下落合734番地で暮らした片多徳郎Click!は、つるゑ夫人に7人の子どもたちとともに9人の大家族で、とても賑やかな家庭だった。それに、面倒をみていた親戚を加えると、およそ10人以上の人々に囲まれ、頼りにされて生活していたことになる。だが、片多徳郎は常に孤独感に苛まれていたようだ。
この孤独感、あるいは疎外感がアルコール依存症からくるものなのか、それとも画業に対する焦燥感から生じたものなのかは不明だが、片多徳郎の下落合時代は断酒のために青山赤十字病院へ数ヶ月おきに入退院を繰り返していた。そのような状況で知り合った、近所の下落合623番地にアトリエをかまえていた曾宮一念Click!とは、画会も表現もまったく異なってはいたが、気を許せる数少ない画家仲間だったようだ。
お互い気のおけない性格が共通していたのと、片多と曾宮は自作に変化を求め次の表現を模索していた同士なので、共通の課題やテーマなど話題も多かったのだろう。当時のふたりの様子を、片多徳郎の長男・片多草吉が後年に回想している。1996年(平成8)に木耳社から出版された夕雲会・編『回想 曽宮一念』所収の、片多草吉『曽宮一念画伯の想い出』から引用してみよう。
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当時の父は、育ち盛りの七人の子供に係累など十数人の暮しのための画作を強いられ、酒害による体力の衰えと、新しい画境の模索に煩悶中でした。曽宮さんの澄んだ眼差しを湛えたにこやかに風丰(ぼう)、素直な語り口が、父にとってどんなにか慰めとも励ましにもなったか、真に得難い心友でした。主として新帰朝者により齎(もたら)された前衛絵画の潮流の中で、お互いに固有の画法を生み出そうという同志的交わりであったと思います。昭和八年に私どもは椎名町(長崎東町1丁目1377番地)へ移転し、この交流も途絶えがちとなり、翌九年に父は四十四歳で亡くなりました。思えば、風雨に悩まされ通しの父の晩年数年間にとって、曽宮さんとの交友の日々は清澄な秋晴れにも似たひと時でありました。(カッコ内引用者註)
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片多徳郎Click!は、断酒のために青山赤十字病院へ入院すると、イーゼルなど絵道具一式を病室に持ちこみ、病院の了解のもとにアトリエとして使用していた。その様子から、入院時はもっぱら個室が与えられたのだろう。曾宮一念は後年、「治療後の無酒よりも有酒状態の方が作品に活気があった」と片多の作品を回想している。
近所の曾宮一念Click!が、初めて自分のアトリエに訪ねてきたときはすぐに意気投合したらしく、片多徳郎のほうが美校の4年先輩にもかかわらず、親しく頻繁に往来するようになった。片多も曾宮も、旧来のアカデミックな写実から脱して、新しい日本風の油絵を追求していた時期と重なるため、同一の志向で仕事に取り組む画家同士ということで、ことさら気が合ったのかもしれない。
曾宮一念は、絵道具をかつぎながらボロボロの着物で榛名湖畔の旅館へ泊まる片多徳郎の、こんなエピソードを紹介している。1938年(昭和13)に座右宝刊行会から出版された、曾宮一念『いはの群れ』から引用してみよう。
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(片多徳郎が)僕は画かきだが今年の帝展にも落選して東京にはゐる所も無いので此処に逃げて来たが泊めてくれるか、安く無ければ居られないが一たい何程で泊めてくれるかと哀れな姿でたのんだ、するとそこの主人がこれはお気の毒、此処へは時々はエライ先生方もお泊りになるから画かきさんの事はよく承知してゐる、安いといつても三食で一円では如何でせう云々。それからこゝで山湖の寒さを酒でしのぎ乍ら制作三昧に浸つたらしい。この話は勿論芝居気では無い、何(いず)れかといへば稚気である、氏の令息たちが「親父は子供で困る」と逆縁のことを言つてゐる程片多氏は或る点甚だ児童に類してゐた。(カッコ内引用者註)
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帝展審査員であり、もちろん帝展へは無鑑査で出品できる当の「エライ先生」=片多徳郎にしては、あまりに子どもじみたイタズラだが、どこかでアカデミックな帝展が抱える限界を自虐的に、あるいは少なからずアイロニーをこめてイタズラを演じていた気配さえ漂う。「物静かで地味な生地だが、酒で元気を借りていた」(曾宮一念)というマジメな片多徳郎は、自身の居場所や表現を見つけられないまま、晩年をすごしていたのかもしれない。ちなみに、このエピソードは1932年(昭和7)の暮れに、曾宮一念が片多徳郎アトリエを訪ねたときの酔談のひとつだ。
その晩年の作品について、曾宮一念は「片多氏を皮相的な写実家とすることは全く誤つてゐる」として、次のように書いている。『いはの群れ』より、再び引用してみよう。
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晩年の作には限らないが氏の画は画面の美しさに特殊なものがあつた。近頃の術語でマチエールの美しさである、立派な水墨画家でありながら(榛名湖の水墨画帳一巻は特に気魄に満ちてゐる)油絵具に惚れてゐると自から言つてゐたのも此処に在ると思ふ。小品でも一気にかき放すことはなかつたらしく一度かき放しても再三上にゑのぐの層を加へていつた、だから軽妙爽快と言ふよりは寧ろドロリとした手触はりに、良き陶器の如く、よき磨きをかけられながら深く沈んでゐた。
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曾宮が記している「画面の美しさ」は、1932年(昭和7)晩秋の榛名湖で制作された『秋色山水(1)』と『秋色山水(2)』の画面のことだろう。この榛名湖への写生旅行には、長男の片多草吉も付き添っており、曾宮一念からは「望外な讃辞を頂き父も大満足でした」(『曽宮一念画伯の想い出』)と書きしるしている。
だが、それからわずか1年余ののち、片多家にかかってきた1本の電話から、つるゑ夫人をはじめ子どもたちは愕然とすることになる。1934年(昭和9)5月2日に、東京朝日新聞の記者から電話があり、名古屋の西本願寺別院の墓地で4月28日に発見された縊死体が、行方不明の片多徳郎ではないかという照会の電話だった。
これもpinkichさんからお贈りいただいた、1934年(昭和9)5月3日発行の東京朝日新聞(朝刊)から、当時の様子を引用してみよう。
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名古屋の墓地で/片多徳郎画伯自殺
酒豪で聞えた元帝展審査員/七日前に飄然家出
豊島区長崎東町一ノ一,三七七元帝展審査員洋画家片多徳郎氏(四五)は、昨年来アルコール中毒症が昂じ同年十月から本年二月まで巣鴨脳病院に入院しやゝ回復して退院後も到底画筆に親しみ得ず、専ら自宅で付近の高島医師の手当を受けてゐたが、去月二十六日へう然外出したまま行方不明となり、二日に至り家人が目白署に捜索願ひをだした、同署では「非監置精神病者」の失そうとして全国に手配中、同夜に至り片多氏はすでに去る二十八日名古屋市内において自殺し、当時身許不明のため市役所の手で仮埋葬されてゐた事が判明、往年帝展の中堅作家とし、また画壇随一の酒豪として「酒中の仙」とまでいはれた氏のこの悲惨な死に知友はひとしく暗然としてゐる。
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同紙には、名古屋へ遺体の引き取りに向かった片多草吉による、「如何しても自殺したとは思へなかつたのです、時々黙つて外出し帰らない事もあるので、又帰る、いつか帰ると待つてゐたのでした」というコメントも掲載されている。それほど、家族にとってはにわかに信じられない「霹靂」のような衝撃だったのだろう。
なお、この記事に登場する「高島医師」とは、片多徳郎が下落合から転居した長崎東町1丁目1377番地の家から、わずか100mほどしか離れていない、長崎東町1丁目1405番地(のち927番地)に住んでいた「高島」という医師(?)のことではないだろうか。
晩年の片多徳郎は、いい画面が仕上がるとすぐに出かけては誘うことができる、そして彼の話をていねいに聞いてくれる曾宮一念という存在が身近にいて、ある意味で幸福だったのではないだろうか。だが、その曾宮でさえ彼の自殺を防ぐストッパーにはなりえなかった。片多徳郎が抱えていた心の深淵は、どれほど深く、また暗かったのだろう。
◆写真上:下落合734番地(現・下落合4丁目)にあった、片多徳郎アトリエ跡の現状。
◆写真中上:pinkichさんからいただいた岡田三郎助/大隅為三・編『片多徳郎傑作画集』(古今堂/1935年)所収の、上から下へ片多徳郎『二輪牡丹』(1929年)、同『蔬菜図』(1931年)、同『無衣横臥』(1930年)で、いずれも下落合時代の作品。
◆写真中下:同じく、上・中は1932年(昭和7)の晩秋に制作された片多徳郎『秋色山水(1)』と同『秋色山水(2)』。下は、下落合734番地にあった片多アトリエ北側に接する道で、突き当たりのクラックした右手が下落合623番地の曾宮一念アトリエ跡。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる長崎東町の片多徳郎アトリエ。下は、片多徳郎の自裁を伝える1934年(昭和9)5月3日の東京朝日新聞(朝刊)。