Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all 1249 articles
Browse latest View live

戦前からはじまった東邦生命の御留山開発。

$
0
0

御留山01.JPG
 下落合にある御留山Click!(現・おとめ山公園)の相馬邸について、またまた誤りのある資料を見かけたので改めて整理しておきたい。同時に、1936年(昭和11)に相馬孟胤Click!が他界して、相馬家が1939年(昭和14)に中野地域へ転居したあと、その敷地を購入した東邦生命Click!が1940年(昭和15)ごろから推進した、御留山の丘上に展開した宅地開発についてもついでに考察してみたい。
 まず、下落合の御留山について書かれたさまざまな資料の中で、誤りの大もとになっていると思われる“原典”は、当の東邦生命の「八十年史編纂委員会」が編集し、花田衛が執筆した5代目・太田清蔵Click!の伝記だ。1979年(昭和84)に西日本新聞社開発局出版部から刊行された、花田衛『五代太田清蔵伝』の記述を引用してみよう。
  
 新宿区下落合にあった旧相馬邸は奥州中村の中村藩(相馬藩ともいう)江戸藩邸だったもので、四代太田清蔵が昭和十四年に買い取った。/敷地一万五千坪、建坪五百坪、部屋数五十という広大な屋敷で、乙女山と呼ばれる庭は丘と林と谷川を擁して広々としていた。/昭和二十年五月二十五日の東京空襲で灰燼に帰し、土地もほとんど売り払われた。残っているのは三百坪弱の土地と石造りの堅牢な倉庫二棟だけで、太田家の美術品や什器が収納されている。/大半は住宅街に変貌したが、庭の一部が新宿区立おとめ山公園になっていて、わずかに昔の面影をしのぶことができる。まん中に道路が通り、一方は池を中心にした植え込みの庭園、他方は小川を中にした楠や椎の豊かな森となっている。
  
 この文章の中には、3つの誤りが含まれている。まず、下落合の相馬邸Click!は1915年(大正4)に御留山の丘上に竣工しているのであって、江戸期からの藩邸ではない。下落合へ相馬家が転居してくる直前、赤坂氷川明神社の南隣りにあった相馬邸Click!が、江戸期からつづく中屋敷として利用されていた藩邸の建物だ。また、徳川将軍家の鷹狩り場Click!だった立入禁止のエリアは、「御留山」「御留場」であって「乙女山」ではない。
 次に、相馬邸の母家は1945年(昭和20)の空襲によって焼失したのではなく、4代目・太田清三が推進したとみられる宅地開発にともない、1941年(昭和16)に相馬家の黒門Click!(正門Click!)の移築とともに解体されている。空襲によって焼けたのは、解体された相馬邸母家の南西側に建っていた、太田清蔵親子が住む新築の大きな太田邸だ。このとき、すでに相馬邸の敷地にはクロス状に東西と南北の道路が拓かれ、宅地用の区画割りまでが行われている。その区画の南西角に、新たな太田邸は建設されていた。これらのことは、陸軍航空隊が1941年(昭和16)以降に撮影した空中写真、ならびに米国公文書館で情報公開されている米軍のB29偵察機が撮影した空中写真などで、明確に規定することができる。
 また、資料としては新宿区に保存されている、御留山開発の全貌を記録した「指定申請建築線図」の存在が挙げられる。1940年(昭和15)に淀橋区あてに申請された同図は、東邦生命による御留山分譲住宅地の詳細がわかる貴重な資料だ。
位置指定図19401001.jpg
御留山1936.jpg
御留山19441213.jpg
御留山19450402.jpg
 さて、4代目・太田清蔵が進めたとみられる御留山の宅地開発だが、その手はじめとなったのが1941年(昭和16)にスタートした黒門の移築と母家の解体だったろう。このとき、黒門の福岡・香椎中学校への解体・移築に2年もかかっているのは、日米開戦後の戦時体制における軍事優先の運輸規制が影響したからだ。黒門の解体は早かっただろうが、巨大な相馬邸の母家の解体には、より多くの作業リードタイムを必要としたかもしれない。解体で出た良質な部材を、4代目・太田清蔵は売却したのか、それとも宅地開発にともない自邸の新築に流用したかはさだかでないが、少なくとも1943年(昭和18)末ごろには旧・相馬邸敷地に新たな道路が貫通し、区画割りを終えた造成地には住宅が建設されはじめている。
 1944年(昭和19)12月13日に、米軍のB29偵察機から撮影された空中写真には、旧・相馬邸の敷地へすでに道路が東西と南北に走り、区画ごとに完成した家々が11棟ほど確認できる。東西道と南北道とが交わる敷地には角切りClick!が行なわれ、交差点の中央には緑地帯が設けられている。当初、4代目・太田清蔵は御留山に拓けた丘上の敷地を、いちばん広い息子用の太田新吉邸敷地を除き、17区画(死者が出た火災事件Click!後に移築されたかもしれない太素神社Click!の境内を除く)に地割りして販売しようとしていた。その区画割りの南西角、谷戸に面したもっとも広い敷地に、太田家は邸を新築し空襲により全焼するまで住んでいた。
 翌1945年(昭和20)4月2日、すなわち4月13日に行なわれる第1次山手空襲の11日前に、米軍の偵察機から撮影された空中写真を見ると、住宅の数がすでに 15棟ほどに増えていたのがわかる。また、何ヶ所かの樹木が伐採され、食糧不足を補うためか畑にされていた様子もうかがえる。この空中写真が、4代目・太田清蔵が推進した宅地開発事業をとらえた最後の姿だろう。4代目・太田清蔵は、1946年(昭和21)4月4日に死去しているので、戦後に改めて開発された御留山の住宅街については関与していない。
御留山19450517.jpg
御留山1947.jpg
相馬邸1915.jpg
 次に1945年(昭和20)5月17日、第1次山手空襲のほぼ1ヶ月後に撮影された米軍写真を参照すると、4月2日に撮影された住宅群のうち、北側の区画を中心に半数ほどが“消滅”している。おそらく直接の爆撃ではなく、北東の近衛町Click!側からの延焼で焼失しているとみられる。だが、南側の区画に建っていた家々は、屋根が見えているので無事だったようだ。しかし、写真が撮影されてからわずか8日後の5月25日夜半、第2次山手空襲による焼夷弾の直撃で、太田邸も含む南側の区画一帯も全焼している。焼け跡に呆然と立ちすくむ、太田新吉の様子を同書から引用してみよう。
  
 五月二十五日夜の空襲で新吉の家が焼けたと知った岡本は下落合の屋敷へ駈けつけた。焼け跡に新吉が立っていた。岡本の姿を見ると、新吉はステッキで残骸をつつきながら、ぽつりと「何にもない。全部焼けちゃったんだよ」と呟いた。さすがに落胆の色はかくせなかった。岡本は小さな鏡台を持って来ていた。子供の玩具のようなものだが、ひげ剃りに必要だろう、と思って進呈した。/太田弁次郎は田園調布に住んでいて戦火をまぬがれた。翌日は自宅から銀座の本社まで歩いて出社した。こんなに歩いたのは初めてで、以後もない。本社は水びたしだったが、それでも焼け残ったのは幸運だと思った。が、下落合の新吉の家に回ってみると、みごとに何一つないまでに全焼しているのに改めて驚いた。剃刀一つないのである。弁次郎はそこで兄に安全剃刀を一つ進呈した。
  
 「新吉」は、すでに社長に就任していた5代目・太田清蔵のことで、岡本は武蔵境へ疎開していた彼の秘書、太田弁次郎は新吉の実弟だ。
御留山02.JPG
御留山00.JPG
落合新聞19671026.jpg
 戦後の1947年(昭和22)に撮影された米軍の写真を見ると、御留山の敷地には再建されている住宅はあるものの、ほとんどがいまだ畑にされていた様子がわかる。自邸が全焼したあと、5代目・太田清蔵は二度と下落合にはもどらず、旧・相馬邸の谷戸や弁天池を含む広大な庭は、1969年(昭和44)におとめ山公園として整備されるまで、下落合の「秘境」(竹田助雄Click!)として存在しつづけた。

◆写真上:御留山の冬枯れた谷戸を、北側の尾根筋から見下ろしたところ。
◆写真中上:上から順に、新宿区に保存されている1940年(昭和15)10月1日に淀橋区へ申請された御留山の「指定申請建築線図」。() 相馬孟胤が死去した1936年(昭和11)撮影の相馬邸と御留山(中上)と、1944年(昭和19)12月13日にB29偵察機から撮影された御留山。(中下) 1941年(昭和16)にスタートしたとみられる宅地開発が終わり、各区画には家々が建設されている様子が見てとれる。第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に米軍が撮影した御留山。() 住宅の数が、いくらか増えているように見える。
◆写真中下は、第2次山手空襲直前の1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機から撮影された御留山。は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された御留山。いまだ住宅の数は少なく、空いた敷地は畑に活用されている様子が見える。は、1915年(大正4)の竣工直後に撮影されたとみられる相馬邸南側の「居間」(右手)で、『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。
◆写真下は、丘上から弁天池へと下る広大な芝庭の現状。は、谷戸の谷底にある湧水池あたりを北側の斜面から見下ろす。は、おとめ山公園の造成計画と進捗を伝える1967年(昭和42)10月26日発刊の「落合新聞」Click!


文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(3)

$
0
0

67号型住宅外観イメージ.jpg
 昭和初期、落合地域に建設された住宅の3軒めは、建築家・輪湖文一郎が設計した上落合470番地の邸だ。上落合470番地という住所で、すぐに思い出すのが1923年(大正12)の関東大震災Click!大蔵省の庁舎Click!が焼けたとき、自宅の居間や食堂を“開放”して新たな帝国議会議事堂Click!設計チームの業務を継承した、建築家・吉武東里Click!の大きな自邸Click!だ。
 また、同じ上落合470番地には東京朝日新聞社の鈴木文四郎(鈴木文史郎)Click!が住んでおり、その東側には近所から“アカの家”と呼ばれた神近市子Click!の自宅(上落合469番地)があった。1929年(昭和4)に東京朝日新聞社から出版された『朝日住宅図案集』収録の朝日住宅67号型と名づけられた家の平面図と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」収録の家々とを比較してみるが、同邸と思われる住宅を発見できない。設計図を見ると、北西寄りに門と玄関が設置されいるが、それに該当する家が3階建ての鈴木文四郎邸のみしか見あたらないのだ。ひょっとすると、同邸は東京朝日新聞社の設計コンペ用図面だけで、建設されていないのかもしれない。
 67号型と名づけられた住宅は2階建てだが、1938年(昭和13)現在で確認できる上落合470番地に該当する住宅は6棟。そのうち、北西側の道路に面して門と玄関が接しているのは鈴木邸のみで、ほかの5軒は南か北に門と玄関があり、最後の1軒は北西側に門があるものの、旗竿敷地で母家が10m以上も路地の奥にひっこんでる住宅なので、同書に掲載された図面やイラストと一致しない。北西側に門と玄関を設置するためには、北側から斜めにカーブして南へと下る道沿いに敷地がなければならず、同邸は「火保図」が作成される1938年(昭和13)までに解体されてしまった……ととらえることもできる。
 『朝日住宅図案集』Click!が出版された当時、経済は世界大恐慌のまっ最中であり、たとえば近衛町の小林盈一邸Click!を例にとれば、同邸の竣工から解体までわずか5年間しか存続していない。同様の経緯が、上落合の67号型住宅でもあったかもしれず、昭和に入ってすぐに竣工した同邸が、10年前後で解体されている可能性を否定できない。当時は、戸建て住宅を購入して住むという概念よりも、既存の住宅が建っていれば新旧の別なく解体して、自分好みの家を建てるという考え方のほうが主流だった。「火保図」の中で、同邸の敷地に見あう下落合470番地の位置は鈴木文四郎邸の南隣りであり、吉武東里Click!の自宅接道をはさんだ北隣り、つまり斜めにカーブして南へ下る道路に面して北西側に門や玄関を設置できる角地ということになるだろう。
 この邸の、道路を挟んだ北西隣りが上落合670番地の古川ロッパ邸Click!、その北側(上落合444番地界隈)には麹町へ帰るまで一時期住んでいたとみられる、大蔵省営繕課職員で建築家の大熊喜邦邸Click!、上落合470番地東側の同区画内である649番地には神近市子邸、その隣りの上落合467番地には「古代ハス」あるいは「大賀ハス」の栽培で有名な植物学者・大賀一郎邸、そして南には大熊喜邦とともに現在の国会議事堂を設計した吉武東里邸……というような住環境だ。
 『朝日住宅図案集』の邸は、ちょうど南へカーブする道路と東へ折れる路地の角地にあったとみられ、南側が吉武邸の北庭で開けていて住みやすそうな敷地だ。52.5坪の敷地に、建物面積23.916坪の2階建て住宅が設計された。この家の仕様にも、大震災の教訓があちこちに取り入れられている。土台はコンクリート打ちで、基礎や柱材には檜葉をはじめ、米松やラワン(洋室)、米栂(和室)などが用いられた和洋折衷の造りだ。ただし、和室は2階の居間兼寝室(約6畳)と女中室(3畳)の2部屋だけで、ほかの部屋はすべて洋室だった。柱や筋違の接合部には、耐震性を高める金具が多用されている。
 また、タイルが導入され玄関や台所、浴室、便所が腰まわりまで各色のタイルが貼られて、テラスとポーチにはレンガが敷かれている。窓枠とシャッターには米杉が用いられ、上から各色のペンキが塗られたが、鎧戸の外には亜鉛引き鉄板張りが施されている。外壁は、鉄網コンクリートの上にクリーム色のモルタル仕上げで耐震・耐火性を高め、室内は洋室・和室ともに白の漆喰仕上げだった。
上落合470番地1938.jpg
67号型住宅平面図.jpg
 同邸の特長を、『朝日住宅図案集』から引用してみよう。
  
 【構造上の特長】震災-プランに不必要なる凸凹を少くしてプラン全体を耐震的設計となしたり、基礎及建物腰廻りは鉄筋コンクリートとなし、土台及び柱との繋結を充分になし、柱及梁には筋違ひを厳重に使用せり、屋根は耐震上最も軽き材用としてスレートを使用せり/火災-外部壁は鉄網コンクリート色モルタル塗仕上げ準耐火構造とし、軒廻り木部は金属板にて包み、窓は金属板張りのシヤツターを付したり/盗難-窓廻りは堅固なるシヤツターを付し然らざるところは(台所等)鉄格子付又は(玄関等)厚板グラスを使用せり/【間取上の特長】二重生活の煩を可成少くする為めに椅子式を採用し、寝室及女中室のみを畳敷となしたり、浴室、便所は衛生上タイル張とし、便所汲取りは大正式を採用せり、台所は保健上よりしても重大なる使命あるを以つて充分意を用ひ、方位、面積、設備の上に最大の犠牲を払ひたり、子供室は学校通学程度の子供一人と仮定して設計せり/【材料上の特長】構造に必要なる程度に於て堅牢を旨とし、体裁は次となしたり、しかし外観は住宅として単純且つ軽快を旨とし、色彩上の配合を注意せり、木材は予算上米松材を主とし、日本間は米栂となしたり
  
 この中でわからないのは、「便所汲取りは大正式を採用」というところだ。当時、東京で水洗トイレが導入されていたのは、下水道が敷設された市街地だけで、郊外の郡部ではいまだ屋根上に臭突Click!が飛び出た、汲み取り式便所が一般的だった。「大正式」とは、室内のトイレは水洗式だが、流された排泄物が敷地内の別槽へとたまる汲み取り槽が設置された方式だろうか。この方式だと、水洗トイレの便利さを実現できると同時に、屋内に悪臭が漂う心配がなくなる。
 同邸は、当時の典型的な和洋折衷住宅だが、すでに明治期から大正期にかけての“和洋折衷”とは趣が大きく異なっている。目白文化村Click!近衛町Click!などに見られる住宅では、建物の門や玄関近くに位置する応接室や客間、あるいは居間や書斎(訪問客の目に触れそうな部屋)が外観を含めて洋風で、他の部屋(家族のプライベート空間)を日本間とし、プライベート部分の建物外観も和館の意匠をしている例が多い。つまり、明治期からつづく洋館部と和館部の関係が、より密接に接合した和洋折衷の意匠をしていたが、『朝日住宅図案集』に登場する昭和期の和洋折衷住宅は、すでに和洋が混然一体となっていて、住宅の外観さえも和館だか洋館だか明確に区別ができないような姿に変貌している。
67号型住宅跡.jpg
67号型住宅側面図.jpg
67号型住宅断面図.jpg
 それだけ人々の生活が、無理なく和洋のスタイルを織りまぜて、毎日を自然にすごせるようになったのだろう。現代の住宅も、基本的にこのような考え方の延長線上にあると思われるが、もはや住宅メーカーがデザインするいま風のモデルハウスを、日本家屋と対比して「西洋館」Click!などと呼ぶ方はほとんどいないだろう。それらは80年後の今日、すでになんら不自然さを感じない「日本住宅」となってしまい、昔ながらの白壁に黒瓦を載せている和館のほうが、むしろ街中では希少で目立つ存在となっている。
 当時の「和洋折衷」の考え方について、上落合470番地に住んでいた東京朝日新聞社の鈴木文四郎は、同書の「和洋折衷に就いて」で次のように書いている。
  
 ところで和洋折衷でありますが、現在の日本人―殊に都会に住む人々の―生活そのものが和洋折衷であるのですから、住宅もさうなるのは当然であります。学校や官庁、会社等では皆椅子を用ゐ、普通又誰でも勤務先きへは洋服で出かける。そして家へ帰へれば和服を着ずには居られない。これは皆日本人の生活なつて了つてゐます。この可否を論じたところで初(ママ)まらないのみならず、私はこれで結構だと思つてゐます。(中略)そこで私は四五年前に四十余坪ほどの小住宅を建てた時に、書斎と応接間と食堂とを西洋式に詩、後の大小五つの室は日本式にしましたが、今でもこれで満足してゐます。人によつて趣味や習慣が違ひますから一概には無論いへませんが、一般の日本人のサラリーメン(ママ)階級には、和式六七分に洋式三四分位ひの折衷が適してゐるのではないでせうか。この書の図案にもそれが甚だ多いやうですが、これは現代日本人の実際的の要求であり、これを巧みに調和して行くとろ(ママ)に日本の新住宅の様式が発見されるのだらうと思ひます。
  
 現在では、帰宅後に和服に着替えることはまずないし、「和式六七分」どころか和室は「一二分」ほどではないだろうか。うちも、母親の寝室として設計した6畳間がひとつあるだけで、ほかの部屋はすべてフローリング張りの洋室にしている。
67号型住宅台所玄関詳細図.jpg
上落合470敷地.jpg
上落合470番地周辺住宅.JPG
 さて、鈴木文四郎邸の東側に住んでいた植物学者の大賀一郎だが、1951年(昭和26)に東京大学の検見川厚生農場(千葉市)で縄文時代の「落合遺跡」が発掘された際、発掘チームのメンバーが地中6mよりハスの実を発見して、のち開花させることに成功している。そして、このピンク色をした花は「古代ハス」あるいは「大賀ハス」と呼ばれるようになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:西側に接した道路から眺めた、朝日住宅67号型の耐震・防火住宅。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合470番地界隈。は、同邸1階・2階の平面図で上方向が北北東にあたる。
◆写真中下は、67号型邸が建っていたあたりの現状。同邸は向かって右手(北側)にあり、左手(南側)は吉武東里邸の門があった位置。は、同邸の側面図。は、同邸の縦横断面図で南側には東南東向きのテラスが設置されていた。
◆写真下は、台所(左)と玄関(右)の詳細図。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸。「火保図」の邸とは異なる南北に伸びた屋根の形状をしているので、67号型邸が解体されたのは1936~38年(昭和11~13)の2年間のどこかだったと想定できそうだ。ただし以前にも書いたが、そもそも朝日住宅コンペ用の図面だけが存在し、実際には建設されなかった可能性もある。は、上落合470番地に残る大谷石の縁石と板塀。

ソビエト政権への反乱を禁じる特高。

$
0
0

秋山清宅跡.JPG
 『詩戦行』を通じて、劇作家であり小説家でもある飯田豊二とかかわりができた秋山清Click!は、1930年(昭和5)の秋ごろから演劇の世界へと踏みこんでいる。飯田豊二が、アプトン・シンクレア原作の『ボストン』を築地小劇場で上演していたころだ。このころの秋山清は、東京朝日新聞社のエレベーターボーイを突然クビになり、飯田豊二の紹介で出版社に勤め出していた。
 『ボストン』を上演した解放劇場で、秋山は演劇業務の雑事全般を処理する庶務係のような仕事をしていた。演劇にはまったく興味のなかった彼が、それでも解放劇場に加わったのは少しでも仕事を増やして、生活を安定させるためだったのだろう。1930年(昭和5)の暮れには蓄えも尽き、母親とふたり暮らしの彼はほとんど進退がきわまった。そのとき、仕事をくれたのが飯田豊二だったのだ。
 解放劇場の『ボストン』は、1931年(昭和6)2月に上演されたが、秋山は飯田への義理立てからか、劇場の仕事や雑事を積極的に手伝っている。このとき、彼は渡米する直前だった晩年の竹久夢二Click!と知り合って交流し、のちに著すことになる評論「夢二」シリーズの素地を形成している。秋山清と竹久夢二では、どこか住む世界がまったくちがうように感じるのだが、彼は明治末の大逆事件を出発点とし漂泊する抒情画家のどこかに、アナーキズムの匂いを嗅ぎとったものだろうか。
 築地小劇場での『ボストン』の成功をうけ、解放劇場は革命後ソ連のクロンシュタットで起きた水兵たちの“反乱”をテーマに、次の上演企画を立てはじめた。解放劇場は、牛込区の区役所前にあった元・寄席の建物を借りて活動している。新たな演目の「クロンスタット」は、飯田豊二によって脚本の前半部がすでにできており、本読み稽古がスタートしていた。ところが、かんじんの飯田が次作の稽古と上演準備中に、突然、解放劇場を辞めてしまった。この飯田の辞任について、秋山は「身を引いた」としか書いていないが、おそらく表現路線をめぐる劇団の内部対立ではなかっただろうか。庶務係としての秋山には、どうしようもない経緯だったのだろう。
 支柱を失った解放劇場は動揺したが、次の柱になるのは必然的に劇団の経営、会計、庶務などをこなしていた秋山になりそうだった。演劇に興味はなく、脚本など書いたこともない彼が、周囲から頼りにされるようになっていた。いや、おそらく周囲から盛んにヨイショされたので、秋山自身も徐々にやる気になったのだろう。彼は、飯田豊二が途中で放棄した脚本「クロンスタット」の後半を、A.ベルクマン『クロンスタットの叛逆』などを参照しながら四苦八苦して書きあげ、タイトルを『クロンスタットの敗北』とつけた。
牛込区役所1930.jpg
牛込区役所1936.jpg
 ロシア革命下におけるクロンシュタットの“反乱”は、政治の独裁や市民への統制、表現規制を強めるボルシェビキに対し、“民主化”などを求めて20,000人近い水兵たちが蜂起した事件だが、劇団内から「敗北」と名づけることに異論が出たようだ。だが、秋山は敗北を認めるリアリズムこそ、現状における重要な課題なのだといって譲らず、劇団員たちは秋山にも辞められては困ると考えたのか、最終的に上演タイトルは『クロンスタットの敗北』と決定した。
 前回上演の『ボストン』でも、特高Click!の検閲係に脚本をさんざん削除され、次々に台詞の変更を要求された経緯を見ているので、秋山清は脚本『クロンスタットの敗北』を早めに牛込神楽坂警察署の特高課へ提出したようだ。彼は、ほとんど削除や変更要求なしに同脚本が検閲を通り、上演許可の通達がすぐに下りると思っていた。ところが、待てど暮らせど上演許可が下りない。予定の舞台は、1931年(昭和6)6月の予定であり、4月になっても特高の検閲係からはなんの連絡もなかった。
 ようやく特高から呼び出しがあり、牛込神楽坂警察署に大急ぎで駆けつけると、秋山にとっては意外なことに「上演禁止」がいいわたされた。彼の前に投げだされた脚本の表紙には、大きな「禁止」の赤いスタンプが押されている。禁止の理由を聞いて、秋山は愕然とした。ソビエト革命政府に反抗し蜂起した、クロンシュタットの兵士たち自体がケシカランといわれたのだ。以下、1986年(昭和61)に筑摩書房から出版された、秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』より引用してみよう。
秋山清「昼夜なく」1986.jpg 秋山清(20代).jpg
クロンシュタットの反乱.jpg
  
 そして係りはいく分にやにやした調子で私に質問してきた。
 「上演できると思ったのか」
 「日本政府の嫌いな革命ロシアの政府に反抗するのだから、文句はあるまいと思ったんだ」というと、彼はゆっくりと首を振りながらいった。
 「そうではないんだ。赤い政府であろうと、そうでない政府であろうと、国家や政府に反抗することは許せるものではない。だからこの脚本は、科白などを消したり、書きかえたくらいで、どうなるというものではないんだ」
 私は脳天を木槌で真向から叩きつけられたような気分がして、居たたまれぬほどに恥ずかしかった。まことに検閲の言う通りだ。国家となればAもBも同じものだ。国民民衆を支配することにおいては、その権力は一つのものだ。ロシアもアメリカも中国も日本も、イギリスも、それぞれに国体は異なって見えても、国家対民衆の関係は変るものではないということを、この時私ははっきりと腑に落ちた。
  
 戦前・戦中の特高警察というと、社会主義や共産主義、サンディカリズム、無政府主義、あるいは北一輝Click!陸軍皇道派Click!の原理主義的社会主義、そして太平洋戦争が近づくころには民主主義や自由主義、国家神道(戦後用語)以外の教義、皇国史観Click!以外の史学などの思想や表現、学問、宗教を取り締まったのだと記述されることが多い。
 確かに、多くの特高はそのような意識(対峙的な思想・信条)を持って職務を遂行していたのだろう。だが、牛込神楽坂警察署の特高検閲係のように、提示された思想自体が問題なのではなく、国家や政府に反抗・叛逆するという行為自体や表現が、すべて問題なのだとする人間もいたということだ。
 「そんなこと、官僚や警察官ならあたりまえじゃないか」と思う方がいるとすれば、その「あたりまえ」意識こそが課題なのだと思う。このような人間は、幕末の明治維新下で江戸幕府内にいても、革命ロシア政権の治安機関にいても、フランス革命の王党派内にいても、またナチス政権下の警察機構に勤務していても、まったく同様の仕事を平然と遂行し、機械的で没主体的(=無思想的)な“弾圧ロボット”と化すだろうからだ。
牛込神楽坂警察署1930.jpg
牛込神楽坂警察署1936.jpg
 日本では、当の特高警察を抱えた内務省警視庁が、1945年(昭和20)の敗戦直前に大日本帝国を支える警察から、占領軍(G2-CICClick!)を支える米軍の「警察」へと脱皮するために、臆面もなく180度の“転進”をしている。以下、同年に発行された『警視庁事務年鑑』から引用してみよう。
  
 急迫せる事態に対処するため、政府においては、警察力の拡充強化を決定、わが警視庁も、首都の特殊性から、本庁に警備本部を設置し、防空課、情報課及び特高各課を廃止し、組織の整備を行なうとともに、連合軍の都内進駐に伴い新たに渉外課を設け、各署に通訳及び通弁巡査を配置する等、戦時態勢から平時態勢への機構改革を断行、万全の態勢を整えた。
  
 これが、つい昨日まで「鬼畜米英」「アメリカ人をぶち殺せ!」Click!と叫んでいた組織(人間)が書く文章だろうか? まるで敗戦など他人事で、ただ時代に合わせて「平時態勢」(!)の組織改革をしただけ……とでもいいたげな表現だ。そこでは、特高警察などまるで「なかったこと」「不要だった部局」であるかのように廃止され、いつの間にか米軍への“営業部”までこしらえ上げている。特高警察によって虐殺された、1,000名を超える人々への責任は、いったいどこへいってしまったのだろうか?
 事実、秋山清が書く「革命ロシアの政府」はその後、スターリニズム下でこのような「思考しない」官僚テクノクラート・治安機関の人間を大量かつ組織的に排出したことで、約70年間にわたり苦しめられることになった。そして、いまも同様の苦しみに喘いでいる国々がある。ある思想を備えた人間同士なら、事実にもとづく議論や検討を通じて合意点を探ったり説得することは可能だが、相手が非人間的な、没主体的な弾圧・管理“マシン”であれば、そのような行為は絶望的でまったく無意味だからだ。

◆写真上:下落合4丁目1379番地の、第一文化村Click!内にあった秋山清邸跡。
◆写真中上は、1930年(昭和5)に撮影された牛込区箪笥町15~17番地にあった牛込区役所。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる牛込区役所界隈。
◆写真中下上左は、1986年(昭和61)出版の秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』(筑摩書房)。上右は、本記事と同じころ20代の秋山清。は、1921年(大正10)に撮影された反政府集会を開くクロンシュタットの水兵たち。
◆写真下は、牛込橋(牛込見附跡)西詰めの神楽河岸にあった牛込神楽坂警察署。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる牛込神楽坂警察署界隈。

街角や風景を描く佐多稲子の表現力。

$
0
0

中村商店跡.JPG
 佐多稲子Click!の文章を読んでいると、その街の様子の描き方や地形描写、風情や自然の写し方に舌を巻くことが何度もある。同じく、地形や街の描写で印象に残る作家に大岡昇平Click!がいるけれど、大岡が少しマニアックに古い地勢や地質・地層まで掘り下げて描くため(ときに新生代までさかのぼることがある)、現状の日常に拡がる風情と土地の様子、そしてなによりも書かれる物語自体から若干の乖離感が生まれるのに対し、佐多の文章は非常に的確かつ「ちょうどいい」表現なのだ。それでいて、地域の描き方に不足を感じさせない、類まれな描写力をもった作家だと思う。
 旧・神田上水(1966年より神田川)をはさみ、下落合とは対岸にあたる戸塚町(現・高田馬場)側に拡がる、北向きの河岸段丘斜面を描いた文章を、1955年(昭和30)に筑摩書房から出版された『現代日本文学全集』第39巻所収の、佐多稲子『私の東京地図』から引用してみよう。ちなみに、文中で「吉之助」と書かれているのは、治安維持法違反で服役していた豊多摩刑務所Click!から出獄したばかりの、夫の窪川鶴次郎Click!のことだ。
  
 吉之助が刑務所から出て来ると間もなく私たちは、小学校上の崖ぎはの家から、小滝橋よりに移転してゐた。やつぱり大通りの北側で通りからちよつと入つた路地の奥であつた。この辺りは、小滝橋から戸塚二丁目のロータリー近くまで、神田川の流れる落合の窪地へ向つて横に長く丘をなしてゐる地形なので、そのまん中を一本広い道路が通つてしまふと、両側とも奥ゆきのない住宅地であつたが、暫くここに住んでゐるうちに、この土地の古い姿が、その後に建つた小さい借家の間に自づと見えてくるのであつた。その幹の周囲は二人で抱へる程もある大欅が屋敷の二方を取り巻いてゐるのは、この辺りの旧家であつた。同じ苗字の酒屋が大欅の邸からすぐの近さで大通りにあつたのも、他の酒屋とはちがつてどつしりとした家造りであつた。そのとなりの煙草屋もやつぱり同じ苗字で家作も持つてゐるし、その向ひの八百屋も同じ身内だといふふうである。
  
 佐多稲子が、「小学校上の崖ぎはの家」と書いているのが、戸塚第三小学校の坂上にあたる戸塚4丁目593番地(上戸塚593番地)にあった借家Click!のことだ。その次に、住所が不明だが「大通りの北側」、つまり同じ早稲田通りの北側である戸塚4丁目(現・高田馬場4丁目)に引きつづき住んでいることになる。
 この文章を読んだとたん、おそらく現・高田馬場4丁目の同地域に古くからお住まいの方なら、すぐに当時の情景が鮮やかによみがえってくるだろう。写真やイラストでしか知らないわたしでさえ、現在の街並みや地勢と重ね合わせてリアルに想像することができる。大ケヤキのある屋敷は、このあたり一帯の地主である戸塚4丁目589番地の中村兼次郎邸であり、酒屋と煙草屋は戸塚4丁目767番地の「升本酒店(中村商店)」と「中村煙草店」だ。向かいの青物屋は、中村家の親戚とみられる戸塚4丁目591番地の「森田屋青果店」のことだ。
中村商店1938頃.jpg
森田屋青果店1938頃.jpg
森田青果店跡.JPG
 ムダな描写や、不要な記述がひとつも存在しない、情景描写のお手本のような文章表現だろう。前後のストーリーに重ね合わせると、ジグソーパズルのピースようにピタリとこの位置にあてはまる。ふと、1930年代の戸塚地域を描いた濱田煕Click!の挿画で、佐多稲子の『私の東京地図』を読んでみたい……という妄想がふくらむ。おそらく、永井荷風Click!木村荘八Click!のコンビネーションのような、出版史に残る本ができあがるのではないだろうか。
 いや、戸塚地域に限らず『私の東京地図』で描かれる街々(彼女が若いころに住んでいた下町Click!方面が多いのだが)も、生きいきとした街並みや人々の様子が記録されている。おそらく、とてつもない努力を重ねて、彼女はこのような作文技術を獲得しているのだろう。わたしも、足もとにも及ばないながら見習いたい表現技術だ。
 このころの佐多稲子は、毎日「転向」という言葉と向き合っていた。思想犯として豊多摩刑務所にいた夫が出獄できたのは、「転向」して思想を棄てたからではないかという疑念を抱えながら、面と向かって夫には訊けずに日々をすごしている。上落合に住む中野重治Click!の妹・中野鈴子Click!と小滝橋を歩きながら、「転向」について考えつづける。再び、『私の東京地図』から引用してみよう。
  
 私はあるとき、吉之助(鶴次郎)と同じに検挙されて前後して出獄してきた友達の妹と二人で小滝橋のきはを歩いてゐた。/彼女は兄のことを人に指摘されたのが辛い、と言つて、悲しい顔にうつむいて、口ごもりがちに言つた。/「兄は転向したのでせうか。だけど、刑務所を出るのにそれがみんな必要といふのなら、牧瀬(窪川)さんも、やつぱり転向をなさつたのですわね。」と、吉之助のことを言つた。/「転向?」/私は視線のおき場に迷ふやうにそれを聞いた。小林に供へた花を分けて差入れた私たちの気持は失はれてゐるわけではない。が、出獄してきた人にそれをただすことを私たちは忘れてゐる、といふよりは、疑ひを持たないでゐたのである。夫婦の間では、それは主観で語られる。また近しい周囲でもその主観を認め合つた。が、しかし、政府の宣伝に使はれたこの言葉は、お互ひ同士の胸に、しみとなつて広がつてゆき、逡巡させた。(カッコ内引用者註)
  
 「小林に供へられた花」とは、小林多喜二Click!の葬儀で供えられた花を分割して花束にし、豊多摩刑務所に「小林セキ」の名義で差し入れた、1933年(昭和8)2月下旬の出来事をさす。壺井栄Click!が、服役中の壺井繁治Click!へとどけたのも、佐多稲子らと相談して同時に行われていたことがわかる。
シチズン時計工場1938頃.jpg
シチズンプラザ.JPG
戸塚東宝1938頃.jpg
 早く出獄して密かに非合法活動を継続したい人間も、合法的な抵抗をつづけるために“ウソも方便”で今後は政治活動をしないという文章に署名した人間も、またほんとうに従来の思想を棄てて釈放された人間も、ひとからげに「思想を棄てた転向者」として特高Click!は巷間へ宣伝しつづけていた。これにより、思想の中身を問わず政府へ反対の意思表示をつづける人々の間に疑心暗鬼を生じさせ、分裂・分断をはかるのがねらいだった。そして、1935年(昭和10)をすぎるころから、まるで「転向者」の本心を探る“踏み絵”のように、文章をなりわいとする人々は「従軍作家」として、前線へ次々と送られていった。
 この時期、佐多稲子は宮本百合子Click!とともに、同じく治安維持法違反で特高に逮捕・起訴されており、小さな子どもがいるので保釈されてはいたが、公判を抱えて裁判所へ通う身だった。同時に、夫の窪川鶴次郎が「仕事部屋」を借りて家を空けがちになり、浮気をしている様子がうかがわれた。佐多稲子が生涯において、もっとも精神的に不安定な時期だったのだろう。裁判所へ出かけると、支援のためにきてくれたのは柳瀬正夢Click!の「にこやかな顔」ひとりのみで、かんじんの夫は連れ添うどころか、公判の間際にあたふたと駆けこんでくるようなありさまだった。
 日米戦争がはじまった1941年(昭和16)12月8日以降、佐多稲子は上落合の友人たちが遊びにくれば深夜まで話しこんだ。
  
 「今に、米を喰はずに、ゴムを喰へ、と言ふだらう。」/「伊勢神宮に戦勝祈願をするやうな軍人だから、この戦争が起せたんだね。」/「今に、やられるから。」/「声が高くない?」/「群長などが、立聞きをするさうだからね。」/隣組はきびしくなつて、それに強制貯金などで私の組の長屋はいつも物議を起した。長屋の人々から投げられる目は、私の神経にこたへた。さういふ前後に、大通りにあつた時計会社は、どんどん増築して、この辺にたつた一つのコンクリートの大工場になつた。五銭コーヒーの店も通りに何軒も出来て、少年労働者や、若い娘たちの休息の場所になつた。戸塚キネマも改修して戸塚東宝に変つた。
  
シチズン時計工場1936.jpg
シチズン時計工場1948.jpg
中村兼次郎邸跡.JPG
 「大通りにあつた時計工場」は、現在でもかたちを変えて営業をつづける高田馬場4丁目のシチズンプラザのことだ。「ゴム」どころか、配給される食糧も日々乏しくなり、「神頼み」ではじめた戦争で、完膚なきまでに叩きのめされる大日本帝国の破滅・滅亡は、すぐそこまで迫っていた。その直前、佐多稲子のいる戸塚一帯は二度にわたる山手空襲Click!で壊滅するのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:戸塚4丁目767番地にあった、中村商店(升本酒店)と中村煙草店の現状。
◆写真中上は、濱田煕の記憶画による中村商店(升本酒店)と中村煙草店。以下、イラストは1995年(平成7)発行の『戸塚第三小学校周辺の歴史』より。は、戸塚4丁目591番地にあった森田青果店。は、森田青果店跡の現状。
◆写真中下は、戸塚4丁目856番地にあったシチズン時計工場(戦時中は大日本時計株式会社と改称)。は、現在もシチズンプラザとして営業をつづける同所。は、戸塚3丁目154番地にあった戸塚東宝(旧・戸塚キネマClick!)。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚4丁目界隈。は、戦後の1948年(昭和23)の焼け跡写真にみる同書。シチズン時計工場はコンクリートで焼け残り、早稲田通りの南側の一画が空襲被害をまぬがれているのが見てとれる。は、戸塚4丁目589番地にあった中村兼次郎邸跡の現状。

生涯を賭けた大賀ハスの種1粒。

$
0
0

古代ハス.jpg
 1951年(昭和26)の3月31日、そろそろあたりが黄昏の雰囲気を漂わせはじめた午後5時ごろ、千葉市の東京大学検見川厚生農場内にあった「落合遺跡」で、当時、中学3年生の西野真理子という生徒が、手のひらに1粒の種子らしいものを載せて大賀一郎Click!のもとへ見せにきた。これが、3000年前の縄文時代にまでさかのぼる、「古代ハス(大賀ハス)」発見の瞬間だった。
 「落合遺跡」の発掘には、近くの花園中学校の生徒たちや建設会社、千葉新聞社、千葉県社会教育課、そして遺跡を抱える東京大学農学部などが協力し、大がかりな調査がスタートしていた。すでに「落合遺跡」からは、縄文期の丸木舟などの遺物が出土していたが、今回の発掘調査は縄文時代の埋蔵文化財を掘り出すのが目的ではなかった。地中に埋もれた、植物の種子を発見しようという試みだった。
 発掘に許された期間は、同年の3月3日から3月31日までのわずか1ヶ月にすぎなかった。だが、関連機関や地域の全面協力にもかかわらず、発掘調査は非常に難航した。「落合遺跡」は、縄文期の丸木舟が出土するような低地にあり、しかも花見川が近く湧水が豊富な地下水脈の上にある遺跡なのだろう、雨が降るとすぐに水がたまって「池」になってしまうからだ。発掘は、常に地下水をポンプで汲み上げながら行われた。そして、「池」の底から掘り出した濡れた土を、少しずつふるいにかけながら種子を探す、気が遠くなるような作業だった。
 3月も終わりになり、「もうやめようや」という声があちこちから聞こえはじめた発掘の最終日、3月31日の日没ぎりぎりになって、西野真理子が「先生、こんなものが見つかりました」と差し出したのが、大賀一郎が必死に探し求めていた古代ハスの種子だったのだ。1粒のハスの種子を探すのに、2,000人の人々が協力し、総予算が当時のおカネでのべ50万円(現代の価値に換算すると1,500万円ほど)もかかっていた。大賀一郎は、自身の財産をほとんど使い果たして、文字どおり破産寸前だった。
 さっそく、協力してくれた当時の東大総長・南原繁Click!に報告すると、「なんぼかかった?」「知らぬ。相当、何万円だ」「いやあ、これ一つ何万円か」という会話が交わされている。下落合702番地に住んでいた南原繁は、帝大における大賀一郎の後輩であると同時に、柏木(現・北新宿1丁目)に住む内村鑑三Click!が主宰した「聖書研究会」Click!の後輩でもあった。大賀一郎の同級生には、下落合1655番地に住んだ安倍能成Click!がいる。戦前、上落合467番地に住んでいた大賀一郎は、近くの下落合に住む旧友たちと交流があったのだろう。
 「落合遺跡」の発掘調査は、ハスの種子が1粒見つかったことにより2週間延長され、つごう3粒の種子が地下6mの土中から発見されている。当初は、地層の様子や土中の温度から約2000年前の種子とされ、「大賀ハス」と名づけられた。ところが、ハスの種子と同じ場所から出土している丸木舟の破片を、米国シカゴ大学原子力研究所へ送って検査したところ、放射性同位元素C14の半減期から換算して3052年前ないしは3277年前の遺物だということが判明した。つまり、同じ地層位置から出土した種子は、約3000年前のものだということが推定された。
鎌倉鶴ヶ岡八幡宮蓮池.JPG
大賀一郎「ハスと共に六十年1999.jpg 古代ハスゆるキャラちはなちゃん.jpg
 1965年(昭和40)に、花園中学校で開催された「千葉市花園中学校における『大賀ハス』発掘記念碑完成記念講演」から、発掘直後の様子を引用してみよう。
  
 この三粒が出たときに、私は、ほんとうにはらはらと泣きました。ほんとうに金も使い、労役を使い、もうこれ以上、人間というのは手が出ないんです。(中略) そのときに、一粒出たんです。ああ、この一つ。もしもこれが世に出たらば、こいつは、世界じゅうを震動させる。ほんとうに私は神様に感謝しました。ああ、いま神様は、私に恵みをさずけてくれた。この一つの実に私の全身、全霊を捧げた。そのとき、私は、七十四でございました。ああ、この実一つ。ほんとうに私はこれに一生を捧げたんだ。しかし、この実が出たために、この千葉県検見川は、全世界にその名を知られるだろう。見てみろ。検見川は、全世界に有名になる。この一つのために、と思いました。/それから、ある人が言いました。「これ、死んでるか、生きてるかね」「生きているさ。花は赤いんだよ」「わかりますか」「わかるさ。それがわからぬで、どうする」と言ったんですが、果たして、芽が出ました。花は赤く咲きました。二年たって。今度は、咲くというと、大へんなんです。写真を写しまして、アメリカにいって『ライフ』という雑誌にのりました。全世界にこれが広がりました。
  
 大賀一郎は、内村鑑三の「聖書研究会」へ参加していたことからもうかがわれるように、歌子夫人ともども生涯を敬虔なクリスチャンとしてすごしている。歌子夫人との結婚もまた、内村鑑三が紹介してくれたことによる。発掘から1年後、翌1952年(昭和28)7月18日には3000年前の種子から赤い花が咲き、そのニュースは世界じゅうに配信された。
大賀一郎1938.jpg
大賀一郎邸19450402.jpg
 大賀一郎が、上落合467番地の屋敷から府中へ転居したのは戦災がきっかけだった。上落合の家は大きく、庭には広い池もいくつかあったので多種多様なハスを栽培できた。ところが、3000年前の大賀ハスを発見するのに私財のほとんどをなげうったため、府中の家はかなり手狭になっていた。ハスに関するさまざまな実証実験を試みるには、広い池がいくつも必要になる。そこで、近隣の家々の庭へ池を掘らせてもらい、そこに各地のハスを栽培している。1957年(昭和32)に発行された「朝の思想」9月号収録の、大賀一郎『垣根を越えたハスの新池』から引用してみよう。
  
 戦災前、東京の上落合にいたときには、もう少し屋敷も広くあったので、少しは大きな池もつくっていたし、ハスの鉢も五十個ばかりおき、そこでいろいろな実験研究をしていたが、戦災後、この府中にきてからは、庭が小さくなってしまって、しぜん、あまりわがままもいえない自分になったが、私はせめていまあるくらいの池がもう二、三ほしいと思っていた。/ところが、いよいよせっぱつまったときがきた。それは、石川県金沢の持明院にあって、大正十三年二月以来、天然記念物となっている有名な妙蓮の研究をはじめるために、どうしても、もう二、三の池がほしくなったからであるが、どうすることもできないので、いくたびかためらったすえ、ある日曜日の午後、思いきって垣根をへだてたお隣りの富田さんに、重い足をはこんだのである。
  
 上落合の大賀邸が炎上したのは、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲だったろう。空襲に罹災する直前、大賀一郎・歌子夫妻は上落合を離れて疎開している。
 府中での池の「拡張」は、隣家の「富田さん」ばかりでなく、大賀邸の向かいにあたる「向野さん」でも池を掘ってくれることになり、ハスへの陽当たりを考えて屋敷林の伐採までしてくれることになったらしい。
善福寺公園蓮池.JPG
上野不忍池蓮池.JPG
 現在、3000年前の大賀ハスは全国各地で栽培されているが、近くでは上野の不忍池や府中の郷土の森公園、立川の昭和記念公園、町田の薬師池公園、少し離れて鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮源平池、千葉の千葉公園、埼玉の行田古代蓮の里などが有名だ。上落合は1931年(昭和6)以来、大賀一郎が長く住んだ土地がらなので、どこかの池に大賀ハスが欲しいような気がする。水底がコンクリートで固められていない、ハスの栽培に適した池が、はたして上落合のどこかにあっただろうか?

◆写真上:千葉市の千葉公園に咲く、3000年前の大賀ハス(古代ハス)。
◆写真中上は、大賀ハスが栽培されている鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の源平池。下左は、1999年(平成11)に日本図書センターから出版された大賀一郎『ハスと共に六十年』。下右は、千葉市の大賀ハスにちなんだゆるキャラ「ちはなちゃん」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる大賀一郎邸。は、B29偵察機による空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された大賀邸。
◆写真下は善福寺公園のハスとコイで、は上野不忍池の蓮池。大賀ハスが栽培されているのは不忍池のほうで、毎年夏になると「観蓮会」が開かれている。

アパート「目白会館」はふたつあった?

$
0
0

目白会館跡.JPG
 これまで、第三文化村Click!の下落合1470番地に建っていた「目白会館・文化アパート」Click!については、1931年(昭和6)に同アパートへ引っ越してきた作家・矢田津世子Click!や、下落合623番地にあった自宅Click!の基礎がシロアリにやられて土台の再構築のため一時的に仮住まいをしていた洋画家・曾宮一念Click!とその家族たち、独立美術協会の洋画家・本多京Click!、落合地域を転々としていた作家・武田麟太郎Click!などとともにご紹介してきた。
 そして、もうひとり龍膽寺雄(龍胆寺雄/りゅうたんじゆう)が「目白会館」に住んでいたことを、先日のコメント欄でmoicafeさんClick!よりご教示いただいた。さっそく教えていただいた、1979年(昭和54)に昭和書院から出版されている龍膽寺雄『人生遊戯派』を参照してみた。同書の中で、「目白会館」という名称は随所に登場するが、同アパートの様子が詳しく記されているのは「私をとりまく愛情」と「高円寺時代」の2編だ。龍膽寺雄が下落合に住んだのは、「高円寺時代」によれば1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)6月ごろまでの2年間ということになる。
 すなわち、1928年(昭和3)ごろといえば、第三文化村の「目白会館・文化アパート」は竣工して間もないできたてのころだと思われ、龍膽寺雄は新築のアパートに引っ越していなければおかしなことになる。ところが、龍膽寺が借りた部屋には先住者の遺物があって、彼が入居したのはそのあとなのは文章からも明らかだ。また、彼は「目白会館」のことを民営アパートとしては、東京で「確か最初のもの」と書いている。1928年(昭和3)ごろに建設されたとみられる、第三文化村の「目白会館・文化アパート」が東京初の民営アパートだったとは考えられない。民営(個人経営)のアパートは、大正期から東京府内ですでに建設されていたはずだからだ。換言すれば、そこそこ“歴史”が感じられるアパートに龍膽寺は入居した……と解釈することもできる。
 第三文化村に建っていた目白会館・文化アパートと、龍膽寺雄が書く「目白会館」の様子が一致しないのだ。以下、『人生遊戯派』から引用してみよう。
  
 目白会館は、東京で民営のアパートとしては、確か最初のもので、かれこれ二十室はあるコンクリートの二階建てだった。共通の応接間が二階の中央にあり、その隣りの、六畳と四畳半位の控えの間つきの二間を、私は借りた。/階下に広い食堂があり、別に、共同浴室や玉突き室、麻雀室が付属し、二階の屋上は庭園風になっていた。部屋が満員になったので、二階の中央の共通の応接室を、そのまま洋間として、その頃目白の川村女学院で絵の先生をしていた洋画家の佐藤文雄が、そこに住みついてしまっていた。私の処女出版の、改造社版『アパアトの女たちと僕と』に、美しい装釘をしてくれた。/この目白会館の管理人がも下妻の旧藩主の血筋にあたる井上某だったのは、名乗りあってそのことを知って驚いた。一万石の殿様の裔だから、子爵のワケだったが、窮乏し零落して、下館藩主の石川のように、華族の礼遇を停止されていた。先代のほうの、柳原家から妻を迎えて、一緒に目白会館の粗末な管理人室に所帯を持って住んでいたが、こちらは、柳原二位局の家系だから、天皇家の側近のはずで、有名な柳原白蓮なども、近い血筋のワケだった。いかにもそういう家柄のお姫さまといった、気品のある、弱々しい感じの美しい女性だった。
  
 もし、龍膽寺雄の記憶に誤りや錯誤がないとすれば、これは第三文化村西端の下落合1470番地に建っていた、のちに矢田津世子や武田麟太郎、本多京たちが住み、また曾宮一念が仮住まいすることになる目白会館・文化アパートのことではなさそうだ。どこか、同じ下落合エリアの近くにあった別の「目白会館」のことだろう。
目白会館1941.jpg
目白会館19450402.jpg
目白会館19450517.jpg
 まず、第三文化村の目白会館は、1938年(昭和13)作成の「火災保険図」(火保図)によれば、屋根はスレート葺きで外壁が防火仕様(おそらくモルタル塗り)の木造2階建てのアパートで、鉄筋コンクリート建築ではない。また、空中写真にとらえられた目白会館を観察すると、やや鋭角に尖がった三角屋根の造りをしており、その傾斜面には2階の各部屋の窓が突きだした屋根窓(ドーマー)が並び、どう見ても屋上庭園は存在していない。さらに、貸部屋が20室(ワンルームではなく6畳+4畳半の2室構成の部屋もあった)のほか、共有部分の応接室やホール、食堂、キッチン、各種ゲーム室、浴室などを入れて想定すると、第三文化村に建っていた目白会館よりも少し大きめな建物を連想してしまう。下落合1470番地の目白会館と、龍膽寺雄が住んでいた「目白会館」には、少なからぬ齟齬をおぼえてしまうのだ。
 つづけて、『人生遊戯派』の「私をとりまく愛情」から引用してみよう。
  
 目白会館で最初に書いた作品が、『アパアトの女たちと僕と』だった。これらはもちろんフィクションだが、慶応(ママ)の医学部の学生が主人公で、その学生々活は、経験した通りのことを書いた。友人の藤井真琴などがモデルになった。(中略) 目白会館は、下落合にあったので、そこから目白通りを抜けて山手線の上を通り、学習院や目白女子大の前を通って目白台の坂を降りると、そこに佐藤春夫の家があるので、一週間に一遍は、佐藤春夫の家を訪ねた。/佐藤春夫は『放浪時代』のような作品を十篇書いたら、君は文豪だョ、と褒めてくれたが、『アパアトの女たちと僕と』のほうは、谷崎潤一郎ほどは買ってくれなかった。
  
 これを読むと、どう見ても「目白会館」は下落合の町内に建っていなければならず、目白通りを東へと歩き「目白台の坂」へ、すなわち広大な旧・山県有朋邸(元・藤田邸→現・椿山荘Click!)前から新たに造成されて乗合自動車(バス)Click!の走る通りとなっていた、幅の広い新・目白坂へと抜ける様子が描かれている。佐藤春夫Click!の家は、下落合側から向かって新・目白坂を左へ折れた突き当たり、小石川区関口町207番地(現・文京区関口3丁目)に建っていたのは、こちらでも何度かご紹介Click!済みだ。
目白会館1935.jpg
目白会館1938.jpg
龍胆寺雄+正子.jpg
 龍膽寺雄が、「目白会館」に住んでいたときに執筆した『アパアトの女たちと僕と』は、残念ながら「目白会館」と思われるアパートの描写がなく、新宿三越のビルがすぐ近くに見とおせる、新宿通りの裏手に建っていたアパートが舞台となっている。
 さて、コンクリート造りで屋上庭園のある2階建てのアパートで、2階の中央部分にある応接間には洋画家の佐藤文雄が住みつき、目白通りもほど近い龍膽寺雄が住んでいた「目白会館」は、はたして下落合のどこにあったのだろうか? もう少し同書の、今度は「高円寺時代」から引用してみよう。
  
 目白会館では、共通の応接間は、止宿人が多過ぎてはみ出た絵描きの佐藤文雄が住みついて占領したので、なくなってしまったが、その他、玉突き場や麻雀荘があり、食堂も浴室もいっしょなので、よく気が合って、西瓜が盛んに出廻る頃には、西瓜を喰う会とか、八月の十五夜には、月見の会というようなものを、屋上庭園で催したりして、色々楽しい行事があって、管理人夫妻も、アパートの使用人たちといっしょにそれに加わった。
  
 ただし、龍膽寺雄の記憶が複数のアパートメントの思い出と錯綜しており、またコンクリート造りと見えていた意匠が、実はラス貼りモルタル塗りの外壁だったりすると、屋上庭園の記憶を除けば下落合1470番地に建っていた目白会館・文化アパートへ、限りなく近づくことになる。
アパアトの女たちと僕と1930.jpg 人生遊戯派1979.jpg
西神田アパート1.jpg
西神田アパート2.jpg
 だが、こちらでも以前にご紹介した、目白駅近くの女性が集う文化アパートの写真Click!にも見られるとおり、当時は「目白」を冠した同様の文化アパートが、各大学も近い下落合界隈にはいくつか存在していたと思われる。だから、コンクリート造り(セメント混じりのラス貼りモルタル造りのこと?)で2階建ての、おそらく大正後半に建てられた東京初の民間アパート「目白会館」が存在していても、なんら不自然ではないのだが……。

◆写真上:下落合1470番地に建っていた、目白会館・文化アパート跡の現状。
◆写真中上は、日米開戦直前の1941年(昭和16)の斜めフカンから取られた空中写真にみる目白会館。三角の屋根に、いくつかの屋根窓(ドーマー)が確認できる。は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機から撮影された同館。は、第2次山手空襲直前の同年5月17日に撮影された同館。目白会館あたりを境に、いまだ第三文化村の家々が焼け残っているのが確認できる。
◆写真中下は、1935年(昭和10)作成の「淀橋区詳細図」に採取された目白会館。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる目白会館。同図の凡例によれば、「スレート葺き屋根で防火対策済みの木造住宅」ということになる。は、昭和初期に撮影された龍膽寺雄と正子(魔子)夫人。
◆写真下上左は、1930年(昭和5)に下落合で書かれた龍膽寺雄『アパアトの女たちと僕と』(改造社)で、装丁は「目白会館」の応接間で暮らしていた洋画家・佐藤文雄。上右は、1979年(昭和54)出版の龍膽寺雄『人生遊戯派』(昭和書院)。は、昭和初期に神田区へ建設された民間アパート「西神田アパート」。鉄筋コンクリート建築のように見えるが、防火仕様のラス貼りモルタル塗装仕上げによる木造2階建てアパート。は、管理人受付から奥へと廊下がつづく玄関ホール。

立ち小便をチェックされる中村武志。

$
0
0

中村武志邸跡.jpg
 白戸三平の『忍者武芸帖』や『カムイ伝』は知っていても、中村武志の「目白三平」シリーズを知っている人は少ないだろう。わたしも古書店や「落合新聞」で彼の文章を読むまでは、まったく知らなかった。「目白三平」シリーズは、下落合1丁目527番地(現・下落合3丁目)に住んだ中村武志が書いた、国鉄に勤務する公務員(サラリーマン)を主人公とする一連の小説だ。「目白三平」は架空の人物だが、国鉄に勤めるサラリーマンという設定が中村武志のリアルな生活とまったく同じなので、読者は作品を私小説的に解釈したのだろう、彼のペンネームのように捉えられてしまったらしい。
 また、1955年(昭和30)に制作された映画『サラリーマン目白三平』(東映)などと、1960年(昭和35)の映画『サラリーマン目白三平・亭主のため息の巻』(東宝)などが次々と上映されて、よけいに中村武志=目白三平のように思われてしまったようだ。“サラリーマン小説”というと、戦後は源氏鶏太が有名だけれど、戦前は1926年(大正15)に目白文化村Click!を舞台にしたとみられる、『文化村の喜劇』Click!を残した佐々木邦Click!が挙げられるだろうか。もっとも、わたしは源氏鶏太の作品をほとんど読んだことがない。
 中村武志が住んでいた下落合1丁目527番地は、目白通りの北側に張り出した下落合エリアの一画であり、目白聖公会Click!の東隣りにあたる敷地だ。北側の道路から、南へ入る路地の突き当たり右手が中村邸だった。彼がいつごろから下落合に住んでいたのかは不明だが、1963年(昭和38)に住宅協会が発行した「東京都全住宅案内帳」には、同地番に「中村」宅を見つけることができる。少なくとも国鉄へ勤務しはじめた、1926年(大正15)以前の学生時代から東京にいたと思われ、昭和初期には内田百閒Click!に師事したことでも知られている。ちなみに百閒の死後は、彼が著作権管理者を務めていた。
 1963年(昭和38)1月27日発行の「落合新聞」Click!に、中村武志の随筆『架空の人物』が掲載されている。近くの店へ、自宅から電話で商品を注文し「中村ですが…」と名乗っても、なかなかどこの「中村」だか理解されない場面が登場する。店の主人が、店員に「中村」邸の場所を確認している場面だ。以下、『架空の人物』から引用してみよう。
  
 (前略)ご主人が大声でそこにいる店の人にたずねているのが、受話器を通して聞えて来た。/「K病院の近くの中村さんなら目白三平さんですよ。よく知ってます」店の人の返事もかすかに聞えた。/「なんだ、そうか。目白三平さんなのか。それならそうとはじめから目白さんだと名乗ってくれればよかったんだ」/ご主人はそう呟いてから、「はい、分りました。目白三平さんですね。すぐお届けいたします」と言った。/“いや、ご主人よ。私は目白三平ではありませんよ。目白三平は、私のささやかな文章の中に登場する架空の人物ですからね。架空の人物が、かりそめにも、お宅から物を買うわけにはいきませんからね”と呟いた。
  
中村武志邸1937.jpg
中村武志邸1963.jpg
中村武志邸空中1963.jpg
 どうやら、中村武志名で書いた小説に登場する主人公の名前が、いつの間にかペンネームのように浸透してしまっていたらしい。下落合の最寄り駅のひとつが山手線・目白駅Click!だし、目白の町名に目白通りと周囲に「目白」が多いので、よけいに憶えやすかったのだろうか。中村武志自身も、毎日通勤で利用している国鉄の最寄りの駅名から、主人公の名前を考案しているのだろう。
 中村武志は、夜の帰宅途中で立ち小便をするのが好きだったらしい。ちょっと困った趣味だが、それを近所の人に目撃されている。以下、つづけて引用してみよう。
  
 家の近くの両側が板塀になっている暗い横町で、私は時々立小便をする。なんとも恥かしい次第だが、その晩も例によってそれをしていたら、後を通った二人連れの一人が、/「あすこで立小便をしているのが目白三平だよ」/と、相手にささやいているのが耳にはいった。/“これはいかん。今後はもううかつに立小便もできないぞ”と、私は自戒した。
  
 「架空の人物」が立ち小便をしているのだから、「私が、つまり中村武志がしているのを目撃されたわけじゃないんだからな……」と、あっさり開き直ればいいと思うのだが、そこまでは自身と小説の主人公とを割り切れなかったようだ。
 近くの中華そば屋へ入っても、「目白三平」がつきまとうことになる。注文したメニューにまで、あれこれ周囲が“批評”するのを耳にしている。ちなみに、書かれている「支那ソバ屋」とは、このエッセイと同年に作成された「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)に採取されている、目白聖公会から3軒西隣りにある「中華ソバ丸長」のことだろう。ラーメン店「丸長」は、現在も当時と変わらずに営業をつづけている。
目白三平の共稼ぎ1957新潮社.jpg 目白三平実益パリ案内1970千趣会.jpg
サラリーマン目白三平「女房の顔の巻」1960.jpg
  
 (前略)私は近所の支那ソバ屋で、四十円のラーメンを食べていた。隣りのテーブルには、三人連れの青年がいた。そこへは五目ソバが運ばれて来た。彼らは、私のほうをちらっと見てから、ひそひそ話しだした。聞くとも、聞いていると、/「目白三平は、ただのラーメンじゃないか。五目ソバくらい食べてもよさそうだね」/「いや、彼はとてもケチなんだそうだ。いつでも四十円のラーメンにきまっているんだ」/「そうか。そいつは知らなかったね。そんな男なのかね。長い間しがないサラリーマンをやっていると、段々ケチになって、少しくらい金がはいっても、なかなか使えないのだろうね」と、それぞれ三人が言った。/私は急いでラーメンを食べ終ると、慌ててそこを出た。そして、/“三人の青年諸君よ。諸君の言う通り、私はケチな男ですが、ラーメンとは無関係ですよ。とにかく、私はただのラーメンが好きなんですからね。チャシューやいろいろなものが載っているのは、もともと嫌いなんです。/立小便まで自由にさせて貰いたいなどとは申しませんが、せめてラーメンくらいはゆっくり食べさせて下さいよ。私は誰にも目をつけられずに、ひっそりと暮らしたいのです。それに、私は目白三平じゃないのです。国鉄職員の中村君と、架空の人物とを混同しないでください。(後略)”
  
 そもそも小説の主人公を考案する際、自分とまったく同じ日本国有鉄道の職員にしてしまったのが、後年までずっと悩まされることになった、大まちがいのもとだろう。せめて国鉄ではなく、民間の西武や小田急、京王ぐらいにしておけば、少しは読者の受けとめ方も変わっていたかもしれない。
 公務員と文筆業の二足のわらじをはく中村武志に、周囲の人々がみんな好意的な眼差しを向けていた……とは、いま以上に考えにくい時代だ。いつの時代でも、公務員に対する風当たりは強いが、サラリーマンとは表現しつつも運輸省から給料をもらっていた中村武志と、映画化もされた「目白三平」シリーズで得る副収入とを考え合わせると、周囲の人々があえて本名ではなく「目白三平」と呼んで半ば揶揄していたのではないか……と、ややうがった見方もしたくなる。自宅のまわりで、近所の人たちからやたら注目されているような気配にも、そのような厳しい眼差しを感じてしまうのだ。
落合新聞19630127.jpg
 最近、わたしは「落合さん」と呼ばれてビックリすることがある。「落合道人」Click!(おちあいどうじん)はサイト名であって、わたしの名前ではない。メールでも「落合様」などと書かれたものがとどくと、いちいち「ちがうんです」と訂正している。中村武志が近くの駅名をとって小説の主人公を「目白」としたように、「落合」は落合地域のことであり「道人」は散歩をする人間という意味だ。「“おちあいみちと”さんはケチだから、コーヒー1杯で2時間はねばりやがんだぜ」……などと、近所の人たちからいわれないよう気をつけたい。いわんや、立ち小便などもってのほかだ。

◆写真上:中村武志邸が建っていた、下落合1丁目527番地界隈の現状。目白聖公会の北東側には新たな住宅が密に建てられ、中村邸へと入る路地自体が消滅している。
◆写真中上は、1937年(昭和12)の「火保図」にみる下落合1丁目527番地界隈。この一帯は空襲からも焼け残り、戦後もそのままの家並みが残っていた。1963年(昭和38)の「東京都全住宅案内帳」()と、同年の空中写真()にみる中村武志邸。
◆写真中下上左は、1957年(昭和32)に出版された中村武志『目白三平の共稼ぎ』(新潮社)。上右は、1970年(昭和45)出版の同『目白三平 実益パリ案内』(千趣会)。同書の表紙には中村武志の名前がなく、「目白三平」が著者名のようになっている。は、1960年(昭和35)制作の映画『サラリーマン目白三平・女房の顔の巻』(東宝)。
◆写真下:「落合新聞」1963年(昭和38)1月27日号に掲載の中村武志『架空の人物』。

文化住宅を超える落合の次世代型住宅。(4)

$
0
0

1号型朝日住宅.jpg
 1929年(昭和4)に出版された『朝日住宅図案集』Click!は、東京朝日新聞社が実施した郊外中小住宅の設計コンペティション(同年2~4月)の入賞図案を85点収録したものだ。当初の稿でも書いたように、中には図面のままで実際には建設されずに終わった“作品”も含まれているかもしれない。賞金総額が2,300円だった同コンペには、約500作品の応募があり、選ばれた85作品の図案展覧会まで開かれている。
 この中で、上位入賞した16案を、当時開発中だった成城学園の街へ実際に建設し、同年10~11月に見学会を開催して、来訪した希望者に分譲販売している。翌1930年(昭和5)には、成城学園へ建てた上位16案の住宅を撮影し、『朝日住宅写真集』(東京朝日新聞社)として出版している。このような大規模な設計コンペティションや、実際に作品を新興住宅地に建設して分譲販売が可能になったのは、東京市民の郊外住宅に対する関心が急速に高まっていたせいだろう。
 そのベースには、関東大震災Click!により住環境に対する見直しが急務になったことと、都市部の生活環境における結核の蔓延Click!などが要因となっていることは、すでに何度か触れたとおりだ。そしてもうひとつ、生活改善運動Click!の一環として定義された大正期の「文化住宅」Click!が、いつの間にか実質的な本意を外れて流行を追いかけるだけの、ただの“オシャレ”な生活スタイルと捉えられるようになったり、ステータスや生活水準を誇示するための手段のひとつとなってしまったことにもよるのだろう。
 このような形骸化の流れを止揚し、大正期の「文化住宅」からさらに住環境を進化・前進させるために、東京朝日新聞の設計コンペは企画されたものだと思われる。そこには、家族を中心とする部屋割りの考え方(応接室の廃止または居間や書斎との兼用)や、より効率化や機能性を追求する間取りとデザイン、家族個々人のプライベートな空間を重視する設計思想などが透けて見える。同設計コンペの様子を、2012年(平成24)に世田谷美術館で開催された、「都市から郊外へ―1930年代の東京―」展図録から引用してみよう。
  
 具体例をみていくと、朝日住宅は入賞順位にしたがって号数がふられているため、二号型(HO-16)は第二位入賞の設計案ということになる。ちなみに、競技規定には想定家族構成と建築工費によって二種類の部門が設定されており、甲種は夫婦に子ども二、三人、女中一人で工費五千円以内、乙種は夫婦に子供一、二人、女中一人で工費三千円以内である。敷地面積は一律五〇坪内外。二号型は甲種の方で、図案集に掲載された設計趣旨を見ると「洋風というよりは和風の家をある程度まで洋式化した」とあり、ハーフティンバー・スタイルを応用した、日本趣味豊かな設計である。(中略) 写真集巻末に付された購入者からの寄稿を読むと、住宅について多少の不便や部分的な改善の余地を指摘しているものの、総体的には満足している様子がうかがえる。そして皆一様に、環境の良さを挙げている。「移転以来子供の血色が目立って好くなって来た事と、子供の遊び方が自然に親しむようになった事」を喜ぶ感想や、日あたりの良さを強調して「正に『太陽の街』である」と称える声からは、郊外での生活を謳歌する、サラリーマン家庭の姿が浮かび上がってくる。
  
 設計条件の甲種と乙種に触れられているが、これまでご紹介してきた3邸のうち下落合の2邸が甲種応募、上落合の1邸が乙種応募となっている。
2号型朝日住宅.jpg
3号型朝日住宅.jpg
3号型朝日住宅子供室.jpg
成城学園1948.jpg
 さて、『朝日住宅図案集』の巻末には、当時の家を建てる際の注意事項が触れられている。「新に家を建てる方々に」と題された建築家・中村傳治による一文では、自宅建設に関する方法として次の3つのケースが取り上げられている。
 ①建てる方が自身で設計をやる事
 ②面倒だといはれる方には全然白紙で建築士に依頼する
 ③多数の出来合品の中から選定する法

 今日的な状況から、住宅の建て方(購入のしかた)を考えるとが多く、は稀になっているのではないだろうか。は、今日でいえば建売り住宅を選んで購入することであり、もっとも経済的かもしれない。は、自身で家の構造やデザイン、間取り、材料などをある程度想定してこしらえ、住宅建築会社に所属する建築家と打ち合わせを重ねながら、段階的に図面を起こしていくやり方だろう。もっとも、構造的に無理な点や建築力学的に脆弱な箇所は、プロの設計士が指摘してくれるので完全な自作とはいえないが、オリジナルの設計は随所に残すことができる。
 3つの方法で、もっとも高価で時間のかかるのはだろうか。自身の気に入った建築家に依頼し、自身を含む家族の生活環境や趣味、暮らしの習慣、主張などを深く理解してもらいつつ、どのような家に住むのが快適かを、建築家の側から何案かプレゼンテーションしてもらう方法だ。そのためには、建築家と最低でも6ヶ月は親しくすごすことで、自身の家庭や家族を理解してもらう必要があるとしている。「技師と家庭とが隔意なき親類づきあひ」をし、家庭の諸事情を建築家が十分に理解したうえで、初めて設計図面を起こすことになる。
 同書では、上記3つの自宅建設方法のうちを推奨している。ただし、自分で設計するとはいえ、近くの工務店に図面を持ちこんですぐに大工が建てはじめる……という手法ではなく、プロの建築家なり設計士に検証してもらうのが前提だ。
朝日住宅写真集1930.jpg 都市から郊外へ2012.jpg
近代建築1.JPG
4号型朝日住宅.jpg
 同書の、中村傳治「新に家を建てる方々に」から引用してみよう。
  
 他の建築と違ひ住宅許りは建てる方が自から設計するのに限る。最も己を知る者は己である。家庭の内容、家風、趣味、是等は住宅建築の最要素である。此要素を知悉しないでは「己れの住宅」は出来る筈がない。自分で設計するに限るといふのはこゝである。然し設計には相当の予備知識が必要である。私は親戚や友人からよく住宅の設計を頼まれる。其場合いつも私の信頼する住宅に関する書籍一二を推薦して、どうか奥様と一処によく之を勉強して頂きたいといふ。其予後知識を得た上で御自分でプランをやつて御覧なさいといふ。出来たものを見ると可なり滑稽なものもあるが、少くも其家庭独特の主張が強く太く画かれてゐる。構造の事など御構なしでやられるのであるから、技術家から見たら問題にならない様な点は勿論あるが、少くとも其家庭の趣味主張は是れ以上他人には窺はれない作品が出来る。私は之を原石として之に磨きを掛ける。建坪の倹約や、不合理な柱の位置やらを訂正し、何とか其主張を破壊せず、経済的にもなる様にと漕ぎつける。是で初めて建てる方もどうやら満足する様である。
  
 のケースは、建築家ないしは住宅会社所属の設計士に、図面をブラシュアップしてもらう必要があるものの、なにもない白紙状態からの設計ではないので、よりは廉価な設計コストで済むだろう。
 また、仕事が多忙でなかなかまとまった時間の取れない人には、むしろ経済的なを推奨している。その場合は、家族で多くの住宅(や図面資料)を事前に見て歩き、できるだけ全員が気に入るような家(設計図)を選ぶことだと書いている。そうすれば、①②に比べてムダのない効率的な住宅選びができ、また経済的にも安価に家を手に入れることができるとしている。
 なお、①②の注意点として、ようやく設計図ができあがったあと、工務店や住宅会社へ見積りをとってみたら、「高価で建てられない」ことが判明して建築をあきらめるケースを挙げている。中村傳治自身も、設計依頼者が「こんなにかかるとは思わなかった」といって、建設を断念する事例をいくつか見ているのだろう。今日では、まず家を建てる際に総予算をある程度想定してから、住宅会社へ相見積もりをとるのがあたりまえとなっているが、当時はそのような習慣が希薄だったものだろうか。このような事態を回避するためには、「故に此場合は其技師兼請負業者の人格の如何が唯一の基本になつて来る」として、誠実な業者を選定するよう注意を喚起している。
5号型朝日住宅.jpg
5号型朝日住宅子供室.jpg
近代建築2.JPG
 でも、生涯に何度も取り引きをする業者でない以上、素人がそれを見きわめるのはかなり難しかっただろう。郊外住宅ブームを当てこんだ、悪質な詐欺まがいの会社も暗躍していたのかもしれない。予算を明確に2種類へと限定した、東京朝日新聞社による住宅設計コンペは、次世代の新しい「日本住宅」の姿を模索するのと同時に、ブームにのって不当な価格で住宅を建てている業者を、排除する意味合いも含まれていたのかもしれない。

◆写真上:『朝日住宅図案集』に収録された、設計コンペの1号型住宅。1号型から16号型は、実際に成城学園駅の西側に建設され販売されている。
◆写真中上は2号型住宅と3号型住宅、および同住宅の子供室。は、1948年(昭和23)に撮影された成城学園駅近くの「朝日住宅地」。で囲んだ住宅が、1930年(昭和5)に建設された1号型~16号型までの朝日住宅。
◆写真中下上左は、1930年(昭和5)に成城学園へ実際に建てた住宅を撮影した『朝日住宅写真集』。上右は、2012年(平成24)に世田谷美術館で開催された「都市から郊外へ―1930年代の東京―」展図録。は、朝日住宅と同じころに建てられたとみられる現存する下落合の邸。は、4号型住宅。
◆写真下:5号型住宅()と、同邸の子供室()。は、昭和初期に建てられたとみられる下落合の邸のひとつだが、すでに解体されて現存しない。


船山馨の下落合尾根づたい散歩コース。

$
0
0

舞台に目白学園バッケ坂.jpg
 わたしはどちらかといえば、気に入った地域には長く住みつづけるほうだろうか。下落合を初めて訪れたのは1974年(昭和49)の春だから、かれこれ落合地域とは43年のかかわりになる。学生のとき南長崎に借りていたアパート時代を含めると、落合地域とはかれこれ38年のつきあいだ。故郷の旧・日本橋区内に住みたくても、買い物や交通などは便利だし、食べたい料理や欲しいモノはすぐ手に入るだろうが、1964年(昭和39)の東京オリンピック以来、高速道路がうるさくて緑や公園が少なく、小林信彦Click!のいう“町殺し”Click!のせいか殺伐としていて、防災面でも不安だらけなのでイヤだ。
 下落合4丁目2108番地(のち2107番地/現・中井2丁目)に住んだ小説家の船山馨Click!は、わたしとは逆の感覚を持っていたらしい。下落合へやってくるまでは、同じところへ3年とつづけて住んでいたことがなかった。住むところを変えると、自分の人生や気持ちまでがリセットされたように思え、新鮮な感覚で生活のリスタートが切れたようだ。この感覚、大江戸Click!の街に生まれて88歳で死去するまで、93回も引っ越しを繰り返した中島鉄蔵(葛飾北斎Click!)にも通じるものだろうか。
 1965年(昭和40)6月9日発行の「落合新聞」Click!に寄稿した、船山馨のエッセイ『移りかわり』から引用してみよう。
  
 目白学園の近くに住むようになってから、はやいもので、もう二十年になる。/もっとも、このあたりの住人には土地ッ子が多いから、二十年くらいでは長いうちに入らないが、私としては、ひとつところにこんなに腰を落ちつけてしまったのは、生れて初めてである。それまでの私は転々と居を変えて、一ケ所に三年と住んだ記憶がない。借家住いのせいもあったろうが、一種の放浪癖もあった。/住む家や土地が変ると、当分のあいだにもせよ、生活感情にいくらか水々しさ(ママ)が甦る。身のまわりにできかけた殻が破れて、新鮮な光と空気が身うちをひたすような移転の実感は、なかなか捨てがたいものである。(中略) むかし変化を求めて動きまわっていた私が、いまは下落合の片隅に定着し、時間がその私のまわりに、あるかなきかの移り変りを運んできては、流れ去ってゆくようになった。
  
 その後、彼は1981年(昭和56)に死去するまで36年間も下落合に住みつづけている。
 船山馨は、目白学園も近い下落合の西部に住んでいたが、毎日の散歩は自宅を出ると「上の道」Click!(坂上通り)を左に折れて西へと歩いている。船山邸のすぐ南側、同じく下落合4丁目2108番地に1935年(昭和10)まで住んでいた吉屋信子Click!は、飼いイヌを連れて上の道に出ると東へ右折し、目白文化村Click!方面を散歩Click!することが多かったが、船山馨は逆に西側の上高田方面へと抜ける散歩が好きだったようだ。
船山馨邸1960.jpg
目白学園サクラ.jpg
落合遺跡竪穴式住居.jpg
 四ノ坂と五ノ坂にはさまれた、南へと入る路地から上の道を左折して100mほど歩くと、道の左手には数多くのバラが咲く「植物園」があっただろう。4月から5月にかけ、船山馨も足をとめて多種多様なバラの花に見入ったかもしれない。ここでバラを栽培し、「植物園」のプレートを掲げていたのは、下落合4丁目2123番地に住んでいた船山と同業の中井英夫Click!だ。この船山のエッセイが書かれたころ、中井英夫は下落合も舞台に登場する『虚無への供物』Click!を書き終えたばかりのころだった。引きつづき、「移りかわり」から引用してみよう。
  
 私の散歩コースで言うと、目白学園の正門前は、もとは空き地であった。そこに縄文期の遺跡が発掘されて、しばらくすると、そこに古代の住居が復原された。私は散歩の往き還りにそこに佇み、古代の人々のいとなみや、その人生について空想するのが愉しみであったが、保存の施設が不備なため、間もなく子供や心ない人たちの悪戯で荒されはじめいつとはなしに跡形もなくなってしまった。いまはなんの変哲もない住宅の群れがその上を覆ってしまっている。今でも通るたびごとに惜しいことだと思わずにはいられない。
  
 目白学園の現在とは異なる旧・正門の前、つまり現在はキャンパス南側の接道沿いの空き地に復元された縄文期の竪穴式住居レプリカは、当然わたしは見たことがないけれど、のちにキャンパス内へ復元された同住居は何度か訪れたことがある。ただし、21世紀の今日的な史観(視点)からすると、おそらく復元された縄文期の竪穴式住居は、かなり“原始的”でお粗末すぎる姿だろう。
 竪穴式住居のような建屋が、突然近くの空き地か原っぱにできたら、もちろん近所の子どもたちが放っておくわけがない。さっそく「秘密基地」にされ、屋根の上にのぼって周囲を睥睨する見張り所にされたり、さまざまなモノが運びこまれて雨が降っても遊べる「集会場」にされたことだろう。船山は「跡形もなくなってしまった」と書いているが、おそらく目白学園のキャンパス内に移築されて保存され、やがて傷みがひどくなると2代目の竪穴式住居が造られたとみられる。わたしが同学園キャンパスで見たのは、初期のものとは形状がちがうので2代目の復元住居だろう。
落合遺跡.jpg
目白学園1963_1.jpg
目白学園1963_2.jpg
 春になると、船山馨は目白学園キャンパスのあちこちに咲く、サクラ並木を眺めるのが好きだったようだ。昔ほどではないにせよ、いまでもキャンパスの外周域にはサクラが多い。船山は、いまだ茅葺きだった中井御霊社Click!を左手に見て、キャンパス南側の接道を西へ歩くとバッケ坂Click!を下っている。そして、妙正寺川に架かる御霊橋からバッケが原Click!へわたると、そこに設置されていた消防庁のグラウンドで草野球を見物している。
  
 目白学園の正門の桜は、春ごとに私の愉しみのひとつである。幾株もないのだが、毎年アーチ型に空を覆って、見事な花をつける。高台だから、坂の下に遥かな街並が煙って見え、それが枝もたわるばかりの花の姿と調和して、心が静かにひらけてゆく思いがする。近年はつぎつぎに校舎が増築されて、そのせいかだいぶ幹が切り落されたようだが、まだ風致が損なわれるほどではない。正門を拡げるような場合にも、あの桜樹だけは、いまのままに遺しておいてほしいものだと思う。/樹下をくぐって、学園の塀に沿って坂を降りると、消防庁の野球のグランドだが、ここがばっけケ原という原っぱだったころは、夕方などよく犬を運動に連れていった。その犬は雑種であったが、十三年いて死んだ。いまは、時どき草野球を見物する。
  
 船山馨が歩いた時代は消防庁のグラウンドだったが、現在は中野区の上高田運動場となっている。そこでしばらく草野球の試合を見学したあと、再びバッケ坂を上って上の道を通り自宅へと帰るのが、日々の散歩の習慣だったのだろう。
中井御霊社.jpg
落合新聞19650609.jpg
 船山馨が道すがら眺めたかもしれない中井英夫のバラ園だが、龍膽寺雄Click!がのめりこんだのはサボテンだった。銀座や新宿で求めたサボテンを、彼はせっせと自宅に運んではかわいがっている。その栽培の面白さを教えたのは、目白中学校Click!で経理係をしていた篠崎雄斎だった。当時の目白中学校Click!は、下落合437番地から上練馬村2305番地(現・高松1丁目)に移転Click!していた時代だ。でも、それはまた、別の物語……。

◆写真上:下落合の丘上から、上高田のバッケが原へと下る急傾斜のバッケ坂。
◆写真中上は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる船山馨邸と中井英夫邸。は、目白学園のサクラ並木。は、旧・正門前にあった住居跡から目白キャンバス内へ移築されたとみられる復元された竪穴式住居。
◆写真中下は、発掘調査中の落合遺跡と目白学園の位置関係で中井御霊社がある上が南。は、船山馨が自宅を出てからバッケが原へと向かう散歩コース。
◆写真下は、いまだ茅葺きだった中井御霊社の拝殿。は、船山馨のエッセイ『移りかわり』が掲載された「落合新聞」1965年(昭和40)6月9日号。

神近市子の隣り細川隆元邸の襲撃。

$
0
0

神近市子邸跡上落合1-476.JPG
 1936年(昭和11)2月26日、いわゆる二二六事件Click!が起きたとき、上落合1丁目476番地に住んでいた朝日新聞の政治部長・細川隆元邸が襲撃されている。おそらく早朝に襲われたとみられるが、どこの連中がどのような方法で襲撃してきたかは記録にないので不明だ。だが同日の朝、東京朝日新聞社を襲撃した中橋基明中尉の支隊が、上落合にやってきて細川邸に銃弾を撃ちこんだか、家内を打(ぶ)ち壊していった可能性がある。
 細川隆元の自宅は、下落合4丁目1925番地(現・中落合1丁目)の一画、現在の中井駅前から踏み切りをわたって北上する道の突き当たり、みずほ銀行中井支店が建っている斜面でも確認できるが、上落合の自宅と下落合の自宅の時間的な前後関係がはっきりしない。上落合の自邸が襲われたため、下落合の新居へと引っ越したものだろうか。
 細川隆元の自宅が、上落合1丁目476番地にあるのを蹶起部隊が知っていたのは、同じく上落合1丁目512番地に実家があった竹嶌継夫中尉Click!からの情報ではなかったろうか。両家の間は70mほどしか離れておらず、道路をはさんで5~6軒ほどの距離にすぎなかった。この襲撃について重要な証言しているのは、その当時、細川邸の隣りに住んでいた神近市子Click!だ。彼女は家族とともに上落合を3ヶ所転居しているが、1937年(昭和12)に高田馬場駅近くの妾宅に通うDVでアル中になった夫・鈴木厚と離婚して、「新宿ハウス」へ引っ越すまで住んでいた上落合最後の家が、細川隆元邸の隣りだった。
 1930年(昭和5)から住んでいた、同じく東京朝日新聞社の記者・鈴木文四郎Click!邸に隣接し、「古代ハス」の大賀一郎Click!邸の向かいにあった上落合469番地の自宅は、周囲の住民たちから「アカの家」と呼ばれていた。だが、神近市子が共産主義者であったことは一度もなく、また目立った運動もしていない。当時の日本は、政府を批判したり戦争に反対する人々、あるいはエスペランティストや男女平等を唱える人物など、資本主義体制の母体であり基盤を支える思想の民主主義や自由主義でさえ、「アカ」呼ばわりされて蔑まれていた狂乱の時代だった。
 ちょうど、独裁的な「共産主義」国家が政府を批判する人間に、思想の別なく情緒的かつ感情的な「反革命」「反動」のレッテルを貼って粛清していた、ちょうどその裏焼きにすぎない。上落合1丁目476番地に転居してから、はたして神近市子の家はなんと呼ばれていたのだろうか。彼女が大正期に、八王子刑務所で2年間にわたり服役していたのは思想犯ではなく、大杉栄の首筋を短刀で刺した傷害罪によるものだ。
 余談だけれど、神近市子が神田神保町から駿河台へと抜ける沿道にあった、刀剣店で購入した刺刀Click!(さすが=短刀)の銘が気になっている。彼女は当初、自裁するために購入したのであり、大杉栄を傷つけるためではなかった。つまり、確実に自死できるよう業物(わざもの=斬れ味のよい作品)を求めているとみられ、銘が入っていた可能性が高い。この刺刀は、日蔭茶屋で大杉栄を刺したあと、葉山の海で沖に向かって投げ棄てられているが、警察は自供のみでなく、ちゃんと証拠品として海底を探しただろうか。
 細川隆元邸が襲撃された二二六事件Click!のときの様子を、1972年(昭和47)に講談社から出版された『神近市子自伝-わが愛わが闘い』から引用してみよう。
  
 二・二六事件のとき、私は上落合に住んでいたが、隣の朝日新聞記者の細川隆元氏が襲われたのに、私のところは素通りだった。超国家主義の嵐が日本じゅうを吹き荒れ、言論統制が敷かれたが、探検記や科学読みものの翻訳者にすぎなかった私は、ついに目の敵にされることはなかった。とはいっても、むろん私は時局に従う気はなかった。愛国婦人会や国防婦人会が活躍をはじめ、かつて婦人の地位向上を叫んだ人たちが進んで戦争に協力したが、私は見向きもしなかった。すべてから逃避することが、私の唯一の生きる道であった。私はまったく孤立した。/息子が慶応大学の文学部を志望したとき、私は反対した。この大戦争の渦中に文学で生計を立てるなどとは痴(おこ)の沙汰であったからだ。ただひとりの息子が、私の父や兄のように医業を志してくれたならと願った。しかし息子は文学部をえらんだ。/思うにまかせぬ三人の子どもを受けもった私を、/「あなたの傑作は、三人の子どもたちですよ」/と、中村屋の相馬愛蔵氏がよくからかったものだ。
  
神近市子邸1938.jpg
神近市子邸1936.jpg
 神近市子は、1929年(昭和4)ごろに麻布霞町から上落合506番地へと引っ越してきた。ちょうど、鶏鳴坂のとっつきに近い住宅で、辻潤・キヨ夫妻邸Click!川路柳虹邸Click!壺井繁治Click!壺井栄Click!邸、吉川英治邸Click!などの近くだ。翌1930年(昭和5)には、吉武東里邸Click!の道路を隔てた北側に位置する、先の鈴木文四郎邸に隣接した上落合469番地に転居した。ここで数年暮らしたのち、1935年(昭和10)ごろから上落合(1丁目)476番地に住み、夫と離婚して「新宿ハウス」へ移るまで上落合で暮らしている。この最後の家は、西側に隣接する野々村金五郎Click!が建てた借家群ではないかとみられる。
 さて、ようやく神近市子の落合地域における軌跡を描いてはみたけれど、彼女のどこから手をつけはじめていいのかわからない。それほど活動範囲が広くて深く、また彼女の作品をはじめ関連する人脈や思想も広大なのだ。長崎の活水女学校に通いながら『少女世界』へ投稿していた文学少女時代から、恋人だったアナーキストの裏切りにキレてつい刺してしまった服役時代、戦後の衆議院議員になってから売春防止法の策定まで、あまりに活動の範囲やテーマが広すぎて、紡がれた物語が深すぎるのだ。
 このサイトで取り上げたさまざまな領域の人物たち、そして落合地域に住んでいた人々との交流も多岐にわたり、津田梅子の津田塾時代から平塚らいてうClick!の「青鞜」時代、長谷川時雨Click!「女人藝術」Click!時代、女学校の講師時代、東京日日新聞の記者時代、アナーキズムにシンパサイズした時代、作家・翻訳家時代、離婚後に子どもたちが次々と父親から逃げだしてきた子育て時代、「婦人文藝」の編集長時代、戦後の民主婦人協会時代、衆議院議員時代、そして再び作家時代と、この経歴を見るだけでも落合地域に去来した作家や画家、思想家、政治家たちの顔が次々と想い浮かぶのだ。
 陸軍軍医学校長の森鴎外Click!は神近市子をよほど気に入ったのか、彼女が出す雑誌のタイトルから考案して寄稿まで約束しており、活きのいい女性にはデレデレだったらしい早稲田の大隈重信Click!までが彼女の人生には登場する。泣き寝入りをせず、男へ物理的な「反撃」を試みた神近市子は女性たちからは一目おかれるようになるが、親しかった与謝野晶子Click!は事件後、手のひらを返したように挨拶をする彼女を無視しつづけた。
神近市子1.jpg 神近市子2.jpg
神近市子邸跡上落合506.JPG
神近市子邸跡上落合469.JPG
 たとえば、津田塾時代に住んでいた麹町の竹久夢二Click!・環夫妻の2階建てアトリエの1Fから転居してすぐのころ、神近市子は秋田雨雀Click!ワシリー・エロシェンコClick!と親しくなっている。エロシェンコは特に彼女が気に入ったのか、困りごとや相談事ができると寄宿している新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!黒光Click!夫妻ではなく、頻繁に彼女のもとを訪れるようになった。
 神近市子が初めてエスペラント語を知ったときの様子を、同書より引用してみよう。
  
 集まったのは四、五人だったが、その中に盲目のロシア詩人エロシェンコと秋田雨雀氏がいた。ワシリー・エロシェンコは、不自由な目のあたりにふさふさとした紅毛を垂らし、悪い発音の英語でしきりにR女史に議論を吹っかけていたが、私には何のことかわからなかった。その日はコーヒーと洋菓子くらいをご馳走になって帰ったが、一週間すると秋田氏とワシリーが私のところにやってきた。私は、自分が使ってもいいといわれている応接間に二人を通した。「またRさんのところの会合ですか」/ときくと、ワシリーがうなずいた。/「いったい何のための集まりですか? 私にはあなたの議論が少しもわかりませんでした」/熱っぽく何かを説明しようとするワシリーに代わって、秋田氏が答えられた。/「彼女はエスペラントという国際語を、世界に広めようという運動をしているのです。それといっしょに、宗教も一つにしなければいけないという運動にもはいっています。この間のワシリーとの議論はおもにその問題でした」
  
 エロシェンコが、日本での第1回エスペラント大会に合わせて来日したのは1906(明治39)だから、神近市子が彼に初めて出会ったのは5年後の1911年(明治44)、彼女が23歳のときということになる。下落合で中村彝Click!『エロシェンコ氏の像』Click!、鶴田吾郎が『盲目のエロシェンコ』Click!を制作するのは、さらに9年後のことだ。
 このときをきっかけに、秋田雨雀をはじめ相馬御風、若山牧水Click!らのいわゆる早稲田派の文士グループと親しくなるが、ほどなく堺利彦Click!辻潤Click!、山川均、宮島資夫、安成貞雄たち社会主義者やアナーキストたちとも知り合うことになる。
神近市子自伝1972講談社.jpg 神近市子自伝1997日本図書センター.jpg
神近市子3.jpg
小島キヨ.jpg エロシェンコ.jpg
 ちょっと面白いのは、上落合503番地の妹夫婦の家で居候をしていた辻潤のもとに、エロシェンコがときどき訪れていることだ。同時に、辻潤の恋人だった宮崎モデル紹介所Click!小島キヨClick!も頻繁に訪れていただろう。ともに中村彝のモデルをつとめたふたりが、上落合で顔を合わせていたかと思うとちょっと面白い。


◆写真上:神近市子が家族とともに住んでいた、上落合1丁目476番地の自宅跡。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる神近市子邸および細川隆元邸とその周辺。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる上落合1丁目476番地。まさに、神近市子が住んでいた時代の家々が写っている。
◆写真中下上左は、東京日日新聞の記者時代に撮影されたと思われる20代後半の神近市子。上右は、上落合で撮影されたとみられる神近市子と家族たち。は、初めて上落合に住んだ上落合506番地(左手)あたりの現状。は、最初の転居先である大賀一郎邸の向かいにあたる上落合469番地(右手)あたりの現状。
◆写真下上左は、1972年(昭和47)出版の『神近市子自伝-わが愛わが闘い』(講談社)。上右は、現在でも入手可能な1997年(平成9)出版の『神近市子自伝』(日本図書センター)。は、ここではおなじみの左から富本一枝Click!佐多稲子Click!、神近市子、村岡花子Click!下左は、のちに辻潤夫人となる中村彝『椅子によれる女』のモデル・小島キヨ。下右は、同じく中村彝『エロシェンコ氏の像』のモデルとなったエロシェンコ。

龍膽寺雄が暮らした「目白会館」を探せ。

$
0
0

目白館跡.jpg
 1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)6月ごろまで住み、『アパアトの女たちと僕と』(改造社/1930年)を書いた龍膽寺雄Click!(龍胆寺雄/りゅうたんじゆう)だが、彼が暮らしたとされる下落合の「目白会館」が、どうやら第三文化村の下落合1470番地に建っていた「目白会館・文化アパート」Click!ではなさそうなことが判明している。
 では、龍膽寺雄が書く「目白会館」とは、いったいどこのアパートのことを指しているのだろうか? 彼が東京でもっとも古い民営アパートと書く、下落合地域でもおそらく大正期に建てられたとみられる建物を探してみるのがきょうのテーマだ。そのアパートには共有部分の応接室や食堂、キッチン、各種ゲーム室、浴室に加え、6畳+4畳半の2間構成の部屋も含めて20室もの貸し部屋が並び、屋上庭園まで設置された少し大きめな建物を想定しなければならない。
 しかも、龍膽寺雄は「コンクリートの二階建てだった」とも記している。建物の構造が、ほんとうに鉄筋コンクリート造りだったものか、それとも関東大震災Click!の教訓からラス貼りモルタル仕上げの外壁が、建築には素人だった彼の目からは鉄筋コンクリート造りに見えたものか、このあたりは曖昧さが残るところだ。あるいは、セメント混じりのモルタル木造建築自体を、彼はコンクリート建築と呼んでいた可能性も残る。
 龍膽寺雄が「目白会館」の生活について、1979年(昭和54)に昭和書院から出版された『人生遊戯派』に綴っているが、前回とは別の箇所から引用してみよう。
  
 私が淀橋柏木の家から、斎藤老人に追い出されることになると、今井が色々奔走して、目白落合の文化村近くに、目白会館というアパートを見つけてくれた。その頃同潤会のような公営のアパートはあったが民間のアパートとしては、この目白会館がたしか最初だった。コンクリート建ての、二階の屋上に、屋上庭園のようなものがあり、大きな洋風の共同の応接間や、一階には食堂のほか、浴室、玉突き場、麻雀荘などの設備があった。もっとも、その応接間は、満員でハミ出した洋画家が、アトリエを兼ねて借りてしまっていたので、塞がっていた。この洋画家というのは、目白の川村女学院で絵の先生をしていた佐藤文雄でのちに、改造社から出した私の処女出版『アパアトの女たちと僕と』の装釘をしてくれた。『アパアトの女たちと僕と』は、ここでのアパートの生活からヒントを得て書いた作品で、もちろんフィクションだが、谷崎潤一郎から激賞を受けた。
  
 ここで留意したいのは、「目白落合の文化村近く」と表現している点だろうか。第三文化村に建っていた目白会館は、目白文化村の「近く」ではなく目白文化村の「中」だ。ただし、目白通りの南側に拡がる下落合の住宅街、すなわち山手線際の近衛町Click!から目白文化村Click!アビラ村Click!までを、外部から見てすべて下落合の「文化村」と拡大表現する書籍や資料もめずらしくないので、龍膽寺雄がどのような概念でこの文章を書いているのかは不明だ。
 仮りに目白通りの南側全体、つまり目白崖線の丘つづきを下落合の「文化村」という大雑把な捉え方をしていたとすれば、その「近く」に住んだということは、目白通りの北側の可能性もある。しかも、龍膽寺雄が書く「目白会館」の住所は下落合でなければならない。そう考えてくると、目白通りの北側に張り出した下落合のエリアが頭に浮かぶ。下落合540番地の大久保作次郎アトリエClick!や、下落合523番地の目白聖公会Click!のある長大な三角形のエリアだ。
目白館1926.jpg
目白館1936.jpg
目白館19441213.jpg
 さっそく、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を確認すると、「目白会館」ではなく「会」を抜いた「目白館」という、いかにもアパートらしい大きめな建物を見つけることができた。「目白館」は大久保作次郎アトリエClick!の東隣り、下落合538番地に建っていた。地図を順ぐりにたどっていくと、1925年(大正14)の1/10,000地形図の修正図には、すでに大久保アトリエと並んで採取されている。それ以前は、大久保アトリエのみしか採取されていない。つまり、「目白館」は1923年(大正12)9月に起きた関東大震災の直後、1924年(大正13)ごろに建設されたと想定することができる。
 さて、空中写真を確認してみると、周囲の住宅街に拡がる瓦屋根の家々に比べ、「目白館」が白く輝いて見えている。建物は「コ」の字型をしており、白く光って見えるのは屋根が耐震設計を重視した最新の軽いスレート葺きだからだろう。敷地の面積は第三文化村の目白会館と同等以上、やや広めのように感じる。
 そして、ここが重要だと思われるのだが、中庭とみられる“コ”の字型の凹んだ南側半分に、露天のデッキらしい張り出しがありそうなことだ。まるで、ロッジかバンガローのようなデッキが、屋根の近くに北向きで張り出していそうだ。この界隈は、めずらしく空襲から島状に焼け残っているエリアなので、戦後すぐの1947年(昭和22)に撮影された空中写真を見ると、それらしいかたちを確認することができる。ひょっとすると、これが2階から上がれる「屋上庭園のようなもの」だったのではないか。目白館が解体される少し前、1975年(昭和50)の空中写真を見ると、この南側の張り出しが白くはっきり写っている。もっとも、木造の露天デッキでは傷むのが早いので、戦後ほどなくコンクリート製に変えられているのかもしれない。
 目白館を1937年(昭和12)に作成された「火保図」で見ると、面白いことがわかる。接道から目白館の敷地全体がよく見えなかったものか、建物のかたちが誤って採取されている。前年の空中写真でもはっきり撮られているように、建物は南北に細長く大きな“コ”の字型をしているのだが、「火保図」では東側の接道からつづく一戸建てつづきの建物として描かれている。「火保図」に誤採取は多いが、ここまでの大きなミスはめずらしい。ちなみに、目白館の構造は(ス)に太枠の線で描かれており、「スレート葺き屋根で防火対策が施された木造建築」ということになっている。モルタルで白く塗られたぶ厚い外壁を、龍膽寺が「コンクリート建て」と誤認した可能性は十分にありえるだろう。
目白館1947.jpg
佐藤春夫邸1.jpg
佐藤春夫邸2.jpg
 この目白館が、龍膽寺雄が書く「目白会館」の誤記憶であったとすれば、佐藤文雄が通う川村女学園Click!まで560mほど、龍膽寺が1週間に一度訪ねる関口町207番地の佐藤春夫邸Click!へは2.5kmほどと、散歩がてらブラブラ歩いていける距離だ。下落合538番地(現・下落合3丁目)の目白館跡の敷地には、現在も集合住宅である「セントヒルズ目白」が建っている。
 さて、龍膽寺が書く「目白会館」(目白館?)の内部の様子を、『人生遊戯派』の「私をとりまく愛情」からもう少し引用してみよう。
  
 引っ越して行った目白会館の、四畳半と八畳と二た間続きの部屋の、八畳のほうの白壁に、初山滋の童画の額縁を掛けようと思って、何気なく、長押の上へ手をやったら、小さな紙片れの折ったのが、その奥に挟んであった。ひろげて見ると、こういうことが書いてあった。/「この部屋には百万円かくしてあります。」/先住者のいたずらだ。/新しいこの部屋の主人公は、しかし間もなく流行作家になって、この部屋で、百万円とはいかないまでも、かなり原稿料を稼ぐのだから、紙きれに書いてあったことは、まんざら嘘じゃない。
  
 この文章から、目白館の室内はどうやら畳敷きで、おそらく白い漆喰塗りの壁上には長押(なげし)があったのがわかる。つまり、コンクリート建築ではなく木造建築を思わせる意匠だ。しかも、先の記事でも書いているが、「先住者」がいたということは1928年(昭和3)6月の龍膽寺が借りる以前からアパートが建っていたことを意味しており、1928年(昭和3)当時は竣工したばかりだったとみられる第三文化村の「目白会館」とは、東京初の民間アパートという由来も含めて記述が合わないことになる。
目白館1937.jpg
目白館1975.jpg
龍膽寺雄高円寺.jpg
 龍膽寺雄は、「目白会館」(目白館?)に1930年(昭和5)6月ごろまで住んだあと、1932年(昭和7)以降の住所表記で杉並区高円寺4丁目43番地と変わる借家へと転居している。彼はそこで、文藝春秋の菊池寛Click!による派閥と、のち川端康成Click!の「鎌倉幕府」が牛耳る文壇に嫌気がさし、ひとり背を向けて孤独な文学の道を歩んでいくことになった。


◆写真上:下落合538番地に建っていた、アパートとみられる「目白館」跡(左手)。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる目白館。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同館。は、1944年(昭和19)12月13日の第1次山手空襲の4ヶ月前にB29偵察機から撮影された目白館。
◆写真中下は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同館。は、龍膽寺がよく訪れた関口町207番地の佐藤春夫邸で、あちこちウロウロしているのが佐藤春夫自身。
◆写真下は、1937年(昭和12)作成の「火保図」にみる目白館で建物の形状を誤記載している。は、1975年(昭和50)に撮影された目白館。突き出た木造と思われるデッキが、コンクリートの屋根状に改変されているのが見てとれる。は、1930年(昭和5)に下落合から転居した高円寺4丁目43番地の自宅とみられる部屋でくつろぐ龍膽寺雄。

大賀一郎が開催した不忍池「観蓮会」。

$
0
0

不忍池精養軒.JPG
 「古代ハス(大賀ハス)」の種子を発見した大賀一郎Click!が、柏木の蜀光山 (現・北新宿1丁目)に住む内村鑑三Click!主宰の「聖書研究会」Click!へ参加したのは、一高生になったばかりの1902年(明治35)ごろからだった。南原繁Click!が、内村の聖書研究会で「白雨会」を結成する、およそ7年ほど前のことだ。大賀は岡山ですごした幼年時代、すでに岡山教会で洗礼を受けている。
 一高へ入るために東京へくると、さっそく同級生の安倍能成Click!たちと柏木の内村鑑三を訪ねているが、「教会を脱退しろ」といわれ本郷教会を去っている。当時は本郷に下宿していた大賀一郎は、下駄ばきで柏木の聖書研究会まで歩いて通うことになった。当時の聖書研究会には、小山内薫Click!有島武郎Click!志賀直哉Click!、天野貞祐などが頻繁に顔を見せている。
 そのときの様子を、1961年(昭和36)に発行された「月刊キリスト」4月号(日本基督教協議会)所収の、インタビュー「わが信仰の生涯」から引用してみよう。
  
 (内村鑑三は)岡山で知ったんです。『聖書研究』の出ない前、『東京独立雑誌』というのがありまして。(略) 店頭に出ておりましたからね。五銭でした、雑誌が。月三回で。当時本郷から新宿までげたをはいて歩いていくんですから、三時間かかりますね。内村先生もあとになってはだいぶひらけて、丸の内に出ていらっしたが、その時分は貧乏でしたからね。幸徳秋水や境枯川(利彦)なんか『万朝報』でやった時分ですからね。(略) 南原くんは七十二、三です。わたしは八十ですからね。あの人は七年ぐらいあとですね。(略) (内村鑑三の)家が狭いですから。このくらいのへや<六畳>ですから、二十人定員でしたよ。あのころいったのは志賀直哉、高木八尺、それから黒木――黒木大将の息子、そんなのがいましたね。(略) 野武士時代です。塚本くんや、藤井<武>、田島、三谷<隆正>、鶴見<佑輔>、ああいう連中は新渡戸先生の弟子だったんです。新渡戸先生は自分は教養を教える、宗教は内村がやるというので、自分の弟子を内村先生にゆずったんです。そのときにそういった連中がごっそりいったんですね。そして、柏会ができて変わったんです。野武士のあとはずっと一高、東大の連中がごっそり二、三十人きて、上品になったんです。(カッコ内引用者註)
  
 聖書研究会は、会費(献金)がわずか月1銭しかとらず、柏木919番地の内村鑑三は極貧にあえいでいた。しかも、学生たちの学費を援助するため、著作の校正作業には1回50銭でアルバイトとして雇ったため、貧乏生活に拍車がかかったらしい。
 現代の学生と教授の関係とは異なり、明治後期の学生たちは講義を終えると、自身の尊敬する“先生”の自宅を訪ねるのがふつうだった。ちょうど大賀一郎が一高・帝大時代をすごしていたころ、訪問先でブームになっていたのが内村鑑三と夏目漱石Click!だった。安倍能成Click!は、内村家と夏目家の双方に顔を出していたようだ。
大賀一郎帝大時代.jpg 内村鑑三.jpg
蓮糸織物.jpg
 大賀一郎がハスの研究に取り憑かれたのは、25歳ぐらいのときだったといわれている。もともと水草には興味があったらしいが、特にハスに注目して研究をつづけ古代ハス(大賀ハス)を咲かせることに成功している。さらに、當麻寺(当麻寺:たいまでら)に伝わる「當麻寺蓮糸曼陀羅」からハス糸に興味をおぼえ、曼陀羅から糸へ、糸から繊維へと研究の対象は拡大していった。府中に住んでいた晩年には、大賀ハスを育てて研究をつづけるかたわら、布目文の研究にも取り組んでいる。布目文とは、もちろん府中国分寺の屋根に用いられた、朝鮮様式の「布目瓦」のことだ。
 ちょっと余談だが、大賀一郎は府中の国分寺跡を散策しながら、数多くの布目瓦の破片を採取しているが、わたしもまったく同じことをしたことがある。小学生のわたしが、布目瓦の破片を求めて散策したのは、府中ではなくナラ・斑鳩の里にある法隆寺の若草伽藍跡だ。現在の法隆寺が再建される以前、創建法隆寺(本来の法隆寺)が建っていたとされる若草伽藍跡では、親父が同寺の事務所で交渉したものだろう、僧が若草伽藍跡の門鍵を開けてくれて中を自由に散策することができた。
 巨大な礎石がポツンと残る若草伽藍跡は、広く芝に覆われていたが、ところどころに黒い土面が露出していて、そこには布目瓦の破片が数多く露出していた。それをいくつか拾い集めて僧に見せると、「掘れば無数に出てくるから、記念に持ち帰っていいよ」といってくれた。その破片は、いまでもわが家のどこかにあるのかもしれないが、ここしばらく見ていない。布目瓦の布目を観察・研究することで、その繊維がどのようなものなのか、あるいはなんの糸が使われているのかを想定することができる。大賀一郎は、最晩年を国分寺に葺かれた布目瓦と、朝鮮様式の繊維の研究に費やしている。
大賀一郎邸跡.JPG
布目瓦.jpg
府中国分寺跡.JPG
 さて、大賀一郎は1935年(昭和10)から戦争中を除き死去するまで、上野の不忍池Click!でハスの花を愛でる「観蓮会」を開催している。きっかけは、ハスの花が開花するとき「ポンと音がする」という迷信を否定するために、マイク片手に開花の瞬間をねらって録音するプロジェクトを起ち上げたときらしい。この試みには、同じ植物学者である牧野富太郎の実証主義的な姿勢から、少なからぬ影響を受けているようだ。牧野は、大賀よりも20歳年上だった。以下、1957年(昭和32)に発行された「採集と飼育」6月号(日本科学協会)所収の、大賀一郎『牧野富太郎先生の思い出』から引用してみよう。
  
 今から二十三年前の昭和十年に、初めてハスの会を上野不忍で催した時などには、(牧野富太郎は)第一に馳せ参じて、明け行く空に、ハスの無音無声の開花に注視、聞き耳を立てて下さった。あの時には三宅驥一、鳥居竜蔵、入沢達吉、岡不崩、石川欣一、河野通勢などの諸先生と豪華な勢揃いをした事であったが、その翌年(牧野富太郎)先生と私と二人不忍池畔で早朝マイクの前に立って再検討の耳を傾けたのは、今になってよい思い出である。ハスの事については先生がよく『理学界』誌にお書きになったのが我が国の最初の文献で、植物の事では何にでも先鞭をおつけになった先生は、ハスの事でもまた先覚者であられた。
  
 第1回「観蓮会」には、このサイトにもときどき登場する鳥居龍蔵Click!をはじめ、河野通勢Click!岡不崩Click!の名前が見えている。医師の入沢達吉は一度、歯科医の医療行為を妨害する島峰徹Click!エピソードClick!で取り上げただろうか。
 目白通り北の長崎の洋画家・河野通勢と下落合の日本画家・岡不崩だが、このふたりの作品にハスを描いた画面があるとすれば、上野不忍池で行われた大賀一郎の「観蓮会」で写生された「大賀ハス」の可能性が高い。河野通勢の作品にハスの記憶はないが、岡不崩の軸画あたりにはありそうな気がする。ご存じの方がいれば、ご教示いただきたい。
大賀一郎晩年.jpg
牧野富太郎邸庭.JPG
牧野富太郎書斎.JPG
 ところで、「大賀ハス」の根は食べられるのだろうか? 食い意地の張ったわたしとしては、気になるところだ。食用のハスと同様に、大きな穴が空いた根をしているのだろうか。縄文人が食用に栽培していたかどうかは不明だが、3000年前の丸木舟といっしょに出土しているところをみると、食べていた可能性がありそうだ。蓮根は「穴がおいしいのです」といったのは内田百閒Click!だが、どのような味がするのかとても気になる。


◆写真上:上野精養軒の屋上から眺めた、ハスが繁る夏の不忍池。
◆写真中上上左は、帝大時代の23歳ごろの大賀一郎。上右は、柏木で聖書研究会を主宰した内村鑑三。は、ハス糸を使った織物でこしらえたマフラー。
◆写真中下は、上落合467番地の大賀一郎邸跡の現状。は、法隆寺の若草伽藍跡(創建法隆寺跡)から出土した布目瓦の密タイプ(左)と粗タイプ(右)。は、大賀一郎が晩年に布目瓦を探してよく散策した府中の国分寺跡。
◆写真下は、晩年の大賀一郎。は、東大泉にある牧野富太郎の庭(牧野記念庭園)。は、現存する牧野富太郎の書斎(研究室)。

南畝の『高田雲雀』にみる通称「中井村」。

$
0
0

中井駅寺斉橋.JPG
 江戸期までさかのぼる時代、現在の住所「中井」とされるエリアは「中井村と呼ばれていた」という大正期以降の資料を見かけるが、それはなにを根拠にしているのだろうか? 「中井村」と呼ばれていたから、中井駅になったのだとされるのだが、地元の方に訊いても、「さあ……」「わからない」という答えばかりが返ってくる。
 そこで、江戸時代に作成された落合地域とその周辺を記録した資料を、片っぱしから当たっていたのだが、ようやくひとつ見つけだすことができた。正確な執筆年は不明だが、1788年(天明8)に増補版が執筆・編集されている大田南畝Click!の『高田雲雀』だ。ちょうど老中・田沼意次が失脚し、松平定信が登場して幕政の改革に着手しはじめるころ、第11代将軍・徳川家斉の時代にくだんの『高田雲雀』は執筆されている。幕府の御家人だった大田南畝は、いまだ30代の若さだった。
 『高田雲雀』は、南畝自身が写したとみられている国立国会図書館に収蔵されているものと、木又牛尾が1849年(嘉永2)に写し早稲田大学図書館に収蔵されている写本とが有名だが、この記事では国立国会図書館の原本に近い記述を引用していくことにする。このサイトでもご紹介している落合地域を中心に、順番にひろって見ていこう。
  
 一、砂利場町 根川原通と云小道有、上古の海道之由、いまは甚の小道也、末は七曲りより落合へ出る(中略) 一、金乗院 砂利場村、此寺の脇より、藤の森さくや姫へ出る道あり、末は七曲り落合へ出る(覃按、水戸黄門光圀卿ノ額アリ、金乗院ニアリ)/一、咲屋姫の社 祭神この花さく屋姫、俗にさくら姫の宮と云、前の坂をせいげん坂と云、浅間坂の誤りなるべし(中略) 一、藤森いなり 此辺下落合也、鼠山の末也/一、宿坂 金乗院の前の坂を云、昔此所に宿坂の関有よし、往古の鎌倉海道のよし、八兵衛といふ百姓は此時の関守の子孫なり、かの家に其時の刀其外古物多し、帳面も有となり
  
 この記述でも明らかなように、大田南畝は下高田村の一帯が地元ではないため、自身で歩いて調べたり地元の人間に取材して伝聞を記録していることがわかる。当時、南畝は牛込中御徒町(現・牛込神楽坂駅近く)に住んでいたはずであり、その周辺域を散策・取材しながら紀行文をまとめていったのだろう。
 面白いのは、目白崖線の下を通る雑司ヶ谷道Click!(鎌倉街道)が、現在の学習院下あたりから下落合にかけて「七曲り」と表現されていることだ。確かに、南へ張りだす目白崖線の凹凸斜面に沿って街道が敷設されているため、雑司ヶ谷道(新井薬師道)はクネクネとカーブしており、「七曲り」と呼んでもおかしくない形状をしている。
 また、現在は学習院キャンパス内から目白駅西側の豊坂沿いに移転し「豊坂稲荷(八兵衛稲荷)」Click!と呼ばれる社が、『高田雲雀』の時代は稲荷ではなく木花咲耶姫(咲屋姫)社、つまり富士浅間社だったことがわかる。だからこそ、『高田雲雀』が書かれる100年ほど前、徳川光圀(水戸光圀Click!)が「木花咲耶姫」の扁額を同社へ揮毫しているのだろう。そして、鎌倉街道の関守の子孫である八兵衛さんが、のちに稲荷を勧請してどうやら富士浅間社へ合祀したことから、いつの間にか江戸期の農村で重視されていた豊穣の神(稲荷)を尊重し、八兵衛稲荷と呼ばれるようになった経緯が透けて見える。
 木花咲耶姫社(のち八兵衛稲荷社)は、いまだ大山Click!(大ノ山/大原山)の山麓、つまり現在の学習院キャンパス内にあり、八兵衛が住んでいたのは宿坂を下ったあたり、「根岸の里」Click!と呼ばれた武家屋敷や農家が集中していた一画だろう。
高田雲雀(早稲田大学).jpg 大田南畝.jpg
高田雲雀本文.jpg
雑司ヶ谷道.JPG
 つづけて、落合地域に関連するところを、かなり省略しながら引用してみよう。
  
 南西ニ移り、/一、七曲り 西坂、椎名町、(覃按、水戸黄門常山文集、詩云落合遥指坂七曲、宝仙◇◇◇塔九輪)/落合 上下あり、下落合ニたじま橋同びくに橋此辺すべて下落合也/一、落合のはし 上宿也、少々町有(中略) 一、長久山妙泉寺 玉沢末、落合の焼場は此寺の持也 (◇は判読不明字)
  
 ここに登場している「七曲り」は、崖下を通る雑司ヶ谷道のことではなく、鎌倉時代に拓かれた切り通しである七曲坂Click!のことだ。そして、西坂Click!とともに「椎名町」の名称が登場していることに留意したい。椎名町Click!は、下落合村と長崎村にまたがる清戸道Click!沿いに形成された町名であり、現在の北に離れた西武池袋線・椎名町駅エリアのことではない。また、神田上水に架かる田島橋Click!と、北川Click!(妙正寺川)に架かる泰雲寺Click!の比丘尼橋が採取されている。
 徳川幕府の行政区画である下落合村と上落合村の様子が紹介されるが、ここにも「中井村」の記述はない。「上宿」あるいは「少々町有」とされているのは、現在の七曲坂の下あたりから西坂あたりにかけ、下落合ではもっとも古くから集落が形成(出土した板碑から鎌倉期にはすでに形成)されていた、「本村(もとむら)」一帯と規定することができる。同書の後半では、「落合宿」という呼称で登場する集落も、本村を指しているのだろう。また、上落合村の火葬場が、早稲田通りから夏目坂に入って200mちょっとのところにある、妙泉寺が経営していた事蹟も興味深い。
 少し余談だが、明治期になって山県有朋邸が建設される、本来の目白不動Click!が建立されていた椿山Click!(現・椿山荘Click!)のほかに、観音寺や神田上水の先として記述されている第六天社Click!、下落合村の六天坂Click!の同社が建立されている山もまた「椿山」と呼ばれていたのが面白い。この第六天社も、先の法泉寺の管理下に置かれていたようだ。つづけて、『高田雲雀』から引用してみよう。
  
 落合宿はずれ/一、落合御殿山 往古中山勘解由殿やしき跡也、上落合の部也、今は公儀より御留山となる、此山より鳴子淀橋柏木等一円にみへ絶景也/一、中井村 落合上下の間を云/一、瑠璃山薬王院 下落合村/一、落合村に尼寺と云有、此故に前なる橋をびくに橋と云(中略) 一、落合ばしの辺の螢名物也、野千螢と云、狐火程ありといふ心歟、四月の始より数多出る
  
 大田南畝が記録した時代、下落合の御留山Click!(旧・御殿山)は上落合村が管理していたのがわかる。「あまるべ」Click!の里と呼ばれた、農産物の収穫量の多い裕福な上落合村が、山の管理維持費などを捻出していたものだろう。
豊坂稲荷(八兵衛稲荷).JPG
七曲坂.JPG
薬王院.JPG
 さて、ここで「中井村」がようやく登場している。上落合村と下落合村の間にある一帯を「云」うと書かれている。もちろん、大田南畝が当初から知っていたわけではなく、地元の人間に取材して書きとめたのだろう。だが、「中井村」は徳川幕府の行政区画として存在しているわけでなく、上落合村と下落合村にはさまれたエリアの、当時の村人による通称(俗称)であることは明らかだ。
 すなわち、下落合村と上戸塚村(現・高田馬場)との間を流れる、神田上水北岸に展開した古い集落を、村内の通称で「本村(もとむら)」と呼んだのと同じ感覚だろうか。「中井村」は、下落合村西部の北川(現・妙正寺川)が流れる北岸、上・下落合村にはさまれた低地を指していたとみられる。村境のある間(中)の、湧水(井)が豊富な土地(田地)の集落という意味でつけられた可能性が高い。つまり、現在の中井駅は少なくとも江戸中期に村内で「中井村」と呼ばれた集落の近くに位置しているものだろうか?
 「中井村」は、のちに町村の字名(あざな)として継承される例の多い、特定の地区を表現する地元の呼称のひとつだったのだろう。しかし、明治期に入り参謀本部が作成した地図や、郵便の発達とともに村内の小字が「住所」化される際、下落合東部の「本村」は採用されたが、西部の「中井村」は採用されなかった。なぜなら、幕末までにそのような呼称がとうに廃れていたか、「中井村」より普及して小字化された「南耕地」または「北川向」という呼称が一般的になっていたのだろう。
 だが、いったんは消滅した崖線下にふられたとみられる通称「中井村」だが、大正の中期になっておかしなことが起きる。下落合でもっとも標高(37.5m)が高い、字名では「大上」と呼ばれすでに住所化もされていた地区が、いつの間にか「中井」という字名にすり替わっているのだ。江戸期からの経緯にしたがえば、「中井村」は上・下落合村の村境となる北川(妙正寺川)の沿岸でなければならず、また「井」を含む表記からも、江戸東京地方では相対的な地形から低地に付与される地名だ。だが、それがいきなり場ちがいな尾根上のピークに字名として復活している。この不自然さは、大正前期の「不動谷」Click!が西へ300m以上も移動していることも含め、なにやら地域行政(村役場)の恣意的な東京府や、国(陸軍参謀本部など)への働きかけを想起させるのだ。
 大正中期における、この不可解な字名「中井」(本来は「大上」)の登場が、江戸中期の通称「中井村」の川沿いにあったとみられるエリア名(江戸後期から「南耕地」または「北川向」と呼称)と、1965年(昭和40)以来の現住所としての「中井」との間で、スッキリしないギクシャクした“混乱”を生じているようにも思える。目白崖線に住む方々にしてみれば、「なんでここが中井なんだい?」「ここは下落合で中井なんて地名じゃないよ」……と、いつまでたっても馴染めないゆえんだろう。
 あえて西武線の駅名を借りるなら、現在の下落合駅があるところは本村(もとむら)エリアの直近なので「下落合本村駅」、いまの中井駅のある位置は江戸中期以前に通称「中井村」と呼ばれたらしい区画に近いとみられるので「下落合中井村駅」とすれば、少しは地名の時代的な経緯を含めスッキリするだろうか?
中井村地形図1880.jpg
大上1918.jpg 大上1923.jpg
大田南畝刀剣.jpg
 だが、幕府の行政区画でもなく、江戸中期以降は消滅してしまった通称(?)を、1960年代になって範囲を思いっきり拡げ、復活させる必然性や意味あいが、わたしにはまったく理解できない。そしてもうひとつ、「中井村」の由来が目につきやすい大田南畝『高田雲雀』の記述のみを根拠としているのであれば、代々地元の人々に受け継がれてきたゲニウスロキ的な側面を踏まえるとすると、あまりにも薄弱といわざるをえないだろう。

◆写真上:江戸中期まで通称「中井村」と呼ばれていたという伝承が、大田南畝によって記録された中井駅周辺。だが、江戸後期から明治期にかけては「南耕地」(下落合村側呼称)または「北川向」(上落合側呼称)が、両村では一般的な通称だったろう。
◆写真中上上左は、早稲田大学に保存されている1849年(嘉永2)の『高田雲雀』写本。上右は、石崎融思・筆の軸画「大田南畝肖像」。は、早大収蔵の『高田雲雀』写本の本文。は、目白崖線の斜面に沿って蛇行を繰り返す鎌倉街道(雑司ヶ谷道)。
◆写真中下は、学習院の建設で金久保沢に遷移された豊坂稲荷(八兵衛稲荷)だが、元神は木花咲耶姫(咲屋姫)で富士浅間社だったことがわかる。は、鎌倉期の切り通し工法の跡をよく残す七曲坂。は、大雪の瑠璃山薬王院。
◆写真下は、1880年(明治13)に作成された参謀本部のフランス式1/20,000地形図にみる落合地域。中左は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる目白崖線でもっとも標高が高い字名「大上」。中右は、1923年(大正12)の同地形図にみる「大上」から忽然と書き換えられた場ちがいな字名「中井」。は、大田家に伝わる南畝が用いたかもしれない指料で体配から寸延び短刀あるいは脇指と思われる。江戸期の御家人としてはごく一般的な拵(こしらえ)で、持ち主はできるだけ軽量化しようと試みているのか、平造り刀身の平地(ひらじ)に護摩箸(不動明王)ではなく棒樋が入るのがめずらしい。手入れがされておらず水錆が目立つが、刃文は中直(なかすぐ)でのたれ気味とかなり平凡だ。

目白中学校の篠崎雄斎と龍膽寺雄。

$
0
0

シャボテン.jpg
 下落合437番地にあった目白中学校Click!には、篠崎雄斎という経理担当がいた。彼は下落合から1926年(大正15)に上練馬村2305番地へと移転Click!した目白中学校Click!へ勤めるかたわら、シャボテンとダリアの研究でその分野では高名な人物だった。1923年(大正12)には、東京で「仙人掌(シャボテン)同好会」を設立し、自宅近くの代々木倶楽部で毎月陳列会を開催しており、おそらく世話役をつとめていたと思われる。
 篠崎雄斎は、関東大震災Click!前の1922年(大正11)に目白中学校が発行した校友誌「桂蔭」第8号の職員名簿(生徒監)にも、また1924年(大正13)の「桂蔭」第10号の職員名簿にも、美術教師の清水七太郎Click!や英語教師の金田一京助Click!などと並んで名前が掲載されている。関東大震災をはさみ、おそらく篠崎雄斎は目白中学校の開校時から経理を担当し、下落合の校舎へ通ってきていたのだろう。彼の住所は、仙人掌(シャボテン)の陳列会が開かれた代々木会館の近く、代々幡町幡ヶ谷10番地だった。
 また、篠崎雄斎は世田谷町の代田橋で「紅雨園」というシャボテン園を経営し、そこで栽培した多種多様なシャボテンを新宿の園芸店へと卸している。つまり、平日は目白中学校に勤務して経理業務を処理するかたわら、休日には副業に精をだす二足のワラジをはいていたわけだ。彼は1934年(昭和9)ごろに目白中学校を退職し、以降はシャボテンとダリアの栽培および研究に没頭していくことになる。年齢から考えると、目白中学校を辞めたのは定年退職だったかもしれない。
 「桂蔭」に掲載されている、目白中学校に勤務した複数の教職員記念写真を観察すると、いつも左端にいる背広姿で髪を七三に分け、鼻の下に髭をたくわえ端をピンと跳ね上げた、やや古風な風貌の男が篠崎雄斎ではないかと思うのだが、さだかでない。龍膽寺雄Click!が篠崎雄斎を知るのは、下落合の「目白会館」(目白館?)から高円寺へと転居して間もなくのことだった。彼が、篠崎雄斎と出会ったときの様子を、1979年(昭和54)に昭和書院から出版された『人生遊戯派』Click!から引用してみよう。
  
 はじめのうちは、こういう街の中のシャボテン商で、眼についたものから買い集めて、温室の中に収容していたが、そのうち新宿の園芸商の売店にシャボテンを並べているのが、世田谷代田橋の、紅雨園というシャボテン栽培場で、その園主の篠崎雄斎という、この世界で有名な人であることがわかり、そこを訪ねて、さしあたり今後一年間、毎月百円ずつ予算をとってシャボテンを買うから、栽培上の指導や、その他色々便宜をはかってくれるように、と申し入れて、それから、そこへ正子と車を乗りつけては、積めるだけシャボテンを買って来るようになった。/(中略) 篠崎雄斎はその頃、目白中学の経理係りをして、毎夜アルバイトのようにして通って、そこに勤めていたのだが、私がシャボテンを買いはじめると経理係りをやめて、シャボテン栽培専門にかかることになった。篠原雄斎はシャボテンのほかに、ダリアのほうでも、当時日本では有数の人で、三百坪ぐらいの畑に一面にダリアを植え、その隅のほうの数棟の大きな温室に、ギッシリとシャボテンを栽培していた。薩摩の方の人で、その頃六十歳ぐらいだったが、一種風格のある人物で、古色蒼然というような感じがして、どこか浮き世離れしていた。
  
職員名簿1922.jpg
職員名簿1924.jpg
 龍膽寺雄は、丸善で手に入れたシャボテンの本を読んでからそのとりこになり、高円寺の家の庭先へ温室を建ててシャボテンを集め栽培しはじめた。当時、シャボテンを販売していたのは銀座の専門店である丸ハ商店をはじめ、新宿中村屋Click!の近くにも園芸商がシャボテンを扱っており、また日本橋三越Click!の5~6階にあった屋上庭園のようなところでも、シャボテンの鉢を販売していたらしい。
 龍膽寺雄は、1934年(昭和9)に『M・子への遺言』を書いたあと文藝春秋=菊池寛Click!が牛耳る文壇に背を向け、喧騒の東京を離れてシャボテンとゆっくり暮らせる郊外の住居を物色しはじめている。最初は、小田急線の成城学園Click!を希望していたようだが良い物件がないため、もう少し範囲を拡げて横浜から三浦半島にかけてまで探したようだ。鎌倉Click!が気に入ったらしいが、森や谷(やつ)が多くて陽当たりのいい温室に適した広い庭つきの住宅が少なく、購入を思いとどまったらしい。もし、このときモダニズム文学の龍膽寺が鎌倉へ移り住んでいたら、ひょっとすると川端康成は鎌倉には転居してこなかったかもしれず、鎌倉の文学史は大きくさま変わりをしていたかもしれない。
 彼は再び小田急線沿線に注目すると、中央林間駅の近くに希望どおりの家を見つけている。『人生遊戯派』の「『M・子への遺書』前後」から、つづけて引用してみよう。
職員記念写真1922A.jpg
職員記念写真1922B.jpg
龍膽寺雄・正子夫妻.jpg
  
 『M・子への遺書』の発表後、私は文壇に背を向けるつもりになり、騒然とした東京を離れて、ひとり静かな世界を求めて、シャボテンと暮らすことを考えて、現住他の神奈川県大和村中央林間に土地を買い、新居を建てて、移り住むことにした。/新居をどこに構えるか、については、その前に各地を歩き廻って、気に入った土地を物色した。最初成城学園に眼をつけて、さきに述べた斎藤延翁の邸の近くに恰好な土地を見付けたが、あいにく高圧線の鉄塔が近くに建っているので、やめて、横浜から横須賀へ向かう三浦半島沿いの東京湾沿岸をつがし廻り、谷津海岸にひじょうにいい場所を見付けたが、丘陵と丘陵との間にある畑地の所有者がはっきりしない。
  
 こうして、彼は1929年(昭和4)から小田急電鉄が「林間都市計画」の一環として分譲販売していた、「スポーツ都市」の中央林間へ家を建てて引っ越した。小田急の計画では、東京のさまざまな施設を次々と中央林間へ移設し、最終的には首都を東京から林間都市へ遷都させる構想だったという。松竹蒲田撮影所Click!も、当初は大船ではなく中央林間への移設が予定されていた。
 龍膽寺雄も、そのような小田急電鉄の壮大な計画を、どこかで知って移り住んだのかもしれない。あちこちにカラマツの密生した林があり、夏になると南風が相模湾の潮の香りをうっすらと運んでくる、シャボテンの栽培にはもってこいの土地がらだったが、冬は北の大山や丹沢Click!から相模平野へ吹きおろす“丹沢おろし”に震えあがった。彼は1992年(平成4)に死去するまで、この地で作品を書きつづけることになる。
至誠堂新光社「シャボテン」1960.jpg 主婦の友社「流行の多肉植物」1972.jpg
中央林間1941.jpg
 篠崎雄斎と龍膽寺雄が、いつごろまで懇意にしていたのかは不明だが、その後、龍膽寺は次々とシャボテンに関する著作を発表しているので、“師”である篠崎から教わった栽培技術や知見、ノウハウは少なくなかったにちがいない。文学の“師弟”関係や派閥、その馴れ合いや腐敗にウンザリしていた龍膽寺は、まったく関係のない分野の“師弟”関係が新鮮に感じたものだろうか。このあたり、帝展の腐敗に激怒してソッポClick!を向き、踊りや芝居にのめりこんだ金山平三Click!の経緯に、どこか似ているような気がする。

◆写真上:「春雷」か「師子王丸」とみられるシャボテンの花。
◆写真中上:1922年(大正11)3月現在の目白中学校職員名簿()と1924年(大正13)3月現在の同名簿()で、教師に混じり「篠崎雄斎」の名前が見える。
◆写真中下は、1922年(大正11)の教職員記念写真で経理業務担当の篠崎雄斎が写っているはずだ。は、高円寺時代と思われる龍膽寺雄・正子夫妻。
◆写真下上左は、1960年(昭和35)に出版された『シャボテン』(至誠堂新光社)。上右は、1972年(昭和47)出版の『流行の多肉植物』(主婦の友社)。は、1941年(昭和16)に陸軍が撮影した空中写真で龍膽寺邸のあった中央林間2丁目あたり。

目白駅で「7色パンティ」抱え途方に暮れる。

$
0
0

7色パンツ.jpg
 わたしはまったく知らなかったのだが、1950年代の後半に若い女の子の間で「7色パンティ」、あるいは「ウィークリーパンティ」というのが大流行したらしい。高校生から20代の女性まで、競い合うように「7色パンティ」を買い求め、1週間を毎日ちがうカラーの下着をはいて楽しんでいたようだ。
 現代では信じられない感覚だけれど、女子高校生などは親たちから叱られたり、周囲から不良に見られるのを怖れたり、また自分で買いにいくのがとても恥ずかしいため、年上の知り合いや気のおけない親戚に頼んで、代わりに買ってもらうことも多かったらしい。わたしにはまったく理解できない“趣味”だけれど、それほどまでして手に入れたくなるほど、毎日ちがうカラーの下着を身につけられる当時の「7色パンティ」は、彼女たちにとって魅力的だったようだ。
 下落合1丁目527番地に住んだ作家の中野武志Click!は、故郷の信州松本にいる高校を卒業したばかりの親戚の娘から、銀座で売っている「7色パンティ」を購入して送ってくれという手紙をもらった。中村武志の妻、すなわち「おばさまにお願いしますと、叱られると思いますので、このことはぜひおじさまにお願いしたいのです」……というような内容だった。当時の価格で1枚が500円、7色そろったセットになると3,500円もしたらしい。手紙には、郵便為替までが入っていた。
 当時の500円というと、ラーメン1杯が40~50円の時代なので、いまの感覚でいうなら1枚が4,000~5,000円もしたことになる。だから、「7色パンティ」のセットは実に3~4万円前後もする、下着にしてはとても高価な買い物だった。中村武志は、せっかく自分のことを信じて頼ってきた18歳の娘のために、「女房には内証で送ってやろう」とさっそく銀座の女性下着専門店へ買いに出かけた。そのときの様子を、1989年(昭和64)に論創社から出版された中村武志『目白三平随筆』から引用してみよう。
  
 国鉄本社を退けると銀座へまわり、体裁は悪かったが、思いきって女性下着専門店の「ギタシ」へ寄って、七色パンティを買い求めた。/帰宅すると、女房の目につかぬように、パンティの箱を机の下に押しこんでおいた。国鉄で荷造りをして送るつもりであったが、迂闊なことに、翌朝は、かんじんの箱を忘れて出勤してしまった。/私は、なんとなく、一日落ちつかなかった。部屋の掃除の際に、パンティの箱が、女房の目にとまらないことを切に希い続けていた。/五時になるのを待ちかねて、私は急いで帰宅した。/「お帰りなさいませ」/と女房がいった。別に変わった様子はなかった。私はほっと安堵の吐息を洩らした。
  
目白三平.jpg 目白三平随筆1989.jpg
 だが、ふすまを開けて書斎に入ると部屋の中にヒモがわたされ、「7色パンティ」が洗濯バサミで吊るされてヒラヒラしていたのだ。7色のそれには、それぞれ花と曜日が刺繍で縫いこまれていたというから、かなり華やかな眺めだったろう。曜日とカラーと刺繍は、およそ次のようだったらしい。
7色パンツ種類.jpg
 さっそく、連れ合いから「これはいったいどなたに差しあげるんですの」と詰問されるが、故郷の松本にいる親戚の女の子の名前を白状できない筆者は、「ある人に頼まれて買って来た」としか答えることができない。もちろん、そのまますんなり信用されるはずもなく、「品物が品物ですからね。そう簡単にあなたのいうことは信用できませんわ」といわれてケンカになった。
 しまいには、家にいることが不愉快になった中村武志は、家を出て「最近できた恋人」のところで外泊するぞと、なかば脅しのつもりで宣言するが、あわてて止められるかと思ったのに「どうぞお出かけになって下さい。ご遠慮なく……」といわれ、あとへは引けなくなってしまった。しかも、連れ合いから「お出かけなら、これをお持ちになるんでしょう」と、「7色パンティ」まで持って出るハメになる。彼は花がらの刺繍が表にでるよう、1枚1枚ゆっくりていねいにたたんで箱にもどすが、いくところがないので途方に暮れていた。結局、中村夫人は止めてはくれず、彼は目白通りへと押しだされた。
目白駅ホーム.JPG
目白駅ホーム花壇.jpg
 同書の「思い出のパンティ事件」から、再び引用してみよう。
  
 大通りへ出てから私は、まだ夕食を食べていないことに気がついた。国電目白駅へ出る途中の、小さな中華料理店に寄って、ゆっくりとラーメンを食べた。それから、目白駅のホームへ出て、ベンチに腰をおろし、一服しながら、さて今夜どこへ泊まるべきか、と思案した。/二本目の煙草を吸っているうちに私は、目白駅と新宿駅の間で、電車の窓から、『一泊百円・白いシーツときれいなお風呂』というネオンサイン(ママ)の看板を始終目にしていることを思いだした。今夜はそこで一泊しようと決心して、折からはいって来た電車に乗ると、窓に顔を押しあてて、ネオン・サインに注意しだした。/電車が新大久保駅に到着すると、ホームの向こう側に、そのネオン・サインが赤々と輝いていた。
  
 下落合1丁目527番地の中村邸近くにある、目白通りに面した「小さな中華料理店」は、彼がいつもいきつけの「丸長」だったのだろう。新大久保の「ハザマ旅館」は、とうにつぶれてしまったのか現在では見あたらない。
 おそらく、昔の“連れこみ旅館”(死語)だったらしい「ハザマ旅館」では、紹介者がないとお泊めできないと一度は断られるが、国鉄職員の乗車証を見せると信用されて部屋へ案内された。わずか2畳の、いかにも“アベック”(死語)用の狭い部屋で、中村武志は「7色パンティ」を抱きながら一夜を明かした。
 『目白三平随筆集』は、読者の笑いを誘うためか排泄物やトイレ、セックスなどあまりにも下ネタが多すぎて、わたしの感覚ではちょっとついていけない。「美人」を多用するのも、この世代の特徴的な文章なのだが、この随筆が「面白い」と感じられる時代だったものだろうか。残念ながら、わたしには古くさい感覚であまり笑えなかった。ちなみに、いまでは「パンティ」といういい方もあまり聞かないが、「パンツ」「ショーツ」のほうが通りがいいだろうか。そういえば、この時代には「スキャンティー」(死語)などという下着名もあったっけ。
目白駅1970年代.jpg
大久保通り.JPG
 同書には、下落合や目白界隈に住んでいた作家や学者を中心に結成された、「目白会」の様子についても書かれている。中村武志をはじめ、十返肇Click!舟橋聖一Click!、高橋義孝、中曽根康弘、池島信平、原文兵衛、田中角栄Click!……などなどがメンバーで、定期的に下落合1丁目435番地の舟橋邸Click!などで会合を開いていたらしい。おそらく、わたしはここでは取りあげないと思うので、興味のある方は同書を参照されたい。

◆写真上:中村武志の「7色パンティ」とはちがう、現代のカラフルショーツ。
◆写真中上は、タバコ好きだったらしい中村武志のプロフィール。は、1989年(昭和64)に論創社から出版された中村武志『目白三平随筆』。
◆写真中下は、目白駅ホームから眺めた目白橋の橋脚。左手にある階段は、近日中に解体されエレベーターになるらしい。は、1964年(昭和39)の目白駅ホーム。
◆写真下は、1970年代に撮影された夜の目白駅前の様子。は、新大久保駅ホームから西を向いて眺めた大久保通りの現状。


薔薇の夜を旅する中井英夫。

$
0
0

薔薇ブルームーン仏.jpg
 目白学園の斜向かいにあたる下落合4丁目2123番地の池添邸は、1950年代に入ると庭の西側に“離れ家”のような別棟を建設している。もともと1,000坪前後はありそうな敷地には、母家の東南北側に広大な庭が拡がっていたが、東側の400坪ほどの土地を母家の敷地から切り離し、借家を建てて人に貸そうとしたものだろうか。この借家には、1958年(昭和33)に荻窪から転居してきた中井英夫Click!が住むことになり、『虚無への供物』Click!はここで執筆されることになった。
 下落合4丁目のこの界隈は、山手空襲Click!の被害をほとんど受けておらず、戦前からの家々が戦後まで建ち並んでいたエリアだ。この池添邸の離れ家は、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)の空中写真には見あたらず、1957年(昭和32)の写真で初めて確認できるので、おそらく建てられたのは1950年(昭和25)すぎごろではないかとみられる。400坪の敷地をもつ離れ家には、南北に大きな樹木を抱えた広い庭園が拡がり、中井英夫は各種のバラなどを栽培する「植物園」を造成することになる。
 「植物園」といっても別に公開していたわけではなく、池添邸の長い大谷石の塀がつづく東寄りの一画に開いた小さめの門に、そのようなプレートを掲げていたのだろう。「中井」の表札があったかどうかは不明だが、当時の東西に長くつづいていたであろう大谷石塀の一部は、いまでも池添邸の前で見ることができる。1960年(昭和35)に住宅協会が作成した「東京都全住宅案内帳」には、中井英夫の名前ではなく「植物園」というネームが採取されている。当時の様子を、中井英夫『薔薇の獄-もしくは鳥の匂いのする少年』に書かれたイメージから引用してみよう。
  
 高い石塀がどこまでも続き、いっそうあてのない迷路に導かれた気持でいるうち、小さな潜り戸の傍で少年は「ここだよ」というようにふり返った。その少しのたゆたいには、もし表門まで行くのならこの塀添いに廻ってどうぞというような態度が見えたので、惟之はためらわず後について戸を潜った。そこはいきなりの薔薇園で、遠く母屋らしい建物の見えるところまで、みごとな花群れが香い立つばかりに続いていた。(中略) しかも庭は薔薇園ばかりではなかった。栗の大樹のある広場には、その花の匂いが鬱陶しいほどに籠って、朝ごとに白い毛虫めいて土の上に散り敷く。グラジオラスの畑もあって、数十本の緑の剣が風にゆらぎ、周りには春から咲き継いでいるらしいパンジーが、半ば枯れながらまだ花をつけている。ポンポンダリヤは黄に輝き、サルビヤが早々と朱をのぞかせ、咢あじさいはうっすらと紅を滲ませているそのひとつひとつを見廻ることも園丁に課せられた仕事であった。
  
 中井英夫が住んでいた当時、1966年(昭和41)になると離れ家の中井邸をサンドイッチにするように、北側に1棟と南側に2棟の家が建てられている。この3棟の住宅は、同年に行なわれていた池添邸母家の建て替えによる一家の仮住まい家屋とみられ、新邸工事が終わるとともに3棟とも取り壊されている。中井英夫の「植物園」は、母家のリニューアル工事にともなう仮住まい家屋の建設で、かなりの縮小を余儀なくされただろう。
中井英夫邸1947.jpg
中井英夫邸1957.jpg
東京都全住宅案内帳1960.jpg
 中井英夫は、代々植物学者の家に生まれたため、植物には昔から親しんでいた。ただし、バラのような華やかな花は自宅の庭にはほとんど植えられておらず、唯一の例外は深紅色のクリムゾン・ランブラー(庚申バラ)が咲いているのみだったらしい。中井少年は、本郷の動坂近くにある園芸場へ通いながら、バラの美しさに魅了されていった。
 『虚無への供物』を執筆するにあたり、下落合4丁目2123番地の400坪もある庭で、初めて自らの手で各種のバラの栽培に挑戦したと書いている。1981年(昭和56)に書かれた、中井英夫『薔薇の自叙伝』から引用してみよう。
  
 そのころ住んでいたのは新宿区ながら八百坪の庭があり、その半分を自由にしていいという大家の好意で、さまざまな栽培実験が出来たのはありがたかったが、中の一本を心ひそかに“ロフランド・オウ・ネアン”と名づけて大事にしていたのに、肥料のやりすぎか葉ばかり繁ってブラインドとなり、おまけにその長編が講談社から出版された昭和三十九年の秋、私の留守に台風でみごとに折れて枯れてしまった。その運命が暗示するように、長編の方もその後三年ほどは黙殺されたままだった。/だが昭和四十二年、杉並区永福町に引越す直前、ふいにある女性が身近かに現われてから風向きが変わり、薔薇との関わりもまた深くなった。そのころの私は小説の注文もないまま、とある大手の出版社の百科事典の編集を手伝い、傍ら一斉に開校したコンピューター学校の夜学に通ったりしていたのだが、その年の二月二十九日、出版社の受付へ巨きな薔薇の花束が届けられた。
  
中井英夫邸1963.jpg
中井英夫邸1966.jpg
中井英夫邸1975.jpg
 この女性が、彼の作品のいくつかに顔を見せる「白人女」の「ヴェラ」だった。彼女は、バラの栽培にも詳しく、当時開園したばかりの二子玉川園「五島ローズセンター」へ、中井英夫とともに訪れているようだ。
 小学生だったわたしも、1960年代半ばのほぼ同じころ二子玉川園には何度も出かけているが、五島ローズセンターの記憶はない。もっとも、当時は盛んに開催された「恐竜展」や「怪獣展」などの特別展や遊園地がめあてだったので、クタクタに疲弊した親たちは五島ローズセンターまで足をのばす気にはなれなかったのだろう。1971年(昭和46)に書かれた中井英夫『薔薇の夜を旅するとき』には、五島ローズセンターが解体されて東急自動車学校になる直前、ヴェラとともに同園を訪れる情景が描かれている。
 狂おしいまでにバラ好きだった、中井英夫の妄想は止まらない。ついには、TANTUS AMOR RADICORUM(なべての愛を根に!)というワードとともに、自分の身体を土中に埋めてバラの養分(供物)にするという幻想にまでとり憑かれることになる。上掲の五島ローズセンターが登場する、『薔薇の夜を旅するとき』(1971年)から引用してみよう。
  
 外側から薔薇を眺めるなどという大それた興味を、男はもう抱いてはいなかった。暗黒の腐土の中に生きながら埋められ、薔薇の音の恣な愛撫と刑罰とをこもごもに味わうならばともかく、僭越にも養い親のようなふるまいをみせることが許されようか。地上の薔薇愛好家と称する人びとがするように、庭土に植えたその樹に薬剤を撒いたり油虫をつぶしたり、あるいは日当りと水はけに気を配ったりというたぐいの奉仕をする身分ではとうていない。(中略) 将来、それらのいっさいは、精巧を極めたアンドロイドが、銀いろの鋼鉄の腕を光らせながら無表情に行えばよいことで、人間はみな時を定めて薔薇の飼料となるべく栄養を与えられ、やがて成長ののち全裸に剥かれて土中に降ろされることだけが、男の願望であり成人の儀式でもあった。地下深くに息をつめて、巨大な薔薇の根の尖端がしなやかに巻きついてくるのを待つほどの倖せがあろうか。
  
中井英夫邸跡.jpg
薔薇への供物1981龍門出版.jpg 中井英夫.jpg
五島ローズガーデン1963.jpg
 大正時代から、下落合にはバラ園があちこちに存在していた。すぐに思い浮かぶのが、西坂の徳川邸Click!バラ園Click!や翠ヶ丘のギル邸Click!(のち津軽邸Click!)の庭、箱根土地Click!による不動園Click!東側のバラ庭Click!などだ。学生の中井英夫がそれを知っていたら、もう少し早く下落合に住みついていたかもしれない。


◆写真上:フランス産の「ブルームーン」と思われるバラの花。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる池添邸。は、1957年(昭和32)の写真で母家の東側に離れ家が確認できる。中井英夫は翌1958年(昭和33)、この離れ家へ転居してくることになる。は、1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」で、下落合4丁目2123番地に「植物園」のネームが採取されている。
◆写真中下:中井英夫が住んでいた時期に撮影された、1963年(昭和38)の空中写真()と1966年(昭和41)の同写真()。1966年(昭和41)の写真では池添邸の母家がリニューアル工事中で、中井邸の周囲には仮住まいとみられる家屋が3棟増えているのがわかる。は、1975年(昭和50)の空中写真で元・中井邸がいまだ建っているのがわかる。
◆写真下は、中井邸跡の現状。中左は、1981年(昭和56)にバラの短篇ばかりを集めた中井英夫『薔薇への供物』(龍門出版)。中右は、1950年代の撮影とみられる中井英夫。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる二子玉川園「五島ローズセンター」。

下落合は観世流で高田町は宝生流。

$
0
0
能.jpg
 以前、下落合515番地(現・下落合3丁目)には二世・観世喜之邸があり、観世流の能楽堂が設置されていたことをご紹介Click!している。1930年(昭和5)に牛込区矢来町60番地に建設される観世九皐会能楽堂(のち矢来能楽堂)の前身、すなわちシテ方観世流と呼ばれる現在の「矢来観世」が主催する能楽堂が、当初は下落合の自邸内に設置されていた。そのせいで、謡(うたい)を習う下落合の住民たちの多くは観世流Click!だったと思われる。
 ところが、隣り街の高田町(現・目白)では、観世流ではなく加賀の宝生流の謡が流行っている。たまたま宝生流に通じていた金沢出身の人物が、高田町にいたことが要因らしい。また、池袋駅Click!近くにあった、成蹊小学校の教師の中にも宝生流の謡をやる人物がいたらしく、10名ほどのメンバーで「東遊会」という宝生流の会を起ち上げている。その会に所属していたのが、のちに高田町の町長となる海老澤了之介Click!だった。当時の様子を、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』(私家版)から引用してみよう。
  
 私はと言ふと、醸造試験所に編輯の事務を取つて居た頃に、同僚の佐藤事務官、大竹技手と言ふ人達が、金沢出身の石井さんと言ふ所員に、宝生流謡曲を習つて居たので、私も負けずと、鶴亀から習ひ初めて居た。加賀藩はむかしから加賀宝生といつて、誰も彼も宝生流である。ひとり藩士ばかりでなく、金沢人は、大抵宝生をうたつた。/此の昔の一番本には、ゴマ節に細い註が付いて居ない。石井さんは朱筆を取つて、上げ下げからウキ、言葉のダシなどを付けて呉れる。/当時は此の事を何とも思はなかつたが、今考へると、昔の稽古を受けた人は、確かなものだつたのだなと思はれる。/かうして居る内に、雑司ヶ谷にも同好の士が移住して来たので、その人達と一緒に教へを請ふ様になつた。/後に、山形の人で、成蹊小学校の渋谷先生と言ふ人に付いたのであるが、私もこのあたりから謡に本腰を入れ初め、此の先生に習つた弟子達が十人程で「東遊会」の名の下に謡の会を作つたのは大正十年の事であつた。
  
 最初は、(城)下町の「線道をつける」Click!のと同様に、ちょっとした教養を兼ねた趣味のつもりだったようだが、上達するにつれ海老澤了之介は本職の先生について、本格的に宝生流の能楽を学びはじめた。また、ある程度の技量を習得した彼は、高田町の地元で謡の会を主宰して教えている。最初に教えはじめたのは、「高田町青年団」に所属する15名の若い男女だった。
 わたしの親父(観世流)もそうだったが、一度謡(うたい)をはじめるとやめられなくなる魅力があるようだ。おそらく、カラオケボックスや浴室などのライブ空間で歌を唄うと気持ちがよくなり、長時間つづけると一種のトランス状態になるのと同様に、なんらかの快楽的で習慣的な脳内物質が分泌されるのではないだろうか。大正期には、腹の底から声を出して歌うことなどめったになかったと思われるので、あり余る精力やストレスの発散にも効用があったのだろう。ついには海老澤了之介の哲子夫人までが習いたいといい出し、宝生流謡曲はマイブームならぬ高田町のタウンブームとなっていったらしい。
宝生能楽堂(本郷).jpg
観世矢来能楽堂(矢来町).jpg
観世矢来能楽堂1941.jpg
 謡(うたい)を経験した方ならご存じだろうが、各流派の会に入門して段階的に上達していかないと、謡うことを許されない曲というのがある。技量が上がってくると、所属する会も上級者向けのものとなって師匠も変わり、より高度な曲へ挑戦することになる。最終的には、家元に近い師匠から習うようになり免状をもらうことになる。
 海老澤了之介は、宝生流の謡「十一番」ものの免状を1922年(大正11)に習得しているが、つづけて1927年(昭和2)には小皷幸流の家元から頭取・置皷・脇能の許状も受けている。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 その後、勧進帳のお許しが昭和四年五月で、清経、芦刈、鶴亀、田村、土蜘蛛、熊坂、国栖、岩船等の能の免許は、昭和五年から七八年にかけてであつた。/私が初めて演じた能は、清経で、昭和五年二月である。(中略) 昭和五年の二月二十三日、芝紅葉館に松平頼寿伯、毛利元雄子、戸田康保子、近藤滋彌男外竹内金平氏、桜井小太郎氏、長尾真吉氏、布目鄰太郎氏、それに宝生のシテ方、囃子方一同を招待して盛宴を張つたことがある。清経の初能を演了した祝ひ心の為である。松平伯外一同からは又お祝として銀の大きな三つ組の松竹梅模様の盃をいただいた。思へば楽しかりし時代である。/その後にも上野の音楽学校に、松平、戸田、近藤のお歴々と共に、敷舞台を寄附して、その舞台開きに松平さんの翁に続き私が鶴亀をつとめた(後略)
  
 下落合に接する高田町の戸田邸Click!(現・徳川邸Click!)に住んでいた、戸田康保Click!の名前が見えているが、戸田家でも宝生流の謡を習っていたのかもしれない。
月岡耕漁「鶴亀」.jpg
海老澤了之介「鶴亀」1934.jpg
野村文挙「舩弁慶」.jpg
 さて、当時の山手女性は上記のとおり、謡を習う人もいたようだが時代が下がるにつれ、ピアノやヴァイオリンなどの西洋楽器へと流れていく。だが、明治から大正の前半ぐらいまでは、乃手の女性も(城)下町に習って三味に長唄や常磐津の教養稽古に通うことが多かったようだ。高田町でも、四家町Click!雑司ヶ谷Click!は早くから拓けていたので、常磐津のお師匠(しょ)さんが住んでいた。もちろん、ここは乃手などで通い稽古だけでなく出稽古の需要がかなり多かったようだ。
 同書より、哲子夫人の娘時代について引用してみよう。
  
 明治三十年頃でも、尚ほ大衆娯楽はないから、都下近郊一円は、昔ながらの常磐津、長唄、浄瑠璃などのお稽古とか、そのおさらひの会といふものが娯楽と、教養を兼ねたものとして、伝統的に残されてゐたに過ぎない。しかしこれは、今で言ふお茶やお花の様に、特に教育の普及して居なかつた当時の若衆又は娘達の間では、少なからず高尚な意味を持つて取扱はれて居た。其の頃、雑司ヶ谷、高田あたりの土地には、常磐津文字兵衛の高弟で、常磐津栄次と言ふお婆さんの師匠が居た。この師匠は、芸熱心と、お稽古の厳格さで知られて居たから、お弟子の中から相当優れた芸達者な人も出て来て、おさらひの会などは、仲々派手に催された。/時には人通りの多い、四家町の一隅に舞台掛けをして、当時の村人の、唯一の楽しみにふさはしいそして賑やかな人出があつたものである。/この様であるから、亡妻も十才位から稽古にやらされ、夕方学校から帰つてやれやれと、子供同志(ママ)で遊んで居ると、家人から「お稽古に行きなさい」と言はれて、しぶしぶ出かけるのが常であつたと言ふ話を度々物語つて居たが、当時の是等の事情が良く伺はれて面白いと思ふ。
  
 その後、夫人は転居してきた琴の師匠について常磐津をやめてしまうが、三味の音色が恋しくなったのか、のちに今度は長唄を出稽古で習いはじめている。
月岡耕漁「隅田川」.jpg
早大演博「小面」.jpg 早大演博「小尉」.jpg
 この長唄のお師匠(しょ)さんは、下町から雑司ヶ谷小学校の近くに転居してきた杵屋小梅という女性だったらしい。長唄は、常磐津よりも新しいジャンルなので、哲子夫人も改めてその魅力に惹かれたものだろう。うちの親父の稽古ごとにも長唄は入っていたが、同時に三味を習っていたのも哲子夫人と同じだ。これらは、江戸東京の一般教養であり、三味をつまびきながら唄のひとつも口ずさめなければ“野暮”とされるのが、戦前までの特に旧・市街地の江戸東京人では常識だった。かくいうわたしも、野暮天のひとりだ。

◆写真上:フリー画像からいただいた舞台写真だが、演目は「吉野静」だろうか。
◆写真中上は、本郷にある宝生流能楽堂。は、矢来町にある観世流の矢来能楽堂。は、空襲で焼ける4年前の1941年(昭和16)に撮影された矢来能楽堂。
◆写真中下は、能の浮世絵で高名な月岡耕漁の『鶴亀』。は、1934年(昭和9)に演じられた宝生流の能舞台「鶴亀」の記念写真。シテは海老澤了之介(中)で、亀が宝生秀雄()と鶴が前田忠茂()。は、日本画家の野村文挙による『船弁慶』。
◆写真下は、月岡耕漁による浮世絵『隅田川』。は、早稲田大学演劇博物館に収蔵されている室町期とみられる能面で「小面」()と「小尉」()。

東京35区時代のプライオリティと名所。

$
0
0
牛込氏墓所.jpg
 1932年(昭和7)10月1日に、従来の東京15区が35区に再編成されたとき、新たに編入された区部を紹介する書籍や冊子が、いっせいに出版されている。その中でも代表的なのが、1932年(昭和7)に東京朝日新聞社が発行した『新東京大観』上・下巻Click!と、翌1933年に博文館が出版した『大東京写真案内』だろうか。
 1878年(明治11)にスタートした東京15区は、巨大な城下町だった大江戸Click!の旧・市街地をエリアごとに区制へ置き換えたものだった。この区分けは、のちの東京35区についても同様のことがいえるのだが、ひとつの街としてのエリアを規定する上では、その文化や歴史、言語(江戸東京方言Click!)、風俗、習慣、気質、アイデンティティなどのちがいも含め、よく練られた構成だったと思う。大江戸の街は、江戸後期から世界でも最大クラスの大都市だったので、ひとつの街としての統一感はきわめて希薄だ。
 街ごとに、上掲の“ちがい”が顕著であり、しゃべり言葉を聞いただけで、だいたいどこの地域か当てられるほどの差異が存在していた。いつだったか、「どちらの出身?」と訊かれて「東京です」と答えるのは、「日本です」と答えるのと同じぐらい曖昧で漠然とした回答だ……と書いたことがある。東京15区は、その“ちがい”をうまくすくいとって、歴史的な経緯などをベースに旧・大江戸の市街地を15分割したものだろう。
東京15区.jpg
 上掲の東京15区の中でグリーンに塗った8区が、いわゆる町人たちや幕府の小旗本、御家人たちが多く居住していた城下町(略して下町)であり、その他の7区が町人よりも比較的身分が高い武家たちが主体だった武家屋敷街(俗に旧・山手=乃手)と呼ばれるエリアだ。おもに明治末ごろから、この旧・山手は15区の外周域(郊外)へと徐々に拡大していき、西側の山手線内外に形成された屋敷街を、旧・山手と区別する意味で新・山手と呼ぶことがある。だが、現在では区制も意識も大きく変わり、新旧をいっしょにして概念的に山手(やまのて=乃手)と呼ばれることが多い。
 わたしの本籍地は15区の中の日本橋区になるのだが、現在では歴史や文化が異なる京橋区といっしょにされて「中央区」と呼ばれている。江戸期から栄えているのは日本橋側だが、明治になって発達したのが銀座を抱える京橋区だ。日本橋と京橋では祭神の氏子町も異なり、日本橋側はおもに江戸東京総鎮守の神田明神Click!だが、京橋側はおもに徳川家の産土神である山王権現(日枝権現)社Click!の氏子が多い。つまり、東京15区時代の日本橋区と京橋区のほうが区分けとしては自然なのだ。わたしの故郷が、銀座や築地を含む中央区だという意識は、アイデンティティ面も含めて皆無だ。銀座や築地は、隣接する神田や柳橋、本所と同様に“お隣り”であって地元ではない。
 上記15区の中でブルーに塗った区が、のちの戦後に新宿区を形成するエリアなのだが、四谷区は千代田城外濠の見附Click!に接した四谷や市谷を中心とする江戸期からの繁華な乃手の街で、牛込区はさらに外側の神田上水を抱える江戸期から農村色の濃いエリアだった。さらにいえば、四谷区は甲州街道の宿場町から発展しており、牛込区は中世の牛込氏の街から発達したより歴史の古い地域ということになる。これに淀橋区も加え、一緒くたにして戦後に「新宿区」となるわけだけれど、地域性をひとくくりにするにはだいぶ無理があるのがおわかりいただけるだろうか。
淀橋区1.jpg
淀橋区2.jpg
 さて、この東京15区に加えて1932年(昭和7)に加わったのが、次の新しい20区ということになる。この区分けのしかたも、地域性が考慮されていて自然に感じる。
東京35区.jpg
 表に付加している数字は、当時の出版物で紹介されることが多かった追加20区の優先順位だ。ちなみに、東京朝日新聞社の『新東京大観』(1932年)と博文館の『大東京写真案内』(1933年)も、この順番で紹介されている。いずれも、トップで紹介されているのは豊島区で、いちばん最後が杉並区となっている。
 これが、東京35区について記述する際の、当時の人々が抱いていたプライオリティだったのだろう。やはり、なんらかの歴史的な経緯や事蹟、芝居などに登場する機会の多い地域や名所、住宅街の形成や人口などが考慮されているとみられ、今日の“都心”でありギネスブックにも掲載されている世界最大のターミナル新宿駅を抱える淀橋区が、ビリから3番目で18位というのが面白い。市街地の15区を加えれば、33位の下位に位置づけられている。渋谷区も、淀橋区と肩を並べてビリから4番目の17位だ。80年以上もたつと街は大きく変貌し、まったく別の顔を持ちはじめるのがよくわかる。
牛込区.jpg
四谷区.jpg
 『新東京大観』には、新たに編入された20区の観光ポイントを紹介する、「大東京新名所」と題するエッセイが掲載されている。以下、リストにして引用してみよう。
大東京新名所.jpg
 それぞれの名所で、現在でも通用するもっともな区もあるけれど、中には「なんでだい?」と首をかしげるところも多い。知名度の高い豊島区が強いのは、やはり子育てには霊験あらたかな雑司ヶ谷の鬼子母神Click!を抱えているからだろう。かわいそうなのは荒川区と品川区で、なぜ江戸期の処刑場だった小塚原Click!(こづかっぱら)と鈴ヶ森Click!が、区内を代表するお奨め観光スポットになるのだろうか。江戸川区の星降りの松はいいとして、板橋区の縁切り榎もあんまりだろう。もっと、ポジティブで気持ちのいい場所を紹介すればいいのに……と、わたしでなくても思うのではないだろうか。
豊島区.jpg
中野区.jpg
 「明日は、首斬りの土壇場があった小塚原へいくの、とっても楽しみだわ」とか、「鈴ヶ森の磔(はりつけ)跡を見るの、いまからウキウキして今夜は眠れそうもないね」とか、今日の心霊スポットめぐりではあるまいし、通常はありえないだろう。「ねえ、あなた、せっかく35区の大東京時代になったのですもの、今度の日曜日に板橋の縁切り榎までハイキングしませんこと?」と妻にいわれたら、「あれ、オレもいま、そう思ってたところさ。ほんと、気が合うねえ!」などと答える夫は、まずいそうもない。

◆写真上:東京メトロ・早稲田駅から東へ300mほどの、宗参寺にある牛込氏累代の墓。
◆写真中上は、1932年(昭和7)撮影の淀橋区にあった角筈十二社池Click!は、1933年(昭和8)撮影の同じく淀橋区の新宿駅近くにあった新宿カフェー街。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された牛込区の神楽坂Click!は、1932年(昭和7)撮影の四谷区にある神宮球場で東京六大学野球Click!の開会式のようだ。
◆写真下は、1932年(昭和7)に空撮された豊島区の雑司ヶ谷鬼子母神。は、1933年(昭和8)撮影のコンクリート新駅舎が完成した中野区の中央線・中野駅。

飛行機もカメラマンも不明な学習院空撮写真。

$
0
0
目白小学校.JPG
 こちらでは低空飛行で撮影された学習院の写真として、1933年(昭和8)出版の『高田町史』(高田町教育会)に掲載されたグラウンド写真Click!と、同年撮影で学習院に保存されている下落合406番地の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)の写真をご紹介している。昭和寮の写真には1933年(昭和8)撮影のタイムスタンプがあり、学習院グラウンドの写真は同年に出版された『高田町史』のグラビア所収なので、わたしは2枚とも1933年(昭和8)に同一の飛行機から撮影された写真類だと判断していた。
 ところがグラウンドを撮影した写真、つまり『高田町史』掲載のほうは、前年の1932年(昭和7)であることが判明した。しかも、同年4月29日と撮影日までがはっきり特定できる。そして、おかしなことに写真を撮影した人物が何者なのか、学習院のグラウンド上空を旋回した飛行機がどこの所属のものなのか、現在にいたるまでまったく不明なのだ。物語は、当時の高田町長だった海老澤了之介Click!のもとに、差出人不明の郵便が突然とどけられたところからはじまる。封筒の中には、学習院のグラウンドを借りて記念行事を行なう、高田町の各小学校の生徒たちが整列している空撮写真が入っていた。
 当時の高田町は、市街地からの急速な人口流入で町内の小学校がまったく足りず、「二部教授」制を採用して授業を行っていた。二部教授とは、子どもたちを収容する教室が足りないため朝から昼までの授業と、午後から夕方までの授業に分けた時間割りを実施することだ。下落合の場合、いまだ空き地が多く残っていたため臨時の分校舎を建設し、できるだけ二部教授を回避することができたが、市街地化が早かった目白駅東側の高田町では、分校舎の土地を確保することがむずかしかったのだ。
 ちなみに、高田町の明治末に記録された戸数は1,000戸弱で人口が約3,500人だったものが、1921年(大正10)には戸数7,200戸で人口が約27,000人、昭和初期には戸数約10,000戸で人口が約43,000人と激増している。小学校は、高田第四小学校(現・南池袋小学校)を建設したところで学校敷地がなくなり、高田町は第五小学校建設のために目白通りの北側にあった学習院馬場Click!の買収へと乗りだしている。同馬場の敷地へ、高田町は高田第五小学校(現・目白小学校)と高田町役場、消防ポンプ所、火の見櫓、そして高田警察署を設置する計画だった。
 土手に囲まれた学習院馬場Click!は、面積が約4,000~5,000坪ほどあり、当時は三矢宮松が長官をつとめていた宮内省林野局の所有だった。刀剣好きの方なら、三矢宮松という名前に見おぼえがあるだろう。若いころから耳が遠く、大きな補聴器を首から下げ大声で会話をしなければならなかった、戦前の有名な刀剣鑑定家だ。高田町助役だった海老澤了之介は、三矢宮松との交渉から1928年(昭和3)11月9日、学習院馬場を坪40円で買収することに成功した。ところが、川村女学院Click!の敷地払い下げ交渉は難航している。
学習院馬場1926.jpg
学習院グラウンド19320429.jpg
学習院グラウンド1932解題.jpg
学習院グラウンド.jpg
 そのときの様子を、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』(私家版)の一節から引用してみよう。
  
 高田町と云へば、学習院の所在地であり、その直接の行政官庁の要求でしかも役場庁舎敷地学校校舎敷地と言ふ様な目的に使用するのであつたから、馬場は学習院の南方の下の方に仮に移してでも、我々の希望にそつて下さる事になつた。たしか払下価格は一坪四拾円だと記憶して居る。(中略) この頃矢張り川村女学院も女学校敷地として払下げ出願書を出したが、いかに当時台湾総督の余勢をもつてしても、如何んともするなく、出願は空しく却下されたので、我々はこの時少しは愉快感を感じた事であつた。
  
 このあと、川村竹次は高田町に泣きついて協力を要請し、個人名義の私立学校には払い下げられないという宮内省を説得して、財団法人化することで解決を図っている。結局、払下げは成功するのだが、坪単価は60円と高田町ほど値引きはしてくれなかった。
 こうして、1929年(昭和4)9月に高田第五小学校は落成した。これにより、少しずつ生徒たちを第五小学校へ移籍させ、不足する教師たちの工夫や努力などで、二部教授制が解消できたのは3年後の1932年(昭和7)になってからのことだ。高田町では、二部教授の解消が教育の領域での大きな課題だったせいか、それが解決できたことで大がかりな祝賀会までが開催されている。
 1932年(昭和7)4月29日に学習院のグラウンドを借りて、高田町内の小学校に通う生徒や教職員たち全員を集めて、「二部教授撤廃大祝賀会」が催された。そして、このときグラウンドの上空にたまたま飛来した飛行機には、カメラマンあるいはカメラを持った“誰か”が同乗していたのだ。同書から、つづけて引用してみよう。
高田町役場跡.JPG
海老澤了之介「追憶」1954.jpg 高田町史1933.jpg
  
 この時は町内第一から第五に至る全校の生徒教職員、並に学校後援団体が全員を挙げて参加し、トラック内には、生徒全員、トラックの外には父兄関係者数千集合、時しも団体体操を行つて居たが、丁度その時、空を飛行機が飛んで低空旋回を行ひ、機上から旗さへ打振つて呉れたので、一同歓声をあげて之に呼応し、互に祝福したことであつた。翌々日ともなると、ここにかゝげた様な大きな空中から撮影した写真を町長の僕宛に送つてくれた。しかも発送人は書いてなかつた。当時は新聞飛行機も無し、広告飛行機も無し、飛行隊一本の時代であつたから、軍部飛行機であつた事は疑ひないが、低空旋回までして撮影してくれたのに、その送り人の名を示さないところ、日本武人のおくゆかしさが伺はれて嬉しかつた。今だ(未だ:ママ)にその人の名が知られない事が残念に思はれる。
  
 海老澤了之介は、「新聞飛行機も無し、広告飛行機も無し、飛行隊一本の時代」と書いているけれど、もちろんそんなことはありえない。
 1925年(大正14)3月6日に下落合の目白商業(現・目白学園)に墜落した、ビラを撒いていた「広告飛行機」のエピソードClick!はこちらでもご紹介しているが、新聞社もまた航空機をチャーターして紙面用の空中写真を早くから撮影している。たとえば、1923年(大正12)6月14日に東京朝日新聞社のチャーター機が、カメラマンを載せて早稲田大学の戸塚球場に飛来Click!し、東京六大学野球の様子を撮影しているのをご紹介済みだ。だから、1932年(昭和7)ともなれば、さまざまな目的の小型機が上空を飛行していたはずであり、祝賀会のときたまたま飛来した飛行機が所沢から飛んできた陸軍航空隊のものとは、まったく限定できないだろう。
 新聞社が取材用に、専用の社機を保有するのはもう少しあとの時代になるが、取材案件ごとに航空機をチャーターすることは、大正の早い時期からすでに行われていた。したがって、機上から“社旗”をふって撮影してくれたのは、どこかの新聞社の記者ないしはカメラマンだったのかもしれないし、カメラが好きな広告宣伝マンかもしれないし、あるいは海老澤が書くように軍人だったのかもしれない。
 ただし、学習院OBが多い陸軍の飛行機だとすると、「発送人」名を書かずに秘匿したのが確かにうなずける。なぜなら、任務以外のプライベート写真を撮ってフィルムを浪費したことがバレれば、非常にまずいからだ。でも、これは大判フィルムが非常に高価だった時代に、仕事以外の被写体を撮影してしまった記者やカメラマンについても、まったく同じことがいえるとは思うが……。
高田町役場1933.jpg
高田町役場記念写真1933.jpg
高田町町役場跡.jpg
 海老澤了之介が高田町の助役から町長にかけての時代、武蔵野鉄道Click!を池袋から護国寺まで延長させる計画が進行している。高田町には、「武蔵野鉄道護国寺線作成委員会」が結成され、同鉄道や沿線の街に対して積極的な働きかけが行われた。なぜ根津山が長期間、宅地開発も行われずそのままの状態に置かれていたのか、武蔵野鉄道の延長と終点駅に近い操車場の設置を考慮すると、なにか別の物語が見えてくるかもしれない。
 だが、隣りの西巣鴨町が武蔵野鉄道にはまったく消極的で、高田馬場駅から早稲田までの地下鉄「西武線」Click!と同様、延長計画は画餅に帰してしまった。高田町では、やる気のない西巣鴨町に対して立腹していた様子なのだけれど、それはまた、別の物語……。

◆写真上:先年に新装なった、現在の目白小学校(旧・高田第五尋常小学校)。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる学習院馬場。は、1932年(昭和7)4月29日に不明の航空機から撮影された学習院グラウンドの「二部教授撤廃大祝賀会」。は、現在の学習院グラウンドと高田町役場跡界隈。
◆写真中下は、火の見櫓の残滓が残る高田町役場跡裏の現状。下左は、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』。下右は、1933年(昭和8)出版の『高田町史』(高田町教育会)で撮影者不明な学習院グラウンドの空中写真も収録されている。
◆写真下は、1933年(昭和8)撮影の左から高田町役場、消防ポンプ所と火の見櫓、高田警察署。は、前年の豊島区の成立とともに撮影された高田町役場解散記念写真で印が町長だった海老澤了之介。は、左から右へ高田町町役場(現・警視庁目白合同庁舎)や消防ポンプ所(現・豊島消防署目白出張所)、高田警察署(現・目白警察署)の跡。

『大東京写真案内』にみる新宿区エリア。

$
0
0
内藤清成白馬.JPG
 1932年(昭和7)に東京35区制がスタートすると、当時のメディアでは新たに東京市へ加えられた20区の紹介が盛んだった。前回の記事Click!では、新たに誕生した20区紹介のプライオリティや観光・散策に出かける際の「名所」などをご紹介したけれど、きょうは1933年(昭和8)に博文館から出版された『大東京写真案内』を中心に、35区のどのような街並みや「名所」が紹介されているのかを見ていこう。
 もっとも、35区すべてについてご紹介するわけにはいかないので、ここは落合地域のある現在の新宿区エリア、すなわち「淀橋区」「牛込区」「四谷区」の3区について、どこが取り上げられ、なにがアピールされているのかを見ていきたい。同3区は、戦後の1947年(昭和22)5月に合併して、東京22区(8月には23区)がスタートするのだけれど、本来はかなり風土や気質、文化などが異なる地域同士だった。
 3区の合併にあたり、「早稲田区」(明治期からのネームの知名度からか)、「戸山区」(1000年以上前の平安期からの和田氏Click!による事蹟からか)、「武蔵野区」(一般に広くつかわれた郊外名称Click!からか)などいくつかの区名プランが出ているが、牛込区とともに当初から東京15区のひとつであり、もっとも繁華で市街地化が進んでいた四谷区の江戸期宿場町の事蹟にちなんだ、内藤家下屋敷に由来する「内藤新宿(ないとうしんしゅく)」Click!が注目されたのは自然なのだろう。
 この宿場町名から、松平系大名の「内藤」を取り去って「新宿(しんじゅく)」と濁った発音にしたのも、新しい地域名としてのオリジナル感があって秀逸なネーミングだと思う。もともと性質や歴史的な経緯が異なる3区を統合したのだから、どこの地域をもイメージさせない架空の名称が必要だったのだろう。それほど、この3区は歴史的な経緯や風土・文化も異なっていたように思える。
 では、江戸期の宿場町から拓け千代田城の外濠に隣接する、旧・乃手Click!の四谷区から見ていこう。四谷区は、千代田城の四谷見附Click!と甲州街道の内藤新宿を中心に栄えた街で、区内には神宮外苑や新宿御苑Click!(内藤家下屋敷)を抱える江戸市中のころから有名なエリアだった。したがって、『大東京写真案内』で紹介される「名所」も、江戸期の事蹟にちなんだ場所が多い。同書では「四谷見附附近」「お岩稲荷」「新宿御苑」、そして江戸期に移植された神宮外苑に生える「なんじゃもんじゃの木」「神宮プール」「神宮競技場」「神宮球場」など10ヶ所が取り上げられている。
 400年ほど前、尾張徳川家Click!が同地に移植した“なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)”が、なぜことさら取り上げられているのかは不明だが、「四谷見附附近」の写真に添えられたキャプションから引用してみよう。
  
 四谷見附附近
 往年四谷門のあつたのがこの辺り、今はその桝形の跡をとり除いて、石畳だけが僅かに遺つてゐる。麹町をよぎる甲州街道は、この見付(ママ)を過ぎて四谷区を東西に横断、内藤新宿の追分で青梅街道と分れる。見付から新宿に至る一帯は震災後飛躍的発展をとげた商業区域、交通の頻繁な点から云へば、正に都下随一であらう。
  
四谷見附.jpg
慶應病院.jpg
新宿御苑.jpg
帝都座.jpg
神宮競技場.jpg
聖徳記念絵画館.jpg
 この文章は、東京都庁が淀橋に移転してきて以降、そのまま「新宿区」にも当てはまる表現だろう。このほか、四谷区では慶應大学の大規模な「慶應病院」と、映画館街の代表として「帝都座」が紹介されている。慶應病院については、「流石金に絲めをつけず建設された私立病院の雄、外観設備共に完璧」と皮肉まじりのキャプションが添えられ、同病院の空中写真が掲載されている。
 次に牛込区の「名所」も、江戸期以前からの歴史をベースにした場所が並んでいる。四谷区と同様に、千代田城の外濠に面した街だからだろう。「市ケ谷見付と牛込見付」(ママ)をはじめ、「築土八幡」「関孝和の墓」「市ケ谷八幡」などの5ヶ所。明治期由来のものは市ヶ谷の「陸軍士官学校」で、大正末から拓けた場所として「神楽坂」が紹介されている。同様に、キャプションから引用してみよう。
  
 市ケ谷見付と牛込見付(ママ)
 市ケ谷見付――外濠一つ挟んで、向側が麹町区こちらが電車線路に沿つたいさゝか古風な市ケ谷の片側商店街、近くに市ケ谷八幡や士官学校がある。この見付から飯田橋寄りにあるのが牛込見付、山の手第二の盛り場神楽坂を控へて、ラツシユアワーの混雑はめまぐるしいが、こゝの外濠の貸ボートは、都心に珍らしい快適な娯楽機関である。
  
 1933年(昭和8)現在、「山の手第二の盛り場」が神楽坂であり、「第一の盛り場」が新宿駅東口(駅前通りClick!=新宿通り)だった時代だ。いまだ渋谷も池袋も、駅前から住宅街が拡がり「盛り場」としてまったく認識されていない。また、数ある江戸期に由来する墓所の中から、なぜ算学者の関孝和だけが選ばれて掲載されているのかが不明だ。
牛込見附.jpg
市ヶ谷見附.jpg
陸軍士官学校.jpg
大東京写真案内1933.jpg 建築ジャーナル201704.jpg
 つづいて淀橋区、つまり現在の新宿区の中枢部にあたるエリア紹介では、今度は江戸期以前に由来する「名所」がただのひとつも紹介されていない。ピックアップしようと思えば、東西の大久保地域や百人町、尾張徳川家の戸山ヶ原Click!、神田上水の淀橋Click!に玉川上水、高田八幡(穴八幡Click!)に成子天神Click!皆中稲荷Click!角筈十二社Click!西向天神Click!鎧社Click!、花園社……と史跡や物語にはこと欠かないはずなのだが、なぜか明治以降の街並みや施設しか掲載されていないのだ。
 ちなみに、紹介されている写真は「淀橋浄水場」Click!をはじめ、「早稲田大学」Click!(大隈講堂Click!)と同大学の「演劇博物館」Click!「新宿駅」Click!「新宿駅前通り」Click!、そして「カフェー街」となっている。つまり、昭和初期の段階から淀橋区=新宿駅とその周辺は繁華街や歓楽街、公共施設(各種インフラ)などのイメージであり、多種多様な歴史や文化の面がすっかり置き去りにされる……という現象が起きていたのがわかる。同書の、新宿駅周辺に関するキャプションから引用してみよう。
  
 新宿駅前通り
 都心から放出する中産階級の人々の関門であり、享楽地であるのがこの一帯。震災後山の手銀座の名称を神楽坂から奪ひ、一日の歩行者三十萬、自動車が四萬台。三越、二幸をはじめ大小の商店が軒を並べ、その裏街はカフエとキネマと小料理やが、雑然と立並ぶ帝都有数の享楽街。
 カフエー街
 近年新宿カフエー街の発展はすばらしいもので、新宿の裏手及び東海横丁等断然圧倒的に他の地区の追随を許さない。
  ▲
 この傾向は1980年代までつづき、新宿区=ビジネス街+歓楽街のイメージから、容易に抜け出すことができなかった。また、新宿区の行政自体もそれで満足し、ことさら歴史や文化について丹念に掘り起こしたり、記念物や文化的リソースをていねいに保存する積極的な努力をしてこなかったように見える。
 その流れのターニングポイントとなったのが、1989年(昭和64)に設立された新宿歴史博物館Click!あたりだろうか。これは、翌1990年(平成2)に東京都庁が新宿駅西口へ移転することが見えていたため、「都庁のある地域が歓楽街のイメージのままじゃ、ちょっとマズイじゃん」という行政の意識が、少なからず働いたせいなのかもしれない。以降、相変わらずビジネス街や繁華街の印象は残しつつも、21世紀に入るとかなり異なる地域の側面がクローズアップされてきた。
淀橋浄水場1.jpg
淀橋浄水場2.jpg
新宿駅.jpg
新宿駅前通り.jpg
早稲田大学大隈講堂.jpg
早稲田大学演劇博物館.jpg
 1933年(昭和8)の当時と、今日の文化面におけるさまざまな掘り起こしなどの成果を含め、おそらく四谷地域や牛込地域、そして淀橋地域ともども新宿区として取り上げられる「名所」は、その思想的な背景や行政の視点とともに激変していることだろう。もはや、「山の手銀座」などとは誰も呼ばなくなり、銀座とはまったく異なる新しい時代のアイデンティティが形成できるほど、23区内でも独自の風土や街並みを形成している。

◆写真上:内藤清成が家康から、白馬で駆けまわった範囲を下屋敷地として与えるといわれた伝説が残る内藤町。多武峯内藤社には、いまも白馬像が安置されている。
◆写真中上:四谷区の風景で、からへ四ッ谷駅前の四谷見附橋、信濃町駅前の慶應病院、内藤家下屋敷の新宿御苑、キネマの帝都座、神宮球場、国立競技場(工事中)になった神宮競技場、そして神宮外苑の聖徳記念絵画館。
◆写真中下:牛込区の風景で、からへ現在でもボートが浮かぶ牛込見附、左手が釣り堀になる市ヶ谷見附、市ヶ谷台にあった陸軍士官学校。下左は、1933年(昭和8)出版の『大東京写真案内』(博文館)で、表紙が日本橋なのがうれしい。下右が、東京都の時代遅れな都市計画について書かせていただいた『建築ジャーナル』2017年4月号。
◆写真下:淀橋区の風景で、からへ淀橋浄水場の濾過池と沈殿池、3代目・新宿駅、新宿通りとなった新宿駅前通り、早稲田大学の大隈講堂と演劇博物館。
Viewing all 1249 articles
Browse latest View live