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下落合を描いた画家たち・長谷川雪旦。

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長谷川雪旦落合蛍描画ポイント.JPG
 これまで何度も作品を引用しながら、つい紹介しそびれていた画家がいた。江戸の天保年間に斎藤月岑が著し、長谷川雪旦が挿画を担当した『江戸名所図会』(7巻20冊)だ。その中には、落合地域を描いた風景画が遠望も含め6点収録されている。1893年(明治26)に松濤軒斎藤長秋が改めて整理・編集した『江戸名所図会』では、巻4-12の中に落合風景6景が含まれており、今回は同書の原本から画面を直接引用してご紹介したい。
 まず、下戸塚側から眺めた「姿見の橋 俤のはし」を紹介した画面の中に、下落合の藤稲荷社と氷川明神社が描きこまれている。そしてこの部分、斎藤月岑は下高田村と下落合村の紹介を区別せず、ごっちゃにして記述しているめずらしい箇所だ。下高田村の南蔵院Click!氷川明神Click!を紹介したあと、下落合村の「氷川明神社」Click!「七曲坂」Click!「落合土橋」Click!について記述し、再び下高田村の宿坂Click!八兵衛稲荷Click!(現・豊坂稲荷)の紹介にもどっている。
 その記述のうち、下落合村の部分を引用してみよう。
  
 氷川明神社 同、申酉の方、田島橋より北、杉林の中にあり、祭神奇稲田姫命一座なり、これを女体の宮と称せり、同所薬王院の持ちなり、[高田の氷川明神の祭神、素戔嗚尊なり、よつて当社を合はせて夫婦の宮とす、土俗あやまつて在原業平および二条后の霊を祀るといふ、はなはだ非なり] 七曲坂 同所より鼠山の方へ上る坂をいふ、曲折あるゆゑに名とす、この辺りは下落合村に属せり 落合土橋 同所坤の方、上落合より下落合へ行く道に架す、土人いふ、田島橋より一町ばかり上に、玉川の流れと井頭の池の下流と会流するところあり、このゆゑに落合の名ありといへり(中略) この地は蛍に名あり、形おほいにして光も他に勝れたり、山城の宇治、近江の瀬田にも越えて、玉のごとくまた星のごとくに乱れ飛んで、光景もつとも奇とす、夏月夕涼多し
  
 文中で、玉川の流れ(玉川上水)と井頭の池の下流(神田上水)とが「会流」する場所とされているところは、妙正寺池からの流れ(北川Click!=妙正寺川)と井頭の池の流れ(神田上水=神田川)の誤りで、明らかに「土人」(地本民)による上水建設の時系列を無視した誤りであり、後世の付会だと斎藤月岑も記している。
 さて、下落合につづく目白崖線と下落合氷川明神を描いた雪旦の挿画をみると、源氏雲の向こう側に藤稲荷Click!が記載された御留山Click!と、そのすぐ西側に連なるタヌキの森Click!のピークがとらえられている。画面では、将軍の鷹狩場Click!である御留山がもっとも高く描かれているが、実際には七曲坂の西に接した三角点Click!も設置されていたタヌキの森のピークが、下落合村の東部では36.5mと標高がいちばん高い。ちなみに、目白崖線全体では下落合の西部(現・中落合/中井含む)の西端、字名が大上と呼ばれる目白学園の丘が標高38m弱でもっとも高くなっている。
 「落合土橋」は、現存する橋のどれに相当するのか厳密には規定できないが、泰雲寺の了然尼が妙正寺川に架けた「上落合より下落合へ行く道」の土橋は、突き当たりで雑司ヶ谷道Click!とぶつかり東西に分かれる、西ノ橋Click!あたりに存在していたとみられる。
姿見橋.jpg
松濤軒斎藤長秋「江戸名所図会」1893.jpg 泰雲寺古事.jpg
 次に雪旦の挿画が登場するのは、上落合にあった泰雲寺の縁起に了然尼の物語Click!が収録されている「泰雲寺古事」と、御留山の「藤森稲荷社 東山いなりともいふ」の全景が描かれた絵だ。つづいて、同書より引用してみよう。
  
 藤杜稲荷社(ママ) 同所、岡の根に傍ひてあり、また東山稲荷とも称せり、霊験あらたかなりとて、すこぶる参詣の徒多し、落合村の薬王院奉祀す 黄龍山泰雲寺 同所上落合にあり、黄檗派の禅林にして花洛万福寺に属す、本尊如意輪観世音の像は天然の石仏にして、当寺の土中より出現ありしといふ、開山は白翁道泰和尚と号す、[木庵和尚の法嗣にして了然尼の師なり](後略)
  
 藤(森)稲荷は明治以降から1950年代まで、荒れるにまかせるような廃社に近い状態だったが、現在は新たに本殿拝殿も建設されて、御留山の麓にその姿をとどめている。また、了然尼についてはすでに詳しい物語を記事にしているが、泰雲寺は1911年(明治44)に廃寺となった。
 長谷川雪旦こと金澤宗秀は、江戸の唐津藩邸で生まれ江戸後期に活躍した絵師のひとりだが、その経歴は当時としては型破りだった。日本画は、流派や師弟関係がことのほか厳しい世界だが、雪旦はそれにほとんどとらわれず、あらゆる流派の絵画表現を学んで自身の技法に吸収している。当初は水墨画の雪舟13代目・長谷川雪嶺に学んだが、それに飽きたらずに琳派や円山四条派、仏画、英(はなぶさ)派、狩野派など、およそ当時の流派が表現する技法を片っ端から学んでいったようだ。それが、描くメディアや対象となるモチーフによって、自由自在な表現法で描き分けられた大きな要因だろう。
 『江戸名所図会』の膨大な挿画は、雪旦が56歳から58歳までの晩年の仕事だ。同書の挿画を手がけると同時に、晩年は唐津藩や尾張藩の御用絵師もつとめているが、1843年(天保14)に66歳で死去している。
藤稲荷.jpg
一枚岩.jpg
 さて、落合地域を描いた残り3点、「一枚岩」「落合惣図」「落合蛍」の画面を見てみよう。「一枚岩」は「落合惣図」によれば、上落合村の呼称である北川(妙正寺川)と神田上水が合流する位置に描かれているが、現在は昭和初期から1935年(昭和10)すぎまで行われた、両河川の整流化および掘削工事により、具体的な位置を規定することは困難だ。同書より、再び引用してみよう。
  
 一枚岩 落合の近傍、神田上水の白堀通りにありて、一堆の巨巌水面に彰れ、濫水巌頭にふれて飛灑す、この水流に、鳥居が淵犀が淵等、その余小名多し、この辺はすべて月の名所にて、秋夜幽趣あり 落合蛍 この地の蛍狩りは、芒種の後より夏至の頃までを盛りとす、草葉にすがるをば、こぼれぬ露かとうたがひ、高くとぶをば、あまつ星かとあやまつ、游人暮るるを待ちてここに逍遥し壮観とす、夜涼しく人定まり、風清く月朗らかなるにおよびて、はじめて帰路をうながさんこと思ひ出でたるも一興とやいはん(後略)
  
 「白堀通り」という名称が登場しているが、白堀は上水の開渠の一般名称なので、江戸期には神田上水と妙正寺川が合流する近くに、この名称が付された道があったとみられる。また、「鳥居が淵」と「犀が淵」については、すでに釈敬順『十方庵遊歴雑記』の巻之中第64「拾遺高田の拾景」から、当時の田島橋と神田上水の蛇行の情景、そしてUMAとして登場する妖怪「犀」とともに詳しく記事Click!にしている。月の名所としての落合地域は、大田南畝(蜀山人)Click!たちが郊外の観月会の様子を記録した『望月帖』にからめて、すでに詳細をご紹介Click!していた。
落合惣図.jpg
落合蛍.jpg
 「落合惣図」の左端に描かれているのが、『怪談乳房榎』にも登場する妙正寺川の「落合土橋」(比丘尼橋)とみられるが、道筋の先が摺鉢山Click!の山麓があったと思われる位置にぶつかり、二手に分かれているところをみると、やはり現在の下落合駅前に架かる西ノ橋あたりの見当だ。また、名所「落合蛍」についても、三代豊国・二代広重が描いた「江戸自慢三十六興」の1作『落合ほたる』Click!とともに、すでに詳述している。

◆写真上:長谷川雪旦が「落合蛍」を描いた、描画ポイントの現状。視点をかなり上に想定しているが、住宅がなければ正面左寄りに下落合氷川社が見えるはずだ。
◆写真中上は、神田上水を手前に入れた「姿見の橋 俤のはし」。中央奥には御留山と藤稲荷、左奥には下落合氷川明神社の杜が描かれている。下左は、1893年(明治26)に松濤軒斎藤長秋が復刻した『江戸名所図会』巻4-12の表紙。落合地域の情景は、同巻に収録されている。下右は、泰雲寺の縁起に挿入された「泰雲寺古事」。
◆写真中下は、御留山の藤稲荷を描いた「藤森稲荷社 東山いなりともいふ」。は、妙正寺川と神田上水の合流点にあったとされる「一枚岩」。
◆写真下は、下落合東部の全景および上戸塚村と上落合村を描いた「落合惣図」。は、御留山の麓から西を向いて描いた「落合蛍」。

宮本恒平アトリエを拝見する。

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宮本恒平邸跡.JPG
 下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)に建っていた第二文化村Click!宮本恒平Click!邸は、1970年代末から散歩がてら何度か目にしている。だが、学生だったわたしの印象に残っているのは、門を入った玄関の左手に巨大なヒマラヤスギが繁る宮本邸の母家のほうであって、庭の南側に別棟として建っていたアトリエの姿ではない。
 周囲を屋敷林にでも覆われていたのだろうか、アトリエの面影はわたしの記憶からまったく浮かんでこない。宮本恒平アトリエは、庭先に建てられたかなり大きな建物だったはずだが、印象が薄いところをみると母家とは別に建てられた、戦後の新しい住宅と勘ちがいして、よく観察しなかったせいなのかもしれない。事実、宮本邸の母家は1926年(大正15)に竣工しているが、アトリエのほうはそれから13年後の1939年(昭和14)に、設計から14年もかかってようやく完成している。
 あるいは、大正期のモダンな母家の風情に見とれて、庭先の別棟に注意をはらっていなかったせいもあるのかもしれない。アトリエは戦後の住宅と見まごうほど、超モダンで現代的だったものだろうか。そこで、改めて同アトリエについて取り上げてみたい。宮本恒平邸の母家とアトリエについて概要を解説した、1987年(昭和62)出版の山口廣・編『郊外住宅地の系譜―東京の田園ユートピア―』(鹿島出版会)から引用してみよう。
  
 第二文化村に現存する宮本邸は、外壁スタッコ仕上げの当時としては典型的な文化住宅である。屋根にはフランス瓦を乗せ、腰掛けを備えた玄関ポーチ、南に居間・食堂と二階に応接室を配し当時最も多い中廊下による平面で建てられている。中村健二の設計により大正一五年に竣工した。アトリエは、一説には、施主と同じ東京美術学校の出身である建築家の作品とも言われている。計画から竣工までに一五年の期間を要し、昭和一四年に竣工した。内部は北欧民家を手本に設計されている。手斧仕上げによるくるみ材の梁・持ち送り、チューダー・ゴシックを基調とし、内部もスタッコ壁で仕上げられている。フランス帰りの画家宮本恒平の趣味が存分に生かされて設計されている(図番号略)。
  
 母家に比べてアトリエの施工が遅れに遅れたのは、「北欧民家」をコンセプトにした仕様のため、良質のクルミ材などを海外に求めた結果、満足のいく木材の輸入に10年以上もかかってしまったからのようだ。また、それらの木材に彫刻をする手間もかかったのだろう。同アトリエを施工したのは、宮大工の小林組と伝えられている。
 同書が出版された、1987年(昭和62)の時点で宮本邸はいまだ現存していたが、今世紀に入ってからは低層マンションに建て替えられている。わたし自身もハッキリと憶えてはいないが、1990年代の前半には宮本邸を目にした記憶があるけれど、1990年代後半に玄関前の大きなヒマラヤスギを残して解体されているのではないだろうか。当時のわたしは、このようなサイトを起ち上げるとは思ってもみなかったので、惜しいことに宮本邸および同アトリエを拝見しそこなっている。
宮本邸母家平面図.jpg
宮本邸1.jpg
宮本邸2.jpg
宮本邸3.jpg
宮本邸4.jpg
 では、宮本アトリエの様子を詳細に記録した、1989年(平成元)発行の海野勉・編『「目白文化村」に関する総合研究(2)』(ワコー)から引用してみよう。
  
 屋根は、勾配の緩い切妻で、赤色のスペイン瓦で葺かれている。外壁は、スタッコ塗で、幅木は煉瓦積になっている。妻壁には、一面の欄間付き三連窓があり明るく、アトリエとして北側の採光を配慮していることがうかがえる。アトリエなので、玄関らしい構えはみられないが、アーチ型の木製ドアを開けると、2畳ほどの土間がある。狭いながらも凝った意匠で、床には鉄平石が置かれ、腰壁には模様タイルが張られ、ガラス扉には、鋳鉄製の透かし細工が嵌められている。この扉の透かし模様は、紋章などによく用いられる剣がモチーフとなっている。/さらに奥へ入ると、広さが約40畳、高さが4mを超える吹抜けの、小屋組が露出しているホール(アトリエ)になる。ホールの側壁には2階高さ(ママ)にギャラリーが設けられ、吹抜けホールを見渡すことができる。ここは壁にかけてある絵画を眺めるのに最適な場所である。ギャラリー直下は絵画を保存するスペースになっている。
  
 広さが「約40畳」ということは、すべてが実際にアトリエとして使用されていたとすれば、吉武東里Click!が設計した下落合のアビラ村Click!にある島津一郎アトリエClick!と同じレベルか、それに次ぐ面積ということになりそうだ。残されている写真を見ると、アトリエの広さに比べ採光窓が意外に小規模だったのは、島津アトリエとは逆に奥ゆきのあるタテ長の構造だったからだとみられる。
 文中で「ギャラリー」と表現されている、アトリエ内からの階段で上がれる中2階のような吹き抜けのスペースは、帝展画家のアトリエによく見られる設備だが、もともとの設計時には壁に架けられた作品を眺めるギャラリーとしてではなく、画家が200号を超える大きな作品を制作する際に、その構図のバランスやデッサンの狂いなどのチェックを、画面から離れて確認するためのものだったのだろう。上記の島津一郎アトリエや、南薫造アトリエClick!などでも同様の意匠を画室内に確認できるが、大画面の出品作が多い当時の帝展画家が建てたアトリエでは、かなり特徴的な仕様だ。
宮本恒平アトリエ1938.jpg
宮本アトリエ1.jpg 宮本アトリエ2.jpg
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 『「目白文化村」に関する総合研究(2)』から、つづけて引用してみよう。
  
 (前略)小屋組をみると、キングポスト式トラス構造となっている。構造材はくるみ材を用い、全て山形紋様の装飾が施されている。また、トラス端部は植物紋様が彫刻されたブラケットで支えられ、垂木間はモルタルで充填されている。/次にギャラリーをみる。ギャラリーを支える柱は石張りで、その柱頭を結ぶ梁には、チューダー様式に用いられる紋章型のメダリオン(円形模様)が彫刻されている。上階のギャラリーに登る折れ階段は、親柱には植物模様が彫りこまれ、ねぎ玉風の頭が付いている。手摺子は、チューダー様式のねじれ棒型である。階段の途中には、丸窓のステンドグラスがあり、その模様はゴシック様式に用いられる三葉・四葉模様の変形とみられる。/さらに暖炉をみる。側壁中央にある暖炉は幅広で、野面石積みで、焚口はタイル張りである。煙突のマスが室内側に突き出し、その形状はアシンメトリカルであり、その出隅には隅石が所々に配されている。これと同じ意匠が外部の煙道にも繰り返されている。暖炉わきには、ゴシック・アーチ型のくぼみのあるニッチがみられ、イコンを収納している。
  
 ふんだんにおカネをかけた、凝りに凝ったアトリエだったことがわかる。できれば、残っている写真や図面を整理して、下落合に建っていた他のアトリエと同様に、小冊子の資料がほしくなるところだ。宮本アトリエが現存していれば美術面から、そして建築面から貴重な建築として、国の登録有形文化財に指定されていたのはまちがいない。
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 ひょんなことから、わたしの部屋には宮本恒平の作品Click!が架かっているけれど、拙サイトでご紹介している画面はわずか3点にすぎない。おそらく、他の画家たちと同様に「下落合風景」を多く描いたとみられるのだが、目にする機会は残念ながら少ない。

◆写真上:第二文化村の宮本恒平邸跡で、ヒマラヤスギの右手に門と玄関があった。三間道路をはさんだ左手は、ハーフティンバー様式が美しい石橋湛山邸Click!
◆写真中上は、2階建てだった宮本邸母家の平面図。は、上から順番に宮本邸母家の玄関ポーチ、1階の南向き居間、居間つづきの食堂、そして2階のホール。掲載しているモノクロ写真は、『郊外住宅地の系譜―東京の田園ユートピア―』(鹿島出版会)または『「目白文化村」に関する総合研究(2)』(ワコー)より。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる宮本邸。は、上から順番に宮本恒平アトリエの採光窓、アトリエ出入口、画室、内部のドア、そして暖炉まわり。
◆写真下は、1941年(昭和16)に撮影された斜めフカンの空中写真にみる宮本邸。は、1979年(昭和54)の空中写真にみる同邸。は、上から順番にアトリエ天井の小屋組み、アトリエ内の「ギャラリー」、階段途中の丸いステンドグラス。

下落合の事件簿「さまざま」編。

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箕作俊夫邸跡.jpg
 1890年(明治23)1月に新島襄が大磯Click!で死去すると、妻の新島八重は夫の終焉地となった大磯の風光が気に入ったのか、大磯町神明前906番地外に土地を購入している。避寒・避暑Click!の別荘にするつもりだったのか、それとも歳をとってからの隠居邸でも建てる計画だったのかは不明だが、国道1号線へ通じる「佐土原さんの坂」上から眺める相模湾の風情に惹かれたのだろう。
 神明前906番地外は、ちょうど大磯駅近くの南東側に位置する森の中で、現在では「パンの蔵」が開店している北側あたりの敷地だ。1927年(昭和2)の夏、佐伯祐三Click!一家が借りてすごした、山王町418番地の別荘Click!へ向かう手前の位置にあたる。見晴らしのいいロケーション抜群の地所なのだが、八重夫人のその後の人生は多忙をきわめ、9年後の1899年(明治32)にはせっかく手に入れた大磯の土地を手放している。
 その地所を新島八重から購入したのが、下落合330番地に住んでいた華族(男爵)の箕作(みつくり)俊夫だった。旧・幕臣の家柄である箕作俊夫は、その地所に別荘を建て真夏と真冬に一家で保養がてら、下落合と大磯を往来していたのだろう。下落合330番地は、七曲坂Click!を上がりきった右手の敷地で、現在は落合中学校のグラウンドの下になってしまったとみられる。位置的には、七曲坂に面したグラウンド北側の一画だ。箕作俊夫は、1923年(大正12)1月に下落合で死去している。
 同年1月9日発行の、読売新聞の訃報記事から引用してみよう。
  
 箕作家の/当主逝く 下落合の自邸で
 箕作俊夫男(三五)は宿痾の腎臓炎を加療中の処八日午前十一時半市外下落合三三〇の自邸に夫人長江(前陸軍大臣大嶋大将長女)長男祥一(五つ)次男俊次(四つ)を残して逝去した
  
 文中の「前陸軍大臣大嶋大将」は、大嶋健一中将の誤りだ。これによれば、箕作家は箕作俊夫がいまだ11~12歳のころ、大磯の土地を俊夫名義で購入していることになる。箕作俊夫が死去してから、3年後に作成された「下落合事情明細図」には、すでに箕作邸は採取されておらず空き地表現になっている。
 ここで気になるのが、いまは落合中学校が建てられている大倉山(権兵衛山)Click!北側の、丘上に拡がる敷地一帯の課題だ。ここには明治期に、伊藤博文の別荘Click!が建てられていたという伝承が地元に根強く残っており、箕作邸の存在とともに、古い時代の華族別荘地の区画ではなかったか? ……というテーマが改めて浮上する。
 さて、事件・事故や犯罪は当時の世相・風俗を映す鏡といわれるけれど、このサイトでは落合地域で起きた多種多様な事件Click!をいままで取りあげてきた。大正初期まで、ほとんどのエリアが田園地帯だったせいか、事件の多くは宅地化が急速に進んだ大正中期以降に起きている。だが、中にはめずらしく明治期に起きた事件もある。1910年(明治43)3月19日発行の、読売新聞から引用してみよう。
  
 病牛火葬の紛擾/悪煙中野、落合を蔽ふ
 牛疫流行につれて病牛の撲殺日に日に盛に是等は悉く北豊島郡落合村の焼場にて火葬に附しつゝあるが一体同焼場は落合村にても窪地に在り之が煙突の如きも随分高いとは云ふものゝ北方に位する同村字上落合並に中野町字原は煙突と殆ど並行の高地に在りて風向が悪いと煙は横なぐりに吹附け村民の迷惑少からず最も人間の死体を焼いた煙は一度低い所に下り水を潜りてから出る様に装置しあれば左程臭気も甚しくないが豚や牛を焼いた煙は油切つた黒い煤を交へて其儘に吹出で黒い雨が降るかとばかり屋根と云はずベタ附き且つ悪臭鋭く鼻を衝くので村民も黙つて居られず前記二字の代表者二十名は落合村村長及び中野町長を先に十六日午後五時頃新宿署へ出頭して只管嘆願し容れられざれば警視庁迄出掛けると敦圉(いきま)きたるも署長の説諭にて一先退出し同夜新宿署長は現所を視察したる上病牛の火葬は夜間に行ふことと定めて無事落着したり
  
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箕作俊夫邸1925.jpg
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 当時、落合村は豊多摩郡ではなく、いまだ北豊島郡に属していた。明治末の郊外には東京牧場Click!があちこちに開業しており、乳牛が伝染病にかかると感染を防ぐため殺処分にして、火葬にしていた様子がわかる。今日では考えられないが、人間と動物をいっしょの焼却炉で灰にしていたのだ。
 いま風にいえば、明らかに悪臭と煤塵をともなう煙害=“公害”事件が発生していたわけだが、当時は環境行政などないに等しいので、この手の苦情の取り締まりは警察にまかされていた。また、この記事からは、明治期の焼却炉の仕組みがわかって興味深い。死者を焼いた排煙は、一度貯水の“フィルター”を通して脱臭・脱塵したうえで、煙突から排出されるシステムだったのがわかる。
 大正後期になると、落合地域の各地で宅地開発が盛んになるが、大規模な工事現場の飯場(工事小屋)に常駐していた大工や石工、土工たちの間でいざこざ事件が多く報道されるようになる。以前、箱根土地による目白文化村Click!の大工たちによる傷害事件Click!をご紹介したが、今度は目白文化村の開発(整地作業)にたずさわっていた、土工たちによる暴力事件が発生している。しかも、のちに暴動に近いかたちで駐在所へ押しかけているのは、朝鮮半島から出稼ぎにきていた人々だ。
 第一文化村の開発が一段落し、1922年(大正11)6月20日から販売がスタートする直前の事件だった。同年6月5日発行の、読売新聞から引用してみよう。
  
 鮮人土方三十余名/駐在所を襲ふ 内十五名は淀橋署に引致取調中
 三日午前零時頃府下下落合村駐在所の弘田巡査が同村二〇三五不動園を警邏中同園内の工事小屋より女の悲鳴が聞えるところから駈付けたるに鮮人土方卅余名が一人の日本婦人を捕へて折檻して居るので取鎮めて説諭したところ鮮人等は何れも棍棒を携へ同巡査に打つてかゝつたので内三名を引致しやうとするや今度は三十余名が一団となつて駐在所を襲つたので此の旨淀橋署に急報本署より警官十数名出張の上啓仁義(廿六)京華澤(廿九)外十三名を引致して取調中
  
 記事中の地番表記が、またしてもおかしい。箱根土地本社Click!の庭園である「不動園」Click!は、本社ビルClick!とともに下落合1340番地にあり、下落合の西部地番である2035番地にはない。下落合2035番地は、アビラ村Click!にある刑部人アトリエClick!前の中ノ道(下の道)Click!をはさんだ南側にあたる敷地だ。ちなみに、「下落合村」は江戸時代の呼称であり、当時は落合村下落合が正しい。
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 さて、なんの理由もなく日本での仕事や賃金を棒にふってまで、いきなり交番を襲撃するとは思えないので、なにかと悪評の多い箱根土地(堤康次郎Click!)による雇用か給与に関する契約不履行への不満があったものか、あるいは工事小屋に出入りしていた賄い婦による、あからさまな差別に対する怒りでもあったのだろうか。新聞には続報が見あたらないので、その原因はいまだ不明のままだ。
 落合地域が住宅地化するにともない、昭和期に入ると東京市街地とさして変わらない悲惨で凶悪な事件が発生しはじめている。大正期までの落合地域は、ケガ人は出ても人が殺されるような事件はめったに起きなかったが、昭和期に入るとさっそく「ピス平事件」Click!が起きて、落合地域はじまって以来の大騒動となった。次の事件も、従来の落合地域では見られなかった事件だ。
 1930年(昭和5)2月2日発行の、読売新聞から引用してみよう。
  
 生活難の凶行か/下落合の幼児絞殺死体
 一日午前九時頃府下落合町字葛谷四三一御霊神社境内の密林中に年齢二、三歳位のメリンスの着物を着た男子の絞殺死体が横たはつてゐるのを通行人が発見所轄戸塚署に急報したので浅沼署長、山下警視刑事部から江口捜査課長、田多羅、中村両警部、吉川鑑識課長、万善警部、荒木医学士等現場に急行し千住行李詰事件の二男の死体ではないかとの疑ひで種々検視したが全く別箇のものであることが別(ママ:分)つたが犯人厳探に着手した/現場臨検の結果殺害したのは払暁一時ごろで二歳ではあるが生後五、六ヶ月と推定、栄養状態は良いけれども着衣から見て中流以下の家庭のもので生活難からの凶行とにらみ現場を中心に職人等下層階級を物色してゐるが死体は今二日午前十時東大法医学教室に送つて解剖に付する事になつた
  
 この記事では「葛谷」と記載されているが、正確には葛ヶ谷(のち西落合)だ。被害者が「二歳ではあるが生後五、六ヶ月」とは、数えの年齢表記だろう。嬰児の死体発見にしては、戸塚署の対応が署長が出動するなどかなり大仰だが、どうやら嬰児の遺棄死体に関連して、すでに「千住行李詰事件」というのが発生していたらしい。
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 大正期以前には、いまだ農村共同体としての“しばり”や密なコミュニケーションがあったせいか、「大事件」といっても水利争いClick!や畑地の境界線争い、火事・失火Click!、ケンカ、痴情のもつれによる傷害、窃盗Click!、空き巣……と、人命にかかわる重大犯罪はほとんど見られないが、昭和期に入ると一気に強盗や殺人といった凶悪犯罪が目立つようになり、落合地域とその周辺域では「都市型」事件が増えていくことになる。

◆写真上:左手の落合中学グラウンドに設置された青い金網あたりが、下落合330番地にあった箕作俊夫男爵邸の跡。その東側には、伊藤博文別荘の伝承が残っている。
◆写真中上は、1923年(大正12)1月9日発行の読売新聞に掲載された箕作俊夫の訃報。は、1925年(大正14)作成の「落合町市街図」にみる下落合330番地。は、1910年(明治43)3月19日発行の読売新聞に掲載された排煙公害記事。
◆写真中下は、かなり前から煙突がなくなり最新設備が導入されている落合斎場。は、第一文化村の販売開始15日前の1922年(大正11)6月5日に発行された読売新聞の「土工駐在所襲撃」事件。は、佐伯祐三が1926年(大正15)ごろ制作の『雪景色』Click!(部分)に描く目白文化村の“簡易スキー場”で、箱根土地本社の「不動園」南側つづきの前谷戸上に建っていた工事小屋(飯場)とみられる長屋群。
◆写真下は、1930年(昭和5)2月2日発行の読売新聞にみる「幼児絞殺」事件の記事。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる緑が濃い葛ヶ谷御霊社の杜とその周辺。は、1932年(昭和7)から「西落合」に地名が変わった葛ヶ谷御霊社の現状。

めずらしい関東大震災ピクトリアル。(1)

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 少し前の記事で、関東大震災Click!を記念する「贈物」や「土産」として、被害をあまり受けなかった出版社や東京地方以外の出版社から刊行された、グラフ誌や写真集をご紹介Click!した。そこには、当時の新聞社が撮影した現在でもよく知られ、引用されている写真とは別に、これまで見たことのない写真が数多く掲載されている。また、新聞や新聞社発行のグラフ誌などによって報道された同一の被害箇所の写真でも、別角度から撮影されたものが多く、いまでは貴重な資料と思われる画面も少なくない。
 本日から、東京市街地とその周辺域の多くが壊滅した、関東大震災のあまり見たことのない、めずらしい写真類を少しずつご紹介していきたい。まずは、大阪市東区大川町に社屋を構えていた、関西文藝社が1923年(大正12)9月25日(実際は11月1日だと思われる)に発行した、写真集『震災情報/SHINSAIJYOHO』掲載の写真類から見ていこう。
 まずは、同写真集の序文から少し引用してみよう。
  
 大正十二年九月一日の正午――丁度十二時前頃俄然関東地方に大地震起り、一揺れ、又一揺れと間断なく震動し、其の被害の及ぶところ東京、横浜に於ては激震とともに大火災を起し加ふるに海嘯(つなみ)の襲来をうけ家屋の破壊、倒潰、焼失、流失算なく人畜の死傷者数十万を数へ、両市五十年の文化は一朝にして一望唯荒寥たる焼野原と化し、交通々信の機関杜絶し水道断絶して消防の途なく幾百万の罹災者は喰ふに食なく住む家なく光景惨憺酸鼻の極に達し、沼津、熱海地方は市中の大地亀裂して熱湯を噴出し、駿河町の如きは実に全町全滅の惨を見るに至り、伊豆、相模、安房、上総一帯の被害最も甚だしく家屋の倒壊流失、人畜の死傷無数、鉄道は鉄橋の墜落、トンネルの崩壊せし処数多、列車の転覆せしものもあり、電話電信線は切断され、帝都を中心に他地方との通信交通全く杜絶せり、其の他海上にありては船舶の沈没流出数知れず、其惨状言語に絶す、
  
 「五十年の文化」と書かれているけれど、横浜はともかく、室町期の太田道灌による江戸城Click!を中心とした城下町Click!を含む、600年にものぼるこの街の歴史と「文化」はどこに仕舞いこんじまったんだい?……と突っこみたくなるのが、大阪らしい執筆者の表現だ。だが、少なくとも江戸時代からつづく残り香の多くが、関東大震災を境に消滅してしまったのはまちがいない。
 さて、同写真集の巻頭に挿入されているのが、モノクロ画面に人着をほどこした炎上する日比谷の警視庁だ。添え書きによれば、人着をほどこしたのは大阪の安藤製版所というところらしい。この写真自体は何度か見たことはあるが、人着されたものは初見だ。消防車が3台出動しているが、内濠の水を汲みあげる態勢でいるものの、消火はあきらめたものか放水は行われていない。
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 つづいて、瓦礫の山と焦土と化した日本橋界隈の写真も、これまで目にしたことのないものだ。どのあたりを写したものかは、おそらく執筆者が大阪人のために特定できていない。ひょっとすると、記者に同行したカメラマンも、大阪の写真館から東京へ出張しているのだろうか。同写真に添えられたキャプションから、その一部を引用してみよう。
  
 京橋を渡ると第一相互と星が対立して外形だけを止め、此辺一帯が焼けたのは二日午前一時頃、道路の木煉瓦は焼けこげてデコボコである、丸善は滅茶滅茶に潰れ、白木屋は影も形もなく、日本橋は破損を免れ、橋畔の森村銀行、村井銀行、国分商店、大倉書店等の大建築も全部烏有に帰し、魚河岸と青物市場は惨憺たるもので河岸には子供を背にした女や男の死骸が数十浮いてゐる、河岸は焼かれ船で一ぱいになつてゐる、三越の焼けたのは一日夜八時 三井物産、三井銀行は全焼して形骸だけを止めてゐる。
  
 「第一相互と星が対立」の「星」は、こちらでも何度か媒体広告をご紹介している星製薬Click!の社屋だ。また、300年以上つづいてきた日本橋魚河岸Click!は、このとき芝浦河岸へと臨時移転している。日本橋区で焼け残ったのは、3階が延焼したもののなんとか消し止めた、ほとんど日本銀行1棟のみだった。このとき、地下にあった準備金(当時は金本位制復帰を準備中)や未発行紙幣、補助貨幣は焼け残り、東京復興に大きな役割を果たすことになる。
 京橋や銀座、築地地域が炎上したのは日本橋よりも早く、一日の午後から西南の風にあおられて東西に拡がり、中央新聞社や電報通信社(電通)、国民新聞社、時事新報社、実業之日本社、カフェパウリスタ、東京朝日新聞社などを全焼して、銀座・有楽町界隈は全滅した。大橋(両国橋)からは火災が拡がらなかったが、永代橋Click!が炎上して対岸への“導火線”のような役割をはたし、深川区も全滅のありさまだった。特に火災に囲まれて逃げ場を失った、月島や越中島、木場、洲崎地域に多くの死者が集中している。
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銀座通り1923_1.jpg
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 神田区は、神田三崎町と一ツ橋から出火した火災が延焼し、下谷(現・上野)方面からの火災と挟み撃ちにあい、神田川沿いの一部地域を残してほぼ全滅した。同誌のカメラマンは、多くの報道カメラマンと同様に、壊滅した万世橋駅前の“広瀬中佐と杉野上等兵曹”Click!の銅像をカメラに収めている。同写真のキャプションより、引用してみよう。
  
 万世橋駅は赤煉瓦と鉄骨を残し広瀬中佐の銅像がひとりポツネンと須田町の目標となつてゐる、名物のニコライ教会も内部は焼け外部だけが残つてゐる、最も災害の甚だしかつたのは神保町、小川町で神保町交叉点には地震で死んだ死骸を電車道に並べたまゝ後の火災で焼いてしまつた、神田橋も一つ橋は焼け落ち、商科大学の一部と如水会館、女子職業学校は火災を免かれた。
  
 大震災の約1ヶ月後に東京市がまとめた統計では、各区の死傷者は次のとおりだ。
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 この中で、本所区がケタちがいに多いのは、被服廠跡地Click!に逃げこんだ人々38,000人が大火流Click!に巻きこまれて焼死しているからだ。また、東京大空襲Click!時の一家全滅や親戚一族全滅、隣り近所全滅、東京にやってきた人間関係が希薄な若い単身者の罹災ケースなどと同様に、今日にいたるまで行方不明者の実数が把握できず、実際の死者は東京市だけでも10万人に近いのではないかとみられている。
京橋1923.jpg
肴河岸1923.jpg
日比谷交差点1923.jpg
日比谷公園付近1923.jpg
万世橋駅1923.jpg
 上野の竹ノ台陳列館でスタートした二科展では、大震災の揺れとともに多くの絵画や彫刻が落下して破損した。(冒頭写真) 二科の東京展は即日中止され、破損・破壊をまぬがれた作品のみを集めた大阪展が、10月に入って開催されている。
                                <つづく>

◆写真上:上野竹ノ台陳列館で、9月1日にはじまったばかりの二科展の惨状。
◆写真中上:下志津の陸軍飛行学校から飛び立った飛行機が、関東大震災が発生した直後の東京市街地を上空から撮影している。大火災の焼煙で街並みがよく見えず不明だが、いちばん下の写真は湯島から御茶ノ水の外濠あたりだろうか。いずれの写真も、大日本雄弁会講談社が発行した『大正大震災大火災』より。
◆写真中下:以下、いずれも関西文藝社から発行された写真集『震災情報/SHINSAIJYOHO』、および歴史写真会のグラフ誌『関東大震大火記念号』より。からへ、炎上する丸ノ内の警視庁(人着)、焦土の日本橋(2枚)、全滅の銀座通り(2枚)。
◆写真下からへ建物倒壊が多かった京橋から銀座、数寄屋橋西の肴河岸・山城河岸から見た日比谷炎上、日比谷交差点付近の惨状(2枚)、壊滅した万世橋駅前。

幻の「目白工学校」のゆくえ。

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 下落合の目白通り沿いには、大正末に「目白工学校」という理系の専門学校が存在したらしい。「らしい」のまま断定的に書けないのは、目白工学校の実態がまったく把握できないからだ。いくら地元の資料や地図類を参照しても、「目白工学校」というネームは発見できない。同校の電話番号は「牛込一五一八番」なのだが、この電話は下落合437番地に開校していた目白中学校Click!の番号とまったく同一なのだ。
 目白工学校の生徒募集は、1926年(大正15)2月11日の東京朝日新聞に掲載されている。募集要項によれば、「予科約二百名募集」で「本科建築高等科各百名募集」の、つごう約400名の生徒を集める予定だった。試験日のスケジュールはなく、「三月十五日始業」と書かれているので、応募すれば誰でも無試験で入学できたらしい。問い合わせ先は、「牛込一五一八番」となっている。
 この募集広告の右隣りには、同じ枠内に目白中学校Click!の募集広告が掲載されていて、「一年約二百名」を募集しており、試験日は「三月三十日」と指定している。また、2年生と3年生の補欠生徒も「若干名」募集しており、試験日は「三月廿七、八日」としている。そして、問い合わせの電話は、共通で「牛込一五一八番」だ。(冒頭写真) この電話番号は、電話が普及しはじめた明治末から一貫して、目白中学校Click!の事務局に通じる連絡先だったはずだ。これはいったい、どういうことだろうか?
 たとえば、目白中学校が明治期に出稿した、早い時期の生徒募集広告を参照してみよう。1909年(明治42)3月20日の、東京朝日新聞に掲載された広告だ。
  
 私立 目白中学校 生徒募集
 第一学年(尋常小学卒業者は無試験) 〇願の者は寄宿を許す
 東京府豊多摩郡落合村目白停車場附近 〇電話番町一五一八番
  
 いまだ明治期なので牛込電話局が存在せず、電話は少し離れた番町局扱いになっているが、電話番号は当初より「一五一八番」だった。つまり、大正末には存在したとみられる目白工学校は、目白中学校とまったく同一の場所にあり、同じ事務局を共有していた、つまり学校業務を共有していた……と考えざるをえないのだ。
 1926年(大正15)2月11日の東京朝日新聞に掲載された、目白工学校の生徒募集広告では応募者が集まらなかったのか、同年3月11日に再び同紙上に募集広告を出している。ただし、目白中学校はすでに応募者数を満たしたのか、募集広告を出稿していない。以下、目白工学校の募集広告全文を引用してみよう。
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 目白工学校
 予科約二百名募集/本科建築高等科/各百名募集/三月十五日始業
 ◎東京市外目白駅上 ◎電話牛込一五一八番
  
 始業式を3月15日にひかえ、3月11日になっても生徒が集まらずに、焦って募集を繰り返していた様子がうかがわれる。
 1926年(大正15)春という時期は、目白中学校が下落合から上練馬村高松2305番地Click!へ移転する直前であり、山手線沿いの至便な立地から、交通が不便で通いにくいキャンパスへ変わるという計画は、同年に目白中学校へ入学した生徒たちも承知していただろう。その高いネームバリューから、なんとか生徒の定員は確保できたようだが、応募者数は大きく落ちこんでいた可能性が高い。
 目白中学校の経営陣は、上練馬村への移転とともに生徒数が漸減するのを予想し、大正末に新たな専門学校として目白工学校を創立しているのではないだろうか。そして、減った生徒数を目白工学校の生徒数で埋め、目白中学校の校舎を同校と新たに設置を予定している目白工学校とで、共有利用しようとしたのではなかったか。
 なぜなら、1926年(大正15)の初夏に地鎮祭が行われた上練馬村高松のキャンパスには、校舎を新たに建設するのではなく、下落合にあった目白中学校の校舎を、そのまま移築して使用する計画だったからだ。目白中学校の生徒が減れば、校舎は空き教室だらけになってしまうので、新たに目白工学校を立ち上げて生徒数を補い、従来と同様に安定した経営をつづけようとしていた……、そんな経営者の思惑が透けて見えそうだ。
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 1926年(大正15)秋に上練馬村高松2305番地へ移転した直後、1927年(昭和2)3月26日の東京朝日新聞に掲載された目白中学校の募集広告を引用しよう。
  
 目白中学校 生徒募集
 ◎第一学年 (四月六日入学試験) 試験科目 (国語、算数)
 ◎第二、第三学年補欠若干名 (三月廿八、廿九日入学試験)
 府下/上練馬村高松/武蔵野線中村橋下車八丁
  
 明治期から生徒募集広告ではおなじみだった、「一五一八番」の電話番号が記されていない。このあと、目白中学校は人気が急落し、生徒数が減りつづけることになる。そして、1934年(昭和9)にはついに全学年で生徒数65名にまで落ちこんでしまった。
 大正末に生徒を募集していた目白工学校だが、目白中学校が上練馬村高松へと移転した1926年(大正15)の秋以降、パッタリとその校名を見かけなくなってしまう。翌1927年(昭和2)に、新聞紙上に現れた募集広告は上掲のように目白中学校のみで、目白工学校の募集広告は見かけない。おそらく、目白中学校の経営陣の思惑が外れ、生徒がほとんど集まらなかったのではないだろうか。
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 うがった見方をすれば、新たに創立した目白工学校は、「目白」で生徒をできるだけ募集して人数をそろえ、当初は下落合の校舎で授業を行いつつ、半年後には上練馬村へ移転したあとも「目白工学校」を名のりたかったのではないだろうか。しかし、応募してくるはずの生徒たちは、目前に迫る目白中学校の練馬移転を知っていたため、入学希望者がほとんどなかったように思われるのだ。

◆写真上:1926年(大正15)2月11日発行の東京朝日新聞に掲載された、目白中学校と目白工学校の同時募集広告で、電話番号が共用な点に留意したい。
◆写真中上は、目白通りに面した下落合437番地の目白中学校。は、1909年(明治42)3月24日発行の東京朝日新聞に掲載された目白中学校の募集広告。は、目白中学校の跡地から目白通りを眺めた現状で正面は目白聖公会。
◆写真中下は、1926年(大正15)3月11日発行の同紙に掲載された目白工学校の生徒募集広告。は、1926年(大正15)の夏に行われた上練馬村高松キャンパスの地鎮祭。は、上練馬へ移転後の目白中学校と東京同文書院Click!の正門と本館。
◆写真下は、上練馬村高松2305番地へ移転後の目白中学校正門。は、近隣から見た上練馬高松キャンパスの遠景。は、上練馬へ移転したあと1927年(昭和2)3月26日発行の東京朝日新聞に掲載された目白中学校の生徒募集広告。

めずらしい関東大震災ピクトリアル。(2)

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 前回は、神田や日本橋、京橋、尾張町(銀座)といった(城)下町Click!の中心部の写真をご紹介Click!したので、今回はもう少し範囲を拡げてみよう。同様に、関東大震災Click!の写真ではあまり見たことのない画面をピックアップしてみたい。引用するのは、やはり大阪の関西文藝社が1923年(大正13)9月25日に発行した写真集『震災情報/SHINSAIJYOHO』と、小石川の歴史写真会が同年11月1日に発行したグラフ誌『関東大震大火記念号』の2冊からだ。
 まず、震災の被害が比較的少なかったはずの、小石川区大塚仲町にあった歴史写真会Click!が、なぜ編集を終えているにもかかわらず、すぐにグラフ誌を販売できなかったのか、その理由を読者に釈明する“社告”から引用してみよう。同社告は、1923年(大正12)11月1日に博文館印刷所から出版された、『関東大震大火記念号』第2巻の裏表紙に掲載されているものだ。
  
 本誌十月一日発行『関東大震大火記念号第一巻』は社員一同必死の努力を傾倒したる結果、幾多の貴重珍奇なる資料を蒐集することが出来、東京に於て印刷発行せられたる各種災害写真帖中の先駆を為すを得たのでありましたが、果然註文殺到又殺到の盛況を来し未だ製本工場より受渡しを了せざる間に奪ひ合いの有様となり、而も下町方面幾多の工場焼失の為め製本能率に大障碍を来し其の困難到底名状すべからず、常に責任観念の尊重を以て第一義と心得る社員一同は、各位の御註文に対し空しく送本を延滞せしむることに就き日夜腸九回の思ひを続けましたけれども、奈何せん災後日尚浅く諸事一として意の如くならず、殊に輸送機関の大故障は一層此の恨みを深くするに与つて力あるもので遂に彼の如き不結果を招くこととなりました。(以下略)
  
 当時の混乱していた印刷・製本事情や、壊滅した物流(取次配本)ルートの状況がうかがえる。10月1日に第1巻を発行したことになっているが、実際に読者の手もとにわたったのは、おそらく10月も半ばをすぎてからではないだろうか。
 自前で印刷・製本工場や配送ルート、自動車(トラック)などをのネットワーク持っていた被害の少ない新聞社や大手出版社は、かなり早めに写真集やグラフ誌を販売できているが、中小の出版社は印刷・製本の手配さえままならず、せっかく印刷・製本が完了して社屋に運びこんでも、今度はそれを書店に配本する手段が見つからないような状況だった。また、通信販売では郵便が壊滅的で深刻なダメージを受けているため、郵便物の行方不明や配達遅延、郵便局員の行方不明が多く発生していた。
 郵便を統括する逓信省は、9月5日から預貯金の支払いを再開しているが、郵便業務は混乱をきわめていた。切手やはがき、封筒、便箋などが焼失してしまったため、メモのような紙きれやタバコの箱、布きれ、手拭い、ハンカチ、着物の端ぎれ、手袋などに文面と宛先を書いたものが郵便局に持ちこまれ、そのまま地方へ配達されるか、電報で文面を各地に配信している。特に無料化された災害電報が混雑をきわめ、おもに焼け残った乃手の郵便局前には長蛇の列ができている。
 さて、まずは歴史写真会の同誌から巻頭の人着写真を見てみよう。冒頭の写真は、本所の被服廠跡地で撮影されたもので、震災からいくらか日数がたったころのものだ。中央に築かれた山は、大川(隅田川)沿いで遮蔽物がなかった同廠跡地に避難し、大火流Click!に巻きこまれて死亡した38,000人の遺骨の一部で、画面の右手では骨壺に遺灰を収める気の遠くなるような作業が行われている。背後には濃い煙が漂っているので、いまだ遺体を焼却している最中なのだろう。
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 同誌の2巻は、震災から1ヶ月半が経過したころ編集されているので、被災地の後片づけや避難者・避難地の状況、大杉事件(甘粕事件)Click!などを記録しているが、関西文藝社の写真集『震災情報/SHINSAIJYOHO』は震災直後の避難場所や、大火災をとらえたものが多い。特に、避難者が殺到して身動きがとれなくなった上野駅前や上野公園、浅草公園などを撮影している。
 上野のある下谷区では、上野松坂屋付近から出火した火災が北西にある東京帝大方面へと延焼し、本郷3丁目から新谷町、団子坂、白山、日暮里、そして南千住まで拡がって、ほとんどの住宅を焼きつくした。また、浅草方面から避難してきた人々と下谷の避難民が上野駅前に詰めかけ、身動きがとれなくなったところへ延焼が迫り、多くの死者を出している。上野駅前の人々は、火災から逃れようと上野山へ避難し、上野公園から道灌山、谷中墓地まで避難民であふれ返った。上野から谷中までの避難民数は不明だが、少なくとも30~40万人ではないかと推定されている。
 関東大震災で家をなくした罹災者は、100万人をゆうに超えるといわれているが、そのうちの8割近くが10日以内に地方へ疎開(帰郷)している。一方、故郷のない江戸期からの住民を中心に2割以上が、市内の大きめな公園や広場、寺社の境内などで避難生活を送ることになった。また、市街地にあった大使館や公使館の外国人たちも、避難者に混じってテントやバラックで生活をする姿もめずらしくなかった。
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 上野公園から道灌山、谷中墓地の界隈はかろうじて焼け残ったが、浅草公園は一度全焼しているものの、火災が収まると敷地が広かったせいか、周辺の被災者たちが次々ともどってきて避難街を形成している。浅草寺は本堂と五重塔、仁王門を残しほぼ全域が火災により焼失した。ここでも延焼は北側へと広がり、吉原から三ノ輪方面(現・千束界隈)はほぼ全滅している。特に吉原遊郭では、茶屋や妓楼がすべて倒壊または炎上し、塀に囲まれて外へ逃れられない娼妓たちや、吉原遊郭に勤めていた人々千数百名が、焼死または溺死している。その様子を、関西文藝社の同写真集から引用してみよう。
  
 吉原方面は一軒も残らず全部崩壊焼き払はれ全町の娼妓、娼夫、住民は命からがら裏手の公園に辿りついたが火は忽ち公園に及び千数百名は附近の池に飛び込み全部溺死を遂げた、こゝを脱れた数万は何れも市外へ遁げるべく迂回して両国橋を渡り寺島を経て千葉県、茨城県方面へ一進一退見るも哀れの状態で避難した。
  
 文中で「千数百人」としているが、吉原弁天池で溺死した娼妓は500名弱、残りの死者は遊郭内に住んでいた、または勤めていた人々の圧死や焼死も含まれている。
 関東大震災では被害が少なかった、おもに乃手のターミナル駅である田端駅や飯田町駅、新宿駅、品川駅、日暮里駅などから次々と避難列車で、実家のある故郷や出身地方へと帰る人々の流れが、何日も途切れることなくつづいた。自身が住んでいた被災地や地域に踏みとどまり、江戸東京の地付きの住民とともに進んで復興へ尽力した人たちは、はたしてどれほどいたのだろうか?
 関東大震災では、あらかた震災被害が片づいて落ち着き、復興が進んでから東京へもどってきた人々が圧倒的に多かった。つまり、震災の後片づけや被災地の救援という、いちばんたいへんで負荷の高いやっかいな作業フェーズは丸ごとパスして帰郷し、それが済んでから再び東京地方へとやってきた、「美味しいとこ取り」だけが目的の連中だ。自分たちの故郷が災害にみまわれ、その地で「わたしの故郷は東京地方だからさ、もう帰るね。じゃ、あとはよろしくね」と、さっさと引き上げる東京人がいたとしたら、地元で被災した人々はその姿に、いったいどのような感慨を抱くだろうか?
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 これは、1945年(昭和20)の東京大空襲Click!直前でも見られた現象だし、特に寺や墓地を守らず、さっさと「本山」に帰郷し、逃亡していった坊主Click!にもからめて書いたことだが、もしも近未来に同様の事態が起きたとしたら、「大江戸(おえど)の恥はかきすて」Click!とばかり尻に帆かけて逃げ出したりせず、ぜひ踏みとどまって街の再興に向け協力・支援をしてほしいものだ。それが、この街で暮らして生活し、さまざまなコミュニティやサービスの恩恵を受けていたことに対する、最低限の礼儀礼節というものだろう。
                                <つづく>

◆写真上:被服廠跡で焼却をつづける遺体から出た、遺骨の山と骨壺への収納作業。
◆写真中上:『震災情報/SHINSAIJYOHO』(関西文藝社)より。からへ、下谷地域と浅草地域から避難民が殺到した上野駅前、消息を訊ねる紙が貼られた西郷像と上野公園、全焼した東京市電の残骸が残る上野広小路、田端駅から地方へもどる避難民たち。
◆写真中下からへ、一度は焼けた浅草公園へ再び避難してきた人々、余燼がくすぶる全滅した浅草六区界隈、震災直後に東京電燈本社(有楽町)から出火した様子、東京府庁・東京市庁(合同庁舎)前に集まった貼り紙を見る被災者たち。
◆写真下:『関東大震大火記念号』(歴史写真会)より。からへ、ほぼ壊滅した幕末の疎開地以来のオシャレな西洋館街だった築地、震災直後に出火した丸ノ内界隈、膨大な死者を荼毘にふす被服廠跡、臨時のバラック納骨堂ができた被服廠跡。

1926年(大正15)9月1日の新聞広告。

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 大正期から昭和期にかけ、人々はどのような広告を目にしていたのか、これまで多種多様なメディアの広告をご紹介してきた。たとえば、大正期を代表する児童雑誌「赤い鳥」Click!に掲載の広告をはじめ、地域誌(たとえば『高田村誌』Click!『落合町誌』Click!)の広告、主婦向けの雑誌広告Click!、スポーツ広告Click!、グラフ誌の広告Click!、共産党の機関誌「戦旗」Click!の広告、新聞各紙の広告Click!、敗戦後まもない時期の広告類Click!、そして商品テーマごと(たとえば石鹸Click!ディベロッパーClick!牛乳Click!)など、さまざまな時代の世相を映す広告表現について取りあげてきた。
 本記事でご紹介する媒体広告も、当時の世相や風俗を知るうえでは面白い素材だろう。1926年(大正15)9月1日に発行された東京朝日新聞の、1面すべてを使って掲載された6社の広告だ。しかも、広告主の社名が伏字になって、それを当てるクイズ形式になっているのがめずらしい。モデルを起用した写真やイラストが中心の表現で、当時としては“流行り”で先端のグラフィック表現だったのだろう。では、1社ずつ見ていこう。
甲斐産商店.jpg
 召せ……………/純国産品の権威/大黒葡萄酒を
 葡萄天然の美味を保有し/優越なる滋養量と/然も経済にも適合せる
 キット皆様に/御満足をさゝげます
 東京市外下落合一〇  甲〇産〇店
 いわずと知れた、下落合10番地に壜詰工場Click!があった大黒葡萄酒Click!の広告で、社名は「甲斐産商店」が正解だ。どこか女給さんのような、派手な着物を着た女性がグラス片手にニッコリしているのは、この手の広告にありがちなビジュアルなのだけれど、コピーの日本語が不自由で明らかにまちがっている。
 この当時、専門のグラフィックデザイナーはもちろんコピーライターも存在せず、企業の広報部や役員自身が広告の文案を考えるのがあたりまえの時代だった。だから、中には表現や用法がおかしく、文章の主体や客体がクルクル入れ替わる、文脈の通らないコピーが少なからず存在している。
二輪屋株式会社.jpg
 米車/インデアンの/―特徴―/品質堅牢・優美・頗る経済的にして
 重量車 大チーフ型 (プリンセスサイドカー附)
 中量車 スカウト型 (軽量車プリンス型)
 何もインデアン独特の電気装置完備し価格最も勉強也
 東京四谷東信濃町  二〇屋〇式〇社
 現在でも販売されている、バイクマニアなら一度は乗りたいインディアン・モーターサイクル社のオートバイ広告だ。なぜか三つ揃えのスーツを着たヘンリー・フォンダ似の男が、プリンセスサイドカー(?)へ厚化粧した竹内結子みたいな女性を乗せて走っている。いや、女性に身体を左へ傾けさせ、カーブを疾走しているように見せかけて、実は停車して撮影しているのだろう。
 大正末の当時、米国インディアン社のバイクを買えるのは、よほどの高給とりかおカネ持ちに限られており、庶民にはまったく手がとどかなかった。クルマの普及はかなり早かったが、バイクはなかなか一般家庭には普及せず、各地でバイクレースを開催するなど、イベントを通じたプロモーションが盛んに実施されていた。日本におけるインディアンを輸入していた代理店の社名は、「二輪屋株式会社」だろう。
講談社.jpg
 日本人にシツクリ合つた/趣味の雑誌/『講談倶楽部』
 円満平和の家庭に/必ずこの雑誌あり
 東京本郷  講〇社
 怒ると八重歯が伸びそうでちょっと怖い、いまの東京都知事(2018年現在)の若いころのような顔をしたモデルが、派手な縞柄の普段着姿でニッコリする、家庭の主婦をターゲットにした「講談倶楽部」の広告だ。当時のモダンな文化住宅で流行った、縞柄の壁紙やテーブルクロスが写っているが、縞柄の着物に縞の壁紙がとても野暮ったくて、現代のスタイリストやカメラマンなら絶対にコーディネートしない組み合わせだろう。誌名に答えがのぞいているが、もちろん社名は「講談社」だ。
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 針の運びを止めて
 〇〇ちやん八重歯で/プツリと糸を………/うつとりと聴き惚れる
 最高級蓄音器/ライオン三号 ¥70,00
 レコードは/新進の紹介 曲種の最新/技術の優秀 実演其儘の
 ヒコーキレコード/九月新音譜発売/お買上げは最寄の蓄音器店へ
 東京銀座  合〇蓄〇器〇式〇社
 できるだけモダンな広告をつくろうと、各社が表現に工夫を凝らしている中で、なんだか江戸時代にもどってしまったのがレコードと蓄音器の広告だ。まるで芸妓のような女性が、裁縫をしながら歯で糸を切ろうとしているその刹那、レコードに聴き入って動きを止めた瞬間……というシチュエーションらしい。なぜ、このような表現なのかというと、当時のリスナーにもっとも売れていたのが洋楽でも歌謡曲でもなく、三味Click!をバックにした小唄や長唄、××節などお座敷唄のレコード類だったからだ。
 当時は、オーディオ装置Click!とディスクの販売がいまだ分離しておらず、レコードが蓄音器屋で売られていたのがわかる。ちなみに大正末の70円は、今日の給与換算指標に照らすと18万円ほどになる。クイズの社名は、「合同蓄音器株式会社」だろう。
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 復方チレオイン錠/若さ美しさの精
 東京市四谷見付外  フ〇―製〇合〇会〇
 このクイズ広告シリーズでは、もっとも短いキャッチコピーだ。それほど、大正末には有名な“若返り”の薬剤だったらしい。「復方」と書かれているので漢方薬っぽいが、牛の甲状腺からつくる「特殊製剤」だったようだ。効能も多岐にわたり老耄症・早発性老衰症や神経衰弱・ヒステリー、性欲衰弱、生殖器発育・官能不全、乳汁分泌不全、血圧亢進症、動脈硬化、貧血性諸症、鬱血症、喘息、新陳代謝機能障害……と、いわゆる「血の道」の病気と呼ばれる症状に効果があったらしい。
 南風洋子風のモダン髪の女性が、もの憂げにジトッと湿った眼差しをあらぬ方角へ向けているのが、なんとなく思わせぶりで艶っぽい広告なのだ。今日のキャッチフレーズでいえば、「強い男が好き!/みなぎる活力」とか「男の自信がV字回復」とか、「すごいわ……/男の自信を取りもどせ!」といった広告と同類の、大正時代のアンチエイジング薬または精力剤だったのだろう。社名は、「フロー製薬合資会社」だと思われる。
日米商店.jpg
 破天荒廉価提供/ラーヂオートバイ/世界唯一/四バルブ/四スピード
 廿五年来/盛名斯界に冠たる/ラージ自転車 (イラスト+ロゴマーク)
 東京銀座  日〇商〇   支店/大阪、名古屋、福岡、京城、台北
 6社の広告の中では、イラストやロゴマークを大きくあしらった広告らしい広告だろう。当時、バイクは一般家庭への浸透が遅れていたが、自転車は大正後半から爆発的に普及しだしている。「四バルブ/四スピード」とは、4気筒でギアが4変速ということだ。今日の大型バイク(リターン式)では7変速が一般的だが、当時は4変速が最先端の技術だった。自転車は、今日の仕様やデザインとほとんど変わらず(ただし変速ギアは未装備)、女性でも手軽に乗れるよう軽量化が進められている。
 この広告が秀逸なのは、イラストでターゲットと製品の用途・事例を具体的に描き分けているところだ。自転車は、工具をかついで現場に通う職人、通学の女学生、郵便配達員、クラブを背負って趣味のゴルフに出かける休日のサラリーマンが描かれている。また、バイクはサイドカーに恋人を乗せたデート中とみられる男と、サイドカーへ子供を乗せた主婦が描かれ、具体的な利用イメージが顧客へストレートに伝わるよう表現されている。クイズの社名は、ロゴマークの中に「NICHIBEI SHOTEN LTD」と答えが出てしまっているが、「日米商店」が正解だ。
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 さて、佐伯祐三Click!米子夫人Click!は、1926年(大正15)9月1日の新聞広告を、おそらくウキウキ気分で眺めていたにちがいない。なぜなら、滞欧作が夫婦そろって二科展に入選(8月末に内定)しており、この日は東京朝日新聞の記者やカメラマンが来訪して、アトリエで記者会見Click!が予定されていたからだ。そして、翌9月2日の同紙には一家の写真とともに、「夫婦一緒に入選/佐伯祐三氏夫妻の喜び」の見出しで報じられている。

◆写真上:1933年(昭和8)に飛行機から撮影された、雑司ヶ谷道Click!添いの下落合10番地にあった甲斐産商店「大黒葡萄酒」の壜詰工場。画面下の細長い屋根群が工場で、目白貨物駅に着いた樽詰めワインをここでボトルに詰めて東京市場へ出荷していた。左上に見えている緑の斜面は、学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)。
◆写真中:1926年(大正15)9月1日発行の、東京朝日新聞に掲載されたクイズ広告。
◆写真下:1926年(大正15)9月2日発行の、東京朝日新聞に掲載された佐伯夫妻の二科展入選(佐伯祐三×18点、佐伯米子×2点)を伝える記事。

小島善太郎がかいま見た長沼智恵子。

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長沼智恵子「樟」1913.jpg
 1910年(明治43)ごろから大正期にかけ、小島善太郎Click!は洋画の勉強に谷中真島町1番地にあった太平洋画会研究所(旧)Click!へ、大久保の中村覚邸Click!から通わせてもらっている。同研究所は、中村不折Click!満谷国四郎Click!吉田博Click!らが1901年(明治34)に創立した太平洋画会を母体としているが、そこへ習いにきている画学生には中村彝Click!大久保作次郎Click!、足立源一郎、野田半三Click!らが、彫刻部には中原悌二郎Click!や戸張孤雁らがいた。
 ちょうど明治末から大正初期は、欧米へ留学していた画家や文学者たちが続々と帰国し、新しい思想を日本へと伝えている真っ最中の時代だった。洋画界では安井曾太郎Click!有島生馬Click!らがヨーロッパからもどり、文学では島崎藤村が渡欧して、国内では阿部次郎らの評論誌「白樺」や初の女性誌「青鞜」が創刊されている。また、1909年(明治42年)に欧米をまわって帰国した高村光太郎は、父親Click!が推薦してくれた東京美術学校Click!の教職をことわって駒込にアトリエを建設している。
 高村光太郎がヨーロッパで描いた画面を見せに、新宿中村屋Click!裏の柳敬助Click!アトリエ(のち中村彝のアトリエClick!)へ立ち寄っているとき、小島善太郎は偶然にも自身の作品を手に柳敬助を訪ねている。そこには、柳敬助と高村光太郎のほか、太平洋画会研究所の先輩でデッサンの「王者」Click!と呼ばれていた、新宿中村屋へ転居してくる直前の中村彝も同席していた。
 小島善太郎は、太平洋画会研究所での勉強を通じて、数多くの先輩画家や同輩の友人たちと知り合うのだが、その中にポツンと女性の画学生がひとり混じっていた。この当時、女性が洋画を習うには、本郷菊坂町89番地の女子美術学校Click!や師と仰ぐ画家、たとえば岡田三郎助Click!の私塾などへ通うのが一般的だったが、彼女は男ばかりの同研究所に通っては絵を勉強していた。名前は長沼智恵子といい、すでに目白の日本女子大学Click!を卒業して、洋画を改めて習得しに同研究所へとやってきていた。
 小島敦子様Click!にいただいた、1992年(平成4)出版の小島善太郎『桃李不言』(日経事業出版社)に収録された「智恵子二十七、八歳の像」から引用してみよう。同エッセイは、1977年(昭和52)出版の『高村光太郎資料第6集』に掲載されたものだ。
  
 その中に一人の女性の居るのがひどく目立ち、年の頃二十五、六歳に見えた。背は低かったが、丸顔で色が白く華車(ママ:華奢)な体に無口で誰とも親しまず、唯人体描写を静かに続けていた。その画架の間からのぞかせた着物の裾があだっぽく目につくといった女性的魅力を与え乍らも、ひとたび彼女のそうした気風に触れると誰としても話しかける訳にはいかなかった。画に向っては気むずかしく、時には筆を口にくわえ画面を消したりもする。しとやかに首をまげたなり考え込んでいる時もあった。手は絵具で汚れたりしたのであろうに、絵具箱は清潔で女らしい神経が現れていた。/人体描写が昼までで終ると、さっさと道具を片付けるなり例の無口さで帰って行く。帰る時コバルト色の長いマントの衿を立てたなり羽被って、白い顔をのぞかせ、顔の上には英国風に結った前こごみの束髪が額七分をかくし、やっと目を見せていた。彼女はやや前に首をかしげて歩く----それがくせの様にとれ、我々に見られるのがいやなのか、歩くのが早くて消えて行く様であった。
  
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日本女子大泉山潜心寮正門.JPG
日本女子大泉山潜心寮舎.JPG
 小島善太郎は、その真面目な性格から絵の勉強に集中しているようでいて、けっこう同窓のめずらしい女性を細かく観察していた様子なのが面白い。
 長沼智恵子は、一見おとなしめでもの静かな印象とは裏腹に、気性や感情の起伏が激しいせいか、あるいは癇性できわめてプライドが高かったせいか、太平洋画会研究所内で行われた制作コンクールで、同研究所の実質的なボスである中村不折のアドバイスを、まったく無視して聞かなかったようだ。小島善太郎も参加していた、年末に行われる制作コンクールで、長沼智恵子は人体の色を太陽6原色(赤、橙、黄、緑、青、紫)で描いていた。彼女は、特にエメラルドグリーンが好きだったものか、この日のコンクールに限らず、それまでも画面へ常に多用していたようだ。
 制作中の画面を見た中村不折が、「エメラルドグリーンは、いちばんの不健康色だ。不健康色はつつしまねばならない」と忠告したらしい。エメラルドグリーンのどこが「不健康色」なのか、いまの感覚からすると意味不明な言葉だが、長沼智恵子は首をかしげたまま、師の言葉になにも反応せず黙ったままでいた。そして、中村不折が背後からいなくなると、「このアカデミズム!」と思ったかどうかは不明だがw、エメラルドグリーンをこれまで以上に画面へ塗りたくりはじめている。
 明らかに、師への反感・反抗が直接爆発した瞬間であり、小島善太郎はことさら印象深くその場面を眺めていたのだろう。彼は、師がまだ教室にいるにもかかわらず長沼智恵子が不満を爆発させたのは、欧米から最先端の洋画表現や技法をもち帰っていた高村光太郎と、すでに知り合っていたからだろうと推測している。
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太平洋美術会研究所.JPG
  
 何時か彼女の姿は研究所内に見かけなくなった。「長沼智恵子は高村光太郎と結婚したそうだ。----」/その後になって、なる程と僕は肯いた。彼女はすでに高村光太郎との接触が始まっていたのであろう。研究所内での態度はそれを物語っていたかの様にとれたからである。/僕は長沼智恵子がどの位同研究所に籍を置いていたかは知らない。時々顔を見せていたかと思うと暫く来なかったり、僕も休んだりして年数は覚えてはいないが、印象だけは深く残っていた。/僕の智恵子に対する知識は以上の様なもので、何も持っていないと云う方が正しいだろう。言葉一つ交わした事もなし又年齢からも五六年の開きがあった。しかし光太郎と結婚したと言う事で印象が改まり又関心も深まった。そうした事で光太郎氏を訪ねようと思ったりしていたが遂に実現はしなかった。
  
 正確にいうなら、長沼智恵子と小島善太郎は6歳ちがいで、彼女が結婚した1914年(大正3)現在、長沼智恵子は28歳で小島善太郎は22歳だったはずだ。
 小島善太郎にいわせると、彼女はある意味で貴族的かつ高踏的な志向を備えており、画面には「土色」や「ヤニ色」などの色素をいっさい使わなかったところから、画法を深め精進をつづけるうちに、どこかでいき詰まり悩みぬいたのではないか……と、暗に想像している。同時に、夫の現代風(当時)な表現を傍らで見つめながら、「きれいさ」から抜けだせない焦燥感にとらわれたのではないか。
 長沼智恵子は、どちらかといえば夫の『智恵子抄』とともに、統合失調症を発症してからの「紙絵」づくりとその作品にスポットが当てられがちだが、日本女子大時代から洋画家をめざしていた彼女は、絵画になにを求め、なにを表現しようとしていたのだろうか。
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 おそらく、病気の発症は芸術的な焦燥のみでなく、さまざまな要因が重なることで起きていると思うのだが、発症する40歳までの作品に、その苦しみの跡は残されていなかったのだろうか。でも、数多く描かれたであろう彼女の絵画作品は、夫によって処分されたものか、あるいは散逸してしまったものか、現在では目にする機会がほとんどない。

◆写真上:1913年(大正2)に制作された、長沼智恵子『樟(くすのき)』。
◆写真中上は、日本女子大学の正門と成瀬記念講堂。は、長沼智恵子が入居して通っていた日本女子大学泉山潜心寮の正門と寮舎の1棟。
◆写真中下は、女学校時代()と1914年(大正3)ごろの長沼智恵子()。は、谷中真島町1番地の太平洋画会研究所跡。は、現在の太平洋美術会研究所。
◆写真下は、1908年(明治41)ごろに描かれた長沼智恵子の石膏デッサン。は、制作年代が不詳の長沼智恵子『ひやしんす』。

松本竣介の「世界」とコンフォーミズム。

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 この11月24日で、拙ブログは15年目を迎えました。これまで、のべ1,623万人の皆さまにお読みいただき、またさまざな方々より貴重な情報や資料をお寄せいただき、ほんとうにありがとうございました。改めて、心よりお礼申し上げます。
  
 2003年(平成15)に響文社から出版された柴橋伴夫『青のフーガ難波田龍起』には、目白中学校Click!について1909年(明治42)に創立された「当時は、細川護立の屋敷の内にあった」と書かれているが、同年の地図を参照しても創立当初から、落合村下落合437番地に「文」の記号とともに同中学校が採取されている。おそらく、目白中学校の計画中に文部省へ登録した学校法人としての登記所在地が、小石川区高田老松町63~65番地とされていたのだろう。
 同書では、洋画家・難波田龍起Click!が目白中学校の美術教師・清水七太郎Click!に絵を習った様子が書かれているが、難波田の父である難波田憲欽もまた、同校で木下利玄や金田一京助Click!らとともに教師をしていた。難波田憲欽は習字を教えたり、舎監をつとめたりしていたようだが、もちろん清水七太郎Click!とも親しかったろう。ひょっとすると、清水家と難波田家は家族ぐるみのつき合いをしていたのかもしれない。なぜなら、難波田龍起が目白中学校を卒業したあとも、清水七太郎と交流をつづけていたニュアンスが、松本竣介Click!が発行していた「雑記帳」Click!の誌上でも感じとれるからだ。
 1937年(昭和12)に下落合4丁目2096番地(松本竣介アトリエClick!)の綜合工房Click!から発行された、本号が終刊号となる「雑記帳」12月号には、清水七太郎が『大正初期の洋画界』、難波田龍起が『文化序説』という文章を寄せている。おそらく、古い時代の東京美術学校Click!と当時の画壇の様子を知悉していた清水七太郎に、難波田が声をかけて執筆を依頼しているのだろう。難波田は、清水七太郎を松本竣介ないしは禎子夫人に紹介しているのかもしれない。同号には小熊秀雄Click!をはじめ、高村光太郎Click!三岸節子Click!福澤一郎Click!佐伯米子Click!など多彩な顔ぶれが文や絵を寄せ、翻訳ものではO.ヘンリーとC.マンスフィールドの短編が紹介されている。
 ちょうど同号が編集されている1937年(昭和12)秋の綜合工房、すなわち松本竣介アトリエへ特高Click!の刑事が訪れている。おそらく、同年7月に勃発した日中戦争を意識して書いているのだろう、「雑記帳」9月号に「動くこの生活の中に、どのやうに非合理的なものが強行されようとも、又驚くべき欺瞞が眼の前で演ぜられようとも、知らぬ顔をしてゐる、いや感じない修練こそ伝統的処生(ママ:世)の秘法であつた。底の抜けた謙譲さはかうして作られたのであらう」(1937年8月記)と、遠まわしながら反戦を感じさせる批判的な文章を書いたのがひっかかったのかもしれない。なにやら、現在の政治や社会状況でも通用しそうな文章だが、お茶を出して気をもむ禎子夫人をよそに、しばらく松本竣介と筆談を交わしたあと、特高の刑事はそのまま引きあげていった。
 松本竣介が、1930年代から40年代にかけて急激に進む日本のファッショ化や、戦時中の軍国主義に抗した文章として取りあげられるのは、前述の「雑記帳」9月号に掲載された『真剣な喜劇』と、日米開戦が目前に迫った1941年(昭和16)、即日発禁処分となった石川達三Click!の『生きてゐる兵隊』(1938年)をもじった、「みづゑ」4月号に寄せている『生きてゐる画家』が挙げられる。だが、当時の政府当局や軍部をより痛烈に批判する文章は、実質的な終刊号となった「雑記帳」12月号に掲載された、松本竣介『コンフオルミズム』ではないだろうか。
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 『コンフオルミズム』は、同年の「雑記帳」10月号にアンドレ・ジイドについて触れた、エッセイ『孤独』のつづきのような体裁をとってはいるが、松本はジイド『ソヴェト紀行』の評論を装いつつ、ファシズムあるいは軍国主義への流れが一気に加速する、日本人のコンフォーミズム(画一主義・順応主義)について徹底した批判を繰り広げているように、どうしても読めてしまうのだ。
 小松清・訳のジイド『ソヴェト紀行』(岩波書店)では、その取材で「自然に生ひ立つて行く」革命後の民衆の「体温」に接することができず、「冷ややかな政治の感触」のみを感じて嫌悪や怒りをおぼえた……という箇所をクローズアップしている。1937年(昭和12)の「雑記帳」12月号(松本竣介は続刊のつもりだったが結果的には終刊号)より、松本竣介『コンフオルミズム』の出だしから引用してみよう。
  
 ジイドのこの怒りを頑な心に託けたり、ジイドのソヴエトに対する認識の誤りから来た幻滅の怒りといふものがあるとすれば、それは彼の想ひとは大きな距離に立つてゐる人だ。何故なば、旅行記はジイドがソヴエトだけに書き送つたものと解すべきではない。凡ての人々に尋ねてゐる感懐ではないか。/*/この旅行記を終りまで赤面せずに読み了へ〇(欠字:る)ことの出来る政治家が【世界】に一人でもゐるかを考へて見るがいゝ。----赤面しない人は大勢あるだらう、それは判読できぬものと、人々の幸福をわれわれとはれ(ママ)はるかに違つて考へてゐる人である。----/*/封建的な美徳への非難は、画一や、順応の中に含まれる欺瞞への厭悪であつて、単なる古いものに対する新しいものゝ態度ではない。正しい判断の自由が一般の人々の所有になつて、正しさの意義が広まり、人々の生活には入つて来たことを意味してゐる。/それはそだてゝゆくもので、妨げることは現代に於ける最大の悪徳であると思ふのだ。(カッコ内および【 】引用者註)
  
 革命から約20年がたった1936年(昭和11)、ジイドが訪れたソ連はレーニンの歿後12年、スターリンによる「大粛清」のまっ最中であり、その独裁的な政治体制と個人崇拝、いわゆるスターリニズムClick!(スターリン主義)の傾向が顕著になりつつあっただろう。
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 「冷ややかな政治の感触」は、単なる旅行者だったジイドにも強く感じとれるほどであり、政敵を次々と抹殺していった独裁者スターリンを頂点とする官僚主義的なヒエラルキーと恐怖政治が、すでに強固で揺るぎないものになりつつあった。この官僚・テクノクラートらによる独裁的な全体主義は、その後、組織の腐敗や事業の停滞の温床となり、ジイドが夢みた国家とはかけ離れた姿となり果てて、革命から74年で崩壊を迎えることになる。『ソヴェト紀行』を書いてから、わずか55年後にソ連という連邦国家が崩壊・滅亡するとは、ジイド自身も考えてもみなかったろう。
 つづけて、松本竣介の『コンフオルミズム』から引用してみよう。
  
 人々の生活は多くの宗教を持つてゐる、倫理もあつた、人情の如何なものであるかもよく感じてゐる。それらは美しいものを齎してくれた。だが巧みな策謀の前には神の自尊まで高められるとともに、奴隷以下の境遇をさへ与へられる弱点をもつくつた。/かうした中に、人々とひろく共感するものゝ生れ出ることは望めない。/*/コンフオルミズムが心からの協同を意味されるためには一切のものがわれわれと共にある時をつくらなければならない。/理知性は今ごく尠かな人々のそのうちにだけしか保たれてゐない。【世界】が理性をもつこと、これが僕の願ひだ。(【 】引用者註)
  
 ふたつの引用文の中で、「世界に一人でもゐるか」と「世界が理性をもつこと」の「世界」を【 】でくくってみた。この【世界】をあえて【日本】と読みかえてみると、当時の日本の政治や社会状況にピタリと重なることに気づく方も多いはずだ。
 1937年(昭和12)は、第1次近衛文麿Click!内閣が「国民精神総動員運動」を発動した年であり、松本竣介がこの文章を書いていた同年秋には、議会で「八紘一宇」「挙国一致」「堅忍持久」の3つのスローガンClick!が叫ばれていた。国策のために、国民が進んで犠牲になる「滅私奉公」思想のもと、戦争遂行へ無理やり協力させようとする強制的な策動だった。そこには、「心からの協同を意味」するコンフォーミズムなど存在せず、国策や戦争に反対する人々は思想や宗教を問わず、「アカ」のレッテルを貼りつけて続々と監獄へ送りこみ、非協力的な人間は「非国民」として恫喝し抑圧・疎外する、「奴隷以下の境遇をさへ与へられる弱点」が現実のものになっていく。
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 このときから、大日本帝国は坂道を転げ落ちるようにファッショ化と軍国主義化を深め、わずか8年後の1945年(昭和20)に破滅、自ら「亡国」状況を招来することになった。松本竣介は、【世界】と書いて国家主体をボカしているが、ジイドに絡め一般論的な論旨に仮託しつつ、もっとも書きたかったのは【日本】という文字ではなかっただろうか。

◆写真上:下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の、松本竣介アトリエ跡の現状。
◆写真中上上左は、2003年(平成15)に出版された柴橋伴夫『青のフーガ難波田龍起』(響文社)。上右は、松本竣介が主宰する綜合工房から1937年(昭和12)に刊行された「雑記帳」9月号。下左は、1922年(大正11)に目白中学校で撮影された美術教師・清水七太郎。下右は、1932年(昭和7)に撮影された難波田龍起。
◆写真中下は、1937年(昭和12)の「雑記帳」12月号に掲載された松本竣介のエッセイ『コンフオルミズム』の挿画。中左は、『コンフオルミズム』が掲載された1937年(昭和12)の「雑記帳」12月号。中右は、松本竣介の『生きてゐる画家』が掲載された1941年(昭和16)発行の「みづゑ」4月号。
◆写真下は、同じく松本竣介『コンフオルミズム』の挿画。は、アトリエに置かれた書棚の前で1940年(昭和15)に撮影された松本竣介。

誰も知らない鎌倉海岸。

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 わたしが少し前に書いた、「ほとんど人が歩いていない鎌倉」Click!を読まれた方から、もっと古くてめずらしい写真があるよ……と、明治初期からのめずらしい写真類が掲載された、非売品の貴重な地元資料をお送りいただいた。1983年(昭和58)に、かまくら春秋社から鎌倉市内のみで出版され、古くからの鎌倉人とゆかりの関係者のみに配られたとみられる『鎌倉の海』だ。
 1882年(明治15)に、大磯Click!で日本初の海水浴場Click!が開かれてからわずか2年後、1884年(明治17)には鎌倉・由比ヶ浜Click!の海水浴場がオープンしている。大磯の海水浴場は、徳川幕府の御殿医で明治以降は日本初の西洋医となった松本順(松本良順)Click!が開設したのに対し、鎌倉の由比ヶ浜(通称・中央海水浴場)は、文部省医務局長(初代)だった長與専斉が開設し、3年後には結核患者の保養所「海浜院」(サナトリウム)を設置した。しかし、鎌倉の市街化とともに結核のサナトリウムは移転し、1916年(大正5)になると跡地には海浜ホテルがオープンすることになる。
 長與専斉資料の『松香遺稿』より、由比ヶ浜にサナトリウムを開設するにあたり書かれた「鎌倉海浜院創立趣意書」の文章から引用してみよう。
  
 抑鎌倉ノ地タルヤ東北山ヲ周ラシ、西南海ヲ控ヘ、暑寒共ニ平和ニシテ冽寒酷暑ノ苦ヲ知ラス。浴泳ニ由比ケ浜ノ浅沙アリ。運動ニ松林ノ鬱蒼タルアリ。八幡ヲ拝シ、観音ニ詣テ、近キハ建長寺円覚寺ノ観アリ。遠クハ江ノ島金沢ノ勝アリ。魚ヲ釣リ貝ヲ拾ヒ漁網ヲ挙ケ小舟ヲ盪カス等。優游嬉戯三週モ一日ノ如ク、曽テ無聊鬱屈ヲ訴フル余暇ナキナリ。
  
 1889年(明治22)に横須賀線が開通すると、別荘を建設して避寒避暑に訪れたり、旅館に逗留して保養がてら海水浴を楽しんだりする人々が増えはじめた。夏目漱石Click!吉井勇Click!たちが、避暑避寒に訪れたのもこのころのことだ。
 1910年(明治43)に江ノ電が鎌倉市街まで乗り入れ鎌倉駅ができると、別荘街や市街地が由比ヶ浜から長谷、稲村ヶ崎Click!、そして七里ヶ浜Click!方面まで拡大しはじめ、別荘族や海水浴客でにぎわうようになる。当時の江ノ電は、現在の鎌倉駅西口が終点(起点)ではなく、鎌倉駅東側の表参道(現・若宮大路)の道路際、一ノ鳥居と二ノ鳥居の間にホームが設置されていた。大正中期は、江ノ電沿いに別荘や旅館が建ち並び、あとは畑の中に昔ながらの農家が点在するような風情だった。
 当時は間貸しの別荘もあったようで、年間200円で借りれば夏冬は避暑(海水浴)避寒に春はハイキング、秋は紅葉めぐりと1年を通じて鎌倉を楽しめたようだが、部屋代の設定がおかしい。間貸し別荘を、9月から翌年の6月まで借りると10ヶ月で100円だが、7・8月のたった2ヶ月借りただけでも100円だった。それだけ、夏場は海水浴の人気が高かったのだろう。ときに、陸軍幼年学校が水泳の訓練Click!をしに材木座の光明寺に滞在し、明治女学院が極楽寺Click!の成就院に滞在して避暑合宿をしている。避寒避暑の別荘地としての鎌倉は、大磯と同様に関東大震災Click!以降も変わらなかった。
 ところが、昭和初期になると市街地を走る乗合自動車(バス)の運行ネットワークが発達しはじめ、住宅を建てて東京へと通勤する住民たちが増えはじめる。いまほど大きな車体でないとはいえ、バスを舗装されていない山道の奥まで運行するには、高度で独特な運転スキルがドライバーに求められたようだ。
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 鎌倉は戦時中、おもに戦闘機の機銃掃射だけの被害で済み、街並みはほぼそのままのかたちで戦後を迎えている。だが、大きめな別荘はGHQが接収して利用し、由比ヶ浜などのビーチでは米兵たちがコーラ壜を割る遊びをして、海水浴場を整備してきた地元民を嘆かせている。また、発火しやすい暖炉の注意を呼びかけていたにもかかわらず、米兵たちの失火から由比ヶ浜の象徴ともいうべき、巨大な海浜ホテルが全焼してしまった。
 大正期の鎌倉について、中村菊三『大正初期の由比ヶ浜』から引用してみよう。
  
 ある朝。私は六時頃、独りで防風を採りに、例の砂山のかげに出かけた。海は波もなく、爽やかに澄んでいた。岸辺には、わかめを拾う人と散歩の人しか見えなかった。その時、一人の外国婦人が水浴を終えて上って来た。あと見たその婦人の海水着である。/それは海水着というよりは、寧ろツウ・ピースであった。短い袖のある上衣は、赤い横縞で、腰のあたりには細かい襞があった。丈は膝の所まであったので、下衣は見えなかったが、均整のとれた長い両足には、足首までピッタリした、黒い薄い靴下のようなものをはいていた。初めて見る西洋の女子海水着である。(中略) この女性は、大正九年に日本に亡命した白系ロシア人で、バレーリーナのエリアナ・パブロワであった。
  
 「防風」とは、生薬の一種であり食用のハマボウフウのことで、相模湾沿いの砂浜ではめずらしくない野草だ。ロシア革命から亡命したエリアナ・パブロアClick!が鎌倉でバレエを教えていたのは、以前、堤康次郎Click!の新宿園・白鳥座Click!での舞台と、アンナ・パブロワに絡めてこちらでご紹介していた。
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 大正初期の水着は、和製のツーピース水着と呼ばれるもので、上半身は白い襦袢のようなものを着て、下半身はステテコのようなものを履き、麦わら帽子を深くかぶったまま波打ち際で遊んだり泳いだりするのが流行っていた。いまから見ると、まるでサザエかアワビを獲る海女のような格好だが、海女のコスチューム自体が大正期の女性水着を変わらずに踏襲しているのだ。女性の水着姿は、ハイカラな別荘が建ち並んだ材木座海岸あたりからはじまり、坂の下海岸から由比ヶ浜へと拡がったらしい。ちなみに、男子の水着は戦前まで、一貫してほとんど褌(ふんどし)のままだった。
 大正も中期以降になると、今日のワンピース水着に近いものが出はじめ、身体にピッタリとフィットして半分も身体を露出する、黒いモガ水着が大流行していく。でも、鎌倉が地元の住民たちは、海水浴の客たちが引き上げたあと、特に夜間には“お楽しみ”が待っていたようだ。水着などつけず、全裸で泳ぐ海水浴だ。
 そんな様子を、胡桃沢耕史『鎌倉ではすべてが美しい』から引用してみよう。胡桃沢は、まだ真っ暗な未明の由比ヶ浜へ女友だちと繰り出している。
  
 まだ暗いうちだが、二人だけでいると、何か感情が激してくる。/「泳ごうよ」/「水着持ってきてないわ」/「いいじゃないか。真っ裸で」(中略) 「いいわ、泳ぐわ」/浜辺に下着まで脱ぎ捨て海へ入って行く。臍のあたりまで入ると、安心して向い合う。どちらともなく抱き合って唇を重ね、もつれ合って波の中へ体をひたした。/これも由比ヶ浜が、まだ透き通るほどきれいだったころの話である。こうして何人かの、美しい娘さんと、かなり深いつき合いになることができた。軽井沢や、ディスコがまだ、ガール・ハンターの場所として登場してこない前の、唯一のデート場所だった。
  
 幼児のころならともかく、さすがに裸で由比ヶ浜の海を泳いだ経験はないが、20代のころ日本海の某島では真っ裸で泳いだことがある。
 なにかとロマンチックかつ華やかで、大磯と同様に明治期から別荘族や海水浴客を集めた鎌倉の由比ヶ浜だが、詩人・田村隆一が「耳をすませば、相模の潮騒い。そして中世のおびただしい死者の声がきこえてくる」と書いたように、砂浜の下には膨大な死者たちが埋葬されていた。それは、人骨に刀傷のある鎌倉幕府軍Click!新田義貞軍Click!の戦死者をはじめ、鎌倉時代に疫病や飢饉で死んだ住民たちが、大きな円形の穴を掘って由比ヶ浜の随所に埋葬されていたからだ。おそらく、数千人規模の死者が、由比ヶ浜から坂ノ下、あるいは材木座海岸にかけて埋葬されているのではないだろうか。
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 1933年(昭和8)ごろ、長谷に住んでいたある人物が、舟大工へ由比ヶ浜の波に乗れる特製の板を初めてオーダーした。「フロート」と名づけられた波乗りボードは、またたく間に鎌倉海岸の全域へ普及していく。昭和初期にはじまった日本初のフロート波乗り、戦後の用語でいえばサーフィンなのだが、それはまた、機会があれば、別の物語……。

◆写真上:そろそろひと雨きそうな、由比ヶ浜から眺めた午後の稲村ヶ崎。
◆写真中上は、いずれも明治期に制作された楊洲周延の浮世絵で、『鎌倉の海』(かまくら春秋社)のカバーにもなっている『七里ヶ浜』(上)と『於相州鎌倉長谷割烹旅館三橋與八楼上望由井濱海水浴』(下)。は、明治10年ごろの表参道(若宮大路)に建つ由比ヶ浜も近い一ノ鳥居。明治末には、撮影者の背後に江ノ電・鎌倉駅が開業する。は、同じく明治10年代に七里ヶ浜から撮影された小動(こゆるぎ)岬と江ノ島。
◆写真中下からへ、明治20年代の由比ヶ浜から眺めた坂ノ下と稲村ヶ崎、同年代の材木座村で中央の建物は光明寺、明治30年代の材木座海岸で、麦わら帽の女性たちは海女ではなく別荘に滞在中のお嬢様たち。江ノ電が走る1907年(明治40)撮影の七里ヶ浜から眺めた小動岬と江ノ島、および富士山が美しい七里ヶ浜の現状。
◆写真下からへ、大正の最初期に飯島崎から撮影された稲村ヶ崎と江ノ島で、いまだ遊歩道路(ユーホー道路=国道134号線)Click!がV字型に掘削されていない稲村ヶ崎が新鮮な景色だ。大正初期の稲村ヶ崎と現状、大正期のアッペル支配人時代に撮影された海浜ホテル、1921年(大正10)撮影の材木座海岸に連なる別荘街で右端は光明寺。

グワッシュへ夢中になった川口軌外。

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 画家が作品の制作過程を公開して、こと細かに解説するのはめずらしい。戦時中の1943年(昭和18)に独立美術協会Click!を脱退し、戦後は国画会の会員となった川口軌外Click!は、1951年(昭和26)の冬に一ノ坂上にある下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)のアトリエClick!を訪問した「美術手帖」の記者に、描きはじめのクロッキーから完成したタブローまで、実際の画面を見せながら細かく解説している。
 描かれたモチーフは、同年8月に江ノ島海岸へ海水浴にきていた人々、つまり海辺の群像をクロッキー風のスケッチとして記録したものがベースになっている。当時の川口軌外は、キュビズムから発展した独自の構成表現(アブストラクション)へと進んでおり、描画の手法も使い勝手がめんどうな油絵の具から、制作リードタイムが短くてすむグワッシュ(不透明水彩)を多用するようになっていた。また、タイトルにも具体的なネームはいっさいつけず、ただ単に『作品』とだけ呼ぶケースがこの時期に急増している。
 川口は、グワッシュを好んで使うようになった理由を、次のように説明している。1952年(昭和27)発行の「美術手帖」2月号・No.53(美術出版社)に掲載された、川口軌外「作品―質問に答えて―」から引用してみよう。
  
 グワッシュは水彩と同じ様に水でといて使用するので、大変乾燥が早いんです。従って、油絵よりずっと短時日に絵のマチエール(絵の具のつき具合の効果)がたやすく出来るということ、もう一つはグワッシュは非常に色が鮮明で強く、しかも不変色です。油絵ですと、色の上に色を重ねたい時には、長いこと下の色が乾くのを待たなければならない。長期間の制作中、ずっと最初からの感動を持ちつづけることは中々むずかしいことです。その点、グワッシュだと好都合です。色の上へすぐ色を重ねても混濁しませんし、しかも下の色を完全に隠します。私のこの絵もとりかかってから二日で出来上りました。これが油絵だったらどうしても数十日かかってしまいます。
  
 「この絵」とは、先の江ノ島海岸における群像のクロッキーからおこした、川口軌外『作品』(1951年)のことだ。東京画廊で開かれた個展に出品された『作品』だが、モノクロ写真で色味はわからないけれど、同時期に描かれた同じ表現のタブローを参照すると、おしなべて暗めの色調でブルー系やイエロー系、オレンジ系、ブラックなどの絵の具を用いた画面ではなかっただろうか。
 川口軌外が独立美術協会時代に描いた、有名な『花束』(1933年)や『少女と貝殻』(1934年)など油絵の特長を最大限に活かした、どこかシャガールを想起させるこってりとした作品に比べると、あまりにあっさりしすぎた画面に変貌していて、戦前からのファンはかなりの違和感をおぼえたのではないだろうか。また事実、そのような声がファンからも多く寄せられたものか、「グワッシュは僕の転換期なのです。去年から転換しようと思ってもとには戻らないけど、難しいですね。大体僕は始めから構成的な仕事をしていたから、僕としては自然なんですが……」と、川口は制作姿勢が以前とまったく変わっていないことを強調している。
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 また、記者の質問に答えて、自身の制作姿勢を次のように語っている。
  
 ナチュールな(自然な)スケッチだけでは、私の場合、タブロー(絵画)にならないのです。タブローにするためにはデッサンの構成を、ナチュールから開放(ママ:解放)してしまいます。つまり、海水浴場のスケッチをもとにして、アトリエでデッサンし直してだんだん構成していきます。/ことに色彩の場合は色と色とのコントラストのために構成を変えていかねばならない、ものをとり去ったり加えたりします。従ってもとのスケッチからは遠ざかりますが、最後まで最初の画因はなくならない。而し他の場合この画因ということはナチュールからスケッチした場合もあり、また記憶の場合もあり、偶発の場合もあります、このときの自然からの感情を如何に描き表すかは最も大切なことで、どんなに偶発の場合であっても絵画のもつ真実を失ってはならない、それは形象のことではなく画の感じ、この感じこそ芸術と言えましょう。
  
 そして、画面の色彩は画家の個性によって決定され、自然の形象自体が解放されて構成されるのと同様に、色彩も色の明暗や対比、量感などすべて画家の研究成果であり、自由に変えられるのはなんら不自然ではないと結んでいる。
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 では、実際にタブローが仕上がるまでの、制作プロセスを順ぐりに見てみよう。
 江ノ島海岸へ出かけ、スケッチブックに数多くのクロッキーを描いた群像の1枚。1枚に5~6分かかるが、制作上での貴重なメモになるといい、川口はボナールがよくこのようなメモ風のスケッチを多く描いていたと語っている。
 帰宅後に、アトリエで素描を再構成したもの。グワッシュのセピアを水でといてインクをつくり、ケント紙に事務用ペンでいきなり描いていく。素描の重要性を強調し、マチスやピカソが素晴らしいのは結局デッサン力の高さだと語っている。
 素描をもとに、6号のキャンバスに油絵の具でエチュード(習作)を描き、さらに構成を深めていく。さまざまなインスピレーションが生じて、左上や左下の三角形は全体の画面を引き締めるため、自然に構成されたものだという。人物のフォルムが、素描から大きく変化しているのがわかる。地色がイエロー系、人体がおもにオレンジ系、ブルー系やブラックが配色される。
 人体がますますフォルムを変え、のクロッキーからはかけ離れた画面になっている。グワッシュで描かれた画面は、油彩のエチュードに比べて密度が格段に増し、半日ほどで描き進められた制作途中のタブロー。
 あと1日を費やして完成したタブローで、川口軌外『作品』(1951年)。
 川口軌外は、当時の作品を20年前、つまり留学時代にフランスで買ったグワッシュを用いて描いていると語っている。チューブは腐り、中身が固まってしまったのを、いちいち細かく砕いてから水に溶いて使用していたようだ。それでも色味は昔のままの鮮やかさで、まったく変色はしていなかったらしい。
 戦時中、統制で油絵の具が容易に入手できなくなり、川口軌外は留学中に購入しておいた20年前のグワッシュを取りだして、少しずつ研究を重ねていたのかもしれない。その成果が、戦後になって一気に表出したものだろうか。
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 グワッシュは固まるのが早いので、戦後間もない時期という事情もあったろうが、当時は画材店でも扱っているところが少なかった。せっかく輸入しても、店頭へ並べたまま中身が固まってしまい、売り物にならなくなるリスクを避けたせいなのだろう。

◆写真上:川口軌外邸の応接間で、左手の壁に『花束』(1933年)が見えている。
◆写真中上は、独立美術協会時代に制作された1933年(昭和8)の『花束』()と1934年(昭和9)の『少女と貝殻』()。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合4丁目1995番地の川口軌外アトリエ。「火保図」はここでも、川口邸を「川田」邸と誤採取している。は、川口軌外アトリエの現状。
◆写真中下は、川口軌外のパレットとルフラン製およびレンブラン製の絵筆。は、大正の初めごろ文房堂で購入し使いつづけていた絵の具箱。絵の具は国産は使わず、すべてルフラン製などのフランス産。は、グワッシュで制作中の川口軌外。30度ほどの角度がつけられた、グワッシュ専用の手製イーゼルを用いている。
◆写真下:1951年(昭和26)制作の『作品(江ノ島海岸)』が、タブローになるまでの制作プロセス右下は、1954年(昭和29)ごろに制作された『作品』。

ブートレグより正規盤がダメなアルバム。

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 きょうの記事は、落合地域とその周辺の地域あるいは江戸東京地方とはまったく関係のない音楽がテーマなので、興味のない方はさっさと読みとばしていただければと思う。
  
 ブートレグ(海賊盤・私家盤)Click!は音が悪いというのは、わたしが学生時代ぐらいまでの話で、1990年代以降はかなり音質のいいブートレグが出まわりはじめた。デジタル機器の普及によるのだろう、80年代以前の録音とは、比べものにならない品質のサウンドが急増している。また、ジャケットもLP時代の味も素っ気もないものから、グラフィックデザイナーが手がけたような、ちょっとこじゃれたパッケージが目立っている。LP時代の海賊版ジャケットといえば、手づくり感満載で版ズレや文字のにじみ、版下の傾きなどあたのまえ、ジャケットの紙質も実に粗悪なものが多かった。
 そもそもブートレグは、多くの国々では違法行為なのだが、ライブやコンサートの会場で違法録音している例は意外にも少ない。エアーチェック盤と呼ばれる、当日のコンサートやライブをラジオやTVなどで中継したサウンドを、リスナーが手もとのレコーダーで必死に録音し、それをLPやCDに焼いてこっそりとカタログに掲載するケースがいちばん多い。ポップスやクラシックでは、これらの行為は法的に厳しく追及されているが、JAZZやロックの場合は少々事情が異なる。
 もちろん、JAZZとロックはライブやコンサートのたびに、同一の曲目といえどもすべて異なるインプロヴィゼーション(即興演奏)のため、二度と同じ(類似の)演奏が聴けないことから、ミュージシャンの音楽的なステップやサウンドの変遷を知るうえでは、かけがえのない貴重な音源であり、「ブートレグ文化」は1級の史的な資料となる。中には、リスナーからではなくTVやラジオの放送局、あるいはライブやコンサートの主催者や団体から流出したらしい音源もあったりするので、そのようなブートレグはことのほか音質がよいケースもある。
 学生だった1980年前後、1枚のブートレグを必死に探していたのを憶えている。10年前の1970年、イギリスのワイト島Click!で開催されたワイト島ミュージック・フェスティバルに出演した、マイルス・デイヴィス・セプテットの海賊版が、イギリスで発売されていたからだ。同フェスは、イギリスのテレビ局が中継録画しており、もしも流出したのがその音源だとすると、かなり高品位な音が期待できたからだ。チック・コリアとキース・ジャレットのダブルkeyも、大きな魅力だった。1970年代末、マイルスは沈黙したままで新盤が出ず、彼のフリークたちはいまだ未聴のブートレグでも漁るしか楽しみがなかった。いまだ、『AT The Isle of Wight』(Videoarts Music)のビデオやDVDなど、どこにも存在しなかった時代の話だ。
 くだんのブートレグ『WIGHT!/Miles Davis』(LP)を、ようやく聴けたときには狂喜したが、少なからずガッカリもした。音源はテレビで放送されたものを、家庭用のテープレコーダーで録音したらしいのだが、当時の受像機の性能からか、ひどく貧弱なサウンドに聴こえた。くぐもったような劣悪な音質でひずみも多く、音楽を鑑賞するというより、史的な資料音源としては貴重だな……ぐらいの感想だった。おしなべて、ブートレグの音質は私的に録音されたせいか痩せていて貧弱で、同じ演奏を収録した正規盤がのちに発売されたりすると、驚くほどクリアな音質に感激した憶えは一度や二度ではなかった。
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 だが、例外もある。ブートレグではなく、双方ともに正規盤なのに、まったくサウンドが異なってしまった(悪化した)ケースだ。以前にも、こちらで記事にしたことがあるけれど、マイルス・デイヴィス(tp)の『アガルタ』Click!が好例だろうか。当初、発売されたオリジナルLPは、マイルス自身とプロデューサーのテオ・マセロの編集の手が入ったサウンドであり、それをデフォルトディスクとして聴きつづけてきた。ところが、CD化されたとたん、バランスが悪く妙なところでssやel-gがやたらと張りだし、まったく異質なまとまりのないサウンドになってしまっていた。
 1990年代のJAZZレコード業界では、テープ倉庫から演奏当初のマザーテープを発掘し、デジタルでCDにプレスするという仕事が一大ブームになっていた。テープ倉庫を専門に調査する、「発掘男(Excavator)」などと呼ばれる業界人も登場していたくらいだ。くだんの『アガルタ』も、単純にマザーテープの録音を野放図にそのままプレスするという、同アルバムと『パンゲア』に関しては、「やってはいけないこと」をやってしまったのだろう。(もっともマイルスとテオ・マセロによる意識的な録音編集は、1969年の『IN A SILENT WAY』からとされているが……)
 おかしなサウンドで楽器の音が散らかったままバラバラ、オリジナルのLPとはまったく別モノになってしまったCD版の『アガルタ』と『パンゲア』について、「音がヘンだよ、おかしいよ!」という批評家が現れなかったので、念のためCBSソニーへ問い合わせてみた。すると、やはり音源は倉庫にあったマザーテープからで、マイルスとテオ・マセロの編集テープが当時、どうしても見つからず行方不明であることがわかった。でも、2010年に米コロンビアから発売された。『The Complete Columbia Album Collection』を聴くと、LP発売当初のオリジナルサウンドへともどっているので、その後、米国のCBSかコロンビアの倉庫で編集テープが見つかったのだろう。以来、両作は日本公演にもかかわらず、米国のオリジナル編集版のCDを聴くようになった。
 さて、ブートレグに話をもどそう。1980~1990年代にかけ、もっとも多く出まわっていたブートレグLPはといえば、もちろん人気が圧倒的に高かったマイルス・デイヴィスとジョン・コルトレーン(ss、ts、fl)の演奏だった。1990年代に入り、CDが爆発的に普及するようになると、LPよりもはるかに制作しやすい海賊版CDが急増することになる。そんな中でひそかに発売されたのが、『A DAY BEFORE』(MEGADISK/1998年)だ。1985年7月13日に、オランダのハーグで開催されたノース・シーJAZZフェスティバルに登場した、マイルス・デイヴィス・グループの全演奏を収録したものだった。
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 オランダのテレビ局が中継録画していた同演奏は、数日後にいち早く録音がFM-TOKYOにとどき、わたしは高価なメタルテープを用意して、エアチェックをしようと待ちかまえていた。ところが、マイルスの演奏(1曲目の『ONE PHONE CALL』)がスタートしているにもかかわらず、DJのしゃべりが終わらない。同フェスティバルについての解説をつづけ、背後でペットが鋭く響きわたっているのに話をやめない。スタートしてから数分がたち、ようやく「では、お聴きいただきましょう」と話を切りあげたころには、マイルスのソロは半分ほど終わってしまっていた。「こいつ、バカなのか?」とDJにキレながら、それでも録音したのを憶えている。ところが、これはDJが悪いのではなかった。オランダのテレビ局が、録音の大失敗をやらかしていたのだ。
 それが判明したのは、ブートレグ『A DAY BEFORE』を入手してからだ。冒頭の曲からして、おそらくマイクケーブルの接続ミスか端子の接触不良、ないしはいずれかのサウンド入力機器の不具合なのだろう、演奏音が大きくなったり小さくなったりとメチャクチャだ。つまり、FM-TOKYOのDJは、録音に失敗して演奏がメチャクチャなところに、解説をかぶせてフォローしていたわけだ。1曲目の半ばから、ようやく安定したように聞こえるのだけれど、その後もときどき音のバランスが崩れ不安定になる。同フェスで、マイルス・グループは13曲(メドレーを含めれば14曲)を演奏しているが、サウンドの不安定感は最後まで変わらなかった。
 それから15年がすぎた2013年、オランダからようやく正規盤の『NORTH SEA JAZZ LEGENDARY CONCERTS/Miles Davis』(AVRO/NTR)が発売された。よりまともな音が聴けると思ったわたしは、さっそく購入したのだが、これがまったくの期待外れだった。先の1998年に発売されたブートレグよりも、音質がはるかに劣悪なのだ。録音の失敗をカバーしようとしたのか、サウンドのヘタな編集作業をしつづけて、もとの演奏録音を台なしにしてしまった……というような出来だった。ブートレグのほうが不安定とはいえ、はるかにオーディオClick!から流れる音が鮮明で響きもよく、演奏の熱気がストレートに感じられるのに、正規盤はサウンド全体がくぐもっており、まるで水中にもぐったまま演奏を聴いているような、無残な仕上がりになっていた。
 同演奏では、録音機器ばかりでなくPA装置も不調だったらしく、正規盤『NORTH SEA JAZZ LEGENDARY CONCERTS/Miles Davis』にはコンサートのDVDも付属しているが、背後をふり返ってPA機器を指摘するボブ・バーグ(ss、ts)や、怒気を含んだけわしい表情で音響スタッフを呼ぶジョン・スコフィールド(el-g)の姿がとらえられている。マイルスが残した、1980年代のコンサートではもっとも好きな演奏なだけに残念でならない。『アガルタ』や『パンゲア』とはまったく逆に、ヘタな編集などいっさいせずブートレグの音質のまま、つまり録音の失敗が露わなマザーテープのまま、正規盤を出してくれればよかったのに……と、切に思ったしだいだ。
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 1990年代へと向かうマイルスの『トスカ』構想にからめ、復帰後の録音を追いつづけて「マイルス論はどんなものが出るか、赤痴(アカ)に白痴(バカ)と言わせるなよ」と書いたのは平岡正明だが、「白痴(バカ)」を承知でいわせてもらえば、1985年の演奏で唯一、ヴィンセント・ウィルバーンJr(ds)の存在がいただけない。マイルスの甥だというだけで、グループに入れたのかどうかは知らないが、微妙なタメをつくってリズムに“後ノリ”する場ちがいなドラマー(生来のリズム感なのだろう)が在籍中は、演奏の足を引っぱっているような気がしてならない。それまでのドラマーはリズムに“前ノリ”し、文字どおり前のめりの疾走感と、独特な緊迫感のある演奏を繰り広げたのではなかったか? だが、80年代半ばのグループはマイルスの悪い右足ではないが、少し足を引きずっている。

◆写真上:1991年に死去する直前、最晩年に撮影されたマイルスのポートレート。
◆写真中上:1960~70年代にかけて登場した、マイルスとコルトレーンのブートレグLPジャケット。版ズレや印刷の不鮮明、版下の傾きなどはあたりまえだった。
◆写真中下が、1985年7月13日のノース・シーJAZZフェスティバルでの演奏を収録したブートレグ『A DAY BEFORE』(MEGADISK/1998年)のジャケット表裏。が、同録音の正規盤となる『NORTH SEA JAZZ LEGENDARY CONCERTS/Miles Davis』(AVRO/NTR/2013年)のジャケット表裏。ブートレグのほうが優れたサウンドで、編集で音をいじりすぎたため正規盤の音質がひどくなった典型的なケースだ。は、同日のコンサートをFMからエアチェックした懐かしいメタルテープ。
◆写真下:現在、膨大な「作品」がリリースされているマイルスのブートレグCDの一部。

佐伯祐正の思想とセツルメント「善隣館」。

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 佐伯祐三Click!の2つ年上の兄・佐伯祐正Click!は、1925年(大正14)の夏から1926年(大正15)の春にかけ、ヨーロッパと米国をまわり先進のセツルメントに関する思想や制度を学んで帰国している。パリでは、弟・祐三のアトリエに滞在して留学費用の漸減から帰国をうながしつつ、同地で開催されていた世界セツルメント大会へも出席しているようだ。パリの次はロンドンに滞在し、世界初の有名なセツルメント「トインビー・ホール」に2ヶ月半にわたりセツラーとして滞在し、その仕組みを精力的に吸収している。また、イギリスから米国にわたり、当時は世界最大のセツルメントだったシカゴの「ハル・ハウス」を視察してから帰国した。
 このとき、欧米においては最先端だった社会科学的な視座にもとづく社会福祉思想を、精力的に学んで帰国した佐伯祐正と、フランスにおける前衛芸術の一流派だったフォービズムを身につけ、パリで行われた労働者のパレードにエールを送るような佐伯祐三の帰国は、当然ながら特高Click!の注意をひいた。弟の佐伯祐三は、帰国と同時に福本和夫Click!と同郷で親しい帝展の前田寛治Click!と1930年協会を結成しており、特高の網にひっかかる要素を十分にもってもいた。その様子は、少し前に佐伯兄弟をめぐる内務省の特高資料としてご紹介Click!したとおりだ。
 弟の佐伯祐三が早くに死去したのに対し、兄の佐伯祐正はその後も精力的な活動をつづけていたため、1945年(昭和20)の敗戦まで特高から常に監視される立場になったのだろう。佐伯祐正は、弟と同様に1926年(大正15)の春に帰国すると、間をおかず積極的なセツルメント・プロジェクトを起ち上げている。以下、光徳寺の第15代住職・佐伯祐正と、自坊に開設したセツルメント「善隣館」の活動をざっと年譜にまとめてみよう。
 1920年 父・佐伯祐哲の死去により光徳寺住職に就任。(佛教大学学生の祐正24歳)
 1921年 貧民救済を目的に「善隣館」を設置。
 1925~26年 ヨーロッパや米国でセツルメント事業を学ぶために留学
 1926年 光徳寺に本格的なセツルメント「善隣館」を開設。幼稚部、乳幼児保育
     事業、クラブ活動、授産事業などをスタート。
 1926~27年 婦人会を組織して無尽講を結成し、夜学裁縫塾を開設。労働で学校
     へ通えない子ども用に日曜学校と図書室を設置。イベントとして定期的に
     ピクニック、キャンプ、映画会などを企画・実施。
 1927年 光徳寺幼稚園を開設。同幼稚園で母の会による家庭生活改善教育を実施。
 1928年 刀根山にカントリーハウス(光風山荘)を建設。弟・祐三がパリで死去。
 1929年 5千冊の蔵書を備えた図書館を境内に開設。
 1932年 光徳寺門前に3階建ての社会館を建設。
 1939年 同寺門前に12組の母子家庭が入居できる母子寮を開設。
 こうして、セツルメント「善隣館」の組織も大きくなり宗教部や教育部、会館部、助成部などを備え、従業員やボランティアも多く抱えることになった。1936年(昭和11)4月現在で、有給の職員は13名(事務担当1名・事業担当4名・保母5名・小使い3名)、無給(ボランティア)35名+館長で、総スタッフ数は佐伯祐正も含め49名にものぼった。これらの施設や組織は、イギリスのトインビー・ホールの仕組みを導入し、日本の現状と照らし合わせて構成しているとみられる。
 現在の浄土真宗本願寺派において、佐伯祐正のセツルメント「善隣館」の評価は高い。そして、彼が実践した思想は、吉野作造の民本主義や河上肇の『貧乏物語』、賀川豊彦の『死線を越えて』などデモクラシーにおける生存権のテーマを踏まえつつ、日本初の行政による公立セツルメントである大阪市立北市民館の志賀志那人に学んだ思想=志賀イズムの影響を受けた、どこかで社会主義や共産主義へのシンパシーを強く感じさせる側面を備えたものだととらえられている。
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 2008年(平成10)に真宗文化研究所から発行された年報「真宗文化」第17巻に所収の、小笠原慶彰『寺院地域福祉活動の可能性―セツルメント光徳寺善隣館の実践に学ぶ―』から少し引用してみよう。なお、文中で引用されている佐伯祐正の著作は、顯真学苑出版部から刊行されたものだ。
  
 佐伯自身の著書(『宗教と社会事業』1931年)にも反宗教運動に対する言及がある。
 「今や反宗教運動の声の盛んなる時、それは宗教への外形的形態への批判も、多くの材料を提供してゐる時、ここに寺院の社会的活動への一つの暗示として法域を護る人々へ、この貧しき書を捧げる事の厚顔さを許されたい。」
 当時の『中外日報』主筆は、佐伯と関わりのあった三浦大我(参玄洞)である。佐伯と三浦、妹尾<義郎>の関係も興味深い。ここでは妹尾と三浦の交友関係から佐伯への影響を推測するしかできないが、それは皆無ではなかろう。さらに妹尾と関わりのある川上貫一と佐伯の関係では、彼が心底では共産主義にさえシンパシーを感じていたのではないかとまで思わせる。(<>内引用者註)
  
 特高が目をつけたのは、佐伯祐正が1年近くにわたる留学から持ち帰った、階級観に裏打ちされた欧米のセツルメント思想そのものだったろう。今日の修正資本主義社会では、しごく当たり前になった国家や自治体がつかさどる社会福祉の思想や事業(つまり社会主義的な行政要素)に、特高は反国家・反体制の匂いを嗅ぎつけたにちがいない。
 日本における社会福祉事業は、1925年(大正14)現在では3,598事業だが、1935年(昭和10)には9,423事業に急拡大している。だが、そのほとんどは宗教団体や財閥・実業家、篤志家などの寄付に依存する運営であって、公的機関による社会福祉事業は微々たるものだった。そのような状況の中、1921年(大正10)に大阪市が自治体としては日本初となる、大阪市立北市民館を設立している。
 大正期にはいまだ農村だった、光徳寺周辺に拡がる環境の大きな変化と大阪の急激な工業化について、同論文より再び引用してみよう。
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 光徳寺善隣館の開設当時、中津はまだ農村であった。その頃の大阪は、今で言うキタ(梅田周辺)、ミナミ(難波周辺)が中心で、その中心部や周辺に工場街を形成しつつあった。燐寸工場、綿糸紡績工場等である。「東洋のマンチェスター」と言われていた。紡績工場では年若い製糸工女が働き、マッチ工場では児童労働が常習であった。そういう社会状況下でまず大阪中心部で極貧・低所得の単身者や家族がいわゆる木賃宿を取り巻くスラム街を形成し、さらにやや周辺部に広がりつつあった。既述のように北市民館周辺は、すでにスラム化が進んでおり、中津でもその変貌は時間の問題であった。都市近郊の農村が都市に吸収されていく都市化の過程である。その状況を目の当たりにして佐伯は、新しい寺院の役割を模索した。
  
 佐伯祐正は、大阪の急速な工業化にともない急増する貧困層の現実を、市内のあちこちで目にしたと思うのだが、これは弟の佐伯祐三にも少なからず大きな影響を与えただろう。おそらく兄の祐正ともども、成長過程では日常的に議論を重ねていたテーマではないかとみられる。荻須高徳Click!が、佐伯祐三の思想を「シン底からの左翼びいき」と証言Click!しているのも、兄からの影響はもちろん、多感な時期をすごした中津とその周辺環境からの影響が強く反映しているものと思われるのだ。
 祐正は、1935年(昭和10)に発行された「社会事業研究」10月号へ、『わが信仰とわが事業』という文章を寄せ、「自分はどこまでも形而上学的な久遠の理想を楽しみ、それを理想として一日一日の生活に浄土を移す努力を続けて行かうと思ふ。(中略) ここにわが信仰と事業とは決して離れたものでなくつて相抱いたまま歩み行く白道に乗托されたものだと云ふ落ちつきを味つている」と書いている。男女を問わず、困窮者を集めては救援を行い、ときには組織化して文化活動を展開していくセツルメントの実践に対し、目を光らせる特高や当局に対するどこか牽制ともとれる一文だ。
 佐伯祐正のいう「生活に浄土を移す」思想は、凶作つづきで困窮する農村基盤の次男・三男を徴兵した軍隊の中で、陸軍皇道派Click!と呼ばれる軍人たちが唱えた「昭和維新」思想Click!に、どこか近似する社会主義的あるいはマルキシズム的な側面を備えている。佐伯祐正が、大阪で上記の文章を書いた翌年、東京では二二六事件Click!が勃発している。
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 佐伯祐正の光徳寺善隣館は、日米戦争の激化とともに組織が縮小されていった。そして、1945年(昭和20)6月1日の大阪大空襲で光徳寺と付属するセツルメントは全焼し、佐伯祐正も重傷を負った。彼は近くの済生会中津病院にかつぎこまれたが、同年9月15日に爆撃による負傷が悪化し、49歳で死去している。

◆写真上:パリに到着して間もないころ、1925年(大正14)夏に弟のアトリエで撮影された佐伯祐正(右端)。 米子夫人と娘の彌智子も写り、撮影者は佐伯祐三とみられる。
◆写真中上は、1923年(大正12)に撮影された佐伯祐三一家と佐伯祐正(後列左から3人目)。写真には、のちに第2次渡仏の際に同行しハーピストになる杉邨ていClick!(前列右から2人目)も写っている。は、1925年(大正14)6月25日にヨーロッパへと向かう日本郵船「白山丸」船上で撮られた記念写真。佐伯祐正(左から3人目)とともに、パリでは佐伯祐三と交流する芹沢光治良Click!(右から3人目)の姿も見える。
◆写真中下は、おそらくイギリス留学からもどったあと1925年(大正14)12月にパリの佐伯祐三アトリエで撮影された佐伯祐正(中央)。は、光徳寺のセツルメント善隣館の外観。は、セツルメント善隣館の施設の1棟。
◆写真下:いずれも、セツルメント善隣館の内部写真。壁に架かる佐伯祐三の作品から、は1926年(大正15)ごろ、は『滞船』から1927年(昭和2)以降の撮影か。

下落合がなかった中村彝のアトリエ候補地。

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 1924年(大正13)2月21日に、パトロンのひとりだった成蹊学園Click!中村春二Click!が死去したあと、中村彝Click!から中村春二にあてた手紙類は、息子の中村秋一Click!の手もとに残り保管された。その書簡類の中には、1916年(大正5)にアトリエを建てる候補地を物色する、中村彝の様子が記録されている。だが、中村彝がアトリエの候補地に挙げていた中に、道灌山(佐竹ノ原)や大崎、渋谷、中野の敷地はあるが、同年の春先まで候補地の中に下落合が含まれていない。
 1916年(大正5)という年は、中村彝にとっては最悪の年明けとなった。1月15日に新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!黒光Click!夫妻が立ち合いのもと、相馬俊子Click!との最後の話し合いを終え(このあと二度と逢えなかった)、彝は俊子に真正面からフラれてしまった。同年春に書かれた手紙の多く、ことに当事者である相馬夫妻をはじめ、岡田虎二郎Click!中原悌二郎Click!洲崎義郎Click!伊藤隆三郎Click!などにあてた手紙類には、文句やグチ、相馬夫妻の「陰謀説」、怒り、嘆きなどが次々と綴られていく。
 だが、成蹊学園の中村春二と今村銀行の今村繁三Click!に対しては、いつもどおりの近況を報告する手紙を出しつづけている。その中に、失恋から立ち直り気分転換をはかるためか、盛んにアトリエ建設の話題が登場してくる。以下、中村秋一の手もとに残された「廿八日」とだけ書かれている書簡で、年月が記載されていないが、1916年(大正5)2月28日付けと推定できる中村春二あての手紙から引用してみよう。出典は、1943年(昭和18)8月に発行された「新美術」25号に所収の、中村秋一『中村彝の手紙(三)』より。
  
 画室の方は地所の点ですつかり長びいて終ひました。日暮里近傍は地代が高くて駄目です。渡辺治右衛門(佐竹の原)のいゝ地所がありましたが、十年足らずの間に地代の弐拾円も払はなければならぬ様になる仕末(ママ:始末)では、迚も私共の手には負へませんからね、私は断念仕しました。そして日暮里本行寺を中心にする事を止して、もつと自由に広く、気持ちのいゝ郊外閑静な所、地代の安い所を探さうと思つて居ります。この間の芝の会合の時、今村さんが「大崎にいゝ所があるが」と仰つて居りましたから、こん度、病気が癒つたら一度御訪ねして伺つて見様かと思つて居ります。(あの当時は本行寺のことばかり思つて居たので、私はロクに耳に入れませんでしたが) そして若しそこがいけなす様でも、渋谷と中野に可なりいゝ候補地がありますから、今度は直ぐに決まる事と思ひます。先づ右は見舞のお礼旁々御報まで。/曾宮君に御託し下さつた金子五拾円は確かに受取りました。何時も御手数を煩はしてほんとに相済みません。さよなら。(カッコ内引用者註)
  
 ちなみに、2月以前に書かれた同年1月31日付けの伊藤隆三郎あての手紙には、「来月の末には(未だ地所が未定ですが、大抵道灌山下の佐竹原になるでせう)画室が出来るかも知れません」と書かれているので、日暮里の近辺にとどまらず、市街地を離れた東京の郊外が候補地に挙がったのは、2月に入りしばらくたってからのことだったのがわかる。
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 日暮里にこだわらなくなった理由として、上掲の2月28日付け中村春二にあてた手紙には、日暮里の本行寺Click!で行われていた岡田虎二郎Click!静坐会Click!に失望して、別に岡田に会うだけならどこか別の場所でも可能だからどこでもいいとし、「日暮里を離れて何処かもつと気持のいゝ処へ画室を建てようと思ひます」とも書いている。その有力な候補地として、大崎の今村繁三邸の敷地Click!の一画に、アトリエを建てる気持ちへ傾いているようだ。
 また、同年2月の中旬に中村彝は悪性の風邪にかかり、40度を超える熱が10日以上もつづいたせいで、よけいに空気の澄んだ閑静な郊外生活にあこがれはじめた可能性もある。さらに、3月9日から4月20日にかけて、医師の牧野三尹Click!が行っていた結核治療の沃土(ヨード)注射を受けに、向島まで36回も通っているので、病気が恢復したあかつきにはうるさい市街地を離れ、東京郊外に点在する別荘地の静謐な環境の中で、ゆっくりと静養したいという考えに転換したのかもしれない。ちなみに、ヨード治療に通った大川(隅田川)向こうの向島も、江戸期からの典型的な寮地(=別荘地)だった。
 大崎や渋谷、中野ではなく、アトリエの建設地を最終的に下落合464番地に決めて契約したのは、同年3月15日のことだった。中村彝は、それまで渋谷や中野の候補地を見てまわったのかどうかは不明だが、同年3月5日の日曜日に中村仲にあてた手紙では、「今週中に確定致す考に候」とあることから、少なくとも3月5日(日)から11日(土)の間に、下落合464番地の敷地に絞りこんだとみられる。
 ちなみに、東京中央気象台の記録によれば、1916年(大正5)3月5日(日)から9日(木)まで、東京は連日快晴がつづく春めいた日和であり、10日(金)が曇り、11日(土)には一転して雪が降っているので、おそらく彝はいい陽気がつづく暖かな6日(月)から9日(木)のどこかで、日暮里駅から山手線に乗って目白駅で下車し、下落合の現地を訪れてアトリエ建設地の最終的な意思決定をしているのではないかとみられる。
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 中村彝が、なぜ大崎の今村邸敷地や渋谷、中野などの候補地を外して、最終的に下落合に決めたのかはハッキリとはわからないが、敷地前の道路沿い、林泉園Click!の谷戸に沿って植えられた、おそらく現地を下見したときには蕾がふくらんでいたであろう、ソメイヨシノClick!のみごとな並木が気に入ったのかもしれない。相馬俊子Click!の好きな花がサクラだったので、いまだ彼女のことを諦めきれていなかったものだろうか。いまなら、さしづめ秒速5cmで散るサクラの花弁を見ながら、少し古いが山崎まさよしのClick!が頭の中で響いていたのではないだろうか。
 あるいは、敷地の北西側に建てられていた目白福音教会Click!の、メーヤー館Click!をはじめとする西洋館群Click!の風景に、画因的な興味を惹かれたものだろうか。または、以前から友人だった洋画家・近藤芳男Click!が、家族とともに下落合へすでにアトリエをかまえて住んでいたせいだろうか。はたまた、池袋の成蹊学園も近く、有力なパトロンのひとり中村春二の自宅にも近かったので、なにかと便利だと考えたものだろうか。
 アトリエ建設地が下落合に決定したあと、中村彝は後援者や友人たちの間を金策のため精力的に走りまわっている。建設工事は3月末に起工し、4月中旬には木組みをスタートして、7月には瓦を葺くまでに進捗している。途中、4月13日に友人らを連れて下落合を訪れ、工事の進み具合を確認している。そして、8月の初旬にアトリエが竣工すると、8月20日には初音町の下宿を引き払い、下落合へと引っ越してくる。その間、すでに下落合に家族とともに住んでいた近藤芳男の自殺や叔父の破産、『田中館博士の肖像』Click!の制作など、春から夏にかけて彝の周辺はあわただしかったはずだ。
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 牧野三尹のヨード治療について、彝は信頼しきっていたようで、同年2月28日付けの中村春二への手紙では、「今後三週間の継続的注射をすれば、結核菌は必ず全滅すると申しますし、更に三週間薬用すれば肺の空洞が全部充実されるとの事です。私もこれだけは堅く信じてゐます」と、わざわざ治療の経緯までを書いている。だが、彝の病状は二度と快方に向かうことはなかった。

◆写真上:1988年(昭和63)2月9日に鈴木正治様Click!が撮影した、中村彝アトリエの復元工事。下落合のアトリエではなく、水戸の茨城県近代美術館にあるレプリカ復元。
◆写真中上は、1916年(大正5)ごろ谷中初音町の下宿で撮影された中村彝(右)と岡崎キイ(左)。下左は、中村春二死後の1924年(大正13)に制作された中村彝『中村春二像』。下右は、晩年には下落合へ住むことになる今村繁三。
◆写真中下は、1917年(大正6)ごろに撮影された池袋駅近くの成蹊中学校(成蹊学園)。は、中村春二が息子・収一に託しておカネをとどけつづけた経済支援ルート。は、2013年(25)2月6日の復元工事中に撮影した下落合の中村彝アトリエ。
◆写真下上左は、下落合へ引っ越しと同年の1916年(大正5)に描かれた中村彝『落合のアトリエ』。上右は、1918年(大正7)ごろに制作されたアトリエのテラスを描いた中村彝『風景』。は、1956年(昭和31)4月19日の朝日新聞(夕刊)に掲載された下落合2丁目707番地に住んだ今村繁三の訃報。

下落合を描いた画家たち・小島善太郎。(2)

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 1910年(明治43)ごろに描かれたとされる小島善太郎Click!のスケッチ『目白』は、どこを描いたものかが即座にわかった。小島は、1913年(大正2)に同じ坂道を坂上から坂下に向けて描いているが、ひょっとすると同作も明治末ではなく、1913年(大正2)の同時期に坂下から描いているのかもしれない。同年に、学習院Click!のキャンパスと山手線にはさまれた椿坂Click!を坂上から坂下に向けて描いた作品は、新宿歴史博物館が所蔵している小島善太郎『目白駅より高田馬場望む』Click!(水彩)だ。
 スケッチ『目白』はまったく逆に、学習院の敷地に沿って独特なカーブをえがく椿坂の坂下から、山手線の線路土手とその上に建つ鉄道の施設小屋(線路工夫詰所か工具・設備小屋?など)を入れ、北北西を向いて描いている。描画ポイントがすぐに判明したのは、描かれた道路が上り坂であること、明らかに鉄道線路とみられる土手が描かれていること、その土手上に鉄道の施設小屋が建っていること(目白貨物駅Click!が拡大すると小屋数が急増する)、そして独特なカーブを描く明治期から大正初期ならではの椿坂の特長が顕著なこと……などから、画面を観たとたんにピンときた。おそらく、落合地域の地図(明治期)を見馴れている方なら、わたしと同じく即座にわかったのではないだろうか。
 椿坂の坂下が、このような湾曲したかたちになっていたのは、陸地測量部Click!が作成した1909年(明治42)および翌1910年(明治43)の1/10,000地形図までたどらなければならない。坂下が、現在のように直角に修正されたのは、少なくとも同地図が作成されて以降だとみられる。ただし、カーブの痕跡はその後もしばらく残り、1936年(昭和11)や戦後の1947年(昭和22)の空中写真でさえも、いまだに船舶試験場にかかって薄っすらと確認することができる。小島善太郎は、近くの駅名にちなみ『目白』という素描タイトルを付けているが、描かれた場所は山手線の東側、つまり高田村側へ大きく入りこんだ落合村下落合25番地(のち落合町下落合25~26番地)あたりの情景だ。
 山手線を境界に、漠然と線路の西側が下落合で東側が高田(現・目白)だと思われがちだが、小島善太郎のスケッチに描かれている山手線の線路や線路土手、その手前の土地は、ほとんどすべて下落合エリアの敷地ということになる。現在でも、山手線および東側(学習院側)の線路土手、およびそこに建っているビルClick!などの地番は、下落合2丁目25~33番地が入りこんでおり、ビル内のフロアや廊下を新宿区と豊島区の区境が横切っているケースもある。
 また、椿坂が突きあたる下の東西道、すなわち佐伯祐三Click!が1926年(大正15)ごろに描いた雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)がくぐる『下落合風景』Click!ガードClick!が設置された南側もまた、山手線をはさみ現在でも下落合2丁目が大きく入りこんでいるエリアだ。小島のスケッチ『目白』でいえば、画面の左手から背後一帯の敷地ということになる。
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 当時の小島善太郎は、どのような生活をしていたのだろうか? もし、スケッチ『目白』が同じ椿坂を描いた『目白駅より高田馬場望む』(1913年)と同時期に描かれたものだとすれば、大久保の陸軍大将・中村覚邸に書生として住みこみながら、徒歩で谷中の太平洋画会研究所Click!へと通う道すがら、椿坂の上からと下からをスケッチして描いたものだろう。また、明治末に制作されたものだとすれば、1908~1909年(明治41~42)ならば浅草の醤油屋の丁稚として働き、1909年(明治42)であれば父親の野菜卸業を手伝っていたころだ。そして、同作が描かれたのは藪入りClick!で下落合の実家に帰った折りか、あるいは青物市場が休みの日に下落合を散策しながらスケッチした画面ということになる。わたしは前者、すなわち『目白』は谷中の太平洋画会研究所へと通う道すがら、中村邸の書生時代(1910年~)に描かれたのではないかと考えている。
 当時の様子を、小島敦子様Click!よりいただいた1992年(平成4)に日経事業出版社刊行の、『桃李不言―小島善太郎の思い出―』から引用してみよう。
  
 思いがけない幸運が舞い込んでくる。陸軍大将中村覚の六男に伊藤博文公の肖像画をプレゼントしたのがきっかけで、中村邸に住み込み、絵の学校へ通わせてもらう。中村大将の「わしの世話のしがいがあればじゃ」の一言がいまも耳の奥に残っている。画家を志してから二年後、小島は十八歳だった。(中略) 太平洋画会、日本美術院などで学んだ小島は、画題を、生まれ育ち、なんとも言えぬ親しさを感じる武蔵野の自然に求めた。が、自然の迫力におされ、納得のいく絵が描けない。描いては削る。削っても筆が手につかない。観察だけに終わる日々が続いた。そうした純粋でひたむきな苦悩の中で描いた一枚の絵『四ツ谷見附』が、師安井曽太郎にほめられたことで、大いに勇気づけられた。
  
 小島善太郎は、大久保の中村邸から太平洋画会研究所まで徒歩で通っていたので、山手線西側の戸山ヶ原Click!を縦断し目白変電所Click!前の田島橋Click!をわたって、下落合の丘麓に通う雑司ヶ谷道(新井薬師道)の山手線ガードをくぐり、椿坂から清戸道Click!(目白通り)へと抜けるのが、谷中への登校コースだったのではないだろうか。
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 さて、『目白』の画面を細かく観察していこう。まず、右下から丘上へと伸びる上り坂が、今日では「椿坂」と呼ばれている坂道だが、当時は学習院の西側に通う坂という意味から「西坂」と呼ばれていた可能性が高い。その名残りは、学習院の「西坂門」という名称に見ることができるが、「西坂」では下落合の徳川邸Click!がある西坂Click!とまぎらわしいので、いつのころからか椿坂と呼ばれるようになったのだろう。
 椿坂の右手に繁る木々は、すでに学習院の敷地内で、中央に見えている濃い森の中には湧水池(通称:血洗池)が、清冽な水をたたえているはずだ。小島善太郎は椿坂から少し外れ、同坂を支える土塁の位置でスケッチブックを開いていることになる。左手には、山手線の線路土手がつづき、小島のすぐ左背後には山手線をくぐる雑司ヶ谷道の、イギリス積みClick!によるレンガ造りのガードが口を開けていたはずだ。
 線路の土手上に見えている何軒かの建物は、先述したように1903年(明治36)から目白貨物駅が開業すると、その数が目に見えて増えていく鉄道の施設(道具)小屋ないしは工夫小屋だ。佐伯祐三の『下落合風景(ガード)』にも、土手上の線路と同じ高さにある小屋のひとつが描かれているが、小島の画面はその建物群の一部(北側の小屋)を反対側から眺めていることになる。
 坂下がカーブする椿坂の道筋が、雑司ヶ谷道と直角になるように修正されたのは、おそらく大正の初期のころではないかと思われるが、椿坂は目白貨物駅の開設とともに拡幅工事がなされているので、もう少し早い明治末の可能性も残る。だとすれば、小島善太郎のスケッチ『目白』は『目白駅より高田馬場望む』(1913年)よりも以前ということになり、谷中の太平洋画会研究所へ通う道すがらに描いたものではなく、醤油屋へ丁稚奉公をしながら下落合の実家に帰郷した折りか、あるいは父親とともに青果市場へ野菜を運んだ帰り道に、山手線のガードの手前で寄り道をして描いているのかもしれない。
 陸地測量部が作成した1/10,000地形図では、明治末まで椿坂の坂下の形状はカーブを描いたままだが、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村全図」では、すでに直角の表現で描かれている。ただし留意したいのは、後者のような市街図は往々にして、いまだ計画中(工事予定)の道路や河川の形状を、のちの修正手間を考慮したものか、工事後の完成形を先どりして描いてしまうケースが多々見られるという点だろう。
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 ひとつ目を惹いて興味深いのは、『目白』の画面には東側の線路土手に湧水の小流れを通す小さなガード、ないしは施設小屋へと上るらしい階段のようなものが描かれている点だ。この表現は、15年後に描かれた佐伯祐三『下落合風景(ガード)』の、西側の線路土手にも描かれており、線路をまたぐなんらかの施設があったことをうかがわせる。

◆写真上:1910年(明治43)ごろ制作されたとされる、小島善太郎のスケッチ『目白』。
◆写真中上は、1913年(大正2)に描かれた小島善太郎『目白駅から高田馬場望む』(水彩)。は、1909年(明治42/上)と1910年(明治43/下)に作成された1/10,000地形図にみる椿坂の坂下と、小島善太郎『目白』の描画ポイント。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる椿坂で薄っすらとカーブの名残りがとらえられている。は、坂下の雑司ヶ谷道と直角に交わる椿坂の現状。坂の左手に見えている茶色いビルの中を、新宿区と豊島区の区境がタテに横切っている。
◆写真下は、いずれも1908~1909年(明治41~42)ごろに描かれた小島善太郎『家』()と同『家並』()でともに水彩。は、1910年(明治43)に撮影された小島善太郎。は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『下落合風景(ガード)』。小島善太郎の『目白』とは、山手線をはさみ反対側から線路土手とガードを描いている。

小島善太郎の八王子アトリエを拝見する。

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 1930年協会Click!が1930年(昭和5)を迎えたとき、協会内部はガタガタの状態だった。佐伯祐三Click!はとうに死去し、前田寛治Click!は不治の病で倒れて入院をつづけ、二科に回帰しようとする里見勝蔵Click!と古賀春江、児島善三郎は実質的に脱会し、古くからのメンバーは小島善太郎Click!林武Click!しかいなくなってしまった。
 それでも、小島善太郎は美術史家の坂崎担から、「三十年協会は微動だもせず」と鼓舞激励されて、同年1月17日~31日に第5回展Click!を開催している。同協会の理論的な支柱だった、外山卯三郎Click!の夫人・外山一二三Click!が描いた2作品が入選したのも5回展だった。この間、さまざまな動静や思惑がからみ合い、すったもんだのイザコザもあったようだが、既存の各種画会や団体=既成画壇を脱け出して、新たに独立したい画家たちが14人集まり、独立美術協会Click!を結成することになった。
 このとき、二科は独立美術協会を“敵対組織”とみなし、独立への参加を妨害するような声明を発表している。以下、二科会の声明書の一部を引用してみよう。
  *
 世上二科会の分裂等兎角の憶測をなすもあるも右は単に数氏の脱退に過ぎず、二科会は依然として従来のごとく展覧会を継続すること言う迄もなく、独立美術協会は先きの一九三〇年協会と其の性質を異にするを以て、本会にこれを他の対立的諸団体と同視す、従って本会に出品せんとするものは、新団体に出品せざることを要す。
  *
 このとき、二科会を脱会して独立美術協会に参加したのは11名の画家だった。それに、国画会の高畠達四郎と春陽会の三岸好太郎Click!が加わり、さらにヨーロッパから帰国した福澤一郎が参加して計14名でスタートしている。
 1968年(昭和43)発行の「三彩」8月号には、独立美術協会を起ち上げる当時の様子を、小島善太郎がインタビューに答えて詳しく語っている。小島敦子様Click!からいただいた、『桃李不言―小島善太郎の思い出―』(日経事業出版部)所収の、『対談“独立”の前後』から引用してみよう。「独立」というネームについて、記者の「アンデパンダンの意味ですね?」という問いに対し、小島は次のように答えている。
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 むろんそうなんですが、なんとなく語呂がわるいので、いろいろな案が出ました末、里見(勝蔵)だか(児島)善三郎だかが言いだして、日本の洋画の“独立”を目指しているのだから“独立”でゆこう! というと、たちまち衆議一決してしまったわけなのです。フランス画壇からの“独立”の意味あいもこめてですが、実は、日本既成画壇からの“独立”も念願としていたわけです。そして生活信条の方も、アカデミズムを排し、立身出世主義を斥けるという独立主義の精神運動に直結していたわけなのです。(中略) われわれは単に、元気な若い画家たちの集まりぐらいに簡単に思っていたのですが、自慢ばなしめいて恐縮ですが、新進気鋭の連中が結束したからには、二科や春陽会の幹部連中にとって、大げさに言えば、掌中の珠をうばわれた感じだったのかもしれませんねえ……(中略) たとえばホープ・三岸好太郎君の脱退なんか春陽会にとっては、痛手だったでしょうね。(カッコ内引用者註)
  
 確かに、これから画会の中核をになうと期待されていた、若手画家たちが突然退会してしまった二科会や春陽会では、呆気にとられて腹も立ったのだろう。木村荘八Click!あたりは、「せっかく目ェかけて、作品を優先してやってるてえのに三岸の野郎、うしろ足で砂しっかける義理の立たねえマネしゃがって」……と腹が立ったのだろう。w
 1930年(昭和5)に独立美術協会がスタートした翌年、小島善太郎Click!は南多摩郡加住村(現・八王子市丹木町)にあった元・庄屋の大きな農家を改造し、アトリエへとリフォームした。そして間もなく、8月の暑い盛りに里見勝蔵Click!三岸好太郎Click!が連れ立って、加住村のアトリエを訪問している。
 中央線の高円寺駅ホームで、国立駅ゆき電車を20分も待って終点で下り、国立駅でも八王子ゆきを約20分も待ってから、30分ほどかけてようやく八王子駅で下車している。駅前からは、クルマで20分ほどでようやく加住村に入った。三岸好太郎はあきれて、「こんな田舎に入らなくても、東京付近で、十分田舎の感じに陶酔出来る百姓屋の売物がありそうなものだが……」と、里見にこぼしている。もちろん、三岸の頭の中には田畑が拡がり、茅葺き農家が残る鷺宮風景Click!が浮かんでいたにちがいない。
 クルマは桑畑に入りこんでしまい、方角もハッキリわからなくなったころ、大きな茅葺き屋根を載せた大農家が見えてきた。そして、門前には小島善太郎が出迎えていた。小島の農家アトリエの様子を、1933年(昭和8)発行の「独立美術」11月号に掲載された、里見勝蔵『小島の生活と芸術』(前掲書収録)から引用してみよう。
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 大きな長屋門から母屋まで三十歩。左右には大きなキャラ、梅、楓等のすばらしい古木がある。小島が先きに立って案内する姿は、大きな、古い藁屋根の玄関を背景にして、誠に小島にふさわしいものであった。さぞ小島も満足であろうと察しられた。/何分庄屋をしていた家だけあって玄関も、座敷もクラシックでガッシリしている。----畳だけでも五六十畳あるので畳換えだけでも一寸大変なんだ……と小島がこぼしていたのも真実だ。しかし、いい家が出来た。土間をつぶして画室にした。三間に五間もある、実にすばらしい、画室が出来ている。四囲の壁と天井は純白だが、太い欅の見事に光った柱や棟木が見えて、実にシックリした感じである。これなれば小島も満足に幸福に住って、ドシドシ仕事が出来ると思われた。/早くこの家を訪ねた誰れかが、この家の周囲の風景を見て----小島があの桑畑の風景を如何に描きこなすか興味ある問題だ……と桑について心配していたが、心配することもないだろう。
  
 里見勝蔵は、「小島は武蔵野生れなのだ。そして、こんな景色が特に好きなんだ」と書いているが、確かに小島善太郎は新宿駅西口(淀橋町柏木成子北88~101番地界隈=現・西新宿7丁目)の青物卸店で生まれている。また、実家や墓は下落合にあり、淀橋の店が零落してから小島一家は、再び故郷の下落合Click!へもどってきている。
 小島善太郎は加住村について、『加住村の秋』と題するエッセイを朝日新聞に残している。短い文章なので、1949年(昭和24)の同紙から引用してみよう。
  
 加住村に移り住んでもう十六年になる、私はこのあたりの雑木林に点々とまじるクリの実の水々しさに毎年秋の感触を見出す。/焼け着く暑さもあらしと共に過ぎた、きょうこのごろの夕べ、私は秋の味覚をなつかしんでクリの木の下に立ち、そっと青いイガにふれてみた、手のハダを刺す無数のトゲの痛みに神経をふるわせながら、いつごろ口が開くか打診する、もうトゲは強くかみ合っていた。/そのクリの木の根本ではしきりとコオロギが鳴いている、真竹の葉は静まったまま動かず、路ばたに生えたシノ竹にススキがまじって穂を高く見せていた。
  
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 里見勝蔵は、「武蔵野のように素朴」で「武蔵野のように健康」な風景を描く小島の画面は、京都・奈良を描こうが日本のどこを描こうが、みんな「武蔵野」になってしまうといっている。里見はいい意味で、それを小島の「武蔵野ナイズ」と呼んでいた。

◆写真上:1933年(昭和8)ごろ南多摩郡加住村の小島アトリエを訪ね、玄関で帰る間際の川口軌外Click!(手前)と見送りに出た小島善太郎に恒子夫人。
◆写真中上は、1930年協会第5回展の記念写真で左端から右端へ小島善太郎、中野和高、伊原宇三郎(手前)、林武、林重義(手前)、宮坂勝、中山魏(手前)、そして川口軌外。上部の写真は、不在の鈴木亜夫(左)と入院中の前田寛治(右)。は、1927年(昭和2)制作の小島善太郎『曇日』。は、 1933年(昭和8)に行われた独立美術協会による道後温泉旅行の記念写真。左端に小島善太郎が見え、将棋をさす林重義(左)と児島善三郎(右)の奥に里見勝蔵、右端に三岸好太郎がいる。
◆写真中下は、小島アトリエを訪ねたころの三岸好太郎(左)と里見勝蔵(右)。は、加住村にあった小島善太郎アトリエの長屋門(上)と母家正面(下)。
◆写真下は、母家と小島アトリエの庭。は、アトリエ内部と天井の棟木。

雑司ヶ谷の交番へ駈けこんだ娼妓たち。

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 1923年(大正12)9月1日に発生した関東大震災Click!では、大火災に追われて東京市街地から逃げてきた避難民で、周辺の郊外地域はドーナツ状にあふれ返った。こちらでも、目白通りを西へ西へと向かう避難民たちの様子を、目白駅周辺で結成された自警団Click!のエピソードとともにご紹介している。飯田橋や江戸川橋など街道の分岐点から、目白通りは罹災した人々の避難ルートの筋道になっていたのだろう。
 そのような混乱の中、翌9月2日になって深川の洲崎(現・江東区東陽町1丁目)にあった遊郭から逃げてきた女たちが4人、雑司ヶ谷の交番に駆けこんで助けを求めた。女たちは、大川(隅田川)を崩壊しなかった新大橋ないしは大橋(両国橋)あたりからわたったあと、神田川に沿って流れをさかのぼりながら、目白通りへと抜けてきたのだろう。しばらくすると、あとから男たち数人が追いかけてきて、女たちを連れもどそうと交番の巡査たちとの間で押し問答になった。男たちは、大震災が起きた際、洲崎橋のたもとにあった大門(のち洲崎パラダイス門)をくぐって逃げだした娼妓を捕まえようと、追跡してきた遊郭の連中だった。
 当時の様子を、1923年(大正12)10月1日に出版された『大正大震災大火災』Click!(大日本雄弁会講談社)収録の記事、「巡査の機転」から引用してみよう。ただし、出版元が出版元だけに、講談や講釈師のような臭い記述から、どこまでが事実でどこからが「見てきたような……」なのかは、読み手の判断におまかせしたい。
  
 二日の明け方である。髪をおどろに打乱したしどけない女が、四人ばたばた高田雑司ヶ谷の交番へ駈け込むなり/『お助け下さい。』/と金切声をあげた、すると間もなく五人ばかりの男が汗みどろで追つき/『こんな所に逃げ込みやがつた。さあ出ろ。』と言つた、女連は洲崎の女郎で、追つかけて来たのは楼主に若い者と知れた。/交番の巡査連は大いに義侠心を出して、『女共は廃業したいというてゐるから今日限り廃業させる』というたが仲々聞かない。これは最後とばかり、『貴様達、こんな非常な場合に彼是申立てると承知しないぞ、本署へ来い、保護拘留をしてやるから』と一喝したので、楼主連すつかり閉口垂れて、/『ハイ、何うぞその拘留だけはお許しを』で、證文を返して自由廃業に承諾した。/救はれた女郎連は嬉し泪に巡査を拝んだ。
  
 ふつうなら、追いかけてきた楼主が、わざわざ懐中に「證文」を所持しているのがおかしい……となるところだが、関東大震災で遊郭が被災したとき急いで懐に入れ、自分たちもそのまま避難するつもりで飛びだしてきたのかもしれない。また、交番に何人もの巡査が詰めていたのは、大震災による非常時だったからだとみられる。
 余談だが、これと似たような話は、以前こちらでも記事にしたことがあった。吉原の遊郭を逃げだした娼妓たちが、自由廃業をめざし雑司ヶ谷の上屋敷362番地に住んでいた宮崎龍介Click!白蓮Click!夫妻の家へ駈けこんだ事件だ。このときも、追手が宮崎邸の周囲をいつまでもウロついて、特に労働総同盟による娼妓の「自由廃業」と廃娼運動を推進していた宮崎龍介は、執拗につけねらわれている。九条武子Click!「あけがらす」Click!とともに、ご紹介したエピソードだ。
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 さて、この「高田雑司ヶ谷の交番」とは、どこにあった交番だろう? 1923年(大正12)現在の地図を確認すると、高田町の雑司ヶ谷とその周辺域には、3つの交番を確認できる。ひとつは、雑司ヶ谷鬼子母神の参道入口に、目白通りをはさんで向かいあっていた高田四ッ家(四ッ谷Click!=現・高田2丁目)の交番、ふたつめは当時は目白通りに面していた学習院馬場Click!の並び、現代でいうと目白駅前の川村学園Click!あたりにあった交番。そしてもうひとつが、戸田邸Click!の西門近くに設置されていた雑司谷旭出(現・目白3丁目)の請願派出所だ。ただし、戸田家の請願派出所は基本的に老齢の巡査がひとりいるだけなので、複数の巡査が詰めていた交番はここではなさそうだ。
 おそらく、「高田雑司ヶ谷の交番」とは、雑司ヶ谷鬼子母神の参道入口の真ん前、目白通りをはさんで宿坂を上りきった角地にあった交番だろう。娼妓たち4人は、ここで背後の追手に気づき、追いつかれると思ってとっさに、目の前にあった交番へ駈けこんだのではないだろうか。
 洲崎の遊郭から、高田町は雑司ヶ谷鬼子母神の参道入口にある交番まで、破壊されなかった両国橋を経由するとおよそ13~14kmの距離だが、洲崎に火災が迫る混乱のさなか、娼妓たちは楼主や手下(てか)たちの目を盗んで大門を抜けだし、ひと晩かかって雑司ヶ谷にたどり着いたのだろう。だが、彼女たちの衣装や髪型、化粧がいかにも遊女の風情なので、追手は逃げたらしい方向をたどりながら聞きこみをつづけ、ついに目白通りで捕捉して追いついたとみられる。
 その後、4人の娼妓たちがどうなったかは不明だが、交番の巡査がそれほど親切だったのなら、宮崎龍介がそうしたように彼女たちを保護しつつ、近くの職業訓練所などへ斡旋しているのかもしれない。あるいは、高田町は震災直後から避難者たちの救護所を設けているので、当分はそこですごしつつ、就業先を探した可能性もありそうだ。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)では、関東大震災の記述は非常にそっけない。以下、同書より引用してみよう。
  
 (前略) 突如、九月一日、関東地方に大震火災の事変あり、幸に此の町は其の災禍を免かれたが、東京市中は殆んど全滅の姿となり、避難し来るもの夥しく、町は全力を傾倒して、之が救済に努めた。爾来、この町に移住者激増し、従つて家屋の建築も増加して、田畑耕地は住宅と化し、寸隙の空地も余す所なく、新市街地を現出するに至つた。
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 当時、高田町の町長Click!だったのは吉野鎌太郎だが、震災時には間の悪いことに町役場の金庫はからっぽで、現金がほとんどなかった。銀行がすべて業務を停止しているため、吉野町長は自宅の現金をかき集めたあと、町内をまわりながら住民たちに借金をしてまわった。そして知り合いの工場からトラックを借りると、住民たちから集まった現金を手に埼玉県へと向かい、避難者用の米や麦、野菜などの食料品や、日用雑貨などを買い集めて救護所にとどけている。
 『大正大震災大火災』には、ほかにも関東大震災にまつわる多数の事件やエピソードが収録されている。中でも、相模湾や東京湾口を襲った津波(海嘯)の体験記録は貴重だ。同書より、「不思議舟」と題されたエピソードから引用しよう。
  
 鎌倉大町の菓子屋の小僧は、地震の時長谷停車場の附近にゐたが、来たなと思ふ瞬間海嘯が襲つて来るといふ騒ぎに、あわてゝ傍にあつた舟に飛び乗つた。と見る、津浪はさつと退いて沖合遥かに持つて行かれた。小僧は生きた空なく、夢中で舟のまにまに漂つてゐると、又も見上げるやうな大海嘯がやつて来る、もう死ぬのだと観念の眼を瞑つてゐると、舟はその大浪に乗せられて、ドーンともとの停車場附近へ持つて行かれた、ところも殆ど一間も違つてゐなかつたとは不思議の至りである。/だが沖に浚はれて行つた時の小僧の気持は如何だつたらう。
  
 このとき、さらに大きな津波の第2波は、海岸線から500mほど内陸(鎌倉駅の手前)まで押し寄せたとみられ、由比ヶ浜や長谷、材木座の住宅地は壊滅した。ちなみに、現代の鎌倉市が想定Click!した相模トラフを震源とする10m超の津波では、海岸線までの到達時間は約8分、南海トラフが震源だともう少し時間がありそうだが、津波の高さは14m超で、その舌先は鎌倉駅を通りすぎて小町通りの先まで到達するとしている。
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 『大正大震災大火災』には、ほかにも大震災にまつわる多彩なエピソードが紹介されているが、中には今日から見れば明らかなウソや誤認、妄想による誇大な「講談」の類も含まれている。大混乱の街々で、人々は自分が助かったのは“奇蹟”だと興奮しながら、記者の取材に応えてつい口をすべらせているのだろう。いちいち“ウラとり”ができない震災直後の状況では、取材原稿をそのまま記事として掲載するしかなかった側面も見てとれる。

◆写真上:設置されていた交番側から眺めた、雑司ヶ谷鬼子母神の参道入口あたり。
◆写真中上は、1923年(大正12)作成の1/10,000地形図にみる交番の位置。は、震災による火災で壊滅した洲崎遊郭。は、一面の焼け野原になった洲崎一帯。
◆写真中下は、洲崎遊郭の大門があった洲崎橋の現状。は、洲崎遊郭の遊女供養塔。は、大正期の面影が残る坂上に交番があった高田の宿坂界隈。
◆写真下は、遊女たちが目白通りへたどり着く前に目にしたと思われる江戸川(1966年より神田川)沿いの地割れ。は、鎌倉の由比ヶ浜や材木座海岸を襲った津波被害。

三昧と「弥勒浄土」思想が重なる古墳域。

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 東京メトロ東西線を落合駅で下り、上落合から上高田を抜ける早稲田通り(旧・昭和通り)を西へ200mほど歩くと、ほどなく寺町が出現する。もっとも東寄りにある正見寺は以前、大江戸の稀代のアイドル・笠森お仙Click!の墓所として紹介していた。
 正見寺から西へ青原寺、高徳寺、龍興寺、松源寺、宗清寺、保善寺、天徳院とつづく寺々の境内には、朱楽菅公や新井白石(ちなみに『折りたく柴の記』は高徳寺で執筆された)、河竹黙阿弥Click!、水野忠徳、新見正興など歴史本でよく目にする人々が眠りについている。ただし、これらの寺院は明治末から大正初期にかけ、江戸東京の(城)下町Click!から上高田地域へ移転してきたもので、もともと同地で建立された縁起ではない。
 街道沿いにつづく寺町について、1982年(昭和57)出版の『ふる里上高田の昔語り』(いなほ書房)より、中村倭武『私の歩んだ道と上高田』から引用してみよう。
  
 まず一番東にある正見寺。ここには江戸第一の美人といわれた、笠森お仙の墓がある。上野谷中の「笠森稲荷」の水茶屋鍵屋五郎兵衛の娘で、のち幕府のお庭番、倉地家に嫁して円満な家庭を作り、武家の妻として九人の子供を育て、文政十年正月二十九日、七十九歳で死した。/源通寺には、近世の大劇作家・河竹黙阿弥の墓がある。/次の西隣りには、江戸時代の儒学者・新井白石の墓がある。墓石は低い石棚で囲まれ、夫人の墓と並んでいる。(中略) 西隣りに龍興寺がある。当時には、徳川秀忠、家綱、綱吉、柳沢吉保、吉保の側室・橘染子などの書が残っている。境内には、染子の墓がある。(中略) 天徳院は、一番西の寺である。墓地には、浅野内匠頭が、江戸城内の松の廊下で吉良上野介に刃傷におよんだ際、内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛の墓がある。
  
 吉良義央Click!の墓所である功運寺と、松ノ廊下で殺人を防いだ旗本・梶川与惣兵衛の墓がある天徳寺とは、わずか400mしか離れていないのが面白い。12月になると、ふたりはときどき訪ね合っては烏鷺でも囲みながら、「いやいや吉良様、お城の松ノお廊下ではたいへんな目にお遭いなされましたな」、「いやなに、もはや昔話じゃ。ところで梶川殿、わしの墓所もそこもとの墓所も同様じゃが、周囲をめぐる目ざわりな竿はなにかの?」、「電柱でござる」とか、世間話でもしているのかもしれない。
 さて、友人から、正見寺と青原寺の境内にまたがって妙なふくらみがあるよ~……と教えられたのは、つい先だてのことだった。陸地測量部の1/10,000地形図では気づかなかったが、早い時期につくられた1933年(昭和8)の「火保図」には、確かに周辺の地勢を踏まえると自然地形とは思えない人工的なふくらみが採取されている。そのふくらみのある尾根筋から斜面には、両寺院の本堂と墓地が建設されていた。この古くから尾根筋に走る街道(旧・昭和通り→現・早稲田通り)を東へたどると、神田川に架かる小滝橋へと抜けるが、その途中には明治初期に「落合富士」Click!へと改造されていた大塚浅間古墳Click!(昭和初期に山手通り工事で破壊)があり、また小滝橋の東詰めには、境内が150mほどのきれいな鍵穴型をした観音寺の本堂と墓地が確認できる。
 以前から「百八塚」Click!の伝承にからみ、旧・平川(江戸期より神田上水→1966年より神田川)とその周辺域に散在していたとみられる、膨大な古墳群の痕跡について書いてきたけれど、大塚浅間古墳(落合富士)から上高田地域にかけても、そのような大小の墳墓が谷間へ向けた丘上や斜面に展開していたのではないだろうか。1/10,000地形図を細かく観察すると、灌漑用水ではなく湧水流とみられる小流れ(妙正寺川支流)の斜面に沿って、正見寺の西500mほどのところにも、明らかな人工物とみられる楕円形の突起状地形(風化した帆立貝式古墳か?)が、陸地測量隊によって採取されていた。
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 尾根上の街道(現・早稲田通り)をはさみ、江戸期から落合側と中野側の双方に「大塚」Click!の字名がつづいているのは、以前にもこちらで何度かご紹介している。このエリアで唯一、古墳時代の墳墓として認定されているのが、富士講の落合富士へと改造され、昭和初期に行われた環状六号線(山手通り)の敷設工事で破壊されるまで存在した、上落合大塚に位置する大塚浅間古墳だ。
 落合富士に改造される際、前方部が崩されて正円状の塚に整形されるまで、本来は小型の前方後円墳だったのかもしれないが、字名に「大塚」がふられるにしては直径が数十メートルとあまりにも規模が小さすぎる。「大塚」の字名にふさわしい、より巨大な古墳とみられるサークル状の痕跡が上落合Click!に、また下落合Click!にも存在していることも、何度か記事Click!に取りあげてきた。
 正見寺と青原寺の境内にまたがる、全長130mほどの楕円突起も、南側を貫通する街道に削られてはいるものの、墳丘の一部が崩され風化した古墳の痕跡なのかもしれない。さらに、正見寺から西へ500mほどのところにある、全長80mほどの自然地形ではない円形構造物もまた、見晴らしのいい河岸段丘の傾斜地に築造された前方後円墳、または帆立貝式古墳の可能性が高い。後者の突起は、宅地開発で整地・ひな壇化の土木工事が行われて崩され、いまでは住宅街の下になってしまっている。
 さて、青山Click!上大崎Click!、中野から成子Click!角筈Click!などに残る「長者」伝説Click!や、品川Click!あるいは江古田Click!などの例にならえば、なんらかの不吉な伝説や怪談、屍屋にまつわる山(丘)や森、立入禁止の禁忌的なエリアの伝承が、上高田地域に残っているだろうか? 実は、中野区教育委員会が1987年(昭和62)から1997年(平成9)までの10年間かけて蒐集した、口承文芸調査報告書の正・続『中野の昔話・伝説・世間話』には、上高田地域の怪異・霊異譚が圧倒的に多い。それは、古くから寺町が形成されていたのと、なによりも「三昧」地ないしは「荼毘所」としての火葬場が、江戸の後期より隣接する上落合(落合火葬場Click!)に存在していたからにちがいない。
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 しかし、換言すれば、なぜ上落合と上高田の境界にあたるこの地が、あえて三昧(荼毘所)として選ばれているのか?……という、より根が深いテーマにつながってくる。落合火葬場が設置されたのは、『江戸砂子』などを参照すると江戸後期とみられ、三昧として砂村新田、深川(霊厳寺)、小塚原、千駄谷(代々木狼谷)、渋谷、桐ケ谷、そして上落合(法界寺)と7ヶ所の火葬場が確認できる。だが、なぜこれらの地域が選ばれ、三昧(荼毘所)が設置されたのかは特に書きとめられていない。
 それは、なぜ寺町や墓域として古くから青山や品川宿の牛頭天王社(品川神社)の隣接地などが選ばれているのか?……というテーマと、まったく同様の課題が想起されるのだ。しかも、古墳上に築造されたとみられる、あの世とつながる「弥勒浄土」の富士塚とセットになっているケースも少なくない。
 富士塚の「弥勒浄土」思想について、1985年(昭和60)に人文社から出版された新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―戸塚・落合編―』所収の、福田アジオ『高田富士と落合火葬場』から引用してみよう。
  
 富士塚はミロク浄土としての富士山を江戸町人が自分たちの生活の場に実現したものであるという。しかし、富士塚は町人たちの屋敷内にあるわけでもないし、江戸の市中に造られているわけでもない。多くが、江戸の周縁としての町奉行所支配外の朱引内に築造されている。これも空地が都心部になかったからという理由によるものではなく、周縁部に造ることに意味があったものと思われる。ミロク浄土という他界は、都心部から歩くという形の分離儀礼を経ることで達することができるのである。別の考え方をすれば、内と外を明確に区別する地帯は同時に異なる二つの世界を結びつける所であり、そこがミロク浄土としての富士と人々の日常的世界を結びつける地点になったということである。/江戸市中の人々にとって異なる世界に接し、異なる世界に入ることのできる現実の空間が周辺に帯状に存在した。戸塚や落合もその一部であった。
  
 この「分離儀礼」は、漠然とした「江戸市中」と郊外の「周縁部」というテーマだけにとどまらず、富士塚が築かれた地域内にも確実に存在していただろう。三昧(荼毘所)や富士塚が築かれたのは、人が誰も住まない原野でも未耕地でもなく、富士講などを組織できるほどに人々か古くから居住していたエリアだ。つまり、「江戸市中」と「周縁部」との「分離」以前に、それぞれの村や町の中における共同体としての「分離儀礼」が可能な特別の禁忌エリア、死と生との境界を意識できる故事伝承が語られつづけた、「弥勒浄土」にはもってこいのエリアがあったことを物語っていやしないだろうか。
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 江戸期から明治期までは、なんとか伝えられていたかもしれない「分離儀礼」や「弥勒浄土」に適合する、すなわち三昧(荼毘所)や墓地の設置、あるいは寺町を勧請し富士塚を構築するには適した地域の「分離儀礼」物語が、換言すれば屍屋あるいは死者が住む山(丘・森)や禁忌的なエリア=古墳時代の墳墓群(落合地域では百八塚など)の伝承が、明治以降の急速な宅地化ですっかり忘れ去られてしまった……そんな気配が強くするのだ。

◆写真上:正見寺境内の東側だが、戦後の本堂再建工事のせいか土地の隆起はない。
◆写真中上は、1966年(昭和41)2月に竹田助雄Click!が撮影した工事中の地下鉄東西線・落合駅。同工事で、なにか出土物はなかっただろうか。は、西側に全長80mほどの人工突起が描かれた1921年(大正10)作成の1/10,000地形図(上)と、正見寺から青原寺の境内にかけてみられる不自然な突起が採取された1933年(昭和8)作成の「火保図」(下)。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる正見寺と青原寺。
◆写真中下は、青原寺の墓地がある北向き斜面(上)と、谷底を流れていた妙正寺川支流跡(下)。は、昭和初期の山手通り工事で消滅した大塚浅間古墳(落合富士)。は、小滝橋をわたった東側の斜面にある1948年(昭和23)撮影の観音寺境内。
◆写真下は、1941年(昭和16)撮影の西側のふくらみあたり。は、住宅街になり痕跡が皆無の同所。は、源通寺(上)と同寺にある河竹黙阿弥一門の墓所(下)。おそらく観劇回数がもっとも多い芝居の作者なので、ていねいにお参りしておく。

大正期から流行ったフロート波乗り。

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 本年も「落合道人」ブログをお読みいただき、ありがとうございました。当ページが、2018年最後の記事になります。来年も、どうぞよろしくお願いいたします。
  
 1970年代のこと、机に向かいながら深夜放送を聴いていると、やたら「旅立ち」の歌が流れてきた。ここの記事でも登場している浅川マキClick!が、「♪夜が明けたら~いちばん早い汽車に乗るから~」と新宿で唄ったのは、わたしがまだ小学生のころだから、60年代末から「旅立ち」のブームがはじまっていたものだろうか。つづけて印象に残っているのは、「♪どこかで~誰かが~きっと待っていてくれる~」とか、「♪ああ明日の今頃は~僕は汽車の中~」とか、「♪こがらしは寒く乗りかえ駅に~行方知らぬ旅がつづく~」とか、いったいみんなして、どこいっちゃうんだよう!……というほどに、若者たちは浮き足だって彷徨い、われ先に列車に乗りこんでいたようだ。
 旅先は、たいがい街(東京?)から見ておよそ“北の方角”が多く、まかりまちがっても「ハイサーイ!」とか「また来てつかぁさーい!」とか「おじゃったもんせ~!」とか、やたら陽気で暖かく、キラキラしている明るい南の海ではなかったような気がする。「旅立ち」の歌も、しまいにはいい加減うんざりイライラしてきて、新宿駅から「♪8時ちょうどの~あずさ2号で~私は私は……」には、いつまでも「私は私は」ぐちってねえで早く旅立っちまえ!……と、背後から車内へ蹴りこみたい衝動にかられたものだ。
 失恋の癒しの旅なのか、自分探しの旅なのか、はたまた新たな出逢いを求める旅なのか……はともかく、旅行ができるのはおカネのある裕福で幸福な若者たちであって、おカネのない若い子は近くの海とか山へ、非日常を求めるのがせいぜいだった。でも、いまとはちがって「山ガール」など存在せず、うっかり山などへ登ると男だらけの世界で味も素っ気もないので、失恋の痛手を癒したり、新たな出逢いを求めたり、気分転換や精神的なリセットをしたいのなら、近くの海へ出かけるのが安くて手っ取り早かった。そう、あらゆる生命は海から誕生したのだ。
 子どものころ、相模湾の海っぺり(葉山・逗子・鎌倉・湘南・真鶴の各海岸線)には、そんなお兄ちゃんやお姉ちゃんたちがたくさんいた。少しでも新たな出逢いを…いや、女の子たちの気を惹こうと、ほとんど乗りもしないのにサーフボードを小脇に抱えたり(重たいだけだろうに)、海岸の松林にバッテリーとPA機器を持ちだしてエレキの練習をしたり(テケテケテケテケの「パイプライン」でしびれず、夕立ちに感電してシビレていた)、本を片手にときどき意味もなく沖を見やりながら思索をしているようなポーズをしたり(ページが進んでないし)、海には入らず海岸に近いJAZZ喫茶で膝頭をゆらしていたり、海の家でサイケなシロップのかき氷を食べながら近くの女子に目配せしたりと、男子たちは新たな出逢いを……いや、好みのターゲットに合わせた定置網を張りめぐらしては、気長にひっかかるのを待ちかまえていたのだ。
 そんな男子は、日本で初めて海水浴場が開設された大磯Click!にも、また鎌倉の浜辺Click!にもいただろう。ふたつの街は、保養地あるいは別荘地としてスタートしているので、やってくるのは海岸線に別荘をもつ、東京や横浜のおカネ持ちの女子たちだった。そんな彼女たちとの新たな出逢い……、いや、彼女たちの気を惹いて、あわよくばひっかけようと懸命に努力するのは、いつの時代も変わらない。大正の中ごろ、崩れかけた大きめな波に板子(フロート)でうまく乗りきるのが、浜辺でカッコいいお兄ちゃんの証しであり代名詞だった。サーフボードもサーフィンもいまだ日本に入ってくる以前、鎌倉は由比ヶ浜と稲村ケ崎の間にあたる、長谷の坂ノ下で生まれた物語だ。
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益田義信「外房の夕暮」1938.jpg
 1983年(昭和58)出版の『鎌倉の海』(かまくら春秋社/非売品)には、当時を知る地付きの古老たちによる座談会が掲載されている。その証言から、少し引用してみよう。
  
  そうです。それからいまのサーフィンとか何とかいうのは、長谷にいた、いまは横浜の外人墓地のそばにいる、益田義信さんという人が米さん(舟大工)という人に、フロートという名前でつくらせて、何回も失敗してね、それがいまのサーフィンのはじまりです。/この人は泳ぎも達者、波のりも達者の人でね。それがハワイから外人が来て、ハワイから九尺ぐらいの厚みのある板をもってきて、その先に紐がつけてあったんです。それを鎌倉にもって来たけれども、鎌倉の波とハワイの波とはちがうんですよ。大きくなってきて崩れても距離が短かいんです。ハワイのは崩れても距離が長いですよ。だからそういう板が使えたんですが、鎌倉では通用しなかった。/それを何とかしようというので、両方に貫を合わせて作ったのが、フロートというんです。それから工夫して真中を空間にして、それが始まりで、改良されたのがサーフィンです。うんと金を使って苦労したのが長谷の絵描の益田義信さんです。
  
 証言しているのは、由比ヶ浜に住む萩峯吉という当時78歳の人だが、益田義信は国画会に所属していためずらしい慶應ボーイの画家だ。
 現在はフロートというと、空気でふくらませる平たい浮きマットか、圧縮した発泡スチロールないしはウレタン製の軽量で手軽なボディボードをイメージするけれど、当時は舟大工が釘を使わず板を組み合わせて細工した、特製のボードだったのがわかる。改良を重ね、軽量化のためか板の真ん中には穴が開いていたようなのだが、当時の写真が残っていないので具体的なかたちは不明だ。ただ、わざわざ舟大工に注文しているところをみると、板には防腐処理がなされ、微妙なカーブ(反り)が入っていたのではないだろうか。
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 昭和期に入ると、フロートで波乗りをするお兄ちゃんたち(まだお姉ちゃんたちはやらない)が急増したようで、上落合215番地に住んだ林房雄Click!も、舟大工の「米さん」に無理やり頼みこんでつくってもらっているが、あまりいい顔はされなかったようだ。舟とは異なり、手間ばかりかかって儲からず、つまらない仕事だったからだろう。フロートを抱えたお兄ちゃんたちは、鎌倉で女子たちの注目を集めたにちがいなく、林房雄もそんな姿にあこがれて注文したものだろうか。
 だが、地付きの鎌倉人にいわせれば、ボードを使って波に乗るなど、波乗りを知らない素人に見えてしまうのだ。つづけて、同座談会より引用してみよう。
  
 島村 鎌倉の、純然たる鎌倉生れの者は、波のりに板をつかいませんでしたね。
  その波のりが出来る人が何人いるかというんです。
 長田 それは、私が当時は大将でしたよ。
  どんなことをしても三年か五年かからないと一人前にはなれません。
 長田 鎌倉で大きい波にのれるのが五人、小さいのにのれるのが二十人ぐらいはいたかな。
 島村 年がら年じゅう海につかっているような者でなけりゃできないんですよ。わざわざ鎌倉に泳ぎに来た程度のものにはねー。板なしでのるなんてできなかったですよ。
 長田 大きい波ほどのりやすかったね。
  
 先の萩峯吉に加え、島村嘉市(由比が浜茶亭組合長)や長田正則(83歳)ら生粋の鎌倉人たちの証言だ。若いころは、さぞ女子たちにモテたのかもしれない。
 でも、悲しいかな、渚ではフロートや板子をスタイルとして小脇に抱えてないと、「この人、波乗りができるのだわ、ステキ!」とか、「まあ、流行りの先端をいく、モダンな殿方よ」とか、別荘街の女子たちの気を惹き注目を集めることはできないのだ。「そんなこたぁねえべ~よ、やっぱ波乗りは身ひとつでやんのがプロだべ」(神奈川県の南部方言)といったところで、女子たちから「あっそ。だからなに?」といわれてしまうのだ。
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 わたしはサーフボードやボディボード(現代版フロート)の経験はあるが、素手素足での波乗りはまったく知らない。どのような姿勢で波に乗るのかも見当がつかないけれど、大正から昭和にかけての鎌倉男子には、自慢のできるカッコいい遊びだったのだろう。

◆写真上:台風のとき以外は穏やかな波がつづく、暖かい相模湾のサーフィン風景。遠景は、手前の真鶴岬と箱根から足柄へつづく山々で、背景は富士山。
◆写真中上は、1921年(大正10)に撮影されたモダンな別荘が建ち並ぶ材木座海岸の一帯。は、大正末に撮影された材木座海岸で網を干す地付きの漁師の家々。は、1938年(昭和13)に国画会第13回展へ出品された益田義信『外房の夕暮』。
◆写真中下は、大正初期と1921年(大正10)に撮影された由比ヶ浜にそそぐ滑川河口。は、1925年(大正14)に撮られた由比ヶ浜の地曳き網。
◆写真下は、混雑しだした1930年(昭和5)ごろの由比ヶ浜。は、現在の人出とあまり変わらない1932年(昭和7)ごろに撮影された「海の王座」がショルダーの材木座海岸。は、1937年(昭和12)に夏休みの材木座海岸で毎年行われていた早朝のラジオ体操。

「だらだら長者」埋蔵金の後日譚。

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 新年、あけましておめでとうございます。本年も「落合道人」サイトを、どうぞよろしくお願いいたします。さて、お正月は、おめでたい新宿区に眠る「お宝」物語から。
  
 少し前に、江戸東京に残る「長者」伝説のひとつとして、牛込の築土八幡町から牛込白銀町にかけて伝わる「だらだら長者」Click!についてご紹介した。だらだら長者こと生井屋久太郎は、なにがきっかけで町奉行所の与力・鈴木藤吉郎と組んで、御蔵米の買い占めに手を出したのかは不明だが、それで儲けた莫大な財産を屋敷とその周辺域に埋蔵したという伝承は、「宝さがし」のエピソードとともに昭和期まで伝わっている。気になるので、その後のエピソードを含めてご紹介したい。
 江戸期が終わるまでに発見されたカネは、奉行所の家宅捜査で手文庫から見つかった200両+埋蔵金を隠した場所とみられる絵図と、久太郎の屋敷から道をはさんだ屋敷へと通じる地下トンネルから発見された1,200両を合わせても、わずか1,400両にすぎない。事件当初から、御蔵米の買い占めで得た暴利は3万~5万両では足りないといわれており、残りをどこに隠したのかが周辺住民ばかりでなく、多くの江戸市民の話題をさらった。そのゆくえを唯一知るかもしれない、与力・鈴木藤吉郎の妾で久太郎の娘といわれている於今(おいま)は、事件が発覚すると同時に姿をくらましている。
 明治期に入ると、お今がらみの人物が「宝さがし」のために、会津から築土八幡社界隈へとやってくる。江戸を離れたお今は、諸国を転々としたのち会津へと逃れ、明治に入ると田島半兵衛という男と親しくなって所帯をもった。田島半兵衛は、会津にいた当時から周辺の「宝さがし」をしており、室町末期、伊達正宗に敗れた蘆名義広が常陸の江戸ヶ崎へ逃れる際、猪苗代湖の湖底に沈めたといわれる財宝探しにかかわっていた。地下への埋蔵金ばかりでなく、全国には湖底あるいは池底へ隠した財宝伝説が散在しており、猪苗代湖のケースもそのひとつだ。東京では、太田道灌に敗れた豊島氏が滅亡する際、石神井の三宝池へ金銀財宝を沈めたという伝説が、もっとも知られているだろうか。
 会津で田島半兵衛と暮らしていたお今は、小さな飲み屋「古奈家」を経営していたが、特に店が繁盛しなくても困窮することがなく、彼にはそれが少し不思議だったようだ。田島には、江戸にいたころは“与力の妻”だったというふれこみで接しており、彼はそれなりの蓄えがあるのではないかと想像していた。猪苗代湖で「宝さがし」をする田島は、お今がふと漏らした「水の中のものまで探さないでも、おかにだってまだ沢山あるさ」という言葉を記憶している。お今は、1884年(明治17)12月に病死している。
 お今は、臨終の床でだらだら長者に関する一部始終と、御守り袋に入れて肌身離さずにもっていた絵図を取りだし、田島半兵衛にあとを託して死んだ。このとき、お今がもっていた埋蔵場所の絵図は、だらだら長者屋敷の手文庫から見つかった絵図と、同一のものか異なるものかがハッキリしない。もし、お今が保管していた絵図がホンモノだとすれば、手文庫に残された絵図はフェイクの可能性がある。お今は、だらだら長者こと久太郎の娘だという説が正しければ、手文庫からホンモノの絵図を抜きとり、代わりにニセの絵図を入れておくこともたやすくできたにちがいない。
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 お今が死んだとき、田島がだらだら長者の埋蔵金話を信じたのは、いまだ2,000円もの大金が家の中に残されていたからだろう。明治初期の2,000円といえば、現在の貨幣価値に換算すると1,500万~2,000万円ぐらいにはなるだろうか。そのときの様子を、1962年(昭和37)に雄山閣から出版された角田喜久雄『東京埋蔵金考』から引用してみよう。
  
 そのお今の話によると、だらだら長者の埋めた宝の量は、三万両や五万両の少額ではなかった。お今がどんな無茶な金遣いをしても、生涯かかって費いきれないほどの額で、長者は千両まとまるごとに、埋蔵していたというのである。埋蔵場所は二ヵ所に分れていて、一ヵ所は屋敷内。もう一ヵ所は秘密の地下道を抜け出た町家の庭の、から井戸の途中に横穴があって、その中にかくされている。そして、その屋敷内の方の埋蔵は、必ず長者自身の手で行われたので、お今も位置は知らないが、から井戸の方の埋蔵は、いつも「権」という男があたっていた。権の名前は権兵衛とか権太郎とかいうのだろうが、お今も知らない。/権と長者の関係は、全く他人のごとく見せていたが、実際は親密そのもので、一度秘密の通路から長者の寝室へ忍んで来たのをお今も見たことがある。その態度から見て、おそらく兄弟ではあるまいかと思える。長者のお今に対する態度は、二人っきりの時には別人かと思える親しさで、今考えてみると、自分の父ではなかったかと思う。
  
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 これほど微に入り細に入り、築土八幡社裏にあった久太郎=だらだら長者屋敷の様子がわかっていながら、田島半兵衛は東京にきて間もなく、「宝さがし」ができなくなった。銭湯帰りの女性を襲った、婦女暴行容疑で警察から手配され、東京にいられなくなったからだ。以上の話は、だらだら長者の「宝さがし」仲間からの取材による経緯ということになっている。したがって、どこまでが事実でどこからが付会や尾ヒレなのかハッキリしないが、田島がわざわざ会津からやってきたこと、そこにお今という女性がいたことだけは、どうやら事実らしい。
 さて、その後も、だらだら長者の絵図なるものを手に、築土八幡社界隈を訪ね歩く人々が新聞ダネになっているが、その絵図が久太郎屋敷の手文庫から出たものか、田島半兵衛がお今からいまわの際に譲り受けたものか、はたまたまったく別の絵図なのかは不明のままだ。絵図を手に、現在の築土八幡町や白銀町を訪れたいくつかの「宝さがし」チームは、しばらく付近を捜索したあと、あきらめては引き上げていったらしい。
 なぜなら、築土八幡社の周囲は、明治も後期になると再開発が進み、だらだら長者の屋敷がどこにあったかさえ、地元の人間にも不確かになっていたからだ。傾斜地やバッケ(崖地)Click!は、ひな壇状に宅地造成が行われ、万昌院の広い境内もなくなり新しい道路が敷設された。昭和に入ってからも、「宝さがし」はつづいていたようだが、ついに埋蔵金発見の報道が流れることはなかった。
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 唯一、戦時中に付近の住民が防空壕を掘っていたところ、生井屋久太郎の家紋「橘紋」が入った鉄瓶を掘り当ててニュースになったことがあった。その住民の家が建っていた場所こそが、だらだら長者の屋敷跡だと騒ぎになったが、戦争末期の混乱時だったために「宝さがし」が行われないまま、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で付近一帯は焼け野原になっている。現在なら、金属探知機を使って地中を探ることもできるだろうが、住宅が密集していて実質的にはまったく不可能だろう。

◆写真上:数年前の道路建設で、消えてしまった津久戸明神社の門前町の一画。
◆写真中上は、長谷川雪旦の挿画で『江戸名所図会』に描かれた津久戸明神社と築土八幡社の界隈。は、明治時代の撮影と思われる津久戸明神社(左)と築土八幡社(右)。は、築土八幡社の階段(きざはし)から眺めた急斜面下の現状。
◆写真中下は、中山備後守上屋敷跡にある白銀公園。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる津久戸明神社と築土八幡社の焼け跡。は、社裏につづくバッケの擁壁。
◆写真下上左は、1980年(昭和55)に出版された中公文庫版の角田喜久雄『東京埋蔵金考』。上右は、万昌院の境内跡に建設されたモダンな近代住宅だが解体されて現存しない。は、豊島氏の滅亡時に財宝が沈められた伝説が残る石神井公園の三宝池。
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