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下落合で誕生した赤尾好夫の旺文社。

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赤尾好夫邸跡.JPG
 旺文社というと、中学校の教科別にそろっていた参考書類や、高校時代に親が短期間とってくれていた受験雑誌「蛍雪時代」(ほとんど読みはしなかったが)が思い浮かぶ。あるいは、小学校時代に出版されはじめ、父母やPTAが推薦しそうな有名作ぞろいだった黄緑色の旺文社文庫を思いだす。もっとも、わたしが旺文社文庫で買ったのは、注釈がやたら多かった夏目漱石の作品ただ1冊のみだったのを憶えている。
 もうひとつ、旺文社には有名な「赤尾の豆単」と呼ばれた、大学入試用の『英語基本単語集』というポケットサイズの参考書があったようなのだが、わたしの世代は森一郎の『試験にでる英単語』(青春出版社)を使うのが主流になっていたので、一度も開いてみることはなかった。大学入試によく出る英単語3,800語を選んだ「赤尾の豆単」は、同社の沿革によれば1935年(昭和10)に初出版されているので、親父も高等学校(現在の大学予科)の入試で愛用していたようだ。
 旺文社は当初、「欧文社」という社名だったのだが、日米戦争がはじまった1942年(昭和17)に、敵性語を意味する「欧文」を社名にするとはケシカランと(ほとんどいちゃもんレベルの難癖だ)、軍部からの圧力で社名変更をさせられた経緯がある。敗戦後、「聖母病院」はもとの国際聖母病院Click!へと名前がもどり、「東條靴店」はワシントン靴店Click!へと店名がもとにもどっているが、「欧文社」はもとの社名にはもどることなく旺文社のまま現在にいたっている。
 赤尾好夫が欧文社を創業したのは、1931年(昭和6)に下落合1986番地(のち下落合3丁目1986番地/現・中井2丁目)の自邸内においてだった。以前こちらでもご紹介している、熊倉医院Click!を中心に1935年(昭和10)ごろ撮影された振り子坂沿いの家並みには、山手坂の上にひときわ大きくそびえる西洋館の切妻がとらえられている。それが、広い敷地内に編集部や添削部などのオフィスが建っていた赤尾好夫邸だ。
 わたしが、下落合に赤尾好夫邸と旺文社(欧文社)があったのを知ったのは、それほど昔のことではない。ちょうど同社が創立された翌年、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」に、赤尾好夫の名前が収録されていなかったのだ。それまでは、上記の振り子坂界隈の写真と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」とを見比べながら、山手坂の上には「赤尾」という人が住んでいた巨大な西洋館が建っていたのだな……ぐらいの認識でしかなかった。赤尾好夫と旺文社(欧文社)の存在を知ったのは、下落合における矢田津世子Click!転居先Click!を追いかけている際、「矢田坂」の上を調べているときだった。
 さて、下落合の赤尾邸で創業した欧文社は、翌1932年(昭和7)になると受験生を対象にした欧文社通信添削会を設立し、受験事業の全国展開をスタートしている。また、添削会の展開と同時に機関誌「受験旬報」も定期刊行しはじめるが、これが1941年(昭和16)に「蛍雪時代」と改題される受験雑誌の母体となった。「受験旬報」は、旧制の高等学校や専門学校、大学予科の受験生をターゲットに、月ごとに3回も定期発行されている。
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 通信添削会が大ヒットし、数多くの受験生会員を全国レベルで獲得することができたのは、試験問題の正誤を単純に添削するだけでなく、赤ペンでていねいに誤りの原因や傾向を書き添え、ときには受験生を励まし鼓舞する言葉までが添えられていたからだという。ていねいな添削をするためには、大勢の添削要員を社内に抱えなければならず、創業時には17名だった添削スタッフはみるみる増えていったようだ。
 ほとんどの社員が、通信添削会の業務にかかりきりで忙殺されてしまうため、「受験旬報」の編集・発行は赤尾好夫ともうひとりのスタッフのふたりだけでまかなっていたらしい。同誌の内容も、巻頭言をはじめ多くの原稿は赤尾自身が執筆しており、その慣習は「蛍雪時代」になっても変わらずにつづいている。1935年(昭和10)には、上記の『英語基本単語集』(赤尾の豆単)と『入学試験問題詳解(全国大学入試問題正解)』の2冊を出版している。そして、1940年(昭和15)には同社初となる『エッセンシャル英和辞典』を出版し、翌1941年(昭和16)には「受験旬報」を受験総合雑誌「蛍雪時代」と改題して、教育出版界にゆるぎない地歩をかためるまでになった。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、赤尾好夫の自邸つながりでオフィスとみられる別棟が3棟、耐火モルタル造りの母家から離れた社屋とみられる2棟の建物を確認することができる。これらの建築は、増えつづける添削スタッフを収容しオフィスを増やすために、増築に次ぐ増築を繰り返した結果なのだろう。赤尾邸の敷地は、東西南の方角へそれぞれ凸状に張りだす妙な形状をしているが、周囲の住宅敷地を買収しながら社屋を増やしていったのかもしれない。
 赤尾邸内にあった欧文社が、社員たちを邸内では収容しきれなくなり、牛込区横寺町55番地(現・新宿区横寺町55番地)へ新社屋を建てて移転したのはいつなのか、同社のWebサイトをのぞいてもいまひとつハッキリしないが、おそらく1935年(昭和10)すぎあたりではないかと想定している。
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 赤尾好夫が受験生に向けた言葉に、有名な「勉強十戒」というのがある。わたしはまったく知らなかったが、1960年代に作られたものだそうで、なんだか「勉強」や「学習」というワードを「仕事」に変えれば、そのまま高度経済成長を支えたモーレツ企業の営業部や、販売部門に貼ってある訓戒スローガンのようだ。
  勉強十戒
 一、学習の計画を立てよう、計画のないところに成功はない。
 二、精神を集中しよう、集中の度合が理解の度合である。
 三、ムダをはぶこう、戦略の第一は時間の配分にある。
 四、勉強法を工夫しよう、工夫なき勉強に能率の向上はない。
 五、自己のペースを守ろう、他をみればスピードはおちる。
 六、断じて途中でやめるな、中断はゼロである。
 七、成功者の言に耳をかたむけよ、暗夜を照らす灯だ。
 八、現状に対し臆病になるな、逃避は敗北だ。
 九、失敗を謙虚に反省しよう、向上のクッションがそこにある。
 十、大胆にして細心であれ、小心と粗放に勝利はない。
 高校時代にはデッサンや絵ばかりを描きつづけ、20年ほど早い「ゆとり世代」を満喫していたわたしには、とてもマネのできない「お勉強」法だ。自身の好きなことであれば、「十戒」でも「二十戒」でも設け、寝食も忘れて集中しがんばるのかもしれないが、退屈な学校の「お勉強」ではカンベンしてほしい。自身にとっての「戒め」は人から与えられるものではなく、18歳にもなれば自らの思考(思想)や性格と照らし合わせ、自らの知見や経験から学びとり設定していくものではないだろうか。
 赤尾好夫は戦時中、軍部に協力し大々的に戦意高揚を煽ったとして、戦後にGHQからパージ(公職追放)を受けているが、旺文社の受験雑誌や参考書、辞書の人気は衰えることはなかった。むしろ、1960年代ごろから激しさを増していった「受験戦争」では、旺文社の本は大学入試には不可欠な参考書や補助教材となっていく。
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 赤尾好夫が、いつまで下落合3丁目1986番地にいたのかはさだかでないが、二度にわたる空襲でも自宅は被害を受けていないので、戦後まで暮らしていたのではないだろうか。戦後の空中写真でも、その大きな西洋館の屋根や離れ家を確認することができる。

◆写真上:下落合3丁目1986番地の、旺文社(欧文社)=赤尾好夫邸跡。(左手一帯)
◆写真中上は、1935年(昭和10)ごろに撮影された赤尾好夫邸。中左は、1940年(昭和15)に発行された「受験旬報」4月下旬号。中右は、欧文社通信添削会の広告。は、1941年(昭和16)に「蛍雪時代」へ改題直前の「受験旬報」の目次。
◆写真中下は、1940年(昭和15)の「受験旬報」5月下旬号の奥付で、下落合から横寺町55番地へ移転しているのがわかる。中左は、1941年(昭和16)に改題された「蛍雪時代」10月号。中右は、戦後の1946年(昭和21)に発行された「蛍雪時代」10月号。は、敗戦色が濃くなった1943年(昭和18)発行の「蛍雪時代」10月号目次。
◆写真下は、赤尾好夫()と代表的な著作である1935年(昭和10)に初出版の『英語基本単語集』(豆単/)。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」(左が北方向)にみる下落合3丁目1986番地(現・中井2丁目)の赤尾邸。は、1936年(昭和11/)と1947年(昭和22/)の空中写真にみる空襲から焼け残った赤尾邸。
おまけ
現在も残る昭和初期に建設された、欧文社=赤尾好夫邸の斜向かいにあたる和館。
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葛飾北斎のヒーヒー『山満多山』。

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 本年も、拙サイトをお読みいただきありがとうございました。早いもので16年目に突入していますが、来年もどうぞよろしくお願いいたします。よいお年をお迎えください。
  
 これまで落合地域をはじめ、目白崖線沿いにやってきていた江戸期の画家たち、たとえば安藤広重Click!二代広重Click!三代豊国Click!長谷川雪旦Click!などの仕事をこちらでご紹介してきたが、画狂老人こと葛飾北斎もまた、1804年(享和4)ごろに目白崖線の急坂をヒーヒーいいながら上って作品を残している。
 江戸の版元・蔦屋から1804年(享和4)に出版された、葛飾北斎Click!の絵本狂歌『山満多山(山また山)』全3集だ。本所の市街地生まれの北斎にしてみれば、「じゃあだんじゃねえや、ええ? ヒー、山また山ばっかじゃねえか、ヒーヒー、こんちくしょうめ!」と、仕事とはいえ崖線の急坂を上り下りする切ない悲鳴が聞こえてきそうなタイトルだ。当時の画狂老人・北斎は45歳、江戸期の感覚からすればすでに「老人」と呼ばれる年齢に達していた。今日でいえば、60~70歳ぐらいの感触だろうか。
 北斎は、このあとまだ45年も生きて1849年(嘉永2)に90歳で没しているので、結果的にみればいまだ壮年時代ということになるが、当時の人々にしてみればあと5年も生きられれば十分な、まちがいなく老境と呼ぶにふさわしい年齢にさしかかっていた。同書に掲載された、大原亭炭方の跋文から引用してみよう。
  
 あし引の山の手なる景地さぐり画は 北斎老人が例のふんてをふるはし たはれ歌はおのれ炭方便々館せゝうに相槌して これを撰みついに三ツの冊子となせり これや山姥が山めぐりする心ちぞと なつけてもてる斧の柄のくち走りて巻のしりへに志るすになん
  
 大江戸(おえど)郊外の乃手Click!歩きは、「山姥が山めぐり」するような感じだなどと書いているので、ひょっとすると絵本を描いた北斎から、いっぱい「山姥(やまんば)」や「鬼」、「蛇(じゃ)」Click!などが登場するヒーヒーのグチを聞かされたものかもしれない。跋文を寄せている人物も「炭方」と名のるなど、絵になる景勝地を求めて山歩きしたとはいえ、当時の江戸市民が外周の丘陵地をどのように見ていたのかがわかって面白い。
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 さて、『山満多山』には北斎による32景が収められている。その中で、落合地域に近い風景を描いた画面が7景ほどある。なお、北斎は付近の風景を描いているのではなく、あくまでもそこにいた人物をモチーフの中心にすえているので、「山また山」にしては「山」そのものの風景は意外に少ない。
 ●第1集……高田馬場/小石川関口の瀧/江戸川の蛍
 ●第2集……目白観月/早稲田関口
 ●第3集……雑司ヶ谷鬼子母神/諏訪の池
 まず、第1集の「高田馬場」から観ていこう。物見遊山(ピクニック)に出かけた女の3人連れが、近くの高台に敷物を拡げて弁当を食べ茶を飲んでいる。おそらく、この高台は幕府練兵場・高田馬場(たかたのばば)Click!の北側にある三島山(現・甘泉園公園)、あるいはバッケ下Click!の地名があった崖上(亨朝院)あたりのピークだろう。持参した遠眼鏡(望遠鏡)で、富士山の見える山々や丘下の風景をながめているのだろう。「ねえ、ちょいと、いまの見たかい?」「見たわよう」「富士見茶家Click!あたりで、ふたりの爺いClick!が水茶屋の若い娘を追っかけてるのさ」「もう、おきゃがれClick!てなもんだわ」「……あっ、しょうもないすけべ爺いが、娘に張り倒されてるのさ」「そらごらんな、ざまぁないね」「……あれあれ、バッケから落っこっちまった。いい齢してさ、ありゃ死んでも治らないね」。空を飛んでいるのはホトトギスだと、添えられた狂歌から知れる。
 ほとゝぎす高田にき啼く初声を けふ野遊びの家産にせん
山満多山「高田馬場」.jpg
 次は、「小石川関口の瀧」だ。神田上水Click!が分岐した少し下流には、幕府が設置した大洗堰Click!があった。3人の男が箕を使い、アユClick!でも獲っているのかへっぴり腰が面白い。小僧を連れた、裕福そうな日傘の女がそれを眺め、長煙管で一服タバコを呑んでいる光景のようだ。女が見物しているので、男たちはことさらアユを捕まえていい格好をしたいのか、それとも近くの料理屋の女主人から頼まれて漁をしているのか、一所懸命に川をさらっている。大洗堰の滝口のためか、水が逆巻いて漁がしにくそうだ。水が澄んだ神田上水つづきの江戸川らしい、夏の涼しげな光景だ。
 魚をとる音は太鼓のとんとはし 川は巴に水もさか巻く
山満多山「小石川関口の瀧」.jpg
 つづいて、「江戸川の蛍」を観てみよう。大洗堰の下流、江戸川沿いの土手に舞うホタルを描いたものだ。もともと早稲田田圃から江戸川の大曲(おおまがり)にかけては、中世まで大きな白鳥池Click!があったエリアなので、あちこちに湿地帯が残っていただろう。武家の奥方と娘、それに犬を連れた足軽の家人が描かれ、夏の宵にホタル狩りをしている。享和年間は、いまだ江戸川がホタル狩りの名所だったが、時代が下るにつれて神田上水の面影橋あたりが名所になり、幕末には落合地域のホタル狩りがブームとなっていく。
 らんぐひの栗のくちてや江戸川の 岸に光れる夏虫の影
 以上が、『山満多山』の第1集に描かれたご近所の風景だ。ここまでが夏の情景で、北斎は汗みどろになりながら山また山を越えてきたのだろう。
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 次に、第2集の「目白観月」を観てみよう。おそらく、椿山(目白山)Click!の丘上か中腹あたりに建っていた家の物干し台から、ふたりの女とひとりの子どもが中秋の名月を眺めている絵だ。右手の斜面下に見えている屋根が、どうやら寺院らしいかたちをしているので、目白坂の中途に建立されていた新長谷寺Click!目白不動堂Click!なのかもしれない。椿山に限らず目白崖線は、南側が急峻な崖地になっている地形が多いので遮るものがなく、江戸市街地まで見わたせる最高のロケーションClick!だったろう。
 鳥の名の目白ときゝて秋の夜の よくもさしたるもち月の影
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 同じく第2集には、「早稲田関口」が収録されている。大洗堰の上流、神田上水の南側に拡がる早稲田田圃Click!の情景を写したものだ。ふたりの商家の女に、見世の小僧がひとり付き添っている。女たちを追い抜いた鍬をかつぐ若い農夫が、「姉ちゃんよう、きれいだなぁ、どっからきた?」とでも声をかけたのか、女たちはクスクス笑っているようだ。あるいは、「よう、姉ちゃんよう、そこに肥溜あんべ」とかいって、「あれ、くさっ!」と急いで鼻を押さえているのかもしれない。さらには、手鼻をチーンとかんだ品のない農夫に、女たちが「あれま、ちょいと、やだよう」と呆れているの図だろうか……。とにかく、稲刈りも済んだ秋の穏やかな早稲田田圃の風景だ。
 田の面は碁盤とみゑて関口に 中手おくてもかけて干らん
山満多山「関口土手」.jpg
 次に第3集に収録の、「雑司ヶ谷鬼子母神」から観ていこう。鬼子母神(きしもじん)Click!の境内に置かれた石の仁王像を、男が立ちどまってジッと見つめている。うしろには、参詣にきたのだろう若い娘がふたり、背後から男の様子を眺めている。右側の娘は、なぜか右手を頭に添えている。「ねえ、あの男さ、なにかブツブツ仁王様と話してるよ」「おつむが、いかれちまってんじゃないのかい」「まだ若いだろうにさ、かあいそうにねえ」……とかなんとか、娘たちの会話が聞こえてきそうだけれど、またオバカ物語になるといけないのでこれっきり。描かれている境内の樹木は、ケヤキではなくスギだろうか。
 会式はといへば落葉の錦をも 重ねてみせる雑司ヶ谷道
 「会式」とは、池上本門寺で行われる御会式のことで、晩秋になると池上から雑司ヶ谷まで、団扇太鼓をもった信者たちの万灯練行列Click!が明け方までつづいた。この行列Click!は、昭和初期まで行われていたが、市街化とともに騒音の苦情が増えて中止されている。また、ここで書かれた「雑司ヶ谷道」は、目白崖線の下を通る落合地域の雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)ではなく、江戸の市街地方面から南北に貫く旧・鎌倉街道のことだ。
山満多山「雑司ヶ谷鬼子母神」.jpg
 最後に、真冬の風景を描いた「諏訪の池」を観てみよう。あたりはすっかり冬景色になり、池には氷が張っている。船頭が漕ぎだす池の小舟に乗った3人の女が、氷の砕ける様子を見物して遊んでいる。小さな堂とアカマツがある池畔は、諏訪村(現・高田馬場1丁目の一部)に建立された諏訪社Click!や玄国寺近くの溜池のひとつだろう。添えられた狂歌に「神の恵み」とあるので、諏訪社の北側にあった溜池なのかもしれない。
 みすゞかる諏訪の氷はうすからぬ 神の恵みの厚きみわたり
 信州諏訪湖の“御神渡り”とかけた歌だが、女の投げた石ぐらいでは割れない氷も、池に舟を浮かべた時点でこなごなに砕けただろう。いまでも、厳寒の季節になると下落合の池には氷が張るが、子どもが突っつけば簡単に割れてしまうほど薄い。
山満多山「諏訪の池」.jpg
 さて、葛飾北斎は夏の暑い盛りに目白山界隈を描かされ、涼しくなってからのスケッチはかなり楽だったものの、真冬になってからの写生には山の寒さに震えあがって、再びヒーヒーいいながらやってきたのではないだろうか。『山満多山』を企画し、「さて、じゃ、中島さん、冬の三集も頼みましたよ」と仕事をだしてくれた蔦屋重三郎は、北斎にしてみれば「鬼満多鬼っ!」のクライアントに見えていたのかもしれない。

◆写真上:おそらく北斎も立ち寄っているとみられる、駒塚橋上から眺めた関口芭蕉庵Click!西の胸衝坂(胸突坂)をはさんで隣接する神田上水の水神社(すいじんしゃ)。
◆写真下からへ、『山満多山』(蔦屋/1804年)の第3集表紙裏、第1集に収録された「高田馬場」「小石川関口の瀧」「江戸川の蛍」、第2集に収録された「目白観月」「早稲田関口」、第3集に収録された「雑司ヶ谷鬼子母神」「諏訪の池」。

「レコード演奏家」という趣味と概念。

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自由学園明日館講堂.JPG
 あけまして、おめでとうございます。本年も「落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)」サイトを旧年同様、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 2020年最初の記事は、落合地域やその周辺域とも、はたまた江戸東京地方ともまったく関係のないテーマなので、音楽とその再生に興味のない方はパスしてください。

  
 たまに、コンサートへ出かけることがある。音響の専門家が設計し、倍音(ハーモニック)や残響(リバヴレーション)が考慮されたコンサートホールでの演奏もあれば、落合地域やその周辺にある施設を利用した音楽会のときもある。同じ音楽家が演奏しても、ホールや施設によってサウンドが千差万別に聴こえ、またスタジオ録音のレコード(音楽記録媒体またはデータ=CDやネット音源)とも大きく異なるのは周知のとおりだ。
 落合地域や周辺の施設を使って演奏されるのは、必然的にクラシックないしは後期ロマン派以降の現代音楽が多い。確かに教会や講堂でJAZZやロックを演奏したら、もともとがライブ空間(音が反射しやすく残響過多の空間)なので、聴くにたえないひどいサウンドになるだろう。近くの高田馬場や新宿、中野などにはJAZZ専門のライブハウスがいくつかあるのだが、若いころに比べて出かける機会がグンと減ってしまった。
 わたしは、音響技術が高度に発達していく真っただ中を生きてきたので、「生演奏」が素晴らしく「レコード演奏」が生演奏の代用である「イミテーション音楽」……だとは、もはや考えていない戦後の世代だ。むしろ、音響がメチャクチャでひどい劇場やコンサートホール、ライブハウスで生演奏を聴くくらいなら、技術的に完成度の高いレコード演奏のほうがはるかにマシだと考えている。
 ちょっと例を挙げるなら、F.L.ライトClick!の弟子だった遠藤新Click!設計の自由学園明日館Click!講堂で演奏される小編成のクラシックは、どうせダメな音響(超ライブ空間だと想定していた)だろうと思って出かけたにもかかわらず、ピアノやハープが想定以上にいいサウンド(予想外にデッド=残響音の少ない空間だった)を響かせていたが(もっとも、イス鳴りや床鳴りが耳ざわりで酷いw)、すでに解体されてしまった国際聖母病院Click!チャペルClick!は、残響がモワモワこもるダメな空間ケースの代表だった。もっとも、このふたつの事例に限らず、重要文化財や登録有形文化財などの建物内を、音響効果のために勝手に改造するわけにもいかないだろう。
 気のきいた音響監督がいれば、ライブすぎる室内には柔らかめのパーティションやマットレス、たれ幕、カーテンなどを運びこんで残響を殺すだろうし、デッドな空間にはサウンドが反射しやすい音響板やなにかしら固い板状のものを用意して演奏に備えるだろう。ただし、おカネが余分にかかるので、録音プロジェクトでもない限りは、なかなかそこまで手がまわらないのが現状だ。
 生演奏のみが音楽本来のサウンドで、各種レコードによる演奏がその代用品とは考えないという“論理”には、もちろん大きな前提が存在する。音楽家が演奏する空間(屋内・屋外を問わず)によって、得られるサウンドの良し悪しが多種多様なのと同様に、レコードを演奏する装置やリスニング環境(空間)によってもまた、得られるサウンドは千差万別だ。ホールや劇場で奏でられる生演奏が、音楽のデフォルトとはならないように、とある家庭のリスニングルームで鳴らされているサウンドが「標準」にならないのと同じなのだ。そこには、生演奏にしろレコード演奏にしろ、リスナーのサウンドに対する好みや音楽に対する趣味が、要するにサウンドへの好き嫌いが大きく影響してくる。
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 もっとも、ここでいうレコード演奏とは、ヘッドホンを介してPCやiPod、タブレット、スマホなどの貧弱なデバイスにダウンロードした音楽を聴くことではない。また、TVに接続されたAVアンプや大小スピーカーの多チャンネルで、四方八方からとどく不自然でわざとらしい音(いわゆるサラウンド)を聴くことでもない。音楽の再生のみを目的としたオーディオ装置Click!を介して、空気をふるわせながらCDやダウンロードした音楽データ(ネット音源)を聴くレコード演奏のことだ。すなわち、個々人のサウンドに対する好き嫌いや音楽の趣味が前提となるにせよ、できるだけコンサートの大ホールや小ホール、ライブハウスなどで音楽を楽しむように、それなりに質のいいオーディオ装置類をそろえ、部屋の模様を音楽演奏に適するよう整えることをさしている。
 音楽を奏でるオーディオ装置は、この60年間に星の数ほどの製品が発売されているので、家庭で聴く音楽は個々人が用意する装置によっても、またその組み合わせによっても、それぞれまったく異なっている。たとえ、同一機種ばかりのオーディオシステムを揃えたとしても、その人の音の嗜好を前提としたチューニングによって、かなり異なるサウンドが聴こえているはずだし、なによりも個々人の部屋の設計や仕様・意匠、置かれた家具調度の配置、装飾品の有無などがそれぞれ異なることにより、スピーカーから出るサウンドはひとつとして同じものは存在しない。畳の部屋にイギリスのオートグラフ(TANNOY)を置いてクラシックを聴く作家もいれば、コンクリート打ちっぱなしの地下室に米国のA5モニター(ALTEC)を設置してJAZZを鳴らす音楽評論家だっている。だから、家庭で音楽を聴く趣味をもつ人がいたら、その人数ぶんだけ異なるサウンドが響いているということだ。この面白さの中に、自身のオリジナリティを強く反映させた音楽を楽しむ、オーディオファイルの趣味性やダイナミズムがあるのだろう。
 「レコード演奏家」という言葉を発明したのは、オーディオ評論家の菅野沖彦Click!だ。2017年(平成29)の秋に、久しぶりに買った「Stereo Sound」誌について記事を書いたが、その1年後、一昨年(2018年)の秋に萱野沖彦は亡くなった。彼はもともとクラシックやJAZZを得意とする録音技師(レコード制作家)で、優れた録音作品を数多く残しており、そのディスクはサウンドチェック用として日本はもちろん、世界各地で使われている。彼は録音再生の忠実性(いわゆる「原音再生」論)は、現実の家庭内における音響空間には実現しえないと説いている。2005年(平成17)にステレオサウンド社から出版された、菅野沖彦『レコード演奏家論』から少し引用してみよう。
  
 論理性に基づく録音と再生音の同一性は再生空間が無響空間である以外に成り立たないのである。そして、無響室は残念ながら快適な居住空間とはほど遠く、異常で不自然な空間であることは万人が認めるところ。音楽を楽しむどころか、一時間もいたら気が変になるだろう。したがって、時空の隔たった録音再生音響の物理的忠実性は、論理的にも現実的にも成り立たないことが明白なのだ。/さらに、これに関わるオーディオ機器の性能の格差や個体の問題は大きい。特にスピーカーが大きな問題であることはよくご存じの通りである。今後も、この現実についての論理的、技術的、そして学術的な解決はあり得ないであろう。伝達関数「1」は不可能なのである。
  
 したがって、個々の家庭における音楽再生は、個々人が選ぶ好みのオーディオ装置と、個々人が好む音楽を楽しむ環境=部屋の仕様や意匠によって千差万別であり、そこに音楽のジャンルはなんにせよ好みのサウンドを響かせるのは、個々人の趣味嗜好が大きく反映されるわけだから、それを前提にレコード(CDやダウンロードしたネット音源)をかける(演奏する)オーディオファイルは、「レコード演奏家」と呼ぶのがふさわしい……というのが菅野沖彦の論旨だ。
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 なるほど……と思う。カメラ好きが、同じ機種のデジカメを使って撮影するのが同じ被写体でないのはもちろんだが、同一の被写体を撮影したとしてもプロのカメラマンとアマチュアカメラマン、それに写真撮影が好きな素人とでは、撮影する画面や画質、構図、さまざまな機能やテクニック、表現を駆使した技術面でも大きく異なるのは自明のことだ。機械はあまり使わないが、絵画の表現も同様だろう。画家によって、好みの道具(筆・ナイフ・ブラシなど)や好みの絵の具は大きくちがう。レコードの再生にも、人によって道具のちがいやサウンドの「色彩」や響きのちがいが顕著だ。
 1988年(昭和53)に音楽之友社から出版された、菅野沖彦『音の素描―オーディオ評論集―』の中から少し引用してみよう。
  
 音への感覚も、多分に、この味覚と共通するものがあるわけで、美しい音というものは、常に音そのものと受け手の感覚の間に複雑なコミュニケーションをくり返しながら評価されていく場合が多い。もちろん、初めからうまいもの、初めから美しい音もあるけれど、そればかりがすべてではない。(中略) 物理学では音を空気の波動(疎密波)と定義する。もちろん、この定義はあくまで正しい。しかし、特に音楽の世界において、音を考える時には、それでは不十分だし、多くの大切なものを見落してしまうのである。私たちにとって大切なことは、音として聴こえるか否かということ。音として感じるかどうかということであって、その概念は、あくまで、私たち人間の聴覚と脳の問題なのである。音は、それを聴く人がいなければ何の意味をも持たない。受信器がなければ、飛び交う電波の存在は無に等しいのと同じようなものである。
  
 確かに音楽を再生して聴くという行為は、うまいもんClick!を味わう舌に似ていると思う。もともとデフォルトとなる味覚基盤(多分に国や地方・地域の好みや伝統的な“舌”に強く左右されるだろう)が形成されていなければ、そもそもなにを食べても「美味い」と感じてしまう野放図な味オンチの舌か、なにを食べても「こんなものか」としか感じられない不感症の舌しか生まれない。そこには、相対的に判断し、味わい、受け止め、感動する基準となる舌が「国籍不明」あるいは「地方・地域籍不明」で不在なのだ。
 音楽を愛し多く聴きこんできた人が、オーディオ装置を通して奏でるサウンドは、その響かせる環境を問わずおしなべて軸足がしっかりしており、リアルかつ美しくて、説得力がある。換言すれば、どこか普遍化をたゆまず追求してきた“美”、料理で言えば普遍的な美味(うま)さが、そのサウンドを通じてにじみ出ている……ということなのだろう。
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岩崎千明ALTEC_620Aモニター.jpg
 そんな経験を多くしてきたわたしも、オーディオ装置には少なからず気を配ってきたつもりなのだが、ここ数年で大きめな装置が家族から「これジャマ、あれも、ジャマ!」といわれ、処分せざるをえなくなった。現在は、一時期の4分の1ほどの面積ですむ装置で聴いているけれど、それでも工夫と努力をすれば、それなりに美しい(わたしなりの)サウンドを響かせることは可能だ。それだけ、現代のオーディオ装置の質や品位は高い。最後に、わたしのオーディオの“師”だった菅野先生のご冥福をお祈りしたい。

◆写真上:舞台上に大小のハープが並ぶ、遠藤新が設計した自由学園明日館講堂。
◆写真中上は、2005年(平成17)出版の菅野沖彦『レコード演奏家論』(ステレオサウンド社)と同年撮影の著者。は、菅野沖彦のリスニングルームの一部。スピーカーはユニットを自由に組み合わせられるJBLのOlympusやマッキントッシュXRT20、CDプレーヤーにはマッキントッシュMCD1000+MDA1000やスチューダA730、プリ・パワーアンプ類にはアキュフェーズやマッキントッシュなどが並んでいる。JBLの上に架けられている絵は、“タッタ叔父ちゃん”こと菅野圭介Click!の作品だろうか?
◆写真中下は、英国のタンノイ「オートグラフ」。は、作家・五味康祐の練馬にあった自宅のリスニングルームで日本間にオートグラフが置かれている。
◆写真下は、米国のアルテック「A5」でJAZZ喫茶でも頻繁に見かけた。は、JAZZ評論家・岩崎千明のリスニングルームに置かれたアルテック「620Aモニター」。よく見ると、JBLの「パラゴン」の上に「620A」が置かれているのがビックリだ。反響音を減殺するために、カーテンを部屋じゅうに張りめぐらしているようだ。TANNOYとALTECの製品写真は、いずれも「Stereo Sound」創刊50周年記念号No.200より。

落合周辺の風景『絵本江戸土産』。(上)

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甘泉園滝.JPG
 下落合の藤稲荷を描いた、1864(元治元)出版の安藤広重・二代広重『絵本江戸土産』Click!(金幸堂)について、少し前に記事にして書いた。今回は、落合地域の周辺で登場している江戸期の名所を、それぞれ現在の様子とともにご紹介したい。
 まず、落合地域の南西側にあたる戸塚地域では、高田馬場(たかたのばば)と高田富士(たかたふじ)が取りあげられている。高田馬場は、広重の有名な『名所江戸百景』Click!をはじめ、いくつかの浮世絵にも登場しているが、『絵本江戸土産』の構図は馬場の南側から北東を向いて描いたもので、浮世絵にはつきものの富士山が含まれていない。人々が往来する手前の街道は、下戸塚村から源兵衛村へと抜ける今日の早稲田通りに相当する道筋だ。この画面の構図は、長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』巻之四「天権之部」に所収の挿画と、ほぼ同じ視点から描かれている。
 現在でも、高田馬場跡Click!は乗馬の周回路がそのまま道路になってけっこうクッキリ残っているが、馬場の北側は住宅地に、南側は早稲田通りに削られているとみられる。現状の写真は、高田馬場の北側エリアを写したもので、広重の画面でいうと左手の奥に見える戸塚村の村落があるあたりで、そのさらに北側の下り斜面には清水徳川家の下屋敷がある。同画に添えられた一文は、以下のとおり。
  
 高田馬場 穴八幡の傍にあり この所にて弓馬の稽古あり また神事の流鏑馬を興行せらるをあり 東西へ六丁南北三十余間 むかし頼朝卿隅田川より この地に至り勢揃ありしといひ伝ふ
  
高田馬場.jpg
高田馬場跡.JPG
 水稲荷社の境内にあった富塚古墳Click!の上に築かれた、大江戸(おえど)Click!の富士塚第1号である高田富士Click!は、高田八幡社(穴八幡社)Click!側から眺めたところだ。崖上にあるのは、手前が法輪寺で奥が宝泉寺Click!だろう。画面奥の左手に見えている山は三島山で、当時は清水徳川家の下屋敷だった現・甘泉園公園のあたりだ。この風景の背後のバッケ(崖地)下には神田上水が流れ、下戸塚村の田圃が拡がっていた。
 現在の水稲荷社は、甘泉園公園の西側に移転し、高田富士の山頂に木花咲耶姫を奉っていた祠と頂上部の溶岩は、甘泉園公園の南東側に移されている。また、水稲荷社の本殿裏には、富塚古墳の解体時に出土した玄室や羨道の石材(房州石Click!)が、そのまま集められて不規則に展示されている。
  
 高田富士山 同所宝泉寺水稲荷の境内にありて餘の富士と等しからず 六月十八日まで参詣せしめ 麦藁の蛇等を売る茶店を出し諸商人出きて数日の間賑ひまされり
  
高田富士.jpg
高田富士頂上.JPG
 高田八幡社(穴八幡社)は、階段(きざはし)を上ってくぐる光寮門(隨神門)が描かれている。光寮門は、境内の内側から西を向いて描かれており、本殿(左手)へと向かう参道には春のせいかサクラが満開だ。この風景は現在でもほとんど変わらないが、光寮門の向こう側に見える松の古木は、早稲田通りの拡張工事とともに伐られてしまった。
 画面の左手に、見下ろすように描かれている街並みは、牛込馬場下町や牛込早稲田町、あるいは早稲田村に散在する小大名や旗本などの抱え屋敷の屋根群だ。尾張徳川家の下屋敷がある戸山ヶ原は、画面の右手に展開しており、穴八幡の高台からは東海道五十三次の琵琶湖に見立てた、金川(カニ川)Click!の流れを利用して造成した大池(御泉水)がよく見えただろう。
  
 穴八幡は尾州侯戸山の御館の傍にあり 此あたり植木屋多く四季の花物絶ゆることなし
  
穴八幡.jpg
穴八幡社.JPG
 幕府練兵場の高田馬場の北側には、神田上水(室町期なので平川)が流れる太田道灌Click!由来の「山吹の里」と呼ばれた地域があった。そこに架かる橋を広重は他の作品と同様、頑固に「姿見橋」と書きつづけている。また、神田上水の北側にある南蔵院Click!の境内を横切る灌漑用水の橋を、「面影橋(俤橋)」と一貫して規定している。広重に倣うなら、用水の埋め立てとともに面影橋はなくなり、姿見橋が残っていることになるのだが、なぜか現在では神田川(旧・神田上水)に架かる橋名が「面影橋」となっている。
 たとえば幕府の普請奉行が命じて、1791年(寛政3)に完成した『上水記』や、同じく延宝年間から制作がスタートしている同奉行所の『御府内往還其外沿革図書』には、神田上水に架かる橋は「面影橋」と採取されているが、派遣された地域に疎い役人が「姿見橋」と「面影橋」を取りちがえて採取している可能性を否定できない。確かに、川面まで距離のある高橋(たかばし)からは「姿見」しかできないが、川面に近い用水の小橋からは「面影」を確認することができるからだ。
 画面の姿見橋は雪景色で、『名所江戸百景』の構図よりも視点が低いが、広重は北側にある面影橋を描くことも忘れていない。雪景のせいか、無意味な源氏雲がないのも好もしい画面だ。また、キャプションにも現場で取材したとみられる一文を載せている。
  
 山吹の里姿見橋 山吹の里は太田道灌の故事によつて号くとぞ 姿見はむかしこの橋の左右に池あり その水淀みて流れず故に行人この橋にて姿を摸し見たるよりの名なりといふ
  
姿見橋(面影橋).jpg
面影橋神田川.JPG
 姿見橋(面影橋)から北へ進み、目白崖線の宿坂を上ると雑司ヶ谷鬼子母神Click!表参道Click!に出る。そのまま四ツ家(四ツ谷)の西へカーブする参道を歩けば、ほどなく鬼子母神へたどり着ける。広重の画面では、鬼子母神(法明寺別当大行院)と北側の法明寺がセットになって描かれている。画面の右下に幟が林立するのが鬼子母神の境内で、左手に描かれた大伽藍の並んでいるのが法明寺Click!だ。
 雑司ヶ谷鬼子母神の境内には、当時から料理屋(スズメのやき鳥が有名だった)や茶屋、駄菓子屋などが見世を開いていたが、数年前から「上川口屋」Click!に加え、おせん団子(羽二重団子)と煎茶で休憩できる茶屋「大黒屋」が開店している。雑司ヶ谷鬼子母神の名物だったおせん団子と、縁台を並べた江戸期の茶店を復活させたものだ。
  ▼
 雑司ヶ谷鬼子母神法明寺 この神出現の地は護国寺より坤にあたり 清土といへる所の叢に小さき祠ありて始めその処に祀れりとぞ この神霊験新なる中に稚児を守り給ふ 故に乳なき婦人こゝに祈りてことごとく霊応あり 毎年十月会式のとき殊に賑ふ 別当大行院これを護持す
  
雑司ヶ谷.jpg
雑司ヶ谷法明寺.JPG
雑司ヶ谷鬼子母神.JPG
 鬼子母神から法明寺まで、田畑の中を松並木のある参道が描かれているが、この道筋は周囲を住宅街や東京音楽大学Click!のキャンパスに囲まれてはいるが、現代でもほぼそのまま残っている。ただし、法明寺の本堂は1923年(大正12)の関東大震災で倒壊したため、画面の位置より数十メートルほど左側(西側)に移って再建されている。
                               <つづく>

◆写真上:清水徳川家の下屋敷だった、三島山(現・甘泉園公園)の庭に造られた小滝。
◆写真中・下:それぞれ、が広重『絵本江戸土産』の画面で、が現在の同じ場所を写した風景。面影橋の写真では、橋の北詰め(向こう側)に山吹の里の石碑がある。また、雑司ヶ谷鬼子母神の写真では、が法明寺本堂でが鬼子母神境内のおせん団子。

落合周辺の風景『絵本江戸土産』。(下)

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水神社.JPG
 姿見橋(面影橋)から、川沿いに東へ850mほど歩くと、椿山の山麓に関口芭蕉庵Click!がある。神田上水の護岸補修工事に、1677年(延宝5)から1680年(延宝8)までの4年間にわたり、普請の差配として参画したといわれる松尾甚七郎(芭蕉)が滞在した、目白下の庵があったとされる地点だ。広重の画面では、やや下流に架けられていた駒塚橋の右岸から神田上水の上流を見て描いている。なお、現在の駒塚橋は水神社のほぼ下に設置されているが、江戸期の架橋位置は現在よりも100mほど下流だった。
 右手に描かれた山が椿山Click!(目白山)で、その中腹に見えている茅葺きの建物が芭蕉庵だ。当時は水神別当とされていたようで、管理は胸衝坂(胸突坂)をはさんだ水神社(すいじんしゃ=椿山八幡社)が行なっていたようだ。駒塚橋のすぐ下流には大洗堰Click!が設置されており、その手前で神田上水は分岐し、北側の浄水は開渠Click!から暗渠で水戸徳川家上屋敷(後楽園)へと通じ、南側の流れは大洗堰から江戸川Click!と名前を変えて、舩河原橋Click!から千代田城の外濠へと注いでいた。
 広重は「広野」と書いているが、画面の左手に拡がっているのは早稲田田圃、すなわち広大な水田地帯だ。室町期の以前、このあたりには不忍池Click!お玉が池Click!と同様に、奥東京湾の名残りとみられる大きな白鳥池Click!が形成されていた。江戸川橋周辺では、住宅地を掘るとすぐに水が湧くといわれ、昔日の白鳥池の名残りがいまだに残っているようだ。早稲田田圃は、そのような水田に最適な湿地帯を造成し、広大な水田地帯を開拓したものだ。遠景に意味のない源氏雲を描くこともなく、全体的にスッキリした画面になっていて高い記録性を感じる作品だ。
  
 関口上水端芭蕉庵椿山 関口といふはこの書前の編に画したる井の頭の池より東都へひく上水の別れ口にて 一は上水に入りて余水は江戸川へ落る 本字堰口に作るべし させる風景の地ならずといへども水に望み広野に望みて 只管閑雅の地なるにより 俳諧者流この菴を作り会合して風流を遊ぶ
  
関口芭蕉庵.jpg
関口芭蕉庵芭蕉堂.JPG
関口芭蕉庵湧水池.JPG
 椿山(目白山)の東側に通う目白坂沿い、山腹にあった新長谷寺(戦後に廃寺)の境内Click!には、室町末期ないしは江戸最初期に下国の足利から勧請された、不動尊を奉る目白不動堂があった。「鉄の馬」Click!を埋めたという伝承がいまに伝わる、目白=鋼Click!やタタラ製鉄とのゆかりが深いとみられる土地柄だ。広重は、目白坂の坂上(現在の関口台町小学校あたり)から、東南の方角を向いて描いている。
 月や夜ザクラが描かれているようなので、暖かな春の黄昏どきだろうか。陽が落ちているにもかかわらず、境内には参詣者や茶屋娘の姿が見える。当時は、相当なにぎわいだったのだろう。左手に見えている大きめな堂が新長谷寺の本堂で、右下に少しだけのぞいている屋根が目白不動堂だろうか。茶屋の簾屋根ごしに見えている遠景は、小日向村や中里村、あるいは牛込水道町の林だろう。
 現在の目白不動は、ここに描かれた新長谷寺の廃寺にともない、戦後になると椿山(目白山)を離れ、西北西へおよそ1.4kmほど離れたところにある金乗院へと移転している。江戸期の当時は、あまりにも有名で広く知られていたせいか、画面に添えられた解説文も簡潔でしごくそっけない。下目黒の目黒不動(滝泉寺)と比べられているが、椿山の中腹とはいえ目白不動堂は標高20mはゆうに超えていただろう。
  
 目白不動は 目黒とかわりて高き丘にあり 眺望もつともよし
  
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目白不動跡.JPG
目白不動金乗院.JPG
 さて最後に、『絵本江戸土産』に収録された落合地域の西側にある、新井村の新井薬師(梅照院)Click!を観てみよう。手前から奥へとつづく道は、上高田村から分岐する「新井薬師道」と呼ばれた参道筋だ。参道は途中で南西にカーブして曲がり、梅照院境内の門前へと出ることができた。
 参道の両側には、料理屋(栗飯が名物だった)や茶屋が軒を連ね、ひときわ大きな茅葺き屋根が新井薬師の本堂だ。参道の方角からだと、本堂はやや左向きになっており、右手に見えているのは明治期になって新井薬師遊園Click!(現・新井薬師公園)となる森で、その向こう側(左手の奥)が北野天神の鬱蒼とした森だろう。
 ここで留意したいのは、江戸期の当時は修験者の修行場として使われ、1914年(大正3)以降は郊外遊園地として拓ける新井薬師遊園が、小高い丘状に描かれていることだ。現在はほぼ平地となり、公園の北側に数十メートルほどのわずかな膨らみを残すだけとなっているエリアだが、少なくとも幕末までは画面に描かれたような丘陵が存在していた可能性がある。その丘陵を崩したのが、大正初期の新井薬師遊園が造成されたときなのか、あるいは昭和初期に新井薬師公園に改変されたときなのかは不明だが、北西へと下る斜面に築造された古墳の墳丘をうかがわせる広重の表現となっている。
 江戸が大江戸へと拡大する中で、目白不動も多くの参詣者を集めたのだろうが、新井薬師もまた市街地からの参詣客でにぎわうようになっていたらしい。
  
 新井薬師 雑司谷の先なり この薬師尊霊験新にして 眼病を守護し給ふにより 都下より詣人多し 尤八日十二日を縁日として 老若士女歩行を運ぶ 就中一軒の茶房ありて 種々の食物を商ふ
  
 安藤広重・二代広重の『絵本江戸土産』は、大江戸観光の土産物として売られていたパンフレット、あるいは記念絵図集のようなものだが、その目的のせいでどこか軽んじられているものか、江戸期の資料として引用されることが少ないようだ。また、江戸市民へ向けた作品ではなく、観光客ないしは一時滞在の人々向けなので、あまり「地元の資料」として重要視されない倣いがあるのかもしれない。確かに、『絵本江戸土産』は浮世絵の風景画などに比べ色彩が少なくて淡く、地味で安上がりな装丁となっている。
新井薬師.jpg
新井薬師北側.JPG
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新井薬師北野天神.JPG
 だが、同書に限らず江戸土産用に刷られた本は、同じ名所を描くにしても、ふだん浮世絵などで見慣れた視点ではない、別角度から写生している新鮮な構図だったり、浮世絵にはない意外な風景を写生している可能性があるので、貴重な資料にはちがいない。広重一派に限らず、同様の土産本で落合地域の描写を見つけたら、改めてご紹介したい。
                                  <了>

◆写真上:関口芭蕉庵の西側、胸衝坂(胸突坂)沿いにある水神社(椿山八幡社)。
◆写真中:それぞれ、が広重『絵本江戸土産』の画面で、が現在の同じ場所を写した風景。関口芭蕉庵の現状は、が芭蕉堂で、が庭の湧水を利用して造られた瓢箪池。目白不動は、が不動堂があった目白坂の新長谷寺跡で、が現在の目白不動が安置されている金乗院。新井薬師では、が新井薬師本堂を裏側から眺めたところ、は新井薬師公園に残る丘陵の跡、が斜面下にある北野天神社。

智恵子は古墳の丘上に立ったか。

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大井林町1号墳倍墳?.JPG
 以前、品川大明神社(牛頭天王社)Click!にからめて、大森海岸のバッケ(崖地)Click!近くに密集する古墳群をご紹介したことがあった。やはり、江戸期まで「屍家」Click!などの禁忌的な「いわく」の伝承Click!があったものか、山内家をはじめ土佐藩の墓所にされていた鮫洲の丘(現・大井公園)と、その周辺域に拡がる古墳群だ。
 特に、大井公園を中心に土佐藩の墓域だった鮫洲駅西側の丘陵と、大井町駅にいたる起伏の多い丘陵地は、皇国史観Click!の戦前ではなく、戦後に科学的な視野のもとに詳しい調査がなされているので貴重だ。この一帯を調査したのは、学習院Click!の発掘調査チームを率いた徳川義宣Click!(よしのぶ)だった。下落合の北隣り、目白町4丁目41番地(現・目白3丁目)に住んでいた徳川義宣については、こちらでも何度か過去にご紹介Click!している。だから、戦前の妙な史観やフィルターで視界が歪んではおらず、その科学的な発掘データや報告書は貴重で信ぴょう性が高い。
 さて、鮫洲駅の北側に拡がる丘陵地帯から見ていこう。古墳時代から、東海道線や京浜急行が敷設される明治期まで、この丘の下にはすぐに海岸線が迫っていた。いまでは埋め立てが沖まで進んでいるが、明治後期(1904年ごろ)に作成された地形図を見ても、古墳期とあまり変わっていないとみられる海岸線のかたちを確認することができる。地勢は、江戸湾(東京湾)に面した浜辺から、西へ100m前後の比較的平坦な土地がつづき、いきなり17mを超える崖や丘陵が立ち上がっている。現在は、宅地開発でずいぶん急斜面が修正されているが、明治期までは海から眺めると、まるで屏風が立ちはだかるような風情に、崖や急斜面が見えたのではないか。
 JR大井町駅から京急・鮫洲駅にかけての丘陵は、おもに大森海岸を中心とした別荘地や療養地として早くから拓けている。こちらでも、1933年(昭和8)に下落合へ転居する予定だった高田町雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)の戸田家Click!(のち徳川家敷地Click!)が、おそらく家族に病人でも出たのか大井町へ転居先を変えている事例をご紹介Click!している。大井町は、明治期をすぎると宅地開発が急速に進み、発掘が可能な古墳はごく一部に限られていった。一帯の発掘調査が行われた時期は、すでに古墳であることが判明していたエリアが戦後すぐのころ、また調査の報告書や紀要のタイムスタンプを見ると、京浜工業地帯の衰退とともに再開発が進んだ1980~1990年代ごろが多かったようだ。
 品川歴史館でも、「品川区内の古墳についてはあまり知られていない状況」と書いており、先の徳川義宣チームの発掘を除き、現代的な調査はこれからが本番というニュアンスだ。2006年(平成18)に雄山閣から出版された『東京の古墳を考える』(品川区立品川歴史館編)所収の、内田勇樹「品川の古墳」から引用してみよう。
  
 品川区内の古墳についてでありますが、大井林町一・二号墳と呼ばれる古墳と仙台坂一・二号墳、それと大井金子山古墳群、南品川横穴墓が現在調査され確認されているものです。/図1の古墳分布図をご覧下さい。6は大井林町二号墳と呼ばれている古墳です。4は、墳丘などは確認されていないのですが、大井林町一号墳と呼ばれております。そこから、二五〇メートル北側の2,3とあるのが仙台坂一、二号墳です。そのさらに北側の7が南品川横穴墓です。/この辺一体(ママ:帯)に古墳が集まっていますが、図の左下側の大井四丁目に8があります。そこには大井金子山横穴古墳群が位置しております。(図版略)
  
大井町鮫洲1909頃.jpg
大井町鮫洲国土地理院.jpg
大井林町2号墳学習院徳川チーム測量.jpg
 上記の文章からもうかがわれるように、早くから別荘地や住宅の建設が進んだため、墳丘が壊されて埴輪片や副葬品などが露出している古墳が多かった。したがって、これらの古墳はたまたま発掘調査が可能だった地点の記録であり、著者は「古墳が集まってい」ると表現しているが、地域全体の“面”としては捉えられていないので、これらは大井町地域のほんの一部の遺構を垣間見せているにすぎないのではないか?……という点に留意する必要があるだろう。
 上に挙げられている古墳で、徳川義宣チームが戦後間もない1949年(昭和24)に発掘調査を行ったのは、大井林町333番地の斜面に築造された大井林町2号墳だ。墳丘はかなり破壊されており、徳川チームは50m前後の前方後円墳だったと規定している。(ただし最新の見方では、古墳の軸線がややずれているとされる) 同チームは、墳丘の周辺から散乱した埴輪片を採集している。
 また、大井林町248番地の伊達家邸内にあった、大井林町1号墳も徳川チームが調査しているが、その様子は品川大明神社の記事で詳しく取りあげているのでそちらを参照されたい。大井林町1号墳も、やはり墳丘が崩された残滓が残されており推定50m前後の前方後円墳だとされている。また、同古墳があった位置に隣接して、大井町公園内に直径10m前後の小さな前方後円墳状または円墳状の残滓(大井町公園内古墳)がかろうじて残されているが、大井林町1号墳の倍墳だろうか?
 大井林町1号墳から北へ古墳群の北北西へ230mほど、大井林町から北へ250mほどのところには、仙台坂1号・2号墳の2基が築造されていた。この2基は直径が数十メートル規模の円墳状をしており、埴輪片や周濠までが確認されている。
大井林町1号墳.JPG
大井公園内古墳.JPG
大井林町2号墳付近.JPG
南品川横穴墓付近.JPG
 次に、大井4丁目の斜面から発見された大井金子山横穴墓群と、ゼームズ坂のすぐ西側の崖地にある南品川横穴墓について、同書より引用してみよう。
  
 図8~11に大井金子山横穴墓があります。大田区との境に位置する所で、品川区から大田区側にかけて多くの横穴墓が密集している地帯で、その一部をなしていると考えられます。/横穴墓は図8にもあるように三基調査されまして、一号墳から成人骨が五個体、未成人骨が一個体、小児骨が二個体と刀子と鉄鏃が検出されています。二号墳からは遺物はとくに検出されず、三号墳からは人骨などが確認されております。構築の時期は七世紀頃と報告されています。/図7の南品川横穴墓はゼームズ坂を上った所にある印刷会社の建設工事中に発見されたもので、人骨と鉄製の釧片が出土しており、七世紀後半と考えられています。(図版略)
  
 上記にも書かれているが、東京地方で横穴式古墳がいっせいに構築されはじめるのは7世紀の後半から世紀末までが中心であり、これまで何度かここでも書いてきたように、下落合横穴古墳群Click!が古い時代の調査(1960年代前半)で8世紀(奈良時代)とされたままなのが、いまひとつ納得できないテーマとして残っている。出土した直刀Click!などを観察しても、古墳時代の墳墓簡易化が進んだ7世紀後半、あるいはせいぜい8世紀初頭までの古墳時代末期とするのが妥当ではないだろうか?
 さて、大井町から鮫洲にいたる古墳跡をたどって現地を散策してきたが、南品川横穴墓がうがたれていた斜面のゼームズ坂といえば、雑司ヶ谷や目白で青春時代Click!をすごした長沼智恵子Click!(高村智恵子)が、息を引きとったゼームズ坂病院が思い浮ぶ。同病院は、ゼームズ坂から西へやや入った上り坂の途中にあったのだが、現在はマンションや住宅が立ち並んでいて昔日の面影はまったくない。病院跡には、高村光太郎Click!の詩「レモン哀歌」の碑が建立されており、碑前にはレモンがいくつも供えられていた。
高村光太郎「智恵子の首」1916頃.jpg
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ゼームズ坂病院跡.JPG
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 わたしは、高村光太郎の感傷的な『智恵子抄』や映画(東宝1957年/松竹1967年)などで有名になった、統合失調症を発症した高村夫人としての智恵子よりも、下宿先の子どもであり文展に入選して有頂天になっている夏目利政Click!を叱りつけたり、雑司ヶ谷や目白界隈を精力的に散策しながら、次々とタブローを仕上げて太平洋画会の展覧会へ出品し、青鞜に参加して「新しい女」を生きようとしていた洋画家・長沼智恵子のほうに惹かれるので、この界隈の風景作品(後藤富郎Click!によれば『鬼子母神境内』や『弦巻川』というタイトルの作品が確認できる)が見つかったら、ぜひ紹介してみたいテーマだ。

◆写真上:大井林町2号墳(旧・伊達家屋敷)の跡に建設された大井公園に残る、同前方後円墳の倍墳のひとつかもしれない大井公園内古墳。
◆写真中上は、1909年(明治42)ごろに作成された大井町から鮫洲地域の地形図。は、同地域で発掘調査が可能だった古墳群。は、1949年(昭和24)に学習院の徳川義宣チームが発掘調査を実施した大井林町1号墳の実測図。
◆写真中下は、大井林町1号墳跡の現状(上)と、同古墳に隣接していたとみられる大井公園内古墳(下)。は、大井林町2号墳があった付近のバッケ(崖地)斜面。は、ゼームズ坂沿いの南品川横穴墓が発見された付近の住宅。
◆写真下は、1916年(大正5)に制作された高村光太郎『智恵子の首』。は、智恵子が死去した南品川ゼームズ坂病院(上)と同病院跡の現状(下)。は、病院跡に建てられた「レモン哀歌」碑に供えられているレモン。

中井英夫が開いた「薔薇の宴」。

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 下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)に住んだ小説家・中井英夫Click!は、家の周囲や庭先にさまざまな植物を育てていた。その中で、もっとも好きで数が多かったのは、多彩なバラの花々だったろう。そのバラが満開を迎える初夏、中井英夫は「薔薇の宴」と称するパーティーを毎年開いては、友人・知人たちを招待していた。もちろん、「薔薇の宴」は下落合でも開かれていただろう。
 中井英夫Click!が、市ヶ谷台町から下落合へ転居してきたのは1958年(昭和33)、ちょうど角川書店で歌誌「短歌」の編集長を引き受けていたころのことだ。それまでにも、彼は日本短歌社の歌誌「短歌研究」や「日本短歌」の編集長をつとめている。そして、1967年(昭和42)に下落合からすぐ南側の新宿区柏木(現・北新宿)、そして中野へと転居していくが、1969年(昭和44)に杉並区永福町へ移るころから、中井英夫ならでは視点でとらえた現代短歌史を構想していたようだ。
 それは、1971年(昭和46)に『黒衣の短歌史』(潮出版社)として結実するが、下落合で「短歌」の編集長をしていたころの“歌壇”の雰囲気を、たとえば次のように表現している。1988年(昭和63)に三一書房から出版された『中井英夫作品集/別巻』に収録の、『黒衣の短歌史』から引用してみよう。
  
 たとえ岸上大作がどれほど悲痛な思いで自殺したにしろ、その作品がすでにこの“臭い”に毒されている以上、次のような評判作もお世辞にも賞めることはできない。
 意思表示せまりこえなきこえを背にただ掌の中にマッチ擦るのみ
 装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている
 血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする
 すでに加藤周一が『現代短歌に関する私見』の中で、「P・Xから出てくるG・Iたちという文句は、おでん屋から出てくる書生たちという文句より少しも近代的ではない」といましめたのは昭和二十四年のことだというのに、進歩的なことを歌いさえすれば自分も進歩派の仲間入りをしたと思いこむ錯覚はまだ続いているらしい。といって私は塚本(邦雄)のエピゴーネンに徹する須永朝彦より福島泰樹『バリケード六十六年二月』をはるかに高く評価するのだが。(カッコ内引用者註)
  
 拙サイトの記事にも登場している岸上大作Click!と、下落合にも住んでいた福島泰樹Click!のふたりが登場しているが、岸上大作は1960年(昭和35)10月に『意思表示』を発表したあと、わずか2ヶ月後の12月にはすでに自裁しているので、「進歩派の仲間入り」をしたなどと自覚するヒマもなかったのではないだろうか。
 中井英夫は、常に“歌壇”に眼を向けていたが、下落合の自邸の庭へ“花壇”を造ることにも熱中していた。特に、バラの栽培には造詣が深く、毎年5月ごろになると多種多様なバラが庭先で花を咲かせていたようだ。
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 下落合4丁目2123番地の家は、西側に隣接する池添邸Click!の敷地内にあり、その周囲に拡がる広い庭もまた池添家からの借地だった。その庭に、中井英夫はバラを中心にさまざまな植物を植え、育てていたようだ。それは、1960年(昭和35)に作成された「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)の下落合エリアで、中井英夫邸が「中井」という苗字が採取されずに、「植物園」として記載されていることでも明らかだ。同地図の調査員は、あまりにも多くの花々が咲き乱れる中井邸の庭や花壇を垣間見て、個人邸ではなく植物園と勘ちがいしたのだろう。あるいは、中井英夫自身が「〇〇植物園」と書いたプレートを、冗談半分にどこかへ架けていたのかもしれない。
 中井英夫が、もっとも早くバラについて表現した詩は、わたしの知るかぎり1946年(昭和21)7月8日に創作された『凍えた花々』ではないだろうか。この詩は、彼の日記に書きとめられたもので、1983年(昭和58)に立風書房から出版された『黒鳥館戦後日記』の、「1946年7月8日」の項に掲載されている。1989年(昭和64)に三一書房から出版された、『中井英夫作品集/Ⅶ』より引用してみよう。
  
 凍えた花々
 地球のあちこちに/ともかくもばらはもえてゐた
 つぼみはつぎつぎ瞳をみひらき/相ついで香ひの産声をあげた
 地球のあちこちに/ともかくもばらは生きてゐた/ともかくも空気を吸つてゐた
 その日/地球にふたゝび氷河は流れ/いつさいの花を固く封じたそのとき
 香ひ立つばらも生きながら凍つたそのとき/花と空気は絶縁し/…………
 あの残虐な氷河時代にも/しかし花はほろびなかつた
 凍りはしながら毅然としてゐた。/…………
  
 中井英夫の下落合時代は、創作に加え多彩な活動を行なっている。有馬頼義や松本清張Click!らとともに「影の会」の世話人を引き受けたり、1961年(昭和36)に角川書店を退社するとグラフィックデザインの会社を友人と起ち上げたり、小学館の百科事典づくりにも参画している。1964年(昭和39)には、塔晶夫の名で『虚無への供物』(講談社)を出版し、同時に『青髯公の城』(未発表)も執筆している。
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 ところが、翌1967年(昭和42)になると突然、新宿にあるコンピュータ専門学校へと通いだし、百科事典とコンピュータとの連携の可能性に熱中しはじめている。当時のコンピュータ専門学校で教えられていたのは、機械語やCOBOL、FORTRANによるプログラミングだったろう。2年後に誕生するUNIXさえ、存在しなかった時代だ。
 同時期に、朝日新聞の文芸欄で埴谷雄高Click!から『虚無への供物』が高く評価され、中井英夫の作品は一躍脚光を浴びることになった。そして、1969年(昭和44)には三一書房から『中井英夫作品集』(旧版)が出版されている。この作品集の装丁を手がけたのが音楽家の武満徹で、以降、武満は「薔薇の宴」の常連になっていく。
 「薔薇の宴」に招かれたのは、どのような人々だったのだろうか? 東京帝大時代の友人には吉行淳之介がおり、戦後すぐのころから原民喜やいいだ・もも、三島由紀夫Click!、荒正人らと交流している。また、短歌関連では馬場あき子や寺山修司Click!、塚本邦雄、中城ふみ子らとは懇意であり、ほかにも渋澤龍彦なども招かれていたようだ。
 ここに、貴重な写真が残っている。中井英夫が、1988年(昭和63)に出版された『中井英夫作品集/別巻』(三一書房)のアルバムに収録する予定でいた写真類だが、どうしても見つからず行方不明になっていたものだ。それが、翌1989年(昭和64)の春になってようやく発見され、「編集のしおり」の全ページをつぶして掲載された。
 写っている「薔薇の宴」は、1981年(昭和56)5月23日に世田谷区羽根木の自邸で開かれたものだが、下落合のバラ園で行われた「薔薇の宴」もこのような雰囲気の中で開かれ、同じような顔ぶれが参集していた可能性が高い。
 同作品集のアルバムとは異なり、用紙が粗末で印刷が粗いため鮮明でないのが残念だが、写真には吉行淳之介や渋澤龍彦、松村禎三、武満徹、出口裕弘、巖谷國士らの姿が見える。その周囲には、中井英夫が丹精こめて育てたバラが満開だ。
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 『中井英夫作品集/別巻』には著者自身が選んだアルバムが掲載されているが、1960年代後半に撮影されたとみられる庭先の記念写真が1枚収録されている。時期的に見て背後に写る鬱蒼とした庭が、下落合4丁目2123番地の自邸の様子である可能性が高い。

◆写真上:1988年(昭和63)撮影の、羽根木の庭でもバラに囲まれてご満悦の中井英夫。
◆写真中上は、短歌誌の編集長時代に撮影された1958年(昭和33)ごろの記念写真。右から左へ寺山修司、前登志夫、春日井建、中井英夫、塚本邦雄。は、1964年(昭和39)に開かれた『虚無への供物』出版記念パーティーの様子。右から左へ中井英夫、渋澤龍彦、三島由紀夫、寺山修司。は、同時の撮影で右から左へ、下落合1丁目286番地(現・下落合2丁目)の権兵衛坂Click!中腹にあり『虚無への供物』では最後に「牟礼田の家」のモデルになった邸に住む十返千鶴子Click!、木々高太郎、生方たつゑ。
◆写真中下は、1965年(昭和40)すぎごろ下落合の中井邸で撮影されたとみられる記念写真。右から左へ、斎藤慎爾、左時枝、中井英夫、河野裕美子。は、下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)の中井邸跡の現状。左側の家々が草木に覆われていた中井邸の敷地で、奥に見えるのは当時のままの古い池添邸の塀。は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)に「植物園」と記載された中井邸。
◆写真下は、1964年(昭和39)に武満徹の装丁で出版された旧版の『中井英夫作品集』(三一書房/)と、1988年(昭和63)に新たに出版された『中井英夫作品集/別巻』(同/)。は、世田谷区羽根木の自邸における「薔薇の宴」。右から左へ中井英夫、吉行淳之介、武満徹。は、同時期の撮影で渋澤龍彦(右)と中井英夫。

樹木の注文書が残る学習院昭和寮。

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 現代ではめずらしくなってしまったが、戦前の住環境では家屋を建てる際に、庭や建物、敷地を取り巻く樹木を注文するのがあたりまえだった。こちらでも何度かご紹介しているが、落合地域が住宅地として拓けつつあった当時、周辺には家を建てる工務店Click!とともに大樹をあつかう植木店Click!や、花壇に植える花々の種子や球根を取りあつかう種苗店Click!があちこちで開店していた。
 現代の都市部では、住宅敷地のギリギリまで家を建てるケースが多いため、大きな樹々を植える庭や生け垣の余地が失われ、せいぜい花壇か緑の棚、鉢植えなどのガーデニングを楽しむぐらいしか余裕がなくなってしまった。特に住宅街におけるビル状のマンションや、最近増えはじめた老人施設Click!の場合は、庭や樹木スペースさえ惜しみ敷地内にあるすべての緑を伐採して、利益の最大化を当てこみ建設するケースがほとんどなので、都市部における緑地減少と温暖化が進む深刻な課題となっている。
 さて、同じようなビル状の建物でも、戦前の場合はどうだったのだろうか? 下落合でいうと、たとえば学習院Click!が下落合406番地(のち下落合1丁目406番地/現・下落合2丁目)に建設した、学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)のケースを見てみよう。近衛町Click!の南端にあたる学習院昭和寮Click!の敷地に、本館と舎監棟が各1棟、学生寮4棟が建設されるのと同時に、学習院が膨大な量の樹木を植木業者に発注した資料が残されている。宮内庁の宮内公文書館で保存されている、貴重な資料を調査してお送りくださったのは、下落合にお住まいのアーキビスト・筒井弥生様だ。
 筒井様からお送りいただいた、宮内公文書館の保存文書「内匠寮昭和三年工事録・二〇/学習院ノ部・二」の画像から、まず昭和寮が竣工する直前の1928年(昭和3)3月23日に注文された樹木類を参照してみよう。
  
 学習院青年寮新築ニ付庭苑植栽用樹木購入注文書
 椎樹(シイ) 高弐間半内外/幹廻リ八寸内外/葉張五尺  四拾本
 八ツ手(ヤツデ) 高五尺/葉張四尺/五六本立  参拾本
 八ツ手(ヤツデ) 高四尺/葉張四尺/四五本立  参拾本
 青木(アオキ) 高四尺以上/葉張三尺  四拾本
 一、前記樹木購入候ニ付根巻枝吊養生ノ上青年寮構内指定ノケ所ヘ納入ノ事
 一、期間申付ヨリ一週間ノ事
                          (カッコ内引用者註)
  
 この段階で、注文先の植木業者は昭和寮の敷地面積に対して、植木の本数がやや少ないと感じただろうか。あるいは、いろいろ事前に問い合わせをもらっていたのに、「しめて注文はこれだけ?」と多少ガッカリしたかもしれない。
 東京土地住宅Click!が売りだした近衛町の敷地(第42・43号Click!)には、武蔵野に特有の既存樹木が数多く繁っていたので、建物の周囲だけ整地したあと、それら樹木の一部を活用するのかとも考えただろうか。既存の樹木は、おもに南側のバッケ(崖地)Click!に生えている原生林が、ほぼ手つかずのまま残されていたので、植木業者がそう悲観的に考えたとすれば無理もないだろう。
学習院昭和寮第4寮.JPG
学習院昭和寮第4寮跡.JPG
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 だが、3月23日付けの注文書は、まだほんの序の口だったのだ。つづいて、5日後の3月28日に出された追加注文書には、多彩な樹木リストが記載されていた。宮内公文書館に保存されている同資料から、再び引用してみよう。
  
 学習院青年寮新築ニ付庭苑植栽用樹木購入注文書
 ヒマラヤシーダー(ヒマラヤスギ)
  高二間-三間/葉張八尺内外/幹廻リ七寸-一尺  拾本
 カウヤマキ(コウヤマキ)
  高二間半内外/葉張七尺内外/幹廻リ八寸-一尺二寸  五本
 タウヒ(トウヒ) 高二間内外/葉張六尺内外/幹廻リ六寸内外  五本
 イテフ(イチョウ) 高三間半/葉張七尺内外/幹廻リ一尺内外  五本
 カナメ 高二間内外/葉張六尺内外/幹廻リ六寸内外  拾本
 ハンテンボク(ユリノキ) 高二間半内外/葉張七尺内外/幹廻リ九寸内外 参本
 ヂンチャウゲ(ジンチョウゲ) 高三尺内外/葉張四尺内外  拾本
 仝 (ジンチョウゲ) 高二尺五寸内外/葉張三尺内外  五本
 サザンクワ(サザンカ) 高六尺内外/葉張三尺内外/幹廻リ三寸内外  五本
 ツバキ 高八尺内外/葉張四尺内外/幹廻リ四寸内外  五本
 モクセイ 高六尺内外/葉張五尺内外/幹廻リ一尺内外  参本
 シヒ(シイ) 高三間内外/葉張六尺内外/幹廻リ一尺内外  四拾本
 モチ 高二間半内外/葉張七尺内外/幹廻リ一尺内外  弐本
 八ツ手(ヤツデ) 高五尺/葉張四尺/五六本立  参拾株
 仝 (ヤツデ) 高四尺/葉張四尺/四五本立  参拾株
 青木(アオキ) 高四尺以上/葉張三尺  四拾株
 一、前記樹木購入候ニ付根巻枝吊養生ノ上青年寮構内指定ノケ所ヘ納入ノ事
 一、期間申付ヨリ拾日間ノ事
                          (カッコ内引用者註)
  
宮内公文書館資料1.JPEG 宮内公文書館資料2.JPEG
宮内公文書館資料3.JPEG 学習院昭和寮スダジイ.JPG
学習院昭和寮サクラ1.jpg
学習院昭和寮サクラ2.JPG
 さすがに、これだけの種類の樹木と本数をそろえるのはたいへんだと判断したのか、前の注文書が納期まで「一週間」としたのに対し、今回の注文書は納品リードタイムを「拾日間(10日間)」と長めに設定している。
 このリストに掲載された樹木が、戦争をへて92年後の今日までどの程度残っていたのかは、伐採されてしまったのでもはや詳しく調べようがないが、かなりの本数の樹木がそのまま保存され、手入れが繰り返されていたとみられる。
 また、筒井弥生様も指摘されるように、上記の注文リストにサクラの木が存在しない。敷地南側のテニスコート脇、バッケ(崖地)の淵に生え、毎年みごとな花を咲かせていたサクラの巨木は、学習院昭和寮が建設されるはるか以前から繁っていた原生のものだろう。花弁がピンクがかった白だったので、ヤマザクラかオオシマザクラ、あるいは老樹となったエドヒガンザクラだったものだろうか。幹の太さからすると、樹齢は百年以上がたっていたのではないだろうか。そのサクラの巨木も、マンション建設のために惜し気もなく伐り倒されてしまった。
 周辺住民のみなさんは、「目白が丘幼稚園周辺の交通安全・環境を守る会」(代表:早尾毅様)を結成して、長期にわたり緑の保存を訴えてきたが、学習院昭和寮(日立目白クラブ)から西へ500mほどのところにある下落合のタヌキの森Click!と同様、大きく育った樹木や樹齢100年を超える古木は一顧だにされず伐採されつづけている。
宮内公文書館資料4.JPEG 宮内公文書館資料5.JPEG
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 宮内公文書館に保存された同資料類には、「永久保存」という朱印があちこちに押されているが、かんじんの中身に記録された樹木類の大半は「永久保存」どころか、2019年から進むマンション建設のために、なんのためらいもなく90年余でさっさと伐り倒されている。唯一、正門や北側の塀沿いに残された樹木も、マンションへクルマが出入りする利便性を考え、道路の拡幅のために昭和寮時代からの塀を撤去し、ほとんどの樹々が伐採される計画だという。これだけ温暖化が大きな課題となり、緑地・樹林の保全が地球規模で叫ばれている中、もはや「どうかしてる」……としかいいようがない建設計画だ。

◆写真上:工事前に南側から眺めた、昭和寮のテニスコートがあった丘。右手にみえる老樹が、昭和寮の建設前から繁っていたとみられるサクラ。
◆写真中上は、学習院昭和寮の第4寮(上)と解体された現状(下)。は、昭和寮敷地の西側に接する竹藪が美しかった坂道(上)と工事中の現状(下)。は、1932年(昭和7)に航空機から撮影された学習院昭和寮の全景。
◆写真中下は、宮内公文書館に保存された資料「内匠寮昭和三年工事録・二〇/学習院ノ部・二」。(提供:筒井弥生様) 中左は、同上。中右は、昭和寮に生えるスダジイの巨木。1928年(昭和3)3月23日の注文書の「椎樹」か、3月28日の「シヒ」の1本とみられる。は、2葉ともテニスコートに繁っていたサクラの老樹。
◆写真下は、「内匠寮昭和三年工事録・二〇/学習院ノ部・二」より。(提供:筒井弥生様) は、昭和寮の本館北側の塀沿いに繁る樹木類。マンションへのクルマ出入りを容易化するため、接道の拡幅工事でほとんどすべてが伐採される予定だ。

寄宿舎制度の改革で生まれた学習院昭和寮。

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 学習院Click!は、1923年(大正12)になると寄宿舎制度の大幅な改革を行なっている。従来は、学習院の広い敷地内に建設された6棟の寮(1909年竣工)へ、全学生を収容する全寮制のシステムを導入していた。久留正道が設計した寮棟は、1部屋に4人の学生を収容でき1階が勉強室に、2階が寝室に使用されていた。
 学習院を全寮制にしたのは、学生に学習から日常生活まで、軍隊と同様の集団的規律を重視した院長・乃木希典Click!の意向だったといわれている。だが、大正期に入ると学生の家庭事情や社会環境の変化にともない、乃木式Click!の全寮制ではなく希望入寮制への要望が高まってきた。そこで、学習院は1923年(大正12)に寄宿舎制度の大幅な改革を実施し、希望する学生のみが入寮できる仕組みに変更している。
 また、入寮する生徒や学生を中等科と高等科に分け、12歳から18歳までの中等科生徒は、学習院キャンパス内にある既存の寮6棟へ、18歳から21歳までの大学進学をひかえた高等科の学生は、学外へ新たな「青年寮」を建設して入寮希望者のみを収容することにした。学習院では、下落合の近衛町Click!にあった帝室林野局の土地2,730坪(近衛町42・43号敷地Click!)を買収し、新寮建設のプロジェクトを立ち上げて、1926年(昭和元)12月に新寮建設の着工をしている。
 こうして新たに建設されたのが、学外では初となる1928年(昭和3)3月末に竣工した、下落合406番地(のち下落合1丁目406番地/現・下落合2丁目)の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)だ。施工は安藤組が行ない、設計はかつては内匠寮工務部建築課に勤務していた権藤要吉といわれていたが、今世紀に入ってからの最新研究では、同工務部の技師・森泰治の仕事だと推定(『皇室建築』/2006年)されている。
 当初は「青年寮」と呼ばれた新寮の制度は、イギリスのイートン校をモデルにしたといわれているが、入寮する学生全員には個別の部屋が与えられ、寮の運営に関する学生の自治と自立的な生活が求められた。また、同時に華族を中心とした上流階級の、社交や礼儀を学ぶことが重要視されていたという。建物のデザインは、オレンジのスペイン瓦にスタッコ仕上げの外壁、上部がアーチ状の窓に三角の屋根がついた煙突と、米国におけるスパニッシュ様式の建築の意匠を採用したものだ。
 学習院昭和寮Click!本館Click!については、これまで内部の様子Click!エピソードClick!、あるいは多種多様な物語Click!を取りあげているが、今回は宮内庁の宮内公文書館に残された「工事仕様書」、あるいは添付の設計図(青焼き)をベースに書いてみたい。おもに、日立目白クラブClick!時代になってからも出入りや写真撮影が許されなかった、南側の寮棟についてご紹介したい。貴重な資料をお送りいただいたのは、同寮に植える樹木注文書の記事でもお世話になった、アーキビストの筒井弥生様Click!だ。
 本館の南側に建っていた寮4棟は、本館と同じ地下1階と地上2階の都合3階建ての建築だが、たとえば東寄りにあった第一寮と第二寮は斜面に建設されているため、地下1階には寮室の窓がしつらえてあり、外から見ると地上3階建てに見えた。また、寮棟は同一の規格ではなく、すべて異なる設計デザインで建設されているため、第一寮から第四寮まで各寮ごとに外観が異なっていた。共通点といえば、1階および南を向いた地下1階の窓が角窓、2階が上部にアーチのついた窓、階段部分が縦長の細いアーチ窓、そして屋上の十字模様がうがたれた胸壁(パラペット)ぐらいだろうか。
宮内公文書館資料01.JPEG 宮内公文書館資料02.JPEG
学習院昭和寮(電線).JPEG
学習院昭和寮(ガス管).JPEG
学習院昭和寮(本館地下).JPEG
 筒井様からお送りいただいた、同寮の平面図(電気・ガスの引きこみ図など)を参照すると、たとえば傾斜地に建てられ地下1階が地上に露出していた第一寮には、地下に寮室が3部屋と広間、物置きなどが設けられており、また第二寮の地下1階には、寮室が3部屋に暖房・温水用の汽罐室(ボイラー室)が設置されていた。
 各寮の1階は近似しており、玄関を入ると右手に物置きがあり、さらに右奥には洗面所と便所が設置されていた。また、玄関の左手には雑用を引き受ける小使室が置かれている。フロアの中央には広間があり、その周囲には5~6室の寮室に入るドアが面していた。2階の寮室や広間も、1階とほぼ同一の造りをしていたが、2階には5~6室の寮室と広間のほか、学生たちが集える談話室や浴室が設置されていた。
 寮舎の建物は平均336坪の広さで、第一寮が14室、第二寮・三寮・四寮が各12室の計50室、つまり50人の学生たちを収容できるように設計されていた。寮生Click!の部屋は、広さが14m2ほどの洋間ワンルームで、学習室と寝室を兼ねていた。各寮室の家具調度は、病院のようにカーテンで仕切れるベッドをはじめ、物入れ、備えつけの本棚、机、レザー張りのイスなどが用意されており、学生は身のまわりの荷物だけそろえれば、すぐに入寮することができた。
 この寮室に置かれたベッドのカーテンについて、宮内公文書館の資料では布地の見本がついた注文書が保存されている。宮内公文書に保存された、「内匠寮昭和三年工事録」から当該部分を引用してみよう。
第二寮.JPG
第三寮.JPG
学習院昭和寮(本館階段).JPG
学習院昭和寮本館応接室.JPG
学習院昭和寮本館会議室.JPG
学習院昭和寮(寮棟).JPEG
学習院昭和寮(舎監棟).JPEG
  
 目白学習院青年寮各室寝台脇仕切幕新調取付註文書
 一、仕切幕 高サ曲尺六尺九寸五分/巾曲尺八尺押入竪框ヨリ窓迄 二十二個所
 一、同    〃 / 〃 九尺ヨリ九尺二寸 二十八個所
 現場熟覧見本裂参照
 右仕様
 一、竣功日限  三月末日
 一、請負  一式
 一、裂地  見本通リ藍色梨地織綿鈍子 (以下略)
  
 「二十二個所」と「二十八個所」で、全50寮室のベッドまわりが藍色の仕切幕(カーテン)で統一されていたのがわかる。また、同資料にはレザー張りイスのデザイン図面も収録されており、これも家具専門店に発注されていたのだろう。
 本館の図面に加え、本館の右手(西側)に建設された舎監棟平面図も残されている。1階の玄関を入ると、左手が応接室になっており、右手の階段下には便所と洗面所が設置されている。廊下をまっすぐ奥に進むと、左手が広い居間とテラス、突き当たりが台所となり、居間つづきで建物の南西角が老人室となっている。
 2階に上がると、書斎と寝室が2部屋(おそらく子どもがいればどちらかが子ども部屋)が設置されている。当時の舎監は、寮と同じ敷地内に一家で暮らすケースが多かったため、建物内の様子は一般の住宅と変わらない。舎監棟は、本館や寮棟と同じくRC造りで、建坪158坪の2階建てスパニッシュ様式の西洋館だ。ただし、内部の部屋は玄関のエントランスと応接室のみが洋風で、あとは日本間という構成だった。
 学習院昭和寮Click!は、食堂や社交室、図書室(読書室)、売店、談話室、浴場などを備えた本館に加え、第一寮から第四寮までゆとりのある贅沢な寮棟から構成されていた。4つの寮棟の設計をあえて同一にしなかったのは、それぞれ入寮する学生たちの自治や自立、特色など独自性を重視したものだろう。同寮は、イギリスの寄宿舎制度にならったものだが、寮棟の外観は大正後半から日本で流行していた、米国のスパニッシュ住宅の様式を取り入れ、随所にアールデコ調のデザインを採用している。
宮内公文書館資料03.JPEG 宮内公文書館資料04.JPEG
学習院昭和寮(寮室イス).JPEG
学習院昭和寮(テニスコート).JPEG
学習院昭和寮(鉄網塀).JPEG
 同資料には、第三寮のさらに西側にあった2面のテニスコートの平面図や、南側の崖地の淵に設置された長さ36mにわたる「鉄網塀」=金網柵の設計図までが収録されている。第一寮のすぐ南側までは、昭和寮を囲むコンクリート塀が設置されていたが、第二寮から西側は武蔵野の原生樹林におおわれた急傾斜のバッケ(崖地)Click!がむき出しのままであり、やんちゃな寮生が転がり落ちるのを懸念したものだろう。「鉄網塀」はすべてペンキで重ね塗りされていたようなのが、何色のペンキだったかまでは記録されていない。

◆写真上:ヒマラヤスギやスダジイ、ケヤキなどに囲まれた学習院昭和寮の第四寮。
◆写真中上は、宮内公文書館に保存された同寮工事仕様書の一部。は、上から同寮の電力線・電燈線Click!引きこみ図、ガス管引きこみ図、本館地下1階の平面図。宮内公文書館の資料類の写真は、いずれも筒井弥生様の提供による。
◆写真中下は、上から学習院昭和寮の第二寮と第三寮。は、上から同寮本館の階段と2階の応接室と会議室。は、上から同寮の平面図と舎監棟の平面図。
◆写真下は、同寮の寝台脇仕切幕(カーテン)の注文書と見本。は、同寮で使用されたレザー張りイスのデザイン。は、テニスコート平面図と鉄網塀の仕様図。北が下のテニスコート図面で、左に描かれている建物はいちばん西側に位置する第三寮だが、青焼きではテニスコートの面積が赤ペンで上下に修正されている。

織田一磨の「武蔵野風景」。(1)

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織田一麿「中野村風景」1908.jpg
 明治末から昭和初期にかけ、織田一磨Click!は落合地域とその周辺域をスケッチしながら、ずいぶんあちこちを歩きまわっている。彼は市街地(東京15区内Click!)の芝で生まれ麻布で育ったため、それらの地域(山手線の西側エリア)は「武蔵野」Click!として認識されており、ことさら「武蔵野」Click!らしい風景を求めて逍遥している。
 織田一磨の著作、1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された『武蔵野の記録―自然科学と藝術―』には、明治末から描きためられ画家の手もとに保存されていた落合地域をはじめ、周辺地域の風景画やスケッチが掲載されている。先に落合地域はご紹介Click!ずみなので、今度は近接地域の風景作品に目を向けてみよう。
 同書のカラーグラビアで、巻頭に掲載されているのは1908年(明治41)12月ごろに制作された『中野村風景』だ。織田一磨は、どんよりとした曇天の風景がことさら好みだったようで、作品の大半は曇りの日に描かれている。中央線・中野駅と青梅街道にはさまれた田園地帯を描いているが、同書のキャプションより引用してみよう。
  
 寒い日の曇り日で、写生してゐても足や手が痛くなつて、とてもゐられないので、運動をしてはまた筆を執り、暫くするとまた運動して身体が温暖になると筆を持つといふ調子に苦労を重ねてやつと三時間位で描いた。場所は中野駅から南へ今の市電の通つてゐる方角へ行つて、小高い丘の上から、西北方を写生した図で、当時中野村には駅の附近から人家は全くなく、青梅街道=市電の通=の両側に人家は並んでゐた。図中左方の森は人家のある街道筋に当る。/畑地に緑色した作物は、ムギの若芽だと思ふ。今にも雪にでもなりさうな空から、夕方近い黄色の光線がもれ出るあたりは、冬らしい感じである。
  
 おそらく画家は、中野駅南口を出て南南東へ向かう道を南下し、中野村上町ないしは天神祠(現・中野区中央5丁目)あたりから描いているとみられる。ただし、向いている方角は「西北」ではなく「西南西」ではないだろうか。青梅街道沿いに並ぶ人家が、画面左手の森に沿った向こう側だとすれば、この地域で青梅街道はほぼまっすぐに西進しているので、やや南を向かなければ同街道の並木は視界にとらえられないはずだ。
 つづいて、1942年(昭和17)に描かれた『江古田附近』という挿画がある。この江古田が、中野区江古田(えごた)Click!なのか、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の江古田(えこだ)Click!駅(練馬区)なのかは不明だが、彼は雑司ヶ谷に住んでいたころ、池袋を起点に武蔵野鉄道沿いをスケッチしてまわるのが好きだったようなので、画面は同線の江古田駅の近くではないかと思われる。このあたり、織田一磨は地名にはかなり無頓着で、風景作品につけられるタイトルは近くの駅名をかぶせる傾向が多々みられる。
 右から左へと、なだらかに下る斜面に建てられた住宅や農家をとらえているが、著者の解説がないので描画位置は不明だ。描かれた1942年(昭和17)現在、このような風景は江古田駅南側の随所で見られただろう。
中野村1897.jpg
中野氷川社.JPG
織田一麿「江古田附近」1942.jpg
武蔵大学キャンパス.JPG
 次に、同じく武蔵野鉄道の池袋駅からひとつめにあった上屋敷(あがりやしき)駅の近くを描いた、1918年(大正7)制作の『目白附近あがりやしき』がある。これも同書の挿画の1枚であり、絵についての解説はない。ここでいう「目白」とは、明らかに山手線・目白駅Click!からとられており、当時の周辺地名にいまだ「目白」は存在していない。目白駅周辺の地名が、雑司ヶ谷旭出や高田町などから「目白町」に変更されるのは、東京35区制Click!がスタートして豊島区が成立した1932年(昭和7)以降のことだ。
 大きなケヤキとみられる屋敷林が描かれた画面は、上屋敷のどのあたりかは不明だが、この時期の作品としては三岸好太郎Click!『狐塚風景』Click!や、俣野第四郎Click!による『陽春池袋付近』の情景と重なることになる。
 『武蔵野の記録』より、大正末から昭和初期の様子を引用してみよう。
  
 武蔵野は当分人々の脳裏から離れ去つて、郊外散策はギンブラに振替られてしまつた。郊外がどんなになつたのか、行つてみたいとも思はず、そんな時間があれば市街へ散策した。尤も井ノ頭とか村山とかへは、若い人は散歩したらしいが、これはハイキングではなくランデブーと称するものゝ由でドライブと似た形態であるといふ。
  
 大正期の落合地域は、周囲に住む画家や作家たちの散策先として、またハイキングを楽しむ人々が押しかけていたので、織田一磨の「市街地へ散策した」は一般的な傾向ではなく、自身の経験のことを書いているのだろう。
 下落合に目白文化村Click!近衛町Click!アビラ村(芸術村)Click!などが計画・販売されはじめると、空気や水が良質な田園地帯での「文化生活」を夢見た市街地の人々が、ハイキングがてら落合地域を散策するようになる。特に下落合の西側に接する葛ヶ谷Click!(のち西落合)地域は、東京府による風致地区に指定されていたため耕地整理や開発が進まず、武蔵野の面影を色濃く残していたエリアだった。ハイカーが落としたタバコの火の不始末から、あわや下落合の西坂・徳川邸Click!が焼けそうになった火災事件Click!も、大正期が終わったばかりのころに発生している。
江古田駅1944.jpg
江古田西洋館.JPG
織田一麿「目白附近あがりやしき」1918.jpg
上屋敷公園.JPG
 さて、織田一磨が池袋を描いた挿画も同書に収録されている。1914年(大正3)と早い時期のスケッチで、タイトルは『池袋附近』だ。この「池袋」も駅名からとったとみられ、洋風の建造物が描かれている。1914年(大正3)の当時、池袋駅周辺の洋風建築といえば豊島師範学校か、成蹊中学校・成蹊実務学校ぐらいだろうか。立教大学は、いまだキャンパス敷地が確保されているだけで未建設のままだ。
 描かれているモチーフは、洋風に建てられた施設などの門柱に見えるが、当時存在した建物の写真類を参照しても、どこを描いたのかが不明だ。池袋駅周辺で、この門柱(?)あるいはモニュメントを憶えている方がおられれば、ご教示いただきたい。
 このころの写生の様子を、同書より引用してみよう。
  
 第一次、雑司ケ谷時代は、相も変らず貧乏生活で、ほとんど極端に近い有様ではあつたが、写生に出る事はすこしもへらさずに、前述のやうな郊外へは度々行つた。新宿とか角筈、十二社、中野大宮、池袋、長崎、大塚、西ケ原、早稲田等は、写生の対象とするのに良かつたので、テクテクと行つた。(中略) 植物園の方面とか殊に、田端なんぞは、水田が多く台地の森と、寺院や民家を背景にして、写生をしたり、道灌山から千住方面を遠望して描いた。この辺も全く変り果て、近頃ではどこを写生したのか、さつぱり判然として来ない。それほど関係が薄くなつてしまつた。追憶するにしても、何か手掛りが残つてゐないと張合がぬけてしまつて、どうにもならない。それには、高田の馬場辺とか、目白とか、江戸川公園の辺なんぞは、まだ何か目標になるものが遺されてゐる。池袋や田端や、大塚附近とか、中野、高円寺となると更に困ることになる。
  
 「植物園」は、織田一磨が住んでいた雑司ヶ谷にも近い小石川植物園のことだ。
 その雑司ヶ谷鬼子母神の表参道を描いた、1919年(大正8)の挿画も掲載されている。『雑司ヶ谷鬼子母神参道』の画面は、参道の途中から北を向いて写生した構図で、右手には江戸期からつづく水茶屋の1軒が描かれている。参道には積雪があるようで、描かれた人物の姿などから同作もまた冬季のスケッチだろう。明治末に撮影された鬼子母神参道の写真と比較すると、大正期の半ばでもほとんど風景に変化のないことがわかる。
織田一麿「池袋附近」1914.jpg
池袋駅西口.JPG
織田一磨「雑司ヶ谷鬼子母神並木」1919.jpg
雑司ヶ谷鬼子母神参道(明治末).jpg
雑司ヶ谷鬼子母神参道.JPG
 織田一磨は、丘や谷間が入り組む起伏のある武蔵野風景が好きだったのか、目白崖線沿いの風景もよくモチーフに選んでは描いている。次回は目白崖線の東端、目白不動堂Click!が建立されていた江戸期の通称では目白山=椿山Click!(現・関口/目白台界隈)と、音羽の谷間をはさんだ向かい側の久世山(現・小日向2丁目)の風景作品をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:1908年(明治41)に制作された織田一磨『中野村風景』。
◆写真中上からへ、1897年(明治30)の1/10,000地形図にみる中野駅南側の『中野村風景』想定の描画位置、武蔵野の面影を残す中野氷川社、1942年(昭和17)制作の織田一磨『江古田附近』、江古田の武蔵大学キャンパスに再現された武蔵野の湧水。
◆写真中下からへ、『江古田附近』から2年後の1944年(昭和19)に撮影された江古田駅周辺、武蔵野らしい屋敷林に囲まれた江古田の西洋館、1918年(昭和大正7)制作の織田一磨『目白附近あがりやしき』、当時の面影をかろうじて残す上り屋敷公園。
◆写真下からへ、1914年(大正3)制作の織田一磨『池袋附近』、現在の池袋駅西口で左手の一帯が豊島師範学校跡、1919年(大正8)制作の織田一磨『雑司ヶ谷鬼子母神参道』、明治末に撮影された水茶屋が残る同参道、現在の参道。

織田一磨の「武蔵野風景」。(2)

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織田一磨「目白台からみた久世山」1917.jpg
 江戸期には、現在の関口の丘(関口台=椿山Click!)のことを「目白山」と呼称する本が書かれている。葛飾北斎Click!大江戸(おえど)Click!郊外を描いた『山満多山(山また山)』Click!もそのひとつだが、これは目白坂の中腹にあった新長谷寺Click!目白不動堂Click!が建立される以前から、そう呼ばれていた可能性が高い。室町末か江戸最初期に、足利から目白山へ勧請された不動尊だから「目白不動」と名づけられたのだろう。
 織田一磨Click!の作品には、1917年(大正6)に制作された『目白台からみた久世山』というのがある。(冒頭写真) ここでいう「目白台」とは、現在の地名(住所)としての目白台ではなく、通称「目白山」すなわち椿山(関口台)の中腹あたりから眺めた、音羽の谷をはさんで東向かいにある久世山(現・小日向2丁目の丘)のことだ。織田一磨は、東京帝大病院分院から江戸川橋北詰めの音羽町に出られる目白坂を下ってきて、その中腹あたりの畑地でこの風景モチーフを見つけている。
 ここでいう目白坂とは、現在のバス道路となっている目白通りつづきの新・目白坂ではなく、江戸川橋の北詰めから椿山を上り、椿山荘の横へと出られる旧・目白坂のことだ。その坂の途中にあった、新長谷寺の境内に目白不動堂が建っていた。画面の手前には、おそらく目白坂の中腹あたりなのだろう、椿山の斜面に開墾された畑地が描かれ、その向こうには江戸川橋から護国寺へと向かう道路(現・音羽通り)沿いに建ち並んだ、家々の屋根が見下ろすようにとらえられている。画面の左寄りに、満開のサクラ(開花期の遅くて長いヤマザクラか?)で丘全体がぼんやりと霞んでいるのが久世山だ。
 『目白台からみた久世山』について、織田一磨の解説を1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された『武蔵野の記録』Click!から引用してみよう。
  
 帝大病院分院から音羽町に下る坂がある。あの坂の南方は畑地と林であつた。現在は住宅で空地は無くなつたが、当時は畑地だつた。其の一角から久世山一帯を眺望すると、春は桜花が見事だつた。この図は春の曇り日で、桜も盛りだし樹々の若芽も出て、春らしい気分が流れてゐる。/水彩画としては失敗の作で、今まで公開したこともないが、風景の変遷を物語る資料としては棄てたものでもないから、写真版として紹介することにした。写実流に描くと絵として面白みが乏しくなつて、失敗が多いが、一方記録といふ方面からみる時は、写実が一番好ましいので、両立させるといふことは容易な業ではないと思ふ。これが素描の場合だとそれほど困難でもない。
  
 現在、護国寺へと向かう音羽通りに面した小日向2丁目の丘は、住宅でギッシリ埋めつくされて昔日の風情は皆無だが、こちらでもご紹介している1929年(昭和4)1月にピストル強盗事件Click!が起きたころ、堀口大学邸や浜口雄幸邸が建ってい時代の同所は、いまだ宅地開発前の久世山の面影を色濃く残していただろう。
 音羽の谷をはさんで久世山とは対向する西側の椿山は、明治期に山形有朋邸が建設され、そのあとも藤田邸の庭園から椿山荘の庭園へと推移するなかで、さすがに畑地は消滅して住宅街となったものの、昔日の“目白山”の面影をよく残している。現在の様子を織田一磨が見たら、「武蔵野」の面影が残る場所として、再びペンをにぎるだろうか。
椿山(明治中期).jpg
椿山1.JPG
椿山2.JPG
椿山3.JPG
 織田一麿のスケッチに、まったく同じタイトル『目白台からみた久世山』というペン画が残されている。1917年(大正6)ごろと同時期の作品で、こちらは手前で畑仕事をするふたりの農夫がとらえられている。その他の構図は、冒頭の水彩画『目白台からみた久世山』とほぼ同じだ。やはり春の情景なのか、久世山にはサクラとみられる白い帯状の樹木が、丘全体を取り巻くように描かれている。ということは、農夫たちが収穫しているのはなんらかの麦種であり、麦秋の情景ということになるだろうか。
 久世山並びの東の丘上(現・小日向1丁目)あたりには、モダンな住宅が建設されはじめているようで、すでに宅地開発は終わっている。このスケッチや、冒頭の『目白台からみた久世山』の1年後の、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図を参照すると、久世山はほとんど未開で手つかずのままだが、大日坂の東側にはだいぶ住宅が建ちはじめているのがわかる。同書から、久世山の様子を引用してみよう。
  
 小日向台町から江戸川の電車終点の方へ下りる道には可成広い高台の原がある。人呼んで久世山といふ。昔江戸時代に久世大和守といふ人の屋敷が在つた跡だといふが、現今は荒れて建物も何もなく高原をなしてゐるにすぎない。この久世山から南西の方角を見渡すと、牛込、早稲田から新宿の方が一望のうちに見晴らせる。頗る眺望の好い場所なので夏は夕涼みの人が沢山集まつて来る。/久世山には欅の老樹が四五本、断崖に枝をたれてゐる。この原の横に道路があつて、大日如来の御堂が建つてゐる。御堂は江戸時代からのもので、真黒にぬられた古い感じは画趣が有る。久世山からこの御堂の屋根を越して、牛込の赤城町あたりの台地を眺めた図は東京の高台風景として、決して悪くない。
  
織田一麿.jpg 織田一麿「武蔵野の記録」1944.jpg

織田一磨「目白台からみた久世山」(スケッチ)1917.jpg
目白崖線眺望19230921.jpg
目白坂.JPG
 このスケッチが、1917年(大正6)ごろに制作された『久世山の眺望』として、同書に収録されている。文中の「江戸川」とは、大洗堰Click!から下流の外濠に出る直前に架かる舩河原橋Click!までの現・神田川で、「電車終点」は当時の江戸川橋電停のことだ。「大日如来」は、大日坂の入口近くにある妙足院大日堂で、そのあたりから西へゆるやかにカーブする急坂を上ると、久世山の上には草原の拡がっていた様子が記録されている。
 『久世山の眺望』の画面には、バッケ(崖地)の下へ急に落ちこむ大日坂が手前に描かれており、ふたりの人物が座って話しているのが、久世山の草原の南端にあたる位置だ。遠景は、画家が解説しているとおり赤城町から神楽坂のある方面なのだろう。それから33年後、久世山とは反対の西側にある、目白崖線の椿山(江戸川公園の中腹)から早稲田方面を眺望して描いた作品に、1950年(昭和25)ごろ制作された吉岡憲の『江戸川暮色』Click!がある。33年の間に、早稲田方面がどのような変化をとげていたものか、織田一磨のスケッチが同書に収録されていないのが残念だ。
  
 先年、スミスといふ飛行機乗りが来た時に、久世山から空の演技を見物したこともあつた。青山や九段で花火の揚る晩なんぞは、子供連れの町の人で、時ならぬ賑ひを呈すこともある。事実、久世山から眺めやる夜の街は美くしい。赤や黄色や青く変化する仁丹の広告塔。活動写真館前のアーク塔。市電の終点から点線をなしてつらなる数多い電燈の光。それ等を背後に受けた影絵のやうな民家。細長い銭湯の煙突から静かに吐き出される白い煙。総べては平和な夜の街。
  
 織田一磨が記憶する「スミス」とは、このスケッチが描かれた前年、1916年(大正5)に来日して日本各地で興行した曲芸飛行士のアート・スミスのことだ。
織田一磨「久世山の眺望」1917.jpg
久世山大日坂.jpg
妙足院大日堂.JPG
久世山1918.jpg
 「平和な夜の街」と遠い想い出を綴る、『武蔵野の記録』(1944年)が出版された翌年、1945年(昭和20)の春、すでに宅地開発がされていた久世山を含む小日向地域の丘陵一帯は、B29の大編隊による山手空襲Click!の絨毯爆撃によりほぼ壊滅した。
                                <つづく>

◆写真上:1917年(大正6)に制作された織田一磨『目白台からみた久世山』。
◆写真中上は、明治末に撮影された久世山側から見た目白山(椿山)の北側。の3葉は、現在の椿山荘の庭園内で見られる武蔵野の面影。
◆写真中下は、織田一磨()と1944年(昭和19)出版の織田一磨『武蔵野の記録』(洸林堂書房/)。中上は、1917年(大正6)ごろにスケッチされた織田一磨『目白台からみた久世山』。中下は、1923年(大正12)9月21日に目白台から撮影された喜久井町から早稲田南町のある高台方面。は、現在の目白坂で画面左手が新長谷寺(目白不動)跡。
◆写真下は、1917年(大正6)ごろ描かれた織田一磨のスケッチ『久世山の眺望』。は、久世山の大日坂(上)とその入り口にある妙足院大日堂(下)。は、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図にみる椿山(目白山)と久世山周辺。

織田一磨の「武蔵野風景」。(3)

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神田川桜並木.JPG
 織田一麿Click!は、椿山(目白山)Click!や久世山など江戸川橋周辺が好きだったものか、明治末から大正期にかけて見られた東京近郊の「武蔵野風景」Click!として、盛んに描きとめている。この記事では、当時は東京市電の終点でもあった江戸川橋に近い、大正期の目白坂Click!下や大洗堰Click!など江戸川Click!(1966年より神田川で呼称統一)流域の風景をご紹介したい。なお織田一磨は、大正期になって江戸川周辺の「武蔵野」感は失われつつあるとしている。
 まず、1916年(大正5)に制作された『小石川関口の雪景』から観ていこう。この情景は、左手に舟着き場のある江戸川が描かれ、川沿いに建ち並んだ家々を描いている。雪景色なので、斜面の樹々も隠れる白一色の風景だったせいか背景はほとんど描かれていない。神田上水と江戸川の分岐近くに設置された大洗堰(現在の大滝橋あたり)の少し下流だが、同作について書いた織田一磨『武蔵野の記録』(洸林堂書房/1944年)所収のキャプションを引用してみよう。
  
 小石川関口の大瀧下流の風景だ。こゝには水車の精米工場があつて、大瀧の水を利用してゐたが、現在はどうしたか知らない。(中略) この図も東京風景の材料である。然しこれは選外としたもので、素描としては面白いが版画に直しても、版画としては面白くないと考へたのだ。甚だ尤もに考へで、これは正に版画には向かない。/版画の下図は精密に写生したものは向かないので、荒く心覚位のものが最もよいのだ。
  
 大洗堰のすぐ下流にあった精米工場の水車は、明治末に伊藤晴雨が『関口水車』として描いている。左手の川面に描かれている舟着き場が、江戸川に拓かれた水運の終点だ。ここから上流は大八車による陸運が主体で、外濠の神田川をさかのぼってきた物資は飯田橋の揚場町で降ろされ、より小さな舟で江戸川のここ終点まで運ばれている。さらに上流へは、江戸期からつづく大洗堰があって舟では通行できなかった。また、江戸川の青物市場に集められた落合や上高田、練馬などの近郊野菜類は、ここから舟に載せられて神田などの市場へと運ばれた。
 織田一磨は、おそらく家々が川筋ぎりぎりまで建っていた江戸川の右岸、つまり南側の川沿いの小道から下流を向いて描いたものだろう。
織田一磨「小石川関口の雪景」1916.jpg
小石川関口付近.JPG
伊藤晴雨「関口水車」(明治末).jpg
神田上水大洗堰1935.jpg
大洗堰跡.JPG
 つづいて、1917年(大正6)に描かれた織田一麿の『目白坂下』を見てみよう。この目白坂Click!は、今日のバスが通う新・目白坂ではなく、江戸川橋から椿山(目白山)の山頂へと斜めに上る、目白不動Click!が建立されていた旧・目白坂のことだ。同作のキャプションから、さっそく引用してみよう。
  
 これも絶好の記録画である。小石川の目白坂下には江戸時代さながらの倉作りの民家があつた。それに深い下水の溝渠が在つた。この溝は地下に埋められてゐるが、この溝のある風景は江戸時代の俤である。/東京風景版画集にも目白坂下は一枚加へてあるが、図はこの図とは反対の方面で、江戸川亭といふものが無く溝は地上に露出させてあつた昔の東京は、これが為に随所に小河岸的風景を現出して、街に趣味が多かつた。
  
 織田一麿は「下水の溝渠」と書いているが、この流れは弦巻川(金川)Click!が江戸川(現・神田川)へと注ぐ一筋のことで下水ではない。現在は暗渠化され、目白坂下のその上を首都高の5号池袋線が走っている。
 画面は、江戸川への合流地点も近い弦巻川の一筋沿いに通う小道から南を向いて、目白坂へと上る位置に架けられた小橋を描いている。橋を右手(西側)へ渡れば、椿山へと上る急坂がつづき、坂の途中からは目白不動がある新長谷寺の伽藍や樹林が望めただろう。もちろん、大正初期のころは坂道が舗装されておらず、雨が降ると坂の上り下りはたいへんだったにちがいない。
 つづいて、1917年(大正6)にスケッチされた織田一磨『江戸川石切橋附近』を見てみよう。江戸川の護岸工事がスタートする直前に描かれたもので、この工事により江戸川沿いのサクラ並木やヤナギが、すべて伐採されることになる。江戸期からつづいていた、舟に乗ってサクラを愛でる「江戸川の花見」は消滅するが、その後、江戸川橋から上流の旧・神田上水沿いにサクラ並木がが植えられ、現在は江戸川橋から駒塚橋、面影橋などをへて、下落合も近い高戸橋までが花見の名所となっている。
 同作に関する織田一磨のキャプションを、引用してみよう、
  
 江戸川の護岸工事が始まるといふので、其前に廃滅の誌趣とでもいふのか、荒廃、爛熟の境地を写生に遺したいと思つて、可成精密な素描を作つた。/崩潰しやうとする石垣に、雑草が茂り合つた趣き、民家の柳が水面にたれ下つた調子、すべて旧文化の崩れやうとする姿に似て、最も心に感じ易い美観。これを写生するのが目的でこの素描は出来る限りの骨を折つたものだ。(中略) 記録といふ目的が相当に豊富だつたために、素描のもつ自由、奔放といふ点が失はれてゐる。芸術としては、牛込見附の方に素晴らしい味覚がある。/記録としては此図なぞ絶好のもので、それ以上にはなれないし、それなら写真でもいゝといふことになつてしまふ。
  
織田一磨「目白坂下」1917.jpg
目白坂下付近.jpg
織田一磨「江戸川石切橋附近」1917.jpg
古川橋から石切橋.JPG
 画面は、石切橋を下流から描いたもので、昼すぎの強い陽光が右手(南側)から射している。当時の石切橋は、江戸川橋から数えて下流へ3つめの橋だったが、現在は華水橋ができたために4つめの橋となっている。
 大正前期の江戸川沿いには、江戸友禅Click!江戸小紋Click!の染め工房が集中しており、川向こうには洗い張りの干し場がいくつか見えている。これらの工房は、江戸川の護岸工事がスタートすると立ち退きを迫られ、さらに上流の早稲田や落合地域へと移転してくることになる。現在の石切橋界隈はコンクリートで覆われ、大曲(おおまがり)をへて舩河原橋のある外濠の出口までは、両岸をオフィスビルや高速道路に覆われているが、織田一磨が同作を写生した当時は、江戸有数だったサクラの名所の名残りや風情が、いまだに色濃く残っていたのだろう。
 最後のスケッチは、その石切橋を上流から眺めた画面だ。上記の『江戸川石切橋附近』とは逆に、上流から下流を向いて描かれている。1917年(大正6)に描かれた『江戸川河岸』というタイトルで、おそらく前作と同時期のスケッチだろう。ここにも、左手(北岸)に洗い張りの干し場が描かれ、いままさに作業をはじめようとする職人がかがみこんで、大きな樽から染め布をとり出そうとしている様子が見える。
 同作について、織田一磨のキャプションを再び引いてみよう。
  
 江戸川に香る廃滅する誌趣を写さんと志したものだ。川の左岸にあるのは洗ひ張りやさんの仕事場で、伸子に張られた呉服物が何枚か干してある。/石垣の端には柳が枝をたれて、河の水は今よりも清く、量も多く流れてゐる。すべて眺め尽きることのない河岸風景の一枚である。当時は護岸工事も出来てゐないし、橋梁もまだ旧態を存してゐた。/この下流へ行けば大曲までは桜の並木があつて、春は燈火をつけ、土手には青草が茂つてゐて、摘草もできたものだ。現在は桜は枯死し土手はコンクリートに代つて、殺風景ととふか、近代化といふか、とにかく破壊した風景を観せられる。都会の人は、よくも貴重な、自己周辺の美を惜し気もなく放棄するものだと思はせる。
  
 石切橋から約650mほどで、大曲と呼ばれる江戸川の大きな屈曲部分にさしかかり、そのまま江戸川(現・神田川)の流れは一気に千代田城Click!の外濠へと流入することになる。
織田一磨「江戸川河岸」1917.jpg
江戸川橋1935.jpg
江戸川橋から華水橋.JPG
江戸川橋1918.jpg
 織田一磨は、明治期に写生した「武蔵野」らしい風景が展開する江戸川橋周辺を、大正期に再び訪れてスケッチを繰り返しているわけだが、作品が掲載された『武蔵野の記録』は1944年(昭和19)に出版されている。敗戦も間近なこの時期、神田川沿いには防火帯36号江戸川線Click!による建物疎開Click!が実施され、画趣も風情もなにもない、赤土がむき出しの惨憺たる風景になり果てていただろう。同書の紙質もまた、1冊の本にもかかわらず粗末で多種多様な用紙が使われており、物資不足がきわめて深刻な時代だった。
                                 <了>

◆写真上:旧・神田上水沿いのサクラ並木で、対岸に見えているのは関口芭蕉庵Click!
◆写真中上からへ、1916年(大正5)に描かれた織田一磨『小石川関口の雪景』、小石川の関口付近の現状、明治末に伊藤晴雨が精米工場の大水車を描いた『関口水車』、1935年(昭和10)に撮影された神田上水と江戸川の分岐点に江戸期から設置されつづけた大洗堰、大洗堰があった新しい大滝橋あたりの現状。
◆写真中下からへ、1917年(大正6)制作の織田一磨『目白坂下』、手前に弦巻川の一筋が流れていた目白坂下の現状、同年制作の織田一磨『江戸川石切橋附近』、古河橋から石切橋を眺めた現状で正面左岸に見える凸版印刷本社ビルの先が大曲。
◆写真下からへ、1917年(大正6)制作の織田一磨『江戸川河岸』、1935年(昭和10)に撮影された江戸川橋、江戸川橋から下流の華水橋を眺めた現状、1918年(大正7)の1/10,000地形図に描画場所を記入したもの。

片多徳郎の下落合時代1929~1933年。

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片多徳郎「秋果図」1929.jpg
 下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)のアトリエで暮らしていた片多徳郎Click!は、アルコール依存症が悪化していたとはいえ、多彩な作品群を描いている。片多が駒込妙義坂下町から、下落合へ転居してきたのは1929年(昭和4)のことだ。それから自殺する前年、1933年(昭和8)までの4年間を下落合ですごし、北隣りの長崎東町1丁目1377番地(旧・長崎町1377番地)へ転居してまもなく、翌1934年(昭和9)4月に名古屋にある寺の境内で自裁している。
 下落合時代の作品を概観すると、従来と同様に風景画や肖像画、静物画と幅広いモチーフをタブローに仕上げており、特に制作意欲の衰えは感じられない。むしろ、多彩な表現に挑戦しつづけている様子がうかがわれ、画面からは積極的な意志さえ感じとれるほどだ。中には、明らかに注文で描いた『木下博士像』(1929年)のような、いわゆる“売り絵”の作品も見られるが、裏返せば美術界では相変わらず注文が舞いこむほどの人気画家だった様子がうかがえる。
 片多徳郎Click!アトリエの前から、道をそのまま西へ50mほど進んだ斜向かい、下落合623番地には曾宮一念アトリエClick!が建っていた。帝展鑑査員であり、第一美術協会の創立会員である片多徳郎と、二科の曾宮一念Click!とでは画会も表現も、活動シーンもかなり異なっていたが、ふたりは気があったらしく気軽に親しく交流している。1938年(昭和13)に座右宝刊行会から出版された曾宮一念『いはの群れ』Click!から、転居してきた片多徳郎について書きとめた文章があるので、引用してみよう。
  
 片多氏は私の入学の翌年美術学校を卒業されたからその頃はたゞ顔を見かけたといふに過ぎない、蒼白い小柄な飾気の無い学生であつた。(中略) 或る雑誌に「酔中自像」といふひどく恐ろしい顔をしたのが載つてゐたことがある。それが私をコワガラせてゐたものらしい。片多氏も小心者といふ点ではこの私にも劣らぬことを後に知つた。その頃片多氏は赤十字病院から退院後で柚子や百合根の小品をかきはじめてゐた、私もその年病後久しぶりで花の画をかきはじめてゐたのを片多氏は見に来てくれ、そしてほめてくれた。
  
 曾宮一念は、1930年(昭和5)に散歩の途中で「片多徳郎」の表札を見つけ、怖るおそる訪ねている。前年の帝展に出品された、片多の『秋果図』が気になっていたので思いきって訪問したものだ。このときから、ふたりの交流がはじまっている。
 先日、pinkichさんからお贈りいただいた片多徳郎の稀少な画集、1935年(昭和10)に古今堂から出版された岡田三郎助/大隅為三・編『片多徳郎傑作画集』には、下落合時代の4年間に描かれたと想定できる作品画像が20点ほど掲載されている。曾宮が惹かれた『秋果図』(1929年)はカラー版で収録されており、下落合へ転居早々に描かれたとみられるカキとザクロの果実がモチーフとなっている。
 同画集の中で目を惹くのは、下落合の名産だった「落合柿」Click!をはじめ、いまでも落合地域で老木をよく見かけるザクロやユズなど果実類、郊外野菜など洗い場Click!で現れる蔬菜類Click!をモチーフにした静物画、当時の「東京拾二題」Click!などの名所に挙げられ西坂・徳川邸Click!静観園Click!でも有名だったボタンの花Click!を描いた画面、そして、やはり付近の武蔵野の風情を写しとったとみられる風景画だろうか。片多徳郎は『秋果図』がよほど気に入っていたものか、同じくザクロとその枝をモチーフにした『秋果一枝』(1932年)も、下落合時代に仕上げている。
片多徳郎「ゆづと柿」1929.jpg
落合柿干し柿づくり.JPG
片多徳郎「牡丹」1930.jpg
 当時の片多徳郎の様子を、曾宮一念の同書より引用してみよう。
  
 「秋果図」の前三四年は見てゐないが此の静物画は地味円熟の技巧の下に今迄よりも一層内面的な気持の盛上げをするやうになつた第一の作品ではあるまいか、片多氏の画はゑのぐを何回も重ね、潤ひのある層が画面の特徴である。此の「秋果図」では幾回かの甚だ計画的に薄く塗られて寸分のすきも無く金と朱と紅と焼土の線とが画面を緊張させてゐた。氏自身も会心の作であつたらしい。/元気でゐたかと思ふと又入院してゐる、実は病院内での適宜な束縛が却つて制作を生んでゐたさうである。一時は全く酒を絶つてゐたが又いつか飲み出してゐた、「あまり飲むなよ」といへばさびしい顔をして弱音をはかれるには更に何も言へなかつた。
  
 片多徳郎は、曾宮が訪ねるとたいがい酒を飲みながら制作していたようで、このあたりは1936年(昭和11)に片多徳郎が住んでいたアトリエの向かい、下落合2丁目604番地(現・下落合4丁目)に転居してくる帝展の牧野虎雄Click!とそっくりだ。牧野虎雄もまた、曾宮が訪ねるとしじゅう酒を飲みながらキャンバスに向かっていた。
 『片多徳郎傑作画集』には、下落合時代に描いたとみられる風景画に1929年(昭和4)制作の『秋林半晴』と、1931年(昭和6)制作の『若葉片丘』が掲載されている。いずれも武蔵野の丘陵や、そこに繁る樹木を描いたものだが、昭和初期の下落合でこのような風景モチーフを見つけるには、下落合の西部、あるいは葛ヶ谷(現・西落合)の方面まで歩かなければ発見できなかったろう。下落合Click!の東部(現・下落合)や中部(現・中落合)には、すでに多くの住宅が建ち並んでおり、これらの作品画面に描かれたような、住宅が1軒も見えない樹木や草原が拡がる風景は、当時の地図類からもまた空中写真からも、落合地域の西部にかろうじて残されていた風景だからだ。
片多徳郎傑作画集1935.jpg 片多徳郎「醉中自画像」1928.jpg
片多徳郎「秋林半晴」1929.jpg
片多徳郎「若葉片丘」1931.jpg
 下落合時代の作品には、さまざまな表現や技巧を試みた痕跡が見られる。いわゆる帝展派が描きそうな、アカデミックでかっちりとまとまった無難な静物画(売り絵か?)から、まるで1930年協会Click!のフォーヴィスムに影響された画家たちのような荒々しく暴れるタッチの画面まで、多彩な表現の試行錯誤が繰り返されていたとみられる。
 1933年(昭和8)の初夏、下落合から北隣りの長崎東町へと転居してまもなく、片多徳郎は下落合の曾宮一念をわざわざ訪ね、アトリエへ遊びにくるよう誘っている。そのときの様子を、曾宮一念の同書から再び引用してみよう。
  
 この年の初夏長崎町に画室を借り中出三也氏をモデルとして五十号位をかいてゐた時垣根ごしに良いご機嫌で誘つてくれたので一しよに見に行つた。私の見た時は半成とのことであつたが私には立派に完成して見えた、明るい銀灰色の地に中出氏の顔が赤く體(セビロ服)が鼠と赭と黒の線で恰も針金をコンガラカシた如く交錯してゐた、いつもの肖像や旧作婦女舞踊図を考へて此の中出氏像を見たら驚く程の変り方であつた、(中略) 此の古典派の先輩は暫く写実的完成にのみ没頭していたが此の頃になつてより、本質的な絵画の欲望が強く起きそれにフオウブの理解に歩を入れて来たものと思はれる。/然し此の秋は期待にそむいて此の画は出品されなかつた。帝展といふものの氏の立場が躊躇させてしまつたかと思はれるがもしあれを発表しても決して年寄の冷水とは世間は言はずに十分よき成長として迎へたらうと信ずる。
  
 ここに書かれている中出三也Click!をモデルにした肖像画とは、北九州市立美術館に収蔵されている『N(中出氏)の肖像』(1934年)のことだ。中出三也は、このサイトでも甲斐仁代Click!の連れ合いとしてたびたび登場しているが、この時期は上高田422番地のアトリエClick!にふたりで暮らしていたはずだ。同じような筆運びは、下落合時代の裸婦を描いた『無衣仰臥』(1930年)でも垣間見られる。下落合で試みた、多種多様な表現への挑戦が長崎東町へ転居してから実ったかたちだが、同作が展覧会へ出品されることはなかった。
片多徳郎「秋果一枝」1932.jpg
片多徳郎「白牡丹」1933.jpg
片多徳郎「無衣仰臥」1930.jpg
片多徳郎「N氏像」1934.jpg
 『N(中出氏)の肖像』について、曾宮一念は1933年(昭和8)の初夏に観たときが、もっとも「頂点」の表現であり、翌年まで手を入れたのちの画面は耀きや面影が失われてしまったようだと書いている。そして、「かくの如き純粋派的希望と説明的完成との二方面は長い間氏の芸術的煩悶であつたらしい」と結んでいる。曾宮には修正したあとの画面が、「説明的」で旧来の絵画的な「完成」をめざしすぎたものと映っていたようだ。

◆写真上:下落合で見なれた巣実を描く、1929年(昭和4)制作の片多徳郎『秋果図』。
◆写真中上は、1929年(昭和4)制作の片多徳郎『ゆづと柿』。は、いまでもつづく「落合柿」の干し柿づくり。は、1930年(昭和5)制作の同『牡丹』。
◆写真中下上左は、1935年(昭和10)に古今堂から出版された『片多徳郎傑作画集』の表紙。上右は、曾宮一念が怖がった1928年(昭和3)に描かれた片多徳郎『酔中自画像』。は、下落合時代の1929年(昭和4)に制作された風景画で同『秋林半晴』。は、同じく下落合時代の1931年(昭和6)に制作された同『若葉片丘』。
◆写真下は、1932年(昭和7)制作の片多徳郎『秋果一枝』。中上は、1933年(昭和8)に描かれた同『白牡丹』。中下は、1930年(昭和5)に制作された同『無衣仰臥』。両作は既存の画面に比べ、質的にかなり異なる表現をしている。は、画集に収録されていない1933~34年(昭和8~9)にかけて長崎東町のアトリエで制作された同『N(中出氏)の肖像』。まるで、別の画家が描いたような画面表現になっている。

下落合に住んだころの淡谷のり子。

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目白橋欄干.JPG
 最近、検索で過去の記事がなかなか見つからないというお声をいただいた。このブログのサイドカラムには、SSブログ(旧So-net)が設置した検索窓が提供されているけれど、キーワードの複合検索ができないし推論エンジンも搭載されていない単純でオバカなテキスト検索なので、ほとんど検索の役に立たない。過去の記事を検索する場合は、Googleの検索エンジンがもっとも優れていると感じる。(確かYahoo!も自社開発をあきらめ、Googleの検索エンジンを採用していたかと思う)
 Googleの検索窓にまず「落合道人」「落合学」と入力し、つづけてたとえば「淡谷のり子」とか「田口省吾」、「東洋音楽学校」「下落合」「長崎町」「目白」など思いついた登場人物やキーワードを入力すると、お探しの記事がピンポイントでひっかかってくると思う。わたしも使っていないが、このSSブログの検索エンジンは20年以上前の仕様で、記事で使用した特徴的なキーワードをよほど絞りこんで記憶してない限り、過去記事の検索にはまったくなんの役にも立たない。
 さて、大正末から昭和初期にかけて住んでいた、淡谷のり子Click!の上落合および下落合の住所が、相変わらず不明のままだ。このようなことを繰り返し書いていれば、そのうち「淡谷のり子なら家の裏に住んでたって、お祖母ちゃんがいってたわ」とか、「うちの隣りに淡谷のり子の家族が住んでて、東洋音楽学校に通ってたんだって」とかの情報がもたらされるのではないかと、淡い期待を抱いているのだけれど、古い話なのでもはや証言者もいなくなってしまったのだろうか。
 淡谷のり子Click!が、落合地域に住んでいたころの出来事を書いた自伝が、1957年(昭和32)に出版されている。春陽堂書店から出版された淡谷のり子『酒・うた・男』がそれだが、ちょうど田口省吾Click!の専属モデルをつとめていたころの自身の想いがつづられている。吉武輝子が1989年(昭和64)に出版した『ブルースの女王 淡谷のり子』(文藝春秋)の中で、「毎日、のり子は昼食抜きですごしていたのである。家賃が払えず、住居も恵比須(ママ:恵比寿)、上落合、下落合と転々としていた」と書いていた時代だ。関東大震災Click!の直前の住まいが恵比寿で、震災直後から昭和初期まで上落合と下落合に住んでいたとみられる。吉武輝子が落合地域の住所を書きとめていないのは、当時の手紙や記録類が5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で全焼してしまい、淡谷自身もすでに明確な記憶がなかったからだとみられる。
 淡谷のり子『酒・うち・女』から、落合時代と思われる生活の様子を引用してみよう。ちなみに、「サメハダ」や「牛」とはモデル仲間だった女性たちのあだ名だ。
  
 だが、研究室で、私と同じように貧乏な画描き達が、一生懸命にモデルにむかって画を描いている時は、それでも楽しくなれた。大勢の人達にとりまかれて、モデル台に立っていれば、サメハダはサメハダなりに、牛は牛なりに、一個のオブジェとして、一つの芸術的な雰囲気をかもし出す。/この湯島の研究所の近くにあった須田町食堂に、貧乏な画描きと貧乏なモデル達とで、仲よく連れ立って、ご飯を食べに行った。/ホワイト・ライスに、タクアン二切れ、福神漬をつけたのを、皆おいしそうに食べていた。たまには、一皿十五銭のカキフライを誰かが、ご馳走して、その一皿を四、五人でつつき合う。ホワイト・ライスはただの五銭だった。その五銭のホワイト・ライスにただのソースをかけて食べている画描きがいた。
  
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淡谷のり子「酒・うた・男」1957.jpg 淡谷のり子「酒・うた・男」内扉1957.jpg
 淡谷のり子は、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の久保田稲子教授に学びながら、宮崎モデル紹介所Click!を通じて絵画モデルをはじめたころの情景だ。
 上野駅前の須田町食堂Click!(現・聚楽)が登場しているが、同店にはほんの数年前まで本郷区菊坂町75番地に住んでいた宮沢賢治Click!が通ってきていたはずだ。また、「湯島の研究所」とは本郷区湯島4丁目20番地に沼沢忠雄が建てた「湯島自由画室」改め、のちに淡谷のり子がモデルになった前田寛治Click!も通ってきていた「洋画自由研究所」Click!のことではないだろうか。
 長崎町1832番地(現・目白5丁目)にアトリエをかまえていた、田口省吾邸を初めて訪れたときの様子も書いている。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 私は、その門構えの家へ行った。門の中にさるすべりの花が咲いていた。二科の会員であった田口省吾の家だった。/会って見ると、これまでにもちょいちょい、研究所にも来たことのある人だった。/「君の、その着物いいね」/私は白と黒の、単純な立て縞の着物を着ていた。実は売りつくして、それ一枚より残していなかったのだ。それが私に一番気に入った着物だったので、私はほめられて嬉しかった。/田口先生は、コンテを動かしてスケッチをとりながら、私にいろいろ話しかけた。/「明日も来てくれるね」/私は「ええ」といってしまった。いってしまってから、実は困ったなと思った。明日は大切なレッスンのある日なのだ。/モデルをやり出してから、私は仕事の都合で、ちょいちょい学校を休んだ。久保田先生はそれを気にして、なるべく休まないようにしなさいと注意したが、私の貧乏を知っていたので、深くもいわなかった。/私はそのあくる日も、学校を休んで、田口先生のところへ行った。
  
 こうして、淡谷のり子はモデル代と東洋音楽学校の学費を出してもらう条件で、田口省吾の専属モデルになる。そのあたりの経緯は、すでに記事でご紹介したとおりだ。おそらく、震災後にモデルをはじめたころから田口省吾の専属モデルを辞めるころまで、彼女は母と失明の怖れがあった眼病を患う妹を抱えながら、上落合と下落合のどこかで暮らしていたと思われる。
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 淡谷のり子は、もともと少女時代には文学をめざしていただけあって、文章表現がとてもうまい。同書には、古い時代の横浜風景を描写した一文が掲載されているが、1960年代の横浜にも、このような雰囲気がいまだに色濃く残っていた。この文章を読むと、子どものころに見た横浜が瞬時によみがえり、生きいきとした情景が浮かんでくるのは彼女の筆致のうまさだろう。
  
 横浜という街は、ムロン外国ではないが、それとて純粋に日本の街とも思えない気分が漂っている。いろいろな国の人人が歩いているし、ショーウインドーをのぞいても、日本の持つ色や形とは違った品物が、並んでいる。野菜や果物やお菓子でも、花屋の店先の草花でも、何か異国めいた好みが感じられる。/そうかといって、敗戦後、にわかに方方に出来たペンキ塗りの、アメリカスタイルの、基地の町町に見るような、ケバケバしさや、俗っぽさではない。軒先の低い店が古めかしく並んでいるのも、褲子(クンツ)をはいたシナの(中国というには似つかわしくない)女の人の、立ち話をしている後姿も、しっとりと街の生活にしみ込んでいる。この街には異国の人への反撥がない。古い歴史が人人の身体の中に素直にとけこんで、メリケン町の、南京町の伝統が、おだやかに育って来た情趣がある。子供の頃、西洋人の絵のついた、ツヤツヤした紙の箱の蓋を、そっとあけてかいだ舶来の香が、この街の生活のいぶきに、たてこめている。
  
 「♪窓を開ければ港が見える~ メリケン波止場の灯が見える~」(作詞:服部良一『別れのブルース』)と、淡谷のり子の歌声がすぐにも聴こえてきそうだ。
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 横浜から、淡谷のり子が感じたような情趣が急速に薄れていったのは、1980年代のころだと感じている。昔の横浜らしい風情が次々と壊されては消えていき、東京の“妹”のような街になってしまった。いまや日本最大の政令都市となった横浜は、東京とたいして変わりばえのしない街づくりを進めている。界隈のあちこちに店開きしていた、横浜ならではのJAZZ喫茶Click!やライブスポットもいまやほとんど姿を消して、よほど特徴的な街角にでも立たない限り、まるで東京の街中を散歩しているような気分になる。

◆写真上:音楽学校へ通うため、淡谷のり子が何度も渡ったとみられる目白橋の旧欄干。
◆写真中上は、落合地域に住んでいたころにもっとも近いポートレートで、1929年(昭和4)撮影()と1930年(昭和5)ごろ撮影()の淡谷のり子。は、1957年(昭和32)に出版された淡谷のり子『酒・うた・男』(春陽堂)の表紙()と中扉()で、装丁を担当しているのは佐伯祐三Click!の友人のひとり佐野繁次郎Click!
◆写真中下:コロムビア時代の、昭和10年代に撮影された淡谷のり子のブロマイド。
◆写真下は、『別れのブルース』がヒットした1936年(昭和11)ごろ撮影()と1960年(昭和35)ごろ撮影()の淡谷のり子。は、1960年(昭和35)にコロムビアから再発された『別れのブルース』ジャケット(部分)。は、『別れのブルース』の舞台となった大桟橋のある「メリケン波止場」界隈だが桜木町の海側はいまや別の街に変貌している。大晦日のライブ帰り、よく年越しのボー(汽笛)を聞いていた山下公園が右手前に見える。

「本村」の字名について考える。

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 下落合には「本村(もとむら/ほんむら)」と呼ばれる字名が、昭和初期まで存在していた。大正後期には、ほとんどのエリアには地番がふられ、「落合町下落合000番地」という住所や表記が定着してくるが、それ以前は「豊多摩郡落合村(大字)下落合(字)本村000番地」というような表記が一般的だった。
 明治期から大正初期までの概念では、下落合の字名「本村」は現在の聖母坂Click!下のエリア、東は下落合氷川明神社Click!のあたりから、西は西坂・徳川邸Click!あたりまでの目白崖線下に拡がる、なだらかな斜面一帯ということになる。ここで、「西坂」という名称も、「本村」の西側にある坂だから早くからそう呼称されていたのではないか?……という課題も浮上してくる。字名「本村」は、東側を字名「丸山」Click!(江戸期)や「宮元」(大正期)と接し、西側は字名「不動谷」Click!に隣接している。
 この「本村」という字名は、郵便制度の配送業務に必要な住所表記に取りこまれると、大正の中期以降には本来エリアの北側へ、つまり従来は集落がなかった目白崖線の丘上まで大きく拡大していく。同様に、東側の「丸山」も北側の丘上を含め、西側の「不動谷」も西北側の丘上まで広範な拡がりを見せていく。
 では、東京の各地に見られる(関東各地でも見られるが)「本村」の意味するところとは、いったいなんなのだろうか? 「本村」は、その文字通りの一般的な解釈=意味合いに従うならば、「本(元)の村」すなわち地域の集落が発祥した場所ということになる。では、なにに対しての相対的な「本村」なのだろうか? 下落合は、江戸期には下落合村という行政区分だったのだが、同じ落合地域でも江戸期に隣接する上落合村と葛ヶ谷村には、「本村」という字名は存在していない。
 1916年(大正5)に豊多摩郡役所から出版された『豊多摩郡誌』Click!をベースに、落合地域の周辺域を少し広めに見まわしてみると、たとえば角筈村や柏木村には「本村」の字名が存在している。雑色村には「本村前」があるが、隣接する中野村には存在しない。江古田村には「東本村」と「本村」があるが、隣接する新井村には存在しない。下沼袋村には「本村」はあるが、上沼袋村には存在しない。下鷺宮村に「本村」が存在するが、上鷺宮村にはない……というように、「本村」という字名がある村とない村とが、江戸期より混在していたことが分かる。
 「本村(もとむら/ほんむら)」が、その村の発祥地をしめす字名だと仮定すれば、各村にはそれぞれ同様の発祥地としての字名「本村」が存在しないと、説明がつかずおかしなことになる。「本村」という字名が記録されるのは、おもに江戸期の寺院に保存された過去帳や、地誌本、図絵(地図)類なのだが、それらを参照しても、「本村」の字名はバラバラに存在しており規則性が見いだせない。
 たとえば、上落合村と下落合村を例にとると、もともと「落合村」だったのがのちに「上」と「下」に分かれたため、下落合村のほうに発祥地としての「本村」が残ったという解釈が、結果論的な説明としては成立する。だが、落合地域の北西部に葛ヶ谷村という村が成立しているのに、なぜその発祥地(集落の中核地)に「本村」という字名がつけられなかったのか?……という疑問が残る。これは、周囲の村々にも同様のことがいえ、江古田村に「本村」があるのに隣りの新井村にはなぜ存在しないのか、雑色村に「本村」があるのに中野村にはなぜないのか?……という矛盾が生じてくるのだ。
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 寺院の過去帳をたんねんに洗いだして、「本村」の由来について探った資料がある。落合地域の西側にあたる沼袋地域に建立された、実相院が出版した矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)から、少し長いが引用してみよう。
  
 明治時代の本村地区はほぼ現在の沼袋四丁目の西半分に当たります。ここがいつ頃から本村と呼ばれるようになったのかを禅定寺、清谷寺の過去帳で調べてみますと、清谷寺の檀家の方で天保四年(一八三三)に本村の権八という人の娘さんが亡くなった記録が初見です。しかしこの字名で居住地域を表示する言い方はあまり一般的ではなく、これらの地区で亡くなられた方々の大半は内出居住者であると記録されています。(中略) 実相院の過去帳にはこの本村という字名で亡くなられた方の記録は一件もないのですが、文化七年(一八一〇)から文政十一年(一八二八)に書かれた新編武蔵風土記稿には実相院は下沼袋村字本村にありと記録されております。本村とは村の発祥の地を表す地名ですが、これが沼袋が上、下の村に別れる以前のことを指しているのか、分かれた後にそれぞれに上沼袋村あるいは下沼袋村の本村として呼ばれるようになったのか不明です。
  
 ここで重要な事実は、「内出(うちいで/うちで)」という呼称だろう。このままの呼び方だと、なんの「内」から「出」た人物なのかが不明だが、(村発祥の地であるのは既知のことなので)「本村」内の出身者たちはあえて「本村」出とはいわず、その内側の出身者なので「内出」と呼びならわしてきたのではないか。
 換言すれば、江戸期の下沼袋村において「(本村の)内出」と呼ばれることに、発祥地で生まれた村民のプライドのようなものがあったのではないか?……と想定することもできる。ちょうど、京都における「洛中」と「洛外」Click!のような感覚が、当時の下沼袋村民にはあったのかもしれない。
 さて、落合地域やその周辺域の村々で、江戸期以前からとみられる「本村」の字名が残る地域を概観すると、ある共通性を見いだすことができる。共通点は3つほどあるが、そのもっとも多いのが「鎌倉道」沿いに、あるいは非常に近接したエリアに「本村」が存在することだ。『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』より、再び引用してみよう。
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 先の東内出に対して、江戸期の中内出の家々の西側には西内出と称される地域が広がっていたと考えられます。東内出や中内出には実相院や伊藤、矢島の人々の家があることから此処に、スペース的に清谷寺の堂宇があったとは考えにくいので、同寺の故地はこの西内出に求められると思います。(中略) 恐らくこの道が上下沼袋村を境する道路と考えられます。只、この西側地域に居住する鈴木家(明治十二年の氷川神社社殿建築寄進者名簿時代の当主は鈴木鉄五郎で、この家のことは前にも取り上げたことのあるお稲荷鎌さん脇の古い鎌倉道に面してあった)の小字を禅定院過去帳には江戸時代既に本村としています。
  
 共通性のひとつめが「鎌倉道(鎌倉街道)」だとすれば、ふたつめは鎌倉時代に起きたとみられるなんらかのエピソード(伝承)が語り継がれていること。3つめは、鎌倉時代の遺構ないしは遺物が「本村」の直近から発見されていることだ。残念ながら、同書の下沼袋についてのケースでは、あくまでも寺院の過去帳をベースとした“文献史学”なので、地域の民俗学(伝承)あるいは歴史学を前提とする発掘調査の成果物(遺跡・遺物)までは書きとめられていない。
 では、下落合村について検証してみると、平安期から和田氏Click!の館があったと伝えられる和田山Click!(現・哲学堂公園Click!)からつづく、鎌倉道(のち雑司ヶ谷道/現・新井薬師道)Click!の1筋が、下落合の「本村」内を貫通している。そして、「本村」の東端に近いとみられる位置には源頼朝Click!奥州戦Click!の際に、その鎌倉道から目白崖線のバッケ(崖地)Click!を掘削し、南北を貫く坂道が切り拓かれたという伝承が語り継がれる切り通し、すなわち七曲坂Click!が存在する。さらに、その坂下からは1307年(徳治2)の記銘が入った、鎌倉時代の板碑Click!(薬王院収蔵)が出土している。
 これらの事実を総合すると、「本村」という字名自体は江戸期に誕生したとしても、村の発祥地としての伝承は、それ以前から連綿と集落内で語り継がれてきており、おもに鎌倉期前後から存在してきた村々の古くからの中核エリアについては、「本村」という呼称が広まっていたのではないか……と想定することができる。つまり、江戸期以前からの鎌倉街道沿い、あるいはかなり古い謂れや伝説の残る集落、さらには近世以降の調査で鎌倉期などの集落遺跡や遺構・遺物が発見されているエリアに、「本村」という字名が重なっているのではないかと規定することができそうだ。
 このような前提で、落合地域の周辺に残る「本村」という字名を改めてとらえなおすと、どのような風景が見えてくるのか、たいへん興味深い課題だ。
下沼袋本村1910年代.jpg
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 下落合の「本村」は、東側に字名「丸山」が隣接していると書いたが、下沼袋村の「本村」ケースでは北側に「丸山」Click!が隣接している。この古墳地名である「丸山」と、古くからの集落地である「本村」との関係も、とても気になり惹かれるテーマなのだ。

◆写真上:聖母坂の南部一帯が、明治期に規定されていた下落合の「本村」エリア。
◆写真中上は、頼朝伝説が付随し鎌倉期の板碑が出土した「本村」の東側に通う七曲坂。は、「本村」の西側に通う西坂。は、寒ザクラが満開の下落合氷川明神社。
◆写真中下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる下落合「本村」界隈。は、1929年(昭和4)の落合町市街図にみる同所。「本村」や「丸山」が住所表記となり、北へ張りだしているのがわかる。は、下落合の「本村」を貫く鎌倉道。
◆写真下は、大正初期の下沼袋村「本村」と周辺を描いたイラストマップ。(『実装院と沼袋、野方、豊玉の歴史』より) は、1910年代の1/10,000地形図にみる下沼袋の「本村」。は、下沼袋「本村」の東南に位置する沼袋氷川明神社。

人身事故によく遭遇する中井英夫。

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 中井英夫Click!の世代と、わたしの世代とではイメージや感覚が正反対Click!なものに、もうひとつ大学の「学長」と「総長」という用語というか肩書きがあった。わたしは、「学長」というと教授会から選出された大学の代表役員で、あまり権威主義的かつ厳めしいアカデミックな雰囲気は感じず、教育業務と学校の運営業務のかけもちで忙しくてたいへんだ……ぐらいしか感じないのだが、中井英夫Click!は「学長というのは白髪でも蓄え、巨きな革椅子にそっくり返っているものだと思い込んでいた」と書いている。
 中井英夫Click!は、彼の入学した東京大学の「総長」を例にとり、なぜ「学長」ではないのかと疑問を呈しつつも、アカデミックで近寄りがたいと感じていたようだ。下落合2丁目702番地(現・中落合2丁目)に住んでいた東大総長の南原繁Click!について、彼はこんなことを書いている。1981年(昭和56)に立風書房から出版された中井英夫『LA BATTEE』所収の、「肩書き」から引用してみよう。
  
 この確信はおそらく東大の南原繁総長(なぜ氏が学長という名を嫌って、最後まで総長の肩書にこだわっておられたのか興味深い。新聞も仕方なしに他の大学は学長、南原さんだけ総長と使いわけていたようだが/後略)の風貌とか、父が植物の主任教授だったことからくる偏見であって、何やらいかめしい・近寄りがたい・アカデミックな雰囲気をよしとしてきた時代に育ったための固定観念であろう。
  
 中井英夫は、うっかり事実関係の確認をおこたっているのか、南原繁が「学長」という呼称をことさら嫌い、特別に「総長」という肩書きにこだわっていたのは興味深い……などと書いているが、東京(帝国)大学の代表者の肩書は、1886年(明治19)からずっと「総長」のままで、「学長」というショルダーが使われたことは一度もない。1886年(明治19)以前は「綜理(総理)」と呼ばれていたものが、同年を境に「総長」に変更され現在にいたっている。
 東大で1960年代末に全共闘運動が盛んだった子どものころ、TVの報道番組からよく「加藤一郎学長代行が記者団の質問に答え……」というようなアナウンスが聞こえていたのを憶えているが、正確には「加藤一郎総長代行」が正しいのだろう。事実、加藤教授は東大紛争のあと「総長」に就任している。
 また、このエッセイ「肩書き」の直後、中井は早稲田大学も「総長」だったことに気づきビックリしている。同書に収録された、「語り草」から引用してみよう。
  
 ところでこれも先週に南原繁総長の総長意識について記したが、早稲田大学の入試問題漏洩事件が起きると、各紙一斉に清水司総長と記しているのにびっくりした。いつからまたこんなヤクザの親分じみた通称がまかり通るようになったものか、それともナンバラ精神が正しく甦ってマスコミもようやくそれに倣うに到ったのか私には理解のつかぬことだが、少なくともこんな名称は古き良き南原時代の語り草に留めるべきではないだろうか。
  
 こちらも、中井英夫は事実関係をまったく“ウラ取り”をせずに書いたものか、早稲田大学の代表者も1882年(明治15)の初代総長・大隈重信Click!から現在まで、ずっと変わらずに「総長」のままだ。早大の代表者に付けられていたショルダーに倣い、4年後にちゃっかり拝借して使用しているのは東大のほうだろう。中井英夫は、小説家としては面白い作品を創作するが、事実関係がからむエッセイはイマイチの出来だ。
 ただし、「総長」というネームから受ける印象は、世代を超えてわたしも中井英夫と同じ感覚だ。現代から見ると、「総長」はヤクザ組織の連合会代表か、ゾクの頭(あたま)だった俳優・宇梶剛士の顔が、ぼんやりと浮かんでくるではないか。w まだ「学長」のほうが、少しは品位や学術的な雰囲気があるように感じるのだが……。
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 1981年(昭和56)に出版されたエッセイ集『LA BATTEE』だが、書かれている内容は戦後すぐのころから現在(1981年)にいたるまでと、時空をあちこち自在に飛びまわりテーマも多種多様なものにおよんでいる。当然、下落合で暮らしていた時代の話も含まれているわけだが、その中には中井英夫が電車に乗ると、よく人身事故に遭遇して巻きこまれてしまう経験が記録されている。
 わたしも、このところ人身事故による地上線や地下鉄の遅れはしょっちゅう経験しているが、中井英夫の場合は自身の乗っている電車自体が、何度か人身事故を起こしてしまうまれなケースだ。西武新宿線に乗車していた際、下落合駅の近くでも経験している。この事故は、自邸のあった下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)から中井駅で電車に乗り、新宿方面へ向かうときに起きたものか、あるいは帰宅するために乗車し中井駅へ向かっていたときに起きたものかは不明だが、そのときの様子を『LA BATTEE』所収の「死の合唱隊(コロス)」から引用してみよう。
  
 十年前「かつてアルカディアに」という小説に記した飛込み自殺は、やはり電車に乗っていて西武線の下落合近くで体験したことで、このときは現実に自分の足の下に屍体があるなまなましさに堪えられず、また思わず見てしまった三月の青空の下の生首の凄愴な美しさも忘れられない。/「足がない、足がないじゃないの」/「見ないほうがいい、あんた見なさるな」/などといって騒いでいた老婆たちも、また確かにひとときの合唱隊(コロス)の役を受け持っていたのであろう。誰かの小説にあったように、こういう他人の死に面倒見のいい一隊はふしぎに存在するので、もしかすると私もそろそろその口になりかけているのかも知れない。
  
 この人身事故が、飛びこみClick!による自殺だったのか、それとも遮断機が下りていた踏み切りを無理やり渡ろうとして起きた事故なのかはハッキリしないが、何年か前に下落合の踏み切りを渡ろうとして渡り切れず、西武線の車両にはねられて死亡した老人の事故はよく憶えている。この事故が起きる少し前、わたし自身が買い物カートを引いた老婆を、遮断機が下りて電車が接近している踏み切りから引っぱりだした経験があるからだ。
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 その老婆は、警報機が鳴ってから踏み切りに侵入したのだが、アッという間に両側の遮断機が下りてしまった。若い子なら、サッと足早に渡り終えるなんでもない距離だが、老婆は自身のクツのサイズぐらいの歩幅で、重そうな買い物カートを引いてトボトボ歩いていた。下落合駅の方角から警笛が聞こえ、つまり急行電車がスピードを落とさず接近しているのに、老婆はまだ2本目の線路上にいたのだ。ヤバイと思い、遮断機をくぐって引っぱりだしたが、上りの急行電車の“顔”がすでに下落合駅をすぎ100m先のカーブを曲がって見えていた。わたしも怖かったが、その老婆はもっと怖かっただろう。
 さて、中井英夫は京王線へ乗り入れる都営地下鉄新宿線でも、飛びこみの人身事故に遭遇している。同書収録の「死の合唱隊(コロス)」より、再び引用してみよう。
  
 出来て間もない新宿線に乗るだけを楽しみに帰りかけたときだった。初台駅に着いてドアがあくと同時に、ホームのそこここに固まった女学生の群れから、時ならぬ悲鳴が一斉にあがった。(中略) 車輌とホームの隙間を覗くと、黒っぽいレインコートの端が見えた。警官が灯りを差しつけ駅員が走り廻る。ドアはそのまま閉まらず、制服の背を向けた彼女らは顔を隠すようにして、なおも二度三度と悲鳴をあげるので降りて訊くと、いまこの電車に男の人が飛びこんだという。飛びこんだのは老人で、白線より前に立って待ちかまえていたという。電車が動かされることになり、彼女らはまた背を向けたが、下に潜りこんでいた駅員のはたらきで、走り去ったあとも屍体はホームの下に隠され、線路に血だまりも見えない。先ほどの悲鳴も恐怖のあまり立てたとは思えぬたぐいだったが、もしかするとその合唱のほか何も起らなかったかのように惨事のひとときは過ぎた。
  
 このほかにも、中井英夫は街中でさまざまな人物たちの「死」に遭遇しているが、こういうめぐり合わせの人は確かにいるようだ。自身ではまったく望まないのに、人の最期にいき合わせてしまう偶然性。独特な厭世観やニヒリズムをベースに、常に「死」と隣り合わせのような幻想世界を描く、中井英夫ならではの偶然性ならぬ必然性なのだろうか。
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 下落合での飛びこみ自殺Click!はあまり聞かないが、世の中の高齢化とともに、老人の踏み切り事故はこれから増えそうな気がする。「複線の踏み切りぐらい、警報機が鳴ってからでもすぐに渡りきれる」と、わたしもあと何年自信をもっていいきれるだろうか。

◆写真上:下落合の踏み切りにある古いコンクリート柵と、「間に合わない」の警告板。
◆写真中上は、下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)の中井英夫邸跡。(タマゴの黄味色の洋館の向こう側一帯) は、下落合へ転居する少し前の1956年(昭和31)に撮影された市谷台町時代の中井英夫。膝上で逆さに伸びきったネコもおかしいが、右手に見える同軸2WAYの大きめなスピーカーを備えた機器は高級ラジオだろうか? は、中井英夫も目にしていた六ノ坂沿いに長くつづく池添邸の西塀。
◆写真中下は、ちょうど中井英夫が住んでいた1963年(昭和38)に撮影された空中写真にみる中井邸。は、西武新宿線の急行電車が警笛を鳴らしながら通過する下落合駅の下りホーム。は、カーブする西側の線路から眺めた下落合駅。
◆写真下は、1949年(昭和24)撮影の増水する玉川上水で太宰治Click!の遺体発見現場に立つ中井英夫。中井英夫は戦後、太宰治のもとを頻繁に訪れていた。は、中井駅踏み切り側から見た中井駅と、西側の線路から見た電車が到着する中井駅ホーム。

千川上水に惹かれる外山卯三郎。

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 下落合1146番地に住んでいた外山卯三郎Click!が、なぜ自邸から300m余しか離れていないところを流れている旧・神田上水Click!(1966年より神田川)ではなく、旧・千川上水に興味を抱いたのかは不明だ。
 井荻駅の近く、井荻町下井草1100番地(のち杉並区神戸町114番地)に自邸を建設Click!したころ、近くを流れる旧・千川上水を散策して惹かれたものか、または大正末から1930年協会の仲間Click!藤川勇造Click!藤川栄子Click!夫妻らとともに、下落合からハイキングClick!へ出かけたときの楽しい想い出があるのか、あるいは西落合から下落合Click!(現・中落合/中井含む)の西端を流れる、旧・千川上水から分岐した落合分水Click!に親しんでいたのかは不明だが、1964年(昭和39)1月20日に竹田助雄Click!が発行した「落合新聞」Click!へ、『千川上水物語』と題するエッセイを寄稿している。
 ちなみに、外山卯三郎の井荻時代Click!には、井荻駅の北側を通る街道(現・千川通り)に並行して、旧・千川上水が流れていた。神戸町114番地の外山邸から、1本西に通う南北道(現・環八通り)へ出て、そのまま北へ向かうと井荻駅のすぐ西側にある踏み切りへさしかかる。それを、さらに北へ住吉町をまっすぐ歩くと、550mほどで街道沿いの旧・千川上水にぶつかる。右へ曲がれば、すぐに八成橋のある地点だ。
 外山邸から10分ほどでたどり着けるので、彼は一二三夫人Click!や子どもたちを連れて頻繁に散歩していたのかもしれない。また、千川上水沿いにはサクラ並木が植えられていた箇所が多く、花見に出かけるのが楽しみだったものだろうか。
 「落合新聞」の記事には、当時の下落合3丁目1393番地(現・中落合3丁目)に住んでいた飯塚巳之助という方が、戦後すぐに撮影した千川上水の写真3枚が添えられている。その写真類のキャプションを、竹田助雄が担当している。
 外山卯三郎の文章は、たとえば里見勝蔵Click!を評して「即ちゴヴゴリイであり、ドストエフスキーであり、又ストリンドベルヒ」でなければならず、すなわち「あざみの花」Click!だ……というように、ちょっと読者(第三者)が理解に苦しむ例示の連関や、自己完結型の比喩を用いた表現で書かれることが多い。「落合新聞」のエッセイ冒頭でも、「ギリシアの昔に水道あり、それがアラビア人によって設計された……」と、なぜ千川上水を語るのにギリシャ時代から説き起こさなければならないのか、わたしは相変わらず目を白黒させながら彼の文章を読むことになる。
 ヨーロッパ水道史の概説は除き、主題である千川上水の部分を引用してみよう。
  
 十六世紀末に江戸に造られた上水道などは、その意味で近世の水道史上に特筆すべき大きな工事だといえるのです。この当時水道をもっていた都市はロンドンとリュテシア(昔のパリ)ですが、いずれも小規模なもので、とても江戸の上水道のような大規模のものではなかったのです。こんなすばらしい江戸の上水道の遺跡も、今日ではだれも顧る人もなく忘れ去られ、わたくしたち落合住人たちの身近を流れていた千川上水でさえも、その姿を消そうとしているのです。/千川上水は玉川上水を上保谷で分水したもので、(写真上)石神井、練馬、鷺宮、江古田、椎名、千早を経て滝野川に流れていたものです。
  
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 ここでようやく、外山卯三郎が暗渠化される旧・千川上水の風情を惜しみ、戦後急速に進む新たな都市計画へ忸怩たる思いを抱いていたのがわかる。
 文中では、江戸市街地の水道網が小規模なロンドンやパリのそれを上まわっていたと書かれているが、小石川上水から神田上水が掘削された江戸初期ならともかく、千川上水が拓かれたあとにはヨーロッパにおける疫病流行の効果的な対策として、たとえばロンドンの市街地では水道網が完備されていたはずだ。江戸後期には、ロンドンをしのぐ150万都市となる、大江戸(おえど)Click!の市街地に引かれた上水道システムClick!は、確かに世界最大規模だったとみられる。
 外山卯三郎は、千川上水が「落合住人たちの身近を流れていた」と書いているが、落合地域で身近に感じられる河川は、もちろん町内を流れる旧・神田上水(1966年より神田川)と、その支流である妙正寺川のほうだろう。千川上水から南へ分岐した落合分水は、旧・葛ヶ谷地域(現・西落合)にお住まいだった方々、あるいは旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)の西寄り地域にお住まいだった方々には、暗渠化されるまで身近に感じられたのかもしれないが、下落合(中落合/中井含む)と上落合にお住まいのほとんどの方々は、おそらく旧・千川上水よりもときには暴れて洪水を起こす、目の前を流れる旧・神田上水や妙正寺川のほうがはるかに身近に感じていただろう。
 このあと、徳川幕府による千川上水の工事史、あるいは明治以降に同用水を活用した紡績業や製糸業の発達史の概説“講義”がつづくが、この部分は戦前から膨大な書籍や専門書が、今日まで数多く出版されているので省略させていただき、外山卯三郎自身の感慨や主張が書かれている部分を、再び『千川上水物語』から引用してみよう。
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 戦後、あちらも、こちらも戦災のために荒廃してしまいましたが、千川上水一帯の桜並木は、老木となって枯れたものは別として、落合や長崎、練馬の方面の人たちは一つのオアシスのように親しまれていたのです。それが戦後の区画整理や都市計画のために、ゆかりのある姿も消失してしまっているのです。それでも石神井の近くまでゆきますと、まだ千川上水の昔のおもかげをしのぶ桜並木(写真左上)が、静かな風情をとどめているようです。豊玉あたりでは、拡張された道路の真中に、この誇りたかい千川上水の桜の木が、傷だらけのはだに、真白な砂ほこりをかむって気息えんえんとしているのです。
  
 この文章から56年後の今日、流れがかろうじて残る旧・千川上水沿いには緑地道や遊歩道が設置され、流れの大部分は暗渠化されてしまったものの、千川通りには随所でみごとなサクラ並木が復活している。ただし、外山卯三郎が願っていた風情は、旧・千川上水の流れに沿ってつづくサクラ並木の光景だったのだろう。それは、おそらく井荻時代に家族たちとともに歩いた、思い出深い花見の情景だったのかもしれない。
 外山卯三郎が惜しんだ、戦後の再開発で消えてゆく上水沿いのサクラ並木は、下落合の自邸からは遠い旧・千川上水ではなく、すぐ近くの旧・神田上水(神田川)で「復活」している。もっとも、このサクラ並木は旧・江戸川Click!(大洗堰Click!から千代田城の外濠手前の舩河原橋Click!までの川筋)沿いに植えられ、江戸期からうなぎClick!と花見の名所となっていた風景を、さらに上流の旧・神田上水沿いで再現したものだ。
 江戸川橋から、面影橋Click!の西側にある高戸橋まで、約2kmほどつづく旧・神田上水沿いの光景を眺めたら、おそらく外山卯三郎は花見の時期には家族を連れて散策したくなっただろう。井荻の自邸には、当時の住宅としてはたいへんめずらしいテラスに面してプールがあったほどだから、水浴びや泳ぐのが好きだった彼は、さっそく小学生たちに混じって、きれいになった神田川Click!で泳いでいたのかもしれない。
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 ちなみに、毎年夏休みの時期になると神高橋Click!の下で、水着になった大勢の小学生たちが神田川で泳いで(水遊びClick!をして)いるが、学校の夏季行事の一環なのだろうか。それとも、新宿区が主宰する神田川水遊びイベントに参加した子どもたちなのだろうか。

◆写真上:旧・千川上水を描いた、1957年(昭和32)制作の春日部たすく『千川落日』。
◆写真中上は、「落合新聞」1964年(昭和39)1月20日号の外山卯三郎『千川上水物語』。中上は、旧・玉川上水(右)と旧・千川上水(左)の分水嶺。中下は、練馬区と杉並区の境界を流れる旧・千川上水。は、練馬駅付近を流れる旧・千川上水。いずれも「落合新聞」掲載の写真で、1950年(昭和25)ごろ撮影されたもの。
◆写真中下は、1935年(昭和10)ごろ撮影されたサクラ並木の千川上水。写っている人物は、東環乗合自動車Click!(旧・ダット乗合自動車Click!)のドライバーとバスガール。(提供:小川薫様Click!) 中上は、1950年(昭和25)に豊島区内で撮影された千川上水。中下は、1955年(昭和30)ごろ撮影された西落合1丁目を流れる落合分水。は、同じく下落合(現・中井2丁目)の妙正寺川にそそぐ暗渠化された落合分水の合流口。
◆写真下は、1941年(昭和16)に撮影された空中写真にみる杉並区神戸町114番地の外山卯三郎邸と旧・千川上水の位置関係。は、2葉とも旧・神田上水沿いにつづくサクラ並木。は、夏休みには水遊びで賑わう神田川。(写真は神高橋下)

家庭環境にとても恵まれた亀高文子。

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 明治末から大正期にかけ、「芸術家」をめざそうとすると、さまざまな障害や抵抗を覚悟しなければならなかった。「芸術」という仕事自体の社会的評価が、それほど高くなかったせいもあるが、なによりも家族や親戚一同から執拗に反対され、無理やり進路を諦めさせられたケースも多かっただろう。
 特に画家や小説家には、そのような事例が多々見られた。「男子たるもの、軟弱な絵描きになんぞなってどうするのだ」とか、「売文業など、得体のしれないヤクザのやる仕事だ」とか、「ちゃんとした定職に就いたら、趣味でおやりなさい」とか、ひどいケースになると「そんな、いい加減な人間に育てたおぼえはない。出ていけ!」と親から勘当された例さえあった。芸術家は「定職」とはみなされず、いかがわしい仕事で身すぎ世すぎをしている人間の代表のように見られがちな時代だった。
 そのような社会背景や家庭環境では、男子でさえたいへんな芸術家への道が、女子ではそれに輪をかけて困難だったことは想像に難くない。よほど理解のある家庭か、知的で視野の広い両親や、応援してくれる身内や親戚がいるのならともかく、ふつうの家庭では女子が芸術の道をめざすのは、まず絶望的な状況だった。
 洋画家をめざした長沼智恵子Click!は、東京へやってくる口実として目白にある日本女子大学の家政学部へ入学したが、同大学では美術教師をしていた松井昇に絵を習い、しばらくすると松井の推薦で谷中真島町1番地の太平洋画会研究所へと通いはじめている。福島県の実家では、てっきり家政学を熱心に勉強しているものとばかり思っていたのだろうが、長沼智恵子は「主婦」になるつもりなどさらさらなかった。つまり、女性が画家をめざすには、親をだましてでも習いつづける以外に方法がなかったのだ。
 太平洋画会研究所で、長沼智恵子の同窓だった渡辺ふみClick!(のち亀高文子Click!)は、智恵子とはまったく異なる、正反対の家庭環境から洋画家をめざすようになった。子どものころから、日本画家である父・渡辺豊州が仕事をするのを傍らで眺めて育ち、暇さえあれば絵を描いていたようだ。彼女が女子美術学校Click!へ通いたいといいだすと、父親は諸手を上げて賛成し娘を送りだしている。渡辺ふみの実家は横浜にあり、もともとハイカラで昔からの規範や枠組み、慣習などが希薄な家庭環境だったせいもあるのだろう。
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 少女時代の様子を、1922年(大正11)に大日本雄弁会講談社から発行された「婦人倶楽部」3月号の、亀高文子『苦しみよりも楽しみ』から引用してみよう。
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 他の友達が外へ出て毬をついたり、鬼事をして笑ひ興じて遊んで居る時、私は独り自分の室で古い日本画をひき写したり、何かしら好きな絵を描いたりして遊んで居ることに限りなき楽しさと幸福とを覚えました。小学校から女学校へ通ふやうになつても、私の絵に対する興味は益々濃厚になつてゆくばかりでした。懐かしくも思ひ出多い女学校を卒業いたしました時、私は何の迷ひもなく、其の時出来たばかりの女子美術学校へ入学することになりました。父はいふ迄もなく喜んで賛成して呉れましたので、私の希望は何の故障もなく達せられたのでした。之は生れながらの趣味が同じ道を歩む理解ある父の好意によりて順調に私のゆくべき道へ志すことが出来たのでございます。
  
 渡辺ふみの家庭ケースは、当時としては例外中の例外だろう。一家は、娘が本郷の女子美術学校や谷中の太平洋画会研究所へ通いやすくするため、横浜から東京の谷中清水町(現・谷中1丁目)へわざわざ転居している。
 渡辺ふみは、女子美術学校で熱心に勉強するが、子どものころから絵を描きなれていたせいか通常よりは早く技術は上達したものの、今日のように展覧会やコンペティションなどが存在しないので、絵を創作するというモチベーションを保ちつづけることが難しかったようだ。彼女は、女子美術学校に5年間も学んだにもかかわらず、「僅かに写生を覚えた位のもの」だったと、後年になって総括している。
 女子美を卒業してからは、谷中の初音町15番地(現・谷中5丁目)にあった満谷国四郎Click!のアトリエに通って弟子になり洋画を習いつづけたが、満谷から創立して間もない太平洋画会研究所を紹介されて通うようになり、そこで長沼智恵子と出会っている。
 そこでも家族、特に父親の強いバックアップがあったようだ。上掲のエッセイ『苦しみよりも楽しみ』から、再び引用してみよう。
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 私の画に対して非常な興味と理解とをもつて呉れる父は私の画が一枚一枚と描かれて行くのを何よりの楽しみとして居ました。それ故私は成るべく父を喜ばせ度いと思つて努力しましたが、時には幾分か父の悦びを買はうとして父の好きそうな画を描くやうなことさへありました。けれ共、父が本当によく私の画を見て呉れるといふ事が何程私の励みとなつたか分りません。/美術学校に居りました頃は静物とか、花とか、風景とかいつたものゝうちの或るものに特殊な興味を持つて居りませんでしたが、それがいつ頃よりか人間といふものに強い興味を感ずるやうになり、散歩の途中や、外出中にモデルのよいのに逢ふと描きたくて堪らないやうな気がいたしました。
  
 このあと、同じ洋画家の宮崎與平(実質、渡辺家へ婿入りのかたちなので渡辺與平Click!)との結婚や、よき理解者だった父親の死、出産、そしてわずか24歳の夫・渡辺與平の死と、洋画の道とは逆に実生活では波乱に満ちた生活を送ることになった。
 ところが、この苦難の生活や子育てが、かえって人間を深く見つめる契機になったようだ。若いころは、なにも理解せずに描いていた写生や、想像で描いていた表面的な絵へ、ほんとうの「人間味」が加わってきたと、どこまでも前向きに生きようとする渡辺ふみの性格が見える。そして、「自分の描かうとした或るものが、多少でも描き出された時の嬉しさは何にたとへん方もございませぬ」と文章を結んでいる。
 だが、女性の画家が子どもを抱えながら生きていくには、大正初期は厳しすぎる環境だった。文展で連続入選をつづけながらも、生活は決して楽にはならなかったらしい。1918年(大正7)になると、東洋汽船が運営する定期航路の船長だった亀高五市と再婚し、画名を亀高文子と名のるようになった。5年後、関東大震災Click!による被害と、夫の転勤にともなって神戸へ転居し、以降、活躍の舞台を関西へと移すことになった。
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 再婚した亀高五市も、妻の仕事には理解があって、彼女は自邸のアトリエに画塾「赤艸社女子絵画研究所」を創設して多くの生徒たちを集めている。いまでも関西地方では、女性への洋画普及のさきがけとして、亀高文子は語られることが多いようだ。
 最後に余談だが、娘の画家志望に賛成しためずらしいケースとして、下落合1385番地に住んだ甲斐仁代Click!の父親がいる。お話をうかがった、甲斐仁代のご姻戚・甲斐文男様によれば、彼女を一貫して応援しつづけたようだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:渡辺ふみは本郷弓町(現・本郷1丁目)の女子美術学校で学んだが、卒業した直後に同校は本郷菊坂町(現・本郷5丁目)の本妙寺坂沿いに移転している。写真は、本妙寺坂に建っていた女子美跡(右手の茶色いマンション)の現状。
◆写真中上は、制作年不詳の亀高文子『芙蓉』。は、本郷菊坂町の女子美術学校校舎。は、1935年(昭和10)の「火保図」にみる女子美術学校の様子。
◆写真中下は、渡辺ふみのポートレート()と、渡辺與平と結婚後に生まれた子どもたちとの記念写真()。は、1929年(昭和4)に制作された亀高文子『読書』。
◆写真下:いずれも神戸時代の写真。は、1935年(昭和10)に自邸のアトリエで制作する亀高文子。は、赤艸社女子絵画研究所が開設された亀高文子アトリエ。は、赤艸社での研究会の様子で中央のイーゼルが亀高文子。背後の壁には『読書』が見える。

洞穴にひそむ落武者たちの伝説。

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 先年、旧・野方地域の沼袋から江古田の界隈をめぐり、古墳の痕跡をたどって散策した様子を記事Click!に書いたことがある。具体的には、中野沼袋氷川社からから北へ本村Click!(もとむら/ほんむら)、丸山の地域を経由して、江古田(えごた)氷川社へと抜けていくコースだった。その際、各エリアには「〇〇塚」と名づけられてきた、古塚が点在することもご紹介している。
 以前にご紹介した古塚は、中野区歴史民俗資料館の北側にある「経塚」と、江古田氷川社の西側にある「古塚」(稲荷塚/狐塚)のみだったが、野方地域を見まわすとそれどころではなく、数多くの「〇〇塚」が存在していたのが判明した。少し挙げてみると、江原屋敷森緑地の近くにあった「金井塚」、和田山Click!の近くにあった「四ツ塚」、沼袋氷川社の南に近接していた「古塚」、丸山地域の西側に点在していた「金塚」「蛇塚」「大塚」などだ。この中で、落合地域(西落合)にかかる「四ツ塚」と西落合に近接していた「金井塚」が興味を惹く。
 これらの古塚は、実際に発掘が行われたのか、それとも調査されずに破壊されたのかは不明だが、地元では室町期の足利氏Click!同士の対立や豊島氏Click!太田氏Click!がらみの戦闘で出た、戦死者を埋葬したものという伝承があるようだ。つまり、中世に由来する墳墓(合葬墓)ということになる。ところが、このような伝承の塚を実際に発掘調査してみると、はるかに古い古墳時代の遺構が出土する例が少なくない。また、確かに新しく埋葬された痕跡もあるが、その下からより上代の古墳が発見される例も多い。つまり、そこがもともと死者を弔う“屍家”=古墳Click!の地域伝承が当初からあり、のちの時代に重ねて死者を埋葬してしまった(ときに後世の付会をかぶせてしまった)事例だ。
 下落合でいえば、中世まで存在したと思われる下落合摺鉢山古墳(仮)Click!の北東部の急斜面へ、新たに下落合横穴古墳群Click!を築造してしまうようなケースだろうか。また、前方後円墳Click!柴崎古墳(将門首塚古墳)Click!へ、後世になって平安期のエピソードを付会するのも同じようなケースだ。古墳の羨道や玄室が発見されると、江戸期にはさっそくキツネの住居Click!にされ、稲荷社Click!が建立されたり多彩なエピソードが付会されるのも同様だろう。都内各地に残る「狐塚古墳」Click!は、江戸期のもっともらしい付会を疑い、科学的な発掘調査ののちに命名された象徴的な古墳名だ。
 沼袋から江古田地域にかけても、中世に落武者が「穴」あるいは「洞穴」を掘って住んだり、樹木の根元を掘ると「神仏」が出現したりする伝承が残されている。これらの「洞穴」は、もともと存在していた穴を拡張して造成された可能性があるように思われるのだ。それは、「洞穴」があちこちで見つかった高田八幡社Click!が、通称で「穴八幡」Click!と呼ばれるようになり、その洞穴から「神仏」が出土したり、あるいは洞穴を工作して神仏を奉っていたのにも近似している。
 時代は室町期、沼袋地域の東にある新井地域に伝わる物語として、将軍・足利義教と関東管領・足利持氏が対立して合戦になったころ(永享の乱/1438年)のエピソードだ。持氏の家臣・矢田義泉が、負け戦で多摩郡善祥寺(禅定院とみられている)まで落ちのびて、住職の善祥法師に助けられる。この伝承は、1943年(昭和18)に出版された『中野区史・上巻』(中野区)にも収録されているが、以下「洞穴」に関する伝承を地元寺である実相院が出版した、矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)から引用しよう。
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 善祥法師は義泉をよく保護し、ついに義泉等に勧めて、向の山は往還の道路無く、北に川あり、南に山々続き隠れ住むには究竟の地所なりとして、此所に善祥が差図して、山麓に横穴を掘り、其処に義泉とその一党がすむこととなった。この横穴は表口九尺餘、高さ丈餘、深さ三丈餘であった。なほこの山は古の関所の跡なので関根山と呼ばれた。時に応永五年二月であった。/ついで応永八年仲春、藤作山の麓に、表口九尺餘、高さ一丈三尺餘、深さ四丈餘の横穴を掘り、左右衛門義藤が引篭り、同十年三月には、庄司山の麓に、表口九尺餘、高さ一丈三尺餘、深さ四丈餘の横穴を掘り、但馬が住まった。
  
 この「向の山」とは、どのような丘陵だったのだろうか? ご存じのように野方地域一帯は起伏のある丘陵地帯で、現代の感覚で遠くから「山」と視認できるような場所はほとんどない。(当時、大きな墳丘が残存していれば「山」に見えたかもしれない) また、「向の山」は「関所の跡」と書かれているが、道筋のないところに関所跡があるのも不自然だ。「関根山」とは、なんらかの「関」(仕切りの構造物)が基盤として築かれていた「山」のことであり、古墳の遺構を想起させる。「関所跡」は、後世に導きだされた山名からの付会ではないだろうか。
 このような事蹟から、地域にある古塚は当時の戦における死者を合葬したものという、後世の“解釈”が付加されるのは容易に想像がつく。この伝承に付随して、樹木の根元の地中から光り輝く仏像(薬師如来)が出現して安置されるという逸話も語られている。この逸話は近くの梅照院(新井薬師)の縁起でも語られているが、高田八幡(穴八幡)のいわれとなった阿弥陀仏の出現とよく似ている。
 そして、この洞穴の規模が、すなわち「深さ三丈餘」=約10mや「深さ四丈餘」=約12mと、50~100mクラスの小・中型前方後円墳にみられる、玄室とそこにいたるまでの羨道の長さ(奥ゆき)に匹敵しそうなのだ。すなわち、「山」の斜面にもともと掘られていた狭い羨道の入口を表口九尺餘=約2.7mに拡張し、羨道を拡げながら掘り進み(「高さ丈餘」「一丈三尺餘」=3~3.9m)、最後に大きな石組みで構築された広い玄室空間へと貫通させたのではないか?……という想定が成り立つ。
 ただし、これらの洞穴は現存していないので、現代の科学的な発掘調査ができないのがもどかしいが、周囲の地名や散在する古塚などの環境を前提に考えると、あながち非常に突飛な想定ではないように思える。
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 もうひとつ、野方の字名「丸山」(下沼袋の「丸山」とは別)を囲むように、興味深い小字「三谷」が収録されている。以下、同書より再び引用してみよう。
  
 今の野方二丁目の辺りが三谷と呼ばれていたことはご年輩の実相院の檀家の方々はほぼご存知のことと思います。所がその中央部、旧家である秋元さんの家がかたまってある辺りが丸山と云われていたということはほとんどご存知ないと思います。私がそのことに最初に気がついたのは今から三十年ほど前に今の矢島達夫さんのお父さんの銀蔵さんに同家の家系の調査を依頼された時であります。/三谷は実相院過去帳では江戸時代はだいたい三谷と記されることが多いのですが、山谷と書かれている場合も少なからずあります。
  
 陸軍参謀本部が作成した明治末の地形図では、丸山のすぐ東隣りに三谷の字名が記載されているが、このエリアの地形に3つの谷間が切れこんでいるわけではない。等高線を観察すると、正円状に盛りあがった字名「丸山」の丘を三方(北東南)から囲むように、谷状の窪地があるから「三谷」と名づけられたと思われる。
 もちろん、この地図は明治末のものなので、墳丘(丸山)全体は江戸期以前から開墾のためとうに削られていると思われるが、それでも墳丘の盛りあがった痕跡と、その後円部とみられる三方の窪地にちなんだ「三谷」という小字が、当時まで廃れずに記憶されていたということなのだろう。
 このケースと非常によく似た地形を、以前に南青山地域の事例Click!としてこちらでもご紹介している。野方と「丸山」と同様に、後円部の正円とみられる丘が湧水源をともなう三方の谷間に囲まれ、前方部が崩されて整地され横断道路などが敷設されたとみられるケースだ。野方の「丸山」は、いまだ周囲を歩いていないので未確認だが、近々現地を調べてみたいと思っている。ちなみに、南青山の場合は広大な青山墓地Click!に隣接していたため開発が遅れ、大規模な整地が行なわれたとはいえ、現在まで当初の面影(起伏とその形状)をよく残している。
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 旧・野方町の沼袋界隈から江古田、あるいは新井などにかけ、さまざまな史跡や地形、事蹟、伝承・伝説の糸をたぐっていくと、落合地域よりもかなり色濃い、古墳時代の遺構をしのばせる痕跡が見えてくる。それらがよく語り継がれ保存されているのは、単に大正期から昭和初期にかけての市街化が遅れたタイムラグのせいだろうか? それとも、より鮮明で確かな記憶が人々の間で、忘れられずに語り継がれてきたからだろうか。

◆写真上:江古田氷川社の西側にある、「稲荷塚/狐塚」の“双子”とみられる古墳跡。
◆写真中上は、すでに痕跡もない「経塚」跡。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる下沼袋の「丸山」周辺。は、同「丸山」跡に造成された公園。
◆写真中下は、野方地域に展開する古塚群。(『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』より) は、大正末の1/10,000地形図にみる野方の「丸山」と「三谷」の字名。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所の正円形の痕跡。
◆写真下は、1941年(昭和16)の空中写真に斜めフカンでとらえられた「丸山」。明らかに前方後円墳を想起させるフォルムをしており、後円部の直径は200mをゆうに超え、「三谷」=周壕(濠)とみられるエリアも入れると300mを超えている。詳細は、改めて記事に書いてみたい。は、野方の「丸山」「三谷」と近似した南青山の事例。下左は、1998年(平成10)に出版された矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)。下右は、落武者伝説に関連するとみられる禅定院の境内にある大イチョウ。

葛ヶ谷村(西落合)の「四ツ塚」。

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 行政区画の境界近くにある地名や史蹟が、それぞれの側から異なった名称で呼ばれていることがままある。たとえば、向こうに見える小高い丘は、隣り村から見れば「向山」だが、その丘の周辺に住んでいる地元の村人にすれば「丸山」だったりする。地元の呼称のまま調べていると、周辺地域の呼称とは齟齬が生じて少なからず混乱するのを、わたしも何度か経験している。
 たとえば、江戸期には下落合村よりも裕福だったとみられる上落合村から見れば、妙正寺川は村の北側を流れる「北川」Click!であり、その向こう側の土地は「北川向」Click!(明治以降は字名化される)と呼称されていた。ところが、下落合村側からみれば村の南側を流れる妙正寺川は「北川」とは呼びにくく、当時の下落合村絵図には「井草流」と書きこまれている。また、下落合村の丘下にある土地はやはり「北川向」とは呼びにくく、村人は通称として「中井村」Click!と呼称していたものだろうか。
 そんな事例のひとつに、史蹟である古墳を表現する名称として、江古田村(中野区)側の伝承では「四ツ塚」と呼ばれていた古墳が、地元の葛ヶ谷村(現・西落合/新宿区)では「馬塚」Click!と呼ばれていたケースがある。葛ヶ谷御霊社の北側、現在の新青梅街道の直近に位置していた塚だ。江古田側の記録では、4つの塚(古墳)が街道沿いへ規則的に並んでいたため「四ツ塚」と呼ばれていたとされているが、1932年(昭和7)に自性院Click!が発行した大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)による葛ヶ谷村側の伝承記録では、特に塚の数までは言及されていない。
 また、葛ヶ谷村では「四ツ」で4つ足動物の「馬」を連想し、時代をへるにしたがい「馬塚」と称されるようになった可能性もある。事実、馬が死ぬと死骸を「四ツ塚」で葬っていたのかもしれない。「四ツ塚」の南南東700mほどのところに位置する、葛ヶ谷村と下落合村の境界近くにある「丸塚」では、近世になって実際に農耕馬が葬られていた事例があるのだ。
 いずれの塚も、発掘調査がなされないまま耕地整理による整地や、新青梅街道の敷設などで破壊されてしまったが、人骨や武具、馬の骨などが出土したという伝承が残されている。また、これらの遺物がいつの時代のものかは特定できないが、中野区教育委員会では室町期の戦乱によるものと想定している。1984年(昭和59)に出版された『なかのものがたり』(中野区教育委員会)から、当該部分を引用してみよう。
  
 道灌と豊島一族が戦った江古田ヶ原・沼袋の地とは、江古田から沼袋に至る旧江戸道沿いである現在の哲学堂公園や江古田一丁目、松が丘二丁目あたりから丸山二丁目、野方六丁目にかけてであるといわれています。この辺一帯にはかつて、経塚、金塚、四つ塚などがあり、人や馬の骨、武具などが出土したことがありましたが、いずれも学術的な発掘調査はされず、今では住宅地や道路となってしまいました。
  
 だが、中野区内の「塚」はその多くが足利一族(義教vs持氏)の対立や、その後の豊島氏と太田氏による戦闘によって築造されたものと推定されているが、地名や地形などを細かく観察Click!すると落合地域と同様に、より古い時代の遺跡が混在しているのではないだろうか?……というのが、わたしがそもそも抱いた課題意識だ。
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 また、古墳のある地域は、地元では禁忌エリア(屍家=しいや伝説Click!)または正反対の長者伝説Click!として語り継がれ、中世以降はことさら墓域Click!寺社の境内Click!に転用されている例も少なくない。したがって、「塚の記録が残っている→中世に戦闘があった→その死者を葬った塚だろう」では、あまりに短絡しすぎているように感じるのだ。本来は、実際に発掘調査を行なうのが筋だろうが、宅地化が急速に進んだ地域では中野区教育委員会が書いているように、短期間で住宅地や道路の開発で破壊されその余裕がなかった。各塚の写真や、形状を記録した絵図などが残されていないのが残念だ。
 なぜ、落合地域(葛ヶ谷村)に築造されていた「四ツ塚」の記録が、中野区側の資料によく残っているのだろうか。これは想像だが、葛ヶ谷村(現・西落合)は南に位置する下落合村よりも、妙正寺川や千川上水(落合分水Click!)の水利などの関係から、江古田村との交流や連携のほうが盛んだったのではないだろうか。だから、現在は中野区と新宿区で行政区画が分かれてしまったが、中野区側に葛ヶ谷村に関する情報が色濃く残っている……、そんな気が強くするのだ。
 さらに、「四ツ塚」のほぼ真北にあたる600mほどのところに、「金井塚」と名づけられた古墳が存在していたことも伝えられている。やはり、室町期の豊島氏と結びつけられた遺構として語られているが、こちらは江戸期の「庚申」信仰と結びつけられていた。「庚申」が、古墳期から奉られてきたとみられるタタラ集団が奉じた「荒神」の転化Click!ではないかという歴史的なテーマは、かなりメジャーになっているのでご存じの方も多いだろう。しかも、塚名そのものが「金井塚」なのだ。
 さて、もうひとつの資料を参照してみよう。実相院の過去帳をたどり、沼袋地域を中心に中野区の歴史を鳥瞰した矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)から、葛ヶ谷村の「四ツ塚」と江古田村の「金井塚」を引用してみよう。
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 四つ塚 今の新青梅街道と新井薬師駅方面から給水塔の東側を通って千川通り方面に抜ける、土地では「鎌倉街道」と呼ばれる道路の交差した所にあった。北西角の堀野商店のある所から兜や刀のくさったものが出土したという。
 金井塚 四つ塚の西北方約五百メートル(ママ)の所(江原一-一一)にあった。この場所には江戸時代に庚申塔が立てられた。この地にあった塚は土地の区画整理の時に壊され、この庚申塔は現在石の観音像をまつる江古田の原の観音堂(江原三-一二)と呼ばれる地の境内に移されている。
  
 「四ツ塚」のあった道を、中野区教育委員会は「江戸道」としているが、和田山Click!(井上哲学堂Click!)に和田氏Click!の館があったという伝承が語れ継がれてきた地元では、「鎌倉街道」と位置づけられていたのがわかる。塚のふくらみを避けるように、塚と塚との間へ古くからの道路が敷設されているのも興味深い。
 「四ツ塚」からは、「兜や刀のくさったもの」が出土したとされているが、古墳期の武人ももちろん直刀や兜(冑)を装備していたので、いつの時代のものかは不明だ。あるいは、「兜や刀のくさったもの」が塚の表面近くから出土したとすれば、中野教育委員会が推定するように江古田が原の戦いで戦死した豊島氏や太田氏の死者を、「屍家伝説」などが残るより古い塚へ合葬していたかもしれず、地中には玄室や羨道などさらに古い時代の遺構が眠っていたかもしれない。
 ひとつ、気になる絵画がある。片多徳郎Click!が下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)のアトリエで暮らしていた時代、1931年(昭和6)に制作された『若葉片丘』Click!という作品だ。画面の左手には斜面が描かれているが、その上部に取ってつけたような人工的に見える築土がとらえられている。付近を散歩して風景画Click!を描いていた片多徳郎は、いまだ耕地整理のままで住宅が存在しなかった葛ヶ谷地域(現・西落合)へ出かけていやしないだろうか?
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 画面の人工的に見えるふくらみが、周辺の地形からして「四ツ塚」だとは思えないが、起伏が多い葛ヶ谷地域で他の場所を描いた際、画面に期せずして取り入れてしまった塚のひとつである可能性がある。ふくらみの上に大きく繁る老木を見ても、この不自然な地形の盛り上がりに、なんらかの故事や謂れが付随していたと考えても不自然ではない。

◆写真上:葛ヶ谷村(現・西落合3丁目)にあった「四ツ塚」跡の十字路を、カーブする旧・鎌倉道(江戸道)の西側から眺めたところ。
◆写真中上は、大正期の1/10,000地形図に描きこまれた「四ツ塚」と「金井塚」。(『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』より) は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「四ツ塚」跡。西北と南東の角に、塚跡とみられる痕跡が残っているようだ。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の火保図にみる「四ツ塚」跡。西北側の敷地境界線に、丸みを帯びた「四ツ塚」のひとつらしい痕跡が残っている。は、1941年(昭和16)と1947年(昭和22)の空中写真にみる「四ツ塚」跡とその周辺。
◆写真下は、交差点から西を眺めた「四ツ塚」跡。右手の北西側の塚が、戦前まで痕跡をとどめていたようだ。は、「金井塚」近くの住宅街。は、画面左手に盛り土らしい人工的な「塚」状の地形が描かれた、1931年(昭和6)制作の片多徳郎『若葉片丘』。
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