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下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(7)

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清水多嘉示「風景(仮)」OP594.jpg
 清水多嘉示Click!が描いた作品の中で、下落合の風景とみられる画面について1点ずつ検討を重ねてきた。今回は、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、やはり『風景(仮)』(OP594)とタイトルされた、「不明(帰国後[1928年以降])」とされている作品だ。(冒頭画面)
 手前には空き地(住宅造成地ないしは畑)があり、その向こう側には急激に落ちこんだ谷間があるようで、谷底あるいは斜面には住宅の赤い屋根がのぞいている。右手には、少し盛り上がった地面の上に並木が植えられ、細い道路が通っているのがわかる。並木は、大正期から下落合の街路樹に多いニセアカシアではなく、異なる樹木のように見える。正面には、比較的大きな2階建ての日本家屋が建っていて、その左手の敷地にも物置か納屋だろうか、なにか建築物のようなフォルムが表現されているように見える。
 もし、これが昭和初期に見られた下落合の風景を描いたものだとすれば、わりと起伏のある地形や周囲の家々の様子も含め、このような地勢や風情の描画場所を、わたしは戦前の下落合(現・中落合/中井含む)で1ヶ所しか思い当たらない。手前に立てられている白い杭は、宅地造成の際に打ちこまれた敷地境界標だろう。昭和初期の当時でも、石やコンクリートによる背の低い境界標は存在していたが、このような木製の境界標が立てられているのは、住宅の建設工事が間近に迫っていることを暗示している。
 そのような目で手前の空き地を見ると、庭木用に低木を1本残し、敷地の境界を盛り土したような様子がうかがえる。ほどなく、大谷石かコンクリートによる“縁石”が設置されるのだろう。白い境界標の向こう側の空き地は、下落合1318番地の山田邸建設予定地であり、境界標の手前が北に入る細い路地をはさんで下落合1320番地の宅地だ。清水多嘉示は、盛り土を終えた後者(1320番地)の宅地へ入り、南東を向いて『風景(仮)』(OP594)を描いていることになる。
 すなわち、崖下の赤い屋根は下落合1284番地の山崎邸、そして正面の大きな屋敷は同番地の渡辺邸ということになる。そして、右手に通う道は十三間通りClick!(新目白通り)であらかた消滅してしまった市郎兵衛坂Click!の一部であり、この道路は右手の並木の向こうへ湾曲しながらつづいていく。画面の左手には、前谷戸Click!(大正後期から不動谷Click!)つづきの谷間が口を開け、谷底には中央生命保険俱楽部Click!(旧・箱根土地本社Click!)の不動園にある池からつづく小川が流れている。その谷間の対岸には、1928年(昭和3)にリニューアルされた落合第一小学校Click!の校舎がそびえ、あるいは霞坂沿いには会津八一Click!秋艸堂Click!が林間に見え隠れしていたかもしれない。
 画面右手の並木の向こう側は、緩斜面でなだらかに上がる地形をしており、昭和初期にはあまり住宅が建っておらず一面の草原が拡がっていた。このとき、すでに改正道路(山手通り)Click!計画の情報が、落合地域やディベロッパー間へ浸透していたのかもしれない。また、わずか100mほど離れた南の丘上には、津軽邸Click!(旧・ギル邸Click!)の巨大な西洋館の屋根が見えていただろう。
 清水多嘉示がイーゼルを立てている背後左手は、急斜面となって前谷戸(不動谷)へと落ちこむ地形をしている。その丘上には、昭和初期まで第一文化村の水道タンクClick!が設置されていた。急斜面は、雪が降ると目白文化村Click!の住民たちがスキーやソリ遊びを楽しんだ簡易“スキー場”であり、佐伯祐三Click!はその光景を谷底の対岸から「下落合風景」シリーズClick!の1作、『雪景色』Click!(1927年ごろ)として描いている。もし、『風景(仮)』(OP594)の描画場所が市郎兵衛坂であれば、佐伯の描画位置と清水多嘉示のそれは、渓流の対岸にあたる谷底近くの斜面(佐伯)と、市郎兵衛坂が通う谷上(清水)とのちがいこそあれ、わずか60mほどしか離れていない。
市郎兵衛坂1926.jpg
市郎兵衛坂1936.jpg
市郎兵衛坂1938.jpg
 少し前に、中央生命保険俱楽部を描いたのではないかと考察した『風景(仮)』(OP287)Click!がその通りであれば、清水多嘉示は同倶楽部の南側にある庭園「不動園」Click!から、谷間を南へたどって渓流沿いを歩き、やがて市郎兵衛坂が通う高台をよじ上ったところで、キャンバスに向かっているのかもしれない。この散策コースは、林泉園Click!の池からそのまま谷間の渓流をたどり、藤稲荷のある小丘へとよじ上って『下落合風景』(OP008)Click!を仕上げている経緯とそっくりだ。深い谷間に流れる渓流沿いの散策を、当時の清水はことさら好んでいたのかもしれない。また、同じようなコースを歩いて作品を仕上げていた画家に、大正末の松下春雄Click!がいる。
 現在、『風景(仮)』(OP594)の描画位置には住宅が建設されて立つことができないが、十三間通り(新目白通り)に大きく削られたとはいえ、画面右に通う市郎兵衛坂の一部はかろうじて残り、わずか130mほどだがたどることができる。画面右下の境界標の手前を、左手(北)へと入る細い路地は、いまは山手通り(環六)へと連結している。また、山田邸敷地の向こう側、谷間へ落ちこむ斜面に立てられていたとみられる山崎邸(屋根)の手前には、現在、谷間へと下りるコンクリートのバッケ(崖地)Click!坂が造られている。
 地図や空中写真を年代順に確認すると、画面手前の空き地(宅地)には1936年(昭和11)までに山田邸(1318番地)ともう1邸(1320番地)が建設され、また正面の渡辺邸はそのままだが、谷間に屋根だけ見えている川崎邸は、1936~1938年(昭和11~13)の間に解体されたものか、1938年(昭和13)の「火保図」には採取されずに消滅している。また、現状の川崎邸の跡地は、市郎兵衛坂とほぼ同じ高さに盛り土されているので、その後も手前の山田邸などの宅地と同様に、大規模な盛り土による新たな宅地開発が、引きつづき行われているのだろう。
 さらに、目白文化村の“スキー場”は、1930年代後半に入るとひな壇状に開発され、山手通り(環六)から谷間へと下る住宅街が形成されるが、いまでもバッケ(崖地)状の急斜面を観察することができる。以上のような状況を踏まえて考察すると、清水多嘉示は川崎邸が解体される以前、あるいは山田邸と1320番地邸が建設される直前、すなわち1930年(昭和5)前後に同作を描いたと推定することができる。
市郎兵衛坂1.JPG
市郎兵衛坂2.JPG
市郎兵衛坂1947.jpg
 さて、もうひとつ気になった画面に『雪の路地(仮)』(OP637)がある。同作も、「不明(帰国後[1928年以降])か」と疑問形で分類されている。いかにも、昭和初期に見られた東京郊外の風景だが、下落合でこの風景に該当する場所を、わたしは見つけることができない。画面には、2棟の西洋館と数棟の日本家屋らしい建物が見えているが、そのうち奥に描かれた赤い屋根の西洋館がかなり大きい。どこか、第一文化村Click!渡辺邸Click!アビラ村Click!島津邸Click!を思わせる意匠だけれど、光線の角度(右手背後が南側)が合わないし、当時の空中写真にこのような家並みは確認できない。清水の作品にしてはめずらしく、電柱(電燈線)がハッキリと描きこまれている。
 遠景には緑が繁り、手前の地面に比べて少し高台になっているようにも感じるが、大きな西洋館と高い樹木の森や屋敷林があるため、そう錯覚して見えているだけかもしれない。降雪があった翌日、清水多嘉示は晴れ間が見えたので、さっそく画道具を手に散策に出たのだろう。昭和初期は現代とは異なり、冬になると東京でも雪が頻繁に降っていた。道はぬかるんで悪路だったと思われるが、清水はことさら雪景色が描きたくなったものだろうか。ただし、わざわざ降雪のあとの歩きにくい中を、高円寺から落合地域までやってきているかどうかは、はなはだ疑問だ。わたしには思い当たらないが、落合地域でこの風景の場所をご存じの方がいれば、ぜひご教示いただければと思う。
 こうして、帰国後に描かれたとみられる清水多嘉示の作品群を観察してくると、どうやら下落合の東部だけでなく、中部(現・中落合)界隈にかけてまで歩いている可能性を感じる。それは、下落合1443番地の福田久道Click!を訪ねた際、「もう少し西を歩けば、キミが好きそうな谷戸沿いの風景があちこちにあるよ」といわれ、画道具を手に目白文化村(第一/第二文化村)のあたりまで散策に出ているのかもしれない。
清水多嘉示「雪の路地(仮)」OP637.jpg
「雪の路地(仮)」想定描画ポイント.jpg
渡辺邸.jpg 島津邸.jpg
 清水の「下落合風景」とみられる画面から感じとれる、描画場所の連続性をたどることは、そのまま下落合において風景モチーフを探し歩いた清水の“点と線”、すなわち散策ルートを浮かび上がらせることになるのだろう。でも、それはまた、次の物語……。

◆写真上:市郎兵衛坂の外れを描いたとみられる、清水多嘉示『風景(仮)』(OP594)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる市郎兵衛坂。いまだ川崎邸が、谷底にかけて建っているのが採取されており、同坂の南側には並木の記号が付加されている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる市郎兵衛坂。山田邸ともう1邸が建設され、すでに清水多嘉示の描画位置はふさがれていて立てないが、斜面の川崎邸はまだ建っている。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる市郎兵衛坂界隈。川崎邸は解体されたのか消滅し、大きめな渡辺邸はそのまま残っている。
◆写真中下は、市郎兵衛坂の現状。左手に住宅が建ち並び、昭和初期と同じく清水の描画場所には立てない。また、右手につづく大谷石の擁壁は画面右手の土手跡。は、前谷戸(不動谷)の谷底へ下りるバッケ(崖地)坂で渓流は暗渠化されており、正面に見える修繕中の建物は落合第一小学校の校舎。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同坂界隈。空襲で多くの住宅が焼失しているが、渡辺邸はそのまま健在だ。
◆写真下は、下落合では思い浮かばない清水多嘉示『雪の路地(仮)』(OP637)。は、同作から想定される住宅配置。は、大屋根の切妻が特徴的な下落合1321番地の第一文化村・渡辺明邸()と、下落合2096番地のアビラ村・島津源吉邸()。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。

「事故物件」へ転居してしまう小山内薫。

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高輪車町化け物屋敷.jpg
 先年、高田馬場駅から田島橋Click!を経由し下落合方面へと抜けられる、栄通り沿いにあった古いふるい喫茶店の「プランタン」が、裏手から出火した火事のために延焼した。日本全国には、「プランタン(春)」と名づけられた喫茶店が、はたして何軒ほどあったものだろうか? 「プランタン」の嚆矢は、もちろん洋画家の松山省三Click!がフランスから帰国して、1911年(明治44)に銀座へ開店したカフェ「プランタン」Click!だが、その店名をつけたのは小山内薫Click!だ。
 大正末から昭和初期にかけ、新橋の「花月」で開かれていた怪談会Click!には、泉鏡花Click!長谷川時雨Click!柳田國男Click!里見弴Click!、平岡権八郎、小村雪岱らに混じって、小山内薫もよく出席していたらしい。この怪談会の一端は、1928年(昭和3)に発行された『主婦之友』8月号(主婦之友社)に詳しく記録されているが、さまざまな怪異現象や幽霊譚を夜更けまで(あるいは徹夜で)語り合う、1920年代の「百物語」あるいは「ほんとにあった怖い話」の集まりだった。小山内薫は、もともと怪談好きだったのだろう、いくつかの作品でもモチーフとして手がけている。
 ところが、小山内薫は怪談を創作したり集まりで語るだけでなく、自身がよく経験してしまう“体質”をもっていたようだ。それは、転居をする際に知らず知らず「事故物件」を選んでしまい、そこで不可解な現象や怖ろしいめに遭うという経験を何度か重ねているからだ。新しい家を探しにいき、とても魅力的に感じられる物件を見つけて喜び、いざ家族や親戚などとともに引っ越してくると、とたんに一家が多種多様な怪異や災難にみまわれる。おかしいと気づいてよくよく調べてみると、近所では有名な“化け物屋敷”だった……というような経緯だ。
 芝(西久保)明舟町(現・虎ノ門2丁目)の家が手狭になり、連れ合いの姉一家とともに住む家を探しているとき、高輪(芝)車町(現・高輪2丁目)に格好の屋敷を見つけた。大きな正門に、門番の住宅までが付属しており、大名屋敷を思わせるような玄関へとつづいていた。10畳を超える広さの台所や、20畳以上の座敷が4部屋以上、まるで宿屋のような風呂場や便所が2つずつ、土蔵が2戸にテニスができそうな空き地、海に面している回遊式庭園には築山や池までがあり東京湾が眼前に一望できた。
 しかも、家賃が月70円と格安だった。大正前期の70円はいまの感覚でいうと、これだけの屋敷を借りていながら家賃が10万円前後ということになる。この時点で、小山内薫一家は「なんか、おかいしぜ」と気づかなければならなかった。そう、この屋敷は住環境的にも、省線と市電の騒音がひっきりなしに響いてうるさかったのだ。新居を探しているとき、どうして門前を走る市電の音や、庭先にある山手線と東海道線の走行音が気にならなかったのだろうか。屋敷に棲みつくなにかに憑かれ、魅入られでもしたのだろうか?
カフェ・プランタン銀座.jpg
花月1931.jpg
 庭に面した応接室では、山手線や東海道線が通るたびに来客との会話が不可能になった。電車や貨物列車が途切れるのは、深夜の2~3時間のみという劣悪な住環境だった。しかも、家族たちは次々と怪しい体験や、おかしな出来事に遭遇するようになる。その様子を、1927年(昭和2)に東京日日新聞連載の小山内薫『芝、麻布』が収録された、1976年(昭和51)出版の『大東京繁盛記/山手篇』(講談社)から引用してみよう。
  
 成程、これは安いわけだと思っていると、私の家内が夜中にうなされる。白い着物を着た怪しいものを見る。裏の土蔵の戸前に「乳房榎」の芝居の番付がはってあったのを誰かゞ見つけて、愈々騒ぎ出す。その内に、初めて来た若い魚屋が置いて行ったバカのむきみに家中の者があたって、吐きくだしをする。しかもその魚屋はそれっきり勘定をとりに来ないというような変なことがあったので、女達が神経質になって、いろいろ調べると、なんでもこの家の元の持主は、事業に失敗して、土蔵の中で縊れたが死に切れず、庭の井戸へ身を投げて命を果てたのだというのである。そう聞いて見ると、今の持主が農工銀行で、家賃を毎月銀行へ収めに行くのも、変といえば変である。
  
 小山内一家があわてて麻布に転居すると、この大きな屋敷はさっそく解体されて自動車の「ギャレエジ」(駐車場)になってしまった。
 周辺の住民や商店では、もちろんその屋敷で起きた過去の経緯は周知の事実だったろう。初めてきた「魚屋」が、二度と顔を見せなくなったのは、当然、近隣の住民や商店から事情を聞かされて怖くなったせいだと想像できる。農工銀行では、自死した旧・住民の担保物件を貸し家にしていたのだろうが、なにも知らずに転居してきた小山内一家は、その「残穢」にみまわれてしまった……とでもいうのだろうか?
大東京繁盛記・山手篇1976.jpg 小山内薫.jpg
高輪2丁目界隈1936.jpg
芝浦ニテ.jpg
 次に家を探して引っ越したのは、閑静な麻布森本町(現・東麻布1~2丁目)だったが、ここでも小山内薫は“ババ”を引いている。今度は、3人の子どもたちが次々と重篤な病気になった。鉄道の騒音や幽霊などよりも、よほどこちらのほうが深刻だったろう。近所の人たちは、高輪の屋敷と同様に沈黙して、一家にはなにも教えてはくれなかったようなのだが、訪ねてきた知り合いのひとりが「家がおかしい」と小山内薫に告げたらしい。その様子を、同書より再び引用してみよう。
  
 森元の住居は高輪の化物屋敷と違って、鼻がつかえる程狭かったが、日当りがよくて、あたりが静かで、思いの外住心地がよかった。が、こゝで三人になった子供が、とっかえ引っかえ病気をした。/私は出先から電話で呼ばれて、何度自動車を飛ばしたか分らなかった。今でも、森元の話が出ると、何よりも先ず子供の病気を思い出す位である。私は枕を列べて呻吟している三人の子供の看護に、夜も寝なかったことが度々あった。/家の直ぐ前に井戸があった。この井戸がいけないのだという説が出て来た。或人が根岸の方の紺屋で家相に詳しい老人を連れて来て見せた。/「これは後家家屋というのです。直ぐ越さなければいけません」/老人はいきなりこういった。/「後家家屋といいますと……」/家内がこう訊くと、/「後家が出来るんです。みんな死んでしまうんです」
  
 小山内一家は、高輪の「化物屋敷」の経験もあったので、あわてて四谷坂町に家を見つけて転居した。転居の際は、病気の子どもを布団にくるんだままクルマに乗せて運ぶなど、かなりたいへんな思いをしたようだ。その後、小山内薫は「後家家屋」について調査してはいないので、この家で過去になにがあったのかは不明のままだ。
麻布森元町.jpg
麻布森元町1936.jpg
 おそらく小山内薫は、この話を新橋「花月」の怪談会でも披露していると思われるが、同会の記録は残念ながら『主婦之友』が取材した、1928年(昭和3)6月19日(火)の午後6時からの一度きりのみで、ほかに記録が見あたらないのが残念だ。

◆写真上:小山内薫の文章に合わせ、東京日日新聞で挿画を担当した洋画家・森田恒友の『無題』。小山内に取材し、高輪車町「化物屋敷」を描いたものとみられる。
◆写真中上は、小山内薫が命名したカフェ「プランタン」の内部。は、1931年発行の「ポケット大東京案内」にみる定期的に怪談会が開かれていた新橋「花月」。
◆写真中下は、1976年(昭和51)に講談社から出版された『大東京繁盛記・山手篇』()と小山内薫()。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる国道15号(第1京浜)と東海道線や山手線にはさまれた高輪車町界隈。は、同文章の挿画で森田恒友『芝浦ニテ』。
◆写真下は、高輪車町からの転居先を描いた森田恒友『麻布森元町』。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる麻布森元町界隈。

下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(8)

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清水多嘉示「庭の一部」OP007.jpg
 冒頭の画面は、清水多嘉示Click!が渡仏する2年前、1921年(大正10)に制作した『庭の一部』(OP007)という作品だ。同作は、同年9月9日から開催された二科展の第8回展に入選している。この画面をひと目観て、これとよく似た構図の別の作品を、わたしはすぐに想い浮かべた。翌1922年(大正11)に描かれ、同年開催の第4回帝展(旧・文展)に出品された、牧野虎雄『百日紅の下』Click!だ。
 長崎村(町)荒井1721番地(現・目白4丁目)にアトリエをかまえ、のちに下落合へ転居してくる牧野虎雄Click!は、長崎のアトリエから東へ200mほどの近くに住む、帝展仲間で下落合540番地の大久保作次郎邸Click!を訪れては、その邸内や庭園へイーゼルを持ちこんで帝展出品用の作品を仕上げている。1890年(明治23)生まれで同じ歳のふたりは、東京美術学校Click!の西洋画科でも同窓であり、気のおけない親友関係だったのだろう。
 大久保作次郎は1919年(大正8)に下落合へアトリエを建設しており、当然、3年前にアトリエを建てていた文展/帝展の画家仲間である中村彝Click!とも、近所同士なので緊密に交流していた。大久保は彝の歿後、『美術新論』(1927年7月号)の中村彝追悼号へ文章を寄せているぐらいだから、それなりに親しかったにちがいない。当時、郊外の田園風景が拡がる下落合界隈に住んだ文展(帝展)系の画家たちを称して、「目白バルビゾン」Click!というワードが流行っていた時代だ。
 大久保作次郎Click!は、自邸のアトリエで画塾を開いており、プロの絵描きをめざす画学生から近所の油絵が趣味の人たちまで、多くの弟子や生徒を抱え、毎日5~10人が通ってきていた。岡田三郎助の画塾Click!と同様に、女性の画学生や生徒たちが数多く集まり、結婚した満喜子夫人Click!も絵を習いにきていた生徒のうちのひとりだ。彼女たちは、大久保邸の周囲に拡がる庭園やアトリエでキャンバスに向かっては、仕上げた作品を大久保作次郎に講評してもらっている。牧野虎雄の『百日紅の下』は、大久保邸の庭にあった鶏舎の前で、日傘をかざして写生に励む塾生のひとりを描いたものだ。そして、その様子は『主婦之友』の記者によって、秋の帝展記事用にリアルタイムで撮影されている。
 さて、冒頭の『庭の一部』(OP007)もまったく同じシチュエーションで、日傘をかざしながら写生にいそしむ女性の姿がとらえられている。落ち葉と土を積み上げ、庭園や花壇づくりの腐葉土をこしらえているのだろうか、女性とイーゼルの向こう側にはこんもりとした茶色い小山が築かれている。このような小山は、長崎にあった牧野アトリエでも築かれていたのが、1919年(大正8)の第1回帝展に出品された牧野虎雄『庭』でも確認できる。画面右上には、細長い窓がうがたれた洋風の住宅が確認できるが、この建物こそが下落合540番地に建っていた大久保作次郎邸の一部ではないか?……というのが、わたしの課題意識だ。しかも、清水多嘉示の『庭の一部』(OP007)は1921年(大正10)に描かれており、牧野虎雄の『百日紅の下』よりも制作が1年ほど早い。
 清水多嘉示は、中村彝の紹介で下落合464番地の彝アトリエから北へ240mほど、目白通りをわたったところにある大久保作次郎アトリエを訪ねてやしないだろうか。そして、広い庭のあちこちで写生する女生徒たちを見て、自身もキャンバスに向かいたくなったのではないか。しかも、ただ単に大久保邸の庭を写生するだけではつまらないと感じたのか、制作に励む女生徒を中央にすえて描いている。この女生徒は、牧野の『百日紅の下』の洋装女性とは異なり、絣の着物に袴姿の女学生のようなコスチュームをしている。モダンでハイカラな下落合でさえ、当時は洋装の女性がめずらしかった。1922年(大正11)に目白文化村Click!から洋装の女性が外出すると、周辺の住民たちが立ち止まって注目するような時代だった。
大久保作次郎アトリエ1926.jpg
牧野虎雄「百日紅の下」1922.jpg
牧野虎雄「百日紅の下」制作現場.jpg
大久保作次郎アトリエ1936.jpg
 清水多嘉示の『庭の一部』が、何日間かけた仕事なのかは不明だが、牧野虎雄もその間に大久保アトリエを訪ね、清水の仕事ぶりを観察していたのではないか。あるいは、1921年(大正10)秋の二科展第8回展の会場に出かけ、あらかじめ大久保作次郎から聞かされていた清水の画面を観て、強いインスピレーションを受けたのではないだろうか。それが、翌1922年(大正11)に帝展第4回展の牧野虎雄『百日紅の下』へと還流しているような気が強くするのだ。しかも、面白いことに両作は展覧会の記念絵はがきとして、美術工藝会の手でカラー印刷され、清水の『庭の一部』は1921年(大正10)の二科展会場で、牧野の『百日紅の下』は1922年(大正11)の帝展会場で販売されている。
 さて、以上のような単に画面が似ているという理由のみから、清水多嘉示の『庭の一部』(OP007)を、大久保作次郎アトリエの庭ではないか?……と想定しているわけではない。さらに、もうひとつ大久保アトリエを想起させる重要なファクターが、清水の作品群には含まれているのだ。それは、やはり渡仏前の作品で同じ庭先を描いたとみられる、『青い鳥の庭園』(OP018)の存在だ。画面がモノクロームでしか残されていないので、行方不明か戦災で焼けた作品だろうか。
 画面の右上に、『庭の一部』(OP007)と同一デザインの窓がうがたれた洋風の邸が見えているので、おそらく同一の場所だと思われる。そして、モノクロなのでわかりにくいが、庭の繁みの前へこしらえた止まり木に、大きめな鳥らしいフォルムを確認できる。「青い鳥」と書かれているので、「青」を江戸東京方言Click!“緑色”Click!ではなく、そのままブルーとして解釈すれば、足を止まり木につながれたオウムかインコのような大型鳥なのかもしれない。
大久保作次郎アトリエ1947.jpg
大久保作次郎「揺籃」1921.jpg
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庭の一部絵はがき.jpg 百日紅の下絵はがき.jpg
 大久保作次郎は、多種多様な鳥を飼育するマニアとしても知られていた。牧野虎雄の『百日紅の下』には、キャンバスに向かう女性の向こう側に、鶏舎で買われている数多くのニワトリを確認することができる。同様に、牧野虎雄は大久保邸で飼われていた大きなシラキジを1931年(昭和6)、ビール片手に大画面のキャンバスClick!へ描き、同年の第12回帝展へ出品している。キジのほか、大久保邸ではクジャクやシチメンチョウなどが庭で飼われていたらしい。大正後期から昭和初期にかけ、乃手Click!ではイヌやネコ、鳥などペットを飼育するのがブームになるが、大久保作次郎は大型のめずらしい鳥を飼うのが好きだったようだ。
 余談だけれど、中村彝も小鳥を飼育していたようだが、実際に描かれた画面の鳥かごの中にいるオウムかインコのような大型の鳥は、彝自身がこしらえた鳥の“フィギュア”Click!だった。また、刑部人アトリエClick!の北側に位置する姻戚の島津源吉邸Click!では、10羽以上のシチメンチョウが庭で放し飼いにされていたのを、刑部人のご子息である刑部祐三様Click!と孫にあたる中島香菜様Click!からうかがったことがある。佐伯祐三Click!は庭で7羽の黒いニワトリClick!を飼い、霞坂の秋艸堂Click!にいた会津八一Click!はハトとキュウカンチョウを飼っていたことでも知られている。
 『青い鳥の庭園』(OP018)の中央左寄りに描かれた、おそらくブルーで塗られている鳥らしいフォルムは、オウムのような南国の大型鳥だったものだろうか。ぜひカラーの画面で確認してみたいものだが、清水多嘉示の作品を網羅し2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室から刊行された『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』には、モノクロ画面でしか収録されていないので、作品が失われてしまった可能性が高い。
 以上のような経緯や前提をもとに検討を重ねると、清水多嘉示の『庭の一部』(OP007)と『青い鳥の庭園』(OP018)は同一場所(庭園)で描かれたのであり、それは多くの女弟子が通って庭で日々写生をする光景が見られ、しかも邸内や庭園には当時としてはめずらしい鳥たちが数多く飼育されていた、中村彝ともごく親しい下落合540番地の大久保作次郎アトリエではないかと思えるのだ。ひょっとすると、牧野虎雄や大久保作次郎ら目白通り北側に住む画家たちが参加して行われていた長崎町のタコ揚げ大会Click!へ、清水多嘉示も参加したことがあるのかもしれない。
清水多嘉示「青い鳥の庭園」OP018.jpg
牧野虎雄「白鸚」193109.jpg
大久保作次郎アトリエ跡.JPG
 さて、8回にわたって連載してきた、「下落合風景」を描いたとみられる清水多嘉示の作品群だが、わたしが気になった画面は、とりあえずすべて網羅させていただいた。だが、建物や地形が描きこまれてない森や林の中の小道など、まったくメルクマールが存在しない画面も少なくない。それらは、未開発の落合地域の外れならどこでも見られた光景であり、それは高円寺界隈を含む東京郊外でも同様だったろう。また、清水の故郷である諏訪でも、同じような風景が見られたにちがいない。次の記事では、下落合において想定できる清水多嘉示の“足どり”について、その作品の描画場所とともにまとめてみたい。

◆写真上:1921年(大正10)に制作された、清水多嘉示『庭の一部』(OP007)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる大久保作次郎邸。は、1922年(大正11)に描かれた牧野虎雄『百日紅の下』()と、「主婦之友」に掲載された大久保邸の庭で『百日紅の下』を制作する牧野虎雄()をとらえた写真。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大久保作次郎アトリエ。
◆写真中下は、戦災から焼け残った1947年(昭和22)の空中写真にみる大久保邸。は、1921年(大正10)に自邸の庭で描いたとみられる大久保作次郎『揺籃』()と、1922年(大正11)に制作された大久保作次郎『庭』()。は、美術工藝会が印刷した清水の『庭の一部』二科展絵はがき()と、牧野の『百日紅の下』帝展絵はがき()。
◆写真下は、1923年(大正12)の渡仏前に制作された清水多嘉示『青い鳥の庭園』(OP018)。は、1931年(昭和6)に大久保作次郎邸で飼われていたシラキジをモチーフに帝展出品作の『白鸚』を制作する牧野虎雄。は、大久保作次郎アトリエ跡の現状
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

東海道線貫通の牛頭天王社(品川大明神)。

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 明治期に活版印刷された『新編武蔵風土記稿』Click!には、あちこちに破壊される前の古墳の様子を記録した記述が見える。特に、古墳のある地域に伝承された「怪談」や「ほんとにあった怖い話」の類も含めて、ところどころ紹介されているのが面白い。そこには、古墳(古塚)に近づき関わってしまったがために、「屍家」Click!の「呪い」や「祟り」にみまわれ、悲劇的な事件へと発展してした物語も記載されている。
 古墳が築かれた地域では、その場所が古来から禁忌的なエリアないしは異界として伝承・認識されており、そのエリアに近づいてはいけない、あるいは関わってはいけないというフォークロアが継承されている。それは、古墳が築造された1500~1700年ほど前から、死者の安息所を乱す禁止行為として、あるいは平安期以降には全国で横行した盗掘を防止するため、意図的に流布されつづけてきたものだろう。
 そのような「祟り」や「呪い」が起きた事件を、『新編武蔵風土記稿』(第137帳)の足立郡伊興村(現・足立区東伊興)の白旗塚古墳ケースから引用してみよう。
  
 白旗塚
 東の方にあり、此塚あるを以て、白旗耕地と字せり。塚の除地二十二歩百姓持なり。上代八幡太郎義家奥州征伐の時此所に旗をなびかし軍勝利ありしとて此名を伝へし由。元来社地にして祠もありしなれど、此塚に近寄らば咎ありとて村民畏れて近づかざるによりて、祠は廃絶に及べり。又塚上に古松ありしが、後年立枯て大風に吹倒され、根下より兵器其数多出たり。時に村民来り見て件の兵器の中より、未だ鉄性を失はざる太刀を持帰て家に蔵せしが、彼祟りにやありけん。家挙げて大病をなやめり。畏れて元の如く塚下へ埋め、しるしの松を植継し由。今塚上の両株是なりと云。今土人この松を二本松と号す。
  
 おそらく松の根元を掘り、古墳の玄室に侵入して出土した鉄剣・鉄刀あるいは副葬品を、そのまま持ち帰ったのだろう。家族がみな大病を患うという「祟り」に遭い、あわてて埋めもどした様子が記録されている。
 その昔、下落合に存在した古墳出土の鉄剣・鉄刀Click!や、副葬品の碧玉勾玉Click!を譲り受け保存しているわたしには「祟り」などなさそうなので、どうやらこの地域に透けて見える古代の大鍛冶(タタラ製鉄)や小鍛冶(刀剣鍛冶)の事蹟Click!と、この地方一帯に展開する大規模な古墳の痕跡Click!を追究しながら大切にしているのが、消滅してしまった古墳の被葬者の「霊」にもどうやら理解されているのか、次々と興味深い資料も集まり、どこか応援してくれているような気配さえ感じる。w
 このような、「いわく」のあるエリアを伝え聞いた後世の人々が、同地を「祓い」、死者の魂を浄化して聖域化するために、寺社を建設している経緯は想像に難くないだろう。大型の古墳であってみれば、寺社の建設には格好の地形を提供していたにちがいない。また、大型古墳を取り巻く小塚(倍墳)の場合には、神道ないしは仏教の祠(ほこら)を設置してまわった。敬虔な仏教者(僧侶)であってみれば、そのような異界伝承を耳にするたびに、さまざまな祠を設けて供養をしたのだろう。落合や戸塚、高田、大久保、柏木など旧・神田上水沿いの各地域に展開する、室町期の僧侶・昌蓮Click!が形成した「百八塚」Click!とは、そのような経緯の延長線上に位置する事蹟ではないかとみている。
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 さて、幕末に外国船の来航に備え、御殿山の土で埋め立てられた「台場」(砲台)について調べているとき、面白い地図を入手した。明治初期に制作された地図類で、東海道線Click!が敷設された最初期の地図類だ。おそらく、1872年(明治5)からほどなく作成されたのではないかと思われる地図や地形図だ。そこには、巨大な塚と塚の間を貫通する東海道線が描きこまれている。
 東海道線をはさみ、西側のサークルは、いまでは山手線や住宅街となって現存しておらず不明だが、東側の塚状突起の一部は古くから出雲神のスサノオを奉った牛頭天王社、明治以降は品川神社(品川大明神)と呼ばれる社(やしろ)の境内だ。同社の境内は、明治初期には大きな瓢箪型(大正期以前の前方後円墳タイプ呼称)、すなわち鍵穴のような前方後円墳Click!のフォルムをしていたことがわかる。品川大明神は、この形状の前方部から後円部の手前にかけ建立されている。地形図から読みとれる瓢箪型突起の全長は、250mほどもある大きなフォルムの塚だ。
 しかも、品川大明神社の北側にも、東京湾を向いて同様の大きな塚状の突起(200m超)が存在していたことが、明治期に作成された別の地形図に記録されている。ちなみに、現存する品川神社の突起は、西側の後円部が削られて宅地開発がなされ、南側は板垣退助の墓所を含む広めな墓域になっている。古墳域がその禁忌的な伝承から、そのまま墓地になってしまった事例はほかにも多数あるので、この点にも深く留意したい。
 品川区の古墳について記した資料に、品川歴史館が発刊している「紀要」類がある。もともと品川区(旧・荏原区と品川区)は、東京湾に面した地域のせいか明治期から工場の誘致など殖産興業に熱心であり、江戸期の東海道は最初の宿場である品川宿としての事蹟は頻繁に紹介されてきたものの、それ以前の、特に古代史の研究については、ほとんど熱心に取り組まれてはこなかったように見える。その象徴として、2005年(平成17)に品川歴史館で開催された特別展「東京の古墳―品川にも古墳があった―」の「品川にも」というタイトルに、期せずして象徴的に表れている。
 実は、目黒駅の東側(現・品川区上大崎)にあるふたつの巨大な古墳状のフォルムClick!と同様に、あるいは品川区の北側位置する芝増上寺境内の芝丸山古墳Click!(最新調査では全長120mで陪墳14~15基と想定)と同様に、海に向かう斜面には大小の古墳群が存在していたが、それに気づかぬまま、あるいは戦前の皇国史観Click!の中で「関東に大型古墳などあってはならない」とされて、なんの調査もなされずに破壊され、工場街や住宅街にされつづけてきた可能性を否定できない。
 敗戦により非科学的な皇国史観の呪縛がとけた当初から、品川区に展開する古墳群について注目していた人物がいた。こちらでは、美術のテーマも含めて何度も登場している、目白の「徳川さんち」Click!でお馴染みの徳川義宣Click!だ。徳川義宜は1946年(昭和21)から、学習院の考古学チームClick!を引き連れて、品川区の大井林町古墳(2基)の発掘調査におもむいている。すでに墳丘はあらかた宅地開発や墓地設置のため破壊されていたが、全長50m前後の前方後円墳(1号墳は円墳の可能性も残る)が双子のように並んで築造されていた様子を記録している。
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 発掘の様子を、2006年(平成18)発行の『品川歴史館紀要』から引用してみよう。
  
 一号墳は、徳川氏の報告によると、昭和二一年(一九四六)の正月より昭和二八年(一九五三)春まで大井林町二四八番地(中略)の伊達家邸内の洋館に居住していた時に、その邸内の庭から縄文時代後期の土器片や相当数の埴輪片を採集したと報告されている。そして徳川氏はその報告の中で「表面採集のみで周濠調査もしてゐないので、存在したはずの墳丘の形式も、大きさも、基数も不明である。八百坪ほどの庭の全面から採集されたと云っても、台地先端部から二〇~六〇メートルの範囲が分布密度は高かったと記憶してゐるので、それほど巨大な墳丘が存在したとは考へられず、前方後円墳でも円墳でも、最長五〇メートル内外ではなかったかと推測される。」とし、「今回これを『大井林町一号墳』と呼ぶこととした。」と報告している。
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 伊達家の庭は、まるで大正期にみられた落合地域の畑地のような状況だったのがわかる。畑で土を掘り返すと、土器や埴輪の破片がたくさん出てくるので、梳きこんでみんな土中に埋めもどしたという証言が、落合地域のあちこちに残っている。
 また、大井林町2号墳は当時現存していた墳丘が41mで、大井公園に隣接した土佐藩山内家の墓所内にあった。やはり古くからの禁忌的伝承でもあったものか、大きな古墳域が近世でも死者を葬る墓地にされていたのがわかる。墓地開発をするために、墳丘がどれだけ崩されたのかは不明だが、41mの残滓から想定するともっと大きな古墳だったのではないかと推定できる。2号墳からは、古墳期の埴輪や土師器片が出土している。
 このほかにも、品川区では1960年代になって次々と古墳が発見されている。青物横丁駅の西側にある仙台坂では、直径20m前後の円墳群が見つかっているが、これが新宿角筈古墳(仮)Click!の女子学院キャンパスにあった陪墳Click!のひとつや、成子天神山古墳(仮)の陪墳(成子富士)Click!のように、大きな主墳に寄り添う一連の陪墳群だったかどうかは、すでに周辺の環境が宅地開発で地形まで改造されてしまったために不明だ。
 さて、品川区の古代の様子を、これらの発掘ケーススタディを踏まえた上で眺めてみると、明治期に記録された先の牛頭天王社(品川大明神社)の東西に連なる丘と、東海道線をはさみそれに寄り添うように採取された西側の大きなサークル、そして同社のすぐ北側に海へ向かって平行に並ぶように採取された、東西に延びる巨大な双子突起が、がぜん気になってくる。品川大明神は、平安末期に源頼朝Click!が正式に建立して以来(出雲のスサノオ伝承から、実は建立はもっと古い時代だと思うのだが)、墳丘(前方部と後円部の境にある羨門位置)に社殿が建設されているので一度も発掘調査は行われていないのだろう。同社に並ぶように位置する、東海道線西側の巨大なサークルや、北側の墳丘状の大きな突起もまた、なんの調査も行われずに明治期から破壊され開発されつづけてきた。
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 先日、旧・東海道の品川宿から御殿山下台場、そして品川大明神社を歩いてきた。境内への階段を上り、長い参道を歩くと、ようやく拝殿・本殿にたどり着く地形は、まさに前方後円墳をベースClick!に境内を造成した待乳山古墳Click!や、大手町(旧・エト゜岬=江戸柴崎村)の将門塚古墳Click!などの境内に見られる地勢とそっくりだ。ただし、品川大明神社のケースは、西側の開発されてしまったエリア(後円部)を含めれば250mと、その規模がかなり大きい。目黒駅東側の同じく品川区上大崎に痕跡が残る、森ヶ崎古墳(仮)に次ぐ規模だろう。境内に房州石があったかどうかは未確認だが、「品川富士」Click!も築かれている典型的な古墳臭がする地点なので、また機会があれば散歩してみたい。

◆写真上:西側の第一京浜から見上げた、品川大明神社の階段(きざはし)と境内。
◆写真中上は、1872年(明治5)ごろに作成された地図。東海道線が、ふたつの塚状突起の間を貫通して敷設されている様子がわかる。は、1881年(明治14)に作成された地形図。すでに品川社のある丘が、南北の開発で大きく削られ変形しているのが判然としている。また同社の北側にも、同様に海へ向かって張り出す丘が採取されている。は、1947年(昭和22)の空中写真に見る品川社。すでに西側の後円部とみられる丘は消滅し、同社の南側は削られて墓域になっている。
◆写真中下は、1880年代に作成されたとみられる地形図。品川社のある前方部とみられる丘と、西側の丘が分離し開発されはじめているのがわかる。また、同社北側の丘も開発されはじめているようだ。は、品川社の長い参道と広い境内。
◆写真下は、カーブを描いた前方部の北側斜面。は、境内に築かれた「品川富士」。は、同社南側にある板垣退助の墓。「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」の人なので、“西側”資本主義体制のきわめて重要な政治・社会思想のひとつ自由主義とは無縁な、よりによって国連から警告を受けるなど恥っつぁらしで「国辱」もんの、民主主義の根幹を揺るがす現代版治安維持法=「共謀罪」が早く消滅するようお参りする。わたしが生きている間に、いまさら明治期の自由民権運動家の墓に手を合わせたくなるような時代が招来しようとは実に情けない、思ってもみなかったことだ。

下落合を描く清水多嘉示の軌跡。

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 8回にわたり連載してきた、清水多嘉示Click!が描く「下落合風景」作品とみられる描画場所の特定ないしは想定から、彼が下落合に残した軌跡を改めてたどってみるのが今回のテーマだ。そして、清水が残した足跡からはなにが見えてくるのだろうか? このような試みは、同じく「下落合風景」作品を数多く連作している佐伯祐三Click!松下春雄Click!でも、これまで検討・考察してきたテーマだ。
 まず、清水多嘉示は下落合を散策する過程で、4つのエリアの風景を写しとっている可能性が高いことだ。その4つのエリアのうち3つまでが、下落合に深く切れこんだ谷戸そのものか、あるいは谷戸に近接した場所を描いていることがわかる。また、残りのひとつは目白通りを越えて下落合が北側に張りだしたエリア、すなわち下落合540番地の大久保作次郎アトリエClick!の庭を描いているとみられる。
 雨がそぼ降るなか下落合464番地の中村彝Click!アトリエを、1917年(大正6)6月23日に訪ねたときから(ただし中村彝は不在だった)、清水と下落合とのかかわりがはじまっている。以来、清水は中村彝のもとを頻繁に訪問することになるが、同時に彝アトリエに集っていた周辺に住む画家や美術関係者たちとも親しくなっただろう。つまり、彝アトリエへ出入りするうちに、下落合の画家たちとも顔見知りになり、また中村彝からもアトリエに来訪する画家たちを紹介されていたと思われるのだ。
 清水多嘉示が、彝アトリエを通じて知り合った画家が多かったことは、彝の歿後、親しかった画家たちが集まって中村会Click!(のち中村彝会Click!)を結成し、1926年(大正15)に『芸術の無限感』(岩波書店)を編纂する際、渡仏中の清水にまで日本からフランスにあてた彝の手紙を収録するので提供するよう、わざわざ声をかけていることでも明らかだ。清水は手もとにあった彝からの手紙を、日本の中村会あてに送還しているとみられる。換言すれば、『芸術の無限感』の編纂に参加していた画家たちは、清水多嘉示が中村彝とかなり親しく、頻繁に手紙のやり取りをしていることまで知っていた……ということになる。
 すなわち、清水多嘉示が下落合を訪れた際、立ち寄る先は中村彝アトリエ(彝歿後の1925~1929年までは「中村会」拠点)だけとは限らなかったということだ。ましてや、フランスでいっしょだった画家や美術関係者の何人かは、下落合にアトリエや住居があり(たとえば大久保作次郎Click!森田亀之助Click!など)、さらに昭和初期に下落合へ転居してくる人物(たとえば蕗谷虹児Click!など)も含まれている。
 1928年(昭和3)に清水多嘉示が帰国してから、下落合を訪れる目的は、当初は中村会の拠点となっていた中村彝アトリエが多かったのかもしれないが、1929年(昭和4)に同アトリエへ鈴木誠Click!が転居してくると、下落合に住む中村彝を通じて知り合った友人たち、あるいはフランスで親しくなった知人たちを訪ねている可能性が高い。それが、清水の連作「下落合風景」から透けて見え、なおかつ下落合を散策する清水の軌跡と重なってくるのではないかというのが、これまで記事を書いてきたわたしの感想だ。
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「下落合風景」OP008.jpg 「風景(仮)」OP595.jpg
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 そしてもうひとつ、清水多嘉示は目白崖線に深く刻まれた谷戸地形を散策するのが好きだったという印象をおぼえる。以下、清水が好んで描いたとみられる3つの谷戸(の周辺)と、想定される作品を分類してみよう。
 ★林泉園谷戸
 『下落合風景』(OP008)Click!/『風景(仮)』(OP595・OP256)Click!
 ★諏訪谷
 『風景(仮)』(OP285・OP284)Click!/『民家(仮)』(作品番号OP648)Click!
 ★前谷戸(大正中期から「不動谷」)
 『風景(仮)』(OP594)Click!/『風景(仮)』(OP287)Click!/『風景(仮)』(OP581)?Click!
 まず、中村彝アトリエの前に口を開けていた、御留山へとつづく林泉園の谷戸だ。『下落合風景』(O008P)は渡仏前の初期作品だが、『風景(仮)』(OP595・OP256)と併せて中村彝アトリエないしは彝歿後の中村会を訪ねているのは明らかだろう。清水は、林泉園から谷戸の渓流沿いを歩いて御留山まで下り、藤稲荷社のある丘上から深い渓谷を描き、あるいは帰国後にまったく異なるタッチで東邦電力が開発した林泉園の湧水源を2画面描いている。
 また、林泉園から西へ500mほどの諏訪谷では、谷北側の尾根上に通う道沿いに建てられていた下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!、あるいは1933年(昭和8)ごろなら近接する下落合622番地の蕗谷虹児アトリエClick!が建つ界隈を『風景(仮)』(OP285・OP284)の2作に描いている。また、諏訪谷を形成している青柳ヶ原Click!の北側から、目白通り沿いの福の湯Click!とみられる煙突を入れて、『民家(仮)』(作品番号OP648)も制作している。
 これら一連の作品は、彝アトリエで頻繁に顔を合わせていた同じ二科の曾宮一念を訪ねたか、下落合1443番地にある木星社(福田久道)Click!のところへ画集の打ち合わせに出向いた道すがらか、あるいは渡仏中に知り合った下落合630番地の森田亀之助ないしは蕗谷虹児を訪ねたついでに、近所でイーゼルを立てて描いた作品群なのかもしれない。
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「風景(仮)」OP285.jpg 「民家(仮)」OP648.jpg
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 諏訪谷から、さらに西へ450mほどの前谷戸(不動谷)では、やはり谷の北側に建つ中央生命保険俱楽部(旧・箱根土地本社)とみられるレンガ造りのビルを、『風景(仮)』(OP287)に描いている。そして同社の不動園Click!伝いにか、または第四文化村の坂道から前谷戸(不動谷)へと下りていき、渓流沿いを100m弱ほど歩いたあと、南側の市郎兵衛坂が通う急斜面を登って『風景(仮)』(OP594)を制作しているように見える。この谷戸のたどり方は、『下落合風景』(OP008)を描いたときの林泉園から御留山へとたどった、清水の足どりとそっくりなことに気づく。
 さらに、第二文化村の松下邸を描いたのかもしれない『風景(仮)』(OP581)があるが(この描画場所は自信がない)、これらの作品群はおしなべて、清水が木星社の福田久道へ風景のモチーフ探しを相談し、彼の示唆を受けて下落合の中部域、前谷戸が刻まれた目白文化村Click!へと導かれた成果なのかもしれない。
 以上のように、清水多嘉示が描いた「下落合風景」とみられる作品の描画場所をまとめて検討すると、清水多嘉示は清廉な泉が湧く谷戸の風情が気に入り、積極的に下落合の谷間あるいは“水場”を好んで逍遥している可能性を強く感じるのだ。滞仏中の作品は細かく検討していないけれど、はたして谷間や水辺にかかわる風景が多いものかどうか、興味深いテーマなのではないだろうか。
 さて、渡仏前に描かれた作品に、1921年(大正10)の『庭の一部』(OP007)Click!と制作時期の不明な『青い鳥の庭園』(OP018)があるが、この2作品は大久保作次郎の庭で制作された可能性の高いことは、前回の記事でも書いたとおりだ。大久保アトリエは、谷戸地形や湧水源とはまったく無関係だが、おそらく中村彝の紹介で訪問しているのだろう。当時の大久保アトリエ周辺は、いまだ畑地が多く農家がポツンポツンと見られるような風情だった。その中の1軒で、大久保アトリエ直近の「百姓家」Click!を借りて住んでいたのが、出身地である大阪時代から大久保作次郎とは親しく、極度の貧血を起こして下落合で行き倒れていた小出楢重Click!だ。
 清水多嘉示と大久保作次郎は、渡仏中もパリでいっしょだったので、帰国後も清水はアトリエを訪問しているのかもしれない。だが、大久保アトリエを想起させる画面は、帰国後の作品には残されていない。
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 また、清水はモンパルナスにあったアカデミー・コラロッシのシャルル・ゲラン教室で学んでおり、同アカデミーで佐伯祐三Click!木下勝治郎Click!といっしょに記念写真に撮られているが、特に佐伯や木下と親しくなったというエピソードは残っていない。むしろ、のちに1930年協会Click!を設立する画家たちが意識的に距離をおいていたように見える、藤田嗣治Click!石黒敬七Click!たちグループの近くで制作していたようだ。
 ちなみに、朝日晃の書籍では同写真の撮影場所をアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールとしているが(『佐伯祐三のパリ』新潮社/1998年ほか)、清水多嘉示がこの時期に学んでいた美術研究所から考察すれば、この写真はアカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエールに隣接するアカデミー・コラロッシの誤りだろう。パリに着いたばかりの佐伯と木下は、さまざまな美術関連の施設を見学して歩いていたのかもしれない。

◆写真上:林泉園のテニスコート跡あたりを、北側に通う道路上から見下ろす。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林泉園周辺の清水多嘉示の軌跡。は、清水多嘉示の『下落合風景』(OP008/)と『風景(仮)』(OP595/)。は、御留山側から撮影した藤稲荷社の境内。拝殿・本殿の位置が戦前とは異なるが、清水は右手に見えている住宅のあたりにイーゼルを立てて『下落合風景』(OP008)を描いている。
◆写真中下は、同年の空中写真にみる諏訪谷周辺の清水の軌跡。は、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP285/)と『民家(仮)』(OP648/)。は、雪が降ったあと南へとつづく諏訪谷の情景で、遠景は新宿駅西口の高層ビル群。
◆写真下は、同年の空中写真にみる前谷戸(不動谷)周辺の清水の軌跡。中上は、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287/)と『風景(仮)』(OP594/)。中下は、前谷戸(不動谷)へ下りる坂沿いに築かれた第四文化村の宅地擁壁。は、1924年(大正13)に撮影されたアカデミー・コラロッシと思われる記念写真。清水多嘉示と、同年1月3日にパリへ到着したばかりの佐伯祐三と木下勝治郎が写っている。
掲載されている清水多嘉示の作品と資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。

空中写真の対空標識と二等三角点。

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 下落合とその周辺域には、明治期から三角測量のための三角点が数多く設置されている。1880年(明治13)に作成されたフランス式の地形図では、落合地域と近隣地域の三角点を合計すると、実に5ヶ所にものぼる。その中心となるのが、下落合のタヌキの森Click!のピークに設置されていた二等三角点Click!で、これはやや場所を変えて現在まで国土地理院や東京都によって活用されている。だが、残りの三等または四等三角点は、場所によっては形跡が残っているかもしれないが、ほとんどが住宅街の下になっている。
 落合地域には、なぜか三角点が3つもあった。ひとつは、先に挙げた下落合768番地のタヌキの森ピークにあった二等三角点だが、もうひとつ(おそらく三等または四等三角点/以下同)が下落合488番地あたり、いまの地理でいうとピーコックストアの西側、徳川好敏邸Click!(下落合490番地)跡のすぐ北側で、現在の目白が丘マンションのあたりだ。また、葛ヶ谷(西落合)と江古田村との境界あたり、和田山Click!(現・哲学堂公園Click!)の東端にも三角点がひとつ確認できる。
 さらに、葛ヶ谷(西落合)から少し江古田村側へ外れた、江古田210番地界隈にもひとつ設置されている。落合地域の北で、雑司ヶ谷の西端(現・西池袋2丁目)あたりにもひとつ確認できる。現在の東京電力池袋変電所が建っている、すぐ南側あたりだ。落合地域とそのすぐ外周域を探してみると、三角点は以上の5つで上落合や下戸塚には見あたらない。おそらく明治初期の陸地測量チームは、丘陵が東西へと長くつづく見晴らしのよい目白崖線沿いを歩きながら、点々と三角点を設置していったのだろう。
 明治も後期になると、落合地域にも参謀本部の陸地測量隊が、1/10,000地形図を作成するため測量に訪れているとみられるが、地図に記載される三角点は三等・四等の採取は省略され、すでに二等三角点以上のみの記載となっている。これは現在でも同様で、東京の西北部市街地に設置された二等三角点は、新宿区内では下落合と神宮球場に接した公園の2ヶ所しか存在していない。そのうち、下落合の二等三角点は1977年(昭和52)9月末に、タヌキの森のピークから北東へ100mほど移動している。
 タヌキの森に建っていた旧・遠藤邸Click!が解体される前後、わたしは母家に接した蔵のすぐ東側に設置されていた二等三角点の標識を確認している。各時代の地図に記載されているとおりの位置なので、当然、地理業務では活きているものと考えていた。ところが、わたしが同三角点を見た時点では、とうにその役割りを終えていたのだ。1977年(昭和52)に、遠藤邸の蔵横に設置されていた二等三角点は、落合中学校グラウンドの西端に“移転”したあとだった。どおりで、遠藤邸が解体され整地・掘削される作業工程で、なんの問題も持ちあがらずに破壊されたわけだ。
 自由に出入りができない、私邸の内部に設置されていた三角点は、おそらく国土地理院や東京都の測量業務には支障があったのかもしれない。あるいは遠藤邸の側でも、測量あるいは空中写真の撮影時に、いちいち三角点の確認や対空標識を設置するために作業チームが邸内へ入りこむのがわずらわしく、国土地理院へ二等三角点の移設を要望していたものだろうか。いずれにしろ、40年も前の古い話なので確認をとることができなかった。
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 さて、このサイトでは各時代の空中写真を、さまざまな記事の中へ数多く引用してきている。戦前の古い写真の場合は、国土地理院(日本地図センター)に保存されている標定図Click!(撮影機の飛行コースと撮影範囲)を参考に目的のエリアを指定し、大判の印画紙へプリントしてもらい、さらにスキャナで読みこんで高精細データとして保存している。また、戦後の空中写真はデータ化が進んでいるので、標定図でエリアを指定したあとCD-RかDVD-Rに焼いて送ってもらっている。
 わたしのサイトでは、熱気球から撮影された「気球写真」、飛行機から撮影された「航空写真」、さらに人工衛星から撮影された「宇宙写真」などさまざまな写真を活用しているので、これらを総称して「空中写真」と表現する国土地理院の呼称を踏襲してきた。この中で、おもに各種地図を作成する際に必要となる、航空機から地表と直角に撮影される垂直写真が、このサイトの史的な事実や出来事を掘り起こし、人々の物語を記述するうえでは非常に役立ってきている。そして、空中写真と三角点は戦後に行われた撮影において、特に重要な関係にあるのだ。
 1969年(昭和44)に中央公論社から出版された、西尾元充『空中写真の世界』(中公新書)から引用してみよう。かなり古い本なのだが、現代ではICTシステムによる自動化や可視化、GPS活用などが大幅に進んでいると思われるものの、基本的に空中写真の撮影時における方法論は変わっていないだろう。
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 (前略)五千分の一の地形図を作るための空中写真は、縮尺二万分の一である。いよいよ作業が開始される前に、綿密な計画が立てられ、周到な準備が行なわれる。飛行機の手配から、材料はもとより、現地に出張する人員の選抜から器材の準備、はては人夫の有無、また室内作業では、機械や人員の割り当てにいたるまで、いっさいの仕事のスケジュールが、あらかじめ予定表によって決められる。/最初の準備のなかで最大の仕事は、対空標識を現地に設置することである。対空標識というのは、測量の基準になる地上の三角点をはじめ、水準点や多角点などの位置が、空中写真の上ではっきりと確認できるように、基準点を中心にして、十字形に作る地上の標識のことである。杭を打って細長い板を打ちつけ、白ペンキで塗る。ときには、銀色のスチロール板を使うこともある。
  
 これだけ用意周到に準備を重ねても、当然、失敗することがままある。そもそも天候が晴れなければ仕事にならないのは、映画のロケーションに似ている。薄い雲がひとつでも湧き、それに影響されて地上の一部が隠れてしまえば、当該地域の写真はすべてが撮り直しとなる。もちろん、ほかは雲で覆われていても、目的の場所だけがハッキリと写っていればいいという用途なら、それほど手間はかからないのだろうが、地図の制作用の空中写真は全体がクリアでなければ意味がない。
 上記の文章に書かれている対空標識は、三角点などの周囲に4本の杭を立て、その上にペンキで白く塗った板を放射状に張りつける方法だが、ときには陽光が白く反射する銀板も使われていたようだ。地図の作成を前提とする空中写真へ、対空標識が本格的に導入されはじめたのは1960年代の半ばぐらいとのことなので、それ以降に下落合界隈を撮影した空中写真を確認してみたくなった。
 1977年(昭和52)以前に撮影された空中写真で、遠藤邸の蔵の右手(東側)に対空標識が確認できるかどうか探してみたが、1966年(昭和41)と1975年(昭和50)の写真では、残念ながらそのような工作は見られなかった。また、1977年(昭和52)以降の空中写真で、落合中学校のグラウンド西端に同様の工作が見られるか確認したけれど、1979年(昭和54)と1984年(昭和59)の写真ともに、やはり対空標識らしいものは写っていない。
空中写真遠藤邸1966.jpg
空中写真遠藤邸1975.jpg
空中写真落中グラウンド1979.jpg
空中写真落中グラウンド1984.jpg
 おそらく、空中写真で対空標識が必要となるのは、目標物がなにもない山岳地帯や原野が中心で、目標となる建物や施設、構造物などが容易に特定できる市街地では設置されないケースが多いように思える。1977年(昭和52)までは遠藤邸の蔵横が、それ以降は落合中学校の西端が、2等三角点の“ありか”として規定されているのではないだろうか。

◆写真上:落合中学校の運動場に移設された、明治初期からある下落合の二等三角点。
◆写真中上は、1880年(明治13)のフランス式最初期地形図にみる落合地域とその周辺の三角点。は、1/10,000地形図に収録されたタヌキの森ピークの二等三角点。は、タヌキの森に建っていた解体中の遠藤邸。写っている蔵の横(東側)に、地中に埋められた旧・二等三角点の標識がそのまま残されていた。
◆写真中下は、空中写真を撮影する際に基準点に設置された対空標識。は、現在主流となっている対空標識いろいろ。(ともに国土地理院サイトより) は、戦前戦中の陸軍航空隊やB29偵察機が撮影したいろいろな写真類で印画紙へのプリントサービスが主流。特殊な写真はプリントのみだったが、そろそろデータでの提供がはじまるだろうか。
◆写真下は、1967年(昭和42)と1975年(昭和50)に撮影された下落合の空中写真。前者は、ちょうど西尾元充『空中写真の世界』が執筆されたころの写真だが、二等三角点には特に対空標識としての工作が施されていない。は、二等三角点が落合中グラウンドへ移設後の1979年(昭和54)と1984年(昭和59)に撮影された空中写真。こちらも、特に対空標識らしい設備は施されていないように見える。

もうひとつの佐伯祐三『堂(絵馬堂)』候補。

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南泉寺1.JPG
 この13年間、佐伯祐三Click!が描いた『堂(絵馬堂)』Click!のモチーフを探しつづけているが、この堂がどこに建っていたものなのか規定できないでいる。もっとも疑わしいのは、下落合(現・中落合/中井含む)の境界エリアから、西へわずか180m前後のところにある上高田の桜ヶ池不動堂Click!だが、現在の建物は戦後の1954年(昭和29)にリニューアルされたものだ。
 桜ヶ池不動堂は、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズClick!の1作、「制作メモ」Click!によれば1926年(大正15) 9月21日(火)の曇り空の下で制作された、『洗濯物のある風景』Click!の描画ポイントからも、南西へ210mほどしか離れていない。妙正寺川の土手で同作を描く佐伯の背後には、耕地整理前の広大な麦畑が拡がり、桜ヶ池とそのほとりに建つ小さな堂が、境内の樹間を透かして見えていたにちがいない。だが、同建物の写真を中野教育委員会に依頼して、リニューアル前(できれば大正期ごろ)の写真を探していただいたが、いまだに発見できていない。
 ところが、もうひとつ『堂(絵馬堂)』の候補場所が現れた。上野の東京美術学校Click!(現・東京藝術大学Click!)から北へ1,100mほどのところにある、南泉寺の境内に建立されていた菅谷不動堂だ。それに気がついたのは、1927年(昭和2)の夏に東京日日新聞に連載されていた、彫刻家・藤井浩祐の「上野近辺」の一文に目がとまったからだ。南泉寺は、以前にご紹介している西日暮里の諏訪台通りから西側の崖下へと下りる、富士見坂Click!の坂下南側にある寺で、同寺の入口(大正期は庫裏の建物のみで本堂と山門は存在しなかった)の右手には、小さな菅谷不動堂が建っていた。
 1976年(昭和51)に講談社から出版された『大東京繁盛記/山手篇』所収の、藤井浩祐「上野近辺」から南泉寺の様子を引用してみよう。
  
 唯一つ入口の右側、道に近く菅谷不動尊の小堂があって、女の御詣りが非常に多く、新しい納め手拭の絶え間がなかった。堂に向って左に半坪ばかりの小屋があって、格子戸には堅く鍵がおろされてあった。(中略) その不動堂の境内は狭かったが、堂の前には大きな芭蕉の一株があり、竹に結んだ納め手拭は斜に立ち並び、鴨居につられた赤の長い提灯も、丸いのも、皆それぞれに面白い対照をなして絵になっていた。
  
 さて、この一連の描写から受け取れる情景と、佐伯祐三が描いた『堂(絵馬堂)』の画面とを比較し検討してみよう。まず、女性の参詣が多い菅谷不動堂は、おそらく婦人病か安産(あるいは子授かり)などのご利益からだろうか、祈願ついでに手ぬぐい(女性だけの講中名でも染められた願掛け手ぬぐいかもしれない)が納められていたのがわかる。数多くの手ぬぐいは、竹でつくられた奉納専用の棒に結ばれるか、おそらく堂自体にも架けられるか、結わえつけられていたと想定できる。
 佐伯祐三の作品『堂(絵馬堂)』は、彼の死後につけられたタイトルであり、堂の正面になにか吊るされているので「絵馬」だろうと反射的に想像した、後世(おそらく戦後?)の命名によるものだ。だが、画面を拡大してよく観察すると、どうしても絵馬の質感には見えない。むしろ、菅谷不動堂の奉納品である手ぬぐいのように、布に近いような質感の表現で描かれているのがわかる。いつか、米子夫人Click!の足が悪かったことから、その症状を軽減するために足袋または履き物を吊るした、アラハバキClick!の社(やしろ)ではないかと疑ったことがある。これらの「霊験」は、桜ヶ池不動堂が描画場所であった場合でも、同様のテーマとしてつながるだろう。
絵馬堂1926.jpg
堂1(拡大).jpg
堂2(拡大).jpg
沿革図書1704-1711.jpg
 また、堂の鴨居からは、赤くて長い提灯が吊るされていたようだ。佐伯の『堂(絵馬堂)』を確認すると、確かに右手の鴨居から下へ吊るされたように、なにか赤い物体が描かれている。だが提灯かどうかは、いまひとつ描写の曖昧さからハッキリしない。なにやら文字らしいかたちも見えるが、佐伯のパリ作品ほど精緻には拾われていない。
 さて、この菅谷不動堂が佐伯祐三の『堂(絵馬堂)』ではないかと疑ったのには、大きな理由がある。それは、明治から大正期にかけ、東京美術学校から歩いて10分ほどのところにある菅谷不動堂が、洋画科に通う画学生たちの伝統的かつ慣習的な写生場所として、広く知られていたからだ。
 つづけて、同書の藤井浩祐のエッセイから引用してみよう。
  
 私は今でも、美校時代洋画生の郊外写生の画を陳列した中に、いつでもこの不動が一枚や二枚必ずあった事を覚えている。私も或時そこを写生した事がある。私の父の所へ遊びに来た百花園の主人が、それを見て、うまくかけましたなあ。この芭蕉の植込み具合などは、何ともいえませんといって、しきりに植込みをほめて、画をほめてくれなかった事を覚えている。この多く画学生に描かれた不動堂も、また多くの中学生を喜ばした陰陽石も、今は綺麗に取片付けられて、跡形もないのは時勢であろう。
  
 佐伯祐三の『堂(絵馬堂)』は、もちろん美校生時代の作品ではなく、その描画の表現から第1次滞仏から帰国した1926年(大正15)3月以降に描かれているとみられる。そして、時代を経てボロボロになった菅谷不動堂や陰陽石を納めた小堂が解体され、新たに建設された本堂近くに移動したのも、どうやら大正末のその時期と重なりそうなのだ。
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 佐伯は帰国早々、東京美術学校時代に「写生練習の名所」だった菅谷不動堂が、そろそろ解体されるのを知り、懐かしくなって記念に描きに出かけたかもしれない……と想定することができる。美校時代に住んでいた佐伯の下宿からも、1,000mほどしか離れておらず、付近の街にも土地勘があっただろう。もちろん、恩師たちがいる東京美術学校にも帰国の挨拶に立ち寄っているのかもしれない。南泉寺の境内では、庫裏の解体工事や樹木の整理が進んでいたものか、同不動堂の手前にあった芭蕉の木はすでに除けられていた……。そんな情景を、画面から想像することができる。
 かなり傷みが激しかったようだが、大正期までは建っていた菅谷不動堂は、実際に佐伯の『堂(絵馬堂)』のような形状をしていたのだろうか? さっそく、富士見坂下の南泉寺に、佐伯の出力画像を用意して方丈をお訪ねしてみた。ところが……、ちょうど秋の法事シーズンでお忙しいらしく、インターホン越しにあっさり断わられてしまった。ひょっとすると、西日暮里の駅周辺はかなりの部分が空襲で延焼しているので、昭和初期にリニューアルされた伽藍自体さえ焼け、すでに大正期の菅谷不動堂など記憶の彼方に消えてしまっているかもしれない。
 大正期まで、庫裏のみだった南泉寺の境内に、菅谷不動堂はどのような向きで建っていたのだろうか。佐伯の画面を観ると、堂のバックに明るめな空間が大きく拡がっている。堂が西向き(向拝が東向き)に建っていたとみられる桜ヶ池不動堂(ちなみに現在でも同様の方角)では、なんら不自然でない表現なのだが、菅谷不動堂だとすると藤井浩祐の表現を踏まえるなら、山門が存在しなかった「入口」を入って右手にあることから、堂は南向き、向拝は北向きだったことになる。
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 菅谷不動堂の南側は、江戸期には新堀村の一部と延命院の境内が、つまり、その向こう側には中村彝Click!中村悌二郎Click!がしばらく住んでいた下宿や経王寺、静坐会Click!本行寺Click!などの門前にあたる、現在の「谷中銀座」が通っていることになる。

◆写真上:南泉院の山門と、正面に見える建物は本堂ではなく方丈。
◆写真中上は、1926年(大正15)に描かれたとみられる佐伯祐三『堂(絵馬堂)』。は、『堂(絵馬堂)』画面の部分拡大。「日本一」や「大正」などの文字が確認できるが、右手の赤い部分に書かれた文字は読みとれない。は、宝永年間に作成された「御府内往還其外沿革図書」に採取された南泉寺。北が右手で、富士見坂はまだない。
◆写真中下は、大正期まで菅谷不動堂が建っていたと思われる山門の右手。は、家屋と一体化した現在の不動堂。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる富士見坂と南泉寺。激しい空襲にさらされ、周囲の大部分が焦土と化している。
◆写真下は、千駄木の高層マンションの建設で富士山が見えなくなってしまった富士見坂。は、諏訪台通りの路地を入ったところにある長谷川利行Click!の旧居跡。は、彰義隊と薩長軍の戦闘Click!でたくさんの弾痕が残る経王寺の山門。

すぐに「叩っ殺してやる!」の戸塚町議会。

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戸塚町役場跡.JPG
 少し前、すぐに「斬ってやる!」と刃傷(にんじょう)沙汰になりそうだった高田町議会Click!の様子をご紹介したが、町長に高田警察署から3名の護衛はついたものの、特に何ごともなく時代はすぎた。ところが、その南に位置する戸塚町では、町議会が脅迫や殴り合いのケンカ場と化し、何度となく流血騒ぎを起こしている。
 そもそも3代目の戸塚町長だった早野教暢が、大量の公金を持ったままどこかへドロンし「行方不明」になったころから、戸塚町議会はもう統制がきかないほどメチャクチャになった。公金横領・着服はやまず、次には収入役がひそかに公金を「費消」し、税金の二重取りをして埋め合わせていたことも発覚するにおよび、「たたっ殺してやる!」の町議会はもはや収拾がつかなくなってしまったのだ。まるで喜劇かマンガのような状況だけれど、大正末に戸塚町議会で実際に起きていた事実だ。
 1931年(昭和6)に出版された大野木喜太郎・編『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)には、そのときの様子が議員の「声明書」(告発書)として、11ページにわたり克明に記録されている。編者の大野木喜太郎も、よほど腹にすえかねた事件だったのだろう。まず、『戸塚町誌』から、歴代町長の一部を引用してみよう。もうこれだけで、当時の町議会がいかに異常事態だったかが透けて見えるのだ。
 町 長  大正六年十月二十四日 同十二年二月二十四日 早野教暢
 臨時代理 大正十二年三月七日 同十二年三月二十日 太田資行
 臨時代理 大正十二年三月二十八日 同七月二十五日 久保田義朗
 町 長  大正十二年七月二十五日 同十四年二月六日 鮫島雄介
 事務管掌 大正十四年二月十六日 同三月十六日 村木経勁
 町 長  大正十四年四月十一日 同九月八日 大塚義太郎
 事務管掌 大正十四年九月八日 同九月十九日 江成濱次
 臨時代理 大正十四年九月十九日 同十月十二日 有田章次郎
 町 長  大正十四年十月十二日 昭和四年十一月十一日 横山襄
 歴代町長の紹介のはずなのに、やたら「臨時代理」や「事務管掌」が多いのに気づかれるだろう。このふたつの役職が記されている間、町長はといえば公金をドロボーして行方をくらますか、殴られて「入院」しているか、もう脅されるのがイヤになって町議会に出席せず、自宅で引きこもりになってしまったかのいずれかだと思われる。しかも、「臨時代理」や「事務管掌」の就任期間も、非常に短期間の人物がいるのにお気づきだろう。おそらく、脅されて無理やり辞任させられたか、殴られてイヤになった人たちだ。
 まず、1923年(大正12)2月に町長だった早野教暢が公金10,750円を持ったまま、どこかへ逃亡し行方不明になったところから、戸塚町の悲劇(喜劇?)の幕が切って落とされる。とても公式な町誌とは思えない内容だが、『戸塚町誌』から引用してみよう。
  
 偶々町長早野教暢氏が其の在職中公金一万七百五十円を横領費消し突如行衛を晦(くら)ましたる、綱紀の混乱に責を負ふて、同氏を除き連結総辞職となりたるら因り、大正十二年五月之が補欠選挙を行ひ、左の如く当選した、早野氏は残留である。
  
戸塚町役場1931.jpg
早野教暢町長.jpg 横山襄町長.jpg
 早野町長は、議会へ辞任とどけを提出しないままどこかへ土地を売った(トンヅラした)ので、辞めさせることができずに戸塚町議会へ議員として残留扱いとなっている。ここからしてすでにおかしいが、刑事事件にすれば町長不適格で議会がクビにできたはずだ。戸塚町では、町長のカネの持ち逃げが公になれば格好の新聞ダネとなり、世間のいい笑いもんになるのを怖れて、被害届けとともに刑事告発をしなかった可能性がある。
 ところが、この処分の甘さが尾を引いて、公金の横領・着服はやまなかった。今度は税金の収入役が、戸塚町の公金を大量に横領・着服してしまい、税金の二重取りが行われていたことが発覚した。この「税金二重徴取」事件で、戸塚町議会は前代未聞の事態に陥った。同町誌に収録された、まともな議員たちによる「声明文」から引用してみよう。
  
 税金の二重取事件 更に税金の事にしても、収入役の助手が公金を費消して居つた。従つて誠に遺憾ながら、町民からは税金の二重取りが行はれたのであります。之れは前々理事者(鮫島雄介町長)時代からの継続的な犯罪であつたと云ふので、現理事者(横山襄町長)は熾(さか)んに前理事者(大塚義太郎町長)の失態を口汚く罵り、之れを発見した自己の功績を吹聴するけれども、焉(いずくん)ぞ知らん、現理事者(横山襄町長)が着任後尚依然として、税金の二重取りが行はれて居たのであります。そして此の事実に対しては一向責任を感じて居らないのであります。(カッコ内引用者註)
  
 横山町長は、自身の就任中に部下の横領・着服が発覚しているにもかかわらず、管理不行き届きを反省するどころか、まるでよその地域の他人事のような態度だったらしい。
 このほか、一部の議員が気に入らない助役が就任しそうになったとき、推薦した議員をボコボコに殴り倒した「助役問題で当局の暴行」事件、戸塚町が活用しようとしている金融機関をめぐり、議員が傍聴席へ踊りこんで傍聴人を殴って流血騒ぎとなった「町金庫問題」事件など、戸塚町議会はまるでK-1のマット上のようなありさまだった。さすが、「血闘高田馬場」の地元だなどと、冗談をいっている場合ではない。
 しかも、関東大震災Click!で町議会場が使えなくなったものか、臨時の町議会場にされていたのが戸塚第一小学校の教室だったので、町議会のぶざまな狂態は児童たちに常に目撃されていたのではないかとみられる。そのことも、まともな議員たちが結集して「声明文」(告発書)を書かせる一因となったのだろう。
戸塚町全図1929.jpg
明治通り荒井山附近1931.jpg
戸塚第一小学校1931.jpg
 「町誌」としては前代未聞の記述なので、少し長いがその一部を引用してみよう。
  
 而して町長は自己の有する機能に拠つて、正式に発案推薦した人(助役)であるから、此の人に承認を与へやうとした時に、協議会に出席しなかつた人や、出席しても自ら助役の希望を持つて居た人々から、俄然反対が起り、単に言論で反対を為すならば兎も角、一部の人々は腕力に訴へ、議場を喧騒に陥らしめて議事の進行を妨害し、甚だしきは参与席にあつた某町吏員が洋服の上衣を脱ぎ棄てゝ腕を振るつて町会議員に暴言を吐きつゝ議員席に迫つても議長席にあつた町長は、何等何れを制止せざるのみか、却つて斯かる乱暴を煽動するが如き言動を為して……(以下略)
 何時でも町会に多少問題があると、町民以外の傍聴者の顔を見るのであるが、殊に十四日(1927年2月14日)には是等の人々が数名控えて居り、議場内と策応して、旺んに暴言を吐いて居た。其の時某町公民が傍聴席に現はれると、議席にあつた一議員は突如議席を離れて、傍聴席に闖入し、其の公民を殴打して議席に帰り、着席するや「今某々をブンなぐつて来た、アンナ奴は叩き殺して仕舞へ 我々に反対する奴は誰れでも叩き付けてやる」と揚言する始末であります。議長席にある町長は斯かる議員の暴行、暴言を制止せんとせず、何等の注意さへ与へないのは、実に奇怪千万と云はねばなりません。(カッコ内引用者註)
  
 もう戸塚町議会は、ほとんどヤクザか暴力団のシマ争いと変わらないようなありさまだった。1927年(昭和2)当時の町長は横山襄であり、昭和に入ってさえ大正時代から尾を引く暴力沙汰が、町議会場として使っていた児童たちの目がある戸塚第一小学校の教室でそのままつづいていた。『戸塚町誌』は、これら町内の「面汚し」たちや「恥っつぁらし」な出来事について、1931年(昭和6)に公然と記述しているので、そのころにはようやく批判が高まり異常事態が終焉して、まともな町議会へともどりつつあったのだろう。
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戸塚第一小学校1947.jpg
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 戸塚町の近隣である落合町や長崎町では、このような大乱闘騒ぎや暴力沙汰を聞かないのは、決して品がよく常識人たちが多かったからではなく、高田町や戸塚町よりも市街化が遅れており、昔ながらの農村に多く見られる大地主など地域ボスの“しばり”がいまだ強く働いていて、農村共同体の中では鋭く対立する強い異論や反対意見が出にくかったのではないか?……と想像している。

◆写真上:早稲田通りの往来を見つめるネコの、右手が高田馬場駅前にある戸塚第二小学校で、戸塚町役場はネコの左手に見える街並みのすぐつづきにあった。
◆写真中上は、1931年(昭和6)ごろに撮影された戸塚町役場。下左は、同誌の歴代町長として紹介されている公金を費消して行方をくらました早野教暢町長で、ほとんど手配写真と化している。下右は、部下の収入役が町民に二重課税していたのに、まるで他人事のように前町長を「口汚く罵り」つづけた横山襄町長。
◆写真中下は、1929年(昭和4)の「戸塚町全図」にみる町議会が開かれていた戸塚第一小学校と戸塚町役場の位置関係。は、1931年(昭和6)の明治通り沿い荒井山(現・西早稲田2丁目)あたり。は、1931年(昭和6)撮影の戸塚第一小学校。
◆写真下は、濱田煕Click!が描いた1935年(昭和10)ごろの戸塚第一小学校界隈。同小は、早稲田通り沿いから甘泉園寄りに移設されている。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる戸塚一小。は、谷間から戸塚一小の丘上へと抜ける古いバッケClick!階段。

大倉山(権兵衛山)の伊藤博文別邸。

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 もともとは町会名簿に掲載されていた、時代的にはもう少し前の文章のようだが、1998年(平成10)に落合第一特別出張所から発行された『新宿おちあい―歩く、見る、知る―』には、長谷部進之丞Click!の興味深い文章がイラスト入りで掲載されている。『古事随想』と題されたそれには、大正末から昭和初期にかけて見られた下落合の風景や伝承が、少年時代の想い出とともに活写されている。
 1931年(昭和6)に国際聖母病院Click!と補助45号線(聖母坂)が竣工すると、青柳ヶ原Click!と名づけられた南へゆるやかに下る丘は消滅するが、第三文化村Click!がつづく谷間=西ノ谷(大正中期以前は不動谷Click!)は、相変わらず子どもたちの格好の遊び場になっていた。寺の息子である、西ノ谷(不動谷)の北側にアトリエをかまえた佐伯祐三Click!が、パーティー用の小ぶりなクリスマスツリーClick!を沼地の端から伐りだしていた谷戸だ。子どもたちにしてみれば、西ノ谷は虫たちの宝庫だったらしい。
 先の長谷部進之丞『古事随想』から、当該部分を引用してみよう。
  
 <聖母>病院の裏は急坂になっていて谷間があり、沼もあり、雑木林が茂っていました。この場所を通称「たにやま」と言っていました。この“たにやま”は、子供たちにとっては絶好の遊び場所でかぶと虫をはじめとして沢山の昆虫が棲息していました。又、赤土の崖があり、その下の方を掘ると、時々粘土が出て来るので、採掘し粘土細工として私たちの遊びの一つでした。雑木林と笹薮には人が歩いて自然に出来た細道があり、沼を見ながら釣堀を越えると目の前は徳川男爵家の静観園(現在の全農鶏卵・保谷ガラスの上の方です)という広い敷地の別邸でぼたんの花で有名です。毎年五月のぼたんの咲く季節になると開園し、竹の柵を巡らし順路にそって各種の色とりどりのぼたんが咲き乱れ、又下の方の池の向かい側の藤棚には薄紫の花が垂れ下がって、その奥一帯は、つつじが美しく咲き絶景でした。又、小さな茶屋があり、お茶の接待もありました。勿論近辺の人々、プロの写真家、画家など大勢押し寄せて賑わい、私も学校の図画の時間に写生に来たものでした。(<>内引用者註)
  
 「たにやま」という呼称は初めて聞いたが、小流れのある谷間に下ると周囲を山に囲まれているような風情の、当時は典型的な谷戸地形だったのだろう。第三文化村の家々も、大谷石による築垣はなされていたものの、森の中に点在するような光景だったのは当時の写真Click!からもうかがえる。赤土の下の「粘土」は、関東ロームの下にある地下水脈を含むシルト層のことで、同層が露出した斜面からは豊富な水が沁みだしていたと思われる。その清水を利用して、釣り堀Click!が開業していたのはご紹介ずみだ。
 西坂の丘上に建っていた徳川邸Click!のボタン園「静観園」Click!は、西ノ谷に面した東側の斜面に移動したあとの姿だ。徳川様の記憶によれば、もともと徳川邸(旧邸)の北側に展開していた静観園は、より規模の大きな新邸(西洋館)が計画されると、昭和初期に北側(現・西坂公園あたり一帯)からバラ園Click!の東側にあたる斜面に移された。その移設の過程で、植木屋ないしはドロボーの仕業だろうか、たくさんのボタンの苗が行方不明になったエピソードは、徳川様の証言としてこちらでもご紹介している。ちなみにHOYA(保谷硝子)本社は、クリスタル事業の終了とともに下落合から西新宿へと移転している。
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第三文化村1.JPG
第三文化村2.JPG
 つづいて、長谷部進之丞『古事随想』から引用してみよう。
  
 聖母坂を目白通りに向かって上ると右手裏(現在のコンビニストアと調剤薬局)に「洗い場」(現在でも少しですが清水が湧いている)と言ってコンクリート造りの立派な貯水池があって、そこには冷たくて美味しい清水が音を立てて湧いて洗い場に注いでおり、バケツにアッという間にいっぱいになりました。近在の農家の人々や地域の人々が洗い物をしたりして便利に利用していた反面、地域の子供たちにとっては、格好の水泳場でした。ところが、水があまりにも冷たいので長い時間は泳げず、身体が冷えて来ると、近くにある石段に寝転んで甲羅干しをして身体を温めたものでした。また夕方になると大型のとんぼ(ぎん・ちゃん・鬼やんま等)の大群が産卵に水を求めて洗い場めがけて押し寄せるので、子供ばかりでなく親もいっしょにとんぼ捕りに熱中してしまう毎日でした。
  
 「コンビニ」は、すでに廃業して久しいヤマザキデイリーストアのことだが、そのあたりに昭和初期には諏訪谷Click!から移設されてきた新・洗い場Click!が形成されていた。諏訪谷にあった大正期の旧・洗い場は、曾宮一念Click!『冬日』Click!に描かれているが、その位置から80~90mほど南へ移設されている。
 現在でも雨が降ると地下水脈がふくらみ、湧水がどこからか沁みだすか地下からせり上がってくるのだろうか、低い窪みには建物が存在せず、ちょうど小さなプールの形状のままコンクリートで固められた半地下の駐車場になっている。また、長谷部のイラストに描かれた洗い場北側のコンクリート階段は、現在でも一部がそのままビルと家屋の間に細長く残されている。ちなみに「ちゃん」ヤンマとは、関東地方の方言だろうか、空色の帯が入らないギンヤンマの♀のことだ。
 さて、この記事のテーマである伊藤博文別邸の話は、『古事随想』の後半に登場してくる。わたしはその昔、大倉山Click!(権兵衛山)には伊藤博文の別荘が建っていたという伝承を、何人かの方からうかがっている。だが、いくら明治期の資料や地図をひっくり返しても、伊藤博文邸は採取されていない。
 わたしにとって伊藤博文の別荘といえば、横浜市の金沢地域にあったすでに現存しない別邸と、子どものころは中華料理レストランとなっていて、休日には親とともに通っていた湘南・大磯Click!別邸「滄浪閣」Click!(のち本邸)のことで、下落合のイメージはまったくなかった。だが、明治期には郊外別荘地として拓けた目白崖線沿いを眺めていると、椿山の山県有朋邸Click!(椿山荘Click!)や目白台の細川邸、先の徳川別邸(のち本邸)など、その斜面や丘上には当時の華族や政治家の本邸・別邸が建ち並んでいる。ほんの一時的な期間にせよ、伊藤博文の別荘が下落合にあってもなんら不自然ではないと感じている。
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新洗い場跡1.JPG
新洗い場跡2.JPG
 では、引きつづき『古事随想』から引用してみよう。
  
 三輪邸から細い道を右へ曲がり左側に伊藤伯爵邸(現在の落合中学) 右側に落合第四小学校(創立七〇年)があり、当時の第四小学校はまだ新しい校舎で綺麗で高台の校庭からは、新宿百人町、戸山町全景が一望に、戸山が原の三角山(今は無い)も目の前に見えました。今では高い建物が建って眺望を遮ってしまった事は寂しい限りです。突き当たりは、相馬邸跡、現在のおとめ山公園ですが、さすがに相馬の御殿の御屋敷は広大で立派な門構えが威風堂々とした緑の大きなかたまりの様に子供心に感じました。
  
 「三輪邸」はミツワ石鹸Click!社長の三輪善太郎邸、「三角山」Click!は山手線東側の戸山ヶ原Click!にある射撃場に築かれていた防弾土塁Click!のことだ。
 伊藤別邸が建っていたという伝承が大倉山(権兵衛山)だったということで、わたしは戦前まで大倉財閥が所有していた、現在の権兵衛坂から上る大倉山ピークあたりを想定していたのだが、この文章からするとピークから北東側にやや下がった落合中学校の敷地ということになる。いまだ近衛邸も相馬邸も存在せず、鎌倉期に拓かれた七曲坂を上がりきり右手へ少し入ったところに、ポツンと伊藤別邸が建っていたことになる。
 明治最初期からの地形図を順番にたどっていくと、のちに大倉山(権兵衛山)と名づけられた丘は、確かに戦前の大倉財閥の所有地エリアを越えて、落合中学校のあたりまでがひとつの丘の盛り上がりとして把握することができる。現在の相馬坂は、御留山Click!と大倉山(権兵衛山)の間のやや低くなったコル=乗越(のっこし)を利用して開かれたようだ。つまり、伊藤別邸が「大倉山にあった」という表現は、落合第四小学校Click!さえなかった大正期あたりの伝承が、そのまま後世にまで語り伝えられてきたと推定することができる。換言すれば、大正期以前は落四小学校と落合中学の敷地も、すべて大倉山(権兵衛山)と総称されたエリアであった可能性が高い。
 落合中学校の敷地に伊藤別邸が建っていたとしても、伊藤博文は1909年(明治42)に暗殺されているから、別荘の存在はそれ以前ということになる。だが、1880年(明治13)の1/20,000フランス式地形図から、1909年(明治42)の1/10,000地形図まで、建築物が採取された落合地域の地図は見たことがない。そして、1909年(明治42)の地形図では、この位置に建物は存在しないことになっている。もし伊藤別邸が建っていたとすれば、それ以前、明治中期の落合地図を参照したいのだが残念ながら存在しないのだ。落合中学の敷地に、やや大きめな建物が確認できるようになるのは、大正期に入ってからのことだ。
伊藤邸1921.jpg
伊藤博文邸跡2.JPG
大磯伊藤別邸.jpg
 こうなると、明治初期のフランス式地形図Click!や陸軍士官学校の測量演習地形図Click!のように、特別な目的で作成された落合地域を描く地図でも発見できない限り、伊藤別邸の確認・規定はむずかしそうだ。伊藤博文の日記類や書簡を含む膨大な資料類には、下落合の別邸についてなにかの記録が眠っているのかもしれないが、わたしにはそこまで熱心に手間ヒマかけて調べてまわるほど、残念ながらこの人物に興味も関心もない。

◆写真上:左手が伊藤博文別邸跡とされる落合中学校で、正面が相馬邸跡の御留山。
◆写真中上は、長谷部進之丞が描いた昭和初期の西ノ谷(不動谷)。は、同谷へ下りる坂道で右手が吉田博アトリエClick!跡。は、第三文化村が開発された同谷の一画。
◆写真中下は、長谷部進之丞が描く新・洗い場。は、現在でも残る洗い場へコンクリート階段の一部。は、いまだに湧水がある洗い場跡の駐車場。
◆写真下は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる伊藤博文別邸跡。敷地の北寄りに大きめな邸が描かれているが、大正期に入ってから建設された住宅だ。は、大倉山(権兵衛山)に通い七曲坂へと抜ける古い道筋で右手が伊藤別邸跡の伝承が残る落合中学校。は、子どものころからお馴染みの大磯・伊藤博文別邸「滄浪閣」(のち本邸)。

下落合を描いた画家たち・刑部人。(4)

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刑部人「睡蓮」1931.JPG
 刑部人Click!の孫にあたる中島香菜様Click!より、1931年(昭和6)に制作された『睡蓮』の画像をお送りいただいた。ちょうど、吉武東里Click!に依頼していた下落合(4丁目)2096番地(現・中井2丁目)のアトリエが竣工し、刑部人が島津鈴子と結婚した直後に描かれたものだ。キャンバスの裏には、中島様によれば「画題『睡蓮』刑部人(ルビ:オサカベジン)/東京市外下落合二〇九六」と記載されている。100号を超える、180cm(H)×130cm(W)の大画面だ。
 描かれた場所は、下落合2096番地にあった刑部人アトリエClick!西側の湧水池だ。このとき、新婚のふたりは刑部人25歳で鈴子夫人は22歳だった。水面(みなも)のスイレンが白い花を咲かせる池の畔に、日傘をさしてたたずむのはもちろん鈴子夫人だ。ふたりは、作品の制作年と同じ1931年(昭和6)3月28日に結婚し、竣工したアトリエへは4月7日に転居してきている。スイレンが咲いているところをみると、結婚から3~4ヶ月後の夏に描かれたもので、右手(南側)からの光線の具合から昼すぎあたりの情景だろう。
 画面の右枠外、つまり湧水池の東側には竣工したばかりの刑部人アトリエがあり、画面左手に見えかけている急斜面の上には、鈴子夫人の実家である島津源吉邸Click!の大きな屋敷が建っている。また、池の西側、すなわち画家の背後には島津家が敷地内に造成した階段のある四ノ坂が通い、右手の大谷石による築垣の下には中ノ道Click!(下の道=現・中井通り)が通っているという位置関係だ。
 島津家の湧水池は古くから形成されていたとみえ、大正中期にアトリエの敷地を探して下落合を訪れた、金山平三Click!らく夫人Click!も鮮明に記憶している。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。
  
 現在ではアヴィラ村など言っても誰も知らないであろう。しかし戦前は或る程度俗称として通用したらしく、当時の設計書には「阿比良村」Click!と書かれたものも残っており、私の書架の縮刷『大辞典』(平凡社)には、「アヴィラ…(一)-略(二)東京市下落合にある文化村。文人、画家主として住む。」と記されている。/らくによれば、麦畑に続く裏の草原には野兎が走り廻っていた。前方を見下ろすと、岡の下には滾々と溢れて尽きない天然の泉があり、ひろびろとした原野の中ほどには落合火葬場の煙突だけが目立っていた。
  
 刑部人の子息である刑部昭一様Click!によれば、戦後でさえ目白崖線の急斜面に鉄パイプを刺しただけで、飲料に適した清廉な地下水が噴出していたということなので、おそらく急斜面に堆積された関東ロームの数十センチ下には、豊富な地下水脈を含むシルト層が露出寸前の状態で横切っていたのではないかと思われる。
島津源吉1926.jpg
刑部人アトリエ1936.jpg
島津とみ・源吉・源蔵19320607.jpg
 この湧水池は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみられるように、大正期から昭和の最初期にかけ、島津家のテニスコートとして埋め立てられていたようだが、刑部人アトリエの建設とともに改めて庭の睡蓮池として造成されたようだ。
 そして、昭和10年代になると再びもとのように埋め立てられ、中島香菜様によれば再度テニスコートとして利用されていた時期があったらしい。厳密にいえば、池のある敷地は刑部人邸の敷地エリアではなく、丘上の島津邸が管理する土地だったとみられる。やがてテニスコートの跡地には、四ノ坂に面してハーフティンバーの印象的な西洋館が建設されている。この家で生まれ、3歳になるころまですごしているのが、刑部人のClick!の子息にあたる炭谷太郎様Click!だ。
 少し余談だが、目白崖線の斜面や麓に形成された天然の湧水池は、その多くが戦後の宅地開発で埋め立てられ暗渠化(下水道化)されたけれど、現在でもそのいくつかの名残りを観察することができる。下落合だけでも、御留山Click!には弁天池をはじめ昔ながらの池が連なっているが、目白崖線の東端にある椿山Click!には、椿山荘の麓にある池をはじめ蕉雨園の藪中の湧水池(手つかずで天然池のまま)、同じく関口芭蕉庵Click!の湧水池、細川庭園(旧・新江戸川公園)の広い庭園池、旧・田中角栄邸の庭園斜面にある湧水池、学習院の血洗池Click!など、降雨による河川への流出率Click!が高いとはいえ、いまでも崖線斜面からは滾々(こんこん)と清水が湧きつづけているのがわかる。
 1931年(昭和6)の『睡蓮』画面に、話をもどそう。先ほど、画家がイーゼルを立てていた位置をおおよそ推定したが、刑部人は湧水池の南西側から北東を向き、池畔にたたずむ鈴子夫人をとらえて描いていると思われる。画面を仔細に観察すると、泉からの小流れをうまく取りこんで造られた池の端には、いまだ造成間もない時期のせいか、分厚い板かトタンのようなものをタテに挿して(仮に?)縁どられているのがわかる。おそらく、刑部人アトリエの西側に改めて造成された池の、最初期の姿ではないだろうか。
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刑部人アトリエ跡.JPG
田中邸湧水池.jpg
 ちょうど1年後の翌1932年(昭和7)6月に撮影された、島津源吉夫妻や2代目・島津源蔵が写る写真(バッケClick!の下にある睡蓮池なので、刑部アトリエ西側の池と同一のものだと思われる)を見ると、すでに池の端には板ではなく、石垣風のしっかりした縁石が組まれ変化している様子が見てとれる。同時に、池全体の規模も縁のカーブなどの様子などから、『睡蓮』に比べて写真のほうがより大きくなっている印象を受ける。ひょっとすると、刑部人の『睡蓮』はあまり人手が入れられず、ほぼ自然のままに形成された湧水池を描いたものであり、翌年の写真にとらえられた池は、庭園池として少しサイズも大きくなり、改めて造成しなおされたあとの姿なのかもしれない。
 刑部人アトリエの池については、忘れてはならないエピソードがある。下落合(4丁目)2080番地にアトリエClick!を建てて住んでいた、金山平三Click!の“水遊び”だ。刑部人アトリエの建設とほぼ同時期に、島津家の庭池が整備されてくると、金山平三はさっそく大きなタライを抱えながらやってきた。まるで、佐渡のタライ舟のように池へタライを浮かべると、それに乗っては池の水面で遊んでいる。タライに座りながら、佐渡おけさClick!でも唄って踊っていたのかもしれない。
 刑部人は、少々呆気にとられたかもしれないが、鈴子夫人は実家の島津邸で暮らしているころから奇妙奇天烈なことばかりする、“おかしなおかしな金山平三”Click!は周知のことなので、「金山先生、今度はそうきたのね」とニヤニヤしつつ、池の畔でお茶でも用意しながら「あらあら、先生、お気をつけあそばせ。この池、けっこう深くて冷たいんですのよ」と眺めていたのかもしれない。
 中島香菜様からは、刑部人が独身時代の1927年(昭和2)、4年後に結婚することになる鈴子夫人を描いた『島津鈴子像』もお送りいただいた。そして、刑部人の子息である刑部佑三様Click!が運営されている「刑部人のアトリエ」Click!には、同作を背景に座る学生服姿の刑部人をとらえた貴重な写真が掲載されている。『島津鈴子像』は、刑部人が東京美術学校の西洋画科4年生のころの作品だ。
刑部人「島津鈴子像」1927.JPG
刑部人1927.jpg 刑部人夫妻1931.jpg
金山平三「蓮」制作年不詳.jpg
刑部人「睡蓮と金山先生」モノクロ.jpg
 さて、東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画の進展とともに、金山平三の東隣りには下落合753番地の満谷国四郎Click!が、西隣りには大久保百人町の南薫造Click!がアトリエを建てて転居してくるはずだったが、1925年(大正14)に起きた東京土地住宅の破たんで、アビラ村計画自体も白紙にもどってしまった。だが、その後も画家たちは、島津源吉邸や金山アトリエを訪れつづけている。特に島津源吉の子息である島津一郎Click!が師事していた満谷国四郎は、島津邸を訪問する機会も多かったのだろう。島津邸の庭先を描いたとみられる、特徴的な満谷作品もあるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1931年(昭和6)制作の刑部人『睡蓮』。以下、刑部人関連の画面や写真は、中島香菜様と刑部佑三様よりご提供の「刑部人資料」より。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる島津邸と刑部人アトリエ建設予定地。刑部邸敷地の西側に池はなく、いまだ島津家のテニスコートになっている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる刑部人アトリエ。木々に遮られて見えないが、アトリエの西側に池があった時代だ。は、同池の畔で撮影されたとみられる記念写真で島津源吉(中)ととみ夫人(左)、そして島津製作所の2代目・島津源蔵(右)。写真の裏には『睡蓮』が描かれた翌年、1932年(昭和7)6月17日の記載がある。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる描画ポイント。池を埋め立てた西洋館は、いまだ建設されていない。は、刑部人アトリエ解体後(2006年)に撮影した池があったあたりの様子と豊富な地下水脈が横切るバッケ(崖地)。は、目白崖線のあちこちに見られる泉のひとつで旧・田中角栄邸の庭園にある湧水源。
◆写真下は、1927年(昭和2)に島津邸内で制作された刑部人『島津鈴子像』。中左は、『島津鈴子像』とともに撮影された1927年(昭和2)の刑部人。中右は、1931年(昭和6)に撮影された新婚早々の刑部人・鈴子夫妻。は、制作年が不詳の金山平三『蓮』。おまけのは、刑部人アトリエ隣接の睡蓮池でタライ舟を浮かべて佐渡おけさを踊る金山平三と、「困っちゃうな。まさか……、毎日やってくるつもりなのかなぁ?」と呆れて見まもる鈴子夫人の想像図。(爆!)

神近市子が観察する時雨の“座”。

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神近市子「わが青春の告白」1957.jpg
 1957年(昭和32)に毎日新聞社から出版された、神近市子Click!『わが青春の告白』の装丁が面白い。ひとつの時代が終焉し(敗戦で明治政府に由来する大日本帝国が滅亡し)、まったく新しい国家と時代を象徴するかのような写真だ。そこには、落合地域の細い道路をはさんで「隣人」同士だった“ふたり”が象徴的に写っている。
 ひとりは、1936年(昭和11)に竣工した帝国議会議事堂Click!(現・国会議事堂)であり、吉武東里Click!らの設計チームで造りあげた“作品”だ。関東大震災Click!で大手町の大蔵省Click!が壊滅したあと、しばらくは上落合470番地にあった吉武東里邸Click!で議事堂の設計業務が継続されている。そして、手前に写っているのが、1957年(昭和32)の当時は衆議院議員だった神近市子だ。ちょうど、市川房枝らとともに推進してきた売春防止法が、売春街(の利権)を残したくて反対する自民党を選挙に乗じて巻きこみ、ようやく前年に国会を通過させて施行される前後に撮影されたものだろう。
 一時期、議事堂を設計した上落合470番地の吉武東里Click!と、上落合469番地の神近市子は、細い二間道路をはさんで「隣人」同士だった。当時、神近市子夫妻の住んでいた家は、周囲の住民(というか当時の上落合の町会が主体だろう)から「アカの家」と呼ばれていたが、神近自身はかつて共産主義者だったことは一度もない。戦前は、共産主義者も民主主義者も、はたまた自由主義者もアナーキストも、政府に異議をとなえて反対する人物はすべて「アカ」、ないしは「非国民」と呼ばれたレッテル張りの時代だ。
 上落合の神近市子は、近くに住む佐多稲子(窪川稲子)Click!以上に、近隣からは冷たい目で見られていたのだろう。神近邸の南西側には吉武東里が大きな屋敷をかまえており、細い路地をはさんで東隣りの上落合467番地には古代ハスClick!で有名な大賀一郎Click!が、西隣りの上落合470番地には東京朝日新聞社の鈴木文四郎Click!記者と、三間道路をはさんだ上落合670番地の向こう隣りには古川ロッパClick!が住んでいたが、この中で神近市子と交流していそうなのは、彼女が元・新聞記者(東京日日新聞文化部)だった時代のよしみで鈴木文四郎ぐらいだろうか。
 さて、神近市子の『わが青春の告白』には、さまざまな人物たちが登場し描かれているが、ちょっと目についたのが長谷川時雨Click!の人物像だ。『女人藝術』Click!の編集部から、別の職業につくなら「救世軍の女士官」で、花にたとえるなら「うまごやし」などとされてしまった神近市子だが、彼女は『女人藝術』時代に長谷川時雨と周囲の女性たちを、ジャーナリストらしいクールな眼差しで観察している。
 同書に収録された「人の浮沈」から、少し引用してみよう。
  
 一枚の写真には、正面には今井邦子さんと長谷川時雨さんとが並んでいる。このふたりはハラでは仲のよい人達ではなかったが何か会合などの時にはきっと並ぶか近くにいる回り合わせになった。というのは、座席などということにやかましい人たちであったから、会の世話人は心得ていて、かならず上座とか目だつ席にふたりをつけさせたものである。今井さんはさすがにそうでもなかったが、長谷川さんは私どもを招待するような時でも、自分が正座につかれたものである。年齢が私どもとはかなり開いていたことと、長谷川さんのそれまでの環境――芝居、舞踊、ジャーナリスト関係の人たちの間では先生扱いをされてきた人であったから、その生活習慣には、下座にいることはなかった人と私どもは納得していた。が、それでもその変な作法にはクスクス陰で笑ったものである。
  
神近市子「わが青春の告白」奥付.jpg 神近市子.jpg
神近市子邸1936.jpg
 神近は、長谷川時雨が「先生扱い」されてきたので、その「生活習慣」からおのずと上座ないしは正座についてしまうのだろうとしているが、おそらくもっと以前からの、この地方ならではの根が深い習慣に気づかなかったのではないだろうか。特に長谷川家のように、娘を大切に育て上げてきた江戸東京の家庭では、“跡とり”としての女性はきわめて重要な存在だったろう。
 商家(というか武家でも見られた)では、たとえ男子が生まれたとしても、最初から跡継ぎとして育てられることはそれほど多くはなかった。いちばん仕事ができる男子(店舗なら店員で職人なら弟子、武家なら頭のいい二・三男などのいわゆる“やっかい叔父”候補)を、娘の婿養子に迎えて跡とりとすることが、江戸期の早い時期からこの(城)下町Click!では浸透し恒常化している。富裕な家庭で、なに不自由なく周囲から甘やかされて育った男子には、そもそも跡継ぎとして期待などしないという習慣は、明治期になってもさほど変わらなかった。また、男子が跡継ぎになったとしても、周囲の環境や状況から嫁いできた“上さん”がヘゲモニーを握るのが通常だった。
 この慣習は大江戸の町人に限らず、幕府の御家人や小旗本などの階層にも浸透しており、家庭内では代々女性がマネジメントやヘゲモニーを掌握するのが、江戸東京地方ではごく自然ななりいきだった。これは、薩長政府がいくら中国や朝鮮半島の儒教思想に由来する「男尊女卑」の規範を押しつけようとしても、彼らの地元ならともかく、足もとの江戸東京人にはほとんど浸透しなかったゆえんだ。
 いや、別に江戸東京地方Click!に限らず、古来からの原日本の性格が色濃く残る、あえて「東女(あづまおんな)」Click!などと呼称された古(いにしえ)の時代から、東日本ではあたりまえの風土や文化だったろう。ましてや、長谷川時雨が自身の起ち上げた『女人藝術』の集まりで上座ないしは正座につくのは、代々女性を中心にしてまわっていた社会環境や、身に染みていた生活習慣にしたがえば、なんら不自然でも特別なことでも、ましてや傲慢なことでもなかったにちがいない。
 また、こういう“親分肌”の女性は、江戸東京の(城)下町にはどこにでも必ずいるもので、別に長谷川時雨でなくても家庭や地域のマネジメントを一手にこなしている女性であれば、その中核の位置にいるのはなんら不自然ではない。この大前提となる江戸東京地方の(というか原日本の)基層・基盤Click!に由来する風土や文化が理解できなければ、長谷川時雨のような女性の感覚や姿勢、行動、思想などを理解することはむずかしいだろう。そういえば、手下(てか)を大勢使いながら、浅草寺の祭礼時に境内へ出る売(ばい)を一手に仕切っている、TVのドキュメンタリー番組にもなった女親分はいまだお元気だろうか?
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 ちょっと余談だが、いつだったか招待した女性といっしょに料理屋へ上がり、軸が架かる床を背に座らせようとしたら、一瞬ギョッとしてドギマギしていたのを思い出す。訊いてみたら、あんのじょう親世代が西日本方面の出身者だった。「招待してんのはこっち側だし、ここは江戸東京なんだから、中国や朝鮮半島のサルまね習慣など、とっとと棄てちまいな」といっても、上座には男が座るものと徹底して育てられた、子どものころからの哀しい性質(さが)なのだろう、しばらく居心地の悪い顔をしていた。江戸東京が地元の女性が同じ立場なら、スッと勧められるまま自然に上座へつくところだろう。
 また、『女人藝術』の集まりでは、目立ちたがり屋と酒の飲めない連中(れんじゅ)が前面に押し出されたようだ。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 席次などを気にしないようでやっぱり気にする人は、岡本かの子Click!さん、小寺菊子さんであった。これも私どもはたいてい上座のほうに押し出しておいた。林芙美子Click!さんが出席している写真には二枚とも前列にいる。これは偶然であろう。吉屋信子Click!さんも出ている写真では、たいてい前列である。うるさい人たちは上席のほうに追い上げておいて、私どもは末座の隅に陣どって勝手に楽しんだものである。/上座のほうはたいていお酒など飲めない人たちである。末座ではちょっぴりでも飲めないと幅がきかない。深尾須磨子、富本一枝、市川房枝、山高しげりなどという人なら、二、三杯の酒に別に迷惑がるようなことはない。その二、三杯の酒にごきげんになってユーモアやウィットがとび、ワヤワヤ、ガヤガヤはじめると、もうどこが上座かわからなくなる。話は末座が中心でしきりに進行してゆく。そして陽気な人たちがそこに集ってしまう。酒をのまない宇野千代Click!さんも、村岡花子Click!さんも来るし、小唄の春日とよさん、新派の河合の奥さん、舞踊の小山内登女さんもお愛想に来て下さるというふうである。
  
 この文章で、「下座」に集まって「ワヤワヤ、ガヤガヤ」やっている情景が、この地方の男たちの姿に近似しているだろうか。神近市子のように陽気な女性たちは、「下座」にいる男たちの輪に集まってきて飲みながら、いっしょに「ワヤワヤ、ガヤガヤ」するだろうし、酒が飲めない女性は自然にお開きとなって喫茶店にでも流れるか、家庭でもグループでも地域でも、明日の“仕切り”やマネジメントを気にかけなければならない“上さん”連中は、「しょうがないな」という目つきで「下座」を一瞥しながら、煙たがられないうちにスッと消えていなくなる(気持ちよくお帰りいただく)……。
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 神近市子が記憶にとどめている『女人藝術』の情景は、女性たちだけの集まりだからというのではなく、この地方なら特に男女をことさら意識することなく、どのような集まりでも昔から起こりうる現象であり、たまたま「上座」へ女性が座る情景が、神近の故郷である九州ではめずらしかったせいで、「座」を気にする女性たちの記憶とともに、ことさら印象深く残ったのではないだろうか。

◆写真上:上落合つながりが面白い、神近市子『わが青春の告白』(毎日新聞社)の装丁。
◆写真中上は、同書の奥付()と著者の神近市子()。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「アカの家」と呼ばれていた神近市子邸とその周辺。
◆写真中下は、『青鞜』と『女人藝術』のメンバーが重なる記念写真。左から神近市子、平塚らいてう、岡田八千代Click!、富本一枝、長谷川時雨、生田花世。は、『女人藝術』の記念写真。左から奧むめお、帯刀貞代、神近市子、宮崎白蓮Click!、岡本かの子、長谷川時雨、平林たい子Click!、村岡花子。下は、中條百合子・湯浅芳子Click!帰国歓迎会の記念写真。前列左から2・3人目が中条百合子と湯浅芳子だが、前列の長谷川時雨と後列の吉屋信子が、こちらのカメラを向いて笑っているのがなんとなくおかしい。
◆写真下は、1931年(昭和6)の『女人藝術』3周年で撮影された長谷川時雨。は、1928年7月の『女人藝術』創刊号()と1931年(昭和6)7月の同誌3周年記念号()。

「歌舞伎町」が女学生の街だったら。

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 落合地域から南の戸塚、大久保にかけて昔の地図を眺めていると、いつも気になるところがある。幕末には、石川左近将監(旗本)の下屋敷と一部が幕府の大筒角場(大久保百人組支配)であり、明治期になると淀橋町字十人町で華族だった大村家の屋敷地が大部分を占めている。大正期に入ってしばらくすると、金川(カニ川)Click!の湧水源のひとつだった同邸の庭池が埋め立てられ、今日の道筋とほぼ同様の三間道路が敷設されて、閑静な郊外住宅地としての開発が行われた。
 昭和期に入ると、淀橋町角筈1丁目から淀橋区角筈1丁目へと変遷し、戦後の1948年(昭和23)には街づくりのコンセプトが根底からひっくり返り、周囲に接した西大久保の一部や三光町など町域を合併して、乃手Click!の住宅街とはまったく風情が異なる繁華街として再開発され、新宿の「歌舞伎町」と名づけられたエリアだ。
 この「歌舞伎町」の真ん中あたり、旧・新宿コマ劇場(現・新宿東宝ビル)の建っていた敷地とその周囲にかけ、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!により校舎が全焼するまで、広いキャンパスには東京府立第五高等女学校が建っていた。第五高等女学校は、大村邸が解体されて庭池が埋め立てられ宅地開発が行われた直後、1920年(大正9)4月(校舎完成後の移転は5月)に開校している。以降、戦前までの地図を参照すると、今日の歌舞伎町の真んまん中に第五高等女学校が位置し、華やかな女学生たちが大勢集っていたかと思うと面白い。同校のすぐ西に位置している華園稲荷(現・花園神社)も、どこかしっくりくる名称のように感じる。
 大村邸がなくなってから、乃手の住宅街が少しずつ建設されていく様子を、1977年(昭和52)に出版された国友温太『新宿回り舞台』から引用してみよう。
  
 そもそもこの土地は元九州大村藩主大村家の別邸で、「大村の山」と呼ばれるうっそうとした森林であった。中央に池があり、明治時代は鴨場として知られていた。池の中央に島があり、弁財天が祭ってあった。新宿区役所から西部新宿駅へ向かう途中、「王城」の隣りに再建された堂宇がそれで、位置も当時と変わらぬようだ。/大正の初め、尾張銀行頭取の峰島家が大村家から土地を買収し、森林を伐採して平地とした。そのため「尾張屋の原」と呼ばれ、バッタ取りや野球など子どもたちのよき遊び場であった。/大正九年、現都立富士高校(中野区)の前身である府立第五高等女学校がコマ劇場辺に創設されたが、住宅がポツポツ建ち始めたのは関東大震災以後である。
  
 以前は名曲喫茶だった「王城」ビルの西隣りに、大村邸の池に建立されていた弁天堂が再建され、現在では歌舞伎町弁財天と呼ばれている。
 大正期には、広い草原の中に第五高女の校舎がポツンとそびえているような眺めであり、住宅もまだほとんど建ってはいなかった。第五高女から東へ300mと少し、華園稲荷社から北裏通り(現・靖国通り=大正通り)をはさんだ向かい(南側)には、芥川龍之介Click!の父親が経営していた耕牧舎や太平舎牧場など、東京牧場Click!の跡地である草原が拡がり、サクラ並木があちこちにつづいているような風情だった。
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 昭和初期、第五高女へ通った女性の手記が残っている。1984年(昭和59)に人文社より出版された、『地図で見る新宿区の移り変わり―淀橋・大久保編―』(新宿区教育委員会)所収の、村田静子『角筈女子工芸学校と府立第五高等女学校』から引用しよう。
  
 その社(弁財天の堂)から少し西へいったところに第五高女の正門が南向にあったのだった。門衛さんの小屋のそばには桜の木があって、染井吉野の盛りには、下手な歌を短冊にかいてこれも朝早くつるしてすまし顔をしていた思い出がある。門から右手に、こげ茶色の二階建の、屋根の傾斜のつよい特徴的な建物の講堂----平和館があったのだ。左手の桜の木から西側に雨天体操場をまわって、北側に南向に、二階建で、中心部が三階建の、校舎がそびえる。戦時中(日中戦争中)のこととて、二本の大きなたれ幕が、「堅忍持久」「長期建設」と玄関の両側に上から下げられていた。東側に弓道場をまわって平和館へいく途中は、屋根つきの吹き通しの渡り廊下であった。平和館と、校舎の一部分は、省線電車(山手線)が新大久保駅から新宿駅に近づくころ、左側に大久保病院を見おわると、展開してくる景色なのであった。校舎も平和館も横のはめ板で、校舎は緑白色、窓の外には高いポプラが、何本も植っていた。こげ茶色の平和館と、校舎とポプラと、その調和の美しさを、私も写生したことがあった。昭和十一年四月から十六年三月まで、いわばこの学校の隆盛期をすごした私であったが、その少女時代の思い出は独特の楽しい雰囲気に包まれている。(カッコ内引用者註)
  
 ちなみに、弁財天は社(やしろ)ではなく、不忍池から勧請した仏教系の弁天堂だ。
 さて、1970年代半ば、歌舞伎町商店街振興組合が歌舞伎町を訪れる20代の若者たちに実施した、アンケート調査の結果が残されている。アンケートに答えたのは69%が男であり、月に平均5回ほど同町を訪れては、1回に平均2,000円ほどのカネをつかっている。訪れる目的でいちばん多いのは、飲食店を利用することだった。アンケートが行われたのは、午後1時から午後2時までの間と、下校・退社時間帯の午後5時から午後6時までの間のそれぞれ1時間ずつであり、当時の歌舞伎町の状況を考慮するとかなり早い時間帯だ。
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 また、アンケートで歌舞伎町の印象を質問したところ、いちばん多かった回答は「緑が欲しい」で、ビルが建ち並ぶ無機質な雰囲気にうるおいが欲しかったのだろう。次に多かったのが、「街並みが雑然としている」「なんとなく楽しい」で、ゆっくりすごす街ではなく一時的に訪れては、用が済んだらさっさと引き上げる街……というような位置づけの回答が多かったようだ。当時、新宿駅を降りた若者のうち、約50%が歌舞伎町をめざすといわれていた時代だった。
 かくいうわたしも、1970年代後半から80年代にかけ、学生時代には歌舞伎町を頻繁に訪れている。水谷良重(2代目・水谷八重子)が経営していた「木馬」Click!をはじめ、「PONY」や「びざーる(Ⅰ)」Click!などJAZZを聴かせる喫茶店やバーがあちこちにあったからだが、カネのないわたしがいちばん通ったのは、古時計コレクションがたくさん並べられた広い「木馬」だろうか。暗くなると米国人がたくさん訪れる狭い「PONY」はうるさくて敬遠し、「びざ~る(Ⅰ)」は基本的に飲み屋なので“常連”というほどではなかった。ほかにも、新宿のJAZZ喫茶やライブハウスには通ったけれど、歌舞伎町のみに限定すると上記の3店が印象に残っている。
 夜遅くなると、帰り道で「お兄さん、XXXX円ポッキリ」(XXXXは不明瞭で聞きとれない)というような声で袖を引かれたが、のちの時代のように強引で乱暴な客引きはなかったように思う。あまりひどいことをすれば、二度と歌舞伎町へ寄りつかなくなってしまうというような、暗黙のルールがまだどこかで生きていた時代だったのかもしれない。もっとも、こちらが貧乏そうな学生の風体だったので、ハナから執拗に絡まれなかっただけなのかもしれないが……。
 この街が、より貪欲でいかがわしい犯罪臭をまき散らしながら、さもしい雰囲気に拍車がかかったのは、バブル期以降から前世紀末ぐらいまでだったろう。新宿区役所のある膝元が、犯罪の温床的ないかがわしさを漂わせているのはマズイということで、今世紀に入ってからは新宿区と警視庁による徹底的な取り締まりが行われた。街の中心となっていたコマ劇場も、屋上からゴジラがのぞく最新のビルにリニューアルされ、その結果、夜になっても女性のひとり歩きができる街に変貌している。
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 もし、空襲で第五高女が焼けなければ、おそらく戦後の再開発と「歌舞伎町」化はありえなかっただろう。ひょっとすると、横浜山手にあるフェリスの丘Click!のように、女学生たちが集うオシャレな街角になっていたかもしれない。現在の歌舞伎町の姿に、そんな空想の街づくりを重ね合わせると、ちょっと面白い。もっとも、週末になるとフェリスと同様に男たちが集まってくるのは、歌舞伎町とあまり変わらないのかもしれないが。w

◆写真上:コマ劇場の跡地にでき、2015年にオープンした新宿東宝ビル(正面)。
◆写真中上は、1925年(大正14)の「淀橋町全図」にみる府立第五高等女学校。大村邸の敷地に規則的な三間道路が敷かれ、庭池は埋め立てられて郊外住宅地として開発されている。は、1928年(昭和3)ごろに撮影された新宿駅(手前)と第五高女(左端)、および第五高女の拡大。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる第五高女。
◆写真中下は、芥川龍之介の父親が経営していた東京牧場のひとつ耕牧舎跡(現・新宿2丁目あたり)の現状。は、大村邸の庭池に勧請されていた弁天堂の現状。(Google Earthより) は、空襲による焼失前にとらえられた1940年代前半の第五高女。
◆写真下は、1935年(昭和10)ごろの第五高女と同校の体育祭。は、高いビルに囲まれたが昔と変わらない風情を残す新宿ゴールデン街。(Google Earthより)

藤川栄子と佐多稲子が通う椿堂文具店。

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早稲田通り崖地.JPG
 物書きのせいか、窪川稲子(佐多稲子)Click!は早稲田通り沿いにあった文房具店へ頻繁に出かけている。筆記用具や原稿用紙を購入していたのは、戸塚3丁目347番地に開店していた文房具店「椿堂」だ。藤川栄子Click!は洋画家だが、用紙やスケッチブック、名刺づくりなどで同文具店をよく利用していたらしい。
 ふたりは、昭和初期から椿堂文房具店をよく利用しており、1935年(昭和10)前後には近所の噂話として、よく話題にのぼっていたとみられる。佐多稲子Click!も、頻繁に遊びにきていた藤川栄子を通じて椿堂の情報を仕入れており、かなり詳細な家庭事情をつかんでいたようだ。その様子を、1955年(昭和30)に筑摩書房から出版された『現代日本文学全集』第39巻所収の、佐多稲子『私の東京地図』から引用してみよう。
  
 レコードを聴かせる喫茶店街を曲がつてそこから戸山ヶ原に沿つた邸町へ出ると、この辺りにも桜の花の美しいところがあつたが、私の散歩は町の中のゆきかへりですんでしまふ。喫茶店街へ曲る辺りも、高田馬場駅から登り坂になつた大通りがまだゆるやかに高くなつてゐるが、北側は道そのものが崖になつて、崖際にやうやく店だけ出して危げに商売してゐる屋台のやうなすし屋があつたり、引越し引受けの小さな運送店があつたりした。しかしさういふ薄いやうな建物にも、人が住んでゐた。かういふ崖際の一側建の家で、それは間口も広く二階の窓もしつかりした店だつたが、文房具屋があつた。名刺の印刷などもする小さな機械を片隅においたり、飾窓には季節には扇子をかざつたり、並べてある紙や筆もしつかりしてゐて、店は明るかつた。主人は背は低いけれど肩はがつしりしてゐて、半白の頭をいつも短く刈つて、眼鏡をかけてゐた。無口などつちかといへば愛想のない方だが、それは横柄といふのではなく、むしろ商売人くささがなくて気持のいいものにおもへた。細君は四十を出たくらゐの背のすらりとした、かざりけはないけれど親身な愛想のよさを客にみせ、この夫婦のとり合せは、客に心よい感じを与へてゐた。
  
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 さて、佐多稲子が描く昭和初期の早稲田通りに開店していた、上記のいくつかの商店を特定することができる。でも、その店舗の多くは二度にわたる山手空襲Click!で全焼し、戦後は再開した店もあったかもしれないが、残念ながら現存していない。
 まず、山手線西側の戸山ヶ原Click!へと出られる「喫茶店街」とは、早稲田通りが小滝橋へ向けて途中で鋭角にクラックClick!していた、旧道沿いにあたる裏の道筋のことだ。今川焼きなどの甘味処と、郵便ポストの間の道を入ると喫茶店が軒を並べていて、早稲田の学生たちが出入りしていた。表通りである早稲田通り沿いには、戸塚3丁目346番地(現・高田馬場4丁目)の和菓子屋「青柳」が経営する喫茶店も開店していた。
 旧・早稲田通りがカギの字に曲がっていたのは、北側の神田川へ向けて落ちる崖を避けるためだったのだが、通りの直線化工事で崖地ギリギリのところを通りが走るようになったため、通りの北側に店舗の敷地を確保するのがむずかしくなった。したがって、戦前までは崖地が口を開けた状態のままで、かろうじて小規模な「屋台のやうなすし屋」が開店していた。この寿司屋があったのは戸塚3丁目360番地で、店名があったはずだが記録されていない。寿司屋の西隣りには、小さな稲荷の祠が奉られていた。
 さて、佐多稲子や藤川栄子が通った文房具店は、その崖地がつづく西側の戸塚3丁目347番地に開店していた「椿堂」だ。この文具店を経営していた夫妻は、近所でも評判のよいおしどり夫婦だったのだが、ある日、ウワサを仕入れてきたおしゃべり好きな藤川栄子Click!が、窪川稲子(佐多稲子)のもとにやってきて、「若い男と駆け落ちしたんですって!」と告げた。つづけて、『私の東京地図』から引用してみよう。
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 子どもがなくて、店の奥のすぐ崖になつた一間に小鳥などを飼つてゐた。吉之助(窪川鶴次郎)のところへ来る若い評論家など、この夫婦をほめて、そのうちでも細君の方を、いい細君ぶりだといふ意味で自分の恋人に話したりしたことがある。この店で買物をしつけて、一、二年も経つたであらうか。いつとなく細君の姿が見えなくなつた。夫婦きりの店なので、主人が出かけるときは、自然店の戸が閉まることになり、何かされは気にかかつた。すると、この店へゆきつけの画描きの友達(藤川栄子)が私に話してくれて、あれは、若い男が出来て逃げたのだ、といふことであつた。/「代りの女房を探すんだつて、誰かないかつて、私にまで頼むのよ。そんなやうな人ないかしらね。」/文房具店の主人の、いままでも客の顔を正面から見ないやうな表情が、その後は一層暗くなつたやうで、いつも半分表戸を閉めた店の様子もその前を通るたびに主人の気持までつい押しはかつてしまふものになつた。(カッコ内引用者註)
  
 世話好きだった藤川栄子は、新しい細君まで探してあげようとしていたらしい。
 ある日、佐多稲子が椿堂文具店の前を通りかかると、黄色いカーテンが引かれた表戸のガラスに、「吉事休業」という貼り紙を見つけた。主人が再婚して、新しい妻を迎えるために休業したものだった。「吉事」と書くところに、孤独だった文具店主人の喜びと、新たな出発への思いがこめられているような感覚を抱いて、佐多稲子はそれを眺めている。
 今度の新しい細君は大柄で、少し年配の顔が呑気そうに見える肥った女性だったが、主人の顔からは陰気そうな陰が消えなかった。街中では、「姿を消した前の細君が赤ん坊を負つてゐるのを見た」というようなウワサが流れ、相変わらず周囲が“女房に逃げられた”ことを忘れてくれなかったからかもしれない。だが、新しい細君も戦争が激しくなるころに、脳溢血であっけなく死んだ。
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 佐多稲子の文章が非常に印象的なのは、大きな時代背景や逼迫した社会状況を、近所で起きる市井の何気ない出来事や事件へ、温かい目を向けながら無理なく自然に透過させて、実にうまく表現するところだろうか。ようやく再婚したばかりの妻の死と、空襲で店を焼かれて打ちのめされた文房具店「椿堂」の主人が、戦後に改めて顔を上げ、前を見つめて再出発していることを祈る。

◆写真上:昭和初期には道路からすぐに北へ落ちる崖だった、早稲田通りの崖地跡。
◆写真中上は、崖地に開店していた1938年(昭和13)ごろの小さな寿司屋。は、崖地の西寄りに開店して佐多稲子や藤川栄子が通っていた文房具店「椿堂」。いずれも、1995年(平成7)に発行された『戸塚第三小学校周辺の歴史』所収の濱田煕の記憶画より。
◆写真中下は、寿司屋跡の現状。は、文房具店「椿堂」跡の現状。下左は、1950年(昭和25)ごろに撮影された佐多稲子。下右は、佐多稲子『私の東京地図』が収録された1955年(昭和30)出版の筑摩書房版『現代日本文学全集』第39巻。
◆写真下は、濱田煕が描く1938年(昭和13)ごろの早稲田通りにあった崖地界隈。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる崖地界隈。

西武高田馬場駅の建築資材・砂利置き場。

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 陸軍が西武線の起点(終点)を、1924年(大正13)に目白駅から高田馬場駅へと変更Click!した経緯は、国立公文書館や西武鉄道に保存されている各種資料や計画図をもとに、こちらでも何度かご紹介してきた。それは、戸山ヶ原Click!に建設を予定している膨大な陸軍施設Click!、すなわちコンクリートドームで覆われた大久保射撃場Click!をはじめ、陸軍科学研究所/技術本部Click!軍医学校Click!陸軍第一衛戍病院Click!戸山学校Click!などの建築群(鉄筋コンクリート構造)を建設するために、資材供給をスムーズに実施する物流ルートの確保が目的だったろう。
 西武鉄道は、もともと1916年(大正5)から村山貯水池(多摩湖)Click!建設のために、東村山駅へ建築資材を輸送し集積していた。同社が輸送したのは、同貯水池のダムや取水施設などコンクリートの構造物に用いられる鉄骨やセメント、同鉄道が事業として多摩川で採取していた玉砂利などだった。陸軍および西武鉄道では、1927年(昭和2)に村山貯水池(多摩湖)が竣工する以前から、東村山駅に蓄積された膨大な建築資材の陸軍施設への流用を企画し、それらを円滑に戸山ヶ原へ運びこむという構想で利害が一致していたのだろう。また、関東大震災Click!の直後から復興計画の一環として、東村山駅に集積されている建築資材は重視されていたにちがいない。
 以前、高田馬場駅をめぐる周辺地図を参照していたとき、西武高田馬場駅の南側に「砂利置場」という記載があるのを発見したことがある。それが、どのような地図だったのか思い出せないのがもどかしいのだが、少なくとも西武線が下落合のガードをくぐって省線高田馬場駅まで乗り入れた、1928年(昭和3)4月以降に作成された地図だろう。
 ところが、まったく別の資料から「砂利置場」の存在が明らかになった。濱田煕Click!が描き、1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された記憶画『戸山ヶ原 今はむかし…』Click!収録の絵画作品、および濱田煕が1990年(平成2)に制作した戸塚町の巨大なイラストマップ『記憶の家並みと商店街』の記載だ。
 まず、『戸山ヶ原 今はむかし…』より、1936年(昭和11)の記憶にもとづいて描いた、『西武電車の終点』へ添えられているキャプションから引用してみよう。
  
 西武電車の終点(昭和11)
 西武電車は昭和2年に高田馬場まで延びた。昼間は1両、朝夕は2両編成であった。屋根が灰色、上半部が黄色下半分がエビ茶色で、省線(現JR)の焦茶色より派手だった。駅正面の高架下には、中2階のある小デパート菊屋となっていた。菊屋は武蔵野電車(現西武)池袋駅の2階と、京浜急行の品川駅高架下にもあった。チェーン店であったと思う。画の右方は砂利置場の凹地で、小学生の団体などはここからホームに上っていた。
  
 1927年(昭和2)に「高田馬場まで延びた」のは、山手線をくぐって東側へと抜けるガードの工事Click!が間に合わず、山手線西側の線路土手ぎわ(旧・神田上水の手前)に設置された高田馬場仮駅Click!のことで、翌1928年(昭和3)4月までは同仮駅から早稲田通りまでつづく“連絡桟橋”Click!を、エンエンと歩かなければ省線高田馬場駅へ出られなかった。
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 さて、村山貯水池(多摩湖)を建設するために、建築資材を集積した中継点が東村山駅だとすれば、戸山ヶ原に計画されている数多くのコンクリート建築物の資材集積所(中継物流拠点)は、やはり“建設現場”の近くにあったのではないかと考えてきた。一時期は、下落合氷川明神の前にある実質の起点(終点)機能を備えていた下落合駅Click!の南東側、折り返しの場Click!があったスペースを疑っていた。実際、高田馬場仮駅時代には資材置き場のスペースが下落合駅近くに設けられ、大正末に強固な鉄筋コンクリート橋化された田島橋を通って戸山ヶ原まで搬送されていた可能性が高い。
 戸山ヶ原は広いので施工前、あるいは施工中にどこか工事現場の近くへ置いておけばいいようなものだが、予算編成を前提として建設工事計画を年度ごとに進めている以上、未購入の資材を敷地内の工事現場へ野放図に集積しておくわけにはいかない。そこには、必ず現場へ搬入する以前に、さまざまな物資が置かれていた中継の集積場=物流拠点が存在すると考えていた。
 それが、当時の戸塚町諏訪西原232~240番地(のち諏訪町232~240番地)あたりの「砂利置場」と呼ばれるスペースだったのだ。大正期の地籍図を見ると、このエリアは宅地と畑地(五等)が入り混じった一画で、西武鉄道は早い時期から買収をはじめていると思われる。昭和初期の地図では、同敷地は空き地状態で表現されており、1936年(昭和11)の空中写真では大量の砂利を蓄積しておく広場のようなスペースが中央に見え、南北両側にはセメントや鉄骨などの建築資材を入庫する、細長い大きな倉庫あるいは事務所のような建物がとらえられている。
 西武鉄道では、陸軍から各資材のオーダーを受けるごとに、高田馬場駅の物流拠点から戸山ヶ原の建築現場へ倉出しを行ない、不足分は東村山駅のより大規模な物流拠点に連絡して当該の資材を運ばせ、「砂利置場」への倉入れを繰り返していたとみられる。濱田煕をはじめ付近の住民たちは、じかに目にすることができる玉砂利の大きな山々を眺めて、この物流(中継)拠点を「砂利置場」という名称で呼んでいたのだろう。
 高田馬場駅の物流拠点を出た建築資材は、前の道路をトラックで南へ300mほど運ばれ、戸山ヶ原に接した諏訪ガードのすぐ東側、明治期に射撃訓練用の防護土手として造成された戸山ヶ原の三角山のふもとにある、陸軍の貨物専用線の軌道終端で荷降ろしが行われたにちがいない。ここで、西武鉄道から陸軍への最終的な受け渡しが行われ、建築資材は戸山ヶ原の各工事現場へと陸軍の手で運ばれていった。
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 1935年(昭和10)ごろを想定して描かれた、濱田煕のマップ『記憶の家並みと商店街』(1990年)には、この「砂利置場」のイラストとともに「建材置場」および「貨車から砂利の集積」という名称が記載されている。そして、先の引用文にもあったように、西武線を利用する団体客が集合する場所として、この「貨車から砂利の集積」場が活用されていた。マップには、「砂利置場」からホームへと上がれる跨線階段が設置されていた様子が描かれ、「西武電車を利用する団体の集合場所に利用され集まった団体はここの階段を上ってプラットホームへ上る」という吹き出しが添えられている。
 ちょっと余談だけれど、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)を護国寺まで延長する計画を推進していた地元の高田町や武蔵野鉄道本社、そして根津山Click!の所有者である東武がらみの根津嘉一郎Click!は、グリーン大通りを敷設しただけで根津山全体の宅地開発を保留にしていたのは、もちろん武蔵野鉄道の線路や駅、操車場などの設置を構想していたのだろうが、もうひとつ西武高田馬場駅と同様に東京市街地へ物資を供給する、物流(中継)拠点の設置も視野に入れていたのではないだろうか。
 それは、武蔵野鉄道が1928年(昭和3)に新設された東京セメントとのタイアップによる、西武鉄道を模倣した秩父産のセメント輸送計画ももちろんだが、東京郊外からのより広範な物資(材木や近郊野菜、肉類など)の大量輸送および集積場の設置構想も、広大な根津山の“温存”戦略の中には含まれていたのではないか。特に、鉄道の敷設と物流の専門家である根津嘉一郎の頭の中には、昭和初期に計画されていた日本最大の“海”産物集積場となる築地市場の設置に対して、“陸”あるいは“山”の大規模な産物集積場の計画・構想ができあがっていたのではないだろうか。
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 西部高田馬場駅の「砂利置場」=建築資材置き場は、1963年(昭和38)の空中写真まで確認することができる。戦前までは、もちろん戸山ヶ原の陸軍施設へ建築資材を供給するためと、西武線を早稲田まで延長させる「地下鉄西武線」計画Click!の資材拠点として活用される予定だったが、戦後は西武線を新宿駅まで延長するための建築資材置き場として、1950年代まで積極的に活用されつづけたのだろう。

◆写真上:右手の街並みから道路、左手の新宿まで向かう線路までがすべて「砂利置場」だった。現在でも線路際の細長い土地は、資材置き場として使われている。
◆写真中上は、1990年(平成2)制作の濱田煕『記憶の家並みと商店街』にみる西武鉄道の建築資材置き場と戸山ヶ原の貨物線終端。は、「砂利置場」部分の拡大。は、1936年(昭和11)ごろを想定した濱田煕『西武電車の終点』。画面の右枠外に、西武鉄道の広大な建築資材の物流(中継)拠点があった。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「砂利置場」。は、1940年(昭和15)作成の1/10,000地形図にみる同所。は、1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機によってとらえられた高田馬場駅周辺。「砂利置場」には倉庫らしい影が見えるので、建物が焼けたのは同年5月25日夜半の空襲だろう。
◆写真下は、諏訪ガードの近く戸山ヶ原の貨物線終端を描いた濱田煕『三角山から高田馬場駅の方を見る』(部分)。は、同じく貨物線終端をとらえた濱田煕『三角山の台地から新大久保方面を』。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる「砂利置場」。西側を新宿までの線路と延長されたホームに削られたが、相変わらずなんらかの倉庫か資材置き場になっているのが見てとれる。

不運な勝巳商店の住宅地開発。

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 以前、1940年(昭和15)に「目白文化村」と銘打ち、第二文化村に隣接する西側エリアを販売した勝巳商店Click!についてご紹介した。箱根土地Click!による目白文化村Click!の販売から16年たった同年、まったく同名の宅地開発を行なった勝巳商店の事業から、「第五文化村」Click!の誤伝が生まれているのではないか?……という課題も書いてきた。
 本郷区湯島の神田明神前にあった勝巳商店は、西武電鉄沿線の開発を得意としていたらしく、目白文化村の西側エリアで行われた昭和版「目白文化村」を販売する前年、1939年(昭和14)には新井薬師駅前の法政大学グラウンド跡地の宅地開発も手がけている。同社の宅地開発・分譲は、前回の「目白文化村」のところでも触れたが、日米戦争が差し迫った時期に行われているので十分な住宅街の形成が進まず、敗戦をはさんだほぼ20年もの間、空き地が目立つような風情がつづいている。下落合における昭和版「目白文化村」は、それでも空襲の被害をあまり受けなかったので、戦後には継続的な住宅建設を行うことができたが、新井薬師駅前の分譲地は駅の直近であることが災いして、二度にわたる山手空襲Click!にさらされ壊滅している。
 法政大学のグラウンド跡は、新井薬師駅を出て西へ120mほど歩いたところにあり、その広さは5,000坪を超えていた。駅からほぼ1分ほどで、分譲地に設けられたメインストリートである六間道路へとたどり着けるので、確かに駅前と表現しても誇大広告ではないだろう。六間道路沿いには多様な商店の誘致も計画されており、住宅街には碁盤の目のように二間二分道路が敷設されている。ちなみに、この広大な分譲地には特に愛称となる宅地名はついておらず、そのまま「新井薬師駅前分譲地」としか広告されなかった。
 同分譲地の様子を、1939年(昭和14)6月の新聞広告から引用してみよう。
  
 ★場所 中野区新井町の薬師銀座(法政大学グランド跡)
 ★交通 西武電車新井薬師駅直前、高田馬場駅より五分、中野駅より徒歩十分、
     新宿より関東バスにて新井薬師前下車の便あり。
 ★設備 商店街は六間道路に沿ひ、住宅街は二間二分道路に面し、下水道完備
 ★価格 坪 金五拾円より(この区画に対し銀行はいつでも五割乃至六割五分を
     金融して呉れる極め付きのものです)
 ★御契約 期間中現場で契約、御申込の際は三割五分の手附金を戴き、残額は
      登記の際申受
 ★御案内 西武電車新井薬師駅前 現場の当出張所で御案内
     (日曜・祭日・雨天にても可、毎日早朝より晩迄)
  
 ほぼ駅前の土地が坪単価50円なので、勝巳商店はその安さを大きくアピールしている。大正期に販売された目白文化村でさえ、坪あたり50~70円があたりまえだったので、確かに16年後の駅前分譲地の販売としては格安に感じただろう。関東大震災Click!のあと、東京の市街地から郊外への人口流入がひと段落したのと、やはり忍び寄る戦争の予感から不動産の買い控えが発生していたのとで、地価も下落していたらしい状況が読みとれる。
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 分譲から1年ほどすぎた、1941年(昭和16)の空中写真を観察すると、宅地の中に設けられた勝巳商店地所部の案内出張所が見えるだけで、いまだ1軒の住宅も建設されていない。それでも、分譲地は日米開戦後もそこそこ売れつづけたのか、1944年(昭和19)の空中写真には、まだ空き地は目立つものの大小の住宅が建ち並んでいるのが見てとれる。特に大きな屋根や、「ロ」の字型をした中庭のある建物は、駅の直近ということもありサラリーマン向けのアパートではないかと思われる。
 郊外の分譲地を購入してアパートを建設し、その家賃収入を得るための投資がつづいていたのだろう。つづけて、勝巳商店の広告から引用してみよう。
  
 法政大学グランド跡/新井薬師駅前分譲地
 新宿裏の広場は坪八百六円で売れ、駿河台住宅街は坪三百円以下の売物のない現今、この分譲地こそは、実に空前絶後の豪華街です。/借地代で買へる豪華街/代金は壱千円に付き七ケ年月掛元利共金拾五円七拾九銭の割合を以て延支払方法にも応じます。但し現金売も歓迎致します。
 都市計画道路線工事着手中・区画整然・総売坪五千余坪
 売出期間 六月十日より十九日まで
  
 繁華街の地価を挙げて、安さと入手しやすさのローンをアピールする表現は、明らかに市街地に住む投資目的の購入者を意識したものだ。
 だが、1945年の二度にわたる山手空襲が、新井薬師駅前の西側一帯を焼け野原にしている。勝巳商店の分譲地は、住宅街が片っ端から絨毯爆撃された1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で、全域が焦土と化した。同年4月13日夜半の空襲でも、駅舎に被害があったかもしれないが、分譲地の全域が炎上したのは5月25日の第2次山手空襲のほうだ。
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 当時の様子を、1982年(昭和57)出版の細井稔・他『ふる里上高田の昔語り』(いなほ書房)に掲載された、地元の証言から引用してみよう。
  ▼
 (昭和)二十年四月十三日、伊豆半島を北上中の敵大編隊は、富士山目掛けて向きを東に変え、夜間の低空大空襲は万昌院(功運寺)前、昭和女学校あたり一帯、原田屋さんの大きい店も焼け、昭和通、東中野から東北部へかけて大焦熱地獄となった。/次いで、五月二十五日、焼残った中野、野方の大部分は、東京の大部分が壊滅してしまっていた。(ママ) 上高田は新井薬師通りの一部と町の中心がどうやら残った。この時東光寺の木造大本堂も灰燼に帰してしまった。(カッコ内引用者註)
  
 途中、文章表現におかしな箇所もあるが、梅照院(新井薬師)Click!の周囲は焼け残ったものの駅の周辺、特に西側が焼け野原になっている。
 1947~1948年(昭和22~23)に撮影された、B29による爆撃効果測定用の空中写真を参照すると、分譲地に戦前・戦中に建てられていたはずの住宅が、ほとんどひとつも残っていない。戦後、急ごしらえで建てられたバラックとみられる建物が散在するだけで、分譲地全体が壊滅しているのがわかる。
 同分譲地のエリアで、ほぼ空き地が1944年(昭和19)ほどの割合になり、ようやく住宅の建設が進むのは昭和30年代まで待たねばならなかった。大きな建築は姿を消し、敷地が50坪ほどの住宅が建ち並ぶことになる。
 勝巳商店地所部の分譲地が不運なのは、宅地を販売し住宅を建設する時期がちょうど日米戦争と重なってしまったことだ。下落合で1940年(昭和15)に販売された昭和版「目白文化村」を含め、戦中・戦後の混乱の波をまともにかぶり土地の所有関係も含めて、戦後も10年ほどが経過しないと落ち着かなかったのだろう。
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 また、新井薬師駅前の分譲地ケースはあまりに駅へ近すぎたため、戦後にようやく落ち着いた住宅街が形成されたのもつかの間、今度は高度経済成長とともに商業地化と地上げの波にさらされてマンションが林立し、いまや当時の面影があまり残っていない。

◆写真上:1939年(昭和14)に掲載された、勝巳商店の「新井薬師駅前分譲地」広告。
◆写真中上は、1940年(昭和15)に各紙へ掲載された下落合西部の昭和版「目白文化村」分譲広告。は、1925年(大正14)の1/10,000地形図にみる法政大学グラウンド。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同大学グラウンド。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された分譲地。いまだ勝巳商店の案内所と思われる建屋だけで、住宅も道路も建設されていない。は、1944年(昭和19)の空襲前に撮られた同分譲地の最終形。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同分譲地。ところどころにバラックが再建されているが、全体が焼け野原だった。
◆写真下は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同分譲地で再建はほとんど進んでいない。は、1956年(昭和31)の空中写真にみる同分譲地。ようやく、空襲前の住宅密度が回復しはじめている。は、勝巳商店地所部の開発跡が見られる築垣。勝巳商店の「目白文化村」はコンクリートの縁石だったが、新井薬師では大谷石が用いられた。


下落合の水車と日本初の鉛筆工場。

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 いまの新宿御苑Click!(旧・内藤駿河守下屋敷)の東隣り、玉川上水の流れで渋谷川の源流となる谷堀に面したあたり、内藤家に建立されていた多武峰内藤稲荷社Click!の西側一帯には、昭和初期からの静かな林間住宅街が渓流沿いに形成されている。この住宅街が開発される以前、ここには眞崎仁六が建設した日本初の鉛筆工場が建っていた。当時の地番でいうと、四谷区内藤新宿1番地(現・新宿区内藤町1番地)のエリアだ。
 日本に初めて鉛筆が輸入されたのは、1877年(明治10)だといわれている。だが、正式に製品として海外から輸入されたのは同年かもしれないが、江戸期の築地や長崎など外国人居留地では、ふだんから使われていただろうから、見よう見まねで鉛筆もどきを製作していた人たちは江戸の街中にもいただろう。いや、一般の市民レベルが鉛筆の存在を意識する以前、徳川家康や伊達政宗が鉛筆を使用していたのが判明しているので、ヨーロッパの宣教師によってもたらされた鉛筆の歴史は、さらにさかのぼることになる。
 眞崎仁六は、1878年(明治11)にパリ万国博覧会に出かけ、そこで工業製品として生産された鉛筆と初めて出あっている。帰国すると、眞崎はさっそく鉛筆製造の研究にとりかかった。そして、鉛筆を量産する技術やノウハウを確立すると、9年後の1887年(明治20)に先の内藤町1番地へ眞崎鉛筆製造所を開設した。同工場が、なぜ玉川上水(渋谷川の源流)沿いに建設されたのかというと、鉛筆の芯にするグラファイト(黒鉛)を粉砕するために、水車小屋の動力が不可欠だったからだ。
 このサイトの記事をお読みの方なら、すぐに下落合の水車小屋で小麦粉や米粉を製造する合い間に、鉛筆の芯にする黒鉛粉を製造していた時代があったことを想起されるだろう。大江戸(おえど)Click!郊外を流れる水車小屋は、ことに農作業の閑散期には、さまざまなものを粉砕する動力として活用されてきている。幕末には、強力な黒色火薬Click!を製造する過程で利用され、大江戸の各地で爆発事故を起こしているのは、淀橋水車小屋Click!のケースとしてこちらでもご紹介ずみだ。
 明治に入ると、今度はいろいろな工場の下請け動力として、東京郊外の水車小屋は活用されはじめている。その様子を、中井御霊社Click!バッケ(崖地)Click!下にあった「稲葉の水車」Click!の事例から見てみることにする。1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された、『ふる里上高田の昔語り』から引用してみよう。
  
 現在の中野区営の野球場の裏手の御霊橋は、前述した懐かしい泳ぎ場所新堰で、このやや上手から目白の山下を道沿いに導水して、落合い(ママ)田んぼと、一部は稲葉の水車に流れていた。/稲葉の水車は今の落合公園の南側、妙正寺川に近い北側にあり、まわりは、杉や樫に囲まれ、相当広い場所を占めていた。落合公園のあたりは、鈴木屋(日本閣の前身)の釣堀用の養魚場であった。/稲葉氏は鈴木屋と姻戚関係であるが、何か失敗し、後に鈴木屋鈴木磯五郎氏に所有が移った。/水車は相当大きく幅約三尺、直径は三間以上あった様に思う。(中略) 後にこの水車は上高田、落合の利用が少くなると、米の白いのや糠の黄色と全く変わり、鉛筆の芯にする炭素の真黒い色に変った。
  
 これは、明治後期ないしは大正の最初期にみられた稲葉の水車についての証言だが、鉛筆工場から黒鉛の粉砕作業を委託されていた様子が伝えられている。ちなみに、同水車小屋に付属して造成されていた「養魚場」の風景は、1924年(大正13)に長野新一Click!がスケッチして『養魚場』Click!のタイトルで帝展に出品している。
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 このように、郊外の河川沿いに設置されていた江戸期からの水車小屋は、明治期に次々と建設された各地の工場の下請け動力として活用されていた。下落合には、妙正寺川の稲葉の水車Click!を含めバッケ水車Click!(妙正寺川)、田島橋の水車Click!(旧・神田上水)の計3つの水車小屋が稼働していたが、東京パンClick!をはじめ製パン工場や製菓工場が周辺にできると、原料となる大量の小麦粉を生産するために水車小屋が動員されている。また、水車小屋を下請け動力として利用する事業家と、農業用水として活用する付近の農民との間で、明治期の深刻な“水争い”Click!が起きていることもすでにご紹介していた。
 眞崎鉛筆工場を設立した眞崎仁六は、1899年(明治32)になると眞崎鉛筆の売れ行きが急増したのか、すでに分工場を東京各地に展開しているので、それらの生産拠点から発注された原料製造のひとつが、稲葉の水車で行われていたのだろう。内藤町1番地の眞崎鉛筆工場について、1967年(昭和42)に新宿区教育委員会より発行された、『新宿区文化財』から引用してみよう。
  
 内藤町1番地、多武峰神社西方一帯のところで、現在は住宅地になつ(ママ)ている。佐賀県人、眞崎仁六が、日本で最初に鉛筆製造工場をつくり、鉛筆をつくつたところである。外国の技術を借りないで、製法から製作まで独力で考案したことは、現在日本がドイツ、アメリカとともに、世界三大鉛筆生産国の一つであることからみても、その発祥地としての価値は高いものと考えられる。/明治10年(1877)、当時貿易会社の技師長であつた眞崎甚六は、パリの万国博覧会で、はじめて鉛筆をみて、その便利さに驚いて帰国し、日本でも製造したいと考え、京橋山下町の自宅で毎晩実験を続けた。明治20年(1887)会社が倒産したので、内藤町の水車小屋を月8円で借り、ここを住宅兼工場として、眞崎鉛筆製造所を設立した。当時付近は一面の竹やぶで、水車小屋の軒は傾むき、壁は落ち、雨もりするひどい状態であつたといわれている。実験、失敗をいく度もくりかえし、ついに第一号を完成した。当時の鉛筆は現在のとちがつて、軸の先を三つに割り、それにしんを差しこんだものであつた。
  
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 同誌では、眞崎鉛筆製作所はのちに「三菱鉛筆に迎えられ」たと記述しているが、これは明らかな誤りだ。そもそも三菱鉛筆が、そのマークから三菱グループと関係があると事実誤認したことから生じた誤記だろう。眞崎鉛筆はイコール三菱鉛筆であり、トレードマークの3つの鱗をデザインした“スリーダイヤ”は1903年(明治36)、すでに眞崎鉛筆が商標登録(No.18865)を完了している。
 三菱鉛筆とはまったく関係のない、政商だった三菱財閥が“スリーダイヤ”の商標を登録するのは、それから10年も経過した1913年(大正2)になってからのことだ。今日の厳密な商標審査であれば、既存の商標と紛らわしい同一のトレードマークは登録できないので、三菱財閥があきらめて別のトレードマークを考案するか、三菱鉛筆(眞崎鉛筆)からトレードマークを買いとるしか方策がなかっただろう。
 1907年(明治40)になると、眞崎鉛筆は東京博覧会で2等銀牌賞を受賞、また1910年(明治43)にロンドンで開催された日英大博覧会では金牌大賞を受賞するまでに品質が向上している。そして、1912年(明治45)には鉛筆の急速な普及とともに、ナイフの代わりに削る専用の鉛筆削りが初めて米国から輸入された。
 1910年(明治43)に発行された、2色刷りの1/10,000地形図を参照すると、眞崎仁六邸らしい小さな建物と庭園の南には、製造工場らしい細長い建屋が描かれている。水車のマークは採取されていないが、工場敷地の西端、渋谷川沿いのどこかに設置されていたものだろう。1916年(大正5)に、眞崎鉛筆工場が内藤町から大井町へ移転すると、工場跡には住宅が建ち並びはじめている。冒頭の大谷石の築垣が残る写真は、新宿御苑に隣接し渋谷川の源流域に建っていた、眞崎邸の庭園あたりに開発された住宅街だと思われる。
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 わたしは小学生時代から、眞崎鉛筆=三菱鉛筆の愛用者だった。鉛筆1本10円の時代に、芯が折れにくくなかなか減らない三菱鉛筆Hi-uniは1本100円もしたのだが、親に無理をいって買ってもらったのを憶えている。現在は、鉛筆などまったく使わなくなってしまったが、シャープペンシルで使用している2Bの芯ケースをよく見たら、やはり三菱鉛筆のHi-uniと書かれていた。わたしの指先と眞崎鉛筆は、どうやら相性がいいらしい。

◆写真上:新宿御苑側から見た眞崎仁六邸の庭園跡に開発されたとみられる住宅街で、手前の谷堀を流れるのは江戸期からの玉川上水(渋谷川の源流)。
◆写真中上は、1862年(文久2)の尾張屋清七版切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」にみる眞崎鉛筆製作所の位置。は、1910年(明治43)の地形図にみる同製作所。は、1933年(昭和8)の「職業別事情明細図」にみる同製作所跡で宅地化が進んでいる時代。
◆写真中下は、多武峰内藤稲荷社の舞殿。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる眞崎鉛筆製作所跡。新宿御苑が「畏れ多い」のか、墨ベタで塗りつぶされている。は、1947年(昭和22)の空中写真にみるまだらに焼け残った同製作所跡の住宅街。
◆写真下は、多武峰内藤稲荷社の拝殿。下左は、晩年の眞崎仁六。下右は、眞崎鉛筆から直結する三菱鉛筆Hi-uniシリーズの鉛筆とシャーペンの芯。

空中写真の活用と米軍本部「伊勢丹」。

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 少し前、このサイトで多用する歴代の空中写真に関連して、空からを撮影する際の対空標識と三角点Click!のテーマについて書いた。今回は、そもそも空中写真が撮影されるようになったきっかけと、その歴史について少しまとめて書いてみたい。いつも何気なく引用する空中写真だが、その史的な経緯や活用法を踏まえて観察すると、その観察法や読み解き方に新たな視座が生まれるかもしれないからだ。
 空中写真が撮影されたのは、1858年(安政4)10月にフランスの写真家だったフェリクス・トゥーリナシオン(通称名ナダール)という人物が、熱気球に乗ってプチ・クラマトールという街を撮影したのが嚆矢とされている。気球からの空中写真(いわゆる気球写真)は、日本でも早くから取り入れられ、1904年(明治37)に海軍省の技師だった市岡太次郎が、東京市上空から360度の斜めフカン写真(パノラマ写真)を撮影したエピソードClick!が知られている。写真を撮ったのが、海軍省の技師だったことからも明らかなように、気球を使った空中写真の撮影は、おもに軍事利用を目的として取り組まれたものだ。
 気球は操縦がきかず、もともと風まかせの乗り物のため、当時は係留した気球を浮揚させて目的の高度まで上げ、安定したところで撮影する手法がとられた。海軍では、のちに敵艦をいち早く発見したり着弾測定を行うため、艦尾に気球を備えた大型艦が出現している。また、陸軍では前線での敵陣偵察用に、係留気球による空中撮影が構想された。陸軍の航空隊が、気球を貨車に積んで運搬する演習をしていたのは、こちらでもご紹介Click!している。しばらくすると気球写真は民間へも普及し、このサイトでも大正期に係留気球から撮影された、早稲田大学のキャンパス写真をご紹介Click!していた。
 やがて、飛行機が発明されて普及しだすと、気球写真は一気に廃れてしまった。航空機とともに空中写真が発達したのは、第一次世界大戦を通じてだ。当時、空撮の技術がもっとも進んでいたのはドイツだった。多くの空中写真がそうであるように、地表に向けてカメラをかまえ垂直に連続して撮影する、いわゆる垂直写真用の航空カメラが発明されたのもドイツだ。同国の映画人だったオスカー・メスターという人物が、陸軍から敵情を知るための映画制作の依頼を受け、航空機に搭載する専用カメラを開発している。
 世界初の垂直写真撮影用航空カメラの様子を、1969年(昭和44)に中央公論社から出版された西尾元充『空中写真の世界』から引用してみよう。
  
 できあがったカメラは奇妙な形をしていた。それは飛行機の床に垂直に取り付けられ、調節可能な一定の間隔をおいて、機関銃のように連続して撮影できるものであった。従来は、一枚一枚ガラスの乾板に写していたのに、このカメラは、幅二四センチメートル、長さ二五メートルのフィルムが装填できるマガジン付であった。これによって、幅二四センチメートル、長さ三・五センチメートルの長方形の画面が、一定の正しい間隔をおいて、六二五枚も撮影できた。/最初の試験撮影では、約二・五キロの幅で約六十キロメートルにわたる戦場の写真が撮影された。その写真には、砲兵陣地も、塹壕の位置も、あらゆるものが細大洩らさず写しとられていた。
  
自動垂直写真カメラ(メスター).jpg
西尾元充「空中写真の世界」1969.jpg 第一次大戦斜め航空写真.jpg
 こうして撮影された戦場の詳細な空中写真(敵陣情報)を、戦術面での作戦に活用したり、そこから戦場地形図を起こして戦略を立案するのに役立てたりしたが、空撮技術を開発した肝心のドイツ軍部が、それらの成果や情報を軽視したため、戦争も後半になると連合軍による空撮技術と、それによって得られた空中写真の情報活用に追いこされ、ついに敗北するという皮肉な結末となった。
 日本における航空機からの写真撮影は、1910年(明治43)12月19日に代々木練兵場Click!で陸軍の航空機が初飛行Click!を実現してから4ヶ月後、1911年(明治44)4月28日に空中写真の撮影にも成功している。撮影者は、下落合(2丁目)490番地(現・下落合3丁目)に住んでいた徳川好敏Click!だ。もちろん、彼が撮影した空中写真は垂直写真ではなく、航空機の操縦席からそのままシャッターを切った斜め写真だったろう。徳川好敏は代々木練兵場から飛び立ち、練兵場とその周辺の様子を撮影したと思われるが、わたしは残念ながらいまだにそれらの写真を見たことがない。
 日本で空撮の垂直写真が撮影できるようになったのは、1921年(大正10)以降のことだ。それは、第一次世界大戦の敗戦国ドイツから、戦勝国への賠償の一部として空中写真用の機材類が送られてきたことによる。それから間もなく、1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!では垂直撮影用の航空カメラを使い、東京や横浜の被災地域の空中写真が数多く撮影されることになった。被災地の上空を旋回して撮影したのは、航空カメラを搭載した陸軍の航空機で飛行第五大隊の所属機だった。こちらでも何度となく、関東大震災による被災地上空からの空中写真(垂直写真)を取り上げているが、これらの画面は下落合のお隣りにある、学習院Click!史料館Click!で長年にわたり保存されてきたものだ。
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横浜港関内19230905.jpg
 このサイトでもっとも多く引用している、陸軍が計画的に広範囲にわたって撮影した1936年(昭和11)の空中写真(垂直写真)は、おそらく地形図の作成用に撮影されたのではないかと思われる。だが、航空カメラの解像性能や、地形図を作成する際に必要な図化機の機能性が低かったため、空中写真をもとにした本格的な地形図の作成は限定的なものだったのではないか。写真をもとにした地形図作成の技術が、もっとも進んでいたのは満州航空(株)の写真処だったというエピソードも残っている。同社の写真処からは戦後、官民を問わず空中写真の分野で活躍する人材を、数多く輩出しているようだ。
 また、陸軍が東京郊外を斜めフカンから撮影した、1941年(昭和16)の空中写真が残っている。この一連の撮影意図が、わたしにはいまもってわからない。撮影の画面には、なんら法則も規則性も見いだせないし、飛行コースも旋回しながらバラバラで直線ですらなく、撮影地域にも共通性がまったく見られない。強いていえば、東京郊外を流れる川沿いを撮影していることだろうか。自治体による河川の清流化(直線化)工事計画、あるいは改正道路や放射道路の計画などの資料づくりが目的だとすれば、わざわざ陸軍の航空機が“出動”する意味がわからない。
 同じく陸軍が全国の都市部を撮影した、1944年(昭和19)の空中写真も残っているが、これは明らかに空襲に備えた防火帯Click!の計画づくり、すなわち建物疎開Click!を実施するための資料として撮影したものだろう。戦争も末期に近づき、物資不足のためにフィルムの質が非常に低下しているせいか、1936年(昭和11)や1941年(昭和16)の空中写真よりも、画面の解像度がかなり低い。
 そして敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は爆撃効果測定用に1946年(昭和21)から1948年(昭和23)にかけ、日本全土をほぼくまなく空中撮影している。これら空襲による焼け跡だらけ写真類も、このサイトではたびたび引用してきた。日本陸軍が撮影した写真よりも、はるかに高品質で解像度も高く鮮明で、ときに地上にいる人やクルマまでもが手にとるように写しとられている。一連の空中写真を撮影したのは、専門家が集まる米軍の「空中写真部隊」だが、その部隊本部が戦後に接収された新宿の伊勢丹デパート本店Click!の3階から屋上にかけて置かれていたのは、あまり知られていない事実だ。新宿伊勢丹の同部隊は、朝鮮戦争のころまで駐留していたらしい。
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 さて、空中写真が撮影される目的は、別に地形図や市街図を作成するためだけではない。自然科学の視座から自然を読み解く地理学や地形学、地質学、鉱物学、岩石学、気候学、地震学、植物学、層位学、古生物学など多岐にわたる。近年では、人文科学の考古学や古代史学での活用がめざましく、特に関東地方では破壊されてしまった、数多くの大小さまざまな古墳や遺跡の発見、既存の遺跡規模の見直しなどに成果を上げている。

◆写真上:敗戦後GHQに接収され、米軍の空中写真部隊本部だった新宿の伊勢丹本店。
◆写真中上は、ドイツのオスター・メスターが第一次大戦中に発明した垂直写真撮影用航空カメラ。下左は、1969年(昭和44)出版の西尾元充『空中写真の世界』(中央公論社)。下右は、第一次大戦で多用された斜め写真用の航空カメラ。
◆写真中下は、代々木練兵場で初めて空中写真の撮影に成功した徳川好敏。(左から2人目) 1923年(大正12)9月5日に、陸軍飛行第五大隊が関東大震災直後の被災地を撮影した写真で、麹町区の赤坂離宮(現・迎賓館/)と壊滅した横浜関内の中心部()。
◆写真下は、1936年(昭和11)に陸軍が撮影した下落合西部と上落合。は、敗戦間近な1944年(昭和19)に撮影された落合地域とその周辺で、画質がきわめて低いのが判然としている。は、戦後に初めて輸入されたドイツ製の垂直写真用航空カメラ。

下落合を描いた画家たち・満谷国四郎。(2)

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 下落合753番地に住んだ満谷国四郎Click!は、同じ太平洋画会研究所の吉田博Click!と同様に、ほとんど下落合の風景を描いていない。大正の早い時期からアトリエClick!をかまえているにもかかわらず、周囲に拡がる東京郊外の風景はあまり画因にはならないと感じていたようだ。そのかわり、アトリエの前に拡がる庭の光景や自邸で飼っていた動物を、ときどきモチーフに取り上げている。
 今回ご紹介する満谷国四郎『七面鳥』は、彼が死去Click!する前年、1935年(昭和10)に描かれたものだ。同作の画面をあちこち探しても、カラーでは残っていないのでおそらく戦災で失われたか、行方不明の作品なのかもしれない。その貴重な画面を、刑部人Click!の孫にあたる中島香菜様Click!よりお送りいただいたのでご紹介したい。満谷の『七面鳥』が、下落合の“風景”だと思われるのには大きな理由があるのだ。
 1922年(大正11)の近衛町開発Click!とほぼ同時期に、東京土地住宅Click!は下落合の西部に画家や文学者など芸術家たちの家々を集合させた、アビラ村(芸術村)Click!構想を起ち上げている。そして、その村長に就任する予定になっていたのが満谷国四郎だった。満谷は、金山平三アトリエClick!の東隣りに新たなアトリエを建設するため、金山とほぼ同時期の1922年(大正11)後半に、坪35円で100坪を超える土地を購入したとみられ、下落合西部における満谷邸は着工するばかりになっていた。
 現存する金山平三の手紙によれば、関東大震災Click!が起きた翌年の1923年(大正12)5月には、すでに南側の崖地を補強する築垣の課題や、未整備だった下水道の設置などについて金山と満谷国四郎、そして南薫造Click!の3者間で相談していた気配がうかがわれる。当時の様子を、1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』所収の日本画家・中野風眞子Click!の証言から引用してみよう。
  
 さて、このアヴィラ村だが、高い丘は南面して日当りがよく、下は全く樹海を見るようで環境が至極よろしかった。左様なわけで、おのずから芸術家憧憬の地となり、分譲の話が伝えられると先を争って買い求めた。ここにアトリエを建てたものに、先生(金山平三)や永地秀太、彫刻の新海竹太郎らがあり、土地を求めたのみの人に満谷(国四郎)、南(薫造)、三宅克己らがあった。/アヴィラ村に通う今日の二の坂は、その頃乱塔坂(ママ:蘭塔坂)と呼ばれ、蛇行する坂の両側に高低参差たる無数の墓石が乱立していて、夜は梟がほっほほっほと哀調の声を奏でていた。(カッコ内引用者註)
  
 このとき、東京土地住宅とともにアビラ村計画を協同事業として推進していたのが、下落合2096番地の島津源吉Click!だったと思われる。同家に残る「阿比良村」計画図Click!が、東京土地住宅との事業連携で描かれたものであることは想像に難くない。
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 アビラ村建設計画の中心的な役割りを、満谷国四郎とともに担っていたのが、下落合2080番地の金山平三Click!であり百人町の南薫造だった。金山平三は島津邸の直近ということもあり、しじゅう同家には出入りしていたらしい。満谷国四郎もまた、下落合を西へ散歩がてら島津源吉邸Click!を頻繁に訪れるようになっていたようだ。島津家でも、それに応えるように満谷作品を少なからず購入している。また、画家をめざす同家の島津一郎Click!が満谷国四郎に師事し、彼が東京美術学校へ入学すると島津家と満谷国四郎との関係はより密になっていったにちがいない。
 以前、刑部佑三様と中島香菜様から「刑部人資料」のひとつ、刑部家のアルバムを拝見したときに、島津源吉邸の庭で放し飼いにされていた、数多くの白いシチメンチョウの写真を見せていただいたことがある。いちばん繁殖していた時期には、10数羽の大きなシチメンチョウが庭のあちこちを歩きまわっていたらしい。お話によれば、昭和初期から戦時中まで飼われていたようで、刑部人・鈴子夫妻とともに白いシチメンチョウが収まった写真も、アルバムに貼られていたのを憶えている。(また別の機会にご紹介したい)
 すなわち満谷国四郎は、1935年(昭和10)に島津源吉邸を訪ねた際、庭をわがもの顔で歩く大きな白いシチメンチョウを見て、にわかに画因をおぼえスケッチしているのではないかということだ。もちろん、シチメンチョウを飼っていたのは島津邸だけでなく、たとえば満谷の友人である大久保作次郎Click!アトリエClick!でも飼われていただろう。だが、満谷が散歩がてら下落合でもっとも頻繁に出かけていた訪問先を考慮すると、アビラ村の金山平三アトリエClick!と島津源吉邸の2軒に絞られてくると思われるのだ。
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 満谷国四郎は、過去にもシチメンチョウをモチーフにした作品を描いている。1928年(昭和3)に制作した、まるで折りたためる三枚屏風絵のような3部作『罌粟の花畠』だ。同作では、3部作の右側と中央の2画面に、つごう2羽の黒い七面鳥が描かれているようだ。また、左側の画面には繁みの中で眠っているネコが1匹描かれている。以前にご紹介した、満谷邸の庭で飼われていたイヌがモチーフの『早春の庭』(1931年)もそうだが、満谷国四郎は動物を描くのが好きだったらしい。
 昭和初期の帝展作品には、動物を描いた作品が少なくない。吉田博Click!は、1929年(昭和6)に『ひよこ』と題する画面を帝展に出品しているが、中にはシチメンチョウの“ひよこ”も混じっているかもしれない。また以前、牧野虎雄Click!が大久保作次郎アトリエで飼われているシラキジを描いた、1931年(昭和6)の『白閑鳥』Click!をご紹介しているが、同年には満谷アトリエの西隣り(下落合572番地)に住んでいた三上知治Click!もまた、番(つが)いを描いた『孔雀』を出品している。まるで、帝展の常連画家たちの間で“鳥”ブームが起きていたような気さえする。
 満谷国四郎は、鳥に限らず動物をモチーフにするのが好きだったらしく、大正期からの帝展作品には画面のどこかに動物が描かれている。たとえば、1922年(大正11)の『島の女』(のちにタイトルが『島』に変更)には、1頭の牛が描かれている。さらに、1929年(昭和4)に帝展へ出品された満谷国四郎『籐椅子』にも、裸婦の隣りに外国産らしいネコが描かれている。この足もとに描かれたネコが、どこかアニメ風の表現でめずらしい。
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満谷国四郎「島の女」1922.jpg
満谷国四郎「籐椅子」1929帝展.jpg 牧野虎雄「白閑鳥」1931.jpg
 ちなみに、『島の女』を制作中の満谷国四郎は1922年(大正11)、下落合のアトリエで「婦人画報」の取材を受けているが、その際に撮影された同作の画面と、実際に完成した画面を比較すると面白い。制作途上の画面は、かなり写実的でリアルに描かれているように見えるが、最終的に仕上げられた画面は、その上から重ね塗りが施され表現をかなり単純化し、あえてプリミティブ化を試みているように見える。同様に、1931年(昭和6)に「アトリエ」誌が制作中の牧野虎雄『白閑鳥』を撮影しているが、実際の完成画面を比べてみるのも興味深い。

◆写真上:死去する前年、1935年(昭和10)の帝展に出品された満谷国四郎『七面鳥』。
◆写真中上は、島津一郎アトリエ前のシチメンチョウと島津家の人々。は、上掲写真の拡大で左から右へ島津一郎、島津源吉、とみ夫人、2代目・島津源蔵とシチメンチョウ。は、1928年(昭和3)に制作された満谷国四郎の3部作『罌粟の花畠』で、中央画面(左)と右画面(右)に黒い七面鳥の番いが描かれている。
◆写真中下は、北鎌倉から笠間へ移築された北大路魯山人の「春風萬里荘」(日動美術館)に保存されている金山平三邸のテーブル。(撮影:岡崎紀子様Click!) このテーブルの周囲には、アビラ村建設計画を推進する画家たちが集まって、楽しい構想が幾度となく話し合われたのだろう。は、1929年(昭和4)の帝展に出品された吉田博『ひよこ』。は、1931年(昭和6)の帝展出品作である三上知治『孔雀』。
◆写真下は、1922年(大正11)に「婦人画報」のカメラマンが撮影した『島の女』を制作中の満谷国四郎。は、のちに『島』と改題され帝展絵はがきとして販売された同作。下左は、1929年(昭和4)の帝展に出品された満谷国四郎『籐椅子』。下右は、1931年(昭和6)の帝展出品作である牧野虎雄『白閑鳥』。

第五高女キャンパスが壊滅するまで。

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第五高女本校舎1924.jpg
 先日、淀橋町十人町899番地(のち淀橋区角筈1丁目879番地→新宿区歌舞伎町1~2丁目)に建っていた、東京府立第五高等女学校Click!(のち東京都立富士高等学校)についてご紹介したところ、富士高校を卒業された知人の方から、旧・第五高女の詳しい資料をお送りいただいた。特に戦時中、第五高女が空襲にさらされる様子を記録した貴重な資料があるので、改めて同校キャンパスが全焼するまでの経緯をご紹介したい。現在の歌舞伎町1~2丁目にまたがる、広い敷地の第五高女が壊滅したことが、戦後の同エリアの街づくりを根本的に変えてしまった要因だからだ。
 1920年(大正9)に第五高女が開校すると、初代校長に就任したのは白石正邦だった。白石正邦は、学習院の院長だった乃木希典Click!と親しかったらしく、生徒たちの思い出によれば学習院から第五高女の校長として赴任してきたようだ。開校から3年後の関東大震災Click!では、同校の生徒たちが下町から着の身着のままで避難してくる被災者の救護に当たっている。第五高女の校舎は、震災の被害こそ軽微で済んだようだが、淀橋地域は揺れが大きかったものか、講堂に置かれた重たいグランドピアノが端から端へとすべっていく様子が、生徒たちに目撃されている。
 その後、昭和初期には平穏な時代がつづき、女学校としてはめずらしい質実剛健な「第五魂」と呼ばれた同校の校風や文化、雰囲気はおもにこの時代に形成されたものだろう。交友会などの資料でも、この時代の想い出を語る卒業生たちが多い。同校から、高等師範学校や専門学校(現在の大学)に進む生徒たちも少なくなかった。日米戦争がはじまり、敗戦の色が濃くなった1943年(昭和18)10月21日の「出陣学徒壮行会」Click!では、彼女たちも動員されて神宮球場の観覧席にいた。その様子を、2011年(平成23)の同校校友誌「若竹」所収の中沢たえ子『第五魂と弥生精神』から引用してみよう。
  
 高学年学校生活は厳しい戦時下であり、昭和十九年には戦況は不利となり多くの男子大学生たちが招集され、神宮球場で出陣学徒壮行式にわれわれ五年生が出席した。冷たい小雨がそぼ降る中、彼らが高い貴賓席の中の天皇陛下の下を敬礼して行進した状景は現在でも目に浮かんでくる。彼らのなかから沢山の戦死者が出たことは間違いないし、サテツ(若い教師のあだ名)も戦死したと戦後になって聞いて悲しかった。(カッコ内引用者註)
  
 「学徒出陣」は「昭和十九年」ではなく前年だが、「貴賓席」にいたのは天皇ではなく、東條英機Click!をはじめとする陸海軍の幹部や文部大臣たちだ。このときの様子は、NHKがラジオで2時間30分にわたり実況中継を流し、のちに軍国主義によるプロパガンダ映画『学徒出陣』(文部省)も制作されている。そこには、観覧席を埋めつくす府立の各女学校を中心に動員された、大勢の女生徒たちも映しだされていた。
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 やがて、空襲が予測される時期になると、第五高女では「防衛宿直」という当番が設置され、教師や職員ばかりでなく女学生たちまでが動員されている。当時、第五高女の教室は一部が軍需物資を生産する“工場”にされていたようで、「工場防衛」つまり空襲に備えた防火活動が宿直の役割りだった。以下、1993年(平成5)に発行された校友誌「若竹」に収録の、上田春野・松浦琳子・目黒緑『空襲被災の前後』から引用してみよう。
  
 校舎の防衛宿直は、先生が昭和十九年十一月、生徒は昭和二十年二月末頃からでした。当時教室は学校工場で「銃後の守り」と頑張りながら、冬は暖房も無く、休み時間には木造校舎の板壁にズラッと目白押しの日向ボッコ、時にはその前で幼い本科生が鬼ゴッコのジャンケンポン、又、雨天体操場のピアノで興ずる生徒達、苛烈極まりない戦時のさ中にも、あの木造校舎と若い私達は一つ絆で結ばれていました。/四月十三日は風も無く静かな夜で、宿直の職員、生徒計十二名は十一時過ぎの空襲警報でとび起き、身支度を整え、校庭にとび出す間もなく、新宿駅の方向に火の手があがり、風に煽られて見る間に延焼接近、雨天体操場の下が燃え始めました。水槽の水をバケツに汲み、走り、なんとしても消さねばと、全員使命感にもえていました。しかし猛火は「二幸」の辺りから火の子を吹きあげ、飛び散り、火の玉となり飛んで来る状況で、先生方は生徒の身を案じて決断され、男子職員が残る事となり全員水をかけた布団を被り、生徒七名は北郷、渡辺両先生に前後を守られ一列となり裏門から退避。途中、成子坂附近で振り返ると、学校の辺りに大きな紅蓮の火柱が二本見え、後髪を引かれつつ、夜明け頃、農場に辿り着き、一休み。
  
 4月13日夜半のB29による第1次山手空襲Click!では、鉄道や幹線道路、河川沿いがねらわれ、乃手Click!の物流や交通、中小の工場などにダメージを与えるのが目的だった。したがって、山手線と新宿駅周辺が爆撃されているが、同爆撃から焼け残ったエリアも数多い。第五高女は、山手線と新宿駅周辺の爆撃に巻きこまれたかたちだ。
 約1ヶ月後の、同年5月25日午後11時から翌26日未明にかけて行われた第2次山手空襲Click!では、かろうじて焼け残ったエリアを全面的に破壊する、文字どおりB29による山手住宅街への「絨毯爆撃」が行われているので、もし4月13日の空襲をまぬがれたとしても、第五高女は位置的にみて焼夷弾による炎上をまぬがれなかっただろう。
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 つづけて、空襲下における第五高女の様子を記録した、2011年(平成23)の校友誌「若竹」所収の巨勢典子『戦時下の女学生とその後の私』から引用してみよう。
  
 昭和十六年四月、希望に胸をふくらませて新宿の府立第五高女(略)に入学したが、その年の十二月八日大東亜戦争に突入した頃から次第に戦時色が濃くなり、学業のかたわら校内で行われた防空演習や救護訓練、さらに農場作業で、米の脱穀や野菜の栽培をするため、もんぺを着て、新宿から鍋屋横丁まで都電で通ったことを思い出した。/そして、三年生の夏には大日本印刷で勤労奉仕も行なった。/昭和十九年、四年生になった頃から戦局はますます厳しくなり、英語は敵国語として廃止になったばかりか、閣議決定により私達女学生も学徒挺身隊としい軍需工場に出勤することになり、私達の学年は、立川飛行機と北辰電機に直接分れて出勤することになった。私は北辰電機で、『潜水艦の羅針儀の部品の組立て』等の作業を黙々とこなしていった。/我々の学年は戦時特例により一年上の五年生の方々と同時に卒業ということになり、二十年三月下旬、一日だけ母校での卒業式が行なわれた。(略)/その頃から、B29の本土爆撃が激しくなり四月十三日の大空襲で新宿の母校は全焼。つい三週間前に卒業式が行なわれた講堂(平和館)やなつかしい教室も全焼し誠に残念だった。
  
 敗戦に向けての最後の2年間、第五高女では他校と同様に学業どころではなかった状況が伝わってくる。それでも、「敵性言語」だと規定されていた英語の授業が、かろうじて1944年(昭和19)まで行われていた学校はめずらしい。もっと早くから、特に前年の1943年(昭和18)に廃止になっている学校がほとんどだからだが、第五高女では質実剛健な校風から“学の独立”を意識した自由な校風が活きていたものだろうか。ちなみに、市民生活レベルでの英語に対する弾圧Click!は、すでに日米開戦の前後にははじまっていた。
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 第五高女では、開校から4年たった1924年(大正13)に絵はがきセットを制作している。美しいデザインの校舎や、のびのびとした広いキャンパス、そして学業にはピッタリな同校を囲む乃手の閑静な環境が自慢だったのだろう。そこでは、モダンな洋装でテニスやホッケー、ソフトボールなどのスポーツを楽しむ女学生がたくさん写っている。(冒頭写真) 戦争をはさみ、それからわずか20数年後に、新宿地域ばかりでなく東京の一大歓楽街「歌舞伎町」が誕生するとは、誰も想像だにしえなかったにちがいない。

◆写真上:1924年(大正13)に撮影された、第五高女の本校舎とグラウンド。女学生たちが、モダンな服装でさまざまなスポーツに興じている。
◆写真中上は、1924年(大正13)に撮影された第五高女の講堂「平和館」。は、同年撮影の惜別式。は、撮影時期が不明な本校舎(左)と平和館(右)。
◆写真中下は、1935年(昭和10)ごろに撮影された第五高女全景。は、1930年代後半の撮影とみられる本校舎。正面には、「堅忍持久」と「長期建設」の戦時スローガンが書かれた垂れ幕が下がっている。は、農業実習が行われた中野区富士見町の学校農場。戦災で校舎を失った第五高女は、新宿を離れて中野の同地へ移転している。
◆写真下は、1943年(昭和18)10月22日の「出陣学徒壮行会」に動員され観覧席を埋めつくした東京府立女学校の学生たち。は、1945年(昭和20)5月25日夜半に焼夷弾の絨毯爆撃を受ける第五高女キャンパスの周辺。このとき、すでに同校の校舎は4月13日夜半の空襲で焼失していた。は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる第五高女の焼け跡。すでに敷地内には、バラックの集合住宅がいくつも建設されている。

第一文化村から旧・箱根土地本社を望む。(上)

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 清水多嘉示Click!のお嬢様である青山敏子様Click!より、2枚の写真をお送りいただいた。そのうちの1枚を拝見して、わたしは松下春雄Click!のお嬢様である山本彩子・山本和男ご夫妻Click!からお送りいただいた、第一文化村Click!の前谷戸の弁天池Click!近くに立つ、松下春雄と彩子様が写る記念写真Click!や、竣工なった落合第一小学校Click!を旧・箱根土地本社の「不動園」Click!側からとらえた風景写真Click!のとき以来、思わずイスから立ち上がってしまった。そこには、第一文化村の北側に接する二間道路から、増改築がほどこされた「中央生命保険俱楽部」Click!(旧・箱根土地本社ビル)を撮影した、いまでは願っても見ることができない風景がとらえられていたからだ。
 撮影された時期は、周囲の樹木の成長のしかたや、右手に長谷川邸のあとに建てられたとみられる穂積邸の屋根が見えている点、そしてなによりも旧・箱根土地本社ビルから中央生命保険俱楽部に用途が変わって増改築が進み、同ビルが改正道路(山手通り)Click!工事で1943年(昭和18)ごろに解体された最終形の姿をしていることから、1935年(昭和10)近くではないかと思われる。この中央生命保険俱楽部の、おそらく二度以上にわたる増改築については、改めて後述したいと思う。
 手前に写るふたりの子どもたちのうち、左側の女の子は青山敏子様によれば、姉にあたる清水多嘉示の長女・睦世様のように見えるという。また、右側の子は長男の萬弘様のようでもあるし、そうでなければ訪問した下落合の知人宅の子どもではないかとのことだ。1929年(昭和4)生まれの長女・睦世様が、おそらく4~5歳ぐらいになったころの姿とみられるので、1933~1934年(昭和8~9)ごろに撮影されたのではないかとみられる。このことから、1928年(昭和3)に清水多嘉示とりん夫人が結婚したあと、4~5年がすぎたころに親子で自宅から、下落合へ散歩(ハイキング?)か知人宅へ遊びにきて撮影されたものではないだろうか。
 では、画面にとらえられた被写体について、ひとつずつ詳しく見ていこう。まず、中央に写る大きな西洋館(というかビル)が、1925年(大正14)まで箱根土地本社だったレンガ造りの建物で、そのあと中央生命保険(のち昭和生命保険に吸収)が買収し、クラブハウスとして活用していた中央生命保険俱楽部だ。親睦クラブないしはゲストハウスとして使われたせいか、宿泊部屋の増築や大きめな浴場(風呂場)の設置、暖房器具の追加など設備面でも大きな増改築が行われているとみられ、初期の箱根土地本社ビルとはかなり外観も変わっている。
 中央生命保険倶楽部から、不動園沿いに第一文化村の中枢部へと南へやや下り気味の三間道路をはさみ、右手に見えている西洋館の屋根は、第一文化村の穂積邸だ。もともと同敷地は、前谷戸の湧水源つづきの谷間だったが、1924年(大正13)に埋め立てClick!られ、第一文化村の追加分譲地として販売されている。
 同敷地の販売時、当初は長谷川邸が建てられていたとみられるが、昭和初期の金融恐慌やがて大恐慌が起きると、長谷川邸は解体されたのか(そもそも土地だけ取得して建てる余裕がなくなってしまったのか)居住期間は短く、改めて穂積邸か建設されたとみられる。昭和初期の大恐慌をはさみ、下落合に建っていた大きめな邸宅の住民に、少なからず入れ替わりがあるのは、これまで何度も記事に書いてきたとおりだ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、すでに長谷川邸ではなく穂積邸へと変わっている。
 この穂積邸敷地の北東角地には、松下春雄Click!が1925年(大正14)に描いた『下落合文化村入口』Click!に記録されているように、箱根土地が設置したとみられる第一文化村の町内掲示板、ないしは目白文化村案内板がポツンと建っていた。
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松下春雄「下落合文化村入口」1925拡大.JPG
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 そして、穂積邸の手前に接する二間道路に面した縁石脇、すなわち道路の右側には、電燈線・電力線Click!や上下水道を収容し、大谷石で覆われた共同溝らしい側溝を確認することができる。つまり、同写真の風景には電燈線・電力線をわたした電柱が、1本も存在していないことに留意していただきたい。画面の中央左寄りにとらえられた、背の低い白木のままの柱は通信線柱(電話線)だ。
 電燈線・電力線の柱が、腐食止めのクレオソートClick!を塗られた黒っぽく背の高い電柱なのに対し、通信線をわたした柱は白木のまま建てられ、電力の電柱と見分けが容易なように差別化されている。また、電話の加入者が急増する状況で、おそらく工事の手間を考えたのだろう、電燈・電力柱に比べて柱の高さを低くしている。このあたりの描写は、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!でも明確に描き分けられている。
 穂積邸の左手には、箱根土地本社の時代に敷地内へ植えられていたアカマツが、かなり大きく成長している様子がとらえられている。松下春雄の『下落合文化村入口』では、庭師の手によってまるで盆栽のように、ていねいに刈りこまれた様子をしていたけれど、中央生命保険俱楽部になってからは、そのような手入れをやめて伸び放題になってしまった様子がうかがえる。中央生命保険は、1933年(昭和8)に昭和生命保険へ吸収・解散しているので、このころには庭の手入れどころではなかっただろう。ひょっとすると、すでに同倶楽部は廃止になり、建物は無人の廃墟と化していたかもしれない。
 箱根土地本社の、正面エントランスの脇に植えられた針葉樹らしい木々も、同じ樹形を保ちながら幹がしなうほど大きくなっているのが見え、継続的な手入れがなされているようには見えない。また、画面左手に見えている木々も、松下春雄が同作の画面に描いた生垣風の風情から、並木か屋敷林のように大きく成長しているのがわかる。
 そして、左手に写る冬枯れの並木を透かして、目白文化村と落合府営住宅Click!(第二府営住宅)の境界に設置されていた、文化村派出所(交番)の小さな屋根を確認できる。松下春雄の同作によれば、文化村交番は赤い屋根をしており巡査がひとり常駐していた。同交番は空襲で焼失したあと、戦後しばらくして廃止されている。少し前にご紹介した、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287)は、この交番の手前(西側)に隣接してイーゼルをすえ、第1次増改築後?(後述)の中央生命保険俱楽部を描いているものとみられる。ひょっとすると、制作の合い間には常駐する巡査が、キャンバスをのぞきにきたかもしれない。
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第一文化村事情明細図1926.jpg
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 さて、ふたりの子どもたちが立っている地点を厳密に規定すると、第一文化村北辺の二間道路上ではなく、第二府営住宅側へ少し入りこんだ、下落合1388番地の「竹俣内科医院」の入口にあたる。同位置から、清水多嘉示は南東を向いてカメラのシャッターを切っている。現在の風景でいうと、マンション「セザール中落合」の敷地内へ少し入った位置ということになる。
 画面右手が南であり、冬季ないしは早春にみられる陽光の角度を考えると、清水親子が持参したお弁当を食べたか、どこか近くで昼食をとったあと、目白文化村を散策しながら午後1時から2時ぐらいまでの間に撮影されたものではなかろうか。清水多嘉示も、カメラを手にした松下春雄とまったく同様に、かつてイーゼルを立てて制作した描画場所を、数年後に撮影しながら散策しているのかもしれない。
 ちなみに、この付近で家から持参したお弁当を食べるには、写っている二間道路をもう少し北西(カメラをかまえた清水多嘉示の背後)へと歩き、前谷戸の湧水源にある弁天池の畔か、あるいは中央生命保険俱楽部の前庭、すなわち箱根土地本社時代からほぼそのままのかたちで残っていたとみられる、不動園の池の端が最適だろう。
 清水多嘉示は、同位置から背後をちょっと振り向いて、二間道路がつづく北西側も撮影してやしないだろうか? 竹俣内科医院(下落合1388番地)の撮影位置から、同じ二間道路をわずか40m余ほど歩いた路上(下落合1385番地あたり)は、佐伯祐三が1926年(大正15)に描いた『下落合風景』Click!の描画ポイントのひとつだからだ。
 また、その先の前谷戸へと下りる階段(ただの斜面だったかもしれない)の下、弁天池の近くでは1928年(昭和3)の当時、下落合1385番地にアトリエをかまえていた松下春雄が、長女・彩子様を抱っこしている姿が撮影されている。おそらく淑子夫人Click!がシャッターを押したのだろう、前谷戸湧水源の貴重な撮影ポイントでもあるからだ。
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佐伯祐三「下落合風景」1926.jpg
 清水多嘉示が、下落合を頻繁に訪れていたとすれば、その作品ばかりでなくアルバムに収められた写真類にも、「下落合風景」がとらえられている可能性がきわめて高い。今回は、1935年(昭和10)より少し前の第一文化村の光景だと思われるが、ほかにどのような風景がとらえられているのか、わたしとしては興味がつきない。松下春雄と同様、かつて作品を描いた場所をめぐり、シャッターを切っているのかもしれない。では、つづいて1922年(大正11)の箱根土地本社の時代から、1925年(大正14)にはじまる中央生命保険俱楽部の時代まで、この建物がどのような増改築の経緯をたどったのかを考察してみよう。
                                  <つづく>

◆写真上:清水多嘉示アルバムに収められた、第一文化村の中央生命保険俱楽部(旧・箱根土地本社)とみられる写真で、1933~1934年(昭和8~9)ごろの撮影と思われる。
◆写真中上は、同写真の拡大と被写体の特定。は、1925年(大正14)制作の松下春雄『下落合文化村入口』(部分)。は、1922年(大正11)撮影の箱根土地本社。
◆写真中下は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」(部分)。南北逆の地割図で、いまだ「長谷川」名になっている。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる同所。「長谷川」名が採取されておらず、いまだ邸は建設前と思われる。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。
◆写真下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同所。は、帰国後に制作された可能性の高い清水多嘉示『風景(仮)』(OP287)。は、清水多嘉示の撮影ポイントからわずか40mほど離れた二間道路上で、1926年(大正15)の秋以降に制作されたとみられる佐伯祐三『下落合風景』の1作。
掲載されている清水多嘉示の作品・資料は、保存・監修/青山敏子様によるものです。
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