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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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1,500万人のみなさん、ありがとう。

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聖母坂廃墟.jpg
 先日、拙ブログへの訪問者数が、のべ1,500万人を超えた。いまは14年目を迎えているので、平均すると1年間にのべ100万人以上の方々に読まれた勘定になる。相変わらず長くて拙い文章ばかりだが、よろしければこれからもチラリと覗いていただければ幸いだ。
◆2018年1月17日 PM17:00現在
落合道人PV20180117.jpg
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 最近、集中力が落ちてると感じる。歳のせいかとも考えたのだが、どうやらそれだけではなさそうだ。なにかを観察したり、じっくり考えごとをしているとき、頻繁にメールや電話でそれを中断されることが多い。ましてや、PCに向かっているとメールやIMがひっきりなしで、なかなか意識を集中できない。
 特に、大きなお世話のSNSによる“いたれりつくせり”の情報過多は、うるさいを通り越しサイバーストーカーじみていて異常だ。「アクセスしたいときゃ勝手にするから、ほっといてくんないか。小学校の低学年じゃねぇ~んだからさ!」と腹が立つのだけれど、現代においては重要なコミュニケーションツールのひとつなので、さっさと止めてしまうわけにもいかない。そう、周囲からの情報があまりに多すぎて、なかなか意識を内面に集中することができないのだ。
 これは、街を歩いているときにも感じる。以前、とある考えや想いの世界に沈潜しながら街中を歩いていると、誰かに声をかけられても気づかないことが多く、たいへん失礼ながら結果的に無視をするようなかたちになってしまうという、わたしの「いっちゃってる」状態Click!について書いたことがある。ところが、最近は街中を歩いていても“心ここにあらず”的な状況に陥ることは、以前に比べてかなり少ない。
 特に平日は、メールや電話で“起こされる”ことが多くなり、「いっちゃってる」状態になりにくくなったのだ。これは考えごとをしているときに限らず、街を観察しながら歩いているときでも、携帯へ次から次へと連絡がとどくので、それに気をとられていると考えがまとまらず、街の様子も記憶に残らず、曖昧なままですぎてしまう。「あれ、いまなにを考えてたんだっけ?」とテーマが霧散してしまったり、「あの店は、きょう開いてたのかな?」と街並みの様子をロクに憶えていないレベルならまだしも、知らないうちに場所を瞬間移動したような感覚になり、「ここはどこ? あれっ、いつの間に!?」というようなことにもなりかねない。
 手もとに配信される情報に気をとられているうちに、ヘタをすると周囲の風景や街並みの変化にさえ気づかず、知らないうちに時代が移ろっていた……なんてことにもなりかねないほど、些細な情報にふりまわされている感触をおぼえるのだ。この現象、極端なことをいえばバーチャルな世界にはまりこみ、リアルな空間の大きくて重要な変化に気づかないまま、時間だけがアッという間にすぎていく……というような、どこかM.エンデの「灰色の男」たちから時間をドロボーされている感覚に近いだろうか。端末を見ながら歩行する、“スマホゾンビ”な人たちは、おそらく「灰色の男」たちからたっぷりと時間を吸いとられているのだろう。
 知らないうちに、街の姿や通りの風情が変わっているのに「あれっ?」と気づくことを、わたしは「浦島太郎」現象と呼んでいる。これは、別に多種多様な携帯デバイスが普及する以前から起きていたことで、手もとにとどく情報の過多が原因ではない。この現象は、特に「バブル期」と呼ばれた1980年代から1990年代にかけて、下落合とその周辺域でも頻繁に起きていた。もっとも、当時は仕事もそれなりに多忙をきわめ、周辺を落ち着いて見まわしている時間がなかなかとれなかったせいもあるのだろう。
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 当時から、わたしは仕事に出るとき地下鉄と山手線の双方が利用できる高田馬場駅まで歩くことが多く、目白駅はあまり利用していない。休日などで、たまに目白駅へ出ようとすると、目白通りの様子がさま変わりしているのに驚いたものだ。変わり方が早すぎて、以前の風景や店舗を思い出せないこともたびたびだった。ところが、下落合から高田馬場駅までの街並みのほうが、目白駅の周辺などに比べれば、よほど変化が激しかったのだ。それに気がついたのは、高田馬場駅のリニューアルとその周辺域の再開発工事が終わり、多くの工事現場を覆っていた養生が取り払われたときだ。
 高田馬場駅とその周辺の改良工事は、わたしの学生時代からほぼ30年ほどはつづいていた。駅舎やホーム自体の改良工事だけでなく、駅前広場や地下通路までを含む大がかりな工事だった。このサイトをはじめたころ、駅前広場の噴水に設置されていた「平和の女神」像Click!が、ずっと行方不明のままになっていることを記事にしている。(噴水こそなくなったが、いまは駅前広場に帰還Click!している)
 また、高田馬場駅のリニューアルとまるで連動するかのように、神田川の護岸改修工事と斜めに架けられた神高橋Click!の全面架け替え工事、神高橋の南詰めにあった小さな児童遊園をつぶして戸塚地域センターの建設……などなど、あたりの風景を一変させてしまう工事がこの数十年間で目白押し……、いや高田馬場押しにつづいていたのだ。
 先日、新藤兼人・脚本による『東京交差点』(パーム/1991年)というオムニバス映画を観た。監督は松井稔と須藤公三、山本伊知郎の3人が各話を担当し、日本で初めて制作されたハイビジョン映画ということで、モントルーのエレクトロニック・シネマ・フェスティバルに出品され、ドラマ部門奨励賞を受賞した作品だそうだ。そこには、高田馬場駅から神田川、早稲田、目白台あたりにかけての情景が頻繁に登場する。公開が1991年(平成3)なので、実際の撮影は1980年代末ということになるのだろう。どこか「昭和」の香りが強く残る風景であり、「バブル爛熟期」の高田馬場から神田川沿いの風景を記録した作品だが、残念ながら山手線西側の下落合は映っていない。
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 この映画を観ていて、ストーリーをまったくそっちのけで感じたのは、改めて“そこにあった街並み”に思い当たり、「そうそう、そうだった」と多くの“気づき”をおぼえたことだ。そこに映るあちらこちらの街角は、かつて自分が立っていた場所であるにもかかわらず、わずか20年余でおぼろげな記憶になってしまっていた。「記憶の風化」といってしまえばそれまでだが、携帯デバイスなど存在しない、よく街を見つめ観察できていたはずの時代の風景でさえも、そこが特別強い印象に残る場所でない限り、多くの時間がすぎれば鮮明な記憶の編み目がほころび、やがては崩れ去ってしまうのだろう。
 画面には、駅員が切符や定期を視認する高田馬場駅の改札や、30年間ほど重機と建築資材の置き場にされていた駅前広場、芳林堂書店の並びには目白駅前の支店Click!はとうにつぶれていたが、待ち合わせによく利用していたケーキ&喫茶の「ボストン」本店、学生時代から馴染み深い斜めに架かる神高橋、コンパでときどき利用した早大西門の八幡寿司、目白崖線に通う急坂など、懐かしい光景が次々と現れては消えた。
 いくつかの風景は、いまも変わらずにそのまま残ってはいるが、変わってしまった風景の“差分”に気づかされるのは、やはり写真よりも人々が動いて記録されている映像のほうが圧倒的に多い。それは、固定されてしまったスチール写真からよりも、当時の空気感のようなものが動く画面からは呼び起こされ、より多くの映像と記憶の断片とが脳内でつながるからだろう。ふだんは思い起こすことさえ、とうに忘れていた情景が、当時の映像を観たとたん湧き上がるように浮かんでくる。現代の同じ場所に立っても、まずは思い出せないような記憶が、当時の街角を目にしたとたん期せずして甦ってくる。人間の脳や記憶力とは、なんとも不思議なものだと改めて気づく瞬間だ。
 先日、子どもたちが小さいころのアルバムの整理をしていたら、1980年代後半に撮影した聖母坂界隈の写真が出てきた。『東京交差点』とほぼ重なる時代だが、リニューアル工事前の国際聖母病院Click!や、島津製作所の小さな製造プラント(現・落合第一地域センター)、戦前に建設されたモダンな「Green Studio Apartment(グリン・スタディオ・アパートClick!)」の廃墟などが写っていて懐かしい。確か子育ての最中なので、ビデオにも撮っていたように思うが、さてどこに仕舞いこんだものだろうか。
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 おそらく、写真よりも映像を観たほうが、もっと多くの埋もれた記憶を呼びさませるのかもしれないが、フッとわれに返ってみると、昔の映像を観ながら「そうそう、そうだった」などと懐かし気に微笑んでいて、いったいど~すんだよ?……という声が聞こえてくる。人間、昔の情景や記憶などは忘れて、日々忙しく前向きに生活し仕事をしているうちが“花”だと思うのだが、PCや携帯デバイスを見つめつづけて膨大な情報に追われ、この時代のリアルな“風景”を見逃すことだけは、なんとしても避けたいと思っている。

◆写真上:聖母坂沿いに残っていた、モダンな「グリン・スタディオ・アパート」の廃墟(地下部)。建設されたのは、おそらく1937年(昭和12)だと思われる。
◆写真中上は、1970年代の前半に撮影された高田馬場駅。は、『東京交差点』でとられられた1980年代末の同駅。同作品はVHSのみで、DVD化されていないのが残念だ。は、駅員がいる同駅の改札口。
◆写真中下は、『東京交差点』ではもとのまま斜めに架かる神高橋。は、位置も移して架け替えられた現・神高橋。は、ケーキ&喫茶店「ボストン」本店から見た高田馬場駅。駅前広場がなくなり、重機・資材置き場にされている様子がとらえられている。
◆写真下は、1980年代半ばに撮影した「グリン・スタディオ・アパート」の廃墟。中上は、現在の同所。中下は、1980年代半ばに写した国際聖母病院の養老ホームあたり。1931年(昭和6)からの大谷石による擁壁が坂上までつづき、擁壁の土手上にはヤエザクラの並木がつづいていた。は、現在の同所に建てられた聖母会聖母ホーム。

下落合から中野広町へ転居した相馬邸。

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 ずいぶん以前、下落合(1丁目)310番地(現・下落合2丁目)の御留山Click!に建っていた相馬邸Click!が、中野へと転居した経緯をご紹介Click!した。1936年(昭和11)2月に死去した相馬孟胤Click!にかわり、相馬家の跡を継いだ相馬恵胤が家督相続をしてから決定されたものだ。
 相馬家の家族たちは、1939年(昭和14)まで下落合に住み、そのあと第一徴兵保険Click!太田清蔵Click!に御留山の土地や家屋を売却すると、中野区広町20番地(現・中野区弥生町6丁目)に5,000坪の土地を購入して転居している。この間の事情は、相馬家一族のおひとりである相馬彰様Click!よりうかがっていたが、中野の相馬邸についてもいくらか地図などの資料類をいただいていたので、改めてこちらでご紹介しておきたい。
 中野区広町20番地は、ちょうど旧・神田上水(1966年より神田川)と善福寺川とが落ち合う位置に形成された高台の地形で、南西から北東に向け半島のように突き出した丘陵地の先端部分にあたる。現在の地勢でいえば、東京メトロ・丸ノ内線の方南町駅から直線で北東方向へ400m余、駅から歩いて5~6分ほどでたどり着ける距離になる。東京メトロ中野検車区の西隣り、神田川をはさみ西側の高台一帯が中野区広町の相馬邸跡ということになる。広町相馬邸の北側は、善福寺川へ向けてなだらかな斜面がつづくが、東側の神田川に面した斜面は急傾斜のバッケ(崖地)Click!に近い斜面となっている。
 相馬家は、下落合の土地家屋を売却したあと、すぐに中野広町へいっせいに引っ越しているわけではなく、広町の高台へいくつかの建物が竣工してから順次転居しているとみられる。1940年(昭和15)の1/10,000地形図には、広町20番地に大小の建物が2つほど記載されているので、おそらく下落合からの転居は同年から翌年にかけてとみられる。翌1941年(昭和16)の斜めフカンから撮影された空中写真には、敷地の北寄りに大きな建物がいくつか見え、また敷地の南側にも工務店の建設作業小屋だろうか、白い屋根がふたつ捉えられている。
 中野広町の高台に、新たな相馬邸が残らず竣工したのは、おそらく1942~43年(昭和17~18)ごろとみられる。1944年(昭和19)に撮影された空中写真には、北側の大きな屋敷と広い芝庭、それより規模がやや小さい南側の屋敷と芝庭が写っている。おそらく北側の大屋敷が本邸(表屋敷)で、南側の少し小さめな屋敷が隠居屋敷、あるいは家族がよりくつろげるプライベートな私邸のような使われ方をしたものだろうか。空中写真で眺めるとピンとこないが、建設された屋敷や南側に造成された芝庭は、周辺の濃い屋敷林を残しつつとてつもない広さだ。
 現地を実際に歩いてみると、その広大さがよく実感できる。方南通りを神田川に架かる栄橋方面へ歩いていくと、その手前で北へ斜めに入る道路がある。この道は江戸期からつづく古い街道で、そのまま北へ進むと善福寺川に架かる駒ヶ坂橋へと抜ける。相馬邸敷地の西に接したこの道から、当初は蛇行していた東側の旧・神田上水の岸までの南北に長い丘陵地が、すべて広町相馬邸の敷地だったことになる。江戸期から明治期にかけての古い字名の境界でいえば、相馬邸の広い敷地は東側と南側は(字)広町、西側は(字)本村でふたつの字名地にまたがっていた。現在の地勢でいえば、中野区の最南端に位置する地域で、すぐ南西側を杉並区エリアの和田堀内に接している。最寄りの方南町駅は、杉並区方南2丁目に設置されている。
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 地形図から読みとれば、相馬邸の北側に建っていた大屋敷のほうが少し低めの位置にあり、南側の邸がやや高めな位置に建っていたように思えるが、両邸の建設と同時に大規模な整地が行なわれ、ともに水平の敷地になっていたのかもしれない。1944年(昭和19)の空中写真を観察する限り、両邸とも和館が中心だったような意匠をしているが、北側の大屋敷は一部に洋館部のある和洋折衷の造りだったように思われる。
 広町の相馬邸は、両邸とも空襲で全焼しているが、家族は戦後もしばらくの間、敷地の東寄りに建っていた長屋に住みつづけていたのを、相馬様よりうかがっている。やがて、相馬邸敷地は東京都住宅供給公社が買収し、そこへ建物間にたっぷりとした広場を設けた全9棟の公社団地が建設されていることからも、その敷地の広大さがうかがい知れる。現在は、敷地の北側にコーシャハイム中野弥生町の高層集合住宅が建っているが、公務員弥生宿舎になり7棟の集合住宅が建てられていた南側は、広い空き地(草原)として開発予定地になったままだ。
 現地のどこかに、当時の相馬邸をしのばせる痕跡がないかどうか探したが、敷地北側の東西道(現在の丸太公園北側の接道)沿いに、昭和初期に設置されたとみられる古いコンクリートの擁壁を確認できる。良質の玉砂利Click!がふんだんに使われた、明らかに戦前の仕事だと思われるので、これが相馬邸時代からつづく当時の擁壁の一部だろう。相馬邸跡を1周してみたが、都住宅供給公社の団地が建てられる際、おそらく土地の大改造が行なわれているとみられ、当時の面影は先のコンクリート擁壁のみしか発見できなかった。
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 さて、相馬邸跡をしばらく散策したあと、方南町駅の南側の杉並区側へ入り、釜寺東遺跡(方南2丁目)の発見場所を見学することにした。遺跡一帯は、神田川へ向けて南へ下がる河岸段丘の斜面で、下落合よりも傾斜の角度は緩やかだが、どこかよく似た風情をしている。その南斜面で、2004~2005年(平成16~17)にかけて大規模な発掘調査が行なわれ、中野区の向田遺跡を含め、神田川流域で最大クラスの古墳時代後期の集落跡が発見された。つまり、このあたり一帯が古墳後期における大きな“街”だったことが、改めて確認されたわけだ。
 だが、これら規模の大きな集落跡に見あう数多くの古墳が、近隣でほとんど発見されていないのはどうしてだろう? この地域もまた、戸塚から落合、大久保、角筈にかけて伝承されている「百八塚」Click!の経緯と同様に、多くの古墳が開墾されたり、開発や宅地造成で崩され住宅街の下になってしまったのではないだろうか。また、釜寺東遺跡の釜寺=東運寺の名が示すとおり、遺跡が発見された南斜面には江戸期から墓域が形成されており、実は同じ斜面に近接して古墳後期のコンパクトな古墳群、たとえば横穴古墳群Click!地下式横穴古墳群Click!などが形成されていた可能性もある。いずれにしても、現在はすべてが住宅や墓地の下になっており、発掘や調査は容易ではないだろう。
 釜寺東遺跡は現在、その一部が方南二丁目公園になっているが、西側に隣接した東運寺(釜寺)の広い墓地はともかく、その周辺で住宅のリニューアル工事が行なわれれば、地下からなにか新たな発見があるかもしれない。神田川から眺めた方南2丁目の南斜面は、目白崖線に比べてかなり低くてなだらかだが、縄文期から古墳期にかけて家々が建ち並びそうな、いかにも住みやすそうな地勢をしている。下落合の御留山の地形を考慮すれば、広町の崖地よりも方南2丁目の南斜面のほうが相馬邸の敷地に適しているように感じるのだが、おそらく東運寺(釜寺)の墓域が拡がっていたのと、早くから宅地開発が行なわれていたせいで、まとまった広い地所を入手するのが困難だったのではないだろうか。
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 将門相馬家が明治末から大正初期にかけ、なぜ赤坂からの転居先に下落合の御留山を選定しているのか、さまざまな角度から検証Click!し、また落合地域の妙見信仰Click!神田明神Click!とのつながりからも考察してきたけれど、下落合からの転居先として、なぜ中野区の広町を選択しているのかを、いろいろな角度から近いうちに検討してみたいと考えている。

◆写真上:広町相馬邸の北側邸跡に建つ、住宅供給公社のコーシャハイム中野弥生町。
◆写真中上は、1939年(昭和14)の1/10,000地形図に採取された建設中の相馬邸(北側邸/)と、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された空中写真にみる相馬邸(北側邸/)。南側には、工務店の建設小屋らしい建物の屋根が白く2棟見えている。は、1944年(昭和19)撮影の空中写真にみる敷地北側と南側の両邸。は、敷地北側の道路沿いに残った相馬邸のものと思われるコンクリート擁壁。
◆写真中下は、相馬邸跡の北側で神田川(手前)と善福寺川(左手)が落ち合う合流点。は、神田川沿いから見上げた相馬邸(北側邸)跡の崖地。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる空襲で全焼した相馬邸敷地の2つの邸跡()と、同年に制作された1/10,000地形図にみる相馬邸焼け跡()。
◆写真下は、広い草原のままとなっている相馬邸敷地の南側邸跡。は、神田川が流れる南向き緩斜面の釜寺東遺跡。その一部が、記念に方南二丁目公園として残されている。は、釜寺東遺跡から出土した古墳時代後期の遺物。

このごろの鉛筆をめぐる話。

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 岩崎家Click!の三菱財閥よりも10年も前に、“スリーダイヤ”の商標登録を行い、日本で最初の鉛筆工場を新宿御苑Click!の東隣り、内藤新宿1番地(現・新宿区内藤又1番地)に起ち上げた眞崎鉛筆(三菱鉛筆)についてご紹介Click!した。当初は工場に接した玉川上水(渋谷川源流)の水車で、あるいは周辺地域の水車小屋で黒鉛の粉砕を行なっていたが、その後同社の事業はどうなったろうか。
 大正期に入ると、次々と鉛筆製造企業が台頭してくる。戦前までに数えられる大手企業としては、三菱鉛筆とトンボ鉛筆、コーリン鉛筆、ヨット鉛筆、地球鉛筆、森彌鉛筆などが挙げられる。国産鉛筆の品質のよさが、定着しはじめたのもこのころだ。だが、これらの鉛筆企業は日米戦争が迫るにつれ、鉛筆の原料となる米国産の木材インセンスシダー(オニヒバ)の輸入が困難となり、また黒鉛の輸入も減少して品質が急低下している。同時に、鉛筆は国から配給される統制品となり、自由に生産することが困難になった。そして、これらの鉛筆工場は戦争により、その多くが壊滅している。
 戦後の復興は、空襲による都市部の被害がより大きかった東日本のほうが早い。1949年(昭和24)現在、西日本の鉛筆企業が15社に対し、東日本は95社におよんでいる。また、東京には80社(67工場)と集中化がみられた。だが、その多くは中小企業が多く、全体の55%が個人経営の小規模なものであり、全体の71%が従業員20人以下の生産現場だった。鉛筆製造の復興が本格化するのは、1950年代になってからのことだ。
 日本の鉛筆が、世界市場でも目立つようになってきたのは、1955年(昭和30)ごろからだ。年間の生産量が90万グロス(1グロス=12ダース=144本)、つまり約1億3,000万本に達し、そのうちの30%が海外へ輸出されている。さらに、1966年(昭和41)にはついに962万グロス(約14億本)となり、生産量と品質ともにドイツや米国と肩を並べる、「鉛筆大国」にまで上りつめている。ちょうど同時期には、“高級鉛筆”と呼ばれる「減らない・折れない・書きやすい」高価な鉛筆も大手2社から売され、これも世界的なヒット商品となった。三菱鉛筆(眞崎鉛筆)でいえば、uni/High-Uniシリーズのことだ。 
 また、鉛筆に付加価値をつけた香水鉛筆や誕生石鉛筆、細軸鉛筆、祝事用の金箔・銀箔鉛筆なども登場している。わたしが小学生のころ、女子たちはみんなパールカラーで塗装された細軸の香水鉛筆を筆箱の中に入れており、新製品が出ると匂いをかがせてもらったものだ。香水鉛筆には、芯を包む木材に香料を染みこませたものと、芯に香料を混ぜたものとがあったようだ。芯に香りがついていると、書いた紙面にいい匂いが移るので、女子たちには人気だったのだろう。
 だが、筆記用具としての鉛筆の役割りは、1960年代後半から1970年代前半にかけてがピークで、その後は徐々に衰退をはじめている。1970年代の半ばには、生産量が500万グロスとピーク時の約半分にまで落ちこんだ。これは、シャープペンシルやボールペンが急速に台頭し、いちいち芯を削らなければならない鉛筆が敬遠されはじめたことによる。シャーペンは、なだらかな曲線を描いて普及していったのに対し、ボールペンの生産量は1970年代半ばから急激なカーブを描いて上昇している。鉛筆市場を侵食していったのは、シャーペンではなくボールペンだった。イベントなどの記念品で配られるのも、鉛筆ではなくボールペンが主流になっていった。
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 鉛筆の生産量は、1990年代に入ると300万グロスにまで落ちこみ、それに拍車をかけたのが少子化だった。それでも三菱鉛筆をはじめ大手メーカーは、あの手この手で市場の縮小をくい止めようとしている。そのひとつが、鉛筆の塗装にアニメやゲームの人気キャラクターをプリントしたり、鉛筆自体をゲームのグッズにしてしまうことで、生産量の落ちこみをカバーしようとしている。1990年代の半ば、生産量がやや上向いているのは、キャラクター付きのゲーム鉛筆(勝負鉛筆)が売れに売れたからだ。わが家もそうだが、このブームで各家庭には使わない鉛筆があふれ返ることになった。
 でも、鉛筆の衰退は止めることができず、現在は100万グロスにまで生産量が減少してしまった。日本鉛筆工業協同組合Click!が、鉛筆の誕生から衰退までをまとめた、「鉛筆と日本の鉛筆工業の歴史」(2012年)から引用してみよう。
  
 この少子化、消費低迷の時代にあって平成8年(1996年)、9年は鉛筆の生産が若干伸びている。これは学童文具メーカーによるアニメーション、テレビゲームなどの「漫画やキャラクターがついている鉛筆」、「ゲーム鉛筆」などメディアとタイアップした企画が小学生に受け入れられたことによるが、ブームは一時的であった。/以降、平成13年(2001年)~19年(2007年)の国内生産は、200万グロス台に減少、大手企業が海外に生産拠点を移したこともあって平成18年(2006年)には国内生産と輸入数量が逆転し、平成20年(2008年)からは、100万グロス台となっている。
  
 さて、1985年(昭和60)に福音館書店から出版された、谷川俊太郎・文/堀内誠一・絵/坂井信彦ほか・写真による『いっぽんの鉛筆のむこうに』という絵本がある。小学校の国語教科書にも取り上げられたので、記憶されている方も多いのではないだろうか。鉛筆が、さまざまな国で産出される原料を使い、日本に輸入されて1本の鉛筆に仕上がるまでの経緯を描いたものだ。
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 1985年(昭和60)という年は、筆記用具の市場で鉛筆の衰退が誰の目にも明らかになっていたころで、海外を含む多彩な分業や協働によって日本製品は造られている……という教育的な視点によるものだが、特に鉛筆でなくても身近な製品で物語は成立したはずだ。ことさら鉛筆をテーマにしたのは、衰退をつづける鉛筆に対する“鉛筆世代”の愛着からだろうか。この絵本で取り上げられているのが、眞崎仁六がはじめた三菱鉛筆だ。『いっぽんの鉛筆のむこうに』は、いまから32年前の作品であり、すでに現状とは合わない記述も多くなっている。『いっぽんの鉛筆のむこうに』から、少し転用してみよう。
  
 人間は鉛筆いっぽんすら自分ひとりではつくりだせない。いまでは、どこのうちのひきだしのなかにもころがっている鉛筆だが、そのいっぽんの鉛筆をつくるためには、かぞえきれぬほどおおぜいの人がちからをあわせている。
  
 まず、黒鉛の主要輸入先としてスリランカのポディマハッタヤ一家が紹介されているが、現在は中国からの輸入がトップを占めている。次にブラジルがつづき、スリランカは3位に後退している。また、黒鉛に混ぜる粘土の産地は、ドイツとイギリスからの輸入がメインだ。米国のシエラネバダ山脈で産出する、インセンスシダー(Incense Ceder)の輸入はいまも変わらないが、太平洋を乗りこえて木材を日本に運ぶ、絵本に写真や設計図入りで紹介されたメキシコのコンテナ船「ハリスコ(Jalisco)」号(22,000t/広島で建造)は、とうに退役するか売却されたらしく、現在はより大規模な異なるコンテナ船に「ハリスコ」号(40,000t超)の名前が使われている。おそらく旧・「ハリスコ」号は、異なる船名をつけられて、現在でもどこかに就航しているのだろう。
 山形県東置賜郡の川西町にある、三菱鉛筆山形工場はいまも健在だ。絵本では、大河原一家が紹介されているが、当時は塗装ラインを担当していた奥さんは、いまでは熟練工となって同工場でそのまま働いているようだ。ただし、同工場の生産品は鉛筆が減少し、ボールペンとシャーペン芯の製造が主流となっている。
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 わたしも、鉛筆を使う機会がほとんどない。いや、ふだんから仕事でも生活でも筆記用具を手にするシーンが非常に少なくなってしまった。たまに使うとすれば、付箋を挿む際のシャーペンかボールペンによるメモ書きで、ほとんどがメモ類やスケジュールまで含めて、PCなどのデバイス入力に移行している。ただし、ときどきイタズラ描きする色鉛筆は手もとに置いているが、いまメーカーを確かめてみたら残念ながらファーバーカステル(ドイツ製)だった。今度買うときは、ぜひ国産の色鉛筆にしてみたいと思う。

◆写真上:製造ラインを流れる塗装待ちの鉛筆で、『いっぽんの鉛筆のむこうに』より。
◆写真中上は、眞崎仁六が日本で最初に内藤新宿で量産した鉛筆。柄はそのままに芯を交換できるので、今日のシャープペンシルのような仕様だった。は、三菱鉛筆の現行品でUniシリーズの高級品「LIRICO」アライアンスバージョン。
◆写真中下上左は、インセンスシダー(オニヒバ)を伐りだす米国の林業者。(同絵本より) 上右は、空に向けて真っすぐに伸びるインセンスシダーの樹影。は、いまだ鉛筆が数多く置かれていた1980年代の文具店ペンスタンド。(同絵本より)
◆写真下上左は、メキシコで1985年(昭和60)現在の旧「ハリスコ」号の船影。(同絵本より) 上右は、1985年(昭和60)に出版された『いっぽんの鉛筆のむこうに』(福音館書店)。は、1988年(昭和63)に就役した現在の「ハリスコ」号(TMM)で、旧船に比べ40,000t超と約2倍の排水量になっている。は、鉛筆・シャープペンシル・ボールペンの生産量推移。(日本鉛筆工業協同組合の統計より)

妖怪譚から探る江古田周辺の古墳。

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 下落合の北西側、妙正寺川の上流域で中野区の北部にあたる江古田(えごた)地域には、天狗や般若(鬼女)の伝説が語り継がれている。このエリアは、ちょうど中野区と練馬区、板橋区、豊島区の区境に近く、江古田(村)あるいは中新井(村)という地名は中野区側にあり、西武池袋線の江古田(えこだ)駅は練馬区旭町にあり、古墳をベースに築造された駅前にある浅間社の江古田富士Click!も同じく練馬区にあるが、古墳時代の住居跡など直近の遺跡は、現在まで確認できている限り中野区側と豊島区側、そして板橋区側にまたがって確認されているという入り組んだエリアだ。
 古墳時代の遺跡としては、練馬区に属する江古田駅前の浅間社境内にされていた江古田富士塚古墳(前方後円墳?)を除けば、駅南側の中野区にあたる「中野No.36」遺跡と「南於林遺跡」、江古田駅の東側にあたる豊島区の「千早遺跡」、同じく東側の板橋区に属する「板橋区No.126遺跡」の4ヶ所を数えるが、区が異なる「千早遺跡」と「板橋区No.126遺跡」は区境の道1本はさんで同じエリアの遺跡なので、もともとは同一の集落だったのだろう。
 これだけ、古墳時代の遺跡が散在する江古田駅周辺だが、古墳に比定されているものは江古田富士塚のみで、ほかには現存しないことになっている。そのような環境を前提に、おそらく江戸期より伝承された天狗や般若(鬼女)などの昔話をみると、興味深いことがわかる。たとえば、天狗の伝説を引用してみよう。参照するのは、こちらでも何度か怪談や奇譚などで引用している、1997年(平成9)に中野区教育委員会から出版された『続中野の昔話・伝説・世間話』で、中野区側の江古田に住む明治生まれの古老の証言だ。
  
 真ん中の茶室と八畳と六畳なんです。その大きいほうの部屋じゃないかと思うんですけどね。夜中になると、ミシッと音がするんだそうです。そうすると、それはね、天狗様がね、見回りに来るんだということでね。それは、主人のいとこに聞きましたんですよ。それだからね、「ここへ寝なさい」って言うと、みんなこわがって寝なかったそうです。
  
 天狗たちが住んでいるのは、「神様の森」あるいは「天狗の森」と呼ばれていたエリアだが、大人は子どもたちを怖がらせ、それらの禁忌的な森(山)へは近づいてはならないと教育するところは、全国各地に残る「禁忌域」伝説Click!とまったく同じだ。
  
 神隠しってぇのはね、それは、天狗様に連れてかれちゃうっていうようなね、そういうような伝説があるんです。(中略) 天狗様はどこにでも、当時は、神様の森には、必ずいたと、いうことを、人々は、江戸時代の人々は、信じていたと、それをね。ですからね、こわいところは、何かっていうとね、墓場はこわくないんだとこう言うんです。墓場はこわくないんだが、本当にこわいのは、神様の森がいちばんこわいんだと、いうことを、年寄りは言ってましたね。
  
 ここで語られている「神様の森」とは、社(やしろ)の境内になっている鎮守の杜(山)もそうだろうが、なんらかの禁忌的な場所であることが、延々と江戸期まで語り伝えられてきた様子を示唆している。
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 つまり、古墳時代に築造された古墳の周囲で語られつづけてきた、屍家・死家(しいや)伝説Click!との結びつきだ。誰が葬られているのかは、とうに江戸期以前からわからなくなっているが、伝えられている死者の領域を侵してはならないというタブーが、「天狗」や「般若(鬼女)」などの妖怪変化と結びつけられて伝承されているケースだ。また、古墳をあばく盗掘の防止的な効果をねらい、後世に怖い話が創作されているのかもしれない。そのような地域には、寺社の境内にされてしまった事例を含め、いくつかの古墳がそれと気づかれずに存在している可能性が高い。
 このような観点を踏まえ、1/10,000地形図や空中写真を参照すると、江古田富士塚古墳とは別に、いくつかのそれらしいフォルムを地表に見つけることができる。特に江古田駅の東側に展開していたとみられる古墳時代の集落、すなわち板橋区のNo.126遺跡と豊島区の千早遺跡(行政区画を無視すれば接続した同一遺跡)の北、わずか100mほどのところには石神井川へと注ぐ支流の河岸段丘上に、サークルや鍵穴型のフォルムを確認することができる。写真では、特にいちばん西寄りに刻まれた前方後円墳らしいかたちが顕著であり、1936年(昭和11)の空中写真を参照すると、後円部にあたる墳丘(すでに開墾されて高度はそれほどなかったとみられる)の中心に、祠のようなものが祀られていたものか、小さな森が確認できる。全長はおよそ130mほどの鍵穴形状だが、とりあえず便宜的に向原古墳(仮)と呼ぶことにする。
 年代順に空中写真を参照すると、おそらく戦時中の食糧増産で後円部の残された木々も伐られ、祠はそのままだったのかもしれないが、向原古墳(仮)の全体が畑地にされているのがわかる。1947年(昭和22)や翌1948年(昭和23)の空中写真では、もはや鍵穴型のフォルムがかなり薄れて、間延びしたマッシュルームのようなかたちになっている。この地域は田畑が拡がる農村だったため、空襲の被害をほとんど受けておらず、1957年(昭和32)の空中写真でも畑地のままであり、ほぼそのままのかたちを残している。
 だが、要町通りの敷設につづき、向原小学校や周囲の住宅街の造成、そして地下鉄・有楽町線の小竹向原駅の設置などで、向原古墳(仮)は全的に消滅してしまった。要町通りや向原小学校の建設時、工事現場からなにか出土したかは記録が残っていないので不明だが、南側にあったとみられる集落跡は、板橋区と豊島区の教育委員会が調査をして、それぞれ古墳時代の遺構を発掘している。現地を歩いてみると、板橋区No.126遺跡と千早遺跡の双方ともに記念プレートは残されていないが、豊島区側の豊島高等学校や旧・第十中学校の敷地を含め、また板橋区側の向原公園を中心とした住宅街を合わせると、古墳時代の遺構はかなりの広さになる。
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 また、石神井川の支流に沿った向原古墳(仮)の北北東の斜面にも、“怪しい”突起が半島状に2つ連なっていたことが、明治末の地形図を見ると確認できる。各時代の空中写真では、畑地や森、農家などが散在していて、向原古墳(仮)ほどには形状をハッキリと視認することができないが、早くから農地化や宅地化が進んでいたとみられ、より大規模な土地の改造が実施されたのだろう。
 さて、江古田駅界隈の遺跡めぐりや古墳探しはこれぐらいにして、わたしが江古田へ出かけたのには、もうひとつ理由があった。武蔵大学Click!の向かいにあるギャラリー古藤で、2005年に急逝した貝原浩Click!の「万人受けはあやしい」展が開催されていたからだ。このサイトでも、貝原浩が描いた下落合風景である『東京目白(小野田製油所)』Click!や、チェルノブイリの原発事故に関連した画文集『風しもの村』Click!(2010年)などをご紹介してきたが、彼の仕事は実に多種多様にわたっている。今回は、おもに「ダカーポ」や「出版ニュース」、「朝日ジャーナル」、「批評精神」、「アサヒ芸能」、「インパクション」、「ペンギン?(クエスチョン)」、「問題小説」、「現代農業」、「自然食通信」など雑誌類に描いた、彼ならではの戯画を中心に集めた展覧会だ。
 以前にもご紹介しているが、貝原浩の戯画は「風刺」や「揶揄」のレベルを超えて、強烈な「否定」をともなうインパクトをもっている。作品を観てまわるうちに、眉間にシワを寄せてニラミたくなるものや、つい噴きだしてニヤニヤしてしまうものなど、その果てしなく拡がり千変万化する表現力には脱帽だ。わたしが学生時代から、よく読んでいた雑誌類に掲載されていたものなので、分厚い図録も買ってしまった。同展は、2月13日(火)~18日(日)のスケジュールで、京都のギャラリー「ヒルゲート」でも開かれる予定だ。
 会場には、連れ合いの世良田律子様がいらしたので、ちょっとお話をする。今度は、日々忘れ去られ「そんなことはなかった」かのように扱われつつある原発事故の地元で、『風しもの村』作品を中心とした展覧会を企画されているそうだ。3基の原発がメルトダウンを起こした福島第一原発では、すでに汚染された水を貯蔵するタンクの敷地が足りず、廃炉処理以前に汚染水の処理自体が破綻しかかっている。
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貝原浩「万人受けはあやしい」展チラシ.jpg 貝原浩「万人受けはおやしい」展図録.jpg
 世界各地の原発事故がそうであったように、一度事故を起こしてしまった原発は、これから何度でも“破綻”を繰り返していく。そのたびに、地元では危機と隣り合わせの緊張と、不安を抱えた生活を強いられなければならない。東北での展覧会に多くの人たちが集まり、成功裡に終わることを期待してやまない。

◆写真上:キャンパスの西半分が、古墳期の千早遺跡が眠る都立豊島高等学校。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる向原一帯。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる鍵穴フォルムと古墳期遺跡。は、同写真の拡大。
◆写真中下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる向原古墳(仮)の痕跡。は、1948年(昭和23)の空中写真にみる痕跡(拡大)。前後左右に土砂を拡げたような、マッシュルーム型になっているのがわかる。は、板橋区No.126号遺跡にある向原公園。
◆写真下は、豊島高等学校から江古田駅方面を眺めたところ。右側の道路のように、谷底の小流れに向かって緩傾斜がつづく。は、校庭の敷地がすべて千早遺跡に含まれる旧・第十中学校。は、貝原浩「万人受けはあやしい」展のチラシ()と図録()。
掲載した「万人向けは怪しい」展の図録(1,500円)は、「貝原浩の仕事の会」サイトClick!の書籍等の入手方法のページまで。

陸軍中野学校の演習旅行1941年。

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 戸山ヶ原Click!に設置された陸軍兵務局分室Click!(工作員の符牒“ヤマ”Click!)は、1937年(昭和12)の春に防衛課が発足するとともに、同年暮れには「後方勤務要員養成所」(のちの陸軍中野学校)が設立されている。同養成所は、陸軍の3大統括者だった陸軍大臣・参謀総長・教育総監のいずれにも属さず、陸軍の主要組織からは切り離された特異な存在だった。
 後方勤務要員養成所の募集は、陸軍士官学校Click!や陸軍大学など主要な学校の出身者ではなく、陸軍内の強い反対を押しきって予備士官学校や普通大学の卒業者、民間の勤労者などが優先して行なわれたのも、当時としては異例中の異例だったようだ。要するに、軍人の臭いがする人物は、すべて不合格としてハネられたことになる。同養成所は、1939年(昭和14)7月に中野区囲町に校舎が完成し、翌8月には第1期生を送りだしている。1940年(昭和15)8月になると、ようやく「陸軍中野学校令」が制定されて、後方勤務要員養成所という名称は消滅した。
 陸軍中野学校(養成所時代含む)が、戸山ヶ原の兵務局分室で誕生してから敗戦による消滅まで、その教育方針やカリキュラムをたどってみると、およそ3つの時代に区分できるだろうか。まず、1938~40年(昭和13~15)の3年間は、陸軍内部でも存在が厳密に秘匿され、平時に世界各地で暗躍する工作員(スパイ)を養成していた時期だ。集められた学生たちも、特に軍人らしくない人物から選ばれており、「自由主義」的な傾向の強い教育内容だった。模擬の議論では、天皇批判さえ行なわれていたのもこの時期のことで、軍人臭を徹底して排除するカリキュラムが組まれていた。
 つづいて、1940~44年(昭和15~19)の5年間は、陸軍中野学校令の制定でその存在が上層部にも認知され、戦時に戦争を陰で支援する諜報・謀略戦の工作員(スパイ)を養成する方針に変わっている。そして、1945年(昭和20)の敗戦までは、それまでの教育方針とはまったく異なり、日米戦をめぐる敗色が濃い状況下で、遊撃戦(ゲリラ戦)を中心とした教育内容が採用されていた。ルバング島から帰還した小野田寛郎は、陸軍中野学校卒といっても同校本来の教育目的ではなく、戦争末期のゲリラ戦を主体とした中野学校二俣分校(静岡県)の出身だ。したがって、彼のことを陸軍中野学校出身の諜報・謀略戦に通じた「工作員」とする記述は明らかな誤りで、遊撃戦教令にもとづく「ゲリラ戦の専門家」とするほうが正しいだろう。
 わずか7年間しか存在しなかった陸軍中野学校だが、その活動の中核的な拠点となっていたのは、一貫して戸山ヶ原の兵務局分室(工作室=ヤマ)Click!だった。同校の歴史の中で、もっともスポットが当てられやすいのも、やはり1940年(昭和15)からスタートした戦時に諜報・謀略戦を遂行する工作員(スパイ)の養成課程だ。
 少し余談だけれど、大映映画に市川雷蔵が主演した『陸軍中野学校』シリーズというのがある。同シリーズがスタートしてしばらくたったころ、陸軍中野学校の出身者たちでつくるグループが、撮影現場の見学に招待されたことがあったそうだ。撮影現場へ出かけていくと、同映画を監修していた「中野学校」OBが、同じ中野にあった憲兵学校の卒業生であることが判明して大笑いになったエピソードが残っている。陸軍憲兵学校は、陸軍中野学校の東側に隣接していたが、その元・憲兵学校の出身者は「中野学校」=憲兵学校だと勘ちがいしていたらしい。憲兵学校側では、西隣りの陸軍施設を参謀本部史実調査部と、アンテナ鉄塔を備えた通信基地だと認識していた。
 中野学校の存在は陸軍内でも秘匿され、限られた一部の人々にしか知られていなかったせいか、同映画が撮影された当時でもこのような混乱が多かったらしい。事実、吉田茂邸へ潜入した兵務局分室のスパイClick!(中野学校出身)の存在を、憲兵隊本部でさえまったく把握していなかったことからもうかがえる。したがって、大映の『陸軍中野学校』シリーズは、私服憲兵の諜報活動サスペンス映画として観賞するのが正しいようだ。
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 さて、陸軍中野学校の最後の実習科目に「卒業演習」というのがあった。教室での講義を履修したあと、実地の訓練をするために商人や観光客に化けて、グループごとに海外(アジア地域)へと旅行する、いわば卒業試験旅行のような演習だ。旅行中には、多種多様な「候察」(レポーティング)の課題が出題され、卒業演習にパスしないと任務には就かせてもらえなかった。
 その貴重な卒業演習の模様を撮影した写真が、元・陸軍中野学校乙Ⅱ短期及特別長期学生だった塚本繁という方の手もとに残されている。中野学校や兵務局分室の資料類は、1945年(昭和20)8月15日の敗戦とともに、ほとんどすべてが証拠隠滅のため焼却されているので、これらの写真類は中野学校の実情を知るうえでは非常に稀少な記録写真ということになる。卒業生たちは、いちおう身分は軍人なのだが長髪で私服を着用しており、言葉づかいや挙動も軍人とはほど遠い様子をしていた。(そもそも当初は、軍人教育を満足に受けていない一般人を募集していた) つまり、怪しまれずに本物の商人やビジネスマン、観光客になりきれる“才能”のある人物でなければ、中野学校を卒業できなかった。
 したがって、旅先ではあちこちで憲兵隊や地元警察の不審尋問にあい、繰り返し身体検査や荷物検査を受けることになる。卒業演習は、ほとんど根まわしの行なわれていない、ぶっつけ本番のスパイ旅行だった。その様子を、1979年(昭和54)に毎日新聞社から出版された『日本陸軍史』所収の、塚本繁『中野学校“卒業演習”の旅―開戦直前の大陸をゆく―』から引用してみよう。
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 天津、北京、張家口、大同、包頭と足跡をのばし、帰路は奉天を経て朝鮮経由で帰国した。/移動間には必ず兵要地誌の候察が課せられ、宿舎につくと作業に追われ、与えられた課題を消化したものであった。夜の巷に出掛ける時も民情候察がついて回った。(中略) 北京では紫禁城、天壇、天安門等々の歴史的建造物を見学、民族遺産を見てこの国の人々の民情を深く考えさせられた。/これらの見学行動にもいくつかの課題が与えられ、またその土地の憲兵の監視からいかに疑念を持たれずに行動するかも、演習の題目とされていた。不審尋問を受けたグループもあったが、巧みに偽瞞して身分の秘匿は貫き通した。
  
 この卒業演習は学生18名と教職員数名からなり、1941年(昭和16)8月に広島港を出発している。乗船と同時に乗組員から怪しまれ、すでに奇異の眼で見られはじめた。
 旅行の途中では、すでに任務に就いている中野学校OBとひそかに落ちあい、現地での体験談を聞いて取材したり、各地の特務機関のアジトに立ち寄っては研修を受けたりしている。卒業演習は、教官から頻繁に出題されるレポートの消化と、憲兵隊の追尾からいかに逃れるかが大きな課題だったようだ。おそらく、彼ら一行には制服憲兵ばかりでなく、私服憲兵も尾行に張りついていたのではないかとみられる。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 包頭は戦線の第一線で、駐屯する部隊もその住民も緊張していた。奥地より送られてくる麻薬の摘発は、各地とも厳重を極めたが、この包頭では特に厳しく、駅に降りたとたん一行は憲兵の臨検を受けてしまった。団長と憲兵とのやりとりを見ているわれわれの眼前で、嬰児を抱いた姑娘が憲兵に尋問されていた。(中略) 全行程を終わり関釜連絡船で下関に上陸した時点で、各人が携行していた旅行カバンの点検があり、莫大な資料と重要書類の内容を開陳されそうになった危機もあったが、何とかうまく切りぬけてこの集団が何者であったか露見することなく、中野の校舎に帰ったのである。
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 この一行は、おもに英語やマレー語を習得した「南方班」と、ロシア語を習得した「北方班」の学生が主体だったので、中国語を話せる人物がほとんどいなかったようだ。中野学校には、対中国作戦用に「中国班」と名づけられた専門クラスが存在したが、1941年(昭和16)8月の卒業演習では「中国班」から学生が選抜され、各チームに通訳として同行していたようだ。中野学校出身の諜報・謀略要員は、兵務局分室(工作室=ヤマ)を通じて陸軍科学研究所Click!の多種多様な「兵器」を装備し、戦地や占領地へと散っていくのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:卒業演習で北京駅ホームに立つ、陸軍中野学校の学生たち一行。
◆写真中上は、中野学校の実質“司令部”があった戸山ヶ原の兵務局分室(工作室=ヤマ)跡の現状。は、1970年代の空中写真にみる兵務局分室跡。は、戦争末期に遊撃戦(ゲリラ戦)を専門に教授した静岡県の陸軍中野学校二俣分校。
◆写真中下は、中野学校校庭で自動車の運転実技演習。そのほか、電車・機関車・飛行機などの実技演習があった。は、所沢飛行場の飛行学校で行われた飛行機の操縦実技演習。は、松竹の大船撮影所で実施された宣伝工作実技演習の記念写真。
◆写真下からへ、バスで目的地に到着した中野学校の卒業演習一行。北京の喫茶店にて。特務機関のアジト訪問。大同の石仏前での記念写真。先に潜入している中野学校OBとの接触取材。常に憲兵や軍人からうさん臭げに見られる卒業演習一行。

元気なカモの絵が欲しかったのに。

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 1973年(昭和48)に、早稲田大学校友会の学報編集委員会から発行された「早稲田学報」に、佐伯祐三Click!に関する面白い文章が掲載されている。『佐伯祐三の手紙と鴨の画』と題する、同大学のOB池田泰治郎のエッセイだ。池田の母親である池田ヨシは、佐伯の妻である米子夫人Click!(池田ヨネ)の姉であり、佐伯米子Click!から見れば池田泰治郎は甥ということになる。
 佐伯米子は、1972年(昭和47)11月に死去しているので、同エッセイはその翌年、間をおかずに書かれたことになる。このとき、下落合のアトリエで佐伯祐三や米子夫人の遺品を整理したのも池田泰治郎であり、少なくとも1957年(昭和32)(『みづゑ』2月号に掲載)までは存在が確認できる、佐伯の「下落合風景」Click!に関する「制作メモ」Click!が失われたとすれば、おそらくこのタイミングだったように思われるのだ。ひょっとすると、遺品整理のために佐伯アトリエの庭で行われた焚き火Click!へ、他の資料ともどもくべられてしまったのかもしれない。
 さて、同エッセイでは遺品整理の際に出てきた、佐伯祐三から米子夫人の姉・池田ヨシへあてた詫び状について書かれている。おそらく、池田家の知人の誰かから頼まれたのだろう、池田ヨシは佐伯に「鴨の絵を描いてほしい」とオーダーしたようだ。その知人は当然、生きて水面を元気に泳いでいる美しい鴨の画面を想定していたのだろう。ところが、佐伯が描いてとどけたのは、正月の雑煮用に狩猟でしとめられたあとの、死んだ鴨の“静物画”だった。w それについて、佐伯があわてて詫びを入れている手紙らしい。
 以下、「早稲田学報」の池田泰治郎『佐伯祐三の手紙と鴨の画』から引用してみよう。
  
 私はこれらの資料に加えて、私がかねて大切に保持していた祐三から私の母に宛てた手紙を、美術評論家であり、祐三の研究で知られる朝日晃氏(昭和二十七年文学部卒)にお見せしたのであった。朝日氏の愕きと悦びは大変なものであった。/なかんずく、母宛ての文中『鴨の画のこと実に失礼な事を致しました』との件りに大変興味を持たれた。このことは、私も、つとに関心を抱いていたことであって、母によれば、母の友人が生きた鴨の画が欲しいと思っていたのに、祐三はたまたま正月の雑煮用にと歳暮に贈られた“死んだ鴨”を描いてしまったのだという。しかしこれは世に知られざる逸話であり、絵の存在すらほとんどの人に知られずにいたのであった。
  
 ここで少し余談だが、おそらく下落合の佐伯家に正月の雑煮用としてとどけられた死んだカモは、東京の(城)下町Click!方面からとどけられている可能性がきわめて高い。ひょっとすると、池田家とも交流のある親しい知人か、姻戚からの歳暮ではなかっただろうか?
 いつかも書いたけれど、江戸時代からの日本橋雑煮Click!には鶏肉ではなく、正式には鴨肉を用いる。わたしの家では、鴨肉の脂の多さが苦手な家族がいるため(ちなみに鴨肉の脂身は、鶏肉よりもコレステロールが少ない)、代わりに鶏肉を使うことが多いが、本来は香ばしく焼いた鴨肉が、雑煮のメインとなる具材だ。ひょっとすると日本橋Click!の隣りにあたる、もともと池田家があった尾張町Click!(銀座)でも、江戸期から同様の習慣がつづいていたのかもしれない。
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 1926年(大正15・昭和元)の暮れごろに、おそらく佐伯アトリエで描かれたとみられる『鴨』(8号F)だが、マガモの♂のようで足にタグが付いており、確かに白い器に載せられたそれは元気な様子には見えない。w 包装を解いて画面を目にした池田ヨシは、思わず「あら~ッ」と嘆息しただろうか。「……カモさん、寝てるカモ」、「あのな~、カモさん、死んでまんね。……そやねん」、「……まあ」。
 めずらしく、左下にバーミリオンで記載された佐伯のサインが見られるので、佐伯としてはうまく描けたという自信の一作だったのだろう。この作品は、現在でも個人蔵のままのようだが、1973年(昭和48)の当時も個人蔵で、おそらく池田家を通して絵を送った知人が、そのまま戦災をくぐり抜けて保存してきたのだろう。池田泰治郎は、朝日晃や「芸術新潮」の関係者を連れて、わざわざその知人宅まで『鴨』を観に出かけている。つづけて、同エッセイから引用してみよう。
  
 この四月六日、朝日晃氏と芸術新潮の方たち、そして私の計四人は、その所有者であるS様のマンションを訪れた。/まるで幻の恋人にでも逢うような、ふしぎな心のときめきである。確かに鴨の画であった。描かれて五十年ちかい歳月を経た画面は異様に燻り、小さな穴があき、傷ついていたが朝日氏が布でしずかに表面を拭うと、次第に祐三の息吹きが露れて来た。何ともいうぬ感動がはしり、皆が沈黙する中で、シャッターの音が響いていくのだった。
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 このほか、米子夫人が死去したあとの佐伯アトリエで行われた遺品整理では、ジャパン・ツーリスト・ビューロー大丸案内書(大阪)の、シベリア鉄道経由でパリまで出かける、1927年(昭和2)7月27日付けの運賃計算書や、パリでいっしょだった前田寛治Click!ら友人たちからの通信などが発見・保存されている。
 めずらしいのは、1923年(大正12)の夏、長野県の渋温泉で静養する佐伯夫妻のもとへとどけられた、関東大震災Click!の発生を知らせる池田象牙店の支店からのハガキだ。同エッセイによれば、ハガキのあて先は「サイキユーゾウ様」と妙なカタカナ表記で書かれていたらしく、鉛筆書きで文字も乱れがちな文面だったらしい。1923年(大正12)9月7日付けの急を知らせるハガキは、池田家の誰かではなく支店員か小僧に書かせたらしく、池田によればたどたどしい文章で「土橋の人命に変り無く御安心下さい。家は全焼しました。帰らずに下さい」というような内容だった。
 佐伯祐三は同ハガキを受けとると、米子夫人を宿に残したまま貨物列車に飛び乗り、単身で東京にもどった。すぐに池袋の山田新一Click!を訪ねると、ふたり連れ立って土橋Click!池田家Click!の様子を見に出かけている。そしてスケッチブックを手にすると、市街の様子を写生してまわったエピソードは、すでに河野通勢Click!震災記録画Click!とともにご紹介している。
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 「早稲田学報」にエッセイを寄せた池田泰治郎だが、昨年9月に逝去したとうかがった。どこか資料類の紙束にまぎれて、あるいはクローゼットの片隅の段ボール箱に、「制作メモ」は残ってはいないだろうか? それが、いまだにとても気がかりなのだ。

◆写真上:1926年(大正15・昭和元)の暮れに描かれたとみられる、佐伯祐三『鴨』。
◆写真中上は、冬になると見られるマガモの番(つがい)。は、1920年(大正9)に制作された橋口五葉『鴨』。佐伯へ「鴨の絵」をオーダーしたクライアントは、このような画面を想定していたのではないだろうか。
◆写真中下は、1926~27年(大正15~昭和2)に描かれた佐伯祐三『人参』。は、おそらく1926年(大正15)の秋に描かれた佐伯祐三『ぶどう』。は、1970年代に撮影されたオープンして間もない母家が残る佐伯公園。(現・佐伯祐三アトリエ記念館)
◆写真下は、晩秋になると近所の池にたくさん飛来するカモ。は、下落合にあるカルガモClick!横断注意の道路標識。は、1957年(昭和32)の写真を最後に行方不明がつづいている佐伯祐三が記録した「制作メモ」。

鶴田吾郎から清水多嘉示へ1922年。

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 中村彝Click!の伝記といわれる書籍は、過去に何冊か出版されているが、その中で彝アトリエに集う画家たちが集まり、1922年(大正11)に結成された画会「金塔社」Click!について、詳しく書かれたものはない。どのような経緯や趣旨で金塔社が発足したのか、「中村彝が中心になって」と説明されることが多いが、彝は病床で動けないため名目上の代表であり、実質は鶴田吾郎Click!が会の運営・事務を仕切っていたようだ。
 彝の最晩年の時期でもあり、あまり多くは語られない金塔社について、その経緯を比較的詳しく書いているのは、やはり鈴木良三Click!の資料だろうか。金塔社は、1922年(大正11)6月23日~28日の6日間、第1回展を日本橋白木屋Click!(戦後の東急百貨店)で開催している。この第1回展に、中村彝は体調がすぐれなかったものか作品を出していない。翌1923年(大正12)の同時期に、今度は日本橋三越Click!で第2回展を開いているが、同展に中村彝はモデルの“お島”を描いた8号Sの『女』Click!(1921年)を出品している。
 金塔社について、鈴木良三が概説した文章が残っている。1999年(平成11)出版の、梶山公平・編『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』(木耳社)から引用してみよう。
  
 そのうち安藤家に集まる連中が展覧会をやろうということになり、美校系の曽宮、寺内、耳野の他に鈴木保徳、遠山教円、中村研一、洋行帰りの遠山五郎、研究所系の鶴田吾郎、鈴木金平、鈴木信太郎、馬越枡太郎、ぼく等が加わり、中村彝さんを押し立てて金塔社を結成、白木屋で第一回展を開いた。彝さんは第一回展には出品出来なかったが、中村研一さんは百号の婦人像を出品して洋行してしまった。みんな二点ぐらいずつ出品したがぼくは彝さんに薦められて五、六点、三十号、二十五号といった大きさのものを並べて貰った。(中略) 第二回展は次の年に三越で開かれたが、この時彝さんは「エロシェンコ」と同じ大きさの少女像を出品された。/画壇では金塔社への期待感は大きかったようだが、この二回で解散してしまった。ぼくなどにそのいきさつは知らされなかったが、美校系と、研究所系との気持ちの相違から別れ話が出たものかと思う。残念なことだった。
  
 文中の「安藤」家は当時、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の上屋敷(あがりやしき)駅Click!近くに住んでいた安藤復蔵、「曽宮」はもちろん曾宮一念Click!、寺内は寺内万次郎、耳野は少し前まで高田町(大字)雑司ヶ谷(字)上屋敷(現・西池袋)にあった農家の離れを借りて住んでいた耳野卯三郎Click!のことだ。
 耳野が転居したあと、鈴木良三は同じ農家の離れを借り受けて住み、1923年(大正12)8月31日すなわち関東大震災Click!の前日に、下落合800番地Click!へ転居してくることになる。また、第1回展に出品した画家たちの名前に鈴木金平Click!があるが、彼の年譜によれば1923年(大正12)の第2回展に出品している。画壇からは「期待が大きかった」と鈴木良三は書いているが、金塔社の結成趣旨とはどのようなものだったのだろうか?
 清水多嘉示Click!のお嬢様・青山敏子様Click!より、金塔社展に関する非常に貴重な資料をお送りいただいた。金塔社の実質的な代表である鶴田吾郎から清水多嘉示へあてた、金塔社第1回展への出品をうながす1922年(大正11)5月29日の手紙だ。鶴田吾郎の筆跡は読みやすく、小石川にあった礫川堂(れきせんどう)文具店の原稿用紙に書かれている。ちなみに、中村彝の代筆Click!をした読みにくい筆跡とは一致しないようだ。
日本橋白木屋(震災前).jpg
日本橋三越(震災前).jpg
中村彝「女」1921.jpg
  
 清水多嘉示様
 未だお目にかゝりませんが お名前は承って居りました、/昨日中村君から兄が金塔社に御希望ある由且仝人として仲間に入られるに就いて招介をされて参りました、/早速曽宮君にも話しましたところ 無論異議のある筈はありません、尚且他の友人にも話しましたところ多数賛成なつて兄を仝人として加はって戴くに就いて一致した次第です、で 左の様なことをご承知置き願い度いと思います、/一体金塔社なるものは或る運動とか、革命とかいふ抱負のもとに成りたつたものではありません、/又藝術上に於て現画壇に対し偉大な宣言をなして突き進むやうな手段を用ひるものではないのです、/ただ 吾々自分たちの有つてゐるもの、自分等の才能を自由に生かし発表する為に集つたものと言ひ度いのです、/而し何れかと言へば吾々は緊実といふことが基準になり、藝術観の偏盲に陥らず、凡ゆる良き藝術を求め、そして自己を失はずして真面目に自然に対して考へて行き度いと思つてゐます、/お互に友情と厚誼とを以つて 仕事を深め拡げて行き度い希望です、
  
 上記の引用が手紙の前半だが、「中村君」は中村彝、「曽宮君」は曾宮一念のことで、この3者が相談して金塔社のメンバーを誘っていた形跡が見える。先の鈴木良三の文章によれば、「美校系」の幹事が曾宮一念、「研究所系」の幹事が手紙を書いている鶴田吾郎、そして名目としてかつがれている代表が病床の中村彝……という、金塔社の人的な構図がうかがえる文面だ。
 鶴田吾郎によれば、金塔社は芸術の「運動」や「芸術観の偏盲」にとらわれない、自由かつ穏健でゆるやかなつながりであり、思いのままの作品を展覧会へ出品できる画会なので、ぜひ気軽に参加してほしい……という趣旨だったようだ。
上屋敷駅跡.JPG
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 だが、このようなサークルや同好会のような仲間意識の“ゆるい”集まりは、メンバー同士のつながりが希薄で絆(人間関係の組織基盤)が形成されにくく、ひとたび中核(中村彝)を失うとほどなく瓦解してしまうのは、多くのメンバーたちにもわかっていたのではないだろうか。鶴田吾郎の手紙を、つづけて引用してみよう。
  
 それから吾々は毎月一回づゝ仝人の一人の宅に集つてお互に話し合ふことになつて来ました、/六月には七日の日に安藤君の家に一仝集つて展覧会の件に就いて具体的に相談することになつてゐます、/展覧会は六月廿三日より五日間、白木屋にて致します、/会場は御承知の狭いところですから一人が一間半位づゝ取れることになつてゐます。/従来展覧会をすることに就いて仝人は毎月一円づゝ会費として出すことになつてゐました、/而し確実に無理してまで出すといふまで義務的でもありません、/第一回の展覧会より是非御出品を願います、そして御上京下さらば尚好都合です、/以上簡単乍ら御報知まで
                   五月廿九日      鶴田吾郎
  
 結局、長野県で美術教師をしていた清水多嘉示は、金塔社第1回展へ作品を送ることはなかった。清水は当時、長野県の諏訪蚕糸学校に勤めていたが、1922年(大正11)は諏訪高等女学校で「中原悌二郎・中村彝作品展」を企画・開催したり、平和記念東京博覧会Click!へ出品する作品を制作したりと、参加している余裕がなかったのだろう。ちなみに同年には、林泉園Click!つづきの谷戸を描いた『下落合風景』Click!も制作している。翌1923年(大正12)6月の金塔社第2回展のとき、清水多嘉示はすでにパリへ留学していた。
 1924年(大正13)には第3回展が開かれるはずだったが、その前に金塔社は空中分解してしまう。原因は、中村彝が病状の悪化で出展作品を制作することができず、金塔社の代表でいることにも嫌気がさしたからだといわれる。また、鶴田吾郎がリーダーシップを発揮できず、結束力を高めメンバーたちの気持ちを牽引していく力がなかったからだともいわれているが、おそらくその両方だったのだろう。
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 金塔社が結成された1922年(大正11)、曾宮一念は静岡県の富士宮市大宮町へ鈴木良三をともない写生旅行に出かけている。このとき、曾宮は東京から牧野虎雄Click!大久保作次郎Click!熊岡美彦Click!、高間惣七、吉村芳松、油谷達ら6人を呼んで合流している。1924年(大正13)に結成された、帝展若手による槐樹社(かいじゅしゃ)の顔ぶれが多いのも興味深いが、二科会の曾宮を除き、残りのメンバーはすべて文展・帝展の画家たちだ。大宮町での詳細な記録は残されていないが、会派Click!にまったくこだわらず人物そのものとつき合うところ、曾宮一念らしいフレキシビリティが感じられていい。

◆写真上:大雪の中村彝アトリエの採光窓と、大正期のモダンな天井照明(レプリカ)。
◆写真中上は、1922年(大正11)に金塔社第1回展が開かれた震災前の日本橋白木屋百貨店。は、1923年(大正12)に第2回展が開かれた震災前の日本橋三越百貨店。ともに、大正期の人着絵はがきより。は、お島をモデルに第2回展へ出品された中村彝『女』。
◆写真中下は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)で池袋からひとつめの駅だった上屋敷駅跡の現状。は、1922年(大正11)5月29日に鶴田吾郎から清水多嘉示あてに出された金塔社第1回展への出品を依頼する手紙。
◆写真下は、1923年(大正12)の渡仏前に長野で描かれたとみられる清水多嘉示『風景』。は、1922年(大正11)3月に撮影された諏訪高等女学校の記念写真。後列には清水多嘉示や土屋文明が写り、女学生の中に平林たい子Click!の姿がある。は、下落合623番地のアトリエ前庭で撮影された曾宮一念。(提供:江崎晴城様Click!) 背後に見えているのは、佐伯祐三Click!の制作メモ「浅川ヘイ」Click!で知られる浅川秀次邸の塀。
掲載している清水多嘉示の作品・資料は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

自在に浮遊する松本竣介の視点。

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 松本竣介Click!の画面を観ていると、その視点が空中を自由自在に浮遊して、風景作品ではあちらこちらへ飛びまわっているのがわかる。盛岡から生まれ故郷の東京へもどったころ、1927~1932年(昭和2~7/15~20歳)ごろまでの作品は、イーゼルをすえた位置からの、あるいはスケッチブックを手にして立っていた(座っていた)位置からの視点で、モチーフの風景が静的に写しとられている。モディリアーニやルオーの影響が濃いといわれる、1935年(昭和10)前後に描かれた風景作品も同様だ。
 ところが、1936年(昭和11)ごろからその画面が、表現方法や色彩とともにガラリと変化を見せる。この年は、2月に松本禎子Click!と結婚して下落合4丁目2091番地(現・中井2丁目)に自宅&アトリエをかまえ、10月からは「綜合工房」Click!と名づけたアトリエから、翌年の12月までつづく月刊誌「雑記帳」Click!を創刊している。この時期の作品は、いわゆる「蒼い」風景が多く描かれた東京の「郊外」シリーズが中心だ。下落合の目白崖線に連なる樹木や草原、地面などを独特なブルーグリーンの色彩で全面的に染め上げ、ほんの数年前の画面とはまったく趣きを異にしている。
 そして、キャンパスに向かう画家の視点は、実際にイーゼルをすえた位置(あるいはスケッチブックを手にした位置)よりは、やや高めに感じる画面が多くなっている。すなわち、視点のみが松本竣介の身体を離れて空中にフワリと浮きあがり、モチーフとなる風景の前を浮遊しながら、斜めフカンから見下ろした視点、ときには完全に鳥瞰視点のような表現が増えていくのだ。「郊外」シリーズや「街(都会)」シリーズなどに見られる、これらの表現法を「シャガールみたいだ」といってしまえばそれまでだけれど、丘が連なり谷間があちこちに口を開ける、緑が濃くて起伏が多い落合地域で暮らしはじめたからこそ、獲得できた視点のようにも思える。
 たとえば、1937年(昭和12)8月に描かれた『郊外』Click!は、上落合側の北向き斜面の坂を上がって、中井駅近くにある妙正寺川沿いの落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)の校舎(デフォルメされている)を見下ろしながら描いたと思われる作品だ。校舎の背景には下落合の丘陵と、その緑が濃い南斜面に散在するモダンな家々(実際のリアルな住宅ではない)が描かれている。
 だが、宮本百合子Click!の旧居跡(上落合2丁目740番地)がある上落合の北向き斜面の坂上から、落合第二小学校(現・落五小)を見下ろしたとしても、ここまで高度があるようには見えない。実際の高さよりも、画家の目はさらに上昇しているように感じるのだ。ただし、現在ではこの高さの視点に近い位置(東側)から、現・落合第五小学校を見下ろすことができる。戦後、妙正寺川が流れる谷間に山手通り(環六)の高架が竣工し、その上から眺めた風景が『郊外』の視点と同じぐらいの高さになっている。
 わたしは、起伏に富んだ落合地域ならではの地形や風景の影響から、斜めフカンや鳥瞰に近い松本竣介の眼差しやインスピレーションが生まれ、空中を自在に浮遊する新たな表現法を獲得したのではないかと想像していたが、それは幼少時代からの原風景によって形成されたと分析する面白い資料を見つけた。松本竣介は、幼少時代を岩手県の花巻と盛岡ですごしている。1986年(昭和61)に用美社から出版された、村上善男『盛岡風景誌』から引用してみよう。
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 竣介にとってもう一つ大事な風景は、実は「山王山」という存在です。盛岡の東の方向にある小さな丘です。市営球場があります。小杉山ですね。そして、はるかに中津川、雫石川、北上川の合流点が見えます。/山王山のてっぺんにあった「測候所」(現・「盛岡地方気象台」)のすぐ下に竣介は移ります。なぜかというと、それは父親の銀行の社宅でした。竣介のお父さんは、花巻時代リンゴからお酒を造る商売だった。その仕事をやめて、盛岡では銀行をつくることになった。(中略) 竣介は盛岡中学まで歩いて通ったわけです。そこで、山王山のてっぺんから盛岡の町を見たときの<俯瞰の風景>というのが、竣介に決定的な視角上の影響を与えたのではないかと、私は想像するのです。/後年の代表作の「街」をはじめ、大作を一点ずつ、あたってみる。<山王山の俯瞰の景>の応用。もしかしたらそうじゃないかと、仮説を立てて作品に向きあったのです。
  
 当時、松本竣介の通学路には、煉瓦工場や消防署、知事公舎、白百合女学校などモダンで特徴的な建築や塔が建っていたらしく、それらの建物が少年に強い印象を残したのは想像に難くない。1931年(昭和6)に盛岡で制作された『丘の風景』には、頂上に測候所の白い建物が描かれている。もし、松本竣介の内部に丘上から盛岡の街中へと下る、原体験としてのフカン気味な風景が深く刻まれていたとすれば、アトリエを出て下落合の坂道を下るごとに、それを重ねて想い浮かべていたのだろうか。
 でも、下落合の坂から見下ろす眺望は大久保から新宿方面にかけての街並みであり、盛岡のそれとはかなり異なる印象だったろう。さらに、上掲の“村上仮説”を前提とすれば、松本は結婚してアトリエを建てる際、なぜ下落合の丘を選んでいるのか?……というテーマにもつながりそうだ。下落合のアビラ村Click!(芸術村)には、多くの画家たちが暮らしアトリエも多かったからという理由とは別に、丘上から眺める原体験としての<俯瞰の風景>に惹かれたから……とも解釈することができる。
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松本竣介「郊外」193801.jpg
 さて、松本竣介は1938年(昭和13)9月の第25回二科展へ、『街』と『落合風景』の2作を出品している。だが、この『落合風景』がどの画面に相当するのかが、現在では不明となっているそうだ。ブルーグリーンの色彩が特徴的な、現存する「郊外」シリーズのいずれかの1作とみられるが、どの作品かが特定できないらしい。いったいどれが『落合風景』とタイトルされた作品なのか、ブルーグリーンで彩られた「郊外」シリーズを観ていると、場所が特定されていない画面はみんな怪しく見えてくる。
 先述した1937年(昭和12)8月の『郊外』は、同年の第24回二科展へ出品されているので、翌1938年(昭和13)1月の『枯木のある風景』と『郊外』のいずれかが相当するのかもしれない。そのほかにも、下落合の丘や斜面を描いたとみられる画面は、1940年(昭和15)ごろの作品まで目にすることができる。
 松本竣介の風景画は、地形から建物、樹木にいたるまでデフォルメやコラージュが奔放にほどこされているので、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!のように、「この風景はあそこだ」と明確に規定することができない。先述の『郊外』(1937年8月)は、かろうじて落合第二尋常小学校を上落合側の斜面から描いたものだと類推できるが、もうひとつ、1940年(昭和15)制作の『青の風景』も、「あそこかな?」と推定することができるめずらしい作品だ。丘上にコンクリート造りらしいビル状の建物が見えるのは、19歳のときに盛岡で描いた『丘の風景』(1931年ごろ)の盛岡測候所と同様だ。
 9年後の『青の風景』に描かれた建物は、ビルの屋上に突起と煙突らしいフォルムが描かれている。当時、下落合の丘上に建てられたビル状の建物で、この形状に合致するのは青柳ヶ原Click!の斜面に建設された国際聖母病院Click!フィンデル本館Click!だろうか。屋上に突き出ているのは、避雷針がついたチャペルの鐘楼と焼却炉の煙突のように見える。手前に下ってくる坂道は、頼りなげな補助45号線(聖母坂)であり、ほどなく妙正寺川に架かる落合橋をわたることになる。もっとも、実際の地形や道筋、建物の姿はまったくこのようではないし、山王山にあった盛岡測候所のほうが似ているといわれれば「はい、さようですね」なのだが、構成を重ねたイメージとして風景をとらえるとするならば、上落合側から聖母坂を眺めた当時の情景のようにも見えてくる。
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 だが、『青の風景』の画面もまた、画家の視点は2階家の屋根ほどもありそうだ。画家がスケッチしている位置は、聖母坂下だとすれば妙正寺川と旧・神田上水(現・神田川)が落ち合う低地Click!であり、このような高い位置からの画角は得られなかったはずだ。空中を自在に浮遊し、風景をイメージで写しとる松本竣介の視点は、1942年(昭和17)の『立てる像』Click!のように、ときに地面スレスレにまで降下することさえある。

◆写真上:1937年(昭和12)ごろ、下落合2091番地の自邸前庭で撮られた松本竣介。
◆写真中上は、1937年(昭和12)の第24回二科展へ出品された松本竣介『郊外』。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる『郊外』の描画ポイント。は、上落合側の北向き斜面から眺めた現在の落合第五小学校。
◆写真中下は、戦前に撮影された盛岡市の山王山にあった岩手県営盛岡測候所絵はがき。は、1938年(昭和13)1月制作の松本竣介『枯木のある風景』。は、同時期に制作された松本竣介『郊外』。いずれかが『落合風景』とタイトルされ第25回二科展に出品された作品だと思われるが、わたしは後者の『郊外』のような気がする。
◆写真下は、1931年(昭和6)ごろに盛岡市の山王山を描いたとみられる松本竣介『丘の風景』で山頂に見えるのは県営盛岡測候所。は、1940年(昭和15)制作の松本竣介『青の風景』。は、戦後すぐのころの国際聖母病院。

大賀一郎がつづけたハスの開花音批判。

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 ハスが開花するとき、「ポン」ないしは「ポッ」という音がすると信じていた人たちが数多くいたようだ。下落合の大賀一郎Click!は、植物学者の牧野富太郎Click!らとともに、大マジメでハスの「開花音論争」あるいは「開花音批判」を行なっている。
 いちばん最初に、「ハスの開花は無音である」と主張したのは植物学者の三宅驥一だったが、ほとんど周囲からは信じてはもらえなかった。今日から見ると、呆れてびっくりするような事実だが、戦前まではハスが開花する際には、「ポン」ないしは「ポッ」と音がすると、多くの人々に信じられていたらしい。戦後になり、改めて大賀一郎がハスの無音開花を発表すると、「開花音論争」にまで発展している。
 そもそも、ハスの花が開くとき音がすると記された文献は、大賀一郎によれば室町期以前には資料がなく、もっとも古いもので江戸中期の俳諧書だったらしい。
  暁に 音して匂う はちすかな  潮十子
  管弦にて 開くものかは 蓮の花  河輩
 明治以降では、正岡子規Click!や石川啄木もハスの開花音を詠った作品を残している。
 ハスの開花が無音であることを証明するため、大賀一郎Click!は1935年(昭和10)から上野不忍池で、戦争による中断をはさみながら、毎年欠かさず観蓮会を開催している。早くから開花の無音無声を主張していた三宅驥一も、同会へ参加している。観蓮会は、前夜から不忍池畔の料亭「揚出し」へ参加者が集合し、ハスをテーマとする研究発表や議論が行なわれた。大賀一郎は当初、参加者を50人ほどと見積もっていたが実際には150人が参加したため、料亭側では食事や飲み物の手配がたいへんだったようだ。
 当時の様子を、1999年(平成11)に日本図書センターから刊行された、『大賀一郎―ハスと共に六十年―』(人間の記録第106巻)から引用してみよう。
  
 この夜の会が終わった後、百人ばかりは、夏枯れで客のない上野駅前の名倉屋旅館に招かれ、わずかなチップで徹夜の清談、翌早朝五時を期し不忍池畔を逍遥して弁天島の東岸に佇んだ。そしてまさに開かんとする蓮花の前に聴き耳二百を立てたあとで、報道陣に対してハスの開花の無音無声の衆議を発表したところが、誠に、実に、天下の大問題となり、国の内外が喧々囂々、投書が東西各新聞の社会欄をにぎわした。この後、年と共に騒ぎは漸次に下火となり、世は無音無声に傾くようになったが、このおかげで私の観蓮会は世間にみとめられ、翌年は弁天堂、その翌年は……と爾来今日に至るまで、よく二十七年間連綿として休むことなくつづき、いつしか東京都の年中行事の一に…(以下略)
  
 不忍池の観賞会が有名になるにつれ、会は弁天堂の池に面した大書院で開かれるのが恒例となった。開花期ばかりでなく、春には根分け会、夏には例会や観賞会、秋には敗荷会とハスをテーマにさまざまな会合や研究会が開かれたようだ。
 戦時中は弁天堂が空襲で焼かれ、不忍池が干上がって食糧増産のための水田化されたのにともない、2年ほど中断されたが、大賀は下落合からの疎開先である府中で、小規模ながら観賞会を継続している。戦後は、不忍池のボート乗り場や水上音楽堂、水上動物園などを会場にして観賞会はつづけられた。
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 昨夏、大賀一郎が庭で育てていた古代ハスを観賞しに、府中の郷土の森公園に出かけてきた。府中本町駅からかなり歩くため、公園に着いたのは昼近くになり、古代ハスの花は閉じてしまったかと心配したが、なんとか開花する花々を観賞することができた。
 ハスは、たいがい4日間ほど咲きつづけて花弁を落とすが、未明(午前2~3時ごろ)から花弁が少しずつ動きはじめ、あたりが明るくなってきた午前4~5時ごろにかけて花弁が開きはじめる。そして、午前6~7時にはすでに満開になるが、開花する間、もちろん音はまったくしない。午前中には満開状態がつづき、昼が近づくにつれて花弁が閉じはじめ、正午ごろには完全に閉じてもとの蕾の状態にもどる。
 この開花の手順が、少しずつ時間を前倒しにして4日間つづき、4日めには真夜中に開花して未明にすでに満開となり、昼すぎからは花弁を落として散花する。したがって、ハスの観賞は早朝がもっとも美しいのだが、わたしは朝寝坊なので昼近くの古代ハスしか眺めることができなかった。つづけて、大賀一郎の同書より引用してみよう。
  
 もちろん花によって個性があるが、大体どの品種でも同じようで、音があるとすれば、第一日と第二日の花の開く四時か五時頃であるが、外側から一枚ずつ、一分間に一センチ位の静かな速さで咲く花びらに音などあるはずがない。/ハスの花は、このような音の有る無よりも、花そのものの清楚を賞すべきである。朝霧のしたたるところに、涼しい夏時最大の紅蓮と白蓮の咲ける姿は、何人のこころをも、うばいとらずにはおるまい。実に古来彩連観蓮が文人墨客の間に盛行したことは、和漢の数多の文献に見られる。
  
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 また、大賀一郎はハス(蓮花)の下に太いレンコン(蓮根)があるとする誤謬も批判している。当時の理科の教科書には、レンコンが太ければ太いほど水面には大きなハスの花が咲く……というような記述(図版?)があったようなのだが、ハスの花とレンコンは時期的にもぜんぜん別物で、まったく連動していないと講演やシンポジウムで否定してまわった。
 確かに、レンコンは初冬から春先にかけての蔬菜であって、ハスの花が開く初夏から初秋にかけては流通しない。ハスが開花している間、その地下茎は白くて細いものが横に伸びているだけだ。ややあきらめ気味の口調だが、同書から再び引用しよう。
  
 わが国のほとんど誰もが、冬型の太くて短かいレンコンの節から、夏型の美しいレンゲと大きな葉が出ていると思っているのである。/そこでいっておくが、決して太いレンコンからは、花や葉は出ない。(中略) 芽は左右に地下茎となって横に横に延びて分岐し、そこに生ずる多くの節々から、葉が立ち、六、七月になるとその立葉の後ろに接して花芽が立ち、それから一ヵ月ばかりすると花が咲くのであるから、花や葉の下には細い白い長い地下茎があって、太いレンコンはない。(中略) 私はすでに二十年前に、世の伝説を排してハスに開花音はないといいきったが、今日になってもまだ、広い世界の中で、日本人という国民だけに、ハスの開花音があると信じられている。実におかしな事であるが、悲しくも日本人は、かかる珍妙な特質を持っているのである。
  
 理学博士(自然科学者)がとらえた植生あるいは分析的なハスは、大賀一郎の主張する説明が全的に正しいのだろうが、情緒的かつ文学的な一部の「日本人」には、どうしても夏の早朝に美しく咲くハスの開花音は、ぜひあってほしいところなのだろう。
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 現在では、不忍池の観蓮会のほか、古代ハスの発見元である千葉市の千葉公園や、鎌倉は鶴岡八幡宮の源平池Click!、岡山市の後楽園、そして大賀一郎の疎開先である府中などでも、毎年、ハスが開花する夏になると観蓮会が開かれている。ただし、鎌倉の観蓮会は鶴岡八幡の境内にあった神奈川県立近代美術館で開催されていたが、同館の閉鎖とともに少し前から古代ハスも咲いている、材木座の光明寺Click!へと移動しているようだ。

◆写真上:府中市郷土の森公園の池に咲く、大賀一郎が栽培していた古代ハスの群生。
◆写真中:郷土の森公園の古代ハスと、池の端に設置された大賀一郎像。
◆写真下は、府中市の多摩川沿いに展開する古墳群から発掘された副葬品の鉄刀。下の2振りの鉄刀は芯まで錆が達していないようで、刀の研ぎ師に依頼すれば腐食していない折り返し鍛錬Click!の目白(鋼)地肌が観察できそうだ。は、初頭から春先まで出まわるレンコン。は、鎌倉鶴岡八幡宮の源平池。

清戸道の鶴亀松に登った景観は。

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 かなり以前のことになるが、1857年(安政4)に発行された尾張屋清七版の切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」を見ていて、細川越中守の抱え屋敷Click!(現・目白運動場/肥後細川庭園界隈)の清戸道Click!(現・目白通り)門前に「鶴亀」の記載を見つけ、当時連載していた「ミステリーサークル」シリーズClick!で塚ではないかという記事Click!を書いた。
 すると、さっそくコメント欄で小江戸っ子さんより、松の大樹で「鶴松」と「亀松」と呼ばれていた名木だとお教えいただいた。その際、長崎大学図書館の古写真データベースに保存された、貴重な写真類もご教示いただいている。高田老松町のいわれにもなった鶴亀松の由来にはじまり、目白という地名に関する本来の故地らしい一帯にがぜん興味がわいて、その後、あちこちのフィールドワークや調べものを重ね金山稲荷Click!目白不動尊Click!の拙記事としてまとめてきた。その中で、もうひとつひっかかっていた資料類やテーマがある。
 天保年間に斎藤月岑が著し、長谷川雪旦の挿画で有名な『江戸名所図会/巻之四・天権之部』に目を通していたとき、古えには護国寺のある周辺一帯までが「西大塚」あるいは「富士見塚」と呼ばれた時期があり、執筆当時(天保期)の波切不動尊(本伝寺)が、その昔は塚の上に建立されていた……という伝承が収録されていることを知った。以下、市古夏生・鈴木健一の校訂による斎藤月琴『江戸名所図会』(筑摩書房)から引用してみよう。
  
 (前略)また南向亭(酒井忠昌、一八世紀中頃)云く、「安藤対馬侯[陸奥平藩主]の東の方、森川氏の構へのうちに一堆の塚あるといふ」とも。『紫の一本』[戸田茂睡、一六八三]に、「塚の上に不動堂あり」とあれば、いまの波切不動尊の地、大塚と称する旧跡にや。相云ふ、太田道灌(一四三二-八六)相図の狼煙を揚ぐる料に築きたる塚なり。ゆゑに、昔は太田塚と唱へけると。あるいはまた、鎌倉将軍守邦親王(一三〇四-三三)乱をさけて、武州比企郡大塚村に逝去す。その廟を王塚と称す。ここに大塚と号くるもこの類ならんといへども詳らかならず。(江戸の内に大塚の名多し。なほ考ふべし)。
  
 それによれば、後世に「塚」に関するさまざまな付会が創作されていることがわかるが、結局は不明として記述を終えている。著者が「大塚の名多し」としているとおり、落合地域とその隣接地域だけみても、すぐに3ヶ所の字名「大塚」を発見できる。江戸東京じゅうを見まわせば、「大塚」ないしは「〇〇大塚」と呼ばれる古くからの字名は、おそらく100ヶ所をゆうに超えるのではないだろうか。現在は平坦に整地された場所にある波切不動(本伝寺)が、『江戸名所図会』によれば江戸前期には塚の上に不動堂が建立されていたと伝えられており、小石川大塚とも呼ばれていたようだ。
 また、現在の行政区画ではなく、より古い時代の同所一帯はどこまでが「(西)大塚」と呼ばれていたのかに興味がわいてくる。いうまでもなく、目白から小石川にかけての地域は、旧石器時代から現代まで一貫して人が住みつづけてきた痕跡が見つかっており、明治以降の史観で植えつけられた無人に近い「武蔵野の原野」ではなかったことが、戦後の考古学的あるいは歴史学的な発掘調査の成果物によって裏付けられている。
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 そこで、同書の「なお考ふべし」を実践すると、上記にご紹介した拙記事のような風景が改めて見えてきた。それは、古代のタタラ(大鍛冶Click!)=製鉄との関連や、「目白」(砂鉄から精錬した鋼の古語)という地名考、そして金川=神奈川(弦巻川Click!カニ川Click!の古名)の由来などで書いたとおりだが、「金山」の南西に展開する「神田久保」(現・不忍通り沿い)の谷間にふられた字名、そして幸神社(荒神社)や目白不動などが建立されていた関口台(本来は目白台とも)に挟まれた地域、すなわち清戸道(現・目白通り)の北側は、これまで子細には観察してこなかった。先年に解体された東大病院分院の跡地や、筑波大学付属視覚特別支援学校がある目白台3丁目一帯だ。
 明治期に発行された古地図を見ていたら、ちょうど戦前には府立盲学校Click!(旧・盲学校永楽病院Click!)や東京帝大病院分院があったあたりに、大きな瓢箪型の盛り上がりがあるのを見つけた。1904年(明治37)ごろに発行された地形図を参照すると、その300m前後の大きな突起がきれいに採取されている。現在は、上掲の大規模な学校や病院の建設、または住宅地の造成による整地作業で、地形の盛り上がりは希薄になっているが、北は目白台3丁目24番地あたりから南は同3丁目7番地ぐらいまでの、北北西から南南東にかけて形成された地形の突起だ。江戸期の清戸道沿いにあった鶴亀松の枝に登ったら、おそらくこの瓢箪型に盛り上がった突起がよく見えたかもしれない。また、一帯は江戸期に「源兵衛山」とも呼ばれていたようで、台地の下には金川(弦巻川)が大きく蛇行しながら西から南へと方向を変え、旧・平川(のち神田上水)へ注いでいただろう。
 江戸後期には松江藩松平出羽守(16万8千石)の下屋敷になり、幕末には百人組同心大縄地にされていたようなので、射撃場などの設置により、すでに地形の大幅な改造が行なわれていたかもしれない。幕末は、頻繁に姿を見せる外国船や国内の政治的な緊張に備え、大江戸Click!の各地では土木工事が積極的に実施されていた時代だ。だが、明治末の地形図にも、その痕跡が明瞭に採取されているとおり、突起物を全的に消滅させるには至っていなかった。明治末から昭和期にかけ、大規模な学校や病院の建設(増築)で、より急速に整地開発が進捗したのだろう。そして、戦後はビル状のコンクリート建造物が一帯に林立するに及び、瓢箪型の突起はほぼ全的に消滅してしまった……、そんな気が強くするのだ。
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 現在、明治期の地形図に採取された瓢箪型に沿うかたちで歩いても、地面からの突起はほとんど確認できない。むしろ、規模の大きな東大病院分院があったせいか、地下階の設置で地面がえぐられているところさえある。また、瓢箪型地形の北西部にあたる住宅地も、明治末から大正にかけての道路敷設や宅地開発で、本来の地形の面影は希薄となっている。ちなみに、瓢箪型の突起北西部には、腰掛稲荷が奉られている。なお、江戸期あるいは明治の早い時期に、このあたりの風情を記録した文献が残っていないか探しているのだが、いまだに見つけられずにいる。
 さて、瓢箪型の突起が北側に眺められたとみられる鶴亀松だが、その記述は寛政年間にまでたどることができる。金子直德の『和佳場の小図絵』から引用してみよう。
  
 六角越後守様御下屋敷 表御前に松の樹二本有り、有徳院殿御土産松と云て、道の上に覆ども枝を伐事ならず、寛政九年の春大雪降て、西之方の松倒れけるが、起して植ける。此松に十年斗前より蛇住て、木の空穴より出ては往来の枝の上に寝て、いびきの声高し。或時は男女縄のごとくなりて、三五日番居けるが、倒て後はその沙汰なし。
  
 寛政年間の鶴亀松は、細川家下屋敷ではなく六角家下屋敷の門前にあったことがわかる。大雪で西側の松が倒れたとあるが、そのダメージがのちのちまで尾を引き、幕末ないしは明治初期の落雷により樹体の脆弱化が進み、枯死が決定的になったのだろう。明治期には、西側の松は枯死して伐られ、東側の老松だけになってしまった時期があったらしい。
 ただし、残った東側の老松も明治のうちに枯死して伐採され、大正期には後継の若松に植えかえられていた様子が伝えられている。大正期が終わったばかりの、1927年(昭和2)に東京日日新聞に連載された、上落合685番地のプロレタリア作家・藤森成吉Click!『小石川』から引用してみよう。
  
 学校(日本女子大)の斜め向いには、旧大名細川邸の長い黒板塀が連なっている。その正門の両側に、「細川さんの鶴亀松」と呼ばれて名高い老松があった。私の記憶でも、その一本――あとでは確か後継の若松――は震災前まであった。が、あの天災で門が大破し、そこを潰して一連の塀に変ったと同時に、松の姿も消えて了った。(カッコ内引用者註)
  
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 明治期に、鶴亀松の向かいには「美人の評判が高かった」(同書)娘がいたそうだが、やがて蔦のからまる西洋館のカフェに変わり、茶屋の娘のそのまた娘が経営していたようだ。藤森成吉は、目白台に住む青年たちが訪ねてくると、「親に似た美人だ」という評判を昭和初期にさんざん聞かされているらしい。

◆写真上:広い草原が拡がる、帝大病院分院(のち東京大学病院分院)の跡地。
◆写真中上は、幕末か明治の最初期に日下部金兵衛が撮影した細川家下屋敷門前の鶴亀松。は、1907年(明治40)に作成された地形図にみる源兵衛山の瓢箪型台地。は、帝大病院の分院時代から残るレンガとコンクリートの塀。
◆写真中下は、同じく東京大学病院分院の跡地。は、盲学校永楽病院(のち東京府立盲学校)へ向かう西側接道。大正期には、この道を新宿中村屋Click!に寄宿していたエロシェンコClick!が通った道だ。は、現在の筑波大学付属視覚特別支援学校。
◆写真下は、瓢箪型突起の西北側に建立された腰掛稲荷社。は、神田久保の谷間(現・不忍通り)へと下るバッケ(崖地)Click!坂。は、明治期に撮影された鶴亀松。

駅売りコーヒー牛乳が流行った守山商会。

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 先日、知人から守山乳業(株)が販売していた「守山牛乳」の空き壜を2本と、1938年(昭和13)に出版された『守山商会二十年史』(守山商会/非売品)をいただいた。知人は、わたしが神奈川県央の海辺育ちClick!なのを知っているので、「これ、懐かしいでしょ」とプレゼントしてくれたのだ。
 2本の壜は、戦後すぐのころの仕様で、双方とも「守山文化牛乳」と書かれていて、気泡がたくさん入ったガラスの質が劣悪なところをみると、おそらく1940年代後半から50年代前半ぐらいの容器ではないかとみられる。色のついていない壜が、通常の牛乳を入れて販売され、まるでコーラの壜のように遮光の色がついているほうは、同社自慢のコーヒー牛乳を封入して売られていたものではなかろうか。守山牛乳は、鉄道駅のミルクスタンドでの販売が主流であり、一般の牛乳でよく見かける紙のキャップにビニールをかぶせた仕様ではなく、金属の王冠をかぶせ封入して売られていた。
 しかし、わたしは物心つくころから15歳まで、明治牛乳あるいは名糖牛乳しか飲んでこなかったので、地元でありながら守山牛乳の存在を知らなかった。湘南地方の平塚には、あちこちに牧場があることは知っていたし、それらの牧場が協同で主催する品評会が、海岸べりに多かった砂地の広い空き地で開かれていたのも記憶に残っている。でも、守山牛乳を飲んだ記憶はかつて一度もない。
 守山商会(のち守山乳業)の本社は、平塚駅北側の国道1号線に面した宮の前にあり、なんとなく街の風情や環境がちがう駅の南側エリアとは、東海道線に隔てられていて馴染みのないせいもあるのだろう。駅の南北では、小中学校の学区も異なっていた。
 また、駅売りの駅弁はあちこちで買って食べた記憶があるけれど、いっしょに買うのはたいがいお茶で、牛乳を飲んだことはなかったように思う。もし、親が東海道線のいずれかの駅で、牛乳かコーヒー牛乳を買って飲ませてくれていたら、おそらくそれが戦前から大流行していた守山乳業の製品だったのだろう。
 守山商会は、1918年(大正7)に神奈川の大山Click!(おおやま=阿夫利山)山麓、平安期の鉈彫りによる薬師三尊や十二神将で有名な日向薬師の近く、中郡高部屋村日向で創業している。のちに日向川の下流、七沢温泉の近くに事業所を移しているが、足が早い乳製品の物流には不便だったため、平塚駅北側へと移転してきた。1928年(昭和3)1月に、資本金40万円で株式組織に変更し、正式に(株)守山商会を名のるようになった。
 守山乳業というと、現在では日本初の「珈琲牛乳」を、東海道線の国府津駅で販売したことになっており、同社のWebサイトやWikipediaにもそのように記載されている。だが、日本で最初にコーヒー牛乳を販売したのは、東京府豊多摩郡の中野町に本社があった日本均質牛乳であり、1916年(大正5)出版の『豊多摩郡誌』によれば、「町内搾乳場十ヶ所、畜牛二百九十二頭(牝二三四、牡五八)あり、大正四年度の仔牛十四頭価額金二百六十円を挙ぐ」とあるように、中野は首都圏における酪農の先進地帯のひとつだった。日本均質牛乳は、鉄道省の指定品として認可を受け、すでに「クラブ印コーヒー牛乳」や「均質牛乳」を、東京内の省線や東海道線の主要駅で販売していた。
 『守山商会二十年史』(1938年)から、すでに最大のライバルとなっていた日本均質牛乳との、し烈な販売競争の様子を引用してみよう。
  
 その当時東京市外中野に日本均質牛乳株式会社なる先輩あり、クラブ印コーヒー牛乳、均質牛乳を造り東海道の主要大駅のみで販売し一大敵国の感をなしなかなかその堅塁は抜くことが出来なかつた。処が色々の事情があつて国府津駅の東華軒主飯沼相三郎氏、赤羽駅の都家故宮森六之助翁、組合長清水籐左衛門氏等の推奨、熱烈なる御後援があつて販路は俄然好転して来た。月末になると国府津駅迄飛んで行つて、その月中の品代金を貰つて帰り職工達の給料に充当したものであつた。
  
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 日本で初めてコーヒー牛乳を開発・製造したのは、中野町の日本均質牛乳であり守山商会でないのは明白だろう。また、東海道線の主要駅でコーヒー牛乳を販売していたのも、日本均質牛乳のほうが先であり、堤康次郎Click!が開発していた別荘地のある東海道線の国府津駅へ、初めてコーヒー牛乳を納入・販売したことのみが、守山商会の「初めて物語」だったことも明らかだ。
 では、どうして現在では「日本初」が守山乳業になってしまったのかというと、日本均質牛乳は関東大震災Click!で大きなダメージを受け、その直後から事業継続がうまくいかなくなってしまったのだ。そして、1930年(昭和5)になると大恐慌の影響もあって、守山商会へ合併・吸収されることになる。
 守山商会が日本均質牛乳を買収できるほど、なぜ急速に台頭しえたのかというと、関東大震災の際に製品を被災地の横浜や東京へ集中的に運び入れ、水や飲み物が不足している被災者に売って、莫大な利益を上げたからだ。このあたり、守山商会が理想として私淑していた三島海雲Click!カルピスClick!が、大震災が起きると同時にストックしていた全工場のカルピスと氷をかき集め、トラックで被災地へ配って歩いたのとは対照的な企業姿勢であり、「うーーん……」となってしまうところなのだが、あくまでも資本主義社会なので正当な商売なのだろう。
 守山商会が急成長をする経緯なので、その記述も詳細をきわめているが、関東大震災が発生した直後の様子を同社史から、少し長いが引用してみよう。
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 よし来たあの返品されたコーヒー牛乳を売りだせと兄弟は、一挙に何十箱も売つて了つた。幸に庭には壜が残つてゐた。よし造つて売れ、壜は拾つて来い、と許りに、四日目には工場から景気のよい煙が濛々として昇り始めた。仁徳天皇なら御嘉賞になる所であるが、近処の人は気が小さい。曰く『時節柄遠慮せい!』。毎日現金が捨てる程沢山集るが、焼け爛れた札や金の置き所に困つた。勿論銀行等明(ママ)きつこが無い。地下室へ金銀財宝を納れて、その上にどつかと坐り込んで、夢寐の裡にも伝家の宝刀を抱いてゐた。金持ち程辛いものは無いと思つた。(中略) その内、壜も、王冠も、珈琲も欠乏して来た。(守山)謙氏は東京へ行つて焼け出されの製造所の一家族を引率して来て、工場の一隅に製壜工場を急設した。(中略) 森氏の斡旋で砂糖や、珈琲豆を買ひ付けたが、陸路は絶対に送品が出来ない。海路を国府津に陸揚げして物資を関西に仰いだ。一ヶ年間虐められた日本均質会社は中野の工場が大破して、製造は当分見込みが付かないので、東海道線でも東北線方面でも、守山珈琲牛乳の配給を――この物資欠乏の秋にも奮闘してゐる――感謝の許に受入れて下すつた。(カッコ内引用者註)
  
 これって、人の弱み(罹災した日本均質牛乳)につけこんだ販路拡大であり、被災者の不幸や欠乏を見越したひどい商売じゃないか……などと憤ってはいけない。ムキ出しの資本主義社会は弱肉強食、たとえ天災とはいえ弱ったり、口に入るものが欠乏したり、不幸にみまわれたほうが「敗者」であり、どのような手段を用いても儲けたほうが「勝者」ということになるのだろう。わたしは、このような企業姿勢は好きじゃないので、被災者に無償で商品を配ってしまい周囲からバカにされた、カルピスの三島海雲のほうにより共感をおぼえるのだが……。
 さて、大震災肥り……いや失礼、千載一遇の天佑で事業拡大をなしとげた守山商会は、駅の売店を仕切る鉄道弘済会へ深く食いこみ、守山牛乳と守山コーヒー牛乳の販路を全国の省線各駅へと拡げていった。工場も大幅に拡張し、平塚町宮の前に本社機能を残したまま、馬入川(相模川)河口の左岸(茅ヶ崎町中島)へ、巨大な守山商会平塚工場&研究所を開設するまでになっている。
 そして、守山コーヒー牛乳や守山牛乳のほかに、新製品として国産無糖煉乳「富士ミルククリーム」、育児用煉乳「富士ミルク」、「アテナミルク」(輸出用)、「守山グリコ牛乳」、「守山アイスクリームの素」、「ビタマウスミルク」(輸出用)などを次々と開発していった。わたしが子ども時代をすごした、親しみのある懐かしい湘南の地場産業とはいえ、美辞麗句やウソは書けないので事実を記事にしてみたしだい。次回は、全国的に大ヒットした守山コーヒー牛乳にニセモノが現われ、警視庁衛生部を巻きこみ事件にまでなったエピソードをご紹介したい。
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 現在は、牛乳の市販をやめてしまったらしい守山乳業だが、スーパーなどではプラスチックカップに入った、「喫茶店の味ココア」や「はちみつレモネードティー」などを買うことができる。ためしに飲んでみたが、1960~70年代の砂糖をたっぷり入れた「非常に甘い=美味しい」時代の飲み物のような仕上がりで、わたしの口には合わなかった。

◆写真上:戦後間もないころの、守山乳業が製造していた「牛乳文化牛乳」壜。コーヒー牛乳(右)と通常の牛乳(左)で、封入には金属の王冠が用いられていた。
◆写真中上は、日向時代の守山商会で中央の人家あたりに工場があった。正面中央の山向こうには日向薬師があり、左手の高い山は江戸期の大山詣りで有名な大山(阿夫利山)。中上は、日向薬師へ向かう同所の現状。中下は、七沢時代の守山事業所兼工場で中央下の建物。は、冒頭の空き瓶の一部拡大。
◆写真中下は、帆船がもやう昭和初期の馬入川(相模川)河口。中上は、1938年(昭和13)撮影の茅ヶ崎町中島に建つ守山商会平塚工場&研究所。中下は、同年に撮影された守山酪農研究所。は、1946年(昭和21)に撮影された守山平塚工場。建物が残っているように見えるが、1945年(昭和20)7月16日夜の平塚大空襲で全焼している。
◆写真下は、農業と酪農を兼業する昭和初期にみられた大磯の典型農家。中上は、1923年(大正12)に撮影された関東大震災直後の馬入川(相模川)Click!の様子。国道1号線の馬入橋が崩落し、臨時に渡し舟が運行されていた。中下は、守山商会の空き壜に刻印された同社のトレードマーク。は、守山乳業の現行製品で「喫茶店の味ココア」(左)と「はちみつレモネードティー」(右)。

佐伯祐三は守山珈琲牛乳を飲んだか。

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 1927年(昭和2)の夏、佐伯祐三Click!は家族を連れて神奈川県中郡大磯町山王町418番地の借家Click!へ避暑に出かけている。直接の目的は、百日咳が治ったばかりの彌智子を、潮風が吹く気温が低めな海辺でゆっくり静養させるためだった。当時、結核や百日咳など肺の病気には、海岸地帯で療養するのが効果的だと信じられてい時代だ。
 佐伯一家が、なぜ避暑地に大磯Click!を選んだかは、佐伯自身が大阪との往来には東海道線沿いの地域が便利だったのと、おそらく米子夫人Click!が千代田城の御殿医だった松本良順(のち松本順Click!)が拓き、明治初期からの江戸東京市民にはお馴染みの、避暑・避寒地で別荘地Click!だった大磯にこだわったせいだろう。(城)下町Click!の尾張町(銀座)地付きの米子夫人にしてみれば、新興でにわか造りの避暑地・軽井沢よりは、昔ながらの伝統的な避暑・避寒地の大磯に、より魅力を感じたからにちがいない。
 このとき、佐伯一家は東海道線の駅に設置されたミルクスタンドで、「守山珈琲牛乳」Click!を飲んだだろうか? 新しもの好きな佐伯のことだから、どこかの駅で飲んでいるような気がするのだ。この時期、日本で初めてコーヒー牛乳を開発した東京府中野町(のち神奈川県大船)の日本均質牛乳は、関東大震災Click!の痛手から立ち直れず、省線での駅売りをはじめ市場のシェアを次々と守山商会に奪われている最中だった。日本均質牛乳が守山商会に合併・吸収されるのは、わずか3年後の1930年(昭和5)のことだ。以来、首都圏の駅売り牛乳は、守山商会が大きなシェアを占めることになった。
 大正末になり、駅売りを中心とした守山珈琲牛乳の人気が高まるとともに、乳製品が腐敗しやすい夏季の販売が問題化している。いまだ日本均質牛乳と守山商会が、駅売りのコーヒー牛乳でしのぎを削っていたころ、ホウ酸が混入された製品が発見され、警視庁衛生部に摘発されたようだ。ホウ酸混入のコーヒー牛乳は、警視庁の検査で両社ともに確認されている。事件の様子を、1925年(大正14)6月12日(土)の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 危険な牛乳を省線各駅で売る/板橋駅でも発見し発売元厳罰に処せられん
 警視庁衛生部では気候の変り目には兎角腐敗した牛乳を販売する向があるので十九日管内一斉に資量の検査を行つた結果、鉄道省各駅で売つてゐるコーヒー牛乳に多量のほう酸が混入されてゐるのを発見したのでその発売元である東海道平塚駅前守山商会主守山賢(ママ:守山謙の誤り)を警視庁に呼寄せ詰問したところ防腐剤として多量のほう酸を混入してゐた(こ)と申立てた/守山氏はほう酸は無害であるといふてゐるが警視庁衛生部ではほう酸は人体に有害で殊に胃腸を害することは確かであるところから即時鉄道省に通達して東京其他近県各駅で販売してゐた同コーヒー牛乳は全部捨てさせ尚府下板橋駅で販売してゐたコーヒー牛乳の中にも同様ほう酸が混入してあつた、これは東海道線大船駅前日本均質牛乳会社製造にかかるもので同線及び同町内へ売つてあつた四十箱をことごとく捨てさせ両者とも厳重な処罰をされるさうである(カッコ内引用者註)
  
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 ただし、この記事は前月19日の調査結果が発表された「ホウ酸混入事件」の第一報であり、記事中では専務の守山謙が「ほう酸は無害である」といったことになっているが、事情はそれほど単純でわかりやすい経緯ではなかったようだ。なぜなら、駅売りで人気のある日本均質牛乳と守山商会のコーヒー牛乳には、壜の意匠までそっくりそのまま模倣したニセモノが、数多く出まわっていたからだ。
 それらニセモノのまがい品の中には、腐敗するまでの時間かせぎにホウ酸が混入されていた可能性が高そうなのだ。守山のコメントは、「ホウ酸は無害なのか?」という記者の一般的な質問に対し、「少量なら無害だろう」と答えたものが、そのまま混入事件にからむ文脈上で報じられているのかもしれない。事実、守山商会も日本均質牛乳も、夏季に製品へホウ酸を添加している製造過程は存在しなかったようで、警視庁衛生部に呼ばれたのは製品管理の徹底化、あるいは安全管理の念押し確認、そして悪質なニセモノ製品を駆逐するための施策の企画・実施要請だったように思われる。
 ホウ酸混入事件の1週間後、守山商会はさっそく製造過程におけるホウ酸添加の否定と、夏季でも腐敗しにくい科学的な製造法を解説した詳細な広告を、同じ東京朝日新聞に出稿している。また、「御注意」としてホウ酸混入事件への関与否定と、自社製品の類似品や模造品に注意するよう消費者へ呼びかけている。1925年(大正14)6月18日(木)に同紙へ掲載された、守山商会の記事広告から引用してみよう。
  
 御注意
 一、最近「硼酸」を混ずる危険飲料との中傷説を宣伝して得々たるものがあります、勿論自己のためにせんとする奸策ではありますが、牛乳に等量の防腐剤を入れても、保存の不可能なることは、御実験なされても直ぐ判ります。
 一、内務省東京衛生試験所の、定量分析表及び何等防腐剤を含まずして、永久的耐久力ある御説明書は、弊社モリヤマタイムス紙上に公表してあります。他品と御比較御愛用願ひたい為特にお求めの際は、ハート印に御注意下さい。
  
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 同記事には、守山均質牛乳および守山コーヒー牛乳が腐りにくいのは防腐剤をいれているから、あるいは脂肪分を取り除いてしまったからだ……という世間のウワサを取り上げ、科学に無知な「暗中模索」の妄言だと批判している。
 搾りたての新鮮な牛乳を、ビタミン類が破壊されないよう低温度殺菌で消毒し、クーラー装置を通して「獣臭」を除去したあとオゾンを吸収させ、脂質組織を均等に混和するための装置「ホモゲナイザー」にかける。こうして製造するのが守山均質牛乳で、それに「モツカ」などを主成分とする純度の高いコーヒー銘柄のエキスに、しょ糖を添加したものが守山コーヒー牛乳だと解説している。
 また、わたしの世代には奇異に感じるのだが、いわゆる広口の牛乳壜に紙のフタではなく、まるでコーラかビールのように王冠コルクで“菊型長壜”の細口を密閉するという、通常の牛乳ではありえないパッケージ法が用いられていた。このような「理学的操作のみ」により、衛生的で腐敗しにくい壜詰め牛乳ができるのであり、「薬品等の化学的幇助は、絶対に必要を認めません」とまでいいきっている。
 守山商会の対応がすばやかったせいか、ホウ酸混入事件の影響による売り上げの低減はそれほど長くはつづかなかったようで、昭和に入ると駅のミルクスタンドは大流行することになる。その激しいシェア争いの過程で、守山商会は日本均質牛乳を圧倒し、ついに1930年(昭和5)に東京・中野生まれの同社を合併・吸収することに成功している。
 おそらく、ホウ酸混入事件を念頭に置いて書いているのだろう、1938年(昭和13)に出版された『守山商会二十年史』(非売品)には、「永い期間にはその盛名を妬んで、壜型レーベル迄模倣したものを造り、宣伝費だけを安くして各駅へ売り歩くものもあつたが、結局旅客の口は賢明であつた。そうした品は日一日と売れ無くなつて、二、三年で雲散霧消する事もあつた」と、自信たっぷりに回顧している。
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 守山商会はその後、牛乳だけではなく多種多様な乳製品を開発・販売していくのだけれど、平塚には海軍の火薬廠や横須賀海軍工廠分工場、海軍飛行機工場などが集中しており、また日本本土進攻のコロネット作戦の主要上陸地点として想定されたため、1945年(昭和20)7月16日夜の花水川河口への照明弾投下からはじまる平塚大空襲で、守山平塚工場は壊滅した。その様子は、1957年(昭和32)に出版された『守山乳業株式会社四十年史』(非売品)に詳しいのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:戦後すぐのころに製造された、王冠コルクをかぶせる“菊型長壜”の細口。
◆写真中上は、富士山や大磯丘陵を背景に馬入川(相模川)河口の守山牧場にいた乳牛ホルスタイン。は、1938年(昭和13)ごろに撮影された平塚海岸からの眺め。右手の高麗山から千畳敷山(湘南平)Click!の向こうには富士山が大きく見え、わたしはこの風景を見ながら子ども時代をすごした。下左は、1938年(昭和13)出版の『守山商会二十年史』。下右は、当時の専務取締役・守山謙。
◆写真中下は、1925年(大正14)6月12日発行の東京朝日新聞より。は、守山商会が昭和初期に採用していた同社製品のイメージガール。は、コンビニで販売されている現行品「アフタヌーンティーチャイ」だが、わたしにはやはり甘すぎる。
◆写真下は、1925年(大正14)6月18日に東京朝日新聞に掲載された守山商会の記事広告。は、昭和初期の「富士ミルク」のポスター。は、均質牛乳にグリコーゲンを加えた「守山グリコ牛乳」()と、輸出用に開発された「ビタマウスミルク」()。

相馬邸が下落合から中野へ移転した理由。

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 下落合の相馬邸が、1939~1940年(昭和14~15)にかけ中野区広町20番地へ転居Click!した際、なぜ移転先に旧・中野町が選ばれているのか?……という疑問を、前回の記事の最後に課題として残しておいた。赤坂から下落合への転居に関しては、多彩な巫術的なテーマClick!から、あるいは下落合の神田明神分社Click!や葛ヶ谷(現・西落合)妙見山Click!の存在といった側面から考察してきたが、次の転居先である旧・中野町(古くは中野郷)については、いったい何が見えてくるだろうか。
 さっそく、旧・中野町(現・中野区の南部一帯)の伝承やフォークロア、江戸期の資料などを当たってみると、いろいろ面白い故事や伝承が見つかった。まず、中野地域の「七天神八第六」伝承から検討してみよう。ここでいう「七天神(ひちてんじん)」Click!とは、平安期以降に京で奉られた菅公Click!のことではなく、日本神話における第一天神のクニノトコタチから第七天神のイザナミとイザナギの、七天神を指していると思われる。その中で第六天神Click!に相当するのが、海陸の生き物や自然を形成するカシコネとオモダルの夫婦(めおと)神だ。
 明治政府は、皇国史観Click!と日本の社(やしろ)では比較的新しい伊勢社=伊勢神道を「国家神道」化するために、アマテラスの祖神(おやがみ)である第七天神のイザナミとイザナギのみを創造神として残し、第一天神から第六天神までの社を抹殺しようと試みている。「日本の神殺し」Click!といわれる、日本神話のご都合主義的な歪曲と改変が、明治の薩長政府によって推進された。古くは縄文期の七星信仰に由来するとみられる、日本古来の第一から第六天神までを含めた多種多様な神々の社が、おもに近畿圏を中心にして全国から抹殺されようとした。
 ここで留意したいのは、中野地域の古くからの伝承である「七天神八第六」の「七天神」が、江戸期あるいはそれ以前からつづく北斗七星信仰(のち妙見信仰へ習合)と結びついた、古来からの日本神話にもとづく天神7社であった可能性が高いということだ。また、カシコネとオモダルを奉った第六天社が、中野地域(現・中野区南部)だけで8社もあったということは、なおさら本来の日本神話で語られていた神々の痕跡が、色濃く残存していた経緯あるいは事実を裏づけている。「七天神八第六」の伝承を、1933年(昭和8)に出版された『中野町誌』(中野町教育会)から引用してみよう。
  
 昔より七天神八第六と唱へて、中野に天神七社第六天八社ありと云伝ふ。此の内第六天社には皆椿の木を植えて、椿明神と唱へたる口碑あるも、由来を詳かにせず。古老曰く、谷戸城山傍に藤の木ありし天神、打越天神、西町の天神。圍の神田男旧邸内、嵯峨の里関口氏の南高台、旧農事試験場内、中野氷川神社横、上ノ原浅田氏畑内及び原に在る第六天等にて、他は知らずと云へり。
  
 第六天8社の所在は、かろうじて昭和初期まで伝えられているが、天神7社の位置はまったく不明になっている。七天神の象徴である北斗七星は、もちろん北斗妙見信仰に篤い将門相馬家Click!に直結するフォルムであり、相馬家のシンボルそのものだ。
中野相馬邸2.JPG
中野相馬邸3.JPG
釜寺東遺跡段丘斜面.JPG
 もうひとつ、中野地域の古来からの伝説に、江戸期まで伝わっていた「中野の七塚」がある。江戸前期から中期にかけての地誌、『江戸砂子』から引用しよう。
  
 此辺に塚七つあり何の塚なるやしれず、かくいひ来るは古き事なりといふ、二三所はその所もしれたり云々……(以下略)
  
 すでに江戸時代になると、塚の所在地が不明になりつつあった様子がうかがえる。この「七塚」が先の天神と照応するのかも、江戸期の文献ではすでに規定できていない。また、江戸後期に編纂された『江戸名所図会』では、さらに伝承が錯綜し混沌としており、さまざまな周辺で語り継がれた物語と習合してしまっているのがわかる。つづいて、『江戸名所図会』から引用しよう。
  
 里諺に中野長者正蓮仏々供養の為め高田より大窪辺の間に、百八員の塚を築くと云ひ伝ふ、こゝに七塔といへるも其の類のものならんか、又中野の通りの右側叢林の中に三層の塔あり、七塔の一ならんか、伝へいふ、中野長者鈴木九郎正蓮が建つるところにして、昔は成願寺の境にありしを、後世いまの地へ移すといへり、
  
 「中野の七塚」の伝承が、いつの間にか戸塚や高田、落合、大久保の旧・神田上水沿いに伝わる、室町期の下戸塚(現・早稲田エリア)は宝泉寺の僧侶・昌蓮の「百八塚」Click!伝説と結びつき、さらに「中野長者」Click!伝説とも混同・習合してしまっている様子がうかがえる。
 江戸前中期の『江戸砂子』では、なんら「百八塚」や「中野長者」の伝説に連結しない記述なので、ここは素直に7つの塚(古墳)が並んで展開している土地が、古くから事実として中野地域内にあったと解釈したい。そこで想起したいのは、相馬家の故地である千葉(チパ:原日本語で「頭」=大半島)の「七星塚」の存在だ。なんらかの塚状古墳が、どのような形状をしていたか(七星を思わせるフォルムだったろうか?)はもはや不明だが、7基にわたって展開していた時代があったということだろう。ひょっとすると、縄文遺跡に関連するなんらかのメルクマールだったのかもしれないが、この伝説も相馬家が中野地域へと移転する、ひとつの理由として挙げられそうだ。
下落合相馬邸七星礎石.JPG
相馬邸表座敷正面.jpg
相馬恵胤・雪香夫妻1941.jpg
 さらに、忘れてはならない歴史的な大事件が中野地域で起きている。もちろん、平将門Click!を中心とする坂東武者たちが一斉蜂起した、「天慶の乱」の古戦場のひとつが「中野ノ原」だったということだ。しかも、室町期の1300年代半ば(延文年間)には、古戦場に平将門一族の霊気がとどまっていたという伝承があり、一遍上人から3代目の僧侶・真教が中野地域へ立ち寄り、将門の霊を供養する行事を行っている。上掲の『中野町誌』から、再び引用してみよう。
  
 中野郷の内其地いづかたなるか知らず、天慶三年二月十四日平将門は、下総石井の里に於て平貞盛の矢に当りて藤原秀郷之を討つ、其頃将門の弟御厨三郎将頼、武州多摩郡の中野の原に出陣し、秀郷の男千晴と戦ひ、将頼利なくして同年七月七日、川越[中野ともいふ]に於て討死す。中野の古戦場に霊気とゞまり人民を煩す事件あり。延文の頃一遍上人三代真教坊、当所遊行のとき村民この事を歎く、その党の長なれば将門の霊を相殿に祀りて、神田大明神二座とす云々。
  
 とても興味深いのは、ここでも下落合と同様に神田明神の分社化が行われている点だ。この分社の事実は、『江府名跡志』や『武蔵名勝図会』などにも記載されており、1300年代中期(南北朝時代)に実施されていることから、ひょっとすると江戸期の文献に記載されている下落合の神田明神分社よりも古い社(やしろ)かもしれない。
 以上のように、古代からつづく北斗七星信仰(のち妙見信仰)を強く想起させる「七天神」社の存在、将門相馬家の故地である千葉の七星塚を想起させる「中野七塚」伝承、そして平将門・将頼兄弟ゆかりの古戦場と神田明神分社が存在していた中野地域……と、これだけの強い関連性や濃いつながりが確認できれば、相馬家が下落合の次に中野(旧・中野郷エリア)を選んで転居している動機づけとしては十分だろうか。
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本郷氷川明神花見橋から.jpg
神田川花見橋.jpg
 余談だけれど、前回の広町相馬邸の記事中で、神田川流域では最大クラスとなる古墳時代後期の集落遺跡「釜寺東遺跡」をご紹介しているが、同河川流域では最大級のタタラ遺跡が、中野地域で確認されている。広町相馬邸から、東へ1kmほどのところにある本郷氷川明神社と藤神稲荷社(下落合の氷川明神社と藤稲荷社に近似している点にも留意したい)に挟まれた沿岸一帯が、大規模なカンナ(神奈)流しClick!が行われたエリアだ。同遺跡からは、昭和初期の発掘調査で鉄糞(かなぐそ)はもちろん、古墳の副葬品とみられる鉄剣や鏡、鈴などが出土しているのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:広町相馬邸の崖下を流れる神田川で、向かいは東京メトロ中野検車区。
◆写真中上は、広町相馬邸跡の南側に拡がる草原。は、同相馬邸の北側に架かる駒ヶ坂橋から眺めた善福寺川の上流。は、釜寺東遺跡が発見された神田川の段丘。
◆写真中下は、御留山に残る下落合相馬邸の七星礎石。は、1915年(大正4)の竣工直後に撮影された下落合の相馬邸表屋敷で、1915年(大正4)制作の『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。は、中野の広町相馬邸で1941年(昭和16)に撮影されたとみられる相馬恵胤・雪香夫妻。(提供:相馬彰様)
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大規模なタタラ遺跡の周辺。は、『中野町誌』より1933年(昭和8)に旧・神田上水に架かる花見橋あたりから上流に向いて撮影されたタタラ遺跡一帯(右手)。は、現在の神田川に架かる花見橋から見た同所。

1930年協会展で急増する「落合風景」作品。

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 1926年(大正15)から1930年(昭和5)まで、5回にわたって毎年開催された1930年協会展Click!には、落合地域とその周辺域の風景画がたくさん出品されている。1926年(大正15)5月15日~24日に開かれた第1回展(室内社)は、5人の画家たちClick!による滞欧作の風景画がほとんどだが、日本の風景作品としては、小島善太郎Click!の連作『四ツ谷見附』(冬)(夏)(曇)Click!や『相模川』などが目立っている。いまだ、東京郊外の風景に、画家たちがそれほど画因をおぼえなかったころだ。
 だが、1927年(昭和2)6月17日~30日に開かれた第2回展(上野公園内日本美術協会)では、佐伯祐三Click!を筆頭に数多くの東京郊外風景が出品されている。このとき、佐伯祐三が出品した作品の画面は判明しており、真冬の八島さんの前通りClick!を描いた『風景』Click!、妙正寺川の橋ごしに川沿いの小さな住宅群を描いた『風景』Click!八島邸Click!の赤い屋根と門を描いた『落合村風景』=『門』Click!、前年の晩夏には完成に近い画面を確認(二科受賞の記者会見Click!)できる、曾宮一念アトリエClick!の前につづくコンクリート塀を描いた『落合村風景』=『セメントの坪(ヘイ)』Click!、そして八島さんの前通りを北から描いた『落合村風景』Click!の計5点だ。
 ちなみに、佐伯祐三は作品に「落合村」とタイトルしているが、これは彼が渡仏前まで馴染んでいた呼称で、1924年(大正13)の町制施行により3年前から落合町になっていた。また、佐伯の出品作リストには『落合村風景』に「A」と「B」の区別があるが、それがどの画面のことを指しているのかはいまだ規定できていない。
 さて、同じ第2回展には、笠原吉太郎Click!の『青い屋根』と『大学構内』、『練馬風景』、『上州風景』が出品されている。この中で、『青い屋根』が落合風景の可能性がありそうだ。笠原が、いまだ『下落合風景』の連作Click!にかかる前のようで、このあと佐伯祐三と同様に下落合に拡がるあちこちの風景を描いていくことになる。ちなみに、『大学構内』は早稲田大学か立教大学のキャンパスだろうか。
 同展には、伊倉晋が『下落合風景』と『千駄谷風景』、『横浜近郊風景』の3点を出品している。この『下落合風景』がどのような画面だったかは、まったくわからない。伊藤晋は、1930年協会の会員である佐伯の影響を受け、下落合を訪れては描いていたのかもしれない。また、井上長三郎は『初夏板橋風景』を出品している。そろそろ東京近郊の風景を描くブームが、画家たちの間で起きはじめていたのがうかがえる。
 1928年(昭和3)2月11日~26日に開かれた第3回展(上野公園内日本美術協会)では、東京近郊の風景作品が急増している。特に落合地域の作品が多く、丸太喜八の『落合風景』や藤田嘉一郎の『下落合風景』、宮崎節の『文化村風景』、佐久間周宇の『落合風景』と『落合の工場』、田中修の『山の手風景』などが挙げられる。いずれも実際の画面は不明だが、宮崎節の『文化村風景』は目白文化村Click!のいずれかの場所を、佐久間周宇の『落合の工場』は目白崖線の麓、旧・神田上水か妙正寺川の沿岸で操業していた、いずれかの工場を描いていると想定できる。
井上長三郎「風景(下板橋)」1926-27.jpg
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小野幸吉「駅頭」1929.jpg
 藤田嘉一郎は『水辺風景』や『神田風景』、『高円寺裏』を同時に出品しているが、『水辺風景』は落合地域のいずれかの川沿いの風景かもしれない。また、戸田秀男は『庭』と『学習院寄宿舎の一部』、『道(冬)』を出品しているが、これらも落合風景の可能性が高い。特に『学習院寄宿舎の一部』は、同年に竣工間近な近衛町Click!学習院昭和寮Click!の一部を描いたのではなかろうか。さらに、鷲山宇一は『街景』と『角の食料品店』を出品したが、佐伯の風景画をコピーしていると展覧会評で批判されているので、これらも目白通り沿いの下落合風景を描いたものかもしれない。
 このように、第3回展では明らかに佐伯の連作『下落合風景』Click!を意識した、あるいは追随した画面が急増しており、画家たちの間には「落合の風景を描けば入選できる」というような、妙なブームないしはジンクスがあったのかもしれない。同展には、南風原朝光が『長崎町風景』を、竹原千男が『曇日の池袋』を出品するなど、郊外に目を向ける画家たちが増えているのがわかる。
 1929年(昭和4)1月15日~30日に開催された第4回展(東京府美術館)では、佐伯祐三の死去とともに作品が特別展示されている。ただし、第2次渡仏作ばかりで下落合の風景は見えない。同展では、前年に多かった落合の風景画は出品されておらず、東京近郊の風景作品が多かった。
 たとえば、井上長三郎は『樹立』と『金井窪風景』を出品しているが、おそらく双方とも板橋風景だろう。竹原千男は『長崎村』と『佃島風景』を、黒田祐治は『立教大学附近』を、南風原朝光は『哲学堂附近』を出品しており、落合地域に接した北側や西側の風景画が目立っている。竹原千男は長崎に住んでいたのか、1926年(大正15)に町制へ移行した長崎町を、佐伯の「落合村」と同様に従来から呼びなれた「長崎村」とタイトルしているのかもしれない。
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靉光「屋根の見える風景」1929.jpg
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 最後の1930年協会展となった、1930年(昭和5)1月17日~31日開催の第5回展(東京府美術館)には、林武Click!が『文化村風景』と『落合風景』を出品している。この『文化村風景』が、1926年(大正15)に制作された『文化村風景』Click!と同一の画面かはハッキリしないが、同展には林武の作品を41点も展示しているので、おそらく過去に描いた作品も展示されていると思われる。また、『落合風景』の画面もわからないが、妙正寺川沿いの下落合に建つ東京電燈谷村線Click!の高圧線鉄塔を、上落合側から描いた『下落合風景(仮)』Click!と同じ画面の可能性がある。
 同展には、樋口加六の『落合風景』と外山五郎が描く『落合風景』も出品されているが、いずれもどのような画面だったかが不明だ。また、渡辺幸恵の『高田の馬場風景』や南風原朝光の『中野風景』と、落合の周辺風景も相変わらず画家たちのモチーフに選ばれている。ちなみに、南風原朝光は2年連続で中野地域の風景を画因にしているので、この時期は中野町ないしは野方町あたりに住んでいたのだろう。また、渡辺幸恵の『高田の馬場風景』は、幕府の練兵場だった高田馬場(たかたのばば)跡が残る早稲田通り沿いの住宅街を描いたものか、山手線の高田馬場(たかだのばば)駅Click!周辺の風景をモチーフにしたものかは不明だ。
 さて、1930年協会展に出品された、佐伯祐三をはじめとする画家たちの「下落合風景」あるいは「落合風景」は、ほんの一部の作品にすぎない。つまり、同展に入選した作品のタイトルのみが、今日まで伝わっているということだ。たとえば、下落合679番地にアトリエをかまえていた上掲の笠原吉太郎Click!は、このあと佐伯に劣らず数多くの連作「下落合風景」Click!を描いていくし、1930年協会とは接点のない画家たち、たとえば下落合623番地にアトリエを建てて住んだ曾宮一念Click!をはじめ、下落合584番地の二瓶等Click!や、下落合1385番地に住んでいた帝展の松下春雄Click!もまた、数多くの「下落合風景」作品Click!を残している。さらに、フランスから帰国した昭和初期の清水多嘉示Click!は、渡仏前に引きつづき「下落合風景」の連作Click!を残していると思われる。
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福沢一郎「風景(人間嫌い)」1928.jpg 「昭和洋画の先達たち」1994青梅市立美術館.jpg
 早くから落合地域の風景を描いていた画家たち、たとえば中村彝Click!曾宮一念Click!小島善太郎Click!鬼頭鍋三郎Click!里見勝蔵Click!清水多嘉示Click!など一部の作品を例外とすれば、やはり「落合風景」ブームに火を点けたのは1930年協会展であり、中でも佐伯祐三の影響がとりわけ大きいのだろう。

◆写真上:東京府美術館の前で、1930年(昭和5)1月に撮影された1930年協会第5回展の記念写真。メンバーはさま変わりしており前列右から中山巍、鈴木千久馬、伊原卯三郎、後列右から川口軌外、宮坂勝、林武、中野和高、小島善太郎。すでに佐伯祐三は2年前に死去し、里見勝蔵は前年に退会、前田寛治は病床で回復不能の重体だった。また、木下孝則と木下義謙、野口彌太郎は渡欧中で不在だ。
◆写真中上は、1926~27年(大正15~昭和2)ごろに制作された井上長三郎『風景(下板橋)』。井上は昭和初期に、板橋風景の連作を出品している。は、1929年(昭和4)制作の伊藤研之『黄色い建物』。は、1929年(昭和4)に描かれた小野幸吉『駅頭』。
◆写真中下は、第5回展の『落合風景』かもしれない林武『下落合風景(仮)』。は、1929年(昭和4)制作の靉光『屋根の見える風景』。は、1929年(昭和4)制作の中村節也『石置場風景』。郊外には、宅地造成用の石置き場が随所に見られただろう。
◆写真下は、1927年(昭和2)に描かれた小島善太郎『戸山ヶ原』。は、1924年(大正13)の渡仏中に描かれた前田寛治『メーデー』。下左は、1928年(昭和3)の渡仏中に描かれた福沢一郎『風景(人間嫌い)』。下右は、1994年(平成6)に青梅市立美術館で開催された「昭和洋画の先達たち―1930年協会回顧―」展図録。同図録には、5回にわたる1930年協会展で展示された作品の詳細が参照できる。

織田一麿が夢みた「創作版画の大衆化」。

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織田一麿「新宿すていしよん」1930.jpg
 大正期から昭和初期にかけ、目白文化村Click!洗足田園都市Click!に象徴されるような、郊外のモダンな住宅街が形成されるにつれ、西洋館の壁面を飾る洋画が大流行した。でも、自宅の壁面に油絵を飾れるのは「中流」以上の家庭であり、多くの庶民にとっては油彩画は手のとどかない高嶺の花であり、また庶民の借家には大きめな油絵を飾れる書斎や応接室などの壁もなかった。
 そこで、新しい美術運動として登場したのが、「創作版画の大衆化」運動だ。そのきっかけをつくったのは、こちらでも『落合風景』(1917年)をご紹介している、「洋風版画会」を起ち上げた織田一麿Click!だ。洋風版画会は1929年(昭和4)に旗揚げしたが、1931年(昭和6)には同会と日本創作版画協会が合同し、さらにフリーの版画家たちを集めた「日本版画協会」が発足している。織田一麿は、1点ものの油絵は高価で一般庶民には買えないので、木版画やエッチング(銅版画)、リトグラフ(石版画)を主体とした相対的に安価な版画美術を、庶民の間へ浸透させようとしている。
 織田一麿は、江戸期に庶民のすみずみまで普及していた浮世絵を規範とし、創作版画の普及には次の6つの要素が重要だとして挙げている。1931年(昭和6)に発行された『みづゑ』1月号と2月号から引用してみよう。
 (1)大衆美術の版画は、自画自刻で、綺麗でなければならない
 (2)画題は日常各人の眼にふれる題材
 (3)描法は写実を旨とする事
 (4)価格は出来る限り安価
 (5)多量生産
 (6)異国趣味(エキゾチシズム)とエロチシズム

 織田一麿が「創作版画の大衆化」を呼びかけた背景として、当時の時代状況を考えないわけにはいかないだろう。世界大恐慌を境に、未曽有の不況を経験する中で貧富の差がますます拡大し、美術作品の売れいきは大きく減退していた。また、それまで美術家を支援していた多くのパトロンたちも、恐慌の波をまともにかぶって事業が危うくなり、美術界に目を向ける余裕がなくなりつつあった。
 換言すれば、織田一麿はそれまで美術家たちが消費先として主なターゲットにしていた、「中流」から上のクラスの購買力へ依存するのをやめ、より幅広く広大なマーケットと販路が見こめる「中流」以下の層も消費者として取りこもう……と提案していることになる。また、そうしなければ美術だけではとても生活できない、深刻な制作環境を迎えていたということもいえるだろうか。
 上掲の『みづゑ』に、織田一麿は「創作版画を大衆へ贈る」と題して、日本版画協会の結成にいたる趣旨を書いている。2012年(平成24)に世田谷文学館から出版された、「都市から郊外へ-1930年代の東京」展図録から現代仮名づかいの同文を引用してみよう。
織田一麿「東京生活歌劇」1922.jpg
織田一麿「浅草の夜」1928.jpg
  
 これは(創作版画の大衆化は)甚だ突然かもしれませんが、別に今急に必要が起ったというのではないのです。ただ見渡すところ、現代には適当と思うような、大衆美術がないという有様ですから、必要を感じるというのです。いま大衆のもっているものはあまりに貧弱で、美術と称するに足りないものだからです。例えば、原色版の絵端書も活動俳優の絵端書、雑誌の口絵、新聞の付録、ペンキの懸額、というような、至って低級な、独立して美術と称呼なし得る体を備えていないもの、片々たる紙切の類しか、我大衆はもっていないものです。(中略)/如何に大衆でも、これでは余りに気の毒すぎます。衆人の中には、日常の生活に心身を過労して、美術鑑賞の余裕をもっていない人もありましょう。しかし、どんなに切迫した生活にでも、其家庭、其居室に一枚の額を懸けて、夕食後に眺める位の時間は、必ずあるにちがいないのです。これに対して、この寸隙を慰める為に、世間は何を彼等に与えているのでしょうか、現在では何も無いと答えなければなりません。/我々としては此際先ず創作版画の一枚を彼等に贈り、彼等の生活に僅かながら色彩を加えたいと希望するのも無理ではないのです。(カッコ内引用者註)
  
 現代であれば、美術家がこんな傲慢で「大衆」をバカにしたような文章を書いたら、いったい手前(てめえ)はどこの何様だと思ってんだい、どんだけ高いとっからモノをいってんだよう!…と、すぐさま反発を食らうにちがいない。
 「我々としては此際先ず創作版画の一枚を彼等に贈り」は、その「彼等」にしてみれば「阪妻Click!のブロマイドのどこがいけないってのさ。おとついおいでな!」の大きなお世話だしw、自らの販路が狭隘化して食うに困ってるのに、あたかも創作版画を安価にめぐんでやる新しい方法論や事業団体を考案中だから恩にきなさい……とでもいいたげな、さもしい根性を見透かされるような傲岸不遜の文章は、当時の「大衆」が目にしてさえも怒りをおぼえたのではなかろうか。
 ただし、織田一麿の弁護を少ししてあげるとすれば、当時、多くの美術家は「画壇」や「美術の殿堂」の中へ内的にかたく閉じこもり、一部のおカネ持ちだった美術愛好家だけしか相手にしない、高踏的で芸術至上主義的な状況が前提として存在していた。そのようなよどんだ美術界を版画という手法で打破し、より広範な人々へ美術作品をとどけようとした彼の姿勢は、その「思想」表現のしかたはともあれ、少なくとも評価されてしかるべきだろう。当時の生活に追われる一般庶民が、油絵を手に入れることなど夢のまた夢だったが、彼らの中にも美術ファンは数多く存在していたからだ。
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 つづけて、織田一麿の「創作版画を大衆へ贈る」から引用してみよう。
  
 何しろ、我々創作版画に聯るもので、大衆美術運動に共鳴する者は、速かに芸術の殿堂を飛び出して、市民の間へ混じて、大衆美術運動に躍進してもいゝ時季なのです。プロレタリア美術を叫ぶ者も、やはり版画大衆美術運動に参加していゝ性質だと思っています。創作版画改造の急務なのはいうまでもありません。大衆は待っています。我々はこの機をのがさず一気に前進して、徹底しなければなりません。研究に、実行に、甚だ多忙である筈だと思っています。日本創作版画協会創立満十年を過ぎました。版画が芸術というロマンチシズムから、一歩を踏み出す時は正に来たのです。
  
 プロレタリア美術の分野からは、すぐにも「大衆をなめんじゃないよ」という声が聞こえてきそうだけれど、織田一麿はそれほど創作版画の将来に危機感をおぼえていたらしい。おカネ持ちからは、1点ものではない版画の蒐集は敬遠され、一般庶民からはかなり高価で買ってもらえず、展覧会でも油絵の展示に押されて隅へ隅へと追いやられていた当時の状況が垣間見える。日本版画協会が発足した1931年(昭和6)、大恐慌から満州事変が起きる流れの中で、織田には創作版画消滅の危機と映っていたのだろう。
 だが、庶民が創作版画を身近に親しむ余地もなく、世の中の流れは戦争へと急速に傾斜していく。もはや、版画を楽しむ心のゆとりも経済的な余裕もなく、軍国主義のカーキ色一色に染められる時代が、すぐそこまで迫っていた。
  
 油絵のお情けで、(展覧会の)壁面を僅に占めているのも、あんまりほめたものでもありません。それよりも、版画は版画としての身分に合ったように、職人仕事の昔にかえった方が、生半可な芸術扱いよりも版画の生命が延びます。/一九三一年、今年あたりが好転期(ママ:転機)だと思っています。(カッコ内引用者註)
  
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織田一麿「新宿第一図」1930.jpg
 織田一麿が想像していたような、一般の庶民が手軽に創作版画を楽しめるようになったのは、戦後もずいぶんたってからのことだ。特に住環境の急激な変化の中で、現代的な住宅やマンションの壁面には、表現が重たすぎて存在感や主張が強すぎる油彩画は似合わず、リトグラフやエッチングなどライトな感覚の版画が好んで取り入れられた。1970年代末から80年代にかけ、バブル景気を背景に全国各地で建設ラッシュがつづき、空前の版画ブームを迎えることになる。

◆写真上:1930年(昭和5)制作の「新宿」シリーズで、織田一麿『新宿すていしよん』。
◆写真中上は、1922年(大正11)に制作された織田一麿『東京生活・歌劇』。は、1928年(昭和3)に制作された同『浅草の夜』。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に制作された織田一麿『銀座の夜』。は、昭和初期に制作された同『ニコライ堂』。
◆写真下は、1930年(昭和5)に制作された織田一麿『明治神宮参道』。は、1930年(昭和5)の「新宿」シリーズの1枚で同『新宿(第一図)』。


芸妓まで勤労動員した戦争末期。

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 戦争の敗色が濃くなった1944年(昭和19)、学校の学生・生徒たちを学徒動員や女子挺身隊として組織し生産現場へ送りこんだ軍部は、花柳界の若い女性たち、つまり芸者・芸妓(げいしゃ)たちを「無為徒食」で暮らしているとして、勤労奉仕させようと狩り出している。それが彼女たちの仕事であり、さんざん軍人たちも宴会や会議の席などへ“勤労動員”しておきながら、いまさら「無為徒食」とはよくいったものだ。おそらく、何らかの理由から家庭内に残って勤労奉仕に出ていない、若い女性たちに対する見せしめの効果もねらっていたのではないか。
 確かに彼女たちは、各流派の日本舞踊や三味Click!小唄Click!長唄Click!清元Click!新内Click!、芝居台詞、そしてお酌をすることしか知らなかったかもしれないが、酒席でそれら日本文化の披露あるいは継承すること自体が職業であり仕事なのだから、それをいまさら「三味線とお銚子以外に能のない白粉の女芸妓」とか「労働力のない存在」、「邪魔者・厄介者」などと侮蔑的に表現するのは、いくら負け戦つづきで尻に火が点いてアタマの中が錯乱していたとはいえ、とんでもない軍部の言い草であり日本の文化・伝統への冒涜だ。
 芸妓たちが無理やり工場へ連れてこられ、慣れない製造ラインで働かされた記録は各地に残っているのだろうが、今回は東京の花柳界Click!ではなく、わたしが子ども時代をすごした湘南・平塚の事例をご紹介したい。平塚は江戸時代からの宿場町であり、明治以降は神奈川県下でも有数の商業地として発展したため、旅館や料理屋の宴席へ呼ばれる芸妓の数も多かった。西隣りの大磯Click!は、避暑・避寒の別荘地Click!として江戸末期から発達したため、もう少し前から芸妓の需要があっただろう。ただし、大磯の別荘街へは江戸東京の芸妓が、わざわざ東海道線で“出張”してくるケースが多々みられた。
 戦争の末期、平塚の花柳界には70名ばかりの芸妓が登録されていた。「芸妓挺身隊」の動員が軍部から通達された際、彼女たちに働いてほしいと手を挙げた工場は、ただの1ヶ所も存在しなかった。工場主にしてみれば、軽作業ならこなせるだろうと考えたかもしれないが、美しくて艶っぽく目立つ彼女たちが職場へ現れれば、男子工員たちの風紀を乱し、気が散って生産性が低下しかねないことを懸念したにちがいない。少しでも生産性を上げるために、軍部の指示によって組織された「芸妓挺身隊」だが、逆に現場が浮き足だって生産効率が落ちるのを怖れたのだ。確かに、悩ましい「湘南ガール」たちが突然職場に何十人も現れたら、学徒勤労動員の歌「♪我等学徒の面目ぞ~ ♪ああ紅の血は燃ゆる~」の男子たちは、別の紅の血に燃えてしまうだろう。
 警察署が「芸妓挺身隊」を管轄していたが、どこの工場でも断られて引き受け手が現れないため、無理やり押しつけられたのが平塚市宮の前にあった守山商会Click!だった。同社の工場Click!では、いちおう軽作業をやってもらうことになったが、彼女たちは芸者を完全に廃業したわけではないので、お座敷や宴席など“本来業務”の連絡が入れば、おのおの作業を中断して帰ってしまう。このあたり、守山工場と平塚花柳界との“お約束”で、そのような勤務形態になっていたらしい。以下、1957年(昭和32)に出版された『守山乳業株式会社四十年史』(非売品)から引用してみよう。
  
 愈々作業にとりかかると、珈琲牛乳のレッテル貼り、牛乳箱の釘打ち、コンデンスミルクの箱の積み下ろし等々仕事は山程ある。馴れぬ仕事の不手際に社長も困ったが、俄仕立の女工さんもへとへとだ、最初は作業中も平気で煙草を喫い出して係長に注意されると、/「そうでしたの、作業中は煙草を喫っちゃいけないんですの まあ御免なさいね」、なまめかしい声での話のやりとりである。レッテルを逆さに貼って注意される、「釘がきいていない」などと……、係長が一番恐かったそうである。/工場長さん、電話がかかって来ましたからお暇を下さいね、/「なんだ、彼氏からお座敷がかかって来たのか」、/「そうなんですよ」、/こうした早退も屡々であった。月平均十五日工場で働けば精一杯であった。
  
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 もう、絵に描いたような「非国民」Click!ぶりだが、当時は「ホタル殺し」Click!を叫んでいた自治体や町会の役員たちではなく、「非国民」や「アカ」Click!(資本主義的民主主義者・自由主義者含む)と呼ばれた人々にこそ、あたりまえの意識や感覚、事実を直視し筋道を立てて認識できる、まともな思考回路が残っていたのだ。近々書く予定でいるが、戦時中の内務省特高資料は吉野作造Click!の民本主義の流れでさえ、「アカ」=共産主義系運動に分類している。
 「芸妓挺身隊」にはつらい工場勤めだったが、たまには楽しいこともあったようだ。それは守山商会の得意先や取引先を招いて接待をする宴席が、戦争末期にもかかわらずつづいていたからだ。特に大切な得意先のときは、馬入川(相模川)に舟を浮かべ舟遊びに興じていたらしい。ひょっとすると、当時の経営陣は「芸妓挺身隊」が馴れない仕事で疲弊してくると、彼女たちの慰労や息抜き、気分転換のために大口顧客を招待して、一席設けていたのかもしれない。芸妓たちは、とたんに水をえた魚のように活きいきと接待の仕事を引き受け、馬入川(相模川)の川面には唄や三味の音色が響きわたった。
 なぜ料亭ではなく、宴会を馬入川の舟の上で催していたのかといえば、さすがに市街地の料亭から「非常時」にもかかわらず、賑やかな三味の音(ね)や唄が流れてきたら、戦争末期の時局がら非難が守山商会に殺到しかねなかったからだろう。つづけて、『守山乳業株式会社四十年史』から引用してみよう。
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 「今日はお得意さま御招待だから、これから馬入川え(ママ)いっしょに行ってくれ」、この時ばかりは天下一の女工さんだ。お化粧も素早やく済ませ、舟の中には忽ち三味も、酒も料理も運ばれる、彼女達は、/「毎日お客様が来てくれるとよいな……」/とかすかに洩れる声に社長も微苦笑。こうした宴席になると社長も工場長もあったものではない、宴酣となるにつれ酔がまわるにつれて、下手な箱の釘打ちにお小言を頂戴している鬱憤晴らしと言う訳けでもなかろうが、/「さァあ社長さん、モウさん」/「何か唄いなさいよ」/「工場で叱るだけが人生じゃないでしょう 水の流れと葦切(鳥の名)が聞いているだけよ」 彼女達は全く有頂天である。/「呑平工場長さん、飲んでばかりいないで、お客様に下手な唄でもお聞かせしたらどう」/「このお客様は、話せるわ」/「私にもついで頂戴ね」、/三味の音と唄声は広い河原に吸い込まれて行くのである。
  
 こうして、たまにストレスが発散できた「芸妓挺身隊」の面々は、翌日からまた黙々と牛乳や乳製品の製造現場で働きつづけた。彼女たちは敗戦の1ヶ月前、1945年(昭和20)7月16日夜の2時間にわたる平塚大空襲まで勤務をつづけている。
 同社史には、空襲による「芸妓挺身隊」の犠牲者についての記述がないが、おそらく深夜の空襲だったために芸妓の犠牲者は出なかったのだろう。記録では、最後まで守山平塚工場に残っていた工員のひとりが、焼夷弾の直撃を受けて即死しているほか、守山牧場で飼育していた数多くの乳牛が焼死している。守山商会は、国道1号線に面した宮の前の本社機能をはじめ、製造工場や研究所、乳牛牧場のすべてを一夜にして失ったことになる。
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 空襲の翌日、守山謙社長は焼け残った煉乳(コンデンスミルク)や粉乳などを集めると、平塚の罹災者へ分配したあと工場を解散した。工場が消滅しても、県内各地から送られてくる牛乳を処理するため、同じ平塚に工場があった森永乳業へ処理を依託している。

◆写真上:宮の前にある守山乳業の本社から、西南西へ直線距離で500m余の紅谷町公園内に残る、江戸期からつづく「番町皿屋敷」Click!のお菊さんの塚。
◆写真中上は、守山工場の「富士クリーム」製造ライン。芸妓たちは、これらのラベル貼りや牛乳箱づくりにまわされている。は、当時は東洋一といわれたコンデンスミルク製造用の守山式真空蒸発煉乳機。は、容器用の金属罐を製造するライン。
◆写真中下は、フランス製のホモゲナイザー(均質牛乳製造機)。は、工場で行われた就業前の体操。は、国府村寺坂(現・大磯町寺坂)にあった守山商会集乳場。中央左寄りにある電柱のうしろ、トタン屋根の白っぽい建築が集乳場建屋。
◆写真下は、1945年(昭和20)7月16日深夜の平塚大空襲で壊滅した平塚市街地。小さな家々は、戦後の焼け跡に建ったバラック。は、同空襲で全焼した守山商会本社。は、同空襲で壊滅した平塚市街地。

大川の近くにいちゃダメだという教訓。

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 1945年(昭和20)3月10日深夜の東京大空襲Click!では、おもに大川(隅田川)の東側である向島・本所・深川一帯がB29による絨毯爆撃の目標とされ、あらかじめ意図的に避難経路を断ち無差別に東京市民の生命をねらう、徹底したジェノサイド(大量虐殺)攻撃が行われた。そのとき、本所側から両国橋をわたり、いち早く日本橋側へと避難した人々の中には「大川の近くにいちゃダメだ」という、1923年(大正12)9月1日の教訓が活かされていたケースが多々見られる。
 幅の広い河川沿いは障害物や遮蔽物が少なく、大火災による空気の急激な膨張で、大火流Click!火事竜巻Click!が起きて巻きこまれやすいという、関東大震災Click!の際に起きた事実を記憶し、教訓化していた人たちだ。ちなみに、大川の川幅は両国橋のところで約143m、大火流や火事竜巻で3万8,000人が亡くなった被服廠跡地Click!(現・震災復興記念館Click!一帯)では約125mほどある。わたしの東日本橋Click!にあった実家でも、もちろんその教訓はしっかり記憶されており、火災の方角と風向きを確認しながら大川(隅田川)とは反対方向へと逃げだした。日本橋人形町から日本橋川、東京駅、さらに山手方面へと逃れて、非常に幸運にも大空襲で命を落とした家族(親戚は除く)はいない。
 東京大空襲は、3月10日午前0時8分に第1弾が投下され、焼夷弾や250キロ爆弾、そして空襲の後半には低空飛行でガソリンが住宅街へじかにまき散らされ、2時間半後の午前2時37分に終わった。この間、本所区や深川区、浅草区、向島区の4区(現・台東区/江東区/墨田区)がほぼ全滅し、死者・行方不明者10万人以上、負傷者5万人以上、家を焼かれた罹災者100万人超という空前の犠牲者が出た。特に行方不明者に関しては、一家・姻戚全滅のケースや東京へ単身でやってきた独身者の場合は、親戚や友人など周囲の証言が残りにくく、実際の犠牲者数は1.2倍とも1.5倍ともいわれている。
 空襲がはじまるとともに、「大川の近くにいちゃダメだ」という生死を分けた逃避行の様子を、菊池正浩という方が書いた『戦後70年、東京大空襲の実体験をもとに振り返る』から引用してみよう。この記録は、2015年(平成27)に日本地図センターが発行した、『1945・昭和20 米軍に撮影された日本』に収録されたものだ。著者は本所区千歳町、つまり両国橋の東詰めに住んでいて罹災している。そして、両国橋をわたりそのまままっすぐ東へ、できるだけ大川から離れるように避難しながら上野山をめざしている。
  
 祖父母の家は両国橋畔、隅田川沿いにあり、二階建てであった。ここまで辿り着く間の光景はあまり話したくない。これまでも人には話してこなかった。人口10万余人だったこの地が、翌日に確認できたのは僅か1千人ほどであったと知らされた。いかに凄まじい惨劇であったかがわかる。/防空頭巾と衣服が、周りの炎と火の粉で燃えだす。母は真綿入りの「ねんねこ」、私は半纏を着ていたので、布は焦げてもすぐには燃えないことがわかった。防空頭巾を被っていない女の人は、髪の毛が燃え出す。「熱いー助けてー」と叫びながら走っていく。気の毒だがどうすることもできない。コンクリート製か石なのか判らないが用水桶が家々の前にあった。火災に備えての水桶だが、その水を頭から被り濡らしてはまた走った。頭から被ってびしょびしょに濡らしても、すぐに炎の熱さで乾いてしまう。用水桶の中に身を沈め、難を逃れようとした人もいたらしいが、息継ぎのために顔を水面に出した途端、熱風と煙を吸い込み、気管を焼いて焼死したという。逃げる途中の家々では防空壕に避難したが穴の中に閉じ込められて、蒸し焼き状態になった人が多かった。両国橋まで逃げてきたが、すでに祖父母の家も風前の灯火だったので、そのまま両国橋を渡って難を免れた。
  
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 菊池一家は、両国橋を東へわたると、そのまま両国広小路から靖国通り(大正通り)の大通りを進まず、右折して柳橋Click!から神田川をわたり、神田川と総武線にはさまれた道路を、できるだけ大川から離れるように真東へ向かっている。
 そして、万世橋から右折して旅籠町から末広町を駆け抜け、黒門町を通って湯島天神Click!の境内をめざした。ところが、本郷や湯島方面からの火の手が迫っていたので、湯島天神には寄らずに上野広小路の交差点を抜け、不忍池へとたどりつくと池沿いに上野山へとようやくたどり着いている。
 もし、柳橋をわたって浅草橋から蔵前、菊屋橋、松屋町を抜けて上野山方面へ最短コースで逃げようとしていたら、おそらく菊池一家は大火災に巻きこまれて助からなかっただろう。両国橋をわたり、神田川沿いをまず真東に向かって大川からできるだけ遠ざかったのが、大火流に呑みこまれないで済んだ大きな要因だとみられる。
 わたしの実家にいた家族たちは、やはり川向こうの本所側に大きな火災が発生しているのを確認すると、大川からできるだけ離れるために東へと向かった。日本橋両国から橘町、久松町、人形町とたどり江戸橋あたりで日本橋川に出ると、日本橋から呉服橋をへて東京駅北口に近い大手町側へと抜ける丸の内ガードをくぐり、東京駅前へと逃れている。そこから、どこで一夜を明かしたのかは聞きそびれているが、おそらく丸の内側の駅前広場か、近くの日比谷公園にでも退避していたのだろう。
 燃えるものはすべて燃え尽くし、なんとか火災が下火になってから自宅のあったあたりへと帰ったのは、菊池一家もうちの家族も同じだ。わたしの実家のなにもない焼け跡では、焼け落ちた蔵の中の小銭類までが溶けていた。親からもらったそのときの十銭銅貨Click!を、わたしはいまでも大切に保存している。
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 つづけて、『戦後70年、東京大空襲の実体験をもとに振り返る』から引用してみよう。
  
 まだ燻り続ける中を両国千歳町へ戻った。(中略) 筆舌に尽くせない惨劇であった。母は「見るんじゃないよ」と言うが、そんなわけにはいかない。真っ黒焦げになっている人、半焼のような人、隅田川にぷかぷかしている人、水で膨らんでいる溺死体、小さな子供たちの死体、鎖に繋がれたままの犬、猫も毛が焼けて皮が剥き出し、鳥籠だけが燃え爛れて鳥の姿がなくなっている。人が生活していたということが全く嘘のような光景である。/地震、土砂崩れ、台風などの災害で亡くなった光景とは違う。広島、長崎の原爆とも違う。/想像を絶する光景である。読者は何もなくなった見渡す限りの大地、雀や鳥もいない世界、犬や猫もいない世界、樹木が一本もなく植木や草花もない世界。こういう世界を想像できるでしょうか。/どのくらい経過したのか思い出せないが、大人たちはまず生存者の確認、怪我人の保護、死体処理から始めた。臭気と野犬に食べられるのを防ぐため急ぐのだそうである。隅田川、堅川、横十間川に浮いたり沈んでいる溺死体を鳶口で引っかけては大八車やリヤカーに積んで、隅田川畔や公園、空き地に穴を掘って埋めていた。埋めていたというより、どんどん放り込んでいた。
  
 著者は先にも記しているが、このとき10万余人いた本所区の人口は、数日後にはわずか1,000人ほどしか確認できなくなっていた。おそらく、ほぼ全滅した浅草区や深川区、向島区でも同様の状況だったろう。10万人超とされている、東京大空襲の被害者の中にさえカウントされず、たった一晩でこの世から消滅してしまった人たち、家族全員や独身者、子どもたちがはたして何千人、何万人いたのかは現在にいたるまで、地元の自治体でさえまったく把握できていない。
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 東京市内(東京35区Click!=現・東京23区内)は、1944年(昭和19)11月から翌1945年(昭和20)8月の敗戦時まで、都合130回にのぼる空襲を受けている。これにより、死傷者・行方不明者は25万人以上にのぼり、罹災者は300万~400万人におよんだ。当時、東京市の人口は687万人だったが、敗戦時には253万人に激減している。もちろん、地方への疎開や徴兵・徴用による移動も含まれているが、消えた434万人のうち、戦後に再び東京へ生きてもどれた人々の数を差し引いても、消えてしまった人々の数に呆然とする。

◆写真上:「猫塚」のある、本所回向院の境内で眠るネコ。証言者の菊池一家は、空襲と同時に関東大震災でも焼け残った回向院の境内へ避難するが、同院の本堂が燃えだしたのを機に急いで両国橋を東へわたって逃げる決心をした。
◆写真中上は、1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろに米軍のF13偵察機から撮影された東京市東部の惨状。は、両国橋東詰めに近い本所回向院の山門。は、両国橋西詰めからつづく日本橋側の両国広小路。
◆写真中下は、神田川の柳橋から上流の浅草見附跡(浅草橋)を眺めたところ。は、神田川から万世橋を望む。は、冬枯れの上野不忍池とミヤコドリ(ユリカモメ)。
◆写真下は、菊池家とわたしの実家とがたどった1945年(昭和20)3月10日深夜の大川から離れる逃避経路。菊池家やわが家は逃げのびたので矢印を書けるが、逃げる途中で焼死して途切れた人々の線は10万本をゆうに超える。は、東京駅丸の内北口で正面は新丸ビル。命からがらたどり着いた親父たちが目にして、一息ついた東京駅はこの意匠だったが、同年5月25日夜半の空襲で駅舎は炎上している。は、丸の内北口のホール。

東京大空襲より大規模だった平塚大空襲。

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 守山商会Click!の『守山乳業株式会社四十年史』(1957年/非売品)を読んでいたら、1945年(昭和20)7月16日の夜半にみまわれた平塚大空襲の様子が記録されていた。子どものころ、親父の仕事Click!の都合で10年以上は住んでいた街Click!なので、同空襲のことは地元でも頻繁に耳にしていた。今回は、平塚大空襲の全貌を守山商会の被災とからめてご紹介したい。
 平塚市の空襲が、なぜ「大空襲」と呼ばれているのかを知らない方が多い。実は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!や、同年5月29日の横浜大空襲よりも、焼夷弾の投下数で比較すれば、その規模がはるかに大きかったからだ。湘南海岸に面した街は、戦争も終わりに近づくにつれ、頻繁に爆撃や機銃掃射の被害に遭っているが、平塚市への攻撃はケタ違いだった。東京大空襲で投下された焼夷弾は約38万本で、横浜大空襲は約35万本に対し、平塚大空襲は約45万本もの焼夷弾が投下されている。文字どおり、草木も残さない焦土化殲滅作戦だった。
 これは、同年8月2日の八王子大空襲(約67万本)に次いで全国で2番目の空襲規模であり、中規模な市街地に対する攻撃としては、八王子ともどもごくごく異例のものだった。その理由としては、これまで都市部への爆撃とは異なり爆撃目標が分散していたからとか、海軍の重要な施設があったからだといわれてきた。平塚には、確かに海軍の火薬廠や横須賀海軍工廠分工場、海軍飛行機工場などがあったのだが、それらを破壊するにはあまりに爆撃規模が大きすぎるのだ。では、なぜ平塚と八王子にだけ、類例のない大規模な爆撃が行われているのだろうか?
 わたしが子どものころ、湘南海岸の随所にはコンクリートでできた台状の塊や残骸、廃墟などが残されていた。それらは、地元の人々の話によれば、米軍の「オリンピック作戦」に備えた砲台やトーチカの跡だと説明されてきた。だが、「オリンピック作戦」は沖縄の次に予想された、九州への上陸作戦名だったことが明らかとなり、湘南海岸への上陸は「コロネット作戦」と呼ばれていたことが、米国公文書館の情報公開で明らかになっている。だが、この情報が公開されるまで、関東地方の海岸線への上陸作戦は「オリンピック作戦」とされていたので、おそらく敗戦前からの呼称、つまり軍部が戦時中からそう呼んでいた可能性が残る。
 1945年(昭和20)夏の時点で、軍部は湘南海岸が本土上陸の主戦場になるとは想定していなかった。それは、同時期に作成され国立公文書館に保存されている、海軍資料「聯合国移動艦隊ノ本土攻撃」からも明らかだ。「戦勢ノ推移ニ鑑ミ敵ガ対本土上陸作戦ヲ企図スルデアラウコトハ概ネ確実トナツタ」ではじまる同資料には、沖縄上陸の次は「予想上陸地区タル南九州及四国南西部」としている。だが、先の米国公文書館が公開した軍事資料によれば、南九州に上陸するオリンピック作戦と同時に、首都東京へまっしぐらに侵攻できる湘南海岸の中央部、すなわち平塚海岸への上陸が、コロネット作戦と名づけられて計画されていた。
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 コロネット作戦では、平塚海岸へ上陸した米軍は平塚を中心として湘南海岸に大規模な橋頭保を確保し、そのまま馬入川(相模川)沿いを北進して八王子を攻略、東海道(東海道線沿い)と甲州街道(中央線沿い)を進撃しながら、2方向から東京を攻略するというシナリオだった。そのためには、平塚市と八王子市をあらかじめ徹底的に焦土化、殲滅しておく必要があったのだ。米軍は、破壊が不徹底のまま上陸した沖縄戦で、膨大な死傷者が出たことに懲りており、本土上陸では上陸地点と作戦要所の市街地を、草木も残さぬ焦土と化しておくことにしたのだろう。このような作戦計画上の文脈から、7月16日の平塚大空襲と8月2日の八王子大空襲が実施されている。
 平塚大空襲は、7月16日の深夜から翌未明にかけ、138機のB29により行われた。B29の大編隊は平塚の南西側から侵入し、22時30分ごろ花水川の河口付近へ照明弾を投下すると同時に平塚の市街地に対する爆撃がはじまった。その様子を、『守山乳業株式会社四十年史』(1957年)から引用してみよう。
  
 愈々来るものが来た。昭和二十年七月十六日夜半、五百機(ママ)の大編隊は、平塚市を目標に、相模湾を北上中と、ラヂオはガンガン鳴り響いた。平塚市の南西部に曳光弾(ママ)が落下して全市真昼の明るさとなった。初めて聞く異様な音響と共に焼夷爆弾が雨の様に降って来る。焼夷弾の波状攻撃は二時間も続いた、妖焔は地を匐って数時間の内に全市の七割(ママ)を灰燼と化した。民家も軍需工場も焼け落ちて無辜の市民多数も犠牲となった。火葬場も間に合わない。無論棺桶も材料がない、惨憺たる戦禍の惨めさであった。(カッコ内引用者註)
  
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 当時、平塚市の全住宅10,419戸のうち約8,000戸が焼失し、また大小の工場や倉庫、商店はほぼ全滅しているので、被害は全市の8割以上にもおよんでいる。約2時間ほどの空襲で、343人の市民が犠牲になった。平塚を爆撃したB29の編隊は、通常の絨毯爆撃ではなく、外側からまるでスクリューを回転させるように内側へと攻撃範囲を狭めていく、渦巻き状の爆撃を繰り返している。
 これは、東京大空襲において本所区や深川区、向島区などで行われた爆撃法とまったく同様だ。あらかじめ市街地の外側を爆撃して火の壁をつくり、その内側で暮らす住民たちの逃げ道をふさいだあと、中央部に大量の焼夷弾や250キロ爆弾を投下して皆殺しにする爆撃手法だ。東京大空襲では、火で囲まれた市街地にB29から大量のガソリンがじかに散布されているが、平塚市の爆撃ではどうだったろうか。
 これほどの攻撃を受けながら、相対的に犠牲者が少ないのは、当時の平塚市はいまだ田畑や緑地、空き地などが多く、建物がそれほど密集してなかったのと、東京大空襲時のような強風が吹いていなかったため、大火流Click!が発生しなかったのも人的被害を少なくした要因だろう。ただし、同市の中心部だった平塚駅北側、国道1号線沿いの新宿と本宿の街並みは、ともに壊滅している。
 守山商会の工場は、どうなっただろうか。同社史から、つづけて引用してみよう。
  
 守山商会も工場並に尊天堂、社長住宅等も全焼の厄に会い、焼け野原の中に大煙突のみが吃然と立っていた。工員今井君は最後まで工場に頑張り、手押ポンプの腕木を握ったまま直撃弾の命中(ママ)を受け即死した。馬入川対岸の守山牧場も全焼して、多数の乳牛が焼死した。社長は余燼あがる市内の状況を調査し、翌朝から焼失した工場の灰掻きを行い、コンデンスミルク、粉乳などの焼け残りを、甘味に飢えた附近の住民に分配した。/工場の焼失により毎日集まる百余石の牛乳は処理を一応森永乳業平塚工場に依託して酪農家達の急場を救う事にした、百余名の全従業員に対しては、工場の焼失と尚戦争は熾烈を極めているので涙を揮って工場の解散を宣告した。(カッコ内引用者註)
  
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 コロネット作戦は、米軍100万人を動員しての上陸作戦計画だったが、平塚大空襲と前後して前線の米軍基地には、6万発もの毒ガス弾(サリン弾)が輸送されている。沖縄戦で20,000人を超える死者を出した米軍は、市街地の焦土化とともに生き残った軍隊や住民をひとり残らず殲滅する、空からのサリン攻撃を準備していた。

◆写真上:コロネット作戦計画で、米軍の上陸が予定されていた平塚海岸。
◆写真中上は、1946年(昭和21)に撮影された馬入川(相模川)近くの海岸線。は、敗戦後まもなく相模湾に集結した連合国軍の艦隊で、背景は真鶴半島から箱根・富士山。
◆写真中下は、1945年(昭和20)夏に作成された海軍の「聯合国移動艦隊ノ本土攻撃」(公文書館蔵)。は、風と波でできた平塚海岸の砂丘。は、平塚市の戦災地図。7月16日のほか、焼け残った地区に向け7月30日と8月2日にも爆撃が行われている。
◆写真下は、1946年(昭和21)撮影の平塚大空襲時に最初の照明弾が投下された花水川河口あたりの海岸線。すでに、戦後の住宅建設がはじまっている。は、平塚海岸近くのあちこちに残るクロマツ林。は、同年撮影の平塚駅周辺にみる市街地の惨状。

下落合を描いた画家たち・南風原朝光。

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 以前、1927年(昭和2)ごろから下落合(4丁目)2080番地(現・中井2丁目)にある一原五常アトリエClick!に住みついた、名渡山愛順Click!をはじめ沖縄の洋画家たちについて記事Click!を連載したことがある。同じころ、西武線・中井駅のすぐ近くに住んでいた、同じ沖縄出身の南風原朝光Click!(はえばるちょうこう)についても何度か触れていた。
 上落合の住所は不明だが、南風原朝光は1932年(昭和7)に萩原稲子(上田稲子)Click!が喫茶店「ワゴン」Click!を開店すると、他の画家仲間たちとともに常連になっている。その南風原が、1930年(昭和5)に制作した作品に『風景』というのがある。現在、板橋美術館で開催中の「池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展に展示されており、沖縄県立美術館に収蔵された風景画だ。同作品は、ちょうど南風原朝光が上落合に住んでいたころに描かれたことになる。
 画面を仔細に観察すると、かなりの急斜面から平地を見下ろすような位置にイーゼルを立てており、斜面が切れた先は家々の屋根の高度や、赤土の地面の途切れ具合から、バッケ(崖地)Click!状の地形をしていると思われる。陽光は、明らかに右手から射しており、画家は南向きに近い角度で写生しているのだろう。陽光は黄色味を帯びており、時間帯が夕方だとすると右手ないしはやや右手背後が西ということになる。換言すれば、画家は南ないしは南東の方角を向いてキャンバスに向かっていることになる。
 手前の崖下には、家々の建て方の様子から道が通っていそうで、その向こう側には両側を緑に挟まれた河川土手らしい情景が描かれている。街並みには、電柱や銭湯の煙突がまったく見えないので、南風原は突起物を省略して描いている可能性が高い。唯一、右手の奥に電柱か煙突を思わせる、タテの黒い線が確認できるだけだ。また、画面左手の遠景には、灰色で塗られた四角い大きな建物が描かれており、斜めの細かな筋が入った屋根の表現には工場のような趣がある。
 さて、これを落合地域に当てはめて考えてみると、午後とみられる太陽が右手に見える南斜面、崖地のすぐ近くを流れる川と思われる表現、1930年(昭和5)には開通していたはずの西武電鉄が見えにくい点、そして左手の遠景には工場のような大きめな建屋が見える点などを踏まえると、この情景にフィットする描画ポイントは、東西に広い下落合(現・中落合/中井含む)といえどもたった1ヶ所しか存在していない。中井駅から、中ノ道Click!(下の道Click!=現・中井通り)へと出て東へ250mほど歩いた見晴坂付近、すなわち下落合1794番地あたりの急斜面だ。
南風原朝光「風景」1930モノクロ.jpg
地形図1930.jpg
上落合空中写真1936.jpg
 南風原朝光は、夕暮れが近い時間帯に中ノ道から見晴坂へ上ると、おそらく左手(西側)の急斜面に入りこみ、そこから東南東の方角を向きながら写生している。見晴坂は、左端に半分描かれている邸(おそらく下落合1800番地の小野邸か)の手前を切通し状に拓かれており、崖下には中ノ道(現・中井通り)が通っている。その道路沿いには、下落合1820番地の家々が建ち並んでいる。その向こう側に見える緑に挟まれた窪地状の表現は、1935年(昭和10)前後から実施される整流化(直線化)工事前の妙正寺川であり、左手に描かれた樹木の陰には旧・昭和橋が架かっているはずだ。旧・昭和橋から、妙正寺川は急カーブを描きながら南東へと蛇行し、やがて3回ほど南北への蛇行を繰り返しながら旧・神田上水(1966年より神田川)へと合流している。
 蛇行した妙正寺川が崖下近くを流れるこの位置から、西武線の線路は非常に見えにくい。画面の右手に描かれた、灰色の屋根の2階家とみられる建物の向こう側から、画面左手の奥、灰色の大きめな建物のあたりへ向かって斜めに走っている。当然、線路沿いには電柱や、東京電燈谷村線Click!の高圧線鉄塔などがあったはずだが、佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!などとは異なり、住宅街の電柱と同じようにすべて省略されている可能性が高い。
 画面奥に見える樹林の景色は、上落合の旧家である福室家などが集まる八幡耕地Click!あたりで、福室軒牧場Click!の跡地や、建ち並ぶ旧家の周囲にめぐらした屋敷林の名残りだろう。これらの樹林は、1930年(昭和5)7月の下落合駅Click!の西への移設Click!と、翌1931年(昭和6)12月に開設された国際聖母病院Click!前の補助45号線Click!の開通とともに、急速な宅地化が進んで消滅している。この林の向こう側には、まさに1930年(昭和5)現在に整流化(直線化)工事が行われている最中の、旧・神田上水が南北に流れているはずだ。
画面拡大(妙正寺川).jpg
画面拡大(工場).jpg
画面拡大(アパート).jpg
 そして、左手の遠景に描かれている灰色の建物は旧・神田上水の西岸、すなわち上落合の前田地域Click!に建てられている工場の建屋のひとつ(昭和電気の建屋?)だ。以前にも、火災が頻発する同地区について記事にしているが、前田地域は旧・神田上水沿いに大正期から開発された、落合村(町)では有数の工業地区で、東京護謨Click!をはじめ、昭和電気や小松製薬など数多くの工場が建ち並んでいた。これらの工場は、二度にわたる山手空襲Click!で壊滅し、現在ではその広大な跡地にせせらぎの里公園や落合水再生センターClick!、落合中央公園など、東京都や新宿区の大規模な公共施設が設置されている。
 さて、関東大震災Click!で東京の市街地が大きなダメージを受けたため、大正末から市民の郊外への大移動がはじまっていたが、落合地域でも急速な宅地造成が進み、あちこちで住宅建設の音が響いていただろう。また、最新の意匠を取り入れた集合住宅、すなわちアパートメントの建設も流行し、こちらでは下落合の第三文化村Click!に建設された「目白会館文化アパート」Click!をご紹介しているが、上落合では最新式のコンクリート造りで耐火耐震アパートメント「静修園」Click!(上落合624番地)も記事にしていた。南風原朝光の画面右端にも、そんな急傾斜の屋根にドーマーを備えた、最新式のアパートメントと思われる建物が描きこまれている。
 昨年の秋、板橋区立美術館の学芸員である弘中智子様よりご連絡をいただき、落合地域に住んだ沖縄の画家たちに関連し、一原五常アトリエや昭和初期の周辺の様子、去来していた洋画家などについてお話をした。先日、ごていねいに「池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展の図録をお送りいただいた。ありがとうございました。>弘中様
 同展覧会には、こちらでもおなじみの佐伯祐三の『下落合風景(テニス)』Click!をはじめ、林武Click!『文化村風景』Click!中村彝Click!『落合のアトリエ』Click!『庭の雪』Click!刑部人Click!『裏庭雪景』Click!松本竣介Click!『郊外』Click!『風景』Click!、そして金山平三Click!満谷国四郎Click!など、落合地域に住んだ画家たちの作品がまとめて展示されている。
山手製氷(上落合2).jpg
アパートメント静修園.jpg
池袋モンパルナスとニシムイ美術村展図録.jpg 南風原朝光「窓」1954.jpg
 また、図録には島津一郎アトリエClick!を背景に、島津邸で飼われていたシチメンチョウClick!の写真も掲載されている。w 落合地域に住んだ画家たちの作品群を、まとめて鑑賞できる機会はあまりないと思うので、興味のある方はぜひ板橋区立美術館へ。「池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展は、4月15日(日)まで開催されているので、サクラが開花し暖かくなってから出かけても、まだまだ間に合う。
 同美術館に掲げられた今年の幟キャッチフレーズは、「永遠の穴場」だ。w 「永遠の」には、やや自虐的すぎるアイロニーを感じるけれど、駅から少し離れているせいか、人も少なくゆっくりと静かに作品を観賞できるので、確かに「穴場」にちがいない。

◆写真上:下落合に通う見晴坂の近くの急斜面から、上落合方向を東南東に向いて描いたとみられる1930年(昭和4)制作の南風原朝光『風景』。
◆写真中上は、画面からうかがえる風景要素。は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる描画ポイント。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描かれたエリア。
◆写真中下:南風原朝光『風景』の一部拡大で、河川の土手とみられる緑に挟まれた窪地()、工場とみられる大きめの建屋()、当時は最先端の意匠だったアパート()。
◆写真下は、大正期から操業していた前田地区南部にあった上落合2番地の山手製氷工場。は、昭和初期に建設された鉄網入りコンクリートのアパートメント「静修園」。下左は、「池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展(2018年)の図録。下右は、戦後の1954年(昭和29)に描かれた南風原朝光『窓』。

続・佐伯の「制作メモ」と描画位置を整理する。

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曾宮さんの前1.JPG
 10年前に、佐伯祐三Click!「制作メモ」Click!に記載された作品が、下落合(現・中落合/中井含む)のどこを描いたものかを整理Click!したことがある。10年余が経過したいま、新たに発見した画面や作品も増えているので、改めてまとめてみたいと思う。
 まず、10年前には確認できる「下落合風景」シリーズClick!(タブローに限定)が42作品、また展覧会の会場などで撮影され写真にとらえられた「下落合風景」と思われる作品が2点、落合地域の周辺を描いたとみられる作品が3点(『踏切』Click!『戸山ヶ原』Click!『絵馬堂』Click!など)という状況だった。ところが、現在は「下落合風景」とみられる画面が49点、実際の画面は未確認だが確実に存在したと思われる作品が4点の、つごう53点となっている。
 ただし、わたしがさまざまな資料類や証言、作品の描かれた時期などから推定した制作点数は、おそらく53点どころではなく、ケタちがいの数にのぼるのではないかということは、これまでの記事でも何度か触れてきたとおりだ。たとえば、佐伯は第1次対仏から帰国すると、さっそく下塗りしたキャンバスを600枚準備(渡辺浩三証言Click!)しているが、第2次渡仏までの帰国中に残した作品点数にまったく見合っていない。佐伯作品の頒布会を通じて、おもに関西方面へと大量に販売された作品点数や画面が不明な以上、「下落合風景」が50点あまりとするにはあまりに根拠が薄弱すぎるのだ。
 また、「制作メモ」に残された1926年(大正15)の9月から10月にかけての期間だけ、「下落合風景」シリーズを制作していたというのも明らかな誤りだ。二科賞を受賞した直後、同年9月1日に佐伯アトリエで行われた記者会見Click!には、少なくとも8月以前に制作された「下落合風景」のタブローが佐伯夫妻の背後にハッキリととらえられている。また、1930年協会第2回展Click!(1927年6月)へ出品するために、八島さんの前通りClick!を北側から描いた「下落合風景」Click!は、納三治邸Click!が竣工する前後、1927年(昭和2)5月ごろに描かれているとみられる。
 さらに、従来は『雪景色』Click!とされていた描画場所の言及がない作品の数々もまた、明らかに佐伯アトリエからほど近い下落合の風景を描いたものだ。つまり、佐伯は帰国後ほどなく自宅周辺の風景を描きはじめているのであり、また第2次渡仏へと向かう直前まで、「下落合風景」を制作しつづけていたことになる。
 さて、「制作メモ」に残る「下落合風景」の描画ポイントを改めて整理してみよう。新たに海外で見つかった作品や、その存在が確認できたものも含め、最新のデータをもとに1926年(大正15)9月~10月の、佐伯祐三がたどった足跡を見直してみよう。
曾宮一念「夕日の路」1923.jpg
曾宮さんの前2.JPG
佐伯祐三「雪景色」1926-27.jpg
▼9月18日(曇天) 「原」(20号)、「黒い家」(20号)
 「黒い家」は、「くの字カーブの道」Click!の東寄りから射す逆光に浮かびあがる黒い屋敷(宇田川邸?)の作品ではないかと考える。同日の「原」は、キャンバスが同じ号数のこともあり、「黒い家」が建っていたと思われる、六天坂上の原っぱのことではないか。
▼9月19日(晴天) 「原」(15号)、「道」(15号)
  「原」Click!「道」Click!は、きわめて近接している描画位置だ。第二文化村の北側に通う、葛ヶ谷(西落合)との境界の道筋を歩いているときに、佐伯の目にとまった2景。
▼9月20日(晴天) 「曾宮さんの前」(20号)、「散歩道」(15号)
  「曾宮さんの前」は、間違いなく曾宮邸の南側・諏訪谷のことを指している。秋と冬に何度か描かれた、諏訪谷風景Click!に相当するだろう。一方、「散歩道」Click!は先年に海外オークションへ出品された作品で、諏訪谷から南へとつづく久七坂筋を描いたものだ。オークションでは、「下落合風景」の「散歩道」と規定して出品されていたので、キャンバスに裏書きが存在する可能性が高い。当作品の発見で、薬王院から諏訪谷にかけての佐伯が散歩をした道筋が透けて見えてきた。
▼9月21日(曇天) 「洗濯物のある風景」(15号)
  下落合の西端、中井御霊神社の下Click!まで出かけたせいか、この日はこれ1作しか描いてない。もう一度、雪が降った日に佐伯はここまで遠出Click!をして制作している。
▼9月22日(小雨) 「墓のある風景」(20号)、「レンガの間の風景」(15号)
  諏訪谷の南にある、薬王院の墓地Click!を描いたもの。同日の「レンガの間の風景」は号数が異なるので、アトリエへ一度もどっているようで薬王院の周辺とは限らない。
▼9月24日(小雨) 「かしの木のある家」(15号)
  現存する画像にそれらしい1作Click!があるけれど、いまだ描画位置を特定できない。大倉山(権兵衛山)にはカシの神木Click!が存在したが、同所の風景ではない。
▼9月25日(小雨) 「曇日」(15号)
  作品の画面も場所も不明のままだ。佐伯の描く絵の多くが曇り空なので、どれでも当てはまりそうだ。佐伯はどこで描いていたのかが、謎の1日。
▼9月26日(曇天) 「上落合の橋の附近」(20号)
  この作品は、いまのところ該当する画面が1作Click!しかない。描画場所は、昭和に入って妙正寺川の整流化工事で消えてしまった橋の付近、のちの昭和橋の情景とみられる。
▼9月27日(晴天) 「夕方の通り」(20号)、「遠望の岡」(20号)
  「夕方の通り」Click!は、おそらく城北学園(言・目白学園)北側の道筋を描いた作品だと考えている。また、同作品にはバリエーションのあることが、展覧会の写真Click!からも見てとれる。ただし、この日に描かれたのは「遠望の岡」のほうが先だ。アビラ村Click!付近で丘上から遠望のきく坂といえば、二ノ坂の上から百貨店ほてい屋が望める新宿方面を描いたものだろう。
▼9月28日(晴天) 「八島さんの前通り」(20号)、「門」(20号)
  この2作の描画位置は明白だ。佐伯アトリエから徒歩1分と離れていない、第三文化村の東側に接した通りClick!と、八島邸の門Click!の前を描いた作品だ。
▼9月29日(晴天) 「文化村前通り」(20号)、「切割」(20号)
  「文化村前通り」は、第二文化村の南端を通る道筋Click!だと思われる。また、「切割」はその道を西へと進み、左折した坂を下った二ノ坂下のカーブClick!のように思える。
▼9月30日(雨天) 「坂道」(20号)、「玄関」(15号)
  この2作も不明のままだ。下落合は「坂道」だらけだし、また「門」を描いた作品は何点か確認できるが、「玄関」を描いた画面は現存していない。雨降りの日なので、午後からアトリエ付近に建つ家の玄関を描いたものか?
セメントの坪(ヘイ)1926.jpg
高嶺邸.jpg
清水多嘉示「風景(仮)」昭和初期.jpg
▼10月1日(小雨) 「見下シ」(20号)
  目白崖線の丘上から下を見おろす作品をいくつか描いているが、久七坂沿いの斜面に建っていた旧・池田邸の、鯱(フィニアル?)の載る赤い屋根の作品Click!に比定できる。
▼10月2日(快晴) 「晴天」(20号)、「遠望」(20号)
  快晴と思われる気象条件で描かれた作品は数えるほどしかないけれど、該当する画像は思い当たらない。また、快晴の遠望作品の画面も見たことがない。
▼10月7日(曇天) 「松の木のある風景(〇〇が畑/細道)」(15号)
  松の木が描かれた作品は現存しない。病気の直後なので、自宅付近を描いたものか。
▼10月10日(小雨) 「森たさんのトナリ」(20号)
  これは、下落合630番地の森田亀之助邸Click!の隣りにあった、里見勝蔵アトリエClick!として使われる家屋を描いたもの。佐伯邸から120mほどのごく近くだ。
▼10月11日(曇天) 「テニス」(50号)
  第二文化村に設置されていた、益満邸のテニスコートClick!を描いている。戦前から落合第一小学校の校長室Click!に架けられていたが、現在は新宿歴史博物館に収蔵されている。
▼10月12日(晴天) 「小学生」(15号)
  おそらく、落合第一尋常小学校Click!の界隈を描いていると想像できるが、小学生たちが登場するそれらしい画面は現存していない。
▼10月13日(快晴) 「風のある日」(15号)
  第一文化村の水道タンク近く、旧・宇田川邸の風景Click!だ。いまは、山手通りと十三間通りClick!(新目白通り)の交差点下になっており、描画ポイントに立つことができない。
▼10月14日(快晴) 「タンク」(15号)
  第二文化村の箱根土地社宅用地の近くに設置された、水道タンクClick!を描いたもの。現在の、下落合教会Click!(下落合みどり幼稚園Click!)に隣接した一帯だ。
▼10月15日(曇天) 「アビラ村の道」(15号)
  第二文化村をすぎて、アビラ村の尾根沿いの通りClick!を描いたもの。すでに佐伯が描いたときは、東京土地住宅によるアビラ村開発Click!は同社の経営破たんにより中止。
▼10月21日(快晴) 「八島さんの前」(10号)、「タテの画」(20号)
  またしても病気の直後だからか、佐伯アトリエに直近の通りClick!を描いている。
▼10月23日(晴天) 「浅川ヘイ」(15号)、「セメントの坪(ヘイ)」(15号)
  2作とも、曾宮邸のあった諏訪谷周辺を描いている。「セメントの坪(ヘイ)」Click!曾宮一念アトリエClick!の南側を描き、「浅川ヘイ」Click!は道を隔てた東側の浅川秀次邸を描いているが現存していない。また、「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言Click!する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!(習作?)が描かれている。
 以上のように作品の描画ポイントの特定をしていくと、期せずして佐伯祐三が下落合を歩いた軌跡が、時系列とともに浮かび上がってくる。判明している描画ポイントと、作品が描かれた1926年(大正15)9月~10月のデイトスタンプを、10年後の1936年(昭和11)にドイツから輸入された航空カメラClick!によって撮影された空中写真に記載してみよう。
下落合東部.jpg
下落合中部.jpg
下落合西部.jpg
 さて、「制作メモ」に書かれていない作品群を考慮すれば、あるいは作品や画面写真が現存しないものを含めれば、ここに記録されているタイトルは1926年(大正15)の秋に制作されたほんの一部だけの、きわめて限定的な作品の覚え書きにすぎないことがわかる。換言すれば、「制作メモ」に書かれた作品点数のみを数え、「佐伯は『下落合風景』を30数点制作した」……という記述もまた誤りだと考えている。

◆写真上:画家たちが好んで描いた、下落合623番地の曾宮一念アトリエ前の現状。
◆写真中上は、1923年(大正12)に建てたばかりの自身のアトリエを描いた曾宮一念『夕日の路』(提供:江崎晴城様Click!)。は、曾宮一念アトリエ前の現状。は、1926~27年(大正15~昭和2)に降雪後の諏訪谷を描いた佐伯祐三『雪景色』。
◆写真中下は、1926年(大正15)夏に制作された佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』とみられるプレ作品。同画面には10号と15号、40号の3作品があったとみられる。は、同作にも描かれているリニューアル前の高嶺邸。は、1928年(昭和3)5月の帰国後に描かれたとみられる清水多嘉示Click!『風景(仮)』Click!。曾宮アトリエは改築中のようであり、右手には諏訪谷に沿って築かれていた佐伯の『セメントの坪(ヘイ)』と同一デザインのコンクリート塀がとらえられている。
◆写真下:1936年(昭和11)の空中写真へ記す、佐伯祐三が歩く下落合の制作スタンプ。
掲載されている清水多嘉示の作品は、保存・監修/青山敏子様によります。
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