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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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戦後すぐに撮られた近衛町の丘。

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西武鉄道モハ311形(昭和20年代).jpg
 おそらく、1950年(昭和25)前後に撮影されたとみられる西武線Click!を走る車両(2両編成)と、下落合東端の丘に連なる近衛町Click!の家々をとらえた写真が残っている。写っている丘の一帯は、二度の山手空襲Click!と敗戦まぎわの戦闘爆撃機による散発的な空襲からも運よく焼け残り、戦後もほぼそのままの姿をしていた近衛町の南端、学習院昭和寮Click!とその周辺の住宅街だ。
 まず、手前に写っている西武線の下り電車は「モハ311形」Click!と呼ばれた車両で、西武鉄道では国電の戦災車両「モハ50形」をベースに、再利用して走らせていた車両だとみられる。1954年(昭和29)には、「モハ501形」と呼ばれる新車両(当時の湘南電車=東海道線に“顔”が似ている)が登場してくるので、周囲の状況を勘案すると、おそらく1950年(昭和25)前後に撮影されたものだろう。画面の右下に見えているのは、西武線の旧・神田上水(1966年より神田川)をわたる鉄橋Click!であり、電車がくぐって通過しようとしているのは西武線の山手線ガードClick!だ。
 敗戦後すぐの車両について、2015年(平成27)に開催された「川越鉄道全通120周年記念企画展」図録(東村山ふるさと歴史館)から、一部だが引用してみよう。
  
 新宿線の車両モハ311形式(国電モハ31/50形式)
 (前略)第二次世界大戦において西武鉄道は自社の車両に被害は受けなかった。しかし慢性的な車両不足であったため、国鉄の被災車両(モハ50形)の台車を購入して作られたのがモハ311形である。また、このほか被災車両を復旧し導入することも行った。
 モハ501形、サハ1501形
 昭和29年製のモハ501形、サハ1501形は昭和20年以降に初めて製作された新車であり、西武独自の形式として誕生した。とくにモハ501形は当時流行していた湘南スタイルで、蛍光灯証明、放送装置などがついた最新形であった。(カッコ内引用者註)
  
 山手線の線路土手ごしに見えている、白いビル状の建物が1928年(昭和3)に竣工した、2階建ての学習院昭和寮第一寮だ。第一寮Click!は目白崖線の斜面に建設されているため、地下の南面にも寮室があり、南側から見ると3階建てに見える。その右手には、近衛町の南端斜面にあたる44号Click!の住宅地に建設された家々がとらえられている。
モハ311形クハ1411形.jpg
下落合上空1933.jpg
近衛町19450517.jpg
近衛町1948.jpg
 中でも特徴的なのは、F.L.ライトClick!が設計した自由学園校舎Click!を2階建てにしたような、大きな西洋館の佐野邸Click!だ。佐野邸は、大久保作次郎Click!がモチーフに採用して、1955年(昭和30)に制作された『早春(目白駅)』Click!では、佐野邸を南斜面から丘上へ「移築」した構成で描かれている。画角のせまい、やや望遠ぎみに撮影された写真だが、佐野邸2階部の三角屋根の突出しているのがとらえられている。
 佐野邸のほかにも、大庭邸や武尾邸、岸邸、今井邸、玉置邸、長瀬邸(花王石鹸Click!長瀬邸Click!とは別宅)とみられる家々の屋根が確認できる。1933年(昭和8)に、学習院昭和寮を斜めフカンから低空撮影した写真と比べてみると、その後、新たに建設された家々を除き、ほとんど家並みの変わっていないのが見てとれる。また、画面の右端、電車の“顔”の右横に架線柱で隠れるように、大きな建物がひとつとらえられているが、この位置に建っていた建物は戦後に改めて建て直された、学習院の校舎ないしは施設のうちの1棟だろう。拡大すると、屋根や窓の形状から西洋風とみられる大きな建築が、戦後になって学習院のバッケ(崖地)Click!上に建設されている。
近衛町44号拡大1.jpg
近衛町44号拡大2.jpg
高田馬場駅1957.jpg
 さて、100~135mmぐらいの望遠レンズで撮影したとみられる、冒頭写真のカメラマンは、西武線が急カーブを描き山手線のガードをくぐって、山手線土手と西武線の高架にはさまれた狭隘なエリア、当時の住所でいうと早稲田通りも近い戸塚町2丁目32~38番地(現・高田馬場2丁目)から、ほぼ北北東を向いてシャッターを切っている。空襲で焼け野原になった同エリアは、戦後すぐのこの時期には商店建築や木造アパートなどが建ち並びはじめており、それらの建物の2階に設置された北向きの窓、ないしはベランダあたりから撮影したものではないだろうか。
 1950年(昭和25)ごろといえば、朝鮮戦争が勃発して日本は戦争特需にわき、ようやく敗戦時の悲惨な食糧不足による飢餓状態から脱しようとしていた時期だ。だが、全国的に感冒(インフルエンザだとみられる)が流行り判明しているだけで18万人が罹患し、三原山の噴火やジェーン台風により336人の死者がでるなど、ことさら自然災害が目立つ年でもあった。この年、西武線では西武鉄道が経営していたユネスコ村と多摩湖ホテルClick!とを結ぶ、単線の「西武おとぎ線」が開通している。
撮影ポイント1956.jpg
高田馬場神高橋1991.jpg
撮影ポイント現状.jpg
 1950年(昭和25)前後に鉄道ファンが撮影したらしい西武線と下落合の丘だが、大正初期に撮影された薗部染工場Click!の写真と比べると、丘全体が住宅で埋めつくされているのがわかる。古い鉄道写真を参照すると、車両そのもの以外に周辺の風景までが写っているケースの多いことに気づいた。鉄道ファンではないので、写真の隅にチラリと見えている当時の街並みのほうへ惹かれてしまうわたしだが、落合地域の界隈で周辺の風景まで含めてとらえられた鉄道写真を見つけたら、改めてこちらでご紹介したいと思う。

◆写真上:1950年(昭和25)ごろに撮影された、西武線の電車と下落合の丘。
◆写真中上は、西武鉄道が保存しているモハ311形とクハ1411形の車体カラーリング。中上は、1933年(昭和8)に撮影された近衛町の南端に位置する丘。中下は、第2次山手空襲直前の1945年(昭和20)5月17日にF13偵察機Click!から撮影された下落合界隈。は、戦後の1948年(昭和23)に撮影された焼け跡が拡がる近衛町。
◆写真中下は、冒頭の写真にとらえられた家並みの部分拡大と建物の特定。は、1957年(昭和32)の空中写真にみる撮影ポイントと画角。
◆写真下は、1956年(昭和31)の空中写真にみる撮影ポイントあたりで、商店やアパートと思われる建物が見える。は、1991年(平成3)に撮影された改修前の神田川に架かる斜めの神高橋Click!と西武新宿線。(新藤兼人『東京交差点』Click!より) 冒頭写真の撮影ポイントは、山手線土手と西武線高架にはさまれた画面の左枠外にある狭隘エリア。は、飲み屋街になっている狭隘エリアの現状で撮影ポイントにはもちろん立てない。

上戸塚の斜面が好きな横井礼以。

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横井礼似「高田馬場郊外風景」1921.jpg
 下落合の南隣り、戸塚町上戸塚 (現・高田馬場4丁目)にアトリエをかまえた横井礼以Click!の作品に、1921年(大正10)に制作された『高田馬場郊外風景』という作品がある。同年に開催された、第8回二科展に出品された作品だ。
 横井礼以アトリエは、戸塚町上戸塚781番地にあり、下落合の東部から歩いても早稲田通りを越えて南へ1.5kmほど、また山手線・高田馬場駅に出るには800mほど歩くだけなので、今日の感覚からいえば商店街も近く交通が至便なのだが、大正中期にはいまだ農村の面影を色濃く残す郊外風景そのままだった。横井アトリエは、点在する雑木林や草原、空き地が拡がる中にポツンと建っているような風情だったろう。
 横井礼以は、いまだ横井礼市の本名で1919年(大正8)の第6回二科展へ『つゆ晴れの風景』を出品して第6回二科賞を受賞し、1923年(大正12)には早くも二科会の会員となっている。『高田馬場郊外風景』(1921年)は、文展から離れ二科展で活躍しはじめたころの作品で、アトリエ周辺の連作「高田馬場風景」シリーズのうちの1作だ。
 横井礼以が作品につける「高田馬場」は、本来の幕府練兵場だった高田馬場(たかたのばば)Click!のことではなく、山手線の停車場である高田馬場(たかだのばば)駅Click!のことだ。したがって、横井アトリエは高田馬場駅の西側すなわち上戸塚にあったので、彼の「高田馬場風景」は正確には上戸塚風景ということになる。そして、横井礼以の画面に特徴的なのは、上戸塚のバッケ(崖地)Click!を好んで描いている点だろう。
 『高田馬場郊外風景』も、以前ご紹介した『風景』(1916年)や『高田馬場風景』(1920年)と同様に、斜面沿いに点在している茅葺き農家や住宅を描いている。陽光の射し方や家屋主棟の向きから、画家の視点の背後が南側ないしは南東側だろう。家が2棟描かれており、手前の住宅(瓦屋根のようだが農家だろうか)へと下るカーブをした小道の端には、スイセンだろうか白い花が一面に咲いている。また、奥に見える地付きの農家らしい茅葺き家の庭には、アカマツらしい樹木が2本生えている。
 陽光や周囲の風情からみると、街道筋(現・早稲田通り)あたりから谷底を旧・神田上水(1966年より神田川)が流れる、北側ないしは北西側の急斜面を見下ろしながら描いている公算が高い。横井礼以の風景作品は、目印になるような家屋や特徴的な構造物の描かれていることが少ないので、描画場所を特定するのはむずかしいが、この作品の場合には古い茅葺きの農家が大きなヒントになる。
横井礼以アトリエ1921.jpg
横井礼似アトリエ跡.jpg
横井礼以「風景」1916.jpg
 すなわち、このような地形の場所に明治期から建つ家屋で、斜面の向きが北ないしは北西に向いて下っている、換言すれば谷底の旧・神田上水に向かって傾斜している場所を重点的に探せばいいことになる。さっそく、明治期に発行された陸地測量部Click!による1/10,000地形図Click!を参照し、このような傾斜地に建つ農家らしい建物で、しかも1921年(大正10)発行の同じく1/10,000地形図にも消えずに(解体されずに)掲載されており、周囲の宅地化がそれほど進捗していないエリアを集中的に調べてみた。
 すると、上高田375番地と同377番地の北向き斜面に、明治期からある農家のそれらしい配置を見つけることができる。現在でいえば、早稲田通り沿いから移転した腰折れ地蔵Click!のある東側の北向き斜面あたりだ。いまは住宅地がわずかな段差でひな壇状に並び、ゆるやかな下り坂になっているが、画家がイーゼルを立てている位置から茅葺き農家までは、地形図の等高線によればおよそ3m前後の落差があったはずだ。
 画家がイーゼルを立てている位置は、早稲田通りから1本北側へ入った道路の端、当時の住所でいえば上戸塚宮田375番地あたりの道端であり、手前の家は同じく375番地で奥の茅葺き農家は377番地だが、残念ながら両家とも住民名は不明だ。この北向きの緩斜面は、画家がいる位置から150mほど北へつづき、その先で急にバッケ(崖地)状になって旧・神田上水へと落ちこんでいる。
 画面の奥に描かれた、樹林が並ぶ下には旧・神田上水が流れ、その先の少し青みを帯びたグリーンで遠景ぎみに描かれているのは、対岸に連なる下落合の丘、すなわち目白崖線ではないかと思われる。位置的にいえば、麓に下落合本村Click!の古い家々が連なる久七坂Click!の丘か、西坂Click!が通う徳川邸Click!の丘あたりだろう。
地形図1921.jpg
上戸塚ダラダラ斜面.JPG
 この作品を制作した1921年(大正10)ごろ、横井礼以は具象表現から抽象表現へと向かう過渡的な時期にあたり、『高田馬場郊外風景』の画面にもフォーヴィズムの影響が色濃くでている。「大正アヴァンギャルド」と呼ばれた横井礼以について、2011年(平成23)に出版された中山真一『愛知洋画壇物語』(風媒社)から、少し長いが引用してみよう。
  
 愛知県・知多半島の中ほどに河和という海沿いの町がある。一九二七年(昭二)春、東京から長旅をへて夫人や子供とこの地に降りたった横井礼以は、胸中いかばかりであっただろう。いずれは東京にもどるつもりで、アトリエは人に貸してきた。(中略)/横井は、一八八六年(明一九)愛知県(現)弥富市に生まれ、一九一一年(明四四)東京美術学校を卒業。その後、文展に二年つづけて入選するものの、三年目にはマチスの影響が画面にあらわれるようになり、落選に。ならばと翌一七年(大六)二科展に初入選を果たす。そらに二年後には二科賞を受賞。二三年(大一二)には三七歳で同会員となり、大正アヴァンギャルド作家のひとりとして中央画壇でおおいに活躍している。フォーヴィズムやキュビズムに傾倒した制作の中でも、とくに一九二五年(大一四)の二科出品作《庭》は、大正期を代表する洋画の一点として後に『キュービズム展』(東京国立近代美術館、一九七六年)や、『一九二〇年代・日本展』(東京都美術館、一九八八年)など何度も展覧されることになった。/だが、好いことばかり続かない。夫人に軽い結核が見つかる。自身も眼病を患っていたので、転地療養しようということになった。
  
 愛知への帰郷は、横井夫妻の一時療養のはずだったが、横井礼以が上戸塚781番地のアトリエへもどることは二度となかった。
横井礼以「高田馬場風景」1920.jpg
上戸塚バッケ斜面.JPG
横井礼似卒制1911.jpg 中山真一「愛知洋画壇物語」2011.jpg
 横井礼以(当時は横井礼市)の『高田馬場郊外風景』は、第8回二科展で発行された絵はがきで発見したものだが、戦前は文展・帝展も二科展も展示作品の絵はがきを積極的に制作している。だが、絵はがきに添えられたキャプションの画家名をまちがえている例が多く、目的の作品をなかなか発見できないケースもたびたび経験している。今回は、本名の「横井礼市」と画名の「横井礼以」とで探すのに手間どったが、近いうちに各展覧会の画家名“誤植”で、なかなかデータベースにひっかからない事例をご紹介したい。

◆写真上:1921年(大正10)に制作された横井礼以『高田馬場郊外風景』。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる上戸塚781番地の横井礼以アトリエ。は、横井アトリエ跡の現状。(左手の駐車場で前回訪問時は家があった) は、1916年(大正5)に上戸塚のアトリエ近辺を描いた『風景』。
◆写真中下は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる『高田馬場郊外風景』の想定描画ポイント。は、ダラダラ坂の緩傾斜がつづく周辺の現状。
◆写真下は、1920年(大正9)に制作された横井礼以『高田馬場風景』。は、上戸塚(現・高田馬場4丁目)の北側によく見られるバッケ(崖地)の坂道。下左は、1911年(明治44)に東京美術学校の卒制で描かれた横井礼以(横井礼市)『自画像』。下右は、2011年(平成23)に風媒社から出版された中山真一『愛知洋画壇物語』。

高田町の商店レポート1925年。(5)乾物屋

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自由学園明日館中央ホール.JPG
 高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の全商店を調査する、自由学園Click!高等科2年生の一戸幸子が訪ねたのは、目白通りに開店していた乾物屋だった。ところが、調査Click!の趣旨を説明すると応対に出た男性は、「主人は病気でズツト前から寝てゐますから」と、自分が番頭であることを名乗ったらしく、「私でわかることならお話ししませう」といってくれた。さまざまな商店レポートの中で、店主が病気だったのはこの乾物屋のみ1軒だけだ。
 この番頭さんは親切だったらしく、女学生Click!の質問にはできるだけていねいに答えてくれている。たとえば、砂糖は相場の値動きが激しいので、1斤(600g)ずつ買うよりも値が下がったときに1貫(3.75kg)ずつ買ったほうが、総体的に得だなどと生活の知恵を教えてくれている。かんぴょうや湯葉は、東京で製造されたものを置いており、鶏卵は西隣りの長崎村で生産されたものを配達してもらっていた。
 卵は、ニワトリの種類によって大小のサイズに分類され、割れないよう米袋に「もみ糠」を詰めた中へ入れて長崎村から配送されてくる。「割れませんか?」という質問には、「ちつとも破れません」と答えている。女学生は「もみ糠」と記録しているが、ひょっとすると「もみ殻」の誤記ではないだろうか。わたしが物心つくころ、プラスチックや再生紙の卵容器などはまだない時代だったので、卵は茶箱にいっぱい詰めたクッション代わりのもみ殻に入れて、毎朝食品店に配送され店先で売っていたように記憶している。これは、リンゴやナシなどの果物でも同様だった。
 乾物屋にいた番頭の詳しい話を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 『大豆は北海道大豆が一番品もよく売れもようございます。その次が満州大豆で、この豆は染物屋と豆腐の原料、馬糧などにつかふ豆ですね。私共の手に入るまでゞすか。仲々どうして、深川市場-問屋-仲買人-それから小売商人の手に渡るんです。その間に五割位は高くなってゐますね。ですから私達は豆ばかしでなく大概のものは二割位しかもうかりませんですなあ。/昆布は北海道産が一番です。わかめは鳴戸、越後(、)にぼしは房州の九十九里浜、ふのりは九州、するめは静岡に北海道(、)鰹節は土佐、伊豆節等ですね。それからひじきなどね、エー? さあ何処からくるのか知りませんけれど、まあかうした海産物問屋があつてそこに買ひに行くんです。相場が年がら年中動いてますし、時季がそれぞれの品物にありますからね。そんなことをよく考へて買うんです。うどん粉にもいろいろ種類があります。天ぷらの衣につかう上等のもの、うどんをこしらへるのは並粉のやつですね。ついでに標を教へてあげませう。日清会社で出来るのが鶴標、東亜会社は弁天標、日本製粉のは竹標、まあざつとこんな工合(ママ)ですなあ。』(カッコ内引用者註)
  
 文中、染物業で大豆を使うのは、大豆のタンパク質を応用して染め色を濃くする技法だ。旧・神田上水(1966年より神田川)沿いに展開していた染物工場では当時、大豆の需要が高かったのだろう。言葉の口調から、おそらく東京の(城)下町Click!から移転してきた乾物屋のように思われる。当時の乾物に対する、東京市民の好みがわかるレポートだ。
海苔(乾物).jpg
 うどん粉(小麦粉)についての記述があるが、当時の高田町には東京パンClick!の大規模な工場があったため、その周囲には大小の製粉所が集中していた。戦後、東京パン工場がなくなったあとも、これら製粉所は操業をつづけている。わが家の知り合いに、昔から製粉所を経営する目白にお住まいの方がいるが、場所をうかがったらやはり旧・東京パン工場があった敷地のすぐ近くだった。
 保存設備のない当時、乾物の保管はたいへんだったようだ。浅草海苔(江戸期に浅草和紙の製法に倣い、葛西で採れた天然海苔を紙状に漉いたものが浅草海苔のはじまり。海苔の産地が九州だろうが韓国だろうが、この製法で作られた和紙状の海苔はすべて浅草海苔だ)は、通常の海苔缶に入れたものを、さらに別の大きな缶に入れて保管している。特に梅雨から夏にかけての保管は、乾物屋泣かせだったらしい。
 先に小麦粉のことを「うどん粉」と表現していたが、番頭は「メリケン粉」(小麦粉)の保管についても苦労話を女学生に聞かせている。彼が話す「うどん粉」と「メリケン粉」のちがいは、強力粉と薄力粉のちがいを意識したものだろうか? メリケン粉は1ヶ月以上も保管すると酸味が出て売り物にならなくなるが、目白界隈ではたいがいすぐに売れるので、なんとか大丈夫だと答えている。
 また、かんぴょうや干し椎茸はカビが生えるので、いつも気を配ってないとクレームがきて売れなくなるし、コショウの粒には虫が湧くとこぼしている。カビや虫を防ぐには、しじゅう商品の風通しをよくしなければならなかったようだ。大正期には、一般の商店に電気冷蔵庫もエアコンも、ビニール袋による真空パックもないので、品質を保つにはすべて小まめな手作業が必要だった。鰹節も虫が湧くため、桶に入れて防虫剤を加え蓋で密閉しておいたらしい。防虫剤がなんだったのかが気になるけれど、これらの手作業は梅雨がはじまる前から10月ごろまで、5ヶ月間ほどつづけられる作業だった。
乾物屋(江戸東京たてもの園).jpg
 つづけて、乾物屋を仕切る番頭さんの証言を聞いてみよう。
  
 『雇人ですか。三人居りますよ。朝は六時頃起きます。夜は十時ですね。早く起きようと思ふんですけれど昼間随分忙しうござんすからね、どうしても……。/店に小買ひにお出になるお客の外、帳面のお屋敷が二十二三軒ばかしあります。ヘエヘエよく払つて下さるお家もあるんですが、中々の所もありましてね。随分困るんですよ。それに近頃は不景気になりましたから何処の問屋でも現金払になつたんでしてね。実に困りますよ。エーそうですよ。お客が皆現金にして下さると助かりますがね。中々お客の方でね。貸しあきなひはしたくないもんですね。/まあ大体こんなものですね。エエおわかりにならない所が有りましたらいつでもおいでなさい。』
  
 ここでも、お屋敷街をめぐる「貸しあきなひ」Click!の苦労話が語られている。カードや銀行口座から引き落としなどの仕組みがない当時、月々の売掛金はお屋敷を1軒1軒まわって回収しなければならなかった。素直に気持ちよく払ってくれる家はいいものの、消費した商品へあとから難くせをつけたり、けなしたりしてなかなか払わないケチでタチの悪いお屋敷も少なくなかったようだ。
 現在、目白通り沿いに展開する個人商店では、B to BはともかくB to Cの一般顧客を相手に売掛けをしている商店はほとんどないのではないか。(一部の酒屋や米屋の得意先、あるいは飲み屋の常連にはまだあるのかな?) ただし、宅配事業者の場合は、売掛け買掛けの仕組みがそのまま残っている。たとえば、日本生協や東都生協、生活クラブ生協などは月払いだし(わが家でも利用しているが)、自然食ルート(産直ルート)や宅配弁当なども同様だろう。でも、支払いは銀行引き落としやカードなどで決済されるので、まず回収しそびれることはなさそうだ。
 取材した女学生は、「皆買物を現金でする様にしたら、買ふ方でも売る方でもどんなに都合がよいかわからない、一日も早くそれが実行される様にしたい」と感想を記しているので、おそらくレポートに書かれた内容以上に乾物屋の番頭さんから、ひどいお屋敷のケーススタディ(グチ)をたくさん聞かされているのではないだろうか。
羽仁夫妻自宅192110.jpg
自由学園ホール192205.jpg
 そして、乾物の品質保持や保存作業が、「案外手数のかゝることを知つて、いつでも高い安いばかし心にかけてかふ私達に又ちがつたことを知る機会が与へられたことを感謝する」と結んでいる。さて、次回は煮物や缶詰も扱う「漬物屋」を訪問してみよう。
                                <つづく>

◆写真上:創立当時は工事中で、わずか2教室か使用できなかった自由学園の本校舎。収容できない女学生たちは、羽仁夫妻の自宅を教室代わりに使っていた。
◆写真中上:乾物店の代表商品だった、江戸東京の料理には欠かせない「浅草海苔」。
◆写真中下:江戸東京たてもの園に“開店”している、乾物屋の店先。
◆写真下は、羽仁吉一・羽仁もと子夫妻の自邸に集まった本科と高等科の女学生たち。夫妻の自宅は、現在の婦人之友社Click!が建っている敷地だ。は、1922年(大正11)5月撮影のホールからの眺め。校庭の先には、当初からサクラが植えられていた。

高田町の商店レポート1925年。(6)漬物屋

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自由学園講堂1927.JPG
 卒業を間近に控えた自由学園Click!高等科2年の渡邊巳代が訪れたのは、高田町Click!(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)のどこかで営業していた漬物屋だった。漬物屋が扱う商品は、若い主人によれば漬物に煮物、そして缶詰とだいたい3つの分野に分けられると彼女に教えている。
 主人は、「あんまり立ち入つたことは云はれませんがね」と前置きしてから、それでも女学生の細かくて面倒な質問に快く答えている。1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から、さっそく引用してみよう。
  
 『(前略)缶詰は、広島方面から、牛肉の大和煮(、)千葉から鰯、らつきよう、台湾からパインアツプル、東京で福神漬、海苔、日本橋漬等ですね。/漬物は、沢庵が練馬、板橋、味噌漬が新潟(、)奈良漬は東京近在でやります。奈良から来る奈良漬なんては殆どありません、かへつて、東京で漬けたのを外ら出す位です、(ママ)梅干梅漬は紀州から、そして梅漬となりますと、木から取つたのを、すぐ、時をうつさずに、梅酢の中に入れるんです。なかなかかう堅く、割ると音の出るやうにするには、大変です』と主人は真紅な美味しさうな梅漬を一つ摘まんで、パチンと割つて見せた。/『漬物の問屋は、王子の福田屋です。さて煮物は、北海道から豆、鮭、干魚、貝紐、秋田方面から蛤、はぜ、時雨等です。この方の問屋は、花川戸の大宮といふ海産物問屋に来て、豆類の外は、大てい、つくだにになつて、各小売店に分けるのです。』(カッコ内引用者註)
  
 「日本橋漬」とは、もちろん大根を米麹に漬ける日本橋が発祥の、べったら祭りでも有名な甘じょっぱい「べったら漬け」Click!のことだ。おそらく親父のソウルフードのひとつだったのだろう、子どものころから品川の東海寺で生まれた「沢庵漬け」よりも、わが家では「べったら漬け」のほうが、食卓にのぼる頻度が圧倒的に多かった。
 文中で沢庵漬けの生産地として、練馬や板橋の両地域が挙げられているが、明治から大正の初期にかけ落合大根Click!による沢庵漬けClick!の製造は、米国のハワイなどへ輸出されるほど盛んだった。だが、大正の中期以降は耕地整理や宅地化が急速に進み、大根の生産量が大幅に減って沢庵漬け製造の首位の座を、練馬や板橋に明けわたしているのだろう。また、梅は現在でも東京市場では紀州(和歌山県)産のものが主流だが、大正当時も江戸時代と変わらずに、梅とみかんは紀州産が好まれていたようだ。
缶詰工場(大正期).jpg
 この店では、煮物の多くが自家でつくる商品だったので、半製半販の店舗形態だった。特に豆類の商品は自家製で、冬は2日ぶんぐらいをまとめて煮ておき、夏はすぐに腐るので1日に何度かに分けて煮るようにしている。また、冬は通常の煮る方法でつくるが、夏は腐敗を防ぐために水をいっさい使わず、砂糖と少しの塩など調味料だけで煮ていた。特に手のかかるのは「ふき豆」(富貴豆)で、乾燥したソラマメを茹でるが、重曹の入れ加減がむずかしかったようだ。
 「まづ重曹を入れてうでたのを、竹笊にうつして、樽に水を入れて、その中に皮をはがし、又、一つ一つていねいに皮をむいて、ざるに入れたまゝ煮ます」と、作り方までていねいに説明してくれている。主人の口調に、「うでた(茹でた)」「うでる(茹でる)」と東京地方の方言Click!がつかわれているのが懐かしい。「ゆでたまご(茹で卵)」という言葉が多くつかわれるようになったのは戦後のことで、ラジオやTVなどのマスメディアや文部省の学校教育Click!はともかく、東京ではもちろん「うでたまご」が一般的だった。
 さて、ここで少し気になるのは、漬物屋で扱っている缶詰類だ。確かに、当時の缶詰はたいがい煮たものや茹(う)でたものが詰められていたので、漬物屋で扱うことが多かったのだろう。その中に、パッケージがどこか福神漬けの缶詰に似ており、おそらく豆を甘辛く煮たのではないかとみられる、「はなよめ(花嫁)」Click!という缶詰が混ざっていやしなかっただろうか? 下落合のアトリエで、凝り性の佐伯祐三Click!が近くの雑貨店から取り寄せて食べつづけていた製品だが、自由学園のインタビュー調査と時代的にもほぼ重なるので、この乾物屋にも「はなよめ」が置かれていた可能性が高い。
 つづけて、乾物屋の親切な主人の証言を聞いてみよう。
台湾パイナップル工場.jpg
  
 『えゝ、朝ですか、たいして朝早く起きることもないんです。五時半頃から起きます。家は、家内と小僧一人です。でもかなり暇ですよ。まあ、漬物屋などは、それでもローズの出来ない方です。例へば、竹輪の煮付けだつて、あれは店に置いて、古くなつたのを煮るんです。だからどうしても堅くなりますよ』と主人は笑つた。『売れ行きですか、左様、夏分の方がよく売れますね。どうしても暑いからお茶漬となるんですね。そして量の多いものが売れますね。さう、一日平均百二十人位のお客があるでせうか。収入ですか、それはちと困つた問ですね。平均十五六円からはありますね。利益? え。これで二割五分位もうけなければやつて行けませんよ。物によつては、損なのもありますからね。小売商に来るまでには、もう仲買が五分位はもうけてますからね。』
  
 朝は早く起きないなどといいながら、現代から見れば5時半の起床はやはり早い。煮物の下ごしらえや、問屋へ出かける仕入れの作業があったのだろう。「ローズ(廃棄)」という言葉づかいや、主人の東京弁などを含めて考えると、東京市街地からの移転、あるいは老舗からの暖簾分けの店舗だったのかもしれない。
 夏になると食欲が落ちるせいか、漬物や煮物を添えてざっかけない茶漬けClick!をサラサラとかっこむ家庭が多いのは、(城)下町Click!も明治後の新乃手も変わらない。漬物屋には、それほど値のはる商品はなかっただろうし、自家で煮物を製造しているぶん光熱費や人件費を考慮すれば、25%の利益でもギリギリだったのではないだろうか。
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 女学生が主人にインタビューしている間にも、店にはお客の出入りが何人かあったようだ。最後に漬物屋の商売について、「もつと暇だと紙にでも書いて上げるんですが…」と、親切な主人は女学生を店から送りだしている。次回は高田町と下落合の境界、近衛町Click!の入り口に開店していた、ほんとうに早起きの「豆腐屋」を訪問してみよう。
                                <つづく>

◆写真上:1927年(昭和2)に竣工した、遠藤新Click!設計による自由学園講堂。
◆写真中上:大正期に撮影されたとみられる、樺太におけるサケ缶詰の製造工場。
◆写真中下:台湾に残る旧・パイナップル工場跡で、文化施設として活用されている。
◆写真下は、1922年(大正11)に撮影された自由学園Click!校舎の半地下にあるキッチン。女性の「自主独立」の理念から、昼食はすべて自分たちで準備した。写真は調理をする本科2年生の生徒たちで、ここでつくられた料理は専用エレベーターで上階の食堂に運ばれた。は、同時期に撮影されたキッチンの大型天火(ガスオーブン)。大正の当時、まだガスオーブンや電気オーブンのある家庭はめずらしく、本科の生徒や高等科の女学生たちは、このオーブンでケーキを焼いてデザートを用意した。食材の仕入れから食料予算の管理、メニューの決定、調理、後片づけ、さらに必要な調理機器や料理用具、食器の手配まで、食事に関するマネジメントはすべて彼女たち自身が当番制で行っていた。

徳川篤守と大隈重信の娘茶摘み。

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 ときどき、下戸塚(現・西早稲田)の三島山Click!(現・甘泉園公園)の敷地に建設されていた相馬邸と、下落合の御留山Click!(現・おとめ山公園)に建っていた相馬邸Click!とを混同されている方がおられる。前者は、おそらく室町末期から江戸初期にかけて分岐した相馬家の流れで、江戸期には彦根藩井伊家の藩士だった家系だ。後者は鎌倉期から幕末まで、世界でもっとも長くつづいた封建領主としてギネスブックにも掲載されている、千葉から奥州へと移封された相馬中村藩の藩主・将門相馬家(本家)の家系だ。
 戸塚町下戸塚376番地の三島山に住んだのは相馬永胤であり、下落合378番地の御留山に住んだのが相馬孟胤Click!と、同じ「〇〇山」と名のつく敷地に住み、「下〇〇」の住所も似ていれば番地も2番ちがいに加え、双方の名前に「胤」の字がかぶっていることから混乱が起きるのだろう。相馬永胤は実業家であり政治家、教育者(専修大学の創立者)だが、相馬孟胤は華族(子爵)であり植物学者で、お互いどこかで知己を得ていたのかもしれないけれど、ほとんど接点はない。
 相馬永胤は1902年(明治35)、もとは清水徳川家の下屋敷だった3万5千坪の三島山(甘泉園とその外周域)を45,000円で買収し、自邸の建設に取りかかっている。清水徳川家の徳川篤守とは、米国留学でいっしょだったせいで学生時代から親しく交流していたのだろう。下落合490番地に住み、日本初の航空機による飛行Click!を成功させ、のちに陸軍航空士官学校Click!の校長をつとめた徳川好敏Click!は、この三島山にあった清水徳川家の下屋敷で生まれている。
 三島山を買収し、本邸と庭園の建設をはじめた相馬永胤は1902年(明治35)9月、隣家(といっても直線距離で550mほど離れている)だった大隈重信邸Click!へあいさつに訪れている。当時、相馬永胤は横浜正金銀行(旧・東京銀行→現・三菱UFJ銀行)の頭取をしており、同銀行は大隈重信Click!福沢諭吉Click!岩崎弥太郎Click!、井上馨の肝入りで設立された関係からだろう。自邸と庭が完成し、相馬永胤が四谷から三島山へ転居してくるのは、5年後の1907年(明治40)になってからのことだ。
 1880年(明治13)に作成された、フランス式の1/20,000地形図Click!を参照すると、当時の農家では茶の栽培がブームだったものか、神田上水(1966年より神田川)の両岸斜面にはあちこちに茶畑Click!を発見することができる。清水徳川家では、相馬永胤に下屋敷の敷地を売却する以前、周辺に住む若い娘たちを集めては専用のコスチュームを貸与し、毎年茶摘みのイベントを開催していた。
 若い女の子が大好きで、日本女子大をはじめ東京のあちこちにある女学校の卒業式や入学式などの講演に呼ばれると、爆弾テロルで吹き飛ばされた片足が不自由なのに、ホイホイと気やすく喜んで出かけていたとみられる、隣家の大隈重信Click!(東京各地の女学校記念写真などの資料に、大隈センセの姿を見かけることが多すぎるのだ)も、この楽しいイベントを見逃すはずはなく、さっそく自邸に茶畑をこしらえては若い娘たちを集め、清水徳川家と競うように毎年茶摘みイベントを開催していた。
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 下落合の薬王院西側に、当時の清水徳川家と大隈家の双方から茶摘みに呼ばれて参加していた、95歳(1975年当時)になる元・娘の吉田すえ(ゑ?/きっと見目麗しい女子だったのだろう)という方の証言が残っている。2017年(平成29)に書籍工房早山から出版された、安井弘『早稲田わが町』から彼女の証言を聞いてみよう。
  
 清水御殿のころ、御殿前方(現・公務員住宅)は茶畑となっていて茶摘み時になると十代の村の娘さんが十四、五人ほどかり出され、清水家で用意したカスリの着物に赤いたすきがけで、揃って茶摘みする風景は清水家の年中行事の一つで、その風物詩を、見物に呼ばれた客人たちは馬車や人力車で駆けつけたといいます。この話は、昭和五十年に下落合の薬王院そばに住んでおられた吉田すえ(当時九十五歳)さんから聞いたもので、屋敷の周囲はけやきなどの大木で囲われ、門の両脇は土塀で金具のついた大きな黒い門が四ヵ所あり、そこにそれぞれ四人の番人が住んでいたといいます。/大隈家でも茶摘みがあって、清水家同様に茶摘みが行われていました、茶摘みをする村の若い娘さんは、人数も限られていましたから、両家に同じ娘さんが呼ばれることになり、娘たちは茶摘みのお駄賃の額を比べてささやき合ったと、九十五歳になったすえさんが娘時代を語ってくれました。
  
 茶摘みアルバイトのギャラは、もちろん大隈家のほうが多かったのではないだろうか。清水徳川家の台所は火の車で、1899年(明治36)に「華族の冷遇に耐へられず」として、爵位を返上するまでに困窮している。
 著者の安井弘は、現在も西早稲田交差点で寿司屋を経営する「八幡寿司」の4代目主人だ。ちなみに、蕎麦の「三朝庵」Click!が閉店した現在、明治初期から早稲田で営業している食いもん屋は、うなぎの「すず金」に「八幡寿司」、そして親父が贔屓にしていた洋食屋「高田牧舎」Click!の3店だけになってしまった。
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 なお、1976年(昭和51)に下戸塚研究会から出版された『我が町の詩 下戸塚』(非売品)には、下落合の吉田すえ証言のつづきが掲載されていて、清水家当主・徳川篤守が早稲田小学校の近くに妾(めかけ)を囲っていたのが発覚し、激怒した奥方は娘を連れて家出をした経緯が書かれている。家を出ていくとき、奥方の荷物が大きな大八車Click!に載せて15台もあったことまで、彼女は鮮明に記憶していた。
 余談だけれど、女子にかなり人気が高く、構内を歩くとまるで女子大キャンパスのようになっている、今日の早稲田大学の光景を見たら、大隈重信はどのような感想を抱くだろうか。西鶴研究で有名だった、文学部の教授・暉峻康隆(同教授とはいつか一度お話しする機会があった)とは正反対に、わたしがあちこちの資料で散見する女学校の各種記念写真にとらえられた表情と同様、女学生大好きヲジサンは「ほほほ、世界的なウヰルス危機ん中で辣腕ばふるっとうのは女宰相ばかりじゃ、男どもしっかりせんか! ……ところでウヰルスとはなんや? ヴヰナスならよう知っとっとが」と顔をほころばせながら、単純に喜びそうな気がするのだが……。w
 相馬永胤邸では、庭の南側一帯にサクラを植え、花見どきになると園遊会が開かれて、近くの住民や商人たちも招待されていたらしい。庭園(甘泉園)の面倒をみていたのは、下戸塚の植木屋・岩田家で、相馬家の半纏を着ながら年間を通じて出入りしていた。出入り商人は、同家の貴重な半纏をもらえたようで、畳屋の証言も残っている。『我が町の詩 下戸塚』から、畳職人・吉田義造の証言を引用してみよう。
  
 私が若いころ、畳職として相馬家に出入りができるようになるまでは、何回も腕試しをさせられ、相馬家の伴てんをもらうまでは随分苦労しました。平家の大きな家を入ると、三ツ指突いてお客様を迎える玄関の六畳間には、金屏風が置かれ、幾室もある広い座敷の廻りを、九尺の廊下(畳敷き)がめぐり、当時私達畳職人三人掛りで、相馬家の紋べり付表替えの仕事は、一ケ月では仕上がりませんでした。また、立派な床の間や広いお勝手にも驚きました。
  
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 当時の早稲田界隈は、田圃や畑ばかりが拡がる東京近郊の典型的な農村地帯で、特に隣りの神楽坂地域と並び、畑ではミョウガの生産が盛んだった。神田多町Click!の青物市場(やっちゃば)では、早稲田ミョウガは肉厚で味もよく高い値で取り引きされるため、「鎌倉の波に早稲田の付け合わせ」という川柳が残っている。「鎌倉の波」Click!とは、長谷・坂ノ下のフロート波乗りClick!のことではなく、もちろんカツオの刺身のことだ。
  
  
 最後に、少し長めの余談だけれど、いまから9年ほど前に東日本大震災の非常事態にからめて、次のような一文で結んだ記事Click!を書いた。ご記憶の方もおありだろうか。
  
 大震災と原発のカタストロフの中、官邸危機管理センターと各省庁間との緊急情報ルートが電話とFAXだけで、電源の冗長化もなく電気が消えたらほどなく業務も終わりでした……というニュースは、今回の予算要求の内実とともに世界じゅうに伝わっているだろう。各国の政府系システム管理者たちの間で、「21世紀のネットジョーク」にならなければいいのだが……。
  
 あれから9年たつわけだが、当時の民主党政権が計上した緊急時における各官公庁間の膨大なコミュニケーション予算や、医療をめぐるデータ基盤および通信インフラの巨額予算を、政府自民党・公明党はどのように消費・消化したのだ? 昨日のニューヨークタイムズで、新型コロナ禍の中での、数少ない笑い話のネタにされているではないか。
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 【ニューヨーク発共同】「新型コロナウイルスのデータをファクスで集めていた日本が、ついにデジタルへ」―。米紙ニューヨーク・タイムズ電子版は6日までに、日本政府が医療機関に新型コロナ発生届を手書きしてファクスするよう求めていた仕組みから脱却し、今月中旬からオンラインで行われるようになると伝えた。/ 同紙は、先進技術が使われる日本では「広範な役所仕事で古い技術を強要する政府」に多くの人が不満を抱き、代表例が「はんこの使用」と紹介。「医師が前時代的と不満を抱いたプロセスを合理化」する動きと指摘した。
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 同記事の配信後、さっそく日本政府は世界各地で物笑いのタネにされ恥をさらしている。繰り返しになるが、ICTが理解できない人間に(その重要性を認識できない人間に)、意思決定権を持たせる前世紀的な誤りをいますぐ、ただちに止めてもらいたい。そのこと自体が危機そのものであり、リスク拡大の要因なのだということを肝に銘じてほしい。

◆写真上:現在の甘泉園公園で、相馬邸は三島山の上(画面右上)に建っていた。
◆写真中上は、1854年(嘉永7)制作の尾張屋清七版の切絵図「牛込市谷大久保絵図」。は、1880年(明治13)に作成された1/20,000地形図にみる下戸塚の茶畑。は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる相馬邸と大隈邸。
◆写真中下は、清水徳川邸の跡に建設された相馬永胤邸のめずらしい写真。中央の白い着物姿の人物が相馬永胤で、右隣りは第2次大隈内閣の蔵相・若槻礼次郎。は、米国留学のころの相馬永胤()と早稲田の自邸における大隈重信()。は、3葉とも清水徳川家下屋敷=相馬永胤邸跡に設置された甘泉園公園の現状。
◆写真下は、清水徳川家の茶畑があったあたりの現状。は、1867年(明治元)創業の早大西門近くにある「八幡寿司」。は、「すず金」の焼きが強いうな重。夏目漱石Click!が常連の「う」Click!だが、学生街らしく味もそこそこで値段も他店の半額ぐらいで安い。

佐伯家で飼われたニワトリの品種はなに?

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 下落合661番地の佐伯祐三Click!が、庭で放し飼いにしていた採卵が目的のニワトリは、はたしてどのような品種だったのだろうか。のちに、佐伯が渡欧する際にニワトリを押しつけられた曾宮一念Click!によれば、全身が黒色の品種を7羽ほど飼っていたようなのだが、おそらくこれらのニワトリは佐伯アトリエの斜向かいにあった養鶏場Click!(のち中島邸Click!→早崎邸)から入手したものだろう。
 佐伯祐三がニワトリを飼いはじめたのは、下落合にアトリエが竣工Click!した直後の、おそらく1921年(大正10)夏以降から、第1次渡仏へ旅立つ1923年(大正12)の秋口までの2年間だと思われる。アトリエが竣工して間もなく、“化け物屋敷”Click!に住んでいた鈴木誠Click!のもとへスコップを借りにきた佐伯が、画家にはなれそうもないので富士の裾野に土地でも買い、「鶏でも飼って暮そうかと考えている、どうだろう」(「絵」No.57/1968年11月)と相談に訪れている。このとき、すでに庭でニワトリを飼いはじめていたからこそ、口をついて出た言葉ではなかっただろうか。
 そして、温泉での静養から帰った関東大震災Click!の直後、1923年(大正12)秋に佐伯はニワトリたちを連れて、諏訪谷の曾宮一念アトリエClick!を訪れている。そのときの様子を、1992年(平成4)に発行された『新宿歴史博物館紀要』創刊号に収録の、奥原哲志「曽宮一念インタビュー」から引用してみよう。
  
 (前略)そうこうしているうちに、大正12年の暮れに(大正12年11月26日)、佐伯は船に乗ってパリに行っちゃったんです。これはねえ、おそらく僕は転地療養してて、落合にいない間だったんじゃないかと思います。その間にパリに行っちゃったんですよ。それで行く前に、彼は玉子でもとる気だったんでしょう、黒いニワトリをね、私の所に持ってきて、お前にやると、貰ってくれと。放しといちゃ困るだろうと言ったら、小屋作ってやるって、板っきれを方々から集めてきて、小さな小屋を庭の隅っこに作ってくれた。それからアケビの木ですね、実がなって食べられる、それを2本持ってきましてね、僕の部屋の入口のとこに、2本植えていきましたよ。それから下が三角になってる、室内用では一番安物の、佐伯が使ってた画架Click!を、僕が遊びに行ったら、これ君にやるって言って、どうしても聞かないんですよ。そして足の一番先に、普通の筆記用のインキでもってカタカナで「ソミヤ」と書いて、これやるから一緒にもってけって言うんで、佐伯と二人で私のアトリエまで、担いで来ましたよ。その画架はいまだにあります。
  
 曾宮一念が、なんとなくオタオタととまどっているうちに、7羽のニワトリを押しつけて鶏舎まで建てていった佐伯だが、このとき持ちこまれた黒いニワトリの品種はなんだったのだろう? 食用ではなく、採卵が目的だと思われる黒い品種なので、大正中期の養鶏資料を調べれば品種が特定できるのではないかと考えた。
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 海外で品種改良された、採卵・食肉を問わず優秀なニワトリの輸入に熱心だったのは、岩崎弥太郎Click!の三菱だ。明治の中期ごろから、おもに世界各地が原産のニワトリで、特に米国で品種改良されたニワトリの輸入を積極的に行っており、佐伯祐三が庭で飼いはじめたころには、日本で20種類ほどの養鶏用ニワトリが飼育されていた。落合地域や長崎地域には、採卵を目的とした養鶏農家が多かったらしく、付近の乾物屋Click!では同地域の鶏卵が店頭に並んでいる。
 ニワトリの種類によって、産む卵のサイズは大小さまざまであり、大きな卵を頻繁に産むニワトリの品種は、当然ながらかなり高価だった。大正中期に、日本で入手できた採卵用のニワトリで、全身が黒色の羽毛をもつ品種は6種類だが、現代の採卵用に買われているニワトリの品種とはかなり異なっている。それだけ、ニワトリの品種改良は急速に進んでいるのだろう。
 佐伯の時代に入手できた、6種類の黒羽種のあるニワトリとは、もっとも高価なアンダルシアン種をはじめ、レグホーン(レグホン)種、黒色ミノルカ(メノルカ)種、黒色オーピントン種、黒色ジャバ(ジャワ)種、そして黒色ハンバーグ(ハンブルグ)種だ。この中で、生育してから半年ぐらいで産卵をはじめ、年間に200個以上もの卵を産むアンダルシアン種とレグホーン種は、当時の養鶏場でもっとも人気が高かった品種だ。また、黒色ミノルカ種は大きな卵を産む品種で、年間180個前後の収穫があった。
 黒色オーピントン種は、どちらかといえば採卵用としてよりも観賞用(ペット)として飼われるケースが多かったらしく、艶やかな光沢のある黒い羽毛が特色で、「愛鶏家」の人気が高かった。黒色ジャバ種は、ジャワ島が原産だが米国で品種改良されたニワトリで、卵のサイズはそれほど大きくないが年間に200個ほど産出する。鶏卵は白色ではなく褐色をしていたので、白い卵との差別化という意味から付加価値のある商品だったらしい。
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 黒色ハンバーグ種は、採卵用のニワトリとしてはもっとも多産で、年間に240~250個の卵を産む品種だった。卵のサイズも大きく、重さも16~17匁(60~64g)と「大卵種」に分類されていた。同種は、ペットとしても人気が高かったらしく、独特な緑色がかった黒色の羽毛で美しかったらしい。ただし、曾宮一念の証言では、羽毛の色は「黒」としているので、緑がかった黒を画家である彼が単純に「黒」色とするかで疑問が残る。
 明治末から大正期にかけ、上記に挙げた羽毛が黒い品種のニワトリ価格は、以下のようなものだった。ちなみに値段は1羽ではなく、雄雌つがいの価格だ。
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 さて、もうひとつの“証拠”として、佐伯がスケッチしたニワトリの素描が残っている。佐伯アトリエの庭をウロウロしていた、ニワトリのおそらく雌鶏(めんどり)を描いたものだ。ご承知かもしれないが、ニワトリは品種によってそれぞれ体形がかなり異なる。佐伯が描いたニワトリの姿は、当時もっともポピュラーだった業務用のアンダルシヤン種かレグホーン種の雌鶏によく似ている。ただし、この2品種は値段に大きな差があった。大正初期に、アンダルシヤン種は雄雌のつがい(2羽)で45円もしたのに対し、レグホーン種のつがいはその6分の1以下の7円だった。
 東京美術学校を卒業したばかりで、下落合にアトリエを新築して間もない佐伯夫妻に、雄雌1つがいが45円のアンダルシヤン種はなかなか飼えなかっただろう。米価を基準に換算(現在の1/1,400)すると、アンダルシヤン種は1つがいで6万円以上もしたことになる。だが、黒色のレグホーン種なら7円なので、1つがいが1万円弱で購入でき、駆け出しの画家にでもなんとか手がとどく値段だったろう。しかも、第1次渡仏をする際には、曾宮一念―へ惜しげもなくプレゼントしていることを考慮すれば、アトリエで飼っていたのは安いレグホーン種ではないかと想定しても、あながち不自然ではないように思える。
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 佐伯夫妻は、採れた卵を健康のためにそのまま生で、あるいは料理して食べていたのだろう。もちろん、すき焼きClick!用の卵としても活用していたにちがいない。だが、曾宮一念に鶏舎までつくってプレゼントした、レグホーン種とみられる7羽の黒いニワトリは、佐伯の渡仏中に曾宮邸の庭へ侵入したドロボーによって、すべて持ち去られている。

◆写真上:現代でも採卵用のニワトリとして飼われている、イタリア原産の白色レグホーン(レグホン)種。黒や褐色など有色レグホーン種は、あまり見られなくなった。
◆写真中上は、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!にみる佐伯アトリエと養鶏場。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる養鶏場跡。跡地の住宅が、大正末の中島邸から早崎邸に変わっている。は、南側から佐伯アトリエへと抜けられた路地。画面右手の塀が、養鶏場(のち中島邸→早崎邸)跡の現状。
◆写真中下は、佐伯祐三のニワトリ素描。は、大正期には高価だった藍灰色アンダルシヤン種。は、明治末の年賀状にみる褐色レグホーン種。
◆写真下は、スペインが原産の黒色ミノルカ(メノルカ)種。は、イギリスが原産地の黒色オーピントン種(雌鶏は左右)。は、現代ではポピュラーな米国が原産のロードアイランドレッド種。もちろん、佐伯の時代には数も少なく普及していない。
おまけ
「狙われるもんより、狙うほうが強いんじゃ。守宮組ん組長の命(たま)、取っちゃろかい!」と、この季節になると出没するヤモリを追いつめるオトメヤマネコ(♀)。ヤモリ(守宮)は小虫を食べる益獣なので、襲撃事件が発生するたびにオトメヤマネコを検挙・拘束しているが、流血の抗争はやみそうにない。もうすぐ3歳だが、すでに仔猫の面影はなくオオヤマネコ化し、裏庭を横切るタヌキにすごい声で吠え立ててケンカを売っている。
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高田町の商店レポート1925年。(7)豆腐屋

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 いつだったか、下落合の目白文化村Click!を歩いていたら、豆腐の行商に出会ったことがある。あのプーッという、豆腐屋独特の懐かしいラッパを吹いていたが、乗っていたのはスクーターだった。近くの豆腐屋から、午後になると豆腐を入れた箱をうしろの荷台に載せ、近くの住宅街をまわっているのだろう。
 この街を注意深く見まわしてみると、昔から変わらない豆腐の専門店が、けっこうあちこちに残っているのに気づく。それだけ、スーパーで売っている工場で大量生産された豆腐ではなく、昔ながらの手づくり豆腐の需要が高いのだろう。うちの近所では残念ながら現在、専門の豆腐屋はまわってこないが、わざわざスーパーへ出かけなくても済むよう、多彩な食品を小型トラックに載せた「移動スーパー」Click!が毎週まわってくる。その中でも、豆腐はよく出る売れ筋商品のようだ。
 1925年(大正14)2月26日(木)と27日(金)の両日、自由学園Click!の女学生たちはいっせいに商店の取材に高田町内へ散っているが、高等科2年の清水雪子が取材に訪れたのは豆腐屋の「尾張屋」だった。豆腐屋は朝が早く夕方には閉まってしまうので、彼女は店じまいの少し前、その日の商売がほぼ終わる夕方近くに訪ねている。一連の商店インタビューを読んでいると、女学生たちは店の繁忙時間を事前に観察して認知しており、できるだけその時間帯を避けて取材に訪れている気配がうかがえる。
 さて、豆腐屋の「尾張屋」さんは、高田町の住民よりも下落合の住民のほうが多く利用していたのではないだろうか。「尾張屋」が開店していたのは、自由学園から南南西へ直線距離で500m弱、目白通り沿いの高田町金久保沢1120番地(現・目白3丁目5番地)の角地、つまり高田町と落合町の町境で営業をしていた。店の斜め前の北側も西側も、そして南側もすべて下落合で、目白通りから近衛町Click!へと入る道筋の角店だ。この時期、1922年(大正11)からはじまった東京土地住宅Click!による近衛町の開発Click!で、建設工事用の車両が店の前を頻繁に往来していたのではないだろうか。
 では、豆腐店「尾張屋」の主人のインタビューを、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。ちなみに、同レポートで具体的な店名が記されていて店舗を特定できるのは、この豆腐屋1軒のみだ。
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 『豆腐屋はずいぶん早く起きなくてはならない商売で、家などは三時から起きて、まあ一日に四斗の豆をつぶします。そのうち半分は白に、残りの半分は又半分に分けて、焼と油揚げに造ります。家では七人の職工がゐまして、四人は行商にかゝり、三人は製造の方にまはります。朝は六時には売りに歩くのですからね――、一箱冬ならばあけがありますので、三円位のものを持ち歩きます。夏はまあ二円位ですね、冬の方が売行がいいのです。いや、箱が空になるのは夕方位のものですよ。朝とか昼の稼ぎを合せたものが夕方のものになりますね。ですから、一人の行商人が六円平均に稼ぎます。一人の給料は寝泊りをして食べさせて、その売上高の二割二分払つてます。一人前の職工になるには、十四五歳から住み込んで、五年はかゝりませう。なかなかむづかしいものですよ。それで小僧が入営した時は1ケ月五円づゝの小遣をやつて除隊すればまた勤める様にしてます。』
  
 主人は、豆乳4斗(72リットル)の半分が「白」と証言しており、その中で絹ごしと木綿ごしの比率が知りたいが、女学生はそこまで訊いてはいないようだ。
 山手線の目白駅Click!をはさんで、目白橋Click!をわたった南東側は学習院Click!のキャンパスなので商売はできないが、北東側の高田町雑司ヶ谷大原(現・目白2丁目)、店のある北西側の同町雑司ヶ谷旭出(目白3丁目)と下落合、そして西側と南側の下落合へ、4人の店員は毎日行商に出かけていたのだろう。
 行商をする小僧たちの生活は、寝食給与(小遣い)が保証されており、もし赤紙(召集令状)Click!がきて入営しても、毎月5円の小遣いが支給されていた。こうして店員をつなぎとめ、除隊後に再び職場に復帰するよう店の側から働きかけていたわけだ。豆腐屋は、商店というよりもどこか職人の世界に近い仕事なので(主人も「職工」と表現している)、専門的な技術の習得そして熟練には時間がかかったのだろう。それだけ、製造技術の伝授に注力していた様子がうかがえる。
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 つづけて、「尾張屋」主人の話を聞いてみよう。
  
 『わしはこれでこの商売を三十年もやつてゐるんで、製造だけはなかなか心得たものですよ。前に大学にも教へに行つたことがありますよ。今話せ? そりやだめだ。一日かゝりますからな。今度ゆつくり話してあげるから一日がゝりでいらつしやい。残つた物ですか? 残つたものは、熱湯の中に鹽(塩)を入れ、その中に豆腐を入れると、製造当時と同じになるのですよ。それをまた次の日に売ります。まあ、家へ帰つて厚い鹽(塩)昆布を鍋の下に敷いて豆腐をゆでゝごらんなさい。さうするてえと豆腐は、何時間ゆでゝも堅くなりません。少し位悪くなつたものでも元通りになります。これは昆布がよいわけのものではなく、昆布の中にある鹽(塩)分がよいのです。この方法は、わしが随分方々を歩きましたが、関西でも朝鮮でもしていたのを見たが、どうしたのか、東京の人がしてゐないのです。今夜やつて御覧なさい。お母さんが喜びますぜ。』 気さくな面白い人であつた。(カッコ内引用者註)
  
 わたしも、「尾張屋」の主人が大学へ豆腐のつくり方を教えにいった経緯を知りたいのだが、それほど話が長くなるのだろうか。もし、訪問した清水雪子が再び同店を訪れ、「一日かゝり」で話を聞いているとすれば、自由学園の卒業生が寄稿する同窓誌などに文章が残っているかもしれない。
 古い豆腐を「元通り」にする方法を、なぜ「東京の人がしてゐない」のか主人は不思議がっているけれど、これは江戸東京地方の食文化Click!や食の美意識へのこだわりのちがいからだろう。真空パックや冷蔵庫が普及した今日ならともかく、豆腐の専門店で前日にこしらえた豆腐など、買って食いたくないのは当たり前にちがいない。魚でも野菜でも豆腐にしても、できるだけ新鮮なものを尊重し食卓に載せたいのは、江戸東京地方のゆずれない地域性だ。この女学生が家に帰ってそんなことをしたら、「お母さんが喜」ぶどころか「気味(きび)の悪いことしないで棄てなさい!」と、逆に叱られたかもしれない。
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講演スタンフォード大学D.S.ジョーダン192211.jpg
 店では、そろそろ夕方の店じまいに向けた仕事がはじまっていた。おかみさんの指図で、店の調度や道具類はきちんと片づけられ、板間もきれいに洗われていく。女学生が、「尾張屋」と書かれた戸を開け目白通りに出たときは、すでに通り沿いは薄暗く灯りが点いていた。次回は、掛け売りが円滑に回収できず悩む「酒屋」を訪ねてみたい。
                                <つづく>

◆写真上
:自由学園校舎の教室部。建物の内外には、F.L.ライトClick!設計による帝国ホテルClick!の建設で出た大谷石の余材がふんだんに使われた。
◆写真中上:1926年(大正15)に作成された『高田町北部住宅明細図』にみる、目白通りに面した高田町金久保沢1120番地の豆腐店「尾張屋」。
◆写真中下:最近は、人気が下がり気味らしい木綿ごし豆腐。
◆写真下は、1922年(大正11)9月に遺伝学の「メンデルの法則」を講義する東京帝大の三宅驥一。は、1922年(大正11)11月に講演した米国スタンフォード大学総長のD.S.ジョーダン。自由学園の教授や講師は、当時の他の女学校に比べて特異であり、メンデルの弟子H.モーリッシュや島崎藤村Click!、地震学のT.A.ジャガー、徳川義親Click!、英国詩人のR.ホジソン、ロシアの小説家R.L.トルストイの娘トルスタヤなど、開校早々に多彩な人物を招いている。国語や外国語、自然・社会科学ばかりでなく美術や音楽、演劇、文学など芸術分野にも力を入れ、美術教師には山本鼎Click!木村荘八Click!、桑重儀一の3人が就任し、追って彫刻・工芸分野では石井鶴三Click!と吉田白嶺などが着任している。『我が住む町』の社会調査のために、同じ高田町内に住む早稲田大学教授の安部磯雄Click!を招聘したことはすでに記した。

高田町の商店レポート1925年。(8)酒屋

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自由学園ホール西側教室.JPG
 「静に春雨の降る日の午後であつた」と文学的なフレーズではじまる、自由学園Click!高等科2年生だった菅沼きみが酒屋を訪ねたのは、1925年(大正14)2月27日(金)のことだったと思われる。彼女は「春雨」と書いているが、東京中央気象台Click!の記録によれば東京市街地では雪が降っていた。前日の木曜まで曇りだった空は、この日から崩れて雪や雨に変わったようだ。
 酒屋の主人は、おそらく帳場に火鉢を置いてうたた寝をしていたのだろう。女学生が酒屋を訪うと、店の奥から「ひる寝からおこされた様な顔を笑ひにまぎらせ」ながら、彼女の前に現れた。話すのがあまり得意ではないらしい主人だったが、彼女の質問にはていねいに答えている。
 当時の酒屋は、現代でも多く見られるケースだが和洋の酒を並べるとともに、みりんや醤油、味噌などの調味料を同時に扱う店が多かった。また、来店した客に酒を売るだけでなく、“つまみ”を用意して酒をその場で飲ませる店も少なくなかったらしい。女学生が取材に訪れた酒屋でも、その場で酒を飲ませるコーナーがあった。
 店名が不明な酒屋の主人の証言を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 『酒の産地……大部分は灘ですが、そこの醸造元で出来たものが、東京の発売元に来て、そこから小売商の手に入るんです。家の仕入れてくる所ですか、神田です。』 酒屋のお得意は、大部分御用をきゝに行つて配達する。皆通帳で月末払ださうだ。『そんなら手がいるでせう。』『いや別にさう手はいらない商売です。私の所でも弟が手伝つて居るばかりですよ。それに魚や八百やのやうに、毎朝仕入れに出るといふ風な事もないんですし、えゝ別にきまつちやいませんがね、なくなり次第に行くんです。一番よくうれる品ですか、まあ、やつぱり中等品でせうな。』 中等品と云ふと一升二円内外ださうだ。そしてそのへんの酒が一度にどの位づつ(ママ)出るかと聞くと『大てい五合以下ですよ、こまかいんです。』 得意には労働者が多くて、一軒の家が平均して見ると、一日一合乃至二合位の割合で出るさうだ。又店にきて飲むものも、一日五六人づつある。一合づつ飲んで行くのが普通で、悪ひ酒だ。(カッコ内引用者註)
  
 この酒屋が仕入れていた「東京の発売元」は、1596年(慶長元)に神田鎌倉河岸で開店した「豊島屋」ではないだろうか。豊島屋は、江戸期から灘の酒を一手に卸販売しており、また豆腐田楽をさかなに酒を安く飲ませる、日本の居酒屋のルーツとなった店でもある。江戸期は幕府御用達の店だったが、明治以降は自家で日本酒醸造を手がけて現在にいたる、創業430年近い酒屋の老舗だ。
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 「通帳」という用語が出てくるが、これは銀行や郵便局の通帳ではなく、各家庭に御用聞きClick!がまわって置いていく、売掛け(家庭から見れば買掛け)の記録を記載した帳面のことだ。店側では、この通帳をもとに月末になると戸別に集金してまわり、各家庭では通帳を見ながら店へ支払う現金を用意するという仕組みだ。
 得意先に「労働者」(工員や職人など)が多いとしているが、酒は「中等品」がよく出るといっているので、それなりに稼ぎのある「労働者」たちなのだろう。また、買い方は斗升買いではなく五合以下で細かいとしているので、倹約している家庭が多かったようだ。また、仕事帰りに店に立ち寄って飲んでいく客が1日に5~6人ほどいて、取材した女学生は「悪ひ酒だ」と書いている。
 これは、「一合づつ飲んで行く」酒の品質が下等品で「悪ひ」のか、あるいは酔っ払った客がクダを巻いたり、主人に文句をいってからんだり、客同士で喧嘩をしたりと、どうしようもない酔い方をするので「悪ひ酒」なのか、どちらをさすのかがいまいち不明瞭だが、わたしは後者ではないかと想像している。おそらく、取材にきたやさしそうな女学生に、酒屋の主人が延々と酔客のグチをこぼしたのではないだろうか。
 店にお客が買いにきたのを契機に、話は酒から調味料へと移っている。やはり東京では、「山サ」と「亀甲萬」Click!の人気が江戸期から変わらずに高かったようだ。つづけて、口ベタな酒屋の主人の証言を聞いてみよう。
メルシャンワイン(旧・大国葡萄酒).JPG
  
 『お醤油を下さいな。』と云つて四合ビンをさげて、どこかのおかみさんがやつて来た。『えゝ五十銭、六十銭、七十銭、とあります。』 するとおかみさんは一番安いのを買つて行つた。醤油は店買ひでないお得意は大抵樽で買ふ。品は「山サ」「亀甲萬」等の上等品が出るさうだ。味噌も大部分配達するが、やはり百匁二百匁位づゝださうだ。けれどもこれも比較的上等品が多いといふこと。主人は煙草をふかしながら『この頃の売れ工合ですか、今年は去年なんかに比べれば悪いですな、世間が一般に不景気だつたんですからね。エ(、)それでも酒が一番よく売れますな。』 私達には味噌醤油の方が必要品だと思はれるが、不景気だと云つても酒の方がよく売れる。今のやうな人々の気持では、酒はなくてならないものらしい。奥の部屋でおかみさんがさつきから通帳の整理をして居るらしかつたので、『現金の方が都合がよいでせう。』と云ふと、『それにこしたことはありませんがね、お得意の方で中々さうはいかないんです。』 従つて月々払つてもらへないのがいくらかづつ定つてあるのだ。殊に酒の方などは多く使ふ家に、払はない家が多いさうだ。
  
 どうやら、この酒屋では調味料の得意先にお屋敷が多く、酒の得意先には「労働者」の家庭が多かったようだ。家の収入以上に酒を飲んでしまい、酒屋に借りをつくっている家が数多くあったらしい。
 酒屋の取材では、文章の多くを主人の言葉そのもので表現するのではなく、随所に取材した女学生の言葉をつなぎで入れているのは、口ベタな主人のせいだけではないような気がする。おそらく、そのまま文章化するにははばかられる、顧客に対する不満やグチ、文句などを女学生相手にずいぶんこぼしているからではないだろうか。特に、通帳による売掛けの代金が、なかなか回収できない点をかなりグチッているのか、消費者で顧客の側である女学生は少し反発している。
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 頼みもしないのに、家庭をまわって通帳を勝手に置いていくのは、売掛けをする店のほうではないか……と、女学生がやや反発気味に問うと、酒屋の主人は「それは宣伝のためですよ」と答えている。つづけて、「酒屋に特別の苦心もないけれど、何と云つたつて、商人として売つただけ払つてもらうのに苦心もし心配もしますね」と締めくくった。次回は、いつ訪ねても愛想がよくて気持ちがいい、「炭屋」の訪問記をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:自由学園のホールから、西側ウィングの教室を眺めたところ。
◆写真中上:最近は、ネット通販の大量販売に押され気味な酒店。
◆写真中下:酸化防止剤が無添加のメルシャンワイン「赤」。下落合10番地に壜詰め工場があった、甲斐産商店Click!(大黒葡萄酒Click!)の現代版。
◆写真下は、1923年(大正12)1月25日に帝国ホテルClick!で開かれた女学生たちによる舞台で、演目はシェークスピアの『真夏の夜の夢』だった。は、1923年(大正12)3月3日の雛祭りに彼女たちの発案で開かれたコスプレ大会で、雛人形や七福神に扮した「活き雛祭り」。なにをやっても自由な反面、すべての責任は自分たちにあるという教育方針で、反対や異論がある場合は、それを説得するまで(されるまで)実施しないという、女性の自主独立や主体性をともなう民主主義教育が実践されていた。ただ、運動会でのスポーツや自由を標榜する人文字“JIYU”を校庭に描く「自由行進曲」のBGMで、彼女たちの応援に駆けつけていたのが戸山ヶ原Click!陸軍軍楽隊Click!だったのは皮肉なことだ。

神田川の空を彩る染物工房の記憶。

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神田川豊橋1.JPG
 この前、歳のせいなのか「Uber Eats」がとっさに出てこなくて、たぶん通じるだろうと思い「最近、よくウーパールーパーが走ってるのを見るね」といったら、相手はほんの少し笑いながら「外食や買い物に出ない人が多いんだよね」と答えてくれた。
 わたしが小学校の低学年のころ、「そめものや(染物屋)」と「せんたくや(洗濯屋)」を混同していいまちがえていた記憶がある。母親が箪笥から着るものを持ちだし「染物屋」へ染めなおしに出かけるのを見て、「洗濯屋」(クリーニング)に出かけたのだろうと思いこんでいたのだ。だから、着てるものが古びて汚くなると染物屋に持っていけば、きれいになってもどってくると思いこんでいたらしい。おそらく誰かとの会話でも、恥ずかしいことに洗濯屋のことを染物屋と呼んでいたかもしれない。
 小学生のときは、外で遊んでドロドロになって帰るのが常だったので、母親からため息まじりに「この白い下着の汚れは、洗濯機では落ちないわ」といわれたとき、「染物屋にもってけばきれいになるんじゃない?」と訊いて、ようやく勘ちがいに気づくことになった。母親いわく、「パンツを染物屋に持ってってど~するのよ!」。以来、わたしのいいまちがいはなくなった。
 このエピソードで思い出すのは、中村伸郎Click!周辺の“爆笑コント”だ。1986年(昭和61)出版の中村伸郎『おれのことなら放つといて』(早川書房)から引用してみよう。
  
 私たち老化夫婦の対話は、時には他愛もなく長閑でもある。/「一寸買いものに行ってくる」/と私が立ち上ったら、女房が、/「どこへ行くンです」/ときいた。私の家の近くにセブンイレブンというスーパーがあり、食料品ばかりでなく、原稿用紙、ボールペン、録音テープその他色々ある。だから、それを、/「イレブン・ピーエム」/と私が言ったら、女房は平気な顔で、/「八ッ切りの食パンを一袋、買ってきて下さい」/と言った。セブンイレブンの近くに煙草屋があり、暗い店先に、眼の窪んだ九十二歳のお婆さんが店番をしていて、私が、/「セブンイレブンを下さい」/と言うと、お婆さんは黙ってセブンスターをくれる。
  
 自由学園Click!女学生Click!たちによる商店Click!企業Click!の個別訪問では、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)にもかなり多かった、神田川沿いに展開する染色業Click!の工場や工房がほとんど登場していないので、わたしの思い出とともに少し書いてみたい。
 わたしの学生時代、神田川沿いや妙正寺川沿いには「乾し場」と呼ばれる、染物を天日で乾燥させる大きな物干し台のような構造物が、まだいくつか残っていた。この「乾し場」は、家々の屋根よりもよほど高く、遠くからでも視認できた。特に藍染めの長大な布が干してあったりすると、それが風にたなびいて美しく、まるで空に漂う鯉のぼりの吹き流しのように映えていた。それらの藍染めは浴衣地か、日本手ぬぐいの素材に使われたのだろう。戦前に撮影された神田川沿いの写真を眺めていると、あちこちに「乾し場」を見つけることができる。
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 授業が終わり、交通費を浮かすために神田川沿いを歩いてアパートに帰ろうとすると、1970年代末なので十三間通りClick!(新目白通り)はいまだ工事中のまま、神田川の改修工事がスタートしていたせいか、現在のようにずっと川沿いを歩ける遊歩道などなく、1本外れた道路を歩いたり、再び川沿いに出て歩いたりを繰り返しながら下落合方面に向かっていった。都電荒川線の早稲田電停あたりから豊橋をわたると、すぐ右手に大きな乾し場があり、ときどき染物が風に揺れて美しかった。その乾し場が、佐藤染業のものであることを知ったのは、ずいぶんあとのことだ。
 神田川沿いの染色業は、江戸期には神田紺屋町で開業していた工房が多く、明治から大正にかけて江戸川Click!(現・神田川の大滝橋あたりから舩河原橋までの旧称)沿いへと移転し、関東大震災Click!以降はより上流で水がきれいだった戸塚地域や落合地域、また神田川へ落ち合う妙正寺川沿いへと展開したケースが多い。同じ豊橋近くで開業していた、武蔵屋染工場の記録が残っている。1994年(平成6)に豊島区郷土資料館から発行された、「町工場の履歴書」展図録から引用してみよう。
  
 武蔵屋はもと神田の紺屋で、のち江戸川に移り、関東大震災で焼けて高田に移転してきました。この頃からインジゴ(合成藍)やドイツの化学染料の「バット」で浴衣地や手拭いを染めていました。当時の神田川は水量も多く、水が澄み、流れがゆるやかで温かいので、「みずもと」(水洗い)の時に糊がすぐ落ちてよかったといいます。/修行先の武蔵屋には乾し場が3つあり、普段は30~40人が働き、10月から暮れにかけて年始回り用手拭いの注文で最も忙しい時期は、新潟から出稼ぎ職人が来て総勢70~80人となりました。当時としては大規模な染工場だったといえるでしょう。(中略) 昭和25年頃幸次郎氏は武蔵屋の名前を引き継ぐ形で、三島橋近くの戸塚町に染工場を設け、井戸水による染色を始めました。その後新目白通りの拡幅工事により、下水道が完備していた現在地に移転しました。/近年浴衣や手拭の需要が減少し、工場では職人不足で型付けや染色技術の伝承が困難になってきています。
  
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 佐藤染業についての記述はないが、おそらく武蔵屋染工場と同じような経歴をたどってきたのだろう。豊橋(戦前)から三島橋(戦後)、そして高田2丁目(1994年現在)へと移転した武蔵野染工場は廃業したが、わたしの学生時代に乾し場が印象的だった佐藤染業は、いまだに健在だ。もっとも、川沿いの風物詩だった乾し場はとうに撤去され、いまでは構内の脱水機と乾燥機で染物を乾かしているのかもしれない。
 1974年(昭和49)に東宝で制作された、『神田川』(出目昌伸・監督)という映画がある。フォークの『神田川』Click!のヒットで、たくさんの観客動員を当てこんだ稼ぎ目的の作品だが、冒頭シーンからして旧・隆慶橋が登場し、東詰めの角地にあった「みみずく家」Click!(タバコ屋)の建物が懐かしい。ずいぶん昔に、いい映画と好きな映画はちがうという記事Click!を書いたけれど、映画のストーリーそっちのけで、当時の風景にジーンとしてしまうのは、おそらく歳のせいだろう。
 映画の筋などどうでもよく(ただし高橋惠子はキレイだけれどw)、70年代の神田川の風景や、わたしの歩いていた街角があちこちのシーンで登場するのを飽きずに眺めていたりするのは、きっと外出する機会が減って精神的に内向化しているせいだろう。この道をそのまま左へ少し歩けば、1974年(昭和49)の下落合なんだけどな、そこではちょうど別のドラマClick!が撮影されてたはずなんだ……などと思いながら、シーンを早送りして風景や街角を何度か見返してしまう。
 映画『神田川』には、豊橋やその右岸にあった小さな稲荷大明神(たぶん個人邸のものだったのか現在は行方不明)、そして佐藤染業の社屋と大きな乾し場が登場している。ヒロインの高橋惠子(当時は関根恵子)の住んでいるのが、佐藤染業の西隣りにある古い木造アパートの2階という想定だったからだ。佐藤染業の従業員たちは撮影当時、『神田川』のロケを楽しみながら見ていたのだろう。
 染物工場の中には、かつて田島橋Click!の北詰め、下落合69番地にあった三越染物工場Click!からの仕事を引き請けていた工房も、高田町には少なくなかったという。いつか記事に書いた、戸塚町で営業していた林染工場Click!と同様のケースだ。
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 だが、浴衣や手ぬぐいの需要が下がるにつれ、染色工場からクリーニング工場へ転換する事業者も現れた。染色業とクリーニング業とでは、洗いや乾燥の工程で、どこか設備が似通っていたからかもしれない。すると、わたしの小学生時代、「染物屋」と「洗濯屋」の勘ちがいも、あながち大きなピント外れではないような気がしてくるのだ。

◆写真上:神田川の豊橋付近で、稲荷は画面左手に見える金網の場所にあった。
◆写真中上は、1930年(昭和5)に神田川改修工事の竣工直後に撮影された写真で高い乾し場が印象的だ。おそらく、三島橋から上流の面影橋を眺めたところ。は、1955年(昭和30)ごろに豊橋から撮影された佐藤染業の乾し場。は、豊橋から下流を眺めたところだが満開の桜並木に隠れて佐藤染業が見えない。
◆写真中下は、1971年(昭和46)と1975年(昭和50)の空中写真にみる佐藤染業の乾し場。は、1974年(昭和49)撮影の同社乾し場。(『神田川』より)
◆写真下は、1974年(昭和49)撮影の豊橋際にあった稲荷。(同前) は、戦前に撮影された豊橋際の武蔵屋染工場。下左は、1994年(平成6)発行の「町工場の履歴書」展図録(豊島区郷土資料館)。下右は、1974年(昭和49)の映画『神田川』(東宝)DVD。

誤植が多い文展・帝展の記念絵はがき。

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 以前、pinkichさんからいただいた片多徳郎Click!の画集に掲載されている、長崎町の旧家の屋敷を描いた1934年(昭和9)制作の『郊外の春』Click!をご紹介したことがあった。片多徳郎が、名古屋で自裁する直前に描いたものとされ、実質上の遺作となった作品だ。同年秋に開催された、第15回帝展に遺作として出品されている。
 そこで、どうしてもカラーの画面を観たくなったわたしは、帝展で発行されている展示品の記念絵はがき類に、片多徳郎の『郊外の春』が印刷されて残っていないかどうか、少し前から探しつづけていた。ところが、なかなか見つからない。どこの資料館や団体、古書店などのデータベースを検索しても、第15回帝展の絵はがきに「片多徳郎」は引っかからなかった。さんざん探しまわったあげく、絵はがきにならなかったのかとあきらめかけていたところ、念のために第15回の帝展でキーワードを「郊外の春」で探したところ、とある古書店で1枚がひっかかった。
 さっそく、現物を手に入れて絵はがきを参照したのだが、画家の名前がなんと片多徳郎ではなく、「片田徳郎」となっている。これでは、いくら片多徳郎でサーチしても見つけられないはずだ。資料館や古書店では、とりわけ美術に詳しい人物でもいない限り、「これは片田徳郎ではなく、片多徳郎の誤植だぜ」と訂正することができず、「片田徳郎」のままデータを登録してしまうだろう。
 以前から気になっていた、文展・帝展絵はがきに多い作者名の“誤植”については後述することにし、初めてカラーで目にする片多徳郎Click!の『郊外の春』について、ちょっと気になる点から見ていこう。まず、この画面はどう観察しても、「春」の風景には見えないのだ。中央の左寄りに描かれている、ケヤキとみられる大樹の葉が、どう見ても緑から茶色に変色しかかっているように表現されている。また、手前の畑地の枯れ草もそうだが、屋敷の奥まった位置に描かれている、やはりケヤキと思われる樹木の葉も、茶がかったモスグリーンで塗られている。
 わたしの家の周囲は、樹齢100年を超えるケヤキが多いが、ケヤキがこのような葉の色に変色しはじめるのは、晩秋の11月中旬から下旬にかけてのことだ。そして、12月上旬を迎えるころから、樹木全体が完全に茶色へと変色し、少し風が吹くと膨大な落ち葉Click!が家々の屋根や庭に降り注いでくることになる。
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 また、春先のケヤキは、空に向けて扇のように開く枯れ枝に、黄緑色の新芽や若葉を少しずつ増やしながら、鮮やかな新緑へと向かうのであって、画面のような葉のつけ方や色合いになることはまずありえない。おそらく、ふだんからケヤキの四季を見慣れている方は、すぐに「春」ではおかしいと気づくだろう。
 この作品のタイトル『郊外の春』は、そもそも作者の片多徳郎がつけた題名ではないのではないか? どう観察しても、画面の風景はこの地域一帯の晩秋の風情であり、あえて『郊外の晩秋』がふさわしいタイトルのように思える。長崎東町1丁目1377番地(現・長崎1丁目)のアトリエに遺された本作は、片多徳郎によってタイトルがふられないまま、彼自身は1934年(昭和9)4月28日に自死してしまったのではないか。
 1934年(昭和9)制作とされる同作だが、秋の第15回帝展が初出品なのでそう解釈されているにすぎず、ほんとうは前年1933年(昭和8)の暮れが近いあたりで完成している画面ではないだろうか。そして翌1934年(昭和9)の5月以降、アトリエに遺された本作を観た帝展関係者、または知り合いの画家、あるいは片多家の遺族のどなたかが、帝展で遺作を展示するにあたってタイトルが必要となり、画家が逝ったあと春のアトリエに遺されていた本作に、『郊外の春』とつけてしまったのではないだろうか。
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 さて、片多徳郎の『郊外の春』は、「片田徳郎」の“誤植”で探すのにずいぶん時間がかかってしまったけれど、わたしは同じような経験を何度もしている。先日ご紹介Click!したばかりの「下落合風景」の1作とみられる、『芽生えの頃』(1920年)を描く下落合803番地にアトリエをかまえていた柏原敬弘Click!も、片多徳郎と同様のケースだ。第2回帝展に出品された『芽生えの頃』の記念絵はがきでは、作者名が「柏原敬孝」と誤って印刷されており、いくら「柏原敬弘」で検索してもヒットしないわけだ。
 三宅克己(こっき)Click!も、“誤植”が多い悩ましいひとりだ。以前にご紹介した『落合村』Click!(1918年)や『諏訪の森』Click!(1918年)もそうだが、作者名には「三宅克巳」と印刷されている。彼の帝展絵はがきの場合、ほとんどが作者名を誤っているので、むしろ三宅克己よりは「三宅克巳」で検索したほうが数多くひっかかるぐらいだろう。ひょっとすると、美術年鑑のような基礎資料からしてまちがっており、それが延々と訂正されずにきてしまったのではないだろうか。この誤りには何度も遭遇してきたので、彼の作品を帝展絵はがきで探す場合は、最初から「三宅克巳」で検索するようになってしまった。
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 また、以前にご紹介した横井礼以の『高田馬場郊外風景』Click!(1921年)は、作者が「横井礼市」と印刷されていたが、これは「横井礼以」の筆名に変える以前の本名なので、東京美術学校の卒制データベースも含めて探しやすかった。でも、二瓶等Click!のように本名は二瓶徳松Click!なのだが、二瓶經松、二瓶義観、二瓶等、二瓶等観……と、しょっちゅう筆名を変える画家の場合は、もう途中で探すのがイヤになってしまうのだ。

◆写真上:1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『郊外の春』だが、前年の1933年(昭和8)の11月末あたりに描かれた『郊外の晩秋』ではないだろうか。
◆写真中上:『郊外の春』の部分アップと、キャプション「片田徳郎」の“誤植”。
◆写真中下は、1920年(大正9)制作の柏原敬弘『芽生えの頃』のキャプション「柏原敬孝」。は、1918年(大正7)制作の三宅克己『落合村』のキャプション「三宅克巳」。は、同年制作の三宅克己『諏訪の森』のキャプション「三宅克巳」。
◆写真下は、1922年(大正11)の第4回帝展に出品された片多徳郎『春昼』。(筆名は正しく印刷されているw) ボタンとネコは、当時の画因にはめずらしい組み合わせだが、かわいいのでつい購入してしまった。は、筆名を横井礼以にする前の本名・横井礼市が印刷された『高田馬場郊外風景』の絵はがき(部分)。

佐伯祐三が学んだニワトリの飼育法。

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 少し前に、佐伯祐三Click!がアトリエの庭で飼っていた、採卵用ニワトリの品種の特定(大正期の安価な黒色レグホーンClick!とみられる)を試みたが、飼育法の勉強をしなければ効率のよい飼い方や、規則的な採卵もできなかっただろう。佐伯は、それを家の向かいにあった養鶏場Click!(のち中島邸Click!→早崎邸)で教えてもらったか、あるいは飼育法を書いた書籍やパンフレットなどを参照しているとみられる。
 以前、農家や一般家庭を問わず、昭和初期に大流行したハトを飼育する投資ブームについて記事Click!を書いたけれど、明治末から大正期にかけてはニワトリを飼育する一大ブームが起きている。それは米国やヨーロッパで品種改良された、優秀なニワトリが次々と輸入され、乳牛につづく農家の現金収入には最適な副業だったのと、洋食や洋菓子の普及とともに牛乳と同様、鶏卵の需要が爆発的に伸びていたからだ。
 佐伯祐三が、おそらく1921年(大正10)の秋ごろ、画家になる自信が揺らいだのか同郷の鈴木誠Click!に、「富士山のすそのに坪一銭という土地があるそうだ、到底絵描きになれそうもないので、鶏でも飼って暮そうかと考えている、どうだろう」」(「絵」No.57/1968年11月)と相談しているのも、そんな養鶏ブームを反映した言葉だろう。そのころには、すでに黒色のニワトリを庭で飼い、養鶏の勉強をはじめていたのではないかと思われる。凝り性の佐伯のことだから、ニワトリの飼育法を記したパンフレットや、飼育本を手に入れては勉強していたにちがいない。
 また、自邸の斜向かいが養鶏場であり、情報を手に入れやすい環境もあったとみられる。鈴木誠に、「富士山のすその」という具体的な立地の話をしているのは、下落合の宅地化が進むにつれ、向かいの養鶏場は移転先を探している最中であり、その候補地のひとつが坪1銭の「富士山のすその」だったという経緯の可能性もありそうだ。事実、佐伯が第1次渡仏からもどってみると、養鶏場は移転しており、その跡地にはハーフティンバーの大きな西洋館=中島邸が建設されていた。
 さて、佐伯は大正中期にどのようなニワトリの飼育法を学んだのか、当時のパンフレットから想定してみたい。大正初期に発行されたとみられる、下落合の「萬鳥園種禽場営業案内」から養鶏法の項目をピックアップして引用してみよう。
  
 鶏舎の構造法
 第一、空気の流通最良なること(鶏舎は南東向を第一とす)/第二、湿気の侵入絶無なること/第四?、掃除至便なる様/第五、数種類を飼養する時は甲乙混入の恐れなき様作ること/第六、各舎の堺柵下甲乙相見る能はざる様地上二尺位腰板を付ること/第七、飼養上出入に至便なること/以上の方法を以て其羽数の多少に因り加減せられたし 雛舎一坪には拾羽を入れ可得 運動場一坪には三羽を普通とす 然れ共割合の少なき程養ひ安し
  
鶏舎用金網.jpg
佐伯アトリエ1982.jpg
 なぜか、「第三」の構造法がパンフレットから抜けているのが気になるが、「十五羽の養鶏は優に田畑一反部の収益よりも大なり」を事業スローガンに、萬鳥園種禽場では多種多様なニワトリの種卵や各品種の雄雌つがいを販売していた。
 また、当時の養鶏業者が毎月定期購読していた養鶏の専門雑誌に、日本家禽協会が発行する月刊「日本之家禽」というのがあった。萬鳥園種禽場では、全国から会員を募って通販雑誌として販売していたが、佐伯祐三は向かいにあった養鶏場の事業者から、同誌を何冊か借りて養鶏法を勉強していたのかもしれない。曾宮一念Click!にニワトリを上げる際、庭先へすばやく鶏舎をこしらえている手慣れた様子を見ても、そのころの佐伯が養鶏に通じていた様子がうかがえる。
 ニワトリの品種によって育て方が異なる点も、同パンフレットには留意事項として書かれている。上記の養鶏法では、異なる品種を飼う場合、それぞれのニワトリ同士が見えないように「二尺」(60cm余)の柵をめぐらすこととしている。これは、ニワトリの種類がちがうとお互いが緊張して落ち着かなくなり、卵の産出量に大きな影響が出るからだ。飼育場は、ヒナの場合は1坪に10羽、運動場には3羽がいいとされているので、佐伯アトリエの庭に7羽のニワトリは理想的な環境だったのではないだろうか。
 また、斜向かいの養鶏場のニワトリが、おそらく佐伯邸の庭からも見えた可能性があり、採卵効率を考えれば養鶏場とは異なる品種ではなく、ニワトリの落ち着きを考えて同じ品種のレグホーン種を飼いはじめたのかもしれない。すなわち、養鶏場で飼われていた品種もレグホーン種だった可能性が指摘できそうだ。ただし、養鶏場のニワトリは白色レグホーン種だったのに対し、佐伯はそれとは差別化するために黒色レグホーン種を選んだものだろうか。養鶏場から、「うちの逃げ出したニワトリを私物化してる」というようなクレームやトラブルを避けるためだったのかもしれない。
黒色ミノルカ(メノルカ)種.jpg
佐伯アトリエ1985.jpg
 また、ニワトリの品種によっては体力や性格に強弱があり、エサも動物質から植物質まで多種多様なので、できるだけ異なる品種を混同せず、1種類のニワトリを同一の鶏舎で育てることが望ましいとされている。すでにヒナを育てる段階から表面化する、ニワトリの強弱を一覧表にすると以下のようになるという。
ニワトリ強弱表.jpg
 つづけて、ニワトリのヒナを育てる注意点を、同パンフレットから引用してみよう。
  
 育雛法の相異点
 今其の一例を挙れば「シヤモ」と「チヤボ」とは在来種中の両極端にして亦ハンバーグ種とコーチン種とは新輸入種中の両極端に近きものと云ふを得べし 故に「シヤモ」の育雛上の最良法を「チヤボ」に用ゆれば如何 恐らくは好結果を得る事能はさるべし 故に今種類により雛の強弱を評し初心家の参考に教せんとす(中略) 孵卵器又は同一母鶏内に数種を抱卵せしめんとする場合には注意せさるべからず 強なるものと弱なるものと同一器内に入置く時は美食の如き多くは強者に占領せらるゝが故弱者は好結果を得る能はさればなり 故に数種を入卵せしむる時は其発育のほゞ似たるものを抱卵せしめさるべからず
  
 もってまわったいい方で、悪文の代表のような日本語の文章だが、明治末から大正初期にかけては、このような文語調(おもに中国語風の文体)のコピーが「高尚」で「格調」が高かったのだろう。要するに、ヒナのときから性格の強いニワトリと弱いニワトリを同一の場所で飼育すると、強い品種に「占領」されてしまうので、いい結果(発育や採卵など)を生まないということだろう。佐伯が育てていたとみられる黒色レグホーン(レグホン)種は、多彩なニワトリの品種の中でも「普通」種であり、「初心家」でも育てやすかったにちがいない。
黒色ハンバーグ(ハンブルグ)種.jpg
宇田川邸.jpg
家禽学講習録(日本家禽研究会)1921.jpg おくさまとお子さま方の簡易養鶏法(隆文館)1921.jpg
 大正の初期、養鶏の先進地域は千葉県だったらしく、中でも匝瑳(そうさ)郡では郡内各地の尋常小学校内に養鶏場をつくり、子どもたちがニワトリの飼育をして卵を業者に売る「鶏卵貯金会」制度を設立し、収益金を授業料や学校の経費に充てて、地域に住む全児童が容易に就学できる仕組みを実現している。また、同県では養鶏農家が参加する組合「養鶏協会」を起ち上げ、組織的な養鶏改良や品評会などの事業を展開していた。

◆写真上:白色レグホン種とみられるニワトリを飼う、陽当たりのいい開放的な養鶏場。
◆写真中上は、大正初期における鶏舎用の金網とその価格表。は、1982年(昭和57)に撮影された下落合661番地の佐伯邸とその前庭。
◆写真中下は、大正期には採卵用として飼われていた黒色ミノルカ(メノルカ)種。は、1985年(昭和60)に撮影された佐伯邸とその前庭。
◆写真下は、大正期には愛玩用としても人気があった黒色ハンバーグ(ハンブルグ)種。は、ペットのニワトリを抱く宇田川様Click!。向かいの木立を透かして見える家は、佐伯祐三『下落合風景』シリーズClick!で1926年(大正15)10月1日に描かれたとみられる「見下し」の、フィニアル(鯱?)が載る赤い大屋根が特徴的だった旧・池田邸のリニューアル後の西洋館2階部。は、佐伯が下落合にアトリエを建てたのと同年の1921年(大正10)に出版された養鶏法のブーム本。日本家禽研究会から出版された『家禽学講習録』()と、隆文館から出版された一條仁『おくさまとお子さま方の簡易養鶏法』()。

高田町の商店レポート1925年。(9)炭屋

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 従来の商店インタビューClick!とは異なり、自由学園Click!高等科2年の石井輝子が訪ねた炭屋のレポートは、主人が質問に答えた言葉をそのままの形式で綴るのではなく、取材で解釈したり感じたり、観察したことを彼女自身の言葉で表現する文章となっている。したがって、主人の語り口は最小限のことしか書かれていない。
 開店して1年足らずの店だが、彼女はすでに主人とは顔なじみだったらしく、「何時会つても何時来ても愛想のいゝ気楽さうな主人」とあえて書いているので、自宅近くの店だったのかもしれない。彼女が店を訪れたとき、薪や炭俵を積み上げた店先で、主人は炭粉がついた黒い顔をしながら薪を割っている最中だった。仕事の邪魔をするのは気がひけたが、彼女が取材の趣旨を説明すると、イヤな顔もせず仕事の手を休めて、いろいろなことを詳しく教えてくれている。
 炭屋の主人が話した薪炭(しんたん)商の詳細を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 先づ『炭と申しましてもなかなか種類が多うございましてね』と切り出した、奥州、野州から出る物の中に桜炭、楢丸、楢割、ぞう丸、ぞう割等、その他紀州から出る物には大丸、中丸、角びん、小びん、一丸、丸丈、等其他にもまだ随分種類が多いさうです。けれど東京では大抵奥州、野州から出る物を、使ってこの店でも紀州物はあまり取扱はないさうです。何処の炭が一番良いんですかと聞いたら、釜の加減で時には大変よく焼ける事もあるが、時には悪く焼ける事もあるから、一概には云へないが、紀州の物は一番上等で、桜炭は常陸が良い。福島から来る炭はあまり良いのがないと云つてゐました。どの商売にも仲買と云ふのがありますが、やはり炭にも仲買人が居るさうです。大抵はその手を経てくるので、客にもよるがまあ平均俵あたり五銭位の口銭ださうです。そして小売する時には一割から一割二分の口銭で、同じ値で思はぬ良い炭が手に入ればもつと口銭を取ることもあるが、悪い品が手に入つた時には損をして売ることもあるそうです。
  
 炭屋の主人は、質のいい炭は紀州の炭か常陸の桜炭といっているが、これは家庭で使用することを前提に、火力が安定して火持ちがいいという面からの評価だろう。たとえば、これが鍛冶の火床やガラス細工の炉、焼き窯など製造用の炭となると、紀州の炭も常陸の桜炭も“ダメな炭”ということになる。
 炭には、それぞれ材質によって温度や火力に大きな差があり、火力を短時間で上昇させて火床や炉、窯などを一気に高温にし、なにかを焼成したい場合には、家庭では火花がはぜて面倒なのであまり使われない、松炭(アカマツの炭が主流)が最良ということになる。炭には多種多様な特徴があるので、その用途によって選ぶのが案外むずかしい。また、主人もいっているように、時季によって焼き具合に出来不出来のムラがあるし、特定の地域の炭のみが安定した品質にならないのでなおさらだ。
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 下落合でも、1990年代ぐらいまでは「炭・練炭・薪」という文字を掲げる薪炭専門店の看板を何軒か見かけていた。あるいは、プロパンガスや灯油などを扱う燃料店でも、「炭・薪」の文字を目にしていた。おそらく、いまでもその何軒かは目立たないが、特定の得意先を相手に商売をつづけているのだろう。
 炭は、いまだに手あぶり用の火鉢や鍛冶店の火床(ほと)、料理屋の厨房、あるいは茶室の炉(おもにナラ炭やクヌギ炭が主流)などで需要があったのだろうし、薪は住宅の暖炉に用いる燃料用なのだろう。あまり目立たないが下落合には茶室が多く、30代ごろ住んでいた聖母坂Click!のマンション1Fにも茶室がしつらえられており、近くの薪炭屋から定期的に炭を購入していた。また、昔ながらの暖炉つきの住宅もけっこう見かけるので、それなりに細々と商売が成り立っているのだろう。
 つづけて、石井輝子の炭屋インタビューを引用してみよう。
  
 仕入はわざわざ山まで行かなくても、手紙で炭が無くなりかけた時や、得意から特別注文のあつた場合に、山なら山、問屋なら問屋へ注文すれば運送屋に託して送つて呉れるさうです。八百屋や呉服屋の様に別に仕入れに行かなくても好いし、酒屋の様に少しづゝの注文もないから、あまり急がしい商売ではないらしい。現金と掛買とどちらが多いんですかと聞いたら、勿論掛買で七分から八分が掛買の得意だそうです、学校や役所とかなら勘定もなかなか堅いが、勤人でも中流以下だと他の入用が多いとそつちへ廻して、炭代の方へはなかなか廻して呉れないで、ずいぶん滞つたのもあるさうです。一人では全体を動かすことは出来ないが、学校なんかで宣伝していたゞけるなら、現金取引を実行するやうにしたいと云つて居ました。
  
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 ここでも、嗜好品(たとえば酒など)と同様に生活用品の支払いが、食料品などに比べて後まわしにされる、当時の掛け売りの状況が語られている。家計のやりくりがたいへんな家庭では、食料品の支払いが滞ると店から配達してくれなくなり、死活問題になりかねないので優先して代金を払うが、それ以外の支払いは「家計に余裕があるときに払う」ぐらいの感覚だったのだろう。
 炭屋の場合、掛け売りが7~8割もあったというから、その回収には多大な労力が必要だったろう。ましてや、この炭屋は高田町で開店してから間もない店であり、商売の苦労は並たいていでなかったにちがいない。掛け買いではなく、現金取引を推進するために「学校なんかで宣伝していたゞけるなら」という主人の言葉に、掛け買いをしたままなかなか払わない顧客で苦労している様子がうかがわれる。
 また、この炭屋の近くにはライバル店が1軒、少し離れたところには2~3軒の同業が開店していたというから、顧客の獲得競争も激しかっただろう。ただし、ここの主人はあまり他店を「商売敵」のようにとらえてはいなかったらしい。むしろ、その性格から地道かつこまめな営業で、確実に稼ぐほうへ注力していたようだ。再び、『我が住む町』収録の「小売商を訪ねて」から引用してみよう。
  
 新しい店を出して、古くからある家と同じ様にお得意を得るのは、苦しい事だけれど、お得意と云ふものは定つてゐない様なもので、勉強次第だそうです。人様が二円五十銭に売る物は二円四十銭に売り、人様が帳場にゐて小僧を使つてゐる時に自分は注文取りに行くと云ふ風に努力さへすれば、お得意はふえてくれますと言つてゐました。酒屋の様に小売は多くないから、毎日注文取りに出かける必要もなく、配達したついでに途々の家へ明日か明後日はお炭が無くなる頃だと思つた家へ見こしては注文を取りに行つて、注文があればそれを注文帳に記しておいて、店の暇な時に配達の準備に店の方へ出しておくのださうです。資本はと尋ねたら、派手な人なら五千円と云ふでせうが、まあ二千円位あれば努力如何で何うにかやつて行けますと云つてゐました。
  
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食堂のイス&テーブル遠藤新192304.jpg
 「おかげさまで此の頃はだいぶんお得意もふえました」と笑顔で語る主人へ、彼女は最後に商売でいちばん苦しいことはと訊くと、「同じ値段で良い品物を手に入れる事」と、「昔からある店の様にいゝ得意を得る事」だと答えている。このふたつのテーマは炭屋に限らず、どのようなビジネスにも共通していえることだ。次回は、女学生が気をつかったのだろう、洋装ではなく着物袴の和装で取材に訪れた「蕎麦屋」をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:竣工直後の写真Click!と変わらない、西側の校門から見た自由学園校舎。
◆写真中上は、囲炉裏や茶室の炉などでよく使われるクヌギ炭やナラ炭。は、佐伯祐三Click!がアトリエの中2階へ持ちこみ曾宮一念Click!たちと囲んだすき焼きでも登場する、昔懐かしい七輪Click!(ひちりん:大阪ではカンテキ)。
◆写真中下は、薪炭屋の店先に積まれているのを見かける薪。は、三岸アトリエClick!の北面に設置された応接室の暖炉煙突。
◆写真下は、1923年(大正12)9月に起きた関東大震災Click!の直後から罹災者への支援活動を開始した自由学園の女学生たち。同震災による自由学園の被害はガラスが1枚割れただけで、写真は罹災者の子どもたちへ毎日とどけるミルク配り活動。そのほか、自分たちで布団や着物を縫って被災家庭へとどけるなど、1学期分の授業をすべてつぶして救援活動に専念した。そのため、この年の修業式は翌年の夏に行われている。は、1923年(大正12)4月に遠藤新Click!の設計デザインで完成した食堂の調度やイス&テーブル。

相馬邸や近衛邸に氷を配達した氷室。

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 1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」Click!を参照していると、あちこちに製氷工場を見つけることができる。これは、落合地域に湧く水の質がよく、製氷事業には適していたからだろう。以前、田島橋の北詰めで営業していた目白製氷会社工場(のち同じ下落合の豊菱製氷会社Click!に買収)について書いたことがあった。
 事情明細図に記録された数多くの製氷工場を見て、落合地域の住民は夏などかき氷とかがふんだんに食べられ、快適にすごせたのでは?……と思うのは早計で、これらの事業所は氷の生産工場であって小売店=氷室(ひょうしつ)ではない。他の商品一般と同様に、流通をへて一般の小売店=氷室で販売されることになる。ただし、商品が氷なだけに長時間の流通は困難で、工場から直接仕入れる氷室も多かっただろう。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」には、下落合968番地の豊菱製氷会社と、上落合2番地の山手製氷会社Click!が収録されている。同書より、その2社の解説を引用してみよう。
  
 豊菱製氷株式会社  下落合九六八
 (前略) 本社は資本金十六万円(全払込)を以て、大正十二年六月創業せしものにて、鑿井水道一日製氷能率二十五噸、一千噸の貯蔵庫を備へ、経営方針着々効を収めて、現今帝都同業者間に重きを成す。社長水野豊氏は(中略) 芝浦製作所に恪勤すること十余年、現会社設立の創意中心となりて完成後、専務取締役に就任し、(中略)大震火災に際会し製氷三百余噸を赤十字社及び警視庁に寄付して罹災者の救護に便じたる如きは、活ける社会時相に照応して機宜を得たるものである。
 山手製氷株式会社  上落合二
 本町産業界に雄飛して鬱然たる勢力を為す、山手製氷株式会社は大正十一年四月の創立にして同十四年四月増資、現在資本金は三十二万円全額払込済である、一日産出額九十噸、冷蔵量二千五百噸を有し、工場施設の整頓は方今製氷界稀に見る精致を画されてゐる。同社の役員は左の如くにて、何れも業界の誠意を網羅し、現下経済界多難の折柄、尚且つ順調の業績を辿りつゝある(後略)
  
 ともに製氷工場としては、大きな規模の事業所だったのがわかる。文中に「鑿井水道」とあるのは、井戸水を活用した工場の専用水道のことだ。冗談のようだが、豊菱製氷社長の「みずのゆたか(水野豊)」という名前が面白い。また、同社は1935年(昭和10)前後に下落合212番地(田島橋北詰め)にあった目白製氷会社を工場ごと買収しているので、氷の生産量は山手製氷に迫っていたかもしれない。
 当時、氷の需要としては電気冷蔵庫が高価でなかなか買えないため、氷冷蔵庫(冷蔵箱あるいは氷室=ひむろとも呼ばれていた)の用途が多かった。冷蔵箱といっても、いまの若い子にはピンとこないかもしれないが、頑丈な木製の箱の中に氷を入れて密閉し、内部の温度を下げて冷蔵庫がわりに使う箱のことだ。戦後も電気冷蔵庫はなかなか普及せず、家庭に同機が入りはじめたのは昭和30年代になってからだろう。もちろん、冷蔵箱は今日の電気冷凍冷蔵庫とは異なり、「冷蔵」するだけで「冷凍」(製氷)など望むべくもなかった。
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 冷蔵箱の需要のほか、おカネ持ちの屋敷やホテル、百貨店などの施設では、夏の冷房代わりに氷柱が随所に立てられていた。いまでもエアコンがききにくいホテルや料理屋、あるいは半ば装飾として置かれる結婚式場や劇場、コンサートホールなどでご覧になった方も多いのではないだろうか。夏になると、応接間や居間、寝室などに氷柱を建てて涼をとっていたお屋敷も、落合地域には少なからずあったはずだ。
 また、現代と同じように飲食店で出す、かき氷の材料としても仕入れられただろうし、肉屋Click!魚屋Click!とその卸売り市場では腐敗を遅らせるために、やはり夏になると大量に氷を注文しただろう。もちろん、カフェやミルクホール(ともに女給さんのいる洋風飲み屋のこと)、バー、飲食店、喫茶店などで冷たい飲み物に氷を入れるのにも高い需要があった。さらに、医療関係施設でも熱冷まし用に氷が注文されていただろう。
 自由学園Click!女学生たちClick!は、残念ながら氷室の店舗を訪問した記録を残していないが、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)には、同町から落合地域まで氷を配達する氷室(ひょうしつ)、チェーン店形式の氷専門店が開店していた。1923年(大正12)に外口要蔵が設立した、同志舎外口製氷所を中心とする同志舎氷室(ひょうしつ)だ。同志舎外口製氷は当初、天然氷の販売が専門の店だったが、米国のフリック社から10トン製氷機を導入し、工場で氷を造れる本格的な体制を整えた。操業していたのは下落合の北側、長崎村地蔵堂1075番地(現・豊島区千早1丁目)の谷端川近くだった。そして、同製氷所を中心に同志舎の氷室(小売店)が、長崎をはじめ落合、練馬など各地域へ氷を販売している。
 1日の製氷能力は、36貫(135kg)の直方体の氷塊を200本以上(約27トン以上)生産できたというから、田島橋の目白製氷会社を買収する以前の、『落合町誌』に記録された豊菱製氷会社とほぼ同じぐらいの生産量だったのがわかる。製氷法は、氷罐(36貫)を食塩水で満たした製氷槽に並べて、製氷槽内の配管に冷媒となる液体アンモニアを流して冷却し、氷罐の水を氷結させるという手順だった。
 同志舎が目白駅前に設立した、小売りの氷室・目白同志舎に勤務していた小村定明という方の証言が残っている。1994年(平成6)に豊島区立郷土資料館から刊行された、「町工場の履歴書」展図録から引用してみよう。
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 修業先では同志舎と染めた半てんを着て氷の配達をした。お得意さんは落合や目白の近衛邸Click!相馬邸Click!尾張徳川邸Click!戸田邸Click!などのお屋敷だった。当時の氷は1貫(3.75kg)8銭、夏は12銭位だった。工場は大正12年5月に完成し、当時の従業員は5人位で、機関士が1名いた。その年の9月に関東大震災があり、製氷機が壊れたため10月過ぎまで中断した。その間、飯田橋の日東製氷会社に大きい若衆2人と一緒に荷車で毎日氷2本(360kg)を取りにいった。椿山荘の坂下に立ちん坊がいて、10銭で椿山荘まで押してくれた。/工場に氷を取りにいく時は荷車(大八車Click!)を使い、氷の配達は自転車、リヤカーを使った。氷1本36貫(135kg)の長さは3尺3寸(約1m)。リヤカーだと氷2本、牛車Click!だと12本運べた。工場は夏忙しいので、フォード製トラックの運送屋に頼んだりしたが、当時の車は馬力が出ず、氷8本が限界だった。/店は創業当初で8店くらいあった。昭和5年5月頃店を持って独立した。場所は長崎町字荒井1779番地。店名は「荒井氷売場」、戦時中に「小村氷室」と変更した。
  
 大正期に、氷室・目白同志舎が開店していたのは高田町1702番地(現・目白3丁目13番地)、いまでいうと三菱UFJ銀行の目白駅前支店があるあたりだ。
 拙サイトでは、実は同志舎のチェーン店氷室のひとつをすでにご紹介している。それは1925年(大正14)に制作された「出前地図」(西部版)Click!に掲載されている、二又子育地蔵尊向かいの目白通りに面して開店していた「凍氷販売店同志舎支店」だ。先の目白同志舎にならうなら、こちらは椎名町同志舎と呼ばれていたのかもしれない。
 さて、1960年代から電気冷凍冷蔵庫が家庭へ急速に普及しはじめ、1970年(昭和45)の時点では普及率が90%を超えている。したがって、街中の氷室も急速に事業を縮小せざるをえなくなったが、先述したように現代でも大きな氷塊の需要は、さまざまな業務や店舗、イベントなどで変わらずに継続している。
 たまには盛夏に、冷蔵庫の氷ではなく大きな36貫(135kg/550×280×1,080mm)の氷柱を注文して、家庭で冷え冷えになったり、かき氷を飽きるほど食べるのも面白い趣向かもしれない。36貫の氷塊の価格は、およそ16,000円~18,000円ぐらいのようだ。また、1貫(3.5kg)の角氷(ブロックアイス)なら500円前後で買える。ただし、食べすぎてお腹をこわしても、拙サイトでは責任を負いかねるのであしからず。
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 現在でも、小村氷室は長崎1丁目27番地で、同志舎目白外口氷室は目白2丁目16番地で営業をつづけており健在だ。さすがに自転車や大八車の配達ではなく、いまなら小型トラックで下落合にもとどけてくれるだろう。プロが良質な水で製造する氷は、冷蔵庫の氷とはまったくちがう風味がして、毎夏のヤミツキになるかもしれない。

◆写真上:1日90トンの製氷機能があった、上落合2番地の山手製氷会社。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に撮影された下落合968番地の豊菱製氷会社。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる豊菱製氷。は、十三間通りClick!(新目白通り)に敷地を削られた豊菱製氷が操業してたあたりの現状。
◆写真中下は、1935年(昭和10)作成の「淀橋区詳細図」にみる山手製氷会社。は、1925年(大正14)の「大日本職業別明細図」にみる製氷会社の広告。下落合の豊菱製氷会社と、長崎の同志舎外口製氷所が並んで掲載されている。は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる長崎町1075番地の同志舎外口製氷所。
◆写真下は、夏は氷柱がひとつ置かれているだけで涼しげだ。は、目白2丁目で営業中の同志舎目白外口氷室。は、長崎1丁目で健在の小村氷室。

大正期のガーデニング用製品。

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 以前、大正時代の住宅街に多く建ちはじめた、西洋館を掃除する新しい道具類Click!や、台所に普及しはじめた合理的な調理機器Click!、早大の山本忠興Click!が自宅にそろえていた家電製品Click!、水まわりでは地下水をくみ上げて水道と同じように利用する井戸ポンプClick!など、大正期の家庭で見かけるようになった機器類をご紹介している。
 自由学園Click!女学生たちClick!は、1922年(大正11)3月に同じ高田町内の四ッ谷1417番地に建っていた山本忠興邸Click!を訪ね、最先端の家電を導入した家庭生活を見学している。そのときの様子を、1985年(昭和60)に自由学園女子部卒業生会が出版した、『自由学園の歴史Ⅰ 雑司ヶ谷時代』から引用してみよう。
  
 山本忠興博士の電気の家を見学
 博士は早稲田大学理工学部教授。スイッチ一つで開くドア、電気の壁暖房、電気ミシンと電気鏝(アイロン)、電気湯沸し、トースター、牛乳沸し、蒸焼用電気ストーブ、電気こんろ、電気洗濯機械などなど、その当時の私たちにとっては夢のような設備が整っていて驚いた。(カッコ内引用者註)
  
 これまでは、大正期に家庭内へ導入されはじめた、現代につながる多種多様な機器や道具について書いたが、きょうは屋外、つまりモダンな西洋館の庭を維持し、手入れをするための機器や商品をご紹介したい。
 西洋館には、日本家屋に見られるようなウメやモミジなどの樹木やツツジ、アジサイ、アヤメ、ボタンなどの草花は似合わず、ヒマラヤスギや棕櫚、ソテツ、バラ、チューリップ、芝など建物の外観とマッチするような樹木や草花が選ばれ植えられている。東京各地には、新しく輸入された草花の種や苗、球根を売る種苗店Click!がオープンしており、下落合の周辺にもガーデニングを楽しむ人々の人気を集めていた。
 でも、ただ単に庭へ植えただけでは、樹木や草花はうまく育たない。それでなくても、西洋種の草花を環境がまったく異なる日本の風土で育てるためには、常に手入れをしなければ生育が衰えたり悪い虫がついたりする。そこで、大正時代に家庭にまで普及しはじめたのが殺虫剤=農薬だ。もともとは、農家の田畑用や家畜用に開発された農薬だが、大正期に入るとガーデニングや庭で飼うペット舎などにも利用されるようになる。
 また、当時の住宅をめぐる下水溝Click!は開渠で不衛生なところが多く、生ゴミの処理も不十分だったため蚊や蠅、浮塵子(うんか)の発生を防止する用途にも使われている。大正期の東京では、製油技師だった今井菊太郎という人が発明した、「今井殺虫剤」がもっとも有名だったようだ。大正初期に発行された、「萬鳥園種禽場営業案内」のパンフレットから引用してみよう。
  
 今井殺虫乳剤 本剤は今井氏が多年苦心実験の結果に成れるものにして各種の農産物、果樹、盆栽等に有害なる諸種の害虫を駆殺するに驚くべき効力を有する一大発明品なり/本剤は黒褐色の固形体にして使用に際し害虫の強弱に応じ一斤を一斗五升乃至二斗五升の水に溶して用ゆれば有ゆる害虫を悉(ことごと)く駆殺し去り、しかも聊(いささか)も作物を損傷するの憂なし
 今井浮塵子(うんか)駆除新剤 本剤は液体なれば之れを使用するに何等の面倒なし 即ち罐を開き「竹べら」の如きものにて少量宛田面に落せば残りなく死滅すべし
 別製今井殺虫乳剤 本剤は蚜虫類(蚊)及貝殻虫類に専用すべきものにして其使用法は前記の乳剤異る所なし(カッコ内引用者註)
  
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 さて、今井殺虫乳剤を庭の樹木や花壇に散布するには、効率的な噴霧器が必要になる。明治期には、欧米から輸入された多種多様な機器がそのまま売られ、高価なそれらは一部の人々にしか利用されなかったが、大正期になると欧米製品をコピーし、ちゃっかり国内で「特許」を取得した安価な国産品が出まわりはじめる。
 以前、大正期の電気製品について書いた記事でも触れたが、当時の国産品は欧米製品に比べて技術的な集積が不十分なため、故障や不具合の発生率が相対的にかなり高かった。だが、海外製品に比べ修理の速さや部品や消耗品の調達の容易さから、徐々に国産品の人気が高まり普及するようになっていく。
 物流のリードタイムが、今日とは比較にならないほど長かったため、船便に依存した海外製品の場合は、部品の取り寄せだけで数ヶ月もかかることがまれではなかった。したがって、大正期になると国産製品はサポートを充実させることで、海外製品と徐々に肩を並べていくことになる。
 同パンフレットより、殺虫剤の噴霧器コピーを引用してみよう。
  
 専売特許 自働噴霧器
 本器はフオルマリン液、石炭散水、殺虫乳剤等を撒布するに用ふるものにして極めて微細なる撒霧を生ず故に周密なる消毒又は殺虫法を行はんと欲する場合には最も適当せる撒霧器なり、本器は空気圧搾ポンプを中心に装置しあるが故に自動的に散霧せしむるを得
 実用新案特許 軽便噴霧器
 本器は上図の如き軽便の製作にして啻(ただ)に消毒殺虫のみならず園芸家が花卉(かき)盆栽の撒水用として至便の物なり(カッコ内引用者註)
  
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 花壇の草花や植木、生け垣、盆栽などを育てるには、害虫を駆除するだけでなく肥料の手当ても欠かせない。親父がよくガーデニングでやっていたように、家庭で出る生ゴミをそのまま穴を掘って、花壇や樹木の下に埋めれば格好の肥料になりそうだが、それでは園芸事業も園芸店も成り立たないので、特別に付加価値をつけた肥料が欧米から輸入されている。大正当時は、いまだ国産品よりも舶来品のほうが「高級」で品質もよく、信頼性も高くてありがたがれていた時代だった。
 イギリスで製造された肥料は、今日の肥料の成分構成(窒素・リン酸・カリ)とまったく変わらない。同パンフレットから、再び引用してみよう。
  
 プラント・フード
 本品は英国アルベルト会社の製造に係り植物の成長に欠くべからざる窒素、燐酸、加里の三要素を適当に配合せる速効肥料にして如何なる植物にも単に之れのみを施して足るものなり 且つ清浄無臭なるが故に花卉盆栽に最も適し園芸家の欠くべからざる肥料なり 本品は頗る美麗なる罐入なり
  
 化学肥料「プラント・フード」は、1缶あたり「甲」缶が35銭で「乙」缶が25銭なので、田畑のような広い面積に撒くにはいまだ高価すぎる。目白文化村Click!近衛町Click!のように、郊外へ邸を建てた家のガーデニングには適当な値段だったのだろう。当時、田畑の肥料には江戸期と変わらず、いまだ人糞の下肥があたりまえに使われていた時代だ。
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 いくつかの記事で引用している、「萬鳥園種禽場営業案内」のパンフレットだが、萬鳥園は下落合523~524番地を中心に広い敷地で開業していた、おもに養鶏場向けに多彩なニワトリの品種を販売する企業だった。東京同文書院Click!(のち目白中学校Click!併設)の東隣りで営業しており、中国やベトナムからの留学生Click!は、ニワトリの鳴き声がかなりうるさかったのではないだろうか。
 なぜ、わたしが佐伯祐三Click!の飼っていたニワトリなど「どうでもいい」ことにこだわるのか、不可解に思われる方もいるかもしれない。または、すでにお気づきの方もいるだろうか、佐伯が下落合のアトリエを建設中に仮住まいClick!をしていたのではないかと想定している住所が下落合523番地、つまり「萬鳥園種禽場」の敷地内そのものに当たるからだ。近衛家の敷地Click!(当時は近衛文麿Click!の所有地)に接して建てられた、華蔵界(けぞうかい)能智が経営する下落合の萬鳥園種禽場については、それはまた
、別の物語……。

◆写真上:見馴れれば不自然さは消えるか、大きな西洋館の庭に置かれた盆栽。
◆写真中上は、西落合1丁目306番地(のち303番地)にあったバラが主体の松下春雄アトリエClick!。門の上のアーチClick!は、モッコウバラ用に設置されたものだろう。は、チューリップが目立つ洋風花壇。は、洋風庭園でも見かける信楽焼き。
◆写真中下は、萬鳥園の専売特許だった自働噴霧器。は、花壇用にリサイズされたガーデニング専用の軽便噴霧器。は、基本的に同じ仕組みの農薬散布器。
◆写真下は、英国の肥料「プラント・フード」広告。は、下落合の畑にある花畑。は、近衛家の敷地に隣接していた下落合521~524番地の「萬鳥園種禽場」跡。華蔵界能智は、近衛篤麿が死去する前後に同家敷地を購入し開園していたとみられる。

高田町の商店レポート1925年。(10)蕎麦屋

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 自由学園Click!の高等等科2年だった、横山八重子が訪ねた蕎麦屋Click!は出前が中心の、今日的な表現ならデリバリーが主体の店だった。「高田町郊外」の、静かな街並みの中にポツンとあるような蕎麦屋だったので、ふたりの女中が運ぶいろいろな注文品を、ふたりの出前持ちが代わるがわる宅配しているような環境だった。やはり近所からの注文は、うどんよりも蕎麦のほうが圧倒的に多かった。
 女学生Click!が店ののれんをくぐると、忙しい仕事の合い間をぬって、主人が彼女の質問へていねいに答えている。蕎麦屋の書き入れどきは、秋の10月と春の花見の3~4月ごろの年に2回ほどあるそうだ。主人は、「陽気のせいでせうかね」と繁忙期の原因を季節の変わり目と考えていたようだが、移転や異動などで多く人々が動きやすい時期とも重なるのだろう。あとは、寒い冬場の売れいきもいいらしく、冬季1ヶ月の売り上げを仮に1,000円とすると、夏季7~8月の売り上げは4割減の約600円前後となり、ときには足がでて赤字になることもあるらしい。
 では、注文をこなしながらの蕎麦屋の主人の話を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 そば粉は何と言つても、やはり信州のが一番で、メリケン粉も、方々の会社によつて違ふが、とにかくその粉を買ひ込んで来て、各々の店でめいめい独特の分量手加減でまぜてつくるといふことです。大方一升のそば粉に五合のうどん粉をつなぎとして、まぜ、それに水または卵子、又芋つなぎといつて芋を入れ、熟練した職人がつくつてゐるのだと主人は申しました。麻布の更科、どこそこのやぶなどゝいふやうな名代のそばの出来るのも、場末の小さい店にあるまづいそばの出来るのも、そば粉の良否は勿論ですが、またこの作り方によるのだと思はれます。名代のそば屋になれば原料も充分精撰出来ますし、職人もいゝ人が得られる訳ですが、小さい店では良い品やよい職人を使ふと当然価が高くなり、人からおいしいそばだとみとめにれるまで、店を持ちこたえてゆけません。そこがやはりどの商売にもあるむづかしい点なのでせう。
  
 1升の蕎麦粉に5合のメリケン粉ということは、この店では通常の「五割蕎麦」を打っているわけだが、当時はごくふつうの一般的な蕎麦屋ということになる。今日のように、「七割蕎麦」や「十割蕎麦」というように、客の好みに応じた蕎麦粉の比率で、さまざまな蕎麦の種類を打ち分けるような流行りはなかった時代だ。つなぎも、卵や山芋など一般的なものが用いられている。
 ただし、今日の蕎麦屋との大きなちがいは、戦後の店は主人が蕎麦打ち職人も兼ねる店が増えて、派遣型の蕎麦職人の数が減っていることだろう。戦前から戦後すぐのころまでは、蕎麦屋の蕎麦は専門の職人が業界団体から派遣されて仕事をするのが常識だった。つまり、スーパーの総菜をつくる料理人たちが、その店舗の社員ではなく料理プロのパートが多いように、蕎麦屋の主人と蕎麦を打つ職人が分離している例が多かった。
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 しかし、戦後になると工場で機械生産された蕎麦の大量配送が恒常化し、またそのような蕎麦との差別化を図るために「手打ち蕎麦」の看板を掲げる店では、主人が蕎麦打ちの修行をして自ら打つケースが多くなり、蕎麦職人の出番は徐々に減っていくことになる。だが、現在でも蕎麦打ち職人は消滅することなく、料理屋・料亭やホテルのレストランなどへ派遣されていると聞く。
 そのあたりの事情も、女学生は詳しく訊いているらしく、蕎麦屋の主人は詳細に説明している。つづけて、『我が住む町』から引用してみよう。
  
 そばやの職人は、やはり親方の様なものがあつて、其所から雇ひます。忙がしい時には人をふやしひまな時には減すやうにします。只職人といつてもそばやうどんを作る人と、てんぷらを揚げたりお汁をつくつたりする板場のかゝりと、それぞれの注文に応じて色々準備をする。まあ配膳の役をする人たちとがあつてめいめい仕事を分担してやつてゐます。大抵普通の職人は、月五十円位はとつてゐますが、殊にそばを作る職人が一ばん熟練が要るのださうです。勿論あの細く切るのは機械なのですけれども。
  
 現代の蕎麦屋は、たいがい家族経営の自営業か法人経営が多く、書かれているような職人たちを集めて仕事をする店は少なくなっただろう。それぞれ料理や汁物を分担するのは、給料制の家族か従業員(社員・パート)たちであって、経営の安定化や効率化からいえばフリーの専門職人を雇う店は多くないにちがいない。だが、新蕎麦がでる時期のデパ地下とか、その季節だけメニューに蕎麦が加わる料亭や料理屋では、数ヶ月の契約で蕎麦職人を雇用するケースがいまだあるのだろう。
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 街中の蕎麦屋では、年末の年越しなどで蕎麦の需要が一気に高まる時期などは、看板に「手打ち蕎麦」を掲げる店の場合、1日だけの契約で蕎麦職人を臨時に派遣してもらうところもあるのかもしれない。
 蕎麦の出前では、さすがに掛買いするような野暮な家は、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)にもほとんどなかったようで、売上金の回収で苦労することはなかったらしい。再び、主人の証言を聞いてみよう。
  
 『何といつても味が良くなければかういふ商売は駄目ですから、鴨なんばん、親子などに入れる色々の種物は、皆河岸から直接買つて、板場で料理して使ひます。それに又器物のことも中々大切なんです。なにしろ直接御客様の御口に入るものですから特別気をつけて一番金をかけて清潔なものにしてゐます。』
  
 主人の話を聞く限り、この高田町に開店していた蕎麦屋は、わたし好みのかなりうまい店だったような気がする。もし、現在でも営業をつづけているのであれば、「あっ、そりゃうちの祖父ちゃんがさ、自由学園の女学生から取材を受けたてえ話だ」とコメント欄に情報をいただければ、さっそく食べにうかがいたい。w 彼女は「高田町郊外」と書いているので、上り屋敷あたりの住宅街に開店していた蕎麦屋だろうか。いまも健在であれば、そろそろ創業100周年を迎えているはずだ。
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 高等科2年の横山八重子は、女子がひとりで蕎麦屋に洋装で入ったりしたら、かなり目立つ奇妙な光景だと考えたのか、あえて着物袴の姿で訪問している。現代でいえば、清楚な女子がひとりで焼肉屋や一膳飯屋(大衆食堂)ののれんをくぐるようなもので、勇気のいる「かなりの努力だつたのです」の感覚なのだろう。でも、蕎麦屋の主人から多くの情報が聞けて、「うれしくなつて店を出」ている。さて、次回は高田町でもっとも多い「菓子屋」Click!へのインタビュー取材を紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:1927年(昭和2)に竣工した、遠藤新Click!設計による自由学園講堂。
◆写真中上:江戸中期には、蕎麦に葛西産の天然海苔からつくる浅草海苔を載せると倍の料金になった。品川沖で海苔養殖が軌道にのると、浅草海苔の価格は下落した。
◆写真中下:蕎麦屋に入ると、併せて多彩な丼物Click!(写真は親子丼)も注文したくなる。
◆写真下は、本科2年の国語の授業で島崎藤村Click!の『ふるさと』をテキストに使用している。F.L.ライトClick!の来校と前後して、島崎藤村も講演に訪れている。は、1923年(大正12)4月18日に撮影された高等科の第1回卒業記念写真。

『新宿区史』の下落合写真1955年。

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 このブログをはじめたころ、1955年(昭和30)に撮影された下落合の踏み切りが、どこだかわからないという記事Click!を書いた。現在では、落合地域の各時代における街並みが、頭の中で透過して見えるようになっているので、当時は不明だった撮影場所の特定も容易になっている。そこで、1955年(昭和30)出版の『新宿区史』(新宿区役所)に収録された、下落合の風景写真について、改めて撮影場所を検証してみよう。
 まず、冒頭の踏み切り写真から見ていこう。踏み切りには、敗戦の連合軍による占領時代の名残りからか、「STOP」の標識とともに「CROSSING RAILROAD」の大きな文字が見える。光は背後から射しており、北を向いて撮影しているのは明らかだ。踏み切りをわたると、道路は右へ斜めに通っており、道端には煙突のある工場、あるいは屋上にウォータータンクを載せた団地か寮のような建物が見えている。
 工場のような建物の屋根上には、「森永牛乳」と書かれた看板(おそらく電飾看板)が見え、踏み切り手前の左手、および踏み切りをわたった正面の空き地の左手には、工場ではなく民家と思われる塀や屋根が見えている。そして、遠景にはかなり大きな木々が繁る雑木林がとらえられている。
 この踏み切りを、さらに注意深く観察すると、「踏切注意」と書かれた看板のポール下に「2」という数字の書かれているのが確認できる。これは、西武新宿線の「高田馬場2号踏切」の意味だろう。すなわち、この踏み切りは1955年(昭和30)の時点で、山手線のガードClick!をくぐった西武線が2つめにさしかかる踏み切りであり、現在もおそらくそのままの名称で呼ばれているのだろう。「高田馬場1号踏切」は、1960年(昭和35)前後に廃止されており、現在は線路の北側がバスケコートが付属した清水川公園や祖谷印刷所跡Click!などになっている。
 そこまで規定できれば、写真にとらえられている建物は容易に特定することができる。まず、踏み切りをわたった空き地の向こうに見えている、屋根上に「森永牛乳」のネオンサインを載せた煙突つきの工場は、「東一綿業KK」の建屋だ。踏み切りの手前(南側)でも、指田製綿工場Click!が営業していたが、下落合の神田川沿いには製薬業Click!染色業Click!とともに、脱脂綿やガーゼなど衛生製品を生産する製綿工場も多かった。
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 また、正面に見えている白いアパート群は、「電電公社」の1号アパートと、そのうしろ(北側)の2号アパートの重なりだろう。電電公社のアパートは、雑司ヶ谷道Click!に面した3号アパートを含め、南北に3棟が並んで建っていた。この3階建てとみられるアパート群に隠れ、目白崖線の丘が見えなくなっている。アパートの背後にあるのは、日立目白クラブClick!(旧・学習院昭和寮Click!)のテニスコートと、御留山Click!の深く切れこんだ林泉園Click!からつづく谷戸Click!の地形だ。写真の左手に見えている木々が、弁天池Click!のある谷戸の出口に生えている雑木林の一部だろう。
 踏み切りをわたり、東側へ斜めにつづく道筋の右手は、下落合1丁目42番地の「三宝製薬KK」の工場だ。三宝製薬はいまも下落合で健在であり、この踏み切りから北へわずか40m、十三間通りClick!(新目白通り)の横断歩道をわたった正面に見える、1階にローソンが入ったガラス張りの大きな建物が同社の本社ビルだ。また、正面に見える空き地の左手に見えている民家の切妻屋根は、下落合1丁目74番地の引間邸だろう。
 次に、同じく1955年(昭和30)出版の『新宿区史』に掲載された、下落合の目白通りの写真を見てみよう。目白通りの右手は、商店ではなく木々が繁ったなんらかの施設のようで、その前の歩道および道路がわずかに屈曲しているのが見てとれる。
 目白通りの反対側の歩道には「消火栓」と書かれたサインの向こう側に、薬品の名前とみられる看板を掲げた薬局らしい店舗がとらえられている。薬局とみられる店舗の手前には、北へと入る細い路地が確認できる。また、目白通りの先は通貫しておらず、右へ屈曲しているように見え、先まで見とおすことができない。
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 この風景に見あう場所は、下落合1丁目500番地(現・下落合3丁目)の目白(福音)教会Click!あるいは目白幼稚園の前にあたる歩道の端から、目白通りの東を向いて撮影したものにまちがいないだろう。左手に見えている商店は、下落合1丁目543番地(現・下落合3丁目)の「クスリスギガラ」(薬杉柄?)だ。つづけて、通り沿いに東へ「平岩ボタン店」「吉野靴店」「テーラー旭屋」「本の文祥堂」……と商店街がつづいている。また、左端のイチョウ並木に隠れているのは、もともとなんらかの店舗を営業していたらしい、下落合1丁目544番地の大塚邸だ。
 最後は、ブログをはじめた当初から、撮影場所が判明している下落合の写真だ。近衛町Click!の通りを、南から北を向いて写しており、旧・近衛邸Click!の玄関先にあった車廻しの双子のケヤキが、道路の真ん中にとらえられている。この双子のケヤキClick!は、1960年(昭和35)前後に東側のケヤキへ落雷Click!し、樹勢が弱ったために西側のケヤキを20mほど南の道路端へ移植している。
 カメラマンは、画面左側に塀が写る下落合1丁目416番地(現・下落合2丁目)の玉木邸と、右側の下落合1丁目415番地の全日検目白寮にはさまれた路上から、北を向いて撮影している。左手に連なる建物は、手前の門が玉木邸、つづいてロードローラーのいる左手が目白ヶ丘教会Click!、竹内邸、Frank Korn邸、岡田邸の順、右手は手前の塀が全日検の目白寮で、北へ早尾邸、呉邸、海東邸、大友邸、三井邸の順に並んでいた。
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 1974年(昭和49)の高校時代に、わたしは初めて近衛町を散歩しているが、この風景とさほど変わっていなかった印象がある。空襲から焼け残った家々も多く、現在とは比べものにならないほど、緑が濃かったのを憶えている。いや、近衛町に限らず当時の下落合は、街全体が樹木の緑で覆われており、とても新宿区とは思えない風情をしていた。次回は、同じく1955年(昭和30)に撮影された上落合風景の写真を特定してみよう。

◆写真上:1955年(昭和30)の『新宿区史』に掲載されている、下落合の踏み切り(高田馬場2号踏切)。ようやく、撮影場所と写っている建物が特定できた。
◆写真中上は、1957年(昭和32)の空中写真にみる「高田馬場2号踏切」。は、1963年(昭和38)撮影の同踏み切りで「高田馬場1号踏切」は廃止されている。は、「高田馬場2号踏切」の現状で正面に見えるガラス張りの建物が三宝製薬本社ビル。
◆写真中下は、1955年(昭和30)の『新宿区史』に掲載された目白通りの写真。は、1957年(昭和32)と1963年(昭和38)の空中写真にみる撮影ポイント。
◆写真下は、同年に撮影された下落合の近衛町。は、1957年(昭和32)撮影の空中写真にみる撮影ポイント。双子のケヤキは、いまだ道路の真ん中に2本とも並んでいる。また、林泉園からつづく御留山の谷戸が地下鉄・丸ノ内線工事の土砂で埋め立てられはじめているのが見える。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる撮影ポイント。すでに落雷があり、双子のケヤキのうち西側の木が南へ移植されているのが見える。

『新宿区史』の上落合写真1955年。

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 前回Click!につづき、1955年(昭和30)出版の『新宿区史』(新宿区役所)に収録された、今回は上落合の風景写真について撮影場所を特定してみよう。上落合は、二度にわたる山手空襲Click!により、ほぼ全域が焦土と化した街なので、戦後の新たな区画整理や道路敷設などにより、街並みがめまぐるしく変化している。
 まず、遊具が設置され子どもたちが大勢遊んでいる、冒頭写真の児童公園から見ていこう。この撮影場所の特定は、かなり容易だった。この公園はすでに廃止されて久しいが、上落合2丁目787番地にある最勝寺の境内南側に設置されていた児童公園だ。公園の背後には、最勝寺の墓苑に並ぶ墓石がとらえられている。カメラマンは、クルマの往来がそれほど頻繁でない、開通してから4~5年が経過した改正道路(山手通り)Click!から西を向いて撮影している。
 当時、画面の右枠外には、公園に隣接するように戸塚警察署の上落合派出所があり、その向こう側には最勝寺の大きな本堂の屋根が見えていたはずだ。また、公園の手前路上には、太い丸太が何本も置かれているが、これから新たに設置・架設される電柱用の資材だろう。墓地の中には、現存するコンクリートの納骨堂もとらえられている。ブランコの脇に、赤ん坊を背負った母親の姿が見えるが、敗戦から10年がたち、子どもたちがのびのびと遊ぶ姿を眺めながら、平和な時代を噛みしめている姿なのかもしれない。
 つづいて2枚目の写真は、まるで空襲後の焼け跡か廃墟のようなガレキだらけのエリアを写したものだが、これは特に説明の必要もないだろう。上落合の神田川沿い、前田地区Click!に展開していた工場街や住宅街の一帯を東京都が丸ごと買収し、看板にもあるとおり「落合下水処理場」(現・落合水再生センターClick!)の建設工事に着手したのを記録した写真だ。敷地内には、いまだ団地や民家の建物が残っているのが見えるが、1964年(昭和39)の運転開始までにすべてが解体され、下水処理施設(水再生施設)Click!と公園や野球場、テニスコートなどが建設されている。
 同施設は、地元の新宿区はもちろん中野区、渋谷区、世田谷区の全域をはじめ、杉並区、豊島区、練馬区の一部エリアを含め、東京23区の西北部に位置する人口が多い街の、ほぼ全域の下水処理を担当するために建設されたものだ。落合水再生センターで浄化処理される水質Click!は年々向上しつづけ、神田川Click!に多種多様な生物がもどったのは何度か記事Click!にも書いている。同センターで浄化された水は、地元の神田川ばかりでなく、渋谷川や古川、目黒川の事実上の“源流”(いわば給水源)となっている。したがって、この3つの河川も神田川につづき、水質が徐々に改善されているのではないだろうか。
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 さて、「落合下水処理場建設用地」の写真にもどろう。カメラマンは、前田地区に建っていた旧・小松製薬工場の正門前から東を向いて撮影しているが、この正門前の道路はすべて下水処理場や公園の下になってしまい、現在は撮影ポイントに立つことができない。これは、次にご紹介する上落合の写真にも関わってくるテーマだが、下落合の聖母坂Click!を下り、下落合駅西側の踏み切り(下落合1号踏切)をわたって小滝橋Click!まで通う、戦前から関東バスClick!の路線が走っていたこの道は、道路西側の住宅街ともども東京都に買収され、下水処理場の建設がスタートすると同時に、バス通りはさらに西側へ南北に敷設しなおされることになった。
 すなわち、この写真を撮影したカメラマンは、現在の落合中央公園に設置されているドッグラン広場の西端あたりから、東側のテニスコートや処理施設のほうを向いて撮影していることになる。写真にとらえられた、戦前にはちょうど明星小学校Click!があった位置に建っている団地は、小松製薬の社宅か都営アパートかは不明だが、戦後の住宅難だった時期に建てられた集合住宅だったのかもしれない。
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 『新宿区史』(1955年)に収録された3枚目の写真は、上落合1丁目の住宅街を撮影した写真とのキャプションがあるが、この場所の特定にかなり手間どってしまった。結果からいえば、写真に写る路地の奥の半分は、下水処理場と新たなバス通りの下になってしまい現存していない。撮影場所の特定でキメ手になったのは、陽射しの様子から右手が南であり、カメラマンは西から東を向いて撮影している点と、路地が奥までまっすぐに貫通しておらず、途中で鍵型にクラックしている形状の道筋がポイントだった。
 路地の突きあたり、T字状になった横の道が戦前からの旧バス通りであり、奥に見える住宅や商店とみられる建物は、2年後に撮影された1957年(昭和32)の空中写真を見ると、ほぼすべてが解体されている。そして、1963年(昭和38)撮影の空中写真では、西寄りに改めて敷設された新たなバス通りが開通しているので、一帯の解体工事は1960年(昭和35)前後に終了しているのだろう。
 空中写真には、この路地の北側にふたつの大きな屋根がとらえられているが、1957年(昭和32)の時点ではいまだ建設中のアパート「静風荘」の屋根だ。翌1958年(昭和33)6月に竣工する静風荘の2棟(1号棟/2号棟)だが、いまでも当時の建物をそのまま目にすることができる。わたしが親から独立し、学生時代に借りていた築30年の古いアパートに似て懐かしいが、現在でも周辺の学生たちが部屋を借りているのだろうか。最近、外壁をグレーにリフォームして築62年には見えなくなった。
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 『新宿区史』(1955年)には、ほかにも当時の街並みを撮影した写真が数多く掲載されている。ちょうど1960年代の高度経済成長期に入る直前、新宿エリアで見られた街や風景をとらえた写真類だが、また気になる画面を見つけたら改めて記事を書いてみたい。

◆写真上:1955年(昭和30)の『新宿区史』に掲載された、上落合の最勝寺境内にあった児童公園。公園の背後には墓地が見えており、本堂は画面の右手枠外にある。
◆写真中上は、1957年(昭和32)の空中写真にみる最勝寺の児童公園と撮影ポイント。山手通りは、まだクルマの往来がかなり少ない。は、1963年(昭和38)に撮影された同公園で、最勝寺前の山手通りには横断歩道が設置されている。は、山手通りの横断歩道から見た最勝寺の現状で、児童公園は画面左手の枠外にあった。
◆写真中下は、1955年(昭和30)の『新宿区史』に掲載された整地作業が行われている落合下水処理場建設用地。は、1957年(昭和32)の空中写真にみる小松製薬工場跡の撮影ポイント。は、落合水再生センターの現状。
◆写真下は、同じく『新宿区史』に掲載された上落合1丁目の路地。は、1957年(昭和32)の空中写真にみる撮影ポイントで路地奥の住宅街が解体されている。は、1963年(昭和38)の空中写真で新たなバス通りが敷設されているのがわかる。

落合消費組合(城西消費組合)の記憶。

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 大正期に入ると、東京では各地に今日の生協の基盤となる、生産者と消費者を直結する「消費者組合」が誕生している。落合地域でも、下落合を中心にそのような組織が活動していた。下落合の東部では落合家庭購買組合Click!が、中部では落合府営住宅Click!目白文化村Click!を中心にした同志会Click!が、西部から上落合あるいは西落合にかけては落合消費組合(のち城西消費組合)が結成されていた。
 これらの組織の中でもっとも古いのは、吉野作造Click!の民本主義思想をベースに結成された家庭購買組合だ。三岸好太郎Click!が一時期、本郷購買組合に勤務していたことはご紹介したが、大正期には中村彝アトリエClick!の斜向かい、林泉園Click!の西側にあたる下落合397番地に、1935年(昭和10)すぎには目白通りに面した、目白中学校Click!の跡地にあたる下落合(1丁目)437番地に移転して活動している。
 また、下落合の中部では目白文化村や落合府営住宅の住民たちが中心となり、1932年(昭和7)すぎに結成された同志会Click!という組織があった。無教会派のキリスト教徒が発起人の中心で、事務所は第一文化村の前谷戸にあった弁天池が背後に見える下落合(3丁目)1605番地に置かれていた。そして、さらに西側と南側の下落合や上落合、西落合には落合消費組合(のち城西消費組合)が結成されていた。
 落合消費組合(1932年より城西消費組合に改称)が結成されたのは、目白文化村の同志会よりも古く1929年(昭和4)のことだった。1935年(昭和10)に10周年記念大会を開催しているので、それ以前の東京共働社による家庭会時代を入れると、消費組合のスタートは1925年(大正14)ということになる。したがって、落合府営住宅や目白文化村も含め、下落合の中部から西部の家々では同志会よりも以前から、落合消費組合のほうへ加入していた家々があったかもしれない。
 消費組合の母体となる家庭会結成は、新居格や金井満、笠原千鶴、橋浦泰雄、橋浦時雄、奥むめおたちが発起人となり、会長には与謝野晶子Click!が就任している。東京市内で徐々に会員を増やしながら、役員や賛同者には浦泰雄Click!大宅壮一Click!江口渙(換)Click!神近市子Click!村山知義Click!柳瀬正夢Click!壺井栄Click!宮本百合子Click!平林たい子Click!、丸岡秀子、勝目テルなど、落合地域とそのすぐ周辺域に住んでいた人々も少なくない。
 戦前戦後を通じて、城西消費組合の仕事を手伝っていた、当時は西落合1丁目306番地(のち303番地)に住んでいた松岡朝子の証言が残っている。この住所は、旧・松下春雄アトリエClick!の地番であり、松岡朝子とはもちろん柳瀬正夢Click!が1939年(昭和14)1月に再婚した連れ合いのことだ。松岡朝子について、1996年(平成8)に岩波書店から出版された井出孫六『ねじ釘の如く』から引用してみよう。
  
 地下鉄ストで馘首された松岡朝子は、自立のため一年洋裁学校に通って、洋裁を始めた。築地小劇場の女優たちのアルバイトであるマネキンの衣装を縫った。原泉がブラウスを注文しようとしたら、夫の中野重治が「もっとちゃんとした人に頼んだらどうだ」と言ったと伝わってきた。このことばが松岡朝子に一念発起させ、デッサンの基礎を身につけねばと思わせた。
  
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 地下鉄のストライキに参加し、特高Click!に逮捕されて会社をクビになった松岡朝子は、西落合にあった柳瀬正夢アトリエへデッサンを習いに通いはじめるのだが、1939年(昭和14)の結婚と同時に夫が役員をやっていた関係から、城西消費組合(旧・落合消費組合)の仕事へも少しずつ参画していくことになる。
 当時、朝子夫人も指摘しているように、消費組合の役員や会員には男性名が名を連ねていても、実質はその連れ合いが活動していたケースが圧倒的に多いようだ。1997年(平成9)に新宿区地域女性史編纂委員会から発行された、松岡朝子へのインタビューをまとめた『新宿に生きた女性たち』から当時の様子を引用してみよう。
  
 一九三九(昭和一四)年、二四歳の時、プロレタリア政治漫画も描く画家の柳瀬正夢と結婚して、淀橋区の西落合に住みました。いきなり、子ども二人の母親になって、家事がたいへんで、私はあまり外にはでられませんでしたね。落合消費組合はもう、城西消費組合になっていたようですが、何をしていたかはよくわかりません。/組合の会員名簿は男の名前が多いけれど、実際は奥さんが一生懸命やっていましたよ。奥さんがやっていても、昔は夫の名前を出していました。奥さんは、名前を出しませんでしたから。でも、落合消費組合は女の人の名前が多いですね。班会議というのをやっていたようでしたが、出たことはありませんね。新婚でしたし。/(中略) 勝目テルさんはよく知っています。小沢清子さんもよく知っています。林芙美子さん、神近市子さん、壺井栄さん、あまり外へでなかったから面識はないけど、名前は知っています。林芙美子さんの夫は画家ということですが、夫とは付き合いはありませんでした。初代の婦人部長は与謝野晶子さんということも知っています。よくやっていらっしゃったという半田さんという方は知りません。/荻郁子さんという方がおもしろかったですよ。高田馬場で酒場をやっていて、交渉なんかあるととても活躍した人でした。先頭にたってやる人でした。独身で鉄火肌の人でしたね。
  
 「何をしていたかはよくわかりません」と答えていながら、かなり内情には詳しいようなので、おそらく朝子夫人以上に活躍していた、当時の先輩の女性たちを意識した謙遜ではないかと思われる。城西消費組合は、各地の消費組合に比べガス代値上げ反対運動を展開するなど「戦闘的」だったようだが、特に婦人活動が活発で子供会や郊外の立地を活かしたピクニック、講演会、映画・演劇など文化活動に力を入れていた。
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 1929年(昭和4)の設立当初、落合消費組合の事務所がどこにあったのかはハッキリしないが、上落合2丁目549番地の壺井繁治・壺井栄宅Click!の隣家に住んでいた、同組合の設立者のひとりで戦後は宇野学派の国独資経済学者Click!となり、のちに東京経済大学学長となる井汲卓一Click!夫妻の自宅あたりではないだろうか。
 つづけて、松岡朝子のインタビュー「落合消費組合の思い出」から引用してみよう。
  ▼
 今は、あのあたり高いマンションが建っているけれど昔は畑がたくさんあって、練馬に近いからそこで取れた土地のものを直接仕入れたのを売りにきました。それで、一銭でも安くって。今の産直ですね。/その当時は、落合から吉祥寺あたりまでは道路は赤土のままで、砂利も入らず荷車の轍の跡や、自転車のタイヤの跡などで、でこぼこのぬかるみでした。そこを自転車にリヤカーをつけて物を運んでました。/当時は魚が主で、肉はあまり食べませんでしたね。麻袋入りの米、みそ、一升瓶入りの醤油、砂糖、ちり紙や石鹸など日常品も売っていました。/城西消費組合は、一〇家族くらいの班組織が基礎になっていて、そこから班長を選出し、班長会議、役員会議で経営方針を決めていました。/(城西消費組合創立十周年記念ポスターを見ながら)これは、夫柳瀬がつくったんですよ。男性のモデルは常務者の宮尾さん、一九三五年のことで、結婚前ですから、私は知らなかったのですけど、徳川無声(ママ:徳川夢声)、アルト歌手の四家文子さんなどをよんで盛会だったようです。(カッコ内引用者註)
  
 この時期の城西消費組合落合支部(旧・落合消費組合)がどこにあったのか、朝子夫人が回想する「高いマンションが建っているけれど昔は畑がたくさんあって」という表現から推測すれば、朝子夫人が結婚した1939年(昭和14)現在、上落合地域にはすでに住宅がほぼぎっしりと建ち並び、すでに「畑がたくさん」はないので、西落合の新青梅街道沿い、あるいは目白通りも近いどこかではないかと想定している。
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 結婚後わずか6年で、夫の柳瀬正夢は諏訪に疎開していた長女のもとへ布団をとどけようと、新宿駅の西口広場Click!にいたところを、B29から投下され炸裂したM69集束焼夷弾Click!の破片を受けて死亡する。1945年(昭和20)5月25日午後11時ごろのことだった。

◆写真上:1933年(昭和8)まで松下春雄アトリエだった、西落合1丁目306番地(のち303番地)の柳瀬正夢アトリエ(左側)。右側は、鬼頭鍋三郎Click!アトリエ。
◆写真中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる落合家庭購買組合。ほどなく、下落合1丁目5016番地の目白中学校跡地へ移転している。は、1932年(昭和7)に目白文化村と落合府営住宅の住民が中心になり設立された同志会事務所。は、1939年(昭和14)1月に撮影された結婚直後の松岡朝子と柳瀬正夢。
◆写真中下は、1935年(昭和10)2月21日に開かれた「小林多喜二を偲ぶ会」の柳瀬正夢(右端)。深刻なぎこちない表情での撮影のあと、撮影者が「笑って」と声をかけ思わず笑ってしまった出席者たち。母親の小林セキを中心に原泉Click!中野重治Click!中野鈴子Click!片岡鉄平Click!、村山知義、村山籌子Click!、壺井繁治、壺井栄、宮本百合子、窪川鶴次郎Click!窪川稲子(佐多稲子)Click!蔵原惟郭Click!上野壮夫Click!など、拙サイトではお馴染みの落合地域とその周辺で暮らしていた顔ぶれが多い。は、1935年(昭和10)制作の東北飢餓飢饉支援ポスターで柳瀬正夢『飢えたる農民に労働者の手をのばせ!』。城西消費組合のポスターも、このようなタッチだったのだろうか。
◆写真下中左は、内務省の特高資料に残る1932年(昭和7)作成の「城西消費組合創立総会議定書」。同年2月29日の発禁スタンプが押され、内部には「サヴエート礼賛」「彼等戦争観」など特高の検閲メモがそのまま残っている。中右は、松岡朝子インタビューが掲載された『新宿に生きた女性たち』(新宿区地域女性史編纂委員会/1997年)。は、焼夷弾が炸裂して落ちていく1945年(昭和20)5月25日午後11時ごろの新宿駅西口広場。死を目前にした柳瀬正夢も、この光景を眼下のどこかで見ていたはずだ。
おまけ
 「笑って」とカメラマンが声をかける前の写真だが、誰かが「明るくいきましょうや」とでもいったのか、右端の柳瀬正夢と上野壮夫、真ん中右寄りの村山籌子、そして左端の原泉などはすでに笑みを浮かべている。今日の視点から見ると、この席に小林多喜二の妻だった下落合の伊藤ふじ子Click!がいないのがかえって不自然な光景だ。
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高田町の商店レポート1925年。(11)菓子屋

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 自由学園Click!高等科2年の奥村數子は、お菓子屋のガラス戸をガラリと開けて入った。さっそく「いらつしやいませ」と声がかかったが、相手が自由学園の女学生Click!による取材だとわかると、あからさまにイヤな顔をされたらしい。調査員の女学生がいつ顧客に、しかも近所のお得意になるかわからない……というような想像力は、この菓子屋の主人にはなかったようだ。
 奥村數子の文章によれば、「向ふではお客様だと思つたのに邪魔な者が飛び込んだなと云ふやうな顔をした」と書いているので、最初から自由学園の町内調査Click!を快く思っていなかった店らしい。それでも、女学生からの質問にはしぶしぶと答えているようなので、「米屋」Click!の記事に登場した本科1年生の女子いわく、「このうち変なのよ。怒つてるの」の床屋のように、断固とした調査拒否ではなかったようだ。
 以下、菓子屋の主人とのやり取りをそのまま再現した様子を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 『お菓子ですか、それは製造元から問屋にやり、問屋と小売との間に仲買と云ふものがあつて、その手を経て私等の所に来るんです。』
 『それなら仲買と云ふものはどの位手数料を取るのですか。』
 『まあその物の五分ですね。』
 『仲買の手を経ずに直接問屋に買ひに行くことは出来ないのですか。』
 『小売商が直接行つても、そんなに安くはしてくれません。結局同じで、仲買からとる方が手間だけ徳(ママ:得)な訳です。唯現金で買ふのが徳(ママ)なだけです。手前共はすべて現金です。』
 『お宅では何が一番売れますか。』
 『矢張り餅菓子類ですね、その餅菓子類はすべて自家でつくります。餅菓子類なんかはアンコが第一ですからな。この近所では家のアンコがいゝと云つて、毎日沢山買ひに来て下さいます。それは手前共の自慢なのです。』
  
 主人は、一般的な菓子の仕入れルートについて説明しているが、現在ではこのルート自体が崩壊しつつある。製造元から、問屋や仲買を経由しないでいきなり小売商にとどけられたり、菓子の種類によっては製造元から直接消費者に配送されるルートがあたりまえになりつつある。ネット通販の普及で、一気に「中抜き」販売が拡大したからだ。
 ただし、主人も会話の中で触れているが、その店ならでは餅菓子類をはじめとする日もちのしない自家製菓子は、その店まで出向かないと手に入らないので、和洋を問わず菓子店がなくならない大きな理由なのだろう。レコード屋や取次店を含めた本屋はネットに駆逐されそうだが、オリジナルな和洋の菓子屋は消費者の嗜好が大きく変わらないかぎり、これからも営業しつづけるにちがいない。
 わたしは、それほど甘い和菓子は進んで食べるほうではないが、下落合で美味しいと感じた店は、残念ながら創業100年で閉店してしまった学生時代からお馴染みの「ますだや」Click!さんと、目白文化村Click!とともに歩んできた第一文化村西端に開店している創業84年の「千成」Click!さんだ。いずれも、桜餅Click!の仕上がりが秀逸だった。
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 さて、菓子屋の主人と女学生との間で、餅菓子の「古い新しい」の話題がでたところで、すでにご紹介Click!している「お客様と云ふのは案外人のよいもので……」という、商売上手な主人の言葉がつづくことになる。他店よりも、値段を高くすると「手前共のはアンコがいい」と“付加価値”らしきことをいえば、消費者は納得して買っていく……というくだりだ。同業の他店に比べ、少しぐらい値段を高くしても、お客は「買ひつけた店を好むものですよ」という主人の答えに、女学生は物価が高い高いといいながら高田町民は「それに甘んじて居るのですね」と半ば呆れている。
 自家製の和菓子に対し、製菓工場でつくられたビスケットやキャラメルは、その店ならではの“付加価値”トークがまったくできないので、「一番つまりません」と答えている。自家製の菓子が2割前後の利益に対し、既製品の菓子は5分のもうけがせいぜいだったらしい。つづけて、菓子屋の主人の話を聞いてみよう。
  
 『利益は物によつて違ひますが、まあ二割ですね。餅菓子類ですと五銭の物なら、一銭五厘は口銭ですからなあ、でも二割と申しましてもその中に袋代やなんか引かれますし、結局一割八分位でせう。』
 売上げ額のことをきくと、/『さあそいつは困りましたなあ、今頃はまあいゝですが、夏場になると上つたりですよ、餅菓子類なんか腐りますからね。』
  
 主人の話で面白いのは、以前にも引用した「探偵」を使って他店の菓子(新製品)を探らせることが、頻繁に行われていたらしい点だ。
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 ある店ならではの、オリジナルの菓子が開発されると、さっそく「探偵」を雇い調査・購入させて新製品を研究し、すかさず同様の菓子を店頭に並べていた。この製品コピーのケースだと、他店よりも安く売ることで利益を上げていたようなのだが、せっかく苦労してアイデアを練り新製品を開発した店では、たまったものではなかったろう。
 高田町で開店していた菓子屋は、駄菓子屋も含めると214軒にものぼり、1軒の菓子屋につきわずか33戸の家庭が支えていたことになる。そのような競合市場では、少しでも製品やサービスをよくして、他店との差別化を図るのが商売上の基本だが、差別化を試みるたびに他店から模倣されていたのでは健全な競争にはならない。どこの店へ入っても、同じような製品やサービスだったら目新しさや新鮮さがなくなり、やがて消費者は飽きてしまうだろう。
 遠からず高田町の菓子屋は、店舗の蝟集環境から共倒れになるか、再び新天地を求めてより郊外の街への移転を考えた店も、少なからずあったにちがいない。女学生が取材した店が、その後どうなったのかは不明だが、より美味しい菓子を開発して客数を増やしたいというプロ意識ではなく、「優しくて素人にも出来る」商売だからとこぼす主人の様子から、ほどなく高田町から淘汰されてしまったような気がするのだ。
 「夏場になると上つたり」と答える主人だが、当時は電気冷蔵庫や冷凍庫が個人商店では容易に導入できないので、ことに夏季には今日の菓子屋のように、バラエティに富んだ涼しげな製品を店頭に並べることがむずかしかった。いまでもそうだが、暑い盛りに熱いお茶とともにアンコが入った餅菓子を食べたいとは、誰も思わないだろう。
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 アイスクリームやかき氷が、高級喫茶店やホテル、レストランだけでなく、街中にある菓子屋の店先でふつうに食べられるようになり、「夏場になると上つたり」な状況を解消できるのは、もう少し時代が下った昭和に入ってからのことだ。さて、次回は店舗インタビューの最終回、高田町の大きな「荒物屋」を訪ねた女学生の取材をご紹介しよう。
                                  <つづく>

◆写真上:大正期の羽仁吉一・もと子夫妻の邸跡に建つ婦人之友社。
◆写真中上は、大江戸の向島は隅田堤で有名な元祖サクラ餅の「長命寺」Click!は、神田と日本橋の境を流れる龍閑川(暗渠化)に架かる今川橋のたもとで1770年代に発明された「今川焼き」。幕末から明治期にかけ、江戸東京から全国に広まった。
◆写真中下:いまも昔も見つけると、子どもたちが突撃する駄菓子屋の店先。
◆写真下は、下落合の近衛秀麿Click!が自由学園に依頼して結成された日本初の本格的な女声合唱団。近衛秀麿指揮+新交響楽団Click!+自由学園で、交響曲第9番(ベートーヴェン)や天地創造(ハイドン)、交響曲第3番(マーラー)、「イゴール公」(ボロディン)、「大礼交声曲」(近衛)などが東京各地で毎年演奏された。なお、自由学園の校歌『自由を目指して』は近衛が作曲している。は、1927年(昭和2)に撮影された音楽の授業風景。

大谷石が集積された宅地造成工事現場。

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 2021年度にオープンを予定している大阪中之島美術館へ収蔵予定の作品に、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の1作で水彩画の『目白の風景』があるのを、pinkichさんよりご教示いただいた。欧州滞在中の作品Click!ならともかく、佐伯の水彩画はめずらしいのでさっそく取り上げてみたい。
 この水彩画面の描画ポイントは、すでにこちらでも油彩のタブローでご紹介している『下落合風景』Click!と同一の場所だ。油彩の『下落合風景』(652×800mm/25号キャンバス)は、1979年(昭和54)に朝日新聞社から出版された『佐伯祐三全画集』にモノクロ写真で収録されている。油彩の同画面は、左手の街道筋まで入れたより広い画角で描かれているが、水彩の『目白の風景』は佐伯の“望遠”視点で、その中央部にあたる位置を拡大して描いている。さっそく、描かれているモチーフを見ていこう。
 まず、どんよりとした曇り空でわかりにくいが、建物の陰影が左側に多くみられるので、左手ないしは左手背後が北側の可能性が高い。枯れ草の様子から、季節は晩秋か初冬に近い季節で、煙突の煙は北風で南側へ流されているのだろう。水彩『目白の風景』だけでは、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いに見られた工場街か……と、下落合のどこを描いたのか迷ったかもしれないが、より視点を引いたタブローの『下落合風景』が存在するので、描画ポイントの特定はかなり容易だった。
 左手に見えている、白い煙(薪材を燃やしているとみられる煙色だ)を吐き出している煙突は、中ノ道Click!(下ノ道=中井通り=新井薬師道)沿いに開業している銭湯「草津温泉」Click!だ。手前は耕地整理が終わり、宅地造成がスタートした工事中の住宅と商店の敷地で、原っぱには縁石あるいは築垣に用いる大谷石の切り石が、すでに到着して集積されている。油彩のモノクロ『下落合風景』ではわかりにくかったが、水彩『目白の風景』でハッキリと大谷石の石積み表現だったのがわかる。この大谷石の集積は、大正後期の目白文化村Click!ではお馴染みの光景Click!だった。
 描かれている道筋は、画面の右手から左手へ人が2~3人ほど歩いているのが、妙正寺川に架かる寺斉橋Click!筋の道で、やがて中ノ道(現・中井通り)へとT字状に合流する。右にそのまま50mほど歩けば、寺斉橋に差しかかるはずだ。また、大谷石の石積みの右手からクネクネとつづいている道は、宅地開発とともに直線化されて、1933年(昭和8)ごろまで存在が確認できる小道(おそらく私道)だ。この小道は、1935年(昭和10)作成の「落合町市街図」では採取されずに消滅しており、1930年代前半のうちには廃止され住宅街の下になってしまったのだろう。
 話が前後するが、先ほど水彩『目白風景』の左手に描かれた白い排煙の煙突を銭湯「草津温泉」(現・ゆ~ザ・中井)と規定したのは、すでにご紹介している油彩の『下落合風景』の描画ポイントを特定する際、落合地域にある銭湯を総ざらえした結果をベースにしている。1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」、そして念のために1935年(昭和10)に作成された「落合町市街図」も参照して、佐伯祐三が「下落合風景」シリーズを制作していた時期に、開業していた可能性があるとみられる銭湯は、総数で19軒あることがわかった。
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 その内わけは下落合が7軒、上落合が8軒、さらに葛ヶ谷(のち西落合)が4軒だった。そして、その銭湯の多くが目白通り沿い、あるいは雑司ヶ谷道-中ノ道(新井薬師道)沿い、あるいは上落合の南端にあたる早稲田通り沿いで開業していた。
 それら銭湯の開業場所と、油彩『下落合風景』(全画集収録作品)に描かれている地形や道筋の形状、方角、建物の配置、煙突の数などすべてを総合して判断すると、それに合致する銭湯が下落合1866番地で開業していた「草津温泉」(現・ゆ~ザ・中井)の1ヶ所しかなかった……ということだ。そして、画面の右手に見えている細い煙突は下落合市場Click!の焼却炉に備えられた煙突か、あるいは煙管が細い描写なので遠景だと解釈すると、上落合436番地にあった銭湯(現・梅の湯)の煙突が目につき、佐伯は画面に入れて描いているのかもしれない。
 描かれている建物群は、寺斉橋筋の道のもう1本向こう側(東側)の道筋(南北道)沿いにならぶ建物群で、油彩の『下落合風景』では描かれているが、水彩『目白風景』では省略されているように見える、右側の細い煙突下の建物(あるいは線路の敷設で解体?)か、ないしは水彩『目白の風景』の右端でトタン屋根の白いテカリとみられる建物のどちらかが下落合市場、つづいて左手のやはりトタン屋根とみられる白く反射する屋根の家が漆器店「塗物マル長」、つづいて左手の横長の建物が鈴木邸……という配置だろうか。
 油彩『下落合風景』では、これら建物前の空き地には木柵が設置されていたのだが、水彩『目白の風景』では赤土がむき出しの空き地に、手前と同じような大谷石の切り石が集積されているようにも見える。換言すれば、油彩『下落合風景』と水彩『目白の風景』は同時に描かれたのではなく、どんよりとした曇り空は共通でも、数日ないしは数週間のタイムラグがある可能性が高い。
 工事の進捗から想定すると、木柵をめぐらした油彩『下落合風景』が草刈りや整地の前の様子で、整地を終え赤土の地面に大谷石の集積と思われるフォルムが見える水彩『目白の風景』が、それ以降の作品のように思える。佐伯は、一度油彩の25号でタブロー『下落合風景』を仕上げたあと、同作の風景が気になって再びスケッチブックを手に現地を訪れ、改めて水彩で写生しているのではないだろうか。
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 さて、下落合や上落合にお住まいの方、あるいは拙サイトを読んでこられた方なら、あちこちに縁石や築垣用の大谷石が集積され、なぜ宅地造成が急速に進んでいるエリアなのか、もうすでにおわかりのはずだ。佐伯祐三がこの風景を描いたとみられる1926年(大正15)の晩秋から初冬、右手へ歩くとぶつかる妙正寺川に架かる寺斉橋の手前で、井荻駅付近からスタートして初代・下落合駅Click!(氷川明神前駅)までつづく、鉄道連隊Click!による西武線の線路敷設の演習工事Click!が行われていたからだ。
 油彩『下落合風景』の街道が描かれた左手枠外には、目白崖線がつづく下落合の丘が連なっており、佐伯はちょうど蘭塔坂(二ノ坂)Click!の下あたりにイーゼルをすえ、ほぼ東を向いて仕事をしていることになる。つまり、この風景のエリアは翌年の4月に設置される西武線・中井駅Click!の駅前となることが少し前から判明しており、宅地造成あるいは店舗建設が急ピッチで進められていたのだ。
 描画ポイントをこのように特定してみると、水彩『目白の風景』のタイトルがいかにピント外れかが、おわかりいただけるだろう。このタイトルは、水彩『目白の風景』の画面裏に記されていたものだろうか? わたしにはそうは思えないのだが、ほかの「下落合風景」シリーズの画面と同様に、展示会の際などに作品を差別化するためにつけられた、あと追いのタイトルではないだろうか。あるいは、大阪の山本發次郎コレクションClick!にちなみ、「下落合風景」を最寄りの山手線の駅名に引きずられて、つい「目白風景」と呼んでしまう“慣例”に倣ったものだろうか。
 佐伯祐三が大阪で描いた、「中之島風景」の1作である『肥後橋風景』Click!(1926年)のことを、おそらく地元の大阪の方はいちばん近くのJR東西線の駅名からとって、「北新地風景」などとは決して呼ばないだろう。(北新地駅から肥後橋までは南へ約600mほど離れている) 同様に、JR山手線の目白駅Click!から西南西に2kmも離れたところにある下落合1866番地界隈の風景を、地元では誰も『目白の風景』などとは呼ばない。強いて駅名にこだわるのなら、佐伯が同作を描いていたときに軌道(レール)の敷設が急速に進み、およそ4~5ヶ月後の1927年(昭和2)4月16日に開業することになる、西武線・中井駅にちなんだ『中井の風景』ということになるだろうか。
 あるいは、現場とはまったく一致していない見当はずれな地名をタイトル化するのであれば、むしろ『洗濯物のある風景』Click!とか『散歩道』Click!『テニス』Click!『セメントの坪(ヘイ)』Click!などのように描かれているモチーフをタイトルに含めて表現するのが適切だろう。そのタイトル例を踏襲するなら、水彩『目白の風景』はさしづめ『石積みのある風景』、『切り石(大谷石)のある風景』、『銭湯の煙突がある風景』、『住宅造成地の風景』、あるいは『坪(ヘイ)にする大谷石のある風景』w……あたりだろうか。
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 1926年(大正15)の秋現在、目白駅の周辺はこれほど鄙びてはおらず、すでにコンクリート建築の銀行や商店が並んだ“街”なので、目白(豊島区/文京区)が地元の方々から「なんだこりゃ、このタイトルは?」という、半ばあきれ半ばお怒りの感情も考慮するとすればw、あまりのピント外れに、ちょっと再考していただきたい課題だろう。佐伯が好んで描くのは、下落合(新宿区)の街外れかことさら工事中・造成中の現場が多い。でも、描かれているのは確かに下落合なので、『下落合の風景』でいいのかもしれない。

◆写真上:1926年(大正15)の晩秋から初冬にかけて制作されたとみられる、銭湯「草津温泉」の煙突が見える佐伯祐三の水彩『目白の風景』。
◆写真中上は、先に描かれたと思われる佐伯祐三の油彩『下落合風景』(25号)。は、水彩『目白の風景』に描かれた銭湯「草津温泉」の煙突の拡大。は、油彩『下落合風景』に描かれた同煙突のクローズアップ。
◆写真中下は、1923年(大正12)6月に撮影された第一文化村の前谷戸埋立地。新たな造成地の縁石や共同溝、築垣などに用いられる大谷石の切り石が大量に集積されている。は、水彩『目白の風景』に描かれた大谷石の集積部分の拡大。は、油彩『下落合風景』に描かれた大谷石のクローズアップ。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント。(油彩『下落合風景』の視点で) 中井駅はなく、工事中の線路が描かれている。中上は、1926年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる同所。画面に描かれた私道とみられるクネクネ道が、すでに直線化され地番がふられている。中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中井駅前の様子。以前に規定した描画ポイントよりも、もう少し南の位置から描いたのかもしれない。銭湯「草津温泉」の煙突から、白煙が立ちのぼっているのがとらえられている。は、上落合436番地の「梅の湯」(大正末の銭湯名は不明)の高い煙突。写真はリニューアルされる前の古い煙突で、ひょっとすると戦前からのものかもしれない。
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