先日、資料を整理していたら、めずらしい写真を見つけた。1932年(昭和7)4月に設置された落合第四尋常小学校Click!の開校時を含む、戦前に撮影された写真が載った冊子だ。掲載されていたのは、2002年(平成14)に発行された『落四のあゆみ/開校70周年記念誌』だ。以前、堀尾慶治様Click!がお持ちの1941年(昭和16)卒業アルバムClick!に掲載された写真をご紹介しているが、開校直後に撮影されたとみられる画面は、それより9年前の写真ということになる。
まず冒頭の写真①は、1932年(昭和7)の開校から間もない時期に撮られた写真で、西側の校舎ぎわから校庭で体操する生徒たちを撮影したものだ。南(右手)へと下る相馬坂の向こうには、相馬孟胤邸Click!の敷地内にあたる御留山Click!がきれいに見えている。ちょうど正面やや右手が、現在のおとめ山公園で四阿(あずまや)が設置されているピークにあたる。校庭の右端に見えている、斜めの棒のようなものは低学年用に設置されたすべり台の一部だ。左に見えている校庭掲示板のさらに左側に、相馬坂から校庭へと入る校門がある。
写真②は、陽射しの方角と人物たちの影から朝礼風景だろう、校庭に集合する生徒たちをとらえたものだ。校庭の中央あたりから“「”字型の校舎の角のほうへカメラを向けてシャッターを切っている。おそらく開校後間もないころと思われ、“「”型校舎の角に大型拡声器(スピーカー)がいまだ設置されていない。また、画面左側の校舎前に植えられたヒマラヤスギの丈が小さく、教室1階の窓をいまだ越していない。
写真③は、高学年の授業風景を撮影したものだ。写真が粗すぎて、黒板の白墨文字が読みとれないが、「〇〇〇〇の長所短所」と書いてあるように見えるので社会科の授業だろうか。写っているのは男組で生徒数は多く、確認できるだけでも35人ほどが写っている。画面左の枠外、窓側に座る生徒たちを含めると、1クラス45~50人ほどになるだろうか。まだ1932年(昭和7)ごろの教室なので、教壇の横に「一億一心」とか「これからだ/出せ一億の底力」といった、戦時標語Click!のポスターは貼られていない。
写真④は、落合第四尋常小学校の開校時から少したって撮影された、“「”字型校舎の角にあたる部分だ。ヒマラヤスギの丈が伸び、校舎の角には大型拡声器(スピーカー)が設置されている。花壇も設置されたのか、ヒマラヤスギの下には白い垣根が見えているが、昇降口の右手に生えていた樹木がなくなっている。代わりに土が掘り返され、新たに花壇を造ろうとしているようだ。ちなみに、9年後に撮影された1941年(昭和16)の卒業アルバムには、校舎の角に写る大型スピーカーが見えない。近隣から苦情がでて、少し小型の四角い野外スピーカーに付け替えたものだろうか。
少し余談だけれど、落合第四小学校のチャイムの音が、1990年代に入ってからほとんど聞こえなくなった。おそらく、ご近所から「うるさい!」といわれて、だんだんボリュームを下げていった結果だろう。1970年代には、かなり遠くまでチャイムの音が響いていたし、近隣の家々では窓を閉め切っていたとしても落四小のチャイムClick!は聞こえたはずだ。そのチャイムの音と時間で、「そろそろお昼か」とか「ああ、もうそんな時間か」とか、生活のサイクルをまわしていた方も少なからずいたにちがいない。
きっと、落合第二尋常小学校Click!のスピーカーから流れる童謡に腹を立てていた宮本百合子Click!のような人がいて、学校に申し入れをしたのではないだろうか。確かに文章を考えているとき、「チーチーパッパ」が大音量で流れてきたら、わたしも家から逃げだして喫茶店にでも避難するだろう。また、なにか作曲中の音楽家の方にしてみれば、たまったものではない。運動会が近づくと、落四小では下落合一帯の住宅へ運動会の行事用にスピーカーから音楽を流すから、あらかじめ「ご了承ください」というようなチラシを撒くようになったので、よほど気をつかっているのがわかる。
次の写真⑤は、1937年(昭和12)に校庭の崖下へプールが完成したときの記念写真だ。男組と女組と思われる2クラスが写っており、右手の崖上に校庭が拡がっている。プールの背景(西側)には、大倉山(権兵衛山)Click!の山麓の緑がとらえられているが、この時期の大倉山はほとんど宅地開発がなされておらず、いまだ権兵衛坂Click!も存在していない。斜面には濃い樹林が繁り、山頂のあたり一帯には草原がひらけ、大倉山の神木だったカシの巨木Click!も、大きな枝を拡げていただろう。かろうじて山頂の北側には、テニスコートと数戸の小さな建物が確認できる程度だ。また、写真にとらえられた背景の林のさらに西側(正面左手)には、落合キリスト伝導館(旧・基督伝導隊活水学院Click!)の大きめな建物があるはずだが、樹林が濃くて建物のかたちを確認できない。
『落四のあゆみ/開校70周年記念誌』では、1941年(昭和16)の日米開戦から学童疎開Click!、空襲の様子なども伝えている。同誌から、少し引用してみよう。
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戦争はますます激しくなり、東京の町にも空襲があり、たくさんの爆弾が落とされるようになりました。昭和19年、4年生以上の子どもたちは、空襲をさけて学童疎開をしました。第1次として266名が、茨城県西茨城郡西山内村の西念寺などに出発しました。その翌年には、第2次として、群馬県佐渡郡芝根村の常楽寺(42名)・法連寺(27名)などに疎開しました。茨城県に疎開していた児童は、県下の空襲が激しくなり、後に群馬県の疎開先に合流しました。/疎開中は、お寺で寝起きしたり、勉強したりしました。食べ物や薬さえ不足し、がまんばかりのきびしい生活でした。/下落合もたびたび空襲を受け、多くの家屋が焼けました。/落合第四小学校の校庭にも爆弾が落ち、炎が上がりましたが、当時校舎を使用していた警視庁警備隊や、地域の人々の協力で消し止められ、校舎は焼けずにすみました。
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もし校庭に250キロ爆弾でも落ちたら、爆風で下見板張りの脆弱な校舎は相当なダメージを受けたと思われるので、消火が必要だったのは焼夷弾だろう。
さて、戦時中の記述に添えられた写真⑥のキャプションが、ちょっとおかしい。まず、「戦争当時のまちの様子」として紹介されている写真だが、これは1928年(昭和3)の冬(おそらく雨量換算で50.3mmの大雪が降った2月14日の数日後)、1926年(大正15)に練馬Click!へ移転した目白中学校Click!の広大な空き地から、目白通り方面の商店街を撮影した写真Click!だ。いまだ大正期の姿を残した目白通りの様子で、1928年(昭和3)の時期を「戦争当時」とはいわないだろう。ちなみに、日米開戦当時の1941年(昭和16)には、目白通りの拡幅も済み、目白中学校の跡地には家々が建ち並んでいる。
また、空襲による「焼けあと」として紹介されている写真だが、これは1966年(昭和41)7月15日に「落合新聞」Click!の竹田助雄Click!が撮影した写真で、下落合2丁目829番地(現・下落合4丁目)で宅地造成中のパワーショベルの土に人骨が混じり、驚いて作業を中止した建設会社のスタッフたちが写っている。つまり、下落合の横穴古墳群Click!が発見された瞬間で、戦争や空襲とはまったく関係のない写真だ。(爆!) 写真へ半円とともに書きこまれた2・3・4の白い数字は、第2号墳から第4号墳までの位置を示しており、写真の出典は新宿区教育委員会の報告書か、調査を担当した早稲田大学の資料だろう。
落合第四小学校はそろそろ90周年も近いので、また『落四のあゆみ』のような冊子を制作するのであれば、上記2点の写真はぜひ差し替えていただきたい。
最後に、もうひとつ気になったのは画家の西原比呂志が描いた挿画だ。『落合翠ヶ丘』というタイトルで、おそらく縄文時代をイメージして描いていると思われるが、土器の表現を除いて、これではプレ縄文期の旧石器時代人のイメージだ。前世紀の三内丸山遺跡の発掘以降、次々と新たな発見により縄文時代のイメージが大きくくつがえり、稲作も含め弥生時代との区別が曖昧になりつつあるので、縄文人=槍を振りまわす「ウッホウホホの原始人」(それにしては、やたら高度で芸術的な土器を焼くアンバランスな人々w)のような、子どもたちに誤解を与える表現は避けるべきではないだろうか。
◆写真上:1932年(昭和7)の開校から間もないころ、校庭で撮影された体育授業。
◆写真中上:上は、朝礼時に撮影された1葉。中は、開校当時の授業風景。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる落合第四尋常小学校と撮影ポイント。すでにプールは竣工していた時期なので、「火保図」の採取ミスと思われる。
◆写真中下:上は、大きな拡声器が取り付けられた校舎。中は、1937年(昭和12)に校庭下へ設置されたプールの記念写真。下は、キャプションがおかしい写真2葉と、「焼けあと」の全景写真である1966年(昭和41)7月15日に竹田助雄が撮影した下落合横穴古墳群の発見現場。左手に、人骨を掘りあてたパワーショベルが写っている。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)に撮影された落四小でプールはまだ設置されていない。中は、1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機から撮影された落四小。同年4月13日夜半の空襲で、周囲の延焼が確認できる。下は、2002年(平成14)の開校70周年のときに撮影された空中写真。同小学校のプールは、落合第四幼稚園の屋上に移設されている。