下落合に化学研究所を開設し、科学とキリスト教の教義を強引に融合させようとした人物がいる。1924年(大正13)に大学の教授を辞職し、下落合482番地へ佐藤化学研究所を設立した工学博士・佐藤定吉だ。徳島県出身の佐藤定吉は、東京帝国大学工科へ入学したあと本郷の弓町本郷教会で洗礼を受け、1912年(明治45)に同大学を卒業すると、翌々年に東北帝国大学に勤務しはじめている。
佐藤定吉が佐藤化学研究所を創立したのは、1923年(大正12)ごろとみられ、1924年(大正13)3月に東北帝国大学の教授を辞める以前から、下落合で起業していたらしい。なぜなら、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!のとき、同研究所の薬品類の容器が破壊され化学反応を起こして発火し、落合地域ではほとんど見られなかった火事騒ぎを起こしているからだ。この火災は拡がらずに、ボヤで消し止められている経緯は、以前に書いた同志会Click!の物語でご紹介Click!している。
また、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!には、同研究所が「佐藤化学工業研究所」のネームで採取されている。そして、同年制作の「大日本職業別明細図」の裏面には、同研究所の小さなマス目広告が掲載されているが、そこでは「佐藤化学研究所」となっているので、後者が正しい名称だったのだろう。翌1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にも、下落合482番地に同研究所が採取されている。以降、佐藤定吉は1945年(昭和20)4月の空襲まで下落合に住んでいたとみられるが、『落合町誌』(1932年)の「人物事業編」には、残念ながら収録されていない。また、ほかの地元資料でも、佐藤定吉について触れた記述をほとんど見かけない。
佐藤定吉が科学者としての生き方から、急速に宗教者への道を歩みはじめたのは、1924年(大正13)8月の五女の死去がきっかけとなったようだ。1926年(大正15)に、佐藤化学研究所内へ「産業宗教協会」を設立して、月刊雑誌「科学と宗教(Science Religion)」を発行しはじめている。つづいて、1927年には「イエスの僕(しもべ)会」運動を組織して、娘の死から“召命”を受けた「全東洋を基督へ」の布教活動を実践している。彼の布教活動は、日本全国をはじめアジア各地や米国にまで及び、精力的な布教活動をつづけていく。さらに、1928年(昭和3)からは「科学と宗教」に加え、月刊誌「晩鐘」を刊行している。
室町時代末期に来日した宣教師が聞いたら、泣いて喜びそうな「全東洋を基督へ」のスローガンだが、佐藤定吉の言葉を1929年(昭和4)に発行された「科学と宗教」4月号から引用してみよう。ちなみに、同誌は定価20銭で全国の会員へ通信販売されている。
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是迄我々が考へ来つた光は、通常二種類に分けられる。即ち我々の視覚に映ずる普通の可見的光と、又紫外線、赤外線、X光線の如き不可見の光とである。然しながら光は単に視覚や触覚で知り得られるもののみではない。其処には第三の種類のものがある。即ち我々の心のみに感ずる霊の光である。我々が此の光を暗い心に感ずる時、心の中に或る明るさと温さとが与へられてくる。そして其の生活全体が何となく明るい光の中に包まれてゐる様に感ずる。此の光は物理学的には未だ説明されてゐないけれども、我々の体験は明かに是を立証する。(中略) 目には見えず、手には触れ得ないけれども、心に明るさと温さとを感ぜしめる此の光―霊光―は、我等の日常生活に於いて常に経験する事である。我々が親しい者と会つた時は、例へ暗黒の中でも心の中には明るさを感じ、温さを覚えてくる。これは明かに我々の霊に感じて其の生活全体を明るくする霊光の存在する事を意味してゐる。(中略) 宇宙一切の森羅万象は、神の霊波の一元より出づる特殊顕現相なる事を発見するであらう。即ち我々の心に感ずる霊的波動が、一切の根源になつてゐる事が察せられる。
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「暗闇で友人に出会ったら、誰だって安心してホッとするだろ!」と、誰かさんのような突っこみを入れてはならない。そういう人は、「イエスの僕会」には入れないどころか、「霊光」や「霊波」の存在がわからない迷える人にされてしまう。
引用箇所に限らず、佐藤定吉の文章は“論理の飛躍”が多くてついていけない。だが、彼の周囲には若者たちを中心に、数多くのシンパが集まってきていたようだ。これらの若者たちとともに、佐藤定吉は汽車に揺られながら全国を布教行脚することになる。行く先々では、「科学と宗教」の購読者=会員が鉄道駅まで出迎え、彼は学校や各種施設などで講演会をこなしていく……という布教スタイルができあがった。
「科学と宗教」には、その布教行脚の様子が日記形式で記録されている。上掲の同誌4月号には、外国への布教活動は「聖戦記」、国内のそれは「伝導随行記」といったタイトルで、信者たちのレポートが掲載されている。その中から、目加田光という人物が書いた文章を引用してみよう。
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別れは惜しい、併し聖戦に出陣する若武者の胸はたゞ歓喜に慄く。出陣の快味若武者にこそ特別に恵まれる。緋縅しの鎧に戦場を駆け巡つたのは戦国時代の夢ではない。人々よ視よ、我が全国に居る同志の若武者を。/彼等の弦を放れ飛ぶ石打の征矢を!/彼等の美事な太刀筋を!/身命を屠して祖国の救ひの為に! 名か、我れ之をとらじ。地位か、我が欲するところならず。只管に祖国の救を祈りての力戦を人々よ知らざるや。自分の魂は長崎へ飛ぶ。八月以来孤闘無援猶死守して斃れざる同志の上に『今暫く待て、先生と俺とが行くぞ!偕(とも)に偕にやらうぞ』『斃れるなら俺達も偕にだ、勝利を祝ふ時まで、常に主偕に在り、必勝だ、暫く支へよ』(中略) 凡てを御意のまゝ為し得給ふ神よ。此の更生を我が祖国に与え給へ。三千年の歴史は老ひぬ、けれども三千年貫いて流れる大和魂を、物質文化より祓いて燃え立たせ給へ、東洋の島帝国、特殊の使命はその上にあり。愛と義と堅く執りて一点の汚れない光栄ある歴史の我が祖国よ、我々の時代に祖国危しとの声を聞かば何の面目あつてか地下の故老に見えん。/神よ我らの祈りに聞き給へ。
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伝導レポートには、まるで今日のアルカイダやISのプロパガンダのような熱狂的な文章が踊っている。そこからは、多くのキリスト教を信じる人々から感じる敬虔な謙虚さや柔軟さが、みじんも伝わってこない。彼らは、自身が信じるキリスト教のためには、斃れるのも辞さず情熱的かつ挺身的な布教活動を展開し、「全東洋」のキリスト教圏化へ向けてエキセントリックな「聖戦」を闘っていたのだろう。
すでにお気づきの方も多いと思うが、「全東洋」や「聖戦」、「大和魂」、「帝国」などという言葉が臆面もなく踊る宗教(思想)は、のちに破滅した大日本帝国の「大東亜共栄圏」を叫ぶ、軍国主義の「亡国」思想ときわめて近似している。案のじょう、日中戦争が激化するにつれ、佐藤定吉と彼の信者たちはキリスト教徒にもかかわらず、容易に大日本帝国の「皇国主義」やファシズムに迎合・一体化し、「イエスの僕会」を解散して「皇国基督会」とまで名乗るようになった。
戦時中は、ほとんどのキリスト教団体が大なり小なりファシズム政府や軍部からの迫害、拡大する戦争に抗して、憲兵隊Click!や特高警察Click!から目の敵にされ弾圧を受けつづけたのに対し、「皇国基督会」はそれとは対照的な活動をつづけ、「大東亜“教”栄圏」でもめざしていたものだろうか。
科学はもとよりキリスト教の「神」の存在と、「キリスト」の教えやその事蹟と、「現人神」である天皇と、国家御用達の宗教である「伊勢神道」と、わけのわからない規定不能な「大和魂」や「神風」などと、どのような折り合いをつけて科学的かつ宗教的な整合性や統一性を保とうとしていたものか、前述の「科学と宗教」から類推するならば、心の「霊光」と宇宙の「霊波」のなせるワザだったのかもしれない。
1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、下落合482番地の佐藤化学研究所(皇国基督会本部)は全焼・壊滅した。この時点で、佐藤定吉の熱狂的な伝道活動はついに終焉をみたのだろう。戦後、他のキリスト教の団体や信者たちからの総批判をあびる以前に、同研究所も皇国基督会も期せずして雲消霧散しているようだ。
◆写真上:下落合482番地にあった、佐藤化学研究所(佐藤定吉邸)跡の現状。
◆写真中上:上左は、1925年(大正14)の「出前地図」(北が下)に収録された同研究所。上右は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同研究所。向かいの長坂長邸Click!は駿豆鉄道取締役で、少し前まで箱根土地の堤康次郎邸Click!だった。中は、1925年(大正14)作成の「大日本職業明細図」裏面に掲載された同研究所の広告。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる佐藤定吉邸(佐藤化学研究所)。
◆写真中下:上左は、1929年(昭和4)に産業宗教協会から発行された「科学と宗教」4月号。上右は、同号の裏面に掲載された佐藤定吉の著作広告。下左は、1924年(大正13)に厚生閣書店から出版された佐藤定吉『人生と宗教』。下右は、1926年(大正15)に産業科学協会から刊行された同『生命の本流』。
◆写真下:上は、1925年(大正14)の同志会名簿(第1区)に掲載された佐藤定吉。中左は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された空襲直前の佐藤化学研究所。中右は、同年4月13日夜半の空襲後に撮影された同研究所跡。コンクリート建築だったらしく、全焼しているようだが外壁が残っているのが確認できる。下は、佐藤化学研究所とほぼ同時期に下落合へ設立された池田化学工業Click!の広告写真。豊菱製氷工場Click!側の建屋から北東を向いて撮影しているとみられ、奥に写っているのは線路土手を走る4両編成の山手線。西武鉄道による土地買収が進んだのか、池田化学工業の北側は空き地がつづいているのがわかる。
「大和魂」で「聖戦」の佐藤化学研究所。
東京西部に残る和田氏の伝承。
落合地域の周辺には、平安末ごろから伝承されたとみられる和田氏の伝承Click!や地名が散在するのを、これまで折りにふれて書いてきた。和田氏とは、もちろん鎌倉幕府Click!の重要な御家人の系統であり、侍所別当の重責をつとめるあの“和田氏”だ。当然のことながら、鎌倉幕府ができたので和田氏が突然形成されたのではなく、もともと南関東に根差していた勢力が幕府の成立過程で重要な役割りをにない、幕府成立後は鎌倉へ移住して館をかまえたとみられている。
落合地域には鎌倉街道が通い、鎌倉の切り通し工法で作られた七曲坂Click!には、奥州藤原氏との戦ののちに形成されたとみられる頼朝伝説が残り、七曲坂の下からは鎌倉期に造られた板碑Click!が出土している。つまり、下落合の本村Click!(もとむら)と呼ばれたエリアは、少なくとも鎌倉時代にはすでに形成されていたとみられ、周辺になんらかの勢力が根を張っていたとしても不思議ではない発掘状況だ。
通称「和田山」Click!と呼ばれ、和田氏の館跡の伝承が残る井上哲学堂Click!の丘や、その南側の松が丘に展開する鎌倉時代の住居跡、鎌倉中期だろうか下落合の西部から西落合にかけて語られる地頭・細田氏の伝承、そして和田山の北側に継承された(東)和田から本村(中野区)や、現在も地名がつづく広大な和田町(中野区)、東の長崎側に残った大和田Click!(豊島区)、戸山ヶ原に展開する和田戸Click!(新宿区)の地名など、後世に形成された付会や俗説とは思えない、リアルな存在感をおぼえるのだ。そしてもうひとつ、和田義盛の伝説が残る東中野の事績を見つけたのでご紹介したい。1933年(昭和8)に出版された、『中野町誌』(中野町教育会)から引用してみよう。
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和田義盛手植の松
東中野駅の北方にて野立場の南寄に、和田義盛手植の松と云ひ伝へたる老木ありしが、大正六年の頃枯死したり、此の地は旧幕徳川時代の代官中山主水の抱屋敷以前より武家屋敷跡なるよし。或は和田義盛の館址にや。されど和田館址と称する地は前既に記したる、和田堀町字堀之内なる妙法寺池の外、野方町に字和田山(哲学堂)及び和田部落ありたり。又渋谷町にも大和田ありて和田一族の住めるよし伝へあり。(後略)
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和田義盛の「手植の松」というのは、かなり後世の付会臭がするけれど、ここで重要なのは和田氏のネームがあちこちで具体的に伝承されているという事実だ。
東中野駅の「野立場」というのは、徳川幕府の時代に将軍が鷹狩りClick!にやってきて、周囲の様子を展望した「御立場」Click!と同義のポイントで、下落合の七曲坂の上にも同様の場所があった。東中野駅の北東側、すなわち早稲田通りを越えた上落合エリアに接した南側は、大塚と呼ばれる古い小字が伝承されてきたエリアで、百八塚Click!のひとつで墳丘とみられる見晴らしのいい小高い丘が存在したのかもしれない。現在の場所でいうと、「野立場」は2009年(平成21)に廃校になった東中野小学校のあたり、すなわち華洲園跡Click!(小滝台住宅地)の北東の位置にあたる。
また、杉並区の和田堀町界隈や渋谷町の中渋谷界隈にも、昭和初期まで和田氏の伝承が色濃く語り継がれていたのがわかる。渋谷の大和田は、現在でいうと渋谷駅の南西側にある南平台町や鉢山町、鶯谷町、桜丘町あたりの丘陵地帯だ。これらの地域を地図にポイントし、面で考察すると広大な地域が浮かび上がる。
すなわち、東側は新宿区の戸山ヶ原Click!(尾張徳川家下屋敷Click!)に残る和田戸(山)から、北は豊島区の椎名町駅と東長崎駅の中間に位置する大和田、あるいは中野区にある哲学堂公園(和田山)の北側にふられた(東)和田、西は杉並区の現代につづく広い和田(町)から和田堀Click!にかけ、そして南は渋谷駅の南西側にある大和田の丘陵地帯まで、実に5つの区域にまたがる南北に長い広大な面積だ。
これだけ広範にわたり和田氏の事蹟や伝承が数多く語り継がれ、また地名にもその痕跡が色濃く残っている状況から、すべてが後世の付会ぱかりとはいい切れないリアリティを感じるのはわたしだけではないだろう。これら物語の発祥は、鎌倉幕府が成立し和田氏が相模の海辺へと一族で移住(出仕)する以前、藤原時代の末あたりから形成されていた可能性も否定できない。
下落合の自性院に残る縁起を記録した、1932年(昭和7)出版の大澤永潤Click!『自性院縁起と葵陰夜話』から引用してみよう。
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今より八百年前藤原時代の末葉義家卿の部下の士によつて開かれたといふ床しい伝説を持つ当地はそれより三百有余年を経て室町時代となりました、勿論この間、鎌倉時代の伝説として近くに和田義盛の據城跡と伝ふる和田山の伝説が村の鎮守の森に続いて西方一帯の丘陵に渡つてあります。(中略) 和田山の故事は一寸前述致しましたが当初鎮守御霊社境内に続いて西方一帯の丘陵地で明治年間彼の妖怪学の泰斗で社会事業家井上円了博士の哲学堂が建説(ママ:設)せられ都人学徒の参観者数多あり、又この度び大東京都市編入に際し此の辺一帯天然風致区域に指定せられました。
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この伝承によると、「村の鎮守の森」すなわち葛ヶ谷村(現・西落合)の鎮守である葛ヶ谷御霊社Click!にも、和田氏に関わるなんらかの伝承が当時まで残されており、落合地域から和田山の(東)和田の本村地域にかけて、かなり古くから「和田伝説」が語り継がれてきたことをうかがわせる。和田氏の館が、ほんとうに和田山にあったのかどうかはとりあえず別にして、近接する下落合の鎌倉街道や頼朝伝説を踏まえれば、そうとう根深い伝説だったことがうかがわれる。
鎌倉時代は、いまだ室町後期のような“山城”や“平城”などの城郭を築く、戦略あるいは戦術上の発想は存在していない。あくまでも拠点となる館が中心であり、その建設地に選ばれたのは、周囲からできるだけ攻められにくい地形を考慮した適地を選ぶのが通例だった。そのような視点から、改めて「和田」の地名が残る一帯を眺めていると、丘あり谷ありの起伏に富んだ地形であることに気がつく。つまり、和田義盛がほんとうに住んでいたか否かは別にして、和田氏に関連する館ないしはなんらかの拠点が、鎌倉時代のこれらの地域に広く展開していた……と考えても、なんら不自然さを感じないのだ。
東京西部に残る「和田」地名のエリアから、鎌倉時代の集落遺跡、あるいはその存在を示唆する板碑などが共通して発見されているのであれば、この仮説はがぜんリアリティを増すことになるだろう。和田山(哲学堂)の南には鎌倉期の遺跡が、下落合の鎌倉街道沿いからは鎌倉時代の板碑が見つかっている。他のエリアも、古くからの遺跡が多そうな地勢なので、なんらかの痕跡が残っているかもしれないのだが……。
◆写真上:落合地域の西隣り、野方村(現・中野区)の東和田あたりの街並み。
◆写真中上:上は、昭和初期に撮影された井上哲学堂(通称:和田山=現・哲学堂公園)。中は、1933年(昭和8)に撮影された小滝台(旧・華洲園)上の東中野尋常小学校。下は、同小学校のある小滝台の丘上へと通う急なバッケ階段。
◆写真中下:1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる、野方村東和田界隈(上)と長崎村大和田界隈(中)。下は、東京西部に残る和田氏の伝承地と「和田」地名。
◆写真下:上は、「和田戸(山)」と呼ばれた戸山ヶ原に残る箱根山で旧・尾張徳川家下屋敷の庭園跡。中は、谷と丘の連続で起伏が多い渋谷駅南西側の南平台界隈。下は、鎌倉の由比ヶ浜に残る和田氏一族の終焉地である和田塚。
アトリエ新築の直後に死去した藤川勇造。
1933年(昭和8)に二科の彫刻家・藤川勇造Click!と洋画家・藤川栄子Click!の夫妻は、大正期から住んでいた戸塚3丁目866番地(旧・戸塚町上戸塚866番地)のアトリエおよび自宅をリニューアルしている。設計を担当したのは、のちに下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の安井曾太郎アトリエClick!(1934年)や、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の林芙美子邸Click!(1941年)を設計する山口文象だ。
だが、この全面リニューアルで美しい自邸やアトリエが竣工したにもかかわらず、わずか2年後の1935年(昭和10)6月に藤川勇造は急死している。主のいなくなったアトリエを引き継いだのは、妻で洋画家の藤川栄子Click!だった。藤川勇造が死去する4年前、つまり自宅兼アトリエのリニューアルを計画中だったとみられる1931年(昭和6)に、戸塚町誌刊行会から出版された『戸塚町誌』の「人物事業史」編でも藤川勇造は紹介されている。短いので、同書から引用してみよう。
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彫刻家二科審査員 藤川勇造 戸塚八六六
香川県人藤川米透氏の長男にして、明治十六年十月十日を以て生る、同四十年東京美術学校彫刻家を卒業して、同年九月仏国に留学し、在仏七年帰朝後二科会員に推さるゝ彫刻界の一権威である。
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自宅とアトリエをリニューアルする以前、早稲田通り沿いに大正期から住んでいた藤川夫妻の自宅やアトリエには、彫刻家ばかりでなく、近くに住む洋画家たちが大勢通ってきている。下落合に住んでいた1930年協会Click!の画家たち、すなわち佐伯祐三Click!や里見勝蔵Click!、前田寛治Click!、木下孝則Click!、外山卯三郎Click!らも常連だった。ときに、藤川栄子の“追っかけ”だった長谷川利行Click!も、下落合の里見勝蔵たちを訪ねる道すがら、まちがいなく藤川アトリエの周辺をうろついていただろう。ときに藤川夫妻の主催で、画家たちによるハイキングClick!なども催されていた。
佐伯祐三は、頻繁に藤川アトリエを訪れて親しかったらしく、1927年(昭和2)8月の二度めの渡仏時には、東京駅のプラットホームまで藤川夫妻がわざわざ見送りにきている。また、藤川栄子も佐伯アトリエを頻繁に訪れ、佐伯米子Click!とイーゼルを並べている姿を目撃されている。藤川栄子が佐伯の死後に書いた 1928年(昭和3)発行の「アトリエ」10月号から引用してみよう。
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主人は佐伯さんの美術学校の二年の時に面識があつたやうでした。主人の甥の学友であつた関係からデツサンを持つて批評を頼みに来たことがあるそうです。その時甥は佐伯さんを「ズボ」と言ふニツクネームで読んでゐたそうです。/カラーなども付けないし、少しも風采をかまわないたちなので(ずつと最近までもやはりそうでしたが)実際その親称は打つて付けの名前だと思はれました。あのちつともかまわない、風風飄飄とした氏ではありましたが、実に感傷的で、生一本な芸術家的真実に引込まれて、私達は皆佐伯さんと非常に親むでゆきました。里見氏や、前田氏などは兄弟のやうに可愛がつてゐられたやうです。/二度目の渡欧の時には送別会が幾度も催されました。私の家でも夫妻のために楽しい一夜を過したことを思ひ出します。その時、とても無邪気な、子供子供した騒ぎ方をしてゐられたのが、今、目の前に、はつきりと見るやうな気がします。/渡欧の日、東京駅で、今はなき愛児、彌智子嬢や、佐伯氏との最後の握手を一種悲壮な気持で思ひ出さずにゐられません。主人は佐伯氏に「健康だけを注意し給へ」と言つた時、氏はただ黙つてうなずいてゐられたやうでした。
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佐伯が見ることのできなかった、新しい藤川夫妻の自邸およびアトリエだが、竣工した写真を見ると戸山ヶ原Click!の方角、つまり南側に立木や芝庭を配した母家とアトリエともに洋風建築だったことがわかる。敷地の北側に建てられた母家つづきに、おそらく藤川勇造のアトリエは建てられている。庭に面した南側に大きな採光窓が設けられ、屋根に穿たれた天窓には日光を遮るロール幕が設置されている。彫刻家は、別に北向きの採光窓でなくても仕事に不都合を感じなかったのだろう。
敷地の東側、タネトリClick!=映画撮影所跡の空き地があった方角には、独立した建物が配置されているが、これが藤川栄子のアトリエだと思われる。当時の町工場などの建物によく見られる、屋根上に空気抜きのような小さな屋根がもうひとつ設置され、おそらく北面の屋根から壁にかけて、大きな採光窓が穿たれているのだろう。背後に見えている、昭和初期まで早稲田通り沿いのところどころに残っていた、松林の風情がめずらしい。
藤川勇造の死後、藤川栄子は1983年(昭和58)11月に死去するまで、戦後に改めて建て直したこの敷地の自宅兼アトリエに住んで制作をつづけた。もともと文学をめざしていた藤川栄子は、散歩とおしゃべりが大好きだったらしく、近くの戸塚4丁目593番地に住む窪川稲子(佐多稲子)Click!の家へ出かけてはおしゃべりを楽しみ、上落合2丁目549番地に住んでいた壺井栄Click!や上落合の女性たちと誘い合っては、戸塚界隈や落合地域を歩きまわっていた。
その散歩の様子を記録した、めずらしい写真が残っている。1941年(昭和16)に発行された「スタイル」6月号は、おそらく早稲田通りとみられる商店街を散歩する藤川栄子と壺井栄の姿がとらえられている。ずいぶん前にもご紹介Click!している写真だが、同誌のグラビア「歩きませう」に添えられたキャプションから引用してみよう。
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アトリエから出てらした藤川さんがお友達の壷井さんとごいつしよに戸塚から小滝橋へ、落合から中野までの強行軍です。何も今日にかぎつたことじやありません。藤川さんと壷井さんとは、もう一人ご近所の窪川稲子さんも混つて、戸塚から中野へ中野から戸塚へ、往つたり来たり、下落合界隈を強行なさるのだといふことです。
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この文章で、窪川稲子(佐多稲子)の名前が出ているにもかかわらず、彼女は写っていない。おそらく、3人で散歩をする姿を写したかったのだろうが、ふたりが窪川稲子(佐多稲子)を誘いに寄ったら不在だったか、雑誌に顔を出したくなかったか、ちょうど新聞社の招きで「満州」への旅行中だったのだろう。彼女たちの家ばかりでなく、一般の家庭には電話など引かれていないので、事前に連絡して待ち合わせをすることなどできなかった。家を訪ねて留守であれば、そのままあきらめるしかなかった時代だ。
キャプションの冒頭に書かれている通り、この写真が「戸塚から小滝橋へ」の散歩であるとするなら、壺井栄は「スタイル」のカメラマンを連れて、まず藤川栄子アトリエを訪ねて散歩に誘い、つづいて窪川稲子(佐多稲子)を誘いに寄ったが留守だったか、治安維持法違反で検挙・起訴され懲役2年執行猶予4年の判決を受けていたため、グラビアに載って特高Click!を刺激したくなかったためにフレームアウトしたかで、小滝橋へと下る早稲田通りを歩くふたりの姿を撮影したものだ。壺井栄と藤川栄子は同じ香川県出身で仲がよく、本名が坪井栄の藤川栄子と、小説の著者名が誤植でまちがえられた壺井栄の「坪井栄」事件Click!がきっかけとなり、急速に親しくなったものだろう。
写真に撮られたふたりが歩く道路が早稲田通りであり、小滝橋へと向かっているところだとすれば、この撮影ポイントは1ヶ所しか存在しない。冬服を着た子どものマネキンとともに、背後に写っているタイル張りの洋品店は、戸塚4丁目592番地の洋服店(店名不明)だ。位置的には、戸塚4丁目593番地の窪川稲子(佐多稲子)宅から早稲田通りへと出て、小滝橋へ向かい50mほど歩いたところの右手(北側)に開店していた。右側(東隣り)に写るオーニングが張り出した店舗は、中山という人物が経営していた日本食堂だ。実は、窪川宅とこの洋服店との間には、もう1軒のタイル張り洋服店があるのだけれど、その東隣りは「清掃組合」と「田村事務所」が入るオフィスになっており、表が店舗のかまえをしていないので、必然的に撮影場所を1ヶ所に絞ることができた。
ふたり(佐多稲子がいれば3人)は、小滝橋へと出ると橋をわたった先から、キャプションにも書かれているとおり道を右折して、上落合から下落合をめざしたかもしれない。途中、移転前の月見岡八幡社Click!の道筋へと入り、上落合1丁目186番地の村山知義アトリエClick!に立ち寄って、村山籌子Click!にも散歩に出ようと声をかけていただろうか。
◆写真上:戸塚3丁目866番地(旧・戸塚町上戸塚866番地)の藤川栄子アトリエ跡。
◆写真中上:上・中は、1933年(昭和8)の竣工直後に撮られた藤川勇造アトリエと母家。採光窓のある母家つづきの左手が、藤川勇造アトリエだとみられる。下は新アトリエが竣工した1年後の1934年(昭和9)に藤川勇造アトリエ内で撮影された藤川夫妻。
◆写真中下:上は、庭に別棟として建てられた藤川栄子アトリエとみられる建物。中は、1936年(昭和11)に撮影された藤川栄子の自宅とアトリエ。下は、空襲で焼かれたあと1963年(昭和38)の空中写真にみる戦後の藤川栄子アトリエ。
◆写真下:上は、1941年(昭和16)発行の「スタイル」6月号に掲載された散歩をする壺井栄(左)と藤川栄子(右)。下は、写真が撮影されたとみられる洋品店の一画で、1995年(平成7)に発行された『戸塚第三小学校周辺の歴史』所収の濱田煕Click!の記憶画より。
松下春雄の「下落合風景」だろうか?
松下春雄Click!の作品には、どこの風景を描いたのかわからない画面が何点か存在している。それらの作品タイトルは、単に『風景』とつけられて場所の特定がなされていない。なにか特徴的な建物や地形が描かれていれば、比較的に場所の特定は容易だし、当時の松下春雄Click!はこんなところまで写生しに歩いていたのか……と、その活動エリアも透けて見えてくるのだけれど、いくら眺めても思い当たる場所が見つからない作品がある。1927年(昭和2)に制作され、『風景』と名づけられた冒頭の画面もそのひとつだ。
1926年(大正15)から1927年(昭和2)にかけての当時、松下春雄Click!が住んでいたのは下落合1445番地に建っていた鎌田方Click!の下宿だ。いまだ独身の時代で、淑子夫人Click!とは結婚していない。この時期、盛んに描いていたのは佐伯祐三Click!と同様に「下落合風景」Click!であり、中でも目白文化村Click!と西坂の徳川義恕邸Click!は何度かモチーフに選んで繰り返し制作している。また、ときに椎名町駅から武蔵野鉄道Click!に乗って出かけたのだろう、豊島園Click!の風景作品も何点か見ることができる。
豊島園の作品として確認できるのは、まず1926年(大正15)制作の『愉しき初夏の一隅』が挙げられる。同園にある洋式庭園の中心に設けられた音楽堂を背景に、子どもたちが遊具で遊ぶ情景を描いたものだ。また、翌1927年(昭和2)になると、ストレートに『豊島園』とタイトルされた2点の風景作品が残されている。さまざまな花々が咲き乱れる中を、ふたりの女の子が歩いている光景だ。ふたりの少女は、特にモデルがいるわけではなくイメージなのだろう、徳川邸のバラ園を描いた作品(『徳川別邸内』Click!)や、目白文化村の第一文化村水道タンクを描いた作品(『五月野茨を摘む』Click!)にも、同じようなコスチュームで登場している。いずれの作品も、水彩で描かれたものだ。
このころの松下作品は、いまだ水彩がメインであり油彩作品はまれに見られる画面だった。そして、冒頭の1927年(昭和2)に制作された『風景』は、当時ではめずらしい油彩の画面だ。この時期に見られる表現の流れからとらえると、この画面は下落合か豊島園のどちらかにありそうな風景を描いたもの……と考えたくなる。だが、そのどちらにも思い当たる描画ポイントがないのだ。
画面を観察すると、まず左手前の妙な建物が目につく。コンクリートらしい質感で建てられた、2階建てらしいモダンな建築なのだが、大小の煙突が2本、平坦な屋根を突き破って空へ伸びている。どことなく病院か工場を思わせる風情だが、きわめて特徴的でめずらしい建築だ。松下春雄は、かなり高い位置から見下ろすように家々を描いており、画面に描かれた家は西洋館が多いように見える。遠景にとらえられた、おそらく下見板張りとみられる緑色の壁面をした洋館や、赤い屋根にベージュの外壁をした西洋館は、まるで目白福音教会Click!の敷地内に建てられた、2棟の宣教師館Click!のようなデザインだ。また、中央に描かれたモダンなデザインの住宅は、第二文化村から下る振り子坂の途中に建っていた「モダンハウス」Click!のようなデザインをしている。
画面の地形は、手前の崖線から急激に落ちこんでいるが、右手前方に向かって再び盛り上がっているように見える。つまり、見下ろしている家々は、南に向かって浅い谷間のように窪んだ地勢に建っているようだ。光線は左寄りの背後から射しており、家々の屋根の向きを考慮すると左手が南東、または南の方角になりそうだ。陽射しは比較的強く、太陽が傾いた夕方のようには見えない。どこか下落合にありそうな風景に見えるけれど、1927年(昭和2)現在でこのような家々や地形は、山手線が走る線路際の東端から中井御霊社Click!のあるバッケClick!の西端まで、思い当たる場所が見あたらない。
そもそも下落合の西部には、いまだ住宅の数がきわめて少ない昭和最初期の作品だ。だから、比較的家々が数多く建ち並ぶ下落合の東部から中部にかけてを疑ったのだが、この画面が描かれてから9年後、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を仔細に観察しても、似たような地形の箇所は発見できるが、このような配置で家々が建ち並ぶエリアは存在していない。また、コンクリート建築と思われる屋根から、煙突が2本突き出ていた家の伝承も、わたしは聞いたことがない。これほど特徴的な建物なら、どこかのエピソードに登場してもよさそうなのだ。
さらに、わたしは豊島園周辺の風景を疑った。この時期、松下春雄は豊島園を頻繁に訪れているようであり、同園の南側には旧・米沢藩(上杉家)の人々が集まって結成した「城南住宅組合」が、1924年(大正13)2月から豊島城跡(のち豊島園)の南側へ「城南田園住宅」Click!の造成をはじめていたからだ。だが、その住宅街をいくら見まわしても、屋根から煙突が2本突き出た家や、描かれたような西洋館群の家並みを確認することができないし地形も一致しない。しかも、大正末の郊外住宅地だった城南田園住宅だが、西洋館よりもどっしりとした日本家屋が目につく街並みだった。
もうひとつ、松下春雄には不思議な作品が残されている。周囲を木々に囲まれた中に、突如として辰野金吾Click!が設計したような、おそらくレンガ造りの巨大な西洋館がポツンと描かれている作品だ。1926年(大正15)制作の『風景』と題された水彩作品だが、このような情景も下落合には存在しない。最初は、第一文化村の東側に建っていたレンガ造りの大きな箱根土地本社のビルを疑ったが、同社に尖塔は存在していないし周囲の情景が明らかに異なっている。手前に1本の煙突のみが描かれているが、煙突を必要とする建物自体が存在しないのも妙な光景だ。このような建築は、当時の豊島園の園内とその周辺にも存在していない。
念のため、松下春雄が旅先でスケッチした風景ではないかと考え、長女にあたる山本和男様・彩子様Click!夫妻の手もとに保存された昭和初期の4冊のアルバム類を参照しても、これらの画面に見あう風景は発見できなかった。アルバムには、やはり独身時代よりも淑子夫人Click!と結婚してから撮影したもののほうが多く、旅先の写真も出身地の名古屋をはじめ、安孫子や伊勢・志摩と限られたものしか残されていない。
松下春雄は、モチーフに選んだ情景をほぼそのまま画面に写す画家だと思われ(イメージとして添加されるふたりの少女は別にして)、たとえば松本竣介Click!のように街角を切り取って自在にコラージュし、またはデフォルメしつつ“構成”しなおして表現する画家ではないはずだ。でも、ときにそのような試みをしていなかった……とはいいきれない。特に大正末から昭和初期にかけ、水彩から油彩へと向かう表現の過渡期であったことを前提に、また冒頭の『風景』(1927年)がめずらしく油彩表現であることを考えあわせると、可能性がゼロとはいえないのではないだろうか。あるいは、わたしの知らない松下春雄の出身地、つまり名古屋の風景を写したものだろうか?
もし1927年(昭和2)制作の『風景』が当時の下落合の実景だとすれば、きわめて短期間しか存在しなかった街並みではないか?……という可能性も、わずかながら残っている。同年にはじまった金融恐慌は、翌年から世界的なレベルでの大恐慌へと向かい、下落合に建っていたオシャレな家々もその影響を受けたのか、街並みが少なからず変化していく時代でもあるからだ。
◆写真上:1927年(昭和2)に制作された、キャンバスに油彩の松下春雄『風景』。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に豊島園で描かれた松下春雄『愉しき初夏の一隅』。中は、昭和初期に作られた豊島園の音楽堂から洋風庭園あたりの人着絵はがき。下は、昭和初期に斜めフカンから撮影された豊島園と城南田園住宅。
◆写真中下:上と中は、1927年(昭和2)に描かれた松下春雄『豊島園』。下は、1926年(大正15)ごろに制作された描画場所が不明な『風景』。
◆写真下:上は、1922年(大正11)7月に撮影された本郷洋画研究所時代の松下春雄。中は、1928年(昭和3)4月15~19日に愛知県商品陳列所で開催された第5回サンサシオン展の記念写真。前列左から遠山清・松下春雄・不詳で、後列左から鬼頭鍋三郎Click!・不詳・加藤松三郎。下は、1929年(昭和4)ごろに制作された鬼頭鍋三郎『風景』。まだ葛ヶ谷(西落合)Click!へアトリエを建てていない時期だが、下落合1385番地に住んでいた松下夫妻の新居には顔を見せていたと思われ、「下落合風景」Click!の可能性がある1作。
ドクトルマンボウの下落合昆虫記??
小学生のころ夏休みの自由研究というと、よく昆虫採集をしたものだ。その様子は、以前にも記事Click!に書いたことがあるが、近くに森や山がある地域の方は、子どものころの虫捕りは誰でも経験しているのではないだろうか。(女子Click!は別かな?) 大人になるとともに、虫とは縁遠くなりめったに捕まえることがなくなるけれど、子どもが生まれたりすると再び補虫網を手にしては、近くの森や山へと出かけることになる。
わたしにとって、いちばん印象的な虫捕りの場所は大磯Click!の渓流だった。水辺に下りて待ち受けていると、1時間でオニヤンマが数匹は捕まえられた。ギンヤンマは捕まえたくても、かなり高いところを飛行しているので、子どもたちの背丈や技量ではむずかしい。夕暮れどきに、松林の上に拡がる空を琥珀色の羽で染める、ギンヤンマの大群をうらめしげに見上げていた。特に、胸と腹の間に空色が入るギンヤンマの♂を、手に入れたくてしかたがなかったのを憶えている。
神奈川県の海辺、渚も近い下が砂地の原っぱには、大きなトノサマバッタやショウリョウバッタが群れていたし、近所の林にはあらゆるセミの声が聞こえていた。チョウや甲虫類も多く、そういう意味では虫捕りにはめぐまれた環境だった。逆にいえば、うちの娘のように虫ギライな人間には最悪の環境に見えるだろう。だが、ときおり親が連れ歩いてくれる東京の(城)下町Click!界隈では、虫の影などほとんど見かけなかった。たまに空き地で、渡りをするウスバキトンボの姿を見るぐらいだった。だが、山手にはまだ緑が多く残っていたので、いろいろな虫が棲息していただろう。
下落合での虫捕り場というと、やはり御留山Click!などの森や林、池などがあるエリアだろう。おそらく、1960年代後半から80年代前半あたりにかけては、空気や河川などの汚濁がピークを迎え、虫の姿もあまり見かけなくなったのではないだろうか。だが今世紀に入ってから、樹木が伐られ緑は相変わらず減少しつづけているものの、虫の姿や声は目立って多くなってきた。
わたしの家のまわりだけでも、オニヤンマをはじめ多彩なトンボの姿を見かけるし、ベランダにはカブトムシ(♀)が飛びこんできたりする。いったい長い間どこに隠れていたものか、30年前を考えるとまるで夢のようだ。鳴き声からすると、関東に棲息するセミは全種類いるようだし、夕暮れに神田川沿いを散歩するとギンヤンマの姿さえ見かけるようになった。でも、戦前に比べたら、いまだ非常に数が少ないのだろう。
1963年(昭和38)の「落合新聞」8月11日号に、北杜夫が『雑木林の虫』というエッセイを寄せている。当時の北杜夫は、まだまだ自然が残る世田谷区松原4丁目に住んでいたが、それでも次々と森や林、小川、池などが失われ宅地化されるのを嘆いている。また、当時の世田谷区は田畑が多く、そこで使用されるようになった農薬や除草剤の影響で、戦後は虫の数が激減しているのではなかろうか。ひとたび樹木が伐採され自然が失われてしまうと、その貴重さにあとから気づくのはどこの地域でも同じだった。同号から、北杜夫の文章を引用してみよう。
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いま私は世田谷松原に住んでいるが、この附近にも昔は――といってもほんの数年くらい前まで――ネズ山と呼ばれる楢と欅の林があった。私の子供のころは鬱そうとし、涯が知れないようにも思われた。数年前までは、それでも林の形を残していたが、つい先ごろ行ってみると、完全に住宅地となってしまっている。/むかし、私の家の本家が、このネズ山の近所に住んでいた。そこへ遊びにゆくと、同年配くらいの従兄が沢山いたし、ネズ山に虫とりに行くのがまた愉しみであった。
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彼は昆虫採集をはじめると、多くの子どもたちが夢中になるカブトムシやクワガタムシ、トンボ、セミなどはねらわず、しぶいクロカナブンの採集に熱中したらしい。昭和初期の松原では、樹木の幹に黒砂糖を煮て酒を混ぜたシロップを塗っておくと、ありとあらゆる甲虫類が集まってきたようだ。北杜夫は、カブトムシやクワガタムシは友だちに上げてしまいカナブン、特にクロカナブンの採集に明け暮れた。
わたしの感覚からすると、このカナブンの“趣味”は理解できない。わたしが子ども時代をすごした海辺や付近の里山では、クロカナブンにしろアオカナブンにしろ、ありとあらゆるカナブン類が棲息していたので、むしろカブトムシやクワガタムシのほうが捕まえにくくて貴重だった。
少年時代の北杜夫(斎藤宋吉)が住んでいたのは、南青山の「青山脳病院」(火災後の分院)近くの自宅だったろうが、下落合ともなんらかのつながりがあったのだろうか? 「落合新聞」を主宰する竹田助雄Click!とは、旧知の間がらのようだが、北杜夫は1927年(昭和2)の生まれであり、1921年(大正10)生まれの竹田助雄とは6歳も年が離れているので、子どものころからの知り合いだったとは考えにくい。
ただし、北杜夫の自伝的小説である『楡家の人びと』には「目白」が、下北沢から行方不明になった「桃子」がらみの情景として登場している。1964年(昭和39)に新潮社から出版された、北杜夫『楡家の人びと』より引用してみよう。
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そして歴史は繰り返された。下田の婆やはそっと運転手の片桐を抱きこんだ。聖子のときと同様、米や野菜をときたま目白の貧相なアパートにとどけてくれた。箱根の山荘は九月十日ころ徹吉が帰京して家を閉じる。彼は汽車で帰る。そのあとに残った炭や米などを――箱根に置いておくとすっかり湿ってしまうので――片桐が車に積んで持って帰ることになっていた。だが片桐は目白にまわり、余り物のすべてを桃子のところへ置いていった。下田の婆やも幾回かアパートを尋ねてきてくれた。
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この「目白」が山手線の駅名であり、「アパート」のイメージが下落合だったとすると、戦前から斎藤家と下落合にはなんらかのつながりがあったのかもしれない。だが、1931年(昭和6)8月に下落合へ転居してくる竹田助雄との関係は、以前から佐藤愛子らも参加していた文学サークル「文芸首都」の関連ではないだろうか。佐藤愛子もまた、同人つながりで1967年(昭和42)2月2日の「落合新聞」にエッセイを寄せている。
また、1982年(昭和57)出版の竹田助雄『御禁止山-私の落合町山川記-』(創樹社)には、執筆を依頼するために松原の北杜夫邸を訪ねた、次のような記述がある。
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「こんな稚ない新聞でわるいんだけど、頼む」/その新聞(落合新聞)を見ながら彼は、/「何かしら書いているんだね」とにっこりし、「みんな、どうしてる」と訊ねた。/「みんなも何かしら書いている」と答えた。SもAも同人誌を主宰し、Kは近代文学によいものを書いた、などと話した。原稿は四枚書いて欲しいと頼んだ。/「どういうことを書いたら、いいかな」/私は“落合秘境”のことを話した。もう、何人もの人に打明けたと同じことを、北杜夫にも気恥かしそうに話した。(カッコ内引用者註)
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1933年(昭和8)に保高徳蔵がはじめた、文芸誌「文芸首都」での北杜夫や佐藤愛子とのつながりが、戦後も途切れずにそのままつづいていたのだろう。
さて、北杜夫は子どものころに虫を熱心に観察・分類することは、大人になる前の観察眼を養う成長過程であり、大人になってからあらゆるものを観察し分類する思考へと結びつく“原体験”だと書いている。「落合新聞」の同エッセイより、再び引用してみよう。
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少年時代のこうしたほしいままの虫への熱中は、多くの場合跡方(ママ)もなくさめていってしまうものだ。それはそれでよいことだろう。ただ、彼らは彼なりに、なんらかのものを――たとえ追憶の一片なりとも――掴んでゆく。/もう少し進んで、たとえば樹液にくる蝶と花にくる蝶を区別するようになる。蛾の中で、どんなものが樹液にくるか知るようになってくる。これは自然観察の第一歩である。なにも虫に限ったことではない。何者かを観察し分類するという業の、それは虫の姿を借りた芽生えなのである。
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わたしは昆虫採集をするとき、それほど虫たちを細かく観察し分類していた憶えはない。夏休みの宿題で、標本にする虫の名前を調べるときは、確かに図鑑や資料類には当たるけれど、ことさら意識して頭の中に“分類系統”図を描いた記憶がないのだ。どこにいけば、どのような虫が棲息していて捕まえられるかは研究したけれど、それは虫を捕まえるという行為自体が楽しいからであり、スリリングな感覚を味わえるからにほかならない。
それが大人のいまになって、「何者かを観察し分類するという業」のベースになっているかといわれると、ほとんど役に立っていないのではないだろうか。むしろ、虫たちがたくさんいる濃密な環境の中ですごした子ども時代は、観察や分類といった理性的なプロセスの形成などではなく、情緒的かつ感性的な精神面を養い成長させるのに不可欠な、かけがえのない時間だったように感じるのだ。
◆写真上:下落合の坂道で、このような環境と水辺がないと虫は棲息しにくい。
◆写真中上:ともにヤンマを代表するトンボで、オニヤンマ(上)とギンヤンマ(中)。オニヤンマは、子どもが通った落合第四小学校Click!の教室へ飛びこんできたこともある。ともに、「新・理科教材データベース」Click!より。下は、ベランダへよく飛びこんでくるミンミンゼミ。網戸へたかるようになると、そろそろ寿命が尽きるころだ。
◆写真中下:上は、人をあまり警戒しないシオカラトンボ♀(ムギワラトンボ)。下落合には、人懐っこいミヤマアカネも多い。中左は、1961年(昭和36)出版の北杜夫『ドクトルマンボウ昆虫記』(中央公論社)。中右は、1964年(昭和39)出版の北杜夫『楡家の人びと』(新潮社)。下は、1924年(大正13)に焼失した南青山の「青山脳病院」全景。
◆写真下:上は、1963年(昭和38)8月11日の「落合新聞」より。下は、周辺に虫が多いとマイナス面もある。緑が濃い森の中で遊び、まんまとチャドクガの毒針毛にやられた左腕。2週間ほど消えなかったが、聖母病院Click!の皮膚科に診せたら“悪い病気”だと思われたのか、女医さんが気味悪がってあまり近づかなかった。ww
まぼろしの雑司ヶ谷「異人館」。
山手線の目白駅Click!を越えた向こう側に、気になる西洋館がふたつある。目白町と雑司ヶ谷町(現・南池袋含む)は、山手空襲Click!から一部の焼け残った住宅街が戦後までつづいていたので、明治末から昭和初期までに建てられた住宅が、そのままの姿で建っていた。ときどき、それらの街角を舞台にした絵画や小説の作品に出あったり、印象的な建築が記録されたりしている。
目白町の西洋館(または文化住宅)を舞台にした作品で、すぐに思い浮かぶのが中井英夫Click!の『虚無への供物』Click!だ。空襲にも焼け残った住宅街に建つ「氷沼邸」は、周囲の様子や駅までの距離、あるいは平面図さえ同作に登場するので、どのあたりに建っていた住宅なのか、特定することができる。1987年(昭和62)に三一書房から出版された、『中井英夫作品集・第10巻/死』所収の『虚無への供物』から、「氷沼家」の描写を少し長いが引用してみよう。
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国電の目白駅を出て、駅前の大通りを千歳橋(ママ)の方角に向うと、右側には学習院の塀堤が長く続いているばかりだが、左は川村女学院から目白署と並び、その裏手一帯は、遠く池袋駅を頂点に、逆三角形の広い斜面を形づくっている。この斜面だけは運よく戦災にも会(ママ)わなかったので、戦前の古い住宅がひしめくように建てこみ、その間を狭い路地が前後気ままに入り組んで、古い東京の面影を忍ばせるが、土地慣れぬ者には、まるで迷路へまぎれこんだような錯覚を抱かせるに違いない。行き止まりかと思う道が、急に狭い降り坂となって、ふいに大通りへぬけたり、三叉に別れた道が、意味もなくすぐにまた一本になったりして、それを丈高い煉瓦塀が隠し、繁り合った樹木が覆うという具合だが、豊島区目白町二丁目千六百**番地の氷沼邸は、丁度その自然の迷路の中心に当る部分に建てられていた。/宝石商だった祖父の光太郎が、昭和四年、初孫の蒼司が生れたのを喜んで、半ば隠居所を兼ねて建てた家だが、これという趣味も奇癖も持たなかったせいか、久生の期待したような尖塔も櫓楼もある筈はなく、間取りなどもごくありふれた平凡な建物だった。
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中井英夫は、弦巻川へと下る北向きの斜面を「運よく戦災にも会わなかった」と書いているが、1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、かなりの範囲が焼け野原となっている。彼が1958年(昭和33)に、下落合4丁目2123番地へ転居してくるころには、すでに焼け跡のバラックが消えて住宅街が復旧していたので、そのあたりを散歩すると古い家屋が目について、一帯が空襲でも焼けなかったように見えたのかもしれない。
「豊島区目白町二丁目千六百**」と書かれているので、500坪もの庭を持つ大邸宅の「氷沼邸」が、山手線沿いの路地が迷路のように入り組む、細長く焼け残った住宅街の中に想定されていることが知れる。下落合からこのあたりまで散歩に出た中井は、川村学園のあたりから目白通りを北側へ左折し、複雑で狭い迷路のような路地を歩いて、「氷沼邸」に設定する西洋館の目星をつけたのだろう。現在でも、路地こそ拡幅され舗装されてはいるが、複雑な三叉路やおかしな道のかたちはそのまま残っている。
目白町2丁目1600番台の地番は、川村女学院(現・川村学園)や高田第五尋常小学校(現・目白小学校)の裏手を東西に、また山手線沿いを南北に長く連なる太い「L」字型のエリアに限定されるが、同学園や小学校の北側一帯は空襲でほぼ焼け野原だったので、戦前からつづく1600番台の住宅街というと、入り組んだ路地の存在とともに、山手線沿いの南北に細長い一画のほうに想定されたとみられる。
『虚無への供物』の「氷沼家」は、モデルとなる西洋館はあったかもしれないが、あくまでも虚構のうえで存在する“幻の邸宅”だけれど、実在したにもかかわらず今日では人々の口の端にのぼることさえなくなり、“幻”と化してしまった巨大な西洋館があった。同じ高田町エリアの雑司ヶ谷に建っていた松平貞一邸だ。明治末にはすでに建設されていた同邸は、周囲の住民から「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれていたが、別に外国人が住んでいたわけではない。(敗戦後の一時期、GHQに接収されていた可能性はあるが……) 「松平」という姓からうかがえるように、おそらく徳川家の姻戚のひとりが建てた明治仕様の西洋館だったのだろう。
豊島区の郷土資料をたどっても、弦巻川北岸の丘上にそびえてかなり目立つ、巨大で特徴的な西洋館だったにもかかわらず、意外にもほとんど記録が残されていない。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)にも、特に「松平家」は地元の“有名人”としての記載がない。つまり、ほんとうに幻の雑司ヶ谷「異人館」なのだ。
「異人館」の所在地は、雑司ヶ谷(4丁目)572番地(現・南池袋4丁目)であり、今日の南池袋第二公園の東側あたりの一画だ。木造であったにもかかわらず空襲からも焼け残り、戦後には周辺の住民たちからメルクマールとして記憶された大屋敷だった。都電荒川線の鬼子母神電停を降り、線路沿いのほぼ直線の道を北へたどると、暗渠化された弦巻川の跡をすぎてから登り坂となる。その坂上に、あたりを睥睨するように明治期の大きな西洋館(松平邸)が見えていた。
一度こちらでも引用しているが、1986年(昭和61)に発行された「広報としま」7月号所収の、永井保Click!「わたしの豊島紀行<22>」から引用してみよう。
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目白台から落合にかけての台地斜面には、名だたる坂が多く、景色もいいが、旧鎌倉街道が横切る、だらだら坂の多い雑司ヶ谷風景も好きである。いまは取り壊されてしまったが、鬼子母神電停から北へ、線路ぞいの坂の上にあった異人館(実際の名は知らない)などは好画題になった。
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永井保は、「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれた明治末の西洋館が、1986年(昭和51)7月の時点で「取り壊され」たと書いている。空中写真で確認すると、1984年(昭和59)にはいまだ建っているのが確認できるので、おそらく1985年(昭和60)前後に解体されているのだろう。
永井保は「異人館」のイラストを残しており、下見板張りの外壁で屋根には尖った細いドーマーが並ぶ、いかにも明治期の建築らしい西洋館だったようだ。たとえるなら、1912年(明治45・大正元)に建設された、大磯Click!駅前の大きな旧・木下別邸のような意匠をしていたのだろう。イラストの表現を見ると、旧・木下別邸のように外壁が明るい色で塗られているようには見えず、なにか濃い色に塗られていたように見える。おそらく、外壁の腐食を防ぐためコールタールが塗られ、建設から間もない時期はともかく、戦後はこげ茶色をした外壁だったのではないだろうか。
また、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』にも、「異人館」あるいは「異人屋敷」と呼ばれた、雑司ヶ谷の同地番に建っていた大きな西洋館が記録されている。なお、「昨年遂に取りこわ」されたと書かれているが、同文は1985~86年ごろに書かれたものではないか。
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宝城寺裏の丘の上に明治末から異人屋敷(異人館)と呼ばれた異様な建物があったが、昨年遂に取りこわし、その姿を消した。弦巻川は宝城寺下四つ辻のところの土橋で、流れは杜深い大久保彦左衛門邸内に注がれて入った。彦左衛門は殊にこの勝景を愛で池の汀に茶室を設け、しばしば清会を催したという。
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「異人館」が松平邸だったというのは、地元でも知られていなかったようで、住民の詳細について記した資料は見あたらない。きっと、「異人館」には昔から表札が出ていなかったか、あるいは住民がときどき変わって〇〇邸とは呼びづらかったのかもしれないが、少なくとも1938年(昭和13)の「火保図」には、松平貞一邸と採取されている。
さて、この「松平」がどこの松平さんなのか同邸の周囲を見まわすと、ひとつの大きなヒントを見つけることができる。「異人館」から、西へわずか140mにある王子電車(現・都電荒川線)をはさんだ雑司ヶ谷大鳥社だ。同社は、金山稲荷Click!の対岸である目白台Click!にあった出雲藩松平出羽守の下屋敷(のち百人組同心大縄地)に由来する祭神であり、江戸期には嫡子の病平癒を願って祭神を出雲大社から勧請している。詳細は省くが、この出雲藩松平出羽守の末裔のひとりが、明治末に大鳥社の見える丘上の地へ、大屋敷を建設しやしなかっただろうか? 目白台からもほど近い雑司ヶ谷の「異人館」は、かつて“異人”など一度も住んだことのない、出雲の松平家にちなむ邸宅だったのではなかろうか。どなたか、ご存じの方があればご教示いただきたい。
◆写真上:南池袋第二公園の東側にあたる、丘上の雑司ヶ谷「異人館」跡の現状(正面)。
◆写真中上:上は、目白町2丁目16XX番地界隈に残る和館。中左は、1964年(昭和39)に講談社から「塔晶夫」名で出版された中井英夫『虚無への供物』。中右は、氷沼邸が想定された1947年(昭和22)撮影の空襲をまぬがれた16XX番地界隈。下は、1986年(昭和61)に永井保が1951年(昭和26)ごろの風景を前提に描いた雑司ヶ谷「異人館」。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)の「火保図」に採取された「異人館」こと松平貞一邸。中は、雑司ヶ谷「異人館」の近隣に残る古い和館。下は、上から順に1947年(昭和22)・1975年(昭和50)・1984年(昭和59)の空中写真にみる松平邸。
◆写真下:上は、1912年(明治45・大正元)に建てられた大磯駅前の旧・木下別邸。中は、1857年(安政4)に制作された尾張屋清七版切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる出雲藩松平出羽守下屋敷。下は、雑司ヶ谷「異人館」の近くにある雑司ヶ谷大鳥社。
襲撃後に下落合へ転居した細川隆元。
1936年(昭和11)の二二六事件Click!の際、上落合1丁目476番地の神近市子Click!の隣家に住む、東京朝日新聞社で政治部長(事件当時は次長か?)だった細川隆元邸が何者かに襲撃された証言をご紹介した。蹶起将校のひとりだった竹嶌継夫中尉Click!の実家が、上落合1丁目512番地と細川隆元邸のごく近くにあったため、同日の午前中に東京朝日新聞社を襲撃している中橋基明中尉に情報を提供したものだろうか。新聞社を襲撃した部隊のうち、一部の支隊が上落合の細川邸を襲っている可能性が高そうだ。
どのような襲撃だったのかは、細川自身が証言しているのを読んだことがないし、当時の記録も見かけないので詳細は不明だが、おそらく細川隆元は襲撃後ほどなく、上落合から下落合へと転居していると思われる。中井駅の改札を出て踏み切りをわたり、道を北へ進むと中ノ道Click!(中井通り)とのT字路に突き当たる。転居後の邸はその真正面、すなわち現在はみずほ銀行中井支店やセブンイレブンのある斜面に細川隆元が住んでいた……という伝承を、わたしは地元の方からうかがっていた。一ノ坂Click!と「矢田坂」Click!にはさまれた、下落合4丁目1925番地(現・中落合1丁目)あたりだ。
改正道路(山手通り=環6)の道路工事Click!の進捗とともに、一ノ坂と振り子坂Click!の間を抜けていた山道のような細い「矢田坂」は全的に消滅し、現状ではちょうど同区画は三角形に切り取られたような敷地になっている。この場所で葬儀が行われているのを、当時は目白文化村Click!の第一文化村に住んでいた東京外国語学校の学生であり、のちに毎日新聞社の記者になる名取義一Click!が目撃している。
ちなみに、名取義一は1935年(昭和10)4月に18歳で東京外国語学校へ入学し、翌年の同校1年生のときに二二六事件を経験している。そのときの様子を、名取義一『東京・目白文化村』(私家版)から少し長いが引用してみよう。
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大雪の昭和十一年二月二十六日、東京外語の一年生で、第三学期の試験・第二日目――父は風邪で休み――なので、学校へと玄関を出た。/すると、ちょうど妹が、通学の千代田高女近くから戻ってきた。/して「大変よ。何かあったらしいの。学校へはゆけないので……」とえらく興奮して話しかけてきた。/「何事だろう」と考えながら、といってラジオ・ニュースは……まだだし、と家を出て平常の如く西武線・中井駅から省線・水道橋駅へ。ここから神田の古本街を通り「如水会館」の所に来ると、黄色い冬外套で、剣付銃の兵士が通行人をいちいち検問しているではないか。/なるほど、大事件が起きたのだナ、と。/「誰だ、どこに行く」と訊かれ「外語生です。今日は試験なので……」と応えると、「よし。行け」とあっさり通してくれた。近くでは外語の外人講師が追い返されていた。/教室に入ると、皆がガヤガヤ、状況がさっぱり判断できなかった。それより、私は窓外で、つまり共立女子学園の方に向け、機関銃坐ができていて、兵士らが伏せているのに、思わず緊張した。一体、敵は……。内線か……。/試験が始まったが、心忙しく、そのうち試験は取止めということになり、以後は連絡を待てとのことになった。
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名取義一は東京外国語学校の神田キャンパスへ、運行していた電車(西武線→山手線→中央線)でたどり着き期末試験を受けている。一方、妹は麹町区四番町の千代田高等女学校へは、途中で東京市電が一部区間を運行停止にしていたものだろうか、登校できなかったのがわかる。
名取義一を水道橋で誰何(すいか)したのは、蹶起部隊の兵士ではなく当日の午前中から街中に展開していた警備兵のひとりとみられ、同日午後から警備兵が東京の街角へいっせいに展開した……という通説が、わたしの祖母や親父の証言Click!とともに、ここでも覆っているのが判然としている。また、鉄道は大雪にもかかわらず通常どおり運行Click!されており、積雪のせいで遅れが出ていた可能性はあるものの、事件の影響で電車も運行を停止していたという、一部の二二六事件について書かれた本の記述は事実に反する。
同年4月、東京外国語学校へ二二六事件のリーダー的な存在で元・一等主計(大尉相当)だった磯部浅一夫人の弟が入学し、学内にはいろいろなウワサが流れている。彼が栗田茂(のちの作家・五味川純平)と同級生だったことも、それらのウワサが後世まで記憶されることになった要因なのではないかとみられるが、事実を確認しようがないのでここでは省略する。
さて、名取義一が細川隆元邸の葬儀を目撃するのは同校3年生のとき、すなわち1938年(昭和13)の暮れだった。つづけて、同書より引用してみよう。
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外語生のとき、毎日が乱読また乱読で、このため些か疲れると、夕方必ず近所に散歩に出かけた。/ある日のこと、西武線・中井駅の北側にある高台にゆくと――その下は、いま富士銀行中井支店になっている――“花輪”がずらりと並んでいる木造平屋建てがあった。/その“花輪”を一々見ると、まず“近衛文麿”それに名を忘れたが大臣からのが……。この主人公は一体何物(ママ)なのか、幸い人もいないので、周辺をウロついてみた。/で表札には「細川隆元」とあった。アッ、朝日の有名な記者で、先日、若くして政治部次長から部長になったばかりではないか、それがここに住んでいたとは。/これは同夫人が病死したためであった。(中略) =昭和十三年十二月十六日=/氏は、二・二六事件の折は、社電で起され、ともかく迎えの車で自宅から上落合-大久保へと急いだという。そこで緒方竹虎主筆が、その百人町から同乗し、ともに朝日本社に入った由。/同社が決起部隊(ママ)に襲われたことは、天下周知のことで省略する。それより同(昭和)六十二年には、同社はまたまた右翼かのテロに襲われている。(カッコ内引用者註)
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富士銀行中井支店は、現在のみずほ銀行中井支店のことだが、この証言により細川隆元邸が中ノ道(中井通り)沿いの下落合4丁目1925番地(現・中落合1丁目)界隈にあったのは、1938年(昭和13)12月現在、つまり1936年(昭和11)の二二六事件から2年後であることがわかる。
これにより、神近市子が隣家として証言している上落合1丁目476番地の細川隆元邸、すなわち二二六事件のときに襲撃を受けたのは、下落合へ転居する以前の邸だったことが判明した。換言すれば、細川隆元は上落合の自宅が襲撃を受けたあと、身の危険を感じて早々に下落合4丁目1925番地界隈へ引っ越した……という経緯が推定できる。
また、名取義一は本人から直接聞いたものだろう、細川隆元は2月26日の早朝に異変をキャッチした本社からの電話で起こされ、迎えのクルマで緒方竹虎とともに数寄屋橋の本社へ急行しており、自宅が襲撃を受けた際には不在だった可能性が高そうだ。襲撃者に応対したのは、家に残っていた夫人たち家族だったかもしれず、そのせいで細川隆元自身の二二六事件に関する印象的なエピソードとして、後日、自宅襲撃について語られる機会があまりなかったのかもしれない。
「同六十二年には、同社はまたまた右翼かのテロ」とあるのは、1987年(昭和62)5月に朝日新聞阪神支局が襲撃された「赤報隊事件」Click!(広域重要指定116号事件)のことで、このテロにより同紙の記者2名が死傷している。1961年(昭和36)の「風流夢譚」事件を想起するまでもなく、現代の中国やロシアのメディアがそうであるように、さまざまな報道・言論機関へのテロによる言論封殺・抑圧は、その後にやってくる自由な意見表示や思想表明を圧殺する“暗黒時代”の予兆として、改めて銘記しておきたい現象のひとつだ。
◆写真上:細川隆元邸があったとみられる、下落合4丁目1925番地界隈の現状。改正道路(山手通り)の工事で消滅した、「矢田坂」の坂下にあたるエリアだ。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真に見る下落合4丁目1925番地界隈だが、細川邸は上落合にありいまだ転居してきていない。下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同地番エリアで、いずれかの住宅が細川邸だろう。
◆写真中下:上は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された「矢田坂」の下部。下は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同所で改正道路工事が進捗している。
◆写真下:上は、1934年(昭和9)に撮影された数寄屋橋の東京朝日新聞本社。下左は、1992年(平成4)に発行された名取義一『東京・目白文化村』。下右は、戦後の細川隆元。
淡谷のり子の機先の制し方。
作曲家の服部良一は戦時中、まったく軍歌をつくろうとせず軍部を煙に巻いてはジャズを平然と演奏していた。一時期は上落合と下落合に家族とともに住み、田口省吾Click!や前田寛治Click!のもとへモデルに通っていた淡谷のり子Click!は、戦時中に真正面から軍部、特に陸軍憲兵隊との命がけの衝突を繰り返していた。このふたり、気が合うのか非常に仲がよかったことでも知られている。
1943年(昭和18)3月に、東京宝塚劇場で「国民劇」として上演された、服部良一が監督をつとめるオペラ『桃太郎』には、森の魔女役として淡谷のり子も出演している。淡谷の魔女役はピッタリだったろうが、桃太郎を高峰秀子Click!、サルを榎本健一、キジを灰田勝彦、イヌを岸田明が演じた同劇では、軍歌あるいは軍楽調の曲はあまり用いられず、当時はヨーロッパの前世紀あるいは前々世紀の古臭い音楽に対して、「軽音楽」と差別的に扱われていた音楽がBGMに多用されている。
特に、陸軍報道部長の揮毫である「撃ちてし止まん」の幟を背負った桃太郎(高峰秀子)が、鬼ヶ島で鬼退治をするシーンでは、ディキシーランドJAZZのにぎやかな『タイガー・ラグ』が用いられ、内務省監督官に指摘されると「これはマライの虎狩りの音楽だ」といって煙に巻いた話は有名だ。服部良一は、米国のJAZZをラジオなどで演奏するときは、ドイツやイタリアの作曲家の名を冠した「シューベルト・アラモード」とか「ある日のモーツァルト」、「影絵のベートーヴェン」などと適当なタイトルをデッチ上げ、平然とスタンダードJAZZを流している。
JAZZをはじめとする米国音楽や、おもにドイツとイタリアを除いたヨーロッパ音楽が「敵性音楽」だと規定され、国内での演奏が禁止されたのは、日米開戦間もない1941年(昭和16)12月30日の政府談話が最初だ。つづいて、翌1942年(昭和17)1月13日には、内閣情報局「週報」328号の中で、具体的な「米英音楽の追放」の実施要項を発表している。以下、同「週報」328号(現代仮名づかい修正版)から引用してみよう。
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米英音楽の追放
大東亜戦争もいよいよ第二年目を迎え、今や国を挙げてその総力を米英撃滅の一点に集中し、是が非でもこの一戦を勝ち抜かねばならぬ決戦の時となりました。大東亜戦争は、単に武力戦であるばかりでなく、文化、思想その他の全面に亙るものであって、特に米英思想の撃滅が一切の根本であることを思いますと、文化の主要な一部門である音楽部門での米英色を断固として一掃する必要のあることは申すまでもありません。/情報局と内務省では、大東亜戦争の勃発直後に、米英音楽とその蓄音機レコードを指導し、取締るため、当面の措置として、音楽家に敵国作品の演奏をしないように方針を定め、また、これらのレコードの発売にも厳重な指示を与えたのでありますが、それにも拘わらず、未だに軽佻浮薄、物質至上、末梢感覚万能の国民性を露出した米英音楽レコードを演奏するものが跡を絶たない有様でありますので、今回さらにこの趣旨の徹底を期すため、演奏を不適当と認める米英音楽作品蓄音機レコード一覧表を作って、全国の関係者に配布し、国民の士気の昂揚と健全娯楽の発展を促進することになりました。
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この禁止令で、米英音楽の演奏や録音・レコード販売がいっさいできなくなるのだが、戦争が進み敗色が濃くなるにつれて、当局は病的かつヒステリックな取り締まりを強化し、特高Click!の監視は家庭における音楽鑑賞にまで及んでいく。
音楽に無知な特高が、家宅捜査でモーツァルトやベートーヴェンなどドイツ・グラモフォンのレコードを押収したり、蓄音機でベートーヴェンを聴いていた人物を連行して暴行を加えたりと、もはや錯乱状態に近い狂奔ぶりだった。ましてや、米国のJAZZレコードを保有していた家庭では、まったく聴けない状況がつづき、戦前に周囲へ漏れていた音の記憶から近隣に密告され、特高に踏みこまれて押収された例さえあった。
1980年代の終わりから90年代にかけ、「スイングジャーナル」へ『生きているジャズ史』を連載していた油井正一Click!は、特高による「JAZZレコードの押収などなかった」と書いて、さっそく同年代のJAZZ愛好家の読者から反論を受けている。JAZZレコードを隠していた油井正一自身に、そのような個人的体験が運よくなかったからといって安易に敷衍化し、史的事実を丸ごと「なかった」ことにしてはマズいだろう。
淡谷のり子は、内閣情報局「週報」328号によって、およそ自分の持ち歌のほとんどを否定されたに等しかった。したがって、「オオ・ソレミヨ」や「帰れソレントへ」などのイタリア民謡、アルゼンチンタンゴ、日本の歌曲などをレパートリーにするしかなかった。陸軍からの軍歌吹きこみの依頼を断りつづけ、「ドイツやイタリアで戦う兵士たちのことを思えば、礼装で歌わなければ失礼になる」と、コスチュームの豪華なドレスも脱ごうとはしなかった。
憲兵隊や特高からは終始目をつけられ、特に憲兵隊からの呼び出しによる嫌がらせは繰り返された。淡谷が書いた「始末書」の高さが、数十センチといわれるゆえんだ。特にステージドレスに関する憲兵隊からの嫌がらせは執拗で、淡谷もついにキレて憲兵隊で激高しようだ。吉武輝子が収録した彼女の言葉を、『ブルースの女王淡谷のり子』(文藝春秋/1989年)から正確に引用すれば、「こんなつまらないことを、兵隊さんがいつまでもグダグダ言ってたんじゃ、戦争に負けてしまいますよ」といってしまった。日米が開戦してから、どれほど日本の戦局が不利になろうが、「戦争に負ける」という言葉は禁句になっていた。うちの親父も学生時代、「どう考えても、(アメリカに)勝てるわけがね~や」と不用意に発言Click!したのを誰か密告され、現に警察へ引っぱられている。
淡谷のり子は、即座に憲兵から「非国民!」と恫喝され、憲兵隊の留置所へそのまま入れられそうになった。それに対して、彼女も大声で怒鳴り返している。同書から、そのまま引用してみよう。「なにが非国民ですか。わたしはお上からビタ一文いただかずに、兵隊さんを慰問してまわっていますよ。わたしのように無料奉仕をしている歌手が他にいますか。お調べになってください。なんでそのわたしが、非国民呼ばわりされなくてはいけないんですか」。このとき、担当憲兵もあっけにとられたのか、始末書をとるのも忘れて帰された……と書かれている。
だが、憲兵隊の取り調べや対応がそれほど甘いとは思えず、おそらく取り調べに当たった憲兵は、慰問では決して軍歌を歌わず内地のステージ姿のまま歌う、「淡谷のり子を派遣してくれ」という前線からの要望が多いことを知っていて、拘束したくても実質できなかったか、あるいは淡谷のり子の戦前からの“隠れファン”だったのではないだろうか。
また、憲兵隊からアイシャドウやつけまつげが時局がら不謹慎だと、再三にわたって呼び出されている。これに対して淡谷は、「わたしの顔を見てください。こんなブスが素顔でステージに立って、どうなるというのですか」と応酬し、そのたびに始末書をとられている。舞台上のメイクがもとで、彼女は50枚近くの始末書を憲兵隊に残した。
淡谷のり子によれば、前線の慰問は陸軍よりも海軍のほうがスマートだったという。兵士たちのリクエストも多く、禁止されていたJAZZやブルース、シャンソンも海軍では暗黙のうちにフリーだった。上海に駐留していた海軍が催したコンサートでは、禁止されていた「巴里祭」や「暗い日曜日」、「別れのブルース」などが次々とリクエストされ、彼女もうっぷんを晴らすかのように1ステージで約50曲も歌いつづけている。当局による禁止曲がリクエストされるたびに、監視官だった海軍将校は席を外し、部屋の外で淡谷のり子の歌にジッと聴き入っていたという。
陸軍の前線で歌ったとき、見るからに強面(こわもて)の軍刀を下げた陸軍将校が監視官として貼りついていたので、淡谷は当たり障りのない歌曲の「宵待草」や「浜辺の歌」などを歌ってみたが、兵士たちはただ黙って聴き入るだけで拍手はこなかった。おそらく、彼女のヒット曲が次々と聞けると思った兵士たちは、ニラみをきかす監視官のもとで緊張して萎縮し、半ばガッカリしていたのだろう。ところが、「オオ・ソレミヨ」を歌い終わったとたんに、舞台の背後からいっせいに拍手がきた。そこには、英米軍の捕虜たちが30人ほど並んでいた。
その拍手を機会に、淡谷のり子は陸軍兵士に背を向けると、捕虜たちに向かって歌いだした。アルゼンチン・タンゴや「帰れソレントへ」など数曲歌ったあと、捕虜たちから大きな拍手や喝采をあびた。そのとたん、軍刀の鯉口を切り柄に手をかけた監視官が、舞台上の彼女に「皇軍の兵士に尻を向けて歌うとは何事だ」と迫ってきた。そのときの、淡谷のり子の平然とした言葉が記録されている。「わたしは芸人です。拍手をしてくれた方の方を向くのがあたりまえですよ。だいたい兵隊さんが歌を聴きたいというから、無料で歌っているのに、なんですか、拍手ひとつしないなんて。失礼にもほどがあります」。
戦地慰問に動員されながら、謝礼をもらわない代わりに決して軍歌や時局歌を歌わない淡谷のり子は、おそらく陸軍の前線じゅうに知れわたっていたのだろう。いまさら軍歌など聴きたくない前線では、彼女が慰問に近くまできていることを知ると、わざわざクルマをまわして、ほんの少しでも兵士たちの前で好きな曲を歌ってくれないかと、大学出らしい将校たちが迎えにくることもあったようだ。
叔父の淡谷悠蔵が、平和運動に関わったとして治安維持法違反で特高に逮捕されると、淡谷のり子はさっそく花束とバナナの差し入れに警察署を訪れている。特高が規則で花束はダメだというと、刑事の胸に花束を押しつけ「理由が言えないような規則は、すぐお止めなさい」と怒って帰ってしまった。「昨夜遅く、淡谷のり子が来て、君に花束とバナナを差し入れてくれと言うんだ。監房には規則で花は入れられないと断わったら、そんなくだらない規則はなくしなさいと、叱られてしまってね。気の強い人だね。それでバナナは差し入れて、花は見せるだけにすることにして、やっと帰ってもらったよ」と、律儀な東北人だったらしい特高刑事は、花束を淡谷悠蔵へ見せている。
さて、このエピソードから72年後の2017年(平成29)6月、膨大な犠牲を払って結果的に獲得できた日本の「戦後民主主義」が、いともたやすく窒息・死滅させられようとしている。このまま状況が進めば、1925年(大正14)5月の「大正デモクラシー」が死滅した時点へと逆もどりだ。警察の恣意的な解釈で、いくらでも国民を(予防)逮捕・拘禁できる監視・恫喝体制、そして国民の主張や異論をいともたやすく威圧し封じこめる手段を手に入れた国家権力は、まさに北朝鮮や中国と同質のものだ。
◆写真上:モデルになるため、淡谷のり子が下落合から通った長崎の路地。カーブの向こうに、長崎町1832番地(現・目白5丁目)の田口省吾アトリエが建っていた。
◆写真中上:上は、戦前に撮影された淡谷のり子。下左は、1937年(昭和12)に大ヒットした淡谷のり子『別れのブース』。下右は、翌1938年(昭和13)出版の同楽譜。
◆写真中下:上は、1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機が撮影した下落合と目白・長崎界隈。4月13日夜半の第1次山手空襲Click!が、鉄道駅と幹線道路沿いをねらった様子がよくわかる。下は、上記の偵察写真にも写る御留山の谷戸の現状。
◆写真下:下落合や上落合の時代、淡谷のり子は周辺を家族と散策しただろうか。
米騒動に起因する東京各地の「市場」。
大正末から昭和初期にかけ、東京各地に出現した食料品や日用雑貨を扱う「東京市営市場」あるいは「東京府営市場」が、もともとは1918年(大正7)に起きた「米騒動」に起因していることは、あまり知られていない。当時の行政(寺内正毅内閣)は、日に日に高騰する米価に対しなんら有効な政策を打ち出せず、政府が高い米を買い上げて各地で臨時に大安売りするという、付け焼刃Click!のような散発的な施策に明け暮れていた。
寺内内閣が行っていた刹那的な米の安売り販売は、東京市内ばかりでなく東京府の郡部でも行われ、数多くの住民たちが米を求めて殺到している。廉売所を警備するため、警官隊ばかりでなく消防士までが動員された。だが、詰めかけた住民全員に米がいきわたるはずもなく、また一般の住民たちより先に政府関係者や警察官が、「試食用」と称して大量に米を買い占めているのが発覚し、現場は不穏な空気に包まれたようだ。
落合村の東隣りにある高田村でも、1918年(大正7)3月3日に政府による米の廉価販売が行われている。臨時の販売所が設置されたのは、高田村砂利場にある「怪談乳房榎」Click!で有名な南蔵院Click!の境内だった。当日の状況を、ほとんどリアルタイムで記録し1919年(大正8)に出版された、『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)所収の「都新聞」記事から引用してみよう。
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高田倉庫会社の第二回白米安売は三日高田村砂利場の南蔵院で行はれた、前回の雑踏に鑑みて買手は朝八時頃から続々詰めかけて待つて居るので開始時間を繰上げ正午から売出した、山門には厳重な矢来を設け六名の巡査と消防夫が扉を固め時期を見計つて百人位づゝ場内に入れたが其時場外の競争は非常なもので初めは前回に来て買へなかつた優先券を持つた人々だけを入場させて売つた、柳下村長吉野助役は三名の書記を連れて出張し万事の世話をしたが前回は一人に二斗と限つたが今回は広く一般に霑ふ様に四升以上八升一斗の量り売りもした、首相官邸の使者秋元仙之助といふ人は試食用として四俵又小石川署の巡査や巡査部長八十名は一斗づゝ買つた、斯して午後四時迄に五百俵の在庫米を悉く売り尽してそれでも猶不足を告げたので夕刻更に高田四家町足達商店の商品数十俵を追加した、次は三月十日高田村在住者に限り第三回を行ひ千人乃至千五百人に限り販売するさうである。
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高田倉庫株式会社Click!は、目白駅(地上駅)Click!前にあった鉄道倉庫で、当時は1916年(大正5)に設立されたばかりの会社だった。同社の相談役には、元・高田村村長で高田農商銀行頭取だった新倉徳三郎Click!が就任している。このあと、1918年(大正7)7月に富山県に端を発した、米穀店や米を積んだ船舶・列車などを襲撃する「米騒動」は、またたく間に全国各地へと飛び火していくことになる。
同年8月には、東京各地でも米価の高騰に抗議する群衆やデモ隊と警官隊との衝突が相次ぎ、街中は一気に騒然とした空気に包まれていった。上掲の『高田村誌』でも指摘されているとおり、政府が買い上げ一般市民向けに用意した安売り米を、廉売所の周辺に住む当の政府関係者や公務員、警察官たちが優先的に入手・着服するという不正が発覚するにおよび、ついに無能な政府に対する東京市民と郡部の府民たちの怒りが爆発した……と書くほうが正確だろう。寺内内閣は翌9月、「米騒動」の責任をとって総辞職することになる。わずか2年ともたない、短命な内閣だった。
政府の無策ぶりを見かねた東京商業会議所では、華族や財閥、富豪などから急きょ寄付を募って、約300万円ほど集まった資金をベースに、東京市内および東京府の郡部で組織だった米の流通ネットワークを新たに構築し、東京市や東京府と連携して常設の廉価販売所(市場)を開設している。やがて、米価が下がり「米騒動」が一段落すると、同会議所の手もとには60万円ほどの資金が残った。この資金をもとに、東京市と東京府は米穀をはじめとする食料品、あるいは日用雑貨品を安く販売する「市場」を、東京各地に設ける構想を立案している。
60万円のうち、40万円を東京市が20万円を東京府が活用し、東京各地で「市場」の建設に着手していった。「米騒動」の翌年1919年(大正8)には、早くも市と府を合わせて67ヶ所の市場が開設されている。そして、大正期が終わった1928年(昭和3)現在では、東京市内に12ヶ所の大規模な市場が、郡部には34ヶ所の市場が常設されていた。郡部(東京府)における市場開設の様子を、1929年(昭和4)に中央公論社から出版された今和次郎Click!『大東京案内』より引用してみよう。
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一方府の方では、二十万円の指定寄附を基礎に、東京府日用品市場組合を組織して、市場を経営した。大正七年十一月には既に仕事を始め、翌年八月には市郡を通じて六十七ヶ所となつたが、内務省からなほその増設を条件として百万円の低利資金を借り、財団法人組織にあらためた。/現在府の市場のある場所は、(中略) 等三十四ヶ所である。/店舗約五百。昭和三年度(昭和三年七月から四年六月まで)の三十四市場の総売上高は、九百三十七万六千余円となつてゐる。
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1928年(昭和3)の時点で、落合地域の周辺には高田町1709番地(のち目白町2丁目1709番地)の目白駅前にあたる「目白市場」Click!、戸塚町上戸塚18番地(のち戸塚3丁目18番地)の高田馬場駅前にあたる「戸塚市場」などが開設されている。
同じころ、銭湯「草津温泉」Click!近くの下落合1886番地には「下落合市場」Click!が、村山知義アトリエClick!西側の旧・月見岡八幡社Click!近く上落合196番地には「上落合市場」がオープンしている。また、目白通りをはさんだ北側、長崎南町2丁目4105番地(のち椎名町6丁目4105番地)には「長崎市場」Click!が開設された。落合地域の市場が、どのような意匠をしていたのか記録がないので不明だが、公営の「目白市場」および「長崎市場」は中世のヨーロッパ建築のような、まるで往年の「名曲喫茶」のような古城を思わせるデザインをしていた。
落合地域では、「下落合市場」が1926年(大正15)に、「上落合市場」が1928年(昭和3)に開設されているが、町域が広いせいか1929年(昭和4)には尾崎翠Click!宅のすぐ北側にあたる妙正寺川沿いの上落合721番地に「上落合中井市場」(おそらく妙正寺川の直線化工事を控える空き地に設立された臨時市場だろう)が、1930年(昭和5)には光徳寺の北東側にあたる上落合428番地に「親和市場」が設置されている。
また、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』(落合町誌刊行会)には記録されていないが、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」には、目白文化村Click!の箱根土地本社ビルClick!向かいにあった交番Click!の裏、下落合1389番地にも「市場」が採取されている。これらの市場が、すべて公営だったとは到底思えないが、少なくとも「上落合市場」と「下落合市場」は東京府日用品市場組合の経営だったと思われる。
上落合には3市場、下落合には中西部に1市場(+1市場)と、山手線寄りの下落合東部には市場が存在していないが、これは1923年(大正12)設立の目白駅前にある「目白市場」を利用できたのと、昭和に入って高田町金久保沢1113番地の谷間、すなわち目白駅西側の八兵衛稲荷Click!(豊坂稲荷)のある豊坂下に、新たな市場が開設されていたからだろう。この“金久保沢市場”は公営の「目白市場」に近いため、おそらく公設ではなく高田倉庫あたりが経営する私設市場だった可能性が高そうだ。
◆写真上:小川薫様Click!が保存されている上原としアルバムClick!に収録の、1935年(昭和10)前後に目白駅近くで撮影された記念写真の1葉。東環乗合自動車Click!に勤めるドライバーの背後に写っている小ジャレた建物が、目白市場の西側側面だと思われる。よく観察すると、屋根の意匠などが長崎市場とそっくりなのがわかる。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる目白市場と冒頭写真の撮影ポイント。中は、同年に撮影された別角度の写真。下は、目白市場跡の現状。
◆写真中下:上は、1948年(昭和23)撮影の目白市場焼け跡。中は、1929年(昭和4)の「戸塚町全図」にみる戸塚市場。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚市場。
◆写真下:上は、上原アルバムに収録された長崎市場。人物は、長崎の町内運動場Click!で開かれた壮行会の出征兵士。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる洛西館Click!の隣りの長崎市場。下は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる下落合市場。
★戦後にも、「目白市場」の焼け跡には同様に「目白市場」という名のマーケットができるが、戦前の東京府による「目白市場」とは同じ名称ながら別ものだ。
沖縄の画学生が集った一原五常アトリエ。
下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)には、帝展の洋画家・一原五常Click!がアトリエを建設して住んでいた。おそらく下落合西部の、東京土地住宅Click!によるアビラ村構想Click!により、帝展の画家たちに誘われて昭和初期にアトリエを建てているとみられる。だが、1925年(大正14)に東京土地住宅が破綻してアビラ村事業Click!の継続ができなくなり、一原五常自身が絵画制作だけでは生活が苦しかったのか鹿児島に職を見つけて転居してから、一原アトリエは貸し家となった。そこへ1927年(昭和2)ごろ住みついたのが、沖縄出身の洋画家・名渡山愛順だった。
名渡山アトリエとなった家には、近所に住んだ金山平三Click!や島津一郎Click!などが出入りしたが、沖縄からやってきた画家の卵たちが寄宿するようになる。1931年(昭和6)には、東京美術学校をめざす仲嶺康輝や山元恵一、西村菊雄らが名渡山アトリエに住み、小林萬吾Click!の同舟舎洋画研究所に通っている。
このあたりの経緯は、1986年(昭和61)に新生美術協会が発行した「新生美術」5月号所収の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』に比較的詳しく書かれているのだが、仲嶺におよそ東京の土地勘や地場の記憶がないせいか、この文章には不正確で妙な記述や誤りが目立つ。たとえば、文章の出だしからして、わたしはひっかかってしまった。
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昭和二十年三月九日の夜から翌十日朝にかけ米機B29による東京大空襲は、多大の被害をもたらし、帝都は一夜にして焼野ヶ原と化し、そのため東京都の三十五区は戦後今日の二十三区に変った。
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戦前から地元に住む方がこれを読んだら、すぐにも「?」だろう。3月10日の東京大空襲Click!は、B29の大編隊により最初の1弾が着弾したのが、3月10日午前0時8分(投下時点の7分説もある)であり、前日の9日夜はいまだ空襲警報の段階だった。前夜の23時すぎから翌日の未明にかけて行なわれた、同年4月13日夜半および5月25日夜半の二度にわたる山手空襲Click!と東京大空襲を混同してないだろうか? また、「そのため」に東京35区Click!が22区(のち23区)になってしまったのではなく、敗戦を機に人口の急減で戦後の行政統合と自治体の業務効率化、財政緊縮の流れにより23区化 (面積は35区とほぼ同じだ)されたのであって、東京大空襲とは直接なんら関係がない。
下落合における表現も同様で、耳野卯三郎Click!(上高田422番地=最寄りは西武線の新井薬師駅)や大久保作次郎Click!(下落合540番地=最寄りは山手線の目白駅)、鈴木誠Click!(下落合464番地=同)、片多徳郎Click!(下落合596番地=最寄りは西武線の下落合駅)など各画家のアトリエをすべて「中井駅附近」と書くなど、このあたり土地勘のおかしさをあらかじめ含みおきつつ、同文から引用してみよう。
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昭和十年神宮外苑の日本青年会館に沖縄から舞踏団が来て三日位沖縄の種々の芸能が披露された。真境名由康。新垣松含ら大ぜいの舞踏団であった。/私は、金山夫妻と、医学博士でアララギ派の歌人斎藤茂吉夫妻のおともをして行った。金山平三夫妻は沖縄がすきになり、それから間もなくして沖縄に旅行された。/名渡山愛順は、美校を卒業して夫妻と愛拡が沖縄に帰り、借りていたアトリエは家主に返さねばならぬので、私達三人は別に附近に家をかりて、自炊生活をする事になった。高田馬場駅の近くには、洋画家の安宅安五郎がいて、私達三人は、笹岡了一に連れられてアトリエを訪問した。中井駅の近くには詩人萩原朔太郎と離縁したマダムが、ワゴンという喫茶店を経営して私達三人は笹岡了一、南風原朝光らとここでコーヒーを飲みながら談笑した。南風原朝光は、すぐ近くの上落合に住んでいた。
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これを読むと、金山平三Click!と斎藤茂吉Click!は疎開先の山形県大石田で知り合ったのではなく、もっと以前から知人関係にあったことがわかる。急速に親しくなったのが、大石田での疎開生活だったのだろう。また、金山平三は沖縄舞踊も踊れたClick!らしいことがうかがわれて面白い。また、萩原稲子Click!の喫茶店「ワゴン」Click!には、文学関係者だけでなく画家たちも常連で出入りしていた様子がうかがえる。
また、仲嶺康輝は帝展つながりのせいか、下落合(2丁目)604番地に住む牧野虎雄アトリエClick!を頻繁に訪問していたようだ。牧野アトリエの並びや向かいにあった、二科の曾宮一念Click!(下落合623番地)や帝展の片多徳郎のアトリエについては記述がないので、特に訪ねはしなかったのだろう。つづけて、同文から引用してみよう。
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下落合駅の近くには、洋画家の牧野虎雄が木造瓦葺、平屋に独身で住んでいて制作していた。一日に清酒二升五合を飲み、訪れる人には、お茶がわりに酒を出していた。日本間の畳の上ですわって絵を描き、小道具は熊手で自分の所に引き寄せていた。酒のみの妻はかわいそうだと言って妻帯せずときどき新橋の芸者屋に行っていた。アルコール中毒で絵を描く時も、学校で絵の指導する時もガソリンがきれたと言って洋服のポケットから出して小瓶の洋酒を飲んでいた。/牧野虎雄は、旺玄社(戦後旺玄会)の創立者で、ふだんの身の廻りは、酒屋の番頭が見ていた。
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1932年(昭和7)の前後、牧野虎雄はすでに重度のアルコール依存症だったことがわかる。向かいにアトリエをかまえていた、より重症なアル中の片多徳郎が訪ねてきたりすると、牧野アトリエは目もあてられない状態になったのではないか。
なお、曾宮一念のスケッチや回顧録Click!などから、牧野アトリエは洋間ばかりの家だと想定していたが、和洋折衷住宅だったのかどうやら和室をアトリエとして使っていた様子がうかがえる。したがって、以前の記事でご紹介した牧野虎雄の写真Click!は、年齢的な容貌からいっても長崎ではなく、下落合604番地のアトリエの可能性が高い。
名渡山愛順は、1932年(昭和7)に沖縄にアトリエを建て、同時に沖縄県立第二高等女学校で教職につくために帰郷するので、しばらく共同生活をつづけていた3人の画学生は、やがて一原五常アトリエを出なければならなくなった。代わりに借りたのが、下落合4丁目2162番地(現・中井2丁目)の林明善アトリエだった。中井御霊社のちょうど南側にあたる、八ノ坂の西側一帯の地番だが、名古屋で僧職に就いている林明善の留守番というかたちでアトリエを借り受けている。
さて、少し余談になるけれど、仲嶺康輝はこの文章の中で佐伯祐三Click!による『下落合風景』Click!の場所特定を試みている。八島邸の赤い屋根を入れた八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)を、金山平三アトリエClick!前の南北通りを北から南に向いて描いたものだと規定している。つまり、突き当たりに見える大きな屋根の家が金山アトリエだとした。おそらく、1931~34年(昭和6~9)ごろ実際に目撃した風景の断片を思い返しながら、描画ポイントの特定を試みたものだろう。だが、佐伯の画面に描かれた道が左ではなく右へクラックしている様子、犬を連れて散歩する人物が右手の坂を下っていく様子、描かれた三間道路には下水道の整備など早くから手が加えられている様子、同風景を描いた他のバリエーション作品(たとえば晴れ間のあるバージョン)の光線が射しこむ方角のちがいなどから、仲嶺の特定位置とはことごとく一致しない。
そしてなによりも、蘭塔坂(二ノ坂)Click!と三ノ坂Click!にはさまれた金山平三アトリエ前の南北道が拓かれ、上ノ道から南下する路地とつながったのは昭和に入って少ししてからであり、佐伯がいた1926年(大正15)ごろには道路自体が存在せず、家もほとんど見あたらない一面の野原だったはずだ。ついでに、仲嶺康輝は1986年(昭和61)に下落合4丁目(現・中井2丁目)を歩きながら、「新生美術」用の写真撮影をしているようなのだが、島津源吉邸Click!母家の建設位置を四ノ坂の西側と書いたり、刑部人アトリエClick!を三ノ坂に面したアトリエ東隣りの2階家に規定するなど、50年以上も前の曖昧な記憶に頼らず、もう少し事前に東京あるいは下落合の下調べをしてから原稿を書くべきだったろう。
仲嶺康輝は、林明善アトリエから帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)さらには多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)へ通いつつ、金山平三Click!アトリエのダンスパーティClick!(忘年会)などへ頻繁に顔を出している。しばらくすると、愛知県からやってきた洋画家をめざす荻太郎や小林久と同居するようになるのだが、それはまた、次の物語……。
◆写真上:下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)の一原五常アトリエ跡で、昭和初期には一原が不在となり名渡山愛順が借り受け沖縄の画学生たちが集合していた。
◆写真中上:上は、戦後すぐのころの名渡山愛順。中は、1946年(昭和21)に制作された名渡山愛順『首里の追憶』。下は、1959年(昭和34)制作の同『青藍絣の女』。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる一原五常アトリエ。中は、1934年(昭和9)に撮られた「沖縄美術協会」展の記念写真。前列右端が山元恵一、後列右からふたりめが仲嶺康輝で右端が西村菊雄。下は、1974年(昭和49)制作の山元恵一『ペルーの皿』。シュルレアリズムの作風は、どこか三岸好太郎Click!を想起させる。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる一原五常アトリエ。中は、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる一原アトリエ。下は、2012年(平成24)11月撮影の一原アトリエ側の道筋から眺めた解体寸前の金山アトリエ。
金山平三のパーティで踊る仲嶺康輝。
1934年(昭和9)になると、沖縄からの画学生だった仲嶺康輝は、蘭塔坂Click!(二ノ坂)上にある名渡山愛順が借りていた下落合4丁目2080番地の一原五常アトリエClick!から、下落合4丁目2162番地の林明善のアトリエへと転居している。林明善は、片多徳郎Click!に師事した名古屋出身の洋画家で、帝展を中心に活躍していた。
林明善は、名古屋市中区の古渡町にある犬御堂(現在は道路拡張にともない廃寺)という寺にいて、僧職をつとめながら帝展へ出品する異色の洋画家だった。ほとんどを名古屋の寺ですごすのだが、帝展や第一美術展の時期が近づくと、下落合の2階建てスレート葺きのアトリエへやってきては作品を仕上げていた。仲嶺康輝は林明善が名古屋にいる間、アトリエの“留守番”として住みこみの管理人となったわけだ。林明善アトリエのあった下落合4丁目2162番地は、中井御霊社Click!のちょうど南斜面、目白崖線の最西端にあたる八ノ坂の西に接するエリアだ。吉屋信子Click!が、1928年(昭和3)夏の散歩で歩いた中ノ道(現・中井通り)の途中、「牛」Click!を撮影したポイントの左背後の斜面に、林明善アトリエは位置している。
このアトリエで留守番をしてすごしている1935年(昭和10)10月、仲嶺康輝はゴタゴタつづきの帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)から、牧野虎雄Click!の奨めで多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)へと転校している。牧野は当時、多摩美校の初代洋画部長をつとめていた。同じころ、仲嶺は山元恵一と西村菊雄の3人で連れ立って、下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の近衛町Click!へ、自邸とアトリエClick!を新築した安井曾太郎Click!を訪ねている。帝展画家たちとの交流が多かった3人にしてみれば、二科の安井曾太郎を訪問したのはめずらしく、特に小林萬吾の同舟舎洋画研究所へと通い、のちにシュルリアリスムへと進む山元恵一は、美校や画塾でのアカデミックな表現にウンザリしていただろうか、安井の画面が新鮮に感じられたかもしれない。
1986年(昭和61)に発行された「新生美術」5月号収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』から引用してみよう。
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山元・西村と私の三人は目白駅の近くにいた安井曾太郎のアトリエを訪ねた事がある。なかなかアトリエを人に見せないので有名だが、沖縄から洋画の勉強に来た事を話したらアトリエを見せて下さって茶菓子を頂き激励して下さった。
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安井曾太郎は、「アトリエを人に見せないので有名」と書いてあるけれど、山口蚊象(のち山口文象Click!と改名)設計のアトリエはかなり自慢だったらしく、当時の建築雑誌や美術雑誌などの取材に応じてはアトリエ内を公開している。
さて、下落合西部のアビラ村には、下落合2080番地の金山平三Click!や下落合741番地の満谷国四郎Click!、後藤慶二Click!が設計した大久保百人町のアトリエに住んでいた南薫造Click!などが大正末に呼びかけて以来、帝展を中心とする画家たちが集合しはじめていた。名渡山愛順が一原五常アトリエを借りていたのは、おそらく東京美術学校で島津一郎Click!と同級生だった縁からだろう。当時の様子を、同誌からつづけて引用してみよう。
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この近くには、島津製作所の社長島津源吉の数千坪の屋敷に豪邸があった。その社長の息子に島津一郎がいた。一郎は、名渡山愛順と同級生で、そのため我々も懇意の中となり、よく一郎のアトリエに遊びに行った。一郎のアトリエは、島津家の大きな家敷(ママ)の一隅に、大きな住宅のような建物を持ち、よく専属モデル嬢を使って制作していた。刑部人の奥さんは一郎の姉で、島津家の広大な家敷の一角に邸宅を与えられていた。刑部人の息子祐三は、名渡山愛拡と美校時代の同級生と聞く。
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ここで、このサイトではおなじみの名前が次々と登場している。島津源吉邸Click!の庭にある、噴水の北側に建設された島津一郎アトリエClick!についてや、下落合4丁目2096番地の刑部人アトリエClick!、また、ここの記事ではよく写真やコメントを紹介させていただいている刑部佑三様Click!が、名渡山愛擴(拡)の同窓生とは存じ上げなかった。
また、仲嶺康輝が下落合4丁目2080番地の名渡山愛順アトリエ(一原五常アトリエ)に、山元恵一たちと寄宿していたころの思い出として、次のような文章を書いている。今年(2017年)3~4月に、沖縄県立博物館・美術館で開かれた「山元恵一展 まなざしのシュルレアリスム」展図録の、仲嶺康輝『学生時代の山本恵一君』から引用してみよう。
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私達の住んでいるアトリエから金山先生のアトリエまでは約7、80米、そこから中井駅まで約200米あって、この200米位のまがった坂道はスペインのアビラ村に似ているというわけで、金山先生がアビラ坂と名付けられた。私達はよく金山先生のアトリエにも遊びに行ったが、ここからは中井(西武線)の駅は、すぐ下にあって、ここを隔て、南側の向いが上落合で、上落合の欅の木々の間から遠く新宿の建物が見られた。上落合には南風原朝光さんが家族と一緒に住んで居られ、我々はよく遊びに出かけ南風原さんも亦我々のいるアトリエに来られた。
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仲嶺康輝が、下落合4丁目2162番地の林明善アトリエに住んでいるとき、1936年(昭和11)の二二六事件Click!に遭遇している。その文章の中で、「学校へ行くために中井駅まで行ったら、東京の全交通機関はストップ」と書いているけれど、明らかに勘ちがいだろう。つい先日も二二六事件Click!の朝、西武線の中井駅から山手線、中央線と乗り継いで登校した名取義一の文章Click!をご紹介したばかりだ。
前夜からの大雪で電車に遅れは出ていたかもしれないが、東京各地の省線や私鉄はいつもどおり運行されており、それに乗って登校あるいは出社した人々の証言は、これまで何度もここでご紹介している。東京市に戒厳令がしかれ、芝浦に海軍の陸戦隊が上陸して一触即発の状況となった後日の出来事と、2月26日当日の朝の出来事とを混同しているのではないだろうか。
仲嶺康輝は年末が近づくと、金山平三アトリエClick!で催される忘年会(ダンスパーティ)Click!へ出席するため、友人たちと踊りの練習に熱中した。もちろん、沖縄舞踊の出し物だったが、金山平三が沖縄舞踊に惹かれて自身でも踊るClick!ようになったのは、近くにいた名渡山愛順や、沖縄の若い画学生からの影響だったのかもしれない。再び「新生美術」5月号収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』から引用してみよう。
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私が留守番をしていた林画室は、友人・知人がよく来訪し、忘年会の時には皆が肉や魚や酒等を持って来てくれて若き日を楽しんだ。金山平三のアトリエでは、忘年会には、有名な画家(おもに帝展系)が集まってダンスパーティーをやった。私は郷里の青年で村芝居の経験のある数人を深川から林画室に来てもらって、リハーサルをし、金山平三の広いアトリエの作品を別室に片付けての忘年会に沖縄の舞踊を特別出演させたら大変な拍手であった。
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やがて、林明善アトリエには画学生の小林久や荻太郎が、愛知県からやってきて同居するようになる。だが、学校を卒業したあとも、そのまま林明善アトリエに住みつづけられると思っていた仲嶺康輝は、ほどなく1938年(昭和13)3月に林明善の訃報を受けとり驚愕している。林は、いまだ40歳の若さだった。
のちに、アトリエは林明善の鈴子夫人が同じ名古屋出身の洋画家・遠山清に売却し、仲嶺は下落合から出ていかざるをえなくなった。彼は中野区鷺宮1丁目に土地を借りて、20坪ほどの小さな赤レンガ造りの平屋アトリエを建設している。
仲嶺康輝が暮らした林明善アトリエの西、バッケClick!下(現・御霊坂のある位置)には、下落合と上高田の境界となる妙正寺川が流れていた。その両岸には、麦畑やトマト畑が拡がっていたのだが、紅く実ったトマトを失敬するトマト泥棒が出没している。川沿いのトマト畑が、点々と被害に遭っているようなのだが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:中井御霊社の下、下落合4丁目2162番地の林明善アトリエ跡。(左手奥)
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林明善アトリエで、仲嶺康輝が住んでいた時期と重なる。中は、1938年(昭和13)の火保図にみる林明善アトリエ。「火保図」では東隣りの寺尾元彦邸(早大法学部長)とくっついているように採取されているが、実際には別棟で同図の誤採取。下は、中井御霊社に合祀されている稲荷社。社殿左側の、急激に落ちこんでいる斜面の真下が林明善アトリエ。
◆写真中下:上は、二の坂上の名渡山愛順アトリエ(一原五常アトリエ)側から眺めた、突き当たりの金山平三アトリエ跡。中は、金山アトリエで毎年開かれた忘年会の芝居+踊り+仮装パーティーで、左端が変装した金山平三。下は、十和田で制作中の金山平三。(中島香菜様Click!から提供いただいた「刑部人資料」より)
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・林明善アトリエ。中は、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる同界隈の様子。下は、当時の画家たちも目にしていたと思われる中井御霊社から西側へと下る大谷石のバッケ階段。
『蘇州夜曲』じゃなくて『春の唄』。
下落合に集った沖縄の画家たちについて、仲嶺保輝Click!の回顧エッセイを引用しながらご紹介してきた。その中に、こんな記述がある。1986年(昭和61)に発行された「新生美術」5月号(新生美術協会)収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』より引用してみよう。
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私のいた林明善画室の隣には、早大法学部長寺尾元彦がいて、油絵を習いたいからといって、油絵具一揃いを買い、休日などによく絵を描きに来られた。/寺尾部長は、早大法学部内に沖縄の人で優秀な教授がいると話して下さった。この人が後の早大総長大浜信泉である。/林画室の入口近くには、歌手の渡辺はま子が月村という表札と並んで住んでいて、そこを通る時、よくピアノと歌声が聞こえて来た。中井駅に行く途中には小説家の吉屋信子がいてよく犬を連れて散歩しているのを見かけた。
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この文章によれば、下落合4丁目2162番地(現・中井2丁目)の林明善アトリエClick!の隣りには、「渡辺はま子」が住んでいたことになっている。だが、昭和初期に生まれた方ならすぐにもピンときて、「そりゃ、渡辺はま子じゃなくて、同じ歌手にはちがいねえけど渡辺光子さ。下落合に山口淑子(李香蘭)Click!だけじゃなくて、渡辺はま子までがそろってたら、もう仕事してる場合じゃないぜ!」となるだろう。w
仲嶺康輝は、「月村」という表札を見ているにもかかわらず、渡辺光子(月村光子)と渡辺はま子をとりちがえている。しかもピアノの音や歌声が聴こえていたのなら、すぐにも曲や歌声から渡辺はま子ではなく、渡辺光子のほうだと気づいていたはずだ。わたしの親の世代から上の方で、特に当時の芸能界に詳しくない方だったとしても、ちょっとありえない、考えられない人ちがいだろう。
事実、第二文化村Click!に通う坂道の途中、下落合1725番地には山口淑子(李香蘭)邸Click!(事務所が設定した“公邸”ではなく、おそらく私邸あるいは実家)があったので、同じ下落合の町内に渡辺はま子までが住んでいたら、町内の男子たちは落ち着かずウキウキ気分になりっぱなしになったのではないか。およそ、九条武子Click!や宮崎白蓮Click!の人気どころではなかっただろう。ましてや、山口淑子(李香蘭)のようにときどき近所を散歩して文化村の住民に目撃されてたりすると、周囲の学生や青年、ヲジサンたちはいつもソワソワと散歩に出たがったにちがいない。w 親父も、有楽町界隈の話になると思いだしては話してくれたが、のちのコンサートでは入場待ちの観客が日劇のまわりを3周Click!も取り囲むような、超人気の女性たちだった。
仲嶺康輝が林明善アトリエにいたころ、ふたりの人気は映画あるいは音楽(レコード)、ステージ、ラジオ番組などを通じてウナギ上りだった。いまの若い子たちには、まったくピンとこないかもしれないけれど、「結婚したい女性ランキング2017」(リクルート社調べ)で、1位の綾瀬はるかと2位の新垣結衣が同じ町内に住んで、ときどき近所を散歩している……というようなインパクトを想像してもらえば、少しはおわかりいただけるだろうか。しかし、残念ながら中井御霊社Click!の下、下落合4丁目2162番地の邸に住んでいたのは、渡辺はま子ではなく渡辺光子(月村光子)のほうだった。
わたしは、親父が口ずさんでいた渡辺はま子の『蘇州夜曲』『支那の夜』や李香蘭のそれらは、ワンフレーズぐらいしか唄えないけれど、渡辺光子(月村光子)のヒット曲のひとつ『春の唄』Click!は、最後までつづけて唄える。いや、戦後に中学校や高校の音楽教科書にも採用されたので、わたしだけでなく多くの方が唄えるのではないだろうか?
♪ラララ赤い花束 車に積んで
♪春が来た来た 丘から町へ
♪すみれ買いましょ あの花売りの
♪かわい瞳に 春のゆめ
月村光子は『春の唄』のほか、『旅は青空』『時雨ひととき』『街の流れ鳥』などの歌が次々とヒットし、一気に流行歌手の仲間入りをしている。彼女は、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)で教師をするかたわら、さまざまな歌手名を使い分けながら歌謡曲を連続ヒットさせる、非常にめずらしい存在だった。芸名だけでも、渡辺光子(結婚後は月村光子)をはじめ川島信子、川瀬綾子、川辺綾子、川辺葭子、島津千代子、田辺光子、綾小路満子、フローラ瑠璃子、水浪澄子、水野喜代子、春海綾子、中村春枝……etc.と、本人も混乱したのではないかと思えるほど、たくさんの歌姫名を持っていた。戦後は、生まれ故郷の東京を離れ、関西の宝塚音楽学校で歌謡の教師をつとめている。
さて、少し余談だけれど、渡辺光子(月村光子)よりもケタちがいに人気があった渡辺はま子は、仲嶺康輝が林明善アトリエに住んでいた1936年(昭和11)、『忘れちやいやヨ』Click!をレコーディングしている。早稲田大学の応援歌発表会に招かれて、同曲を唄ったところ大好評でヒットのきざしが見えはじめた矢先、突然、内務省から「あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱、エロを満喫させる」とされて、上演禁止とレコードの販売禁止を命じられた。当然、それを機会に同省の特高警察Click!からも目をつけられただろう。だが、彼女は曲名を変え歌詞の一部を変更するだけで唄いつづけ、わずか3ヶ月足らずでレコード売上げ15万枚という大ヒットを記録している。
当時、新宿を中心とした“都の西北”界隈では内務省および特高警察、さらには軍部からの思想・宗教弾圧Click!や、さまざまな生活・メディア・芸術表現への抑圧・統制・干渉Click!を眼前にして、次のような『東京行進曲』の替え歌がひそかに唄われていた。
♪昔恋しいワセダの自由
♪今の暴圧だれが知る
♪モガと踊つてビラ張つて更けて
♪明けりや処分の涙雨 (歌詞採集:今和次郎Click!)
ちなみに、昭和初期の治安維持法ならぬ現在の「共謀罪」が施行されれば、いつなんどき国家や警察の恣意的な規定で、このような状況に陥ってもなんら不思議ではない危機的な状況を迎えていることに、決して鈍感でいてはならないだろう。
さて、仲嶺康輝が渡辺光子(月村光子)邸の隣りに住んでいた前後、彼は周辺に拡がる風景を仲間とともに写生してまわり、いくつか「下落合風景」のタブローを仕上げている。今年(2017年)の春に開催された「山元恵一 まなざしのシュルレアリスム」展図録(沖縄県立博物館・美術館)に収録の、仲嶺康輝『学生時代の山元恵一君』から引用してみよう。
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今の中井附近は、家が建ちならび、昔の風景は見られないが当時は武蔵野の特色である欅林や麦畑、野菜畑、竹林等があり人家が所々にあったので、我々はよくこの附近の風景を描きに行った。油絵の風景も描くが何といっても絵の基礎はデッサンである事を忘れなかった。/小林萬吾先生の画塾である「同舟舎洋画研究所」に行くのは中央線の東中野駅まで20分位歩いて国電に乗り信濃町駅で下車して、これから又20分歩いて小林萬吾先生の研究所に通った。ここの研究所も川端画学校と同じく各県から来た美術浪人がいて、ここは約20人位いた。
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もし、彼らが描いた「下落合風景」が残っていれば、いまでは貴重な作品群となっただろう。広い下落合の東部や中部を描いた作品は比較的多いが、中井御霊社のある西端近くを描いた作品はかなり少ないからだ。下落合を歩きまわっていた佐伯祐三Click!の「下落合風景」シリーズClick!でも、下落合の西端を描いた作品は2~3点しか見つからない。
このサイトでは、落合地域に住んだ芸術家(おもに画家や作家など)は数多く取り上げてきているけれど、音楽家にはこれまであまりスポットを当てずにスルーしてきた。多彩な資料をひっくり返していると歌手や演奏家、作曲家などのネームに出あうことがあるので、これからは気づいた時点で少しずつご紹介できればと考えている。
◆写真上:八ノ坂を下から見上げたところで、下落合4丁目20162番地の林明善アトリエや月村光子(渡辺光子)邸は、左手の路地を少し入ったところに建っていた。
◆写真中上:上左は、1986年(昭和61)発行の「新生美術」5月号。上右は、渡辺光子(月村光子)のブロマイド。下は、渡辺はま子(左)と李香蘭(右)のブロマイド。
◆写真中下:上は、渡辺光子(月村光子)が住んでいたあたりの現状。手前左の早大教授の寺尾元彦邸跡と、奥の林明善アトリエにはさまれるような位置に「月村」の表札が出ていた。月村光子のレコードレーベルで、『名曲玉手箱』(中)と『想ひ出の月影』(下)。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる月村光子(渡辺光子)邸あたり。以前にも書いたが、「火保図」は寺尾元彦邸の形状を誤採取している。中は、1947年(昭和22)の空中写真にみる月村光子邸。下は、画塾へ通った仲嶺康輝たちがコーヒー1杯で2時間以上ねばった新宿の喫茶店。左手が新宿駅舎なので、東口駅前の東京パンの2階にあった喫茶部から山手線方向を向いて撮影している。
妙正寺川沿いのトマトが消えるわけ。
山元恵一は、下落合4丁目2080番地の名渡山愛順アトリエClick!に住んでいるとき、すぐ南側にアトリエをかまえていた金山平三Click!から「ガンジー」のあだ名をもらっている。そのせいか、中井駅前の喫茶店「ワゴン」Click!のママ・萩原稲子Click!からも「ガンジー」と呼ばれていたらしい。
そう証言しているのは、今年(2017年)3~4月に沖縄県立博物館・美術館で開催された「山元恵一 まなざしのシュルレアリスム」展図録に収録された、仲嶺康輝Click!『学生時代の山元恵一君』の中でだ。その部分を、同図録から引用してみよう。
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山元君は「マドロスの歌」が大変すきで下落合のアトリエでもよく歌っていた。中井駅の近く、川のそばに「ワゴン」という小さな音楽喫茶の店があった。ここの経営をしているマダムは詩人萩原朔太郎氏と別れた女で話もなかなかすきな人だったので時にはこの喫茶店に行った。南風原朝光さんの家から近かった。当時熊岡美彦画伯に師事して油絵の勉強をしていた笹岡了一さんも近くにいたので「ワゴン」によく来た。いつの間にか友達になってお互いのアトリエに行き来した。たしかこのマダムは笹岡さんと一緒になったと記憶している。/山元君は学生時代から色が黒くてやせていたので金山平三先生が山元君に、君の顔はガンジーに似ているねといってとうとう自他ともにガンジーで通っていた。喫茶店のマダムも山元君が来ないときはガンジーはどうしたのと言っていた。
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まず、笹岡了一が1935年(昭和10)に結婚したのは、秋元松子であって萩原稲子ではない。萩原稲子がいっしょになったのは、彼女と萩原朔太郎との間にできた娘・葉子によれば、神楽坂にいた詩人・三富朽葉Click!の甥である三富某という画学生だった。
また、下落合3丁目1909番地にあった「ワゴン」Click!のすぐ南側、妙正寺川に架かる寺斉橋Click!の付近には、画家たちが入りやすい借家(アトリエ付きだったかもしれない)があったものか、大正末には林重義Click!(上落合725番地→716番地)や、林武Click!(上落合725番地)が住みついている。1930年代ともなると、あちこちに集合住宅なども建っていたとみられ、アパートメント静修園Click!のように独立美術協会Click!に出展する画家たちが集まって暮らしていたところもあった。
さて、名渡山愛順アトリエ(一原五常アトリエ)あるいは林明善アトリエにいた仲嶺康輝たちは、ときどき周辺を散歩がてら写生をして歩いている。ときには、妙正寺川沿いを歩いて北上し、練馬街道(大正期からの長崎バス通りClick!のことで江戸期の練馬街道とは少しズレがある)へ出ると、そのまま武蔵野鉄道沿いに歩いて練馬区に開園した豊島園まで歩いていくこともあった。往復16kmほどの行程になるけれど、当時の歩き慣れていた貧乏学生たちには、たいした距離には感じなかっただろう。
当時の妙正寺川沿いには、1933年(昭和8)に牧野虎雄Click!が『麦秋』Click!に描いたような麦畑が一面に拡がり、それに混じって野菜畑が散在するような風情だったろう。野菜畑の中には、日本人の味覚にあうよう昭和初期に盛んに品種改良がつづけられていた、トマト畑も多くあったらしい。バッケが原Click!付近の農家では、ときどきトマトがごっそりと摘みとられているのに気づいていた可能性がある。あたりでは、北原橋西詰めの上高田422番地に建っていた故・虫明柏太アトリエに住む、いかにも貧乏所帯そうな中出三也Click!と甲斐仁代Click!が、疑いの目で見られていたかもしれない。w
だが、トマトを失敬してったのは、付近を散策する下落合からやってきた画学生たちだった。同図録より、再び仲嶺保輝の文章を引用してみよう。
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西村菊雄君は僕と同じく帝国美術学校に入ったが父西村助八の死亡やら自分の病気やらで美校を最後まで行かずにやめてしまった。妙正寺川のほとりは農家が点々として麦畑、トマト畑があった。豊島園(練馬区)までは約8キロ位の所で山元・西村・僕と散歩しながら、途中農園のトマトを失敬して食べたりして夏休みの或る日出かけた。もとより三人ともお金は殆ど持っていない。表門まで行ったら入園料が高くて入れないので入園をあきらめて園の周囲をめぐり金網の外から、又木々の間から遊んでいる人達を見た。広大な園の周囲を廻っているうちに園内から流れて外へ注ぐ川の石垣の所まで来た。その川の水面と金網との間は水位が低くなって人間が通れる位の所なので、又その附近誰も通っていない裏路にあったので三人はそこから園内にしのび込んだ。金はないので池のボート遊びや様々の遊園施設を横目で見ながら唯見学だけしていた。
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当時のトマト栽培は、もちろんビニールハウスなど存在しないので露地栽培だったろう。上高田も近い妙正寺川の周辺は、大正末から耕地整理がスタートしていたはずだが、1930年代になってもいまだあちこちに畑地が残る風情だった。
豊島園は、1927年(昭和2)に全面開園した郊外遊園地で、近くに住む人々の人気を集めていた。もちろん画家たちも、モチーフ探しに豊島園へと通っていたようだ。下落合の画家では、豊島園の風景を連作していた松下春雄Click!が知られている。もっとも、松下春雄は淑子夫人Click!と子どもたちClick!を連れてピクニック気分で、豊島園を訪れる機会が多かったのかもしれない。3人の画学生は、帝展でもチラホラ見かけはじめた「豊島園風景」に興味を持ち、下落合から歩いていったものだろうか。
名渡山愛順アトリエを出なければならなくなった3人は、林明善アトリエの仲嶺康輝をはじめバラバラに住むようになるが、どうやら同じ落合地域かその周辺域に住んでいたようだ。同図録の仲嶺康輝『学生時代の山元恵一君』には、「山元君とは美校も住居も別れたが徒歩で10分位の所でお互いは良く行ったり来たりした」と書かれているので、手もとの山元恵一年譜では住所まで確認できないけれど、おそらく下落合か上落合の借家に住みつづけていたのだろう。
また、同じころ沖縄出身の若い画家たちが集まって「沖縄美術協会」を結成している。同協会には山元恵一、仲嶺康輝、西村菊雄、南風原朝光、兼城賢章、渡嘉敷唯盛らが参加し、1934年(昭和9)6月に神田の東京堂2階でグループ展を開催している。当時の様子を、1986年(昭和61)に発行された「新生美術」5月号収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』から引用してみよう。
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下落合時代には、山元恵一、大城皓也、兼城賢章、西村菊雄らと神田の東京堂二階で、沖縄美術協会として展覧会をやり在京沖縄県人の方々から激励された事もあった。名渡山愛順は光風会展や帝展に出品の度に作品のキャンバスを巻いて沖縄から持参して私のいる林画室に泊った。/夏には、多摩美の水垣正・鹿島守久・細木原茂直・本間淳夫らと一しょに、名渡山愛順がよく裸婦制作をしたモデル嬢もつれて、海の銀座片瀬、江ノ島へ出かけた事もあった。
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名渡山愛順が連れ歩いていたお気に入りのモデルも、東京美術学校Click!や帝展の画家たちからはお馴染みの、宮崎モデル紹介所Click!に所属していたのかもしれない。
最後に余談だけれど、仲嶺康輝たち3人は名渡山愛順とは同級生だった島津一郎Click!をときどき訪ねていたようだ。島津源吉邸Click!内にある吉武東里Click!が設計したアトリエClick!は、まちがいなく訪問したことが書かれているが、1938年(昭和13)現在、下落合4丁目2091番地にある松本竣介アトリエClick!の東隣りに記録された、島津一郎の自邸を訪ねていやしないだろうか。島津アトリエは現存することもあり、その建設経緯や詳細は知られているけれど、松本竣介アトリエの東隣りに独立して建てられていた島津一郎邸は、いまだよく知られていない存在なのだ。このあたり、名渡山愛順が詳しいだろうか。
◆写真上:妙正寺川沿いから、目白学園の丘を眺めたところ。同学園の南にある中井御霊社のすぐ下に、林明善アトリエは建っていた。画学生3人は、この丘のバッケ(崖地)を下りると、川沿いに北(画面左手)へ向かって歩いていった。
◆写真中上:上は、1933年(昭和8)制作の牧野虎雄『麦秋』。中は、名渡山愛順(左)と山元恵一(右)。下は、1951年(昭和26)制作の山元恵一『貴方を愛する時と憎む時』。
◆写真中下:上は、1973年(昭和48)に制作された山元恵一『若夏』。中は、画学生たちが豊島園へ向け下落合から西落合を抜けて歩いた、腹が減ったときトマト食い放題のウキウキ散歩コース。下は、いまも妙正寺川沿いにはアトリエ建築が残る。
◆写真下:上は、南風原朝光(左)と大城皓也(右)。中は、1940年(昭和16)制作の南風原朝光『野菜と果物』。下は、1964年(昭和39)制作の大城皓也『ニシムイを望む』。沖縄の那覇市首里儀保町には、「ニシムイ」と呼ばれる画家たちの美術村があった。
郊外野菜を運ぶ大八車の中身。
これまでの記事の中で、落合地域に通う街道を往来する人々の姿として、東京郊外の野菜を大八車や牛馬車に満載して、市街地にある青果市場(やっちゃ場)へと運ぶ情景を何度かご紹介してきた。落合地域には、おもに東京市街へと抜ける4本の街道が貫通している。これらの幹線道路は、おもに江戸期(道によっては鎌倉街道の時代)から、重要な交通や物流ルートとして機能してきた。
まず、練馬や板橋の方面から通う練馬街道あるいは清戸道Click!(現・目白通りなど)、鷺宮や石神井方面から通う街道(現・新青梅街道)、新井方面から通う鎌倉期に由来する中ノ道Click!(雑司ヶ谷道=新井薬師道)、そして中野方面からつづいている街道(現・早稲田通り)などだ。これらの道路を野菜を積んだ大八車や牛車、馬車などが明治以降も頻繁に往来していた。また、街道から街道への抜け道として落合の道筋が利用されており、以前に上落合の鶏鳴坂Click!などのエピソードをご紹介している。
もちろん、落合地域で獲れた野菜や果物も、これらの物流ルートを利用して市街地にあるマーケットへと運ばれている。落合地域で生産されたのは、一時は米国にまで輸出した沢庵漬けに適する落合大根Click!や、その甘さが評判になって大正期にはブランド化していた落合柿Click!などだ。妙正寺川の旧・バッケの水車小屋Click!を借りて住み、父親の野菜仲買商を手伝っていた1930年協会Click!の小島善太郎Click!は、大八車に野菜を積んでは下落合から江戸川橋や神田の青果市場へと運んでいた。小島の半生記『若き日の自画像』Click!(雪華社/1968年)には、より遠くの神田青果市場へ運んだほうが、高い値をつけて買ってくれたというエピソードが紹介されている。
さて、落合地域を通過する車には、具体的にどのような野菜が積まれていたのだろうか。ほとんどの資料では「郊外野菜」としか記されておらず、東京郊外で栽培されていたダイコン以外の具体的な野菜の種類が不明だ。そこで、荻窪に住んでいた井伏鱒二の作品に、郊外野菜を出荷する情景が描かれていないかと思い探したところ、『荻窪風土記』(1982年)があった。荻窪(杉並区)でも、やはり主要産品はダイコンだが、そのほかに運ばれた細かな野菜の種類や、運搬の方法までが記録されている。
井伏鱒二は関東大震災Click!ののち、早稲田大学Click!にもほど近い牛込鶴巻町の南越館という下宿屋Click!にいたが、1927年(昭和2)の初夏に豊多摩郡井荻村下井草1810番地(現・杉並区清水1丁目)に家を新築して転居している。中央線・荻窪駅の北側で、周囲にはいまだ田畑が遠くまで拡がっているような風景だった。場所がら、周辺の農民とも親しくなっている。以下、1986年(昭和61)に新潮社から出版された、『井伏鱒二自選全集』第12巻収録の『荻窪風土記』から引用してみよう。
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これは弥次郎さんばかりでなく、この辺の農家で朝市場へ行く者は、みんなこの通り夜業で仕度をして出荷した。大根のほかに、白菜、牛蒡、人参、からし菜、山椒の芽など、季節に応じて出した。淀橋の東洋市場へ行くのもあり、早稲田や諏訪の森のヤッチャ場へ行くのもあり、京橋のヤッチャ場へ行くのもある。出発は殆どみんな真夜中だから、家族の者が道明りの提灯を持つてついて行く。中野坂上と鳴子坂の袂のところの立ちん坊は、元は一回五厘から一銭で車の後押しをしてゐたが、第一次欧州戦争後は一回二銭から三銭ぐらゐ押し賃を取るやうになつた。/淀橋から先の新宿大宗寺あたりまで行けば、後は下り坂になるし白々と夜が明ける。家族の者は、新宿か四谷の駅から提灯を持つて帰つて来る。電車で帰れば新宿から荻窪まで片道十銭だが、歩いて帰れば女の足で二時間かかる。(中略) 帰りの車は朝荷のやうに重くはないが、金肥を積んだり人糞を汲んだ肥桶を載せたりすると、坂を越えるときまた立ちん坊に後押しさせなくてはならぬ。
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おそらく、荻窪から市街地の市場へ野菜を運ぶ際も、できるだけ遠くの市場へ運んだほうが高値で買いとってくれた事情は同じだろう。だから、出荷する日はほとんど真夜中に起きだしては、できるだけ東京の中心エリアにある市場をめざし、家族総出で運んでいった。挙げられている野菜類は、大正期から昭和初期にかけての品種であり、幕末から明治期には栽培が大流行した茶葉、あるいは昭和10年以降にやはり流行した露地栽培のトマトが出荷されたのではないだろうか。
当初は、江戸期と変わらない大八車を、人々が曳き押ししていく運搬方法のままだったが、大正の半ばには大八車の箍(たが)が鉄製の二輪だったのが、四輪のゴム製車輪に変わり、したがって速度がでる四輪車を牛や馬に曳かせる運搬法が主流になっていった。目白通りや早稲田通りで、よく見かけられた牛車や馬車が曳いていたのは、この進化型の大正四輪大八車だろう。また、これらの車には生野菜ばかりでなく、米俵や加工された沢庵漬け、肥料となる下肥桶Click!なども積まれて運ばれた。1925年(大正14)現在、井荻村全体で街道をいく運搬用の馬車が46台あったと記録されている。
さて、この郊外野菜の運搬に関して、『荻窪風土記』には面白いエピソードが紹介されている。荻窪地域では、1923年(大正12)の関東大震災が起きるまで、品川の岸壁を出港する船の汽笛が聞こえていたという。ところが、震災を境に急にパッタリと聞こえなくなり、野菜を運搬中に青梅街道の成子坂(鳴子坂)Click!へと差しかかると、東京湾の汽笛の音がよく聞こえてきた……という逸話だ。つづけて、同書より引用してみよう。
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「いや、品川の汽笛の音は、大震災後、晴雨にかかはらず聞えなくなつた。確かにさうだ。府中の大明神様の大太鼓の音も、もとは祭の日に荻窪まで聞えたもんだ。大震災後、やがてこれも聞えなくなつた。この辺の澄んでた空気が、急にさうでなくなつたといふことぢやないのかね」/何かプラス・マイナスの関係で、汽笛の音を消すやうになつたのだ。/大正十二年が関東大震災で、弥次郎さんは大正十三年に徴兵検査を受けた。そのころはもう汽笛の音が聞えなくなつてゐたが、府中大明神の大太鼓の音はまだ微かに聞え、お祭の当日は六の宮の御輿が出て、一番から六番までの大太鼓の音が聞えたさうだ。/「ところが大震災後も、品川の汽笛は、鳴子坂あたりでならまだ聞えてゐた」と弥次郎さんが言つた。/荻窪から京橋のヤッチャ場へ車を曳いて行く途中、たまたま鳴子坂の上に出ると早朝の汽笛の音を聞くことが出来たといふ。その後、また暫くすると、鳴子坂の上からも汽笛は聞えなくなつたさうだ。
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いまは、再び成子坂界隈の住宅街でも、東京湾からの汽笛は響いているだろうか。もちろん、街じゅうが活動しているふだんの夜は無理かもしれないが、大晦日の夜などにはよく聞こえるのではないだろうか。
わが家でも、大晦日から年越しの午前0時にかけては、東京湾に停泊している艦船がいっせいに鳴らす「年越しボーッ」が、強い北風さえ吹いてなければよく響いて聞こえている。また、東京湾や大川(隅田川)で開催される花火大会Click!の音も、親父が嫌いだった空襲時の対空砲火Click!の音のように聞こえてくる。井伏鱒二は、「澄んでいた空気」がなくなったから汽笛が聞こえなくなったのではないかと想像しているが、その伝でいけば空気が澄んできたので新宿の北部でも、聞こえやすくなってきているのだろうか。
早朝に市場へ野菜類を運ぶために、街道沿いには休息する一膳飯屋や茶屋、酒屋などが店開きしていた。井伏鱒二の聞きとり調査によれば、大正前期の青梅街道沿いにあった一膳飯屋では、丼飯1杯が2銭、煮しめ1皿も2銭だったらしい。これに景気づけの焼酎を注文すれば、おそらく10銭もあればいい気持ちで満腹したのではないだろうか。
◆写真上:江戸期から大正期まで活躍した、街の物流には不可欠だった大八車。
◆写真中上:上は、1929年(昭和4)の1/10,000地形図にみる井荻村下井草1810番地界隈。中は、1936年に撮影された空中写真にみる同番地の井伏鱒二邸。下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された空中写真にみる同邸。
◆写真中下:ダイコン畑(上)と長ネギ畑(中)。下は、20代の井伏鱒二(左)と1982年(昭和57)に新潮社から出版された『荻窪風土記』(新潮文庫版/右)。
◆写真下:上は、大葉のサトイモ畑。中は、ナツアカネとキゴシハナアブで畑にはいろいろな虫がくる。下は、東京の農家でよく見かけるニホンオオカミClick!の御嶽社護符。
★おまけ:1933年(昭和8)に撮影された、東京駅と丸ビル前を通過する農民の野菜牛車。当時はめずらしくない光景で、ゴム製四輪の進化型大八車で神田市場に野菜を卸した帰り道だろう。街の“欧米化”にアタマが染まっていた薩長政府が見たら、「カンベンしてくれ!」となるアジアの国らしい眺めだ。おそらく目黒方面の農民だと思われるが、ついでに帝国ホテルと鹿鳴館跡の前を通ってくれるとアジアの日本を印象づけて面白い。
中村彝生誕130年記念のパーティー。
2,000件めを記念する物語記事は、いまの下落合の出来事から……。
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7月3日の月曜日、下落合の中村彝Click!アトリエには生誕130年記念を祝う人たちが参集した。のべ200名ぐらいの方々が、アトリエに集っただろうか。こちらでも何度か書いているけれど、当時の郊外に住んだ画家たちは落合も長崎も高田(目白)も池袋も、郡町村の境界に関係なく往来して居住している。それら画家たちの物語や軌跡を描くのに、現在の新宿区も豊島区も関係がない。わたしが、このお話をうかがったとき、真っ先に考えたのがそのことだった。
最初に中村彝生誕130年記念会(パーティー)のお話をうかがったのは、元・新宿区議の根本様Click!からだった。さっそく、彝アトリエで開かれた打ち合わせに出かけると、前・新宿区議会議長の深沢様と元・NHKプロデューサーの葉方様がみえ、記念会のコンセプトと催しの内容の打ち合わせがはじまった。わたしの頭の中には、2つのことしかなかった。ひとつは、上述のように落合地域に居住し往来した画家たちに、「新宿区も豊島区もない」ということ。つまり、この催しに豊島区の高野区長もお呼びしよう……という企画だ。
豊島区では毎年、「池袋モンパルナス」Click!の「まちかど回遊美術館」で街歩きをする際、いつも下落合に現存している中村彝アトリエと佐伯祐三Click!アトリエを見学ポイントとして含めてくれている。だから、今度はこのような催しには、豊島区側にもぜひ声をおかけしたいという思いがあった。高野区長であれば、文化・芸術に関することなら必ず注目してくれるだろうし、気さくに「近所のオジサン」Click!のノリwで彝アトリエまできてくれるだろうという感触もあった。高野区長とは目白美術館の刑部人展Click!以来で、同区の文化事業全般のご担当である小林様ともども、ちょっとお話したいこともできたのだ。
わたしの頭の中にあったもうひとつのテーマは、こういう催しで一度はあつかってみたかった中村彝と「カルピス」Click!の関係だ。中村彝は、1920年(大正9)4月ごろからカルピスを飲みはじめ、おそらく死去するまですっかりカルピスが病みつきになっている。きっかけは、彝が手紙に書く「中村パン屋のオヤヂ」こと新宿中村屋Click!の相馬愛蔵Click!が、病中見舞いに前年(1919年)に発売されたばかりのカルピスを、下落合のアトリエへとどけたことからはじまる。当時のカルピスは、滋養強壮や健康保全を効用にして売られていた飲料だった。以来、友人の証言によれば、多いときは1日1本を空けてしまうほど、彝はカルピスフリークになってしまったらしい。カルピスは作品のモチーフとしても登場し、彝アトリエの東側には1923年(大正12)に制作された『カルピスの包み紙のある静物』(レプリカ)も架かっている。
当時のカルピスは、今日のようにカルピスウォーターとかカルピスソーダなど、あらかじめ水やソーダで割ったものではなく原液のままだ。わたしが子どものころまで、カルピスといえば原液のままだったが、最近は希釈しないですぐに飲める製品のほうが主流になっている。そこで、『カルピスの包み紙のある静物』の横に、中村彝とカルピスに関する新しいパネルを用意することと、カルピス本社の広報室に連絡してご協力をお願いするのがわたしのマターとなった。同社の広報室ではすぐに快諾いただけ、カルピスウォーター150本ぶんをお送りいただけることになった。
当日は33℃を超える猛暑となったので、新宿中村屋さんが用意してくれたコーヒーやカルピスウォーターが、熱中症予防の水分補給には役に立ったのではないだろうか。ただし有志が集まり、そもそも予算ゼロで手弁当の催しのため、カルピスウォーターが常温のままだったのがちょっと残念な点だ。彝アトリエのスタッフのみなさんが、小さな冷蔵庫に入れて冷やしてくれてはいたが、もちろん少ない本数だったので間に合わなかった。持ち帰った方々は、おそらく冷蔵庫でよく冷やすか氷を浮かべるかして、中村彝とカルピスの時代に想いをはせながら味わっていただけたのではないかと思う。
生誕130周年記念パーティーには、吉住新宿区長をはじめ高野豊島区長、新宿中村屋の鈴木社長、彝が新宿中村屋を出た直後に旅行した伊豆大島ゆかりの方、旧・中村彝会の代表で鈴木良三Click!の弟子であり医師で画家の野口様、新宿歴史博物館のみなさんなど、多彩な方々が来られた。そして、吉武東里Click!が設計した島津一郎アトリエClick!を保存されている中村様がおみえなので、さっそく豊島区の高野区長と小林様へ改めてご紹介し、金山平三アトリエClick!が壊されてしまったいま、豊島区側の街歩きにも島津一郎アトリエを加えていただきたい旨をお話した。聞けば小林様は、街歩きのとき同アトリエへすでに立ち寄ったことがおありとのこと。島津一郎アトリエは、アビラ村Click!の金山平三Click!や刑部人Click!などに関連した美術的な側面にとどまらず、建築のテーマからもきわめて重要な存在だ。
それともうひとつ、わたしの大収穫は、中村彝の弟子だった清水多嘉示のお嬢様・青山様にお会いできたことだ。洋画家であり彫刻家でもある清水多嘉示は、1923年(大正12)3月に渡欧するまで1917年(大正6)6月28日から中村彝アトリエへ頻繁に通い、写真が趣味だったのか中村彝のスナップ風の日常写真を撮影していること、彝アトリエの周辺で風景を写生しており、その中には「下落合風景」とタイトルされた作品も混じっていること、彝アトリエへ通いながら日記をつけていること、フランスでは佐伯祐三といっしょに撮られた集合写真をお持ちなこと、そして中村彝から清水多嘉示にあてた手紙類を数多くお持ちで、それらの私信類は1926年(大正15)に岩波書店から出版された中村彝『芸術の無限感』Click!には未収録のものばかりなこと……などなどだ。未収録となったのは、もちろん清水多嘉示が1928年(昭和3)まで滞仏中であり、『芸術の無限感』が編纂されたときには日本にいなかったからだ。
特に気になったのが、パリに滞在する清水多嘉示あてに、中村彝はおそらくモチーフのひとつに使いたかったのだろう、フランス製のタペストリーを早く送るよう督促する手紙を、1923年(大正12)に銀座伊東屋の原稿用紙に書いて送っている。壁掛けのタペストリーですぐに想い浮かぶのが、彝アトリエの西側ドアClick!に描かれていたとみられる、なんらかの幾何学模様のようなデザインだ。1924年12月24日に中村彝が死去した直後、翌1925年(大正14)の2月までドアの模様は視認できるが、その後はまったく確認できないなんらかのペインティングと思われる図柄だ。1929年(昭和4)に、彝アトリエが鈴木誠アトリエClick!になってからは、当該のドアは早い時期に外され別の用途に使われたものか、あるいは上部をガラス付きのドアに改造され、塗り直されて居間用のドアに流用されてしまったものか、いっさいが不明のままだ。
中村彝が、清水多嘉示あてにタペストリーを送るよう書いているのは1923年(大正12)の手紙なので、その後フランスから送られたのかどうかは不明だが、壁ないしはドアにフランス製のタペストリーを架け、静物画か人物画の背景にしようとしていた可能性がある。しかも、それは彝の最晩年のことであり、ドアの幾何学模様の織物のような、まるで壁掛けのようなデザインとなんらかの関係がありそうな予感が強くしている。清水多嘉示に関するテーマと、彝が愛飲していた当時のカルピスについては、また機会があれば改めてご紹介したい。
さて、中村彝生誕130年記念会のパーティーでは、アトリエ内部に鈴木良三Click!をはじめ画家たちの作品(実物)が展示され、昼すぎからは箏とギターの演奏会や、中村彝をめぐる新宿歴史博物館のレクチャー、子どもたちの写生会などが開かれたはずだが、わたしはウィークデーなので仕事を途中で放り出してきたこともあり、1時すぎには失礼させていただいた。同記念会には、TVカメラや取材の記者たちも来ていたようなので、どこかで報道されたのかもしれない。
今回のような美術的なテーマのもと、画家の記念行事が下落合に現存するアトリエで開かれたのは、わたしの記憶する限り初めてのことだと思うが、今年の7月3日が中村彝の生誕130年なのにつづき、来年2018年4月28日は佐伯祐三の生誕120年記念日だ。全国各地で佐伯祐三にちなんだ展覧会が企画・予定されているのかもしれないけれど、佐伯アトリエを抱える下落合でも、またちょっとなにか催したくなる大盛況の中村彝生誕130年記念パーティーだった。最後に、いろいろご面倒をおかけしました。ありがとうございました。>彝アトリエのスタッフのみなさん
◆写真上:背後に架かる『カルピスの包み紙のある静物』(1923年)と特設パネルの前へ、久しぶりにカルピスウォーターを持って登場した中村センセ。w
◆写真中上:上と中は、午前10時30分ごろ記念会準備中の中村彝アトリエ。アトリエ内には、たくさんの作品が展示された。下は、「中村彝のカルピス好き」の特設パネルで、制作には豊島区側にお住いの美術家の方にご協力いただいた。
◆写真中下:上と中は、午前11時の開会と同時に数多くの人々がアトリエに集まってきた。下は、新宿区の吉住区長(左)と豊島区の高野区長(右)のあいさつで、これからも新宿区と豊島区の文化行政において交流・協力関係を築いていくことが確認された。
◆写真下:アトリエ内に展示された、めずらしい清水多嘉示の資料類。アトリエの中村彝をとらえた3枚の写真のうち、右下の藤椅子に座る姿はめずらしい1葉。いちばん下の写真は、アトリエで配られた新宿中村屋の月餅と、伊豆大島のツバキの実を彩色した鈴つきのストラップ。
地球を転がすフンコロガシの歌。
植物学者の大賀一郎Click!は、1917年(大正6)から南満州鉄道(株)の教育研究所員として大連に勤務している。大連での6年間にわたる勤務を通じて、フランテン泥炭地から古いハスの実を採集して研究に没頭した。1923年(大正13)には、採集したハスの種子1,000個を携えて、米国ボルチモアにあるジョンスホプキンス大学へ留学している。
1926年(大正15)に米国留学からもどると、奉天教育専門学校の教授に就任して、次々とハスClick!に関する論文を発表している。そして、1931年(昭和6)に「満州事変」が勃発すると、落ち着いた研究ができないために15年ぶりに帰国した。この間、ハスをはじめ歌子夫人とともに「満州」に分布する植物に関する研究を深めていったが、なぜか昆虫のフンコロガシ(糞虫=スカラベ)に興味をおぼえたらしく、植物研究と並行してフンコロガシの研究もつづけている。
大賀一郎は当初、中国北部に見られるスカラベに「バフンコロガシ」と名づけている。だが、実際に調べてみると「バフンコロガシ」が転がしている糞玉は、牛糞に羊糞、人糞が多く馬糞はかなり少ないことが判明した。もっとも多かったのは、牛糞を転がすケースだったようだ。だから、「馬」を取って「フンコロガシ」に改めたほうがいいと、常に感じていたらしい。
フンコロガシは、日本のような湿度の高い地域には少なく、乾燥した中国やモンゴル、トルコ、地中海沿岸、エジプトなどに見られる昆虫だ。有名な『ファーブル昆虫記』には、フランスのフンコロガシが登場するけれど、大賀一郎は「満州」のそれは習性がかなり異なっているとしている。中国のフンコロガシについて、1929年(昭和4)に発行された「アミーバ」(生き物趣味の会)所収の、大賀一郎『満州の珍「ふんころがし」』から引用してみよう。
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ファーブル氏の研究は、主としてスカラベサクレであるが、満州にいるのはそれではない。習性に少し異なる所がある。ふつうに見られるものに二種ある。二匹で昼間糞玉を転がす形の小さな種類と、一匹で主に夜間糞玉を転がす形の大きいものとである。この二種は習性がよほど違う。二匹で玉を転がす小さな方はGymnopleus sinnatus Fab.であるらしい。一匹で玉を転がす大きな方はファーブル氏の研究されたのと同属スカラベ(Scarabeus)で種名はわからない。学名の考察は専門家にゆずるとして、いま前者を「ふんころがし」、後者を「おおふんころがし」としておく。
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中国には、古くからフンコロガシを意味する名詞がたくさん存在しており、大賀一郎は古い中国の文献に当たりながら、そのいくつかを書きとめている。すなわち、「蜣蝍(きょうしょく)」「羌蝍(きょうしょく)」「胡蜣蝍(こきょうしょく)」「蛣蜣(きつきょう)」「天社」「弄丸(ろうがん)」「転丸」「転丸子」「推丸」「黒牛児」「鉄甲将軍」「夜遊将軍」「推車客」「蜣蝍将軍(きょうしょくしょうぐん)」……などなどだ。また、フンコロガシが当時の漢方薬にも用いられていたことを記録している。
フンコロガシは、メスが後ろ足で糞玉を転がしていくのだが、オスはそれを手伝うために前にまわって糞玉を引いていく。ところが、おかしなことに糞玉を転がしているメスは、引いているオスがライバルのオスにどこかへ蹴とばされ、“別人”に変わっていてもいっこうに気にしない。同様に、糞玉を一所懸命に引いているオスは、押しているメスが他の横着でずるいメスに横取りされ、“別人”にすり替わっていても「あれっ?」などとは思わず、ぜんぜん気にしない。さらに、メスは糞玉を必ず後ろ足で転がすが、オスはそのような動作はまったくしない。だから、フンコロガシと聞いて通常イメージする姿は、すべてメスの習性ということになる。
大正期に「満州」で流行った唱歌に、「ばふんころがし」という歌がある。『満州唱歌集』にも収録された歌らしいが、同『満州の珍「ふんころがし」』より引用してみよう。
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ばふんころがし
一
やっこら やっこら やっこら やっこら
ばふんのいのちだ お前の地球だ
その手をかわして その足ひいたり
上見た 下見た まだ日は長いぞ
やっこら やっこら やっこら やっこら
二
やっこら やっこら やっこら やっこら
ばふんのいのちだ お前の地球だ
その手をはずすな その足ふんばれ
上見た 下見た もう日は暮れるぞ
やっこら やっこら やっこら やっこら
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フンコロガシが、「天体」あるいは「星」を転がしているイメージというのは、別にこの歌の作者が想像しただけでなく、古代エジプトの遠い宇宙観にまでさかのぼることができる。古代エジプトでは、スカラベ(タマオシコガネ)は太陽神の象徴であり、糞玉=太陽を転がして日の出から日の入りをつかさどっているとイメージされていた。もちろん、当時は地球が回転しているのではなく、太陽が地球の周囲を半日かけて、コロコロと回転しながら移動していると考えられたからだ。
フンコロガシが太陽ではなく、地球を転がしているという絵本がどこかにあるそうだが、わたしはまだ見たことがない。巨大なフンコロガシが、地球を転がすのに飽きて眠ってしまい、世界は昼の国と夜の国だけになってしまう。そこで、ふたりの子どもがフンコロガシを起こしに冒険の旅へ出かける……というストーリーらしい。
絵本では知らないが、映画では観たことがある。2005年に制作された、手島領監督の『NEW HORIZON』(Jam Films S)だ。この虫のネームを聞いただけで、名前の面白さからつい笑ってしまうのだけれど、横浜を舞台に日本人と米国人、中国人が織りなす夜の世界だけになってしまった物語が、フンコロガシから「健康」「平和」「愛」の3文字へと収斂する同作には、思わず爆笑してしまった。地球を回転させるのがフンコロガシだからこそ、あまりにもバカバカしくて笑えるのであり、「病気」「戦争」「憎悪」を対極へと押しやる強烈なユーモアが反響して感じられるのだろう。
大賀一郎は、本来は植物が専門の博士のはずだが、専門外のフンコロガシに惹きつけられたのは、やはりそのユーモラスな動作であり習性からではないだろうか。フンコロガシを集めて飼っていたかどうかは知らないが、地中からハスの種子を1,000個集めるぐらいだから、きっとフンコロガシもたくさん集めて飼育していたのかもしれない。
◆写真上:帰国する前、1929年(昭和4)ごろに「満州」で撮られた大賀一郎・歌子夫妻。
◆写真中上:上は、南満州鉄道(株)の本社があった大連の市街地。下は、和名が糞虫のタマオシコガネ(スカラベ)=フンコロガシ。(Wikipediaより)
◆写真中下:上は、フンコロガシを太陽神に見立ててイメージした古代エジプトのアクセサリー。下は、小学生たちにハスについて解説をする晩年の大賀一郎。
◆写真下:上左は、『NEW HORIZON』が収録されたDVD『Jam Films S』(セガ)のジャケット。上右は、手島領監督『NEW HORIZON』に登場する絵本のフンコロガシ。下は、フンコロガシの絵本を子どもに読んで聞かせる同作のワンシーン。
★おまけ:本格的な夏を迎え、下落合の動物たちの動きが活発化している。カブトムシの♀の次は、コクワガタの♀がやってきた。玄関先では、オオカマキリの子どもたちが大量に生まれ、部屋に侵入した大きなハナアブに追いかけられ虫が苦手な娘はパニックになっている。家の前の路上では、どこからやってきたのかカルガモの親子が路側帯を散歩し、クルマや野良ネコが危険なので警官たちが出動して保護し、下落合の湧水池へ無事に放した。20~30年前の新宿では、考えられない情景だ。
『新編武蔵風土記稿』にみる小名「中井」。
相変わらず江戸期の資料を漁っているが、「中井」の呼称について書かれたものに、もうひとつ『新編武蔵風土記稿』がある。大田南畝Click!によって1788年(天明8)に増補版が執筆・編集されている『高田雲雀』Click!に次ぐ資料だろうか。ただし、『新編武蔵風土記稿』は文化・文政期(1804~1829年)にかけ、昌平坂学問所地理局によって編纂された266巻におよぶ地誌本だが、将軍に献上された原本は失われて存在しない。
国立公文書館にあるのは、後世のものとみられる写本と1884年(明治17)に内務省地理局が編集した活字本の2種類だ。そして現在、図書館や史料室などで参照できる『新編武蔵風土記稿』は、基本的に明治に入ってから編集された活版印刷の資料が底本となっている。だから、その内容がどこまで本来の正確性を保っているか、明治政府の手によってどのような改変・編集が加えられてしまったのかが不明だ。このような前提を踏まえつつ、『新編武蔵風土記稿』に記載された「中井」について、江戸期から明治期にかけての落合地域の行政状況も踏まえつつ、及ばずながら考察してみたい。
『新編武蔵風土記稿』の上落合村と下落合村についての記述は、おしなべて上落合村のほうがボリュームが多い。同書が記録された時点では、上落合村にあった家屋が52戸に対して下落合村が67戸と戸数が多く、また上落合村が東西10町南北6町に対し下落合村が東西20町南北5町余と、上落合村に対して下落合村のほうが倍の面積あるにもかかわらず、上落合村のほうを優先するような書き方をしている。おそらく、同じ御料地(天領)同士でも生産量に大きな差があった、すなわち「あまるべの里」Click!とも呼ばれた上落合村のほうが、幕府に収める年貢が下落合村よりも多かったからだと思われる。
当時の下落合村は、村域が広いにもかかわらず開墾の手の入れられない将軍家の広大な鷹狩り場=御留山Click!を抱えており、また崖線沿いに濃い森林が随所に繁っていて、開拓して田畑を耕作できるエリアがかなり限定されていただろう。また、丘上や斜面の土地が多いので畑地は拓けても、水利の面から田圃を増やすのは容易でなかったにちがいない。したがって、村の身上(台所)は上落合村のほうが豊かであり、また幕府に収める年貢高も勝っていたのではないかとみられる。ちなみに、下落合村の村域にある御留山を管理していたのが、大田南畝『高田雲雀』の記録によれば上落合村であったことからも、両村における豊かさのちがいや力関係の差が垣間見える。
では、『新編武蔵風土記稿』から上落合村について見てみよう。ちなみに出典は、これまで多く資料や文献に引用されている、1957年(昭和32)に雄山閣から出版された蘆田伊人・編「大日本地誌体系」シリーズの『新編武蔵風土記稿』第1巻からとする。
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〇上落合村
上落合村は日本橋より二里余の行程なり、村名は神田上水の溝渠と井草川と当初にて落合と故かく名付と云、【小田原役帳】に、興津加賀守知行二十貫五百七十文江戸落合、及太田新六郎知行内寄子衆配当十貫五百文江戸落合鈴木分長野彌六郎分とあり、是も拠は上水闢けさる前既に井ノ頭より流出せる川ありしとみゆ、上下二村に分れしも古き事にて、正保改には既に上下落合二村とす、家数五十二、四境東は上戸塚村西は多摩郡上高田村、南も同郡中野村北は下落合村、東西十町南北六町、用水は井草川より引用ゆ、古より御料所なり、検地は寛文十年野村彦太夫、享保十八年筧播磨守糺せり、村内に秩父道中田無村への往還かゝる道幅三間余、又中程に古の奥州道あり、(以下略)
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この記述によっても、江戸初期から拓けていた幕府直轄地であり、ゆえに村の内証(財政)は幕府が着目するほど豊かだったことを想起させる。神田上水と井草川(現・妙正寺川)が流れ、水はけのよい土地がらから穀物が豊かにみのる「あまるべ」郷だったのだろう。次に、下落合村の記述を小名「中井」の項目も含めて、同書より引用してみよう。
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〇下落合村
下落合村は日本橋より行程二里、家数六十七、四境東は下高田村西は多摩郡上高田村南は上落合上戸塚の二村北は長崎村なり、東西二十町南北五町余、正保年中は御料の外太田新左衛門采地なり、後御料の地を小石川祥雲寺領に賜ひ、今新左衛門が子孫太田内蔵五郎が知行及祥雲寺領交れり、用水は前村に同じ、(中略)
小名 七曲(左右松林の山にて少しの坂あり、屈曲せし所数廻なればかく唱ふ) 中井
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下落合村は、あっさりとした記述で終わっているが、耕作地が少なく石高(収穫高)も低かったために、過去に采地(領地)となる事蹟も少なかったのだろう。
さて、下落合村の項目の中に小名として「中井」の名称が登場している。大田南畝が採取した「中井村」とは呼ばれず、村の付かない小名「中井」として記録されている。『新編武蔵風土記稿』の編者は、大田南畝の『高田雲雀』を参照していた可能性があり、大田が「中井村」を「落合上下の間を云」、すなわち妙正寺川が流れる低地あたりと規定しているのを前提にしてか、あるいは場所が判然とせずに不明のまま採録したのか、特に「中井」に関しては場所の特定を行っていない。
先に記したように、上落合村のほうが財政的にも豊かで行政的にも力が強い時代は、江戸期が終わり明治期に入っても、しばらくは変わらなかっただろう。それを示唆する記録が、地図や郵政による住所ふりの地名(字名)として残されている。地名の成立について詳しい方なら、地名がどこを中心点として、あるいはどのエリアを優先して名づけられているのかがわかれば、その地域一帯の村や町など行政機関の力関係が透けて見える……というのは周知のことだろう。上落合村と下落合村の関係にも、それが透けて見えるのだ。
『新編武蔵風土記稿』では「井草川」と書かれている妙正寺川は、江戸期が終わり明治期に入っても地元では「北川」Click!と呼称されていた。下落合の南端を流れる妙正寺川を「北川」と表現するのは、下落合村からの呼称ではなく明らかに上落合側からの呼び名だ。また、明治以降に作成された地図には、妙正寺川の北岸一帯は「北川向」という字名が記載されている。現在の、中井駅前から中ノ道(現・中井通り)につづく一帯、すなわち下落合エリアの字名だ。これもまた、北川の向こう側と表現するのは、上落合側からの視点にちがいない。「北川向」は政府の郵政事業にも導入され、住所表記では昭和初期まで活きていた字名だった。
ところが、大正期に入ると落合村(1924年より落合町)では上落合と下落合の立場が逆転Click!する。上落合が、いまだ明治期からつづく農村が多かったのに対し、下落合では目白文化村Click!や近衛町Click!をはじめとする郊外文化住宅街の建設や、川沿いへの工場誘致Click!、西武鉄道Click!の誘致などが本格化し、村の財政が下落合側を主軸として大きく潤うことになった。そのころから、おそらく妙正寺川沿いにふられた「北川向」など、旧・上落合村からの視点に由来する字名や名称などが気になりだしたのだろう。
大正末から昭和初期にかけ、旧・下落合村に住む地元の有力者たち(特に明治末から1927年まで村長をつとめた人物のヘゲモニーが大きいと思う)は、江戸期の文献をひっくり返しながら、「北川向」に代わる小字名を探したか、村の古老たちに聞きとり調査をしてまわったかもしれない。また、近々設置される予定の鉄道駅が妙正寺川沿いの「北川向」あたりにできることも、どこか頭のすみに入れていただろうか? こうして、大田南畝の『高田雲雀』の記述に「中井村」(幕府の行政区画ではなく狭いエリアの通称であることは前回の記事にも書いた)を、『新編武蔵風土記稿』には「中井」を発見して、根拠は「これだ!」とニヤリとしたにちがいない。
あらかじめ駅名への命名に関する“実績”づくりのためか、下落合の昔ながらの字名である「大上」(目白崖線で最高点の標高37.5m)を、一時的に低地の地名である「中井」に変更したものの、昭和初期には急いでもとの「大上」へともどし、敷設された西武線の駅名に改めて「中井」と付けるよう西武鉄道に働きかけた。これで、上落合側を視座とする「北川向」という呼称は、遠からず消滅するだろうと喜んだかもしれない。
でも、下落合の有力者たちが考えた妙案は、あくまでも「下落合の北川向」を消滅させるための「下落合の中井」だったろう。まさか、1967年(昭和42)の町名変更Click!で、旧村名であり大字だった肝心の下落合という地域名が多くのエリアから消滅し、駅名に引きずられて旧・下落合4~5丁目の斜面から丘上、平地にかけてまでが、とうに忘れられていた小名「中井」に取って代わられてしまうとは、およそ思ってもみなかったにちがいない。江戸時代の一時期に呼ばれていたらしい、川沿いの「中井(村)」の経緯を知る古老たちにしてみれば、「子が親を食っちまった」ように感じていたのではないだろうか。
◆写真上:大正橋から見た妙正寺川(北川)で、右岸の下落合が字「北川向」にあたる。
◆写真中上:上は、1884年(明治17)に活字印刷された内務省地理局版『新編武蔵風土記稿』巻の十二にみる「中井」表記。下左は、国立公文書館内閣文庫が収蔵している同書の表紙。下右は、1957年(昭和32)に雄山閣から出版された「大日本地誌体系(一)」の1冊で、引用などでもっともポピュラーな『新編武蔵風土記稿』第1巻。
◆写真中下:上は、1911年(明治44)に作成された逓信省の「落合村全図」にみる下落合の字「北川向」。下は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」。
◆写真下:上は、中井駅へと通じる西武線の線路で、両側一帯が字「北川向」と呼ばれていた。下は、下落合ではもっとも標高が高い大上にある目白大学。大正の後半から末にかけての一時期、なぜか昔ながらの字名「大上」が「中井」にされていた。
落合に残る東の「丸山」と西の「丸塚」。
全国に、「丸山(円山)」や「摺鉢山」「大塚」などの名称がふられた古墳名Click!が数多いことは、以前からもこちらでご紹介している。地形の形状を見て、まるで球の半分が地面から盛り上がっているような丘や、あたかも摺鉢を伏せたような形状の地形、あるいは明らかのなんらか大規模な塚山を見て、付近の住民から感覚的に付けられた古い地名(丘名)なのだろう。
同様に、そのような丘の上部を利用し、鎌倉期から江戸期にかけて社(やしろ)の境内が設置されたりすると、「天神山」「稲荷山」「八幡山」…などという名称に転化し、「丸山」や「摺鉢山」「大塚」と同様に古墳名にされるケースが多い。戦後は逆に、このような由緒ありげな地名が発見されると、一帯が田畑や住宅街へと開発されていない場合は、新たな古墳発見の可能性が高いと見なされ、積極的に考古学的な調査が行なわれるようにもなっている。
河川を見下ろす丘や傾斜地の多い落合地域にも、「丸山」Click!や「摺鉢山」Click!「大塚」Click!などの地名が残っていたこと、そして地名が残る周囲には江戸期の農地開発や明治以降の宅地開発、あるいは鉄道工事や道路敷設などで破壊された、大型の古墳が存在したのではないか?……というテーマも、繰り返しここの記事で取り上げてきた。今回は、古い時代からの伝承や逸話を参照しながら、下落合の西部から葛ヶ谷Click!(現・西落合)にかけての独特な地名の由来を探ってみたい。
下落合(現・中落合/中井2丁目含む)の西部や、葛ヶ谷にかけての名所や旧蹟、故事伝承の記録あるいは紹介は、こちらでもたびたび引用している金子直德Click!の『和佳場の小図絵』Click!や、大田南畝Click!の『高田雲雀』Click!などでもきわめて少ない。江戸期には、市街地からさらに遠く離れているため、あまり注目されず散策されなかった領域なのか、あるいは野方や江古田のエリアに近いため、江戸期にはそちらで書かれた地誌本のたぐいが知られていたものだろうか。現代に伝わる落合地域の資料では、下落合西部から葛ヶ谷にかけての記録が希薄となっている。
だが、それを補うように残されているのが、1932年(昭和7)に自性院Click!が発行した大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)だ。その記述から、おそらく1000年以上前の平安期から明治以降にかけてまで、地域で語られてきた伝承を掘り起こし、織りまぜながら編集しているとみられ、江戸期に編まれた記録のいわば“空白地帯”を埋める貴重な資料となっている。
記述を、先の地名テーマにもどそう。下落合の東部には、「丸山」という地名(字名)が昭和初期までかろうじて残っていた。もっとも早い「丸山」地名の採取は、1909年(明治42)に陸軍参謀本部が作成した2色の1/10,000地形図にみられる。もっとも、テキストとして採取されたのは明治期だが、それ以前から下落合村ではエリアの字名として受け継がれてきたのだろう。「丸山」が採取されているのは御留山Click!南側の麓、下落合氷川明神Click!のすぐ東側あたりだ。
このあと、大正期には「丸山」の字名は郵便の住所化されて、目白崖線の丘上(御留山~近衛町Click!)まで拡がっていくことになる。わたしは、きれいな釣鐘型をした氷川明神の境内Click!が、本来は古墳ではなかったかと疑っているので、その西側に大正初期まで残った「摺鉢山」Click!の伝承とともに、「丸山」はその墳丘が崩される以前に地勢を見てつけられた、江戸期以前からの地名ではないかと想像している。
東の「丸山」に対し、西側にもまた古墳をイメージさせる字名、ないしはポイント的な史跡名が多く残されている。いや、むしろ西側のほうが東の「丸山」のように漠然とはしておらず、規定された位置も含め確度が高いだろうか。下落合の西側や葛ヶ谷の一帯にかけ、「丸塚」や「塚田」「天神山」「馬塚」など、いかにも古墳に付随していそうな字名を確認することができる。まず、「丸塚」の伝承から探ってみよう。前掲の大澤永潤が著した、『自性院縁起と葵陰夜話』から引用してみる。
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牢屋敷は現今の朝日湯より約一丁程南方にて昔牢獄在りしと伝へられ古碑、古瓦多数地下より出でしと申されます。又『丸塚』が在りましたと。
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ここでいう「牢屋敷」は、江戸期の幕府に由来するものか、あるいはそれ以前から設置されていたものかは不明だが、掘れば屋敷の瓦が出たということなので、その昔なんらかの施設が存在し、それが語り継がれていたのはまちがいないだろう。古代の古墳域は、往々にして近寄りがたい禁忌的な伝承や、「屍家(しいや)」Click!または「死屋」など怖ろしい物語が継承されていることが多く、マイナーな施設の建設や墓地、動物などの死骸捨て場にされていた例も多い。だからこそ、古墳のエリアを寺社の境内として“浄化”し、聖域化する必要も生じているのだろう。同書より、つづけて引用してみよう。
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村の西方字境に丸塚在り、昔死馬を捨てしより里人呼んで馬捨場といふ此死馬をソマといひしと、恐らく「ソマ」は粗馬の故でありませう、死馬ある時は遠近の野犬此処に集り、死馬の肉を食ひ争ふといふ其死馬の憐れな有様が又恐ろしい悪魔のやうに見ゆる所から起つたものでせう。後世これら死馬の供養の為め馬頭観世音の供養塔が建立せられてあります。
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「ソ・マ」(so-ma)は原日本語(アイヌ語に継承)で、「焼き場」あるいは「焼き棚」と葬儀場そのものの意味につながる。明らかに「丸塚」が、江戸期以前からだろうか動物の死骸を葬る(捨てる)、禁忌的なエリアに指定されていたのがわかる。また「丸塚」とは別に、江戸期に馬の死骸を捨てる専用の「馬塚」も、葛ヶ谷御霊社Click!の北の街道沿い、井上哲学堂Click!のすぐ東側に確認することができる。
さらに、妙正寺川沿いの田畑の中にポツンと塚状の突起が残されていたのだろう、「塚田」という地名も残っていた。同書より、つづけて引用してみよう。
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此地は現今オリエンタル写真学校南方妙正寺川沿ひの地で昔細田地頭の旧積地(ママ)であると申され、この川下の地境を塚田と申されました、昔某氏の古墳が在つたとか伝へられゐます。(ママ)
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すでに被葬者の素性も不明になっているが、鎌倉期の地頭・細田氏の名前が伝わっている。だが、少なくとも平安末から鎌倉初期の和田氏、あるいは鎌倉期の細田氏に関する古墳ではないだろう。なぜなら、和田山Click!(井上哲学堂)を中心に和田氏Click!あるいは細田氏の伝承は地元でハッキリと受け継がれているにもかかわらず、「塚田」の被葬者が不明なのはそれ以前の時代、より古い時期からの史蹟だったことを想起させるのだ。
「塚田」にもまた、多くの古墳がそうであるように、なんらかの禁忌的な物語が伝わっていたものだろうか。江戸期に盛んに行われた、農地を拡大する開墾事業でも崩されずに、田畑の中に塚を覆う樹木とともにポツンと残され、のちにメルクマールとしての地名化した可能性が高いように思う。
さて、以前にご紹介した妙見山Click!の西150mほどのところ、青梅街道の敷設で崩されてしまった位置には、天神が祀られていた「天神山」と呼ばれる地名があったことも記録されている。おそらく、江戸期まで塚状の地形上に天神社が築かれていたのだろう、疣(いぼ)に関する疫病に効果がある神として、天神社は付近一帯から広く崇敬を集めたようだ。そして、江古田村の「コブ長」さんや長崎村の「コブ源」さんなど「コブとり爺さん」の逸話までが残されている。同書より、再び引用してみよう。
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天満宮の祀られてありし所で現今は道路と化して居ますが村の内田留造氏方の北方であつたと申されます、此の社は俗に疣天神といふて、何か疣に似た病疫ならば願ひの儘霊験在り、忽ち快癒致しますと申されて居ます、(以下略)
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ちなみに、天神山Click!は大きめな古墳にふられた代表的な地名で、全国各地に地名を冠する「天神山古墳」と名づけられた古墳期の遺跡が散在している。新宿エリアでは、成子天神Click!が建立された成子地域の天神山と、大久保の西向天神Click!が建立され富士塚Click!が築かれた天神山が有名だろうか。
下落合の西端や葛ヶ谷には、まだまだ怪しい古地名や史蹟が多いのだが、キリがないのでこのあたりにする。旧・平川Click!(現・神田川)沿いを歩き、人工的な塚状の突起を見つけると祠を建立してまわったとみられる、室町期の僧・昌蓮Click!に由来する「百八塚」は、はたして妙正寺川沿いの下落合西部や葛ヶ谷方面にまで及んでいたのだろうか。
◆写真上:道路の左手が、「丸塚」の築かれていた目白学園の北側斜面。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる各塚の位置。中・下は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる「丸塚」と「塚田」の位置。
◆写真中下:上は、「丸塚」の近くに残るアトリエ建築。中・下は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる「天神山」と「馬塚」の位置。
◆写真下:上は、新青梅街道(正面)と目白通り(右手)の分岐。青梅街道をそのまま進むと、「天神山」と疣天神にぶつかる時代があった。中は、「塚田」があった妙正寺川沿い(左岸)の現状。下は、さまざまな伝承が縁起物語として伝わる自性院本堂。
大倉山の神木と権兵衛坂の「牟礼田邸」。
下落合にある氷川明神社Click!の少し東側から上る、権兵衛坂(大倉坂)と呼ばれる急坂には、十返千鶴子Click!が「御禁止山の神木」と名づけたカシの老木が生えていた。だが、戦前の一時期まで大倉財閥が所有していたこの山は、地元では名前がないので「権兵衛山」あるいは「大倉山」と呼ばれていたので、正確には「大倉山(権兵衛山)の神木」と表現するのが正しいのだろう。御留山Click!(御禁止山)は160mほど東へ寄ったピークを中核とする一帯であり、1939年(昭和14)までは相馬孟胤邸Click!の敷地内にあった。
当然ながら十返千鶴子も、「大倉山」という呼称を知っていたが、竹田助雄Click!の「落合新聞」へエッセイを寄稿するにあたり、彼の記事で「御禁止山」という文字を頻繁に目にしていたせいか、あえて「御禁止山の神木」としているのかもしれない。1966年(昭和41)11月30日に発行された「落合新聞」の、十返千鶴子『御禁止山の神木』から引用してみよう。ちなみに、同エッセイの挿画は佐伯米子Click!が担当している。
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わたしの家の入口にそって大きな樫の老樹がある。ここに家を建てて住んだ十年ほど前には、この樫も、樹齢二〇〇年くらいと推定される大木の貫録をみせて、亭々と聳えたつ梢のさきに、神々しいまでの威厳をただよわせていた。/このあたりは、落合秘境と地つづきの南斜面で、地もとの人には大倉山という名で呼ばれている、木々の多い場所である。ほんらいは、御禁止(おとめ)山の一部らしいのだが、もと大倉家の所有地であったために、その名で呼ばれているようだ。/それはさておき、ここに家を建てた当時は、今よりももっと木立が深く、樹齢一〇〇年は降らないと思われる樅の木や、枝ぶりのよい松林などで、昼なお暗い、うっそうたる坂道だったものである。その中でも、わたくしの家のまん前にそそりたつ樫の大木だけは、ひときわ高く、誇らしげにその梢を大空に拡げきって、堂々たる威容をみせていたのである。/「あの樫だけは、この大倉山の御神木ですからね、ぜったいに切り倒したりしてはいけませんよ、祟りがあるからね」
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1970年末から80年代にかけ、学生のわたしは権兵衛坂を何度か上下しているが、このカシの老木については特に記憶がない。坂の両側には、いまだ樹木がたくさん繁っていたので、特に印象に残らなかったものだろうか。「十返」という表札は、めずらしい苗字なのでなんとなく憶えている気はするのだが、そこが戦後の十返千鶴子(あるいは十返肇Click!)の自邸なのを知ったのは、もう少しあとの時代だ。
当時の権兵衛山(大倉山)には、ところどころにケヤキやマツなどの緑がまだまだ多く繁り、息切れがする傾斜の急なバッケ坂Click!だったにもかかわらず、すがすがしくて気持ちのいい坂道だったのを憶えている。ようやく坂を上り終え、七曲坂Click!と合流するあたりからは、北側のやや下った細い路地沿いにヒマラヤスギの大木が見えていた。このヒマラヤスギは、戦前から路地沿いに植えられていたもので、昭和初期にはことに一帯を薄暗く不気味に見せていたと、七曲坂の庚申塚Click!について取材しているとき、堀尾慶治様Click!からもうかがったことがある。
その後、カシの「神木」は勢いがなくなり、十返邸の屋根を覆うほどだった枝葉が年々少なくなっていったらしい。このエッセイが書かれた1966年(昭和41)の時点で、幹から分岐した枝が「わずか一、二本残るだけ」になってしまったので、ほどなく枯死してしまったのかもしれない。ただし、この「神木」が存在しなかったとしても、学生時代に歩いた権兵衛坂は住宅の庭に繁る樹木も含め、まだまだ緑が濃かった印象がある。
ここで少し余談だけれど、佐伯祐三Click!の「制作メモ」Click!によれば、1926年(大正15)9月24日に描いた「下落合風景」作品Click!に、「かしの木のある家」Click!というタイトルがある。それに該当しそうな画面は、モノクロ写真で残されてはいるが、いまだどこの丘の風景を描いたのか不明な作品だ。丘の中腹にカシと思われる樹木がポツンと描かれ、丘上に当時は一般的だったふつうの住宅が3軒描かれている。
十返千鶴子の「神木」エッセイを読んだとき、佐伯の「かしの木のある家」の画面を真っ先に思い浮かべたのだが、残念ながら大正末から昭和初期にかけて、このような風情は大倉山(権兵衛山)には見られない。そもそも、この丘が宅地開発されるのは戦後になってからのことで、戦前には急な斜面に林や原っぱが拡がる“山林”状態のまま、住宅はほとんど1軒も建っていなかった。
さて、戦後に拓かれた権兵衛坂が通う住宅地を、小説に取り入れて書いたのが中井英夫Click!の『虚無への供物』Click!だ。以前にも、権兵衛坂の中腹からの眺めを描写した同作の文章を引用したことがあるが、十返千鶴子のエッセイ『御禁止山の神木』に書かれている風景と『虚無への供物』の執筆は、時代的にほぼ同時期で重なっている。中井英夫は、最終的に「ザ・ヒヌマ・マーダー」を解決する「牟礼田の家」を、権兵衛坂の急峻な斜面に設定している。
部厚い長編小説『虚無への供物』の中で、「下落合の牟礼田の家」の様子が描かれるのは、全編を通して4ヶ所。白壁の邸で、南を向いてアトリエ風の大きな窓がある家、そして麓の下落合氷川明神社から見上げることができる家という描写はあるが、1950年代末に見られた権兵衛山(大倉山)全体の風情、大樹が多かった木々については特に触れられていない。これは、ある意味では当然といえば当然なのかもしれない。
1987年(昭和62)に三一書房から出版された『中井英夫作品集Ⅹ/死』所収の『虚無への供物』より、第二章に登場する「牟礼田の家」の描写から引用してみよう。
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高田馬場の駅前から、交番の横の狭い商店街に車を乗り入れ、橋を渡っていくらも行かぬ小さな神社の前で降り立つと、久生は手をあげて、崖の中腹に見えている白塗りの家を指さした。南に向いて、アトリエ風な大きいガラス窓の部屋がせり出し、辛子色のカーテンの傍に、黒い人影が動いている。/「ここからまた、ぐるっと狭い坂道を廻って上ってゆくの。ねえ、ここでならあの“犯人自身が遠方から殺人行為を目撃する”っていうトリックが出来そうでしょう。読まなかった? いつかの『続・幻影城』に出てるの。ホラ、あのカーテンの傍にいるのは藍ちゃんらしいけど、ちょうど顔までは判らなくて、背恰好だけ判るぐらいの距離だから、先に藍ちゃんを殺した犯人が、何かの仕掛をして、ここから他の目撃者と一緒に犯行を見守ればいいってわけ。それにちょっと歩くと、ね、もう隠れて見えないんですもの」
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ここには高田馬場駅から栄通り、田島橋、下落合氷川明神社、そして「狭い坂道」の権兵衛坂までの情景が描かれているが、当時は十三間通りClick!(新目白通り)が存在していないので、田島橋をわたり西武線の踏み切りを越えて氷川社の前でクルマから降りるまで、両側には小規模な工場や商店街が並ぶ、やたらカーブの多い細い道筋に感じただろう。氷川社の周囲にも、かろうじて1931年(昭和6)まで下落合駅Click!前だった商店街の風情が残っていた時代だ。また、他の章に書かれた「牟礼田の家」でも同様だが、特に大倉山の斜面に生えた特徴的な「神木」や大木についての描写はない。
下落合の西部、下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)に住んで『虚無への供物』を執筆していた中井英夫は、おそらく散歩の途中で権兵衛坂を上り、「牟礼田の家」のイメージを膨らませているのだろう。ときに、権兵衛坂が大きくクラックする斜面に建つ、緑に覆われた十返邸の前で足を止めて新宿方面を眺めているのかもしれない。でも、当時の下落合はケヤキやクヌギ、カシ、クスなどの大木があちこちに繁り、権兵衛坂に生えていたカシの老樹や多彩な大木をことさら描写する意味、すなわち当時の下落合ではごく一般的でありふれた目白崖線沿いの風景を、特に描く“必要性”を感じなかったのだ。
また、より緑が濃かった下落合の西部に住む中井英夫にしてみれば、権兵衛坂が通う急斜面は下落合ではよく目にする、ありふれた住宅街の一画……ぐらいにしか感じなかったものだろう。もし彼が、大倉山の「神木」についてあらかじめいくばくかの知識を持っていれば、世界じゅうの神話や宗教的な事蹟には敏感な彼のことだから、なんらかの謂れとともに「牟礼田の家」の描写へと取り入れていたかもしれない。
◆写真上:2007年(平成19)に権兵衛坂で撮影した、解体前の十返千鶴子邸。
◆写真中上:上は、リニューアル工事中の同邸。右手に見える大きな樹木は、戦前から繁っていたホオの木だろうか。中は、大倉山(権兵衛山)の山頂界隈。下は、「落合新聞」1966年(昭和41)11月30日号に掲載された十返千鶴子『御禁止山の神木』。
◆写真中下:上は1947年(昭和22)の空中写真にみる大倉山(権兵衛山)、中は1963年(昭和38)の十返邸、下は1975年(昭和50)の同邸。1963年の写真で、邸の南側に見えていた大樹が1975年の写真では消えているように見える。
◆写真下:上は、下落合でも有数の傾斜角のある権兵衛坂。中左は、1964年(昭和39)に「塔晶夫」名で講談社から出版された『虚無への供物』の中扉。中井英夫の背後に写る大谷石の塀は、当時住んでいた池添邸の塀の一部だと思われる。中右は、現在も残る長大な池添邸の塀。下は、下落合氷川社から「牟礼田の家」の「立ちつくす黒い影」を見上げた『虚無への供物』エピローグの視野と大倉山麓から丘上を見上げたところ。
★おまけ:余談だが、1960年代には大倉山(権兵衛山)の山頂付近には、大倉さんが住んでいたようだ。1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」より。
交叉する中村彝と清水多嘉示。
このサイトの記事では、清水多嘉示Click!の名前はすでに登場している。それは中村彝Click!がらみテーマではなく、佐伯祐三Click!がテーマの彫刻家・陽咸二Click!をめぐる物語Click!の一部においてだった。二度めの帯仏中、ヴィル・エヴラール精神病院で死去した佐伯祐三のデスマスクClick!をとろうとする際、日名子実三とともに清水多嘉示が制作依頼者の名前として挙がっている。
デスマスクの制作は、清水多嘉示と同じアパートに住んでいた佐伯米子Click!から依頼されたものだが、ほぼ同時に山田新一Click!も佐伯のデスマスク制作を日名子実三へと依頼している。だが、ついに佐伯のデスマスクは制作されずじまいだった。このエピソードから、清水多嘉示はパリで佐伯祐三の周辺にいた彫刻家のイメージが生じ、後年の仕事も彫刻がメインだった関係から、中村彝との深い関係を見落としていたのだ。清水多嘉示は、1917年(大正6)に岡田三郎助Click!と藤島武二Click!が設立した本郷洋画研究所で学ぶかたわら、中村彝に師事して下落合のアトリエを頻繁に訪れている。
最初に下落合の彝アトリエを訪れたのは、1917年(大正6)6月23日(土)だった。東京気象台によれば3日も降りつづく梅雨の中、ようやく小降りになった泥道を歩きながら訪問するのはたいへんだったろうが、それほど清水多嘉示は彝に会いたかったらしい。下落合464番地の林泉園Click!の丘上に彝アトリエが完成してから、ほぼ1年後のことだ。だが、このとき中村彝は外出中で不在だったため、会えずにそのまま帰っている。当時、毎日あるいは隔日で通っていた、歯医者に出かけて留守だったのかもしれない。この時期の清水多嘉示は、彫刻家ではなく洋画家をめざしていた。彝アトリエを訪ねるきっかけとなったのは、前年1916年(大正5)の秋に開かれた第10回文展で展示されていた、彝の『田中館博士の肖像』Click!を観て感動したからだった。
つづいて、同年6月28日(木)に再び彝アトリエを訪ね、ようやく彝に出会えている。この日も、午後から雨が降る梅雨らしい不安定な天気だった。それ以降、1923年(大正12)3月に日本郵船の諏訪丸でフランスに渡るまで、清水多嘉示は頻繁に彝アトリエを訪問していた。清水は中村彝を訪ねるたびに、自身が描いた静物画や肖像画、風景画などを見せ講評を仰いでいる。また、ときにはカリンの果実や缶詰をお土産に持参していたようだ。昔から、カリンは身体の免疫力を高める果物として知られており、彝が罹患している結核の病状を気づかってのことだろう。
清水多嘉示が登場する中村彝の書簡を、1926年(大正15)に岩波書店から出版された『芸術の無限感』から、いくつか引用してみよう。
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(大正九年)八月丗日 下落合四六四/越後柏崎四ツ谷 洲崎義郎様
来月一日から愈、院展二科が始まります。院展の「ルノアール」は大さ十二号と八号位の商品ださうですが、それは実に素敵なものだ相です。今年は友人連が余り出品しないので物足らないが、それでも院展へ耳野(卯三郎)君、二科へ清水(多嘉示)と瀬澤とが通りました。
(大正十年)十一月十五日 下落合四六四/長野県諏訪郡平野村新屋敷 黒澤久乃様
その後いゝ絵が御出来になりましたか。清水(多嘉示)君は勉強して居られますか。
(大正十一年)九月十日(?) 下落合四六四/越後柏崎四ツ谷 洲崎義郎様
自分の病にのみかまけて大へん御無沙汰をしました。その後御変りありませんか。鶴田(吾郎)君や、曾宮(一念)君や、(鈴木)金平君の兄さん達が上つて大分賑かだつた相ですね。御上京は何時頃になりますか。上野の二科には曾宮君が一枚と清水(多嘉示)君が一枚出して居ます。(カッコ内引用者註)
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清水多嘉示の作品が二科展に初めて通ったのは、1919年(大正8)の第6回二科展に出品した『風景』と『タイル』の2作品だった。
ときに、清水多嘉示は彝アトリエへ長時間とどまり、周辺の風景をスケッチしていた様子をお嬢様である青山様からうかがっている。青山様によれば、「崖地が描かれている画面」もあるということなので、おそらく彝アトリエ前の桜並木の下、林泉園(明治期には近衛家Click!の落合遊園地Click!)の谷戸が描かれているのではないかと思われる。
大正中期における下落合(現・中落合/中井含む)の東部といえば、東京が関東大震災Click!にみまわれる前の風情で、明治期からの別荘地だった雰囲気が色濃く残る光景だったろう。華族やおカネ持ちの大きな屋敷が、森の間に距離をおいて見え隠れするように建ち並んでいただろうが、目白文化村Click!や近衛町Click!の開発計画はいまだ手つかずの時期だ。青山様のお話では、彝アトリエを訪れていた時期に描いたとみられる風景画が何点か残っているそうなので、もし機会があればこちらでもご紹介したいと考えている。
さて、清水多嘉示は本郷洋画研究所の指導がつまらなかったらしく、故郷である長野県諏訪郡原村にもどり、中洲小学校の代用教員になっている。1918年(大正7)のことで、清水多嘉示が20歳のときだ。その後、教師になってからも清水は機会があれば彝アトリエを訪問しつづけ、1919年(大正8)の夏には彝が転地療養Click!している茨城県の平磯海岸まで出かけている。このときも、数多くの自作を携えて広瀬家の別荘を訪問し、そのまま彝とともに別荘へ泊まっている。
ここで留意したいのは、中村彝が文展(帝展)や二科の画家を問わず、同等に接している点だろうか。現代でさえ、そのようなワク組(というかセクト主義的な垣根)はよく聞かれるけれど、国が主催する文展(帝展)は同展に出品する画家同士が親密に交流し、アンチ・アカデミズムの二科は文展(帝展)を睨みながら在野の画家仲間で交流する……というのがあたりまえの時代だった。ところが、中村彝はこの垣根をまったく意識していないように見える。ただし、二科の画家たちに対しては草土社Click!の仕事と同様に、手紙の文面などで辛辣な言葉を浴びせているが……。
中村彝のもっとも身近にいた画家のひとり、曾宮一念Click!も文部省の展覧会とは無縁な二科の画家だった。1919年(大正8)8月29日、清水多嘉示のもとには二科入選の祝いのハガキが中村彝からとどいている。もう少し時代が下った、たとえば大正末から昭和初期にかけて活躍した画会の代表的な存在である1930年協会Click!を見れば、帝展や二科などの会派を問わずに画家たちが参集して制作しているが、大正前・中期の段階では中村彝の垣根を意識しないフレキシブルな感覚は、めずらしかったのではないだろうか。
その後も、清水多嘉示は彝アトリエを訪ねつづけ、中村彝の庭で彝のポートレートを写真撮影をしたり、1920年(大正9)9月1日には彝と連れ立って俥(じんりき)で下落合から上野まで出かけ、二科展と院展を鑑賞している。また、彝は清水多嘉示をよほど気に入っていたものか、1921年(大正10)11月には訪問した彼に、1915年(大正4)制作の『自画像』をプレゼントしている。そして翌1922年(大正11)には、清水多嘉示の主宰により中原悌二郎Click!と中村彝の「作品展」を、故郷である長野県の諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高校)講堂(2月5~10日)と、松本女子師範学校(2月11~12日)の2ヶ所で開催した。
このあと、清水多嘉示はフランス留学を計画し、そのとき勤務していた諏訪高等女学校の美術教師の後任について、中村彝と曾宮一念に相談している。その結果、両人の推薦したのが彝の弟子のひとりである宮芳平Click!だった。ちなみに、中村彝の没後に宮芳平を菅野女学校の美術教師へ推薦したのも曾宮一念Click!だ。こうして、1923年(大正12)3月に清水多嘉示はフランスへ向けて出発していった。
さて、前出の『芸術の無限感』にはたった1通だけ、フランスの清水多嘉示にあてた彝の手紙が掲載されている。1923年(大正12)の秋に書かれたものだが、1928年(昭和3)まで帰国しない清水多嘉示あての手紙が、なぜ1926年(大正15)に出版された『芸術の無限感』に収録されているのか不思議だが、ひょっとすると同書の編集委員だった鶴田吾郎Click!か曾宮一念が、フランスに手紙を書いて公開してもいい彝の手紙があれば返送してほしいと、清水に依頼しているのかもしれない。
清水に「タピ」=タペストリーを送るよう依頼する、中村彝の手紙を引用してみよう。
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(大正十二年)秋 下落合四六四/仏蘭西 清水多嘉示君
向ふへ行つてからの君が至極達者であるといふこと、ブルデル氏について傍ら彫刻を学び、着実な勉強をつゞけて此頃は大変いゝ絵をかきつゝあるといふことを、野田(半三)君から聞いて大いに喜んだ。どうか時代の浮薄な風潮に溺れず、芸術の本質的価値に対する慧眼と、深い内観による正しい技巧を獲得して帰つて来て呉れ。(中略) 多分君も今年の二科の画集は見たことだらうと思ふが、あれは全く国辱のやうな気がして仕方がない。(中略) さて別封の為替百円は、これで何か静物や人物画のバック等に用ゆべきタピの類で(中略)ごく安物で、比較的気持ちの悪くないものを古でいゝから仕入れて欲しいのだがどうだらう。馬越(舛太郎)君と相談して散歩のついでにでも目に止つたものをいゝ加減に買つて呉れゝばそれで結構だ。御忙しい処をほんとに御気の毒だが、なるべく早く送つてくれ。それでないと僕の寿命が長くは待ち切れさうもないから……余り吟味せずに、どんなのでもいゝからなるべく早く、ナルベク。(カッコ内引用者註)
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とりあえず、二科の清水多嘉示が日本を離れて留学したせいか、二科展の作品群はさっそく「国辱」ものにされてしまったが、彝の死後に第12回二科展(1925年)で『冬日』Click!と『荒園』Click!、『晩秋風景』の3作品で樗牛賞を受賞Click!し、中村彝アトリエで記者会見Click!を開いた曾宮一念は、この手紙をどのような想いで見ていただろうか。
中村彝の文面からは、フランス製のタペストリーを1日でも早く入手したがっている様子が、悪化する自身の健康状態に対する焦燥感とともにストレートに伝わってくる。彝は、「何か静物や人物画のバック等」と書いているので、タペストリーはまちがいなく壁ないしはドアに架け、モチーフのひとつとして描きたかったのだろう。このとき、中村彝の頭の中にあったタペストリーのデザインは、幾何学模様だったのか絵画調の作品だったのかはさだかではないが、絵柄についての言及がいっさいないところをみると、清水多嘉示とは事前にデザインについて打ち合わせ済みだったような気配がする。それは、この手紙のひとつ前に出された手紙の中で、触れられているテーマなのだろうか。
◆写真上:パリのサロン・ドートンヌで、洋画と彫刻が同時入選した画室の清水多嘉示。
◆写真中上:1923年(大正12)12月22日のスタンプが押された、中村彝からパリの清水多嘉示あてに出された手紙で宛名書き(上)と差出人名(中)。下は、清水多嘉示が彝アトリエの庭で撮影した中村彝。左の籐椅子に座る写真はめずらしいが、右の芝庭に立つ彝の写真は『芸術の無限感』に収録されている。
◆写真中下:清水多嘉示が彝アトリエ近くで描いたと想定できる、湧水池のある林泉園の斜面(上/提供:堀尾慶治様Click!)と林泉園からつづく渓流沿いの近衛町斜面(中/提供:酒井正義様Click!)。下は、教師時代の清水多嘉示(中央)。
◆写真下:上は、1923年(大正12)12月22日消印の中村彝から清水にあてた手紙。中は、鈴木誠アトリエClick!時代のドアの1枚(左)と、1925年(大正14)2月におそらく下落合1443番地の木星社Click!・福田久道Click!によって撮影されたアトリエ西側のドア(右)。下は、ヨーロッパのタペストリーに多い幾何学模様デザイン。