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「だらだら長者」の御蔵米買い占め資金。

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築土八幡1.JPG
 ある日突然、羽ぶりがよくなってカネ持ちになり「〇〇長者」になったという伝説は、江戸東京はもちろん全国各地に類似の物語として伝承され現存している。以前、落合地域の南西側に伝わる「中野長者(朝日長者)」をはじめ、いくつかの長者伝説Click!をご紹介した。きょうは落合地域の東側、牛込地域で語り継がれた「だらだら長者」伝説について検討してみたい。
 「だらだら長者」の「だらだら」は、しじゅうヨダレをたれ流しオバカのようにふるまっていたので(一条大蔵卿Click!のように偽装だったという説もある)、そう名づけられたとされているけれど、後世の芝居がかった付会臭がして真偽のほどはわからない。「だらだら」は、もうひとつ別の意味としての「だらだら」していた、つまりひがな1日働きもせずゴロゴロしていた怠け者にもかかわらず、なぜか突然おカネ持ちになった「長者」だから、あえて付与された副詞なのかもしれない。同様の伝承は、信州の有名な「ものぐさ太郎」に物語の類似形をたどることができる。
 「だらただら長者」と呼ばれた(生井屋)久太郎は、築土八幡社や津久戸明神社の裏手に大きな屋敷をかまえて住んでいたという以外、本人の素性には諸説あってまったくハッキリしない。築土八幡社の周囲は、幕府の旗本屋敷がひしめき合うように建ちならび、それぞれ氏名まで含めて素性はあらかた知られている。かろうじて町場が形成されているのは、築土八幡社と津久戸明神社、そして万昌院のそれぞれ門前町のみだ。根岸や向島の別荘地とは異なり、乃手Click!であるこれらの町辻には、町人が大きな屋敷をかまえる余地はなさそうに見えるが、寺社の境内や旗本の屋敷地の一画を借りて、大きな屋敷を建てていたものだろうか。
 築土八幡社の裏手には、現在でも銀町(しろがねちょう=現・白銀町)の地名が残っているが、この「銀」が「だらだら長者」と具体的にどうつながるのかも不明で、また上大崎や青山に残る「黄金長者」や「白金長者」との近似性や関連性も、もはや途絶えたのかまったく伝わっていない。だが、「だらだら長者」が実在の人物だったのは確かなようで、町奉行所の与力上席・鈴木藤吉郎(市中潤沢係/20人扶持)らとともに、不正蓄財の容疑で町奉行・池田頼方から摘発・追及を受けている。
 不正蓄財とは、米の価格をつり上げる相場師のようなことを、「だらだら長者」と役人の鈴木藤吉郎が組んでやっていたのだ。ふたりは、江戸市中の御蔵米を大量に買い占めて市場に出まわる米の流通量を抑制し、米価が高騰したところで売り逃げするというボロい商売をしている。鈴木藤吉郎は町奉行所の役人なので、当然米の買い占めや出荷の意図的な操作を取り締まる側のはずだった。御蔵米の買い占めで貯めた財産は、両人合わせて膨大な額になると想定されていた。
 それを裏づけるかのように、奉行所の家宅捜査では築土八幡裏の「だらだら長者」屋敷にあった手文庫から200両の現金と絵図が、また摘発からしばらくたった1859年(安政6)には、同屋敷から道をはさんだ向かいの廃墟のような屋敷へと抜ける地下トンネルから、油樽に入った1,200両の小判が発見されている。
 さらに奇怪なことに、奉行所に捕縛され小伝馬町牢屋敷Click!の揚屋へ入牢した鈴木藤吉郎は、ほどなく急死(毒殺といわれる)している。御蔵米の買い占めが、単に久太郎と鈴木による犯行ではなく、それを黙認して上澄みをかっさらっていたらしい、老中をはじめ幕閣の存在が浮かんできたため、口封じに殺されたのだとする説が有力だ。当時、米穀の売買には幕府の認可が必要で、鑑札がなければできないはずだった。このあたり、幕府上層もからんだ不正売買の可能性が臭うので、“口封じ”説がリアリティをもつ。
 同様に、与力・鈴木藤吉郎の捕縛から間もなく、「だらだら長者」こと久太郎も屋敷内で変死(こちらも毒殺といわれる)している。こうして、御蔵米買い占めで貯めた莫大な利益が、いったいどこに隠されているのかが、江戸市中の話題をさらうことになった。
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 そのときの様子を、1962年(昭和37)に雄山閣から出版された、角田喜久雄『東京埋蔵金考』所収の「築土八幡の埋宝」から引用してみよう。
  
 とにかく、そのような奇怪な、長者屋敷のからくりが世に出たため、埋宝説は一層有力となって、土地の有志が先達で、長者屋敷のそちこちが掘り起されたのは、安政六年の夏からである。この時は、町奉行所でも後援したらしく、与力や同心が毎日のように現場を見廻っていたと伝えられている。そして、地下道の一部から、油樽にはいった小判千二百枚を発見したと言われているが、その処分がどんな風に行われたものかは伝わっていない。長者の豪勢な生活からみても、それが埋宝の全部でないことは、当時誰しもの一致した意見で、その後も個人的にたびたび発掘を計画したものもあるが、ほとんど得るところなく明治維新を迎えたのである。
  
 角田喜久雄は、戦前に活躍した大衆小説や推理小説の作者であり、その文章を読んでいると、まるで自身がその場に立ちあって見てきたような会話や情景が描かれており、あちこちに講釈師あるいは講談師の臭気を感じて、どこまでが史的な裏づけがある事実なのかはハッキリしない。だが、築土八幡社周辺の“宝さがし”は明治以降もつづけられ、昭和に入ってからも新聞ダネになっているのは事実だ。
 さて、この「だらだら長者」伝説で重要なポイントは、不正蓄財でもうけた大判小判の宝がどこに埋まっているか?……ではない。生井屋久太郎が、御蔵米を買い占められるほどの元手を、どうやってこしらえたのか?……という点だ。すなわち、しじゅうヨダレを流している、あるいはふだんはなにもしないで遊び呆けているような人物が、ある日突然、御蔵米の買い占めという大きな資金を必要とする“投機”に手をつけはじめ、町奉行所の与力を巻きこみつつ、雪だるま式に財産を増やしていき、やがて築土八幡社の裏にたいそうな屋敷をかまえる富豪にまで「成長」することができたのは、どのようないきさつやきっかけがあったのか?……ということだ。
 以前にも書いたけれど、もともと蔵をいくつも所有しているようなカネ持ちが、なにかの事業に投資し改めて成功しても物語としては成立しにくいが、もともと貧乏だった人物が、ある日を境に突然カネまわりが目に見えてよくなり、次々とビジネスにも成功して大富豪になる、あるいは立身出世するという話は、人々へ強烈な印象を残すので、後世までの語り草となり伝承されやすいものだ。
 また、そのような物語には周囲の妬みや嫉みが強くからみ、「悪行のむくい」「祟り」「バチ当たり」「憑き物」「因果応報」「凶事」など、怪談や妖怪譚などをまじえた不幸な教訓話が付随・習合することもめずらしくない。おそらく「だらだら長者」にも、当初はさまざまな付会=怪しげなウワサや尾ひれがついていたのではないかと思われるのだが、今日まで伝わる不吉な出来事やエピソードは、主犯の変死以外には残っていない。
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 さて、久太郎が暮らしていた築土八幡社裏の高台は、神田上水Click!(大堰から下流は江戸川Click!)沿いに形成された河岸段丘の北向き斜面であり、室町期に起因するとみられる昌蓮Click!がらみの百八塚Click!伝承のエリア内だ。特に、築土八幡社から西へ万昌院、赤城明神社へと連なる丘は、北側が絶壁に近いバッケ(崖地)Click!状の段丘地形をしており、古墳が形成されてもおかしくない地勢をしている。事実、筑土八幡町と白銀町は下落合とまったく同様に、縄文時代から現代まで人々が住みつづけている重層遺跡として、新宿区から指定を受けている。もちろん、古墳時代の遺跡もその中に含まれている。
 そのような視点から、戦後の焼け野原となった同地域一帯を、1947年(昭和22)の空中写真で観察してみたが、残念ながら古墳らしいフォルムはもはや発見できなかった。いや、むしろ築土八幡社や万昌院、九段へ移転してしまった旧・津久戸明神社跡(住宅地)、そして赤城明神社など寺社の境内がそれらの遺跡なのかもしれないのだが、戦前の発掘調査の有無とともに明確に規定することができない。
 しかし、すぐ西隣りの下戸塚(現・早稲田地域)では、江戸時代に富塚古墳Click!(戸塚富士Click!)ないしはその倍墳域から、周辺を開墾していた農民が「竜の玉」と「雷の玉」という宝玉Click!を見つけ、牛込柳町の報恩寺(廃寺)へと奉納している。これらの宝玉は、たまたま盗掘をまぬがれていた玄室から発見された副葬品とみられており、当時はかなりの価値をもつものだったろう。同様に、古墳の玄室には金銀宝玉を用いたさまざまなアクセサリー類の副葬品が埋蔵されており、それらの財宝を掘り当てる(盗掘する)ことを職業にしていたプロも存在していた。
 副葬品の金銀財宝はもちろん高額で売れ、もはやサビだらけで朽ちそうな鉄剣・鉄刀などの古墳刀Click!もまた、江戸時代にはかなりの高値で取り引きされている。なぜなら、古代のタタラで鍛えられた古墳刀の目白(鋼)Click!を、江戸期の鉄鉱石から製錬された鋼に混ぜて折り返し鍛錬をすると、より強靭で折れにくく、斬れ味の鋭い日本刀が製造できたからだ。江戸に住み、新刀随一の刀匠とうたわれた長曾根興里入道虎徹(ながそねおきさとにゅうどうこてつ)の「虎徹」は、寺社の古釘や古墳刀の目白(鋼)を、つまり「古鉄」を混ぜる独自技法を発明したからそう名乗っているのであり、のちに模倣者が続出して稀少な「古鉄」の価格は急上昇することになった。
 また、古墳刀についた赤サビは、刀の研師Click!の最終工程である「刃どり」を仕上げる際の、理想的な磨き粉として貴重かつ高価なものだった。古い目白(鋼)にわいた赤サビを粉砕してつくる粉は、現在でも日本刀の磨き粉として研師の間で珍重されており、江戸期とまったく変わらない技法が伝承されている。
 さて、これらのことを踏まえて考えてくると、働きもしないでだらだら怠惰に暮らしていた生井屋久太郎こと「だらだら長者」が、なぜ御蔵米を買い占める元手=資金を突然手に入れられたのかが、なんとなく透けて見えてきそうだ。それは、淀橋をわたって大型の古墳域だったと思われる柏木地域へ出かけていく「中野長者」が、日々裕福になっていった経緯と同一のものだったのではないだろうか。もっとも、「だらだら長者」伝説には、とりあえず「橋」にまつわる出来事は伝えられていないが、より古墳の羨道や玄室をイメージさせる、地下トンネルにまつわるエピソードがリアルに伝承されている。
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二代広重「昔ばなし一覧図絵」1857.jpg
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 全国各地には、動物の導きで地面を掘ったり、藪をかきわけて山(森)に分け入ってみたら、大判・小判や財宝がザクザク出てくるフォークロアが伝承されている。すぐに思いつくだけでも、有名な「花咲爺」や「舌切り雀」などが挙げられるけれど、みなさんの地元では「にわか長者」に関するどのような昔話や民話が伝わっているだろうか?

◆写真上:築土八幡社の西側に隣接する、平将門を奉った津久戸明神社跡の現状。津久戸明神社は戦災で焼けたため、1954年(昭和29)に九段へと遷座している。
◆写真中上は、築土八幡社の拝殿へと向かう階段(きざはし)。は、同社の拝殿。は、右側が築土八幡社で左側が津久戸明神社の階段があった跡。
◆写真中下は、築土八幡社の階段上からバッケ状の地形を見下ろしたところ。は、津久戸明神社跡の崖地。は、1852年(嘉永5)に制作された尾張屋清七版の切絵図「牛込礫川小日向絵図」にみる、築土八幡社と津久戸明神社の周辺域。
◆写真下は、「花咲爺」の挿画(作者不明)。は、1857年(安政4)制作の二代広重「昔ばなし一覧図絵」。は、明治期の制作とみられる河鍋暁斎『舌切り雀』。

平和博覧会で売られた1922年の地図。

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 1922年(大正11)3月10日から7月20日までの4ヶ月わたり、上野公園で平和記念東京博覧会Click!が開催された。同博覧会は、第一次世界大戦が終結し平和をとりもどした記念という名目だが、戦後に招来した不況を打開するための産業振興の目的もあったのだろう。同博覧会については、文化村住宅Click!の展示や画家たちの展覧会Click!にからめて、こちらでも何度かご紹介している。
 同博覧会の会場では、1922年(昭和11)の東京の様子をリアルタイムで記録した、最新の市街地図が販売されている。その大判地図を友人がわざわざコピーしてくれたので、さっそく落合地域を含む新宿周辺の様子を観察してみたい。まず目につくのが、太い赤線で描きこまれた東京市電の路線だ。大正中期ともなると、市電は東京市の区部を突き抜け、すでに郊外の郡部にまで達していたのがわかる。
 たとえば、牛込区を東から突き抜けて戸塚町の早稲田電停まで、同じく牛込区と四谷区を北東や東から突き抜けて淀橋町の新宿電停まで、さらに小石川区を南から突き抜けて巣鴨町の巣鴨二丁目電停や西巣鴨町の大塚駅前電停までと、東京の中心部から市電が延長されて郊外まで連絡していた様子が描かれている。
 さらに、同地図には1922年(大正11)現在の東京市電の計画路線や、計画道路のルートが描きこまれている。市電の計画路線は赤い点線で、道路の計画ルートは赤い実線で描きこまれているが、その後、実際に敷設された市電路線や道路とほとんどまるで一致しない。目白駅から高田馬場駅、新大久保駅の東側、つまり山手線の内側に引かれた市電や道路の計画ルートがメチャクチャなのだ。
 高田町の目白駅Click!東側に通う目白通り(高田大通りClick!)は、学習院の敷地が途切れるあたりから南東へ斜めに直進し、ほどなく市電の早稲田電停へと合流している。戸塚町の高田馬場駅Click!前から計画された道路は、南東へ斜めに直進し現在の早稲田通りとはまったく重ならず、戸山ヶ原Click!近衛騎兵連隊Click!のあたり(現在の諏訪通り)から東へ向きを変えると、矢来町の神楽坂通りへと連結している。また、大久保町の新大久保駅前から南東へ直進する計画道路は、やはり大久保通りとまったく重ならずに、東大久保をへて高久町あたりから東へ向きを変えると、中央線の市ヶ谷駅へと到達している。
 このような道路に共通しているのは、各駅から道路が放射状に拡がっている点だが、大正当時もまた現在も敷設されていない。また、数年たった大正末の地図類にも、このような道路計画はすでに描きこまれていない。いくら博覧会のお祭り気分的な地図にしても、あまりにいい加減かつ適当な描きこみのように思える。計画道路の中には、地元自治体や企業の希望的な道路計画、さらには地域住民たちによる「あったらいいな」と打(ぶ)ち上げた、道路・市電誘致構想までが描きこまれているのではないかと疑いたくなる。
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 だが、東京市が統括しているはずの市電の計画路線もまた、その後、実際に敷設されたルートとはまるでちがっているのだ。西巣鴨町の大塚駅前から計画された市電は、そのまま南へ下ると護国寺の北側あたりで西へと向きを変え、雑司ヶ谷墓地の北辺を西進すると再び南へ下り、やや東へカーブするので現・都電荒川線と同様に早稲田電停へ合流するかと思えば再び南へ向かい、甘泉園の南西で早稲田通りとクロスし、西へほぼ直角に向きを変えて諏訪町を東西に横断している。そのまま高田馬場駅へ向かうかと思えば、山手線の手前で再び直角に南へ折れ、陸軍が戸山ヶ原Click!に敷設した貨物引き込み線Click!のルートを山手線と平行に南へ直進すると、新大久保駅の東側で南東に向きを変え、既設されている市電の新田裏電停に接続して、新宿電停へと連絡している。また、新田裏電停をすぎた同線は、京王電気軌道(現・京王線)の始点である追分駅(のち新宿駅)と連結する予定だった。
 東京市電のこのような計画ルートは、大正期の地図でも、また戦前の地図でもかつて一度も見たことがない。地図の制作者が、当時の道路敷設計画図や市電計画路線図を参照して描きこんだのだろうが、その計画図からしていい加減で適当だったのではないかと思えてくる。だが、平和博が開かれた1922年(大正11)という年に留意すると、これらのメチャクチャな計画路線が、実はなんらかの根拠があって描かれていたのだと推測できる。すなわち、翌1923年(大正12)9月に起きた関東大震災Click!の影響だ。
 これらの道路や市電の敷設計画は、関東大震災を境にすべてが白紙にもどり、震災後の復興計画でイチからの練り直しになった路線ではなかろうか。大正初期から中期にかけての、東京市電や道路計画について詳しくはないので不明だが、東京市あるいは東京府(道路計画の場合)に由来するなんらかの書類で、これらの路線が描きこまれた根拠のある資料を、地図の制作者がどこかで見ているのではないだろうか。そうでなければ、ここまで当時の市街図へ確信的に描きこめるとは思えないからだ。これらの計画は、大震災を契機にすべてがチャラになってしまった……そんな気が強くするのだ。
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 さて、同地図に描かれた落合地域を見てみよう。1922年(大正11)現在なので、下落合も上落合も自治体はいまだ落合村(1924年より落合町)の時期だった。同地図では、下落合は東半分までしか採取されておらず、下落合の西半分と西落合、そして上落合の大半は地図の枠外となっている。現・新宿区の東部は東京市(東京15区Click!)の郊外であり、1932年(昭和7)の「大東京」時代(東京35区Click!)を迎えるまでは、まだ少し間がある時代だ。当然、西武線Click!(現・西武新宿線)は存在せず、目白駅始点Click!の敷設計画が陸軍の要望で建設物資の搬入に好都合な、戸山ヶ原Click!に近い高田馬場始点に変更されたばかりとみられるころだ。
 東京府による下落合の道路計画も描きこまれていない。目白通りから南下し、佐伯祐三Click!が描く「八島さんの前通り」Click!を拡幅して西坂を下る補助45号線(中野板橋線)計画は、関東大震災の以前からあったと思われるが、平和博の市街図には描きこまれていない。補助45号線は、1931年(昭和6)になってルートを全面的に変更し、西へ移設Click!された下落合駅前へと向かう聖母坂Click!として敷設されている。
 また、同じく目白通りの子安地蔵から下落合を斜めに南下し、七曲坂を右折して下落合氷川社Click!の北側を境内沿いに通過して、田島橋から栄通りを抜けて早稲田通りへと合流する、東京府補助72号線(戸塚落合線)はすでに描きこまれているけれど、これは昭和期に入ると改めて拡幅をともなう再整備が予定されていたものだろうか。氷川明神社の南側にあった、西武線の旧・下落合駅Click!前を通過する補助72号線(同補助線を意識して旧・下落合駅が設置された可能性もある)は、のち1929年(昭和4)ごろに十三間道路(放射7号線)計画に吸収され、西落合からつづく大道路は旧・下落合駅前から田島橋をわたり、栄通りをへて早稲田通りへと合流する計画になっていた。
 さらに、落合村を細かく見ると、個人邸が3つ採取されている。のちに近衛町となる旧・近衛篤麿邸Click!(当時は近衛文麿Click!邸)と、御留山の相馬孟胤邸Click!、そして西坂の徳川義恕邸Click!だ。1922年(大正11)の当時、すでに東京土地住宅による近衛町開発Click!はスタートし、実際に敷地も販売されはじめていた時期だが、解体されたはずの近衛邸が母家の形状や家令宅とみられる別棟まで含めて採取されている。また、目白通りを越え下落合村に隣接する高田町雑司ヶ谷旭出(現・目白3丁目)には、相馬邸に匹敵するほどの大屋敷だった戸田康保邸Click!(1934年より徳川義親邸Click!)が、ちょうど豊島郡と豊多摩郡の境界線にかかって見にくくなっているが採取されている。
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落合町市街図1927.jpg
高田馬場仮駅跡.JPG
 平和博と同年の1922年(大正11)に電化された、池袋駅を始点とする武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)は当然描かれているが、上屋敷駅Click!(1929年設置)も椎名町駅Click!(1924年設置)も存在しないので記載されていない。ちなみに、追分駅を始点とする京王電気軌道は、当時の細かな駅名まで含めて記載されている。1927年(昭和2)に開業する小田原急行鉄道(現・小田急線)は未記載だが、新宿駅の北側には荻窪から淀橋町角筈まで通っていた、西武電気軌道(西武電車)の新宿駅までの延長予定線らしいラインが引かれている。だが、新たな道路計画と軌道が重なるせいか赤点線ではなく、赤実線として記載されている。

◆写真上:平和博第1会場に建てられた、奥から文具館・ライオン塔・建築館・平和館。
◆写真中上は、1922年(大正11)発行の平和記念東京博覧会で販売された地図から新宿周辺の様子。は、1923年(大正12)ごろに撮影された京王電気軌道始点の追分電停に停車する京王電車(上)と、新宿伊勢丹デパート前の追分電停跡の現状(下)。は、同地図より戸山ヶ原から大久保にかけての様子。
◆写真中下は、同地図より池袋から雑司ヶ谷にかけての様子。は、明治末か大正初期に撮影された大塚駅前(北口)で谷端川をわたる王子電気軌道の王子電車。は、同地図の下落合から上落合、戸塚町、高田町あたりの様子。
◆写真下は、同地図より下落合部分の拡大。は、同地図から5年後の1927年(昭和2)に制作された「落合町市街図」。陸軍鉄道連隊の演習で建設Click!された西武電鉄が、山手線・高田馬場駅の東側へと抜ける最後のガード工事Click!を行なっている。そのため、山手線西側には高田馬場仮駅が設置され、駅前から神田川をわたり早稲田通りまで木製とみられる長い連絡桟橋Click!が仮設されていた。は、高田馬場仮駅跡(正面)の現状。

特高に目をつけられていた佐伯兄弟。

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 佐伯祐三Click!を含む、1930年協会Click!の画家たちが特高警察Click!に目をつけられていたのは、実際に福本和夫との関係から検挙Click!されて拷問を受けた前田寛治Click!を除き、あまり知られていない。ある方から、旧・内務省の内部資料(警視庁特高警察資料)をいただいたので、フランスから革新的な表現を持ち帰った画家たちが、いかに特高警察の内偵を受け監視されていたのかを見ていきたい。
 ヨーロッパで展開された絵画表現の運動には、内部でリベラリズムやアナキズム、サンディカリズム、マルキシズムなどと、どこかで緊密につながっていたことは知られているが、当時の内務省もその側面を懸念して、特高警察に捜査の指示を出していたのだろう。特に東京美術学校や文展・帝展の「アカデミズム」を否定し、革命的な表現を手に入れたフォービストやキュビスト、シュルレアレスト、そのほかアブストラクト=反アカデミズムの画家たちを、「アカ」ではないかと見なし(どっちが「アカ」なんだかw)、内偵・監視・尾行をしていたようだ。
 旧・内務省の特高警察資料『社会運動の状況16』にまとめられた、1939年(昭和14)の「美術文化」項目から引用してみよう。ちなみに、ここでは1930年協会から前田寛治と里見勝蔵、佐伯祐三の名前が挙がっている。なお後述するけれど、佐伯祐三に関しては兄の佐伯祐正も、大阪府警の特高から要注意人物として監視されていたのがわかる。
  
 昭和二年頃前田寛治(常時帝展審査員)、里見勝蔵、佐伯裕三(ママ:祐三)等を中心とする、フォービズム(野獣主義)画家の一団は、反アカデミーを標榜して「一九三〇年協会」を結成したるが、同協会の設立と前後して福本和夫と親交し、マルクス主義的思想を抱持せる前記前田寛治は同協会の主義主張に憚らず、同協会と別個に同志金子吉彌(後ヤツプに加盟)、新居蘆治(〃)、杉柾央(〃)等の急進的分子を糾合し、「前田写実研究所」を創立し、其の絵画精神として十九世紀の革命画家クウルベーの精神を採用セリ。然るに其の後「一九三〇年協会」は中心人物たる前田寛治、佐伯裕三(ママ)の死亡に依り自然消滅の状態に至りたる処、当時予てよりフランスに遊学中の福澤一郎、清水登之、林重義、海老原喜之助、高畠達四郎等が相前後して、シュール・レアリズムなる新傾向を携へて帰朝し、茲に之等新帰朝者及「一九三〇年協会」会員たりし里見勝蔵、其の他前衛画家の一群を糾合して反アカデミーを標榜し、フランスの急進画家の一群なる所謂「アンデパンダン」(独立)に倣ひ、昭和五年「独立美術協会」を結成したる…(後略) (カッコ内引用者註)
  
 佐伯の名前をまちがえるなど、たいして注視していないように見えるのだが、のちの資料から欧州旅行を繰り返す佐伯兄弟が、ふたりともマークされていた可能性が高い。
 鳥取県が同郷の前田寛治と、「福本イズム」で有名な福本和夫とはフランスで知り合っているが、1926年(大正15)暮れから翌年にかけて住んでいた長崎町大和田1942番地の自宅には、前田寛治とともに福本和夫の表札が出ていたのを、訪れた木下謙義が確認している。福本は住んでいたわけではないので、アジトのひとつとして使っていたのだろう。1928年(昭和3)の「三・一五事件」では、それが原因で前田寛治は高田警察署Click!(現・目白警察署)の特高に逮捕され、執拗な拷問とともに福本のゆくえを追及されている。
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 佐伯祐三が警察から目をつけられたのは、第1次渡仏前に知り合ったフランス文学者でアナキストの椎名其二Click!と知り合ったころからだろう。1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された山田新一『素顔の佐伯祐三』から、その証言を聞いてみよう。
  
 佐伯が椎名氏を知ることになったのは、佐伯がいよいよヨーロッパ行きを決意する前後のころであった。大正十一年、当時、椎名氏はフランスからマリー夫人を伴って里帰りし、フランス文学者の吉江喬松先生の推輓で、早稲田大学の文学部講師を勤めていた。佐伯がどういう伝手で椎名氏と近づきになったのか明確ではないが、この三十なかばの先輩のマダムからフランス語を教えてもらうことになった。若い頃から、アメリカに渡り、ミズリー州立大学の新聞科を卒業し、セント・ルイスやボストンでの新聞記者生活を経て、ロマン・ロランに傾倒してフランスに渡った椎名氏と佐伯は、最初から精神的に相触れあうものが実に深かった。(中略) しかし、不幸にも椎名氏はその後、左翼的思想のために日本に滞まることが困難になり、教職を辞して昭和二年、フランスに帰って行った。
  
 椎名其二は第2次渡仏をした佐伯とパリで再会し、死ぬまで身近に寄り添っている。
 また、佐伯が日本にもどっていた1926~1927年(大正15~昭和2)、急速に親しくなった友人に、小説『恐ろしき私』の著者・中河與一がいる。佐伯が挿画を担当した同書だが、中河はのちに佐伯との交流から、彼の心情を“代弁”するような文章を残している。1929年(昭和4)に1930年協会から出版された『画集佐伯祐三』所収の、中河與一「佐伯祐三は生きている」から引用してみよう。
  
 私は仕事をすればよかつたのだ。キタナイ着物が好きだ、總て弱い痛められた者と親和にみちた心で生きたい。私は正しくして不遇なるものと一緒に居りたい。私は乞食が好きだ、乞食のやうな労働者が。匂ひのする裏町が好きだ。自分に信念がある時、人に笑はれる位は平気だ。なるべくキタナイ風をして歩きたい――
  
 いつも職工のような菜っ葉服を着て、佐伯は画道具を抱えながらパリの街角を歩き、メーデーのデモ隊に出会うと親しげに手をふってシンパサイズしていた様子も記録されている。反アカデミックな表現法を携えて、ヨーロッパからもどった佐伯の人脈や言動が、特高の目を惹かなかったとは思えない。同時に、セツルメント建設の名目で渡欧した、佐伯祐三の兄・佐伯祐正も警察から注視されていたようだ。
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 特高資料「社会運動の状況16」の1941年(昭和16)の項目には、佐伯の実家である光徳寺(大阪)でセツルメントを経営し、演劇集団「国民芸術座」を主宰していた住職・佐伯祐正が、「要注意文化団体」としてマークされている。同資料から引用してみよう。
  
 ◆国民芸術座  所属員種類及其の概数:一二名/創立年月日:昭和十六、十一、一改名/綱領主旨:新国民演劇樹立を目的とす/主なる運動:新国民演劇協会名称変更し引続き勉強会四回を開催す/中心人物:佐伯祐正
  
 吉野作造Click!の民本主義を体現し、小林多喜二Click!の妻・伊藤ふじ子Click!も通っていた東京帝大セツルメントをはじめ、たとえそれが資本主義的な民主主義思想や自由主義思想、あるいはキリスト教や仏教などにもとづくセツルメント運動であっても、もはや国家に異議を唱える団体や人物を許容しない特高は、「アカ(系)」=「共産主義系文化団体」に分類して容赦なく弾圧していった。自国が依って立つ国家・経済基盤の政治思想を、自ら否定する特高(内務省)の矛盾、ひいては大日本帝国の「亡国」思想は破滅(敗戦)の日までつづくことになる。光徳寺のセツルメントにも昭和初期から戦時中にかけ、特高の刑事が何度か顔を出しているのではないだろうか。
 さて、佐伯の「左翼」に対するシンパサイズだが、特に明確な思想性があったようには見えない。なんとなく共感する、文字どおり「シンパ」のレベルで終わってしまったのではないかと思われる。それについて、1929年(昭和4)に1930年協会から出版された『一九三〇年協会美術年鑑』に、前田寛治が的確な文章を残しているので引用してみよう。
  
 彼が工場を画こうとし労働を表そうとした数枚の作品も思想的に動かされてゐたと思はれる。然しそのことは彼の芸術には却つて障害になる位で、彼はそれよりも同じ題材に結びつく所謂汚さに存在する異様な感覚の魅力にひかれたので、この感覚が彼の芸術を他に類例のない独自的なものにしたのだと云つても差支へないと思ふ。(中略) 彼の外部からうけ入れられた思想は仮令一時彼の生活となり芸術となつてゐたとはいへ、遂にそれは桎梏となつて彼を苦しめたに過ぎない。彼の先天的の表現は法則を忘れた忘我製作であつたと思はれる。彼を動かした宗教は燦然とした太陽の様な健康さだつたらう。にも関らず彼自身は薄暮に消滅しようとする銀灰色に陶酔した。彼を動かした思想は力に満ちた労働だつたらう。にも関らず彼は休息と慰安と消散のキャフエ・テラスの光景に陶酔した。彼を動かした芸術は思索的なレアルの表現だつたらう。にも関らず彼は最も感覚的な表現に没我した。
 
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 この特高資料が編纂された1939~1941年(昭和14~16)ごろは、戦争へと突き進む政府に異を唱える人物たちはすでに刑務所の中であり、特高警察は“ヒマ”になりつつあったろう。そこで組織の存在や成果をアピールするかのように、「横浜事件」に象徴的される雑誌の記者や書籍の編集者、あるいは大学の学者など知識人をターゲットに、虚偽でかためた「治安維持法違反」事件をデッチ上げていくことになる。ちょうど、現代の中国が「民主派」や「人て権派」と呼ばれる人々に対して行っている弾圧と、まったく同じ手口だ。
 ちなみに、今日の法制に照らしあわせてみると、同郷の福本和夫をかくまい革命思想に共鳴しているとみられた前田寛治が、「危険」人物と判断され逮捕された時点で、同様に1930年協会のメンバー全員も「共謀罪」容疑で引っぱられ、警察の取り調べを受けているだろう。ある意味では、当時よりもシビアな状況に陥っているのに、改めて愕然とする。

◆写真上:1928年(昭和3)に制作された佐伯祐三『共同便所』。日本にいた1926~1927年(大正15~昭和2)かけ、佐伯はアトリエに隣接した自邸の便所Click!も描いている。
◆写真中上は、1928年(昭和3)の第2次渡仏期に描かれた佐伯祐三『工場』。は、特高資料『社会運動の状況16』の「美術文化」に記載された1930年協会と佐伯祐三の動向。この項目は、「プロレタリア文化運動」の章に分類されている。
◆写真中下は、1927年(昭和2)ごろに制作された佐伯祐三『靴屋』。は、同特高資料にみる光徳寺住職・佐伯祐正の国民芸術座で「共産主義運動」の章に分類されている。は、1927年(昭和2)に描かれた佐伯祐三『カフェのテラス(カフェ・バー・ホテル)』。
◆写真下:ともに大阪の光徳寺に佐伯祐正が建設したセツルメントで、外観()と内観()。室内の奥には、佐伯祐三の作品があちこちに架けられているのが見える。

文化村に近接した武者小路邸の特定。

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 武者小路実篤Click!は、鈴木三重吉Click!の赤い鳥社と同じく引っ越しマニアだ。昭和初期だけでも、1936年(昭和11)のヨーロッパ旅行をはさみ10回以上は転居している。下落合には、1929年(昭和4)の4月から11月まで、およそ7ヶ月間ほど暮らしただけであわただしく転居していった。武者小路実篤が住んでいたのは、目白文化村Click!の第二文化村に通う振り子坂Click!の中腹、下落合1731番地だ。
 ここで、武者小路実篤が東京府内で転居を繰り返した、昭和初期の様子を見てみよう。
 1927年(昭和2)  2月に葛飾郡小岩井村に転居。同年中に築土八幡社脇に転居。
 1928年(昭和3)  1月に麹町下二番町40番地へ転居。
 1929年(昭和4)  4月に下落合1731番地へ転居。11月に祖師谷441番地に転居。
 1933年(昭和8)  北多摩郡砧村へ転居。
 1934年(昭和9)  3月に吉祥寺鶴山小路885番地に転居。
 1935年(昭和10) 1月に吉祥寺日向小路645番地に転居。
 1936年(昭和11) 4月~12月までヨーロッパ旅行。
 1937年(昭和12) 3月に三鷹村牟礼359番地に転居。
 1940年(昭和15) 9月に三鷹村牟礼490番地に転居。
 ずいぶん以前から、第二文化村の外れにあったとみられる下落合1731番地の武者小路邸を探す記事Click!を書いてきたが、かなり落合地域に関する知見や地勢、時代ごとの状況把握、地図や空中写真を使って“現場”を読み解くノウハウやスキルなどが蓄積されてきていると思うので、ここで改めてもう一度、下落合1731番地の武者小路邸の位置について規定を試みてみたい。
 まず、注意しなければならないのは、下落合1731番地という当時の住所だ。この地番は、第二文化村へと上る振り子坂が切り拓かれた、大正末(おそらく1925年に敷設)で一度新たにふり直され、1932年(昭和7)に淀橋区が成立すると同時に、1731番地の地番位置が丸ごと南へ移動してズレている。つまり、武者小路実篤が住んでいた1929年(昭和4)という時期は、大正末に地番がふり直され1932年(昭和7)に大がかりな地番変更を迎える、わずか7年間のうちのちょうど真ん中あたりということになる。したがって、同邸を探すには大正期の地図でも、また1932年(昭和7)以降の地図を用いても、決定的な誤謬の生じる可能性が高いというこだ。
 さて、もうひとつの手がかりとしては、1929年(昭和4)のおそらくは晩春か初夏のころに撮影されたと思われる、下落合1731番地邸の門前にステッキをついてたたずむ、武者小路実篤の写真だ。この写真には、邸の場所を特定する大きなヒントがとらえられている。まず、手前のカメラをかまえた撮影者の位置から推定すると、門前には少なくとも2間(約3.6m)以上はありそうな道路が接していること。文化村や当時の下落合に建てられていた家々に比べ、門から玄関までの距離がかなり短いこと。住宅の屋根が、手前の道路に対して平行であること、つまり切妻が道路面を向いていないこと。また、門に向かって傾斜している、主棟(大棟)とみられる屋根の傾斜面に対し、玄関庇(ひさし)は別にして、左手に隅棟と思われる大屋根より下の小屋根が見えていること。
 そして、当時もいまも下落合の多くの住宅は、東から南にかけての角度90度の間に、陽射しへ向けて家屋の主棟(大棟)がT字型になるよう(できるだけ多くの部屋に日光が射すよう)設計されており、写真の陽射しの様子からこの家もまた、東ないしは南の間のいずれかの方角を向いて建てられているとみられる。光の位置は、カメラマンの背後やや左手のように見えるので、その射し方から推測すると、午前中に散歩へ出ようとする武者小路をとらえた写真なら、この家のファサードは東向き、昼すぎの散歩に出ようとする姿なら、ファサードは南向きということになりそうだ。さて、上記のような条件に見合う住宅が、1929年(昭和4)現在の下落合1731番地に存在しているだろうか。
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 まず、1929年(昭和4)現在で発行された地図のみを用いて、下落合1731番地の位置を正確に特定してみよう。この時期、振り子坂の西側に通う矢田坂Click!の上部は、大きく東へ直角にクラックしたままで、1900番台の地番が1700番台の地番エリアへ大きく食いこんだままだ。したがって第二文化村のエリアである、振り子坂西側の最上段部に建っていた星野邸Click!(戦後は東条邸)は、下落合1724番地~1725番地にまたがって建設されていることになる。星野邸から、振り子坂の南に向いたひな壇敷地の1段下にあたる、のちの淀橋区長の山口邸は1724番地で、その1段下の第二文化村南端である安東邸Click!から振り子坂に沿って1731番地がふられている。同地番の終端は、現在の山手坂Click!の手前までということになる。
 一方、振り子坂の東側にも、1929年(昭和4)時点では1931番地の地番が三角形の敷地として残されている。まず、振り子坂東側の最上段部に建っていた杉坂邸から、2段目の調所邸が1739番地。その1段下にあたる、第二文化村最南端の嶺田邸の敷地から振り子坂に沿い、その下の敷地(のち栗田邸)のそれぞれ一部が、1731番地にかかっている。すなわち、両敷地は1929年(昭和4)の当時、1731番地と1737番地にまたがっていたことになる。ただし、南側の栗田邸は1936年(昭和11)以降に建設されているので、旧・武者小路邸の候補には入らない。
 さて、武者小路実篤が住んでいたのと同時期、下落合1731番地(敷地の一部含む)がふられた敷地には、全部で7棟の住宅が建っていた。このうち、第二文化村の開発当初から居住している安東邸と嶺田邸は、建物や敷地の風情が武者小路実篤が写る写真とまったく異なるので除外する。すると、小さめな住宅が振り子坂の西側に並んだ、残り5棟のいずれかが武者小路が借りていた家ということになる。ちなみに1938年(昭和13)作成の「火保図」では、この5棟は坂の上から下へ順番に、佐藤邸・石井邸・宮前邸・不明邸・(不明邸)となっており、同図ではまたもや住宅を1棟、丸ごと採取しそこなっている。
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 幸運にも、この5棟は空襲からも焼け残り、戦後までそのままの状態で建っていたので、武者小路が住んでいた時期からあまりたっていない1936年(昭和11)と、戦後の1947年(昭和22)に撮影された高精細な空中写真を突き合わせて、5棟の様子を詳細に観察することができる。そして、写真に見られる先述の条件、すなわち……、
 ①門や玄関が、2間以上の道路に面していること。
 ②門から玄関までの距離が、かなり短いこと。
 ③主棟(大棟)の斜面が道路と平行であること=切妻が道路側を向いていないこと。
 ④主棟の左手に、隅棟とみられる小屋根が付属していること。
 ⑤門や玄関が、東から南にかけて面していること。(5棟の門はすべて東面)
 ……などを勘案すると、この条件に当てはまる邸は5棟のうち、たった1棟しか存在していない。すなわち、1932年(昭和7)の地番変更で下落合1727番地となり、第二文化村に建つ安東邸の南隣りに位置して、のちに佐藤邸となる小住宅だ。空中写真で確認すると、武者小路の写真でもハッキリわかるように軽量のトタン屋根を葺いた小住宅なので、南北に通る主棟の屋根が白っぽく光ってとらえられている。
 この近隣では、振り子坂の坂下にいた李香蘭(山口淑子)Click!の話はときどき耳にするが、武者小路実篤についてはかつて取材で一度も聞いたことがない。武者小路は、わずか7ヶ月間しか住んでいなかったので、周辺住民の記憶に残りにくかったか、あるいは女優とちがって地味なヲジサンの容姿なので、周囲に気づかれないまま転居してしまったのだろう。ちなみに、下落合に住んだ武者小路は、1929年(昭和4)当時は45歳だった。
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 1932年(昭和7)に淀橋区が成立すると、下落合(3丁目)1731番地は従来の位置から南へ1区画スライドしてふられ、1938年(昭和13)の「火保図」を参照しても、その区画にはいまだ1棟の住宅しか建設されていない。その住宅とは、1931年(昭和6)1月に発表された洋画家・宮下琢郎の『落合風景』Click!に描かれた、モダンハウスこと佐久間邸だ。宮下琢郎は実質、『落合風景』を前年の1930年(昭和5)に制作しているので、それ以前から佐久間邸が建っていたとすれば、武者小路実篤もこの超モダンな邸を目にしているだろう。

◆写真上:振り子坂に面した、下落合1731番地(現・中井2丁目)の武者小路実篤邸跡。左手の大谷石の築垣から第二文化村のエリアで、その下の南隣りが旧居跡とみられる。
◆写真中上は、1929年(昭和4)に撮影された下落合1731番地の自邸前に立つ武者小路実篤。は、1929年(昭和4)発行の「落合町全図」にみる下落合1731番地。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる1731番地の住宅群。
◆写真中下は、別角度で撮影した1936年(昭和11)の空中写真。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同区画。1932年(昭和7)の淀橋区成立とともに、大規模な地番変更が行われたあとで、「火保図」は旧1731番地の住宅1棟を採取し損ねている。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・武者小路実篤邸。は、同年に撮影された別角度の同邸。は、旧・武者小路邸の拡大と写真の撮影ポイント。
おまけ:今年もサクラが満開の、目白文化村は第二文化村にある安東邸。
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目白林泉園庭球部vs目白中学校庭球部。

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 1923年(大正12)の12月2日(日)、林泉園Click!にある東邦電力Click!の運動場でテニスのダブルスによる勝ち抜き戦の試合が行われた。東京中央気象台によれば、当日は前日にも増して快晴だったと記録されているので、初冬の気持ちのいい1日だっただろう。関東大震災Click!からわずか3か月しかたっていない時期だが、落合地域はほとんど被害らしい被害を受けていない様子が、このテニス大会からもうかがえる。
 目白中学校の庭球部は、ほぼ学校創立と同時に設置されたクラブで、毎年「関東庭球大会」に出場しては、関東各地にある中学と対戦している強豪チームだった。この年も、5月19日には渋谷にあった名教中学校とダブルスの勝ち抜き戦で対戦して快勝し、5月20日には茨城県まで遠征して龍ヶ崎中学校と対戦し、接戦のうちに勝利している。
 つづいて6月の下旬、千葉県千葉市に遠征して千葉師範学校と千葉中学校の混成チームと対戦したが、目白中学校庭球部は近年にない敗戦の屈辱を味わっている。同部の対戦記録には、「当日選手と共に出向かれたる岩本先生、一柳先生、林先生に対し、又本校生徒に対し、選手の面目を失ふ」と口惜しそうに書いているので、よほどまれになっていた敗戦がショックだったのだろう。
 9月1日の関東大震災の直後Click!から、目白中学校ではクラブ活動がしばらく中止されていたが、授業が平常にもどると同時に部活も再開された。そして、12月2日の目白林泉園庭球部との試合を迎えることになる。目白林泉園庭球部へ試合の橋わたしをしたのは、目白中学校庭球部の選手だった山本という生徒だ。そのときの様子を、1924年(大正13)4月に発行された校友誌「桂蔭」第10号から、試合の結果とともに引用してみよう。
  
 九月一日、前古未曽有の大激震関東地方を襲ひ、運動も一時中止のあり様なりしも、間もなく復活し、選手は日々腕を練り、目白庭球部の発展を急ぐ。
 対林泉園戦
 十二月二日、選手山本の斡旋により目白林泉園庭球部と林泉園コートに於て試合を行ふ。優退二組、不勝二組を持して我校の勝利に帰す。
  
 1回戦は、目白中学の「五十嵐・大澤」のペアが、目白林泉園の「伊藤・帆足」ペアと対戦して3:0で圧勝。つづいて2回戦は、目白中学の同じペアが目白林泉園の「安武・若績」ペアと対戦して、再び3:0で圧勝。3回戦は、目白中学の「杉本・小谷野」ペアが、目白林泉園の「両角・小川」ペアと対戦して3:2で勝利。4回戦は、目白中学の同じペアが目白林泉園の「松前・占部」ペアと対戦し、またまた3:2で勝利している。
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 最後の5回戦は、目白中学の「清水・岩尾」ペアが、目白林泉園の「神谷・長谷川」ペアと対戦し3:0で圧勝と、目白林泉園庭球部は目白中学にまったく歯が立たなかったようだ。目白中学の「戸口田・倉賀野」と「山本・桑澤」の各ペアは、せっかく大震災後の初試合で活躍できると勇んで出場したにもかかわらず、応援するだけで終わってしまって残念だったろう。
 さて、目白中学校に惨敗した目白林泉園庭球部とは、どのようなチームだったのだろうか。東邦電力の運動場を利用していることから、またそれが同社の社宅が並ぶ敷地に設置されたテニスコートであることから、東邦電力の社員たちが結成した社内クラブのようにも思えるが、クラブの名称が「東邦電力庭球部」ではなく、「目白林泉園庭球部」というところが気になるのだ。
 つまり、隣接する社宅に住んでいる社員や、下落合以外の地域に住む社員たちばかりでなく、林泉園の周辺に住んでいる下落合住民も、自由に参加できるテニスクラブではなかっただろうか。大正期の古い話なので、「目白林泉園庭球部」の名称を憶えておられる方がいないのか、わたしは一度も同クラブについて聞いたことがない。もし、テニスが大流行した大正末から昭和初期まで存続していたとすれば、どこかに記録が残っているのかもしれないが……。
 目白中学との試合に参加した、目白林泉園チームの選手の中には、明らかに東邦電力の社員だと思われる人物が4人いる。すなわち、林泉園住宅地にある社宅ないしは邸宅で、その同一の名字を確認することができる、「伊藤」「安武」「小川」「神谷」の4名だ。伊藤邸と小川邸は、ともに林泉園テニスコートの西側、下落合368番地に同一仕様で建てられた洋館社宅の中に住む社員だったと思われる。
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 また、「安武」は管理職が住んでいたとみられる林泉園の南側、社長の松永安左衛門邸Click!(当時は副社長)つづきに並ぶ、少し大きめな邸(下落合367番地)で名前を確認できる、東邦電力会計課長の安武専助だろう。安武課長は東邦電力とともに、同じく松永安左衛門が設立した永楽殖産の監査役も兼任している。
 もうひとりの選手「神谷」は、下落合367番地の安武邸の斜向かい、松永安左衛門邸から2軒西隣りに住んでいた神谷啓三だろう。神谷は、東邦電力の理事であると同時に重役の秘書もつとめていた。1932年(昭和7)に出版された、『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 東邦電力株式会社理事兼秘書役 神谷啓三  下落合三六七
 愛知県人神谷庄兵衛の令弟にして明治二十三年二月を以て出生、大正十一年分家を創立す、是先大正四年東京帝国大学政治科を卒業し、爾来業界に入り現時東邦電力会社理事兼秘書役たる傍ら永楽殖産会社監査役たり。夫人田代子は同郷松井藤一郎氏の令姉である。
  
 目白中学との試合が行われたとき、神谷啓三はすでに34歳であり、とても現役の中学生(現・高校生)プレーヤーの体力にはついていけそうもなかっただろう。だからこそ、最後のペアに配置されたのだろうが、やはり予想どおり3:0で惨敗している。
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 この4名以外の名前は、東邦電力の社宅+管理職宅の敷地内で確認することはできない。だが、中には助っ人として呼ばれた、別の地域に住む同社社員も含まれているのかもしれないが、周辺の下落合に住むテニス好きの住民も、一部混じっているのではないだろうか。残る目白林泉園庭球部の選手名には、1924~25年(大正13~14)の下落合町内名簿で重なる苗字が、いくつか散見できるからだ。

◆写真上:目白林泉園庭球部があった、東邦電力の社宅に隣接するテニスコート跡。
◆写真中上は、1924年(大正13)4月発行の目白町学校校友誌「桂蔭」第10号に掲載された対戦記事。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる林泉園界隈。東邦電力社宅に入居している社員名と、目白林泉園庭球部の選手名が一致する家が何軒か見える。は、林泉園の池を埋め立てて1970年代半ばに建設された低層マンション。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林泉園界隈。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」掲載の選手とみられる安武邸。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる林泉園界隈で、空襲による延焼がなく大正期の面影をよく残している。
◆写真下は、東邦電力の社宅があったあたりの現状。は、林泉園の北側に通う東西道で、右手が東邦電力合宿所や下落合家庭購買組合が建っていたあたり。

赤い鳥野球チームがスカウトした佐伯祐三。

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 かなり前に、「赤い鳥」社が結成した野球チームに佐伯祐三Click!が強力な“助っ人”として呼ばれ、活躍していた記事Click!を書いていた。それは、いつごろの時期のことなのかを考察してみるのが、きょうの記事のテーマだ。それには、「赤い鳥」の編集部がいつどこにあったのかを規定しなければならない。周知のように、鈴木三重吉Click!は引っ越し魔だったからだ。
 鈴木三重吉が小説家らしく、あちこちを転々としていたのは、明治末から大正初期にかけてだけではない。自身の作品全集が岩波書店から刊行されたあと、突然筆を折って小説家を廃業してしまっているが、眼科医を舞台にした自身の小説『赤い鳥』というタイトルが気に入っていたのか、のちの児童書にも同じタイトルをつけている。そのあたりの事情を、安倍能成Click!の証言を聞いてみよう。
 1936年(昭和11)9月に発行された「赤い鳥」の最終号、同誌(鈴木三重吉追悼号/第12巻3号)掲載の、安倍能成『三重吉の小説其他』から引用してみよう。
  
 三重吉が作家として最もはやつた明治末から大正初のニ三年は、却て自然主義がやや飽きられて、三重吉や小川未明の作などが、ネオ・ロマンティシズムなどと持て囃された時である。その一例は、今読むとそれ程好いとも思はぬが、明治四十四年に出た「赤い鳥」の如きである。これは一方にぢめぢめした田舎の眼科院を描き、そのみすぼらしい病室の隣に居る、薄明の眼にかすかに見た女を、物語中の赤い鳥を飼つた女と一つに合せて夢想するといふ筋のものである。後年三重吉がその童話雑誌に「赤い鳥」といふ名を附けたのは、この作に対する好評に気を好くしたことも、一つの理由であつたらうと思ふ。
  
 安倍能成は、鈴木三重吉の「出鱈目」についても触れているが、鈴木の酒グセの悪さは、夏目漱石の門下仲間ではつとに有名だった。もっとも、安倍能成も酔っぱらうとタンスの上によじのぼって、「山上垂訓」Click!をはじめるのだからどっちもどっちなのだが、鈴木三重吉の酒はさらに悪質で、目つきがすわると人にからんではケンカを売る、酒乱に近い性癖だったようだ。
 上掲の「赤い鳥」の追悼号から、夏目漱石Click!の連れ合いである夏目鏡子の証言を引用してみよう。夏目鏡子の『鈴木さんを思ふ』より。
  
 鈴木さんは御酒がすきで、のんで気持よく眠くでもなるならよいがのめばくだをまき、人につかゝつてこなければ承知のできないのには、だれもこまらせられた事です。正月元旦と云へばいの一番に私の家へ来てくれるのです。朝の十時頃から三四時頃迄つぎからつぎとくる人々相手にのむので、ひる過にはきまつてだれかにつかゝりはじめるので、おこるやら又なく事もあり、いろいろと変るのです。しまひにはもう面どうになつて早く帰してしまはうと思ひ、車をたのみ玄関迄つれ出して外とうをおとしてしまひ、車にのせればおりてしまひ、そんな事をニ三度くりかへし、やつとのせて門を引出す、やれやれとほつとしたものです。後で車屋に聞けば、早稲田から目白の家迄行く間に三度位は車からおりて小用をするのださうです。
  
 夏目家もそうだが、酒乱で引っ越し魔の鈴木三重吉宅+赤い鳥社が少しでも自宅から離れてくれると、ホッと胸をなでおろしていた人たちがほかにもたくさんいただろう。
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 上記の頼んだ「車」は、もちろん俥(じんりき=人力車)Click!のことで、このエピソードに書かれている「目白の家」とは、1920年(大正9)に住んでいた山手線が目の前を走る、目白駅から線路沿いを北に200m余のところ、高田町3559番地の鈴木邸+赤い鳥社のことではないかと思われる。下落合にアトリエClick!を建てるまで、安井曾太郎Click!が住んでいた旧・アトリエ跡の並びだ。
 さて、鈴木三重吉の赤い鳥社が、どのように東京市内外を転々としていったのかを少し見てみよう。まず、児童雑誌「赤い鳥」は1918年(大正7)に創刊されているが、そのときの鈴木邸(編集部)が代々木山谷にあったのか、すでに山手線の線路際で上屋敷(あがりやしき)の家と呼ばれた高田町3559番地だったのかハッキリしない。ちなみに、創刊号の奥付は「高田町」になっている。以下、赤い鳥社の引っ越し先をたどってみよう。
 1918年(大正7)  代々木山谷から高田町3559番地
 1919年(大正8)  日本橋箔屋町(汁粉屋の2階)
 1920年(大正9)  高田町3559番地(最寄り駅は武蔵野鉄道・上屋敷駅)
 1921年(大正10) 高田町3572番地(現在記念プレートが設置されている場所)
 1924年(大正13) 市谷田町3丁目8番地(外濠通りに面した2階家)
 1926年(大正15)2月 長崎町荒井1880番地(長崎町事情明細図に収録された社屋)
 1926年(大正15)9月 日本橋2丁目(白木屋向かいの加島銀行ビルディング5階)
 1927年(昭和2)  四谷須賀町40番地
 1930年(昭和5)  西大久保461番地
 この中で、佐伯祐三が下落合のアトリエにいた時期と重ね、赤い鳥野球チームに参加できるのは、1922年(大正11)のアトリエ竣工時から1923年(大正12)の第1次渡仏までの期間、つまり赤い鳥社が高田町3572番地にあった時期と、1926年(大正15)に帰国した直後、つまり赤い鳥社が長崎町荒井1880番地にあった時期ということになる。
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 おそらく、赤い鳥野球チームに佐伯をスカウトしたのは、東京美術学校でいっしょだった赤い鳥社の画家・深沢省三Click!だろう。彼は、佐伯が野球部のキャプテンだったことを知っており、美校ては頻繁にキャッチボールをしている。その様子を、1929年(昭和4)に出版された『一九三〇年叢書(一)/画家佐伯祐三』所収の、江藤純平・田代謙助『学校時代の佐伯君』から引用してみよう。
  
 彼(佐伯)は大阪北野中学の野球部の主将をしてゐた位だから勿論美校ではボールのピカ一であつた。深沢看三(ママ:深沢省三)君もボールの名人でよく二人でキヤツチボールをやつてゐるのを吾々はパレツトを置いてやじつたものである。(中略) 例の熱中癖は二人のキヤツチボールにさへ遺憾なく現はれていよいよ疲れるまでは決して止さなかつたので、流石の深沢君もかなりヘキエキしてゐた位であつた。二人はヘトヘトになつてアトリエにはゐり乍ら、その真つ赤にはれ上つた掌を見せ合つて苦笑してゐたものである。ニ三度「赤い鳥」のチームに頼まれて試合に出たこともあつた。目玉を異様にむき出してバツトをガムシヤラに振り廻す彼(佐伯)らしいバツター振りはたしかに異形であつた。それが為、敵の応援団によつて「目玉」と云ふ名を進呈され、盛んに弥次られたことであつた。(カッコ内引用者註)
  
 深沢省三と頻繁に顔を合わせていた、学生時代から間もない時期を強く意識するのであれば、赤い鳥社が高田町3572番地にあった期間、すなわち佐伯が赤い鳥チームに入って野球をしていたのは、1922年(大正11)ごろのエピソードではないかと思われる。
 下落合の周辺で、大正期から野球ができるところといえば、長崎町の西端にあった東京海上保険運動場(通称:海上グラウンド=現・南長崎スポーツセンター)か、葛ヶ谷(西落合)に隣接する井上哲学堂Click!グラウンド(現・哲学堂公園野球場)がある。立教大学のグラウンドもあるが、基本的に学校の運動場なので手軽に使えたとは考えにくく、目白文化村Click!簡易野球場Click!では本格的な試合は難しいだろう。
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事情明細図1926.jpg
南長崎スポーツセンター.jpg
 ここはやはり、海上グラウンドか哲学堂グラウンドのいずれかだろうか。下落合に住んでいた帝展系の画家たちは、昭和初期から野球チームをつくって頻繁に試合をしていたが、金山平三Click!がよく審判Click!をつとめていたのは哲学堂グラウンドでの試合だった。

◆写真上:画家たちの野球大会が開かれた、哲学堂グラウンド(現・哲学堂公園野球場)。
◆写真中上は、夏目家に通っていた学生時代の鈴木三重吉()と、1928年(昭和3)に撮影された鈴木三重吉()。とても同一人物とは思えないが、耳の形状が同じだ。は、1936年(昭和11)9月発行の「赤い鳥」(鈴木三重吉追悼号/第12巻3号)の表紙()と奥付()。は、早稲田南町にある夏目漱石の旧居跡(現・漱石公園)。先年、記念館が竣工して夏目漱石の漱石山房(書斎)が復元されている。
◆写真中下は、高田町3559番地の赤い鳥社跡。は、高田町3572番地の同社跡。は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる赤い鳥社跡。
◆写真下は、長崎町荒井1880番地の赤い鳥社跡。は、1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」にみる赤い鳥社。は、海上グラウンド跡(現・南長崎スポーツセンター)。

下落合を描いた画家たち・宮本恒平。(3)

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宮本恒平「落合風景」1929.jpg
 目白文化村Click!の第二文化村、下落合1712番地にアトリエがあった宮本恒平Click!は、下落合西部(現・中落合/中井)を描くのが好きだったようだ。残された作品を見ると、大正末から1940年代にかけ、市街化が進んだ下落合東部(現・下落合)よりも、西部へ足を向けて描いている画面が多いように思う。帝展や本郷絵画展に出品していた宮本は、緑や畑地が多く残る郊外風景を描くのが好きだったようだ。
 宮本恒平をめぐるこれまでの記事では、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)に収録の、宮本恒平について記載している「人物事業編」について紹介していなかったので、改めて同書から全文を引用してみよう。
  
 洋画家 宮本恒平  下落合一,七一二
 東京府士族宮本得造氏の長男にして明治二十三年九月出世大正五年家督を相続す、同九年東京美術学校西洋画家(ママ:科)を卒業し、更に外国語学校専修科を卒へ外遊する事数年現に洋画壇中堅作家として知られてゐる。夫人ナカ子は東京月村徳之介の三女である、又令妹晴子は工学博士東京帝大教授田中芳雄氏に嫁せり。(カッコ内引用者註)
  
 わたしのオフィスに架けてある、宮本恒平『画兄のアトリエ』Click!(1945年1月)も落合西部……というか、目白学園の丘を背景に、上高田422番地に建っていた耳野卯三郎Click!アトリエを描いたものだ。昭和の初期、宮本恒平は森や田畑が多く残る落合地域の西部を散策しては、気に入った風景モチーフをタブローに仕上げていたのだろう。
 1929年(昭和4)発行の「美之国」2月号に掲載された、宮本恒平『落合風景』もそのひとつのように思える。『落合風景』は、第4回本郷絵画展に出品されているけれど、残念ながらカラーの画面では観たことがない。本郷展のあと個人所有となって行方不明か、戦災で失われてしまっているのかもしれないが、第二文化村の宮本恒平アトリエは空襲を受けていないので、そのまま保存されてるとすれば現存している可能性もある。あくまでも、印刷されたモノクロ画面なので、細かなマチエールや色づかいがわからないが、落合地域のどこを描いたものか、わたしなりにおおよそ検討してみたい。
 まず、画面でもっとも気になるのは、ちょうど中央に描かれていると思われる白いタワー状の構造物だ。落合地域とその周辺域にお住まいの方なら、すぐに野方町東和田は和田山Click!(現・哲学堂Click!)の北側にある、荒玉水道Click!野方配水塔Click!(水道タンク)を想い浮かべるだろう。ただし、野方配水塔は1930年(昭和5)から本稼働をはじめるので、前年の1929年(昭和4)に描かれた本作は配水塔が工事中か、あるいは配水前の稼働実験中の姿をとらえているのかもしれない。この配水塔が完成しても、落合地域では旧・神田上水沿いの段丘に湧く清廉な泉や地下水の家庭利用Click!は減らず、荒玉水道はあまり活用されなかったことは以前にも書いた。落合地域(特に下落合)で水道水が本格的に利用されはじめるのは、戦後になってからのことだ。
「落合風景」野方配水塔拡大.jpg
「落合風景」家並み拡大.jpg
「落合風景」落合用水拡大.jpg
 野方配水塔とみられる構造物の陰影を見ると、右側に影ができている。すなわち、描かれている情景は画面の左手が南側、あるいはそれに近い南東か南西ということになりそうだ。その手前には、モノクロでわかりにくいが左端から中央にかけ、やや上り勾配と思われる緩傾斜面には、家屋とみられるフォルムがいくつか確認できる。さらに、手前に拡がっているのは畑地ないしは草原で、その間を縫うように設置された階段のように見える道筋、あるいは用水の護岸のような窪地状のものが見てとれる。これが灌漑用水であれば、葛ヶ谷(西落合)の北西で旧・千川上水から分岐した落合分水Click!であり、手前に描かれた黒い筋は用水沿いの道路なのかもしれない。
 画家がイーゼルをすえているのは、前面に描かれた畑地ないしは草原よりもやや高い位置で、その小丘の上か斜面にある木立ちの間から、前面の畑ないしは原を見下ろすような視点だ。換言すれば、小高い位置だからこそ野方配水塔がよく見える構図が可能になったのだろう。落合地域の西部をよく歩くので発見できた、宮本恒平ならではの描画ポイントといえるかもしれない。
 さて、1929年(昭和4)現在で、これほど住宅が少なく畑地ないしは草原が拡がっているエリア、そして野方配水塔が木々の間から突き出て望見できる地域は、下落合の最西部から葛ヶ谷(のち西落合)にしか見られない風景だろう。もし、手前に描かれている窪みが落合分水であり、それに寄り添うように表現された黒い筋が道路だとすれば、画面に切りとられた風景の構成に見合う描画ポイントが1ヶ所思い浮かぶ。
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野方配水塔1936.jpg
野方配水塔1941.jpg
 やや小高い位置から、畑ないしは草原を見わたすことができる場所、遠景に野方配水塔が望見でき、しかも時間によっては塔の右手に影ができる角度、そして画家がイーゼルをすえた斜面下の、それほど離れてない位置を落合分水とみられる溝と道路らしいラインが横ぎる地勢、これらの条件をすべて満たしている場所は、下落合が飛び地状に大きく北側へ飛び出した自性院Click!のすぐ西側、下落合大上2332~2349番地(現・西落合1丁目)の斜面から西北西を向いて描いた風景ではないかと思われる。
 『落合風景』の画面に描かれた景色は、ほとんどが当時の葛ヶ谷(西落合)地域であり、手前の樹木のある森が自性院墓地の西側に接した広葉樹林だろう。その広葉樹の葉が落ちていないところをみると、発表されたのは1929年(昭和4)1月11日~30日の第4回本郷展だが、実際に描かれたのは前年1928年(昭和3)の晩秋以前である可能性が高い。画角から見て、画面の左枠外には、井上哲学堂や葛ヶ谷御霊社、オリエンタル写真工業Click!などが、画面右手の樹木の陰には、今日の新青梅街道が野方配水塔の下に向かって走っているはずだ。また、画家の右手枠外には、すでに信仰が忘れられかけている妙見山Click!の、緑深いうっそうとした斜面が見えていただろう。
 建物や樹木の影から見て、描かれたのは昼前後か、午後の早い時間帯だと思われる。コントラストの強さから、おそらく空には雲らしい表現が描かれているものの、左手つまり南側からの陽射しはあったのだろう。もし、本作が秋に描かれているとすれば、ところどころに鮮やかな紅葉が彩を添えているのかもしれない。いまでは、描かれた風景のほぼすべてが住宅街で埋まり、土地の起伏さえ確認するのが困難な風情となっている。
野方配水塔.JPG
自性院.JPG
松下春雄「初冬」1929.jpg
 なお、同じ「美之国」2月号には、第4回本郷展に出品された松下春雄Click!『初冬』Click!の画面も掲載されている。松下春雄が第一文化村の北側、下落合1385番地Click!に住んでいたころの作品で、同作もまた下落合西部を描いているとみられる。

◆写真上:1929年(昭和4)1月に、第4回本郷展へ出品された宮本恒平『落合風景』。
◆写真中上:『落合風景』の拡大画面で、野方配水塔とみられるタワー構造物()、その下に見える家並み()、落合分水と道に見える畑地ないしは草原の窪み()。
◆写真中下は、1925年(大正14)差食いの1/10,000地形図での描画ポイント。は、それぞれ1936年(昭和11)と1941年(昭和16)の空中写真にみる描画ポイント。
◆写真下は、現在の野方配水塔(現・災害用給水槽)。は、自性院本堂で裏手の住宅街が描画ポイント。は、第4回本郷展へ同時に出品された松下春雄『初冬』。
おまけ
このような樹間から風景を写生する画家が、下落合の丘にはあちこちで見られただろう。下の写真は、1925年(大正14)の暮れに下落合の林で写生する吉屋信子Click!のお気に入り洋画家・甲斐仁代Click!
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疎開先の安倍能成と安井曾太郎。

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東大駒場キャンパス.JPG
 1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、第二文化村Click!の下落合4丁目1655番地(現・中落合4丁目)にあった安倍能成邸Click!は、膨大な図書や資料とともに全焼Click!した。このあと、安倍能成は目黒区駒場にあった第一高等学校の同窓会館2階へと避難し、そこで戦後まで“疎開”生活を送っている。当時、安倍は第一高等学校の校長をつとめていた。
 一方、近衛町Click!の下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)にアトリエがあった安井曾太郎Click!は、中国への写生旅行で体調を崩し、1945年(昭和20)3月に帰国すると、そのまま秩父鉄道の沿線にある埼玉県大里郡寄居(よりい)へと静養がてら疎開している。近衛町の安井アトリエClick!が焼けたのは、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!のときであり、安井は自宅やアトリエが全焼するのを目にしていない。
 敗戦の直後、ふたりの疎開先へ間をおかずに訪ねた人物がいる。当時は第一高等学校の教授だった、フランス文学者で随筆家の市原豊太だ。彼は一高の同窓会館2階へ安倍能成を訪ねた際、安井曾太郎が描いたあちこちが焼け焦げだらけの『安倍能成氏像』(1944年)を目にしている。肖像の顔面は、ほとんど損傷がなかったようだが、白い麻の背広を描いた部分は火の粉をかぶり、キャンパスに点々と焦げ跡や穴をあけていたようだ。現在、カラーで撮影された同作には、そのような損傷は見られないので、おそらく戦後しばらくして修復されたものだろう。
 市原豊太は、安井曾太郎が描いたイスに座る全身像の『安倍能成像』(1944年)と、白い麻製の背広を着た半身像の『安倍能成氏像』(同年)の双方を見ているが、一高の同窓会館で傷つきながらも保管されていたのは、半身像の『安倍能成氏像』だったことがわかる。安倍のもとを訪ね、同作と再会したときの様子を1947年(昭和22)に養徳社から出版された、市原豊太『内的風景派』から引用してみよう。
  
 自分は、安井さんの無比な精進の一成果が、他の貴賤さまざまな物財と同じく、人知れぬ間に、黙々として戦禍の犠牲になりかけたことを思つてゐると、この肖像画が恰も一つの生きものでもあるかのやうに、如何にもいぢらしく感ぜられるのであつた。その晩は偶々御馳走で少し酔加減でもあつたが、その暫く前、夏目(漱石)さん御自身の呈辞のある数々の小説の初版本や書画幅を始め、その他の貴いものが、下落合の空襲でムザムザと灰になつてしまつたことに対する愛惜か憤りのやうなものも手伝つて「これは先生だけのおたからではありませんから」といふやうなことを言ひながら、殆ど先生の許諾も待たず、その翌日秩父の山中へこの画を持つて行くことにした。併し先生は、秩父へ行くなら寄居(よりい)に疎開中の安井さんをも訪ねるやうにと言はれた。(カッコ内引用者註)
  
安井曾太郎「安倍能成氏像」1944.jpg 安井曾太郎「安倍能成像」1944.jpg
旧・一高同窓会館.jpg
安井曾太郎.jpg 安倍能成.jpg
 これによれば、市原豊太は駒場の一高同窓会館2階に避難している安倍能成を訪ねた翌日、秩父Click!の上長瀞駅の付近に住んでいた友人「堀口稔君」を訪ねて、頑丈な蔵の中へ焼け焦げだらけの『安倍能成氏像』を預けると、その足で秩父鉄道に乗って寄居駅近くに疎開していた安井曾太郎を訪ねている。なぜ、そのまま傷んだ絵を持参して、作者の安井曾太郎へ修復を依頼しなかったのかは不明だ。
 安井曾太郎が疎開をしていたのは、あちこちに煤けて黒い木材が見える農家を改造した、かなり小さめな2階家だったようだ。家具調度もあまりなかったようだが、市原豊太はタンスの前にポツンと置かれた文楽人形を目にしている。あいにく、安井曾太郎は荒川河畔の写生に出ていて不在で、市原豊太は文楽人形としばらく“対座”することになった。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 竹へぎを編んで黒漆を塗つたつづらのやうな面の箪笥、その扉には大きく「丸に剣酢漿草(けんかたばみ)」の定紋が朱漆で描いてある。この黒い箪笥の前に、そして座敷の隅になる所に文楽の人形が一つ坐つてゐる。丸髷の中年増で薄鼠色の小紋縮緬を着てゐるが、黒繻子の帯の下からはみ出した腰おびは実にやはらかなとき色であつた。「時雨の炬燵」のおさんにでもなれさうなこの人形は、つつましく膝を半ば折るやうにして、稍うつむき加減に手をつかへている。
  
 農家を改造した家らしいから、それほど室内が明るかったとは思えないが、通された座敷に文楽人形があったら、しかも首(かしら)Click!だけでなく心中天網島(しんじゅう・てんのあみじま)の「おさん」のような中年増(ちゅうどしま)が全身で座っていたりしたら、ふつうはギョッとするのではないだろうか。市原豊太は、さすがに不気味で気持ちが悪かったとは書けないので、仔細にすみずみまで観察した様子を記録している。
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 やがて、荒川の写生からもどった安井曾太郎が、半袖の白シャツに鼠色のズボン姿で現れると、おそらく安倍能成の肖像画についての話が出ただろう。このとき、焼け焦げだらけになってしまった『安倍能成氏像』について、市原豊太は直接安井に修復依頼をしているのかもしれない。このとき、疎開先の画室を案内された市原は、1944年(昭和19)に描かれた安倍能成のデッサンを1枚、安井曾太郎から譲り受けている。寄居に疎開中の安井曾太郎画室の様子を、同書より再び引用してみよう。
  
 暫くして、仕事場を見せて下さるといふ思ひがけない言葉に、心を躍らせながら画伯について急な狭い階段を昇つた。毛布のやうな地にプリミチフな感じのとびとび紋様のある大きな布が----これは蒙古の毛織物ださうであるが----幾つも拡がつて居り「全身像」の灰青色の椅子もあつた。堅い窮屈さうな椅子だ。画架には山の手に赤屋根の多く並んだ港の小品が掛つてゐて、又傍には水彩画のやうな感じのする北京のやはらかな風景も貼つてあつた。
  
 文中の「全身像」とは、半身像の『安倍能成氏像』(1944年)と同時期に制作された『安倍能成像』のことで、安井曾太郎は下落合のアトリエからいくつかの調度や備品を、寄居の疎開先まで運んでいるのがわかる。
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市原豊太「内的風景派」.jpg 市原豊太「内的風景派」扉.jpg
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 市原豊太が、近々一高のキャンパスで校内美術展が開催される予定なのを伝えると、安井曾太郎は「ソレはいいですな」と賛同している。プロの画家たちが満足に仕事もできない、物資が欠乏して食べるのにもこと欠く混乱した世相なのに、若い学生たちが美術に熱心なのは自分自身の励みにもなると感じたらしい。ほどなく、一高で開催された校内美術展には、市原が譲り受けた安井曾太郎のデッサン「安倍能成像」が架けられている。

◆写真上:第一高等学校があった、東京大学の駒場キャンパス。
◆写真中上は、1944年(昭和19)2月から夏にかけて制作された安井曾太郎『安倍能成氏像』()と、同『安倍能成像』()。は、安倍能成が2階に“疎開”していた現存する旧・一高同窓会館。は、安井曾太郎()と安倍能成()。
◆写真中下は、寄居へ疎開中の1945年(昭和20)に描かれた安井曾太郎『荒川風景』。は、1946年(昭和21)制作の同『寄居風景』。は、寄居の安井邸に置かれていた天網島時雨炬燵に登場する「おさん」に近い中年増の首(かしら)。
◆写真下は、秩父鉄道と八高線が乗り入れる寄居駅。は、1947年(昭和22)に養徳社から刊行された市原豊太『内的風景派』の表紙()と中扉()。同書の装丁や挿画は、同じフランス文学者の渡辺一夫(六隅許六)が担当している。は、六隅許六こと渡辺一夫()と、六隅許六が装丁した1950年(昭和25)に月曜書房から刊行された加藤周一『ある晴れた日に』()。

「森たさんのトナリ」と里見勝蔵の転居。

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 以前、1920年(大正9)制作の里見勝蔵Click!『下落合風景』Click!についてご紹介した。下落合を描く風景画が、いまだ流行Click!していない早い時期の作品で、同作は大正半ばから1922年(大正11)まで下落合323番地に住んでいた森田亀之助邸Click!を描いたのではないかと想定した。のち、森田亀之助は曾宮一念アトリエClick!の北側にあたる下落合630番地へと転居し、里見勝蔵はその隣りの借家へ引っ越してくることになる。
 森田亀之助Click!は、東京美術学校の教師で英語を教えていたが、里見勝蔵も佐伯祐三Click!もその教え子たちだ。森田と里見は12歳ちがい、森田と佐伯は15歳ちがいで、佐伯が一度めのフランス留学から帰国した1926年(大正15)現在だと、森田亀之助は42歳、里見勝蔵は30歳、そして佐伯祐三は27歳ということになる。師弟の関係とはいえ、それほど極端に年齢が離れているわけでもなく、また授業では美術そのものではなく語学や美術史を習っていたせいだろうか、里見も佐伯もなにかと気軽に相談できる相手として、森田亀之助を捉えていたふしが見える。
 さて、1926年(大正15)10月10日(日)の、東京気象台によれば野外写生に適さないどんよりとした小雨もよいの日に、佐伯祐三は「制作メモ」Click!によれば「森たさんのトナリ」Click!という20号のタブローを描いている。この「森たさん」は、佐伯祐三のアトリエから北東へわずか140mほどしか離れていない、下落合630番地の森田亀之助邸の隣家を描いている可能性がきわめて高い。当日は日曜なので、東京美術学校が休みで自宅にいた森田を、佐伯はひょっとすると訪問しているのかもしれない。では、なぜ森田邸の隣家などを描いているのか、そして里見勝蔵はいつ下落合630番地へと転居したのか?……というのが、きょうのテーマだ。
 活字になって残された資料によれば、たとえば1927年(昭和2)に発行された「アトリエ」4・5月合併号で、里見勝蔵の転居はすでに同誌「雑報」の中に紹介されている。
  
 里見勝蔵氏 東京市外下落合町六三〇に移転。
  
 「下落合町」は誤りで、正確には落合町下落合630番地ということになるが、同誌が書店の店頭に並んだのは3月末から4月の初めごろの可能性がある。また、奥付には同年4月15日印刷/5月15日発行となっているが、このデイトスタンプも前倒しで記載されている公算が高い。今日でも同様だが、雑誌類の「〇月号」は実質的の当該月の前月に発行されるのが慣習となっているため、3月末には書店の店頭に並んでいたのではないだろうか。
 同じく、「中央美術」5月号(中央美術社Click!)にも里見の転居が記載されている。
  
 里見勝蔵氏 府下下落合六三〇転居。
  
 ちなみに、「アトリエ」が4・5月合併号になっている理由が、「中央美術」5月号を見るとわかる。アトリエ社を主宰していた北原義雄が、自宅と編集部を牛込の喜久井町に移している最中で、その移転作業のために1号ぶんを休刊せざるをえなくなったからだ。同じ「月報」欄には、「北原義雄氏宅と共に牛込区喜久井町三四に移転、電、牛、六四二一」と記載されている。
 それまで、京都の実家にいたとみられる里見勝蔵は、1926年(大正15)暮れか翌1927年(昭和2)の早い時期に、森田邸に隣接した下落合630番地の借家を契約していることになるのだろう。そして、少なくとも「アトリエ」の合併号が店頭に並ぶ、3月後半には引っ越し作業を終え、下落合で暮らしはじめていたことになる。また、アトリエ社と中央美術社に転居通知を出したのは、そのさらに前ということにもなりそうだ。
アトリエ19270405合併.jpg 中央美術192705.jpg
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 さて、佐伯祐三の「制作メモ」に残る、『下落合風景』の1作「森たさんのトナリ」にもどろう。佐伯が同作を描いた、1926年(大正15)10月10日の時点で、彼は里見が東京に家を探していることを当然知っていただろう。いや、1930年協会を結成したもっと以前から、里見が再び東京へやってくることはメンバーたちの間では共通の認識になっていたかもしれない。そして、里見勝蔵もまた同協会の会員たちに「いい家があったら紹介してくれ」ぐらいのことは、東京に出てきたついでに対面で、あるいは手紙で伝えていただろう。ひょっとすると、森田亀之助にも手紙で依頼していたのかもしれない。
 このあたりの経緯は、あくまでも想像の域を出ないのだが、森田亀之助か佐伯祐三のどちらかが、下落合630番地の「森たさんのトナリ」に、建設されて間もない借家があることを京都の里見勝蔵に知らせたのだ。その際、その借家がどのような様子なのかを、森田が写真に撮影したか、佐伯がハガキないしは手紙にスケッチしたかは不明だが、京都の里見に送っているのではないだろうか? わたしはかねがね後者のような気がしているのだけれど、里見はそれを見て東京へ出てきた際に、下落合630番地の借家を契約した……そんな気が強くしている。
 なぜなら、佐伯はそのときのスケッチがもとになって、あるいはスケッチから刺激されて、改めて『下落合風景』の1作に「森たさんのトナリ」を仕上げているのではないだろうか。「森たさんのトナリ」に比定できる画面は、現在でも個人蔵で伝わっているようなのだが、わたしは実際の画面をいまだ一度も観たことがないし、展覧会に出品された記録を確認した憶えもない。佐伯のサインも描かれておらず、おそらくは関西の頒布会を通じて販売された「売り絵」の1作なのではないだろうか。
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里見勝蔵アトリエ跡2.JPG
 画面を見ると、特に佐伯が好きなパースのきいた風景モチーフでもなければ、構造物に硬質な質感のある構成でもなく、ただ単に東京郊外に建てられたなんの変哲もない住宅を2棟と空き地を、ふつうに描いているだけのように見える。下落合を歩く佐伯祐三の、いつもの眼差しであるなら、あえて見すごすようなモチーフなのだが、そのような場所を選んで描いているのは、その背景に里見勝蔵や森田亀之助にからむ、上記のようなエピソードがあったからではないだろうか。
 1927年(昭和2)の早々に、下落合630番地こと森田亀之助邸の南隣りへ転居してきた里見勝蔵は、近くに住む前田寛治Click!や佐伯との交流を深めることになる。当時の様子を、1979年(昭和54)に東出版から発行された『近代画家研究資料/佐伯祐三Ⅰ』所収の、里見勝蔵「佐伯と山本さんの蒐集」から引用してみよう。
  
 佐伯の下落合の画室では、前田も僕もその附近に住つて、毎日祭日の連続であつた。面白い遊技をした。前田の画室でゞもやつた、又、藤川勇造さんの家にもよく集つた。食料や蓄音機や色々おもちやを持つて、しばしばピクニツクに出た----一尺程の草の生へてゐる所で、馬のギヤロツプの如く足を上げてダンスをした。その草山が後に開かれて、今僕が住ふ井荻となつた。/ある時、二人はニ三日がかりで百幾十枚かの画布を製造した。又、二つの大きな画架を作つて、佐伯の画室に並べて、米子さんと三人は仕事に専念した。(生涯の中に無邪気に面白いといふ時代は、さう幾回もあるものではないらしい。)
  
 この時期の前田寛治Click!は、「美術年鑑」によれば下落合661番地、つまり佐伯アトリエに住んでいたことになっているが、わずか2ヶ月間の居候ないしは連絡先としていたようだ。1926年(大正15)8月に、前田は下落合1560番地から湯島1丁目20番地にあった「湯島自由画室」へと転居し、同年10月から12月まで佐伯アトリエ、そして同年12月から翌1928年(昭和3)6月までが長崎町大和田1942番地という動きをしている。したがって、里見や佐伯が遊びに出かけた前田寛治のアトリエは、下落合1560番地ないしは長崎町1942番地のアトリエだったろう。
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 里見、佐伯、前田の3人は、戸塚町上戸塚866番地の藤川勇造Click!藤川栄子Click!夫妻のアトリエClick!へも、頻繁に出かけていた様子がわかる。ときに、妙正寺川の流れを湧水源(妙正寺池)Click!までたどり、井荻方面へピクニックに出かけた里見は、西武線が開通すると外山卯三郎Click!を誘って、アトリエ建設地Click!の下見にも出かけているのだろう。

◆写真上:佐伯と同じ小雨の日に撮影した、上智大学目白聖母キャンパスの庭になっている下落合630番地の現状。奥の突き当り左寄りが森田亀之助邸跡で、佐伯が描いた「森たさんのトナリ」は手前の敷地の家々を左手(西側)からとみられる。
◆写真中上上左は、1927年(昭和2)発行の「アトリエ」4・5月合併号にみる里見勝蔵の転居通知。上右は、同年発行の「中央美術」5月号にみる里見の転居通知。は、1926年(大正15)に発行された「下落合事情明細図」にみる森田亀之助邸のその周辺。
◆写真中下は、1926年(大正15)10月10日(日)の小雨もよいの日に制作された「森たさんのトナリ」とみられる画面とその改題。は、佐伯が制作した空き地には上智大学の校舎があるため現在描画ポイントには立てない。
◆写真下は、1927年(昭和2)7月に描かれた佐伯祐三『「恐ろしき私」の顔』。前月に刊行された中河與一『恐ろしき私』(改造社)の装丁・挿画を担当した佐伯が、それを意識して描いた自画像。は、1926年(大正15)ごろにスケッチされた佐伯祐三『藤川栄子像』。は、そろってハイキングに出かけたとみられる妙正寺川の湧水源・妙正寺池。

100円で買われた『盲目のエロシェンコ』。

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 鶴田吾郎Click!が画業を離れ、ヨーロッパからシベリアを放浪し「満州」に滞在していたとき、中村彝Click!の伝言を携えて奉天まで迎えにきたのは、のちに鶴田の妻となる“その夫人”だった。中村彝からの伝言とは、「東京を出る時、中村彝さんのところへ寄ったところ、是非あなたに帰ってくるように伝えてくれ、帰ってくればお互いにまた昔の友達として一緒にやるから」というものだった。1920年(大正9)の3月、鶴田吾郎は3年間におよぶ海外の放浪生活をやめ、将来の妻とともにようやく帰国している。
 鶴田が海外へ出たまま、なかなか帰国せずにいたのは日本での生活の“重荷”、つまり生きるためには仕事をして稼がなければならないという日々が、イヤでイヤで仕方がなかったからのようだ。帰国すると、とりあえず鶴田は下落合にいたとみられる兄のもとに寄宿している。そのあたりの様子を、1982年(昭和57)に中央公論美術出版から刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』から引用してみよう。
  
 彼女、すなわちそのは二十五歳、私は三十歳であり、たとえ中村が待っているといっても、東京に入った以上は世帯をもたなければならない。新婚生活という気分よりも冒険のような出発から始めなければならなかった。/目白の奥に室借りをしていた兄の室に、取り敢ず落ち着き、近くに新築の貸家ができたので、その家を借りて住んだのは大正九年の三月末であった。
  
 文中に登場する「新築の貸家」が、関東大震災のときまで鶴田吾郎夫妻が住んでいた、目白通り近くの下落合645番地のClick!のことだ。兄の家の「近く」と書いていることから、彼の兄も同じく下落合の東部に下宿していた可能性がある。この約半年後の1920年(大正9)9月に、鶴田吾郎は目白駅Click!のホームで新宿中村屋Click!に寄宿していたワシリー・エロシェンコClick!と初めて出会っている。それまで鶴田は、複数の知人からエロシェンコのことを耳にしており、マントを羽織ってバラライカを手にする姿を見て、すぐに彼だとわかったようだ。
 このとき、プラットホームにいたエロシェンコは、雑司ヶ谷町(現・目白台)にあった府立盲学校の帰りだったか、あるいは目白駅の近くに住む知人を訪ねた帰途だったのだろう。そのときの様子がもっとも仔細に書かれているのは、1959年(昭和34)9月にみすず書房から出版された『エロシェンコ全集』第1巻付録の月報Ⅰに寄せたエッセイだ。同月報に収録された、鶴田吾郎「エロシェンコと中村彝」から引用してみよう。
  
 当時下落合に住んでいた私が、目白駅のホームで電車を待っていると、フサフサとした金灰色の髪の毛が輝き、黒のマントを肩からつるして、バラライカを手にした一人の盲目のロシア人が悄然と入ってきた。/省線の電車はいまでは想像もつかぬくらいずっと閑散であり、そのころの目白駅もほんのチッポケなもので乗降客もわずか二、三人ずつぐらい、だからホームに立っている人もすくなかった。/このロシア人が、話にきいていたエロシェンコであることは、私にはすぐピンときた。/「あなたはエロさんですね」/私はあることが頭にきたので傍らによって声をかけた。/「ワタシ ソウデス アナタハ」/エロシェンコはうつむいたまま答える。/「僕はね、絵を描くツルタというものです。突然で失敬だけれど、あなたを描きたいのでモデルになってくれませんか。」/随分失敬な話で、これが他の人だったら、驚いたり、怒ったりすることもあるだろうと思えたが、彼がロシア人であるために、率直に言った方が、かえって承諾をえられる可能性があると考えたからである。/「ツルタ エエシッテイマス、ニンツアカラハナシハキキマシタ。ママサンニソウダンシテカラニシマショウ」
  
鶴田吾郎旧居645番地.jpg エロシェンコ.jpg
池袋駅1925.jpg
 その直後、鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』Click!と中村彝の『エロシェンコ氏の像』Click!が、下落合464番地の彝アトリエで制作されるのだが、山手線で彝アトリエに向かう相馬黒光Click!エロシェンコClick!に偶然出会った曾宮一念Click!が、ふたりの制作過程を観察している様子はすでに記事Click!にしている。中村彝は当初、『エロシェンコ氏の像』をパトロンのひとりだった新潟県の柏崎に住む洲崎義郎Click!へ譲ったが、その直後に今村繁三Click!との間で作品の譲渡をめぐって“綱引き”が起こり、「エロシェンコ事件」Click!として語られていたことも記事にしている。
 一方、鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』は、同年秋の第2回帝展に入選・展示されたあと、新宿中村屋の相馬愛蔵から100円で譲ってくれという話が持ちこまれている。大正中期の100円は、物価指数を基準にいまの価値に換算すると、およそ10万円弱といったところだろうか。新進画家の帝展入選作としてはあまりに安価なので、相馬愛蔵は不足分をいずれ支払うと約束している。同書より、帝展で『盲目のエロシェンコ』が入選した直後の様子を引用してみよう。
  
 (前略)助かったことは、家主とか米屋、酒屋なども、余り借金の催促をしなくなったことである。その頃はまだいわゆるつけをしている時代だったから、現金をもっていなくとも、一ヵ月や二ヵ月は喰うには困らなかった。/いずれにしても帝展に出たということだけで、これから絵描きとして、どうやらやって行けるのではないかという覚悟をしたのである。/展覧会が終ると、新宿の中村屋の相馬愛蔵から百円で是非譲って貰いたいという言伝があった。その上、中村屋はいまだ苦しい時代だが、いずれ別に心持ちを出そうからというので、この絵は中村屋に買われ、暫くの間パンを売る奥の壁面に掛けてあった。
  
 余談だが、新宿中村屋が1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で焼けたとき、ショーウィンドウに飾られ中村彝の傑作といわれた風景画『曇れる朝』Click!は焼失したが、ロシア・チョコレート売り場から2階の喫茶部へと上がる階段の途中に架けられていた、鶴田吾郎の『盲目のエロシェンコ』はなぜか無事だった。この間、どのような物語があったのかは不明だが、相馬黒光の日記によれば、秋川渓谷近くの大悲願寺へ夫妻で疎開した際、絵画作品は店に置いたままであり持ち出されてはいない。
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曇れる朝1915.jpg
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 さて、鶴田吾郎が画家として生きる決心をした2年後、彼は池袋駅のホームで関東大震災Click!に遭遇している。1923年(大正13)9月1日のこの日、上野で同日から展示がはじまる院展や二科展を観に出かけようと山手線に乗るところだった。最初は、近くを通過する貨物列車の振動だと思ったらしいが、すぐに大きな地震だと気づいている。目白駅寄りに設置されていた、貨物線の蒸気機関車へ給水するための貯水タンクの水が、激しい揺れではじき飛ばされるのを見て、彼は跨線橋を走りわたると駅西口へと出た。
 当時の池袋駅は、周囲を畑に囲まれた中にポツンとあるような風情だったので、特に大地震が起きても人々が騒ぐ様子は見えず、駅前はひっそりしていたようだ。鶴田吾郎は、上屋敷(現・西池袋)から目白通りへと抜けて、下落合の自宅へと駆けもどっている。
  
 上り屋敷から落合の通りに抜けて家に戻ると、妻子は無事であったが、家は五度位傾き、壁は殆んど落ちて、足の踏み場もない。床の間に立てかけておいた三十号のスキターレッツ(ゴーリキー達の仲間だったロシヤの作家、大森に来ていたので描いた)の肖像画は壁の下敷きとなっていたが、これも無事だった。(中略) 関東大震災も一応落ち着いて、中村の画室に近くなったところへ、無理して小さな画室をその冬造って移ることにした。曾宮と中村の中間にある処だった。
  
 この「小さな画室」が、下落合804番地の鶴田アトリエClick!ということになる。鶴田吾郎は、「曾宮と中村の中間」と書いているけれど、中村彝アトリエから下落合623番地の曾宮一念アトリエまで直線距離で504m、下落合804番地の薬王院の森に近接する鶴田アトリエまで509mとほぼ等距離だ。大正当時の道順で歩いても、鶴田のほうが10mほど近いだけなので、「中間」というのは明らかに誤記憶だろう。
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 このあと、鶴田吾郎は下落合804番地のアトリエで、9月の帝展に出品した100号の作品が落選し、つづいて長男・徹一Click!を疫痢で喪い、間をおかずに中村彝の死Click!に接して下落合での生活がイヤになり、長崎町字地蔵堂971番地へ新たなアトリエClick!を建設して転居していくことになる。空き家になってしまった、建設して間もない下落合804番地のアトリエへ転居してきたのは、同じく帝展画家だった服部不二彦Click!だった。

◆写真上:鶴田吾郎が、下落合804番地に初めて建てたアトリエ跡の現状。
◆写真中上上左は、1918年(大正7)作成の陸地測量部1/10,000地形図にみる下落合645番地。上右は、1921年(大正10)9月にハルピンで撮影されたワシリー・エロシェンコ。は、大正末ごろ撮影された新宿中村屋の記念写真。
◆写真中下は、1925年(大正14)に撮影された池袋停車場。は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲により新宿中村屋で焼失した中村彝『曇れる朝』。まるで、草土社Click!岸田劉生Click!のような表現をしているのが興味深い。は、その5月25日夜半に米軍機から撮影された焼夷弾が着弾寸前の新宿駅東口と新宿中村屋。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合804番地の元・鶴田吾郎アトリエ(服部不二彦アトリエ)。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同所。は、ちょうど1920年(大正9)に新宿中村屋で撮影された脚本朗読会「地の会」の記念写真。エロシェンコの背後に、俳優の佐々木孝丸Click!がいるのがめずらしい。また、神近市子Click!は麹町の時代で落合地域に住みはじめるのは10年後のことだ。

下落合を描いた画家たち・江藤純平。

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 下落合1599番地すなわち落合府営住宅内の、第三府営住宅24号に帝展画家・江藤純平Click!がアトリエを建てて住んでいた。第三府営住宅Click!は、1924年(大正13)前後から住宅の建設がはじまっているので、おそらく江藤純平はかなり早い時期からアトリエ兼自邸を建設しているのだろう。1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にも、すでに名前が採取されている。
 江藤純平の名前は、これまで東京美術学校時代の佐伯祐三Click!深沢省三Click!の証言者として、このサイトでは何度か繰り返し登場Click!している。学生時代の佐伯祐三は、おかしなエピソードをたくさん残しているが、同時期に美校で身近にいた江藤純平もまた、佐伯の姿を強烈な印象とともに記憶しているひとりだ。彼は、大阪人の佐伯祐三が、めずらしく蕎麦屋へ出かけた様子を記録していた。
 1929年(昭和4)に出版された『一九三〇年叢書(一)「画集佐伯祐三」』所収の、江藤純平と田代謙助の共著による「学校時代の佐伯君」から引用してみよう。
  
 こんなこともあった。ある友達がホンのたわむれに、/「ざるがいゝの、天ぷらがうまいのと云つたところで、そばでは先づおあいに止めをさすね」/とかなんとか彼をからかつたところ、而も小さんの「うどんや」は知らなく共このおあいの愚にもつかない話はその時代の悪いシヤれ(ママ)で、誰も鼻につき過ぎて嫌味な位であつたに拘らず率直で気早い彼は早その友達を手近のそば屋につれ込んでしまつた。/「オイ、おあいを二人前あつくしてくれえ」/と大真面目で正々堂々と註文したのである。これは餘りに馬鹿馬鹿しく嘘くさい話であるが我が佐伯君の場合にのみ真実性があり、最も愛すべき笑ひ話として残つてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 佐伯がめずらしく蕎麦屋に出かけ、まるで芝居の直侍Click!次郎吉Click!のような江戸東京弁のイキな台詞まわしで、蕎麦と思いこんだ「おあい」を注文している様子がおかしい。文中に登場している「小さん」は、大正期の3代目・柳家小さん(初代・柳家小三治)のことで、昭和の「目白の師匠」こと5代目・小さんClick!もよく演じた「うどん屋」は、十八番(おはこ)にしていた噺のひとつだった。
 わたしは当然、大正期の小さんの噺などまったく知らないので、マクラあたりで話されたらしいシャレの「おあい」がなんだったのかはわからないが、おあい(東京弁:おわい=糞尿)にひっかけた、なにか笑いを誘う臭いダジャレだったのではないか。
 粥(かゆ)Click!とまったく同様に、病気で寝こんでよほど重篤なときならともかく、ふだんからうどんの食習慣がない江戸東京地方では、小さんの演じる「うどん屋」Click!(5代目)に、江戸東京人らしい“うどんの定義”や食文化・美意識がよく表現されている。
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 さて、1923年(大正13)に東京美術学校を卒業した江藤純平は、翌1924年(大正13)に開催された第5回帝展に早くも入選している。かなり順調な滑りだしだが、もともと大分県の実家が裕福だったものか、あるいは長野新一と同様に教師などの安定した収入の職業に就けたものか、卒業とほぼ同時に下落合1599番地の第三府営住宅内にアトリエ兼自邸をかまえている。
 帝展へ初入選したのは、その新築のアトリエで裸婦を描いたとみられる『アトリエにて』という作品だった。美校を卒業して、すぐに自分のアトリエがもてたことが、とてもうれしかったのだろうか。裸婦の周囲に置かれた家具調度や吊るされたカーテン、板張りの床などが明るく鮮やかな色彩で表現され輝いて見える。この作品以降、帝展では毎年入選する常連となり、1928年(昭和3)には『S氏の像』で、翌1929年(昭和4)には『F君の像』で2年連続の特選に選ばれている。
 残されている作品を観ると、もともと人物の肖像画を得意とする画家のようにも思えるが、『F君の像』を描いて帝展特選になった同年、めずらしく野外へ出て30号Fサイズをタテにした風景画を制作している。セザンヌばりの色彩やタッチで描かれた作品は、単に『風景』とだけ名づけられているが、自邸から離れずアトリエにこもって制作することが多かったこの時期、周辺に拡がる近所の下落合風景を描いた可能性が高いように思われる。木立ちの間から、手前の草原ないしは造成と区画割りが済んだばかりの住宅敷地の向こうに、西洋館とみられる建物が2棟とらえられている。
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 2棟の住宅は、濃いブルーかグレーのスレート屋根のように見え、手前の住宅にはフィニアルらしい小さな突起が、切妻の上に見てとれる。壁はベージュに塗られ、オシャレな白い鎧戸が設置された窓は、いかにも郊外に建てられた文化住宅の趣きがある。手前に拡がる草原の色合いや、変色しかかっている樹木の風情、空に浮かぶ雲の様子などから、空気が澄んでいる晩秋の風景だろうか。住宅の周囲には電柱が1本も描かれていないので省略しているか、あるいは目白文化村Click!の家並みなのかもしれない。
 このような情景は、画面が描かれた1929年(昭和4)の当時、下落合(現・中落合/中井含む)の中西部に位置する江藤純平のアトリエ周辺では、あちこちで見られただろう。制作から6年後の、1936年(昭和11)に撮影された空中写真でさえ、アトリエの南西部にはいまだ随所に草原や宅地造成地を見ることができる。
 画面の光線は、左手やや後方から射しこんでおり、それが南面に近い方角だとすると、描かれている住宅の切妻は東西を向いていることになる。光がやや黄色味を帯びているのは、午後のせいだろう。アトリエの南に拡がる目白文化村の一部を描いたものか、あるいは第三府営住宅または第四府営住宅の一部なのか、これらの住宅地の周辺には描かれたような草原や、残された木立ちがあちこちに散在していた。
 最初は、少し離れた場所から自身のアトリエを眺めた風景なのかと疑ったが、下落合1599番地の江藤純平邸は、このような屋根の形状をしていない。第三府営住宅は、ほとんど空襲による延焼の被害を受けておらず、1947年(昭和22)の米軍が撮影した精細な空中写真で、江藤純平邸をハッキリと確認することができる。それを観察すると、屋根は明らかに日本家屋のような形状をしており、北面の一部にアトリエの洋間が付属したような、和洋折衷住宅の意匠だったのだろう。
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 江藤純平は、佐伯祐三が下宿していた上戸塚(高田馬場)時代も、また下落合661番地にアトリエを建てて転居してきたあとも、同窓のよしみで彼のごく身近にいたようだ。高田馬場の下宿Click!では、佐伯が毎日ていねいに削っておいた鉛筆を、イタズラ好きな下宿の女の子が全部折ってしまう話や、新築したアトリエの柱を片っ端からカンナで削ってしまうエピソードClick!なども、山田新一と同様に細かく記録している。

◆写真上:アトリエ周辺を描いたとみられる、1929年(昭和4)制作の江藤純平『風景』。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合1599番地の江藤純平アトリエ兼自邸。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同アトリエ。下左は、東京美術学校の卒制で1923年(大正12)に描かれた江藤純平『自画像』。下右は、第5回帝展に初入選した江藤純平『アトリエにて』。
◆写真中下は、江藤純平アトリエ跡の現状。は、『風景』の奥に描かれた西洋館の拡大。は、1936年(昭和11)現在の江藤アトリエ周辺に展開する草原(宅地造成地)。
◆写真下は、1941年(昭和16)の斜めフカンから見た江藤純平邸。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる同邸。は、1938年(昭和13)制作の江藤純平『牛』。

陸地測量部の班長たちが住む下落合。

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 第三府営住宅の11号、すなわち下落合1542番地にアトリエを建てて住んでいた、帝展の洋画家・長野新一Click!のことを改めて調べているとき、ついでに周辺に住む住民についてもチェックしてみた。すると、同じ第三府営住宅の24号つまり下落合1599番地に、同じ帝展画家の江藤純平Click!のアトリエがあったことが判明してご紹介している。
 東京府が実施していた府営住宅制度Click!とは、その名称から今日イメージされるような、自治体が住宅を建てて家賃貸しするのではなく、おもにサラリーマンを対象に土地を確実に手に入れ、その上に自分好みの住宅を建てるのをサポートする、持ち家一戸建て建設・取得のための積立金制度のようなものだった。
 長野新一や江藤純平も、作品が確実に帝展などの展覧会へ入選するようになり、また美術教師などの収入も堅調だったので、府営住宅制度を利用して下落合にアトリエを建設しているのだろう。長野新一は、1933年(昭和8)に39歳で死去しているが、アトリエ周辺に拡がる大正期の「下落合風景」を制作し、江藤純平はおもにアトリエの中で人物や静物の作品を多く残している。
 さて、第三府営住宅を観察しているとき、長野新一アトリエの南側に隣接する住宅(16号=下落合1588番地)についても調べてみた。「若林」という戸名が採取されているので、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)で調べてみると、なんと陸軍参謀本部が所管する陸地測量部の班長で、陸地測量師だった若林鶴三郎の家であることが判明した。
 そのことが、頭に隅にずっとひっかかっていたので、改めて府営住宅内を調査すると、目白文化村Click!の第一文化村西側に接している第四府営住宅の20号、すなわち下落合1636番地には、同様に陸地測量部班長で陸地測量師の佐藤武道が住んでいた。第三府営住宅の若林邸と、第四府営住宅の佐藤邸は、直線距離でわずか100m余しか離れていない。このふたりについての記述を、『落合町誌』から引用してみよう。
  
 陸地測量師/陸地測量部班長 若林鶴三郎  下落合一,五八八
 陸地測量師/陸地測量部班長/正六位勲三等 佐藤武道  下落合一,六三六
  
 ふたりの班長のうち、佐藤武道は叙位叙勲を受けているので、すでに公務員を退職したか、あるいは退職間近だったのかもしれない。
 以前、陸地測量部が1929年(昭和4)10月16日に作成した、1/10,000地形図の校正用紙(第1校紙版)の詳細についてご紹介Click!している。製図科の第1班(水澤班長)および第3班(水谷班長)の班員たちが校正作業に当たり、製図科長を兼務していた第1班の水澤班長が最終決裁を行っている。つまり、製図科内はいくつかの班に分かれており、その中の有力な班の班長が製図科長を兼務するというのが、陸地測量部の部局内における組織的な慣例だったようだ。一般企業の役職に当てはめてみると、班長が「課長」に相当し、科長が「部長」職に相当するだろうか。
 つまり班長とは、陸地測量部の業務における実務レベルの最前線に立つ技師たちの責任者であり、現場の仕事をすべて掌握しているエキスパートということになる。今日の官公庁における課長と同様に、現場の仕事を取りまとめて稟議を上げ、決済印をもらって業務を具体的に実行する“実働部隊”のキャップということだ。陸地測量部の班長が、下落合に近接してふたりも住んでいるということは、その周辺には『落合町誌』には収録されていない、陸地測量師(科員や班員)たちが集まって住んではいなかっただろうか。
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 当時の陸地測量部の組織には、地図制作に関する主要部局として三角科、地形科、製図科の3つの科が存在した。三角科は、全国にある三角点Click!の管理・運用をする部門であり、地形科は地形測量・調査を行う部門、そして製図科はそれらのデータをもとに各種地図を制作する部門だ。以前ご紹介した1/10,000地形図の校正用紙は、地図制作に携わる製図科の仕事ということになる。上記ふたりの人物が、どこの科に属していたのかは不明だが、わたしは地形科ないしは製図科ではないかと疑っている。
 このサイトでは、10年以上前から陸地測量部が作成した1/10,000地形図における、地名(字名)の不可解な移動について、繰り返し何度も触れてきた。そのひとつは、大正初期までの地形図では青柳ヶ原Click!(現・国際聖母病院Click!の丘)の西側に口を開けた谷戸に、「不動谷」とふられていたものが、大正中期になると300mも西へ移動Click!して、第一文化村からつづく前谷戸の位置にふられるようになる。1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡史』付属の地図でも、青柳ヶ原の西側に刻まれた谷戸が「不動谷」とされているし、また1967年(昭和42)に新宿区教育委員会が発行した資料Click!でも、聖母坂の西側に食いこんだ谷戸が「不動谷」と規定されてもいる。
 だが、陸地測量部の1/10,000地形図では、なぜか1918年(大正7)から「不動谷」が前谷戸の位置へと大きく移動している。以降、地元でつくられる地域地図、たとえば「下落合事情明細図」や「落合町全図」などでは、陸地測量部の地図に合わせて「不動谷」は西へ移動したままとなっている。ちなみに、「前谷戸」は谷戸そのものを指すネームであり、谷戸自体ではなく「谷戸の前にある土地」を字名として呼称する場合は、江戸東京の地名に関する“お約束”にならえば、「谷戸前」にならなければおかしい。したがって、落合第一小学校Click!の前に口を開けた谷間は、本来「前谷戸」と呼ばれていたのだろう。
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 同じような不可解な地名(字名)に、「中井」Click!がある。江戸期には目白崖線の麓にある、低地の集落(現・中井駅北東100~150mほどの麓域)につけられていた通称「中井村」Click!が、なぜか下落合(旧・中落合/中井含む)でもっとも標高が高い、城北学園(現・目白学園)の東側一帯(標高37.5m)の字名「大上」に取って代わり、大正末から昭和初期のわずかな期間だけ「中井」にされていたからだ。具体的には、1923年(大正12)以前の1/10,000地形図では字「大上」となっていたものが、同年以降に字「中井」に変更され、1930年(昭和5)には再び「大上」へともどされている。すなわち西武電鉄Click!が開通し、下落合駅の次の駅名が「中井」駅に決定してからもどされている。
 「不動谷」あるいは「中井」の地名移動は、製図科の校正で記載ミスを発見した際のアカ入れ修正などではなく、明らかに地図制作側の作為的な意思を強く感じるのだ。両地名の移動には、製図科の班員または班長、さらには科長の意向が強く反映していたとすれば、いったい誰の意向を忖度して地名の改竄を行なったものだろうか。w
 たとえば、「不動谷」が西へと移動した大正中期は、箱根土地の堤幸次郎Click!が目白文化村の開発を準備し、目白通り沿いの土地を府営住宅地として東京府に寄付するとともに、「不動園」Click!(のち目白文化村の第一文化村エリア)と名づけた郊外遊園地を建設していた。そして、堤は1924年(大正13)には、衆議院議員に初当選している。また、「中井」が丘上の字名「大上」に取って代わったころ、西武鉄道Click!が最終的な軌道コースClick!を企画している最中であり、鉄道駅を誘致したい落合町長は、上落合側から付けられた地名ではなく、ことさら下落合側に記録が残る地名(字名)の実績をつくりたかったのではないか。当時の落合町長は、1903年(明治36)から1928年(昭和2)まで実に25年間も就任していた、ワンマンで有名な川村辰三郎Click!だった。
 もし、これらワンマンな地元の有力者たちが個々に、あるいは双方が連携して、下落合に住んでいた陸地測量部の実務責任者へ、地名変更に関する請願を朝な夕なに行ったとしたら、はたして聞く耳をもたずに断りきれるだろうか。あるいは、贈り物・接待攻勢にあっているのかもしれないが、政治的なモメゴトを起こさないために、あるいは「村八分」に遭わないためにも、地図制作上でなんらかの忖度(意向)が働かなかったとは、いいきれないのではないだろうか。
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 若林鶴三郎と佐藤武道のふたりが、どれほど1/10,000地形図の制作にかかわっていたかは不明だし、また、いまとなっては地形科ないしは製図科に属していたかもわからない。さらに、あとどれだけ陸地測量部に関わる有力者たちが、大正期の落合地域に住んでいたのかも、『落合町誌』のみの資料では不足している。でも、彼らが現場の実務をこなす“班長”というトップの立場にいる以上、同じ町内から自治体事業をより有利に導くための、なんらかの働きかけや仄めかしがあっても、決して不思議ではないだろう。

◆写真上:下落合1588番地の、第三府営住宅16号にあった若林鶴三郎邸跡。
◆写真中上は、1929年(昭和4)10月26日に行われた1/10.000地形図の校正第1稿。右側には校正を担当した各班員と班長の捺印に、科長「水澤」の決裁印が押されている。は、同じく校正中の1/10,000地形図の部分拡大で、偶然にも第三府営住宅にある陸地測量部班長・若林邸のヨゴレを「トル」指定が書きこまれている。は、下落合西部の大上斜面あたりから写生したとみられる長野新一『落合村』(1926年)。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる陸地測量部班長の2邸。は、大正中期に起きた「不動谷」の西への移動。
◆写真下は、大正末から昭和初期にかけて短期間に起きた「大上」→「中井」→「大上」の不可解な変更。は、大上の麓・御霊下(のち下落合5丁目)にあった稲葉の水車小屋Click!と養魚場を描いた長野新一『養魚場』(1924年)。は、目白文化村に接する下落合1636番地の第四府営住宅20号にあった佐藤武道邸跡。

下落合で「気の狂った」画家の柏原敬弘。

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 以前、脳に結核菌が入り、おそらく結核性髄膜炎を起こして精神的に錯乱状態となり、下落合のアトリエで死去した近藤芳男Click!について書いたことがある。同じく、下落合にアトリエをかまえていた洋画家に、大阪の八尾中学を卒業して東京美術学校に入学した、柏原敬弘(けいこう)がいる。この画家もまた、鈴木誠Click!によれば「気の狂った」ことにされているのだが詳細は不明だ。
 1918年(大正7)の当時、東京美術学校3年生で22歳だったというから1896年(明治19)生まれであり、同年代の画家には林武Click!村山槐多Click!が、また東京美術学校では田口省吾Click!前田寛治Click!と同級生だったことになる。藤島武二Click!に師事し、20歳の美校生時代から文展には連続して入選しているようで、アカデミックな分野では才能のある画家だったのだろう。文展が帝展に変わってからも、引きつづき出品をつづけていたようで、1922年(大正11)の第4回展までの帝展入選が確認できる。
 そんな柏原敬弘について、1967年(昭和42)発行の「みづゑ」1月号に掲載された、鈴木誠『手製のカンバス―佐伯祐三のこと―』から引用してみよう。
  
 私は学校の卒業と同時に、駒込から目白落合に、二階ふた間もあるなにかわけのある家を法外に安く貸(ママ:借)りきることが出来たので、引越して住むようになったが、これより前にすでに彼(佐伯祐三)は、近所にアトリエを新築して住んでいた。その年の冬、通称洗い場という近所のお百姓さんがよく「ごぼう」を洗いに来る谷間、その南側に建てたこの家の日当りのよい縁側で、シャベルを借りに来た彼と、寝ころがって雑談をしていたようだった。(中略) 戦乱中だったか、戦後だったか目白通りの古道具屋で、片多徳郎氏や同じく落合に画室のあった気の狂った柏原敬弘の外数点の作品に混って額縁にも入ってない彼(佐伯)の画を見つけた。サインもないので道具屋から誰の作品か知らないまま、ただのように譲ってもらって今も大切に保存している。(カッコ内引用者註)
  
 諏訪谷Click!洗い場Click!近く、斜面に南向きで建てられた、どうやら「事故物件」と思われる2階家を借りてい住んだ鈴木誠だが、ときどき佐伯が顔を見せていたようだ。この文章を書いた当時は、もちろん鈴木は旧・中村彝アトリエClick!に住んでいる。
 佛雲堂Click!浅尾丁策Click!が見つけた、佐伯祐三の『下落合風景(便所風景)』Click!も池袋の古道具屋で発見されているので、戦後すぐのころは佐伯の作品が下落合周辺の骨董店に無造作に置かれていたのだろう。文中に登場している、下落合732番地の片多徳郎Click!もまた、アルコール中毒症が昂じて最後には自裁している。
 さて、柏原敬弘がアトリエをかまえていたのは、またしても下落合803番地、薬王院墓地Click!の西側にあたる一画だ。ここは、夏目政利Click!によるアトリエ建築が集中していた一画とみられ、洋画家たちが集中して住んでいた。ちょっと挙げただけでも、鶴田吾郎Click!(804番地)、鈴木良三Click!(800番地)、鈴木金平(800番地)、有岡一郎Click!(800番地)、服部不二彦Click!(804番地)、そして下落合803番地には柏原敬弘が住んでいたことになる。まるで、大正期の「アトリエ村」とでもいうべき家並みだったようだ。
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 柏原敬弘が、いつごろから精神的におかしくなったのか、正確なところはわからない。ただし、1924年(大正13)以降の活動がみられず、同年からは美術年鑑などに住所と名前も見えなくなっているようなので、どうやら関東大震災Click!の前後から「気の狂った」(鈴木誠)状態になったのではないかと想像できる。また、東京美術学校にも卒業制作の作品が残っていないので、在学中から発症していたのではないかとも想定できる。では、なにが原因で精神的な錯乱状態を招来してしまったのだろうか?
 それを推測できそうな手がかりが、1918年(大正7)に泰山房から出版された芳川赳『作品が語る作家の悶(もだえ)』という、すごいタイトルの本がある。画家たちの作品を挙げながら、その裏に隠された物語やエピソード、ゴシップ、ウワサ話などを記した、ほとんど現代のセンセーショナリズム週刊誌のような内容なのだが、中には本人に取材して書いていると思われる章もある。その中に、柏原敬弘が1918年(大正7)の第12回文展に出品した『森の古池』をめぐり、「恋の落伍者となつた青年画家/思ひ出多い『森の古池』」と、これまたすごい題名の記事が載っている。同書から、少し引用してみよう。
  
 此の画題となつた『森の古池』は、氏が生涯忘れる事の出来ぬ思ひ出多い森ださうで、此画が出来上る迄には其処に云ひ知れぬ血と涙が注がれて居る。丁度此若い美術家が大阪の八尾中学を卒業した頃であつた。彼れには美しい一人の恋人があり、而も其の恋は精神的のものであつた。青春の血に湧く若い男女は村端れの森の下蔭に人目を避けて蜜のやうな甘い恋に憧憬れて互の理想と楽しい未来を夢みたが夫も束の間二人の恋は一場の淡い夢と消え去つて了つた。女は遂に柏原氏の燃ゆるが如き期待を裏切つて他の男に心を移し柏原氏を捨てたのである。捨てられた柏原氏の若い心は甚だしく傷つけられた。そして女の薄情に声を揚げて泣き暮らした悲観の極度が次第に女に対する憎悪となつて、感傷的な反感は遂に芸術を以て此反逆者に復讐すべく固く心の裡に誓つたのである。
  
 今日からみれば、プラトニックな淡い恋に破れたからといって、相手を裏切り者の「反逆者」呼ばわりし、こともあろうに「復讐」を誓うなど、いったいこの男の内面はどうなっているのか?……と心配になるのだけれど、同時にささいなことを根に持つ、どこか執念深いストーカーじみた粘着気質が想定できて、とても気持ちが悪い。女が「裏切つて」と書かれているが、裏切るほど関係が深くもなさそうなので、単に柏原に魅力がなく他の魅力ある男へ惹かれていっただけの話ではないだろうか。
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 これだけのことを、著者である芳川赳がまったくの空想で書けるわけがなく、本人に対面して画題にまつわるエピソードを聞き出したか、親しい友人にでも取材しているのだろう。このあと、柏原は文展に入選して喜んだのも束の間、自分を振った女(特につき合いらしいつき合いもまったくしていないので、「振った」という表現も適切でないような気がするが)への「復讐」や「呪ひ」へと突き進むことになる。すなわち、彼にとっての「復讐」や「呪ひ」とはしごくまことに単純で、有名な画家になって彼女を見返してやろうというものだったようだ。
  
 けれども氏の此喜びの声は忽ちにして呪ひの叫びと化した 呪ひとは若い時忘るべからざる虐げを受けた女に対する憤激の迸りである。彼の女を呪へ……彼の女を征服せよ、此心が氏をして益々研究を続けさせたのである。そして氏は其一方此心の悩みから遠ざかるため、谷中の両忘庵の宗活禅師の許の(ママ)参禅して大悟の道を辿つた。果然女は氏の前に膝を屈したのである。氏の出品が入選となつた後は幾回となく氏の許に束なす謝罪の文が、其女から舞込んだが痛快な勝利者となつた氏は手にさへ触れずに小気味よい笑ひの裡に件の文殻を焼棄て了つたのである。
  
 自身が「虐げ」られ「捨て」られたなど臆面もなく口にし、あらゆることがらは自分に責任があるのではなく、すべて相手のせいであり一方的な被害者こそ自分である……というような認識や感覚は、自己中心的な人間にはよくある稚拙な“被害者意識”なのだが、ここまでくるとすでに病的だ。彼の中で、巨大な女性コンプレックスないしは女性恐怖症のようなものが育ち、それが強い憎悪や嫌悪をともないつつ、“ひとり歩き”をはじめていそうな気さえする。
 文中では、相手の女性から「謝罪の文」が何通もとどいたことになっているが、これも柏原敬弘が取材にきた芳川赳に語った“妄想”のたぐいなのかもしれない。東京へとうに出ていった、過去に一時的で精神的なつき合いのみだった男の住所を、あえて彼女が知っているのも不自然だし、さっさと男を見かぎって取っかえるような女性が、過去のことにいつまでもこだわって憶えているとも思えないからだ。むしろ、文展入選後に「どうだ、これがキミの振った男、つまり前途有望な芸術家たるボクの姿だ」などという、どこか江戸川乱歩Click!を想起させるような、気色の悪い「復讐」の手紙を何通も書いていたのは、むしろ柏原敬弘のような気さえしてくる。
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 わたしは、少なくとも芳川赳が書きとめた「柏原敬弘」のような、いつまでもイジイジとじめついた男が大キライなのだが、下落合803番地で暮らした実際の柏原敬弘の姿とは少なからず異なっているのかもしれない。だが、少なくとも『森の古池』のエピソードから推測する限り、自身が不利な立場に立たされると、すべてが他人のせいに思えてくる強い「被害者意識」をもった人物像が、そこはかとなく浮かび上がってくる。自ら谷中の寺へ参禅しているのは、自身の内面にもやや異常さの自覚があったからなのかもしれない。

◆写真上:薬王院の塀に面した、下落合800番地区画の現状(右手)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合800番地区画。は、1936年(昭和11)の空中写真と1947年(昭和22)の同写真にみる同区画。空襲の被害は受けておらず、戦後まで大正期の面影が残っていた。
◆写真中下は、第1回帝展に入選した1919年(大正8)制作の柏原敬弘『春の枯草』。は、第4回帝展に入選した1922年(大正11)制作の同『夏の輝き』。『春の枯草』の中央右手には水門があるが、いずれも大正中期の下落合風景を描いたのかもしれない。
◆写真下は、1918年(大正7)に出版された芳川赳『作品が語る作家の悶』(泰山房)で、同書の内扉()と柏原敬弘の記事「恋の落伍者となつた青年画家/思ひ出多い『森の古池』」()。は、画家たちが集った下落合800番地区画の現状。

版画の大衆化を進めた戦前の料治熊太。

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 1928年(昭和3)から、会津八一Click!の弟子のひとりが落合地域に住みついている。落合町葛ヶ谷4番地(のち西落合1丁目3番地/現・西落合1丁目9番地)で、創作版画の雑誌「白と黒」や「版芸術」を白と黒社から発行していた美術家の料治熊太だ。料治熊太の名は、このサイトでも曾宮一念Click!の会津八一に関する証言や、中村忠二・伴敏子アトリエClick!をご紹介したときにも、すでに登場している。
 料治熊太は、自身でも創作版画を手がけたが、むしろ版画雑誌の発行者としてのほうが知られているだろうか。1928年(昭和3)に博文館を退社すると、葛ヶ谷4番地に家を建てて、翌1929年(昭和4)から「白と黒」を創刊し、つづけて「版芸術」を1941年(昭和16)まで西落合で発行しつづけている。彼が発行する版画雑誌を通じて、平塚運一や谷中安規、棟方志功、前川千帆などが作品を発表していった。
 また、料治熊太は古美術に関する評論でも活躍し、浮世絵や焼き物のコレクター・研究家としても知られている。このあたり、古美術に造詣が深いのは師の会津八一ゆずりなのだろう。葛ヶ谷(西落合)に転居してきた、1928年(昭和3)から1935年(昭和10)までは霞坂の秋艸堂Click!に、同年から1945年(昭和20)までは目白文化村Click!の第一文化村にあった秋艸堂Click!(旧・安食邸Click!)へと、足しげく通っていたと思われる。
 さて、友人に料治熊太の著名入りの書籍『明治の版画』(光芸出版/1976年)をいただいたので、同書を通じて落合地域における料治熊太の仕事と、彼がもっとも賞揚する小林清親の明治版画について少し書いてみたい。小林清親の光線画については、以前もこちらでご紹介Click!しているが、今回は彼が日本橋の米沢町、つまり両国橋西詰め近くの両国広小路沿いでのちの日本橋区(西)両国、つまりわたしの故郷である現・東日本橋の同じ町内に住んでいたことについて、そこで起きた惨事とともに少し触れてみたい。
 料治熊太の活動について、端的に表現していると思われる論文に日本女子大学の近藤夏来『創作版画運動と谷中安規』(2009年)がある。その一部を、少し引用してみよう。
  
 料治は、全6タイトル150冊もの版画雑誌を世に送った人物なのだが、彼が、『白と黒』と同時に手がけた『版芸術』は、機械刷りを採用して、部数を500部に広げ、50銭という安さをもって大衆化の意図をより鮮明にしたものであった。/版画人達が、いかに大衆を惹きつけるかを考え、その答えとしての表現方法に違いはあれど、大衆文化の急成長とは裏腹に、閉塞してゆく創作版画に焦燥感を抱え、多くはかつての錦絵のあり方に範を求めて模索した点は共通している。/そして、彼らの多くに、やがて転機が訪れる。30年代の後半、日本は軍国化への大きな一歩を踏み出す。そうした状況において、料治熊太は1934,5年頃から郷土玩具の採集と記録に傾倒するようになり、1938年には、版画界から身を退いている。
  
 戦後も、料治熊太は創作版画界へ復帰することなく、もっぱら古美術研究に没頭しているように見える。西落合の仕事場は、浮世絵や骨董などの蒐集品であふれ返ることになった。特に浮世絵は、江戸期に定着した浮世絵の手法や“お約束”には縛られないで、自由な表現で描けるようになった「横浜絵」や、新しい感覚の明治東京版画に注目している。
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 中でも、もっとも高い評価と賛辞を惜しまないのが光線画の小林清親だった。清親は、洋画風の写実を江戸期からつづく浮世絵の伝統に取り入れ、従来の作品には見られなかった風景や場の“空気感”をみごとにとらえて表現し、奥行きのある明治浮世絵を確立している。以降、浮世絵風の版画で風景を描写する作家たち、たとえば人気が高かった井上安次や小倉柳村たちは、すべて清親を規範とするようになった。
 料治熊太の清親に対する評価は、他の版画家たちに比べて群を抜いている。上掲の『明治の版画』から、当該箇所を引用してみよう。ちなみに、1980年代に清親ブームが起きたのは、料治熊太の清親研究や評価がその底流にあったからだろう。
  
 明治時代に小林清親が出たことは、明治の誇りといえるのである。なぜなら、いくら下村観山や狩野芳崖が当時偉い画家であったとしても、彼らの作品が明治の時代を謳歌していたわけでもなければ、その息吹があふれていたわけでもない。しかるに小林清親の作品になると、作品の中に明治十年の息吹が生きている。時が生きているばかりでなく、それを描いたその日の時刻が生きている。その日の気象が生きている。それはとりもなおさず、その時代に確かに生きていたということを物語っているのである。(中略) 明治の版画家として、小林清親の残した仕事は絶対のものであった。それから後、どんな偉大な版画家が出たとしても、清親ほど心の奥底から東京を愛した人は出ないであろう。それほど、彼はふるさと東京を、全霊を捧げて描いた人だった。
  
 清親の光線画と呼ばれた、およそ95作品の「東京名所図」シリーズは、1876~1881年(明治9~14)のわずか6年間、彼が日本橋米沢町で旗本出身の妻と暮らしているときに描かれている。年齢的には、清親が28歳から33歳までのことだ。米沢町のどこに自宅があったのかは不明だが、本所生まれの彼は大川(隅田川)Click!大橋(両国橋)Click!の近くを離れがたかったのだろう。
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 清親が光線画をやめたのは、1881年(明治14)に起きた両国大火で自宅が全焼してからだ。同年1月26日に、神田松枝町から出火した火事は強い北西風にあおられて、神田岩本町から大和町へ延焼し、やがて日本橋区から大川をわたり本所区、やがては深川区までを焼き尽くし、ようやく16時間後に消し止められた。焼失面積は実に42万m2を超え、焼失家屋1万数千戸という被害は、明治を通じて最大の火事被害となった。
 日本橋米沢町にあった小林清親の自宅は全焼しているが、彼は自宅にいた妻子を放り出したまま、火事場の写生に走りまわっていた。同じく、日本橋米沢町(現・東日本橋)にあった明治期のわたしの実家も全焼しているはずだが、両国大火について親父から話を聞いた憶えがない。おそらく、祖父母の世代は話を聞かされていただろうが、その後に起きた関東大震災Click!東京大空襲Click!の被害があまりにケタ外れだったので、両国大火は相対的に伝承の比重が下がったのだろう。神田区・日本橋区・本所区・深川区の52町を呑みこんだ大火で、4万人近い罹災者が出ている。
 以来、清親が「東京名所図」シリーズの制作をやめてしまったのは、大川をはさみ江戸情緒をたたえた街並みが両国大火で丸ごと失われ、モチーフの喪失と失望感から気力が萎えてしまったのかもしれない。それでも、両国大火のあとに再建された街並みは、いまだ江戸の雰囲気を強く継承していたはずだが、清親が再び「東京名所図」(いわゆる光線画)の筆をとることはなかった。同様のことが、関東大震災で再び旧・江戸市街地の情緒が失われた際にも、画家や作家を問わず表現者の間で少なからず起きている。
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 さて、料治熊太は描画から彫りや刷りまで作者が手がける、創作版画(新版画)の雑誌「白と黒」や「版美術」を発行していたが、それは1907~1911年(明治40~44)に発行されていた版画雑誌「方寸」(方寸社)を規範とし、その流れの継承を意識したものだろう。「方寸」は、石井伯亭Click!山本鼎Click!森田恒友Click!、戸張孤雁、岡本帰一、津田清楓、南薫造Click!斎藤与里Click!、坂本繁二郎、平福百穂Click!倉田白羊Click!、太田三郎、織田一麿Click!らが集まって、本格的な創作版画運動を推進する舞台となった。

◆写真上:葛ヶ谷4番地(現・西落合1丁目9番地)にあった、料治熊太邸(白と黒社)跡。
◆写真中上は、料治熊太が発行していた版画雑誌「白と黒」()と「版芸術」()。は、1976年(昭和51)に光芸出版から刊行された料治熊太『明治の版画』()と著者の署名()。は、西落合の自邸で蒐集品に囲まれる料治熊太。
◆写真中下は、1929年(昭和4)制作の前川千帆『品川八ツ山』。は、同年制作の平塚運一『新東京百景/日本橋』。は、1940年(昭和15)制作の谷中安規『大川端』。本所国技館と大川の角度から、浜町公園から眺めた風景だと思われる。
◆写真下は、1881年(明治14)1月26日のスケッチを木版画にした小林清親『両国大火浅草橋』。は、同日に浜町からスケッチした小林清親『両国大火』で、大橋(両国橋)の左手で炎上するのが清親の自宅やわたしの実家があった日本橋米沢町界隈。右手の水面が大川で、左手の水面が現在は日本橋中学校が建っている埋め立て前の薬研堀Click!の堀口だろう。は、火災の鎮火後しばらくたってから描かれたとみられる小林清親『両国焼跡』。左手に大橋(両国橋)の仮設橋らしい情景が描かれているので、日本橋側の両国広小路を焼けた吉川町から描いているとみられ、向かいの半焼けの家々が米沢町界隈。

ちょっと古めな新宿区文化財資料。

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 新宿区の教育委員会が、戦後ほどなく発行していた文化財資料(冊子類)を見ると、それが作成された時点での写真や伝承などが掲載されており、改めて貴重なことに気づく。先年、知人から譲り受けた貴重な資料類とは、1963年(昭和38)に新宿区教育委員会から発行された『新宿区文化財』と、1967年(昭和42)にややボリュームが増えて同教育委員会から発行された『新宿区文化財』の2冊だ。後者は、1963年版に比べて紙質もよく、倍ほどの厚さになっている。
 現在でも、同様の小冊子(『ガイドブック 新宿区の〇〇〇』シリーズ/新宿歴史博物館)が地区別やテーマ別に刊行されているが、新しい写真撮影が行われ昔日の写真が入れ替えられていたり、そもそも史跡や建物自体が開発のために消滅して、項目そのものが全的に削除されていたりする。区民のために、リアルタイムで把握できるようにする区内の「文化財」なのだから、それで編集の方向性は十分だしまちがいないと思うのだが、消えてしまった写真・図版類や省かれてしまった解説には、どうしても惜しいと感じてしまうものが少なからず存在している。
 戦前を含む、古い時代に作成された地域の文化財資料は、なぜか墓所の紹介からスタートするものが多い。地域の有名人の“お墓”の記述とその所在地から入るのだが、ご多聞に漏れず両誌ともに新宿区内に眠る服部半蔵や恋川春町、山県大弐、塙保己一、月岡芳年Click!、松井須磨子、関孝和Click!などなど、墓地の紹介からはじまっている。死者とその墓所を優先する「文化財」の編集方針は、早くも明治期の文化財資料類からチラホラと見かけるので、どうやら「文化財」=「有名人の墓」と一義的に考える概念は、そのころから生まれているのではないだろうか。
 1963年版の『新宿区文化財』には、たとえば現在では消えてしまった旧・玉川上水の名残り流路や大隈重信Click!邸の庭園、富塚古墳Click!(高田富士Click!)の山頂に通う浅間社の鳥居と参道、下落合西端で発見された落合遺跡Click!の、発掘作業が行われている現場のリアルな写真などが掲載されている。1967年版ではさらに記述が詳しくなり、写真や図版などが1963年版に比べてかなり増えている。
 たとえば、同時期にはすでに崩されてしまった早大キャンパス内の富塚古墳Click!跡は、古墳自体の写真および解説と浅間社を奉った高田富士Click!の紹介とで分けて記述されている。また、戸山荘Click!(尾張徳川家下屋敷)の敷地図版や、史跡のある場所の詳細な地図、間取り図つきの永井荷風Click!旧居跡をはじめ、由井正雪や夏目漱石Click!大隈重信Click!尾崎紅葉Click!小泉八雲Click!島崎藤村Click!など旧居の紹介が数多く掲載されており、1963年版からもう一歩内容を拡げ、テーマをより深くドリルダウンした記述が明らかに増えている。
 では、落合地域に限って両誌の内容を見ていこう。まず、どちらの版とも落合遺跡が占めるウェイトが高いのは、同遺跡が発見されてそれほど時間が経過していなかったからだろう。縄文や弥生、古墳など各時代を通じての集落跡が発見されて話題になったが、がぜん注目を集めたのは、群馬県の岩宿遺跡Click!の発見から間もない時期に、東京でも同様に関東ロームから旧石器Click!が次々と発見されたからだ。1955年(昭和30)に出版された『新宿区史』では、落合遺跡が発掘写真とともに大きく取り上げられ、「新宿区」には数万年前から住民がいた……といわんばかりの記述になっている。w
高田富士1967.jpg
富塚古墳1963.jpg
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 1967年版の『新宿区文化財』から、同遺跡の記述を引用してみよう。
  
 目白学園の遺跡園にある。/落合遺跡は昭和29年早稲田大学考古学研究室によって発掘が行われた。縄文式、弥生式、土師式の住居跡群とそれぞれの時代の土器、石器類が発掘された。目白学園構内には住居跡の復元があり、土器や石器類は早稲田大学考古学研究室、目白学園、区資料室に分けて保存されている。(中略)/この遺跡の特色は、縄文時代以前から、縄文、弥生、土師、古墳時代までの長年月の居住跡が、狭い範囲に見つかっていることである。
  
 遺跡の年代は、当時はいまだ縄文期から古墳期までとされており、その後に規定されている奈良から平安、そして近世までつづく遺跡の記述がまだない。換言すれば、「土師時代」という耳馴れない用語がつかわれ、土師器は弥生以降から古墳時代にいたる間に存在した文化の遺物と解釈されている。現代では、出土物の正確な年代測定により、土師器は古墳時代から奈良、平安の各時代までつづく焼き物であり、「土師」時代というような文化区分はとうに消滅してしまった。
 また、目白学園キャンパスに遺跡をそのまま保存した、「遺跡園」と呼ばれる公園のような施設が存在したことがわかる。現在はキャンパスに校舎の数も増え、記載されている落合遺跡のエリアは目白大学短期大学部の建物の下になっている。
 『新宿区文化財』の両誌に掲載されている落合遺跡の写真は共通で、復元された縄文時代の“粗末な”竪穴式住居とともに、高い位置から発掘現場がとらえられている。同遺跡はエリアを少しずつ変え、何度も繰り返し発掘調査が行われているが、掲載写真は初期のころに撮影された現場の様子だろう。掘り返された目白学園Click!のキャンパスは、校舎のある北側から中井御霊社Click!のある目白崖線のバッケClick!(崖地)方向、すなわち南南西に向けて撮影されている。手前に竪穴式住居が再現されているが、現状の縄文期研究からすればあまりに粗末すぎる復元だろう。
 また、落合地域の文化財では、いずれも非公開でわたしは見たことがないが、薬王院に保存されている鎌倉時代の板碑Click!や、月見岡八幡社に保存されている谷文晁の天井絵の1枚、江戸時代の最初期に造られた庚申塔(宝篋印塔形)、天明年間の鰐口などが写真入りで紹介されている。この中では、鰐口にからむ面白い物語が紹介されている。
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落合遺跡空中1963.jpg
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 以下、1967年版の『新宿区文化財』から引用してみよう。
  
 鰐口とは神社仏閣の前にかけつるして、綱で打ちならす道具で、銅または鉄の合金製があり、平たい円形で中は空、下方に横長の口がある。/表には上部中央に「奉納八幡宮」とあり、右側には「武州豊島郡上落合村氏子中」、左側には「天明五乙巳年六月吉日」ときざまれている。ちなみに天明5年ごろは東北地方には天明の大飢饉があり、関東では大洪水があり、天災の連続した時代であった。/この鰐口はどうしたものか不明だが、北海道にわたり、村まわり芝居興業が打ち鳴らしていたのを、昭和7年に北海道に旅行した地元の人が見つけて、それをもらい受けてもとに納めたものだという。
  
 「どうしたものか不明」とされているけれど、明らかに同社から盗まれたものだろう。それを北海道にたまたま旅行していた上落合の住民が、1932年(昭和7)に偶然発見してとりもどす経緯も面白い。できれば、発見した上落合の住民に取材してお話をうかがいたいものだ。また、現在の資料でも写真入りでよく見かける、中井御霊社の「龍王神」Click!と書かれた雨乞いの筵旗や、葛ヶ谷御霊社の力石なども掲載されている。
 そのほか落合地域に限らず、新宿区内の各史跡や文化財の写真および記述も、現在の資料では割愛されたり削除されているものが多く、図版なども含め非常に貴重なものが多い。同誌の刊行について、1963年版から新宿区教育委員会の序文を引用してみよう。
  
 新宿区は旧四谷、牛込、淀橋の三地区をあわせ、その歴史的遺産はかなりの数にのぼっております。/教育委員会では、かねがね、これらのうち、文化的価値のあるもの、歴史的に重要な史跡、旧跡などを、体系的に整理し、古文書、文献を裏付けとした正確な資料の必要性を痛感いたしておりましたが、このたび2年有余にわたる調査研究の結果、ここに「新宿区文化財」を編さん、発行のはこびとなりました。/おさめられた文化財は、あらたに指定された11点を含めて、文化財64篇、資料篇22点、合計86点、載せられた写真は74葉の多きにのぼりました。
  
 現代から見れば、86点とはなんて少ない点数なんだろうと感じるが、本誌が編纂されはじめたのは1945年(昭和20)の焦土と化した敗戦からわずか15年余のことで、街中からようやく戦争の傷跡が目立たなくなり、翌年には東京オリンピックを控え高度経済成長が端緒についたばかりのころであり、いまだ「文化」を落ち着いて探求するほど人々に余裕がなかった時代だ。また、戦争で日本じゅうの膨大な文化財が破壊・消滅し、取り返しのつかないことに改めて気づきはじめた時期でもある。
月見岡八幡天井絵1967.jpg
月見岡八幡鰐口1967.jpg
新宿区文化財1963.jpg 新宿区文化財1967.jpg
 人々はようやく食べる心配がなくなり、家電の「三種の神器」が家庭に入りはじめて生活に少しは余裕が出はじめたころ、それが1963年(昭和38)という時代だった。新宿区教育委員会の両誌からは、そんな当時の世相の匂いが漂ってくるようだ。

◆写真上:下落合横穴古墳群が発見された斜面跡で、右手の祠は下落合弁天社。
◆写真中上は、富塚古墳と溶岩が積み上げられた「高田富士」。階段下の人物や鳥居と比べると、古墳の規模がわかる。(1967年版) は、富塚古墳の上り口にあった浅間社の鳥居。は、暗渠化されずに残っていた旧・玉川上水。(ともに1963年版)
◆写真中下は、初期の発掘エリアを北側から眺めた落合遺跡の現場。(1963年版) および、1963年(昭和38)の空中写真にみる目白学園の「遺跡園」。は、左から右へ徳治2年(1307年)、建武5年(1338年)、貞治6年(1367年)の年号が彫られた板碑。(1963年版/1967年版) は、下落合横穴古墳群から出土した鉄刀Click!(直刀)のひと振りで長さ(刃長)は2尺に足りず比較的短めだ。(いずれも1967年版) 
◆写真下は、月見岡八幡社に保存されている谷文晁の天井絵。(1963年版) は、同社から江戸期に盗まれたとみられる鰐口。(1967年版) は、1963年(昭和38)に発行された『新宿区文化財』()と、1967年(昭和42)発行の同誌()。

昭和初期に走る山手線の姿は?

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山手線下落合ガード上.JPG
 So-netには、数多くの鉄道ファンがブログを開設しているので、船ならともかく鉄道音痴のわたしが電車についてここに書くのも、まったくおこがましい限りなのだが、明治末から昭和初期にかけて落合地域に在住した美術家や作家たちの証言には、鉄道や停車場(駅)についての記録がときに登場している。西武線Click!については、陸軍鉄道連隊の演習Click!がらみで多少記事にしているが、今回は日本鉄道(株)の品川・赤羽線を起源とする、この地域を走る山手線について少し書いてみたい。
 西武電鉄Click!が敷設される以前、大正期を通じて落合地域に住んだ人々は山手線(目白駅・高田馬場駅)、ないしは中央線(柏木駅=東中野駅)を利用している。さまざまな資料では、下落合(現・中落合/中井含む)の東部から中部に住んでいた人々は目白駅Click!高田馬場駅Click!を、上落合あるいは下落合の中部から西部にかけて住んでいた人々は柏木駅Click!東中野駅Click!を利用していた様子が記録されている。
 おそらく周知の方も多いだろうが、山手線の歴史を概観すると、1885年(明治18)に日本鉄道が品川・赤羽間に鉄道を敷設したあと、1906年(明治39)には鉄道院が同社を買収して国有化されている。その後、東海道線の烏森駅(のち新橋駅)や東北本線の上野駅、東海道線の呉服橋駅(のち東京駅)へと乗り入れたり、1925年(大正14)にはようやく現在の姿と重なる、東京-品川-新宿-池袋-上野-東京と主要ターミナル駅を結ぶ環状運転がスタートしている。この間、池袋駅と赤羽駅を結ぶ環状に含まれない区間も、1972年(昭和47)に「赤羽線」として独立するまで、山手線として規定され運行がつづいていた。現在は、埼京線や湘南新宿ラインとして運行されている区間だ。
 下落合に住んだ芸術家たちの記録で、山手線が頻繁に登場するのは、やはり彼らが数多く集まりはじめた大正後期から昭和初期にかけてのものが多い。ちょうど豊多摩郡落合村が落合町に変わるころ、佐伯祐三Click!松下春雄Click!らが「下落合風景」シリーズを描いていたとき、山手線の土手上にはどのような車両が走っていたのだろうか?
 たとえば、1927年(昭和2)3月末現在で山手線を走っていた車両は、馴れない鉄道資料を調べてみると、環状線の軌道上は5両編成の客車と2両編成の荷扱専用車だったことがわかる。昭和に入ると郊外人口が増えるにつれ、同線は5両編成の電車計18便が定期運行している。また、2両編成の定期荷扱専用車は、計4便の電車が就役していた。
 環状線の定員は1車両に100名で、5両編成の環状線は500名、先頭と後尾には100kw(キロワット)出力の「デハ」車両がそれぞれ連結されていた。鉄道ファンなら自明のことだろうが、「デ」は運転台のある発動車のことで、「ハ」はイロハの3番目すなわち3等車両(一般車両)のことだ。前後2両の「デハ」にはさまれた、真ん中の客車3両は「サハ」車両で、「サ」は発動機を持たない付随車、つまり中間車両を意味する記号だ。「デハ」×2両と「サハ」×3両の計5両編成で、定員500名の乗客を運搬することができた。
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山手線水道橋.jpg
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 さらに、環状線を定期的に走る荷扱専用車は「デハ」(100kw)の2両編成、ないしは「デハ」+「デヤ」(70kw)の2両編成だった。「ヤ」は、なんらかの業務を行なう職用車と呼ばれた車両で、「デヤ」は運転台のある発動機付き職用車ということになる。ふたつの車両とも乗客は乗せず、荷物専用の便で東海道線まで乗り入れていた。
 また、同じく定期運行していた山手線の池袋駅-赤羽駅間は2両編成で、「デハ」(100kw)と「クハ」の組み合わせだった。「ク」は、運転台があるだけで発動機は付属していない車両だ。定員は2両で200名だが、ときに全4便のうち1便を荷扱車両兼用として運行させており、その場合は「デハ」車両が100名+「クハ」車両が50名の、計150名の乗客を運んでいる。
 以上の車両編成が、1927年(昭和2)3月末の定期運行時における山手線の電車編成だが、乗客が急増する季節(正月や藪入りClick!など)や沿線で人気行事が開かれる時期には、臨時増発の不定期便も運行していた。不定期便は、環状線で6便、池袋・赤羽線で1便が用意されている。環状線は、「デハ」2両+「サハ」3両の5両編成で、定期運行便と変わらず500名の乗客を運べた。一方、池袋駅-赤羽駅間の不定期便は「デハ」×2両の編成(200名)で、定期便の「クハ」車両は使われていない。
 大正末から昭和初期にかけては、以上のような車両編成の山手線だったが、『落合町誌』Click!(1932年)や『高田町史』Click!(1933年)が出版されるころになると、新型車両の登場や車両編成、便数などがすでに大きく変わっていると思われる。
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山手線新宿駅1928頃.jpg
山手線武蔵野鉄道高架1933.jpg
 たとえば、1933年(昭和8)4月末現在の山手線の車両編成や運行状況を見てみよう。まず、すべての便が定期運行となって不定期便が事実上なくなり、環状線の電車が32便と6年前に比べ40%以上も急増している。しかも、そのうちの8便には従来の5両編成ではなく、6両編成の電車が登場している。
 その車両編成は、先頭と後尾の2両が「モハ」(100kw)、中間が「サハ」「クハ」「モハ」「サハ」という連結だった。「モ」はモーター、つまり運転台のある発動機を備えた車両のことで、「モハ」3両に「サハ」(付随車)2両、「クハ」(運転台付き車両)1両の計6両編成となっている。車両も新型が投入されているのか定員615名と、1両あたりの乗客数も増えているようだ。
 環状線の残り24便は、従来どおりの5両連結で「モハ」3両に「サハ」「クハ」が各1両、定員は509名という編成だった。環状線を走る荷扱専用車としては、荷物を8tまで積載できる「モニ」車両が登場している。「モニ」は、運転台のある発動機付き(モ)の荷物車(ニ)が1両のみで運行し、5便が就役していた。
 池袋駅-赤羽駅間では、「モハ」と「クハ」の2両編成(203名)の電車が3便就役していたが、1日のうち3回の運行時に車両の半分が荷物車として代用されていたらしい。また、実際の乗降客数をベースに編成されたのだろう、赤羽駅の手前の池袋駅-十条駅間で2便が用意され、池袋駅-赤羽駅間と同じく「モハ」と「クハ」の2両編成(203名)の電車が走っていた。
 以上が、大正末から昭和初期にかけて山手線の軌道上を走っていた電車だが、塗装はもちろん懐かしいチョコレート色の車両で、いまだ黄緑色はしていない。当然、わたしはチョコレート色の山手線などほとんど記憶にないが、子供のころに同様の木製車両が郊外の路線ではいまだ使われていて現役のまま走っていた。山手線に黄緑色の車両が登場するのは、東京オリンピックが近づく1960年代初めのころだ。
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戸山ヶ原の大地から山手線のガードを1935.jpg
三角山の大地から新大久保方面を1937.jpg
 さて、下落合の画家たちが、スケッチをしながらしじゅう目にしていた山手線だが、下落合を走る電車を描いた風景作品は、いまだほとんど目にしたことがない。思いつくところでは、蒸気機関車に牽引され山手貨物線Click!を走る貨物列車を描いたとみられる佐伯祐三の『線路(山手線)』(仮)Click!か、東京美術学校を出たがプロの画家にはならず、のちに戸塚風景を記憶画として数多く残している濱田煕Click!の作品群ぐらいだろうか。

◆写真上:雑司ヶ谷道(新井薬師道)と交差した、下落合のガードClick!上を走る山手線。
◆写真中上は、1925年(大正14)に下落合の線路土手を走る4両編成とみられる山手線。手前の工場は、下落合71番地にあった池田化学工業Click!で、遠景は学習院の森。は、大正末ごろと思われる山手線で線路を跨ぐのは水道橋。は、1927年(昭和2)3月末現在の山手線電車編成一覧。
◆写真中下は、昭和初期に戸山ヶ原を走る山手線。は、1928年(昭和3)ごろ撮影された新宿駅に入線する山手線とみられる車両。は、1933年(昭和8)撮影の武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の高架をくぐり踏み切りClick!にさしかかる山手線。
◆写真下は、1933年(昭和8)4月末現在の山手線電車編成一覧。は、1935年(昭和10)に山手線の西側から諏訪通りガードClick!上を走る山手線を描いた濱田煕の記憶画『戸山ヶ原の大地から山手線のガードを』(部分)。は、山手線の東側から新宿方面を向いて描いた同『三角山の大地から新大久保方面を』(部分)。左手の線路は、陸軍が戸山ヶ原へ西武線からのセメントや砂利など資材運搬用に敷設した引き込み線Click!の終端。

佐伯祐三から小島善太郎へ。

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 佐伯祐三Click!が描いた『下落合風景』シリーズClick!の中に、曾宮一念アトリエClick!の西側空き地(下落合622番地=のち谷口邸敷地)から見える風景をモチーフに描いた、『セメントの坪(ヘイ)』Click!という作品がある。曾宮一念によれば、自宅の軒先をほんの少し入れた同作が気に入らないようで、40号の画面を不出来だと批判Click!している。だが、同作には「制作メモ」Click!に記載された15号サイズの作品と、1926年(大正15)9月1日に二科賞の受賞時に東京朝日新聞社のカメラマンによって撮影Click!された、同年の8月以前の制作とみられる10号前後の作品があるのが確認できる。
 佐伯が三度も同じ位置から作品を仕上げているので、曾宮邸の西横から眺めた風景モチーフがよほど気に入っていたのだろう。佐伯が画因にこだわって、3作以上の仕上げた『下落合風景』は、ほかに佐伯アトリエの西側を南北に通る西坂Click!筋の『八島さんの前通り』Click!と、曾宮邸の前に口を開けた諏訪谷を描いた『曾宮さんの前』Click!(秋・冬各2点)しか存在していない。
 もっとも、下落合623番地の曾宮邸Click!がある前の道路は、佐伯祐三に限らず画家たちの“人気スポット”だったものか、佐伯の3年前には曾宮一念自身も『夕日の路』Click!(1923年)に描いており、また昭和初期には曾宮の描画ポイントのややうしろ側、下落合731番地の佐藤邸敷地から清水多嘉示Click!『風景(仮)』Click!を制作している。曾宮の『夕日の路』には、いまだコンクリート塀は築かれていないが、大正末に進捗した諏訪谷の宅地開発とともに建てられたのだろう、1926年(大正15)の佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』および清水多嘉示『風景(仮)』には、同じデザインの塀が記録されている。
 さて、1926年(大正15)の夏に早くも仕上げられていた、10号前後の小品『下落合風景』(セメントの坪)だが、この作品を佐伯がいかに気に入って大切にしていたのかが、彼の手もとに置かれていた期間をみるとわかる。同年8月末には、すでに完成していたとみられる同作だが、佐伯は東京の画廊でも、また関西の作品頒布会を通じても決して売ろうとはせず、そのままアトリエで保存しつづけている。そして、1927年(昭和2)6月17日~30日に開かれた1930年協会第2回展Click!(上野公園内日本美術協会)で、初めて同作を出品している。その際、同展の記念絵葉書として『セメントの坪(ヘイ)』を印刷し、会場で販売するほどのお気に入りだった。
 佐伯は、なぜ『セメントの坪(ヘイ)』をそれほど気に入っていたのだろうか? 考えられることは、同作が第1次滞仏から帰国したあと、自宅周辺を描いた売り絵ではない『下落合風景』の中ではもっとも出来がよいと感じていたか、あるいは記念すべき第1作だった可能性がある。または、その両方だったのかもしれない。「制作メモ」に見られる、1926年(大正15)9月~10月に描かれた『下落合風景』のタイトルは、あくまでもほんの一時期の覚え書きであり、それ以前やそれ以降にも制作していたのはもはや明らかだ。同年の夏以前から制作していた『下落合風景』の中でも、『セメントの坪(ヘイ)』は特に佐伯好みに仕上がった作品なのだろうか。
 同作は、戦災で焼けて失われたか、あるいは個人蔵で行方不明になったままなのか、作品の現存は確認されていない。かろうじて、1930年協会第2回展の記念絵葉書と同展の会場写真、そしてアサヒグラフに掲載された記者会見の写真から、その存在を確認できるのみだ。だが、1930年協会第2回展の絵葉書には、もうひとつ重要な要素が確認できる。絵葉書の画面に、佐伯のサインが大きく書きこまれているのだ。
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 おそらくペンか万年筆で書かれたのだろう、走り書きの文字は「Mr.Kojima/Uzo Saeki(あるいはSaiki)」と読みとれる。「Kojima」とは、もちろん同展でいっしょだった1930年協会の会員である小島善太郎Click!その人だろう。のちに児島善三郎Click!も1930年協会に参加するが、佐伯が1927年(昭和2)6月に同絵葉書を作成して手渡すには、時期的にみて無理がある。佐伯と小島は、性格も育った環境もまったくちがうし、画風も一致点がまるでないほど異なっているが、どうやらお互いがなんとなく気の合う同士だったらしい様子が、残された各種の証言からうかがえる。
 1930年協会の記念写真を見ても、小島善太郎の隣りには佐伯祐三の姿が写っていることが多い。また、小島は帰国した佐伯の自宅に、パリ生活の延長とばかり何度か「随分入り浸っ」てもいる。そのあたりの心象を、1929年(昭和4)に1930年協会から出版された『一九三〇年叢書(一)/画集佐伯祐三』所収の、小島善太郎「佐伯の追憶」から引用してみよう。ただし、引用元は朝日晃がまとめた『近代画家研究資料/佐伯祐三』(東出版)ではなく、小島善太郎のお嬢様である小島敦子様Click!が、1992年(平成4)に編集した『桃李不言-画家小島善太郎随筆集-』から引用してみよう。
  
 日本に帰っての彼の一年間の生活は、丁度五月に帰朝して翌年の六月(ママ:8月)日本を再び立つまでの彼は、相変わらず巴里生活の延長をやっていた。僕達は随分入り浸ったものだった。よく遊び又よく勉強をしていた。彼は日本では現代の文化式のものを画くのだと言って随分彼の住っていた落合のそういった風景を描いた。そして旅行などもした様だったが、日本の風景に充分なじみ切らぬうちに、再度の渡仏をしてしまった。もう一度自信のつく勉強をし直したいと言い残して。/今にして思出すに、彼は何処かに淋しさがあった。それはどんなに有頂天にさわいでいた時でも、彼は醒めていた所がある様で、其処には何か見詰めていた何かがあった様に見受けた。それは何か? 僕は思う。彼の死?に対する覚悟を求めていたのではなかったか?(カッコ内引用者註)
  
 佐伯祐三が、下落合の宅地造成や道路敷設の工事中、あるいは工事が終わった直後の場所ばかりをモチーフに選んで描いているのは、たびたびここの記事でも指摘してきたけれど、それに対し「日本では現代の文化式のものを画くのだ」という佐伯の言葉を、小島が記録・証言している重要な一文だ。
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 小島善太郎もまた、自分とは性格も画風も、趣味嗜好もかなり異なる佐伯に少なからず惹かれていたらしく、「佐伯、君は君の作品と一緒に僕に永久に力を与えてくれる」(同書)とまでいい切っている。佐伯が死去して間もない文章なので、多少の感傷や思い入れのある表現を割り引いて考えても、小島が佐伯について書いた文章は、相対的に文字数が多くボリュームも大きい。
 互いに反りが合った者同士、佐伯は第2次渡仏の直前に、もっとも気に入っている『下落合風景』の絵葉書へサインを書きこみ、小島善太郎へ記念として贈ったのではないだろうか。1930年協会の他の会員たちには、少なくとも現存する資料からは、同じように絵葉書を贈った形跡が見られない。
 小島善太郎は、佐伯祐三が第1次滞仏中のパリで仕事をする様子を間近で見ている。クラマールでは、佐伯の「化け猫」騒ぎClick!に巻きこまれ、のちに小島はその物語をわざわざ戯曲化Click!して清書した原稿として残してもいる。小島がことさら佐伯に親しみを感じたのは、このときからではないだろうか。佐伯がパリで仕事をする様子を記した、1957年(昭和32)発行の「みづゑ」2月号掲載の、小島善太郎「佐伯祐三の回顧」から引用してみよう。ただし、引用元は上掲の『桃李不言-画家小島善太郎随筆集-』から。
  
 僕がパリでアトリエをもった頃、佐伯は僕の近くでリュウ・ド・シャトウ十三番の大きなアトリエを借り、そこであの数々の汚れたメーゾン(家)を描き出した。仲よくなった靴屋の真前で、そのままの家を一気に描き上げる。靴屋の親父が飛出してそれを欲しがったのも無理はない。実に素晴らしい靴屋の店である。しかもそれが二、三時間で二十号の立派な油絵が出来上ったのだ。また彼が自分の仕事に飽きたらず焦々した時は、タッチが幅広くそれが針金をくの字に曲げたように奔放のまま終っている。色は灰褐。まるで魔界を彷徨する気持である。時にはあの有名なパリの簡素な便所に向かって数枚の傑作を描いた。鉄板の周りには花柳病の広告ビラが、彼に依ってあんな詩化されている。こうしたパリの冬、灰色の空の下で彼が夢中で描き続けていった無数の仕事の中には、狂的な程の熱中さが刻印されている。このことは佐伯の作を見た人達の識るところであるが実に甘い描写のない彼の詩であった。
  
 おそらく、小島善太郎が国内の洋画家について語った、最大の賛辞のひとつだろう。
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 さて、佐伯祐三と小島善太郎に共通する趣味がひとつある。それは、ふたりが無類の野球好きClick!だったことだ。おそらく、当時の六大学野球Click!全国中学校野球大会Click!の話題を、ふたりは頻繁に交わしていたのではないか。小島善太郎は、戦前は早慶戦Click!に夢中であり、戦後は熱烈な巨人ファンだったようで、王がホームラン記録を出しそうな試合を観戦しに、わざわざ後楽園球場へと出かけている。北野中学時代Click!には野球部のキャプテンClick!だった佐伯祐三もまた、第2次渡仏直前の多忙な時期に、わざわざ甲子園まで出かけて中学校野球大会(現・全国高校野球大会)を観戦している。案外、野球を通じてこのふたりは意気投合しているのかもしれないのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:記念写真では隣り同士が多い、小島善太郎(右)と佐伯祐三(左)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の8月以前に制作された佐伯祐三『下落合風景』=『セメントの坪(ヘイ)』。は、佐伯の描画ポイントあたりから見た下落合の現状で、手前から左手の駐車場が、下落合623番地の曾宮一念アトリエ跡。は、1926年(大正15) 5月15日~24日に開かれた第1回展(室内社)での小島善太郎と佐伯祐三。
◆写真中下は、『セメントの坪(ヘイ)』のサイン拡大。は、1923年(大正12)に制作された曾宮一念『夕日の路』。は、昭和初期に描かれた清水多嘉示『風景(仮)』。いずれも諏訪谷の北側に通う、佐伯の『セメントの坪(ヘイ)』と同じ道筋を描いている。
◆写真下は、佐伯祐三と清水多嘉示の画面に描かれたコンクリート塀跡(左側)。下左は、1992年(平成4)に出版された小島敦子様・編『桃李不言-画家小島善太郎随筆集-』(日経事業出版社)。下右は、1982年(昭和57)にアトリエで撮影された小島善太郎。
掲載されている清水多嘉示の作品は、保存・監修/青山敏子様によります。

彝に頼まれ湘南に出かけた曾宮一念。

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 曾宮一念Click!というと、千葉県の外房Click!や長野県の八ヶ岳Click!へ写生に出かけていたイメージ、戦後に下落合から移り住んだ静岡県の富士宮Click!における制作の印象が強いが、実は相模湾沿いの町々にもたびたび出かけている。特に、鎌倉Click!大磯Click!とのかかわりが深かったようで、同町の風景をモチーフにした作品をいくつか残している。
 曾宮一念は大磯の印象について、こう記している。ちなみに、彼は日本橋浜町の生まれなので、大磯に関しては松本順Click!(江戸幕府の御殿医時代は松本良順)が拓いた、江戸東京地方における憧憬の別荘地であったのをよく知っていただろう。1938年(昭和13)に座右宝刊行会より出版された、『いはの群』に収録の「大磯」から引用してみよう。
  
 汽車から窺つた大磯は立派な別荘とすきまのない住宅とで今迄近づき難く思つてゐた。今度はじめて下りて見ると春さきの大磯は青麦とげんげ田に菜の花と土の香、実は下肥のにほひをまぜて頬をなぜてくれる、どうしてまだのんびりとした田舎だ。線路のすぐ北にこんもりと茂つた山がある、春夏秋冬常盤木の色を主調としてゐるので、いつも変化の乏しい無能な山といふ印象を得てゐたのを、畑中から大観すると、なかなか形のととのつたよい山である。高麗山といふさうだ、目下のところ天国心中の坂田山に名誉を奪はれた形である。
  
 もし、曾宮一念が5月初旬に大磯を訪れていたら、高麗山の「常盤木の色」が山一面に霞がかかったような、薄いピンク色に変貌していたのを眺められただろう。高麗山は、大磯の丘陵の中でもヤマザクラが多い山だからだ。
 当時の大磯は、慶大生と深窓の令嬢とが駅の裏山で服毒自殺した、いわゆる自殺ブームのさきがけとなる「天国に結ぶ恋」の坂田山心中事件Click!で持ちきりであり、駅前では「心中最中」や「天国饅頭」などが売られていた時代だ。余談だけれど、わたしは子どものころ親に連れられ、心中の現場となった地点に建立された比翼塚Click!を見た記憶があるのだが、現在は事件現場ではなく鴫立庵Click!の敷地に移されている。
 曾宮一念が、湘南の町を訪れたのは、これが初めてではない。大磯旅行から15年ほど前、1922年(大正11)ごろに曾宮は病床の中村彝Click!からの伝言を携えて、平塚にいた宮芳平Click!を迎えにいっている。彝の弟子のひとりである宮芳平は、1915年(大正4)に東京美術学校を中退したあと、1920年(大正9)まで新潟の柏崎商業で嘱託教師をしていた。だが、画家への道をあきらめきれなかったのか、1920年(大正9)に柏崎商業を辞めると、病気の妻とともに平塚に移り住んでいた。
 中村彝は、平塚で呻吟している宮芳平を心配していたのか、長野県にある諏訪高等女学校の美術教師に推薦する伝言を、曾宮にもたせて派遣したのだ。この諏訪高等女学校Click!で空席になった教職こそ、同じく彝の弟子でフランス留学のために同校を辞職した、清水多嘉示Click!がいたポストだった。清水多嘉示Click!が渡仏したのは、1923年(大正12)3月なので、彝の伝言を伝えに曾宮が平塚の宮芳平を訪ねたのは前年中だったと思われる。
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 では、曾宮一念の来訪を、宮芳平はどのようにとらえていたのだろうか。1987年(昭和62)に野の花会が発行した宮芳平『音信の代りに友に送る-AYUMI』から引用してみよう。ちなみに、文中に登場する「Sさん」とは曾宮のことだ。
  
 その頃Sさんは日暮里の下宿屋の二階に病気を抱えて苦闘していた彝さんを知るようになり、後にわたしも彝さんを知るようになった。そしてわたしが病妻を抱えて相模の平塚にいたときSさんが彝さんの使者となって、わたしを信州諏訪へと赴かせるために迎えにきたのである。/その頃彝さんの作品は日の昇るような評判で褒賞を取り三等賞をとり二等賞を取って既に文展の審査員になっていたのである。Sさんは落選したり入選したりしていたがとうとう褒状を取って意気漸くに上っていた。/その頃、わたしはその群を離れて諏訪に来た。教師となったのである。わたしが教師をしている間にSさんはめきめきと売り出して、その名を曽宮といえば絵に関心を持つ人なら知らない人は無い程になった。わたしは羨しかった。Sさんの盛名はともかくとして、その作品に頭を下げざるを得ないのである。その色、その匂い、その才気、馥郁としていたのである。
  
 またちょっと余談だけれど、宮芳平が滞在した短い平塚時代に絵をならいに通っていたのが、わたしが小学生のときに通っていた画塾のおじいちゃん先生だった。
 諏訪高等女学校へ赴任した宮芳平は、しばらくすると平野高等女学校や諏訪蚕糸学校の美術教師を兼任しているので、教職が彼の肌には合っていたのだろう。彼が諏訪へ転居してから、わずか1年半で中村彝の訃報を聞き、下落合のアトリエへ駆けつけることになる。彼が休暇をもらって下落合に着いたとき、すでに中村彝は納棺が終わり、晩秋から初冬にかけて近所の野原に咲いていた花々で、その遺体の周囲は埋められていた。このとき、下落合に咲いていた野花とはノゲシやヒメジオン、スミレ、ツリガネニンジン、キツネノボタン、タツナミソウなどだろうか。中には野生化したスイセンや、サザンカも混じっていたのかもしれない。
 葬儀の写真を見ると、中村彝の棺を前に岡崎キイClick!満谷国四郎Click!にはさまれて立っているのが、若き日(31歳)の宮芳平のようだ。作品を彝に見てもらう機会が少なかった彼は、師の死後に痛切な文章を残している。同書から、再び引用してみよう。
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宮芳平「諏訪湖(立石より)」1930.jpg
  
 あの人は死にました
 あの人はいつもアトリエにいませんでした。/あの人はアトリエの隣の小さな南の部屋のベッドの中にいました。/絵を描くと熱が出る。熱が出るとこの部屋でやすむ。/わたしが会う時もたいていこの部屋でした。/この部屋にあの人がいない時は絵を描いている時ですからわたし達はアトリエに入れません。わたし達がこの部屋で待っているとおばあさんがお茶をもってきてくれました。おばあさんはあの人にはあかの他人です。しかし誰もあの人を看病してくれなかった時――誰しも長い病気に辛抱しきれなかったのです――このおばあさんがきてあの人を看病してくれるようになりました。枕もとには用事がある時人を呼ぶ呼鈴がついていました。/あの日/あの人はこの呼び鈴を押さなかったのです/押せなかったのかもしれません/おばあさんが来た時 死んでいました/あの人は喀血したのです/その血が喉につかえて死んだのです/喉をおさえ苦しんでいるうちに死んだのです
  
 平塚に宮芳平を迎えにいった曾宮一念は、彼が諏訪高等女学校の美術教師に就任すると、さっそく写生旅行がてら訪ねていった。だが、宮夫妻の部屋が狭かったので泊まれず、近くの諏訪湖近くの下宿屋に泊まって大雪にみまわれている。あまりの寒さに、曾宮は甲府へと出て鰍沢からポンポン蒸気で田子の浦へと南に向かった。曾宮が富士の裾野と接点ができたのは、このときが最初だったかもしれない。
 曾宮一念は、相模湾沿いの鎌倉町もときおり訪ねている。それは、彼の絵を夫妻で気に入り、たまに下落合623番地の曾宮アトリエへ寄っては作品を買ってくれていた、酒井億尋と妻の朝子が鎌倉に家を建てて病気の療養をしていたからだ。酒井夫妻とネコ嫌いの曾宮一念が親しくなったのは、朝子夫人が飼っていたネコに石をぶっつけたのがきっかけだった。おそらく、曾宮は遊びに出かけた佐伯祐三Click!アトリエの敷地から、佐伯と同じ地主の山上家Click!から借りた土地に家を建てて住んでいた、北隣りの酒井邸周囲をうろつく飼いネコが目障りで、思わず投石したものだろう。
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曾宮一念「梨畑道」1924.jpg
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 以来、曾宮は酒井夫妻が下落合から鎌倉に引っ越したあとも、しばしば病気の夫人を見舞いがてら鎌倉を訪ねている。鎌倉の酒井邸は、滑川Click!が流れ杉本寺や報国寺などの伽藍が建ち並ぶ、静かな浄明寺ヶ谷(やつ)に建っていた。曾宮一念は、浄明寺ヶ谷を起点に周囲の鎌倉風景を次々と写しとっているのだが、それはまた、別の物語……。
  
ご連絡
 ご連絡がギリギリになってしまいましたが、あさって13日(日)に聖母坂沿いにある落合第一地域センターClick!で、「佐伯祐三生誕120年記念」講演シンポジウムおよび下落合の街歩きを行ないます。吉住新宿区長もご参加予定ですが、午前11時30分に開場、正午には講演シンポジウムをスタートする予定です。
 街歩きは、今回は佐伯アトリエも近い「八島さんの前通り」から目白駅までの「下落合風景」描画ポイント、および佐伯祐三や中村彝の各アトリエをはじめ、吉田博、笠原吉太郎、森田亀之助、里見勝蔵、蕗谷虹児、曾宮一念、牧野虎雄、片多徳郎、鈴木良三、鈴木金平、鶴田吾郎、有岡一郎、九条武子、満谷国四郎、竹久夢二、相馬孟胤、安井曾太郎、近衛篤麿、近衛文麿、熊岡美彦…etc.の各アトリエ跡や邸跡をめぐる予定です。もしご興味がおありでしたら、お気軽にご参加ください。

◆写真上:大磯の国道1号線(東海道)沿いに残る茅葺き農家で、背後の山は高麗山。
◆写真中上は、鴫立庵へ移設された坂田山心中の比翼塚。は、平塚市街から眺めた高麗山から湘南平(左)にかけての大磯丘陵と、1938年(昭和13)に描かれた曾宮一念『大磯高麗山』。は、鴫立庵の敷地にある徳川幕府御殿医で西洋医学を修めた、日本初の海水浴場と避寒・避暑別荘地「大磯」の開拓者である松本良順(松本順)の墓碑。
◆写真中下は、1987年(昭和62)発行の宮芳平『音信の代りに友に送る-AYUMI』(野の花会/)と宮芳平()。は、1924年(大正13)12月の中村彝の葬儀における宮芳平。は、1930年(昭和5)に制作された宮芳平『諏訪湖(立石より)』。
◆写真下は、野外で写生中の曾宮一念。は、1924年(大正13)制作の曾宮一念『梨畑道』。は、1938年(昭和13)に鉛筆で描かれた曾宮一念『漁家』。

劉生に描いてもらいそこなった安倍能成。

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 漱石門下の安倍能成Click!は、自然主義に関する文芸評論をしていた1917年(大正6)ごろ、藤沢町鵠沼に住んでいたことがある。海外留学を除き、東京を離れることが少なかった安倍能成にしてはめずらしい転居だ。ちょうど1917年(大正6)の2月に、東京の駒沢村新町(現・世田谷区駒沢)から療養のために、一家で鵠沼に引っ越してきた画家がいた。現在では誤診といわれている、「肺結核」の病名を告げられた岸田劉生Click!だ。
 劉生は同年2月23日から6月23日までのわずか4ヶ月間、藤沢町鵠沼藤ヶ谷7365番地20号の貸別荘だった「佐藤別荘」に住み、なにか気に入らないことでもあったのか、6月24日からは鵠沼下岡6732番地13号の同じく貸別荘「松本別荘」Click!へと転居している。それから、1923年(大正13)9月1日の関東大震災Click!で「松本別荘」が倒壊Click!するまで、6年余を同地ですごしている。
 1917年(大正6)の当時、安倍能成宅の周囲には、引っ越し魔だった「白樺」Click!武者小路実篤Click!和辻哲郎Click!が住んでおり、自然主義文学の話をしに安倍は両邸へ頻繁に出かけていたのだろう。岸田劉生とは、和辻哲郎邸で出会って親しくなっているようだ。当時の劉生は、鵠沼海岸近くに拡がる風景を盛んに描いている最中だった。劉生との出会いを、1940年(昭和15)6月23日から「京城日報」に連載された、安倍能成『椿君と岸田君』から引用してみよう。
  
 大正の五六年頃、私は二年ばかり気まぐれに相州鵠沼の松林の中に住んでゐたことがあつた。和辻哲郎君の近処であつたが、岸田君も当時偶々鵠沼海岸に住み、和辻君の宅などで時々逢つて話しすることもあつた。その頃の岸田君の作品には、丘の周囲の松林の間の道や、そこいらの藁屋などを描いた簡単な構図のものがあり、それは和辻君の家でも見たし、京城でも同僚の尾高君の家で同じやうな画を見た。晴れた青空、緑の松林、渋色の藁屋、薄褐色の砂道などが実に細かく、美しく描出されており、平生散歩する寧ろ平凡な路傍の景色の中に、かういふ美しさを見出す岸田君に感心したこともあつた。
  
 和辻哲郎の家の壁に架かっていたのは、1917年(大正6)に描かれた近隣の藁葺き農家の大屋根をモチーフにした、『風景(鵠沼)』シリーズの1点だと思われる。また、松林の砂道とは同年に制作されている『初夏の小路』か、それに近似した画面だったのだろう。同年の『初夏の小路』は、二科展第4回展に出品され二科賞を受賞している。
 鵠沼に転居した当時、劉生の風景画は前年までの代々木風景や大崎風景などに見られる赤土大地をベースにした、これでもかというほどの微細な描写は減退し、相模湾の潮風が運ぶ湿気の多い“空気感”に影響されたものか、あるいは海岸に見られる砂地特有の曖昧な地面の色合いのせいなのか、全体が朦朧としたような表現に変化している。
 海辺で長時間、カメラのファインダーをのぞきこんだことがある方なら、徐々に潮の粒子がレンズの表面に付着して景色全体が霞みはじめ、細かなディテールがわからなくなっていくような、特殊フィルターを装着したような写真に仕上がるのをご存じだろう。鵠沼に移ったあとの劉生の風景表現は、まさにそんな感じの画面になっている。クロマツの林や砂道の表現からは、どことなく潮風のべとつきや生臭ささえ伝わってくるようだ。
 劉生は、鵠沼生活をはじめると同時に風景画を制作しはじめているが、『麗子像』Click!シリーズや『村娘』シリーズなど、いわゆる童女像を描きはじめるのは翌1918年(大正7)の夏ごろからだ。横浜の原三渓Click!や原善一郎など、いわゆる原一族がパトロンとなって生活が安定したせいか、劉生にはめずらしく彫刻も手がけている。1918年(大正7)早々に、彼は生涯にわずか2点のみの彫刻作品となる、柏木俊一をモデルにした『男の首』と、蓁夫人をモデルにした『女の手』を制作している。
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 ちょうどそのころ、子連れで遊びに出かけた安倍能成の5歳になる息子を見て、岸田劉生がしきりに描きたがっていた様子が伝えられている。子どもをモチーフにした作品群が、実際に描きはじめられる1年ほど前、1917年(大正6)にはすでに具体的な表現のイメージが、劉生の中で育まれていたのではないだろうか。つづけて、「京城日報」に連載された安倍能成のエッセイから引用してみよう。
  
 岸田君が麗子像或は童女像を盛んに描いたのも、この頃ではなかつたかと思ふ。麗子といふのは恐らく岸田君の令嬢であり、童女像の中にそれを更に理想化したものもあつた。東京神田の岩波書店の応接間に、この童女像が一つかかつてゐるが、いつ見てもしつかりしたいい画だと思ふ。その頃私の長男が五歳位で、頬辺が林檎のやうに紅かつた。岸田君が彼を見て頻に描きたがつてゐたが、竟にその機を得なかつた。若しそれが出来てゐたら、或は世間の童女像の外に岸田君の珍らしい童男像の傑作を我家に残し得たかも知れぬと、一寸残念なやうな気もする。
  
 今日からみれば、「残念なやうな気もする」どころではなく、非常に残念至極なことだった。ただ、その作品を「我家」、つまり下落合4丁目1655番地(現・中落合4丁目)の第二文化村Click!に建っていた安倍邸Click!の壁に架けていたら、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で灰になっていたのかもしれない。
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岸田劉生「野童女」1922部分.jpg
 文中で安倍能成は、娘の麗子の顔を「理想化したもの」と書いているけれど、麗子ちゃんはあんな不気味でヘンな顔ではなかった……と証言する人物がいる。鵠沼に転居した劉生の自宅へ、頻繁に訪れていた河野通勢(みちせい)Click!の次男・河野通明(つうめい)だ。河野通明は、当時から麗子といっしょに遊び、大人になってからも画業で交流をつづけた人物だ。麗子ちゃんはキレイだった……という証言を、調布市にある武者小路実篤記念館が発行した『講演記録集』第3集収録の、河野通明「『白樺』のその後に就いて」(1990年講演録)から引用してみよう。
  
 さて、さっきお話が出ました岸田麗子さん、劉生さんのお嬢さんですけれども、「麗子像」の麗子さん。これは私たちと一緒に、今から三〇年前、来年三〇回目をやりますが、復活大調和展に最初に参加してくれました。我々と一緒に創立委員の一人として名前を連ねていましたのですけれども、この麗子ちゃんという人は美人でございます。よく「麗子像」の麗子をみて、あんな顔かと聞く人がありますが、ああいう顔ではないのです。もっと本当にかわいい。僕よりも四つぐらい上です。もしも僕が上だったら結婚している。(笑い)。描くというと、劉生先生はああいう顔でかいてしまう。/ところが、麗子さんのお嬢さんの夏子さん、(中略) その夏子ちゃんが、あの「麗子像」の麗子にそっくりな顔をしているのです。それがおかしくてしようがないのですけれども、どういうかげんでああいう顔になってしまったのか(笑い)。
  
 麗子像と似ている、「あんな顔」にされてしまった孫・岸田夏子には気の毒だけれど、確かに「麗子像」と岸田麗子本人とはあまり似ていない。どこか江戸期から、軸画や彫物細工などの題材でよく登場する、「寒山拾得」の詩僧たちのような表情をしている。
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 特に、『野童女』(1922年)や『二人麗子図』(同年)の麗子は、ホラー映画のワンシーンのようで夢に出てきそうな表情だ。もし長男をモデルに、「童男像」を描いてもらっていたとしたら「あんな顔」にされてしまい、安倍能成は腹を立てていたかもしれない。

◆写真上:1917年(大正6)2月に転居し、4ヶ月しか住まなかった「佐藤別荘」跡の現状。
◆写真中上は、1917年(大正6)4月に「佐藤別荘」で撮影された岸田一家。は、近所の藁葺き農家の大屋根をモチーフにした1917年(大正6)制作の『晩秋の霽日』。は、岸田一家が関東大震災が起きるまで暮らしていた「松本別荘」跡の現状。
◆写真中下は、1917年(大正6)の二科展で二科賞を受賞した岸田劉生『初夏の小路』。中左は、松林の砂道で写生する岸田劉生。中右は、1928年(昭和3)6月に撮影された14歳の岸田麗子。は、1922年(大正11)制作の岸田劉生『野童女』(部分)。
◆写真下は、1923年(大正12)に制作された岸田劉生『童女図(麗子立像)』(部分)。は、1930年代の前半に撮影されたキャンバスに向かう岸田麗子。は、1955年(昭和30)に次女の夏子をモデルに制作された岸田麗子『花と少女』(部分)。

佐伯祐三生誕120年記念シンポ+街歩き。

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 去る5月13日(日)の正午から、落合第一地域センター3Fの集会室で「佐伯祐三生誕120年記念」の講演シンポジウムと、地域センターを起点に下落合(現・中落合/中井を含む旧・下落合概念)東部に点在する佐伯祐三Click!描画ポイントClick!のほんの一部を回遊する、下落合の美術街歩きをご案内をさせていただいた。あいにくの雨にもかかわらず、街歩きの資料やマップが不足するほど、会場にはたくさんの方々が詰めかけてくださった。ありがとうございました。>参加されたみなさん。
 会場や街歩きで、ご挨拶させていただいた方々には、こちらでもおなじみの清水多嘉示Click!のお嬢様である青山敏子様Click!山口長男Click!のご子息である山口道朗様(山口様には貴重な資料をいただいた)、三岸好太郎・三岸節子アトリエClick!の保存をめざす中野たてもの応援団の塚原領子様、鈴木良三Click!の弟子で医師でもある画家の野口眞利様、松本清張Click!ばりのミステリーを書かれる高名な作家の方、児童文学の語り部の方、和のコンセプトで下落合・目白の街歩きをされているプロデューサーの方(一家でお越しくださった)、お父様が目白福音協会Click!に付属していた英語学校の中で日本語教室を主宰されていた方、有名な佐伯の書籍を出版されている著者の方々、美術家の方、地元・下落合にお住いの方々……など、多彩な人たちがおみえだった。
 また、この催しを企画してくださった、中村彝生誕130年記念パーティーClick!以来お世話になっている、元・新宿区議の深沢利定様と根本二郎様、新池袋モンパルナス「街のどこもが美術館」のプロデューサーである小林俊史様、そして吉住新宿区長に佐原新宿区議会議長(佐原様とは彝アトリエで少しお話させていただいた)、地元の町会関係の人たちなど、下落合でこれだけの方々がそろった佐伯祐三がテーマの催しは、おそらく佐伯祐三の歿後初めてではないだろうか? 米子夫人の実家・池田家で、夫人の歿後に遺品整理にも参加されている、つい先ごろ亡くなられた池田家の最後の証言者の方が不在なのは、非常に残念なことだった。佐伯の「制作メモ」Click!について、詳しくおうかがいする機会を逸してしまったままだ。
 わたしは教師ではないので、文章を書くのは好きだが大勢の人前でお話をするのが苦手なため、講演会は美術家の平岡厚子様Click!からの問いに答えるかたちで、対談シンポジウムのような形式で進めさせていただくことにした。いつだったかか、炭谷太郎様Click!のご紹介から慶應義塾大学Click!で開かれたシンポジウム(ゼミ)に呼んでいただき、そこでお話をさせていただいたのと同じ形式だ。平岡様は豊島区に在住の方で、地元各地に点在するアトリエ村Click!に集った画家たちを深く研究され、ご自身も現代美術のインスタレーション作家であり、教え子を抱えるデッサンの教授でもある。シンポジウムは予定時間(60分)をはるかに超え、わたしが微に入り細に入り詳細かつムダにしゃべりすぎたせいだろうか、1時間30分もかかってしまった。(汗)
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 プロジェクターで投影した、シンポジウム用のpptxファイルは、多数の作品画像や写真を用いたため111ページ(72MB以上)と膨大な容量であり、さすがにWebサーバへアップロードするのはためらわれるので、街歩きマップと街歩き資料のみをダウンロードできるよう設定させていただいている。当日、街歩きが雨の中で行われたため、マップや資料を濡らしてしまった方も少なくない。下記より、ダウンロードしていただければ幸いだ。
 下落合街歩きマップClick!(313KB)
 下落合街歩き資料Click!(7.12MB)
 街歩きは、資料には記載されていない場所も含め、以下のコースで実施させていただいた。下落合の佐伯祐三について現在判明している最新情報とともに、1930年協会Click!の画家たちを含めた、かなりマニアックな街歩きとなってしまった。
  
 今村繁三(画家たちのパトロンで今村銀行頭取)の終焉邸跡→第三文化村跡(不動谷/西ノ谷と青柳ヶ原)→吉田博アトリエ跡→青柳辰代(佐伯が「テニス」をプレゼント)邸跡→「八島さんの前通り」描画ポイント→木星社(福田久道邸)跡(特に青山様へ)→笠原吉太郎アトリエ跡(小川邸の門跡)→西坂・徳川義恕男爵邸跡(遠望)→東大総長の南原繁邸跡(遠望:特にミステリー作家の方へ)→八島邸跡→「八島さんの前通り」(北側からの描画ポイント)→鶴田吾郎アトリエ跡(遠望:関東大震災前)→佐伯祐三アトリエ(休憩)
 佐伯アトリエ→森田亀之助邸跡→里見勝蔵アトリエ跡→蕗谷虹児アトリエ跡→曾宮一念・佐伯祐三・清水多嘉示のトリプル描画ポイント(諏訪谷の北側)→曾宮一念アトリエ跡→セメントの塀痕跡→牧野虎雄・片多徳郎・村山知義・村山壽子アトリエ跡→高嶺邸(佐伯「セメントの塀」のモチーフ住宅)→「曾宮さんの前」描画ポイント(諏訪谷を南から)→「散歩道」描画ポイント(久七坂筋)→小林邸(遠藤新設計創作所による近代建築)→「見下シ」描画ポイント(池田邸跡)→「墓のある風景」描画ポイント→大正時代のアトリエ村ともいうべき鶴田吾郎・鈴木良三・鈴木金平・有岡一郎・服部不二彦・柏原敬弘アトリエ跡(下落合800~804番地)→タヌキの森(前田子爵邸の移築建築)跡と明治建築→夏目貞良(亮)アトリエ跡→九条武子邸跡→満谷国四郎アトリエ跡→三輪善太郎(ミツワ石鹸社長)邸・衣笠静夫邸跡(遠望:長谷川利行コレクション)
  
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 森田亀之助の旧邸跡・伊藤博文別荘跡(大倉山=権兵衛山)→相馬孟胤子爵邸跡=おとめ山公園(雨で休憩予定を中止)→竹久夢二アトリエ跡→林泉園と東邦電力住宅地跡(清水多嘉示の描画ポイント)→中村彝「目白の冬」その他の描画ポイント(一吉元結工場跡)→中村彝アトリエ(休憩)
  
 ……と、ここまできて雨が強まり、残り3分の1を残して街歩きは中止となった。残りのコースに興味がおありの方は、マップと資料をベースに後日、天気のよい日に歩いていただくということで解散。このあとは、林泉園つづきの谷戸=御留山(清水多嘉示「下落合風景」の描画ポイント)→安井曾太郎アトリエ跡→近衛篤麿邸跡→目白ヶ丘教会(遠藤新最後の設計作品)→近衛町(遠望:学習院昭和寮など)→近衛邸車廻し跡→夏目利政アトリエ跡→近衛文麿・秀麿邸跡→熊岡美彦アトリエ跡→伊藤応久アトリエ跡→佐伯が利用していた目白駅(地上駅)跡とめぐる予定だった。
 資料に記載した残りのポイント以外にも、松永安左衛門(東邦電力社長)邸跡、ヴァイニング夫人(平成天皇の家庭教師)邸跡、近衛町に残る1923年(大正12)築の藤田邸、学習院建設で遷座した八兵衛稲荷(豊坂稲荷)、エレベーター設置で消滅寸前の旧・目白駅のコンクリート階段……などなどの前を通過する予定だったので、そのエピソードともどもご紹介するつもりだったが、天候が許さずとても残念だ。立ち寄りポイントの詳細は、拙サイトで検索して参照いただければ幸いだ。
 また、今回は「美術」がテーマの街歩きだったので、文学や音楽の事績はほとんど省略させていただいた。特に文学に関していえば、下落合(現・中落合/中井含む)の東部・中部・西部、そして上落合と、講演や街歩きをテーマ別に3回実施しても、まだぜんぜん足りないぐらいだろう。それだけ、明治・大正・昭和を通じて夏目漱石から船山馨まで、新感覚派からプロレタリア文学、新戯作派、そして戦後文学まで近代文学史のエピソードにはこと欠かない、作家や文学者たちの宝庫なのが落合地域のもうひとつの“顔”だ。
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 今回は、下落合東部に散在する佐伯祐三の描画ポイントと散歩コースClick!、ならびに画家たちのアトリエ跡や描画位置をマニアックにめぐったが、実は佐伯に関していえば下落合西部(現・中落合/中井地域)の描画ポイントのほうが多いし、画家たちのアトリエは下落合西部も東部に劣らずたくさん散在している。もしこのような機会が再びあれば、今度は目白文化村Click!アビラ村Click!を中心に回遊する街歩きをやってみたい。ただ、街歩きも含め3時間をゆうに超えるプレゼンテーションは仕事上でも経験がなく、さすがに声も嗄れてクタクタになってしまった。w 早くこのような行事に、サーバと連携したRPAシステムやウェアラブルデバイスClick!が、活用できるようにならないかなぁ?

◆写真上:あいにくの雨の中、第三文化村を歩く街歩き参加者たち。(撮影:根本二郎様)
◆写真下:当日、プロジェクターで投影したpptxファイルの一部。(制作:平岡厚子様)
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