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西洋医学所と蘭疇医院の松本順。

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 大磯に日本初の海水浴場Click!を設置する松本順Click!(幕府奥医師時代は松本良順)は、1970年(明治3)の秋、高田八幡社(穴八幡社Click!)近くの馬場下町24番地にいた。日本初の西洋医だった彼は、日本で初めての本格的な西洋医学病院を自邸からほど近い下戸塚村4番地に建設している。ベッドの病床50床、畳の病床約30床の洋式の外観をした近代病院「蘭疇(らんちゅう)医院」は、1870年(明治3)10月に竣工した。
 病院の竣工披露宴には、江戸期から築地にあった外国人居留地Click!にいる各国の医師たちや、日本橋魚河岸の問屋連は新鮮な魚を大量にとどけ、田之介や団十郎、菊五郎、勘弥など大江戸のおもだった歌舞伎役者や円朝などの噺家、旧幕臣たちや近隣の人々など総勢700人ほどが参集したという。松本良順が、幕府の西洋医学校(旧・幕府医学所)の頭取だった緒方洪庵の死後、跡を継いで頭取となり幕府軍とともに江戸から会津、庄内、そして仙台へと戦場の負傷者や病人の治療に当たっていたのを、江戸の人々は知悉していたからだ。しかも、病人やケガ人の治療には旧式の蘭方ではなく、長崎での豊富な臨床経験を踏まえた最先端の西洋医術であることも知っていた。
 薩長政府に逮捕され禁固刑がとけた直後から、松本良順は蘭方ではなく本格的な西洋医学を用いた病院の建設構想を抱いていた。彼が幕府医学所で副頭取をしていた際、相変わらずのオランダの蘭方書に依存した“文献医学”に終始していた緒方洪庵への反発も、病院建設のモチベーションの中に大きな位置を占めていたのだろう。医師は、外科や内科、眼科、小児科を問わず実地の臨床経験を積まなければ意味がないし、具体的な技術も習得できないと考えていた。
 松本良順が開設した下戸塚村4番地の蘭疇医院は、かつて丸ごと焼きリンゴで有名だった「茶房 早稲田文庫」や、早稲田大学の第一学生会館があったあたりの地番だ。1880年(明治13)のフランス式1/20,000地形図を参照すると、下高田村4番地には長い塀に囲まれた3棟の建物が確認でき、1886年(明治19)の1/5,000地形図では建物のかたちまでが確認できる。北側の大きな建物が洋風の医院本館で、南側の2棟が別病棟や松本内塾(医学校)、医師や職員の宿舎だろうか。また、馬場下町24番地の松本邸は、カニ川(金川)Click!を庭園に取りこんだ大きめな屋敷だったようだ。
 松本良順は、佐藤泰然の二男として1832年(天保3)に麻布で産まれている。佐藤泰然は、のちに順天堂を設立する蘭方医だった。やがて、彼は漢方医で幕府奥医師だった松本家へ養子に出されるが、義父の松本良甫は蘭方の知識も必要と考え、良順にオランダ語を積極的に学ばせている。そして、最新の医学はオランダから来航した軍医のいる、幕府の海軍伝習所で習得すべきだと考え、1857年(安政4)に彼を長崎に送りだしている。当時、大江戸の街ではコロリ(コレラ)が流行りはじめており、伝統のある漢方医も、緒方洪庵ひきいる幕府医学所も、この伝染病に対してはまったくの無力だった。ちなみに、安藤広重Click!はこのときの流行で罹患し死亡している。
 長崎でオランダの軍医ポンペに付いて、旧来の蘭方学ではなく解剖をともなう当時最先端の外科や内科、眼科、小児科などの医療を、実際の患者たちを診察しながら5年間にわたってみっちり学んだ松本良順は、ポンペの帰国と同時に1862年(文久2)に江戸へともどった。江戸では、幕府医学所が西洋医学校(のち東京帝大医学部)と改称され、頭取には蘭方医の緒方洪庵が就任していたが、翌年に洪庵が死去すると、最新の医療技術を身につけた唯一の西洋医・松本良順が頭取に就き、前年から江戸市中で大流行していたコロリ(コレラ)と西洋医学校は全面対峙していくことになる。また、西洋医学による臨床治療をまったく理解しない、当時は主流派だった漢方医との確執も激しくなっていく。このとき、松本良順はまだ若干32歳だった。
 また、西洋医学所の頭取は、将軍付きの幕府奥医師も兼務しているため、彼は14代将軍・徳川家茂に西洋医学をベースとした本格的な洋式病院の建設を具申するが、家茂の死去とその後に起きた政局の混乱でついに実現できなかった。
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 そのころ、大江戸の市中では、薩摩藩の益満休之助Click!に組織化された、テロリスト集団(約500名といわれる)による、女子や子どもへの無差別辻斬りや家々の火付け、商家への押しこみによる殺傷事件が頻発し、町医者だけでは対応できず、松本良順はコロリばかりでなく、火消しなどとも連携しながら負傷者の治療にあたった。また、鍛冶屋や金工師、錺職人などと相談して、これまで江戸の医師が見たこともない最新式の医療器具をそろえている。このあたり、以前にヒットしたドラマの展開と酷似している。当時の様子を、2005年(平成17)に講談社から出版された吉村昭『暁の旅人』より引用してみよう。
  
 良順は、医学所に通いながらも落着かず、教授も医学生たちも眼に動揺の色を濃くうかべていた。/寒さがきびしくなった頃、薩摩藩についで長州藩の大軍勢が京方面にそれぞれ繰り出したことがつたえられた。幕府に反抗する姿勢をみせていた両藩が、いよいよ行動に出たことを知った。/悪天候がつづき、江戸の町々には徒党をくんだ盗賊の群れが、富豪の家々をつぎつぎに襲い大金を奪いとっていた。その数は多く、それらが三田の薩摩藩邸に屯ろする浪士らによるものだという噂がしきりであった。/さらにかれら浪士が江戸の各所に火を放って江戸城を襲うという風説が流れ、それを裏づけるように(1867年)十二月二十三日早朝、江戸城二の丸の女中部屋から出火、全焼した。薩摩藩士の放火だという説がもっぱらで、江戸は混乱をきわめた。/薩摩藩江戸屋敷の内偵をつづけていた幕府は、庄内藩に警戒させていたが、浪士らは庄内藩屯所に発砲。これをきっかけに十二月二十五日、庄内藩をはじめ幕府側は四方から砲撃を集中し、藩邸を焼きはらった。(カッコ内引用者註)
  
 このとき、テロリストの頭目だった益満休之助は捕縛され獄につながれた。
 松本良順は、薩長軍が江戸に迫ると西洋医学校を閉鎖して、入院治療中の患者たちを安全な浅草今戸の称福寺へ移送し、自身は幕府の官費で長崎留学をさせてもらった恩義から、弟子のおもだった医師たちを引き連れて松平容保のいる会津へと向かった。会津の日新館で、藩医たちに銃創の治療や弾丸の摘出手術のしかたなどを教え、会津戦争による負傷者の治療を行うが、会津が陥落しそうになると松平容保の言葉にしたがい、会津藩と同盟関係にあった庄内藩へと向かっている。
 庄内藩に入ると、会津・鶴ヶ城の陥落を知り、また庄内藩が薩長軍へ恭順の姿勢をしめしたため戦闘にはならなかった。間をおかず、松本良順は榎本武揚からの手紙を受けとると、幕府の艦隊が停泊している仙台へ単身向かった。「開陽丸」に乗艦すると、榎本からともに蝦夷地の箱館(函館)におもむき新政府の樹立に参画するよう勧められた。だが、榎本とともに艦隊にいた旧知の土方歳三からは、それとは逆に西洋の先端臨床医学を習得している医師は日本で良順ひとりしかおらず、幕府の艦隊と行動をともにして死ぬよりは、江戸に帰って将来性のある新しい医学の普及につとめるべきだと強く説得された。
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松本良順「養生法・上」(幕末).jpg 松本順「海水浴法概説」1886.jpg
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 松本良順は、ここで大きく迷い苦悩することになる。自分のような幕府の奥医師は、幕府軍とともに行動をともにして死ぬのが筋だと考えていたが、1日も早く日本に西洋医学を普及させる大規模な病院を建設するのが使命だ……とも考えた。彼は迷いに迷ったあげく、土方歳三の言葉にしたがって仙台から船で横浜へと帰着している。しばらく身を潜めていたが、ほどなく新政府軍に捕縛され禁固刑をいいわたされた。その刑期を終えると同時に、彼は早稲田の地で本格的な洋式の病院建設に着手したのだ。
 松本良順が建設した蘭疇医院は、長崎でポンペとともに建設した幕府の最新式養生所をベースにしており、今日の病院とほとんど変わらない部局の構成をしている。診療室をはじめ入院加療病棟、手術室、医師・看護人詰所、薬局、会計員詰所、小使詰所、賄所(台所)、浴場などの設備を備えていた。入院患者の食事には、栄養価の高い洋食を支給し、近くの牧場Click!から仕入れた牛乳の常飲を勧めた。また、病院とは別に松本内塾という学校を創立し、常時40名前後の塾生に西洋医学を教え、院外でも20人前後へ教授できる外塾を設置した。さらに、医学の原書を学べるよう語学塾の蘭疇舎を設け、外国人がドイツ語と英語の2ヶ国語を教えている。
 この時点で、蘭疇医院のある早稲田は、日本における最先端の臨床医学を学べる中心となり、全国から西洋医をめざす学生たちが集まった。また、開院と同時に東京各地から患者が来院し、重症者の入院はすぐに20床を超えている。その多くが、幕末に西洋医学所の頭取だった良順の活躍をよく知る、江戸東京の市民たちだった。
 ある日、数多くの患者が来院する蘭疇医院に、訛りの強いしゃべり方で名刺を差しだして、松本良順に面会を求めた男がいた。名刺には「山県狂介」とあり、ほどなく蘭疇医院から北東へ500mほどのところにある目白の椿山Click!を買収し、自邸の椿山荘Click!を建設する山県有朋だった。山県は松本良順へ、新政府へ参画するよう執拗に説得をつづけたが、彼は幕府に恩義を感じていたので頑として断りつづけた。だが、山県は何度も来院しては西洋医学の、特に陸軍における軍医部の重要性を説いていくので、松本良順は新政府への参画は固辞したがその熱心さにほだされ、政府ではなく山県の私邸に出かけて個人的な相談にのるアドバイザーの役割は引き受けることにした。
 だが、良順は山県の強引さに負け、最終的には初代・陸軍軍医総監の役職を引き受けさせられ、陸軍軍医部と軍医学校の開設にあたることになった。同時に、幕府を倒した薩長政府に仕える自身の名を恥じ、松本良順の「良」を取り松本順に改名している。彼が東京に近い大磯Click!を、避暑・避寒の本格的な保養別荘地として推奨し、日本初の海水浴場を開設したのは1882年(明治15)10月、早稲田に蘭疇医院を開いてからちょうど12年めのことだった。以来、大磯は江戸東京人のあこがれの別荘地として今日にいたっている。
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 松本順が軍医総監に就任すると、早稲田にあった蘭疇医院の建物は、清水徳川家Click!の家臣だった山瀬正己が譲り受け、医薬を研究し製造・販売する製薬会社を設立している。会社を運営していたのは、幕府の西洋医学所で松本順の教え子のひとりだった福原有信という人物だった。彼のつくった早稲田の売薬合資会社は「資生堂」という社名で、のちに彼は銀座へと進出し「銀座資生堂」と社名を変更することになる。

◆写真上:蘭疇医院跡の現状で、右手の茶色いビル(小野記念講堂)から手前にかけて。
◆写真中上は、1880年(明治13)の1/20,000地形図にみる馬場下町24番地の松本良順邸と戸塚村4番地の蘭疇医院。は、1887年(明治20)の1/5,000地形図にみる同所。は、蘭疇医院があった跡地あたりに建っていた早大第一学生会館(解体)と、松本順邸があった馬場下町24番地の早稲田中学校・高等学校の敷地。
◆写真中下は、幕末に撮影された松本良順。中上は、幕末に執筆された松本良順『養生法』()と、1886年(明治19)に出版された松本順『海水浴法概説』()。中下は、日本初の海水浴場が開かれた大磯のこゆるぎの浜。は、最晩年の松本順。
◆写真下は、大磯の鴫立庵にある松本順墓碑。中左は、軍医総監時代の松本順。中右は、2005年(平成17)出版の吉村昭『暁の旅人』(講談社)。は、1889年(明治22)にニコライ堂から撮影された松本順の実父・佐藤泰然が起こした「順天堂」。手前は神田川(外濠)の崖地で、右手にある洋風校舎は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)。
おまけ
 今日のBGMは、松本順の活躍が原作のプロトタイプになったとみられる「JUN」と「JIN」のJ.M.で近似した、やはりこれ「Dr. Minakata's Theme」Click!でしょ。

◆付記/大磯の松本順と新島八重。
 
本文が長くなるので割愛したが、大磯を日本初の海水浴場に指定し、大磯町東小磯宮ノ上1015番地外にいち早く別荘をかまえた松本順Click!と、大磯の旅館で夫の新島襄が死去したあと、別荘あるいは隠居所の敷地として購入したものだろうか、妻の新島八重Click!が手に入れて所有していた大磯町神明前906番地外の敷地とは、大磯駅と東海道線の線路をはさみわずか200mしか離れていない。
 ふたりは、会津戦争時に負傷者の治療所にされていた日新館で、あるいは銃創を受けた負傷者の治療の際にでも、すでにお互い知りあっていた可能性がありそうだ。新島襄が死去したあと、新島八重は会津戦争で世話になった松本順を訪問して、居住あるいは別荘の建設を勧められたのかもしれない。このあと、新島八重は従軍看護婦としてすごす時間が多かったのも、会津戦争時に日新館で治療に当たっていた松本順の姿と施術を見ていた、あるいは手伝った経験でもあったのだろうか。
 新島八重が所有していた大磯の土地を譲り受けて別荘にしていたのは、後年、下落合の七曲坂Click!を上がりきった丘上にあたる下落合330番地に屋敷をかまえていた、華族(男爵)の箕作俊夫(みつくりとしお)だったことはすでに記事に書いた。
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高田町の商店レポート1925年。(12)荒物屋

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 大きな店には、それだけ多くの情報が集まっているだろうと想定した、自由学園Click!高等科2年の山脇登志子は、高田町でも有数の「荒物屋」を選んで取材している。おそらく四ッ家(四ッ谷)町Click!あたりの、目白通りに面した荒物屋だろうか。荒物の知識がない彼女は、あらかじめ取材ノートを作成していたらしく、商品の生産地や問屋、卸しのルート、専門職人、相場などについての質問を用意していた。
 荒物屋というと、大工道具や釘(くぎ)、ネジ、包丁、金盥(たらい)、スコップ、鏝(こて)、アルマイト製食器類など金属の生活用品を扱う金物屋と勘ちがいされがちだが、荒物屋はおよそ生活に必要な用具や用品をほとんど取りそろえている、今日でいうならホームセンターのような商店だ。だから、生活しているうえで足りない器物や道具、材料などがある場合、荒物屋へいけばたいていのものは手に入れることができた。金属製品から紙製品まで、ありとあらゆる生活用品を扱っているのが荒物屋だ。
 荒物屋の40歳ぐらいに見える主人は、親切な人柄だったらしく、女学生Click!の質問にひとつひとつていねいに答えている。また、いわなくてもいいようなことまで答えているのを見ると、根が正直な性格だったのだろう。大きな店舗にもかかわらず、店員をひとりも雇っておらず、すべて主人がひとりで切り盛りしている店だった。雇人がいないので、問屋から商品をとどけてもらうことが多いようだが、配送には手間賃がかかるので、ときには利幅を上げるために、自分で問屋に出かけて仕入れてくることもあったらしい。
 1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)所収の「小売商を訪ねて」から、取材の様子を引用してみよう。
  
 『問屋は沢山ありますからどこから卸すとはきめてゐません。方々の問屋から卸してゐます。また問屋さんにこつちの欲しい品物がない時には、職人から直接に買つてくるんです。』/『問屋からと職人からとは、何方(どちら)が安く買へますでせう。』/『そりや直接の方が安くつきます。職人から問屋へ持つて行く中に、もう幾らかの手間賃がつきますからね。併し此方の欲しい品物を特別に誂(あつら)へる段になると、職人は馬鹿に高い価をつけますよ。問屋の方でも一つの品物の品数の多い時は、職人から買ふ位の安い価で買へますがね、品数が少い時には、そりやよくある話ですが、品物が一つしかなくて買手が大勢ゐる場合にはどうしたつて値が高くなりまさあ』/安く仕入れた時には安く売るんですかと聞いた時に、勿論だと云ふやうな顔をして笑つてゐた。(カッコ内引用者註)
  
 問屋へ出かけたとき、商品にいちいち相場があるのかという問いに、主人は「いゝえ、こんな店の品に相場なんかありませんよ。(中略) こんな細い商売の品に一つ一つ相場なんかあつた日にはやり切れません」と答えている。
 ただし、中には例外はあったようで、金属を使った金物商品の一部には、日々変動する相場が存在していたようだ。特に釘や針金の価格は常に流動的であり、問屋に出かけるとその日の相場が一覧で掲示されていたらしい。金属製品は、その多くの原材料が海外からの輸入品であるため、産出量や生産コストなどに応じて価格がしばしば上下していたのだろう。金属相場の値動きは、大正の当時もいまも変わらない。
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 主人は、「細い商売の品」といっているが、確かにいまも昔も荒物専門店の数は少なく、生活用品がひととおりそろう雑貨店で売られているケースが多い。大正の当時も、食品や駄菓子、タバコなどを商いながら金物や紙類、掃除用具、台所用具なども販売するような店舗が、あちこちで開店していた。
 たとえば、下落合の目白文化村Click!でも、当初は青果店として出発した栗原商店Click!だが、住民たちの要望に応えて途中から食品・雑貨を扱う、文字どおり雑貨店として営業をつづけたと栗原様からご教示いただいた。女学生による高田町の全商店調査Click!でも、「被服/生活用品店」の分野では「雑貨屋」が83店舗ともっとも多い。
 そのような商業環境だったせいか、大きな荒物屋にもかかわらず店員をひとりも雇わずに、主人が直接問屋に出かけて商品を仕入れ、少しでも利益を上乗せしようとしていたのだろう。問屋に注文して、すぐに品物を配送してもらうほうが楽だったが、「持つて来て届けてくれる奴だつて人間ですから、毎日やつぱり御飯を食べてゐるんでせう、どうしたつて手間賃位は貰ひますよ」と答えている。
 売れる時期や売れ筋の商品について、主人の話をつづけて引用しよう。
  
 『一年中で何時の月が一番売れると云ふ月がありますか。』『やつぱり暮ですね。』『どんなものが一番売れますか。』『一番出るもんですか、そりややつぱり価の安い一寸手に入れやすいもの、例へば紙(浅草紙、ちり紙)のやうな種類のものですね。人が一寸道を通りがゝりに、目について、家に紙があつたかしら まあ買つていつても無駄になるものではないしと思つてか、又お湯屋の帰り道に釣銭でも出せば得られるやうなものですね、紙等は方々で売つてゐるから売れさうもないもんですが……但し紙だけを商売にして見ると、儲からない商売ですがね。添え物として店に並べて置くには相当の利のあるもんでさあ。又少し価の高いもんで、金物ぢやまあバケツですね。』
  
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 年末にバケツが売れるのは、暮れの大掃除に使用したり、ときには火鉢の代わりに炭を入れて、どこでも手軽に暖をとれたからだろう。携帯火鉢のようにバケツを使っていた当時だが、すでに登場している肉屋Click!の主人も、店先で火鉢の代用品としてバケツに起こした炭火にあたっている。
 ちょっと主婦の口調をマネしたりして、面白い主人の話だが、すべての品物には1割以上で2割以下の利益を設定している、しっかりした商売人だった。特に、いちばんよく売れる商品と、破れやすい商品(障子紙や浅草紙などの紙製品だろう)には、かなり利益率の高い値段をつけて売っている。また、なかなか売れない商品には、10%ほどの利幅で値づけをしていると、細かく質問する女学生へ主人は素直に答えている。
 そして、店に置いてある全商品へ自分なりの価格をつけるのが面白いらしく、「安いも高いも勝手でさあ」と、主人は楽しそうに笑った。取材する女学生は、その主人の口ぶりから、おそらく来店した客層を判断して、相手が裕福そうであれば高く売り、あまり裕福に見えなければ、それなりに安く売っているのではないかと想像している。
 商人は、朝から晩まで商売のこと(儲けること)ばかり熱心に考えていられるが、消費者は上手に買うことばかり考えて暮らすわけにはいかないと、彼女は商店の訪問後の感想に書いている。ただし、消費者は買い物をするとき、もっと綿密な注意を払うべきであり、1軒の店ばかりで買い物をつづけるのは、長い目で見れば結局は損をすることになるので避けるべきだと結論づけた。最後に山脇登志子は、「沢山の店を相手に買ふ方が利巧な買ひ方になると思つた」と結んでいる。
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 12回にわたり連載してきた、1925年(大正14)2月末に高田町で開店していた商店のレポートだが、これでひととおりご紹介したことになる。同レポートは、高等科の最上級生である2年生がまとめたものだが、『我が住む町』巻末には高田町の全戸調査に参加した、本科および高等科に在籍する個々の女学生Click!たちが書いた、102人分の「調査の感想」が掲載されている。中には、面白いエピソードや当時の高田町を知るうえでは貴重な証言も含まれているので、また機会があったらご紹介したいと考えている。
                                   <了>

◆写真上:サクラ並木の日陰が涼しい、夏の自由学園校舎(現・自由学園明日館)。
◆写真中上:荒物屋というと思い浮かぶ、江戸東京たてもの園の「丸二商店」。
◆写真中下は、荒物屋の店先によく吊るされているアルマイト製のやかん。は、かなりオシャレになった現代風の荒物店店内。
◆写真下は、1925年(大正14)に来園して講演した遺伝学のR.ゴールドシュミット。は、東京帝大の農学部動物学教室で実習する高等科を卒業した研究生たち。

「高田馬場350番地」の金洙暎(キム・スヨン)。

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 1942~43年(昭和17~18)の時点での住所、「東京市中野区高田馬場350番地」とは現在のどこの住所に相当するのだろうか?……これが、わたしに与えられたテーマだった。韓国の文学研究家・徐榮裀(ソ・ヨンイン)様から拙ブログへコメントをいただき、すぐにメールも併せていただいたのは、2018年(平成30)の暮れのことだった。
 上記の住所は、韓国の三大詩人のひとり金洙暎(キム・スヨン)が大学進学をめざして留学中に下宿していた2番めの住所だ。ちなみに、韓国の三大詩人とは、金洙暎(キム・スヨン)と金春洙(キム・チュンス)、そして高銀(コ・ウン)のことだ。その後、ソ・ヨンイン様は東京各地を取材して歩かれ、2019年に韓国で『東京、20歳のキム・スヨン―演劇の夢を追う―』という本を出版されている。本がわたしの手もとにとどいてから、この記事を書くまでにかなりの時間が経過してしまったのは、わたしの不勉強からハングルがほとんどわからず、同書の1章ぶんが翻訳できる人材を探していたからだ。ようやく、韓国語を勉強中の学生に翻訳してもらい、同書の一部を拝読している。文中ではごていねいにも、わたしとのやり取りまで記録していただいた。
 日本では、金洙暎(キム・スヨン)よりも、おそらく「燕よお前はなぜ来ないのだ」(『銅の李舜臣』より)の金芝河(キム・ジハ)のほうがよく知られていると思うが、韓国の軍事独裁政権下で民主化や自由を求める詩を書いたという点では、両者の思いは力強く通底している。だが、金洙暎(キム・スヨン)は金芝河(キム・ジハ)より20歳も年上の世代であり、前者が1950~60年代に活躍したのに対し、後者はおもに1970~80年代に創作活動をしている韓国を代表する詩人だ。
 さて、上記の住所を見て、拙サイトをお読みの方ならすぐにもおわかりだと思うが、戦前・戦中を通じてこのような住所は存在しない。「高田馬場」なら中野区でなく淀橋区だが、当時は高田馬場などという住所は存在していない。山手線・高田馬場駅Click!の駅名に引きずられ、戸塚町一帯が「高田馬場(たかのばば)」の地名になったのは、1975年(昭和50)になってからのことだ。もちろん、幕府の練兵場だった高田馬場(たかのばば)とは、まったく関係がない駅名由来の新しい地名ということになっている。
 ソ・ヨンイン様も新宿区へ問い合わせをされているが、1942~43年(昭和17~18)現在にそのような住所も地名も存在していない……と、そっけない回答だったようだ。だが、当時「高田馬場」Click!という表記があれば、山手線の駅名に加え、その土地ならではの通称としての地名、幕府練兵場跡のことではないかと想定する人々は少なからずいただろう。その史蹟のごく近くに、戸塚町(1932年までの呼称で1942~43年現在は淀橋区戸塚1~4丁目)の350番地は存在するだろうか?
 わたしがそう考えたのは、拙ブログへ記事を書くために調べていた、大正期から昭和初期にかけての資料類に見られる手紙やハガキなどの宛名を、しばしば目にしていたからだ。たとえば、1例をあげると「落合町下落合 秋艸堂 会津八一様」(大正期)という宛名書きだけで、下落合1296番地の会津八一邸Click!へ、また「淀橋区下落合 目白文化村 会津八一様」(昭和初期)で、転居した下落合3丁目1321番地の同邸へ手紙がとどけられていた時代だった。今日のように、市街地の稠密化によって住所や番地を厳密に規定しなければ配達されにくい時代ではなく、いまだ武蔵野の風情Click!が残るどこかのんびりとした東京郊外のエリアだった。
 また、これはわたし自身が経験したことだが、現代でさえ住所が記載されていないハガキを受取った憶えがある。京都の西陣近くにお住まいの方から、「東京都新宿区下落合/下落合公園近く/落合道人〇〇様」というハガキClick!をいただいた。京都からだと、通常は2日前後でとどく郵便物だが、わたしの手もとに配達されるまで1週間かかっていた。その間、郵便局では下落合の過去の配達データを調べ、下落合公園の近くであるかどうかを確認し(実際はおとめ山公園寄りだったのだが)、最終的な判断を下して決裁しポストへ配達したものだろう。たいへん親切で緻密な、郵便局のワークフローだと思う。
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 このように、近くの目標物や旧蹟の名称、あるいは地域の通称でも郵便がとどく状況を考えれば、「高田馬場350番地」もおのずと慣例的に通用していた“住所”ではないかと想定することができる。もし、「東京市中野区高田馬場350番地」という宛名を当時の郵便局員が目にしたら、まずは「中野区」は淀橋区の誤りだと感じただろう。そして、「高田馬場」という地名は今日のように山手線の同駅の近くではなく、戦前には2代目・市川猿之助が演じた中山(堀部)安兵衛Click!の血闘仇討ち芝居や同様の講談で人気が高かった、徳川幕府が設置した本来の高田馬場エリアに目を向けたはずだ。
 そして、旧蹟の北西側へ接するように位置していた旧・戸塚町350番地、すなわち金洙暎(キム・スヨン)が下宿していたとみられる当時は、戸塚1丁目350番地が該当すると判断できたのではないだろうか。同地番は、現在の住所でいうと三島山Click!(現・甘泉園公園Click!)の東寄り、新宿区西早稲田1丁目21番地あたりに相当し、先年、環状4号線の敷設工事により消滅してしまった丘のピーク、または北西向きの斜面あたり該当する。本書の文中に登場する「遠くに見える幹線鉄道」とは、旧・神田上水(1966年より神田川)の谷間に敷設された、線路土手Click!の上を走る高田馬場駅-目白駅間のチョコレート色をした山手線の電車のことだろう。
 金洙暎(キム・スヨン)は、なぜ早稲田大学のそばに下宿したのだろうか。大学受験のため、城北予備校に通うという動機があったのかもしれないが、早大は明治期から中国を中心にアジアの留学生を積極的に受け入れてきた土壌があり、同大学なら勉強しやすい環境だと考えたのだろうか。あるいは、早大文学部は早くから早稲田文学を中心に小説家や詩人などを輩出していた学部であり、さらに同大学には昔もいまもアジアで唯一の演劇博物館Click!(旧・シェークスピア劇場)が設置されていたため、文学や哲学、演劇に興味があった彼は、ことさら早大に惹かれたものだろうか。
 本書にも、東京時代の金洙暎(キム・スヨン)に関する未知の領域として登場する「水品演劇研究所」(戦後に設立された劇団民藝の同研究所とは別組織)の課題も、どこかで坪内逍遥が興した新劇の殿堂である早大演劇博物館と、その人脈につながりがあるのだろうか。当時も、また現在でもそうだが、同大学は誰でもキャンパスに入って学内を散策することができる。そのせいか、近所の子どもたちのクルマが往来しない安全な遊び場になったり、周囲の住民たちが買い物をする近道に利用したりするのは、当時もいまも変わらないだろう。早大の西隣りに住んでいた金洙暎(キム・スヨン)は、友人たちと早大キャンパスをしじゅう散策してやしなかっただろうか。
 また、ソ・ヨンイン様によれば、そこにはもうひとつロマンティックな物語が隠されていたようだ。同書の「二軒目の下宿地、高田馬場350番地」より、少し引用してみよう。
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 『キム・スヨン評伝』にも、彼が東京に行った理由の中の1つに、その少女コ・インスクを挙げているが、日本女子大学に通っていたコ・インスクを探して寮まで行ったりもしたが逢わなかったこと、夜に歩いて新宿まで行ったという記録は、おそらく誰かからの伝聞だろう。キム・スヨンが東京に行ってまもなく、彼女がソウルにもどったという記録が確かだとすれば、高田馬場(公式住所は戸塚だが私たちもキム・スヨンに倣って高田馬場と呼ぶことにする)でキム・スヨンが下宿した時代に、もう彼女は東京にいなかったことになる。キム・スヨンは高田馬場で、たまに寂しい表情をしながら彼女がいた場所を眺めたのだろうか。彼女はすでにいなかったが、彼女が通っていた日本女子大学は、彼が住んでいた場所から非常に近い位置にある。高田馬場の下宿屋から日本女子大学までは歩いて20分ほどしかかからない。北に100mほど歩けば路面電車の都電が通る新目白通りに出て、この道を横切ってずっと北に行けばすぐに日本女子大学だ。住吉町の下宿先からはもう少し遠くて、多分1時間近く歩かなければならなかったはずだ。いずれにせよ、情熱に満ちた青年キム・スヨンが愛を探し、迷うには十分可能な距離だった。(訳文文責わたし)
  
 金洙暎(キム・スヨン)は、戸塚1丁目350番地に引っ越してくる以前、最初の下宿先は中野区住吉町54番地だった。のちの「中野区高田馬場」という表記は、当初の中野区の記憶に引きずられた可能性も指摘できそうだ。中野区住吉町54番地は、落合地域のすぐ南側、上落合との町境または地下鉄東西線・落合駅から約400mほど、現在の住所でいえば東中野4丁目7番地あたりになる。ちょうど、小滝台住宅地Click!(旧・華洲園Click!)が拡がる丘の西側にあたり、小滝台の「ゆうれい坂」や周恩来Click!の下宿跡から、わずか400m前後しか離れておらず、当時は学生たちが下宿しやすい街並みだった。
 金洙暎(キム・スヨン)が東中野や早稲田にいた1942~43年(昭和17~18)、日本は軍国主義の真っただ中であり、無謀な太平洋戦争に突入した翌年のことだった。彼は、日本の敗色が濃くなりつつある中、文科系学生たちの学徒出陣Click!を目のあたりにし、それを回避するためか1943年(昭和18)の暮れ、または翌1944年(昭和19)の初頭に、当時は日本の植民地下にあったソウルへともどっている。
 『東京、20歳のキム・スヨン―演劇の夢を追う―』から、再び引用してみよう。
  
 住吉町での下宿生活に関しても、また早稲田での下宿生活についても、キム・スヨンが直接言及した事実は存在しない。おそらく「駱駝過飮」で注釈をつけて回想した、少女に関する話が唯一のものだろう。(中略) 芸術と言語に敏感だったキム・スヨンが過ごした東京時代は、いろいろと複雑なトラウマを生んだのではないだろうか。夢にまで見た芸術や哲学を勉強し、ソウルとは異なる雰囲気の東京で自由と情熱を感じたりもしたのだろうが、当時は戦時中であり、生活の随所で植民地出身であるがゆえに感じなければならない不自由さや鬱憤、自責の念が生じていた。彼が暮らした早稲田の学生街を眺めていると、解決の糸口が見えない憂鬱や悲しみを感じることができる。(訳文文責わたし)
  
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 金洙暎(キム・スヨン)が下宿していたとみられる戸塚1丁目350番地の敷地には、1944年(昭和19)に陸軍航空隊が撮影した空中写真を参照すると、2階建てとみられる大きな建物が写っている。丘上に建つ、このような規模の2階家であれば、冬枯れのときなど西側の甘泉園越しに山手線の線路土手が見えただろう。甘泉園の東側一帯は戦災からも焼け残り、学生下宿とみられるこの大きな住宅は1960年代まで確認することができる。

◆写真上:韓国の三大詩人といわれるひとり、金洙暎(김수영)のプロフィール。
◆写真中上は、1938年作成の「火保図」にみる戸塚町1丁目350番地(左が北)。は、1941年作成の「淀橋区詳細図」にみる高田馬場の北東部に接した同地番。は、金洙暎(キム・スヨン)の下宿があったとみられる「高田馬場350番地」=戸塚1丁目350番地(現・西早稲田1丁目21番地)の現状。30年ほど前まで手前の広い道路は存在せず、350番地は切り通しのような道路工事の掘削で消えてしまった丘上にあたる。
◆写真中下は、下宿の近くに残る大正期からの大谷石塀。金洙暎(キム・スヨン)も、この塀の前を歩いたかもしれない。は、上から下へ敗戦直前の1944年、戦後の1948年、そして1963年の空中写真にみる戸塚1丁目350番地の建物。同エリアは空襲で焼けていないため、戦後も当時と変わらない風情が残っていた。
◆写真下上左は、2019年に韓国で出版された徐榮裀(ソ・ヨンイン)様の『東京、20歳のキム・スヨン―演劇の夢を追う―』。上右は、2007年に日本の彩流社から出版された鴻農映二/韓龍茂・訳『韓国三人詩選-金洙暎・金春洙・高銀-』。中上は、金洙暎(キム・スヨン)のプロフィール。中下は、中野区住吉町54番地(現・4丁目7番地)について考察した「最初の下宿先、住吉町54番地」の章。は、1944年の空中写真にみる住吉町54番地の下宿。二度にわたる山手空襲Click!で、東中野駅周辺は全体が焼け野原になった。

相馬邸の妙見神「星祭」を想像する。(上)

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 落合地域では、社(やしろ)の祭礼の記録は地元の史料や、古老たちの証言として随所に残されている。たとえば、町内の各睦会による落合総鎮守の下落合氷川明神社Click!祭礼Click!をはじめ、新宿区の無形文化財となっている“おびしゃ祭り”や“トウジツサイ”が開かれる中井御霊社Click!、同様に葛ヶ谷御霊社Click!、上落合の月見岡八幡社の宵祭りから本祭りなどの記録は豊富だ。
 また、新宿歴史博物館による『新宿区の民俗(4)-落合地区篇-』(1994年)では、川上香「祭礼の変化と町会」のように研究論文なども散見できる。さらに、同博物館が刊行した『新宿区の文化財(9)―民俗・考古―』では、葛ヶ谷御霊社と中井御霊社の“おびしゃ祭り”の神事が取りあげられている。これらの社のある周辺では、町内の氏子の数も多いため、さまざまな地元の記録に残される、あるいは地域の民俗として、学術的に研究されやすい性格があるのだろう。
 しかし、落合地域の私邸内に勧請された、あるいは遷座・建立されていた社(やしろ)についての祭礼記録はきわめて少ない。そのような事例では、少なくとも戦前まではなんらかの神事や例祭が定期的に行われていたはずであり、私邸内であっても規模が大きな社、あるいは高名な社では、格納されていた神輿ないしは山車も祭礼では巡行していたとみられる。そして、神事や例祭が終わると近所の家々や訪問(参詣)した客たちに、食事や酒、餅、千巻、果物、菓子類がふるまわれている。ときに、近所の人たちが寄り集まり、神輿をかついで邸内を巡行したケースもあったのではないだろうか。
 このような事例は江戸期からあり、大名家の屋敷内に勧請されていた多彩な社へ、町人の自由な参詣や出入りを許していた例が少なからず存在している。吉良邸Click!内にあった松坂稲荷Click!大岡屋敷Click!内にあった豊川稲荷、有馬屋敷内にあった水天宮Click!(常時参詣ではなく定期開放)などが有名だ。
 そのような私邸内の祭りについては、ふるまわれた酒や菓子類を記憶する人たちの証言が多い。当時、子どもだった人々が祭りの行なわれている邸内に入り、餅や菓子をたくさんもらった記憶が大人になってからも強烈な印象として語られ、地域の記録として残りやすいからだ。ちょうど、鍛冶屋の周辺では火床(ほと)の神(三宝荒神)の荒神祭Click!のとき、「ビンボー鍛冶屋! やーい!」とはやし立てると、菓子やミカンをたくさんもらって食べた記憶が、いつまでも消えずに語り継がれるケースに似ている。
 たとえば、下落合ではこんな証言が語られている。落合の自然と緑を守る会が発行した、『増補版・私たちの下落合―落合の昔を語る集い―』(2013年)収録の、故・斎藤昭様Click!による『わが思い出の記』から引用してみよう。
  
 ご存じない方も多いでしょうが、現在のおとめ山公園を含む一帯は、かつて相馬さんという旧大名のとてつもなく大きなお屋敷で、現在のおとめ山公園の三倍くらいも広さがありました。その正門は坂の上の道路に北に面して建ち、時代劇に出てくるような堂々たる武家屋敷門でした。/私が小学生の頃、屋敷の執事の息子が同級生にいたので、ときどき遊びに行き、入口に近い庭に入れてもらいましたが、奥のほうには行けませんでした。ただ、年に一度、屋敷内のお社のお祭りがあり、その時は門を開けて屋敷を開放してくれたので、邸内をいろいろと見物することができました。なかでも蔵の中を見せてくれて、槍やよろい兜などの武具を見たのが記憶に残っています。
  
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 ここで語られているのは、下落合310番地(現・下落合2丁目)の将門相馬邸Click!と、御留山Click!に拡がるその広大な庭園Click!のことで、「武家屋敷門」は同邸の正門(黒門)Click!であり、門前で実際に時代劇の撮影が行われていたことは、すでに近くの映画会社(撮影所)とともにご紹介Click!している。そして、「お社」とは同家が邸内に奉っていた太素神社(妙見社)のことで、年に一度の例祭時には屋敷を開放して、来訪者には酒や菓子類などがふるまわれていた。さて、七夕も近いので、相馬邸で行われていたとみられる妙見神の「星祭」について、各地に拡がる同祭とも比較しながら書いてみたいと思う。
 この証言以外にも、相馬邸の例祭で菓子をたくさんもらって食べたという証言を、わたしは複数の方から何度かお聞きしたことがある。だが、太素神社(妙見社)の祭礼で行われていた祭りの本体、つまり拝殿・本殿で執り行われた肝心の神事については、わたしは一度も資料で読んだことも、また証言として聞いたこともない。
 落合地域に存在する社の神事については、かなり詳細な記録や証言があるにもかかわらず、相馬邸内の妙見社については、私邸内において基本的には一族だけで実施されていた神事のせいか、その祭礼の規模が地域全体に拡がり大きかったにもかかわらず、記録が残りにくかったのだろう。
 そこで、相馬邸で行われていた妙見神の神事について、わたしなりに想定してみたいと考えた。それは、鎌倉期より幕府の御家人として全国へと配置された、関東の千葉氏と相馬氏に付随して勧請・展開された妙見社で、定期的に催されてきた神事(いわゆる「星祭」)と同質のものだったのではないだろうか?……というのが、わたしの仮説だ。
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 そもそも夜空の北辰(北極星)・北斗七星Click!への信仰は、日本では縄文時代の天文観察と崇拝からつづくといわれているが、後世になると道教と習合して「鎮宅霊符神」=妙見神Click!が生まれ、仏教と習合して「北辰妙見菩薩」が誕生している。妙見神は古代からの千葉氏、そして分化した相馬氏で代々受け継がれ信奉されてきた氏神であり、房総半島(千葉地方)だけで妙見社は188社も現存している。
 ただし、薩長政府による明治期の“日本の神殺し”政策Click!で、数多くの妙見社が廃社となり、実数は現存数をはるかに超えていたといわれている。そして、鎌倉幕府における重要な御家人として千葉氏や相馬氏の全国展開・配置により、その妙見神信仰は東北地方から九州地方にまでおよぶことになった。
 その様子を、1982年(昭和57)に名著出版から刊行された川村優・編『房総史研究』に収録の、伊藤一男『東国妙見信仰の地方的伝播』から引用してみよう。
  
 妙見社の儀式や年中行事など、目に見えない無形の宗教的価値体系を整然と組織して、妙見への奉仕体制をもって国内武士を統一していったのである。また、分化してゆく支流は、根本所領の妙見を各地に勧請し、その分布範囲は下総・上総・常陸・武蔵あるいは美濃・東北、遠く九州肥前にまで及んだのである。その代表的事例としては、千葉本宗家の肥前国小城郡(佐賀県)、相馬氏の奥州行方郡(福島県)、東氏の美濃国郡上郡(岐阜県)など、新恩所領への一族移住と守護神勧請をあげることができる。
  
 妙見神信仰(古代の北辰・北斗七星信仰含む)は、もともと方位を知らせる輝星あるいは星座へのグローバルに拡がる信仰であり、縄文期はともかく古墳期からは馬牧地帯と微妙に重なっているのが面白い。東北(南部)や房総(千葉)、上毛野(群馬)などでは、古代から馬畦(目黒/めぐろ=馬牧場)で日本馬の馬牧が行なわれている。
 余談だけれど、落合地域の西落合(旧・葛ヶ谷)にも「妙見山」Click!が存在しているが、鎌倉期よりもより古い事蹟による伝承の可能性がある。
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 また、騎馬戦が主流であり、いわゆる「坂東武者」を形成して独特な湾曲を備えた馬上の武器、すなわち太刀や長巻などの日本刀Click!を生んだ地域と重なるのも非常に興味深い。最新の研究成果では、日本刀の故地は現在の岩手県南部にあった舞草(もぐさ/もくさ)鍛冶集団Click!と想定されており、南部駒の生産地とも重なる点に留意したい。
                               <つづく>

◆写真上:御留山谷戸の泉から流れる渓流で形成された、冬枯れの湧水池のひとつ。
◆写真中上は、旧・財務省官舎の庭で保存されていた相馬邸の北斗七星礎石。は、現在のおとめ山公園にある日本庭園で保存されている七星礎石。は、南東側の斜面から眺めた相馬邸の母家で右手がサンルーム。以下、相馬邸内の写真は『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道様蔵)より。
◆写真中下は、相馬邸の北側に接する道路に面していた正門(黒門)。は、1941年(昭和16)より福岡へ移築された黒門の袖と長屋の貴重なカラー写真。(提供:相馬彰様) は、相馬邸内に建立されていた太素神社(妙見社)。
◆写真下は、おとめ山公園の日本庭園に現存する七星礎石や庭石。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる太素神社と思われる建物の位置。1920年(大正9)に起きた太素神社の神楽殿炎上事件Click!(焼死者が発生している)の厄災祓除から、または東邦生命による宅地開発がスタートした1940年(昭和15)ごろかは不明だが、太素神社の拝殿・本殿は敷地内で遷座しているとみられる。同社は、1950年(昭和25)に下落合から福島県小高町へ移築・遷座している。は、相馬邸の太素神社を移築した相馬小高神社の奥の院。

相馬邸の妙見神「星祭」を想像する。(下)

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 北辰・北斗七星=妙見神信仰における「星祭」Click!、つまり神事と例祭の中で、その祖型をよくとどめているケースとしては、岐阜県郡上郡大和町(現・郡上市大和町)にある、本来は千葉氏の明建社(妙見社)で行われている「星祭」が挙げられる。
 その祭りは、本祭である「神事」「神輿渡御」「野祭り」の3部と、祭礼後の直会(無礼講)から構成されており、それぞれの行事は次のような内容となっている。川村優・編『房総史研究』(名著出版/1982年)所収の伊藤一男『東国妙見信仰の地方的伝播』をベースに、その概略をわたしなりにまとめてみよう。なお、原文からの引用ではなく、おおざっぱに概要をまとめたものなので文責はわたしにある。
  
 ◆神事
 例祭日の早朝、奉仕者は栗栖川の渓谷で禊(みそぎ)をし、心身を清浄にする。神事は、当日の正午ごろから3時ごろまで3時間ほど行われる。
 ・笛と太鼓の「妙見囃子」に合わせ、供物控棚に置かれた供物を神前に次々と供える。
  神前での儀式が終了すると同時に、供饌したものはすべて撤饌する。
 ・社の神主が開式の祝詞を奏上し、祭礼に参加する関係者一同が神前へ玉串を奉納して
  神前の儀は終わる。
 ・神主は本殿に移って神移りの祝詞を奏上し、本殿内の神前に供えた幣をささげて
  拝殿へともどり、拝殿にあらかじめ安置されていた神輿へ神を移す。
  
 以上が、「神事」の内容だ。相馬家の神職担当あるいは奉仕者は、相馬邸内に湧き出る泉(おとめ山公園の湧水源)で、神事の早朝には身を清浄化するために禊(みそぎ)を行なったのだろうか。また、神前の儀については福島県の相馬家にかかわる社から、神職を招いて神事を挙行したものだろうか。相馬邸内の妙見社には、神輿蔵や神楽殿などが付属していたので、神輿はあらかじめ早朝に太素神社の拝殿(前)へと運ばれていただろう。
  
 ◆神輿渡御
 ひととおりの神事が終わると、祭礼に参加する関係者一同で神輿を担ぎ、拝殿・本殿の周囲を3回まわったあと明建社の竪大門および横大門を抜けて、約300m先にあるスギの大樹(「帰りスギ」と呼ばれている)まで往復する。その間、紋張獅子と篠葉踊り子と呼ばれる役柄の少年たちが、明建社の表参道を走りまわって乱舞する。
 神輿渡御に参加するのは、先導(露払)×1名、幣持×3名、弓取×2名、神輿担手×4名、音頭(呼び役)×1名、杵振り×1名、笛吹(太笛)×1名、太鼓×3名(打ち手×1名、担ぎ手×2名)、鼻高(天狗面)×1名、獅子×4名、給仕×2名(供物や神酒、菓子類の配布者)の、おもに白麻狩衣を着用した以上19名が近在を練り歩く。この行列の後方には、篠葉踊り子×少年8名がつづき、呼び役が「神の妙見なる竹の林、ボーンボ」と叫ぶと、踊り子がいっせいに「サーンヨシ、ボーンボ」と唱和して応え、参道をあちこち走りまわる。
  
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 以上が、神輿渡御の概略だ。「星祭」は、もともと武家の祭礼だったはずだが、おそらく中世以降に微妙な変容をしているものか、どこか「農」=五穀豊穣を祈念するような装いや雰囲気がプラスされているようにも感じられる。
 相馬邸内の「星祭」では、これほど大人数の神輿渡御が可能だったかどうかは不明だが、ひょっとすると相馬氏あるいは千葉氏ゆかりの地域から、専門職(神職)や専門要員を集めては催していたのかもしれない。特に神事をつかさどる神主は、福島県相馬市のいずれかの社から、祭礼前に招かれていた可能性がある。例祭の当日、相馬邸のご近所にお住まいだった方で、かなりテンポが速い「妙見囃子」(どこか江戸町内の祭囃子に近似している)、あるいは神輿渡御の囃子(おもに太鼓の音が響いただろう)を記憶している方はおられるだろうか。
  
 ◆野祭り
 近在の神輿渡御が一段落すると、行列一行は神輿を下して竪大門にある鳥居内の広場で休息し、やがて野祭りがスタートする。そして、「神前の舞」「杵振りの舞」「獅子起こしの舞」の順序で田楽が神輿の神前に奉納される。
 「神前の舞」は、妙見神が乗る神輿に向かい、神輿の担ぎ手4名がおのおのビンザサラを手に踊る奉納舞いだ。つづいて「杵振りの舞」は、茶色の頬かぶりをした演者が杵をかついで現われ、神前で餅をつくような所作をして杵を振りふり踊りを奉納する。最後の「獅子起こしの舞」は、鼻高(天狗)が白扇を手に獅子を起こす舞いを奉納する。
 これらの奉納舞いとほぼ同時に、明建社へ参詣にきた近在の人々へ、神酒や饌米、篠ちまきなどがいっせいに配られる。田楽が終了し、供饌をあらたか配り終えると野祭りは終了し、再び神輿を中心に行列を整えて拝殿へともどる。そして、神輿の中に収められた幣(妙見神が乗り移っている)を本殿の神前へもどして、すべての例祭が終了する。
  
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 つまり、相馬邸の正門(黒門)を開け放ち、神輿渡御を終えた神輿が安置されていた場所(玄関横の広場だとみられる)で、神酒や食事、果物、菓子類がふるまわれたのは、おそらく3つめの「野祭り」の段階だったことが想定できる。
 「星祭」の重要な行事である「神事」と「神輿渡御」は、おそらく相馬家の家族Click!や姻戚(神職含む)、あるいは一族に近しい人たちで早めに実施し、いまだ祭礼の当日、ないしは翌日に最後の「野祭り」を行なうために正門(黒門)を開放し、近所の人々に丸1日を通じて酒や菓子類をふるまっていたのだろう。
 郡上市大和町の明建社では、「野祭り」のあとには「直会」(無礼講)が行なわれ、「星祭」に参加したすべてのスタッフ(奉仕者や関係者)が祭礼の仕事から解放され、立場や年齢のちがい(昔は身分のちがいだったろう)を意識することなく、自由に酒を飲みご馳走を食べながらの談笑が許されて、丸1日を解斎の宴会に費やすという。
 岐阜県郡上郡の明建社「星祭」における奉納舞いは、中世田楽の面影を色濃く伝える舞いとして、民俗学的にみても非常に貴重な伝統行事のようだ。はたして相馬邸内では、1920年(大正9)に焼失した神楽殿Click!では、どのような奉納舞いが行なわれていたのだろうか。また、神楽殿の焼失後は、「神輿渡御」を終えて広場に安置された神輿の前で舞われていたのかもしれない。ちなみに、岐阜県郡上郡の明建社でふるまわれているお神酒は白い濁り酒のようだが、下落合の相馬邸でふるまわれた神酒は、おそらく福島で醸造された品質のよい清酒だったのではないだろうか。
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 下落合の太素神社でも、祭りの主宰者であり将門相馬家の当主だった相馬孟胤Click!自身が、祭りの日には樽から柄杓で酒をくんで参詣者ひとりひとりに配っていたという証言が残っているが、「星祭」の直会(無礼講)を受け継いだ行事ではないかと想定している。
                                 <了>

◆写真上:御留山の谷戸に残る湧水源だが、このところ湧水量が減りつづけている。
◆写真中上は、大正初期に撮影された相馬邸庭園の渓流。以下、相馬邸内の写真は『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道様蔵)より。は、2葉ともおとめ山公園の日本庭園に保存された北斗七星礎石。は、御留山湧水池のひとつ。
◆写真中下は、1915年(大正4)の邸竣工時に撮影されたとみられる相馬邸庭園の湧水流(上)と現状(下)。は、岐阜県郡上市大和町にある明建社の拝殿。は、下落合(1丁目)310番地の相馬邸で暮らした人々。前列の左から相馬沢子、相馬碩子、相馬順胤、相馬邦子(相馬孟胤夫人)、後列左から相馬正胤、相馬孟胤、相馬広胤。
◆写真下は、上から下へ明建社の祭礼の様子で「神輿渡御」「神前の舞」「杵振りの舞」。は、1982年(昭和52)に出版された川村優・編『房総史研究』(名著出版)と、収録された伊藤一男の論文『東国妙見信仰の地方的伝播』。

女性が経営した葛ヶ谷(西落合)の斎藤牧場。

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 以前、落合地域を含めた「東京牧場」Click!をテーマにした記事Click!を書いたとき、参照した資料(東京牛乳畜産組合名簿/1919年)の中に、落合村の牧場数が2軒と記録されており、そのうちの1軒が上落合247・429番地にあった福室軒牧場Click!(1923年の関東大震災後に廃業)と判明して記事にしたことがある。もうひとつ、葛ヶ谷(のち西落合)374番地にあった斎藤牧場の詳細も判明したので、改めてご紹介してみたい。
 斎藤牧場の歴史は古く、1907年(明治40)ごろからすでに乳牛牧場として開業しており、1929年(昭和4)に廃業するまで約23年間も営業をつづけた牧場だった。古くから葛ヶ谷(西落合)にお住まいなら、親の世代から斎藤牧場について聞いている方も少なくないのではないだろうか。牛乳の納品・配達先は、森永牛乳や興真牛乳をはじめ、周辺の商店(アイスクリーム屋、氷屋Click!、菓子屋Click!など)、日本女子大学寮Click!井上哲学堂Click!、近所に建ちはじめた個人邸など、企業から家庭まで多彩だった。
 斎藤牧場を実質的に経営していたのは、斎藤とりという女性だった。名義上は夫が牧場主だったようだが、早稲田大学を卒業した学究肌の人物だったらしく、プライベートな研究課題に熱心だったためか牧場事業をあまりかえりみず、とり夫人が事業のいっさいをとり仕切っていた。ただし、女手ひとつではすべての業務をこなしきれないため、家には女中をふたり置き、牧場にはスタッフを常時3人ほど雇い入れていたようだ。牧場には、最盛期に20頭以上の乳牛ホルスタインが飼われていた。乳牛1頭につき、1日に1斗(約18リットル)のミルクが搾れたという。
 牧場の経営はおしなべて順調だったようだが、1918年(大正7)ごろ2棟あった牧舎のうち1棟が火事になり、乳をよく出す乳牛の1頭が火傷が原因で死亡している。この火災には、地元の消防団Click!である葛ヶ谷消防隊も出動しているのだろう。牧舎全体に火がまわる前、牛をつないだロープを日本刀で次々と斬って逃がしたようだが、特に乳をよく出す「銘牛」の1頭は間に合わなかったらしい。記録には「銘牛」と書かれているので、どこかの品評会で優秀賞でも受賞した乳牛だったのかもしれない。
 とり夫人は、葛ヶ谷御霊社の祭礼時にはかなり多めの祝儀を出していたらしく、同社の神輿が葛ヶ谷を巡行するときは、斎藤牧場の中にまで入りこんで厄除けのためにかなり長時間にわたりもんでいった。また、先の牧舎が火災にみまわれたときは、葛ヶ谷消防隊がいち早く駆けつけ、斎藤家の母家へ火がまわらないよう、屋根上で纏をふって懸命に火の粉を払ってくれたらしい。現在でも葛ヶ谷御霊社の大・中神輿は、旧・葛ヶ谷374番地(現・西落合4丁目16番地)をかすめるように巡行しているが、斎藤牧場があった当時からの名残りなのだろう。
 斎藤牧場の想い出を語っているのは、とり夫人の子息である斎藤嘉徳という方だ。1997年(平成9)に、新宿区地域女性史編纂委員会が発行した『新宿に生きた女性たち』収録の、「葛ヶ谷で牧場を経営した母」から引用してみよう。
  
 母は明治二五(一八九二)年生まれです。朝は五時にはいつも起きていました。牛はきれい好きなものですから、まず若い衆といっしょに牛舎の掃除をしました。牛舎は藁葺き屋根だったんですよ。/餌は近所の農家から青草を目方で買いました。芋づるも牛の好物でしたね。夏場はそれで間に合いました。青草は干し草にしないで一日か二日で食べさせてしまうんです。飼料はその他に豆板(大豆かすを固めてプレスしたもの)や糠、ビールかすなどを問屋から車で何台も購入しました。おからも買いましたから豆腐屋がしょっちゅう出入りしていましたね。豆板はなたでけずり落として水で煮て柔らかくしてから、他の飼料と混ぜ合わせたもんですよ。竹やぶの竹に縄を張って、大根の葉っぱを干して干葉(ひば)を作りそれも餌にしたんです。そういうものを配合して食べさせると濃い牛乳が出るんですよ。飼料は飼料小屋に入れて保存しました。
  
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 森永や興真など牛乳メーカーに、搾乳した乳を瓶詰めにして納品するときは、遠心分離機を使った品質検査が毎日あったという。1合瓶の牛乳を使い、遠心分離機に1分間ほどかけると、脂肪分の数値が検出される。脂肪分が高いほど、高価に買いとってくれたようで、脂肪分の低い数値が出るとエサの見直しや工夫が行われた。
 当時(大正後期ぐらいか)の牛乳は、1合瓶の1本が7~8銭で売られていた。大口の顧客への納品はトラックで運んだのだろうが、近所への配達は子どもも手伝っていた。自転車に仕切りのついた箱を取りつけ、1合瓶を15~16本ほど入れては、近くの商店や個人宅をまわって配達している。これらの業務いっさいを、牧場のスタッフや子どもに指示していたのが、実質牧場主のとり夫人だった。
 つづけて、同書の「葛ヶ谷で牧場を経営した母」から引用してみよう。
  
 若い衆は三人ぐらいはいつもいましたから、牛の体を洗ったりのきつい仕事は任せられましたが、牛のお産や搾乳など何でも母はやっていましたね。女中も二人いたので家事は任せていたようですけれど。若い衆は月給制で月二、三〇円でした。母のいうことを「はい、はい」とよくきいていましたね。/牛乳の入った大きなバック(タンク)の中に、瓶詰にした牛乳を入れて蒸気で蒸す高温殺菌法と、氷のバックに入れて冷却殺菌する方法と二通りありましたんです。氷で殺菌する方が牛乳が「しまって」好まれましたね。燃料は主に石炭でした。電気は大正の初めに引かれました。ずっと井戸を使っていて、水道を引いたのは終戦の翌年です。
  
 牛乳の殺菌法で、フランスのパスツールが開発した低温殺菌法(パスチャライズド)が日本で一般化してくるのは、大正末から昭和初期にかけてなので、この証言はそれ以前の大正時代に見られた殺菌法の様子だろう。石炭の火力を使った高温殺菌では、牛乳の成分が変化して風味が変わってしまったかもしれず、氷による冷却殺菌では細菌の数をたいして減らせなかったのではないかと思われる。
 大正初期に葛ヶ谷には電気が引かれているが、東隣りの長崎村や西隣りの江古田村もほぼ同時期だったろう。湧水が清廉で美味しく、近くに野方配水搭Click!があるにもかかわらず、荒玉水道Click!の水を使わなかったのは落合地域のどこでも同じだ。下落合では、1960年代に入ってからも美味しい井戸水の使用をやめない邸がかなりあった。
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 1923年(大正12)9月の関東大震災のときは、斎藤牧場にほとんど被害は出なかったが、牛乳の卸問屋が業務を停止してしまい販売が不可能になってしまった。そこで、とり夫人は震災直後の3日間、5斗(約90リットル)の牛乳を荷車に積んで、近くに被服廠跡Click!もある被害がもっともひどかった本所界隈に出かけていって、毎日牛乳を被災者に配り歩いた。カルピスClick!三島海雲Click!と同様に、残暑がきびしい時季だったので、腐敗防止のために冷却殺菌用の氷も積んで、よく冷えた牛乳を配って歩いたのかもしれない。ちょっと、守山商会Click!(守山牛乳Click!)の大震災による被災者の群れを絶好の商機ととらえた、守山兄弟Click!に聞かせてやりたいようなエピソードだ。w
 昭和初期になると葛ヶ谷の耕地整理が進み、下落合と長崎の両方面から宅地化の波が押し寄せてきて、衛生や周辺への臭気の問題から、斎藤牧場は徐々に肩身のせまい事業となっていく。さらに、警視庁Click!や自治体からの衛生管理も年々きびしくなり、乳牛の飼育環境から搾乳法、牛乳の管理、果ては搾乳する作業員の健康管理にいたるまでやかましくいわれるようになった。守山商会の事例で、この時期に酪農家をやめる事業者が続出している記事を書いだが、斎藤牧場でも殺菌室の設置など新たな設備投資をあれこれ指示され、とても採算が合わないために廃業へ追いこまれている。
 ほとんど事業継続を断念させるような、この時期の酪農家への締めつけは、名目は誰にも反対できない牛乳や乳製品に関する衛生品質の向上(消費者利益をうたいながら)だったが、大手牛乳メーカーと行政が手を組んで中小の酪農家をつぶして淘汰し、潤沢な設備資金があり大牧場を抱える大手企業の、市場独占をもくろんだ策動のようにも見える。
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 さて、斎藤牧場の経営をとり仕切ったとり夫人と、裁判官をめざしていたらしい早大の連れ合いとは、当時ではめずらしい恋愛結婚だった。とり夫人は仕事をやめたあと、さまざまな思い出が詰まった牧場経営について息子に語って聞かせたらしい。戦時中、西落合はオリエンタル写真工業Click!の工場や野方配水搭Click!などの周辺は空襲を受けたが、斎藤牧場跡は無事だった。とり夫人は、戦争が終わった直後の1949年(昭和24)に死去し、牛乳配達のお得意先だった井上円了Click!が眠る近くの蓮華寺に葬られている。

◆写真上:第2回帝展に出品された、1920年(大正9)制作の三上知治『仔牛』。渡仏前の作品だが、大正後期には下落合753番地に住んだとみられる三上知治Click!なので、このホルスタインの仔牛も近くの牧場で写生したものかもしれない。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に撮影された斎藤牧場跡。は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる斎藤牧場。は、斎藤牧場跡の現状。
◆写真中下は、1994年に新宿歴史博物館より出版された『新宿区の民俗(4)落合地区篇』(資料A)に掲載の葛ヶ谷御霊社中神輿巡行ルート。は、大正期の葛ヶ谷消防隊。(『おちあいよろず写真館』コミュニティおちあいあれこれ/2003年より) は、1954年(昭和29)ごろの西落合に残る藁葺き農家。(資料Aより)
◆写真下は、昭和20年代に撮影された住宅街のあちこちに畑が残る西落合風景。(資料Aより) は、1913年(大正元)ごろに撮影された西巣鴨保里牧場で産まれた仔牛たち。(「ミルク色の残像」展図録・豊島区立郷土資料館/1990年より)

下落合の炭糟道(シンダー・レーン)。

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 10年ほど前に、下落合で暮らしていた洋画家・小松益喜Click!の作品をご紹介していた。作品は、1927年(昭和2)に制作された『(下落合)炭糟道の風景』Click!だ。描かれたカーブの道と道幅、地形、両側に拡がる風景などから、正面の建物は雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)沿いの下落合274番地にあった基督伝導隊活水学院Click!の、大正期に建っていた旧校舎ではないかと想定していた。あるいは、清戸道Click!(目白通り)のカーブから、元病院の建物を活用した目白聖公会Click!の旧教会堂を描いたものかとも考えたが、それにしては大正期の地図でさえ確認できる数多く並んだ店舗が見えず、商店街の風情がまったくない。
 以前の記事の中で、「炭糟道」の炭糟とは石炭ガラのことで、土がむき出しだった路面の吸水性を高めて泥沼化することを抑えたり、ロードローラーや整地ローラーなどで圧力をかけて固めることにより、コンクリートやアスファルトとまではいかないまでも、道路の簡易舗装ができる素材だったことをご紹介している。馬車や牛車、自動車が頻繁に往来する幹線道路や街道では、泥道に車輪をとられて立ち往生する車両がまま見られていた。そこで登場したのが、「炭糟」と呼ばれる石炭ガラだった。「炭糟」は、正式名称を「シンダー・アッシュ」といい、おもに火力発電所など大量に石炭を使用する施設や工場から排出される石炭ガラ(灰)のことだ。
 大正期の東京市街地では、幹線道路はコンクリート舗装あるいは石材が敷かれクルマの往来が容易であり、住宅街の路面にも砂利が敷かれて固められていたけれど、郊外の郡部ではほとんど土面がむき出しの道路のままだった。地元の自治体に、路面を舗装する予算的な余裕がないのも原因だったが(おそらく下水道の整備のほうが重要視されただろう)、当時の舗装は道路を利用する近隣住民の寄付によって行われていたケースが多い。
 落合地域における道路事情について、1932年(昭和7)に刊行された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 明治十七年十月品川赤羽間の鉄道が村の鼻先を貫縦して黎明を告ぐるものがあつたが、当時土木事務に就ては何等の施設なく、道路の改修補装は殆ど各部落有志の手に委任の状態であった、併ながら時代の進運に依る必然的の要求は、到底かゝる姑息なる方法を許さゞるに至りて、土木費を村費に計上するに至つたのは明治四十年以降の事である。而も其予算が甚だ微々で到底全般の要求を満すべくもなく、今日に至りし道路網の一新には、悉く地元の寄付奔走の力が與つて居る。
  
 1932年(昭和7)現在でも、ほとんどの道路が土面のままだった落合町だが、小松益喜が描いた「炭糟道」は、まがりなりにも補修(簡易舗装)の手が加わっている幹線道路だ。この補修費が、町の予算で賄われたものか、住民たちの寄付で賄われたものかは不明だが、描かれた道路が目白崖線の下を走る雑司ヶ谷道(新井薬師道)だとすれば、馬車の往来が頻繁だった落合中部に住む華族による寄付か、あるいは増えはじめた工場の物流を考慮した道路整備の一環だったのかもしれない。
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 さて、そもそも「炭糟道」は、石炭による産業革命が早くから進行していた、イギリスで誕生したもののようだ。もともとの名称を「シンダー・レーン」あるいは「シンダー・ロード」と呼び、それを和訳したものが「炭糟道」、あるいはイギリスの詩人アンドリュー・モーションによる「石炭殻の道」ということになる。火力発電所などから出る石炭ガラには、粉状のフライ・アッシュと粒状のシンダー・アッシュが含まれるが、道路の簡易舗装に用いられたのは粒状のシンダー・アッシュのほうだった。
 イギリスの文学作品を読んでいると、1950年代以前(特に戦前)の情景を描いた作品に、ときたま「炭糟道」の記述が登場している。たとえば、2014年(平成26)に徳間書店から出版されたロバート・ウェストール『ウェストール短編集/真夜中の電話』所収の、『ビルが「見た」もの』から引用してみよう。
  
 猫がいたのは、二番目の訪問者がやってくるまでのことだった。シンダー・レーンと呼ばれる石炭がらで舗装した道を、郵便配達員の自転車の細いタイヤが、シャリシャリと音をたてて村から上がってくる。ビルはうれしくなった。あれは年配の配達員のパーシーだ。勾配がきつくて、少し息が切れている。/もう一人、名前のわからない若い配達員がいるが、その男ならもっと勢いよく登ってくる。なぜ名前がわからないかというと、その若い配達員は長居することがないからだ。自転車を降りて目の見えない男としゃべるのが気づまりなのだろう。
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 ここでは、「炭糟道」あるいは「石炭殻の道」と和訳されず、そのまま「シンダー・レーン」とされている。また、文中にもあるとおり、土面がむき出しの道路ばかりでなく、急な坂道は雨が降ると泥で滑りやすく危険なため、産業廃棄物であるシンダー・アッシュを吸水や滑りどめとした舗装が行われていたのだろう。下落合は、目白崖線沿いのあちこちに急勾配の坂道が通っていたため、シンダー・アッシュによる簡易舗装は街道や幹線道路ばかりでなく、特に傾斜が急な坂にも施されていたかもしれない。
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 当時、大雨が降ると道路はぬかるみとなり、クツや洋服の裾が泥だらけになるばかりでなく、泥沼にクツを取られ「発クツ調査」Click!が必要になったり、荷運びの車輪が泥沼に沈んで1日動けなくなったりする事例が頻発していた。当時、下落合に建設された住宅には、玄関先に“靴洗い場”Click!が設置された邸もめずらしくない。
 また、道の側溝(ドブ)にはフタがほとんどなかったため、大雨であふれた汚水が道路にまで拡がり、町の衛生上Click!も好ましくなかった。さらに、坂道ともなるとぬかるみに加え、大雨が降れば水が滝のように坂下まで流れ落ちるため、なんらかの道路整備は当時の郊外の町々では喫緊の課題だったろう。
 では、石炭ガラの「炭糟」=シンダー・アッシュとはどのようなものなのだろうか? 2001年(平成13)に『環境技術』4月号に収録された、金津努の論文「フライアッシュの有効利用」から少し引用してみよう。
  
 燃焼させた石炭の約13%が石炭灰となって排出される。この内、ボイラー下部のホッパー内に落下するものがクリンカアッシュと呼ばれ、石炭灰の5~15%、ボイラーから煙道を通って電気集塵機で捕捉されるものがフライアッシュと呼ばれ、石炭灰の85~95%を占める。また、空気余熱器・節炭器を通過する際に落下採取されるものをシンダーアッシュと呼ぶが、量的には数%と少なく、一般には、原粉サイロにおいてフライアッシュと一緒に貯蔵される。したがって、石炭灰のほとんどはフライアッシュということになる。/フライアッシュ、シンダーアッシュ、クリンカアッシュとも、化学成分はほとんど同じであるが、物理形状が異なり、それぞれ0.1mm以下、0.1~1.0mmおよび1.0~10mmである。特にフライアッシ ュは粒形が球形でガラス質のものが多い。
  
 上記によれば、石炭ガラのうち0.1~1.0mmほどの粒状の灰が、シンダー・アッシュと呼ばれる素材になるようだ。道路の土面をおおうようにこれを敷きつめて、多少の圧力をかけることにより簡易舗装にしていたものだろう。また、水分を含むと固まったのかもしれない。小松益喜のタブロー『炭糟道の風景』、あるいはA.モーションによる詩集『石炭殻の道』の表紙に描かれた絵を見ると、道の表面がかなり黒っぽく描かれている。
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 しかし、今日のコンクリートやアスファルトの路面とは異なり、炭糟道は風雨への耐久性が低かったにちがいない。数年たつと舗装面はボロボロになり、結局は土面が露わになってしまったのではないだろうか。砂利や玉石を敷きつめたほうが、まだ長持ちしたような気がするけれど、おそらくその工法だと費用がかなりかさんだのかもしれない。

◆写真上:イギリスに残るシンダー・レーンだが、玉砂利を混合しているようだ。
◆写真中上は、1927年(昭和2)に制作された小松益喜『(下落合)炭糟道の風景』。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同作の描画ポイント候補。は、燃焼が終わって取りだされた石炭ガラ。この状態ではフライ・アッシュとシンダー・アッシュ、そしてクリンカ・アッシュが分離されていない。
◆写真中下は、昭和初期の目白通り。右手に写る下落合544番地のタバコ店や柿沼時計店の前から西を向いて撮影した風景で、左手は目白福音教会Click!(目白平和幼稚園)の敷地。は、同時期の目白通りで下落合558番地の吉野屋靴店前から東を向いて写した風景。右手は目白福音教会(目白英語学校)の敷地で、吉野屋靴店の先には志摩屋、近江屋とつづいている。目白通りに、シンダー・アッシュによる簡易舗装が行われていたかどうかハッキリしないが、両写真ともにわだちを残して走るダット乗合自動車Click!の後部が写っている。下左は、2009年(平成21)に出版されたA.モーション『石炭殻の道』(音羽書房)。下右は、2014年に出版されたR.ウェストール『真夜中の電話』(徳間書店)。
◆写真下は、1926年(大正15)制作の佐伯祐三『下落合風景』Click!(部分)で、道路が黒く塗られているようなのが気になる第一文化村の北辺に通う二間道路。は、1950年代後半に撮影された第一文化村の三間道路。砂利が敷かれているだけで、舗装されていないようだ。は、1960年代の同じ三間道路。すでに簡易舗装されているようだが、当時は周辺に土庭が広い邸宅が多く、風で運ばれた土が路面にうっすらと積もっている。

自由学園で行われた美術授業。

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 以前、目白通りに面した下落合437番地の目白中学校Click!で行われていた、美術教師・清水七太郎Click!による美術活動をご紹介Click!したことがある。もともと、落合地域では大正の最初期から画家たちがアトリエを建てはじめ、“芸術村”のような雰囲気が醸成されていたが、高田町の雑司ヶ谷Click!にも多くの画家たちが居住していた。
 自由学園Click!でも、美術や彫刻・工芸の分野には力を入れ、早くから展覧会を開催するなど、独自の教育方針を採用していた。特に美術の教師には、現役の画家たちを3名もそろえるなど、一般の女学校では見られない特色のあるカリキュラムとなっていた。1921年(大正10)の開校時、同学園の美術教師として最初に迎えられたのは、「自由画教育」の提唱で知られていた山本鼎Click!だった。
 開校時の美術の授業について、当時の本科生徒が記録した文章がある。1985年(昭和60)に婦人之友社から出版された、自由学園女子部卒業生会・編集の『自由学園の歴史Ⅰ雑司ヶ谷時代』から引用してみよう。
  
 先生は当時自由画教育の提唱者として知られる山本鼎先生。何でもよく見て、自分で見たままを自由に描きなさいといわれ、お庭の花壇の花を写生したり、小石川の植物園等にも出掛けた。又先生がむちのようなものをふり上げていらっしゃる姿を十五分で描いてごらんといわれることもあった。(今いうクロッキー) ただただお手本を描き写していた頃としては全く新しい方法である。自分で図案をつくることも度々勉強した。木の実、葉っぱ、釘などもモチーフとして大切なことを知ったし、何かモチーフによいものはないかと探ねまわったことも忘れられない。
  
 追いかけて、本科の女学生が増えてくると、桑原儀一と木村荘八Click!が美術の教師陣に加わった。美術の授業は、毎週1回(1時限)と決められていたが、毎週土曜日が丸ごと「美術の日」に当てられていたため、美術の1時限は実質3~4時間、つまり土曜日の半日すべてが充てられることになった。1922年(大正11)6月には、早くも第1回美術展覧会を開催し学園外へも一般公開されている。
 桑原儀一は、おもに本科1年生へ美術の初歩を教えたが、木村荘八Click!は本科3年生には絵画の実習、本科4年生には美術史、高等科の1・2年生には美術講話を行い、本科1年から高等科2年までの6年間、絶えず美術の授業や講義が受けられるカリキュラムが整備された。これは音楽など、ほかの芸術分野の授業も同様だったろう。
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 美術展覧会の開催も、自由学園ならではの主体性重視の教育方針で行われた。ちょうど同時期に行われていた、目白中学校における「目白社」の美術展は、美術教師の清水七太郎Click!による指導のもとに開かれている。ところが自由学園では、教師は展覧会へ展示する作品を選ぶ鑑査役だけで、会場の設営からレイアウト、必要な用具や調度の手配、展覧会の広報などへいっさい“口出し”ができなかった。
 女学生が自分たちで展覧会のことを調べ、必要な取材をし、人員を配置し、予算を管理し、必要な物品の手配を行い、会場の設営から撤収までをすべて運営するという、学園当局や教師たちは彼女たちの自治および主体性にゆだねる姿勢を、終始一貫してつらぬいている。木村荘八は、それを「見逃すことの出来ない愉快な、面白い特徴」だとし、美術展へ手だしができないのを、少し残念がっている様子さえうかがえる。同書収録の、木村荘八『学園第二回絵画展覧会より』から引用してみよう。
  
 展覧会は無論「自由学園の」です。功罪は倶に自由学園が負う。美術家の教師たる我々が負う。しかしここの内部には、学校や教師に負わせずとも自ら負うことを潔よしとしている一団の選手がいます。――展覧会はその目録から、陳列から、額の心配から、番号札から、招待から、案内まで、否、あとの取り片づけまで、展覧会前後の案内掃除一切迄……悉く、全部、現在の四年生が衝に当たってしたのです。/我々(山本鼎、桑重儀一、小生)は絵を選むことをしました。それと学校の都合で日どりを工夫するぐらいしたでしょう。小さい級の者や高等科は美術の催しに対して、二日間教室を明け渡すことをしました。各々机や教壇を外へ運ぶことも、そこまではしたと思う。そのあとは、そっくり四年生が何も彼も処理しました。
  
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 本科4年生は、年齢でいうと16~17歳ぐらいの女子たちだ。すべての支度を終えたのは、展覧会前日の午後7時ごろだったようで、木村荘八は「ああ、あたしおなかが減ってしまった!」という声を聞いている。
 全会場(展覧会場には7教室を転用)の設営が終わると、すっかり夜になってしまったが、中央ホールのテーブルで本科4年生の25人全員がお茶をいれ、しばらく休憩している。彼女たちは、全員がクタクタのはずなのに、興奮しておしゃべりが止まらなかったようだ。木村荘八は、その話し合いを「不思議な雀のようです」と記している。つづけて、木村の文章を引用してみよう。
  
 私も今までに幾度も友達と展覧会をして、この一番おしまいの一休みの天国はよくおぼえがあるから、察しられます。察しるのはまた私も――この日は何にもしないが――みんなの天国へ誘われた心理でしたろう。/それから帰ることにしました。あたりは郊外の闇だから、人影の数で見ずには名ではわからない。山本氏がよく一同の数をして、細い道を目白駅まで一緒に来たのであった。学校を出た途端に校内の電燈が消えましたが、誰か一人一番後まで残ってスイッチをひねって駈けもどって来た人などあったはずです。
  
 遠くから自由学園に通ってくる女学生は、当時の武蔵野鉄道Click!には上屋敷駅Click!が未設置だったため、山手線の目白駅か池袋駅まで歩くしかなかった。木村荘八が記録した展覧会は、1924年(大正13)11月の第2回美術展だったので、3代目・目白駅Click!はすでに橋上駅化を終えていたはずだ。
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 学校や教師がほとんど関与しない、この第2回美術展覧会が実施されて以降、年度ごとに開かれる同展は本科4年生の仕切りによる仕事になっていく。木村荘八は、それを展覧会以上に面白くて愉快で立派な、「四年生の自治団」と呼んでいる。

◆写真上:黄色い灯りが漏れる、夕暮れの自由学園校舎(現・自由学園明日館)。
◆写真中上は、美術展覧会が開催される前の作品鑑査風景で手前から桑重儀一、木村荘八、羽仁吉一。は、美術展覧会の出品目録(展覧会パンフレット)で1922年(大正11)の第1回展覧会()と1926年(大正15)の第4回展覧会()の表紙。これらも彼女たちが、すべて構成・編集・デザインを行い印刷所へ発注している。
◆写真中下は、1926年(大正15)6月に自由学園の敷地にアトリエが竣工した日の記念写真。立っているのは美術部の委員と美術科の女学生で、前列左から羽仁吉一、石井鶴三、山本鼎、木村荘八、山崎省三、羽仁もと子の教員たち。は、1921年(大正10)に近くの公園に出かけたのだろうか本科1年生に写生を教える山本鼎。は、娘を自由学園に進学させているため美術展を観にきた日本画家・平福百穂。
◆写真下は、1925年(大正15)ごろに描かれた美術展用の水彩画作品。は、南沢村(現・久留米市南沢)に完成した自由学園「清風寮」へ帰る女学生たち。1930年(昭和5)ごろに新聞社のカメラマンが撮影したもので、モダンな彼女たちが大きな荷物を持っているのは、寮での炊事はすべて自分たちで賄う自治運営のため、野菜やパン、卵など目白駅周辺で購入した食糧を運んでいる。駅名に「たなしまち(田無町)」と見えるが、現在のひばりヶ丘駅のことで、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)のプラットホームの様子がよくわかる。余談だが、自由学園の資料をあれこれ漁っていると、武蔵野鉄道(西武池袋線)の田無町駅(ひばりヶ丘駅)と、西武鉄道(現・西武新宿線)の田無駅を混同している記述があり要注意だ。

上落合1丁目328番地の吉岡憲アトリエ。

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 上落合にアトリエをかまえていた吉岡憲の、アトリエ所在地が判明した。弟である吉岡美朗が編集した年譜によれば、1948年(昭和23)1月に世田谷区粕谷から上落合1丁目328番地(現・上落合2丁目3番地)へと転居している。世田谷区は吉岡憲の故郷であり、1915年(大正4)3月に北多摩郡千歳村粕谷78番地で産まれ育っている。
 上落合の地番を見て、すぐに二葉染工場(現・二葉苑)Click!を思い浮かべた方は江戸友禅・小紋染めClick!の昔ながらのファンか、松本竣介Click!のファンかもしれない。そう、上落合328番地は大正期からそのほとんどが二葉苑の染工場敷地であり、松本竣介が1944年(昭和19)に妙正寺川をはさんで下落合側からスケッチした『上落合風景』Click!の、まさにその場所だからだ。松本竣介とは、吉岡憲が上落合に転居したその年、つまり1948年(昭和23)の最晩年に交友しているのは、麻生三郎らの紹介だったろうか。
 吉岡アトリエから西部新宿線の中井駅までは300m弱で、高田馬場駅へ出て『目白風景』Click!(1950年)や『高田馬場風景』Click!(同年ごろ)を描くのも容易なら、そこから旧・神田上水(1966年より神田川)沿いを散策しながら江戸川公園まで出かけ、『江戸川暮色』(同年ごろ)を制作するのもたやすかっただろう。
 また、戸塚町2丁目54番地(現・西早稲田2丁目11番地)にあった、杉本鷹が主宰する全日本職場美術協議会中央研究所へと通勤し、麻生三郎Click!や大野五郎、中谷泰、井上長三郎などといっしょに、画学生たちの指導をするのにも便利だったはずだ。同研究所は、現在の早稲田通り沿いに建つ第一山武ビルがあるあたりに建っていた。高田馬場駅から約850mほどで、歩いても10分以内でたどり着ける。
 上落合1丁目328番地にあったアトリエは、一部が平家建ての住宅で、棟つづきに2階建てのアトリエ部が付属していた。吉岡憲の死後、1975年(昭和50)に展覧会の作品を借りに出かけた窪島誠一郎Click!の証言が残っている。1996年(平成8)に「信濃デッサン館」出版から刊行された窪島誠一郎・監修『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』から引用してみよう。
  
 「吉岡憲デッサン展」の開催準備のために上落合の菊夫人のところへ何度も足を運んでいた。菊夫人の住む家は、西武新宿線中井駅の商店街の外れの、細い小路を五分程あるいたところにあった。古い木造アパートや小住宅がびっしりと密集している地域だった。そこに、吉岡憲が菊夫人と暮らしていた平家建ての家屋と、それと棟つゞきになっている十坪程の二階家のアトリエが建っていた。たてつけの悪い古びた硝子戸をあけると、部屋いっぱいに乱雑におかれたカンバスや画架のあいだから油絵具の匂いがぷんと鼻をついた。
  
 この記述を読むと、吉岡アトリエは一戸建ての住宅だったことがわかる。だが、この文章だけでは、二葉染工場(二葉苑)が敷地のほとんどを占める上落合1丁目328番地のどこに、吉岡憲アトリエが建っていたのかがわからない。
 もうひとつ、吉岡憲が健在だった1950年(昭和25)に、同アトリエを訪ねている画学生の証言を聞いてみよう。この画学生とは、のちの洋画家・鞍掛徳磨のことで、日本大学芸術学部に在学中から吉岡憲に師事していた。吉岡憲は戦後、武蔵野美術大学や女子美術大学の講師をつとめ、1949年(昭和24)には日大芸術学部の講師にも就任している。
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 『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』に、挿みこみで添付されたオリジナル証言集の小冊子『吉岡憲のこと』所収の、鞍掛徳磨「であい」から少し長いが引用してみよう。
  
 私は誰からといった紹介らしい紹介もなく、上落合のアトリエを訪ねることにした。西武線中井駅で下車して改札を出ると、左側に踏切がある。そこをわたらないで、左に折れると三、四分の所で、直ぐに分かった。/初秋の空は青く澄んで高く、朝夕涼しさを感じさせていた。当時、高田馬場で電車を待つホームの眺めは、ガード下の飲み屋、下落合にくだる川沿いに立ち並ぶバラック、目白側の丘の学習院寮、その下の町工場、風呂屋の煙突、踏切とその番小屋といった風景であった。/アトリエは、道に面して門札が掛けてあって、ちょっとした庭の先からアトリエの戸をノックして私は直接仕事場にひきつけられていた。私はかなり以前から親しくしているかのように迎えられた。(中略)アトリエの広さは十五畳程で、漆喰壁を塗り込む段階で中断されていた。細い板が横に間隔をおいてうちつけてるだけであった。その素材の板の表面を覆いかぶせるように作品が掛けてあった。床から壁に立てかけてあるもの、額縁にはめこまれてあるもの、木枠をとりはずして画鋲でとめてある作品、コンテで描いたデッサン、ペンと淡彩、といった具合であった/籐椅子に案内され座る。
  
 鞍掛徳磨の文章は、道順が省略されてわかりにくいが、改札を出て左側の踏み切りを「わたらないで」右側に折れ、妙正寺川に架かる寺斉橋をわたって、最初の曲がり角を「左に折れると三、四分の所」に、上落合1丁目328番地の吉岡アトリエがあった……ということになる。おそらく、染の小道Click!などのイベントで二葉苑を訪れた方がおられれば、まったく同じ道順なのですぐにおわかりだろう。
 1950年(昭和25)の当時は、まだあちこちに戦争の焼け跡が残り、空襲で焼けた住宅には急ごしらえのバラックが建ち並んでいた時代だ。高い建物など存在しないため、高田馬場駅のホームから目白崖線沿いの下落合がよく見わたせたと思われる。文中に登場する踏み切りとは、高田馬場2号踏み切りClick!とその番小屋だとみられる。
 さて、鞍掛徳磨の文章を読むと、吉岡憲のアトリエは妙正寺川の寺斉橋をわたって「左に折れると三、四分の所」にあり、その「道に面して門札が掛けてあっ」た住宅で、しかも窪島誠一郎によれば「平家建ての家屋」とは棟つづきになっている、「十坪程の二階家のアトリエ」ということになる。これに合致する住宅が、鞍掛徳磨が訪問した1950年(昭和25)から、吉岡憲の死後19年がたち、1975年(昭和50)に窪島誠一郎が訪れるまでの間に撮影された空中写真で見つかるだろうか。
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 通常、航空機に装備された空撮専用カメラClick!で撮影される空中写真Click!は、もちろん地上に写るものは真フカンからの撮影になるので、地上にある住宅のほとんどは平面的な屋根しか写らない。ところが、かなり以前から気づいていたことだが、目標物の上空をかなり外れて、少し離れたところから撮影された空中写真を参照すると、その写真の片隅に目標物が“立体”としてとらえられているのだ。
 たとえば、鞍掛徳磨の文章にも登場している学習院昭和寮Click!を例に説明すると、各時代ごとに真上からではなく“立体”Click!として観察したければ、同寮が建っている下落合や近くの目白駅の上空からではなく、少し離れた戸山や早稲田、百人町あたりを飛んだ撮影機の航路評定図を参照して、中心点のずれた空中写真を観察すればいい。戦後の上落合1丁目328番地界隈を“立体”で観察したければ、戸山か高田馬場4丁目、あるいは東中野の上空を飛んだ航空機が撮影した空中写真を参照すればいいことになる。
 その結果、1948年(昭和23)から1975年(昭和50)ごろまでの27年間変わらずに、平家つづきでアトリエとして使われていた2階家が付属する建物、そして中井駅の駅前通りから左折した道路に面していた住宅は、たった1軒しか存在していない。二葉苑への入り口の左手、328番地の南西隅に建てられていた住宅だ。ちょうど、現在の「染の里 二葉苑」ビルと駐車場のあるあたりが、吉岡憲アトリエ跡ということになる。
 何枚かの空中写真にとらえられた住宅を観察すると、中井駅の駅前通りから妙正寺川沿いに東進する道に面して建てられており、西側が平家で東側が2階家の造りをしていたのがわかる。1963年(昭和38)以降のカラー写真では、屋根が灰色っぽい色をしているので、当時の住宅に多い大量生産されたコンクリート製の瓦屋根だったものだろうか。南側には樹木を植えた小さな庭が見え、道路に面して西寄りに小さな門が見える。
 328番地一帯は、1947年(昭和22)の空中写真では焼け跡のままなので、吉岡憲一家は1948年(昭和23)に新築の住宅へ入居したことになる。しかも、鞍掛徳磨の証言によれば、アトリエに使われた2階家の壁に漆喰が塗られていなかったことを考えると、いまだ建設中の住宅に急いで転居してきたのかもしれない。敗戦直後は極端な住宅難であり、世田谷の粕谷に身を寄せていた吉岡一家は、竣工を待ちきれなかったものだろうか。
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 このアトリエで、吉岡憲は22年間にわたり仕事をしているが、1956年(昭和31)1月15日の深夜午前1時ごろ中央線・東中野駅近くの高根町踏み切りに飛びこんで自死している。41歳の誕生日を迎える、2ヶ月前のことだった。芸術家が自殺をすると、すぐに「制作や表現上の悩み」「仕事のいきづまり」などと書かれることが多いのだが、吉岡憲の自裁は、どうやらそれほど“単純”ではなさそうだ。また機会があれば、別の記事に書いてみたい。

◆写真上:吉岡憲のアトリエ跡は、正面に見える二葉苑の施設になっている。
◆写真中上は、1947年(昭和22)撮影の上落合1丁目328番地でいまだ焼け野原だ。は、1963年(昭和38)撮影の同所。328番地の南西隅に、道路に面した吉岡アトリエが建っている。は、1966年(昭和41)作成の「住居表示新旧対照案内図」にみる上落合1丁目328番地で、翌年に上落合2丁目3番地に変更された。
◆写真中下は、1975年(昭和50)に撮影された空中写真にみる吉岡アトリエ。ちょうど窪島誠一郎が菊夫人を訪ねたころで、西側の平家に東側の2階建てアトリエが付属していた様子がよくわかる。は、1979年(昭和54)撮影の吉岡アトリエだが1984年(昭和59)の空中写真にはすでに写っていないので、80年代の早々に解体されたと思われる。は、自死する2年ほど前の1954年(昭和29)に制作された吉岡憲『春雪』。
◆写真下は、1950年(昭和25)ごろに制作された吉岡憲『高田馬場風景』。は、1953年(昭和28)ごろに九州の長崎風景を描いた吉岡憲『おらんだ坂あたり』。下左は、1996年(平成8)に出版された窪島誠一郎・監修『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』(「信濃デッサン館」出版)。下右は、生真面目な性格がよくでた吉岡憲のポートレート。

ちょっと苦手な佐伯米子の手紙。

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 下落合661番地に住んだ佐伯祐三Click!の資料を調べていると、佐伯米子Click!の手紙やハガキClick!類にいき当たることがままある。史的な事実を裏づける重要な資料もあれば、戦後の美術ファンあてに出された返信や、自作が出品されている展覧会へ誘う案内状的な手紙も多い。そんな1通が、わたしの手もとにもある。
 江古田1丁目に住む美術愛好家の夫妻に向けた、展覧会へのお誘いの手紙だ。おそらく、過去に佐伯米子Click!の作品を購入してくれた人物か、あるいはどこかの展覧会で知りあって、ときどき連絡を取りあっていた既知の夫婦なのだろう。文面を読むと、彼女の手紙にしてはかなりざっくばらんな雰囲気で書かれており、ある程度親しく手紙や電話のやりとりをしていた様子が伝わってくる。
 この手紙が書かれたのは1960年(昭和35)5月11日、郵便局の落合長崎局Click!が受けつけたタイムスタンプは5月12日、宛名の人物へ配送されたのは近所なので同日か、あるいは翌5月13日だったとみられる。
 同年5月11日~13日にかけ、気象庁の記録によれば東京地方は快晴がつづいているが、なぜか佐伯米子が書いた宛名書きのインクの文字がにじんでいる。彼女が投函前に、水滴のついた茶飲みか濡れた布巾をそばに置いていたか、同封筒を託されて投函した女中または絵画教室に通ってきていた教え子の手が濡れていたか、あるいは受け取った夫妻が手紙の表面に水滴をたらしでもしたのだろう。
 1960年(昭和35)前後の佐伯米子は、手紙の差出人書きを手書きにせず、住所や電話番号が入った印判を多用している。印判には、「新宿区下落合二の六六一/佐伯米子/電話(96)三四九四番」と刻まれており、朱肉を用いて捺印していた。佐伯アトリエに電話が引かれたのは、おそらく戦前からだと思われるが、この(96)3494という電話番号は戦後のものだ。佐伯祐三が存命中には、おそらく電話は引かれていなかっただろう。電話の必要が生じれば、隣家に住む落合第一尋常小学校Click!の教師で『テニス』Click!をプレゼントした青柳辰代邸Click!か、北隣りの朝子夫人Click!曾宮一念Click!のファンだったらしい酒井億尋邸Click!で借りていたのかもしれない。
 電電公社の落合長崎局Click!の市内局番が「9」からはじまるのは、わたしの学生時代も1960年(昭和35)の当時も変わらない。佐伯米子の時代は「9X」と2桁だが、わたしの時代は「9XX」と3桁になっていた。もちろん、現在は「9」の上に別の数字がふられ、市内局番は4桁になっているので、(96)3494にいくら電話しても「お客様がおかけになった電話番号は」とつながらない……とは思う。大林宣彦Click!作品のように時空がゆがみ、「はい、佐伯でございます」と彼女が出たりしたら怖いのだが。
 では、佐伯米子が江古田の美術ファン夫妻に出した手紙を引用してみよう。
  
 先日は、お電話ありがとう存じました。/あのせつは頂度、人がきて、入口にまたせてございましたもので、おちつきませんで失礼致しました。/ただ今現代美術が始まっておりますので、どうぞ、おひまを作ってお越し下さいますよう。なかなかのんびりとしたよい会でございます。/イタリの版画も多くまいっております。このたびは私小さいのを二点出品致しました。アルルの古城と静物でございます。どうぞごらん下さいまして、御批評頂きたく。でも自分でみましても、弱い感じが致しました。額を細く致したのもしっぱいでございました。/ではお二人ともお元気で。さようなら
    五月十一日                   さえき
 方々から御招待状がまいっていることと存じますが。
  
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 文中で、「現代美術が始まって」と書かれているのは、同年4月末から5月まで東京都美術館で開催されていた、第4回現代日本美術展のことだろう。彼女が「弱い感じ」と書いているように、自身でも不出来だったのを自覚していたようで、同展のあとに発行された美術誌に、彼女の作品をことさら取りあげた“見出し”は見つからない。
 佐伯邸の玄関先に待たせていた「人」が気になるが、おそらく足の悪い彼女は気軽に買い物へ出られないので、近所の商店からまわってきた御用聞きClick!の可能性が高そうだ。「落合新聞」Click!竹田助雄Click!がスクーターに乗り、佐伯米子のもとへ取材に訪れるようになるのは、「落合秘境」=御留山Click!の保存運動がスタートした1964年(昭和39)以降のことだが、あるいは鎌倉の近代美術館から取材に訪れた若き嘱託学芸員だったりすると、がぜん展開が面白くて物語性を帯びるのだが、おそらくそうではないだろう。
 この文面でもそうだが、佐伯米子の手紙はどこか受けとった相手にしなだれかかるような匂い、相手にもたれかかるような感触がにじみ出て、わたしには苦手な文章だ。特に相手が、高名な人物(特に画家仲間)だったり、自分よりも年上だったりすると、その傾向がいちじるしく強くなるように思われる。こういう人によって態度を変える裏表のあるところが、同性から快く思われなかった性格の一端Click!でもあるだろうか。
 この手紙でも、最後に書かなくてもいいような追伸、「方々から御招待状がまいっていることと存じますが」と付け加えることで、「いろいろな画家からお誘いがあるのでしょうけれど、それらはさておいて、わたしの作品を観にきてね」と、どこかねっとりとした念押し感と、気味(きび)の悪い媚びを感じてしまうところが、佐伯米子たるゆえんなのだろう。封筒の裏に、ちょっと芝居がかって「五月十一日 よ」と書くのも、なんだか恋人あての「御存じ」付け文のようで後味が悪い。
 わたしは、彼女が死去した1年6ヶ月後の高校時代に、下落合を訪れて佐伯アトリエの門前に立っているが、もし生前に会って取材をしていたら、(城)下町Click!女子らしからぬ“ちょっと苦手な女性”になっていたかもしれない。
 足にハンディがあったため、おのずと身についてしまった性格ないしは姿勢なのかもしれないけれど、同じ下町で同郷の銀座で生まれ育った典型として、わたしが真っ先に思い浮かべるのが岩下志麻Click!のようなシャキッとした女性のイメージなので、よけいに気になるのかもしれない。でも、佐伯祐三は、そういうところがことさら「かわいい」と感じたからこそ結婚したのだろう。わたしには、ちょっと理解できない好みであり感覚なのだが。
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 ほぼ同時期に、佐伯米子が山田新一Click!にあてた手紙がある。こちらは、1961年(昭和36)10月1日に書かれ、翌日に投函されたらしく10月3日の新宿局による消印が押されている。手紙の郵便料金が、10円から一気に35円へ値上がりした直後のものだ。長くなるので、その一部を引用してみよう。
  
 山田新一様      十月一日      米子拝
 お手紙拝見して、思わず、遠い京都の空をみつめました。涙をポタポタこぼしながら、きっと、もってはいらっしやらないのを、無駄と思いつゝおたづね致したのに……。/世の中が、こんなにかわり、私も生きて皆様にお会いすることが、はづかしく、平気をよそおっておりましても、心では、人さまに申し上げられない、苦しい思いでこさいます。思えば生前には、とりわけ親しくして頂いて、朝鮮の釜山にいらっした頃、フランスへの途中、宿(ママ:泊)めて、頂いたり、他、数々の思い出話しがあの時こさいました……。/お父様のやさしい方でしたこと、/こうして生きながらえている、私の悲しさつらさは、きっと、いつかはお話出来る時もこさいませふ、/こん度の名画全集には藤島先生と二人のります。/どなたに伺っても手紙をもっていらっしやいません。筆無性(ママ)でしたからね。(後略)
  
 文中の「こん度の名画全集」とは、1961年(昭和36)に平凡社から出版された『世界名画全集/藤島武二・佐伯祐三』(同全集続刊6巻)のことだ。おそらく、佐伯祐三が友人に出した手紙を掲載しながら、彼女はそのときの思い出を巻末の解説か、あるいは挿みこみの月報(季報?)にでも書こうとしていたのではないか。
 佐伯米子は、「筆無性でしたからね」と書いているところをみると、山田新一Click!は「もう佐伯の手紙は、1通も残っていない」とでも回答したものだろうか。だが、山田新一は佐伯からの数多くの手紙やハガキ類を、たいせつに保存していたはずだ。なぜなら、佐伯米子の死去から8年後、1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された山田新一『素顔の佐伯祐三』では、それらの手紙やハガキ類を写真でていねいに紹介・解説しているし、また彼は朝日晃へ佐伯アトリエの1921年(大正10)における竣工時期などがおおよそ想定できる、美術史的にも重要なハガキClick!を提供しているからだ。
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 美術ファンへの手紙とは異なり、山田新一Click!あての手紙には朱肉の印判を使用していない。相手が夫の親友だった山田新一では、手書きにしないと失礼だと感じたのだろう。どこか憐れみを誘うような、メメしい文面にムズムズと居心地の悪さを感じるのだが、手紙の封緘に「の」の字を書くのもジメッとした甘えを感じて、わたしとしては気持ちが悪い。

◆写真上:佐伯米子の印判が押された、美術ファンあてに送られた封書の裏面。
◆写真中上は、1960年(昭和35)5月12日の落合長崎局スタンプが押された手紙の表面。は、封入された手紙の内容。は、麹町の心法寺にある佐伯家の墓Click!。佐伯祐三に米子、彌智子の一家がそろって眠る墓は、ここ1ヶ所しかない。
◆写真中下は、アトリエで制作中の佐伯米子。は、野外で写生中の佐伯米子。は、1947年(昭和22)ごろ制作の佐伯米子『エリカの花』Click!
◆写真下は、1961年(昭和36)10月1日に書かれた京都にいる山田新一にあてた封書の表裏。は、夫の手紙について書いた同手紙の内容。

落合地域の人が居つかない場所。

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 怪談とまではいかないが、人が居つきにくい場所というものが確かにあるようだ。別に、そこで過去に忌まわしい出来事があったわけでもない。ほかの場所と変わらない一画であり、変わらない周辺の環境なのだけれど、住む人がコロコロと変わって落ち着かない。一度でも空き地になると、周囲は人気の住宅街にもかかわらず、いつまでも空き地の状態がそのままつづくような敷地だ。
 たとえば店舗でも、同じような傾向が見られる一画がある。どんな商店が入っても、遠からずにつぶれるか移転するかでいなくなる。それほど人通りが少ないわけではなく、周囲にはオフィスや学校なども多いので、食べ物屋が入ればそこそこ売り上げが見こめるはずなのだ。開店の当初は、店主が見こんだとおり昼どきなどお客が店の前まであふれている。それが、数ヶ月たつと混雑がなくなり、1年もすると昼どきでもガラガラに空いていて、いつ前を歩いても店内に客の姿を見かけることがまれになる。
 店のメニューが飽きられたのだといえばそれまでだが、周囲の食べ物屋は別にメニューを変えることもなく、客が通常どおり入って営業をつづけている。そして、いつの間にか当該の店はつぶれるか移転するかして、またしばらく「テナント募集」のプレートが貼られることになる。すると、数ヶ月ののち、今度は別の種類の食べ物屋が、やはり周囲の客足のよさに惹かれて店開きするのだが、開店当初は繁盛するものの、やはり1年ほどで閉店していなくなる、その繰り返しなのだ。周囲の飲食店には、別に頻繁な入れ替わりや閉店などなく、10年20年と安定した営業をつづけているのだが……。
 周囲の人たち(飲食店も含む)は、「どうして、あの場所だけつづかないんだろうね?」と、一様に首をかしげるだけだ。特に料理がマズイわけでも、接客態度に問題があるわけでも、ましてや店舗が不潔でも、雰囲気が暗くて悪いわけでもないのに、短期間でつぶれて空き店舗になる。マーケティング的な視点からいえば、どのような食べ物屋でも新規参入しやすい好条件の場所のはずだし、だからこそすぐにも新しい店舗が決まって開店するのだが、もっても数年、早い店は数ヶ月ほどで閉店してしまう。
 上記のケースは、落合地域のとある通り沿いの店舗敷地の実例だが、住宅敷地でも同じようなことが起きていると、地元の複数の古老の方からうかがったことがある。いわゆる、「人が居つかない場所(土地&家)」という課題だ。古老たちの話によれば、それは耕地整理が行われた大正時代からはじまっており、家を建てては壊し、建てては壊しの繰り返しで、そのつど住民が入れ替わってきているという。人が実際に住んでいた期間は短く、むしろ空き家や空き地だった期間のほうがよほど長いのだそうだ。
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 調べてみると、確かに各時代の地図や空中写真を参照しただけで、その土地には家があったりなかったりと一定せず、特に戦後の入れ替わりは激しくて、家が建つとほどなく空き地になり、再び家が建つと数年で別の家の屋根が確認でき、それも数年で再び空き地になる……というように、住民が頻繁に入れ替わっていた様子がわかる。
 落合地域には湧水源や“洗い場”Click!と呼ばれた湧水池が多かったので、その埋立地へ知らずに家を建ててしまい、家内の湿気やカビに悩まされてやむをえず転居したとも思えない。当該の敷地は、いくら地図をさかのぼってみても水場とは縁がなく、高燥で住みやすそうな位置にあり、周囲の環境も申し分のないほど居住には適した場所だ。
 古老に訊ねても、そこで過去に忌まわしい事件や事故、人死にがでるような出来事があったわけでもなさそうだ。念のため、いつもやっていることだが落合地域の歴史や出来事を調査するために、レイヤ状に積み重なった地図類や住宅詳細図(事情明細図)と、それらの情報をキーワードにした過去の資料当たりなど、あたかも小野不由美の小説『残穢』(新潮社)に登場する「私」のように、時代を江戸期にまでさかのぼって調査を掘り下げてみても、別に不審な出来事はなにも見つからない。事件や事故とその場所とは無縁であり、わたしのアンテナにもなにひとつひっかかってこない。その敷地は、住宅を建てるのには格好の土地であり、不動産屋の視点でいえば駅や商店街、学校も近く文句のつけようがないほどの好適地だ。……でも、なぜか人が数年と居つかない。
 このような現象を占い師Click!(八卦、陰陽道、道教、占星、望気、卜、風水……と術式の呼び方はなんでもいいのだが)あたりに話すと、おそらく「そこには龍の道が通っておるから、人が絶対に住んではいけないのだ」とか、「あの世への霊道に、家を建てるなどもってのほかじゃ!」とか、「この土地一帯の鬼門に、家など建ててはいかん!」とか、「守護天使の居心地がよくない場所なんだねえ」とか、「地相が悪すぎるのじゃ」、「地層ですか~、地層は旧石器時代から人が住んでいた埋蔵文化財包蔵地の富士山系ロームで、ダイコンとか野菜はとってもよくできますよ~」、「バカモン、地層じゃない地相じゃ!」とか、わたしには意味不明なことをいわれそうだ。
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 また、地磁気がすべての要因のように考える人だと、「磁場が悪いのだ」とか、「逆パワースポットなんだよ」とか、「気配がよくないねえ、元気を吸いとられる土地だな」とか、「気の流れが絶望的に悪いスポットだ」とか、「地磁気が狂っておる場所なんだ」、「でも、コンパスはちゃんと北を指してて、特に磁場がおかしいわけでもないですよね」、「……それでも地磁気が狂っておる、逆パワースポットなんじゃ!」とか、さらに意味不明なことをいわれそうで、その人物のほうがよっぽど怖い。
 このような、人が居つきにくい場所や、人が寄りつかない場所は、いつの時代にも存在するものだが、そのほとんどはなんらかの理由や要因が付随しているものだ。拙サイトでも、そのような伝承をたどってみると、1500年以上も前に築造された古墳時代からのいわれとみられる、禁忌エリアClick!「屍家」伝説Click!などのケーススタディもご紹介している。江戸期には、古戦場跡や古い処刑場、墓場の近くなどが、やはり「人が居つきにくい場所」「妖怪が跋扈する場所」などとして紹介されたりもしている。
 でも、落合地域にあるくだんの敷地は、大昔はおそらく旧石器人や縄文人が往来し、長く武蔵野の原生林が広がっていたエリアであり、平安期から鎌倉期にかけて街道が整備されはじめ、その後は近世にいたるまで畑地だったとみられる場所で、明治末から大正期にかけ耕地整理が実施されたあとは、普通の住宅地として開発されてきた土地だ。特になにがあったわけでもなく、落合地域のどこにでも見られる、路線価からいえばけっこうな価格のする住宅敷地ということになる。
 藤原時代の前、いにしえの土地の姿や風情は非常に見えにくいが、「いや、あすこは旧石器時代人たちがさ、北海道の珪質頁岩Click!を加工した工場の廃墟に由来する、いわくつきの土地柄なんだぜ」とか、「土器を抱えた縄文時代の母子の亡霊が、深夜になると現れて親戚のいる三内丸山までいってちょうだい、おカネないけど焼き栗1甕でいいかしらとタクシーに乗りこむ、このへんでは知られた心霊スポットなのよね~、おお怖ッ!」などというような万年単位の怪談事例を、わたしは東京地方でかつて一度も耳にしたことがない。w もはや、「人と土地との相性がよくない」としか表現のしようがないところだ。
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 いっそ、周囲を屋敷林のような緑で囲って野菜畑にでもしておいたほうが、豊穣な収穫をもたらしてくれるのかもしれない。年単位の契約で、家庭菜園として土地を周辺の住民に貸しだせば、あちこちの空き地に乱立している流行りのコインパーキングよりは実入りが多く、固定資産税の支払いには困らないような気もするのだが……。

◆写真上:いつも、うちのヤマネコからねらわれて殺気を感じているヤモリ。ヤモリ(守宮)がいる家は栄えるというが、これも昔ながらの迷信のひとつだろう。
◆写真中上:下落合の街角ピックアップ。
◆写真中下:上落合の街角ピックアップ。
◆写真下:西落合の街角ピックアップ。
なお、掲載している写真と文章とは、なんら関係がありません。

長崎のシシ舞いには角(つの)がある。

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 東北地方で行われているシシ踊り、あるいはシシ舞いClick!の本来的な意味は、山で獲れたシシ(鹿)やアオジシ(ニホンカモシカ)、イノシシなどシシ神(まれびと/まろうど)の魂を鎮めて山へと送り返し、次の年も獲物がたくさん獲れる豊猟であることを祈り願う祭りであり儀式だった。ちょうど、アイヌ民族におけるイヨマンテ(多彩な動物に宿るカムイの魂送り)に近い、原日本の姿をとどめる貴重な祭祀だ。
 だが、農耕が生産基盤の多くを占めるようになってくると、山ノ神からもたらされたシシ神(獲物)たちの魂を鎮め、その再生を願う祭祀は、人間界の死者の魂を鎮めて「成仏」を願う儀式へと変節していく。現在、東北地方や北関東で行われているシシ舞いの多くが、仏教の概念である「盆」の時期に実施され、死者の魂を「あの世」へと送り返す儀式に衣替えしているのは象徴的な現象だ。
 また、山ノ神からのめぐみに感謝し、生命の再生を願って魂を送り返す祭祀が、疫病の防止や病魔退散の儀式へと転化している地域も多い。以前にご紹介した、江古田氷川社Click!に合祀されている御嶽社のシシ舞いも、そのような一例なのだろう。関東から南東北では、シシ(シカ・ニホンカモシカ・イノシシなど)の頭(かしら)が、おそらく江戸期以降に中国ないしは朝鮮半島からもたらされた、インドライオンを起源とするシシ(獅子)と習合してしまい、本来の顔貌を喪失してしまったとみられる。また、中国では「悪魔祓い」を本義とする獅子の性格も同時に“輸入”され、各地のシシ舞い(シシ踊り)の意味づけとして、後世にあと追いで被せられた可能性が高い。
 シシ踊り(シシ舞い)の顔が、大陸の獅子を模倣するようになるにつれ、頭に生えていた角(つの)も落ちてなくなり、江古田のシシ舞いの頭にはすでにツノが生えていない。ところが、同じく落合地域に隣接する椎名町駅前の長崎神社Click!(江戸期までは長崎氷川明神社)のシシ舞いには、いまでも一部のシシ頭に角が残っているのだ。それに気づいたのは、長崎町内を練り歩くシシ舞いの写真を眺めていたときだった。
 長崎のシシ舞いは、伝承では「元禄時代」すなわち江戸時代の初期からはじまったといわれているが、詳細な経緯は不明だ。江戸期からの行事だとすれば、他の地域で行われていた同様の祭祀を長崎村へ取り入れたことになる。だが、江古田村がそうであったように、もともとは江古田氷川社の祭礼ではなく、別の地域に奉られていた御嶽社の行事が、ある時期から御嶽社の江古田氷川社への合祀(属社化)とともに、江古田氷川社で行われるようになったケースを考慮すれば、長崎地域でもそれ以前から別の場所(湧水源のある粟島社Click!という説がある)で行われていたシシ舞いを、元禄期から長崎氷川社で実施するようになった……と想定することもできる。
 一連のシシ舞いが、中国や朝鮮半島からの影響を受けていない、古くからある日本本来のシシ舞いあるいはシシ踊りの形態を色濃く残していることを見れば、そのような想定をしても、あながちピント外れではないだろう。毎年、長崎神社(長崎氷川社)で行われるシシ舞いも、大陸系のシシ舞いとは縁遠い所作・舞踊をしており、東北地方に伝わる原日本のシシ舞いに近似したかたちを残している。
 さて、長崎のシシ舞いは毎年、5月の第2日曜日に開催されるが、シシが舞うエリアは「モガリ」と呼ばれている。「モガリ」は、もちろん「殯(もがり)」のことであり、死者の魂を鎮めその再生を願って、「死者の国」へと送り返す儀式をつかさどる場所であり、山の獲物(シシ神)あるいは人間の死者を送り返す東北のシシ舞い、あるいはシシ踊りへと直結する祭儀用語であることはいうまでもない。
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 長崎のシシ舞いにはいくつかの踊り(舞い)があるが、その中から「花舞」と呼ばれる舞踊を見てみよう。ちなみに、「花」とはボタンのことであり、中国(唐)獅子の影響が色濃く見られるけれど、「悪霊を美しい花笠におびき寄せて焼却する」という、やはり東北における古くからの習わしを踏襲しているのかもしれない。1996年(平成8)に豊島区立郷土資料館が開催した、「長崎村物語―江戸近郊農村の伝承文化―」図録から引用してみよう。
  
 花舞 花めぐりともいう。ぼたん畑のまわりを三匹の獅子がうかれて巡り舞う。人物に例えると、大夫獅子と中獅子が男、女獅子が女。大夫獅子と中獅子が女獅子を奪いあう様が演じられる。女獅子がぼたん畑のなかで神かくし(花と花の間へ隠れる)にあったため二匹の獅子が探しまわる。ついに若い方の雄獅子(中獅子)が女獅子をみつけて自分のものとする。大夫獅子はその様を見て嫉妬し中獅子を叱りだまし、とうとう女獅子を横取りする。御獅子が狂い、じゃれあい、あきらめるといった所作が演じられる。一時間はたっぷりかかる。大夫獅子は最初から最後まで踊り続けるため、20歳前後の体力がなければ踊りきれない。
  
 このように、舞踊の内容がシシ舞いの“意味”(目的)として「無病息災・悪疫退散」あるいは「五穀豊穣」とは、あまり関係のない筋立て(「五穀豊穣」には結びつけただろうか?)であることがわかる。むしろ、将来にわたり子孫繁栄(豊猟)を願い、シシ神(シカ・ニホンカモシカ・イノシシなど)の魂を山へと送り返す、東北各地に残るシシ舞いと通じる信仰心や、“物語”を包括したような内容となっている。
 3匹で踊られる長崎のシシ舞い(昭和初期に中獅子がもう1匹加わり、現在は4匹になっている)だが、この中で角(つの)が落ちずに残っているのが中獅子とよばれる獅子頭だ。その角をよく観察すると、まるで野生のウシかヤギのようにねじれているのがわかる。ニホンカモシカ(アオジシ)は、「カモシカ」と呼ばれているがウシ科の動物であり、角がねじれているめずらしい個体が、かつてどこかに存在したものだろうか。アオジシは、国の特別天然記念物に指定される以前、その肉を食べた人々の話によれば、牛肉に似ているが風味があっさりしていてしつこくなく、非常に美味だったという。
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 また、近年に加わった中獅子の1匹は、目が吊り上がった異形の顔をしている。東北のシシ(鹿)踊りの頭は、たいがい目が吊り上がったシシ神らしい怖ろしい表情をしているが、あえてそれに倣った頭(かしら)を造ったものだろうか。大正期か昭和初期に、東北のシシ(鹿)踊りと長崎のシシ(獅子)舞いの共通性に気づいたどなたかが、東北のシシ(鹿)頭に近いデザインのものを奉納したものだろうか。4匹めの獅子の出現理由は不明だが、そんなことを奥深く民俗学的に想像してみるのも面白い。
 最後に余談だが、長崎村には大鍛冶(タタラ)に直結する「火男(ひょっとこ)踊り」Click!が伝承されているのに気がついた。長崎の富士塚(古墳の伝承がある)にからめて残る踊りだが、近くには谷端川Click!千川上水Click!の水源のひとつだった粟島社の湧水池があり、砂鉄が堆積しそうな川筋と、タタラのカンナ流しに適しそうな丘陵地帯が展開している。同書より、引きつづき引用してみよう。
  
 (長崎の)冨士塚は、都内数十箇にある塚のうち、保存状態が特に優れているところから、昭和五十四年(1979年)五月、国の重要有形民俗文化財に指定されましたが、その陰に、(本橋)新太郎を中心とする冨士塚保存会の並々ならぬ努力があったことは言うまでもないことです。(中略) 新太郎亡き後、その子・本橋勇が代表となって『冨士元囃子』を存続させ、現在に至っていますが、父親以上に祭囃子に情熱を燃やし、今も町内の小・中学生、高校生等に稽古をつけています。/『冨士元囃子連中』には、祭囃子の他に色物といって「獅子舞」「火男(ひょっとこ)踊り」「大黒舞」などの余技があります。(カッコ内引用者註)
  
 なお、「長崎村物語―江戸近郊農村の伝承文化―」図録は、「富士塚」Click!のウかんむりをワかんむりにし、「冨士塚」という表記で統一している。
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 「月三講社」Click!の碑が林立している長崎富士だが、椎名町に誕生した富士講Click!の月三講社の講祖である三平忠兵衛(のちに改名して三平信忠)は、下落合の薬王院に眠っている。ここでいう椎名町とは、現在の西武池袋線・椎名町駅のことではなく、江戸期に下落合村から長崎村にかけて清戸道Click!(目白通り)沿いに拓けていた椎名町Click!のことだ。

◆写真上:長崎獅子舞いのうち、1時間ほど舞踊がつづく「花舞」。
◆写真中上は、奥州市のシシ(鹿)踊り。は、一関市のシシ(鹿)踊り。は、1909年(明治42)に撮影された長崎獅子舞の記念写真で右から左へ大夫獅子、女獅子、中獅子。いまだ3匹の時代で、4匹めの目が吊り上がった中獅子は登場していない。
◆写真中下:角が落ちずに残る、中獅子を写した3葉。
◆写真下は、月三講社の碑が林立する長崎富士塚。は、「冨士元囃子連中」に関連して踊られる火男(ひょっとこ)踊り。下左は、1996年(平成8)に発行された「長崎村物語―江戸近郊農村の伝承文化―」展の図録(豊島区立郷土資料館)。下右は、粟島社から東南東へ1,000mのところにあった湧水池のひとつで、祥雲寺坂下(現・池袋3丁目)の“洗い場”。落合地域と同様に、長崎地域周辺にはこのような湧水源となる野菜洗い場が随所にあった。

貸家が空きだらけの東京郊外1922。

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 1923年(大正12)に関東大震災Click!が起きる直前、東京の郊外域では目白文化村Click!洗足田園都市Click!などの開発がスタートしているにもかかわらず、空気がきれいで自然が残る健康的な郊外の田園地帯に住みたいという東京市民の人気は、目に見えて下落していたようだ。なぜなら、郊外移住のブームにのって地主や貸家業者が次々と住宅や貸家を建てたのはいいけれど、交通が便利で買い物も至便だった東京市街地よりも家賃が高額という、おかしな現象が起きてしまったからだ。
 郊外地主が強気なのは、世をあげての田園都市への移住ブームや、自然に囲まれた文化住宅へのあこがれがしばらく継続すると判断していたからだろう。落合地域でいえば、1922年(大正11)には東京土地住宅Click!近衛町Click!箱根土地Click!の目白文化村の開発がはじまり、追いかけて東京土地住宅によるアビラ村(芸術村)Click!建設計画が発表されていた。また、上野では平和記念東京博覧会Click!が開催され、最新の文化住宅Click!(モデルハウス)14棟が展示されて人気が高かった。
 したがって、郊外地主や貸家業者たちは、東京郊外への移住者は増えこそすれ、決して減ることはないと考えていたにちがいない。郊外に次々と建つ貸家も、最新の文化住宅を模したようなデザインの住宅が多かった。ところが、1922年(大正11)の時点では、郊外に建設された住宅街に軒並み空き家が目立つようになる。
 前年の1920年(大正9)から同年にかけ、東京市街の外周域には膨大な戸数の住宅が建設されている。1922年(大正11)8月28日発行の東京朝日新聞によれば、この2年間で特に貸家が増えた地域としては、鉄道駅でいうと大井町・大森・鈴ヶ森・蒲田方面で5,000戸、大崎・五反田・目黒で4,000戸、渋谷周辺では1,000戸、目白・雑司ヶ谷・池袋・大久保・中野では、それらを上まわる万単位の住宅が建設された。だが、すぐに埋まると思っていた貸家は、なかなか借り手がつかず空き家の状態がつづくことになる。
 それも当然で、市街地の借家に比べて家賃が高いのはもちろん、生活をするうえでのインフラが未整備だったり、買い物に出かける商店街が遠かったり、通勤には時間がかかったりと、ほとんどメリットが見いだせなくなっていたからだ。一度郊外に転居した人々が、家賃の高さとあまりの不便さに市街地へ逆もどりしてしまい、郊外に建てられた貸家は空き家だらけになっていった。当時の様子を、先述の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 一度住うと誰も懲り懲り/日毎に殖えて行く郡部の空家
 焦り出した貸家業/敷金を減じたり家賃を下げたり
 一両年この方の住宅払底で近郊近在に雨後の筍のやうに族生した貸家がこの頃各方面に空家になつたり、建てたまゝ塞がらぬのがだいぶ見受けられるやうになつた、(中略) それ等が一時「兎も角も住へさへ出来れば可い」といふ要求が盛んだつた頃は汽車電車の便も瓦斯水道や買物などの不便もお構ひなしと云つた風だつたのが、さて住んで見るとその日その日の暮らしが迚(とて)も堪へられない程不都合を感じ出したのと、俄造りの住心地の悪い上に第一家賃が滅法に高いといふのが原因で一度借りた人もまた便利な所へ移転するやうになる、一方には不景気で失業したり収入が減つたりする関係で比較的安い方面を探して引越して行くのが多い、こんな次第でこの頃は家主も大分焦り出して来て例へば敷金六箇月と吹いたのを三箇月に譲歩するとか進んだ気持の人は自発的に家賃を引下げて借家人を引きとめるといふことになつて来た、
  
 家賃が高くて生活も不便なら、誰も住みたいと思わないのがふつうだろう。
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 家主が焦るのは、現代と同じく税金事情からだ。家を新築すれば、毎年、東京府からは家屋税が請求されるし、地元自治体からは町税または村税が課せられる。加えて地主なら土地税が、借地なら地主から地代が請求されてくる。しかも、空き家状態がつづくと建物が傷むし、そのメンテナンス費もバカにならない。敷金や家賃を大幅に下げても、空き家にしておくよりは誰かに入居してもらったほうがマシで被害が少ないのだ。
 人が住まないと、住宅は急速に劣化して傷み、しまいには倒壊してしまうのはいまも昔も変わらない。換気をしないで、戸や窓を閉めきりにして空気の対流がなくなると、湿気がこもって木材の劣化が早まるようだ。人がいないので、室内の掃除や建物の手入れがなされず、そのまま急速に傷みが進行してしまう。また、雨漏りや吹きこみなども放置されるため、家屋全体の劣化が加速するのだろう。
 この40年間で、下落合でもそのような事例をいくつか見てきたけれど、おそらく大正当時の借家は安普請で、空き家になってからはアッという間に傷みが進んで、さらに輪をかけて借り手がつかなくなるという悪循環に陥っていた家屋も数多くありそうだ。つづけて、東京朝日新聞の記事を引用してみよう。
  
 『家賃と云つても甚だしい人は畳一畳二円四五十銭の割で私共さへ驚く位な取り方をした人もあり、特別安い古家で一畳一円二十銭見当のものであつた、こんな具合で需要者が漸漸(だんだん)減つて来ればこれまで不当に頑張つた(ママ)ゐた貸家業者も値下げすることは已むを得ないことであると同時に打算的に見ても迚もこのまゝで行けるものでないことは当然です』といふ 何しろ万事便利な市内より郊外の方が家賃の高いといふ現状が永続するとはうけとれない
  
 1922年(大正11)の当時、畳1畳が2円50銭というと、米価をベースに今日の価格に換算すれば約3,850円ということになる。つまり、8畳ひと間の広さの部屋を借りようとすると、約30,780円の家賃がかかることになる。今日のワンルームマンションなどの賃料に比べれば安いが、当時は貸室や貸家の値段がおしなべて廉価で、記事にも中古住宅だと1畳で1円20銭つまり8畳ひと間で約14,770円と半額以下の物件もあったと書いているので、いかに郊外住宅の強気な賃料設定かがわかるだろう。
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 しかも、一家が住む家ともなると4~5部屋があたりまえの貸家なので、強気の郊外賃料だとたちどころに高額となり、東京市内なら場所によっては中古住宅が2軒借りられるほどの値段だった。また、この記事は木造家屋の貸家のみを指標にしているが、当時、郊外にもポツポツ見られはじめたコンクリート造りのモダンなアパートメントだと、さらに高い賃料を請求されたかもしれない。
 さて、落合町の住宅事情はどのようなものだったのだろうか。少しあとの時代の記録になるが、1930年(昭和5)の時点で土壁の茅葺き農家はすでに25棟に急減しているとみられる。残りの住宅4,817戸は、洋館和館を問わず近代的な造りをしていたと思われるが、このうちの多くが借家あるいはアパートメントだったのだろう。
 ◆1930年(昭和5)現在の落合町建物棟数
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 当時の住宅事情について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「建物」から、一部を引用してみよう。
  
 町の大部分は将来共に住宅地として運命付けられている事は、地理的関係に於ても人事的経済関係より見ても明瞭とするが、従来住宅様式にも建築敷地の区割等にも何等の制限を行ふ処がなかつた為に、単に所有権に基くまゝ自由に建築され、土地は毫も合理的に利用せられざる乱設となつた、併しながら都市計画以降道路系統の定まるに伴れ総じて建物は新建築と変り農村特有の茅葺は正屋として漸く影を失はれて来た。
  
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 これら空き家だらけだった郊外の住宅が、一気に住民で埋まるのは1923年(大正12)9月1日の関東大震災以降のことだ。被害が大きかった稠密な東京市街地を逃れ、人々が郊外エリアに安全・安心を求めて大量に転居し、さながら“民族大移動”のような光景を現出することになる。郊外の地主や貸家業者にしてみれば、大地震のナマズ様々だったかもしれない。

◆写真上:大正期に多かった、フランス風出窓で洋間の応接室が付属する住宅。
◆写真中上は、1922年(大正11)8月28日発行の東京朝日新聞の記事。は、大正時代から流行りの日本家屋で唯一の洋間だった応接間。(新宿歴史博物館展示より)
◆写真中下は、赤土山から撮影した下落合の振り子坂Click!沿いに建つモダンな佐久間邸Click!(下落合1731番地)などの家々。は、1930年(昭和5)に撮影された洗足田園都市の住宅地。は、上落合624番地に建てられたアパートメント「静修園」。
◆写真下は、大正期に撮影された目白に建つ女性専用に造られたアパートメント集会室。は、大正期から市街地には数多く見られたアパートメント建築。は、わたしが子どものころにはいまだ郊外地域に数多く残っていた平家建てのコンパクトな住宅。

「高次の存在」に進化した貞子さん。

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 このサイトをはじめる前から、散歩をしていると下落合駅より歩いて4分ほどの上落合に、「日本心霊科学協会」という団体があるのが気になっていた。同協会は、日本政府ないしは東京都が認可した、いわばおおやけの公益財団法人であり、設立は敗戦直後の1946年(昭和21)だ。1990年代の末ごろ、落合地域の隣りにある井上哲学堂Click!に興味をもち、井上円了Click!の著作などを読んでいたせいか、あるいは深夜ドラマの「TRICK」を観ていたせいで、よけいに気になったのかもしれない。
 同協会の出発点は、英文学研究家で翻訳家の浅野和三郎が、1923年(大正12)に母校近くの本郷に「心霊科学研究会」を創立したのにはじまる。東京帝大で教授だった福来友吉Click!とともに、1928年(昭和3)にロンドンで開催された第3回ISF(International Spiritualist Federation)国際会議に参加し、同会議では登壇して研究論文を発表している。福来友吉は、御船千鶴子Click!長尾郁子Click!、高橋貞子らとともに公開実験を行い、超能力者Click!の存在を証明しようとした学者だ。拙サイトでも、ずいぶん以前に細川邸へとやってきた御船千鶴子のエピソードをご紹介している。
 ロンドンからもどった浅野和三郎は、1929年(昭和4)に心霊科学研究会を「東京心霊科学協会」へと改組し、1936年(昭和11)に死去するまで活動をつづけた。つまり、日本心霊科学協会は原点となった心霊科学研究会から数えると、2020年で創立97周年、戦後の法人化から数えても創立74周年と、公益財団法人の中でもかなり古株に属する団体ということになる。同協会の機関誌「心霊研究」は、スピリチュアリズムを研究する「学術誌」ないしは「紀要」という体裁だが、1947年(昭和22)から毎月発刊されており、その中の1冊をネットで見かけたので手に入れて読んでみた。
 購入したのは、2007年(平成19)に発行された「心霊研究」5月号で、表紙に「ITC~電子機器が開く他界への扉(9)」という記事を見つけたからだ。わたしがITCと聞けば、仕事がらIT Coordinatorをイメージするので、ITコーディネーターがどうして「他界への扉」を開けるのか? それともICT(Information Communication Technology)の誤植?……と興味をおぼえたからだ。ところが、ITCとはデジタル情報通信用語とは関係ない(いや、むしろ関係ある?)、Instrumental Transcommunicationの略称だったのだ。オカルトブームのころ、いまだアナログ通信が主流だった時代の用語でいえば「霊界ラジオ」、いま風にいえば「霊界通信デバイス」ということになるだろうか。
 ITCは、米国の研究者たちが物理的に設計した「霊界」と通信ができる(とされる)専用装置だが、もちろん当時の通信手段はアナログだった。それは、あまりにイカサマ臭い霊媒師や、金儲けのためにサギを働くエセ超能力者、霊媒師と同じようなことをして注目を集めるマジシャン、あるいは「霊界」から伝わった情報へ主観的な脚色をしてしまう降霊術師などが語る「死者の声」を排除するため、霊感のない人間でも「霊界」とダイレクトに通信ができる情報機器を開発しよう……というのが、当初の研究者たちの開発動機だったらしい。また、同様の動きは「霊界」でも起きており、地上の人々と自在に通信ができるような装置を開発していて、その開発プロジェクトチームに加わっているのは、死去する以前に通信技術分野の仕事をしていた技師や科学者たちなのだそうだ。
 「霊界」にいる「スエジェン・サルター博士」の証言をメインに参照しつつ、世界のさまざまな事例を紹介する前述の「心霊研究」に収録された、冨山詩曜・編著『ITC~電子機器が開く他界への扉(9)』から少し引用してみよう。
  
 ホリスターの方も、ハーシュ・フィッシュバッハ夫妻に会いたいと強く希望していて、一九九四年の一月、彼は三人の会合を提案する手紙を書いた。すると、その手紙を受け取ってから一週間もたたないうちに、マギーのもとに霊界の友人であり信頼すべき助言者でもあるタイムストリームのスエジェン・サルターからのファックスが届いたのだ。
  
 同論文は、心して覚悟を決めてから読まないと、とたんに脳みそがクラクラとめまいだけを残していくので要注意なのだが、この時点で「霊界」と地上とはFAX回線、つまりアナログの音声ネットワークによる通信手順でつながっていたことになる。換言すれば、「霊界」でも同様の通信技術の開発に成功していたとみられ、目標とする地上の人物宅に設置されていたFAXへ、無事メッセージを送信できた……ということになるのだろう。
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浅野和三郎「心霊から観たる世界の動き」1936(柳香書院).jpg 浅野和三郎「欧米心霊行脚録」1938(心霊科学研究会出版部).jpg
 ここで留意したいのは、死者が生前の職業を「霊界」でも引きつづき踏襲できるという点だろうか。技術者は、そのまま機器開発の仕事をし、科学者は地上と同じような研究をつづけることができるわけだ。でも、そう考えると「霊界」では大量の失業者が生まれているのを心配するのは、わたしだけではないだろう。地上で仕事をしていた葬儀関係者は、まちがいなく全員が失業だし、病気や事故に対応していた医療関係者や保険業従事者、墓のある寺院の坊主Click!、おカネに関係する仕事をしていたすべての金融・証券業の関係者などは、新たな職を求めて「霊界」ハローワークへ通うことになる。
 ええと、ちょっと脱線しそうなので、話をITC(霊界ラジオ)にもどそう。ITCの課題は、地上のICT(デジタル情報通信技術)の進化が速すぎて、「霊界」にいる亡くなった前世代にあたる技術者や研究者たちのスキルでは追いつかず、ついていけないのではないか?……というような心配はまったく無用で、技術がどのように進歩をとげようが、霊感の強い人物あるいはニセモノではない霊媒師が機器の近くに存在すれば、「霊界」の「高次の存在」ならどのような電子機器(汎用的な機器)を使ってでも通信ができるとしている。
 じゃあ、ITC専用機なんてそもそも不要じゃん!……ということにもなるが、「霊界」でも地上と同様の仕事をつづけている人たち、つまり「低次の存在」(「低級霊」といういい方をする人もいるようで、「霊界」にもどうやら社会科学的な階級観を適用する余地がありそうなのだ)には、どうしても必要だということらしい。同誌から、再び引用してみよう。
  
 彼ら(高次の存在)の意思伝達には人間が理解できないほどたくさんの文字や記号、物理的・数学的な公式が使われる。実際、サルターは「高次の存在たちの知識は、一人の人間の心よりも電子機器を使った方がより正確に受信できる」と述べている。/サルターはまた、高次の存在について驚くべきことはその誠実さである、と言っている。/「彼らはお互いに対して何の隠し事も持ちません。コンピューターの『ネットワーク』のように相互に対話をし、コンピューター・バンクのような速さで情報の交換を行います。もしあなたが一人の高次存在に話しかければ、その他の全ての高次存在が『同時に』その会話の内容を知るのです。(後略)」(カッコ内引用者註)
  
 「コンピューター・バンク」は、コンピュータ・バンキングのことだと思うが、ネット・バンキングの処理スピードがことさら「速い」と感じられていた時代の、「霊界」にいる「サルター博士」の感想だろうか。「高次の存在」の「霊」は、あたかもハイスペック・ハイパフォーマンスのサーバが数千台つながった、ときにスパコンよりも速いHPCクラスタのように超高速の並列処理が可能で、かつ汎用的な通信手段をもっていることになる。
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 さて、ITCにからむ論文を読んでいて気がつく事実は、「霊界」からの通信はアナログ/デジタルのちがいは関係なく(あらかじめD/Aコンバータ機能を装備しているようだ)、また、あらゆる通信規格や通信手順、通信速度、周波数帯域やその制御機能をいっさい無視して成立しているということだ。換言すれば、アナログ音声ネットワーク時代のFAX回線から、デジタル携帯端末の4G/5G(ローカル5G含む)のちがい、EthernetやVPNなどのIEEE802.XX規格やプロトコル、IPアドレスやMACアドレスの有無、1G~100Gbpsと通信速度のちがい、無線LANによるAP(WiFi・WiMAX)の周波数帯とその制御など、まったく考えなくてもいいのがITC(霊界ラジオ)ということになる。じゃあ、「霊界」の技術者たちは、いったいなにを延々と研究開発する必要があるんだよ?……ということになるが、あまり深く考えると頭痛がするのでやめておきたい。
 ここで、福来友吉の名が出ているので、関連深い『リング』(1998年/東宝)の山村貞子さんを例に取りあげてみたい。1990年代の貞子さんは、アナログビデオテープに呪いを念写して、アナログ仕様のブラウン管TVに映像を投影し、犠牲者が呪いのビデオを視聴後はアナログ電話回線を使って情報を伝達(交換局はデジタルPBXかVoIPサーバ?)していた。ところが、21世紀になると貞子さんはインターネットや専用線の別なく、多種多様な無線通信規格を含め、PCだろうがスマホ(PDA)だろうが、デジタル放送のTVだろうがウェアラブルデバイスだろうが、ありとあらゆるエンドポイントの端末を伝って呪いをとどけるマルチプロトコル対応化と、大容量データの輻輳制御に短期間で成功している。つまり、地上で呪いをふりまく「低級霊」のはずだった貞子さんが、いつのまにか「霊界」でも「高次の存在」と同様のコミュニケーション処理能力を備えるにいたったのだ。
 「霊界」にいる「高次の存在」をスカウトすることはできないが、地上にとどまっている貞子さんなら、交渉しだいでは仕事を引き受けてくれるかもしれない。もちろん、巨大なデータセンターにおける各クラスタやセグメントごとに置かれたラックマウントサーバ群向けの、ルータ/ネットワークスイッチの機能および運用管理を彼女に担ってもらえれば、万全なセキュリティ対策が施された史上最強のネットワークインフラを構築できると考えるからだ。D/Aコンバートを意識することなく、またあらゆる通信仕様・手順も彼女は包括しているので、どのような規格の通信にも対応することができる。しかも、貞子さんは「ダウンしない」「死なない」から冗長化が不要で二重投資の必要がなく、彼女は自身で考え判断できる存在なので、あらかじめ高度なAI機能も備えていることになる。
 執拗に繰り返されるDoS攻撃やゼロデイ攻撃、標的型攻撃、大量の迷惑スパム、ワンクリック詐欺、悪質ハッカーなどが入りこめば、たちどころに発信者のモニターから艶やかで美しい漆黒のストレートヘアをヌ~~ッとのぞかせて、複数人を並列処理で同時に呪い殺すことができるのだ。たった一度、呪いのウィルスに感染すれば死ぬまでつづくので、犯罪者は怖くて二度とICTデバイスの側には近づきたくなくなり、ネット環境の安全・安心はこれまでになく柔軟でスムーズかつスケーラブルに実現されるだろう。ただし、恨みがすごく根深そうな貞子さんを、どのように説得してリクルートするかが大きな課題なのだが……。
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 「貞子さん、ぜひわが社のDCへお招きしたいのですが」、「…………」、「月給100万円は保証します!」、「………呪うわよ」、「ご、ごめんなさい! 月額1,000万円でいかがでしょう」、「……もうひと超え」、「案外、しっかりされてますね」、「………死ぬわよ」、「し、失礼しました。では、2,000万円でいかがでしょう」、「……ボーナスは?」、「……10ヶ月分ということで」、「………いいわ」、「では、明日からさっそく出社して……」、「いいえ、井戸の中からテレワークね」、「……い、井戸ワーク、ですか?」、「だって、COVID-19に感染したらどうしてくれるの? あたし、既往症があるから怖いのよ」。

◆写真上:上落合にある、公益財団法人「日本心霊科学協会」本部の正面。
◆写真中上上左は、大正期の撮影とみられる浅野和三郎のポートレート。上右は、同協会が毎月発行する「心霊研究」の2007年(平成19)5月号。は、浅野和三郎の著作で1936年(昭和11)に柳香書院から出版された『心霊から観たる世界の動き』()と、1938年(昭和13)に心霊科学研究会出版部から刊行された『欧米心霊行脚録』()。
◆写真中下は、浅野和三郎の心霊写真。は、散歩していると目立つ「日本心霊科学協会」の本部ビル。は、「心霊研究」の奥付に掲載された案内。
◆写真下は、霊媒師あるいは霊感の強い人物の存在が不可欠な「心霊ラジオ」ケーススタディ。(「心の道場」発行の2000年4月「スピリチュアリズム・ニューズレター」第9号より) は、人間臭さが残るアナログ時代の貞子さん。(1998年東宝『リング』より) は、ゲームのキャラクターのようになってしまったデジタル時代の貞子さん(サマラさん)。(2017年ハリウッド版『ザ・リング/リバース』より)

高田町調査をした1924年度の自由学園。

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 高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の全商店Click!全事業所Click!の調査を実施し、「貧乏線調査」Click!「衛生環境調査」Click!を集計して『我が住む町』Click!のレポートにまとめた自由学園の女学生たちは、1924~25年(大正13~14)の4月から3月まで、どのような学生生活を送っていたのだろうか。その前年に起きた、関東大震災Click!に関するエピソードについては改めて記事にするとして、きょうは社会調査が行われた1924年度の学園内の様子をご紹介したい。
 まず、4月には第4回入学式が行われ、新たに本科33名、予科17名、高等科20名が入学している。予科というのは、自由学園の本科卒業ではなく、通常の女学校(4年間)を出た女子たちが、同学園の高等科へ進学するための教養課程のようなクラスだった。それほど、自由学園の高等科は講義内容のレベルが高く、一般の女学校を卒業しただけでは講義内容についていけないため、1922年(大正11)より高等科の準備クラスである予科が設置されていた。また、高等科卒業生のために、大学の専門課程のような研究科も1923年(大正12)より設けられている。
 当時の女学校の多くは、家政科を中心に「よりよい結婚」と「よき妻」になるための技能習得が目的でカリキュラムが組まれ、相応の教師たちが配置されていた。目白の日本女子大学でさえ、長沼智恵子Click!がそうだったように、家政学があるために親が「大学」と名のつく学校へ入学を許したケースも多い。ところが、自由学園のカリキュラムはまったく異なっており、女性が社会に進出して「職業婦人」になり、自主独立の人生を送ることを前提とするカリキュラムが組まれていた。
 もし結婚するとしても、それは人生のひとつのエピソードにすぎず、あくまでも自身が主体的に生きていくための知識と教養、そして技術を身につけるのが目標だった。したがって、高等科の講師陣には大学教授もめずらしくなく、彼らは大学での講義とさほど変わらない授業内容で彼女たちを教えていた。同年4月、ちょうどこの年はドイツの哲学者イマヌエル・カントの生誕200年にあたるため、高等科では寄宿舎でカント200年記念祭を行い、女学生たちは哲学論文の発表会を行っている。
 4月末の本科生全員による春の遠足は、池袋駅から東部東上線で志木駅まで足をのばし、野火止用水で有名な平林寺まで出かけている。帰りは南側を走る武蔵野鉄道の東久留米駅まで歩き、そこから自由学園が近い池袋駅へと帰着している。従来の遠足が、目白通りから新青梅街道を歩いて井上哲学堂Click!を訪問していた「近足」だったのに比べると、この年はかなりの遠出となった。
 5月に入ると、関東女子軟式庭球大会が開かれ、自由学園は本科1、2年の試合で優勝している。大正末はテニスブームだったので、女学生たちは休み時間になるとテニスコートに走っては熱心に練習をしていた。夕方になると、当時のデビスカップ出場選手だった原田武一、熊谷一弥、安部民雄の3選手が、彼女たちにテニスを教えに来園していた。本科は軟式テニスだったが、高等科は硬式テニスを練習している。
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 6月になると、米国ウェルスレー大学(Wellesley College)の英文科主任教授だったハート教授が来校して講演している。また、同月には北京大学と広東大学から50名を超える学生たちが自由学園を訪問し、それぞれ中国語や英語、日本語によるスピーチ交換会が開かれた。7月10日には、本科と高等科の4ヶ月遅れにあたる卒業式が開催されている。前年の2学期は、関東大震災による被災者の支援活動でほとんど授業ができなかったので、1学期分の授業が1924年(大正13)の7月までずれこんでいたためだ。
 夏休みを迎えると、この年から「夏休み報告書」の作成という宿題が出されるようになった。夏休み中の生活の様子や家族旅行、活動、健康、2学期からの学習についてなど、レポートのテーマはかなり自由で幅が広かったようだ。9月11日に2学期の始業式が開かれた直後から、夏休み報告会が開かれてめいめいのレポートが発表されている。その報告を聞いた羽仁もと子は、1950年(昭和25)に婦人之友社から出版された著作集の『教育三十年』の中で、次のような感想を書いている。
  
 真実な夏休み報告を通して伝わってくる、自由学園に対する世間の眼が、大概は冷たかった。一人一人の家庭においても、同情と反感を相半ばするといってよかった。しかしこの悪評の中にも、私たちの反省させられること、さまざまの意味で深き参考となるものもあった。
  
 大正末、女学生へ高度な教育をほどこし、主体性を身につけさせて自立した「職業婦人」を輩出しようとするような学校が、「世間」から好評で迎えられるはずはなかった。女は経済的に男に頼り、「家」を継ぐ子どもを生んで育てる一生があたりまえで常識だった時代に、教育分野の保守勢力からの攻撃も数多くあったのだろう。また、従来にはない斬新で革新的なことをはじめることで必ず起きる、旧態勢力からの反発や反動も大きかったとみられる。それでも、大正デモクラシーの社会的な思想を反映してか、娘を自由学園へ通わせる家庭は少なくなかった。
 2学期がはじまると同時に、海老茶に白文字で「JIYU」マークがデザインされた七宝焼きのバッジが、学園生全員に配られた。10月に入ると、秋の遠足が催され本科1、2年生は筑波山へ日帰り、本科の高学年と高等科は日光へ2泊3日の旅行に出かけている。また、11月には第2回絵画展覧会が校舎で開かれ、美術教師の木村荘八Click!らが展示作品を選ぶだけで、やることがなく手をこまねいて見ていた様子は、すでに記事に書いたとおりだ。そして、放課後のスポーツの練習など“部活”で帰宅が遅くなる女学生が急増し、家庭からも苦情がたびたび寄せられたため、初めて下校時間が設定されている。
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 この秋、羽仁夫妻の自邸を近くの畑地に移築し、もとの敷地を自由学園寄宿舎に建て替える工事がスタートしている。この工事で運動場がやや広くなり、テニスコートが1面と新たにバスケットボールのコートも新設された。ほぼ同時に、自由学園の学科や教育方針、学園生活などを解説した案内パンフレット(28ページ)を制作し、入学希望者をはじめ各方面に配布している。
 1925年(大正14)の3学期を迎えると、父母の会から寄贈された自転車6台に加え、新たに学園で6台の自転車を購入し、にわかに自転車ブームが起きている。放課後に練習する女子たちが増え、またしても下校時間が遅くなっただろう。そして、次年度の秋の運動会から、自転車行進がプログラムに加わることになった。校舎内では、食堂の中央に書棚を設置し、学園図書館の前身となる図書コーナーが新たに設けられ、図書の貸し出しや返却を管理する図書委員が決められた。
 そして、新学期の開始と同時に、高等科では高田町四ツ家344番地(現・高田1丁目)に住む早大教授の安部磯雄Click!に依頼して、本格的な社会調査の勉強と下準備をはじめているとみられる。高等科2年生を中心に、各戸や商店、企業などに向けた調査趣旨や各種質問票がつくられ、高田町の全戸を対象に配布・調査を実施している。その調査結果はレポート『我が住む町』としてまとめられ、同年5月に自由学園から出版(非売品)され、同時に地元の自治体である高田町町役場へと提出されている。
 そのときの様子を、1985年(昭和60)に婦人之友社から出版された、自由学園女子部卒業生会・編『自由学園の歴史1 雑司ヶ谷時代』から引用してみよう。
  
 安部磯雄先生のご指導で、高田町戸数八〇〇〇の区域に挑戦、高等科二年は一月の末から貧窮調査に当たり、地域全体の衛生設備、職業別の調査には全校生徒が参加した。二月二十六、七の両日、全校を縦に六班に分け、本科一、二年生も一軒一軒歩いてまわった。この調査は後に一〇〇頁のパンフレットにまとめられた。
  
 また、高田町調査を終えた高等科2年生は、卒業を間近にひかえ羽仁もと子とともに関西や九州方面への卒業旅行に出発している。
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 同年の3月21日は、日本で初めてラジオ放送が開始された日で、自由学園の理科(鉱物学)教師だった和田八重造は、さっそく鉱石ラジオを学園内に持ちこんで設置している。夜になると、放送予定の音楽を楽しみに聴きに集まってきた女学生たちは、「本日は晴天なり、只今マイクの試験中」の声しか聞こえてこなかったため、少なからずガッカリしたようだ。

◆写真上:高田町1148番地に建設された、羽仁吉一・もと子邸跡の自由学園寮。ほどなく学園寮は田無町南沢に移転し、婦人之友社の社屋が建設されている。
◆写真中上は、カフェテラスのような自由学園寮の食堂。は、夕暮れの婦人之友社。は、1925年(大正14)3月に行われた高等科2年の卒業旅行。羽仁もと子を囲んでいる女学生たちが、社会調査『我が住む町』を実施したメンバーClick!だ。
◆写真中下は、1926年(大正15)撮影の大谷石の石畳を掃除する本科の女学生たち。は、1926年(大正15)に撮影された学生委員会(自治組織)の委員長を選ぶ総選挙コラージュ。は、1928年(昭和3)に完成した自由学園消費組合の建物。
◆写真下は、1921年(大正10)撮影の山本鼎Click!による美術授業で、大正中期とは思えない少女たちの装いに注目したい。中上は、1926年(大正15)発行の第4回自由学園美術展記念絵はがき『静物』(作者不詳)。中下は、1931年(昭和6)撮影の近衛秀麿Click!新響Click!自由学園女声合唱団Click!による記念写真。このときの演奏は、ベートーヴェンNo.9とマーラーNo.3だった。は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる高田町(大字)雑司ヶ谷(字)西谷戸大門原1148~1149番地の自由学園と婦人之友社。

「怪談」系ドラマは久七坂がお好き。

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 1970年代のTVから流れてくるドラマには、ひとつのブームというか傾向があったように思う。明るいドラマや、希望に向かって走るようなストーリーももちろんあったが、恋愛関係や家族・親族関係がにっちもさっちもいかなくなるほど、これでもかと思うほどドロドロでグチャグチャな状況になり、ついには破滅するか「別れ」「旅立ち」のあと虚無の世界へと入りこむか、ヘタをすると主人公が自死してしまうような筋立ての作品だ。きっと、こういうメロドラマや愛憎劇の人気が高く、視聴率が稼げてた時代でもあったのだろう。ちょうど、現代では韓流ドラマに一定の視聴者がついているように……。
 このような作品の一例として以前、木下恵介Click!『冬の雲』Click!について触れた記事をアップしたけれど、そこでも書いたように「だから、大のオトナが雁首そろえて、いったいなにがどうしたってんだよう?」……と感じてしまう、繊細な神経を持ちあわせていないわたしは、このような感覚の物語とは生来、とことん相性が悪くて無縁なのだろう。よほど好きな俳優が出演してでもいない限り、まずはTVを消すかTVの前を離れていた。それでも、当時は続々とこのテの作品(メロドロ・ドラマ)が撮られていたようなので、視聴率はかなり高くスポンサーも喜んで出資していたのではないかと思うのだ。
 わたしの印象では、このようなドラマの原作は渡辺淳一(この作家の作品は、おそらくこれまで2冊とは読んでいないと思う)あたりで、細川俊之あるいは芦田伸介などによるとっても思わせぶりな、だけどまったく意味不明なナレーションが入ったりする、たとえばこんな作品Click!だろうか。こういう画面が映しだされると、わたしは「そろそろ勉強してきま~す!」とかいって、さっさと自分の部屋に引きあげ、好きなラジオ放送を聴きながら絵を描いて遊んでいたような気がする。親たちもきっとホッとして、子どもに見せるにはちょっと早すぎると思われるこういう作品を、おそらく安心して楽しんでいた(またはチャンネルを変えたのかな?) のではないだろうか。
 なんだろう……、ウジウジといつまでも引きずっている苦悩や葛藤など自身の内面生活を、登場人物の台詞や行動でさりげない表現として提示するならともかく、それをドラマのメインテーマにすえて延々と、または遅々として、ナレーションに依存した内向的で動きのない無意味なシーンを繰り返すような映画やドラマは、わたしとしてはともかくカンベンしてほしい作品なのだ。
 観ていて退屈きわまりないし、しかもたいがいウジウジしている主人公には、イラ立たしさを通りこして腹が立ってくる。「あんたが主体的に選択して招来した結果的課題であり状況なのだから、早く自分できちんと認識して考え、グチッてないで新たな意思決定をするなり選択するなりして、なんとか解決しろよ。大のオトナがなにやってんだ、周囲に甘えてんじゃねえぞ」……とかなんとか、映画やドラマの作り手にはまことに申しわけないが、身もフタもないようなことをいいたくなるのだ。
 「苦しい」「哀しい」「わびしい」「寂しい」的な苦悩感情を、思いっきり表にだして“自己主張”する人間、自身が抱える悩みあるいは不満のグチや、人の悪口をどこかで吐きださないと気が済まない人間、相手が嫌な気分になって落ちこもうが、グチを聞かされる側の精神衛生が悪くなろうが、他者の気持ちに思いやりや配慮もせず、周囲を巻きこみながら自分だけ「吐き出してスッキリ」すればいいと考えているような人間は、オトナの矜持をもたない子ども同然の典型的な「自己中心主義」の人物にちがいない。
 汝ら断食せるとき、偽善者の如く悲しき面持ちをすな (「マタイ伝」6章より)。
 そんな人間たちが、映画やドラマの中で跋扈して、自ら招来した結果に苦悩するのを延々と見せられたら、嫌悪感とともにウンザリするのはあたりまえだろう。
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 やや横道にそれるけれど、上記に引用した『野わけ』(1975年/よみうりテレビ)というドラマは、もちろんわたしは観ていないが、細川俊之のナレーションが面白いので、ちょっと気晴らしに遊んでみたい。同ドラマの冒頭から、少し引用してみよう。
  
 野わけ(野分・野わき)とは/野の草を吹き分ける風/秋に吹く疾風(はやて)……
 野わけの風は/それはたとえば/女の涙のかわき……
 野の果てに消える/女の生命(いのち)である
  
 細川俊之の甘い声音で、なんとなくムズムズしてくるが、いくら“女の詩情”を詠った文章だとしても、これでは日本語がおかしくて意味が通らないだろう。
 1行目の「野わけ」の規定は、「広辞苑」でも参照したような解釈なので辞書的な引用記述にすぎないが、2行目の「野わけの風」=「女の涙のかわき」と規定するレトリックは、いったいなんだろう? 疾風(野わけ)の風という、「頭が頭痛」「馬から落馬」と同様の重言も気になるが、「風」=「女のドライアイ」wないしは「風」=「女の涙も枯れはてた深い悲しみ(?)」という規定は、どう考えても「たとえば」で持ちだす比喩にしては、あまりにもほど遠いし、感覚としてもつながらないし馴染まない。
 ましてや、「野わけ」が「野の果てに消える/女の生命である」にいたっては、仮に野をかき分ける「風」を内向的で悩み多き「女」自身の喩えと解釈しても、そんな女性がいさぎよく疾風のように去り、吹きぬけて消えてゆく、まるで月光仮面のようなダイナミックですばやい動きや生き方ができるかどうかは、はなはだ疑問だ。むしろ、いき詰まり遅々として思い悩んでいるからこそ、成立するドラマなのではなかったか。つまり、「野わけ」とヒロインの「女」とは、同一の文脈上で語られるべきものではなく、むしろ“二項対立”の言葉なのでは?……と、これまた身もフタもないことを感じてしまい、大きなお世話ながら心配になってしまう『野わけ』のプロローグなのだ。
 さて、話はまったく変わり、またまた下落合が登場している最近のドラマClick!を見つけたのでご紹介したい。2016年(平成28)にWOWOWで制作された、『双葉荘の友人』(監督・平松恵美子/脚本・川崎クニハル)だ。同作の一部のシーンでロケーションが行われているのは、下落合の急斜面に通う久七坂Click!の界隈で、舞台の設定は横浜市中区の丘陵地帯、「梶原台4-9」(架空の地名・地番)ということになっている。
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 “事故物件”のテラスハウス「双葉荘」に引っ越してきた若夫婦が主人公だが、そこで以前に住んでいた貧乏な画家夫妻の幽霊に遭遇してしまうというストーリーだ。これだけだと、「ほんとにあった怖い話」系のありがちな心霊ドラマのようだが、本作は恐怖が目的ではなく幽霊たちが紡ぎだす過去の情景を通じて、かつて「双葉荘」で起きた事件の真相を徐々にあぶりだしていく……というミステリー仕立ての展開となっている。
 やがて、加害者の家に保存されていた画家のタブローが発見され、ほぼ同時に主人公の実家にも同じ画家の作品が遺されていることに気づき……と、こんがらがったミステリーの糸が徐々に解きほぐされていくという展開だ。どこか、英国のR.ウェストールが描くゴースト小説を連想させる、日本ではめずらしい香りの物語となっている。
 久七坂が登場するのは、「双葉荘」の大家宅が坂道を上った丘上にある日本家屋という設定で、不動産屋に案内された若夫婦が訪ねていくというシチュエーションだ。120分ほどの長さの作品だが、地上波のいわゆる「2時間サスペンスドラマ」とはまったく異質で、俳優たちの演技もなかなかリアルでうまく、映画にしてもいいようなかなり質の高い、出来のいい仕上がりとなっている。下落合がロケ地のひとつに選ばれているのは、どこかで美術Click!画家Click!つながりが意識されたからだろうか? それとも、元・個人邸の「ユアーズ」Click!と坂道というロケーションが、作品にマッチしたからだろうか。
 凝っていて面白いのは、住所表示の青いプレート「新宿区下落合四丁目3」や、電柱の歯科医看板に付属している緑色の「下落合4-3」の上に、「中区梶原台四丁目9」や「梶原台4-9」のシールをうまくかぶせて貼りつけていることだ。そして、西新宿の都庁をはじめとする高層ビル群が見えないよう(横浜市中区の設定なので)、うまく画角を調整して坂下に建っていた青い屋根の日本家屋(現在は建て替え中)と、西武新宿線・下落合駅前のマンション「下落合パークファミリア」を入れて撮影している。
 ただひとつ残念なのは、加害者宅と主人公宅に「偶然」遺されていた死んだ画家の作品が、お世辞にもうまいとはいえないタブロー(の小道具)の画面だったことだ。どう見ても、プロの手によるものではなく、素人(あるいは画家の卵)が描いたとしか思えないような技量の出来だった。きっと、BSドラマということで予算枠が厳しかったのか、小道具にまで潤沢な経費をかける余裕がなかったのだろう。
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 久七坂筋は、なぜか「怪談」系ドラマのロケーションに好まれるのか、2013年(平成25)に放映された「ほんとにあった怖い話」(フジテレビ)の『影の暗示』でも、ビジネススーツ姿の深田恭子が、黒い不吉な影を追いかけて走りまわる舞台としても登場している。

◆写真上:青い屋根の邸が解体される以前の、坂上から見下ろした久七坂。
◆写真中上:1975年(昭和50)に放映された、『野わけ』(フジテレビ)のタイトルバック。
◆写真中下:2016年(平成28)に制作された『双葉荘の友人』(WOWOW)の久七坂シーンとその現状で、中腹の青い屋根の大きな邸はすでに建て替え工事中だ。
◆写真下上左は、DVD『双葉荘の友人』(TCエンタテインメント)パッケージでキャッチフレーズは「同じ景色を眺めていた、誰かがいた」。上右は、生涯読みそうもない1974年(昭和49)の女性誌「non-no」に連載された渡辺淳一『野わけ』(集英社)。は、下落合でも屈指の急坂である久七坂を駆けあがる深田恭子で、聖母坂から久七坂筋への駆けあがりも含めかなりきつい仕事だったろう。2013年(平成25)放映の『影の暗示』(フジテレビ)より。

下落合駅を通過する西武電車1960年代末。

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 少し前に、戦後すぐのころ1950年(昭和25)すぎあたりに撮影された、西武線の写真Click!をご紹介したことがある。今回は、1960年代の後半から1970年(昭和45)ごろにかけて、下落合駅を通過する西武新宿線の姿をご紹介したい。
 前の記事でも書いたけれど、わたしは鉄道に詳しくないので、写真にとらえられた車両の種類が西武新宿線に導入されていたなんの種類なのかはわからない。1960年代の後半から70年代にかけ、西武新宿線にはモハ373形、サハ1411形、サハ1412形、モハ501形、サハ1530形などの車両が走っていたらしいが、運転席の窓が3つに分かれている四角い“顔”がモハ373形、どこか当時の湘南電車(東海道線)に似ている、アールがきいた窓がふたつに分かれている“顔”がモハ501形ではないだろうか。
 まず、「しもおちあい」という駅名プレートが見える写真から見ていこう。(写真) 前回と同様に、鉄道ファンにはたいへん恐縮だが写っている電車ではなく、わたしとしては周囲の風景に惹かれるので注目したい。w 西武線のホームで、いましも上り電車と下り電車がすれちがおうとしているが、電車が大きくとらえられている側が下落合駅の上りホームで、カメラマンのいる手前は下りホームだ。
 「〇〇作所」と書かれた、大きなコンクリートの建物か見えているが、妙正寺川に面した「正久刃物製作所」の工場だろう。その右手に見える2階建てモルタル仕様の建物は、当時の下落合郵便局だと思われる。正久刃物製作所の向こう側(北側)に、屋根から樹林がのぞいているので、十三間通りClick!(新目白通り)の工事はそれほど進捗していない、1960年代後半あたりに撮影されたものだろう。
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 つづいて、やはり60年代後半に撮影されたとみられる、上りホームを通過する電車をとらえた写真を見てみよう。(写真) 左端に、洗濯物が干された2階家がとらえられているが、ホームがカーブする東端に近いこの位置にあったのは松原邸だろうか。その向こうに少し引っこんで見える、下見板張りの家が内田邸ないしは望月邸だろう。
 下落合駅のホーム東側の、北へややカーブする線路の先に目白崖線の丘が見えている。その丘上から突きでるように、白いビル状の建物がひとつポツンと片隅にとらえられているが、学習院昭和寮Click!(日立目白クラブClick!)のテニスコートに面した第三寮Click!ではないかと思われる。1960年代は、十三間通り(新目白通り)が存在せず、高い建物が周囲になかったためかなり遠くまで見通せただろう。
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 次に、東京電力の高圧線鉄塔Click!(旧・東京電燈谷村線Click!)が写る、下落合駅の西側をとらえた写真を見てみよう。(写真③④) この高圧線の一部は、下落合駅の東端にあった西武線の鉄道変電施設に入り、その他の高圧線は田島橋Click!の南詰めにあった東京電力(旧・東京電燈)目白変電所Click!へと向かっていた。
 写真2枚の左隅には、人々やクルマが横断する下落合駅西側の踏み切り(下落合1号踏切)が見えている。1970年(昭和45)前後は、十三間通り(新目白通り)がいまだ工事中のため、早稲田通りや小滝橋経由で新宿方面へと抜けられる、補助45号線Click!と名づけられた聖母坂Click!の道筋は、クルマがかなり渋滞して混雑していたとみられる。
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 最後に冒頭の写真と同時期の、おそらく1970年前後の撮影とみられるが、下落合駅の上りホームを通過するモハ501形に牽引された電車の写真を見てみよう。(写真) 下落合駅の西側には、1960年代半ばに建設された東京学生交流会館(学生援護会)のビルが見えている。この広い敷地(上落合1丁目307番地)は、1950年代まで警視庁第4予備隊(警察予備隊→保安隊→自衛隊)の駐屯施設があった場所で、1960年(昭和35)前後に解体されて空き地となり、60年代半ばに東京学生交流会館が建設されている。
 同会館の向こう側にも、北側を妙正寺川に接した当時としてはかなり高層の建築である、1969年(昭和44)竣工の下落合グリーンパークマンションが写っている。また、冒頭写真の右側に写る2階家、写真では電車の上に屋根だけが見えている2階家は、下落合駅のホームに接した野上邸だろう。冒頭写真にもどり、野上邸の右手(東隣り)にとらえられた1階建ての家は吉田邸ではないかとみられる。
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 さて、わたしが下落合界隈を歩きはじめたのは、1974年(昭和49)の高校時代からだった。したがって、これらの写真にとらえられた情景はリアルタイムで目にしていない。当時は目白駅、または高田馬場駅、あるいは下落合駅を起点にして散策したが、すでに落合地域の十三間通り(新目白通り)は開通し、高い建物が少なかったので見通しはよかったものの、現代の風景と基本的には変わらない街の枠組みができあがっていた。当時と現在とで根本的に異なる点は、下落合の街並みに密集していた樹木の緑が、比較にならないほど少なくなっていることだろう。
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 なんだか、鉄道写真集のような体裁の記事になってしまったけれど、1950年代に撮影されたとみられる西武線の写真を、新宿歴史博物館Click!の資料室でも見た記憶がある。そこには、中井駅の近辺からとらえられた下落合の丘(現・中落合/中井の丘)が写っていたように記憶している。また機会があれば、こちらでご紹介したい。

◆写真上:1970年(昭和45)前後の撮影とみられる、下落合駅を通過する西武新宿線。
◆写真中:それぞれ、1960年代後半から1970年(昭和45)にかけて、下落合駅のホーム上から撮影された西武線写真。下落合駅の空中写真は、からへ1963年(昭和38)、1966年(昭和41)、1971年(昭和46)、1975年(昭和50)撮影のもの。
◆写真下は、1960年代に撮影された下落合駅。画面に写る松浦カメラ店は、わたしもフィルムを買った憶えがある。は、1974年(昭和49)撮影の下落合駅。この情景は実際に目にしており、オレンジ屋根の尖がりフィニアルが懐かしい。

千代田区の「千代田小学校」はまぎらわしい。

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 千代田区には、区立の「千代田小学校」という名称の小学校がある。1993年(平成5)に千桜小学校と神田小学校、それに永田町小学校の一部が合併して創立されたごく“新しい”小学校だ。でも、これってすごくまぎらわしいネーミングだ。
 千代田小学校といえば、日本橋地域にお住まいの方なら、1876年(明治9)8月に幕府の馬調教所および馬場があった日本橋区馬喰町3丁目19番地に創立され、生徒数の増加から1910年(明治43)3月、薬研堀Click!(または元柳橋入堀Click!)の埋立地である日本橋区矢ノ倉町15番地(現・東日本橋1丁目)に移転した、おそらく戦前の東京ではもっとも露出度が高くて有名だった、東京市立の千代田小学校をイメージされる方が圧倒的に多いだろう。わが家では、維新直後は子どもが学齢期を迎えると浅草御門(浅草見附)Click!近くの校舎へ、明治末以降になると薬研堀の千代田小学校の校舎へと通っていただろう。
 同校は、関東大震災Click!の教訓からコンクリート造りの、独特なデザインをした復興校舎の代表的な建築としても著名であり、記念絵ハガキも数多く制作されている。同校は戦災をくぐり抜け、1945年(昭和20)に統廃合されるまで70年間もつづいた小学校だ。戦後、同校の復興校舎は久松中学校へ、そして1974年(昭和49)に日本橋中学校Click!へと衣がえして現在にいたっている。子どものころ、このオシャレな元・小学校には何度か連れられていき、「ここが千代田小学校、東京大空襲からも焼け残ったんだ。中は丸焼けだったけどな」と親父から説明を受けていた。1960年代にこのあたりを歩くと、いまだ近くの床屋などから「カクちゃん!」(親父の愛称)と叫びながら、幼なじみがハサミを手に飛びだしてきていたような時代だ。つまり、東京市立千代田小学校は親父の母校だった。
 当時のわたしは、「日本橋にあるのに、なんで千代田小学校なの?」と訊ねたところ、明治時代から歴代天皇が小学校を参観するとき、馬喰町時代から必ず日本橋のこの小学校に来校したので、千代田城Click!がある柴崎村千代田の地名(太田道灌Click!の時代)にちなんで名づけられたと教えられた。ちょうど、中元・歳暮の時期になると、NHKニュースが定番のように日本橋三越Click!へ取材するような感覚だ。これは、近所のワルガキ仲間だった1年先輩の親父いわく「田沼くん」Click!の証言とも一致する。1999年(平成11)に小学館から出版された「田沼くん」こと、三木のり平『のり平のパーッといきましょう』から引用してみよう。
  
 僕が通った小学校は、千代田小学校。僕の入る前の年か、その前の年から千代田小学校っていうようになったって聞いたね。天皇陛下が来られたっていうんで、それを記念して千代田小学校という名前になったらしい。千代田城の千代田をいただいたんだね。だから校章も菊のご紋章だよ。すごいだろ。すごかないか、べつに。(中略) この小学校は、うちから歩いて三分くらいのところにあった。駆けていけば1分半。だから、昼飯を食べに、うちに来た子が多かった。
  
 三木のり平の記憶は、おそらくどっかでこんがらがっていて、「千代田小学校」という名称は馬喰町時代から、つまり1876年(明治9)の当初から「第一大学区第一中学区十一番小学千代田学校」、つまり明治天皇が来校してからこの名称がついていた。つづいて、1908年(明治41)4月から「千代田小学校」に改称されている。田沼少年に説明した大人が、大きな勘ちがいをしていたのかもしれない。彼が通っていたころ、千代田小学校(小学千代田学校時代を含む)という名称は、すでに60年近い歳月を経ていた。
 「田沼くん」こと三木のり平の実家は、浜町側で待合をやっていたので、美味しい料理がいつも潤沢に用意されていた。だから、小学校の昼休みにうまいもんClick!を食べに「田沼くんちにいこうぜ」と、友だちがたくさん押し寄せたのかもしれない。食いしん坊のうちの親父も、ひょっとすると出かけているだろうか。「田沼くんち」から千代田小学校まで徒歩3分だったようだが、旧・米沢町側にあったうちの実家から同校までは、ミツワ石鹸本社ビルClick!をまわって100m前後だから、おそらく徒歩1分だったろう。
 三木のり平は、浜町で起きた「明治一代女」こと花井青梅事件(箱屋事件)Click!のことも、親や仲居・女中たちから教えられたのか詳しく知っている。
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 たとえば、1978年(昭和53)に閉校して筑波大学に改編された国立の旧・東京教育大学だが、それからしばらくして東京都が新たに、「東京教育大学」という名称を「復活」させ、“新学校”をどこかに設立したら、旧・東京教育大の卒業生や筑波大の関係者たちは「え、なにそれ。どういうこと?」となるにちがいない。旧・東京教育大の出身者には、そのキャンパスや地域で延々と培われた歴史とアイデンティティがあり、筑波大でもその地域性とともにおそらく同様だろう。
 千代田小学校は戦後、行政の教育合理化施策から隣りの神田の小学校との統廃合で名前が消え(「千桜小学校」となった)、しばらくたってはいたけれど、千代田区がその統廃合を根拠に新しい、というか先祖返りの「千代田小学校」を同区内に新設したら、創立以来、学区が異なる日本橋側にあった本来の千代田小学校の卒業生たちは、「ちょっと、そりゃないぜ!」となるだろう。中には、過去の伝統や育まれた校風、70年にわたる独自の教育文化まで、校名とともに日本橋側から神田側へなんとなくそっくり“横どり”されたように感じて、腹を立てる卒業生がいても不思議ではない。
 確かに「千代田」の地名は千代田区にあるが、旧・日本橋区にあった学校の地域的な特徴や歴史的な経緯を無視して、史的にすでに定着している固有名詞を再び使いまわすのは(当事者たちは「復活」させたという意識なのかもしれないが)、明らかに混乱をまねくだろう。本来の千代田小学校の卒業生は、神田っ子だと誤解されかねないし、両方の時代にまたがって事情を知る人は、「千代田小学校って、それ日本橋と神田のどっちの話?」と、いちいち確認をとらなければならない。
 現在、千代田区立の千代田小学校に在籍している生徒、あるいは卒業生たちが聞いたら気分を害するかもしれないけれど、子ども時代の重要なアイデンティティが育まれた、卒業生たちはもちろん東京ではこだわりの深い地域に密着した学校名を(旧・東京教育大のたとえを連想されたい)、気やすく別の自治体が別の地域で使いまわす配慮のなさに、ぜひ留意していただければと思う。
 この校名を、もし千代田区教育委員会が1993年(平成5)に決定しているとすれば、その地域性や歴史を尊重しない姿勢が疑われてもしかたがない状況だ。どこか何百年、ときには千年以上つづいてきた地名を、まったく地元の歴史を知らない人間がいじりまわすClick!のにも似て、こういう歴史や地域性に慎重さや配慮のない姿勢がとても気になる。
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 さて、千代田小学校が薬研堀Click!の埋め立て地に移転する前後、日本橋馬喰町から日本橋矢ノ倉町(現・東日本橋1丁目)への経緯を記録した文章を見つけたのでご紹介したい。当時の日本橋界隈は、子どもの就学数が急増しており、校舎を改築しても増築しても間に合わない状況が生じていた。ちょうど、大正末から昭和初期の落合地域と似たような課題が、その30~40年ほど前に日本橋地域で起きている。
 1916年(大正5)に日本橋区役所から出版された、『日本橋区史』から引用してみよう。
  
 ついで(明治)二十三年九月十九日(千代田小学校の)校舎増築成り落成式を行ふ。増築校舎は二階建二十四坪(中略) 三十一年十二月四日、本校大部の改築工事成り落成式を行ふ。改築に係る校舎は二階建百二十九坪にして、附属家及諸費を合せ費額金八千四百七十六円余、(中略) 本校は従前改築屡々なりしが、就学児童の増加に由りて教場の狭隘を感じたるも、而も敷地に限りありて増築するに由なく、加ふるに門前は電車通なるを以て児童の往復に危険少なからざるを患ひ、好適地を得て移転をなさんと企画せしに、曾々市区改正設計に由れる元柳橋入堀埋築地に設けらるべき公園は、旧両国広小路に移されたれば、其の跡地、即ち矢ノ倉町十五番地四百八坪二合三勺、及び接続地十六.十七番地合五十五坪一合七勺を金二万二千六百十八円三十銭を以て払下げ、元柳河岸市有地二百三十二坪五合六勺を借用(中略) ついで四十二年七月工事に着手し、校舎総二階建二百十四坪七合五勺付属家其他を合せて(中略) 四十三年三月竣工せしを以て、同三十日落成式を挙ぐ、即ち現在の校舎なり。(カッコ内引用者註)
  
 「現在の校舎なり」と書いている、総2階建ての木造校舎は関東大震災の延焼で全焼し、わずか13年間しか使用できなかった。同書には、当時の千代田小学校校舎の平面図(1910年現在)が掲載されているが、震災後に建設されるコンクリート製の復興校舎とは、比べものにならないほど小規模で狭い。震災後に建設され、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!からも焼け残った校舎は、アールのきいた独特なデザインの屋上に展望台を備えた、総3階建ての鉄筋コンクリート製のビルディングだった。
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日本橋中学校.JPG
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 復興校舎の展望台から、両国の花火大会Click!を見るのは“特等席”だった。「夏祭りなんか大変だよ。小学校が御神酒所になって、町内の神輿Click!がみんな学校に集まる。花火大会もあるだろう。そうなると校庭が花火見物のための座席になっちゃうんだから。そう、夏といえば川開き。え、隅田川? そうだよ。でも、隅田川っていうのは浅草から先をいった。浅草までは大川っていう」と、三木のり平は千代田小学校を懐かしそうに回想している。

◆写真上:千代田小学校の展望台(屋上)から、大橋(両国橋)や大川(隅田川)をはさんで本所側を眺めた写真2葉。対岸の丸いドームは本所国技館Click!で左手奥が本所公会堂Click!だが、両国橋は関東大震災で被害を受けた姿のままで、校舎の左手にミツワ石鹸の本社ビルが未建設なので、1930年(昭和5)以前の昭和初期に撮影されたものと思われる。
◆写真中上は、東に張りだした校舎のウィングをとらえた写真。右手に見える小学校前の商店街では、江戸期からの伝統的な「鴨すき焼き」を食わせる「鳥安」Click!が営業しているはずだ。中上は、大川の川面から見た竣工直後の千代田小学校全景。中下は、京橋図書館に保存されている千代田小学校のファサードで左奥が大川にあたる。は、復興校舎が竣工したあと参観に訪れた昭和天皇の人着記念写真。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる千代田小学校界隈。すでに両国橋が現在の橋に架け替えられ、そのたもとには「一銭蒸気(ポンポン蒸気)」の船着場が見えている。は、空襲で焦土と化した東日本橋エリアと千代田小学校。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる東京大空襲Click!からも焼け残った千代田小学校の校舎。
◆写真下は、1910年(明治43)に薬研堀(矢ノ倉町)へ移転した当時の校舎平面図。中上は、大川から眺めた千代田小学校の跡地に建つ改修工事中の日本橋中学校で、右手のカゴメビルがミツワ石鹸本社ビル跡。中下は、千代田小学校の夏休み臨海学校で撮影された記念写真で、前列右からふたりめが「田沼くん」こと三木のり平。は、親父が5年生の1936年(昭和11)に同じ場所で撮影された記念写真。三木のり平『のり平のパーッといきましょう』(小学館)のキャプションでは「場所不明」と書かれているが、千代田小学校の上級生徒たちが毎年臨海学校で訪れていたのは千葉県勝浦の興津海水浴場で、田沼家のアルバムと親父のアルバムでは小学校時代の記念写真がかなりの割合で重複しそうだ。

近衛邸敷地に接した萬鳥園種禽場。(上)

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 東京同文書院Click!(のち目白中学校Click!併設)の東隣り、下落合523~524番地には多種多様なニワトリClick!を販売する萬鳥園種禽場Click!が開業していた。事業所が同地にあったのは、明治末から大正前期にかけてのころだ。かなり大規模な種禽場で、関東一円ばかりでなく、養鶏Click!に必要な関連商品や資材Click!、刊行物などから、顧客は全国に及んでいたと思われる。もちろん、落合村をはじめ、高田村、長崎村、野方村などで養鶏業を営む農家は、萬鳥園種禽場からニワトリを購入していたのだろう。
 目白通りに面した下落合523~524番地は、もともと近衛篤麿邸Click!の敷地の一部だったとみられるが、近衛篤麿Click!が死去した明治末に萬鳥園が土地を買収している。買収したのは、萬鳥園園主の華蔵界能智(けぞうかいよしとも)という僧侶のような名前の人物で、のちに洋犬などペットの飼育でも名前を知られることになる。萬鳥園種禽場の時代から、すでに洋犬のブリーダー事業もはじめており、土地が広い東京郊外の屋敷街への販路を見こしての、先行投資のような事業展開だったのかもしれない。
 下落合の土地を買収しているのは、ひょっとするともともと近衛家の知り合いか、故・近衛篤麿の友人知人だったのかもしれない。華蔵界能智は、明治末に発行した「萬鳥園種禽場営業案内」パンフレットで、次のように書き記している。
  
 小園の幸福
 当種禽場は何十万坪何万羽の鶏を飼養せざると雖も現住の処は地所家屋共小園の所有なるを以て一ヶ月に付一坪何十銭の地代を払ふの要もなく何十円の家賃を取られる心配もあらざるが故各種共廉価に販売致し得るの幸福あり
  
 商品の価格には、地代や家賃の固定費が上乗せされていないので、相対的に安く販売できる……と、下落合の土地が所有地であることをアピールしている。
 明治後期になると、欧米からの品種改良されたニワトリの輸入が盛んになり、その中心的な位置にいたのが岩崎家Click!(三菱)だったのは以前の記事にも書いた。そのせいか、明治末から大正期にかけて養鶏ブームが起こり、農家の副業として貴重な現金収入源となっていった。萬鳥園種禽場では、多彩な洋種のニワトリを飼育しており、東京の家禽品評会では毎年、1等賞~3等賞あるいは優等賞などを独占している。入賞したニワトリには、高価だが当時の人気品種だったアンダルシヤンをはじめ、黒色ミノルカ、白毛冠黒色ポーランド、バフコーチン、黒色ジヤバア(ジャワ)、ビーコンプリモースロック(プリマスロック)、ラフレッシュ、ラ・アレッシュ、白色レグホーン(レグホン)、淡色ブラマ、黒色オーピントン、横斑プリモースロック(プリマスロック)などがいた。
 「拾五羽の養鶏は優に田畑一反部の収益よりも大なり」、あるいは「拾五羽の養鶏は十坪を要せず農作物の如き天災少なし 労力は二分の一を要せず」を事業のキャッチフレーズに、華蔵界能智は明治末から大正初期にかけ、順調に業績を伸ばしていったようだ。明治末には、萬鳥園で繁殖させたニワトリの種卵や親鶏、ヒナなどが、すでに全国各地へ広く出荷されはじめている。萬鳥園の営業案内パンフレットに掲載されている、文語調で読みにくい華蔵界能智の論説「養鶏の利益」から引用してみよう。
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 今や我養禽業は非常の発展を為し昨年度の如き一億三千余万円の輸出を為すに至れりと云ふ誠に喜ぶべきなり 然れ共此重大なる生産業は如何にして発達したるか又何物の手に因りて作られたるか是れ実に農友諸君の副業的努力に外ならず斯業に従事せる者は昼夜の別なく供同相一致して熱心に従事したるが為に外ならざるなり 如何に養禽業が有利なりと雖も若し蠶兒を桑樹に放任し置きて自然に多額の繭を作らする事の不可能事たる事は三才の童兒も能く是れを知らん 然るに養鶏に対しては此方法を以て大なる利益を望まんと欲するは何ぞや 是れ一つは他業に比し斯業の容易なるにも因るならんが誠に笑ふべきなり 例へ造林にもせよ苗木を植付しゝまゝ放任し置きて重分の良材を得る事能はざるべし 况して動物に於ておや 然るに此方法を以て多額の利益を得ざりし者は数羽の鶏を飼養すれば利益よりは害多しと 又或某村の如きは一家三羽以上の鶏を飼養するなかれと 何ぞ無欲の甚しき石地蔵と大差あらざるなり
  
 1年間で1億3千万円余(現代換算で約4,940億円余)も売り上げたらかなりの大企業だが、これは華蔵界能智のオーバートークではないだろうか。2019年度の三井住友建設や京王電鉄でさえ、約4,500億円の売り上げにすぎない。「我家禽業」は、イコール萬鳥園種禽場だけのことではなく、「我の属する家禽業界」というレトリックではなかろうか。ちなみに、筆者は「輸出」という言葉を好んでつかっているが、これは海外へ「輸出」することではなく国内へ「出荷」することだ。
 当時、養鶏はいまだ新しいビジネスだったせいか、さまざまなクレームも多かったようだ。そのようなクレームの出所を調べてみると、ニワトリを飼っただけで面倒をみず、放置しつづけていればヘタな養蚕家や放置林のようになってしまうのはあたりまえだ……と反論している。ただし、農家の副業に養鶏はあまり手がかからず、ラクに収益を上げられるというような、萬鳥園種禽場側の販促表現にもかなり問題がありそうだ。
 大正期、もっとも養鶏業が盛んだったのは千葉県で、東京市や横浜市へ向けて出荷する鶏卵の額が、1年間に180万円以上になっており、同県の主要な生産物に挙げられている。つづいて宮城県の県外出荷が年間20万円、次いで静岡県という出荷量の順位だった。現在では、生産量の全国1位は茨城県(18万8千トン)、2位が千葉県(18万4千トン)、3位が鹿児島県(16万9千トン)となっている。
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萬鳥園種禽場営業案内.jpg 萬鳥園種禽場営業案内表3.jpg
  
 (前略)未だ支那卵の輸入せらるゝもの年々数十万円を下らざるなり 近来農商務省に於いてもやうやく斯業の大利有る事に心付官営的農場をも作りて大に斯業を奨励するに至れり 以て如何に養鶏を軽々に付し難きかを知るにたるべし/過去の大戦の為に蒙りたる財界の傷未だ癒へざるの時我等国民たる者苟(いやしく)も開発すべきの事業有らば共に共に奮励し実力に於て世界の第一等国たらしめん事に勉めざるべからず 前述の如く十五羽の養鶏に一反部に使ふ労力の三分の一或は二分の一を使い見よ其得る処必ず以上の計算よりは数等大なる事を確必信す勉めよや諸士
  
 なんだか、大上段にふりかぶった大言壮語の見本のような文体だが、「世界の第一等国」になるために養鶏がそれほど重要だったかどうかは知らないけれど、ちょっと眉にツバをつけたくなるような文章だ。ちなみに、「過去の大戦」とは明治末か大正初期に書かれた文章なので、1905年(明治38)に勃発した日露戦争のことだ、
 さて、萬鳥園種禽場がいつどこへ移転したのか、あるいは事業を閉じてしまったのかはハッキリしないが、1918年(大正7)の陸地測量部Click!による1/10,000地形図を参照すると、目白通り沿いには家々(おそらく商店など)が稠密に建ちはじめているが、その裏手にはやや空き地表現が見られる。ひょっとすると、萬鳥園種禽場は事業を縮小し、通り沿いの土地を手放して営業をつづけていたのかもしれない。
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 萬鳥園敷地の南側には、貸家とみられる家々が数軒建ちはじめているが、翌々年の暮れあたりからその中の1軒、下落合523番地の貸家を借りて自邸+アトリエが完成するまで仮住まいしていたのが、曾宮一念Click!へのハガキの地番を「623番地」と「523番地」とで、見憶えのある地番の曖昧な記憶Click!に迷っている佐伯祐三Click!ではなかったか……というのが、わたしの以前からの課題意識なのだ。それは、1926年(大正15)の「下落合明細図」で、下落合523番地に「佐伯」は収録されているが、下落合661番地に「佐伯」が記録されていないという、注目すべき齟齬にも直結するテーマなのだ。
                                <つづく>

◆写真上:「萬鳥園種禽場」のパンフレットに掲載された、下落合523~524番地の敷地に建ち並ぶ近代的な鶏舎。左手奥に見えるハーフティンバーの西洋館と暖炉の煙突が、華蔵界能智が敷地内に建設した自邸の可能性が高い。
◆写真中上は、1910年(明治43)の1/10,000地形図に採録された萬鳥園。は、同パンフレットに掲載された来園地図。は、萬鳥園種禽場跡の現状。
◆写真中下は、輸入された肉食用種の銀灰色ドーキング。は、萬鳥園パンフレット()と表3に掲載された土地も建物も自前の「小園の幸福」()。
◆写真下は、現在の一般的な鶏舎。は、卵肉両用種の黒色オーピントン。は、同様に卵肉両用種の横斑プリモースロック(プリマスロック)。

近衛邸敷地に接した萬鳥園種禽場。(下)

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 旧・萬鳥園種禽場跡に建っていた貸家、あるいは事業規模を縮小して営業をつづけていた萬鳥園種禽場Click!の、すぐ南側に建設された副業としての貸家に佐伯祐三Click!が仮住まいをしていたとすれば、下落合に住みはじめてからすぐに、ニワトリClick!と接して親しむ機会ができたはずだ。そして、萬鳥園が導入している近代的な設備や機器、養鶏法Click!にも興味をそそられた可能性さえある。
 アトリエが竣工して早々の1921年(大正12)、鈴木誠Click!にスコップを借りにきた佐伯が、画家になる自信が揺らいだものか「富士山のすそのに坪一銭という土地があるそうだ、到底絵描きになれそうもないので、鶏でも飼って暮そうかと考えている、どうだろう」(「絵」No.57/1968年11月)と相談しているのは、斜向かいに養鶏場がある下落合661番地へ自邸が竣工する以前に、明治期に比べ規模が縮小された萬鳥園種禽場で、華蔵界能智(けぞうかいよしとも)あたりから事業の話を聞かされていた(その営業トークにうまく丸めこまれていた)からではないだろうか。
 萬鳥園種禽場は、多種多様なニワトリの種卵や、輸入された洋鶏の雄雌つがいだけを売っていたわけではない。養鶏業に必要な機器や資材をはじめ、東京郊外で売れそうな商品、たとえば田畑やガーデニングには欠かせない農薬と、それを撒布する自働噴霧器Click!や肥料、庭園の池へ放つ観賞用のアヒル、ペット用の洋犬、はては消防署が遠い郊外では深刻だった、火災時の家庭用消化器まで扱っていた。
 たとえば、洋犬についての販売コピーを、同園パンフレットから引用してみよう。
  
 猟犬と番犬
 当園に於ては猟犬及番犬十数頭飼養致し居り候故御望に依り親犬及仔犬共御分譲可申候 種類はポインター種、セツター種、レトリーバア種、スパニイル種及一回雑種 代価は御照会次第御回答可申上候
  
 なんだか「消火器」といい「ブリーダー事業」いい、ひとヤマ当てようとしている山師Click!のような人物を想像してしまうのだが、ひょっとすると生真面目で、日本の「世界の第一等国」入りをめざしている誠実な人柄だったかもしれず、事業の目的意識をしっかりもったビジネスマンだったのかもしれない。東京の品評会で、上位を独占している高品質なニワトリを出品していたのだから、養鶏法にはそれなりに自信があったのだろう。
 あるいは、華蔵界能智は仏教界となんらかのつながりがあり、浄土真宗本願寺派の光徳寺Click!に生まれた佐伯祐三は、そこに因縁のようなものを感じはしなかっただろうか。画家で生活していく自信がなくなり、前年(1920年)に死去した父親の遺産Click!(1920年12月の山田新一へのハガキで、遺産のつかい道を相談している)を、自邸とアトリエの建設であらかたつかい果たしてしまった佐伯は、華蔵界能智のうまい口車にも乗せられて(いやもとへ、真摯なビジネス構想に説得されて)、つい近代的養鶏法でおカネをできるだけもうけ、華蔵界(極楽)生活でもしながら絵を描こうとしていたのかもしれない。
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 華蔵界能智は、パンフレットでこんなことも書いている。
  
 御注意
 近来益斯業の隆盛となるや自称の一等賞を看板に或は東洋第一の洋鶏場其飼育場何十万坪的の大法螺を吹きたまたま其家を尋ぬる時は僅々十羽の鶏をも飼養せざるが如き即ちオバケ種禽場も無きにしもあらず購入者諸君御注意あれ/〇貴場にては苗木、種子等販売せざるやとの御照会もまゝ有之候得共当園は多数の鶏を飼養致し居り候事故苗木、種子等迄販売の運びに至らず諸君其れ涼せよ
  
 どうやら、萬鳥園種禽場は「オバケ種禽場」ではなさそうで、東京同文書院Click!の東隣りにあった敷地は、「何十万坪」とはいかないまでも、細長い大型鶏舎を何棟か並べるそれなりの広さはあった。事実、1910年(明治43)の1/10,000地形図を参照すると、敷地内に大きな鶏舎とみられる細長い建物が3棟採取されている。
 ちょうど同じ時期に、下落合の東隣りにあたる高田村の雑司ヶ谷では、小田厚太郎が「小田鳥類試験所」Click!という研究所を設立している。こちらはニワトリではなくウズラで、雑司ヶ谷の旧・字名にみえる“鶉山”の地名にちなんだものだろうか。1914年(大正3)より、同研究所で産出されたウズラの卵は宮内省御用達に指定されている。明治末から大正初期にかけて、近隣地域ではニワトリやウズラなど家禽ブームにわいていたころだが、当時の熱気が感じられるエピソードだ。
 さて、萬鳥園種禽場の販売方法は独特なものだった。養鶏業をやってみたい農家で、元手となる資本金が不足している場合は、村役場で発行された1世帯分の住民証明書を添付して萬鳥園に申請すれば、1農家に無料で種卵を頒布していた。ただし、荷造り費や送料は別に徴収している。そして、種卵から孵化したニワトリからいくらかの利益が出れば、当初の種卵代を支払ってもらうというシステムだった。おそらく、種卵の状態では雄雌が不明なので、希望農家へは複数個を荷造りして送ったものだろう。
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 当時の一般的なニワトリ価格は、種卵1個が10銭、種禽1つがいが6円50銭、種雛1つがいが3円50銭だった。比較的安い値段からすると、おそらく普及率が高かったレグホーン(レグホン)種だろう。通信販売の場合、具体的なニワトリの品種は指定できず、「肉用種」「卵用種」「卵肉兼用種」「愛玩用種」とハガキに希望を書いて萬鳥園に送ると、該当するニワトリ(の種卵)が送られてきた。
 これは、注文時期にちょうど卵を産みはじめたニワトリか、生まれたばかりのヒナまたは種卵が、必ずしも指定された品種では用意できない可能性があるからだろう。ただし、萬鳥園種禽場を訪ねてきた農家には、希望する品種のニワトリや種卵を販売していた。
 最後に、下落合の同パンフから「販売規程」を引用しておこう。
  
 萬鳥園種禽場販売規程
 当園の種卵にして万一不結果なるときは多少に拘らず御請求次第代卵御送付申上候 但し不結果卵の返送及代卵の荷造費運賃等は代卵御請求の節御送金相成度候
 同一種の種卵にして一時に多数の御注文に預りたるときは御申込順に従て出荷致候に付種類によりては多少の延引有之候やも難計候間至急を要せらるゝ御方にして他種類と変換するも妨なき分は予め御所望の種類両三種御示定下され候はゞ当園は充分の御満足相成候様取計ひ可申上候
 小園販売の動物は無病健全発育最も佳良なるものを撰みて御送付申上候間如何に遠隔の地と雖も無事に到着可仕は勿論万一途中に於て斃死疾病等の事有之候節は速に弁償可致候(但し駅長等の確たる証明を要し御受取後は当園其責に任せず)
 表中の雛は孵化後百日内外又水禽の雛は三四十日のものを示したるものに候へば其大小に従ひ多少の差違有之候
 表中に示したる種禽の価格は純粋種の標準価を表したるものなれば其優劣に従て多少の高下可有之随時御相談可仕候
 発送法の御指定
 種禽種卵等御注文の節は必ず御便宜の鉄道停車場又は何々港上げ或は何駅何運送店等御指定下され度候
 種禽種卵等一時に多数御注文の節は相当の割引可仕又各種の雛の予約に応じ可申候 名古屋コーチン種の如きは親雛とも多数の御注文には特別の大割引可致候
  
 これを見る限り、名古屋コーチンがもっとも安価な肉用種のニワトリだったのだろう。ちなみに、水禽類ではエンプデンギース(白色大鵞鳥)が20円、ペキンダック(白色アヒル)が8円、インディアンランナーダックが18円、野鴨(マガモ)が5円だった。
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 佐伯祐三アトリエの庭で飼育されていた、黒色レグホーンとみられる7羽のニワトリは、1年間にどれぐらいの量の卵を産んだのだろう。1羽は確実に雄鶏だったはずなので、雌鶏が6羽だったとすると、1羽が年間200個ほど産めば、1,200個もの卵を採取できたことになる。でも、種卵から孵化するニワトリが必ずしも雌鶏とは限らないので、「あのな~、7羽んうち4羽がな~、雄鶏やねん。なんや知らん、詐欺におうたみたいやで~。毎朝早くからコケコッコーな~、うるそうてかなわんわ~。……♪カンテキ割った~擂鉢割った~で、エサ作るのもようでけへんしな~、ほんましんどいわ。……そやねん」だったかもしれない。w
                                  <了>

◆写真上:下落合523~524番地の、萬鳥園種禽場跡の現状(右手奥)。
◆写真中上は、米国から輸入されたてだった卵用種の銀色ワイアンドット。は、多産な卵用種の黒色ハンバーグ(ハンブルグ)種。は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる萬鳥園種禽場界隈。「523」番地が「423」と誤記載されている。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる萬鳥園種禽場跡。523番地の「佐伯」が、修正されずにそのまま記載されていると思われる。は、卵用種の黒色ミノルカ(メノルカ)。は、1928年3月2日にパリの佐伯祐三から曾宮一念にあてたハガキ。最初に「六二三」と書いて「五二三」に訂正し、下に「もしかすると六二三」と書いてさらに消すという都合三度の修正を加えている。曾宮の住所は下落合623番地だが、佐伯は「下落合523番地」という地番の記憶が強く刻まれていたと思われる。
◆写真下は、肉用種のペキンダック(白色アヒル)。は、観賞用として輸入されたインディアンランナーダック。は、洋犬も販売していた萬鳥園のポインター種。
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