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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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落合第四小学校の開校記念写真。

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落四小校庭1.jpg
 先日、資料を整理していたら、めずらしい写真を見つけた。1932年(昭和7)4月に設置された落合第四尋常小学校Click!の開校時を含む、戦前に撮影された写真が載った冊子だ。掲載されていたのは、2002年(平成14)に発行された『落四のあゆみ/開校70周年記念誌』だ。以前、堀尾慶治様Click!がお持ちの1941年(昭和16)卒業アルバムClick!に掲載された写真をご紹介しているが、開校直後に撮影されたとみられる画面は、それより9年前の写真ということになる。
 まず冒頭の写真は、1932年(昭和7)の開校から間もない時期に撮られた写真で、西側の校舎ぎわから校庭で体操する生徒たちを撮影したものだ。南(右手)へと下る相馬坂の向こうには、相馬孟胤邸Click!の敷地内にあたる御留山Click!がきれいに見えている。ちょうど正面やや右手が、現在のおとめ山公園で四阿(あずまや)が設置されているピークにあたる。校庭の右端に見えている、斜めの棒のようなものは低学年用に設置されたすべり台の一部だ。左に見えている校庭掲示板のさらに左側に、相馬坂から校庭へと入る校門がある。
 写真は、陽射しの方角と人物たちの影から朝礼風景だろう、校庭に集合する生徒たちをとらえたものだ。校庭の中央あたりから“「”字型の校舎の角のほうへカメラを向けてシャッターを切っている。おそらく開校後間もないころと思われ、“「”型校舎の角に大型拡声器(スピーカー)がいまだ設置されていない。また、画面左側の校舎前に植えられたヒマラヤスギの丈が小さく、教室1階の窓をいまだ越していない。
 写真は、高学年の授業風景を撮影したものだ。写真が粗すぎて、黒板の白墨文字が読みとれないが、「〇〇〇〇の長所短所」と書いてあるように見えるので社会科の授業だろうか。写っているのは男組で生徒数は多く、確認できるだけでも35人ほどが写っている。画面左の枠外、窓側に座る生徒たちを含めると、1クラス45~50人ほどになるだろうか。まだ1932年(昭和7)ごろの教室なので、教壇の横に「一億一心」とか「これからだ/出せ一億の底力」といった、戦時標語Click!のポスターは貼られていない。
 写真は、落合第四尋常小学校の開校時から少したって撮影された、“「”字型校舎の角にあたる部分だ。ヒマラヤスギの丈が伸び、校舎の角には大型拡声器(スピーカー)が設置されている。花壇も設置されたのか、ヒマラヤスギの下には白い垣根が見えているが、昇降口の右手に生えていた樹木がなくなっている。代わりに土が掘り返され、新たに花壇を造ろうとしているようだ。ちなみに、9年後に撮影された1941年(昭和16)の卒業アルバムには、校舎の角に写る大型スピーカーが見えない。近隣から苦情がでて、少し小型の四角い野外スピーカーに付け替えたものだろうか。
落四小校庭2.jpg
落四小授業風景.jpg
落合第四小学校1938.jpg
 少し余談だけれど、落合第四小学校のチャイムの音が、1990年代に入ってからほとんど聞こえなくなった。おそらく、ご近所から「うるさい!」といわれて、だんだんボリュームを下げていった結果だろう。1970年代には、かなり遠くまでチャイムの音が響いていたし、近隣の家々では窓を閉め切っていたとしても落四小のチャイムClick!は聞こえたはずだ。そのチャイムの音と時間で、「そろそろお昼か」とか「ああ、もうそんな時間か」とか、生活のサイクルをまわしていた方も少なからずいたにちがいない。
 きっと、落合第二尋常小学校Click!のスピーカーから流れる童謡に腹を立てていた宮本百合子Click!のような人がいて、学校に申し入れをしたのではないだろうか。確かに文章を考えているとき、「チーチーパッパ」が大音量で流れてきたら、わたしも家から逃げだして喫茶店にでも避難するだろう。また、なにか作曲中の音楽家の方にしてみれば、たまったものではない。運動会が近づくと、落四小では下落合一帯の住宅へ運動会の行事用にスピーカーから音楽を流すから、あらかじめ「ご了承ください」というようなチラシを撒くようになったので、よほど気をつかっているのがわかる。
 次の写真は、1937年(昭和12)に校庭の崖下へプールが完成したときの記念写真だ。男組と女組と思われる2クラスが写っており、右手の崖上に校庭が拡がっている。プールの背景(西側)には、大倉山(権兵衛山)Click!の山麓の緑がとらえられているが、この時期の大倉山はほとんど宅地開発がなされておらず、いまだ権兵衛坂Click!も存在していない。斜面には濃い樹林が繁り、山頂のあたり一帯には草原がひらけ、大倉山の神木だったカシの巨木Click!も、大きな枝を拡げていただろう。かろうじて山頂の北側には、テニスコートと数戸の小さな建物が確認できる程度だ。また、写真にとらえられた背景の林のさらに西側(正面左手)には、落合キリスト伝導館(旧・基督伝導隊活水学院Click!)の大きめな建物があるはずだが、樹林が濃くて建物のかたちを確認できない。
落四小校舎.jpg
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写真まちがい.jpg
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 『落四のあゆみ/開校70周年記念誌』では、1941年(昭和16)の日米開戦から学童疎開Click!、空襲の様子なども伝えている。同誌から、少し引用してみよう。
  
 戦争はますます激しくなり、東京の町にも空襲があり、たくさんの爆弾が落とされるようになりました。昭和19年、4年生以上の子どもたちは、空襲をさけて学童疎開をしました。第1次として266名が、茨城県西茨城郡西山内村の西念寺などに出発しました。その翌年には、第2次として、群馬県佐渡郡芝根村の常楽寺(42名)・法連寺(27名)などに疎開しました。茨城県に疎開していた児童は、県下の空襲が激しくなり、後に群馬県の疎開先に合流しました。/疎開中は、お寺で寝起きしたり、勉強したりしました。食べ物や薬さえ不足し、がまんばかりのきびしい生活でした。/下落合もたびたび空襲を受け、多くの家屋が焼けました。/落合第四小学校の校庭にも爆弾が落ち、炎が上がりましたが、当時校舎を使用していた警視庁警備隊や、地域の人々の協力で消し止められ、校舎は焼けずにすみました。
  
 もし校庭に250キロ爆弾でも落ちたら、爆風で下見板張りの脆弱な校舎は相当なダメージを受けたと思われるので、消火が必要だったのは焼夷弾だろう。
 さて、戦時中の記述に添えられた写真のキャプションが、ちょっとおかしい。まず、「戦争当時のまちの様子」として紹介されている写真だが、これは1928年(昭和3)の冬(おそらく雨量換算で50.3mmの大雪が降った2月14日の数日後)、1926年(大正15)に練馬Click!へ移転した目白中学校Click!の広大な空き地から、目白通り方面の商店街を撮影した写真Click!だ。いまだ大正期の姿を残した目白通りの様子で、1928年(昭和3)の時期を「戦争当時」とはいわないだろう。ちなみに、日米開戦当時の1941年(昭和16)には、目白通りの拡幅も済み、目白中学校の跡地には家々が建ち並んでいる。
 また、空襲による「焼けあと」として紹介されている写真だが、これは1966年(昭和41)7月15日に「落合新聞」Click!竹田助雄Click!が撮影した写真で、下落合2丁目829番地(現・下落合4丁目)で宅地造成中のパワーショベルの土に人骨が混じり、驚いて作業を中止した建設会社のスタッフたちが写っている。つまり、下落合の横穴古墳群Click!が発見された瞬間で、戦争や空襲とはまったく関係のない写真だ。(爆!) 写真へ半円とともに書きこまれた2・3・4の白い数字は、第2号墳から第4号墳までの位置を示しており、写真の出典は新宿区教育委員会の報告書か、調査を担当した早稲田大学の資料だろう。
 落合第四小学校はそろそろ90周年も近いので、また『落四のあゆみ』のような冊子を制作するのであれば、上記2点の写真はぜひ差し替えていただきたい。
落合第四小学校1936.jpg
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 最後に、もうひとつ気になったのは画家の西原比呂志が描いた挿画だ。『落合翠ヶ丘』というタイトルで、おそらく縄文時代をイメージして描いていると思われるが、土器の表現を除いて、これではプレ縄文期の旧石器時代人のイメージだ。前世紀の三内丸山遺跡の発掘以降、次々と新たな発見により縄文時代のイメージが大きくくつがえり、稲作も含め弥生時代との区別が曖昧になりつつあるので、縄文人=槍を振りまわす「ウッホウホホの原始人」(それにしては、やたら高度で芸術的な土器を焼くアンバランスな人々w)のような、子どもたちに誤解を与える表現は避けるべきではないだろうか。

◆写真上:1932年(昭和7)の開校から間もないころ、校庭で撮影された体育授業。
◆写真中上は、朝礼時に撮影された1葉。は、開校当時の授業風景。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる落合第四尋常小学校と撮影ポイント。すでにプールは竣工していた時期なので、「火保図」の採取ミスと思われる。
◆写真中下は、大きな拡声器が取り付けられた校舎。は、1937年(昭和12)に校庭下へ設置されたプールの記念写真。は、キャプションがおかしい写真2葉と、「焼けあと」の全景写真である1966年(昭和41)7月15日に竹田助雄が撮影した下落合横穴古墳群の発見現場。左手に、人骨を掘りあてたパワーショベルが写っている。
◆写真下は、1936年(昭和11)に撮影された落四小でプールはまだ設置されていない。は、1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機から撮影された落四小。同年4月13日夜半の空襲で、周囲の延焼が確認できる。は、2002年(平成14)の開校70周年のときに撮影された空中写真。同小学校のプールは、落合第四幼稚園の屋上に移設されている。

中村彝が見ていたカルピスのある風景。

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 1919年(大正8)7月7日七夕の日、カルピスClick!は全国でいっせいに発売された。カルピスが誕生したのは、酵素の一種とみられる「醍醐素」に、砂糖を混ぜて放置していたのが自然発酵した偶然の産物だった。それを味わった開発者は、美味に驚いて商品化を企画している。偶然に自然発酵した「カルピスの素」は、なんの素材をもとに具体的にどのような手順で、何時間かけて発酵させれば美味しくなるのかがまったく不明だった。それを改めて検証する作業に、R&Dの担当者は膨大な試行錯誤を繰り返したようだ、
 中村彝Click!が初めてカルピスを口にしたのは、翌1920年(大正9)4月ごろに新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!がプレゼントしたのが最初と思われるので、発売から1年もたたずに味わっていることになる。以来、彝はカルピスが病みつきになり、1924年(大正13)12月に死去するまで愛飲しつづけたようだ。カルピスの「カル」はカルシウム、「ピス」は仏教の「熟酥(じゅくそ)」すなわち「サルピス」からとって命名されている。仏教へ帰依していた同社専務の三島海雲は、カルピスの命名について次のように書いている。
 1989年(平成元)出版の、『70年のあゆみ』(カルビス食品工業)から引用してみよう。
  
 「カルピスという名前が、いかにも清涼飲料水らしいとよく人にほめられる。カルピスの『カル』はカルシウムから、『ビス』はサンスクリット語からとった。仏教では、乳・酪・生酥・熟酥・醍醐を五味と言い、醍醐をサルピルマンダ、塾酥をサルピスと言う。五味の最高位は醍醐だから、ほんとうはカルピスではなく、カルピルでなければならないのだが、それではいかにも歯切れが悪いので、私はカルピスにしようと思っていた」(『長寿の日常記』)/すべてのことに関して、常にその道の一流の専門家の意見を聞くことにしている海雲は、この命名のときも、音楽家として著名であった山田耕筰と、サンスクリットの権威であり浄土宗では生きた宝とまでいわれた渡辺海旭に相談した。
  
 発売とほぼ同時に、カルピスは大正期を通じて空前の大ヒット商品となっている。今日のように製造過程まで含めたオートメーションの生産ラインがあるわけではないので、すべてが地道な手作業による生産体制だった。
 発売の年には、すでに日本全国ばかりでなく、中国の大連や上海にまで販売代理店を設置している。つまり製品の売れ行きを探りつつ、国内で実績を積んだあと海外へ進出するのではなく、発売とほとんど同時に製品の海外展開を試みた、大正期の企業としてはカルピスは稀有な存在となった。その好調な売れ行きを記録している様子を、同書収録の1919年(大正8)12月に出された第5回の営業報告書から引用してみよう。
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 カルピスは醍醐味、醍醐素の身代りとして7月7日より発売致しました。本品は意外の好評を博しまして、前途好望の兆候を示しております。本品の販売に付きましては、斯界のオーソリチーと称せられて居りまする東京日本橋詰國分商店を以て関東販売元となし、大阪祭原商店を以て関西一手発売元と致しました。其他、大連市の矢中商店、上海の松下洋行を以て各其地方の一手発売元と致しました、何れも非常の意気込を以て着手して居る模様であります。其活動の反響は大正9年2、3ヶ月以後にあると予想致して居ります。
  
 同年12月の時点で、卸売り店を招いての販促会が開かれているが、当初は15~16名(社)が参加していた。ところが3ヶ月後、翌1920年(大正9)3月の集会では35名(社)、翌1921年(大正10)2月には40名(社)以上、そして同年4月には50名(社)以上と、順調に業績を伸ばしているのが見てとれる。
 売り上げも好調に推移し、1926年(大正15)の売上高は発売時の18倍に達し、半年ごとの売上高計算では1925年(大正14)上期と1919年(大正8)下期とを比較すると、実に36倍という伸び率を記録した。当然、手作業による生産が追いつかず、市場にカルピスが行きわたらない欠品状態まで生じている。事業責任者である専務の三島海雲は、原液の製造工程を自動化して品質を低下させず、すべて人海戦術で乗り切ろうとしている。当時のカルピスは、次のような手順でつくられていた。
 ①乳酸菌および酵母を種菌として脱脂乳を培養してつくったスターターを、あらかじめ加熱殺菌した脱脂乳に加える。
 ②それを、木製の発酵槽の中で一昼夜乳酸発酵させて、酸乳をつくる。
 ③でんぷん糖化液(水飴)を乳酸発酵させた駅に炭酸カルシウムを加えて得られる粗結晶の乳酸カルシウムを、酸乳に加える。
 ④この酸乳に砂糖を十分溶解させ、熟成発酵させる。
 ⑤オレンジとレモンの皮からしぼったオイルを原料とする天然香料を加えて仕上げ。
 カルピスの売り上げが記録的に伸びたのは、先述のように1925年(大正14)のことであり、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!をはさんだ復興期のことだ。このとき、首都圏ではカルピス人気が沸騰する要因をつくったエピソードが語り継がれている。
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 三島海雲は、大震災のとき東京府北豊島郡の向山町(現・練馬区向山)にある本社にいたが、市街地に比べ揺れが弱かったのか幸い本社社屋は無事だった。そこで、残暑がつづく炎天下に氷と希釈用の水を用意し、焼け野原の市街地へトラックで運んでは、被災者にカルピスを配ってまわった。当時の様子を、同書から引用してみよう。
  
 私は工場にあった木樽十数本に入っているカルピスの原液を全部出させ、金庫のあり金2,000円余を全部出して、この費用に充てた。そして、翌2日から私自身もトラックに乗って被災地を回り、原液が無くなるまで配り続けた。震災後の数日は焼けつくような暑さだったから、私のトラック隊は、行く先々の避難所で大歓迎を受け、感謝された。大阪毎日の記者が、震災第一報で私のトラック隊のことを取り上げた。このとき、私には宣伝しようなどという気持はミジンもなかった。しかし、結果として、カルピスは全国に知られることになった。のちに『あのときのカルピスの味が忘れられない。私はカルピスのためになんでも協力しますよ』という人が官界にも民間にも幾人も出てきた。
  
 幕末に彰義隊と靖共隊を助(す)け、大江戸びいきだった亀甲萬(キッコーマン)の茂木七郎左衛門Click!ではないけれど、このような義侠を江戸東京人は忘れない。カルピスは同年、営業的には大打撃をこうむるが、首都圏のマーケットは義理がたく震災後もカルピスを選んでは飲みつづけた。そして、ようやく復興のきざしが見えた1925年(大正14)、カルピス人気はおもに東日本で爆発し、空前の売り上げを記録することになる。発売から4~5年で、これほどの大ヒットを記録した商品は、地震に備えた保険商品や焼け跡復興用の住宅建材の需要を除けば、大正期を通じてほとんどない。
 中村彝も目にしたであろう「初恋の味」のキャッチフレーズは発売の翌年、1920年(大正9)にすでに発案されている。だが、カルピスは子どもから老人まで飲む飲料なので、当初、三島専務は「恋」という表現にターゲティングのズレから難色をしめした。社内の宣伝部にも、慎重論が多かったという。だが、1922年(大正11)4月には、このキャッチを採用した新聞広告を東京日日新聞に出稿している。
 ところが、警察から「色恋は社会の公序良俗を乱すことなので、白日のもとで口にすべき言葉ではない」という、今日からみれば信じられないようなオバカな理由でクレームが入った。だが、当時は大正デモクラシーの時代なので、「初恋の味」のキャッチはまたたく間に全国へ拡がり、実質的に警察当局が表現を規制することができなくなってしまった。以来、約100年間にわたり同キャッチフレーズはカルピスのみならず、企業全体のショルダー的な位置づけとして今日までつづいている。
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 同社が「初恋の味」広告を出稿したのと同年、1922年(大正11)10月に「帝展の入選者、九分はカルピス愛用家」というキャッチフレーズの新聞広告を出稿している。中村彝(当時は帝展審査員)は、確かにカルピスの大ファンだったが、ほかの帝展への入選画家たちも愛飲していたのだろうか。「九分」は90%の意味だが、三島海雲のことだから無作為で選んだ帝展の画家たちへ、試供品とともにアンケート調査を実施している可能性が高い。それとも、だいたいの感触でつくってしまった、裏づけのないキャッチだろうか。大正期のカルピス広告を見ていて、ニヤリとさせられたフレーズだ。

◆写真上:1919年(大正8)7月7日に発売された初期のカルピスは、七夕らしく「ミルキーウェイ(天の川)」をデザインした紺地に白の水玉模様の包み紙だった。
◆写真中上上左は、1922年(大正11)に上野で開催された平和記念東京博覧会Click!に出店したカルピス館。上右は、1924年(大正13)に勝山分工場の視察で撮影された記念写真の三島海雲(左端)。は、発売最初期型の箱に入れられたカルピス。は、1922年(大正11)4月に初めて「初恋の味」のキャッチフレーズを採用した新聞広告。
◆写真中下は、カルピスのポスターやブリキ看板などPOP類。は、1923年(大正12)6月に制作された新聞広告で、以後「初恋の味」のキャッチが定着する。
◆写真下は、1922年(大正11)10月制作の帝展画家は「九分はカルピス愛用家」広告。は、1924年(大正13)2月に制作された馴染み深いシンボルマークの広告。

すぐに「斬ってやる!」の高田町議会。

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 1932年(昭和7)に豊島区が成立する直前、高田町最後の町長となった海老澤了之介Click!は、1902年(明治35)に水戸中学を卒業すると、早稲田大学を受験するために東京へやってきている。下宿先は、北豊島郡雑司ヶ谷村707番地だった。山手線の池袋停車場Click!ができるのは翌1903年(明治36)で、雑司ヶ谷一帯はいまだ田畑が拡がる中に森が点在するような風情だった。
 雑司ヶ谷は、江戸期から別名「富士見の里」と呼ばれるほど富士山Click!の眺望がよく、鬼子母神Click!から地図に直線を引いて確認すると、おそらく目白崖線がつづく下落合の御留山Click!の上あたりから突きでて見えていたのだろう。いまだ清戸道Click!(せいどどう=高田村誌Click!)と呼ばれていた目白通りには、練馬方面からやってくる野菜を満載した大八車Click!や肥車が通行し、ときおり目白停車場Click!や学習院へと向かうClick!(じんりき)が走り抜けていた。春になると、学習院の通りに植えられたサクラ並木がみごとに花開き、周辺の住民たちは花見に誘われたようだ。
 海老澤了之介は、雑司ヶ谷から早稲田大学まで通学しているが徒歩15分ほどの距離だったろう。当時の早大は、いわゆる見わたすかぎりの早稲田田圃Click!の中に、場ちがいな校舎の甍がそびえるような閑散とした風景で、隣接する大隈邸は水田の中にある孤島のように見えたという。商店街は正門前にしか形成されておらず、幕府の高田馬場Click!跡がいまだクッキリと残っていた時代だ。当時の通学の様子を、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』(私家版)から引用してみよう。
  
 雑司ヶ谷から早稲田への通学は、面影橋から高田の馬場を経て行つたが、帰路は音羽通りに出て、葱、蒟蒻などを荒縄でぶら下げては帰つたものである。それでも人気のない田舎道の事であつたから、少しもはづかしい思ひをせずに済んだ。今思へば全く隔世の感がある。小石川伝通院前の西川と言ふ牛肉屋から、毎日御用聞きが来た。十銭の牛肉を先輩と私とお婆さんの三人で煮込みのおじやに作つて食べたりした。当時の下宿料は五円であつた。電燈は未だなく、竹ほやの石油ランプとマツチとを枕元に揃へて寝た。学生の常で、昼は遊んで夜勉強するのであるが、一月、二月ともなると寒さが身に沁みて来る。そんな寒い或る晩の事であつた。丑満の時ともなると、いよいよあたりは静まりかへつて、静寂そのものである。すると丁度目白駅の方向に当つて甲高い、そして澄み切つた声で、コーンと一と声聞えた。(中略) 始めて(ママ)之は狐にちがひないと気付いた時、啼声はすぐそこに近付いて聞えた。
  
 海老澤了之介が通った文学部哲学科の同窓には、戦後まで交友をつづけた下落合1712番地の第二文化村Click!に住む石橋湛山Click!がいた。石橋湛山は、1958年(昭和33)に出版された海老澤了之介『新編若葉の梢』Click!(新編若葉の梢刊行会)へは序文、『追憶』(私家版)には色紙を書いて寄せている。
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 海老澤了之介が地域行政の世界へ足を踏みいれたのは、父親が隠居してあとを継ぐことになったからだ。当時の高田町(現・目白/雑司ヶ谷/南池袋地域)は、大正期から昭和初期にかけ市街地からの人口流入が爆発的に増えつづけた激動の時代だった。特に1923年(大正12)の関東大震災Click!以降は、地域のインフラをいくら整備しても不足する、1950~60年代の神奈川県Click!のような混乱状況だった。だから、新しい時代状況に適応できない人々(おもに旧住民)と、新たなインフラの仕組みや制度づくりをめざす人々との間では、深刻な軋轢が生じることになった。
 当時の高田町に設置された常設・臨時委員会だけ見ても、学務委員会や警備委員会、社会事業調査委員会、条例規制改正委員会、下水道委員会、武蔵野鉄道護国寺線促進委員会、神田川改修促進委員会、荒玉水道促進委員会、瓦斯料金値下実行委員会、歳末慰問委員会、市郡併合特別調査委員会…etc.と、その名称をなぞるだけで当時の高田町がおかれていためまぐるしい様子が透けて見える。みるみる膨れあがる町勢に対し、ひとことでいえば「なにもかもが足りない」混乱した事態を迎えていた。
 海老澤了之介は、もともと高田地域に住む“有力者”たちを説得して、新しい街づくりに協力させるのが助役時代、そして町長時代のおもな仕事になっていた感さえある。中には、「男の約束を反故にした」とかいいつつ、日本刀を持ちだして「海老澤を斬ってやる」と公言する人物までが現れた。高田警察署では、町長に24時間の護衛をつけるまで緊迫した事態がつづいていた。同書より、当該箇所を引用してみよう。
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 (前略)当時町会議員で、上り屋敷に坂本辰之助君といふ新聞記者であつて、史学家を自負してゐる人がゐた。而しよくも勉強をしてゐた人であつたから、町会では純情の人だけにうるさい。物の理解方が、僕等とは少し違つてゐたから、納得することが出来ないとカンカンにおこる。調子が激越して、口角泡を吹くやうになると大変、僕も亦余りの度々のことであるから、大声を発して反撃してやると、決然席を蹴つて帰つて仕舞ふ。帰つてからが大変で、日本刀を出して海老澤を斬るといつて意気巻いたと言ふ一トくさりがあつたが、一度も斬りに来る事がなかつた。それからもう一人、誰であつたか、その人の名を忘れたが、この人も亦町の有力者で、私には好意ある人であつた。この人も日本刀を磨いて、海老澤を斬るといふ騒ぎになつた、町長のことであるから、目白警察署でも捨ててはおけず、毎日三人昼夜交替に護衛に来て、泊まつて行つた。
  
 海老澤了之介は「忘れたが」と書いているが、町の有力者の名を忘れるはずがない。ここで留意したいのは、もともと裕福な農家であり明治以降は一帯の地主になる街の“有力者”たちが、みな先祖から受け継いだ刀剣を所持していることだ。刀剣を所持していたのは武家だけでなく(そのような錯覚Click!を植えつけたのは時代劇だろう)、町人や農民(近郊農民は鉄砲Click!まで)も所有していたことを改めて確認しておきたい。
 1932年(昭和7)に東京35区制Click!が敷かれるとき、区名をなににするかで豊島区も3つの区名で争っている。高田町は、西巣鴨町と長崎町を併せて「目白区」にすることを主張し、巣鴨町はなぜか瀧野川町を仲間はずれにして、高田・西巣鴨・長崎を併せて「巣鴨区」にしたいといいだした。
 この時点で、山手線の目白駅Click!ができたことにより、「目白」Click!の概念が小石川町(現・文京区)の目白(目白不動のあった関口や目白台の地域)から、大きく西へズレはじめていたのが判然としている。また、巣鴨町が高田町といっしょになることに抵抗感がないのは、高田町内に巣鴨町の代地がいくつか点在していたからだろう。さらに、西巣鴨町は池袋町といっしょになって「池袋区」を主張している。
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 「目白区」と「巣鴨区」「池袋区」が三つ巴になって争ったが、いずれの名称にも決まらずに旧・郡名でもあり、豊島氏の故事にちなむ無難な「豊島区」に決定したのは、区名に関する町同士の争いや遺恨を、後世に残さないようにするためだったのだろう。誰かが再び、「斬ってやる!」などと刀を急いで研磨Click!にかけることのないように…。

◆写真上:目白通りに面し、1932年(昭和7)まで存在した高田町役場跡の現状。
◆写真中上は、1932年(昭和7)5月10日の高田町議会で中央奥に立っているのが高田町最後の町長・海老澤了之介。は、晩年の海老澤了之介()と早大哲学科時代に同窓だった石橋湛山(右)。は、昭和初期に撮影された改修工事前の弦巻川(鶴巻川)。
◆写真中下は、昭和初期の大恐慌で増えつづける失業者対策も兼ねた弦巻川の暗渠化工事。は、人が立って歩けるほど巨大な弦巻川の暗渠トンネル。は、戦後の1954年(昭和29)に撮影された弦巻川湧水源の丸池(成蹊池)。
◆写真下は、根津山道(現・グリーン大通り)の開設記念写真。左から2人めが、高田町に3,000坪以上の土地を寄附した根津山の所有者・根津嘉一郎で、4人目が町長の海老澤了之介。は、1931年(昭和6)からスタートした根津山の下水道工事。は、同年から行われ1933年(昭和8)までに竣工した旧・神田上水の改修工事。左側に写る火の見のような櫓状の構造物は、江戸友禅・小紋や藍染めなど染め物の干し場。

記事中にも「男の約束」が登場していますが、別に「男」に限らず女性でも約束をたがえられたら怒るでしょう。『さよなら・今日は』のDVD化を願って、今回の“予告編”は1974年(昭和49)1月12日(土)に放映された第15回「男の約束」です。いつもは新聞記者か刑事役が多い鈴木瑞穂が、めずらしく下落合の地主役で登場しています。加東大介の演技も懐かしいですが、すでに前年から出演していた山田五十鈴が、第15回から準レギュラーとして毎回登場するようになります。
 「父親の作品を処分」とか跡地にマンション建設とか、やたら下落合ではリアルな台詞が多いのも印象的です。w この回、一作(原田芳雄)は仙台へ子供の母親探しで旅行中、冬子(大原麗子)は正月に信州へ帰省しているためアトリエには不在で、「鉄の馬」を切り盛りしているのは緑(中野良子)ということになっています。「下落合の高台に君臨する仁王様」の日記が、緑によって書かれるのもこの回でした。いつも下痢気味で、あわててトイレへ駆けこもうとする高橋清(緒形拳)の情けない表情からスタートします。
Part01
Part02
Part03
Part04
Part05
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Part07
Part08
Part09
Part10
Part11
Part12
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Part14

街の情報収集としての“こころづけ”。

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神田川アユ・モツゴ.jpg
 今和次郎Click!は、よく「チツプ」あるいは「テイツプ」という言葉をつかう。昭和初期の当時は、チップという言葉が目新しく、流行語になっていたものだろうか。カフェやミルクホールの女給さんへ、サービスをよくしてもらうためにわたすのはチップでいいのかもしれないが、畳敷きの座敷がある和風の料理屋や料亭の仲居さんへは、やはりチップとはいわずに「こころづけ」と呼ぶほうがしっくりくるだろう。
 今和次郎は、考現学Click!研究のためにあちこちのカフェや料理屋に出入りしていたらしく、東京各地の盛り場で「チップ」の詳しい額を記録している。きっと、「研究費」だけで膨大な出費を余儀なくされただろう。1929年(昭和4)に中央公論社から出版された、今和次郎『新版大東京案内』から引用してみよう。
  
 銀座のカフエーで、一番名士のやつて来るのは、先づこゝの店だらう。それだけに、チツプを一円やつても、(銀座の表通りのカフエーに於ては、チップの一円は常識である)軽く一礼する位のもので、梯子段のところ迄送つて貰ふやうなことは、一年通つても一円級では先づ絶望である。(中略) ……女給達も一様に藍色の袷衣を慎しやかに身に着けて、皆んなおとなしい上に親切である。そして彼女達が卑しく物欲しさうな顔を見せぬので、遠慮や気兼ねをしないで本当に気持よくビールを飲んで来られるのである。こゝのライスカレーは銀座では比較的評判である。チツプを五十銭置いて心からお礼をいはれるのは、このカフエー位であらう。
  
 女給(ホステス)さん相手ではないが、子どものころ親に連れられて芝居や散歩の帰りなどに、(城)下町Click!の料理屋や料亭へ出かけると、世話をしてくれる仲居さんへ親父は「チップ」ならぬ「こころづけ」を必ず手わたしていた。子どもなので額は知らなかったが、1960~70年代にかけてのころは、息抜きに喫茶店でコーヒーが2~3杯飲めるぐらいの額、すなわち60年代は岩倉具視(500円札)が、70年代は伊藤博文(1,000円札)が活躍したのではないかと思う。すると、料理屋や料亭の座敷を担当する仲居さんは、ほとんど部屋に付きっきりとなり、はりきって世話を焼いてくれることになる。
 でも、この「こころづけ」は、よりよいサービスを受けるための戦前からつづく料理屋や料亭での伝統的な慣習、あるいは客がよりていねいに面倒をみてもらうための仲居さんへの賄賂という意味合いを超えて、親父の理由にはもうひとつ別の側面があった。料理屋や料亭の仲居さんほど、ご近所はもちろん周辺の街の最新情報に詳しい人物はいなかったからだ。商売がら、さまざまな街の情報やウワサ話が仲居さんの耳へと入ってくる。もちろん、顧客の私的な事情や街に住む人々の極端なプライバシーなどは、口がかたい商売なので話してはくれないが、差しさわりのない範囲での街の情報や変化、推移についてはなんでも詳しく教えてくれる。
 どこそこの店は先代が糖尿で入院して、昨年から実質6代目が継いでいるだとか、どこそこの旅館が倒産して跡地が雑居ビルになってしまったとか、大川(隅田川)と神田川の悪臭で船宿がまたひとつ潰れたとか、あそこの洋食屋が流行って銀行から借金をし、今度は自宅を5階建てのビルにするらしいとか、どこそこの店でボヤ騒ぎがあったばかりで、消火のときに水が入り先祖伝来の看板が台なしになったとか、とうとう柳橋の芸者が30人を切り辰巳芸者よりも数が少なくなってしまった……とか、日本橋とその周辺域で流れているずいぶん細かな情報までが、仲居さんの口を通じてもたらされた。
銀座今和次郎.jpg
木村荘八「牛肉店帳場」1932.jpg
 戦前・戦中の話になると、仲居さんではわからないので店主が前かけを外して懐かしそうに出てきては、しばらく界隈の変貌を感慨無量に話しこんでいった。また、共通の友人知人も判明したりして、親父にとっては面白い時間だったのだろう。そして、たいがい東京オリンピック(1964年)前後からこっち、ずっと「郊外」(東京西部や東部)へ引(し)っ越す人が止まらなくて、店もいつまでつづけられるかわからない……というような話で、最後は落ち着くことになる。ちょうど、わたしの子ども時代は中央区の人口が、住環境の悪化により30万人から半減してしまうような時期で、河川や空気の汚濁に加え、「開発」という名の昔からつづく住宅街の破壊や、むやみやたらな(高速)道路建設など、街の急激な変貌(小林信彦Click!のいう「町殺し」Click!)が止まらなかった時代だ。
 料理屋でわたす親父の「こころづけ」は、つまり近隣の動向や最新情報を手に入れるための、いわば「取材調査費」のような役割りをはたしていたのだろう。このような「こころづけ」の役割りは、昔ながらの店が健在で、近隣にずっと住んでいる勤務歴の長い仲居さんがいてこそ可能であり、乃手の料理屋ではハナから無理な注文だったらしく、まずはほとんど経験のない情景だった。
 親父は紙幣を折りたたんで、畳の上をすべらすようにわたしていたが、仲居さんも心得たもので畳に手をつき深くお辞儀をすると、ややシナをつくるような滑らかな動作でスッとそれを受けとるや、襟合わせへすばやくスマートに挿んでいた。すると、席が鍋料理やすき焼き料理などの場合は、すべて仲居さんが座敷へ付きっきりで世話を焼いてくれ、わたしたち家族は箸と飯茶碗を動かして食べるだけでよかった。
 ちなみに、親父Click!は酒が1滴も飲めなかったので、仲居さんとのおしゃべりが座敷での楽しみだったのだろう。その世話焼きの合い間に、彼女は親父の質問に次々と答え、周辺のさまざまな話題を聞かせてくれるのだ。店主が出てくると、もう3月10日の大空襲Click!の話か先代の関東大震災Click!の話になって、厨房の調理は大丈夫なのかな?……と心配になるぐらい話しこんでいった。このような情景が、なんら不自然さもなく可能だったのは、いまだ江戸期からつづく地域の“コミュニティ”が健在だったからだろう。
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日本橋金座通り(清州橋通り).jpg
 さて、わたしも(城)下町の古い江戸期や明治期からの料理屋へ上がるときは、親父のマネをしてやや恥ずかし気に「こころづけ」をわたすようにしている。わたしの世代では、現金をむき出しでわたすのは品がないと感じるので、小さな祝儀袋のようなものをあらかじめ用意するのだが、貧乏なのでやはり包むのはコーヒーを2~3杯飲める程度の額だ。すると、昔とまったく同じように襟もとへスッとそれを挿み、かいがいしく世話を焼いてくれるのはベテランの仲居さんだ。
 店の歴史や界隈の情報にもよく通じていて、いろいろな話をしてくれる。店の周辺が描かれた、江戸の切絵図(レプリカ)をどこからか持ってきては、「うちはここ」「オレの実家はここ」「あたしはこっち」などとやっていると、アッという間に時間がすぎる。ときに、わたしも仲居さんも生まれていないのに、空襲のときは(親たちが)「どっち」へ逃げたかなどと話し、見てもいない情景を語り合うのだからちょっとおかしい。でも、それが古くから歴史を積み上げてきた街ではあたりまえの、広島や長崎や沖縄では当然の、地元で「語り継ぐ」という行為そのものなのだと理解している。
 でも、1990年代からこっち、そのような「こころづけ」が通用しない店が出てきた。店自体は江戸期あるいは明治期からあるのに、そのような地元の慣習を理解できない仲居さんが登場してきたのだ。裏返せば、街の情報ネットワークをまったく持っておらず、なにを訊かれてもわからず、そもそも地元ではないので答えられない。「こころづけ」は店へと報告し、先代からの客らしいとわかると、当代の店主がやってきて話相手になってくれるのだが、それでなくても人手不足の忙しい厨房を抱えているのだから、そうそう長話や細かな話もできない。仲居さんからも店主からも、近隣の最新情報がほとんど入手できなくなってしまったのだ。
 仲居さん(もはや就活で入社した女性社員だろう)の中には、「こころづけ」を渡してもどうふるまっていいのかわからず、どぎまぎしてしまう人もいる。特に、若い仲居さんは「契約」あるいは「腰かけ」の感覚なのか、ハナから料理屋が建っている街について詳しく知ろうとは思わないのだろう。近くの店々とも、商店会以外での交流がなくなり、また流行りを追うようなチェーン店が増えて、地元の小学校から同窓だったというようなつながりも消え、店主(もはや経営役員)同士がかろうじて顔を見知っているぐらいになってしまったのかもしれない。つまり、街のコミュニティが実質的に「壊れて」しまったのだ。
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 仲居さんが近隣の情報に不案内となるにつれ、「こころづけ」の効果はほとんどなくなり、先代からの客だと知ると店主やその息子さん、娘さんが座敷へ挨拶に現れるようになった。でも、店を切り盛りしながらの世間話だから落ち着かず、親父の時代の仲居さんとすごした濃密な時間に比べると、グッと会話の中身が薄くなる。だから、わたしはいまの日本橋界隈の様子を、昔ほどよくは知らない。

◆写真上:神田川のアユとモツゴで、今年は小ぶりですばしっこいのが多い。はたしてアユ料理の店が、神田川に復活する日はくるのだろうか。
◆写真中上は、今和次郎が1929年(昭和4)ごろに記録した『新版大東京案内』所収の銀座1丁目から尾張町(現・銀座4丁目)にかけての飲食店。は、1932年(昭和7)に制作された木村荘八『牛肉店帳場』(部分)。描かれているのは、明治期の両国広小路(現・東日本橋)にあった第八いろは牛肉店の仲居さんたち。
◆写真中下は、1933年(昭和8)ごろ撮影の日本橋。は、同じころ撮影の江戸期は「駿河町」あるいは「金座」と呼ばれた後藤家屋敷のあったあたり。左手は手前が日本銀行で奥が三井銀行、右手は手前が横浜正金銀行で奥が日本橋三越。は、同じころの撮影で右手に明治座が見える金座通り(現・清州橋通り)。
◆写真下は、おそらく1928年(昭和3)撮影の両国花火大会Click!で、下に見える丸いドームのイルミネーションは大橋(両国橋)向こうの本所国技館。は、神田川の出口にあたる柳橋・船宿の夕暮れ。は、日本橋のあちこちに残るビル状になった料理屋。

なんだか変だよ「大東京の味覚」の味覚。

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高田馬場「愛川」3.JPG
 1933年(昭和8)に博文館から出版された『大東京写真案内』Click!には、東京35区の写真とともに東京の“うまいもん”Click!を出す食物屋(くいもんや=下町方言)が紹介されている。昭和初期に有名だった、代表的な店が紹介されているのだけれど、「牛すき焼き」Click!と「牛鍋」の区別がまったくついてないし、江戸後期の深川発祥である魚介類の練り物鍋=「おでん」の紹介が丸ごと欠落しているし、「柳光亭」Click!を「浅草」と書くなど、著者の感覚に江戸東京の匂いClick!がしないのだ。
 ちなみに、「柳光亭」は神田川に架かる浅草橋の近くにあるけれど、浅草橋はもともと千代田城外濠の浅草見附(御門)Click!跡の名称であって、地元では誰もその地域を「浅草」とは呼ばない。浅草から2kmも南へ下り、駒形や蔵前のさらに南に位置する同料亭を呼ぶとすれば、「柳橋の柳光亭」が正しいだろう。江戸期も昭和期も、また現代も「浅草」はもっとずっと北側の概念なのだ。ご近所でたとえれば、行政区画が高田町エリアにあった雑司ヶ谷鬼子母神Click!のことを、誰も「高田鬼子母神」と呼ばないのと同じだ。高田地域は、雑司ヶ谷の南西ととらえるのが昔からの地元の感覚であり“お約束”だろう。
 さて、筆名がないので誰が書いているのかは不明だが、東京の飲食店を紹介する「大東京の味覚」の一文を『大東京写真案内』から引用してみよう。
  
 夥しい「東京食物案内記」の記すところによると、先ず和食では山王台の星ヶ丘茶寮、浅草の柳光亭、築地の八百善。洋食では東洋軒に精養軒、帝国ホテルのグリルに中央亭にボントンか二葉、支那料理では日比谷の山水楼に虎の門の晩翠軒、建物の凄い目黒の雅叙園、朝鮮料理では赤坂山王下の名月、大阪料理の浜作に京都料理の栖鳳等々、挙って推奨されてゐる有名店ではあるが、洋食や支那、朝鮮、上方料理に江戸の風味を味ひ得る筈は勿論ないし、星ヶ丘茶寮や八百善や柳光亭のお料理では、余りに非大衆的で、物々しくて、億劫で、手軽には味ひ兼ねると云つた有様。
  
 紹介されている店は、いまは潰れてなくなってしまったものや、現在でもがんばって営業をつづけている店もある。わたしが子どものころまで残っていて、親に連れていってもらった店もあれば、わたしの生まれる前に閉店したところもある。著者が「余りに非大衆的」と書く、江戸期からの八百善や星ヶ丘茶寮は知らないが、柳橋の柳光亭へは親父と出かけたことがある。千代田小学校Click!の同級生で、のちに柳橋芸者になった女性の引退の宴席Click!へ招かれたとき、なぜか親父はわたしを連れていった。
 子どものうろ憶えなので、それほど正確ではないかもしれないが、著者が「余りに非大衆的」と書くほど、目黒雅叙園Click!のように浮世離れした悪趣味で野暮な雰囲気(もともと郊外温泉風呂の目黒雅叙園の場合は、あえて非日常的なそれを狙っている)でも、特別な風情でもなかった。当時もいまも(城)下町Click!にあるような、ふつうの料亭であり、刺身料理は驚くほど新鮮で美味だったような憶えがあるが、出される膳もくどく凝ったものではなかったように思う。著者は、一度も柳光亭を利用したことがないのではないか? もっとも、わたしが同料亭で飲食したのは戦後1960年代ことであり、戦前は店の風情(営業方針)が大きく異なっていた可能性もあるのだが……。
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 つづけて、寿司の一文を同書から引用してみよう。
  
 寿しは屋台に限るとよく云はれる。その朝仕入れた材料をその日の中に使つてしまつて、しかもお客のすぐ眼の前で握る、お客は直ぐそれをつまんで口に投込む。このリレーがうまく行けば行く程通(つう)と呼ばれたもので、そのつまみ方に又コツがある。(中略) もっともこれは一瞬の事で、すし屋の親爺が握る、手にとる、口へ投込む、握る、手にとる、投込むと、調子よくゆかねばほんたうのすし通(つう)とは云はれない。馬鹿に面倒な話であるが、かく程迄になれなくとも、たとへ真中に包丁を入れて貰つて、割箸でつまんで醤油に浸して召上るとしても、ほんたうに生きのいゝ中とろを、程よく握つた庄内米の御飯にのつけて、所謂煮きりのつけ醤油に味をつけて食つた味は、凡そ東京の味覚の中でも随一であらう。
  
 なにを勘ちがいしているのか、別に寿司屋に入って「親爺」との間でせわしない「リレー」などしやしない。w 自分のペースで食べて、味わえばいいだけの話だ。講談や時代劇に登場する、昼間はなにかと忙しい日雇取(ひようとり)か、博徒や地廻りの輩じゃあるまいし、出入りの合い間にでも寿司を食っているのだろうか?
 1日じゅう外働きの職人に多い、冷えきった身体を温めるための「熱い風呂が好き!」Click!な習慣(木場を抱える深川あたりの冬場の習慣?)を、商人や武家を問わず「江戸っ子」(町名+“っ子”はいうが、こんな茫洋としたくくり方はしない)全体のイメージに敷衍化したのと同様、あるいは江戸期から下町の名物だった、すき焼き料理(鴨肉+豆腐や春菊・長ネギなど江戸近郊野菜の具が多かった)について、明治以降の牛鍋をほんのチラ見しただけで、「東京のすき焼きは汁を先に張る」などというトンチンカンな言質と同じように、架空の「江戸東京人」のイメージをつくってやしないだろうか?
 自身の出身地の文化や習俗、趣味、嗜好、生活と比べ、どうしても合わないし理解できない江戸東京地方の事象は、ほんの一部の街の慣習や一部の人々の嗜好などを、ことさら戯画化して揶揄しながら「笑いもん」にし、江戸東京の全域へとスリカエて敷衍化する、明治以降にさんざんやられてきた、いつもの“手”ではなかろうか。「江戸っ子」は「宵越しの銭は持たない」などと、バカをいっちゃいけない。確かに気風(きっぷ)や気前はいいかもしれないが、そんなことをしていれば江戸後期にはロンドンと並ぶ世界最大の都市など、とても構築できやしないのは自明のことだろう。
 文中で盛んに「通(つう)」という言葉を多用しているけれど、著者の記述に反して(城)下町の地元ではマグロの赤身は食べるが、もちろん「中とろ」の脂身など口にしない。これは、わたしが子どものころまで残っていた頑固な習慣なので、1933年(昭和8)の当時ならなおさら厳格に、江戸東京の食文化や美意識として守られていたはずだ。現代では信じられないかもしれないが、マグロの脂身(いわゆるトロ)は棄てるかネコ用のエサだった。ネコのエサを食う「通」など、かつて見たことも聞いたこともないが、親父は頑なに口に入れなかったものの、わたしは近ごろ口にするので、おそらく「通」ではないのだろう。
 つづいて、蕎麦について書いている箇所を同書より引用してみよう。
  
 そばも亦東京に限る。「そばは信州」と云はれ、現に軽井沢駅プラツトホームの一名物でもあるが、あの熱気舌を焼く美味さは夏なほ寒き彼地の気候の然らしめる所の美味さであつて、ほんたうのうまさとは云へまい。「そばは信州」とは、信州がそばの産地である謂であり、その食料としてのうまさは東京に勝るところはまづないと云つてよからう。そのそばももりに限る。厳冬猶冷たいもりに限る。(中略) もつともこれは手打ちのそばのことで機械うちだとうまくゆかない。
  
 著者は、蕎麦Click!は「東京に限る」「東京に勝るところはまづない」などと書いているけれど、そんなことはない。w 江戸東京蕎麦の故郷である信州の蕎麦はもちろん、野趣あふれる香ばしい太めの南部(岩手)蕎麦、こちらでは味わえない独特な風味の山陰(特に出雲)蕎麦など、それぞれに独自の味わいや趣きがあって美味しい。著者の感覚は、妙なところで無理やり「東京人」を気どっていて、キザ(気障り)で嫌味で不愉快だ。
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 ちょっと余談だが、最近「手打ち蕎麦」と銘打つ蕎麦屋があちこちにでき、期待して入るのだけれどガッカリするケースが多い。「腰がある」蕎麦を「硬い」蕎麦と勘ちがいしているのだろうか、もぐもぐグチャグチャClick!と汚らしく何度も噛まなければ、のどを通らないような蕎麦を「手打ち蕎麦」だと思っているフシさえ見える。そのようなおかしな店は、(城)下町よりも乃手のほうが多いのが現状だろうか。
 そのほか、「う」Click!や天ぷら、鍋料理、鳥料理などなど、江戸東京の食べ物をずいぶん羅列していろいろ書いているのだけれど、前述のように「鍋」料理と「すき焼き」料理の区別さえつかない点や、深川の生簀料理で出た余り魚から派生した、江戸期由来の“おでん”がリストにさえないなど、どこかで地元の感覚との大きなズレを感じるのだ。
 キリがないので、最後に天ぷらについて同書から引用してみよう。
  
 天ぷらは何と云つてもエビに止めを差す。前の独逸大使ゾルフさんが推賞したのも、チヤツプリンが感嘆の余り大切なステツキを折つたのもこのエビの天ぷらであつたと云ふ。エビの最上は東京湾一帯の車エビ、それも三寸五分から四寸の大さのもので、目方は六匁乃至八匁のもの、(中略) 衣のとき工合、つけ方、火加減、油の煮え工合、それから揚げ方に至つては、これも亦曰く言ひ難しで、中々の修練が必要であることは勿論である。
  
 エビの天ぷらをものすごく称揚しているけれど、太平洋へ口を開けて新鮮な、ありとあらゆる魚がふんだんに手に入る江戸前の天ぷらといえば、エビなどよりもまずキスやサヨリ、マハゼなどの活きのいい白身魚か、アナゴが挙げられるのではなかろうか。欧米人が好きだからといって、地元でも食の優先順位が高いとは限らない。
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 天ぷら=エビがことさら“高級”で“重視”されるようになったのは、わたしの認識によれば戦後のことであって、著者が書く時代の江戸東京の地元では、“魚”ではないエビのプライオリティはもっと低かったはずだ。芝沖で採れた、細かな芝エビを混ぜたかき揚げ天なら、もう少し人気があって順位が上かもしれないが……。
 そのほか洋食屋やベーカリー、水菓子屋Click!(フルーツ店)、菓子屋(喫茶店)などの紹介や捉え方もなんとなくチグハグで違和感をおぼえる。少なくともわたしの感覚からすると、「大東京の味覚」の味覚は少なからず、おかしいとこだらけのように映るのだ。

◆写真上:いまのところ近所の「う」では、気に入っている高田馬場「愛川」Click!。店主の体調がすぐれないのか、ずいぶん前から予約を入れないとなかなか食べられない。
◆写真中上:以下、ざっかけない東京の“うまいもん”。からへ寿司、明治以降は牛肉も加わる日本橋の鴨すき焼き、牛すき焼きと混同される先に汁を張った牛鍋、江戸期からアオジシ(ニホンカモシカ)とともに大江戸ではおなじみのシシ鍋=“ももんじ”Click!
◆写真中下からへ小腹満たしに最適な蕎麦、深川生まれのおでん、同じく柳川、明治期に早稲田の学生街で生まれた和洋のカツ丼Click!。ちなみに、おでんの具に魚介類の微妙な風味のちがいを台なしにする、獣肉を入れるのは絶対に許せない。
◆写真下からサツマイモClick!以外ならたいがい好きな天ぷら、江戸期からの吉原通いに人気があった蹴とばし屋の桜鍋、同じく江戸下谷(上野)のケコロ(岡場所)通いから生まれたやき鳥Click!。おまけのデザートは、滝沢馬琴の超ヲタクぶりで知られる向島は長命寺仕様の、大江戸はオオシマザクラの葉をつかった元祖桜餅Click!

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の落合散歩。

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 わたしが、初めてラフカディオ・ハーン(小泉八雲Click!)の原文に接したのは、中学2年生のときだった。当時、英語の授業に使われていた教科書『New prince readers』(開隆堂)に、ハーンの『YUKI-ONNA』Click!が収録されていたからだ。
 考えてみれば、わたしと“出雲”とのつながりは、江戸東京総鎮守のオオクニヌシは別格にしても、おもに松江や出雲のフォークロアの語りべである妻の小泉セツから採集した、ハーンの『KWAIDAN(怪談)』が最初だったかもしれない。その後も、地域の総鎮守が出雲神のクシナダヒメを奉る氷川明神社Click!の下落合に住んだり、その目白崖線から出土した出雲の碧玉勾玉Click!を偶然にも譲り受けてお守りペンダントにするなど、なぜか代々が江戸東京地方のわたしと出雲地方Click!との因縁は限りなく濃い。
 中学校の英語授業で『YUKI-ONNA』を習ったとき、最後にユキが正体を現して、般若のような顔をした雪女へと変貌する際、「It was I-I-I……」といって天井までとどくような高さで浮遊するシーンは、その挿画とともにいまでも強烈な印象に残っている。(誰の挿画だったのだろうか?) このころから、おそらく文楽のガブClick!好きに加え、わたしはハーンの雪女好きになったのだろう。当時、大好きでとても気の合う女子が、わたしの真うしろの席にいて、なにかあると「It was I-I-I……」といっては、ふたりでじゃれ合い笑い転げていた。彼女はわたしとちがって、学校のお勉強がメチャクチャできたので屈指の進学高校に合格し、おそらく東大にでも進んでいるのだろう。
 さて、『YUKI-ONNA』の著者であるラフカディオ・ハーン(小泉八雲Click!)は晩年、いまわたしのいる下落合からわずか2.5kmほど南に下がった、大久保村西大久保265番地に住んでいた。同地番の家に転居してきたのは、1902年(明治35)3月のことで、それから死去する1904年(明治37)9月26日までそこで暮らしている。それ以前は、同じ新宿区内の市谷富久町21番地に、1896年(明治29)9月から1902年(明治35)3月まで住んでいた。現在、大久保小学校の西側に「小泉八雲記念公園」が開園しているが、同公園は西大久保265番地の小泉邸跡ではなく、小泉邸から北へ70mほど離れた西大久保245~246番地あたりに設置されているとみられる。西大久保265番地は、明治期から大久保尋常小学校の南側に接する敷地の地番だ。
 小泉八雲が落合地域を歩いたのは、西大久保265番地の自宅から新井薬師Click!へ詣でるのが、晩年の散歩コースのひとつになっていたからだ。セツ夫人を同伴したと思われる散歩は、直線距離でさえ片道4kmほどもあるが、明治人にとってはさほどの距離には感じなかったのだろう。落合地域から上野の東京美術学校Click!や谷中の太平洋画会研究所Click!まで、平気で歩いていくような時代だった。夏目漱石Click!でさえ、牛込の喜久井町から中央線沿いの寺田寅彦Click!が住んでいた百人町まで、頻繁に散歩をしている。
 そのときの様子を、2014年(平成26)に講談社から出版された小泉凡『怪談四代記―八雲のいたずら―』(講談社文庫版)から引用してみよう。
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 ハーンはセツと一緒に散歩をして新井薬師あたりまで出かけた時、落合の火葬場の煙突が見えると、自分も間もなくあそこから煙になって出るのだと語っていた。そして垣の破れ草が生い茂った小さな破れ寺への埋葬を心から願う人だった。/幸いこの発作は、大事には至らなかった。行水をしたいといって、風呂場で水行水をし、さらにウィスキーが飲みたいと言うので、心配しつつもセツは水割りをつくり、グラスを手渡した。アイリッシュのハーンにとってウィスキーはとても大切な飲み物だった。じっさい、アイルランド語ではウィスキーは「命の水」という意味である。
  
 心臓の悪い患者が、水を浴びてウィスキーをひっかけるなど、今日の医者が聞いたら目をむきそうな行為だが、それが八雲にとっては心が安らいでリラックスでき、落ち着きをとりもどせる最善の療法だったのだろう。
 散歩の途中、新井薬師までの道程で落合火葬場Click!(現・落合斎場Click!)の煙突を見ていることから、小泉八雲の散歩コースがおよそ透けて見える。まず、西大久保の自邸を出た八雲夫妻は、邸前にあった大久保小学校の西側接道を北上すると、大久保通りを左折した。そして、そのまま通りを西へと歩き、およそ10年後に設置される百人町駅Click!(現・新大久保駅)あたりから山手線を越え、百人町へと出た。当時は、いまだ江戸期の御家人たち(鉄砲組百人隊)が栽培していた名残りである、大久保のツツジ園Click!があちこちに見られる風情だったろう。
 百人町の整然とした南北道の1本を真北へ抜けると、山手線西側の戸山ヶ原Click!(当時は山手線東側の射撃場に対して着弾地Click!と呼ばれていた)に突き当たるが、陸軍科学研究所Click!や陸軍技術本部がいまだ移転してきていない当時、戸山ヶ原へ入り斜めに横断するのは、たやすいことだったにちがいない。
 山手線の西側で陸軍が射撃演習Click!をする日は、周辺の住民や子どもたちが散歩や遊びで入りこまないよう、そのつど高い旗竿に赤旗が掲げられていた時代だ。その赤旗Click!の有無を確かめながら、八雲夫妻は戸山ヶ原を百人町から小滝橋Click!の近くまで、斜めに突っ切るように歩いていった。のちの第1次世界大戦がはじまる10年以上前の時代なので、陸軍の塹壕戦演習Click!もいまだ大規模には行われておらず、戸山ヶ原の丘陵面は掘り返された跡もなく、八雲夫妻は歩きやすかったにちがいない。
西大久保地形図1910.jpg
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 やがて、戸山ヶ原の高圧鉄塔がつづく北西端から小滝橋通りへと出ると、できたばかりの豊多摩病院Click!の建物を目前に、牛がのんびり草をはむゲルンジー牧場Click!を左手に見ながら、ほどなく小滝橋を渡って上高田へと向かう街道(現・早稲田通り)へと入った。街道の左手には、華洲園Click!(お花畑)の切り立った崖地(小滝台Click!)があり、右手にはいまだ拡幅で崩されていない上落合の土手がつづく、切り通しClick!のような風情だったろう。それを北へカーブした道なりに西へたどると、途中で街道の右手に落合富士Click!が築かれた大塚浅間社Click!の境内をすぎるころから、上落合897番地にある落合火葬場の煙突が見えはじめたと思われる。
 しばらく歩いて、上落合643番地界隈の角を右折すると、落合火葬場が目の前に迫ってくる。火葬場を右手に見て、そのまま街道を西北西へとたどると、すぐに宝仙寺(通称・宝仙禅寺のことで、のち1922年以降は萬昌院功運寺Click!となる境内一帯)の門前へと出た。八雲夫妻は休憩がてら、宝仙禅寺の境内へ入り方丈に立ち寄っただろうか。
 宝仙禅寺をすぎると、すぐに街道は二股に分かれている。その左手の道を進むと、商店や人家が並ぶ上高田でもいちばんにぎやかな通りを経て、およそ800mほどで新井薬師の参道へ到着する。おそらく、八雲夫妻は新井薬師の門前に並ぶ茶屋で、ゆっくり休息をとっただろう。夏目漱石(三四郎Click!)は、“冒険心”を起こして帰り道を変え、新井薬師から上落合を抜けて道に迷い、下落合の雑司ヶ谷道Click!を歩きながらようやく山手線の線路土手までたどり着いているが、八雲夫妻は往路とまったく同じ道筋を帰途につき、迷わず確実に西大久保の自邸へ帰りついたと思われる。
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 もし、八雲夫妻が上高田の街道沿いにあった茶店で一服していれば、あるいは宝仙禅寺で休憩がてら住職と話をする機会があったとすれば、上高田は狐狸Click!幽霊Click!の怪談・奇譚が豊富に語り継がれている地域なので、さっそく採取したのかもしれない。そして、もう少し八雲が長生きしていたら、『KWAIDAN2』が編纂されていただろうか。上高田地域に眠るフォークロア、怪談・奇譚が中野区教育委員会の手で本格的に採取されはじめたのは、八雲の死後から80年ほどたった1980年代後半になってからのことだ。

◆写真上:西大久保265番地(現・大久保1丁目)にある、小泉八雲旧居跡の記念碑。
◆写真中上は、1904年(明治37)に米国で出版された『KEAIDAN』(Houghton, Mifflin & Co./)とラフスディオ・ハーン(小泉八雲/)。中左は、1776年(安永4)に描かれた鳥山石燕『図画百鬼夜行』の「雪女」。中右は、2014年(平成26)に講談社から出版された小泉凡『怪談四代記―八雲のいたずら―』(文庫版)。は、いまでも「雪女」を演じて歴代最恐だと思う『怪談雪女郎』(大映/1968年)の藤村志保。
◆写真中下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる小泉八雲・セツ夫妻の落合地域における想定散歩コース。は、梅照院(新井薬師)の山門。
◆写真下:小泉八雲が愛してやまなかった、1970年代半ばに撮影の松江の街並み。は、小泉八雲の旧居に連なる松江城北側の北堀町武家屋敷街。は、7代目藩主・松平不昧が通った茶室・明々庵から眺めた松江城の天守。は、旧盆に行われる大橋川の灯籠流し。松江大橋南詰めあたりからの撮影で、前方の橋が新しい宍道湖大橋。

おまけ:竹田助雄の「落合新聞」Click!『御禁止山』Click!を読んでいると、「下落合のヒグラシ」が頻繁に登場する。その鳴き声は、静寂な風情が感じられて好きのだけれど、夜明けから家の近くで鳴かれるととってもうるさい。w

旧・吉屋信子邸が「撃墜王」の実家に。

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 今年(2017年)の5月11日、京都の洛中Click!西陣局から投函された5月5日付けの1枚のハガキを受けとった。京都から新宿まで、配達に6日もかかっているのは、宛て名書きの住所が曖昧だったからだ。「東京都新宿区下落合/下落合公園近く/落合道人〇〇〇〇様」、地番が書かれていないまるで大正時代に出された下落合住民あてのハガキのようだけれど、なんとか迷子にならず手もとにとどいた。w 差出人名が記されておらず、郵便局では下落合の配達先を一所懸命に探したものだろう。ちなみに、わたしの家は「下落合公園」Click!よりも、「おとめ山公園」Click!のほうがかなり近い。
 ハガキに記された内容は、戦時中に陸軍航空隊の調布基地に勤務していた、B29の迎撃パイロットに関する情報だった。それによれば、下落合4丁目2108番地(現・中井2丁目)にあった吉屋信子邸Click!(1926~1935年住)が、敗戦直後より元・陸軍航空隊飛行244戦隊の隊長・小林照彦少佐の実家(大川家)になっていたというものだった。同時に、その詳細を記した書籍として、1970年(昭和45)に養神書院から出版された小林千恵子『ひこうぐも』が紹介され、該当ページまでが記載されていた。
 さっそく、同書を入手して参照してみると、大川家は小林照彦の妻である著者の実家であることがわかり、しかも1945年(昭和20)4月13日夜半から翌朝にかけての第1次山手空襲Click!の際は、上落合の南側である東中野にあった実家で罹災していることも判明した。そして、B29を迎撃(小林照彦日記では「邀撃(ようげき)」)していた飛行第244戦隊の空戦の様子も詳しく知ることができた。10,000m近くの高々度で飛来するB29を迎え撃つため、小林照彦が操縦していたのは三式戦闘機、愛称で「飛燕」と呼ばれた陸軍の新鋭機だった。
 戦闘の様子を、小林千恵子『ひこうぐも』(光人社版)に収録された小林照彦日記より、1944年(昭和19)12月3日の記述から引用してみよう。
  
 敵機大規模に関東地区に侵入す。邀撃のため離陸せるも一撃の下に撃墜さる。発動機に受弾せるなり。/予備機に依り、離陸せるも、完全武装のため、高々度に上れず(七五〇〇メートル以上不能)、銚子沖合に待機せるも、敵を補足するに至らず。/本日四宮中尉以下、特別攻撃隊はがくれ隊員勇戦せり。B29に体当りののち、片翼よく帰還せる四宮中尉。正面衝突ののち、落下傘降下せる板垣伍長。B29の尾部を噛り不時着生還せる中野伍長。全員生還せり。愉快この上もなし。/部隊の戦果。撃墜六機、撃破二機なり。
  
 大きな図体のB29に、小鳥のような戦闘機が機銃弾を浴びせてもなかなか墜ちない。機銃弾を撃ち尽くすと、自身の機体をB29に体当たりさせて撃墜していた様子がわかる。パイロットは、機体をB29めがけて巧みに操縦すると、衝突の直前にコックピットからパラシュートで脱出していた。脱出するタイミングを誤ると、衝突に巻きこまれて生還できなくなる、きわどい賭けのような体当たり攻撃だった。
 以前、山手空襲の際に長崎町にある仲の湯Click!(のち久の湯)の釜場に落ちてきた、日本の迎撃戦闘機Click!について書いたことがあるが、機体にパイロットの姿はなかった。おそらく、上記の「はがくれ隊」のような“特攻”を試みて脱出したものだろう。ただし、この体当たり攻撃は効果が大きい反面、貴重な戦闘機を失う消耗戦でもあった。大本営が「本土決戦」を意識しはじめるとともに、戦闘機を温存するためB29への迎撃は抑えられるようになる。
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 戦闘機をまとめて戦隊で出撃させるのではなく、少数機の飛行隊ごとに出撃させる散発的な迎撃作戦をとるようになると、逆にB29に加え護衛の戦闘機隊(F6F・P51など)が増えるにつれ、多勢に無勢で戦果を上げにくくなっていった。小林照彦は戦闘の現場を知らない司令部の命令に、強い怒りをぶつけている。
  
 昨日の戦斗に於て損害大、戦果僅少なりし所以のものは、部隊戦斗に徹せざりしに依る。少くとも戦隊は、纏りて上り、纏りて戦斗すべきなり。各飛行隊ごとに出動せしめたるは、対戦戦斗の真骨頂を知らざる愚劣極まる指揮たり。師団の戦斗指導の拙劣なりしこと、論外なり。B29に対する邀撃と特色全く異なるを以て、南方に於ける戦訓を活かし、戦隊は常に纏りて、戦斗し得る如く戦斗指導すべきなり。
  
 1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲のとき、著者の小林千恵子は東中野にある実家に身を寄せていた。夫の小林照彦は、前日の4月12日に敵機と交戦して撃墜され、右足に盲貫創を受けて13日夜半の空襲では出撃できなかった。同日の空襲の様子を、同書の小林千恵子の文章から引用してみよう。
  
 妹は、ときどき(防空壕の)入口の戸を開けて父を呼んだ。そのうち、高射砲の音がし始めた。敵機がいよいよ来襲してきたらしい。やがて下腹に響く爆音で、大編隊の来襲と壕の中でも知られた。/「お父さん、危ないから早く中に入って、……早く」/妹と私は、夢中で叫んだ。もうすでに、爆音だけとは見えない投下弾のすさまじい響きが、地面を震わせていた。父がやっと、壕に飛び込んで、入口の戸を締めた瞬間だった。頭上で、/「ばばーん」/と、耳をつんざく大音響がした。同時に、あちこちから、/「焼夷弾落下! 焼夷弾落下!」/狂ったような叫び声が揚がった。人々が壕から飛び出したらしい。/「落ちた! 焼夷弾が落ちた!」/父が、いち早く壕から飛び出した。続いて妹と私が。(カッコ内引用者註)
  
 小林千恵子は、空襲を「四月十五日」と書いているが、4月13日夜から4月14日未明の記憶ちがいだろう。この日、東中野Click!は焦土となり彼女の実家も焼け落ちた。
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 翌朝、東中野から中央線で新宿に向かうと、大久保から先は爆撃の被害で不通になっており、一家は父親の会社がある新宿まで歩くことになった。その途中で、調布の244戦隊マークをつけた軍服を着る士官たちと出会う。兵士を率いていたのは、同隊の家族が多く住む東中野の様子を視察しにきた、整備隊に勤務する芥川比呂志Click!少尉だった。
 1ヶ月あまりののち、5月25日夜半の第2次山手空襲Click!のとき、小林照彦は調布基地から鹿児島の知覧基地へと移り、すでに東京の空には不在だった。同日に「義号作戦」が発動され、知覧から飛び立つ特攻隊を護衛するのが彼の任務となっていた。搭乗機も、三式戦(飛燕)から五式戦(愛称なし)へと変わっている。このあと、小林夫妻は運よく8月15日まで生きのび、やがて東京へともどってくることになる。
 下落合が登場するのは、小林千恵子の実家である市川と東中野の家が焼けてから、新しい住まいを探して移るあたりからだ。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 (1946年)八月に入ると、夫は真剣に就職口を探し始めた。家の経済もいよいよ底が見えてきたからでもある。私は、/「お父さまにお願いしてみたら」/と、何度か夫をうながした。父は下落合の高台に家具付きの家をみつけて移っていた。作家の吉屋信子女史の建てた家だそうで、市川の家とはおよそ対照的な洋風の家だった。(カッコ内引用者註)
  
 下落合(4丁目)2108番地に建っていた旧・吉屋信子邸Click!は、かわいいテラスのあるバンガロー風で平屋造りの洋館だったが、二度にわたる山手空襲からも焼け残っていた。彼女が1935年(昭和10)に転居したあと、何度か手が加えられているのかもしれないが、空中写真を年代順に参照する限りは、もと屋根のかたちをしているように見える。
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 さて、戦時中に調布基地にいた飛行第244戦隊の小林照彦を取材し、東京朝日新聞に記事を書いていたのは、同紙の矢田喜美雄Click!記者だった。矢田記者もまた、戦後になると下山定則国鉄総裁の謀殺説を追って、南原繁Click!を中心とした「下山事件研究会」のメンバーが住む下落合へと通ってくることになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:調布基地への爆撃で吹き飛ばされたとみられる、調布飛行場の三式戦闘機(飛燕)。敗戦直後の撮影と思われ、付近の子どもが翼に乗って遊んでいる。
◆写真中上は、B29迎撃の「飛燕」を主軸とした飛行戦隊。は、機体に撃墜マークが描かれた小林照彦機。B29と飛燕が重なるマークは、体当たり攻撃による撃墜を意味する。下左は、1970年(昭和45)出版の小林千恵子『ひこうぐも』(光人社版)。下右は、1945年(昭和20)1月27日の体当たり攻撃で鼻を負傷した小林照彦。
◆写真中下は、調布飛行場で撮影された飛行244戦隊の記念写真で印が小林照彦。は、高々度で飛来するB29の迎撃戦闘機として多用された三式戦闘機(飛燕)。は、1944年(昭和19)の空中写真にみる陸軍の調布飛行場。
◆写真下は、1929年(昭和4)に撮影された吉屋信子邸。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・吉屋信子邸。は、1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」にみる小林千恵子の実家である大川邸。作家・船山馨邸Click!の3軒南隣り、髙島秀之様Click!の2軒南隣りにあたる。

近衛文麿への盗聴工作を終えたら敗戦に。

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 吉田茂Click!を中心とする、大磯Click!「ヨハンセングループ」Click!の辛工作(スパイ潜入)を終えた東輝次は、次に「コーゲン」こと近衛文麿Click!へのスパイ工作の任務についている。すでに東京は焼け野原であり、戸山ヶ原にあった兵務局分室(ヤマ)Click!も1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で焼け、乙工作(電話盗聴)も辛工作も不可能な状況になっていた。
 そこで、近衛文麿Click!には丁工作(盗聴マイク設置)が選ばれている。だが、近衛文麿は杉並の荻外荘Click!に落ち着かず、各地を転々とするような生活をしていた。天皇へ「敗戦必至」の「近衛上奏文」を提出して以来、陸軍の本土決戦を叫ぶ青年将校たちから、生命をねらわれていると考えていたからだ。東輝次が吉田茂邸へ潜入していた時期に、何度か「上奏文」の打ち合わせで大磯にもやってきていた。
 兵務局分室では、近衛文麿はおもに荻外荘Click!と軽井沢の別荘Click!、そして箱根の麓にある桜井兵五郎の別荘「缶南荘」を往来していることをつかんだ。この時期、下落合(1丁目)436番地(現・下落合3丁目)の近衛邸Click!は空襲で焼失している。そこで、もっとも居住する機会が多いとみられる、箱根の「缶南荘」へ盗聴マイクをしかけることに決めた。近衛の電話を通じて、“反戦和平運動”の動向をつかもうとするもので、1945年(昭和20)6月ごろに具体的な計画が立案されている。
 7月に入ると、神奈川県中郡大根村(現・秦野市)の鶴巻温泉にある旅館「大和屋」に、スパイ工作のベースアジトが設けられ、東輝次は「秘密兵器試験隊」の名目で一員として参加していた。さらに、前線の工作アジトとしては、箱根登山鉄道の箱根湯本駅前にある橋をわたった陸軍病院(現・湯本富士屋ホテル)に設置された。戦争も末期になると、箱根の陸軍病院ばかりでなく箱根にあるほとんどの旅館は、戦地から送還された傷病兵で超満員の状況だった。
 湯本の陸軍病院の1室に、「秘密兵器」の材料と称して盗聴に必要な機材や通信線などが運びこまれると、東輝次を含む3名の工作員は活動を開始した。小田原市入生田の山中にある「缶南荘」へ、山麓から延々と盗聴用の通信線を埋設し、近衛文麿が利用しているとみられる居室の縁の下まで引いていく計画だった。すでに缶南荘へは砂糖やバター、食油などを売りに、工作員のA曹長が「便利屋」として台所から接触し、2棟ある別荘内のおおよそ部屋数や見取図を作成していた。
 1945年(昭和20)7月10日の深夜0時すぎに、3人の工作員は箱根湯本駅前の陸軍病院を抜け出すと、吊り橋の三枚橋をわたり、国道1号線を小田急線の入生田駅方面へと下りはじめた。3人がかたまって歩くと目立つので、バラバラになって国道を下り、入生田の集落手前にある牛頭天王社の境内を集合場所と決めていた。以下、2001年(平成13)に光人社から出版された東輝次『私は吉田茂のスパイだった』から引用してみよう。
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 前を行く者も、道をはずれたのであろう。ザラザラ葉ずれの音は、もう闇の中に吸われて聞こえて来ない。ジイジイとなく声の音が気味わるい。落葉の中に燐が星のように光っている。/神社脇に出ると、杉の林もまばらになる。かすかながらも光がさし込んで来る。そこまで最初に来た者が、口笛を吹く。他の者はそれを聞きつけて寄って行く。ここで集合を完了するのである。/三人は携行品を点検して、中腹のこの神社前を国道に沿って進むと、前方に水の音が聞こえてくる。これが工作の起点になる貯水地である。/貯水池は三坪あまりの小さいものである。そこから送水管が二本、国道脇にあるポンプ場に送り込まれている。/その送水管の下から、工事をはじめるのである。(中略)軍用電線の端末を二十メートルばかり残して一ヵ所に埋め、それから缶南荘に向かって埋め進めていく。一人が円匙で方向を決め、土を左右に分ける。次が十字鍬でその中を浚える。次が電線を埋めて土をかむせ、その上に落葉や草を植えて行く。これはまったく手の感覚だけではなく、全神経の集中をしなければできない。
  
 貯水池の脇から外灯のまったくない暗闇の山中を、手探りで泥だらけになりながら円匙(スコップ)を手に通信線を埋設していく、気の遠くなるような作業だった。ポンプ小屋の近くからスタートしたのは、同設備から盗聴機器の電源をとる計画だったのだろう。午前5時になると、周辺が明るくなる夏季のため撤収しなければならず、実質ひと晩に5時間弱の作業しかできなかった。この小さな貯水池から、近衛文麿が滞在する「缶南荘」まで約300mもの距離があった。
 通信線の敷設は、缶南荘の周囲をめぐらす1mほどの石垣にはばまれ、その下を突破するのにひと晩かかっている。南西へと拡がる広い芝庭の石垣沿いに、通信線は缶南荘の北側斜面を大きく迂回して、建物の北東側から屋敷の縁の下へ引き入れることにした。芝庭へ入りこむのを避けたのは、番犬に獰猛なシェパードが飼われていたからだ。シェパードは、夜中に東輝次たちの気配を嗅ぎつけると狂ったように吠えたが、彼らは番犬対策に陸軍科学研究所から特別な薬品をもらっていた。以下、同書からつづけて引用してみよう。
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 われわれは戦場における匍匐(ほふく)前進と変わることなき全身をしなければならなかった。匍ったままにて、同じように線を埋めていった。/この芝生に入る日になると、A曹長はかならず訪問して、犬小屋に薬品をふりかけた。それは理科学研究所にて作った一種の媚薬にて、その薬品の臭いをかぐと、犬の生理に変調を来たして交尾期の状態になるのである。だから、いつもの警戒心もなく、邸の外に飛び回るのである。それでないと、われわれは、その芝生に近寄れないのである。/缶南荘の本家は、二棟からできており、渡り廊下にてつながっていた。「コーゲン」の居室は、その裏の方の一棟にて二間からできていた。そして建物は普通の日本家屋のそれではなく、鎌倉時代の神社仏閣のように縁が高くできていた。しかし、それに入る口を見つけねばならない。/一日、その縁の下を逼い回った。なかなか見つからなかった。(中略) 案の定、渡り廊下の下付近にがんどう返し式の出入り口を発見したのである。
  
 東輝次は「理科学研究所」と書いているが、イヌの媚薬を製造したのは陸軍科学研究所の登戸研究所で、「番犬防御法」を開発していた研究チームだ。ソ連国境に配備されている、国境警備隊の番犬用に開発された「警戒犬突破」用の「発情法」薬だった。
 ようやく、缶南荘にいる近衛文麿の居室の縁の下までたどりついた3人だが、使用した通信線は400mに達していた。縁の下には7月27日に到達しているので、工作開始から実に17日間もかかっている。1946年(昭和21)に撮影された空中写真を見ると、缶南荘の前には大きな谷戸が口を開けており、そこへ通信線をわたして山の中腹に建つ缶南荘までたどり着くのは、容易なことではなかっただろう。真鍮パイプの中に通信線を通し、渓流をふたつも越えなければならなかった。翌7月28日、近衛が滞在する二間を分ける敷居の下に支柱となる木材をかませ、マイクロフォンの設置を終えている。
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 こうして、小さな貯水池のそばにある番小屋へ受信装置を設置し、近衛文麿が現れるのを待ちかまえた。だが、近衛は8月14日まで一度も缶南荘に姿を見せなかった。この日の夜、東輝次たちは早くも敗戦を知り、虚しさを抱きながら翌15日の朝、急いで東京へともどると新宿の伊勢丹前で天皇のラジオ放送を聞いている。そして、ただちに戸山ヶ原にある兵務局の代用分室となった厩舎にもどると、膨大な機密工作の書類を焼却しはじめた。炎暑の中、すべての書類を灰にするまで丸4日もかかっている。

◆写真上:戸山ヶ原の兵務局分室があったあたり(左手)の現状で、右側の浅い穴は敗戦直後に防疫研究室(731部隊本拠地)による人骨埋設証言の発掘調査跡。
◆写真中上は、いまも残る近衛騎兵連隊の馬場と兵務局分室の間に遮蔽目的で築かれた土塁。は、国立国際医療センター(旧・陸軍第一衛戍病院)の上階から撮影した大久保通り沿いの兵務局防衛課跡(矢印の集合住宅あたり)で、向かいのビルは総務省統計局。
◆写真中下は、1946年(昭和21)撮影の空中写真にみる箱根湯本駅前の旧・陸軍病院全景。下左は、1944年(昭和19)に撮影された軍人に見えない長髪の東輝次。下右は、いまも残る貯水池と箱根登山鉄道まで下る2本の送水パイプ。
◆写真下上左は、荻外荘応接室の近衛文麿。上右は、桜井兵五郎。は、1946年(昭和21)の空中写真に貯水池から缶南荘までの通信線を埋設した想定ルート。


下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(1)

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 これまで、さまざまな画家たちによる「下落合風景」Click!をご紹介してきたが、大正中期に下落合(現・中落合/中井含む)を描いた風景画は、下落合に実家があった小島善太郎Click!による大正初期からの諸作品Click!や、中村彝Click!によるアトリエ周辺の風景作品Click!大倉山Click!の北側斜面にあった森田亀之助Click!邸をおそらく渡仏直前に訪問したとみられる里見勝蔵Click!作品Click!、そして下落合に下宿していた鬼頭鍋三郎Click!初期作品Click!などを含め、たいへんめずらしい。いずれも大正末から松下春雄Click!佐伯祐三Click!笠原吉太郎Click!林武Click!二瓶等Click!など数多くの画家たちによる「下落合風景」の連作Click!がブームになる、少し前の作品群だ。
 今回ご紹介するのは、おそらく中村彝アトリエClick!へ立ち寄った際に描いたとみられる、1922年(大正11)に制作された清水多嘉示Click!の『下落合風景』だ。中村彝生誕130年記念会でお会いできた清水多嘉示のお嬢様・青山敏子様Click!から、さっそく画像をお送りいただいたので描画場所を特定してみたい。わたしは画面を一見して、この風景が下落合のどこを描いたものかが、すぐにわかった。このような風景が見られた可能性のあるポイントは、1922年(大正11)現在の下落合には2ヶ所しか存在しない。
 画面には、1922年(大正11)という時期にもかかわらず住宅が1軒も描かれていない。だが、まるで切り通しのようなV字型の狭い谷間ないしは坂道が、中央から右下に向かって下っている。崖地に表現された関東ロームの地層が見える右手の丘上近くは、木々が繁ってはおらず拓けた空間が拡がっているのがわかる。また、画面の左手から右手にかけては大きめな丘(山)が描かれ、遠方の木々の描き方を想定すると、かなり規模の大きな丘(山)であることがわかる。なぜこの風景が、下落合で見られた2ヶ所のポイントに絞られるのかといえば、イーゼルをすえている画家の立ち位置(視点)からだ。
 射しこむ陽光は画家の背後右手なので、その方角が南面なのは判然としている。つまり、この谷間ないしは切り通しは、丘上から南に向けて口を開けていることになる。そして、描かれたふたつの丘は、南へ向いた斜面を形成しているのも明らかだが、清水多嘉示はその南斜面を麓からではなく、再び地形が隆起しているかなり高い位置から写生していることになる。すなわち、左手の大きな丘(山)の南側に、谷間をはさんでもうひとつ小高い丘がある地形であり、その丘は少なくとも手前に描かれた木々の頂部よりも高い位置ということになるのだ。さらに画面の左下には、必然的に西側へと切れこんだ谷間ないしは窪みがあるということになる。
 以上のような地形把握を踏まえるならば、このような風景は林泉園Click!から流れ下った渓流沿いにある御留山Click!と、のちに近衛町Click!と呼ばれる丘の間の急峻なV字型渓谷か、西坂の徳川邸Click!が建つ斜面から眺めた、青柳ヶ原Click!諏訪谷Click!からつづく渓谷の2ヶ所しか存在しない。だが、のちに国際聖母病院Click!などが建設される青柳ヶ原の丘は、南へ向けて徐々に傾斜していく舌状のなだらかな丘であり、画面左手から右手にかけて描かれたようなこんもりと隆起した丘ではない。
 また、右手の谷間が諏訪谷つづきの渓谷だとすると、大正中期ともなれば右手の崖地上にはいくつかの住宅が建設されていたはずだ。しかも、西坂・徳川邸のバラ園を諏訪谷の出口を背景に眺めた情景は、松下春雄が1926年(大正15)に制作した『徳川別邸内』Click!で見ることができるが、谷全体の幅がかなり広めに口を開け、このような空間感ではない。したがって、この画面の風景は前者、すなわち林泉園の谷戸から南へと流れ下る、御留山の西側に接したV字型渓谷ということになる。
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 清水多嘉示は、中村彝アトリエを訪問した際、付近の風景を写生するために画道具を持ちながら、アトリエの南側に口を開けた林泉園の谷戸へと下りていった。東西に細長い池沿いにつづく小道を東へたどっていくと、やがて旧・近衛篤麿邸Click!跡と相馬猛胤邸Click!との間に架かる橋のあたりで、渓谷は南へと直角に曲がり、彼はさらに谷底の渓流沿いを南へと歩いていった。やがて、御留山の南北の谷戸と東西の谷戸とが合流する向こう側(南側)に、藤稲荷社Click!の境内がある小高い丘が見えてくる。
 清水多嘉示は、かなり急な北側の斜面を上って藤稲荷の境内に入ると、本殿裏の木々がまばらな丘上に立ち四囲を見まわした。彼の南側には新宿方面の眺望が開け、北側に目を向けるといましがたまで歩いてきた狭いV字型の渓谷と、相馬邸の敷地である御留山東端の丘が左手(西側)からせり出している光景とが、眼前に展開していたにちがいない。ちなみに、清水多嘉示が画題を探しながら歩いたコースは、明治末に林泉園(当時は近衛家が設置した「落合遊園地」と呼ばれていた)から、藤稲荷のある丘上へとたどった若山牧水Click!の郊外散策コースとまったく同じだ。
 1922年(大正11)という時期は、東京土地住宅Click!による近衛町Click!の開発がスタートしたばかりであり、崖地のある右手の丘上には、すでに三間道路を敷設する工事は始まっていたかもしれないが、いまだ近衛町ならではのオシャレな住宅群Click!は1軒も建設されていない。画面右の丘上に見える、木々が見えない空き地状の空間は、解体された近衛篤麿邸の西端敷地だと思われる。もう少し視点が高ければ、旧・近衛邸の塀の一部が見えたはずだ。のちの近衛町でいえば、木々のない丘上のあたりには酒井邸Click!岡田邸Click!(のち安井曾太郎アトリエClick!)、藤田邸Click!などが建設されるあたりということになる。また、もう少しイーゼルの位置が右手(東側)に寄っていたら、近衛家の敷地と相馬家の敷地との境界、すなわち林泉園からつづく渓谷に架かる小さな橋が見えたかもしれない。
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 近衛町西端の斜面が、まるで切り通しのように赤土がむき出しになった状態なのは、近衛町開発を推進する東京土地住宅が、のちの地形図などに描かれている擁壁を建設するために手を入れたものか、あるいは画面左手(西側)の御留山(相馬邸)のある丘の急斜面と同様に、土砂が崩れないよう土止めの柵を設けようとしていたものか、なんらかの整備工事中である可能性が高いように思える。ちなみに、ちょうどこの谷間に面した御留山側(相馬邸側)に設置された急斜面(というか崖地)の土止めは、酒井正義様が保存されている写真でハッキリと確認することができる。
 さて、現状の風景と重ねてみると、地形にかなりの変化がある。まず、いちばん大きな変化は、画面の左に描かれた丘(山)が大きく削られ、南北の三間道路が拓かれている点だ。現在では「おとめ山通り」と名づけられたこの坂は、1939年(昭和14)に相馬孟胤Click!が死去したあと、御留山の敷地を買収した東邦生命Click!が1943年(昭和18)ごろまでに敷設したものだ。また、残った丘の大部分も、東邦生命による宅地開発のために次々とひな壇状に均され、描かれているようなこんもりとした山状の風情はなくなってしまった。さらに、清水多嘉示がイーゼルを立てた藤稲荷社のある手前の丘も道路沿いをひな壇状に開発されて、現在では藤稲荷の社殿のある境内を除き、かなり削り取られた状態となっている。でも、戦後の竹田助雄Click!らが推進した「落合秘境」保存運動Click!により、画面右手の下に隠れている弁天池Click!の周辺と、画面左手(西側)へと入りこむ谷戸全体は、1969年(昭和44)に「おとめ山公園」として保存されることになった。
 決定的な地形改造は、戦後に行われたV字型渓谷の埋め立てだろう。東邦生命から土地を買収した大蔵省が、地下鉄丸ノ内線の工事で出た大量の土砂で、林泉園からつづくV字型渓谷のほぼ全域を埋め立て、その上に大蔵省の官舎(アパート)を建設している。したがって、画面の切り通しのような鋭い谷間は消滅し、左手の丘(山)の掘削とあいまって少し凹んだなだらかな斜面ぐらいの風情になってしまった。だが、建ち並んだ同省官舎の老朽化とともに、新宿区が財務省(旧・大蔵省)の敷地を全的に買収し、2014年(平成26)に「おとめ山公園」の大幅な拡張(1.7倍化)が実現している。現在、このV字型の渓谷跡は、雨水を浸透させて地下水脈を豊富にするための、広大な芝生斜面となっている。
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 清水多嘉示が描いた『下落合風景』は、1923年(大正12)の渡仏前に描かれているせいか、どこか草土社Click!岸田劉生Click!が描いた代々木の切り通しの風景画Click!か、我孫子に集った春陽会の画家たちClick!の作品を想起させるが、1928年(昭和3)の帰国後に描いたとみられる風景画の中にも、描画のタッチを大きく変えた下落合の風景とみられる画面が何点か確認できる。それらの作品を、またつれづれご紹介できればと考えている。

◆写真上:渡仏する前年、1922年(大正11)に制作された清水多嘉示『下落合風景』。
◆写真中上は、ちょうど『下落合風景』と同年に作成された1/3,000地形図にみる御留山の谷戸と描画ポイント。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同所。は、清水多嘉示がイーゼルをすえた藤稲荷社のある画面手前の小丘。
◆写真中下の2枚は、丸ノ内線の土砂で埋め立てられたV字型渓谷とその現状。おとめ山公園拡張時に、芝庭の造成工事の様子をとらえたもの。清水多嘉示の画面でいうと、左手に描かれた丘(山)の中腹から深い渓谷を覗きこんでいることになるが、本来の谷底は埋め立て土砂のはるか下だ。は、画面左手に描かれた丘(山)の急斜面に相馬邸が設置した土止め柵。(提供:酒井正義様) は、清水の画面左手の丘(山)を崩して東邦生命が敷設した現・おとめ山通り。通り左手には、弁天池へと落ちこむ急斜面が残る。
◆写真下は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機から撮影された御留山の谷戸。東邦生命による宅地開発が進み、清水の画面左手に描かれた丘には道路が貫通し、道路の両側はひな壇状に宅地が造成されているのが見える。は、清水の画面手前に描かれた西側へと切れこむ谷戸の入口。左手の小丘の上には、藤稲荷社の本殿屋根の千木や堅魚木が見えている。は、清水の画面では右下の木々に隠れて見えない弁天池。池の左手(西側)には、丘の麓にあたる急斜面がかろうじて残っている。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

三岸好太郎の遺作展芳名帳にみる人々。

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三岸アトリエ貝殻.JPG
 三岸好太郎・三岸節子夫妻Click!のお嬢様である陽子様Click!の長女・山本愛子様Click!より、アトリエを整理していたら「三岸好太郎遺作展」の芳名帳が見つかった旨、ご連絡をいただいた。さっそくお送りいただいた同展芳名帳のコピーに目を通すと、このサイトにかつて登場した画家や美術家たち、あるいは一時期の三岸夫妻Click!と同様に、落合地域とその周辺域にアトリエがあったお馴染みの画家たちや、美術関係者などの顔ぶれが27名ほど並んでいたので、さっそくご紹介してみたい。
 この「三岸好太郎遺作展」は、好太郎が31歳で急死した1934年(昭和9)7月の直後、完成した上鷺宮のアトリエClick!で同年11月に開かれた遺作展ではない。芳名帳に記載された来訪者の住所表記から、1947年(昭和22)3月に東京が22区(のち23区)になったあとに開催されたものだ。また、来訪者の居住地が東京とその周辺域に集中しているため、明らかに都内で開かれた遺作展に絞りこめる。1945年(昭和20)の敗戦ののち、「三岸好太郎遺作展」は何度か各地で開かれているが、東京地方だけを見ると以下の3回に限定できる。
 ●「三岸好太郎遺作展」1949年5月26日~6月1日…日本橋・北荘画廊
 ●「三岸好太郎遺作展」1950年3月7日~13日…日本橋・北荘画廊
 ●「三岸好太郎遺作小品展」1956年10月8日~14日…日本橋・三彩堂
 上記の展覧会の中で、芳名帳のタイトルから規定すると、おそらく日本橋の北荘画廊で開かれた1949年(昭和24)、ないしは翌1950年(昭和25)の遺作展の会場に置かれていたものではないかと思われる。
 ちなみに、日本橋の北荘画廊では、三岸好太郎遺作展に先だつ前年1948年(昭和23)11月に、下落合4丁目2096番地のアトリエClick!に住み同年6月に急死した松本竣介Click!の遺作展を開き、つづいて1949年(昭和24)6月には出征先の戦場で病没した靉光Click!の遺作展を開催している。まるで今日の中国洋画界のように、1945年(昭和20)8月まで発表の場を徹底的に奪われ、弾圧されつづけてきたシュールレアリストや前衛美術家たちの作品が、いっせいに注目を集めはじめた時期でもあった。
 当時の様子を、1992年(平成4)に求龍堂から出版された匠秀夫『三岸好太郎―昭和洋画史への序章―』から引用してみよう。
  
 敗戦後の民主化風潮の高まりとともに、日本美術会の結成(二一年)、その主催によるアンデパンダン展の開催、日本アヴァンギャルド美術クラブの結成(二二年)、読売新聞アンデパンダン展開催(二四年)、二科会前衛派九室会の再発足、山口薫、村井正誠、矢橋六郎の自由美術家協会からの分離、モダンアート協会の結成(二五年)等々、昭和一〇年代後半期に圧殺された前衛芸術の芽は一斉にほころびはじめる。/こうしたなかで、三岸は再び公衆の前にその姿を現す。昭和二五年三月(七~一四日)、日本橋・北荘画廊での遺作展がそれであり、<水盤のある風景><少年道化><乳首><蝶と裸婦><オーケストラ>等二五点が出陳された。三岸の復活である。
  
 さて、このような状況を背景に、三岸好太郎遺作展を訪れた人々の顔ぶれを見てみよう。ちなみに、芳名帳にはそうそうたる画家や美術関係者が名を連ねているが、ここでは拙サイトに登場している人物のみにスポットを当ててご紹介したい。
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藤川栄子(署名).jpg 中村忠二(署名).jpg
藤川栄子.jpg 伴敏子「忠二素描」.jpg
吉田兄弟&寺田政明(署名).jpg
吉田遠志1953.jpg 吉田穂高1948頃.jpg
 やはり真っ先に目についたのは、三岸節子の女性画家仲間では唯一の親友である藤川栄子Click!だ。大正末には、旧・神田上水(現・神田川)をはさみ下落合のすぐ南に隣接する、戸塚町上戸塚(宮田)397番地(現・高田馬場3丁目)に住んでいた三岸夫妻だが、このころからふたりは親しく交流していたと思われる。遺作展の案内状をもらった藤川栄子Click!は、さっそく戸塚3丁目866番地(現・高田馬場4丁目)のアトリエClick!から三岸節子のもとへ駆けつけているのだろう。
 当時、下落合にアトリエをかまえていた画家たちの名前も、チラホラ記載されている。まず、「米国に勝てるわけない」といいつづけていた洋画家の妻・伴敏子Click!に対し、戦争には絶対に勝つと敗戦間際まで大本営発表を信じつづけた中村忠二Click!の名前が見える。敗戦ののち、彼の内部ではどのような総括が行われたものだろうか、芳名帳の最初のページに名前があるので、三岸好太郎遺作展を待ちかねて来場しているように見える。コペルニクス的な転回を見せる敗戦後の美術界を前に、もう一度イチから出直しのつもりで“前衛表現”を学びに訪れたのかもしれない。妻・伴敏子の名前がないので、おそらくひとりで来場したのだろう。
 同遺作展の目録には、田近憲三が「三岸好太郎氏の遺作展によせて」という文章を寄せている。同書より、その一部分を孫引きしてみよう。
  
 世に鬼才を云うかぎり私達は故三岸好太郎氏に較べるべき才能を見出さない。この鬼才の制作とその慌しい逝去に対して、かつての画壇が久しく無関心でありえたとは何うした神経をゆぎさすものであらうか。三岸好太郎氏が逝いて一七年、その制作は、唯今となってはじめて知る芳烈な近代性に輝いている。それは作品の精神となり、香となって漂うている。しかもフォーヴからシュールレアリズムの運動にかけて、多くの作家が概念的にとらわれ、その形式に固着して、かたくなな渋滞を示したのに反して、同氏の制作と生涯は暗夜に彗星がよぎるにも似た爽快と奔放をあらわした。
  
寺田政明.jpg 吉岡憲.jpg
吉岡憲(署名).jpg 久保一雄(署名).jpg
久保一雄.jpg 高畠達四郎.jpg
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 下落合2丁目667番地の洋画家で版画家の吉田博アトリエClick!からは、目白文化協会Click!に参加していた吉田遠志Click!吉田穂高Click!の兄弟が、そろって芳名帳に記帳している。原精一Click!をはさみ兄弟ふたりが署名しているので、おそらく3人が連れ立って来場したものだろうか。同じページには、長崎アトリエ村の“桜ヶ丘パルテノン”Click!近く、長崎3丁目16番地に住んだ寺田政明Click!の名前も見える。この時期、寺田は自由美術家協会に属している。
 また、上落合1丁目(番地は不明)に住み、下落合の周辺や旧・神田上水沿いをスケッチしてまわる吉岡憲Click!も来場している。東中野の踏み切りで、中央線に飛びこんで自裁する6年前に当たり、ちょうど『目白風景』Click!をタブローに仕上げていたころだ。下落合の西隣り、妙正寺川に架かる北原橋西詰めの丘上(上高田422番地)にアトリエClick!をかまえていた、日展の耳野卯三郎Click!も同遺作展を訪れていた。
 さらに、下落合4丁目1995番地の川口軌外Click!アトリエに通いつづけた、洋画家で映画美術監督の久保一雄Click!も北荘画廊を訪問している。盟友の黒澤明Click!たちと、米軍(GHQ)の戦車や装甲車、航空機までが出動した東宝争議を闘ってから間もない時期で、1948年(昭和23)に独立美術協会Click!の会員になったばかりのころだ。ついでに、新樹会の画家・大河内信敬Click!も同遺作展を訪れているが、久保一雄の古巣である東宝から大河内の娘・桃子が、同展の4年後に映画デビューしている。もちろん、1954年(昭和29)に制作された『ゴジラ』Click!(本多猪四郎・円谷英二監督)のヒロイン・河内桃子だ。
 そして、拙サイトの記事に関連して登場している画家たちには、三岸好太郎らとともに結成した画会「麓人社」Click!つながりの倉田三郎Click!が、独立美術協会の関連では鈴木保徳Click!や高畠達四郎、野口彌太郎Click!が、そして自由美術家協会からは麻生三郎や鶴岡政男、難波田龍起Click!たちが遺作展を観にきている。
麻生三郎.jpg 鶴岡政男.jpg
麻生三郎(署名).jpg 森田元子(署名).jpg
森田元子.jpg 長谷川利行「四宮潤一氏」1936.jpg
ゴジラと河内桃子.jpg
 そのほか、このサイトに登場した人物には、美術評論家の江川和彦Click!や四宮潤一、三岸節子とは岡田三郎助の画塾時代からの知己で、美術をめざす女学生たちを前に「こんなところで勉強してちゃダメ」といって激怒させる女子美術大学の森田元子、プロレタリア美術の小林源太郎Click!、仏文学者の小松清Click!、そして日展(旧・帝展)では田村一男Click!小寺健吉Click!、鈴木栄三郎、鈴木千久馬Click!辻永Click!などが姿を見せている。このような顔ぶれに、大日本帝国の滅亡から新時代を迎えた美術界の、そして三岸好太郎の作品群を改めて見つめる彼らの眼差しから、いったいなにが読みとれるだろうか?

◆写真上:三岸アトリエに残る、シャコガイの一種とみられる大きな貝殻。
◆写真中上は、「三岸好太郎遺作展」芳名帳の表紙/表4。中上は、藤川栄子()と中村忠二()の署名。中下は、このサイトでお馴染みの藤川栄子()と、伴敏子『忠二素描』=中村忠二()。は吉田遠志や吉田穂高、原精一、寺田政明らの署名()に、吉田遠志(下左)と目白文化協会時代の吉田穂高(下右)。
◆写真中下は、寺田政明()と吉岡憲()。中上は、吉岡憲()と倉田三郎や久保一雄()の署名。中下は、久保一雄()と高畠達四郎()。は、小寺健吉や仏文学者の小松清、1930年協会Click!からお馴染みの野口彌太郎などの署名。
◆写真下上左は、麻生三郎(後方)で手前は松本竣介。上右は、ガマガエルを持つ鶴岡政男。中上は、麻生三郎()と田村一男や森田元子()の署名。中下は、森田元子()と長谷川利行Click!が描いた『四宮潤一氏』()。は、1954年(昭和29)に東宝・砧撮影所でデビュー早々に“FRIDAY”された、大好きな“彼”とデートする大河内信敬の娘・桃子。w ちなみに、“彼”もこの作品がデビュー作だった。

下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(2)

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清水多嘉示「風景」仮op595.jpg
 1928年(昭和3)5月18日、画家であり彫刻家でもある清水多嘉示Click!は、6年間のパリ留学を終えるとシベリア鉄道経由で帰国した。同年の後半は、留学を支援してくれた人々へのお礼と挨拶まわりや、諏訪高等女学校における滞欧作品展の開催、フィアンセだった今井りんと結婚して高円寺に新居をかまえるなど、多忙な日々を送っている。
 もちろん、清水が滞仏中に死去した、中村彝Click!アトリエClick!も訪ねているだろう。当時、中村彝アトリエは彼の弟子たちなどが中心になって起ち上げた、中村会Click!(のち中村彝会Click!)の拠点になっていたからだ。若い画家志望の学生たちが集まり、イーゼルを持ちこんで制作の場としても活用されていた。『芸術の無限感』Click!(岩波書店/1926年)を刊行するために、編集委員が集ったのも同アトリエだった。たとえば、二科の樗牛賞を受賞した曾宮一念が、1925年(大正14)9月に記者会見Click!を開いたのも、自身のアトリエではなく中村会の彝アトリエだった。
 清水が帰国した翌年、1929年(昭和4)に佐伯祐三Click!アトリエを留守番がわりに借りていた鈴木誠Click!は、帰国した米子夫人Click!が下落合に住むため立ち退くことになり、ご遺族の鈴木照子様Click!によれば大八車に鍋釜を積み、雨でぬかるんだ道を引っ越してくるまで、彝アトリエは中村会の事務所兼アトリエとして機能していた。
 清水多嘉示は、彝アトリエで知りあった友人たちが多い中村会へも、当然、帰国時に顔を見せているだろう。また、帰国の翌々年1930年(昭和5)1月には、下落合1443番地にあった木星社Click!から『清水多嘉示滞欧作品集』を刊行しているので、曾宮一念アトリエClick!の西、佐伯祐三アトリエClick!の南に位置する同社の福田久道Click!のもとへ、作品集の構成や編集の打ち合わせをしに、少なからず訪れていたとみられる。
 以上のように、清水が帰国してから数年間の状況を踏まえると、渡仏前の想い出が詰まった彝アトリエ(中村会)のある、下落合の周辺に拡がる風景をまったく描かなかった……とはいい切れない。むしろ所用で、あるいは友人知人に会うために下落合を訪れた際、付近の風景を写生していた可能性が高いように思われる。すでに、渡仏直前の1922年(大正11)に御留山の谷戸をモチーフにした『下落合風景』Click!を描いてもいる。ましてや、大正末から画題・画因としての「下落合風景」は多くの画家たちClick!を惹きつけ、当時の展覧会では必ずどこかの会場に出品されているケースも多かった。
 そのような観点から、清水の作品群を改めて観察していくと、どこを描いたのかが不明な帰国後の風景作品の中に、それらしい画面が少なからず存在している。帰国後の画面は、渡仏前の画面と比べると筆づかいや色彩などが、当時の“現代風”に進化しているのがわかる。冒頭の画面は、『風景(仮)』(作品番号OP595)とタイトルされている作品で、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「不明(帰国後[1928年以降])とされている作品だ。
 ところが、この画面と同一のバリエーション作品が、『風景(仮)』(滞仏期[1923-1928年]/OP256)として同資料に収録されている。どちらの作品整理が正しいのかは不明だが、もし前者のケース、すなわち同画面が帰国後の制作によるものだとすれば、この風景に限りなく近い場所を、わたしは下落合で知っている。
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 1922年(大正11)4月から、下落合東部にある「近衛町」Click!の開発・分譲をスタートした東京土地住宅Click!は、2か月後の6月には林泉園Click!の周囲(おもに西側と南側)を新たに開発し、「近衛新町」Click!と名づけて販売を開始した。ところが、同住宅地の分譲は一般に公開されたものの、約1ヶ月後の7月に東京土地住宅はあわてて「分譲中止」広告を出稿している。東邦電力の松永安左衛門が、林泉園周辺の近衛新町エリアをすべて買い占めてしまったからだ。
 そして、林泉園に沿った南側には、社長の松永邸を含む同社の幹部邸などが建てられ、林泉園の湧水源にあたる西側と、七曲坂Click!筋に近い南西側には、社員用に外壁を白ないしはベージュに塗った赤い屋根(ときに家々の意匠が近似しているため、青い屋根の家もあったようだ)の、オシャレな社宅やテラスハウスなどの洋館群が建設されている。これらの社宅(洋館)群の多くは空襲からもまぬがれ、そのうちの1軒が1990年代まで残っていたのだが、残念ながら前世紀末に解体されてしまって現存しない。
 わたしが、清水多嘉示のお嬢様・青山敏子様から画面コピーを見せていただいたとき、すぐさま下落合のとあるポイントがピンと浮かんだ。1928年(昭和3)をすぎたあたりで、この風景に一致する場所はたった1ヶ所しか存在していない。林泉園をはさみ、中村彝アトリエから南へわずか40mのところにある、谷戸対岸の斜面上から林泉園の突き当たり、すなわち西側の湧水源を向いて描いた風景だ。画面下に白く見えているのが、林泉園の池へと注ぐ湧水源で、ひな壇状に開発された谷戸の突き当たりは、大正期には東邦電力の「運動場」と呼ばれ、昭和期に入ってしばらくすると整地され直してテニスコートが設けられた敷地だ。
 正面の谷戸上、小高いところに描かれている赤い屋根の西洋館は、下落合367番地にあるテラスハウス状の東邦電力社宅2棟であり、画面右手が平田邸で中央が島邸の、それぞれ東側外壁ということになる。樹木に隠れがちな左寄りの洋館は、のちに30棟ほどが順ぐりに建設される、同一規格の一戸建て社宅のうちのひとつだ。位置からすると、早い時期に建設された泉邸ないしは吉田邸かもしれない。また、右寄りの洋館の屋根上に見えている、少し離れたところにありそうな煙突は、時期によって異なるが東邦電力合宿所、ないしは家庭購買組合に備えられた焼却炉の煙突だと思われる。そして、画面の右手枠外には中村彝アトリエ(1929年すぎなら鈴木誠アトリエ)の赤い屋根と焦げ茶色の外壁が、清水多嘉示の視界には見えていたはずだ。
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 清水多嘉示は、おそらく下落合464番地の中村彝アトリエ(中村会)を、なんらかの用事で訪れたのだろう。中村彝が生きていた、1922年(大正11)の下落合を知っている清水にしてみれば、6年後に訪れた下落合はまるで別世界のように感じたのではないだろうか。山手線の線路に近い近衛町には、竣工したばかりの近衛文麿邸Click!学習院昭和寮Click!をはじめ、西洋館を中心とした大きな屋敷街が連なり、彝アトリエの周辺では近衛新町=林泉園住宅地が開発され、同様に大小の西洋館が目立って建ち並んでいた。また、国内ではいまだ目にしたことのないような、下落合の中部に展開していた箱根土地によるモダンな目白文化村Click!の光景には、フランス帰りの清水でさえ多少は驚いたかもしれない。なぜなら、描画場所が不明な作品ないしは帰国後の作品には、目白文化村や近衛町を彷彿とさせる画面も少なからず混じっているからだ。
 清水多嘉示は彝アトリエを出ると、そのままサクラ並木の道端に口を開けた林泉園の斜面を、谷底へと下りていった。このあたりの谷戸は、湧水源にあたるためそれほど深くはなく、少し高めな2階から1階へ下りるぐらいの高さ(4~5mほど)しかない。清水は、西側の湧水源から東の池へと注ぐ小流れをまたぐと、対面の斜面を上っていった。そこは、東邦電力が買収した宅地造成中の土地で、いまだ家々はそれほど建てられていない。
 彝アトリエからは、ちょうど“対岸”にあたる視点から谷戸の奥(西)を眺めると、東邦電力が建設した洋風の社宅群が建てられはじめている。谷戸の突き当たりは、ひな壇状に整地された芝庭のようになっており、左手には彝アトリエのある北側の丘と同様に、西へと向かう林泉園沿いの小道が通っている。清水多嘉示は画因をおぼえ、イーゼルを立てるかスケッチブックを取り出したのだろう。湧水源から勢いよく流れ出る、小流れの水音を聞きながらおもむろに写生しはじめた。
 現在、林泉園跡の南側には住宅やマンションが建ち並び、清水多嘉示の描画ポイントには立てない。湧き出た小流れは東京都下水道局により暗渠化され、湧水は地下の下水管の中を流れている。谷底にあったいくつかの池も埋め立てられ、いまは1段低くなった土地に1970年代に建てられた低層マンションが並んでいる。だが、画面に描かれた湧水源の地形や、谷戸の風情はいまでも薄っすらと感じとることができる。
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 特に、画面の左手(南側)に描かれた小道のあたりには、林泉園へと下りる古いコンクリート階段(写真)があり、谷底にはカギ状に折れた路地が通っている。すなわち、画面の右下に描かれた水の質感を思わせる白塗りのあたりを東西に通り(写真)、北側にある同様の階段(写真)を上ると目の前が中村彝アトリエだ。谷底の路地には、湧水を暗渠化した際に設置したとみられる古いマンホールを、いくつか確認することができる。

◆写真上:資料では帰国後に制作されたとされる、清水多嘉示『風景(仮)』(OP595)。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる林泉園。実際の縮尺とは異なるのでズレがあるが、福田邸の敷地北側から西の湧水源を向いて描いていると思われる。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。東邦電力による開発が進み、ほぼすべての社宅を建設し終えている。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同所で、すでに谷戸の突き当たりがテニスコートになっている。
◆写真中下は、中村彝アトリエの前に口を開けた林泉園への下り口階段。(写真) 清水多嘉示がイーゼルを立てたのは、正面奥に見えるベージュ色をした住宅左手の斜面上あたり。は、谷底を東西に横切る路地から谷戸の突き当たり方向を眺めたところで、昭和10年代には一帯がテニスコートにされていた。(写真)
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる林泉園。空襲で焼かれた建物もあるが、東邦電力の社宅の多くが焼け残っているのがわかる。ピンクの番号①②③は、現状写真の撮影ポイント。は、清水の画面でいうと左手の道の途中から谷底へと下りられる林泉園の南側に設置された階段。(写真) は、滞仏中の作品として分類されているが『風景(仮)』(OP595)のバリエーション作品に見える『風景(仮)』(OP256)。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

怪談フォークロアの先に見えるもの。

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 以前に、根津山Click!の物語に付随した、戸山ヶ原Click!から学習院Click!を経由し、東京郊外へと抜ける地下隧道(トンネル)の伝承および当時の新聞記事について取りあげた。そのとき、2008年(平成20)に発表された小池壮彦『リナリアの咲く川のほとりで』(メディアファクトリー)をご紹介したが、きょうはもうひとつ、電柱を地下に埋設する共同溝の工事現場で採取された、近似するエピソードをご紹介したい。
 現在、東京では幹線道路沿いのあちこちで、地下共同溝の建設が行われている。現在の工事は、2007年(平成19)に国交省と東京都が策定した「東京都無電柱化方針」にもとづくものだ。これは、東京オリンピック・パラリンピック2020大会へ向けた整備事業の一環で、「センター・コア・エリア」と呼ばれるエリアの内側と、おもに海浜地帯を中心に行われている。「センター・コア・エリア」などともってまわった表現をしているけれど、要するに山手通り(環六)の内側に位置する区部のことだ。
 下落合の周囲でも、地下共同溝工事はかなり進んでいて目白通りや十三間通り(新目白通り)、聖母坂などで一部工事が完了している。地下共同溝に電線を埋設すると、道幅が広く設定でき緊急車両や歩行者が通りやすくなったり、街の景観が美しくなるなどメリットも多いのだが、逆に障害時、すぐに復旧工事がスタートできなかったり、共同溝自体が破壊された場合は復元に時間がかかるなどデメリットも多い。阪神・淡路大震災では、地上の電柱にわたされた電線に比べ、共同溝へ埋設された電線の復旧に倍以上のリードタイムを必要としたのは記憶に新しい。
 日本は地震国であり火山国でもあるので、ヨーロッパの街角とはまったく風土や事情が異なる。だから、電柱にわたされた電線(電力線)は地下に埋設できても、技術の進化が速い通信線は、そのまま電柱に残されているケースも目立つ。今世紀に入り、100MbpsのEthernetが1Gbpsになったのは、ついこの間のような気がするけれど、すでに少し前までデータセンター仕様だった10Gbpsが一般家庭までとどく時代は目前だ。それが40Gbpsになるのも、おそらく予想よりもかなり早いだろう。
 明治末より、電力線と通信線が同じような電柱に架けられ、戦後は双方が電柱を共有する統合化された時代から、今後は地下と地上とに再び分離していく時代のはざまにいるのかもしれない。そんな状況の中、各地でつづけられる地下共同溝の工事現場から、思いもよらないものが「出てきた」記録がある。
 少し前に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の曽孫である小泉凡Click!が書いた、『怪談四代記―八雲のいたずら―』(講談社/2014)をご紹介しているが、彼の友人である作家の木原浩勝が採取した実話「怪談」のひとつに、そんな共同溝の工事現場のエピソードが書きとめられている。この「怪談」が記録されたのは2008年(平成20)だが、その時点から10年ほど前ということなので、20世紀の末ごろに起きた出来事なのだろう。
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 場所は、おそらく公開するにあたって伏せられているのでハッキリしないが、東京2020へ向けた「東京都無電柱化方針」の事業ではなく、別事業の一環として前世紀末から実施されていた共同溝の埋設工事だと思われる。国土交通省の記録を見ると、「無電柱化整備場」の第3期(1995~1998年)に属する工事だったのではないかとみられる。では、同年に角川書店から出版された木原浩勝『九十九怪談/第一夜』に収録の、「第二十三話・地下坑道」から引用してみよう。
  
 十年ほど前(1998年ごろ)、都内で地下共同坑の工事があり、Sさんはその現場で監督をしていた。/その日も、ショベルカーを使って道路を掘り起こす作業をしていた。/そこへ突然Sさんのいる作業室の扉が開いて、作業員が飛び込んできた。/作業中に突然ガリッガリッと、ショベルカーのバケットの先が煉瓦のようなものに当たったのだという。/そんなバカな!/図面を見るまでもなく、この辺りにそんな古い下水道のようなものなどない。/Sさんは確認のため、ショベルカーを使わずに掘るよう指示を出した。/現場に着くと作業員たちがシャベルを持って、ショベルカーの掘った辺りを掘り始めていた。/しばらくするとあちこちから、ここにも何かありますと声があがりだした。/どうやら、想像以上に大きなものが埋まっているようだった。/注意しながら半日ほど掘ると、かなり長い半円柱状のものが出てきた。煉瓦造りの構造からして戦前に造られた、トンネルのようなものなのだろう。(カッコ内引用者註)
  
 地下から出てきた「坑道」とみられるトンネル状の構造物は、公式な記録(国交省ないしは東京都の図面)には残っていなかったのが、現場監督“Sさん”の対応から明らかだ。Sさんは、「戦前に造られた」と判断したようだが、レンガ積みによる工法はもっと古い時代の遺物を想起させる。
 大正期に入ると、セメントClick!の生産に拍車がかかってコストが大幅に下がり、地上の建築はもちろん地下の構造物も、大粒の玉砂利を混ぜたコンクリートClick!で造られるのが一般化した。工事で発見された「坑道」がレンガ造りだったことは、より古い時代の遺構、すなわち明治期の造作を思わせる仕様だ。以前、こちらでご紹介した学習院に保存されている「下水溝」の写真(どう見ても下水溝には見えないトンネルだが)も、頑丈なコンクリートで構築されているので、大正期以降の建造物だろう。
 地下にあるトンネル状の構造物は、その強度の課題によりレンガ造りからコンクリート造りに取って代わられたのは、大正期のかなり早い時期からではないかと思われる。つづけて、同書の「地下坑道」から引用してみよう。
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 構造物は、共同坑を横断するよう左右に横たわっていた。/このまま放置していては工事が進まない。/いや、そもそもこの構造物は何だろう?/Sさんは、とりあえずショベルカーで壊して中を確かめることにした。/注意深くショベルカーのバケットが、煉瓦を何度か叩くうちに、ガラガラと崩れ落ちて大きな穴が空いた。/作業員たちは、先を争うようにして空いた穴に近寄り中を除き込むと途端に、わぁっと叫び声をあげて、一目散に穴から逃げだした。/Sさんは何があったのかと、穴に駆け寄って中を覗くと暗闇のトンネルの真下に鉄兜を被った白く光った人のようなものが立っている。/人? まさか人がいるわけがない! と目をこらして見ると、白い顔がこちらを見上げた。/うすぼんやりしたその顔には目も鼻も何も見えない。/うわぁ! お化けだ!
  
 ……と、それから現場は大騒ぎになるのだが、街中で幹線道路沿いの工事現場という騒音だらけの環境から、Sさんをはじめ作業員たち全員が、集団催眠に陥って幻覚を見たとは考えにくい。煉瓦で造られたトンネルの穴から、それがのっぺらぼうの「人のようなもの」だったかは不明だけれど、“何か”を見たのは確かなのだろう。
 地下から、公式図面には記載されていないレンガ造りのトンネルが出現し、あらかじめ少なからず不安と戦慄をおぼえる心理状態だったせいで、あらぬものが見えてしまった可能性は否定できないが、ここで問題なのは「お化け」が出たことではない。(そうはいっても、そちらのテーマにも興味津々なのだがw) わたしが問題にしたいのは、同書の趣旨からまったく外れてしまうが、地下から出現したトンネル状の構造物の存在、つまり道路沿いの共同溝工事を想定すれば、その道路とは交叉していたとみられる地下トンネルとは、いったいなんだったのかということだ。
 明治の早い時期から、巣鴨監獄(現・池袋サンシャインシティ)の地下に造られた弾薬庫の存在は、いまではかなり知られている。そこから、地下トンネルを通じて弾薬が東京湾沿岸へ供給されるルートが存在したらしいことも、いくつかの書籍や資料で指摘されている。これらトンネルの存在は、軍機に属することなので当時も、また現在でも公開されていない。いや、その資料自体が関東大震災Click!東京大空襲Click!で滅失してしまって存在しないのかもしれない。
 ひょっとすると、共同溝工事をしていたSさんのチームは、明治期に煉瓦で構築されたそんなトンネルのひとつを、偶然掘り当ててしまったのではないか。この工事現場の場所がハッキリすれば、トンネルが通っていた方角や地面からの深さなどで、別の地点を調査することも可能なのではないだろうか。また、「お化け」(いたとすればw)が鉄兜をかぶっていたことから、戦時中もなんらかの用途で使われていた可能性もありそうだ。先述した根津山のケースも同様だが、東京の地下にはいまだ不明な点が多すぎる。
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 Sさんの工事現場では、「お化け」を目撃した翌日に、近くの社(やしろ)から神主を呼んでお祓いをしてもらい、早々に埋めもどしている。ついでに、工事をしていた区の教育委員会に連絡して調査を依頼すれば、工期はやや延びるかもしれないが、これまでウワサでしかなかった明治期の遺構が改めて確認され、世紀末の「大発見」になっていたのではないかと思うと、あっさり埋められてしまった「お化け」とともにちょっと残念だ。

◆写真上:無電柱化の工事を終えた、落合地域を南北に貫通する山手通り(環六)。
◆写真中上は、戦前には「地下街路」と呼ばれた共同溝。は、現代の共同溝。
◆写真中下は、学習院に保存されている「下水溝」と書かれた写真だが、どう見ても下水には見えない。は、敗戦間近な時期に日吉台の地下へ設置された聯合艦隊司令部の地下壕。は、昭和初期に造られた西武鉄道のコンクリート柵。
◆写真下は、2017年1月に作成された国交省のPPTデータ「無電柱化の現状」報告書より。は、無電柱化工事を終えた聖母坂で残っているのは通信線柱。は、無電柱化工事で設置されたトランスなどが収納された地上機器。これが電柱にも増して邪魔に感じるので、ぜひ制御機器のコンパクト化を追求してほしい。

下落合の描いた画家たち・清水多嘉示。(3)

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 画家であり彫刻家の清水多嘉示Click!は、東京高等師範学校(のち東京教育大学)の数学・統計学教授だった下落合731番地に住む佐藤良一郎と、どこかで知り合いだったものだろうか。あるいは、佐藤家の子どもが美術分野となんらかの関係があったものだろうか。なぜなら、冒頭の画面の風景は佐藤邸の敷地へ少なからず入りこまなければ、描くことができなかったはずだからだ。
 佐藤良一郎については、1927年(昭和2)9月12日に西武電鉄の下り電車へ飛びこんで自殺した、姪である伊藤かづよClick!の物語とともにご紹介している。その記事を読まれた方なら、冒頭に掲載した清水多嘉示の『風景(仮)』(作品番号OP285)をご覧になれば、「アッ!」と気づかれるかもしれない。同作品は、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「滞仏期[1923-1928年]か」と疑問形で収録されている作品の1点だ。
 道筋こそ整備が進み、曾宮一念Click!佐伯祐三Click!が描いたころとはかなり異なる風情になってはいるが、同作は下落合731番地にあった佐藤邸の敷地から東を向いて描いた風景だと思う。換言すれば、清水多嘉示は画面に描かれている下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!を訪ねたときか、あるいは下落合1443番地にあった木星社Click!福田久道Click!を訪ねる途中で、この風景に出あっているのかもしれない。木星社は画家が写生する背後(西側)、青柳ヶ原Click!を越えた直線距離で200mほどのところにあった。
 また、清水多嘉示は佐藤家とはなんら知り合いではなく、道すがら「ちょっとスケッチさせてくれませんか?」と断わってから、庭先へ入りこんでいるのかもしれない。下落合では、画家が道端や原っぱにイーゼルをすえ、あるいはスケッチブックを広げて写生する光景は日常茶飯であり、人気のある画家ともなれば近くの住民たちが出てきて、大勢のギャラリーClick!が集まるような時代だった。庭先に入らせてくれと断わりを入れた画道具を下げる清水にも、大正期から住みつづけている佐藤家では、さほど不審感は抱かなかったのかもしれない。描かれた画角から、佐藤邸が庭の広い旧邸の時代か、あるいは新邸への建て替え中で空き地になっていた可能性もある。
 この画面に近い位置にイーゼルを立て、早い時期にタブローを仕上げているのは、ほかでもない曾宮一念だ。1923年(大正12)に制作された『夕日の路』Click!は、右へクラックしながら奥へとつづく、雨後のぬかるんだ道路の手前から、やはり清水と同様に東を向いて自身のアトリエを左手に入れながら描いている。そこに描かれた曾宮アトリエは、1921年(大正10)3月に竣工Click!したばかりの初期の姿で、清水の画面に見られるような増改築が加えられたあとの姿ではない。
 曾宮アトリエの増改築は、江﨑晴城様Click!による残された図面Click!によれば、1931年(昭和6)すぎに行なわれているとみられ、清水の『風景(仮)』(OP285)は1931年(昭和6)以降に描かれた作品である可能性が高いことになる。また、曾宮一念は一時、目白文化村Click!の第三文化村にあった目白会館・文化アパートClick!に住んでいるが、この1931年(昭和6)すぎごろの大規模な増改築の時期と重なるのかもしれない。
 もうひとり、この場所を描いているのは1926年(大正15)8月の、暑い盛りにイーゼルを立てていた佐伯祐三だ。清水の画面左手に、赤い屋根がふたつ重なる谷口邸がいまだ建設されておらず、同邸の敷地が日本画家・川村東陽邸Click!の庭の一部だった時代だ。その敷地を斜めに横切る道路(というか自然にできた通行路だろう)から、曾宮アトリエのある方角の東南東を向いて描いたのが、佐伯による「下落合風景」シリーズClick!の1作『セメントの坪(ヘイ)』Click!だ。同画面では、曾宮アトリエは左枠外でほとんど入っておらず、庭先の桐の枝がかろうじて描かれている。また、同じ構図のタブローが、少なくとも10号(二科賞受賞の記者会見写真Click!)と15号(佐伯の「制作メモ」Click!)、そして40号(曾宮一念の証言Click!)の3枚ありそうなことが判明している。
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 さて、清水多嘉示の画面にもどろう。この作品が描かれたのは、少なくとも先述のように曾宮アトリエの増改築が行われた1931年(昭和6)以降だとみられる。正面に切妻の見えている、焦げ茶色の外壁をした尖がり屋根の建物が曾宮一念邸だ。アトリエの意匠やカラーリングは、朱色の屋根瓦にするなどどこか中村彝アトリエに近似している。屋根の南側にドーマーを設け、室内を明るくしたものか竣工時とはやや形状が変化している。その切妻の右手(南西)の庭には、曾宮が大切にしていた桐らしい樹影が描かれている。
 曾宮邸の手前(西隣り)、赤い屋根がふたつズレて重なる大きな家が、昭和に入ってほどなく建設された谷口邸だ。同邸は、昭和10年代に入ると敷地の手前(西側)へ、さらに独立した家を1軒増築しているとみられるので、この光景は昭和ヒトケタの年にしか見られなかっただろう。ちなみに、谷口邸の左側(北隣り)の敷地には、1933年(昭和8)ごろに蕗谷虹児Click!一家がアトリエを建てて住むことになる。したがって、清水多嘉示はパリでいっしょだった蕗谷虹児を1933年(昭和8)ごろに訪問して、この画面を描いているのかもしれない。1926年(大正15)9月に、パリの日本人俱楽部で行われた清水登之Click!送別会の記念写真を見ると、清水多嘉示と蕗谷虹児がともに写っている。
 画面の右側(南側)には、かつて曾宮一念が『冬日』Click!に描いた“洗い場”のある諏訪谷Click!が口を開けている。この時期、すでに“洗い場”は90mほど南へ移設され、諏訪谷は1926年(大正15)ごろからの宅地開発がつづいていたはずだ。諏訪谷に建設中の住宅群は、1926~1927年(大正15~昭和2)の秋から冬にかけ、佐伯祐三が『曾宮さんの前』Click!『雪景色』Click!として、判明しているだけでもタブロー4点に仕上げている。
 画面の右手に描かれた、コンクリートらしい門のある家は、諏訪谷の北斜面に建てられていた古家(佐伯の『セメントの坪(ヘイ)』にも画面右手に描かれている)のうちの1軒だと思われる。鈴木誠Click!が一時期住み、「化け物屋敷」Click!と呼んでいたボロボロの住宅も、諏訪谷の斜面に建つ古家の1軒だったのかもしれない。諏訪谷の斜面は、しばらくすると大規模な地形改造の整備工事が行われ、ほとんど谷底から90度直角となるようにコンクリートの擁壁が築かれ、現在ではハッキリと谷上と谷底の敷地に分かれてしまい、斜面はまったく存在しなくなっている。
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 また、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP285)には、バリエーション作品として『風景(仮)』(OP284)が存在している。空模様が異なるし(前者が晴れで後者が曇り)、谷口邸の南側に設けられた門には、祝日なのか日の丸が2本掲げられているのが見えるので、明らかに別の日に描かれたものだ。興味深いのは、画面右下の隅に、佐伯が『セメントの坪(ヘイ)』で描いたコンクリートの塀と、まったく同じ意匠の塀が描かれていることだ。門柱の先端が三角形(四角錐)に尖り、1段下がった位置からコンクリートの塀がつづく造作だ。諏訪谷北側の丘上には、同時期に建築された同じ意匠のコンクリート塀が、断続的に東西へ連なっていたのかもしれない。
 さらに、祝日の『風景(仮)』(OP284)に描かれた曾宮邸の屋根を見ると、今度は北側の屋根=アトリエの採光窓の上にも、ドーマーらしい構造物が新たに設置されているのが見えるので、『風景(仮)』(OP285)と祝日の『風景(仮)』(OP284)の間には、大工仕事が進捗する数週間ほどの時間差があるのかもしれない。描画位置も微妙に異なり、祝日の『風景(仮)』(OP284)では右手の樹木の幹までが見えているので、より佐藤旧邸の庭(あるいは建て替え中の空き地)の奥へ入りこんでいるように見える。
 清水多嘉示は、この画面を制作するとき、どのような用事で下落合を訪ねているのだろうか? この画面が1933年(昭和8)ごろであれば、パリでいっしょだった下落合622番地の蕗谷虹児アトリエを訪ねているように思えるが、曾宮アトリエが工事期間中のようにも見えるので、もう少し早い時期なのかもしれない。渡仏する前、清水は二科へ出品していたし、また中村彝Click!アトリエでも頻繁に顔をあわせていたと思えるので、旧知の曾宮一念Click!を訪ねる可能性はあるだろう。また、美術誌「木星」を発行していた、木星社の福田久道を訪問する途中だったものだろうか。いずれにしても、2作品は1931年(昭和6)から1933年(昭和8)ごろにかけ、下落合の諏訪谷で描かれたように思える。
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 清水多嘉示が、パリでいっしょだった蕗谷虹児だが、ふたりが参加した清水登之送別会の記念写真には、左手に下落合540番地の大久保作次郎Click!が写っている。清水多嘉示とともに同送別会の幹事のひとりをつとめた大久保だが、清水とは中村彝つながりで渡仏前より知り合いだったろう。ときに、清水は彝アトリエから北北東へ直線距離で240mほどのところにある、大久保作次郎アトリエClick!を訪ねてやしないだろうか。それを示唆するような、渡仏前の作品が残っているのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:下落合の諏訪谷北側を描いたみられる、清水多嘉示『風景(仮)』(OP285)。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント。いまだ谷口邸は建てられておらず、曾宮アトリエ前の道路が修正中の様子をとらえている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。佐藤邸は新邸に建て替えられたあとであり、1930年(昭和5)の1/10,000地形図に採取された邸よりもかなり大きくなっている。は、1938年(昭和8)の「火保図」にみる描画ポイント。やはり新邸の佐藤邸を採取したもので、庭がかなり狭くなっている。
◆写真中下は、描かれた風景の現状だが佐藤邸跡には住宅が建っていて描画ポイントには立てない。は、2011年(平成23)にたまたま整地しなおされた佐藤邸跡を撮影したもの。こんなことなら、空き地に入りこみ東を向いて撮影しとくのだった。は、1926年(大正15)9月15日にパリの日本人俱楽部主催で開催された清水登之送別会の記念写真。前列の中央には、こちらでも林芙美子との関連で紹介Click!済みの「黒メガネの旦那」こと石黒敬七Click!が座り、その左端が清水多嘉示。後列の右から4人目に蕗谷虹児が、また左から3人目には相変わらず蝶ネクタイが好きな大久保作次郎がいる。
◆写真下は、バリエーション作品の清水多嘉示『風景(仮)』(OP284)。は、曾宮一念アトリエ跡の方角から佐藤邸跡(西側)を眺めた現状。佐藤邸跡には、現在4棟の住宅が建っている。は、描かれた道路から諏訪谷(南側)を向いた眺望。
掲載されている清水多嘉示の作品と資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。

下戸塚(西早稲田)地域の関東大震災。

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 これまで、郊外の落合地域とその周辺域から東京市街地にいたるまで、関東大震災Click!によって記録されたさまざまな証言や現象を記事にしてきた。今回は落合地域の南西側、下戸塚から早稲田鶴巻町にかけての震災直後の様子をご紹介したい。自身が避難しながら周囲の様子を記録したのは、1923年(大正12)の9月1日現在、下戸塚(現・西早稲田界隈)の古い2階建ての下宿屋Click!に住んでいた井伏鱒二Click!だ。
 9月1日は、早朝にまるでスコールのような大雨が降ったが、昼が近づくにつれて雲がまったくなくなり、快晴となって気温が急上昇した……という記述をよく見かける。だが、この気象は東京の市街地、特に被害が大きかった(城)下町あたりで多く見られた天気の様子で、東京各地では異なった天候が記録されている。東京は広いので、各エリアで天候が少なからず異なっているのは、以前にも岸田劉生Click!が郊外風景を描いた作品の空模様や劉生日記Click!の天気と、永田町にあった東京中央気象台で記録された天候とのちがいでも書いたとおりだ。ちなみに、新宿区のみに限っても下落合では薄日が射しているのに、同時刻の飯田橋駅附近にいる知り合いの電話の向こうでは土砂降りの雨が降っていたのを、わたしも何度か経験している。
 東京中央気象台のある永田町では、関東大震災が起きた9月1日の天候を、降水量15.3mmをともなう「雨」と記録している。だが、永田町上空も昼前後はよく晴れていたと思われるが、午後からは気象情報の収集どころではなくなり、結局は午前中のみのデータにもとづく記録になってしまったか、あるいは震災後から市街地の上空を覆いはじめた大火災の熱い焼煙によって、午後から夜にかけ市街地上空には雨雲が形成され、実際に雨がパラついていたのかどうかはさだかでない。
 井伏鱒二も、のちの関東大震災について各種書籍に書かれた市街地の天候と、郊外の下戸塚(西早稲田)で自身が経験した天候とが、「それは少し違つてゐる」と書いている。夜明けごろから強い雨が降りだしたのは、下戸塚も市街地と同様だったが、そのあと午前中には抜けるほど青い空が一点の雲もなく四囲に拡がり、快晴となったとされている部分が少しちがっているとしている。彼は午前中、東の空に「今まで私の見たこともないやうな」大きな入道雲(積乱雲)を目撃しており、それは「繊細な襞を持つ珍しい雲であつた」と書いている。つまり、東京の東部域には積乱雲がかかり、雷をともなう雨が降っていた地域もあったらしいことがうかがわれる。
 さて、早大近くの下戸塚に建っていた古い下宿で、大地震に遭遇した瞬間を井伏鱒二は次のように記述している。ちなみに、井伏鱒二はあえて牛込区の早稲田鶴巻町ではなく豊多摩郡戸塚町の下戸塚と書いているので、彼が下宿していたのは早大キャンパスの西南側なのだろう。1986年(昭和61)に新潮社から出版された、『井伏鱒二自選全集』第12巻収録の『荻窪風土記』から引用してみよう。
  
 地震が揺れたのは、午前十一時五十八分から三分間。後は余震の連続だが、私が外に飛び出して、階段を駆け降りると同時に私の降りた階段の裾が少し宙に浮き、私の後から降りる者には階段の用をなさなくなつた。下戸塚で一番古参の古ぼけた下宿屋だから、二階の屋根が少し前のめりに道路の方に傾いで来たやうに見えた。コの字型に出来てゐる二階屋だから、倒壊することだけは免れた。/私たち止宿人は(夏休みの続きだから、私を加へて、四、五人しかゐなかつたが)誰が言ひだしたともなく一団となつて早稲田大学の下戸塚球場へ避難した。不断(ママ:普段)、野球選手の練習を見たり早慶戦を見たり体操したりしてゐたグラウンドである。(当時、早慶戦はまだ神宮球場で試合をしてゐなかつた) 私は三塁側のスタンドに入つて行つた。そこへ早稲田の文科で同級だつた文芸評論家の小島徳弥がやつて来て、私たちは並んでスタンドの三塁側寄りに腰をかけた。
  
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 文中に登場する「下戸塚球場」は「早大戸塚球場」Click!のことで、戦後は野球部長だった安部磯雄Click!の名前をとり「安部球場」と呼ばれたグラウンドだ。現在は、早大の中央図書館と国際会議場やホールなどになっているが、その前を通う坂道は相変わらず「グラウンド坂」と呼ばれて球場の名残りをとどめている。
 井伏鱒二の記述から、「一番古参の古ぼけた下宿屋」はどうやら早大キャンパスのすぐ近く、大字下戸塚字松原か字三島あたりではないかと思われる。以前、1923年(大正12)6月に戸塚球場で行われた早明戦の試合を、東京朝日新聞社がチャーターした飛行機から撮影した空中写真をご紹介Click!したけれど、この写真の中に井伏鱒二が暮らしていた下宿屋が写っているかもしれない。関東大震災のわずか3ヶ月前に撮影された空中写真なので、球場の観客の中には彼も混じっている可能性が高い。
 3塁側スタンド、つまり早稲田通り寄りのスタンドへ避難したということは、南側の早稲田通り側からグラウンド坂を下って戸塚球場に入り、すぐ左手のスタンドへ入って腰を落ちつけたとすれば、井伏鱒二の下宿屋は幕府の高田馬場跡Click!がある早稲田通り沿いの三島か松原、通りをわたった向こう側、穴八幡社Click!スコットホールClick!のある荒井山のいずれかということになる。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 ここの野球グラウンドは、下戸塚の高台に上る坂の途中に所在する。三塁側のスタンドから見ると、女子大学のある目白台が正面に当り、そこからずつと右手寄りが伝通院の高み、その先が丸山福山町か本郷あたりといふ見当である。火事は地震と同時にそこかしこから出てゐたかもしれないが、目白台も伝通院の方にも本郷あたりにも、まだ火の手も煙もあがつてゐなかつた。すぐ目の下に見える早大応用化学の校舎だけは単独に燃えつづけてゐたが、その先の一六様の森から市電の早稲田終点の方では火の手も煙も出てゐなかつた。グラウンドの外の坂路には、火事を逃れた人たちが引きつづき先を急いでゐた。高田馬場の方へ逃げて行く人たちのやうであつた。(後からわかつたが、応用化学の校舎は薬品の入つてゐる瓶が独りで床に落ち、床を焦がして火事になつたものであるさうだ)/私と小島君が坐つてゐるすぐ下の段に、人足風の男が二人やつて来て、「お前、後で学校の事務へ行つて、ありのまま言つた方がいいぜ」と一人が言ひ、「それは言ふ。痛いもの」と一人が言つた。地震で早大の煉瓦建の大講堂が一度に崩れ、人足の一人が足を挫かれてゐるのがわかつた。
  
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 井伏鱒二は、目前を横ぎる目白崖線沿いの土地勘がありそうなので、おそらく周辺を散歩していたのだろう。早大の中で、地震により唯一出火したのが理工科応用化学教室の煉瓦ビルだった。薬品が棚から落下し、化学反応を起こして出火したのは下落合の佐藤化学研究所Click!と同じだが、同研究所がボヤだったのに対し早大の応用化学教室は薬品の量が多かったせいか、煉瓦造りの校舎が全焼している。下戸塚界隈で大きな火事があったのは、早大の応用研究室のみで、ほかは住宅や店舗の倒壊が何軒か記録されている。
 応用化学教室を消火したのは、地元の戸塚町消防組だった。当時の様子を、1976年(昭和51)に出版された『我が街の詩・下戸塚』(下戸塚研究会)から引用してみよう。
  
 早大応用化学科実験室より出火レンガ造りの周囲だけを残して全焼したが、戸塚町消防組の必死の消火活動で類焼は免がた(ママ:免がれた)、とその時の消防組の的確な働きに、感謝していたそうです。又校舎も倒れた所が多かった。又民家でも自転車屋さんが押しつぶされて二階が一階になったり、屋根瓦が落ちたりした家も少なくなく、又、水稲荷神社のお富士さんが崩れたり、三島通りの方でも魚藤さんとおもちゃ屋さんの二軒がつぶされました。/板金屋の本田清さんのお父さん等は、ある下宿屋の屋根に登って仕事中地震に会い、屋根にしがみついて、地震が終って気がついてみると、もうそこは、地面だった等と沢山の逸話がありますが、当町に於いては火事を出さなかったのが不幸中の幸いでした。(中略) 当時の三島通りは下町の方から、家財道具を荷車に乗せ転出地へ向う被災者の群で大変な混雑が二週間続いたそうです。
  
 文中に「校舎も倒れた所が多かった」と書かれているが、壁面などが崩れた校舎や講堂はあったが倒壊した校舎はなく、レストランや会議室などが入る大隈会館の屋根が崩落したのが最大の被害だったようだ。戸塚町は、落合地域と同様に関東大震災による損害が軽微だったせいか、むしろ市街地からの避難民を受け入れる側の立場になった。
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 1931年(昭和6)出版の『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)にも、大震災の記録が載っているかどうか調べたのだが、ほとんど記述されていない。大正中期から昭和初期にかけ、早野町長が公金を持ち逃げして行方をくらまし、収入役が引きつづき税金を町民から二重取りして着服・費消して大騒動となり、町議会では助役選出や町金庫の選定などをめぐる乱闘で流血がつづくなど、町政が前代未聞の「激震」状態だったため、町民たちは激怒して呆れはて、町会議員の大半も「バカらしくてやってらんねえや」と抗議辞職して、およそ関東大震災どころではなかったのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:下落合から眺めた、夏の巨大な入道雲(積乱雲)。
◆写真中上は、関東大震災3ヶ月前の1923年(大正12)6月に撮影された戸塚球場の東京五大学野球決勝・早明戦。東京帝大(現・東京大学)野球部が準備不足のため、まだ六大学リーグにはなっていない。は、早大運動会開会式を3塁側から撮影した写真。式台背後には、東西を横ぎる目白崖線が見えている。は、早大運動会のカエル踊り。東京美術学校(現・東京藝大)のヨカチン踊りより、まだ少しは上品だと思われる。(爆!)
◆写真中下は、全焼した理工科応用化学教室の煉瓦ビル。震災前の早稲田大学大講堂()と、外壁が崩落した震災直後の同大講堂()。この震災被害により、正門前に新たな大隈講堂の建設計画が進捗することになった。
◆写真下は、屋根が崩落した大隈会館。は、1922年(大正11)ごろに撮影された早大キャンパス全景。戸塚球場は、画面右上の端に3塁側が見えている。は、関東大震災から1月余の1923年(大正12)10月10日に講義の再開を宣言する総長・高田早苗。

下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(4)

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 清水多嘉示Click!が渡仏する前の『下落合風景』Click!(1922年)、あるいは1928年(昭和3)5月に帰国して以来、明らかに「下落合風景」と思われる林泉園作品Click!などを検討してきた。ほかにも、おそらく下落合を描いたとみられる作品は少なくないのだが、道筋や地形がハッキリと描きこまれておらず、また特徴的な住宅などがモチーフになっていないため、描画場所をピンポイントで特定できない画面もある。きょうは、それらの画面について検討してみよう。
 まず、冒頭の清水多嘉示『風景(仮)』(作品番号OP580)だ。この画面は、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「滞仏期[1923-1928年]か」と疑問形で収録されている。もし、この画面を佐伯祐三Click!がお好きな方がひと目観たとたん、「アッ、あそこでは?」と思われるだろうか。特に右手に描かれている、大正末から昭和初期に数多く建てられた日本家屋の意匠に注目し、佐伯の「制作メモ」Click!によれば、1926年(大正15)9月20日に描いた『下落合風景』Click!(曾宮さんの前Click!)、すなわち諏訪谷の南側の高台から北北西を向いて描いているのではないか?……と思われるかもしれない。ちなみに、佐伯の同作には微妙に角度を変えた2作と、降雪あとの諏訪谷を描いた2作の計4作が確認できる。
 ましてや、清水多嘉示は『風景(仮)』Click!(OP284/285)で、諏訪谷の北側に通う曾宮一念アトリエClick!前や、蕗谷虹児アトリエClick!近くの道を描いているとみられることから、よけいに諏訪谷のイメージが強く湧くのではないかと思う。だが、冒頭の『風景(仮)』(OP580)は諏訪谷ではない。確かに、手前の地面の向こう側が、地形的にやや落ちこんでいるように見えるが、諏訪谷ほどは凹地が深くない。また、家々の向こう側に佐伯が描いているような、諏訪谷の“対岸”にあたる丘、つまり清水が『風景(仮)』(OP284/285)で描いた道が通う高台が見えない。さらに、この角度からは必ず見えなければならない、銭湯「福の湯」Click!の煙突も見あたらない。
 太陽光の差しこみ方を見ると、右手から射しているように描かれており、家々の切妻の向きからすると、おそらく北側から南南東の方角を、かなり陽が傾いた午後の時間帯に描いているように見える。ひょっとすると、住宅群の先が南に向いた斜面になっているのかもしれないが、画面からはそこまでの地形はうかがい知れない。電柱が1本も描かれていないので、電力線・電燈線Click!を地下の共同溝に埋設した、いずれかの目白文化村Click!かとも考えたが、このように一般的な住宅群が密集して建てられている文化村の街角を、わたしは知らない。また、清水多嘉示は電柱を省略している画面もありそうなので、文化村だとはいちがいに規定できないのだ。
 また、少し西側に入りこんだ路地にある下落合1443番地の木星社(福田久道)Click!の道筋、すなわち佐伯の「下落合風景」シリーズClick!の作品群に沿った表現をすれば、木星社の周囲に見られた『八島さんの前通り』Click!沿いの空き地から、南南東を向いて描いた風景かとも考えたけれど、残念ながら1936年(昭和11)の空中写真をいくら検証しても、このような家々の配置も、また住宅の意匠も存在していない。いまいち、ハッキリとした特徴のある住宅が描かれておらず、昭和初期の下落合に展開していたごく一般的な住宅街では、あちこちで見られた風景だろう。または、戦時中に本格化する改正道路Click!(山手通りClick!)の工事で、丸ごと消えてしまった街角のひとつなのかもしれない。
下落合日本家屋.JPG
佐伯祐三「下落合風景」曾宮さんの前1926.jpg
鶴田吾郎「初夏郊外」不詳.jpg
諏訪谷と聖母坂.JPG
 次に、同じく『風景(仮)』(OP581)とタイトルされた画面を見てみよう。先の『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「不明・帰国後[1928年以降]」とされている作品だ。この画面を観て、わたしが真っ先に思い浮かべたのは、1925年(大正14)に建設された庭先に大きなソテツが繁る第二文化村の松下邸Click!だった。下落合1367番地の松下市太郎邸は、セメントを混ぜたグレーのモルタルスタッコ仕上げの外壁で、“T”字型をした大きな邸宅だ。
 手前に見える門は、松下邸の門ではなく隣家の敷地の門だとして、目白文化村で数多く作られたレンガの門柱に、四角いレンガかセメントの帽子をかぶせいてる。その門柱には、タテに黒っぽく表札が埋めこまれているような描写が見える。レンガの門柱から塀ではなく、低木の生垣がつづいているのも、いかにも文化村らしい風情をしている。
 だが、これが松下邸だとすると、周囲の空間がやや閑散としている雰囲気が馴染まない。清水多嘉示が帰国した1928年(昭和3)現在では、第二文化村に家々がかなりの密度で建ち並んでいただろうし、もう少し周囲の住宅が望見できてもよさそうな気がする。さらに、目白文化村であれば電柱が見えないのは当然としても、手前の道路の端に大谷石で造作された共同溝が敷設されていなければならない。悩ましいのは、文化村内の幹線道路である三間道路沿いには、もれなく共同溝が設置されていたかもしれないが、すべての二間道路沿いにももれなく敷設されていたかどうかが、いまひとつハッキリしない。
 松下邸は、第一文化村から南へと下ってきた二間道路沿いに建っていたので、宇田川家Click!が所有している箱根土地Click!未買収地Click!つづきの位置にある。だから、未買収エリアには電柱があったので、この二間道路沿いには電柱があった……と考えることもできる。ただし、松下邸がこのような角度に見えるためには、南西側か北西側から眺めるのがいちばん近い角度になるが、そこには路地は認められるが、描かれているような広めの道路が通っていない……という、もうひとつの課題もあるのだ。
清水多嘉示「風景(仮)」OP581.jpg
松下市太郎邸1925.jpg
文化村門.jpg
 つづいて、明らかに画家のアトリエを描いたとみられる、『風景(仮)』(OP612)の画面を観てみよう。この作品も、『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』では「不明・帰国後[1928年]以降」とされている。描かれている家の大きな窓が、北面する画家のアトリエの採光窓だとすれば、清水多嘉示は北西の方角から南東を向いて描いていることになる。陽光は右上から射しているように見え、採光窓がうがたれた外壁面の方角や、画家がイーゼルを立てている描画位置の方角とは矛盾しない。
 家を囲むように描かれている、おそらく大谷石を用いた背の低いオープンな石垣は、落合地域ではあちこちで目にする仕様だ。特に石垣の上にほどこされた、画面では白っぽく描かれている“装飾”は、大谷石を削って造る凝ったデザインの仕事で、大正末から昭和初期にかけて爆発的に流行した塀の施工法だろう。装飾部の大谷石が、なぜ白っぽいのかは不明だが、ペンキを塗るなどなんらかのカラーリングが施されているのかもしれない。
 さて、手前の道路は南へ向かってややカーブしているように見え、東へと向かう道路とでT字路を形成しているようだ。だが、わたしはこのような道筋の場所に建つ画家のアトリエを、下落合(現・中落合/中井含む)でも上落合のエリアでも、これまで古写真や資料類を含めて一度も見たことがない。
 最初は、第三府営住宅Click!(下落合1542番地)に住んだ帝展画家の長野新一Click!のアトリエか、下落合800番地の有岡一郎Click!のアトリエかとも考えたが、道筋の方角が合わないのだ。ひょっとすると、これは落合の風景ではなく、帰国後に住んだ高円寺の風景なのかもしれない。ただし、昭和初期の段階で、落合地域に住んでいた画家たちの、すべてのアトリエの形状を認識しているわけではないので、わたしの知らない落合エリアにあったアトリエ建築の可能性も高そうだ。
清水多嘉示「風景(仮)」OP612.jpg
文化村塀1.JPG
文化村塀2.JPG
 今回は、いかにも昭和初期の落合地域で見られたような、清水多嘉示の風景作品について書いてきたが、ほかにもまだ気になる画面が少なからず存在している。ひょっとすると、それらの画面は落合地域ではないかもしれないのだが、昭和初期の落合風景と重ね合わせることで、その可能性を探ってみたい。また、わたしが知らないだけで、1928~1935年(昭和3~10)ぐらいまでの落合風景で、「この風景は、きっとあそこだ!」とお気づきの方がおられたら、ご教示いただければ幸いだ。

◆写真上:1928年(昭和3)の帰国後に制作されたとみられる、昭和初期の下落合のような風情を感じる清水多嘉示『風景(仮)』(OP580)。
◆写真中上は、現在でも下落合に残る大正期から数多く建設された日本家屋。は、1926年(大正15)制作の佐伯祐三『下落合風景』(曾宮さんの前)に描かれた同様の家屋(上)と、制作年不詳の鶴田吾郎『初夏郊外』にみる同じような日本家屋(下)。は、右手の諏訪谷へ落ちる絶壁と左手の青柳ヶ原を掘削して聖母坂(補助45号線)を敷設した際にできた絶壁。1931年(昭和6)に行われた工事で、実際の地面はこれらの擁壁の上にあたる。
◆写真中下は、清水多嘉示『風景(仮)』(OP581)。は、1925年(大正14)に竣工した松下市太郎邸。は、目白文化村に多いレンガで組み上げた門。
◆写真下は、清水多嘉示『風景(仮)』(OP612)。は、目白文化村に多い大谷石の塀に装飾を施した例で、第一文化村と第二文化村にあった邸の施工ケース。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。

近所のワルガキに悩まされる中野重治。

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中野重治邸跡.jpg
 1934年(昭和9)5月に、中野重治Click!は「政治運動はしない」という誓約書を書かされ、「転向」してようやく豊多摩刑務所Click!から出獄した。上落合481番地に住んでいた、前年4月に治安維持法違反の容疑で逮捕されてから、1年余の獄中生活だった。出獄した直後、四谷区永住町1番地の大木戸ハウスへ仮住まいをしていたが、同年暮れには上落合のほど近く、柏木5丁目1130番地(現・北新宿4丁目)へと転居している。
 柏木の家は、2年前まで淀橋町(大町)1130番地と呼ばれていた、旧・神田上水をはさんで小滝台(華洲園)Click!のすぐ南側にあたるエリアだ。小滝橋Click!から南西へ200mほど入った住宅街にあり、最寄り駅は直線で500mのところにある中央線の東中野駅だった。中野重治が柏木へ転居したころ、ちょうど旧・神田上水の蛇行を修正する直線化工事が進捗しており、沿岸は赤土の空き地が目立つ風情だったろう。
 この家で彼は、軍国主義と戦争へ向かって狂ったように突き進む政府へどのような抵抗を継続するか、「転向」後の活動を模索していたと思われる。近くの上落合2丁目549番地に住む壺井繁治Click!が結成した「サンチョクラブ」Click!へ、出獄して間もなく参加したのもその一環だろう。「サンチョクラブ」Click!の事務局は、上落合2丁目783番地の漫画家・加藤悦郎宅に置かれており、中野重治が2年前に逮捕されたときに住んでいた、上落合(1丁目)481番地のClick!からも500mほどしか離れていない。
 特高の徹底した弾圧がつづく当時の状況を、1968年(昭和43)に理論社から出版された、山田清三郎『プロレタリア文学史』下巻から引用してみよう。
  
 わたしは下獄にさいして、「プロ文壇に遺す言葉」(三四年一〇-一一月『文芸』)をかいていった。これは、一年半前に警視庁の中川・須田・山口らの特高に虐殺された多喜二の霊へ報告の形式で、ナルプ解体後のプロレタリア文学界の点検をおこない、題名通りあとの同志への期待をたくしたものである。(中略) わたしはまたそのなかで、執行猶予で出獄した村山知義の「白夜」(三四年五月『中央公論』)にふれ、「いわゆる“転向”時代のこの情勢の中で、その波を避けることのできなかった鹿野――それは作者の分身である――の、内面的苦悩と、それを救うものとしての精神的支柱」にふれて、この作の意義を解明している。そして、わたしはことのついでに、「窪川鶴次郎も、壺井繁治も、それから中野重治も、みな(伏字の六字は刑の執行猶予)になった。彼等は、夫々に健康もよくなかった」とかいている。かれらはナルプ解体前後に、こうして出獄していた。
  
 「ナルプ」とは「日本プロレタリア作家同盟」の略称だが、いかなるメディアを使いどのような表現をすれば、文学運動がつづけられるか暗中模索の時代だった。今日の文学史的にみれば、1935年(昭和10)という時点はプロレタリア文学が当局の弾圧により、息の根をとめられた年ととらえることができるだろう。
 中野重治はこの時期、当局へ「転向」したことを“証明”するために、政治的な文章ではなく叙事的なエッセイをいくつか残している。家の周辺に展開する光景や風情を描いた作品群は、下獄前の彼の活動を知る人間から見れば、「毒にも薬にもならぬものを書いて…」ということになるのだろうが、いまとなっては1930年代後半の新宿北部の様子を知るうえで、非常に貴重な記録という別の側面を備えている。
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中野重治柏木5-1130.jpg
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 中野重治は柏木の家で、近所に住む小さなワルガキどもに悩まされている。庭先にある樹木の若葉をむしられ、鉢から庭へ移植して大切に育てていたバラの花を、片っぱしから摘まれてしまった。1959年(昭和34)に筑摩書房から出版された、『中野重治全集』所収の「子供と花」から引用してみよう。
  
 私の家の前にどぶがあって、そのどぶばたに背の低いアオキが立っている。春から夏へかけてきれいな芽が出てきて、それがどんどん葉になって行く。大いによろこんでいると、ある朝すっかりむしられてしまった。葉という葉をのこらずむしられて、下手なステッキのようになってしまったのでがっかりしていると、そのうちまた美しい葉が出てきたので安心した。するとまたそれがむしられてしまった。/いたずらをするのは近所の子供たちで、それがまだ幼稚園へも行かぬような小さいのばかりなので叱りつけることもできない。(中略) 夏になって私はバラの鉢を買ってきた。花盛りが過ぎかけたので外の垣根のところへ移しかえた。と、子供たちが今度はそれを摘みはじめた。花ざかりがすぎたといってもまだぽつぽつ咲くし、季節の最後の花でちょっとなかなかいいので、それが片っぱしから摘みとられるので今度は叱りつけた。
  
 でも、子どもたちの悪戯はまったく止まない。今度は、隣家のカシの木の幹を小刀で傷つけているのを見つけた。中野重治が庭に出て「何をしてるんだい?」と訊ねると、子どもたちは「蟻を切ってるんだぜ」と答えた。やめるようにいうと、「だって木にのぼっていけないじゃないか?」「蟻だけ切るんだから木を切らなけや(きゃ)いいだろう?」と、わけのわからない理屈が返ってきた。だが、中野がその後も観察していると、やはりアリを退治しているのではなく、カシの幹を傷つけては喜んでいるようにしか見えない。
 ここで面白いのは、大人に叱られてもまったく懲りずに動じない、逆に妙な屁理屈をひねり出して大人に“抵抗”しようとする小さな子どもたちが、つい数年前まで豊多摩郡と呼ばれて田畑が多く拡がっていた、東京郊外に出現しているということだろうか。こういう“ひねっこびれた”ワルガキどもは町場、特に市街地に多くいたはずなのだが、1930年代の淀橋区(現・新宿区の東側)北部にも現われはじめたということだ。
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 1932年(昭和7)に東京35区の「大東京」Click!時代を迎え、また鉄道や市電、乗合自動車(バス)Click!など交通インフラの急速な整備により、市街地(旧・東京15区エリア)に住んでいたサラリーマン家庭が、1932年(昭和7)以前は郊外と呼ばれていた田園地帯へ転居するケースが急増していた。また、大きな企業では社宅を旧・郡部へ建設する事例も多かっただろう。山手線の西側には、次々とターミナル駅が形成され、都市部の風俗や習慣がいっせいに外周域へと流入した時期とも重なる。
 農村部の単純で素朴な子どもたちは姿を消し、大人に叱られてもちょっとやそっとでは懲りない「都市型ワルガキ」も、この時期に急増していったにちがいない。カシの幹切りからしばらくすると、中野重治の庭に咲くバラがまた被害に遭っている。
  
 その後五、六日してまたバラをむしるのを見つけた。「おい止せよ。」というと二、三人ばらばらと逃げ出したが、逃げおくれた小さい子が、ひっこみがつかなくて、「ね、おじちゃん、花とっちゃいけないんだね……」と媚びるような調子で言い出したのには閉口してしまった。へんなことをいうなよというわけにも行かない。乱暴なら乱暴でそれ一方ならいいが、へんに大人的に出られると参ってしまう。子供の方でもやはり気まずいらしい。言いわけにならぬ言いわけだということを何となく自分でも感じるらしい。不愉快とはいえないが、ちょっと辛いようなものである。
  
 こういうときは、奥さんの原泉Click!(原泉子=中野政野)に白装束で鉢巻きをしめ、榊(さかき)の枝をふりまわしながら登場してもらって、「鎧明神の将門様がお怒りじゃ~! おまえたち、呪われてしまうぞよ~!」と出ていけば、子どもたちはヒェ~~ッと逃げていって二度とやってはこなかったかもしれないのだが、彼女はいまだ怖くて妖しげな老婆ではなく、築地小劇場などで活躍する若くて美しい舞台女優だった。
鎧神社.JPG
東中野染め物洗い張り.JPG
 1930年代を迎えると、落合地域とその周辺域では市街地から続々と転入してくる子どもたちで尋常小学校が足りなくなり、次々と新しい学校が開校している。だが、それでも間に合わずに既存校舎の増改築を進めるが、さらに校舎からあふれた生徒たちは、周辺の公共施設や集会場などの「臨時校舎」を利用して授業を受けていた。

◆写真上:戦前に中野重治・原泉の自宅があった、柏木5丁目1130番地あたりの現状。戦後の区画整理で道路が変わってしまい、旧居跡の道筋は消滅している。
◆写真中上は、1932年(昭和7)作成の1/10,000地形図にみる柏木1130番地で旧・神田上水の直線化工事がはじまっている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中野重治邸。は、1930年代に西側の斜めフカンから撮影された同所。
◆写真中下は、1930年(昭和5)に撮影された中野重治と中野政野(原泉)。は、1941年(昭和16)ごろに撮影された柏木5丁目界隈。上部に見えている大邸宅群は小滝台(旧・華洲園)住宅地だが、この一帯は1945年(昭和20)の空襲で全焼している。
◆写真下は、柏木の中野宅から南へ200mほどのところにある鎧明神社。は、柏木から東中野にかけての神田川沿いにも「染め物洗い張り」の工房が展開している。

下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(5)

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清水多嘉示「風景(仮)」OP287.jpg
 前回もご紹介したように、清水多嘉示Click!の作品には1923年(大正12)3月に渡仏する以前と、1928年(昭和3)5月に帰国して以降に、下落合(ないしは東京郊外)を歩きながら描いたと思われる風景画が少なからず存在している。清水がしばしば下落合を訪れたとみられるのは、1929年(昭和4)まで中村彝Click!アトリエClick!中村会Click!(のち中村彝会Click!)として機能していたことと、多くの友人知人のアトリエが下落合にあったことが要因として挙げられる。
 今回ご紹介する作品もまた、はっきりとした道筋や地形、建物の特徴などが鮮明に描かれておらず、いかにも昭和の最初期の下落合をとらえたような作品ばかりだが、描画場所をピンポイントで規定できないものが多い。まず、冒頭に掲示した『風景(仮)』(作品番号OP287)から見ていこう。この作品も、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「滞仏期[1923-1928年]か」と疑問形で収録されている1点だ。
 この画面を観て真っ先に思い浮かべたのが、目白文化村Click!の第一文化村に接して建っていた、レンガ造り2階建ての箱根土地本社Click!のビルだ。同本社ビルは建設当初、まるで明治期の西洋館を彷彿とさせる赤いレンガの建物だったが、1925年(大正14)に箱根土地が国立へ移転すると同時に中央生命保険が買収し、以後は「中央生命保険俱楽部」として利用されている。その際、赤いレンガだった外壁は全面をベージュに塗り直されているとみられ、また建物の東側に2階建てのウィングを増築していると思われる。
 下落合1328番地にあった赤レンガ時代の箱根土地本社ビルは、1925年(大正14)に松下春雄Click!『下落合文化村入口』Click!として描き、外壁をベージュに塗り直したあとの中央生命保険俱楽部の建物は、1926年(大正15)に林武Click!『文化村風景』Click!として制作している。いずれも、同ビルを南側にある庭園「不動園」Click!側から描いたもので、庭園の池に向けて南側へ下る地形の上にレンガ構造の建物が建っていた。建物は戦時中に解体され、不動園の斜面や池も埋め立てられ整地化されたが、現在でも南へ向けた傾斜はそのまま残っている。
 さて、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287)を見ていこう。この画面が制作されたのは、もちろん1928年(昭和3)以降だとみられるので、建物は外壁がベージュに塗り直された中央生命保険俱楽部の時代だ。門柱には、黒っぽい長めのプレートが嵌めこまれているような表現が見えるので、ネームにはそう書かれているのかもしれない。この門が正門だとすれば、北側から南を向いて描いていることになる。つまり、文化村派出所(交番)Click!のすぐ横から、中央生命保険俱楽部を向いて制作していることになる。
 画面左手(東側)には、すでに南の庭園「不動園」に向けて急傾斜の斜面上に、中央生命保険が増築した新たな東ウィングが見えている。手前の道路を右手(西北西)に歩けば、隣接する第一文化村の北辺へ、また左手(東南東)に歩けば、ほどなく落合第一小学校Click!や落合町役場の前へと抜けることができる。昭和初期なので、改正道路Click!(山手通りClick!)工事はまだはじまっていない。
 だが、確信をもって描画場所を規定できないのは、箱根土地本社時代のビルの全景写真は現存するので確認できるのだが、中央生命保険俱楽部時代の建物は東ウィングが増築された、1936年(昭和11)のぼやけた空中写真でしか見たことがないので、いまひとつ建物全体の姿を把握できないことだ。また、増築された東ウィングの部分写真なら、落合第一小学校の卒業記念アルバムで確認できるが、俱楽部の本館(旧・箱根土地本社ビル)に対して、東ウィングが北側の道路からどのように見えていたものか、あるいはどのような増改築の過程があったのか、はっきりと把握することができない。
 1925年(大正14)ごろから1928年(昭和3)まで、落合第一小学校は校舎の全面建て替え工事Click!のため、卒業アルバムの記念写真を中央生命保険俱楽部に南面する庭園で撮影していた。その撮影場所が、ちょうど東ウィング前の急斜面にあたる。
箱根土地本社ビル.jpg
松下春雄「文化村入口」1925.jpg
林武「文化村風景」1926.jpg
不動園池.jpg
 また、清水多嘉示は外壁をベージュではなく、おもにグレイで描いている。(部分的にベージュが使われてはいるが) 描かれているのは建物の北面であり、曇りがちの日であれば蔭りでグレーに見えたのかもしれないが、林武は西日を受けた同建物の南面外壁をタマゴ色に描いている。ちなみに、赤レンガの構造物を防水剤を混ぜたベージュのペンキで厚塗りする施工法は、佐伯祐三Click!が描いた新橋駅のレンガ造りガードClick!でも見ることができる仕様だ。
 さらに、同倶楽部の門からエントランスまで、やや距離がありすぎるようにも感じる。大正期でなく、もはや昭和初期の洋画であれば、実際の風景をそのまま忠実に写すばかりでなく、多分に“構成”やデフォルマシオンが加えられている可能性もあり、いまひとつ下落合1328番地の風景だ……と規定することがむずかしいゆえんだ。
 さて、次の『風景(仮)』(OP288)も描画場所の特定がむずかしい。『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「不明・帰国後[1928年以降]」とされている1枚だ。西洋館が3棟に、日本家屋が2棟ほど描かれているように見えるのだが、電柱が1本も存在していない。そのまま受けとれば、電力・電燈線Click!共同溝Click!に埋設した目白文化村の一部を描いたようにも思えるが、このような一般的でありふれた仕様の住宅が並んでいる様子を、わたしは目白文化村の内部では知らない。また、家々も文化村にしては近接しすぎていて、敷地の規模が小さすぎるように感じる。いかにも当時の下落合なら、どこにでも建っていそうな住宅群の一画だ。清水は、あえて電柱を省略して描いているのかもしれない。
 この作品が、まちがいなく東京で描かれているとみられるのは、中央に描かれた西洋館の尖がり屋根が白く塗られているからだ。別に、この家だけに雪が降ったわけではなく、昼間の光線を反射して屋根が光っているからだろう。1923年(大正12)の関東大震災Click!以降、下落合に建てられつづけた住宅(特に西洋館)は、地震で重たい瓦屋根が倒壊するのを防ぐために、軽いスレートやトタンで葺く屋根が急増していく。佐伯祐三が描く「下落合風景」シリーズClick!にも、住宅群をとらえた風景のところどころに、白く反射Click!するトタンかスレートの屋根が描きこまれている。これは下落合に限らず、東京じゅうの新興住宅街で見られた大きな特徴だろう。
 もうひとつ、画面には大正期から昭和初期にかけて大流行した、住宅建築(西洋館)の特徴がとらえられている。白い屋根の左隣り、赤い屋根の西洋館に設置された、尖がり屋根のかわいい玄関ポーチだ。これは、現存する大正期の西洋館(たとえば中谷邸Click!)でも実際に見ることができる。画面の西洋館は、中谷邸Click!に比べればかなりコンパクトだが、それでも当時のトレンドを積極的に取り入れたのだろう、自邸を建設できた住民のうれしさが伝わってくるような意匠の建物だ。
落一小卒業記念写真1928頃.jpg
箱根土地本社ビル1936.jpg
清水多嘉示「風景(仮)」OP288.jpg
佐伯祐三「遠望の岡?」1926.jpg
 だが、このような住宅は昭和初期の下落合では随所に見られ、描画場所を特定するメルクマールにはならない。強いていえば、住宅の周囲が空き地のような風情である点や、手前に農業用水の井戸(肥溜め?)のような施設が見えるところから、畑地が多く残る昭和初期の下落合(現・中落合/中井含む)西部のような気がする。もっとも同時代の高円寺風景といっても、なんら不思議ではない画面だといえよう。
 もう1枚の画面も、『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば「滞仏期[1923-1928年]か」と、疑問視されている『風景(仮)』(OP290)だが、わたしには下落合あたりの日本の風景に見えている。先述したトタンないしはスレートの光る屋根が、ここでは中央左に描かれた住宅の屋根として、よりはっきりとした質感や“てかり”とともに描写されている。どうやら、淡いブルーのトタン屋根のようだ。
 関東大震災時の市街地では、重たい瓦屋根を載せた住宅の倒壊や、瓦の落下による死傷者が相次ぎ、東京市では震災後に釘止めができる屋根瓦以外の使用禁止や、軽量なトタンあるいはスレートの屋根を奨励している。また、トタンやスレートよりもさらに軽量な「布瓦」(石綿スレート)Click!が発明されてブームになり、佐伯祐三アトリエも屋根の重量を軽くするために、防災仕様Click!の「布瓦」で葺かれていた時代があった。
 『風景(仮)』(OP290)の画面には、やはり電柱が描かれていないが、前出の『風景(仮)』(OP288)と同様に文化村かどうかは不明だ。右手に描かれている赤い屋根の住宅は、あめりか屋Click!あたりが建てそうな昭和初期の洋館のように見えるし、左手のトタン屋根の家は下見板張りの外壁にクレオソートClick!を塗布した、焦げ茶色の和洋折衷住宅のように見える。手前にはカーブする道が描かれているけれど、家々がまばらな様子から下落合東部の風情には見えない。これもまた、下落合西部に見られた街角風景だろうか。
中谷邸.JPG
清水多嘉示「風景(仮)」OP290.jpg
木星社跡.JPG
蕗谷虹児アトリエ跡.JPG
 清水多嘉示は、中村彝アトリエの周辺や曾宮一念アトリエClick!蕗谷虹児アトリエClick!、そして木星社Click!(福田久道Click!邸)の周囲を描いていると想定できるが、この中でもっとも西寄りなのが下落合1443番地の木星社だ。清水ははたして、そこからさらに西へ足を向けているのだろうか。もし福田久道などから、モチーフになりそうな風景が西にありそうだと奨められれば、画道具を抱えて積極的に出かけていたようにも思える。

◆写真上:帰国後に描いた可能性がある、清水多嘉示『風景(仮)』(OP287)。
◆写真中上は、下落合1328番地にあった竣工当時の箱根土地本社ビル。東側のウィングは、いまだ増築されていない。中上は、1925年(大正14)制作の松下春雄『下落合文化村入口』で箱根土地本社がレンガ色をしている。中下は、1926年(大正15)制作の林武『文化村風景』で中央生命保険俱楽部の外壁がベージュに塗り替えられている。は、1922年(大正11)ごろに撮影された不動園の池(手前)。池から西北西を向いて、目白文化村住民の親睦施設であるF.L.ライト風の「俱楽部」を撮影している。
◆写真中下は、1928年(昭和3)春に撮影された落合第一小学校の卒業記念写真。左手の斜面上に見えているのが中央生命保険俱楽部のウィング東端で、「おちあいよろず写真館」(コミュニティおちあいあれこれ/2003年)より。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中央生命保険俱楽部。中下は、帰国後に描かれた清水多嘉示『風景(仮)』(OP288)。は、トタンやスレートの屋根の“てかり”を表現したとみられる佐伯祐三が二ノ坂上を描いた『下落合風景』(「遠望の岡」?/部分)。当初、画面の洗浄でニスを洗い落とす際、薄塗りの絵の具まで洗ってしまった可能性も考えたが、ほかの作品表現も含めて考えるとどうもそうではなさそうだ。
◆写真下は、尖がり屋根の玄関ポーチがかわいい中谷邸。中上は、帰国後に描いていると思われる清水多嘉示『風景(仮)』(OP290)。中下は、下落合1443番地にあった木星社(福田久道邸)跡。は、下落合622番地の蕗谷虹児アトリエ跡で、現在は右手の洋館が和館に建て替えられている。また、道路の突き当たりは下落合630番地の敷地で里見勝蔵アトリエClick!森田亀之助邸Click!が建っていた。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

原稿料はまたあとでの松井直樹スタイル。

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松井直樹邸跡.JPG
 戦前から戦後にかけ、オシャレな本の装丁や挿画、ファッションデザインを手がけた人物に、下落合に住んだ松井直樹がいる。彼が下落合に引っ越してきたのは、1933年(昭和8)ごろのことだが、大正末から落合地域には頻繁に足を向けており、マヴォやダダイズムの関係者が集っていたバー「アザミ」Click!のこともよく知っているようだ。
 吉行エイスケの妻・吉行あぐりClick!が経営していたバー「アザミ」は、平仮名で「あざみ」と表記していたと思っていたが、松井直樹をはじめ他の資料では「アザミ」とカタカナ表記のものも少なくない。どちらが正確な表記かは不明だが、仮名表記が一定しないところをみると看板が「AZAMI」と、ローマ字表記だった可能性もありそうだ。
 当時の松井を含む、先端の美術やデザインに惹かれていた若者たちは、銀座で飲んだあと六本木のバーに流れ、そこから東中野駅へとやってくるのがひとつの“お決まりコース”だったらしい。西武電鉄Click!が存在しない当時、上落合へと出るには東中野駅から北へ600mほど歩かなければならなかった。
 当時の様子を、1962年(昭和37)6月10日発行の「落合新聞」Click!に掲載された、松井直樹のエッセイ『落合あのころ』から引用してみよう。
  
 銀座のバーで酒をのむと、六本木からはるばる東中野まで流れていったものだ。東京にバーというものの少なかった頃で、銀座のほかにはこの二つの地区にしゃれたバーがあったからだ。/東中野駅におりたつと、あのころなにか、急に空気が明るくなって、光と風が澄み切ってさわやかだった。一九二〇年代の先鋭的な新風が吹いていた。ユーカリだのアザミだのという店があって、そこいらを中心に当時のヌーベルバーグはとぐろを巻いていた。村山知義氏が、意識的構成主義を独逸からもちかえり、マヴォの運動をはじめたのもあの頃で、彼のアトリエは上落合にあった。あのころは六本木族だの落合族だのといわなかったが、あのころの落合界隈は、たしかに当時のもっとも前衛的な画家や文人の巣窟だった。
  
 バー「アザミ」は、東中野駅の北側=上落合側にあり、バー「ユーカリ」は駅の南側に開店していたようだ。この“アヴァンギャルド”な2店は、大正末の「大日本職業明細図」あるいは昭和初期の「便益明細地図」を参照しても採取されていないので、ほんの短い期間しか存在していないのだろう。
 松井直樹が下落合へと転居してくるのは、上落合に住むプロレタリア美術家や作家たちの運動が、特高Click!の弾圧で壊滅状態となった1933年(昭和8)ごろだった。彼はそのころ、宇野千代Click!が編集していた雑誌「スタイル」の装丁や、彼女が書く小説の挿画を担当していた。だが、「スタイル」は赤字つづきで資金繰りがきびしく、共同編集者である彼の給与も滞りがちだった。松井は社長の宇野千代を引っぱりだすと、ふたりで落合地域を頻繁に訪れるようになった。
東中野駅(柏木駅).jpg
東中野駅踏切.jpg
スタイル.jpg カラーデザイン.jpg
 当時、下落合2108番地に住んでいた吉屋信子Click!や落合2133番地の林芙美子Click!、上落合503番地の壺井栄Click!などに原稿を書いてもらうためだ。もちろん、原稿料はいつ払えるかわからないのだが、それでもかまわないと「スタイル」を支援してくれる作家たちが、落合地域には多く住んでいたのだ。だから松井直樹自身も、下落合へ越してくるのにそれほどためらわなかったのだろう。
 最初は、西武線の中井駅から西へ300mほど歩いたところ、ちょうど林芙美子の「お化け屋敷」Click!が真向かいに見える、五ノ坂下の下落合850番地あたりだった。この借家は、ほんの短い間だけだったようだが、「若林」という大家の紹介で同じ下落合に家を建てて住んでいる。同エッセイから、再び引用してみよう。
  
 原稿料がいつもおくれるので原稿のたのみようがなくなると、社長の宇野さんをかりだして、吉屋さん、壺井さん、美川さんなどと、あちこち女流作家のところへも出かけたが、林さんのお宅へもそうして行ったのだった。宇野さんの人徳で原稿を手に入れようというわけだった。/私の住んでいた林さんの向いの家の家主さんは、若林さんという奥さんだったが(百代さんというお名前だったと思う)いまどうしていらっしゃるだろうか。その頃の私たち、妻との二人をユカイな似あいのカップルだといって、土地があるから二人に似あいの家を建ててやろうということになった。/その新しい家というのがまた、林さんの新居の方の向いだった。やがて戦局がしだいに緊迫して、隣組の防空演習がはじまり、米や砂糖や酒もタバコも窮屈になってきた。その頃私たちはその懐しい家と別れて、鎌倉の長谷の大仏裏へ引越してしまった。
  
五ノ坂下1938.jpg
四ノ坂下1938.jpg
吉屋信子邸にて1936.jpg
 この中で「美川」とは、三岸好太郎Click!と親しい画家・鳥海青児Click!の妻で作家の美川きよのことだ。大家が世話してくれた土地は、のちの1941年(昭和16)から林芙美子Click!手塚緑敏Click!夫妻が住むようになる新居Click!(下落合4丁目2096番地)の向かい、つまり四ノ坂下の下落合4丁目2041~2051番地あたりの一画だろう。中井駅から西へ200mほど歩いたところで、尾崎一雄Click!“もぐら横丁”Click!の近くだ。
 松井直樹は、空襲が近づくと鎌倉へ疎開してしまうが、二度にわたる山手空襲Click!でも四ノ坂下の家々はあまり焼けず、戦後までなんとか残っている。松井は下落合の暮らしがよほど気に入っていたのだろう、戦後になると再び落合地域へ家を建ててもどってくる。
  
 (前略)また落合に土地を見つけ、十二坪制限の家を建てて住むようになった。東京はまだ壕舎生活をしているようなときだったので、この小さな家が、ヤミぶとりで建てたようにみえるのではないかと気がひけたものだった。落合は変ったといっても、このあたりに二十年も三十年も前の昔から流れている親愛派の空気、幸福そのもののような生活的雰囲気はいまも変りなく、まだまだあちこちのすみずみに残っている。落合はアンチミストの町である。
  
 松井直樹がもどってきたのは下落合3丁目1384番地、すなわち目白文化村Click!の第一文化村の北に接する二間道路から少し入ったところの家だった。1963年(昭和38)作成の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にも、確かに「松井」のネームが採取されている。
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松井直樹邸1963.jpg
 実は、「落合新聞」を発行している落合新聞社、すなわち竹田助雄Click!の自宅は下落合3丁目1385番地だ。1384番地の松居邸とは、南西側の敷地の角を接する隣り同士の間がらだ。つまり竹田助雄は、お隣りの松井直樹へ垣根ごしに原稿を依頼したことになる。

◆写真上:突き当たり右手に松井直樹邸があった、下落合3丁目1384番地の現状。
◆写真中上は、大正期に撮影された柏木駅(のち東中野駅)。は、1933年(昭和8)に撮影された東中野駅近くの踏み切り。下左は、松井直樹がデザインを担当した戦前のファッション誌「スタイル」。下右は、戦後に松井が活躍した「カラーデザイン」。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる松井直樹邸があった五ノ坂下と四ノ坂下。は、1936年(昭和11)に撮影された作家たちで右から左へ宇野千代、吉屋信子、窪川稲子(佐多稲子)、林芙美子
◆写真下は、「落合新聞」1962年(昭和37)6月10日号に掲載された松井直樹『落合あのころ』。は、1963年(昭和38)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる松井直樹邸と竹田助雄邸(落合新聞社/竹田写真製版所)。

下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(6)

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清水多嘉示「民家(仮)」OP648.jpg
 前回につづき、清水多嘉示Click!が描いた帰国後の風景作品を検討していこう。まず、冒頭の画面は武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、『民家(仮)』(作品番号OP648)とタイトルされており、これも制作時期が「不明(帰国後[1928年以降])」と分類されている作品だ。この風景も、昭和最初期の下落合ならあちこちで見られた風情だろう。光線の射し方や、家々の屋根が向く切妻の方角から見て画家の背後が南側であり、平屋と2階建ての住宅がかなり密集している。
 手前は畑か、冬場の草原のような様子をしており、広めな空き地の向こう側に低木の生垣を隔てて住宅群が並んでいる。そして、清水の画面にはめずらしく電柱や、家々に建てられた長い竿状の細い柱、そして銭湯の煙突らしいものまで描きこまれている。これだけ、住宅の上空に賑やかな描きこみのある清水の作品はめずらしい。
 まず、家々に建てられた細い竿状の柱はなんだろうか? 大正期から住宅のトイレに、2階屋根よりもかなり高めな「臭突(臭い抜き)」Click!が設置される事例が急増している。トイレが水洗ではない、おもに東京郊外の住宅街で目立つ流行りの設備だった。だが、「臭突」だと先端に風を受けてまわり、筒内部の空気を逃がす風車のふくらみがないとおかしい。あるいは、画面左手と中央右寄りの住宅に描かれている2本の竿は、鯉のぼりを泳がせるために男の子がいる家が建てた掲揚竿だろうか? だが、右側の1本は、どこか電柱の横木を思わせるような表現にも見える。明らかに電柱とみられるフォルムは、中央に描かれた灰色屋根の2階家から、ちょこんと突き出ているのが確認できる。
 さて、関東大震災Click!を経験した東京らしい、トタンかスレートとみられる2階家の赤い軽量屋根の左端から突き出ている、太い棒状のものはなんだろうか? 先端から灰白色の煙のようなものが流れ出ており、空に描かれた右手へとたなびく異なる色彩の表現を考慮すれば、手前の密集した住宅街の存在とあいまって、風の強い日にとらえられた近くにある銭湯の煙突と想定しても、あながち不自然ではないだろう。昭和初期に落合地域で開業していた銭湯は、すべて把握している。
 それらの銭湯とその周辺に拡がる住宅街を、ひとつひとつ地図や空中写真で検証していくと、当時の下落合にはこの風景に合致しそうな場所が3ヶ所ある。画面には丘状の地形も、また坂道などの傾斜地も見られないことから、目白崖線の丘上と解釈してまちがいないだろう。そうすると、このように建てこんだ一般的な住宅街の北側に銭湯の煙突が見える場所は、下落合574番地の「富士の湯」か、下落合635番地の「福の湯」Click!、下落合1498番地の「菊の湯」の3ヶ所しかない。
 ただし、光線の射しこむ様子から画家の背後が南だとすれば、「菊の湯」Click!の南側には敷地も広く大きめな第一府営住宅Click!の屋敷街が展開しているので、このような風情には見えなかっただろう。同様に、「富士の湯」の南側は大正末から住宅が密集しており、手前に描かれたような広い空き地あるいは原っぱの存在が想定しにくい。すると、残るは「福の湯」の煙突ということになる。
 また、煙突が「福の湯」だとすれば、1931年(昭和6)以降のこの位置には、補助45号線Click!(聖母坂Click!)が通っていなければならない。そう考えると、『民家(仮)』(OP648)が制作された時期は帰国した1928年(昭和3)5月から、聖母坂の道路工事がはじまる1930年(昭和5)ごろまでの間……と想定することができる。以上のような状況を踏まえながら、改めて画面を眺めてみると、手前の空き地は畑でも宅地造成でできた原っぱでもなく、東京府が計画する補助45号線の買収を終え、家々が解体された道路用地にも見えてくる。
 清水多嘉示がイーゼルを立てている(とみられる)位置は、右手のキャンバス枠外に下落合630番地の森田亀之助邸Click!、画家の位置から右うしろへ70mほどのところに下落合622番地の蕗谷虹児アトリエClick!(1930年代前半だとすると未建設)、同じく右うしろ100mほどのところには下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!、また画家の左うしろ100mほどのところには下落合1443番地の木星社(福田久道邸)Click!……というような関係になる。以前にご紹介した、曾宮アトリエを描いたとみられる『風景(仮)』(OP284/285)Click!の、わずか西北西へ100mほど歩いた地点だ。
 1930年(昭和5)1月に、清水多嘉示は『清水多嘉示滞欧作品集』を木星社から刊行しているので、その打ち合わせに下落合の福田久道Click!を訪れた際、1929年(昭和4)ごろにちょっと“寄り道”して制作された作品なのかもしれない。
清水多嘉示「民家(仮)」OP648拡大.jpg
福の湯1926.jpg
福の湯1936.jpg
福の湯煙突.JPG
 1930年(昭和5)に入ってしまうと、聖母病院Click!フィンデル本館Click!の建設がはじまり、同時に補助45号線(聖母坂)の造成・掘削工事もスタートしていただろう。この道路工事によって、手前の空き地に建っていた家々と同様に、画面左手に見える家々は立ち退きを迫られ、ほどなく解体されることになったかもしれない。清水多嘉示がイーゼルをすえているのは、用地買収を終えた下落合655番地の山上邸の東側敷地か、同656番地の高田邸の跡地あたりということになる。
 だが、山上邸や高田邸の東側には、何ヶ所かが「く」の字にクラックする細い路地が通っていたはずなのだが、画面にはハッキリと表現されていない。手前の空き地に繁る枯草の間を、斜めに横切るような土面の表現がそれに相当するのだろうか? いずれにしても、道路建設の直前の情景だとすれば、周囲は空き地だらけになっていたはずであり、細い道路自体がまったく用をなさず、東京府が買収を終えた草原の中にまぎれてしまっていた可能性も否定できない。
 ちなみに、佐伯祐三Click!も近くの情景を「下落合風景」シリーズClick!で描いている。1927年(昭和2)の5~6月ごろ、八島邸Click!や竣工したばかりの納邸Click!を入れ、「八島さんの前通り」Click!を北側から描いた第2次渡仏直前の1930年協会第2回展Click!へ出展された作品だ。佐伯がイーゼルを立てているのは、清水多嘉示の描画位置から西へわずか140mほどのところということになる。清水の画面に描かれた当時は一般的な住宅群を、2~3年前に描いた佐伯の画面でも見ることができる。清水は南を背に、北へキャンバスを向けて制作しているが、佐伯は逆に北側から南を向いて仕事をしている。
 清水は、描く風景のメルクマールとでもいうべき、特徴的な道路や住宅、電柱、工場、煙突、坂道などを入れて描くことが少ない。『民家(仮)』(OP648)は、煙突らしいフォルムが描かれていたので描画位置を推定することができるが、もしこれが銭湯の煙突ではなくたとえば電柱だとすれば、落合地域の随所で、あるいは清水が帰国後に新居をかまえた高円寺でも、あちこちで見られた風景のように思える。
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佐伯祐三「曾宮さんの前」1926.jpg
森田亀之助邸跡.JPG
 さて、次に『風景(仮)』(OP589)を見てみよう。この作品も、「不明(帰国後[1928年以降])」と分類されている。手前には丘へ上る坂道が描かれ、右手には丘上か斜面に建つ洋風の2階家がポツンと描かれている。画家の視点は、道路をはさんで反対側のやや小高い位置から坂道を見下ろしている点にも留意したい。いかにも、坂や斜面が多い下落合らしい風情だが、これに合致する場所は昭和初期の現在、地図や空中写真あるいは多様な資料を前提に考えても、なかなか思い当たらない。
 下落合は、南斜面と丘上を中心に明治期から拓けた別荘地であり、大正期から昭和初期にかけては新宿方面(南面)への眺望に優れ、冬は陽当たりがよく北風が防げて暖かな南へと下る坂道や斜面では、積極的な宅地開発が行われている。したがって画面のような坂道があれば、すでに昭和初期にはその両側に家々が建ち並んでいる場所が多い。ただし、わたしの知る限り例外が2ヶ所ほどある。
 ひとつは、大倉財閥が丘全体を買収し、明治期には伊藤博文Click!の別荘があったという伝承が残る下落合(現・中落合/中井含む)東部の大倉山(権兵衛山)Click!界隈と、ふたつめは改正道路(山手通り)工事が予定されていて宅地開発が進まず、のちに樹木が伐採されて「赤土山」Click!とも呼ばれ、同工事により坂道(たとえば矢田坂Click!振り子坂Click!など)の多くが全的に、または部分的に消滅してしまう下落合の中部一帯だ。
 まず、この情景が大倉山(権兵衛山)だとすれば、描かれている坂道は七曲坂Click!の最上部であり、見えている家は大正期中に下落合630番地へ自宅を建てて転居する、下落合323番地の旧・森田亀之助邸Click!の並びに建てられた家の1棟……ということになるだろうか。大倉山(権瓶山)のピークは画面右手の枠外にあり、清水多嘉示がイーゼルを立てるかスケッチしているのは、下落合775番地の大島久直邸Click!の敷地土手ということになる。なお、森田亀之助が転居した理由は明確でないが、大倉家がテニスコートなどのスポーツ施設を建設するために、周辺の借家を解体している可能性がある。
 この七曲坂を、そのまま目白通りのある北へと歩けば、途中で中村彝Click!アトリエのある林泉園Click!が右手に見えてくる。また、画面右上に描かれた住宅の北側には細い路地が東西に通い、七曲坂へと抜ける道沿いにはヒマラヤスギの並木Click!が植えられていた。画面の中央上から左にかけて、少し尖がり気味の樹木が描かれているのがそれだろうか?
清水多嘉示「風景(仮)」OP589.jpg
七曲坂1936.jpg
赤土山1936.jpg
赤土山1938年以降.jpg
 また、『風景(仮)』(OP589)の画面が下落合中部の丘陵地帯の場合、わたしには描画場所が不明としかいいようがない。なぜなら、改正道路(山手通り)Click!の敷設によって地形が大きく改造されてしまった同エリアでは、消滅してしまった場所へ実際に立つことも不可能だし、1936年(昭和11)に撮影された空中写真と昭和初期の地形図からしか、消えた丘陵地「赤土山」を想像する以外に手だてがない。しかも、当該のエリアには住宅が少なかったせいか撮影された写真も少なく、現存する資料類もほとんど見当たらないからだ。

◆写真上:1928年(昭和3)の帰国後に制作された、清水多嘉示『民家(仮)』(OP648)。
◆写真中上は、同作品の空を拡大したもの。中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる推定描画ポイントで聖母坂は存在しない。中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。は、補強された解体直前の福の湯煙突。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる福の湯とその周辺。は、1926年(大正15)9月20日制作の佐伯祐三『下落合風景(曾宮さんの前)』(部分)に描かれた福の湯の煙突。は、福の湯の南にあった下落合630番地の森田亀之助邸跡(右手)。
◆写真下は、同じく帰国後に描かれた清水多嘉示『風景(仮)』(OP589)。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる七曲坂上。中下は、同年の空中写真にみる山手通りの工事が計画されている赤土山周辺。は、1937年(昭和12)以降に赤土山から撮影されたと思われる風景。左側に見える電柱が並んだ坂道は、第二文化村の南端に通う振り子坂で、赤土山から北西の方角を見て撮影したと思われる。同写真は、「落合新聞」1967年(昭和42)3月1日号に掲載されたもので熊倉家所蔵の1枚。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。

久しぶりに「Stereo Sound」を眺めると。

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 きょうは、落合地域やその周辺、さらに江戸東京地方とはまったく関係のない記事だ。音楽やオーディオに興味ない方は、どうぞ読み飛ばしていただきたい。
  
 昨年の暮れ、季刊「Stereo Sound」誌が200号を迎えたというので、久しぶりに買ってはみたけれど、そのまま読まずにCDラックの中へ入れっぱなしにしておいた。ベルリンPhレコーディングスが制作している、付録のSACDにも惹かれたのだが、“おまけ”のディスクだけ聴いて本誌は開かないままだった。だが、ほんとうに久しぶりに同誌を読んでみて、わたしがほとんど“浦島太郎”状況なのに気がついた。
 最後に「Stereo Sound」を手にして読んだのは、もう20年近くも前のことで、それ以来、特にオーディオ装置Click!には不満をおぼえず音楽を聴いてきた。だから、かなり高価な同誌を買って情報を手に入れる必要がなくなり、ごく自然に離れてしまったのだ。わたしはオーディオマニアではないので、先のベルリンPhでいえば、せいぜいC.アバドの時代ぐらいまでで、SACDをみずから制作するS.ラトル時代のベルリンPhは、さほど録音など気にすることもなく、そのまま現装置でふつうに聴いてきた。
 そもそもディスク会社(いわゆるレコード会社)が、確実に売れるCD(レコード)しか制作しなくなり、それも売れなくなって青息吐息なのは知っていた。だが、思いどおりのCDを制作してくれないレコード会社を見かぎり、オーケストラ自身がCDを制作し音楽データサイトを起ち上げて販売する「直販」システムが、ここまで広まりつつあるのは知らなかった。BPhレコーディングスもそうだが、ロンドンOのLSOライブやロイヤル・コンセルトヘボウOのRCOライブなども、みなオーケストラ直営のレーベルだとか。確かに、音楽のカテゴリーを問わず、オーケストラやビッグバンドの演奏を録音することは、莫大な経費の発生とリスクを覚悟しなければならない。
 いまの若い子たちは、そもそもCDさえ買おうとはしない。好きな曲があれば、アルバムではなく1曲ごとにダウンロードし、ローカルのスマートデバイスで気が向いたときに聴くだけだ。街中からレコード店が次々と消滅していったのと、スマートデバイスの普及はみごとにシンクロしている。さすがに、録音時間の長いクラシックはCDが主流だったが、それでも通信速度が1Gbps時代を迎えたあたりからPCや専用コンソールへダウンロードし、オーディオ装置に接続して直接データを再生するファンが増えている。つまり、ディスクというメディア自体が不要な時代を迎えたわけだ。
 音楽業界でも、本の世界とまったく同じ現象が起きていたことがわかる。つまり、あらかじめ売れると営業判断されたレコーディングしか行われず、できれば定評のある過去の「名盤」だけをプレスしていれば、なんとか各ジャンルごとの部門ビジネスをつづけられる……というような事業環境だ。だから、よほど売れそうなミュージシャン(の演奏)でないかぎり、新盤を制作するプロジェクトは「冒険」と考えられ、クラシック(JAZZも同様だろう)などのジャンルだと音楽家の想いどおりのアルバム(CD)など、まず制作することが不可能になった。だから、音楽家やオーケストラ自身が直接CDをプレスするか、音楽データサイトを構築してサウンドデータを直販するのは必然的な流れだったのだろう。1980年代から90年代にかけて、世界じゅうの音楽会社が競い合うようにいい録音を繰り返し、多彩なコンテンツを制作していたころが、まるで夢のような状況になっている。
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 ちょうど、ある分野では重要で十分に意味のある内容なのに、本の量販が見こめないため首をタテにふらない出版社を見かぎり、やむなく著者がネット出版に踏みきるのと同様の流れだ。これは、レコード会社や出版社にしてみれば、一時的に「リスクと赤字を回避した」ように見えるけれど、もう少し長めのスパンで考えた場合のより危機的で深刻なリスク、すなわちメディア(ディスクや本など)自体がそもそも消滅しつつある事態に拍車をかけている……ということになる。徐々に、ときには急激に、マーケットが縮小する「自主制作」へのシフトは、書籍よりも音楽の世界のほうが速いのかもしれない。
 いまの若い子たちは、オーディオ装置さえ持っていない。わたしのいうオーディオ装置とは、スマートデバイスに付随するイヤホンやヘッドホン、小型スピーカーではなく、TVモニターの周囲に展開され通常「AV」と呼称される、映像をともなうサラウンドシステムでもない。できるだけライブハウスやコンサートホールに近い空間のサウンドをめざし、純粋に音楽を再生する機器群、すなわちアナログ/デジタル各ターンテーブルやDAコンバータ、コントロールアンプ、パワーアンプ、スピーカー、イコライザー、各種レコーダー……などの装置を組み合わせたものだ。
 いつか、子どもにFOSTEXの自作スピーカーとプリメインアンプ、CDプレーヤーを買ってあげたらほとんど興味を示さず、音楽はおもにヘッドホンで聴いていた。そのうち、お小遣いをためてステレオCDラジオを買っていたが、それもスマホが手に入るとあっさり不要になった。でも、音楽をちゃんと空気を震わせてリアルに聴きたいという欲求はあるらしく、ときおり椎名林檎Click!のCDやDVDを、わたしのオーディオ装置で聴いていた。
 なにが「いい音」なのか、あるいはどのような「音がリアル」なのか、おそらく音楽におけるサウンドの定義からして、わたしとはかなりズレがある世代なのだろう。深夜にヘッドホンで、大きめに鳴らすレスター・ケーニッヒの西海岸Contemporaryサウンドもいいけれど、やはりJAZZClick!やクラシックなどの演奏は実際の音で、空気をビリビリClick!震わせる少しでもリアルな空間で聴きたくなるのだ。
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 「Stereo Sound」200号を眺めていたら、SACDプレーヤーがずいぶん安価になり、手に入りやすくなっているのに気づいた。同時に、さまざまなオーディオ機器が目の玉が飛び出るほどの価格になっていることに唖然としてしまった。20年前と同じレベルの装置が、2倍あるいは3倍もするのに呆れ果ててしまった。ちょっとしたアンプやスピーカーは、100万円以下のものを探すのさえむずかしい。国産の中型スピーカーでさえ、従来は30~50万ほどでそれなりに品位が高く非常に質のいい音を響かせていた製品が、100万円を超えるのだからビックリだ。アンプにいたっては、もはや冗談としか思えないような値段の製品が並んでいる。これもまた、若い子のオーディオ離れとスマートデバイスの普及にシンクロした、先細りをつづけるマーケットにともなう現象なのだろう。
 それなりの品質をしたオーディオ機器は、各メーカーとも小ロット限定生産どころではなくなり、限りなく個別受注生産に近づいてしまったため、この20年間でとんでもない値上がりをしてしまったのだろう。また、大手オーディオメーカーの内部でさえ事業を支えきれなくなり、独立した技術者たちが新たにガレージメーカーを起ち上げ、良心的な製品を提供するとなると、「これぐらいの価格は覚悟してください」ということなのかもしれない。デフレスパイラルがずっとつづいてきた中、これほど高騰をつづけた製品分野もめずらしいのではないだろうか。
 そんな中で、がんばっているメーカーもある。高価なのでなかなか手に入れられず、せめてJAZZ喫茶やライブスポットなどでサウンドを楽しむだけだった、アンプ(とスピーカーXRTシリーズ)のマッキントッシュ(McIntosh)社だ。音楽好き(特にJAZZ好き)が「マッキントッシュ」と聞けば、アップル社のPCClick!ではなく、まずアイズメーターがブルーに光る同社のアンプをイメージするのは、いつかの記事にも書いたとおりだ。たまたま「Stereo Sound」200号には、同社の訪問記や社長・社員へのインタビューが掲載されているが、製品のラインナップと価格は20年前とそれほど大きく変わってはいない。一時期は日本のクラリオンに買収され、どうなってしまうのかと案じていたけれど、なんとか危機を脱して新社屋や開発研究拠点を建設し、米国の精緻な職人技を受け継いで、R&Dも含め経営は安定しているらしい。ちなみに、何十年にもわたって精緻な技術を支えている職人たちに女性が多いのも、同社の大きな特徴だろう。
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 残念な記事も載っている。わたしがサウンドの指針(師匠)として昔から頼りにしていた菅野沖彦が、数年来の病気で同誌の執筆を中止していることだ。このサイトでは、三岸節子Click!の再婚相手である菅野圭介の甥として、三岸アトリエClick!を訪れた菅野沖彦Click!をご紹介している。「Stereo Sound」誌を買うのは、彼が新製品や新たに開発された技術によるサウンドに対し、どのような受けとめ方や感想を述べるのかが知りたかったという側面も大きい。お歳からして無理なのかもしれないが、可能であれば執筆を再開してほしいと切に願うしだいだ。
 こんな記事を書いていたら、無性に音楽が聴きたくなった。夜中なので大きな音は出せないが、いまターンテーブルに載せたのはJAZZでもクラシックでもなく、丸山圭子の『どうぞこのまま』Click!。オーディオ+音楽文化が滅びませんよう、どうぞこのまま……。

◆写真上:「Stereo Sound」の名機たちにはとても及ばない、わが家の迷機の一部。
◆写真中上は、読んでいるだけで楽しかった1980~90年代の「Stereo Sound」表紙。掲載されている製品は、当時からほとんど手が出ないほど高価だった。は、長期間にわたり「Stereo Sound」誌のリファレンスモニターだったJBL4344の“顔”。
◆写真中下は、ニューヨーク州ビンガムトンにあるマッキントッシュ・ラボラトリー本社。は、JAZZ用のアンプリファイアーとして憧れのコントロールアンプC52。
◆写真下は、ベルリンPhレコーディングが制作したS.ラトル指揮のベートーヴェン・チクルス。日本で買うと非常に高価なので、ドイツに直接注文したほうが安く手に入りそうだ。下左は、1967年(昭和42)の創刊号から数えて「Stereo Sound」創刊50周年・200号記念号。下右は、執筆活動を再開してほしい菅野沖彦。
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