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美術展が起源らしい下町の怪談会。

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具足町角地.jpg
 今年は、4月末からすでに暑い夏日が断続的につづいているので、暦的には少し早いかもしれないけれど、(城)下町Click!の怪談記事をアップしてみたい。
 以前、1928年(昭和3) 6月19日(火)の午後6時から、新橋にあった料亭「花月」で行われた怪談会の模様をシリーズClick!でお伝えした。この怪談会の原型ともいうべき催しが、さかのぼること14年も前に京橋の北詰めで行われていたことが判明した。1914年(大正3)7月12日(日)の曇日、世間はお盆のまっ最中でホオズキ市が立ち、江戸東京へ働きに出てきた人たちにとっては、藪入りClick!がはじまったばかりの時節だ。
 怪談会が行われていたのは、日本橋区東中通りに面した具足町(現・京橋3丁目)の角地にあった美術店「松井画博堂」で、同店4階の展示場では幽霊画や化け物絵が100点以上も展示されている。画博堂の松井栄吉は、浮世絵の版元であり刷り師なので、江戸期からつづく浮世絵作品の展示も多かっただろう。つまり、美術展覧会に合わせて怪談会が開催されたわけで、当初はいわば真夏の美術展のオマケ的なイベントからスタートしていたのがわかる。この会に出席したのは、美術展とは切り離され、のちに新橋「花月」で毎年開催されるようになった怪談会のメンバーとかなり重複していることから、同会のプロトタイプではないかと思われるのだ。
 美術展の付随行事なので美術家の出席者が目立ち、黒田清輝Click!岡田三郎助Click!岡田八千代Click!、鈴木鼓村、岩村透、辻永Click!平岡権八郎Click!長谷川時雨Click!泉鏡花Click!柳川春葉Click!谷崎潤一郎Click!吉井勇Click!岡本綺堂Click!、坂本紅蓮洞、市川左団次、市川猿之助、松本幸四郎、河合武雄Click!喜多村緑郎Click!伊井蓉峰Click!、長田秀雄、長田幹彦、松山省三Click!など、作家や歌舞伎役者、新派俳優、当時の文化人など60名を超える大盛況だった。
 当日の様子は、出席者のひとり邦楽家で画家、随筆家の鈴木鼓村が、その一部を随筆にして記録している。1944年(昭和19)に古賀書店から出版された『鼓村襍記』収録の、鈴木鼓村「怪談が生む怪談」から少し引用してみよう。
  
 大正三年七月十二日、この日は、東京の盆の草市である。東京は新で盆をやるので、盆とはいえど梅雨あがりの、朝よりどんよりおおいかぶさった憂鬱な天気だった。家にいてもべっとりと脂肪汗がにじむようで、街全体がけだるく疲れていた。その日はかねてから計画のあった通り、日本橋区東中通り(略) 美術店松井画博堂の四階で化物の絵の展覧会が開会された(略)。当時在東京の色々な作者の作品が百余点以上も集まって、今は既に故人となった池田輝方氏及びその夫人の蕉園女史の、御殿女中か何かの素ばらしい幽霊の絵や、鏑木清方氏の物語めいたすごい大物が眼をひいた。私は半折の色々の化物を十枚出品していた。その中で精霊棚をかざって随分凝った嗜好が試みられていた。慥かその日の世話役が画博堂主人と奇人画家本方秀麟氏に、洋画家の平岡権八郎氏だったか? 表に直径五尺もある白張提灯等をつるしていた。
  
 この幽霊・化け物美術展と怪談会の世話役として、料亭「花月」の息子である文展画家の平岡権八郎Click!の名前がすでに挙がっていることから、おそらく画博堂が店じまいをしたとみられる1917年(大正6)以降に、毎夏恒例の怪談会を彼の実家である新橋の「花月」へ引っぱってきたのではなかろうか。
 この日の怪談会は、わずか5話でお開きになっている。鈴木鼓村の「怪談が生む怪談」によれば、伊井蓉峰の弟子のひとりで新派俳優の石川幸三郎が語る4話めと、飛び入りで参加した万朝報の営業部員・石河某という老人が語る5話めの途中で、怪談会は終わり散会してしまった。なぜなら、5話めの怪談を語ろうとした万朝報の石河某が、話の途中で卒倒して意識不明となり、そのまま2週間後に高輪病院で死亡してしまったからだ。
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プランタン店内記念写真.jpg
 新派の石川幸三郎が4話めに語った怪談とは、ドサまわりの旅役者をしていたとき興業先の茨城県真壁町で知り合い、東京へ連れ帰って三越で銘仙を買ってやると騙してよい仲になった、「聾唖」(聴覚障害)で17歳になる娘の怨念話だった。娘はくっついて離れず、東京ではなく次の興業先である群馬県高崎町へいくために汽車に乗ることもできず、幸三郎はまったく途方に暮れた。同書から、再び引用してみよう。
  
 『困ったものを背負い込んだな』 そう思いながら娘の顔を見ると二、三日前にゆうた引つめの銀杏返しが藁をたばねたように雑然とあれてその下に白粉のはげた顔が、眼がどんより鈍いどよみを覗かせています。大正絣の垢じみた袢纏にちびた日和下駄と、嫌となったら何もかも徹底的に嫌なものに感じられます。『こんな女をどうして人前に出せるだろう』とつくづくその時愛憎(ママ:愛想)がつきました。(カッコ内引用者註)
  
 幸三郎は、そんな着物では東京へ連れていけないというと、娘は「家へ帰ればメリンス友仙の羽織」に「金も六円余りはためて」あると答えた。彼は、待っているから一度家までもどって着がえてくるようにと、娘をなんとか説き伏せて帰した。
 娘の姿が見えなくなると、幸三郎は一目散に鉄道駅へ駆けつけ高崎行きの汽車に飛び乗った。暮れのうちに高崎へ着くと、芝居の初日は翌正月の2日に予定されていた。
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国周「番町皿屋敷お菊亡魂」1863.jpg
二代豊国「小幡小平次」1830.jpg
 やがて1月2日の昼間、高崎の街を役者たちが俥(じんりき)を連ねて練廻りしているとき、利根川の土手を走っていると幸三郎は人だかりを見つけて俥をとめた。イヤな胸騒ぎがして人だかりを観察していると、どうやら岸辺に土左衛門が上がったらしい。
  
 見るともなく車の上から見ますと水死人らしい死体の上に筵が一枚かけてあってその筵の下から細い青白い二本の足がニュッと出ています。私は無意識でした、どうして車から飛下りたのやら――筵をまくって水死人の顔をのぞき込んだのやら――、筵の下には紅のはいった派手なメリンス友仙の羽織を着て、びっしょりぬれた髪の毛を無念そうに口に咬えた蝋細工のような顔。/『アッ!』 私は立すくみました。その眼はまだ生きているのでしょうか、私を睨みつけているその眼は……
  
 高崎まで追いかけてきた娘は、そこで絶望し利根川に入水して果てたようだ。それからというもの、舞台に楽屋に、風呂場に寝床にと、娘は執拗に幸三郎の身辺に現れつづけている……という、よくありがちな怪談話だった。石川幸三郎は、「人間の最後の恨みほど恐ろしいものはありません」と話を締めくくっている。
 ところが、つづいて予定されていた5話めに移ろうとしたとき、横合いから飛び入りで参加した老人が、「ええ本当に人間の恨みほど恐ろしいものは有りません」と急に話を継いだ。この人物が、万朝報の営業部につとめる石河某で、幕末、薩摩によって暗殺された田中河内介綏猷(やすみち)の話をはじめた。
 石河某は、自身が暗殺にかかわった刺客のひとりであることを告白し、泉鏡花が事件の仔細な様子を質問をしているうちに、いきなり高座から卒倒してしまった。「田中河内介」の名前を繰り返すうちに、舌がもつれて昏倒していることから、泉鏡花の問いに興奮したあげく、なんらかの脳疾患を発症したのではないかと思われる。
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 飛び入りの老人が、「田中河内介」の名を口にしながら倒れたので怪談会は一同騒然となり、怖がった参加者たちは散々に帰っていった。鈴木鼓村ら残った人たちは老人を座敷に寝かせたあと、万朝報社へ電話で問い合わせ当人の自宅が判明すると、翌朝、画博堂の主人が京橋南町の石河宅へと俥で送っていった。石河某は、すぐさま高輪病院へ入院したが「田中河内介」の名前をうわごとで繰り返すと、同年7月26日に死亡している。

◆写真上:美術展「松井画博堂」があった、東中通りは具足町角地の現状。
◆写真中上は、「怪談が生む怪談」の著者・鈴木鼓村。は、銀座の喫茶店「プランタン」の記念写真で怪談会のメンバーとかなり重なる。前列には松山省三や市川猿之助、平岡権八郎、後列には鈴木鼓村や辻永の姿が見える。
◆写真中下は、1831年(天保2)に描かれた国貞『東海道四谷怪談』Click!の「戸板返しの場」。は、1863年(文久3)に制作された国周『番町皿屋敷』Click!の「お菊亡魂」(部分)。は、1830年(文政13)に描かれた二代豊国『小幡小平次』(部分)。
◆写真下は、1834年(天保5)に制作された国芳『真景累ヶ淵』の「累亡魂」(部分)。は、1886年(明治19)に描かれた周延『佐賀(鍋島)化け猫騒動』Click!(部分)。は、1891年(明治24)に制作された芳年『牡丹燈籠』Click!(部分)。

燃料研究所に隣接した「川口文化村」。

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 以前、下落合の近衛町Click!を開発した東京土地住宅が、つづけて林泉園の周辺を近衛新町Click!として販売しはじめたところ、東邦電力の松永安左衛門がすべての分譲地を買い占めてしまい、そこに松永の自邸をはじめ会社の幹部宅や、家族のいる社員向けに社宅を建設している経緯を書いた。東邦電力は、1922年(大正11)の夏に用地を取得しているので、社宅は大正末から昭和初期にかけて少しずつ建てられていったとみられる。林泉園Click!の西側と南側に展開した東邦電力の社宅Click!は、すべてが西洋館仕様のオシャレでモダンな雰囲気が横溢していた。
 大正の後期になると、東京の郊外にまるで目白文化村Click!洗足田園都市Click!をまねた、文化住宅風の社宅やアパートメントを建てる企業が出はじめている。あるいは、社員が出勤する利便性を考え、企業の本社や工場のある敷地周辺の土地を買収し、まとめて社宅を建設するケースも見られた。これは企業ばかりではなく、官公庁の舎宅建設でもその傾向が顕著になりつつあった。
 京浜東北線・川口駅西口の川口町に、農商務省の燃料研究所が建設されたのは1921年(大正10)のことだ。その直後から、燃料研究所を取り巻く敷地に、研究所職員のための舎宅が建設されはじめている。燃料研究所では、舎宅を洋館にするか和館にするかで、職員たち全員にアンケート調査を実施している。その結果、和館の要望が多数を占めて、燃料研究所の舎宅群は和風建築が主体となった。ただし、舎宅の共有施設であるクラブハウスや共同浴場などは、すべて洋風のデザインが採用され建設されている。
 地元では、燃料研究所の舎宅街のことを、その設備のよさから「川口文化村」と呼んでいたようだ。すべてが和風建築なのに、「文化村」と呼ぶのは奇異な感じがするのだが、そう呼ばれてしかるべき先進の設備や仕組みを取り入れていた。燃料研究所が掲げた舎宅建設のコンセプトは、「よく働く者はよく遊ばなければならぬ、偉大なる仕事を要求するためには偉大なる遊楽を与へなければならぬ、而もそれが単に当事者にばかりでなく家族全体を包容しなければならぬ」というものだった。これにもとづいて建設されたのが、森林に囲まれた自然公園が付属する「川口文化村」だった。
 「川口文化村」の訪問記が、同年に発行された「主婦之友」3月号に残されている。
  
 小さな文化村
 汽車が埼玉県川口町駅に進入すると、すぐ構外にある白い建物が車窓に映ります。これが農商務省の燃料研究所で昨年竣成したものであります。この白亜館の前後に一風変つた住宅が冬木立の間に散在し、或は建築されつゝあるのが目につきます。荒涼たる平野の一部に富士の白峰を背景として、温か味に富んだ赤瓦の屋根が大小入り雑つて、それが何れも一定の方向に斜角をなして規則正しく列んでゐます。まだ二十戸ぐらゐしかできてゐませんが、四十戸ぐらゐは立ち並ぶ予定であります。この住宅に囲まれて中央に共同浴場(略)や倶楽部の建物が目を惹きます。このあたり一帯が共同庭園となるので、それから入口にかけて、八間幅の道路が一直線に貫いて、両側に並木を、中央に街燈を配置して巴里のシャンゼリゼー街を偲ばせるやうな美観を添えたいといふ計画でありますが、只今はその埋立工事中であります。/道路ができ庭園ができた暁には、これらの住宅全部が楽園に包まれることになります。
  
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 現在の川口駅西口からは、想像もできない情景なのだが、実際に写真も残っているので計画どおりに建設されたのだろう。1936年(昭和11)の時点でさえ空中写真を眺めてみると、駅前の緑ゆたかな「川口文化村」を確認することができる。
 住宅のタイプは、甲号・乙号・丙号・丁号と規模が異なる4種類が設計されている。甲号住宅は所長や役員たちとその家族が入居し、乙号住宅は上級管理職、丙号住宅は下級管理職か一般研究員、丁号住宅は一般研究員か判任官雇員、職工など、その様式によって各戸が住み分けられていた。建築費は、乙号住宅で4,850円、丁号住宅で2,650円だったという。
 「川口文化村」と呼ばれた理由は、生活スタイルが既存の住宅街とは大きく異なっていたからだ。まず、住宅の中心に共同炊爨所(給食センター)を設置し、希望する家庭に戸別配達するシステムを採用している。「主婦之友」が取材した時点では、まだ昼食のみの支給だったが、朝食や夕食を配達する仕組みづくりを準備している。これにより、希望する家庭では主婦の労働がかなり低減されることになった。燃料研究所の食堂では、共同炊爨所で調理した料理が出され、大正デモクラシーの世相を反映してか、所長から職工までが同じ部屋のテーブルで食事をしている。
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 天候に関係なく、洗濯物をすばやく乾かせるよう、燃料研究所の汽罐室の余熱を利用した乾燥室の設置も計画されている。また、丁号住宅には浴室がないので共同浴場へ通うことになるが、甲・乙・丙号住宅には浴室が付属しているものの、気分転換に広い共同浴場を利用することもできた。
 電気に水道、ガスなどの生活インフラが完備され、特にガスは燃料研究所の工場で生産したものが各戸に支給されるので、一般のガス会社のものより格安で利用できた。なお、目の前には緑が繁る庭園があるので、特に広い庭は設置されなかったようだ。
 同誌から、舎宅の風情についての記事をつづけて引用してみよう。
  
 日当りと風通しのよい家
 住宅は何れも東南向きとなつてゐます。そのために道路に沿うて、ある斜角をなして列んでゐることになります。これがために何の家も皆日光を十分に受けて、何の室一つとして日の当らないところはないのであります。少くとも一日一回は万遍なく日光が見舞つてゆきます。それで室中が明るくて風通しがよく、冬は温かで夏は涼しくできてゐます。それに床が高くて大人でも立つて肘がかゝる位であります。(中略) 床下の羽目板は板と板との間を隙して空気の流通をよくし、湿気を防いであります。/縁側には硝子戸をはめ、窓も出入口も皆硝子戸になつてゐます。すべて日本風の建築でありますが、これは所員の希望に基づいたもので、最初は和洋何れにすべきかゞ大分問題であつたさうですが、やはり習慣上日本住宅の希望が多かつたために、かうした形式をとるやうになつたさうであります。
  
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 「川口文化村」では、さまざまな娯楽施設の建設も予定されているが、「市中の低級な娯楽」を駆逐するとかで、「洗練された高雅な娯楽施設」の設置を計画している。「主婦之友」の記者が取材したときは、いまだ計画中で明らかにされていないが、その後、どのような施設が設置されたものだろうか。テニスコートや運動場はあったと思うのだが、大正末から昭和初期に大ブームとなるビリヤード場や映画館も、川口駅前という立地からほどなく建設されたのではないだろうか。

◆写真上:舎宅街の中央に設置された、木立の中の洋風共同浴場。
◆写真中上は、竣工当時の農商務省燃料研究所。は、林に囲まれた「川口文化村」の舎宅街。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「川口文化村」。
◆写真中下は、1922年(大正11)に発行された「主婦之友」3月号の記事。中左は、職員全員が昼食をとる燃料研究所の食堂。中右は、湿気を防ぐために縁の下が1mを超える設計の舎宅。は、燃研幹部用の乙号住宅設計平面図。
◆写真下は、一般職員用の丁号住宅。は、丁号住宅の設計平面図。は、1947年(昭和22)に撮影された「川口文化村」で空襲の被害をあまり受けていない。

村山籌子の「三角アトリエ」レポート。

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 村山知義・籌子夫妻Click!が住んでいた、上落合186番地の三角アトリエClick!について、室内を詳しく紹介した文章を見つけた。アトリエ内の各部屋について、細々としたことまで詳細なレポートを書いているのはほかでもない、そこで暮らしていた村山籌子(かずこ)Click!本人だ。レポートは、1924年(大正13)8月5日に書かれており、どこか訪問記風な表現となっている。
 村山知義が、渡欧前に「たった千円」で建てた家に、自身の設計でアトリエを増築したのは1923年(大正12)5月のこと。村山(岡内)籌子と自由学園明日館Click!で結婚式を挙げたのが、翌1924年(大正13)6月15日なので、彼女のレポートは三角アトリエが竣工してから1年3ヶ月後、村山知義との新婚生活51日目のことだった。
 上落合186番地の「三角の家」は、アトリエ(変形10畳サイズ)に食堂(約4畳半でのち客間を合併して拡大?)、台所(食堂とほぼ同サイズ)、村山知義書斎(約6畳サイズ?)、村山籌子書斎(通称「勉強部屋」で中2階にあり約3畳サイズ)、風呂場(狭く1畳半ほどか?)、便所(五~六角形の妙な空間)、そして庭はかなり広くて多彩な樹木が植えられ、一部はトマト畑などの家庭菜園になっている。また、庭の一画には、村山知義の母親と弟が住む別棟が建っていた。
 村山籌子のレポートが掲載されたのは、1924年(大正13)に発行された「婦人之友」10月1日号(第18巻第10号/婦人之友社)に掲載の村山籌子『三角の家より』だ。さっそく、アトリエ内にある各部屋の様子を、実際に暮らしていた彼女にレポートしてもらおう。
  
 画室のこと/画室だけは、割合に大きくて、十畳敷位の板の間で、まるで工場のやうに荒れ果てゝゐる。方々に、柱のやうな、三角の長い隠戸棚がついてゐて、そのなかには、物尺や、絵具や、丈木や、紙や、原稿や、エハガキが、乱雑にはいつてゐるので活動写真の、変な仕掛のやうな気がして、誰もゐなくなると、一つ一つ開けてみたり、しめてみたりして、考へ込んでしまふ。本棚には、一杯本がつめこんである。壁には、壁画だの意識的構成主義の、髪の毛だの、コンクリートだの、切だの、人形だののぶらさがつた絵が一杯かけてある。そして、何でもかんでも、木の切でも、手袋の片輪でも、針金でも、空瓶でも蓄めこんであるから、物置みたやうで手がつけられない。そして、私が、時々、きたないものを、捨てようとすると、早速おこられてしまふ。
  
 村山知義アトリエの「惨状」が、目に見えるようだ。壁に架けられた木製キャンバスから、髪の毛が生えていたり人形がぶらさがっていたりしたら、夜は怖くてアトリエに入りたくないだろう。それでも片づけたい村山籌子にしてみれば、「これってゲージュツ? それともゴミかガラクタ?」と、いちいち確認したくなったにちがいない。
 モノがなくなると、村山知義は妻のせいにして探させ、「早く。早くつたら。何て、仕末の悪い人間だらう。ものをきれいにする性質なんかちつともないのね」と、自分の整理が悪いのを棚にあげ、ちょっと気持ちの悪いおネエ言葉でマヴォを、いや、ダダをこねたりしている。w
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 食堂のこと/四畳半位で、矢張り板の間で、四角でない形をしてゐるので、敷物を買ふにも、うつかり買へない。壁には、意識的構成主義の大きい壁画がある。その壁画は随分いゝもので、部屋一杯にひろがつてゐる。そんな小さい部屋で、大きい窓一つに戸が五枚もついて外へ開いてゐる。朝晩その、工合の悪いねぢを、開けたり閉めたりする。カーテンが汚いので、取りかへようと、夏地まで、たつてあるのに、まだこしらへないので、時々、はつと立ちどまつて、「おや、夏は、もうすみさうになつてゐるのではないかしら。」と驚く。
  
 「なまけ者。早く、カーテンをぬひなさい。遊んでばかりゐて。勉強をするなら、勉強をしなさい。」と村山知義にいわれ、「ぢや、勉強を致します。」ということになり、結局カーテンは汚れたままいつまでも食堂に吊るされていた。
  
 台所のこと/母さんと、弟の忠夫さんは、私が来た時から、すぐ裏の家に行つてしまつたけれど、お台所は一緒につかつてゐる。私が何でも散らかしまはり、その上、始末が悪いので、母さんの心配も一通でない。あまり、自分がだらしがないので、非常に重々しく台所と自分の性質を考へて、おそろしくなつて来ると、大急ぎで流しをきれいにして、たわしでこすつて、清潔になると、特別、楽しみ深く、美しいものをしたやうな気になつて、感じいつて見てゐる。性質として、何でも、自分はさういふ風な感じ方をするのだけれど、こんな風では、おしまひには、一体、どうなるかしら、今のうちに直さなくては、私は、もう、どうにもならなくなる。と、慄へあがつて考へるのだけれど、こんな風に、心の内で真実に感じたことは、黙つてゐて、決して誰にも話さない。話したいのだけれど、言ふと気がぬけて、ほんとにならない気がするので、だまつてゐる。
  
 台所を清潔に保ったり、整理整頓ができない……と村山籌子は悩んでいる。料理は下手でない自覚はあるが、ときどき妙な料理をこしらえては食べ残されて落胆している。要するに、勝手全般のきりもりが面倒で苦手だったらしい。勝手口を訪問する、御用聞きClick!の相手もあまり得意ではなかったようだ。
 のちに、「母さん」こと彼女の姑が「籌子さんが、口をきいてくれないの」と村山知義に訴える“事件”が発生するが、その原因はこの共同で利用していた台所あたりにありそうだ。オカズコ姐ちゃんClick!にしてみれば、よほどアタマにくることがあったのだろう。
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 勉強部屋のこと/台所の真上の屋根部屋が私の勉強部屋になつてゐる。勉強部屋から首を出すと、下は食堂で、活動写真館の二階のやうに見える。勉強部屋は三畳位の広さで、大きい足音をたてると、床が、きいきいなる。食堂の脇に、その、階段があるけれど巾が、二尺位しかない。なかなか細くてひぢがつかへさうで、危いやうだけれど、馴れて来ると、自由に上り下りが出来る 風通しがよくて、静かで、勉強部屋にはとてもよくて、屋根裏の詩人とか哲学者とか、連想がいゝので、すつかり喜んで「これは、いつまでたつても、私の部屋だから。」と、念に念をおして、誰も上へあげないで、ひまがあると、上にあがつて原稿紙をまるめたり、勉強したりしてゐたけれど、此頃は、御用聞が来て、上り下りが度々なので、たうたう台所の隅に本を重ねて、第二の勉強部屋にしてしまつた。
  
 村山籌子は、自身の書斎のことを「勉強部屋」と呼んでいる。上り下りがたいへんなことを夫に訴えると、御用聞きがきたら2階から怒鳴って用件を聞き、とどけものがあれば2階から滑車を使って受け取れるようにしよう……などといっている。
 ちなみに、村山知義が1974年(昭和49)に『演劇的自叙伝2』へ掲載した三角アトリエの平面図では、2階にあった村山籌子の書斎=屋根部屋が省かれて描かれている。「いつまでたつても、私の部屋だから」と宣言した屋根裏の書斎だったが、昭和初期の村山邸全面リニューアルで消滅したのではないかと思われる。
  
 其他のこと/湯殿は少しせますぎる。湯殿に丈は、ちつとも特徴がない。あつても、なくても、別に大したことにはならないやうな平凡な部屋だけれど、それが、意識的構成主義からいつていゝことかも知れない。便所は、矢張り、五角か、六角か、変な形をして、戸のハンドルが逆にまはると開き、普通開けるやうにねぢると、閉るやうになつてゐる。玄関も、細くて変則な六角形をしてゐる。そこにも、絵だの、がらくたが山のやうに積んである。庭は割合に広くて、桃、無花果、葡萄、柿の木がある。今トマトが大分大きくなりかゝつた。母さんが大切にしてゐる。
  
 まともな湯殿はともかく、ドアノブを反対にまわすと開く5~6角形のトイレや、玄関の間も6角形をしているなど、もう十分にマヴォでダダだ。
 この広い庭があったせいで、一家の副収入を考えたのだろう、村山家では大正末ごろから敷地内へ賃貸アパートの建設を含めた、自宅のリニューアル計画を実施することになる。「美術年鑑」によれば、1927年(昭和2)から1930年(昭和5)ごろまでの4年間、村山夫妻はアトリエ兼自宅を下落合735番地Click!に移している。
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 村山夫妻が下落合で暮らしていた1927年(昭和2)3月の初め、「アサヒグラフ」のカメラマンが画室の夫妻をとらえた、書籍などにもよく掲載される写真が2葉残されている。このカメラマンは、前年の1926年(大正15)9月1日、二科展に入選した佐伯祐三・米子夫妻Click!を下落合661番地のアトリエで撮影したのと同一人物の可能性が高そうだ。

◆写真上:月見岡八幡社跡(現・八幡公園)へと抜ける、村山アトリエ(右側)前の小道。
◆写真中上は、1924年(大正13)6月15日撮影の自由学園明日館における村山知義・籌子夫妻結婚披露パーティの様子で、正面に新郎新婦がとらえられている。は、上落合186番地に建っていた「三角の家」こと村山知義・籌子のアトリエ。は、アトリエ内部を1924年(大正13/)と1925年(大正14/)に撮影したもので、下右に写っているのは村山知義と生まれたばかりの村山亜土Click!
◆写真中下は、1974年(昭和49)出版の『演劇的自叙伝2』(東邦出版社)に掲載された三角アトリエの平面図。中左は、1925年(大正14)ごろに撮影された村山知義。中右は、1927年(昭和2)に撮影された村山夫妻で下落合のアトリエかもしれない。は、1926年(大正15)にスケッチされた村山知義『村山籌子と亜土』。
◆写真下は、1923年(大正12)に撮影されたアトリエで踊る村山知義。は、1927年(昭和2)3月の初めに下落合735番地のアトリエで撮影された村山知義・籌子夫妻。

曾宮一念が語る怪談好きの田辺尚雄。

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 いまから10年ほど前、拙記事にロックケーキさんClick!が、また昨年にはお名前は不明だが下落合に住んでいた田辺尚雄Click!について、重ねてコメントをお寄せいただいた。少し前の記事Click!で、取り上げるテーマや人物について美術や文学のカテゴリーばかりでなく、これからは音楽分野についても触れていきたいと書いたばかりだ。
 そこで、今回は東洋音楽研究家の田辺尚雄について少し書いてみたい。田辺家は、大正時代から目白通りを北側へとわたった、下落合546番地に住んでいる。下落合540番地にあった、大久保作次郎Click!アトリエの3軒西隣りだ。音楽を研究対象にしているが、田辺尚雄は帝大の理学部物理科を卒業し、物理学の教師をしていた人物だ。田辺が音楽に興味をもったのは、大学院時代に専攻した音響心理学に起因しているのだろう。のちに、田辺は物理学の教師に加え、東京音楽学校(現・東京藝大)でも教鞭をとっている。
 1936年(昭和11)に、アジアに伝わる民族音楽の研究を中心に行う東洋音楽学会を設立し、同会は現在でも上野で活動をつづけている。1983年(昭和58)より、優れた研究論文には田辺尚雄賞が授与されているようだ。また、音響学をベースにした楽器の発明者としても知られ、大正期には中国の胡弓または日本の三味、西洋のチェロとを合体させたような「玲琴」Click!を発明している。いかにも理系の音響学を基礎にした、音が効率的に鳴り響くような設計の新楽器だが、あまり普及しているとはいえない。
 f型孔つきの、チェロをコンパクトにしたような台形の箱胴に、胡弓または三味に似た竿をつなぎ合わせ、駒上には3本の金属弦を張ってチェロのアルコで弾くという、そのメンテナンスだけでもどこの楽器店へもっていけばいいのか不明な、特異な形状や仕様をしている。音色は、ビオラとチェロの中間のような響きで、弾き方にもよるのだろうがアジアの物悲しい郷愁を誘うようなサウンドで鳴る。西洋楽器風に演奏すれば、またちがった音色で響きそうな、演奏者の腕に依存するデリケートな楽器のように思える。
 田辺尚雄は、怪談がなによりも好きだった。授業のはじめや合い間には、落語や怪談話をよく聞かせては、生徒たちを喜ばせている。1909年(明治42)に、当時は四谷区南伊賀町(現・新宿区若葉)に住んでいた、中学4年生になる曾宮一念Click!の証言から聞いてみよう。田辺尚雄は明治末、早稲田中学校Click!の物理学教師をしていた。1985年(昭和60)に文京書房から出版された、曾宮一念『武蔵野挽歌』から引用してみよう。
  
 新しい洋服を着た先生は色白の面長の美男子で四十近くに見えたが、私より十上だから二十七、八歳であった筈である。第一時間目にはギリシャの哲学者、数学者から音楽家、楽器の変遷、ついで日本物理学者の系列では田中館、寺田、つまり東西科学史を略述し、最後に「田辺尚雄がつづく」と少し頬笑んで話した。我々は烟に巻かれながら先生の小声を静粛に聞いた。ここに先生が少し頬笑んだと記したが、声を出して笑ったことも叱ったこともなかった。笑わない先生はつまらないどころか、一時間が知らぬ間に終るほど面白かった。講義が面白くて騒がぬから叱る必要もなかった。私は科学系は苦手でも田辺先生の時間をたのしみにした。物理そのものはみな忘れたのに、余談や落語の枕とも言えるものは今も憶えている。馬の話から先生は「私の顔も伸びすぎて途中で半分曲がりました」、よく見ると心もち左へ曲って見えた。これから怪談に移った。
  
 文中の「田中館」は、帝大を退職する際に中村彝Click!肖像画Click!を描いた田中館愛橘Click!であり、「寺田」はその教え子だった寺田寅彦Click!のことだ。
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 田辺尚雄が授業で取り上げた物語は、米国で起きた列車事故で死傷者がたくさん出ているのに、後部車両の乗客がそれに気づかず眠っていたのは、列車の連結バネが優れた設計だったのだろうとか、米国の山火事に遭遇した日本人が数年後に渡米すると、いまだに延焼中だったというようなエピソードだ。また、近く地球に接近するハレー彗星について生徒が質問すると、周期的に太陽系へとやってくる彗星の宇宙での軌跡を描いて説明したが、当時の中学生たちにはよく理解できなかったようだ。
 今日の高校で教える「物理」の授業よりも、はるかに面白そうな内容だったのが曾宮の文章から伝わってくる。早稲田中学を卒業した曾宮一念は、東京美術学校へと進んでしまうので物理学とは無縁になるが、なぜか恩師とは偶然も含めてときどき遭遇している。つづけて、曾宮の同書より引用してみよう。
  
 私は挨拶もせずに卒業して後、二度先生に会った。一度は大正四年頃、本郷会館で先生が手巻蓄音機で西洋音楽の説明をした時で、少女姿の中条百合子が来ていた。次は目白駅近くのバスで先生と偶然同席した。或いは一時学習院に出講の帰途であったか。/大正十年私は落合村にうつった。先生が同じ落合に居ることを知ったのは昭和の初めで、友人長尾雄が田辺先生の隣と知った。彼に連れられて一度先生の門を潜った日は不在で、その後無沙汰のままに過ぎた。どうして田辺先生を訪ねなかったのか、決して怖れも嫌いもせず、一つには私が不明の頭痛病にて鬱病を伴っていたからである。
  
 文中に登場する、曾宮の友人である長尾雄とは田辺尚雄邸の東隣り、すなわち下落合542番地に住んでいた長尾収一の息子のことだ。長尾邸は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にも収録されており、東西を大久保アトリエと田辺邸にはさまれた敷地にあたる。長尾雄は、昭和初期には慶應大学の教授をしており、「三田文学」に参加してのちに小説やエッセイ、演芸評論などを手がける文筆家だ。長尾収一1932.jpg 武蔵野挽歌1985.jpg
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 父親の長尾収一は、陸軍の軍医だった人物で、在郷軍人会落合村(町)分会を組織したり町会「協和会」の会長をつとめており、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』にも写真入りで、息子の長尾雄ともども紹介されている。『落合町誌』より引用してみよう。
  
 正五位勲三等功四級/在郷陸軍一等軍医正/協和会長  長尾収一  下落合五四二
 氏は鳥取旧池田藩士にして、万延元年を以て出生、若くして笈を負ふて東上し、明治十四年内務省医術開業試験に合格し、同十六年陸軍々医学校を終了す、而して同十七年陸軍三等軍医に任ぜられ同四十二年一等軍医正に累進す、(中略) 退職後は専ら現地に在りて田園生活に浸つてゐたが落合在郷軍人分会の組織に率先して協賛し、その設立に寄与し会長たること二度、克く同会の基礎時代に盡瘁せり、現に協和会々長に推され今尚ほ公的信望を収む。家庭夫人は子爵石山基弘氏の伯母君に当られ、嗣子雄氏は慶應大学英文科の出身にて現時同校教授たり。
  
 ちなみに、田辺尚雄は残念ながら『落合町誌』(1932年)には収録されていない。
 なぜ、訪問好きな曾宮一念が、田辺邸の訪問をたった一度だけでやめてしまったのかは、病気のせいとしているものの不明だ。曾宮は大正中期、田辺邸近く下落合544番地の借家Click!に住んでいたこともあり、周囲の街並みには馴染みがあったはずだ。田辺尚雄は教え子が訪ねてきたら、またなにか物語を語って聞かせていたのではないかと思うとちょっと残念だ。昭和初期のこの時期、田辺は音楽に関する研究へ本格的に取り組んでいたころであり、物理学のみならず音楽に関連した面白いエピソードを、たくさん知っていたと思われるからだ。
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 音楽にまつわる怪談や、地元の落合地域で語られていた幽霊・化け物譚などを、田辺尚雄は仕入れていやしなかっただろうか。少年だった曾宮一念が「物理」の授業中、目を輝かせながら聞き入っていた田辺尚雄の怪談だが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:下落合546番地に住んでいた、東洋音楽研究家・田辺尚雄の旧居跡。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる田辺尚雄邸と長尾収一(長尾雄)邸。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にとらえられた田辺邸。
◆写真中下上左は、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』収録の長尾収一。上右は、1985年(昭和60)に出版された曾宮一念『武蔵野挽歌』(文京書房)の表紙。は、下落合542番地にあった長尾収一・長尾修邸跡(左手)の現状。
◆写真下上左は、1951年(昭和26)に音楽之友社から出版された田辺尚雄『音楽音響学』。上右は、晩年の田辺尚雄。は、1951年(昭和26)に「沖縄芸術使節団」の一員で沖縄を訪問した田辺尚雄(右から3番目)。田辺尚雄からひとりおいて左隣りには、「下落合風景」を描いた落合在住のニシムイClick!の洋画家・南風原朝光Click!の姿が見える。

日本民話の会と「学校の怪談」。

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 わたしは、拙サイトで落合地域に現存する(した)店舗や企業の“宣伝”記事を意識的に書いたことは、過去に2~3件ほどしかなかったと思う。ひとつは、江戸期とあまり変わらない製法で胡麻油を製造している小野田製油所Click!と、なにかと原稿書きなどでお世話になった「カフェ杏奴」Click!などだ。きょうは加えてもうひとつ、企業でも店舗でもない組織(団体)の「日本民話の会」を加えてみたい。
 先日、「佐伯祐三生誕120年記念」の講演会+街歩きClick!には、日本民話の会の方もおみえだったようなので、印象深い同会の活動について少し書いてみよう。日本民話の会は、日本全国にわたる多彩な催しや、さまざまな語り部たちが紡ぎだす物語・フォークロアの類を記録し、出版する組織としてあまりにも有名だ。
 日本各地に残る多種多様な物語を採取したり、先の戦争や東日本大震災で生まれた物語などを記録しているので、わたしもその何冊かは目にしている。拙サイトには、地元の古老から取材した口承伝承や、この地域で生きていた人々が紡いだエピソード、地域に眠る物語などを発掘して記録するという側面があるので、どこか日本民話の会の仕事と相通じるところがあるように思う。もっとも、同会の記録作業は日本国内をとうにスケールアウトして、海外の民話や昔話、フォークロアにまで及んでいるのだが……。
 先の戦争の加害や被害については、これまでわたしの家族の体験Click!も含め、(城)下町や乃手Click!を問わず数多くの物語を取りあげてきている。戸山ヶ原Click!の陸軍施設を抱え、「軍都」とも呼ばれた新宿地域には、膨大な戦争にまつわる伝承が眠っている。おもに二度にわたる大空襲Click!で、現在の新宿区エリア(旧・牛込区/四谷区/淀橋区)は全区域の8割以上が焦土と化し、約6,700人が死亡している。また、1945年(昭和20)8月15日から数日間、戸山ヶ原Click!の陸軍施設や市ヶ谷の参謀本部では、膨大な資料が証拠隠滅のために焼却され、発生した大量の煙の量だけ加害の歴史があったのだろう。
 また、明治になって最大の火災である両国大火Click!東京大洪水Click!は個別に紹介しているが、関東大震災Click!については下町と乃手を問わず、繰り返しここで取りあげてきた出来事だ。15階までとどくハシゴ車が1台しかなく、あとは10階までがせいぜいの現状で、それ以上の階数がある高層マンションの火災をどうすればいいのか。また、大震災が起きた場合は地割れや家屋倒壊、駐車列などで道路が機能せず(関東大震災時がそうだった)、そもそも緊急車両が現場にいきつけない問題(東日本大震災で現実化した)や、水道管の破断により消火栓が機能しないのはどうするのか。1964年(昭和39)に開催された東京オリンピックの前後、河川や運河を埋めてしまい消火用水が確保できないのはもちろん、水運による救援物資ルート(関東大震災では最大限機能した)がなくなり、延焼止めや避難場所として設けられた広場や公園などの防災インフラが消滅したのをどうするのか……etc.。まったく誰も、なにも考えていない現状に愕然とする……というような記事を、これでもかというほど書いてきた。
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戦争の時代を語りつぐ.jpg 出雲かんべの里の語り.jpg
 これらの課題に対する“気づき”や問題意識、リスク管理意識は、被害に遭った肉親を含め語り部たちによる物語が伝承され、アタマのどこかで常に意識されているからこそ継承できるテーマなのだ。ちょうど、1933年(昭和8)に起きた昭和三陸大津波による被害の物語や伝承を継承し、住宅を海岸線近くから高台へと移した人々が、東日本大震災では被害を最小化できているのを見ても明らかだろう。もっとも、原発事故で漏れた放射性物質による被害や障害は、まったく防ぎようがないのが現実だが。
 日本民話の会では、『聴く 語る 創る』24巻で「戦後70年 戦争の時代を語りつぐ」を、同書21巻では「東日本大震災を語り継ぐ」、同書25巻では「東日本大震災 記憶と伝承」を刊行している。その中には、決して忘れてはならない、教訓化して孫子の代まで伝えなければならない物語が横溢している。東京は、1923年(大正12)の関東大震災以降にやってきた人たちが増え、それらの家庭では震災の物語がまったく継承されておらず、小林信彦Click!のコトバにならえば「いけいけドンドン」の「町殺し」Click!開発で、安全・安心への担保が街から駆逐される状況が進み、明日にでも現実化しそうな「いま、そこにある危機」が、まったく見えなくなっている。このような状況や“気づき”を問いかけても、多くの人たちはエポケー(判断停止)状態に陥るだけだ。
 このような断絶した伝承を、あるいは忘れられがちな物語を、肉親や経験者に代わって後世へと伝えていく作業は、非常に重要な仕事であり大きなテーマであると思うのだ。それは、ご都合主義的に整えられてしまった教科書的な「歴史」ではなく、資料室に眠る整理されてしまったレポートや論のたぐいでもなく、危機的な現実・現場に遭遇してなにを感じ、どのように考え、また、なにをどう判断して生きようとしたのかの「肉声」にほかならないからだ。これからも、下落合の聖母坂に本部がある「日本民話の会」Click!の仕事には、さまざまな催しも含め注目していきたい。
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 さて、うちの子どもたちが小さいころ、映画『学校の怪談』シリーズを観たことがある。わたしも、「ドラえもん」や「ドラゴンボールZ」などを見せられるよりは、よほど楽しく、ウキウキしながら画面を眺めていた憶えがある。校長先生が金の懐中時計を「か~えして~」と、どこまでも首を伸ばして廊下を追いかけてくるろくろっ首・岸田今日子Click!や、子どもたちの前に現れては脅かす怪しい坊主・米倉斉加年には、オシッコをちびりそうで「ヒェ~~~ッ」と叫んでは、子どもたちと狂喜したものだ。そう、前世紀末に大ブームを巻き起こした「学校の怪談」は、日本民話の会が監修した出版物『学校の怪談』シリーズが発信源なのだ。
 ちょっと本棚から、1994年(平成6)にポプラ社から出版された日本民話の会『学校の怪談⑩ 真夜中のミステリー・ツアー』を探し出して、少し引用してみよう。
  
 自転車にのってたらけしきがかわって、たんぼがたくさんあって、人が一人うかんでた(ぜんぜんしらない人)。(東京都世田谷区 S・S 10歳 男子)
 ぼくとしんせきの人とで午前二時か二時半ぐらいに家を出発し、びわ湖にいくとちゅうでした。国道で道にまよったのでおばあさんにききました。「あっちだよ」といわれていってもつきません。やっとついたのがおばあさんのたっていたところ、またおばあさんがいました。またきいて、一〇回ぐらいいってもいけなく、なにげなく逆にいったらいけました。(京都府京都市 U・K 11歳 男子)
 友だちと家に帰るとき、きゅうに強い風がふいた。するととつぜんあたりの草がカマできられるようにきれていた。ふとたんぼをみると、カラスが三羽血だらけになっていた。ぼくの顔もそのとききられた。とてもいたかったよ。(岡山県勝田郡 K・T 9歳 男子)
 学校のブランコの二番めにのると、ぜったいおちてけがをします。今までほとんどの人がおちてひどい目にあっています。(愛知県春日井市 N・A 10歳 女子)
  
 中には、体育館の床を掃除しても掃除しても、血がポタポタとたれてくる……、あっ、あたしの鼻血だ!――というような、大ボケ怪談の「恐怖」もあるのだけれど。w
 その時代の子どもたちが、なにに興味をもち、なにを見て、なにに恐怖を感じていたのかがわかって、民俗学的にも非常に興味深い。これが半世紀前であれば、日常を超えたまったく異なる事件や出来事に怖れを抱いていた、わたしたちの姿と重なってくる。
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 わたしの子どもたちは、映像版『学校の怪談』は喜んで観ていたが、せっかく購入した本は読まなかった。しかたないので、わたしが代わりに読んで楽しんでたりするのだが、映像よりも想像力が無限に広がる本や語りのほうが、ほんとうはもっと怖いのだぞ。

◆写真上:下落合の聖母坂にある、「日本民話の会」本部の近くから。
◆写真中上:いずれも日本民話の会から出版されている『聴く 語る 創る』シリーズで、21巻の「東日本大震災を語り継ぐ」(上左)、25巻の「東日本大震災 記憶と伝承」(上右)、24巻の「戦後70年 戦争の時代を語りつぐ」(下左)と、『新しい日本の語り』13巻の「出雲かんべの里の語り」(下右)。
◆写真中下は、日本民話の会による『こども妖怪・怪談新聞』(水木プロダクション共同制作/)と、同会学校の怪談編集委員会による『学校の怪談⑩ 真夜中のミステリー・ツアー』()。は、『学校の怪談⑩ 真夜中のミステリー・ツアー』のコンテンツ。
◆写真下:1996年(平成8)に公開された『学校の怪談2』(東宝)より、岸田今日子の校長先生が怖すぎる。1998年(平成10)の『学校の怪談3』には黒木瞳や野田秀樹が出ていて、「あ、あ、あなたは、顔がないかもしれないけど、あ、あたしは胸がないんだからね~! キャーーッ!」といって逃げだす女教師が印象に残っている。w

船山馨の「孤客」と“ネット落ち”。

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 下落合4丁目2108番地(のち2107番地/現・中井2丁目)に住んだ小説家・船山馨Click!の文章に、「孤客」というワードがある。川西政明Click!も、船山馨の文学について語る書籍に、同様のタイトルをつけている。船山馨の『樹里庵箚記』には、次のような詩ともつぶやきともとれる一文が書きとめられていた。
   
 われはこの世の孤客なれば
 一人何処よりか来りて
 束の間の旅に哀歓し
 一人何処へか去るのみ
  
 この詩は、死去する2年前の1979年(昭和54)4月6日に書かれたものだが、すでに船山馨は右目を失明しており、最後の作品となる『茜いろの坂』(1980年)をかろうじて書きつづけている最中だった。
 下落合がお好きな方なら、この一文を読まれたとたん、丘上から新宿駅西口の高層ビル群を眺めわたす情景とともに、すぐにも万理村ゆき子Click!の詩、「人はふと知り合い/つかのまの夢見て/やがてただ消えゆくだけなの」(1973年)というフレーズを思い浮かべてしまうのではないだろうか。
 深々とした諦めを含み、自身の生を思いきり突き放し、まるで他人事のように右肩の上空からクールかつ客観的に見下ろしているような、強烈な諦念とニヒリスティックな感覚が、どこかネット世界で感じる「孤独感」、あるいは「孤立感」とでもいうべき感覚に重なるものをおぼえた。どの辞書にも載っていないので、どうやら「孤客」は船山馨の造語のようだ。
 一昨年あたりから、ブログ(Weblog)の管理画面を眺めていると、新しいブログを起ち上げる増加率が目に見えて鈍っている。ネットメディアのひとつとして定着し、ようやく落ち着いた環境になったのだろうか。この「地域」ブログのカテゴリーでいえば、およそ2,980サイト前後を上下する状況になっている。ブログを通じて、不特定多数の読者に向けなにかを記録したい、表現したい、伝えたい、ないしはアフェリエイトで稼ぎたい人たちが残り、知り合い同士のコミュニケーションは自然にSNSあるいはSMSへと移行していったのだろう。
 So-netのみに限れば、ブログをやめてしまった人たちはサイトが閉じられると同時に、訪問先へ足跡を残す「読んだ!」(デフォルトは「nice!」)ボタンのブロガーアイコンが白くなり、X印が表示されることになる。おそらく、ブログをやめてSNSないしはSMSへと移ったか、ネットへの表現自体(や接続)を止めてしまったか、病気で意欲をなくしてしまわれたか、あるいは亡くなった方々なのだろう。ネットの中のバーチャルな空間では、ネット内で知り合った仲間の前から姿を消すことを、物理的な生死の別なく、よく「ネットで死んだ」などと表現された。
 現在でもつかわれているかもしれないが、インターネットが普及する以前、いまから25~30年近く前に全盛だったパソコン通信の時代では、よく「ネット落ち」という言葉が流行っていた。当初は、深夜のOLT(オンライントーク=Chat)などで「落ちます」というと、ネットへの接続をやめて「そろそろ寝ます」という意味につかわれていたのだが、その意味が徐々に拡大し、ネットでなにか事故や問題を起こして特定のメディア(sigやフォーラムなど)への訪問をやめてしまった人たちを、「あいつはネット落ちした」などというようになった。
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 そういう人たちは、ハンドル(ニックネーム)を変えて、新たに別のプロバイダが提供するメディアへアクセスして楽しんでいたのかもしれないが、ネット自体のバーチャルな人間関係が面倒でわずらわしくてイヤになり、そもそも接続をやめてしまった人たちも少なからずいたように思う。そういう人たちのことも含め、おしなべて「ネット落ち」という言葉がつかわれていた。
 また、「ネット社会は敗者復活戦のない世界」などともいわれていた。そもそも、ネットに接続する人々の絶対数が少なかったため、どこかである人物の悪い評判が立てば、たちどころにあちこちのメディアから排斥され、二度と同じ立ち位置へはもどれなくなってしまうことを、そのように表現したものだろう。当時は、ネット接続をやめてしまう「ネット落ち」をしても(ネットにつながなくても)、それほど困ることはなかったけれど、現在ではネットにつながないという状況は、まず考えられない。当時、日本で50~100万人といわれていたネット人口は、現在ではおそらく50~100倍近くに増え、ネット世界はほとんど無限の拡がりを見せている。
 ネットの世界が拡大すればするほど、リアルな友人・知人とともにバーチャルな仲間も増え、周囲は賑やかで楽しくなるはずなのだが、残念ながらPCやスマホなどデバイスの画面を見ながら、テキストや画像などのデータをアップロードしていると、「孤独感」「孤立感」に近い感覚が深まるのはどうしてなのだろう。SMSやIMなどで、「つながりたいから」「つながっていたいから」という言葉をよく聞くが、それは「孤独感」「孤立感」を怖れた、まさに裏返しの感覚そのものではないか。つまり、「孤独だ」「孤立してる」からこそ、そのような想いにより強くとらわれるのだろう。最近のネットをめぐる事件や事故を見ると、よけいにそのような感触を強くおぼえるのだ。
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 「連帯を求めて孤立を怖れず」の世代は知らないが、ネット社会の急激な進化は「連帯を求めて孤立を怖れる」時代へとシフトしているような気がしてならない。その「連帯」とは、特に深く落ち着いた人間関係や悲喜こもごものリアルで親しい間柄、同じような世界観や社会観、価値観でつながった友人同士では決してなく、かりそめの「つながり」であり、バーチャルな「友情」であり、また仮想の「恋人」や「家族」だったりするのだろうか。突き詰めれば、ちょうど数年に一度の法事で顔を合わせる、どこの誰だったか思いだせないが見憶えのあるオバサンほどの知己と、大差ない存在感や関係性に限りなく近いといえるのかもしれない。
 船山馨は『樹里庵箚記』の中で、つづけてこんなことも書いている。
  
 (孤客は)キザに云えば「孤独な旅人」とでもなるかもしれないが、凡庸だし、意味も少し違うつもりである。「客」だからである。おなじ死を生活の基底に意識するにしても絶望的、投げやりであるよりは、死と生と等しく自然なものとして、静かに受けとめ、それ故にこそ今を悔いなく全的に生きようとする積極的な思いがあるつもりである。茶のほうではどうであろうか。例えば、静かな夕景、打水に濡れた露地を、見知らぬ一人の客が草庵を訪れて、一服の茶を所望する。庵主が誰と問うこともなく、茶を点てて供すると、客はそれを服し終り、丁重に、しかし短く礼を述べて来たときと同じように静かに何処へともなく立去ってゆく。客と庵主の心に、もし人生の奥深い部分に触れた余韻が漂うとすれば、これを「孤客」の訪れと称していい。(カッコ内引用者註)
  
 ネットの中の人間関係は、船山馨が前提として書く家族を含めた生身の人間関係ではない。また、躙(にじ)り口をくぐってやってくる、リアルな茶席の客人でもない。あくまでも、テキストや音声・映像を通じた、相手の“体臭”がしないバーチャルな関係でありコミュニケーションだ。だから、「今を悔いなく全的に生きよう」としても、それはデバイスの向こう側に生身の人間がいるにせよ、またAI・IoTの基盤上でアルゴリズムやRPAが受け答えをしているにせよ、どこまでいっても仮想空間での“生(せい)”のまま……ということになる。
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 仮想空間の「孤独な旅人」は、船山馨にならえばつかの間の言葉を残しつつ、いつ消えてもおかしくない「仮孤客」ということになるだろうか。「みえない関係がみえはじめたとき、かれらは深く訣別している」とは、「仲間外れ」にされた吉本隆明の言葉だが、「弧客」や「ネット落ち」などについて考えていたら、ふいになんの脈絡もなくこの言葉が浮かんできた。まったくまとまりのない文章を書いているけれど、船山馨の随筆を読んでいると、ついネットでの脆いコミュニケーション基盤や人間関係を想い浮かべてしまうのは、なぜなのだろう?

◆写真上:陽射しが冷たく輝く、冬枯れの下落合の森。
◆写真中上は、1975年(昭和50)に撮影された下落合の自邸書斎で執筆中の船山馨。は、下落合4丁目2107番地(現・中井2丁目)の船山馨邸跡。
◆写真中下は、1967年(昭和42)ごろに北海道庁前で撮影された船山馨。は、下落合の丘上からは目立たなくなった富士女子短期大学(現・東京富士大学)の時計塔。
◆写真下は、1982年(昭和57)に北海道新聞社から出版された川西政明『孤客―船山馨の人と文学―』。は、同書所収の船山馨プロフィール。

劉生が「お父さん」と慕う大和屋7代目。

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 フグ毒にあたって死ぬまで、8代目・坂東三津五郎Click!の年賀状が親父のもとにとどいていた。どこで知り合ったものか、親父とは20歳ほど年が上のはずだが、いまとなっては確かめるすべはない。どこかの料亭で、“うまいもん”Click!好きの寄合仲間だったものか、それとも親父のそのまた親父の代からつづく7代目・坂東三津五郎つながりの贔屓筋あるいは芝居連(中)だったものか、なにも話してはくれなかったのでわからないのが残念だ。7代目(ひちだいめClick!)は京橋の生まれだし、8代目は下谷(現・上野地域)の生まれなので、日本橋の親父とは地域での接点はないはずだ。
 わたしは、7代目は時代がちがうのでまったく知らないが、8代目・坂東三津五郎の芝居は小学生のころ、国立劇場や歌舞伎座の舞台で何度か見ている。どちらの劇場だったか、いまとなってはおぼろげな記憶なのだが、親父に連れられて舞台裏の楽屋を訪れたことがあり、それが8代目・三津五郎の楽屋だったのかもしれない。当時、竣工したばかりの国立劇場の楽屋にしては、なんとなく古びた風情で暖簾が下がる楽屋口の記憶があるので、きっと歌舞伎座のほうだったのだろう。大和屋が京都でフグ中毒死したとき、親父は心底残念な顔をしていた。
 さて、7代目・坂東三津五郎を「お父さん」と呼んで慕っていた画家がいる。同じ京橋区生まれ(7代目は新富町)で、片や銀座で育った岸田劉生Click!だ。劉生が、7代目になついている様子を記録した文章が残っている。下程勇吉が1975年(昭和50)に書いた『岸田劉生と坂東三津五郎』で、証言しているのは8代目・坂東三津五郎だ。ちなみに、同年10月に発行された「絵」No.140掲載の8代目が語った証言は、フグ毒で死ぬ10時間前に下程勇吉が、宿泊先である京都のホテルでインタビューをして録音したものだった。では、8代目・三津五郎の言葉を聞いてみよう。
  
 「かげでは“三津五郎は細い声を出して云々”などと、あれこれいってるくせに、父の前に出ると、きちんと坐って、“お父さん、お父さん”と呼ぶから、そのわけをきくと、“お前とおれは友達で、お互いのお父さんじゃないか”というほどであった。そんなにまでおやじを尊敬してくれるので、びっくりして岸田さんをたずねた。(中略) つまりおやじをほめてくれたので、よろこんで行ったら、いつとなく、“遊びに行こう、遊びに行こう”でまんぺいに行き、夜あかしとなり、それからはただら遊びになってしまって、“岸田さんを放蕩者にしたのは、八十助だ”などといわれたが、もともと教育などというものは、まともな言葉で語るよりも、遊びの間にバカなことをいいながら、ときどきピリッピリッと来るものが本当に人間を生かすのではあるまいか」云々。<正味の人間>の本音をぬきにしたいわゆる教育などナンセンスなのである。
  
 当時は7代目が健在で、8代目は坂東八十助を名のっていた時代だ。八十助が8代目を襲名するのは、戦後の1962年(昭和37)になってからのことだ。
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 岸田劉生は、役者に対してはかなりきびしい眼で眺め、手を抜いたヘタな芝居などすれば、ときに罵倒するような文章も残しているが、こと7代目・坂東三津五郎に対しては讃美者に近い無条件の信頼を寄せ、終始その芸を愛していたようだ。それは、7代目の芸に対する思想が、岸田劉生の芸術に対する意思に深く重なったからだろう。「お客さまを相手にしてやると、自分が下落する」、「生きているお客さまを相手にやっちゃいけません」という、7代目の有名な言葉が残っている。この「現世超越的自覚」主義という点で、7代目と岸田劉生は共通の視座の上に起立していたように見える。
 西洋画の手法で「東洋の美」を追求した劉生だが、長与善郎から奨められたショーペンハウアー(ショーペンハウエル)哲学に傾倒し、彼の東洋哲学的な側面に共鳴したものか、8代目・坂東三津五郎(当時は八十助)は読むよう勧められている。
  
 私もその影響で若い頃、十八、九歳の頃ショーペンハウエルの処世哲学を読みました、分りもしないのに。まあ私にとっては大変な影響力をもった人です。……岸田さんが今生きていてくれたら、本当の友達としてつき合えるし、よろこんでもくれるでしょうが、それと同時に、年中“ばか野郎何をしていやがるんだ、ばか野郎”とやられることでしょう。岸田さんの“ばか”はただの“ばか”ではなくて、“bakka!”なのです。その“バッカッ!”は何ともいえぬ愛情のこもった魅力がありました。
  
岸田劉生「演劇美論」1930刀江書院.jpg 岸田劉生「歌舞伎美論」1948早川書房.jpg
岸田劉生「新古細工銀座通・歌舞伎座附近」1927.jpg
 この劉生の眼差しに似た、ややアイロニカルな視座は、そのままうちの親父ももっていて、特に歌舞伎役者と落語家に対しては、わたしが物心つくころから死ぬまできびしく向けられつづけていた。親父の場合は、「ばか野郎!」ではなく「へたクソ!」だった。この“へた”は、ただの“へた”ではなく、“hetta!”だったので「へったクソ!」と発音されていた。向けられる役者や落語家は、老若・一門にかかわりなく、「歳ばっか食いやがって、へったクソ!」とか、「なにをもたもたモグモグしゃべってんだい、へったクソ!」と、まったく容赦がなかった。
 確かに、親父の世代には役者にしろ落語家にしろ、"名人"と呼ばれる粒ぞろいで優れた才能が目白押しだったので、へたな演技や噺をされたら即座にガマンができなかったのだろう。おそらく、いま生きていたら特に落語界に対しては、「お話んならねえやな、満足に東京弁もしゃべれてねえじゃないか、へったクソ! チヤホヤおだてるばっかで、誰もなんにもいわねえから、こんなへったクソな噺家が平気でまかり通るんだ!」と、罵声に近い言葉を投げつけていたにちがいない。確かに上方落語を「標準語」Click!で演じたら「このドアホッ!」となるのはまちがいないが、江戸落語もまったく同様に東京方言ではなく「標準語」で演じたりしたら、「バッカ野郎!」となるに決まっている。
 さて、坂東八十助(のち8代目・坂東三津五郎)も、劉生には徹底的にコキおろされているひとりだ。つづけて、大和屋の証言から引用してみよう。
  
 劉生が私に、“お前は何になるつもりか”ときいたので、“役者になるつもりだ”と答えると、“ばかをいえ、お前などが役者になれてたまるか、お前みたいな奴が役者になれるはずがねえじゃないか、何より証拠は、お前のおやじが最後の役者なので、外に役者はいねえじゃないか。” “今の歌舞伎は、パイン・アップルや蜜柑が入って、豆は少なくなっている今頃のみつ豆みたいなもので、まぜもののない歌舞伎はお前のおやじでおしまいだ。”
  
 豆が少なくなっている「今頃のみつ豆」という表現は、こういうところ、劉生ならではの洒落たメタファーなのだが、落語をよく聞きこんでいた親父もまた、こういう気のきいた喩えがうまかった。
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 坂東八十助(8代目・三津五郎)は、岸田劉生の周囲にいた友人たちが少しずつ距離を置きはじめている中、1929年(昭和4)の暮れに劉生が死去するまで、変わらずに親しくしていたようだ。「処生(ママ)に長けている人は、岸田さんとつき合わなかったでしょう、危険だから。どこへかみつくか分らない岸田さんとつき合うことはためらわれていた、木村荘八などもそうです」。晩年の劉生は孤独というか、やや偏屈にもなっていた。

◆写真上:1923年(大正12)に制作された、岸田劉生『新富座幕合之写生』。
◆写真中上は、7代目・坂東三津五郎()と8代目・坂東三津五郎()。岸田劉生との交流は、8代目が坂東八十助時代のこと。は、忠信(7代目・三津五郎)と静御前(3代目・中村時蔵)の『義経千本桜』(狐忠信鳥居前)。は、1975年(昭和50)発行の「絵」No.140に掲載された下程勇吉『岸田劉生と坂東三津五郎』。
◆写真中下は、岸田劉生が書いた芝居の本で1930年(昭和5)出版の『演劇美論』(刀江書院/)と、1948年(昭和22)に出版された『歌舞伎美論』(早川書房/)。は、1927年(昭和2)に東京日日新聞へ連載された岸田劉生『新古細工銀座通(しんこざいく・れんがのみちすじ)』より「歌舞伎座附近」。
◆写真下は、三圍土手の場で猿まわし(7代目・三津五郎)に久松(3代目・市川左団次)とお染(7代目・尾上梅幸)の『道行浮塒鷗(みちゆき・うきねのともどり)』(お染久松Click!)。は、松江出雲守屋敷の場で高木小左衛門(8代目・三津五郎)と松江出雲守(2代目・尾上松緑)の『天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)』(河内山Click!)。は、“校倉”のモアレで昔からカメラマン泣かせの国立劇場正面。

中村彝はドアに女の顔を描いている。

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 下落合464番地の中村彝Click!は、体調の悪化からキャンバスづくりが思うようにできなくなったり、制作用のキャンバスが足りなくなったり、あるいは急に習作を描きたくなったりすると、そこいらにある板片などを画布がわりにして絵を描いていた。それは、ときに菓子箱の裏やストーブにくべる薪がわりの廃材など、油絵の具がのる平面でさえあれば、なんでも活用していたようだ。
 そのような環境の中で、以前にも少し触れたが、アトリエのドアに絵を描いていた様子が伝えられている。そう証言しているのは、定期的に支援金をもって中村彝アトリエClick!を訪れていた、中村春二Click!の息子である中村秋一Click!だ。多くの画家たちは、今村繁三Click!などパトロンからの支援金を受け取りに、中村春二の自宅を毎月訪れていたが、中村彝は病状の悪化から中村秋一がそのつど、封筒を懐に入れては下落合のアトリエを訪ねていた。1942年(昭和17)に春鳥会から発行された「新美術」12月号収録の、中村秋一『中村彝のこと』から引用してみよう。
  
 父は彝のアトリエからスケッチ板ぐらゐの小品を持ち帰ることがあつた。面白いから貰つてきた、彝さんはそんなものをかけられては困るといつてゐたよ、と話し乍ら、板の表と裏に描かれた画を、どつちにしようか、と迷つてゐた。みんな描きかけの板片で、置いてをくとあの人はストーブに燻べちやふからね、と父は笑つてゐた。かういふ小品には商品としての価値はないかも知れないが、筆致の面白さがあるので、今でも私は好きであるが、惜しいことに悪い石油を使つてゐるので、ホワイトなどは鉛色に変色し、ボロボロ落ちてしまつて跡片もなくなつたものもかなりある。/彝さんは気が向くとどこへでも絵を描くひとで、菓子折の蓋へスケツチしたり、画室の扉へ女の顔が描いてあつたりする。画板が不足してゐたと見えて、裏表へ風景や静物を描いたものがかなりある。さうしたもので気に入つたものを父が取つて置いたらしいが、みんな破れたり、折れたりしてゐて、現存してゐるものは極めて尠い。
  
 この一文を読んで、すぐに思い浮かぶのが、中村彝の死去からおそらく1ヶ月前後に撮影された、アトリエ西側の壁面をとらえた写真だ。1925年(大正14)の『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載された写真には、画室から岡崎キイClick!の部屋、そして便所や勝手口まで通じる南西側のドアが写っている。そして、そのドアの表面には、なにやらペインティングされている“模様”が見てとれる。
 中村秋一が、アトリエのドアで見たのは「女の顔」だが、写真にとらえられたペインティングは「女の顔」には見えない。なにやら織物の模様のような絵柄で、1923年(大正12)の秋に渡仏中の清水多嘉示Click!あて、タペストリーClick!を購入して送るよう依頼する手紙を書いているので、実際に雑誌などで目にした織物などの模様を、ドアに模写したものなのかもしれない。
 このドアの向こう側について、鈴木良三Click!はこう書いている。1977年(昭和52)に中央公論美術出版から発刊された、鈴木良三『中村彝の周辺』より引用してみよう。
  
 アトリエの南西にドアがあり、一穴の便所と勝手口へ通ずるようになっていて、あらゆる来訪者はみなここから出入させられた。勝手口に三畳の小部屋があり、おばさんが起居していたが、この部屋で彝さんに聞かせられないような話向きはヒソヤカに取りかわされるのだ。この部屋の傍らに流しがあり、直ぐ裏木戸に出られるようになっていたので、彝さんの外出の時の人力車もここで待っているし、お医者も、画商も、友人もみんなここを通るのだった。木戸を入って左側に井戸があり、少しばかりの空地があって、おばさんはここでゴミを燃やしていた。
  
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 この南西側のドアだが、写真で見るとおり、もうひとつの大きな特徴がある。それは、彝アトリエに設置されていた他のドアに比べ、このドアの幅がかなり狭いことだ。他のドアの幅が、700mm余の通常サイズなのに対し、この南西側のドアは600mm前後の幅にしか見えない。また、他のドアには中央にタテの枠が入るのに対し、なんらかのペインティングがほどこされた狭い幅のドアには、中央のタテ枠が存在しない。つまり、1923年(大正12)の関東大震災Click!以降に増築され彝アトリエに設置されていたドアの中では、かなり特殊な意匠のドアだったのではないかということだ。
 彝アトリエが、1929年(昭和4)より鈴木誠アトリエClick!になってからも、南西側のドアの幅は変更されていない。鈴木様に、アトリエ内を何度か拝見させていただいたとき、このドアの周辺は何枚かの写真に収めているが、画室と新たに設けられた“廊下”とを隔てるパーティションこそ設置されているものの、南西側のドアの幅は周囲のドア枠の意匠とともに、中村彝の時代とほとんど変わっていなかった。すなわち、アトリエ内ではこのドアだけが、特殊な仕様をしていたことになる。
 わたしが鈴木誠アトリエを拝見したとき、玄関から西へとつづく細い廊下の突き当りにあたるドアは、すでに撤去されて存在しなかった。ということは、鈴木誠Click!がアトリエの南西側に母家を増築したあと、アトリエの南東側へ玄関を設置した際、アトリエの南辺を幅60cmほどのパーティションで区切って、玄関から母屋へと抜ける“廊下”を新たに設置した時点で、このドアは取り外されている可能性が高い。あるいは、取り外されたドアは、新たに建設された母家のどこかに、流用されていたのかもしれない。たとえば、食堂や台所のドアとして……。
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 中村秋一は毎月、支援金の配達をつづけていて、たまたま彝アトリエのドアに描かれた「女の顔」を発見しているが、彝アトリエに出入りしていた画家たちは、ドアに描かれた“なにか”を必ず目撃しているはずだ。すべての中村彝関連の資料に目を通しているわけではないので、いまだそれを発見できないでいるだけなのかもしれない。それは、たまたま彝アトリエを取材しに訪れた美術誌の記者や新聞記者が、どこかに何気なく書きとめている印象にすぎないのかもしれない。
 中村春二の息子・中村秋一は、パトロンからの支援金を彝アトリエへ定期的にとどけながら、画家という職業をうらやましく思っていたようだ。彼は、のちに大沼抱林の画塾に通いつつ、父親を通じて作品を中村彝に見せたところ、「筋がよい」といわれている。また、彝が1922年(大正11)に帝展審査員になって以降、無料パスを借りては帝展を観に出かけている。1942年(昭和17)発行の「新美術」12月号から、もう少し引用してみよう。
  
 当時は世話する方もまた世話される方も、それが当然であるやうに思はれてゐた時代だから、今日のやうな画家とパトロンとの関係はなく、ひどく恬淡としてゐた。父が負担したのはごく僅かで、多くは富豪からの出費を取次いでゐたに過ぎないが、直接手渡しする私の母は、催促されたりすると、美術家つてずゐ分変つた人たちだねと困りもし呆れてもゐたやうだつた。今ではみんな大家だから、こんな話は省いた方が礼にかなふと思ふが、当時ののんびりとした芸術三昧の生活は、ちよつと羨しいと思ふし、また、さうした生活がこれら優れた作品を生んだのであらう。
  
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 中村秋一は同年の「新美術」に、中村彝の思い出を数回にわたって連載しているので、機会があればまた彝やアトリエのことを書いてみたい。また、彼は画家たちを支援するパトロンたちの様子も書きとめているので、こちらもいつかご紹介したいと思っている。

◆写真上:鈴木誠アトリエ時代の玄関から母家へと向かう、幅の狭い廊下の突き当りの南西ドアがあった跡で、600mm幅ほどのドアはすでに撤去されている。
◆写真中上は、1925年(大正14)の『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載された画室西側の壁面。は、南西ドアの拡大。は、玄関側から眺めた廊下の突き当り。
◆写真中下は、母屋の建設につづいて行われた玄関部の増築工事の写真。(提供:鈴木照子様) は、南西ドアにつづく廊下の腰高壁の様子。
◆写真下は、彝アトリエの時代から使われていた通常仕様のドア。幅は700mm余あり、中央にはタテ枠が入っている。は、中村彝が描きとめた戯画の一部。右上に描かれた印象的な人物は、明らかに野田半三Click!だろう。

気になる新聞記事の資料いろいろ。

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 このサイトを書くために、昔の多種多様な新聞記事を眺めていると、落合地域とは直接関係がなくても、なんとなく気になる記事にめぐりあうことがある。たとえば、明治時代の新聞には、社会インフラをめぐる事件や事故のニュースが多い。それだけ、いまだ運用技術の精緻さや、それを扱う人間のノウハウやスキルが低く、うっかりミスや勘ちがいが多かったのだろう。中でも、鉄道の事故がことさら目をひく。
 落合地域における鉄道事故というと、1932年(昭和7)3月4日の夜に山手線の高田馬場駅-目白駅間で起きた、軍用の特別列車を見送る群衆に貨物列車が突っ込んだ、大規模な人身事故Click!が想起されるが、これは省線側の技術が拙劣で運転技術が未熟だったわけではなく、立入禁止の線路内に入りこんだ群衆に起因する事故だった。
 また、西武電鉄Click!の山手線をくぐるガード工事が営業開始に間に合わず、やむなく高田馬場仮駅Click!を山手線の土手沿いに設営した1927~1928年(昭和2~3)、仮駅へと向かう軌道(線路)のカーブが鋭角すぎて脱線事故を起こしやすく、ときに下落合駅が実質的な始点(終点)になっていたという話も、無理を承知で開業を宣言するための応急処置的な特殊ケースだろう。脱線(脱輪)事故で、死傷者が出たという話も聞かない。
 ところが、明治期に起きた鉄道事故は、駅に停車中の列車に後続がそのまま突っこんだというような、通常はありえない事故が多い。たとえば、多くの死傷者を出した事故に、1912年(明治45)6月17日に東海道線大垣駅で起きた「軍用列車衝突事故」もそのひとつだ。以下、翌6月18日の読売新聞から引用してみよう。
  
 ●軍用列車衝突/△死者七名△重軽傷五十三名
 十七日午前十一時四十分東海道線大垣駅構内に於て貨物列車が軍用列車に衝突し為に軍用列車は脱線破壊して搭乗兵士五名即死別に重軽傷者五十三名を出せる大椿事あり、今約二時間に中部管理局運転課へ到着せる電報廿数通に及び本社着の名古屋電報を綜合して其詳報を記さん ▲発車間際の大椿事 丁号軍用列車は四輪三等車廿三輌、四輪三等緩急合造車二輌、計廿五輌より成り搭乗兵員は約八百名(中略)にて十六日午前十一時四十七分新宿を発し十七日午前名古屋着同九時五分同駅を発車し同十一時大垣駅に着し下関行客車第十五号の通過を待つ為四十分停車せしより兵士一同下車して構内に於て休息し第十五号列車通過の後隊伍を整へて露台(プラットホーム)を進み新に本線に押下げられし丁号列車へ乗込み将に発車せんとする十一時四十分、後方より名古屋発の第四百五十九号貨物列車が常置信号機の危険を示し居るにも拘はらず勢ひ込むで進行し来り機関車乗込の名古屋機関庫在勤清水吟次郎(二九)火夫川村泰三郎(二二)の両名がそれと気附きし時は既に遅く轟然たる音響と共に機関車は丁号列車の最後車輌に衝突せり(カッコ内引用者註)
  
 記事中には死者5名重軽傷者53名と書かれているが、実際には同日のうちに重傷者2名が死亡しているので、死者7名重軽傷者51名が正しいようだ。
 この軍用列車は、仙台の第二師団の予備役兵たちを乗せ、途中の東京で第一師団の予備役兵士、そして名古屋で第三師団の予備役兵たちを乗せて、3個師団による混成軍用列車だった。予備役兵たちの行先は、下関で下車し大陸に向かう航路に乗船して「満州」をめざすことだった。おそらく、日露戦争で獲得した南満州鉄道の周辺警備に召集された予備役兵たちだったのだろう。貨物列車の運転士の信号機見落としが原因とされているが、事故直後の報道なので可能性のひとつを書いているだけかもしれない。明治期には、ポイントの切り替えミスによる衝突事故も多かった
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 また、昭和に入ってからも高田馬場駅でこんな事故が発生している。1929年(昭和4)1月11日に発行された、読売新聞から引用してみよう。
  
 高田馬場駅でレール浮く/工事中に土砂崩れ
 省線高田馬場駅では目下構内に西武鉄道高田馬場駅との貨物連絡用エレベータ取付工事中であるが十日午後二時十五分坂井組の人夫十五六名が右箇所に横穴を掘つて土取作業中突然天井の土砂が崩壊し其上にあつた架線の電柱が傾斜した上レールが浮いたので直ちに内廻り線だけ運転を停止し同駅及目白駅から折り返し運転を行つた 新宿保線事務所から応援工夫多数駆けつけ午後四時四十五分復旧したがラツシュアワーの(ママ:こ)ととて一時は大混雑を呈した。尚此際逃げおくれた人夫渡辺亀次郎(五三)は右手に軽傷を負ふた
  
 おそらく、高田馬場駅構内から山手線の線路土手に横穴を掘っていたら、上を通過する電車の振動で天井が崩落し、地上の電柱も傾いて、下から見上げると山手線内回りの線路がむき出しになって浮いていた……というような事故だったらしい。
 深刻な人的被害もないので、現場では「あ~あ、やっちゃった。知らないよ~知らないよ~」と、坂井組のスタッフたちは青ざめながら現場を取り囲んでいたのだろう。作業員が軽傷で済んでなによりだが、山手線を2時間半ストップさせた西武鉄道は、鉄道省に賠償金を取られたのはまちがいなさそうだ。
 戸山ヶ原Click!の陸軍施設にからみ、陸軍科学研究所Click!と陸軍技術本部の動向も気になっていた。陸軍技術本部と同科学研究所は、1919年(大正8)4月8日の閣議決定で新設されている。前者は陸軍技術審査部が拡張された組織で、後者は陸軍火薬研究所の規模を大きくしたもので、当時は戸山ヶ原ではなく板橋に本拠地が置かれていた。1919年(大正8)4月19日発行の、東京朝日新聞から引用してみよう。
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 陸軍技術本部新設/技術審査部拡張
 八日の閣議に於て陸軍技術本部令(勅令)を附議決定せるが右は現在の陸軍技術審査部を拡張するものにして本部長は陸軍大臣に対するも技術審査部長又は砲兵工廠提理兵器本部長等より権限を重くし陸軍技術官並に技術に関する総ての事項を統括することゝし従つて本部長は陸軍大将又は中将を以て補され同本部を総務部第一第二第三部に区分(部長は少将又は大佐)し総務部は人事其他一切の事務を整理し第一部は砲兵科第二部は工兵科第三部は兵器検査を夫々担任する事とし従来技術本部の担任せる設計に関する事項は之を砲兵工廠に移管し又陸軍兵器本廠に於挙行したる兵器検査は一切之を技術本部にて担任することゝなす由
 陸軍科学研究所設置/火薬研究所拡張
 陸軍にては今般陸軍科学研究所を新設することゝなり八日閣議に於て決定したるが右は現在板橋にある火薬研究所を拡張し火薬に限らず総ての科学を研究することゝし同所を二部に区分し第一部は理学に関する事項第二部は爆発物又は毒瓦斯等即ち化学に関する事項を研究するにありと云ふ
  
 陸軍科学研究所は、第一次世界大戦で多用された毒ガスとなどの化学兵器を、すでに板橋時代から研究していたことがわかる。濱田煕Click!が描いた戸山ヶ原の陸軍科学研究所の記憶画では、煙突の頂部に排煙を濾過する巨大なフィルターがかぶせられている様子が描かれているが、もちろん毒ガス研究は戸山ヶ原でもつづけられていただろう。さらに、アセトンシアンヒドリン(青酸ニトリール)Click!に代表される、兵務局Click!特務Click!を派遣して要人暗殺などに使われる毒薬研究も、戸山ヶ原の陸軍科学研究所や、のちに設置される登戸出張所Click!の重要なマターだった。
 さて、戦前の新聞には華族や政財界の誰それが、いまどこにいて、なにをしているかなどという消息記事もあちこちで目につく。下落合に関連する記事を、1936年(昭和11)3月6日発行の読売新聞から引用してみよう。
  
 近衛公目白の別邸へ
 近衛文麿公は五日午前十一時半永田町の自邸を出で同五十五分目白の別邸に赴き母堂貞子刀自と午餐を共にし歓談に時を過ごし午後二時再び自邸に帰つた
  
 このとき、東京は二二六事件Click!の直後であり、責任をとって辞職した岡田啓介首相Click!の後任を誰にするか、西園寺公望Click!と会談し首相就任を辞退した翌日のことなので、ことに新聞は近衛文麿Click!の動きに注目して1面に消息を伝えたのだろう。
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 ここでは、下落合の近衛邸Click!が「別邸」と書かれているけれど、来客が頻繁で家族ともどもほとんど居つかなかった麹町邸と同様、永田町時代でも近衛の本邸意識は「荻外荘」Click!を購入するまで、近衛町の近衛篤麿邸Click!跡も近い下落合だったろう。

◆写真上:戸山ヶ原の西端に位置する、陸軍技術本部があった跡地。
◆写真中上は、下戸塚側にある高田馬場仮駅が設置されていたあたりから見上げた山手線の線路土手()と、下落合側のガード脇の線路土手()。は、1912年(明治45)6月18日発行の読売新聞に掲載された「軍用列車衝突事故」記事。は、1929年(昭和4)1月11日発行の読売新聞にみる高田馬場駅の土砂崩落事故。
◆写真中下は、山手線の西武線ガードClick!をくぐる西武新宿線。は、1919年(大正8)4月19日発行の東京朝日新聞で報じられた陸軍技術本部と同科学研究所の新設記事。は、戸山ヶ原の西端にあたる陸軍科学研究所跡。
◆写真下は、近衛文麿の消息記事。は、1929年(昭和4)に下落合436番へ竣工した近衛文麿邸。は、最近ときどきうかがう下落合の某喫茶店。

翔んだカップル・変なカップル。

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 高校生のころ、「どうしてあのふたり、付き合ってるの!?」と思うような、妙なカップルがいた。たとえば、たくましく大きな体育会系の女子に対して、ヒョロヒョロッとしたガリ勉の男子がカップルだったりすると、「なんで?」というようなウワサが流れてきた。誰もが認める美貌で評判の女子が、気弱そうで地味な男子と「すげえ仲がいい」と聞くと、「はぁ?」となったのを憶えている。人は、自分にはないものを求めるというが、DNAレベルでそういう本能をどこかに宿しているのかもしれない。
 街を散歩していると、たまにそんなふたり連れに遭遇することがある。このふたりは夫婦でないし、恋人同士にも見えないし、上司と部下や役員と秘書、パトロンと愛人、タレントとマネージャーのようにも思えないし、姿かたちや仕草もしっくりこなくて、装いの趣味だって全然ちがう……というようなカップルだ。つまり、お互い仲がよさそうに歩き親しそうに話していながら、それぞれの周囲にはちがう空気が流れている、あるいは、それぞれ異なる“気”を発散している……そんな雰囲気のふたり連れだ。
 わたし自身も、そんな“空気”がちがう異性を連れて親しげに歩いたことがある。お互いにまったく共通点がなく、育った環境もちがえば共通の話題も少ないし、性格だって似ているとは思えない。ましてや、つき合っているわけでもないのに、なぜかウマが合うというのか、反りが合うClick!というのか、お互い惹かれ合って仲よくなるという妙な関係だ。まあ、親しい友だち関係といえばその通りで、別にめずらしくない間がらなのだけれど、異性同士でこういう関係というのはそう多くなく、新鮮な感触にはちがいない。
 そのひとりは、大学を出てすぐのころに仕事で知り合った、米国ボストンのH大学の某研究所につとめる女性だった。仕事で教授とともに来日したのだが、わたしが地元だということで東京の街を案内する世話役をおおせつかった。……というと聞こえがいいのだけれど、大学を出たてのわたしには、いまだ任せられるまとまった仕事がほとんどなく、教授が日本のあちこちで仕事をしている間、かなり手持ちぶさたとなる秘書の“お守り”兼ボディガード役をしなければならなくなったというわけだ。英会話が得意でないわたしは、半分途方に暮れて気が重かった。
 ところが、この女性は少なからず日本語ができたのだ。さすがに、むずかしい語彙や複雑ないいまわし、当時の流行り言葉などはわからなかったけれど、ふつうの日常会話にはほぼ困らなかった。どうしても通じないときは、わたしが辞書で調べてなんとか“通訳”した。しかも、彼女とはウマが合うというのか、妙に気が合ったのだ。わたしは彼女を連れて、東京のあちこちを歩いた。知らない人が見たら、いまだ学生のように見えるラフな姿の男と、わたしと同じぐらいの背丈がある、米国イーストコーストの典型的なWASP然とした20代のブロンド女性のカップルは、妙ちくりんな組み合わせだったろう。
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 お互い性格もかなり異なり、彼女は米国人らしく大らかで大雑把(はっきりいえばガサツ)な質(たち)なのだけれど、歯の手入れにはなぜか執着し熱中していて、当時はなかなか東京でも手に入らなかったデンタルフロスを求め、ふたりで薬局を訪ね歩いたのを憶えている。また、日本の音楽に興味を持っていて、あらかじめどこかで仕入れたらしい曲のフレーズを口ずさんでわたしに聴かせ、「この曲の入ったアルバムがほしいの」といった。そんなこといわれても、わたしは米国のJAZZ事情なら彼女よりもよほど詳しかったけれど、日本の歌謡曲には不案内なので途方に暮れた。これはレコード屋でメロディを歌わなきゃダメか……と思っていたところ、たまたまTVから流れてきた曲に気づき、彼女と店で岩崎宏美のアルバムを無事に買うことができた。
 かなりの時間をいっしょにすごすうち、彼女とはなんとなく以心伝心でやり取りができる関係になっていった。縫製に優れた、日本製のやわらかいパンプスがほしいというので、わたしは銀座にある第二文化村Click!東條さんClick!の店(ワシントン靴店)へ連れていった。製品をいろいろ見せてもらい、彼女がmaterialを気にしたので店員に訊ねると、彼女に向かって流暢な英語で「素材は柔らかなカーフです」と答えた。「カーフ?」と首をかしげ、何度か男性店員に訊き返していた彼女は、困った顔をしてわたしをふり返ったので、「仔牛の皮だって」と日本語で通訳すると「ああ、了解」と日本語で納得したのに笑ってしまったが、店員は途方に暮れたような眼差しをわたしたちに向けた。きっと、このふたり、いったいどういう連中なのだろうと怪しんだにちがいない。
 当時、TVで流行っていた『チャーリーズ・エンジェル』のシェリル・ラッド(どこか少し面影が似いていた)が履くような、ブロンドの髪に似合う明るいベージュ色に細いストライプの入った、わたしが「やっぱり、これかな?」と奨めたパンプスに決まり、以降、それを履いていると露わな脚をわたしの前に突き出して、「カーフ!」と日本語でいっては笑っていた。こういうところ、米国の女性は無防備というかあけっぴろげで、こちらがドギマギするのもおかまいなしだ。
 もうひとり、わたしとはまったく住む世界がちがう異性と親しくなったことがあった。学生時代のアルバイト先で知り合った先輩の、そのまた知り合いだった女性だ。彼女とも、妙にウマが合うというか気がよく合って、食事をしたりコーヒーを飲んだりしながら、とりとめなく他愛ない会話したのを憶えている。わたしとは、やはり出身地も育った環境も経歴もまったく異なり、共通の話題がほとんど皆無だったにもかかわらず、平気で楽しくおしゃべりしつづけてしまうという、妙に気のおけない関係だった。彼女の職業は芸者、いや正確にいうなら芸者の“卵”だった。
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 高校を卒業してから花柳界に入り、いろいろな稽古ごとに励んでいるまっ最中だった。この世界では、中卒から修業をはじめるのがあたりまえなので、彼女のスタートは3年遅れでたいへんだ……というようなことをいっていた。だが、1980年(昭和55)前後ともなると、昼間の時間がぜんぶつぶれるような、ぎっしりと詰まった稽古事カリキュラムを強制したりすれば、さっさと辞めて転職してしまう子も多いので、午後の早い時間にはけっこう自由時間が与えられていたらしい。まさにバブル経済がはじまろうとしていた時期で、仕事探しにはそれほど困らなかった時代だ。
 彼女は、いつも小ぎれいな普段着(和服)姿に、江戸東京らしい紅い琉球珊瑚玉をひっつめにした長い髪に、1本かっしと挿して現れたので、学生っぽい薄汚れたジーンズ姿のわたしとはまったく非対称で釣り合わず、やはり怪しいカップルに見えただろう。彼女は日本舞踊や、ならではの作法を習っているせいか、当然、芸者(の卵)らしいシナをつくるのが自然で、喫茶店や牛鍋屋でそんな艶っぽい(玄人っぽい)姿を見せられたりすると、彼女が薄化粧にもかかわらず周囲からは好奇の目で見られた。幼馴染みの『たけくらべ』関係と見られるのならまだしも、芸者と悪いヒモとか、犠牲になって苦労している姉と大学へ通う弟……それにしちゃ似てねえなぁとか、ロクな目で見られていなかったような気がする。もちろん、彼女の方がわたしより3つ4つ年下のはずだった。
 なにをそんなに話すことがあったのか、よく待ち合わせてはお茶や食事をしていたけれど、その会話の中身をほとんど憶えていない。わたしは、(城)下町Click!のことをずいぶん話したような気がするが、彼女は高校時代やいまの生活のこと、故郷(確か茨城だった)のことなどを話題にしていたような気がする。いずれにしても、ほとんど忘れるぐらいだからたいした話題ではなかったのだろう。東京には友だちが少なく、気さくな世間話に飢えていたのかもしれないし、わたしはといえばめずらしい職業の気の合う異性相手に、ふだんとはちがう時間をリラックスしながら楽しんでいたのかもしれない。
 もし、これが戦前だったりすれば、たとえ“卵”といえども芸者を呼ぶには、それなりの格のある待合や料理屋に上がらなければならず、少なからず玉代(祝儀)を用意する必要があったろう。ましてや、昼間の「お約束」(芸者を昼間、散歩や食事に連れ歩くこと)ともなれば、その時間によってはとんでもない花代を覚悟しなければならない。お茶か食事を付き合って話をするだけの、今日の「レンタル彼/彼女」ビジネスの時間給に比べたら、その4~5倍はあたりまえの花代になりそうだ。とても貧乏学生が経験できる世界ではないのだが、そこは戦後の労働環境と民主主義の世の中だから、自由意思による行動がある程度許されていたのだろう。いずれにしても、貴重な体験をさせてもらったものだと思う。
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 出身地や生活、性格、考え方、職業、趣味嗜好などがまったくちがう人、ときに国籍や人種までが異なる人と、妙にウマが合って相手の心が読めるほど親しくなることがある。本来なら接点がまったくないはずの、質(たち)が正反対で釣り合いそうもない異性と、少なからず面白い時間をすごすことができる。そこが、人間同士の「ないものねだり」の性(さが)であり、人間関係の妙味なのだろう。ちなみに、芸者の“卵”の彼女は、座敷に出るようになってからほどなく結婚して芸者を辞めたと、風の便りに聞いている。戦前なら、そんな自由で“わがまま”な行為は、決して許されなかっただろう。

◆写真上:そよ風が吹くとキラキラ美しい、街を歩くブロンド髪の女性。
◆写真中上は、クリスマスの時期に撮影した銀座ワシントン靴店本店。は、わたしとの会話中に撮影した写真で赤いLARKが似合う彼女のしぐさが懐かしい。
◆写真中下は、幕末に来日したベアトが撮影した江戸芸者で、おそらく日本橋か柳橋芸者だと思われる。は、いまでも芸者さんを呼べる山王に残った古い料亭の軒下。
◆写真下は、江戸東京各地のお座敷で唄われた江戸小唄で一世を風靡した立花家美之助Click!は、そろそろ芸者さんたちの出勤時刻となる神楽坂の夕暮れ。

落合地域の荒玉水道は1928年より通水。

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 落合地域に荒玉水道Click!が引かれたのは、同水道の野方配水塔Click!が1929年(昭和4)に完成し、つづいて翌1931年(昭和6)に大谷口配水塔Click!ができて、砧村の浄水場から板橋町まで全線が竣工・通水したあとだと考えていた。だが、落合地域への給水は野方配水塔ができる2年前、1928年(昭和3)11月1日からスタートしていることが判明した。
 だが、落合地域は富士山の火山灰土壌(関東ローム)で濾過された、清廉で美味しい水Click!が湧く目白崖線沿いの立地だったため、本格的に水道が普及するのは戦後のことであり、水道管はなかなか一般家庭にまでは普及していない。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』によれば、給水栓装置(いわゆる水道蛇口)の設置個数は、わずか1,880個(1932年7月現在)にすぎない。しかも、この普及数には消火栓や消防署など公共施設、工場、企業などへの給水件数も含まれており、家庭への設置件数はさらに少なかったろう。落合地域における同年現在の戸数は、7,000戸(1931年現在で6,967戸)をゆうに超えていたはずで、一般家庭への水道の普及は1割にも満たなかった可能性が高い。
 落合地域の水道事業について、『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 就中文化生活の普及上、上水道の敷設は、衛生上は勿論防疫防火の上よりも急務とし、大正十三年豊多摩、豊島両郡関係町村上水道敷設調査会に加盟し、爾来着次事業を進め、昭和三年十一月一日を以て本町一般給水を開始するに至つた。現在町内給水栓装置個数は千八百八十個である。(昭和七年五月調)
  
 東京の西部郊外に位置する、豊多摩郡と豊島郡に上水道が必要になったのは、もちろん関東大震災Click!直後からはじまった、市街地から郊外への人口流入だった。震災が起きた1923年(大正12)現在、すでに両郡の人口は49万2千人をゆうに超えており、震災後は爆発的に人口が増えつづけることになった。おそらく、上水設備を造っても造っても足りなかった、1960年代の神奈川県Click!のような状況だったのだろう。
 もうひとつの課題として、人口が増えるほど地下水を汲みあげる量も増え、地下水脈が深く下がってしまい、既存の井戸が枯渇しはじめたことも挙げられる。特に、町村へ誘致した工場の近くでは深刻な問題で、工場や企業へ上水道を引くことにより地下水の深層化を防止するという意味合いも含まれていただろう。当時は「井戸」といっても、モーターで地下水を汲みあげて一度給水タンクClick!にため、家庭の各部屋に設置された蛇口へと給水する、水道と同じような使われ方をしている。
 荒玉水道が敷設される予定の町々は、豊多摩郡と豊島郡(計画当初の郡名は北豊島郡)の合わせて13自治体におよんだ。豊多摩郡は中野町をはじめ、野方町、和田堀町、杉並町、落合町の5町。(北)豊島郡は板橋町をはじめ、巣鴨町、瀧野川町、王子町、岩淵町、長崎町、高田町、西巣鴨町にまたがる8町の計画だった。このうち、落合町とその周辺域へ給水する、本線から枝分かれした幹線は、第5幹線から第8幹線までで、落合町に給水していたのは、中でも第5幹線と第7幹線と呼ばれていた支管だった。
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 第7幹線は、長崎町字五郎窪Click!の武蔵野鉄道・東長崎駅付近で本線から分岐し、高田町字四谷(四ッ家Click!)、つまり現在の目白台あたりに設置された幹線終点までつづいていた。また、第5幹線は中野町青原寺付近で本線から分岐し、上落合八幡神社付近(現・八幡公園付近Click!)まで通水している。つまり、第7幹線は下落合と西落合のエリアを、第5幹線は上落合エリアをカバーしていたことになる。また、第6幹線は落合地域の西に隣接した野方・上高田一帯をカバーし、第8幹線は長崎町の北部から池袋を含む西巣鴨町一帯に給水していた。
 ちなみに、第5幹線には口径400mmの水道管が使われ、第7幹線には口径500mmの水道管が採用されている。幹線ごとの給水状況を、1931年(昭和6)に東京府荒玉水道町村組合が出版した、『荒玉水道抄誌』から引用してみよう。
  
 第五幹線
 分岐地点:中野電信聯隊西北隅裏通 経過地:吉祥寺街道ヲ東方ニ進ミ戸塚町境界ニ至ル 給水区域:野方町、落合町及中野町ノ一部
 第七幹線
 分岐地点:長崎町籾山牧場前(ママ) 経過地:府道第二一号線ヲ東南ニ進ミ落合町下落合ニ出テ省線ヲ横断シ学習院前ヨリ小石川区境界ニ至ル 給水区域:長崎町、落合町、西巣鴨町ノ一部及高田町ノ一部
  
 配水の本管から支管の一覧では、第7幹線の分岐点が長崎町の籾山牧場Click!となっているが、本文では「東長崎駅付近」が分岐点となっており、両者には200m以上の距離がある。ひょっとすると、本文に書かれているのが実際に工事を終えた分岐点で、支管一覧の表記は計画段階のリストを、そのまま掲載してしまったものだろうか。
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 本線・幹線含めた水道管の敷設の様子を、『荒玉水道抄誌』から再び引用してみよう。
  
 配水鉄管は全給水区域を十一区に介(ママ:分)ち各区の中央部に一條宛の幹線を敷設し、之より各種の支管を分岐しつゝ末流部に至るに随ひ漸次管径を縮小し、末端及各支管は隣接幹線と相互に連絡せしめ鉄管網を作り配水機能を完全ならしむ、尚五百粍(mm)以上の幹線に対しては給水副管を設く、給水区域は制水弇(えん)に依り更に九十一の断水区域に区分し非常の際に備ふるものとす、(カッコ内引用者註)
  
 荒玉水道で敷かれた水道管には、主管用に口径700~900mmのもの、幹線用に口径300~600mmのもの、支管用に口径75~250mmのものなど、11種類の水道管(鉄製)が使用されている。その長さは、実に43万7,286間(約80km)にもおよんだ。
 余談だが、落合地域の南と南西に隣接した戸塚町(現・高田馬場地域)は、荒玉水道を利用していない。1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)によれば、当初は荒玉水道事業に加盟しようと、町議会Click!へ加盟案が提出されたが否決され、結局、郡部の水道事業ではなく東京市の水道網を延長して戸塚町内まで引き入れ、東京市へ上水分譲契約料を支払って、戸塚町独自の町営水道としてスタートさせている。水道の延長支管は、おそらく東側に隣接する牛込区から引っぱってきているのだろう。
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 荒玉水道は、1925年(大正14)4月の水源工事(砧村浄水場の建設)にはじまり、翌1926年(大正15)4月からの送水鉄管と配水鉄管の敷設工事、1927年(昭和2)1月からの配水塔設置を含む給水場と鉄管試験所の工事スタート、そして、1931年(昭和6)の大谷口配水塔の竣工まで、建設リードタイムに6年間を要した一大プロジェクトだった。ただし、工事を終えた区域から通水をはじめたため、1928年(昭和3)8月には試験通水と鉄管内掃除を終え、落合地域では同年11月1日から上水道の利用が可能になっている。

◆写真上:現在は災害時の貯水タンクとして使われている、荒玉水道の野方配水塔。
◆写真中上は、1931年(昭和6)撮影の砧村にあった荒玉水道浄水場の空中写真と全景。は、浄水場の地下内部。は、杉並町の荒玉水道鉄管試験所。
◆写真中下は、竣工間もない野方配水塔。は、建設中の大谷口配水塔。
◆写真下は、荒玉水道の送水管埋設工事で、鉄管の口径からみて主管の埋設工事現場と思われる。は、巣鴨町(現・豊島区巣鴨1丁目)で山手線を横断する江戸橋鉄管橋。は、西巣鴨町の池袋病院近くで行われた消火栓の水圧テスト。

浅草寺境内の石棺と古墳群。

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 この春、久しぶりに浅草寺の伝法院の庭を訪れてみた。同院は、拝観期間が決まっているので、うっかりしていると見逃してしまう。小学生のころ、緒形拳Click!が主演する島田一男の『開化探偵帳』(NHK)というドラマをやっていて、親にせがみ連れていってもらったけれど、以来ほんとうに久しぶりだ。明治の初期、伝法院には屯所(警察署)が置かれており、同ドラマはそこに詰める探索方(刑事)の活躍を描いたものだ。
 でも、久しぶりに伝法院を拝観したのは、別に伝法院屯所跡を見たくなったからではない。庭園内に、浅草寺本堂裏にあった熊谷稲荷社古墳から出土している、おそらく房州石で造られたとみられる石棺(手水鉢に加工・流用されていた)があったのを思い出したからだ。本堂裏の熊谷稲荷社は、明治期の神仏分離政策で廃社となり、同社が奉られていた墳丘は丸ごと崩されて平地となった。
 ちなみに、浅草寺の本堂裏一帯が「奥山」と呼ばれていたのは、明治末から大正時代ぐらいまでだろうか。現在は平坦になってしまっている本堂の裏域だが、ここで「山」の名称が登場していることに留意したい。なにか塚状のこんもりとした起伏の地形、あるいは江戸期にはかなり鬱蒼とした森が拡がっていたので、「奥山」と呼ばれていた可能性が高そうだ。
 もともと、浅草寺の境内が古墳だらけだったのは古くから知られていたようで、関東大震災Click!が起きて東京が焼け野原になったあと、東京帝大の考古学者で人類学者の鳥居龍蔵Click!は神田や上野に次いで、浅草地域へ調査に駆けつけている。彼が伝法院に立ち寄り、石棺を調査している報告書が残っていた。1927年(昭和2)に東京磯部甲陽堂から出版された、鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』から引用してみよう。
  
 此の伝法院の椽先に、石灰岩で作つた手水鉢が据えられて居る、それが石棺ではないかといふ疑ひがあつて、吉田君から其の調査に就いて話があつたので、伝法院に行くと、早速其の手水鉢のある所へ行つて見た。而して注意して見ると、どうも石棺らしい。長方形のもので、中は近頃不完全に掘つて水を入れてある。どう見ても石棺らしい。浅草寺境内は古墳群のある所で、此処に石棺らしいものゝ存在して居るのは極めて興味がある。『江戸夢跡集』によると同寺には尚、別に石棺があつた。此の事は『武蔵野及其の周囲』「石の枕」の所に記して置いた。
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 鳥居龍蔵は「石灰岩」と書いているが、どう見ても色彩や質感からして凝灰質砂岩(房州石Click!)のように見える。当時は、火山灰により生成された岩石を、総じて「石灰岩」と呼称していたものだろうか? 伝法院の石棺ばかりでなく、浅草寺の境内にはもうひとつ別の石棺が存在していたことが指摘されている。
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 「浅草寺境内は古墳群のある所」と書かれているが、これは江戸湾に面した大きな入り江の突き当りに浅草湊が拓かれ、古墳時代から物資を集積する物流の一大拠点として繁栄していたからだ。房総半島で切りだされた房州石が、江戸湾を縦断して浅草湊や、横断して三浦半島の六浦湊へと陸揚げされ、そこから関東各地へと運ばれていった。その運搬もまた、各河川をさかのぼる水運が最大限に活用されたのだろう。関東各地に散在する古墳の玄室や羨道に、房州石が多く用いられているのは、当時の南武蔵勢力圏にあったクニ同士の交易や物流ルートを解明する重要な手がかりを与えてくれている。
 さて、そんな繁栄をつづけた浅草湊には、地域の有力な勢力がいたのはまちがいなく、また物流の一大拠点ともなれば多くの人々が暮らし、いわば“町”を形成していただろう。それを物語るように、浅草寺の境内には、伝法院に石棺が残る本堂裏の熊谷稲荷古墳だけでなく、本堂の南東側には弁天山古墳、関東大震災の火災によって出現した、いまだ無名の古墳群などが連続して築造されていた。これらの古墳は、寺社の伽藍や殿を建設するために墳丘が崩され、また前方後円墳の前方部は参道や階段(きざはし)に流用され、かろうじて江戸期まで原型Click!を保っていたケースが多い。
 そもそも、浅草寺の宝蔵門から参道、そして本堂さえ大型古墳の塚を均して建立されたものなのかもしれない。それは、同寺の北東550mほどのところにある待乳山古墳Click!のケーススタディに、典型的な姿を見ることができる。浅草寺の創建は645年だが、そのころからすでに境内全体がなんらかの聖域化していた可能性もありそうだ。また、幕末から明治期にかけ、本堂の南東側に弁天社が奉られた弁天山古墳には、周濠の残っていたことが地図などで確認できる。鳥居龍蔵の同書より、つづけて引用してみよう。
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 少なくとも江戸の高台にて古墳を築造した此の原史時代に於ては、今の下町の或部分は沖積して居つたものと考へられる。其の頃の古墳が今も下町の彼方此方に遺つて居つて、今回の震災にて周囲の建物が焼払はれた為めに、古墳の形が明白に現はれて来たのである。/今此のことに就いて大體を云ふと、第一は浅草の地であつて、此処は古くから沖積して居つたもので、観音よりも以前の遺跡が残つて居る。彼の弁天山の弁天塚は、其の名の如くに古墳であり、此の他にも、浅草寺の境内には嘗つてそれがあつた。されば此の境内が古墳群の跡であることは言ふまでもない。
  
 かつて、浅草寺には伝法院の石棺のほかに、境内にはもうひとつ石棺が置かれていたという江戸期の記録から、伽藍や社を建立するため墳丘を崩した際に、玄室から出土したもののひとつではないかと推測できる。だが残されているもの、あるいは記録にあるものは石棺のみで、副葬品についての伝承は存在していないようだ。かなり早くから寺社の境内にされたため、散逸してしまったものだろうか。
 小学生のとき以来訪れた伝法院の庭園は、さほど大きくは変わっていないのだろうが、周囲に高い建物が増えたせいか、大きめな箱庭のようにも見える。ただし、浅草寺参道のラッシュアワーのような喧騒を離れ、戦災をまぬがれた建築とともにひっそりとしたたたずまいを見せているのは、昔もいまも変わらない風情だ。わたしが子どものころ、庭から見えていたのは本堂の大屋根のみで、五重塔は空襲で焼けたまま存在しなかった。また、スカイツリーが妙な借景を見せているのが、アンバランスな風景で落ち着かない。
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 それほど詳細に見てまわったわけではないが、伝法院の庭園には玄室や羨道の石材に用いられていたのかもしれない、房州石らしい大きな庭石がところどころに配置されている。伝法院に限らず、浅草寺の境内各所に置かれている石材には、多くの古墳から出土した房州石が、いったいどれほど残されているのか、ちょっと面白いテーマだ。

◆写真上:伝法院の庭園で手水鉢に加工された、房州石をくり抜いたとみられる石棺。
◆写真中上は、1923年(大正12)に鳥居龍蔵が撮影した同石棺。は、伝法院の庭に集合した東京帝大の鳥居龍蔵古墳調査団。は、伝法院庭園の現状。
◆写真中下は、幕末の絵図に描かれた弁天山古墳で周濠の残っていたのがわかる。は、関東大震災の直後に撮影された弁天社と参道の階段。前方後円墳と思われ。周濠が消えて江戸期からさらに小規模になった様子がうかがえる。は、伝法院の北側の池。
◆写真下のモノクロ写真は、関東大震災の焦土から次々に姿を現した浅草寺の無名古墳群で、大きな主墳に付随していた倍墳群かもしれない。は、浅草寺の五重塔を伝法院の庭下から眺めたもので、無粋なスカイツリーがどうしても隠れなかった。は、東日本大震災で墜落した五重塔の宝珠と破壊された水煙。

聖母病院が敵国人抑留所になるまで。

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 6年ほど前、敵国外国人(敵性外国人)の抑留所として使われた、国際聖母病院Click!について書いたことがある。米軍は、聖母病院を敵国民間人の抑留所として認知しておらず、敗戦直前に同病院へ向けP51とみられる戦爆機が250キロ爆弾を投下Click!している経緯や、日本の敗戦とともに同病院の屋上には「PW(Prisoners of War)」と書かれたシートが敷かれ、米軍機から救援物資の投下Click!が行われた経緯もご紹介した。
 聖母病院に収容されていたのは、警視庁が管轄する日本に住んでいた敵国(敵性)の民間人であり、前線の戦闘で捕虜になった敵軍の将兵ではない。捕虜は敵国民間人とは別に、陸軍の管轄である専用の捕虜収容所に入れられていた。東京では、大森海岸沿いの埋め立て地に大森捕虜収容所が建造されている。
 以前の記事では、1945年(昭和20)の敗戦が近づくとともに食糧事情が急速に悪化し、ついには1日に蕎麦1斤(600g)しか支給されなくなってしまった経緯を、国立公文書館に保存されている当時のスイス公使館の改善要望書を引用して書いた。おそらく抑留者は飢餓状態で、栄養失調にかかっていたと思うのだが、幸運にも聖母病院ではなんとか死者が出ていない。公文書では、聖母病院の抑留者は36名とされているが、日米開戦の初期から地下へ潜行して同病院に隠れ住んでいた、目白福音教会Click!のクレイマー牧師を入れれば、実質37名が抑留されていたことになる。
 聖母病院の抑留者から、食糧難による死者が出なかったのは、本来が病院施設とはいえ非常に幸運なケースだ。全国に設置された抑留所では、多いところで抑留者の10~18%が死亡している。たとえば、明治期から横浜に在住していた欧米民間人を収容した、秋田県の舘合抑留所では18%、神奈川第一抑留所では11%の抑留者が、戦争の終結を見ずに死亡している。最悪だったのはアッツ島にいた米国民間人の抑留所で、実に44%と収容者の半数近くが死亡した。これはジュネーブ条約に加盟していなかった、ソ連によるシベリア抑留者(基本的に日本軍捕虜)の平均10%前後の死亡率よりも高い。
 外務省では、ジュネーブ条約違反に問われるのを怖れたのか、早くから『外事月報』(1942年11月)で抑留者の間に「最近健康異常者の兆しあり」と警鐘を鳴らしていたが、戦争も末期になると、満足に支給する食糧がないため(ジュネーブ条約では抑留した敵国民間人には、1日パン600gの支給が義務づけられていた)、外国人の食べなれない日本の“代用食”が増え、しかも支給量も減りつづけて、慢性的なカロリー不足による栄養失調者が激増していくことになった。これは、日本の米軍人捕虜収容所ではさらに過酷な状況となり、全収容者の37%を超える死者が生じるまでに悪化している。
 だが、戦線が拡大するにつれ、抑留者は増えつづけていくことになる。戦地に住んでいた民間人の多くも日本へ強制連行されて抑留され、また外国の病院船を拿捕したために抑留しなければならない敵国人が急増し、さらにイタリアが降伏して臨時政府が日本に宣戦布告すると、日本国内にいたすべてのイタリア人たちも敵国人となって抑留され、しまいにはドイツ人全員も強制的に抑留しなければならなくなるという、混乱をきわめた状況だった。
 抑留所での敵国人の死因を見ると、慢性的な栄養失調で腹がせり出し、下痢がつづいて死亡する文字どおりの餓死をはじめ、栄養不足で免疫力が低下したため各種病気の罹患による病死、同様に栄養疾患がつづき持病の悪化による病死などがもっとも多い。詳細は、2009年(平成21)に吉川弘文館から出版された、小宮まゆみ『敵国人抑留―戦時下の外国民間人―』に詳しい。
 また、もうひとつの重大な問題として、戦争末期になるにしたがい国際赤十字社からとどけられる援助物資(食料品など)が、抑留者へほとんど渡らなくなるという事態を招いている。もちろん、敵国人抑留所を管理・監視していた警察が、援助物資の多くを横領・着服・隠匿してしまうからで、福島抑留所と神奈川第一抑留所では戦後に告発された特高刑事や警察官たちが、抑留者の餓死を招いた虐待の罪で裁判にかけられている。
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 さて、抑留者たちが聖母病院(1943年より「国際」を外された)へ収容される詳細な経緯が判明したので、改めてこちらでご紹介したい。聖母病院は、当初から敵国人の抑留所として予定されていたわけではない。1945年(昭和20)5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!で、それまでの収容先だった小石川区関口町の天主公教会(現・カトリック東京カテドラル関口教会)の敷地内にあった小神学校が焼失し、抑留者56名の収容先がなくなってしまったのだ。56名の内訳は、日本に滞在していた女性宣教師や修道女に加え、新たに抑留されたドイツ人18名を含む、すべてが女性の欧米人たちだった。
 抑留所の焼失にともない、おそらく問い合わせがあったのだろう、外務省は在京の瑞西国(スイス)公使館と瑞典(スウェーデン)公使館あてに、関口小神学校の被爆と抑留者の被害についての報告書を送付している。以下、公文書館に残る1945年(昭和20)6月4日に起草された、「警視庁抑留所罹災ニ関スル件」から引用してみよう。
  
 警視庁抑留所罹災ニ関スル件
 帝国外務省ハ在京瑞西国(瑞典国)公使館ニ対シ去五月二十五日夜半ヨリ二十六日ニ亘ル夜間ノ敵機東京無差別爆撃ノ為、警視庁抑留所(関口)ハ二十六日午前二時頃全焼セル為、右罹災ニ当リテハ内務省及警視庁係官ハ直ニ現場ニ趣キ機宜ノ措置ヲ講シタル結果、同所抑留者全員無事ニシテ不取敢之ヲ聖母病院ニ収容セル旨、並ニ同抑留所移転ノ目的ヲ以テ適当場所ノ早急物色方手配中ナル旨、通報スルノ光栄ヲ有ス。(中略)
 一、関口抑留所ハ五月二十五日ヨリ二十六日ニ亘ル夜間敵襲ニ依リ二十六日払暁焼失セル処、幸ニシテ抑留者ニハ何等事故ナク全員無事ナリ。同所尼僧等三十六名ハ不取敢聖母病院ニ、又独逸人抑留者十八名ハ日本女子大雨天体操場ニ仮収容中ナリ。(後略)
  
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 とりあえず、キリスト教関係の欧米女性たち36人は下落合の聖母病院へ、また新たに収容されたドイツ人女性たち18人は、近くの日本女子大学体育館に仮収容されているのがわかる。外務省では、本格的な収容所を警視庁とともに探すとしているが、すでに東京の市街地はほとんど焦土と化しており、彼女たちには聖母病院と日本女子大が最終的な抑留所となった。
 また、スイスとスウェーデンの公使館あて報告書には、急に敵国人となってしまった在日イタリア人の抑留者移転について、事前に両国から問い合わせがあったのだろう、移転計画の「実現ノ可能性ナシト察セラル」と回答している。外務省にしてみれば、日々東京のどこかが爆撃される状況で、同盟国だったはずのイタリア人やドイツ人の抑留者たちの面倒まで、とてもみちゃいられない……というのが本音だったろう。
 この報告書につづき、スイスの公使館員が聖母病院を視察し、同年6月25日に「聖母病院抑留者ニ対スル食料品供給善処方ニ関スル件」の要望書が、スイス公使館から正式に外務省へ提出されることになる。これに対して、外務省から内務省警保局長あてに、「至急改善」の要望書が発送されたのは以前の記事でも書いたとおりだ。だが、書類にスタンプがわりの「急」が挿入されているにもかかわらず、スイス公使館の要望書から23日後の7月18日になって、ようやく文書が起草されているのを見ても、当時の行政機関の混乱ぶりや戦災による処理遅延が透けて見える。
  
 聖母病院ニ収容中ノ抑留者ノ給食改善方ニ関スル件(急)
 聖母病院ニ収容セラレ居ル警視庁抑留所抑留者ハ蕎麦一斤(引用註:600g)ノミニシテ、全然他ノ食物ヲ給与セラレザル趣ヲ以テ右至急改善方、今般在京邦瑞西国公使館ヨリ別紙仮訳ノ通申出タリ、就テハ同病院実情御取調ノ上、右果シテ事実ナリトセバ敵側ニ悪宣伝ノ材料ヲ与フル虞(おそれ)モ有之、至急少クトモ最低限度ノ給食ヲ与フル様御配慮相成、結果何等ノ儀御回示相煩度。(カッコ内引用者註)
  
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 1日に蕎麦600gでは、誰でも栄養失調になるだろう。前掲の小宮まゆみ『敵国人抑留―戦時下の外国民間人―』によれば、前年1944年(昭和19)1月~3月期の赤十字国際委員会抑留所視察報告書でさえ、すでに食糧の配給不足が全国の抑留所で発生している。戦後にまとめられた、外務省の「抑留者関係」報告書の目次には、各地の抑留所で死亡した米国人やイギリス人、カナダ人、オーストラリア人などの後始末に関する報告が目につく。

◆写真上:米軍が採用しているZulu time=GMTで1945年(昭和20)8月28日に救援機から撮影された、屋上に「PW」の文字が入るシートを拡げた下落合の聖母病院。
◆写真中上は、公文書館保存の外務省「警視庁抑留所罹災ニ関スル件」全文。は、1945年5月25日夜半の第2次山手空襲で全焼した天主公教会の小神学校。
◆写真中下は、空襲で焼失直前の1945年(昭和20)5月17日に撮影された天主公教会(関口教会)。は、外務省の同年6月19日付け「聖母病院抑留者ニ対スル食料品供給善処方ニ関スル件」。は、国際聖母病院のリニューアルで解体された戦後のチャペル。
◆写真下は、外務省がまとめた「抑留者関係」書類の目次。は、敗戦間もない時期に米軍の救援機から撮影された福島抑留所。下左は、公文書館に保管されている外務省「聖母病院抑留者ニ対スル食料品供給善処方ニ関スル件」の表紙。下右は、2009年(平成21)に出版された小宮まゆみ『敵国人抑留―戦時下の外国民間人―』(吉川弘文館)。

本日のSo-netブログSSL化で、すでにfacebookとのパスが切れて、蓄積されたアクセスログがすべて「0」になってしまった。あと、どれほど影響が出るのだろうか?

警視庁が牛乳販促ポスターで大顰蹙。

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 大正期から昭和初期にかけ、警視庁の衛生部では牛乳の衛生管理にことのほか厳しかったらしい。いや、警視庁に限らず全国の警察署では、牧場や牛舎の建設・運営にはじまり、乳牛の飼育環境から搾乳、牛乳の保管・運搬にいたるまで、大きな権限をもっていて執拗な「指導」を行なっていたようだ。
 乳牛を飼育する専門家の側にしてみれば、畜産や乳牛についてほとんど知識のない警察が、各種認可・許可の制度を盾に、半分シロウト考えでいろいろ注文をつけてくるのだから、たまったものではなかったろう。落合地域にも多かったとみられるが、農家で数頭の乳牛Click!を飼育し、毎朝搾った牛乳を契約した東京牧場Click!からまわってくる大八車やトラックに載せて、現金収入を得る兼業農家が各地で見られた時代だ。ところが、ほどなく農家での搾乳が警察により禁止されると、どこかの牧場か認可を受けている専門の搾乳業者へ乳牛を預けざるをえなくなった。
 また、牛乳を搾る人間にもなにかと注文をつけ、しまいには本人の健康診断書まで提出しなければ認可しないという、嫌がらせとしか思えないような指示までだされていた。搾った牛乳は、売るときばかりでなく購入するときも自治体や警察の許可が必要だった。牧場や畜産農家、牛乳加工業者にしてみれば、警察がいかに牛乳を搾らせないよう、あるいは乳製品を造らせないよう“邪魔”をしているとしか思えなかったようだ。警察へ何度も足を運んでいるうち、事業としてコストに見合わないと、転業してしまった酪農家や業者も多かったらしい。
 牛乳の生産事業を、なぜこれほど煩雑化して居丈高に取り締まるのかが、後世になって振り返ってみても不可解な時代だったようだ。当時の様子を、平塚の守山乳業Click!が1979年(昭和54)に出版した『守山乳業株式会社60年史』(非売品)所収の「座談会」から引用してみよう。
  
 あの時分、農家で乳を搾ることは禁止されていて、牛乳を売ることができない。だから、小田原の牧場に預けたんです。搾ったって、売りようがないからね。その時、たまたま、二宮へ中村畜産株式会社が東京から来て、牛乳を買うということになった。ところが、乳を買う場合にも許可がいる。それで役場やほうぼうへ頼んだものだった。たまたま私の知り合いがちょうど県の畜産技師をしていて、その人が見にやって来た。そこで、下をコンクリートか何かにして、窓もつくって、こういう牛舎にしてと言うんだ。また搾る本人が健康診断を受けるようにとも言われた。そして、健康診断を受けて初めて許可になって、認可証をもらったんだよ。(中略) 衛生の方面は警察がやっていたね。許可証は赤の字で印刷されていて、今でも家にとってありますよ。(中略) 牛舎をつくるんだって、あの当時は、便所から六間とか八間離れていなきゃ許可がおりなかった。私だって、藤沢の警察までどれほど通ったかわからないよ。
  
 確かに、牛乳生産では衛生管理が不可欠だが、商品化の過程で殺菌法がいまだ未確立だった明治時代ならともかく、大正後期から昭和初期にかけては、すでに生産技術や衛生管理技術がかなり進んでいたはずだ。それでも警察が衛生管理にこだわったのは、特に夏季に多い牛乳の腐敗事例が多かったからだろう。
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 当時、駅のミルクスタンドや販売店に置かれていた牛乳・乳製品には、大手メーカーの壜やパッケージをそっくりまねたニセモノも、数多く混じって出まわっていた。その中には、少し前にご紹介した「牛乳ホウ酸混入事件」Click!のように、夏場の腐敗を遅らせるために有害な薬物を混ぜた、劣悪な製品も市場で売られている。たとえば駅売りの業者は、日本均質牛乳や守山商会から仕入れるコーヒー牛乳よりも、1~2割安く購入できる「クラブ印コーヒー牛乳」や「守山コーヒー牛乳」があれば、利幅が増えるのでそちらのルートから仕入れただろう。
 だが、両社の壜を使っているとはいえ、中身までがホンモノかどうかまではわからなかった。商談では、ホンモノの「クラブ印コーヒー牛乳」や「守山コーヒー牛乳」を試飲させておき、実際に各駅へ納入するのは模造品というような、詐欺やペテンまがいの商売もあったようだ。
 また、電気冷蔵庫Click!が高価で普及していない当時、乳製品企業は夏場の腐敗をいかに防ぐかの研究に全力を傾けていた。牛乳を常温で保管したら、数日で腐ってしまう。そこで、さまざまな腐敗防止の技術が追究されていた。同社史から、つづけて引用しよう。
  
 大正十二年の震災の時には珈琲牛乳をつくり始めていますね。それは、親父(守山謙)が珈琲というものを飲まされて、ミルクを半分ぐらい入れて飲むとうまいということを知ったのですね。そこで、最初にそれをつくってビンに入れたわけですが、殺菌方法を知らないものだからみんな腐ってしまった。(中略) なにしろ二日か三日で腐ってしまう。そこで、あの当時やっていたバックへ入れて殺菌する方法を一生懸命考え出して、やっと十五日か二十日、もしくは一ヶ月ぐらいもつような珈琲牛乳ができたのです。(中略) 珈琲牛乳が腐ってしまっていくらやってもうまくいかないので、静岡のどこかの工場に(守山)謙社長さんが先方に泊まり込んで、教わりに行ったこともあったそうです。(カッコ内引用者註)
  
 この静岡にあった工場が、日本で初めてコーヒー牛乳を開発・販売した、東京の中野に本社のある日本均質牛乳だった。守山商会は、ここで消毒した壜に牛乳を詰め王冠打栓の密閉をすることで、腐敗を大幅に遅らせる技術を習得したらしい。
 さて、以上のような時代背景のもと、警察からさんざん絞られ、時代遅れのような指示や煩雑な手続きを厳しく押しつけられていた酪農家や乳製品業者は、1929年(昭和4)の初夏、東京じゅうに貼りだされた警視庁のポスターを見て、全員が呆気にとられただろう。ポスターのキャッチフレーズは、「牛乳ハ健康ノ素……警視庁」。ほとんど嫌がらせのように、酪農家や乳製品業者を締めあげていた警視庁が、いきなり酪農家や乳製品業者の“広報・宣伝部”になってしまったのだ。
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 当然、消費者からは「税金を使ってなにやってんだよ!」と、警視庁に批判が殺到した。当時の様子を、1929年(昭和4)5月26日の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 奇怪、警視庁が牛乳屋の提燈持ち/ポスター撤回騒ぎ
 牛乳といへば眼の敵のやうにしてゐた警視庁が川村衛生部長時代の罪亡ぼしとでも考へたものか、それとも何うした風の吹き回しなのか、写真の如きまるで牛乳屋の広告としか思えぬ しかも立派なポスターを管下の警察署や交番や街路のつじつじに張りださせた、喜んだのは牛乳屋でこの前 面皮なきまでとつちめられた苦しい思ひ出はケロリと忘れて「時代時節でお上のお役人さんも我々の提燈を持つてくれるわい」と今では警視庁大明神様々あがめ拝んでゐる、なるほどポスターには牛乳取扱に対しての注意も記してあるが、それは「つけたり」の如く下の方に小さく記し大きな字で「牛乳は健康の素」と真ツ正面から牛乳屋の大提燈を持つてゐるので牛乳屋の喜ぶのも道理である、途方もないこの見当違ひの宣伝ポスターに果然と攻撃のつぶてはあつちこつちから戸塚衛生部長の手許に投書され、中にはわざわざこのポスターを引つぺがして部長に直接面接の上「府費をつかつてまで牛乳屋の提燈をもつ気か……」と談じこんでくる者まで飛びだしてくる始末にさすがの戸塚さんもスツカリ弱りきつて早々このポスターは撤回させるといふ醜態をさらけだすことになつた
  
 警視庁では、すでに当該ポスターを3,000部印刷して、東京府内へくまなく配り終えたあとだった。サブキャッチ扱いで目立たなくなっている、「牛乳は冷い所におきなさい」と「牛乳は配達後なるべく早くお飲みなさい」ではなく、なぜ「牛乳ハ健康ノ素」がメインキャッチになってしまったのか、戸塚衛生部長は「文字の表現が悪かつたので誤解を招く因となつた」としているが、この表現は「誤解を招く」レベルではないだろう。
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 もうひとつ、当時は牛乳や菓子にグリコーゲンを混ぜ、「健康増進」をうたい文句にする製品がブームを呼んでいた。守山商会でも早々に「守山グリコ牛乳」を販売しているが、「グリコ〇〇」と名づけられた製品には、まるでロシアアヴァンギャルドの「プロレタリア体育祭」ポスターにでも登場しそうな、元気なお兄さんがゴールするイラストが付きものだった。警視庁のポスターは、そのようなグリコーゲンブームも意識してデザインされているところが、よけいに「大提燈」のように見えてしまったゆえんだろう。

◆写真上:昭和時代に、守山商会が制作した製品ポースター各種。右側の「富士エバミルク」ポスターのスチールモデルは、下落合を舞台にした『お茶漬の味』(監督・小津安二郎/1952年)の奥様役でお馴染みの木暮実千代Click!。左側のモデルは、森光子か?
◆写真中上は、戦前に神奈川県で撮影された典型的な酪農家。は、1928年(昭和3)の夏に吉屋信子Click!が下落合の散歩道で撮影した乳牛ホルスタインClick!
◆写真中下は、茅ヶ崎町中島にあった戦前の守山牧場。は、戦後の守山乳業宣伝車。は、1979年(昭和54)に撮影された平塚市宮の前の守山乳業本社。わたしが子どものころから建っていたはずだが、駅の北と南でエリアがちがうせいか見憶えがない。
◆写真下は、1929年(昭和4)5月26日(日)発行の東京朝日新聞。は、同年夏に警視庁衛生部が制作して東京じゅうにバラまいてしまった「牛乳ハ健康ノ素」ポスター。

過去に書いた記事で、SSL化が済んだhttpsページの選択カテゴリーテーマ「地域」設定が、すべて外れているのに気がついた。こういう細かいけれどとても重要な設定箇所を、So-netさんはちゃんと検証しているのだろうか。

記憶の糸が途切れた武蔵野風景。

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 「♪かわる新宿あの武蔵野の~月もデパートの屋根に出る~」と唄われたのは、1929年(昭和4)にヒットした『東京行進曲』Click!だが、戦前から1950年代にかけては、「変わりゆく武蔵野」というフレーズがよく使われている。だが、1960年代から今日までは、「変わりすぎた武蔵野」という表現がいちばんピッタリとくるようだ。
 そんなことを痛感させてくれる出来事が、先日、府中を訪れたときに起きた。府中市郷土の森公園へ、大賀一郎Click!が育てた古代ハスClick!を観賞しに出かけたときだ。武蔵野線の府中本町駅で降りて、多摩川のある南へ歩いていく道すがら、「三千人塚」という史跡があった。近くの分倍河原では、鎌倉幕府軍と北関東の新田義貞軍が激突した古戦場跡も近いので、多数の戦死者を埋葬した塚なのだろうと想像した。同時に、どこかで聞いた史跡名だとも感じたが、先を急ぐのでそのまま塚をあとにした。
 近年の発掘調査によれば、「三千人塚」という名称やその謂れは後世の付会で、鎌倉末期の戦死者を弔った塚などではなく、鎌倉期から室町期にかけ地域の有力な一族を葬った塚墓のひとつであることが判明している。とんだ戦跡にされてしまった同塚には、鎌倉末期の板碑Click!が添えられていたので、よけいに分倍河原の合戦と結びつけられて口承伝承されてきたのだろう。
 どこかで聞いたような「三千人塚」の名称だが、ようやく思い出したのは塚を訪れてから1年後、つい最近のことだ。親父のアルバムに、「三千人塚」の手書きキャプションがあるのを思い出したのだ。1950年代後半から60年代にかけ、親父はよく武蔵野をあちこち散策して歩いている。もっとも、当時の武蔵野のイメージはすでに山手線の西域部ではなく、戦後の住宅難と市街地化に押されて、23区の西側に位置する三鷹市や武蔵野市、小金井市、府中市などへと移っていた。親父の書棚には、武蔵野に点在する石仏に関する本や資料が並んでいたころだ。
 そのころのアルバムをめくると、見憶えのある写真とともに「三千人塚」のキャプションを見つけた。大きなエノキが写る写真には見憶えがあったが、先日、そのすぐ前を歩いて通過しているにもかかわらず、まったく写真の情景と現実の風景とが一致せず、記憶の糸が途切れたままつながらなかったのだ。それほど、現在の「三千人塚」とその周辺はさま変わりをしていて、アルバムの写真と同一の場所とは思えなくなっていた。一連の写真には、幼稚園児ぐらいのわたしも写っているので、おそらく親と一緒にハイキングでも楽しんだのだろうが、府中本町で降りてから多摩川べりへ着くまでの間、まったくなにも思い出せなかった。こんなことは、ほとんど初めての経験だ。
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 たとえば、同じ武蔵野Click!のエリアでも、武蔵小金井の南に連なる国分寺崖線Click!は、ハケの道(同地域では崖線の急斜面をバッケClick!とは呼ばずにハケと呼称している)にしろ、貫井弁天社や滄浪泉園、野川、恋ヶ窪、小金井公園にしろ、高校生や大学生になってからも何度か散策しているので、いま現在そこを歩いても十分に既視感(既知感)があって、1950~60年代のアルバムに貼られた情景と一致せず、まったく気づかずに通り過ぎる……などということはありえない。でも、府中ではそれが起きてしまった。まるで、タイムスリップで未来にきたような、あるいは浦島太郎のような感覚とはこういうことか……と思う。アルバムに貼られた写真は、おそらく1960年代の撮影だろうから、それから50年以上が経過していることになる。
 同じく、50年以上がたっているにもかかわらず、それほど雰囲気や周囲の環境が変わらずに、すぐさま思い出せるような“武蔵野”もある。世田谷区にある、徳富蘆花の蘆花恒春公園などそれだ。親父のアルバムにある写真と、何年か前に訪れた同園とは、遠景の住宅街を除きほとんど50年以上前のままだ。つまり、記憶の糸がとぎれずに、なんとかたぐり寄せられる風情を残している。同様に、小金井公園の古びた郷土資料館や前方後円墳はなくなったが、新たに造られた江戸東京たてもの園の周辺には、当時の深い森や静謐な空気の名残りがそのままだ。ただし、サクラの名所でも有名な小金井橋は、まったく異なる次元の姿へと変貌してしまったけれど……。
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 恋ヶ窪にしても、今村繁三Click!の別荘跡ののちは、昔から大手企業の研究所になっていたので、武蔵野の湧水池と原生林の面影をよく残していて、公開日に散策すると清々しくて楽しい。もっとも、傾城伝説が残るここの美しい「姿見の池」は、いつの間にか「大池」という名前に変えられ、おそらく観光用に新たな湧水池を造成したのだろう、現在は同研究所の池から西へ400mほどのところに、新しい「姿見の池」が造られている。
 そんな武蔵野の残り香がただよう文章を、1951年(昭和26)に講談社から出版された大岡昇平Click!『武蔵野夫人』Click!から引用してみよう。ちなみに、描かれた情景は軍隊から復員してきた「俺」が、小金井のハケの家ですごした敗戦から間もないころだ。
  
 俺が幾度も狭山に登つて眺められなかつた広い武蔵野台地なんてものも幻想にすぎないぢやないか。俺の生れるどれだけ前に出来たかわからない、古代多摩川の三角洲が俺に何の関係がある。あれほど人がいふ武蔵野の林にしても、みんな代々の農民が風を防ぐために植ゑたものぢやないか。工場と学校と飛行場と、それから広い東京都民の住宅と、それが今の武蔵野だ。
  
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 この文章が書かれたのは、1949~50年(昭和24~25)だが、場所をさらに東京の外周域に移して、いまでもまったく変わらない情景が「武蔵野台地」で、人々の営みとして繰り返されている。「三千人塚」の近くには、大きな電機工場や団地、中央高速道路沿いのビール工場などが林立し、記憶の糸がたぐれないほどのたたずまいを見せていた。

◆写真上:いまや住宅や工場、高速道路などにすっかり囲まれてしまった「三千人塚」。
◆写真中上は、親父のアルバムにある1960年代の「三千人塚」と鎌倉期の板碑で、とても同じ場所とは思えない。は、「三千人塚」の現状。は、塚の南にある中央高速道路に面したビール工場で「♪左はビール工場~」の建屋だろう。
◆写真中下は、1960年代の世田谷にある蘆花恒春公園と現在の様子。は、1960年代初めごろに撮影された徳富蘆花の墓所()と現状()。
◆写真下は、わたしが1974年(昭和49)の高校時代に撮影した野川の源流域と恋ヶ窪の森(右手)。その下が、恋ヶ窪の森にある湧水源の元・姿見の池。は、1960年代の小金井の雑木林と1974年(昭和49)に撮影したハケの道の風景で、カラー写真は小金井公園に拡がる雑木林の現状。は、1960年(昭和35)前後に撮影された小金井公園の南西にある小金井橋で、現状の4車線道路の橋と比べたらまったく別世界の風景だ。

またまた、SSL化による不具合とみられる現象が起きた。左側のサイドカラムに貼りつけたバナーの画像が、一昨日の時点ですべて外れてしまっていた。Soーnetの運用管理チームは、改修にともない少しずつ不具合つぶしをしているように想像するのだが、こちらをいじるとあちらが不具合というような、モグラ叩きに状況に陥ってないだろうか?

チンチンの自力健康器を愛用する藤田嗣治。

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 昭和初期に開発されたベストセラー機器に、国民健康振興会が開発し日本・ドイツ・イギリスで特許を取得した「自力健康器」というのがある。国民健康振興会は、神田区一ツ橋1丁目の帝国教育会館内にオフィスがあり、少なからず戦前の教育界とも結びついた省庁の外郭団体(天下り機関)のような臭いがする。
 自力健康器とは、ベルトのバックルのような形状をした、スプリングで下腹部(臍下丹田)を圧迫して、下腹を使った独特な腹式呼吸を行なうための、電源レス/バッテリーレスのマニュアル装置だ。やはり、ベルト状の腹帯を使って、自力健康器を漢方のツボである臍下丹田に固定し、下腹式呼吸がうまくいくと「♪チンチン」と、内部に装備されたチャイムが鳴るらしい。逆に、呼吸がうまくいかないと「♪チンチン」の音色が聞こえないので、うまくチャイムが鳴るまでは独特の使いこなしが必要だったようだ。
 広告や使用説明書に添えられた図版では、ヘソのかなり下のほうに当ててベルトを巻くようなので、洋服を着ると下腹部がせり出し、かなり目立って邪魔だったのではないだろうか。また、内部の機構を描いたスケルトン図版では、独特な呼吸法で小さなハンマーがベルに当たるよう組み立てられており、自力健康器を装着しているときは、いつも“社会の窓”あたりから、「♪チンチン」という音色が小さく響いていたらしい。
 自力健康器の効用は、あらゆる病気が改善・治癒するとしており、末期の肺結核や癌、重症の胃潰瘍以外なら、たいがい効果が表れて治癒するらしい。「うそくせっ!」といってしまえばそれまでだが、自力健康器の特長を1939年(昭和14)に発行された、「婦人倶楽部」2月号掲載の広告コピーから引用してみよう。
  
 運動不足や病弱も五分か十分の使用で
 運動不足で困る人や、慢性の胃酸過多、胃下垂、胃拡張、便秘下痢、胃アトニー、不眠症、神経衰弱等の患者が「自力健康器」を使用してからメキメキ食欲が進み便通も整ひ、身體が肥つた、日頃心配の血圧が下り安心した、ビタミンの吸収が良く脚気も共に全快した。体質が一変して蓄膿症まで治つた、夜は不思議に安眠出来て頭痛が明快、心身共に健康になり若返つた等々全国各地から続々と礼状が寄せられ大好評大評判です。/若し「自力健康器」を三日間も使用して食欲が進まぬ人、便通が整はぬといふ方は健康器のシメ方が弱いのが原因ですから健康器をグツと強くシメて下さればメキメキ食欲が進み便通も整ひ、頭脳もハツキリするのが目に見えて判り、なるほど「自力健康器」は効くなと御満足が得られませう。
  
 広告には、慢性胃腸病が完治して筋肉がムキムキになった静岡の「田村重一郎君」をはじめ、心臓病が治ってなぜか筋肉がムキムキになった島根の「岡崎安正君」、やっぱり筋肉がムキムキになった新潟の「松井健治君」ら3人の写真が大きく添えられている。まるで、米国の通販CMを先どりしたようなビジュアルだ。
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 コピーにもあるように、「♪チンチン」と効果を上げるためには、ベルトをかなりきつく締めなければならなかったようで、効果を得られないのはベルトの「シメ方が弱い」からだとしている。そのせいか、「きつく締めたらお腹が痛くなったよう!」という苦情が殺到したらしく、自力健康器の使用説明書にはいままで使用していなかった横隔膜が、腹式呼吸で急に伸縮運動を始めたので痛む現象だから、「少しも心配はない」とわざわざ赤文字で印刷している。(そうかなぁ?)
 ただし、「普通の腹痛の場合は、無理に我慢せず治つてから使用する事」と、逃げ道の注釈を添えることも忘れていない。そう、使用説明書をよく読んでみると、なにか不都合なことが起きた場合は、「使い方が悪い」あるいは「取り扱いが誤りだ」とすぐに逃げられるよう、30項目近い注意書きが連ねてあるのだ。その挙句、「無理に使用せぬこと、何事でも無理があるといけません」などと、一般論まで注釈に添えてある。w
 自力健康器は日本国内はもちろん樺太、台湾、朝鮮、満州、上海、米国、ブラジルなど世界各地に販売代理店を展開し、1939年(昭和14)現在で174拠点の店舗で販売していた。ちなみに東京では、日本橋×2店、神田×2店、駿河台下×1店、音羽(講談社)×1店、八王子×1店の計8店舗で販売されている。
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 さて、この自力健康器の宣伝キャラクターに、この時代には「確信犯的国粋主義者」と化していた洋画家・藤田嗣治Click!が起用されている。それだけでも、帝国教育会館にオフィスをかまえる国民健康振興会が、政府機関(特に軍部?)の息がかかった組織であることをうかがわせる。広告のコピーも勇ましく、パリで藤田嗣治が「日本主義」を貫徹した(?ことになっている)様子を紹介している。
  
 生粋の日本主義  藤田嗣治画伯
 独特の生彩を有つた(ママ)画風と、お河童頭で誰れ知らぬものもいない藤田嗣治画伯は、滞仏二十有余年、一時は花の都巴里の人気を一身に掻つさらつて、日本人のために気を吐いた。/画伯の生活様式が水際立つた欧風化に、兎角西洋文化の心酔者であるかのやうに見誤られがちであるが、画伯は生粋の日本主義者でシカも柔道の有段者であると聞いては驚かされる人もあらう。/巴里の社交界に柔道を紹介したり、滞仏中の友人と共に法被会を催して、江戸前の握り寿司を食べたりして、大に日本趣味を発揮したものである。/又画伯は極めて熱心なる『自力健康器』の愛用者である事も見逃せない。画房で彩管を揮ふときにも、街頭の散歩にも、写生の旅にも、いつも『自力健康器』が画伯の臍下丹田でチンチンと美妙な音色を響かせて居る。多忙な日常の疲労を之れに依つて癒しつゝ健康を増進する目的だとの事だが、流石に画伯だけに『自力健康器』の使用から来る所謂『肚の力』を、日本精神のどこかに結び着けての愛用らしく思はれる。
  
 パリをはじめヨーロッパ各地で柔道を紹介し、道場で教えていたのは画業に忙しい藤田ではなく、おもに黒メガネの旦那こと石黒敬七Click!(柔道8段)ではなかったか?
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 自力健康器は、使用をはじめてからたった1日で、「成程効く」という「自覚を与へる所に一大特色がある」そうだ。女性も子ども(12歳以上)も使用でき、効用の中には「頭脳も明快」「百歳の長寿を保つ事が出来る」とも書かれているので、これはぜひわたしも試してみたいのだけれど、いまではどこに影をひそめたものか販売されていない。たまに、地方の旧家から見つかったらしい中古品が、ヤフオクに出品されるぐらいだろうか。

◆写真上:広告に添えられた図版で、自力健康器を臍下丹田の下腹部に装着したところ。
◆写真中上は、1939年(昭和14)発行の「婦人倶楽部」2月号に掲載された広告。は、1938年(昭和13)7月22日の「伯剌西爾時報」(ブラジル)掲載の記事。
◆写真中下は、自力健康器と外箱。は、同梱された使用説明書。
◆写真下は、30項目近くの注釈がある使用説明書。は、藤田嗣治をキャラクターに起用した1939年(昭和14)発行の「婦人倶楽部」2月号の媒体広告。

落合地域と「大日本職業別明細図」。

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 拙サイトでは、江戸期から現代にいたるまで作成された、多種多様な絵図・圖書や地図類を引用してきた。これまで引用した地図類は、おそらく50種類をゆうに越えるだろう。明治以降に作成された地図では、参謀本部陸軍部の測量局が初めてフランス式で明治初期に作成した地形図Click!をはじめ、のちのち同本部所属の陸地測量部Click!が制作した1/5,000や1/10,000など縮尺ごとの地形図類Click!や、陸軍士官学校が演習用に作成した演習地図Click!、自治体が境界エリア内の地名・住所・番地などを表現した各種市街図など、挙げだしたらきりがない。
 また一方で、官製ではなく民間の個人や店舗、企業などが生活や観光、商売、事業などの便宜をはかるために作成した、いわゆる「民間地図」も数多くご紹介している。たとえば、その代表的なものに飲食店の出前、あるいは周辺住民が店舗を利用する際の利便性を考慮したとみられる大正期の「出前地図」Click!(1925年)や、現在の「住宅地図」と同様に居住する住民や店舗を網羅的に採取して掲載した大正末から昭和初期の「住宅明細図」Click!「事情明細図」Click!(ともに1926年前後)、火災保険会社が市場把握と営業活動を目的として、建物の仕様などを意識しながら特別に作成した昭和初期の「火災保険特殊地図」Click!(通称「火保図」/1938年前後)などがある。
 ただし、これらの地図は地域性が強く作成エリアが限定的だったり、都市部や市街地のみが作成の対象だったりしたため、全国を網羅する「民間地図」とはいいにくい。個人が地図会社を起ち上げ、大正の初期から昭和30年代にいたるまで、全国を網羅したビジネス地図を一貫して制作しつづけた事例がある。木谷佐一(のち改名して木谷彰佑)が創立した、東京交通社による「大日本職業別明細図」ないしは「大日本職業別住所入索引付信用案内明細地図」、すなわち通称「商工地図」と呼ばれる地図制作の一大プロジェクトだ。
 1917年(大正6)に、40歳で東京交通社を創立した木谷佐一は、社員のトレーサー2名と全国各地に現地調査用の契約社員を展開し、北は北海道から南は沖縄県、さらに朝鮮半島から中国大陸までの「商工地図」を作成している。これらの地図は定期的に改版が重ねられ、年代が下るごとに地図の表現は微細をきわめていく。もっとも古い地図は、1917年(大正6)に制作された日本の主要都市をカバーする都市案内図で、当初からすでに「大日本職業別明細図」というタイトルがつけられていた。
 「商工地図」の詳細について研究した資料に、柏書房から1988年(昭和63)に出版された『昭和前期日本商工地図集成―第1期・第2期改題―』(地図資料編纂会)がある。同書より、木谷佐一について書いた『「商工地図」をよむ』から引用してみよう。
  
 木谷佐一は、明治10(1877)年生れであるから、齢40にして東京交通社をおこし地図刊行事業を開始したことになる。それまで特に地図ないし出版業に関わっていたことはないようで、遺族によれば従来の仕事を中途退職し、前職は「鉄道関係」の由である。「東京交通社」の名はその職種に関わるものと思われるが、あるいは「交通」に人間の移動というより物流すなわち近代的経済活動の意味を含ませた面があったのかも知れない。(中略) 木谷の「独創性」とは、近代的手法が一般化した時代における都市地図と、伝統的な独案内の方法つまり業種別一覧を結合させたところにあった。すなわち業種別一覧の個別の内容を、ひとつひとつ注入した地図を作成したのである。ただしこれはそれ以前に各種店舗案内を記入した地図を作成したものがいなかったということではない。あくまで一定の地図刊行事業としてこのような形式を全国的に成功させたものがいなかったという意味においてである。
  
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 「商工地図」制作の特色は、地図に企業や店舗を掲載することで広告料(掲載の種類別に料金メニューがあったとみられる)を徴収し、注文を予約制にして発行部数を決定し、あらかじめ印刷ロットを限定して余剰部数が発生するのを極力防止したこと、つまり印刷当初から黒字が見こめるビジネスモデルを確立していたことが挙げられる。だからこそ、「商工地図」は約40年もの間、継続して発行されつづけたのだろう。
 また、「商工地図」は官製地図のように厳密な測量数値を前提としないので、フリーハンドによる表現が主体だった。ただし、地域のかたちが変形し縮尺は正確でないものの、官製地図には見られない使いやすさやわかりやすさを追求している。
 木谷佐一は、ちょうど「火保図」が作られはじめた1938(昭和13)に死去するが、4人いた実子は誰も事業を継承しなかった。東京交通社を継続したのは、長女の夫だった西村善汎(よしひろ)だ。西村は、そのまま従前の地図を刊行しつづけ、戦時中の1942年(昭和17)に一時中断している。もちろん、戦争の影響で地図が勝手に作成できなくなり、国策の統制団体「日本統制地図株式会社」に事業を吸収されたからだ。だが、西村は敗戦後すぐに事業を復活させたらしく、昭和30年代までの「商工地図」を確認することができる。
 木谷佐一は、1937年(昭和12)に「商工地図」の制作コンセプトとでもいうべき、11項目を手書きで列挙している。同書より、少し長いが引用してみよう。
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 東京交通社発行/大日本職業別明細図の特色並に効用
 一、本図は全国各地数年毎に改版し新聞紙法により毎月十日、二十五日、定期刊行物として永続出版す 二、本図は出版報国の目的を以て全国的統一を計り多大な犠牲を払ひつゝ社会公共に寄与する処甚大なり 三、本図は「大日本職業別住所入索引付信用案内明細地図」とあつて去る大正六年独創著作し爾来各地一定の方針を以て遂に全国の完成を見たり 四、本図製本は之を加除式にしたれば後日改版の地図は其都度差替自由にして常に永久改正を保ち現状を維持するを以て一大特色とす 五、複雑にして多端なる現代の用務は須らく確実迅速を旨とす 本図は裏面職業別によりあらゆる撰択を自由にし索引によりて適確に然も敏速に表面各人の住所の位置を見出すことを得べし 六、本図には国税府県税の納税額を標準として信用ある店舗住所は剰すことなく之を掲載し加ふるに其営業種目電話番号等を詳細懇切に紹介し且名所旧蹟、社寺、官公衛、学校、銀行、会社、工場、病医院、著名商店並に名望家は写真を以て紹介したり 七、故に居ながら各地の情勢を比較対照考察し得て諸種の立案計測に資すべく 八、商工業の進歩を助け各地産業の開発を促がし 九、住宅の表札、営業家の看板の如くあらゆる商工業者の最も信頼すべき羅針盤なり あらゆる家庭の最も懇切な買物案内なり 十、移転、開業の考材として趣味娯楽の内に実益あり一面職業別電話帳の代用ともなる 十一、旅行、訪問、社交、取引、運輸、交通上欠くべからざる必携品なり
  
 わたしの手もとには、1925年(大正14)に発行された「大日本職業別明細図―高田町・落合町・長崎村―」と、東京35区Click!時代を迎え淀橋区が成立したあとの、1934年(昭和9)に発行された「大日本職業別明細図―淀橋区―」がある。
 大正期のものは、道路がオレンジ、市街地が墨囲みに斜線、収録した企業・店舗などは墨囲みに白ベタ墨文字、河川や池は水色で表現されている。また、昭和期のものは記載する項目が増えたせいか、企業・店舗などの所在地を黒丸印で表し、名称を黒丸に接して記載する表現に変わっている。市街地は、特に囲みや斜線が入れられず薄いオレンジ色のベタ塗りとなり、道路は白、鉄道やバス路線を赤色、河川や池は青色で表現されている。見やすさからいえば、やはり昭和期の表現法のほうが場所をハッキリと認識しやすい。
 これらの地図は、大正期から昭和期にかけて地域に存在した、さまざまな企業・店舗などを知るうえでは不可欠な要素を満載している。特に、地図の裏面には、おそらく広告費を払って出稿しているのだろう当時の企業や店舗の広告と、ときに社屋や店構えなどの写真も挿入されていて興味深い。年代順に地図を重ねてみると、どのような事業や商店の盛衰があったのかがひと目でわかる。同時に、時代背景や社会環境を重ねてみると、いままで気づかなかった地域の特色が姿を現したりもする。
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 東京が35区編成になったばかりの1933年(昭和8)、商工地図とは別に大東京市政審査協会から「各区便益明細地図」(別称「実地踏査図」)が発行されている。同地図も、「商工地図」と同様に企業や店舗などを収録している生活便利地図だが、カラー印刷でイラスト入りなのが大きなちがいだ。同地図には建物や公園、施設、邸宅などの絵が挿入されていて、元祖・イラストマップのような趣きだが、その表現や記載事項にかなり不正確な点が目立つことは、以前、こちらのサイトでもご紹介Click!ずみだ。

◆写真上:落合地域が掲載された、1925年(大正14)と1933年(昭和8)の「商工地図」。
◆写真中上は、1925年(大正14)発行の商工地図「高田町・落合町・長崎村」。は、同図裏面に掲載された企業や店舗。は、『昭和前期日本商工地図集成第 1期・第2期改題』(地図資料編纂会)付属の『「商工地図」をよむ』()と木谷佐一の趣旨()。
◆写真中下は、1934年(昭和9)に発行された商工地図の「淀橋区」(全図)。は、同図から拡大した下落合と上落合の全域。
◆写真下は、1934年(昭和9)発行の「淀橋区」裏面に掲載された企業・店舗。は、1925年(大正14)に発行された商工地図「淀橋町」の部分拡大。は、1933年(昭和8)に発行された商工地図「牛込区・淀橋区」の新宿駅周辺の部分拡大。

「へび女」が怖い元・少女たち。

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 わたしとほぼ同世代の女性に、「子どものころ、なにが怖かったの?」と訊くと、多くの元・少女たちはたいがい楳図かずおの「へび女」と答える。少女漫画を知らないわたしは、その「怖さ」がよくわからず、きっと執念深くどこまでも追いかけてくる、『娘道成寺』の芝居のような筋立てを想像していた。日高川で大蛇(うわばみ)になった清姫が、どこまでも安珍を追いかけてくる、道成寺縁起のストーカー芝居だ。
 芝居の『娘道成寺』は、実際の舞台を観た憶えがない。(TVの劇場中継ならあるが) もっとも、舞踊「京鹿子娘道成寺」はときどき6代目・中村歌右衛門で上演されていたのを憶えている。現代では、坂東玉三郎あたりが得意としているのだろうか。芝居の経験はないが、国立劇場の小劇場で上演された文楽の『娘道成寺』は、じっくり鑑賞したのでよく憶えている。もちろん、わたしの大好きなガブClick!が登場するからだ。
 「日高川渡の場」にいたるまで、延々と男女間の恋愛の機微(オトナの事情)を見せられても、あまり退屈せずにすんだのは、ガブがいつ出るか、いま出るかと、心待ちにしていたからだろう。安珍にいい含められた船頭に、川の渡しを断られた清姫が、みるみる形相を変えて大蛇に変身するさまは、もうウキウキとゾクゾクの連続で、わたしは幸福感にひたりながら見とれていたものだ。だから「へび女」と聞くと、どうしても男のあとを執拗に追いかけてくる、大蛇の化け物になった女……というイメージをもっていた。ところが、楳図かずおの「へび女」の設定は、まったくちがっていたのだ。
 少し余談になるが、警視庁が昨年度にまとめた統計によれば、ストーカーによる被害者は約11%が男性で、残りの約89%の被害者が女性とのことだ。つまり、「執念深い女がヘビに姿を変えて男を追いかけてくる」……というシチュエーションは、江戸期のある時代のとある階層ではリアルに感じられ、説得力のある怖さだったのかもしれないが、現在は状況がまったく逆転し、いつまでもイジイジとメメしい思いを引きずって、執念深く追いかけるのは、情けないことに「へび男」のほうが圧倒的に多いのだ。いや、こういういい方は下落合に数多く棲息する、たいがい大人しいヘビさんClick!に対して失礼だろう。
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 さて、楳図かずおの「へび女」は、物語の成立事情がまったく異なっていた。それは、ふだんは美しい母親ややさしい姉、養女に引きとられた先の義母や娘、そして親しいクラスメイトの友人などが、ある日を境に突然「へび女」の性格や本性を顕在化させはじめる……というようなストーリーだ。つまり、自分がもっとも親しい、あるいは自分にもっとも近しい人物の本性がもし「へび」だったりしたら……という、変化(へんげ)による怖さや意外さがテーマになっている。身辺の安穏とした、楽しい日常が少しずつ崩れだして、ついには「へび女」に見こまれた非日常へと推移していくところに、少女たちを震えあがらせた恐怖があるのだろう。
 きっかけは、外出してヘビに咬まれたり(あんたはバンパイアか?)、その家系に代々受け継がれたヘビ神憑きの“血筋”だったり(このあたり民俗学の吉野裕子が得意そうな分野だ)、あるいは七代あとまで祟る昔殺したヘビの呪いだったり(日本民話の会Click!が採取しそうだ)……と、要するに原因はなんでもよくて(爆!)、ヒロインの少女のいちばん身近にいる人物が、「へび女」ウィルスに感染していたり、「へび女」の変異遺伝子が急に活動をはじめたり、「へび女」の呪いで自己暗示にかかり幻覚を見るようになったりと、まあ、たいへんで忙しくて怖いことになっていく。
 そんな舞台となる屋敷は、たいがい東京の郊外域に位置していそうな大きな古い西洋館であり、1960~1970年代を落合地域ですごした女の子たちにとっては、まったく他人事ではなかっただろう。遊び疲れ、少し暗くなってから家路を急ぐ少女たちにしてみれば、近衛町Click!の洋館から、林泉園Click!のほの暗い谷底から、御留山Click!大倉山Click!の森蔭から、薬王院の真っ暗な墓地Click!から、そして目白文化村Click!のポッと灯りの点いた屋敷群から、いつ「へび女」が鎌首もたげて飛びだしてくるか気が気ではなかっただろう。きっと、楳図かずおの世界は、自身のすぐ隣りに存在していたにちがいないのだ。
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 でも、そんな古い西洋館はバブル景気の地上げで消し飛び、つづく不況の津波をまともにかぶって相続税が払えずに解体され、「へび女」の伝説はもっとずっと郊外へ、あるいは東京地方を離れどこか別の地方の山間へと転移していった。落合地域には、人と共存できるアオダイショウClick!は多いが、棲みつく縁の下や天井裏も少なくなって、なかなかマンションのロビーではとぐろを巻きにくい。うっかりマンションなどに入りこめば、ソッと森の中へ逃がしてくれるどころか、警察に電話されかねない、ヘビくんたちにとっては「怖い」日常を迎えている。映画版の「へび女」Click!も、もはや東京が舞台ではリアリティがないものか、どこか山間の“村”が舞台となっていた。
 楳図かずおの「へび女」は、あの人はふだんは美しい顔をしてニコニコしているけれど、裏にまわれば先が2枚に分かれた舌をペロリと出しながら、あることないこと悪口を陰でいいふらす、ほんとは怖くてゲスな人なのよ……というような、一種の処世訓を少女たちに教えようとしたのだろうか? それとも、「グワシ! へび女はほんとにいるのら~、ギョエーーッ!!」と、その伝説でも信じて描いていたのだろうか。
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 そういえば、楳図かずおは高田馬場か下落合にオフィスがあったものか、駅前に近い栄通りの入り口あたりで、過去に何度か見かけたことがある。赤白のTシャツを着て色褪せたジーンズのジャケットを羽織っていたと思うのだが、まさか吉祥寺の自宅外壁のカラーリングまで赤白のツートーンカラーにするとは思わなかった。ギョエーーーッ! 外壁が赤白のお屋敷じゃ、「へび女」だってサマにならず棲みにくいだろうに。

◆写真上:下落合2丁目14番地と目白1丁目4番地の町境(新宿・豊島区境)が通るビルの前にある、郵便局「グワシ!」ポスト。ぜひ、「へび女」ポストも作ってほしいのら。
◆写真中上は、12代目・片岡仁左衛門の清姫による『娘道成寺』(日高川渡の場)。は、7代目・尾上梅幸の「白拍子花子」。は、1960年代の日高川(和歌山県)。
◆写真中下は、文楽『娘道成寺』でガブになりかけの清姫。中左は、楳図かずお『へび女』(小学館)。中右は、同『へび少女』(講談社)より。は、同『へび女』より。
◆写真下:いずれも、楳図かずお『へび女』より。

お知らせ
 先月25日のSo-netブログのSSL化にともない、もともと外部サイトも含めたpathの多い拙サイトでも、ひと通りメンテナンスをしなければならないハメに陥りました。いまさらSSLを導入するなら、10年前のベリサイン時代にやっといてほしかった仕組みですが、セキュリティが強化できるのでしかたがないのでしょうね。
 カテゴリーの設定が勝手に外れたり、サイドカラムのバナー画像がいつの間にか消滅したり、facebookとのpathで蓄積されたログが全滅したりと、さまざまなインシデントや表示不具合はこれまで少しずつ記事末で報告してきましたが、検証・修正作業がいつ終わるのかスケジューリングができないので、とりあえず次回の記事を最後に、期限を設定しないサイトメンテナンスに入ります。
 外部からアクセスすると、少し前まではhttpとhttpsのページが混在(キャッシュサーバ?)していたようですが、現状ではhttp→httpsのページへ自動ジャンプするようです。でも、Soーnetさんのことだからリソース不足が深刻になると、「この仕組みは廃止」なんて告知がアップされかねませんので、少なくとも外部ポータルからのpath修正はしといたほうがよさそうです。その際、ご不便をおかけするかもしれませんが、秀逸なアルゴリズムのGoogleサーチエンジンなどから「落合道人」のワードを“枕”に、キーワードを組み合わせて検索していただくのが確実かもしれません。
 夜は長いので、いろいろ改修の方法を考えてみたいのですが、こういうときはつい演奏にジッと聴き入って作業に集中できなくなるJAZZではなく、気軽に聴き流せる「♪夜は長い~だ~から…」と、懐かしい1980年代末の森山良子『男たちによろしく(DANCE)』Click!でも聴きながら……。
 写真は、新宿区の西北部にある落合地域とは、反対側の地域にあたる西南部の夕景。
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下落合の急坂を駈けくだる中野鈴子。

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 …ということで、前回予告しましたように本日からスケジュールがまったく見えない、夜間や休日に少しずつ実施予定の、So-netブログSSL対応メンテナンスに入りますので、今回が最後の記事になります。また、ここでお会いできる日を、楽しみに……。
  
 下落合の急坂を着物の裾をふり乱しながら、全力で駈け下りてくる異様な女性に出会い、恥ずかしくて思わず友だちに「知らない人」と答えてしまった小学生がいる。大きめな2階家へのリニューアルを終え、下落合735番地の借家アトリエから上落合186番地にもどっていた、村山知義・籌子夫妻Click!の息子・村山亜土Click!だ。坂を駈け下りてきたのは、村山亜土が「変なおばさん」と呼ぶ詩人・中野鈴子Click!で、母親と親しくしている彼女を亜土はよく知っていた。
 2001年(平成13)に出版された村山亜土『母と歩く時―童話作家村山籌子の肖像―』(JULA出版局)から、さっそく中野鈴子の様子を引用してみよう。
  
 中野鈴子さんは、中野重治さんの妹で、詩人であった。だが、子供の私には「変なおばさん」として、思い出される。度の強い黒ぶちの眼鏡をずり落ちそうにかけて、眉間にしわをよせ、油気のない髪の毛をうしろで束ね、恐らく木綿か銘仙の和服をちょっとゆるやかに着ていた。彼女は下落合の斜面の中腹に間借りをしていたのだが、ある日、私が友だちとその近くを歩いていたら、坂の上から女の人が裾をはだけて、勢いよく駈け下りて来た。友だちが、「あのおばさんは頭がおかしいらしいんだ」と言うので、よくよく見ると、鈴子さんだったので、私はあわてて電信柱のかげにかくれて、やりすごした。「君、知ってるの?」と友だちがきくので、私は、「知るもんか!」と答えた。
  
 戦後の中野鈴子は、小滝橋Click!や上落合もほど近い豊多摩病院Click!の裏にあたる柏木5丁目1130番地(現・北新宿4丁目)、すなわち兄・中野重治・原泉夫妻Click!の家に同居しているが、昭和初期にひとりで暮らしていたとみられる下落合の住所は、村山亜土も書き残していないので不明だ。それ以前か以降か、やはり彼女は上落合481番地で兄夫妻の家に寄宿していた。彼女が駈け下りてきた坂とは、村山亜土が通っていた落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)の近く、下落合(現・中落合/中井含む)の西部に通う坂道の可能性が高いように思う。
 「変なおばさん」にされてしまった中野鈴子だが、福井の実家にいたころは地元でも美人の評判が高かった。ワンマンな親たちに、望まない結婚を無理やり二度もさせられ、そのつど彼女の側から夫に「三下り半」を突きつけて離婚している。そんな生活の苦労を重ねるうちに、面立ちがやつれてしまったのだろう。
 四高で落第した兄・中野重治Click!のお目付け役として、福井の実家から金沢市古寺町の下宿で兄と同居するようになったとき、17歳だった中野鈴子は四高の短歌会で兄といっしょだった窪川鶴次郎Click!を知るようになる。やがて、彼への思慕とともに実家の“家制度”にとらえられていた彼女は、自我の解放期を迎えることになった。このとき、窪川鶴次郎は中野鈴子のことを「すずさん」と呼んで親しげだったが、窪川にはすでに愛人がいたようだ。1923年(大正12)10月26日、中野鈴子は3首の歌を詠じている。
 かなし子等人をしのびつさかり来しこの砂山のやまふかみかも
 照陽はげしき浜に居て木を伐る男をしみじみと君はながめり
 やまみちに我の姿の見えずなりしとき声高らかに呼び給ひしかな
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 「すずさん!」という窪川の声が、潮の匂いのする風にのって樹々の間から聞こえてきそうな歌だが、この恋は成就しなかった。東京帝大に進んだ中野重治に連れられ、鈴子は東京にいる窪川鶴次郎へ会いにいったが、「あなたはわがままだ」という窪川の言葉に絶望している。こうして、彼女は望まない一度めの結婚を、父母から無理やり押しつけられることになった。二度めに強制された結婚生活の最中、彼女は1926年(大正15)7月に窪川稲次郎と田島稲子(のち佐多稲子Click!)の結婚を知ることになる。
 1925年(大正14)2月28日から翌日にかけて書かれた、中野鈴子から窪川鶴次郎あての手紙が残っている。1997年(平成9)に幻野工房から出版された、大牧冨士夫・編著『中野鈴子-付遺稿・私の日暮らし・他-』から引用してみよう。
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 (前略) この世とは、別れがあるばかりなのです。人は常に、過去をなつかしむと言ふ。それは過去の日に幸があつたからでしたでせう。遠い後の日に光を持つものはその光の日に一日も早く達することを急ぐでせう。あなたに別れて一年になるまでに日が流れてゐます。それが私にはありがたい。その間に何をして来たか、忘れ得ないものなどと言ふものは一つもなかつた。多くの人はかう言ふきもちで毎日を水のやうにながれてゐるのか。去るものをして、そのまゝ逝かしめ、来るものをしてそのまゝむかへて、人は眠るのです。かなしみもよろこびも、かまはず日がながれてゆきました。
  
 窪川稲子Click!(佐多稲子)は結婚後、中野鈴子が切々とつづった手紙を夫から見せられ、彼女の切ない一途さに泣いたと伝えられている。
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 そんな彼女たちが、わずか5年後、治安維持法違反で逮捕された中野重治や窪川鶴次郎、小林多喜二Click!村山知義Click!らを支援するグループを形成することになるなど、夢想だにしなかったにちがいない。特に小林多喜二の救援では、村山籌子Click!原泉Click!とともに、中野鈴子が活動の中心を担った。また、宮本百合子Click!や窪川稲子(佐多稲子)とともに、『働く婦人』の編集部員を引き受け、ときには同誌へ記事を連載している。彼女は、文芸誌の第一線で活躍するプロレタリア詩人に変貌していたのだ。窪川稲子(佐多稲子)とは親しくなり、よく肩を並べて話をしながら落合地域を散歩している。
 つづけて、村山亜土『母と歩く時―童話作家村山籌子の肖像―』から引用してみよう。
  
 だが、母(村山籌子)は、彼女(中野鈴子)の素朴であけっぴろげな人柄を好んだようだ。そして、彼女は時々、とぼけたことを言った。「誰々さんは、私より三つ年上なのよ。だから、あと三年たてば同い年になるんだわ」。母が、「あなた、何を言ってるのよ。三年たてば、向こうも三つ年をとるのよ。同じ年になんかなるわけがないでしょ、永久に」。「あっ、そうか、そうか、そうだった」。彼女はそう言ってヒタイをポンと叩き、歯をむき出し、ゲタゲタ笑うのであった。/私が、彼女が詩人であることを知ったのは、戦後もずっと後のことで、詩集『花も私を知らない』は、北陸の農民の心を素朴に歌って、すばらしい。(カッコ内引用者註)
  
 なにやら、いつも村山籌子に突っこまれている大ボケかましの中野鈴子を想像してしまうが、こういうところが周囲から愛された彼女の性格(たち)なのだろう。村山亜土が電柱に隠れ、そそくさとくだんの坂道から立ち去らなければ、彼女のあとをいつも通り尾行していた特高Click!が、間をおかずに必死で駈け下りてきたのを目撃できたかもしれない。
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 落合地域で遅れてきた青春時代を送る、中野鈴子の面白いエピソードはまだまだたくさん眠っていそうだ。いつもおおらかで、“天然”のトンチンカンな彼女の姿ばかりでなく、ときには深刻な課題を抱え、ふだんは穏やかな壺井栄Click!から横っ面を張り飛ばされたりもしている。中野鈴子から壺井栄あてに出された、彼女らしい鄭重な「詫び状」10通が現存しているのだが、それはまた、いつか、別の物語……。

◆写真上:中野鈴子が駈け下りた可能性が高い坂のひとつ、寺斉橋近くの落合第二尋常小学校(現・落合第五小学校)へと抜けられる蘭塔坂Click!(二ノ坂)のイメージ。w
◆写真中上上左は、1939年(昭和13)ごろ撮影の中野鈴子。上右は、戦後の中野重治・原泉夫妻。米国アニメ「シンプソンズ」のお母さんみたいな中野重治の髪の毛は、もう少しなんとかならないものだろうか。は、もうひとつの駈け下り坂候補・三ノ坂。
◆写真中下は、中野鈴子が東京の兄夫妻邸へ寄宿しはじめたころの記念写真。左から右へ原泉(中野政野)、二度も望まぬ結婚を鈴子に強制した父・中野藤作、中野鈴子、中野重治。は、上落合481番地の中野重治・原泉邸跡界隈。
◆写真下は、川下から眺めた妙正寺川に架かる寺斉橋で、落合第二尋常小学校は橋の左手にあった。寺斉橋の上に見えているのは、山手通り(環六)の高架。は、旧敷地から南東へ200mほど移動した現在の落合第二小学校。

おまけ
 今年も、下落合の森には夏らしい生き物たちがたくさんもどってきた。左はカナブンの大群で、右はカブトムシ(♂)。ともに、うちの娘が見たら悲鳴をあげて卒倒するだろう。カブトムシとコクワガタClick!の♀は、かつて何度か家のベランダに飛びこんできたが、カブトムシもコクワガタも♂は住宅に近寄らないようだ。
カナブン.JPG カブトムシ.JPG
 今年三度めに卵がかえった、近くの池のカルガモ親子Click!。今回は、子ガモが最多の11羽も生まれた。またクルマが通る道路を、散歩しなければいいのだが……。
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下落合を描いた画家たち・中村忠二。(2)

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 「ぐりこ」さんより、主婦へのご褒美の「おまけ」が足りないという、ちょっとお叱りコメント(前記事参照Click!)が寄せられましたので、^^; あとひとつだけ「おまけ」の記事を追加します。これがメンテ作業前の最後ということで、どうぞよろしくお願いします。<(_ _;)> (アイスのジャイアントコーンに「おまけ」なんてないんだけどなぁ)
  
 「君を救う道は、僕との結婚以外にはない」…、この言葉は下落合に住んだ洋画家・中村忠二Click!が、30歳ほども年下の若い女画学生(のち弟子)に舞い上がったときに吐いたらしいセリフだ。また、1955年(昭和30)9月19日には、「芸術の興奮をよりよき恋愛にまで高めるために火の如き接吻をする」と書いたメモを、妻の洋画家・伴敏子Click!に見られている。このとき、中村忠二は57歳だった。
 それに対する伴敏子の反応は、「ドン・キホーテのお共は、もう御免よ」「男はもうこりごり」「あの人は今馬を屠殺場に遣って、豚にまたがって天国に行こうと思っているようよ」……などなど諧謔的なものばかりだった。それをどこかで漏れ聞いたのか、中村忠二は「偉い女など女房に持つもんじゃあないよ」と友人に語っている。そんな悲喜劇が繰り広げられたふたりのアトリエは、伴敏子の年譜によれば1935年(昭和10)に(中村忠二の年譜によれば1938年に)、下落合4丁目2257番地(現・中落合4丁目)に竣工している。アトリエの建設費の多くは伴敏子が負担していたせいか、若い女にトチ狂った中村忠二は出ていかざるをえなくなった。
 ふたりが住んでいた下落合のアトリエを描いた、中村忠二の「下落合風景」を見つけたのでご紹介したい。今年の夏に練馬区立美術館で開催されている、「生誕120年中村忠二展―オオイナルシュウネン―」に展示されていたものだ。そう、中村忠二は佐伯祐三Click!と同じ1898年生まれであり、ともに今年が生誕120年Click!にあたる。下落合4丁目2257番地のアトリエは、目白学園の北東側に位置しており、玄関が南を向く和館とも洋館ともとれる微妙なデザインの2階家だった。
 南側の接道から、狭い路地を入ると突き当たりに細い門柱が立ち玄関へとつづく、53坪ほどの旗竿敷地だった。20畳サイズのアトリエを中心に、6畳のリビング、2階の寝室は4畳半というシンプルな間取りで、ふたりは生涯の多くをここですごし作品を制作しながら生活している。南側の接道から北に向き、降雪後の路地とアトリエをとらえた画面が、冒頭の敗戦間もない1946年(昭和21)に制作された中村忠二『雪の我が家』だ。
 「我が家」というタイトルを付けているが、すでに中村忠二と伴敏子は最初の“夫婦別れ”をしている。日本の敗色が濃くなりつつある1943年(昭和18)、伴敏子からの提案でふたりは夫婦関係を解消した。そこで、伴敏子は1階の広いアトリエにベッドを据えて寝室とし、中村忠二は2階の4畳半が居場所となった。だが、翌1944年(昭和19)になると、東中野に住んでいた伯母を引きとり2階を提供したので、中村忠二は居場所がなくなり、1階のアトリエで再び伴敏子と生活をするようになった。
 10年後の1955年(昭和30)8月、中村忠二は水彩連盟の講習会で画家をめざす若い女性と知り合い、急速に親密になっていく。57歳の中村忠二が、前出の歯の浮くようなキザな台詞を臆面もなく吐いたのはこのときだった。そして、9月になると練馬区貫井町1275番地(現・貫井5丁目)に小さな平家を借りて、伴敏子との別居生活に入り、ほどなく彼女とは正式に離婚している。
 そのときの様子を、1977年(昭和52)に冥草舎から出版された伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』から引用してみよう。同書は、登場人物たちの多くに仮名を用いており、「陽子」は伴敏子、「貞子」が中村忠二の入れあげている若い女性のことだ。
  
 「もう無駄よ、誰が何を云ったって。一度あの人の思うようにさせた方がいいのよ。とやかく云っても苦しめるばかりよ。お互い別々になって反省しましょう。私は他に好きな人が出来たわけではないから、あの人がもう一度惚れ直せるような男になったら、私から頼んでも帰って貰うわ」/靴を履く蔵原の後から、陽子は玄関で云った。/忠二は庭の花の根を起こして練馬の庭に植えに行ったり、上京して来ると云う貞子の妹を二人で迎えに行ったり、この二、三日はとても忙しかった。多忙のなかを高田馬場のパール座で貞子と二人で映画を見たり、暗い夜道では烈しい雨の中傘を傾けて熱い接吻を繰り返した。まるで彼の血が一度に若返って青春を取り戻したようであった。
  
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 余談だが、小さな名画座だった高田馬場パール座はわたしの学生時代まで営業しており、よく2本立ての映画を観に出かけた。いまも、その前をときどき通るけれど角の和菓子屋さんは健在だが、パール座はとうにつぶれてライブハウスになっている。
 中村忠二は、伴敏子と正式に離婚して練馬にアトリエをかまえているにもかかわらず、しばしば下落合の旧「我が家」を訪問している。それは、伴敏子が留守のときをねらって侵入していたようで、いろいろなものを貫井のアトリエへ運んでいたらしい。上野の展覧会で、偶然ふたりが出くわしたときの様子を、同書から再び引用してみよう。
  
 「しばらくね、今日は。お元気ですか。たまにはお気晴らしに、落合へも一杯やりにいらっしゃいよ、お二人で。貞子さんはお元気?」/と陽子は声をかけた。/留守を知りながら落合に行っては、柿を取って来たり、風呂に入ったりした忠二であった。面と向かってこんなふうに云われると、忠二は何となく慌ててどう答えたかも覚えがなく、別れた。/上村哲二の家のS連盟委員会の席上、忠二は陽子からやや離れたはす向かいに座を占めていた。横顔のやつれや人相が何となくみすぼらしかった。この人が私の良人であったのかと、陽子の心をひどくうそ寒い思いにした。
  
 「S連盟」とは、もちろん現在も存続している水彩連盟のことだ。「貞子さん」こと若い女弟子の愛人は、中村忠二が貫井にアトリエを設けた翌年、1956年(昭和31)の夏ごろにはさっさと逃げていってしまったらしい。前年の冬から、そんな予感がしていたものか、中村忠二が日記がわりに書き残していた覚書きには、「これにて完全に大方は清算され、自分は孤立となる」と書かれている。
 翌1957年(昭和32)11月には、自分のもとを去った愛人の弟子に、いまさらながらの「破門状」を発送しているようだ。言い換えれば、1年は待ったことになるだろうか……。同時に水彩連盟も脱退し、各地のギャラリーで個展や二人展(山本蘭村と)を中心に活動している。そして1年がすぎるころ、中村忠二は下落合へ捨て去ったはずの伴敏子のアトリエに、再び現れるようになる。
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 このとき、中村忠二は「復帰という仮定の心組みの前で或る不定の期間を、お互いに現在の状態でいてみる。その期間で復帰することが最上のことかどうかが、はっきりして来るであろう。その上双方が復帰を肯定する時に、そのことを決める」などと、若い女弟子に舞い上がり家出して離婚した男の言い草とは思えないようなことを書いて、伴敏子に6ヶ条の要求を突きつけている。残された彼の覚書きを、同書より引用してみよう。
 一、お互いに過去の一切を放棄して触れない
 一、健康と仕事を第一義とし、それを愛情の上に置く
 一、落合、貫井の家は現在のまま仕事場として保有する
 一、相互の財物は復帰と同時に共用とする
 一、戸籍の復帰はどうでもよろしいが将来財物の関係もあるから適当と思われる時に復帰しておくべきである
 一、別々の家に於ける双方の素行については、お互いを信用し、その信用を裏切らないようにする 要はさらっとした明かるい愛情の上で仕事に専念し、お互いの未来について、一つの安心感を持って行こうということにつきる
 芸術家のあるタイプには、救いようのない底抜けの非常識で愚かな側面があるのは、ひとり中村忠二に限らない。「(戸籍を)復帰しておくべきである」「お互いを信用し、その信用を裏切らないようにする」とは、どの面(つら)下げて元妻に要求しているのだろうか? しかも、大雨で貫井のアトリエが水害に遭い、困った挙句に下落合の元妻のアトリエを頼って、避難してきた際に出した6ヶ条の要求らしい。
 おそらく、伴敏子が憤怒にあふれた怖ろしい顔をしたのだろう、中村忠二は彼女の誕生祝いと称して財布から1万円札を出すと、彼女(陽子=伴敏子)の手に握らせた。ちなみに、給与換算指標に照らし合わせると、当時の1万円は今日の約20万円に相当する。
  
 忠二は陽子の誕生祝と、復帰祝のための宴会費用として、一万円を彼女に手渡して、/「僕は細い鎖の首飾りが好きだから、そういうのを買いなさい」/と云った。/また落合に帰る土産として洗濯機を買ってやると忠二は云った。洗濯機は落ち着いたら、二人で秋葉原あたりに買いに出ようということになった。忠二は月の半ばを落合で暮すようになるので生活費として月々三千円を出すことにすると云った。/この三千円は、以後十七年に亘って再度貫井に引き籠る昭和四十九年まで続いたのであった。
  
 1973年(昭和48)暮れの忘年会で、中村忠二は元妻が激怒する取り返しのつかない失言をしたようで、伴敏子は「貫井に引き籠る」と表現しているが、ついに下落合のアトリエを永久に追放された。1975年(昭和50)2月28日、中村忠二は貫井のアトリエで倒れ、急性心不全のため死去している。77歳だった。
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 戦後間もない1949年(昭和24)3月、中村忠二・伴敏子アトリエから北北東へ直線距離で280mほどのところ、西落合1丁目3番地に住んでいた料治熊太Click!が、ふたりのアトリエを訪問している。中村忠二は、料治熊太が出版した谷中安規の版画集を見て、のちに代表作のひとつとなる詩画集の刊行を思いついているようだ。
 練馬区立美術館で今夏開催中の、「生誕120年 中村忠二展―オオイナルシュウネン―」は7月29日(日)まで。それでは、またお会いできる日を、楽しみに……。

◆写真上:1946年(昭和21)の降雪日、自宅を南側から描いた中村忠二『雪の我が家』。
◆写真中上は、中村忠二・伴敏子アトリエ跡の現状。は、中村忠二が描いたアトリエ素描。下左は、2018年(平成30)夏に開催された「生誕120年中村忠二展―オオイナルシュウネン―」図録。下右は、1955年(昭和30)の第14回水彩連盟展で撮影された伴敏子(手前)と中村忠二(中央奥)。
◆写真中下は、1930年代に制作された中村忠二『不詳(畑)』で落合西部に拡がっていた畑地風景の可能性がある。は、1947年(昭和22)に制作された中村忠二『道』で同様に落合地域を描いた可能性がある。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる下落合4丁目2257番地の中村忠二・伴敏子アトリエ。
◆写真下は、1951年(昭和26)制作の中村忠二『霜の花』で下落合アトリエの庭先だろうか。は、1984年(昭和59)の空中写真にみる伴敏子アトリエ。伴敏子は1993年(平成5)に死去しているので、この撮影時はアトリエに「水彩連盟」の看板を掲げ画塾を開いていたはずだ。下左は、1960年代半ばごろに撮影された中村忠二と伴敏子。下右は、練馬区貫井にあった中村忠二の小さな平家アトリエ。
おまけ
セミたちがこの暑さで、一斉に地中から出てきたようです。写真の幼虫は、大きさからミンミンゼミの幼虫のようですね。
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