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怪奇映画のポスターが気になった夏。

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岸田森(血を吸う眼).jpg
 夏になると、小・中学生のころに見かけた映画のポスターがよみがえる。学校の登下校時、和泉屋さん(現在はセブンイレブンになっている)という酒屋から海へと通じる道路ぎわには、大きな映画のポスターが2段組でずらりと並んで貼られている展示板が設置されていた。ほぼ毎日、その前を通っては登下校していたのを憶えている。1960年代から70年代にかけ、そこには色とりどりのポスターが貼られていたので、子どもの眼にはよけいに印象深かったのだろう。
 この展示板には、東宝や松竹、大映、東映、日活の各系列、さらに2本立てや3本立てがふつうの名画座(迷画座?)のような映画館が、常時ポスターを貼りだしていたので、おそらく街の映画館が販促費を少しずつ出しあって、住宅地に設置した宣伝ボードだったのだろう。貼られたポスターには、リアルタイムで上映中の“いま”の作品から、10年以上も前の、わたしが生まれる前の作品まで、その種類はバラエティに富んでいた。確か、1964年(昭和39)の東京オリンピックの年だったか、あるいはその翌年だったのだろうか、ここのポスターで見かけた映画版『鉄腕アトム』(日活)のロードショーへ、母親に頼んで連れていってもらった憶えがある。
 でも、この映画ポスターの掲示板の前で、長く立ち止まってジッと眺めているわけにはいかなかった。なぜなら、東映の高倉健が登場するヤクザ映画の隣りには、太股をあらわにしたお姉さんが胸をはだけて微笑む日活の「成人映画」(ピンク映画とも呼ばれた)ポスターが貼られていたり、大映のガメラシリーズの隣りには、背中からお尻の上までを丸出しにした安田道代が、意味ありげな視線を送りながら振り向いてたりするので、もう恥ずかしくていたたまれなくなるのだ。ましてや、近所で顔見知りの大人に見られたりしたらと思うと、気が気ではなかった。
 潮の匂いが日ごとに濃くなり、身体がいつもべとついて生臭くなる夏を迎えると、掲示板には毎年、お約束のように怪奇映画のポスターが並んで貼られるようになる。その中で、いまでもいちばん印象に残っているのが、『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年/松竹)だ。ポスターには、吸血鬼に血を吸われる半裸のお姉さんと、それを恐怖の眼差しで見つめるふたりのお姉さん(ひとりは金髪の欧米人)がコラージュされていて、キャッチフレーズに「生き血を吸われた人間が、次々とミイラと化す! 残忍で凶暴な吸血鬼……次はお前だ!」と書かれていたようだ。
 もう、こんなポスターを目にしたら観るっきゃないでしょ。小学生のわたしは、さっそく母親に『吸血鬼ゴケミドロ』が観たいといったら、ゴジラシリーズClick!や鉄腕アトムならしぶしぶ連れていってくれたのに、「ゴケミドロ」はダメだという。母親いわく、「子どもが観るものではありません。大人の映画です!」と断られてしまった。「そ~かな~、吸血鬼なんだけどなー、ゴケミドロなんだよー」といっても、頑としてダメだといいつづけた。いまから考えると、自分が怖くて絶対に観たくなかったのではないかとも思えるが、結局、この作品は観ることができずに季節はすぎていった。
 映画の内容や質はともかく、この映画のタイトルは秀逸で、いまでも第1級のネーミングだと思っている。吸血鬼ブームにのって制作された映画なのだろうが、「ゴケミドロ」の「ゴケ」は、陽の当たらないじとじとした蔭地に生える「苔」なのか、あるいは喪服を着たちょっと色っぽくて妖しい「後家」なのか、「ミドロ」は水が緑色に濁ってなにが隠れひそんでいるかわからない不気味な「みどろヶ沼」なのか、それともドロドロでグチャグチャした何かにまみれたちょっとエロティックな「お姉さん」なのか、子どもから大人までついポスターをジッと見つめながら、あらぬ妄想をふくらませてしまう、幅広いターゲットを意識した優れたネーミングであり作品のタイトルだ。ポスターに登場している、佐藤友美と金髪のお姉さんが血を吸われ、ミイラになってしまうのだろうか?……と、子どもなら誰でもふつうに妄想して心配するだろう。
透明人間と蠅男1957(大映).jpg 美女と液体人間1958.jpg
ガス人間第一号1960.jpg 電送人間1960.jpg
 1950年代末から60年代にかけて上映された、怪奇映画(スリラー映画・恐怖映画などとも呼ばれた)のタイトルやポスターを改めて眺めてみると、裸で胸元を手で覆いながら微笑む叶順子のわけのわからないタイトル『透明人間と蝿男』(1957年/大映)とか、下着姿で半裸の白川由美が不気味な怪物から逃れようとしている『美女と液体人間』(1958年/東宝)とか、やっぱり半裸のままの前を隠した白川由美が戦慄におののいている『電送人間』(1960年/東宝)とか、美しい着物姿の八千草薫があしらわれタイトルとのギャップがすさまじい『ガス人間第一号』(1963年/東宝)とか、肌もあらわな水野久美がキノコを食べる『マタンゴ』(1963年/東宝)とか、ミイラのような気味の悪い男とロングヘアが似合う松岡きっことの対比がすごい『吸血髑髏船』(1968年/松竹)とか、もう子どもから大人まで脳内が妄想だらけになりそうな、夢にまで出てきそうなタイトルがズラリと並んでいた。これらのポスターの何枚かは、学校からの帰り道、2本立ての再上映館(名画座ならぬ迷画座?)の掲示コーナーで見ているのだろう。
 1970年前後になると、怪奇映画(スリラー映画)は少年少女漫画からの影響だろうか、ある程度ストーリーが想定できる、かなりストレートなポスター表現やタイトルに変貌していったような記憶がある。たとえば、『幽霊屋敷の恐怖・血を吸う人形』(1970年/東宝)とか、『呪いの館・血を吸う眼』(1971年/東宝)とか、『血を吸う薔薇』(1974年/東宝)とか、岸田今日子Click!の従弟だった岸田森の吸血鬼シリーズがヒットしたせいなのだろう。大きな西洋館に迷いこんだヒロインたちが、またいつものパターンで恐怖の体験をするんだぜ……といった、“怖がり”を楽しみ、ある意味ではお決まりの「予定調和」を期待させる仕上がりになっていそうな作品群だ。
 子どものころ、親に止められて観賞できなかった上掲の作品を、大人になってから観ると退屈だったりガッカリすることが多い。いや、むしろ笑ってしまうシーンも少なくないのだ。マタンゴを食べつづけているのに、なんで水野久美の顔はボコボコにならないんだ?……とか、人を襲うとき岸田森の吸血鬼は、なんで居場所がバレてしまうのにいちいち「ウエ~~~ッ!」と声をあげてしまうのだ?……とか、ヒロインが襲われるときはタイミングよく、なぜみんな下着か水着?(うれしいけれど)……とか、相手に怪人だと悟られてはいけないのに、目つきから挙動から話し方から笑い方まで怪しすぎるでしょ!……とか、ボーイフレンドがヒロインに「とにかく気にするのはよして休もう」って、お化けに襲われてヒドイ目に遭ったばかりなのに気にしないで休んでる場合じゃないじゃんか、おい!?……とか、大人のリアリズムに邪魔されて、すでに子ども時代のように、素直に怖がり、ストレートに画面へのめりこんで楽しむことができなくなっている。
マタンゴ1963.jpg 怪談1965.jpg
怪談蛇女1968(東映).jpg 吸血髑髏船1968(松竹).jpg
蛇娘と白髪魔1968(大映).jpg 吸血鬼ゴケミドロ1968(松竹).jpg
 映画は、いや文学や音楽もそうなのかもしれないが、それを観賞(鑑賞)する時期や年齢というものが、厳然とどこかにあるのだろう。やはり、細かな理屈が先に立ってしまう年齢になってから観ると、多くの「怪奇映画」は喜劇映画へと転化してしまいそうだ。土屋嘉男はガス人間なのだから、プロパンのような密閉容器に入れてしまえば二度と出てこれないぜ……、どこへでも瞬間移動できる岸田森の吸血鬼が、なんでわざわざ壁をぶち破って逃げる主人公の前に立ちはだかるのさ……、南風洋子より松尾嘉代のほうがよっぽど妖しいじゃん……などなど、つい不純でよけいなことを考えてしまう年齢になると、おどろおどろしさは雲散霧消し、せっかくの怖さが限りなく後退してしまう。やはり、映画の“観どき”、映画館への“入りどき”というのがあるのだろう。
 これらの作品の“観どき”、“入りどき”を逃したわたしは、親に邪魔されない学生以降になってから観賞した作品も少なくないが、おそらく子どものころに観ていたらトラウマになったと思われるような作品も、気の抜けたコーラのような味わいにしか感じなかった。いや、中には突っこみどころ満載で爆笑してしまうシーンも多い。
 つい先年、1960年代のおどろおどろしい怪奇映画(スリラー映画・恐怖映画)の遺伝子を正統に受け継いだ、独立プロ作品『血を吸う粘土』(2017年/soychiume)という映画を観た。東京藝大や武蔵野美大、女子美大などをめざす美校生たちのストーリーに惹かれて、つい観てしまった作品だが、やはり物語がいちばん盛り上がる肝心のクライマックス部分で、梅沢壮一監督には悪いけれどつい笑ってしまった。わたしにとっては残念ながら、この手の作品はとうに「賞味期限」が切れていたのだ。
血を吸う人形1970.jpg 呪いの館・血を吸う眼1971.jpg
血を吸う薔薇1974.jpg 血を吸う粘土2017(soychiume).jpg
八月の濡れた砂.jpg
 学生時代に、藤田敏八の『八月の濡れた砂』(1971年/日活)を観ていたら、わたしが怖ごわと、ときにはひそかに胸躍らせながら眺めていた、通学路の掲示板が映りそうになった。高校生がタンデムシートからダチをふり落として、湘南海岸沿いをバイクで疾走しながら渚に向かうシーンだ。でも、「そういや、あすこに映画ポスターの掲示板があったな」という感慨のみで、もはや胸がときめくことはなかった。石川セリClick!の歌ではないけれど、「♪あの夏の光と影は~どこへ行ってしまったの~」と、すでに心は実世界のリアリズムにすっかり侵され支配されており、8月の怪(あやかし)ポスターはとうに色褪せてしまったのだ。子どものころにたくさん遊んでおけば、そしてたくさんの映画でも見ておけば、心の引き出しもたくさん増えて、夢も豊かになるのだろう。

◆写真上:「ウエ~~ッ!」と格闘して苦しいと、死んでいるのに喘いでしまう肺呼吸の吸血鬼・岸田森。『呪いの館・血を吸う眼』(1971年/東宝)より。
◆写真中上は、1957年(昭和32)の『透明人間と蝿男』(大映/)と1958年(昭和33)の『美女と液体人間』(東宝/)。は、1960年(昭和35)の『ガス人間第一号』(東宝/)と同年の『電送人間』(東宝/)の各ポスター。
◆写真中下は、1963年(昭和38)の『マタンゴ』(東宝/)と1965年(昭和40)の『怪談』(東宝/)。『怪談』は小泉八雲Click!が原作で、これなら母親も映画館に連れていってくれたかもしれない唯一の文芸作品。だけど、子どもは文部省推薦とか芸術祭参加の作品など観たくはないのだ。は、1968年(昭和43)の『怪談蛇女』(東映/)と同年の『吸血髑髏船』(松竹/)。は、1968年(昭和43)の『蛇娘と白髪魔』(大映/)と同年の『吸血鬼ゴケミドロ』(松竹/)の各ポスター。
◆写真下は、1970年(昭和45)の『幽霊屋敷の恐怖・血を吸う人形』(東宝/)と1971年(昭和46)の『呪いの館・血を吸う眼』(東宝/)。は、1974年(昭和49)の『血を吸う薔薇』(東宝/)と2017年(平成29)の『血を吸う粘土』(soychiume/)の各ポスター。東宝の「血を吸う」シリーズのポスターは、漫画からの影響が顕著だ。は、わたしの通学路が映っていた1971年(昭和46)の『八月の濡れた砂』(日活)の1シーン。

「そいや・せいや」じゃなく「わっしょい」だろ。

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 地名の小塚原のことを「こずかっぱら」Click!、前原のことを「まえっぱら」、尾久のことを「おぐ」と読めない東京在住者が増えても、日暮里(旧・新堀)のことを「にっぽり」と読めない人はいないだろう。その日暮里の道灌山から諏訪台にある、諏方社(諏訪社Click!の表記ではないが、主柱は同じ出雲のタケミナカタ)の祭礼に繰りだす神輿のかけ声が、ちゃんと本来の「わっしょい」であるのを最近知ってうれしかった。
 江戸東京の社(やしろ)のほとんどは、祭礼時における神輿の渡御のかけ声が、大昔から江戸東京方言の「わっしょい」と決まっていたはずだ。これは、江戸東京総鎮守の神田明神社Click!をはじめ、日枝権現社、深川八幡社、浅草三社、そして下落合氷川明神社Click!にいたるまで共通するかけ声のはずだった。ところが、そのうちのいくつかの社では「そいや」とか「せいや」とか、気づけば意味不明で妙ちくりんなかけ声になっている。ちなみに、ジグザグデモも戦後間もない東京では「わっしょい」だったようだ。
 親父はよく、「そいや」とか「せいや」のかけ声を聞くと、「どこの方言だい? 渡御された神輿上の神に対して失礼でおかしいだろ」といっていたけれど、わたしも同感なのでちょっと書いてみたい。「そいや」とか「せいや」は、その語感から関西地方の方言だろうか? 同じような不可解さを感じている人物に、親父の少し年下にあたる作家の吉村昭がいる。彼は子ども時代、道灌山や谷中墓地を駆けまわってすごした生粋の日暮里っ子だ。1989年(昭和64)に文芸春秋から出版された、吉村昭『東京の下町』から引用してみよう。
  
 (前略) ソイヤとか、ホイヤ、セーヤなどとやっている。私が、この奇妙な掛声を初めて耳にしたのは、二十年近く前、NHKテレビの依頼で或る下町の著名な神社の祭礼をリポートした時である。/私が呆気にとられていると、年老いた世話人の一人が、/「なんとなくああなってしまいましたね」/と、釈然としない表情をして言った。/その神社のある町は、これこそまぎれもない江戸町――下町で、古くからうけつがれてきたワッショイという掛声を「なんとなく」変えてしまっては困る、と思った。(中略) 「私の町では、ワッショイですよ。伝統は守らなくちゃ、どうにもなりません」/田宮さんは、張りのある声で言い、今でも高張り提灯をかかげて宮ミコシをお迎えしている、と言った。/祭りは、人間の知恵によって生れたものである。たかが掛声、と言うかも知れぬが、古くからうけつがれてきたものをくずしてしまえば祭りそのものの意義はうすれる。第一、御先祖様に申訳なく、勝手にいじってはいけないのである。
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 「わっしょい」ではなく、「そいや」とか「せいや」などのおかしなかけ声に気づいたのは、わたしがまだ子どものころのことで、親父が「どこの方言だい?」といったのも同じころではないかと思う。吉村昭も、ちょうど同じころに不可解なかけ声に気がついていたようだ。このかけ声について、吉村昭は地元・日暮里の諏方社を訪ねても取材しているので、よほど気になっていたのだろう。
 「わっしょい」のかけ声は、昔から古文書などで「和背負」と書かれることが多いようだが、言葉の発音へ思いついた漢字を当てはめただけの、江戸期あたりの付会なのかもしれない。「ハイシー」(走れ)や「ドードー」(止まれ)のかけ声と同様に、古い原日本語(アイヌ語に継承)に由来する可能性もありそうだ。「わっしょい」が、「ワ・シケ(wa-sike)」の転訛だとすると、「背負い渡る」という意味になる。
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 吉村昭は、大江戸(おえど)Click!(城)下町Click!のことを総じて「江戸町」と呼び、イコール下町だと認識して文章を書いている。これは江戸から明治期の三田村鳶魚Click!や、うちの親父あるいは義父たちの世代とまったく同じとらえ方で、「江戸町」=下町の一部に旧・山手エリアは包括される概念だったことがわかる。
 また、地元の日暮里については、わたしの落合地域をとらえる感覚と非常によく似ていることに気づく。落合地域(目白崖線のある落合エリア)は、明治以降に拓けた東京市街地(旧・城下町)に近接する郊外別荘地となったが、日暮里は根岸とともに、江戸期から武家や町人を問わず名の知られた、道灌山や諏訪台の周辺に展開する由緒正しい別荘街(寮町)だった。
 つづけて、吉村昭の『東京の下町』から引用してみよう。
  
 日暮里を下町と言うべきかどうか。江戸時代の下町とは、城下町である江戸町の別称で、むろん日暮里はその地域外にある。いわば、江戸町の郊外の在方であり、今流の言葉で言えば場末と言うことになる。/幕末の安政三年に刊行された尾張屋版の江戸切絵図集には、「根岸谷中日暮里豊島辺図」がおさめられ、明治に入ってから「東京御郭外日暮里豊島辺」と改められている。御郭外、つまり城下町の外という意味である。が、明治以降、東京の市街地は郊外にのび、下町が江戸町という意味もうすれ、日暮里も大ざっぱに下町の一部、と称されるようになった、と言っていいのだろう。
  
 吉村昭は、取材や地方公演などで旅行をすると、よく「どちらのご出身ですか?」と訊ねられたらしい。「東京の日暮里です」と答えると、「いったい、どんな字を書くのですか? ……えっ、これで、にっぽりと読むのですか?」と不思議そうに首をかしげる人々に多く出会ったようだ。
 こんなエピソードを聞くと、東京出身でないアナウンサーが小塚原を「こづかはら」、日暮里を「ひぐれさと」などというトンチンカンな発音で読んだとしても、いたしかたないか……とも思うのだが、日本橋を「にっぽんばし」と読んだごく基礎的な教養のない、オバカなテレビ東京の女子アナだけはカンベンできない。わたしが上司なら、「この街のテレビ東京へなんのために就職したんだ? 自分が勤めるTV局のある地元や立ち位置のことを、もいっぺん面(つら)洗って勉強しなおしてこい!」と、停職6ヶ月の厳重処分だ。
ドロボウヤンマ(オニヤンマ).jpg
ギンヤンマ♀(チャンヤンマ).jpg
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 さて、吉村昭の本で「ドロ」ヤンマあるいは「ドロボウ」ヤンマという言葉を、ほんとうに久しぶりに聞いた(読んだ)。わたしの世代では、すでにつかわなくなってしまった言葉だが、わたしが小学生のころ渓流沿いにオニヤンマClick!を探していると、「いた、ドロボウヤンマだ!」と親父が教えてくれた。ほかではあまり耳にしない用語なので、おそらく「江戸町」=東京の下町方言なのだろう。
 「チャン」がギンヤンマの♀、「ギン」がギンヤンマの♂というのも、日本橋の方言と同じだが、日暮里には緑が多く残されていたせいか、「オクルマヤンマ」も出没していたらしい。「珍種として尾の先端に車状のものがついたオクルマ」と吉村昭が書くトンボは、もちろんウチワヤンマのことだ。さすが日暮里は閑静な別荘地だったせいか、昭和10年代までウチワヤンマが見られたようだ。もっとも、空気も水もきれいになっている昨今、下落合に「ドロボウ」や「ギン」「チャン」の姿が見られるように、道灌山ないしは諏訪台の周辺にも「オクルマ」がもどってきているかもしれない。
 1936年(昭和11)7月25日早朝に起きた、上野動物園から脱走した黒ヒョウ事件も、吉村昭はハッキリ憶えているようだ。うちの親父は11歳の小学5年生だったが、黒ヒョウ脱走事件のことは何度も聞かされているのでよく知っている。ヒョウはネコと同じで、おもに夜間に行動する動物で移動距離も長く、夜になると上野(下谷)から浅草、日本橋、京橋、銀座など大川(隅田川)西岸の繁華街は、火が消えたように人通りもまばらになった。真夏だというのに、家々には雨戸が立てられ、寝苦しい夜をすごしたので、子どもたちの印象に強く残った事件なのだろう。
 当時の東京日日新聞では、「黒豹脱走 帝都真夏のスリル!」と半ば楽しげな活字が躍っているので、夜な夜な黒ヒョウが徘徊する東京の街に、ワクワクしている人たちもたくさんいたのだろう。東京美術学校Click!(現・東京藝術大学)の近くで足跡が発見され、谷中や日暮里の方角へ逃走した可能性があるため、その方面の住宅街ではパニックになっていたのかもしれない。翌26日の午後5時30分すぎ、黒ヒョウは東京府美術館Click!(現・東京都美術館)近くのマンホールでゴロニャンしていたところを見つかり、捕らえられて檻へもどされた。
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 いまでも存在するのだろう、このマンホールが都美術館のどのあたりにあるのか、今度時間があるときにでも調べて訪ねてみたい。マンホールの蓋に、東京都のマークとともに黒ヒョウがデザインされていたら、すぐにわかりシャレてて面白いのだけれど……。

◆写真上:今年はCOVID-19禍で開かれなかった、繰りだす神輿が百数十基で氏子数が150万人超の日本最大といわれる神田明神社の天下祭り=神田祭。
◆写真中上は、道灌山(諏訪台)にある諏方社の広い境内と拝殿(奥)。は、諏方社の属社のひとつで荒神社Click!。大鍛冶(タタラ)が適するバッケ(崖地)に、荒神社が残るのは目白崖線も諏訪台も同じだ。は、道灌山から日暮里界隈(旧・新堀村)の眺め。
◆写真中下は、江戸東京方言で「ドロボウヤンマ」ことオニヤンマ。は、「チャンヤンマ」ことギンヤンマの♀。は、「オクルマヤンマ」ことウチワヤンマ。
◆写真下は、1936年(昭和11)7月25日に発行された東京朝日新聞の夕刊。は、同年7月27日に発行された東京朝日新聞の朝刊。は、捕獲された黒ヒョウ。

自由学園の関東大震災。

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自由学園の全校清掃.jpg
 1923年(大正12)9月1日、竣工から1年と2ヶ月がすぎた自由学園Click!の新築校舎は、未曽有の揺れに襲われた。この年の4月、自由学園で2年間をすごした高等科の第1回卒業式が行われ、卒業生のために研究科(大学の専門課程に相当)が設置されている。また、食堂Click!には帝国ホテルClick!で上演した舞台Click!の収益金をもとに、遠藤新Click!が設計したテーブルやイスが一式そろった。海外からの来園者も多く、植物学者のハンス・モーリッシュやポーランドのルビエンスキー伯爵らが来園し講演している。
 これまで、落合地域をはじめ高田町Click!(山手線内側の雑司ヶ谷エリア)や戸塚町Click!など周辺域も含め、関東大震災Click!のときの状況を少しずつ書いてきたが、今回は山手線外側の高田町雑司ヶ谷界隈(旧・雑司ヶ谷6~7丁目=現・西池袋)にある自由学園の記録をベースに、震災時に活動した女学生たちの様子をご紹介したい。
 夏休みが終わろうとする直前に起きた大震災のとき、羽仁夫妻は軽井沢で静養中だった。まず、9月2日に羽仁吉一Click!が東京にもどり、つづけて5日には羽仁もと子Click!が帰京している。武蔵野台地の一部である豊島台の上は、平地部に比べ揺れが少なかったとみられ、自由学園でも被害はほとんどなく、校舎の窓ガラスが1枚割れただけだった。近くに住む本科の生徒や高等科の女学生たちは、校舎の無事を確認するために集まってきたが、大震災から1週間をすぎるころになると、市内の電車が全面ストップしているため、東京各地から弁当持参でキャンパスめざして歩いてくる女学生たちが増えはじめた。9月11日に予定されていた始業式(実際は中止されていた)には、40人前後の女学生たちが集まったが、全員が寝不足と食糧不足で栄養失調のような容姿だったという。
 東京じゅうの学校が休校になる中、4月16日(日)に山手線が開通する見通しになったのをきっかけに、自由学園は日曜であるにもかかわらず始業式を敢行している。当日、山手線が運行をはじめているのを知らず、友人同士が誘い合って早朝から昼ごろまでかかり、学園まで延々と歩いてくる女学生たちも多くいたようだ。この日、登校できたのは60人余で、地方に帰省している女学生は始業式に参加できなかったが、本科の生徒と高等科の女学生たち在校生全員の無事が確認された。
 日曜日の始業式は、2学期に予定された学習のスタートではなかった。翌日から震災の報告書づくりにかかり、9月18日からの1週間、女学生たち全員が震災体験レポートを発表している。中には、北海道からひとりで汽車や船を乗り継ぎ、不通の路線は歩いて自由学園にたどり着いた本科1年生(おそらく13歳前後)のレポートもあった。報告会のあと、2学期をどのようにすごすべきかが話し合われ、午前中の時間は授業に使い、その他の時間はすべて大震災の被災者に対する支援活動にあてることが決議されている。
 まず、彼女たちは「常務」「整理」「奉仕」の3つの委員会を設置し、全学生の担当を決めている。常務委員会は、学園内のさまざまな事務処理や連絡業務、情報収集を担当するグループで、学校機能を回復し維持継続させるCPUやネットワークのような存在だった。整理委員会は、大震災で破損した器物の整理や補充、学園内に設置された避難室の秩序維持、購買・仕入れなど渉外業務、学園外の組織との外交などを担当している。そして、奉仕委員会は被災者の支援を行うため多くの女学生たちが所属し、「着物づくり」「布団づくり」「ミルク配り」「給食づくり」などを行っている。特に「ミルク配り」は被害が大きかった本郷地域で、「給食づくり」はほぼ全滅した被服廠跡Click!も近い本所地域の現場で、100日間つづけて実施されている。
巣鴨町から見た下町の猛火.jpg
高田町から見た下町の猛火.jpg
 これらの活動の経費は、すべて自由学園が行った募金活動や、羽仁夫妻が主宰する婦人之友社が集めた義援金でまかなわれた。また、被災者支援が本格化してくると、午前中の授業もつぶして早朝から支援活動に入る女学生たちも少なくなかった。その中には、本郷地域で行われていた「ミルク配り」がある。自由学園では東京市社会局と連絡をとって、コンデンスミルクの大缶を被災地の警察署に配送してもらい、地域で赤ん坊がいる家庭に配りはじめた。1985年(昭和60)に自由学園女子部卒業生会から出版された、『自由学園の歴史 雑司ヶ谷時代』所収の「ミルク配給の記」から引用してみよう。
  
 朝八時には体操服に『東京聯合婦人会』と書いた腕章をつけた二十人ばかりが集まってくる。そしてその日のミルクを受取ると、四班に分かれてめいめいの持場所に出かけてゆく。一軒ずつ訪ねてゆくうちに赤ちゃんをみかけると嬉しくて、調査票に書きながら、何といってふろしきからミルクを出してあげようかと、お母さんの顔をちょっと見上げる。赤ちゃんを笑わせてみたくなる。『この辺は火が早うございましたのでね』と忘れていたあの日の話までがおかみさんの口から出るほど親しくなってしまう。(中略) 一週間たつ頃には、私たちを見つけて『お母さん、おっぱいがきた』と駆けてゆく子、『昨日から娘が悪くて寝ておりますが、ミルクを頂けませんかしら』といってくるおかみさんもあった。『赤ん坊があったのですが、乳がなくて二日ばかり前に亡くなりました』と話したお父さんを心から慰めてあげられた時に、この仕事の尊さをはっきり思った。
  
 女学生たちが、本郷地域で配り歩いたミルク缶はのべ1,955個、700人を超える母親や病人のもとを複数回訪問しては直接手わたしている。本郷区(現・文京区の一部)の東京聯合婦人会には、5,000個を超えるコンデンスミルクの大缶がとどけられていたが、そのうちの約40%を自由学園の女学生たちが配布したことになる。
 また、10月に入ると、女学生たちは本所区(現・墨田区の一部)で給食の炊き出し支援に出かけている。一帯は焼け野原で、小学校の校舎も全焼してしまったため授業はテントの下で行われており、給食づくりもテントの下で進められた。食器が割れて不足しているので、児童生徒を半分ずつに分け女生徒から先に昼食をとらせている。
山手から見た下町の猛火1.jpg
山手から見た下町の猛火2.jpg
 本所の小学校では、震災で犠牲になった教師も多く、生徒全員が登校してしまうと教師が不足し、教室がわりにしているテントも足りないため、全校生徒を半分に分けて1日交替で登校させるようにしていた。したがって、給食のメニューも2日間は同じものをつくって子どもたちに食べさせている。その様子、同書から再び引用してみよう。
  
 十月に入ってからは、最も災害の大きかった被服廠跡に近い本所太平小学校の二百名の子供たち-焼跡のテント内で勉強する貧しい家庭の小学生-のための豚汁、五目飯などの温かい昼食づくりに、百日間懸命な奉仕をつづけた。給食の必要経費三五〇〇円、その半分は、ミセス羽仁(羽仁もと子)ご自身が歩いて集められた寄付により、半分は婦人之友の読者の醵金によって実現されたのだった。(カッコ内引用者註)
  
 羽仁夫妻は、「先生」と呼ばれることを拒否したため、女学生たちは話し合って羽仁吉一を「ミスタ羽仁」、羽仁もと子は「ミセス羽仁」と呼んでいた。
 このような支援活動がつづく中、今回の関東大震災はなぜ起きたのかを知るため、10月5日に米国の地震・火山学者トーマス・ジャガーを自由学園に招き、さっそく講演してもらっている。ジャガー博士は講義の中で、「今度の地震は相模湾近くに震源をおく火山性のものらしい」と説明しているが、今日の科学から見れば関東大震災は相模トラフに起因するプレート性地震だった。だが、耐震都市の構築に関する課題やテーマは今日にも通用するもので、「今後の日本の建築は公共物のみならず、一般住宅も耐震耐火の設備が必要だ。そうして道路の幅を広げ、所々に公園をおくようなことには、婦人の聡明な努力が加わらなければならない」と講義を結んでいる。
 自由学園の地元・高田町(現在の目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)では、延焼被害が少ないのに小学校の授業が再開できずにいた。そこで、女学生たちの多くが支援活動で留守だった自由学園の校舎を使い、同学園ならではのユニークなボランティア授業を行っている。後方支援の在留組だった高等科の女学生6人が、小学1年生から6年生までの「担任」となり、低学年には童話を読んだり音楽を教えたりした。小学校の高学年には、国語や算数の復習をしたり、同学園の教師が協力して特別に英語を教えたりしている。
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 このボランティア授業が高田町で評判を呼び、ついには近隣の130名以上の小学生が通ってくるようになった。ひょっとすると高田町ばかりでなく、自由学園が近いすぐ隣りの西巣鴨町(池袋地域)や下落合からも、通ってきていた子がいたのかもしれない。

◆写真上:自由学園の掃除の様子で、班割りと仕事が決まって取りかかる女学生たち。
◆写真中上は、1923年(大正12)9月1日の午後に巣鴨町から見た(城)下町方面の大火災の様子。は、同様に高田町あたりから見た大火災の煙。
◆写真中下は、山手の丘陵地帯から眺めた関東大震災の大火災。
◆写真下は、ポーランドの当時は美術家として知られたルビエンスキー伯爵の講演記念写真で、夫妻の右横にいるのは遠藤新Click!は、本郷を中心に行われたミルク配りの様子。は、地震学者のT.ジャガー博士による講演会の記念写真。

大火災のときは手ぶらで逃げろ。

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谷中墓地.JPG
 大火災が発生しているとき、その周囲にいる人々の毛髪や衣服、荷物などが極度に乾燥し、火の粉がひとつぶ飛んできても発火して、たちどころに全身が火だるまClick!になってしまう現象は、関東大震災Click!でも東京大空襲Click!でも目撃された事実だ。「大火事の周辺には近づくな」という教訓は、火事が多かった江戸期からの伝承なのだろう。
 わが家では、この教訓とともに大火災のときには、「大きな川筋には近づくな」というのもある。大火災によって急激に膨張した空気により、ときに風速50mを超える火事嵐が発生し、大火災の炎が水平になって迫るほどの強風が生じるか、あるいは遮蔽物のない川筋では風速100m超とみられる火事竜巻が発生しやすいためだ。その現場では、大火流Click!が吹きつけることで空気中の酸素が急激に奪われ、焼死の前に窒息死Click!してしまう事例も少なくなかった。戦時中では、日本橋浜町の明治座Click!の大惨事が有名だが、山手では喜久井町(早大喜久井町キャンパス)の大型防空壕Click!や、江戸川公園の目白崖線に掘られた大型防空壕Click!での、数百人におよぶ惨事が語り継がれている。
 日暮里Click!に住んでいた吉村昭Click!の家では、大火災が発生しているときは「荷物を持たずに手ぶらで逃げろ」が、関東大震災からの家訓として伝わっていたようだ。1985年(昭和60)に文藝春秋から出版された、吉村昭『東京の下町』から引用してみよう。
  
 十一年前に、私は「関東大震災」という記録小説を書き、当時の資料に眼を通したが、荷物が恐しい、と言った父の言葉が正しいことをあらためて感じた。本所被服廠跡では、実に三万八千余という人が焼死したが、その原因は持ちこまれた荷であった。二万坪の避難場所であった空地に、四万名と推定される人たちが荷とともに入りこんだ。空地が火におおわれる少し前の写真をみると、乱雑な家具置場さながらで、家財の中に人間がいて、瞬間的にそれらが火となり、多くの人が焼け死んだのである。/また、背に包みを背負った人も、包みが燃えて死んでいる。浅草寺とその境内が、周囲が残らず焼きはらわれたのに焼失をまぬがれたのは、そこに入ろうと押しかけた人々の手にしたり背にしたりしていた物を、警察官や寺の者がことごとく捨てさせたからである。/現在、地震対策の一つとして非常用持出し袋などが売られているが、害あって益なしと言っていい。
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 吉村昭は、非常用の持ち出し袋の危険性を指摘しているが、火災が起きていない場合は非常袋は生命をつなぐグッズとしては有効だろう。
 だが、ひとたび大火災が起きた場合には、背中や肩にかけた布製またはビニール製の非常袋(テントなど含む)が命とりになるのを記憶しておきたい。火炎による極度の乾燥のため、火の粉ひとつで一瞬のうちに燃え上がり、全身火傷で焼死する危険性が高いからだ。火炎が近づいたり、大火災の近くを通過する際は、荷物を棄てるのが生き延びる術だと、過去の多くの事例が教えてくれている。
 もうひとつ、関東大震災の当時は家庭でめずらしくなかった、機密性の高い土蔵でよく起きた現象だが、今日でも機密性の高いコンクリート建築などでは想定できるリスクだろう。それは、大火災にみまわれた地域で、燃えずに焼け残った土蔵で見られた現象だ。外見からは、焼け残っているように見えても、中には火種がくすぶっている場合が多く、かすかに煙が立ちのぼっていたりする場合には、よけいに近づかないほうが安全なのだ。
 機密性が高いため、土蔵内部の酸素が周囲の大火災によって欠乏し、燃焼が抑制されているだけで、空気が入れば極度に乾燥している内部は一瞬で燃え上がる。そのような土蔵の扉戸を不用意に開けたりすると、いわゆるフラッシュオーバー現象が発生して瞬時に炎に包まれることになる。これは、親父も日本橋地域の空襲時での出来事として話していた憶えがある。今日では、機密性が高く強化ガラスが使われたコンクリート建築のマンションや住宅が、当時の土蔵に相当するリスクを抱えているといえるだろうか。
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 日暮里地域の吉村家は、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!で全焼しているが、空襲のあと自宅の焼け跡に立った吉村一家の会話を、2001年(平成13)に筑摩書房から出版された吉村昭『東京の戦争』から引用してみよう。
  
 茶碗や皿は原型を保っていたが、高熱にさらされていたのでもろく、手にしただけで割れるものが多かった。薬缶、鍋などはつぶれたりゆがんだりしていた。/焼跡の中で突き立っているのは、土蔵と金庫だけであった。/それに眼をむけた父は、/「あれは駄目だ。中に火が入っている」/と、言った。/煙の量は少しずつ増し、やがて一瞬、土蔵は炎につつまれた。私は、父の予測通りだと思い、それが関東大震災に遭遇した父の体験から得たものだということを知っていた。
  
 炎上する過程で窓ガラスが割れていれば、特に危険性はないように思えるが、今日の耐火や耐震の強化ガラスで割れていないコンクリート建築の場合は、上記の土蔵と同じようなフラッシュオーバー現象が起きる危険性が高い。内部あるいは周囲に火種が残っているにもかかわらず、大火災の直後などに「焼け残った~!」と安心してドアを開けたりすると、一瞬の爆発的な発火で吹き飛ばされるか炎に包まれるリスクだ。
 余談だが、第1次山手空襲の直後、日暮里とその周辺の街々で大火災が発生しているにもかかわらず、山手線は通常どおり運行を開始していたようだ。吉村一家は、谷中墓地に避難していて難をのがれたが、翌4月14日の早朝に大火災が発生している中、定時どおり始発電車が運行する山手線を眺めて、奇異な感覚にとらわれている。
 4月13日の夜間に来襲したB29の大編隊は、翌14日の未明にかけておもに乃手Click!に展開する鉄道沿いや幹線道路沿いの駅、住宅街、工業地域、繁華街などをねらって爆撃している。山手線の環状北側にあたる各駅周辺は、このときの空襲による集中的な爆撃で被害を受け、駅周辺では大火災が発生していたはずだが、それでも始発から山手線を運行しようとしていた鉄道職員たちがいたようだ。同書より、再び引用してみよう。
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 避難していた谷中墓地から日暮里駅の上にかかっていた跨線橋を、町の方へ渡りはじめた時、下方に物音がして、私は足をとめ見下ろした。/人気の全くない駅のホームに、思いがけなく山手線の電車が入っていて、ゆるやかに動きはじめていた。物音は、発車する電車の車輪の音であった。/町には一面に轟々と音を立てて火炎が空高く噴き上げているのに、電車がホームに入りひっそりと発車してゆくのが奇異に思えた。電車は車庫に入っていたが、鉄道関係者は沿線の町々が空襲にさらされているのを承知の上でおそらく定時に運転開始を指示し、運転手もそれにしたがって電車を車庫から出して走らせているのだろう。
  
 関東大震災のときとは異なり、烈震で線路土手の一部が崩壊したり、レールが震災でゆがんでいる心配はなかったのかもしれないが、軌道上に250キロ爆弾でも落とされて、線路そのものや駅のプラットホーム自体が吹き飛ばされていたらどうするつもりだったのだろうか? 通信も途絶していたはずで、当然、職員たちもその危険性を十分に認識していたはずだが、米軍に対する敵愾心から線路わきで危険な大火災が起きているにもかかわらず、意地でも山手線を動かしていたのかもしれない。
 吉村昭の文章に、焼け残った「金庫」が登場しているが、彼の父親は「少くとも一週間は扉をあけてはいけない」といっている。これも関東大震災の教訓のひとつで、土蔵とまったく同じ現象が起きるからだ。金庫の内部は、大火災で熱せられて高温かつ超乾燥状態のままであり、扉を開けて外気を入れたとたん一瞬で発火してしまうからだ。
 関東大震災のときは、大火災から焼け残った銀行や企業、商家の大型金庫が、盗難の心配から冷めるのを待たずに開けられ、たちどころに内部から発火して焼失し死傷者も出ている。吉村昭の父親は、それを印象深い大火災時の2次災害として記憶していたわけだ。吉村家の金庫は、その後1週間ではなく、空襲から10日もすぎてから開けられたが、発火することなく中身のものはすべて無事だったようだ。
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 山手空襲に先だつ、3月10日未明の東京大空襲Click!でわが家は全焼しているが、日暮里の空襲よりも大火災の勢いが圧倒的に強かったのだろう、土蔵の内部も金庫の中身もすべて丸焼けだった。そのとき発生した大火流は、金属Click!をも容易に溶かすほどの高熱だった。

◆写真上:吉村一家が避難した、いまやネコだらけの高台にある谷中墓地の夕暮れ。
◆写真中上は、住宅街における夜間の焼夷弾攻撃。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる日暮里駅とその周辺。谷中の寺町側は焼け残っているが、吉村家があった日暮里の街は焼け野原だった。は、谷中墓地内にあった天王寺の五重塔礎石。吉村家が空襲から避難した当時は、いまだ五重塔が暗闇にそびえていただろう。
◆写真中下は、B29から撮影された夜間の街に投下される焼夷弾と燃え上がる市街。は、大火災が迫る住宅街。は、日暮里駅周辺の空襲被害地図。
◆写真下は、戦争末期にB29から撮影された喜久井町の大型防空壕があった夏目坂界隈の様子。は、1945年(昭和20)3月10日に高高度から撮影された東京市街地の惨状。

目白駅(地上駅)前の大谷石階段。(上)

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 目白駅の脇にある階段を下りた金久保沢Click!に、戦前からつづく「塩ノ屋」旅館という古いビジネス宿があった。豊坂のバッケ(崖地)Click!の陰になっていたせいか、二度にわたる山手空襲による延焼からもまぬがれ、南へ崖沿いに100mほどの細長い区画に建っていた家屋群は、戦後までそのまま焼けずに残っていた。
 その塩ノ屋旅館が、今年になって建て替え(あるいは閉業?)のために解体された。建物がなくなったせいで、その裏側のバッケ(崖地)にあった使われなくなって久しい、かなり古い時代に造られたとみられる大谷石の階段が姿を現した。豊坂を歩いていて、空き地になった塩ノ屋跡をふり返って気がついたのだ。当初は、崖上に上がる近道ために、戦前から設置されていたものだろうと気軽に考えていたのだが、その造りの古さが気になり、改めていろいろな角度から観察してみた。
 豊坂稲荷(八兵衛稲荷)Click!のある豊坂は、目白駅が橋上駅化Click!される1922年(大正11)以前は、地上駅のちょうど駅前にあたる丘上に通っていた坂道だ。現在は、豊坂の下部に大谷石の擁壁が多少残っているだけで、大谷石階段のある場所も含め、大部分は戦後のコンクリート擁壁に造りかえられている。つまり、当初は諏訪谷Click!の突き当りに築かれた擁壁のように、あるいは目白文化村Click!第四文化村Click!にみられる擁壁と同様に、崖地全体が最高所で10m前後の大谷石による擁壁で覆われていたとみられる。くだんの大谷石階段は、その構築時と同期で設置された可能性が高い。
 さて、地上駅の駅前にあたる金久保沢の崖地が、自然崖の状態から豊坂を含む急斜面の崩落を防止するために、大谷石による擁壁が構築されたのはいつごろだろうか。1/10,000地形図を参照すると、1909年(明治42)の地図では自然の崖地表現のままだが、たとえば1916年(大正5)の大正初期には擁壁が築かれたのか、すでに規則性のある人工崖の表現に変更されている。つまり、豊坂下に残る大谷石の擁壁や、塩ノ屋旅館跡から出現した大谷石階段は、同旅館が開業するはるか以前の明治末ないしは大正初期、目白駅(地上駅)前に構築されたものだと推定することができる。
 では、なぜこんな場所に階段が設置されたのだろうか? 明治末から大正初期の状況を踏まえながら、その理由について考察してみたい。目白駅前にあたるこの場所に、大谷石階段のニーズが生じたのには、たとえば次のような理由が考えられるだろうか。
 ①崖線上の下落合を含む一帯に予定されていた、駅前宅地造成地への近道のため。
 ②高田倉庫などの施設を建設する際に、なんらかの事情で必要になったため。
 ③坂上に山手線をまたいだ、白鳥支線の小型の高圧線受変電設備があったため。
 ④この階段上にあった小祠、私設稲荷、墓地などへ参詣するための参道階段として。
 ⑤単純に豊坂の中途にある、学習院から移転後の豊坂稲荷への参道階段として。
 この中で、はかなり考えにくい。江戸期から明治期にかけての金久保沢界隈は、下落合村と高田村の入会地であり、周辺農家の墓地が設置される可能性は低いし、そのような記録は見たことがない。また、大谷石階段の上にあたる地点、すなわち高田村金久保沢1129番地(現・目白3丁目1番地)は、明治期から個人の所有地(地主:島田家)であり、古くからの小祠や勧請された稲荷があったという記録も見えない。さらに、坂の途中にある豊坂稲荷と大谷石階段とは直線距離で30mほど大きくずれており、参道が目的の階段であればもう少し坂下に設置するだろう。大谷石階段は明らかに坂の上へとのぼり、丘上の下落合方面へと抜ける目的で造られたとみられる。
 では、「①崖線上の下落合を含む一帯に予定されていた、駅前宅地造成地へ近道のため」の可能性はどうだろうか? 中村彝Click!が1916年(大正5)、下落合464番地へアトリエを建設する以前から、豊坂を上がった丘上に熊岡美彦Click!のアトリエが建っていたことを、彝アトリエの竣工直後に訪問した鈴木良三Click!が証言している。つまり、大正の最初期から豊坂の丘上で、すでに宅地開発が行われていた可能性が高いのだ。山手線・目白駅(地上駅)前にあたるこの丘上は、当時としては格好の郊外住宅地だったろう。
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 当時、地上駅の改札を出た人が丘上へとのぼるためには、改札の右手(北側)にある豊坂の下までわざわざ大きくまわりこんで、遠まわりをしなければならなかった。地上駅の改札から、豊坂経由でグルリと迂回して丘上に出るまではおよそ130mだが、大谷石階段をあがれば同じ坂上の地点まで半分以下の50m余でたどり着くことができる。大正初期に行われた宅地造成と、ショートカットの大谷石階段とは深い関連がありそうだ。
 高田村の金久保沢一帯の土地は、大正初期の時点で東京土地住宅Click!箱根土地Click!など大手ディベロッパーが入りこむ余地がなく、鉄道院が買収した一部用地を除けば、ほとんどが高田村の有力者たちの所有地だった。少し名前を挙げてみると、こちらの記事でも登場している新倉徳三郎Click!をはじめ、島田勝太郎、島田定吉、島田鎌吉、清水精三郎、島田熊、田嶋三郎、新倉彦太郎などの名前が見える。この中で、豊坂下の塩ノ屋旅館のあった敷地(山手線寄りは鉄道院敷地)を所有していたのは島田勝太郎であり、豊坂の両側は島田定吉、大谷石階段の上は島田鎌吉の所有地となっている。これら高田村の有力者たちの人名は、豊坂稲荷(八兵衛稲荷)の玉垣でも確認することができ、学習院の敷地から遷座してきた同稲荷自体の境内も、島田家が敷地を提供したと思われる。
 高田村の大地主だった島田勝太郎について、1937年(昭和12)に出版された『豊島区大総覧』(すがも新聞社)から引用してみよう。なお、島田勝太郎の自宅は明治期から高田村大原1665番地(現・目白2丁目)の、いまでいえば川村学園の裏あたりにあった。
  
 豊島区会議員 土地賃貸価格調査委員  島田勝太郎 目白町2丁目1665番地
 氏は明治十九年土地の名門島田家の嗣子として現住所に生れ、若冠十九歳にして家督を継いだ、大正十年には推されて高田町会議員となり爾来再選せられて昭和七年十月市郡併合まで引続きその職に在つた、昭和七年十月の第一次豊島区会議員選挙にも推されて立候補当選し後ち区学務委員に挙げられた。/昭和十一年十一月の区会議員改選に際しても再び推されて当選し現に保健衛生委員、根津山聖蹟保存委員等を兼ね豊島区内に於て隠然たる声望を有して居る、亦昭和十二年八月には土地賃貸価格調査委員に推されて当選した。
  
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 この島田家が、八兵衛稲荷社の遷座あるいは目白駅(地上駅)前の宅地開発に関連して、豊坂沿いの大谷石による擁壁を構築し、同時に丘上へと抜けられる近道の大谷石階段を設置したと考えるのは、非常にリアルな推測だろう。だが、この大谷石階段は1916年(大正5)になると、駅前の大規模な施設の裏側に隠れてしまうことになる。山手線の目白貨物駅Click!にとどく荷を集積する、物流拠点としての高田倉庫が建設されるからだ。
 そこで、「②高田倉庫などの施設を建設する際に、なんらかの事情で必要になったため」について考えてみよう。大谷石階段が、目白駅(地上駅)前の丘上に拡がる宅地開発ニーズから設置されたものでなく、1916年(大正5)の高田倉庫(収容面積100坪)の建設とシンクロして設置されたと仮定すると、その目的はなんだろうか?
 高田倉庫には1921年(大正10)ごろになると、通信の重要性が増したのか自動電話が設置されている。物流拠点としての高田倉庫の建設について、1919年(大正8)に高田村誌編纂所から出版された『高田村誌』より、当該箇所を引用してみよう。
  
 高田倉庫株式会社
 大正五年十二月二日の開庫に係り、其急転直下の発展は寔に目ざましいものである 即ち之が土地の発展進歩を伴ふて、趨勢の止むべからざるものがあつて茲に設立せ(ママ:ら)れたると、且は之を利用して利徳の多大なるものがあるため、加ふるに高田倉庫を経営発展せしむるのに、適当なる適任人物を得たることによる。/而して此高田倉庫の設立せられた由来を訊ぬるに、土地そのものゝ進歩につれて本村有志、就中高田銀行の株主と其提携を同じうして、二者の関係は頗る密接離るべからざる関係である。(中略) 倉庫としては目白駅前に二棟(百坪)、池袋駅に数棟(百数十坪)とを有し、何れも大倉庫であることは世人の夙に知悉してゐる所である、開庫以来今日に到る、倉庫は常に充満の体である、現在も在荷なほ十数万円の価格に昇り、輻輳として取引怱忙を極めてゐる、寄託物の種類は種々の商品であるが、穀類即ち米雑穀等を其大部分としてゐる。(カッコ内引用者註)
  
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 高田倉庫の役員には、吉倉清太郎や篠房輔、足達安右衛門、一杉平五郎、天田隣八、大塚藤平、新倉徳三郎などの名前があるが、敷地の半分以上を所有する島田勝太郎の名前がない。文中にもあるが、地主系の人脈ではなく高田農商銀行Click!(当時「高田銀行」と表記されることが多い)の頭取や大株主など、高田村の金融系の有力者が名を連ねている。
                                <つづく>

◆写真上:塩ノ屋旅館の解体で出現した、大正初期の構築とみられる大谷石階段。
◆写真中上は、解体される前の塩ノ屋旅館の門前と豊坂。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる二度の山手空襲から焼け残った豊坂沿いの一画。は、上空から見た解体前の塩ノ屋旅館および塩谷邸と大谷石階段。(Google Earthより)
◆写真中下は、1906年(明治39)の1/10,000地形図にみる目白駅(地上駅)の駅前。学習院の構内から八兵衛稲荷(豊坂稲荷)が遷座する前年の地図で、豊坂も存在せず地形は自然の崖線表現で描かれている。は、崖地周辺の土地を所有していた島田勝太郎()と、1937年(昭和12)に出版された『豊島区大総覧』(すがも新聞社/)。は、1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる豊坂とその周辺。駅前には高田倉庫が建設され、擁壁が築かれたとみられる豊坂沿いの上には遷座した八兵衛稲荷(豊坂稲荷)の鳥居が採取されている。
◆写真下は、ところどころに修復跡が見える豊坂から眺めた大谷石階段。は、1919年(大正8)に制作された高田倉庫の媒体広告。は、別角度から見た大谷石階段。

目白駅(地上駅)前の大谷石階段。(下)

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 高田倉庫とみられる大きな建物は、1916年(大正5)の1/10,000地形図を参照すると、目白駅(地上駅)の駅前右手、塩ノ屋旅館の敷地を含む山手線沿いの道路に面し広く建てられており、島田勝太郎の所有地に加え、線路側の鉄道院(1920年より鉄道省)の敷地も借用して建設されているとみられる。
 『高田村誌』には2棟(100坪)と書かれているが、1/10,000地形図に採取された建物の形状は「コ」の字型をしており、中央の繋がった部分が高田倉庫の事務オフィスで、その両側(東西)に2棟の倉庫が建っているように見える。
 しかし、倉庫の荷は山手線の側から、すなわち目白貨物駅Click!に到着した荷物は目白駅(地上駅)北側の踏み切りをわたり、東側から運搬されて倉入れされ、逆のケースでも東側へ倉出しされて物流ルートに乗せるか、あるいは付近の拠点に向けて配送されるのであって、高田倉庫の裏側、つまり西側に階段を設置する意味がわからない。西側の丘上は、大正半ばにはすでに宅地化が進んでおり、やはり大谷石階段Click!は高田倉庫の建設以前から、既存のものとしてそこに設置されていた……と解釈するほうが合理的だろうか。
 ただひとつ、階段設置の可能性をひねりだすとすれば、高田倉庫には小型クレーンのような物流重機が庫内の設備として設置されており、それを稼働させる高圧電流が必要だったと考えることはできる。それには鉄道(山手線)側、あるいはさらに東側にある東京電燈の高圧線(早稲田変電所Click!)から支線を引きこまなければならず、大谷石階段の上には小型の受変電設備(電源小屋)が設置されていた……という推測も成り立つだろうか。1916年(大正5)の1/10,000地形図を参照すると、階段の崖上と思われる位置に小屋のような、小さな建築物を確認することができる。大谷石階段は、同受変電設備をメンテナンスするための保守要員が上る階段ということになる。だが、これはあくまで推測にすぎず、なんら裏づけとなる資料も証言も存在していない。
 高田倉庫は大正末になると、元の位置から南へ移転して倉庫の数も増え、庫内面積も飛躍的に増大している。目白駅が橋上駅化Click!された1922年(大正11)以降に移転しているとみられ、元の倉庫があった位置には、1925年(大正14)作成の「大日本職業別明細図」によると外山運送店と鉄道荷物司護所が、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」によれば内田通運や高田石材店、社宅、個人邸などが建ち並び、鉄道省の用地には鉄道荷物司護所あらため鉄道小荷物預り所が開設されている。
 ただし、1916年(大正5)に高田倉庫が設置されたあとも、目白駅(地上駅)前のすぐ目の前に位置する大谷石階段は、そのまま丘上に出られる近道として使われていたのかもしれない。なぜなら、階段の左手には鉄の手すりを取りつけたとみられる跡が残り、また階段右手の擁壁を大谷石からコンクリートに改築する際(現在のコンクリート擁壁より、一時代前のコンクリート擁壁)、階段の右端の擁壁側をコンクリートで継ぎ足しているからだ。その時点で、大谷石の階段が使用されておらず用済みであったなら、そんなていねいで細かな施工は必要なかっただろう。むしろ、階段ごと撤去されてもおかしくはなかった。
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 もうひとつの、「③坂上に山手線をまたいだ、白鳥支線の小型の高圧線受変電設備があったため」という仮定はどうだろうか? 先ののテーマとも重なってくるが、宅地開発には近くの高圧線から電力線(変圧して電燈線)Click!用の支線を引いて、目白文化村Click!のような共同溝でもない限り電柱を建てなければならない。下落合(中落合・中井含む)の東部は、目白崖線の通う南側には東京電燈谷村線Click!から引かれた「氷川線」Click!が、同じく北側には椎名町方面の高圧線から引かれた「近衛線」が通っている。(その境界となる七曲坂Click!には、氷川線から引かれたとみられる七曲支線が通う) ところが、金久保沢から丘上にかけては氷川線でも近衛線でもなく、「白鳥支線」が引かれているのだ。
 「白鳥線」とは、その名のとおり早稲田変電所から白鳥池があった江戸川橋や大曲の白鳥橋界隈へとのびる電力線であり、その支線とみられるラインが山手線を越えて、西側の目白駅周辺までとどいていたことになる。ただし、早稲田変電所のある山手線の内側(東側)から、山手線の外側(西側)である目白駅(地上駅)前に電力線を引くには、貨物駅も設置された幅が広い山手線を横断しなければならない。
 ある程度の高度をもった電柱が、たとえば山手線東側の椿坂Click!沿いに連なっていたとすれば、その高度を維持しながら目白貨物駅を経由して山手線西側に引き入れる際には、やはりある程度高度のある場所が必要となりそうだ。地上駅には跨線橋も架かっていたので、駅舎やホームなどの建造物をまたぐには(跨線橋を利用した可能性もある)、西側の高い位置に受変電の設備小屋を設置するのが、都合がいいし効率的かつ合理的だろうか。
 すなわち、丘上の住宅地に供給する電燈線用の受変電設備が、大谷石階段の上に設けられていなかったか?……という想定だ。この階段の上に、小さな建築物が確認できる大正中期と、丘上の住宅が増えていく時期がほぼシンクロしている点にも着目したい。ただし、そのような小屋に収まるほどのコンパクトな高圧線の受変電設備が、はたして大正の初期から中期にかけて存在したのかどうかという疑問は残るが、当時の工場などに引かれる高圧線の設備を考えると、あながち空想の物語ではないような気がするのだ。
 さて、この階段の役割として、先に①~⑤の理由を挙げてみたけれど、いちばんリアルなのは明治末から大正初期あたりに行われた丘上の宅地開発だろうか。そして、目白駅(地上駅)前に高田倉庫が開業してからも、目白駅(地上駅)前から丘上へと抜けられるショートカットとして同階段は利用されていたが、1922年(大正11)以降に目白駅が橋上駅化され、ここが駅前ではなくなり高田倉庫も南へ移転している時点ではどうだったのだろう。
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 大正末から昭和初期にかけ、いくつかの企業や個人邸が建ち並んでいた時期にも、この大谷石階段はそのエリアに建っていた土屋邸や小笠原邸、岡村邸、梶原邸、そして高田石材店などの人々には利用されていたかもしれないが、すでに丘上にのぼるには豊坂の利用が一般化していたにちがいない。なぜなら、目白駅(橋上駅)の改札は、狭めの駅前広場とともに目白橋の西詰めにあり、下落合方面へ抜けるには住宅や社宅の中にある同階段を利用するよりも、豊坂を上がったほうが効率的だからだ。そしてなによりも、このエリアにあった個人邸や企業は、目白駅や目白通りへ向かう必然性はあっても、逆に西側の丘上にのぼらなければならない用事が頻繁にあったとは思えない。
 さらに、戦前に塩ノ屋旅館が開業した時点で、大谷石階段のある敷地は塩谷家の所有地となり、東側半分にあたる線路沿いの道路に面した鉄道省用地は、鉄道小荷物預り所から国鉄の職員公舎となった。この時点で、大谷石階段は私有地に閉じこめられた存在となり、塩谷家の人々(あるいは宿泊客)以外に誰も利用することができなくなったのだろう。塩ノ屋旅館は空襲でも延焼していないので、同旅館の解体で大谷石階段の全体像が姿を現したのは、おそらく80~90年ぶりぐらいではないだろうか。
 戦後の一時期、大正末には加藤邸だった階段上の敷地(旧・目白町3丁目1138番地)に、塩ノ屋と同じ業種の旅館「花村」が開業している。現在の花ノ山ビルの位置で、栄光ゼミナールが入居している建物だ。この旅館花村と塩ノ屋旅館が、同一の経営者であれば大谷石階段を再利用したのかもしれないが、旅館花村は神林家の敷地内に建てられているように見えるので、両旅館の経営者は別なのだろう。旅館花村の跡地には花ノ山ビルが、神林邸の敷地には低層マンションの「グッドストック目白」が建設されている。
 さて、塩ノ屋旅館が解体された現在、丘上に通う大谷石階段の全体像がよく見えるわけだが、観察しているうちに単純な疑問が湧いてくる。階段の左横に付属していたとみられる、鉄製の手すりは取り外されて久しいとみられるのに、階段自体が撤去されていないことだ。この階段を撤去してしまうとマズイことになる、たとえば土木の構造力学上から擁壁の強度が脆弱になり、丘上にある花ノ山ビルの敷地が崩落する危険性があるのだろうか。
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 もし、大谷石階段が豊坂の側面に連なる大谷石製の擁壁(現在は坂下に一部が残るのみで、大部分はコンクリート擁壁に再構築されている)と不可分一体のもとに設計・施工され、その強度を補強し耐久性を高める目的で設置されたのだとすれば、やはり明治末から大正初期に行われた目白駅(地上駅)前の丘上に拡がる宅地開発の際に、すなわち豊坂稲荷(八兵衛稲荷)の遷座(1907年)とシンクロして豊坂を拓いた大谷石擁壁の構築と同時に、大谷石階段も設置された可能性が高いということになるだろう。いまから、110年ほど前の出来事だった。
                                   <了>

◆写真上:側面から眺めた大谷石階段で、いまだ頑丈な石組みはゆがんでいない。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる目白駅(地上駅)前の様子。は、大谷石階段のクローズアップ。階段の左手には、鉄柵を設置したと思われる支柱や金具、右手には外灯跡らしい突起物が残っている。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる橋上駅の下になってしまった同所。は、当初は右手の大谷石擁壁を支える一部だったとみられる大谷石階段。は、豊坂から丘上にかけて引かれた「目白支線」の電柱。
◆写真下は、1967年(昭和42)の「住宅明細図」にみる塩ノ屋と旅館花村の位置関係。は、1974年(昭和49)の空中写真にみる同所。は、Google Mapの空中写真より。

外交官宅で行儀見習いをした女性の話。

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 この春から、自由学園Click!に通っていた大正期ではもっとも“進んだ”女子たちClick!のことを書いてきたが、では、当時の一般的な家庭における女子は尋常小学校を卒業すると、どのようにすごしていたのだろうか。下落合に生まれて、目白の外交官の家へ行儀見習いに入り、ほどなく商家に嫁いでいる女性の話をご紹介してみよう。
 1911年(明治44)に下落合で生まれた福室マサ子という方は、まだ住宅地化の波が市街地から押し寄せてはこず、離れた農家がポツンポツンと点在している田園風景の中で育っている。川沿いは、春になるとレンゲが一面に咲き、夏になると江戸期と変わらずホタルClick!が舞うような環境だった。護岸工事などされていない、旧・神田上水や妙正寺川Click!の水中には、メダカや沢ガニがたくさんいたころだ。
 1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から出版された『新宿に生きた女性たち』所収の、福室マサ子「落合の農家から商家に嫁いで」から引用してみよう。
  
 山手通りと新目白通りの交差するところを下ると小さな川があって、丸木橋を渡って落合尋常高等小学校に通いました。小学校六年の二学期の始業式が終わって帰ってきたら、関東大震災になったんですよ。地鳴りが続いてとてもこわかったので、外で野宿をしたんですの。家は何ともなかったんですけどね。
  
 語られている時代は大正時代なので、もちろん山手通りClick!新目白通りClick!も存在しない。書かれている小川は、福室家と同様の旧家・宇田川邸Click!の東側に通う市郎兵衛坂Click!から、崖地を下って小さな丸木橋わたる、前谷戸(大正中期から不動谷Click!)の谷底を流れていた湧水流のことだ。
 この小流れは、目白文化村Click!の第一文化村に建立されている弁天社の裏谷に湧水源Click!があり、そこには桃畑に囲まれて弁天池が形成されていた。小川は東南東へ流れ下ると、1923年(大正12)の初夏までに埋め立てられて暗渠化された、第一文化村の追加分譲地Click!の下を流れ、箱根土地本社Click!の庭園「不動園」Click!で湧水池を形成したあと、落合尋常高等小学校Click!(現・落合第一小学校Click!)の西側に開発された第四文化村の谷底を流れ下り、やがては妙正寺川へと合流している。
 当時の小学生は、学校から帰るとたいがい家事(農家なら子守りや農作業で、商家なら商品の配達や開梱・陳列作業など)を手伝っていた。小学生でも家業の重要な戦力であり、特に家が裕福でもないかぎり、なんらかの役割りを分担させられるのがあたりまえだった。当時の下落合は、華族やおカネ持ちの大屋敷や別荘は建っていたものの、いまだ月給とりのサラリーマン家庭はあまり見かけない時代だ。
 高等小学校を卒業すると、彼女はさっそく習いごとに通わされている。もちろん、今日のような茶道や華道、ピアノなどの趣味的な教室ではなく、すぐに生活に役立つ実践的な習いごとだった。同書より、再び引用してみよう。
  
 高等科が終わってから、お弁当を持って裁縫所に通いました。先生は聖母病院の近くの人でみんなで出かけました。あの時分はみんな着物でしたから、縫えないと不自由なんですよ。出来ているものが売っているわけじゃないですから、お嫁に行ってもその日から困っちゃうでしょ。/お店はこの辺には何もなくて、買い物は椎名町まで行きました。油は小野田油屋が売りにきたり、買いに行ったりしました。椿油や胡麻油を計り売りで買いました。/福室の家では、そのころは人を使って百姓をしていました。私もなすやきゅうりをもいだり、草取りしたりして手伝いました。植木をたくさん作っていてそこの草取りが多かったんですね。
  
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 先の山手通りと同じく、国際聖母病院Click!が竣工するのは1931年(昭和6)なので、証言者は場所がわかりやすいよう、現在の目標物を織りまぜながら話している。当時のいい方をするなら、落合尋常小学校の青柳先生Click!の家にちなんで名づけられた、青柳ヶ原Click!の近くに裁縫所があったのだろう。
 これまで、上落合の旧家だった福室家については、福室軒牧場Click!の記事に関連して紹介しているが、下落合西部の旧家だった福室家については、おそらく拙ブログでは初出だろう。落合尋常小学校への通学路の様子や、目白通りの椎名町Click!がおもな買い物先であること、小野田製油所Click!で油を購入している経緯などから、下落合にも複数ある福室家の中で、彼女は四ノ坂上の北西角、すなわち下落合2196番地に広い敷地や畑地を所有していた福室家のことではないだろうか。
 大正も中期をすぎると、周囲は宅地造成が急ピッチで進められ、特に関東大震災Click!後は東京市街地から郊外へドッと人口が流入していた時代だった。彼女の家の眼の前には、1920年(大正9)に吉武東里Click!大熊喜邦Click!の設計による大きな島津邸Click!が建てられており、追いかけて福室家の北東側には箱根土地による目白文化村が、つづいて下落合西部では東京土地住宅Click!のによるアビラ村(芸術村)Click!建設計画Click!が発表されていた。おそらく、福室家では郊外住宅の庭園には必須となる植木の需要急増を見こして、当時は自家の畑地で植木園を経営していたものだろう。
 彼女はしばらく家の農業を手伝ったあと、目白にあった外交官の家へ行儀見習いに出され、家事手伝いとして働いている。この外交官の家は、「前のチリ公使で、そのときは国際連盟の委員」と書かれているので、当時の外務省に勤務していた矢野真邸のことではないかと思われる。この記事をお読みの方で、どなたか当時の目白にあったとみられる矢野真邸をご存じの方がおられれば、ご教示いただきたい。
 同家は謹厳なクリスチャンの家庭環境だったらしく、食事はひとつのテーブルで彼女も家族といっしょにとっている。住みこみで食事つきの行儀見習いにもかかわらず、毎月15円の給金をくれていた。当時なら米を50kgも買える金額で、今日の価値にすると30,000円ぐらいだろうか。彼女は丸4年間そこで働き、1932年(昭和7)に23歳で結婚している。
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 結婚した相手とは“いとこ”同士で、煮豆や佃煮、干物、漬物などを売る商店を経営していた。嫁ぎ先もやはり地元で、店舗は自性院Click!も近い西落合にあった。おそらく、目白通りか新青梅街道沿いの商店だったのだろう。このあと、店を手伝いながら子育てをする主婦の生活が長くつづき、1985年(昭和60)に夫と死別している。新宿区の地域女性史編纂委員会のメンバーが取材に訪れたとき、彼女は86歳だった。
 証言の中に、落合地域のめずらしい雑煮の話が出てくる。いままで落合の地元の雑煮について取材したことがないので、同書より引用してみよう。
  
 お正月三が日は男がお雑煮を作るんですよ。朝、若水を汲んで神棚にあげて、お雑煮は里芋と小松菜を入れて鰹節のだしで作るんです。そのころお雑煮はごちそうでしたものね。今でも同じようにしていますよ。一、二月は寒餅をたくさんつきました。夕方から夜通しかかってみんなで寄り合ってつくるんです。きびを入れるとしっかりして長持ちするんですって。夏になるまで水餅にしておいて畑仕事のお茶うけに食べるんです。/春になると、徳川さまのお屋敷の牡丹がとてもみごとでみんなで見に行きました。池のそばの藤棚には藤が咲いて温室にはバナナがなっていました。バナナってこんなふうになるんだなあって感心して見たものです。そのころはバナナは珍しかったですから。方々からみなさん牡丹を見にみえて、絵描きさんが写生をしていました。
  
 「男が雑煮を作る」という習慣は同じだし、鰹節の出汁をとるのも同様だが、わたしの家の雑煮Click!にサトイモは入れない。また、わたしは小松菜があまり好きではないので、塩茹でしたホウレンソウをミツバとともに最後に添えることが多い。省略した証言なので不明だが、落合地域の名産だったダイコンやニンジン、長ネギや、ニワトリを暮れにしめた鶏肉(あるいは鴨肉Click!)なども入っているのかもしれない。
 文中に出てくる「徳川さま」Click!は、もちろん西坂の徳川義恕邸Click!のことで、「牡丹」は東京郊外の名所だったボタン園「静観園」Click!のことだ。徳川邸の温室でなっていたらしいバナナClick!は、大正末から昭和初期にかけてはまだまだめずらしく、庶民にはなかなか手がとどかない高価なフルーツだった。
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 もうひとつ、彼女は興味深い証言を残している。関東大震災のとき、上落合にある落合火葬場の煙突が折れたというものだ。火葬場の出来事なので、地元では後世に伝承されにくかったものだろうか、わたしには初耳なので詳しい資料がないかどうか、ちょっと調べてみたくなった。事実だとすると、大震災時に憲兵隊隊長室で虐殺Click!された大杉栄Click!伊藤野枝Click!、橘宗一の3人の遺体は、折れた煙突の焼却炉で焼かれたことになる。

◆写真上:下落合2196番地の、四ノ坂上にあった福室邸跡の現状。(画面左手)
◆写真中上は、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図にみる福室邸。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同邸。は、1907年(明治40)撮影の落合尋常高等小学校卒業写真。証言者も、明治期の古い校舎で学んでいた。
◆写真中下:上は、福室邸から落合尋常高等小学校までの通学路。中は、坂下の湧水流(暗渠化)に丸太橋がかかっていた跡の現状。下は、1929年(昭和4)5月24日に撮影された新校舎竣工直後の落合第一尋常小学校。撮影者は松下春雄Click!で、不動園のモッコウバラ垣ごしに西側の校舎と講堂(画面左手)をとらえている。
◆写真下:上は、1932年(昭和7)撮影の徳川義恕邸「静観園」。中は、1916年(大正5)ごろに撮影の西落合の貫井家で行われたカルタ取り。(『おちあいよろず写真館』より) 下は、戦災前の1938年(昭和13)に撮影された自性院本堂。(同上)
おまけ
今年も、下落合で大きなカブトムシを見かけた。子どもたちに見つからないように……。
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村尾嘉陵の落合散歩。(1)椎名町

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 遅くなってしまったが、2020年夏休みの「自由研究」は、大江戸時代(江戸後期)の落合地域がテーマだ。なぜ彼を取りあげないのかな?……と思われていた方もおられるかもしれないが、郊外散策の達人・村尾嘉陵の「落合散歩」について、まとめて記事にしてみたい。
  
 徳川清水家の家臣だった村尾正靖(村尾嘉陵)という人物は、文化~天保年間(1807~1834年)にかけ、大江戸(おえど)の郊外を散策する様子を克明に日記へつけつづけている。たまに勤めの休暇がとれると、当時の言葉でいえば物見遊山、現代風にいえば大江戸の場末(江戸期は郊外の意)へハイキングを繰り返していたわけだが、その日記は今日から見れば江戸期の郊外を知るための、非常に貴重な記録となっている。
 日記なので、当初からタイトルは存在しなかったが、国会図書館では『四方の道草』という題名で、内閣文庫では『嘉陵記行』という題名で写本が保存されてきた。(『嘉陵行』ではなく『嘉陵行』のタイトルに留意) また、後世の通称としては、一般的に『江戸近郊道しるべ』という表題で呼ばれている。この村尾正靖が郊外散歩をした中に、落合地域やその近隣を訪れた記録が何度か登場している。
 『江戸近郊道しるべ』と題する現代の書籍は、当時の文章のまま註釈つきのものが、平凡社の東洋文庫版から出版されている。だが、当時の文章そのままではわかりにくいので、現代語訳で出版されている講談社版の村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』(阿部孝嗣・訳)を使って、少しずつ落合地域とその近隣の様子をご紹介してみたい。記録されているのは、1800年代の初めごろに見られていたこの地域の風景だ。
 村尾正靖という人は、いわゆる徳川御三卿のひとつ清水徳川家(十万石)の家臣で、広敷用人をつとめていた人物だ。広敷用人とは、主人のプライベートな屋敷(奥座敷)である大奥と、表座敷(役務や客間などのある座敷)の間を取り次ぐ執事や秘書のような役職で、何人かの部下(広敷番頭)を束ねて雑事をこなす仕事をしていた。
 彼は休暇がもらえると、家庭を放りだしてせっせと大江戸の周囲をひとりで、ときには仲間たちと散策するのが趣味だった。多くが日帰りの散策だったが、現代の多摩地域や神奈川県、埼玉県など遠方へ出かけるときは、宿泊してくることもあった。そして、帰宅すると散策の途中で観た風景や、「土人」(地元民の意)から聞いためずらしい話などを日記に書きとめている。休みのたびに外出するので、家内の用事はすべて妻が仕切っていたようで、ときどき文句をいわれていた気配が文中から漂っている。
 もともと発表することを前提とした本づくりとは異なり、そこには遠慮会釈のない率直な感想や意見がそのまま書きこまれており、広重Click!北斎Click!の郊外散策本、あるいは「名所」といわれる場所ばかりを選んで記録し描いた斎藤家三代・著+長谷川雪旦・画『江戸名所図会』Click!ともまた、ちがった趣きの表現となっている。
 さて、最初の回は、練馬の貫井村から谷原村(ともに現・練馬区)をめざす道すがら、下落合村の北側を通る清戸道Click!(せいどどうClick!/『高田村誌』の呼称より)=おおよそ現・目白通りを西進する様子を記録したものだ。1815年(文化12)9月8日(太陽暦では現在の10月中旬ごろ)に、千代田城北ノ丸の清水門内にあった清水屋敷(現・武道館から南側一帯の北ノ丸公園内)を午前中に出発すると、5人連れの散策仲間は江戸川橋Click!から目白坂Click!を上り清戸道へ入ったとみられる。
 以下、2013年(平成25)に講談社から出版された文庫版の『江戸近郊道しるべ』より、「谷原村長命寺道くさ」から引用してみよう。ただし、本文中に挿入された阿部孝嗣によるカッコ内の注釈は、とりあえず省略して記述してみたい。落合地域など地元における事績や伝承、解釈、あるいは他の記録資料との齟齬が多々見うけられるので、あとから気づいた点があれば、つれづれ追加で書いてみたいと思う。
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 四家町を過ぎて東北の方をかえりみれば、森の中に大行院の屋根が見える。今日の眺望はここに極まれり、である。西北を望めば安藤対馬侯の屋敷があり、その左側が鼠山である。小径を登っていけば南面が打ち開かれていて、落合の方のこずえが見える。南西の端の方に木立が見えるが、そこが落合薬王院の森だと、近くにいた翁が言う。
  
 ここに登場している「四家町」は、雑司ヶ谷村四家町(四ッ谷町)Click!のことで四世南北の『東海道四谷怪談』Click!の舞台になった町だ。現代語の訳者は、四家町を現在の行政区画で「豊島区雑司が谷二丁目から目白一、二丁目」としているが、小石川村側にも道つづきの四家町があるので、現在の文京区目白台1~2丁目も含まれる。
 「大行院の屋根」は、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の本堂の屋根だが、その「西北」を望むと「安藤対馬侯」の屋敷があると書いている。もちろん、この安藤屋敷は延宝年間には受領名が異なっており、下落合の神田上水に架かる田島橋(但馬橋)Click!の由来となった「安藤但馬守」Click!の屋敷のことで、江戸末期になると短期間だが感応寺Click!の境内となる三角形の敷地のことだ。現代の住所表記でいうと、豊島区目白3~4丁目と西池袋2丁目にかかる、清戸道に立つ村尾嘉陵の視点からいうと、記述のとおり「西北」に見えていた広大なエリアで、訳者が註釈で指摘する「文京区大塚二丁目、現お茶の水女子大学」(村尾嘉陵の視点でいうと東北)とは、まったくの方角ちがいで誤りだ。
 この時期の「鼠山」の概念は、いまだ清戸道に立つ村尾嘉陵から見て安藤屋敷の「左側」、つまり西北側に限定されていたのがわかる。すなわち長崎村の南東端と、池袋村の南西端にあたるわけだが、将軍の鷹狩場としての鼠山Click!の範囲がもう少し池袋村側へ拡がるのは、幕末近くになってからのようだ。
 また、訳者の阿部孝嗣は註釈で、鼠山の位置を「下落合四丁目辺りの台地」としているが、これも明らかに誤りだ。鼠山は、将軍家鷹狩場の「戸田筋」Click!に属する池袋村と長崎村のエリアであり、下落合村の鷹狩場だった御留山Click!(御留場)は筋ちがいの「中野筋」の狩り場だった。鼠山と下落合の御留山とでは、鷹場役所や村々の鷹場組合もそれぞれ別であり、訳者は幕府で規定された鷹狩場エリアの「筋」を混同している。
嘉陵紀行表紙(内閣文庫).jpg 嘉陵紀行新宿方面(内閣文庫).jpg
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 つづけて、村山嘉陵の記述を同書より引用してみよう。
  
 椎名町の入口に一軒の豪家がある。慶徳屋という。古くからこの地に住んでいる者で、穀物を商っている。この他にも椎名町の商家には貧しそうな家が見当たらない。鼠山の西南、縄手路の左に小径があり、七曲がりに通じているという。しばらく行くと小名五郎窪である。さらに行くと左に道がある。恵古田村に通じるという。
  
 ここでいう椎名町Click!とは、現在の西武池袋線の椎名町駅Click!のことではなく、そこから南へ500mほど下った清戸道(だいたい現・目白通り)沿いに拓けていた町のことだ。江戸と郊外とを往来する人々の中継所、あるいは物流拠点となっていた町のひとつで、現在の目白通りと山手通り(環六)の交差点あたりから東西に長くつづいていた。物資が中継され、江戸へまたはその逆を往還する拠点だったため、町全体が裕福だったのだろう。
 したがって、椎名町は長崎村と下落合村にまたがった繁華街のことであり、戦前までは下落合側の聖母坂Click!にも関東バスの停留所「椎名町」Click!(終点)が、また長崎側と下落合側の双方に東環乗合自動車Click!のバス停「椎名町」が存在していた。訳者の「椎名町」註釈では、「豊島区南長崎」と限定されているが、それに加えて豊島区目白5丁目、新宿区下落合4丁目、中落合2~3丁目が加わる。
 また、「恵古田村」=江古田村Click!も、今日の江古田(えこだ)駅周辺のことではなく、いまの行政区画では中野区エリアの江古田(えごた)のことだ。清戸道から分岐した練馬街道に入ると、五郎窪Click!(五郎久保)の小名が収録されている。当時から稲荷が有名であり、椎名町の住人から立ち寄ってみるように奨められたのかもしれない。
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 さて、村尾嘉陵の「日記」が面白いのは、先に記したようにプライベートな記述のため、公表を前提とする表現の自主規制がなされていないことと、訪れた地域の土人(地元の人々)と積極的に交流して取材し、情報を仕入れていることだ。また、目的地へ着くまでの道すがらの風景や、おそらく好奇心が旺盛だったのだろう、細かな事象にまで目をとめて記録している点も興味深い。次回もまた、下落合村や上落合村の界隈を紹介してみたい。
                                <つづく>

◆写真上:将軍家鷹狩場の「戸田筋」にあった、鼠山界隈にある雑木林の現状。
◆写真中上:『御府内場末往還其外沿革図書』より、1670年代の延宝年間にみる安藤但馬守屋敷(のち安藤対馬守屋敷/)と、1834年(天保5)現在の感応寺境内()、そして感応寺破の却後1842年(天保13)の武家屋敷街()。
◆写真中下は、内閣文庫で保存されている村尾嘉陵『嘉陵記行』の一部。ほとんどの書籍や資料では『嘉陵行』とされているが、原典の『嘉陵行』が正しい。は、清戸道とほぼ重なる現在の目白通り。は、旧・鼠山の坂道のひとつ。
◆写真下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる椎名町。は、平凡社版の『江戸近郊道しるべ』()と、講談社文庫版の同書()。

村尾嘉陵の落合散歩。(2)藤稲荷

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 郊外ハイキングが大好きだった村尾嘉陵Click!は、西北方面を散策するときはよく清戸道(せいどどうClick!/『高田村誌』より)=おおよそ現・目白通り)を通行することがときどきあった。石神井の三宝池Click!界隈へ遊びにいく道すがらも、清戸道から練馬街道へと抜けている。1822年(文政5)9月11日(太陽暦で10月中旬ごろ)のことだ。
 どんよりと曇った早朝に自宅を出た村尾嘉陵は、おそらく前回の記事と同様に江戸川橋Click!から目白坂Click!を一気に登って丘上に出ると、清戸道を西へ歩いていったのだろう。しばらく歩くうちに、雲が切れて空が晴れてきたようだ。季節的にみれば、すっかり秋めいた絶好の観光日和だっただろう。同日の様子を、2013年(平成25)に講談社から出版された文庫版の『江戸近郊道しるべ』より、「石神井の道くさ」から引用してみよう。
  
 椎名町の慶徳屋の少し先に分かれ道があり、北に行くと上板橋に出る。ここから西は、道の両側に楢の木が植えられており、行っても行っても同じ景色の馬道が続く。椎名町から半里ほどは、道の左右はみな畑である。人家が二、三戸あるだけで、すれ違う者はみな馬を索き、糞桶を運んでいる者だけである。少し坂を下ると田圃が少しある。少し行くと登り坂になる。道の両側はみな畑で眺望もない。やや行ってまた小坂を下る。また田圃である。
  
 清戸道(ほぼ目白通り)を西へ進み、椎名町が途切れそうな西寄りのあたりから練馬街道へ入り、北西へと進む様子を書きとめたものだ。「椎名町」についての注釈が、ここでも「豊島区南長崎」となっているが、江戸期にはそれに加え、清戸道沿いの豊島区目白5丁目(旧・長崎村)、新宿区下落合4丁目、中落合2~3丁目(以上すべて旧・下落合村)が加わることは、前回の記事でも書いたとおりだ。
 村尾嘉陵が、練馬方面へ向かうために歩いている練馬街道だが、現在の目白通りから二又交番を右へと入る、長崎バス通りClick!(旧・目白バス通りClick!)がほぼそれに相当する。ただし、地元の古老によれば、練馬街道は現在の長崎バス通りよりもやや東側に分岐点があったというお話をうかがっている。『御府内場末往還其外沿革圖書』を確認すると、いまの長崎バス通りとまったく同様に、清戸道から北西へ斜めにつづく練馬街道が描かれているが、江戸期にはやや東寄りに二差路の分岐があったのかもしれない。
 中には、首をかしげてしまう記述もある。神田上水の湧水源である、井之頭の弁天社へ参詣しようと、1816年(文化13)9月15日(太陽暦で10月中・下旬ごろ)に、当時は日本橋浜町にあった官舎(賜家)を出て内藤新宿から高井戸、牟礼(三鷹)方面へと歩き、マムシに注意しながら井之頭池へと到着している。
 同文の最後に、玉川上水と神田上水を比較して次のように書いている。
  
 水源を求めていけば、水の流れを追うだけではあるが、中野、淀橋の辺りで玉川上水の支流と合流し、また高田、下落合村に至って石神井川と合流し、おもかげ橋辺りで流れは一つの川となって勢いを増す。四ツ(午後十時)の鐘が打つ頃、家に帰り着いた。
  
 ここで「高田」とあるのは、訳者の註釈「新宿区高田馬場辺り」ではなく、中野区エリアの上高田村のことだと思われる。妙正寺川(北川Click!)は、上高田村を流れて下落合村で合流しているが、石神井川は落合地域はおろか、神田上水(1966年より神田川)のどことも合流していない。
 下戸塚村の神田上水に架かる「おもかげ橋」あたりでも、2本の河川は合流しておらず、面影橋ではなく上落合に建立された泰雲寺Click!(廃寺)の了然尼Click!が架橋した、下落合の「比丘尼橋(西ノ橋)」Click!のことだろう。江戸期には、比丘尼橋(西ノ橋)の南東200mほどのところに、妙正寺川と神田上水が落ち合う文字どおり落合地域の合流点があった。のちに、妙正寺川の源流をたどって妙正寺へ参詣している嘉陵は、同寺の際にある妙正寺池が同河川の湧水源であることを改めて認知していると思われる。
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 それにしても、村尾嘉陵はよく歩く。たとえば、日本橋浜町から常盤橋を渡って内濠沿いに清水門から入り、勤務先である北ノ丸の徳川清水家屋敷までは5km(往復約10km)ほどなので、わたしでも余裕で歩けるが、武蔵野の井之頭池まで往復するのはかなり疲労困憊するだろう。下落合から井之頭池までさえ、直線距離で12km近くある。往復すれば24kmだが、道路をたどって歩けば軽く30kmは超えるので、近ごろ運動不足のわたしもちょっと自信がない。
 さて、村尾嘉陵が下落合にやってきたのは、1824年(文政7)9月12日(太陽暦で10月中旬ごろ)のことだった。夫が遊び歩いてばかりいるので、奥さんがブツクサ文句をいう声を背に、聞こえなかったふりをしてそそくさと家を飛びだしている。同書の、「藤稲荷に詣でし道くさ」から引用してみよう。
  
 落合村の七曲がりに、虫の音を聞きに行くのなら、年寄りの世話をしながら一緒になどと、もとの同僚畑秀充が言っていたのは、もう十と五年も昔のことになってしまった。年を取るのは本当に早いもので、まさに一時の暇も、無駄にはできない。若い頃は日を惜しんで勤めに励み、老いてからは今の楽しみで心を養っているのは、すべて人生の最期を全うするためにである。したがって、引っ越しした所の障子や襖さえ張っていないが、「じきに冬が来るのに」と家内が心細げに言うのも聞かないふりをして、今日はことさら日射しもうららかで、とても家でおとなしくしていられるような陽気ではない。これも心を豊かにするためだとかこつけて、出かけることにした。
  
 なにやらすっごく耳が痛い、「かこつけ」が他人事とは思えない文章なのだけれど、村尾嘉陵はなんとか家を抜けだして下落合をめざしている。
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 このときのルートは、早稲田の水稲荷Click!(高田富士=富塚古墳Click!)から早稲田田圃を眺めながら、高田馬場(たかたのばば)Click!の南東端へと抜け、おそらく鎌倉街道を北上し面影橋(姿見橋)Click!を渡って、高田氷川社の先から雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)へと抜けて西進しているのだろう。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 藤稲荷の社にかつて詣でた時のことを思い起こしてみると、遥か四十年も以前のことであった。宮居も木立も昔の面影が残ってはいるものの、なにもかもの寂れた感じがする。もとは石の鳥居などなかったように思うが、今は山の入口と中ほどに二つもある。しかも中ほどにある鳥居は笠石が左に架かっている所から折れて、傍らに置かれている。これはその昔に祀った神の御心にかなわなかったので折れたのだろう、と畏れかしこまる。/ここの主(宮司のこと)はどこに行ったのだろう。女と少女とが隅の方で臼を挽いているのは、明日の月見の準備であろうか。一間の座敷に掛け物をして、机の上に三巻か四巻の文を置いてある。心得があるようだ。近くに住む者はいるのだろうか。雨が降ったり、風が強い夜などはさぞかし不安であろう。(カッコ内引用者註)
  
 このときも、藤稲荷Click!はひどく荒れていたようだ。前年の1823年(文政6)に他界した大田南畝(蜀山人)Click!の時代には、月見や虫聞きの名所として知られ風流人で賑わっていたようだが、おそらくブームが去ったのだろう。「七曲り」(坂とは限らない)へ“虫聴き”に訪れたのも、15年も前のことだと回想していることからも、それはうかがわれる。このあと、幕末には藤稲荷の滝見物や神田上水の落合蛍狩りClick!が流行し、涼を求める江戸市民たちで再びにぎわいを取りもどしている。だが、明治以降になると再び藤稲荷は荒廃しはじめ、敗戦後の1950年代まで廃社のようなありさまだった。
 村尾嘉陵は、藤稲荷が奉られた周囲の丘が、将軍家の鷹狩場である御留山Click!で立入禁止なのを、おそらく知っていただろう。だから、御留山の近くに家などないことを知悉していたので、宮司の見えない荒れた境内の宮居にいる、親子とおぼしきふたりの女性を心配しているのだとみられる。十五夜が間近なこの日、御留山を抜けてくる風は、藤稲荷の境内に立つ嘉陵には清々しかったにちがいない。
 つづいて、村尾嘉陵は薬王院へも立ち寄っているが、それはまた、次の物語……。
藤稲荷の杜.JPG
藤稲荷境内.JPG
藤稲荷太田蜀山人.JPG
 このあと、7年後の1831年(天保2)8月19日(太陽暦で9月下旬ごろ)にも、村尾嘉陵は上落合村大塚にある浅間社(落合富士Click!)を見物するついでに、再び藤稲荷へと立ち寄り参詣しているのだが、機会があればまた別途ご紹介したいと考えている。
                                <つづく>

◆写真上:清戸道(およそ現・目白通り)と、練馬街道が分岐する二差路の現状。長崎の古老によれば、練馬街道の入口はもう少し東寄りだったとうかがっている。
◆写真中上は、現在の目白通り。は、江戸末期に描かれた安藤広重『名所雪月花』のうち井之頭「池弁財天杜雪の景」。は、妙正寺池の現状。
◆写真中下は、幕末の『御府内場末往還其外沿革圖書』をベースに想定した村尾嘉陵の藤稲荷までをたどる散歩コース。(エーピーピーカンパニー「江戸東京重ね地図」より) は、1955年(昭和30)に撮影された荒れ放題の藤稲荷社。
◆写真下は、晩秋に丘下から眺めた御留山の斜面にある藤稲荷社の杜。は、同社の境内で二の鳥居と拝殿の現状。は、大田南畝(蜀山人)の彫名がみえる眷属の台座。

村尾嘉陵の落合散歩。(3)薬王院

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七曲坂1.JPG
 村尾嘉陵Click!が下落合の藤稲荷Click!を訪れたとき、土人(江戸期は地元民の意)の面白い声をひろっている。御留山の中腹にあたる藤稲荷社より、南側に拡がる戸塚(現・高田馬場)から、戸山、角筈(現・新宿)方面の眺望をしばらく楽しんでいたときだ。
 村尾嘉陵は、事前に地誌本ででも調べておいたのか、目白崖線のこの先に七曲坂Click!があるのを知っていたようだ。そこで、なぜ「七曲(ななまがり)」という名称がついたのかを、そこにいた地元の住民に訊ねている。現在の下落合では、鎌倉期からつづく切通し状の坂道がもともとは7つの“曲がり”、つまりカーブをもっていたからというのが一般的だ。だが、江戸期に嘉陵が採取した話は、少し趣きが異なっていたのがわかる。
 1824年(文政7)9月12日(太陽暦で10月中旬ごろ)に、下落合へやってきたときに村人から聞いた証言だ。2013年(平成25)に講談社から出版された文庫版の『江戸近郊道しるべ』より、「藤稲荷に詣でし道くさ」から引用してみよう。
  
 (藤稲荷の)なかほどの平らになっている所から見渡すと、南側の田圃の向こうに木立が続いている。そのしまいに外山(ママ:和田戸山)にある尾張徳川家の下屋敷のこずえが見える。「七曲がりというのはどの辺りか」と尋ねると、「この山を登って行くにも、この先にも、どの道を行くにしても何度も曲がらずに行ける道はない。それでみんなが七曲がりと名付けたのだ」と言う。(カッコ内引用者註)
  
 おわかりのように、江戸期の下落合の住民は、「坂に7つのカーブがあるから七曲坂だ」とは規定していない。七曲坂の丘を上るにしても、坂道に出るにしても(このあたり言いまわしが微妙だが)、いくつもカーブがあるから「七曲」と付けられたと答えている。ただし、「どの道をいくにしても」の起点が明確にされてはいない。
 当時、幕府が制作した大江戸郊外の地図である『御府内場末往還其外沿革圖書』を参照すると、七曲坂Click!は現在とほぼ同一のかたちをしており(もちろんいまの道幅は拡幅されているが)、坂上までのカーブは3ヶ所しか数えられない。ところが、村人が証言するように、七曲坂へといたる道路を考慮に入れると、確かに七曲坂の下へたどり着くまで、7つのカーブを数えられる街道筋が3本ある。この場合の起点とは、隣り村との境界から下落合村へと入る3つの古道だ。
 七曲坂は下落合村(現・中落合/中井地域含む)の東部、「本村」Click!の東端にあるので、接する村は下高田村(のち高田村)と戸塚村ということになる。目白崖線の麓を通る雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)は、東側の下高田村へと抜けているが、その村境から七曲坂の下まで、7つのカーブを数えることができる。また、戸塚村から田島橋Click!をわたって下落合村に入り、七曲坂の下にいたる道もまた7つのカーブが数えられる。これらの道筋は、明治以降の拡幅や舗装とともにいまは直線化が進み、かなりカーブが修正されてはいるが、それでも曲がりくねった道のまま現在にいたっている。
 もうひとつ、北側の街道筋である清戸道Click!(せいどどう/1919年の『高田村誌』より)から南へ入り、鎌倉期の板碑が建つ七曲坂の下にいたる道筋もまた、7つのカーブを数えることができる。ただし、この道筋は七曲坂の坂上までは5つのカーブで、他の道筋と同様に鎌倉期の板碑が建立されていた、「本村」の入り口とみられる坂下まで数えないと、7つの“曲がり”にはならない。
七曲坂(雑司ヶ谷道).jpg
七曲坂(田島橋).jpg
七曲坂(清戸道).jpg
 以上のように、下落合村から見ておもに大江戸の中核である千代田城Click!の方角からやってくる場合、七曲坂(の坂下にある板碑位置)までには、その道筋に7つの“曲がり”があると解釈することができそうだ。当時の地名や川(堀)名などが、千代田城(御城)を中心として付けられたことを考慮Click!すれば、村人が「どの道を行くにしても」のやってくる方角は千代田城、つまり大江戸市街のある東南側の村境と解釈しても不自然ではないだろう。
 さて、藤稲荷の境内がある御留山を下りた村尾嘉陵は、雑司ヶ谷道を再び西へとたどっていった。訳註を省略し、同書から再び引用してみよう。
  
 神殿の前を下って西に行くと、道の傍らに寺がある。石を敷き並べ、見た目にはきれいである。薬王院という。門を入って右に鐘楼、石の宝塔があり、「宝暦九年当寺十三世隆音建」と刻まれてある。その年号から開基がそう古くないことが分かる。向かいに客殿、左に庫裏がある。みな茅葺きである。庭には大きな柿の古木がある。後ろの山には松や杉が生い茂り、眺めは素晴らしい。建物の垣根に沿って狐や兎が通る小径を登っていく。まさにここも七曲りなのであろうか。
  
 当時の薬王院(東長谷寺)Click!は、本堂や庫裏(方丈)、鐘楼などの配置が今日とはまったく異なっている。このとき村尾嘉陵は、戦災で焼失した茅葺きの太子堂Click!を見ているはずだ。せっかく裏山へ上ったのだから、藤稲荷社と同様に少しは眺望の様子を記録してくれたらと思うのだが、あまり興味を惹くものが目に入らなかったのだろう。わたしとしては、このときすぐ右手に見えていただろう摺鉢山Click!の様子が気にかかる。
 村尾嘉陵の想像どおり、下落合の薬王院は彼が訪れる150年ほど前、実寿上人が延宝年間に再興した寺だが、もともとの開基は彼の想像を超えて鎌倉時代までさかのぼる。しかも、1730年代の後半(元文年間)に火災で大半が焼失しており、村尾嘉陵は旧来の堂宇が再建されない状態の境内を観察していることになる。現在、山門を入って右手の庫裏は1878年(明治11)の建築で、正面の鉄筋コンクリート製の本堂は戦後のものだ。「狐や兎が通る小径」は獣道のことだろうが、現在はタヌキClick!が周囲を徘徊している。
七曲坂2.JPG
七曲坂3.JPG
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 つづいて、薬王院の裏山の様子を引用してみよう。
  
 木の根や葛などが絡まりあっている道を幾度も曲がって登り詰めると、上は広い畑になっている。畑の向かいは四家町から上板橋に行く道である。さらにそのはずれが、鼠山の辺りであろう。他からでも眺められる景色ばかりで、四方の見晴らしがきくわけでもない。木の下には小笹が生えていて足元がおぼつかないので、先に進むのはやめて、またもとの道を下ってくると、思いもかけず足元から雉子が飛び立っていったのが面白い。牛込辺りまで帰る頃には、月がくっきりと照っている。
  
 目白崖線の丘上に出た村尾嘉陵は、ほうぼうを歩きまわってさすがに土地勘がついたのか、畑の向こうに清戸道Click!鼠山Click!を的確に認めている。でも、眺望がきかないのが不満だったらしく、せっかく傾斜が急な丘上まで上ってきたにもかかわらず、再び薬王院のある山麓へと下りてしまっている。
 足もとに小笹が密集して歩きづらいと書いているが、これはわたしも学生時代にオバケ坂Click!で経験している。当時の急なオバケ坂は、両側から小笹の枝葉が足もとを覆っていて、舗装されていない道幅は50cmも見えるかどうかの細い山道だった。わたしの場合は、あえて好んでオバケ坂をよく利用しアパートへ帰っていたわけだが、夜遅く通るときなどは真っ暗で、スリルがあって楽しかった。
 村尾嘉陵も書きとめているが、当時の下落合にはキジが多く棲息していたらしい。中野筋にあたる御留山Click!で、頻繁に鷹狩りを繰り返した8代将軍の徳川吉宗Click!だが、獲物の中にはほぼ毎回キジが含まれている。
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薬王院2.JPG
薬王院3.JPG
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 村尾嘉陵は、下落合村ばかり訪れている印象だが、当時は下落合村より石高が豊かだったとみられる上落合村へも足を運んでいる。次回は7年後、藤稲荷や氷川明神社Click!、薬王院と順ぐりに再訪し、落合富士のある浅間社まで足をのばした記録をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:鎌倉時代の開拓らしく、騎馬が通れる傾斜を確保した切通し状の七曲坂。
◆写真中上:鎌倉時代に魔除けの板碑が設置された、「本村」東端の七曲坂下へと向かうカーブの多い江戸期の道筋。幕末の『御府内場末往還其外沿革圖書』をベースにした街道筋の7つのカーブ。(エーピーピーカンパニー「江戸東京重ね地図」より)
◆写真中下:七曲坂の四季折々。
◆写真下:旧・本堂(方丈/上2葉)が落ち着いた味わいの、四季折々の薬王院境内。

村尾嘉陵の落合散歩。(4)浅間塚=落合富士

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月見岡八幡富士塚跡1.JPG
 村尾嘉陵Click!は、1831年(天保2)8月19日(太陽暦で9月下旬ごろ)に上落合村大塚にあった落合富士Click!=浅間塚古墳のあたりを散策している。落合富士=浅間塚は、改正道路Click!(山手通り=環六)の工事の際に玄室や羨道の石材が出土し(おそらく房総半島の房州石Click!製)、小規模な古墳だったことが判明している。「大塚」という小名(字名)は、この小さな古墳があったからではなく、より大規模な古墳の存在からつけられた可能性があることについては、すでに記事Click!にしている。
 浅間塚へ向かう途中、先にご紹介した藤稲荷Click!七曲坂Click!の麓に通う道、薬王院へと抜ける雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)を西へ向かって歩いているのは、村尾嘉陵が藤稲荷へもう一度参詣したくなったからのようだ。そのときの道筋の様子を、2013年(平成25)に講談社から出版された文庫版の『江戸近郊道しるべ』より、「高田村天満宮詣の記 附、上高田村仙元塚(浅間塚)」から引用してみよう。
 ちなみに高田天満宮とは、現在では早稲田大学キャンパスに隣接していた富塚古墳Click!から、幕府の高田馬場(たかたのばば)Click!の北側、甘泉園の西側へと遷座した水稲荷社Click!の境内にある北野天神社のことで、もともとは高田八幡社(穴八幡)Click!に隣接していた社だった。また、村尾嘉陵は本文中で目的地の上落合村を訪れている事実を記しているにもかかわらず、タイトルには「上高田村」と誤記している。
  
 (前略)高田天満宮に詣でてから、未の刻を過ぎる頃に、寺の門を出て、(高田)馬場のそばから砂利場を横切って藤稲荷に詣でる。その後、山裾にある田圃の緑を西に行き、氷川の木立を左に見て、下落合の薬王院の前を過ぎる。さらに、同村の民戸のある所を行き過ぎて、伊草(井草)の用水路に架かっている橋を渡り、畦道を歩く。上落合村の石地蔵のある所から少し爪先上がりの小径を登って、曲がりくねった一筋の本道に出る。この道の北側にある浅間塚に詣でる。(カッコ内引用者註)
  
 百八塚Click!のひとつとみられる浅間塚(落合富士)だが、村尾嘉陵は藤稲荷に寄りたいがため、幕府練兵場の高田馬場Click!から下落合村を経由して上落合村まで、北側を大きく迂回するルートをたどっていたことがわかる。浅間塚のみをめざすなら、高田馬場からそのまま街道(現・早稲田通り)を西へ向かい、源兵衛村から戸塚村をへて、神田上水の小滝橋Click!をわたれば上落合村なのでよほどの近道となる。文中で「一筋の本道」と書かれているのが、現在の早稲田通りのことだ。
 「同村の民戸のある所」は、七曲坂Click!の下から西坂Click!の下あたりまでつづく下落合村の中心だった「本村」Click!のことだ。また、下落合村側から見れば「井草流」、上落合村側からは「北川」Click!と呼ばれた妙正寺川をわたる橋は、泰雲寺の了然尼Click!が建立したといわれる比丘尼橋(西ノ橋)Click!だ。
 もうひとつ、上落合村の入り口あたりでも、田圃に引かれた灌漑用水に架かる小さな「もどり橋」Click!をわたったはずで、その橋の近くには文中にもあるとおり石地蔵が奉られていた。この上落合の地蔵尊は、もどり橋跡の近くに現存している。「爪先上がりの小径」と書かれている道は、上落合村でも古い坂である鶏鳴坂Click!のことだろう。
御府内沿革図絵下落合村.jpg
御府内沿革図絵上落合村.jpg
大塚浅間塚古墳1925.jpg
 さて、上落合村に拡がる田圃の様子は、先ごろ三宅克己Click!が描いた『落合村』Click!の風景と、大差ない光景だったと思われる。その田圃の畦道から、少しずつ斜面を道なりに上っていくと、「一筋の本道」すなわち現在の早稲田通りにあたる街道へと抜けられる。その「本道」の北側、のちの住所でいうと上落合607番地(現・上落合2丁目29番地あたり)に、浅間塚古墳(落合富士)と浅間社の小さなゃで社殿が建立されていた。もっとも、同地番のほとんどは現在、山手通りの下になってしまっている。
 つづけて、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』から引用してみよう。
  
 この塚は樹木の茂っている中に、やや土を高く盛り上げ、石像の浅間大菩薩を建ててあるものである。台石は、高さ六、七尺で、塚の四面には杉の木が立ち茂っている。/その塚の北側の裾には稲荷の社があり、山の前にも小祠がある。この祠は浅間の祠であろう。鳥居は倒れており、片付ける者もいないとみえ、草むらに転がったままである。その近くに石塔婆が一基あり、「天和四年(1684年)五月、八右衛門何々」などと、四人の名前が彫り付けてある。これは最初に建立した時の供養塔であろう。浅間塚全体の高さは、平地から二丈(約6m強)ほどもあるであろうか。(カッコ内引用者註)
  
 この時期、富士講の「月三講社」Click!は、浅間塚古墳の山頂に富士山の溶岩を積み上げ落合富士(寛政年間に築造)にしていたはずだが、村尾嘉陵は富士塚Click!について言及はしていない。いくつか記録されている石塔や祠の中には、おそらく室町期に百八塚の昌蓮Click!が設置したものも含まれているのだろう。
 村尾嘉陵が訪れた下落合の藤稲荷と同様に、浅間稲荷社の鳥居も倒れていて手入れがなされていない様子がうかがえる。1911年(明治44)に撮影された浅間社と浅間塚古墳(落合富士)の写真が現存しているが、石造りの鳥居や手水舎が写っているので、明治以降に修繕されたか、あるいは新たな鳥居が建立されたものだろう。
上落合石仏.JPG
月見岡八幡.JPG
月見岡八幡富士塚跡2.JPG
 また、村尾嘉陵は上落合村の「本道」、すなわち現在の早稲田通り沿いの様子も記録している。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 この本道に面して、所々に家があるけれども、いずれも農家と商家とを兼ねている。家には蔵があり、貧しそうな家はない。通りから引っ込んでいる民家にも貧しそうに見える家はない。大根の漬物を作って、都心に運ぶのであろう。たくさんの樽を積み重ねている家がある。この通りは、高田馬場から西に向かっている下戸塚村の橋通りで、中野通り、青梅街道の裏道である。もっと先で中野の大通りと一つになっている、と地元の人が言っていた。この辺りから下戸塚村の橋までは十二、三丁ほど、高田馬場までは一里という。
  
 江戸期から、落合大根Click!による沢庵漬けの製造が盛んだった様子がうかがえる。明治期から大正初期のころまで、落合大根の沢庵漬けは“ブランド”商品化し、最盛期には陸軍への大量納品や米国のハワイにまで輸出されていた。
 「下戸塚村の橋通り」という、現在では耳慣れない言葉が出てくるけれど、これは下戸塚村ではなく上戸塚村に架かる神田上水の小滝橋Click!のことだ。浅間塚から小滝橋まで、およそ「九、十丁ほど」(約900m~1km)だろうか。また、上落合村の浅間塚から幕府の高田馬場までは、およそ3kmほどで「一里(約4km)」はない。
 村尾嘉陵が浅間塚を訪ねるきっかけになったのは、「かつて四谷町のはずれにできた富士見の茶屋から西北の方に見える杉のこずえ」が気になったからだという。ここでいう「四谷町」は、現在の新宿区にある四谷のことではなく、四世鶴屋南北の『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』Click!で有名になった「お岩さん」の住む高田村の四谷町(四家町)のことだ。そして、「富士見の茶屋」とは、現在は学習院のキャンパス内に跡がある、地元の歌人・清風が建てた「富士見茶家(珍珍亭)」Click!のことで、嘉陵は店にいた女へ遠くに見える小高い杉木立ちはなにかと訊ねている。
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大塚浅間塚古墳跡.JPG
 富士見茶家にいたのは、「媼」と書いているので歳をとった女性なのだろう、「あれは浅間塚の杉ですよ」と答えている。彼女が30年後の“お藤ちゃん”Click!だったかどうかは定かではないがw、落合富士を眺めながら新井薬師にも詣でてみたくなる村尾嘉陵だった。
                                   <了>

◆写真上:いまは月見岡八幡社の境内に移設された、浅間塚(落合富士)の山頂部。
◆写真中上は、幕末の『御府内場末往還其外沿革圖書』をベースに想定した下落合村の散策コース。は、同様に上落合村の散策コース。(エーピーピーカンパニー「江戸東京重ね地図」より) は、1925年(大正14)の1/10,000地形図にみる浅間塚。
◆写真中下は、村尾嘉陵が書く“もどり橋”跡の近くに現存する地蔵尊。左の立像は新しく、嘉陵が目にした当時からのものは中の碑と右側の石像だろう。は、戦後に80mほど遷座している月見岡八幡社の拝殿。は、同社境内にある落合富士の山頂部。
◆写真下は、1911年(明治44)に撮影された浅間塚古墳(落合富士)。は、戦前に撮影された同塚。は、左手のビルから山手通りにかけて拡がる浅間塚古墳跡。

頭にきている目白中学校の同窓会委員会。

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目白中学校運動会百足競争.jpg
 1929年(昭和4)11月10日、目白中学校Click!の第19回同窓会総会が午前9時から「豊島園」で開かれた。当時の豊島園は、先ごろ閉園した乗り物や遊具だらけの遊園地「としまえん」とは大きく異なり、西洋館の宴会場やレストラン、プール、花壇、野外音楽堂、スポーツ施設なども備えた自然公園のような趣きだった。
 当時の東京郊外に造られた遊園地Click!は、下落合の「落合遊園地」Click!「不動園」、新宿の「新宿園」Click!などがそうであったように、今日の概念とはまったくちがっている。子どもの遊具はあまりなく、現代にたとえるなら庭園が整備されイベント会場も備えた緑地公園といったイメージだろうか。ときに、池にはさまざまな水禽Click!が放たれ、それらをのんびり眺めつつ散策しながら、1日じゅうすごせるような施設だった。
 11月10日の日曜日、東京は朝から強い寒風が吹いていた。東京中央気象台によれば、同日は「雨」で48.7mmの降雨が記録されている。同年3月24日に開かれた前回の第18回同窓会総会には、各年の卒業生が80名ほども参集し、練馬に移転した同校の会場がいっぱいになるほどの大盛況だった。その光景を見た準備委員の中には、感激して泣きだす卒業生もいたらしく、「自分等の奉仕的努力も茲に始めて、報いられたかの感に打たれたのである。又委員中には感極つて随喜の涙に噎んだ者も、一二あつた」と記録されている。
 したがって第19回総会の今回も、開始早々に40~50名ほどの同窓生が大挙して集まるのではないかと想定していた同窓会委員は、せっかく豊島園に用意した宴会場で大きな肩透かしをくらうことになった。開始時刻の午前9時をすぎても、卒業生たちがほとんどやってこなかったのだ。午前中にはすでに「しまった!」と、イベントの企画失敗を自覚していた様子で、すでにグチが出はじめている。
 特に委員たちをやきもきさせたのは、同時刻に豊島園の隣接する会場で、東京市街にある某女学校の同窓会が開かれていて、そちらは開始と同時に300名を超える卒業生たちがドッと集まり、大きく盛りあがっていたからだ。それに比べ、目白中学校の宴会場は委員の卒業生を除けば閑散としていた。ややキレ気味なレポートを、1930年(昭和5)に目白中学校同窓会から発行された、「同窓会会誌」第16号収録の「同窓会記」から引用してみよう。
  
 早朝より霜気を含める寒風が、強烈に吹き荒んだので、出足が頗る悪く、而も開会時間が朝九時であつた為め、全く予想を裏切られてしまつた。之は全く寒風と開会時間の尚早なりし事が、さしも戦場に臨んでは、鬼神も泣かしむるといふ大和男子の意気を、凹ましてしまつたに相違ない。尚当日は市内某女学校の同窓会も、同じく豊島園に開催せられた。仄聞する所によれば、娘士軍の参会驚く勿れ、無慮三百余名と言ふではないか。会費は本会よりも、ずつと気張つて何でも三円五十銭だとか云ふ話であつた。此処に於て、我が委員は、輓近の女子は素敵だ、何がつて!! それは聞く程野暮な話だ。……勿論それは女子の男子をも凌ぐ外部への進出と気前の良い事だ。一円や一円五十銭の会費が高いの、五十銭も六十銭もする会誌を只の五銭にしろとか、七銭にしろとか、そんな野暮な事は言はんよ。まァそれもよいさ、片方で値切つて、片方で無意味に多額の黄白(金貨・銀貨)を投げ棄てる気前者もある世の中だから……。(カッコ内引用者註)
  
 同窓会委員が怒るのも、無理はなかった。この日、参集した卒業生は彼ら同窓会の準備委員の全員をカウントしても、わずか25名にすぎなかったのだ。
 同窓会の会場は、プールの近くに建っていた西洋館で、同じ建物内では「輓近の女子は素敵」な女学校の同窓会が開かれていて、その会費の高さに驚いているから、ヒマな委員たちは彼女たちの会をのぞいて実際に取材しているのだろう。それに比べ、半額以下の目白中学校の同窓会費だが、それでも高いとブツクサ文句をいってきた卒業生たちがいたようだ。
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 雨の合い間に、豊島園のプール近くの庭園にはキクやオミナエシなど秋の花々が咲き乱れ、その中をおそらく300人余の女学校卒業生たちが散策する光景を目の当たりにしたのだろう、「天国もかくあるやと疑はるゝ場面」が展開し、まるで浦島太郎のように「遥々龍宮まで亀さんに案内されて、乙姫に拝謁して、陶酔、浮世の煩を忘れし」と、出席しなかった卒業生たちに向け「くればいいのに!」と、皮肉たっぷりに書いている。
 さらに、目白中学校の同窓会委員を口惜しく落胆させたのは、この日に合わせてコンサートを行なう楽団まで雇用していたことだ。演奏を聴く同窓会の会員がほとんどいなかったため、まるで女学校の同窓会にやってきた「乙姫」たちを喜ばせるために、あるいは豊島園へ来園する一般の家族連れなどの耳を楽しませるために開かれた、ボランティアコンサートのようになってしまった。
 つづけて同誌から、皮肉たっぷりなレポートを再び引用してみよう。
  
 又当日は特に我々の為に、音楽会を開き、他校の卒業生も一般入場者も共々にその歓びを分つたので、わが同窓会員は期せずして、所ならずも豊島園の為に慈善行為をする事になつたのは、これ一に委員等の特殊な斡旋努力の結果と考へる。一同日の短きを託ちつゝ五時頃散会した。当日の参会者は二十五名(給仕君を含めて)。学校よりの出席者は柏原会長、大塚先生、一柳先生、岡本先生、河奈委員長等であつた。伝へ聞けば散会後、某々有志者は某所に於て、更に第二次会を開き、母校や本会の今後の発展策に就て、大いに研究討論されたと云ふ事である。
  
 翌1930年(昭和5)3月23日(日)の卒業式当日、第20回目白中学校同窓会総会が同校内で開かれた。この年の卒業生は134名で、事前にアンケートを実施したところ、50名以上もの新規同窓会員が総会に参加するはずだった。ところが、フタを開けてみたらたった15名しか集まらず、しかも同窓会委員さえ委員長と、新卒業生からの新委員のふたりしかこなかった。同窓会の常任委員さえ、さっさとどこかへバックレてしまったのだ。
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豊島園池と清流(昭和初期).jpg
豊島園古城レストラン(昭和初期).jpg
 参加者50名超のために、資料や同窓会誌などを用意していた委員長は、さすがに激怒して「同窓会に大損害を与へたといふ事は事実だ」と書いている。茶や菓子類も用意していたらしく、「損害を見積つても約五六十円の巨額」とこぼしている。また、教師や在校生たちによる余興も、総会に出席した卒業生より出演者のほうがはるかに多くなってしまった。
 著者は最後に、第20回総会の「収穫」として8つの項目を挙げている。
 (一) 百参拾四名の新会員
 (二) 旧師難波田先生の御出席
 (三) 大亦、桜井両先生及び在学生四十五名の出演
 (四) 勝野弁護士の臨機の措置
 (五) 五、六十円の損害
 (六) 後輩への悪例
 (七) 出席委員及び出席会員の大失望
 (八) 出演諸君の失望落胆
 ちなみに「(四)勝野弁護士の臨機の措置」とは、同窓会委員を引き受けていた勝野という卒業生が、急な仕事で出席できなくなったことを事前に同窓会委員会にとどけ出た……という、しごくあたりまえな行為のことだ。
 目白中学校同窓会の衰退は、同校が1926年(大正15)10月に落合町下落合437番地Click!から、上練馬村高松2305番地Click!へと移転した直後からはじまっていたのではないだろうか。なぜなら、目白中学校への入学者は、独特な校風や大学並みのレベルの高い教師陣にも惹かれただろうが、山手線・目白駅Click!から徒歩3分(300m余)というアクセスのよさにも、大いに魅力を感じていたにちがいない。実際に生徒たちは、目白駅周辺の地元やその周辺域からの通学者がもっとも多かった。
 ところが、キャンパス(敷地)の地主だった近衛家Click!のよんどころない都合とはいえ、目白駅近くからいきなり7kmも離れた練馬に移転したのでは、生徒たちが素直に納得したとは思えない。教師の中にさえ、移転を機に目白中学校を辞めた人物も少なくなかった。通学するのさえたいへんなのに、卒業後の同窓会ともなれば、練馬までの出席を億劫がるのはいたしかたないだろう。いくら総会を、母校ではなく近くの豊島園で開催するにしても、当時の感覚でいえばあまりにも「遠すぎた」のだ。
 もし、同窓会総会を母校の旧キャンパスがあった目白駅周辺で開いていれば、午前9時からとはいえ、もう少し卒業生が懐かしがって集まったのかもしれない。なぜなら、それまでの卒業生のほとんどは下落合の校舎で学んだ生徒たちであり、練馬の校舎で学んだ生徒は1930年(昭和5)の卒業生を含め、いまだほんのわずかな数にすぎなかったからだ。
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 偶然手に入った目白中学校の「同窓会会誌」第16号だが、1930年(昭和5)までの卒業生全員の名簿(住所含む)や、同校の卒業生あるいは教師のエッセイ・手記が数多く収録されている。目白中学校長で同窓会会長だった柏原文太郎Click!の随筆をはじめ、目白時代の回顧を含めた多種多様な文章が紹介されているので、機会があれば再び記事にしてご紹介したい。

◆写真上:1929年(昭和4)に開かれた、目白中学校運動会の百足(ムカデ)競争。
◆写真中上は、1926年(大正15)10月に校舎ごと下落合から上練馬へ移転した目白中学校。は、1935年(昭和10)ごろに撮影された杉並へ移転前後の目白中学校。は、1936年(昭和11)撮影の杉並へ移転後に無人となった校舎。
◆写真中下:いずれも昭和初期に撮影された豊島園の噴水のある広場()、清流とボートがこげる庭園池()、そして古城を模したレストラン()。
◆写真下は、昭和初期に撮影された豊島園のプール。は、上練馬の目白中学校跡地に建つ練馬中学校。は、1930年(昭和5)に行われた春の中学野球(現・高校野球)リーグ戦の成績。目白中学校は慶応や早稲田、麻布などの強豪校を抑えて優勝している。

「よいとまけ」が響く大正期の下落合。

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整地佐伯アトリエ隣接地.JPG
 下落合のモダンな住宅街が語られるとき、その多くは開発したディベロッパーの箱根土地Click!東京土地住宅Click!、あるいは住宅を設計した遠藤新Click!河野伝Click!吉武東里Click!大熊喜邦Click!などの建築家や、住宅メーカーのあめりか屋Click!などにスポットが当てられやすいが、それ以前の土木工事について語られることがほとんどない。
 もちろん、土木工事を行なう当時の作業員(土工や土方と呼ばれた)は、多くの場合、特別の資格や技能を必要としない、体力勝負の力仕事が中心だったので、取りたてて史的に記録する必要性も必然性もなかったのだろう。
 たとえば、下落合306番地の近衛町Click!29号に建っていた帆足邸Click!の地面は、経営破綻がウワサされる東京土地住宅から依頼を受けた、「会社の設立間もない、〇〇組の〇〇親方とその土工チームが造成した敷地だった。崖地を含む三角形の土地の整地は、危険をともなうきわめて困難な作業だった。事故が多発しかねない現場を初めて眼にした〇〇親方は、緊張した面持ちで部下を御留山の谷に集めると、思わずこう訓示した。“オレは盃を交わした常務の三宅さんClick!を信用してる。だから、オレたちは何があろうと、この現場をやりとげようじゃねえか!”」……というような、まるで『プロジェクトX』の黒四ダムナレーションのような記録はまったく残らない。
 帆足邸の建設は、住宅の設計・建築を引き受けた中村鎮Click!による「中村式鉄筋コンクリートブロック」工法から語られるのであり、それ以前の宅地造成・整地工事については一顧だにされない。でも、住宅地の造成・整地作業を行なう基礎工事が、その上に載る住宅の建設にも増して重要なのは多言を要しないだろう。“基礎がため”や“地ならし”が甘ければ、そもそも上部の住宅が脆弱で倒壊しかねないのは、今日の手抜き宅地開発に関する事件・事故を見ても明らかだ。それほど重要な基礎工事である、宅地造成時の基本的な作業であるにもかかわらず、土木工事の記録が残されることはまれだった。
 それは、土木工事=力作業が中心の「下賤」な仕事であり、建築工事=知的で創造性をともなう「高級」な仕事という、職業や仕事に対する労働差別の意識から生じているのだろう。だが、建機も重機もなにもない江戸期から明治期にかけては、もちろん土木にしろ建築にしろ、すべて人力による“職人ワザ”の手作業で行われていたのであり、神田上水Click!を掘削した土工作業員は「下賤」で、目白山Click!(椿山)の下に大洗堰Click!を築造した建設作業員は「高級」などという労働差別は存在しえなかった。
 大正期の宅地造成や整地作業、いわゆる土木工事(当時も現在も開発工事では土工と略されることが多い)は、もっとも重要な地固め(地ならし)工事や土留め工事、埋め立て工事、穿孔工事、杭打ち工事、掘削工事などが実施され、これらの作業はほぼすべてが人力で行われていた。現在なら、これらの工事は建機や重機がほぼ100%こなしている作業だが、当時はすべて“人海戦術”による人手で行われていたのであり、大正中期の下落合では、あちこちで「よいとまけ」のかけ声が響いていただろう。
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整地御留山官舎跡.JPG
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 落合第二府営住宅Click!24号の下落合1524番地に建っていた自宅から、箱根土地の郊外遊園地Click!「不動園」Click!が解体され、目白文化村Click!第一文化村Click!が造成される様子を観察していた、目白中学校Click!に通う生徒の手記が残っている。目白文化村の、土木工事の様子をとらえためずらしい記録だ。1924年(大正13)4月に発行された、目白中学校の校友誌「桂蔭」Click!第10号に掲載の、松原公平Click!『郊外の発展』から引用してみよう。
  
 我が一家が来た当時、硝子窓を通して見えるものは、只青々と繁つた森、見渡す限り広々と開けた緑の畑ばかりで、朝な夕なの景色は、物に譬へやうもなかつた。併しそれも長くは続かなかつた。すぐ附近にある某富豪の大庭園、それは始(ママ)めて見た我々の眼を如何に驚かせ喜ばせたか云ふ迄もない。広い芝生、鯉浮ぶ池、夏尚寒き木立等にあこがれて、夏の夕、薄暗き中を涼し気な浴衣姿もチラホラ見えて、昼間は青々とした芝生に戯れ遊ぶ小児の群れ、池畔に鯉と遊ぶ幼児も、実に楽し気に見えて、古へのエデンの園もかくやと迄思はれたが、間もなく汚い掘立小屋が建ち、頑強相な朝鮮人土工達の数百人も入り込んで来て、地球も真二つと打込む鍬の先に、それらの楽しみは皆終のを告げた(ママ:。) 広い芝生は何時の間にか醜い赤土の原と化した。そして無情な土工達の手は容赦なく園外の畠まで延(ママ)びた。漸く育つた許りの麦の芽が涙も情もない土方の手に掛つて無惨に掘り起され、トロツコに放り上げられた。トロツコの音が、麦の芽の漸く伸び始めた頃から、桐の葉色濃かな頃まで毎日毎日続いた。さうしてその音の止んだ時、そこには何万坪かの見渡す限りの赤土原が開かれた。竹垣は結ひ廻された。間もなくそこには黄色の壁、赤い瓦の洋風建築が大工の鑿の音につれてドンドン出来て来た。
  
 おそらく、1921年(大正10)のうちから北側の府営住宅のほうまで、風にのって地固めや杭打ちをする「よいとまけ」の声が響いてきたのではないだろうか。
 その後、「何万坪かの見渡す限りの赤土原」の上に、日本の街角とは思えないようなモダンな目白文化村が出現したとき、東京市民たちはその情景にこぞって目を見張ったわけなのだが、強固な地ならしを前提とした大谷石の縁石や擁壁づくり、大きな西洋館を支える杭打ち、緻密な共同溝の掘削など、その基盤づくりをした土木作業のあらかたは、「めずらしくもない当然のこと」として忘れ去られ、顧みられなくなっていった。
 人力による「よいとまけ」の土木作業は、戦後の1945年(昭和20)以降にも全国各地で行われている。すべてが戦争のために供出させられ、街中に建機や重機類がまったく見あたらなくなり、また空襲のためにそれらが破壊されてしまったため、戦後の宅地造成作業はよほど大規模な開発でない限り、「よいとまけ」に頼らざるをえなくなっていた。空襲の焼跡に、再び住宅を建設する場合や、戦後の住宅不足から田畑をつぶして家々を建てる場合も、建機や重機などないに等しいので、ほとんどが人手による造成作業だった。
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整地金山平三アトリエ跡.JPG
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 敗戦の直後、家屋を再建する槌音を、吉村昭Click!は「よいとまけの唄」とともに克明に記録している。1985年(昭和60)に文藝春秋から出版された吉村昭『東京の下町』から、日暮里の商店街で行われた地ならし作業の様子を少し長いが引用してみよう。
  
 丸太を三つまたにして、その上部に滑車をつけ綱を通す。綱の先端には、胴突と称する重い鉄の地ならし具がとりつけられている。/指揮者ともいうべき鳶職の男が一人いて、丸太のまわりに十人近い手拭を頭にかぶった女たちがそれぞれ綱をにぎっている。女たちが一斉に綱をたぐると胴突が丸太の頂きにあがってゆき、同時に手をはなすと、胴突が落下し、土台石を打ちこむ。その動きは、男の掛声によってリズミカルに反復される。/「かあちゃんのためなら、よーいとまーけ」/男の声に女たちは、/「父ちゃんのためなら、よーいとまーけ」/と唱和し、綱をたぐって胴突を落す。/男はおおむね美声で、/「巻け巻け巻いてぇ、よーいとまーけ」/「やんやぁこりゃやぁの、よーいとまーけ」/「も一つおまけに、よーいとまーけ」/と、掛声にも変化をつけ、高音、低音もとりまぜる。/「あらあら来ました、別嬪さんが、きれいに着かざり、どーこへ行く」/などと言って、通行する娘などを冷やかす。/むろん卑猥なことも口にし、よいとまけの女たちは笑い、立ちどまってながめている者たちも笑う。いつも使っている文句もあるが、即興の文句もあって、女たちが涙をにじませて笑うこともある。重労働にちがいないが、その辛さを男の掛声がやわらげる。/一個所の基礎打ちこみが終ると、丸太を移し、その場で再び「巻け巻いてぇ」がはじまるのである。大きな家や銭湯などの新築の折には、丸太が二、三個所にもうけられ、互いに声をはりあげ、「よいとまけ」がにぎやかにおこなわれる。
  
 宅地開発で基礎づくりが目立たないのは、土木仕事の文字どおり「地味」さと、誰にでも視覚的に確認できる建築仕事の「派手」さとのちがいもあるのだろう。
 今日のICTにおける開発環境でいえば、たとえばプラットフォームやシステムインフラなど基礎的なR&Dの「上流開発」はまったく目立たないし、あらゆる仕組みづくりの重要な基盤であり土台であるにもかかわらず知る人は少ないが、その上に構築される「下流開発」の具体的なシステムや身近なアプリケーションは、誰でも目にすることができる……というのにも似ているだろうか。「縁の下の力持ち」的な仕事は、よほど公的で特別かつ高名な開発でもない限り、いつの時代にも目立たないし記録されないし、顕彰されもしない。
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 ネットで「よいとまけ」を検索すると、北海道苫小牧を中心とした銘菓「よいとまけ」が大量にひっかかる。ロールケーキの「よいとまけ」を製造しているのは、三星(みつぼし)という製菓会社だが、もともとは小樽で創業したパン屋「小林三星堂」が起源で、創業者の小林慶義は小林多喜二Click!の伯父だ。小林多喜二が小樽時代に寄宿していた三星堂の、戦後に大ヒットした主力商品が「よいとまけ」Click!だったというのも、なんとなく面白い。

◆写真上佐伯祐三Click!アトリエの北側で、整地を終えた旧・酒井億尋邸Click!跡。
◆写真中上は、明治期に来日した外国人によって撮影された「よいとまけ」作業の様子。土木作業員が、ほとんど女性だったのがめずらしかったのだろう。は、御留山Click!の財務省官舎跡が公園化に向け造成された様子。樹下にまとめて片づけられているのは、相馬邸Click!七星礎石Click!は、林泉園Click!谷戸からつづく谷間の造成地。
◆写真中下は、戦前に撮影された「よいとまけ」。組まれた丸太の上は男性だが、綱をたぐるのは全員女性。中上は、整地を終えた金山平三アトリエClick!跡。中下は、近衛町の北側に隣接した造成地。は、整地を終えた九条武子邸Click!跡。
◆写真下は、1923年(大正12)ごろ小林盈一邸Click!のバルコニーから眺めた開発中の近衛町。窓を開ければ、近衛町のあちこちから「よいとまけ」の声が聞こえてきただろう。中上は、第二文化村の北側に隣接する基礎工事を終え建設を待つ造成地。中下は、諏訪谷Click!の南側に新たな擁壁とともに拓かれた造成地。は、整地を終えたアビラ村の一画。
おまけ
 北海道の苫小牧市に「よいとまけ」(三星)という銘菓があるみたいだと知人に話したら、さっそく送ってくれた。ごちそうさまでした。ブルーベリーに似た、酸味の強いハスカップのジャムを添えたロールケーキだが、酸っぱさを抑えるためにか大量に水飴やハチミツ、砂糖が使われていて、食後は眠気をもよおすほどの怖ろしく甘いケーキだった。^^;
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下落合の「妙」に心打たれた緒形拳。

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 2008年(平成20)10月、下落合(現・中落合/中井含む)で俳優・緒形拳Click!の葬儀がいとなまれた直後に、「緒形拳の下落合散歩」Click!という記事を書いたことがある。親しい身内の方たちだけの、こじんまりとした葬儀だったらしいが、わたしのもとにも葬儀のウワサが聞こえてきたので、生前の彼がたまに薬王院Click!界隈を散歩していたことや、下落合が舞台のドラマClick!に出演していたことなどとからめて書いた憶えがある。
 葬儀が行われたのは、下落合2080番地(現・中井2丁目)の法華宗獅子吼会(戦前は大日本獅子吼会Click!)の本堂だった。わたしは以前の記事で、緒形拳と下落合とのかかわりができたのは、ここを地元とするドラマ『さよなら・今日は』Click!(NTV)がきっかけだったのかもしれないと書いた。だが、彼と下落合とのつながりはもっとはるか以前からで、1942年(昭和17)にもの心がつきはじめた5歳のとき、母親に手を引かれて下落合を訪れたときから、すでにはじまっていたのだ。
 法華宗寺院の大日本獅子吼会については、これまで拙サイトでも金山平三アトリエClick!とともに、蘭搭坂(二ノ坂)Click!上のわかりやすいメルクマールとして、あちこちの記事でずいぶん引用してきたが、1913年(大正2)に開山された同宗については、あまり詳しく触れてはこなかった。わたしの「仏教ギライ」のせいもあるが、改めて1932年(昭和8)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から、同宗の解説を引用してみよう。
  
 本門法華宗 獅子吼会本部 会長 大塚日現
 本会は大正二年大塚日現師により開山せられてより、天下の民生は翁然としてその法傘の下に集まり、現在信徒十万余人布教師二十五名付属教会十六箇所を算し今や北郊に於て有力なる宗教団体を以て目視せられてゐる、殊に会祖が勤行の傍ら新築したる大伽藍は外形的にも優に落合の一名所を創造したるものである。会祖大塚日現師は俗世の生を上総の辺陬(へんすう)に享け夙に小野山日風師に就て得度を受け岡野現相師の教化を仰ぎ真に大徳の風格を偲ばしむるものがある、而も行業世に絶し当代に於ける俗臭紛々たる宗教家と其選を異にし日夜救世済民の為めに獅子吼的説法を懈(おこた)らざるのみならず、私財を投じて幾多慈善事業を実施し、且つ精神界人多しと雖、如何なる難病奇病も全快せしむる慈悲心と神通力を有するものは蓋し師をおいて他に求め得難い、現代人間社会に活仏と欽迎されてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 どんな「難病奇病」も、その「神通力」をもって治してしまうという日現会長は、生命の危機が迫る1945年(昭和20)のイザというとき、東京の(城)下町Click!から尻はしょりで逃げだしていった、外来宗教の坊主たちClick!(親たちの世代からさんざん聞かされた)を本質的に信用していないわたしには、まったく「ウソクセ!」としか響かないのだが、それでも戦前は多くの信者たちを集めていたらしい。
 緒形拳の母親も、法華宗セクトのひとつである大日本獅子吼会の、大正期に開山して以来の信者だったのかもしれない。5歳になる子どもを連れて、下落合の山門をくぐっている。なんの用事で参拝したのかは不明だが(下落合には同寺の墓地がないので墓参りではない)、緒形拳は本堂に架けられていた扁額の前で、ジッと動かなくなってしまった。そのときの様子を、1993年(平成5)に東京書籍から出版された緒形拳『恋慕渇仰』から引用してみよう。
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 五歳、母に連れられて行った下落合のお寺で、扁額の書を見て動けなくなってしまった。なんて書いてあるのか訊くと、「妙」だという。/その頃から筆で書いている。/あまり進歩はない。/楷書しか書けない。/習ったことも教わったこともないのだから、くずしようもないのだ。(中略) 自分で読んでも下手だなと思う。バカバカしさも俺のうちだから、あえて打ち消すこともあるまい。/役者の余技かなと思っていたら、いやそうでもなくって、たとえば紙であったり、やきものであったり、布であったり板であったり、相手役がいろいろ変わるが、要するに俺のひとり芝居のようなものだ。
  
 5歳児の記憶だが、「妙」と書かれた扁額に強い印象を受けた様子がわかる。
 緒形拳は、1937年(昭和12)に牛込区(現・新宿区の一部)で生まれ育っている。1941年(昭和16)に日米戦争がはじまったときは、いまだ4歳で記憶も不確かな幼児のころだった。今日の感覚でいえば、扁額「妙」を見たときは幼稚園生ということになる。それでも5歳とはいえ、戦前の大日本獅子吼会本堂に架けられていた扁額の文字をハッキリ憶えていたのだから、よほどの衝撃的な出来事だったのだろう。
 彼の父親は、髪を長くのばしたまま坊主刈りを拒否していたせいで、戦時中は町会(隣組)Click!から常に「非国民」と非難・恫喝されていたらしい。1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で自宅が焼け、母親の遠い親戚が住んでいた長野県に疎開している。その後、「書」にのめりこんだことを考えると、緒形拳はこのころからすでに筆をしじゅう手にしていたのかもしれない。
 『復讐するは我にあり』(監督・今村昌平/1979年)を撮り終えたあと、常に「自閉症気味の緊張感」がついてまわり、「ハナもミもなくイロケなしの役者には、終生ついてまわる症候だろう」と書いているところをみると、書や焼き物などは緊張感をときほぐし気分転換するための、あるいは自身を勇気づけ、自信をもたせ奮い立たせるための、もうひとつの欠かせない“仕事”だったのかもしれない。
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 緒形拳の書の中に、「ちる櫻 残るさくらも 散る櫻」という作品がある。1974年(昭和49)制作の、下落合を舞台にしたドラマ『さよなら・今日は』Click!では、高橋清(緒形拳)役のセリフとして「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生さ」とつぶやくシーンが、少なくとも3ヶ所ほど記録されている。ひょっとすると、台本のセリフの中に思わず挿入した、彼自身のアドリブだったのかもしれない。
 緒形拳は、真鶴にアトリエをかまえていたかなり年上の画家・中川一政Click!と親しく交流しているが、新国劇Click!時代には三岸好太郎Click!熊谷守一Click!との妙な「縁」があった。『恋慕渇仰』から、再び引用してみよう。
  
 新国劇に入って、“右に芸術、左に大衆”と歌っていた頃、島田正吾先生の楽屋に、熊谷守一の描いた誕生仏が、ぽんと置いてあった。/手足が異様に大きく、とてもお釈迦さまに見えないが、まさしく唯我独尊がそこにあった。/それを見てしばらく立ちすくんでしまった。茫然とすくんでいた。/師の辰巳柳太郎は、三岸好太郎の『家族の肖像』という小さい油彩をこよなく愛し、ひとときも傍から離さなかった。巡業先の楽屋、旅館でも。/その絵は記念写真のようで、幼児をはさんで夫婦が椅子にまっすぐ坐り、緑濃い木立の中に犬が寝そべっている。(中略)肉親愛に薄かった幼児体験からか、希望願望を乗り越えて、一枚の絵が彼をとりこにするぬくもりがその小さな絵から香ってくる。/肌ざわりの良い絵である。
  
 新国劇では、終生のライバルである島田正吾が好きな熊谷守一の作品を、辰巳柳太郎は「あっさりしとって厭」と嫌っていた。面白いのは、淡白で自然な演技を標榜していた水彩画のような辰巳柳太郎と、こってりとした肉厚な演技を好む油彩画のような島田正吾とでは、絵の趣味がまったく正反対だったという点だ。このふたりの役者は、お互い“ないものねだり”を絵に求めていたのだろうか。
 やがて、辰巳柳太郎は愛蔵する三岸好太郎作品を、「やるッ!」と緒形拳に譲った。緒形が「これは三岸好太郎ですよ!」と念押しすると、「誰でもええわ」といってポイッとくれたようだ。これには後日譚があって、偶然に三岸節子Click!と知りあった緒形拳は、師からもらった三岸好太郎の『家族の肖像』を自慢げに見せた。すると、彼女はしばらく画面を見たあと、静かに首を横にふった。贋作だったのだ。
 島田正吾が所有していた熊谷守一の『唯我独尊』は、画面に釈迦の絵とともに「唯我獨尊」という筆文字が書かれていたようだ。その書について、緒形拳は「良寛も会津八一Click!も、北大路魯山人も辿りつけない何かがある」と書いているけれど、熊谷守一は長生きして膨大な作品を描いているとはいえ、こちらも贋作でないことを祈るばかりだ。
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 わずか5歳のとき、母親と下落合で「妙」の扁額に見入っていた幼児は、やがて書をこよなく愛する大俳優になった。いや、本人にすれば、人生の後半は書や旅の合い間に俳優業……というような意識だったものだろうか。どこに成長への奇跡の芽が、さりげなく存在しているか知れたものではないと、わたしはもう一度、下落合じゅうを見まわしてみる。

◆写真上:戦災からもまぬがれた、解体前の大日本獅子吼会の昭和本部。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に撮影された大日本獅子吼会本部。は、母に連れられた5歳の緒形拳が目にして動けなくなった堂内の扁額「妙」。
◆写真中下は、細かな彫刻がほどこされた現在の獅子吼会山門。は、1993年(平成5)出版のグラフィックデザイナー・鬼澤邦が装丁を担当した緒形拳『恋慕渇仰』(東京書籍)のカバー()と表紙()。は、アトリエで“仕事”をする緒形拳。
◆写真下は、中川一政について書いた「真鶴の巨人」。は、緒形拳の書「ちる櫻 残るさくらも 散る櫻」。は、1924年(大正13)ごろ制作された三岸好太郎『家族像』。

落合消費組合と早稲田の松栄食堂。

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都電早稲田電停.JPG
 複数のメディアを同時に管理するのは、むずかしいですね。facebookは、こちらの記事のURLリンクを張るだけに利用していたのですが、管理がゆきとどかずスキができてしまい、スパムの侵入を許してしまいました。ご迷惑をおかけした方々には、まことに申しわけありません。片手間のいい加減な管理では、再びリスクを生じることになりますので、先ほどfacebookのアカウントを利用解除いたしました。ご了承いただければ幸いです。
  
 以前、落合消費組合の活動について、柳瀬正夢Click!の妻である松岡朝子Click!の証言を記事にしていた。今回は、落合消費組合の設立とほぼ同時に入会した松本武市・エイ夫妻の娘、松本清子(結婚後は小沢清子)の回想をご紹介したい。
 落合消費組合は1929年(昭和4)に結成されたが、それまでは西郊消費組合に所属していた落合地域のグループだった。その後、1932年(昭和7)2月になると、再び西郊消費組合および武蔵野消費組合とともに合併することが決められ、のちに新たな城西消費組合が設立されている。したがって、落合地域の落合消費組合はわずか4年間しか存在しなかったことになり、その後は城西消費組合の落合グループとして活動することになった。
 松本清子の両親は、愛媛県から大阪に転居したあと大衆食堂を経営していた。ところが、父親の松本武市が病気になり一時的に愛媛へ帰郷したあと、改めて1927年(昭和2)に今度は東京へとやってきている。息子が東京帝大に進み、吉野作造Click!らの新人会Click!に属していたことも、東京への転居をうながしたのだろう。
 だが、1929年(昭和4)の4.16事件で兄が特高Click!に検挙されてしまい、松本家では弁護士の勧めもあり一家をあげて、1928年(昭和3)に結成された解放運動犠牲者救援会に参加するようになった。おそらく、当時の松本家の自宅は落合地域にあったと思われ、落合消費組合に加盟すると神近市子Click!や井汲花子、荻郁子らと同じ班になっている。荻郁子については、松岡朝子も印象深い人物として証言しているが、高田馬場駅近くで「のんべえ」という飲み屋を経営していた、なにごとにも動じない姉御肌の女性だったようだ。
 しばらくして、松本一家は戸塚3丁目に転居し、小学6年生になっていた松本清子は戸塚第三小学校Click!へ転校している。「シチズン時計の工場(現シチズンボウル)の所から通りを渡って右に行ったところ」と証言しているので、戸塚3丁目593番地に住んでいた佐多稲子(窪川稲子)宅Click!よりも高田馬場駅寄りで、戸塚4丁目866番地にあった藤川栄子アトリエClick!の早稲田通りをはさんだ斜向かいを、少し入ったあたりではないだろうか。
 女学校を卒業した松本清子は、救援会への依頼から1932年(昭和7)5月1日に行われたメーデーの、デモ参加者に冷たい水を配ろうとして芝の増上寺で検束されている。彼女は1日で釈放されたが、同年4月からはじまっていた東京市電の早稲田車庫(現在の都バス早稲田車庫=東京都交通局早稲田自動車営業所と同敷地)における、不親切かつ高くてマズい東京市が運営する職員食堂の、ボイコット運動に関わることになる。
 市電早稲田車庫には消費組合の「職場班」があり、ボイコット運動を進めるために落合消費組合へ炊き出しの支援依頼がきたのだ。落合消費組合はそれに応え、五目ご飯などの炊き出しを行なっている。炊き出しが美味しかったのか、早稲田車庫につめる職員たちから、安くてうまい食堂が早稲田車庫の近くにできないかという声が数多く寄せられた。
 彼女の両親はその昔、大阪で食堂を経営していた経験があったので、父親はすでに60歳になっていたが、もう一度やってみようかと腰をあげたらしい。当時の様子を、1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された『新宿に生きた女性たちⅣ』所収の、小沢清子「松本エイ・武市と落合消費組合」から引用してみよう。
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 実は、幼い子を抱えて車庫を首になった方がいて組合の人たちと話し合いの結果、その方を雇うことになりました。資金は両親が全部出したようです。/車庫の近くの店を、住まいをちょっと離れたところに借りました。店では温めぐらいしかできないので近くの自分の家で煮炊きをしてみんなで運びました。/始発から始めてほしいと言われたのですが、それはとても無理なので昼御飯を中心にしました。でも、のべつ幕無しに電車が入ってきて時間帯が一定でないうえに短時間で食べなくてはいけない。注文から出すまで時間がかかってはいけない。ほんとうにてんてこ舞いでした。/大きな岡持ちをもって電車道を横切り、店と車庫との往復。私は体は小さいけれどとても元気だったからできたんですね。キャッチフレーズ「一〇銭で満腹の松栄食堂」は安くておいしいと大人気で、近くの労働者や早稲田の学生さんも利用して大盛況でした。/独立採算でしたが、食券制で月給日には組合が集計をしてくれお金は確実に入りました。両親は自分たちはお金は要らないからと、妻子を抱えて車庫を首になった方を中心にお給料を払いました。お手伝いの女性たちにも支払うと私も小遣い程度で、結局、両親はただ働き同然でした。
  
 文中の「電車道」とは、今日の都電荒川線の終点・早稲田電停のある、都バス車庫前の十三間通り(新目白通り)Click!のことだ。このあと、両親と彼女は松栄食堂を2年ほどつづけたが、調理と経営ができる若い世代が育ってきたので、店舗の出資金を回収しないまま両親は「引退」してしまった。
 松本家では、なにごとも母親である松本エイが意思決定をしていたようで、状況の先読みができる頭のいい女性だったようだ。愛媛から大阪へでるのも、また再び東京へでるのも、早稲田車庫の前で松栄食堂を開店するのも、資金の工面や負債の返済などのやり繰りも母親の仕切りだった。父親の松本鹿市は、方針が決まると業務に徹して励む人物だったらしい。娘の眼から見ると、ふたりはいいコンビネーションだったようだ。
 松栄食堂を若い人たちにまかせた松本一家は、今度は旅館を経営しはじめている。松本家は5人兄弟姉妹だったが、兄ふたりは東京帝大で左翼運動をしていたために投獄され、姉ふたりはすでに結婚して親元を離れていた。だから、遅生まれの末娘を抱えた60すぎの両親は、引退するわけにはいかなかったのだ。
 1932年(昭和7)現在の、落合消費組合についてのレポートが、内務省の特高資料Click!に残されている。同年2月28日の正午から、中野で開かれた「城西消費組合創立総会」の事前配布資料だ。その中から、落合消費組合の項目を引用してみよう。
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 それから落合で特に注意せねばならぬ事は、早稲田の車庫の従業員によつて、職場班(その従業員を中心とした班)がつくられたが、その後此の班が少しも成長して居らぬ事である(。)その原因の主なるものは、此の班をつくつた人々に多少党派的な欠点があつた事と、前に述べた組合への官憲の弾圧がわざわいとなつたのであるが、我々の消費組合運動の中に、改党運動や労働組合運動の争ひを持ち込んで、消費組合運動を混乱せしめそれを阻害する事は大きな間違ひであるから此の点大いに注意せねばならぬ。尚落合も此の早稲田を除く他は西郊、武蔵野と同様無産知識階級が主であるが、此処の人々は組合創立の初めから、全体としてやゝ極左的な傾きがあつて、之れは最近自分で大いに清算したとは云へ、今後の班活動の上では一層誤りのないように注意されねばならぬ。(カッコ内引用者註)
  
 城西消費組合の総会前に配られたこの資料は、読んでいると違和感をおぼえる。せっかく3つの消費組合が合同し、より大きな組織になろうとしているのに、活動方針に縛られた総括の姿勢がきわめて“内向き”で杓子定規なのだ。「理屈のこね合いは禁物である」と書きながら、世界情勢や日本社会の状況を大上段に触れつつ、消費組合の事業に関しては狭隘な視界の「理屈」で、ものごとの成否を決めているような感触をおぼえる。
 報告書では落合消費組合が批判されているが、東京市電の早稲田車庫で会員の松本夫妻と「職場班」が共同で起ち上げた松栄食堂とその仲間たちは、消費組合の販路拡大のフックになりこそすれ、「極左的」とレッテル張りされるような活動ではないだろう。松栄食堂のような店舗経営を積極的に支援し、労働組合運動の「混乱」(一組と二組の対立?)などを超えて、東京近郊にあった市電車庫などへチェーン店のように出店し、その仕入れいっさいを消費組合の商品でまかなうことで、むしろ事業拡大の可能性を秘めた絶好の商機であり、経営安定の近道だったように思える。
 消費組合は、販路を拡げるという事業方針の大前提にもかかわらず、実情はまるで“仲間うち”のサークル活動のような感覚でしかなかったように見える。世界情勢から語る大風呂敷をひろげた「理念」が先に立って、事業を拡大する具体的な構想も計画性も実践力もない、凡庸な経営者の繰り言を聞いているようだ。当時は、官憲(おもに特高警察)からの介入・弾圧を警戒しなければならなかった状況とはいえ、これでは組合組織の内向きな維持・管理が先に立ち、事業を拡大するプロアクティブな要素がなにもないように思えるのだが。
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 事実、この総会前に配られた資料は特高資料(特高による検閲の書きこみや発禁印が生々しい)として存在しているのであり、当局から目をつけられるリスクは、早稲田車庫の職場班を含む落合消費組合も、のちに合併された城西消費組合も同じだったろう。……と、こんなことを書くと、当時は「ブルジョア的街頭カンパニア主義」とでもいわれて批判されたのだろうか。それとも総括レポートの文脈から推察すれば、「極左冒険主義」とでもいわれかねないのだろうか。事業を常に安定させ、企画から運営・継続、検証、発展(いわゆる螺旋形の基礎的なPDCAサイクル)させるためには、ごくごく基本的な経営視点だと思うのだが。

◆写真上:現在は都電荒川線の終点となっている、旧・東京市電の早稲田電停。
◆写真中上は、落合消費組合の会員になって活動した1939年(昭和14)撮影の柳瀬正夢・松岡朝子夫妻。は、濱田煕Click!が描く昭和10年代の記憶画Click!にみるシチズン時計工場とその周辺の街並み。は、同工場の跡地に建つ「シチズンボウル」の現状。
◆写真中下は、1936年(昭和11)と1948年(昭和23)の空中写真にみる市電(都電)の早稲田車庫とその周辺。は、1932年(昭和7)2月28日の総会前に配布された「城西消費組合創立総会」資料に掲載の「落合消費組合」に関する総括項目。
◆写真下は、「城西消費組合創立総会」資料の表紙。総会が行われた翌日早々に、内務省の特高警察による発禁処分のハンコが押され、その理由に該当するページを指摘した記載が見える。は、城西消費組合の事務所敷地で行われた“よいとまけ”Click!

女優の卒業生は出禁の女子学習院。

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 現代ならば、卒業した母校のクラスメートに高名な人気女優がいたら、「ぜひ、同窓生が集まる会には出席してね!」となるのではないだろうか。だが、わずか100年ほど前の社会では、クラスメートから「役者ふぜい」が輩出したことを「恥辱」だとする、封建時代そのままの頑迷な偏見がつづいている学校があった。
 明治末からデモクラシーの大正期を迎えても、そのように時代遅れなことをいっていたのは、華族女学校(1906年より女子学習院Click!)だ。明治後期には、すでに舞台における重要な芸術表現のひとつになっていたはずの新劇俳優たちを、学習院Click!女子学習院Click!の院長を兼務していた乃木希典Click!は、ことさら「河原乞食」と呼んで蔑んだ。
 欧米戯曲の積極的な翻訳をはじめ、シェークスピアやイプセンなど坪内逍遥Click!を筆頭に日本における新劇表現の研究や可能性、舞台における演劇全般の近代化を推進し、新たな芸術分野の開拓と確立へ積極的に取り組んでいた、学習院から南東へ1.3kmほどのところにある大学の大隈重信Click!がそれを聞いたら、乃木のいる院長室へ「きさま、なんばいうか!」と怒鳴りこんでいたかもしれない。
 卒業した母校の女子学習院から、正式な同窓会の集まり以外はキャンパスへいっさいの出入り禁止をいいわたされたのは、当時の新劇界では人気女優のひとりだった山川浦路だ。彼女は、1885年(明治18)に旗本の旧家に生まれ、1911年(明治44)に女子学習院を卒業すると、夫で早稲田大学の学生だった上山草人(のち新劇俳優)と結婚し(女子学習院に在学中、長女を出産している)、坪内逍遥が設立した文芸協会に参加している。その後、夫婦で文芸協会を脱会して近代劇協会を創立した。
 おそらく、乃木希典Click!が「河原乞食」と蔑視した背景には、在学中に学生結婚をして子どもを生んだことも含め、当時の言葉でいうならば、彼女の「貞淑」とは正反対だった「新しい女」の自由な生き方そのものが、気に入らなかったのではないだろうか。まるで、現代女優のように身長が170cmほどあった山川浦路は、乃木院長を見下ろしていたのもシャクに触わったのかもしれない。また、女学生の中でもスラリとひときわ目立っていた彼女の容姿に、嫉妬していた同級生も少なくなかったのではないか。
 正式な同窓会の集まり(それにも条件が付与された)以外の親睦会や茶話会、講演会、旧友会などは、すべて出禁になってしまった当時の様子を、1913年(大正2)に文明堂から出版された磯村春子『今の女』収録の、山川浦路「同級会の圧迫」から引用してみよう。『今の女』は、明治末から大正初期にかけ、さまざまな領域で活躍している女性たちに取材した、20世紀初頭のフロントランナー・インタビュー集といった内容だ。
  
 『最近の事ですが、華族女学校同級会の幹事から、二尋もある御手紙が来ましたから、何の事かと、開いて見ると、マー聞いて下さい。/今回、同級会の決議に由り、今後、同級会以外の会合には、御出席御断り申候。/ですって、私は、初めつから、御姫様方の心を、知つて居りますから、何の会、この催しと、度々、御通知があつても、わざと、遠慮して、出席は見合せて居りましたのです。それだのに、今更、麗々しく、御断りが無くつても、宜いぢやありませんかね。其次に曰くですよ。/若し、同級会に御出席の節は、必ず、普通の髪に願ひたく候。/ですって、日本人の普通の髪つたら、何でしやう。日本髪の事でせう。廂髪だつて、結ひ初めは、変に見えたぢやありませんか。ねえ髪の結ひ振りに、法則でもあるぢやなし。』/と、力を入れて、感情に激した。/有楽座のヘツダを、見る心地して、浦路子の顔をさし覗けば、前髪を分けて、スーッと、襟筋の上に落した束髪、物馴れぬお姫様達を驚かしたのも、無理ではないと思はれた。
  
 普段から、母校の集まりへは遠慮して顔を出さない山川浦路へ、ことさら出入り禁止の手紙を送って寄こすのは、明らかに嫌がらせでイジメに近い行為だろう。
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 彼女が髪型を日本髪風に結わず、前髪を分けてうしろでひとつ結びにし、そのまま長髪を背中へたらすようにするか、あるいは簡易に結んでまとめ髪にする、現代に限らず大正期以降の女子ならしごくありふれた髪型が、女子学習院の「御姫様(おひいさま)」たちには気に入らなかったのだろう。山川浦路の髪型は、下落合で九条武子Click!がよくしていた髪型とまったく同じスタイルだ。
 この文章から10年余ののち、都市部では山川浦路のような髪型が「普通の髪」になり、日本髪のほうがむしろ仰々しく時代遅れで、さまざまな封建的な呪縛を脱ぎ棄てて自由を追求する、「デモクラシー」を理解しない野暮な女性と見られるようになっていく。つづけて、山川浦路のインタビューを引用してみよう。
  
 浦路子は、稍々興奮の眼を、輝かして/『私には、私だけの希望がありますから、後日、必ず嘲罵した、あの人達を、私の立つステーヂの前に、引付ける様に、努めますわ。』/両の手に、火箸を握りつめて(ママ)、身を震はす。/『境遇の変化は、恐ろしいもので、初めは、遊ばせ言葉が、口癖になつてゐて、女優の使ふべき言葉でない、と、いはれたものが、今日では、窮屈でソンな、言葉が、出なくなりました。』/と吐息をつく。
  
 同級生たちからの嫌がらせの手紙が、よほど口惜しかったとみえて、「御姫様」たちが話す「遊ばせ」言葉をつかっていたのが“恥”とまでいわんばかりの勢いだ。おそらく「ごきげんよう」も、彼女の語彙から早々に廃棄されたのだろう。
 山川浦路の予言どおり、明治末に日本橋三越Click!が打ちだした「今日は三越、明日は帝劇」のキャッチフレーズが大正期には大流行となり、彼女が帝国劇場で出演していたシェークスピア劇の舞台は、大正期を代表するモダンで洗練された演劇エンターテインメントになっていく。当然、女子学習院を卒業した「御姫様」たちも時代の流れには逆らえず、否応なく「ステーヂの前に、引付け」られたのではないだろうか。
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 同じ『今の女』の中に、当時は芝居(歌舞伎)の戯作者をしていた、まだ若い長谷川時雨Click!のインタビューも掲載されている。そこでは新派Click!を痛烈に批判し、新劇(近代劇)を高く評価しているのが面白い。同書から、再び引用してみよう。
  
 『で厶(ござ)いますが、現在の処、チヨツト妙な物になつて居るのは、アノ新派劇で厶いませうね。旧劇(歌舞伎のこと)の衰へかゝつた時代に、芽を出して、一時は、非常な勢で、歓迎されたものでしたが、つまりは、我々、今日の現在の儘を、芝居に見せる丈のもので、ソレが、然も、舞台の上から、妙テケレンな声色を発して、女といへば、何れを見ても、浪子(『不如帰』のヒロイン)といつた型、男は相も変らず、英雄とか豪傑のきまりもの計りを、出し物にして、何の其間に、趣味とか、優雅といふ点が、ありませうかと、マー疑はれますね。』/と熱心に、上気した白粉の面、ホンノリと紅らむ。『こんな事を申すと、生意気だと、仰しやるかも知れませんが、近頃の近代劇などが、驚く程、人気を取つて居るのを見ましても、確かに、其劇中の人物を、真面目に研究して、出して見せると云ふ、熱心が現はれて、居るからだと思ひます。(後略)』(カッコ内引用者註)
  
 長谷川時雨が思わず口にした新派劇評は、わたしが子どものころの新派劇Click!に、そっくりそのまま当てはまるだろうか。
 さすがに、「英雄とか豪傑のきまりもの」の上演は減っていたけれど、男や周囲の環境、時代に翻弄され流されていく哀れでか弱い女が、「別れろ切れろは芸者の時にいうことば」とか「今の妾(わたし)には死ねといって下さい」とか、70歳も近い水谷八重子(初代)に舞台上から「妙テケレンな声色」でいわれても、20世紀後半に生まれたわたしは、ただ午睡するしかなかったのだ。歌舞伎に比べ、新派の衰退ははるか以前からはじまっていたのだろう。
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 その後、山川浦路の女子学習院への出入り禁止が、いつごろまでつづいていたのかはさだかでないが、彼女も懲りごりだったらしい陰湿で底意地の悪い、「御姫様」たち同級生の性悪な性格を勘案すれば、たとえ帝劇の高名な女優へ改めて招待状がとどいたとしても、地付きの女性らしく「おとついおいで遊ばせ」と、出席お断りだったのではないだろうか。

◆写真上:帝国劇場のビルから眺める、千代田城Click!桜田門Click!方面の内濠。
◆写真中上は、磯村春子がインタビュー時の山川浦路()と、彼女が出演していた帝劇のシェークスピア劇『マクベス』のポスター()。は、当初は青山にあった女子学習院(華族女学校)の全景。は、女子学習院の青山キャンパス玄関。
◆写真中下は、青山にあった女子学習院の大講堂。は、青山の女子学習院で行われた卒業式の様子。は、青山の女子学習院正門の門柱にあった笠石で、戸山に移転した現在の学習院女子大学のキャンパス内に保存されている。
◆写真下は、戦後に戸山ヶ原の近衛騎兵連隊Click!跡に移転してきた学習院女子大学(旧・女子学習院)の校舎。キャンパスでは近衛騎兵連隊のレンガ造り兵舎が、そのまま解体されずに活用されている。は、1913年(大正2)に文明堂から出版された磯村春子『今の女』()と、明治末に撮影された磯村春子のポートレート()。

ジッと我慢の劉生とすぐに解放の佐伯。

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 あまり知られていないエピソードだが、便意をひたすら抑えてトイレに駈けこむのをガマンしていた洋画家がいた。娘にあらぬことを口走り、父親の言葉に疑念を抱いた彼女が、しじゅう洋画家を監視しはじめるようになったからだ。娘とは岸田麗子Click!であり、父親の洋画家とは岸田劉生Click!のことだ。
 岸田劉生が、やめとけばいいのに、娘へありえないことを話して聞かせたのは、藤沢の鵠沼で麗子が小学校へ入学する前(1919年前後)のことのようだ。ちょうど、「麗子像」シリーズClick!ではもっとも有名な画面で、東京国立博物館が所蔵し重要文化財に指定されている『麗子微笑 青果持テル』(1921年)を制作する少し前ということになるだろうか。同作は、麗子が鎌倉師範学校付属小学校へ入学したすぐあと、1921年(大正10)10月4日に制作がスタートし10月15日に完成している。
 1921年(大正10)の秋、岸田麗子Click!は学校から帰るとほとんど毎日、父親のいるアトリエのモデル台(本箱)に座らされていた。小学校の友だちが「麗子ちゃん、遊びましょ」と誘いにきても、母親の蓁夫人が玄関先で断ってしまった。麗子が父親のモデルになるのは、これまでにもさんざん繰り返されたことなので、それほど苦ではなかったかもしれない。ただし、何時間も同じポーズでジッとしていなければならないので、ときには不満を口にしただろう。小学校へ入学する前、やはり遊びたくて不服をとなえた麗子に対し、劉生は騙しだまし説得をして制作をつづけていたにちがいない。
 その中に、劉生が自分で自分の首を絞めるような話を、娘に聞かせてしまったエピソードが残っている。2019年に岩波書店から出版された月刊「図書」11月号より、岸田夏子『思い出 麗子あれこれ』から引用してみよう。
  
 学校に上がる前のことですが、あるとき劉生が「お父様はこの世を美しくするために天から遣わされた天使なんだよ」と言い、ここで止めておけば良かったのに劉生らしく続けて、/「だから、天使のお父様はご飯も食べたふりをしているだけ、だから御不浄と言われるものも一切しないんだよ」と続けました。/子供ながらどうもおかしいと思った麗子は、家の外でお父様がお手洗いに入ってくるのを今か今かと待ち構えていたのです。このことは本当に劉生を困らせた出来事の一つでした。父を信じる子供と信じさせたい親心と言っておこうかしら。他愛無い親子の間の事件の一つでしょうか。
  
 この証言から、鵠沼で借りていたアトリエの家は、トイレが母家とは離れた場所に建てられていたのがわかる。農家などでは、庭先に独立したトイレがあるのはめずらしくないが、大正期の藤沢には地主の農家が貸家を建て、避暑・避寒の別荘や東京近郊の住宅として賃貸ししていた家の中には、そのような仕様の家屋があったのだろう。
 このエピソードを、岸田麗子自身はどのようにとらえていたのだろうか。1959年(昭和34)に新潮社から刊行された「芸術新潮」9月号に収録の、岸田麗子『父の遺してくれたもの』では、こんなことになっている。
  
 父は鵠沼に住んでいた頃、よく私にこんなことをいった。/「お父さまはね、本当は天のお使いなのだよ。天の神様が、この世を美しく飾るためにお父さまをおよこしになったのだよ。お父さまは天で虹を描くお仕事をしていたのだけれど、それをほかの天使にたのんできたのだよ。だからお父さまは人間の食べるごはんも食べないし、おツージもしないよ。ごはんは食べているように見せかけているだけだし、うそだと思ったらお便所へお父さまと一緒にきてごらん」/それである時、私は父のうそを見破ってやろうと思い、父の便所へはいるのをみすまして、ソーッと裏へまわって便所の前にしゃがみこんだ。なかから父が人の気配を感じて、/「誰だい、……麗子かい?」/「ウン」/「バカな子だね、あっちへいっておいで」/その父の笑いをこらえた、なんともいえない困った声は今でも忘れられない。子供ながら実に愉快だった。
  
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 劉生は、ご飯のおかわりをすると、ジッと見つめる娘と目を合わさないようにし、おみおつけを啜る音に耳をそばだてる娘の表情を、かなり気にしていたのかもしれない。だが、トイレの前で張りこみをつづける娘には、弱ったを通りこしてパニックを起こさなかっただろうか。劉生の頑固で意固地な性格からして、あれは冗談だったと笑いにまぎらせながら用を足しにトイレへ駈けこむとは考えられず、また父親の権威失墜はどうしても避けなければならないので、なんらかの工夫をして用を済ませていたとみられる。
 「やっぱり、お父様も人間だったのだわ」と気づくまで、麗子がトイレの前からいなくなる算段を蓁夫人とつけたか、なにかトイレ代わりになるものを身のまわりに用意していたのかもしれない。立ち小便で「壽」文字を書くのが得意だった劉生は、「小」の場合は家の裏へこっそりと抜け出して、そこらに生えるクロマツの根元の砂地で用を足していたのだろうが、「大」の場合はほとほと困りはてたにちがいない。でも、麗子のほうが一枚上手だったようだ。張りこみをやめたと見せかけて、父親がトイレに入るのを待ち伏せし、劉生はその麗子のワナへまんまと引っかかった。
 岸田劉生とは正反対に、便意をもよおせばトイレがあろうがなかろうが、用を足せる繁みさえあれば「大小」かまわず、そして友人知人がいようがかまわずすぐに“解放”してしまうのが、下落合の佐伯祐三Click!だった。国内外の写生場所を問わず、自分の気に入った風景に出あうと、すぐにも「大」がしたくなったようだ。それは、幼児のころに刷りこまれた、乳母からの暗示が大きく作用していたらしい。
 1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された、山田新一『素顔の佐伯祐三』から引用してみよう。このエピソードは、佐伯も山田もいまだ東京美術学校の学生時代(1918年)のことで、伊豆の網代へ写生旅行に出かけた際の情景だ。ちなみに、ヴラマンクを訪ねた帰りの里見勝蔵Click!をはじめ、佐伯の周辺にいた画家たちは同様の証言を残している。
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 遠く大島から茫々と伊豆半島の岬の先々まで眺められ、漁船の白帆がちらばる景観と相対するや否や、どうも傍で変な恰好をするので僕が、/「おい、どうしたんや」/と訊くと、/「わし、“ババ”がしとうなったんや」/「ババって、あの大便か?」/「そうなんや」/「そな、どっかその辺にせいやあ」/そこで彼は、数メートル離れた雑木の下へ隠れて、用便をした。しばらくしてイーゼルに戻ったので、/「きみ、みょうな習慣があるんやなあ。なんで写生の前にうんこするんかあ」/と言うと、/「わしはなあ、すごいいい景色みたら、もよおすねん!」/「どうして、そんな変な感覚なのかなあ……」/「わし、小さい時になあ、育ててくれた乳母がなあ、わしに便をさすときになあ、しーこいこい しいこいこい/ほい 富士さん見えるやろ/富士さん見えたるやろ/と唱うのが、癖だったので、そいでまあ、幼い頃のことだし、いいけしきが見えよるのかなあ、と思うているうちに、でたんやなあ。それが今でもつづいとんのや。すごいいい景色見たら出てくんのや」
   
 いい景色や描きたい風景に出あえると、条件反射のように便意をもよおすのは、乳母が唄った大阪の「童謡」(?)とともに植えつけられた幼児体験がベースになっていたのがわかる。ただし、佐伯が育った大阪からは、もちろん富士山が見えるはずもなく、「♪富士さん見えるやろ」でいったい佐伯はなにを見て(想像して)興奮し、乳母の「♪しーこいこい」「♪ばばこいこい」で排便していたのだろうか。
 伊豆の網代ばかりでなく渡仏したときの写生でも、気に入った風景画のモチーフを見つけると、佐伯はあたりかまわず野グソをしている。もちろん、パリの市街地ではさすがにそのようなエピソードは聞かないが(公衆便所をタブローに仕上げているのは、もう済ませたあとかもしれない)、少し郊外に出たとたんに野グソ証言が増加してくる。
 「下落合風景」シリーズClick!を描いた当時、下落合は東京市街地から離れた郊外だったので、いまだ随所に田畑や草原、雑木林が点在するのどかな光景だった。特に開発が進行中で、工事中の箇所が多かった下落合の中・西部には、「雑木の下へ隠れて」用を足すには絶好の場所が、まだ数多くあちこちに残っていただろう。
 拙サイトの記事をご覧になり、ご自宅の近所が「下落合風景」に描かれて残っていると喜ばれる方は下落合に多いのだが、その風景をタブローにして残すほど、とても気に入ったということは、佐伯が興奮して「“ババ”しとうなったんや」「もう、出てくんのや」の場所であったことにも、ちょっと留意する必要があるかもしれない。つまり、描きたくて「下落合風景」の画面に選ばれた風景モチーフのすぐ近くで、佐伯が我慢しきれずに「♪しーこいこい ばばこいこい」と唄いながら、用を足していた可能性が少なからずあることだ。
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 岸田劉生は不用意なことを口にし、かけがえのないモデルのためにトイレを我慢してもだえ、佐伯祐三はお気に入りの風景のために、身もだえしながらあたりかまわずどこでも排便する。この高名な洋画家たちは、ほぼ同時期にふたりしてなにをやっていたのだろう。

◆写真上:1926年(大正15)秋にのちの勝巳商店地所部Click!の所有地から北を向いて描いたとみられる、「宅地造成地は、もよおすねん!」の佐伯祐三『下落合風景』。
◆写真中上は、1923年(大正12)8月に鵠沼の家の前で撮影された岸田劉生と岸田麗子。は、1921年(大正10)秋に制作された岸田劉生『麗子微笑 青果持テル』。
◆写真中下は、1918年(大正7)にわざわざ銀座へ出かけて写真館「児島」で撮影された5歳の岸田麗子。は、1919年(大正8)に撮影された鵠沼の家の周囲を走りまわる岸田麗子。は、ふたりのカップリングがめずらしい1987年(昭和62)に集英社から出版された『20世紀日本の美術』15巻(岸田劉生・佐伯祐三)。
◆写真下は、1923年(大正12)8月に静養先の信州・渋温泉で撮影された佐伯祐三。は、パリ郊外にあるオニーの古い教会近くで1925年(大正14)に撮影された、右から「古いカテドラルは、もよおすねん!」の佐伯祐三、同行した画家仲間の渡辺浩三、佐伯米子、佐伯彌智子。は、改正道路(山手通り)の建設工事で消滅した「矢田坂」Click!の中腹を描いたとみられる、「坂道も、もよおすねん!」の佐伯祐三『下落合風景』(1926年ごろ)。

高-低-高の風景画が好きな吉岡憲。

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 So-netのWebサーバサービス「U-Page+」の終了にともない、そちらで構築してきた「わたしの落合町誌」および「目白文化村」の各サイトとその関連リンク(オルタネイトテイクなどの別ページ)の全部を、新しいWebサーバへ移植し終えました。これまでのURLは、記事内のリンク先を含めすべてが変更されていますので、So-net配下のURLを登録されていた方は、サイドメニューのバナーから新しいURLを登録していただければ幸いです。
  
 上落合1丁目328番地のアトリエで暮らした、吉岡憲Click!が描く画角の広い風景画にはひとつのパターンがある。手前の小高い位置にイーゼルをすえ、手前に拡がる街や村を見下ろしながら、向かいに見える丘あるいは山を描くという構図だ。それは、東京の風景でも九州・長崎や東北の風景でもどこか共通している。
 以前にご紹介している、旧・神田上水(1966年より神田川)の南岸にあたる高田南町3丁目から、下落合は近衛町Click!の南端に建つ学習院昭和寮Click!を描いた『高田馬場風景』Click!(1950年ごろ)や、旧・神田上水北岸の同町から下落合の同寮を描いた『目白風景』Click!(1950年ごろ)がそうだった。また、旧・神田上水の大滝橋(大洗堰Click!跡)の北岸、江戸川公園のバッケ(崖地)Click!中腹から早稲田南町のピークである正法寺の丘を描いた、『江戸川風景』(1950年ごろ)についても詳しくご紹介している。
 ほかにも、九州・長崎の風景を写した『南山手風景』や『山手風景』、『大波止』、『おらんだ坂あたり』(1952~53年ごろ)、千葉の布良Click!や御宿の風景とみられる『房州の漁村』や『外房』(1952年ごろ)、福島の冬景色を描いたとみられる『春雪』や『早春の朝』(1952~1954年ごろ)と、近似した構図の作品を見いだすことができる。
 この構図について、2003年(平成15)刊行の『追憶の彼方から―吉岡憲の画業展―』図録収録の、尾崎眞人「聖なる位置をずらした男-吉岡憲」から引用してみよう。
  
 長崎市の「どんの山」中腹の海星学園を描いた<おらんだ坂あたり>(図録ページ略)そして長崎グラバー邸方向を描いたと考えられる<南山手風景>(略)などにも、<高田馬場風景>と同様な画面構図がみられる。/これらの作品は、単に下方から丘の上を描いたものではなく、高い位置から作者の視点は描いている。そのため作品は高見の位置から一度見下ろした視点で前景が描かれ、さらに仰ぎ見る視点で遠景を描くという二重の視点が特徴となっている。私たちの視線は、近景に人影など町の景観から入り、丘の上の建造物へと視線が登り、やがて天空の空へ消失していく。画面のなかを私たちの視線は移動する。
  
 著者が書いているとおり、確かに画面の中を観賞者の視線は徐々に移動していくのだが、わたしはその移動のしかたが逆ではないかと考えてしまう。まず、遠景の丘や山などのかたちを観察して全体の風景を把握し、それから徐々に近景に拡がる街や村の情景に目をとめていく……という順序だ。
 これは、登山やハイキング、あるいは起伏の多い地形の郊外を散策される方なら馴れ親しんだ、よりピンとくる感覚ではないかと思うが、広い視野(絵なら画角)の風景を見るとき、まずは視野全体の地形や地勢を、半ば無意識のうちに読みとろうとする本能が働く。そして、自分がどのような位置にいるのか、どこからその風景を眺めているのかを、まずは把握し認識しようとするだろう。そこで重要なのは、手前に見える街や建物ではなく、遠景に見える土地(山や丘)の起伏形状だ。その把握を前提に、自分の立ち位置を意識しながら、眼前に拡がる街や村を観察しようとする。
 吉岡憲が、上落合のアトリエから西武線に乗り高田馬場駅で下車していた1950年(昭和25)前後、空襲で焼け野原になった東京の街々には、関東大震災Click!の教訓で建てられた焼け残りで、炎をくぐって傷んだコンクリート製の防火建築のほか、建物の多くが急ごしらえで建てたバラックの平家住宅が多く、今日のような高い建造物はほとんどなかった。換言すれば、東京の山手に拡がる丘陵地帯の起伏が、非常によく観察できた時期だったのだ。そもそも起伏に富んだ世田谷育ちの吉岡憲は、子どもの時分からそのような風景観察、あるいは風景のとらえ方に親しみ、好んでいたのかもしれない。
 敗戦から間もないころは、旧・神田上水の両岸にU字ときにはV字で起立する、いまでは高いビルやマンションに隠れて見えにくい河岸段丘Click!やバッケ(崖地)から、対岸に見える丘や段丘斜面を容易に見わたすことができた時代だ。だから、そのような構図を好んだとみられる吉岡憲は、旧・神田上水の南にある急斜面から(『高田馬場風景』)、高田南町3丁目にある焼け残りのビルの屋上から(『目白風景』)、あるいは江戸川公園の傾斜角60度ほどもある崖地の中腹に通う公園の小径から(『江戸川暮色』)、正面の丘上に見える白亜のビル群(学習院昭和寮)や、尾根道を走る早稲田通りのピークの丘Click!(正法寺~早大喜久井町キャンパスあたり)を容易にとらえることができたのだ。
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吉岡憲「おらんだ坂あたり」1953頃.jpg
吉岡憲山手風景」.jpg
 余談だが、『江戸川暮色』の画面に描かれた早稲田南町の丘の崖地にも、またイーゼルをすえた江戸川公園の崖地にも、戦時中には大型防空壕Click!がいくつか掘られ、吉岡憲が仕事をするわずか5年ほど前には、空襲で避難してきた数百人の人々が焼夷弾による大火災の炎にあおられ、急激に酸素を奪われて窒息死Click!している。
 1951年(昭和26)12月20日に書かれた、吉岡憲の散文詩(無題)に次のような作品がある。1996年(平成8)に「信濃デッサン館」出版から刊行された、窪島誠一郎・監修『手練のフォルム―吉岡憲全資料集―』から引用してみよう。
  
 一匹の野良犬が丘の端に佇み夕映に染っていた。丘の一角には小学校が建ち、眼下には家並が議事堂の尖塔を焦点に続いていた。炊煙が棚引き外燈の光が目にはいりはじめる頃の静かで温い風景が、強盗殺人汚職売淫の街とは信じ度くなかった。暮色があたりに立ちこめ黝(あおぐろ)く立つ学校からピアノの音がもれて来た。何百回かきいた曲、そして何時も心温る調べ、モツアルトのトルコ行進曲か、野良犬は憤怒をやわらげ、この丘へ通う楽しみに気づいた。(カッコ内引用者註)
  
 「野良犬」とは、もちろん吉岡憲自身のやや自虐をともなう喩えだと思われるが、この「丘」とはどこのことだろう? 夕映えの「暮色」からすると旧・神田上水沿いの『江戸川暮色』が浮かび、「野良犬」がいる地点は江戸川公園の崖地中腹(標高25m前後)ということになる。戦災で焼け野原の痕跡が残る当時は、そこから永田町の国会議事堂Click!が容易に見えただろう。丘の一角にある「小学校」とは、「野良犬」がたたずむ江戸川公園の背後(北側の丘上)にある関口台町小学校Click!ということになる。
 しかし、敗戦後5年ほどなら、下落合の丘上からでも国会議事堂の議場大屋根はなんとか見えていたかもしれない。吉岡憲が、『目白風景』や『高田馬場風景』に描く学習院昭和寮Click!の左手、御留山Click!のピーク近く(標高36m前後)に立てば、さらに遠くまで見わたせただろう。(ちなみに当時の御留山は公園化されておらず、戦前からつづく東邦生命の所有地だった) これらの作品を描いているとき、吉岡憲はモチーフとなった丘に興味をおぼえ、下落合の坂や斜面を上っていてもなんら不思議ではない。また、御留山のピークのすぐ西側には、相馬坂を隔てて落合第四小学校Click!が建っている。
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 『江戸川暮色』の描画ポイント、江戸川公園の急峻な崖地から国会議事堂までは直線距離で約4km強、下落合の御留山ピークから議事堂までは同じく約6kmと、どちらの丘からも遠望の可能性がありそうだ。『江戸川暮色』の作品を中心に想像すれば江戸川公園が有利だが、アトリエのある上落合1丁目328番地から下落合の御留山までは直線距離で1,000mしか離れておらず、当時の道筋で歩いても15分前後でいき着ける(アトリエへ帰れる)ことを考慮すれば、地元のほうが有利だろうか。
 この時期、東邦生命の所有地だった広大な御留山は、夫婦の管理人がふたりしかおらず、竹田助雄Click!は半ば自由に出入りして写真撮影をしていたし、近所の子どもたちはどこからでも入りこんで、沢ガニや昆虫を捕まえていた。
 同書の中で、窪島誠一郎は暮れなずむ上落合の街並みを歩きながら、「吉岡憲の風景」を感じる場面がある。同書の、「吉岡憲の軌跡」から引用してみよう。
  
 菊夫人の家へいそぐ私の前方に、あるいは逆に中井駅の商店街にむかってあるく私の背後に、あたかも無数の黒い塔婆でもならべたみたいな薄暮色の風景がひろがっていた。それは東京という大都会の片隅に息づく、パリかローマの裏街でも思わせるようなエキゾチックな夕景色だった。私は、あゝこゝにはまさしく吉岡憲の風景がある、色彩があると思った。(中略) 吉岡憲の絵の魅力を一口に語れといわれゝば、その筆触がもつ爽快なスピード感と、どんな対象をも瞬時にして一掴みにしてしまう魔術のような描写力につきるといえるだろうけれど、私としてはその色感の豊潤さ、奥深さにいっそう魅入られるのである。あの薄暮どきの、上落合の裏通りをそめていた、微かに霊気さえおびているようにみえた代赭色と蛍光色のひろがり。たぶん吉岡の絵の感触は、あの早暁とも洛陽ともつかない地の果てからとゞくやわらかな光源の中から生まれてきたものにちがいない。
  
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 窪島誠一郎は、「代赭色と蛍光色」と表現しているが、わたしは(もう少し冒険が許されるとすれば)吉岡憲が人物(人の肌)を描くときに使用する色彩を、風景の中にも採り入れている……と感じる。別に暮色の風景画に限らず、太陽が真上にあると思われる画面や雪景色にさえ、随所で同色が使われているように見えるのだ。それは、たとえば当時の東京は舗装道路が少なく、関東ロームが露出していたからだという事実を持ちだせば身もフタもないけれど、たとえば福島の雪に埋もれた家屋にさえも、その色合い(人肌の匂い)を見いだしながら、吉岡憲の人を求めるやわらかな「ぬくもり」のようなものを感じてしまうのだ。

◆写真上:下落合の丘の斜面に繁った、雑木林から眺める冬の黄昏どき。
◆写真中上は、1952年(昭和27)ごろ九州・長崎の情景を描いた吉岡憲『南山手風景』。は、1953年(昭和28)に同じく長崎を描いた吉岡憲『おらんだ坂あたり』。は、同じころ長崎の街並みを描いた吉岡憲『山手風景』。
◆写真中下は、1950年(昭和25)ごろに高田南町から下落合の丘を描いた吉岡憲『目白風景』。は、江戸川公園から早稲田南町の丘をとらえた吉岡憲『江戸川暮色』。は、斜めフカン写真による江戸川公園と下落合の御留山から国会議事堂への遠望。
◆写真下は、1952年(昭和27)ごろ長崎港の波止場を高位置から描いた吉岡憲『大波止』。は、1954年(昭和29)に福島の山間集落を描いたとみられる吉岡憲『春雪』。は、同時期に福島へ旅行した際の情景を写したと思われる吉岡憲『早春の朝』。

佐伯米子アトリエを拝見する。

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 佐伯米子Click!が存命中で、静物画を描いてる最中に撮影したとみられる、彼女のアトリエの記録写真が残されている。その細かな情景を観察すると、佐伯祐三Click!が死去したあと、彼女の生活の一端がうかがわれて興味深い。アトリエには、静物画用のモチーフとともに、佐伯米子の愛用品がサイドテーブルや棚などに置かれており、戦後、彼女をアトリエでとらえた写真ではおなじみの品物も見えている。
 イーゼルに、真新しい6~8号Fサイズほどのキャンバスが置かれた横には、テーブルの上にモチーフの花瓶や花束(キスゲのような花弁だが、なんだろう?)、シチュー皿に載せられたニワトリ(チャボ)Click!の死骸(?カモClick!ではなさそうだ)などが置かれている。花瓶の手前にある、袋に入れられたフランスパンか米あられ、またはソーセージのような物体はなんだか不明だ。イーゼルの前に座ると見えなくなるよう、物体の陰にマッチが置かれているのは、彼女がタバコ飲みだったからだろう。
 その花の向こうには、おかしなものが見えている。筆立てや鉛管の箱に並んで設置された、おそらく卓上ラジオの上に置かれているのは小さな獅子頭(ししがしら)だ。尾張町(銀座)にある多くの町内は、江戸期から山王の日枝権現社Click!の氏子町なので、池田家の氏神も同様だったろう。この獅子頭Click!は、日枝権現にまつわるなんらかの記念品か、それとも地元銀座の出世地蔵尊Click!の祭りに関連した思い出の品ででもあるのだろうか。
 その左横に置かれた筆立てにも、筆とともに矢が何本も挿してある。おそらく破魔矢だと思われるが、日枝権現社の破魔矢か、あるいはひょっとすると地元の下落合氷川明神社Click!のそれかもしれない。その手前には、もっと場ちがいな、にわかには信じられないモノが目に入る。金属パイプに布を張った、ドイツのバウハウス風デザインのようなイスの背後には、フランスのオーヴェル・シュル・オワーズにあるゴッホの墓石のような形状の、“なにか”板碑のような物体が立てかけられている。
 同じかたちをした重たい墓石を、そのまま床面が脆弱なアトリエに持ちこんだとはとても思えないので、墓碑銘の拓本か写真をボードに貼りつけ、墓石のかたちに切り抜いたものだろうか。表面には、なにやら文字らしいものが書かれているように見えるが、この写真の解像度では読みとれない。中村彝Click!も、『カルピスの包み紙のある静物』Click!(1923年)を制作する際、十字架のついた同じようなモノ(キリスト磔刑像)をわざわざこしらえているが、モチーフ用に製作した小道具のひとつなのだろうか。
 その左手の棚の上にも、ランプやミニチュアの家具など、モチーフに使われたとみられる道具類が並んでいるが、その中におそらく観音立像(のようなもの)が一体見えている。でも、印形をかたちづくる左右の腕が確認できず、遠目には欠損しているように見える。あるいは、前に向けた右腕が欠損している、夢違観音(ゆめたがいかんのん)の出来の悪いレプリカだろうか。だが、それにしては左手首の印形も見えないので、両腕が破損したレプリカだろうか。わたしは、このようなかたちをした日本の仏像を知らないが、ひょっとすると廃仏毀釈時に壊され両腕の欠損が多い、仏像まがいの神像のたぐいだろうか。
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 左手のソファには、やはりモチーフ用に購入したものか、人や馬、熊などの人形類やぬいぐるみが並んで置かれている。成長した大人の女性が、ぬいぐるみや各種キャラクターに夢中になるのを、わたしは「気味(きび)が悪い」と感じてしまうので、ここはモチーフ用の素材類と解釈したい。この中で、ソファの右側に置かれている黒いシルクハットをかぶった男子の人形は、佐伯祐三が第1次渡仏時にパリ・オペラ座近くの骨董店で、高額にもかかわらず無理をして購入したものだ。
 この人形は、もともと男女のペアだったが、女子の人形は有島生馬Click!にプレゼントしているため(のちに焼失)、男子人形だけが佐伯アトリエに残されていた。人形たちが並べられた手前のソファには、ザルに盛られたミカンのような果実が見えるが、季節が秋だとすればカキかもしれない。いつも晩秋になると、アトリエ中央(穴の開いた丸いイスのあたり)にすえられていた石炭ストーブがまだないので、秋に果実店へ出まわりはじめたカキの可能性が高い。あるいは、下落合にはカキの木が多いので、近所の庭でなったカキを分けてもらったものだろうか。
 バウハウス風のイスと同じデザインのように見える、手前の金属パイプで造られたサイドテーブルに目を移すと、卓上には南欧産らしいワインボトルが見えている。フィアスコのように見えるので、イタリア産のキャンティワイン(赤)だろうか。このボトルは、1950年代に佐伯米子のアトリエを撮影した写真には必ず登場するもので、モチーフに多用されたか、あるいは本人が好きで制作の合い間に飲んでいたものだろう。
 ワインボトルの前には、小さな花瓶にバラのような花(造花かもしれない)が一輪挿してある。その横には、これもアトリエの佐伯米子Click!を撮影した写真ではよく見かける、お気に入りのティーカップやティーポット、シュガーポットなどのセットが並んでいる。さらに、卓上に敷かれたレース編みの上には、輸入されたフランスタバコの「ジタン」とみられるパッケージが4つ、奥にはマッチ箱が見えている。また、周囲には画集や、そこから切り抜いたとみられる写真類、書類などが重ねられており、サイドテーブルの下の段に置かれたソーサーの上には、紅茶缶あるいは緑茶缶らしい容器が見えている。
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 この写真では、左の壁面に架けられていたはずのゴヤ『裸のマハ』のレプリカ(15号サイズほど)が見えず、またランプなどが置かれた棚の上に架けられていた3号F前後の、風景画とみられる作品(自作か?)も見あたらないため、何枚か残されている1950年代のアトリエ写真と比較すると、少なからずタイムラグがありそうだ。
 ワインやティーセットなどの置かれたサイドテーブルだが、1950年代の写真では木製のありふれた四角い仕様のテーブルだったものが、この写真ではより現代的な金属パイプ仕様のテーブルと、おそらくセットで購入したとみられる同じ仕様のイスが置かれている。したがって、この写真は敗戦からかなり時間が経過した、1960年(昭和35)以降に撮影されたアトリエ内部の様子ではないだろうか。
 佐伯アトリエの内部が写真のような状態だったころ、「落合新聞」Click!竹田助雄Click!が佐伯米子のもとをスクーターで訪ねている。1965年(昭和40)4月6日のことだが、竹田は御留山Click!の保存と自然公園化を求める当時の蔵相・田中角栄Click!あての署名用紙を携えていた。1982年(昭和57)に創樹社から出版された、竹田助雄『御禁止山-私の落合町山川記-』から当該部分を引用してみよう。
  
 佐伯邸はたくさんの木立に囲まれている。庭の広さは二百坪くらいであろうか、その奥まったところに静居がある。玄関を真中に、右に大正の名残りを示す急傾斜の破風に、浅葱色のペンキを塗った羽目板のアトリエが建ち、左は離れのような四畳半の居間だ。いきな丸窓が目立つ。雨戸の戸袋には杉板を嵌め込み、近代と伝統を振り分けた和洋折衷の構図である。混みいる木立の中には燈籠も見える。私は四畳半の縁先に腰掛けていたのだった。見上げると屋根の庇が広い。/佐伯米子さんは軀をよじりながら縁先のそばにきて、正座した。そして言った。/「……新聞に小野七郎さんが書いていらっしゃいましたね」/「はい」/「小野さんがお書きになる新聞でしたら……」/信用できるということらしかった。(中略) 「小野さんとは、ロンドンでご一緒しました」/「そうでしたか」/「あなたも、東大ですか……」/「いいえ」/私は微笑した。東大出なら、男の働き盛りにこんなちっぽけな地域新聞なんぞ、やっている訳がない。
  
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 写真の手前に写る、それぞれデザインが異なる3脚の丸イスは、おそらく佐伯米子が開いていた絵画教室へ通ってくる、生徒たちの専用イスなのだろう。中央下にとらえられた丸イスの脚には、生徒のひとりとみられる「文子」と書かれた名前が確認できる。

◆写真上:1960年以降の撮影とみられる、下落合661番地の佐伯米子アトリエ。
◆写真中上は、制作中のイーゼル近くのモチーフ類。中上は、獅子頭に破魔矢、フランスの墓石のようなモノ。中下は、1925年(大正14)にゴッホ兄弟の墓に参詣した右から佐伯祐三、渡辺浩三、木下勝治郎、伊原宇三郎。は、棚の上に置かれたモチーフ類。
◆写真中下は、ソファに置かれた人形やぬいぐるみのアップと、佐伯祐三が1次渡仏中に購入した人形。は、サイドテーブルの上に置かれたワインやティーセット、タバコなど。は、脚に「文子」の名前が入る丸イス。
◆写真下は、1953年(昭和28)に撮影された佐伯米子アトリエ。は、1955年(昭和30)に撮影された同アトリエ。は、竹田助雄が署名願いに訪れた佐伯米子の居間。撮影は1984年(昭和59)で、佐伯邸の改修工事が行われた際のもの。

下落合に住んだ国際平和運動家・上代タノ。

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 上代(じょうだい)タノの名は、旧・小石川区(現・文京区の一部)側の目白界隈にお住まいの方ならご存じだろう。昭和初期から、日本女子大学Click!の英文学部を牽引し、戦後は1956年(昭和31)から1965年(昭和40)まで同大学の学長をつとめた人物だ。日本で初めて、アメリカ文学の講義を行なったことでも知られている。
 また、大正期の上代タノは新渡戸稲造Click!とともにジュネーブで国際連盟の仕事をして、新渡戸から東京女子大学Click!の創立に加わるよう求められるが、迷ったあげくにその誘いを断って成瀬仁蔵への恩義から日本女子大へ復職し、戦後は1947年(昭和22)から国際連合への加盟活動に参画して、湯川秀樹や平塚らいてふらとともに世界平和アピール七人委員会を創設、1982年(昭和57)に死去するまで国際平和へ貢献しつづけた女性だ。
 したがって、国際平和運動の活動家として、また戦時中でも軍部の圧力に屈せず、英語教育をやめなかった日本女子大学の英文学部(戦時中は軍部の命令で格下げされ、外国語学科に改名させられた)の教授および学部長、そして同大の学長として、彼女の名前はその分野ではあまりにも有名だ。また、彼女は海外、特に米国では知られており、戦時中に強制収容された日系米国人の女学生支援に、米国の女子大学が立ちあがっているのも、留学していた上代タノの存在が大きい。
 上代タノは、1886年(明治19)に島根県で生まれている。松江市高等女学校(現・松江北高等学校に包括)を卒業すると、一時は地元の小学校で教鞭をとっていたが、両親の勧めで東京の日本女子大学校英文学部予科に入学している。同大学の家政部Click!ではなく、両親の推奨で英文学部に進学することは、当時の女性に対する保守的な教育環境を考えれば、特に地方においては例外的な出来事だったろう。
 彼女は入学と同時に、日本女子大キャンパスの学内寮「鳳泉寮」ではなく、英国聖公会福音宣教協会のフィリップス宣教師(当時は英文学部教授)が経営する、雑司ヶ谷にあった外寮「暁星寮」に入寮している。学内寮の「鳳泉寮」では管理やしつけが厳しかったが、外寮「暁星寮」は規則がゆるく比較的自由で、しかも洋食が主体で英語を教えてもらえる、英文学部の学生たちにとってはあこがれの寮だったようだ。
 1906年(明治39)に、彼女の保証人だった東京日日新聞の河井酔名が月刊『女子文壇』を創刊することになり、上代タノはその編集部でアルバイトをしている。おもに原稿を取りにいく仕事だったが、そのうち自分も同誌に投稿するようになった。また、取材やインタビューなどに同行するようになり、日本女子大設立理事でもあった女学生大好きヲジサンの大隈重信Click!をはじめ、小日向台町Click!の新渡戸稲造、鶴見祐輔、前田多門らと親しくなっている。渋沢栄一の通訳アルバイトをしていたのも、この時期のことだ。
 上代タノ(23歳)は、1910年(明治43)に日本女子大を卒業すると、同大英文学部予科で英語教師になると同時に、学長の成瀬仁蔵が新渡戸稲造や浮田和民とともに創刊した英語雑誌『Life and Light』の編集事務をまかされている。彼女が、成瀬学長の秘書のような仕事をするようになったのもこのころからだ。だが、彼女はさらに上級の学校へ進学することを考えるようになっていた。
 当時の大学制は、女子の進学をまったく認めていなかったので、彼女は海外留学を真剣に考えるようになる。東北帝国大学が、日本で初めて女子学生Click!を受け入れたのは、もう少しあとの1913年(大正2)のことで、しかも理学系の学部のみだった。文部省の官僚が対応に頭を抱えるなか、下落合2080番地の金山平三Click!と結婚する牧田らくClick!が、東北帝大の数学科に通っていたのもこのころだ。北海道帝国大学が女子の予科生を認めたのが1918年(大正7)、早稲田大学が女子聴講生を解禁したのは1921年(大正10)のことであり、上代タノの時代はいまだ上の学校で学ぶことができなかった。
 1912年(大正元)に、彼女は米国ニューヨーク州のウェルズ女子大学英文学科に入学し、1917年(大正6)にM.A.を取得して帰国すると、親しい新渡戸稲造からさっそく東京女子大学の創立に誘われている。だが、成瀬仁蔵への恩義からそれを断り、日本女子大の英文学部教授に就任すると、ほぼ同時に新渡戸稲造の国際問題研究会へ参加しており、国際平和運動に興味をもちはじめたのもこのころからのようだ。つづいて、井上秀や羽仁もと子Click!らとともに婦人平和協会を結成したあと、1924年(大正13)にミシガン大学大学院に留学、翌年には英国のケンブリッジ大学ニューナム・カレッジへと留学している。
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 この間、英国をはじめヨーロッパ各国の教育状況や施設を視察してまわり、WILPF(婦人国際平和自由連盟)の第5回総会には日本代表として出席・講演した。次いで、ジュネーブの国際連盟事務局で事務次長だった新渡戸稲造とともに、同連盟の仕事をこなしている。上代タノは1927年(昭和2)、新渡戸夫妻とともに帰国すると日本女子大の英文学部長になるが、同時にさまざまな執筆活動を行なうようになる。
 ケンブリッジ大学から帰国したあと、上代の講義を受講した女学生たちの証言が残っている。2010年(平成22)にドメス出版から刊行された、島田法子・中嶌邦・杉森長子共著『上代タノ―女子高等教育・平和運動のパイオニア―』から引用してみよう。
  
 国文学部二七回生の白鳥喜代は次のように回想している。「上代タノ先生……の印象は今でも強く残っております。学生の憧れの的でしたから。あの日、先生は講堂から築山を通って、校庭を颯爽と下りてこられたのを目の当たりにしまして、私はそのお姿や歩き方に見とれてしまいました。留学から帰られたときでしたからワンピースの色まで覚えております。それはシックなグリーン、そして胸に大玉のヒスイの、ながーいネックレスをつけられて、素的(ママ)な先生でした」と。留学から戻った上代は、ハイカラなお洒落にもさらに磨きをかけ、女子学生のロール・モデルとして颯爽と活躍したようである。(中略) 高等学部第二回生の長沢ふさは当時を回想して、「女子大時代超一流の先生方に巡り合ったことを後に思い起こすと、なぜ講義をしっかり聞いておかなかったのか悔やまれます。アメリカから帰っていらしたばかりの上代タノ先生にも習いました。あの方は真っ直ぐな、情熱的な方でした。学生の指導もその人の特質と将来を見越してされ、翻訳の仕事を与えられてそれが生涯の仕事となった人もいます」と述べている。
  
 上代タノが下落合に住むようになるのも、ちょうどこの時期だ。文中にも登場しているが、当時の日本女子大では文部省の認可を受けた総合大学化をめざしており、高等学部(大学予科)が設置されたばかりだった。
 上代が担当した講義は、「近代アメリカ文学」と「1870年以降の英文学批評」の2テーマだった。早稲田大学にアメリカ文学科を設置するために、大隈重信のアドバイスで日本女子大に蓄積されている膨大な図書や資料を閲覧しに、早大文学部の教授や学生たちが目白崖線の豊坂をのぼって、頻繁に通ってくるようになるのもこの時期のことだ。また、上代タノは大学の国際化にも力を入れ、日本女子大内に国際連盟協会学生支部を設立している。
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 1933年(昭和8)10月に、恩師で東京における父親のような存在だった新渡戸稲造が他界すると、おそらく悲しみからの気分転換のつもりだったのだろう、翌年から下落合へ転居してきている。残念ながら『落合町誌』(1932年)が刊行された直後のことであり、彼女が下落合のどこに住んでいたのか具体的な住所は不明だ。
 おそらく、日本女子大英文学部の10年ほど後輩で、同じく婦人平和協会に参加していた、和田富子(高良とみ)邸Click!の近くではないかと思われるが、それについては改めて記事に書いてみたい。目白通りをまっすぐ東へたどり、竣工したての千登世橋Click!をわたって日本女子大へ通勤するには、下落合東部の目白駅寄りが適するだろうか。
 下落合で暮らしていた間に、彼女は研究社から出版されていた英米文学評伝叢書の第41巻『リー・ハント』を執筆し出版している。その執筆中に、東京では陸軍皇道派が起こした二二六事件Click!が勃発し、日本とドイツとの間で日独防共協定が締結されている。破局へと向かう世界戦争の時代が、もうすぐそこまで迫っていた。
 上代タノが日本女子大へ入学したころ、同大キャンパスの様子をルポした磯村春子Click!の訪問記事が残っている。彼女の取材目的は学内寮「鳳泉寮」のほうで、上代タノがいた雑司ヶ谷の外寮「暁星寮」でなかったのは残念だが、当時の同大キャンパスの雰囲気をよく写しているとみられる。1913年(大正2)に文明堂から出版された、磯村春子『今の女』収録の「目白台の婦人部落」から引用してみよう。
  
 雨上りの踏み心地よき、テニスコートには、ラケツト打振る一群、吹く風に袖をまかせて、球打つ音、冴え渡る笑声混りて、世はこれ等の、若き人々の楽園である。/玄関に立つた。/正面は小使室なる可し。物古りたる紙張りの硝子戸の前に、摺り切れたる古箒只一本。園内の清楚なる気分と思ひ合せて、稍々浅間しき心地した。/正面の校舎を後庭に廻つて、家政科の割烹室。馬鈴薯一升十二銭、蚕豆一升十二銭、即席しるこ四銭五厘などの掛札がある。器具棚、料理板など、とりどりに打並ぶ間に、白前垂掛の女学生数十名入乱れて、今しも日本料理のお稽古最中で、彼方の隅には、試食の連中にやあらん、料理着のまゝ、お皿の立食をして居る。/更に、芝草清き庭を伝ふて、離れの一棟を覗けば、此処には、共同購買組合なる看板が懸けられて、堆く積まれた薪炭に隣つて、沢庵の大樽、大根、葱、薩摩芋其他の野菜の品々、処狭きまで並んで居る。出入商人の悪癖を避けて、二十寮舎連合の購買組合で、目下寄宿生は約五百人、其食料品の購買高は一ケ月約二千円ですと、監督は答へた。其二十寮舎は、一万五千坪の新緑の間に割居し、各寮舎には、二十五名程の学生が収容せられて、とりどりに、其特色を発揮し、さながら、世離れした婦人部落を形造つて居る。
  
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 戦争の激化とともに、日本女子大で英米文学を教授する上代タノへの文部省や軍部から、そして特高Click!からの圧力や恫喝が日増しに強くなっていくが、彼女は大学でも、敗戦色が濃くなった学生たちの勤労動員先の工場でも、ついに英語教育をやめることはなかった。軍部と真正面から対峙していくことになる上代タノだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1917年(大正6)に、留学先の米国ウェルズ女子大学を卒業した上代タノ。
◆写真中上は、1901年(明治34)4月に行われた日本女子大学校の開校式。は、明治末に撮影されたとみられる同大学校の正門。下左は、1906年(明治39)に撮影された同大英文学部予科に在籍していたころの上代タノ。下右は、1916年(大正5)の米国のウェルズ女子大学へ留学中に撮影された上代タノ。
◆写真中下は、1903年(明治36)に撮影された日本女子大の学生たち。前列中央は、親からようやく許された家政学部に在籍中し、絵ばかり描いて画家をめざしていた長沼智恵子Click!だと思われる。は、大正期の撮影とみられる同大桜楓館内にあった売店。は、おそらく1925年(大正14)ごろに行われた第16回運動会の様子。
◆写真下上左は、2010年(平成22)に刊行された『上代タノ―女子高等教育・平和運動のパイオニア―』(ドメス出版)。上右は、2013年(平成25)に開催された「上代タノ―故郷を愛す・国を愛す・世界を愛す―」展図録。は、正門右手にあるリフォーム前の成瀬記念講堂。は、日本女子大学のキャンパス北側に佐藤功一の設計で1927年(昭和2)に建設された同大「明桂寮」。現在、卒業生を中心に保存・活用の運動が展開中だ。
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