Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all 1249 articles
Browse latest View live

大阪1時間の滞在レコードを持つ徳山璉。

$
0
0
徳山璉邸跡.JPG
 8月15日というと、どうしても記事をアップしたくなります。単調でつまらなくて、ウンザリしているメンテ作業の息抜きに、ちょっと…。w 書きつづけていた習慣を突然やめると、なぜか書きたいテーマが二桁単位でたまってしまい、禁断症状が出ますね。
  
 わたしが旅行をした中で、目的地における滞在記録の最短レコードは、京都での3時間というのがある。もちろん仕事上の出張で、京都に事業所のあるクライアントの会議室でわずか1時間余の打ち合わせのあと、京都駅のカフェでひと休みしてから新幹線に飛び乗って東京へともどった。新幹線の中でも、ほとんどPCと向き合っていたから、旅行と呼ぶのもおこがましい“移動”だった。
 出張でもないのに、わたしよりも短い滞在時間のレコードを持っている人物が下落合にいた。下落合1丁目504番地(現・下落合3丁目)に住んだ、ビクター専属のバリトン歌手・徳山璉(たまき)Click!だ。ちょうど、中村彝アトリエClick!のすぐ北側、移動前の大正期に一吉元結工場Click!の職人長屋が建っていたあたりの一画に邸を建設している。
 徳山璉は17歳のとき、狂おしい想いを抱きながら東京駅から東海道線の夜行に飛び乗り、恋をした女の子を転居先まで追いかけて、早朝の大阪駅へと降り立った。駅前の公衆電話から、さっそく彼女の家へ連絡を入れると、やってきたのは彼女ではなく母親のほうだった。1935年(昭和10)に婦人画報社から刊行された「婦人画報」4月号に掲載の、徳山璉『春のモンタアジユ』から引用してみよう。
  
 僕は朝の大阪駅前に立つた。夜行で東京から来たのである。何故か腹が空いてゐた、途中一寸とも食べなかつたからである。/様子知らぬ駅前の公衆電話のボツクスに飛び込むと、僕はふるえる声でアル電話番号を呼ぶのであつた。暫くすると、その駅前の僕の方に向つて、彼女ではなく、彼女の母なる人が現れた。/『あの子の父が大変怒つてゐます。すぐに東京へお帰へりなさい』/『………』/滞阪レコード一時間に足らず、始めて踏んだ大阪の土地の水も飲まないで、僕は次の列車、上り列車の客となつてゐた。/涙がこぼれさうであつた。其処で僕は列車が止まる度びに弁当を買つたのである。癪にさわつて堪らなかつた、とうとう五つ弁当を食べた頃やうやく東京に帰へつて来た。/彼女に一言云ふどころか、影さへも見ないで帰へつて来た寂しいお腹の中には、東海道線のいろいろなお弁当がギツシリと詰つて胃壁を刺激するので、一層僕は悲しかつた。/その彼女が今では、妻となり、僕の子供の母となつて、精励これ努めてゐるのである。
  
 失意と駅弁の食べすぎの状態で東京駅にもどったあと、徳山璉は「若ければ啄ばむ果をも知らざりし唱ふ心は春なりし哉」という短歌を詠んで記念している。その後、なぜ東京と大阪で離ればなれになってしまった初恋の彼女が、いつの間にか徳山璉の連れ合いになっているのかは、書かれていないのでまったく不明だ。
徳山璉婦人画報193504.jpg
徳山璉.jpg キングレコード1939.jpg
 わたしは子ども時代を、湘南海岸Click!の真ん中あたりですごしているので、徳山璉のヒット曲というと条件反射のように、『天国に結ぶ恋』Click!(1932年)が思い浮かぶ。避寒避暑の別荘地・大磯駅Click!裏の坂田山で、服毒自殺した慶應大学の学生と深窓の令嬢との許されない恋を唄った坂田山心中事件Click!だ。「♪今宵名残りの三日月も 消えて寂しき相模灘~」と、わたしが子どものころまで、この歌を口ずさむ大人たちは、いまだ周囲にチラホラ存在していた。
 ちょうど、「♪真白き富士の根 緑の江ノ島~」と、逗子開成中学校のボート部の生徒たちが強風による高波で遭難Click!した『七里ヶ浜の哀歌』Click!(1916年)とともに、神奈川県の海辺ではいまだ“現役”で唄われていた歌だ。親に連れられ坂田山へ上り、ちょっと気味の悪い感覚で比翼塚Click!を目にしたのも、物心つくころだった。現在、坂田山心中の比翼塚は、海辺の明るい鴫立庵Click!に移されている。
 さて、戦争を経験されている方、あるいは敗戦後まもなく生まれ育った方は、徳山璉といえば日米戦争へ突入する前年、1940年(昭和15)に唄われた『隣組』Click!や『紀元二千六百年』などのほうが、圧倒的になじみ深いだろう。敗戦から、10年以上がたって生まれたわたしでさえ、これらの歌は親を通じて知っている。特に『隣組』のメロディーは、ドリフターズのテーマ曲やメガネドラッグのCMソングなどに使われているので、たいがいの方がご存じだろう。
 ♪とんとんとんからりと 隣組
 ♪格子を開ければ 顔なじみ
 ♪廻して頂戴 回覧板
 ♪知らせられたり 知らせたり
 明るいメロディとは裏腹に、同年の国家総動員体制や国民精神総動員運動のもと、近隣の相互監視と思想統制の密告・摘発・弾圧の仕組みとして、軍国主義のもと全体主義体制の推進を加速させた制度だ。あたかも「五人組」や「名主・差配・店子」などの制度と同様に、封建制の時代へと100年ほど時代を逆行させたかような「自治」組織であり、今日でいうなら北朝鮮の「人民班」とまったく同質のものだ。そもそも北朝鮮の「人民班」が、日本の「隣組」制度を模倣したとさえいわれている。
徳山璉「天国に結ぶ恋」1932.jpg
五所平之助「天国に結ぶ恋」1932松竹.jpg
徳山璉邸1938.jpg
 こちらでも、「隣組」制度によってJAZZレコードの存在を密告され特高Click!に検挙された事例をご紹介しているが、JAZZレコードなど聴いておらず、当局によりJAZZが禁止される日米戦の前に、家の外へ漏れていた音色からJAZZレコードの存在を類推できる家庭までが、「隣組」や「町会」などの組織の密告によって特高に摘発されている。中には、DGG(ドイツ・グラムフォン)のベートーヴェンやシューベルトのレコードさえ押収した愚かな事例さえあった。
 徳山璉は、そのほか『撃滅の歌』や『日の丸行進曲』、『大陸行進曲』、『太平洋行進曲』、『空の勇士』、『大政翼賛の歌』、『愛国行進曲』…etc.、日米開戦の直後、1942年(昭和17)1月に死去するまで一貫して軍部へ協力し、軍国主義を推進する歌を唄いつづけている。このあたり、4歳年下で同じく下落合にも住んだ淡谷のり子Click!とは対照的な歌い手だ。もし、3年後に大日本帝国が破産・滅亡するまで生きていたとしたら、そして戦後の「亡国」状況を目の当たりにしていたとすれば、いったいどのような感慨や思想的(芸術的?)な総括を行なっていたのだろうか。
 1945年(昭和20)5月17日に、米軍の偵察機F13Click!から撮影された落合地域の空中写真Click!を見ると、同年4月13日夜半の第1次山手空襲Click!からかろうじて焼け残った、下落合1丁目504番地の徳山邸を確認することができる。また、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!でも、同邸はなんとか延焼をまぬがれて焼け残った。敗戦直後の空中写真を見ると、延焼の炎舌はわずか10mほど北側の隣家で止まっているように見える。
徳山璉邸1947.jpg
徳山璉「隣組」1940.jpg
日本蓄音機商会1912.jpg 大蓄商会1928.jpg
 徳山璉が敗戦時まで存命で、自邸がかろうじて焼け残った様子を見たら、「幸運だ」ととらえただろうか? それとも、焼け野原が拡がる周囲の下落合を呆然と眺め、さらに焦土と化した東京の市街地を望見して、「日本史上でかつてない、初の亡国を招来した最大の政治的失策であり不幸だ」と、はたして気づいていただろうか?
 まったく関係のない余談だが、いつか熊本県菊水町のトンカラリン古墳群Click!に出かけてみたい。侵入してきたヤマトを迎撃した伝承や、卑弥呼(フィミカ)との深い関連も指摘される、邪馬壱国(邪馬壹国)の有力な候補地のひとつだ。

◆写真上:下落合1丁目504番地(現・下落合3丁目)の徳山璉邸跡(奥右手)の現状。
◆写真中上は、1935年(昭和10)発刊の「婦人画報」4月号に掲載された徳山璉『春のモンタアジユ』。下左は、昭和10年代の徳山璉。下右は、1939年(昭和14)発行の「主婦之友」に掲載されたビクターではなくキングレコードの広告。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に発売された徳山璉・四谷文子『天国に結ぶ恋』。は、同年に松竹系で公開された五所平之助・監督の『天国へ結ぶ恋』。は、1938年(昭和14)作成の「火保図」にみる林泉園近くの徳山璉邸。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる徳山璉邸。は、1940年(昭和15)に発売された徳山璉『隣組』。下左は、蓄音機が「嫁入道具」などといわれて高級品だった1912年(明治45)の日本蓄音機商会の媒体広告。下右は、「大衆的製品」となった1928年(昭和3)のナポレオン蓄音機こと大蓄商会の媒体広告。それにしても、後者の「だいちくしょうかい」という社名は、もう少しなんとかならなかったものだろうか。
おまけ
 御留山に飛来した、おそらく渡りをしない東京定住組と思われるアオサギ。
アオサギ.JPG

下落合が舞台の『バラ色の人生』?

$
0
0
落合橋から上流.JPG
 ……ということで、またひとつオマケ記事Click!です。w
  
 1973~74年(昭和48~49)という年は、目白崖線沿いの下落合から下戸塚にかけ、映画やTVドラマの撮影が集中していた時期のようだ。下落合では、こちらでも何度かご紹介している日本テレビ開局20周年記念ドラマの『さよなら・今日は』Click!のロケが行われており、少し下流の下戸塚から関口にかけては映画『神田川』Click!(監督・出目昌伸/東宝)が、まったく同時期に撮影されている。
 ロケ場所が新宿区なら、映画会社やTV局、撮影所などからそれほど離れてはいないし、俳優たちを長時間にわたり拘束する必要もなく、移動などでも効率的かつコスト的に有利で、またスケジュールが詰まっている人気俳優を起用するのも、さほど困難ではなかったのだろう。そしてもうひとつ、同じ時期に下落合でロケが行われたらしい作品があるのを見つけた。1974年に放映された、木下惠介の『バラ色の人生』(TBS)だ。
 木下惠介は、親父が好きだった映画監督のひとりだが、木下惠介アワーと呼ばれたTV作品も親父はよく観ていたような気がする。わたしが子どものころ、いちばん印象に残っているのは進藤英太郎の『おやじ太鼓』(1968~69年)だが、他の作品は子供には“地味”すぎるのか観た憶えがない。わたしの記憶に残る作品というと、向田邦子Click!と組んだ木下惠介・人間の歌シリーズの1作『冬の運動会』(1977年/TBS)ぐらいだろうか。
 木下惠介のドラマをあまり観なかったのは、俳優たちの台詞や動作、表情のみで物語を展開し、登場人物の思いや心の機微、行動などの解釈を視聴者へ全的にゆだねるのではなく、やたら状況や心理を“絵解き”するナレーションが多いクドさと、その言葉づかいの野暮ったさからだったように思う。
 たとえば、『冬の雲』Click!(1971年)ではこんな具合で、かなり大げさかつ「大きなお世話」ナレーションに、もはやついていけない。むしろ、俳優の台詞よりナレーションのほうが多いのではないかとさえ思えてくる。「一度はほぐれそうに見えた感情は再びもつれたまま、夏に入る日のそよ風は、桐原家の居間に何を語りかけるのか?」……などという芦田伸介のナレーションで“つづく”になったりすると、「だからだから、なにがど~したってんだよう?」と反発さえおぼえるのは、わたしのひねくれた性格のせいなのかもしれない。主題歌も仰々しく、とても1970年代の作品とは思えないし、だいたい電話がかかってくるときの田村正和を中心にした、あの家族全員の立ち位置はいったいなんなんだよう!?……と、キリがないのでこのへんでやめるけど。w
神田川と富士女子短期大学.jpg
バラ色の人生タイトル.jpg
 さて、そんな苦手な木下惠介のドラマなので、もちろん『バラ色の人生』Click!(1974年/主題歌Georges Moustaki「私の孤独」)もまったく観ていない。でも、ネットでそのタイトルバックを観たとき、下落合を流れる神田川で撮影されたとみられる映像が目にとまった。どのようなドラマなのか調べてみると、美術学校へ通う版画家をめざす画学生の物語で、寺尾聰や香山美子、仁科明子、森本レオ、草笛光子などの俳優が出演しているらしい。画学生は、川沿いの古いアパートに住んでいるようだが、どうやら美校生というシチュエーションの設定からして、落合地域の匂いがする。
 タイトルバックに使われている川のシーンは、いずれも汚染がピークになったころ、1970年代半ばの神田川Click!をとらえたものらしく、その水辺風景の最後近くに挿入されているカットは、まちがいなく下落合1丁目11番地にあった工場の敷地から、低い落差の堰堤が連なる神田川の水面近くにカメラをすえて撮影されたものだろう。カットの中には、下水から流れこむ生活排水で泡立っている川面が登場したりもするが、毎夏に子どもたちが川遊びや水泳を楽しめ、アユが遡上する水質にまで回復した今日の神田川Click!からみれば、まるで悪夢の情景を見ているようだ。
 では、画面に映されているものを具体的に検証してみよう。まず、川面には手前と奥に、ふたつの低い堰堤(流れの段差)がとらえられている。手前が下落合1丁目11番地、流れのカーブの奥が同1丁目12番地の南側に位置する神田川の堰堤で、画面からおわかりのように下流から上流を眺めている。画面中央に映っている小さな橋は、滝沢さんが設置した私設橋(通称「滝沢橋」Click!)で、1974年の当時はクルマは通れず、人間だけが往来できる狭くて小さな橋だった。その橋を渡った右手には、園藤染工場の建屋と煙突があるはずだ。正面奥に見えている鉄塔状のものは、西武線・下落合駅近くの鉄道変電所に設置された高圧線鉄塔Click!の一部で、高圧線(谷村線)はここからさらに終端となる田島橋Click!の南詰め、東京電力の目白変電所Click!へと向かう。
バラ色の人生1974.jpg
神田川妙正寺川1968.jpg
神田川妙正寺川1963.jpg
 神田川の左手は、高い塀に囲まれた工場ないしは倉庫のあったエリア(高田馬場3丁目)で、その建屋のすぐ南側には戸塚第三小学校Click!が建っている。落合地域や上戸塚地域にお住まいの方なら、もうおわかりかと思うが、画面には映っていないすぐ右手の枠外には、妙正寺川の合流点が口を開けていたはずだ。つまり、神田川のこの位置は、「落合」という地名が生まれる端緒となった、北川Click!(現・妙正寺川)と平川(旧・神田上水→現・神田川)が合流する地点の川面をとらえたものだ。画面右手に隠れている妙正寺川の河口では、すでに分水路の暗渠化工事に備えた住宅や工場の解体作業が、あちこちでスタートしていたかもしれない。
 当時の神田川は、水量が少ない夏季や冬季などは、両岸にコンクリートの川底が斜めに露出するような構造をしていたが、雨でも降ったのか映像の水量は少し多めなので、水面に近いカメラはクレーンで吊り下ろしているのかもしれない。あるいは、下落合1丁目11番地の工場敷地内に、川面近くへと降りられるハシゴ、ないしは小さなテラス状の設備でもあったものだろうか。
 タイトルバックに下落合の映像を見せられると、がぜん画学生を主人公にしたドラマの内容が気になるけれど、『バラ色の人生』は残念ながらBD/DVD化されていない。ネットにアップされた映像からは、どうやら最終回に草笛光子が急死してしまうネタバレの経緯と、タカラの「リカちゃん」(香山リカ)人形のモデルである香山美子がキレイだなぁ……ぐらいしかわからない。とりあえず、大きなお世話の妙なナレーションが聞こえてこないのはなによりだ。
滝沢橋から下流.JPG
香山美子.jpg
神田川妙正寺川1975.jpg
 木下惠介は1933年(昭和8)、落合町葛ヶ谷660番地(のち西落合2丁目596番地)にあった、オリエンタル写真工業Click!が運営するオリエンタル写真学校を卒業している。そのころから、すでに落合地域には馴染みがあったのかもしれない。ちょうど同じころには、長崎町大和田1983番地のプロレタリア美術研究所Click!(のちプロレタリア美術学校Click!)へ、黒澤明Click!が通ってきていたのが面白い。なにかと比較されるふたりの映画監督だけれど、ふたつの学校は直線距離でわずか1,000mほどしか離れていない。

◆写真上:落合橋から、上流にある撮影地点の方角を眺める。堰堤上の右手に見える、茶色いむき出しの鉄骨あたりが、神田川と妙正寺川の合流点だった跡。
◆写真中上は、1980年代に撮影された下落合を流れる神田川。宮田橋から下流をとらえたもので、左側と正面に見えているビルは富士女子短期大学(現・東京富士大学)の時計塔と旧校舎。は、木下惠介の『バラ色の人生』タイトルバック。
◆写真中下は、タイトルバック映像に映るものたち。は、1968年(昭和43)に撮影された同位置の写真。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる撮影位置と画角。
◆写真下は、滝沢橋から下流の撮影位置方向を眺める。サクラ並木が繁っていてわかりにくいが、左手に妙正寺川の河口跡がある。は、同ドラマに出演しているシャキシャキとして好きな女優のひとり香山美子。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる撮影場所。すでに妙正寺川を神田川に合流させない暗渠化工事がスタートしており、周辺の環境は大きくさま変わりしようとしている。
おまけ
近所で空を見ていたら、「おや、あの影は?」ということで追いかけてみると、やはり大きなオニヤンマだった。今度は、琥珀色の翅が美しいギンヤンマを撮ってみたい。
オニヤンマ空.jpg
オニヤンマ.jpg

江戸東京人の「4つのお願い」プロジェクト。

$
0
0
日本橋1.JPG
 この夏、日本橋「復活」のニュースがとどいたので急遽、記事を書いてみたくなった。
  
 別に親父は、ちあきなおみの歌が好きだったわけではなさそうだけれど、戦後は「♪4つのお願い聞いて~」の運動や活動へ取り組み、積極的にかかわってきた。(わたしも、及ばずながらそうしているが) その「4つの願い」とは、薩長政府の大日本帝国が滅亡した1945年(昭和20)以来、戦前から、いやおそらく明治期も含めた先祖代々一貫してつづく、江戸東京人のフリーメイソン的な友愛組織Click!をベースに、江戸東京ならではの文化や風情を復活させる運動や活動への取り組みだった。
 もっとも、表には目立たないフリーメイソン的な「地下組織」などなくても、いまや江戸期からつづく地付きの江戸東京人の人口は増えつづけ、250万~300万人(東京23区の人口の26~31%)ともいわれているので、地元民が結束して「大江戸ファン」の同調者や協力者をあまねく含めれば、親父の世代とは比べものにならない相当な活動力や事業力、そして機動力を発揮できるだろう。
 それらのテーマには、明治期から延々とつづいてきた課題もあった。ひとつめは、もちろん江戸東京総鎮守である神田明神社Click!へ、下落合の将門相馬家Click!ともゆかりの深い平将門Click!を主神へ復活させる運動だ。この活動は長く戦前からつづいていたが、戦後はさらに激化して神社本庁へヒートアップしたデモ隊が押しかけ、あわや討ち入り・打(ぶ)ちこわし寸前になったというエピソードさえ聞いている。そして、平将門は1984年(昭和59)、およそ100年ぶりに神田明神の主柱へと復活している。(薩長政府が勧請したスクナビコナは、あえて追放Click!しなかったようだ)
 ふたつめが、1732年(享保17)に徳川吉宗Click!が伝染病と飢饉の厄落としとしてはじめた、両国花火大会Click!の復活だった。戦後、1961年(昭和36)から1977年(昭和52)までの16年間、大橋(両国橋)Click!の周辺はビルや商店、住宅などの稠密化による火災の危険や交通渋滞、大川(隅田川)Click!の汚濁による不衛生などを理由に、両国花火大会は中止されていた。この間、日本橋や本所などの地域をはじめ大橋(両国橋)周辺域の人々は、花火復活の運動を絶え間なくずっとつづけていた。だが、消防署の認可がどうしても下りずに、中止から16年もたってしまった。
 しかし、元祖の大橋(両国橋)ではなく、やや上流の駒形橋と言問橋付近で1尺玉以下の打ち上げ花火での開催が認可され、1978年(昭和53)の夏に、1732年(享保17)から1961年(昭和36)までつづいた「両国花火」Click!(戦時中は一時中断)という名称ではなく、「隅田川花火大会」という名前に衣替えして再開されている。ちょうど、わたしが学生時代に復活した大川の花火大会に、親父は「両国花火じゃなくて残念だ」といってはいたが、TVの中継を観ながら目をうるませていた。
 親父が生きていた時代に、かねての「4つの願い」のうち実現できたのは、上記のふたつだけだった。親父が願った3つめのテーマとは、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!では、日本橋区が空襲とその延焼に巻きこまれたとき、ひとつの大きな避難目標Click!にしていた東京駅舎についてだ。親父の言葉をそのまま借りれば、「東京駅を元どおりにすること」だった。同年5月25日夜半の空襲で、東京駅はレンガの外壁を残してほぼ全焼している。戦後に応急措置として再建された駅舎は、建築・土木が専門Click!だった親父にしてみれば、「ぶざまな姿になっちまって」ということだったのだろう。
 自身が見慣れた東京駅舎とは、ほど遠い姿になってしまった駅舎を復元することが、次の大きな“目標”になっていたにちがいない。だが、東京駅の復元は今世紀に入ってから具体化しており、2007年(平成19)の起工時に親父はすでに他界していなかった。あと15年ほど長生きをすれば、親父がいつも目にしていた、そして東京大空襲のときには逃げのびてホッと見上げた、東京駅の姿を眺めることができたのに……と思うと残念でならない。
神田明神.JPG
両国花火1950年代.jpg
両国花火.JPG
 「4つの願い」の最後は、もうおわかりの方も多いと思うが、もちろん江戸東京の中核である日本橋Click!の「復活」だ。日本橋は、もちろん19代目の石橋として現存するのだけれど、ここでいう「復活」とは、地元の反対にまったく耳を貸さず、1964年(昭和39)の東京五輪のドサクサにまぎれて「いけいけどんどん」Click!(小林信彦)で工事を強行した、犯罪的な首都高速道路をなくして日本橋の景観を元にもどす……という意味合いで使われている。親父は、このテーマにもっとも肩入れをしていたけれど、おそらく「4つの願い」の中ではもっともリアリティが希薄なテーマに感じていただろう。
 しかし、ようやく今年(2018年)の7月、2020年に開催予定の東京五輪の直後2021年より、ぶざまな高速道路を取っ払(とっぱら)って「復活」への工事がスタートすることに決定した。日本橋川の上に架かる首都高を、すべて解体して地下化するという工事計画だが、総事業費3,200億円がかかるという。このうち、2,400億円を“主犯”である首都高速道路(株)が負担し、残りを東京都と中央区、地元企業が各400億円ずつ負担するという事業計画だ。ある地域や街のアイデンティティが営々とこもる歴史的文化財や記念物、景観などを地元の声に耳を傾けることなく、なんの考慮や配慮もせずに「開発」(=破壊)すると、あとでどれほど高いツケがまわってくるかの典型的な見本だろう。事業の推進は、国土交通省に設置されていた検討会が主体となっている。
 工期は、いまだ調査段階でスケジュールがフィックスできていないが、2021年にスタートする工事は早くて10年、つまり2031年には地下高速道路が竣工すると見こんでいる。ただし、なんらかの理由で工事が遅延したりすると最長で20年、2041年までかかるとしている。前者の2031年なら、わたしはまだなんとか生きていられるかもしれないが、2041年となるとちょっと怪しい。そのかわり、東京駅舎の「元どおり」がそうだったように、わたしの子どもや孫の世代が確実に目にすることができるだろう。きちんとした本来の美しい日本橋の姿を、幼児期のおぼろげな記憶しかないわたしとしても、ぜひもう一度眺めてみたいものだ。
東京駅(戦後).JPG
東京駅空襲.JPG
東京駅.jpg
 さて、親父の世代までは「4つの願い」だったが、わたしの世代ではもうひとつ、大きなテーマが加わっている。これも、かなり昨今はリアルかつ話題にもなってきているので、東京にお住まいの方ならピンとくるだろう。もちろん、城郭としては世界最大の規模を誇る、千代田城の天守復活だ。防災とからめた一部外濠などの復元は、数寄屋橋の復活を視野に入れているとみられる銀座通連合会Click!などにおまかせすることにして、江戸期の早い時期(1657年の明暦大火)に焼けてしまい再建されなかった、千代田城の中核にあたる日本最大の天守をぜひ復元したい。
 千代田城は、江戸幕府が開かれてから建設されたと思われている方が多いが、同城は三方を海に囲まれたエト゜(鼻=岬)の付け根近くに位置する柴崎村西部の千代田(チオタ・チェオタ)地域へ、1457年(康正3)に太田道灌が「江戸城」Click!を築いたのがはじまりであり、現代までつづく最古クラスの城郭でもある。現存する天守台は、実際に天守が築かれていた時代から多少は加工されているが、それを元どおりにして日本最大(高さ約61m)の天守を復元し、日本橋とともに江戸東京のシンボルにしたいのだ。
 現在、内濠内には天守台を含む本丸、二ノ丸、三ノ丸、北ノ丸が公園として開放されているので、できれば天守の復活にからめて本丸の一部復元も視野に入れ、外濠域も含めた城郭全体の規模を、もう一度ちゃんと規定し位置づけしたい。そうすれば、「なにもない荒野にオフィス街を創出したのは三菱」などという、いまや250万人を超えるとみられる江戸東京人の神経を逆なでするような、三菱地所レジデンスのCM(荒野じゃねえし! お城つづきで文字どおり“丸ノ内”の大名小路の屋敷群を壊して燃やし、「荒野」化=陸軍演習地化したのは薩長政府だろうが)のような、この街の歴史を踏まえぬデリカシーのないキャッチフレーズやコピーは、江戸東京の地元で「創出」されなくなるにちがいない。
日本橋2.JPG
千代田城天守台.JPG
千代田城再建.jpg
 外壁が白と黒のツートンカラーだった巨大な千代田城天守Click!は、江戸東京の(城)下町Click!ならではのシンボルとして機能するばかりでなく、おそらく「世界最大の城郭」と「日本最大の天守」は、社会的なリソースとして海外から見れば日本観光の大きな目玉となるにちがいない。わたしが生きているうちの復元はおそらく無理だろうが、できればコンクリート構造の建築ではなく木造による天守復元へチャレンジしていただき、本丸も含めた「日本最大の木造建築」の復活も視野に入れていただければと思う。

◆写真上:10~20年後には、確実に消滅することになる日本橋上の首都高速道路。
◆写真中上は、1984年から平将門が主柱に復帰している神田明神社。は、1950年代に撮影された両国花火大会。は、同大会で打ち上げられていた3尺玉。
◆写真中下は、1947年(昭和22)に応急修復される東京駅。は、空襲の焼け跡がそのまま残る同駅舎内。は、ようやく65年ぶりに復元された東京駅。
◆写真下は、日本橋川から眺めた日本橋の中央部で2011年(平成23)の大洗浄から石組みの色は明るい。は、ひとつが人の背丈ほどもある築石が積み上げられた千代田城天守台の一部。は、平川濠に架かる北桔橋門ごしに眺めた千代田城天守の復元図。

100年の時を超えて出現するお化け。

$
0
0
墓地のある坂道.jpg
 本日、拙ブログへの訪問者がのべ1,600万人を超えました。いつもお読みいただき、ありがとうございます。地味なメンテナンス作業にもウンザリ気味ですので、しばらく記事をつづけて書いてみたいと思います。あまり秋が深まらないうちに、この夏書きそこなった落合地域の近辺で語られつづける、100年越しの怪談から……。w
アクセスカウンター20180914.jpg
  
 2014年(平成26)に角川書店から出版された『女たちの怪談百物語』(角川文庫)の中に、落合地域の西隣り、新井薬師駅の周辺で起きた妖怪譚が収録されている。脚本家で作家の長島槇子が、学生時代に下宿していたアパートで体験した怪談だ。大学1年生のときの体験というから、おそらく1970年代の初めごろのことなのだろう。
 収録されているのは、百物語のうちの第22話で長島槇子『人間じゃない』というエピソードだ。当時、彼女は新井薬師駅から徒歩15分ほどのところにあるアパートの1階に住んでおり、アパート前の接道は坂になっていた。その坂道の両側には、墓地が拡がっているような環境だった。アパート周辺の状況を、同書から少し引用してみよう。
  
 (前略)アパートの前は坂道なんですが、両側が墓地だったんですよ。坂の上から見下ろすと、塀ごしに墓が見える。片側は道に面して家が並んでいるんですが、その裏はやっぱり墓地なんですね。とにかく墓場だらけの所なんですよ(笑)。/アパートには共同の水場があって、当時の学生は洗濯機なんかなかったから、タライで洗濯していたんですが、その水場から建物の裏を抜けて、墓地に入って行けました。
  
 駅から女性の足で15分ぐらいの距離で、坂道の片側に塀がつづき、その向こう側に墓地が見えるが、反対側につづく住宅のうしろ側もまた墓地だ……という風情を聞けば、新井薬師駅の周辺に住んでいる方なら、「ああ、あそこだね」と思い当たる人も多いだろう。中野区の口承伝承の中でも、かなり「怪異・霊異」の説話が多く語られ、中野区教育委員会によって多くの伝承が記録されている某寺の近くにある坂道だ。
 学生だった彼女は、訪ねてきた学友のUさんとアパートで酒盛りをはじめるが、酔いがまわったところでUさんが墓場へ遊びにいこうといい出す。ふたりで墓場を一巡したあと、部屋にもどってみるとUさんの手が切れて出血していた。軽傷だったが、友人は「バチが当たった」と一言いうだけで、ふたりともすぐに寝てしまった。そのまま、当日はなにごとも起きずにすぎたが、友人が帰った翌日の夜のこと、ベッドで寝ていた彼女は夜中に目をさました。窓際に置かれた机のほうを見ると、椅子に白い影が座っている。
  
 ぼんやりと白く見えているだけなんですが、それが子供で、女の子で、おかっぱ頭でスカートをはいている、ということは分かるんです。/目が離せないで見ていると、その子がこちらを向き始めた。椅子は背もたれのある回転椅子だったんですが、首だけが、私の方に向いてくる。/ゆっくりと、首をひねって向いてくるのが、たまらなく恐いんですけど、やめてとも、キャーとも声が出せなくて、ただ、見ている他ないんです。/真っ白な顔でした。髪の毛も白くて、顔も白い。正面を向いた、その子の顔が……人間じゃない……。/目も鼻もなくて口だけの顔でした。その口も、耳まで裂けていたんです。(中略) 『お歯黒べったり』という妖怪に似ています。貉が化ける『のっぺらぼう』とも合致します。目も鼻もない顔の、耳まで裂けていた口を、今でも思い出せますから、夢ではなかったと思います。
  
絵本百物語「お歯黒べったり」1841.jpg
恋川春町「妖怪仕内評判記」1779.jpg
 髪の毛はおかっぱで、スカートをはいた女の子というかたちは、少なくとも大正期以降の風俗をしている「お化け」ということになりそうだ。書かれている、江戸期に多く出現した「お歯黒べったり」や「のっぺらぼう」とは風俗が合致しない。ただし、これらの妖怪たちが時代々々に合わせコスチュームを取り替える、つまり積極的に「現代風」のファッションを身にまとい、着替えを楽しみながら人々を脅かすために出現している……というなら話は別だ。
 実は、これと似たような怪談話が、長島槇子の住んでいたアパートの周辺一帯で、幕末ないしは明治初期にかけて語られていたことが、中野区教育委員会が作成した地元の資料に記録されている。もっとも、江戸時代が終わったばかりのころのその「お化け」は、家の中にではなく近くの川の橋の上に出現している。もし、長島槇子が暮らしたアパートの近くの川に出現しているとすれば、ほどなく落合地域へと流れこむ北川Click!、もちろん現代の妙正寺川Click!ということになる。
 1987年(昭和62)に中野区教育委員会が出版した報告書冊子、『口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』からさっそく引用してみよう。語っているのは1902年(明治35)生まれで、上高田の北側に位置する江古田地域に住んでいた男性だが、その父親の世代が体験した話だ。「お化け」が出現したのは江古田地域の橋とは限らないと、わざわざ最初に断りを入れてから話しはじめている。ちなみに、中野区教育委員会ではこのお化けのことを「口裂け女」と名づけている。w
水木しげる「お歯黒べったり」.jpg
日本民話の会「口裂け女」.jpg Slit Mouth Woman in L.A.2016.jpg
  
 ある晩ですねぇ、月夜の晩に、橋の上にですねぇ、耳の方まで裂けたね、婦人がねぇ、このぅ、なんていいますか、髪をすいてたっていうんですよ。橋の上で。それで、そこ行けない、渡って帰れなかったっていうんです。その人が。父の友人ですから。なに、どうして、そのね、ああいうとこに夜中にね、婦人が出てましてね、髪をすいてるんだろうって。/それは、髪をすいてたってことは、後の話なんですけども。最初はね、ここまで、耳まで口が裂けていて、それで、乱れ髪の、こう、髪がね、綴じてなくって。それで、橋の、ちょうどま上でね、やってたっていうんです。そういうのを遠くから見て、そこを通らなくっちゃ帰れないんで、ずいぶん立ち止まっちゃったそうです。その人が。
  
 橋を渡らなければ帰れない、つまり江古田村にある自宅へ帰宅できないとすれば、もちろんこのお化けは江古田村内の橋に出現しているのではない……という解釈が成立する。また、長島槇子がアパートで目撃したおかっぱ頭の「女の子」と、明治初期の橋の上に出現した乱れ髪を櫛でとかす「婦人」とは、年齢的にまったく一致しない。だが、これらの耳まで裂けた口をしている女が、幽霊ではなくお化け=妖怪のたぐいだと想定すれば、あながち不思議でも不可解でもないことになる。
 妖怪変化(へんげ)であれば、出現する場所や時代に合わせ、あるいは脅かす相手に応じて柔軟に変化自在であり、相手が若い男であれば近づいて注視するよう「妙齢の婦人」に化けて髪をとかし、相手がひとり暮らしの女子学生であれば、当時、少女マンガで流行っていたへび少女Click!風の「怖い女の子」に化けては勉強机の前に座っていたりする……。
光徳院太子堂.jpg
三代豊国墓.jpg
 しこたま酔っぱらって学友と墓場で遊んだ長島槇子は、江戸期から延々と同地域に棲みついている「お歯黒べったり」あるいは「のっぺらぼう」、現代風の名称でいうなら「口裂け女」(中野区教育委員会)に類似する妖怪に見とがめられ、二度と墓地の静寂を破らないよう戒めや教訓を与えようと脅かされているのかもしれない。ひょっとすると、その妖怪は彼女がもっとも怖がるシチュエーションを研究し、アパートの部屋にあった「少女フレンド」に掲載の、楳図かずおの作品かなにかを参考にしているのかもしれない。

◆写真上:新井薬師駅からしばらく歩いた場所にある、墓地に面した坂道のひとつ。
◆写真中上は、1841年(天保12)に出版された桃山人『絵本百物語』の中に登場する「歯黒べったり」。は、1779年(安永8)に出版された恋川春町『妖怪仕内評判記』に掲載の口だけがついた「のっぺらぼう」に近似した妖怪。
◆写真中下は、水木しげるが描く妖怪「お歯黒べったり」。下左は、日本民話の会Click!・監修で2005年(平成17)に出版された「口裂け女」が登場する『学校の怪談/三』(ポプラ社)。下右は、最近はロサンゼルスまで出張してご多忙な「口裂け女」さん。『Slit Mouth Woman in L.A.』(2014年)より。
◆写真下は、上高田の光徳院にある太子堂。は、同じく上高田の萬昌院功運寺にある浮世絵師の初代豊国・二代豊国・三代豊国(歌川国貞)の墓。

雑司ヶ谷で結婚した正宗得三郎。

$
0
0
正宗得三郎「河港」1911.jpg
 二科会の「重鎮」といわれた正宗得三郎Click!が、若いころ高田村雑司ヶ谷で暮していたことが判明した。ちょうど日本画家になるのをやめ、東京美術学校Click!の西洋画科を卒業したあと、1909年(明治42)に初めて文展へ入選したころのことだ。しかも、雑司ヶ谷で寄宿していた先は、のちに高田町の町長をつとめることになる海老澤了之介Click!の新婚家庭だった。
 正宗得三郎というと落合地域の南西、豊多摩郡大久保町西大久保207番地に住み、大久保文学倶楽部に所属して南薫三Click!藤田嗣治Click!三宅克己Click!小寺健吉Click!、中澤弘光らとともに大久保で洋画展覧会を開催していたのは、こちらでもすでにご紹介している。また、曾宮一念Click!とも交流があったらしく、彼のエッセイには何度か訪問先として登場していた。
 正宗得三郎が海老澤家に寄宿していたのは、1909~1910年(明治42~43)ごろのわずか2年間のことで、このあと彼は結婚式を故郷で挙げるために1910年(明治43)の秋、岡山県和気郡伊里村へと帰省し、再び上京すると同年11月には妻とともに西大久保207番地の借家へ落ち着いている。
 正宗得三郎が海老澤家に寄宿していたとき、海老澤夫妻には子どもが生まれたばかりで、後藤徳次郎邸の門前に拡がる芝庭に、老母の隠居家つづきの2階家を建ててもらって住んでいた。明治末の地番でいうと高田村(大字)雑司ヶ谷(字)中原730番地、大正末には高田町雑司ヶ谷御堂杉733番地、1932年(昭和7)からは豊島区雑司ヶ谷5丁目732番地(現・南池袋3丁目)となる区画だ。当時の様子を、1954年(昭和29)に出版された、海老澤了之介『追憶』(私家版)から引用してみよう。
  
 かうした生活のさなかに、どうした事からか、二科会の元老正宗得三郎君が、私の所に暫時止宿して居た事があつた。同君は未だ独身時代で、今の様な名声も無く、純情朴訥な画家でありながら一切が無造作で、まことに愛すべき人柄であつた。彼が、ブラブラして居ると、手を離しかねる仕事をしている妻が「正宗さん、赤ん坊を抱いてちやうだいよ」と言ふ、ぶつきら棒な正宗君は「僕は赤ん坊嫌ひです」と一応言ふものゝ、再度の要請で、しぶしぶ両手を不器用に赤ん坊の方へ差し出す、妻がその上に乗せてやると、そのまゝの姿勢で前の芝生を一周する。両腕に赤ん坊を捧げて居る様な恰好であるから、直ぐくたびれてしまつて「奥さん、くたびれました」と誠に困つた様な顔つきで言ふが、その時も矢つ張り、前と同じ姿勢なのであつた。どうも正宗君は赤ん坊の抱き方を知らなかつたやうだ。この場面や、困却した彼の顔を回想すると、自づ(ママ)と微苦笑せざるを得ない。しかし彼も、間もなく私の中二階で、千代子さんと言ふ新妻をめとることとなり、又しても赤ん坊を抱かなければならない羽目とはなつた。
  
 故郷岡山での結婚式とは別に、正宗得三郎・千代子夫妻の東京での結婚披露宴は、海老澤家の中2階で行われたのがわかる。

海老澤家1909.jpg
雑司ヶ谷中原730番地1910頃.jpg
海老澤邸1910.jpg
 明治末から大正初期にかけ、海老澤家を含む雑司ヶ谷の後藤徳次郎の屋敷は、樹齢400年ほどのケヤキやスギの森に囲まれており、山手線の池袋停車場Click!まで田畑や林が拡がるような情景だった。武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)はいまだ敷設されておらず、池袋停車場で降りた観光客たちが雑司ヶ谷鬼子母神Click!とまちがえて、後藤屋敷を訪れるような風情だった。後藤屋敷の前に拡がる芝庭だけで数百坪はあったというから、おそらく後藤徳次郎の屋敷地はゆうに1,000坪を超えていたのだろう。屋敷の北東にかけて、ようやく市街地が形成されるような時代だった。
 さて、ここで少し横道にそれるが、後藤徳次郎邸=海老澤了之介邸周辺の字名が、少なくとも明治末まで「中原」と呼ばれていた点に留意したい。本記事に掲載した1/10,000地形図でも「中原」の字名が収録されているが、この字名は大正期(高田町が誕生した1920年ごろか)には「御堂杉」に変わり、「中原」という字名は池袋駅の西側、西巣鴨町大字池袋の立教大学周辺で存続していく地名となる。
 そこで、佐伯祐三Click!「踏切」Click!に描かれた看板に見える「中原工〇」Click!は、立教大学周辺の(字)中原ではなく山手線の東側、すなわち後藤徳次郎の屋敷があった周辺の(字)中原で、早い時期から操業していた工場である可能性があることだ。以前、同様の記事を書いたときは、山手線の西側の(字)中原界隈を探索していたが、新たな事実が判明したので山手線の東側一帯(現・南池袋界隈)にも注意を向けてみたい。この課題について、新たな事実が判明したらさっそくご報告したいと考えている。
 1910年(明治43)11月、正宗得三郎が西大久保へ落ち着くと、海老澤了之介Click!は盛んに彼の仕事を支援したり、面倒をみたりしていたようだ。正宗得三郎から海老澤了之介にあてた手紙が現存しているので、つづけて引用してみよう。
正宗得三郎(卒制)1907.jpg 正宗得三郎(晩年).jpg
海老澤邸1926.jpg
正宗得三郎「白浜の波」1938頃.jpg
  
 先日は態々御出下されしも、不在にて失礼致し候、本日洋服店へ参り、インバネスの表地は貴兄と御同様に致し候、裏地はシユスに致し、代価十五円にて注文候、尚オーバー十七円にて注文候、油絵御周旋有難く候、肖像は、一度御本人に面会の上写真拝借致し候方都合宜敷、又似る点に於ても、写真の方宜敷く、色は、一度会えば大抵解り申し候、右の都合故、貴兄の御都合宜敷時、御一報下されゝば、小生は何日にても参る可く候、尚静物は何かの二十号なれば、御送付致し置きても宜敷候、代価は、額縁つき、五十円か六十円なれば結構に候、一時払ひでなくも、ニ三度にても宜敷く候、これより小さきもの、要求に候はば、至急、写生致すべく、右御聞かせ下され度く候/二伸 実業の日本社の御方、住所御通知合せて御願ひ申上げ候、本日実は千代子差上げ申す筈の所、少々用事出来、右手紙にて御尋ね申上げ候
   明治四十三年十一月十六日      府下西大久保二百七  正宗得三郎
  
 インバネスClick!やオーバーを注文しているところをみると、海老澤が馴染みの洋服店を正宗に紹介してあげたのだろう。このとき描かれた肖像画は、大蔵省醸造試験所の所長だった『桜井鉄太郎像』のことであり、静物画を欲しがっている「実業の日本社の御方」とは、海老澤了之介が早稲田大学文学部で同窓だった、のちに児童文学者となる滝沢永二(滝沢素水)のことだ。
 このあと、ほどなく正宗得三郎は官製の文展(文部省美術展覧会)に飽きたらず、1913年(大正2)には二科の創設運動へ参加し、翌1914年(大正3)には二科会を結成することになる。そして、同年4月に日本を発つと、第1次世界大戦が勃発するまでの丸2年間、ヨーロッパで遊学生活を送ることになる。
海老澤邸1936.jpg
海老澤邸19450517.jpg
海老澤邸跡.jpg
 正宗得三郎は、大正末から昭和初期にかけ成城学園で美術教師をつとめ、アトリエを上落合に南接する中野区住吉町(現・東中野4丁目)にかまえていた。地下鉄東西線・落合駅の南側で、華洲園住宅地Click!の西側にあたる区画だ。だが、1945年(昭和20)の二度にわたる山手空襲Click!でアトリエは焼け、保管されていた絵画作品をすべて失っている。

◆写真上:1911年(明治44)に、西大久保の新婚時代に描かれた正宗得三郎『河港』。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる後藤徳次郎屋敷。は、海老澤了之介が描く1910年(明治43)ごろの後藤徳次郎邸。深い森に囲まれており、手前の芝庭には海老澤邸が描かれている。は、海老澤了之介邸の拡大。
◆写真中下上左は、正宗得三郎が描いた東京美術学校の卒制『自画像』。上右は、晩年の正宗得三郎。は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる後藤徳次郎邸。は、1938年(昭和13)ごろ制作の正宗得三郎『白浜の波』。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる海老澤了之介邸(旧・後藤徳次郎邸)。は、第1次山手空襲後の1945年(昭和20)5月17日にF13偵察機から撮影された海老澤邸の焼跡(?)。は、昔日の面影が皆無な海老澤邸(旧・後藤邸)跡。

西片町の気になるアトリエ住宅。

$
0
0
金澤庸治邸(清水組).jpg
 西片町Click!を歩いていると、「椎の木広場」(現・西片公園)の近くに気になるアトリエ建築がある。接道の北西側を向いて、大きな採光窓を備えた洋風のアトリエだ。いつかの記事でもご紹介したように、東京美術学校Click!へ新たに設置された建築科の第1期生として卒業している、建築家・金澤庸治のアトリエだ。
 外観からはは、アトリエのみが洋風のデザインで、残りの住宅はすべて和建築のように見える。だが、平面図を入手したので細かく参照してみると、洋間はアトリエだけでなく1階の応接室(8畳大)と食堂(6畳大)、それに広い納戸(8畳大)が板の間のようで、2階は洋居間(8畳大)に物置(4畳半大)、調度室(3畳大)が板の間だったようだ。
 また、和室は思いのほか多く1階は8畳が2間に6畳が3間、3畳の女中部屋に2畳の衣装室が付属している。2階は、床(とこ)のある10畳の客間がひとつに、6畳の次の間がつづいている。さらに、1階には浴室がふたつにトイレがふたつ、化粧室がひとつ付属している。接道から眺めた建物の雰囲気からすると、かなりコンパクトな住宅のように見えるが、南東に向かってかなりの奥行きがあり、総建坪は約100坪ほどにのぼる。
 1階の居間×3室と2階の客間×2室を、真南に向けようと角度をつけて設計している。つまり、1階と2階のこの一画だけ屋根の大棟が東西を向き、家全体の軸は南東から北西に向いているのが面白い。そのため、納戸や奥の部屋へと向かう廊下が斜めに設置されていて、廊下を折れる確度が直角ではない。このような建て方の家を、わたしは落合地域とその周辺域で見たことがなく、できるだけ陽光を部屋へと採りこんで明るい家にしようという、金澤庸治ならではの工夫なのだろう。
 住宅内に洋風の生活様式を取り入れながら、どちらかといえば和建築にこだわった設計や意匠をしているように見える。木造2階建てで、「洋風一部和風」と記録さているが、「和風一部洋風」が正しい表現だろう。外壁は下見板張りおよびラス張りで、内部の壁は漆喰と砂壁、屋根は三州引掛け桟瓦という仕様だ。この平面図は、1930年(昭和5)8月に清水組の施工で金澤邸が竣工した直後のもので、1935年(昭和10)に土木建築資料新聞社から出版された、清水組『住宅建築図集』に収録されている。
 そこには、竣工直後の同邸の写真が内部の写真とともに掲載されているが、現在、西片町で目にすることができる実際の建物とほとんど差異がないのに驚く。おそらく、1982年(昭和57)に金澤庸治が死去したあとも、ていねいにメンテナンスが繰り返され使われつづけてきたのだろう。
 金澤庸治は、東京美術学校を卒業すると1926年(大正15)から同校で長く教師をつとめ、同時に建築家として多彩な作品を残している。恩師の岡田信一郎とともに手がけたコラボ作品も、各地に数多く存在しているようだ。東京藝術大学(旧・東京美術学校)のある藝大通り(都道452号線)を歩くと、周囲には洋風建築が多い中で、ひときわ目につく和風建築がある。金澤庸治が設計し、1935年(昭和10)に竣工した東京藝大美術館の正木記念館だ。隣り(北西側)には、同記念館へ接するように師の岡田信一郎が設計した洋風の東京藝大陳列館が並んでいる。コンクリート造りだが、明らかに日本の江戸期に造られた城郭を思わせるようなデザインで、内部は日本美術の展示に使われている。
金澤庸治邸平面図.jpg
金澤庸治邸客間(清水組).jpg
金澤邸1948.jpg
 金澤邸を施工した清水組の住宅作品について、もう少し当時の様子を見てみよう。ちょうど1930年(昭和5)8月に、金澤邸とほぼシンクロするように同規模の総建坪約100坪となる2階建て住宅を、同じく「東京市内」で手がけている。具体的な建設場所は不明だが、H氏邸と名づけられた家は、建築家の渡辺静が設計した外観は西洋館の和洋折衷住宅だ。竣工がまったく同時期であり、ひょっとすると同じ西方町内なのかもしれないが、金澤邸と比較すると面白いので少し余談めくがご紹介したい。
 H氏邸は、非常にオーソドックスな造りをしていて、洋間と日本間が混在する、外観も含めて今日の住宅につながるような仕様をしている。清水組の建設作業員にしてみれば、おそらく金澤邸よりもH氏邸のほうが造りやすかったのではないだろうか。木造2階建てで見た目は洋風、外壁は色モルタルラフ仕上げとされているが、モノクロ写真なのでカラーはわからない。
 1階は10室あるが、そのうち居間×2部屋と隠居部屋(老人室)、女中部屋、書生部屋の5部屋が和室だ。2階は客間と次の間が和室で、残りは洋間の造りになっている。部屋のかたちで設置されている「ベランダ―」(1・2階)も含めると、和室と洋室が半々ぐらいだろうか。浴室は1階にひとつだが、トイレは1階に2ヶ所、2階に1ヶ所の計3ヶ所が配置されている。大きめな応接室や書斎、ポーチが接道を向いて建てられている住宅(H氏邸は南向き)は、落合地域などでもよく見られた仕様だ。
金澤邸1.JPG
金澤邸2.JPG
金澤邸3.JPG
 当時の住宅建設の様子について、清水組の社長・清水釘吉が『住宅建築図集』の中に記している。同書の「序」から、少し引用してみよう。
  
 住宅建設は今が過渡期であります。欧米の建築を其儘模倣して満足出来ず、従来の和風建築の儘にても亦満足の出来ない立場であります。彼我生活状態の相違は、急激なる変化を許しませぬが故に、近時、住宅改良の諸問題が論議実行されつゝある時代であります。(中略) 住宅は、我日本人の今日に取つて或は洋風が便利であり、或は和風が便利であります。従而現代は和洋折衷式が、最も一般社会から取扱はれて居ります。蓋し、自然の趨勢であらうと思ひます。即ち、住宅は其時代の真実を語つて居るものでありまして、一国の文化国民教養の程度は住宅に拠つて察知する事を得るものであります。
  
 明治期からつづく和と洋の折衷・融合について、ハウスメーカーとして試行錯誤を繰り返していた様子がうかがい知れる。
 さて、1935年(昭和10)に出版された清水組の『住宅建築図集』は、明治末から1934年(昭和9)12月末までに竣工した、清水組の住宅や別荘を中心とした仕事を写真と図面でまとめたものだ。その中には、落合地域とその周辺域に建てられた住宅も含まれている。ただし、すべての住宅が施工主の頭文字をとり、アルファベットの1文字表記で邸名が記載されているので、住民の名前や住宅が建設された位置を特定するのは容易でない。
藝大正木記念館.JPG 藝大美術館陳列館.JPG
H氏邸(清水組)1930.jpg
H氏邸平面図.jpg
 こちらでも以前、下落合の近衛町Click!に建てられていた昭和期の長瀬邸Click!近衛邸Click!の2棟を清水組の仕事としてご紹介しているが、おそらく落合地域で手がけた仕事は、これだけにとどまらないだろう。新たに同書で近くの住宅が特定できたら、またこちらで取り上げたいと思っている。

◆写真上:1930年(昭和5)8月に撮影された、西片町に竣工直後の金澤庸治邸。
◆写真中上は、金澤邸竣工時の平面図。は、同邸2階の床のある10畳サイズの客間。は、1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる西片町の金澤庸治邸。
◆写真中下:椎の木広場(現・西片公園)の近くにある、金澤邸の現状。
◆写真下上左は、金澤庸治が設計した東京藝術大学の正木記念館。上右は、金澤庸治の師である岡田信一郎が設計した隣接する東京藝大美術館の陳列館。は、金澤邸とまったく同時期の1930年(昭和5)8月に竣工したH氏邸とその平面図。

事件から間もないリアルな映画たち。

$
0
0
三菱銀行中井支店.jpg
 戦後、それほど時間が経過しないうちに制作された映画には、非常にリアリティの高い表現を備えた作品がある。それは、戦後の混乱からそれほど時間が経過しておらず、街の風情や人々の生活風景に大きな齟齬がないからだろう。
 たとえば、戦後の混乱期に起きた事件を扱った作品などは、まさにその事件現場でロケーションを行なっているせいか、実際に事件を目撃しているような錯覚に陥る。ときおり当時の報道映像なども、シーンの合い間に織りこみながらモノクロの画面で見せられると、映像の質感がそれほど変わらないせいか、よけいに作品の世界へのめりこんでしまうのだ。そんな作品のひとつに、井上靖・原作の『黒い潮』がある。
 監督が山村聰Click!で、1954年(昭和29)に公開された『黒い潮』(日活)だが、この作品の主題である下山事件Click!(1949年7月5日)が発生してから井上靖の原作(小説)は3年後、山村聰が映画を撮影したのが4年半後と、ほとんど同時代の出来事だった。下山事件については、現在の解明度からは比較にならないほど、いまだ抽象的で漠然としたとらえ方のままだし、事件に関する追跡やトレースの仕方も、今日から見れば明らかに稚拙で、誤りや見当ちがいの箇所も散見される。
 同映画には、日本橋室町のライカビルに巣くっていた「矢板機関」の「ヤ」の字も出てこなければ、下落合4丁目2135番地(現・中井2丁目)に住んでいた「柿ノ木坂機関」の総帥・長光捷治Click!の「ナ」の字も出てこない。それでも、つい惹きこまれて見入ってしまうのは、事件当時の社会や世相、風景、人々の装い、話し方などまでが、ほとんど当時のまま記録されているからだろう。
 同作の出演者は、現代から見れば信じられないような名優ぞろいで、超豪華なオールスター映画とでもいうべきキャスティングになっている。監督の山村聰自身も、新聞記者役で出演しているが、ほかに滝沢修Click!千田是也Click!、信欣三、東野英治郎、芦田伸介、進藤英太郎Click!中村伸郎Click!、安部徹、下元勉、下條正巳、浜村純、内藤武敏、夏川静枝Click!、津島惠子、左幸子、沢村貞子……と、予算がいくらあっても足りないような顔ぶれだ。日活が、これほど力を入れて制作しているのは、世間ではいまだ下山事件に対する関心が非常に高かったせいなのだろう。
 下落合2丁目702番地(現・中落合2丁目)に住み、「下山事件研究会」を主宰した南原繁Click!も指摘しているように、戦後にようやく築かれた国民主権の民主主義国家を根底から揺るがし、戦前の「亡国」思想時代へと逆もどりさせかねないターニングポイント的な事件であるからこそ、途中で途切れることなく今日まで延々と捜査や調査、検証、取材が継承されてきているのにちがいない。井上靖の原作『黒い潮』と山村聰の同映画は、ともにその“初手”に起立する作品ということになるのだろう。
 同作は、さまざまな映画賞を受賞しているようだが、今日、熊井啓監督の『日本の熱い日々 謀殺下山事件』(1981年/松竹)よりも上映機会がなくなっている。
黒い潮1.jpg
黒い潮2.jpg
黒い潮3.jpg
 もうひとつ、1964年(昭和39)に制作された映画に、『帝銀事件 死刑囚』(熊井啓監督/日活)がある。落合地域にお住まいの方ならご承知のように、1948年(昭和23)1月26日の午後、お隣りの長崎1丁目33番地の椎名町駅前に開店していた帝国銀行椎名町支店に、東京都のマークが入った「防疫班」の腕章をした男がGHQの名を騙って現れ、遅効性の青酸化合物Click!と思われる毒物を行員全員とその家族に飲ませて、12人を殺害し4人に重症を負わせた事件だ。
 事件から16年後、同映画では実際の報道映像をまじえながら、国際聖母病院Click!へ次々と運びこまれてくる被害者たちを描いている。もちろん、聖母病院のシーンは映画の創作映像だが、実際に同病院の入口からエントランスでロケーションが行われており、そこに集まった警官や救急隊員、報道関係者、大勢の野次馬たちを含めとてもリアルに描かれている。夜間の撮影だが、聖母病院側はよくロケを許可したものだ。群衆のどよめきや警官たちの怒鳴り声、飛び交う報道関係者の怒声、救急車やパトカーのサイレンなどがひっきりなしに響くのだけれど、さすがに夜間の病院ロケなので現場ではなるべく音が出ないように撮影し、喧騒音はあとからのエフェクトなのかもしれない。
三鷹事件.jpg
帝銀椎名町支店19480127.jpg
帝銀事件現場.jpg
 さて、帝銀事件に先立つこと7日前の同年1月19日には、その予行演習ともいうべき同様の事件が、下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)に開店していた三菱銀行中井支店Click!(旧・佐々木質店)で起きている。このときは未遂に終わっているが、映画『帝銀事件 死刑囚』には同銀中井支店の映像が登場している。(冒頭写真) 1964年(昭和39)の当時、三菱銀行中井支店はとうに別の場所へ移転するか統廃合されていたのだろうが、銀行として使われていた元質店の旧・佐々木邸は、同地番の位置にそのまま建っていた。
 1963年(昭和38)の時点で、西側の蔵は解体されていたようだが、東側の母家はそのまま残っている。したがって、同映画では旧・佐々木邸(1960年現在では「光橇園」と「みのり屋」として、なんらかの店舗に使われていたようだ)の門前と玄関口に、事件当時の三菱銀行中井支店の姿を再現している可能性がありそうだ。左手に蘭塔坂(二ノ坂)Click!つづきの道があり、右手にも直角に折れた道が通う角地の風情は、まさに三菱銀行中井支店の立地のとおりとなっている。
 同作品では、熊井啓監督ならではの凝り性というか几帳面さで、帝国銀行椎名町支店の平面図や現場写真から事件現場を忠実に再現しており、犯人の服装をはじめ犯行に使われた器具類、毒殺に使われた湯呑みにいたるまで、すべて証拠品や証言どおりのものを用意して撮影している。したがって、聖母病院を使った実際のロケーションも含めて考えると、三菱銀行中井支店も旧・佐々木邸の建物を利用して、警視庁などに保管されていた写真のとおりに再現している可能性が高いように思える。
三菱銀行中井支店跡.JPG
聖母病院1964.jpg
三菱銀行中井支店1963.jpg
 戦後の混乱期に起きた不可解な事件の数々を調べていると、事件の裏側に身を置いていた者たちと、事件の直接的な被害者Click!と、さらに事件を忘れずにどこまでも追究しつづける人々とを問わず、落合地域との関係が少なからず見えてくる。新たな資料や証言が次々と公開されるにつれ、多種多様な人たちが追究をつづけている現在、新たな事実が判明したら改めてこちらでご紹介したいと考えている。

◆写真上:1964年(昭和39)に公開された映画『帝銀事件 死刑囚』(熊井啓監督/日活)に登場した、下落合4丁目2080番地の三菱銀行中井支店。
◆写真中上:いずれも、1954年(昭和29)に公開された映画『黒い潮』(山村聰監督/日活)のシーンで、常磐線と東武伊勢崎線ガードが交差する事件現場に立つ新聞記者役の山村聰()、事件現場を空撮したたシーン()、東京が見わたせる新聞社屋上のシーン()。いずれも、下山事件からわずか4年半しか経過していない情景で、特に事件現場でのロケーションは周囲の風景も含めて貴重だ。また、立体交差する鉄路とカーブで見通しのきかない下段線路の構図が、張作霖爆殺現場に酷似している点に留意いただきたい。
◆写真中下は、松川事件Click!の1ヶ月前に起きた『黒い潮』挿入の三鷹事件映像。は、1948年(昭和23)1月26日に大量毒殺事件が起きた帝国銀行椎名町支店の外観と、銀行内部の事件現場の様子。
◆写真下は、下落合4丁目2080番地の三菱銀行中井支店跡。は、1964年(昭和39)に公開された映画『帝銀事件 死刑囚』(熊井啓監督/日活)の国際聖母病院でのロケーションシーン。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる同銀行中井支店跡。

佐伯祐三と佐野繁次郎の「大阪人」談義。

$
0
0
船場(北船場)1929.jpg
 1928年(昭和3)に発刊された「三田文学」11月号に、佐野繁次郎による『佐伯祐三を憶ふ』と題された追悼文が掲載されている。この文章は、朝日晃により1979~1980年(昭和54~55)にかけて編集された、近代画家研究資料『佐伯祐三』(全3巻)にも収録されておらず、2007年(平成19)に神奈川県立近代美術館で開催された「パリのエスプリ 佐伯祐三と佐野繁次郎」展の図録に、初めて再録されたものだ。
 フランスでの佐伯祐三Click!の死を知った佐野繁次郎が、間をおかずに書いたとみられる文章だが、つづく佐伯の娘・彌智子Click!の死を知らないところをみると、8月16日の死去の知らせがとどいた直後、ほどなく書いた追悼文なのだろう。ちなみに、佐伯祐三の子どもを娘ではなく「一人つ子の坊ちやん」と書いているのは、1926年(大正15)9月の「アサヒグラフ」に二科賞を受賞した佐伯一家の写真Click!が掲載されたとき、記者が誤って彌智子のことを「令息」と書いてしまったため、同誌の愛読者だった佐野繁次郎は誤認したままだったとみられる。
 佐伯祐三と、2歳年下の佐野繁次郎は少年時代からの友人で、船場の佐野の実家が中津の光徳寺Click!とつき合いがあったため、佐野は佐伯に誘われて赤松麟作Click!の画塾へと通っている。佐野はすぐに画塾を辞めてしまい、一時期のふたりは疎遠になっていたようだが、東京へ出てきてからふたりの親しい交遊は復活している。
 佐野繁次郎は、『佐伯祐三を憶ふ』の中で文節を分けるように小見出しをつけ「佐伯は根気の強い男だつた」、「佐伯は執念強い男だつた」、「佐伯は生一本な男だつた」、「佐伯は絵ばかりの男だつた」、「佐伯は情の厚いたちの男だつた」……というように、それぞれのエピソードを紹介するような構成で綴っている。中でも、これら佐伯についての評価を、大阪人の「最もいゝものだけを持つたもの」「大阪人の意力」ととらえ、ふたりで語った「大阪人」談義を書きとめている。
 大正期から昭和初期にかけて、自身のアイデンティティでもあるふたりの「大阪人」像(大阪人に対するイメージ)が語られている、とてもめずらしい資料だろう。先の「パリのエスプリ 佐伯祐三と佐野繁次郎」展図録から、少し引用してみよう。
  
 「大阪人」のよくな(ママ:い)とこ、――それは僕同様、佐伯自身も認めてゐた。が、僕等はよくその非大阪人の常識になつてゐる大阪人の悪評について、一緒に語つたものだ。/――こんなことは勿論、語る対象の頗る漠然としたものだ。例へば、一人々々としてみれば、東京人のうちにも強欲な人がある如く、大阪人のうちにも案外、無欲なぐうたらべえもゐるし、又、現在の諸国から入り込んだ人が大部分である都会では、どの程度、どの範囲を以つて、大阪人、東京人と定めることはあたまで容易に出来得ることではない。だから、厳格に言ひ出したら、一寸仕末のつかないことだけど…。/が。――船場の中の家が、今の様に軒のないやうな形にならない――軒の深い、暗い格子があつて、隣近所がみんなしもた屋でも暖簾をつつてゐた、――夕方になると瓦斯燈屋が三弾程の脚立を持つて、軒並の軒燈に石油を差し火を点じに来た――あの頃の大阪なら、そして少なくとも、三代船場に住んでゐる家なら――どこかに、悪い意味でもいゝ意味でもの大阪を慥かに持つてゐたのである。
  
 わたしは、当時の「船場」がどのような街だったのかは、せいぜい江戸東京人で同郷だった谷崎潤一郎Click!描くところの、『細雪』ほどの知識しか持ちあわせていないのだけれど、日本橋と同様に古くからの文化や習慣をもっていた城下町であることは想像がつく。それが、『細雪』にみられるように崩壊しはじめたのが、谷崎や佐野が生きていた昭和初期なのだろう。ちなみに、古い時代の日本橋の崩壊は、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!が端緒だった。
 だが、日本橋のコミュニティ崩壊=江戸東京らしさの崩壊とはならないように、船場の崩壊=大阪の崩壊とはならないのではないだろうか? 佐伯と佐野は、そう規定しているようなのだが、日本橋が江戸東京のごく一部であるように、船場も大阪の一部にすぎないだろう。江戸東京には、日本橋以外にも神田や京橋、芝、麹町、下谷、麻布、本所、深川、牛込、四谷、小石川、本郷、浅草……と、江戸からの城下町だけでも独特な文化をもった、およそ20以上の地域や街があるように、大阪にも船場に限らず他の地域があったはずだ。そこでは、船場とは異なる文化や習慣が古くから根づき、受け継がれていたはずであり、そこで話される大阪方言もまた異なっていたのではないか。
佐伯祐三・彌智子.jpg
パリのエスプリ図録.jpg 佐野繁次郎.jpg
佐野繁次郎瀧野川アトリエ.jpg
 たとえば、京都の市街地(洛中Click!+外周市街域)は、ほぼ東京の港区(旧・芝区+麻布区+赤坂区)と同じぐらいのサイズだが、京都市街地においてすべてのエリアで同一の京都方言が話され、均一の文化が共有されている……とは思えない。港区は、東京23区の中では相対的に中ぐらいよりもやや小さめなサイズの区だが、そこで古くから話されてきた東京方言が同一でないのと同様だ。そこでは、エリアによって武家由来の乃手Click!方言と町人の(城)下町方言Click!、そして職人や漁師など独特な方言や生活言語ほどのちがいがあったはずだ。だから、「船場人=大阪人の象徴」とする佐伯と佐野の規定には、どこか「ちがうのではないかな?」という疑問が湧いてしまう。
 ふたりの大阪人規定には、わたしのついていけない側面もある。たとえば、「親戚に一寸百円取かえても利息はちやんと取つた」と書かれているが、親戚にカネを貸して利子まで巻き上げるのは、こちらの感覚では異様だ。親戚同士は、困ったときに助けあうお互いさまの関係であり、債権者と債務者の関係とは無縁のものだ……というのが、わたしが育った環境の感覚だ。
 「お金を儲けるといふことが男の仕事だつた」という規定は、こちらでもある側面ではまったくそのとおりなのだが、「儲ける」ではなく食えるほどには「稼ぐ」と表現したほうが、こちらの感覚に近いだろうか。また、「稼ぐ」のは別に「男」とは限らないのも、大阪とこちらとでは大きな文化のちがいかもしれない。江戸の昔から、マネジメントにおける意思決定の中核にいたのは、「お上さん」「女房」あるいは「奥方」たる女性のケースが多く(これは町人に限らず、幕府の御家人や小旗本の家庭でも見られた現象だ)、ことさら「男」が……という規定は、いまだ関西に残る「東女(あずまおんな)」Click!という言葉が象徴的なように、大阪よりもかなり弱いように思える。
船場警察署1912.jpg
船場(心斎橋筋)1929.jpg
 さて、佐伯祐三がフランスから帰国した1926年(大正15)の春、400点以上の滞仏作品を持ち帰っているのを、佐伯から直接聞いた佐野繁次郎が証言している。同追悼文より、「佐伯は絵ばかりの男だつた」から引用してみよう。
  
 描く日は一日六枚も七枚も描いてゐたやうだつた。/そして、その絵の上でも、佐伯は、これと見当をつけると生一本に、根気で、何処迄も執念強く押すといふいき方をしてゐるやうだつた。――佐伯が、あの決して強くない體でであれだけの仕事をしたのは、全くこれに他ならないと僕は思つてゐる。/――仏蘭西から帰つて来た時、夫人の実家である、土橋の像家屋さんで、三年彼地へ行つてゐた間に描いた絵が「大体四百枚、まだちよつとある」と聞いた時も、僕はつくづくさう思つた。
  
 第1次滞仏からもどった佐伯と、佐野繁次郎は土橋の池田象牙店Click!で再会していたのがわかる。関東大震災の直後に日本を発っているため、下落合のアトリエや母家は被害を受けたままの状態で、修理中だった可能性がある。アトリエの屋根に、通常の瓦ではなく軽い布瓦(石綿瓦)Click!を葺いたのも、この時期のことなのかもしれない。
佐野繁次郎装丁「お嬢さん放浪記」1958.jpg 佐野繁次郎「画家の肖像(死んだ画家)」1964.jpg
佐野繁次郎(戦後).jpg
 佐野の文章を読み返すと、「根気の強い男」「執念強い男」「生一本な男」「絵ばかりの男」だった佐伯祐三が、1926年(大正15)の真夏Click!から取り組みはじめ、「現代の文化式のものを画く」と小島善太郎Click!に宣言してスタートした連作「下落合風景」Click!を、わずか50数点(「制作メモ」Click!にタイトルはあるが、該当する作品が現存しないものを含めると60点余)で止めてしまったとはとても思えない性格が浮かび上がってくる。戦災で焼けてさえいなければ、必ずどこかに人知れず同作は埋もれているはずだ。

◆写真上:1929年(昭和4)に撮影された北船場界隈と、土佐堀川に架かる難波橋。
◆写真中上は、1926年(大正15)ごろ撮影の佐伯祐三と彌智子。中左は、「パリのエスプリ 佐伯祐三と佐野繁次郎」展(神奈川県立美術館/2007年)の図録表紙。中右は、大阪は船場(墨問屋「古梅園」)出身の典型的な“ぼんぼん”で貧乏知らずだった佐野繁次郎。は、東京の瀧野川に建っていた佐野繁次郎アトリエ(設計・大石七分)。
◆写真中下は、1912年(明治45)に撮影された船場警察署(右端)と船場界隈。は、1929年(昭和4)に撮影された心斎橋筋の船場界隈。
◆写真下上左は、1958年(昭和33)に佐野繁次郎が装丁した犬養道子『お嬢さん放浪記』。上右は、1964年(昭和39)に制作(加筆)された佐野繁次郎『画家の肖像(死んだ画家)』。は、「銀座百点」の表紙を描いていたころの佐野繁次郎。

「玄米正食」と下落合の桜沢如一・里真夫妻。

$
0
0
玄米正食料理教室.JPG
 食事療法や食養を前提とした、桜沢如一・里真夫妻の「玄米正食」を、ご存じの方も多いのではないだろうか。ヨーロッパでは戦前から普及しはじめ、フランス語ないしはイタリア語でmacrobiotique(マークロビオティク)と呼ばれる食療・食養を中心とした、東洋的な思想や哲学を基盤とする考え方だ。中国の陰陽五行や古代弁証法を用いて、食物をはじめすべての存在を陰(Yin=▽)と陽(Yang=△)とで分類・認識し、端的にいってしまえばそのバランス(中庸)をとることによって、日々の食事から健康を手に入れる……というような考え方だ。
 わたしの学生時代には、「玄米正食」を試みる人たち、特に健康や体調に問題を抱える女性たちが、よく試みていたように思う。彼女たちは、冷えや低体温症、便秘、貧血、めまい、生理不順、不眠、倦怠、精神の不安定、虚弱体質など女性特有の、あるいは偏食(甘味の摂りすぎとタンパク質の絶対的な不足)からくる体調不良を抱え、食生活の改善を目的に「玄米正食」をはじめる人たちが多かったように思う。
 そして、「玄米正食」の料理教室に通っては、自分たちの食生活を改めて見直し、栄養分の多くを削りとってしまった白米や胚芽米ではなく、玄米を主食とする食生活と、それに見合った副食物(野菜食中心)の摂取に切り替えていったのだろう。ちなみに桜沢如一の「食」をめぐる思想は、わたしが知る限りの周囲では「玄米正食」という表現で語られていたが、その後、本来のフランス語ではなく英語のmacrobiotic(マクロビオティック)と呼ばれることが多くなったように思う。
 わたしは、玄米がとても苦手だ。理由はしごく単純で、おかず=副食物が美味しく食べられないからだ。自宅で精米するときも、五分づき米まではなんとか食べるが、七分づき米となると箸が出ない。そのかわり、白米に麦や稗、粟、黍などの雑穀を混ぜるご飯や、赤米・黒米を加えたご飯は、独特な風味が出て好きなのだが……。また、玄米ご飯とは異なり、香ばしい玄米餅Click!は大好きだ。
 自宅では関東地方を含む東日本の米、特にコシヒカリやあきたこまち、ひとめぼれ、ササニシキ、庄内米など、日本を代表する銘柄米を生む新潟や東北に拡がる米作地帯の米を、玄米と白米で注文している。いま仕入れているのは、明治期に開発された稲に由来する山形産の「つや姫」という銘柄で、口に入れたときの“ほぐれ”感や歯ざわりが気に入っている。特に、やたら甘みの強い米が多い中で、「つや姫」は甘さひかえめでバランスがよく淡泊気味なのがいい。もちろん、甘味でおかずの風味を壊さず、美味しく食べられるからだ。だが、いくら「つや姫」でも玄米のままでは美味しく感じない。ちなみに、穀物ついででパンを焼くときは北海道産の小麦「春よ恋」、ときどき「はるきらり」と「ゆめちから」を使っている。
 「玄米正食」の料理教室では、無農薬有機米は当然としても、米の種類や産地まで指定していたのだろうか? 桜沢如一は、1966年(昭和41)に心筋梗塞で他界(74歳)してしまうが、その後を継いで「玄米正食」を教えていたのは、残された桜沢里真夫人だった。里真夫人が主宰する「玄米正食」の料理教室(リマクッキングアカデミー)は、下落合3丁目(現・中落合1丁目)の見晴坂の下、妙正寺川に面した小橋の北詰めに建っているマンションで開かれていた。このマンションに、桜沢如一と里真夫人は1964年(昭和39)ごろから住んでいたようだ。料理教室が開かれたのは翌年からで、わたしの連れ合いも1970年代の半ばごろの一時期、リマクッキングアカデミーへ通っていたらしい。
つや姫玄米.jpg
つや姫玄米ご飯.jpg
 「玄米正食」の基本的な考え方を、1973年(昭和48)に日本CI協会から出版された桜沢如一『東洋医学の哲学―最高判断力の書―』から引用してみよう。
  
 人間は動物、生物の手の中の王子様です。スベテの動物は、われわれを喜ばせたり、助けたりするために作られたかのようです。しかし、動物を殺してその肉をわれわれの食物に供するコトは、たいへん損なコトです。生物学的にいって、われわれは植物の子であり、植物なくして動物なしです。われわれは一から十まで植物に負っているのです。われわれの血潮も植物のクロロフィールの一変形にすぎません。スベテの植物性食品は、われわれの肉体を作る処女性の素材です。動物の肉は、人間という動物にとって処女性の素材でなく、中古品です。その上、動物性食品を現在の程度に用いていると、近い将来に土地がたりなくなります。オマケに体が酸性になる傾向が強くなって危険です。/だから原則として植物の子である動物や人間は、処女性の食物を植物に求めるべきです。これが元来の人間の食物の生物学的原則です。
  
 わたしは、「東洋医学」はかなり好きなほうで、慢性化したアレルギー性鼻炎(花粉症)や扁桃炎を漢方薬で治しているけれど、こんな植物食に収斂するような狭隘な考え方ばかりだっただろうか? 動物の肉は「中古品」などといわれても、わたしにとっては美味しい副食物の半分が消えてなくなってしまうので、残念ながら同意できない。
 そうなのだ、食事は人間の肉体を維持するための本能的な“義務”であると同時に、人は単なる動物ではなく「食文化」Click!という地域性や嗜好性の強い、大きな趣味をもった生きものでもある。だから、「身体に良い・悪い」以前に、好きか嫌いかのテーマが大きく起立してくるのだ。それによって得られる幸福感や精神的な充足度が高まれば、低体温症になろうが生理不順になろうが、ときに癌や肝硬変になる危険性を引き受けようが、好きで主体的に選択している食事や食物について、「白米は正しくない、玄米が正しい」などといわれたくないのは、人間として当然の理であり情だろう。それは、肺癌のリスクを引き受けつつ、桜沢如一がタバコをやめなかったのと同一の趣味・嗜好にちがいない。
桜沢如一「東洋医学の哲学」1973.jpg 桜沢如一.jpg
桜沢如一&里真夫人1.jpg
 そしてもうひとつ、「人はパンのみにて生くるものに非ず」(マタイ第4章)のたとえどおり、人生の目的は「身体にいいものを食べるため」「健康になるため」だけのものでもない。もちろん、健康であるのにこしたことはないが、健康や、ときに生命を削ってまで、優先したい“想い”やテーマが発生するのが人間だと思う。さまざまな生きがいや精神的な充足感・幸福感を味わいたいがため、多彩な思想やプランを実現したいがために、人は生きる意欲を獲得できるのであって、「食」は生きるための単なる手段にしかすぎない……という考え方をする人たちが大勢いたとしても、「その考えはまちがっている」などとは決していえないだろう。
 桜沢如一自身も、まさに思想的にはそのような生き方をしていたようで、1941年(昭和16)の日米開戦の年に発表した『健康戦線の第一線に立ちて』では、日本の必敗を予言して特高Click!から執拗にマークされ、つづく開戦直前の『日本を亡ぼすものはたれだ-白色人種を敵として、戦はねばならぬ理由-』はただちに発禁処分となり、特高に逮捕されて凄惨な拷問をともなう「取り調べ」を受けている。
 やがて、警察からは保釈されたが、1945年(昭和20)に今度は憲兵隊に逮捕され、敗戦まで刑務所内で拷問をともなう過酷な「取り調べ」を受けつづけ、最後には「銃殺の宣告」まで受けていたようだ。戦後、GHQの指令で釈放されたときは容姿が一変し、まるで「老人」のような姿に変わりはてていたという。再び、同書から引用してみよう。
  
 そのうち東亜の風雲が急をつげ、ツイニ戦争となり、反戦論者である私は、軍国主義の政府のために何回も投獄され、最後には銃殺の宣告までうけたのですが、そのうち日本は史上空前の敗戦をとげ、マックアーサーの東京入りの数日後、私は生ける屍になって、半死半生の姿で釈放されました。それから八年間、私は私の畢生の事業、東洋哲学道場再建のために苦心し、ソレを完成し、三年前ツイニ日本に永久のサヨナラをつげて、終りなき世界巡礼に出かけました。
  
桜沢如一「食養講義録」1977.jpg リマクッキング500レシピ2015.jpg
桜沢如一&里真夫人2.jpg
 里真夫人が下落合の自宅で開いた料理教室では、どのようなレシピが実践されていたのか、玄米ギライのわたしは連れ合いに訊いたことはないが、「食」に関する講義をまとめた桜沢如一『食養講義録』(日本CI協会/1977年)には、病気と食事療法が具体的に紹介されており、「玄米正食」に興味がある方には最適な入門書だろう。ただし、わたしは疑問が次々と湧いて頭が痛くなり、最後まで読みとおす根気がつづかなかった。ちなみに、頭痛もちには「副食物が常に主食物に対して多くならない様にすること。常に鹽からく油気を加味して食すること。はしり物といつて、遠い土地の物を食べぬ事」だそうだ。

◆写真上:下落合3丁目(現・中落合1丁目)にある、桜沢如一と里真夫人が住んだマンション。里真夫人による、定期的なリマクッキング教室が開催されていた。
◆写真中上は、山形産「つや姫」の玄米と白米。は、「つや姫」の玄米ご飯。
◆写真中下上左は、1973年(昭和48)出版の桜沢如一『東洋医学の哲学』(日本CI協会)。上右は、戦後に講義中の桜沢如一。は、桜沢如一と里真夫人(左)。
◆写真下上左は、1977年(昭和52)に出版された桜沢如一『食養講義録』(日本CI協会)。上右は、2015年(平成27)出版の桜沢里真『リマクッキング500レシピ』(日本CI協会)。は、タバコを手に談笑中の桜沢如一と里真夫人のスナップ。

未来生活先どりの山本忠興と帆足みゆき。

$
0
0
山本忠興邸跡.JPG
 1927年(昭和2)4月20日発行の「アサヒグラフ」に、下落合404番地の近衛町Click!に住んでいた随筆家で評論家の帆足みゆきClick!と、目白駅東側の高田町四ッ家1417番地(現・高田2丁目)に住んでいた早大理工科教授の山本忠興Click!が、くしくも同じページで家電製品についてのエッセイを書いている。特に山本忠興の住宅は以前、「オール電化の家」Click!としてご紹介していた。
 山本忠興は、同誌に『家庭電化の妙味』というタイトルで書いているが、今日ではあたりまえに使われている家電製品の出現を、大正時代が終わったばかりのこの時期に、正確に予測しているのが驚きだ。同誌から、少し引用してみよう。
  
 無線電信、無線電話の発達により世界の隅々まで通信が可能になつた事 殊に「ラヂオ」の放送により家庭の娯楽と実用に貢献する処甚だ大で一日を通じて労苦の多き婦人達の為に慰安の種となるのは何より新慶事であります。欧州と米国との間に無線電信で橋渡しされて電話が自由に通ずるに至つた事や写真の電送の実施された事は孰れも人間の耳と眼を世界の隅々まで働かすと同じ訳でやがては活動写真の無線伝送も実現さるゝはずで地球が次第に小さく感ぜらる様な思ひが致します。
  
 文中の「活動写真の無線伝送」は、今日のテレビのことだが、この記事から3年後の1930年(昭和5)には、山本忠興と川原田政太郎らの手によって「早稲田式テレビジョン」の開発に成功している。
 最初に早稲田式テレビで放送されたのは、早大戸塚球場Click!(のち安部球場)で行われた大学野球の試合だった。戸塚球場で撮影した映像を、早大キャンパスの理工学部まで電送している。ただし、のちのブラウン管形式のテレビではなく、今日のプロジェクターのようなスクリーン投影型だったため、日本の住環境では一般に普及しなかった。
 また、エアコンや真空掃除機、食洗器、電動ミシン、精米機など、戦後の家庭に普及しはじめる家電製品はおろか、自動ドアや家事ロボット、飛行自動車などを「ナンセンス」と断りながらも“予言”している。
  
 家庭用電熱器としまして電気熨斗(ゆのし)は既に普及してをります又温湯発生用にも便利でありますが稍々入費が多い嫌いがあります。これは全く正反対の応用ではありますが電気により冷蔵用の製氷も可能でありまして調法な形の品も出来てをり夏期食料品の保存や冷たき飲料を得る上に欠き難い品であります。今に室内の空気を冷たくするために電気冷却装置の応用を見るではないかとも思はれます。(中略) その他真空掃除機は塵埃を徹底的に取り去り、「ミシン」に小電動機を付加すれば足踏器を略する事が出来ます。なほ皿洗、精米、その他人力を省きて電動機に託することは人間の活動の利用上意味深い事でありましてこれがために消費する電力量は極めて些少に過ぎぬものであります。
  
山本忠興1935.jpg 早大理工科校舎(明治末).jpg
早大理工科電気工学主任室1911.jpg
アサヒグラフ19270420.jpg
 「電気熨斗」とは電気アイロンのことだが、当時は鉄の器に焼けた炭を入れ、服のシワを延ばす火熨斗(ひのし)が一般的に使われていた。
 山本忠興が「些少に過ぎぬ」といっているのは、手間がかかる家事の負担を軽減する効果に比べれば、電気料金などたかが知れているという意味合いも含まれている。それは、主婦の労働負荷の軽減課題のみにとどまらず、当時の中流以上の家庭においては家電を積極的に導入することで、女中の人数を減らし人件費を抑制するという、より大きなテーマがからんでいたからだ。
 そのテーマを徹底的に追求したのが、近衛町に住んだ帆足みゆきだった。彼女は長い米国留学の経験があり、夫の帆足理一郎Click!とも米国で知り合っている。したがって、徹底した合理主義的な思想の持ち主で、近衛町の中村式コンクリートブロックClick!による自邸建設も、およそ彼女が設計を仕切っていたようだ。
 そして、彼女がめざしたのは、邸内に「女中をおかないこと」だった。昭和初期の女中にかかる人件費は、食事つきの住みこみで月々軽く30円は超えていた。1年で360円、それに光熱費や必要経費を加えると、かなりの出費を覚悟しなければならない。そのぶん、家電製品を積極的に導入して「生活能率増進」をめざせば、女中がひとりもいなくても生活できると考えたようだ。これも米国生活で学んだ、彼女ならではの合理精神なのだろう。当時、中流以上の広い邸で女中のいない家庭は、きわめてめずらしかった。
帆足邸2.jpg
帆足邸3.jpg
帆足邸.jpg
 同誌掲載の、帆足みゆき『能率本位の家庭』から引用してみよう。
  
 一昨年建てた現在の家は外見、身分不相応のやうにも思はれますが、一体に、日本人が衣服に割合多額を費して、住宅はマッチ箱のやうなもので満足してゐる、それに較べてはいさゝかぜい沢のやうですが、欧米の住宅に較べれば、まだまだ比較にならぬほど貧弱な設備であります。/生活能率を高めるには住宅を全く洋風にすることだと信じまして、建坪(延坪)五十余坪の中村式ブロック建築で、耐震耐火的にできてゐますが、内部の設備は至つて簡素であります。(中略) 私共の実際試みてゐるところでは、暖房、料理、洗たくを電化しました。五百円余りの時計仕かけの電気レンヂで、自動的に御飯がたけますから、仮令留守中でも思ふ時間に出来てゐます。(中略) ふろは今のところ電力代が高価ですから、ガスぶろにしてありますが、何の手間もいりません。便所も五六百円で浄化装置ができますから、洋風にすれば、綺麗で、衛生的で、掃除も楽です。以上大略二千円位の設備費で、女中資本の残り四千円を預金としておくといふ考へでゐますれば、それ利子、月二十円で、電気代、ガス代、水代は大略払へるわけです。
  
 帆足みゆきは、家での執筆や講演・打ち合わせなどの仕事で外出することも多く、いちいち商店街へ買い物にいかずに済むよう、いろいろな仕組みを考えている。目白通りまでは距離があるので、「私共住宅と商店との距離がかなり遠いので、買ひだしに行つて時間を費すことは却て不経済」と、どこまでも合理的な考えをする女性だった。
帆足邸1.jpg
帆足邸跡.JPG
 玄関わきに設置した“宅配ボックス”も彼女の考案で、家庭購買組合Click!へ注文していた物品の宅配便や、窓へ掲示しておく御用聞きClick!への配達伝言メッセージなど、すべて手間と時間がかからないようシステム化している。もし、帆足みゆきが現代に生きていたら、おそらくICTやAI/IoTを駆使した最先端のスマートホームを建ち上げるだろう。

◆写真上:高田町四ッ家1417番地の、「オール電化の家」こと山本忠興邸跡。
◆写真中上上左は、1935年(昭和10)撮影の山本忠興。上右は、大正期の早稲田大学理工学部校舎。は、明治末に撮影された山本忠興も座ったとみられる電気工学主任室。は、1927年(昭和2)4月20日の「アサヒグラフ」記事。
◆写真中下は、帆足邸の台所で電気レンジや電気湯沸し器が見える。は、台所から料理が手わたせるよう“窓”が開いた食堂で卓上電気コンロが見える。は、1933年(昭和8)に空撮された下落合404番地の帆足邸とその周辺。
◆写真下は、1925年(大正14)に竣工直後の帆足邸で中村式コンクリートブロックの外壁がよくわかる。左に立っているのが帆足理一郎で、下にかがんでいるのが帆足みゆき。は、住宅が建設される前の帆足邸跡で背後の緑はおとめ山公園。

大正期に落合地域へ集合する工務店。

$
0
0
宮川工務店.jpg
 以前、下落合768番地に事務所をかまえていた服部政吉Click!が経営する、服部建築土木請負い事務所Click!(工務店)について記事を書いたことがある。服部工務店は、下落合の同社周辺に建っていた住宅建設を請け負っていると思われ、また新宿中村屋Click!の建築(中村屋会館)なども手がけたことが判明している。
 おそらく、郊外住宅地として注目されはじめた大正中期ごろ、下落合に事務所をかまえて営業をスタートしていると思われ、大正末の1/10,000地形図にはすでに社屋とみられる建物が採取されている。服部工務店は、建築の設計士(2名)から施工の大工たち、屋根を葺く瓦職人まで抱えており、同社に建築を依頼すれば設計から竣工まで、ワンストップで住宅や施設が建てられるような組織になっていた。
 大正期から、下落合のあちこちで確認できる建築土木請負い業(工務店)だが、もっとも早くから進出していたのが、明治末から計画が進み大正初期には建設がはじまっていた、落合府営住宅Click!の周辺域だろう。落合府営住宅の敷地は、堤康次郎Click!が東京府に寄付したもので、郊外遊園地「新宿園」Click!と同様に、遊園地「不動園」Click!のマーケット形成が目的だったとみられる。
 しかし、開発状況の進捗を見つつ、入場者数の推移と維持費との採算が合わないと判断したのか、あるいは当初からの目論見だったのかは曖昧だが、堤康次郎は不動園のプロジェクトを突然中止すると、目白文化村Click!の建設計画に切り替えている。落合府営住宅の連続的な建設(落合第一府営住宅~第四府営住宅)とともに、この箱根土地Click!の大規模な開発計画を知った市街地の工務店は、高い建築需要が見こめると踏んで落合地域への社屋移転を考えただろう。
 落合府営住宅は、東京府の制度を利用して住宅建設資金を積み立ててきたオーナーが、好みの意匠の住宅を建てられる仕組みだった。したがって、工務店も自由に選択することができ、長期にわたり面倒をみてもらえそうな、下落合とその周辺域が地元の工務店に依頼するケースも多かっただろう。箱根土地の建築部にも設計士や大工たちがいて、盛んにモデルハウス(西洋館)も建設し文化村の敷地内に展示していたが、目白文化村に建っていた住宅の大半は同社の仕事ではない。おそらく、地元の工務店が建てた住宅も少なくはなかっただろう。
 冒頭の写真は、落合第三府営住宅の近くで営業をしていた、下落合1536番地の宮川工務店の社屋だ。第一文化村に近接した北西、落合第二府営住宅のすぐ西側にあたる位置で開業していた。1925年(大正14)に撮影されたもので、当時の「大日本職業別明細図」(通称「商工地図」Click!)に広告入りで掲載されている。社屋とはいえ、まるで目白文化村か近衛町Click!に建っていそうな西洋館の意匠をしており、同社のオフィス自体がモデルハウス(自宅兼用)として機能していたのかもしれない。社主は宮川操という人物だが、残念ながら『落合町誌』(1932年)には収録されていない。
宮川操1925.jpg
宮川工務店広告.jpg
宮川工務店1925.jpg
 さて、宮川工務店から東北東へ150mほど、落合第二府営住宅の北側で目白通りに面した位置に、もうひとつ石井菊次郎が経営する石井工務店が営業していた。現在の街並みでいうと、長崎バス通りの出口にある二又交番の、目白通りをはさんで向かいにあたる位置、当時の地番でいうと下落合1521番地で開業していた。社屋の写真が残る宮川工務店よりも、むしろ目白通りに面した石井工務店のほうが、事業の規模が大きかったかもしれない。なぜなら、1926年(大正15)発行の「下落合事情明細図」を参照すると、宮川工務店の南側に「石井石材店」(下落合1597番地)が採取されており、石井工務店の系列会社だった可能性があるからだ。
 石井石材店は、1925年(大正14)発行の「商工地図」や「出前地図」には広告も含め掲載されていないが、翌年の「下落合事情明細図」には店舗が採取されている。また、13年後の「火保図」(1938年)では、すでに石井石材店の敷地へ一般の住宅が2棟建設されているので、おそらく下落合での営業期間は10年ほどではなかったかとみられる。当時の石材店は、宅地開発の築垣や塀、礎石、縁石、側溝のフタなどに用いられた大谷石に代表される石材をはじめ、住宅の庭石までを幅広く手がけているが、同時代の広告でもよく見かけるように、商材にはセメントも扱っていた。
 石井工務店の石井菊次郎もまた、宮川操と同様に『落合町誌』(1932年)の人物事業編には、残念ながら収録されていないので、どのような人物だったかは不明だ。
宮川工務店1926.jpg
宮川工務店1938.jpg
宮川工務店1947.jpg
 1925年(大正14)発行の「商工地図」には、落合地域から宮川工務店と石井工務店の2社だけが、裏面に広告を掲載している。また、石材店では小野大理石工場と宇田川石材店の2社がエントリーしている。おそらく、大正期に入ると郊外住宅地の大規模開発をあてこんで、多くの工務店や石材店、材木店、塗装店などが市街地から移転してきて、落合地域やその周辺域で事業をスタートしているのだろう。
 最後に余談だが、宮川工務店から第一文化村の方角(東側)へ向かう道をたどり、目白通り(小野田製油所Click!のある角地)へと出られる三間道路の左手に、「下落合事情明細図」(1926年)には「萩ノ湯」Click!(下落合1534番地)という名称で採取されている銭湯があった。この銭湯は、少し前まで「萩ノ湯」→「伊乃湯」→「人生浴場」という店名の変遷だと思っていたが、大正期の「萩ノ湯」のあとに、「第一美名登湯」という店名時代のあったことが、「火保図」を参照していて判明した。
 したがって、近隣の方々にはおなじみのこの銭湯は、大正期(おそらく創業時)から昭和初期にかけては「萩ノ湯」、1930年代後半から戦時中ぐらいまでが「第一美名登湯」、戦後から1960年代末ぐらいまでが「伊乃湯」、そして1970年代から廃業するまでの間が「人生浴場」……という経緯だったようだ。
石井工務店1925.jpg
石材店1925.jpg
宮川工務店跡.JPG
 わたしがアパート暮らしをしていた学生時代、最寄りの銭湯「久の湯」(旧・仲の湯)が休業のとき、たまに通った際の店名は「人生浴場」だったことになる。年に数回、ほんのたまにしか出かけない銭湯だったので、目白文化村に直近のこの店名の記憶がない。その裏側わずか40mほどの西寄りに、宮川工務店は開業していたことになる。

◆写真上:1925年(大正14)に撮影された、下落合1536番地の宮川工務店。まるで文化村住宅のような社屋で、同社のモデルハウスも兼ねていたのかもしれない。
◆写真中上は、1925年(大正14)の「商工地図」に掲載された宮川(操)工務店と石井(菊次郎)工務店。宮川工務店の位置を、まちがえて記載している。は、同地図裏面に掲載された宮川工務店と石井工務店の広告で、宮川工務店には電話が引かれていた。は、1925年(大正14)作成の「出前地図」(南北が逆)にみる宮川工務店。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる宮川工務店。は、1938年(昭和13)発行の「火保図」にみる宮川工務店。は、二度にわたる空襲から焼け残った1947年(昭和22)の空中写真にみる宮川工務店。
◆写真下は、1925年(大正14)の「出前地図」(南北が逆)にみる石井工務店。は、同年の「商工地図」裏に掲載された石材店。は、宮川工務店跡の現状。(右手)

壺井栄に張り倒された中野鈴子。

$
0
0
壺井繁治・栄邸跡(東側).JPG
 夫である壺井繁治Click!が、二度と政治活動は行わないと「転向」を表明し、1934年(昭和9)5月に豊多摩刑務所Click!から保釈されたあと、壺井栄Click!は留守番をしていた上落合(1丁目)503番地の借家を解約している。子どもも含めた一家は、いったん壺井繁治の故郷である四国の高松へと帰郷したものの、地元の警察が面倒を避けたかったのだろう、「どうか、1日でも早く東京へ引き揚げてくれ」とうるさいので、壺井一家は再び上落合(2丁目)549番地の借家へと舞いもどっている。
 壺井繁治はその家から、岡田復三郎が起ち上げた現代文化社に通勤するようになった。現代文化社は、壺井繁治の保釈とほぼ同時の1934年(昭和9)6月に、雑誌「進歩」を創刊している。当時の複雑な心境を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された壺井繁治『激流の魚・壺井繁治自伝』から引用してみよう。
  
 (前略)わたし自身についていえば、戦争とファシズムに反対する共産主義運動の組織から離脱したが、共産主義思想そのものの正しさを否定しているわけではなかった。だから戦争の拡大とファシズムの激化という外的現実は、自分の内部的論理と常に摩擦を起こさずにはいられなかった。けれども自分の内部的論理が、戦争とファシズムという現実と対決して行動の論理に転嫁し、実践化されるためには、その論理と分かち難く融合して統一された主体を構成しなければならぬ感性が傷つき、挫折していた。その傷を癒やすこと、挫折からもう一度起ち上がろうとすること自体が、辛うじて戦争とファシズムへの対決であった。
  
 壺井繁治は、「内部的論理」と外部的な「行動の論理」とに矛盾を抱える、「転向」者として苦悩していた。その苦悩や葛藤は、妻の壺井栄Click!にもひしひし伝わっていただろう。だが、壺井栄は相変わらず獄中の“同志”を支援しつづけ、宮本百合子Click!窪川稲子(佐多稲子)Click!中野鈴子Click!らとともに「働く婦人」を編集しつづけており、「内部的論理」と「行動の論理」が統合された世界に生きていた。壺井繁治は、沈黙する妻との乖離感に、少なからず息苦しさをおぼえていたにちがいない。
 壺井繁治は、翌1935年(昭和10)になると現代文化社の岡田復三郎を説きふせ、詩誌「太鼓」を創刊している。解体されてメディアを失った、日本プロレタリア作家同盟に参加していた詩人たちを集め、再び文学活動を再開するのがおもな目的だった。当時の心情を、壺井繁治は詩に託して詠んでいる。
  
 あの標本室には/わたしの死骸が並んでいる/たくさんの仲間と共に/ピンで止められて/喪章の如く静かに
 それなのに/あの痩せて尖った昆虫学者は/首をひねりひねり/考えこんでいる/ときどきわたしの翅が/微かに動くので/こいつ/まだ死にきれぬのか/太い野郎だ/それとも風のせいかな/そういって/昆虫学者はぴしゃりと窓を閉めた
  
豊多摩刑務所.JPG
豊多摩刑務所正門.JPG
豊多摩刑務所独房.jpg
 1935年(昭和10)11月に創刊された詩誌「太鼓」には、巻頭論文として小熊秀雄Click!の『風刺詩の場合』が掲載されている。また、壺井繁治自身は“からめ手”から政府を批判し、英米語の排斥運動を行う国粋主義者たちを揶揄する、風刺詩「英語ぎらい」を発表した。そのほか、金子光晴や松田解子、森山啓、大江満雄、新島繁など発表のメディアを奪われた詩人たちが作品を寄せている。そして、同じ創刊号には中野鈴子の詩『一家』と、随筆『「父親しるす」について』が掲載されている。
 壺井繁治と中野鈴子が急速に親しくなったのは、詩誌「太鼓」の創刊号を準備していたころ、すなわち1935年(昭和10)の秋ごろからだと思われる。そして、ふたりの関係が壺井栄にバレたのが、翌1936年(昭和11)4月ごろのことだといわれている。壺井栄は、ふだん温厚な彼女にしてはめずらしく激高した。
 壺井夫妻は、中野重治Click!原泉Click!夫妻と妹の中野鈴子とは家族ぐるみの付き合いであり、特に中野鈴子とは戸塚(4丁目)593番地の窪川鶴次郎・稲子邸Click!でつづけられていた、雑誌「働く婦人」の編集仲間でもあった。だから、ごく親しい友人であり同志、というか7つ年下の妹のような存在に裏切られたという意識から、ことさら強いショックを受けたのだろう。まるで、鎌田敏夫のドラマ『金曜日の妻たちへ』のような展開だが、謝罪に訪れた中野鈴子の横っ面を、壺井栄は思いきり張り倒して泣きわめいた。それでスッキリしたのか、壺井栄は中野鈴子を許している。
 「転向」をめぐり、妻との間にできてしまった溝からくるさびしさや不安を、壺井繁治はいつも明るく少し“天然”でトボけた中野鈴子と付き合うことで、まぎらわせようとしたのかもしれない。同じようなことが、窪川稲子(佐多稲子)Click!と夫の窪川鶴次郎との間でも起きている。夫の「転向」に対し、揺るがずに活動をつづける妻たちを目の当たりにした夫たちは、自身の敗北感や挫折感をイヤというほど味わされ、徐々に妻を鬱陶しく煙たい存在として意識していたのかもしれない。
壺井繁治・栄邸跡(西側).JPG
壺井栄1940.jpg
壺井繁治1959.jpg 中野鈴子1934頃.jpg
 壺井栄は晩年、川西政明Click!のインタビューに応じ、「今でも思い出すと恥かしいと思う。だから私は、金輪際その時のことを誰にも口に出さなかったのよ。普通なら夫婦別れもしたかもしれないわ。だけどさ、私には、自分の選んだ結婚を、築き上げてゆかねばならないという責任と云ったら偉そうだけど、くだいて云えば意地もあったろうし、おやじ(繁治)と別れられなかったんだね」(『新・日本文壇史』第4巻・岩波書店/2010年)と、しみじみ答えている。
 中野鈴子は、さっそく壺井繁治と訣別したあと、壺井栄あてに10通もの詫び状を書いている。これを読んだら、壺井繁治の立つ瀬はまったくなかっただろう。
  
 わたしは、栄さんが壺井さんがそんなに公明正大なのに対して、私は何と云ふうそつきで不正直なのでせう。わたしは自分の不正直さをみんなこゝに申上げまして改めて御了解して頂きたいと思います。わたしが中条さんいね子さんに壺井さんを悪く云ふと云ふことを結果においてさうなりましたかも分かりません。/わたしは、自分のあの当時のことを正直に告白して、そして、壺井さんを悪いやうに云ふてあることについては徹底的に取り消します。責任をもつて取り消します。そして深くお詫び申し上げます。(中略) ありのまゝを申し上げました。この手紙は書きあやまりのないやうに注意をして書きました。この手紙のまゝですと、わたしの気持ちの中には壺井さんに対して心が残ツてゐると理解になりますかと思います。/自然な心持としてはのこりますのが本当かも分りません。昨日までは、わたしは残つてゐないと自分に思い込んでゐました。しかし、鏡に映し出されゝばのこつてゐるかも分りません。けれども、これは、わたしは自分の責任として、背負います。と同時に、一日も早く、忘れてしまいたいと思いますし、出発点のことや、自分の犯したことに対する反省と良心とで消し去るものであることを信じます。わたしは改めて、もう決して、不正なことはしない決心でをります。決して自分をあまやかしたりしないことを誓います。
  
 既婚者を好きになることが、今日的な倫理観からみれば総じて「不正」なことなのかどうかは別にして、壺井栄は彼女の真摯で一途な姿勢を受け入れたのだろう。
サンチョ・クラブ跡.JPG
壺井夫妻1966頃.jpg
 壺井繁治の『激流の魚・壺井繁治自伝』には、もちろん中野鈴子との関係はまったく触れられていない。現代文化社から刊行された詩誌「太鼓」は、壺井繁治が「転向」直後に模索したきわめて重要な抵抗のかたちであり、印象的なエピソードであるにもかかわらず、サラッと1ページほどの記述で済ませている。そして、すぐにも上落合のサンチョクラブClick!結成へと話を進めている裏側には、ふだんはニコニコと温厚な壺井栄がかいま見せた修羅が、彼にはよほどこたえ、怖かったものだろうか。

◆写真上:上落合(2丁目)549番地にあった、壺井繁治・栄夫妻邸跡を東側の接道から。
◆写真中上は、豊多摩刑務所(のち中野刑務所)の正門。は、同刑務所正門の扉を内側から。下は、1960年代の撮影とみられる同刑務所の独居房。
◆写真中下は、上落合(2丁目)549番地の壺井繁治・栄夫妻邸跡(正面)を西側の路地から。は、1940年(昭和15)に撮影された壺井栄。下左は、1959年(昭和34)に撮影された壺井繁治。下右は、1939年(昭和13)ごろ撮影の中野鈴子。
◆写真下は、上落合(2丁目)783番地のサンチョクラブ跡。は、鷺宮の自邸で1960年代半ばごろに撮影された壺井繁治と晩年の壺井栄。

大正初期の下落合を散歩する。

$
0
0
徳川ビレッジ.JPG
 これまで、目白中学校Click!で発行されていた校友誌「桂蔭」Click!や、学習院昭和寮Click!の寮誌「昭和」Click!などを引用しながら、大正後期から昭和初期にかけての「下落合散歩」と、その周辺に拡がる風情をご紹介してきた。だが、大正前期に描写された風景は、若山牧水Click!の「下落合散歩」ぐらいしか記事にしていない。
 今回は、若山牧水が記録したのとほぼ同時期の、下落合とその周辺域に拡がる風景の中を「散歩」してみたいと思う。大正初期の下落合は、いまだ東京近郊の農村地帯そのものの姿をしていただろう。開墾がむずかしい、目白崖線の斜面沿いには深い森がつづき、その森の中にはところどころに華族の別荘や山荘が点在するような風情だった。
 もっとも賑やかだったのは、江戸期からつづく下落合と長崎にはさまれた清戸道Click!(せいとどう=目白通り)沿いの「椎名町」Click!界隈だった。現在の西武池袋線・椎名町駅周辺のことではなく、山手通り(環六)と目白通りの交差点あたりを中心に東西へ250mほど、全長500mほどに細長く開けていた街道沿いの街並みのことだ。目白停車場Click!駅前Click!や周辺も、ポツポツ開発されはじめてはいたが、繁華な賑わいからいえば長崎村椎名町、あるいは落合村椎名町ほどではなかった。
 当時の目白通りの様子を、岩本通雄『江戸彼岸櫻』(私家版)から引用してみよう。岩本通雄は、現在の目白聖公会の並びあたりで生まれ育っている。ただし、同書は改めて当時の状況を正確に調べ直してから執筆されたものではなく、自身の記憶のみに依存して書かれたとみられるので、不正確な記述や錯覚が多いことをあらかじめ了解いただきたい。
  
 目白駅から一丁程西に目白街道を歩いて、落合村の入口にはドイツ風のきびしい鉄門と大理石の柱が立つ戸田子爵邸がありましたが、このお屋敷中が深く砂利道で、二、三町歩いてもお屋敷が見えません。あきらめて、今度は門の所から石塀に沿うて北に歩きますと、四、五町歩いて漸く裏口に出ました。池袋から出る武蔵野鉄道(後の西武鉄道)の椎名町の駅近くになります。そして裏口の傍らには、サーベルをさげたカイゼル髭を立てた老警官が立って辺りを睨んでおりました。/明治、大正の時代はこのようにお金を出して、警官の派出所を設けることが出来たのでした。当時の言葉ではこれを請願巡査派出所と申しました。/この戸田さんのお屋敷は後に、徳川義親公のお屋敷となり、(中略) 私、通雄などは小さかったので、温室にぶらさがっている網かけメロンに目を輝かせておりました。公はクロレラも世にさきがけて研究され、栽培されておりました。/駅通りにあった戸田子爵邸の鉄門の前を南に横丁を辿りますと、近衛篤麿公爵五万坪の広い森に突き当たります。/この森は公の死後、当時の心ある政治家はおおむね、死後、井戸塀だけが残るのでして、近衛さんもこの譬に恥じず遂に、堤康次郎の手に渡り、日本最初の大文化村として小さく分割され、販売されてしまいました。
  
 さて、大正初期の下落合の様子をなんとなく感じとれる文章なのだが、このサイトをいつもお読みの方なら、あちこちに誤記憶やまちがいを発見されるだろう。
 確かに、戸田康保邸Click!の正門は下落合村の「入口」、つまり目白通りの北側へ三角形状に張りだした下落合の端にあったけれど、戸田邸は高田町雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)で落合村ではない。また、戸田邸の西端は「椎名町の駅近く」ではなく、同駅までは直線距離でまだ700mも離れている。のちに徳川義親Click!が戸田家から敷地を譲りうけ、Click!を建設して転居してくるのは1933~34年(昭和8~9)のことなので、1909年(明治42)生まれの岩本通雄はそのとき、すでに24歳の大人になっていたはずだ。小さい子どもの「私」が、目を輝かせながら見上げた「網かけメロン」は、温室栽培が趣味だった戸田康保の大温室の情景だろう。
 同文の中で、記憶の混乱はまだある。1922年(大正11)に堤康次郎Click!箱根土地Click!が開発したのは、目白駅から離れた下落合中部の目白文化村Click!であって、目白駅が間近な下落合の丘上にある近衛町Click!ではない。近衛篤麿邸の敷地は、息子の近衛文麿Click!と学習院で同窓だった東京土地住宅Click!の常務取締役・三宅勘一Click!が、協同で近衛町開発プロジェクトを立ち上げ、目白文化村と同年に売り出したものだ。近衛町の開発を箱根土地が引き継いだのは、東京土地住宅の経営が破たんした1925年(大正14)以降のことだ。
下落合1909.jpg
戸田康保邸1926.jpg
戸田邸大温室1919.jpg
 ウロ憶えの情景を、そのまま文章化しているせいか誤記がまま見られるけれど、およそ大正初期の下落合風景をうっすらと感じとることができる。以下、つづけて近衛町が開発される前の近衛篤麿邸跡に拡がる、深い森の情景から引用してみよう。
  
 子供の時の大きな遊び場所、夏など蝉をよくとりに行きました奥深い森は、私達の眼から消えて行ってしまいました。他人のことながら私は残念で、何か覚えていてやろうと考えて、今だ(ママ)に私の頭に残っているのはちっこい二階建の洋館の玄関についていた恨みの表札です。/帆足計。早稲田大学の先生だそうですが、世の中のうつり変り、幸、不幸を見聞きするにつけ、恐らく私には永久に忘れられない名字でしょう。相手は御公卿さんです。恐らくこれが堤さん初期の資産を形成したのではなかったでしょうか。/「上つ方」の話をなしにすると、「目白」の異った特色は又鮮かに現れて来ます。/目白駅から池袋へ向う国鉄は高台を深く掘って崖の下を走ります。/その崖の左側に洋画家、梅原龍三郎氏のアトリエがあり、戸田子爵の裏口、髭の巡査の立っていた所から西へ小半町で、日露戦争の前、ドイツからの帰途ベルリンからシベリアを単騎横断した勇者、福島安正陸軍大将五百坪の家があり、南に向い街道に近づくと、石川家と「お花さん」の家かためて三百坪、これぞ小生生誕の地でありました。
  
 帆足計の連れ合いである帆足みゆきClick!が設計した、帆足邸Click!がヤリ玉にあげられて「恨み」をかっているが、帆足家が近衛町の敷地を購入したのは東京土地住宅からで、堤康次郎の箱根土地からではない。
 国立公文書館に残された、東京土地住宅の「近衛町地割図」Click!を参照すると、1923~24年(大正12~13)の時点、つまり東京土地住宅が破たんする以前に、帆足邸の敷地「近衛町41号」(北半分の三角地)は販売済みであり、すでに帆足家が購入しているのが明らかだ。ここに、中村式コンクリートブロックClick!工法の「ちっこい二階建」の西洋館が竣工するのは、東京土地住宅が経営破たんするのと同年、1925年(大正14)のことだった。堤康次郎とともに帆足計までが、事実誤認のとんだ濡れぎぬで“逆恨み”をかっていたことになる。
 また、堤康次郎が「初期の資産を形成した」のは、大正前期から中期にかけての伊豆・箱根や軽井沢での別荘地開発と遊園地の設立、東京護謨の起業、高田農商銀行Click!などをはじめとする金融機関の買収などからであって、下落合の宅地開発はそのあとの時代だ。近衛町の開発を主導していたのは、東京土地住宅の三宅勘一常務とともに、学友だった「相手は御公卿さん」の近衛文麿だ。「御公卿さん」がボンヤリして、世情にうとかった時代はとうに終わっている。
 山手線の線路沿いにアトリエがあった「梅原龍三郎」も、高田町大原1673番地(現・目白3丁目)に住んでいた安井曾太郎Click!の誤りだ。安井はこのあと、岩本通雄が堤康次郎の開発と勘違いして忌み嫌った、近衛町の下落合1丁目404番地にアトリエClick!を建設して転居してくる。
古口運送店広告1925.jpg
古口運送店1925.jpg 古口運送店1926.jpg
比留間運送部1925.jpg
 下落合の崖線下の風景も記録されているので、記事が長くなるが引用してみよう。
  
 夏になりますと、連日の貨物運送に馬も疲弊したり、脚を痛めたりします。/古口(こぐち)さんの馬子のじいさんが、私に声を掛けて来ます。/「通ちゃん。川へ行こうか」/私は早速家を飛び出して、馬子のじいちゃんの引出した馬に乗せて貰います。/夏の間のこの馬との散歩は、私には大なる野心があったのです。/馬はかねてから知っている道ですから、落合一丁目古口さんの厩から二丁目の町はずれを南に曲って、少しだらだらと坂を降りて行きますと、目白の裾を流れる神田川(ママ)に突き当ります。/村の人達のお米や粉をひく水車小屋があります。水はきれいで澄んでいます。馬は何もいわれないのに、川の中へ歩み入って、水を飲んだり、あたりを少し歩いたりしておとなしくしていました。/私は馬から降りて、川底を探って見ると、相変らず、手に一杯しじみが掴めました。私の家族三人が朝必要とするしじみの分量位はあっという間にとれてしまいます。/馬子のおじいちゃんは、川岸の堤の所で鉈豆煙管をすぱすぱやったり、掌にすいがらを落したりしています。
  
 古口運送店は、もともと目白駅が地上駅時代には駅前、すなわち高田町金久保沢1127番地(現・目白3丁目)あたりにあったのだが、1922年(大正11)秋に目白橋西詰めとつながる橋上駅が竣工すると、目白通り沿いに移転している。岩本通雄は「落合一丁目」と書いているが、移転先の正確な地番は高田町金久保沢1114番地だった。同運送店は、1925年(大正14)の「商工地図」Click!(地上駅表現のまま)でも、また翌1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」(橋上駅化後の表現)でも確認することができる。
 さて、古口運送店にいた「じいちゃん」の馬子は、馬をどのような道筋で旧・神田上水(1966年より神田川)へ連れていったのだろうか。「二丁目の町はずれ」という曖昧な表現で書かれているが、もちろん大正前期には住所表記の「丁目」など下落合に存在しない。この「丁目」を、江戸期からの“お約束”や感覚にもとづく通称としてとらえるなら、先の「落合一丁目」から類推すると、街並み(商店街や住宅地)がいったん途切れるあたり、つまり「一丁目」は目白中学校Click!の西側接道で途切れ、「二丁目」は目白福音教会の西側接道で途切れるあたり……と解釈できるだろうか。
下落合1921.jpg
目白駅階段.JPG
 古口の「じいちゃん」が、馬の背に岩本通雄を乗せて連れ下りたのは、傾斜が比較的ゆるやかだった七曲坂Click!の道筋であり、坂を下りきった下落合氷川明神社Click!の先、南北に大きく蛇行を繰り返す旧・神田上水には、旧・田島橋Click!の西側に位置する東耕地の水車小屋Click!が、製粉の音をゴットンゴットン響かせていたはずだ。古口の「じいちゃん」は、鎌倉期に拓かれ幕府の騎馬軍団Click!の通行を考慮した切通し状の七曲坂Click!が、馬の上り下りにはやさしいことを知悉していたのだ。

◆写真上:旧・戸田邸の敷地跡に開発された、「徳川ビレッジ」の住宅街。2階建てで7LDKタイプの標準住宅だと、敷金4ヶ月で家賃は150万円/月だとか。
◆写真中上は、岩本通雄が生まれた1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる下落合界隈。は、1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」に描かれた戸田康保邸。は、1919年(大正8)に撮影された戸田邸の大温室。
◆写真中下は、1925年(大正14)の「商工地図」に掲載された古口運送店の広告。中左は、同年の「商工地図」に採取された地上駅前の古口運送店。中右は、橋上駅化された目白駅前に移転した同店。は、下落合481番地あたりにあった比留間運送部。1903年(明治36)より目白駅で貨物Click!の扱いがスタートすると、それを当てこんだ運送業と倉庫業が急増しており、同運送部でも馬を飼っていただろう。
◆写真下は、古口運送店にいた「じいちゃん」が馬とともに旧・神田上水まで散歩したコース。は、エレベータ―の設置で解体される旧・目白駅の階段。

事件です、5億円です!

$
0
0
朝日新聞1987_1.jpg
 1960~70年代にかけ、(城)下町Click!から山手線の外周域へと転居した人たちの中には、1964年(昭和39)の東京オリンピックをきっかけに、住環境の悪化と「町殺し」Click!による「人の住むとこじゃねえや!」の人たちもいれば、地元で小さな会社や店舗をかまえていたのに、「オリンピック景気」のとんでもない地価上昇によって相続税や固定資産税が捻出できず、やむをえず土地を売った(江戸東京方言で「出身地の町を離れた」「引っ越した」の意)人たちも大勢いる。
 地道に仕事や商売をつづけ、生活をしていくおカネぐらいはなんとか工面できていたのに、あずかり知らぬところで「億万長者」になってしまったというケースだ。せっかく先祖から受け継いだ、決して大きいとはいえない会社や店舗を維持・継続する土地があるのに、生活していくだけの現金しか稼げず、愛着のある地元で仕事や商売をつづけられないというジレンマが、多くの家庭でほぼ同時に発生していた。特に、東京35区Click!時代の地域でいえば神田区(千代田区)、麹町区(同)、日本橋区(中央区)、京橋区(同)、麻布区(港区)、芝区(同)、赤坂区(同)といった、(城)下町のコアを形成してきたエリアだ。
 まったく同じことの繰り返しが、20年後のバブル経済まっただ中に置かれた、落合地域のあちこちでも起きている。特に、目白通りに面した商店街のダメージは大きかった。坪あたり数百万円にすぎなかった地価が、アッという間に1千万円を超えたのだからたまらない。48坪(約160m2)前後の店舗敷地に、5億円の値がついた。目白通り沿いの商店や家々は動揺し、浮き足立った。毎日、地上げ屋が目白通りを徘徊し、戦前から地道に商売をつづけていた店舗が、相続税や固定資産税の重課にたえられず、商いに見切りをつけてクシの歯が抜けるように消えていった。
 そのあとにはビルや大型マンションが建ち、大手スーパーやコンビニが進出して小規模な個人商店を圧迫しつづけ、売り上げが減少して地代や税金が捻出できないという、20年前にどこか(城)下町の街角で見た、商店街の「衰退スパイラル」がそのまま進行することになる。当時の変転が激しい目白通りの情景は、わたしにとってもいまだ生々しい記憶として残っている。
 また、高騰する地価に目がくらみ、親族や昔馴染みの借地人が企業や商店をかまえているにもかかわらず、黙って不動産屋に土地を売りわたし挨拶もなしに、さっさと落合地域から離れていった地主もいたようだ。そのようなケースだと、なにも知らされていない会社や店舗では、ある日突然、不動産屋が訪ねてきて「立ち退き」を要求され、驚愕することになる。スズメの涙ほどの「借地権料」(立退き料)をわたされ、数ヶ月以内にすみやかに出ていけというわけだ。1964年(昭和39)の東京オリンピックのあと、まさに下町のあちこちで目にした、デジャビュそのものの情景だ。
朝日新聞1987_2.jpg
目白通り1979.jpg
目白通り2018.jpg
 1980年代の後半、目白通り沿いの商店街は少なからずパニックと疑心暗鬼の渦中にあったらしい。その様子を朝日新聞が取材し、7回にわたる詳細なルポとして連載している。同紙のルポには、次のような出だしで取材意図が語られている。1987年(昭和62)2月4日発行の朝日新聞(東京版/西部)に連載された、「いま下落合四丁目で(1)―ルポ・新集中時代―」から引用してみよう。
  
 都庁が移転する新宿のはずれ、下落合四丁目。起伏のある閑静な街を歩いた。中曽根民活。東京改造。東京新集中時代、とも言われる。どこにでもある何げない街角にも、何かが起きているのではないか、と。統一地方選挙を前に、問う。
  
 このサイトで「下落合4丁目」と書くと、本来の地名Click!である下落合西部の中落合3~4丁目と中井2丁目界隈(旧・下落合4丁目エリア)をイメージされる方も多いと思うので、誤解がないよう念のために書いておくけれど、この記事に限っては現在の下落合4丁目(旧・下落合2丁目エリア)のことだ。
 1980年代になると、目白駅西側の目白通り沿いにはすでにオフィスビルやマンションが建ち並んでいたが、駅前から西へ6~7分ほど歩いた下落合4丁目の通り沿いには、いまだ個人商店の数が多く、1951年(昭和26)より「目白通りニコニコ商店街」が結成されていた。大型スーパーの進出にあたり、商店街が一致団結して商品搬入を阻止したエピソードさえ残されている。同年2月6日の朝日新聞に掲載された、「いま下落合四丁目で(3)―ルポ・新集中時代―」から引用してみよう。
  
 創立三十五周年に当たった去年(1986年)の歳末大売り出し。商店街から恒例のキラキラした飾り付けが、なくなった。役員会の議論は、延々二時間に及んだ。「景気づけには、ぜひものだ」「歯抜けの商店街には、似つかわしくない」「費用十六万円もきつい」。最後に会長が、「ま、やめましょう」とまとめた。/飾り付けを強く主張した洋品雑貨店は、大売出しから抜けた。/八年前(1979年)の話だが、会長は「あの時は……」と思い出す。当時、近くに大型スーパーができた。客を取られ、商店会がすたれるのは、目に見えている。ほかの商店会とともに、「商品の搬入を阻止しよう」ということになった。/一回は、強行突破された。その晩から、スーパーの入り口前に泊まり込んだ。「ニコニコ」は、いつも二十-三十人を動員し、トラックの前に立ちはだかった。「若かったから、できたんですよ」。(カッコ内引用者註)
  
朝日新聞1987_3.jpg
朝日新聞1987_4.jpg 朝日新聞1987_5.jpg
 1970年代の末、進出してくる大型スーパーの前にピケを張るほど、団結力を誇っていた目白通り沿いの商店会は、わずか8年後には大売出しの飾りつけでさえ寄り合いの意見が割れ、歳末イベントから撤退する店舗まで現れている。文字どおり、クシの歯が抜けるように通りから商店が消えつづけたのは、それほど「1坪=1千万円」というカネの威力も大きかったのだろう。
 慰安旅行もかねた、「目白通りニコニコ商店会」新年会の参加人数にも、大きな変化が表れている。1980年代の初め、慰安旅行=新年会への参加者は50名を数えていたのに、同紙ルポが連載された1987年(昭和62)の時点ではわずか16名しか集まらなかった。同商店会の寄り合いがあると、いっそのこと「目白通りニコニコしてない商店会」にしたらどうか?……などという、なかば自虐的で、どこかあきらめが漂う冗談が囁かれていたと、同ルポの記者は書きとめている。
 バブルの崩壊をくぐり抜け、なんとか生き残った店舗も、現在はネットの普及でさらに厳しい状況に置かれているのではないだろうか。個人商店がつぶれ、すべてが大資本による均一化された品揃えやサービスになってしまったら、周辺に住む消費者としてもまったく面白くない。また、個性が消えアイデンティティが希薄になった、ならではの「地域性」や「地域文化」が不明な街に、人々は集まろうとはしないだろう。目抜き通りClick!に展開する商店街の衰退は、そこに住む住民たちの“脆弱化”に直結することを、過去に起きた(城)下町の多彩なケーススタディが教えてくれる。
 1980年代の狂乱地価は、家々の借地代ばかりでなくアパートやマンションなど集合住宅の賃料にもハネ返った。当時、下落合にあった古めな木造アパートの1DKの家賃は6万円。部屋を借りていたのは、近くにある大学の研究室に勤務する独身の女性で、下落合の街並みが気に入ってようやく探しあてたリーズナブルな物件だった。ところが、入居後わずか7ヶ月で大家から立ち退いてほしいと告げられた。大家が不動産屋を介して、アパートを丸ごと売り出したからだ。
 同一条件の物件は下落合に存在せず、彼女は都立家政や下井草、鷺宮まで探しまわったが、もはや6万円で1DKの部屋が借りられるアパートは、千葉県の浦安までいかなければなかった。彼女は、家賃条件を6万から7万に上げ、鷺宮にアパートを見つけて転居している。ちなみに、大家が売り出したアパートは山手線・目白駅Click!徒歩12分、一種住専、土地152.52m2(約46坪)の広さで1987年(昭和62)2月現在、3億9百万円だった。
朝日新聞1987_6.jpg
近衛町1980年代.jpg
旧藤田邸.JPG
 「女性雑誌に載っているようなマンション住まいなんて、夢ですよ。寝る広ささえあれば、あとは入れ物に合わせて、生活するだけ。でも、ホント、今回はラッキーだったわ」と、彼女は記者の取材に笑って答えている。「億ション」という言葉が生まれたのも、ちょうどそのころのことだ。

◆写真上:1987年(昭和62)2月に、ピーコックストアが入る目白ビルの上階から南を向いて撮影された家並み。右手前に見えているのが、建て替えられる前の早川邸、手前の屋敷林は今年(2018年)解体された柿原邸、上部に見えている横長のアパートが東京電力林泉園寮、そして向こう側の家々が旧・東邦電力林泉園住宅地跡。
◆写真中上は、目白通りのショーウィンドウに映る解体業者のスタッフ。(粒子の粗いモノクロ画面は同紙ルポより) は、1979年(昭和54)に撮影された下落合4丁目界隈の目白通り。は、現在(2018年)の同一場所。(Google Earthより)
◆写真中下は、解体後の店舗跡に置かれた引っ越しの遺物。下左は、丘上から望遠レンズで撮影した新宿駅方面。下右は、住民が消えた古いアパートのガスの元栓。
◆写真下は、タクシーから眺めた下落合4丁目の目白通り。まだ、通りの上に見える空が広い。は、1980年代に目白通りの目白アベニューマンションあたりから撮影された新宿方面。目白中学校Click!跡地に建てられた、画面下の西洋館は今年(2018年)に解体された。は、藤田家Click!が昭和初期に建てた解体される前の西洋館。

カルピスの三島海雲がいたお化け屋敷。

$
0
0
デ・ラランデ邸1980年代.jpg
 カルピスが好物だった中村彝Click!のせいで、こちらでも創業者の三島海雲Click!と絡めて何度かカルピスClick!を取りあげてきた。わたしは学生時代、その三島海雲が住んでいた家の前を、それとは知らずに1年近く何度も毎日往復していた。学生時代にアルバイトをしに通っていた会社が、新宿区の信濃町にあったのだ。
 わたしのバイト先は信濃町駅前から北へ少し歩き、右折して東へ300mほど歩いたところにあった。その道すがらの右手には、CBSソニーの大きな録音スタジオがあったのだが、その斜向かいにボロボロになったお化け屋敷のような西洋館が、樹木に囲まれてひっそりとたたずんでいた。そのときは、「このへんは、めずらしく空襲にも焼け残ったんだな」ぐらいの感慨しか持たなかったのだけれど、このお化け屋敷こそが「デ・ラランデ邸」であり、1956年(昭和31)から三島海雲が暮らしていた家だったのだ。
 アルバイト先の企業は、スーパーマーケットのさまざまなPOPやチラシをデザインして印刷し、それを店舗ごとに仕分けして発送する業務を行っており、わたしは印刷室から上がってきたばかりのPOPやチラシを、リストにもとづいて首都圏に展開する店舗ごとに仕分けする仕事をしていた。コーヒー専門店のカウンターClick!業務に比べたら、はるかに単調で考えたり工夫したりすることも少なく、休み時間にはストレス解消と気分転換のために、デ・ラランデ邸の東側に隣接していた公園で、よくアルバイト先の社員たちと野球やキャッチボールをしたものだ。
 投げたり打ったりしたボールが、細い道路をはさんだ同邸の敷地へ飛んでいったことも何度かあった。そんなときボールを拾いにいくのは、ジャンケンで負けた人が探しにいくことになっていた。誰もが、なにが出てくるかわからない、不気味な幽霊屋敷の敷地へなど入りたくなかったのだ。わたしはジャンケンが強かったので、ボールを探しにいったことは一度もなかったように思うが、いまから考えるとジャンケンなどせず、自ら進んで敷地内にボールを探しにいけばよかったと、心底後悔している。建物をすぐ間近から、ハッキリと仔細に観察できたからだ。
 デ・ラランデ邸の前身が建てられたのは、1892年(明治25)ごろとみられているが、当初は平家建ての住宅で物理学者で気象学者の北尾次郎が住んでいた。その家を、日本で設計事務所を開業していたドイツ人建築家のゲオルグ・デ・ラランデが、1910年(明治43)ごろ全面的に設計しなおし、木造3階建ての大きな西洋館へとリニューアルしたとされている。当時の西洋館では一般的だった下見板張りの外壁に、スレート葺きのマンサード屋根が特徴的な、お化け屋敷とはいえ美しい意匠の西洋館だった。ただし、デ・ラランデはあくまでも北尾家の借家人であり、その後の研究によれば正確には「北尾次郎邸」と表現しなければ誤りのようだ。
デ・ラランデ邸1947.jpg
デ・ラランデ邸1975.jpg
デ・ラランデ邸工事中2013.jpg
 デ・ラランデは、1910年(明治43)に同邸を改築したとすれば、1914年(大正3)に東京で肺炎が悪化して死去しているので、わずか3年余しか住まなかったことになる。彼の死後、妻が子どもたちを連れてドイツに帰国してしまうと、同邸は北尾次郎とその遺族が所有したまま、さまざまな住人が入れ代わり立ち代わり暮らしたようだ。そして、1956年(昭和31)に三島海雲が同邸を買収すると、1974年(昭和49)に彼が死去するまで暮らしている。三島の死後は、三島食品工業(カルピス)の事務所として1999年(平成11)まで使われていた。わたしがアルバイトで同邸の前を往来していたころは、カルピスの養蜂部門のオフィスとして機能していたことになる。
 そのころのデ・ラランデ邸は、近所からお化け屋敷と呼ばれても仕方がないほど傷んでいて、暗くなってから前を通ると独特な雰囲気を周囲へ発散していた。下落合の西洋館がいくら古いといっても、大正期から昭和初期の建築なので、どこかハイカラで明るい雰囲気を漂わせているのに対し、明治建築の同邸はよくいえば重厚、悪くいえば重苦しい気配を一帯にふりまいていたような記憶がある。
 それは、同邸を包むように大きく育ってしまった屋敷林の陰影が、より暗い雰囲気を演出していたせいなのかもしれないけれど、たとえば同時代に建てられた、よく手入れのゆきとどいている大磯Click!の西洋館などと比べてみると、いまにも朽ち果てそうな、廃屋へ一歩手前のような風情は、なにやら見てはいけないものを見てしまったような気がして、わたしには不気味な印象だけしか残っていない。同邸がついに解体されたと聞いたのは、前世紀の末ごろだったろうか。
デ・ラランデ邸内部1.jpg
デ・ラランデ邸内部2.JPG
デ・ラランデ邸内部3.JPG
 それから長い歳月が流れ、学生時代のアルバイトをしているときに見た風景など、とうに記憶の片隅から消えてしまいそうになっていたとき、わたしは再びこの西洋館を目にすることになる。2013年(平成25)に、小金井にある江戸東京たてもの園に同邸が復元されたというニュースを、添付された美しいカラー画像とともに知った。最初、復元された同邸の写真と、信濃町にあったお化け屋敷の印象とがあまりにもかけ離れているので、かなり意匠を変えた復元なのではないかなと疑ったが、実際に復元された同邸を近くで眺めてみると、確かに信濃町に建っていたころのファサードと同じなことがわかった。
 これはあとで知ったことだが、信濃町に建っていたデ・ラランデ邸は昭和期にかなりの増改築が行われており、江戸東京たてもの園に復元された同邸は、できるだけ1910年(明治43)に大改築された当初の姿にもどして復元されたようだ。だから、わたしの学生時代に見た同邸の印象と、江戸東京たてもの園のそれとが大きく乖離しているように感じたのだろう。
 また、同邸は園内の日当たりのいい場所に復元されており、信濃町で屋敷林に囲まれて建っていたころの薄暗い風情と、まるで180度異なる環境なのも大きな違和感をおぼえた要因なのかもしれない。しかも、同邸の1階はテラスまで含めてカフェが開店しており、まるで繁華街の店舗のような賑わいを見せていた。
デ・ラランデ邸1979.jpg
デ・ラランデ邸外観1.JPG
デ・ラランデ邸外観2.JPG
 わたしが同邸の前を往来していた1981年ごろ、門前には「カルピス」を想起させる表札や看板などは、特になかったように思う。あれば、すぐに気がついていたはずだ。どこかに「三島食品工業株式会社」のプレートはあったのかもしれないが、やはり野球のボールを取りにいくのさえちょっと怖い、いまにも朽ち果てそうなお化け屋敷と「初恋の味・カルピス」とは、どうしても結びつかなかったにちがいない。

◆写真上:1980年代の撮影とみられるデ・ラランデ邸だが、もっと薄暗い印象だった。
◆写真中上は、1947年(昭和22)と1975年(昭和50)撮影の空中写真にみる同邸。1975年の時点では、邸の東側に野球ができるほど拡張された「もとまち公園」が存在していない。は、2013年(平成25)に江戸東京たてもの園で行われた復元工事。
◆写真中下:江戸東京建物園に復元された、デ・ラランデ邸内部の様子。三島食品工業の時代とは、かなり異なる意匠で復元されているとみられる。
◆写真下は、わたしがバイトで通っていた少し前の1979年(昭和54)に撮影された同邸。もとまち公園が東側に拡がり、わたしたちはここで昼休みにキャッチボールや野球をしていた。は、1階にカフェが入る復元された同邸の外観。

吉屋信子の手相占いをした記録。

$
0
0
吉屋信子邸跡.JPG
 わたしは、占いをほとんど信じていない。巫術や占術、望記術、卜術、陰陽術、風水、手相、家相、星座、タロット、水晶玉……などなど、占いの名称や方法はどうでもいいのだが、その存在自体は否定しない。それらよって導き出された史的経緯や事実Click!が存在する以上、そして人々がそれらに依存して意思決定を行なったケースが多々ある以上、“単なる迷信”として存在自体まで否定をするつもりはない。
 1934年(昭和9)に講談社から発行された「婦人倶楽部」5月号に、当時から高名な占い師(手相見)・永鳥真雄が、下落合4丁目2108番地(現・中井2丁目)に住む吉屋信子Click!の手相を占なった記録が残されている。同時に、彼女の手相を写しとりキャプションを加えたイラストも掲載されている。吉屋信子は1973年(昭和48)、77歳ですでに人生を終えているので、これら占いの結果(当否)を彼女が実際に生きた軌跡と照合し、事実にもとづいて検証することができるのだ。
 そのときの占いの様子を、同誌に掲載された「女流名士花形のお手相拝見訪問」記事の中の、「女流作家の第一人者/吉屋信子女史」から引用してみよう。
  
 目下各婦人雑誌から引張り凧になつて、とてもお忙しくていらつしやる吉屋信子先生を丁度お暇の時を狙つて下落合のお宅を訪問いたしました。素晴らしい文化住宅のお庭には愛犬のセパードが耳を立てて頑張つてゐます。応接間には、艶やかなピアノが、張出しの日光室(サンルーム)の硝子を透して来る光にぴかぴかと光つてゐます。/『同じことなら将来の事を見て貰つた方がいいわ。』と流石は吉屋先生、気軽に右手を差出される。/『吉屋さんは一月生れでございましたね。十二月、一月生れの人は大体に骨格がしつかりしてゐて丈夫な筈ですが、生命線の初めがよれよれと鎖のやうになつてゐますから、子供の時は弱かつたやうですねえ。今は少し胃腸が弱くありませんか。』
  
 庭にいたシェパードは、副業でブリーダーをしていた上落合1丁目186番地の村山籌子Click!から、陸軍への寄付用にと「押し売り」Click!されたものだろう。
 ここで、すでにお気づきの方も多いだろう。占い師は、あたかも子どものときは病弱気味だった、いまでも胃腸が弱くないか?……などと、まるで相手を見透かすような口調で話してはいるが、吉屋信子に関する当時の本や出版社の資料をあらかじめ参照しておけば、多くの人々が既知のことを話しているにすぎないのがわかる。彼女の体形を見れば、誰が見ても骨格がしっかりしていることぐらい自明のことだ。
 これに対して、父親が胃がんで死去しているので心配だと彼女が答えると(この情報も仕入れていただろう)、以下、占い師は次のように重ねていく。
 『いや、目下さ(ママ:の)心配はないやうです。曾て山本権兵衛夫人が胃癌で亡くなられましたが、それは手相にちやんと出てゐました。(中略) しかし生命線の先が分れてゐますから、よく御旅行なさいますね。』
 ここで、「こんなすごい人物の手相も見たことがある」と自身の占いへ、コケ脅しにも似た権威づけをするのを忘れず、またしても新聞を読んでいれば誰でも知っていることを訊いている。このとき、すでに吉屋信子はヨーロッパや米国など各地を旅行して帰国したあとだった。また、彼女は講演旅行で全国をまわっており、「よく御旅行をなさいますね」は占いでもなんでもなく、ただ事実を述べているにすぎない。
吉屋信子手相.jpg
吉屋信子193404.jpg
 『(旅行を)未だこれからもなさいますよ。――運命線が三十歳のあたりからハツキリしてゐます。三十歳位で名声が出来たしるしですね。』
 30歳になる大正末、『花物語』や『屋根裏の二処女』が大ヒットしたのは、別に吉屋ファンでなくとも、この時代なら誰でも(特に女性なら)既知のことで、別になにかをいい当てているわけでもなければ、占なっているわけでもない。
 『感情線が二つに切れてゐますから、親に早く別れましたね。――性質は暗くて考へ込む方です。なるべく朗らかになつていたゞきたいものです。』
 これも、公表されている吉屋信子の経歴を参照すれば誰でも知ることができることを、さも手相から読みとっているように話しているだけだ。また、小説家にやたら明るくて考えこまない人種など、ハナから存在しない。占いの常套手段である、「コールドリーディング」にさえなっておらず、吉屋信子の“基礎知識”を披露しているにすぎない。
 『結婚線が割れてゐてよくないですなあ。恋愛も駄目。たとへ結婚をなすつても、別れるやうなことになり易いですね。――拇指の長いのは意志が強くて一つの事をやり通す人です。しかし神経が過敏ですね。偏食の傾きがありませんか。』
 同性の門馬千代と、下落合で公然と同棲している吉屋信子に対して、異性との結婚や恋愛は「駄目」といったところで、どれほどの意味があるのだろうか。「駄目」だから、女性の伴侶と暮らしていたのではなかったっけ? 意志が弱くて、ひとつのことをやり通せない小説家は稀有だし、彼女が神経質で食べ物に好き嫌いがあるのも、すでに女性誌などのインタビューで既知のことだったろう。
 『(前略)手が大体小さいですね。かういふ手の方は、物事に几帳面ですが、手先の事は不器用で、むしろ頭を働かして仕事をなさる方です。』
 だから、永鳥真雄がもっともらしく占なっているその相手は、日々原稿用紙に向かい、頭を働かせて仕事をしている小説家の吉屋信子なのだ。
 『動物や花などはお好きですね。――最後にもう一つ遠慮のないところを云はして頂くと頭脳線の端が分れてゐるから文才があつて筆は達者(後略)』
 だからだから、あんたが占なっているのは文筆をなりわいとする小説家の吉屋信子センセだってば。w ほとんど、おきゃがれもんClick!の占いだ。こんないい加減な言質で、よく手相見や占い師がつとまったものだ。花が好きなのは、『花物語』をパラパラめくれば自明のことだし、動物がキライなら庭でシェパードなど飼ったりはしない。
 一連の手相「占い」は、「90日間、わたしは天に祈りつづけ、ついに雨を降らせることに成功したのだ」「3ヶ月も祈ってりゃ、いつか降るだろ!」とほとんど同レベルの稚拙さであり、ニコニコ聞いてはいても吉屋信子自身も呆れはてたのではないだろうか?
婦人倶楽部193405.jpg
主婦之友192802.jpg
 さて、この手相占いの中で唯一、当時の誰でもが知ってそうな人気作家の基本情報ではなく、未来を占なった箇所がある。再び、同誌より引用してみよう。
  
 『太陽線をみると、今後も大変好運です。今後約十年は益々よろしいでせう。四十二歳頃が一番頂上で大変な好運に見舞はれます。』/『それは有難いわね。そのつもりで大いに努力しますわ。四十二の時、素晴らしい事があるつていふのは一体何んでせうね? ノーベル賞でも貰へるのかしら? ホゝゝゝゝゝ。』
  
 吉屋信子が42歳を迎えたのは、1938~39年(昭和13~14)にかけてのことだった。当時は存在した「文壇」からは、彼女の作品は「子供がよむもの」で文学ではないと執拗に攻撃され、その急先鋒にいた小林秀雄Click!からは「どうせ通俗小説だ。そろ盤を弾いて書いてゐるといふ様なさつぱりとした感じではない。何かしら厭な感じだ」と、さんざんな嫌がらせの言葉を投げつけられた。
 「純文学」のみを相手にする「高踏的」な小林秀雄が、ことさら吉屋信子の作品へ執拗な攻撃を繰り返したのは、そこに明治以降の国家ではあってはならない「女性解放」の思想、今日的にいうならジェンダーフリーとフェミニズムの臭いを敏感に嗅ぎとったからだろう。彼女は小林秀雄と、正面から衝突していくことになる。
 同様に、天皇を頂点とする大日本帝国の家族主義的国家を支える政府当局は、吉屋信子の作品群を貫く経糸に、きわめて由々しき「危険思想・不良思想」Click!を読みとっていた。彼女は特高Click!から執拗にマークされ、1939年(昭和14)ごろから検閲で次々とクレームがつき、既存の作品までが警察からの圧力で事実上「発禁」Click!になっていく。自らペンを折り、鎌倉へ引きこもる時代が迫っていた。
 つまり、彼女にとって42歳を迎えた年は、作家生命を脅かされる人生最悪の状況だったわけだ。永鳥真雄の手相占いは、みごとに大ハズレということになる。彼女が再びペンをとり、戦後の代表作を次々と執筆するまで、およそ10年の歳月が必要だった。
吉屋信子&門馬千代.jpg
吉屋信子邸1938.jpg
 最後に余談だが、吉屋信子が下落合から牛込砂土原町3丁目18番地の新邸へ引っ越したあとも、門馬千代の姻戚は下落合に残ったものだろうか。1938年(昭和13)の「火保図」を参照すると、吉屋邸の2軒西隣りに「門馬」邸を確認することができる。めずらしい苗字なので、吉屋信子の連れ合いである門馬千代と、なんらかの関係がありそうだ。

◆写真上吉屋信子邸Click!が建っていた、下落合4丁目2108番地の敷地跡の現状。
◆写真中上は、1934年(昭和9)発行の「婦人倶楽部」5月号(講談社)に掲載された吉屋信子の右手相。は、書斎の本棚で記念撮影をする吉屋信子。上部の壁に架かった油絵は、甲斐仁代Click!が描いた作品の可能性がきわめて高い。
◆写真中下は、1934年(昭和9)の「婦人倶楽部」5月号に掲載された手相占いの記事。は、庭に面したテラスで編み物をする吉屋信子。
◆写真下は、下落合の庭で撮影されたとみられる吉屋信子と門馬千代。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる吉屋信子邸とその周辺。

関東大震災の「土産」「贈物」グラフ誌。

$
0
0
芝崎古墳192309.jpg
 1923年(大正13)9月1日に起きた関東大震災Click!のあと、東京を中心に被災地見物の観光旅行が流行った様子が記録されている。こちらでも、物見遊山で被災地を訪れる観光客に、違和感をおぼえたらしい竹久夢二Click!のエッセイをご紹介Click!していた。そのような観光客相手に、記念絵はがきや写真集が出版され、当時の新聞には盛んに広告が掲載されている。
 そのコピーを読むと、地方への「土産」や「贈物」として最適……といった、今日の感覚では考えられない、被災者の心情を逆なでするような表現もめずらくしない。これらの写真を撮り、印刷をして販売していたのは、大震災の被害が比較的少なかった乃手Click!や郊外の出版社、または東京地方ではなく別の地方にある出版社が主体だった。
 もちろん、新聞社も画報(グラフ誌)などを通じて、写真集のような仕様の出版物を刊行していたが、市街地にあった新聞社や印刷・製本工場のほとんどが壊滅しているため、大震災の直後に出版できたところは稀だ。それらは、出版機能が回復した同年の10月下旬以降が多く、被害をあまり受けていない乃手や地方の出版社に比べると、およそ1ヶ月遅れで発行されたものが多い。
 東京市内でいえば、たとえば大正当時は本郷区駒込坂下町(現・千駄木2~3丁目)に社屋があった大日本雄弁会講談社(現・講談社)や、赤坂区丹後町(現・赤坂4丁目)にあった東京写真時報社、小石川区大塚仲町の歴史写真会など、火災が発生せず被害があまりなかったか軽微な地域にあった出版社だ。また、東京地方を離れると関西方面、特に大阪地方の出版社が多く、たとえば大阪市東区大川町の関西文藝社などが、記者とカメラマンを東京に派遣し被災地を次々と撮影してまわっている。
 震災から間もない同年9月23日には、被災地の取材や撮影を終え早くも印刷・製本を進めていた、大日本雄弁会講談社が発行元のグラフ誌『大正大震災大火災』は、横山大観に装丁を依頼し、同日の東京朝日新聞紙上で大々的に予約注文を募集している。そして、9月下旬には書店に並ぶと予告しているが、3日後の9月26日発行の読売新聞に掲載された広告では、「目下印刷中十月一日発売」と、印刷や製本が遅れている様子が伝えられている。おそらく、用紙やインクの手配が間に合わず、震災で印刷機の調子がかなり悪かったのかもしれない。
 余談だが、先の東日本大震災では、東北地方や関東北部にあった大手印刷工場が大きなダメージを受けている。別に工場が倒壊したり津波をかぶったわけではなく、強烈な揺れに印刷機がさらされ、メンテナンスを受けなければ印刷が不可能になってしまったのだ。ご存じの方も多いと思うが、印刷機は精密機械なので機構にわずか1mm以下のズレや狂いが生じても、もはや使い物にならなくなる。
東京朝日19230923.jpg
読売19230926.jpg
読売19231003.jpg
 さて、講談社のグラフ『大正大震災大火災』は9月下旬の発行に間に合わず、奥付には1923年(大正12)9月27日印刷、同10月1日発行となっている。そして、10月3日の新聞各紙上で大々的に販売広告を掲載している。この時点で、主要書店の店頭に平積みになったのだろう。地域によっては配送ルートが回復せず、配本が不可能だったものか講談社への予約注文も受け付けている。広告のキャッチフレーズを、少し引用してみよう。
  
 噫! 悲絶凄絶空前の大惨事! 後世に伝ふべき万代不朽の大記録成る
 読め! 泣け! 幾百万罹災同胞の上に万斛同情の灼熱涙を濺げ
 果然! 世の信望本書に集り注文殺到! 試みに店頭一瞥を給へ
 痛ましき哀話怖ろしき惨話はあはれ 涙なくして読み得ぬ一大血涙記! 老幼男女日本国民必読の名著! 各家庭必ず一本を備へよ! 永く子々孫々に伝へられよ
  
 もう大日本雄弁会講談社らしく、まるで講釈師が講談を朗々と語るかのようなキャッチが踊っている。そして、翌10月4日の新聞紙上では、グラフ『大正大震災大火災』の広告と同時に、おそらく月刊誌の復刊態勢が整ったのだろう、同社の発行する「婦人倶楽部」が10月8日に店頭に並ぶという予告が掲載されている。
 相変わらずの講談口調のまま、その予告口上を引用してみよう。
  
 婦人倶楽部十月号予告/大震火災画報血涙記
 あゝ大正十二年九月一日! この日の追憶の如何に悲きことぞ! 花の都は一朝にして忽ち死灰の原と化した。わが『婦人倶楽部』はこの大震大火の真只中に必死の努力を続け大震災後いち早く皆様に見える事が出来たのは何たる幸ひでせう この血と涙と汗の結晶たる本号は是非多くの方に見て頂き良く又永く語り草として御家庭にお伝へが願ひ度いのであります
  
歴史写真会「震災情報」1923.jpg
読売19231004.jpg
講談社「大正大震災大火災」1923.jpg 朝日19231029.jpg
 翌10月5日の読売新聞には、東京写真時報社が出版した『関東大震災画報』の小さな囲み広告が掲載されている。「類書中の白眉製本出来、九月二十九日より発売す」と、明らかに講談社の『大正大震災大火災』を意識し、同書よりも早くから出版していることを強調している。だが、講談社ほど配本ルートや取次網が整備されていなかったのか、「取次販売人至急募集」と「至急御注文ありたし(前金着次第即時送本す)」と、通信販売に力を入れている様子がうかがえる。
 10月も末になると、震災の画報や写真集はあらかた読者に行きわたったのか、広告の扱いも小さくなっていく。そして、東京の被災地をまわる観光客をめあてに、新聞紙上には小さめな広告を反復して掲載するようになった。同年10月29日の読売新聞から、広告の全文を引用しよう。
  
 地方へ海外へ絶好の贈物
 ◇地方への土産、海外同胞への無二の贈物として大日本雄弁会の『大正大震災大火災』と云ふ本が一番いいと大評判。郵便事務復興小包で送れる至極適当であるとて非常に売れる売切れぬ中至急郵送あれ(各地書店にあり)
  
 今日では、阪神・淡路大震災にしろ東日本大震災、熊本・大阪・北海道大地震などの被災地を写真に撮り、「土産」や「贈物」に最適……などと売り出したら、即日出版社は抗議の嵐にみまわれるだろうが、新聞以外にニュースを知る手段がない大正時代の当時、全国の出版社や新聞社は東京にカメラマンを派遣し、次々と同様の写真集やグラフ誌、記念絵はがきなどを出版・発行していった。
 講談社の『大正大震災大火災』は、1924年(大正13)1月に入ると累計50万部を超え、さらに増刷中の広告を掲載している。同年1月16日の東京朝日新聞には、「一挙売り尽す五十万部 増刷又増刷而も残部頗る僅少也/本書は以後絶対に増刊せず求め損つて悔を千載に残す勿れ」という広告を掲載しているので、おそらく60万部ほどは売り尽くしたのではないかとみられる。
歴史写真会の「関東大震大火記念号」1923.jpg
読売19231005.jpg 朝日19240116.jpg
写真時時報社「関東大震災画報」19231001.jpg 朝日新聞社「アサヒグラフ大震災全記」19231028.jpg
 現在、わたしたちが目にする関東大震災の写真は、その多くが東京地方にあった新聞社のカメラマンが撮影したり、記念絵はがきを制作するために写真館が撮ったものが多い。しかし、東京の中小出版社や地方から派遣されたカメラマンが撮影し、間をおかず写真集として出版されたものの中には、これまで見たことのない写真類が数多く収録されている。機会があれば、それらの貴重な写真類を、少しづつ紹介できればと考えている。
                                 <つづく>

◆写真上:震災直後に撮影された、大手町にある大蔵省の焼跡。中央の右手に前方後円墳の芝崎古墳Click!将門首塚」古墳Click!とみられる墳丘がとらえられている。
◆写真中上は、1923年(大正12)9月23日の東京朝日新聞に掲載された大日本雄弁会講談社の『大正大震災大火災』広告。は、同年9月26日の読売新聞に掲載された同広告。は、同年10月3日の読売新聞に掲載された同広告。
◆写真中下は、1923年(大正12)9月25日発行(実際は10月1日発行だと思われる)の大阪にあった関西文藝社による『震災情報/SHINSAIJYOHO』。は、同年10月4日の読売新聞に掲載の『大正大震災大火災』広告。下左は、『大正大震災大火災』の表紙。下右は、同年10月29日の東京朝日新聞に掲載された同書の広告。
◆写真下は、1923年(大正12)11月1日に出版された歴史写真会の『関東大震大火記念号』。中左は、同年10月5日の読売新聞に掲載された写真時報社『関東大震災画報』広告。中右は、1924年(大正13)1月16日の東京朝日新聞掲載の『大正大震災大火災』広告。下左は、1923年(大正12)10月1日発行の写真時報社『関東大震災画報』。下右は、同年10月28日発行の遅れた東京朝日新聞社『アサヒグラフ-大震災全記-』。

都心と豊多摩が共存する下落合。

$
0
0
下落合農家.jpg
 「新宿の住宅地に、お百姓さんがいる、と聞いた」ではじまる、『いま下落合四丁目で(4)』は、1987年(昭和62)2月7日発行の朝日新聞(東京版/西部)に掲載された。2階建ての「ひなびた」民家を訪ねた記者は、薪で風呂をわかす情景に「まさか----」と驚いている。21世紀となった32年後の現在(2018年)、この「農家」はまったく変わらずに耕作をつづけている。おそらく、新宿区で残った最後の畑地だろう。
 畑は自邸の広い庭園内のほか、三間道路をはさんだ邸の向かいにケヤキの大樹やモクレン、カキ、ビワ、夏ミカン、ツバキ、ウメなどの木々に囲まれて、江戸東京の郊外で栽培されていた、ありとあらゆる「近郊野菜」が四季を通じて植えられ、また四季折々の園芸植物が花を咲かせている。もともと、落合地域の土壌は肥沃で、旧・神田上水や妙正寺川沿いの水田では米が、畑では麦や多彩な近郊野菜が豊富に収穫されていた。
 畑地の「農家」=S家は、薬王院の過去帳をたどると江戸時代は元禄期の下落合村からつづく地元の旧家で、大正時代までは落合地域の有名な特産物である落合大根Click!や、落合柿Click!を大量に栽培して出荷していたのだろう。いまでも畑では、相変わらず落合大根Click!や落合柿が100年前と変わらずに収穫されている。しかも記者と同様に、わたしも「まさか----」と驚いたことは、畑には現在の市販されている肥料はまかず、昔ながらの腐葉土と有機肥料、すなわち下肥えが用いられていることだ。だから、下肥えがまかれた直後、畑の前を散歩するとかなり匂う。
 32年前に掲載された朝日新聞の一連の下落合ルポから、少し引用してみよう。
  
 丸太が六、七本ころがる。まぎれもなく、マキでふろをわかしていた。(中略) 「湯あたりが、軟らかいんですよ」。モンペ姿の五十年配の婦人は、そう言う。たき口に残った消し炭は、七輪で魚を焼くのに使う。「味がまた格別なの」/広い庭の畑にはダイコンが植わり、ピンク色の寒ツバキが目にやさしい。(中略) 「落合草創の旧家」と、昭和初期の文献にはある。先代は、豊多摩郡落合町当時の収入役で、町会議員もつとめた。終戦直後までは田んぼもあった。いまや町内随一の大地主。貸地のほか、三カ所、約一千平方メートルの土地で、野菜を作る。/売るほどには、作っていない。「家庭菜園なんですよ」。土いじりが大好き。育つ姿がたのもしい。料理してもおいしい。「でも、こんな税金の高いところで百姓なんて、人さまからみると、ぜいたくなことなんでしょうね」
  
 確かに、有機肥料で育てられた落合大根の味は、おそらく昔ながらの美味しさだろう。毎年、「農家」では屋敷林から落ちた枯葉を燃やす落ち葉焚きClick!が行われ、風にのって香ばしい秋の香りを運んでくる。
 厳密にいえば、ダイオキシンやNOx、COxが発生しかねない低温燃焼の焚き火は、自治体の条例でとうに禁止されているのだけれど、みんな下落合らしい秋の風情を楽しみにしているので、誰も文句などいわない。タヌキが盛んに、「農家」の塀をくぐりぬけていくのもこの季節で、熟して落ちたカキを楽しみに通っているのだろう。
農家庭園.JPG
畑1月.JPG
畑2月.JPG
畑3月.JPG
畑4月.jpg
畑4月_2.JPG
 実は、わたしの家も明治期まではS家の畑地だった。大正期に入ると、すぐに大小の家々が入れ替わり建てられたようだが、1923年(大正12)ごろになると、この一画には丸太を組んだ高原ロッジのような川澄邸Click!をはじめ、まるで佐伯アトリエClick!のような緑の三角屋根に白ペンキで塗られた下見板張りの住宅、彝アトリエClick!のような赤い屋根にクレオソートClick!を塗布した焦げ茶色の下見板張りの住宅など、瀟洒な西洋館が次々と建ち並んでいたようだ。わたしの知る限り、わが家の敷地に建てられていた家は、大正期から数えて4~5軒目になるだろうか。戦前まではS家からの借地だったが、戦後になると住民=土地所有者に変わっている。
 記事に登場する「モンペ姿の五十年配の婦人」は、いまも変わらずご健在で、腰がまがって80年配の「おばあさん」にはなったが、毎朝、畑の入念な手入れは欠かさない。近所の畑作を見て育ったせいか、うちの上の子が今年から裏庭に、ネコの額ほどの畑を耕して茄子や大根を作りはじめた。もともと土が肥えているせいか、それほど手をかけなくてもそこそこの収穫はあるようだ。ちなみに、うちは水洗トイレなので肥料に下肥えは用いていない。w
 つづけて、1987年(昭和62)2月7日の朝日新聞から引用してみよう。
  
 昨年春、畑仕事をしていた時のこと。サラリーマン風の人が通りかかり、「子供に見せてやりたいんですが、いいですか」と声を掛けた。何事かと思ったら、ソラマメのことだった。咲き乱れる、チョウの形をした淡い紫色の花を見に、子供たちがやって来た。婦人は、「いいことをしているんだなあ」とも思う。(中略) すぐ近くに、「おばけ坂」と呼ばれる坂がある。木々がうっそうと生い茂るからだ。先代が土地を提供したので、「うちの坂」とも呼ぶ。かつての豊多摩が、ここには残っている。/緑の中にも、マンションは立ち並んでいる。「コンクリートの建物は、好きになれません。どうも、心まで檻の中って感じですよね」
  
 とても新宿区とは思えない風情だが、当時の情景は現在も変わらずつづいている。わたしが下落合に惹かれた理由のひとつも、畑が残り、まるで山道へ迷いこんでしまったかのような、昼なお暗い急峻なオバケ坂Click!があったからだ。
畑6月.JPG
畑7月.JPG
畑8月.JPG
畑9月.JPG
 もっとも、この坂道は江戸期から通称「バッケ坂」と呼ばれていた急坂が、「バッケ」(崖地)Click!という江戸北部の方言が時代とともに通じにくくなり、いつの間にか周囲の鬱蒼とした風景に見合うよう、「オバケ坂」と呼ばれるようになった……と想定している。目白崖線には、あちこちに「オバケ坂」や「幽霊坂」と呼ばれる急坂が通うが、おそらくいずれも通称のバッケ坂がどこかで転化したのではないかと思われる。また、「オバケ」にも「幽霊」にも転化せず、本来の「バッケ坂」Click!と呼ばれる急坂が、現在でも落合地域の西端、目白学園西側の急斜面にそのまま残っている。おそらく、都内にみられる「八景坂」も「ハケ坂」または「バッケ坂」が転化したものだろう。
 オバケ坂は、いまでこそ整備されてしまい山道のようには感じられなくなったが、わたしの学生時代までは、森の下生えであるクマザサが両側から足元にせり出し、幅50cmほどにしか見えない細い土面の坂道だった。そして左手には、戦前からつづくS家一族のボロボロになった平家の廃屋が1軒、ポツンと放置され荒れたままになっており、大学からの暗くなった帰り道など、ほとんど街灯もない暗がりの山道を、ウキウキ・ゾクゾクしながら上っていったものだ。いまだ学生にもかかわらず、この街で暮らしたい!……と思った要因は、こんなところにもある。
 ここで、記事中に「うちの坂」という呼称が登場している。地主から見て、自分の土地に通う坂道だったから当然「うちの坂」と呼んでいたのだが、同じことが下落合に残る地名にもいくつか散見できる。江戸期に上落合の有力者たちが住んでいた集落(村)から見て、北に流れる川だから「北川」Click!(=妙正寺川)であり、川の北側にある土地だから字名「北川向」Click!と呼ばれていた。
 同様に、おそらく大地主(宇田川家)のすぐ前に口を開けていた谷戸だから、その谷間のことを「前谷戸」Click!と呼んだのだろう。「前谷戸」を周辺の土地一帯の字名として導入する際、江戸東京の各地にみられるように「谷戸前」としなかったのは、地主の力が強かったからだろうか、それとも字名とする以前から谷戸そのものに限らず、すでに広く一帯の土地をそう呼ぶことが慣例化していたからだろうか。
オバケ坂.JPG
バッケ坂.JPG
崖地バッケ.JPG
 2011年(平成23)に従来のアナログテレビ放送が廃止され、地上波デジタル放送がスタートすると、おそらく大正建築のS家では突然、ブラウン管のテレビが映らなくなったのではないだろうか。屋根上のアンテナは交換されず、その後も数年間、そのままの状態がつづいていた。ところが一昨年、最先端のUHFアンテナにパラボラアンテナが邸の横へ新たに設置された。豊多摩郡時代の「農家」の風情と、最先端の通信機器が共存する風景に、当時の取材記者は、今度はどんな感想を抱くだろうか?

◆写真上:12月撮影の冬枯れが進む下落合で、背後に見える雑木林が目白崖線の斜面。
◆写真中上は、さまざまな樹木が植えられた下落合に残る「農家」の庭園。は、上から順に1月・2月・3月・4月(2葉)の畑と周囲の木立ち。
◆写真中下からへ、順に5月・6月・7月・8月・9月の畑の様子。
◆写真下は、拡幅され昔の面影がすっかり消えたオバケ坂。は、下落合(現・中井2丁目)の西端に残るバッケ坂。は、御留山Click!にみる典型的なバッケ状の急斜面。

佐伯祐三の「中原工場」を突きとめた。

$
0
0
中原工場跡.JPG
 以前、佐伯祐三Click!が描いた「踏切」Click!の画面で、踏切番の北側に建っている鉄道員宿舎あるいはアパートとみられる建物の壁面に、「中原工〇」Click!と書かれた看板について記事にしたことがある。以来、西巣鴨町(現・池袋地域)の字名である「中原」(立教大学の周辺)一帯、あるいは明治期以前に存在した高田村の字名である「中原」Click!一帯を探しつづけていたが、「中原工〇」に相当する工場を発見できなかった。
 特に、高田村(高田町)の雑司ヶ谷にふられた字名「中原」は、のちに「御堂杉」へ変更されているので、看板の工場が大正の早い時期に操業を開始していたとすれば、字名をとって「中原工〇」とされた可能性がある。そもそも、佐伯の画面では省略されている「中原工〇」の「〇」(佐伯は画面に「-」しか描いていない)には、どのような文字が入っていたのだろうか?
 1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)の「工場案内」、あるいは巻末に掲載された工場広告を参照すると、当時は「〇〇工場」と名づけられた製造企業が圧倒的に多いことがわかる。「〇〇」には、事業主の苗字や地名が入るわけだが、佐伯が描いた看板の「中原」は地名であり、つづく文字には「工場」ないしは「工業」が入ると想定していた。そして、固有名詞(人名・地名など)+「工場」と名のつく製造業では、圧倒的に繊維関連あるいは製綿関連が多いこともわかった。
 たとえば、『高田村誌』に収録された工場の一部をご紹介すると、田岡工場(メリヤス)、曙工場(毛糸)、天田工場(繊維染色)、岩月工業(メリヤス・製綿)、鈴木工場(包帯)、高砂工場(メリヤス)、菅野工場(製綿・包帯)、山口工場(人絹)、加藤工場(染色)、ヤマト工場(羊毛)、大蔵工場(製綿・毛糸)、アカネ工場(絹織・人絹)、坂本工場(メリヤス)……etc.といった具合だ。つまり、「中原工場(業)」はおそらく繊維関連の製造業者であり、特に繊維工場が集中していた高田村(大字)雑司ヶ谷(字)中原(現・南池袋3丁目)、あるいは池袋駅東口の南側にあたる西巣鴨町(大字)池袋(字)蟹窪(現・南池袋2丁目)のあたりを集中的に探すことにした。
 わたしが高田村の雑司ヶ谷中原にこだわったのは、同地域に佐伯祐三の隣人である納三治Click!が経営する曙工場Click!があったからだ。曙工場は、高田町雑司ヶ谷御堂杉953番地で操業しており、佐伯が描く「踏切」をわたって左手(北)へ350mほど歩いたところにあった。上掲のように毛糸が専門の繊維工場であり、1927年(昭和2)の晩春ないしは初夏のころ、社主の納三治は下落合666番地、つまり佐伯アトリエの西南隣りに大きな西洋館Click!を建てて転居してきている。
 再度パリ行きを意図していた佐伯は、納三治の自邸や工場の事務室へ、「下落合風景」作品の“営業”に出かけているのかもしれない。曙工場の地番は、明治末から大正初期までは高田村雑司ヶ谷中原953番地だったはずで、その周辺に展開する繊維工場の中に、くだんの「中原工場」ないしは「中原工業」もあったのではないかと考えた。
佐伯祐三「踏切」1926頃.jpg
佐伯祐三「踏切」拡大.jpg
踏切看板跡.JPG
 もうひとつ、わたしがこの地域にこだわったのは、山手線の車窓から見えるように掲げられた看板そのものの位置だ。踏切を渡って北へ歩けば、雑司ヶ谷中原(のち雑司ヶ谷御堂杉)へといたる位置に看板が掲げられているのであり、当然、その地域に「中原工場(業)」がある……と考えるのは、ごく自然に思えた。しかし、いくら雑司ヶ谷中原一帯をしらみつぶしに探してみても、各時代に「中原工場(業)」を発見することができなかった。苗字だけ採取されている可能性もあるので、念のため「中原」姓の家を探したが、それも見つけることができなかった。
 各種地図や住宅明細図などへの、採取漏れの可能性もありそうだとあきらめかけたころ、ひょんなところから答えが見つかった。それは、豊島区郷土資料館が発行する資料の中に、「中原工場」が眠っていたのだ。1988年(昭和63)に発行された「豊島区地域地図」の付録冊子をぼんやりと眺めていたとき、ふいに「中原工場」という文字が目に飛びこんできた。大正末ごろ、豊島区エリアに存在した企業や工場をリストアップした資料で、その中の工場一覧に「中原工場」が記録されていたのだ。製造していたのは、想像どおり繊維分野の「メリヤス」だった。
 そして、工場主の名前を見たとき、思わずため息が出てしまった。「中原」は地名ではなく、人名だったのだ。中原儀三郎が経営していた「中原工場」は、看板の位置が示唆する池袋駅に近い雑司ヶ谷中原(御堂杉)でも池袋中原でもなく、高田町高田四ツ家(四ツ谷)344番地(現・高田1丁目)で操業しており、まったくの方角ちがいだったのだ。目白通りを東へ向かい、学習院をすぎて千登世橋をわたった先、現在の「四つ家児童遊園」の向かいにある坂を南に下った坂下あたり、根生院の東隣りで中原工場は操業していた。
中原工場1926.jpg
薗部工場(メリヤス).jpg
広告鈴木工場.jpg 広告山田工場.jpg
 さっそく、1926年(大正15)に作成された「高田町住宅明細図」を参照すると、確かに中原工場を見つけることができた。住宅街の中に、中原工場がポツンとあるような環境で、事業の規模としてはそれほど大きくはなかったようだ。豊島区郷土資料館の資料を見ると、社主の中原儀三郎のほか男子の工員が6人、女子工員が1人の全従業員7人という規模で、周囲の環境から想像すると家内制手工業のような製造現場が想定できる。ちなみに、中原工場の北隣りには早稲田大学教授であり、早大野球部の創設者で衆議院議員(社会民衆党)の安部磯雄Click!が住んでいた。
 中原工場がいつごろまで操業していたのかは不明だが、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を見ると、周囲の大きめな屋敷街に囲まれた細長い屋根を確認できるようだ。また、1948年(昭和23)に撮影された空中写真には、空襲による中原工場の焼け跡とみられる、細長い敷地がハッキリと確認できる。空襲で全焼したまま、戦後に操業を再開できたかどうかはさだかでない。
 不可解に感じるのは、山手線沿いに「中原工場」の看板が掲げられていた位置だ。高田四ツ家(四ツ谷)に工場があるとすれば、その位置からして高田馬場駅か目白駅の近くに看板を設置するのが自然だろう。それが、なぜ池袋駅に近い位置に設置したのかが、いまひとつ腑に落ちないのだ。当時、繊維関連の中小工場が池袋駅東口の南西部(現・南池袋)に集中していたため、同地域の工場群の“一員”としてある種の“スケールメリット”をねらったものか、あるいは高田馬場駅の周辺では看板が多すぎて目立たず、目白駅の周辺では車窓から見える位置に看板を設置するスペースがなかった……と解釈することもできる。
中原工場1936.jpg
中原工場1948.jpg
安部磯雄邸跡.JPG
 佐伯祐三がパリでそうだったように、あるいは連作「下落合風景」Click!の中の1作「富永醫院」Click!のように、もう少し看板の文字を正確かつていねいにひろって描いてくれていたなら、おそらく「中原工場」の下には「高田町四ツ家三四四番地」という所在地までが記載されていたのではないだろうか。そうすれば、これほど時間をかけて探す必要もなかったはずだ……と、最後にちょっとグチめいたことを書いてしめくくりたい。

◆写真上:中原工場が建っていた、高田町四ツ家344番地(現・高田1丁目)の現状。
◆写真中上は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『踏切』。は、「中原工場」看板の部分拡大。は、看板が設置されていたあたりの現状。
◆写真中下は、1926年(大正15)に作成された「高田町住宅明細図」にみる中原工場。は、高田村高田938番地にあった高田村を代表するメリヤス製造業の薗部工場。は、1919年(大正8)の『高田村誌』巻末に掲載された当時の工場広告。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中原工場とその周辺。は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同界隈で中原工場らしい焼け跡が見える。は、中原工場の北東側に隣接していた安部磯雄邸跡の現状。(中央の褐色屋根の家から手前にかけて)

中村彝の足どりとスケッチ『林泉園風景』。

$
0
0
中村彝「林泉園風景」1923頃.jpg
 少し前、林泉園の記事Click!へpinkichさんより、中村彝Click!の素描作品が売りに出ていたのをお知らせいただいた。神田神保町にある版画堂のカタログに掲載されていたもので、薄い用紙にペンで描かれたとみられる画面には、『林泉園風景』というタイトルがつけられていた。裏面には、「中村画室倶楽部」の所蔵印が押されている。
 確かに、手慣れた筆致で家々や人物がとらえられており、洋画を勉強してきた人物の手になる作品だと思われる。もともとセピア色インクで描いたのか、それとも黒インクが経年とともに赤茶けた色に変色してしまったものかは不明だが、中村彝の素描作品には確かに鈴木良三Click!が所蔵していた『裸婦』をはじめ、セピアインクまたは変色してしまったのかもしれないインクで描かれた作品を確認することができる。
 下落合の林泉園近くに昔からお住まいの方々なら、すぐにピンと気づかれるはずだが、この素描作品は『林泉園風景』とタイトルされているものの、画面は林泉園Click!の谷間そのものを描いたものではない。湧水源のある谷戸の突き当り、谷間の西側一帯に拡がる丘上の林泉園住宅地を描いたものだ。東邦電力が社宅用に開発した洋風住宅地で、コンパクトなサイコロ状の西洋館と、それを2~3棟くっつけたようなおしゃれなデザインのテラスハウスが、規則正しく建ち並んでいた。
 もともと、東京土地住宅が「近衛新町」Click!と名づけて、1922年(大正11)6月に販売を開始した近衛町Click!つづきの郊外分譲住宅地だったが、同年7月29日に突然販売が中止された。東邦電力の松永安左衛門が、「近衛新町」を丸ごと買い占めてしまい、同社の幹部住宅および社宅建設用地にしてしまったからだ。おそらく、その際に明治末から大正初期にかけ、「落合遊園地」Click!と呼ばれていた谷戸の通称が、東邦電力によって「林泉園」という呼称に変更されているのだろう。1923年(大正12)に東邦電力の庭球部Click!が、すでに「林泉園」という名称をチーム名に取り入れているのが確認できる。
 さて、フランスから帰国した清水多嘉示Click!が、昭和初期に林泉園の谷戸を描いた『風景(仮)』(OP595)Click!にも、丘上に建つ赤い屋根の東邦電力社宅群の一部がとらえられているが、中村彝が描いた西洋館群は、同作のさらにキャンバス左手の枠外に展開していた、建設密度の高い住宅地の一画だ。中村彝は、自身のアトリエがある方角を背に、林泉園住宅地の空き地から南西を向いてスケッチしており、季節にもよるがデッサンの陰影から昼前後、あるいは午後の情景ではないかと思われる。
 描かれた道路は、林泉園住宅地を南北に縦断する道であることがわかる。なぜなら、描かれた屋根の幅の狭い大棟が、道路と平行になっているからで、テラスハウスを除き東邦電力の一戸建ての西洋風社宅は、すべて南北道と大棟が平行になるという“法則”で建設されていたからだ。路上には、ふたりの人物が描かれており、手前の子どもは北へ向け、つまり林泉園の方角へ歩いている。また、奥の主婦とみられる洋装の女性は、目白通りで買い物でもしてきたのか南を向いて歩き、手には買い物袋のようなものを下げているのがわかる。あるいは、どこかへゴミを棄てにいったゴミ箱を持っているのかもしれない。
中村彝「裸婦」.jpg
中村彝「大島スケッチ」1914-15.jpg
 この素描が描かれたのは、東邦電力が「近衛新町」を買収した1922年(大正11)の夏以降であり、少なくとも同地域に家々が建ちはじめた1923年(大正12)以降ということになる。また、中村彝は1924年(大正13)の暮れに死去してしまうため、制作されたのは2年弱のうちのいずれかの時期に限定される。だが、中村彝は1924年(大正13)になると病状が悪化し、俥(じんりき)を雇ってようやく展覧会へ出かける以外は、ほとんどアトリエですごす毎日を送っている。外へ散歩に出て、風景をスケッチする体力も気力も、もはや残されていなかったのではないかと思われる。
 そう考えてくると、この作品は1923年(大正12)の半ばから後半にかけて、すなわち東邦電力の社宅群がようやく建ち並びはじめたころに描かれたもの……と想定することができる。また、この時期は関東大震災Click!をはさみ、中村彝が最後の旺盛な創作意欲Click!を見せた時期とも重なっていることに気づく。1923年(大正12)の後半期、彝は晩年の代表作ともいうべき作品を次々に仕上げている。
 中村彝が死去してから2年後、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」をもとに、彼の足どりをたどってみよう。彝はアトリエを出ると、サクラ並木が繁る林泉園沿いの道を西へ60mほど歩き、テラスハウス仕様の社宅に入る林邸と、東邦電力合宿所にはさまれた小道を左折した。南に向かうと、突き当たりが大きめな社宅の泉邸で、クラックした道をさらに南へ進むと、描画ポイントの空き地が見えてくる。建築資材でも置かれていたか、あるいは土盛りでもしてあったのか、彝は少し高めの位置に腰を下ろし、持参したスケッチブックを開くと、南西の方角を向いてさっそくペンを走らせはじめた。
林泉園住宅地1936.jpg
中村彝「林泉園風景」描画位置.JPG
 泉邸と冨安邸にはさまれた空き地から見えるのは、画面左手の社宅が幹部邸と思われる少し大きめな冨安邸、南へ歩く女性の向こう側、中央右寄りに描かれたコンパクトな社宅が河原邸、その並びとなる右手(西側)の家が常田邸、細い東西の路地をはさみ、河原邸のさらに奥に見えている三角の屋根が田嶌邸……という位置関係になる。なお、社宅なので人事異動などにより、しばしば住民の入れ替えがあったであろうことは付記しておきたい。この描画ポイントは、中村彝アトリエからわずか110mほどの距離であり、病身の重たい身体でゆっくり歩いたとしても、2~3分もあればたどり着ける距離だ。
 素描だけが残る画面で、タブローが存在しないのは残念だが、東邦電力の林泉園住宅は屋根が赤で、外壁がベージュまたはクリームというカラーリングをしており、描かれている窓の鎧戸はグリーンないしはホワイトで塗られていたとみられる。中村彝は、自邸のごく近くにできた西洋館が建ち並ぶ林泉園住宅に興味をおぼえ、めずらしくスケッチをしに外出をしてみたものだろう。
 中村彝が、「林泉園」という新しい名称を知っていたかどうかは別にして、この素描作品に『林泉園風景』と名づけて「中村画室倶楽部所蔵」の印を押したのは、アトリエ周辺の様子をよく知る鈴木良三Click!だと思われる。同作が入れられた額の裏板には、「鈴木良三識」という文字が入れられているようだ。
林泉園風景1926.jpg
林泉園住宅地1947.jpg
中村画室倶楽部公印.jpg 中村画室倶楽部所蔵印.jpg
 ひとつ気になるのが、本作裏面に捺印された「中村画室倶楽部所蔵」印と、1927年(昭和2)にアトリエ社から出版された『中村彝画集』の奥付検印「中村画室倶楽部公印」との書体が、まったく異なるという点だ。後者が、中村彝の死後から画室倶楽部で使用されていた当時の公印で、前者が戦後になって鈴木良三が鑑識に使用するため新たに用意した所蔵印だとすれば、「林泉園」というタイトルともども、特に矛盾はないのだが……。

◆写真上:1923年(大正12)後半に描かれたとみられる、中村彝『林泉園風景』。
◆写真中上は、同様にセピアインクか赤茶色に変色した黒インクで描かれた中村彝『裸婦』(鈴木良三蔵/部分)。は、同様にペンで描かれた中村彝『大島スケッチ』。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林泉園住宅地でが描画ポイント。は、描画ポイントの現状だが空き地がないので接道の路上から撮影。
◆写真下は、描画ポイントへ向かう中村彝の足どり。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイント。は、1927年(昭和2)出版の『中村彝画集』(アトリエ社)奥付に捺された「中村画室倶楽部公印」()と、『林泉園風景』裏に添付された「中村画室倶楽部所蔵」印()。書体がまったく異なっているが、所蔵印のほうが新しそうだ。
Viewing all 1249 articles
Browse latest View live