんでね、機会ある毎にその話をするんですけどね。/手と足を もいだ丸太にして返し(中略)/帰されたって、ただものを食って、脱糞してるだけで、ただ生きている丸太ん棒ですからね、戦争ってのはこういうもんだって事ですよね。
  
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 ここで書かれている「赤痢菌」が事実だとすれば、特高Click!はどこから入手したものだろうか。以前こちらの記事にも登場しているけれど、戸山ヶ原に設置された陸軍兵務局分室Click!(のち陸軍中野学校Click!)の福本少佐が、もともとは憲兵隊特高課の課長であり、警視庁の特高課とは非常に近しい関係にあったらしいことを書いた。警視庁特高課の幹部が、陸軍兵務局分室への就業(特務要員として)を推薦しているらしい形跡さえうかがわれるのだ。陸軍兵務局分室は、もちろん諜報員(スパイ)養成のために、同じ戸山ヶ原に建設されていた陸軍科学研究所Click!防疫・細菌研究室(731部隊拠点)Click!とはツーカーの仲だったことが、さまざまな証言からうかがえる。

◆写真上:江戸期の遺構がふんだんに眠る、四谷界隈でかいま見られた関東ローム。
◆写真中上は、三栄公園の埋蔵文化財発掘調査。は、1850年(嘉永3)の尾張屋清七版江戸切絵図「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」にみる三栄公園の北伊賀町あたり。は、大量の獣骨が発見された三栄町遺跡の上に建つ新宿歴史博物館。
◆写真中下は、四谷三栄町遺跡から出土したイノシシやアオジシ(ニホンカモシカ)、ニホンジカなどの多種多様な獣骨。は、四谷荒木町の「策(むち)の池」へと下る旧・松平摂津守Click!の上屋敷内だった敷地へ明治以降に設置された坂道。
◆写真下は、広徳寺の柳生家墓所から出土した寛永年間(1624~1645年)につくられたとみられるツゲ+象牙の入れ歯。は、1864年(元治元)に制作された国芳『きたいな名医難病治療』の部分。歯科医の膝元には、いくつかの入れ歯が置かれている。は、1861年(文久元年)の尾張屋清七版江戸切絵図「浅草絵図」にみる龍宝寺と阿部川町。

続・岡田虎二郎のずぶ濡れ帰宅ルート。

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 以前、岡田虎二郎Click!が1920年(大正9)9月30日に台風の暴風雨と遭遇し、自宅へともどった「ズブ濡れ帰宅ルート」Click!をご紹介した。そのとき想定したのは、娘の岡田礼子Click!が暮らしていた下落合404番地、すなわち近衛町Click!の住宅番号でいうと近衛町6号を想定していた。だが、この近衛町6号の家は岡田虎二郎の死後、どうやら大正末ごろに虎二郎の妻と娘が下落合内を転居して、住んだ家らしいことが判明した。
 岡田虎二郎は1920年(大正9)9月30の木曜日、東京各地で開かれている静坐会の会場をまわっていた。1972年(昭和47)に春秋社から出版された『ここに人あり~岡田虎二郎の生涯~』によれば、木曜日の順路は早朝の本行寺(日暮里)にはじまり、笹川てい宅(西片町)→徳川慶久Click!(第六天町)→田健次郎(広尾町)→生田定七(加賀町)→宗参寺(弁天町)→青山幸宣(富士見町)→斎藤浩介(四谷伝馬町)→中村雄次郎(四谷仲町)→須藤諒(若葉町)→西教寺(本郷追分)と、市内を精力的にまわっている。そして、最後の西教寺で東京市は台風の直撃を受けて、大暴風雨の圏内に入ってしまったようだ。
 台風一過の翌日、日暮里の本行寺Click!へと向かっていた相馬黒光Click!は、目白駅Click!で偶然いっしょになった岡田虎二郎の様子を記録している。1977年(昭和52)に法政大学出版局から出版された『黙移~明治・大正文学史回想~』から引用してみよう。
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 先生逝去の直前、大暴風雨がありまして、池袋の辺りから目白にかけて一面の泥海と化したことがありました。夜おそく先生はその水の中を歩いてお帰りになりました。その翌日、私は省線に乗り日暮里に向って走っていますと、目白駅(先生のお宅はそのころ落合村にありました)から先生が乗り込まれ、私のすぐ隣りに腰をおろされました。私がかつてお貸しした「シェンキウィッチ」の「先駆者(谷崎氏訳)」についてこうお尋ねになりました。/『あの「先駆者」を読んでどこが面白かったか』(後略)
  
 相馬黒光は、1921年(大正10)10月1日の出来事として記録しているが、岡田虎二郎は前年の1920年(大正9)に死去しているので、記憶に1年間のズレがある。
 ちなみに、10月1日の金曜日に岡田虎二郎がまわっていた静坐会会場は、本行寺(日暮里)→遠藤少五郎(本郷)→長谷川保(本郷元町)→久能木商店(日本橋室町)→統一教会(芝花園町)→稲葉順造(飯倉片町)→有馬頼寧(青山北町)→岩手脩三(駿河台袋町)→豊原清作(神田松住町)ということになる。淀橋角筈の相馬愛蔵Click!・黒光がいる新宿中村屋Click!へは、毎週月曜日の本行寺(日暮里)の次にやってきていた。会場先には当時の皇族や華族、財閥系の屋敷も多く含まれており、安田善之介(本所横網町)や安田善四郎(日本橋小網町)、東伏見宮(赤坂葵橋)、前田利満(小石川三軒町)、井伊直安(柏木)、徳川達道(小石川林町)、鍋島直明(青山南町)などの名前も見えている。
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 さて、相馬黒光が「落合村にありました」と書いている岡田虎二郎の家は、彼が死去した自宅の特定から下落合356番地であることが判明した。この住所は、おそらく大正後期に地番変更がなされた区画であり、1925年(大正14)現在の明治期からつづく「落合村市街図」→「落合町市街図」では、下落合350番地のままとなっている場所で、356番地は欠番だった可能性が高い。つまり、岡田虎二郎の死去と相前後するように、下落合350番地が356番地へと変更された可能性がある。
 下落合356番地は、ミツワ石鹸Click!三輪善太郎Click!敷地の北側にあたる一画で、のちに同社重役の衣笠静夫Click!が住む敷地の東隣りだ。同地番の岡田邸は、したがって三輪家からの借地だったと推定でき、ひょっとすると岡田家は三輪家が敷地内に建てた借家に住んでいたのかもしれない。岡田虎二郎は、1920年(大正9)10月14日の夜に倒れ、翌日に青柳病院へと入院し、10月17日の深夜に尿毒症で急死している。
 さて、岡田虎二郎の葬儀を愛知県渥美郡田原町で挙げたあと(おそらく東京でも静坐会の会員たちによる葬儀または追悼式が行われただろう)、遺族の妻・き賀と娘の礼子はいつ近衛町へと引っ越しているのだろうか。大正期の明細図から、順番にたどってみよう。まず、1925年(大正14)に発行された「出前地図」Click!では、下落合356番地に「藤田」という名前が採取されている。だが、この種の地図でよく見られるように、「藤田」ではなく「岡田」ではなかったかという、住民名の採取まちがいの可能性が残る。
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 翌1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、下落合356番地に「渡辺」という人物が住んでいる。したがって、同年にはすでに岡田家は356番地にいなかったとみられる。ちなみに、1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、すでに「渡辺」から「庄司」という人物に変わっているのがわかる。このように、めまぐるしく住民名が入れ替わる家は、借地・借家だった可能性が高いのだ。
 もし、「出前地図」に採取された「藤田」が「岡田」の採取ミスであれば、岡田家は虎二郎の死後1925年(大正14)までの4年余りを下落合356番地で暮らし、同年に下落合404番地の近衛町6号敷地へと転居していることになる。また、岡田虎二郎の死後ほどなく近衛町へ転居しているとすれば、東京土地住宅Click!が近衛町の販売をスタートした1922年(大正11)ごろ、すなわち虎二郎の死から2年後ということになるだろうか。岡田家は虎二郎の多大な収入から裕福であり、近衛町の土地をすぐに購入して自邸を建設できただろう。ただし、とりあえずは土地を購入しただけで、すぐに自邸は建設せず、女所帯なので周囲に住宅が増えてから家を建てているのかもしれないのだが……。
 藤田孝様Click!のもとに、東京土地住宅の常務取締役・三宅勘一Click!の名前が入った「近衛町地割図」が保存されている。目白駅近くの金久保沢Click!あたりに「豊島区」の名称が入っているので、大東京35区時代に入る1932年(昭和7)以降に作成された地割図だと思われる。同図には、「下落合四〇四番地四号」と「弐百拾弐坪四合」の記載とともに、岡田礼子の名前が採取されている。すでに岡田虎二郎の妻・き賀の名前ではなく娘の名前になっているところをみると、ほどなく母親もつづけて死去したものだろうか。
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 下落合356番地の家は、下落合404番地の近衛町よりもかなり遠いので大暴風雨の中、岡田虎二郎はかなり身体にこたえただろう。目白駅付近から下落合の丘陵に上ったのだろうが、道路はまったく舗装されていない時代だ。強風にあおられながら、泥道のぬかるみで足を取られ、Click!が脱げてしまったかもしれない。大正当時の道筋をたどると、目白駅あたりから旧・近衛邸のある丘上へ出て、林泉園の尾根上を通る最短距離を歩いたとしても、下落合356番地の自宅まではゆうに800m弱ぐらいはありそうだ。

◆写真上:下落合356番地にあった、旧・岡田虎二郎邸跡(右手の白塀)の現状。
◆写真中上は、1925年(大正14)に作成された「豊多摩郡落合町市街図」にみる下落合356番地。いまだ明治期の350番地のままで356番地は欠番となっており、大正後期に地番変更が行われているとみられる。は、同じく1925年(大正14)に作成された「出前地図」(「下落合及長崎一部案内図」)にみる下落合356番地の「藤田」邸で、「岡田」邸だったにもかかわらず表札の誤採取の可能性が残る。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合404番地の岡田邸と下落合356番地の渡辺邸。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合356番地の庄司邸と、その周囲に拡がる三輪善太郎邸敷地。
◆写真下は、1920年(大正9)9月30日の大暴風雨の日にずぶ濡れになった岡田虎二郎の新・帰宅ルート。w 中左は、藤田孝様の家に残る「近衛町地割図」の近衛町6号に掲載された娘の岡田礼子邸。中右は、おそらく20代後半か30代前半とみられる岡田虎二郎。は、下落合404番地(近衛町6号)に建っていた岡田邸跡の現状で、岡田礼子から敷地を購入してアトリエを建てているのは安井曾太郎Click!だ。

情報の共有と交流を促進する「親族メディア」。

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 地域の取材を進めていると、家族や親戚・親族に限定したミニコミメディアに出会うことがある。きょうは、落合地域を取材していて偶然に出会った、そんな地域限定……ならぬ家族や親戚、さらにその友人知人に限定されたメディアをご紹介したい。
 親戚や親族との交流は、通常は法事や祝いごと、パーティなどの席に限られることが多いが、その現場で“積もる話”を交換し合うのがほとんどだろう。そこで何年かぶりに再会した親戚同士が、最新の情報交換やその後の消息、あるいはエピソードの経緯を知ることになる。若い子たちなら、各種SNSによるテキストや画像の情報交換を通じて、家族や親戚間のさまざまな話題や情報を共有し合うかもしれない。だが、SNSをしていない高齢者たちには、それらの情報はとどかない。
 しかし、親戚同士や一族の方たちが一度は訊いてみたい情報、あるいは知っておきたいアイデンティティ的な知識、たとえば先祖はいつごろ東京へやってきたのか、どのような仕事をしてどこで暮らしていたのか、関東大震災のときはなにをしてどこへ避難したのか、戦争中はどのような生活を送っていたのか、どうやって戦災のカタストロフをくぐり抜けてきたのか、戦後はどのようにすごしてきたのか……etc.、そのような情報をふんだんかつ豊富にもっているのは、実は祖父や祖母などの高齢者たちなのだ。
 だから、お祖父さんやお祖母さん、伯父・伯母さん、叔父・叔母さんたちが参加していないSNSには、当然、そのような情報や物語、体験談などが蓄積できない。ご本人が亡くなってしまったら、二度と興味を惹かれたテーマについて訊くことができないし、「自分はなぜここで生まれ、ここにいて生活してるの?」といった、本人にとっての根源的あるいは依って立つ実存的な足もと=基盤の概念を、永久に失うことになってしまう。そのような情報の喪失や偏り、世代間における意識の乖離や認識の齟齬をなくす目的でつくられているのが、家族や親戚限定の紙メディア=親族ミニコミ誌なのだろう。
 落合・長崎地域への空襲や、戦後史などについて取材をさせていただいた、東京写真工芸社(富士見写真場Click!)の佐藤仁様Click!が、昨年(2016年)8月に亡くなった。1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲による延焼で、小野田製油所Click!の裏に積んであったドラム缶が爆発して吹っ飛んだ話や、近くにあった銭湯の仲ノ湯(戦後は久の湯)の釜場に、日本の迎撃戦闘機Click!が落ちてきた話、写真館の至近に250キロ爆弾が落ち、破片が防空頭巾を切り裂いてカメラを壊し九死に一生をえた話、戦後の長崎神社改築の話など、多種多様なお話をうかがっていた。わたしの取材は必然的に落合地域側のテーマが多く、今度は長崎地域(椎名町地域)のお話を詳しくうかがおうと思っていただけに、たいへん残念だ。
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 亡くなった佐藤仁様の甥にあたる、佐藤創様からご連絡をいただき、親族ミニコミ誌「キラキラシュガー」の取材オファーをいただいたのは、今年(2017年)の1月だった。わたしはいつも対象者に取材させていただき、お話をうかがう側なので当初は面食らったのだが、親族ミニコミ誌とその役割りに強く惹かれてお話をさせていただくことになった。1時間半ほどの短い時間だったので、佐藤仁様が証言された地域の記憶や、その思い出などあまり詳しくは語れなかったのだが、取材から1週間ほどてして「キラキラシュガー」第4号がとどいた。
 さっそく内容を拝見すると、とても面白い。すべてをフォントの編集にせず、子どもたちの文章は手書きのまま掲載するなど、さまざまな工夫がほどこされている。また、子どもたちの描いたイラストや、親族の古写真などが掲載され、それにまつわる物語やエピソード、思い出話などが記事としてつづられている。家族ばかりでなく、親戚・親族一同でこのような情報をリアルタイムで共有し合えれば、そこから派生してより多種多様な情報や消息が集まって、より内容の濃い「記録集」として蓄積されていくだろう。
 ちょっとその一部を、「キラキラシュガー」第4号から引用してみよう。佐藤仁様の兄にあたる佐藤晋様の、子どものころに見た下落合の情景だ。
  
 (現在 西武新宿線 中井駅から目白大学周辺) いつも弟<佐藤仁様>や近所の子を引き連れて夏の太陽に温められたトマトを食べたり、冷たい井戸水を頭から被ったり、神田川へ入り込む小川<妙正寺川>で小魚をすくったり土手の小穴からダラリとぶら下がって昼寝でもしているのか赤腹の山カガシを引っ張りだしたり…/そんな事をやりながら「何故?」「どうして?」と心配気に不思議がっていたのが弟でした。私の弟や妹達が一番世話になったのも弟の「仁」でした。(<>内引用者註)
  
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 さて、落合地域を取材していてもうひとつ出会った印象深いメディアに、近衛町Click!藤田孝様Click!たちが刊行された「藤田譲氏とその一族の記録」(2014年)がある。やはり、家族をはじめ親族で「家族の歴史」を共有するために作成された冊子だ。下落合へClick!を建設して住むようになった一族の歴史や、関わった事業の起ち上げやその仕事上での役割り、一族のルーツを訪ねる旅行記、一族の現状と消息の詳細など、内容は多岐にわたりとても豊富だ。この1冊を読めば、藤田家の誰もが先祖の来し方を知ることができ、「いま、なぜ自分はここにいるのか」を知ることができる。
 やはり、藤田家に残るアルバムから古写真がふんだんに引用され、イラストや絵画も数多く掲載されている。また、家族の歴史を記述するのと同時に、そのとき世の中の動きはどうなっていたのか?……というように、社会の流れ(近代史)と家族・親族の動向とを重ねて記述している点が秀逸だ。親族間で共有する冊子としての役割りを超えて、貴重な写真資料とともに、このメディア自体がひとつの近代史における証言資料としての意味合いをも備えている。
 たとえば、お祖父さんが生きていた時代、日本はどのような政治・経済状況に置かれていたのか、また文化的にはどのような出来事があり、そこでどのような人々が活躍していたのか……などなど、同時代の社会的な状況がコンカレントで参照できるようになっている。メインテーマは藤田家なのだが、期せずして近代史の流れをおおよそ把握でき、そのようなマクロ的な視界から改めて藤田家の経緯をとらえ直すことができるという力作だ。
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 ブログやSNS、IMなどのツールがあたりまえになった今日、実はいちばん記録しておきたい情報をお持ちの方々が、それらのツールを利用していない世代だ……というのに気づく。そのような“気づき”もあって、13年前にこのようなサイトをはじめた経緯もあるのだけれど、デジタルメディアを利用していない世代に拙記事は読めず、記事を出力(印刷)してお送りする以外、その記述や記録を踏まえての新たなフィードバックは期待できない。親族同士のリアルタイムによる情報共有や、家族の歴史や消息といった世代間を大きくまたがる用途には、まだまだ紙メディアが活躍し、その定期的な発行が有効なのだろう。

◆写真上:戦前に撮影された、若き日の佐藤仁様。(小川薫アルバムClick!より)
◆写真中上は、「キラキラシュガー」第4号の表示上部に描かれたメインビジュアル。は、同誌の中ページで写真やイラストがふんだんに使われている。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された落合地域で、佐藤仁様たちが遊んだころの風情がいまだに残っている。は、GoogleEarthにみる現在の同所。は、子どもたちが描いた佐藤仁様たちの遊び場イラストマップ。
◆写真下は、2014年(平成26)発行の『藤田譲氏とその一族の記録』表紙()とアルバムページ()。は、藤田孝様による旅行記「祖父の郷里を訪ねて」。


目白・落合地域よりもすごい目黒駅東。(上)

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 『伽羅仙台萩(めいぼくせんだいはぎ)』にちなむ目黒鬼子母神Click!へ立ち寄りがてら、江戸期には下目黒村と中目黒村の入会地(字大塚とその周辺域)にかつてあった、大塚山古墳について調べながら現地を歩いているとき、目黒駅周辺の空中写真を年代を追って眺めていた。そして、目黒駅の東側にハッキリと刻印されたフォルムに、期せずして思わず目が釘づけになった。
 多くの方はご存じだと思うが、JR山手線の目黒駅は目黒地域(上・中・下目黒村)にはなく、目黒エリアから追いだされ上大崎村の山の中に建設されている。だから、目黒駅とその周辺は中目黒村でも下目黒村でもなく、歴史的には上大崎村の村域ということになる。目黒駅の東側一帯は、上大崎村に囲まれるように播磨の森伊豆守(1万5千石)の上屋敷が建っていたエリアだ。
 このような大江戸Click!の郊外に、下屋敷(隠居屋敷)ではなく、上屋敷の敷地が与えられている大名は非常にめずらしい。千代田城Click!へ登城するには、大手門まで直線距離でさえ8km(道筋を通ったら10kmほど)もあるので、季節にもよるが未明の2~3時起きだったろう。ほとんど幕府によるイヤガラセとしか思えないが、森家は織田信長の家臣だった森蘭丸がいた家系だ。ちなみに、江戸後期には織田家(織田安芸守)の上屋敷も近くにあり、しかも森家の屋敷よりもかなり小さな敷地を与えられている。
 さて、目黒駅の東側に巨大な鍵穴状のフォルム(前方後円墳の形状)を見つけたのは、1936年(昭和11)の空中写真だった。ちょっとケタ外れの大きさなので、最初は目を疑ったのだが、自然にこのようなかたちが形成されるとは考えられず、明らかに人工の構造物の痕跡である可能性が濃厚だ。このような巨大なサークル痕(直径規模)は、かつて上落合地域でとらえられたサークルClick!に匹敵すると思われるのだが、上落合ケースでは一端(東側)の途切れたサークル痕が残るのみで、すでに全体のフォルムは確認できなかった。(田畑の開墾で前方部が完全に消滅したのだろう) だが、上大崎のかたちは、本来のフォルムがくっきりと昭和初期まで刻印されて残っているケースだ。
 実際に現地を歩いてみると、すでに墳丘はほとんど存在せず、逆にえぐられてV字型の谷状地形になった部分(墳丘東側)さえあった。特に前方部は、その痕跡がほとんどわからず、ただ坂下(丘麓)に向かって低い土地がつづいているだけのように見える。現在では、そこがひな壇状に開発され、なだらかな坂道とともに住宅街が拡がっているだけだ。また、墳丘の西側は森伊豆守の上屋敷があったあたりを中心に高くなっており、さらに、昭和初期に開発されたとみられる青木邸や花房邸の屋敷と、戦前から開発されていたとみられる「花房家分譲地」の高台となっており、後円部と前方部の墳丘がほとんど存在しなくなっていた。
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 現場を歩いてみて、少なからず確信が揺らぎかけたのだけれど、この土地に重ねられた事蹟を江戸期までさかのぼってみると、地形を変えてしまうほどの大規模な土木工事が、連続して行われている斜面だったことが見えてきたのだ。まず、江戸前期の1660年代(寛文年間)に、玉川上水Click!から延々と引いてきた「三田上水」が開発されている。三田上水は、墳丘北側の丘上(現・目黒通りあたり)を東西に横切るように掘削されている。やがて、1720年代(享保年間)に三田上水が廃止されると、耕作地の灌漑用水を目的に「三田用水」として転用されるが、のちに墳丘の東側に通う道筋へ沿うように、南向き斜面へ三田用水の分水が掘削され、丘下に拡がる上大崎村の田畑をうるおしている。
 このとき、三田用水分水の運用管理(土砂崩れや土砂の流出防止など)のために、前方部の南東側が大きく削られ斜面の傾斜角(鋭角斜面から鈍角斜面へ)が大きく変えられている可能性がある。さらに、三田用水の分水では水量が足りなかったのか、江戸中期になると墳丘の東北側にあった、久保(ku-ho)Click!の名がつけられている湧水源「鳥久保」からの流水を引き、前方部の南側に大きな溜池が設置されている。このときもまた、前方部の土砂がさらに崩されてV字型の谷状にされ、水流がスムーズに下るよう溜池の掘削とともに、地形が改造されている可能性がきわめて高い。
 同時に、江戸時代(中期か?)に森家の上屋敷が建設されるにともない、敷地を整地化する必要が生じている。森家の屋敷地は、後円部の西側にかかるような位置に設定されているので、もし大きな墳丘が残っていたとしたら、それらの土砂を取り除く必要があっただろう。また、前方後円墳のフォルム全体は、森家の「抱屋敷」敷地内にほぼ含まれているので、なんらかの土木工事が行われ、邪魔な墳丘が全的に崩された可能性もある。
 大規模な土木工事は、明治期になってもつづく。1885年(明治18)になると、日本鉄道が品川・赤羽線(現・山手線)を敷設し、上大崎村の丘を切り通し状にして目黒停車場が設置される。このとき、前方部西側の土砂が大量に削りとられているようだ。理由は、鉄道の敷設工事で深く掘削が必要だったのと、三田用水の掘削・通水ケースと同様に目黒停車場や軌道(線路)への土砂崩れ、あるいは土砂の流出を防止するために、崖地を大きく削り傾斜角をゆるめる必要があったとみられる。こうして、巨大な古墳の前方部は東西から削られ、まるで矢じりのような逆三角形になってしまった、1887年(明治20)に作成された地形図では、この岬状になってしまった地形に森家の上屋敷にちなんだ、「森ヶ崎」という地名が採取されている。
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 ところが、大規模な土木工事はこれで終わりではなかった。目黒駅前に拡がる地形の大改造は、これからが“本番”だったのだ。昭和期に入ると、森家上屋敷のあった位置には森ヶ崎下大崎郵便局や東京市電車庫が建設された。そして、そのさらに南側には大きな青木邸と花房邸が建設されている。この大きな両邸を建てるために、森ヶ崎の土砂つまり前方後円墳の土砂を丸ごと、山手線の線路際の斜面まで移動して、線路側へと下る傾斜を埋めてしまったのだ。岬状に大きく南へ突き出していた森ヶ崎が、あたかも西へそっくりそのまま100m以上も移動してしまったように見える。しかも、南斜面に築造されていた古墳の土砂ばかりでなく、その下部の土砂まで深く掘削し、花房邸の南南東側へ新たな台地を人工的に築き、「花房家分譲地」として昭和初期に売り出したのだ。
 この昭和初期に行われた地形の大改造で、上大崎村にあった巨大な前方後円墳の痕跡は、ほぼ完全に消滅した。現在、目黒駅やその南側の線路際ぎりぎりまで、切り立つようにコンクリートの擁壁が迫っているけれど、大屋敷だった青木邸と花房邸、そして線路際まで迫る花房家分譲地が開発できたのは、コンクリートによる強固な擁壁技術が発達したおかげだろう。換言すれば、目黒駅と線路に沿ってその南につづく東側のコンクリート擁壁の中身は、巨大な前方後円墳の墳丘土砂で形成されている……ということになる。
 この鍵穴フォルムをした地形、すなわち前方後円墳とみられる形状は、前方部が真南の斜面から谷間を向いて築造されている。ほぼ目黒通りに接するほどの位置から墳丘がまっすぐ南へ向かい、江戸期に付近の農民によって掘削された溜池のある「字池谷」の北側までの墳長は、約400mほどはありそうだ。周濠が掘られていたとすれば、山手線の目黒駅や線路(の上の敷地)を飲みこんで、さらに壮大な墳形をしていただろう。ちなみに、名前がないとこれからの記述に困るので、この前方後円墳とみられるケタちがいの大きなフォルムを、仮に「森ヶ崎古墳(仮)」と呼ぶことにする。
 400mクラスの前方後円墳は、東日本ではいまだ未発見(未確認)であり、全国でも大阪府にしか存在が規定されていない。墳長の規模からいうと、森ヶ崎古墳(仮)は大阪府の誉田山古墳(俗に応神陵)Click!に近いだろうか。しかも、前方部が多摩川沿いに展開する多摩川台古墳群の宝莱山古墳Click!や、平川(現・神田川)斜面の成子天神山古墳(仮)Click!などと同様に、三味線のバチ型のような形状に近く、古墳時代でもかなり早期のころではないかと想定できるのだ。明らかに、南武蔵勢力を代表する「大王」クラスの墳墓のひとつだろう。もっとも、南関東では稀有のサイズだが、北関東の上毛野・下毛野地域(現・群馬/栃木両県)では、同サイズの古墳が新たに発見されるかもしれないが……。
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 さて、森ヶ崎古墳(仮)の東側には、古墳の墳形に沿って拓かれた江戸期からの道路が、現在もほぼそのままのかたちで残っている。実際に現場を歩いてみて、そのあまりにもケタちがいのサイズに改めて驚いてしまったのだが、驚きはそれだけにとどまらなかった。明治の最初期に作成された、より古い1881年(明治14)に陸軍参謀本部の地形図(通称・フランス式彩色地図)を参照していたとき、森ヶ崎古墳(仮)の東約500mのところに、もうひとつの人工物とみられる巨大な構造物の痕跡を見つけてしまったからだ。
                                  <つづく>
  
 最後にちょっと長い余談だけれど、昨年(2016年)12月29日の新聞やニュースで、稲荷山古墳の「金錯銘鉄剣」が同古墳の主墳(粘土槨)ではなく、陪墳(礫槨)から発見されている……という(公然とした)報道がようやくなされた。(X線による粘土槨=主墳での玄室確認のため) 稲荷山古墳そのものの地質からではなく、陪墳の礫槨から鉄剣が発見されたという事実は、当初から、偏見がなく科学的な事実を尊重するマジメで真摯な古代史学者や地質学者、考古学者たち、そして地元にある記念館の学芸員までが指摘していたにも関わらず、「皇国史観」の御用学者たちが寄ってたかって、あたかも稲荷山古墳の主墳から発見されたかのようにスリカエ、日本史の教科書にさえあたかも「稲荷山古墳(の主墳)から発見された」かのような表現で記載されるまでになっていた。こうやって、教育やマスメディアの動員により、戦前からつづく「皇国史観」が刷りこまれていくのだろう。
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 通常の論理的な思考回路の持ち主なら、陪墳から出土した鉄剣の持ち主が仕えた「主人」とは、当然のことながら稲荷山古墳(主墳)の被葬者(大王)だと想定するのが一義的な研究姿勢であり、場ちがいな近畿地方の「大王」と結びつけるのがそもそも不自然なのだ。まるで、なんでもかんでも「将軍様」の事蹟にする北朝鮮の「将軍様史観」のような稚拙さでありお粗末さだと、歴史学者でなくとも素人のわたしでさえ思う。
 鉄剣の文字も、どうしても「ワカタケル?=雄略天皇??」とは読めないと、多くの漢語学者や国文学者が、文字の発見当初から指摘していたはずだ。しかも、本拠地があったとされる王宮名「斯鬼宮(しきのみや)」については、稲荷山古墳の北東20kmに「磯城宮(しきのみや)」そのものの同音地があり、さらに同古墳周辺の北武蔵勢力エリアに散在する「しき」(志木など)の“音”地名をいっさい無視して、稲荷山古墳から400km近くも離れた近畿のワカタケル?(雄略?)の嫁さんの実家(なぜ妻の実家が“宮”なのだ?)などと、まったくわけのわからない設定をして、マジメで学術的な学者たちから失笑をかっていたにもかかわらず、まったく懲りていない。
 南武蔵勢力や上・下毛野勢力と対峙していた、北武蔵勢力の「大王」かもしれない「獲加多支鹵(ヱカタシロ?)」(この漢字の解釈にさえ呉音・漢音など当初から諸説ある)に仕えた陪墳の主人は、まちがいなく稲荷山古墳に眠る主墳の被葬者だろう。歴史は都合の悪いことを消して「なかったこと」「見なかったこと」にすることではなく、事実や科学的な成果を丹念に掘り起こして積み重ね、真摯に記録しつづけることだ。人文・自然・社会を問わず諸科学的な成果が出るたびに後退し、限りなく崩壊を繰り返す「皇国史観」とは、いったいなんなのだろうか?


◆写真上:森ヶ崎古墳(仮)の後円部上部を、東西に横断する道路の現状。
◆写真中上は、幕末の「御府内場末往還其外沿革図書」にみる享保年間の森伊豆守上屋敷とその周辺。は、1854年(嘉永7)に作成された尾張屋清七版の切絵図「目黒白金図」。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる森ヶ崎古墳(仮)のフォルム。
◆写真中下は、上掲の空中写真に現状の撮影ポイントを記載したもの。は、現状の森ヶ崎古墳(仮)跡。が前方部と後円部のくびれの部分で、が三味線のバチ型に反り返る道筋、のトラックが停まっているあたりが前方部の先端あたり。
◆写真下は、1881年(明治14)作成の地形図にみる森ヶ崎一帯。は、1887年(明治20)作成の地形図にみる同所。は、森ヶ崎の土砂が西へ移動してしまったあとの1940年(昭和15)前後とみられる様で、地形の大改造が行われたのが瞭然としている。

目白・落合地域よりもすごい目黒駅東。(下)

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 目黒駅の正面口改札を通り、目黒通りを右手(東側)へしばらく歩くとファミリーマートが見えてくる。ここが、巨大な森ヶ崎古墳(仮)Click!への入り口だ。南へわずか50mも歩かないうち、すでに後円部の北東部へと突き当たっていることになる。ここから、南斜面へと下る坂道がつづくわけだが、墳丘の後円部を避けるように丸く半円を描く坂道を200mほど歩くと、今度はやや弓なりになった直線状の坂道が、ゆるやかに下りながら200mほどつづいている。この突き当たりに、幕末までは大きな溜池が存在していた。
 その灌漑用の溜池へ、三田上水から三田用水へと用途が転化した水流や、湧水源だった鳥久保の流れを効率的に貯えるためだろう、本来は前方部の墳丘があったと思われる部分が大きく掘削され、小さな谷間状になっている。だから江戸期の終わりには、その谷底から森ヶ崎の丘上をはるかに見上げるような風情だったと思われる。しかし昭和期に入ると、その風景は激変する。灌漑用に掘られたとみられるV字型の谷間が拡張され、言い方を変えれば前方部の墳丘残滓である森ヶ崎を全体的に崩し、墳丘西側の斜面を山手線の線路際まで埋め立てる地形改造が行われている。
 この西側へ新たな台地を形成し、青木邸と花房邸、そして花房邸住宅地を開発するために、墳丘に盛られていた土砂では足りなかったのか、墳丘の下まで深く掘り起こす土木工事が行われている。これにより、前方部の森ヶ崎は凸地だったものが凹地になり、江戸期からつづいていたV型の谷間はやや広めな低地斜面となり、後円部も南側から深く掘削されて、現在では後円部の北側から南へいきなり落ちこむ崖地状の地形となってしまった。そして、戦前にこの斜面全体がひな壇状に開発され、目黒駅前の閑静な住宅街が形成されていく。後円部の中央付近を歩くと、昭和初期の大規模な土木工事の跡を、改めて確認することができる。森ヶ崎古墳(仮)の東側全域が、まるで丘に切れこむ谷戸のような地形に変貌してしまった。
 昭和初期に地形的な痕跡さえ残さず、このように徹底した破壊がなされた古墳もめずらしいだろう。通常の破壊だと、江戸期に開墾のため平らにならされるか、明治以降はおもに道路敷設や宅地化のために崩されるかしている。だから、戦後1947年(昭和22)の米軍による爆撃効果測定用の空中写真などを参照すると、住宅街の下に隠れていた痕跡が露わとなり、そのフォルムを比較的容易に確認することができる。ところが、森ヶ崎古墳(仮)の場合は山手線の駅前という立地が“災い”したのか、地形をすべて変えるほど徹底的に開発され尽くしてしまっている。だから、焼け跡の写真をいくら参照しても、その痕跡に気づかないのだ。
 ところが、森ヶ崎古墳(仮)のすぐ近くにそれほど人の手が加えられず、ほぼ江戸期のままの姿をとどめた巨大な人工の構造物があることに気づいた。それは、森ヶ崎古墳(仮)の様子を確認するため、1881年(明治14)に陸軍参謀本部が作成した地形図(フランス式彩色地図)を眺めていたときだ。森ヶ崎古墳(仮)のすぐ西側500mほどのところに、大きな正方形の台地があることに気がついた。江戸期から、芝増上寺の別院(下屋敷)などが建立され、一帯が寺町にされていた台地だ。四角の一辺が、正確に180mもある巨大な正方形は、明らかに人工的な構造物だ。
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 最初は、寺町を形成するために江戸期に行なわれた土木工事による地形かとも考えたが、そんな事例は大江戸広しといえども見当たらない。たいがいの寺社は、すでにある地形を利用し、その形状を部分的に改造して効率的に建てられているのであり、わざわざ巨大な正方形の台地をゼロから築造して、寺々を勧請する必然性などないのだ。もうひとつ、目黒地域は東京23区でもめずらしい、方墳(古墳時代の全期を通じて築造された正方形墳墓)が現存するエリアとしても有名だ。羨道や玄室があるので、江戸期にまたしても「狐塚」Click!とされていた、目黒区碑文谷にある碑文谷狐塚古墳だ。
 関東地方の方墳は、北関東や房総半島に多く現存しているが、江戸東京地方ではあまり発見(規定)されていない。もちろん前方後円墳や円墳とは異なり、方墳のかたちは便利なので、それとは気づかれないまま寺社の基礎にされたり、大名屋敷や住宅地のちょうどいい敷地にされてしまったケースも数多くあるのだろう。碑文谷狐塚古墳も、たまたま田畑の中にポツンと取り残されるように存続し、宅地開発でも古墳を避けるように家々が建てられたせいで、今日まで存在しつづけた稀有な事例だ。もっとも、「狐塚」とされていたせいで、江戸期から明治期にかけてなんらかの禁忌的な物語の伝承があったかもしれないのは、西池袋の「狐塚」Click!のケースと同じなのだろう。
 実は、江戸期まで増上寺下屋敷があった寺町の台地を、わたしはまったくそれとは気づかずに歩いていた。森ヶ崎古墳(仮)の痕跡を確認して歩いたあと、ついでにその下へとつづく谷間、すなわち上大崎村の農耕地だった広い田畑跡の斜面と湧水源を歩きつつ、谷底にあたる池田山公園へと足を運んでみたのだ。つまり、南へ向いている森ヶ崎古墳(仮)が見下ろしていた、古代からの耕作地および集落があちこちにあったとみられる一帯を歩いてみた。その帰り道に、現在では宅地開発による斜面のひな壇造成で丘が随所で崩され、あまり正方形には見えなくなってしまった寺町を抜けて目黒駅までもどった。古代人たちの独特な宗教観あるいは死生観にもとづく、古墳の築造にはもってこいの地形に見える、上大崎村と今里村にまたがった寺町台地の斜面または丘上に、あわよくば小規模な古墳の痕跡でも残ってやしないかと思ったからだ。
 ところが、のちに明治初期の地形図を参照して愕然とした。この台地全体そのものが、正確な幾何学にもとづいて築造したような方墳形をしていたからだ。いや、正確にいえば、台地上と同じ高度の地形が北東部へと流れ、連続しているように見えるので、方墳ではなく前方後方墳なのかもしれない。地形図からは、北東に面した正方形の1辺の、ほぼ中心から北東にかけて“尻尾”がついているようにも見える。だから、もともとは正方形の台地ではなく、羨道が口を開けた前方部をともなう前方後方墳の可能性もある。この想定で測定すると、墳長は300mほどになるだろうか。また、前方部をともなわない方墳だとすれば、1辺が180m、対角線の墳長は実に250mという巨大な規模だ。
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 前方後方墳は、おもに東日本に多い古墳形だけれど、もうひとつ出雲地方にも多く見られる形式だ。築造時期は、東日本の場合は弥生時代末から古墳時代前期にかけてが多く、出雲地方の場合は古墳時代の全期間を通じて築造されつづけている。東日本のクニグニと、出雲地方(この場合の「出雲地方」とは、記紀により推定される中国地方のほぼ全土のことだ)との人的・文化的な交流や関係性=連携を裏づける遺跡だが、他の関東地域に比べて東京地方では、方墳や前方後方墳の存在が少なすぎると感じていた。
 森ヶ崎古墳(仮)が、古墳時代の比較的早い時期の墳形をしており、また増上寺下屋敷を中心に寺町となっていた方墳、ないしは前方後方墳とみられる人工の構造物もまた、古墳時代前期の姿をしているとすれば、目黒から上大崎地域にかけての丘陵地帯は、かなり早くから拓けて数多くの集落が形成されていたと思われるのだ。そして、ことさら出雲地方とのつながり、すなわち「国譲り」に承服しない出雲の亡命者Click!(王朝の亡命一族)の影を強く感じさせる。
 しかも、両者の墳丘は東京地方では類例を見ない、きわめて規模の大きなもので、目黒・上大崎地域ばかりでなく、江戸東京の海辺に近い一帯を治めていたクニの「大王」クラスが存在していたエリアだと想定することができる。また、たとえば芝増上寺の境内に残る芝丸山古墳Click!の被葬者は、その配下の「王」または重臣クラスに“格下げ”されそうな気配だ。さて便宜上、この方墳または前方後方墳と思われるフォルムを、とりあえず上大崎今里古墳(仮)と呼ぶことにする。
 古代の平川の流れ(現・神田川)沿いに展開していた、百八塚Click!の事蹟や痕跡をたどるうち、現在の新宿区から豊島区、文京区あたりにかけてが、古墳とみられる痕跡の多さや規模の大きさから、古墳期の南武蔵勢力の中核地域ではないかと考えていたが、目黒川や渋谷川の流域にかけては、さらに強大な勢力のクニが存在し森ヶ崎古墳(仮)や上大崎今里古墳(仮)のフォルムに想定できる、規模の大きな古墳群を形成していた可能性がある。しかも目黒という地名は、江戸期に「馬畔(めぐろ)」の地名へ同音の別字が当てはめられたものであり、馬畔とは古墳期から関東各地に建設されていた「馬牧場」のことだ。
 のちに、鎌倉の政子さんClick!の時代までつづく「坂東の騎馬軍団」(関東では古くから反りのある太刀=日本刀Click!を用いた騎馬戦が主体だが、近畿圏ではでは直刀Click!=朝鮮刀を用いた徒士戦が主体だった)の母体となった、戦闘では重要な乗り物=馬(兵器)の供給地でもあった。同じく馬畔=馬牧場が数多く設置されていた、古墳期の関東地方におけるもうひとつの巨大な勢力、そして南武蔵勢力とは連携してヤマトにおもねる北武蔵勢力(現・埼玉県西部地方)と対峙し牽制していた上毛野勢力、すなわち「群馬」地域との強い連携の形跡も、馬畔=目黒地域を通じ改めて想定することができるのだ。
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 ひょっとすると、南武蔵勢力のクニグニではそれぞれ分業化が進んでおり、馬畔=目黒地域は戦闘や農耕に重要な「馬」の一大生産・供給地であり、タタラ遺跡が散在する落合・目白地域はその名が示すとおり、兵器づくりの基盤を支える「目白」=鋼Click!の一大供給地だった時期が、古墳時代を通じてあったのかもしれない。森ヶ崎古墳(仮)と上大崎今里古墳(仮)のかたちは、そんなことまで連想させるほどの圧倒的な存在感をおぼえる。

◆写真上:空襲の焼け跡が残る、上大崎今里古墳(仮)上に建立された最上寺の塀。
◆写真中上は、1948年(昭和23)に撮影された焼け跡の森ヶ崎古墳(仮)と上大崎今里古墳(仮)。は、1854年(嘉永7)の尾張屋清七版切絵図「目黒白金図」にみる増上寺下屋敷とその周辺。は、1881年(明治14)に作成された地形図にみる上大崎今里古墳(仮)のフォルム。このころまで、いまだ正方形の台地形がハッキリ残っていたのがわかる。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同地域。正方形の墳丘に合わせ、周囲の道路も碁盤の目のように形成されているのが面白い。は、1948年(昭和23)撮影の空中写真にみる同所。は、同写真に撮影ポイントを加えたもの。
◆写真下:上大崎今里古墳(仮)の、墳丘下と墳丘上の現状。寺町の北西側には海軍の火薬工廠があったため、激しい空襲にさらされ随所に焼け跡の塀が残る。

死んでも抵抗してやるの小熊秀雄。

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 壺井繁治Click!が「村長」をつとめていたサンチョクラブの事務局は、上落合2丁目783番地に住んでいた漫画家・加藤悦郎Click!宅に置かれていた。ちょうど中井駅前にある落合第二小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)の近く、最勝寺Click!の北側を東西に走る道沿いの南側だ。上落合に住んでいた、政府の思想弾圧と軍国主義化の流れに抵抗する表現者たちは、過酷な弾圧をくぐり抜け限りない“後退戦”を繰り返しながら、サンチョクラブに集合していた。サンチョクラブの集まりがあるたびに、長崎に住む小熊秀雄Click!も目白通りを越えて、上落合の加藤悦郎宅まで通ってきている。
 当時、サンチョクラブの「村長」だった上落合2丁目549番地に住む壺井繁治宅Click!の周囲には、隣家の井汲卓一をはじめ、近くには細野考二郎、上野壮夫、堀田昇一、村山知義Click!、野川隆、江森盛弥、山田清三郎、本庄陸男、大道寺浩一などの旧・日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)のメンバーが集合していた。サンチョクラブは、1935年(昭和10)11月に壺井繁治を「村長」とし、加藤悦郎が「助役」、小熊秀雄が「収入役」、メンバーとしては中野重治Click!、村山知義、窪川鶴次郎Click!、森山啓、江森盛也、坂井徳三、新井徹、橋本正一、松山文雄Click!岩松惇(八島太郎)Click!などが参集して結成されている。
 サンチョクラブには「名誉村民」もいて、風刺や皮肉、揶揄などで世界的にも高名な表現者たちが名を連ねている。「娑婆にはいないが、何れも地獄で健在、エンマ大王をさえ風刺の矢で突き刺そうという手合い」として、たとえばゴーゴリやプーシキン、モリエール、ハイネ、セルバンテス、ドーミエ、鳥羽僧正、十返舎一九、小林一茶などが「名誉村民」として列挙されていた。
 サンチョクラブが結成された1935年(昭和10)という年は、陸軍省新聞班が『国防の本義とその強化』と題するパンフレットを発表し、「日本の危機」を盛んに喧伝して戦争を「たたかいは創造の父、文化の母である」と美化し煽動していた時代だ。結果、大日本帝国は「たたかいは創造の破滅、文化の破壊」への道を真っ逆さまに転げ落ち、一面が焼け野原の中で国家の破滅、すなわち「亡国」の憂き目に遭うことになるのだが、このときは視野の広い少数の人々にしか、そのゆく末が見えていなかった時代だ。
 また、同年をさかいに従来の共産主義者や社会主義者、アナーキストたちの思想弾圧に加え、資本主義革命とともに育まれてきた民主主義や自由主義の思想などまでをもいっさい否定し、陸軍主導の「国防国家建設」というファシズム体制へなだれこむ端緒の年ともなった。民主主義者や自由主義者は弾圧を受け、特に学術の分野ではそのような思想の持ち主は「学匪」と呼ばれて追放されるか、容赦なく検挙されて起訴されていった。
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 翌1936年(昭和11)早々の2月26日には、陸軍皇道派Click!によるクーデター「二二六事件」Click!が勃発する。サンチョクラブのメンバーたちに限らず、日一日と悪化していく政治状況にかろうじて抵抗をつづけようとする人々は、少なからぬショックを受けただろう。壺井繁治は事件後、中野駅から省線に乗って飯田橋で下車し、半蔵門まで歩きながら東京市内の様子を観察している。そのときの様子を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。
  
 道端に並んでいる戦車が反乱部隊のものであるにしろ、または鎮圧部隊のものであるにしろ、それら鋼鉄の武器は、ファシズムの砦としてわたしを威圧せずにはおかなかった。いつ誰に捕まるかわからぬ不安を抱きながら、半蔵門近くまでゆくと、大勢の市民が小さいトランクや毛布類そのほか、身のまわりの品物を携えて続々と避難して来る。誰から聞くと、いつ戦火が交えられるかわからず、軍からの命令で避難しているのだという。わたしは不安を感じながらも、ゆけるところまでいってみたい気持に駆り立てられ、群集の非難方向とは逆の方向へ歩いていったが、結局彼らと同じ方向へ引き返さねばならなかった。赤坂の山王ホテルが反乱部隊の本部となっており、そのホテルの前で幟を立て、鉢巻き、襷掛け姿で演説している将校を見てきたというひともあったが、交通が遮断されているので、そこへはゆけそうになかった。
  
 このとき、壺井繁治・壺井栄夫妻の家から北北東へわずか600m、サンチョクラブの事務局からも東へ約600mのところ、下落合3丁目1146番地(現・中落合1丁目)の佐々木久二邸Click!に、ワシントン条約やロンドン条約などの軍縮を推進した、海軍出身の岡田啓介首相Click!が隠れているとは夢にも思わなかっただろう。
 さて、サンチョクラブの集まりや表現も徹底した弾圧を受け、表現の場を奪われ早々に「自主解散」せざるをえなくなったあと、1940年(昭和15)の夏に、壺井繁治は銀座で小熊秀雄の最後の姿を目撃している。肺結核の病状が進行したのか、おぼつかない足どりで歩く小熊へ、壺井は喫茶店「ヨシタケ」の中から声をかけてお茶に誘った。
 小熊秀雄が死去する2~3ヶ月前、いまだなんとか立って銀座を闊歩できていたころの最後の姿を、同書から少し長いが引用してみよう。
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 その年(1940年)の夏の午後、わたしは銀座のヨシタケという喫茶店の通りに面した窓際でコーヒーを飲みながら、ぼんやりと窓ガラス越しに往来を眺めていると、向こうから小熊秀雄が少しうつむき加減にふらふらしたいつもの独特な歩き方で、こちらへ近づいてくるのが眼にとまった。わたしが窓ガラス越しに「やあ」と声をかけると、彼の方でも「やあ」と反射的に、痩せた手をふるわせるような恰好で答え、すぐ店の中へ入ってきて、わたしのテーブルの前に腰をおろした。彼はいつものようにステッキを携えていたが、その時の彼は病み上がりの人間が、五キロも六キロもの遠い路を歩いてきて、やっとこの休み場所に辿り着いたといったような疲れ方をしていた。何か飲まぬか、といったら、要らぬと答えた。いつも会えばヨーロッパ人のような大きな身振りで喋り捲くる彼が、そのときにかぎって至極おとなしく、膝の上に手など置いたまま、自分からすすんで何にも喋らず、わたしの話に消極的に受け応えするだけだった。わたしはこんな静かな小熊秀雄を、これまで一度も見たことがなかった。この時「死神」はすでに、彼の肉体の内部にどっかりと腰を据えていたのだ。
  
 1940年(昭和15)の秋まで、それでも小熊秀雄は「現代文学」などに作品を発表していたが、病状は急激に悪化していった。それらの作品は、従来の外向きだった意識から、精神の内側へと向いたような表現が多くなっていった。常に体制や社会状況を攻撃していた小熊が、初めて守勢に立たされて防戦にまわったような詩だったと、のちに壺井繁治はこのときの感想を書いている。
 小熊秀雄の晩年作である「夜の床の歌」では、自由な結社や表現を奪いつづける政府への反発や怒りをこめて、「死んでも抵抗してやる」と心の声を絞り出して叫んでいるようだ。船山馨Click!は1970年代末の政治状況にさえ、小熊秀雄をあの世から呼びもどして自由に批判させてみたいと書いた。その当時よりも、はるかに状況が悪くなってしまった現在、予防拘禁を含む現代版「治安維持法」が取沙汰される時代に、もう一度ここにも小熊の「夜の床の歌」を引用して、この記事を終わりたい。
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 あゝ、彼等は立派な歴史をつくるために/白い紙の上に朱をもって乱暴に書きなぐる、/数千年後の物語りの中の/一人物として私は棺に押し込められる、/私はしかしそこで眼をつむることを拒む、/生きていても安眠ができない、/死んでも溶けることを欲しない、/人々は古い棺でなく/新しい棺を選んで/はじめて安眠することができるだろう。/太陽と月は、煙にとりかこまれ/火が地平線で/赤い木の実のように跳ねた。/ああ、夢は去らない、/びっしょり汗ばみながら/いらいらとした眼で/前方を凝視する。
  
 この詩がつくられてからわずか5年後、東京は見わたす限りの火焔と火流で焼かれ、太陽と月どころか、空さえ煙でよく見えない日々を迎えることになる。

◆写真上:サンチョクラブの事務局があった、上落合2丁目783番地あたりの現状。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合2丁目783番地の加藤悦郎邸あたり。は、1935年(昭和10)11月に結成されたサンチョクラブの面々。中央に村長の壺井繁治が座り、中野重治や窪川鶴次郎、小熊秀雄(左端)らの顔が見える。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみるサンチョクラブがあったあたり。は、別角度から撮影した上落合2丁目783番地界隈。は、1936年(昭和11)2月29日に発行された「戒厳司令部発表」の東京朝日新聞号外。
◆写真下は、戦後に撮影された壺井繁治()と若き日の小熊秀雄()。は、1930年(昭和5)に制作された小熊秀雄の「上落合風景」の1作『青物市場(上落合)』。

戸山ヶ原と大磯に展開するスパイ網。

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 しばらく前に、大磯の吉田茂邸に入りこんだ陸軍中野学校Click!出身の諜報員(スパイ)、東輝次Click!について書いた。マークした吉田茂の電話盗聴を行う「乙工作」から、実際に邸の中へ入りこんでさまざまな情報を収集する「辛工作」を行なっていた人物だ。その東輝次の手記がようやく読めたので、戸山ヶ原Click!周辺での動きや大磯Click!での具体的な工作の様子を詳しく理解することができた。
 東輝次は、戸山ヶ原Click!に設置された極秘のアジトである陸軍兵務局防衛課第四課分室(通称ヤマ)へ通勤しているので、ひょっとすると落合地域にも住んでいたのではないかと疑ったが、彼はより戸山ヶ原Click!に近いエリアを転々として暮らしていた様子が判明した。中野学校を卒業してから、東輝次は北方満州特務機関に配属されたが、そのうち内地勤務の3名に任命されている。そして、淀橋区柏木5丁目(現・北新宿4丁目)の図南寮へ軍属として下宿し、戸山ヶ原の兵務局分室へ通っている。下宿から兵務局分室まで、歩いても20~25分ほどで着いただろう。
 まず、東輝次は思謀班に属して、反戦平和主義者や民主主義者、左右翼思想を持つとみられる人物たちの盗聴任務についている。その中心となったのが「ヨハンセン」と呼ばれた吉田茂を中心とする、ヨハンセングループに対するスパイ活動だった。その様子を、2001年(平成13)に光人社から出版された、東輝次『私は吉田茂のスパイだった』から引用してみよう。
  
 余は「吉田茂」ほか二名の盗聴を担当した。陸軍軍医学校Click!西方のその建物は、二棟の小さな二階建てである。春夏秋冬、四季を通じて四囲の窓ガラスには暖簾が下ろされ、八月の炎暑には室内が蒸れ返っていた。しかし、その中で終日「レシーバー」は耳から離せなかった。いつ電話がかかって来るか分からないからである。官庁の勤務時限後も、当座は一人ずつかならずこれに従事したのである。/一家族の電話の盗聴を実施してから、その家の家族の状況、その声、話しぶり、そしてその連絡先、友人などが分かり得るまでには、優に三ヵ月はかかるのである。田舎と異なり、「ダイヤル」で相手を呼び出すので、その姓は分かっても、いかなる人物か分からないのである。それを全部の電話番号簿を引っ張り出して探すのである。/中野学校において、通信もやった関係にて「ダイヤル」の回転音にて大体の見当がつく。そうして紳士録、興信録を参考に、日々それが接触者として記録されてゆく。重要と思われるべき会話には、かならず録音がなされ、即時再生記録がなされるのである。現在のような「テープ」式のものではない亜鉛張りの円盤を使用する旧式なものであった。外諜関係はほとんど外国語であるため、すべて録音され、通訳室に回された。
  
 東は、中野学校で盗聴を習得したと書いているが、「有・無線」の科目に属するのだろう。ほかに諜報、宣伝、謀略、暗号、隠語、秘密インキ、開錠法、開咸法(手紙盗読)、獲得法(窃盗)、連絡、ロシア語、写真、偽騙、変装、候察、破壊、空拳、剣道、国体学、航空などの教科があったらしい。
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 1944年(昭和19)10月、長期間の盗聴活動が終わり、実際に吉田茂邸へ書生として入りこむ工作をするにあたり、東輝次は本籍地を牛込区若松町66番地へ移している。ちょうど戸山ヶ原にあった尾張徳川家Click!の下屋敷跡に建つ、陸軍第一衛戍病院Click!(現・国際医療センター)の斜向かいにあたる地番だ。そして、下宿を淀橋区東大久保3丁目(現・新宿区歌舞伎町2丁目)にあった、大久保病院Click!前に変わっている。そこで、ニセの卒業照明や学業証明書、乙種傷痍軍人の紀章や証明書などを偽造した。
 準備は整ったものの、東が「一番苦労しなければならないのは方言である」と書いているように、最大の難関は江戸東京方言Click!が流暢にしゃべれなかったことだ。自身が生まれ育った地域や家庭の母語を消すことは、至難のワザだ。練習は重ねたものの、地付きの人間が一聴したら言葉の発音やイントネーションが微妙に異なるので、すぐにバレてしまうだろうと恐怖心を抱いている。だが、スパイ活動の舞台が神奈川県の大磯町、つまり今日的にいうなら神奈川県南部のいわゆる「湘南弁」エリアになったのでさほど怪しまれず、生活言語の心配はほとんどなくなった。
 以前にも書いたが、中野学校の陸軍兵務局と憲兵学校の陸軍憲兵隊は、まったく組織的に関係がない。兵務局側では、吉田茂を監視する憲兵隊の工作は常時つかんでいたが、憲兵隊側では兵務局のスパイ活動をまったく知らなかった。だから、同じ陸軍であるにもかかわらず、ある局面では兵務局の東輝次が憲兵隊の弾圧から吉田茂をかばったり、大磯に住む反戦平和活動のメンバーたちへの連絡に協力したりと、妙な経緯が生じることになった。東輝次が、徐々に吉田茂たちへ同情的になっていった理由がここにある。
 陸軍中野学校では軍服や軍人の所作はいっさい禁止され、できるだけ軍人からは遠い姿勢を身につけさせ、柔軟に思考することができる「民間人」になりすますスパイの養成機関でもあった。換言すれば、その教育には自由主義的な側面が濃厚だったため、ものごとを観察するのに多角的な視点を備えられる、軍人とは対極的な教育がほどこされた。そのせいか、日本の敗色が日々濃くなっていく中、東輝次が反戦平和の活動家たちと接触するうちに、「この人たちの言葉が正しいのではないか?」と“動揺”していく素地が、最初から存在していたのだ。千畳敷山(湘南平)Click!の山頂へ高射砲陣地を設営する際、吉田邸からは若い東が動員されたが、威張り散らす軍人たちへ反感をおぼえている。
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 このころ、東京の戸山ヶ原は1945年(昭和20)4月13日夜半の山手空襲Click!で壊滅状態となり、兵務局分室(ヤマ)は表向きの兵務局本部の裏手にあった厩舎に移るというありさまだった。その直後、4月15日の早朝に憲兵隊が吉田茂を検挙しに、大磯の邸を包囲した。東輝次は、憲兵たちの横柄な口のきき方に反発しながら、隣りの二宮町にあった牧場へ牛乳を取りにいくという名目で急いで外出し、ヨハンセングループの大磯町大磯にある原田熊雄男爵邸と、大磯町東小磯にある樺山愛輔伯爵邸に電話で異変を知らせた。証拠となる機密書類(近衛文麿Click!の天皇上奏文写し)が憲兵隊に押収されないよう、焼却の時間を与えるのが目的だった。
 吉田茂を検挙したあと、憲兵隊は大磯の街中に「吉田茂は敵国のスパイだった」というデマを流した。吉田邸には、新聞も配達されなくなった。吉田家にいる人々も外出しづらくなり、用事はすべて東輝次がこなすことになった。そんな中、東は吉田邸に新聞を配達しなくなった新聞屋に街中で出会っている。同書より、再び引用してみよう。
  
 途中で新聞配達夫に遭ってなじると、/『吉田さんはスパイだって言うから、新聞なん(て:ママ)入れられない』と言う。/『そんな馬鹿なことがあるもんか。誰がそんなことを言ったんだ』と言うと、/『憲兵隊の人が言っていた。何でも裏の山に秘密の穴倉があって、書生と一緒に無電で外国に送っていたって』/人の好い四十年配の彼は、そう答えた。/余は開いた口が塞がらなかった。その穴倉は、幾百千年の昔、この付近にいたと思われる人間の蟄居生活の遺物である。これが三つばかりあった。入口は三尺平方くらいであるが、中は六尺近くもあり、畳三枚の広さはあるのである。これは今、物置に使用されている。/余はその書生が自分であること、そしてそんな嫌疑じゃないと説明し、新聞を頼んだ。
  
 まるで、東輝次はヨハンセングループのメンバーになったかのような姿勢で、大磯町に流れた吉田茂のデマを打ち消しにまわっている。
 文中に「秘密の穴倉」の話が出てくるけれど、これは東輝次が書く大昔に住んでいた“原始人”の「蟄居生活の遺物」(関東の「原野」には未開の野蛮人=坂東夷しか住んでいなかったという、いかにも戦前の皇国史観Click!の虚構らしい視点だ)ではなく、大磯丘陵の各地に散在する古墳時代末期の横穴式古墳群の一部だ。国道1号線をはさみ吉田邸のすぐ北側にある、広大な城山公園(旧・三井別邸)の庭園内に残された城山横穴古墳群と同時期に築造された一部が、吉田邸の山の中にも点在していたものだろう。
原田熊雄男爵邸1946.jpg 樺山愛輔伯爵邸1946.jpg
池田成彬邸1946.jpg 久原房之助邸1946.jpg
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 東輝次は、吉田茂の憲兵隊による検挙によって工作の任をとかれ、つづいて天皇に近いヨハンセングループのひとり、「コーゲン」こと近衛文麿Click!のスパイ工作を手がけることになる。近衛の下落合にあるClick!は山手空襲で焼けてすでに存在せず、荻外荘Click!から箱根の麓にある知人の別荘へ、そして軽井沢の別荘へと居所を転々と変える近衛文麿と接触するのは容易ではないのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:東輝次が「蟄居生活の遺物」と書いた大磯の横穴古墳群のひとつで、高麗山麓の原田伯爵邸にもほど近い善福寺の境内にある善福寺横穴古墳群。
◆写真中上上左は、陸軍中野学校時代の東輝次。上右は、大磯の吉田茂邸で撮影された東輝次。は、1944年(昭和19)12月23日の空襲4か月前に撮影された戸山ヶ原の兵務局分室(ヤマ)と、表向きの兵務局防衛課の本部建物。
◆写真中下は、国府本郷にある旧・吉田茂邸の門のひとつ。は、東輝次が諜報の連絡に使用した北浜の「明治天皇観漁記念」碑。道路側(北側)の角に通信文を入れた金属缶を埋めて、スパイ同士の連絡をつけていた。は、千畳敷山(湘南平)の山頂に設置された12.7mm高角砲による高射砲陣地だが、ほどなく艦載機による空襲で破壊された。
◆写真下:1946年(昭和21)に撮影された大磯のヨハンセングループの邸宅で、は原田熊雄男爵邸()と樺山愛輔伯爵邸()。は、池田成彬邸()と久原房之助邸()。久原邸の目の前には、陸軍兵務局が設置したスパイアジトがあった。は、スパイの「通信施設」にデッチ上げられた城山横穴古墳群のひとつ。

学習院の丘の南斜面を考える。

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 早稲田大学図書館に保存されている、寛政年間に書かれた金子直德『和佳場の小図絵』Click!の写本には、直德が選び絵師の県麿が再写して描いた鳥瞰図「雑司ヶ谷、目白、高田、落合、鼠山全図」が付属している。当時の牛込馬場下町あたり(現・喜久井町界隈)の上空から北を向いた鳥瞰図で、東は関口から目白台、雑司ヶ谷、下高田、下落合、池袋などまでの展望が描かれている。
 そこには、下落合の藤稲荷(東山稲荷)に連なる下高田村の学習院の丘のことが、「根岸大山」と記載されている。それが記憶に残っていたので、現在の目白駅東側から金乗院のある宿坂までの丘陵地帯を、「大山」と呼んでいたのだと思っていた。江戸時代の中期ごろから、相模(現・神奈川県)の大山山頂の阿夫利社参りが大流行しており、富士講Click!に先駆ける大山講が江戸の各地で形成されていたから、その流行で「大山」というようなネーミングがされているのかもしれない……と考えていた。
 だが、同じ早大に保存されている白兎園宗周(実は金子直德の別筆名)による『富士見茶家』を参照すると、それが「大ノ山」ないしは「大山」と呼ばれていたことがわかった。同じく寛政年間に書かれた『富士見茶家』には、『和佳場の小図絵』と同じような鳥瞰図が添えられている。この鳥瞰図は、『和佳場の小図絵』とはまったく正反対に、遺構が現存している学習院内の富士見茶屋(珍々亭)Click!の上空から、南を向いて描かれている。
 目前に展開している地域は、下高田をはじめ下落合、上落合、上戸塚、下戸塚、諏訪、そして戸山方面までが遠望できるのだが、手前の学習院の丘にふられている名称は「根岸大山」ではなく、小山と集落にそれぞれ「大ノ山」と「子ギシノサト(根岸の里)」というキャプションが添えられている。改めて『和佳場の小図絵』を参照すると、「大ノ山」と「根岸の里」についての解説があることに気づいた。「大ノ山」から、金子直德の原文を引用してみよう。
  
 大野山 又おほ山とも云。此なら山は、大阪落城の節、大野道見、同子修理、弟主馬と共に没し、主馬の従弟勘ヶ由は関東をうかゞひ諸国流転して、元和元年(1615年)の十二月下旬に此山に忍び居けるか。郎党七八騎にて廿七日に餅を搗(つ)けるとて、末葉今に餅つきは廿七日也。無程正月の規式あれとて、幕を打廻し家居と定、萱葭を以、年神の棚をかき、松の枝を折て門に立、そなへのみ供して御燈もあげざりしは野陣なれば也。刀鎗をかざり、具足鎧兜など忍びやかに錺(かざ)りて春を迎へけると。其例とて今に其家の者、燈をかかげず、門松を縁者同士盗合て立てるなど吉例とせり。其いさましき事、昔の豫讓にも似んよひけん。其後、彌十郎は十五歳の時、浅草海禅寺にて切腹仰付られけると也。当時名主甚兵衛・同吉兵衛など、その末裔なり、今に栄へぬ。(カッコ内引用者註)
  
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 読まれた方は、すぐにおかしな点に気づかれるだろう。豊臣家の遺臣であり、大阪冬の陣(1614年)あるいは夏の陣(1615年)から落ちのびたはずの大野氏が、いまだ戦後の落ち武者狩りの詮索・詮議が厳しい中、「諸国流転」して戦と同年である1615年(元和元)にわざわざ「敵」の本拠地である江戸へやってきて、しかも天領(幕府の直轄地)だった街道沿いの下高田地域に棲みつくことが可能かどうか?……ということだ。
 既存の村民からすれば、江戸の郊外方言とは言葉づかい(イントネーション)からしてまるっきり異なる、関西弁を話す騎馬姿だったらしい「落ち武者」たちに、なんの疑念も抱かなかったとは考えにくい想定だ。以前、江戸期には「豊臣の遺臣」で明治以降はなぜか「南朝の遺臣」へと“変化”した、雑司ヶ谷村の某家系について触れたけれど、『和佳場の小図絵』の現代語訳である『新編若葉の梢』Click!の編者・海老澤了之介Click!も書いているように、「ありえない」ことだろう。名主だった甚兵衛さんや吉兵衛さんが依頼した、大江戸で大流行した「系図屋」(家系図を創作する商売)のずさんな仕事ではないか。
 寛政年間には、「大山」または「大ノ山」と呼ばれていたということなので、本来は大山講の影響からそう呼ばれていたものが、いつのころからか地元の有力者である名主の大野家と結びついてそう呼ばれるようになったか、あるいは逆に寛政以前の江戸前期に、大野家が当該の丘陵地帯に住んでいて「大ノ山」と呼ばれていたものが、大野家がよそへ移るとともに、やがて「大山」と省略して呼ばれるようになったものか……、いずれかの経緯のような気がする。ちなみに、海老澤了之介は『新編若葉の梢』の中で、赤城下改代町にあった近江屋主人の物語を記録した『増訂一話一言』を流用し、「大山」または「大野山」が、以前は「大原山」と呼ばれていた事蹟を紹介している。それによれば「大原山」が、「大山」または「大ノ山」に転化したと解釈することもできる。
 さて、きょうの記事は「大ノ山」の由来がテーマではなかった。宗周(直德)の『富士見茶家』に添付された鳥瞰図には、今日の地形から見ておかしな表現がいくつか見えている。まず、現在の学習院が建つ丘の南斜面は凸凹もなく、かなりストンと山麓まで鋭角に落ちている。ところが、『富士見茶家』の鳥瞰図には、あちこちに小山(塚)のような突起が南斜面に描かれていることだ。そのうちのひとつ、富士見茶屋(珍々亭)の南東にある斜面の突起には「大ノ山」と書かれている。雑司ヶ谷道Click!に接するこの位置には、1927年(昭和2)の初夏に目白通りの北側から移転してきた学習院馬場Click!がある位置だ。
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宗周「富士見茶屋」(早大).jpg 安藤広重「雑司ヶや不二見茶や」.jpg
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 また、同図によれば茶屋の南側にあたる斜面にも、「見晴処」とキャプションがふられ丸い小山(塚)が描かれている。現在では、富士見茶屋跡の南側はすぐに急斜面であり、そのまま大きなマンションの目白ガーデンヒルズ(それ以前は運輸技術研究所船舶試験場の細長い建物)まで鋭角に落ちている地形だ。もっとも、この鳥瞰図に描かれた富士見茶屋の位置をどこにするかで、地形の読み方も変わってくるのかもしれない。鳥瞰図にも描かれ、安藤広重が描く『富士三十六景』の「雑司ヶや不二見茶や」Click!にも取り入れられた、葦簀張りの日除けがつく縁台が、溜坂の坂下と同じ地平にあるようなおかしな表現も見うけられる。もし鳥瞰図に添えられたキャプションの位置が誤りで、「見晴処」とふられた小山の上が富士見茶屋(珍々亭)だとすれば、また地形の見え方も変わってくる。
 だが、それにしても学習院が建つ丘の南斜面の表現が、あまりに今日とはちがいすぎるのだ。同斜面にあったいくつかの塚状のふくらみを、江戸後期から明治期にかけて田畑の拡張開墾の際、あるいは学習院が移転してきた明治末の敷地整備の際にすべて崩して、斜面全体の地形を大きく改造しているのではないだろうか。1880年(明治13)に陸軍が作成したもっとも早い時期の1/20,000地形図Click!には、等高線が粗いせいか南斜面の凸凹は確認できないが、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図では、すでに今日とあまり変わらないバッケに近い急な斜面状になっているのがわかる。
 幕末から明治期にかけ、鎌倉時代に拓かれた雑司ヶ谷道、やがては大きく蛇行を繰り返す神田上水へと下る斜面を形成していた、通称「大山」(あるいは丘陵全体を総称して「根岸大山」と呼ばれていたのかもしれないが)の南斜面には、いくつかの塚状突起が存在していたのではないか。鳥瞰図によれば、「見晴処」や「大ノ山」を含め3~4基の塚状突起を見ることができる。江戸後期の耕地拡張か、あるいは明治期の学習院キャンバスの造成時かは不明だが、大がかりな土木工事が同斜面に実施されている可能性がある。斜面を鋭角に切り崩すことによって確保できたのが、戦前から逓信省船舶試験所の敷地であり、「子ギシノサト(根岸の里)」までつづく学習院馬場の敷地だったのではないだろうか。
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 さて、「根岸の里」について詳細に記述する余裕がなくなってしまったが、『和佳場の小図会』によれば「ねがはら(根河原)」の里とも呼ばれ、古くから人が住みついており「冬暖にして夏涼し。水清くして野菜自然に生立ちぬ。めで度所なるべし。蛍大きくして光格別につよしと云」と書かれており、この地域では非常に住みやすいエリアだったことがわかる。目白崖線の南斜面を背負っているので、丘上とは異なり北風が吹く冬場には特に暖かかったのだろう。同書の鳥瞰図を見ると、大名の中屋敷や下屋敷、旗本屋敷などを避けるように、下高田村の家々が建ち並んでいる様子が描かれている。

◆写真上:富士見茶屋(珍々亭)跡の下に建つ、元・船舶試験場跡の巨大なマンション。
◆写真中上は、金子直德『和佳場の小図絵』写本(早稲田大学蔵)に付属する鳥瞰図「雑司ヶ谷、目白、高田、落合、鼠山全図」の一部。は、白兎園宗周(=金子直德)『富士見茶家』に付属する鳥瞰図の中央部。は、同図の「大ノ山」周辺の部分拡大。
◆写真中下は、学習院大学内に残る富士見茶屋(珍々亭)跡。中左は、早大に保存されている宗周(=金子直德)『富士見茶家』。中右は、安藤広重の『富士三十六景』のうち「雑司ヶや不二見茶や」。は、雑司ヶ谷道から見た「大山」山麓の現状。
◆写真下は、斜面を削って整地化した敷地に造られた学習院馬場。は、「根岸の里」方面へ下りる学習院内の山道。は、「根岸の里」があったあたりの現状。このあたりの斜面も削られ、垂直に近いコンクリートの擁壁が造られている。

上落合の妻たちを「支援」する店員。

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 下落合の南に拡がる地域、早稲田通りも近い戸塚4丁目593番地(旧・戸塚町上戸塚593番地)に住んだ窪川稲子(佐多稲子)Click!は、1949年(昭和24)に出版した『私の東京地図』の中で、自宅の界隈を細かく描写している。以前、近くの戸塚町3丁目866番地(上戸塚866番地)に住んでいた藤川栄子Click!や、上落合から目白町3丁目3570番地に転居した宮本百合子Click!との交流や暮らしぶりについて書いたが、『私の東京地図』ではより詳しい生活の様子や、上落合に住んでいた友人たちとの交流の詳細が語られている。
 そこでは、佐多稲子が上戸塚へと転居してくる以前、早稲田通り(戸塚大通り)が小滝橋Click!まで拡幅される前の様子が記録されていてめずらしい。高田馬場駅で下車して西へ歩き、上落合の友人たちを訪ねる道すがら、早稲田通りの様子を観察していたものだろう。小滝橋までの通りが拡幅されたのは、佐多稲子が上戸塚へと転居してくる数年前、1930年(昭和5)ごろのことだった。
 早稲田通りは、小字が「宮田」とふられている戸塚町(大字)上戸塚(字)宮田345~346番地あたりで、ほぼ直角に近いかたちで折れ曲がっていたのは、ずいぶんあとの時代までつづいている。現在もその名残りがハッキリと残っているが、高田馬場駅に近づくにつれ狭い道の両側には店舗が軒を接するように並んでいた。佐多稲子は、早稲田通りの拡幅工事が完了し、道路沿いに新しい商店が増えはじめたころに上戸塚へ引っ越してきている。当時の様子を、『私の東京地図』(新日本文学会版)から引用してみよう。
  
 早稲田の方からきて高田馬場の駅前で省線のガードをくぐり、小滝橋で新宿からきた道と合して中野へと通じてゐる戸塚の大通りは、私のそこへ越していつた昭和八年頃、まだアスフアルトに汚れさへないほど新しく、新しいだけにがつちりしてゐた。両側にはもう商店が建ちならんで丁度歳末の、売り出しの看板が店から店へつづいて歩道の上に張り出され、ざわざわとしたあわただしい商店街の空気をつくつてゐた。チンドン屋の鳴らす鉦もどこからか聞えてをり、両側の歩道の端しに立てた松飾りの笹が寒風に葉音を立ててゐる間を、円タクの自動車が右からも左からも走つてゐた。/まだこの道が、四五人も連れ立てばいつぱいになるほどの狭い一本道だつたのは、その三四年前のことだつた。上落合に集会があつてその帰りに高田馬場へよる時、小滝橋のあたりは、神田川すれすれに小さな木の橋があつて、川岸はくづれて橋と水がいつしよになつてゐた。そのあたりは古鉄やぼろや古新聞などを地べたに並べた屑市が暗い灯りで狭い道をてらしてゐた。早稲田の学生街の続きで、高田馬場近くになると、ちよつと折れた小路に紅雀といふ名の知られた喫茶店などもあるというふうだつたが、早稲田までこの狭い一本道は、本屋や洋品店などの店でつづいて、雨あがりなどは、道が低いのでぬかるんだが、夜などはこのへんまで学生でいつぱいになつてゐた。
  
 上戸塚の借家で、窪川稲子(佐多稲子)は隣人の妻と親しくなっている。時期は1933年(昭和8)だと思われ、夫の窪川鶴次郎Click!は治安維持法違反で豊多摩刑務所Click!に収監されていた。それを聞いても、隣りの主婦は特に驚かなかったようだ。夫が戸塚町信用組合(戸塚町戸塚74番地)に勤めている主婦は、「思想運動なさる方は、そりやァねえ、苦労なさいますよ。いえ、私んとこだつて、主人も学生時分にはね、まんざら赤くなかつたわけでもないんですよ。私も主人と結婚しますときはね、親が反対だつたもんですから、家を飛び出すやうなこともしましてね」と、妙な連帯感をしめされている。
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 佐多稲子は、特高Click!による弾圧で誰も引き受け手がいなくなってしまった、日本プロレタリア文化連盟(コップ)の婦人雑誌「働く女性」と、もう1冊の大衆雑誌を友人とともに自宅で密かに編集していた。編集に参加していた特高に検挙されていない男たちは、「理論的な対立」を理由にこれらの雑誌の編集から次々と手を引いて逃げていった。友人は「ね、一番困難なときになつて、それを支えてゆかうといふのがわれわれ女二人だなんて、どうお」といいながら、ふたりで「はつははは」と高笑いしている。
 高田馬場駅の方向へ歩いていく友人のうしろ姿を、佐多稲子は早稲田通りの酒屋の角まで見送っている。この「下宿屋の看板が幾つも立ててある酒屋」とは、佐多稲子の家から早稲田通りを駅方向へ300mほど歩いたところにある、戸塚町3丁目362番地の小島屋酒店のことだろう。小島屋酒店のすぐ東側には、戸塚消防団詰め所とともに火の見櫓が建っていた。現在のシチズンプラザの斜向かい、(株)和真ビルのある角地だ。彼女が見送る、「明るく深い紫色の羽織をきたその肩は、丸くよく肥えている」と書く友人とは、目白町の自宅へ帰る宮本百合子Click!だろう。
 1933年(昭和8)の暮れも押し詰まったある日、上落合の友人ふたりが「お正月の買物にゆかない?」と、佐多稲子の家を訪ねてきた。いずれも、夫が治安維持法違反で豊多摩刑務所に服役しているふたりだった。だが、佐多稲子の手もとには現金がほとんどない。それを告げると、ひとりが「大丈夫よ」と薄笑いし、もうひとりが背をまげてケタケタと笑ったらしい。正月の準備もまったくできず、夫への正月の差し入れもなくて途方に暮れていた佐多稲子は、子どもをねんねこでおぶって、ふたりについていくことにした。以下、同書から引用してみよう。
  
 新宿の雑閙は押しせまつた年の暮の、夕方かけた時刻で、歩道は歩きもならない。ガラスと果物の色彩と電燈の光りできらきらしてゐる高野フルツパーラーの前をやうやく抜けると、中村屋の広い間口にも人があふれてゐる。ルパシュカの店員の姿を人の頭越しに探すと、見知つた顔がちよつとの暇もなく客に接してゐる。そのとなりの食料品店は普段でも通行人の足もとまでじめじめさせるやうに、干物や貝の箱を店さきに張り出してゐる店なのに、歳末だから一層店先には商品が積み立てられてゐる。鮭、かまぼこ、伊達巻、数の子、それにきんとんから黒豆から、何でも無いものはない。/「いらつしやいまし。」/もう青年に達したひとりの店員は、東京っ子の下町育ちらしい気の利いた表情でわざと素知らぬ顔で私たちの前に立つ。
  
 当時、新宿中村屋Click!の東隣りにある「食料品店」とは、乾物屋の「近江屋」(淀橋町角筈1丁目12番地)だった。ふだんは乾物を中心に扱っていたが、正月にはお節料理の素材を店先に積んで売っていたらしく、この店で正月料理の材料はほとんどそろったらしい。
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 女性たちが店前に立つと、ひとりの青年店員が3人の顔を見ながら出てきて「ひとり芝居」をはじめている。彼は3人の女性と、さも注文の会話をしているような演技をし(彼女たちはなにも話さず商品を見つめているだけ)、次々と正月に必要な食料品を3人ぶん大きな袋へ詰めはじめた。青年店員は、彼女たちの前でひとりごとの「会話」をすると、商品が山積みになっている間を何度も往復しながら、袋はどんどんふくらんでいった。そして、重たい買い物袋を渡すと、さもおカネを受けとったかのような顔と仕草で、「ありがとう存じます」と大声でいって3人の前を離れ、すばやく次の客の前へ立って応対をはじめた。そのときの様子を、同書から少し長いが引用してみよう。
  
 (青年店員は)さも注文を聞いたふうにうなづいて、素早くそこに積んであつた大きな伊達巻を三本自分の手に取上げると今度は、まつ白な小田原かまぼこをやつぱり三本、雑煮用のすぢも、煮しめ用の竹輪も加へて、抱へきれなくなると、一応小走りに店の奥へそれをおきにゆき、今度は、折づめの金とんや煮豆を、そのあとでは、数の子やわかさぎや、そして頭つきの鮭さへ奥へ持つて行かれる。この間にも店の前に集つてゐる客の重なりは入れ代り立ち代りしても、その数は減りはしない。数人の店員は店の奥と先を往来してちよつと足を止めてゐるすきもない。だから私たちは、店の前の客の後ろに立つて、幾分そはそはしたおもひと、何かをかしさとのごつちやになつた気持でゐる。缶詰類の棚に囲まれた店の奥のレヂスターで金の出し入れをしながら、店さきを監視してゐる表情の番頭の視線も、外から見える。私はその目と自分のまなざしとがもしゆき合へば、対手の疑惑をきつと誘ひ出すにちがひない、と、それをおそれて、店の灯の外になるやうにしてゐる。/やがてひとつの包みになつて抱へ出されてきた荷物をみて、私ははつとなる。ひと梱ほどの大きさになつてゐるのだ。/「どうも、ありがたう存じます。」/よく透る高調子で言つて空手になると、次の客にもう顔をむけてゐる。
  
 その鮮やかでスキがなくすばしっこい店員の動きに、窪川稲子(佐多稲子)は呆気にとられていたが、店の前をそそくさと離れると新宿駅前までもどってきたところで、たまりかねて3人は笑いだした。3人は「だめよ」と笑いをこらえつつ、歩調を乱れさせながら山手線に乗っている。上落合の友人ふたりは、帰りがけに佐多稲子の自宅に寄って袋を開けてみると、豊多摩刑務所への差し入れ用としてバターや折り詰め、缶詰までがちゃんと入っているのに驚いている。
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 さて、このときの上落合の友人ふたりとは、誰だろうか? ちょうど1933年(昭和8)12月現在、夫が刑務所へ収監されている人物は、上落合1丁目503番地の壺井栄Click!と、上落合1丁目186番地の村山籌子Click!がいる。ただし、ちょうど同じころ村山知義Click!と窪川鶴次郎は、12月中に「転向」してようやく保釈され出獄するのだが、村山籌子も窪川稲子(佐多稲子)も正月を前に、いまだそれを知らなかったのかもしれない。

◆写真上:淀橋町角筈1丁目12番地にあった、乾物屋「近江屋」跡の現状。リニューアルした新宿中村屋の東隣りの敷地だが、現在はビル建設工事のまっ最中だ。
◆写真中上は、1929年(昭和4)作成の「戸塚町市街図」にみる拡幅前の早稲田通り。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる早稲田通り。は、戦後に喫茶店で撮影された佐多稲子(左)と宮本百合子(右)で、奥にポツンと中野重治の姿が見える。
◆写真中下は、1938年(昭和13)ごろの記憶をもとに描かれた濱田煕の「昔の町並み」で、1995年(平成7)発行の『戸塚第三小学校周辺の歴史』より。下左は、1929年(昭和4)に下落合2108番地の吉屋信子邸Click!で撮影された窪川稲子(手前)と吉屋信子(奥)。下右は、戦後の1960年代の撮影と思われる佐多稲子(右)と壷井栄(左)。
◆写真下は、1932年(昭和7)に撮影された新宿通り。ビルは新宿三越(右)とほてい屋(のち伊勢丹/左)で、乾物屋「近江屋」は新宿三越の手前にあった。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる新宿通り。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる新宿通りで、2005年(平成17)に新宿歴史博物館が発行した『新宿盛り場地図』より。

焼け残り沿線住宅に撒かれた米軍ビラ。

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 戦争も末期になって、連日、B29の機影が日本の上空へ頻繁に現れるようになると、膨大な量の「伝単」と呼ばれた米軍宣伝ビラ(Propaganda leaflets)が空から撒かれるようになった。その多くは、国民の戦意を喪失させるような「平和」志向のものであったり、太平洋の各地で行われた日米戦の戦闘詳報であったり、ときには次の爆撃都市を予告する内容であったりした。
 宣伝ビラは、南洋の島嶼部から飛び石伝いに日本本土へと迫る米軍の攻略作戦の状況を、ほとんど事実にもとづいて報道した内容も多かった。したがって、ラジオからの「大本営発表」が信用できなくなった人々は、B29が撒いていったビラを誰にも見つからないようにこっそり拾い、実際の戦況を知ろうとむさぼるように読んでいる。
 日本では徹底した報道管制が敷かれ、勇ましい精神論やほとんど虚偽の報道しか流されなくなっていたため、正確な戦況の情報に飢えていた。ただし、もし「伝単」を拾ったことが当局に知れると、警察や憲兵隊に検束されてひどいめに遭うことになる。だから、誰にも知られずに拾うことは困難だったが、それでも情報に飢えていた人々は米軍が撒いたビラを見つけると、こっそりポケットにねじこんで自宅に持ち帰っている。
 上落合から短期の上高田暮らしをへて、鷺宮2丁目786番地(現・白鷺1丁目)に自邸を建設して転居した壺井繁治Click!壺井栄Click!夫妻は、配給制による食糧不足から近くの土地を借りて、サツマイモClick!を栽培していた。近所の農家から苗木800本を購入し、雑草と石ころだらけの荒れた土地を耕しながら、少しでも飢えをしのごうと開墾を繰り返していた。きつい農作業は、ペンしか持たない詩人にはかなり辛かっただろう。いつ空襲に遭うかわからないので、足にはゲートルを巻き鉄兜(戦闘用のヘルメット)を背負っての農作業だった。その作業中に、壺井繁治は米軍機が撒いた「伝単」をひろっている。
 当時、西武電鉄Click!(現・西武新宿線)沿線にあったほとんどの駅は、駅前や主要道路沿いのみに住宅街が拓けた新興住宅地であり、いまだ一面に田畑が拡がるような風景だった。戦争も末期を迎えるころ、壺井繁治は西武線車内で蔵原惟人Click!と偶然に再会し、蔵原が網走刑務所から小管刑務所へと送られ、病気が重篤になったのでようやく保釈されて、上石神井の自宅で静養しているのを知った。身体が回復してきたのか、蔵原は仕事の翻訳原稿をどこかへとどけにいく途中だったようだ。
 戦争も末期になると、特高Click!の刑事たちが反戦運動や平和運動をしていた人物たちで、刑務所には収監されていない「転向」組も含めた社会主義者や共産主義者、民主主義者、自由主義者、アナーキストなどの家庭を訪ねることが多くなった。それは検挙するためでも弾圧・監視するためでもなく、戦争の敗色が濃くなった現状を踏まえ、今後はどのような政治や社会が到来するのか、「ぜひ意見を聞きたい」という訪問だった。さんざん弾圧し、検挙者の虐殺を繰り返した特高警察が、いまさら彼らの「意見」に耳を傾けるのも滑稽きわまりないが、日本軍の連戦連敗に心細くなり、上層部(内務省)が大日本帝国という国家や組織の存立そのものに、本格的な危機感をおぼえていたのだろう。
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 壺井夫妻のところへも特高刑事がやってきて、高圧的な態度が鳴りをひそめた“低姿勢”で「意見具申」を求めている。また、戦後の「戦犯」追及Click!への恐怖感もあってか、弾圧していた人々へおもねる姿勢もあったのだろう。壺井繁治は、「別に意見などありませんよ。第一、戦争については、これまで大部分のひとがとやかく意見を吐くことを禁じられていたんですからねえ、今更意見を求められても、多くのひととおなじように、いうことなしですよ」と、皮肉っぽく特高の来訪を突っぱねている。
 さて、B29からの宣伝ビラが多くなったのは、そのような状況のさなかだった。宣伝ビラは、東京西部ではどうやら焼け残った住宅地の多い、西武線や中央線、小田急線など郊外電車の沿線にバラ撒かれているようだ。下落合では聞かないが、隣りの上高田では「伝単」をひろったというお話を聞いたことがある。壺井夫妻は、鷺ノ宮駅の南側にある鷺宮八幡社近くに自宅があり、サツマイモを作付けした畑地もその沿線に位置していたので、おそらく西武線沿いの焼けていない住宅街を眼下に見下ろしながら、B29は宣伝ビラを撒いていったのだろう。そのときの様子を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された、壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。
  
 ある日、炎天の下で、畝の上にはびこっている雑草を抜いたり、長く伸びた芋の蔓を引っくりかえしたりしていた。そこへB29が一機侵入してきて芋畑の真上あたりで物凄い爆発音をあげた。わたしはてっきり爆弾が投下されたのだと思い、畑の隣りの竹藪の中へ逃げこみ、地面に身を伏せた。けれども地上になにも炸裂する様子がないので、少々不思議に思い、やがて飛行機が上空を通りすぎ、北東の方角へだんだん遠ざかってゆくのを見計らって、藪の中から出てくると、何万枚とも知れぬほどの紙片が、はじめはまるで白い粉みたいに空からゆっくりと落下してきて、わたしの芋畑にもあちらこちらと散った。
  
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 誰も見ていないのを確認して壺井繁治が「伝単」拾うと、それは米国のトルーマン大統領の写真が掲載された、降伏勧告の宣伝ビラだった。彼は急いでポケットにねじこんでから、改めて周囲を見まわすと、近くの農家から出てきていた農夫たちが、やはりビラを拾ってこっそり隠すのが見えた。
 B29の機体が見えなくなったころ、近くの高射砲陣地から砲弾が数発、思い出したかのように発射されている。しばらくすると、自転車(もはや自動車ですらない)に乗った兵隊たちが2~3人畑へやってきて、散らばっていたビラをあたふたと大急ぎで回収しはじめた。帰りの西武線で、壺井繁治は小さな子どもを背負った老婆に出会っているが、老婆もどこかでビラを拾ったのか、「まるでチンドン屋から貰った広告ビラみたいに、背中の子供にそれを持たせて歩いている」のを目撃している。もはや大本営発表のウソ報道を見かぎり、ほとんどの国民が信用していないのを象徴するような光景だった。
 このとき、壺井繁治が拾った「伝単」は、No.2088と記載されている「日本国民諸氏 アメリカ合衆國大統領ハリー・エスツルーマンより一書を呈す」だった。それは、戦争継続は犠牲者を増やすばかりで無意味であるという内容の、以下のような文面だった。
  
 ナチス独逸は壊滅せり 日本国民諸氏も我米国陸海空軍の絶大なる攻撃力を認識せしならむ 貴国為政者並に軍部が戦争を継続する限り我が攻撃は愈々その破壊及び行動を拡大強化し日本の作戦を支持する軍需生産輸送その他人的資源に至る迄徹底的に壊滅せずんば熄まず 戦争の持久は日本国民の艱苦を徒らに増大するのみ 而も国民の得る処は絶無なり 我が攻撃は日本軍部が無条件降伏に屈し武器を棄てる迄は断じて中止せず 軍部の無条件降伏の一般国民に及ぼす影響如何 一言にて尽くせばそは戦争の終焉を意味す 日本を現在の如き破滅の淵に誘引せる軍部の権力を消滅せしめ前線に悪戦苦闘中なる陸海将兵の愛する家族農村或は職場への迅速なる復帰を可能ならしめ且又儚なき戦勝を夢見て現在の艱難苦痛を永続するを止むるを意味す 蓋し無条件降伏は日本国民の抹殺乃至奴隷化を意味するものに非る事は断言して憚らず
  
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 このとき、米国へ実質亡命していた八島太郎(岩松惇)Click!は、「伝単」へのイラスト制作や文面の考案に協力している。それは、1943年(昭和18)に『あたらしい太陽』Click!の創作とともに、軍国主義・日本の戦争を早く終わらせようという、国内で反戦活動していたころからの強い意思もあったのだろうが、もうひとつ米国政府に叛意がなく、日本のスパイだと疑われるのを回避する目的も同時にあったのだろう。米国内における日本人あるいは日系人への敵視は、戦争が終結するまで変わらなかった。

◆写真上:1945年(昭和20)7月17日に、神戸上空で被弾し第4エンジンが停止したB29。
◆写真中上は、1949年(昭和24)の空中写真にみる鷺宮2丁目786番地にあった壺井繁治・壺井栄夫妻の自宅界隈。は、自宅の北側にある鷺宮八幡社。は、米軍の「伝単」(宣伝ビラ)を撒く準備をするB29の搭乗員。
◆写真中下は、広島への原爆投下を予告した「空襲予告ビラ」。も、各都市に撒かれた爆撃を予告する宣伝ビラ類。東京大空襲Click!の直前にも「予告ビラ」は撒かれたが、軍当局がほとんど回収して秘匿したため避難した市民はほとんどいなかった。は、大阪を空襲するB29。画面の上部には、大阪城の内濠と天守が見えている。
◆写真下は、各都市への空襲予告ビラ。は、拾われやすいよう10円札を模した「伝単」で裏面に宣伝文が書かれている。は、壺井繁治が畑で拾った「降伏ビラ」。


二度にわたる山手空襲の証言。

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北側上空19460223(広範).jpg
 これまで一度も見たことのない、めずらしい空中写真を見つけた。敗戦から6ヶ月後に、B29から撮影された画面だ。写真のタイムスタンプは、1946年(昭和21)2月23日となっている。板橋の上空あたりから、ほぼ真南を向き斜めフカンで撮影されてたもので、東京西部が広くとらえられており、主要な街々はほぼ全域が焼け野原だ。
 写真のちょうど中央が新宿駅Click!で、白く光っているのは淀橋浄水場Click!の濾過池と沈殿池だ。その向こう側(南側)に見えている森は、明治神宮と代々木練兵場Click!で、浄水場の左手(東側)に見えているのが新宿御苑Click!だ。新宿御苑の向こう側(南側)には、神宮外苑と絵画館Click!がポツンと確認できる。また、左手には千代田城Click!の外濠と内濠が見え、その向こう(南)には東京湾が拡がっている。上部の右側に見えているのは、東京都と神奈川県の境を流れる多摩川だ。
 手前(北側)の左手に見えている、道路が集まる街は池袋駅周辺だが、ほとんど爆撃しつくされてなにもない。駅の左手(東側)に見えている施設は巣鴨刑務所で、この時期は戦犯を収容する巣鴨プリズンと呼ばれていた。池袋駅から、巣鴨プリズンを囲むように、山手線がカーブしているのが見える。池袋駅から南へ、目白駅、高田馬場駅、新大久保駅とつづき、その周囲はほとんど焦土と化している。
 高田馬場駅の向こう側(南側)に拡がる戸山ヶ原Click!には、山手線東側のコンクリートドームに覆われた大久保射撃場Click!や、西側の陸軍科学研究所/陸軍技術本部Click!が確認できる。夕陽を反射して、右側(西側)で光っているのは、目白商業学校Click!の下で大きくカーブし、井上哲学堂Click!へと通う妙正寺川Click!の水面だ。戦争末期、B29の搭乗員や、P51やF6Fなど戦闘機のパイロットたちは、このような光景を目にしていたのだろう。東京の市街地と同様に、西郊部も徹底的に破壊されていたのがひと目でわかる写真だ。
 1945年(昭和20)3月10日Click!東京大空襲Click!から、そろそろ72年がたとうとしているが、きょうは同年4月と5月の二度にわたって行われた、山手空襲Click!について書いてみたい。まず、目白文化村Click!の第二文化村にいた安倍能成Click!の証言だ。安倍能成は、下落合4丁目1655番地(現・中落合4丁目)の敷地を、1924年(大正13)の初めに入手し夏までに自邸を建設している。1964年(昭和39)4月11日発行の「落合新聞」Click!より、安倍能成『私と下落合』から引用してみよう。
  
 目白といふけれども本当は下落合で、その頃は淀橋区に属し、四丁目の一六五五番地で、昭和二十年の爆撃で焼けてしまった頃は、昭和十五年の秋に、一高の校長として又東京に帰って居たので、その家に住みついて居た。その頃は死んだ長男がまだ生きて居り、妻と長男とを信州にやって、一人で二階に居たのと一緒に、燃える家に水をかけて防いだが、二階が落ちて来て危険が迫ったので、思ひ切って御霊神社の下に設けてあった長い防空壕に避難した。ドイツから大分書物を買って来たから、書庫を別に鉄筋コンクリートで建てたけれども、上空からの火は始(ママ)めてのことで考へなかった。翌朝だったか家に帰って、書庫の焼跡を見ると、燃えた本の灰が雪のやうに白く美しく、上の方にある書物の灰は崩れないで、活字がはっきり読めた。朝鮮から李朝や高麗や新羅の陶磁器をいくらか持って帰ったが、それは跡かたもなくなって、ただ水滴だとか小瓶などを、壺に入れて土にいけておいたのだけが残った。(中略) 私は一高校内にある柳田教授の官舎に御厄介になり、その家が焼けてから一高の同窓会館に移り、更に経堂の知人の家においてもらひ、終戦の年の十月末に長男が病死したので、妻、嫁、孫と一緒に代田一丁目の、寺島といふもとの岩波の店員の持家の一部においてもらひ…(後略)
  
北側上空19460223.jpg
新宿西部(現代).jpg
 この空襲は、同年4月13日の夜半に行われた第1次山手空襲で、せっかく書庫をコンクリートで建設したのに、空からの焼夷弾攻撃にはひとたまりもなかったことがうかがえる。目白文化村は、つづいて5月25日の空襲でも爆撃を受けている。また、安倍能成Click!は文化村の自宅で罹災したあと、空襲に追いかけられるように都内各地を転々としている様子がわかる。
 つづいて、目白文化村の南西側、中井駅から下落合の西端にかけての空襲被害を見てみよう。同じく、4月13日夜半の空襲による惨状だ。ただし、このあたりの被害状況は、わたしも取材で何度か経験しているけれど、戦時の極限状況と極度の混乱から4月13日夜半と5月25日夜半の空襲被害を混同しているケースが多いので、それをお含みおきのうえお読みいただきたい。1967年(昭和42)8月10日発行の「落合新聞」より、「座談会」から引用してみよう。下落合の丘上に自邸があったとみられる、高山福良という方の証言だ。
  
 私のところから五六軒東の方は焼けて、文化村が全部焼けて、それから、坂下がかなり焼けた。この辺は御霊神社の丘のあたりは一帯に焼け残った。ほんとに、焼け残った方が珍しいんだ。それで、四月十三日のあの晩にはね、これは後になって分ったことなんだけど、中井駅近くの妙正寺川に焼夷弾が九十何発、百発近くのものがずらっと川の中に落ちている。だから、あれがね、ちょっとのボタンの押し違いで、われわれの住宅街の上に落そうとしたもんだろうと後になって分った。だから、あれが落ちていたらわれわれのところは全部灰になっていたことだろう。(中略) 私の隣組はほんの僅かだけれど奥に引っ込んでいるんで、守っていると、表の様子が分らない。表が人通りがはげしいというんで、出て見るとね、文化村のほうがまっ赤に燃えている。それで目白学園とか、御霊神社の方にね、どんどん避難していくわけなんですよ。これは大変だというんで、家族を御霊さんの方に逃がして、男の子と私だけがうちに残っていたんだが、周辺がどう燃えているのか分ないんだな。で、水をかぶってね、表に出て見て、二の坂の方に行ったんだが、坂の半ばまでは降りられないですよ。下は燃えているし、火がパッパして。向うを見ると東中野の方まで焼野原になっているんだ。その中に、森があったり、残ってる家がちょっと見える。(カッコ内引用者註)
  
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M69集束焼夷弾.jpg
250キロ爆弾尾翼.JPG
 同じ座談会で、上落合に住んでいた村上淳子という方の証言も掲載されている。上落合の被害は、4月13日よりも5月25日の空襲のほうが圧倒的に大きかった。つづけて、「落合新聞」の同号から引用してみよう。
  
 上落合は四月の時より五月二十五日ですか、その時の方がひどかったんです。四月のときは、わたくしうちにおりまして、みんな東中野の方へ逃げたんです。あちらが高台だというんで。どんどんどんどん逃げて行きましたからね。そしたら、あちらの方から燃えてきて、またこっちへ返(ママ)って来て見たら家があったという状態なんです。わたくしのうちは線路の端で強制疎開でしたが、わたくしはそのときうちにいたんです。/空襲の状態は、いまの花火どころじゃないですね。焼夷弾の落ちるのがきれいなんですよ。落ちてくるときから火がついていて、それが無数に、パッと火が散っていて、音がして。(中略) 通風筒のような、くるくるまわる、あれがはまっているんですよね。まるで打上花火みたいにきれいなんですよ。で、それが落ちて来ますと、アスファルトが全部燃えちゃうんですよ。ですから、歩けも何もできないんですよね。一面火の海です。(中略) それから、五月にうちのほうが焼けましたときは、わたくしは勤務で新宿駅に勤めていたんです。その頃は男の人は戦争に行ってらして、内地は女のほうが重要だったもんですから勤めに行ってましたら空襲で、わたくし達は駅の地下道にもぐっちゃったんです。/それで、夕べ焼けた、というんで外へ出て見ましたら、もう新宿の駅はありませんでした。うちへ帰るのに新宿駅から歩いて来ましたけれど、途中、家は一軒もありませんでした。(中略) 新宿から大久保のところを通って、小滝橋を通ってくるのに、焼野原なんです。落合のほうから来る方にね、上落合のほうは残ってますでしょうか、と尋ね尋ね来たんです。(カッコ内引用者註)
  
 アスファルトが燃えていたのは、上落合と東中野の間を横断する早稲田通りの情景だろう。東中野から落合方面を見た、松本竣介Click!スケッチClick!が想い浮かぶ。
明治神宮19450525.jpg
渋谷東・広尾.jpg
 米国の国防省から国立公文書館へわたっていた、空襲の記録写真が次々と公開されるにつれて、東京大空襲Click!のみならず二度にわたる山手空襲の様子も、各街ごとにリアルタイムで写真撮影がなされていたことが判明した。以前、1945年(昭和20)5月25日夜半に撮影された、被弾直前の新宿駅周辺の写真をご紹介Click!したことがある。それらの写真には、街や駅名などはほとんど記載されていないが、タイムスタンプで被爆している東京の街並みを推定することができる。夜間撮影の画面で非常にわかりにくいのだが、東京のどの街の空襲なのかが判明したら、改めてこちらでご紹介したいと思っている。

◆写真上:1946年(昭和21)2月23日に撮影された焼け野原の東京西部の状況で、東京湾には幕府の台場が点々と見えているが72年前の海岸線であり現状とはまったく異なる。
◆写真中上は、同写真を目白・落合地域(手前)を中心に拡大したもの。は、落合地域から南をGoogleEarthの斜めフカンで見た現代の様子。
◆写真中下は、1945年(昭和20)7月16日(日本時間17日)に撮影された海軍火薬工廠のあった平塚市街地を絨毯爆撃するB29の編隊。は、東京の上空から市街地へバラまかれたM69集束焼夷弾の構造。は、保存された250キロ爆弾の尾翼部。
◆写真下は、1945年(昭和20)5月25日夜半に空襲を受ける代々木や原宿の市街地と明治神宮。画面やや右寄りに山手線がタテに走り、ちょうど原宿駅上空で焼夷弾が炸裂して落ちていく。は、同じく5月25日夜半の空襲で燃えはじめた渋谷駅東口と広尾の市街地一帯。山手線が左下に見え、その線路を横ぎるカーブした鉄道は東急東横線。

両神山系にオオカミの遠吠えが響く。

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 ニホンオオカミについては、ここでも江戸郊外の各地に勧請された三峯社Click!とともに何度かご紹介Click!しているが、先日、もっとも目撃情報が多い秩父連山へ出かけてきた。両神山の山麓まで出かけたのだけれど、別にニホンオオカミに出会いたくなって雪が残る秩父連山へ出かけたのではなく、ただ温泉へのんびり浸かりたくなったのと、食いしん坊のわたしはももんじClick!=シカ料理が食べたくなったからだ。
 江戸郊外に勧請された三峯社(大神社)は、農作物を荒らす害獣除けの性格が強かったと思われるのだが、今日の東京も含めた関東地方における同社の役割りは、「家内安全」「火災除け・厄除け」といったところだろうか。下落合地域(中落合・中井含む)にも、中井御霊社の境内には三峯社が勧請され、八雲社とともに属社となって現存している。
 江戸期には、こちらで何度か取り上げてきた富士講Click!大山講Click!とともに、秩父の三峯社へ参拝するオオカミ(大神)信仰の三峯講が存在していた。富士講は、おもに関東から甲信地方(山梨・長野)にかけての独特な地域信仰だが、三峯講もまた富士講と重なるような信仰の拡がりを見せている。富士講には、山岳ガイドのような先達が存在していたが、三峯講には御師(おし)と呼ばれるガイドが道案内をつとめた。
 御師は修験者の一種であり、三峯社のオオカミ護符を里人に配りながら、三峯講を組織していったといわれている。富士講の先達は、どちらかといえば町や村に居住する富士登山の経験者、すなわち山岳のベテランガイド的な性格が強いが、御師は山から下りてきてオオカミ(大神)信仰を布教する宣教師、あるいは伝道者のような存在で、いつも町や村に定住しているわけではない。ちょうどチョモランマ(英名エベレスト)をめざす登山家たちのため、山麓にシェルパ村が存在するのと同様に、秩父には三峯山をめざす信者たちのために御師の集落が形成されている。
 以前、中村彝Click!のアトリエへ結核を治療しにやってきた、御嶽の修験者Click!のエピソードをご紹介しているが、修験者すなわち御師は深山で修行して霊力や神通力、つまり「験」(超能力)を身につけ、里へと下りてきては「験」力によって町や村の人々の“困りごと”を解消していくのが役割りだった。下落合にも三峯講(三峯社)が存在するということは、江戸期に御師が村へとやってきて布教したものだろう。オオカミはキツネよりも強いので、精神状態が不安定となった患者=「狐憑き」の症例でも、御師がよく呼ばれている。また、水源地である山の御師は、渇水時の雨乞いでも活躍したかもしれない。中には、「わたしは3ヶ月間、天にひたすら祈りつづけて、ついに雨を降らせることに成功したのだ」、「3ヶ月も祈ってりゃ、いつか降るだろ!」と山田に突っこまれそうな、いい加減な「超能力」者たちもいたのかもしれないが。w
 オオカミ(大神)信仰は、別にニホンオオカミそのものを信仰しているわけではない。稲荷のキツネが、異界に棲む神(多くは五穀豊穣の農業神ウカノミタマ)のつかいで人々の前に姿を現す動物、つまり眷属(けんぞく)として機能していたのと同様に、オオカミも山の異界に棲む神々の眷属として人々の前に姿を見せると信じられていた。だから、江戸期の人々にとってはキツネ以上にめずらしい、深山に登らなければめったにお目にかかれないニホンオオカミが眷属となる信仰に、よりありがたみを感じていたのかもしれない。
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 さて、秩父連山では目撃事例や遠吠え情報が、ほぼ毎年のように聞こえてくるニホンオオカミの気配だが、さまざまな報道や情報、資料、痕跡などを総合すると、とても絶滅したとは思えない状況が浮かび上がってくる。おそらく、秩父には複数の個体が、いまだに棲息している可能性が高いのではないだろうか。また、九州は大分県の祖母山系の山岳地帯でも、目撃情報や遠吠え情報が聞かれる。だが、ここで困ったテーマが持ち上がっている。日本の本州から四国、九州の山々に棲息していたイヌ科の動物は、どうやら2種に分類されるようなのだ。その発端は、江戸末期に日本へとやってきたシーボルトの時代にまでさかのぼる。
 ドイツの医師で植物学者のシーボルトは、日本の動物や植物の標本をヨーロッパ各地へ送り紹介していたことでも知られるが、日本の山岳地帯に住むイヌ科の動物として、オオカミ(狼=ニホンオオカミ)とヤマイヌ(豺・犲=山犬)の2種類の個体を、オランダのライデン自然史博物館へ送り出している。だが、ライデン自然史博物館では2頭を同種のイヌ科動物と規定してしまい、2頭のうちシーボルトがヤマイヌとして送った標本をニホンオオカミとして剝製にし、同館へ展示した。これが、ニホンオオカミの世界標準の個体となってしまったところから、さまざまな混乱が生じているようだ。日本で保存されている、比較的大型のニホンオオカミとされる毛皮のDNAと、ライデン自然史博物館のニホンオオカミとされる標本のDNAが一致しないのだ。
 江戸期の文献には、「狼」と「豺・山犬」などを分けて記述している資料が多いが、同様にオオカミとヤマイヌを混同して書いていそうな文献も多い。「狼」とされる動物と「豺・山犬」とされる動物は、生息域が近似しているイヌ科の動物ではあるけれど、シーボルトが江戸期から規定していたように、実は別種の動物なのではないか?……と疑われはじめた。つまり日本の山岳地帯には、ちょうど北アメリカ大陸のオオカミとコヨーテの関係と同様に、2種類のイヌ科動物がいたのではないかということだ。そして、やや大型のほうがニホンオオカミであり、ライデン自然史博物館に展示されている小型の動物がヤマイヌではないかと想定されはじめた。
 シーボルトが2種に分類したイヌ科動物を、ライデン自然史博物館が同一のものと誤認し、ヤマイヌの標本をニホンオオカミだと規定して「タイプ標本」化してしまったところから、すべての混乱がはじまっているらしい。このあたりの状況を、2017年(平成29)に旬報社から出版された宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』から引用してみよう。
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 二〇〇二年に七例目の毛皮が秩父の民家で発見されるまで、剥製と毛皮の標本は、ライデン自然史博物館、大英博物館、国立科学博物館、ベルリン博物館、東京大学、和歌山大学にしかなかった。/一番大きい和歌山大学の剥製は、頭胴長一〇〇センチ(組み直し前は胸から尻まで七〇センチ、体高五二.五センチ、尾長二五センチ)だった。しかし、ライデンにあるタイプ標本は体高四三.五センチ、頭胴長八九.三センチ、尾長三二.五センチ(『ファウナ・ヤポニカ』から)と小柄で、対応する頭骨も確認された中で最小だ。これがニホンオオカミ像を実際より小さく印象づける一因だったのだろう。同時にこの小柄な剥製を見ると、一般にイメージするタイリクオオカミとは違う種類の動物であるかのような印象を受ける。/ライデンの剥製はニホンオオカミの大きさの平均値を下げて、ニホンオオカミ像の混乱を増幅させた。さらに、ニホンオオカミとされているものの中にも、本当は複数の動物種が含まれているのではないかという、今日まで続く論争の大きな要因にもなっているのだ。
  
 ライデン自然史博物館にある剥製には、ニホンオオカミ(Canis hodophilax)とプレートに記載されているが、困ったことに剥製台座の裏側にはJamainu(山犬)と記録されているようだ。同博物館の学芸員が、どこかでシーボルトの標本2体が、実は別種のイヌ科動物であることに気づいたからだろうか。
 同書の著者が実際に目撃しているように、ニホンオオカミ(仮称「秩父野犬」Click!)とみられるイヌ科の動物は、確かに秩父の山中に棲息しているようだ。スチール写真ではなく、より情報量の多い動画としてとらえられる日がくることを願うばかりだ。
 秩父の山里にある村を歩いているとき、わたしは異様な光景を目にした。案山子(かかし)が横へ手をつなぐように、山に向かって立っていたのだ。案山子は鳥獣の侵入を防ぐために、田畑のあちこちへ等距離に立てられているのが普通だ。だが、秩父では山の斜面を遮るように、横へ連続して拡がるように立てられている。地元の方に訊くと、シカやイノシシ、サルなどが頻繁に村へ下りてきて、畑地の中をわがもの顔で歩いているらしい。
西荻窪三峯社.JPG
井草八幡三峯社.JPG
ニホンオオカミは消えたか?.jpg ニホンオオカミは生きている.jpg
 つまり裏返せば、ニホンオオカミの棲息に必要な動物が、秩父にはふんだんに存在するということだ。いや、この言い方はどこかで逆立ちしている。ニホンオオカミを絶滅近くにまで追いやったせいで、本来なら捕食されるべき動物の個体数が増えつづけ、山での食糧が足りなくなって里の畑地を荒らすようになってしまった……ということだろう。

◆写真上:江戸期の下落合村で勧請したとみられる、中井御霊社に建立された三峯社。
◆写真中上は、早春に霞がただよう秩父の山々。は、さまざまな動物が棲息する秩父の山林。は、両神山から北東へ3kmほどのところにある氷柱で有名な尾ノ内渓谷の吊り橋。山奥の夜間にもかかわらず、多くの人たちが訪れる。
◆写真中下は、山に向かって横一線に並べられた案山子。は、ニホンオオカミの目撃例が多い秩父連山の両神山と七滝沢あたり。(GoogleEarthより)
◆写真下は、西荻窪駅前にある三峯社。は、井草八幡境内にある三峯社。下左は、秩父を中心にニホンオオカミをめぐる最新動向がまとめられた2017年(平成29)出版の宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』(旬報社)。下右は、九州における目撃情報がまとめられた2007年(平成9)出版の西田智『ニホンオオカミは生きている』(二見書房)。

文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(1)

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和田邸外観イメージ図.jpg
 以前、大正期の目白文化村Click!近衛町Click!に建てられた大正期の文化住宅Click!とは明らかにコンセプトが異なる、遠藤新設計創作所Click!が1933年(昭和8)に設計し翌年竣工した、久七坂筋Click!に現存する小林邸Click!をご紹介していた。文化住宅のブームから10年もたつと、最新の日本住宅はムダなスペースを削減したり、装飾的かつレガシー的な意匠や非効率的な造りを省き、快適な生活を送れる家族中心の考え方が浸透して、少しずつ変化を見せている。
 1929年(昭和4)に東京朝日新聞社から出版された『朝日住宅図案集』には、最新の住生活コンセプトにもとづく当時の住宅が、85事例も紹介されている。同社が懸賞募集し、「昭和新時代」の住宅図案を収録したものだ。その中には、落合地域へ実際に建てられたとみられる住宅が3棟(下落合×2棟、上落合×1棟)が紹介されている。東京郊外の田園生活を前提とした文化住宅から、急速に市街地化が進む東京の外周域に開発された住宅街の1棟、すなわちそれほど広い敷地を必要とせず(せいぜい50~70坪ぐらい)、大きなコストをかけなくても建設できる、サラリーマン向けの一般的な住宅建築を模索するような内容となっている。
 ただし、同図案集は条件を与えられて設計するコンペティションなので、実際に図面通りに建設されているかどうかは確定できない。中には、設計図のままで実際には建設されなかった邸も含まれている可能性があるが、ここでは実際に建てられたという前提で当該の住所に邸を探し、稿を進めてみたい。
 新たな住宅の姿を模索する、同書の「序」より引用してみよう。
  
 北緯五十度前後の北に位する欧米大都市の住宅をそのまゝ、南洋的の夏を持つ日本に直訳して失敗するのは当然である。和服と畳と下駄等々が俄かに全滅しない限り、純洋館の生活は絶望であり、都市の凡ての近代化した今日、純日本住宅の生活も不便が多い。結局現代の生活様式が混沌としてゐるから、建築様式もまた定まらないのである。蓋し建築様式なるものは、その国の伝統とその時代の生活様式から生れ出るものだからである。(中略) 入選図案の大部分は外観が洋式であり、内部に和洋の趣味と便利とを蔵してゐる。これを大正大震災前後に流行した所謂文化住宅に比すると、全く面目を一新し、現代生活の表現として渾然たる調和を示し、昭和の一形式を創造したものといへることは主催者の満足するところである。
  
 用いられる素材が変わり、時代ごとに流行するデザインは変わっても、基本的に今日の住宅へと直結する設計コンセプトが同書の図案には多く含まれている。いわば現代住宅を形成する、88年前のプラットフォーム図案集とでもいうべきものだ。では、下落合585番地に建設されたかもしれない和田邸から見ていこう。
 和田邸は、実はこちらでも一度すでに登場している。傷痍兵士を対象とした、1941年(昭和16)に国防婦人会下落合東部分会Click!の主催による「いちご狩り」が行われたのが、特設テントの張られた和田邸の庭先だった。今回の図案集に掲載された和田邸の外観を見ると、当該の「いちご狩り」の背景に写る洋風住宅の一部は、和田邸ではなく隣家の建物の可能性のあることが判明した。和田邸は、外壁にハーフティンバー様式を採用しており、外壁が一面色つきスタッコ仕上げらしい写真の住宅とは異なるのが明らかだ。
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 和田邸というともうひとつ、下落合の物語に欠かせない人物の実家でもある。当時の世帯主である同志会Click!副会長をつとめた和田義睦の長女・和田トミは、高良武久Click!と結婚して同じく下落合に住みつづけた高良トミClick!のことだ。そして、二男の和田新一は早稲田大学建築科を出た建築士で、『朝日住宅図案集』に掲載された新たな和田邸の設計者でもある。和田義睦について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 同志会副会長理学士 和田義睦  下落合五八五
 洗練された人格、深い知識経験を以て、老齢ではあるが、矍鑠として壮者に伍し、郷党自治の為に貢献す、世の毀誉褒貶を超越した一種の尊厳さを持つて居る、氏は高知県士族和田義雄氏の二男にして、文久元年十二月二十三日を以て同県土佐郡久萬村に出生、明治十八年東京帝国大学理工学科を卒業し、次いで大学院に研究す、(中略) 先是明治十五年大学在学中学生の風紀漸く紊れんとするや、氏は率先正帽の制定を唱し、其の自尊心に訴へて素行を匡正した、今日の所謂角帽は氏の発案にして業界に於て和田帽と通称せらるゝ所以である、(中略) 家庭邦子夫人は横浜英和女学校の出身にて、此の間二男新一氏は早大建築家卒、二女節子は東京女医専在学中、長女富子は医学博士高良武久氏に嫁す、先是日本女子大を経て米国に留学、大正十一年コロンビア大学を卒業し哲学博士の学位を獲得す、帰朝後九州帝大医科大学精神科に心理学を究むること三ケ年、方今精神病科の大家として知られてゐる。
  
 設計された和田邸とみられる住宅は、外観は完全に西洋館だが内部は和洋折衷の造りで、木造2階建ての瀟洒なたたずまいをしている。基礎はコンクリートで、1階の外壁はラス張りしたあと色付きのスタッコ仕上げ(カラーは不明)、2階はクリーム色のスタッコ仕上げを採用している。屋根の色も不明だが、全体を日本瓦で葺き一部を亜鉛引き鉄板を用いて上からペンキを塗っている。柱はおもに米松を使っているが、化粧柱は檜、造作は米栂で、階段は檜と加工しやすいラワン材を採用している。また、和室は畳敷きで、洋室は化粧板ワックス拭仕上げと呼ばれるものだった。
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 同邸の特長を、同図案集に紹介された文章から引用してみよう。
  
 応接室兼書斎/約六畳敷の大さ(ママ)に約半坪のアルコープを設けサンルームに通ふ様にしたれば半坪の活用さるゝ所極めて大にして室そのものより言ふも余猶を持つ様に見ゆる也 食堂兼居間/一家の団欒は夕食の時に最も多く味はるゝもの也、而して一般家庭に於て今の最も有効に用ひらるゝ時間も夕食後なるべし、故に食堂を居間に兼ねしめたり、又この部屋は外気に接する壁を有せざる故に冬は暖く夏涼し サンルーム/日中主人の留守をなす主婦と子供との遊場仕事場として主婦室ともなり幼児室ともなるを以て極めて有効にして且衛生的也 弐階客室/一般の家には時に泊りの客の有る事多し、この為に八畳を取り又親しき客人の為にベランダあるは極めてよき事也 中等学校に行く児の為にベツドアルコープを持つ子供室を作りたれば将来の生長にも差支なかるべし 盗難よけの為に表廻りの室にはシヤツターを付したれば裏廻りの窓を鉄網入硝子とすれば盗難には絶対に安全也
  
 面白いのは、食堂兼居間がどこの外壁にも接しておらず、住宅の中央に配置されている点だ。建物の中心に食堂兼居間があるのは、家族が各部屋から集まりやすくした結果のように思われるが、冬は外壁に接していないので暖かかっただろう。
 暖房費の節約にもなったかもしれないが、外気の抜ける窓がないため夏は暑さがこもりそうだ。夏場は、隣接するサンポーチを開け放って南風を入れるか、夕食後は空け放しのサンポーチへと出て涼をとっていたのかもしれない。サンポーチの前庭には、夏場のことを考えたのか小さな噴水とみられる設備が、平面図に記載されている。
 設計図を見ると、応接室兼書斎、食堂兼居間、夫婦室兼寝室、サンルーム兼主婦室兼幼児室、客室兼寝室というように、1部屋を効率的かつフレキシブルに利用する工夫が顕著なのは、今日の住宅につながるものだ。設計当初から、専用の子ども部屋が設けられたり、1階の表側の窓には防犯用シャッターが、裏側の窓には割って侵入されないよう金網入りのガラスが装備されるなど、今日のセキュリティ重視の住宅と変わらないコンセプトが取り入れられている。
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久七坂近代建築.JPG
 今日の住宅と異なる点は、台所の隣りに大正期からの女中部屋が相変わらずそのままなのと、太陽光を直接浴びられるサンルームやサンベランダなどのスペースが、1階と2階の双方に用意されている点だろう。大正末から昭和初期にかけ、結核の罹患者数Click!はピークを迎えており、陽当たりのいいところで新鮮な外気を吸うことが、なによりも結核予防になると、いまだに信じられていた時代だった。

◆写真上:昭和初期に設計された、和田邸とみられる外観イメージイラスト。
◆写真中上は、同邸の側面図。は、同邸の1・2階平面図。
◆写真中下は、子ども部屋とみられる室内イラスト。は、同邸の透過側面図。
◆写真下上左は、『落合町誌』に掲載された和田義睦。上右は、1929年(昭和4)出版の『朝日住宅図集』(東京朝日新聞社)。は、和田邸が建っていた下落合585番地(左手)の現状。は、和田邸とほぼ同じころに建てられたとみられる現存する下落合の邸宅。

落合地域で20回の狩りをした徳川吉宗。

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 千代田城の8代将軍・徳川吉宗が、落合地域で鷹狩りをしたのは1717年(享保2)に鷹狩り場(御留山/御留場)の「六筋」を設置して以来、中野村への道すがらも含めると合計20回にもおよんでいる。「六筋」とは、千代田城Click!を起点に五里四方へ狩り場のコースを規定したもので、6つの筋ごとに鷹場役所や、筋沿いの村々では鷹場組合が結成されている。
 その「六筋」とは、1717年(享保2)現在で葛西筋・岩淵筋・戸田筋・中野筋・品川筋(のち目黒筋)・六郷筋(のち品川筋)という構成だった。この筋ごとに設置された鷹場役所や、村々が合同で組織した鷹場組合により、吉宗の時代以降は「将軍家の鷹狩り」Click!という行事が遂行されることになる。落合地域は、村民の立ち入りや狩猟、樹木の伐採などがいっさい禁止された、鷹狩り場の中心となる下落合村の御留山Click!を抱えていたが、上記の筋でいうと「中野筋」にあたる狩り場コースだ。
 落合地域の周辺には、将軍家の狩り場だった長崎村の鼠山Click!や下高田村の鶉山Click!、池袋村の丸池Click!周辺、雑司ヶ谷村の一帯が存在している。これまで、長崎村の鼠山でイノシシやシカの巻狩りをしたあと、清戸道Click!を1本はさんだ南側に隣接し、将軍の御立ち台(展望台)もある下落合村の御留山Click!で鷹狩りをする……というようなイメージで「将軍家の鷹狩り」をとらえていたのだが、『徳川実記』に詳細が記録された狩りの様子から、それが大きな誤りであることがわかった。長崎村の鼠山で狩りをしたあと、わずか500~600mの近さとはいえ下落合の御留山で鷹狩りをすること、あるいはその逆のコースをたどって狩りをすることなど、基本的にありえないのだ。
 なぜなら、長崎村の鼠山と下落合村の御留山は鷹狩り場の「筋」ちがいだからだ。下落合の御留山は「中野筋」だが、長崎村の鼠山や池袋村の周辺、雑司ヶ谷村の一帯は「戸田筋」であって、狩り場のコースがまったく別だ。したがって、「将軍家の鷹狩り」を仕切る鷹場役所や村々の鷹場組合も別であり、少なくとも徳川吉宗の時代には、たとえば「戸田筋」で狩りをしたあと、その「戸田筋」をあずかる役人やスタッフが、別の役所や組合が仕切る「中野筋」のエリアへ、そのまま勝手に入りこんで狩りをすることなど原則としてありえない。ただし、徳川吉宗は柔軟な思考ができる人物だったらしく、この「筋」ちがいな突然の“ドッキリ”狩りを二度ほど実施している。
 さて、徳川吉宗が落合地域で鷹狩りをした、あるいは落合地域を含む「中野筋」の道すがらで狩りをしたのは、生涯に20回におよぶ。1728年(享保13)の狩りから1745年(延享2)の狩りまで、およそ17年間のことだ。この中で落合地域のみに絞って、おもに下落合村と上落合村、葛ヶ谷村(現・西落合)に限定して狩りを実施したのは、9回にのぼるとみられる。すなわち、順に挙げてみると1739年(元文4)3月13日(旧暦:以下同)、同年4月23日、1740年(元文5)2月3日、1742年(寛保2)4月3日、1743年(寛保3)3月15日、1744年(延享元)2月18日、同年3月15日、同年10月5日、1745年(延享2)3月27日の9回だ。
 1739年(元文4)から、ほぼ毎年のように落合地域のみの狩りを行っているが、これは御留山の鷹狩りがよほど気に入ったか、周辺に拡がる風情がことさら好きだったものか、名主の娘がどこかの村のお藤ちゃんClick!なみに特別にきれいだったものだろうか。w 特に1744年(延享元)には、⑥⑦⑧と年に3回も落合地域へ鷹狩りに出かけてきている。吉宗の落合通いは、死去する6年前までつづいた。
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 上記の狩りの中で、吉宗が「筋」ちがいな狩りをしたのは、1739年(元文4)4月23日のもので、おそらく鷹場役所の役人や鷹場組合の村民たちはあわてたのではないだろうか。この日、千代田城を出発した徳川吉宗の一行がめざしたのは雑司ヶ谷村、すなわち「戸田筋」で狩りをする予定だった。ところが、雑司ヶ谷に着いたあと、実際に狩りをしたかどうかは不明だが、急に吉宗は落合で狩りをしたいといい出したようだ。「戸田筋」の鷹場役人や組合の雑司ヶ谷村民は、吉宗がつつがなく雑司ヶ谷で狩りを楽しめるようさまざまな準備をしていたはずだ。だから、なんの準備も行われていない「中野筋」にある落合へいきたいといい出したとき、おそらく呆気にとられただろう。
 この突然の狩り場変更には、いろいろな理由が考えられる。ひとつは、雑司ヶ谷の天候がよくなくていい狩りができなかったという事情だ。当時、天候による狩り場の変更はほかにも例があり、それほどめずらしいことではなかった。ただし、「筋」のちがうエリアへの狩り場変更は、めったにないことだった。しかも、雑司ヶ谷が雨で狩りがしにくいなら、おそらく1,500~2,000mほどしか離れていない落合もたいていは雨だろう。あるいは、雑司ヶ谷には獲物が少なかった可能性もある。せっかく楽しみにしていたのに獲物が少ないので、「ちがうとこ行こうぜ」と吉宗がいいだしたのかもしれない。または、なにか縁起の悪いこと、不吉なことが突然起きてしまい、「気分転換しようや、場筋変更は苦しゅうない」となったものだろうか。これなら、わざわざ「筋」ちがいの落合へ変更したのも、うなずけるような気がする。それとも、「やっぱりお藤ちゃんの顔が見たい!」というような“特殊事情”があったものだろうか。w
 徳川吉宗が、「戸田筋」から「中野筋」へと“越境”して狩りを行った、1739年(元文4)4月23日のこの日、獲物はそろそろ北へと帰る渡り鳥のガンがメインだった。おそらく、神田上水や妙正寺川か、両河川沿いの湧水池に飛来していたものだろう。「中野筋」の鷹場役人や落合地域の村の名主たちは、知らせを聞いて大急ぎで駆けつけただろうか。「戸田筋」の役人や村民の責任だから、「そんなの関係ねえ」と知らん顔はできなかっただろう。それに、少しでも顔を見せて世話を焼けば、あとで報酬が期待できた。
 さて、9回におよぶ落合地域での狩りの主要な獲物は、『徳川実記』によればがキジ、がカモとキジ、ミミズク、ウサギ、がキジ、がキジとイノシシ、がキジとカモ、がキジとイノシシ、がガンとカモ、キジ、がキジと記録されている。吉宗が落合地域での狩りを気に入った理由として、ほかの狩り場に比べ獲物の種類が豊富なことも要因として挙げられるかもしれない。したがって、鷹狩りや巻狩りを催したあとの、村々への報酬も多かったのではないかと思われる。
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 もうひとつ、吉宗が「筋」ちがいの“越境”をしたものに、1731年(享保16)3月18日の狩りがある。この日は、午前中に「戸田筋」の鼠山で狩りをしていて、安藤対馬守下屋敷Click!で昼食をとっているが(上屋敷Click!の字名ができたのはこのころか)、午後からいきなり「中野筋」の中野村方面へと狩り場を変更している。この日も、おそらく落合地域を通過しているのだろうが、変更の理由は不明だ。なんの前触れもなく、いきなり将軍一行が鷹狩り姿で村々に現れたら、村民たちは「そんなスケジュール、聞いてねえし!」と驚愕しただろう。ざっくばらんな性格だったといわれる吉宗には、それが面白くて「苦しゅうない、無礼講じゃ」と、たまにサプライズ狩りをやるという悪戯心があったのかもしれない。ちなみに、この日の獲物はイノシシとウサギだった。
 将軍が狩りを行なう際、「鷹場筋」沿いの村々にはさまざまな労役義務が課せられることになる。当初は、それらの労役に対して幕府から報酬米が支給されていたが、江戸期も下るにしたがって村々から「米じゃ不便なので金銭を」という声が強まったのだろう、鷹場役所から現金で支払われることが多くなった。以前に記事でご紹介した将軍の狩りには、30両余の報酬が支払われているが、それらのいくばくかは環境整備の労役のために動員された人足たちや、村民は田畑の仕事を放棄するわけにはいかないので、代わりに田畑の管理を依頼する付近の農民への支払いなどにまわされた。
 また、将軍家の狩りは獲物を得るための純粋な“鷹狩り”目的のためだけでなく、別の目的で形式的に催されることもあったようだ。なにか幕府側の事情により、とある村の財政がことさらひっ迫したときや、将軍の狩りの都合で村へ少なからず損害を与え、その村へ“狩り”ならぬ“借り”ができたときなどが考えられるだろう。その村だけに、予算を超えた特別の法外なカネを支出すれば、たちまち周辺の村々へ情報が伝播し、えこひいきの不公平感や不満が醸成されてしまう。そこで、当該の村へ鷹狩りに出かけることで、地元へカネを落としてくるという方法だ。
 「戸田筋」にあたる池袋の丸池Click!方面へと向かう、将軍家が狩りをするときに通過した「狩り道(御成道)」の様子が江戸期の絵図に記録されている。道を真っすぐに進めば、よほど効率がいいにもかかわらず、わざと階段状にジクザグで行列が通るよう、おかしな道筋の形状が採取されている。これでは、狩りの行列が周辺の畔道や田畑の中に入って、農作物を荒らすことになってしまう。天領(幕府直轄地)の生産性を低下させるような狩りは、たとえ徳川将軍といえども決して許されなかった行為だ。
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 だが、田畑に入って農作物を荒らし「損害」を与えたとすれば、狩りの報酬金以外に損害賠償金を村へ支払わなければならない。わざと田畑の畔を踏み荒らすような、ジグザグのおかしな道筋の規定は、将軍家のその村に対する特別な“配慮”を想起させるのだ。しかも、作物を収穫し終えたあと、あるいは作物の種まきをする以前の農閑期に、将軍の鷹狩り一行はわざと田畑の畔へ踏み入って、「荒らした」ことにしているのかもしれない。

◆写真上:落合地域での代表的な鷹狩り場だった、御留山のピークに建つ四阿。
◆写真中上は、1763年(宝暦13)に6エリアの狩り場筋を描いた「五里四方鷹場惣小絵図」。は、「戸田筋」南辺と「中野筋」北辺部分の拡大。図版はいずれも、2010年に練馬区石神井公園ふるさと文化館が発行した『御鷹場』図録より。
◆写真中下は、御留山/御留場付近の村民による鉄砲猟が止まなかったのだろう、1721年(享保6)に出された「御留場内鉄砲取締」の高札。以前の記事で、江戸期に刀や鑓を所持していたのは武士のみという錯覚Click!について書いたことがあるが、農民は鉄砲まで所有していた点に留意したい。は、将軍の鷹狩り時に使用された葵紋の纏印などを記録した1722年(享保7)の「戸田志村追鳥狩御条目並絵図」。は、下落合の御留山にある湧水の弁天池で眠るカルガモ。
◆写真下は、東京湾で羽を休めるカモの群れ。江戸湾に面した将軍の浜御殿では、カモ猟が盛んだった。は、葵紋の入った鷹狩り時に使用されたと見られる陣笠。は、明治に入ってから制作された東洲勝月『徳川十三代将軍御鷹野之図』(部分)。

文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(2)

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 今回は久七坂筋Click!に建っていたかもしれない、とても大正期が終わったばかりの昭和の最初期に造られたとは思えない住宅を、『朝日住宅図案集』Click!(東京朝日新聞社/1929年)の収録作品からご紹介したい。まるで、現代のモデルハウスのような意匠をしており、内部の間取りも今日とほとんど変わらず現代的だ。
 この邸は、下落合810番地に住む、設計者は鈴木周男の近隣に建てられているとみられる。冒頭の外観イラストに描かれたように、玄関が北側に接して設置されており、地番からいって久七坂筋から西へと入る路地の一画に建設されたものだろうか。この路地は、突き当たりがバッケClick!(崖地)で、諏訪谷Click!つづきの谷間(現・聖母坂Click!)へと急激に落ちこんでいる地形だ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」で、下落合810番地の敷地を確認すると、この地番の住宅に相当する家に「伊藤」邸がある。1947年(昭和22)の空中写真で確認すると、屋根の形状や住宅のかたちも一致しそうだ。
 久七坂筋の両側は、大正末から宅地造成が進み、昭和に入ると次々にモダンな住宅が建設されている。ちょうど、道の両側で宅地造成が進む様子を、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作として、1926年(大正15)9月20日に『散歩道』Click!へと写しとっている。また、下落合810番地の同邸は、ちょうど遠藤新建築創作所が設計した小林邸Click!の、道路をはさんだ斜向い(路地の西側)にあった邸だ。このあたりは空襲にも焼け残り、戦後までずっと近代建築の住宅が建ち並んでいたエリアだが、わたしは学生時代から何度も久七坂筋を歩いているにもかかわらず、伊藤邸の記憶がまったくない。1933年(昭和8)に設計された小林邸と同様、意匠がモダンすぎて戦後に建てられた住宅だと勘ちがいし、印象に残らなかったものかとも考えたが、年代を追って空中写真を確認すると1960年代にはすでに解体されて存在しなかったようだ。
 敷地面積は52.25坪と、現代の一戸建て住宅とさほど変わらない。外観は今日のモデルハウスといっても通用しそうで、基礎はコンクリート打ち、土台は赤松、柱などの木材は米栂と米松、杉が多用されている。室内はすべてが洋間であり畳の日本間が存在せず、床は松やエゾ松の板材が使われている。平面図を見ると、室名の横に部屋の広さを具体的に表す「〇畳」と小さく添えられているのが、当時の図面らしい。
 外壁は、メタルラス張りと漆喰モルタル塗りで、軒先や軒裏、窓枠などはカラーペンキが塗られているが、外壁ともにカラーリングは不明だ。関東大震災Click!を強く意識した、「防災・防犯住宅」として設計された同邸の屋根は、栗色の石綿スレートで葺かれている。では、伊藤邸とみられる住宅の特長を『朝日住宅図案集』から引用してみよう。
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 【耐震的特長】平面を大体に於て矩形となし土台、梁、桁等の配置を簡単にせしこと、柱を可成均等に配置したること/総て大皷壁となしたる故、壁内に大なる断面の貫、筋違等を使用し得ること、外部に腰長押(三寸、一寸五分)を通したこと、屋根を石綿スレート葺とせること/【防火的特長】外壁を漆喰モルタル仕上としたる事、軒裏をトタン張りペンキ塗とせしこと、隣家との距離を成可く大にせしこと、台所、浴室の天井及壁は漆喰塗とし、扉は木骨にトタン張とせしこと、小児室床下に耐火安全庫を設けたる事(中略) 【小児室】を南東角に配置し、別に学齢児童の勉強室を二階に設けたること/【台所】南側に置き洗濯場を隣接せしめ、物置をも含めたること/【客室】は洋風とし、来客には折畳式寝台を使用すること/その他階段を緩にし、猶上下共一坪以上の広間を取る等、無駄を減じ余裕を増し、各室の連絡をよくし、相当の秘密を保ち、家族本位の住宅とせり
  
 屋根瓦の重さから、倒壊する家屋が多かった関東大震災の教訓が活かされ、屋根の重量をできるだけ軽くするスレート葺きが採用されている。また、壁面には今日の建築ではあたりまえになった、「貫」や「筋違」が施されている。
 防火の備えで面白いのは、当時は廉価なアルミニウムが存在しないため、火元となりやすい台所や浴室(当時は薪や石炭で風呂を沸かしていた)の扉を、焼けにくいトタン張りにしていることだ。トタン材は、関東大震災ののち急速に普及し屋根や屋根裏、扉などに多用されはじめている。また、子ども部屋の床下に「耐火安全庫」が設置されているが、このスペースも四囲がトタン材で囲まれていたのだろう。
 今日の住宅事情では難しくなっているが、隣家との距離を十分に保って延焼を防ぐ配慮もなされている。市街地とは異なり、郊外では敷地が広めに確保できたため、周囲の家々からできるだけ離して住宅を建てることが可能だった。だから、火災が起きても周辺を巻きこんで延焼することが少なく、被害を極小化することができたのだ。
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 また、同邸は「防盗」の面にも力を入れているが、つづけて引用してみよう。
  
 【防盗】南側に二間雨戸を設け、便所、浴室、台所の窓にはボルトを鉄板を以て連絡して取付けたること、外開き窓戸締に新工夫を施したること/各扉共上下二箇所にて締をなす/下部締り/在来の外開戸用鉄物を用ひ、周囲の枠組を細密になし、硝子を破つても容易に締りを外し得ざる様になすこと/上部締り/各窓框に取付けたる鈎及窓の両側の柱間に水平に取り付けたる真鍮管によつて各扉を堅く連絡し、三箇所以上にて真鍮管を固定せば決して一箇所のみ外すことを得ざる様になすこと
  
 以前にご紹介した和田邸とは異なり、同邸ではガラスを割っても侵入できない、金網入りの窓ガラスは採用されていない。その代わり鍵の施錠を工夫したり、窓の下部に真鍮管を取りつけるなど、窓枠に細かな工作がされている。
 ちょうど『朝日住宅図案集』が出版されたころ、すなわち昭和の最初期には妻木松吉こと「説教強盗」Click!が、東京各地を荒らしまわっている真っ最中であり、実際に下落合の邸も何棟かが被害に遭っている。それらの事件の犯行手口から、台所や便所などの小窓も含め、侵入口となりやすい窓にはさまざまな工夫が施された。当時の住宅は、関東大震災の教訓による「耐震・耐火」に加え、強盗や泥棒Click!の侵入を撃退する「防犯」が最優先の課題だったのだろう。
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 伊藤邸(現・パラドール下落合のあたり)の北隣りには、同じく下落合810番地の高良武久Click!高良トミClick!夫妻の自宅があった。妙正寺川に沿った下落合(3丁目)680番地の高良興生院Click!内の自宅とは別に、久七坂筋にも夫妻は自邸を建設していた。高良邸は最近まで、ていねいにリフォームを重ねて使われていたようだが、つい先日解体された。

◆写真上:『朝日住宅図案集』に収録された、伊藤邸とみられる住宅外観イメージ図。
◆写真中上は、同邸の平面図(北が下)で畳の和室はすでになく板張りの洋室となっている。は、台所のパースと防犯を強く意識した窓の仕様。
◆写真中下は、まるで現代住宅のようなデザインをした同邸の側面図。は、耐震・耐火・防犯を強く意識した同邸の断面図。
◆写真下は、1938年(昭和13)の火保図にみる同邸だが実際より大きめに描かれているようだ。は、戦後の1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同邸。は、伊藤邸の北側に建っていた元・高良邸だが解体済み。(GoogleEarthより)

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