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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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第一文化村から旧・箱根土地本社を望む。(下)

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清水多嘉示撮影ポイント.JPG
 さて、前回につづき清水多嘉示Click!のアルバムに残る、青山敏子様Click!からお送りいただいた写真Click!を検討してみよう。今回は、写真の中央にとらえられている旧・箱根土地本社ビル、すなわち1925年(大正14)より中央生命保険俱楽部として使用されていた建物がテーマだ。赤いレンガ造りの同ビルは、1922年(大正11)に竣工しているとみられるが、建設された当初の姿と、青山様からいただいた写真にとらえられた同ビルとは、かなり外観の形状が変化している。
 もちろん、同ビルの“本館”と思われる西側の建築は、原型をしっかりとどめているように見えているが、エントランスのファサードにはあとから付け足すように設けられた、新たな四角く細長い構造物(おそらくコンクリート建築)や、屋根上に増えている煙突の数、そして東側に伸びる途中で“「”字型に屈曲したウィング状の建物が、当初の箱根土地が建設した本社ビルとは、大きく異なっている点だろう。
 ただし、1922年(大正11)の竣工直後に撮影された箱根土地本社ビルと、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」に記載の同ビルのかたちからして、すでに微妙に異なっている。竣工直後の写真にはない建物の東北角のふくらみが、「目白文化村分譲地地割図」に記載された同建物には見られるのだ。したがって、同ビルの増改築(初期改装)は竣工した1922年(大正11)から、中央生命保険に売却する1925年(大正14)の3年余の間に一度、実施されているのかもしれない。
 1925年(大正14)に、箱根土地本社が国立へと移転し、同建物を中央生命保険が買収すると、さっそく改装工事が行われているとみられる。まず、1925年(大正14)制作の松下春雄Click!『下落合文化村入口』Click!と、1926年(大正15)に描かれた林武Click!『文化村風景』Click!との間には、レンガ造りの建物の赤茶色い外壁をベージュ色に塗り替える作業が行われている。そして、それと同期しているのか、あるいは少しズレた施工なのかは不明だが、東側へ向け新たな建物が増築されているようだ。
 つまり、大正期が終わった昭和初期には外壁カラーの変化とともに、本来のかたちから東側へやや長く伸びた細長い形状の建物になっていたと想定できる。箱根土地本社は、もともとオフィスビルとして建てられているので、中央生命保険が同社社員用のクラブハウスやゲストハウスの目的で使用することになると、不足している設備が多々あったとみられる。宿泊できる部屋の増設や、従来はオフィスビルとして使用されていたため、貧弱な暖房設備の不備があったかもしれない。大正期の石炭ストーブによる各室暖房から、本格的なボイラーの導入による統合的な温熱暖房を採用し、新たに煙突を設置して全館を温められる設備へと移行している可能性が高い。
 また、クラブハウスとして使用するためには、宿泊施設や娯楽施設に加え、大浴場の設置は不可欠だったろう。浴場の釜場に必要な煙突もまた、時期は不明だが設置されたにちがいない。これらの増改築のうち、どれが昭和初期までに行われた工事なのかは不明だが、建物の外壁を塗り替え、東側に建物(おそらく本館に対して宿泊用の各室)を伸長したクラブハウスの姿を、仮に第1次改装と呼ぶことにする。清水多嘉示が、帰国後ほどなく描いた『風景(仮)』(OP287)は、第1次改装を終えたあと、あるいは改装中にとらえられた中央生命保険俱楽部の姿だと想定することができる。おそらく、1930年(昭和5)より少し前の姿ではないだろうか。
箱根土地本社ビル改装図.jpg
中央生命保険クラブ(清水多嘉示).jpg
中央生命保険クラブ跡.JPG
 その後、同クラブハウスはさらに引きつづき改装工事を行っているようだ。それは、青山様からお送りいただいた写真でも判然としている。まず、北側の正門を入りエントランスから見上げる建物のファサードが、箱根土地時代から大きく変化している。まるで学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!/1928年築)のような意匠の、四角いコンクリートとみられる2階建ての増築部が目立つ。おそらく、本館部の部屋数を増やすために追加建設された部分なのだろう。
 また、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287)には見られない煙突が、おもに本館の北面に設置されている。これらの煙突が、先述した大規模な暖房や浴場を追加したための煙突かどうかは不明だが、1922年(大正11)に撮影された箱根土地本社の写真でも、また清水の『風景(仮)』(OP287)の画面でも見られない変化だ。さらに、建物の南西側にも煙突が確認できるが、これが箱根土地本社の時代からあったものか、あるいは中央生命保険俱楽部になってから設置されたものかは、いまいちハッキリしない。
 ただひとつ、第1次改装では不可解な課題も挙げられる。同改装で東へ伸びたウィング状の建物(おそらく宿泊施設)は、先端が“「”字型にクラックしているが、清水多嘉示が描いた『風景(仮)』(OP287)ではそのような形状が見られないことだ。ただし、1928年(昭和3)3月ごろに撮影された落合第一小学校Click!卒業写真(昭和2年度卒業生)Click!の背後には、“「”字型になった建物がとらえられている。清水多嘉示は、1928年(昭和3)5月に帰国しているので、2年前に撮られた写真の建物は、すでに存在していた。清水が『風景(仮)』(OP287)の画面にほどこした、省略の“構成”ないしはデフォルメだろうか。
中央生命保険クラブ1936.jpg
中央生命保険クラブ1938.jpg
中央生命保険クラブ1941.jpg
中央生命保険クラブ1944.jpg
 1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた中央生命保険俱楽部は、おそらく地上から撮影された清水多嘉示アルバムの写真にとらえられた建物と同一の姿、すなわち第2次改装を終えたあとの同クラブハウスの最終形なのだろう。同建物は、1938年(昭和13)ごろになるとすでに使われなくなり、廃屋・廃墟となっていたようだ。同年ごろ、クラブハウスの施設がどこかよそへ移転したか、1933年(昭和8)に中央生命保険自体が昭和生命保険に吸収されたため、同クラブハウスを廃止した可能性が高い。改正道路(山手通り)Click!の工事計画が発表され、同倶楽部敷地の東側が大きく道路計画にひっかかるため、別の施設への転用もなかったのだろう。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、すでに同倶楽部が採取されておらず“空き地”表現になっている。だが、1941年(昭和16)の空中写真を見ると、いまだに建物の姿を確認できる。「火保図(火災保険地図)」は、文字通り保険会社と地図制作会社の協同による住宅街地図なので、火災保険の対象とはならない廃屋や納屋、物置きなどは採取されにくいと思われる。1938年(昭和13)の時点で、中央生命保険俱楽部の建物は閉鎖され、立入禁止の囲いや立て看板(改正道路工事計画)が出ていたものか、「火保図」には採取されなかった可能性が高いように思う。
 なお、1941年(昭和16)の斜めフカンから撮影された空中写真の元・中央生命保険俱楽部には、南側の不動園になんらかの施設らしい形状が確認できる。陽当たりのいい広い芝庭か、空き地のように見えるスペースは、中央生命保険俱楽部として使われていたときに設置されていた、不動園の起伏を活用したゴルフ練習場なのかもしれない。つづいて、1944年(昭和19)撮影の空中写真を見ると、すでに同建物はすべて解体され、敷地の東側を改正道路(工事中)が貫いているのが確認できる。おそらく、改正道路(山手通り)工事の進捗からみて、1943年(昭和18)ごろに解体されているのだろう。
旧箱根土地本社の増改築経緯.jpg
穂積邸跡の一部.jpg
高円寺アトリエ?.jpg
 さて、最後に青山敏子様からお送りいただいた、もう1点の写真をご紹介したい。この情景は、青山様によれば帰国後に結婚し新居をかまえた高円寺でも、その後に転居した西荻窪のアトリエでもないし、子どもたちも清水家の長女・睦世様および長男・萬弘様ではない。友人宅を訪問した際、その家の子どもたちを撮影したものか、あるいは散策途中の住宅街で撮影したスナップ写真ではないかとのことだ。庭先には箱ブランコが置かれ、その前でふたりの子どもたちが遊んでいる。建物は、焦げ茶色をした下見板張りの外壁に、屋根はスレートかトタンで葺かれているように見える。モッコウバラかフジをはわせる園芸棚の上に見える屋根は、おそらく赤い色をしているのではないだろうか。
 尖がり屋根に、採光用の小さな窓がうがたれるなど、外観はオシャレな西洋館だと思われるが、古くから下落合にお住まいの方で、特に目白文化村を中心にして、この西洋館と庭先に見憶えのある方はおられるだろうか? そして庭で遊ぶ子どもたちは、さて誰だろう? ひょっとすると、美術関係者のお宅かもしれないのだが、「写っているのは、わたしです」あるいは「戦災で焼けた、わが家です」と判明すれば、「下落合風景」を描く清水多嘉示の証跡が、より詳しくたどれてうれしいのだが……。

◆写真上:清水多嘉示が撮影したあたりから、中央生命保険俱楽部跡の方角を向いた現状。空襲で焦土化し再開発されているエリアなので、昔日の面影はまったくない。
◆写真中上は、1922年(大正11)の箱根土地本社と増改築の想定。は、清水多嘉示アルバムの写真にとらえられた同俱楽部の拡大。は、山手通りから眺めた同俱楽部跡の現状。手前の山手通りを加え中央の消防署に左隣りのマンションとスーパー「Olympic」まで、すべてが中央生命保険俱楽部(旧・箱根土地本社)の敷地だった。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中央生命保険俱楽部で、清水多嘉示が撮影した写真と同様に建物の最終形と思われる。中上は、1938年(昭和13)の「火保図」に採取されていない同俱楽部。すでに倶楽部は廃止か移転し、取り壊し工事が前提の空きビル(廃墟)になっていたとみられる。中下は、1941年(昭和16)の斜めフカンから撮影された同ビルで解体寸前の姿だと思われる。は、1944年(昭和19)撮影の空中写真で建物は解体され、東側の改正道路(山手通り)工事がかなり進捗している。
◆写真下は、箱根土地本社から中央生命保険俱楽部へと推移する過程で発生した増改築の想定図。は、住宅の建て替えで更地になっていた下落合1340番地の穂積邸跡の一部敷地。は、どこかの知人宅の庭で撮影されたと想定できる子どもたちの写真。
掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。

この秋の『牛込柳町界隈』と『TOKYOディープ!』。

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スコットホール1919.JPG
 今日で、2004年11月24日に拙ブログをスタートしてから、ちょうど14年目に入った。先日、とある神職の方から、多種多様な物語が集まってくるのは「語ってもらいたがっている人々が、生者や死者を問わず、それだけたくさんいるからだ」……といわれた。このサイトへアクセスしているのは、生きている人間だけとは限らないのかもしれない。w あと少しで、のべ1,500万人の訪問者を超えそうだ。多彩なテーマが、各時代を通じて錯綜するようになったけれど、落合地域あるいは江戸東京地方について興味のある方は、引きつづきお付き合いいただければ幸いだ。
  
 さて、こちらでも何度かご紹介している、伊藤徹子様Click!主宰による柳町クラブ『牛込柳町界隈』Click!だが、この秋、伊藤様より本をお送りいただいた。2010年の創刊号から2017年夏のVol.28まで、四季折りおりに発行されてきた『牛込柳町界隈』の集大成版で、今回お送りいただいた本は創刊号からVol.12までの記事を改めて編集したものだ。「神楽坂から早稲田まで①」とタイトルされているとおり、2018年以降も同書籍の「神楽坂から早稲田まで②」と「同③」が続刊の予定らしい。
 序文を、建築家・建築史家で江戸東京博物館の藤森照信Click!館長が執筆し、最後に新宿歴史博物館の橋口敏男館長とともに、畏れ多いながらわたしも跋文を書かせていただいた。本書の内容は、基本的に『牛込柳町界隈』と同様だが、まとめて記事が参照できる点が愛読者にとってはたいへんありがたい。わたしは、同誌が発刊された2010年の創刊号から欠かさず拝読しているし、二度にわたり拙文を掲載していただいている。その編集方針は、わたしのサイトづくりと通い合うものが多い。
 すなわち、本書の跋文でも書かせていただいたとおり、とある地域に眠る、ふだんはあまり気にもとめられない小さな物語をドリルダウンしていくと、その地域のみのテーマに収まり切らず、はたまた江戸東京地方だけに収まるとも限らず、日本全体の歴史=日本史も跳び越えて、世界史の流れに結びつくことさえ頻繁に起きるのは、こちらでも多種多様な記事で書かせていただいたとおりだ。落合地域でいえば、第一次世界大戦やロシア革命、世界大恐慌、第二次世界大戦、そして戦災による混乱と復興への結びつきなど、もはや落合地域という「地域史」の枠組みをとうにはみ出た記述も多い。
 わたしは何度か、小川紳介監督の『ニッポン国古屋敷村』Click!を例に、この視点・視座について繰り返し書いてきた。対象となる地域が、別に山形県の古屋敷村であろうが、沖縄県の久高島Click!であろうが、東京の牛込柳町であろうが落合地域であろうが、そこに眠っている物語や語り継がれたエピソードは、およそ天文学的な数にのぼるだろう。別に、江戸東京だから物語が多いわけではない。小川紳介の手法がそうであるように、どのような地域にも各時代における膨大なエピソードや伝承、物語が眠っているにもかかわらず、「うちの地域には、とりたてて語るべき事柄がない」と錯覚しているか、それをていねいに発掘し記録する表現者が不在なだけだ。
 地下に埋没したそれらの物語を丹念に掘り起こし、その展開や拡がりをたどりながら、登場する人物たちの軌跡を追いつづけると、期せずして地域や地方の垣根をやすやすとまたぎ、古屋敷村の進軍ラッパを吹く農民がそうであったように、日中戦争のさなかの侵略先だった中国大陸へとたどり着くことになる。同様に、ひとつのケーススタディとして、下落合に住んだロシア文学者をたどると、呼びよせた亡命ロシア人の先には当然、ロシア革命という大きな世界史のうねりが存在している。
市谷加賀町住宅(幕末).JPG
市谷甲良町医院1923.JPG
小笠原伯爵邸シガールーム1927.jpg
 新宿区の東南部をカバーする地域誌『牛込柳町界隈』の視点も、まさに同じところにある。そこで語られているのは、牛込柳町とその周辺域の物語なのだが、読み進むうちに日本史や世界史の視野へとスケールアウトしていく。「わたしの町で起きたこと」は、実は決して「わたしの町だけに起きたことではない」ことに気づかされることも多い。俗に「郷土史」と呼ばれる作業は、「わたしの町のみを研究する」ことではなく、その先にあるより大きな時代の流れやうねりへ、歴史の教科書にみられる演繹的な表現とはまったく逆に、ボトムアップ的(帰納的)な視座から触れ語ることだ。
 「わたしの町」や「わたしの地域」は、単なる書き手の軸足にすぎない。ましてや「わたしの町」は多くの場合、近代以降における便宜的な行政区画にすぎず、およそ100年ほどもさかのぼれば、まったく異なる地域性や風土が見えてくることもめずらしくないだろう。ある地域を軸足にして物語をたどることで、まったく別の物語の存在や拡がりに気づくことも少なくない。
 もうひとつ、「わたしの町」や「わたしの地域」のいいところだけ、美しくてきれいで見ばえのよい物語だけ、都合よく粉飾し「地域自慢」したい点だけを取り上げても、町や地域・地方をとらえ、語り、記録したことにはならないだろう。それは、ある意味で人間について描くのとまったく同様だ。町や地域は人間の集合体であり、その歴史の美化や粉飾・歪曲は後世への教訓はおろか、ウソ臭さとともになにものをも残さないし、実のある有機的な感動を呼ばないし、新たな創造も生み出しはしない。
 さて、『牛込柳町界隈』のひとつ残念なところは、コンテンツがネット上にアップされていないことだ。2008年のVol.8まで、ページのjpgファイルはアップされているのだが、画像のままでテキストの全文検索ができない。お送りいただいた書籍により、必要なときに各巻を1冊ずつ参照することなく、まとめて目的の記事を探せるようにはなったけれど、紙メディアだけでなく既存のサイトへバックナンバーをPDF形式でアップロードしておいてさえいただければ、PDF内の全文検索はもちろん、主要な検索エンジンからのボットが内部のテキストを拾うようになるだろう。そうすれば、『牛込柳町界隈』の運用性や可能性、そしてアベイラビリティは飛躍的に向上するように思う。ぜひ、今後のテーマとして検討いただきたい点だ。
 このサイトは、どちらかといえば落合地域を軸として、新宿区の西北部のことを記事にすることが多いが、伊藤徹子様の『牛込柳町界隈』は新宿区の東南部の物語を中心に取り上げられることが多い。最近、訪れて調査・取材するエリアも新宿区の中央部あたりで重なりそうな気がするが、そのクロスオーバーする地域は尾張徳川家下屋敷Click!としても知られ、明治以降は作家や画家たちが頻繁に風景を描き、負の遺産である“軍都・新宿”Click!の象徴としての戸山ヶ原Click!界隈ではないかという予感がどこかでしている。w そんなことを空想しつつ、ちょっとドキドキ期待しながら毎号楽しみに拝読したい。
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伊藤徹子「牛込柳町界隈」2017.jpg 牛込柳町界隈Vol.28.jpg
 この秋、落合地域に関連するTVコンテンツづくりのお話もあった。NHKのBSプレミアム(BS3)で10月30日に放送された、『TOKYOディープ!』という番組だ。目白にお住まいの柴田敏子様のご紹介で、同番組のディレクターからさっそく連絡をいただいた。目白・落合地域に住んだ、華族たちの屋敷をまとめて紹介したいという案件だった。どこに誰の邸があったのか、地図上にポイントして紹介したいという。
 わたしは、これまで華族屋敷については個々別々に書いてきたし、「なぜ目白・下落合には徳川邸が集まっているのか?」というようなテーマClick!では、徳川邸をまとめてご紹介してきたけれど、同地域に住んだ華族たちを全的に捉えるという作業は従来してこなかったので、ちょっと興味をそそられてお引き受けした。
 さっそく、これまで判明し、また判明しかかっている華族屋敷を16邸ほど書いてお送りした。その過程で、下落合の宮家(皇室)邸は除外し、宮崎龍介Click!と結婚し高田町上屋敷3621番地に住んだ柳原白蓮Click!も含めず、またあちこちで伝承を聞く下落合の伊藤博文別邸は含めることにした。すると、以下のようなリストになった。
 戸田康保邸Click!(高田町雑司ヶ谷旭出41) 徳川義親邸Click!(目白町4-41) 近衛篤麿邸Click!(下落合417) 相馬孟胤邸Click!(下落合378) 近衛文麿邸Click!(下落合436) 近衛秀麿邸Click!(下落合436) 伊藤博文邸Click!(下落合334) 大島久直邸Click!(下落合775) 九条武子邸Click!(下落合753) 徳川好敏邸Click!(下落合490) 徳川義恕邸Click!(下落合705) 川村景敏邸Click!(下落合1110) 谷儀一邸Click!(下落合1210) 津軽義孝邸Click!(下落合1755)  ⑮徳川義忠邸Click!(下落合1981) 武藤信義邸Click!(下落合2073)
 おそらく、当時の華族たちがこの地域へ“隠れ家”的に建設した別荘・別邸を含めると、上掲の16邸どころの数ではないだろうとにらんでいる。
 番組では、これらの屋敷のうち目白駅に近いもののみ、つまり下落合(1965年以降の現・中落合/中井含む)の東部エリアを中心に紹介されていた。だが、明治期の近衛篤麿邸が1929年(昭和4)11月に竣工したモダンな近衛文麿邸の建築写真で紹介されたり、相馬邸が母家ではなく正門(黒門)Click!だったり、戸田康保邸も母家ではなく庭先にある大温室の写真だったり、八ヶ岳高原に現存している徳川義親邸に現在の徳川黎明会の写真が使われていたりと、ちょっと突っこみどころや残念な点は多々あるのだが、この地域の華族邸を一度期に鳥瞰するという意味からは、興味深い作業をさせていただいた。
 もうひとつ、華族の子弟たちが学生寮Click!にまとめて暮らし、ときどき徳川義親や近衛秀麿も訪れては講話会を開いていたらしい、下落合406番地の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が取材できず、番組に登場しなかったのが残念な点だろうか。
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 書籍『牛込柳町界隈』のあとがきで、わたしが女子寮を取材していて不審者とまちがえられたエピソードを紹介されているが、著者の伊藤徹子様もまた序文の藤森照信館長も同じような経験がおありだそうだ。これからも、地域の施設からは不審者とまちがえられつつ、多種多様な物語をご紹介していかれればと考えている。

◆写真上:伊藤徹子様の書籍版『牛込柳町界隈』でもグラビア付きで詳細に紹介されている、1919年(大正8)に建設されたスコットホールClick!(早稲田奉仕園)の階段。
◆写真中上は、幕末に建てられ大震災も戦災もくぐり抜けてきた市谷加賀町の武家屋敷Click!(解体)。は、市谷甲良町に残る1923年(大正12)築の医院建築。は、河田町に残る1927年(昭和2)築の小笠原長幹(伯爵)邸Click!のシガールーム(喫煙室)外壁。
◆写真中下は、1928年(昭和3)築の早稲田小学校。は、夏草がしげる戸山ヶ原(上)と陸軍軍楽学校の野外音楽堂跡(下)。下左は、書籍版の『牛込柳町界隈―神楽坂から早稲田まで①―』。下右は、『牛込柳町界隈』の最新号Vol.28。
◆写真下:NHK BSプレミアムの『東京ディープ!』オープニング()と、華族屋敷の地図()。は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図をベースにポイントした判明している華族屋敷。までの番号は、本文中の華族屋敷リストに照応している。

劉生の願いから90年後の「銀座の柳」。

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数寄屋橋.JPG
 いつだったか、岸田劉生Click!「雲虎(うんこ)」Click!にからみ、銀座の「カフェ・クモトラ」Click!の風俗画をご紹介したことがある。1927年(昭和2)5月に、東京日日新聞に掲載された随筆と挿画ともに岸田劉生の、『新古細句銀通(しんこざいく・れんがのみちすじ)』から引用したものだ。そのとき、銀座通りのカフェを「雲虎」化した挿画のほうはご紹介したが、文章のほうは木村荘八Click!が劉生について書いたものを引用したので、今回は東京日日新聞に連載していた劉生自身のエッセイのほうを引いてみたい。
 『新古細句銀座通』の“読み”は、もちろん劉生が好きだった江戸歌舞伎のタイトルをまねたシャレのめしだが、「しんこざいく」は昔からこの地方ではお馴染みの飴細工、「新粉細工」を意識したシャレだ。東京の繁華街に並ぶ屋台には、必ず新粉細工の飴屋が見世を出していて、上新粉から作るやわらかくてカラフルな飴を客の注文や希望に合わせ、いろいろな動物や花、あるいはキャラクターのかたちにしてくれる。もちろん、戦前には銀座通りにも屋台(露店)があちこちに出ていただろう。
 わたしが子どものころ、東京の寺社の縁日に出かけると必ず見かけたものだが、親は飴屋が手でこねる新粉細工は不衛生だといって、なかなか買ってくれなかった。同じく、江戸の昔からつづく金色に輝く細工ものの鼈甲飴は、わりあいすんなり買ってくれたのを憶えている。いまから考えると、新粉細工も鼈甲飴も衛生的にたいしてちがいはないと思うのだが、新粉細工は特に指先で飴を何度もこねくりまわすところが、親の気に入らない点だったのだろう。ただし、親たちは子どものころ、新粉細工を買って喜んで食べていたことが見え見えだったので、わたしとしては不満でならなかった。
 劉生が生まれた銀座(尾張町)でも、もちろん新古細工の屋台は出ていたはずで、数え切れないほど買っては口にしていたのだろう。わたしの子ども時代の銀座は、表通りに屋台が並ぶことはほとんどなくなっていたけれど、地元の出世地蔵あるいは日枝権現社Click!の縁日や祭礼には、いまだ銀座の裏通りや新道(じんみち)Click!の出入り口などに屋台が出ていたのを憶えている。中でも、わたしが気に入ったのがウグイスみくじClick!なのだが、その話はすでにここへ書いた。下落合でも、西坂にある徳川邸Click!「静観園」Click!に植えられたボタンが見ごろになり、園内が開放されると新粉細工(オシンコ屋)Click!の屋台が出ていた証言が残っている。
 さて、岸田劉生の『新古細句銀通』から少し引用してみよう。現代仮名づかいで収録された、1976年(昭和51)出版の『大東京繁盛記<下町篇>』(講談社)より。
  
 私は明治二十四年に銀座の二丁目十一番地、丁度今の服部時計店のところで生れて、鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代までそこで育って来た。だから銀座のうつりかわりは割合にずっと見て来ている訳であるが、しかし正確なことはもとよりわからない。が、「煉瓦」と呼ばれた、東京唯一の歩道時代からのいろいろのうつりかわりにはまた語るべきことも多い様である。(中略) 銀座の街路樹を何故もとの柳にしないのかと私はよく思う。今の街路樹は何ともみすぼらしくていけない。柳は落葉が汚いというかもしれないがしかし、同じ冬がれにしても、柳は誠に風情がよろしい。洋風のまちにふさわしくないと思うのかもしれないが決してふさわしくないものではない。ことに春の新芽は美しく町を一層陽気にする、夏は又緑の房が誠によく何にしても大様で柳は誠にいゝと思う。
  
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奥野ビル1932.JPG
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 最近、銀座を歩くと昔に比べて樹木が足りないのは相変わらずだが、シダレヤナギの数が劉生の時代以上に減ってしまっていることに気づく。『東京行進曲』Click!に唄われた大正期の「銀座の柳」Click!は、関東大震災Click!のあとと1964年(昭和39)の東京オリンピックや高度経済成長の時代に惜しげもなく伐られつづけ、より耐環境性や耐久性の強い、ありふれた街路樹に植えかえられてしまった。
 また、戦後の銀座の商店街が、次々と埋め立てられる堀割を見ながら、近くに水辺があってこそ映えるシダレヤナギの樹影を、新しい時代を迎え別の街路樹に変えようとしたのは、街の大気汚染による環境悪化とともに枯れる木も出はじめて、自然のなりいきだったのかもしれない。銀座とその周辺を流れていた堀割には、数寄屋橋Click!が架かる外濠をはじめ、京橋の架かる京橋川、三十間堀、八丁堀、楓堀、築地川などがあったが、そのすべてが埋め立てられてしまった。
 大震災など大きな災害時のことを考えると、乗り捨てられたクルマからの延焼や地割れ、建物の崩壊などで壊滅する道路の代わりに、避難路や水運の物流ルートを堀割に頼らざるをえなくなることが、阪神・淡路大震災や東日本大震災で見えはじめ、ようやく地元では堀割の復活を街づくりのテーマとして前面に押し出してきた。それとシンクロするように、「銀座の柳」の復活も課題のひとつとして挙げられている。実は、「銀座の柳」復活事業は前世紀末、1990年代から取り組まれてきた銀座の一大テーマだった。
 銀座を歩いてみると、銀座通りにはシダレヤナギではなくシャリンバイ(車輪梅)、銀座桜通りはサクラとアオギリ、マロニエ通りにはマロニエとアオギリ、松屋通りにはハナミズキ、晴海通りにはケヤキ、みゆき通りにはコブシとエンジュ、交詢社通りにはカエデ(?)とアオギリ、花椿通りにはツバキならぬハナミズキ、昭和通りと海岸通りにはイチョウ……などなど、てんでバラバラな街路樹が植えられている。それぞれ、通りの特色を出したかったため選ばれた街路樹なのだろうが、この雑然とした統一感のない、どこの街でも見かける(別に銀座でなくてもいい)ありふれた街路樹が、逆に銀座という街の特色を薄めているように感じるのは、わたしだけではなく地元でも同様のようだ。
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 銀座にある各通りの商店会が集まり、1919年(大正8)に結成された銀座通連合会が、銀座を訪れる顧客に対してプレゼンテーション用に作成した企画書、「銀座まちづくりヴィジョン/銀座通りに柳は必要か」から少し引用してみよう。
  
 水と緑のあるところへ行くとなぜかすっきりとし、気持ちが活き活きしますね。銀座はもともと水のまちでした。かつては海につながり、江戸時代は堀割と川に囲まれ、水路で物を運んだり、舟遊びも盛んだったのです。数寄屋橋、京橋、新橋という名前が残っていますが、橋を渡らなければ銀座に入れませんでした。多くの文学作品や歌謡曲に登場する「銀座の柳」。水辺に生える柳が銀座の名物だったことも、水のまちをしのばせます。ところが、モータリゼーションの波が押し寄せ、便利さだけが追求されるようになり、堀割は埋め立てられ、水景は消えてしまいました。私たちは、川が流れ緑で潤う銀座を取り戻して、お客さまに活き活きとまちを歩いていただきたいとの思いから堀割の復活を考えたいと思います。
  
 現在、シダレヤナギが復活あるいは新たに植えられている通りは、銀座柳通りをはじめ松屋通りの一部、外堀(外濠)通りの一部、銀座御門通りなどだが、予算が限られているのだろうから一度期にというわけにはいかないのだろう。もっとも、外濠や数寄屋橋が復活すれば、シダレヤナギは街路樹ではなく堀割を両側からはさむ「堀割樹」になるだろう。震災時の安全・安心を担保する堀割の復活ともども、これからも積極的に取り組んでほしい事業テーマだ。
 さて、根っからの(城)下町っ子である岸田劉生が『新古細句銀座通』の中で、めずらしく乃手Click!の夫婦を褒めている箇所があるので引用してみよう。
  
 今も昔も変らないのが骨董の夜店であるが、銀座の夜店の骨董に真物(ほんもの)なしといわれるまでに、イミテーション物が多いのは事実である。が、時にはいゝ掘り出しもあったとか、あるとか、私には経験はない。が、今は山の手なり郊外なりの御夫婦づれなどが、この骨董の露店の前に立ったり、しゃがんだりしているのを見ると私は何となくいゝ感じを持つ。そういう人たちの心持ちの中には美しいものがあるように感じられる。花屋の前に立ってチューリップの一鉢を買うのも可愛いが、これが安物の骨董となると一層二人の可愛らしい趣味なり心得なりが感じられるようである。
  
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 いや、乃手人はマユツバClick!とホンモノを見きわめる眼を持たないと、どこかう~んと遠まわしに揶揄している、生っ粋の(城)下町人・岸田劉生ならではの皮肉な表現だろうか? いやいや、ここはめずらしく「ざぁます」奥様大(でえ)キライの劉生が、乃手人のやさしくて「可愛い」とか「何となくいゝ感じ」、「美しいもの」とかを発見した素直な心情として解釈しておきたい。

◆写真上:数寄屋橋近くの旧・日劇前にある、ひときわ大きなシダレヤナギ。
◆写真中上は、岸田劉生の実家で父親の岸田吟香が開店した「楽善堂」(精錡水目薬)。挿画は、いずれも岸田劉生が描いたもの。は、1932年(昭和7)に竣工した奥野ビルのエレベーター。扉は木製で階数表示は指針の手動式だが、現役で稼働している。は、震災前と思われる新橋演舞場のゲート。
◆写真中下は、銀座の資生堂喫茶部。は、1911年(明治44)に開店したカフェ「ライオン」の天井。は、銀座の勧工場跡にできた常設油絵展示場。
◆写真下は、震災前は真っ赤な建物で人目をひいた天狗煙草。は、1934年(昭和9)に竣工した菅原ビルの天井。は、1930年(昭和5)竣工の米井ビル。冬枯れではないシダレヤナギの米井ビルを探したが、残念ながら撮影しそこなっているらしい。

死ぬまでに日本橋の姿が見られるか。

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 前回、岸田劉生Click!が書いた東京日日新聞の『新古細句銀通(しんこざいく・れんがのみちすじ)』を引用しながら、劉生の地元である尾張町(銀座)Click!の昔と現在について記事Click!に書いたけれど、わたしの出身地である日本橋についても少し書かないと、さっそく地元から叱られそうなので追いかけて書いてみたい。
 わたしの祖父母の時代にかかるが、ひとしきり日本橋がまったく活気をなくした時代があった。関東大震災Click!で壊滅したのは、(城)下町Click!の銀座も日本橋も同様なのだが、日本橋はより大きなダメージを受けている。それは、同大震災により日本橋にある江戸期から延々とつづいてきた日本橋市場(魚河岸/青物市場)が、外国人居留地(租界)跡の築地へと移転することが決まったからだ。魚河岸(魚市場)といえば日本橋であり、江戸東京じゅうの台所をまかなっていた一大流通拠点の築地移転は、大江戸日本橋ブランドの一角が崩れたに等しかった。
 築地への全面的な移転は、1935年(昭和10)の築地市場(東京市中央卸売市場)の開設を待ってからだが、大正末から昭和初期にかけ日本橋市場は、櫛の歯が抜けるように次々と魚問屋や魚介類の加工業者が姿を消し、それまでの活気が徐々に失われていった。人が減れば、それだけ地元の商店街もダメージを受ける。魚河岸がなくなった日本橋が、改めて商業の街として盛り返すのは1930年代の後半になってからのことだ。だが、それも1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!とその後の空襲で、日本橋人形町Click!の一画を除き、わたしの実家も含め日本橋区の全域が焦土と化して壊滅した。
 現在、築地市場の豊洲への移転が計画されているけれど、築地に改めて人々が集うようになるには、かなりの年月を必要とするだろう。日本橋の魚市場が築地に移転してから、再び日本橋がなんとか商業的に活気を取りもどすのに、およそ15年もかかっている。現代なら、もう少し再興のリードタイムは短いのかもしれないが、巨大な卸売市場が移転するということは、ひとつの街が丸ごと引っ越すのに等しい。設備と勤務する人々が転居するのではなく、そこに集っていた人々が丸ごといなくなるということだ。
 日本橋魚河岸(市場)が築地への移転を決定し、少しずつ計画を推進していた1927年(昭和2)、日本橋川沿いが徐々にさびれていく様子を記録した文章が残っている。同年の東京日日新聞に連載されていた、こちらでは角筈(新宿)の熊野十二社(じゅうにそう)の記事で登場している田山花袋Click!の『日本橋附近』だ。現代表記で読みやすい、1976年(昭和51)に出版された『大東京繁盛記<下町篇>』(講談社)から引用してみよう。
  
 それにしても魚河岸の移転がどんなにこのあたりを荒涼たるものにしてしまったろう。それは或はその荒涼という二字は、今でも賑かであるそのあたりを形容するのに余り相応しくないというものもあるかも知れないが、しかもそこにはもはやその昔の空気が巴渦を巻いていないことだけは確であった。どこにあの昔の活発さがあるだろう。またどこにあの勇ましさがあるだろう。それは食物店の屋台はある。昔のまゝの橋寄りの大きな店はある。やっぱり同じように海産物が並べられ、走りの野菜が並べられている。(中略) 江戸の真中の人達というよりも、山の手の旦那や細君が主なる得意客になっているではないか。従って盛り沢山な、奇麗な単に人の目を引くだけのものゝ様な折詰の料理がだらしなくそこらに並べられてあったりするではないか。三越が田舎者を相手にするように、こゝ等の昔の空気も全くそうした客の蹂躙するのに任せてしまっているではないか。それが私にはさびしかった。
  
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 もちろん、わたしは日本橋魚河岸など一度も見たことはないが、東京じゅうの料理屋や台所から「日本橋ブランド」がなくなった残念さは、当時の証言を集めなくてもおよそ想像がつく。「今朝、築地に上がった活きのいい魚だぜ」という表現の「築地」が、「日本橋」だった時代が実に330年間もつづいていたのだ。
 なかなか築地に移転せず、日本橋に残っていた魚問屋や加工業者たちは、「今朝、築地に上がった魚なんてえ、得体の知れねえもんは売らない」とがんばっていたのだろう。w 同様のことが、築地から豊洲への移転でも起きることは、物流の利便性や環境問題などを超えて目に見えている。事実、「今朝、築地から仕入れた魚さね」「なんだ、日本橋じゃないのかい?」という時代が、それからしばらくはつづいたのだ。
 さて、話は変わるが、わたしは子どものころ親に連れられて、あるいは学生時代は友だち連れかひとりで、わざわざ日本橋の丸善まで出かけたことがある。新宿や池袋の大型書店で、どうしても見つからない本があると、八重洲ブックセンターや丸善を探しに日本橋で下りていた。だが、学生のとき紀伊国屋でも芳林堂でも見つからない本は、もはや丸善でも見つからないことが多かったように思う。いまのように、ネットの本屋や古書店のショップを横断的に検索できないので、残るは図書館を調べるか出版元からじかに買うしか方法がなかった時代だ。
 だが、昭和初期の丸善は、学生たちにしてみれば特別な存在だった。当時の中学校以上の学生たちは、特に洋書の入手に関して丸善の存在を抜きにしては考えられなかったらしい。学生が「日本橋へいく」といえば、丸善へ寄ることを意味していた。上掲書より、再び田山花袋の文章を引用してみよう。
  
 私は昼飯の済んだあとの煙草の時間などによく出かけた。そして私はあの丸善のまだ改築されない以前の薄暗い棚の中を捜した。手や顔がほこりだらけになることをもいとわずにさがした。何ゆえなら教育書の中にフロオベルの「センチメンタル・エジュケイション」がまぐれて入っていたり、地理書の棚の中にドストエフスキーのサイベリア(シベリア)を舞台にした短編集がまじって入っていたりしたからであった。私はめずらしい新刊物の外によくそこで掘出しものをした。そしてその本を抱いてにこにこしながらもどって来た。/少くとも丸善の二階は、一番先きに新しい外国の思潮ののぞかれるところであった。(カッコ内引用者註)
  
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 親父もまた、中学時代から丸善へは頻繁に通っていたらしい。書店といえば、地元の日本橋丸善が親父の口ぐせだった。でも、同店の名物だったハヤシライスは、わたしの子ども時代を通じて一度も食べさせてくれた憶えがない。
 丸善には昔からレストラン&喫茶部が付属していたが、そこのハヤシライスが名物だった。つい先年、ようやく丸善のハヤシライスを食べる機会があったのだが、特別にうまいというほどでもなく、ふつうに美味しい程度の味わいだった。食いしん坊の親父はそれを知っていて、あえて「わざわざ日本橋で、子どもに食わせる味ではない」とパスしたものだろうか。ハヤシライスでいえば、上野精養軒のもの(林料理長による元祖といわれている)のほうがうまいと感じる。
 同じ丸善のレストランで、ハヤシライスといっしょに、ためしにパフェを注文してみた。これが、残念ながら非常にまずくて不出来だ。こんなものをパフェと称して、お客に出してはいけない。同じ通り沿いには、日本橋の千疋屋Click!や銀座の資生堂パーラーがあるのだから、それと同レベルとまでは決していわないけれど(不可能だろう)、少なくとも「まずい」と感じない、もう少しまともでちゃんとしたものを提供すべきだ。天下にとどろく、日本橋丸善の名がすたる。
 明治の末ごろ、ボロボロになった木製の日本橋を見ながら、学生たちの間で流行っていた詩が収録されている。同書より、田山花袋の記録を引用してみよう。
  
 流るゝよ、あゝ瓜の皮 / 核子、塵わら――さかみずき、
 いきふき蒸すか、靄はまた / をりをりあをき香をくゆし
 減えなづみつゝ朽ちゆきぬ。
 水際ほそりつらなみで / 泥ばみたてる橋はしら
 さては、なよべるたはれ女の / ひと目はゞかる足どりに
 きしきし嘆く橋の板。
  
 日本橋が堅牢な石造りとなり、現在の姿(19代目)になったのは日本橋に通う学生たちがこの詩を詠じていた数年後、1911年(明治43)4月のことだった。
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 最近、ようやく日本橋の上に乗っかる、ぶざまな首都高速道路の高架をとっぱらう計画が、少しずつだが国や東京都の検討会として、また日本橋再生推進協議会の手で具現化してきた。首相の「解体宣言」から、すでに丸10年Click!が経過している。親父が生きている間には無理だった、空襲で破壊された東京駅の復元と同様に、わたしが生きている間にはちょっと無理かもしれないけれど、薄っすらとした記憶でしかない日本橋の空と本来の姿を、子どもたちの世代に見せてあげたいものだ。この街の中核である19代目・日本橋と同じく、わたしの子どもたちも、この街ではちょうど19代目にあたる。

◆写真上:日本橋川から眺めた、日本橋とその上を覆うみっともない首都高速道路。
◆写真中上は、安藤広重が描く「東都名所日本橋魚市」。魚桶や野菜籠をかついだ、棒手振(ぼてふり)たちが配達や商売に江戸の街中へ散っていく。は、明治中期に撮影された木橋の粗末な日本橋(上)と人着の日本橋河岸(下)。は、江戸橋から眺めた日本橋河岸があったあたりの現状で前方に見えているのが日本橋。
◆写真中下は、1911年(明治44)4月に竣工した直後に撮影された日本橋。は、1923年(大正12)9月の関東大震災で壊滅した直後の日本橋界隈の様子(上)と日本橋河岸(下)。は、日本橋の橋下アーチから撮影した首都高速道路。
◆写真下は、人もクルマも少ない休日早朝の日本橋。は、丸善のカフェ&レストランで出されるフルーツパフェ。こんなものを日本橋のパフェと称して出していたら、丸善の名がすたるというものだ。は、首都高速道路解体後の日本橋復興構想図。

阿鼻叫喚からシエスタへの明治座。

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 子どものころ、親に連れられ観劇のためによく東京各地の劇場をめぐったけれど、もっとも多かったのは歌舞伎座と国立劇場だったろうか。もちろん芝居を観るためだが、ときに国立劇場の小劇場では文楽Click!も観た憶えがある。4代目・吉田文五郎をかろうじて目にしたか、しなかったかのギリギリの時期だ。(もちろん幼児なのでまったく記憶はない) 幼稚園のころから見せられた浄瑠璃で、わたしはすっかりガブ頭Click!にはまってしまったのだ。次いで多かった劇場が、ときどき新派や新国劇、ときに歌舞伎を上演していた、日本橋浜町の明治座Click!や銀座の新橋演舞場だった。
 中でも明治座は、東日本橋(日本橋両国)にあった戦前の実家から、南へわずか600mほどのところにある大劇場だったので、親父も子どものころから通いつづけてきた馴染みの舞台だったろう。わたしも、ときどき新派の演目がかかると連れていってもらったけれど、たいがいはつまらない「オトナの事情」を描く舞台に飽きあきして、ひたすら昼寝Click!やまどろみの時間をすごしていた。そりゃそうだろう、新派の舞台を面白く感じる子どもがいたら、そのほうが不思議だ。明治座のある地元、浜町河岸を舞台にした『明治一代女』Click!を、目を輝かせてウキウキしながら観ている子どもがいたとしたら、そのほうがよほど不気味で気持ちが悪い。
 わたしが子どものころに見た明治座は、どこかデパートのような雰囲気のある建物だった。あまり装飾もなく、面白みのない四角い建築だったが、どこか練塀を思わせる菱形の格子のような「和」のデザインが、壁面の一部に入っていたような記憶がある。どちらかといえば、明治期に建設された明治座や、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!以降に再建された明治座、そして1945年(昭和20)3月の東京大空襲Click!ののち、戦後に再建された明治座が「洋」のデザインをしていたのに比べ、1957年(昭和32)の火災から何度めかに再建された同座は、新派の芝居が「明治は遠くなりにけり」で、もはや歌舞伎と同様に日本の旧演劇=伝統芸能と感じられる時代になっていたからなのだろうか。
 明治座が設立された当時の様子と、その経緯について戦後に復刻された、東陽堂版の『新撰東京名所図会』から引用してみよう。
  
 旧幕府時代、両国広小路にありて、薦張の芝居なりき。明治五年に及びて、取払を命ぜられしより、同六年四月二十八日、久松町三十七番地へ、劇場建設の許可を得て、喜昇座と称して開場せり。同十二年六月久松座と改め、建築を改良せはゆえ、同年八月二十三日を以て大劇場の部に入る。同十三年火災に類焼し、浜町二丁目に仮小屋を造り、同十六年五月まで興行し、同年十二月二十四日元地へ建築の許可を得たるが、工事中暴風雨の為に吹倒され、十七年十二月落成して千歳座と改称し、翌年一月四日開場式を行う。当時の建物は、間口十八間、奥行二十七間の塗家なりしが、同二十二年、場中より出火して再び焼失し、遂に現今の建物を新築したるなり。その建築中一時日本橋座と改めたる事もありしが、同二十六年十一月落成して、明治座と改称せり。
  
 この中の「両国広小路」とは、いまの地名や駅名である両国のことではなく、大橋(両国橋)から日本橋側へとつづく、大江戸Click!からの火除け地であり繁華街Click!だった広小路(大通り)のことだ。この記述を見るだけでも、明治座として誕生するまでに数々の災厄に遭遇してきた劇場であるのがわかるが、災難はこれだけにとどまらなかった。
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 わたしは明治座で、花柳章太郎(没年にかかり微妙)や水谷八重子(初代)Click!、柳永二郎、伊志井寛Click!、菅原謙次、安井昌二、波野久里子などの芝居を確実に観ているはずなのだが、あまり記憶に残っていない。それほど、舞台のBGMで流される清元の細竿を子守歌に(泉鏡花の作品は特にそうだ)、よく熟睡していたからだろう。新派と聞くと、条件反射のように春先の日向ぼっこのような睡魔が襲うのだが、そのあとの“うまいもん”Click!にわたしは釣られて期待し、あまり文句もいわずに付いていったのだろう。
 明治期から戦前にかけ、日本橋浜町も含めた大川(隅田川)の両岸、いわゆる「大川端」について書かれたエッセイや小説、戯曲は数が知れないほど多いけれど、その中にも明治座はしばしば登場してくる。本所育ちの芥川龍之介Click!は、大橋(両国橋)Click!の向こう側(東側)のことをたくさん書いているが、明治座について書いていたかは記憶にない。新派の芝居と同様に、読んでいると睡眠導入剤のように睡魔が襲う泉鏡花Click!(わたしはもはや、彼の文章を粋だといって楽しむ世代ではない)も、数多くの作品が同座で上演されている関係から、どこかに詳しく書いているだろう。どちらかといえば、ハイカラで乃手のイメージが強い北原白秋Click!もまた、『大川風景』(1927年)に見られるように若いころは大川端を彷徨して文章を残している。
 明治座について、大正期から昭和初期の想い出をつづっている人物に、華族で歌人の吉井勇がいる。吉井勇の明治座体験は、より古い時代の左団次芝居であり新派のハシリといわれた川上音二郎一座の芝居だった。1927年(昭和2)夏に東京日日新聞に掲載された、吉井勇『大川端』から引用してみよう。なお、このエッセイの挿画は、わたしと同じ東日本橋(元・日本橋米沢町→旧・日本橋両国)が出自の木村荘八Click!が担当しており、1976年(昭和51)に講談社から出版された現代仮名づかいの『大東京繁盛記<下町篇>』でも、そのまま彼の絵が踏襲されている。
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 明治座というと私には、思い出される二つの芝居がある。一つは川上一座の「オセロ」で、もう一つは左団次一座の「歌舞伎物語」である。「オセロ」がこの劇場に上演せられたのは、私がまだ攻玉社中学に通っていた時分で、私はこれを観るために学校を休んで、金ボタンの七つ付いたジャケツの制服は、近所の芋平という焼芋屋で、預けてあった和服に着換えて、芝から日本橋まで駈けるように、夢中で歩いていったものなのである。田村成義翁の編まれた「続々歌舞伎年代記」で見ると、川上一座が「オセロ」をやったのは、明治三十六年とあるから、私が十八歳の時だけれど、当時は幸いにしてまだ「不良少年」という言葉はなかったらしい。
  
 おそらく、中学生ぐらいになった親父は家が近いせいもあり、吉井勇と同じようなことをして明治座に通っていた可能性がある。もっとも、親父の世代になると芝居と映画が半々になり、映画のほうは日本橋か浅草まで出ていたようだ。
  
 考えて見ると「オセロ」や「歌舞伎物語」ばかりでなく、その後の長い年月の間には、私はなお多くの忘れることの出来ない「芝居」がこゝの舞台の上で演ぜられたことを、思い出すことが出来るのである。「鳴神」や「修善寺物語」も忘れられないが、それにはまた違った意味で「婦系図」や「つや物語」に、或寂しい記憶が残っている。そしてそれと同時に私の目に浮んで来るのは、今から二十年ばかり前に見たことのある、石井柏亭君の描いた「東京十二景」という版画の中の一図である。
  
 吉井勇たちが懐かしがる時代の明治座は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災で消滅する。その後に再建された明治座は、親たちの世代が懐かしがる意匠となっていたが、当然、わたしはその姿を知らない。そして、20年余が経過した1945年(昭和20)3月10日、東京大空襲により明治座は壊滅した。しかも、火災に追われ明治座へ避難していた数百とも千人以上ともいわれる人々は、大火流の熱気で酸素を急速に奪われ、ひとり残らず劇場内で「蒸し焼き」にされて死んだ。ひどい混乱のさなか、ここで命を奪われた被害者の人数さえ、今日にいたるまでまったく不明のままだ。
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 戦後、近くにあったミツワ石鹸本社Click!三輪善太郎Click!などが中心となり、1950年(昭和25)に再興された明治座だが、1957年(昭和32)には漏電のために再び焼失している。子どものころに眺めていたのは、再建につぐ再建の4代目・明治座の建築となるのだが、新派の舞台に退屈し劇場の座席で午睡をむさぼっていた時期から、わずか20年ほど前の同じ場所では、空襲から逃げ切れなかった女性や子どもたちの阿鼻叫喚の巷だったとは、当時のわたしはいまだ知るよしもなかった。平和というのはかけがえがなく、尊くていいものだ。

◆写真上:現在の明治座正面で、1893年(明治26)の初代から数えて5代目の建物。
◆写真中上は、1900年(明治33)に撮影された祖父母の世代にはお馴染みの初代・明治座。は、1923年(大正13)撮影の関東大震災で壊滅した明治座。は、震災後に再建された明治座で親の世代がもっとも親しみを感じていた外観。
◆写真中下は、新派でよく演じられた雑司ヶ谷鬼子母神Click!を舞台とする『残菊物語』。菊之助の花柳章太郎にお徳の水谷八重子だが、わたしは菊之助が菅原謙次のバージョンで観ているはずだ。は、1914年(大正4)に制作された石井柏亭の版画「東京十二景」のうち『芳町』(部分)で、幟の見える矢印の建物が明治座。は、建物とともにリニューアルされた明治座の稲荷。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる東京大空襲で廃墟となった明治座。は、1945年(昭和20)に米軍機が撮影した東日本橋から日本橋浜町界隈。は、東京大空襲で明治座に避難して死亡した大勢の人々を弔う慰霊廟。

わたしの実家が燃えている。

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 米国の公文書館で保管・公開されている、日本に対する空襲の記録写真あるいは空襲前の偵察写真を調査し、それらの貴重な画像類を日本の研究者へ提供している組織がある。わたしも、拙サイトでは各時代にまたがる空中写真Click!のデータやプリントで、いつもお世話になっている国土地理院所管の(財)日本地図センターだ。同センターが、2015年(平成27)にまとめて発行した戦争資料に、『1945・昭和20年米軍に撮影された日本―空中写真に遺された戦争と空襲の証言―』(日本地図センター)がある。
 同資料は、マリアナ諸島のサイパン島やテニアン島が陥落すると同時に、米軍がB29による日本本土爆撃に備えて組織した空中写真部隊の任務内容や、その成果物の一部をまとめて紹介したものだ。空中写真部隊とは、戦後のGHQ占領下に新宿伊勢丹Click!の3階以上を接収して本部が置かれ、焦土と化した日本全土をくまなく撮影してまわった部隊と同一のものだ。同部隊の初任務は、1944年(昭和19)11月1日に陸軍航空隊の立川基地を撮影したものだが、このとき陸軍は19機の迎撃戦闘機を出撃させた。だが、高高度を飛行する偵察機にまったく接近できず、そのままなすすべもなく立川基地へ帰投している。
 この撮影飛行で使用された偵察機は、空中写真撮影のためだけにB29を改造し、多彩なカメラ類や膨大なフィルムを搭載した写真偵察機F13と呼ばれる機体だった。F13は、垂直写真Click!を撮影するK18カメラ(約600ミリ)とK22カメラ(約1,000ミリ)、角度30度で斜めフカン写真を撮影するトライメトロゴンカメラ(約150ミリ)など、3種類の撮影機を計6台も搭載していた。また、夜間撮影時には照明弾と同期させてシャッターが切れる、K19カメラ(約300ミリ)も装備することができた。これらの撮影用機材を積載するため、F13は爆弾をまったく搭載せず、後部の爆弾倉には航続距離を伸ばすため燃料タンクが積まれていた。
 日本本土を撮影した空中写真部隊は、「第3写真偵察戦隊(3PRS)」と呼ばれ、B29の爆撃部隊からは組織的に独立して行動している。高度9,000~10,000mで日本本土に飛来し、高射砲による対空砲火や迎撃戦闘機がまったくとどかない高度なので、上空から縦横無尽に地表を撮影してまわった。日本本土へ向け、偵察写真撮影に出動したF13偵察機はのべ450機にものぼり、撮影の成功(有効)率は71.6%、無効率は17.5%、不成功(失敗)率は10.9%と記録されている。
 撮影無効とは、撮影目標の位置がつかめずに帰投したか、撮影はしたが目標が異なっていたか、あるいは理想的な解像度を得られず目標が不鮮明だったケースだろう。また、撮影失敗は目標上空の天候に問題があって撮影できなかったか、撮影機材ないしはF13機体のトラブルだと思われる。空中写真部隊は当初、サイパン島から出撃していたが、グアム島が陥落するとただちに本部をグアムへと移転している。
 F13が写真偵察に1回出撃すると、幅9インチ(22.86cm)で長さ6,000フィート(約1.8km)のフィルムが撮影で消費され、それを現像するためには大量の水を必要とした。グアム島の米軍基地では、2基の大型給水タンクに井戸水をくみ上げて、兵士たちの生活用とラボの現像用に使用していたが、F13の機数が増え日本本土への偵察が頻繁になるにつれ、現像・プリント用の水が不足するようになった。そこで、兵士たちの真水によるシャワーは禁止され、タンクの水は優先的に現像用水へとまわされている。
 戦争末期の1945年(昭和20)7月には、ついにグアム島の水不足は危機的な状況となり、現像やプリントの作業がストップするまでに悪化している。空中写真部隊による同時期までの成果は、偵察写真のプリントが合計231,324枚、撮影したネガの現像は179,774枚に達している。これだけ膨大な量の現像・プリント作業を行えば、専用の設備を備えた写真工場でも建設しない限り、水がいくらあっても足りなかっただろう。
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 さて、空中写真部隊による偵察任務は、攻撃目標を事前に撮影して爆撃部隊に詳細な情報を提供するだけが任務ではない。戦後になって、同部隊が焦土化した日本全土をくまなく撮影しているように、爆撃後の効果測定用に攻撃した地域の空中写真を撮影するのも重要な任務だった。1945年(昭和20)3月9日の夕方17時35分(Zulu time=GMT)に、F13の偵察戦隊がグアム島を離陸して北北西に進路をとっている。そして、21時35分(同)には真北へと進路を変え、翌3月10日の午前1時17分(同)に伊豆半島上空へとさしかかった。そして、相模湾を北東方向に横断しながら、トライメトロゴンカメラで斜めフカンの写真を撮影しはじめている。
 湘南上空から撮影しはじめたのは、その位置からでも目標がハッキリと視認できたからだ。千代田城をはさみ東京の東半分が、3月の強い北西風にあおられて燃えている。八王子方面から侵入したF13偵察機は、1時30分(同)ごろに東京上空に到達した。日本時間に直すと、1945年(昭和20)3月10日の午前10時30分ごろで、東京大空襲Click!の翌朝だ。東京上空に雲はほとんどなく晴れ上がっており、F13偵察機は北西側から南南東へとカーブを描きながら飛行して、大火災が発生し焼け野原が拡がる東京の中心部を撮影している。そして、1時50分(日本時間10時50分)には房総半島沖へと抜け、そのままグアム島へと帰投している。
 東京上空から撮影した写真を見ると、いまだに東京各地で空襲による火災が燃えさかっている様子がとらえられている。大川(隅田川)西岸の日本橋では、岩本町や小伝馬町、馬喰町、東日本橋(日本橋両国)、浜町あたりに大火災が見える。また、日本橋川の向こう(南側)に見える新川一帯も延焼中で、火災は銀座や八丁堀をなめつくしたあとだ。大川の東岸、本所や深川界隈にも延焼はあちこちで見られるが、すでにほとんどのエリアが全滅の状態だ。たった一夜の東京市街地への絨毯爆撃で、死者・行方不明者10万人以上にのぼった東京大空襲Click!の惨禍が、まさに当日朝の風景として眼下に拡がっている。
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 両国橋の西詰め一帯、わたしの実家があった東日本橋(日本橋両国)あたりは、濃い煙に覆われているのが見てとれる。燃えているのは、千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)や明治座Click!浜町公園Click!の周辺一帯だ。おそらく、この空中写真が撮影される何時間か前に、わたしの実家はとうに延焼Click!しているのだろう。親父をはじめ家族たちが、まさにこの惨禍の暗闇の中をリアルタイムで人形町から日本橋川方面へと逃げまわっていたことを考えと、よく助かったものだと不思議な気分になる。わたしが、よくここに存在しているものだと……。
 この時期、千代田城をはさみ落合地域を含む東京の西北部は、一部で散発的な空襲Click!は行われていたものの、いまだ深刻な被害Click!をほとんど受けていない。だが、F13偵察機による精密な空中写真はすでに撮影されており、同年4月13日夜半の鉄道や幹線道路、軍事施設、河川沿いの大小工場をねらった第1次山手空襲Click!、そして5月25日夜半を中心とした住宅街への絨毯爆撃による第2次山手空襲Click!で、ほぼ壊滅的な被害を受けることになる。その際も、F13偵察機は空襲直前の空中写真と、爆撃効果測定用に空襲直後の写真撮影を行っている。
 わたしがここの記事でよく引用しているのは、F13偵察機が落合地域とその周辺域を撮影した1945年(昭和20)4月2日、つまり第1次山手空襲の11日前の空中写真と、同年5月17日に撮影された第2次山手空襲の8日前の偵察写真だ。これらの空中写真は、日本地図センターが作成・公開しているF13偵察機の飛行コースを整理した標定図をもとに、撮影ポイント記号を特定して入手したものだが、米国の公文書館にはまだまだ未見の貴重な写真類が保存されている可能性が高い。
 同資料内でもテーマとして指摘されているように、米軍の空襲による日本全土におよぶ被害を正確に把握するためには(たとえば被害地域の特定や戦災地図の制作ひとつとってみても)、米国の国立公文書館に眠っているこれらの空中写真を検索し、その分析・解析を通じて活用していくのは不可欠な課題だろう。
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 日本地図センターでは、これまで少しずつF13偵察機による戦時中の空中写真を公開してきているが、同偵察機の詳細な標定図をもとに撮影場所をピンポイントで特定して、空中写真のプリントやデータを申し込むのは、多少のスキルを必要とする面倒な作業だ。ぜひ、Webサイト上で空襲下に撮影されたこれらの空中写真が、すばやく効率的に参照・ダウンロード(有料でも)できる仕組みづくりを考慮していただければと願う。

◆写真上:日本上空を飛ぶF13偵察機の下を、たまたま通過して撮影されたB29爆撃機。
◆写真中上は、B29を専用の写真撮影偵察機として改造したF13偵察機。は、1945年(昭和20)3月10日午前10時10分ごろの湘南上空(上)と、10時20分すぎに撮影された八王子上空(下)。は、10時35分ごろに撮影された炎上する東京市街地。
◆写真中下は、昭和初期の震災復興記念絵葉書(人着写真)にみる両国橋近くの日本橋地域。は、炎上中または延焼直後の実家を含む東日本橋一帯。
◆写真下は、3月10日午前の偵察写真にとらえられた落合地域と周辺域。下左は、2015年(平成27)に日本地図センターから刊行された『1945・昭和20年 米軍に撮影された日本』。下右は、米国のワシントンにある国立公文書館本館。

消えた柳橋芸者の一代記。

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 このブログをはじめたころ、「柳橋物語」シリーズClick!というのを連載していたことがある。大江戸(おえど)Click!の時代からつづく花柳界の柳橋だが、戦前の親父の想い出などを織りまぜながら、戦災で壊滅したあと戦後に料亭街Click!が復興し、やがて高度経済成長で大川(隅田川)や神田川の汚濁とともに滅んでいった様子を概観したものだ。
 神田川をはさみ、東日本橋に家があった親父は、近くの千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)へ通っていた。その小学生時代の同級生に、柳橋の芸者になった女子がいたこともご紹介している。三味Click!や踊り、長唄などの稽古事がことさら好きだったのか、よほど芸事にのめりこんでいたものか、ついに柳橋の芸者になり看板を張るまでになったようだ。ちなみに、三味や踊り、長唄などは女性の一般教養であり、別に芸者になるために習うわけではない。これは男子もまったく同様で、できないと江戸東京人としてはお話にならなかったので、親父は三味に清元などを習わされていた。
 花柳界は、どこか相撲の世界に似ているだろうか。いや、この言い方はまったく逆で、角界が花柳界や梨園(歌舞伎界)を模倣しているということだろう。柳橋で看板を張るということは、角界でいえば大関(江戸期に横綱は存在しない)になるということだ。当時は、あまた存在した江戸東京の花柳界で、柳橋は日本橋と並んでもっとも歴史が古く、特別な存在だった。くだんの千代田小学校の女の子も、よほど精進して勉強をつづけ、芸事に磨きをかけつづけたのだろう。
 戦前の芸者は、とにかく芸事が好きで勉強熱心でないとつとまらなかった。芸がヘタで趣味や教養が高くなければ、すぐさまお客に見透かされて贔屓が付かないからだ。そう語るのは、上野黒門町や同朋町界隈で修業を積み、ついには柳橋の看板芸者にまで上りつめた榎本佳枝だ。彼女の故郷は神田だが、親の仕事の都合で幼少のころは神戸に住み、のちに黒門町に住んでいた伯父を頼って芸者見習いになっている。彼女の半玉名は「竹千代」、柳橋に出たときの芸者名は「若水あい子」、のちに榎本健一(エノケン)の夫人になる女性だ。
 彼女は、三度のご飯よりも芝居や芸事が好きだった。三味や踊り、長唄などを5歳のころから習いはじめ、同朋町の「月松葉」という芸者屋へ養女に入っている。その一流になるための修業は、今日では考えられないほど厳しいものだったようだ。その様子を、1991年(平成3)に台東区下町風俗資料館から出版された、『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』第6巻から引用してみよう。
  
 あたしは芸事が好きで、もう五歳ごろからやっていたものですから、あまり苦労はしなくて済みました。/長唄は杵屋栄蔵さんに習ったんですが、この方は日本邦楽校の校長をしていた方です。踊りは若柳喜芳さんでした。女のお師匠さんで、いまの喜芳さんは息子さんです。数寄屋町の方は花柳流なんです。大体花柳界には必ず二つの派が入ってましたね。柳橋ですと若柳流と藤間流でしたね。新橋でも西川流と花柳流という様でした。/ただね、踊りのけいこは吉芳さんておっしょさんはすごくやかましかったですね。吉芳さんの所へは役者衆がみんなおけいこに来ているんです。けいこ場では一方にはずっと役者衆が並ぶんです。こっち側には花柳界の芸者衆が並ぶんです。あたしたちはまだ子供でしょう。それでも厳しくてね。
  
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 当時、下谷(上野)界隈の花柳界は、同朋町と数寄屋町に分かれていたそうだ。黒門小学校を卒業した榎本佳枝は、同朋町側の花柳界にいたことになる。ただし、見番は両町とも同じだったというから、特に座敷のエリア的な区別はなかったのだろう。彼女はそこで、13歳で“おしゃく”(座敷に出る資格試験に合格すること)になり、15歳で半玉の芸者見習いになっている。
 不忍池界隈の料亭に出入りするのは、学生たちがけっこう多かったようだ。東大や早大、東京美術学校などの学生たちだが、近くの美校生がいちばん多かったという。また、画家や彫刻家もよく通ってきて、彼女は中でも横山大観とは親しくなったらしく、座敷で絵を描いてもらっている。
 ちなみに、3ヶ月に一度実施される“おしゃく”試験は非常に厳しく、ここで優れた芸者の才能がない者は容赦なくふるい落とされた。花柳界の大幹部が居並ぶ中で、さまざまな芸を披露して合格しなければ、決して座敷には出られなかった。彼女は13歳で合格しているが、年齢制限もあって15歳にならなければ半玉(見習い)として扱われない。彼女は芸者屋の養女なので、別に年季や借金もなく精神的に安定していたせいか、多種多様な芸事に打ちこむことができ、幼くても試験に合格できたのだろう。
 ところが、榎本佳枝が所属する「月松葉」へ主人と血縁のある養女が入り、血のつながりがない彼女は居づらくなってしまう。そこで一大決心をして、花柳界のてっぺんである柳橋へ挑戦することにした。そのときの様子を、再び引用してみよう。
  
 どうせ出るなら柳橋がいいと思って、出入りの桂庵(口入屋)に頼んでこっそり柳橋へ連れて行ってもらったんです。「菊増田」さんていう家だったんです。そしたらここがね、新派の河合武雄さんの二号さんの家だったんです。(中略) このご夫婦が一緒に見えましてね、そこで私の三味線などを聞いてくれました時に奥さんが「あんた、背が高しい、芸も出来てるし、もうおしゃくさんでもないから一本さんで出なさい。あたし、気に入ったから、あたしが旦那になってあげる」っていうんです。(中略) 養育費として当時のお金で八百円位出してもらったんですよね。(カッコ内引用者註)
  
 芸は身を助けるというけれど、彼女の場合はよほど幸運なケースだろう。「若水あい子」の名で柳橋に出たのが1931年(昭和6)ごろで15歳、1936年(昭和11)には若干20歳で「分菊増田」という自前の看板を持っているから、よほど才能に恵まれて贔屓の客が多かったにちがいない。
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 このころ、彼女の名は広く知られるようになり、ポスターのモデルや映画の出演に追われるようになる。特に、日本へ初めて輸入された「ブラジル珈琲」のポスターでは、彼女が洋髪でコーヒーを入れている姿が撮影され、東京じゅうの喫茶店に貼りだされて一世を風靡した。また、輸入された外車のモデルや、外国へ日本を紹介する観光誘致映画などにも頻繁に登場しているようだ。当時、絵画のモデルClick!やデパートのショーモデルClick!は存在したが、広告のスチールモデルなど存在しない時代なので、柳橋で名高い彼女はひっぱりだこだったらしい。
 榎本健一(エノケン)との出会いも、そんな柳橋時代だった。だが、世の中では軍靴の音が少しずつ高まり、戦争の破滅へ向けてまっしぐらに転げ落ちていく時代だった。花柳界にも、金糸の入った着物を着てはいけないとか、髪は島田に結ってはいけないとか、おかしな禁止令が次々と押しつけられた。彼女は、「それじゃカフェーの女給と同じだてんで、あたしは座敷へ出るのをやめちゃったんですよ」と書いている。榎本佳枝が24歳になった、1940年(昭和15)ごろのことだ。
 エノケンに、「女の人は、お嫁に行った方がいいよ」と勧められ、最初は慶大卒の会社員と結婚して田園調布に住んだ。でも、すぐに徴兵で夫を戦争にとられ、1946年(昭和21)にようやく復員してきたが、ほどなく浮気から外に子どもをつくられ、結局、自分から愛想をつかし家を出て離婚した。そして、再び柳橋で芸者として生きることになるのだが、その後、あれやこれやといろんなことがあって、1964年(昭和39)にようやく榎本健一と結婚している。
 一度、柳橋に腰をすえて住みつくと、なかなか離れがたくなっていく心情を、新派の花柳章太郎Click!がうまい文章で表現している。1953年(昭和28)に東峰書房から出版された、互笑会・編の『柳橋界隈』から引用してみよう。
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 明治座が復活してから、私は柳ばしの住居から、十五分で楽屋に這入れます。/その往き来の、大川端の水の色は下町に居る余徳と申しませうか…朝夕、すみだ川のたたずみを眺めて居ることは、こよなく楽しく、倖せを感じ、春は、芽ざした柳の枝をくぐり、夏は湯上りの肌に滑らかな涼を与へ、秋は潮満ちる月の波映、冬は霜に都鳥の翼の光り。/夜とは云はず、昼のあからさまな景色、東京に住む果報をつくづく感じるのであります。/戦争中、ふるさとの在る友達はそれぞれその故郷に身を寄せたのでありますが、かたくなな東京者気質は、如何にしても東京の影から去ることは出来ませんでした。/それの、おほかたは、此隅田川の魅力から逃がれられない為と謂へませう……。
  
 仕事Click!の都合で湘南Click!に一時期暮らした親父も、また同じ気持ちだったろう。

◆写真上:1929年(昭和4)に竣工した、神田川の出口に架かるいまの柳橋。
◆写真中上は、明治末に撮影された柳橋で右手に見えているのは料亭「亀清楼」。は、柳橋から見た大川に架かる大橋(両国橋)。は、柳橋の芸者たちに信仰された石塚稲荷社。玉垣には、芸者や芸者屋の名前がズラリと並ぶ。
◆写真中下は、江戸期の撮影とみられる本所百本杭側から見た対岸の柳橋界隈。は、同じく江戸期に柳橋から撮影された浅草見附(御門)=浅草橋。は、1933年(昭和8)に制作された「ブラジル珈琲」のポスターに出演する「若水あい子」=榎本佳枝。
◆写真下は、大川端の料亭「柳水」の座敷から眺めた本所の風景。向かいに見えているのは、本所国技館(回向院境内)のドーム。は、榎本健一(エノケン)と佳枝夫人。下左は、1991年(平成3)出版の『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和』第6巻(台東区下町風俗資料館)。下右は、1353年(昭和28)出版の互笑会・編『柳橋界隈』(東峰書房)。タイトルは背表紙だけで、表紙はおそらく絽紬の柄のみという粋で凝った装丁だ。

『忠臣蔵』と『吉良きらきら』の間に。

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 先日、三田にある亀塚古墳Click!を再訪して、公園内で発見された縄文時代の貝塚や、華頂宮邸Click!跡などを散策してきた。亀塚古墳は、江戸期には土岐美濃守の下屋敷にされていたため、庭園の築山に利用されて運よく保存された古墳だ。明治以降は華頂宮邸になっていたが、やはり庭の築山として残されたのか破壊をまぬがれている。残滓の墳丘は、いまでは円墳状をしているけれど、精密調査が行われれば東京の多くの古墳がそうであったように、前方部と墳頂をあらかた削られた前方後円墳かもしれない。
 現在は、華頂宮邸の外塀のみが保存されているが、敷地からは縄文期の貝塚が発見され、海に面した同丘の南東斜面は縄文期からおよそ現代まで、人が住みつづけていることになる。たまたま大名屋敷の敷地に指定されたため、庭の築山に利用されて残った古墳には、水戸徳川家上屋敷の庭だった後楽園古墳や、昭和初期には消滅してしまった松平摂津守下屋敷の庭園(現・新宿駅西口一帯)に残され、通称「津ノ森山」と呼ばれていた巨大な新宿角筈古墳(仮)Click!などが挙げられる。
 三田の亀塚公園を散策したついでに、子どものころ親に連れられ一度立ち寄った憶えのある、懐かしい高輪の泉岳寺を訪れてみた。ちょうど、山手線の新駅(地名からいえば「高輪駅」?)が予定されているあたりは、小学生のころに見た風景から激変し、ビル状のマンション街に変わっていた。当の泉岳寺の境内も、記憶とはまるで一致しない風情になっている。変わらないのは、山門右手の芝居に登場する大星由良助をモデルにしたような大石内蔵助像のみだった。赤穂浪士の墓も、やたら明るい墓地に変わっており、木立の中、木漏れ日を受けて苔むした墓石がひっそりと並ぶ雰囲気はどこかへ消し飛び、まるで陽当たりのいい石畳を敷いた公園の一画のような環境になっている。
 樹間のジメついた土の道や、江戸期の風化した石段を上った墓参道はなくなり、境内からグリーンベルトのある明るい“道路”を抜けると、突き当たりの右手が四十七士(実際は46名)の墓どころとなっていた。周囲にも、記憶にない新しい建物(資料館など)が建っていて、同寺の重要な観光資源だからなのか、少なからず経費をかけて整備したものだろう。上落合の西隣り、上高田の功運寺Click!にある吉良上野介義央Click!と殺された家臣38名の、苔むす宝篋印塔の墓石がひっそりとした佇まいで並ぶのとは、まさに対照的な風情だ。
 このブログをはじめたころに一度書いた憶えがあるけれど、赤穂浪士の物語『仮名手本忠臣蔵』Click!ほど事実と芝居(本来は浄瑠璃)とでは、まったく異なる“筋書き”もめずらしい。目白駅もほど近い雑司ヶ谷は四ッ家(谷)Click!を舞台にした、「東海道四谷怪談(あづまかいどうよつやかいだん)」と同様に、およそ事実から乖離していると思われる芝居だ。大坂(阪)の浄瑠璃作者である竹田出雲Click!たちが、事件からはるか46年後に、それを目撃した当時の人々(その多くはすでに鬼籍入りしていただろう)や、事件後の江戸市民たちの様子についてまったく調査することなく、ましてや当時の江戸の“現場”を一度も訪れて取材することもなく、すべて空想で描いた架空の物語となっている。
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 1702年(元禄15)12月14日の夜半、赤穂浪士たちに襲われた吉良邸は大橋(両国橋)Click!をわたってすぐの本所松坂町にあったのだが、それ以前に1701年(元禄14)3月14日、千代田城内で吉良義央が斬りつけられた事件を知って激怒したのは、赤穂藩の江戸屋敷に詰めていた家臣たちでもなければ、呉服橋の吉良邸にいた家臣たちでもなく、そこいらに住んでいた江戸市民たちだった。特に吉良家の屋敷周辺(当時の吉良邸は本所ではなく呉服橋にあった)に住み、ふだんから吉良家による施薬や抱え医者の派遣による病人の治療で、世話になっていた街中の一般市民たちだ。
 また、屋敷に招かれて歌会に参加していた町人や、屋敷内の稲荷へ自由な出入りを許されていた庶民たちも、ざっくばらんで話のわかる町人には優しい“吉良の殿様”が、わけのわからぬキレやすい若造の大名に傷つけられたことを聞いて、にわかにアタマにきたものだろうか。では、町奉行所文書(もんじょ)=旧幕府引継書(町方書上を含む)に記録された市中の様子を、親父からの受け売りだがちょっとのぞいてみよう。
 その前に少し余談だが、子どものころ親父と明治座Click!か実家があった東日本橋界隈を歩くと、大橋をわたって必ず立ち寄っていたのが回向院と吉良邸跡、勝海舟実家跡、そしてときに豊田屋さんClick!(ももんじ屋)だった。本所松坂町の吉良邸跡は、当時からなまこ塀に囲まれたせせこましい史蹟だったが、今日ほど吉良義央の業績や福祉的な施策については敷地内で顕彰されていなかった。いまだ、大坂(阪)由来の赤穂事件=「忠臣蔵」が、芝居や講談、時代劇のストーリーのまま信じられていた時代だったのだろう。あろうことか、明治の薩長政府は中国や朝鮮半島の儒教思想を浸透させるため、同事件をことさら美化し「忠君愛国」の「道徳」教育へ利用しようとさえしている。
  
 かの鮒といふ奴は、わづか三尺か四尺の井の中を、天にも地にもないと心得、ある日井戸替の折、釣瓶にかゝつて上るを、可愛さうぢやによつて大川へはなしてやると、サア鮒めが、小さなところから大きなところへ出たによつて、嬉しまぎれに途を失ひ、あつちへひよろひよろ、こつちへふらふらして、ついには橋杭へ鼻ツ柱をぶつけて、ピリピリピリと死にまする。お点前が丁度その鮒だ。あんな小さな屋敷からこのやうな広い所に来たによつて途を失ひ、判官が詰所は何でござる、手前が詰所はどれでござると、あつちへまごまご、こつちへうろうろ、とゞの仕舞は、お廊下の柱へ頭を打附けて、ピリピリピリと死にまする。イヤコリヤ、どうやら判官が鮒に似て参つた。(三段目/殿中松ノ廊下ノ場)
  
 ……などという、高師直のセリフが「忠臣蔵」の舞台で語られるたびに(もちろんすべてウソ八百だ)、観客は吉良義央をイメージして憎しみを募らせたのだろう。
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 さて、築地の浅野家上屋敷には、夕刻が近づくにつれ激怒した江戸市民たちが大勢集まりはじめた。その中には、呉服橋の吉良邸周辺に住む町人たちばかりでなく、吉良家の配慮に恩義や義理を感じていた庶民たちも少なからず混じっていただろう。江戸市民の浅野邸への“討ち入り”は、日没とともにはじまった。町奉行所の記録では、夜間に起きた騒乱のため取り締まれなかったとしているようだが、日暮れ前から大勢集まりはじめた群衆を奉行所が知らないはずはない。奉行所に勤める御家人屋敷が多かった八丁堀Click!とは、わずか800mほどしか離れていない、目と鼻の先の出来事だ。
 おそらく、町奉行所では事態を把握していたのだろうが、浅野家上屋敷を包囲する激高した町人たちの数が多すぎたため、まったく手出しができなかったのが実情だったのではないだろうか。江戸後期とは異なり、町木戸は設置されはじめてはいたが、木戸番はそれほど普及してはおらず、当時はいまだ厳密な町々の往来管理は行われていない。
 浅野家上屋敷の正門を打(ぶ)ち破って、町人たちが次々と邸内へなだれこみ各部屋へ“討ち入る”ころには、千人規模になっていたのかもしれない。この間、浅野内匠頭夫人をはじめ上屋敷に残っていた赤穂藩の家臣たちは、姻戚の屋敷や近くの寺々へ逃げ散っている。浅野家の人々を傷つけず、そのまま上屋敷の裏門から見逃し、屋敷内のみを打(ぶ)ちこわした手並みには、どこか計画性さえ感じられる。打(ぶ)ちこわしは夜明けまでつづき、邸内の家具調度はほとんどが破壊しつくされた。夜が明け、町奉行所の役人たちが員数をそろえて駆けつけたころには、事件現場に人っ子ひとり残ってはおらず、浅野家上屋敷はひどい有様になっていたようだ。
 浅野邸へ“討ち入り”した町人たちは、千代田城内で起きた刃傷事件をどのような認識でとらえ、にわかに激高して行動したものだろうか? 日ごろから受けていた、武家や町人に分け隔てなく親切な吉良家への恩義や義理立てだけで、町奉行所も手をつけかねるほど大勢の町人たちが集まり、5万石の小藩だった赤穂藩とはいえ、大名屋敷を破壊するほどの怒りが爆発するものだろうか。
 そこには、市中を徘徊し横暴をきわめた不良の若侍たち(いわゆる傾奇者=歌舞伎者)に対する怒りや反感を、こらえ性がなくワガママに育てられたであろう、未熟でキレやすい浅野長矩に重ね合わせた人々も多かったのではないか。あるいは、5代将軍・徳川綱吉と幕府に対する反感、特に生類憐みの令をはじめとする愚劣な行政に、日ごろから鬱積していた不平不満が一気に爆発したのではなかっただろうか。
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 先年、ステージアートグループKASSAYによる舞台『吉良きらきら』を観てきた。すべてが彼岸の物語なのだが、もっと細かく若者の心情に気を配ってあげればよかったと、妻・富子(ご近所の白石玉江さんClick!役)へ悔やむ吉良義央のもとへ、お城勤めに対するきびしい教えを若輩のための教育ととらず、浅はかにも一方的にキレて刃傷におよび、その後、吉良家側から幕府への「乱心」(精神錯乱による責任免除)申し立ての配慮も理解できぬまま実に申しわけなかったと、浅野長矩が深く詫びにくる筋書きだ。おそらく、千代田城内で起きた事実は、こちらのほうががぜんリアリティが高いように思われる。観光コースにもなっている高輪の泉岳寺ではなく、わたしが落合地域を散歩がてら、お隣りの功運寺にある吉良家墓所へたまに立ち寄るのは、別にヘソ曲がりだからではない。

◆写真上:久しぶりに訪れた高輪の泉岳寺だが、想像していたほど人はいなかった。
◆写真中上は、三田の高台にある亀塚古墳。土岐家の築山にされたため、墳丘にはかなり加工がされていると思われる。なお、亀塚古墳は田園調布や狛江に展開する古墳群と同名でまぎらわしい。は、水平に切り取られた墳頂で、江戸期には周囲を見わたす四阿でも設置されていたものか。は、同古墳に隣接する亀塚公園貝塚の出土状況。
◆写真中下は、泉岳寺にある公園のように整備された赤穂浪士の墓所。中上は、自刃(じじん)=切腹したため「刃」の戒名が並ぶ46浪士の墓石群。中下は、上高田の功運寺に眠る吉良義央と殺害された38名の家臣たちの墓。は、本所松坂町(現・両国3丁目)にある吉良家上屋敷跡の記念公園。
◆写真下は、1950年代に撮影された山門右手の大石内蔵助像で、芝居の大星由良助の出で立ちのまま制作されている。背景に見えるのは、高輪中学校の旧校舎。中上は、7代目・市川中車が演じる『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助。現在の9代目・市川中車(香川照之)が演じるとすれば、大星由良助ではなく高師直のほうだろう。中下は、赤穂浪士とその支援者たちが集合した本所松坂町の吉良家上屋敷の正門跡。下左は、ステージアートグループKASSAY『吉良きらきら』のリーフレット。下右は、上記公園の吉良義央像。

青山墓地に隣接する南青山古墳(仮)。

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 いまから約1400~1700年前に築造された古墳域が、その後、さまざまな禁忌的あるいは怪異的なフォークロア(伝承・説話・怪談・奇譚)などとともに残り、農地にも開墾されず、あるいは宅地にも造成されず、大正期ごろになってようやくディベロッパーによる新興住宅地として開発されているケースを、これまで東京各地の事例として記述してきた。また、そのようなエリアが寺社の境内Click!(待乳山聖天Click!神田明神元社=大手町将門首塚Click!芝増上寺Click!氷川明神社Click!など都内無数)や墓地(品川大明神社Click!南面など)、あるいは公園・庭園などの公共施設Click!(上野摺鉢山古墳Click!など)にされているケースも、いくつかご紹介している。
 今回は、明治以降に大規模な墓地や脳病院(精神病院)など、市街地ではなかなか建設がむずかしかった施設が造られていたが、現在では最先端のファッション街として東京のオシャレな街を代表する地域に変貌している、青山について書いてみたい。大規模な墓地とは、もちろん東京府が運営していた青山墓地Click!(現・都立青山霊園)であり、脳病院とは斎藤茂吉Click!北杜夫Click!の『楡家の人々』でお馴染みの、青山南町5丁目(現・南青山4丁目)にあった「青山脳病院」のことだ。
 東京府は明治の初期、江戸期には美濃郡上藩(4万8千石)の青山大膳亮幸哉下屋敷跡へ、なぜ大規模な墓地開発を行ったのだろうか? その理由として、従来からその一部が墓域として使用されていたらしい同エリアを、東京市内の墓地不足を解消するため1874年(明治7)に東京府の管理がスタートして、大規模な公共墓地としての拡張工事が行われたからだ……というような、お役所が公式に発表するような記述ではない理由が気になる。「なぜ墓域に、ことさら青山のこの地が選ばれているのか?」という、より本質的な理由についてだ。
 同様に、市街地では反対が多くて建てられなかった斎藤家の脳病院が、なぜ青山南町5丁目の高台から谷間にかけての広大な敷地に、大規模な病棟の建設が可能だったのかというテーマにも連結してくる。表面的な公式の記録では語られない、なんらかの禁忌的な伝承や人が居住したり立ち入るのをためらわせるようないわれが、江戸期からの地元住民の間で語られてきているのではないか?……というのが、青山地域に注目したわたしの問題意識であり仮説の立ち位置だ。
 だが、江戸期から語り継がれてきたフォークロアや伝承・伝説・説話のたぐいを、港区(青山南町は旧・赤坂区)はまったく採集していない。また、同地域に寺々が集合した経緯も、ほとんど記録されていない。同区の教育委員会が発行する紀要も調べてみたが、その多くが近世(江戸期)から近代(明治以降)の遺跡・遺物・事件がテーマであり、地域に根ざす古くからのフォークロアについてはあまり取り上げられていないようだ。
 わたしが、なぜ青山地域に着目したのかというと、いつものように焦土化して地表が露出する、敗戦直後に撮影された東京各地の空中写真を眺めているとき、明らかに人工構造物としか思えないフォルムを、青山墓地の西側に見つけたからだ。そのフォルムは、斎藤家の広い青山脳病院敷地の東北側に位置していて、明治期にはちょうど青山墓地と青山脳病院にはさまれたエリアに相当する。
 地形が、まるで水滴が垂れ下がったような円形をしており、その一部はあたかも弥生式土器の首のようにすぼまり、すぐに壺の広口のように外側へ向けて急角度で開いていく形状をしている。このかたちは、前方後円墳Click!というよりも帆立貝式古墳(おもに古墳後期に見られる簡略型前方後円墳)を想起させる形状だ。
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 さっそく、江戸期の切絵図や図書からたどり調べてみると、まわりを谷間(壕あるいは濠?)に囲まれたサークル状の台地上は、古くから旗本の屋敷街として開発されていることが判明した。家作からみて、おそらく数百石取りの旗本が集合して住んでいたとみられるが、台地上の西側には陸奥二本松藩(十万石)の丹羽左京大夫の隠居屋敷が建設されている。そして、『御府内往還其外沿革図書』によれば、「コノ辺青山長者丸ト云」という書きこみが見える。「長者丸」とは、上大崎(池田山界隈)の森ヶ崎古墳(仮)Click!上大崎今里古墳(仮)Click!の周辺でも語り継がれてきた特徴的な名称(地名)であり由来だが、近くに巨大な古墳とみられる人工構造物があるのも、共通していてたいへん興味深い。「長者丸」という地名の伝承から、はたしてどのような物語やエピソードが見えてくるのか、今後の課題のひとつとして留意してみたい。ひょっとすると、落合地域の南西に拡がる「中野長者」伝説と同様に、なにか不吉な要素を含んだフォークロアかもしれない。そして、そこに共通するキーワードは「橋」だ。
 さて、青山南町の大きなサークル状のフォルムは、その軸が東南から西北を向いており、その全長は400m余と巨大なものだ。だが、このフォルムが帆立貝式古墳だとすると、古墳規模はもう少し小さかったにちがいない。なぜなら、江戸期に墳丘が水平に削られ、その土砂を周囲の谷(濠)側へ放射状に落とし、屋敷地を水平に広げる土木普請が行われているように見えるからだ。ちょうど、神田山Click!を崩した土砂を江戸湾埋め立てに使い、さらに余剰土砂と外濠(神田川)を掘削した土砂とで、周辺の起伏をなだらかな傾斜地(駿河台)に造成した大普請に似ている。そのような土地を外側へ拡張する工事を前提にしても、帆立貝式古墳だったとすれば墳長はおそらく300m前後になるだろうか。
 周囲の谷間は、江戸期には小川が円形に流れ、その両岸が原宿村の農地として開墾されていた。当時の円形に流れる小川は、それぞれ壺の広口の先にあたる部分を湧水源にしているようだが、この泉が土地をV字型の堀状に掘削したために湧いた水なのか、それとも帆立貝式古墳にみえる形状が造られた当初から湧き出ており、その流水をうまく利用して周濠をめぐらしていたものかは、いまとなっては経緯をたどれずに不明だ。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」によれば、谷間には戦前まで湧き水を利用した細長い養魚池が存在している。そして、谷底にはおそらく大正期に細い道路が敷設され、いまでは墳丘とみられる円形をした台地の外周域を、そのまま円形状にたどることができる。また、丘上に上るにはあちこちに設置されたバッケ(崖地)Click!階段や、急坂を上らなければならない。現在では、谷底を流れていた小川はすっかり暗渠化され、円形道路の下を流れているようだ。さっそく、青山脳病院が建てられていた南側から現地に入り、谷間や台地上の地形を詳細に歩いてみた。
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 南青山のサークルはほぼ正円形をしているが、地図や空中写真で眺めていた印象とは異なり、実際に歩いてみると予想以上に大きい。谷底や斜面には、かなり早くから集合住宅の開発が進んでいるようだが、丘上は大きな家々が建ち並んでいる。まるで水滴(雫)のような形状の谷間をたどると、壺の広口の手前ですぼまった部分を横断するように道路が造成されている。ちょうど谷をふさぐように土手が築かれ、その上に三間道路を通しているが、この工事は江戸期ではなく明治期に整備されたものだ。
 丘上(通称:長者丸通り)を歩いてみると、サークルの中心点がおおよそわかる。江戸期の切絵図でいえば佐藤喜内屋敷あたり、1938年(昭和13)作成の「火保図」でいえば元田邸から富田邸あたりに円形が尾を引くように等高線が描かれている。いまの住宅街でいえば、青南マンションのあたり一帯だ。現在では、ブルドーザーですっかり整地されたあとなので、戦前の地形図にみられたふくらみは消滅しているが、ちょうど後円部の中心にあたる地点だ。ここを中核にして、四方に向け放射状に後円部の墳丘土砂を崩して水平の土地を拡張し、周囲の谷間(壕・濠)を埋めていった普請の様子がうかがえる。そして、谷間から見上げる斜面には、次々と急坂やバッケ(崖地)階段が設置されていった。
 前方部の西側に刻まれた、古墳とみられる膨らみに沿った谷間に通う道は、江戸期には青山百人町へと斜めに抜けられたが、明治期の宅地開発で改めて区画整理と宅地開発が行われ、谷間はすっかり埋め立てられている。おそらく、ここに屋敷を構えた大きな鍋島家の屋敷造成時に、大規模な地形改造が行われているのだろう。だが、前方部に刻まれた東側の谷間は江戸期からの地形をそのまま残し、外苑西通りで断ち切られる地点までつづいている。
 江戸期から開発されつづけた丘上の旗本屋敷街だが、だからこそ明治期に敷地がそのまま引き継がれ、地形を根本的に変えてしまうような昭和期の大規模開発からもまぬがれて、当初の地形をよく残しているように見える。これは、江戸期から芝増上寺の別院にされて寺町を形成し、大規模な開発をまぬがれた目黒駅近くの上大崎今里古墳(仮)と同様のケースのように思える。
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 この近辺を発掘した港区の調査記録は見あたらないが、新たに住宅建設やマンション建設の際に、注意深く土砂の様子や包蔵されている遺物を観察すれば、埴輪片などが発見できる可能性が高いように思われる。江戸期に「長者丸」と呼ばれたエリアである以外、もちろん古墳を意味する地名は存在しないので、とりあえず便宜上「南青山古墳(仮)」と呼称しておきたい。現代でさえ、このようなフォルムが鮮やかに確認できる以上、東京府によって大規模な墓地に改造されてしまった近接する青山墓地、すなわち青山大膳亮下屋敷の広大な庭園の様子が非常に気になる。まさか、墓地を掘り返して発掘調査はできないので、どこかに同屋敷を描いた詳細な絵図は残っていないだろうか。

◆写真上:丘上へと通う、サークル東側に設置されたバッケ(崖地)階段のひとつ。
◆写真中上は、江戸時代後期(上)と明治時代後期(下)の南青山古墳(仮)で、ともに『今昔散歩重ね地図』(ジャピール社/2012年)より。また、推定される江戸期の普請(下)。は、1904年(明治37)に作成された地形図にみる同地域の様子。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同地域と南青山古墳(仮)の想定墳丘。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同地域。鍋島邸の造成で、西側の谷(濠)が埋められている様子がわかる。は、1947年(昭和22)に撮影された焦土の同地域。は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同地域で①~⑫は現状写真に照応。
◆写真下は、同地域の現状写真で①~⑫は上掲空中写真に対応。は、青山脳病院の記念歌碑から北東へ500mほどの青山霊園内にある斎藤茂吉の墓。

木下孝則が見た「日本間」の佐伯アトリエ。

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木下孝則「風景」(大正期).jpg
 1930年協会に参加していた、洋画家・木下孝則Click!という人物がちょっと風変わりで面白い。東京の四谷にあった明治大学総長・木下友三郎の家に生まれ、学習院を高等科まで卒業すると京都帝大に入学している。だが、京都帝大に在学中、東京帝大に合格して入学している。つまり、京都と東京で一時期、二重学籍だった期間があるのだが、東京帝大へ通いはじめてから6ヶ月後に、ようやく京都帝大を中退している。そして、講義がつまらなかったのか、ほどなく東京帝大も中退して画業に専念しはじめた。
 生活に困らない“お坊ちゃん”育ちのせいか、性格も鷹揚だったようだ。1921年(大正10)に『富永君の肖像』で二科展に初入選すると、1923年(大正12)に樗牛賞を、翌1924年(大正13)には二科賞を受賞している。油絵をはじめたのは、大正中期につき合っていた小島善太郎Click!林倭衛Click!らとの交遊からだというが、その時期の詳しい証言はあまり残されていない。
 木下孝則でイメージされるのが、戦後はほとんどそれしか描かなくなった『婦人像』であり「週刊朝日」の表紙だが、大正期の彼はいろいろな画面に挑戦していたようだ。冒頭の画面は、大正期に描かれた木下孝則『風景』だが、東京郊外の風景をモチーフにしたものか、“お約束”のように小さめな西洋館や電柱が描かれている。ひょっとすると、彼の実家近くの四谷風景なのかもしれない。大正期の四谷は、東京15区Click!の四谷区として市街地に編入されていたが、あちこちに森や草原が残る風情だった。
 では、木下孝則の人物像を林倭衛の証言から聞いてみよう。1927年(昭和2)に中央美術社Click!から発行された「中央美術」8月号より、林倭衛『自然に育つた人』から。
  
 一寸ぶつきらぼうで非常な呑気屋らしいが、人に何か頼まれるとか、さういふ場合容易に厭とは言はない人らしい。それにどういふ話をするにも少しも気が置けなくて、すつかり安心して話されるといふ所がある。こつちがどんな馬鹿な話しをしやうと、何だ此奴下らない話をする――とか何とかさういふ事を殆ど思はぬらしい。新聞など読まなくとも全く平気らしい。そしてさういふ事が実際自然な所を見ると全くあれはのんびり育つた人ですね。そんな風で一寸融通も利きさうには見えないが、又それは中々しつかりした所がある。絵なんか見る眼は実際確です。
  
 ちょっと余談だが、この「中央美術」8月号は1930年協会第2回展Click!(同年6月17日~30日/上野公園日本美術協会)の直後に発行されており、誌面にはその展評が掲載されている。その中に、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の写真1点が掲載されているが、これは1926年(大正15)の真夏Click!曾宮一念アトリエClick!前を写生した『セメントの坪(ヘイ)』Click!(おそらく3画面)の1作で、佐伯アトリエの隣家である納三治邸Click!が竣工しそうな、1927年(昭和2)5月ごろに「八島さんの前通り」を描いた『下落合風景』Click!との、同時出品だったのがわかる。
 そして、同誌の写真について朝日晃が『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画/1994年)で、同作は「現存はしない」(二尺の物差し)と書いているので、朝日晃自身もこの画面を一度も観たことがないのがわかる。つまり、戦災で失われたか、行方不明のままの可能性が高いのだろう。また、佐伯祐三は同作をよほど気に入っていたのか、1930年協会第2回展の記念絵はがきになっていたことも判明している。
木下孝則1927.jpg 木下孝則「少女像」1927.jpg
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 さて、木下孝則が佐伯のことを書いた文章が残っている。1968年(昭和43)に日動画廊から発行された「繪」10月号所収の、木下孝則『佐伯と前田』から引用しよう。
  
 佐伯祐三と知合ったのは前田寛治を介してで、前田がヨーロッパから帰って意気ごんで滞欧作品を発表したかったのに、場所がなくどこも全く相手にしてくれなかった。どこかやってくれるところはないかということで、その頃例の柳原白蓮と伊藤伝右衛門の養子になった僕の友人が当時の報知新聞の重役を紹介してくれ、その世話で、今の八重洲口、東京駅裏の日米ビルへ行った。(中略)何しろ広過ぎてとてももったいない。前田がパリで一緒だった佐伯という男を誘ってみようと、二人で落合の彼のところへ出かけた。/佐伯は奥さんと一緒で、まだ汚い日本間のアトリエで、これも滞欧作の二十号位ばかりがずいぶん沢山重ねてあって、一枚きりの額縁が置いてあって、次から次とパッパッと入れ替えては全部見せてくれ、迫力のある絵に感心した。
  
 柳原白蓮Click!と伊藤伝右衛門の「養子」が登場しているが、学習院つながりの伊藤八郎のことだろう。また、佐伯アトリエを「汚い日本間のアトリエ」と書いているが、同アトリエに畳が敷かれていたことはないと思われるので、木下孝則が通されたのは母家側の1階か2階にある日本間だったのではないか。佐伯夫妻は関東大震災Click!直後に渡仏しているので、本来のアトリエは内部の修復が済んでおらず修理中であり、帰国直後はいずれかの日本間をアトリエ代わりに使っていた可能性がある。
 1926年(大正15)5月15日から24日まで、日米ビルの室内社での1930年協会第1回展が終わると、メンバーの5人は八重洲近くの中華料理店で打ち上げをしている。そのとき、料理屋の衝立に「佐伯が竜、里見がスペイン娘、僕が裸を描いた」寄せ書きをしているが、戦前までそのまま使われていたらしい。もし料理屋が敗戦間近で店を閉め、どこかに転居しているとすれば、衝立は閉店時に処分してしまっただろうか、それとも記念に保存されどこかに眠っているのだろうか。
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 つづけて、翌年の第2回展の様子を木下孝則『佐伯と前田』から引用してみよう。
  
 公募で入選した中には井上長三郎とか長谷川利行とか現在名の出ている人達が沢山いたように記憶する。また前田の弟子には先頃亡くなった凸版印刷社長山田三郎氏やその夫人や今泉篤男氏もいたし、僕たちが揃って出入りした彫刻家藤川勇造氏の夫人栄子さんがはじめて絵を描き出した頃だ。/一九三〇年協会の仲間は非常に親密な友情を保って、児島善三郎が羨しがって是非入れてくれといってきたら、絵が面白いから入れようというのもいたが、あんな嫌な奴は駄目だと断わったりした。そして佐伯が再びフランスへ行くことになり、キサマも早く来い、というから僕も三ヵ月おくれて二回目のパリへ着いた。そうしたら佐伯は、「おれはもう百枚描いたぞ」と威張っていた。アトリエを見せてもらったが、その猛烈な馬力に驚いた。
  
 1930年協会に入りたかった児島善三郎Click!は、どうやら木下孝則とまったく反りが合わなかったのか、あっさり断わられている。第2回展時点での新会員は、木下孝則の弟・木下義謙のみで、その直後に林武Click!野口彌太郎Click!が加入している。
 また、1968年(昭和43)の「繪」10月号には、南仏のカンヌ近くの農村で制作する佐伯米子Click!が紹介されている。佐伯米子『自作を語る』から引用してみよう。
  
 ある夏の初めのことであった。パリから遠くない、オーベルの近くの田舎で、草原に坐って、スケッチしていると、いつのまにか、ねむくなって、そのまま寝てしまった。/どの位の間かわからない。/何か気配がして、ふと眼を覚ますと、かぎりしれない多数の羊の群にとりまかれ、私はその真ただ中にいた。(中略)かぎり知れない広い野原に一人ぼっち。/その時遥か遠い叢の道から、佐伯祐三は出来上ったカンヴァスと絵の具箱をもって、歩いてくるのが見えた。シルエットだけが、だんだんと、近づくと、作品の出来上った満足の顔が、にこにことしていた。
  
 南仏の草原で写生をしながら、第1次渡仏時の光景を想い出しているセンチメンタルな文章だが、おそらく佐伯の死から40年後のこのとき、佐伯米子の中では当時の出来事や心情の忘却とともに、夫・佐伯祐三に対するかなりの「美化」が進んでいただろう。
中央美術192708.jpg 繪196810.jpg
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 同じ見開きに、佐伯米子が描いた日本の風景画が掲載されている。昭和初期の佐伯祐三がそれを見たら、ニコニコ顔はしたかもしれないが、「あのな~、オンちゃんな~、遠くの山と近くの地面や樹木のな、バルールが狂うてんねん」、「あら、秀丸さん、わたくし天然ではなくてよ!」……などというような会話を想像してしまった。w

◆写真上:大正期の東京郊外(四谷近くか)を、描いたとみられる木下孝則『風景』。
◆写真中上上左は、1927年(昭和2)に撮影された木下孝則。上右は、同年の作品で木下孝則『少女像』。は、1927年(昭和2)6月の第2回展のときに撮影された1930年協会のメンバー。右から左へ里見勝蔵Click!、木下孝則、林武、小島善太郎(前)、野口彌太郎(後)、佐伯祐三(前)、木下義謙(後)、そして前田寛治Click!は、第2回展会場の様子で奥に佐伯『下落合風景』や長谷川利行『陸橋みち』が見える。手前から里見勝蔵、佐伯祐三、木下孝則で立っているのは前田寛治。
◆写真中下は、玄関を入った佐伯邸母家の正面。左手が台所ちかくの日本間で、右手がアトリエのドア、階段を上った先にも2階の日本間があった。は、日本間のある佐伯邸の母家(右手)で左の屋根はアトリエ。は、南側から見た母家の2階。
◆写真下上左は、1927年(昭和2)に発行された「中央美術」8月号(中央美術社)の表紙。上右は、1968年(昭和43)に発行された「繪」10月号(日動画廊)の表紙。は、同「繪」10月号に掲載の南仏で写生する佐伯米子をとらえた写真。

中村彝の代筆をしたのは誰だ?

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 今年(2017年)7月3日に、中村彝Click!アトリエで開催された生誕130年記念会Click!で、清水多嘉示Click!のお嬢様・青山敏子様Click!より、中村彝がパリにいる清水多嘉示にあてた1923年(大正12)12月22日付(パリ消印)の手紙をお見せいただいた。その手紙の写真を拙サイトに掲載したところ、中村彝研究の第一人者である舟木力英様Click!より、「中村彝本人の筆跡には見えない」という興味深いご指摘をいただいた。そして、当時、彝の周辺にいた誰かが代筆したのではないか?……と想定Click!されている。
 わたしはうかつにも、1923年(大正12)秋に銀座伊東屋の原稿用紙に書かれた中村彝の書簡、すなわち『芸術の無限感』(岩波書店/1926年)所収の清水多嘉示にあてた手紙の現物を、青山様から同時に見せていただいたのだが、その手紙の筆跡と同年12月22日付の乱れて読みにくい手紙の筆跡を、病状の悪化による不安定な筆跡によるものと勝手に印象づけてとらえていた。だが、改めてふたつの手紙の筆跡を比較してみると、確かに筆記の手ぐせがまったく異なっている。
 彝の手紙やハガキの筆跡は、おしなべて判読しやすい。手もとにある資料では、たとえば20歳のころに書かれたものだが、中村彝から野田半三Click!あてに茨城県の川尻から投函されたハガキがある。1907年(明治40)7月30日付のタイムスタンプで、平仮名とカタカナが混在する文面だが、おおよそ考えこまずに読み進めることができる。
 それから約16年後に書かれ、『芸術の無限感』に収録された1923年(大正12)秋の原稿用紙を便箋がわりにした手紙の文面も、それほどひっかからずにスラスラと読み進められる。同手紙の最後には、「色々話したいこと、尋ねたいこと、頼みたいことがあるが書くのが少し疲れたから余々後便にゆづることにしよう 御身お大切に祈ります。彝、愛する清水多嘉示君」とあるので、本人が筆記しているのにまずまちがいはないだろう。ところどころに崩し文字も見られるが、基本的に楷書書きのわかりやすさは、20歳のころの筆跡の読みやすさを継承している。
 ところが、ほぼ同時期にパリの清水多嘉示へ送られた12月22日付の手紙は、一転して非常に読み取りにくい。わたしの崩し文字に対する判読・読解力が拙劣なせいか、なにが書いてあるのかよくわからない箇所がたくさんある。舟木様によれば、ここに登場する名前は米国にわたった画家たちで平賀亀祐と幸徳幸衛、そして松原兆雄のことが書かれているという。これら画家たちの予備知識があらかじめなければ、とうていスムーズに読み進むことができない内容だ。
 さて、パリの郵便局で押された消印が1923年(大正12)12月22日付のこの手紙だが、中村彝の筆跡でないとすれば、いったい誰が口述筆記をしたものだろう。当時の郵便事情を考慮すれば、おそらく同手紙は11月中に彝アトリエで書かれて投函されたものと思われる。中村彝とその周辺の様子や出来事をたどることで、彝のごく身近にいた人々のうち誰が代筆したものなのか、なにか探れやしないだろうか?
 1923年(大正12)の秋は、おそらく中村彝が下落合464番地にアトリエClick!を建ててから最悪の年だったろう。まず9月1日に関東大震災Click!が起きて、アトリエ全体が北西に少し傾き、アトリエ東側の内壁が崩落している。彝は同日、岡崎きいClick!とともに薬王院Click!裏にあたる下落合800番地の鈴木良三の借家へと避難Click!している。鈴木良三は、前日の8月31日に雑司ヶ谷から転居してきたばかりだった。このとき、鈴木良三は彝アトリエの後片づけを寄宿していた河野輝彦Click!と、下落合645番地に住んでいた鶴田吾郎Click!に託しているが、鶴田は自宅が半壊していたので、ゆっくり修復の手伝いなどしてはいられなかったろう。
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今村繁三邸1925.jpg
 地震から半月たった9月16日に、中村彝は鈴木良三宅からアトリエへともどっている。アトリエの修理は、おもに大工あがりの河野輝彦と画学生の本郷惇にまかせ、彝は再び絵を描く準備を進めている。ちなみに、この時期にいまだ19歳だった本郷惇は、彝アトリエの近くに住んでいた可能性があるが、どこに住んでいたのかは不明だ。彝アトリエには、すでに河野輝彦が寄宿をしていたので、本郷惇も居候していたとは考えにくい。
 大震災の影響から、無理がたたって疲れが出たのか、彝は9月の下旬からたびたび発熱するようになる。そして、おそらく10月中にパリの清水多嘉示あてに『芸術の無限感』所収の手紙を書いたが、11月初めからひどい発熱で床につくことになる。10月末から取りかかっていた、『頭蓋骨を持てる自画像』(40号)の制作中に倒れたのだ。以来、彝は年末まで起きることができず、病臥したままの状態がつづいている。12月1日に、曾宮一念が会津八一Click!を連れてやってきたときも、彝はいまだ寝たきりの状態だったことが、1925年(大正14)に発行された「木星」2月号(中村彝追悼号Click!)収録の会津八一の追悼文『中村彝君と私』からもうかがえる。
 こうして、当時の様子をたどってみると、同年12月22日付(パリ消印)の読みにくい手紙は、11月初めに彝がひどい発熱をして起きられなくなったタイミング、まさにその時期に重なるように書かれたであろうことが想定できる。誰か近くにいる人物に、口述筆記を頼まざるをえなくなるような重篤な病状だった。関東大震災が起きた年の秋、中村彝のもっとも身近にいた人物で、しじゅう顔を合わせていたとみられる人々には鈴木良三をはじめ曾宮一念、鶴田吾郎、河野輝彦、本郷惇、岡崎きいなどがいる。
 この中で、大震災により借りていた家が半壊し、下落合804番地に改めてアトリエ付き住宅の建設を計画していた鶴田吾郎は、多忙でそれほど頻繁に彝アトリエへは顔を出せなかったかもしれない。また、美術仲間へ向けた手紙の代筆を、「おばさん」こと岡崎きいに頼んだとは考えにくい。さらに、たいせつな友人あての私信代筆を居候の河野輝彦や、画学生の本郷惇に任せたかというといまいち疑問が残る。やはりここは、以前から中村彝と清水多嘉示の親しい関係を熟知していて、それを踏まえながら手紙の口述筆記を信頼して任せられる画家仲間が、もっとも代筆候補としてふさわしい存在だろうか。
 すると、中村彝が信頼していた画家で、近所に住み毎日でもアトリエへ顔を見せそうな人物としては、鈴木良三と曾宮一念が残ることになる。ただし、記録に残っていないだけで、鶴田吾郎や鈴木金平Click!二瓶等Click!なども頻繁に彝アトリエを訪問していたかもしれず、あくまでも当時の状況から類推した想定にすぎないのだが……。
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 さて、青山敏子様のもとにパリの清水多嘉示に向け、鈴木良三が書いた1928年(昭和3)1月25日付の手紙が残っている。昭和に入ると、落合地域の西隣りにあたる野方町江古田931番地に住んでいた鈴木良三は、同年5月にフランスへ向けて出発することになるが、パリで暮らすために必要な月々の生活費などを問い合わせている。清水多嘉示はすぐに返事を書いたとみられるが、同年5月に清水が帰国しているので、ふたりはシベリア鉄道(清水)と船便(白山丸:鈴木)とで入れちがいになっている。
 この手紙を見ると、鈴木良三の筆跡は非常にきれいで、1字1字ていねいな書き方をしていることがわかる。もっとも特徴が出やすい仮名文字の書き方も、くだんの代筆とみられる手紙の文字とはほとんど似ていない。したがって、口述筆記とはいえ、まるで書きなぐりのような判読しづらい文字を、しかも中村彝の手紙として書くことはありえそうもない。では、曾宮一念はどうだろうか。
 手もとにある曾宮の自筆は、1921年(大正10)正月に書かれた年賀状Click!だ。筆文字とペン字が混在しているが、筆文字は字の姿が大きく変わってしまうので、ペン字の字体とはあまり比較の対象にはならないだろう。下落合623番地に建設中のアトリエが竣工間近なので、近々そちらへ転居することをペン字で年賀状の裏に書き添えている。その「ま」の丸め方や「り」のつなげ方、「に」を「Z」のように書くクセなどが、代筆の手紙の書体によく似ているのだ。このわずかな類似点をもって、曾宮一念が代筆したとはまったく断定できないが、可能性はあるかもしれない。
 そんなことを想像しながら、代筆の手紙を眺めてみるととても面白い。
 「…よろしく傳へて下さい。中村生、清水さん…と、以上だな」
 「…清水さん…と」
 「一念くん、書けたかい? どれ、見せてごらん」
 「うん、なんとか書けたよ。ほら」
 「…………読めんな」
 「だっ、だからオレ、字がヘタだっていったじゃん!」
 「……読めんな」
 「だから、あれほどいったじゃん!」
 「……誰かに清書させたくても、わからんな」
 「清水くんなら、きっと読めるぜ」
 「…ま、いっか」
 「うん、きっと大丈夫さ」
 「パリへとどかないといけないから、宛名書きはほかの誰かに書かせよう」…。w
鈴木良三筆跡.jpg 中村彝代筆1.jpg
曾宮一念筆跡.jpg 中村彝代筆2.jpg 中村彝代筆3.jpg
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 文中で触れている、1928年(昭和3)1月25日に江古田931番地の鈴木良三から、パリの清水多嘉示あてに出された手紙は、佐伯祐三Click!を含め下落合に住んでいる画家や美術家たちが何人か登場しているので、機会があればまた詳しくご紹介したい。

◆写真上:復元された中村彝アトリエ(現・中村彝アトリエ記念館)のテラス。
◆写真中上は、1923年(大正12)12月22日パリ消印の代筆とみられる中村彝から清水多嘉示にあてた手紙。は、1923年(大正12)の秋に彝アトリエに住んでいた親しい友人たちの家。は、1925年(大正14)に今村繁三邸(假楽園)で撮影された画家たちの記念写真で彝の親しい画家たちが多く写っている。
◆写真中下は、1926年(大正15)に出版された『芸術の無限感』(岩波書店)所収の彝から清水多嘉示にあてた手紙。は、20歳の彝が写生旅行中の川尻から野田半三あてに出したハガキ。は、1928年(昭和3)1月25日に鈴木良三から清水多嘉示にあてた手紙。
◆写真下は、鈴木良三の筆跡と彝の代筆とみられる筆跡の比較。は、曾宮一念の筆跡との比較。は、1961年(昭和36)12月撮影の中村彝会の墓参記念写真。
掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

下落合を描いた画家たち・刑部人。(5)

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 以前、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)に建っていた刑部人アトリエClick!の北側バッケ(崖地)Click!を描いた、1967年(昭和42)制作の刑部人Click!『花開く』Click!をご紹介していた。今回は、その4年後に同じ崖地を描いた1971年(昭和46)制作の『我が庭』を、下落合風景の1作としてご紹介したい。刑部人が、65歳のときの作品だ。
 『花開く』が30号Fサイズだったのに比べ、『我が庭』は15号Fサイズと刑部人の風景作品にしては小さい部類に属する。描かれた白い花の樹木は、早春に咲くコブシの木だろうか。地面に散らすように描かれた薄紫色の花々は、このあたりに多かったアブラナ科のムラサキダイコンなのかもしれない。いまだ冬枯れが残る周囲の木々の様子から、2~3月ごろの情景だろうか。『花開く』の季節より、少なくとも数か月は早い時期に描かれたアトリエ北側の情景に見える。
 少し前、1931年(昭和6)に制作された『睡蓮』Click!について書いたが、その際、下落合のバッケ(崖地)には豊かな地下水脈が通っている様子をご紹介した。刑部人アトリエClick!の西側にあった池も、『我が庭』の急斜面から湧き出る清水によって形成されたものだ。この豊富な地下水脈が、昔から下落合に見られるケヤキやクヌギ、クス、コナラ、カエデ、モミジ、カシ、ムクノキ、コブシなど数多くの大樹を育み、鬱蒼とした丘の連なりを形成してきた。
 下落合の丘を含み東西へ長くつづく目白崖線は、「武蔵野段丘」あるいは「豊島台」と名づけられた丘陵地帯の一画を形成しているが、新宿や市谷、四谷一帯にまたがる「下末吉段丘」ないしは「淀橋台」に比べ、関東ロームの赤土が落合地域を中心にかなり薄いこともかつてご紹介Click!している。「淀橋台」が約10mの関東ローム(赤土)に覆われているのに対し、「豊島台」の薄いところでは半分の約4~5mほどしか赤土が堆積されていない。ちなみに、わが家の敷地の下はボーリング調査によれば約4m強がローム層で、その下にある粘土層に突きあたる。
 つまり落合地域では、表土層および関東ローム(赤土)層の厚さが、長い時間の侵食などでさらに薄くなり、特に急斜面などで豊富な湧き水がみられる要因となっているのだろう。刑部人アトリエの北側の急斜面も、表土のすぐ下に地下水脈を含む粘土層や砂礫層が走っている様子がうかがえる。新宿区の調査によれば、目白崖線でもっとも関東ローム(赤土)が厚いのは江戸川公園の約10m、御留山Click!の谷戸部が5m、落合第四小学校Click!は地形改造によるものか約1.5m、薬王院が約5m、落合村の本村=聖母坂下界隈が約4mという結果になっている。
 1967年(昭和42)に新宿区図書館資料室から発行された、下落合の地質について解説する『図書館資料室紀要Ⅰ/落合の横穴古墳』から少し引用してみよう。
  
 下落合の台地の地質は、豊島台の地層とややことなっているようである。横穴古墳のあったところは、下部から記すと砂層であり、その上は砂質粘土層(約2m)で、その中に礫と貝化石を含んだ黄褐色の粘土層をはさむ。その上に火山灰質の白色粘土層(約0.3m)、さらにローム層(厚さ4~5m)がかさなる。これは目白、江戸川公園の台地(豊島台)の地層とややことなっている。しかし藤稲荷や落合第四小学校付近では、上部から関東ローム層、粘土層、砂礫層となり、その下部が砂層になっているようである。(略) 低地は沖積層といわれる砂または泥層で、その下部に東京層Click!の砂・泥層または粘土層がある。神田川の川床にその一部が露出しているところがある。
  
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 この記述は、下落合弁財天のある湧水源の北側斜面(下落合横穴古墳群Click!)について書かれたものだが、おそらく刑部人アトリエの北側にみられたバッケ(崖地)も、同じような地層の組成になっているものと思われる。
 さて、『我が庭』はアトリエ北側の庭先を描いたものだが、白いコブシの花らしい樹木(サクラかもしれない)をとらえた写真が、刑部佑三様Click!のカメラに収められている。画室の内部から北側のバッケを見上げた画面だが、急斜面を少し上ったあたりに樹影の似ている白い花が咲いている。同一の樹木かどうかは不明だが、このように豊かな水脈が通う下落合の斜面には、武蔵野を代表する多彩な樹木が生育している様子がわかる。残念ながら、刑部アトリエが建っていた北側のバッケは現在、武骨なコンクリートの擁壁でふさがれてしまったが、四ノ坂Click!をはさみその西並びにある林芙美子記念館Click!の北側では、同様の地形や植生を観察することができる。
 『我が庭』は、2004年(平成6)に栃木県立美術館で開催された「刑部人展-昭和日本紀行-」に展示されているが、その図録を中島香菜様Click!よりお送りいただいた。収録されている作品群を眺めていると、子どものころNHKで放送されていた「新日本紀行」のテーマ曲(冨田勲)が聴こえてきそうだ。詳しく拝読すると、いろいろ面白いことがわかる。1951年(昭和26)ごろから、ともに日本各地を写生旅行していた金山平三Click!が1964年(昭和39)に死去すると、刑部人の作風がペインティングナイフの技法を中心に、やや変化を見せている様子が指摘されている。以下、同図録から引用してみよう。
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 ペインティング・ナイフによる、きらきらするような筆触は、金山平三の多用した長いストロークに匹敵する。刑部のトレードマークとも言えるマニエラ(技法)となっていった。1967年の《花開く》(略)など、1960年代のとりわけ花を描いた作品にはそうした筆触を特徴的に見ることができる。ここでは画家の一連の動作が、何の無駄も無理もなく、自然に進んでいく。パレットからナイフにすくいあげられた絵具が、カンヴァスに触れる。画家の手の圧力によって、絵具の塊は形を変えながらカンヴァスの上をさっと動いていく。動きながら複数の絵具の色が混じり合い、カンヴァスの上にひろげられていく。/一瞬にして成されるナイフのストロークは、絵具そのものがまるで動いている途中にあるかのようなスピード感を見る者に与える。今まさに落ちようとする朝霧を、翳ろうとする陽光を、あるいは夜の闇の中を切り裂くように閃く車のヘッドライトを、描きとめるのに、これはきわめてふさわしい描法であったろう。
  
 図録に収録されている詳細な年譜を参照すると、刑部人と金山平三Click!が写生旅行へ出かけたのは、旅先での合流を含めると実に20回に及んでいる。
 また、「刑部人展」図録には刑部人が府立一中時代に描いた、1919~1922年(大正8~11)までのめずらしいスケッチが収録されている。おそらく、当時住んでいた北豊島郡西巣鴨町宮仲2486番地(現・東池袋2丁目)の自宅周辺を描いたものだろう。ちょうど、明治からつづく東京15区の市街地が、郊外へと急激に膨張しはじめたころの風景で、1923年(大正12)の関東大震災Click!を契機に人口の大移動が起きる直前の姿だ。
 画面を観察すると、いまだ畑地(麦畑だろうか)と建てられたばかりの住宅が、あちらこちらで混在している様子がうかがえる。住宅の意匠は、当時のサラリーマンが建てるようなごく一般的な2階建ての日本家屋で、大震災前のせいかどの家も屋根に瓦を載せているようだ。住宅の合い間を縫うように、農業の灌漑用水に使われていたとみられる水路がそのまま残されている。散在する住宅と畑地が拡がる一帯の風景には、市街地の街角用にデザインされたらしい、おシャレな街灯がポツンとひとつ灯っているのが、当時のアンバランスで混沌とした東京郊外の風景を象徴しているようで面白い。
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 1922年(大正11)の暮れに、刑部一家は豊島郡池袋966番地(現・池袋3丁目)に引っ越しているが、その転居先も西巣鴨町とほぼ同じような風情が拡がっていただろう。もし、刑部人が池袋の自宅周辺を西巣鴨町と同様にスケッチブックに残していたら、同地域を描いた洋画家たちの中ではかなり早い時期に属するのではないだろうか。池袋から長崎にかけ、いわゆる「アトリエ村」に居住する多くの洋画家たちが、周辺に拡がる風景をスケッチするのは、もう少しあとの昭和に入ってからの時代だからだ。

◆写真上:1971年(昭和46)にアトリエ北側のバッケを描いた刑部人『我が庭』。
◆写真中上は、アトリエの解体後に撮影した北側のバッケ(上)と刑部邸跡の敷地(下)。は、刑部人が旅行などで携帯していた画道具。は、島津源吉邸Click!の庭で1931年(昭和6)ごろに撮影された刑部人・鈴子夫妻とシチメンチョウClick!
◆写真中下は、1967年(昭和42)に制作された刑部人『花開く』。は、刑部人アトリエの風景いろいろ。(以上の写真3点は撮影:刑部佑三様)
◆写真下は、1926年(大正15)に作成された「西巣鴨町東部事情明細図」(上)と1929年(昭和4)作成の「西巣鴨町市街図」(下)にみる西巣鴨町宮仲2486番地。大正末でも、周囲にはいまだ畑地や空き地が拡がっているようで、同地番には茂沢邸と鴻池邸が採取されている。は、府立一中時代の刑部人が1920年(大正9)に自宅周辺を描いたとみられるスケッチ類で上から下へ順番に『風景1920-1』『風景1920-3』『風景1920-4』。

江戸東京の「長者」伝説と古墳域。

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 江戸東京の各地には、「長者」伝説が散在している。その中で、もっとも有名なのが江戸期の資料にも数多く書きとめられ、近代に入ってからは民俗学の柳田國男Click!が採取して有名になった、東京の西北部に拡がる「中野長者」伝説だ。
 昔話に現れる長者というと、初めからおカネ持ちだったわけではなく、なにかの功徳を積む生活を送っていたり、正直者が夢や動物のお告げで示された場所を掘ったりすると、にわかにカネ持ち=長者になるエピソードが多い。確かに、最初からカネ持ちであれば、特に物語化する必然性が生まれにくいだろうし、また貧しい人々へ希望や夢を与えられる「教訓話」や「道徳話」としても成立しにくい。そこには、なにかがきっかけで長者へと生まれ変わる、変身譚が不可欠な要素となる。
 多くの昔話は、子どもに語るのを前提とするせいか、最後は「めでたしめでたし」で終わるパターンが多い。だが、実際の大もとになっている物語は、必ずしも幸福で終わるとは限らないものも少なくない。地域の長者物語が語られるとき、なにか不吉なエピソードとセットになっているケースも少なくないのだ。「中野長者」(または「朝日長者」とも)の伝説も、まさにその典型的な事例だと思われる。
 1732年(享保17)ごろに書かれた『江戸砂子』から、その様子を引用してみよう。
  
 むかし多摩郡中野の内、正観寺(成願寺)の薬師堂の棟札に、朝日長者正蓮(中野長者)が書たるには、漆千盃朱千盃、黄金千両、銭十六萬貫、朝日さす夕日かゞやく藤の下にありといふ。これを埋むる時、下男に負せて此のはしをわたりけるに下男が後にぬすむ事もあらんと、そこにて殺しけると也。その下男のわたりたるは人見たれども、帰る所を見ざるゆへに姿見ずの橋といふ也と、里人の物語也。
  
 『江戸砂子』は概略しか採取していないが、室町期の応永年間ごろ中野村字塔屋敷(現・中野区本町2丁目)の成願寺あたりに住んでいたとされる、元・武士の鈴木九郎(正蓮)という人物が浅草寺の観音に願掛けしたところ、にわかに長者になって大きな屋敷をかまえたところから物語がはじまる。次々に財宝が増えるものだから、九郎は屋敷内に貯蓄しておくことができず、やむなく橋をわたった「藤の下」に隠し場所を用意して、納まりきれない財宝を下男に運ばせて埋蔵した。
 ところが、隠し場所のありかが外部に知られると困るので、そのつど下男を殺害してくるため、長者ひとりが橋をわたって帰ってくる。村人はいつしか、この橋のことを「姿不見橋(すがたみずのはし)」と呼ぶようになり、それが現在の新宿・淀橋Click!に相当する橋だったという経緯だ。つまり、中野村側から淀橋をわたって角筈村側(東側=新宿側)のどこかへ、財宝を埋めていたことになる。「朝日さす夕日かゞやく藤の下」とは、どこか高台の地形を連想させるポイントだ。しかも、長者が“東”を意味する「朝日長者」と呼ばれていたことにも留意したい。夜間にいずこへか出かけ、朝日が昇るころ橋をわたって帰ってくるというイメージのネーミングだ。
 この話にはバリエーションが数多く存在し、その後、殺された下男の祟りで中野長者が一家全滅したり、長者の娘と殺される下男との悲恋物語をはさんだり、祟りで娘が龍(蛇)になって角筈十二社池へ飛びこんだりと、伝承のされ方は千差万別だ。中野区教育委員会も、「中野長者」伝説を多数蒐集しているが、1987年(昭和62)に発行された『中野の昔話・伝説・世間話』では、次のように書いている。
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 今回の調査では江戸時代の地誌や随筆などにも見られる中野長者の伝説が、中野区内ではどのように伝えられているかに注目し、各調査質問事項にもした。(略)長者伝説を伝える旧中野地区の地元の話者の中には、「長者の話は十人みーんなちがう」と話す人もあるように、「中野長者」の伝説は、多種多様に伝えられている。/淀橋(姿見ず橋)を嫁入りの行列が渡ってはいけない、という伝承は知る人も多い。そのいわれは、中野長者が財宝を隠させた下男を殺したところだからとする長者伝説の系統と、井の頭の主の伝説(宝仙寺の竜頭骨の由来)の系統との、二つの伝説に大別される。そして、その祟りのために、花嫁が通ると不幸になる、縁が切れるなどと、嫁入りのときに橋を渡ることが忌まれてきた。
  
 この物語が、いかに強烈な印象を地域に残していたかは、明治以降もずっと婚礼の行列は不吉な淀橋を通行せず、わざわざ上流や下流の橋を迂回していたことからもうかがえる。1913年(大正2)1月21日になって、ようやく迷信打破のための大規模な祭礼が淀橋で行われ、わざわざ結婚式を挙げたカップルに淀橋をわたらせている。この“厄払い”式典には、柳田國男も呼ばれて出席していた。1913年(大正2)1月22日の東京朝日新聞や東京日日新聞は、淀橋の祭礼の様子を大々的に報じているが、記事がよくまとまっている東京日日新聞から引用してみよう。
  
 府下淀橋町と中野町との間に架する淀橋に迷信ありて、婚礼の行列此の橋を渡るを忌む事は既に報じたが、同地の浅田政吉氏主催となり此の迷信を一掃する為め、昨日午前十一時から神官を聘して河精を祭り迷信払いの神事を執行した、式場は淀橋の畔の川上に床を張りて設け正面を祭壇として神官二十名にて最と荘厳に式が行はれ、式後食堂を開いて観盃を挙ぐる間に、関直彦(衆議院副議長)の「迷信と神経」の演説、神話童話の研究家柳田國男氏(法制局長官)の「伝説の尊重と迷信の打破」の演説があった。
  
 このあと、花婿花嫁の婚礼行列が淀橋の「わたり初め」をして祝福されている。
 室町期(江戸東京の「長者」伝説は鎌倉期までさかのぼるものもあるので、あるいはもっと以前からかもしれないが)、平川(神田上水→神田川)Click!に架かる淀橋を中野から向こう側(角筈側)へわたると不吉なことが起きる……という伝説に、中野長者の娘の悲恋あるいは娘が龍(または蛇)に化身する化け物譚が習合し、やがて嫁入り行列がわたると不幸になる……という物語が形成されているように見える。では、中野側から淀橋をわたり角筈の成子坂へと抜ける、青梅街道のどのあたりに不吉な影が射すのだろうか。
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 このサイトをつづけてお読みなら、すでにピンときている方も多いのではないだろうか。そうなのだ、成子坂の斜面から青梅街道を現在の新宿駅方面へ進むと、その両側には大きな古墳とみられるフォルムが並んでいたことが想定できる。こちらでもご紹介した、新宿駅西口に位置する「新宿角筈古墳(仮)」Click!と、成子富士のある天神山の「成子天神山古墳(仮)」Click!だ。これらは、かろうじて現代からたどれる古墳の痕跡だが、大規模な淀橋浄水場が建設される以前、あるいは一帯が住宅街で埋まる以前に、その広い斜面の畑地にはどのようなフォルムが残されていたのかは、いまとなっては不明だ。
 中野側から語られる、「橋をわたると不吉なことが起きる」、あるいは「橋をわたると不幸になる」など多彩な物語群は、より古い時代からの禁忌的なエリアへ足を踏み入れることを戒めた伝承なのではないか。古墳域で多く語られる、屍家・死屋(しいや)Click!伝説のバリエーションなのではないだろうか。当初は、墓域への敬虔な崇拝的慣習からくる禁足域だったものが、いつしか別の物語へと習合・転化を繰り返し、あるいは盗掘を戒めるための“怖い話”へと変じて、現代まで継承されている可能性が高いように思う。
 もうひとつ、「長者」伝説に多いパターンとして、突然にわかにカネ持ちになった人物は、あえて禁忌的な古墳域に足を踏み入れ、墳丘を掘り返し玄室にある宝玉や黄金(こがね)・白銀(しろかね)の副葬品を持ちだしているのではないか?……というところまで、想像の羽が拡がっていく。周囲の人々は、突然羽ぶりがよくなった「長者」を見て不審に思い、禁忌を侵したことに薄々気づいてウワサをし合っただろう。なにか「不吉」で「不幸」なことが起きれば、尾ひれをたっぷりつけて「それみたことか」と物語化したかもしれない。
 さて、このような「長者」伝説は、新宿のすぐ南にも散在している。地名にまでなっている目黒駅東側の上大崎地域の「長者丸」と、青山地域の「長者丸」だ。これらの地域に登場するのは、「黄金長者」と「白金長者」と呼ばれる人物たちだが、その物語にはやはり「不吉」な影と、鬼と化した幽霊が襲う「橋」が登場してくる。すでにお気づきのように、この地域にもまた巨大な古墳の痕跡と思われる人工構造物、すなわち上大崎には「森ヶ崎古墳(仮)」」Click!「上大崎今里古墳(仮)」Click!が、南青山には「南青山古墳(仮)」Click!の痕跡を、古い地形図や空中写真からかろうじてたどることができる。
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 「長者」伝説に登場する「橋」とは、この世からあの世(死者の国)へとわたる象徴としての架け「橋」なのか、それとも周濠をわたって古墳域を侵すというメタファーとしての不吉な「橋」なのか……。江戸東京地方の屍家・死屋伝説と、「長者」伝説とがどこかで交わらないものか、非常に根が深くて興味深いテーマだ。

◆写真上:鈴木九郎こと「中野長者」の屋敷跡といわれる成願寺(別名:正観寺)。
◆写真中上は、1920年(大正9)に撮影された木橋のままの淀橋。は、1933年(昭和8)撮影の石橋となった淀橋。は、淀橋から神田川の下流域を眺める。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる成願寺と淀橋周辺。は、1941年(昭和16)ごろの斜めフカンで撮影された空中写真にみる同地域。は、1947年(昭和22)に撮影された淀橋東側の斜面に拡がる焼け跡の同地域。
◆写真下は、成子天神山古墳(仮)の倍墳のひとつに見える成子富士。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる「黄金長者」あるいは「白金長者」伝説が継承された上大崎地域。は、同年撮影の空中写真にみる同伝説が語り継がれた南青山地域。

下高田村の「富士見茶屋(珍々亭)」騒動。

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 今年も、拙サイトをご覧のみなさまには、いろいろとたいへんお世話になりました。昨年(2016年)の暮れは、笑い納め小噺「下高田村『富士見茶屋(珍々亭)』異聞。」Click!を書きましたけれど、今年は同じ富士見茶屋(珍々亭)Click!の周辺を舞台に、ちょっと笑うに笑えない小噺をお送りします。来年もまた、拙サイトをよろしくお願いいたします。
  
 江戸郊外の下高田村にある金子直德Click!の自宅周辺が、なにやら不穏な様子。
「おいおい、直さん聞いたかい? 知らねえうちに、てえへんなことになってんの」
「また、とりこし八兵衛さん得意の、てえへんだがはじまってやがる」
「そいがさ、直さん、てえへんなんだって!」
「ここぁ下高田で、神田明神下の目明かしじゃねえてんだ」
「冗談いってる場合じゃねえんだってば、直さんよう」
「で、今度ぁなにがてえへんだ~なんだい?」
「そいがよ、句会の九園斎が、お奉行所に引っぱられちまったんだよう」
「…どうせ、あらかた鬼子母神にお詣りんきた、そこいらの娘に抱きついたんだろうよ。あの助平根性は死んでも治らねえ。…まさか、お藤ちゃんがらみじゃねえだろうな?」
「その、まさかなんだよう」
「とっ、とんでもねえ野郎だ! そいで、北かい、それとも南なのかい?」
「そいがさ、お取り調べが厳しい、北の月番なんだと」
「…あの早桶に両足つっこんだみてえな、歯抜けの助平ジジイをひっ捕まえて、いってえ北のお奉行所じゃどうしようてんだい?」
「その助平が問題さね。去年の句会で爺さん、お藤ちゃんに抱きついてたろ?」
「そう、そうだったな、七十(ひちじゅうClick!)にもなる歯抜けジジイがいい歳してさ」
「そいつを誰かが、お奉行所にタレこみゃがったのさ」
「タレこみ? そりゃ八丈にでも流しときゃいいたぁいったが、あたしじゃないよ」
「いや、身内じゃなくてさ、富士見の句会を目の敵にしてる、別の句会連中らしい」
「…つまらん! 実につまらん!」
「おや、直さん、また不機嫌な大滝秀治Click!さん、入ってるよ」
「…誰? ねえ、こないだからさ、誰だいそりゃ?」
「手鎖六十日ぐらいで済みゃいいが、百叩きなら爺さん、死んじまうぜ」
「まあ、九園斎にはかあいそうだが、そりゃ自業自得てえもんさね」
「そいによ、八丈より遠い無人島(ぶにんじま)てえ話もあるんだ」
「でもさ、お藤ちゃんがこれこれしかじかと、訴え出たわけじゃないんだろ?」
「そうなんだ。本人は別にどうってことなくてさ、ウッフンとかいっちゃってるだけ」
「おかしいじゃねえか、被害を受けた当人がウッフンで、どうして捕まるんだい」
「それそれ、お届けなしでも風俗紊乱のおそれとかで、ひっくくられたらしいや」
「そんなバカなことがあるかい、八兵衛さん」
「いや、もともとお奉行所ではさ、富士見茶屋での句会をよ、なにかよからん謀りごとをめぐらしてる集まりみてえに、前々から目ぇつけてたらしいんだな」
「じゃあだんじゃねえや、なんの謀りごとしてるてんだい?」
「直さんも機会さえありゃ、お藤ちゃんの胸、触ろうと謀りごとしてたろ?」
「ありゃわざとじゃない! つい手が出ちまったんだ」
「そんな言いわけは通らねえやな。しかもさ、それを見てて番所に届け出なかったおいらたちも、風俗紊乱の共謀でひっくくられるかもなんてぬかしゃがる」
「…おきゃがれてんだ!Click! 誰がそんなこといってやんだい? ええ?」
「目白山人がさ、半ベソで清風んちにやってきて、くっちゃべってったんだと」
「目白山人のやつ、どっかやましいとこでもあんじゃねえのか? お藤ちゃんの情けにすがった、月三日の逢い引きを断られて、句会を恨んでんじゃねえだろうな」
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「そいからよ、富士見茶屋の句作もお奉行所では詮議してるてえ話だぜ、直さん」
「…俳句を詮議して、いってえどうするてんだい?」
「お上にタテつく句作がないか、目を光らしてるらしいやね」
「ふん、タテつく句はねえがな、揶揄する句ぐらいはありそうさね」
「そうそう、それがまずいってこった。茶屋の句会は表向きで、裏では畏れ多くもお上へ刃向かう、一揆の謀りごとをめぐらしてるんじゃねえかてえ話につながってんだ」
「…じゃっ、じゃあだんぬかすな! そんなベラボーな話があるかい、ええ?」
「直さんにも、そういう句作に心当たり、あるだろ?」
「あたしゃ、そんな野暮な句はつくりゃしません。お藤ちゃん一筋さね」
「でもさ、【あべ殿と背中合わせの悪寒かな】は、まずかったんじゃないのかい?」
「…あ、そいえば、そんな句も詠んだかな。けど、句会でじゃねえぜ」
「な? あるだろ。いまのご老中と結びつけちゃ、まずいんじゃないの?」
「いやいや、ありゃ京へ旅したおり、安倍晴明と妖怪変化の怖さを詠んだ句さな」
「お奉行所じゃ、そうは取らねえよ。ご老中の阿部安芸守様のことだと決めつけられちまえば、嫌も応もねえやな、そいでしょっぴかれて仕舞いさ。よくて手鎖六十日か百叩き、悪けりゃ江戸十里四方所払い、運が悪けりゃ八丈か無人島さね」
「…そ、そんなベラボーな話があるかい! バカらしいったらありゃしねえや」
「それにさ、【些乱れを集めてはやし無人島】てえ句も、直さん、たいがいまずいんじゃないかい? 芭蕉翁のパクリだてんで、翁の子孫に句作権の侵害で訴えられちまったら、おいらたちみんな共謀の罪でひっくくられちまうぜ」
「なんだい、その句作権てなぁさ? それに、そんなつまらん句詠んだかなぁ? …いちいち昔の駄作は、とんと憶えちゃいねえのさ」
「憶えてても憶えてなくても、お上が珍々亭の句会が気に入らなきゃよ、その句を詠んだときに関わった連中(れんじゅ)は、同人だろうが版元だろうが、その句を知らずに写した趣味人だろうが、みんなお白洲へ引きずり出されるてえ話だぜ」
「じゃあだんじゃねえや、八兵衛さん! そいじゃなにかい、お藤稲荷の講中の誰かがお藤ちゃんのお尻さわったら、祭りを仕切る講中から村を練り歩く御輿連中、囃子方まで丸ごと一蓮托生になっちまうじゃねえか」
「そうさ、だからてえへんなんだ。富士見茶屋も同人はむろん、句集の版元に本屋、それを買ったりもらったりした連中みんなが連座して危ねえてえこった」
「そんな、おきゃがれもんのご法度、いつできたんだい?」
「さあ、そりゃおいらたちが、お藤ちゃんにのぼせて夢中んなってたときらしいや」
「…そいや、こないだ、『富士見茶家』の句集の余分はあるかって、そこの番屋の奴が訊きにきたな。ほれ、番屋のなんつったかな、あばた面(づら)の男がさ」
「目明かしの萬七だろ? そりゃまずいやね、直さん」
「そうそう、萬七だ。そろそろ稼業をやめんから、俳句でもはじめるかとかなんとか」
「そりゃダメだ、直さん。…で、渡しちまったのかい?」
「いや、いま手もとに余分がないから、来年再版するてえいっといた」
「ダメだよ、直さん、そんなこといっちゃ。さぐり入れてきてんだよう」
「あいつはガキの時分から知っちゃいるが、下落合村の悪ガキどもに肥溜めん頭(おつむ)から放りこまれて、ピーピー泣いてたヤワなやつだ」
「だがよ、いまぁお奉行所につながる目明かしにゃちげえねえ」
「ふーむ、弱ったねえ。疑心暗鬼のいやなご時世さね。…お話んならねえやな」
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「そいに、まだあんのよ、直さん」
「…今度はなんだい? 脅かしっかぁなしだぜ、八兵衛さん」
「ほれ、ふたりでこの前、板橋宿まで出かけて図絵入りの地誌本こさえたろ?」
「ああ、こさえた、『板橋徒然噺』。ありゃ、よくできた本だてえ評判だったな」
「いや、それがお上には不評をかってるらしいんだな」
「…なんでだい? 別にお上の気に触るこたぁ、一行も書いてねえやな」
「そだろ? だけどさ、今度、ほら京のナントカいうやんごとなき筋から、畏れ多くも将軍様が奥方様を娶られるてえ話があっただろ?」
「…ああ、なんだかそういう話ゃ、聞いたことあるな」
「そのやんごとなき行列はさ、京から中山道を通って大江戸に入る前、手前の板橋宿でご休憩とか、お仕度を整えられるてえことらしいやね」
「…だから、そいがどうしたんだい?」
「そいでさ、おいらたち、板橋宿の詳しい図絵を世間に出しちまったからさ、やんごとなき行列へ、なんか謀りごとがあんじゃねえかてえ嫌疑が…」
「バカぁいっちゃいけねえや! 冗談は馬のケツみてえな面だけにしてくれろ。お城の上様の嬶(かかあ)とあたしらの本と、ぜんたいどこでどうつながるてんだい!?」
「シーーッ、声が高いよ、直さん」
「じゃあだんいうない、地誌を書いてお咎めなら、そこいらの本は全滅じゃねえか」
「そいで、行列を襲って騒乱を起こし、あわよくば徳川様の世をひっくり返す、天一坊以来の一揆騒動になんとかかんとか、しゃあがねえ尾ひれまでひっついてんだな」
「いってえ、誰がそんなことをいいふらしてんだい? ええ?」
「おいら、目白山人と其鏡から聞いたんだ」
「野郎が雁首そろえて、お藤ちゃんを思いどおりにできねえからって、腹いせにあることねえこと触れまわってんじゃねえのか、ええ? いい加減な丁稚を上げゃがって」
「お奉行所ばかりじゃなくてよ、若年寄のご支配までが動いてるてえ話さね」
「火盗(かとう)までが出張ってるってか? じゃあだんがすぎら」
「そこいらの水車で、火薬こさえてないか調べてるてえウワサだわ」
「火盗だか北町奉行だか知らねえが、おとついきやがれてんだ、ったく」
「あ、そいや思い出した。直さんが毎朝、下落合村のお藤稲荷Click!へ油揚げ供えんのが、なんかの合図じゃねえかてえウワサも立ってるらしいや」
「バカぁいっちゃいけませんよ。お稲荷に油揚げ供えないで、なに供えるてんだい?」
「そこは、ほれ、直さん、あんころ餅とか、人形焼きとか、カステーロとか…」
「タヌキに食われんのがオチさね。…それに、あんた、そういう話じゃねえだろ」
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「だけどさ、お奉行所のほうで一度そう決められちまった日にゃ、丁稚を上げるも下げるもねえやな。そのまま百叩きだろうが無人島(ぶにんじま)だろうが、お裁きが下るてえ寸法さね。…直さん、悪(わり)いな、またそこの煙草盆、ちょいと取っつくれ」
「そんな、バカみてえで勝手な話があるかい、ええ、八兵衛さんよ」
「おいらも、そうは思うけどさ、連中(れんじゅ)の真剣な口ぶりを聞いてるとなぁ」
「あの連中が真顔になるなぁ、お藤ちゃんの裾が乱れたときぐれえのもんさね」
「そいじゃ直さん、験直しに初詣はいっちょ、深川八幡Click!にでもいくかい?」
「やなこというない、ええ? 縁起でもねえ。…あ~、やだやだ、おっかねえ」
「…おや? 直さん、誰かきたみてえだぜ。…ほれ、戸を叩いてら」
「そろそろ戌ノ刻すぎだてえのに、いま時分どこの誰だい?」
「…さて、一服したらそろそろ、おいらは帰るとすら。邪魔したな、直さん」
「まだいいじゃねえか、宵の口さね。一杯ひっかけてきなさいよ」
「いやいやこれ以上、書き物の邪魔しちゃ悪(わり)いやね。つづきは、また明日…」
「…え? 誰だって? ……八兵衛さん、いま番屋の萬七が表にきてるんだとよ」
「………」

◆写真上:学習院キャンパス内のバッケ(崖地)Click!上にある、晩秋の富士見茶屋跡。
◆写真中上:同じく、目白崖線沿いの雑木林が色づく晩秋。
◆写真中下は、目白崖線沿いの分かれ道。は、同大キャンパス内にある「是ヨリ左ぞうしがや/右ほり之内」の道しるべ。「ほり之内」は、江戸期の堀之内村(杉並区)をさしているといわれているが方角が合わない。
◆写真下は、晩秋の学習院馬場Click!は、ともに今年(2017年)発行された雑誌と書籍で、岩波書店の「世界」5月号()と彩流社の海渡雄一『戦争する国のつくり方―「戦前」をくりかえさないために―』()。
文中の「共謀罪」による適用事例は、「世界」2017年5月号(岩波書店)および『戦争する国のつくり方』(彩流社)掲載の、同法における拡大解釈ケースを参考にしています。

お獅子がくるから開けときな。

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 あけましておめでとうございます。相変わらず拙い長文で読みにくく、ご迷惑をおかけしていますが、きょうは短めに。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
  
 子どものころ、正月になると家には獅子舞いがやってきた。わたしの海辺の家には、ときどき思い出したように訪れることはあったが、恒常的にやってくることはなかった。小学校の高学年になるころからは、一度も姿を見たことがない。ただし祖父の家には、毎年欠かさず獅子舞いは姿を見せた。
 1月2日に祖父の家を訪れると、午前中にはどこか近所から馬鹿囃子(ばかっぱやし=江戸祭囃子)の音色が聞こえてきて、徐々にこちらへ近づいてくる。門戸をガラガラと引き玄関を開ける音とともに、家じゅうにお囃子が鳴り響くと、家族たちは「お獅子だ!」と玄関へ駆けつけた。関東の獅子舞いは、竹の横笛と太鼓の囃子方をバックに、獅子のひとり舞い(+囃子方2人=計3人)が基本だ。江戸期の町内によっては、3人獅子で舞っていたようだが、わたしの知る限り祖父母の代からずっとひとり獅子だった。
 獅子に頭を噛んでもらうと、邪気(邪鬼)が払えるとか頭がよくなるとかいわれたけれど、噛んでもらっても特に頭がよくなったとも思えないので(逆に幼児のころは真っ白になってトラウマ化した)、ただ怖い思いをしただけの印象しかない。初めは、囃子方の笛と太鼓は生演奏だったが、わたしが10歳をすぎるあたりからだろうか、人手不足から録音テープになり、獅子舞いはたったひとりで各戸をまわるようになった。それでも、獅子舞いがやってくれば喜んで迎え入れ、当時のおカネで500円札か1,000円札を噛ませてやると、喜んでサービスのおどけた舞いを見せてくれた。
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 江戸東京(というか東日本全体)の獅子舞いは、民俗学的に分類すると「風流系獅子舞い」というのだそうだが、その原型となる歴史はさかのぼれないほど古い。中国や朝鮮半島からもたらされた獅子舞いとは異なり、古代日本から行われてきた「ひとりシシ舞い」が、その原型として基底にあるといわれている。ここでいうシシとは、中国で用いられている抽象化されたライオンの「獅子」ではなく、日本カモシカ(アオジシ)や日本鹿(シシ)、猪(シシ)など動物神(シシ神はときに山ノ神と結びつく)を模した頭(かしら)をかぶり、腹に太鼓をつけて打ち鳴らしながら舞う「ひとりシシ舞い」だ。
 その多くは、悪神(霊)退散や五穀豊穣、山ノ神やときに海ノ神へ大猟(漁)や安全などを祈願するおめでたい舞いで、古代日本からつづく祭礼のひとつといわれている。関東地方で古くから成立している「ひとりシシ舞い」もその系統で、必ず「シシ1匹=舞い手1人」の原則が踏襲されている。いつのころからか、頭にかぶるシシ頭(がしら)は中国のライオンを模した獅子と習合し、江戸期に入るとめでたい祭囃子(ばかっぱやし)と溶けあって、正月の縁起物であり風物詩として、大江戸の街中に定着していったのだろう。
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 わたしが中学2年生のとき、祖父は1月2日の午前9時ごろに目をさますと、寝床で甘い葡萄酒(ポートワイン)をひっかけ、寝起きのタバコを一服吸い終えると、「きょうはお獅子がくるから、門と玄関のカギを開けときな」と、そばにいた伯父にいいつけた。伯父は、いわれたとおり門と玄関のカギを開け、祖父のもとへもどってみると、寝床で再び眠っている。しばらく、そのまま寝かせておいたが、いやに静かなので枕もとに近寄ってみると、すでに息をしていなかった。
 わたしの家に電話があったのは、その1時間後ぐらいだったろうか。それまで、伯父は心臓マッサージをしたり、かかりつけの医者を呼んだり、「救心」を口にふくませたりといろいろ救命処置を施したようだが、獅子舞いが訪問する直前に、祖父は80歳で他界した。この日が、祖父の家で獅子舞いを断わった唯一の正月だったろう。
 80歳の祖父が、医者を必要とする重篤な病気にもかからず、ポートワインをひっかけ一服してから眠るように死んでいけたのは、待ち遠しい獅子舞いを嬉々として迎え入れ、毎年噛まれつづけためでたい効用のおかげだろうか。世間は正月でもあり、また80歳のポックリ大往生でもあったためか、通夜や葬儀は暗くならずどこか陽気だったのを子ども心に憶えている。わたしもできれば、おしまいはこのように逝きたいものだ。
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 それから40年を超える歳月が流れ、街中で獅子舞いを見かけることは、ますます少なくなった。浅草や下谷地域では、いまだ獅子舞いが健在で各戸をまわっているとウワサで聞いたが、学生時代を含め38年にもなるけれど、わたしは落合地域でただの一度もお獅子を見かけたことがない。そのうち、町内をまわった獅子舞いのにぎやかしも、伝統芸能として無形民俗文化財に指定されたりするのだろうか。
 江戸祭囃子と獅子舞いの歯音や鈴音がしない正月は、やはりどこかさびしい。

◆写真上:江戸東京をまわった、獅子舞いの獅子頭(ししがしら)。
◆写真中上:江戸期の歌川国芳が描く、浮世絵『春のにぎわひ』(部分)。
◆写真中下:江戸から明治にかけて活躍した、豊原国周の浮世絵『獅子舞』。
◆写真下:残念ながらホンモノではなく、江戸東京獅子舞いの模型。

巽聖歌が歩く屋敷林の落ち葉焚き。

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 いまでも晩秋から冬にかけて、近所にある旧家の庭先や畑地Click!の中で、落ち葉を燃やす香ばしい煙が立ちのぼることがある。厳密にいえば、落ち葉を低温で燃焼させる焚き火は、ダイオキシンやCOxなどの有害な物質をまき散らすことになり、東京都の条例違反あるいは消防法に抵触するのかもしれないが、季節を象徴させる風物詩的な情景や匂いが、わたしを含め近隣のみなさんも好きなのか、誰も文句をいうことはない。
 おそらく、戦前の落合地域では、ケヤキやクヌギなど武蔵野を代表するさまざまな落葉樹の落ち葉を燃やす焚き火の白い煙が、住宅街のあちこちから空へと立ちのぼっていただろう。近所に漂う落ち葉焚きの匂いや、風にのって運ばれてくる薄っすらとした煙から、暮れや正月が近いことを肌で感じとれたのではないだろうか。こちらでも、近衛町Click!にあった下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の安井曾太郎アトリエClick!で行われていた、イモをくべた焚き火Click!の様子をご紹介したことがある。
 わが家でも毎年暮れになると、ケヤキの落ち葉掃きClick!は欠かせない年中行事……というか、腰を痛める大仕事だが、45リットルのゴミ袋に入れ「燃えるゴミ」として処分している。東日本大震災時の福島第一原発事故Click!以来、線量計で放射線を測定Click!してレポートClick!をアップするのも恒例の行事Click!となってしまった。できれば、子どものころのように焚き火をして楽しみたいところだが、近隣の住宅事情がそれを許さない。
 小中学生のころ、よく焚き火をしてはキャンプの練習にと、飯盒炊爨(はんごうすいさん)をしたものだ。燃料にしていたのは、広葉樹の落ち葉ではなく海岸沿いに防風・防砂林として植えられた、クロマツ林の落ち葉や枯れ枝だった。マツ脂を含んだクロマツの枯れ葉は、火を点けるとアッという間に燃え上がり、焚きつけの新聞紙などいらず、焚き火にはとても面白くて重宝な燃料だ。松林と自宅Click!の庭との間に、草刈りをして焚き火ができる2畳ほどのスペースをつくった。周囲の草とりをして、砂地の地面を少し掘り下げた場所で、小学生のわたしはよく親に焚き火をせがんだ。
 なぜか、そこでイモやクリを焼いた憶えはないけれど(親たちがサツマイモClick!嫌いだったからだろう)、キャンプを想定した食事づくりはさんざん楽しんだ。クロマツの枯れ葉は、別に冬にならなくても1年じゅう樹下に落ちるから、季節を問わず燃料には困らなかった。焚き火は、ヒヨドリの鋭い鳴き声が響きわたる晩秋、あるいは息が目に見えるようになる初冬の趣きだが、山でのキャンプ好きClick!だったわたしはセミたちの声とともに、夏の想い出としてもオレンジ色をした炎がよみがえる。
 晩秋の焚き火は、どこか物悲しく悲劇的な物語をその情景に含んでいるようで、小坪港も近い逗子海岸で子どもたちが起こした焚き火へ、かがみこむようにして身体を温めている、ゆきずりの哀れな老人を描いたのは国木田独歩Click!だ。1978年(昭和53)に学習研究社から出版された、『国木田独歩全集』第2巻所収の『たき火』から引用してみよう。
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 げに寒き夜かな。独ごちし時、総身を心ありげに震いぬ。かくて温まりし掌もて心地よげに顔を摩りたり。いたく古びてところどころ古綿の現われし衣の、火に近き裾のあたりより湯気を放つは、朝の雨に霑いて、なお乾すことだに得ざりしなるべし。/あな心地よき火や。いいつつ投げやりし杖を拾いて、これを力に片足を揚げ火の上にかざしぬ。脚絆も足袋も、紺の色あせ、のみならず血色なき小指現われぬ。一声高く竹の裂る音して、勢いよく燃え上がりし炎は足を焦がさんとす、されど翁は足を引かざりき。/げに心地よき火や、たが燃やしつる火ぞ、かたじけなし。いいさして足を替えつ。十とせの昔、楽しき炉見捨てぬるよりこのかた、いまだこのようなるうれしき火に遇わざりき。いいつつ火の奥を見つむる目なざしは遠きものを眺むるごとし。火の奥には過ぎし昔の炉の火、昔のままに描かれやしつらん。鮮やかに現わるるものは児にや孫にや。
  
 さて、東京で落ち葉焚きが禁止されたのは、なにも現代ばかりではない。戦時中の東京では、落ち葉は重要な“資源”として位置づけられ、炊事や風呂焚きなどに使える“資源”を焚き火をして燃やすとはケシカランと、軍部からクレームが出て禁止されていた。また、焚き火の煙は「敵機による空襲の攻撃目標になる」ので全面禁止という、わけのわからない命令も軍部から出ている。
 米軍の空襲を経験し、その爆撃法を科学的ないしは論理的に分析・検証していれば、B29は精密な空中写真Click!や地図をベースにレーダーを用いて攻撃目標を補足し、正確に爆撃を行っていたことは明らかだったはずだ。これも、夜間に光るホタルは爆撃の目標になるから、川辺のホタルClick!をすべて殺せという錯乱したヒステリックな命令と同系統のものだろう。それとも、軍部に近い行政組織がその意向を先まわりをして「忖度」し、軍部からと偽って「命令」を伝えていたものだろうか。
 そんな不可解な命令を受けた人物が、落合地域の西隣りにある上高田地域に住んでいた。1941年(昭和16)に、JOAK(NHKラジオ)の依頼で童謡「たきび」を作詞した、詩人の巽聖歌(とまりせいか)だ。巽聖歌は、童謡の作詞依頼を受けると、いつも歩いている近所の通い道の情景をモチーフに、さっそく詩を創作した。初冬になると、空に手を拡げたような樹影から無数の落ち葉が降りそそぐ、ケヤキの大樹が繁った道沿いで、落ち葉焚きをする風景を詩にたくしたものだ。焚き火の中では、ときにクリやイモを焼く香ばしい匂いが漂ってもいただろう。
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 ♪かきねの かきねの まがりかど
 ♪たきびだ たきびだ おちばたき
 ♪あたろうか あたろうよ
 ♪きたかぜぴいぷう ふいている
 作詞・巽聖歌で作曲・渡辺茂による『たきび』は、戦時中は軍部の圧力で禁止されていたが、戦後になると唱歌として小学校の音楽授業でも唄われるようになった。
 巽聖歌は、1930年(昭和5)ごろから上高田にある萬昌院功運寺Click!に隣接するあたりに住んでいる。当時の住所でいうと、上高田306番地界隈になるだろうか、ほとんど上落合と隣接するエリアだ。ちょうど同じころ、上高田82番地には歌人の宮柊二Click!が転居してきて住んでおり、また、すぐ近くの功運寺北東側にあたる上高田300番地には、詩人の秋山清Click!が住みついてヤギ牧場Click!を経営していた。
 巽聖歌は、故郷の岩手にいた時代から、鈴木三重吉Click!が主宰する児童雑誌「赤い鳥」Click!に強く興味をもち、童謡や童話を創作するようになった。20歳のときに近くの教会で洗礼を受け、キリスト教徒(プロテスタント)として讃美歌318番『主よ、主のみまえに』なども作詞している。北原白秋Click!に師事し、東京へやってくると童謡作品を次々と「赤い鳥」へ投稿していった。
 JOAK(NHK)からの依頼で作詞した『たきび』は、巽聖歌の散歩道にあった上高田の旧家・鈴木邸(鈴木新作邸?)の屋敷林に繁る、樹齢300年を超えるケヤキの落ち葉焚きを見て作詞したものだ。新井薬師駅の南東、当時の地番でいうと上高田256番地あたりの敷地だ。下落合からでも散歩で歩ける距離圏だが、いまでもケヤキの大樹を含む濃い緑の屋敷林がそのまま残り、巽聖歌が散歩した当時の風情をしのばせてくれる。
 ♪さざんか さざんか さいたみち
 ♪たきびだ たきびだ おちばたき
 ♪あたろうか あたろうよ
 ♪しもやけ おててが もうかゆい
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鈴木家3.JPG
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 現在でも、「♪かきねの かきねの~」と唄われる明治期に造作された竹垣を、そのまま目にすることができる。おそらく、鈴木家が庭で焚き火をしても、近隣の住民は火にあたろうと集まりこそすれ、誰もクレームなどつけやしないだろう。

◆写真上:明治期につくられ、そのまま継承されている鈴木邸の高い竹垣。
◆写真中上は、冬になるとオレンジ色の炎が恋しくなる焚き火。は、正月の“どんど焼き”Click!用に用意されている下落合氷川明神社の焚き火鉢。は、巽聖歌も目にしたかもしれない上高田氷川明神のどんど焼きが行われる結界を張った焚き火場。
◆写真中下上左は、上高田に住み『たきび』を作詩した巽聖歌。上右は、功運寺の近くにあった上高田の巽聖歌邸。は、指示した北原白秋の一門とともに。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる屋敷林が濃い鈴木邸とその周辺。
◆写真下は、現在の鈴木邸とその周辺の風情。は、『たきび』が発表された1941年(昭和16)の斜めフカン空中写真にみる巽聖歌の通い道(想定)。
昨年12月31日に測定した、南側のベランダ排水溝の放射線量。四谷地域つまり新宿区南東部にある原子力資料室が、2015年まで測定していた数値(0.06~0.10μSV/h)に比べ、北西部の緑が多い目白崖線沿いは、いまだに0.20μSV/hを超える倍以上の放射線量が、ケヤキなど樹林の葉へ濃縮されて含まれ、地上に降り注いでいるのがわかる。
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飛行士は熊岡美彦アトリエを見たか。

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 中村彝Click!が、下落合464番地へアトリエを建設する以前、地上駅だった目白停車場Click!の改札を抜け、豊坂を上りきったあたりの右手に、熊岡美彦がアトリエを建てて住んでいる。当時の住所でいうと、落合村下落合443番地ないしは高田村金久保沢1127番地あたりの村境だ。
 おそらく、洋風なアトリエ建築の意匠はしていただろうが、1917年(大正6)に初めて中村彝を訪ねた鈴木良三Click!はこのアトリエを見落とし、あとになってから気づいている。熊谷美彦は、1913年(大正2)に東京美術学校を卒業しているから、落合地域にアトリエを建てたのは画家としてスタートしたばかりのころ、盛んに文展へ作品を出品していた20代の時期だった。
 1889年(明治22)に茨城県の水戸で生まれた熊岡は、大きな料亭を経営していた裕福な実家の出で、おそらく目白駅直近のアトリエも実家の十分な援助で建設しているのだろう。同じ茨城出身の中村彝とは当時、どの程度交遊があったのかは不明だが、少なくとも中村彝が下落合にアトリエを建設する1916年(大正5)以前から、熊岡美彦は豊坂上の一画にアトリエを建てて住んでいたらしい。このあと、熊岡は巣鴨に転居し、やがて高田馬場へ大きなアトリエと絵画研究所を建設している。
 その様子を、1999年(平成11)に木耳社から出版された、梶山公平Click!・編『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』から引用してみよう。
  
 目白駅の裏手のダラダラ坂道を登って右側に熊岡美彦さんのアトリエがあったらしいが、大正六(一九一七)年に初めて私が目白駅に下車して叔父さんに連れられて中村彝さんを訪問したころはもう熊岡さんは巣鴨の方へ引っ越してしまっていたのではないかと思うのだが、或いはまだここで制作して居られたのかも知れない。その頃はまだ画壇のことなど何も知らなかったので、熊岡さんの名も、作品も、どこの人かも関心がなかったのだ。
  
 熊岡美彦は美校を出たあと、少しして満谷国四郎Click!牧野虎雄Click!と親しく交流していたようだが、大正初期にはふたりとも、落合地域へいまだ転居してきてはいない。目白駅前(西側)の丘上、まばらに点在する家々の間で、洋風だったとみられる熊岡美彦アトリエは、ポツンと周囲から目立っていただろうか。あるいは濃い緑の樹間に隠れ、ひっそりとしたたたずまいだったろうか。
 1916年(大正5)に、中村彝が屋根にベルギーの瓦を用いてアトリエを建てたとき、その意匠は近隣からかなり目立ったようだ。アトリエの南側には、細い道の桜並木越しに林泉園Click!の谷戸が口を開け、木々が繁っていたために見通しは悪かったかもしれないが、北側の目白通り側からは一吉元結製造工場Click!目白福音教会Click!の建物の間に、朱色の屋根や大きな採光窓がよく見えただろう。この朱色の屋根は、陸軍所沢飛行場から飛来する航空機からもよく見えたらしい。
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 そう証言するのは、鈴木誠Click!のご子息である建築家・鈴木正治様Click!だ。1988年(昭和63)に発行された、『常陽藝文』6月号から引用してみよう。
  
 (中村彝アトリエは)洋館といっても本式のものではなく、建築材料も悪い。しかし、ふつうの大工ではとても出来ないものです。当時の絵かきの収入では専門の建築科には頼めないはずだから、私が思うには、たぶん専門家の卵の学生に頼み、それと大工の裁量で造った建物じゃないでしょうか。部分的には専門的なところが見られますからね。当時、所沢の飛行場から飛んでくる陸軍の飛行機が飛行の目標にしたといわれる屋根の赤瓦はベルギーから取り寄せたものです。赤というよりオレンジ色の瓦です。一方、壁は日本の伝統的な土壁で、上に、しっくいに薄墨の色つけしたものを塗っています。(カッコ内引用者註)
  
 この文中で、所沢飛行場から陸軍の航空機が飛来した「当時」とは、はたして大正期のいつごろの話だろうか。
 1911年(明治44)、所沢並木に陸軍所沢飛行場が完成すると、さっそく徳川好敏Click!がフランス製のアンリ・ファルマン機で所沢の空を飛んでいる。翌年、徳川好敏は所沢飛行場から「会式二号機」と呼ばれた国産機で、日本初飛行Click!を実現した代々木練兵場まで飛行し「帝都訪問飛行」を成功させた。そして、1916年(大正5)には所沢に陸軍飛行大隊が設置され、1920年(大正9)には所沢陸軍飛行学校が設立されている。
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 このような経緯をたどると、下落合上空に飛来した陸軍機は「帝都訪問」の目印として、山手線の目白駅と、その手前にある中村彝アトリエの鮮やかな朱色をした屋根を目標にした可能性がある。高い高度を飛べなかった当時の陸軍機は、目標が見えはじめると機首を真南へと向け、代々木練兵場Click!の仮設飛行場を眼下にとらえただろうか。所沢と代々木の連絡便として、また飛行大隊の設置後は隊員の訓練飛行として、さらに飛行学校の設立後は学生たちの実技飛行で、「帝都訪問」は繰り返し行われたのだろう。
 先日、陸軍所沢飛行場跡(現・所沢航空記念公園)を訪ねてみた。園内にある所沢航空発祥記念館に立ち寄ったのだが、そもそも同館には開設時から学芸員が不在なのか、残念ながら旧・陸軍所沢飛行場に関する紀要などの詳細な資料類は存在しなかった。また、日本における航空機(技術)の発達史的な展示は充実しているのだけれど、なぜか第二次世界大戦前後の展示がほとんど省かれていて、「帝都防衛」のために迎撃戦闘機が配備された経緯も、また1944年(昭和19)から敗戦までつづいて空襲の記録も展示されていない。
 ミュージアムショップには、かっこいい戦闘機や旅客機などのプラモデルとおもちゃ、航空関連のグッズばかりで、かんじんの資料類がほとんどまったくない。空に夢をふくらませる、子ども相手の記念館ならそれでいいのかもしれないが、少なくとも所沢飛行場の詳細な史的資料ぐらいは制作して、備えておくべきではないだろうか。
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 大正初期、中村彝アトリエが建設される少し前、所沢飛行場から「帝都訪問飛行」を行っていたパイロットたちは、なにを目標にしていたのだろうか。目白駅前の丘上に建っていた、熊岡美彦アトリエの屋根色は不明だけれど、住宅もまばらな樹間に見える西洋館は目白停車場とともに目立っていただろうか? それとも、低空とはいえ太陽の光を受けて輝く、1898年(明治31)に竣工した淀橋浄水場Click!や旧・神田上水などを、代々木練兵場の仮設滑走路へと向かう空路の目標にしていたのだろうか。

◆写真上:現在は公園となっている、1911年(明治44)に開設された陸軍所沢飛行場跡。
◆写真中上は、地上駅だった目白駅前から下落合の丘上へと通う豊坂。は、坂の途中に安置された金久保沢の弁天社(市来嶋社)。は、復元された中村彝アトリエの屋根。実際は、もう少しオレンジがかった朱色の瓦だったと思われる。
◆写真中下は、所沢飛行場の上空を飛ぶ徳川好敏のアンリ・ファルマン機。は、複葉機の操縦席で撮影された所沢飛行場の徳川好敏。は、いくつかに分解された飛行機を運ぶ所沢飛行場の牛列。滑走路上で、飛行直前に組み立てられていた。
◆写真下は、偵察機などに詰まれた九六式航空写真機。ここの記事で取り上げている1936年(昭和11)の空中写真は、このカメラで撮影されたとみられる。は、陸軍所沢飛行場の観測所や格納庫。右奥に見えているのは、陸軍航空技術学校と思われる。は、1946年(昭和21)3月撮影の米軍に接収された所沢飛行場。建物も破壊されているが、滑走路のあちこちには爆弾のクレーターを埋めた痕跡が写っている。

ご近所報道が多い1920年1月12日朝刊。

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 約100年ほど前、1920年(大正9)の正月は、前々年から世界中で猛威をふるっていた「スペイン風邪」(インフルエンザ・パンデミック)の脅威が、相変わらずつづいている不安な年明けだった。世界で約5億人が罹患し、その5分の1にあたる約1億人が死亡したとされる、人類史上でも最悪のパンデミック重度指数5のインフルエンザ禍だ。
 東京でも、同様に一家全滅やオフィス・工場閉鎖のニュースが、新聞紙上で連日報道されるような状況だった。1920年(大正9)1月12日(月)に東京で発行された各紙にも、悲惨な事件が社会面にいくつか掲載されている。たとえば下落合の南側、淀橋町角筈ではこんな出来事が起きていた。同日に発行された読売新聞の紙面から、少し引用してみよう。
  
 感冒で一家殆ど全滅/父母兄弟が五人死んで一子残る
 流行性感冒の猖獗は云ふも更であるが茲に此感冒に依つて一家殆ど全滅の悲惨に遭つた事実が現れた 府下淀橋角筈六五二電気局運転手内山忠助(三九)は妻すみ(三六)の間に長男忠策(一七)桓爾(七つ)宗雄(四つ)平陸(一つ)の四人の子があつたが此度の感冒に罹つて先長男忠策が五日午前二時死亡し、続いて妻すみが同日午後死亡し当歳の平陸又一昨十日午前六時死亡し続いて忠助は同日午前十一時相次いで倒れ今四歳の宗雄一人も病床にあると云ふ始末で親近の者数名に電気局から二名の局員が出向いて世話をして居たが悲惨目も当られぬ有様である
  
 この内山家のような家庭ケースが、東京に限らず伝染病が流行しやすい日本の都市部ではあちこちで見られた。当時はウィルスによる伝染病の医学的な概念がなく、伝染性の強い「感冒」=風邪と考えられていた。日本では1,500万人が罹患し、約40万人が死亡している。
 同記事が掲載された、1月12日(月)の東京朝日新聞および読売新聞の社会面には、落合地域とその周辺域で起きた事件や関連する出来事が、くしくも集中的に報道されている。冒頭の写真は下落合の南、戸塚から大久保に隣接して展開していた戸山ヶ原Click!の正月風景で、1月11日(日)に行われた凧揚げ大会をする「少年団」を撮影したものだ。
 東京朝日新聞に掲載されている写真だが、画像が粗くておおよそ場所を特定できない。おそらく、山手線の西側に拡がる大正期には「着弾地」と呼ばれた戸山ヶ原Click!で、しじゅう子どもたちが入りこんでいたエリアClick!だろう。いまだ、陸軍科学研究所Click!陸軍技術本部Click!も板橋から移転してきていない。
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 下落合310番地の相馬邸Click!に建立されていた、太素神社Click!(妙見社)の神楽殿が不審火で炎上したのも、同日の新聞各紙で報道されている出来事だ。この事件については、すでに以前の記事で詳細をご紹介Click!している。この事件で、神楽殿の床下にいたとみられるひとりのホームレスが焼死したため、のちに同社が事件による穢れを祓うためか、相馬邸の敷地内で移築されている可能性についても触れた。
 また、同じ紙面には徳川義親Click!が、代々尾張徳川家で所蔵してきた美術品を1ヶ所に集め、名古屋に徳川美術館を起ち上げる構想・計画を発表した様子も掲載されている。そのインタビューの一部を、同日の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 義親侯が家宝の陳列館を設立
 新しく名古屋に侯自身の科学的研究から保存法の苦心を語る
 熊狩りに名高い徳川義親侯は御先祖代々倉庫の裡に秘むる数多の美術品をば今度旧藩地名古屋大曾根の本邸に移しそこに五六十万円をかけて新な一大美術館を建設して一般の為めに公開する筈である、侯はその家宝公開の話に熱心な態度で語る『尤もこれ迄も年に一度位は名古屋の本邸では書画なり刀剣なり漆器織物杯部分的に陳列して一般に見せた、一寸の間の事とて折角見ようと思ふ人にも物足りない心持で帰した気の毒を屡々感じて居たのが一つ大きく永久的に公開して見せたいと考へた動機である、建築家とも相談中でまだほんの私の腹案が出来上つたばかり、何時頃着工するか一向定めて居らぬ、陳列しようといふのは全部一万点もあらうが矢張り刀剣が多く彼是八百口もあらう、世の中にたゞ二三口といはれる銘の入つた正宗や不動正宗もある、また有名なあの南泉和尚が禅問答の中に猫を叩き斬つたといふその南泉正宗もあるかと見ると昔使った鉈のやうな物の果まで研究者の材料だけはあらう(後略)
  
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 徳川義親がインタビューで答えているように、尾張徳川家は特に刀剣類のコレクションが充実している。中でも包丁正宗Click!は、目白の細川家永青文庫に収蔵されている包丁正宗(武州奥平松平家伝来)とともに、国宝に指定されている名物だ。
 さて、実際に徳川美術館がオープンしたのは、徳川義親の発表から1931年(昭和6)に尾張徳川黎明会が設立され、約15年が経過した1935年(昭和10)になってからのことだ。インタビューの当時、徳川義親は麻布の邸に住んでおり、目白通りをはさんで下落合の北に接した目白町の戸田邸Click!跡には、いまだ転居してきていない。徳川美術館が実現したのは、徳川邸Click!が目白町4丁目41番地に移転したあとのことだった。
 同日の東京朝日新聞には、興味深い記事もみられる。東京の川は下水のようであり、住宅は火災に弱い薪のようなものだから、なんとかしなければならないという東京市会議員の声を紹介している。そして、安心安全な都市的施設を整備するには、どれぐらいの予算が必要かを算出した「東京市大改造」計画を公表した。だが、どんぶり勘定で算出したずさんで法外な予算額に対し、当時の田尻稲次郎市長は「百年の大計を実行難とは受取れぬ」と、1世紀を費やしても取り組むべき課題として前向きな姿勢を示している。
 このとき、もし新たな「東京市大改造」計画に少しでも着手していれば、3年後に襲った関東大震災Click!の惨禍は多少でも低減できていたのかもしれない。だが、同計画はほとんどすべてが画餅のままで、1923年(大正12)9月1日を迎えることになる。1920年(大正9)から約100年が経過した現代も、東京市(東京15区→旧・大東京35区Click!→現・東京23区)は、当時とは比較にならないほどの課題やリスクを、相変わらず抱えつづけている。
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 東京朝日新聞と読売新聞に掲載された、同一のニュースを比較すると面白い。東京朝日がストイックでクールな表現なのに対し、読売はまるで現代の週刊誌のように煽情的でセンセーショナルな表現が目立つ。相馬邸の神楽殿炎上にしても、「焼跡より疑問の死體/下落合の火事で」(東京朝日)とあっさりなのにに対し、「相馬子爵邸内から黒焦の死體現る/昨夜邸内の神楽殿炎上/最初の発見者は宮本運転手」(読売)と、なにやら江戸川乱歩Click!横溝正史Click!の世界で起きた事件のようになってしまうのだ。

◆写真上:1920年(大正9)1月11日(日)に、戸山ヶ原で行われた少年団の凧揚げ大会。
◆写真中上は、1920年(大正9)1月12日(月)の読売新聞に掲載されたインフルエンザ・パンデミック(スペイン風邪)の悲惨な記事。は、下落合の相馬邸神楽殿の炎上事件を伝える同日の東京朝日新聞。は、相馬邸の神楽殿炎上事件を伝える同日の読売新聞。
◆写真中下は、下落合の相馬邸内に建立された太素神社(妙見社)。相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵の『相馬家邸宅写真帖』より。は、同日の東京朝日新聞に掲載された徳川義親インタビューによる徳川美術館の建設構想。は、徳川美術館収蔵の名物包丁正宗()と目白台の細川家永青文庫収蔵の名物包丁正宗()。
◆写真下は、細川家の宝物を保存する永青文庫。は、同日の東京朝日新聞掲載の「東京市大改造」記事。は、凧揚げ大会が開かれた戸山ヶ原(山手線西側)の現状。

鈴木良三から清水多嘉示へ1928年。

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 少し前に、パリの清水多嘉示Click!にあてた中村彝Click!の代筆による手紙Click!をご紹介したが、そのとき筆跡の比較用に青山敏子様Click!からお送りいただいた、鈴木良三Click!の手紙を掲載している。きょうは、1928年(昭和3)1月25日に書かれた、下落合に住んだ美術家たちも多く登場する、その手紙の内容について書いてみたい。なお、鈴木良三は手紙を書いた当時、落合地域の西隣りにあたる野方町江古田931番地に住んでいた。
 鈴木良三は、中村彝が死去すると丸3年間、下落合で中村彝画室倶楽部Click!の運営を手がけ、1926年(大正15)に岩波書店から彝の遺稿集『芸術の無限感』が出版され、茨城に彝の墓石が完成すると、虚脱状態に陥ってしまったようだ。医師の活動もやめ、帝展に落選して意気消沈しているとき、「洋行していらっしゃい」という妻の言葉に励まされてパリ行きを決意している。
 洋行費を捻出するために、彼は当初、佐伯祐三Click!と同様に画会を計画して資金を集めようとするが、郷里の水戸にいる知人から旧・水戸藩・徳川國順(侯)などのパトロン人脈を紹介され、毎月200円ずつのパリ滞在費を支援してもらえることになった。当時、パリをめざした洋画家の中では、彼は非常に幸運なケースだろう。1928年(昭和3)3月末、日本郵船の「白山丸」で日本を出港し、パリへ着いたのは5月の初めだった。船中では、1930年協会の木下孝則Click!や水彩画家の中西利雄、女優の長岡輝子らといっしょになった。すなわち、清水多嘉示は同年5月16日に帰国しているので、鈴木良三とはすれちがいだったことがわかる。
 清水多嘉示は、鈴木良三の手紙を落手したあとすぐに返事を書き、ほどなくパリを出発したのだろう。鈴木の手紙は、パリでの生活費に関する問い合わせだった。
  
 清水多嘉示様
 もう何年か前からあなたにお便りして、あなたからも巴里のお話でもお聞きしたいと思ひながら、つい怠けてゐました。もう随分おなれになつたことゝ思ひます。定めし、よい御勉強がお出来になつたことであらうとお察しゝてゐます。/あなたに最後にお逢いしたのは大正八年ごろの夏、平磯の海岸で、中村彝さんの療養中でしたね。あれか(ママ)此方彝さんの周囲も随分変りましたけれども、お話すれば長いことになりますが、彝さんの施設もゝう三年以上になります。氏の周囲にあつた友達やお弟子達によつて其の整理が恰度三年かゝつたわけです。/今では遠山五郎君も、曾宮一念君も、同じやうな病気で寝てゐます。中村画室倶楽部といふ名によつて旧友達が結ばれてゐましたが、その間に遺作展や、画集、遺稿集等の出版、墓碑の建設、などを完了していよいよ全部整理がつきましたので、俱楽部も愈々解散することになりました。私などもその整理委員になつてゐましたが、遺物の整理などに当つて随分淋しい気持で、涙新たなるものがありました。委しいことはお会ひした時にお話しいたしませう。
  
 文中の「彝さんの施設」というのが、中村彝の死後、酒井億尋の援助で運営されていた中村彝画室倶楽部(鈴木良三の著作によっては中村彝アトリエ保存会)のことだ。同俱楽部が、1928年(昭和3)の初旬に解散していることがわかる。そして、翌1929年(昭和4)4月より、佐伯祐三アトリエで留守番をしていた鈴木誠Click!一家が、彝アトリエを購入して住みはじめている。
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 1928年(昭和3)は、下落合623番地の曾宮一念が体調を崩し、夏になると八ヶ岳にある富士見高原療養所Click!で療養することになる。そして、新聞に掲載された佐伯祐三の遺作展Click!を滞欧作展と勘ちがいし、しばらくはその死を知らないままでいた。また、彝アトリエの常連のひとりだった遠山五郎Click!は、鈴木良三の手紙から数週間後の同年2月に病没している。
  
 今度の整理で解散となれば愈々私等も思ひ残すところが無くなりますから、私も、どうにかして巴里の方へ乗り出したいと、目下その準備中です。森田亀之助氏や大久保作次郎氏に会つてあなたのお噂さなどお聞きして憧れの情念を禁じかたきものがあります。で、この夏には大てい出かけられさうですが、それ迄に研一君や、あなたなども帰国なさるやうなことのないやうに願つてゐます。私はシベリヤを通つていきたいと思ひますが、それこそ西も東も分らないのですから何分、巴里着の上はよろしくお願ひしたいと思ひます。巴里着の上は出来るだけ切りつめた生活をせねばなりませんが、一体生活費はどの位あつたら足りるでせう。日本にゐて聞くのは大てい苦労なしの落ついた生活をして来た人達ばかりで、自炊生活のギリギリといふ経験をして来た人に逢ひませんので、本当の豫猶のない安価な生活の程度を知ることが出来ません。もし、あなたの知つて居らるゝ方で、そんな生活をして居らるゝ方がありますか、ありましたら、どの位の程度でやつてゐるかお知らせ下さいませんか。
  
 下落合630番地の森田亀之助Click!や、下落合540番地の大久保作次郎Click!は、清水多嘉示とはパリでいっしょだったが一足先に帰国しているので、鈴木良三はパリの様子を訊きに両人のもとを訪ねたものだろう。ふたりとも、あまりおカネの心配をする必要のない「苦労なしの落ついた生活」をしてきているので参考にならず、パリでの最低限の生活費を教えてほしいと問い合わせている。
 また、「研一君」とは中村研一Click!のことだが、パリのリヨン駅で鈴木良三を出迎えたのは、中村と角野判治郎のふたりだった。ただし、中村研一もほどなく同年中に帰国している。当時、パリの日本人会は薩摩治郎八Click!藤田嗣治Click!を中心とするサロンと、福島繁太郎Click!を中心とするサロンが存在し、互いが競い合っていた。鈴木が渡欧するとき、徳川國順は薩摩と藤田あてに紹介状を書いてくれたが、現地の熊岡美彦Click!などの情報から、彼は薩摩治郎八=藤田嗣治サロンには近づかなかったようだ。
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 鈴木良三は、熊岡美彦からファリゲールのアトリエにいる勝間田武夫を紹介されている。勝間田がいたアトリエは、少し前まで清水多嘉示が住んでいた部屋だった。その様子を、1999年(平成11)出版の梶山公平Click!・編『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』(木耳社)から引用しよう。
  
 勝間田君のいるアトリエは、以前清水多嘉示君の住んでいたところで安物だろうが天井光線のいい住居兼アトリエで、頑丈なアトリエが一階と二階に五、六坪あったようだ。私の借りた部屋の通りの真向かいの建物の中に鈴木千久馬君がいて、同町内ということで時々私を訪ねてくれ、やがて近所の服部亮英君と勝間田君の四人で、スペイン旅行やイタリア旅行、それにひと冬をカーニュ・シウメールで一軒の庭付きの広い家を借りて楽しい共同生活を送ったこともある仲間となった。
  
 鈴木良三は、フランス語があまり得意でなかったためか、いろいろな要望を清水多嘉示に伝えている。つづけて、手紙から引用してみよう。
  
 尚もし御面倒でなかつたらいろいろ細々した御注意もお知らせ下さいませんか。/それから、もしお願ひすることが失礼でなかつたら、巴里の地図へあなたの簡単な説明でも加へて送つていたゞけたら、こんなうれしいことはありません。フランス語も簡単なものなら読めますからどうかお願ひ出来ないものでせうか。/私は出来るだけ永く行つてゐたいと思うんです。此方で習つた仏語なんて発音が駄目だらうと思ひますから、あなたの御経験のやうにしたいと思つてゐます。/それから私が行くにつきまして、あなたから何か御注文でもありましたらお聞かせ下さい。/どうぞ何分よろしくお願ひします。これで失礼しますが、研一君、熊岡氏、佐伯氏にお会ひでしたらよろしくお伝へ下さい。
     一月廿五日 / 東京市外野方町江古田(エゴタ)九三一 / 鈴木良三
  
 ちゃっかり、メモを添えたわかりやすいパリのガイドマップが欲しいなどと要望しているけれど、清水多嘉示がそれにどこまで応えてあげられたかはさだかでない。清水が鈴木良三の手紙を受けとった時期、5年ぶりの帰国準備に追われている最中だったからだ。パリでのガイダンスは、中村研一たちに任せて帰国しているのかもしれない。
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 さて、文中に登場する「佐伯氏」とは、もちろん下落合661番地の佐伯祐三のことだ。鈴木良三がパリへ到着してから、わずか3ヶ月後に死去することになる。鈴木は上掲の書籍で、こんなことを書いている。「佐伯君については、彼の親友山田新一君が本当のことを詳しく書いているので[『佐伯祐三』]、私の知っているだけを、感じたままをここに記した次第」。あえて「本当のこと」と書いているのは、佐伯の死後、にわかに「親友」になったらしい阪本勝Click!の、怪しげな「証言」類をさしているのにちがいない。

◆写真上:薬王院の森に面していた、下落合800番地の鈴木良三旧居跡(左手)。
◆写真中上は、1922年(大正11)に撮影された画家たちの記念写真。は、1927年(昭和2)に藤田嗣治サロンで開かれた大久保作次郎送別会の記念写真。
◆写真中下は、1955年(昭和30)ごろに写生旅行をする曾宮一念(右)と鈴木良三(左)。中は、1979年(昭和54)に制作された鈴木良三『大洗の日の出』。は、1928年1月25日に鈴木良三が清水多嘉示へあてた手紙の前半部。
◆写真下は、1985年(昭和60)に『日の出』を制作する87歳の鈴木良三。は、1990年(平成2)に制作された鈴木良三『そなれ松』。は、同手紙の後半部。
掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。

陸地測量部1/10,000地形図のゲラ校正。

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 参謀本部陸地測量部が明治期より制作していた、1/10,000地形図の校正アカ入れ原稿を入手した。下落合が掲載されているのは、「東京府武蔵国/北豊島郡/豊多摩郡」という所属特設地区名称と呼ばれるものだが、そのうち「一万分一地形図東京近傍十七号(共二十七面)」つまり「新井」とタイトルされた地形図の校正原稿だ。
 地図の校正は、当該の地図が発行されるまでに何度か繰り返し行われていると思われるが、入手したアカ入れ原稿は初校=第1校紙版で、1929年(昭和4)10月16日の青いタイムスタンプが押されている。つまり、翌1935年(昭和5)に発行される1/10,000地形図のゲラ刷りに校正の“アカ”を入れたものだ。この校正作業には、校正科の水澤科長をはじめ6人の人物が校正作業にかかわっている。水澤科長は、校正科第1班の班長も兼務していたようで、第1班の要員3名と第3班の要員3名の計6名による校正で、それぞれ作業が完了したことを示す捺印が行われている。
 地図の校正とは、一般に出版や新聞、広告などの各業界で行われている作業とほとんど変わらない。すなわち、文字や線の欠け、かすれ、つぶれ、にじみ、抜けなどを指摘したり、余分な文字・線や紙面の汚れを「トル」にしたり、誤字・脱字や文字のゆがみ、地図記号の見やすさ、文字と線の重なりによる判読のしにくさをチェックすることだ。ときに、修正原稿と見比べて記号の抜けを指摘するような書きこみも見られる。
 たとえば、入手した校正アカ入れ原稿を参照すると、図面の右上枠外に記載されている「東京府武蔵国/北豊島郡/豊多摩郡」の「東」の文字がかすれ、「豊」の文字がつぶれているのが指摘されている。また、1/10,000地形図には欠かせない註釈、図面の右下枠外に記載される予定の2行の文章が、丸ごと欠落している。そこで、赤ペンでわざわざ「図郭外右肩ノ地名ハ本図所属特設地区ノ名称ナリ/真高ハ東京湾ノ中等潮位ヨリ起算シ米突ヲ以テ示ス」と、ていねいに挿入文を手書きで加えている。一般的な校正なら、タテに2本の棒を引いて文章が入ることを示し、「従前」あるいは「同前」と書き入れて、地図の前版を確認し同様の文章を挿入しろ……というような指示になるところだが、陸地測量部校正科の仕事は非常に厳密でていねいだ。
 また、戸山ヶ原Click!の西側に建設されている陸軍科学研究所Click!の敷地に、次々と施設の建物が増えているため、敷地内に記載してあった「陸軍科学研究所」の文字が読みにくくなってしまった。そこで、同研究所の北側に展開する戸山ヶ原Click!の余ったスペースへ、「陸軍」を省き新たに「科学研究所/技術本部」の文字を入れ、敷地内に記載された文字を「トル」ように指示している。また、市街地化が進み家屋が多く建ちはじめると、地形図では個別に家屋を収録・記載せずに、斜め線で市街地を表現するようになる。その斜め線=市街域記号を「囿線(ゆうせん)」と呼ぶようだが、1929年(昭和4)の時点で市街化が急だった、戸塚町上戸塚宮田エリアや長崎町大和田エリアでは、「囿線」の抜けやかすれが指摘されている。
 中には、なんの指示あるいは指摘だか不明なものもある。たとえば、目白通りの葛ヶ谷(西落合)に近い南側の道路端(下落合1555番地あたり)と、北側のなにもない等高線が描かれた斜面(葛ヶ谷57番地)の2ヶ所に、「電」という文字が記入されている。こんな位置に「電話局及自働電話」や「電信局」はないし、電力会社の「高圧電線」鉄塔や「無線電信電柱」もないし、ましてや「発電所及変電所」も存在しない。翌1930年(昭和5)に発行された1/10,000地形図を参照すると、「電」の指摘に対して特になにかが加えられたり、変更された形跡が見あたらないのだ。
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 さて、落合地域にしぼって校正原稿を見ていこう。ただし、同地形図「新井」には上落合や葛ヶ谷(西落合)の全域はカバーされているが、いちばん広い下落合(現・中落合/中井含む)の東側(目白駅側)の一部が切れている。大倉山(権兵衛山)Click!から東の山手線際までは、「一万分一地形図東京近傍十一号(共十九面)」すなわち「早稲田」に掲載されているのだが、当該地図の校正原稿は入手できなかったのでご紹介できない。
 まず、文字や記号の「かすれ」や「欠け」、誤字などが指摘されている。いちばん目につく誤植は、葛ヶ谷41番地の自性院Click!が「白性院」になっていることだ。さっそく、「自」という赤文字で修正が入れられている。また、落合町役場の「〇」記号に「欠」というアカ文字(記号が一部欠けている)が添えられているのと、目白通りをはさんだ北側の長崎町大和田4098番地(現・二又交番の位置)にある、「電話局及自働電話」記号がかすれているのがチェックされている。同様に、長崎町の天祖社にも「欠」のアカ文字が入れられているが、やはり鳥居マークの一部が欠けているようだ。さらに、氷川明神社Click!前の下落合駅には、「しもおちあい」の「し」が一部膨らんで記号のように見えるためか、「し」の赤文字が添えられている。
 そのほかの校正は、道路や等高線の線がかすれていたり、にじんでいたり、既存の線とズレていたり、あるいは曲がっていたりを指摘して修正するアカ入れが多い。川筋を眺めてみると、旧・神田上水や妙正寺川では、ところどころの土手が途切れ(かすれ)、まるで川が決壊しているように見える箇所にはアカ囲みがほどこされている。河川土手でインクの乗りが濃く、記号がつぶれて見えるところにも、ていねいにアカが入れられている。また、「妙正寺川」の「寺」の背後に家屋が重なって読みにくいので、製版上でなんとかしてくれるように丸囲みしている。同じく、線路に添えられた「西武鉄道」の「武」と「道」の背後にも道路が重なって読みにくいので、アカ丸が記されている。
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 わたしも校正のアカ入れは、1980~90年代にかけて仕事でさんざんやっているので、こういう校正原稿を見るとつい修正したくなる。すぐにも手直ししたいのは、目白文化村Click!からつづく谷名としてふられている「不動谷」Click!を、青柳ヶ原Click!西側の谷間(西ノ谷)の本来の位置へ移動するアカ入れとw、「前谷戸」を字名ではなく第一文化村からつづく谷戸名として、谷間の等高線上に配置するアカ入れ修正だ。ww また、1929年(昭和4)10月の時点で採取された目白文化村の家々があまりに少なすぎるので、「もっとマジメに調査・採取してね」と現場の要員に指示を出したくなる。w
 さらに、もっとも標高が高い城北学園(現・目白学園)の丘上(標高37.5m)の字名が、大正末の数年間だけ、なぜか低地にふられていた字名「中井」にされていたのが再び「大上」にもどっているのはよしとして、どうしてそのような大きな調査ミスないしは誤採取が発生したのかを徹底的に解明するよう、現場の調査員へ強く検証要求することだろうか。大正中期ごろ、堤康次郎Click!による目白文化村の開発と同期するように、不動谷が西へ移動しているのと、字名「大上」(大正中期以前)→「中井」(大正末)→「大上」(昭和初期以降)の再々変更には、多分に政治的な臭気が漂っているようだ。
 上記の、1929年(昭和4)10月16日(第1校)のような校正作業を踏まえて、翌1930年(昭和5)に発行された陸地測量部による1/10,000地形図(昭和四年第三回修正測図)を参照すると、アカ入れ校正をした部分の修正結果が観察できて面白い。前年の校正で指摘された部分、特に文字や記号、道路などに関しては、ほぼきれいに修正されているが、修正のミスや積み残しも見つけることができる。
 たとえば、大きなものでは長崎町大和田4103番地の表現だ。校正者は、区画にはすでに家々が建てこんでいるので1戸だけ採取された家を「トル」にして、道路に囲まれた区画全体を斜めの「囿線」=市街記号で覆えと指示しているように解釈できる。ところが、刷り上がった1930年(昭和5)の地形図では、区画全体に囿線をかけたものの「トル」に指定された1戸ぶんだけが削除され、その結果、囿線がかからない「トル」跡が“白ヌキ”状態になってしまった。こういうところ、製版担当者は融通のきかなかい生真面目な人物だったのかもしれない。
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 先に、目白文化村の家々がスカスカでちゃんと採取されていないと書いたが、昭和初期のこの時期、東京郊外を担当する取材調査員は次々と建設される住宅や商店を前に、てんてこ舞いの忙しさだったろう。変化した状態を克明に写しとろうとすれば、おそらく修正レベルではなく、もう一度イチから地図を作るほどの手間がかかったにちがいない。マンパワーもコストにも限りがある中、どこかで妥協をして入稿をしなければ、翌年の定期発行には間に合わなかったにちがいない。それは、ゲラ刷りを見つめてアカを入れつづけた、各班の校正者たちについてもいえることだろう。

◆写真上:1926年(大正15)7月発行の、陸地測量部による1/10,000地形図「新井」。
◆写真下:陸地測量部が制作した1/10,000地形図「新井」の、1929年(昭和4)10月16日付け「第一校紙版」と、翌1930年(昭和5)発行の「昭和四年第三回修正測図」。
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