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美術展が起源らしい下町の怪談会。

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具足町角地.jpg

 今年は、4月末からすでに暑い夏日が断続的につづいているので、暦的には少し早いかもしれないけれど、(城)下町Click!の怪談記事をアップしてみたい。
 以前、1928年(昭和3) 6月19日(火)の午後6時から、新橋にあった料亭「花月」で行われた怪談会の模様をシリーズClick!でお伝えした。この怪談会の原型ともいうべき催しが、さかのぼること14年も前に京橋の北詰めで行われていたことが判明した。1914年(大正3)7月12日(日)の曇日、世間はお盆のまっ最中でホオズキ市が立ち、江戸東京へ働きに出てきた人たちにとっては、藪入りClick!がはじまったばかりの時節だ。
 怪談会が行われていたのは、日本橋区東中通りに面した具足町(現・京橋3丁目)の角地にあった美術店「松井画博堂」で、同店4階の展示場では幽霊画や化け物絵が100点以上も展示されている。画博堂の松井栄吉は、浮世絵の版元であり刷り師なので、江戸期からつづく浮世絵作品の展示も多かっただろう。つまり、美術展覧会に合わせて怪談会が開催されたわけで、当初はいわば真夏の美術展のオマケ的なイベントからスタートしていたのがわかる。この会に出席したのは、美術展とは切り離され、のちに新橋「花月」で毎年開催されるようになった怪談会のメンバーとかなり重複していることから、同会のプロトタイプではないかと思われるのだ。
 美術展の付随行事なので美術家の出席者が目立ち、黒田清輝Click!岡田三郎助Click!岡田八千代Click!、鈴木鼓村、岩村透、辻永Click!平岡権八郎Click!長谷川時雨Click!泉鏡花Click!柳川春葉Click!谷崎潤一郎Click!吉井勇Click!岡本綺堂Click!、坂本紅蓮洞、市川左団次、市川猿之助、松本幸四郎、河合武雄Click!喜多村緑郎Click!伊井蓉峰Click!、長田秀雄、長田幹彦、松山省三Click!など、作家や歌舞伎役者、新派俳優、当時の文化人など60名を超える大盛況だった。
 当日の様子は、出席者のひとり邦楽家で画家、随筆家の鈴木鼓村が、その一部を随筆にして記録している。1944年(昭和19)に古賀書店から出版された『鼓村襍記』収録の、鈴木鼓村「怪談が生む怪談」から少し引用してみよう。
  
 大正三年七月十二日、この日は、東京の盆の草市である。東京は新で盆をやるので、盆とはいえど梅雨あがりの、朝よりどんよりおおいかぶさった憂鬱な天気だった。家にいてもべっとりと脂肪汗がにじむようで、街全体がけだるく疲れていた。その日はかねてから計画のあった通り、日本橋区東中通り(略) 美術店松井画博堂の四階で化物の絵の展覧会が開会された(略)。当時在東京の色々な作者の作品が百余点以上も集まって、今は既に故人となった池田輝方氏及びその夫人の蕉園女史の、御殿女中か何かの素ばらしい幽霊の絵や、鏑木清方氏の物語めいたすごい大物が眼をひいた。私は半折の色々の化物を十枚出品していた。その中で精霊棚をかざって随分凝った嗜好が試みられていた。慥かその日の世話役が画博堂主人と奇人画家本方秀麟氏に、洋画家の平岡権八郎氏だったか? 表に直径五尺もある白張提灯等をつるしていた。
  
 この幽霊・化け物美術展と怪談会の世話役として、料亭「花月」の息子である文展画家の平岡権八郎Click!の名前がすでに挙がっていることから、おそらく画博堂が店じまいをしたとみられる1917年(大正6)以降に、毎夏恒例の怪談会を彼の実家である新橋の「花月」へ引っぱってきたのではなかろうか。
 この日の怪談会は、わずか5話でお開きになっている。鈴木鼓村の「怪談が生む怪談」によれば、伊井蓉峰の弟子のひとりで新派俳優の石川幸三郎が語る4話めと、飛び入りで参加した万朝報の営業部員・石河某という老人が語る5話めの途中で、怪談会は終わり散会してしまった。なぜなら、5話めの怪談を語ろうとした万朝報の石河某が、話の途中で卒倒して意識不明となり、そのまま2週間後に高輪病院で死亡してしまったからだ。
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プランタン店内記念写真.jpg

 新派の石川幸三郎が4話めに語った怪談とは、ドサまわりの旅役者をしていたとき興業先の茨城県真壁町で知り合い、東京へ連れ帰って三越で銘仙を買ってやると騙してよい仲になった、「聾唖」(聴覚障害)で17歳になる娘の怨念話だった。娘はくっついて離れず、東京ではなく次の興業先である群馬県高崎町へいくために汽車に乗ることもできず、幸三郎はまったく途方に暮れた。同書から、再び引用してみよう。
  
 『困ったものを背負い込んだな』 そう思いながら娘の顔を見ると二、三日前にゆうた引つめの銀杏返しが藁をたばねたように雑然とあれてその下に白粉のはげた顔が、眼がどんより鈍いどよみを覗かせています。大正絣の垢じみた袢纏にちびた日和下駄と、嫌となったら何もかも徹底的に嫌なものに感じられます。『こんな女をどうして人前に出せるだろう』とつくづくその時愛憎(ママ:愛想)がつきました。(カッコ内引用者註)
  
 幸三郎は、そんな着物では東京へ連れていけないというと、娘は「家へ帰ればメリンス友仙の羽織」に「金も六円余りはためて」あると答えた。彼は、待っているから一度家までもどって着がえてくるようにと、娘をなんとか説き伏せて帰した。
 娘の姿が見えなくなると、幸三郎は一目散に鉄道駅へ駆けつけ高崎行きの汽車に飛び乗った。暮れのうちに高崎へ着くと、芝居の初日は翌正月の2日に予定されていた。
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国貞(三代豊国)「四谷怪談戸板返し」1831.jpg

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国周「番町皿屋敷お菊亡魂」1863.jpg

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二代豊国「小幡小平次」1830.jpg

 やがて1月2日の昼間、高崎の街を役者たちが俥(じんりき)を連ねて練廻りしているとき、利根川の土手を走っていると幸三郎は人だかりを見つけて俥をとめた。イヤな胸騒ぎがして人だかりを観察していると、どうやら岸辺に土左衛門が上がったらしい。
  
 見るともなく車の上から見ますと水死人らしい死体の上に筵が一枚かけてあってその筵の下から細い青白い二本の足がニュッと出ています。私は無意識でした、どうして車から飛下りたのやら――筵をまくって水死人の顔をのぞき込んだのやら――、筵の下には紅のはいった派手なメリンス友仙の羽織を着て、びっしょりぬれた髪の毛を無念そうに口に咬えた蝋細工のような顔。/『アッ!』 私は立すくみました。その眼はまだ生きているのでしょうか、私を睨みつけているその眼は……
  
 高崎まで追いかけてきた娘は、そこで絶望し利根川に入水して果てたようだ。それからというもの、舞台に楽屋に、風呂場に寝床にと、娘は執拗に幸三郎の身辺に現れつづけている……という、よくありがちな怪談話だった。石川幸三郎は、「人間の最後の恨みほど恐ろしいものはありません」と話を締めくくっている。
 ところが、つづいて予定されていた5話めに移ろうとしたとき、横合いから飛び入りで参加した老人が、「ええ本当に人間の恨みほど恐ろしいものは有りません」と急に話を継いだ。この人物が、万朝報の営業部につとめる石河某で、幕末、薩摩によって暗殺された田中河内介綏猷(やすみち)の話をはじめた。
 石河某は、自身が暗殺にかかわった刺客のひとりであることを告白し、泉鏡花が事件の仔細な様子を質問をしているうちに、いきなり高座から卒倒してしまった。「田中河内介」の名前を繰り返すうちに、舌がもつれて昏倒していることから、泉鏡花の問いに興奮したあげく、なんらかの脳疾患を発症したのではないかと思われる。
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国芳「真景累ヶ淵累亡魂」1834.jpg

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周延「鍋島化猫騒動」1886.jpg

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月岡芳年「牡丹灯籠」1891.jpg

 飛び入りの老人が、「田中河内介」の名を口にしながら倒れたので怪談会は一同騒然となり、怖がった参加者たちは散々に帰っていった。鈴木鼓村ら残った人たちは老人を座敷に寝かせたあと、万朝報社へ電話で問い合わせ当人の自宅が判明すると、翌朝、画博堂の主人が京橋南町の石河宅へと俥で送っていった。石河某は、すぐさま高輪病院へ入院したが「田中河内介」の名前をうわごとで繰り返すと、同年7月26日に死亡している。

◆写真上:美術展「松井画博堂」があった、東中通りは具足町角地の現状。
◆写真中上は、「怪談が生む怪談」の著者・鈴木鼓村。は、銀座の喫茶店「プランタン」の記念写真で怪談会のメンバーとかなり重なる。前列には松山省三や市川猿之助、平岡権八郎、後列には鈴木鼓村や辻永の姿が見える。
◆写真中下は、1831年(天保2)に描かれた国貞『東海道四谷怪談』Click!の「戸板返しの場」。は、1863年(文久3)に制作された国周『番町皿屋敷』Click!の「お菊亡魂」(部分)。は、1830年(文政13)に描かれた二代豊国『小幡小平次』(部分)。
◆写真下は、1834年(天保5)に制作された国芳『真景累ヶ淵』の「累亡魂」(部分)。は、1886年(明治19)に描かれた周延『佐賀(鍋島)化け猫騒動』Click!(部分)。は、1891年(明治24)に制作された芳年『牡丹燈籠』Click!(部分)。

燃料研究所に隣接した「川口文化村」。

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川口文化村共同浴場.jpg

 以前、下落合の近衛町Click!を開発した東京土地住宅が、つづけて林泉園の周辺を近衛新町Click!として販売しはじめたところ、東邦電力の松永安左衛門がすべての分譲地を買い占めてしまい、そこに松永の自邸をはじめ会社の幹部宅や、家族のいる社員向けに社宅を建設している経緯を書いた。東邦電力は、1922年(大正11)の夏に用地を取得しているので、社宅は大正末から昭和初期にかけて少しずつ建てられていったとみられる。林泉園Click!の西側と南側に展開した東邦電力の社宅Click!は、すべてが西洋館仕様のオシャレでモダンな雰囲気が横溢していた。
 大正の後期になると、東京の郊外にまるで目白文化村Click!洗足田園都市Click!をまねた、文化住宅風の社宅やアパートメントを建てる企業が出はじめている。あるいは、社員が出勤する利便性を考え、企業の本社や工場のある敷地周辺の土地を買収し、まとめて社宅を建設するケースも見られた。これは企業ばかりではなく、官公庁の舎宅建設でもその傾向が顕著になりつつあった。
 京浜東北線・川口駅西口の川口町に、農商務省の燃料研究所が建設されたのは1921年(大正10)のことだ。その直後から、燃料研究所を取り巻く敷地に、研究所職員のための舎宅が建設されはじめている。燃料研究所では、舎宅を洋館にするか和館にするかで、職員たち全員にアンケート調査を実施している。その結果、和館の要望が多数を占めて、燃料研究所の舎宅群は和風建築が主体となった。ただし、舎宅の共有施設であるクラブハウスや共同浴場などは、すべて洋風のデザインが採用され建設されている。
 地元では、燃料研究所の舎宅街のことを、その設備のよさから「川口文化村」と呼んでいたようだ。すべてが和風建築なのに、「文化村」と呼ぶのは奇異な感じがするのだが、そう呼ばれてしかるべき先進の設備や仕組みを取り入れていた。燃料研究所が掲げた舎宅建設のコンセプトは、「よく働く者はよく遊ばなければならぬ、偉大なる仕事を要求するためには偉大なる遊楽を与へなければならぬ、而もそれが単に当事者にばかりでなく家族全体を包容しなければならぬ」というものだった。これにもとづいて建設されたのが、森林に囲まれた自然公園が付属する「川口文化村」だった。
 「川口文化村」の訪問記が、同年に発行された「主婦之友」3月号に残されている。
  
 小さな文化村
 汽車が埼玉県川口町駅に進入すると、すぐ構外にある白い建物が車窓に映ります。これが農商務省の燃料研究所で昨年竣成したものであります。この白亜館の前後に一風変つた住宅が冬木立の間に散在し、或は建築されつゝあるのが目につきます。荒涼たる平野の一部に富士の白峰を背景として、温か味に富んだ赤瓦の屋根が大小入り雑つて、それが何れも一定の方向に斜角をなして規則正しく列んでゐます。まだ二十戸ぐらゐしかできてゐませんが、四十戸ぐらゐは立ち並ぶ予定であります。この住宅に囲まれて中央に共同浴場(略)や倶楽部の建物が目を惹きます。このあたり一帯が共同庭園となるので、それから入口にかけて、八間幅の道路が一直線に貫いて、両側に並木を、中央に街燈を配置して巴里のシャンゼリゼー街を偲ばせるやうな美観を添えたいといふ計画でありますが、只今はその埋立工事中であります。/道路ができ庭園ができた暁には、これらの住宅全部が楽園に包まれることになります。
  
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農商務省燃料研究所1921.jpg

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川口文化村1936.jpg

 現在の川口駅西口からは、想像もできない情景なのだが、実際に写真も残っているので計画どおりに建設されたのだろう。1936年(昭和11)の時点でさえ空中写真を眺めてみると、駅前の緑ゆたかな「川口文化村」を確認することができる。
 住宅のタイプは、甲号・乙号・丙号・丁号と規模が異なる4種類が設計されている。甲号住宅は所長や役員たちとその家族が入居し、乙号住宅は上級管理職、丙号住宅は下級管理職か一般研究員、丁号住宅は一般研究員か判任官雇員、職工など、その様式によって各戸が住み分けられていた。建築費は、乙号住宅で4,850円、丁号住宅で2,650円だったという。
 「川口文化村」と呼ばれた理由は、生活スタイルが既存の住宅街とは大きく異なっていたからだ。まず、住宅の中心に共同炊爨所(給食センター)を設置し、希望する家庭に戸別配達するシステムを採用している。「主婦之友」が取材した時点では、まだ昼食のみの支給だったが、朝食や夕食を配達する仕組みづくりを準備している。これにより、希望する家庭では主婦の労働がかなり低減されることになった。燃料研究所の食堂では、共同炊爨所で調理した料理が出され、大正デモクラシーの世相を反映してか、所長から職工までが同じ部屋のテーブルで食事をしている。
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主婦之友192203.jpg

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燃料研究所食堂.jpg
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川口文化村縁の下.jpg

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川口文化村乙号住宅設計図.jpg

 天候に関係なく、洗濯物をすばやく乾かせるよう、燃料研究所の汽罐室の余熱を利用した乾燥室の設置も計画されている。また、丁号住宅には浴室がないので共同浴場へ通うことになるが、甲・乙・丙号住宅には浴室が付属しているものの、気分転換に広い共同浴場を利用することもできた。
 電気に水道、ガスなどの生活インフラが完備され、特にガスは燃料研究所の工場で生産したものが各戸に支給されるので、一般のガス会社のものより格安で利用できた。なお、目の前には緑が繁る庭園があるので、特に広い庭は設置されなかったようだ。
 同誌から、舎宅の風情についての記事をつづけて引用してみよう。
  
 日当りと風通しのよい家
 住宅は何れも東南向きとなつてゐます。そのために道路に沿うて、ある斜角をなして列んでゐることになります。これがために何の家も皆日光を十分に受けて、何の室一つとして日の当らないところはないのであります。少くとも一日一回は万遍なく日光が見舞つてゆきます。それで室中が明るくて風通しがよく、冬は温かで夏は涼しくできてゐます。それに床が高くて大人でも立つて肘がかゝる位であります。(中略) 床下の羽目板は板と板との間を隙して空気の流通をよくし、湿気を防いであります。/縁側には硝子戸をはめ、窓も出入口も皆硝子戸になつてゐます。すべて日本風の建築でありますが、これは所員の希望に基づいたもので、最初は和洋何れにすべきかゞ大分問題であつたさうですが、やはり習慣上日本住宅の希望が多かつたために、かうした形式をとるやうになつたさうであります。
  
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川口文化村丁号住宅.jpg

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川口文化村丁号住宅設計図.jpg

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川口文化村1947.jpg

 「川口文化村」では、さまざまな娯楽施設の建設も予定されているが、「市中の低級な娯楽」を駆逐するとかで、「洗練された高雅な娯楽施設」の設置を計画している。「主婦之友」の記者が取材したときは、いまだ計画中で明らかにされていないが、その後、どのような施設が設置されたものだろうか。テニスコートや運動場はあったと思うのだが、大正末から昭和初期に大ブームとなるビリヤード場や映画館も、川口駅前という立地からほどなく建設されたのではないだろうか。

◆写真上:舎宅街の中央に設置された、木立の中の洋風共同浴場。
◆写真中上は、竣工当時の農商務省燃料研究所。は、林に囲まれた「川口文化村」の舎宅街。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「川口文化村」。
◆写真中下は、1922年(大正11)に発行された「主婦之友」3月号の記事。中左は、職員全員が昼食をとる燃料研究所の食堂。中右は、湿気を防ぐために縁の下が1mを超える設計の舎宅。は、燃研幹部用の乙号住宅設計平面図。
◆写真下は、一般職員用の丁号住宅。は、丁号住宅の設計平面図。は、1947年(昭和22)に撮影された「川口文化村」で空襲の被害をあまり受けていない。

村山籌子の「三角アトリエ」レポート。

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村山知義アトリエ跡.JPG

 村山知義・籌子夫妻Click!が住んでいた、上落合186番地の三角アトリエClick!について、室内を詳しく紹介した文章を見つけた。アトリエ内の各部屋について、細々としたことまで詳細なレポートを書いているのはほかでもない、そこで暮らしていた村山籌子(かずこ)Click!本人だ。レポートは、1924年(大正13)8月5日に書かれており、どこか訪問記風な表現となっている。
 村山知義が、渡欧前に「たった千円」で建てた家に、自身の設計でアトリエを増築したのは1923年(大正12)5月のこと。村山(岡内)籌子と自由学園明日館Click!で結婚式を挙げたのが、翌1924年(大正13)6月15日なので、彼女のレポートは三角アトリエが竣工してから1年3ヶ月後、村山知義との新婚生活51日目のことだった。
 上落合186番地の「三角の家」は、アトリエ(変形10畳サイズ)に食堂(約4畳半でのち客間を合併して拡大?)、台所(食堂とほぼ同サイズ)、村山知義書斎(約6畳サイズ?)、村山籌子書斎(通称「勉強部屋」で中2階にあり約3畳サイズ)、風呂場(狭く1畳半ほどか?)、便所(五~六角形の妙な空間)、そして庭はかなり広くて多彩な樹木が植えられ、一部はトマト畑などの家庭菜園になっている。また、庭の一画には、村山知義の母親と弟が住む別棟が建っていた。
 村山籌子のレポートが掲載されたのは、1924年(大正13)に発行された「婦人之友」10月1日号(第18巻第10号/婦人之友社)に掲載の村山籌子『三角の家より』だ。さっそく、アトリエ内にある各部屋の様子を、実際に暮らしていた彼女にレポートしてもらおう。
  
 画室のこと/画室だけは、割合に大きくて、十畳敷位の板の間で、まるで工場のやうに荒れ果てゝゐる。方々に、柱のやうな、三角の長い隠戸棚がついてゐて、そのなかには、物尺や、絵具や、丈木や、紙や、原稿や、エハガキが、乱雑にはいつてゐるので活動写真の、変な仕掛のやうな気がして、誰もゐなくなると、一つ一つ開けてみたり、しめてみたりして、考へ込んでしまふ。本棚には、一杯本がつめこんである。壁には、壁画だの意識的構成主義の、髪の毛だの、コンクリートだの、切だの、人形だののぶらさがつた絵が一杯かけてある。そして、何でもかんでも、木の切でも、手袋の片輪でも、針金でも、空瓶でも蓄めこんであるから、物置みたやうで手がつけられない。そして、私が、時々、きたないものを、捨てようとすると、早速おこられてしまふ。
  
 村山知義アトリエの「惨状」が、目に見えるようだ。壁に架けられた木製キャンバスから、髪の毛が生えていたり人形がぶらさがっていたりしたら、夜は怖くてアトリエに入りたくないだろう。それでも片づけたい村山籌子にしてみれば、「これってゲージュツ? それともゴミかガラクタ?」と、いちいち確認したくなったにちがいない。
 モノがなくなると、村山知義は妻のせいにして探させ、「早く。早くつたら。何て、仕末の悪い人間だらう。ものをきれいにする性質なんかちつともないのね」と、自分の整理が悪いのを棚にあげ、ちょっと気持ちの悪いおネエ言葉でマヴォを、いや、ダダをこねたりしている。w
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村山知義自由学園結婚披露19240615.jpg

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村山アトリエ1924.jpg

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村山アトリエ内部1925.jpg

  
 食堂のこと/四畳半位で、矢張り板の間で、四角でない形をしてゐるので、敷物を買ふにも、うつかり買へない。壁には、意識的構成主義の大きい壁画がある。その壁画は随分いゝもので、部屋一杯にひろがつてゐる。そんな小さい部屋で、大きい窓一つに戸が五枚もついて外へ開いてゐる。朝晩その、工合の悪いねぢを、開けたり閉めたりする。カーテンが汚いので、取りかへようと、夏地まで、たつてあるのに、まだこしらへないので、時々、はつと立ちどまつて、「おや、夏は、もうすみさうになつてゐるのではないかしら。」と驚く。
  
 「なまけ者。早く、カーテンをぬひなさい。遊んでばかりゐて。勉強をするなら、勉強をしなさい。」と村山知義にいわれ、「ぢや、勉強を致します。」ということになり、結局カーテンは汚れたままいつまでも食堂に吊るされていた。
  
 台所のこと/母さんと、弟の忠夫さんは、私が来た時から、すぐ裏の家に行つてしまつたけれど、お台所は一緒につかつてゐる。私が何でも散らかしまはり、その上、始末が悪いので、母さんの心配も一通でない。あまり、自分がだらしがないので、非常に重々しく台所と自分の性質を考へて、おそろしくなつて来ると、大急ぎで流しをきれいにして、たわしでこすつて、清潔になると、特別、楽しみ深く、美しいものをしたやうな気になつて、感じいつて見てゐる。性質として、何でも、自分はさういふ風な感じ方をするのだけれど、こんな風では、おしまひには、一体、どうなるかしら、今のうちに直さなくては、私は、もう、どうにもならなくなる。と、慄へあがつて考へるのだけれど、こんな風に、心の内で真実に感じたことは、黙つてゐて、決して誰にも話さない。話したいのだけれど、言ふと気がぬけて、ほんとにならない気がするので、だまつてゐる。
  
 台所を清潔に保ったり、整理整頓ができない……と村山籌子は悩んでいる。料理は下手でない自覚はあるが、ときどき妙な料理をこしらえては食べ残されて落胆している。要するに、勝手全般のきりもりが面倒で苦手だったらしい。勝手口を訪問する、御用聞きClick!の相手もあまり得意ではなかったようだ。
 のちに、「母さん」こと彼女の姑が「籌子さんが、口をきいてくれないの」と村山知義に訴える“事件”が発生するが、その原因はこの共同で利用していた台所あたりにありそうだ。オカズコ姐ちゃんClick!にしてみれば、よほどアタマにくることがあったのだろう。
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村山アトリエ平面図.jpg

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村山知義・籌子夫妻1927頃.jpg

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村山籌子1926.jpg

  
 勉強部屋のこと/台所の真上の屋根部屋が私の勉強部屋になつてゐる。勉強部屋から首を出すと、下は食堂で、活動写真館の二階のやうに見える。勉強部屋は三畳位の広さで、大きい足音をたてると、床が、きいきいなる。食堂の脇に、その、階段があるけれど巾が、二尺位しかない。なかなか細くてひぢがつかへさうで、危いやうだけれど、馴れて来ると、自由に上り下りが出来る 風通しがよくて、静かで、勉強部屋にはとてもよくて、屋根裏の詩人とか哲学者とか、連想がいゝので、すつかり喜んで「これは、いつまでたつても、私の部屋だから。」と、念に念をおして、誰も上へあげないで、ひまがあると、上にあがつて原稿紙をまるめたり、勉強したりしてゐたけれど、此頃は、御用聞が来て、上り下りが度々なので、たうたう台所の隅に本を重ねて、第二の勉強部屋にしてしまつた。
  
 村山籌子は、自身の書斎のことを「勉強部屋」と呼んでいる。上り下りがたいへんなことを夫に訴えると、御用聞きがきたら2階から怒鳴って用件を聞き、とどけものがあれば2階から滑車を使って受け取れるようにしよう……などといっている。
 ちなみに、村山知義が1974年(昭和49)に『演劇的自叙伝2』へ掲載した三角アトリエの平面図では、2階にあった村山籌子の書斎=屋根部屋が省かれて描かれている。「いつまでたつても、私の部屋だから」と宣言した屋根裏の書斎だったが、昭和初期の村山邸全面リニューアルで消滅したのではないかと思われる。
  
 其他のこと/湯殿は少しせますぎる。湯殿に丈は、ちつとも特徴がない。あつても、なくても、別に大したことにはならないやうな平凡な部屋だけれど、それが、意識的構成主義からいつていゝことかも知れない。便所は、矢張り、五角か、六角か、変な形をして、戸のハンドルが逆にまはると開き、普通開けるやうにねぢると、閉るやうになつてゐる。玄関も、細くて変則な六角形をしてゐる。そこにも、絵だの、がらくたが山のやうに積んである。庭は割合に広くて、桃、無花果、葡萄、柿の木がある。今トマトが大分大きくなりかゝつた。母さんが大切にしてゐる。
  
 まともな湯殿はともかく、ドアノブを反対にまわすと開く5~6角形のトイレや、玄関の間も6角形をしているなど、もう十分にマヴォでダダだ。
 この広い庭があったせいで、一家の副収入を考えたのだろう、村山家では大正末ごろから敷地内へ賃貸アパートの建設を含めた、自宅のリニューアル計画を実施することになる。「美術年鑑」によれば、1927年(昭和2)から1930年(昭和5)ごろまでの4年間、村山夫妻はアトリエ兼自宅を下落合735番地Click!に移している。
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村山籌子・村山知義下落合2.jpg

 村山夫妻が下落合で暮らしていた1927年(昭和2)3月の初め、「アサヒグラフ」のカメラマンが画室の夫妻をとらえた、書籍などにもよく掲載される写真が2葉残されている。このカメラマンは、前年の1926年(大正15)9月1日、二科展に入選した佐伯祐三・米子夫妻Click!を下落合661番地のアトリエで撮影したのと同一人物の可能性が高そうだ。

◆写真上:月見岡八幡社跡(現・八幡公園)へと抜ける、村山アトリエ(右側)前の小道。
◆写真中上は、1924年(大正13)6月15日撮影の自由学園明日館における村山知義・籌子夫妻結婚披露パーティの様子で、正面に新郎新婦がとらえられている。は、上落合186番地に建っていた「三角の家」こと村山知義・籌子のアトリエ。は、アトリエ内部を1924年(大正13/)と1925年(大正14/)に撮影したもので、下右に写っているのは村山知義と生まれたばかりの村山亜土Click!
◆写真中下は、1974年(昭和49)出版の『演劇的自叙伝2』(東邦出版社)に掲載された三角アトリエの平面図。中左は、1925年(大正14)ごろに撮影された村山知義。中右は、1927年(昭和2)に撮影された村山夫妻で下落合のアトリエかもしれない。は、1926年(大正15)にスケッチされた村山知義『村山籌子と亜土』。
◆写真下は、1923年(大正12)に撮影されたアトリエで踊る村山知義。は、1927年(昭和2)3月の初めに下落合735番地のアトリエで撮影された村山知義・籌子夫妻。

曾宮一念が語る怪談好きの田辺尚雄。

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 いまから10年ほど前、拙記事にロックケーキさんClick!が、また昨年にはお名前は不明だが下落合に住んでいた田辺尚雄Click!について、重ねてコメントをお寄せいただいた。少し前の記事Click!で、取り上げるテーマや人物について美術や文学のカテゴリーばかりでなく、これからは音楽分野についても触れていきたいと書いたばかりだ。
 そこで、今回は東洋音楽研究家の田辺尚雄について少し書いてみたい。田辺家は、大正時代から目白通りを北側へとわたった、下落合546番地に住んでいる。下落合540番地にあった、大久保作次郎Click!アトリエの3軒西隣りだ。音楽を研究対象にしているが、田辺尚雄は帝大の理学部物理科を卒業し、物理学の教師をしていた人物だ。田辺が音楽に興味をもったのは、大学院時代に専攻した音響心理学に起因しているのだろう。のちに、田辺は物理学の教師に加え、東京音楽学校(現・東京藝大)でも教鞭をとっている。
 1936年(昭和11)に、アジアに伝わる民族音楽の研究を中心に行う東洋音楽学会を設立し、同会は現在でも上野で活動をつづけている。1983年(昭和58)より、優れた研究論文には田辺尚雄賞が授与されているようだ。また、音響学をベースにした楽器の発明者としても知られ、大正期には中国の胡弓または日本の三味、西洋のチェロとを合体させたような「玲琴」を発明している。いかにも理系の音響学を基礎にした、音が効率的に鳴り響くような設計の新楽器だが、あまり普及しているとはいえない。
 f型孔つきの、チェロをコンパクトにしたような台形の箱胴に、胡弓または三味に似た竿をつなぎ合わせ、駒上には3本の金属弦を張ってチェロのアルコで弾くという、そのメンテナンスだけでもどこの楽器店へもっていけばいいのか不明な、特異な形状や仕様をしている。音色は、ビオラとチェロの中間のような響きで、弾き方にもよるのだろうがアジアの物悲しい郷愁を誘うようなサウンドで鳴る。西洋楽器風に演奏すれば、またちがった音色で響きそうな、演奏者の腕に依存するデリケートな楽器のように思える。
 田辺尚雄は、怪談がなによりも好きだった。授業のはじめや合い間には、落語や怪談話をよく聞かせては、生徒たちを喜ばせている。1909年(明治42)に、当時は四谷区南伊賀町(現・新宿区若葉)に住んでいた、中学4年生になる曾宮一念Click!の証言から聞いてみよう。田辺尚雄は明治末、早稲田中学校Click!の物理学教師をしていた。1985年(昭和60)に文京書房から出版された、曾宮一念『武蔵野挽歌』から引用してみよう。
  
 新しい洋服を着た先生は色白の面長の美男子で四十近くに見えたが、私より十上だから二十七、八歳であった筈である。第一時間目にはギリシャの哲学者、数学者から音楽家、楽器の変遷、ついで日本物理学者の系列では田中館、寺田、つまり東西科学史を略述し、最後に「田辺尚雄がつづく」と少し頬笑んで話した。我々は烟に巻かれながら先生の小声を静粛に聞いた。ここに先生が少し頬笑んだと記したが、声を出して笑ったことも叱ったこともなかった。笑わない先生はつまらないどころか、一時間が知らぬ間に終るほど面白かった。講義が面白くて騒がぬから叱る必要もなかった。私は科学系は苦手でも田辺先生の時間をたのしみにした。物理そのものはみな忘れたのに、余談や落語の枕とも言えるものは今も憶えている。馬の話から先生は「私の顔も伸びすぎて途中で半分曲がりました」、よく見ると心もち左へ曲って見えた。これから怪談に移った。
  
 文中の「田中館」は、帝大を退職する際に中村彝Click!肖像画Click!を描いた田中館愛橘Click!であり、「寺田」はその教え子だった寺田寅彦Click!のことだ。
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 田辺尚雄が授業で取り上げた物語は、米国で起きた列車事故で死傷者がたくさん出ているのに、後部車両の乗客がそれに気づかず眠っていたのは、列車の連結バネが優れた設計だったのだろうとか、米国の山火事に遭遇した日本人が数年後に渡米すると、いまだに延焼中だったというようなエピソードだ。また、近く地球に接近するハレー彗星について生徒が質問すると、周期的に太陽系へとやってくる彗星の宇宙での軌跡を描いて説明したが、当時の中学生たちにはよく理解できなかったようだ。
 今日の高校で教える「物理」の授業よりも、はるかに面白そうな内容だったのが曾宮の文章から伝わってくる。早稲田中学を卒業した曾宮一念は、東京美術学校へと進んでしまうので物理学とは無縁になるが、なぜか恩師とは偶然も含めてときどき遭遇している。つづけて、曾宮の同書より引用してみよう。
  
 私は挨拶もせずに卒業して後、二度先生に会った。一度は大正四年頃、本郷会館で先生が手巻蓄音機で西洋音楽の説明をした時で、少女姿の中条百合子が来ていた。次は目白駅近くのバスで先生と偶然同席した。或いは一時学習院に出講の帰途であったか。/大正十年私は落合村にうつった。先生が同じ落合に居ることを知ったのは昭和の初めで、友人長尾雄が田辺先生の隣と知った。彼に連れられて一度先生の門を潜った日は不在で、その後無沙汰のままに過ぎた。どうして田辺先生を訪ねなかったのか、決して怖れも嫌いもせず、一つには私が不明の頭痛病にて鬱病を伴っていたからである。
  
 文中に登場する、曾宮の友人である長尾雄とは田辺尚雄邸の東隣り、すなわち下落合542番地に住んでいた長尾収一の息子のことだ。長尾邸は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にも収録されており、東西を大久保アトリエと田辺邸にはさまれた敷地にあたる。長尾雄は、昭和初期には慶應大学の教授をしており、「三田文学」に参加してのちに小説やエッセイ、演芸評論などを手がける文筆家だ。Image may be NSFW.
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 父親の長尾収一は、陸軍の軍医だった人物で、在郷軍人会落合村(町)分会を組織したり町会「協和会」の会長をつとめており、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』にも写真入りで、息子の長尾修ともども紹介されている。『落合町誌』より引用してみよう。
  
 正五位勲三等功四級/在郷陸軍一等軍医正/協和会長  長尾収一  下落合五四二
 氏は鳥取旧池田藩士にして、万延元年を以て出生、若くして笈を負ふて東上し、明治十四年内務省医術開業試験に合格し、同十六年陸軍々医学校を終了す、而して同十七年陸軍三等軍医に任ぜられ同四十二年一等軍医正に累進す、(中略) 退職後は専ら現地に在りて田園生活に浸つてゐたが落合在郷軍人分会の組織に率先して協賛し、その設立に寄与し会長たること二度、克く同会の基礎時代に盡瘁せり、現に協和会々長に推され今尚ほ公的信望を収む。家庭夫人は子爵石山基弘氏の伯母君に当られ、嗣子雄氏は慶應大学英文科の出身にて現時同校教授たり。
  
 ちなみに、田辺尚雄は残念ながら『落合町誌』(1932年)には収録されていない。
 なぜ、訪問好きな曾宮一念が、田辺邸の訪問をたった一度だけでやめてしまったのかは、病気のせいとしているものの不明だ。曾宮は大正中期、田辺邸近く下落合544番地の借家Click!に住んでいたこともあり、周囲の街並みには馴染みがあったはずだ。田辺尚雄は教え子が訪ねてきたら、またなにか物語を語って聞かせていたのではないかと思うとちょっと残念だ。昭和初期のこの時期、田辺は音楽に関する研究へ本格的に取り組んでいたころであり、物理学のみならず音楽に関連した面白いエピソードを、たくさん知っていたと思われるからだ。
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 音楽にまつわる怪談や、地元の落合地域で語られていた幽霊・化け物譚などを、田辺尚雄は仕入れていやしなかっただろうか。少年だった曾宮一念が「物理」の授業中、目を輝かせながら聞き入っていた田辺尚雄の怪談だが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:下落合546番地に住んでいた、東洋音楽研究家・田辺尚雄の旧居跡。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる田辺尚雄邸と長尾収一(長尾雄)邸。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にとらえられた田辺邸。
◆写真中下上左は、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』収録の長尾収一。上右は、1985年(昭和60)に出版された曾宮一念『武蔵野挽歌』(文京書房)の表紙。は、下落合542番地にあった長尾収一・長尾修邸跡(左手)の現状。
◆写真下上左は、1951年(昭和26)に音楽之友社から出版された田辺尚雄『音楽音響学』。上右は、晩年の田辺尚雄。は、1951年(昭和26)に「沖縄芸術使節団」の一員で沖縄を訪問した田辺尚雄(右から3番目)。田辺尚雄からひとりおいて左隣りには、「下落合風景」を描いた落合在住のニシムイClick!の洋画家・南風原朝光Click!の姿が見える。

日本民話の会と「学校の怪談」。

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 わたしは、拙サイトで落合地域に現存する(した)店舗や企業の“宣伝”記事を意識的に書いたことは、過去に2~3件ほどしかなかったと思う。ひとつは、江戸期とあまり変わらない製法で胡麻油を製造している小野田製油所Click!と、なにかと原稿書きなどでお世話になった「カフェ杏奴」Click!などだ。きょうは加えてもうひとつ、企業でも店舗でもない組織(団体)の「日本民話の会」を加えてみたい。
 先日、「佐伯祐三生誕120年記念」の講演会+街歩きClick!には、日本民話の会の方もおみえだったようなので、印象深い同会の活動について少し書いてみよう。日本民話の会は、日本全国にわたる多彩な催しや、さまざまな語り部たちが紡ぎだす物語・フォークロアの類を記録し、出版する組織としてあまりにも有名だ。
 日本各地に残る多種多様な物語を採取したり、先の戦争や東日本大震災で生まれた物語などを記録しているので、わたしもその何冊かは目にしている。拙サイトには、地元の古老から取材した口承伝承や、この地域で生きていた人々が紡いだエピソード、地域に眠る物語などを発掘して記録するという側面があるので、どこか日本民話の会の仕事と相通じるところがあるように思う。もっとも、同会の記録作業は日本国内をとうにスケールアウトして、海外の民話や昔話、フォークロアにまで及んでいるのだが……。
 先の戦争の加害や被害については、これまでわたしの家族の体験Click!も含め、(城)下町や乃手Click!を問わず数多くの物語を取りあげてきている。戸山ヶ原Click!の陸軍施設を抱え、「軍都」とも呼ばれた新宿地域には、膨大な戦争にまつわる伝承が眠っている。おもに二度にわたる大空襲Click!で、現在の新宿区エリア(旧・牛込区/四谷区/淀橋区)は全区域の8割以上が焦土と化し、約6,700人が死亡している。また、1945年(昭和20)8月15日から数日間、戸山ヶ原Click!の陸軍施設や市ヶ谷の参謀本部では、膨大な資料が証拠隠滅のために焼却され、発生した大量の煙の量だけ加害の歴史があったのだろう。
 また、明治になって最大の火災である両国大火Click!東京大洪水Click!は個別に紹介しているが、関東大震災Click!については下町と乃手を問わず、繰り返しここで取りあげてきた出来事だ。15階までとどくハシゴ車が1台しかなく、あとは10階までがせいぜいの現状で、それ以上の階数がある高層マンションの火災をどうすればいいのか。また、大震災が起きた場合は地割れや家屋倒壊、駐車列などで道路が機能せず(関東大震災時がそうだった)、そもそも緊急車両が現場にいきつけない問題(東日本大震災で現実化した)や、水道管の破断により消火栓が機能しないのはどうするのか。1964年(昭和39)に開催された東京オリンピックの前後、河川や運河を埋めてしまい消火用水が確保できないのはもちろん、水運による救援物資ルート(関東大震災では最大限機能した)がなくなり、延焼止めや避難場所として設けられた広場や公園などの防災インフラが消滅したのをどうするのか……etc.。まったく誰も、なにも考えていない現状に愕然とする……というような記事を、これでもかというほど書いてきた。
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 これらの課題に対する“気づき”や問題意識、リスク管理意識は、被害に遭った肉親を含め語り部たちによる物語が伝承され、アタマのどこかで常に意識されているからこそ継承できるテーマなのだ。ちょうど、1933年(昭和8)に起きた昭和三陸大津波による被害の物語や伝承を継承し、住宅を海岸線近くから高台へと移した人々が、東日本大震災では被害を最小化できているのを見ても明らかだろう。もっとも、原発事故で漏れた放射性物質による被害や障害は、まったく防ぎようがないのが現実だが。
 日本民話の会では、『聴く 語る 創る』24巻で「戦後70年 戦争の時代を語りつぐ」を、同書21巻では「東日本大震災を語り継ぐ」、同書25巻では「東日本大震災 記憶と伝承」を刊行している。その中には、決して忘れてはならない、教訓化して孫子の代まで伝えなければならない物語が横溢している。東京は、1923年(大正12)の関東大震災以降にやってきた人たちが増え、それらの家庭では震災の物語がまったく継承されておらず、小林信彦Click!のコトバにならえば「いけいけドンドン」の「町殺し」Click!開発で、安全・安心への担保が街から駆逐される状況が進み、明日にでも現実化しそうな「いま、そこにある危機」が、まったく見えなくなっている。このような状況や“気づき”を問いかけても、多くの人たちはエポケー(判断停止)状態に陥るだけだ。
 このような断絶した伝承を、あるいは忘れられがちな物語を、肉親や経験者に代わって後世へと伝えていく作業は、非常に重要な仕事であり大きなテーマであると思うのだ。それは、ご都合主義的に整えられてしまった教科書的な「歴史」ではなく、資料室に眠る整理されてしまったレポートや論のたぐいでもなく、危機的な現実・現場に遭遇してなにを感じ、どのように考え、また、なにをどう判断して生きようとしたのかの「肉声」にほかならないからだ。これからも、下落合の聖母坂に本部がある「日本民話の会」Click!の仕事には、さまざまな催しも含め注目していきたい。
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 さて、うちの子どもたちが小さいころ、映画『学校の怪談』シリーズを観たことがある。わたしも、「ドラえもん」や「ドラゴンボールZ」などを見せられるよりは、よほど楽しく、ウキウキしながら画面を眺めていた憶えがある。校長先生が金の懐中時計を「か~えして~」と、どこまでも首を伸ばして廊下を追いかけてくるろくろっ首・岸田今日子Click!や、子どもたちの前に現れては脅かす怪しい坊主・米倉斉加年には、オシッコをちびりそうで「ヒェ~~~ッ」と叫んでは、子どもたちと狂喜したものだ。そう、前世紀末に大ブームを巻き起こした「学校の怪談」は、日本民話の会が監修した出版物『学校の怪談』シリーズが発信源なのだ。
 ちょっと本棚から、1994年(平成6)にポプラ社から出版された日本民話の会『学校の怪談⑩ 真夜中のミステリー・ツアー』を探し出して、少し引用してみよう。
  
 自転車にのってたらけしきがかわって、たんぼがたくさんあって、人が一人うかんでた(ぜんぜんしらない人)。(東京都世田谷区 S・S 10歳 男子)
 ぼくとしんせきの人とで午前二時か二時半ぐらいに家を出発し、びわ湖にいくとちゅうでした。国道で道にまよったのでおばあさんにききました。「あっちだよ」といわれていってもつきません。やっとついたのがおばあさんのたっていたところ、またおばあさんがいました。またきいて、一〇回ぐらいいってもいけなく、なにげなく逆にいったらいけました。(京都府京都市 U・K 11歳 男子)
 友だちと家に帰るとき、きゅうに強い風がふいた。するととつぜんあたりの草がカマできられるようにきれていた。ふとたんぼをみると、カラスが三羽血だらけになっていた。ぼくの顔もそのとききられた。とてもいたかったよ。(岡山県勝田郡 K・T 9歳 男子)
 学校のブランコの二番めにのると、ぜったいおちてけがをします。今までほとんどの人がおちてひどい目にあっています。(愛知県春日井市 N・A 10歳 女子)
  
 中には、体育館の床を掃除しても掃除しても、血がポタポタとたれてくる……、あっ、あたしの鼻血だ!――というような、大ボケ怪談の「恐怖」もあるのだけれど。w
 その時代の子どもたちが、なにに興味をもち、なにを見て、なにに恐怖を感じていたのかがわかって、民俗学的にも非常に興味深い。これが半世紀前であれば、日常を超えたまったく異なる事件や出来事に怖れを抱いていた、わたしたちの姿と重なってくる。
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 わたしの子どもたちは、映像版『学校の怪談』は喜んで観ていたが、せっかく購入した本は読まなかった。しかたないので、わたしが代わりに読んで楽しんでたりするのだが、映像よりも想像力が無限に広がる本や語りのほうが、ほんとうはもっと怖いのだぞ。

◆写真上:下落合の聖母坂にある、「日本民話の会」本部の近くから。
◆写真中上:いずれも日本民話の会から出版されている『聴く 語る 創る』シリーズで、21巻の「東日本大震災を語り継ぐ」(上左)、25巻の「東日本大震災 記憶と伝承」(上右)、24巻の「戦後70年 戦争の時代を語りつぐ」(下左)と、『新しい日本の語り』13巻の「出雲かんべの里の語り」(下右)。
◆写真中下は、日本民話の会による『こども妖怪・怪談新聞』(水木プロダクション共同制作/)と、同会学校の怪談編集委員会による『学校の怪談⑩ 真夜中のミステリー・ツアー』()。は、『学校の怪談⑩ 真夜中のミステリー・ツアー』のコンテンツ。
◆写真下:1996年(平成8)に公開された『学校の怪談2』(東宝)より、岸田今日子の校長先生が怖すぎる。1998年(平成10)の『学校の怪談3』には黒木瞳や野田秀樹が出ていて、「あ、あ、あなたは、顔がないかもしれないけど、あ、あたしは胸がないんだからね~! キャーーッ!」といって逃げだす女教師が印象に残っている。w

船山馨の「孤客」と“ネット落ち”。

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 下落合4丁目2108番地(のち2107番地/現・中井2丁目)に住んだ小説家・船山馨Click!の文章に、「孤客」というワードがある。川西政明Click!も、船山馨の文学について語る書籍に、同様のタイトルをつけている。船山馨の『樹里庵箚記』には、次のような詩ともつぶやきともとれる一文が書きとめられていた。
   
 われはこの世の孤客なれば
 一人何処よりか来りて
 束の間の旅に哀歓し
 一人何処へか去るのみ
  
 この詩は、死去する2年前の1979年(昭和54)4月6日に書かれたものだが、すでに船山馨は右目を失明しており、最後の作品となる『茜いろの坂』(1980年)をかろうじて書きつづけている最中だった。
 下落合がお好きな方なら、この一文を読まれたとたん、丘上から新宿駅西口の高層ビル群を眺めわたす情景とともに、すぐにも万理村ゆき子Click!の詩、「人はふと知り合い/つかのまの夢見て/やがてただ消えゆくだけなの」(1973年)というフレーズを思い浮かべてしまうのではないだろうか。
 深々とした諦めを含み、自身の生を思いきり突き放し、まるで他人事のように右肩の上空からクールかつ客観的に見下ろしているような、強烈な諦念とニヒリスティックな感覚が、どこかネット世界で感じる「孤独感」、あるいは「孤立感」とでもいうべき感覚に重なるものをおぼえた。どの辞書にも載っていないので、どうやら「孤客」は船山馨の造語のようだ。
 一昨年あたりから、ブログ(Weblog)の管理画面を眺めていると、新しいブログを起ち上げる増加率が目に見えて鈍っている。ネットメディアのひとつとして定着し、ようやく落ち着いた環境になったのだろうか。この「地域」ブログのカテゴリーでいえば、およそ2,980サイト前後を上下する状況になっている。ブログを通じて、不特定多数の読者に向けなにかを記録したい、表現したい、伝えたい、ないしはアフェリエイトで稼ぎたい人たちが残り、知り合い同士のコミュニケーションは自然にSNSあるいはSMSへと移行していったのだろう。
 So-netのみに限れば、ブログをやめてしまった人たちはサイトが閉じられると同時に、訪問先へ足跡を残す「読んだ!」(デフォルトは「nice!」)ボタンのブロガーアイコンが白くなり、X印が表示されることになる。おそらく、ブログをやめてSNSないしはSMSへと移ったか、ネットへの表現自体(や接続)を止めてしまったか、病気で意欲をなくしてしまわれたか、あるいは亡くなった方々なのだろう。ネットの中のバーチャルな空間では、ネット内で知り合った仲間の前から姿を消すことを、物理的な生死の別なく、よく「ネットで死んだ」などと表現された。
 現在でもつかわれているかもしれないが、インターネットが普及する以前、いまから25~30年近く前に全盛だったパソコン通信の時代では、よく「ネット落ち」という言葉が流行っていた。当初は、深夜のOLT(オンライントーク=Chat)などで「落ちます」というと、ネットへの接続をやめて「そろそろ寝ます」という意味につかわれていたのだが、その意味が徐々に拡大し、ネットでなにか事故や問題を起こして特定のメディア(sigやフォーラムなど)への訪問をやめてしまった人たちを、「あいつはネット落ちした」などというようになった。
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 そういう人たちは、ハンドル(ニックネーム)を変えて、新たに別のプロバイダが提供するメディアへアクセスして楽しんでいたのかもしれないが、ネット自体のバーチャルな人間関係が面倒でわずらわしくてイヤになり、そもそも接続をやめてしまった人たちも少なからずいたように思う。そういう人たちのことも含め、おしなべて「ネット落ち」という言葉がつかわれていた。
 また、「ネット社会は敗者復活戦のない世界」などともいわれていた。そもそも、ネットに接続する人々の絶対数が少なかったため、どこかである人物の悪い評判が立てば、たちどころにあちこちのメディアから排斥され、二度と同じ立ち位置へはもどれなくなってしまうことを、そのように表現したものだろう。当時は、ネット接続をやめてしまう「ネット落ち」をしても(ネットにつながなくても)、それほど困ることはなかったけれど、現在ではネットにつながないという状況は、まず考えられない。当時、日本で50~100万人といわれていたネット人口は、現在ではおそらく50~100倍近くに増え、ネット世界はほとんど無限の拡がりを見せている。
 ネットの世界が拡大すればするほど、リアルな友人・知人とともにバーチャルな仲間も増え、周囲は賑やかで楽しくなるはずなのだが、残念ながらPCやスマホなどデバイスの画面を見ながら、テキストや画像などのデータをアップロードしていると、「孤独感」「孤立感」に近い感覚が深まるのはどうしてなのだろう。SMSやIMなどで、「つながりたいから」「つながっていたいから」という言葉をよく聞くが、それは「孤独感」「孤立感」を怖れた、まさに裏返しの感覚そのものではないか。つまり、「孤独だ」「孤立してる」からこそ、そのような想いにより強くとらわれるのだろう。最近のネットをめぐる事件や事故を見ると、よけいにそのような感触を強くおぼえるのだ。
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 「連帯を求めて孤立を怖れず」の世代は知らないが、ネット社会の急激な進化は「連帯を求めて孤立を怖れる」時代へとシフトしているような気がしてならない。その「連帯」とは、特に深く落ち着いた人間関係や悲喜こもごものリアルで親しい間柄、同じような世界観や社会観、価値観でつながった友人同士では決してなく、かりそめの「つながり」であり、バーチャルな「友情」であり、また仮想の「恋人」や「家族」だったりするのだろうか。突き詰めれば、ちょうど数年に一度の法事で顔を合わせる、どこの誰だったか思いだせないが見憶えのあるオバサンほどの知己と、大差ない存在感や関係性に限りなく近いといえるのかもしれない。
 船山馨は『樹里庵箚記』の中で、つづけてこんなことも書いている。
  
 (孤客は)キザに云えば「孤独な旅人」とでもなるかもしれないが、凡庸だし、意味も少し違うつもりである。「客」だからである。おなじ死を生活の基底に意識するにしても絶望的、投げやりであるよりは、死と生と等しく自然なものとして、静かに受けとめ、それ故にこそ今を悔いなく全的に生きようとする積極的な思いがあるつもりである。茶のほうではどうであろうか。例えば、静かな夕景、打水に濡れた露地を、見知らぬ一人の客が草庵を訪れて、一服の茶を所望する。庵主が誰と問うこともなく、茶を点てて供すると、客はそれを服し終り、丁重に、しかし短く礼を述べて来たときと同じように静かに何処へともなく立去ってゆく。客と庵主の心に、もし人生の奥深い部分に触れた余韻が漂うとすれば、これを「孤客」の訪れと称していい。(カッコ内引用者註)
  
 ネットの中の人間関係は、船山馨が前提として書く家族を含めた生身の人間関係ではない。また、躙(にじ)り口をくぐってやってくる、リアルな茶席の客人でもない。あくまでも、テキストや音声・映像を通じた、相手の“体臭”がしないバーチャルな関係でありコミュニケーションだ。だから、「今を悔いなく全的に生きよう」としても、それはデバイスの向こう側に生身の人間がいるにせよ、またAI・IoTの基盤上でアルゴリズムやRPAが受け答えをしているにせよ、どこまでいっても仮想空間での“生(せい)”のまま……ということになる。
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 仮想空間の「孤独な旅人」は、船山馨にならえばつかの間の言葉を残しつつ、いつ消えてもおかしくない「仮孤客」ということになるだろうか。「みえない関係がみえはじめたとき、かれらは深く訣別している」とは、「仲間外れ」にされた吉本隆明の言葉だが、「弧客」や「ネット落ち」などについて考えていたら、ふいになんの脈絡もなくこの言葉が浮かんできた。まったくまとまりのない文章を書いているけれど、船山馨の随筆を読んでいると、ついネットでの脆いコミュニケーション基盤や人間関係を想い浮かべてしまうのは、なぜなのだろう?

◆写真上:陽射しが冷たく輝く、冬枯れの下落合の森。
◆写真中上は、1975年(昭和50)に撮影された下落合の自邸書斎で執筆中の船山馨。は、下落合4丁目2107番地(現・中井2丁目)の船山馨邸跡。
◆写真中下は、1967年(昭和42)ごろに北海道庁前で撮影された船山馨。は、下落合の丘上からは目立たなくなった富士女子短期大学(現・東京富士大学)の時計塔。
◆写真下は、1982年(昭和57)に北海道新聞社から出版された川西政明『孤客―船山馨の人と文学―』。は、同書所収の船山馨プロフィール。

劉生が「お父さん」と慕う大和屋7代目。

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岸田劉生「新富座幕合之写生」1923.jpg

 フグ毒にあたって死ぬまで、8代目・坂東三津五郎Click!の年賀状が親父のもとにとどいていた。どこで知り合ったものか、親父とは20歳ほど年が上のはずだが、いまとなっては確かめるすべはない。どこかの料亭で、“うまいもん”Click!好きの寄合仲間だったものか、それとも親父のそのまた親父の代からつづく7代目・坂東三津五郎つながりの贔屓筋あるいは芝居連(中)だったものか、なにも話してはくれなかったのでわからないのが残念だ。7代目(ひちだいめClick!)は京橋の生まれだし、8代目は下谷(現・上野地域)の生まれなので、日本橋の親父とは地域での接点はないはずだ。
 わたしは、7代目は時代がちがうのでまったく知らないが、8代目・坂東三津五郎の芝居は小学生のころ、国立劇場や歌舞伎座の舞台で何度か見ている。どちらの劇場だったか、いまとなってはおぼろげな記憶なのだが、親父に連れられて舞台裏の楽屋を訪れたことがあり、それが8代目・三津五郎の楽屋だったのかもしれない。当時、竣工したばかりの国立劇場の楽屋にしては、なんとなく古びた風情で暖簾が下がる楽屋口の記憶があるので、きっと歌舞伎座のほうだったのだろう。大和屋が京都でフグ中毒死したとき、親父は心底残念な顔をしていた。
 さて、7代目・坂東三津五郎を「お父さん」と呼んで慕っていた画家がいる。同じ京橋区生まれ(7代目は新富町)で、片や銀座で育った岸田劉生Click!だ。劉生が、7代目になついている様子を記録した文章が残っている。下程勇吉が1975年(昭和50)に書いた『岸田劉生と坂東三津五郎』で、証言しているのは8代目・坂東三津五郎だ。ちなみに、同年10月に発行された「絵」No.140掲載の8代目が語った証言は、フグ毒で死ぬ10時間前に下程勇吉が、宿泊先である京都のホテルでインタビューをして録音したものだった。では、8代目・三津五郎の言葉を聞いてみよう。
  
 「かげでは“三津五郎は細い声を出して云々”などと、あれこれいってるくせに、父の前に出ると、きちんと坐って、“お父さん、お父さん”と呼ぶから、そのわけをきくと、“お前とおれは友達で、お互いのお父さんじゃないか”というほどであった。そんなにまでおやじを尊敬してくれるので、びっくりして岸田さんをたずねた。(中略) つまりおやじをほめてくれたので、よろこんで行ったら、いつとなく、“遊びに行こう、遊びに行こう”でまんぺいに行き、夜あかしとなり、それからはただら遊びになってしまって、“岸田さんを放蕩者にしたのは、八十助だ”などといわれたが、もともと教育などというものは、まともな言葉で語るよりも、遊びの間にバカなことをいいながら、ときどきピリッピリッと来るものが本当に人間を生かすのではあるまいか」云々。<正味の人間>の本音をぬきにしたいわゆる教育などナンセンスなのである。
  
 当時は7代目が健在で、8代目は坂東八十助を名のっていた時代だ。八十助が8代目を襲名するのは、戦後の1962年(昭和37)になってからのことだ。
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7代目・坂東三津五郎.jpg
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7代目・坂東三津五郎「義経千本桜」.jpg

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「絵」197506.jpg

 岸田劉生は、役者に対してはかなりきびしい眼で眺め、手を抜いたヘタな芝居などすれば、ときに罵倒するような文章も残しているが、こと7代目・坂東三津五郎に対しては讃美者に近い無条件の信頼を寄せ、終始その芸を愛していたようだ。それは、7代目の芸に対する思想が、岸田劉生の芸術に対する意思に深く重なったからだろう。「お客さまを相手にしてやると、自分が下落する」、「生きているお客さまを相手にやっちゃいけません」という、7代目の有名な言葉が残っている。この「現世超越的自覚」主義という点で、7代目と岸田劉生は共通の視座の上に起立していたように見える。
 西洋画の手法で「東洋の美」を追求した劉生だが、長与善郎から奨められたショーペンハウアー(ショーペンハウエル)哲学に傾倒し、彼の東洋哲学的な側面に共鳴したものか、8代目・坂東三津五郎(当時は八十助)に読むよう勧められている。
  
 私もその影響で若い頃、十八、九歳の頃ショーペンハウエルの処世哲学を読みました、分りもしないのに。まあ私にとっては大変な影響力をもった人です。……岸田さんが今生きていてくれたら、本当の友達としてつき合えるし、よろこんでもくれるでしょうが、それと同時に、年中“ばか野郎何をしていやがるんだ、ばか野郎”とやられることでしょう。岸田さんの“ばか”はただの“ばか”ではなくて、“bakka!”なのです。その“バッカッ!”は何ともいえぬ愛情のこもった魅力がありました。
  
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岸田劉生「演劇美論」1930刀江書院.jpg
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岸田劉生「歌舞伎美論」1948早川書房.jpg

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岸田劉生「新古細工銀座通・歌舞伎座附近」1927.jpg

 この劉生の眼差しに似た、ややアイロニカルな視座は、そのままうちの親父ももっていて、特に歌舞伎役者と落語家に対しては、わたしが物心つくころから死ぬまできびしく向けられつづけていた。親父の場合は、「ばか野郎!」ではなく「へたクソ!」だった。この“へた”は、ただの“へた”ではなく、“hetta!”だったので「へったクソ!」と発音されていた。向けられる役者や落語家は、老若・一門にかかわりなく、「歳ばっか食いやがって、へったクソ!」とか、「なにをもたもたモグモグしゃべってんだい、へったクソ!」と、まったく容赦がなかった。
 確かに、親父の世代には役者にしろ落語家にしろ、"名人"と呼ばれる粒ぞろいで優れた才能が目白押しだったので、へたな演技や噺をされたら即座にガマンができなかったのだろう。おそらく、いま生きていたら特に落語界に対しては、「お話んならねえやな、満足に東京弁もしゃべれてねえじゃないか、へったクソ! チヤホヤおだてるばっかで、誰もなんにもいわねえから、こんなへったクソな噺家が平気でまかり通るんだ!」と、罵声に近い言葉を投げつけていたにちがいない。確かに上方落語を「標準語」Click!で演じたら「このドアホッ!」となるのはまちがいないが、江戸落語もまったく同様に東京方言ではなく「標準語」で演じたりしたら、「バッカ野郎!」となるに決まっている。
 さて、坂東八十助(のち8代目・坂東三津五郎)も、劉生には徹底的にコキおろされているひとりだ。つづけて、大和屋の証言から引用してみよう。
  
 劉生が私に、“お前は何になるつもりか”ときいたので、“役者になるつもりだ”と答えると、“ばかをいえ、お前などが役者になれてたまるか、お前みたいな奴が役者になれるはずがねえじゃないか、何より証拠は、お前のおやじが最後の役者なので、外に役者はいねえじゃないか。” “今の歌舞伎は、パイン・アップルや蜜柑が入って、豆は少なくなっている今頃のみつ豆みたいなもので、まぜもののない歌舞伎はお前のおやじでおしまいだ。”
  
 豆が少なくなっている「今頃のみつ豆」という表現は、こういうところ、劉生ならではの洒落たメタファーなのだが、落語をよく聞きこんでいた親父もまた、こういう気のきいた喩えがうまかった。
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7代目・坂東三津五郎「お染久松」.jpg

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8代目・坂東三津五郎「天衣紛上野初花」1962.jpg

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国立劇場.jpg

 坂東八十助(8代目・三津五郎)は、岸田劉生の周囲にいた友人たちが少しずつ距離を置きはじめている中、1929年(昭和4)の暮れに劉生が死去するまで、変わらずに親しくしていたようだ。「処生(ママ)に長けている人は、岸田さんとつき合わなかったでしょう、危険だから。どこへかみつくか分らない岸田さんとつき合うことはためらわれていた、木村荘八などもそうです」。晩年の劉生は孤独というか、やや偏屈にもなっていた。

◆写真上:1923年(大正12)に制作された、岸田劉生『新富座幕合之写生』。
◆写真中上は、7代目・坂東三津五郎()と8代目・坂東三津五郎()。岸田劉生との交流は、8代目が坂東八十助時代のこと。は、忠信(7代目・三津五郎)と静御前(3代目・中村時蔵)の『義経千本桜』(狐忠信鳥居前)。は、1975年(昭和50)発行の「絵」No.140に掲載された下程勇吉『岸田劉生と坂東三津五郎』。
◆写真中下は、岸田劉生が書いた芝居の本で1930年(昭和5)出版の『演劇美論』(刀江書院/)と、1948年(昭和22)に出版された『歌舞伎美論』(早川書房/)。は、1927年(昭和2)に東京日日新聞へ連載された岸田劉生『新古細工銀座通(しんこざいく・れんがのみちすじ)』より「歌舞伎座附近」。
◆写真下は、三圍土手の場で猿まわし(7代目・三津五郎)に久松(3代目・市川左団次)とお染(7代目・尾上梅幸)の『道行浮塒鷗(みちゆき・うきねのともどり)』(お染久松Click!)。は、松江出雲守屋敷の場で高木小左衛門(8代目・三津五郎)と松江出雲守(2代目・尾上松緑)の『天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)』(河内山Click!)。は、“校倉”のモアレで昔からカメラマン泣かせの国立劇場正面。

中村彝はドアに女の顔を描いている。

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鈴木誠アトリエドア1.JPG

 下落合464番地の中村彝Click!は、体調の悪化からキャンバスづくりが思うようにできなくなったり、制作用のキャンバスが足りなくなったり、あるいは急に習作を描きたくなったりすると、そこいらにある板片などを画布がわりにして絵を描いていた。それは、ときに菓子箱の裏やストーブにくべる薪がわりの廃材など、油絵の具がのる平面でさえあれば、なんでも活用していたようだ。
 そのような環境の中で、以前にも少し触れたが、アトリエのドアに絵を描いていた様子が伝えられている。そう証言しているのは、定期的に支援金をもって中村彝アトリエClick!を訪れていた、中村春二Click!の息子である中村秋一Click!だ。多くの画家たちは、今村繁三Click!などパトロンからの支援金を受け取りに、中村春二の自宅を毎月訪れていたが、中村彝は病状の悪化から中村秋一がそのつど、封筒を懐に入れては下落合のアトリエを訪ねていた。1942年(昭和17)に春鳥会から発行された「新美術」12月号収録の、中村秋一『中村彝のこと』から引用してみよう。
  
 父は彝のアトリエからスケッチ板ぐらゐの小品を持ち帰ることがあつた。面白いから貰つてきた、彝さんはそんなものをかけられては困るといつてゐたよ、と話し乍ら、板の表と裏に描かれた画を、どつちにしようか、と迷つてゐた。みんな描きかけの板片で、置いてをくとあの人はストーブに燻べちやふからね、と父は笑つてゐた。かういふ小品には商品としての価値はないかも知れないが、筆致の面白さがあるので、今でも私は好きであるが、惜しいことに悪い石油を使つてゐるので、ホワイトなどは鉛色に変色し、ボロボロ落ちてしまつて跡片もなくなつたものもかなりある。/彝さんは気が向くとどこへでも絵を描くひとで、菓子折の蓋へスケツチしたり、画室の扉へ女の顔が描いてあつたりする。画板が不足してゐたと見えて、裏表へ風景や静物を描いたものがかなりある。さうしたもので気に入つたものを父が取つて置いたらしいが、みんな破れたり、折れたりしてゐて、現存してゐるものは極めて尠い。
  
 この一文を読んで、すぐに思い浮かぶのが、中村彝の死去からおそらく1ヶ月前後に撮影された、アトリエ西側の壁面をとらえた写真だ。1925年(大正14)の『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載された写真には、画室から岡崎キイClick!の部屋、そして便所や勝手口まで通じる南西側のドアが写っている。そして、そのドアの表面には、なにやらペインティングされている“模様”が見てとれる。
 中村秋一が、アトリエのドアで見たのは「女の顔」だが、写真にとらえられたペインティングは「女の顔」には見えない。なにやら織物の模様のような絵柄で、1923年(大正12)の秋に渡仏中の清水多嘉示Click!あて、タペストリーClick!を購入して送るよう依頼する手紙を書いているので、実際に雑誌などで目にした織物などの模様を、ドアに模写したものなのかもしれない。
 このドアの向こう側について、鈴木良三Click!はこう書いている。1977年(昭和52)に中央公論美術出版から発刊された、鈴木良三『中村彝の周辺』より引用してみよう。
  
 アトリエの南西にドアがあり、一穴の便所と勝手口へ通ずるようになっていて、あらゆる来訪者はみなここから出入させられた。勝手口に三畳の小部屋があり、おばさんが起居していたが、この部屋で彝さんに聞かせられないような話向きはヒソヤカに取りかわされるのだ。この部屋の傍らに流しがあり、直ぐ裏木戸に出られるようになっていたので、彝さんの外出の時の人力車もここで待っているし、お医者も、画商も、友人もみんなここを通るのだった。木戸を入って左側に井戸があり、少しばかりの空地があって、おばさんはここでゴミを燃やしていた。
  
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 この南西側のドアだが、写真で見るとおり、もうひとつの大きな特徴がある。それは、彝アトリエに設置されていた他のドアに比べ、このドアの幅がかなり狭いことだ。他のドアの幅が、700mm余の通常サイズなのに対し、この南西側のドアは600mm前後の幅にしか見えない。また、他のドアには中央にタテの枠が入るのに対し、なんらかのペインティングがほどこされた狭い幅のドアには、中央のタテ枠が存在しない。つまり、1923年(大正12)の関東大震災Click!以降に増築され彝アトリエに設置されていたドアの中では、かなり特殊な意匠のドアだったのではないかということだ。
 彝アトリエが、1929年(昭和4)より鈴木誠アトリエClick!になってからも、南西側のドアの幅は変更されていない。鈴木様に、アトリエ内を何度か拝見させていただいたとき、このドアの周辺は何枚かの写真に収めているが、画室と新たに設けられた“廊下”とを隔てるパーティションこそ設置されているものの、南西側のドアの幅は周囲のドア枠の意匠とともに、中村彝の時代とほとんど変わっていなかった。すなわち、アトリエ内ではこのドアだけが、特殊な仕様をしていたことになる。
 わたしが鈴木誠アトリエを拝見したとき、玄関から西へとつづく細い廊下の突き当りにあたるドアは、すでに撤去されて存在しなかった。ということは、鈴木誠Click!がアトリエの南西側に母家を増築したあと、アトリエの南東側へ玄関を設置した際、アトリエの南辺を幅60cmほどのパーティションで区切って、玄関から母屋へと抜ける“廊下”を新たに設置した時点で、このドアは取り外されている可能性が高い。あるいは、取り外されたドアは、新たに建設された母家のどこかに、流用されていたのかもしれない。たとえば、食堂や台所のドアとして……。
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 中村秋一は毎月、支援金の配達をつづけていて、たまたま彝アトリエのドアに描かれた「女の顔」を発見しているが、彝アトリエに出入りしていた画家たちは、ドアに描かれた“なにか”を必ず目撃しているはずだ。すべての中村彝関連の資料に目を通しているわけではないので、いまだそれを発見できないでいるだけなのかもしれない。それは、たまたま彝アトリエを取材しに訪れた美術誌の記者や新聞記者が、どこかに何気なく書きとめている印象にすぎないのかもしれない。
 中村春二の息子・中村秋一は、パトロンからの支援金を彝アトリエへ定期的にとどけながら、画家という職業をうらやましく思っていたようだ。彼は、のちに大沼抱林の画塾に通いつつ、父親を通じて作品を中村彝に見せたところ、「筋がよい」といわれている。また、彝が1922年(大正11)に帝展審査員になって以降、無料パスを借りては帝展を観に出かけている。1942年(昭和17)発行の「新美術」12月号から、もう少し引用してみよう。
  
 当時は世話する方もまた世話される方も、それが当然であるやうに思はれてゐた時代だから、今日のやうな画家とパトロンとの関係はなく、ひどく恬淡としてゐた。父が負担したのはごく僅かで、多くは富豪からの出費を取次いでゐたに過ぎないが、直接手渡しする私の母は、催促されたりすると、美術家つてずゐ分変つた人たちだねと困りもし呆れてもゐたやうだつた。今ではみんな大家だから、こんな話は省いた方が礼にかなふと思ふが、当時ののんびりとした芸術三昧の生活は、ちよつと羨しいと思ふし、また、さうした生活がこれら優れた作品を生んだのであらう。
  
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 中村秋一は同年の「新美術」に、中村彝の思い出を数回にわたって連載しているので、機会があればまた彝やアトリエのことを書いてみたい、また、彼は画家たちを支援するパトロンたちの様子も書きとめているので、こちらもいつかご紹介したいと思っている。

◆写真上:鈴木誠アトリエ時代の玄関から母家へと向かう、幅の狭い廊下の突き当りの南西ドアがあった跡で、600mm幅ほどのドアはすでに撤去されている。
◆写真中上は、1925年(大正14)の『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載された画室西側の壁面。は、南西ドアの拡大。は、玄関側から眺めた廊下の突き当り。
◆写真中下は、母屋の建設につづいて行われた玄関部の増築工事の写真。(提供:鈴木照子様) は、南西ドアにつづく廊下の腰高壁の様子。
◆写真下は、彝アトリエの時代から使われていた通常仕様のドア。幅は700mm余あり、中央にはタテ枠が入っている。は、中村彝が描きとめた戯画の一部。右上に描かれた印象的な人物は、明らかに野田半三Click!だろう。

気になる新聞記事の資料いろいろ。

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 このサイトを書くために、昔の多種多様な新聞記事を眺めていると、落合地域とは直接関係がなくても、なんとなく気になる記事にめぐりあうことがある。たとえば、明治時代の新聞には、社会インフラをめぐる事件や事故のニュースが多い。それだけ、いまだ運用技術の精緻さや、それを扱う人間のノウハウやスキルが低く、うっかりミスや勘ちがいが多かったのだろう。中でも、鉄道の事故がことさら目をひく。
 落合地域における鉄道事故というと、1932年(昭和7)3月4日の夜に山手線の高田馬場駅-目白駅間で起きた、軍用の特別列車を見送る群衆に貨物列車が突っ込んだ、大規模な人身事故Click!が想起されるが、これは省線側の技術が拙劣で運転技術が未熟だったわけではなく、立入禁止の線路内に入りこんだ群衆に起因する事故だった。
 また、西武電鉄Click!の山手線をくぐるガード工事が営業開始に間に合わず、やむなく高田馬場仮駅Click!を山手線の土手沿いに設営した1927~1928年(昭和2~3)、仮駅へと向かう軌道(線路)のカーブが鋭角すぎて脱線事故を起こしやすく、ときに下落合駅が実質的な始点(終点)になっていたという話も、無理を承知で開業を宣言するための応急処置的な特殊ケースだろう。脱線(脱輪)事故で、死傷者が出たという話も聞かない。
 ところが、明治期に起きた鉄道事故は、駅に停車中の列車に後続がそのまま突っこんだというような、通常はありえない事故が多い。たとえば、多くの死傷者を出した事故に、1912年(明治45)6月17日に東海道線大垣駅で起きた「軍用列車衝突事故」もそのひとつだ。以下、翌6月18日の読売新聞から引用してみよう。
  
 ●軍用列車衝突/△死者七名△重軽傷五十三名
 十七日午前十一時四十分東海道線大垣駅構内に於て貨物列車が軍用列車に衝突し為に軍用列車は脱線破壊して搭乗兵士五名即死別に重軽傷者五十三名を出せる大椿事あり、今約二時間に中部管理局運転課へ到着せる電報廿数通に及び本社着の名古屋電報を綜合して其詳報を記さん ▲発車間際の大椿事 丁号軍用列車は四輪三等車廿三輌、四輪三等緩急合造車二輌、計廿五輌より成り搭乗兵員は約八百名(中略)にて十六日午前十一時四十七分新宿を発し十七日午前名古屋着同九時五分同駅を発車し同十一時大垣駅に着し下関行客車第十五号の通過を待つ為四十分停車せしより兵士一同下車して構内に於て休息し第十五号列車通過の後隊伍を整へて露台(プラットホーム)を進み新に本線に押下げられし丁号列車へ乗込み将に発車せんとする十一時四十分、後方より名古屋発の第四百五十九号貨物列車が常置信号機の危険を示し居るにも拘はらず勢ひ込むで進行し来り機関車乗込の名古屋機関庫在勤清水吟次郎(二九)火夫川村泰三郎(二二)の両名がそれと気附きし時は既に遅く轟然たる音響と共に機関車は丁号列車の最後車輌に衝突せり(カッコ内引用者註)
  
 記事中には死者5名重軽傷者53名と書かれているが、実際には同日のうちに重傷者2名が死亡しているので、死者7名重軽傷者51名が正しいようだ。
 この軍用列車は、仙台の第二師団の予備役兵たちを乗せ、途中の東京で第一師団の予備役兵士、そして名古屋で第三師団の予備役兵たちを乗せて、3個師団による混成軍用列車だった。予備役兵たちの行先は、下関で下車し大陸に向かう航路に乗船して「満州」をめざすことだった。おそらく、日露戦争で獲得した南満州鉄道の周辺警備に召集された予備役兵たちだったのだろう。貨物列車の運転士の信号機見落としが原因とされているが、事故直後の報道なので可能性のひとつを書いているだけかもしれない。明治期には、ポイントの切り替えミスによる衝突事故も多かった
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山手線土手1.JPG

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読売新聞19290111.jpg

 また、昭和に入ってからも高田馬場駅でこんな事故が発生している。1929年(昭和4)1月11日に発行された、読売新聞から引用してみよう。
  
 高田馬場駅でレール浮く/工事中に土砂崩れ
 省線高田馬場駅では目下構内に西武鉄道高田馬場駅との貨物連絡用エレベータ取付工事中であるが十日午後二時十五分坂井組の人夫十五六名が右箇所に横穴を掘つて土取作業中突然天井の土砂が崩壊し其上にあつた架線の電柱が傾斜した上レールが浮いたので直ちに内廻り線だけ運転を停止し同駅及目白駅から折り返し運転を行つた 新宿保線事務所から応援工夫多数駆けつけ午後四時四十五分復旧したがラツシュアワーの(ママ:こ)ととて一時は大混雑を呈した。尚此際逃げおくれた人夫渡辺亀次郎(五三)は右手に軽傷を負ふた
  
 おそらく、高田馬場駅構内から山手線の線路土手に横穴を掘っていたら、上を通過する電車の振動で天井が崩落し、地上の電柱も傾いて、下から見上げると山手線内回りの線路がむき出しになって浮いていた……というような事故だったらしい。
 深刻な人的被害もないので、現場では「あ~あ、やっちゃった。知らないよ~知らないよ~」と、坂井組のスタッフたちは青ざめながら現場を取り囲んでいたのだろう。作業員が軽傷で済んでなによりだが、山手線を2時間半ストップさせた西武鉄道は、鉄道省に賠償金を取られたのはまちがいなさそうだ。
 戸山ヶ原Click!の陸軍施設にからみ、陸軍科学研究所Click!と陸軍技術本部の動向も気になっていた。陸軍技術本部と同科学研究所は、1919年(大正8)4月8日の閣議決定で新設されている。前者は陸軍技術審査部が拡張された組織で、後者は陸軍火薬研究所の規模を大きくしたもので、当時は戸山ヶ原ではなく板橋に本拠地が置かれていた。1919年(大正8)4月19日発行の、東京朝日新聞から引用してみよう。
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西武線ガード.JPG

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東京朝日新聞19190419.jpg

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陸軍科学研究所跡.JPG

  
 陸軍技術本部新設/技術審査部拡張
 八日の閣議に於て陸軍技術本部令(勅令)を附議決定せるが右は現在の陸軍技術審査部を拡張するものにして本部長は陸軍大臣に対するも技術審査部長又は砲兵工廠提理兵器本部長等より権限を重くし陸軍技術官並に技術に関する総ての事項を統括することゝし従つて本部長は陸軍大将又は中将を以て補され同本部を総務部第一第二第三部に区分(部長は少将又は大佐)し総務部は人事其他一切の事務を整理し第一部は砲兵科第二部は工兵科第三部は兵器検査を夫々担任する事とし従来技術本部の担任せる設計に関する事項は之を砲兵工廠に移管し又陸軍兵器本廠に於挙行したる兵器検査は一切之を技術本部にて担任することゝなす由
 陸軍科学研究所設置/火薬研究所拡張
 陸軍にては今般陸軍科学研究所を新設することゝなり八日閣議に於て決定したるが右は現在板橋にある火薬研究所を拡張し火薬に限らず総ての科学を研究することゝし同所を二部に区分し第一部は理学に関する事項第二部は爆発物又は毒瓦斯等即ち化学に関する事項を研究するにありと云ふ
  
 陸軍科学研究所は、第一次世界大戦で多用された毒ガスとなどの化学兵器を、すでに板橋時代から研究していたことがわかる。濱田煕Click!が描いた戸山ヶ原の陸軍科学研究所の記憶画では、煙突の頂部に排煙を濾過する巨大なフィルターがかぶせられている様子が描かれているが、もちろん毒ガス研究は戸山ヶ原でもつづけられていただろう。さらに、アセトンシアンヒドリン(青酸ニトリール)Click!に代表される、兵務局Click!特務Click!を派遣して要人暗殺などに使われる毒薬研究も、戸山ヶ原の陸軍科学研究所や、のちに設置される登戸出張所Click!の重要なマターだった。
 さて、戦前の新聞には華族や政財界の誰それが、いまどこにいて、なにをしているかなどという消息記事もあちこちで目につく。下落合に関連する記事を、1936年(昭和11)3月6日発行の読売新聞から引用してみよう。
  
 近衛公目白の別邸へ
 近衛文麿公は五日午前十一時半永田町の自邸を出で同五十五分目白の別邸に赴き母堂貞子刀自と午餐を共にし歓談に時を過ごし午後二時再び自邸に帰つた
  
 このとき、東京は二二六事件Click!の直後であり、責任をとって辞職した岡田啓介首相Click!の後任を誰にするか、西園寺公望Click!と会談し首相就任を辞退した翌日のことなので、ことに新聞は近衛文麿Click!の動きに注目して1面に消息を伝えたのだろう。
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近衛邸下落合1929.jpg

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 ここでは、下落合の近衛邸Click!が「別邸」と書かれているけれど、来客が頻繁で家族ともどもほとんど居つかなかった麹町邸と同様、永田町時代でも近衛の本邸意識は「荻外荘」Click!を購入するまで、近衛町の近衛篤麿邸Click!跡も近い下落合だったろう。

◆写真上:戸山ヶ原の西端に位置する、陸軍技術本部があった跡地。
◆写真中上は、下戸塚側にある高田馬場仮駅が設置されていたあたりから見上げた山手線の線路土手()と、下落合側のガード脇の線路土手()。は、1912年(明治45)6月18日発行の読売新聞に掲載された「軍用列車衝突事故」記事。は、1929年(昭和4)1月11日発行の読売新聞にみる高田馬場駅の土砂崩落事故。
◆写真中下は、山手線の西武線ガードClick!をくぐる西武新宿線。は、1919年(大正8)4月19日発行の東京朝日新聞で報じられた陸軍技術本部と同科学研究所の新設記事。は、戸山ヶ原の西端にあたる陸軍科学研究所跡。
◆写真下は、近衛文麿の消息記事。は、1929年(昭和4)に下落合436番へ竣工した近衛文麿邸。は、最近ときどきうかがう下落合の某喫茶店。

翔んだカップル・変なカップル。

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 高校生のころ、「どうしてあのふたり、付き合ってるの!?」と思うような、妙なカップルがいた。たとえば、たくましく大きな体育会系の女子に対して、ヒョロヒョロッとしたガリ勉の男子がカップルだったりすると、「なんで?」というようなウワサが流れてきた。誰もが認める美貌で評判の女子が、気弱そうで地味な男子と「すげえ仲がいい」と聞くと、「はぁ?」となったのを憶えている。人は、自分にはないものを求めるというが、DNAレベルでそういう本能をどこかに宿しているのかもしれない。
 街を散歩していると、たまにそんなふたり連れに遭遇することがある。このふたりは夫婦でないし、恋人同士にも見えないし、上司と部下や役員と秘書、パトロンと愛人、タレントとマネージャーのようにも思えないし、姿かたちや仕草もしっくりこなくて、装いの趣味だって全然ちがう……というようなカップルだ。つまり、お互い仲がよさそうに歩き親しそうに話していながら、それぞれの周囲にはちがう空気が流れている、あるいは、それぞれ異なる“気”を発散している……そんな雰囲気のふたり連れだ。
 わたし自身も、そんな“空気”がちがう異性を連れて親しげに歩いたことがある。お互いにまったく共通点がなく、育った環境もちがえば共通の話題も少ないし、性格だって似ているとは思えない。ましてや、つき合っているわけでもないのに、なぜかウマが合うというのか、反りが合うClick!というのか、お互い惹かれ合って仲よくなるという妙な関係だ。まあ、親しい友だち関係といえばその通りで、別にめずらしくない間がらなのだけれど、異性同士でこういう関係というのはそう多くなく、新鮮な感触にはちがいない。
 そのひとりは、大学を出てすぐのころに仕事で知り合った、米国ボストンのH大学の某研究所につとめる女性だった。仕事で教授とともに来日したのだが、わたしが地元だということで東京の街を案内する世話役をおおせつかった。……というと聞こえがいいのだけれど、大学を出たてのわたしには、いまだ任せられるまとまった仕事がほとんどなく、教授が日本のあちこちで仕事をしている間、かなり手持ちぶさたとなる秘書の“お守り”兼ボディガード役をしなければならなくなったというわけだ。英会話が得意でないわたしは、半分途方に暮れて気が重かった。
 ところが、この女性は少なからず日本語ができたのだ。さすがに、むずかしい語彙や複雑ないいまわし、当時の流行り言葉などはわからなかったけれど、ふつうの日常会話にはほぼ困らなかった。どうしても通じないときは、わたしが辞書で調べてなんとか“通訳”した。しかも、彼女とはウマが合うというのか、妙に気が合ったのだ。わたしは彼女を連れて、東京のあちこちを歩いた。知らない人が見たら、いまだ学生のように見えるラフな姿の男と、わたしと同じぐらいの背丈がある、米国イーストコーストの典型的なWASP然とした20代のブロンド女性のカップルは、妙ちくりんな組み合わせだったろう。
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ワシントン靴店.jpg

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ブロンド手もと.jpg

 お互い性格もかなり異なり、彼女は米国人らしく大らかで大雑把(はっきりいえばガサツ)な質(たち)なのだけれど、歯の手入れにはなぜか執着し熱中していて、当時はなかなか東京でも手に入らなかったデンタルフロスを求め、ふたりで薬局を訪ね歩いたのを憶えている。また、日本の音楽に興味を持っていて、あらかじめどこかで仕入れたらしい曲のフレーズを口ずさんでわたしに聴かせ、「この曲の入ったアルバムがほしいの」といった。そんなこといわれても、わたしは米国のJAZZ事情なら彼女よりもよほど詳しかったけれど、日本の歌謡曲には不案内なので途方に暮れた。これはレコード屋でメロディを歌わなきゃダメか……と思っていたところ、たまたまTVから流れてきた曲に気づき、彼女と店で岩崎宏美のアルバムを無事に買うことができた。
 かなりの時間をいっしょにすごすうち、彼女とはなんとなく以心伝心でやり取りができる関係になっていった。縫製に優れた、日本製のやわらかいパンプスがほしいというので、わたしは銀座にある第二文化村Click!東條さんClick!の店(ワシントン靴店)へ連れていった。製品をいろいろ見せてもらい、彼女がmaterialを気にしたので店員に訊ねると、彼女に向かって流暢な英語で「素材は柔らかなカーフです」と答えた。「カーフ?」と首をかしげ、何度か男性店員に訊き返していた彼女は、困った顔をしてわたしをふり返ったので、「仔牛の皮だって」と日本語で通訳すると「ああ、了解」と日本語で納得したのに笑ってしまったが、店員は途方に暮れたような眼差しをわたしたちに向けた。きっと、このふたり、いったいどういう連中なのだろうと怪しんだにちがいない。
 当時、TVで流行っていた『チャーリーズ・エンジェル』のシェリル・ラッド(どこか少し面影が似いていた)が履くような、ブロンドの髪に似合う明るいベージュ色に細いストライプの入った、わたしが「やっぱり、これかな?」と奨めたパンプスに決まり、以降、それを履いていると露わな脚をわたしの前に突き出して、「カーフ!」と日本語でいっては笑っていた。こういうところ、米国の女性は無防備というかあけっぴろげで、こちらがドギマギするのもおかまいなしだ。
 もうひとり、わたしとはまったく住む世界がちがう異性と親しくなったことがあった。学生時代のアルバイト先で知り合った先輩の、そのまた知り合いだった女性だ。彼女とも、妙にウマが合うというか気がよく合って、食事をしたりコーヒーを飲んだりしながら、とりとめなく他愛ない会話したのを憶えている。わたしとは、やはり出身地も育った環境も経歴もまったく異なり、共通の話題がほとんど皆無だったにもかかわらず、平気で楽しくおしゃべりしつづけてしまうという、妙に気のおけない関係だった。彼女の職業は芸者、いや正確にいうなら芸者の“卵”だった。
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江戸芸者ベアト.jpg

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料亭(赤坂).jpg

 高校を卒業してから花柳界に入り、いろいろな稽古ごとに励んでいるまっ最中だった。この世界では、中卒から修業をはじめるのがあたりまえなので、彼女のスタートは3年遅れでたいへんだ……というようなことをいっていた。だが、1980年(昭和55)前後ともなると、昼間の時間がぜんぶつぶれるような、ぎっしりと詰まった稽古事カリキュラムを強制したりすれば、さっさと辞めて転職してしまう子も多いので、午後の早い時間にはけっこう自由時間が与えられていたらしい。まさにバブル経済がはじまろうとしていた時期で、仕事探しにはそれほど困らなかった時代だ。
 彼女は、いつも小ぎれいな普段着(和服)姿に、江戸東京らしい紅い琉球珊瑚玉をひっつめにした長い髪に、1本かっしと挿して現れたので、学生っぽい薄汚れたジーンズ姿のわたしとはまったく非対称で釣り合わず、やはり怪しいカップルに見えただろう。彼女は日本舞踊や、ならではの作法を習っているせいか、当然、芸者(の卵)らしいシナをつくるのが自然で、喫茶店や牛鍋屋でそんな艶っぽい(玄人っぽい)姿を見せられたりすると、彼女が薄化粧にもかかわらず周囲からは好奇の目で見られた。幼馴染みの『たけくらべ』関係と見られるのならまだしも、芸者と悪いヒモとか、犠牲になって苦労している姉と大学へ通う弟……それにしちゃ似てねえなぁとか、ロクな目で見られていなかったような気がする。もちろん、彼女の方がわたしより3つ4つ年下のはずだった。
 なにをそんなに話すことがあったのか、よく待ち合わせてはお茶や食事をしていたけれど、その会話の中身をほとんど憶えていない。わたしは、(城)下町Click!のことをずいぶん話したような気がするが、彼女は高校時代やいまの生活のこと、故郷(確か茨城だった)のことなどを話題にしていたような気がする。いずれにしても、ほとんど忘れるぐらいだからたいした話題ではなかったのだろう。東京には友だちが少なく、気さくな世間話に飢えていたのかもしれないし、わたしはといえばめずらしい職業の気の合う異性相手に、ふだんとはちがう時間をリラックスしながら楽しんでいたのかもしれない。
 もし、これが戦前だったりすれば、たとえ“卵”といえども芸者を呼ぶには、それなりの格のある待合や料理屋に上がらなければならず、少なからず玉代(祝儀)を用意する必要があったろう。ましてや、昼間の「お約束」(芸者を昼間、散歩や食事に連れ歩くこと)ともなれば、その時間によってはとんでもない花代を覚悟しなければならない。お茶か食事を付き合って話をするだけの、今日の「レンタル彼/彼女」ビジネスの時間給に比べたら、その4~5倍はあたりまえの花代になりそうだ。とても貧乏学生が経験できる世界ではないのだが、そこは戦後の労働環境と民主主義の世の中だから、自由意思による行動がある程度許されていたのだろう。いずれにしても、貴重な体験をさせてもらったものだと思う。
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江戸小唄の美之助.jpg

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神楽坂夕暮れ.jpg

 出身地や生活、性格、考え方、職業、趣味嗜好などがまったくちがう人、ときに国籍や人種までが異なる人と、妙にウマが合って相手の心が読めるほど親しくなることがある。本来なら接点がまったくないはずの、質(たち)が正反対で釣り合いそうもない異性と、少なからず面白い時間をすごすことができる。そこが、人間同士の「ないものねだり」の性(さが)であり、人間関係の妙味なのだろう。ちなみに、芸者の“卵”の彼女は、座敷に出るようになってからほどなく結婚して芸者を辞めたと、風の便りに聞いている。戦前なら、そんな自由で“わがまま”な行為は、決して許されなかっただろう。

◆写真上:そよ風が吹くとキラキラ美しい、街を歩くブロンド髪の女性。
◆写真中上は、クリスマスの時期に撮影した銀座ワシントン靴店本店。は、わたしとの会話中に撮影した写真で赤いLARKが似合う彼女のしぐさが懐かしい。
◆写真中下は、幕末に来日したベアトが撮影した江戸芸者で、おそらく日本橋か柳橋芸者だと思われる。は、いまでも芸者さんを呼べる山王に残った古い料亭の軒下。
◆写真下は、江戸東京各地のお座敷で唄われた江戸小唄で一世を風靡した立花家美之助Click!は、そろそろ芸者さんたちの出勤時刻となる神楽坂の夕暮れ。

落合地域の荒玉水道は1928年より通水。

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野方水道塔.JPG

 落合地域に荒玉水道Click!が引かれたのは、同水道の野方配水塔Click!が1929年(昭和4)に完成し、つづいて翌1931年(昭和6)に大谷口配水塔Click!ができて、砧村の浄水場から板橋町まで全線が竣工・通水したあとだと考えていた。だが、落合地域への給水は野方配水塔ができる2年前、1928年(昭和3)11月1日からスタートしていることが判明した。
 だが、落合地域は富士山の火山灰土壌(関東ローム)で濾過された、清廉で美味しい水Click!が湧く目白崖線沿いの立地だったため、本格的に水道が普及するのは戦後のことであり、水道管はなかなか一般家庭にまでは普及していない。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』によれば、給水栓装置(いわゆる水道蛇口)の設置個数は、わずか1,880個(1932年7月現在)にすぎない。しかも、この普及数には消火栓や消防署など公共施設、工場、企業などへの給水件数も含まれており、家庭への設置件数はさらに少なかったろう。落合地域における同年現在の戸数は、7,000戸(1931年現在で6,967戸)をゆうに超えていたはずで、一般家庭への水道の普及は1割にも満たなかった可能性が高い。
 落合地域の水道事業について、『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 就中文化生活の普及上、上水道の敷設は、衛生上は勿論防疫防火の上よりも急務とし、大正十三年豊多摩、豊島両郡関係町村上水道敷設調査会に加盟し、爾来着次事業を進め、昭和三年十一月一日を以て本町一般給水を開始するに至つた。現在町内給水栓装置個数は千八百八十個である。(昭和七年五月調)
  
 東京の西部郊外に位置する、豊多摩郡と豊島郡に上水道が必要になったのは、もちろん関東大震災Click!直後からはじまった、市街地から郊外への人口流入だった。震災が起きた1923年(大正12)現在、すでに両郡の人口は49万2千人をゆうに超えており、震災後は爆発的に人口が増えつづけることになった。おそらく、上水設備を造っても造っても足りなかった、1960年代の神奈川県Click!のような状況だったのだろう。
 もうひとつの課題として、人口が増えるほど地下水を汲みあげる量も増え、地下水脈が深く下がってしまい、既存の井戸が枯渇しはじめたことも挙げられる。特に、町村へ誘致した工場の近くでは深刻な問題で、工場や企業へ上水道を引くことにより地下水の深層化を防止するという意味合いも含まれていただろう。当時は「井戸」といっても、モーターで地下水を汲みあげて一度給水タンクClick!にため、家庭の各部屋に設置された蛇口へと給水する、水道と同じような使われ方をしている。
 荒玉水道が敷設される予定の町々は、豊多摩郡と豊島郡(計画当初の郡名は北豊島郡)の合わせて13自治体におよんだ。豊多摩郡は中野町をはじめ、野方町、和田堀町、杉並町、落合町の5町。(北)豊島郡は板橋町をはじめ、巣鴨町、瀧野川町、王子町、岩淵町、長崎町、高田町、西巣鴨町にまたがる8町の計画だった。このうち、落合町とその周辺域へ給水する、本線から枝分かれした幹線は、第5幹線から第8幹線までで、落合町に給水していたのは、中でも第5幹線と第7幹線と呼ばれていた支管だった。
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 第7幹線は、長崎町字五郎窪Click!の武蔵野鉄道・東長崎駅付近で本線から分岐し、高田町字四谷(四ッ家Click!)、つまり現在の目白台あたりに設置された幹線終点までつづいていた。また、第5幹線は中野町青原寺付近で本線から分岐し、上落合八幡神社付近(現・八幡公園付近Click!)まで通水している。つまり、第7幹線は下落合と西落合のエリアを、第5幹線は上落合エリアをカバーしていたことになる。また、第6幹線は落合地域の西に隣接した野方・上高田一帯をカバーし、第8幹線は長崎町の北部から池袋を含む西巣鴨町一帯に給水していた。
 ちなみに、第5幹線には口径400mmの水道管が使われ、第7幹線には口径500mmの水道管が採用されている。幹線ごとの給水状況を、1931年(昭和6)に東京府荒玉水道町村組合が出版した、『荒玉水道抄誌』から引用してみよう。
  
 第五幹線
 分岐地点:中野電信聯隊西北隅裏通 経過地:吉祥寺街道ヲ東方ニ進ミ戸塚町境界ニ至ル 給水区域:野方町、落合町及中野町ノ一部
 第七幹線
 分岐地点:長崎町籾山牧場前(ママ) 経過地:府道第二一号線ヲ東南ニ進ミ落合町下落合ニ出テ省線ヲ横断シ学習院前ヨリ小石川区境界ニ至ル 給水区域:長崎町、落合町、西巣鴨町ノ一部及高田町ノ一部
  
 配水の本管から支管の一覧では、第7幹線の分岐点が長崎町の籾山牧場Click!となっているが、本文では「東長崎駅付近」が分岐点となっており、両者には200m以上の距離がある。ひょっとすると、本文に書かれているのが実際に工事を終えた分岐点で、支管一覧の表記は計画段階のリストを、そのまま掲載してしまったものだろうか。
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荒玉水道野方配水塔1931.jpg

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荒玉水道配水塔建設1.jpg

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荒玉水道配水塔建設3.jpg

 本線・幹線含めた水道管の敷設の様子を、『荒玉水道抄誌』から再び引用してみよう。
  
 配水鉄管は全給水区域を十一区に介(ママ:分)ち各区の中央部に一條宛の幹線を敷設し、之より各種の支管を分岐しつゝ末流部に至るに随ひ漸次管径を縮小し、末端及各支管は隣接幹線と相互に連絡せしめ鉄管網を作り配水機能を完全ならしむ、尚五百粍(mm)以上の幹線に対しては給水副管を設く、給水区域は制水弇(えん)に依り更に九十一の断水区域に区分し非常の際に備ふるものとす、(カッコ内引用者註)
  
 荒玉水道で敷かれた水道管には、主管用に口径700~900mmのもの、幹線用に口径300~600mmのもの、支管用に口径75~250mmのものなど、11種類の水道管(鉄製)が使用されている。その長さは、実に43万7,286間(約80km)にもおよんだ。
 余談だが、落合地域の南と南西に隣接した戸塚町(現・高田馬場地域)は、荒玉水道を利用していない。1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)によれば、当初は荒玉水道事業に加盟しようと、町議会Click!へ加盟案が提出されたが否決され、結局、郡部の水道事業ではなく東京市の水道網を延長して戸塚町内まだ引き入れ、東京市へ上水分譲契約料を支払って、戸塚町独自の町営水道としてスタートさせている。水道の延長支管は、おそらく東側に隣接する牛込区から引っぱってきているのだろう。
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荒玉水道池袋病院消火栓試験.jpg

 荒玉水道は、1925年(大正14)4月の水源工事(砧村浄水場の建設)にはじまり、翌1926年(大正15)4月からの送水鉄管と配水鉄管の敷設工事、1927年(昭和2)1月からの配水塔設置を含む給水場と鉄管試験所の工事スタート、そして、1931年(昭和6)の大谷口配水塔の竣工まで、建設リードタイムに6年間を要した一大プロジェクトだった。ただし、工事を終えた区域から通水をはじめたため、1928年(昭和3)8月には試験通水と鉄管内掃除を終え、落合地域では同年11月1日から上水道の利用が可能になっている。

◆写真上:現在は災害時の貯水タンクとして使われている、荒玉水道の野方配水塔。
◆写真中上は、1931年(昭和6)撮影の砧村にあった荒玉水道浄水場の空中写真と全景。は、浄水場の地下内部。は、杉並町の荒玉水道鉄管試験所。
◆写真中下は、竣工間もない野方配水塔。は、建設中の大谷口配水塔。
◆写真下は、荒玉水道の送水管埋設工事で、鉄管の口径からみて主管の埋設工事現場と思われる。は、巣鴨町(現・豊島区巣鴨1丁目)で山手線を横断する江戸橋鉄管橋。は、西巣鴨町の池袋病院近くで行われた消火栓の水圧テスト。

浅草寺境内の石棺と古墳群。

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 この春、久しぶりに浅草寺の伝法院の庭を訪れてみた。同院は、拝観期間が決まっているので、うっかりしていると見逃してしまう。小学生のころ、緒形拳Click!が主演する島田一男の『開花探偵帳』(NHK)というドラマをやっていて、親にせがみ連れていってもらったけれど、以来ほんとうに久しぶりだ。明治の初期、伝法院には屯所(警察署)が置かれており、同ドラマはそこに詰める探索方(刑事)の活躍を描いたものだ。
 でも、久しぶりに伝法院を拝観したのは、別に伝法院屯所跡を見たくなったからではない。庭園内に、浅草寺本堂裏にあった熊谷稲荷社古墳から出土している、おそらく房州石で造られたとみられる石棺(手水鉢に加工・流用されていた)があったのを思い出したからだ。本堂裏の熊谷稲荷社は、明治期の神仏分離政策で廃社となり、同社が奉られていた墳丘は丸ごと崩されて平地となった。
 ちなみに、浅草寺の本堂裏一帯が「奥山」と呼ばれていたのは、明治末から大正時代ぐらいまでだろうか。現在は平坦になってしまっている本堂の裏域だが、ここで「山」の名称が登場していることに留意したい。なにか塚状のこんもりとした起伏の地形、あるいは江戸期にはかなり鬱蒼とした森が拡がっていたので、「奥山」と呼ばれていた可能性が高そうだ。
 もともと、浅草寺の境内が古墳だらけだったのは古くから知られていたようで、関東大震災Click!が起きて東京が焼け野原になったあと、東京帝大の考古学者で人類学者の鳥居龍蔵Click!は神田や上野に次いで、浅草地域へ調査に駆けつけている。彼が伝法院に立ち寄り、石棺を調査している報告書が残っていた。1927年(昭和2)に東京磯部甲陽堂から出版された、鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』から引用してみよう。
  
 此の伝法院の椽先に、石灰岩で作つた手水鉢が据えられて居る、それが石棺ではないかといふ疑ひがあつて、吉田君から其の調査に就いて話があつたので、伝法院に行くと、早速其の手水鉢のある所へ行つて見た。而して注意して見ると、どうも石棺らしい。長方形のもので、中は近頃不完全に掘つて水を入れてある。どう見ても石棺らしい。浅草寺境内は古墳群のある所で、此処に石棺らしいものゝ存在して居るのは極めて興味がある。『江戸夢跡集』によると同寺には尚、別に石棺があつた。此の事は『武蔵野及其の周囲』「石の枕」の所に記して置いた。
  ▲
 鳥居龍蔵は「石灰岩」と書いているが、どう見ても色彩や質感からして凝灰岩(房州石Click!)のように見える。当時は、火山灰により生成された岩石を、総じて「石灰岩」と呼称していたものだろうか? 伝法院の石棺ばかりでなく、浅草寺の境内にはもうひとつ別の石棺が存在していたことが指摘されている。
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 「浅草寺境内は古墳群のある所」と書かれているが、これは江戸湾に面した大きな入り江の突き当りに浅草湊が拓かれ、古墳時代から物資を集積する物流の一大拠点として繁栄していたからだ。房総半島で切りだされた房州石が、江戸湾を縦断して浅草湊や、横断して三浦半島の六浦湊へと陸揚げされ、そこから関東各地へと運ばれていった。その運搬もまた、各河川をさかのぼる水運が最大限に活用されたのだろう。関東各地に散在する古墳の玄室や羨道に、房州石が多く用いられているのは、当時の南武蔵勢力圏にあったクニ同士の交易や物流ルートを解明する重要な手がかりを与えてくれている。
 さて、そんな繁栄をつづけた浅草湊には、地域の有力な勢力がいたのはまちがいなく、また物流の一大拠点ともなれば多くの人々が暮らし、いわば“町”を形成していただろう。それを物語るように、浅草寺の境内には、伝法院に石棺が残る本堂裏の熊谷稲荷古墳だけでなく、本堂の南東側には弁天山古墳、関東大震災の火災によって出現した、いまだ無名の古墳群などが連続して築造されていた。これらの古墳は、寺社の伽藍や殿を建設するために墳丘が崩され、また前方後円墳の前方部は参道や階段(きざはし)に流用され、かろうじて江戸期まで原型Click!を保っていたケースが多い。
 そもそも、浅草寺の宝蔵門から参道、そして本堂さえ大型古墳の塚を均して建立されたものなのかもしれない。それは、同寺の北東550mほどのところにある待乳山古墳Click!のケーススタディに、典型的な姿を見ることができる。浅草寺の創建は645年だが、そのころからすでに境内全体がなんらかの聖域化していた可能性もありそうだ。また、幕末から明治期にかけ、本堂の南東側に弁天社が奉られた弁天山古墳には、周濠の残っていたことが地図などで確認できる。鳥居龍蔵の同書より、つづけて引用してみよう。
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 少なくとも江戸の高台にて古墳を築造した此の原史時代に於ては、今の下町の或部分は沖積して居つたものと考へられる。其の頃の古墳が今も下町の彼方此方に遺つて居つて、今回の震災にて周囲の建物が焼払はれた為めに、古墳の形が明白に現はれて来たのぶある。/今此のことに就いて大體を云ふと、第一は浅草の地であつて、此処は古くから沖積して居つたもので、観音よりも以前の移籍が残つて居る。彼の弁天山の弁天塚は、其の名の如くに古墳であり、此の他にも、浅草寺の境内には嘗つてそれがあつた。されば此の境内が古墳群の跡であることは言ふまでもない。
  
 かつて、浅草寺には伝法院の石棺のほかに、境内にはもうひとつ石棺が置かれていたという江戸期の記録から、伽藍や社を建立するため墳丘を崩した際に、玄室から出土したもののひとつではないかと推測できる。だが残されているもの、あるいは記録にあるものは石棺のみで、副葬品についての伝承は存在していないようだ。かなり早くから寺社の境内にされたため、散逸してしまったものだろうか。
 小学生のとき以来訪れた伝法院の庭園は、さほど大きくは変わっていないのだろうが、周囲に高い建物が増えたせいか、大きめな箱庭のようにも見える。ただし、浅草寺参道のラッシュアワーのような喧騒を離れ、戦災をまぬがれた建築とともにひっそりとしたたたずまいを見せているのは、昔もいまも変わらない風情だ。わたしが子どものころ、庭から見えていたのは本堂の大屋根のみで、五重塔は空襲で焼けたまま存在しなかった。また、スカイツリーが妙な借景を見せているのが、アンバランスな風景で落ち着かない。
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 それほど詳細に見てまわったわけではないが、伝法院の庭園には玄室や羨道の石材に用いられていたのかもしれない、房州石らしい大きな庭石がところどころに配置されている。伝法院に限らず、浅草寺の境内各所に置かれている石材には、多くの古墳から出土した房州石が、いったいどれほど残されているのか、ちょっと面白いテーマだ。

◆写真上:伝法院の庭園で手水鉢に加工された、房州石をくり抜いたとみられる石棺。
◆写真中上は、1923年(大正12)に鳥居龍蔵が撮影した同石棺。は、伝法院の庭に集合した東京帝大の鳥居龍蔵古墳調査団。は、伝法院庭園の現状。
◆写真中下は、幕末の絵図に描かれた弁天山古墳で周濠の残っていたのがわかる。は、関東大震災の直後に撮影された弁天社と参道の階段。前方後円墳と思われ。周濠が消えて江戸期からさらに小規模になった様子がうかがえる。は、伝法院の北側の池。
◆写真下のモノクロ写真は、関東大震災の焦土から次々に姿を現した浅草寺の無名古墳群で、大きな主墳に付随していた倍墳群かもしれない。は、浅草寺の五重塔を伝法院の庭下から眺めたもので、無粋なスカイツリーがどうしても隠れなかった。は、東日本大震災で墜落した五重塔の宝珠と破壊された水煙。

聖母病院が敵国人抑留所になるまで。

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 6年ほど前、敵国外国人(敵性外国人)の抑留所として使われた、国際聖母病院Click!について書いたことがある。米軍は、聖母病院を敵国民間人の抑留所として認知しておらず、敗戦直前に同病院へ向けP51とみられる戦爆機が250キロ爆弾を投下Click!している経緯や、日本の敗戦とともに同病院の屋上には「PW(Prisoners of War)」と書かれたシートが敷かれ、米軍機から救援物資の投下Click!が行われた経緯もご紹介した。
 聖母病院に収容されていたのは、警視庁が管轄する日本に住んでいた敵国(敵性)の民間人であり、前線の戦闘で捕虜になった敵軍の将兵ではない。捕虜は敵国民間人とは別に、陸軍の管轄である専用の捕虜収容所に入れられていた。東京では、大森海岸沿いの埋め立て地に大森捕虜収容所が建造されている。
 以前の記事では、1945年(昭和20)の敗戦が近づくとともに食糧事情が急速に悪化し、ついには1日に蕎麦1斤(600g)しか支給されなくなってしまった経緯を、国立公文書館に保存されている当時のスイス公使館の改善要望書を引用して書いた。おそらく抑留者は飢餓状態で、栄養失調にかかっていたと思うのだが、幸運にも聖母病院ではなんとか死者が出ていない。公文書では、聖母病院の抑留者は36名とされているが、日米開戦の初期から地下へ潜行して同病院に隠れ住んでいた、目白福音教会Click!のクレイマー牧師を入れれば、実質37名が抑留されていたことになる。
 聖母病院の抑留者から、食糧難による死者が出なかったのは、本来が病院施設とはいえ非常に幸運なケースだ。全国に設置された抑留所では、多いところで抑留者の10~18%が死亡している。たとえば、明治期から横浜に在住していた欧米民間人を収容した、秋田県の舘合抑留所では18%、神奈川第一抑留所では11%の抑留者が、戦争の終結を見ずに死亡している。最悪だったのはアッツ島にいた米国民間人の抑留所で、実に44%と収容者の半数近くが死亡した。これはジュネーブ条約に加盟していなかった、ソ連によるシベリア抑留者(基本的に日本軍捕虜)の平均10%前後の死亡率よりも高い。
 外務省では、ジュネーブ条約違反に問われるのを怖れたのか、早くから『外事月報』(1942年11月)で抑留者の間に「最近健康異常者の兆しあり」と警鐘を鳴らしていたが、戦争も末期になると、満足に支給する食糧がないため(ジュネーブ条約では抑留した敵国民間人には、1日パン600gの支給が義務づけられていた)、外国人の食べなれない日本の“代用食”が増え、しかも支給量も減りつづけて、慢性的なカロリー不足による栄養失調者が激増していくことになった。これは、日本の米軍人捕虜収容所ではさらに過酷な状況となり、全収容者の37%を超える死者が生じるまでに悪化している。
 だが、戦線が拡大するにつれ、抑留者は増えつづけていくことになる。戦地に住んでいた民間人の多くも日本へ強制連行されて抑留され、また外国の病院船を拿捕したために抑留しなければならない敵国人が急増し、さらにイタリアが降伏して臨時政府が日本に宣戦布告すると、日本国内にいたすべてのイタリア人たちも敵国人となって抑留され、しまいにはドイツ人全員も強制的に抑留しなければならなくなるという、混乱をきわめた状況だった。
 抑留所での敵国人の死因を見ると、慢性的な栄養失調で腹がせり出し、下痢がつづいて死亡する文字どおりの餓死をはじめ、栄養不足で免疫力が低下したため各種病気の罹患による病死、同様に栄養疾患がつづき持病の悪化による病死などがもっとも多い。詳細は、2009年(平成21)に吉川弘文館から出版された、小宮まゆみ『敵国人抑留―戦時下の外国民間人―』に詳しい。
 また、もうひとつの重大な問題として、戦争末期になるにしたがい国際赤十字社からとどけられる援助物資(食料品など)が、抑留者へほとんど渡らなくなるという事態を招いている。もちろん、敵国人抑留所を管理・監視していた警察が、援助物資の多くを横領・着服・隠匿してしまうからで、福島抑留所と神奈川第一抑留所では戦後に告発された特高刑事や警察官たちが、抑留者の餓死を招いた虐待の罪で裁判にかけられている。
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関口小神学校.jpg

 さて、抑留者たちが聖母病院(1943年より「国際」を外された)へ収容される詳細な経緯が判明したので、改めてこちらでご紹介したい。聖母病院は、当初から敵国人の抑留所として予定されていたわけではない。1945年(昭和20)5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!で、それまでの収容先だった小石川区関口町の天主公教会(現・カトリック東京カテドラル関口教会)の敷地内にあった小神学校が焼失し、抑留者56名の収容先がなくなってしまったのだ。56名の内訳は、日本に滞在していた女性宣教師や修道女に加え、新たに抑留されたドイツ人18名を含む、すべてが女性の欧米人たちだった。
 抑留所の焼失にともない、おそらく問い合わせがあったのだろう、外務省は在京の瑞西国(スイス)公使館と瑞典(スウェーデン)公使館あてに、関口小神学校の被爆と抑留者の被害についての報告書を送付している。以下、公文書館に残る1945年(昭和20)6月4日に起草された、「警視庁抑留所罹災ニ関スル件」から引用してみよう。
  
 警視庁抑留所罹災ニ関スル件
 帝国外務省ハ在京瑞西国(瑞典国)公使館ニ対シ去五月二十五日夜半ヨリ二十六日ニ亘ル夜間ノ敵機東京無差別爆撃ノ為、警視庁抑留所(関口)ハ二十六日午前二時頃全焼セル為、右罹災ニ当リテハ内務省及警視庁係官ハ直ニ現場ニ趣キ機宜ノ措置ヲ講シタル結果、同所抑留者全員無事ニシテ不取敢之ヲ聖母病院ニ収容セル旨、並ニ同抑留所移転ノ目的ヲ以テ適当場所ノ早急物色方手配中ナル旨、通報スルノ光栄ヲ有ス。(中略)
 一、関口抑留所ハ五月二十五日ヨリ二十六日ニ亘ル夜間敵襲ニ依リ二十六日払暁焼失セル処、幸ニシテ抑留者ニハ何等事故ナク全員無事ナリ。同所尼僧等三十六名ハ不取敢聖母病院ニ、又独逸人抑留者十八名ハ日本女子大雨天体操場ニ仮収容中ナリ。(後略)
  
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関口教会・修道院19450517.jpg

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聖母病院チャペル.JPG

 とりあえず、キリスト教関係の欧米女性たち36人は下落合の聖母病院へ、また新たに収容されたドイツ人女性たち18人は、近くの日本女子大学体育館に仮収容されているのがわかる。外務省では、本格的な収容所を警視庁とともに探すとしているが、すでに東京の市街地はほとんど焦土と化しており、彼女たちには聖母病院と日本女子大が最終的な抑留所となった。
 また、スイスとスウェーデンの公使館あて報告書には、急に敵国人となってしまった在日イタリア人の抑留者移転について、事前に両国から問い合わせがあったのだろう、移転計画の「実現ノ可能性ナシト察セラル」と回答している。外務省にしてみれば、日々東京のどこかが爆撃される状況で、同盟国だったはずのイタリア人やドイツ人の抑留者たちの面倒まで、とてもみちゃいられない……というのが本音だったろう。
 この報告書につづき、スイスの公使館員が聖母病院を視察し、同年6月25日に「聖母病院抑留者ニ対スル食料品供給善処方ニ関スル件」の要望書が、スイス公使館から正式に外務省へ提出されることになる。これに対して、外務省から内務省警保局長あてに、「至急改善」の要望書が発送されたのは以前の記事でも書いたとおりだ。だが、書類にスタンプがわりの「急」が挿入されているにもかかわらず、スイス公使館の要望書から23日後の7月18日になって、ようやく文書が起草されているのを見ても、当時の行政機関の混乱ぶりや戦災による処理遅延が透けて見える。
  
 聖母病院ニ収容中ノ抑留者ノ給食改善方ニ関スル件(急)
 聖母病院ニ収容セラレ居ル警視庁抑留所抑留者ハ蕎麦一斤(引用註:600g)ノミニシテ、全然他ノ食物ヲ給与セラレザル趣ヲ以テ右至急改善方、今般在京邦瑞西国公使館ヨリ別紙仮訳ノ通申出タリ、就テハ同病院実情御取調ノ上、右果シテ事実ナリトセバ敵側ニ悪宣伝ノ材料ヲ与フル虞(おそれ)モ有之、至急少クトモ最低限度ノ給食ヲ与フル様御配慮相成、結果何等ノ儀御回示相煩度。(カッコ内引用者註)
  
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福島抑留所.jpg

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小宮まゆみ「敵国人抑留」2009.jpg

 1日に蕎麦600gでは、誰でも栄養失調になるだろう。前掲の小宮まゆみ『敵国人抑留―戦時下の外国民間人―』によれば、前年1944年(昭和19)1月~3月期の赤十字国際委員会抑留所視察報告書でさえ、すでに食糧の配給不足が全国の抑留所で発生している。戦後にまとめられた、外務省の「抑留者関係」報告書の目次には、各地の抑留所で死亡した米国人やイギリス人、カナダ人、オーストラリア人などの後始末に関する報告が目につく。

◆写真上:米軍が採用しているZulu time=GMTで1945年(昭和20)8月28日に救援機から撮影された、屋上に「PW」の文字が入るシートを拡げた下落合の聖母病院。
◆写真中上は、公文書館保存の外務省「警視庁抑留所罹災ニ関スル件」全文。は、1945年8月25日夜半の第2次山手空襲で全焼した天主公教会の小神学校。
◆写真中下は、空襲で焼失直前の1945年(昭和20)5月17日に撮影された天主公教会(関口教会)。は、外務省の同年6月19日付け「聖母病院抑留者ニ対スル食料品供給善処方ニ関スル件」。は、国際聖母病院のリニューアルで解体された戦後のチャペル。
◆写真下は、外務省がまとめた「抑留者関係」書類の目次。は、敗戦間もない時期に米軍の救援機から撮影された福島抑留所。下左は、公文書館に保管されている外務省「聖母病院抑留者ニ対スル食料品供給善処方ニ関スル件」の表紙。下右は、2009年(平成21)に出版された小宮まゆみ『敵国人抑留―戦時下の外国民間人―』(吉川弘文館)。

版画の大衆化を進めた戦前の料治熊太。

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料治熊太邸跡.JPG

 1928年(昭和3)から、会津八一Click!の弟子のひとりが落合地域に住みついている。落合町葛ヶ谷4番地(のち西落合1丁目3番地/現・西落合1丁目9番地)で、創作版画の雑誌「白と黒」や「版芸術」を白と黒社から発行していた美術家の料治熊太だ。料治熊太の名は、このサイトでも曾宮一念Click!の会津八一に関する証言や、中村忠二・伴敏子アトリエClick!をご紹介したときにも、すでに登場している。
 料治熊太は、自身でも創作版画を手がけたが、むしろ版画雑誌の発行者としてのほうが知られているだろうか。1928年(昭和3)に博文館を退社すると、葛ヶ谷4番地に家を建てて、翌1929年(昭和4)から「白と黒」を創刊し、つづけて「版芸術」を1941年(昭和16)まで西落合で発行しつづけている。彼が発行する版画雑誌を通じて、平塚運一や谷中安規、棟方志功、前川千帆などが作品を発表していった。
 また、料治熊太は古美術に関する評論でも活躍し、浮世絵や焼き物のコレクター・研究家としても知られている。このあたり、古美術に造詣が深いのは師の会津八一ゆずりなのだろう。葛ヶ谷(西落合)に転居してきた、1928年(昭和3)から1935年(昭和10)までは霞坂の秋艸堂Click!に、同年から1945年(昭和20)までは目白文化村Click!の第一文化村にあった秋艸堂Click!(旧・安食邸Click!)へと、足しげく通っていたと思われる。
 さて、友人に料治熊太の著名入りの書籍『明治の版画』(光芸出版/1976年)をいただいたので、同書を通じて落合地域における料治熊太の仕事と、彼がもっとも賞揚する小林清親の明治版画について少し書いてみたい。小林清親の光線画については、以前もこちらでご紹介Click!しているが、今回は彼が日本橋の米沢町、つまり両国橋西詰め近くの両国広小路沿いでのちの日本橋区(西)両国、つまりわたしの故郷である現・東日本橋の同じ町内に住んでいたことについて、そこで起きた惨事とともに少し触れてみたい。
 料治熊太の活動について、端的に表現していると思われる論文に日本女子大学の近藤夏来『創作版画運動と谷中安規』(2009年)がある。その一部を、少し引用してみよう。
  
 料治は、全6タイトル150冊もの版画雑誌を世に送った人物なのだが、彼が、『白と黒』と同時に手がけた『版芸術』は、機械刷りを採用して、部数を500部に広げ、50銭という安さをもって大衆化の意図をより鮮明にしたものであった。/版画人達が、いかに大衆を惹きつけるかを考え、その答えとしての表現方法に違いはあれど、大衆文化の急成長とは裏腹に、閉塞してゆく創作版画に焦燥感を抱え、多くはかつての錦絵のあり方に範を求めて模索した点は共通している。/そして、彼らの多くに、やがて転機が訪れる。30年代の後半、日本は軍国化への大きな一歩を踏み出す。そうした状況において、料治熊太は1934,5年頃から郷土玩具の採集と記録に傾倒するようになり、1938年には、版画界から身を退いている。
  
 戦後も、料治熊太は創作版画界へ復帰することなく、もっぱら古美術研究に没頭しているように見える。西落合の仕事場は、浮世絵や骨董などの蒐集品であふれ返ることになった。特に浮世絵は、江戸期に定着した浮世絵の手法や“お約束”には縛られないで、自由な表現で描けるようになった「横浜絵」や、新しい感覚の明治東京版画に注目している。
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 中でも、もっとも高い評価と賛辞を惜しまないのが光線画の小林清親だった。清親は、洋画風の写実を江戸期からつづく浮世絵の伝統に取り入れ、従来の作品には見られなかった風景や場の“空気感”をみごとにとらえて表現し、奥行きのある明治浮世絵を確立している。以降、浮世絵風の版画で風景を描写する作家たち、たとえば人気が高かった井上安次や小倉柳村たちは、すべて清親を規範とするようになった。
 料治熊太の清親に対する評価は、他の版画家たちに比べて群を抜いている。上掲の『明治の版画』から、当該箇所を引用してみよう。ちなみに、1980年代に清親ブームが起きたのは、料治熊太の清親研究や評価がその底流にあったからだろう。
  
 明治時代に小林清親が出たことは、明治の誇りといえるのである。なぜなら、いくら下村観山や狩野芳崖が当時偉い画家であったとしても、彼らの作品が明治の時代を謳歌していたわけでもなければ、その息吹があふれていたわけでもない。しかるに小林清親の作品になると、作品の中に明治十年の息吹が生きている。時が生きているばかりでなく、それを描いたその日の時刻が生きている。その日の気象が生きている。それはとりもなおさず、その時代に確かに生きていたということを物語っているのである。(中略) 明治の版画家として、小林清親の残した仕事は絶対のものであった。それから後、どんな偉大な版画家が出たとしても、清親ほど心の奥底から東京を愛した人は出ないであろう。それほど、彼はふるさと東京を、全霊を捧げて描いた人だった。
  
 清親の光線画と呼ばれた、およそ95作品の「東京名所図」シリーズは、1876~1881年(明治9~14)のわずか6年間、彼が日本橋米沢町で旗本出身の妻と暮らしているときに描かれている。年齢的には、清親が28歳から33歳までのことだ。米沢町のどこに自宅があったのかは不明だが、本所生まれの彼は大川(隅田川)Click!大橋(両国橋)Click!の近くを離れがたかったのだろう。
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前川千帆「品川八ツ山」1929.jpg

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平塚運一「新東京百景日本橋」1929.jpg

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谷中安規「大川端」1940.jpg

 清親が光線画をやめたのは、1881年(明治14)に起きた両国大火で自宅が全焼してからだ。同年1月26日に、神田松枝町から出火した火事は強い北西風にあおられて、神田岩本町から大和町へ延焼し、やがて日本橋区から大川をわたり本所区、やがては深川区までを焼き尽くし、ようやく16時間後に消し止められた。焼失面積は実に42万m2を超え、焼失家屋1万数千戸という被害は、明治を通じて最大の火事被害となった。
 日本橋米沢町にあった小林清親の自宅は全焼しているが、彼は自宅にいた妻子を放り出したまま、火事場の写生に走りまわっていた。同じく、日本橋米沢町(現・東日本橋)にあった明治期のわたしの実家も全焼しているはずだが、両国大火について親父から話を聞いた憶えがない。おそらく、祖父母の世代は話を聞かされていただろうが、その後に起きた関東大震災Click!東京大空襲Click!の被害があまりにケタ外れだったので、両国大火は相対的に伝承の比重が下がったのだろう。神田区・日本橋区・本所区・深川区の52町を呑みこんだ大火で、4万人近い罹災者が出ている。
 以来、清親が「東京名所図」シリーズの制作をやめてしまったのは、大川をはさみ江戸情緒をたたえた街並みが両国大火で丸ごと失われ、モチーフの喪失と失望感から気力が萎えてしまったのかもしれない。それでも、両国大火のあとに再建された街並みは、いまだ江戸の雰囲気を強く継承していたはずだが、清親が再び「東京名所図」(いわゆる光線画)の筆をとることはなかった。同様のことが、関東大震災で再び旧・江戸市街地の情緒が失われた際にも、画家や作家を問わず表現者の間で少なからず起きている。
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清親「両国大火」浅草橋1881.jpg

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清親「両国大火」1881.jpg

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 さて、料治熊太は描画から彫りや刷りまで作者が手がける、創作版画(新版画)の雑誌「白と黒」や「版美術」を発行していたが、それは1907~1911年(明治40~44)に発行されていた版画雑誌「方寸」(方寸社)を規範とし、その流れの継承を意識したものだろう。「方寸」は、石井伯亭Click!山本鼎Click!森田恒友Click!、戸張孤雁、岡本帰一、津田清楓、南薫造Click!斎藤与里Click!、坂本繁二郎、平福百穂Click!倉田白羊Click!、太田三郎、織田一麿Click!らが集まって、本格的な創作版画運動を推進する舞台となった。

◆写真上:葛ヶ谷4番地(現・西落合1丁目9番地)にあった、料治熊太邸(白と黒社)跡。
◆写真中上は、料治熊太が発行していた版画雑誌「白と黒」()と「版芸術」()。は、1976年(昭和51)に光芸出版から刊行された料治熊太『明治の版画』()と著者の署名()。は、西落合の自邸で蒐集品に囲まれる料治熊太。
◆写真中下は、1929年(昭和4)制作の前川千帆『品川八ツ山』。は、同年制作の平塚運一『新東京百景/日本橋』。は、1940年(昭和15)制作の谷中安規『大川端』。本所国技館と大川の角度から、浜町公園から眺めた風景だと思われる。
◆写真下は、1881年(明治14)1月26日のスケッチを木版画にした小林清親『両国大火浅草橋』。は、同日に浜町からスケッチした小林清親『両国大火』で、大橋(両国橋)の左手で炎上するのが清親の自宅やわたしの実家があった日本橋米沢町界隈。右手の水面が大川で、左手の水面が現在は日本橋中学校が建っている埋め立て前の薬研堀Click!の堀口だろう。は、火災の鎮火後しばらくたってから描かれたとみられる小林清親『両国焼跡』。左手に大橋(両国橋)の仮設橋らしい情景が描かれているので、日本橋側の両国広小路を焼けた吉川町から描いているとみられ、向かいの半焼けの家々が米沢町界隈。

ちょっと古めな新宿区文化財資料。

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下落合横穴古墳跡.JPG

 新宿区の教育委員会が、戦後ほどなく発行していた文化財資料(冊子類)を見ると、それが作成された時点での写真や伝承などが掲載されており、改めて貴重なことに気づく。先年、知人から譲り受けた貴重な資料類とは、1963年(昭和38)に新宿区教育委員会から発行された『新宿区文化財』と、1967年(昭和42)にややボリュームが増えて同教育委員会から発行された『新宿区文化財』の2冊だ。後者は、1963年版に比べて紙質もよく、倍ほどの厚さになっている。
 現在でも、同様の小冊子(『ガイドブック 新宿区の〇〇〇』シリーズ/新宿歴史博物館)が地区別やテーマ別に刊行されているが、新しい写真撮影が行われ昔日の写真が入れ替えられていたり、そもそも史跡や建物自体が開発のために消滅して、項目そのものが全的に削除されていたりする。区民のために、リアルタイムで把握できるようにする区内の「文化財」なのだから、それで編集の方向性は十分だしまちがいないと思うのだが、消えてしまった写真・図版類や省かれてしまった解説には、どうしても惜しいと感じてしまうものが少なからず存在している。
 戦前を含む、古い時代に作成された地域の文化財資料は、なぜか墓所の紹介からスタートするものが多い。地域の有名人の“お墓”の記述とその所在地から入るのだが、ご多聞に漏れず両誌ともに新宿区内に眠る服部半蔵や恋川春町、山県大弐、塙保己一、月岡芳年Click!、松井須磨子、関孝和Click!などなど、墓地の紹介からはじまっている。死者とその墓所を優先する「文化財」の編集方針は、早くも明治期の文化財資料類からチラホラと見かけるので、どうやら「文化財」=「有名人の墓」と一義的に考える概念は、そのころから生まれているのではないだろうか。
 1963年版の『新宿区文化財』には、たとえば現在では消えてしまった旧・玉川上水の名残り流路や大隈重信Click!邸の庭園、富塚古墳Click!(高田富士Click!)の山頂に通う浅間社の鳥居と参道、下落合西端で発見された落合遺跡Click!の、発掘作業が行われている現場のリアルな写真などが掲載されている。1967年版ではさらに記述が詳しくなり、写真や図版などが1963年版に比べてかなり増えている。
 たとえば、同時期にはすでに崩されてしまった早大キャンパス内の富塚古墳Click!跡は、古墳自体の写真および解説と浅間社を奉った高田富士Click!の紹介とで分けて記述されている。また、戸山荘Click!(尾張徳川家下屋敷)の敷地図版や、史跡のある場所の詳細な地図、間取り図つきの永井荷風Click!旧居跡をはじめ、由井正雪や夏目漱石Click!大隈重信Click!尾崎紅葉Click!小泉八雲Click!島崎藤村Click!など旧居の紹介が数多く掲載されており、1963年版からもう一歩内容を拡げ、テーマをより深くドリルダウンした記述が明らかに増えている。
 では、落合地域に限って両誌の内容を見ていこう。まず、どちらの版とも落合遺跡が占めるウェイトが高いのは、同遺跡が発見されてそれほど時間が経過していなかったからだろう。縄文や弥生、古墳など各時代を通じての集落跡が発見されて話題になったが、がぜん注目を集めたのは、群馬県の岩宿遺跡Click!の発見から間もない時期に、東京でも同様に関東ロームから旧石器Click!が次々と発見されたからだ。1955年(昭和30)に出版された『新宿区史』では、落合遺跡が発掘写真とともに大きく取り上げられ、「新宿区」には数万年前から住民がいた……といわんばかりの記述になっている。w
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高田富士1967.jpg

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富塚古墳1963.jpg

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玉川上水1963.jpg

 1967年版の『新宿区文化財』から、同遺跡の記述を引用してみよう。
  
 目白学園の遺跡園にある。/落合遺跡は昭和29年早稲田大学考古学研究室によって発掘が行われた。縄文式、弥生式、土師式の住居跡群とそれぞれの時代の土器、石器類が発掘された。目白学園構内には住居跡の復元があり、土器や石器類は早稲田大学考古学研究室、目白学園、区資料室に分けて保存されている。(中略)/この遺跡の特色は、縄文時代以前から、縄文、弥生、土師、古墳時代までの長年月の居住跡が、狭い範囲に見つかっていることである。
  
 遺跡の年代は、当時はいまだ縄文期から古墳期までとされており、その後に規定されている奈良から平安、そして近世までつづく遺跡の記述がまだない。換言すれば、「土師時代」という耳馴れない用語がつかわれ、土師器は弥生以降から古墳時代にいたる間に存在した文化の遺物と解釈されている。現代では、出土物の正確な年代測定により、土師器は古墳時代から奈良、平安の各時代までつづく焼き物であり、「土師」時代というような文化区分はとうに消滅してしまった。
 また、目白学園キャンパスに遺跡をそのまま保存した、「遺跡園」と呼ばれる公園のような施設が存在したことがわかる。現在はキャンパスに校舎の数も増え、記載されている落合遺跡のエリアは目白大学短期大学部の建物の下になっている。
 『新宿区文化財』の両誌に掲載されている落合遺跡の写真は共通で、復元された縄文時代の“粗末な”竪穴式住居とともに、高い位置から発掘現場がとらえられている。同遺跡はエリアを少しずつ変え、何度も繰り返し発掘調査が行われているが、掲載写真は初期のころに撮影された現場の様子だろう。掘り返された目白学園Click!のキャンパスは、校舎のある北側から中井御霊社Click!のある目白崖線のバッケClick!(崖地)方向、すなわち南南西に向けて撮影されている。手前に竪穴式住居が再現されているが、現状の縄文期研究からすればあまりに粗末すぎる復元だろう。
 また、落合地域の文化財では、いずれも非公開でわたしは見たことがないが、薬王院に保存されている鎌倉時代の板碑Click!や、月見岡八幡社に保存されている谷文晁の天井絵の1枚、江戸時代の最初期に造られた庚申塔(宝篋印塔形)、天明年間の鰐口などが写真入りで紹介されている。この中では、鰐口にからむ面白い物語が紹介されている。
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落合遺跡1963.jpg

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落合遺跡空中1963.jpg

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薬王院板碑1963.jpg

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下落合横穴古墳鉄刀1967.jpg

 以下、1967年版の『新宿区文化財』から引用してみよう。
  
 鰐口とは神社仏閣の前にかけつるして、綱で打ちならす道具で、銅または鉄の合金製があり、平たい円形で中は空、下方に横長の口がある。/表には上部中央に「奉納八幡宮」とあり、右側には「武州豊島郡上落合村氏子中」、左側には「天明五乙巳年六月吉日」ときざまれている。ちなみに天明5年ごろは東北地方には天明の大飢饉があり、関東では大洪水があり、天災の連続した時代であった。/この鰐口はどうしたものか不明だが、北海道にわたり、村まわり芝居興業が打ち鳴らしていたのを、昭和7年に北海道に旅行した地元の人が見つけて、それをもらい受けてもとに納めたものだという。
  
 「どうしたものか不明」とされているけれど、明らかに同社から盗まれたものだろう。それを北海道にたまたま旅行していた上落合の住民が、1932年(昭和7)に偶然発見してとりもどす経緯も面白い。できれば、発見した上落合の住民に取材してお話をうかがいたいものだ。また、現在の資料でも写真入りでよく見かける、中井御霊社の「龍王神」Click!と書かれた雨乞いの筵旗や、葛ヶ谷御霊社の力石なども掲載されている。
 そのほか落合地域に限らず、新宿区内の各史跡や文化財の写真および記述も、現在の資料では割愛されたり削除されているものが多く、図版なども含め非常に貴重なものが多い。同誌の刊行について、1963年版から新宿区教育委員会の序文を引用してみよう。
  
 新宿区は旧四谷、牛込、淀橋の三地区をあわせ、その歴史的遺産はかなりの数にのぼっております。/教育委員会では、かねがね、これらのうち、文化的価値のあるもの、歴史的に重要な史跡、旧跡などを、体系的に整理し、古文書、文献を裏付けとした正確な資料の必要性を痛感いたしておりましたが、このたび2年有余にわたる調査研究の結果、ここに「新宿区文化財」を編さん、発行のはこびとなりました。/おさめられた文化財は、あらたに指定された11点を含めて、文化財64篇、資料篇22点、合計86点、載せられた写真は74葉の多きにのぼりました。
  
 現代から見れば、86点とはなんて少ない点数なんだろうと感じるが、本誌が編纂されはじめたのは1945年(昭和20)の焦土と化した敗戦からわずか15年余のことで、街中からようやく戦争の傷跡が目立たなくなり、翌年には東京オリンピックを控え高度経済成長が端緒についたばかりのころであり、いまだ「文化」を落ち着いて探求するほど人々に余裕がなかった時代だ。また、戦争で日本じゅうの膨大な文化財が破壊・消滅し、取り返しのつかないことに改めて気づきはじめた時期でもある。
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月見岡八幡天井絵1967.jpg

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月見岡八幡鰐口1967.jpg

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新宿区文化財1967.jpg

 人々はようやく食べる心配がなくなり、家電の「三種の神器」が家庭に入りはじめて生活に少しは余裕が出はじめたころ、それが1963年(昭和38)という時代だった。新宿区教育委員会の両誌からは、そんな当時の世相の匂いが漂ってくるようだ。

◆写真上:下落合横穴古墳群が発見された斜面跡で、右手の祠は下落合弁天社。
◆写真中上は、富塚古墳と溶岩が積み上げられた「高田富士」。階段下の人物や鳥居と比べると、古墳の規模がわかる。(1967年版) は、富塚古墳の上り口にあった浅間社の鳥居。は、暗渠化されずに残っていた旧・玉川上水。(ともに1963年版)
◆写真中下は、初期の発掘エリアを北側から眺めた落合遺跡の現場。(1963年版) および、1963年(昭和38)の空中写真にみる目白学園の「遺跡園」。は、左から右へ徳治2年(1307年)、建武5年(1338年)、貞治6年(1367年)の年号が彫られた板碑。(1963年版/1967年版) は、下落合横穴古墳群から出土した鉄刀Click!(直刀)のひと振りで長さ(刃長)は2尺に足りず比較的短めだ。(いずれも1967年版) 
◆写真下は、月見岡八幡社に保存されている谷文晁の天井絵。(1963年版) は、同社から江戸期に盗まれたとみられる鰐口。(1967年版) は、1963年(昭和38)に発行された『新宿区文化財』()と、1967年(昭和42)発行の同誌()。

昭和初期に走る山手線の姿は?

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山手線下落合ガード上.JPG

 So-netには、数多くの鉄道ファンがブログを開設しているので、船ならともかく鉄道音痴のわたしが電車についてここに書くのも、まったくおこがましい限りなのだが、明治末から昭和初期にかけて落合地域に在住した美術家や作家たちの証言には、鉄道や停車場(駅)についての記録がときに登場している。西武線Click!については、陸軍鉄道連隊の演習Click!がらみで多少記事にしているが、今回は日本鉄道(株)の品川・赤羽線を起源とする、この地域を走る山手線について少し書いてみたい。
 西武電鉄Click!が敷設される以前、大正期を通じて落合地域に住んだ人々は山手線(目白駅・高田馬場駅)、ないしは中央線(柏木駅=東中野駅)を利用している。さまざまな資料では、下落合(現・中落合/中井含む)の東部から中部に住んでいた人々は目白駅Click!高田馬場駅Click!を、上落合あるいは下落合の中部から西部にかけて住んでいた人々は柏木駅Click!東中野駅Click!を利用していた様子が記録されている。
 おそらく周知の方も多いだろうが、山手線の歴史を概観すると、1885年(明治18)に日本鉄道が品川・赤羽間に鉄道を敷設したあと、1906年(明治39)には鉄道院が同社を買収して国有化されている。その後、東海道線の烏森駅(のち新橋駅)や東北本線の上野駅、東海道線の呉服橋駅(のち東京駅)へと乗り入れたり、1925年(大正14)にはようやく現在の姿と重なる、東京-品川-新宿-池袋-上野-東京と主要ターミナル駅を結ぶ環状運転がスタートしている。この間、池袋駅と赤羽駅を結ぶ環状に含まれない区間も、1972年(昭和47)に「赤羽線」として独立するまで、山手線として規定され運行がつづいていた。現在は、埼京線や湘南新宿ラインとして運行されている区間だ。
 下落合に住んだ芸術家たちの記録で、山手線が頻繁に登場するのは、やはり彼らが数多く集まりはじめた大正後期から昭和初期にかけてのものが多い。ちょうど豊多摩郡落合村が落合町に変わるころ、佐伯祐三Click!松下春雄Click!らが「下落合風景」シリーズを描いていたとき、山手線の土手上にはどのような車両が走っていたのだろうか?
 たとえば、1927年(昭和2)3月末現在で山手線を走っていた車両は、馴れない鉄道資料を調べてみると、環状線の軌道上は5両編成の客車と2両編成の荷扱専用車だったことがわかる。昭和に入ると郊外人口が増えるにつれ、同線は5両編成の電車計18便が定期運行している。また、2両編成の定期荷扱専用車は、計4便の電車が就役していた。
 環状線の定員は1車両に100名で、5両編成の環状線は500名、先頭と後尾には100kw(キロワット)出力の「デハ」車両がそれぞれ連結されていた。鉄道ファンなら自明のことだろうが、「デ」は運転台のある発動車のことで、「ハ」はイロハの3番目すなわち3等車両(一般車両)のことだ。前後2両の「デハ」にはさまれた、真ん中の客車3両は「サハ」車両で、「サ」は発動機を持たない付随車、つまり中間車両を意味する記号だ。「デハ」×2両と「サハ」×3両の計5両編成で、定員500名の乗客を運搬することができた。
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山手線下落合池田化学工業1925.jpg

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山手線水道橋.jpg

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山手線電車編成表1927.jpg

 さらに、環状線を定期的に走る荷扱専用車は「デハ」(100kw)の2両編成、ないしは「デハ」+「デヤ」(70kw)の2両編成だった。「ヤ」は、なんらかの業務を行なう職用車と呼ばれた車両で、「デヤ」は運転台のある発動機付き職用車ということになる。ふたつの車両とも乗客は乗せず、荷物専用の便で東海道線まで乗り入れていた。
 また、同じく定期運行していた山手線の池袋駅-赤羽駅間は2両編成で、「デハ」(100kw)と「クハ」の組み合わせだった。「ク」は、運転台があるだけで発動機は付属していない車両だ。定員は2両で200名だが、ときに全4便のうち1便を荷扱車両兼用として運行させており、その場合は「デハ」車両が100名+「クハ」車両が50名の、計150名の乗客を運んでいる。
 以上の車両編成が、1927年(昭和2)3月末の定期運行時における山手線の電車編成だが、乗客が急増する季節(正月や藪入りClick!など)や沿線で人気行事が開かれる時期には、臨時増発の不定期便も運行していた。不定期便は、環状線で6便、池袋・赤羽線で1便が用意されている。環状線は、「デハ」2両+「サハ」3両の5両編成で、定期運行便と変わらず500名の乗客を運べた。一方、池袋駅-赤羽駅間の不定期便は「デハ」×2両の編成(200名)で、定期便の「クハ」車両は使われていない。
 大正末から昭和初期にかけては、以上のような車両編成の山手線だったが、『落合町誌』Click!(1932年)や『高田町史』Click!(1933年)が出版されるころになると、新型車両の登場や車両編成、便数などがすでに大きく変わっていると思われる。
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山手線戸山ヶ原.jpg

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山手線新宿駅1928頃.jpg

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山手線武蔵野鉄道高架1933.jpg

 たとえば、1933年(昭和8)4月末現在の山手線の車両編成や運行状況を見てみよう。まず、すべての便が定期運行となって不定期便が事実上なくなり、環状線の電車が32便と6年前に比べ40%以上も急増している。しかも、そのうちの8便には従来の5両編成ではなく、6両編成の電車が登場している。
 その車両編成は、先頭と後尾の2両が「モハ」(100kw)、中間が「サハ」「クハ」「モハ」「サハ」という連結だった。「モ」はモーター、つまり運転台のある発動機を備えた車両のことで、「モハ」3両に「サハ」(付随車)2両、「クハ」(運転台付き車両)1両の計6両編成となっている。車両も新型が投入されているのか定員615名と、1両あたりの乗客数も増えているようだ。
 環状線の残り24便は、従来どおりの5両連結で「モハ」3両に「サハ」「クハ」が各1両、定員は509名という編成だった。環状線を走る荷扱専用車としては、荷物を8tまで積載できる「モニ」車両が登場している。「モニ」は、運転台のある発動機付き(モ)の荷物車(ニ)が1両のみで運行し、5便が就役していた。
 池袋駅-赤羽駅間では、「モハ」と「クハ」の2両編成(203名)の電車が3便就役していたが、1日のうち3回の運行時に車両の半分が荷物車として代用されていたらしい。また、実際の乗降客数をベースに編成されたのだろう、赤羽駅の手前の池袋駅-十条駅間で2便が用意され、池袋駅-赤羽駅間と同じく「モハ」と「クハ」の2両編成(203名)の電車が走っていた。
 以上が、大正末から昭和初期にかけて山手線の軌道上を走っていた電車だが、塗装はもちろん懐かしいチョコレート色の車両で、いまだ黄緑色はしていない。当然、わたしはチョコレート色の山手線などほとんど記憶にないが、子供のころに同様の木製車両が郊外の路線ではいまだ使われていて現役のまま走っていた。山手線に黄緑色の車両が登場するのは、東京オリンピックが近づく1960年代初めのころだ。
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山手線電車編成表1933.jpg

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戸山ヶ原の大地から山手線のガードを1935.jpg

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三角山の大地から新大久保方面を1937.jpg

 さて、下落合の画家たちが、スケッチをしながらしじゅう目にしていた山手線だが、下落合を走る電車を描いた風景作品は、いまだほとんど目にしたことがない。思いつくところでは、蒸気機関車に牽引され山手貨物線Click!を走る貨物列車を描いたとみられる佐伯祐三の『線路(山手線)』(仮)Click!か、東京美術学校を出たがプロの画家にはならず、のちに戸塚風景を記憶画として数多く残している濱田煕Click!の作品群ぐらいだろうか。

◆写真上:雑司ヶ谷道(新井薬師道)と交差した、下落合のガードClick!上を走る山手線。
◆写真中上は、1925年(大正14)に下落合の線路土手を走る4両編成とみられる山手線。手前の工場は、下落合71番地にあった池田化学工業Click!で、遠景は学習院の森。は、大正末ごろ巣鴨町を走る山手線で線路を跨ぐのは荒玉水道の水道橋「江戸橋鉄管橋」。は、1927年(昭和2)3月末現在の山手線電車編成一覧。
◆写真中下は、昭和初期に戸山ヶ原を走る山手線。は、1928年(昭和3)ごろ撮影された新宿駅に入線する山手線とみられる車両。は、1933年(昭和8)撮影の武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の高架をくぐり踏み切りClick!にさしかかる山手線。
◆写真下は、1933年(昭和8)4月末現在の山手線電車編成一覧。は、1935年(昭和10)に山手線の西側から諏訪通りガードClick!上を走る山手線を描いた濱田煕の記憶画『戸山ヶ原の大地から山手線のガードを』(部分)。は、山手線の東側から新宿方面を向いて描いた同『三角山の大地から新大久保方面を』(部分)。左手の線路は、陸軍が戸山ヶ原へ西武線からのセメントや砂利など資材運搬用に敷設した引き込み線Click!の終端。

佐伯祐三から小島善太郎へ。

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佐伯祐三と小島善太郎1.jpg

 佐伯祐三Click!が描いた『下落合風景』シリーズClick!の中に、曾宮一念アトリエClick!の西側空き地(下落合622番地=のち谷口邸敷地)から見える風景をモチーフに描いた、『セメントの坪(ヘイ)』Click!という作品がある。曾宮一念によれば、自宅の軒先をほんの少し入れた同作が気に入らないようで、40号の画面を不出来だと批判Click!している。だが、同作には「制作メモ」Click!に記載された15号サイズの作品と、1926年(大正15)9月1日に二科賞の受賞時に東京朝日新聞社のカメラマンによって撮影Click!された、同年の8月以前の制作とみられる10号前後の作品があるのが確認できる。
 佐伯が三度も同じ位置から作品を仕上げているので、曾宮邸の西横から眺めた風景モチーフがよほど気に入っていたのだろう。佐伯が画因にこだわって、3作以上の仕上げた『下落合風景』は、ほかに佐伯アトリエの西側を南北に通る西坂Click!筋の『八島さんの前通り』Click!と、曾宮邸の前に口を開けた諏訪谷を描いた『曾宮さんの前』Click!(秋・冬各2点)しか存在していない。
 もっとも、下落合623番地の曾宮邸Click!がある前の道路は、佐伯祐三に限らず画家たちの“人気スポット”だったものか、佐伯の3年前には曾宮一念自身も『夕日の路』Click!(1923年)に描いており、また昭和初期には曾宮の描画ポイントのややうしろ側、下落合731番地の佐藤邸敷地から清水多嘉示Click!『風景(仮)』Click!を制作している。曾宮の『夕日の路』には、いまだコンクリート塀は築かれていないが、大正末に進捗した諏訪谷の宅地開発とともに建てられたのだろう、1926年(大正15)の佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』および清水多嘉示『風景(仮)』には、同じデザインの塀が記録されている。
 さて、1926年(大正15)の夏に早くも仕上げられていた、10号前後の小品『下落合風景』(セメントの坪)だが、この作品を佐伯がいかに気に入って大切にしていたのかが、彼の手もとに置かれていた期間をみるとわかる。同年8月末には、すでに完成していたとみられる同作だが、佐伯は東京の画廊でも、また関西の作品頒布会を通じても決して売ろうとはせず、そのままアトリエで保存しつづけている。そして、1927年(昭和2)6月17日~30日に開かれた1930年協会第2回展Click!(上野公園内日本美術協会)で、初めて同作を出品している。その際、同展の記念絵葉書として『セメントの坪(ヘイ)』を印刷し、会場で販売するほどのお気に入りだった。
 佐伯は、なぜ『セメントの坪(ヘイ)』をそれほど気に入っていたのだろうか? 考えられることは、同作が第1次滞仏から帰国したあと、自宅周辺を描いた売り絵ではない『下落合風景』の中ではもっとも出来がよいと感じていたか、あるいは記念すべき第1作だった可能性がある。または、その両方だったのかもしれない。「制作メモ」に見られる、1926年(大正15)9月~10月に描かれた『下落合風景』のタイトルは、あくまでもほんの一時期の覚え書きであり、それ以前やそれ以降にも制作していたのはもはや明らかだ。同年の夏以前から制作していた『下落合風景』の中でも、『セメントの坪(ヘイ)』は特に佐伯好みに仕上がった作品なのだろうか。
 同作は、戦災で焼けて失われたか、あるいは個人蔵で行方不明になったままなのか、作品の現存は確認されていない。かろうじて、1930年協会第2回展の記念絵葉書と同展の会場写真、そしてアサヒグラフに掲載された記者会見の写真から、その存在を確認できるのみだ。だが、1930年協会第2回展の絵葉書には、もうひとつ重要な要素が確認できる。絵葉書の画面に、佐伯のサインが大きく書きこまれているのだ。
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セメントの坪(ヘイ)1926.jpg

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下落合現状1.JPG

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佐伯祐三と小島善太郎2.jpg

 おそらくペンか万年筆で書かれたのだろう、走り書きの文字は「Mr.Kojima/Uzo Saeki(あるいはSaiki)」と読みとれる。「Kojima」とは、もちろん同展でいっしょだった1930年協会の会員である小島善太郎Click!その人だろう。のちに児島善三郎Click!も1930年協会に参加するが、佐伯が1927年(昭和2)6月に同絵葉書を作成して手渡すには、時期的にみて無理がある。佐伯と小島は、性格も育った環境もまったくちがうし、画風も一致点がまるでないほど異なっているが、どうやらお互いがなんとなく気の合う同士だったらしい様子が、残された各種の証言からうかがえる。
 1930年協会の記念写真を見ても、小島善太郎の隣りには佐伯祐三の姿が写っていることが多い。また、小島は帰国した佐伯の自宅に、パリ生活の延長とばかり何度か「随分入り浸っ」てもいる。そのあたりの心象を、1929年(昭和4)に1930年協会から出版された『一九三〇年叢書(一)/画集佐伯祐三』所収の、小島善太郎「佐伯の追憶」から引用してみよう。ただし、引用元は朝日晃がまとめた『近代画家研究資料/佐伯祐三』(東出版)ではなく、小島善太郎のお嬢様である小島敦子様Click!が、1992年(平成4)に編集した『桃李不言-画家小島善太郎随筆集-』から引用してみよう。
  
 日本に帰っての彼の一年間の生活は、丁度五月に帰朝して翌年の六月(ママ:8月)日本を再び立つまでの彼は、相変わらず巴里生活の延長をやっていた。僕達は随分入り浸ったものだった。よく遊び又よく勉強をしていた。彼は日本では現代の文化式のものを画くのだと言って随分彼の住っていた落合のそういった風景を描いた。そして旅行などもした様だったが、日本の風景に充分なじみ切らぬうちに、再度の渡仏をしてしまった。もう一度自信のつく勉強をし直したいと言い残して。/今にして思出すに、彼は何処かに淋しさがあった。それはどんなに有頂天にさわいでいた時でも、彼は醒めていた所がある様で、其処には何か見詰めていた何かがあった様に見受けた。それは何か? 僕は思う。彼の死?に対する覚悟を求めていたのではなかったか?(カッコ内引用者註)
  
 佐伯祐三が、下落合の宅地造成や道路敷設の工事中、あるいは工事が終わった直後の場所ばかりをモチーフに選んで描いているのは、たびたびここの記事でも指摘してきたけれど、それに対し「日本では現代の文化式のものを画くのだ」という佐伯の言葉を、小島が記録・証言している重要な一文だ。
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佐伯サイン.jpg

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曾宮一念「夕日の路」1923.jpg

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清水多嘉示「風景(仮)」昭和初期.jpg

 小島善太郎もまた、自分とは性格も画風も、趣味嗜好もかなり異なる佐伯に少なからず惹かれていたらしく、「佐伯、君は君の作品と一緒に僕に永久に力を与えてくれる」(同書)とまでいい切っている。佐伯が死去して間もない文章なので、多少の感傷や思い入れのある表現を割り引いて考えても、小島が佐伯について書いた文章は、相対的に文字数が多くボリュームも大きい。
 互いに反りが合った者同士、佐伯は第2次渡仏の直前に、もっとも気に入っている『下落合風景』の絵葉書へサインを書きこみ、小島善太郎へ記念として贈ったのではないだろうか。1930年協会の他の会員たちには、少なくとも現存する資料からは、同じように絵葉書を贈った形跡が見られない。
 小島善太郎は、佐伯祐三が第1次滞仏中のパリで仕事をする様子を間近で見ている。クラマールでは、佐伯の「化け猫」騒ぎClick!に巻きこまれ、のちに小島はその物語をわざわざ戯曲化Click!して清書した原稿として残してもいる。小島がことさら佐伯に親しみを感じたのは、このときからではないだろうか。佐伯がパリで仕事をする様子を記した、1957年(昭和32)発行の「みづゑ」2月号掲載の、小島善太郎「佐伯祐三の回顧」から引用してみよう。ただし、引用元は上掲の『桃李不言-画家小島善太郎随筆集-』から。
  
 僕がパリでアトリエをもった頃、佐伯は僕の近くでリュウ・ド・シャトウ十三番の大きなアトリエを借り、そこであの数々の汚れたメーゾン(家)を描き出した。仲よくなった靴屋の真前で、そのままの家を一気に描き上げる。靴屋の親父が飛出してそれを欲しがったのも無理はない。実に素晴らしい靴屋の店である。しかもそれが二、三時間で二十号の立派な油絵が出来上ったのだ。また彼が自分の仕事に飽きたらず焦々した時は、タッチが幅広くそれが針金をくの字に曲げたように奔放のまま終っている。色は灰褐。まるで魔界を彷徨する気持である。時にはあの有名なパリの簡素な便所に向かって数枚の傑作を描いた。鉄板の周りには花柳病の広告ビラが、彼に依ってあんな詩化されている。こうしたパリの冬、灰色の空の下で彼が夢中で描き続けていった無数の仕事の中には、狂的な程の熱中さが刻印されている。このことは佐伯の作を見た人達の識るところであるが実に甘い描写のない彼の詩であった。
  
 おそらく、小島善太郎が国内の洋画家について語った、最大の賛辞のひとつだろう。
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下落合現状2.JPG

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小島敦子「桃李不言」1992.jpg
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小島善太郎1982.jpg

 さて、佐伯祐三と小島善太郎に共通する趣味がひとつある。それは、ふたりが無類の野球好きClick!だったことだ。おそらく、当時の六大学野球Click!全国中学校野球大会Click!の話題を、ふたりは頻繁に交わしていたのではないか。小島善太郎は、戦前は早慶戦Click!に夢中であり、戦後は熱烈な巨人ファンだったようで、王がホームラン記録を出しそうな試合を観戦しに、わざわざ後楽園球場へと出かけている。北野中学時代Click!には野球部のキャプテンClick!だった佐伯祐三もまた、第2次渡仏直前の多忙な時期に、わざわざ甲子園まで出かけて中学校野球大会(現・全国高校野球大会)を観戦している。案外、野球を通じてこのふたりは意気投合しているのかもしれないのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:記念写真では隣り同士が多い、小島善太郎(右)と佐伯祐三(左)。
◆写真中上は、1926年(大正15)の8月以前に制作された佐伯祐三『下落合風景』=『セメントの坪(ヘイ)』。は、佐伯の描画ポイントあたりから見た下落合の現状で、手前から左手の駐車場が、下落合623番地の曾宮一念アトリエ跡。は、1926年(大正15) 5月15日~24日に開かれた第1回展(室内社)での小島善太郎と佐伯祐三。
◆写真中下は、『セメントの坪(ヘイ)』のサイン拡大。は、1923年(大正12)に制作された曾宮一念『夕日の路』。は、昭和初期に描かれた清水多嘉示『風景(仮)』。いずれも諏訪谷の北側に通う、佐伯の『セメントの坪(ヘイ)』と同じ道筋を描いている。
◆写真下は、佐伯祐三と清水多嘉示の画面に描かれたコンクリート塀跡(左側)。下左は、1992年(平成4)に出版された小島敦子様・編『桃李不言-画家小島善太郎随筆集-』(日経事業出版社)。下右は、1982年(昭和57)にアトリエで撮影された小島善太郎。
掲載されている清水多嘉示の作品は、保存・監修/青山敏子様によります。

彝に頼まれ湘南に出かけた曾宮一念。

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大磯藁葺き農家.JPG

 曾宮一念Click!というと、千葉県の外房Click!や長野県の八ヶ岳Click!へ写生に出かけていたイメージ、戦後に下落合から移り住んだ静岡県の富士宮Click!における制作の印象が強いが、実は相模湾沿いの町々にもたびたび出かけている。特に、鎌倉Click!大磯Click!とのかかわりが深かったようで、同町の風景をモチーフにした作品をいくつか残している。
 曾宮一念は大磯の印象について、こう記している。ちなみに、彼は日本橋浜町の生まれなので、大磯に関しては松本順Click!(江戸幕府の御殿医時代は松本良順)が拓いた、江戸東京地方における憧憬の別荘地であったのをよく知っていただろう。1938年(昭和13)に座右宝刊行会より出版された、『いはの群』に収録の「大磯」から引用してみよう。
  
 汽車から窺つた大磯は立派な別荘とすきまのない住宅とで今迄近づき難く思つてゐた。今度はじめて下りて見ると春さきの大磯は青麦とげんげ田に菜の花と土の香、実は下肥のにほひをまぜて頬をなぜてくれる、どうしてまだのんびりとした田舎だ。線路のすぐ北にこんもりと茂つた山がある、春夏秋冬常盤木の色を主調としてゐるので、いつも変化の乏しい無能な山といふ印象を得てゐたのを、畑中から大観すると、なかなか形のととのつたよい山である。高麗山といふさうだ、目下のところ天国心中の坂田山に名誉を奪はれた形である。
  
 もし、曾宮一念が5月初旬に大磯を訪れていたら、高麗山の「常盤木の色」が山一面に霞がかかったような、薄いピンク色に変貌していたのを眺められただろう。高麗山は、大磯の丘陵の中でもヤマザクラが多い山だからだ。
 当時の大磯は、慶大生と深窓の令嬢とが駅の裏山で服毒自殺した、いわゆる自殺ブームのさきがけとなる「天国に結ぶ恋」の坂田山心中事件Click!で持ちきりであり、駅前では「心中最中」や「天国饅頭」などが売られていた時代だ。余談だけれど、わたしは子どものころ親に連れられ、心中の現場となった地点に建立された比翼塚Click!を見た記憶があるのだが、現在は事件現場ではなく鴫立庵Click!の敷地に移されている。
 曾宮一念が、湘南の町を訪れたのは、これが初めてではない。大磯旅行から15年ほど前、1922年(大正11)ごろに曾宮は病床の中村彝Click!からの伝言を携えて、平塚にいた宮芳平Click!を迎えにいっている。彝の弟子のひとりである宮芳平は、1915年(大正4)に東京美術学校を中退したあと、1920年(大正9)まで新潟の柏崎商業で嘱託教師をしていた。だが、画家への道をあきらめきれなかったのか、1920年(大正9)に柏崎商業を辞めると、病気の妻とともに平塚に移り住んでいた。
 中村彝は、平塚で呻吟している宮芳平を心配していたのか、長野県にある諏訪高等女学校の美術教師に推薦する伝言を、曾宮にもたせて派遣したのだ。この諏訪高等女学校Click!で空席になった教職こそ、同じく彝の弟子でフランス留学のために同校を辞職した、清水多嘉示Click!がいたポストだった。清水多嘉示Click!が渡仏したのは、1923年(大正12)3月なので、彝の伝言を伝えに曾宮が平塚の宮芳平を訪ねたのは前年中だったと思われる。
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坂田山心中比翼塚.JPG

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高麗山.jpg

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大磯高麗山1938.jpg

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松本順墓.JPG

 では、曾宮一念の来訪を、宮芳平はどのようにとらえていたのだろうか。1987年(昭和62)に野の花会が発行した宮芳平『音信の代りに友に送る-AYUMI』から引用してみよう。ちなみに、文中に登場する「Sさん」とは曾宮のことだ。
  
 その頃Sさんは日暮里の下宿屋の二階に病気を抱えて苦闘していた彝さんを知るようになり、後にわたしも彝さんを知るようになった。そしてわたしが病妻を抱えて相模の平塚にいたときSさんが彝さんの使者となって、わたしを信州諏訪へと赴かせるために迎えにきたのである。/その頃彝さんの作品は日の昇るような評判で褒賞を取り三等賞をとり二等賞を取って既に文展の審査員になっていたのである。Sさんは落選したり入選したりしていたがとうとう褒状を取って意気漸くに上っていた。/その頃、わたしはその群を離れて諏訪に来た。教師となったのである。わたしが教師をしている間にSさんはめきめきと売り出して、その名を曽宮といえば絵に関心を持つ人なら知らない人は無い程になった。わたしは羨しかった。Sさんの盛名はともかくとして、その作品に頭を下げざるを得ないのである。その色、その匂い、その才気、馥郁としていたのである。
  
 またちょっと余談だけれど、宮芳平が滞在した短い平塚時代に絵をならいに通っていたのが、わたしが小学生のときに通っていた画塾のおじいちゃん先生だった。
 諏訪高等女学校へ赴任した宮芳平は、しばらくすると平野高等女学校や諏訪蚕糸学校の美術教師を兼任しているので、教職が彼の肌には合っていたのだろう。彼が諏訪へ転居してから、わずか1年半で中村彝の訃報を聞き、下落合のアトリエへ駆けつけることになる。彼が休暇をもらって下落合に着いたとき、すでに中村彝は納棺が終わり、晩秋から初冬にかけて近所の野原に咲いていた花々で、その遺体の周囲は埋められていた。このとき、下落合に咲いていた野花とはノゲシやヒメジオン、スミレ、ツリガネニンジン、キツネノボタン、タツナミソウなどだろうか。中には野生化したスイセンや、サザンカも混じっていたのかもしれない。
 葬儀の写真を見ると、中村彝の棺を前に岡崎キイClick!満谷国四郎Click!にはさまれて立っているのが、若き日(31歳)の宮芳平のようだ。作品を彝に見てもらう機会が少なかった彼は、師の死後に痛切な文章を残している。同書から、再び引用してみよう。
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宮芳平「AUMI」1987.jpg
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宮芳平.jpg

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中村彝葬儀192412.jpg

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宮芳平「諏訪湖(立石より)」1930.jpg

  
 あの人は死にました
 あの人はいつもアトリエにいませんでした。/あの人はアトリエの隣の小さな南の部屋のベッドの中にいました。/絵を描くと熱が出る。熱が出るとこの部屋でやすむ。/わたしが会う時もたいていこの部屋でした。/この部屋にあの人がいない時は絵を描いている時ですからわたし達はアトリエに入れません。わたし達がこの部屋で待っているとおばあさんがお茶をもってきてくれました。おばあさんはあの人にはあかの他人です。しかし誰もあの人を看病してくれなかった時――誰しも長い病気に辛抱しきれなかったのです――このおばあさんがきてあの人を看病してくれるようになりました。枕もとには用事がある時人を呼ぶ呼鈴がついていました。/あの日/あの人はこの呼び鈴を押さなかったのです/押せなかったのかもしれません/おばあさんが来た時 死んでいました/あの人は喀血したのです/その血が喉につかえて死んだのです/喉をおさえ苦しんでいるうちに死んだのです
  
 平塚に宮芳平を迎えにいった曾宮一念は、彼が諏訪高等女学校の美術教師に就任すると、さっそく写生旅行がてら訪ねていった。だが、宮夫妻の部屋が狭かったので泊まれず、近くの諏訪湖近くの下宿屋に泊まって大雪にみまわれている。あまりの寒さに、曾宮は甲府へと出て鰍沢からポンポン蒸気で田子の浦へと南に向かった。曾宮が富士の裾野と接点ができたのは、このときが最初だったかもしれない。
 曾宮一念は、相模湾沿いの鎌倉町もときおり訪ねている。それは、彼の絵を夫妻で気に入り、たまに下落合623番地の曾宮アトリエへ寄っては作品を買ってくれていた、酒井億尋と妻の朝子が鎌倉に家を建てて病気の療養をしていたからだ。酒井夫妻とネコ嫌いの曾宮一念が親しくなったのは、朝子夫人が飼っていたネコに石をぶっつけたのがきっかけだった。おそらく、曾宮は遊びに出かけた佐伯祐三Click!アトリエの敷地から、佐伯と同じ地主の山上家Click!から借りた土地に家を建てて住んでいた、北隣りの酒井邸周囲をうろつく飼いネコが目障りで、思わず投石したものだろう。
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曾宮一念野外写生.jpg

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曾宮一念「梨畑道」1924.jpg

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曾宮一念「漁家」1938.jpg

 以来、曾宮は酒井夫妻が下落合から鎌倉に引っ越したあとも、しばしば病気の夫人を見舞いがてら鎌倉を訪ねている。鎌倉の酒井邸は、滑川Click!が流れ杉本寺や報国寺などの伽藍が建ち並ぶ、静かな浄明寺ヶ谷(やつ)に建っていた。曾宮一念は、浄明寺ヶ谷を起点に周囲の鎌倉風景を次々と写しとっているのだが、それはまた、別の物語……。
  
ご連絡
 ご連絡がギリギリになってしまいましたが、あさって13日(日)に聖母坂沿いにある落合第一地域センターClick!で、「佐伯祐三生誕120年記念」講演シンポジウムおよび下落合の街歩きを行ないます。吉住新宿区長もご参加予定ですが、午前11時30分に開場、正午には講演シンポジウムをスタートする予定です。
 街歩きは、今回は佐伯アトリエも近い「八島さんの前通り」から目白駅までの「下落合風景」描画ポイント、および佐伯祐三や中村彝の各アトリエをはじめ、吉田博、笠原吉太郎、森田亀之助、里見勝蔵、蕗谷虹児、曾宮一念、牧野虎雄、片多徳郎、鈴木良三、鈴木金平、鶴田吾郎、有岡一郎、九条武子、満谷国四郎、竹久夢二、相馬孟胤、安井曾太郎、近衛篤麿、近衛文麿、熊岡美彦…etc.の各アトリエ跡や邸跡をめぐる予定です。もしご興味がおありでしたら、お気軽にご参加ください。
下落合街歩きマップ/街歩き資料ダウンロード
13日(日)は雨の中、たくさんの方々にお集まりいただきありがとうございました。あいにくの雨で、街歩きの資料類が濡れてしまったため、下記のURLよりダウンロードができるようにいたしました。ご参照ください。
下落合街歩きマップClick!!(313KB)
下落合街歩き資料Click!(7.12MB)

◆写真上:大磯の国道1号線(東海道)沿いに残る茅葺き農家で、背後の山は高麗山。
◆写真中上は、鴫立庵へ移設された坂田山心中の比翼塚。は、平塚市街から眺めた高麗山から湘南平(左)にかけての大磯丘陵と、1938年(昭和13)に描かれた曾宮一念『大磯高麗山』。は、鴫立庵の敷地にある徳川幕府御殿医で西洋医学を修めた、日本初の海水浴場と避寒・避暑別荘地「大磯」の開拓者である松本良順(松本順)の墓碑。
◆写真中下は、1987年(昭和62)発行の宮芳平『音信の代りに友に送る-AYUMI』(野の花会/)と宮芳平()。は、1924年(大正13)12月の中村彝の葬儀における宮芳平。は、1930年(昭和5)に制作された宮芳平『諏訪湖(立石より)』。
◆写真下は、野外で写生中の曾宮一念。は、1924年(大正13)制作の曾宮一念『梨畑道』。は、1938年(昭和13)に鉛筆で描かれた曾宮一念『漁家』。

劉生に描いてもらいそこなった安倍能成。

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岸田劉生191702(佐藤別荘).jpg

 漱石門下の安倍能成Click!は、自然主義に関する文芸評論をしていた1917年(大正6)ごろ、藤沢町鵠沼に住んでいたことがある。海外留学を除き、東京を離れることが少なかった安倍能成にしてはめずらしい転居だ。ちょうど1917年(大正6)の2月に、東京の駒沢村新町(現・世田谷区駒沢)から療養のために、一家で鵠沼に引っ越してきた画家がいた。現在では誤診といわれている、「肺結核」の病名を告げられた岸田劉生Click!だ。
 劉生は同年2月23日から6月23日までのわずか4ヶ月間、藤沢町鵠沼藤ヶ谷7365番地20号の貸別荘だった「佐藤別荘」に住み、なにか気に入らないことでもあったのか、6月24日からは鵠沼下岡6732番地13号の同じく貸別荘「松本別荘」Click!へと転居している。それから、1923年(大正13)9月1日の関東大震災Click!で「松本別荘」が倒壊Click!するまで、6年余を同地ですごしている。
 1917年(大正6)の当時、安倍能成宅の周囲には、引っ越し魔だった「白樺」Click!武者小路実篤Click!和辻哲郎Click!が住んでおり、自然主義文学の話をしに安倍は両邸へ頻繁に出かけていたのだろう。岸田劉生とは、和辻哲郎邸で出会って親しくなっているようだ。当時の劉生は、鵠沼海岸近くに拡がる風景を盛んに描いている最中だった。劉生との出会いを、1940年(昭和15)6月23日から「京城日報」に連載された、安倍能成『椿君と岸田君』から引用してみよう。
  
 大正の五六年頃、私は二年ばかり気まぐれに相州鵠沼の松林の中に住んでゐたことがあつた。和辻哲郎君の近処であつたが、岸田君も当時偶々鵠沼海岸に住み、和辻君の宅などで時々逢つて話しすることもあつた。その頃の岸田君の作品には、丘の周囲の松林の間の道や、そこいらの藁屋などを描いた簡単な構図のものがあり、それは和辻君の家でも見たし、京城でも同僚の尾高君の家で同じやうな画を見た。晴れた青空、緑の松林、渋色の藁屋、薄褐色の砂道などが実に細かく、美しく描出されており、平生散歩する寧ろ平凡な路傍の景色の中に、かういふ美しさを見出す岸田君に感心したこともあつた。
  
 和辻哲郎の家の壁に架かっていたのは、1917年(大正6)に描かれた近隣の藁葺き農家の大屋根をモチーフにした、『風景(鵠沼)』シリーズの1点だと思われる。また、松林の砂道とは同年に制作されている『初夏の小路』か、それに近似した画面だったのだろう。同年の『初夏の小路』は、二科展第4回展に出品され二科賞を受賞している。
 鵠沼に転居した当時、劉生の風景画は前年までの代々木風景や大崎風景などに見られる赤土大地をベースにした、これでもかというほどの微細な描写は減退し、相模湾の潮風が運ぶ湿気の多い“空気感”に影響されたものか、あるいは海岸に見られる砂地特有の曖昧な地面の色合いのせいなのか、全体が朦朧としたような表現に変化している。
 海辺で長時間、カメラのファインダーをのぞきこんだことがある方なら、徐々に潮の粒子がレンズの表面に付着して景色全体が霞みはじめ、細かなディテールがわからなくなっていくような、特殊フィルターを装着したような写真に仕上がるのをご存じだろう。鵠沼に移ったあとの劉生の風景表現は、まさにそんな感じの画面になっている。クロマツの林や砂道の表現からは、どことなく潮風のべとつきや生臭ささえ伝わってくるようだ。
 劉生は、鵠沼生活をはじめると同時に風景画を制作しはじめているが、『麗子像』Click!シリーズや『村娘』シリーズなど、いわゆる童女像を描きはじめるのは翌1918年(大正7)の夏ごろからだ。横浜の原三渓Click!や原善一郎など、いわゆる原一族がパトロンとなって生活が安定したせいか、劉生にはめずらしく彫刻も手がけている。1918年(大正7)早々に、彼は生涯にわずか2点のみの彫刻作品となる、柏木俊一をモデルにした『男の首』と、蓁夫人をモデルにした『女の手』を制作している。
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岸田劉生「晩秋の霽日」1917.jpg

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 ちょうどそのころ、子連れで遊びに出かけた安倍能成の5歳になる息子を見て、岸田劉生がしきりに描きたがっていた様子が伝えられている。子どもをモチーフにした作品群が、実際に描きはじめられる1年ほど前、1917年(大正6)にはすでに具体的な表現のイメージが、劉生の中で育まれていたのではないだろうか。つづけて、「京城日報」に連載された安倍能成のエッセイから引用してみよう。
  
 岸田君が麗子像或は童女像を盛んに描いたのも、この頃ではなかつたかと思ふ。麗子といふのは恐らく岸田君の令嬢であり、童女像の中にそれを更に理想化したものもあつた。東京神田の岩波書店の応接間に、この童女像が一つかかつてゐるが、いつ見てもしつかりしたいい画だと思ふ。その頃私の長男が五歳位で、頬辺が林檎のやうに紅かつた。岸田君が彼を見て頻に描きたがつてゐたが、竟にその機を得なかつた。若しそれが出来てゐたら、或は世間の童女像の外に岸田君の珍らしい童男像の傑作を我家に残し得たかも知れぬと、一寸残念なやうな気もする。
  
 今日からみれば、「残念なやうな気もする」どころではなく、非常に残念至極なことだった。ただ、その作品を「我家」、つまり下落合4丁目1655番地(現・中落合4丁目)の第二文化村Click!に建っていた安倍邸Click!の壁に架けていたら、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で灰になっていたのかもしれない。
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岸田劉生「初夏の小路」1917.jpg

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岸田劉生「野童女」1922部分.jpg

 文中で安倍能成は、娘の麗子の顔を「理想化したもの」と書いているけれど、麗子ちゃんはあんな不気味でヘンな顔ではなかった……と証言する人物がいる。鵠沼に転居した劉生の自宅へ、頻繁に訪れていた河野通勢(みちせい)Click!の次男・河野通明(つうめい)だ。河野通明は、当時から麗子といっしょに遊び、大人になってからも画業で交流をつづけた人物だ。麗子ちゃんはキレイだった……という証言を、調布市にある武者小路実篤記念館が発行した『講演記録集』第3集収録の、河野通明「『白樺』のその後に就いて」(1990年講演録)から引用してみよう。
  
 さて、さっきお話が出ました岸田麗子さん、劉生さんのお嬢さんですけれども、「麗子像」の麗子さん。これは私たちと一緒に、今から三〇年前、来年三〇回目をやりますが、復活大調和展に最初に参加してくれました。我々と一緒に創立委員の一人として名前を連ねていましたのですけれども、この麗子ちゃんという人は美人でございます。よく「麗子像」の麗子をみて、あんな顔かと聞く人がありますが、ああいう顔ではないのです。もっと本当にかわいい。僕よりも四つぐらい上です。もしも僕が上だったら結婚している。(笑い)。描くというと、劉生先生はああいう顔でかいてしまう。/ところが、麗子さんのお嬢さんの夏子さん、(中略) その夏子ちゃんが、あの「麗子像」の麗子にそっくりな顔をしているのです。それがおかしくてしようがないのですけれども、どういうかげんでああいう顔になってしまったのか(笑い)。
  
 麗子像と似ている、「あんな顔」にされてしまった孫・岸田夏子には気の毒だけれど、確かに「麗子像」と岸田麗子本人とはあまり似ていない。どこか江戸期から、軸画や彫物細工などの題材でよく登場する、「寒山拾得」の詩僧たちのような表情をしている。
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岸田劉生「童女図(麗子立像)」1923部分.jpg

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岸田麗子「花と少女」1955部分.jpg

 特に、『野童女』(1922年)や『二人麗子図』(同年)の麗子は、ホラー映画のワンシーンのようで夢に出てきそうな表情だ。もし長男をモデルに、「童男像」を描いてもらっていたとしたら「あんな顔」にされてしまい、安倍能成は腹を立てていたかもしれない。

◆写真上:1917年(大正6)2月に転居し、4ヶ月しか住まなかった「佐藤別荘」跡の現状。
◆写真中上は、1917年(大正6)4月に「佐藤別荘」で撮影された岸田一家。は、近所の藁葺き農家の大屋根をモチーフにした1917年(大正6)制作の『晩秋の霽日』。は、岸田一家が関東大震災が起きるまで暮らしていた「松本別荘」跡の現状。
◆写真中下は、1917年(大正6)の二科展で二科賞を受賞した岸田劉生『初夏の小路』。中左は、松林の砂道で写生する岸田劉生。中右は、1928年(昭和3)6月に撮影された14歳の岸田麗子。は、1922年(大正11)制作の岸田劉生『野童女』(部分)。
◆写真下は、1923年(大正12)に制作された岸田劉生『童女図(麗子立像)』(部分)。は、1930年代の前半に撮影されたキャンバスに向かう岸田麗子。は、1955年(昭和30)に次女の夏子をモデルに制作された岸田麗子『花と少女』(部分)。

佐伯祐三生誕120年記念シンポ+街歩き。

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 去る5月13日(日)の正午から、落合第一地域センター3Fの集会室で「佐伯祐三生誕120年記念」の講演シンポジウムと、地域センターを起点に下落合(現・中落合/中井を含む旧・下落合概念)東部に点在する佐伯祐三Click!描画ポイントClick!のほんの一部を回遊する、下落合の美術街歩きをご案内をさせていただいた。あいにくの雨にもかかわらず、街歩きの資料やマップが不足するほど、会場にはたくさんの方々が詰めかけてくださった。ありがとうございました。>参加されたみなさん。
 会場や街歩きで、ご挨拶させていただいた方々には、こちらでもおなじみの清水多嘉示Click!のお嬢様である青山敏子様Click!山口長男Click!のご子息である山口道朗様(山口様には貴重な資料をいただいた)、三岸好太郎・三岸節子アトリエClick!の保存をめざす中野たてもの応援団の塚原領子様、鈴木良三Click!の弟子で医師でもある画家の野口眞利様、松本清張Click!ばりのミステリーを書かれる高名な作家の方、児童文学の語り部の方、和のコンセプトで下落合・目白の街歩きをされているプロデューサーの方(一家でお越しくださった)、お父様が目白福音協会Click!に付属していた英語学校の中で日本語教室を主宰されていた方、有名な佐伯の書籍を出版されている著者の方々、美術家の方、地元・下落合にお住いの方々……など、多彩な人たちがおみえだった。
 また、この催しを企画してくださった、中村彝生誕130年記念パーティーClick!以来お世話になっている、元・新宿区議の深沢利定様と根本二郎様、新池袋モンパルナス「街のどこもが美術館」のプロデューサーである小林俊史様、そして吉住新宿区長に佐原新宿区議会議長(佐原様とは彝アトリエで少しお話させていただいた)、地元の町会関係の人たちなど、下落合でこれだけの方々がそろった佐伯祐三がテーマの催しは、おそらく佐伯祐三の歿後初めてではないだろうか? 米子夫人の実家・池田家で、夫人の歿後に遺品整理にも参加されている、つい先ごろ亡くなられた池田家の最後の証言者の方が不在なのは、非常に残念なことだった。佐伯の「制作メモ」Click!について、詳しくおうかがいする機会を逸してしまったままだ。
 わたしは教師ではないので、文章を書くのは好きだが大勢の人前でお話をするのが苦手なため、講演会は美術家の平岡厚子様Click!からの問いに答えるかたちで、対談シンポジウムのような形式で進めさせていただくことにした。いつだったかか、炭谷太郎様Click!のご紹介から慶應義塾大学Click!で開かれたシンポジウム(ゼミ)に呼んでいただき、そこでお話をさせていただいたのと同じ形式だ。平岡様は豊島区に在住の方で、地元各地に点在するアトリエ村Click!に集った画家たちを深く研究され、ご自身も現代美術のインスタレーション作家であり、教え子を抱えるデッサンの教授でもある。シンポジウムは予定時間(60分)をはるかに超え、わたしが微に入り細に入り詳細かつムダにしゃべりすぎたせいだろうか、1時間30分もかかってしまった。(汗)
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 プロジェクターで投影した、シンポジウム用のpptxファイルは、多数の作品画像や写真を用いたため111ページ(72MB以上)と膨大な容量であり、さすがにWebサーバへアップロードするのはためらわれるので、街歩きマップと街歩き資料のみをダウンロードできるよう設定させていただいている。当日、街歩きが雨の中で行われたため、マップや資料を濡らしてしまった方も少なくない。下記より、ダウンロードしていただければ幸いだ。
 下落合街歩きマップClick!(313KB)
 下落合街歩き資料Click!(7.12MB)
 街歩きは、資料には記載されていない場所も含め、以下のコースで実施させていただいた。下落合の佐伯祐三について現在判明している最新情報とともに、1930年協会Click!の画家たちを含めた、かなりマニアックな街歩きとなってしまった。
  
 今村繁三(画家たちのパトロンで今村銀行頭取)の終焉邸跡→第三文化村跡(不動谷/西ノ谷と青柳ヶ原)→吉田博アトリエ跡→青柳辰代(佐伯が「テニス」をプレゼント)邸跡→「八島さんの前通り」描画ポイント→木星社(福田久道邸)跡(特に青山様へ)→笠原吉太郎アトリエ跡(小川邸の門跡)→西坂・徳川義恕男爵邸跡(遠望)→東大総長の南原繁邸跡(遠望:特にミステリー作家の方へ)→八島邸跡→「八島さんの前通り」(北側からの描画ポイント)→鶴田吾郎アトリエ跡(遠望:関東大震災前)→佐伯祐三アトリエ(休憩)
 佐伯アトリエ→森田亀之助邸跡→里見勝蔵アトリエ跡→蕗谷虹児アトリエ跡→曾宮一念・佐伯祐三・清水多嘉示のトリプル描画ポイント(諏訪谷の北側)→曾宮一念アトリエ跡→セメントの塀痕跡→牧野虎雄・片多徳郎・村山知義・村山壽子アトリエ跡→高嶺邸(佐伯「セメントの塀」のモチーフ住宅)→「曾宮さんの前」描画ポイント(諏訪谷を南から)→「散歩道」描画ポイント(久七坂筋)→小林邸(遠藤新設計創作所による近代建築)→「見下シ」描画ポイント(池田邸跡)→「墓のある風景」描画ポイント→大正時代のアトリエ村ともいうべき鶴田吾郎・鈴木良三・鈴木金平・有岡一郎・服部不二彦・柏原敬弘アトリエ跡(下落合800~804番地)→タヌキの森(前田子爵邸の移築建築)跡と明治建築→夏目貞良(亮)アトリエ跡→九条武子邸跡→満谷国四郎アトリエ跡→三輪善太郎(ミツワ石鹸社長)邸・衣笠静夫邸跡(遠望:長谷川利行コレクション)
  
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 森田亀之助の旧邸跡・伊藤博文別荘跡(大倉山=権兵衛山)→相馬孟胤子爵邸跡=おとめ山公園(雨で休憩予定を中止)→竹久夢二アトリエ跡→林泉園と東邦電力住宅地跡(清水多嘉示の描画ポイント)→中村彝「目白の冬」その他の描画ポイント(一吉元結工場跡)→中村彝アトリエ(休憩)
  
 ……と、ここまできて雨が強まり、残り3分の1を残して街歩きは中止となった。残りのコースに興味がおありの方は、マップと資料をベースに後日、天気のよい日に歩いていただくということで解散。このあとは、林泉園つづきの谷戸=御留山(清水多嘉示「下落合風景」の描画ポイント)→安井曾太郎アトリエ跡→近衛篤麿邸跡→目白ヶ丘教会(遠藤新最後の設計作品)→近衛町(遠望:学習院昭和寮など)→近衛邸車廻し跡→夏目利政アトリエ跡→近衛文麿・秀麿邸跡→熊岡美彦アトリエ跡→伊藤応久アトリエ跡→佐伯が利用していた目白駅(地上駅)跡とめぐる予定だった。
 資料に記載した残りのポイント以外にも、松永安左衛門(東邦電力社長)邸跡、ヴァイニング夫人(平成天皇の家庭教師)邸跡、近衛町に残る1923年(大正12)築の藤田邸、学習院建設で遷座した八兵衛稲荷(豊坂稲荷)、エレベーター設置で消滅寸前の旧・目白駅のコンクリート階段……などなどの前を通過する予定だったので、そのエピソードともどもご紹介するつもりだったが、天候が許さずとても残念だ。立ち寄りポイントの詳細は、拙サイトで検索して参照いただければ幸いだ。
 また、今回は「美術」がテーマの街歩きだったので、文学や音楽の事績はほとんど省略させていただいた。特に文学に関していえば、下落合(現・中落合/中井含む)の東部・中部・西部、そして上落合と、講演や街歩きをテーマ別に3回実施しても、まだぜんぜん足りないぐらいだろう。それだけ、明治・大正・昭和を通じて夏目漱石から船山馨まで、新感覚派からプロレタリア文学、新戯作派、そして戦後文学まで近代文学史のエピソードにはこと欠かない、作家や文学者たちの宝庫なのが落合地域のもうひとつの“顔”だ。
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 今回は、下落合東部に散在する佐伯祐三の描画ポイントと散歩コースClick!、ならびに画家たちのアトリエ跡や描画位置をマニアックにめぐったが、実は佐伯に関していえば下落合西部(現・中落合/中井地域)の描画ポイントのほうが多いし、画家たちのアトリエは下落合西部も東部に劣らずたくさん散在している。もしこのような機会が再びあれば、今度は目白文化村Click!アビラ村Click!を中心に回遊する街歩きをやってみたい。ただ、街歩きも含め3時間をゆうに超えるプレゼンテーションは仕事上でも経験がなく、さすがに声も嗄れてクタクタになってしまった。w 早くこのような行事に、サーバと連携したRPAシステムやウェアラブルデバイスClick!が、活用できるようにならないかなぁ?

◆写真上:あいにくの雨の中、第三文化村を歩く街歩き参加者たち。(撮影:根本二郎様)
◆写真下:当日、プロジェクターで投影したpptxファイルの一部。(制作:平岡厚子様)
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