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「帝展に落選」する帝展無鑑査の片多徳郎。

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片多徳郎アトリエ跡1.JPG
 下落合734番地で暮らした片多徳郎Click!は、つるゑ夫人に7人の子どもたちとともに9人の大家族で、とても賑やかな家庭だった。それに、面倒をみていた親戚を加えると、およそ10人以上の人々に囲まれ、頼りにされて生活していたことになる。だが、片多徳郎は常に孤独感に苛まれていたようだ。
 この孤独感、あるいは疎外感がアルコール依存症からくるものなのか、それとも画業に対する焦燥感から生じたものなのかは不明だが、片多徳郎の下落合時代は断酒のために青山赤十字病院へ数ヶ月おきに入退院を繰り返していた。そのような状況で知り合った、近所の下落合623番地にアトリエをかまえていた曾宮一念Click!とは、画会も表現もまったく異なってはいたが、気を許せる数少ない画家仲間だったようだ。
 お互い気のおけない性格が共通していたのと、片多と曾宮は自作に変化を求め次の表現を模索していた同士なので、共通の課題やテーマなど話題も多かったのだろう。当時のふたりの様子を、片多徳郎の長男・片多草吉が後年に回想している。1996年(平成8)に木耳社から出版された夕雲会・編『回想 曽宮一念』所収の、片多草吉『曽宮一念画伯の想い出』から引用してみよう。
  
 当時の父は、育ち盛りの七人の子供に係累など十数人の暮しのための画作を強いられ、酒害による体力の衰えと、新しい画境の模索に煩悶中でした。曽宮さんの澄んだ眼差しを湛えたにこやかに風丰(ぼう)、素直な語り口が、父にとってどんなにか慰めとも励ましにもなったか、真に得難い心友でした。主として新帰朝者により齎(もたら)された前衛絵画の潮流の中で、お互いに固有の画法を生み出そうという同志的交わりであったと思います。昭和八年に私どもは椎名町(長崎東町1丁目1377番地)へ移転し、この交流も途絶えがちとなり、翌九年に父は四十四歳で亡くなりました。思えば、風雨に悩まされ通しの父の晩年数年間にとって、曽宮さんとの交友の日々は清澄な秋晴れにも似たひと時でありました。(カッコ内引用者註)
  
 片多徳郎Click!は、断酒のために青山赤十字病院へ入院すると、イーゼルなど絵道具一式を病室に持ちこみ、病院の了解のもとにアトリエとして使用していた。その様子から、入院時はもっぱら個室が与えられたのだろう。曾宮一念は後年、「治療後の無酒よりも有酒状態の方が作品に活気があった」と片多の作品を回想している。
 近所の曾宮一念Click!が、初めて自分のアトリエに訪ねてきたときはすぐに意気投合したらしく、片多徳郎のほうが美校の4年先輩にもかかわらず、親しく頻繁に往来するようになった。片多も曾宮も、旧来のアカデミックな写実から脱して、新しい日本風の油絵を追求していた時期と重なるため、同一の志向で仕事に取り組む画家同士ということで、ことさら気が合ったのかもしれない。
 曾宮一念は、絵道具をかつぎながらボロボロの着物で榛名湖畔の旅館へ泊まる片多徳郎の、こんなエピソードを紹介している。1938年(昭和13)に座右宝刊行会から出版された、曾宮一念『いはの群れ』から引用してみよう。
  
 (片多徳郎が)僕は画かきだが今年の帝展にも落選して東京にはゐる所も無いので此処に逃げて来たが泊めてくれるか、安く無ければ居られないが一たい何程で泊めてくれるかと哀れな姿でたのんだ、するとそこの主人がこれはお気の毒、此処へは時々はエライ先生方もお泊りになるから画かきさんの事はよく承知してゐる、安いといつても三食で一円では如何でせう云々。それからこゝで山湖の寒さを酒でしのぎ乍ら制作三昧に浸つたらしい。この話は勿論芝居気では無い、何(いず)れかといへば稚気である、氏の令息たちが「親父は子供で困る」と逆縁のことを言つてゐる程片多氏は或る点甚だ児童に類してゐた。(カッコ内引用者註)
  
片多徳郎「二輪牡丹」1929.jpg
片多徳郎「蔬菜図」1931.jpg
片多徳郎「無衣横臥」1930.jpg
 帝展審査員であり、もちろん帝展へは無鑑査で出品できる当の「エライ先生」=片多徳郎にしては、あまりに子どもじみたイタズラだが、どこかでアカデミックな帝展が抱える限界を自虐的に、あるいは少なからずアイロニーをこめてイタズラを演じていた気配さえ漂う。「物静かで地味な生地だが、酒で元気を借りていた」(曾宮一念)というマジメな片多徳郎は、自身の居場所や表現を見つけられないまま、晩年をすごしていたのかもしれない。ちなみに、このエピソードは1932年(昭和7)の暮れに、曾宮一念が片多徳郎アトリエを訪ねたときの酔談のひとつだ。
 その晩年の作品について、曾宮一念は「片多氏を皮相的な写実家とすることは全く誤つてゐる」として、次のように書いている。『いはの群れ』より、再び引用してみよう。
  
 晩年の作には限らないが氏の画は画面の美しさに特殊なものがあつた。近頃の術語でマチエールの美しさである、立派な水墨画家でありながら(榛名湖の水墨画帳一巻は特に気魄に満ちてゐる)油絵具に惚れてゐると自から言つてゐたのも此処に在ると思ふ。小品でも一気にかき放すことはなかつたらしく一度かき放しても再三上にゑのぐの層を加へていつた、だから軽妙爽快と言ふよりは寧ろドロリとした手触はりに、良き陶器の如く、よき磨きをかけられながら深く沈んでゐた。
  
 曾宮が記している「画面の美しさ」は、1932年(昭和7)晩秋の榛名湖で制作された『秋色山水(1)』と『秋色山水(2)』の画面のことだろう。この榛名湖への写生旅行には、長男の片多草吉も付き添っており、曾宮一念からは「望外な讃辞を頂き父も大満足でした」(『曽宮一念画伯の想い出』)と書きしるしている。
 だが、それからわずか1年余ののち、片多家にかかってきた1本の電話から、つるゑ夫人をはじめ子どもたちは愕然とすることになる。1934年(昭和9)5月2日に、東京朝日新聞の記者から電話があり、名古屋の西本願寺別院の墓地で4月28日に発見された縊死体が、行方不明の片多徳郎ではないかという照会の電話だった。片多徳郎「秋色山水(1)」1932.jpg片多徳郎「秋色山水(2)」1932.jpg片多徳郎アトリエ跡2.JPG
 これもpinkichさんからお贈りいただいた、1934年(昭和9)5月3日発行の東京朝日新聞(朝刊)から、当時の様子を引用してみよう。
  
 名古屋の墓地で/片多徳郎画伯自殺
 酒豪で聞えた元帝展審査員/七日前に飄然家出
 豊島区長崎東町一ノ一,三七七元帝展審査員洋画家片多徳郎氏(四五)は、昨年来アルコール中毒症が昂じ同年十月から本年二月まで巣鴨脳病院に入院しやゝ回復して退院後も到底画筆に親しみ得ず、専ら自宅で付近の高島医師の手当を受けてゐたが、去月二十六日へう然外出したまま行方不明となり、二日に至り家人が目白署に捜索願ひをだした、同署では「非監置精神病者」の失そうとして全国に手配中、同夜に至り片多氏はすでに去る二十八日名古屋市内において自殺し、当時身許不明のため市役所の手で仮埋葬されてゐた事が判明、往年帝展の中堅作家とし、また画壇随一の酒豪として「酒中の仙」とまでいはれた氏のこの悲惨な死に知友はひとしく暗然としてゐる。
  
 同紙には、名古屋へ遺体の引き取りに向かった片多草吉による、「如何しても自殺したとは思へなかつたのです、時々黙つて外出し帰らない事もあるので、又帰る、いつか帰ると待つてゐたのでした」というコメントも掲載されている。それほど、家族にとってはにわかに信じられない「霹靂」のような衝撃だったのだろう。
 なお、この記事に登場する「高島医師」とは、片多徳郎が下落合から転居した長崎東町1丁目1377番地の家から、わずか100mほどしか離れていない、長崎東町1丁目1405番地(のち927番地)に住んでいた「高島」という医師(?)のことではないだろうか。
長崎東町1丁目1936.jpg
東京朝日新聞19340503.jpg
 晩年の片多徳郎は、いい画面が仕上がるとすぐに出かけては誘うことができる、そして彼の話をていねいに聞いてくれる曾宮一念という存在が身近にいて、ある意味で幸福だったのではないだろうか。だが、その曾宮でさえ彼の自殺を防ぐストッパーにはなりえなかった。片多徳郎が抱えていた心の深淵は、どれほど深く、また暗かったのだろう。

◆写真上:下落合734番地(現・下落合4丁目)にあった、片多徳郎アトリエ跡の現状。
◆写真中上:pinkichさんからいただいた岡田三郎助/大隅為三・編『片多徳郎傑作画集』(古今堂/1935年)所収の、からへ片多徳郎『二輪牡丹』(1929年)、同『蔬菜図』(1931年)、同『無衣横臥』(1930年)で、いずれも下落合時代の作品。
◆写真中下:同じく、は1932年(昭和7)の晩秋に制作された片多徳郎『秋色山水(1)』と同『秋色山水(2)』。は、下落合734番地にあった片多アトリエ北側に接する道で、突き当たりのクラックした右手が下落合623番地の曾宮一念アトリエ跡。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる長崎東町の片多徳郎アトリエ。は、片多徳郎の自裁を伝える1934年(昭和9)5月3日の東京朝日新聞(朝刊)。

確認や総括や了解点よりも愛してやれ。

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神田川1.JPG
 喜多條忠が、岸上大作Click!の1960年(昭和35)12月に自裁する直前まで綴っていた絶筆『ぼくのためのノート』Click!を意識し、日記風のノートをつけていたのを知ったのは、そんな昔のことではない。そこには、日々の所感や詩作が書きつらねてあり、落合地域のすぐ近くに展開していた情景も記録されている。彼の学生時代の「ノート」をわたしが読んだのは、それが書かれてから20年以上がたった1990年(平成2)ごろのことだ。
 たとえば、1967年(昭和42)のノートにはこんな様子が書かれている。1974年(昭和49)に新書館から出版された『神田川』所収の、「川」という詩から引用してみよう。
  
 夜になって/「大正製薬」の煙突についているネオンが消え
 アパートの下を流れる神田川の水が/白い泡に変わってゆく
 僕の魂が肉体を捨てて飛び去ったときにも
 太平洋の上を漂う僕の半裸体からも
 こんなに白い泡が/流水のようにして浮かんでゆくのだろう
  
 書かれている神田川は、前年に旧・神田上水から名前が「神田川」に変わったばかりのころ、汚濁がピークに達しようとしていた60年代後半の様子だ。下水口から流れこむ生活排水に含まれた合成洗剤で、堰堤Click!が設置された落差のある川面では一面に白い泡が立ち、風が強い日には泡が遠くまで吹き飛ばされていた時代だ。
 この詩を書いている部屋は、喜多條忠自身のアパートではない。同じ大学へ通う「池間みち子」が住んでいた、3畳ひと間の小さな部屋だ。そのアパートからは、神田川をはさんで北西約200mのところに、大正製薬Click!工場の煙突が見えていた。高田馬場駅のすぐ近く、戸田平橋から神田川の南岸を東へ85mほど入り、材木店の2軒隣りに建っていた赤いトタン屋根のアパートだった。住所は戸塚町1丁目129番地、それがいまの高田馬場2丁目11番地に変わるのは1974年(昭和49)になってからのことだ。
 現在は川沿いに遊歩道が設置され、神田川の南岸と建物とは4mほど離れているが、当時はアパート北側の外壁が川面に面して建っていた。この赤い屋根のアパートは、1992年(平成4)まで残っていたのが確認できる。喜多條忠は学生時代、自分のアパートへはあまり帰らず、彼女の下宿に入りびたってすごすことが多かったようだ。
 つづけて、同書の詩「僕たちの夕食」の一部を引用してみよう。
  
 あなたがドライヤーで乾かす/豊かな髪の黒い流れののように
 僕のなかで波形模様が揺れる/トイレの小窓から見える線路の上を
 長い貨物列車が通って行く/もうあの草色の山手線は車庫の中で
 疲れた足をさすって眠っているのだ/で 僕たちの食事はこれから始まる
 ワサビノリと即席アラビアン焼ソバ/ハリハリ漬けとしその実漬け
 煮干をボリボリとかじったあと/背骨をねじらせたその小さな硬い魚の頭が
 ミイラになった蛇の頭そっくりなのに気付いて
 あわてて手に持っていたものまで罐のなかにしまう
  
みち子アパート1963.jpg
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 「みち子」のアパートにあった共同トイレは、おそらく西に小窓が切ってあり、山手線の線路土手がよく見えたのだろう。終電のあと、山手線を貨物列車が通過する深夜の情景だ。何度も「僕」が登場するけれど、わたしの学生時代に「僕」Click!などといったら、周囲から「おまえはいつまで僕ちゃんなんだ?」と、小中学生を見るような眼差しを向けられただろう。もっとも、喜多條忠は大阪人なので、「僕」は大人も普通につかう一人称代名詞なのかもしれない。(ただし、大人がつかう「僕」に違和感をおぼえる大阪人もいるので、大阪市内の地域方言か慣用語なのかもしれない)
 わたしが高校生のころ、1973年(昭和48)に喜多條忠が作詩した『神田川』Click!は、しょっちゅうラジオから流れていたけれど、漠然と大学の下宿が多かった早稲田から面影橋あたりの情景を唄ったものだろうと想像していた。だが、これほど落合地域に近い場所で紡がれた「物語」だとは思ってもみなかった。下落合1丁目の町境から「みち子」のアパートまで、わずか400mほどしか離れていない。高い建物がなかった当時、下落合の日立目白クラブClick!(旧・学習院昭和寮Click!)あたりの丘上からは、赤い屋根の「みち子」のアパートがよく見えていたと思われる。
 もっとも、当時のわたしは一連の“フォークソング”と呼ばれた、暗くてみじめったらしく、うしろ向きでウジウジしている歌全般がキライだったので(いまでも苦手だが)、ラジオから『神田川』とかが流れてくると選局ダイヤルを変えていた憶えがある。『神田川』の記念歌碑は、この曲を作詩したときに喜多條忠が住んでいた、東中野の神田川沿いの公園に建立されているようだが、まだ一度も出かけたことがない。
 再び同書より、1967年(昭和42)3月5日の日記を少し長いが引用してみよう。
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神田川2.JPG
神田川イラスト2.jpg
  
 今のみち子の置かれた位置として、もっとも重要にして深い、そして身近な問題に真剣に取りくんでいくべき時点に立っているのではないかということ、僕と彼女との今までの了解点として、羽田闘争のときには暴徒とよんだ人間に、佐世保闘争のときは心を動かされたものがあるとみち子自身が僕に書いてきたとき、そんな調子のよい世論便乗的な態度がまず批判されるべきであること、そして僕たちは意識の自覚の程度によってそれなりの努力を日常においてやっていく、それは読書することによっての精神の少しずつの変革でもよいし、とにかく真剣にやっていくということが確認されていたはずであること、それがスキーをやり、夜は連日麻雀台をかこんだという楽しい旅行のあと、今度はすぐに夏の旅行のために、帰って来ている僕のことをも無視してアルバイトをやる(中略)という発想、そこには二十五日に僕がはじめて彼女を途中で追い返したときの何らの反省も含まれていないであろうことを指摘した。/もっとも僕は今、自分でもかなり勉強してるし、いかにも前に書いたこれまでの総括を踏まえたことをやっているからこそ、彼女にこんな厳しい、それこそ若干スターリニズム的な押しつけがましいことが言えるのだが、これも今の彼女の情況を彼女自身が省みてもらいたいがために言ったのである。
  
 20歳前の、なにをしても楽しいし、なにを話しても気分がウキウキするような女子に、こんな「若干スターリニズム的」な確認や総括だらけの説教をしても、どれほどの意味があるのだろうか。(爆!) こんな日記を読んだら、いまの若い子たちはどのような感想をもつのだろう。いわく、「ってゆ~か、意味わかんないし。みち子さんに、ボクを置いてどっかへフラフラ遊びに出かけないで、いつもそばにいてほしいって、素直に頼めばいいだけの話じゃん!」……と、ただそれだけのことかもしれない。
 『神田川』の世界からほぼ50年、神田川は大きな変貌をとげてアユが遡上Click!し、タモロコやオイカワ、マハゼなどが回遊して、夏休みには小学生たちが川で水遊びClick!のできる、キンギョが棲めるまでの水質に改善された。神田川(千代田城外濠)から分岐する日本橋川では、サケの遡上も確認されている。下水の流入が100%なくなり、落合水再生センターの薬品を使わない浄水技術で、神田川の多種多様な魚やトンボなど昆虫の幼虫たちが甦った。いまでも単体では見かけるが、夕暮れに琥珀色の羽根が美しいギンヤンマの群れがもどる日も近いのかもしれない。
 いや、上落合の落合水再生センターは神田川にとどまらず、渋谷川や古川、目黒川においても、川を清浄化する実質上の給水源であり“源流”となっている。
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 1970年(昭和45)前後の神田川、どこかうらぶれた雰囲気が漂うドブ川のイメージは、すっかり払拭された。だが、それと同時に詩『神田川』に描かれた、ささやかなギターの音色が似合いそうなセピア色の世界も、常に不吉な翳りのある怖かった「あなたのやさしさ」もまた、「みち子」とともにどこかへ消えてしまった。

◆写真上:澄んだ神田川の水面には、ときどき魚影や水生生物の姿が横切る。
◆写真中上は、日記に書かれた時代の4年前にあたる1963年(昭和38)に撮影された空中写真にみる「みち子」のアパート。は、1975年(昭和50)の同所で赤い屋根が新しく葺きかえられているようだ。は、1974年(昭和49)出版の喜多條忠『神田川』(新書館)に掲載された、いかにも1970年代の匂いがする林静一の挿画イラスト。
◆写真中下は、1974年(昭和49)の「住所表記新旧対照案内図」にみる戸塚町1丁目129番地のアパート。は、神高橋の下から眺めた下流の高塚橋と戸田平橋。「みち子」のアパートは、戸田平橋の向こう側にあたる。は、同書の林静一挿画。
◆写真下は、春爛漫の神田川。は、羽化を観察するのか神田川でトンボのヤゴを採集する子供たち。は、喜多條忠『神田川』(1974年/)と当時の著者()。
おまけ
1990年代まで残っていたとみられる、戸塚町1丁目129番地(現・高田馬場2丁目)の「みち子」のアパート跡。(左手マンション) 突き当りは、川沿いの遊歩道と神田川。
みち子のアパート跡.JPG

原日本が香る江古田のシシ舞い。

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江古田獅子舞1.jpg
 以前、正月になると東京をはじめ関東各地で見られた、各戸まわりの獅子舞いClick!について書いたことがある。「シシ」というと、原日本の文化が色濃く残る東日本では、シシ=シカ、アオジシ=ニホンカモシカを意味する用語として、近世までつかわれていた言葉だ。大江戸(おえど)の街中の随所で開店していた肉料理屋=ももんじ屋Click!では、イノシシに限らずシシ(シカ)やアオジシ(ニホンカモシカ)の料理を出していた。
 シシ舞いは、山ノ神などから遣わされたシシ(シカ)神=「まれびと」「まろうど」(折口信夫)の性格が強い。江戸期になると、シシ舞いあるいはシシ踊りの「シシ」に、中国や朝鮮半島から“輸入”された「獅子(ライオンをイメージしたとみられる架空の動物)」が習合し、シシ(シカ)舞いやシシ(シカ)踊りが、獅子舞いあるいは獅子踊りへと変節していく。江戸の街中では、獅子舞いといえばもはや輸入された大陸の獅子の面をかぶっていたが、日本ならではの基層文化が色濃く残る東北では、シシ(シカ)舞いやシシ(シカ)踊りが現代までよく伝わり、無形民俗文化財として継承されている。
 中部地方の静岡や四国地方の愛媛などで、例外的に伝わっているシシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りは、鎌倉期や室町期、江戸期に各幕府の命で、関東や東北地方から移封された御家人や大名が伝えたものだ。南関東では、江戸期から正月の獅子舞いは盛んだったが、日本古来のシシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りの系譜は、北関東の一部を除いて、もはやほとんど見られないものと思っていた。
 ところが、落合地域の西隣りにある江古田(えごた/中野区)地域の江古田氷川明神Click!を取材しているとき、同社に合祀されている御嶽社(山ノ神)の奉納舞いとして、シシ舞いが演じられていることを知った。現代では、原型が明らかにシシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りとみられる舞踊も、中国や朝鮮半島の文化が習合した江戸期からだろうか、「獅子舞い」あるいは「獅子踊り」と表現されるようになっている。この表記は、東北地方でもまま見られる現象だ。
 江古田の御嶽社で奉納されるシシ舞いは、「江古田獅子舞い」と呼ばれ中野区の無形民俗文化財に指定されている。毎年、秋に行われる江古田氷川社の例祭に合わせ、獅子舞いは行列をつくって街中を練り歩くようだ。獅子の構成は、大獅子と女獅子、中獅子の3名で、その周囲には花笠の踊り手も付随している。音曲を担当する9名の笛吹きに、獅子は腹にくくりつけた太鼓を打ち鳴らすといういでたちで、東北地方のシシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りとまったく同様の姿だ。
 東北地方に見られるシシ舞いやシシ踊りと異なる点は、江古田の獅子頭(ししがしら)は頭上にシカの角が生えていないことだろう。また、東北地方のシシ舞いやシシ踊りが、おしなべて勇壮で動きも荒々しく、音曲もテンポがかなり速いのに対し、江古田獅子舞いのほうは舞踊も穏やかで、音曲はいかにも村祭りのお囃子を想起させる音色だ。このあたり、江古田氷川社にもともと伝わっていた村祭り囃子と、いつの時代からか習合してしまったものだろうか。あるいは、荒々しいはずのシシ舞いが、江戸期あたりから家内安全や厄病退散を願う、農村の穏やかな奉納舞いへと変化していったのかもしれない。
江古田獅子舞2.jpg
江古田氷川社1.JPG
獅子踊り(米沢).jpg
 江古田獅子舞いの起源は、平安末期あるいは鎌倉期の寺社創建までさかのぼるとされている。同獅子舞いについて、1984年(昭和59)に中野区教育委員会が出版した『なかのものがたり』から引用してみよう。
  
 江古田の獅子舞の起源は、そのむかし江古田村の東に御嶽神社という堀河天皇の時代(八百八十年ほど前、平安時代後期)に創建されたといわれる村の鎮守がありましたが、この御嶽神社と東福寺(創建は建久年間といわれます)とによって鎌倉時代に始められたと伝えられています。(一説には、江古田村丸山にあった修験寺大蔵院の関根法印という人が創始したともいわれます) したがって、大正二年(一九一三)に御嶽神社が氷川神社に合祀されるまでは、御嶽神社に獅子舞の奉納が行われていました。/この獅子舞は、悪魔を退治し、災難をなくし、村人の幸福をまもるものとして、村人に疫病が流行したときなどは村内の各家々をまわって、病魔を退散させるための舞いをしたそうです。そのため別名「祈祷獅子」ともいわれました。
  
 「神社(じんじゃ)」Click!という呼称は、明治期から薩長政府が各地の社(やしろ)を勝手に改変し、日本の神々に貴賤のヒエラルキーClick!を形成する政治的(かつバチ当たり)な利用政策(「国家神道」化Click!)の一環として名づけた呼称なので、それ以前の時代に起きた事蹟を語る場合には、「御嶽社」と表現するのが適切だろう。
 獅子舞いは、700年前よりはじまったとされているが、わたしは東北地方のシシ舞いあるいはシシ踊りがそうであるように、もっと以前から地域で行われていた「まれびと」舞い(踊り)が、寺社の創建とともにその信仰や宗教の中へ取りこまれた(囲いこまれた)のではないかと想像している。つまり、シシ神=「まれびと」ないしは「まろうど」への信仰や祭事は、もっと以前から行なわれており、日本ならではの自然神とも結びついた古代からの舞踊のひとつではないだろうか。このあたり、宮崎駿が描く『もののけ姫』の世界=原日本のアニミズムに直結する光景だ。
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 上記の文章では、江古田村(江古田地域の集落)が平安後期から存在したように書かれているが、地域周辺の遺跡を見まわしてみれば、それ以前の旧石器から縄文(新石器)、弥生、古墳、ナラの各時代にわたる遺構が発掘されているので、さらに以前から人々の集落が存在していたのは明らかだろう。そのいずれかの時代に、アニミズムに由来するとみられるシシ(シカ)神の舞踊が生まれたとしても不思議ではない。
 同書に収録された、「七百年の伝統をもつ江古田の獅子舞」から再び引用しよう。
  
 正保年間(一六四四~四八)に、徳川三代将軍家光が江古田方面に鷹狩りにきたとき、東福寺の境内で、この獅子舞をご覧になり、それ以後、「御用」とかかれた札をかかげることが許されました。/雑司ヶ谷の鬼子母神境内などで尾張侯、清水侯、紀州侯などにご覧に入れたときは、獅子舞の道具一式を櫃(ひつ)に入れ「御用」という木札をたててはこんだそうです。/獅子舞の根幹は、シカ踊りといわれていますが、田楽法師によってその形がととのった田楽舞の一つです。江古田の獅子舞は、その服装や演出がむかしの伝統、格式を少しも崩さず現在までつづけられており、これは都内でも非常に珍しいものの一つといえます。
  
 当時から、江戸とその周辺でも稀有なシシ(獅子)舞いで、江古田地域に限らず江戸の街でも評判になっていた様子がうかがえる。
 著者は、「むかしの伝統、格式を少しも崩さず」と書いているが、どこかで頭上に生えていた角がなくなり、シシ(シカ)の顔面が中国や朝鮮半島からもたらされた獅子の顔面へと、宗教的な背景も含め近似させられているのはまちがいないだろう。
 「都内でも非常に珍しい」としているが、明らかにシシ(シカ)舞い、あるいはシシ(シカ)踊りを原型とするような舞踊が、東京にも残っていることを、しかも落合地域のすぐ西隣りで伝えられてきたことを知り、わたしもビックリしているしだいだ。原日本の世界へといざなう、シシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りに直結するような同様の舞踊が、南関東の別の場所で伝承されていないかどうか、とても興味のあるテーマなのだ。
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江古田氷川社2.JPG
 このところ、新型コロナウィルスで世の中が騒がしいが、このようなときこそ「村人に疫病が流行したときなどは村内の各家々をまわって、病魔を退散させる」、江古田獅子舞いの活躍どきではなかろうか。秋の例祭からは外れるが、江古田氷川社の境内で昔ながらの厄病退散の臨時獅子舞いが催されたら、わたしもぜひ見物に出かけてみたいと思う。

この記事を書いてから、落合地域の北隣りにある長崎神社(江戸期は長崎氷川明神)でも、原日本が香る同様のシシ舞いが行われていることに気がついた。シシの顔つきは、やはり江戸期以降の“中国顔”(獅子)で角もないが、南関東でも原日本をルーツとするシシ舞いが、丹念に探せばけっこう残っているのではないだろうか。

◆写真上:秋に江古田氷川社の境内で、御嶽社に奉納される江古田獅子舞い。
◆写真中上は、街中へも繰りだす江古田獅子舞い。(『なかのものがたり』より) は、江古田氷川明神社の境内。は、山形県米沢に伝わるシシ(シカ)踊り。
◆写真中下は、岩手県花巻のシシ(シカ)踊りを描いた壁画と実物で、頭上にシカの角が見られる。は、岩手県釜石のシシ(シカ)踊り。
◆写真下は、岩手県盛岡のシシ(シカ)踊り。は、山形県庄内のシシ(シカ)踊り。は、いまでは高いビルに囲まれてしまった江古田氷川明神社の参道と鳥居。

大正初期の近衛邸の丘をとらえた写真。

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薗部染工場跡.jpg
 神田川の北側、高田村(大字)高田(字)稲荷938番地(1920年の高田町以降は高田八反目778番地)に、薗部染工場が創立されたのは1913年(大正2)のことだった。薗部辰之助が創立した同工場は、現在の宝印刷の本社がある南側、十三間通り(新目白通り)にかかるあたりに敷地があり、下落合の町境からわずか180mほどしか離れていない。
 設立当初は、周囲を水田や畑地に囲まれており、田園風景の中に高い煙突のある染工場がポツンと出現したような風情だった。工場の建物のまわりには障害物がなく、山手線の線路土手がよく見わたせた。薗部染工場について、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)から引用してみよう。
  
 薗部工場
 工場主は薗部辰之助氏なり、高田村大字高田九百三十八番地にあり、大正二年七月まで東京市に営業経営せるを同年同月此の地に転場せるものなり、絹絲、人造絹絲、綿絲メリヤス類、其他各種の染色業とす。販路は輸出向染色、或は陸軍御用の染色機絲縫絲の染色加工となす。規模頗る大なるものにして、一ヶ年の染色量数は、約三萬貫以上に及び、敷地総坪千坪、建坪四百餘坪を有す。日々隆昌繁栄の域に進みつゝあり。(電話 番町四六九一番)
  
 高田村の稲荷938番地(現・高田3丁目)へ移転する以前、同工場は下谷区南稲荷町(現・台東区東上野)で操業をしていた。『高田村誌』の巻末には、同村で営業する工場や店舗、牧場、医院、薬局などの広告がまとめて掲載されているが、薗部染工場は残念ながら広告を出稿していない。
 その後、同工場は順調に業績をのばし、1917年(大正6)には敷地の東側にオフィスというか事務所の建屋を、西側には大きな蔵を建設している。社長の薗部辰之助は、高田村が町制の施行とともに高田町に変わった翌年、1921年(大正10)に町議会議員に立候補して当選し、弦巻川(金川)Click!の改修工事や高田町の道路工事、下水道工事、旧・神田上水(1966年より神田川)の改修工事などを手がけている。以下、1994年(平成6)に豊島区立郷土資料館から刊行された図録『町工場の履歴書』から、薗部工場と薗部辰之助について引用してみよう。
  
 (前略) 高田町職業紹介所初代所長・高田町青年団副団長・高田町教育会評議員・東京工場協会目白支部長などを歴任、さらに学習院下の交番を寄付するなど、大正末から昭和初期の高田町政を担ってきました。「父は豊島区のことになるとしゃかりきになってやった」と三男の孝三氏はいいます。/戦時中工場は軍服の糸染めを行い、毛糸会社は企業整備で東北振興公社に合併、戦後は大正製薬に工場を売却し、新円封鎖で財産の大半を失い、辰之助の事業は終止符を打ちます。/辰之助は、工場地帯の煤煙で持病の喘息が悪化しても高田の地を動かず、戦後も豊島区から決して離れようとはしませんでした。
  
 文中には、薗部辰之助が学習院下の交番を寄付したことが記されているが、1925年(大正14)に源水橋が旧・神田上水(神田川)に架けられたのも、彼の尽力によるもののようだ。もちろん、1930年代後半に行われた神田川の整流化工事で、現在の源水橋はもとの位置から90mほど北へと移動している。
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 戦後、大正製薬に敷地を売却したと書かれているが、3畳ひと間の小さな下宿だった「みち子」の部屋から、喜多條忠Click!が眺めていた同社の煙突下の敷地が、薗部染工場が建っていた敷地の一部だったことになる。
 さて、神田川を流れに沿ってたどるように、染色業の工房や工場について調べていたとき(佐伯祐三Click!が描いた『踏切』Click!の、中原工場Click!もその一環だった)、山手線をはさみ下落合のすぐ東隣りで操業していた薗部染工場に出合ったわけだが、その創業間もない写真を見つけて面白いことに気がついた。
 この写真は、いまだ工場長宅の西側に蔵が建設されておらず、また工場の東側に事務所の建物も存在しないので、1917年(大正6)よりも前に撮影されたものだと規定できる。工場の建屋と煙突、それに染糸製品の干し場が手前にとらえられており、敷地の左奥には薗部辰之助の自邸2階家が付属している。
 工場の手前には田圃が一面に広がり、その稲穂がつづく中に大胆な柄のワンピースを着て、帽子をかぶった洋装のモダンな女性がひとりとらえられている。薗部辰之助の妻だろうか、大正初期にこのようなハイカラなワンピース姿で高田村を歩いたりしたら、周辺の農民たちは度肝を抜かれただろう。
 1922年(大正11)から販売がスタートした目白文化村Click!でさえ、洋装の女性が下落合を歩くと注目されていた時代だ。上落合に住んだ村山籌子Click!は、1923年(大正12)でさえ洋装で買い物に出かけると、近所の子どもたちがものめずらし気にゾロゾロついてきたと証言するような状況だった。東京の市街地ならともかく、郊外の農村地帯ではほとんど着物の生活がそのままつづいていた。
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 しかし、わたしが大正初期の園部染工場をとらえた写真に惹かれたのは、田圃に写るモダンな女性の姿ではない。その女性の右上に写る、山手線と線路土手の向こう側の風景だ。線路上には、2両編成とみられる山手線の電車が走っているのが偶然とらえられているが、その向こう側には学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラClick!)が建つはるか以前の、いや近衛町Click!が開発される以前の、当時は近衛篤麿Click!が死去し近衛文麿Click!の邸敷地だった、下落合の丘の一部が写っている点に惹かれたのだ。
 その丘の中腹には、1軒の住宅がとらえられているが、これが大正の半ばに発行された陸軍参謀本部の1/10,000地形図Click!にも採取されている、下落合406番地に建っていたポツンと1軒家(住民名不詳/近衛家が敷地内の斜面に建てた豪華な四阿か?)に、ほぼまちがいないだろう。大正初期に、近衛邸のあった下落合の丘がとらえられた写真は非常にめずらしい。そして惜しいことに、山手線が走る線路土手のすぐ右手枠外には、雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)がくぐるレンガ造りのままのガードClick!が、ハッキリと見えていたはずだ。画角があと5度ほど右にふれていれば、大正初期の山手線・下落合ガードClick!の姿が判明していたはずなのだ。
 薗部染工場は、昭和期に入るとかなり増改築をしたものか、1936年(昭和11)の空中写真では、まだ創業時の建物配置の面影をとどめているが、戦時中に撮られた1944~45年(昭和19~20)の空中写真を見ると、敷地内の建屋の配置が一変している。そして、1945年(昭和20)4月13日と5月25日の二度にわたった山手大空襲Click!でも、かろうじて延焼をまぬがれている。特に4月13日の第1次山手空襲では、道路をはさんだ東隣りの工場が焼夷弾の直撃を受けたものか全焼しており、薗部染工場では延焼防止に必死だったのではないだろうか。
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 神田川沿いの町工場を調べていると、学生時代の記憶と重なり思わぬ収穫があるのが面白い。1994年(平成6)出版の『町工場の履歴書』(豊島区立教育委員会)は、資料としては非常に秀逸な内容となっている。また神田川沿いの面白いテーマを見つけたら、あるいは学生時代に見かけた戸塚や高田、下落合の情景を思いだしたら、ぜひ書いてみたい。

◆写真上:右手の建物から十三間通り(新目白通り)にかかる、薗部染工場跡の現状。
◆写真中上は、創業の1913年(大正2)から1916年(大正5)の間に撮影された薗部染工場。手前にモダンな洋装の女性が写り、遠景には山手線とともに下落合の近衛邸のある丘がとらえられている。は、1917年(大正6)に工場の拡張工事が竣工した直後の記念写真。は、1917年(大正6)の1/10,000地形図にみる同工場。
◆写真中下は、大正初期に撮影された薗部染工場の部分拡大。2両編成で走る山手線と、下落合の斜面に建つポツンと1軒家。は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる同工場。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同工場。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる薗部染工場。道路をはさみ東隣りの工場は焼けたが、同工場は延焼をまぬがれている。は、1925年(大正15)に撮影された源水橋(旧流)の竣工式。は、現在の源水橋で旧橋から90mほど北に位置している。

大正期の「目白」情報が満載の『我が住む町』。

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 ちょっとこれまで類例がない、面白い資料を古書店で見つけた。1925年(大正14)に卒業を目前にした自由学園高等科の女学生たちが中心になってまとめ、自由学園Click!羽仁もと子Click!が同年5月に出版した『我が住む町』という詳細なレポートだ。ここでいう「町」とは東京府北豊島郡高田町で、現在の目白、雑司が谷、高田、西池袋、そして南池袋の地域一帯のことだ。
 当時の住所表記では、高田町雑司ヶ谷1151~1154番地(のち雑司が谷町6丁目→現・西池袋2丁目)に開校していた自由学園の高等科女学生たちは、自分が住んでいる高田町、あるいは通学する学校のある高田町がどのような町勢なのかを知るために、多種多様なリサーチを試みている。彼女たちの取り組みに対する主旨や考え方を、同書の「私共の卒業制作について」から少し長いが引用してみよう。
  
 一人一人の独立的な生活の外に、私共は団体を通して自己を生かすことを学ばなくてはならない。この二つの生活が一つになつて、はじめて本当の自由と独立がかち得られるといふのが、私共の日頃の勉強の最も重要な部分の一つになつてゐるものですから、卒業に際しても、各個人的にめいめいの収穫について考へたり、発表したりする外に、組全体の力を以て何か一つの創作を試みることは、前からの例にもなつて居ります。(中略) これから私共が社会事業をするにしても、何の仕事をするにしても、先づめいめいの住んでゐる町村の状態を明かに知ることから始めなければならないし、近き将来に於て必ず与へられなくてはならない女子の参政権も、私たちが各々住む町村の事情に通じ、その幸福と改善を希ふ心の深くあることによつて、はじめて十分に行使されることが出来るものだと思ひましたから、この学園の所在地である高田町、そしてはじめての私共には、丁度面積も手頃な高田町を知るための仕事をすることがよいことだと思ひ、それがまた少しでも高田町の進歩のために益する所があつたなら幸ひだと、段々皆が熱心になつて来ました。さうしてその結果いよいよクラスが一団となつてその事に当らうと決心しました。
  
 さすが、女子の主体性を重んじる自由学園ならではの“宣言文”だ。最初は、卒業する「クラスが一団」となって行う調査のはずだったが、プロジェクトが大規模化するにつれ自由学園の全校生徒が、このリサーチに参画するようになっていく。上記の主旨をまとめたのは、1925年(大正14)3月に卒業する高等科第3回卒業生の女学生たちで、プロジェクトの中心となったのは22名のメンバーだった。
 1925年(大正14)の時点で、高田町の戸数は7,322戸、世帯数は7,870世帯、人口は35,653人とされていたが、なんと彼女たちはそれらの全戸調査を試みているのだ。一般の住宅(華族の屋敷から貧乏長屋まで)はもちろん、目白通りや雑司ヶ谷鬼子母神の表参道に開店していた商店、工場地帯、乳牛を飼う牧場、学校など、およそ人が住むすべての場所を調査している。
 しかし、7,870戸といわれた世帯のうち、調査票を手にした女学生たちの顔を見たとたん、「帰(けえ)れ、帰れ! ここは、お前らのくるとこじゃねえや!」と追い返された家や、何度訪れても不在の住宅が246戸もあったため、実際に調査ができた家は差し引き7,076戸だった。この調査で、7,870世帯といわれていた世帯数が、調査の範囲内だけで実際には8,144世帯だったのがわかり、人口も35,653人と行政にカウントされていたものが、36,760人に増加していることが判明した。関東大震災Click!から1年半しかたっておらず、高田町の人口が急増するまっただ中で、彼女たちはリサーチを実施している。1世帯あたりの住民は、同時点で約4.5人ということになる。
 また、当時の町内にあった工場を95ヶ所、学校を11校、いずれかの工場ないしは学校の寄宿舎15ヶ所もすべて調べており、その敷地内に建つ人が住める施設も含めると、300戸弱の空き家があったと報告されている。
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 これらのリサーチについては、自由学園に専門分野の教授がいなかったため、彼女たちは早稲田大学の教授だった安部磯雄Click!を訪ね、社会調査の方法論について詳しく学んでいる。安部磯雄は、同じ高田町四ッ谷(四ッ家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいたので、同じ町内ということで訪問しやすかったのだろう。安部磯雄は彼女たちの来訪について、同書の「序」の中で次のように書きとめている。
  
 今度自由学園を卒業する人々が卒業記念として其所在地たる高田町のために何かを遺して置きたいといふことから、此一区域内に於ける貧乏状態、衛生状態等に関する調査を行ふことになつた。貧乏状態の調査は主として本年卒業すべき人々により行はれたのであるが、衛生状態の方は生徒全部の協力によりて行はれた。調査者が若い婦人であつゝたためでもあらうが、町民が余り厭な顔もしないで其質問に答へて呉れたのは有り難かつた。(中略) さて戸別訪問をやつて材料を得ることになると、中々容易なことではない。自由学園の学生であればこそ此難事業も予期以上の成績を見ることが出来たのであるが、これを他の方法によりて遂行することは殆んど不可能のことではなかつたかと思ふ。これによりても自由学園の教育に一大特色のあること窺ひ知る事が出来る。
  
 安部磯雄のいう「貧乏状態」の調査とは、ロンドンに住んでいた実業家のチャールズ・ブースという人物が、1891年(明治24)に行った社会科学的な調査手法のことを指している。ブースは、ロンドンで生活するのに必要な最低の費用を算出し、この水準に「貧乏の水平線」と名づけた。食費の指標はエンゲル係数だが、食費も含めた生活費すべての最低ラインを「貧乏の水平線」と呼んだわけだ。
 のちに通称「貧乏線」と呼ばれるようになる同指標だが、ロンドン市では人口の約30%強が貧困状態に置かれていたことが判明している。また、同時期にラウントリーという人物がヨーク市で実施した同じ調査では、「貧乏線」以下で生活している人々が全人口の27.8%に及ぶことが明らかになっている。
 1925年(大正14)の高田町の場合、この「貧乏線」を想定するにあたり、1軒の家にひとりで住むときに必要な最低費用を25円/月としている。また、生活にかかる費用を70歳以上と8歳未満に限り半人分と計算し、家内に人数が増えるのに応じ逆進計算を用いて、家に1.5人が住めば最低費用は30円/月、2人の場合は35円/月、2.5人のときは40円/月、3人は45円/月……というような指標を設定した。
 また、安部磯雄は「貧乏状態」と「衛生状態」の調査と書いているが、彼女たちの調査はそれだけにとどまらなかった。高田町の商業現場を訪ね歩き、多種多様な商店や売店における仕入れの流通経路や原価率と利益率、季節ごとの売上高、季節ごとの売れ筋商品、おもな顧客層などを詳細にインタビューしてレポーティングする、今日のリテールリサーチのようなことも実施していたのだ。
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 自由学園の女学生たちは、同校の「自由と独立」の理念を胸に勇気をふりしぼって、どのような住宅や商店、町工場でも臆さずに訪問している。高田町に大屋敷をかまえる華族から、誰が住んでいるか得体の知れない貧乏長屋まで突撃取材を行い、ときには叩きだされ、ときにはお茶やお菓子、昼食をご馳走になりながら、調査を全町内へと拡大していった。ここでいう「大屋敷」とは、高田町雑司ヶ谷旭出41番地(のち42番地/現・目白3丁目)の戸田康保邸Click!(現・徳川邸Click!)だったとみられるが、執事や書生など誰かの手で早々に追い払われているようだ。
 『我が住む町』の「高田町の概観」から、再び引用してみよう。
  
 (高田町の)住民を、私たちの調査した職業から見てみると、表にもある通り総数七二八九(七千七十六戸の他、副業として小売店を出してゐるものと、工場をふくむ)の中、大小の店を出しているものは二七九〇。所謂しもたや四四〇四で、その中勤人―大臣もあれば小学校の小使いさんもあり、官公吏、教師、会社員などさうした勤人は二一一四、其他として芸術家、地主、家主、及び職人、職工、人夫等の労働者を一纏にしたのが一五九一、その上九五の工場がある。即ち高田町の住民は勤人、其他、小売商と三分することが出来る。さうしてその大多数は中流階級に属する。勤人の中にも教師をしてゐる人が多かつたのをみても、知識階級の人が多く住んでゐることが分つた。/又学生世帯が一〇六あつたり、無職が五七一あつたりしたのは、附近に学校の多いこと、恩給生活又は多少の資産によつて生活してゐるものが可なりあるといふことを語つてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 卒業を控えた女学生をはじめ、まだ幼い面影が残る生徒たちが訪ねた住宅や商店、工場などのインタビューの様子が、同書の後半で詳しくレポートされているが、当時の高田町界隈(現在の目白地域)の様子が活きいきと、手にとるようにわかって非常に興味深い。どうせなら、南隣りに位置する落合町の全戸調査もやってほしかったのだが、自由学園の卒業生によるこのような制作やプロジェクトは、毎年行われていたようなので、ほかにどのような卒業生による成果物があったのか興味津々だ。
 商店や工場などへのインタビューで、おかしかったことや怖い目にあったエピソードなど、彼女たちは歯に衣を着せず自主規制もせずに学園名のとおり、ありのまま自由に書いているので、『我が住む町』は行政資料以上に貴重な高田町を知る第一級資料でありルポルタージュとなっている。機会があれば、「貧乏線」や「衛生調査」ともども、それらの訪問記をぜひシリーズ化して書いてみたい。
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 ちなみに、普通選挙法が施行された1925年(大正14)の同書には、「近き将来に於て必ず与へられなくてはならない女子の参政権」と書いてあるが、彼女たちが初めて選挙で投票できたのは、それから21年後、1946年(昭和21年)4月の敗戦後のことだった。

◆写真上F.L.ライトClick!が1921年(大正10)に設計した、自由学園(明日館)の現状。
◆写真中上は、1925年(大正14)5月に出版された第3回卒業生の制作プロジェクトによる『我が住む町』の表紙()と奥付()。は、開校から間もない時期の自由学園キャンパス。は、高田町を6つのブロックに分けて調査したエリア図。
◆写真中下は、自由学園の実習「壁画制作」。は、1927年(昭和2)に遠藤新Click!が設計した自由学園講堂。は、カラーで表現されている高田町民の職業別表。
◆写真下は、芝庭(旧・校庭)から眺めた自由学園明日館の現状。は、女中に依存しない自由学園の実習「洗濯」。は、校舎内でのランチの様子。

菓子屋が異常に多い大正末の高田町。

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 大正末の高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の小売り商店には、菓子屋が飛びぬけて多い。高田町雑司ヶ谷1151~1154番地(のち雑司が谷町6丁目→現・西池袋2丁目)にあった自由学園Click!の高等科女学生たちが、卒業制作のプロジェクトとして1925年(大正14)に実施した同町の全戸調査では、144店の菓子屋および70店の駄菓子屋が報告されている。合計すると214店舗となり、これは高田町の人口や面積からすればとんでもなく多い数字だ。
 たとえば、1925年(大正14)2月末の時点で高田町内の米屋は70店、八百屋(青果屋)は86店、魚屋は47店、肉屋は16店、酒屋は96店、燃料販売(薪炭屋)は89店、豆腐屋は26店(彼女たちは、実際に各店舗をすべて訪問して実地調査している)だが、菓子屋(駄菓子屋含む)は214店と突出している。
 前回の記事に、卒業レポート『我が住む町』Click!(自由学園/1925年/非売品)に掲載されたカラーの店舗数グラフを掲載したけれど、菓子屋と駄菓子屋を合計すると、他店に比べて飛びぬけた数字であることがおわかりいただけるだろう。高等科の女学生たちは、高田町の全戸数をベースに何戸の家々が、菓子屋・駄菓子屋を支えているのかを算出したところ、1店につきわずか33戸(家庭)の顧客で商売が成立していることに呆れている。
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 同様に、1店舗を支える高田町の家庭数は、米屋が102戸(家庭)、八百屋(青果屋)が82戸、魚屋が151戸、肉屋が442戸、酒屋が74戸、薪炭屋が79戸、豆腐屋が272戸で、これは当時の東京市全体の割合(1店舗/顧客戸数)と大きくは変わらないが、高田町では菓子屋の多さのみが異常な数値となっている。
 彼女たちの菓子店についてのレポートを、『我が住む町』から引用してみよう。
  
 (高田町の)店といふのは大概日用品の小売店で、近所の人々が相手であるとすれば、誰でも小売商が多過ぎるといふことに気がつく。そして中でも一番多いのは菓子屋であつた。(中略) たしかに小売商の王であらう。主食物でもないこの菓子屋が、こんなに多いのをみても、時を定めずお茶を飲みお菓子を食べ、来客には同じやうに菓子をすゝめることの多い、兎角無駄食ひに時と金とを費やしてゐる我々の生活が省みられる。高田町の戸数から割出してみると約三十三軒の家で一軒の菓子屋を支へてゐることになる。これを東京市市勢調査の統計にあらはれてゐる四十七軒に比較してみると、高田町の菓子屋があまりに多すぎるのである。(カッコ内引用者註)
  
池袋西口西池袋(昭和初期).jpg
目白通り米屋1931.jpg
自由学園校舎2.JPG
 ちなみに、女学生たちは高田町と東京市ばかりでなく東側に隣接する小石川区(現・文京区の一部)の統計とも比較し、1店舗当たりの顧客戸数を算出している。それによれば、小石川区の全域で米屋は227店で1店/94戸(家庭)、八百屋(青果屋)が272店で1店/113戸、魚屋が264店で1店/120戸、肉屋が64店で1店/495戸、酒屋が312店で1店/102戸、菓子屋が594店で1店/53戸、薪炭屋が252店で1店/126戸、豆腐屋が57店で1店/556戸となっている。
 小石川区の数字は、全東京市の割合とも大差なく近似しているが、高田町はいずれの小売店も顧客戸数が少なめで、かなり激しい競合状態(顧客の奪いあい状態)であったことがうかがわれる。そして、彼女たちがとにかく「無駄食ひ」wを指摘するように、特に菓子屋(駄菓子屋含む)が非常に多いのが高田町の特色だった。
 顧客の戸数(家庭)が少なければ、商品の価格を上げて利益率を多くしなければ、商店経営は成り立たない。つまり、彼女たちは高田町の物価がおしなべて他町よりも高いのは、同業の小売商店があまりに多すぎるからであり、その競合が激化するから店舗ごとに商品価格を吊り上げざるをえないのだと分析している。今日の商売からいえば、競合が激化すれば他店よりもできるだけ安く販売し、より多くの顧客を獲得するというのが常套だが、それはマスマーケティングの発想であって、大正末の限られた町内の、そのまた限られた商業地では、まったく逆の現象が起きていたことがわかる。今日的な表現でいえば、同業店の競合で“物価高スパイラル”に陥っていたわけだ。
 では、高田町への菓子店集中の理由を、彼女たちはどのように分析していたのだろうか。ひとつは、関東大震災Click!のために東京市街地から移入してくる人々が急増し、そこで新たな生活基盤を築かなければならなかったことを挙げている。ふたつめとして、新たな商売をはじめるとなると、菓子屋が資本も少なくもっとも手軽に開店できる店舗だったため、自然に“供給過多”の現象が起きているのではないかと推測している。
 彼女たちの分析はここまでだが、それに加え高田町は東京の市街地に隣接した“近郊”であり、大震災後の人口急増を見こんだ小売商たちが、復興が遅れている地域から大挙して高田町へと移転してきたのではないかとも推測できる。この傾向は、被害が少なかった東京市の外周域や近郊ではよく見られる現象であり、復興が遅れている(城)下町Click!から料亭や置屋などが次々と移転して、神楽坂という花柳界を新たに形成したように、近い将来は人口が急増し、交通機関も整備されることを見こした移転ではなかっただろうか。
山手線目白駅.JPG
武蔵野鉄道.JPG
王子電車.JPG
 自由学園高等科の女学生たちは、実際に町内の菓子屋全店を訪問しているが、その詳しいインタビューの中で、とある菓子屋が面白いことを指摘している。高等科3年だった奥村數子と、菓子屋の主人との会話を少し引用してみよう。
  
 『お客様と云ふものは案外人のよいもので、一つのものを買つてその値段が他より少し高い時、手前共のはアンコがいいとか又品が違ふとか云ふと、ほんとうにして買つて行きますよ。ですからね、各小売商で同じ物でも他店とはちよつと器用に形を代(ママ:変)へたりして、値段はいろいろにつけられます。そこへ行くとビスケツト類なんか、一番つまりません。製造元が二つ位しかありませんから、品がいゝとも云へないし、どこの菓子屋にもあるものですからな、キヤラメル類でもさうです。かうしたものはまあ利益は五分位と云ふ所ですな。併し自分の家独特と思つてゐても、お菓子屋同志(ママ:同士)互ひに探偵を使つて方々の家を探りあふのですから、直ぐまねされます。それで利益を少くして安く売ると云ふ段になるのですが、お客といふものは、また変なものでして、他に少し位安い所があつても、買ひつけた店を好むものですよ。安くするだけ結局損をする形になるから、ついどこでも同じ様になつて行くのです。』
 『本当に物価が高い高いと云ひながら、それに甘んじて居るのですね。』(中略)
 『お菓子屋さんはこの辺に随分ありますね。』
 『ほんとうにね、特にお菓子屋なんか多すぎますね、それと云ふのも優しくて素人にも出来るからですな――。』(カッコ内引用者註)
  
 「自分はいい買い物をした」と思いこみたがる消費者の心理を読んだ、まるで営業マンのクロージングを思わせる商売上手な主人の話だが、うちは他店よりも高いものを買っているという、どこか乃手Click!の見栄や格好づけをしたがる性質を、うまく商売に利用しているともいえそうだ。特に下町から移転した商店では、乃手の性質や傾向を見こして商品に「付加価値」らしきことを盛りこみながら、営業していたのではないだろうか。
高田町北部住宅明細図1926商店.jpg
目白駅前(昭和初期).jpg
目白駅前1970前後.JPG
 さて、高田町の西側あるいは南側に隣接する同時代の落合町では、リテールの現場はどのような様子をしていたのだろう。大正末の詳細な調査記録が残っていないので、正確なことはいえないのだが、高田町と大差ない状況ではなかったかと思うのだ。

◆写真上:女学生たちも歩いただろう、F.L.ライト設計による自由学園の回廊部。
◆写真中上は、昭和初期の西池袋界隈。は、1931年(昭和6)に撮影された目白通り沿いの米屋。は、自由学園の独特なデザインの採光窓。
◆写真中下は、高田町の中心的な駅である山手線・目白駅。は、高田町の北部を通る武蔵野鉄道(現・西武池袋線)。自由学園は、同線のひとつめの停車駅だった上屋敷駅が直近だった。は、高田町の西側を走る王子電気軌道=王子電車(現・都電荒川線)。1925年(大正14)当時は鬼子母神電停が終点で、南側に車庫があった。
◆写真下は、自由学園高等科によるリサーチの翌年にあたる、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる高田町の施設や商店。は、昭和初期に撮影された東環乗合自動車Click!バスガールClick!たちが写る目白駅前の商店街。(小川薫アルバムClick!より) は、1970年前後の撮影とみられる目白駅前の様子。

哲学堂上空から下落合を鳥瞰1941年。

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 陸軍航空隊が撮影したとみられる、非常にめずらしい空中写真を入手した。ちょうど、西落合2丁目968~990番地(のち同2丁目430番地)の四村橋Click!ぎわに建っていた、オリエンタル写真工業第二工場Click!の真上あたりから、ほぼ真東を向いて撮影された斜めフカンの空中写真だ。
 長崎地域から落合地域にかけ、改正道路Click!(山手通り=環六)の工事がまったくスタートしていないので、撮影は1942年(昭和17)以前、おそらく陸軍航空隊による他の写真類も考慮すると、1941年(昭和16)の撮影だとみられる。
 眼下には、オリエンタル写真工業の第一工場や井上哲学堂Click!哲学堂グラウンドClick!荒玉水道Click!野方給水塔Click!などが見えている。そして、妙正寺川沿いの高台には目白商業学校Click!(現・目白学園)から落合府営住宅Click!の全景、目白文化村Click!の全景、落合第一小学校Click!国際聖母病院Click!薬王院Click!、そして落合第四国民学校(旧・落合第四尋常小学校)Click!までが一望のもとに見わたせる、非常に稀少な写真だ。
 西武線Click!(現・西武新宿線)では中井駅Click!下落合駅Click!が、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)では椎名町駅がとらえられている。上屋敷駅Click!もとらえられているはずだが、遠景なので判然としない。
 なによりも貴重なのは、落合地域に建つ家々が真上からではなく、西からの側面だがそれぞれ立体で確認できる点だ。この時期、西落合にも田畑の間に住宅が次々と建ちはじめていた様子がわかる。落合分水Click!沿いの谷間では、耕地整理で田畑がひな壇状に宅地化されていく、まさに赤土がむき出しの整地作業中のエリアが見える。「妙見山」Click!は、三間道路が拓かれているものの、まだまだ深い樹林を残したままだ。
空中西側哲学堂.jpg
空中西側妙見山.jpg
空中西側第二文化村.jpg
 下落合を見てみると、1940年(昭和15)から販売をはじめた勝巳商店地所部Click!による昭和版「目白文化村」Click!の敷地には、まだほとんど住宅が建てられていない。それに比べ、箱根土地Click!が大正期に販売した目白文化村は、ところどころに空き地が残るものの、ほぼ全域に住宅が建ち並んでいる。第二文化村の北側、箱根土地の社宅建設が予定されていたエリア(現・下落合教会/下落合みどり幼稚園Click!)にも、すでに大きな安本邸や水野邸の建設されているのが見える。
 第二文化村の南側は、改正道路工事を想定して丘陵地に茂っていた木々が伐採され、通称「翠ヶ丘」が一面の「赤土山」に変貌している。「赤土山」北東の高台には、旧・ギル邸Click!跡に建てられた巨大な津軽邸Click!が見えている。1941年(昭和16)の第一文化村の前谷戸には、いまだ弁天池があったはずだが、成長したモモの林(昭和10年代には谷底にモモ畑があった)がまわりを囲んでいて、水面を確認できない。
 また、旧・箱根土地本社Click!(のち中央生命保険倶楽部)のビルが、おそらく無人の廃墟になっていた思われるのだが、この時期まで壊されずに残っていたのがわかる。江戸期の建物が残る宇田川邸Click!の向こう側には、第四文化村の分譲地があるが、住宅が建ち並んでいる様子には見えない。
 これら目白文化村に建つ家々は、陸軍航空隊が同時期に東中野上空(南側)から撮影した、もうひとつ別の斜めフカン写真Click!×2点と対比することによって、かなり正確に意匠や形状を把握できるのではないかと思う。
 さて、落合第一小学校の北東側を見てみよう。わたしが初めて、本格的な3Dで目にする第三文化村だ。第三文化村の北西端に建っていた、目白会館文化アパートClick!の西側の切妻とエントランスがハッキリととらえられている。周囲の家々(それらも大きなお屋敷のはずだが)と比較すると、目白会館が飛びぬけて巨大だったのが見てとれる。手前の落合第一小学校より遠景にもかかわらず、その2階建て校舎のサイズよりもはるかに大きな建築だったのがわかる。
空中西側赤土山.jpg
空中西側第一文化村.jpg
空中西側第三文化村.jpg
写真西側薬王院.jpg
 第三文化村の先には、佐伯祐三アトリエClick!があるはずだが、濃い緑に覆われて確認することができない。聖母坂沿いには、国際聖母病院Click!の屋根に覆われた「シベリア鉄道」Click!(渡り廊下)が、白く光っている。聖母坂の向こう(東側)には、薬王院の本堂(現・方丈)の屋根と、その上(東側)には落合第四国民学校Click!の「Γ」型に折れた校舎の屋根が、それぞれ陽光を受けて白く光っている。
 鉄道沿線を見ると、中井駅前は改正道路の工事に備えて、やはり樹木が伐られ家々の立ち退きが終了し、赤土がむき出しの状態になっている。ちょうど、大規模なタタラ遺跡Click!が出土したあたりだ。いまだ一ノ坂Click!矢田坂Click!は残っているが、深く生い繁っていた樹木が次々と伐採され、周辺の環境は激変していただろう。中井駅前の落合第二国民学校Click!(旧・落合第二尋常小学校Click!)には、敷地いっぱいに校舎が建ち校庭が狭くなっている。聖母坂下の下落合駅の周辺では、東京護謨工場Click!が移転したあとの広い空き地が目立つ。
 武蔵野鉄道の椎名町駅周辺は、住宅街が形成されているものの、駅を少し離れると西落合と同様、すぐに空き地や田畑が拡がっている。そんな中、長崎国民学校(旧・長崎尋常小学校)の左手(北東側)には長崎アトリエ村のひとつ、「桜ヶ丘パルテノン」Click!の小さなアトリエが並んでいる。
 ひとつ気になるのは、椎名町駅の南南東側にあたる椎名町1丁目(現・目白5丁目)の、戦後は真和中学校になる校舎のあたりに、まるで水道塔を思わせるドーム状の構造物が建っている点だ。大邸宅の塔かとも思ったが、1945年(昭和20)の空襲前に撮影された空中写真を見ても、この位置にそのような建築物はない。これは、いったいなんだろうか?
写真西側中井駅.jpg
写真西側下落合駅.jpg
空中西側桜ヶ丘パルテノン.jpg
写真西側椎名町駅.jpg
 とりあえず、写真を概観して気がついた点を大急ぎで羅列してみたが、これからは落合地域で、あるいはその周辺域で発生するさまざまなテーマや課題によっては、同写真が大きな役割を果たしてくれるのではないかと期待している。特に、下落合の西部から中部にかけてを細かく検証するには、願ってもない空中写真なのだ。

◆写真:1941年(昭和16)の撮影とみられる、下落合の中西部を鳥瞰した空中写真。

高田町の全商店舗調査1925年。

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目白通り.JPG
 1925年(大正14)2月に、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)に存在するすべての住宅、商店、企業、工場、各種施設を調査した自由学園高等科の女学生たちClick!は、卒業レポートとして『我が住む町』を出版している。これは、アンケート用紙を配布して記入する国勢調査よりもよほど詳しく、全戸を訪問して直接のインタビューや観察をもとに記録する調査だった。
 事前に高田町Click!と高田警察署から、自由学園による調査が実施される主旨を各町内に連絡し周知をしてもらい、さらに訪問の数日前には、女学生たちが調査趣意書と訪問日時などを記載したパンフレットを全戸にポスティングするという、本格的な社会調査の手法を採用したものだ。住宅や商店、工場、各種施設をまわる中で、商店を訪ねたのはこの社会調査を企画した最上級生、つまり卒業が目前に迫った高等科3年生の女学生たちが多かった。なぜなら、顧客を相手に営業中の商店で、忙しい主人にインタビューするのはことさら難しいと判断したからだろう。
 しかし、無視されたり追いだされたりした店がわずかにあったものの、おしなべて商店の主人たちは、彼女たちの質問にできるだけ親切かつ詳細に答えている。また、調査目的に関係のない商売の話や世間話も多かったらしく、また女学生たちもそれが面白く感じたのか、特に商店調査については別章を設けて詳細に報告している。
 1925年(大正14)2月の当時、高田町には2,790軒の事業所があり、そのうち1,861軒の商店が営業をしていた。初めに、食品店や飲食店について見てみよう。
食糧・飲食店.jpg
 まず、今日ではあまり見られないが、「八百屋(青物屋)」と「果実屋」が分かれているのがわかる。現在では青果店が当りまえだが、当時は野菜とフルーツは市場がちがっていたせいか、別々の店舗で売られていた。現代でも例外的に、大きな病院の近くなどではフルーツ専門店を見かけることがある。
 「芋屋」は焼きイモ屋のことだが、「納豆屋」や「砂糖屋」が独立しているのも面白い。これらは、仕入れ先の卸しや市場が特別で異なるからだろう。魚介類でも、魚と貝とでは「魚屋」と「蛤浅蜊屋」とで分離している。魚市場と、ハマグリやアサリを仕入れる貝市場とが異なっていたせいだろう。食べる氷、つまりかき氷は「飲用氷屋」として分類されており、冷蔵用や冷房用の製氷業は含まれていない。
目白通り商店1926.jpg
 高田町に菓子屋Click!が異常に多いのは、先の記事でご紹介しているが、「葉茶屋」はふつうの煎茶を売るお茶屋のことだ。蕎麦Click!うどんClick!では、やはり圧倒的に「そば屋」が多い。「蒲焼屋」が2軒記録されているが、すでに廃業してしまった店だろうか、現代の旧・高田町のエリアで感心する「う」Click!にはいまだ出会ったことがない。こんにゃくを専門に扱う、「蒟蒻屋」が独立していたのも面白い。
 次に、衣服や生活用品を扱う店を見てみよう。
被服・生活用品店.jpg
 「綿屋」は、医療・衛生に使用する脱脂綿や、布団などに詰める綿など、多種多様な綿類を扱う問屋か専門店だったとみられる。高田町や落合町には、旧・神田上水沿いに製綿工場Click!が数多く営業していた。
 大正期の高田町は、まだ和服の装いが多かったのか「足袋屋」が10軒も営業していた。また、和装には不可欠な「小間物屋」も、30軒とかなり多い。日本髪を結う“もとゆい”の需要も、大正末ではそれほど落ちていなかったとみられ、中村彝アトリエClick!裏の一吉元結工場Click!は、いまだ順調に操業をつづけていただろうか。
 今日では、駅のキオスクやコンビニでさえ売っている傘だが、当時は「雨具屋」として独立していた。いまの傘は使い捨てが多いが、当時は修理も行っていたのだろう。また、外働き用の雨合羽も扱っていたと思われる。「染料屋」は、着古した着物などの生地を染め直す、染料の専門店だったのだろう。
 「唐物屋」は、江戸期には中国や朝鮮から取り寄せた輸入品の専門店だったが、大正期には陶器などの食器を扱う“瀬戸物屋”の意味だろう。親の世代でも、「唐物屋」といえば陶製の食器を売る店のことであり、茶碗や皿などが割れると「唐物屋さんに行かなきゃ」といっていた。ちなみに、「唐物屋」が古物商(骨董店)をさす地方もあるようだが、自由学園の調査でも「古物商」は別のカテゴリーに分類されており、「唐物屋」=“瀬戸物屋”だったことがわかる。
 「下駄屋」と「靴屋」では、「下駄屋」の店舗のほうが圧倒的に多いが、高田町に勤め人(サラリーマン)の家庭が急増し、洋風生活や洋装が当りまえになっていくにつれ、この割合が逆転する昭和時代はもうすぐそこだ。
 その他、上記に分類されない高田町の商店を見ていこう。
その他商店.jpg
 「砥屋」は、別に日本刀の研師Click!がいた店ではなくw、切れ味の悪くなった包丁や鋏、鎌などの農具を研ぎなおす専門店だ。いまでも下落合では、たまに「砥屋」さんClick!が住宅街をまわってくる。大正期には、「文房具屋」と「万年筆屋」が分離しているのもめずらしい。万年筆は、当時はまだ高級文房具で、修理などには専門技術が必要だったのだろう。また、昔ながらの筆を売る「筆屋」も1軒だけだが残っている。薬品を扱う「薬屋」と、ガーゼや包帯、マスクなどを売る「衛生材料屋」が分離しているのもめずらしい。「ゴム屋」は長靴やゴム草履、ゴム管、ホースなどゴム製品全般を扱う店だろう。
雑司ヶ谷鬼子母神表参道入口.JPG
雑司ヶ谷鬼子母神参道商店建築.JPG
 高田町に、「釣針屋」があるのが面白い。旧・神田上水あるいは弦巻川Click!で、住民たちは釣りでもしていたのだろうか。「犬屋」と「鳥屋」は、別に食べるための店ではなく、今日のペット屋さんだ。大正末から昭和初期にかけ、文化住宅ではペットを飼うのが大流行Click!していた。特に洋犬の人気が高く、鳥もオウムやインコ、カナリヤなど輸入された鳥類も大人気だった。自由学園を卒業した上落合の村山籌子Click!は、少しでも生活の足しにとシェパードClick!のブリーダーをやっており、下落合の吉屋信子Click!に売りつけてイヤな顔をされている。
 「飼料屋」は、運送業のウマや牧場のウシ、養鶏場のニワトリなどに食べさせるための飼料を売っていた店だ。山手線・目白駅Click!には東側に貨物駅Click!が併設されており、「馬具屋」の2軒ともども駅に到着した荷物の運搬には馬力Click!が不可欠だった。また、雑司ヶ谷の北辰社牧場Click!をはじめ、高田町とその周辺には「東京牧場」Click!が多く、ウシたちの飼料も取り扱っていたのだろう。1925年(大正14)の高田町は、急速に宅地化が進み人口が急増しているが、どこかでまだ田畑をやっている農家が残っていたのか、「種物屋」が1軒のみ営業をつづけていた。
 「銅鉄屋」と「原料屋」は、具体的な商売の内容が不明だが、前者は鉄や銅などの金属を購入しては転売する、金属ブローカーのような仕事だろうか。新しい住宅街では、自家用車(マイカー)を持ちはじめた家庭も増え、「自動車屋」が町内に4店ほど開業しているが、「自転車屋」にいたっては32軒も営業している。大正末に、自転車がいかに町民の“足”になっていたかを示す数字だ。
 ペットブームと同様に大流行していたのがビリヤードClick!だが、高田町には7軒の「撞球場」が店開きしていたのがわかる。仕事にも学校にもいかず、多くの人々が「撞球場」へ入りびたりになり、社会問題化しそうになったほどのブームだった。また、同様に趣味の店として「碁石屋」も1軒記録されている。
 現在は「雑貨屋」で扱っている掃除道具のホウキが、「箒屋」の専門店(2軒)で売られているのも面白い。竹をはじめ、棕櫚やパームなどの材料を使って組み立てるホウキは、独自の工場ルートから市場に卸されて流通していたものだろうか。
高田町住宅明細図1926商店.jpg
 以上のように、自由学園の女学生たちは全1,861軒の商店を戸別訪問して調査を行っており、概観レポートでは「高田町に善良な風紀を害するやうな商売のないことは喜ぶべきことである」と結んでいる。個々の商店については、業種別に詳しいレポートが掲載されているのだが、それらをいつか訪問記としてシリーズ化してみたいと思っている。

◆写真上:旧・高田町を東西に走る目白通りで、バス停の目白警察署前あたり。
◆写真中上:1926年(大正15)に作成された「高田町(千登世町/若葉町/鶉山/稲荷/四ッ谷/豊川/美名実/古木田/雑司ヶ谷町)住宅明細図」にみる、目白通りと雑司ヶ谷鬼子母神の表参道沿いに展開する当時の商店街。
◆写真中下は、目白通りに面した雑司ヶ谷鬼子母神の表参道入口の現状。は、雑司ヶ谷鬼子母神の境内までつづく参道沿いの商店建築。
◆写真下:1926年(大正15)作成の、「高田町住宅明細図」に掲載された商店一覧。

下落合を描いた画家たち・三宅克己。

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三宅克己「落合村」1918.jpg
 1918年(大正7)の第12回文展に、三宅克巳(こっき)Click!は『諏訪の森』と『落合村』という2点の作品を出品している。『諏訪の森』は、豊多摩郡戸塚町92番(現・高田馬場1丁目)に建っている諏訪社Click!の鬱蒼とした境内の杜と、南側につづく戸山ヶ原の防弾土塁Click!下の小道を描いたものだ。そして、もう1作の『落合村』が下落合の目白崖線と、上落合の丘陵とにはさまれた一面の田園風景を、めずらしい横長の画用紙を用いてとらえた、かなり広角の視界で描いたとみられる画面だ。
 1906年(明治39)に、淀橋町角筈から豊多摩郡役所の北隣りにあたる、淀橋町柏木407番地(現・北新宿1丁目)のアトリエへ転居した三宅克己は、付近に拡がる風景を精力的に描いている。特に戸山ヶ原Click!には頻繁に出かけたようで、陸軍の施設が建ちならぶ以前の草原や雑木林、金川(カニ川)Click!などの風景を画用紙に水彩で写している。山手線をはさみ東西に拡がる、戸山ヶ原の北側に位置する戸塚町の諏訪社や落合村もまた、そのような写生散策の一環として画道具を肩に立ち寄ったものだろう。
 1918年(大正7)という早い時期の落合村なので、目白崖線沿いには目印となるような建築物や構造物は少ない。もちろん、下落合氷川社Click!薬王院Click!は以前から存在しているが、山手線に近い近衛邸Click!(近衛町Click!は未開発)や御留山Click!相馬邸Click!七曲坂Click!大島邸Click!西坂Click!徳川邸Click!ぐらいしか目立つ大屋敷は建設されていない。崖線の麓には、下落合の「本村」Click!あたりと「小上」の丘下の「北川向」Click!に集落が多少あるものの、田畑ばかりの農村風景が拡がっていた時代だ。
 さて、『落合村』の画面を検討してみよう。一面が、見わたす限り田園風景だ。木々の様子から、新緑の初夏を迎えた落合村のような気配が漂う。手前の草原は、開墾と灌漑、そして田植えを待つ水田だろうか。奥の黄色い一面のエリアは、「麦秋」(5月)を迎えた麦畑のように見える。強い光線は、左手上空から手前のほうへ少し斜めに射しているようで、やや逆光ぎみの画面だ。左手が南側に近い方角だとすれば、右手から奥に連なる丘は下落合の目白崖線ということになる。つまり、三宅克己は旧・神田上水と妙正寺川が流れる、下落合と上落合の谷間からほぼ西側を向いて描いていることになる。
 画面には、家々がほとんど見えない。唯一、画面左手の小高い丘の下に、大きめな家の屋根らしい長方形のフォルムがふたつ(2軒)、とらえられているのみだ。つまり、1913年(大正2)に建設されたコンクリート建築の非常に目立つ目白変電所Click!も見えなければ、下落合氷川社らしい針葉樹が繁る境内の杜も、中核的な集落だった本村らしい家々が重なる屋根も、どこにも描かれていない。ということは、この画面は山手線からかなり離れた、落合村の西部を描いたものではないかと想定することができる。
 また、もうひとつの“ヒント”として、田畑の間に背が高めな草むらが繁茂し、樹木が点々とつづくラインが見てとれるだろう。このような場所は、田畑には開墾できない道路か川、灌漑用水などが流れている例が多い。画面の手前に、大きくカーブをしながら横切るライン、右手でカーブした奥で複雑なかたちで入り組み、画面の右手枠外へとつづいていくライン、同様に画面右手の複雑に入り組んだあたりから、木々を繁らせながら目白崖線沿いに画面奥へと遠ざかっていくラインなど、数多くの“緑のライン”が確認できる。道路にしては、非効率的で妙な形状をするこのラインは、おそらく水流=河川だろう。
三宅克己アトリエ跡.jpg
柏木407_1918.jpg
落合村地形図1910.jpg
 以上のような想定で、改めて画面を眺めてみると、この風景に一致しそうな場所がわずかながら存在している。描画ポイントは下落合村ではなく、戸塚町の旧・神田上水沿いに拡がる田圃の中、宅地化が進んだのちの住所表記では、戸塚町上戸塚509番地となるあたりの水田の畦道だ。非常に広角で描かれた風景で、しかも当時は目標物がほとんど存在していないため、厳密な描画ポイントではなく「あたり」としか想定できないが、上記の地番あたりから北西を向いて、下落合(右手)と上落合(左手)の田畑が拡がる、谷間全体を写しとっているのではないかとみられる。
 それぞれ、画面に描かれたものを特定してみよう。まず、右手のけわしい丘は、現在の久七坂Click!が通う南へ張りだした急斜面の丘と、西坂が通う徳川邸Click!のある丘だと思われる。手前に繁った樹木に覆われ、諏訪谷Click!あるいは不動谷Click!(西ノ谷Click!)への入口、ないしは「本村」の外れに建つ家々の屋根は隠れて見えない。大きめな西洋館だったとみられる徳川邸(当時は別邸)だが、丘の林に囲まれているので望見できない。ほぼ真正面のあたりには、前谷戸Click!(大正後期から不動谷)が口を開けているはずだが、やはり濃い樹林に前を遮られて判然としない。市街地に住む人々が、週末になるとピクニックにきていたころの落合村の風情だ。
 画面の中央左寄りに描かれた、ケヤキと思われる大樹のすぐ左手に見える小高い丘は、「小上」と字名がつけられていた一ノ坂Click!蘭塔坂Click!(二ノ坂)あたりの丘だと思われる。その麓には、妙正寺川の北岸の字名「北川向」(通称:中井村Click!)に散在する、家々の屋根が2軒採取されている。現在でいうと、中井駅の北東側あたりの山麓だ。少しかすみ気味の遠景には、もうひとつ台地状の小高い盛り上がりがとらえられているが、現在は目白学園Click!のある「大上」と呼ばれた丘だろう。目白崖線に連なる丘では、37.5mといちばん標高が高い最高点だ。
 以上のような想定をすると、田畑の中に描かれた水流とみられる曲線も特定できる。まず、手前で大きく蛇行をしている川は、左手が小滝橋の架かる上流にあたる旧・神田上水だ。また、目白崖線の下を風景の奥まで延々とつづいている樹木のラインは、上落合と下落合の間を流れる妙正寺川ということになる。当時の旧・神田上水や妙正寺川は、江戸期そのままに川幅も狭く川底も浅い流れだった。そして、この時期の両河川が落ち合う合流点は、画面右端に描かれた樹林の中だ。現在の位置関係でいうと、久七坂の南約100mほどのところ、西武線・下落合駅のホームあたりということになる。
三宅克巳「落合村」1918右.jpg
三宅克巳「落合村」1918左.jpg
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 さらに、画面左端に書かれた「K.Miyake 1918」のサイン上から、こんもりとせり出している緑は、上落合にある光徳寺の境内北側あたりの樹林であり、その向こうに麦畑を斜めに横切る細い緑色の線は、妙正寺川のバッケ堰Click!から上落合の「南耕地」まで引かれた、灌漑用水の細い小流れだろう。この用水は、途中まで妙正寺川と並行するように流れているが、途中で「へ」の字状にクラックし、「南耕地」から南下して旧・神田上水沿いに「八幡耕地」の田畑までを潤していた。
 さて、この画面を眺めていて不可解に感じた部分がある。「あれ?」と思われた、この地域にお住まいの方も多いのではないだろうか。この作品が描かれたのと同年、1918年(大正7)の1/10,000地形図を参照すれば、その不可解なテーマがすぐに判明する。1913年(大正2)に目白変電所Click!が建設されているのは先述したとおりだが、同変電所へと向かう高圧線の木製塔が1本も描かれていないことだ。三宅克己が写生した当時、この田園風景の中には妙正寺川に沿うように、右岸あるいは左岸に東京電燈谷村線の木製高圧線塔が連なっていたはずだ。鈴木良三Click!が1922年(大正11)に制作した、『落合の小川』Click!に描かれているあの高圧線塔Click!だ。もう少し時代が下ると、林武Click!佐伯祐三Click!も高圧線塔(佐伯は明らかに高圧線鉄塔Click!)を描いている。
 三宅克己は、画面に入れるモチーフと捨象するものとを分けて描いている、すなわち“構成”を行っているのではないか? 他の作品でも、住宅街もほど近い道路に、電柱がただの1本も描かれていないなど、やや不自然な表現が見られるのだ。『落合村』と同時に、第12回文展へ出品された『諏訪の森』でも、宅地化が進みつつある諏訪社前の通り=諏訪通りClick!に、電柱が1本も描かれていないのが不自然に感じる。『落合村』にしても、もう少し家々の屋根が見えていてもいいのかもしれない。三宅は、自身で風景の“美”やバランスを壊すと判断したものは、画面から積極的に捨象してはいないだろうか?
鈴木良三「落合の小川」1922部分.jpg
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 『落合村』は初夏の風景だと思われるが、同年の『諏訪の森』は空に積乱雲が立ちのぼる真夏の情景だ。秋の第12回文展に向け、柏木407番地のアトリエから北上し、5月ごろ『落合村』を制作した三宅克己は、今度は山手線の内側に入り盛夏の戸山ヶ原を縦断して、『諏訪の森』の制作に取りかかっているのだろう。下落合の南東側にあたる、戸塚町Click!の『諏訪の森』も画面を入手しているので、機会があればご紹介したい。

◆写真上:横長の画用紙に描かれた、1918年(大正7)制作の三宅克己『落合村』。
◆写真中上は、淀橋町柏木407番地(現・北新宿1丁目)の三宅克己アトリエ跡(右手)。画面の左手は豊多摩郡役所が建ち、右手が柏木406~407番地だった。は、『落合村』を描いた1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる三宅アトリエ界隈。は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる『落合村』の描画ポイントと画角。
◆写真中下:画面に描かれた、目白崖線沿いに展開するモチーフの特定。
◆写真下は、1922年(大正11)制作の鈴木良三『落合の小川』(部分)に描かれた東京電燈谷村線の高圧線塔。は、1910年(明治43)と1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図の比較。『落合村』と同年の1918年(大正7)には、すでに東京電燈谷村線が敷設されていたはずだ。

高田町の全工場・事業所調査1925年。

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東京パン看板.JPG
 前回、自由学園高等科の女学生たちが実施した社会調査レポート『我が住む町』Click!から、1925年(大正14)2月の時点で高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)に存在していた、すべての商店について記事Click!にしたが、今回は同町で操業していたすべての工場や事業所についてご紹介してみたい。
 実は、自由学園の女学生たちは1923年(大正12)の関東大震災Click!の直後から、ボランティアで被災者の家庭や避難者に牛乳を配給したり、「フトンデー」といって被災者に寝具を配布したりして、高田町ではかなり知られた学校だった。だから、翌々年の1925年(大正14)に全町調査をした際も、親切にしてくれる家庭は多かったようだ。たとえば、工場街を調査した女学生は、こんなことを書いている。
  
 地面は大変広い所でしたが、大きな工場が沢山あつて家数は少うございました。随分ひどい家に住んで居る方が多うございました。焼け跡のトタンの焼けたのを集めて住んで居る人もありました。屋根に頭のとゞく様な低い暗いきたない小さな家に住んで居る人もありました。表は茶めし屋で裏に行つて見るとまあ何と言つたらばいゝのでせう、其のきたない事と言つたらばこんな家の茶めしなどを食べたら大変です。戸を開けるとブーンと臭い香がして来て気持悪くなつた事も度々ありました。けれども一番嬉しかつたのは、皆さんがよく親切に教へて下さつた事でした。そしてもつともつとこの町をよくして下さいと言つて下さいました。
  
 全戸訪問のレポートを読むと、彼女たちは大きな屋敷に住む住民よりも、中小の家々に住んでいた住民たちから親切にされたケースが多いようだ。
 さて、同年に高田町で操業していた製造業や工場の様子を見てみよう。
被服生活品製造業.jpg
 江戸友禅や小紋、藍染めなど染色業Click!にかかわる事業所が目立つが、これらは旧・神田上水(1966年より神田川)沿いのエリアが多いのだろう。「ねりぬき屋」は、絹織物を製造する事業だが、それに図柄をほどこす「刺繍屋」も3軒記録されている。
 ほとんどが和服に関する工房だが、かんざしや笄を製造する「錺屋」が8軒も営業をつづけている。いまの若い子は知らないだろうが、下駄は使っているうちに歯が地面に擦れて減っていくので、それを入れ替える「下駄歯入れ屋」も9軒が営業していた。傘は、修理の専門工房があったようで「傘直し屋」が3軒、当時の靴下はメリヤス編みで高価だったせいか、穴の開いたものを直す「靴下かがり屋」が営業しているのも面白い。
 つづいて、家内制手工業的な工房ではなく、規模の大きな工場を見てみよう。
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 この中で、「製パン工場」が1軒とあるのは、山手線と武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が交差するあたり、高田町雑司ヶ谷池谷戸浅井原838~843番地に建設された、東京でも最大規模の東京パン工場Click!のことだ。大正の当時、東京西部に点在していたパン屋や喫茶店では、その多くが東京パンの製品を仕入れ販売していた。画家たちが、デッサンで木炭消しに使っていたのも東京パン製が多い。
 旧・神田上水沿いには、大正期に入ると「製薬工場」(4軒)や医療衛生品工場(5軒)、印刷工場(3軒)などが急増している。これらの工場は(染織工場もそうだが)、より下流の江戸川Click!(大洗堰Click!舩河原橋Click!)や神田川(千代田城外濠~柳橋Click!)沿いから、水のきれいな上流へと移転してきたものだ。
高田工業地帯1936.jpg
神田川沿い工業地帯1937.jpg
 つづいて、住宅や建築に関連する事業所を見てみよう。
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 1925年(大正14)の時点では、いまだ西洋館よりも日本家屋の建築に関する職業が多いようだ。ただし、手先が器用な指物師や表具師は、洋館向けの家具や調度でも、見よう見まねでこしらえてしまったにちがいない。「やすり屋」(3軒)や「鋸めたて屋」(2軒)は、おもに大工道具や工作道具のメンテナンスを行う作業場だったのだろう。
 「ポンプ屋」が6軒記録されているが、これは井戸から水を汲みあげる上水ポンプClick!の設置を手がけていたとみられる。また、変わったところでは「煙突屋」が1軒採取されているが、銭湯や工場の煙突建設や保守を請け負った会社なのだろう。
 次に高田町に散在していた、さまざまな事業所を見てみよう。
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 籐椅子など藤製の家具やバスケット、雑貨を制作する「藤細工屋」が6軒も開業していた。「貝細工屋」は、貝の螺鈿(らでん)などを用いて茶箪笥の扉や文箱、硯箱、棗(なつめ)などに装飾をほどこす工房だ。また、「鍛冶屋」が43軒も開業していたのが驚きだ。刃物や大工道具など、新興住宅地らしく工作用の道具のニーズが高かったのかもしれない。あるいは、昔ながらの農具を製造した農村時代の名残り(いわゆる「野鍛冶」)が、そのままつづいていたものだろうか。
 一方で、江戸時代とまったく変わらない職業も継続していた。「桶屋」の16軒をはじめ、「樽屋」が5軒、「提灯屋」が3軒、「水引元結屋」が4軒、「蝋燭屋」が1軒などだ。もっとも、「桶屋」は住宅の風呂や銭湯での需要があり、「樽屋」は漬け物屋や造り酒屋などで、「提灯屋」は寺社の縁日や祭礼で、「蝋燭屋」は寺社や家々の仏壇でそれぞれ変わらぬニーズがあったのだろう。
 いまでも、このあたりで見かけるのは、活版ではなくオフセットか大型プリンタになった「印刷屋」に「印版屋」(ハンコ屋)、いまでは出力サービス店や文房具店に吸収されてしまった「紙札屋」(名刺屋)、そして「らを屋」だろうか。「らを屋」(ラオ屋)は、煙管(きせる)の羅宇のヤニ取りや、雁首・吸口の修繕をする仕事だが、たまに下落合にある目白通り沿いの刀剣店「飯田高遠堂」さんの前へ、小型トラックでやってきてはピーーッという高圧蒸気の音を響かせている。最近は、パイプの清浄などもしているようで、それなりに需要があるのだろう。
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松本竣介「工場(池袋)」スケッチ1944頃.jpg
 最後に、以上の業種には含まれない、専門業務の施設を見てみよう。
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 まず、このあたりに病院・医院と床屋が多いのは昔もいまも変わらない。特に落合地域の歯科医院は、下落合の第二文化村Click!島峰徹Click!が住んでいたからかどうかは知らないが、50~100mおきぐらいに開業している。33戸で1店の菓子屋を支える、大正末の高田町のような状況だが、ちゃんとマーケティングをしてから開業しないので、数年で閉院する歯科医も少なくない。
 当時の住宅は、風呂場がないのが通常なので、「浴場業」(銭湯)の21軒は決して多い数ではない。男性の「理髪店」は51軒だが、女性の「美容術屋」Click!(美容院)が高田町でたった1軒しか開業していない。そのぶん、日本髪を結う昔ながらの「髪結い」業が31軒も残っている。高田町の女性たちは、洋風の生活をしようとすると髪を切りに、あるいは電髪(パーマ)をかけに1軒だけしかなかった美容院へ出かけるか、あるいは自分で鏡を見ながらカットしていたのかもしれない。自由学園の女学生たちは洋装だが、髪は自分で切るか親に切ってもらっていたのだろう。
 昭和も近い1925年(大正14)の高田町だが、規模の大きな工場や企業が進出してくる一方で、江戸期とまったく変わらない商品を製造しつづけている小規模な事業所や工房が、ずいぶん残っていたのがわかる。住民の生活も、昔ながらの和様式のものと、文化住宅の洋風な暮らしとが混在しているのが、さまざまな事業所や商店の記録から読みとれる。
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 さて、自由学園の女学生たちが訪れても、なんの事業をしているのかがわからなかった「不明」の事業所が12軒ある。彼女たちは何度か足を向けているようだが、事業所内には誰もおらず、業種や業務内容が不明だったところだ。たまたま長期不在で留守だったか、よそに移転して空き家だったか、あるいは廃業した事務所だったのかもしれない。

◆写真上:空襲で焼けなかったエリアでは、いまでも残る「東京パン」の商店看板。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる旧・神田上水沿いの工場。は、1937年(昭和12)に撮影された目白崖線(遠景の丘)下に拡がる工業地域。
◆写真中下は、戦時中の1944年(昭和19)ごろ制作の池袋に建っていた工場を描いた松本竣介Click!『工場(池袋)』。は、同作の鉛筆スケッチ。
◆写真下:1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)巻末に収録の、各種工場や医院などの広告群(一部)。多種多様な工場や事業所、企業が広告を出稿しており、現在では大正期の高田町を知るうえでは願ってもない資料だ。

1936年(昭和11)の東京名勝めぐり。

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 親父が遺した本に、1936年(昭和11)に銀座の地人社から出版された『大東京史蹟名勝地誌』がある。東京が(城)下町Click!の15区編成から35区編成Click!になって、しばらくしてから出版された、現代でいう「街歩き」のガイドブックのような本だ。おそらく親父が中学生になったころ、街歩きに興味をおぼえた1940年(昭和15)ごろに入手したのだろう。空襲で同書が焼けていないのは、日本橋の実家から諏訪町(現・高田馬場1丁目)にあった大学の下宿まで、そのまま持って出たからだとみられる。
 ページを開くと、親父が実際に訪れた場所や歩いたところには赤鉛筆で印やメモが残されており、どうやら戦前戦後を通じて東京各地のかなり広範な地域を歩いているようだ。ただし、「街歩き」のガイドブック風の編集といっても、新たな加わった20区Click!は東京郊外の風情がいまだ強く、「街歩き」ではなく「ハイキングコース」として紹介されている区や地域もめずらしくない。
 旧・15区とその周辺地域のページが真っ赤なのに対し、ほとんど赤鉛筆のマーキングが見られない地域、すなわち中学~大学時代の親父があまり散歩しなかったらしい地域としては、蒲田区(現・大田区の一部)、城東区(現・江東区の一部)、荏原区(現・品川区の一部)、世田谷区、杉並区、足立区、葛飾区、江戸川区の8区が挙げられる。面白いことに、わたしも上記の5つの地域や街々は歩くことが少なく、あまり馴染みがない。
 逆に、書きこみが多く赤鉛筆で真っ赤なのは、東京15区の市街地はもちろんだが、新たに加わった区で赤い印が目立つのは品川区、目黒区、淀橋区、中野区、豊島区、瀧野川区、荒川区、板橋区、向島区などだ。空襲で焼ける前、これらの地域には鎌倉期から江戸期までの建築や彫刻、遺構、史蹟、芝居の舞台、あるいは風情などが数多く、または色濃く残っていたからだろう。同書を読んでいると、学生時代の親父が歩いた東京市内の足跡がそのまま透けて見えて面白い。
 ただし裏を返せば、戦争で東京に残っていた文化財の大半が灰になっているのに気づき、改めて愕然とする思いだ。わたしは旧・荒川区や向島区、瀧野川区、瀧野川区などのエリアにはめったに出かけないが、それは関東大震災Click!では助かったものが空襲でほとんどが焦土と化し、本来あるべき古くからの文化財が根こそぎ失われた地域であり、親父とは異なり出かけるきっかけや意欲が喪失してしまったからだと気づく。
 さて、落合地域は同書ではどのように扱われているのだろうか? 淀橋区のページを見てみると、残念ながら下落合氷川社と富士(藤)稲荷社、月見岡八幡社の3ヶ所しか紹介されていない。それも無理からぬことで、旧・落合町よりも旧・淀橋町や大久保町、戸塚町のほうが史跡や遺構、芝居にちなんだ記念物、物語や伝承などが圧倒的に多い。淀橋の熊野十二社や成子天神社、東大久保の西向天神社、戸塚の亨朝院や宝泉寺、高田馬場址などには赤鉛筆の記載があるが、落合地域はスルーしているのか書きこみがない。もっとも、親父がいた諏訪町の直近で、いつでも歩けると思っていたせいもあるのだろう。
 同書に掲載されている、落合地域3社の紹介文を引用してみよう。
  
 氷川神社
 下落合一丁目(ママ)にあり、奇稲田姫命を祀る。故に女體の宮と称し、高田の氷川社が祭神素戔嗚尊なるに対して、当社を配して夫婦の宮としたといふ。村社例祭十月四日。
 富士稲荷
 下落合二丁目(ママ)にあり、東山稲荷ともいふ。清和天皇の後胤経基が京都の稲荷を勧請したといふ。境内に藤の老木があつたから社名が起つた。今の藤は二代目。
 八幡神社
 誉田別尊を祭る(ママ)。上落合一丁目にあり上落合村の旧鎮守神。創建古く義家手植の松といふもあつた。又、藤の古木がある。
  
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 下落合氷川社と富士(藤)稲荷社とで、当時の所在地が逆だ。氷川社は旧・下落合2丁目で、富士(藤)稲荷は旧・下落合1丁目にある。また、由来らしきことが書かれているけれど、各社は創建時期が不明で(それほど聖域としては古く)ハッキリしない。
 特に藤(富士)稲荷Click!は、奉納されていたのが太刀とおぼしき刀剣(鎌倉期?)Click!だし、周囲に展開するバッケ(崖地)Click!状の地形などから古代の大鍛冶に由来する鋳成神(いなりしん)Click!、ないしは小鍛冶に由来する火床の荒神(こうじん)Click!が、後世(おもに室町期から江戸期)に農業の神とされる朝鮮半島(秦氏)由来の稲荷神へと習合または転化しているのではないかと疑っている。しかも、神田川(旧・平川)流域の目白崖線沿いには、タタラ遺跡を示す金屎(スラグ)の出土例が多く、出雲の鋳成(タタラ製鉄Click!)と関連が深い氷川社が点在しているのでなおさらだ。
 同書に書かれている遊覧場所として、落合地域の近くでは新宿御苑Click!や新歌舞伎座(東京市電新宿車庫前)、伊勢丹Click!新宿三越Click!、帝都座、武蔵野館Click!早大キャンパスClick!雑司ヶ谷鬼子母神Click!などが挙げられているが、落合地域は含まれていない。むしろ、ハイキングの際に立ち寄るエリアとして認識されていたようで、同書では50のハイキングコースが紹介されている。そのうち、落合地域にもっとも近いコースは「新井薬師と哲学堂」コースだ。以下、同書より引用してみよう。
  
 24.新井薬師と哲学堂
 西武村山線の新井薬師下車(ママ)、又は中央線の中野駅からバスが通ふ。寺は東京の一流行仏。薬師駅の北方で妙正寺川が大曲流をなし、台地がその間に突出して、東北の和田山の台地と対し、雑木林、松林などあつて風光がよく、野方風地区として指定され種々設備中とある。哲学堂の参観をはじめ一日の散策の絶好地。
  
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 ここでも、新井薬師前(あらいやくしまえ)駅は「新井薬師駅」Click!と認知されているのが面白い。w 書かれている和田山が井上哲学堂Click!のある山で、鎌倉期の以前から和田氏Click!の館があったという伝承が地元各地に存在している。また、落合地域の周辺には、「和田」のつく地名や伝承がいまでも数多く残っている。
 また、「野方風致地区」の名称が出ているが、北上する妙正寺川の東側でエリアつづきの落合町葛ヶ谷も、1930年(昭和5)に「葛ヶ谷風致地区」Click!として東京府により指定されている。風致地区とは、風光明媚な地域なので自然を保護する目的でつくられた制度だが、葛ヶ谷は昭和初期になると耕地整理が進み、ほどなく「西落合」という町名で新興住宅街を形成している。ただ、同書が出版された1936年(昭和11)の時点では、あちこちに畑地や雑木林がいまだに散在して、妙見山Click!に代表される鬱蒼とした丘陵地帯が展開し、ところどころにモダンな住宅や画家のアトリエClick!が建ちはじめたばかりなので、それなりにハイキングは楽しめただろう。
 もうひとつ、落合地域に近いハイキングコースとして、「山手七福神巡り」が掲載されている。同書より、再び引用してみよう。
  
 48.山手七福神巡り
 四谷(ママ:区)新宿二丁目大宗寺(ママ)の布袋、牛込区原町一丁目経王寺の大黒天と神楽坂善国寺の毘沙門天。それに淀橋区西大久保二丁目に恵比寿(鬼王神社)/同々福禄寿(鈴木豊香園)/同々寿老人(法善寺)及び同東大久保拔弁天(厳島神社)がある。
  
 「大宗寺」は太宗寺の誤植だが、落合地域に比較的近いのは西大久保と東大久保に展開する史蹟だろうか。(それでも2~3kmは離れているが)
 当時の落合地域は、大正期からつづくモダンな新興住宅街と華族屋敷の敷地にされていた丘陵や雑木林などが多く、とりたてて名勝と呼ばれるような場所はいまだ生まれていない。散歩をするには、まだ街角や風景が真新しく、ハイキングコースにするには住宅地化が進みすぎていて興ざめ……、そんなエリアが1936年(昭和11)現在の落合地域だった。落合地域が、散策のコースとして脚光をあびるのは、そこに集っていた画家や作家など芸術家たちの姿がようやく浮かびあがり、また緑が多く残された「新宿の秘境」Click!あるいは「新宿の奥座敷」として注目されるようになった、戦後もかなりたってからのことだ。
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 同書の序文に、「今日の『東京』に多大の影響を与へたものは勿論江戸文化である。否、今日の『東京』は『江戸』の延長である。(中略)『東京風』なるものが『江戸』から承け継いだもので、それが今日の東京に有形無形に残ってゐる」と編集者の手で書かれているが、「東京風」のうち無形はともかく、有形の多くのものが戦争で失われているのが残念でならない。せめて無形の「東京風」は、この城下町の基盤またはリソースとして、多彩な領域の文化や風俗、習慣とともにこれからも末長く継承していきたいものだ。

◆写真上:下落合にいまもそのまま残る、谷戸地形の湧水源に形成された雑木林。
◆写真中上は、1936年(昭和11)に地人社から出版された『大東京史蹟名勝地誌』()と目次の「淀橋区」の一部()。は、1935年(昭和10)ごろに撮影された新井薬師Click!は、同年ごろに撮影の井上哲学堂の「三賢人碑」。
◆写真中下は、室町期ごろの江戸の様子を表現した左側が北の江戸古図。左下に平川Click!(現・神田川)の流れが描かれ、江戸湾へ張りだした岬(エト゜=鼻)には柴崎村(現・大手町)の神田明神Click!が、その北(左側)には太田道灌の江戸城Click!が見えている。は、1936年(昭和11)時点の芝丸山古墳Click!の全景。周囲には10基の倍墳が描かれているが、実際に調査され記録されているのは11基なので1基が記載漏れだ。また、当時は芝丸山古墳のくびれ部に「造り出し」が残っていたのがわかる。
◆写真下は、同年ごろの関口芭蕉庵Click!は、同年ごろの雑司ヶ谷鬼子母神と参道。当時は、境内や表参道に仲見世が連なっていたのがわかる。

高田町の「貧乏線」調査1925年。

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 大正末の高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)を対象とした「貧乏線の調査」Click!では、自由学園高等科の女学生たちClick!が社会調査の方法論を学ぶために、高田町四ッ谷(四ッ家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいた早稲田大学の教授・安部磯雄Click!に相談したことは前の記事でも書いた。その教えにより、彼女たちは詳細な質問カードを作成している。
 質問カードには、ひとつの世帯の家族構成や年齢・性別・職業に加え、それぞれの収入や同居人の有無、住宅の部屋数、畳敷きの部屋数、家賃などを訊ねる詳細なものだった。そして、集めたデータをもとに、先に安部教授との打ち合わせで決定していた、「貧乏線」以下の家庭が調査戸数の何%を占めるのかを算出している。
 「貧乏線」は、先にご紹介したようにロンドンの実業家C.ブースが考案したもので、住民ひとりが1ヶ月に必要とする生活費を割り出し、家族が増えるごとに最低の生活費の水準を設定していくやり方だった。高田町の調査では、1925年(大正14)時点での最低生活費を、住民ひとりにつき25円/月と算定している。また、生活にかかる費用を70歳以上と8歳未満に限り半人分と計算し、家族が増えるにしたがい1.5人が住めば最低費用は30円/月、2人の場合は35円/月、2.5人のときは40円/月、3人は45円/月……というような指標を作成している。
 まず、女学生たちClick!は調査対象となる多種多様な住宅を、あらかじめ6調査区に分けた高田町内の各エリアから、事前に487戸をモデル家屋として抽出している。だが、当初は487戸=487世帯だと思っていた彼女たちは、1軒の家に複数の世帯が暮らす貧困家庭などがあることを知り、最終的には529世帯におよぶ調査となった。以下、そのときの調査の様子を、1925年(大正14)5月に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)の「貧乏線の調査」より引用してみよう。
  
 先づ貧乏線といふことに就て安部先生指導の下に色々のことを考へました。さうしてその標準を、大人一人につき月廿五円、一人をます毎に十円を増加へること、但八歳以下七十歳以上の人は半人分五円とすることにして、家族数に収入を照し合はせ、以上の標準以下の分を貧窮圏内と見ることにしました。(中略) その時に四八七戸(略)の家を選び出しましたが、調べて見ると、五二九世帯あつてその中の唯九六世帯だけが、貧窮線以下の生活であることを知りました。中でも馬力といつてゐる運送者など、家は随分汚ないのですけれど、厩も自分のもので割に豊かな収入を持つてゐることなど、はじめての私共には案外に思はれました。/反対に普通の家に住んでゐても、家族の多い下級の勤人など、服装その他の体面もありますし、或は実際苦しい生計になつてゐるやうな所もあるのかも知れないと思ひました。併し後になつて、全高田町の戸別調査をした時にも、さう困つてゐるやうな所は見なかつたのでございます。
  
 この調査により、1925年(大正14)2月の時点で、高田町に住む人々の家内事情がかなり詳細に判明している。まず、489戸の抽出調査で529世帯の家族が暮らしていたのは先述したが、同世帯で暮らす総人口は2,150人で、1世帯あたり平均約4人の家族が生活していることになる。そのうち、20歳以下の家族は737人を数え、総人口のうちのおよそ34.38%が若年層だったことになる。20歳以下の若年層のうち、すでに独立して生活している者が70人、親が扶養している者が667人いた。
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 529世帯のうち、特に飛びぬけて収入が多かった運送業の(おそらく)経営者宅36世帯を除き、493世帯における1ヶ月の総収入は30,247円70銭だった。なぜ、高収入の運送業者(馬力Click!)を除いたのかといえば、当時の山手線・目白駅Click!には学習院Click!椿坂Click!沿いに貨物駅Click!が併設されており、その周辺には東京各地へ荷を配送する運送業者が数多く集まるという、特殊な地域事情があったからだ。
 彼女たちが抽出した訪問住宅には、期せずして裕福な運送業者の家庭が数多く含まれており、それら例外的に高収入だった世帯を含めて平均値を計算してしまうと、高田町の一般家庭における生活水準の把握に、少なからず誤差が生じると判断したからだろう。運送業者の家庭を除いた、高田町の1世帯あたりの平均収入は61円35銭/月となり、調査対象の人口ひとりあたりの平均収入は15円8銭/月ということになる。ちなみに調査と同年、1925年(大正14)の東京市における大卒の初任給が50円前後、給与所得者(サラリーマン)の平均収入は61円前後なので、高田町はほぼ当時の平均生活に近い、いわゆる「中流」の住民が数多く住んでいた地域であることがうかがわれる。
 そして、家族の人数と収入金額を比べてみると、529世帯のうち「貧乏線」を割ってしまう家は95世帯で、全世帯の17.96%を占めていることがわかった。おそらく、この数値は同時期の東京市や他の区・町と比べてみても低いのではないかと思われる。529世帯のうち、持ち家に住んでいる家族は9世帯、借家に住む家族が520世帯だが、当時は借家に住むのが生活の常識だったので、持ち家がないからといって貧困とはまったく限らない。借家住まいの世帯では、1ヶ月の家賃総額が5,526円64銭、月にすると1世帯あたり平均家賃は10円63銭/月ということになる。つまり、1世帯(4人)の平均収入61円35銭/月の中で、家賃が占める割合は17%強だ。
 自由学園の女学生は、住環境についても具体的に調べているが、住宅の畳間(日本間)の数だけ調べ洋間は含めていない。当時の高田町は、和洋折衷の住宅も多かったとみられるが、「ひとりあたりの畳の枚数は何枚?」というような、昔ながらの調査感覚が残っていたものだろうか。あるいは、大正期なので畳部屋こそが寝室も兼ねた個人の居住空間そのもので、応接間や居間、食堂などに多い洋間は共有空間であって、除外するものだと捉えられていたのかもしれない。住民の中には、「答えたくない」と断ったケースや部屋数が不明の家庭もあったようで、回答数は482戸となっている。
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 日本間の広さも確認しており、全820間の畳の総数は3,667枚、したがって住民ひとりあたりが使える日本間の占有率は約1.7畳ということになる。
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 次に、調査対象となった529世帯の住民の職業調査も行っている。親に扶養されている、学生や生徒などを含む20歳以下の住民は除外し、なんらかの収入がある世帯主や妻、その子どもたちなど住民711人を対象に調べた結果だ。
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 当時の高田町は、運送業や中小の工場が集まっていたせいか、職人や職工、運送業者の関係者がかなり目立つ。また、女性の仕事としては、川沿いに展開する染色業や製紙業に関連する仕事が多かったのだろう。
 さて、「貧乏線」の調査は、高等科の女学生たちが抽出した487戸(529世帯)の家々に限られてはいたにせよ、かなりプライベートで失礼なインタビューの内容が含まれており(「運送者など、家は随分汚ない」けれどすごくおカネ持ちだなどと、いいたい放題のレポートを書いた経緯もありw)、彼女たちは調査対象となった家庭の子どもたち全員を、学園をあげたパーティに招待している。これに対し、調査した家庭から357人の親子が、高田町雑司ヶ谷1151~1154番地(のち雑司が谷町6丁目→現・西池袋2丁目)にあった自由学園にやってきた。そのときの様子を、同書から引用してみよう。
  
 私共はまた調査をした週間の土曜日、午後一時から調査に行つたお家の子供さんたちを招待して、学校でお伽噺の会をしました。私共の願ひを聞き入れて、快く話して下さつたお礼のためでした。(中略) 先づ全校のお友達に三品づゝ福引の材料を持つて来て下さることをお願ひしましたら、絵本、毬、お手玉、まゝごと道具、お人形、飛行機、汽車、自転車などのおもちや、手帳、鉛筆、クレオンなど皆新しいものばかりで、一寸したおもちや店が開けさうでした。婦人之友社から頂いた沢山の子供之友をも加へて、公平に組み合はせ、包み紙に包んで四百点の贈物をつくりました。(中略) 次に横山さんと友田さんの童謡が二つばかりあつて、高崎能樹先生のお伽噺にうつりましたお話が本題に入つた頃には講堂は満員でございました。(中略) お噺は三人の王子といふ題で私たちにも面白うございました。福引は釣堀式にして渡しました。贈り物を釣り上げて出てくる子供に明治製菓会社から寄贈して下さつたビスケツトとカルミンを渡しました。
  
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 彼女たちは、同書巻末の「調査の感想」でもしばしば触れているが、家が小さくて貧しそうな家庭ほど親切にいろいろ教えてくれ、大きな住宅の場合は“お高く”とまってほとんど答えてくれないか、または調査対象となる家族が姿を見せず、女中を介しての間接的な受け答えしかしてくれないと書いている。中には、勝手口からの訪問ではなく玄関から入ってきたと、ひどく怒られた女学生たちもいた。次回は、自由学園の全校生徒が参加した、高田町の全戸7,870戸を対象とする「衛生調査」について書いてみたい。

◆写真上:1921年(大正10)に開かれた、学園の設計者F.L.ライトClick!(中央)の送別会。写る生徒の何人かは、4年後の調査にも参加している女学生たちだと思われる。
◆写真中上は、529世帯の「貧乏線」調査に使われた質問カード。は、1921年(大正10)4月15日に開かれた自由学園開校式の様子で26人の生徒が入学した。教壇には、羽仁吉一(左)と羽仁もと子(壇上)の姿が見える。
◆写真中下は、開校式と同じく1921年(大正10)4月15日に行われた初授業の様子。は、同日に校舎の前庭(校庭)で撮影された本科1年生の入学記念写真。
◆写真下:1922年(大正11)に撮影された、竣工間もない自由学園校舎。学園が久留米町に移転したあと、「自由学園明日館」となった現在も意匠はほとんど変わらない。

高田町の「衛生環境」調査1925年。

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 自由学園高等科の女学生たちClick!「貧乏線」調査Click!につづき、1925年(大正14)2月末に実施した「衛生調査」は、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の全戸にわたる調査Click!となった。もちろん、高等科の卒業予定者だけでは調査スタッフが足らず、本科5学年と高等科2学年を合わせた全校生徒が参加する大規模なプロジェクトとなった。訪問先が留守だったり、調査を拒否した家庭を除くと町内の7,076世帯が彼女たちに協力している。
 衛生調査は、おもに「塵埃(生活ゴミ)」「汚物汲取り(便所)」「清潔屋(クズ屋)」「下水」の4つの課題に分かれているが、各家庭における病人の有無も調べている。同年2月末の時点で、病気にかかり寝ていた人は重症者と軽症者を合わせて町内に498人、全人口の1.4%に匹敵する。中には、不衛生からくる伝染病で病臥していた人もいたのだろうが、高田町では1924年(大正13)に伝染病に罹患した町民が203人、そのうち死亡した住民は54人で、死亡率は約27%と高かった。内訳は、以下のとおりだ。
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 これら伝染病のうち、不衛生な生活環境に起因するものが少なくない。高田町では、町内の衛生環境を向上させるために塵埃の回収に1,880円58銭/月、便所の汲取りに3.617円49銭/月、清潔屋(クズ屋)に681円33銭/月の支出をしていた。年額にすると74,152円80銭となり、今日の貨幣価値に換算すれば約4,000万円と、人口が35,000人余の郊外町にすれば大きな支出になる。
 もちろん、高田町の予算ですべてのゴミや汚物を回収できたわけではなく、多くの住民は民間業者に委託していた。たとえば、塵埃の処理を見てみよう。
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 「自家で処置」とあるのは、生活ゴミを自宅で燃やしたり穴を掘って埋めたりする方法と、そこいらの空き地や川へ出かけて投棄する(ぶちまけてくる)場合だ。「不明」は、回答拒否か要領を得ない答え方をした家庭で、おそらく「そこらへぶちまけ」ケースが多く含まれているとみられる。
 民間の塵埃掃除人(ゴミ屋さん)へ依頼するケースでは、たとえば896戸の4人家族で総額299円08銭/月、1戸あたりの平均は33銭37厘/月を支払っている。塵埃回収の料金については、戸別や人員別、回数別など詳細をきわめた集計や分析をしているが、膨大な統計コンテンツになるので割愛し、カラー印刷された「塵埃表」のみを掲載しておくことにする。また、各家庭のほか、95の工場Click!におけるゴミ処理法も調査しており、業者に委託する総料金は24円30銭/月となっている。
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 「自家で処置」とあるのは、焼却炉などの設備がある工場だろう。「不明」は家庭の場合と同様に、回答拒否か明確な答えが得られなかった工場で、どこかへ投棄するか川へ流していたケースも含まれているのだろう。
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衛生調査質問カード.jpg
 次に、汚物汲取りの状況を見てみよう。大正末、すでに上下水道が引かれ、浄化槽が設置された東京の市街地では水洗トイレが普及していたが、東京市の外周域や近郊では上下水道ともに未整備で、トイレは汲取り式が一般的だった。それでも水洗トイレにしたい家庭や施設では、高額な浄化槽設備を敷地のどこかに埋設して、これまた高価な水洗トイレ設備一式を購入し、大規模な工事をしなければならなかった。したがって、おカネ持ちで敷地が広い邸宅でなければ、水洗トイレClick!には手がとどかなかった。これは高田町に限らず、落合地域でもまったく事情は変わらない。
 以下、1925年(大正14)に出版された『我が住む町』Click!(自由学園)から引用しよう。
  
 我々の大部分は汚物を汲取人に托してゐる。其の他自家で始末するもの、家主が処置するもの等あるけれど、三.五六パーセントにすぎない。汲取人に托するものゝ内無料が二.七一パーセント、物品をあたへるのが〇.二六パーセント、他はすべて一月に幾何かづゝ料金を支払つて居る。表に示すのはすべて一ヶ月分の料金高で、五銭八銭と云ふのは半年か一年分を支払つて居るのを一月に換算したもの。/料金にずてぶん差のあるのもあるが、汲取人に托すものゝ内五十六.八三パーセントまでは五〇銭から七〇銭までの料金を支払つてゐる。戸数は三千七百二十四戸、次いで三〇銭から五〇銭までの料金を支払ふ家で三〇.〇五パーセント、一千九百六十九戸である。
  
 文中で、「自家で始末」は“有機肥料”として使う農家、「家主が処置」と汲取り料金が無料の家は、おそらく近くの農家と契約して肥料用に提供している家庭だろう。汚物汲取りや清潔屋についても、女学生たちは各戸別、人員別、さらに工場などについて詳細な分析をしているが、長くなるのでカラー印刷の表を掲載するにとどめたい。
 生活ゴミの中でも、燃えないゴミや粗大ゴミなどは清潔屋(クズ屋)に引きとってもらうのが一般的だった。7,076戸のうち、清潔屋を呼んで回収してもらうのが5,212戸で、全体の73.66%を占めている。このうち、19戸が無料でゴミを引きとってもらっている。ゴミといっても、金属やリサイクルできるものが含まれているため、清潔屋はそれらを専門業者に転売しては利益を得ていた。
 また、清潔屋を呼ばない家庭が1,707戸(24.1%)もあり、処理が不明の家が157戸(2.22%)ある。同書の巻末には、生徒たちによる「調査の感想」が掲載されているが、ゴミを近くの空き地や川へ投棄する事例があり呆れているので、清潔屋に払うおカネを惜しんだ家庭も少なくないのだろう。無料の家19戸を除き、5,193戸が清潔屋に払う総額は664円13銭/月、平均1戸あたり12銭8厘/月だった。
塵埃調査グラフ.jpg
汚物汲取清潔屋グラフ.jpg
 最後に、「下水」について見てみよう。当時の高田町では、下水道の大部分は道路脇に掘られていた溝(開渠が8割強)を流れており、調査できた全7,183戸の83.34%を溝下水が占めていた。ただし、この溝は石やコンクリートで固められた、蓋もある完全なものから蓋のないもの、側面のみを固めて底は土が露出しているもの、ただ土を溝状に掘っただけのものなど形態はさまざまだったようだ。
 次に多かったのが、「吸い込み式」と呼ばれるもので、穴を掘って下水をそのまま地中に浸みこませる方式だ。これも、土管を地中に埋めて遠く離れた田畑などへ送り地中に浸みこませる、今日の下水管のような高度なものから、家の排出口に土管を埋めて敷地内に掘った穴へ注ぎ、地中に浸みこませる一般的なもの、汚水を家の外の排出口からそのまま地中に浸みこませるものなどいろいろだ。全戸のうち、13.4%の家庭が地面への「吸い込み式」を採用している。同書より、再び引用してみよう。
  
 溝と云つても蓋のないもの、又流れずに滞つてゐるもの、その為めに蚊等の発生の激しいと聞くことが多い。又此の町の飲料水、使用水は全部井戸からであるが、下水の不完全の為め汚水の井戸の方に浸透したりして非常に不潔であると云ふことも、或方面にはあつた。高田町の下水、それは決して完全のものではない。
  
 以下、下水の方式と戸数の表を掲載してみよう。
高田町下水方式.jpg
 自由学園の女学生たちは、1925年2月26日(木)と27日(金)の2日間、朝から6調査区に分けた高田町へいっせいに散って調査をはじめた。調査区6班全体の総班長を決め、その下に調査区ごと6班長を置き、さらに細かな地区別のリーダーを決めて、準備会や予行演習で打ち合わせをした手順どおりに各戸をまわっている。
東京市陸上競技大会選手1923.jpg
 また、自由学園の校舎には、とどく情報の交差点として留守番の後方支援班を置き、午後4時をめどに町から調査員たちが次々ともどってくると、作っておいた熱いお汁粉を給食している。後方支援班を除き、高田町をまわった調査員は総勢167人だった。

◆写真上:1921年(大正10)に撮影された美術授業で、教師は洋画家の山本鼎Click!。「自由画運動」を推進していた山本鼎は、進んで学園の教師を引き受けたのだろう。
◆写真中上は、女学生たちが高田町の全戸へ事前に配布した「衛生調査依頼趣意書」。は、同調査に使用された家庭の衛生状態の質問カード。
◆写真中下:1925年(大正14)出版の『我が住む町』(自由学園/非売品)に掲載の「塵埃調査」グラフ()と「汚物汲取/清潔屋調査」グラフ()。
◆写真下:1923年(大正12)に開催された、東京市陸上競技大会に出場する選手たちの記念写真。高跳びや幅跳び、ハードルなどの競技で強かったようだ。

夕立がきそうな三宅克己『諏訪の森』。

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三宅克己「諏訪の森」1918.jpg
 1918年(大正7)のよく晴れた夏の日の午後、淀橋町柏木407番地のアトリエをあとにした三宅克己Click!は、画道具を肩に蜀江山Click!を左手に見ながら迂回すると、中央線・大久保駅の先にある道路(現・大久保通り)へと抜けて踏み切りをわたった。そのまま新大久保駅のガードをくぐり、すぐに北へと左折して戸山ヶ原をめざす。戸山ヶ原Click!の写生では、以前から歩きなれた道順だ。
 山手線の線路沿いをしばらく北上し、住宅がまばらになってくるあたりから、大久保射撃場Click!に築かれた防弾土塁(三角山)Click!があちこちに見えてくる。大正のこの時期、とりわけ大きな防弾土塁は近衛騎兵連隊Click!の兵営内に1ヶ所、同連隊と陸軍戸山学校の射撃訓練用に1ヶ所、陸軍全体で使用する大久保射撃場に3ヶ所構築されていた。周辺の住宅街に流れ弾が飛びこむようになり、死傷者がでる流弾被害Click!の急増が問題化し、「陸軍は戸山ヶ原から出ていけ」運動Click!が周辺自治体で活発になると、さらに高い防弾土塁(三角山)が増えていく。そして、1928年(昭和3)には射撃場をコンクリートのドームで覆う最終的な工事が実施されている。
 三宅克己は、射撃場の敷地内に赤旗が掲揚されていない(射撃訓練をしていない)のを確認すると、山手線沿いにあるとりわけ大きな防弾土塁の西側から、諏訪社の前を東西に横切る道路(現・諏訪通り)へと抜けた。空はよく晴れているが、周囲のあちこちに大きな積乱雲が湧きでており、午後も遅くなると夕立がきそうだった。
 三宅克己は、諏訪通りを東へと向かい、射撃場内の湧水源から北へ向けて流れでる小流れの手前で、肩から画道具一式を下ろすと、写生用のイーゼルを組み立てはじめた。諏訪の森で鳴くミンミンゼミやアブラゼミの声が、ときおり陽をさえぎる雲の動きで、大きくなったり小さくなったりを繰り返している。
 西からの陽光がオレンジ色に変わるころ、周囲が急に暗く蔭りはじめた。あたりは人影もなくひっそりとしており、玄国寺の門前あたりに干された洗濯物が、ときどき強い風にあおられてパタパタ揺れている。風が出てきたということは、夕立が近いのかもしれない。三宅克己は風景の色合いを目に焼きつけ、大急ぎで水彩道具を片づけていると、どこかからか遠雷の音が聞こえてきた。油彩ではなく水彩なので、描いた画用紙を雨に濡らしては元も子もない。
 あとは帰ってからアトリエで仕上げようと、画道具を肩にかつぎ大急ぎで写生現場をあとにして、百人町方面へと足を速めた。……おそらく、諏訪の森での制作の様子は、こんな状況だったのではないだろうか。
三宅克己「諏訪の森」積乱雲.jpg
三宅克己「諏訪の森」洗濯物.jpg
三宅克己「諏訪の森」小流れ.jpg
 画面に描かれた風景から、モチーフの特定をしてみよう。まず、中央から左手にかけて描かれている森が、玄国寺Click!や諏訪社の建立されている森だ。画面を拡大すると、手前の森の中に玄国寺の山門らしい構築物が、また奥には諏訪社の鳥居らしいフォルムが描かれているようにも見えるが、陽が蔭っていて薄暗く、また大正期のカラー印刷精度では判別することができない。
 この森沿いに拓かれ、奥へ向かって上り坂にカーブしている道路が、当時の諏訪通りだ。諏訪通りを左へ、つまり西へ300mほど歩けば山手線の諏訪ガードClick!が、東へ1,000mほど歩けば近衛騎兵連隊兵舎(現・学習院女子大学)をへて、穴八幡(高田八幡社)Click!のある馬場下交叉点へと抜けることができる。
 諏訪通りをはさみ、洗濯物が干されているエリアは、すでに陸軍大久保射撃場Click!の敷地内だ。右手に見えている小高い丘が、射撃場の側面に盛られた防弾土塁で、その土塁沿いの下には小道が通っている。戸山ヶ原を散歩する人たちが、土塁を迂回するために歩いて踏みかため小道化した、「獣道」ならぬ「人道」なのかもしれない。
 この側面に築かれた防弾土塁は、大正の後期になると周辺の住宅地で流弾被害が急増するにつれ、諏訪通り沿いのギリギリの位置まで土砂の山が丸ごと動かされ、さらに高い防弾土塁が道沿いに築かれることになる。その様子は、1938年(昭和13)ごろの記憶を水彩画で記録しつづけた、濱田煕Click!の水彩画やスケッチで確認することができる。そして、手前の下を横切る茶色いくぼみは小道ではなく、射撃場内の湧水源(湧水池が形成されていた)から諏訪の森までつづく小流れだ。
陸地測量隊地形図1918.jpg
諏訪の森描画ポイント.jpg
諏訪社1.JPG
諏訪社2.JPG
 1938年(昭和13)前後に見た戸山ヶ原界隈の記憶画を描く、濱田煕の話を聞いてみよう。1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された、濱田煕『記憶画 戸山ヶ原―今はむかし…』に掲載されている諏訪通りについての記述だ。
  
 山手線側から、諏訪神社の方角を見る。
 画面左手は墓地。その向こうの二階家は製函問屋で、店内の板の間には、何台かの紙箱製造機が働いていた。右手三角山の小屋附近に、当時としては珍らしい自動車の練習コースがあった。
 諏訪神社前の登り坂
 諏訪神社の前は結構な坂であった。/当然のことながら道は拡張され、墓地の生垣は殺風景な万年塀となっている。製函問屋は立派な建築の東京製菓学校に変り、あたりは若者たちであふれている。
  
 「自動車の練習コース」は、戦前に造成された簡易自動車練習場のことで、昭和10年代は自動車の免許取得がブームになっていたものか、同様の施設を高田馬場駅近くの旧・神田上水(1966年より神田川)に架かる神高橋Click!の北側や、妙正寺川に架かる北原橋Click!の西側の上高田でも確認できる。また、「墓地の生垣」とは玄国寺の墓地のことで、現在はより頑丈なコンクリート塀となっている。
濱田煕「山手線側から諏訪神社の方角を見る」1938.jpg
濱田煕「諏訪神社前の登り坂」1938.jpg
三角山(戦後).jpg
三角山.JPG
 さて、濱田煕の文中にもあるとおり、現在の諏訪通りは広く拡張され(1938年当時の道幅の約4倍強)交通量も激しいので、三宅克己の描画ポイントに立つことは危険でできないが、Google MapのStreet Viewによる車載カメラの画像では、それらしい位置から玄国寺本堂と諏訪社のある『諏訪の森』跡を、なんとか眺めることができるようだ。

◆写真上:第12回文展に、『落合村』とともに出品された三宅克己『諏訪の森』。
◆写真中上:ほどなく夕立がきそうな、『諏訪の森』に描かれた風景の部分拡大。
◆写真中下は、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図にみる描画ポイント。は、StreetViewで描画位置あたりから『諏訪の森』跡を眺めたところ。は、小流れがあった玄国寺の西側から上り坂になる諏訪通り(上)と諏訪社拝殿(下)。
◆写真下は、1938年(昭和13)の記録画で描かれた濱田煕『山手線側から、諏訪神社の方角を見る』。中上は、同じく濱田煕のスケッチで『諏訪神社前の登り坂』。中下は、戦後すぐのころに撮影された山手線沿いの三角山のひとつで、右手が安田善次郎Click!が創立した東京保善高等学校。は、現在でも大久保3丁目に残る防弾土塁(三角山)。

高田町の商店レポート1925年。(1)米屋

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自由学園校舎(夜間).JPG
 自由学園高等科の女学生Click!で、卒業を間近にひかえた2年生の渡邊美喜が訪ねた店舗は米屋だった。畑の間を歩いて店舗に向かっているため、この米穀店は自由学園近く雑司ヶ谷上屋敷あたりの商店だろうか。
 「落ちやうとして落ちきらぬ夕陽が、高くそびえた雑木の間をもれて、向ふのガラス窓に赤々と映えてゐる静な春の夕暮だつた」と、まるで文学作品のような冒頭ではじまる取材レポートは、どうやら以前から知り合いだった米屋を訪問しているらしい。主人のことを、「元気のいゝ米屋さん」と表現していることから、自宅の近所にある家では馴染みの店なのかもしれない。
 米俵がたくさん積まれた店前に立ち、ガラス戸を開けるとあいにく主人は留守だった。応対に出たのは愛嬌のあるまだ子どもの小僧で、出直そうかと迷っていると、年上の小僧が配達を終えたのか店にもどってきた。そこで、大きいほうの小僧を相手に、彼女はさっそく米の流通ルートや消費者(高田町)のニーズを聞きだそうと取材をはじめた。以下、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)の、「小売商を訪ねて」から引用してみよう。
  
 『こちらのお米はどちらから参りますか。』『山形からきますんです、庄内米と云ひますが……あゝ主人が帰つて参りました。』 ふりかへると若いこの家の主人が、にこにこして立つてゐる。小僧さんが主人にいろいろとわけを話してくれる。『あゝさうですか。では知つてゐるだけお答へいちしませう。えゝお米には硬質と軟質があります。硬質の方は炊くとふえますが、味は軟質のにおとります。これでまあ硬質の方は工場等と云ふ大ぜい人のゐる所に喜ばれ、楽をしてゐる方は皆軟質向きですね。うちなどはこの辺のことですから、軟質ばかりしか扱つてをりません。一番よく売れますのは矢張三等米ですな。半搗米は割合によく売れる様になつてきました。二十俵について一俵くらゐの割です。』
  
 現在でも、山形米は東京で非常に人気が高い。特に寿司屋の握りは、古くからの店ではシャリに庄内米(山形米)を指定しているところが多い。コシヒカリやあきたこまち、ゆめぴりかなど、北国のさまざまなブランド米が誕生する中で、山形米の占める割合いは大きいだろう。うちでも、山形の「つや姫」を常食にしている。
 「三等米」は、いまでもある米の等級規格で、粒ぞろいが45%以上の食用米のことで、質の悪い米粒の混入率が30%以下のものを指している。「半搗米」とは、完全に精米して白米にはしない「五分搗き米」などのことで、ビタミンなどの栄養価をより多く摂取できる米のことだ。大正期には、いまだ江戸期からつづく脚気が多かったものか、健康に気を配る家庭では白米ではなく「半搗米」を注文していたのだろう。
 また、「硬質米」と「軟質米」の区分は、現在つかわれている用語と大正期の用語とでは意味が異なっており、「硬質米」というのはおもに西日本で生産された水分量の少ない米を指し、「軟質米」とは関東以北で収穫された米を指している。もちろん、高田町に限らず江戸東京では、昔から北国の「軟質米」が好まれていて価格も高い。この米屋は、上り屋敷あたりの屋敷街で商っているせいか、軟質米しか扱っていないようだ。
米俵.jpg
 次に、女学生Click!は米の流通ルートについて質問している。当時の米は、農家からまず生産地にある一次問屋に売られ、その問屋から各県レベルの問屋に卸される。その段階で、県庁で行われる厳密な品質検査に合格しなければ、他の県への輸出が許されない。この検査で、その収穫年の“標準米”(各県ごと)が決定される。このあと、ようやく他県(たとえば東京市)の問屋へ輸送する許可が下りる。
 東京市の問屋から、各小売店へ卸されるときは、米一石につき20銭の口銭(手数料のこと)をとる。ただし、米相場の上下によっては、この口銭だけで膨大な利益を生むことができる仕組みだ。女学生は、生産地の問屋の利益についても訊いているが、米屋は「その辺は一寸わかりません」と答えている。そして、最終的に小売りから消費者に売るときの利益は、平均7分ほどの儲けだと回答している。高田町で、もっとも米が売れるのは10月で、1日に12俵ぐらいの商いがあるらしい。この店は、主人+小僧がふたりの3人なので、繁忙期はなかなかたいへんだったようだ。
 つづけて、『我が住む町』から女学生の取材レポートを引用してみよう。
  
 『(前略) 勘定は震災後は全部現金でしたが、この頃はまた掛買ひのお客様が多くなりました。家では現金の方が都合がいゝのですが、どうしてもさうばかりは参りませんので。何が一番こまるつてまあ米が悪いとか何とか小言を云はれるのは、いゝ米を持つて行けばいゝのですが、金を払つて貰へないのには一番弱りますな。それにつゞけてとつて頂いたお家ですと、あまり強く云ふことも出きませんしね。もうこの店を開いてから五年になりますが、とれなかつたのは五百円位です。でも家なんかは気をつけてをりますから割に少い方でせう。』/かう語りおへて人のよさゝうな主人は盛んにもみ手をしてニコニコしてゐる。私は心からお礼を云つて表に出た。
  
羽仁吉一・もと子夫妻.jpg
 ここでも、大江戸の昔と変わらない、商人泣かせの乃手Click!の「顧客」が登場している。大正末の「五百円」といえば、今日の300万~500万円ぐらいだろうか。商品をとどけさせて消費してしまったあと、その商品に難癖をつけて金を払わない詐欺のような手口だが、商人は客商売なのでなかなか訴訟沙汰にはできない。
 商人から掛け買いをして、あとから難癖や脅しでカネを払わないケチな旗本や諸藩を称して、江戸の街中では象徴的に「人が悪いよ糀町(麹町)」Click!(乃手は人品がさもしい)といわれていたが(確かに江戸期の商人は裕福だったが、武家は内証が火の車だった邸が多い)、同じようなことが大正期の山手でも起きていたようだ。「いま、おカネがないから待ってくれ」と素直に打ち明けて話せば、商人たちはしかたがないので待っただろうが、自家の商品をけなされ貶められてまで商売はしたくなかっただろう。「家(うち)なんかは気をつけていますから」に、主人の苦労がにじんでいるようだ。
 さて、自由学園高等科2年生の渡邊美喜が訪ねた米屋は、たいへん親切な商店だった。同学園高等科2年生で、おそらく同一人物とみられる「渡邊みき」(こちらは名前が仮名で書かれている)が訪ねた床屋では、けんもほろろの扱いを受けている。最初は、本科1年の女学生が訪ねたのだが、怒られたので年長の渡邊みきに報告したものだろう。つづけて、同書の「調査の感想」から引用してみよう。

  
 一年の方が私のそばに来てさゝやいた、「このうち変なのよ。怒つてるの」 それは床屋だった。私はガラス戸を開けた。床屋の主人は客の頭を刈つてゐた。私が「自由学園……」と云ふなり主人は怒鳴つた、「今小さい人が来て、家ではいゝと云ふのに、こんな紙をおいていつたんです。」 そして私の問ひに対して「そんな事は町会でおきゝなさい」と云つた。で私は「では恐れ入りますが町会で分らない所だけきかして頂き度うございますが」と前おきをしてきいた。併し彼は知らん顔をしてだまつてゐる 何を云つても。
  
 このあと、奥からおかみさんが出てきて女学生たちの質問になんとか答えてくれるのだが、彼女たちは主人の失礼な対応に少なからず腹を立ててもどっている。
 巻末の「調査の感想」では、訪れた商店や住宅について感じたことを、歯に衣を着せず自由に“評価”しているのが面白い。もともと、高田町の環境向上を願ってはじめた調査だっただけに(事実、このレポートは高田町に提出され町政の参考にされている)、それを理解できない大人たちについては容赦なく不満をぶちまけている。
自由学園卒業式記念写真.jpg
 中には、女学生ならではの観察眼から人間を3つのタイプに分けている感想もあったりするので、読んでいて飽きない。羽仁もと子は、彼女たちの自由な文章を添削せず、おそらくそのまま掲載しているのだろう。次は、「肉屋」の取材レポートをご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:黄色い灯りがともる、夜の自由学園校舎(現・自由学園明日館)。大正当時ならなおさら、周辺の環境へモダンな灯りをともしていたのだろう。
◆写真中上:当時の米屋の店先には、問屋からとどく米俵が山と積まれていた。
◆写真中下:自宅で撮影された、自由学園創立者の羽仁吉一・羽仁もと子夫妻。
◆写真下:1921年(大正10)5月5日に撮影された、自由学園高等科の入学記念写真。

1,800万人のご訪問と目白文化村絵はがき。

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 自由学園Click!が1925年(大正14)5月に出版した、『我が住む町』Click!(非売品)の高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)を対象にした全戸調査Click!が面白くて夢中で記事Click!を書いているうちに、いつのまにか訪問者数がのべ1,800万人を超えていました。いつもお読みくださり、ほんとうにありがとうございます。
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 きょうは、高田町から西隣りの下落合にもどって、いつかテーマに取り上げた箱根土地Click!による目白文化村Click!絵はがきシリーズClick!について書いてみたい。というのも、箱根土地がSPツールとして発行した絵はがきのうち、カラー(人着)ではなくモノクロの絵はがきの1枚を、ようやく手に入れたからだ。
 写真にとらえられているのは、1922年(大正11)に販売がスタートした目白文化村の中で、もっとも早期に竣工したとみられる、またしても第一文化村の神谷邸(下落合1328番地)だ。キャプションも、「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」と添えられている。神谷邸が絵はがきに登場するのは、人着でカラーリングされた第一文化村の街並みをとらえた、もっとも有名な「目白文化村」絵はがきClick!と、ほぼ2ヶ月後に発行されたとみられる「目白文化村の一部」絵はがきClick!に次いで三度目だ。
 これほど頻繁に登場するのは、神谷家と箱根土地との間で目白文化村の広報宣伝に関する、なんらかの契約がなされていたものだろうか。モノクロの絵はがきは、この「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」以外にも、同じく第一文化村の永井外吉邸(下落合1601番地)の応接間と台所をとらえた室内写真のもの、各1種類ずつが存在しているとみられる。永井外吉は東京護謨Click!や箱根土地などの役員なので、販促用の絵はがき制作で自宅内部の撮影に協力しているのだろう。
 「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」に写っているのは、キャプションのとおり神谷邸の門と玄関、そして中央の母家と南にのびるウィングの一部だ。目白文化村が販売された1922年(大正11)、同じ第一文化村の中村邸Click!(下落合1321番地)と同様に、箱根土地の建築部に勤務していた河野伝Click!の設計だと伝えられている。明らかに当時流行していたライト風Click!の建築だが、母家の建て替えは戦時中から戦後にかけて行われているとみられ、わたしが目にすることができたのは大谷石とレンガを組み合わせた、特徴のある門の意匠だけだった。1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!の直前、4月2日にF13偵察機Click!によって撮影された空中写真を見ると、南と東へのびるウィングの屋根は確認できるが、中央の母家が解体されているように見える。
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 さて、従来のカラー(人着)絵はがきとモノクロ絵はがきには、着色の有無以外にも大きく異なる点がある。絵はがきの裏面、つまり宛先や文面を書く面のレイアウトだ。従来のカラー(人着)絵はがきは、明らかに最初からSPツールとして制作されているため、差出人欄には箱根土地株式会社と所在地、連絡先電話番号などがあらかじめ刷られており、目白文化村を宣伝するボディコピー(文面)が印刷されている。
 第一文化村の街並みを撮影した「目白文化村」絵はがきでは、「ウイルソンは『住居の改善は人生を至幸至福のものたらしむる』と極言致して居ります」ではじまるボディコピーが、また「目白文化村の一部」絵はがきでは、「新緑の風薫る目白文化村は昨夏本社が趣味と健康とを基調として建設致候ものにて直に分譲済と相成申候」ではじまるボディコピーが印刷されていた。双方のカラー(人着)絵はがきとともに、配達された郵便スタンプや文面から販売開始の翌年、1923年(大正12)に見込顧客あてに郵送されたものだとわかる。だが、モノクロ絵はがきの裏面はまったく異なっている。
 「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきは、通常の観光絵はがきと同様のデザイン・レイアウトであり未使用なのだ。つまり、販促用としてではなく、一般の絵はがき(郵便はがき)として汎用的に利用できるようになっている。しかも、「目白文化村の一部」絵はがきに見られた印刷所の記載、「合資会社日本美術写真印刷所印行」という文字もなく、フランス語で「UNION POSTALE UNIVERSELLE/CARTE POSTALE」と青文字で刷られているだけだ。「万国郵便連合のはがき」というのも大げさだが、日本で印刷された当時の絵はがき類には、たいてい印刷されているフレーズだ。
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 「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきが制作されたのは、いつごろのことだろうか。もし、先述した永井外吉邸の室内を写したモノクロ絵はがきと同時期だとすれば、第一文化村の前谷戸Click!の埋め立て(1923年夏)が完了し、下落合1601番地に永井邸が建設されたあと、1925年(大正14)ごろということになる。そのころには、目白文化村の販売はあらかた終わり、第四文化村Click!を除く他の区画はほとんど完売していたので、販促ツール用の絵はがきを改めてつくる必要がなくなっていただろう。だから、汎用的な絵はがきの仕様になったのだとみることができる。
 また、別の角度から考察してみると、1923年(大正12)の初夏に印刷され見込顧客へ大量に配布された、カラー(人着)の「目白文化村の一部」絵はがきにみる神谷邸の庭と、モノクロの「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきの庭とでは、玄関横に植えられている樹木の高さがかなり異なる。カラー(人着)絵はがきのほうは、玄関横の樹木の先端が門柱とほぼ同じぐらいの高さなのに対し、モノクロ絵はがきの樹木は、門柱よりもかなり上へ突き出て成長しているのだ。
 どのような樹木なのかは不明だが(針葉樹のアカマツのような気がするが)、少なくとも1m以上は成長しているように見える樹木のグロースタイムを考慮すると、両絵はがきの間には数年間の経年が想定できそうだ。したがって、モノクロの「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきは、大正末から昭和初期に印刷された可能性が高いとみられる。ただし成長が速い、たとえばアカマツやクスノキ、クヌギ、ヒノキなどの庭木だと、1年間に場合によっては1m前後も伸びることがあるため、いちがいに断定することはできない。(わたしも不用意にヒノキを植えて、ひどい目に遭った経験があるw)
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 大正末から昭和初期にかけて制作されたらしい「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきだが、以前にも書いたように「目白文化村絵はがきセット」が存在した可能性が高くなった。販売当初のカラー(人着)絵はがきを除けば、すでに3種類のモノクロ絵はがきが判明している。また新たな絵はがきを発見したら、改めてご紹介してみたい。

◆写真上:汎用性を備えた、「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがき。
◆写真中上は、1923年(大正12)3月10日に発送されたもっともポピュラーなSP用「目白文化村」カラー(人着)絵はがき。は、1923年(大正12)5月22日に発送されたSP用「目白文化村の一部」カラー(人着)絵はがき。は、会津八一Click!文化村秋艸堂跡Click!(旧・安食邸Click!)前から突きあたりの神谷邸の門を望む。
◆写真中下は、1923年(大正12)3月10日の「目白文化村」カラー(人着)絵はがき裏面のボディコピー。は、1923年(大正12)5月22日の「目白文化村の一部」カラー(人着)絵はがき裏面のボディコピー。は、郵便はがきとして汎用性をもたせた「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきの裏面。
◆写真下は、1923年(大正12)5月22日の「目白文化村の一部」絵はがきに写る神谷邸の植木。は、「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきに写る成長した植木。は、第一文化村の二間道路でいちばん奥が神谷邸の門と大谷石の階段。(すでに解体)

高田町の商店レポート1925年。(2)肉屋

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自由学園桜の季節.JPG
 高田町Click!(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の肉屋を訪ねたのは、自由学園Click!高等科2年生の金子勇城子という女学生Click!たちだった。「肉屋と云へば、あの鋭い肉切包丁を連想して何となく恐しい感じがする」と、やや怯えながら2軒の肉屋を訪問している。
 最初の肉屋は、にぎやかな表通り(目白通りだろう)の店舗で、大きな店構えだった。そこの主人は、現金買いのお客が多いと話してくれたが、得意先の軒数などを訊くと「さあ分りませんね」と教えてくれず、商売の中身については話したがらなかったらしい。取材中に5人の客が来店したが、いちばん売れるのはロースや上肉だという主人の言葉を最後に、彼女たちは店を出た。「調査によつて多くの人々に接する機会を持つた私たちは、大分人の気持を察することがさとくなった」と書いているように、取材の深追いをしても詳しく話してくれそうもないと、早々に見切りをつけたのだろう。
 夕方近くなって、彼女たちはもう1軒の少し小さめな肉屋を訪問している。ちょうど、問屋の営業担当(お爺さん)が主人と話している最中で、彼女たちはさまざまな情報を運よく仕入れることができた。その場に、小売りの主人と問屋の双方がいたことで、大正末における肉類の流通経路や販売方法、肉の種類、流通コスト、売れ筋商品など詳細にわたり話を聞くことに成功している。
 1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)に所収の、「小売商を訪ねて」から引用してみよう。まずは問屋の話だ。
  
 「東京の肉屋の肉は、みんな三河島の屠殺場からくるんですよ。その牛は主に神戸、広島、伊勢、伊賀あたりからきます。つまり三河島にある問屋が、そつちの方から牛を買ふんです。牛一頭の値段? そうですね、まあ大体三百円位でせう。目方は凡そ六十五貫位ありますね。それを三河島まで一車(七噸積)に九頭位入れて運ぶんです。運賃は一頭について六円五十銭位かゝります。三の輪にきた牛は屠殺場で(株式組織の会社)検査され、それを通過したものは殺されて又問屋の手にもどります。そこからこの辺の小売商にくるんです。問屋のとる利益ですか。そいつは分りませんね。何しろ検査に通らない時は三百円丸損になつちまふこともあるんですから。その上それにまた運賃をかけて田舎にもつて行つて肥料にするんですからね。なかなか引合ひませんよ。さあならし一割二三分の利位になりますかな」
  
 「一車(七噸積)」と書かれているのは、肉牛を運ぶ貨物列車のことだ。問屋のお爺さんの答えに、女学生は「そんなにたびたび損をするのか」と訊くと、「ちよいちよいあるんですよ。もう買つたものですから検査に通らなくたつてどうすることも出来ません。何しろ損すれば大きいんだから」と答えている。彼女は、「損」ばかりを強調する問屋の老人は小売商の手前、利益を少なめに繕うための方便ではないかと疑っているが、おそらくこの老人のいうことは事実だろう。
 大正末、特に関東大震災Click!以降から昭和初期にかけ、「牛肉」や「牛乳」Click!に関する衛生管理がことさら厳しくなった時期と重なる。以前、守山牛乳Click!の記事でも書いたが、乳牛や肉牛を飼う農家の衛生管理Click!に、その土地の自治体や警察は非常にきびしい制約や条件を課していた時代だ。その条件をクリアできず、廃業に追いこまれた牧場や飼育農家、あるいは加工工場も少なくない。
 当局の取り締まりは、食品に由来する伝染病や腐敗による食中毒を防止するためだが、三ノ輪にあった肉牛の検査場ではこの時期、かなりシビアな病原菌などの検査が行われていたのだろう。規定を超える菌が発見された牛は、食用には不適当として即座に生産地へ送り返されていたにちがいない。
牛鍋.jpg
 つづけて、同時の取材となった肉屋の主人の話を聞いてみよう。
  
 『問屋からこゝまで自動車で運びますからこの運賃は五両(五円)位かゝります。きたての肉はかたくて食へません。だから今のところ、一週間おいて売りはじめます。矢張り一割二三分儲けるんですね』 主人の話通りに計算してみると、元価一貫目六円七十銭の肉が問屋小売の手を経て我々の家にくる時には八円四十銭となるわけである。普通よく肉屋の奥の大きな棚にぶら下つてゐる肉がこゝにもあつたので私達がそれに就て聞いて見ると、『あの肉片は普通十二貫位で問屋から九〇円で買ひます。あの肉が一頭から四つとれるんです。あれは無駄なしにどこでも売れますよ。骨は肥料に買ひにきますから。肉はくさりやすいのでこまります。殊に陽気の変り目が一番こたへますね。そんな時はまわりのくさつた部分をとつていゝところだけを百匁(約375g)八銭位で売るんです。普通すぢといふやつですが、……』(カッコ内引用者註)
  
 当時の肉屋は、電気冷蔵庫が高価でなかなか導入できないため、夏場の肉の管理はたいへんだったろう。それでも、氷を入れて冷やすだけの初期の冷蔵庫は、どの店舗にも設置されていたとみられる。
 この店は、料理屋へかたまりのまま売る以外は、すべて現金買いの客が主体だった。店頭での売上げは、平均30円/日ぐらいで売れ筋の肉は「中肉」(百匁90銭)、顧客が支払う額からいうと30~40銭ぐらいがいちばんの多いと答えている。また、1~2斤(約600g~1.2kg)と肉をまとめ買いする客は5人にひとりぐらいで、この店では「小配達」(屋敷まわりの御用聞きのこと)はやっていない。
 「小配達」のある肉屋は、早朝の5~6時から店を開けなければならないが、女学生たちが訪れた肉屋は周辺の料理屋へ納品するケースが多く、朝の開店が遅いかわりに夜は急な注文に備え、遅くまで店を開けておかなければならない。同じ肉屋でも、屋敷へ納入する店と料理屋へ納入する店とで、うまく棲み分けていた様子がうかがえる。
自由学園体操授業(本科1年生).jpg
 お客が多いのは、やはり肉が腐りにくい冬で、夏になると売上げが4割ほど減ると答えている。親切な主人は、業務上のかなり細かいことまでいろいろ教えてくれたようだ。女学生たちが、あまりに牛肉のことばかり気にして訊くので(彼女たちの好物だったのだろう)、「あんた達は豚のことはきかないんですか」と、逆に取材をうながされている。
  
 私達はさう云はれてはじめて気がついた。『私の店は豚は直接田舎(埼玉)からうちの自動車で買ひ出しにゆくんです。一匹十貫から十五六貫ので、まあ二十七八円です。それを大宮か熊谷の屠場で殺してこつちへ持つてくるんです。一噸積みの自動車で二十二匹位つめます。さあ運賃は二十二円位ですかな。私の家では豚は他の肉屋にも卸します。洋食屋なんかは、牛肉より豚肉の方がずつとたくさん使ひますよ。現金買いの客ですか。そりゃ矢張牛肉の方が多いですね。うちらは平均一日豚三匹半 牛は二日に半頭位出ます。牛豚合せて一日十貫目です まあ大して忙しくありませんね』 まつかな火の一ぱい入つたばけつの火鉢にあたりながら主人はかう話してくれた。
  
 取材の最中にも、5~6人の大人や子どもが肉を買いにきていた。知っていることはなんでも教えてくれる、非常に親切で話好きな肉屋だったらしく、商店レポートの中では他店に比べかなりボリュームが大きくなっている。
 さて、同じ大正期の目白通り沿い、下落合で開店していた肉屋では、妙な注文に首をかしげていただろう。毎日、牛肉を1斤(約600g)ずつ配達するよう、下落合661番地に住む見るからに変な画家Click!から頼まれたのだ。しかも、配達している小僧の話によれば、毎日休むことなく朝昼晩の三食、すき焼きClick!を食いつづけているらしい。
佐伯アトリエ内部.JPG
 毎日コンスタントに売れつづけるのだから、それはそれで肉屋の主人にとってはありがたい客なのだが、もう1ヶ月近くも配達がつづいていた。「まあ、世の中には奇妙な人がいるもんさね」と、主人は竹皮で器用に肉をくるむと、配達の小僧に手わたした。さて、次回は日本橋河岸Click!へ社会見学にくるよう誘う、親切な「魚屋」の訪問記だ。
                                <つづく>

◆写真上:校庭の南に咲く満開のサクラを、自由学園の校舎中央ホールから。
◆写真中上:よく外来者から、すき焼きと混同される明治以降に生まれた東京の牛鍋。すき焼きは鴨肉やももんじClick!をメインにした、大江戸からの料理だ。
◆写真中下:入学したばかりの本科1年生による、校庭での体育の授業。
◆写真下:日々三食、すき焼きばかりを食べつづけた変な画家のアトリエ内部。

下落合を描いた画家たち・柏原敬弘。

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柏原敬弘「芽生えの頃」1920.jpg
 洋画家の柏原敬弘Click!が、いつごろから下落合803番地に住んでいたのか、資料がないので正確なところはわからない。だが、1924年(大正13)以降は絵を描いておらず、鈴木誠Click!によれば「気が狂った」状態になったので、画家をやめてしまったものと思われる。それまでは、同住所のアトリエで制作しているので、かなり早くから下落合に住んでいた可能性がありそうだ。
 柏原敬弘は、東京美術学校Click!に在学中の20歳のときから文展・帝展に入選しつづけており、藤島武二Click!に師事している。大正後期の下落合803番地の周辺には、関東大震災Click!で避難してきた中村彝Click!が一時滞在した鈴木良三Click!(800番地)をはじめ、有岡一郎Click!(800番地)、鈴木金平Click!(800番地)、鶴田吾郎Click!(804番地)、服部不二彦Click!(804番地)など洋画家たちのアトリエが集中していた。
 1921年(大正10)から下落合623番地にアトリエを建てた曾宮一念Click!もまた、柏原敬弘のことは記憶しているようなので、柏原が下落合に住みはじめたのは中村彝に師事した二瓶等Click!が下落合584番地へアトリエを建てたのと同じころ、1919年(大正8)前後ではないかと想像している。
 柏原敬弘が描く大正中期の作品には、樹間からのぞく風景や森林、小川など東京近郊とみられる田園風景が多いが、そのうちの何点かは落合地域を写生していると思われる。だが、当時の落合地域(特に西部)には指標となるような建物や構造物が少なく、描かれている風景の場所を特定することは非常にむずかしい。今回ご紹介するのは、1920年(大正9)に第2回帝展へ出品された『芽生えの頃』という作品だが、めずらしく建物がふたつ画面にとらえられている。
 陽光は、画面左手の上から射しており、樹木の影などから左側が南の方角に近いのだろう。建物の向きを合わせて考えると、太陽は東寄りの上空にあり、建物の向こう側が南の可能性が高いだろうか。すなわち、見えている建物手前の暗い画壁は北面ということになる。『芽生えの頃』というタイトルから、同作は1920年(大正9)の早春に描かれたものだとみられ、同年秋の第2回帝展に出品されている。
 画面を中央右手から手前へ、建物に沿うように小川が流れており、左端の建物のほうへ寄り添うように流れる川筋と、手前にそのまま流れる川筋とで分岐しているように見える。画面の左端に、屋根と外壁がチラリと見えている建物は、左手から射す陽光でできた影の様子から見て、かなり大きめな建物であることがわかる。だが、このような川辺の氾濫原に建つ建築物は、おそらく住宅ではないだろう。大雨が降り川が氾濫したら、洪水でひとたまりもないからだ。
 そのような目で眺めると、左手奥に見えている細長い建物も住宅には見えない。しかも、ふたつの建物の外周やその周辺には、規則的な木の柵が張りめぐらされており、ますます住宅らしくない風情となっている。このように、周囲へ木柵をめぐらす建物の場合は、中にいる動物を外へ逃がさない牧舎(たとえば牛舎か厩、鶏舎など)か、あるいは逆に外からの(人間の)勝手な侵入を許さない防柵の意味合いが強い。防柵の場合は、なんらかの収穫物や製造品、大型の農具などを保管する倉庫のケースだ。細長い建物の手前にも柵が見えているが、野菜を育てている畑地だろうか。
柏原敬弘「芽生えの頃」1920小屋.jpg
柏原敬弘「芽生えの頃」1920小川.jpg
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 以上のような観察を踏まえ、1920年(大正9)という早い時期を考慮すると、このような川筋や建物の配置で思いあたる場所が、落合地域で1ヶ所だけ存在している。当時の住所でいうと、左端の大きめな建物が上落合768~780番地、左手奥の細長い建物が上落合809番地で、流れている川は妙正寺川(北川)だ。画家は、妙正寺川の北側、すなわち下落合側にイーゼルをすえていることになる。
 陽光を受けた影の様子から、かなり大きめな左端の建物は2代目・バッケの水車小屋Click!であり、画面左手の奥に見えている細長い建物は、水車小屋で製粉する穀物を保管しておく、あるいは製粉した穀物粉を保管しておく倉庫のひとつではないだろうか。『芽生えの頃』の翌年、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図を参照すると、大きめな水車小屋の周囲には、3棟の穀物倉庫らしい細長い建物を確認できる。描かれているのは、水車小屋の西側に位置する倉庫のひとつだ。
 倉庫に保管される穀物は、もちろん落合地域や上高田地域で多く収穫されていた麦で、大正期になるとおもに都市部でのパンの需要が急速に伸びたため、水車小屋の製粉業はフル稼働をしていただろう。上落合で収穫された麦は、描かれているバッケの水車小屋で粉砕されていたが、上高田で収穫された麦は妙正寺川のひとつ上流の水車小屋にあたる、稲葉の水車Click!で小麦粉にされていた。
 水車小屋は、24時間365日稼働しつづけるミッションクリティカルな作業なので、もちろん常に水車番が寝泊まりしており、粉砕を終えた粉を倉庫へ倉入れしたり、業者が引きとりにきたら倉出しして出荷したり、穀物を新たに引き臼へ加えたり、ときには歯車など機構のメンテナンスを実施するなど、かなり多忙でキツイ仕事だったろう。仮眠をとろうにも、水車の動力で上下する杵(胴突き)のゴトンゴトンという騒音で、なかなか熟睡ができなかったのではないだろうか。
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 柏原敬弘は、朝早い時間から目白崖線を下って妙正寺川沿いを歩いていくと、当時はあたり一帯がシーンと静まり返っていたので、かなり遠くからでも水車小屋の杵音が聞こえていただろう。久七坂Click!の下から、雑司ヶ谷道(中/ノ道)Click!を約1,000mほど西へ歩くと、バッケの水車小屋へたどり着くことができる。彼は、中ノ道から南に折れ、東京電燈谷村線Click!が建てた木製の高圧線塔Click!の下をくぐって妙正寺川の河畔に立った。当時の妙正寺川は、ひとまたぎで飛び越えられそうな、いまだ小川の風情をしている。妙正寺川が、下流域の洪水対策のために浚渫され、川幅も拡幅されて、蛇行する川筋が整流化されるのは昭和に入ってからのことだ。
 柏原は、バッケの水車小屋が目の前に見える川の北側にイーゼルをすえ、南西を向いて描きはじめた。左隅に、対岸の水車小屋の北西角を入れ、少し離れたところに2棟並んで建つ穀物倉庫の、手前の1棟を入れて構図を決めた。非常に神経質な性格なのか、キャンバスに向かい細々とした点描のような筆づかいで、画面をゆっくりと時間をかけて仕上げていく。いまだ川沿いには、前年の枯れ草が多く残っているが、あちこちで黄緑色の新芽が芽吹きはじめている。特に、水車番が耕しているらしい畑では、ダイコンだろうか勢いのある青々Click!とした葉が鮮やかだ。
 柏原敬弘は、おそらく雨でも降らないかぎり何日間か連続して同じ描画ポイントに足を運び、午前中の光の中で描きつづけたのだろう。筆致の様子から、佐伯祐三Click!のように1時間足らずで20号の画面を仕上げてしまうのとは、対極的な制作スピードだったのではないだろうか。『芽生えの頃』は、秋の帝展に出品を予定している作品のため、よけいにこだわりが強く何度も写生地を訪れては、絵の具を執拗に繰り返し重ね塗りしていた……そんな気が強くする画面だ。
 第2回帝展に『芽生えの頃』を出品した翌年、1921年(大正10)の第3回帝展には『落葉搔き』と題する作品が入選している。寺社の灯籠のある境内か参道だろうか、熊手を手にした少女が落ち葉を掻いている情景だが、この画面も落合地域に建立されている、いずれかの寺社かその周辺を写した可能性が高い。そして、翌1922年(大正11)の第4回帝展に入選した『夏の輝き』を最後に、柏原敬弘は同郷の鈴木誠Click!によれば「気が狂った」状態になって制作をやめてしまった。『夏の輝き』は、樹間の太陽を真正面から逆光でとらえた、当時の文展・帝展の洋画家はあまり類例を見ない特異な構図だ。
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 『夏の輝き』もまた、落合地域のどこかを描いた可能性があるが、描かれているモチーフだけで場所を特定するのは困難だ。柏原敬弘は、丸善あたりかどこかでゴッホClick!(当時の呼称では「ゴオグ」)の画集でも見たのだろうか? 太陽の逆光が降りそそぐ表現が、強烈なクロームイエローには見えないにせよ、どこかゴッホが描く空に近似している。

◆写真上:第2回帝展に出品された、1920年(大正9)制作の柏原敬弘『芽生えの頃』。同展の絵葉書からの画像だが、キャプションには柏原敬「孝」の誤植がある。
◆写真中上は、描かれた建物と小川の画面を拡大したもの。は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみるバッケの水車の描画ポイント。
◆写真中下は、1927年(昭和2)に撮影された妙正寺川で、大正期とほとんど変わらない風情を残している。は、バッケの水車小屋があったあたりの現状。は、1880年(明治13)に描かれた焼失直後の稲葉の水車。バッケの水車から、妙正寺川を500mほど上流にさかのぼったところに設置されていた水車で、陸軍参謀本部の陸地測量隊が同年に1/20,000地形図を作成する直前に焼失しているが、ほどなく再建された。
◆写真下は、目白崖線の椿山にある装飾品としてのミニ水車。は、1921年(大正10)の第3回帝展に出品された柏原敬弘『落葉搔き』。は、翌1922年(大正11)の第4回帝展に出品の柏原敬弘『夏の輝き』で、以降は制作活動が見られない。

高田町の商店レポート1925年。(3)魚屋

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 自由学園Click!高等科2年の、梅津淑子がインタビューClick!に訪れた魚屋が面白い。親切で頭もよく働く主人だったらしく、彼女が聞きたいことへ的確に答えてくれている。ただし、最初に訪ねたときは、彼女が自由学園の制服を着ているにもかかわらず、魚屋の商売を実地に体験したい女の子、つまり1日店員で仕事がしたい女学生だと勘ちがいしたらしく、早とちりの受け答えをしている。
 その勘ちがいぶりを、店で魚桶を磨いていた小僧に「おやぢさん また頭がはげるぞ」とすかさず突っこまれ、ようやく落ち着いて彼女の目的を聞き理解したようだ。魚屋を訪ねた梅津淑子は、このふたりのやり取りで一気に緊張感がとけたようで、高田町に店開きしていた魚屋の仕事をいろいろと取材することができた。彼女が店先に立ったところから、魚屋が登場するときの様子を引用してみよう。
 いつもどおり、1925年(大正14)に自由学園Click!(羽仁もと子Click!)から出版された『我が住む町』Click!(非売品)収録の「小売商を訪ねて」から、朝が早いのでついうたた寝してしまう魚屋の主人の様子だ。
  
 『おゝいおやぢさん、お人だよ。誰か起てくれねえか。』 奥をすかして見ると帳場でうたゝねをしてゐるらしい。ニ三度呼ばれて、しきりに眼をこすつたりまたゝきしたり、顔をなでたりしてやうやう出て来た。/魚の匂をすつかりしみこませた、でつぷりとふとつた赤ら顔の主人を見た時、胸の中がヒヤリとした(中略) 『今学校で、私達がいろいろな日用品を売るお店では、どう云ふ工合にして御商売をしていらつしやるのか、こちらなら例へば魚を店に持つて来るまでの順序と言つたやうなこと、その外いろいろのことを話して頂いて、研究の参考にさして頂きたいと思つてゐるのですが、御迷惑でもどうかお話下さいませんか。』と言つてよく頼んだ。/『あゝさうですか。つまり貴女方が実地に商売をなさると云ふので……』/側で桶を磨いてゐた若いのが、『おやぢさん また頭がはげるぞ』/なんとなく話しよいやうな気がしたので、も少しくわしく話すと、やつと意味がわかつて、快くまづ第一にと話し出す。何しろ早口で巻舌なので中々聞きとりにくい。
  
 そそっかしい主人だが、震災後に下町から移転してきた店だろう。いきなり、自由学園の制服を着た清々しい女学生が店先に立って、いろいろお話をうかがいたいなどと突然いわれたら、魚屋でなくても少しはドギマギして慌てるだろう。
 実は、この魚屋の主人はかなり几帳面な性格の人物で、商売をしながら『鮮魚日記』というのを日々の記録として残していた。今日でいうなら、営業の日毎レポートというところだが、それをもとに彼女へ正確かつ精細な情報を提供してくれているのだ。「でつぷりとふとつた赤ら顔」の外見とは裏腹に、仕事にはキチッとした姿勢を貫く優秀な商店主だったようだ。店で雇っている小僧たちにも、やさしく接しているのが透けて見える。
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 つづけて、インタビューに答える魚屋の証言を引用してみよう。相手が清楚な女学生のせいか、「お魚」などとていねいな言葉づかいをしているのが微笑ましい。
  
 『お魚にも上、中、下があつて、河岸で五時半から七時半までにはける魚は上、七時半から九時までが中、九時から十時十一時頃のが下で、その一番遅いやつを普通店ざらひまた場さらひと云つてゐます。同じ魚だが時間が早ければ上、おそければ下となるのです。一刻も早くと言ふのが魚屋の自慢です。/此の頃でも朝は五時、夏は四時頃一噸(トン)積のトラツクに乗つて河岸に行きます。近所の同商売の中から各一人位づゝ出て七八人乗つてゆくのです。河岸に着くと自動車自転車荷車と入れる所がきまつてゐます。魚を買つて、カルコ(番する人)に渡すとそれそれのトラツクなり荷車なりに運びます。大概の魚は百目いくらと目方で買ひますが、一本いくらと買ふのはチクワ、カマボコ、ハンペン、ヒモノ、イワシなどです。問屋では金に符牒がついてゐて、例へば、一をチヨン、二をノツ、五をメの字、八をバンド、十をチヨーン又はピンと云ふ具合に云ふのです。』
  
 ここでいう「河岸」とは、江戸期から330年間もつづいている日本橋河岸の魚市場Click!のことで、関東大震災Click!で日本橋が壊滅したあと、復旧・復興をめざしている最中のころのことだ。だが、東京市の人口増で日本橋河岸のキャパシティが手狭になりつつあり、ほどなく外国人居留地Click!だった築地への移転計画がもちあがり、10年後(1935年)には全面的に移転することになる。
 主人が見せてくれた『鮮魚日記』には、毎日の仕入れと店頭での売り上げによる差引損益が、かなりきれいに整理され記録されていた。ただし、主人によれば毎日の損益を算出して、細かく決算をしていく同業者は少なかったらしい。それによれば、純益は平均2割前後になるはずだが、魚屋はむずかしい商売だと主人は実感として告白している。
自由学園ランチ.jpg
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 ただし、女学生が相手なので『鮮魚日記』の数字を細かく見せながら教育的な意味あいをこめたのだろう、「きちんとしまりをしてゆく事の出来ないやつは、何の商売だつても、やれつこありません」と諭すように話している。
 つづけて、女学生の流通に関する質問にもていねいに答えている。
  
 東京ではセラないで相対で売買ひをしますが、地方の問屋ではせり売りをしてゐるやうです。東京に入る魚は大体茅ヶ崎方面と、三崎方面と上総方面からきます。茅ヶ崎方面の魚は汽車で新橋に来て、自動車で河岸に運ばれ、上総方面は蒸気船で日本橋に、三崎方面は隅田川まで来て、そこから自動車で河岸に来るといつた風です。一番魚の味の好いのは南河岸の魚で海の水が暖いせいか、きめがこまかく色も白く、北陸方面のは水が冷くしほが多いからきじがあらくなります。/魚の好みも山の手と下町とでは違ひます。山の手好みの魚、下町好みの魚と云ふのがあるのです。魚屋は他の商売と違つてその日その日の損益がすぐわかります。
  
 書かれている「茅ヶ崎方面」とは、湘南から伊豆にかけての沿岸漁業(地曳きClick!)あるいは近海漁業で獲れる、温かい黒潮を中心に棲息している魚介類Click!であり、「上総方面」は北から流れくだる冷たい親潮に乗ってやってくる魚介類で、「三崎方面」は沿岸や近海ではなく、遠洋漁業で獲れるマグロやカジキなどの魚をさしている。つまり、太平洋のありとあらゆる魚が、3つのルートから日本橋河岸に集合していたわけだが、これは現在の豊洲市場でも(海外産は別にしても)、基本的には変わらないだろう。
片瀬漁港.JPG
大磯港.JPG
 梅津淑子が、よほど熱心に商売について訊ねたのが気に入ったのか、下町っ子らしい主人から日本橋の市場をぜひ一度見学しにおいでと奨められた。「是非河岸を見物にいらつしやい、私が案内してあげますよ。然しきたない着物をきて行かないと汚れますからね。八時には魚を送つてしまひますから是非いらつしやい」。彼女が商売に興味津々なので将来は魚屋になるのかも……と、またしても早とちりをしてしまったのかもしれない。次回は、やはり毎朝の市場通いがたいへんな「八百屋」(青果屋)を訪ねてみよう。
                                <つづく>

◆写真上:雑司ヶ谷(現・西池袋)に開校した、自由学園本校舎(現・自由学園明日館)。
◆写真中上:昔の木箱がなくなり、発泡スチロールだらけになった魚屋の店頭。
◆写真中下は、自由学園のランチタイム。右手には暖炉があり、その上や裏側がパントリー(食器室)になっていた。は、勝鬨橋から眺めた旧・築地市場。
◆写真下:「茅ヶ崎方面」にあたる片瀬漁港()と、大磯漁港へ帰る漁船()。

高田町の商店レポート1925年。(4)八百屋

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 自由学園Click!高等科の2年生だった、山田久子が訪ねた八百屋(青果屋)も話し好きで面白い主人だった。最初は、お客とまちがえられモジモジしてしまった彼女だが、自由学園の調査だと告げると、主人は「そんなら八百屋といふ商売程もうからないものはないと書いて下さい」といって笑った。
 八百屋を開店するには、当時は最低でも500円ほどの資本が必要だったらしい。毎朝、市場へ買い出しにいくのは夏は6時ごろ、冬は7時ごろになり、帰りは昼前後になった。店を出るときは、いまだトラックではなく大八車Click!に籠や箱、布製の覆い(カバー)などを積んでいき、市場からの帰りは荷が多くて重くなるから、市場つきの人夫をやとって高田町まで運んでくる。特に、目白崖線を上る坂道には、「押し屋」Click!と呼ばれる人夫たちがいたので、荷が多いときは駄賃を払って人力や牛力を頼んでいただろう。
 八百屋の中には、夕方に市場へ買い出しにいく店もあったらしいが、できるだけ新鮮でいい品物を確保するためには、早朝に出かけないとダメだったらしい。特に、高田町の屋敷街のあるあたりでは悪い品物は受けとらないので、早朝に市場で仕入れたよい品を納入している。逆に、できるだけ品物の安いほうがよく売れる地域では、市場で値段が下がる夕方に出かけて仕入れてくるケースが多かったようだ。
 高田町に店開きをしていた八百屋は、そのほとんどが神田多町の市場か、地元の高田町市場から品物を仕入れている。主人の証言を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 多町の市場は云ふまでもなく、全国から品物が集るので、品物も多く品もよい代り、自然値段も高くはあるが、高田町の市場は、この近在の農家から集るので、品数は少い代はり、価はやすいといふことである。けれども大抵神田まで出なければ、得意先の要求を充たすことが出来ない。即ち一旦地方から市場へ集つてそれから八百屋へわたるので、八百屋では平均二割の利を品物にかけ、果物には、すたりが多く出るので三割から四割かけるといふことである。東京は品物が少なくて需要者が多いため、自然八百屋ものが全国で一番高いさうである。品物の一番よく出るのは春と秋で、八月は一番売れない時である。さういふ時にはこの八百屋で一日十円も売れゝばよい方で、平均の純益は二割位のものでせうといつた。この辺は現金払ひが七分で、通ひが三分 八百屋では現金払ひの方が商がしやすひさうである。
  
 いわゆる「御用聞き」Click!をしてまわる、屋敷街での売上げ(掛け売り)は30%ほどなので、この八百屋では多くが来店客による現金払いの売上げだったことがわかる。
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 また、当時は市場にも店舗にも冷蔵設備がないので果物(フルーツ)の傷みが早く、その損失ぶんを価格に上乗せしているため、フルーツは全般的に高価だった。別に大正時代に限らず、戦後も「フルーツは高い」状態がそのままつづき、市場や青果店に冷蔵庫が普及した1960年代あたりから、徐々に価格が下がっていったのではないだろうか。
 この店では、主人がこまめに屋敷街や新興住宅地をまわって、より多くの顧客獲得をめざしていたようだ。そのような販促活動をしている間、店のほうは妻が留守番をして仕切ることになるが、学校から帰ってきた子どもたちも商いの“戦力”で、自然に店を手伝うようになる。できるだけ小僧など使用人を雇わず、家族だけで切り盛りしないと、競合店が多い高田町では経営が苦しかったのだろう。
 再び、『我が住む町』の「小売商を訪ねて」から引用してみよう。
  
 さうして主人の留守の間は妻が店の方をやり、年高の子供も学校から帰れば、代る代る手伝ひをするといふ工合で、成るべく雇人を少くしやうとしてゐる。自然、上の学校に入れるよりも、小学校を終へると、親の商売を継ぐやうになる。話が前後したが、市場では矢張八百屋に取りつけの店があつて、通帳になつてゐるが、物によつては他の店も見て現金買をしなくてはならない。この頃一体の傾向は、八百屋でも問屋でも現金払を欲して来た。だから八百屋がお客にもさう望んでゐる。この店の通の得意は一日四五十軒で、店に来るお客は百人位な話である。処によると随分世間の景気が影響するが、この辺ではそれほど目立つて表はれない。これは中産階級の多いためであらう。
  
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 商店の子どもたちが、日々店の手伝いをつづけることで自然に仕事を憶え、後継ぎとして成長して行く様子が書かれている。
 だが、換言すれば商店の子どもたちは上の学校へ進学するのがむずかしく、いくら優秀でもなかなか進学させてもらえる環境ではなかったことがうかがえる。高等小学校の教師が家庭訪問し、「お宅のお子さんは優秀なので、なんとか進学させてあげられないか?」と説得することもめずらしくなかった時代だ。だが多くの場合、商店のだいじな跡取りであり商売の重要な“戦力”でもある子どもを、それ以上の学校へ通わせられる経済的な余裕も経営的なゆとりもないのが実情だった。
 また、高田町は市街地に比べ、八百屋にとっては不利な条件が重なっていた。市場から店舗までは距離があり、商品を配送する物流コストがよけいにかかっているからだ。最後に、主人のグチともため息ともつかない証言を聞いて見よう。
  
 『何しろこの辺で商売をするのは損なのですよ。何故つて神田から品物を持つてくるのに、運賃が一車三円もかゝるのです。それは市場は茶屋制度で、そこへ車をあづけたり車を曳く人を頼んだり、江戸川の坂を登るのにとても曳けないので牛に曳いてもらつたりするので、それ丈費用がかゝるのである。ですから私達は小石川辺に神田位の大きな市場が出来るのを望んでゐます。』
  
 「江戸川の坂」とは、椿山Click!目白不動Click!があった目白坂Click!のことだ。
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 主人は、「小石川辺」に大きな市場ができたらといっているが、根津嘉一郎Click!による池袋駅東口に拡がっていた根津山Click!“温存”Click!と、どこかでつながる構想なのかもしれない。昭和初期に、根津山を郊外貨物の一大集積地にしようとする計画が、当時の根津嘉一郎の発言からも、また高田町による町政の動きや気配からも強くうかがわれるからだ。次回は、商品の保存に苦心する「乾物屋」を訪ねてみよう。
                                <つづく>

◆写真上:自由学園の西ウィングにつづく、回廊の終端にある管理棟の窓。
◆写真中上:昔に比べ、世界中の野菜や果物が手に入るようになった青果屋の店先。
◆写真中下は、1921年(大正10)の開校直後に入学した生徒たちが遊ぶ校庭。当時は校舎がいまだ工事中で、ふたつの教室しか使えなかった。は、開校後の1922年(大正11)5月にようやく竣工した自由学園校舎(正面)。
◆写真下は、完成した校舎西側の回廊部。は、下落合1529番地(現・中落合3丁目)の小野田製油所Click!で精製されたゴマ油を運搬するかなり頑丈に造られた牛車。
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