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さて、前回につづき清水多嘉示Click!のアルバムに残る、青山敏子様Click!からお送りいただいた写真Click!を検討してみよう。今回は、写真の中央にとらえられている旧・箱根土地本社ビル、すなわち1925年(大正14)より中央生命保険俱楽部として使用されていた建物がテーマだ。赤いレンガ造りの同ビルは、1922年(大正11)に竣工しているとみられるが、建設された当初の姿と、青山様からいただいた写真にとらえられた同ビルとは、かなり外観の形状が変化している。
もちろん、同ビルの“本館”と思われる西側の建築は、原型をしっかりとどめているように見えているが、エントランスのファサードにはあとから付け足すように設けられた、新たな四角く細長い構造物(おそらくコンクリート建築)や、屋根上に増えている煙突の数、そして東側に伸びる途中で“「”字型に屈曲したウィング状の建物が、当初の箱根土地が建設した本社ビルとは、大きく異なっている点だろう。
ただし、1922年(大正11)の竣工直後に撮影された箱根土地本社ビルと、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」に記載の同ビルのかたちからして、すでに微妙に異なっている。竣工直後の写真にはない建物の東北角のふくらみが、「目白文化村分譲地地割図」に記載された同建物には見られるのだ。したがって、同ビルの増改築(初期改装)は竣工した1922年(大正11)から、中央生命保険に売却する1925年(大正14)の3年余の間に一度、実施されているのかもしれない。
1925年(大正14)に、箱根土地本社が国立へと移転し、同建物を中央生命保険が買収すると、さっそく改装工事が行われているとみられる。まず、1925年(大正14)制作の松下春雄Click!の『下落合文化村入口』Click!と、1926年(大正15)に描かれた林武Click!の『文化村風景』Click!との間には、レンガ造りの建物の赤茶色い外壁をベージュ色に塗り替える作業が行われている。そして、それと同期しているのか、あるいは少しズレた施工なのかは不明だが、東側へ向け新たな建物が増築されているようだ。
つまり、大正期が終わった昭和初期には外壁カラーの変化とともに、本来のかたちから東側へやや長く伸びた細長い形状の建物になっていたと想定できる。箱根土地本社は、もともとオフィスビルとして建てられているので、中央生命保険が同社社員用のクラブハウスやゲストハウスの目的で使用することになると、不足している設備が多々あったとみられる。宿泊できる部屋の増設や、従来はオフィスビルとして使用されていたため、貧弱な暖房設備の不備があったかもしれない。大正期の石炭ストーブによる各室暖房から、本格的なボイラーの導入による統合的な温熱暖房を採用し、新たに煙突を設置して全館を温められる設備へと移行している可能性が高い。
また、クラブハウスとして使用するためには、宿泊施設や娯楽施設に加え、大浴場の設置は不可欠だったろう。浴場の釜場に必要な煙突もまた、時期は不明だが設置されたにちがいない。これらの増改築のうち、どれが昭和初期までに行われた工事なのかは不明だが、建物の外壁を塗り替え、東側に建物(おそらく本館に対して宿泊用の各室)を伸長したクラブハウスの姿を、仮に第1次改装と呼ぶことにする。清水多嘉示が、帰国後ほどなく描いた『風景(仮)』(OP287)は、第1次改装を終えたあと、あるいは改装中にとらえられた中央生命保険俱楽部の姿だと想定することができる。おそらく、1930年(昭和5)より少し前の姿ではないだろうか。
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その後、同クラブハウスはさらに引きつづき改装工事を行っているようだ。それは、青山様からお送りいただいた写真でも判然としている。まず、北側の正門を入りエントランスから見上げる建物のファサードが、箱根土地時代から大きく変化している。まるで学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!/1928年築)のような意匠の、四角いコンクリートとみられる2階建ての増築部が目立つ。おそらく、本館部の部屋数を増やすために追加建設された部分なのだろう。
また、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287)には見られない煙突が、おもに本館の北面に設置されている。これらの煙突が、先述した大規模な暖房や浴場を追加したための煙突かどうかは不明だが、1922年(大正11)に撮影された箱根土地本社の写真でも、また清水の『風景(仮)』(OP287)の画面でも見られない変化だ。さらに、建物の南西側にも煙突が確認できるが、これが箱根土地本社の時代からあったものか、あるいは中央生命保険俱楽部になってから設置されたものかは、いまいちハッキリしない。
ただひとつ、第1次改装では不可解な課題も挙げられる。同改装で東へ伸びたウィング状の建物(おそらく宿泊施設)は、先端が“「”字型にクラックしているが、清水多嘉示が描いた『風景(仮)』(OP287)ではそのような形状が見られないことだ。ただし、1928年(昭和3)3月ごろに撮影された落合第一小学校Click!の卒業写真(昭和2年度卒業生)Click!の背後には、“「”字型になった建物がとらえられている。清水多嘉示は、1928年(昭和3)5月に帰国しているので、2年前に撮られた写真の建物は、すでに存在していた。清水が『風景(仮)』(OP287)の画面にほどこした、省略の“構成”ないしはデフォルメだろうか。
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1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた中央生命保険俱楽部は、おそらく地上から撮影された清水多嘉示アルバムの写真にとらえられた建物と同一の姿、すなわち第2次改装を終えたあとの同クラブハウスの最終形なのだろう。同建物は、1938年(昭和13)ごろになるとすでに使われなくなり、廃屋・廃墟となっていたようだ。同年ごろ、クラブハウスの施設がどこかよそへ移転したか、1933年(昭和8)に中央生命保険自体が昭和生命保険に吸収されたため、同クラブハウスを廃止した可能性が高い。改正道路(山手通り)Click!の工事計画が発表され、同倶楽部敷地の東側が大きく道路計画にひっかかるため、別の施設への転用もなかったのだろう。
1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、すでに同倶楽部が採取されておらず“空き地”表現になっている。だが、1941年(昭和16)の空中写真を見ると、いまだに建物の姿を確認できる。「火保図(火災保険地図)」は、文字通り保険会社と地図制作会社の協同による住宅街地図なので、火災保険の対象とはならない廃屋や納屋、物置きなどは採取されにくいと思われる。1938年(昭和13)の時点で、中央生命保険俱楽部の建物は閉鎖され、立入禁止の囲いや立て看板(改正道路工事計画)が出ていたものか、「火保図」には採取されなかった可能性が高いように思う。
なお、1941年(昭和16)の斜めフカンから撮影された空中写真の元・中央生命保険俱楽部には、南側の不動園になんらかの施設らしい形状が確認できる。陽当たりのいい広い芝庭か、空き地のように見えるスペースは、中央生命保険俱楽部として使われていたときに設置されていた、不動園の起伏を活用したゴルフ練習場なのかもしれない。つづいて、1944年(昭和19)撮影の空中写真を見ると、すでに同建物はすべて解体され、敷地の東側を改正道路(工事中)が貫いているのが確認できる。おそらく、改正道路(山手通り)工事の進捗からみて、1943年(昭和18)ごろに解体されているのだろう。
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さて、最後に青山敏子様からお送りいただいた、もう1点の写真をご紹介したい。この情景は、青山様によれば帰国後に結婚し新居をかまえた高円寺でも、その後に転居した西荻窪のアトリエでもないし、子どもたちも清水家の長女・睦世様および長男・萬弘様ではない。友人宅を訪問した際、その家の子どもたちを撮影したものか、あるいは散策途中の住宅街で撮影したスナップ写真ではないかとのことだ。庭先には箱ブランコが置かれ、その前でふたりの子どもたちが遊んでいる。建物は、焦げ茶色をした下見板張りの外壁に、屋根はスレートかトタンで葺かれているように見える。モッコウバラかフジをはわせる園芸棚の上に見える屋根は、おそらく赤い色をしているのではないだろうか。
尖がり屋根に、採光用の小さな窓がうがたれるなど、外観はオシャレな西洋館だと思われるが、古くから下落合にお住まいの方で、特に目白文化村を中心にして、この西洋館と庭先に見憶えのある方はおられるだろうか? そして庭で遊ぶ子どもたちは、さて誰だろう? ひょっとすると、美術関係者のお宅かもしれないのだが、「写っているのは、わたしです」あるいは「戦災で焼けた、わが家です」と判明すれば、「下落合風景」を描く清水多嘉示の証跡が、より詳しくたどれてうれしいのだが……。
◆写真上:清水多嘉示が撮影したあたりから、中央生命保険俱楽部跡の方角を向いた現状。空襲で焦土化し再開発されているエリアなので、昔日の面影はまったくない。
◆写真中上:上は、1922年(大正11)の箱根土地本社と増改築の想定。中は、清水多嘉示アルバムの写真にとらえられた同俱楽部の拡大。下は、山手通りから眺めた同俱楽部跡の現状。手前の山手通りを加え中央の消防署に左隣りのマンションとスーパー「Olympic」まで、すべてが中央生命保険俱楽部(旧・箱根土地本社)の敷地だった。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中央生命保険俱楽部で、清水多嘉示が撮影した写真と同様に建物の最終形と思われる。中上は、1938年(昭和13)の「火保図」に採取されていない同俱楽部。すでに倶楽部は廃止か移転し、取り壊し工事が前提の空きビル(廃墟)になっていたとみられる。中下は、1941年(昭和16)の斜めフカンから撮影された同ビルで解体寸前の姿だと思われる。下は、1944年(昭和19)撮影の空中写真で建物は解体され、東側の改正道路(山手通り)工事がかなり進捗している。
◆写真下:上は、箱根土地本社から中央生命保険俱楽部へと推移する過程で発生した増改築の想定図。中は、住宅の建て替えで更地になっていた下落合1340番地の穂積邸跡の一部敷地。下は、どこかの知人宅の庭で撮影されたと想定できる子どもたちの写真。
★掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。
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さて、前回につづき清水多嘉示Click!のアルバムに残る、青山敏子様Click!からお送りいただいた写真Click!を検討してみよう。今回は、写真の中央にとらえられている旧・箱根土地本社ビル、すなわち1925年(大正14)より中央生命保険俱楽部として使用されていた建物がテーマだ。赤いレンガ造りの同ビルは、1922年(大正11)に竣工しているとみられるが、建設された当初の姿と、青山様からいただいた写真にとらえられた同ビルとは、かなり外観の形状が変化している。
もちろん、同ビルの“本館”と思われる西側の建築は、原型をしっかりとどめているように見えているが、エントランスのファサードにはあとから付け足すように設けられた、新たな四角く細長い構造物(おそらくコンクリート建築)や、屋根上に増えている煙突の数、そして東側に伸びる途中で“「”字型に屈曲したウィング状の建物が、当初の箱根土地が建設した本社ビルとは、大きく異なっている点だろう。
ただし、1922年(大正11)の竣工直後に撮影された箱根土地本社ビルと、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」に記載の同ビルのかたちからして、すでに微妙に異なっている。竣工直後の写真にはない建物の東北角のふくらみが、「目白文化村分譲地地割図」に記載された同建物には見られるのだ。したがって、同ビルの増改築(初期改装)は竣工した1922年(大正11)から、中央生命保険に売却する1925年(大正14)の3年余の間に一度、実施されているのかもしれない。
1925年(大正14)に、箱根土地本社が国立へと移転し、同建物を中央生命保険が買収すると、さっそく改装工事が行われているとみられる。まず、1925年(大正14)制作の松下春雄Click!の『下落合文化村入口』Click!と、1926年(大正15)に描かれた林武Click!の『文化村風景』Click!との間には、レンガ造りの建物の赤茶色い外壁をベージュ色に塗り替える作業が行われている。そして、それと同期しているのか、あるいは少しズレた施工なのかは不明だが、東側へ向け新たな建物が増築されているようだ。
つまり、大正期が終わった昭和初期には外壁カラーの変化とともに、本来のかたちから東側へやや長く伸びた細長い形状の建物になっていたと想定できる。箱根土地本社は、もともとオフィスビルとして建てられているので、中央生命保険が同社社員用のクラブハウスやゲストハウスの目的で使用することになると、不足している設備が多々あったとみられる。宿泊できる部屋の増設や、従来はオフィスビルとして使用されていたため、貧弱な暖房設備の不備があったかもしれない。大正期の石炭ストーブによる各室暖房から、本格的なボイラーの導入による統合的な温熱暖房を採用し、新たに煙突を設置して全館を温められる設備へと移行している可能性が高い。
また、クラブハウスとして使用するためには、宿泊施設や娯楽施設に加え、大浴場の設置は不可欠だったろう。浴場の釜場に必要な煙突もまた、時期は不明だが設置されたにちがいない。これらの増改築のうち、どれが昭和初期までに行われた工事なのかは不明だが、建物の外壁を塗り替え、東側に建物(おそらく本館に対して宿泊用の各室)を伸長したクラブハウスの姿を、仮に第1次改装と呼ぶことにする。清水多嘉示が、帰国後ほどなく描いた『風景(仮)』(OP287)は、第1次改装を終えたあと、あるいは改装中にとらえられた中央生命保険俱楽部の姿だと想定することができる。おそらく、1930年(昭和5)より少し前の姿ではないだろうか。
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また、清水多嘉示の『風景(仮)』(OP287)には見られない煙突が、おもに本館の北面に設置されている。これらの煙突が、先述した大規模な暖房や浴場を追加したための煙突かどうかは不明だが、1922年(大正11)に撮影された箱根土地本社の写真でも、また清水の『風景(仮)』(OP287)の画面でも見られない変化だ。さらに、建物の南西側にも煙突が確認できるが、これが箱根土地本社の時代からあったものか、あるいは中央生命保険俱楽部になってから設置されたものかは、いまいちハッキリしない。
ただひとつ、第1次改装では不可解な課題も挙げられる。同改装で東へ伸びたウィング状の建物(おそらく宿泊施設)は、先端が“「”字型にクラックしているが、清水多嘉示が描いた『風景(仮)』(OP287)ではそのような形状が見られないことだ。ただし、1928年(昭和3)3月ごろに撮影された落合第一小学校Click!の卒業写真(昭和2年度卒業生)Click!の背後には、“「”字型になった建物がとらえられている。清水多嘉示は、1928年(昭和3)5月に帰国しているので、2年前に撮られた写真の建物は、すでに存在していた。清水が『風景(仮)』(OP287)の画面にほどこした、省略の“構成”ないしはデフォルメだろうか。
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1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、すでに同倶楽部が採取されておらず“空き地”表現になっている。だが、1941年(昭和16)の空中写真を見ると、いまだに建物の姿を確認できる。「火保図(火災保険地図)」は、文字通り保険会社と地図制作会社の協同による住宅街地図なので、火災保険の対象とはならない廃屋や納屋、物置きなどは採取されにくいと思われる。1938年(昭和13)の時点で、中央生命保険俱楽部の建物は閉鎖され、立入禁止の囲いや立て看板(改正道路工事計画)が出ていたものか、「火保図」には採取されなかった可能性が高いように思う。
なお、1941年(昭和16)の斜めフカンから撮影された空中写真の元・中央生命保険俱楽部には、南側の不動園になんらかの施設らしい形状が確認できる。陽当たりのいい広い芝庭か、空き地のように見えるスペースは、中央生命保険俱楽部として使われていたときに設置されていた、不動園の起伏を活用したゴルフ練習場なのかもしれない。つづいて、1944年(昭和19)撮影の空中写真を見ると、すでに同建物はすべて解体され、敷地の東側を改正道路(工事中)が貫いているのが確認できる。おそらく、改正道路(山手通り)工事の進捗からみて、1943年(昭和18)ごろに解体されているのだろう。
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さて、最後に青山敏子様からお送りいただいた、もう1点の写真をご紹介したい。この情景は、青山様によれば帰国後に結婚し新居をかまえた高円寺でも、その後に転居した西荻窪のアトリエでもないし、子どもたちも清水家の長女・睦世様および長男・萬弘様ではない。友人宅を訪問した際、その家の子どもたちを撮影したものか、あるいは散策途中の住宅街で撮影したスナップ写真ではないかとのことだ。庭先には箱ブランコが置かれ、その前でふたりの子どもたちが遊んでいる。建物は、焦げ茶色をした下見板張りの外壁に、屋根はスレートかトタンで葺かれているように見える。モッコウバラかフジをはわせる園芸棚の上に見える屋根は、おそらく赤い色をしているのではないだろうか。
尖がり屋根に、採光用の小さな窓がうがたれるなど、外観はオシャレな西洋館だと思われるが、古くから下落合にお住まいの方で、特に目白文化村を中心にして、この西洋館と庭先に見憶えのある方はおられるだろうか? そして庭で遊ぶ子どもたちは、さて誰だろう? ひょっとすると、美術関係者のお宅かもしれないのだが、「写っているのは、わたしです」あるいは「戦災で焼けた、わが家です」と判明すれば、「下落合風景」を描く清水多嘉示の証跡が、より詳しくたどれてうれしいのだが……。
◆写真上:清水多嘉示が撮影したあたりから、中央生命保険俱楽部跡の方角を向いた現状。空襲で焦土化し再開発されているエリアなので、昔日の面影はまったくない。
◆写真中上:上は、1922年(大正11)の箱根土地本社と増改築の想定。中は、清水多嘉示アルバムの写真にとらえられた同俱楽部の拡大。下は、山手通りから眺めた同俱楽部跡の現状。手前の山手通りを加え中央の消防署に左隣りのマンションとスーパー「Olympic」まで、すべてが中央生命保険俱楽部(旧・箱根土地本社)の敷地だった。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中央生命保険俱楽部で、清水多嘉示が撮影した写真と同様に建物の最終形と思われる。中上は、1938年(昭和13)の「火保図」に採取されていない同俱楽部。すでに倶楽部は廃止か移転し、取り壊し工事が前提の空きビル(廃墟)になっていたとみられる。中下は、1941年(昭和16)の斜めフカンから撮影された同ビルで解体寸前の姿だと思われる。下は、1944年(昭和19)撮影の空中写真で建物は解体され、東側の改正道路(山手通り)工事がかなり進捗している。
◆写真下:上は、箱根土地本社から中央生命保険俱楽部へと推移する過程で発生した増改築の想定図。中は、住宅の建て替えで更地になっていた下落合1340番地の穂積邸跡の一部敷地。下は、どこかの知人宅の庭で撮影されたと想定できる子どもたちの写真。
★掲載されている清水多嘉示の資料類は、保存・監修/青山敏子様によります。