先日、拙ブログへの訪問者数が、のべ1,500万人を超えた。いまは14年目を迎えているので、平均すると1年間にのべ100万人以上の方々に読まれた勘定になる。相変わらず長くて拙い文章ばかりだが、よろしければこれからもチラリと覗いていただければ幸いだ。
◆2018年1月17日 PM17:00現在
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最近、集中力が落ちてると感じる。歳のせいかとも考えたのだが、どうやらそれだけではなさそうだ。なにかを観察したり、じっくり考えごとをしているとき、頻繁にメールや電話でそれを中断されることが多い。ましてや、PCに向かっているとメールやIMがひっきりなしで、なかなか意識を集中できない。
特に、大きなお世話のSNSによる“いたれりつくせり”の情報過多は、うるさいを通り越しサイバーストーカーじみていて異常だ。「アクセスしたいときゃ勝手にするから、ほっといてくんないか。小学校の低学年じゃねぇ~んだからさ!」と腹が立つのだけれど、現代においては重要なコミュニケーションツールのひとつなので、さっさと止めてしまうわけにもいかない。そう、周囲からの情報があまりに多すぎて、なかなか意識を内面に集中することができないのだ。
これは、街を歩いているときにも感じる。以前、とある考えや想いの世界に沈潜しながら街中を歩いていると、誰かに声をかけられても気づかないことが多く、たいへん失礼ながら結果的に無視をするようなかたちになってしまうという、わたしの「いっちゃってる」状態Click!について書いたことがある。ところが、最近は街中を歩いていても“心ここにあらず”的な状況に陥ることは、以前に比べてかなり少ない。
特に平日は、メールや電話で“起こされる”ことが多くなり、「いっちゃってる」状態になりにくくなったのだ。これは考えごとをしているときに限らず、街を観察しながら歩いているときでも、携帯へ次から次へと連絡がとどくので、それに気をとられていると考えがまとまらず、街の様子も記憶に残らず、曖昧なままですぎてしまう。「あれ、いまなにを考えてたんだっけ?」とテーマが霧散してしまったり、「あの店は、きょう開いてたのかな?」と街並みの様子をロクに憶えていないレベルならまだしも、知らないうちに場所を瞬間移動したような感覚になり、「ここはどこ? あれっ、いつの間に!?」というようなことにもなりかねない。
手もとに配信される情報に気をとられているうちに、ヘタをすると周囲の風景や街並みの変化にさえ気づかず、知らないうちに時代が移ろっていた……なんてことにもなりかねないほど、些細な情報にふりまわされている感触をおぼえるのだ。この現象、極端なことをいえばバーチャルな世界にはまりこみ、リアルな空間の大きくて重要な変化に気づかないまま、時間だけがアッという間にすぎていく……というような、どこかM.エンデの「灰色の男」たちから時間をドロボーされている感覚に近いだろうか。端末を見ながら歩行する、“スマホゾンビ”な人たちは、おそらく「灰色の男」たちからたっぷりと時間を吸いとられているのだろう。
知らないうちに、街の姿や通りの風情が変わっているのに「あれっ?」と気づくことを、わたしは「浦島太郎」現象と呼んでいる。これは、別に多種多様な携帯デバイスが普及する以前から起きていたことで、手もとにとどく情報の過多が原因ではない。この現象は、特に「バブル期」と呼ばれた1980年代から1990年代にかけて、下落合とその周辺域でも頻繁に起きていた。もっとも、当時は仕事もそれなりに多忙をきわめ、周辺を落ち着いて見まわしている時間がなかなかとれなかったせいもあるのだろう。
当時から、わたしは仕事に出るとき地下鉄と山手線の双方が利用できる高田馬場駅まで歩くことが多く、目白駅はあまり利用していない。休日などで、たまに目白駅へ出ようとすると、目白通りの様子がさま変わりしているのに驚いたものだ。変わり方が早すぎて、以前の風景や店舗を思い出せないこともたびたびだった。ところが、下落合から高田馬場駅までの街並みのほうが、目白駅の周辺などに比べれば、よほど変化が激しかったのだ。それに気がついたのは、高田馬場駅のリニューアルとその周辺域の再開発工事が終わり、多くの工事現場を覆っていた養生が取り払われたときだ。
高田馬場駅とその周辺の改良工事は、わたしの学生時代からほぼ30年ほどはつづいていた。駅舎やホーム自体の改良工事だけでなく、駅前広場や地下通路までを含む大がかりな工事だった。このサイトをはじめたころ、駅前広場の噴水に設置されていた「平和の女神」像Click!が、ずっと行方不明のままになっていることを記事にしている。(噴水こそなくなったが、いまは駅前広場に帰還Click!している)
また、高田馬場駅のリニューアルとまるで連動するかのように、神田川の護岸改修工事と斜めに架けられた神高橋Click!の全面架け替え工事、神高橋の南詰めにあった小さな児童遊園をつぶして戸塚地域センターの建設……などなど、あたりの風景を一変させてしまう工事がこの数十年間で目白押し……、いや高田馬場押しにつづいていたのだ。
先日、新藤兼人・脚本による『東京交差点』(パーム/1991年)というオムニバス映画を観た。監督は松井稔と須藤公三、山本伊知郎の3人が各話を担当し、日本で初めて制作されたハイビジョン映画ということで、モントルーのエレクトロニック・シネマ・フェスティバルに出品され、ドラマ部門奨励賞を受賞した作品だそうだ。そこには、高田馬場駅から神田川、早稲田、目白台あたりにかけての情景が頻繁に登場する。公開が1991年(平成3)なので、実際の撮影は1980年代末ということになるのだろう。どこか「昭和」の香りが強く残る風景であり、「バブル爛熟期」の高田馬場から神田川沿いの風景を記録した作品だが、残念ながら山手線西側の下落合は映っていない。
この映画を観ていて、ストーリーをまったくそっちのけで感じたのは、改めて“そこにあった街並み”に思い当たり、「そうそう、そうだった」と多くの“気づき”をおぼえたことだ。そこに映るあちらこちらの街角は、かつて自分が立っていた場所であるにもかかわらず、わずか20年余でおぼろげな記憶になってしまっていた。「記憶の風化」といってしまえばそれまでだが、携帯デバイスなど存在しない、よく街を見つめ観察できていたはずの時代の風景でさえも、そこが特別強い印象に残る場所でない限り、多くの時間がすぎれば鮮明な記憶の編み目がほころび、やがては崩れ去ってしまうのだろう。
画面には、駅員が切符や定期を視認する高田馬場駅の改札や、30年間ほど重機と建築資材の置き場にされていた駅前広場、芳林堂書店の並びには目白駅前の支店Click!はとうにつぶれていたが、待ち合わせによく利用していたケーキ&喫茶の「ボストン」本店、学生時代から馴染み深い斜めに架かる神高橋、コンパでときどき利用した早大西門の八幡寿司、目白崖線に通う急坂など、懐かしい光景が次々と現れては消えた。
いくつかの風景は、いまも変わらずにそのまま残ってはいるが、変わってしまった風景の“差分”に気づかされるのは、やはり写真よりも人々が動いて記録されている映像のほうが圧倒的に多い。それは、固定されてしまったスチール写真からよりも、当時の空気感のようなものが動く画面からは呼び起こされ、より多くの映像と記憶の断片とが脳内でつながるからだろう。ふだんは思い起こすことさえ、とうに忘れていた情景が、当時の映像を観たとたん湧き上がるように浮かんでくる。現代の同じ場所に立っても、まずは思い出せないような記憶が、当時の街角を目にしたとたん期せずして甦ってくる。人間の脳や記憶力とは、なんとも不思議なものだと改めて気づく瞬間だ。
先日、子どもたちが小さいころのアルバムの整理をしていたら、1980年代後半に撮影した聖母坂界隈の写真が出てきた。『東京交差点』とほぼ重なる時代だが、リニューアル工事前の国際聖母病院Click!や、島津製作所の小さな製造プラント(現・落合第一地域センター)、戦前に建設されたモダンな「Green Studio Apartment(グリン・スタディオ・アパートClick!)」の廃墟などが写っていて懐かしい。確か子育ての最中なので、ビデオにも撮っていたように思うが、さてどこに仕舞いこんだものだろうか。
おそらく、写真よりも映像を観たほうが、もっと多くの埋もれた記憶を呼びさませるのかもしれないが、フッとわれに返ってみると、昔の映像を観ながら「そうそう、そうだった」などと懐かし気に微笑んでいて、いったいど~すんだよ?……という声が聞こえてくる。人間、昔の情景や記憶などは忘れて、日々忙しく前向きに生活し仕事をしているうちが“花”だと思うのだが、PCや携帯デバイスを見つめつづけて膨大な情報に追われ、この時代のリアルな“風景”を見逃すことだけは、なんとしても避けたいと思っている。
◆写真上:聖母坂沿いに残っていた、モダンな「グリン・スタディオ・アパート」の廃墟(地下部)。建設されたのは、おそらく1937年(昭和12)だと思われる。
◆写真中上:上は、1970年代の前半に撮影された高田馬場駅。中は、『東京交差点』でとられられた1980年代末の同駅。同作品はVHSのみで、DVD化されていないのが残念だ。下は、駅員がいる同駅の改札口。
◆写真中下:上は、『東京交差点』ではもとのまま斜めに架かる神高橋。中は、位置も移して架け替えられた現・神高橋。下は、ケーキ&喫茶店「ボストン」本店から見た高田馬場駅。駅前広場がなくなり、重機・資材置き場にされている様子がとらえられている。
◆写真下:上は、1980年代半ばに撮影した「グリン・スタディオ・アパート」の廃墟。中上は、現在の同所。中下は、1980年代半ばに写した国際聖母病院の養老ホームあたり。1931年(昭和6)からの大谷石による擁壁が坂上までつづき、擁壁の土手上にはヤエザクラの並木がつづいていた。下は、現在の同所に建てられた聖母会聖母ホーム。