Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all 1249 articles
Browse latest View live

中国民謡を演奏する陸軍軍楽隊。

$
0
0
陸軍野外音楽堂1956.jpg
 少し前に、戸山ヶ原Click!の陸軍軍楽学校や戸山学校軍楽隊の野外音楽堂にいまでも残されている、良質な玉砂利をふんだんに使用したコンクリート塊Click!についての記事を書いた。そのとき、野外音楽堂では実際にどのような吹奏楽曲が演奏されていたのかに興味をもった。戦後1956年(昭和31)に復元された、軍楽隊野外音楽堂(現在は解体されて再整備され、屋根のない四阿風のモニュメントに変わっている)では、かなり大編成の軍楽隊が演奏できたと思われる。(冒頭写真)
 野外音楽堂はコンクリート製で、ステージは低層の3段に分かれており、両側に反響壁が設置されている。いちばん手前の広いステージは、大編成の際は楽団員が、小編成の場合は将官やゲストのイスが並べられたのかもしれない。音楽堂のステージは、窪地の南南東側に向けて口を開いており、なんらかの記念日などで観客が多い場合には、平坦な客席ばかりでなく周囲の斜面にもあふれていただろう。
 箱根山の北東に位置する野外音楽堂は、戦前までふたつの湧水池が形成されていた南東側の段斜面にあたり、江戸期の尾張徳川家の下屋敷(戸山山荘)Click!だったころは、この位置にも水が湧き小流れや小池が形成されていた可能性がある。音楽堂は三方が傾斜地となる窪地として造成されたため、そこで演奏された楽曲は野外にもかかわらず、特に南東側に向けてよく反響したかもしれない。
 明治期に陸軍軍楽隊が設立されたころ、当然だが洋楽も洋楽器も経験のない日本では、ヨーロッパから専門分野の外国人を招聘した。いわゆる“御雇外国人”だが、陸軍ではフランスとドイツから教師を招いている。フランスからは、陸軍軍楽隊長の経験があるシャルル・ルルーが来日し、陸軍軍楽隊のために『抜刀隊』や『陸軍分列行進曲(扶桑歌)』Click!などを作曲している。2曲目は、1943年(昭和18)に「小雨にけぶる神宮外苑競技場……」の実況で有名な、学徒出陣の壮行会Click!で演奏されたタイトルで、文系の学生を戦場へ送ったいまやおぞましい曲だ。
 また、ドイツからは、やはり海軍軍楽隊長の経験があるフランツ・エッケルトが招聘された。エッケルトは陸軍軍楽隊へ教師として赴任する前後、宮内省雅楽課の顧問もつとめていたので、『君が代』の吹奏楽への編曲や『哀の極』などを作曲している。1899年(明治32)に帰国するが、再び東アジアへやってきて今度は朝鮮で李王朝の音楽教師をつとめている。1910年(明治43)の日韓併合で教職を失うが、そのまま朝鮮にとどまり民間での洋楽普及に尽力し、ドイツにもどることなく現地で死去している。エッケルトの墓は、現在でも韓国国内にある。
 さて、陸軍軍楽隊(のち陸軍戸山学校軍楽隊と呼称された)は、どのような曲を演奏していたのだろうか? いわゆる「軍歌」「軍楽」はもちろんだが、ときにシューベルトやベートーヴェン、ワグナーなどエッケルト故国の作品も演奏したらしい。また、軍楽隊のメンバーが作曲した作品も、積極的に演奏していた。さまざまな学校の校歌をはじめ、李香蘭Click!出演の映画音楽(国策映画)用に作曲したテーマ音楽Click!の演奏、有名な歌曲や日本民謡の編曲・演奏なども手がけている。陸軍軍楽隊の出身者で、戦後に活躍することになる作曲家には芥川也寸志や団伊玖磨、萩原哲晶、奥村一などがいる。
陸軍軍楽隊1923.jpg
陸軍野外音楽堂1947.jpg
野外音楽堂跡1.JPG
 先日、「MUSIC MAGAZINE」(2019年9月号)を読んでいたら、寺尾紗穂のエッセイ『戦前音楽探訪』の中に上記のフランツ・エッケルトの名前と、陸軍戸山学校軍楽隊のネームが出てきて、思わず声を出して反応してしまった。陸軍軍楽隊の演奏曲の中には、中国の民謡が含まれていたことを初めて知ったからだ。いまでも演奏され、唄われる機会も多い中国民謡『太湖船』Click!だ。それをフランツ・エッケルトが行進曲として編曲し、『太湖船行進曲』Click!として軍楽隊のレパートリーに加えている。
 確かに、どこかで聴きおぼえのある行進曲で、全体がヨーロッパの協和音のように構成されてはいるが、ふいに中国の旋律が顔をのぞかせたりする。彼が編曲した『君が代』(のちに低音部2ヶ所が修正されるが、現在でも基本的にそのまま)も中国の旋律を思わせる響きがあるが、おそらく中国の旋律も日本の旋律も大雑把に“東アジアモード”とでもカテゴライズして、作曲や編曲に用いたものだろう。明治期の日本では、いまだヨーロッパの協和音よりも中国の旋律のほうに、より多くの親しみを感じていたのかもしれない。だが、今日ではあたりまえだが日本国内でさえ、それぞれ地方によっては地域ベースのモード(旋律)はかなり異なっている。
 ではなぜ、フランツ・エッケルトは日本の陸軍軍楽隊に、中国民謡の「太湖船」を取り入れたのだろうか? 『戦前音楽探訪』から、少し引用してみよう。
  
 その彼が作った「太湖船行進曲」は、元は「膠州湾行進曲」として、明治31年のドイツによる山東(膠州湾)租借の報を知って作曲されたものらしい。明治39年10月には日比谷公園で陸軍軍楽隊によって演奏もされている(『本邦洋楽変遷史』)から、このころから民間にも広まっていった可能性があるだろう。ドイツが山東を租借という名で99年間占領するとした、その喜びから、中国民謡と管弦楽を合わせたこの曲を日本にいたエッケルトは作ったのだろうか。
  
陸軍戸山学校軍楽隊1929(東京駅).jpg
フランツ・エッケルト.jpg 太湖船行進曲レーベル.jpg
 「山東(膠州湾)租借」とは、1898年(明治31)に渤海湾と黄海の間にある山東半島の南部一帯を、ドイツが清国政府に圧力をかけて租借・統治する「膠州湾租借条約」を締結したこと、要するに植民地化することに成功したことをさしている。この租借地獲得によって、アジアへの進出に出遅れたドイツは、東アジアに橋頭保を確保したことになるが、それを祝うためにエッケルトは『太湖船』のメロディーラインを拝借して、『膠州湾行進曲』を作曲(編曲)しているとみられる。
 でも、陸軍軍楽隊が演奏するときは『膠州湾行進曲』ではなく、原曲の名を冠して『太湖船行進曲』としたのは、中国への配慮からなどではなく、欧米列強のアジア侵略に対する軍内部の反感や警戒感からではないだろうか。軍楽隊が日比谷公園で同曲を演奏した1906年(明治39)、日本は日露戦争に勝利してロシアの南下を喰い止め、「アジアの盟主」を自任しはじめていたころだ。下落合にあった東京同文書院Click!(=目白中学校Click!)には、欧米の侵略から祖国を救い独立を勝ちとるため、数多くの中国人留学生Click!ベトナム人留学生Click!が参集していた時期と重なる。
 だが、1914年(大正3)に日本は日英同盟を口実にして山東半島のドイツ租借地を攻撃・占領すると、翌1915年(大正4)にはときの袁世凱政府に対華二十一カ条の要求を突きつけ、ドイツの租借地ばかりでなく、より広範囲の権益拡大を要求することになる。このとき以来、『太湖船行進曲』は中国人にとって侵略国ドイツを象徴する楽曲ではなく、新たに侵略国として立ち現れた日本を象徴する楽曲へと変異していったのだろう。事実、この要求の直後から中国各地で反日のデモやストライキ、暴動が頻発することになる。
陸軍軍楽隊19440310.jpg
野外音楽堂跡2.jpg
 原曲の『太湖船』は、中国の江蘇省にある太湖のたそがれどき、湖面の風を受けた船がすべるように静かに進む情景を唄ったものだが、『太湖船行進曲』のほうは中国大陸を奥へ奥へと際限なく踏み入ってくる、軍靴の響きを感じさせるような曲になってしまった。

◆写真上戸山ヶ原Click!にあった、軍楽学校の近くに設置された野外音楽堂(戦後復元)。
◆写真中上は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる軍楽隊の野外音楽堂が設置された位置。は、1947年(昭和22)の空中写真にとらえられた野外音楽堂の残滓(復元前)。は、野外音楽堂の現状で東西南を斜面に囲まれている。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に東京駅前で演奏する陸軍戸山学校軍楽隊。下左は、ドイツの御雇教師フランツ・エッケルトの肖像。下右は、1928年(昭和3)にビクターから発売された『太湖船行進曲』のレーベルで演奏は陸軍戸山学校軍楽隊。
◆写真下は、1944年(昭和19)3月10日の陸軍記念日に街中で演奏する陸軍戸山学校軍楽隊。紅白幕の指揮台が設けられ、どこかの新聞社か出版社の前だろうか戦時標語Click!「撃ちてし止まむ」の横断幕が掲げられている。翌1945年(昭和20)の陸軍記念日には、東京大空襲Click!で市街地の大半が炎上・壊滅する惨憺たるありさまだった。は、野外音楽堂跡の現状でコンクリートの演奏ステージは画面の左手背後にあった。

上落合郵便局近くの大ケヤキの下で。

$
0
0
上落合郵便局.jpg
 1930年(昭和5)5月に、詩人・上野壮夫と結婚した作家・小坂多喜子Click!は妙正寺川の北側、葛ヶ谷(のち西落合)の飛び地である御霊下(のち下落合5丁目)で、新婚生活をスタートしているようだ。まったく同じ時期の1930年(昭和5)5月、上落合842番地Click!に転居していた尾崎翠Click!は、知人の林芙美子Click!手塚緑敏Click!夫妻に自身が1928年(昭和3)6月まで松下文子とともに住んでいた、大きく蛇行する妙正寺川の南側にあたる上落合850番地の空き家Click!を紹介している。
 林芙美子・手塚緑敏夫妻は、すぐにこの家へ引っ越してくるが、妙正寺川をはさみ対岸の葛ヶ谷御霊下(北側)に、小坂多喜子と上野壮夫Click!の最初の新婚家庭があったとみられる。もちろん、現在の妙正寺川は1935年(昭和10)前後からスタートした直線整流化工事Click!がほどこされ、蛇行を繰り返していた当時の川筋とは大きく異なっている。上記の林芙美子・手塚緑敏夫妻が暮らした上落合850番地の家は、現在の妙正寺川の川筋では大半が“水没”しており、北岸の家並みや道筋も大きく異なっている。
 林・手塚夫妻が上落合850番地の家を引き払い、1932年(昭和7)に五ノ坂Click!下の下落合2133番地に建っていた、自称“お化け屋敷”Click!と呼んだ大きな西洋館Click!へ転居したのは、『放浪記』がヒットして印税が入ったせいもあるのだろうが、すでに妙正寺川の直線整流化工事が予定されており、いずれ近いうちに立ち退かなければならないのを承知していたからだと推測している。
 さて、妙正寺川をはさみ上落合850番地の林・手塚邸の対岸にあったとみられる小坂多喜子・上野壮夫夫妻の家は、おそらく落合町葛ヶ谷御霊下836番地、ないしは同857番地のどちらかだろう。同地が1932年(昭和7)に下落合5丁目へ編入されたのちも、この地番はそのまま変わっておらず、下落合には2丁目と5丁目とで同時に800番台の地番が並列することになってしまった。1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、南岸にある林・手塚夫妻が暮らした上落合850番地の家々は、妙正寺川の工事にひっかかってすでに解体・撤去されているが、工事にはひっかからなかった北岸の家々は、ほぼそのままのかたちで残っているのがわかる。
 2007年(平成19)に図書新聞から出版された、小坂多喜子の次女である堀江朋子の『夢前川』から、当時の様子を引用してみよう。
  
 (中井)駅を降りるとすぐ左手に妙正寺川。そのほとりに新婚の父と母が暮らし、その川を隔てて向かい側に林芙美子が住んでいた。昭和五年頃のことである。その後すぐ二人は、(上落合)郵便局近くの家に移り、林芙美子も他へ移った。その川淵を歩くのは二度めである。十年ほど前の記憶を辿ってみた。佇まいは、殆どかわっていない。小さな民家。古びたアパート、酒場。妙正寺川を挟んで南側は、昭和二十年五月に激しい空爆をうけたが、北側は、キリスト教系の聖母病院があったから、空爆を免れた。父と母が住んだのは妙正寺川の川縁の南側だったろうか、北側だったろうか。(カッコ内引用者註)
  
 川向こうに林芙美子が住んでいたとすれば、まちがいなく北側だったろう。妙正寺川は、当時の川筋とはまったく形状が変わってしまっている。
上落合850番地界隈1938.jpg
上落合850現状.JPG
御霊下836・857現状.JPG
上落合郵便局1936.jpg
上落合郵便局1941.jpg
 このサイトの記事をお読みの方なら、いくつかの気になる記述にお気づきだろう。落合地域の街並みは、下落合と上落合を問わず1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!と、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!とで、大半が焼失している。著者が書いている国際聖母病院Click!は、4月13日の焼夷弾攻撃に対して必死の消火活動Click!が試みられ(それでも一部焼失はまぬがれなかった)、また戦争末期には同病院ねらった戦闘爆撃機(P51だとみられる)の空爆により、250キロ爆弾の直撃を受けている。
 「キリスト教系の聖母病院があったから、空爆を免れた」は、戦後にGHQのGSないしはG2などの言論工作機関Click!が意図的に流布した、日本を占領しやすくするための結果論的プロパガンダだろう。米軍が公開している米国公文書館Click!の空襲資料には、「病院を避けた」というような指令や命令はどこにも存在していない。特に(城)下町Click!にあった公的病院や入院施設のある大規模な医院は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!でことごとく焼きつくされている。
 さて、このあと小坂多喜子・上野壮夫夫妻はすぐに上落合へ転居している。当時の様子を、1967年(昭和42)に不同調社から発行された「槐」復刊第4号収録の、堀田昇一『わが日わが夢(三) 五、「落合ソヴェト」風土記』より、上掲書から孫引きしてみよう。
  
 中井駅のそばの橋をわたって南の方へいくと、つきあたりに小さい郵便局があり、大きな欅がたっていた。先日そのあたりを歩いてみたら、もう大きな欅の木はきりはらわれて見られなかったが、当時は大きな幹が帝々とそびえたって、あたりの一点景をなしていた。その郵便局の前に、三・一五、四・一六の公判の裁判長であった宮城某という男が住んでいた筈だ。当時は表札をかくし、別の名札をかけていたのではないか、と思う。のちに参議院議員などにもなったようである。
  
 橋は妙正寺川をわたる寺斉橋Click!で、郵便局は上落合666番地の上落合郵便局のことだ。「裁判長であった宮城某」とは、上落合郵便局の向かいの角地に大きな屋敷を建てて住んでいた、裁判官ではなく東京地裁で検事をしていた宮城長五郎のことだ。
宮城長五郎邸1938.jpg
上落合郵便局1938.jpg
上落合郵便局1948.jpg
 宮城は治安維持法の策定にも関わっているが、三・一五事件Click!では特高Click!に検挙された「思想犯」を、どしどし起訴して豊多摩刑務所Click!へ送りこんだ弾圧の中心人物のひとりだ。治安維持法が拡大解釈されるにつれ、共産主義者や社会主義者ばかりでなく政府に「異」を唱える人物を、思想や信条を問わず片っ端から弾圧していく。宮城は、上落合の「落合ソヴェト」のまん真ん中に位置する大きな屋敷に住んでいたため、報復を怖れたのか表札を隠していたのだろう。
 1938年(昭和13)作成の「火保図」には、上落合730番地に「宮城」の名が採取されているので、そのころには不安が薄れたのか表札を架けていたと思われる。堀田昇一は「参議院議員」と書いているが、宮城は1942年(昭和17)に死亡しているので貴族院議員の誤りだ。また、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!には、やはり後難を怖れたのか「人物事業編」には掲載されていない。
 落合郵便局の近くに住んだ小坂・上野夫妻の様子を、『夢前川』から引用してみよう。
  
 新宿上落合郵便局。この郵便局はいつ頃からあるのだろうか。窓口の女性に尋ねてみる。少しお待ち下さい、と言って女性は二階に上がった。四、五分ほど待ったろうか。二階から降りてきた女性は、笑顔で大正十三年三月に創設されました、という。父と母が妙正寺川のほとりの新婚の家から移り住んだ家は、やはりこの郵便局の側だ。私は思わず微笑んだ。外ら出てあたりを見回す。付近は民家をそのまま改築したような二階建のアパート、小さな店、床屋、特高に踏み込まれた家はどのあたりか。大きな欅があったと母は書き残しているが、欅は見当たらなかった。
  
 この大ケヤキは、上落合郵便局の南側にある中村家、ないしはさらに南に位置する高山家の大きな邸宅敷地に生えていた屋敷樹だとみられる。同ケヤキは、空襲で焼けたが戦後に息を吹き返し、1970年代まで伐られずに生えていたと思われる。上落合郵便局の周囲は、先の宮城邸もそうだが大邸宅が建ち並ぶ一帯で、改正道路(山手通り)の建設工事Click!はいまだスタートしていない。
 その大ケヤキの近くということは、小坂多喜子・上野壮夫夫妻の2軒めの新婚家庭は、上落合665番地ないしは同667番地の家々のうちのどれかで、上落合666番地の中村家が建設した借家の1軒だった可能性がある。中村邸の南側にある高山彦太郎・松之助邸も、『落合町誌』(1932年)の「人物事業編」によれば一帯の地主だった。
大ケヤキ跡現状.jpg
小林多喜子1933.jpg 堀江朋子「夢前川」2007.jpg
 1932年(昭和7)の秋、小坂・上野夫妻は一時的に阿佐ヶ谷へと転居するが、翌1933年(昭和8)の秋に再び上落合829番地へもどってくる。その短い阿佐ヶ谷時代に、小林多喜二Click!が虐殺される事件に遭遇することになるのだが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:上落合666番地(現・上落合2丁目)にある、上落合郵便局の現状。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合850番地の林・手塚邸の位置と対岸の御霊下836・857番地界隈。いずれかの住宅が、小坂多喜子・上野壮夫が新婚早々に住んだ家だろう。は、大半が“水没”した上落合850番地の現状(上)と、対岸の御霊下836・857番地の現状(下)だが実際は川筋が蛇行していたためもう少し北側にずれる。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合郵便局界隈(上)と、1941年(昭和16)に斜めフカンで撮影された空中写真の大ケヤキ周辺(下)。
◆写真中下上・中は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる上落合郵便局とその周辺。は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる上落合郵便局周辺。
◆写真下は、大ケヤキが生えていたあたりの現状。下左は、1933年(昭和8)2月20日に撮影された小林多喜二の通夜の席での小坂多喜子と窪川稲子(佐多稲子)Click!。薄暗い室内で、フラッシュはたかれているがシャッタスピードが遅いため、ふたりともブレて写っている。下右は、2007年(平成19)に出版された堀江朋子の『夢前川』(図書新聞)。

やはり存在した目白文化村絵はがきシリーズ。

$
0
0
目白文化村絵はがき1.jpg
 わたしの手もとには、初期の第一文化村のほぼ全景を撮影した、もっとも知られている目白文化村Click!絵はがきClick!が2枚と、第一文化村の神谷邸と北東側に隣接する敷地に建てられた箱根土地のモデルハウスとみられる西洋館が写る絵はがきClick!が1枚の、計3枚がある。いずれも人着がほどこされたカラー絵はがきで、発送された時期や宛先の住所などから、箱根土地がどのようなマーケティングをベースにDMを展開していたかを類推した記事Click!も書いていた。
 また、目白文化村の風景を写した写真が2種あることから、さらにDM用に印刷された同様の絵はがきがシリーズで存在するのではないか?……という記事も書いている。その推測は、やはり当たっていたのだ。人着による鮮やかなカラー絵はがきではないが、モノクロの絵はがきが複数制作されていた。しかも、モノクロ絵はがきのうちの2枚は、第一文化村に建つ邸の室内を写したもので、応接間とキッチンが撮影されている。そのうちの1枚が、永井外吉邸の応接間をとらえた冒頭の写真だ。
 わたしはうかつにも、この3種の絵はがきが収録された本を、14年ほど前に入手して読んでいたにもかかわらず、うっかり見落としていた。その書籍とは、2002年(平成14)に河出書房新社から出版された内田青蔵『消えたモダン東京』だ。当時、目白文化村を調べはじめたばかりで、次々と関連する書籍や資料に目を通していたため、気づかずに読み飛ばしていたらしい。なんとも情けないことに、先日、蔵書の整理をしていたときにパラパラめくっていて気づいたしだいだ。
 永井博・永井外吉邸は、1923年(大正12)に埋め立てClick!が完了した第一文化村の前谷戸の北寄りに建っていた邸宅だ。永井外吉は堤康次郎Click!の妹と結婚し、1920年(大正9)に箱根土地が設立されると監査役に就任している役員のひとりだ。また、上落合136番地に東京護謨が設立された際は、実質的な事業責任者として経営役員に送りこまれている。永井外吉が箱根土地の経営陣だったせいで、邸内の写真を撮らせてツール(DM)を作成し、販促プロモーションに利用したのだろう。
 永井外吉について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』から引用してみよう。
  
 東京護謨(株)取締役 永井外吉 下落合一,六〇一
 石川県士族永井孝一氏の二男にして拓務大臣永井柳太郎氏の従弟である、(ママ) 明治二十二年十月の出生、同二十七年家督を相続す。郷学を卒へるや直に業界に入り前掲会社の外、嘗ては駿豆鉄道箱根土地(ママ)、東京土地各会社の重役たりしことあり。家庭夫人ふさ子は拓務政務次官堤康次郎氏の令妹である。
  
 下落合4丁目1601番地(現・中落合3丁目)の永井邸は、第一文化村の北辺の二間道路に面している。清水多嘉示Click!が、1935年(昭和10)前後にその二間道路上で撮影した写真Click!でいうと、撮影者の背後40mほどのところに大きな永井邸が建っていたはずだ。初期の永井邸の竣工は、1989年(平成元)に出版された『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』に掲載された、「目白第二文化村分譲地割図/1/1.800版」から想定すると、1923年(大正12)中あるいは翌年にかけての早い時期だったとみられる。第一文化村では神谷卓夫邸とならび、かなり大きな西洋館だった。
永井外吉邸1926.jpg
永井外吉邸1936.jpg
永井外吉邸1941.jpg
 ところが、おそらく当初の世帯主である永井博が死去したものか、永井外吉は大正末に既存の邸を解体して、さらに大きな邸へとリニューアルしているとみられ、この絵はがきの写真はリニューアル後、つまり昭和初期に竣工した邸内をとらえている可能性がある。その根拠は、箱根土地が当初制作した「目白第二文化村分譲地割図/1/1.800版」に採取されている家のかたちと、同じく『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』に収録された同邸の平面図とが、まったく一致しないからだ。
 また、目白文化村の空中写真にとらえられた永井邸、あるいは1938年(昭和13)に作成された「火保図」に収録の永井邸は、前者の大正期作成の地割図に描かれた邸のかたちとは異なっているが、後者の平面図とはよく一致している。さらに、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三の『下落合風景』Click!では、永井邸のあるはずの位置が空き地になっており、なんらかの看板が建てられているので(「永井邸建設予定地」とでも書かれていただろうか)、同作は旧・永井博邸が解体されたあと新たな永井外吉邸が建てられるまでの、その刹那の情景をとらえている可能性が高いことだ。
 昭和初期まで、つまり箱根土地本社が下落合から次の開発地域である国立Click!へ移転(1925年12月)してしまったあとまで、目白文化村のDM用絵はがきが制作されていたとすれば、なかなか売れなかった深い谷間の第四文化村Click!や、第二文化村の北側に予定されていた箱根土地の社宅建設敷地Click!の処分(第二文化村の追加分譲販売)とからめた、販促ツールづくりの一環ととらえることもできる。
 さて、冒頭写真の応接間は、永井外吉邸の南東側に突きでた位置に設置されており、窓からは南側の庭が眺められただろう。また、南面に設置された両開きのガラス張りドアから、ポーチや庭へと出ることができた。写真は、応接間の北西側にあった入口から、南東側を向いて撮影されたものだろう。南からの強い陽射しでハレーションを起しているが、画面左奥のドアが開いているので、肉眼では庭先が見えていたはずだ。また、暖炉がわりに置いてあるのは電気ストーブのようで、目白文化村にかなり遅れてガス管が引かれる以前に撮影されたものと思われる。
 これは目白文化村に限らないが、下落合の中部から西部にかけてはガス管の敷設が遅れ、その間、ストーブなどの暖房機器や台所の調理器具は電気製品が主流だったため、月々の電気代がかなり高額になって困ったというお話をうかがっている。
目白文化村絵はがき2.jpg
目白文化村絵はがき3.jpg
文化村絵はがき2表19230522.jpg
 永井邸のもう1枚は、台所をとらえたものだ。やはりガスがいまだ引かれておらず、鍋釜は白いタイルを貼った竈で、湯は電気コンロで沸かしていたようだ。女中部屋も近い、奥の廊下の壁には古い壁かけ電話が見えているので、やはり文化村に電話が急速に普及しはじめた昭和初期に撮影されたものだろう。先の応接間もそうだが、台所も実際に使われている状態をほぼそのまま撮影しているので、このモノクロ絵はがき2葉は「文化村の暮らし」というようなコンセプトのもと、顧客へよりリアルな目白文化村での生活をアピールする目的で作られたものだろうか。
 絵はがき2枚の写真は、タテヨコの比率が異なっているが、これは『消えたモダン東京』に掲載する際、レイアウトに合わせ写真がトリミングされているのだろう。手もとにある目白文化村絵はがき(人着カラー)と比較してみると、永井邸の応接間を撮影した冒頭写真の比率が、既存のカラー絵はがきとほぼ同じ比率になっている。
 さて、もう1枚のモノクロ絵はがきは、永井邸の南西80mのところに建っていた第一文化村の神谷卓男邸Click!(下落合3丁目1328番地)を写したものだ。この写真も、同書に掲載するにあたりトリミングがほどこされ、絵はがきの比率とは異なっている。ライト風の神谷邸は、南東に向いた門前から北西の母家を撮影しており、換気をしているのか窓が開いているのがめずらしい。
 同じ第一文化村の中村正俊邸Click!と同様に、フランク・ロイド・ライトClick!の弟子である河野伝による設計と推定されているが、目白文化村が建設されたとき河野伝は箱根土地の設計部に勤務していた。したがって、箱根土地社内の設計チームが手がけた作品として、既存の人着カラー絵はがきの神谷邸とともに、販促にはもってこいの“商材”だったのではないだろうか。ちなみに、もうすぐ復元される三角屋根の国立駅舎も、箱根土地の河野伝が設計したといわれている。
 絵はがきの主人・神谷卓男は、東邦電力Click!の常務取締役をつとめていたが、『落合町誌』の「人物事業編」には収録されていない。なお、姻戚だとみられる東邦電力の理事兼秘書役の神谷啓三も、下落合367番地の林泉園住宅地Click!に住んでいたが、こちらは『落合町誌』に収録されている。以下、同誌から引用してみよう。
  
 東邦電力株式会社理事兼秘書役 神谷啓三 下落合三六七
 愛知県人神谷庄兵衛氏の令弟にして明治二十三年二月を以て出生、大正十一年分家を創立す、是先大正四年東京帝国大学政治科を卒業し爾来業界に入り現時東邦電力会社理事兼秘書役たる傍ら永楽殖産会社監査役たり、夫人甲代子は同郷松井藤一郎氏の令姉である。
  
永井外吉邸1938.jpg
近衛邸応接室.jpg
島津邸台所.jpg
 箱根土地による目白文化村は、第一文化村(1922年)、第二文化村(1923年)、第三文化村(1924年)、第四文化村(1925年)、そして第二文化村追加分譲(大正末~昭和初期)と5回にわたり販売されている。(勝巳商店地所部による1940年の「目白文化村」Click!販売は除く) そのつど、新聞には販売広告が出稿され、販促プロモーションが行なわれたとみられるので、DM用に制作された絵はがきも、まだまだ存在する可能性がありそうだ。

◆写真上:モノクロの目白文化村絵はがきの1枚で、第一文化村の永井外吉邸応接間。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる永井外吉邸。同事情明細図の作成時は、旧・永井博邸のままだったかもしれない。は、1936年(昭和11)と1941年(昭和16)の空中写真にみる新たな永井邸。
◆写真中下は、目白文化村絵はがきの1枚で永井邸の台所。電話機の手前に、スーツ姿の人物の半身がブレて写っているが永井外吉本人だろうか。は、同じく絵はがきでトリミングされた神谷卓男邸。は、神谷邸を写したカラーの同絵はがき。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる第一文化村の永井外吉邸と神谷卓男邸。は、近衛町Click!の北側に竣工した近衛文麿邸Click!(下落合436番地)の応接間。は、アビラ村Click!に建っていた島津源吉邸Click!(下落合2095番地)の台所。当時は輸入品が主流で高価だった電気レンジに電気コンロ、電気冷蔵庫、換気扇、そして電気炊飯器と、ガス管が敷設されていないため“オール電化”のキッチンだった。

いつから下落合が「日本文化村」なのだ?

$
0
0
オバケ坂上.JPG
 下落合(現・中落合/中井含むClick!)の西坂Click!を上りきった突き当たりに、介護付き有料老人ホームが建設中だ。高額な入居費用の同施設には、「グランダ目白落合」という名称がつけられている。「目白落合」という聞きなれない名称もおかしいが、そのチラシのキャッチとリードを見て、思わず身体がのけぞってしまった。
  
 優雅なひとときをご提案する、全41室の小規模ホームが誕生!
 かつて「日本文化村」と呼ばれた、趣ある閑静な住宅街で、心穏やかに、いつまでもご自分らしい暮らしを----。ベネッセの介護付有料老人ホーム/グランダ目白落合
  
 下落合は、いつから「日本文化村」などと呼ばれるようになったのか、「心穏やかに」自分らしく暮らせないので、のけぞってしまったのだ。
 下落合の中部にあった目白文化村Click!のことを、地元の人たちや画家・作家たちが地名どおりに「下落合文化村」Click!という別名(通称)で表現するのは聞いたことがあるし、当時は東京郊外にあたる落合地域の文化住宅地全体(近衛町Click!アビラ村Click!など含む)のことを、大正期から昭和初期にかけてのマスコミ表現をそのまま、大雑把で概念的かつ抽象的に「下落合文化村」と呼称されているのは承知しているけれど、「日本文化村」というのはまったくの初耳だ。
 なんだか、以前はよくTVで放映されていた、「きょうはセラミック包丁に、このセラミックナイフをお付けして、なんと9,980円! …♪マルマルのニーニーニーニー」の、テレホンショッピングが得意な通販会社名のようではないか。じゃあ、入居費用も特別サービスでおまけがついて安いのかというと、これがけっこうな金額なのだ。標準入居金が1,380万円、月額利用料が258,580円で、さらに介護保険の自己負担分がかかるから、頭金は別にして老後に毎月30万円以上の収入がなければお小遣いも捻出できないので、「日本文化村」はとても安売り通販のようなわけにはいかない。
 施設内のサービス内容はというと、「介護職員を24時間、看護職員を日中365日配置」とミッションクリティカルな介護サービスに加え、「四季折々の食材、器や盛り付けにもこだわるお食事」が提供され、「心身ともに健やかに。機能訓練指導員を配置」するという、なにもせずただ毎日をボーッと暮らせる(非常にうらやましい環境w)、いたれりつくせりのサービス内容だ。そして、入居者の「ライフスタイル」にあわせた暮らしができる例として、地下の音楽スタジオやティールーム、酒も飲めるラウンジ、カルチャー講座などの設置が予定されている。マタンゴでX星人のお姐さんClick!も入居してる、「やすらぎの郷」レベルの待遇なのだ。
 この会社は、次回の介護付き有料老人ホームとして「グランダ常盤台弐番館」の建設を予定しているとか。東京の「文化村」や近代建築がお好きな方なら、もうなんとなくお気づきだろう。この会社の建てる老人ホームは、大正期から昭和初期にかけて“郊外文化住宅地”と呼ばれた地域にマトを絞って、次々と同様の施設を建設しようとしているようなのだ。そのうち、「グランダ国立」とか「グランダ大泉学園」、「グランダ池田山」、「グランダ華洲園」、「グランダ田園調布」とかの介護付き有料老人ホームのチラシが、新聞の挟みこみやポストに配布されるのかもしれない。(もうすでに存在したりして?)
グランダ目白落合.jpg
グランダ目白落合(西坂).jpg
グランダ目白落合建設中.JPG
目白文化村1941.jpg
 もう1ヶ所、オバケ坂の樹々を伐採して緑の環境を打(ぶ)ち壊してくれた、タヌキの森Click!に建設中の「ソナーレ目白御留山」という同様の老人ホームもある。こちらは、まるで大型低層マンションのような仕様だが、そのキャッチとリードを引用してみよう。
  
 自然豊かな都心に誕生する、新しいホーム。
 「本当の長生き」とは何かを追求します。手厚い介護のできる環境と、ご入居者ご自身に合った生活を実現するライフケアプランで、ご自身らしい「本当の長生き」を私たちは追求しています。/介護付有料老人ホーム/ソナーレ目白御留山
  
 「自然豊かな」環境を打(ぶ)ち壊し(冒頭写真)にして、いったいなにをいっているのかと腹立たしいが、ホーム内の介護サービスメニューは西坂の「グランダ目白落合」とほぼ同様だ。御留山Click!から西へ250mも離れ、大倉山(権兵衛山)Click!のさらに西側のタヌキの森に建設しているのに、「ソナーレ目白御留山」というネームも恥ずかしく感じるほどだが、もっと離れているマンションに「御留山」とついている物件もあるので、おかしな建物名はこの施設に限らない。
 ただし、入居に必要なおカネは、西坂の「グランダ目白落合」どころではない。たとえば「前払いAプラン」の場合には、入居時に2,365万円超が必要で、月々の利用料は269,500円、「Bプラン」では入居時に1,771万円超かかり、月々の利用料が380,000円と、とんでもないメニューになっている。ちなみに、毎月均等の「Cプラン」は月々691,500円と途方もない金額だ。これ以外にも、敷金や介護保険などの必要経費がかかるので、たとえば「Bプラン」を選んだとすると、頭金は別にしても毎月50万円ほどの収入のある老後を送っている人でなければ、とても安心して入居できそうもない。
ソナーレ目白御留山.jpg
ソナーレ目白御留山(タヌキの森).jpg
ソナーレ目白御留山(オバケ坂).JPG
 ちょっと考えればわかりそうだけれど、下落合には国際聖母病院Click!と目白病院の2ヶ所の救急指定病院が存在し、それなりの規模で各科の医師や看護士がそろう、比較的めぐまれた地域だ。また、各種の専門医院も数多く開業している。その近くにマンションかアパートを買うか借りるかして、警備会社による日々の見守りサービス(映像+腕時計タイプのヘルスマネジメント用スマートデバイス)を契約したほうが、よほど安上がりに済むのではないだろうか。ちなみに、上記の料金体系は自分ひとりで入居する場合であって、夫婦で入居の場合はまた異なる条件になるのだろう。
 建設業者は、「ご近隣の皆様」と題するビラをタヌキの森の周辺地域に配布しているようで、「今後も当ホームの建設工事にて、いま暫くご迷惑ご不便をお掛けいたしますが、何卒ご理解ご協力賜りたく」と記載しているが、キャッチフレーズに「自然豊かな」と書いておきながら下落合の住民が100年来親しんできた、野鳥の森に隣接するオバケ坂(うちの坂Click!)の豊かな自然を打(ぶ)ち壊しておいて「ご理解ご協力」もないものだ。いっていることとやってることが正反対で、日本語が不自由なのか、はたまた用法を知らないのかまったくお話にならない。
 最近、東京でも緑が比較的豊かな地域へ、老人施設を建設するのがブームのようだ。それは、都内にある集合住宅が飽和状態になり、マンションやアパートを合計すると23区内だけで、実に47万室を超える空き室がカウントされている現状と無縁ではないのだろう。今度の台風19号と、つづく大雨災害でも明らかなように、予想される大震災などで電気(や水道)が途絶えると、高層マンションでは即座に災害難民が発生しかねない危機的な状況(基本的なリスク管理だと思うが)を、東日本大震災Click!のとき以来目の当たりにして、今後は高層マンションの上階で空き家が増加するという課題が加わるのかもしれない。だが、老人施設を都内へ企画する際に、かろうじて保存されている保護林も含めた緑地を破壊してまで建設するのは、なんとしても止めたい大きな社会課題のひとつだろう。
常盤台1935頃.jpg
国立(昭和初期).jpg
田園調布(昭和初期).jpg
 さて、下落合はそのうち「日本文化村」どころか、「東京文化村」(なんだか演劇が上演されそうな)とか、「日本文化センター村」とかw、「西武文化村」とかわけのわからない、意味不明な名称で呼ばれるようにならないともかぎらない。下落合で史的に存在したのは「目白文化村」、強いて当時の地元で呼ばれていた通称(別称)にしたがえば「下落合文化村」であって、「日本文化村」などかつてこの世には存在していない。

◆写真上:ケヤキなど大樹が繁る雑木林が、丸裸にされたオバケ坂上部の惨状。
◆写真中上は、西坂上に建設中の「グランダ目白落合」のチラシ。「日本文化村」というのは、いったいどこにあったのだろう? は、西坂の上に建設中の様子。(空中写真はGoogle Earthより) は、1941年(昭和16)に斜めフカン撮影の第一・第二文化村。
◆写真中下は、オバケ坂上のタヌキの森に建設中の「ソナーレ目白御留山」チラシ。は、建設中の様子。は、東側の緑地が破壊されたオバケ坂上部。
◆写真下:大正末から昭和初期に開発された東京郊外の文化住宅地で、1935年(昭和10)ごろの常盤台()、1940年(昭和15)ごろの国立()、同じく田園調布()。

わたしの頭はクウルなのかもしれません。

$
0
0
白蓮歓迎会19210211.jpg
 このサイトでは、おもに関東大震災Click!ののち下落合753番地Click!に転居してきたあとの、九条武子Click!の生活についてクローズアップClick!してきた。また、九条武子が書いたエッセイや私信Click!、インタビューなどの内容から、彼女の思想や信条Click!、活動、日常生活Click!趣味Click!などについても触れてきている。
 今回は、九条武子が下落合へやってくる以前、すなわち九条良致との結婚直後から、夫の12年間にもおよぶ「英国留学」ののち、表面上の“つくろい”や建て前上はともかく、別居を決意して夫と訣別するまで、どのような考え方や社会観、認識をしていたのかを垣間見てみたい。九条武子は、帰国してほぼ12年ぶりに再会した夫と、最初はやり直そうとしていたようだ。1921年(大正10)の早い時期に、中村富久野子のインタビューに答えて、「これからは一家の主婦となつて、直接に總ての交渉が迫つて来ました。でもまだ幼稚園を出たばかりのものですから、半年か一年も経たなければ、とてもうまくはまゐりますまい」と答えている。
 だが、すでに自身の生活には大きな疑問を抱きはじめており、「私は今まで、物質に係のない生活をして参りました」が、それはマズイことだと明確に意識している様子がうかがえる。中村富久野子は、それを「平民的な思想」と表現するが、単純な階級観のみによる自身の立場への疑義にとどまらず、夫である九条良致との修復しようのない思想的あるいは性格的な対立が、彼女を突き動かしているようにも感じとれる。
 1921年(昭和10)に発刊された「婦人世界」2月号から、中村富久野子によるインタビュー記事『十二年目に同棲の春に逢うた九条武子夫人と語る』から引用してみよう。九条武子は、マスコミの記者から直接取材を受けることは、下落合時代になってからはともかく当時はまれで、彼女の親しい友人や、友人から紹介された知人がインタビュアーになることが多い。中村富久野子も、そんな知り合いのひとりなのだろう。
  
 「(前略) 一体に私どもは、勿体ない生活をしてゐます。これに慣れて、呑気な気分に浸つてしまふのが常です。でも私のみは違反者となるつもりです。」貴族社会の安逸な生活に飽きたらない夫人の想ひは、その紅唇を迸つて鋭く出ました。/また何処までも平民的な夫人の性格が、その言葉には溢れてゐます。/「父からは、比較的厳格な教育を受けて来ましたが、兄たちは実に自由(フリー)に導いてくれました。その結果は、女とも男ともつかぬやうな性格の者ができてしまひました。」と夫人は微笑まれて、/「家の中の整理がつきましたら、今まで出来なかつた勉強を、これから始めます。たびたび外出もいたしますから、電車にも乗つてみて、早く東京の地に親しみたいと思つてゐます。」/爽やかなお言葉の中には、この貴人に思ひ設けなかつた強い音が、時時耳を打つ。私は驚いて顔を上げました。
  
九条武子1921.jpg
九条夫妻1909.jpg 九条夫妻1921.jpg
 ここでは、すでに夫をはじめ、その贅沢な暮らしや周囲の華族たちからも、「私のみ」を切り離して「違反者」になることを宣言しているように受けとれる。また、後世では常に「美人」と書かれる彼女の言動を見るかぎり、「女とも男ともつかぬやうな性格」ではなく、明らかに男っぽくて一度決めたらテコでも動かない頑固さと、挑戦的で雄々しい性格をしていた様子がうかがえる。
 インタビュアーはとまどいつつ、あくまでも彼女を華族の枠にあてはめ、あらかじめカテゴライズされた美辞麗句を駆使して、既存の「九条武子像」を崩さないように努めてはいるが、すでにその枠からはみ出しそうな勢いだ。関東大震災をきっかけに、「家の中の整理」をするだけでなく、夫との関係もさっさと「整理」して別居し、彼女は下落合へやってくることになる。
 わたしが同記事で面白いと感じるのは、インタビューする中村富久野子が華族の「夫人」あるいは「麗人」としての答えや反応を期待して、事前に準備してきたとみられる頭の中の想定問答が、次々と裏切られ壊されていく点だろうか。インタビュアーは、はからずもそれを「平民的」と表現しているが、「華族的」で理想的な麗人像を取材しようと思ったら、ぜんぜんちがう結果になってしまいそうなので、できるだけこの手の記事でつかわれる美辞麗句を文章中に散らしながら、なんとか予定調和の内容にもっていこう(記事が没にならないようにまとめよう)としているのが透けて見える。
 九条武子の過去の育ちや、「麗人」としてのエピソードあるいは趣味の話を大幅に増やし、せっかく対面できた取材であるにもかからわず、彼女との実際のやり取りは全体の4分の1にも満たない。著者は、華族界の「違反者」の話が深まるとマズイと思ったものか、趣味のテーマに話題を変えようとする。
 九条武子は、子どものころから活花に茶道、謡(うたい)、舞踊、ヴァイオリンと多趣味だったが、これらの趣味があったからこそ新婚後まもない時期から12年もの間、恋しい夫の不在にも押しつぶされずに耐えられたのでは?……という、どこか決まりきった答えが予測できる型どおりの質問に、九条武子は「私の頭はクウルなのかも」と、これまた取材者の期待を裏切り意表をつくような返事をしている。
竹柏会1921.jpg
華族会館麹町区内山下町.jpg
華族会館倶楽部.jpg
  
 「よく十年の長い間、お心もお体もお健やかにゐらせられたのが、私どもには不思議に思はれます」 心おきない質問に、夫人は微笑みながら、/「一つには趣味の生活もあつたからでせうが、有難いことには、お腹の中にゐる時から、自然に頭に浸みこんだ信仰の念は、何事につけても、諦めが早うございます。それと同時に、苦痛の伴はない努力があつて、いつもスラスラと心をのばして暮らしてゐます。ある新聞にヒステリイになつたと書かれましたが、三度の御飯もおいしく頂いて、人一倍お寝坊のできるヒステリイであつたら、私は何時までもこの病でゐたい、と女中たちと話しました。あるひは私の頭は、冷静(クウル)なのかもわかりませんよ」/夫人に理智の閃きはあれど、これを以て、その全部と見ることができませうか。
  
 想定とは異なる返事が、あまりに次々と返ってくるのにじれったくなったのか、著者は半分投げやりな感じでインタビューを終えたようだ。このあと、昔の短歌作品を再び引っぱだし、穏便な予定調和で終われそうな文末の“まとめ”に入ろうとしている。
 おそらく取材者は帰りぎわ、辞令のつもりだったのか夫がようやく帰朝したあと、これから東京の「社交界」では「どのようなご活躍を?」とでも訊いたのだろう。この質問に対し、九条武子はおそらくインタビュアーを驚愕させた答えを返している。華族同士が集まり、ただ交際するだけの「社交界は意味がない」といったのだ。
  ▼
 「忙しい生活にもなつたことですから直接に公共のお役にたつ会ならば、働かして頂きませうが、意味のない社交界へは、失礼するつもりです。」
  
 このとき、彼女は大島の着物に藤色の半襟をのぞかせ、黒っぽい羽織を着ていたようだが、中村富久野子に一礼すると、当時の女性としては160mをゆうに超えるスラリとした長身のうしろ姿を見せながら、長い廊下の奥へと消えていった。
九条武子邸跡.JPG
九条武子下落合1.jpg
九条武子下落合2.jpg
 「無意味な社交界」へ出入りする夫を批判したばかりでなく、華族会館に集ってゲームや音楽、美食、酒など無為徒食にあけくれる華族全員の姿勢を暗に“刺した”ことになる。だが、九条武子の彼女らしい本格的な活動は、麹町区三番町の九条邸を出てから1923年(大正12)の関東大震災をはさみ、下落合へ転居してくるころから始動することになる。

◆写真上:1921年(大正10)2月11日、短歌会「竹柏会」出席のため東京へもどった柳原白蓮Click!の上野精養軒における歓迎会。右から左へ伊藤燁子Click!(柳原白蓮)、九条武子、藤田富子、跡見花渓、加賀文子で立っているのは佐々木信綱。
◆写真中上は、夫が12年ぶりに英国から帰国したころの九条武子。下左は、1909年(明治42)に結婚した当時の九条武子と九条良致。下右は、夫の帰国直後に撮影された九条夫妻だが、ふたりの関係を象徴するかのような写真。
◆写真中下は、「竹柏会」の記念写真で、右から左へ樺山常子、九条武子、大谷籌子、三条千代子、佐々木雪子(佐々木信綱夫人)。は、関東大震災前は麹町区内山下町にあった華族会館の入口(上)と館内にあった倶楽部(下)。
◆写真下は、下落合753番地の九条武子邸跡の敷地だが現在は2棟の住宅が建設されている。は、下落合の邸内における親友によるスナップ写真で、書斎で仕事をする九条武子(上)と近所の野良ネコを餌付けして縁側でくつろぐ彼女(下)。

小坂多喜子と小林多喜二。

$
0
0
中井駅.jpg
 小坂多喜子Click!は、クールかつ進歩的な観察眼で人間を見つめる表現者であり、思想でゴリゴリに凝りかたまった融通のきかない共産主義者でも闘士でもない。思想や理想よりも先に、家庭や家族を愛し優先する生活者だった。だから、いろいろな局面で予断や思想的なフィルターを眼差しにあまりかぶせることなく、人間を細かくていねいに観察できたのではないだろうか。
 また、思いきりがよく寡黙がちだが、基本的には明るく楽観的な性格をしており、オシャレにも気を配る自由闊達でフレキシブルな精神の底流には、一度決めたらテコでも動かないような、芯の強情さも秘められていたようだ。彼女が生涯を通じて神近市子Click!を師のようにとらえ、その生き方に共鳴したのも、どこか共通する性格の根幹のようなものを感じていたからだろうか。
 そんな彼女が遭遇した許しがたい場面のひとつに、築地署の特高Click!による小林多喜二Click!の虐殺事件がある。小坂多喜子は、共産主義運動に加えられた階級敵の弾圧によって生じたあからさまで必然的な虐殺というような、左翼思想をベースとする理性的で位置づけ的な解釈よりも、こんなひどいことを平然と行なう政治は徹底的にまちがっている……というような、良識のある一般的な市民感覚で事件をとらえ、のちにトラウマになるほどの強烈な恐怖心を抱いた。虐殺事件を、あとあとまで感性的な認識でとらえるところに、小坂多喜子が夫とともに身を置いた思想の活動家としての「弱さ」があり、表現者としての息の長い「強さ」があったのかもしれない。
 小坂多喜子が小林多喜二Click!と出会ったのは、1930年(昭和5)3月に勤めはじめた有楽町駅のガード脇にあるビルの2階だった。神近市子Click!が紹介してくれた山田清三郎Click!を通じて、猪野省三が出版部長だった戦旗社の出版部で仕事をしはじめている。といっても、猪野部長に対して部員は彼女ひとりしかおらず、月給はわずか30円(現代の貨幣価値で10~12万円ぐらいか)だった。
 業務の内容は、同社が出版する書籍の校正作業がメインで、本を印刷している早稲田鶴巻町の印刷所へ出向することもめずらしくなかった。上落合から東中野駅へ出て、ラッシュアワーの中央線と山手線を乗り継いで有楽町に出社するよりも、西武線の中井駅から高田馬場駅まで出て近くの早稲田へ直行したほうが、徒歩あるいは高田馬場駅前からダット乗合自動車Click!に乗ればすぐなので楽だったろう。猪野省三とともに出向先の校正作業では、印刷所が昼食に天丼をとってくれたようで、神戸育ちの彼女にはそれがめずらしかったのか、特に美味だったことを記憶している。ちなみに、おそらく同じ印刷所なのだろう、上野壮夫Click!は親子丼が美味だったことを憶えていた。
 小坂多喜子が戦旗社出版部に勤めはじめたころは、同社刊の徳永直『太陽のない街』と小林多喜二『蟹工船』(ともに1929年刊)の2冊が、文学界のベストセラーになっていた時期と重なるので、大手新聞に次々と広告を出稿していた。その広告版下づくりも、彼女は手伝っている。当時の戦旗社には、中野重治Click!壺井繁治Click!、古沢元、のちの夫になる上野壮夫などが立ち寄っていたが、小林多喜二も顔を見せた。
有楽町駅へ1930.jpg
太陽のない街1929.jpg 蟹工船1929.jpg
 そのときの様子を、1985年(昭和60)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春―わたしの逢った作家たち―』から引用してみよう。
  
 そういうある日、小林多喜二が来たのだ。私の机すれすれの窓枠に腰をかけ、足をぶらぶらさせながら、「小坂多喜子というのは僕と同じ名前だね」と云った。小柄で、着流しの大島絣の裾からやせた足がのぞいていた。皮膚の薄い色白の顔がすぐ桜色にそまるようで、猪の省(猪野省三)と私に向って、というより主に私に向ってなにかひっきりなしにしゃべっていたが、私の覚えているのはその一言だけである。その時私が思ったことは「おしゃべりな男は嫌い」ということだった。私はその時二十一歳で、そういう若さの潔癖がそう思わせたのかも分らないが、やせて小柄な身体に似合わず、精力的な饒舌家というその時の印象は今も消えていない。(カッコ内引用者註)
  
 戦旗社出版部のドル箱作家のひとりで、プロレタリア文学のスターで象徴的な存在だった小林多喜二を前にして、「おしゃべりな男は嫌い」というのが、人を見る眼差しに予断やフィルターをかけない小坂多喜子らしい感想だ。
 その2年後の1932年(昭和7)、彼女は「プロレタリア文学」に小説『日華製粉神戸工場』を書くことになるが、そのとき「僕と同じ名前だね」といった小林多喜二の言葉がひっかかって、ペンネームを「小坂たき子」とひらがな表記にした。彼女が上野壮夫と結婚し、上落合郵便局近くのケヤキの大樹が見える借家から、出産のため一時的に池袋駅西口にある豊島師範学校Click!近くの長屋に転居し、1932年(昭和7)の秋に改めて阿佐ヶ谷の借家へ移るころのことだ。だが、阿佐ヶ谷の暮らしは1年ほどで切りあげ、彼女は夫とともに再び上落合の“なめくじ横丁”Click!へともどってくる。
 その阿佐ヶ谷時代に起きた最大の事件は、近くに家があった小林多喜二の虐殺事件だった。1933年(昭和8)2月20日の深夜、小坂多喜子と上野壮夫は突然「小林多喜二の死体が戻ってくる」という連絡を受け、真暗な道を阿佐ヶ谷駅に近い小林邸へと息せき切って走っている。1932年(昭和7)に起きた日本プロレタリア文化連盟(コップ)の弾圧で、小林多喜二は地下に潜行しているはずだった。
中井駅の道.JPG
小林多喜二邸1936.jpg
小林多喜二邸1941.jpg
 駈けつける途中、作家の若杉鳥子邸近くの道で、うしろから幌をつけた大きなクルマが、走る夫妻を追い抜いていった。警察の車両だったのだろう、多喜二の遺体が乗せられているのをふたりは直感している。夫妻は、今度はそのクルマのあとを追いかけはじめた。このとき、上野壮夫は近くの亀井勝一郎宅へ急を知らせたが、亀井が通夜の席へ顔を出すことはなかった。ちなみに、若杉鳥子もまた凶報を聞いて小林宅へ向かっていたが、途中で特高に逮捕され池袋警察署に連行されている。
 ふたりがようやく追いつくと、車両は両側に檜葉の垣根がある行き止まりの路地の突き当たりに停車しており、路地奥の左側が杉並町馬橋3丁目375番地(現・杉並区阿佐ヶ谷南2丁目)にあった平屋建ての小林宅だった。玄関を含めて三間ほどしかない家だが、庭に面した奥の間に小林多喜二の遺体は寝かされていた。
 そのときの小坂多喜子が受けた強い衝撃を、同書より再び引用してみよう。
  
 眼をとじた白蝋の顔はすでに死顔で、頬のあたりに斑点になった内出血のあとや首すじや手首に鮮明な輪になった黒い内出血のあとがあり、大腿部のあたりも一面真黒で、拷問による死であることが歴然としていた。剛い、豊かな髪が青白い電燈の光りで緑色に見えるほど黒々と、そこだけ生きているようで、私はいたましいというよりも恐怖で一ぱいだった。その不気味な髪の色は、その後折にふれ目に浮びあがってきて私をなやませた。その真すぐな剛い毛質が私のつれあいの髪の毛にダブって見え、私はその恐ろしい呪縛からぬけ出るのにその後十年余の年月を必要としたほど、それは強く私の脳裡に焼付いて離れなかった。
  
 小坂多喜子は葬儀の直後から、夏目漱石の弟子だった江口渙からの依頼で、小林多喜二の遺族への救援基金集めに近所の作家や画家たちの間を奔走している。吉祥寺の山本有三をはじめ、野口雨情、細田民樹、貴司山治、荻窪の細田源吉、津田青楓(画家)らが、逮捕覚悟で即座にカンパに応じてくれたようだ。
 日本の敗戦後、小坂多喜子は中央線の高円寺に住んでいるが、区役所や税務署が阿佐ヶ谷駅の近くにあるので、しばしば出かけている。彼女は同書の中で、荻窪駅や西荻窪駅、吉祥寺駅、高円寺駅などと比べ、「中央沿線で阿佐ヶ谷ほどつまらない街はないと思う」と書いている。それは、阿佐ヶ谷駅の周辺に特色のある商店街や、独特な雰囲気の街並みが見られないからだと書いているが、そればかりではないように思う。1933年(昭和8)の冬、小林多喜二の虐殺事件にいき合わせ、阿佐ヶ谷という地域全体が灰色になってしまったからではないだろうか。
小坂多喜子「わたしの神戸わたしの青春」1986.jpg 小林多喜二.jpg
小林多喜二通夜.jpg
 小坂多喜子が、小林多喜二の枕もとに座りこんでまもなく、ひとりの和服姿の女性が通夜の席へ飛びこんできた。のちに下落合に住み、下落合1丁目437番地(現・下落合3丁目)のクララ洋裁学院Click!へ通うことになる、前年に多喜二と結婚していた妻の伊藤ふじ子Click!だった。そして、小坂多喜子と伊藤ふじ子は、その後、上落合と下落合の近所同士で何度か交流をつづけているようなのだが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:中央線の東中野駅とともに、小坂多喜子が上落合時代によく利用したと思われる、1935年(昭和10)すぎに撮影された西武電鉄の中井駅。
◆写真中上は、ちょうど小坂多喜子が戦旗社に勤めていた1930年(昭和5)撮影の新橋側から見た有楽町駅のガード沿い。は、1929年(昭和4)に戦旗社から出版されベストセラーになった徳永直『太陽のない街』()と小林多喜二『蟹工船』()。
◆写真中下は、上落合469番地の神近市子邸Click!を出て、中井駅へ向かう近道となる細い道筋。背後が鈴木文四郎(文史朗)邸跡で、画面の左手が古川ロッパ邸跡。は、1936年(昭和11)と1941年(昭和16)の空中写真にみる杉並町馬橋3丁目375番地(現・阿佐ヶ谷南2丁目)にあった小林多喜二邸の界隈。
◆写真下上左は、1986年(昭和61)出版の小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』(三信図書)。上右は、1929年(昭和4)撮影の小林多喜二。は、1933年(昭和8)2月20日深夜から翌21日未明にかけ小林多喜二の通夜に駈けつけた人々。最近、同写真のバリエーションが新たに発見されているので、次回の記事で人物とともにご紹介したい。

下落合18番地で印刷された「時代」。

$
0
0
祖谷印刷跡1.JPG
 1935年(昭和10)4月に民族社から刊行された文芸誌「時代」は、下落合1丁目18番地にあった祖谷印刷所で刷られていた。この「時代」という文芸誌は、創刊号だけで終わってしまったようだが、あまたの文芸時評の中に、同年に開催された独立美術協会Click!の第5回展の展評が掲載されていて目をひく。いまや古書店でも見かけない、同誌の貴重なコピーを送ってくださったのは、三岸アトリエClick!山本愛子様Click!だ。
 「時代」創刊号が印刷されたのは下落合の祖谷印刷所だが、1938年(昭和13)になると同印刷所はすでに見あたらない。同年作成の「火保図」を見ると、下落合1丁目18番地には新たに月光堂印刷が開業している。おそらく、祖谷印刷所から社名を変更したか、印刷機など設備一式を居抜きで譲り受け、そのまま営業している次の印刷所なのだろう。同地番は、現在の十三間通りClick!(新目白通り)に面した清水川公園の西隣りで、西武線の線路をはさみ指田製綿工場Click!の北東側にあたる敷地だ。
 さて、同誌に掲載された「独立美術合評会」には、5人の評者が出席している。そのメンバーとは、画家であり彫刻家の清水多嘉示Click!、フランス文学者で評論家の小松清、小説家で劇作家の高橋丈雄、イタリア文学者の三浦逸雄、そして美術評論家の土方定一だ。おわかりのように、美術畑の人物は清水と土方だけで、あとの3人は文学畑の評者たちだ。合評は、清水多嘉示の「独立美術は現在日本に於て最も前衛的なものと思ひます。在来の日本絵画を見直してそこから新しく動きださうと云ふ気持が展覧会の指導的な立場になるんじやないかと考へてゐる」と、意気ごんでスタートした合評だが、清水は徐々に黙しがちになってしまう。
 なぜなら、独立展の多くの画家たちが、おもに文学畑の評者によってボロクソにいわれはじめたからだ。言葉少なになる清水多嘉示は、たとえばこんな具合だ。
  
 小松 どうです、清水君。/(清水氏躊躇してゐる間に三浦氏)
  
 清水多嘉示Click!が言葉少なになるにつれ、「どうです、清水君?」「清水君、どうかね?」という問いかけが増えていく。そもそも、この展評は洋画の前衛を自負する独立美術協会の画家たちを、ハナから批判する目的で開かれたのではないかとさえ思えるふしがある。合評の前提として提示されたテーマが、次のようなやり取りだったからだ。
  
 土方 (前略) 最近四、五年前まではともかく前進してきた一般人の芸術意識の後退といふことが考へられやしないでせうか? そして、独立展にしても、さういふものに直面した混乱といふか、追従といふか、それに対する各人の態度も興味深くでてゐる。(中略)
 三浦 思想的といふよりも、エスプリをかいてフオルムから入つて行つた画家の多いことを表はしてゐる。フオルムから行けばそれだけで一寸画はすゝんだやうに思ふ。しかし、真に新しいエスプリが新しいメチエを見付けた場合でないかぎり、一二年もつづけてやつてゐると、メチエの発見がない。
  
 ある意味で本質を突いている言葉なのだろうし、彼らにいわせれば「ホントのことだからしょうがないもん」なのだろうが、「誰のどこがいい」というポジティブな展評よりも「誰のどこがダメ」という言葉が大半を占めるにつれ、意気ごんで座談会に臨んだ清水多嘉示は、暗澹たる気持ちになっていったのではないか。清水は、少しでもいいたい放題の「悪評大会」を是正しようと試みているが、周囲の人たちとの会話が噛みあわない。
時代奥付.jpg
時代193504.jpg 独立美術合評会.jpg
時代目次.jpg
 第5回展の「第一室」から具体的な作品を対象とした評論がはじまり、清水は「良い悪いは別として」若い人たちががんばっていると水を向けるが、「作品として特別感心させられるものはない様だね」(小松)とにべもない。次々に出展作品が取りあげられるが、曾宮一念Click!については「絵画としてはそれほど進んでゐないと思ふ。矢張り諦観主義だよ」(小松)。野口彌太郎Click!については、「どこがよいのかわからなかった。風俗画という感じがした」(三浦)、「巴里風景などは下らないね」(小松)。児島善三郎Click!については、「マンネリズムだと思ふ、あの人の獲得したものは」(高橋)、「サロン的エレガンスに余り魅力も持てないし、また期待ももたない」「感性ばかりに阿ねつていて、思想性が欠けてゐる」(土方)という具合だ。
 伊藤廉については、「下らんね」(高橋)、「あの山々も大観ばりで、全くどうかと思ふ」(小松)。須田国太郎については、「結局頭でしかかいてゐないと云つた風な絵だね」(小松)、「死んだやうな絵だね」(三浦)。ここで清水多嘉示が、須田国太郎について「この人の力といふものが判つてきた様な気がする」とやや弁護するが、周囲から一蹴されてしまう。中村節也については、「作家の感性生活内容の貧しさをかくすため芸修行と云つたところ」(小松)……。そして、中村節也や松島一郎、熊谷登久平などの新人が、これからの独立展を牽引していかなければならないんだから、「もつとしつかりやつてもらわねば」ダメじゃないかと結んでいる。
 この展評の中で、評者たちから無条件で褒められているのは、「時代」の寄稿者でもある福澤一郎Click!と、あと2年で独立美術協会から脱退する里見勝蔵Click!、そして三岸節子Click!だ。特に、同協会の会員でもない(女性なので会員にしてもらえない)三岸節子についてはベタ褒めに近い。同誌から、再び引用してみよう。
祖谷印刷跡2.JPG
祖谷印刷所(下落合1-18).jpg
児島善三郎.jpg 野口彌太郎.jpg
須田国太郎.jpg 中村節也.jpg
  
 小松 (前略) ところでこの辺で第二室に移つて三岸節子の作はどうかね。色彩のハーモニーの点から云つても画面全部の構成の点からみても立派な出来ばへだと思ふ。去年より一段と良くなつたと思ふが。(略) 単純な色を使つておそらく三色か四色使つてそれで豊かな感じを出すところなぞ独立にも珍らしい。
 三浦 あれはいい。三岸夫人の絵は素直なところがいい。この人の線は物体をかぎるだけの線でなくて、絵画的なポエジイを秩序づける句読点のやうなものだ。非常に素質のいい人だといふ感じがする。
 小松 今まで日本の女流作家であれだけの作風なり技術をもつたものは、先ず皆無と云つていゝ。兎も角サンチマンと云ひ理智の働きと云ひ、その二つの要素の共同の働きと云ひ、僕はそのユニテに感心する。
 三浦 女で今のところともかく本質的な意味でもよく出来てゐる人だと思ふ。
 小松 マチスやデユフイの影響は多い。しかしそれをあそこまにで十分咀嚼して自己のものにしたと云ふことには心から感服出来るね。
 三浦 去年も里見君と話したが、実に豊かな絵をかく人だ。女でなく男だつてあれだけは仲々描けないよ。
  
 辛口の批評者たち(清水多嘉示は除く)にしては、手放しで褒めているのが目立つ。福澤一郎と里見勝蔵を除き、その他の独立美術協会会員にしてみれば面目を丸つぶれにされたような展評だが、このような批評が積み重なって、児島善三郎をはじめ会員たちの嫉妬が高まり、三岸節子は4年後の1939年(昭和14)、「女性は会員になれないとの内規」を理由に同協会離脱する(弾きだされる)ことになるのだろう。
 第5回展の第十一室には、没後1年めにあたる三岸好太郎Click!の遺作も特別陳列されていた。それについて、「技術的にこの人の今までの仕事は概括的に説明出来ない」(土方)としながらも、「とに角、多くの影響をうけて自己の個性を育てて行つた点は三岸君の感覚の多様性を示すものだ」(小松)、「あれ位ひスウルレアリストで完成された人は居なかつたけれど」(三浦)と、おしなべて好評価されている。
三岸好太郎・里見勝蔵1933頃.jpg
時代紀伊国屋書店広告.jpg
 そして、「もちろん、ああいう人だから」という前提で、三岸好太郎Click!に「イデオロジツクのものを求めるのは無理かも知れぬが、エモーションは求められる」(小松)と、どこか憎めない「ああいう人」という性格も含めて、好意的にとらえられている。

◆写真上:下落合1丁目18番地の祖谷印刷所があったあたり(画面右手)、左側が十三間通り(新目白通り)で奥に見えているのが山手線のガード。
◆写真中上は、1935年(昭和10)4月に発刊された「時代」創刊号の奥付。は、「時代」の表紙()と座談会「独立美術合評会」の扉()。は、同誌の目次。
◆写真中下は、祖谷印刷所(のち月光堂印刷)の跡。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる月光堂印刷。中下は、独立美術協会の児島善三郎()と野口彌太郎()。は、同じく須田国太郎()と中村節也()。
◆写真下は、独立美術協会の創立メンバーだった三岸好太郎(左)と里見勝蔵(右)。は、同誌に掲載された新宿の紀伊国屋書店の田辺茂一・編による『能動精神パンフレット』出版広告。十返一や森山啓、舟橋聖一、田村泰次郎、窪川鶴次郎など落合地域やその近辺に関わりの深い作家たちの名前が並んでいる。

島抜けをまたかとため息つくだじま。

$
0
0
佃島1.JPG
 先日、佃島Click!「丸久」Click!さんへ佃煮を買いに出かけたら、舟入堀の水を抜いた面白い風景に出あった。漁舟のもやい場だった堀に土砂がたまり、より深く浚渫する工事のまっ最中だったのだろう。堀底にカルガモの親子がにぎやかに駈けまわる、めったに見られない光景だ。住吉祭の例大祭で使われる、大幟の柱と抱木を埋めておく佃小橋ぎわに囲われた堀底も、引き潮を待たずによく観察できた。
 佃島の舟入堀には、江戸最初期の普請の痕跡が残っていただろうか? 中央区の教育委員会による学術調査が入ったのかどうかは知らないが、堀割りを浚渫すると面白いものがいろいろ見つかりそうな気がする。まさか、この浚渫作業によって「丸久」の主人Click!が嘆いていたように、佃島の井戸に塩分が混じるようになったのではあるまい。地下水脈の破壊は、石川島や月島の再開発でもっと以前から進行していたのだろう。
 佃島は、もともと大川(隅田川)の河口に近い三角洲で、2丁四方の小島だった。また、佃島の北側には同様に鎧島と呼ばれた洲があったのだが、鎧島を埋め立てて佃島に隣接させ、新たに石川島と呼ばれるようになる。例の寛政年間に、加役(若年寄支配火付盗賊改方)の長谷川平蔵らが設置した、元罪人や終身懲役人、無宿者などに手職をつける世界初の犯罪者更生プログラム=「人足寄場」だ。当時、大川の河口域にあった島はこのふたつだけで、1892年(明治25)に埋め立てられた月島は、いまだ存在していない。
 わたしが物心つくころ、佃島には1964年(昭和39)竣工の佃大橋が架けられておらず、都営の佃渡し舟(蒸気船:無料)で渡ったのをかすかに憶えている。親父はいつも「天安」の佃煮が定番だったが(祖父母の代も「天安」だったのだろう)、子どもの舌に「天安」の製品はかなりしょっぱく感じたので、わたしの代からは「丸久」で買うようになった。当時、佃島の北側に接する石川島は、ところどころにクレーンが建つほとんどが倉庫街だったらしいのだが、わたしの記憶はハッキリしない。
 子どもの目に映った佃島は、まるで時代劇のセットか芝居の書割りに登場するような街並みだった印象があるので、おそらく江戸期からの建物や明治期の住宅が、いまだそのままの姿で残っていたのだろう。佃島は、1923年(大正12)の関東大震災Click!でも、1945年(昭和20)の東京大空襲Click!でも炎上せず、江戸期から明治期そのままの姿を残してきた。それは、島民が一丸となって防火や消火に努めてきたからだが、バブル経済がスタートする1980年代ごろから明治以降の建物ばかりになり、現在は明治・大正・昭和初期の住宅は数えるほどしか残っていない。
 ちなみに、1984年(昭和59)に東京都教育庁社会教育部文化課が行なった実地調査「中央区佃島地区文化財調査報告」によれば、明治期の住宅は22軒、大正期の住宅が83軒、昭和初期で戦前の建物が27軒、その他が戦後の現代住宅だった。もし、震災や戦争がなくて焼けていなければ、1980年代まで東京の他の地域にも佃島と同様の割合で、近代建築の住宅が街中のいたるところに残っていたかもしれない。
佃島2.JPG
佃島3.JPG
佃島渡船1960年代.jpg
 さて、江戸の寛政期から元罪人や終身懲役人、無宿者の更生施設=人足寄場として機能していた石川島だが、もちろん「なんでおいらが、マジな仕事しなきゃならねえんだよ」と、更生を拒否して人足寄場から逃げだす者も少なからずいた。人足寄場は、小伝馬町の牢屋敷Click!とは異なり、罪をつぐなった元罪人や無宿者なども手に職をつけるために収容していた施設なので、彼らが逃げたからといってすぐさま追手を差し向け、執拗に探索して捕縛するわけにはいかない。だが、服役中の終身懲役人が逃げた場合には牢破りとみなされ、火盗やのちには町奉行所の追及を受けることになる。
 現在では、上演される機会もまれになってしまったけれど、石川島の人足寄場を舞台にした「安政奇聞佃夜嵐(あんせいきぶん・つくだのよあらし)」という芝居がある。1892年(明治25)に古河新水(こがしんすい=12代目・守田勘弥と同人)が書き下ろした、いわゆる「菊吉時代」(人気の高かった6代目・尾上菊五郎Click!初代・中村吉右衛門Click!の大看板コンビ)の当たり狂言だ。初演は1914年(大正3)というから、佃島の住民たちも「ちょいと、江戸東京へいってくら」(佃島では築地側や日本橋側など大川の右岸へでかけることを「江戸へいく」、または明治以降は「東京へいく」と表現していた)と、浅草の市村座まで観劇に出かけていたのかもしれない。
 この芝居は、安政年間に起きた実際の牢破り事件を題材にしており、終身懲役刑で送りこまれた元・幕府御家人で主人公の青木貞次郎と神谷源蔵のふたりは、石川島の人足寄場で日々絶望的な苦役をさせられていた。青木貞次郎は、親を殺害した仇を探しだしてどうしても仇討ちがしたいと望んでいたが、それを聞いた神谷源蔵が、人足寄場からの脱出を勧めるという筋立てだ。ところが、牢破りを勧めた神谷源蔵こそが、親を殺害した張本人で憎んでも憎みきれない旧仇だった……という、現代では韓流ドラマでしかお目にかかれないようなストーリー展開だ。
安政奇聞佃夜嵐1.jpg
安政奇聞佃夜嵐2.jpg
佃島4.JPG
 物語はさして面白くもなく、当時は花形で大人気だった菊五郎と吉右衛門でもっていた舞台のせいか、1987年(昭和62)以降は上演される機会がなくなってしまったのだろうが、その中の1幕だけが有名でいまでも語り草になっている。それは、石川島を脱出した青木貞次郎と神谷源蔵が、大川の水に流されながら対岸めざして泳ぎわたる、それまでの歌舞伎では見られなかった水泳シーンが登場したからだ。ふたりは当然、佃の渡しがある築地側へ泳いでいったのだが、流れがあるので対岸の本湊町や舩松町ではなく、もう少し流されて十軒町や明石町のほうへ上陸しているのかもしれない。
 ふたりが大川を泳ぐシーンは、舞台全体に張られた波模様の大きな布の、横に引き裂かれたところから首だけをだし、いかにも泳いでいるような浮き沈みの演技をしてみせる。役者は、舞台に膝をついて身体の浮沈を表現するため、立って演技をするのとは勝手がちがい、かなり体力を消耗しただろう。これまでに見られない、新鮮な舞台表現を「菊吉」コンビがやって見せたので話題をさらい、以降、「安政奇聞佃夜嵐」の上演はストーリー展開などもはやどうでもよく、歌舞伎の舞台にはめずらしい斬新な水泳シーンの一幕のみ上演されるようになっていく。
 親父は、大正期以前の薬研堀近くにあった水練場Click!ではなく、昭和10年代には両国橋の本所側に設置されていた水練場Click!で泳ぎをおぼえ、実際に大川を何度か泳いでわたっているが、木村荘八Click!のように台場までの遠泳をやったかどうかは訊きそびれている。たぶん、大川や東京湾が工場排水で汚染された昭和初期には、そのような遠泳は禁止され、別の「試験」で水泳帽の赤線を増やし、進級していったのだろう。潮の干満にもよるが、引き潮のときの大川は案外流れが速く、対岸へ泳いでわたるのはかなりの体力が必要だと聞いている。青木貞次郎と神谷源蔵のふたりも、潮の満ち引きを十分に考慮に入れて人足寄場を脱出しているのだろう。
 ふたりが水に流されながら泳ぎわたったあたりは、1879年(明治12)になって海面平均値の「0m」が規定・採用され、日本のすべての標高値を決める水準原点Click!となった大川河口の間近だ。月島はいまだ影もかたちもなく、佃島の南側の水面は陸軍参謀本部(陸地測量部)Click!が7年間にわたり0m測量を繰り返していたエリアだ。0mを規定するのに7年間もかかるほど、潮の干満が激しかったことがわかる。現在、大川から東京湾にかけての潮位変化は、ゆうに2mを超えている。
舟入堀1953.jpg
佃島5.JPG
佃島6.JPG
 大川の流れや太平洋の潮の干満により、江戸東京を縦横に走っていた堀割りには土砂など大量の堆積物が運ばれてくる。それを除去し、堀割りの定期メンテナンスで水深を確保しないと、舟の通行にも支障をきたすことになる。佃島の舟入堀も、この400年間にわたり何度か浚渫を繰り返してきたにちがいない。今回の工事では、同時に舟入堀のビオトープの観察施設も建設されるらしい。神田川Click!と同様に大川(隅田川)にも、サケをはじめ多種多様な生き物がもどってきている証拠で、わたしとしても嬉しいかぎりだ。そういえば、日本橋川にもサケがもどってきたという話も近ごろ聞いたばかりだ。

◆写真上:水が抜かれた舟入堀で、手前にカルガモの親子が8羽ほどエサを漁っている。
◆写真中上は、佃小橋から眺めた水抜きの舟入堀で右手の囲いが大幟柱や抱木の埋設地。は、住吉社裏から西を向いた舟入堀。堀の右岸には石川島の人足寄場役所や見張番所、女長屋などが並んでいた。は、佃大橋がない1960年前後に撮影された佃の渡し。対岸の右手には聖路加病院が写り、遠景には東京タワーが見える。
◆写真中下は、「安政奇聞佃夜嵐」のブロマイドで6代目・尾上菊五郎の青木貞次郎(左)と神谷源蔵の初代・中村吉右衛門(右)。は、大川の水門上から水抜きの舟入堀を眺めたところで右岸が佃島で左岸が石川島。
◆写真下は、1953年(昭和28)撮影の舟入堀。正面の石川島にある倉庫あたりが、人足寄場の長屋や稲荷のあったところ。は、上写真と同じ方向で撮影した普段の舟入堀。は、牢破りしたふたりが泳いでわたった佃大橋のある築地側の川面。
おまけ
1861年(文久元)制作の、尾張屋清七版の切絵図「京橋南築地鉄砲洲絵図」に描かれた佃島と石川島。切絵図が制作された数年前に、石川島からの島抜け事件が起きている。
京橋南築地鉄砲洲絵図1861.jpg

小坂多喜子と伊藤ふじ子。

$
0
0
クララ洋裁学院跡.jpg
 小林多喜二Click!が書いた小説『党生活者』(1932年)に登場するハウスキーパー「笠原ふじ子」を、平野謙は「ふじ子」の名前が重なることから、“ウラ取り”せずにフィクションをそのまま解釈して、伊藤ふじ子Click!のことをハウスキーパーだと規定したため、戦後の長期間にわたり誤った言説がつづくことになった。
 その後、潜行した小林多喜二の周囲にいた人々の証言から、伊藤ふじ子は多喜二の正式な妻だったことが判明し、平野謙は自身の誤りを認めているようなのだが、わたしはその文章をいまだ確認していない。小林多喜二と伊藤ふじ子が初めて出逢ったのは1931年(昭和6)の早春、彼女が新宿の果物店の2階に住んでいたころ、ビラ張りを手伝っていた人々に混じって多喜二がいたという経緯からのようだ。当時、多喜二は豊多摩刑務所Click!から保釈されたばかりで、3月から大山Click!(神奈川県)の麓にある七沢温泉に逗留する直前の出来事ということになる。
 画家になりたかった伊藤ふじ子は、このころ明治大学の事務局に勤務しながら、長崎町大和田1983番地にあった造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!プロレタリア美術学校Click!)へ通うため、目白駅から目白通りを頻繁に往来していた。画家が大勢住み、あちこちにアトリエがあった下落合地域(現・中落合/中井含む)に馴染んだのも、ちょうどこのころからだったのだろう。ほどなく、差出人に「七沢の蟹」と書かれた手紙が、伊藤貞助が経営していた新宿の書店経由で、伊藤ふじ子のもとへ頻繁にとどくようになる。もちろん「七沢の蟹」とは小林多喜二のことで、中身は求愛の手紙だった。1932年(昭和7)4月、伊藤ふじ子は多喜二と結婚して地下へもぐり、ともに潜行生活を送ることになる。
 1933年(昭和8)2月20日、小林多喜二が築地署で虐殺された夜、杉並町馬橋3丁目375番地に遺体が運ばれ通夜が行なわれていたとき、小坂多喜子Click!は異様な光景を目撃することになった。原泉Click!は、伊藤ふじ子が特高Click!に検挙されるのを懸念して、事前に「あんたが(小林多喜二の)女房だなどといったらどういうことになると思うの」といい含めておいたのだが、伊藤ふじ子は取り乱して夫の遺体にすがりついた。
 そのときの様子を、1985年(昭和60)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春―わたしの逢った作家たち―』から引用してみよう。
  
 その多喜二の死の場所へ、全く突如として一人の和服を着た若い女性が現われたのだ。灰色っぽい長い袖の節織の防寒コートを着たその面長な堅い表情の女性は、コートもとらず、いきなり多喜二の枕元に座りこむと、その手を両手に取って自分の頬にもってゆき、人目もはばからず愛撫しはじめた。髪や毛、拷問のあとなど、せわしなくなでさすり、頬を押しつける。私はその異様とさえ見える愛撫のさまをただあっけにとられて見ていた。(四十年を経た現在、これを書いていて、上野壮夫にその時の印象をきくと、やはりその場に居合せた人はあっけにとられて見ていたという。) その場を押しつつんでいた悲愴な空気を、その若い女性が一人でさらってしまった感じだった。人目をはばからずこれほどの愛情の表現をするからには、多喜二にとってそれはただの人ではないということだけは分ったが、それが誰であるかは分らなかった。その場に居合せた誰もが、その女性が誰なのか分らなかったのではないかと思う。如何に愛人に死なれても、あれほどの愛の表現は私にはできないと思われた。
  
時事新報19330222(夕刊).jpg
小林多喜二通夜20150220.jpg
 小坂多喜子Click!は「愛人」だと想像したようだが、彼女は多喜二の妻だったのだ。しかも、結婚してから10ヶ月ほどしかたっていない新婚夫婦だった。小坂多喜子は、「居合せた誰もが、その女性が誰なのか分らなかったのではないか」と書いているが、少なくとも原泉と「そっとここから消えてしまいなさい」と忠告した江口渙は、どこかでふたりの関係を耳にして知っていたのかもしれない。
 伊藤ふじ子は、多喜二の母・小林セキにも妻だと名乗って挨拶をしたようだが、澤地久枝によれば田口タキを多喜二の妻同然にあつかってきた手前、「死人に口無しだ」と彼女の申しでを突っぱねたとされている。
 小坂多喜子は『わたしの神戸わたしの青春』の中で、平野謙の「ハウスキーパー論」をそのまま踏襲して、伊藤ふじ子のことをハウスキーパーだと思いこんでいる。「イデオロギーの便宜のための、そういう女性の役目に私は釈然としないものを感じるのだ」と書いているが、その後、何度か伊藤ふじ子と偶然に出会っているにもかかわらず、多喜二の通夜の席で見せた彼女の言動を、あえて確認しようとはしなかったようだ。
伊藤ふじ子1.jpg 伊藤ふじ子2.jpg
クララ洋裁学院1936.jpg
目白中学校跡1928頃.jpg
 小坂多喜子が多喜二の死後、伊藤ふじ子と偶然知り合ったのは洋裁を通じてだった。小坂多喜子が上落合2丁目829番地に住んでいたころで、伊藤ふじ子は1933年(昭和8)11月30日にクララ洋裁学院を卒業して、下落合から東京帝大セツルメントClick!の講師として通いはじめ、同時に長崎のプロレタリア美術学校に通っていたころのことだ。伊藤ふじ子は、1934年(昭和9)に特高に逮捕され、やがて森熊猛と再婚しているので、その少し前ということになるだろうか。小林多喜二の虐殺から、およそ1年ほどが経過していた。同書より、再び引用してみよう。
  
 私はその彼女とその事件のあと偶然知り合い、私の洋服を二、三枚縫って貰った。その時の彼女の話をよく覚えている。それはどこか寂しい夜道を、彼女が棒をふりふり洋裁を習いに通ったという話である。人家のまばらな草のぼうぼうと生い繁った夜道を女が一人歩くのには護身用の棒が必要であったのであろう。彼女は多喜二の死のあと、自活するために洋裁を習いに通ったのであろうか。私はその彼女の芯の強さと行動力に打たれた。その時二人の間には小林多喜二の話は一言も出なかった。それからしばらくして、私たちの交際は何となく切れてしまった。
  
 文中の「人家のまばらな草のぼうぼうと生い繁った夜道」とは、目白中学校Click!が練馬へ移転したあと、下落合1丁目437~456番地の旧・近衛文麿邸Click!の所有地内にあった、広大な空き地(原っぱ)のことだ。その北西側にポツンと建っていたのが、下落合1丁目437番地に移転して間もない小池元子のクララ洋裁学院Click!だった。
 つまり、小坂多喜子の聞いた言葉が誤りでなければ、目白通りから入ってすぐ(約50m)のクララ洋裁学院へ、伊藤ふじ子は目白通り側からではなく南側または東側から、広大な空き地(草原)を縦断ないしは横断して、「棒をふりふり」通っていたことになる。換言すれば、下落合で暮らした伊藤ふじ子の借家ないし下宿先は、目白中学校跡地の南側ないしは東側のどこかである可能性がきわめて高いことになるのだ。
クララ洋裁学院路地.JPG
下落合の雪景色.JPG
 小坂多喜子が、もう少し伊藤ふじ子と親密になっていれば、謎が多い小林多喜二の地下生活について詳細な証言が得られ、また下落合での彼女の住所も判明したのではないかと思うと残念でならない。伊藤ふじ子は森熊猛との再婚後、晩年に残したわずかなメモ類や「彼は」で終わる未完の手記を除き、多喜二についてはいっさい黙して語らなかった。

◆写真上:下落合1丁目437番地(現・下落合3丁目)に2000年(平成12)まであった、クララ洋裁学院の跡地。当時は、突き当たりから左手一帯が広い空き地だった。
◆写真中上は、1933年(昭和8)2月22日の時事新報に掲載された小林多喜二の死亡記事。特高による検閲で拷問死とは書けず、「怪死」がせいいっぱいの表現だった。は、新発見の写真にとらえられた小林多喜二の遺族と通夜に駈けつけた人々。
◆写真中下は、森熊猛と再婚後の伊藤ふじ子。は、1936年(昭和11)の空中写真にみるクララ洋裁学院と目白中学校跡地で、広大な空き地の南東側のどこかに伊藤ふじ子の下宿ないしは借家があったとみられる。は、1928年(昭和3)ごろの冬季に撮影された目白中学校跡地Click!から目白通りの商店街を眺めたところ。
◆写真下は、クララ洋裁学院があった路地で正面を横切るのが目白通り。路地は行き止まりだが、画面右手から背後にかけてが広大な草原だった。は、下落合の森に降り積もる雪。黒い喪服がわりの洋服を身につけつづけた伊藤ふじ子にとって、1933年(昭和8)は下落合での立ち直りを賭けた、厳しく寂しい“冬物語”の1年間そのものだったろう。「限りなき孤独/ひたすらにかたむく思想/ありし日の夢も失せて/凍る冬 死の虚ろさ……」(上野壮夫『抒情』/「人民文庫」1937年6月号)より。

救世観音の呪いではなさそうな天心邸の怪。

$
0
0
筑土八幡社.JPG
 岡倉覚三(天心)Click!は、1883年(明治16)から1885年(明治18)の3年間に、4回も転居を繰り返しているようだ。まず、日本橋蠣殻町にあった実家から根岸の御行の松Click!に近い鄙びた寮風(江戸期の別荘風)の家へ、半年ほどで巣鴨庚申塚Click!に近い音無川の新築の家へ、次にやはり1年足らずで牛込区の筑土町に建っていた江戸期の大屋敷へ、つづいてほんの数ヶ月で同じ牛込区を流れる江戸川(現・神田川)の舩河原橋Click!も近い新小川町へと、まことにせわしない生活を送っていた。
 岡倉天心の“引っ越し魔”は有名だったらしく、家族はもちろん友人・知人たちは別に驚かなかったらしい。彼は、引っ越しを気分転換のように考えていたようだが、それに付き合わされる家族や書生、女中たちはたまったものではなかっただろう。しかも、このときの岡倉天心は、E.フェノロサとともに関西の美術品調査への出張を繰り返していた時期と重なり、本人がほとんど家にいないような状態だった。にもかかわらず、出張から帰ってくると引っ越しをしているような生活だった。
 ちょうど1884年(明治17)、まるでミイラのように布でグルグル巻きにされ、法隆寺の夢殿に封印されていた救世観音Click!を、僧たちが止めるのも聞かず開扉して布を取り去り、強引に“取調”を行なっている。聖徳太子伝説とともに、「呪い」や「祟り」で名高い救世観音だが、そのときの様子を『天心全集』(美術院版)から引用してみよう。
  
 余明治十七年頃フェノロスサ、及加納鉄斎と共に、寺僧に面して其開扉を請ふ。寺僧の曰く之を開かば必ず雷鳴あるべし。明治初年、神仏混淆の論喧しかりし時、一度之を開きしが、忽ちにして一天搔き曇り、雷鳴轟きたれば衆大に怖れ、事半ばにして罷めり。前例此くの如く顕著なりと、容易に聴き容れざりしが、雷の事は我等之を引受く可しとて堂扉を開き始めしかば、寺僧皆怖れて遁去る。開けば則ち千年の鬱気紛々鼻を撲ち殆ど堪ゆ可からす、蛛糸を掃ひて漸く見れは前に東山時代と覚しき几案あり。之を除けば直に尊像に触るを得べし、像高さ七八尺計。布片経切等を以て幾重となく包まる。人気に驚きてや蛇鼠不意に現はれ、見る者をして愕然たらしむ。頓かて近より其布を去れば白紙あり、先に初年開扉の際雷鳴に驚きて中止したるはこのあたりなるべし。白紙の影に端厳の御像を仰がる。実に一生の最快事なり。
  
 このサイトでは、なぜか救世観音の「救世ちゃん焼き」Click!でかなりのアクセス数を記録しているが、このときに夢殿から出現し、その後も法隆寺の秘仏あつかいが長いことつづいた同像は、大正期に入ると顔面の石膏型までとられ、下落合の霞坂秋艸堂Click!に住んでいた会津八一Click!までがマスクを所有するまでになっていた。
 さて、岡倉天心が夢殿を開扉し救世観音の調査を行なった翌年、すなわち1885年(明治18)の初夏に転居してきたのが、牛込区(現・新宿区の一部)の筑土町(現・津久戸町界隈)に建っていた元・旗本屋敷のひとつだった。このころの天心は、政府の官階も進んで文部属となり、正式の判任官となっていたころだ。給料も上がり“一等下級俸”と決められたので、生活はかなり楽になっていただろう。
 岡倉天心は、短期間で引っ越しを頻繁に繰り返すので、転居を予定している家の由来や謂れなどを落ち着いて調べたり、その物件や地域について隣り近所を調査してまわるような手間のかかることはせず、空き家の話を聞きつけると一度ザッと下見しただけで、すぐに引っ越し先を決めていたようなふしが見える。しょっちゅう転居を繰り返していると、当時の表現でいえば「凶宅」あるいは「凶屋敷」、現代風にいえば「事故物件」を引き当ててしまうのは、小山内薫Click!も岡倉天心も同様のようだ。
岡倉天心.jpg 岡倉元子.jpg
岡倉一雄「父岡倉天心」岩波現代文庫.jpg 救世観音.jpg
 当時、岡倉家には岡倉天心に元子夫人、子ども(長女のみで岡倉一雄は祖父母の家にいた)、画学生の岡倉秋水(天心の甥)、本多天城、山本松谿などの書生たち、女中や俥夫などが住んでいた。下宿していた書生たちは、いずれも狩野芳崖の弟子たちで、のちに四天王と呼ばれるようになる画学生たちが含まれていた。
 ちょっと余談だが、本多天城は下落合(現・中落合/中井含む)にアトリエをかまえていたのを、岡不崩Click!のご子孫であるMOTさんよりうかがった。不崩と天城ともに、芳崖四天王の日本画家たちだ。岡不崩は下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)の二ノ坂上だが、本多天城は一ノ坂沿いの下落合4丁目1995番地にアトリエがあった。これら日本画家たちが下落合の中部から西部にかけてに集合したのも、1922年(大正11)から東京土地住宅により計画されていた「アビラ村(芸術村)」Click!と関連があるのだろうか? 一ノ坂上の本多天城アトリエについて、それはまた、次の物語……。
 さて、筑土町の屋敷での凶事は、引っ越しの当日に起きた長女の大怪我からはじまった。長女は、玄関の式台から靴脱ぎの石の上に転落し、石の角で左頬をえぐる大怪我をしている。裂傷はかなり深く、その傷跡は生涯消えなかったようだ。つづいて、屋敷の中2階の8畳間に住んでいた画学生たちがおびえはじめた。その様子を、2013年(平成25)に岩波書店から出版された、岡倉一雄『父 岡倉天心』から引用してみよう。
  
 六月に入って、五月雨そぼ降る陰鬱の日がつづいたある日の真昼時、素絢を展べて画事に精進の筆を走らせていた二人が、二人ながら急に悪寒を感じて、滅入るような心地となり、あたかも鬼気に襲われたように、うちつれてドヤドヤと階段を転び落ちてきた。そして、茶の間に下りてくると異口同音に、/「どう考えても不思議だ。われわれは何か超自然のものから呪いをかけられているようだ。」/と、元子はじめ家人の前で訴えるのであった。/元子はあまり二人の態度が真面目なので、くだんの中二階をくまなく捜索してみると、白紙に包んだ一丁の古剃刀が、天井の上に封じこめられたのを発見した。稀有なものとみてとった彼女は、中年の下女を隣家につかわして、年配の者にたずねさせると、彼らはひとしく驚異の面持ちで、/「そんなものが残っていましたかねえ……」/と首を傾けるのであった。
  
 ここで、「すわ、夫が無理やりこじ開けちゃった救世ちゃんの祟りだわ!」とならないところに、元子夫人の剛胆さがあるのだろう。おびえる画学生たちを尻目に、中二階の捜索をして天井裏に封印された剃刀を発見している。その封印を、いともたやすく解いてしまう元子夫人もまた、夫と同じように迷信を信じない文明開化の女子だったようだ。
筑土町.JPG
礫川牛込小日向絵図1852.jpg
筑土八幡社拝殿.JPG
 天井裏に封印されていた古剃刀は、ここに住んでいた旗本の愛妾が明治維新による世の中の急激な転変をはかなんで、自害した際に使ったものだということが判明した。この旗本屋敷に限らず、江戸東京の古い屋敷の天井裏には、多種多様なモノが封印されたり隠匿されている例が多い。たとえば、死者の毛髪や形見、位牌、刀剣、書簡類、書画骨董などだが、その家で死んだ人間にかかわる遺品は、死者の魂がいつまでも身近に宿ることを祈願したものか、あるいは一種の「魔除け」「護符」の意味がこめられているのか、個々の屋敷によってさまざまな理由や事情があったのだろう。
 つづけて、岡倉一雄『父 岡倉天心』より引用してみよう。
  
 くだんの剃刀は、維新のさい、先住の旗本の愛妾が、急激に変りはてた世を恨み、時代を呪って、自殺をとげたさい、使用した凶器であると、のみならず台所にある内井戸は、その妾が剃刀の一剔で死にきれず、身を投げたところだと、因縁が明らかになった。元子は気丈な女性であったものの、こういう因縁を聞いてみると、晏然そこに落着いているに耐えられなくなってきた。そして、京阪地方の宝物取調べの旅から戻ってきた天心にありようを告げると、彼は、/「そうか、そんな因縁づきの家だったか、では、さっそく他を捜すがよかろう。」/と、わけもなく移転に同意したので、急に船河原橋に近い、江戸川に畔する新小川町に仮越して、この筑土の凶宅とは縁を切ってしまった。
  
 日々の飲料水に使われる、台所の内井戸に身を投げて死んだと聞かされては、いくら胆が太い元子夫人でもさすがに気味が悪くなったのだろう。舩河原橋に近い新小川町は、筑土町の屋敷とはわずか300~400m前後の距離しか離れていないが、千代田城の外濠も近い静かなたたずまいで、桜並木の神田川(当時は江戸川Click!)沿いの街並みが、岡倉家の人々は気に入っていたのかもしれない。天心は散歩に出ると、よく江戸川の大曲(おおまがり)付近の釣り人たちを眺めてすごしていたという。
筑土町1887.jpg
新小川町.JPG
 徳川幕府が倒れると、山手Click!に屋敷や長屋のあった旗本や御家人たちの多くは無理やり追いだされ、空き屋敷だらけになってしまった時期がある。そこで語り継がれてきた、薩長政府に対する恨み怪談のひとつが、筑土町でも伝承されていたものだろう。

◆写真上:旧・筑土町の中核に位置する、筑土八幡社Click!の階段(きざはし)。左手には将門伝承が残る筑土明神社があったが、1954年(昭和29)に九段へ移転している。
◆写真中上:上は、岡倉天心()と元子夫人()。は、2013年(平成25)出版の岡倉一雄『父 岡倉天心』(岩波書店/)と法隆寺の救世観音()。
◆写真中下は、筑土八幡社の門前町にあった近代住宅だが道路建設ですでに解体された。は、1852年(嘉永5)に出版された尾張屋清七版の切絵図「礫川牛込小日向絵図」にみる筑土町界隈。は、長い階段を上ると正面にある筑土八幡社の拝殿。
◆写真下は、1887年(明治20)の1/5,000地形図にみる筑土町界隈。このどこかに、岡倉家の「凶宅」が描かれているはずだ。は、新小川町にみる古い建物の一画。

岡不崩と本多天城の下落合アトリエ。

$
0
0
本多天城アトリエ跡.JPG
 日本画界には歴代、「四天王」と呼ばれる画家たちがいる。江戸の末期、木挽町狩野派の10代・勝川院雅信(まさのぶ)の弟子たちだった狩野芳崖(ほうがい)、橋本雅邦(がほう)、木村立嶽(りつがく)、狩野勝玉(しょうぎょく)は「狩野派最後の四天王」と呼ばれたし、橋本雅邦や狩野芳崖の弟子たちだった下村観山(かんざん:芳崖弟子)、横山大観(たいかん)、菱田春草(しゅんそう)、西郷孤月(こげつ)は「雅邦四天王」、あるいは「朦朧体四天王」などと呼ばれている。
 そして、雅邦四天王とほぼ同時代を歩んだ狩野芳崖の弟子たち、岡不崩(ふほう)Click!岡倉秋水(しゅうすい)Click!、本多天城(てんじょう)、高屋肖哲(しょうてつ)の4人は芳崖四天王と呼ばれた。その四天王のうち、岡不崩とともに本多天城もまた下落合にアトリエをかまえていたことが判明した。情報をお寄せくださったのは、岡不崩のご子孫にあたるMOTさんだ。以下、コメント欄から引用してみよう。
  
 父より本多天城宅について改めて聞きました。落合道人様ご指摘の通り一ノ坂の途中にあって,坂を上がった突き当りのひとつ前の十字路を右に曲がった場所にあったと申してました。岡不崩の遣いで出向くと褒美に1銭の駄賃がもらえて,それで大福6個が買えたらしいです。十字路の左側には駄菓子屋?があって駄賃を使ったとか。岡不崩アトリエの裏は空き地になっていて中井通りを回らずに一ノ坂に抜けることができたそうです。
  
 さっそく、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、蘭塔坂(二ノ坂)Click!沿いの下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)にある岡不崩(岡吉壽)アトリエ(やはり表札が達筆で読めなかったのか姓が「岡吉」と誤記されている)のすぐ北側、急な一ノ坂を上りきってしばらく歩くと、上の道(坂上通り)Click!に突きあたる2本手前の路地を、右に折れた角から2軒目に本多天城アトリエを見つけることができる。当時の住所でいうと、下落合4丁目1995番地だ。
 この敷地は、まったく同じ住所である川口軌外アトリエClick!の3軒南隣りであり、下落合4丁目1986番地にあった阿部展也アトリエClick!の2軒北隣りという位置関係になる。また、本多天城アトリエの西隣りには、「熊倉」という苗字が採取されているが、これがMOTさんの書かれている「熊倉否雨」の住まいであり、同じく日本画家のアトリエだろうか? 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、残念ながら岡不崩とともに、本多天城や熊倉否雨の名前は記録されていない。
 MOTさんのお父様、つまり岡不崩のご子息の証言によれば、岡不崩アトリエ裏の空き地を通ってそのまま一ノ坂に抜け、坂を上りきった上の道(坂上通り)へ出る手前の十字路を右へ曲がると、本多天城アトリエ(2軒目)があった……という道順は、「火保図」ともピタリと一致し、しかも1936年(昭和11)に撮影された空中写真では、1銭のお駄賃が楽しみな“おつかい散歩道”を完全に再現することができる。おそらく、大福を売っていた店は下落合4丁目1990番地、すなわち十字路の北西角に店開きしていたタバコ店(店名は不明)のことで、目白文化村Click!近くの商店がみなそうだったように、タバコといっしょに副業で菓子も販売している店舗だったのだろう。
 岡不崩が、狩野芳崖のもとに入門したのは1884年(明治17)ごろといわれ、芳崖の弟子では最古参といわれている。本多天城は、翌1885年(明治18)に芳崖のもとへ30回以上も通って、ようやく入門を許されている。それは、芳崖が「己れの画風は飯が喰えぬから夫れでもよろしきや?」(高屋肖哲の回想)というように、弟子をとることにかなり消極的だったせいだろう。天城は最初、近澤勝美について洋画を学んでいたが、芳崖の作品に魅了されて転向したらしい。不崩と天城とは同年ごろ知り合ったとみられるが、弟弟子の天城は不崩の2歳年上だった。だが、狩野芳崖は1988年(明治21)に死去してしまうため、実際に彼らが師弟だった時間はわずか4~5年にすぎない。
本多天城アトリエ1938.jpg
岡不崩アトリエ1938.jpg
本多天城アトリエ1936.jpg
岡不崩アトリエ.jpg
 狩野芳崖の指導法は独特だったらしく、実際に日本画の技術面を教えていたのは狩野友信であり、芳崖はおもに画論や作品に対する批評を弟子たちに聞かせていた。当時、狩野芳崖は小石川植物園にあった図画取調掛(所)に勤務しており、弟子たちはそこへ当然のように出かけていっては絵を習っていた。当時の様子を、2017年(平成29)に求龍堂から出版された『狩野芳崖と四天王-近代日本画、もうひとつの水脈』所収の、椎野晃史『芳崖四天王コトハジメ』で引用されている岡不崩『鑑画会の活動』から孫引きしてみよう。
  
 芳崖・友信翁二翁が毎日出勤して画をかいている。我々も毎日弁当を持って出かける。然し余等ハ掛員でもなんでも無い。それならば何んで行くのかそこが面白いのだ。我々の頭脳にハ茲は役所であると云ふ考えが浮かばない。芳崖先生の画塾か鑑画会の事務所としか思へなかった。取調所の小使や植物園の人達は、余等を取調所の生徒だと思っていた。毎日出かけて行って鑑画会へ出品する画をかいている。古画の模写をやる、下画が出来ると芳崖先生の批評を受ける、(狩野)勝玉や(山名)貫義がやってくる、(狩野)探美や(木村)立嶽なども遊びにくる。どを(ママ)しても画塾である。(カッコ内引用者註)
  
 小石川植物園に置かれた図画取調掛(所)の実態は、狩野派の画家たちが集って新しい日本画を研究し模索した画塾だったのだろう。ときに写生旅行も行われ、芳崖が死去する前年、1887年(明治20)4月には芳崖とともに狩野友信、岡倉秋水、岡不崩、本多天城が連れだって妙義山に出かけている。
 狩野芳崖は、臨本や粉本の類を嫌っていたようで、図画取調掛(所)の実情は画塾だったにしても、とても日本画の塾とは思えない自由な学びや表現が許されていたようだ。
岡不崩アトリエ1926.jpg
岡不崩「一騎討」不詳.jpg
岡不崩「群蝶図」1921.jpg
 同書の椎野晃史『芳崖四天王コトハジメ』より、再び引用してみよう。
  
 (前略) 芳崖は放任主義であるが、決して弟子のことを顧みなかったわけではない。不崩によれば出来上がった画を芳崖に持っていくと、紙に塵が混じっていれば小刀で削り取って、色なり墨なりで繕ってくれたという。そんな芳崖に対して不崩は「其親切と熱心なのには敬服の次第である」と述べている。また芳崖が下画を直す際には「その図の心持ちを取って、それを完全ならしめるやうに」したという。自身の型を押し付けるのではなく、芳崖の教育方針はあくまで自主性を重んじたものであった。
  
 芳崖の死の翌年、1889年(明治22)に図画取調掛(所)や鑑画会を母体にした東京美術学校(初代校長:岡倉覚三=天心)が設立されると、芳崖四天王の4人は天心の勧めもあって同校の第1期生として入学している。だが、翌1890年(明治23)に天心の引き抜きで、岡不崩は東京高等師範学校の美術講師に、岡倉秋水は女子高等師範学校の美術講師に就任するために同校をわずか2年で中退している。本多天城は、高屋肖哲とともに卒業しているが、やはりのちに教職を経験している。
 さて、本多天城が下落合へアトリエをかまえたのは、いつごろのことだろう? 岡不崩は大正末、すでに下落合へアトリエを建てて転居してきており、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」には採取されているが、本多天城アトリエの敷地はいまだ草原のままだ。1930年(昭和5)の1/10,000地形図を参照しても、相変わらず空き地表現のままなので、天城アトリエの建設は1931年(昭和6)以降のように思える。同年、岡不崩と高屋肖哲は東京美術学校創立時のエピソードを語る座談会に出席しており、それを読んで懐かしくなった天城が、不崩のもとへ連絡を入れた可能性もありそうだ。
 また、本多天城は岡不崩から日本画と西洋画を問わず、画家たちのアトリエが集中している下落合の様子を聞いていたのかもしれない。さらに、もう一歩踏みこんで推測すれば、大正末に計画されていた東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画も、岡不崩あるいは日本画がベースであるアビラ村の発起人のひとりである夏目利政Click!あたりから、事前にウワサ話として聞きおよんでいたのかもしれない。
岡不崩.jpg 本多天城.jpg
本多天城「水草」不詳.jpg
本多天城「水墨山水」不詳.jpg
 わたしの母方の祖父Click!は、売れない書家で日本画家だったが、苗字は代々「狩野」だった。おそらく明治維新とともに大江戸(おえど)とその周辺域から失職して四散した、江戸狩野派の末流だと思われるのだが、早くから横浜に住んでいる。きっと、明治以降に失業した数多くの幕府や諸藩の御用絵師たちと同様に、欧米へ輸出用の書画や器物用の絵柄を描きつづけていた、狩野一派のなれの果てではないかと想像している。

◆写真上:下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)にあった、本多天城のアトリエ跡。
◆写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる本多天城と岡不崩のアトリエ。は、MOTさんのお父様がおつかいに出かけた「大福楽しみお遣いコース」。は、本草学会を結成し多彩な植物の鉢が置かれていた岡不崩のアトリエ庭。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる岡不崩アトリエ。いまだ本多天城アトリエは建設されておらず、十字路も敷設されていない。は、坂東武者の騎馬戦を描いたと思われる岡不崩『一騎討』(制作年不詳/部分) 時代は鎌倉期の想定だろうか、太刀と長巻による太刀打ちの刹那を描いている。は、1921年(大正10)制作の植物や蝶の描写が精細かつ正確な岡不崩『群蝶図』(部分)。
◆写真下:上は、岡不崩()と本多天城()。は、制作年不詳の本多天城『水草』(部分)。は、やはり制作年不詳の本多天城『水墨山水』(部分)。画面の背景に描かれた樹木や草原、山々の描写には、明らかに雅邦四天王による朦朧体からの影響が色濃い。
おまけ
MOTさんのお父様が、本多天城アトリエへお遣いに出かけ、途中で立ち寄っていた十字路角地の商店。1938年(昭和13)の「火保図」では「タバコ」店と記載されているが、おそらく菓子類も置いて売っていたのだろう。写真は、タバコ店のあった跡の現状。
タバコ屋1938.jpg
タバコ屋跡.JPG

「肥ったうえにも肥えて」ドッシリの壺井栄。

$
0
0
上落合郵便局周辺.JPG
 短期間で転居を繰り返す、昭和初期の小坂多喜子Click!上野壮夫Click!の生活はめまぐるしい。小坂多喜子は、寄宿させてもらっていた上落合469番地の神近市子邸Click!を出ると、ほんの2ヶ月ほど神近邸の近くに借りた自分の下宿に住み、上野と結婚してからは妙正寺川の北側にあたる葛ヶ谷御霊下(のち下落合5丁目)の836番地ないしは857番地で暮らし、ほどなく上落合郵便局のある大きなケヤキClick!が目印の、上落合665~667番地界隈に引っ越している。
 ふたりが左翼運動をしていたから転居が頻繁だった……というよりも、当時の作家や画家たちがしょっちゅう居どころを変えるのは、別にめずらしいことではなかった。それは、“気分転換”と語られることが多いが、より安い家賃の家に移ったり、周囲の環境(騒音や商店街の遠さ)が気に入らないため、生涯借家の暮らしがあたりまえの当時としては、引っ越しが気軽に考えられていたからだ。
 だが、小坂・上野夫妻が上落合郵便局近くの家から1931年(昭和6)3月に転居した、池袋駅も近い豊島師範学校Click!裏の長屋は、明らかに地下へ潜った共産党のアジトのひとつだった。ここで、上野壮夫は地下活動を支援していて逮捕され、小坂多喜子は夫が拘留中に長男を出産することになった。夫婦で子どもを育てるのが無理なので、この長男はのちに岡山の親もとにあずけられている。
 このアジトは、豊島師範学校裏に拡がる広い草原の向こう側にあり、多喜子の次女である堀江朋子『風の詩人-父上野壮夫とその時代-』(朝日書林/1997年)によれば、安普請の「家並の前の細い道の一番奥の道を左に折れた所に四軒長屋があった」と書かれている。1936年(昭和11)の空中写真で、その表現を参照しながら道をたどると、はたして立教大学のすぐ手前に、4軒とも同じ規格の長屋を見つけることができる。「そのとっつきの家が二人の住いであった」(同書)の場所は、西巣鴨町(大字)池袋(字)中原1262~1263番地(現・西池袋3丁目)あたりに建っていた長屋だろう。
 さて、この池袋のアジトから阿佐ヶ谷へ転居し、小林多喜二の虐殺事件Click!のあと再び夫妻は上落合(2丁目)829番地の“なめくじ横丁”Click!にもどってくるのだが、夫が検挙されて不在中に池袋のアジトで長男を出産し、乳飲み子を抱えて途方に暮れていた小坂多喜子は、阿佐ヶ谷へ転居する直前、上落合503番地の壺井栄Click!のもとへ相談に訪れている。そのときの様子を、1986年(昭和61)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』から引用してみよう。
  
 私の記憶にある壺井栄さんの最初の家は、上落合のたしか鹿地亘氏の近くにあった家である。当時の上落合はプロレタリア作家の巣で、村山知義氏や中野重治氏、神近市子氏などそれぞれ近くに住んでいた。/あまり手入れのしていない高い樹木が道路のある南側を取りかこんでいる、薄暗いような家の客間兼居間とおぼしき部屋に、私は最初の男の子を抱いて放心したように座っていた。その家は、そのころ、そのへんによく見かけたありふれた間取りの平家で、南側の真中に玄関があり、その両側に部屋があった。/私はその時打ちのめされて、虚脱したように放心していて、その八畳間の縁近くに座っていた時の、絶望的な気持だけがいまだに強く残っている。夫は当時非合法運動をしていて、私は最初の子供を、夫が四谷署に一ヵ月あまり検挙されていた留守中のアジトで、三日三晩苦しんだあげく産み、産後の肥立ちも悪く、経済的な生活の見通しもないような時だった。私はそういう状態のなかで壺井さんの家に、行き場のない気持で、ふらふらっと訪ねたのだ。
  
四軒長屋1936.jpg
鹿地亘460.JPG
中野重治・原泉481.JPG
 登場している鹿地亘Click!の家は上落合460番地、つまり全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部が置かれていた家だ。彼は、のちに下落合4丁目2135番地(現・中井2丁目)に住み、GHQによる「鹿地事件」のあとは上落合1丁目36番地に転居している。
 周辺には、文章に書かれている上落合503番地の壺井栄Click!壺井繁治Click!の家をはじめ、上落合186番地の村山知義Click!村山籌子Click!のアトリエ、上落合481番地に家があった中野重治Click!原泉Click!、上落合469番地または少しあとに476番地の神近市子Click!などが住んでいた。今回の記事とはまったく関係ないが、ちょうど同時期に上落合242番地から同427番地には「国民文学」の歌人・半田良平が住んでおり、半田は1945年(昭和20)に上落合427番地の家で没している。
 上落合503番地の壺井栄は、当時は4~5歳だった養子の真澄を育てるのに夢中で、訪ねてきた小坂多喜子にはおもに子育てのアドバイスをしていたようだ。壺井夫妻が上落合549番地に転居してからも、小坂多喜子は頼りになりそうなドッシリとかまえる壺井栄を訪ねている。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 二度目に訪れた家は、上落合の郵便局の裏の、高いけやきの木のある細い坂道を上ったところの路地の二階家だった。これはまた倒れそうな、スリラー小説にでも出てきそうな二階家で、この家に住んでおられた時の栄さんは生涯のうちでも、いちばん苦労をなさった時期かもしれない。繁治さんは、検挙されて留守がちのようだったし、台風のとき、古い畳をつっかい棒に一晩中ささえていたという話をきかされたのも、この家だった。毛糸のあみ物に熱心で、手先の器用な栄さんは、こまかい模様あみなどもみるみるうちにあまれて、それがまた、あみ目が揃っていて、きれいで美しく、専門家はだしだった。それが当時の生活の支えにもなっていたようだった。そのころ、落合の小学校の校庭が見おろせるところに一人で住居をかまえていた中条百合子さん(中略)の家でも、栄さんに時々会った。中条さんのグリーンの大きなカーディガンを熱心にあんで居られた。
  
 壺井栄が上落合549番地に住んでいた時期で、壺井繁治が豊多摩刑務所Click!に収監中のころに訪ねたものだろう。書かれている中條百合子は、すでに結婚して宮本百合子Click!になっていたが、夫が獄中にいたため上落合740番地の借家で女中とともに暮らしていた。小坂多喜子は「落合の小学校」としているが、宮本百合子がチーチーパッパがうるさくて執筆できないと癇癪を起こしノイローゼ気味になった、中井駅前の落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校)のことだ。
 当時もいまも、女縁Click!(女性のネットワーク)はすごい。小坂多喜子は、落合地域とその周辺域に住む多くの女性作家とは顔見知りで交流があり、彼女たちは頻繁に訪ね合っては、詳細な近況や暮らしの情報を交わしている。次のエピソードも、そのような環境で小坂多喜子が垣間見た壺井栄の姿だ。引きつづき、同書より引用してみよう。
上落合斜めフカン1941.jpg
壺井栄戸塚4丁目592番地洋装店.jpg
壺井栄・壺井繁治503.JPG
  
 「大根の葉」を発表された当時、私には二人目の娘が産れて、そのお産の手伝いに田舎からきていた女の子を佐多さんの家の女中さんに世話してはくれまいかと言って、佐多さんと連れ立って上落合の私の家に訪ねてこられた時の栄さんは和服姿だった。若い頃の栄さんは、後年の渋い和服姿から想像できないほどだいたんな、モダンな感覚の洋服を着ておられた。当時私たちは東中野駅まえの線路沿いの、前に柵の見える洋装店で洋服を注文していたが(たしかサカエ洋裁店といい、バレリーナの谷桃子の両親があるじだった)、ある時、その店で真黒の、当時流行したメルトンという生地のオーヴァーを栄さんが作られた。真黒の表地に真赤な裏地をつけたオーヴァーで、当時としては非常にだいたんな取合せで、私はそのオーヴァーを着た栄さんが、真赤な裏地をけ立てるようにして差入れに行かれていた姿を今もはっきりとおぼえている。
  
 さすが、オシャレには眼がきく小坂多喜子の文章だが、若いころの壺井栄もファッションにはうるさかったようで、彼女たちは馴染みの洋裁店を東中野駅の近くにもっていた様子がわかる。ちなみに、中央線沿いのサカエ洋裁店だけれど、各時代の「大日本職業別明細図」Click!を参照してみたが見あたらなかった。「佐多さん」とは、もちろん下落合の南に接した戸塚町上戸塚593番地、のち淀橋区戸塚4丁目593番地(現・高田馬場3丁目)に住んでいた窪川稲子(佐多稲子)Click!のことだ。
 ある日、小坂多喜子は壺井繁治から「(妻が)便所の掃除をしない」とグチをこぼされた。それは「一種嘆息のような調子で、思いあまって、困惑されて、吐き出されたような言葉」(同書)だったが、主婦の仕事をこなしながら作家活動をするなど、そんな「なまやさしい気持では何事もなし得ない」と壺井栄を擁護している。今日なら、人妻にグチッてるヒマがあったら「自分で掃除すればいいだけの話じゃん」で終わりだが、「新しい女」をめざした小坂多喜子でさえ、便所掃除は主婦の仕事という前提で、「便所の掃除を投げうった栄さんの勇気」が立派だと書いている。
壺井栄.jpg 小坂多喜子1935頃.jpg
壺井栄・壺井繁治549.JPG
壺井栄(晩年).jpg
 小坂多喜子は、「当時も肥っておられたが」と書きだしているが、壺井栄がドッシリと大仏さんのようになっていく様子を、上落合から東中野、そして鷺宮まで見つづけていた。戦後の晩年に、壺井栄はぜんそくによく効くドイツの新薬を試していたようで、その副作用からか「肥ったうえにも肥えて」と表現している。彼女は、あのドッシリとした体躯で「あなた、大丈夫よ。心配するだけ損よ」と、不安な気持ちを落ち着かせてもらいたくて、心を癒やしてもらいたくて、壺井栄を訪ねつづけていたのかもしれない。

◆写真上:小坂多喜子・上野壮夫が新婚家庭を営んだ、上落合郵便局周辺の街並み。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる池袋中原1262~1263番地の四軒長屋。は、鹿地亘が住んでいた上落合460番地の全日本無産者芸術連盟(ナップ)跡。は、中野重治・原泉夫妻が暮らした上落合481番地の邸跡。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された上落合東部の写真へ、文中に登場するプロレタリア作家・画家たちの住居をポインティングしたもの。は、1941年(昭和16)春に早稲田通りの戸塚4丁目592番地の洋品店前を藤川栄子Click!と散歩する壺井栄。は、上落合503番地にあった壺井栄・壺井繁治の旧居跡。
◆写真下は、ネコにも頼られそうな壺井栄()と小坂多喜子()。は、上落合549番地にあった壺井夫妻の旧居跡。(路地奥左手) 壺井繁治が「便所掃除をしない」と、小坂多喜子にこぼしたのはこの家だ。は、ドッシリとした壺井栄のプロフィール。

そろそろ「落合学」にしてもいいかな……。

$
0
0
御留山公園.JPG
 さる11月24日(日)で、拙サイトは2004年の同日にスタートしてから丸15年が経過した。16年めに入ったのを機に、落合地域やその周辺域一帯、あるいは落合地域のある新宿区北部に関するコンテンツや情報などが蓄積されてきたので、そろそろ「落合学」というようなカテゴリー(ジャンル)を意識してもよさそうな気がするのだ。落合地域をより深く、より精細かつていねいに研究するのに必要なテーマや課題は、生意気を承知でいわせていただければ、かなり出そろってきたのではないだろうか?
 「落合学」とは、もちろん前世紀末からつづく赤坂憲雄が編纂している『東北学』(東北芸術工科大学東北文化研究センター)や、拙サイトがスタートしてちょうど10周年に、わたしが惹かれた『大磯学』Click!(創森社/2013年)にならったものだが、地域・地方に眠る多彩な人々の物語やエピソード、換言すればその地域ならではの文化や歴史、地理・地勢、伝説・伝承などから日本あるいは世界を改めて捉えなおすと、どのような相貌や姿かたちに見えてくるのか?……というような視座を基盤にした「学」だ。
 『東北学』や『大磯学』の執筆者たちが、テーマとしている地勢や風土などの“立ち位置”について指摘するように、落合地域もまた東京の新宿区という土地がらを考えれば、きわめて特殊かつ異質な地域ということになる。1991年(平成3)より、新宿は「新都心」と呼ばれるようになったようだが、およそ「都心」という名に似つかわしくないのが落合地域の風情だ。だから、人々は落合地域のことを「新宿の秘境」や「新宿の僻地」、「新宿の片田舎」、少しマシな表現だと「新宿の離れ」や「新宿の奥座敷」、ひどい人にいわせると「モヤモヤ落合」などと呼ばれたりしている。w
 確かに、淀橋浄水場跡Click!に林立する超高層ビル群を眺められる、目白崖線にかろうじて残されたグリーンベルトの斜面には、いまだに野生のタヌキが棲息していて、江戸期のまま有機肥料(爆!)をまく畑も見られたりする、およそ現代の「新宿」らしからぬ風景は、あまりの「秘境」さ加減にイギリスのBBCもカメラクルーを連れて取材にくるほどだ。ひと口に新宿区といっても、もともと江戸後期から市街化が進みはじめていた東京市街地の四谷区と牛込区(15区時代Click!)、それに1932年(昭和7)の「大東京」時代Click!を迎えて成立する元・豊多摩郡だった淀橋区(35区時代)の3区域が合併した区なので、それぞれ文化や歴史、風土などが異なっていることは、すでにこれまでの記事でご紹介Click!している。落合地域は、淀橋区の北部(外れ)に位置する「辺境」エリアだった。(そういえば井上光晴Click!が編纂していた『辺境』という文芸誌もあったっけ)
 落合地域は、案外に広い。明治期から大正期まで、落合地域は上落合と下落合(東京府の風致地区に指定されていた葛ヶ谷地域の一部含む)、そして昭和初期に「西落合」としてスタートする葛ヶ谷の3地域が含まれる。1960年代には行政による一方的な町名変更Click!で、下落合の中部から西部にかけては馴染みのない「中落合」や「中井」と呼ばれる"地名"になった。落合地域の北側は、長崎地域や高田(目白)地域(ともに豊島区)と接し、東側は高田(目白)地域と戸塚地域(新宿区)、南側は戸塚地域と住吉(東中野)地域(中野区)、西側は上高田地域と江古田地域(ともに中野区)という地理条件だ。
 落合地域から利用できる鉄道駅も多く、住んでいる場所にもよるが最寄駅は山手線の目白駅か高田馬場駅、東京メトロ東西線の高田馬場駅か落合駅、西武新宿線の下落合駅か中井駅、都営地下鉄大江戸線の中井駅か落合長崎駅、ときに中央線の東中野駅や西武池袋線の椎名町駅および東長崎駅のほうが近そうなエリアもあったりする。地域内や直近の駅は8駅、全体から見れば11駅の利用者がいるとみられるこれだけ広い街なので、ひと口に「落合地域」といっても、昔から各エリアごとにさまざまな特色をもつ街並みや街角が形成され、それに関連する多種多様な人たちが居住してきた。
淀橋区1941上.jpg
新宿区1965.jpg
落合地域1965.jpg
下落合緑.JPG
 明治以降だけを見ても、当初は鎌倉期以前からつづくとみられる農村の丘陵地や谷間に、華族や財閥などおカネ持ちが住む別荘地や隠居地として注目され、大正期以降はおもに画家など美術関係者が集まって暮らす静寂なアトリエ村のような風情になり、大正中期には近衛町Click!目白文化村Click!、つづいてアビラ村(芸術村)計画Click!のように、東京郊外の田園地帯に拓かれたモダニズムただよう文化住宅街の嚆矢的な街へと変貌し、昭和期にかけてはおもに文化人や作家、美術家、学者、研究者、政治家、企業経営者などが多数集まっては居住するようになった。このあたりの経緯は、大磯Click!鎌倉Click!と非常に近似していることは以前から指摘しているとおりだ。
 落合地域に集って住んでいた人物像も多彩で、たとえば画家は文展・帝展のアカデミックな官展派から在野のアヴァンギャルドまで、作家は芸術(至上主義)文学派からプロレタリア文学派までと、あらゆるカテゴリーをカバーしている。つまり、本来はライバルで対立軸であるはずの思想家や表現者が、ひとつの地域の中でときに殴り合いや「リャク」(恐喝・略奪)Click!をし合いながら、「仲良く」暮らしていた呉越同舟型のエリアが、落合地域の大きな特色のひとつでもある。ゆったりとした刻(とき)が流れていた江戸の市街地とは異なり、江戸近郊の農村から都市化の流れの中で、短期間(といっても100年以上だが)で驚くほど膨大な物語やエピソード、伝説・伝承などが育まれてきた場所、それが落合地域の土地がらといえるだろうか。
 史的に見ても、岩宿遺跡Click!の発見からわずか3~4年後、東京では初めて下落合の目白学園遺跡Click!から旧石器時代の石器類が見つかって以来、縄文から弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、そして現代の東京時代にいたるまで、数万年前から一貫して人々が生活し居住してきた痕跡が残り、地域全体が文化財包蔵地のような傾向があるのも、大磯地域と近似する落合地域の大きな特色だ。
 地形も、平川Click!(のち神田上水+江戸川+千代田城外濠=現・神田川)と支流である北川Click!(現・妙正寺川)の流れをはさみ、北部は目白崖線がつづく豊島台Click!、南部は淀橋台Click!(下末吉段丘)にまたがる丘陵と谷間、切れこんだ谷戸などを包括した起伏に富む武蔵野の地勢となっている。両河川の段丘斜面(特にバッケClick!=崖地)からは、露出した武蔵野礫層のあちこちから清水が湧きでて泉や池を形成している。また、これらの谷間は数十万年前には古東京湾の深い入り江だったらしく、目白崖線の斜面にのぞく東京層(粘土層)からは、数多くの貝化石Click!が産出している。
下落合東部1936.jpg
下落合中西部1936.jpg
下落合中西部1941.jpg
下落合東部19441213.jpg
文化村.JPG
 わたしが初めて落合地域に目をとめたのは、高校時代に観ていたドラマClick!がきっかけだったが、その後、学生時代に実家から“独立”して落合地域の北側(南長崎)にアパートを借り(下落合は家賃が高くて学生の身分では借りられなかった)、1983年(昭和58)に下落合のマンションへ住みはじめ、次いで家を建てて以来、そのままこの街に住みつづけ根を生やしてしまった。当初の住みはじめは、ドラマに登場した情景が気に入っただけのミーハーな動機だったが、実際に住みはじめてみると、さまざまな偶然が重なっているのに改めて気づかされることになった。
 わが家の先祖代々が氏子である、江戸東京総鎮守の神田明神Click!に主柱として奉られている平将門のご子孫、将門相馬家Click!が下落合にある御留山Click!(将軍家の鷹狩場Click!=現・おとめ山公園Click!)の広大な敷地に住んでいたのを知ったのは住みはじめてからだ。神田明神の分社Click!が、江戸期から下落合に鎮座していたのも稀有な事蹟だろう。日本橋地域にお住まいの方ならご存じだろうが、天下祭り(神田祭Click!)の際に大川(隅田川)や神田川の流域にある日本橋地域をはじめとする街々の神輿は、神田川を神輿舟Click!でさかのぼっては神田明神へと集合してくる。
 つまり、わたしの故郷と下落合とは「水脈」で結ばれていることになる。また、神田明神の出雲神(オオクニヌシ)をキーワードにすえると、落合地域には氷川社Click!や諏訪社、ときに八雲社Click!などを通じて、さまざまな“レイライン”が交叉Click!し形成されていることも想定できた。史的な「水脈」ばかりでなく、わたしには多くの「気脈」や「地脈」も感じられる土地、それが落合地域ではないかと感じられるようになった。
 高校時代に偶然、TVで魅せられて歩きはじめ憧憬を抱いた街並みだが、それが偶然とは思えなくなるほど多種多様なテーマが判明している。ここに蓄積してきた文章も、はや2,277記事を数えビジターものべ1,750万人も超えているので、そろそろ落合地域を散策する「道人」ではなく、「落合学」とでもいうべき新しいカテゴリーを起ち上げてもいいような感触が少し前からしていた。したがって、15周年を契機に「落合道人」へ「落合学」という冠名をかぶせても、決して早計ではないような気がするのだが……。ただし、「落合道人のほうがよかったのに~」とか、「やだ、絶対反対!」とか、「初期のChinchiko Papalogのモヤモヤにもどせ!」という声が多数寄せられれば、もともと日和見主義的でいい加減なサイトなので、すぐにタイトルを元にもどすことにしたい。^^;
下落合全域19450402.jpg
下落合東部19450518.jpg
下落合東部19450518別角度.jpg
下落合全景1947.jpg
下落合東部1979.jpg
下落合展望.jpg
 拙サイトを15年前に起ち上げた際、下落合を中心に1970年代の半ば、高校生のときからけっこうウロウロ散策していたのも、大きなモチベーションになったことのひとつだろうか。つまり、少なくとも空襲で焼けなかったエリア、戦前からの姿をそのままとどめていたエリアは、10代からおおよそ目にしている。それも、この地域を見つめるにあたり、時間軸を長めなスパンでとらえやすい要因になっているのかもしれない。サイト16年めを迎えつつ、そんな高校時代からの偶然性にも気づかされるこのごろなのだ。

◆写真上:もともと相馬孟胤邸の庭園の一部だった、御留山の谷間にある湧水池。
◆写真中上は、日米開戦直前の1941年(昭和16)に発行された「淀橋区詳細図」にみる落合地域。陸軍施設が林立していた戸山ヶ原が空白で、淀橋浄水場の表現が改ざんされている。は、1965年(昭和40)発行の「東京区分図」にみる新宿区と落合地域(拡大)。は、目白崖線の斜面に多く見られる広葉樹林帯。
◆写真中下からへ、1936年(昭和11)に陸軍航空隊が撮影した落合地域の東部と中西部、1941年(昭和16)に陸軍航空隊がめずらしく斜めフカンで撮影した落合地域の中西部、1944年(昭和19)12月13日に米軍のF13偵察機Click!が撮影した下落合の東部、下落合中部に残る目白文化村(大正期)の名残り。
◆写真下からへ、1945年(昭和20)4月2日の空襲11日前に米軍が撮影した戦災前の最後の落合地域、4月13日夜半の第1次山手空襲後の同年5月18日に米軍が撮影した下落合東部の被害状況と同時に撮影した別角度の写真、戦後の1947年(昭和22)に米軍が爆撃効果測定用に撮影した落合地域の全景、わたしが学校からの帰り道によく散歩していた1979年(昭和54)の下落合東部。中央に見える大きな森が御留山(おとめ山公園)だが、現在はさらに拡張されて1.7倍ほどの広さになっている。最後の写真は、新宿区北部に位置する下落合の東部上空から新宿区の南部を展望したもの。(Panasonic新聞チラシより)

下落合を描いた画家たち・織田一磨。(2)

$
0
0
織田一麿「高田馬場付近」1911.jpg
 ずいぶん以前に、織田一磨Click!が描いた『落合風景』Click!(1917年)をご紹介したことがある。妙正寺川をさかのぼり、落合村葛ヶ谷(現・西落合)にあった釣りのできる農業用溜池を描いたものだ。その画面が掲載された書籍、1944年(昭和19)に洸林堂から出版された織田一磨『武蔵野の記録―自然科学と藝術―』の原本が手に入ったので、もうひとつ落合地域付近の風景画をご紹介したい。
 といっても、落合村は画面に描かれた山手線の向こう側、下落合(字)東耕地と同(字)丸山のエリアがかろうじて見えるか見えないかだけで、画面のほとんどは戸塚村西原(現・高田馬場2丁目)と高田村稲荷(現・高田3丁目)だ。また、戦時中で写真製版の技術やインクが悪いせいか画面全体が暗く、描かれた家々のディテールがいまいちハッキリしない。まず、同作品につけられた制作者自身のキャプションを、同書より引用してみよう。
  
 明治四十四年は、大阪に住んでゐた時代だが、文展見物に上京した折りに、高田の馬場附近を写生したものらしい。/灰色に曇つた初冬の空から、光りのない太陽が薄く照してゐる。高田の馬場停車場のある丘を学習院裏の田圃道から写生したもので、まだ丘陵の下は一面の田畑であつた。家や工場は一軒も建つてゐなかつた。丘陵の崖地には民家が多少駅前らしく建並んでゐて、場末らしい感じである。残雪の白いのも処々にみられる。/例の通り曇り日の好きなところから、暗い文学的風景画となつてゐるが、高田の馬場辺の記録画とみれば面白いと思ふ。学習院の裏手から中野へ通ふ路なぞは、全く田舎道で、農家の他には田畑森林地帯であつた。面影橋あたりから普通の人家は無かつたものだ。現在の風景とくらべても、とても見当がつかないほどに変化してゐる。
  
 織田一磨がいう「高田の馬場」Click!とは、幕府の練兵場だった高田馬場(たかたのばば)のことではなく、山手線の駅名である高田馬場(たかだのばば)停車場のことだ。この風景を写生したのが1911年(明治44)、つまり山手線に高田馬場駅が設置されて1年たつかたたないかの風景ということになる。
 「学習院の裏手から中野へ通ふ路」とは、鎌倉期に拓かれた七曲坂Click!下の街道で、地元では古くから雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)と呼ばれてきた道のことだ。織田一磨は、おそらく目白駅で降りて坂下が東へカーブする椿坂Click!を下り、雑司ヶ谷道へと抜けると田圃の畦道に描画ポイントを決めてイーゼルを立てているのだろう。ほぼ同時期の作品に、椿坂の下から山手線の線路土手を描いた小島善太郎の『目白』Click!があるが、その描画ポイントと織田のそれは200mと離れていない。
 なぜ、高田馬場駅で下車していないのがわかるのかというと、当時は神田川の北側に渡る神高橋Click!も清水川橋もいまだ架設されていないからだ。うっかり高田馬場駅で降りてしまうと、神田川の北側へ渡るには西へかなり迂回する下落合の田島橋Click!か、それ以上に東へ大きく遠まわりとなる面影橋しか、いまだ設置されていなかった。子どものころから武蔵野を歩き慣れている織田一磨は、おそらくあらかじめ知っていたので目白駅で降り、地上駅Click!から清戸道の踏み切りClick!を西側に渡って椿坂へ出ると、学習院沿いにそのまま南へ歩いていったとみられる。
 画面右手の上空に、曇り空でぼんやりと光る太陽が描かれており、その下を電柱とともに左右に連なるのが山手線の線路土手だ。画面右手の枠外には、旧・神田上水(現・神田川)が流れる山手線の鉄橋があり、当時の川筋は現在とは異なり北から南へ、つまり画家のいるほうへ大きく蛇行しながら流れている。この鉄橋を支えていたイギリス積みのレンガも、以前にこちらでご紹介Click!している。手前に散在する白い部分は、旧・神田上水の土手沿いに溶けずに残った積雪だ。対岸には、鄙びた家々がまばらに建ち並び、ちょうど画面中央あたりに竣工したばかりの高田馬場駅があることになる。
 この画面の中で、下落合は右端に描かれた線路土手の向こう側、すなわち16年後の1927年(昭和2)に鉄道連隊によって西武線Click!が敷設され高田馬場仮駅Click!が設置される、旧・神田上水の北側ということになる。もちろん、現在ではこの作品を写生した描画ポイントに立つことはできず、十三間通りClick!(新目白通り)の南側(下り車線)の路上か、あるいはその南に建っている高田馬場ビルディングの敷地内となっている。
地形図高田戸塚1910.jpg
高田馬場ビルディング.jpg
山手線神田川鉄橋.JPG
 さて、以前にもご紹介したが、1917年(大正6)に制作された織田一磨『落合風景』についても、比較的クリアな写真とキャプション全文が判明したので、同書より改めて引用しておこう。芝区生れで麻布区育ちの織田一磨は、明治期には当然、東京15区Click!以外は郊外であり、その外周はすべて「武蔵野」という定義のしかたをしている。
  
 神田川の上流が落合村を流れてゐる姿である。落合といつても、哲学堂附近で、中野に近い落合であるが、今は定めし人家で埋まつて、斯うした野趣は消失したらうと思ふ。この当時は釣魚の好適地として、漁人がよく出掛けた場所である。この図と同時代の作は他にも四五点あるが、水彩画界へ出品して売約になつた釣人の図も其内の一枚である。/春は摘草、釣魚、写生に近い郊外遊楽地として哲学堂附近へはよく出掛けたものだ。今の吉祥寺なぞよりは、はるかに自然景観が優れてゐたし、気分も武蔵野的であつた。其処には規則といふものが定められてゐなかつた。人は生活を楽しみ感情を育てた。/雑草の芽は、春の陽光に光彩をはなち、虫は飛び廻つてゐた。武蔵野の感情は豊富に散乱して人は好むがまゝに酌みとつて帰つた。
  
 織田一磨は、「神田川の上流」と書いているが、旧・神田上水の支流のひとつである妙正寺川(江戸期の名称は北川Click!)のことを書いている。大正の中期、上高田にある光徳院の妙正寺川をはさんだ対岸(北東側)、落合村(大字)葛ヶ谷(字)御霊下には大きめな溜池が造られ、周辺の水田をうるおす灌漑用水として活用されていた。この溜池は、葛ヶ谷地域の耕地整理(西落合の成立)とともに埋め立てられ、昭和初期にはすでに消滅している。妙正寺川の水を活用した溜池は、現在の西落合2丁目にある西落合公園と付属の運動場あたりにかけて、南北に長く横たわっていた。
 織田一磨の『武蔵野の記録』にはもうひとつ、落合風景を描いたスケッチが挿画として掲載されている。現在の早稲田通りが走る、上落合の丘上から北を向いて描いた線画で、畑を耕すふたりの農夫を前景に、奥の北向き斜面には新たに建設された住宅の屋根が見えている。1921年(大正10)に描かれたスケッチで、『中野附近(落合)』とタイトルされている。上落合も、妙正寺川の川沿いを中心に耕地整理が進みはじめたころで、このような光景が東部を中心にあちこちで見られはじめていただろう。
織田一麿「落合風景」1917.jpg
西落合公園.jpg
 織田一磨は、同書で「武蔵野」Click!の位置づけにこだわっているが、次の一文がその認識の基底にあると思われる。このとらえ方は、おそらくわたしの親の世代までの「武蔵野」Click!認識と、ほぼ同様だったのではないだろうか。
  
 武蔵野、武蔵野と言つたが、それは地域的にどこを指すかといふに、常識的にいふと、南は多摩川、北は入間川、東は隅田川、西は奥多摩の山麓で限られた広大な地域だといへる。徳川時代の江戸市中、現代の東京市の大部分も、また武蔵野の内に包まれてゐる。然し何時の頃からか知らないが、江戸市街は武蔵野から区別されて、/本郷もかねやす迄を江戸とよび/川柳にも詠まれてゐる通り、本郷でさへ三丁目迄が江戸で、それから先の赤門あたりは武蔵野に属してゐたものらしい。/町家の尽きるところで、江戸市中は終つて、その先に大名屋敷なぞが散在しても、武蔵野と呼称したものらしいと察しられる。主として、山手方面に近い地点が江戸と武蔵野の境界線であつたのらしい。
  
 著者は、「南は多摩川」「東は隅田川」と規定しているが、わたしはもう少し範囲が広いとらえ方だ。それは、古墳期に育まれた文化の広さや範囲、すなわち文字どおり「南武蔵勢力」や「北武蔵勢力」の拡がりを意識すると、南は多摩川を越えて神奈川県まで深く入りこみ、東は隅田川はおろか江戸川を越えて、南武蔵勢力に古墳の石材(房州石Click!)を供給していた千葉県南部までの、広大な拡がりを想定している。「武蔵国」という枠組みや江戸期の朱引墨引は、ずいぶんあとに成立した“行政区画”の概念にすぎない。
 ただし、「武蔵野」と聞いて一義的にイメージするのは、雑木林が点々とつづく広い草原と、段丘から噴出する清廉な湧水で形成された泉が無数につづく情景で、海浜部の風情とは相いれないのかもしれないが、わたしは「文学的風景」ではなく、文化的なつながりや拡がりから改めて「武蔵野」をとらえてみたいと考えている。
織田一麿「中野附近(落合)」1921.jpg
地形図上落合1918.jpg
上落合坂道.JPG
 織田一磨は、丘が連なる麻布育ちなのだが、自身が住む地域を乃手Click!ととらえてはいるものの、「江戸と武蔵野の境界線」あたり、すなわち江戸市街地とは考えずに「武蔵野」だととらえていたようだ。大正期から昭和初期にかけ、やはり麻布で育った義父Click!が聞いたら、はたしてカウンターパンチをお見舞いするだろうか?

◆写真上:1911年(明治44)の厳寒期に制作された織田一磨『高田馬場附近』。
◆写真中上は、同作とほぼ同時期の1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる描画ポイント。同年に建設される高田馬場停車場は、いまだ建設中だったのか採取されていない。は、同作の描画ポイントの現状。おそらく、イーゼルを立てたのは十三間通り(新目白通り)の下り車線路上か正面に見えている高田馬場ビルディングの敷地あたり。は、山手線の神田川鉄橋に残されていたイギリス積みのレンガガード。先の工事でコンクリートに覆われてしまい、現在は見ることができない。
◆写真中下は、1917年(大正6)に制作された織田一磨『落合風景』。は、大きな溜池があったあたりに造られた西落合公園で広い運動場が付属している。
◆写真下は、同書挿画の1枚で1921年(大正10)にスケッチされた織田一磨『中野附近(落合)』。は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる上落合。は、上落合の丘上に通う鶏鳴坂Click!の1本西隣りにある北向きの急坂を上から見下ろしたところ。

ダンスで投げ飛ばされた小坂多喜子。

$
0
0
なめくじ横丁1.JPG
 なめくじ横丁Click!の東側、上落合銀座通りにある「松の湯」からは、午後の早い時間から煙がモクモクと立ちのぼっていた。上落合(2丁目)829番地(現・上落合3丁目)のこのあたりには、早くから銭湯にやってくる客が多かったのだろう。なめくじ横丁Click!の長屋に集った作家や画家たちも、昼間から風呂に入っていたにちがいない。
 2軒つづきの長屋が3棟連なる住宅には、早くから尾崎一雄Click!檀一雄Click!が住んでいた。いちばん南側の陽当たりのいい長屋には、1928年(昭和3)に「赤旗」の初代編集長だった水野成夫(のちフジテレビ創立)と、東京帝大新人会から社会運動家になっていた村尾薩男(のち社会党代議士)が住んでいた。真ん中の棟には、1階に尾崎一雄が住んで2階には檀一雄が暮らしていた。
 当時、軍国主義やファシズムに抵抗するため、大宅壮一とともに雑誌「人物評論」を創刊していた上野壮夫Click!は、尾崎一雄Click!のもとへ原稿を受けとりに訪れたとき、北側の1棟に空き家があるのに気がついた。1933年(昭和8)の秋、上野壮夫Click!小坂多喜子Click!は小林多喜二の虐殺事件に遭遇した陰鬱な印象が残る阿佐ヶ谷を離れ、再び上落合へともどってくる。上落合には、以前からの友人知人が多く住んでおり、小坂多喜子も落ち着いた生活が送れると考えたのかもしれない。
 この長屋で、尾崎一雄・松枝夫妻と上野・小坂夫妻は親しく交際することになるが、特に小坂多喜子は創作の師として、尾崎一雄と生涯変わらぬ交流をつづけている。ほどなく、上野壮夫の故郷である茨城から、長崎のプロレタリア美術研究所Click!へ通うために、洋画家の飯野農夫也Click!が上野・小坂夫妻の家に寄宿することになる。
 上野・小坂夫妻が長屋に転居してきたことで、なめくじ横丁では当時の文学界でも稀有な光景が繰りひろげられることになった。上野・小坂家を訪ねてくるプロレタリア文学や美術の表現者たちと、向かいの尾崎一雄や檀一雄を訪問する芸術派、あるいは芸術至上主義の作家たちが、期せずして呉越同舟的に交流しているのだ。彼らは、ときに激しい議論に明け暮れ、ときに仲よく酒をくみ交わしていた。
 長屋なので、お互いの家の訪問者は丸見えであり、双方の家に誰が訪ねてくるのかを興味津々で観察している。気になる作家が訪ねてくると、自身が属する“派”などおかまいなしに話しかけては交流していたらしい。尾崎一雄は、1988年(昭和53)に講談社から出版された『あの日この日(四)』(文庫版)の中で、上野・小坂家を出入りしていた人々を記録している。同書より引用してみよう。
  
 (前略) 三畳の窓が路地に開いているので、誰かが来れば厭でも目に入る。堀田昇一、細野孝二郎Click!、本庄睦男、平林彪吾、小熊秀雄Click!、亀井勝一郎、保田与重郎、加藤悦郎Click!吉原義彦Click!、緑川貢、神近市子Click!矢田津世子Click!、横田文子、若林つや子Click!、平林英子――この平林を除いては、すべてここへ移ってから知った顔である。上野家へ来るのは、すべてプロレタリア派の作家や批評家であった。
  
 また、上野・小坂家では逆に、尾崎一雄や檀一雄の家を訪れる作家たちを記憶していた。夫妻の次女である堀江朋子の『風の詩人-父上野壮夫とその時代-』(朝日書林/1997年)によれば、尾崎一雄の家には中谷孝雄をはじめ、中島直人、木山捷平、外村繁、浅見淵、田畑修一郎、丹羽文雄Click!たちが、また檀一雄の家には太宰治Click!をはじめ、山岸外史、森敦、古谷綱武Click!、古谷綱正、立原道造Click!たちが訪れていた。上落合829なめくじ横丁1936.jpg
上落合829なめくじ横丁1941.jpg
人物評論時代1933.jpg
 そのころの様子を、1986年(昭和61)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春―わたしの逢った作家たち―』から引用してみよう。ちなみに、当時の檀一雄Click!は画家をめざしていた時代だ。
  
 (尾崎家の)二階には檀一雄がたむろしていて、壁いっぱいに自分の画いた不可解な油絵を貼りつけて「女の腹の上で自滅する絵だ」と私にいった。檀一雄の福岡の高等学校時代の話は、天馬空をゆくような青春の奔放な楽しさに満ちていて私を煙にまき、眩惑させた。/檀一雄のところへしばしば太宰治が現われた。田舎からのお仕着せらしい黒地に白の細い縞柄の渋い高価な紬の上下を着流した太宰治が、二階の檀一雄の部屋の廊下から私たち(私と亡夫上野壮夫)の寝室をのぞき込むように睨みつけていた暗い眼付に私は出逢った。/階下六畳、三畳、二階六畳一間の全く同じ作りつけの二階家が二軒ずつ狭い路地をはさんで向い合っていた、路地奥の長屋である。檀一雄は当時留年に留年を重ねて東京帝国大学経済学部六年生であった。
  
 上記でも明らかなように、小坂多喜子は作家たちを単純に「プロレタリア派」と「芸術派」にカテゴライズせず、興味のある相手をつかまえて話しこんでは交流を楽しんでいた様子がわかる。このころの彼女は、『世紀』(1929年)など丹羽文雄の作品を愛読していたようで、丹羽が尾崎家にやってきたとき松枝夫人が「丹羽さんが来ているうー」(同書)と、彼女のもとに駈けこんで知らせにくるほどだった。
 だが、プロレタリア文学にこだわる上野壮夫は、「プロレタリア派」と「芸術派」の作家に垣根を設けて接しない妻を、ひそかに苦々しく思っていたようだ。しかも1933年(昭和8)から翌年にかけては、上野・小坂夫妻も参加していた日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が、特高Click!の弾圧で解散させられる瀬戸際であり、左翼の文化運動は壊滅の危機に瀕していた。「戦旗」の3代目編集長だった上野にしてみれば、反戦さえ唱えられない軍国主義の暗黒時代に突入した最悪の状況で、「ブルジョア派」の作家たちと仲よくするとは、いったいなに考えてんだよ?……という思いがあったろう。
上野・小坂夫妻(大宅壮一撮影)1939.jpg
なめくじ横丁2.JPG
なめくじ横丁19450402.jpg
 そんなある日、「プロレタリア派」と「芸術派」の作家たちが、なぜか上野・小坂夫妻の家に集まって酒盛りとなった。1階の居間には蓄音器が持ちこまれ、モダンな音楽が流れはじめた。おそらく、「芸術派」の作家たちが気軽にやってきたのは、作家を色分けしない小坂多喜子の存在が大きかったのではないか。酒を一滴も飲めない彼女は、ハワイからやってきた2世作家の中島直人から、突然ダンスをしようと強引に誘われた。以下、『わたしの神戸わたしの青春』から引用しよう。
  
 私はそれまで踊りなど踊ったことはなく、しぶっていると、向いの尾崎家の開け放たれた玄関越しの座敷からこちらのようすをじっと眺めていた中谷孝雄が、私に踊れ、踊れとしきりに目で合図を送っている。/私は中谷孝雄にけしかけられ、仕方なくまだ若いくせに頭の禿げあがった中島直人に引張られ、彼のリードで踊り始めた。すると突然隣りの部屋にいた夫が私のえり首を掴み投げ飛ばした。それは一瞬の早業で襖に大きな穴があいたほどの勢だった。気がついてみると私は隣りの部屋に腰をつき、うずくまっていた。手などいちどもふりあげたことのない、普段おとなしい夫がなぜ突然荒れ狂ったのか私には分らなかった。私はただ唖然とするばかりだった。そのとき尾崎家に残って、一部始終を見ていた浅見淵があとで中島直人に、人の奥さんと踊ってはいけないよとさとしたという話を私はきいた。
  
 このとき、小坂多喜子は「夫に嫉妬される何物も思い当らなかった」と当時を回想しているが、上野壮夫の爆発は男女間のストレートな嫉妬などではなく、ファシズムによりありとあらゆる弾圧で総退却を余儀なくされた自身の運動と作家活動への、たまりにたまったイラ立ちが一気に噴出したものだろう。それは、「芸術派」の作家とダンスをした妻に腹を立てて投げ飛ばしたところで、どうにかなるものでないことは、上野自身がいちばんよく認識していたにちがいない。
 1934年(昭和9)3月12日、当局の弾圧に抗しきれなくなった日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)は解散声明を発表し、公然と合法的に反戦をとなえる作家たちの組織は事実上壊滅した。同年9月には、小坂多喜子と上野壮夫は“なめくじ横丁”の家を引き払い、1年ほど上野の郷里である茨城県筑波郡作岡村へ引きこもることになる。
なめくじ横丁3.JPG
尾崎一雄と小坂多喜子1982下曽我.jpg
 だが、ふたりは執筆活動をあきらめていなかった。小坂多喜子は、神近市子が創刊した「婦人文藝」に書きつづけ、上野壮夫は武田麟太郎が創刊した「人民文庫」へ執筆を継続することになる。1935年(昭和10)9月に夫妻は筑波をあとにすると、今度は上落合の西隣りにあたる中野区上高田へともどってくるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:上落合2丁目829番地の、通称“なめくじ横丁”の長屋跡。
◆写真中上は、小坂多喜子・上野壮夫夫妻が去ってから2年後の1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる“なめくじ横丁”。は、1941年(昭和16)撮影の同地域。夫妻も通ったとみられる、上落合銀座通りで営業していた松の湯の煙突から白煙が確認できる。は、1933年(昭和8)ごろに撮影された「人物評論」の上野壮夫(左)と大宅壮一。
◆写真中下は、1934年(昭和9)ごろに大宅壮一が撮影した上野壮夫と小坂多喜子。は、“なめくじ横丁”跡の現状。は、1945年(昭和20)4月2日の空襲11日前にF13Click!から撮影された同エリアで、すでに長屋は解体されているのがわかる。
◆写真下は、上落合銀座通りから“なめくじ横丁”へと入る路地。3棟の長屋は、突き当たりを左折した右手にあった。は、1982年(昭和57)に撮影された小田原市下曽我で暮らす晩年の尾崎一雄を訪ねた小坂多喜子。ふたりは1933年(昭和8)の“なめくじ横丁”時代から、終生親しく交流をつづけた。晩年の壺井栄Click!のことを「肥ったうえにも肥えて」と書く小坂多喜子だが、あまり人のことをいえないような気がするのだけれど……。

蘭塔坂上の岡不崩アトリエを拝見する。

$
0
0
岡不崩アトリエ跡.JPG
 「芳崖四天王」と呼ばれた岡不崩Click!本多天城Click!のアトリエが、そろって下落合にあったことは先日こちらでご紹介したばかりだ。きょうは、蘭塔坂(二ノ坂)Click!上にあった岡不崩のアトリエについて書いてみたい。このサイトでは、下落合(現・中落合/中井含む)にあった洋画家のアトリエClick!はこれまでずいぶん取りあげてきたけれど、一般的な日本画家の画室Click!はともかく、特定の日本画家のアトリエを紹介するのはほとんど初めてのことだと思う。
 「アトリエ」という言葉は、洋画家や彫刻家の制作室あるいは工房にはしっくりくるけれど、日本画家にはいまひとつ馴染まないような気がする。「画室」のほうが、まだ少しは自然に感じるのだが、落合地域は“アトリエ街”なので、あえて日本画家の家もアトリエと表現してみたい。下落合370番地に住んだ竹久夢二Click!や、下落合622番地で暮らした蕗谷虹児Click!は、洋画家とも日本画家ともカテゴライズしきれない表現者たちだが、いちおうここではアトリエと紹介してきている。なお、岡不崩は自身のアトリエとその庭を「楽只園」と名づけていた。
 岡不崩が、蘭塔坂(二ノ坂)上の下落合1980番地にアトリエをかまえたのは、1923年(大正12)年5月に創立した本草学会の例会を自宅で開いた、1925年(大正14)10月ごろではないかと想像している。不崩は日本画家としての活動ばかりでなく、明治の半ばすぎから植物学の方面での活躍も知られている。当初は、アサガオの研究書を刊行したりしていたが、大正期に入ると本格的な本草学に取り組み、植物病理学者の白井光太郎とともに本草会(のち本草学会)を設立している。
 不崩の本草学会について、2017年(平成28)に求龍堂から出版された『狩野芳崖と四天王』所収の、藏田愛子『岡不崩による植物と個展の探求』から引用してみよう。
  
 この本草学会には、本草学に精通した植物学者の牧野富太郎が参画している。不崩は牧野から江戸時代の園芸書『花壇綱目』を借用することもあれば、会のことを相談してもいたようだ。不崩が牧野に宛てた「大正十二年四月二十日」の日付が記された書面には、牧野に本草会の後援者としての協力を仰ぎ、第一回会合での参考品出品と講演を依頼する旨が記される。不崩が白井や牧野ら本草学に通じた植物学者たちとの間に密な繋がりを築いていた様子がうかがえる。このほか、不崩は毎年七月に観蓮会を催した「蓮の会」の発起人となり、「東京朝顔研究会」の会員としても名を連ねている。
  
 文中に登場している「観蓮会」Click!とは、上落合467番地に住む古代ハスClick!の研究家・大賀一郎Click!が、1935年(昭和10)からはじめたイベントだ。岡不崩のご子孫であるMOTさんによれば、大賀一郎は犬を散歩させる道すがら、上落合から下落合の岡不崩アトリエへしばしば立ち寄っていたそうだ。
岡不崩アトリエ(楽只園).jpg
岡不崩アトリエ楽只園.jpg
岡不崩アトリエ門前カナムグラ.jpg
岡不崩「万葉集草木考」1932-34(建設社).jpg
 不崩が『万葉集』に登場する植物への考察をまとめた、『万葉集草木考』全4巻(1932~1937年)や『古典草木雑考』(1935年)は、植物学界や万葉集研究家の間ではよく知られている書籍だ。また、高山植物の研究でも有名で、『八品考』(1923~1930年)を著している。植物に関するこのような活動のあいまには、関東大震災Click!から復興する東京市街地を観察し記録しつづけた、まるで考現学Click!を意識したような『帝都復興一覧』(1924~1925年)を描くなど、岡不崩は単なる日本画家のカテゴリーに収まらず、大正後期から昭和初期にかけ多方面で精力的な仕事をこなしている。
 1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された織田一磨Click!『武蔵野の記録』には、岡不崩について次のような記述がある。
  
 この困難な研究をされて、貴重な文献を遺されたのは、故岡不崩氏である。其著述は「万葉集草木考」と命名されて四冊の立派な本となつて出版されてゐる。然し惜しいことには未だ完結に到らないのに、氏は老齢の為に死去された。全十五巻を以て完結するつもりで精力を傾倒されてゐたといふのに、僅かに四巻を出して未完成のまゝ逝かれたことは、惜しいことであつた。/然しこの四巻でも、無いよりは数等良いので後学の為にどれ位役に立つかといふことは言葉で尽せないものを感じる。岡氏は狩野門の日本画を専門とされた人で、山草の研究からつひに、万葉の植物考証を企てられたのである。今日、氏の画業は多くの愛蔵家をよろこばせてゐるであらうが、それにもまして世の中の為に得難い貢献は、この「万葉集草木考」であると思ふ。/今、本文を書くに当つても、この著書は唯一の参考文献として座右に備へ、常に氏の高説を参照することを忘れない。
  
 きょうの記事に掲載している岡不崩アトリエ(楽只園)の写真は、織田一磨Click!が愛読していた『万葉集草木考』(建設社)から引用したものだ。もちろん、洋画家のアトリエとは異なり建前は和館だが、庭には膨大な種類の草木が植えられていた様子をうかがい知ることができる。これらの草花を不崩は日々観察し、ときには写生を繰り返していたとみられる。不崩が軸画などの作品に描いた動植物は、いい加減な描写やデフォルメなどがいっさいなされておらず、まるで専門家用の精細な図鑑を見るような正確さで描かれている。
岡不崩アトリエ(楽只園)内部1932頃.jpg岡不崩アトリエ.jpg
岡不崩19290418那智滝.jpg
 岡不崩が死去してから7年後、1947年(昭和22)の空中写真を見ると、岡邸が濃い屋敷林に囲まれている様子が見てとれる。この庭には、たくさんの鉢植えや高山植物、樹木などが栽培され、四季折々の花を咲かせていたのだろう。夏に撮影されたのか、『万葉集草木考』には庭に咲く白いヤマユリの花や、鉢植えの植物が花をつけている様子がとらえられている。夏に神奈川の山々を歩くと、必ず目にすることができる鮮やかなヤマユリは、子どものころから馴染んで育った花だ。ヤマユリは、神奈川県の県花でもある。
 また、大事そうに育てられている鉢植えの花は、めずらしい高山植物の類だろうか。大正末から昭和初期にかけ、ハイキングClick!キャンプClick!がブームとなるにつれ、さっそくあちこちの山々で高山植物の乱獲問題が浮上している。岡不崩は、学術目的による植物の採取許可を当局に提出し、八ヶ岳を中心に高山植物を採集しては庭で育て、研究用の写生や観察を行なっている。
 アトリエで仕事をする岡不崩をとらえた、1932年(昭和7)ごろの写真が同書のグラビアに掲載されている。資料の山に囲まれて執筆をしている岡不崩が写っているが、床に架けられている神護寺仙洞院に伝承された『伝源頼朝像』は、まだ不崩が若いころ勉強用に模写をした自身の作品だろうか? また、『万葉集草木考』には1933年(昭和8)1月22日に撮影された、東京植物同好会の記念写真も掲載されている。そこには岡不崩と並んだ牧野富太郎や、大賀一郎の姿を見いだすことができる。
 岡不崩が、なぜ下落合1980番地にアトリエを建てることにしたのか、その直接的な要因は関東大震災による市街地の壊滅的な被害だったにしても、なぜ下落合という地域を選んだのかが気になっている。以前にも少し触れたが、どこかで東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画を耳にしていたか、あるいは中村彝Click!が最新情報を問い合わせるほど日本画界や洋画界の事情通で、またアビラ村(芸術村)計画Click!の発起人のひとりであり、下落合436番地にアトリエをかまえていた(基本的には)日本画家の夏目利政Click!あたりから、情報の提供を受けたものだろうか。
岡不崩1929.jpg 大賀一郎.jpg
記念写真19330122.jpg
岡不崩アトリエ1947.jpg
 岡不崩とアビラ村(芸術村)との接点、それは東京土地住宅の常務取締役だった三宅勘一Click!とのつながりか、下落合436番地の近衛文麿Click!か、同じ地番の夏目利政Click!か、下落合2095番地の島津源吉Click!か、それとも発起人のひとり下落合2015番地の芝居と野球好きな金山平三Click!たち洋画家Click!の誰かなのか、和洋を問わず画家たちのつながりや下落合のネットワークは意外な拡がりを見せるため、興味が尽きないテーマなのだ。

◆写真上:岡不崩アトリエ跡の現状で、蘭塔山の丘上から右手斜面にかかる一帯だった。
◆写真中上は、昭和初期に撮影された岡不崩アトリエ。は、同アトリエの庭園(楽只園)。は、楽只園に咲くカナムグラ(上)とヤマユリ(下)。
◆写真中下は、画室で仕事をする岡不崩。は、楽只園に並んだ鉢植えの植物。は、1929年(昭和4)4月18日に撮影された那智滝を訪れた岡不崩(左)。
◆写真下は、岡不崩()と大賀一郎()。は、1933年(昭和8)1月22日に撮影された東京植物同好会の記念写真。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる岡不崩アトリエ。屋敷林がかなり育ち庭園(楽只園)が見えにくくなっている。
おまけ
下落合のモミジは深紅にならず橙色のまま、そろそろ散りはじめています。暖かいせいかイチョウも青みを残したまま、まだ散る気配がありません。
モミジ201912.jpg
イチョウ201912.jpg



矢田津世子の「文壇人印象記」。

$
0
0
矢田津世子の書斎.jpg
 1935年(昭和10)の「文藝通信」3月号に、矢田津世子Click!の『女流作家の文壇人印象記』が掲載されている。この時期、彼女は改正道路(山手通り)の工事Click!で坂道がほぼ全的に消滅した緑深い矢田坂Click!沿いの、下落合4丁目1986番地(現・中井2丁目)に住んでいた。このあと、山手通り(環六)の工事に敷地が引っかかってしまい、すぐ南西隣りの下落合4丁目1982番地(一ノ坂Click!沿い)へ自邸を移転している。
 『女流作家の文壇人印象記』で取りあげられている小説家13人のうち、5人までが落合地域またはその周辺域に住んでいた人物たちだ。まず、数年前まで上落合460番地に住んでいた武田麟太郎Click!が登場している。上落合1丁目460番地は、脚本家の久板栄二郎や小説家の江口渙も住み、一時期は全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部が置かれていた場所なので、上落合の文士たちの間ではよく知られた住宅だったのだろう。
  
 初めてお目にかかりましてからかなりになりますのに武田氏はちつともおかはりにならない。その時も頭髪が乱れてゐましたが今も乱れてゐます。お歯もやはり欠けたままですし、莨の脂で黄色く染まつた指さきも同じです。そのおかはりにならない中に、たつたひとつ、武田氏の眉間に刻まれた一本の縦皺ですが、これが深くなり、お顔の威厳といふやうなものが強まつた感じがいたします。
  
 「眉間に刻まれた一本の縦皺」が、特高Click!による逮捕や発禁処分、いやがらせなどの弾圧によるものであることを、矢田津世子は知悉していた。彼女自身も共産党へカンパしたという容疑で、1933年(昭和8)7月に戸塚警察署Click!の特高に逮捕されたばかりだ。「おすこやかなれ、と只管念ずるのみです」と文章を結んでいるが、矢田自身も特高による逮捕で身体をこわして以降、1944年(昭和19)に死去するまで本来の健康を取りもどすことができなかった。
 つづいて、下落合4丁目2108番地の吉屋信子Click!が登場している。吉屋信子も、グレーのスーツを着て颯爽と遊びにきた、矢田津世子の姿を鮮烈に記録している。
  
 「花物語」時代からの吉屋さんの愛読者である私にはいまだに「先生」の感じがとれないのですが、お会ひすれば不思議に「先生」がいつのまにか「お友だち」になつてしまひます。婦人のかたの中でも吉屋さん程の頭のいいかたも稀れではないかと思ひます。殊に、そのテーブルスピーチの機智は吉屋さんならでは、と思はれる頭のよさ、只々尊敬申上げて居ります。
  
 矢田津世子から見れば、吉屋信子は自身の性格にはないものを、すべて備えた同性のように見えたのではないだろうか。機転がきいておしゃべりな吉屋信子Click!が陽性だとすれば、秋田出身で口数が少なく、ひかえめで朴訥とした性格の矢田津世子は陰性だろうか。だからこそ、このふたりは妙に気が合ったのかもしれない。
矢田津世子の矢田坂.jpg
矢田津世子邸跡2.JPG
 つづいて、当時は上落合2丁目740番地(現・上落合3丁目)に住んでいた、結婚したばかりの宮本百合子Click!(中條百合子Click!)について書いている。矢田津世子の『女流作家の文壇人印象記』(1935年3月)が発表された2ヶ月後、宮本百合子は淀橋警察署の特高に逮捕され、翌1936年(昭和11)3月まで拘留されることになる。
  
 たしか四年前のことだつたと思ひますが、その頃中條さんは目白にお住ひになつてゐられました。ジヤケツにスカアトの無造作な服装で、中條さんは女中さんの持つてこられた紅茶に御自分でレモンを切つて入れて下すつたのを憶えてゐます。その白い肉づきのよいお手の動きが実に綺麗であつた。中條さんは細いお声で話された。優しく頬笑まれ、その頬笑みの中からじつとこちらを御覧になるのですが、お眼の光りには或るひたむきなものがあつた。純心、誠実。一本気――の溶けあつたひたむきなもの。
  
 中條百合子が4年前に住んでいたのは、武蔵野鉄道Click!上屋敷駅Click!と山手線の目白駅Click!の中間あたり、高田町雑司ヶ谷旭出3570番地(1932年より豊島区目白町3丁目3570番地)の家だった。彼女は上落合で逮捕されたあと、翌年に釈放されてから再び目白町の同じ家Click!を借りてもどっている。
 下北沢から下落合の矢田家へ、しょっちゅう遊びにきていた大谷藤子についても書いている。矢田津世子が自宅で特高に逮捕されたときも、大谷藤子がいっしょだった。矢田は、大谷藤子と中條百合子はよく似ていると書いている。
  
 誠実の点でもこのひとは確かです。頭のよさの点でもこのひとは確かです。愛情の点でも、努力の点でも大谷さんは確かなひとです。永くおつきあひしてゐる私にはそれがよく分ります。涙ぐましく分ります。このひとには女性らしい神経のこせこせしたところがなく、その点が中條さんと一致し、女性には稀な大きな人物だと存じあげます。/ただ、このひとのてれた時に舌を出すくせは、どうにかしてやめさせる方法はないでせうかしら。
  
 大谷藤子と矢田津世子は、第三文化村Click!目白会館Click!時代からの親しくて長いつきあいなので、気のおけない文章で締めくくっている。
武田麟太郎.jpg 吉屋信子.jpg
宮本百合子.jpg 中村武羅夫.jpg
 さて、当時は五ノ坂の中腹にあたる下落合4丁目2133番地(現・中井2丁目)の自称“お化け屋敷”西洋館Click!に住んでいた、林芙美子Click!についても矢田津世子は書きとめている。共通の知り合いの通夜へ、喪服で出席するという連絡を文学仲間で取りあったあと、矢田津世子にだけは「普段着でいく」と連絡して通夜の会場で赤っ恥をかかせたり、「読んでみて感想を」と矢田が預けた短編小説を押し入れに隠して“行方不明”にしたり、矢田津世子のもとを取材しに訪れた新聞や雑誌の記者に、あとからさんざん嫌がらせをしたりと、ほとんど小中学生レベルのイジメのようなことを繰り返していた林芙美子は、矢田に対するコンプレックスの“お化け”のように見える。
  
 日向ぼつこをしながら心おきなく語りあへるかた。林さんにはお優しいお母様がいらつしやる。御親切な御主人がいらつしやる。林さんがお留守の時でも私はお母様や御主人とたのしくお話が出来ますし、また、私が留守の場合には林さんが私の老母とさしむかひで「一杯やる」間柄の親しさがずつと続いて居ります。
  
 矢田のほうが一枚上手の「大人」を感じさせる文章だが、それでも林には含むところがあったのか、手塚緑敏Click!をはじめ周囲の人々の話題を中心にすえている。
 矢田津世子は下落合に自邸があったため、林芙美子はミグレニンの中毒で鳥取に帰省した尾崎翠Click!のように、「狂死した」とマスコミにふれまわって「殺す」ことはできなかったが、林芙美子が矢田津世子の醜聞をデッチあげて新聞社や出版社に流していたのは、“ウラ取り”をしていた当時の記者仲間でさえ有名だった。戦後、両人が死去したあとの文芸記者による座談会などでは、よくこのイジメClick!が話題になっている。
矢田津世子と大谷藤子.jpg
矢田津世子邸跡1.JPG
 このほか、淀橋区矢来46番地の中村武羅夫をはじめ、当時の交流があった菊池寛Click!や中村正常、千葉亀雄、佐々木茂索、川端康成Click!、岡田禎子などについても書いているが、落合地域に住んでいた作家たちのみで紙数が尽きたので、これぐらいに……。

◆写真上:1935年(昭和10)ごろ、下落合4丁目1986番地の自邸書斎の矢田津世子。
◆写真中上は、改正道路(山手通り)でほとんどが消滅した矢田坂を上る矢田津世子。は、一ノ坂に面した下落合4丁目1982番地の矢田邸跡。
◆写真中下は、上落合1丁目460番地に住んだ武田麟太郎()と、下落合4丁目2108番地にいた吉屋信子()。は、上落合2丁目740番地にいた宮本百合子()と、落合地域の南東側である牛込区矢来町46番地に住んだ中村武羅夫()。
◆写真下は、矢田津世子とは頻繁に往来した大谷藤子(右)。は、改正道路(山手通り)の深い掘削で崖上になってしまった一ノ坂沿いの矢田邸跡。

犬猿の仲だった尾崎一雄と片岡鉄兵。

$
0
0
中井駅.JPG
 落合地域に住んでいた作家の中で、同じ町内にもかかわらず仲が悪かった人たちは少なくない。たとえば、表面上はともかく矢田津世子Click!は、繰り返される林芙美子Click!の子どもじみた稚拙なイヤガラセに辟易していたし、吉屋信子Click!は押し売り同然で買わされたシェパードClick!の仔犬を抱きながら、アルバイトでブリーダーをしていた村山籌子Click!を毛嫌いしていたふしが見られる。また、吉屋信子は足尾鉱毒事件Click!で父親を苦しめつづけた、古河鉱業のブレーン・舟橋了助Click!の息子である舟橋聖一Click!には、やはり多少のわだかまりをもっていたようだ。
 だが、憎悪をむき出しにして常に激しく対立した作家は、尾崎一雄Click!片岡鉄兵Click!のふたり以外にはあまり思い浮かばない。ふたりの対立は、芸術派とプロレタリア派の文学表現をめぐる路線のちがいにとどまらず、もはや感情的で「こいつ、とにかく虫が好かねえんだよな!」のレベルにまでなってしまったようだ。おそらく、双方の言動ばかりでなく、性格からして反りが合わない人間同士だったのだろう。
 尾崎一雄は、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の“なめくじ横丁”Click!に、次に下落合5丁目2069番地(現・中井1丁目)の“もぐら横丁”Click!に住んでいたとき、プロレタリア作家たちとも交流があったので同派の作家たちを毛嫌いしていたわけではなく、片岡鉄兵がとにかく大キライだったのだ。この尾崎一雄の感覚は、わたしもなんとなくわかるような気がする。片岡が書く作品には、どこか“上から目線”の独特なキザったらしい嫌味さと、ことさら都会人を気どる野暮ったい臭みのようなものを感じる。作品ばかりでなく、その性格は現実の生活や言動にも表れていたのではないだろうか。
 このふたりが対照的で面白いのは、早稲田大学を卒業した尾崎一雄が貧乏のどん底にあえぎながら、上落合や下落合の長屋を転々として芸術派の作品を執筆していたのに対し、片岡鉄兵は慶應大学に進みながら中退して結婚し、下落合4丁目1712番地の目白文化村Click!は第二文化村に建っていた、大きな西洋館の片岡元彌邸Click!に住みながら、プロレタリア文学作品を次々と生みだしていたことだ。誰もが「ふつう逆じゃね?」……と思いそうだが、本人たちも表現位置や実生活が“正反対”だと認識していて、よけいにいまいましく感じていたのかもしれない。
 小坂多喜子Click!は、神戸のパルモア英学院を一時的に休学していた1927年(昭和2)、汽船会社でタイピストのアルバイトをしていたが、そのとき故郷が同じ地域の片岡鉄兵と知り合っている。当時の様子を、1986年(昭和61)に出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』(三信図書)から引用してみよう。
  
 ややしわがれた、なでるような低いやさしい声音、葉巻をこげつくような錯覚を起させる手付で人差指と中指の間に挟み、口にひたと密着させて、細い首をかしげ、眼を細めておいしそうに吸った。だがそういう動作につきまとう何処となく優雅な洗練されたものごしが田舎者の私を魅きつけた。それは私の見知らぬ都会の文化人の匂いだった。/私と片岡鉄兵のかかわりあいは作家と文学少女のありふれた関係といえばいえるが、何よりも郷里が同じだということに強い紐帯感を覚えたことだった。/(中略) 元町の、やや三宮よりの山ノ手に入った小路にあるフランス料理店に私は連れてゆかれた。それは彼が新聞記者時代からのなじみの店らしく、舌びらめのムニエルなどの私が初めて口にするフルコースを、彼は気ぜわしく私の目の前で平げた。私はといえば妙に気おくれがして食欲がなかった。/(中略) 「東京はね、それは非常に多面的なくらしかたのできるところでね、きらくなことこのうえなしですよ、三十円もあれば十分一ヵ月くらせますよ」といった。暗に私に上京をうながしているようにもとれる言葉だった。
  
なめくじ横丁跡.JPG
もぐら横丁跡.JPG
尾崎一雄「もぐら横丁」1952池田書店.jpg 片岡鉄兵「片岡鉄兵集」1929平凡社.jpg
 なるほど、片岡鉄兵はこうやって若い女の子を誘っていたのだな……というのが透けて見えるアプローチだが、まさかその少女にあとで暴露されることになるとは思ってもみなかったろう。そして、小坂多喜子Click!神近市子Click!を頼って家出し上落合で生活をスタートさせるが、目白文化村の片岡鉄兵のもとへ借金しに出かけ、わずか3円ほどしか貸してくれないのに嫌な顔をされている。
 “なめくじ横丁”で隣り同士になり、小坂多喜子が私淑するほど親しくなった尾崎一雄だが、彼女は片岡鉄兵についても悪感情をまったく抱いてはいない。それは、小坂多喜子の文章の端々に感じるし、岡山県鏡野町に片岡鉄兵の文学碑が建立されたとき、ことさら喜んで出かけているのをみても明らかだ。だからこそ、小坂多喜子はふたりをクールに観察できたのではないかと思う。
 先にケンカを売ったのは、片岡鉄兵のほうだった。1928年(昭和3)2月ごろ、尾崎一雄が書いた短編に対し、「これはチエホフと志賀直哉の合ノ子で、まづくはない。しかしかういふブル文学をうまく書いたとて先は知れてゐる」という主旨の批判を雑誌でした。これに対して、尾崎がにわか「左傾」の作家にいわれたくない、大きなお世話だと反論したところ、片岡は『二人の馬鹿者』と尾崎を「バカ」呼ばわりした。現代から見ると、他愛ない子どものケンカのように見えるが、当時は芸術派とプロレタリア派との関係は、街で出あえば殴り合いになりそうなほど険悪だった。
 片岡鉄兵は、さらにつづけて尾崎を挑発している。同書によれば、「自分は真理によつて左傾したのである、尾崎なんぞはもつと本を読んで勉強せよ、このことを同志橋本英吉に話したら、そんな奴は殴つてしまへ、と彼は言つた」と、まるで橋本英吉が岸田劉生Click!のようなことを口走ったことになってしまい、尾崎一雄はもともと片岡が新感覚派の作家だったことを踏まえ、「新感覚派で銀座をチヤラチヤラやつてゐるより、人民大衆のために働く方が余程いいに決つてゐる。それならそれで立派にやり通しなさい」と、皮肉たっぷりに応酬した。
尾崎一雄.jpg 片岡鉄兵.jpg
片岡元彌邸1936.jpg
上落合位置関係1936.jpg
 1934年(昭和9)10月ごろ、尾崎一雄と片岡鉄兵は下落合4丁目1909番地(現・中落合1丁目)の中井駅近くにあった辻山義光Click!の医院で、期せずして顔をあわせることになる。尾崎は、広津和郎の腰巾着→新感覚派の流行作家→プロレタリア文学作家→流行風俗作家と変わり身の速い片岡を軽蔑していたせいか、ほとんど相手にしなかったようだ。小坂多喜子は、辻山医院を何度か訪問しているが、当時の様子を同書より引用してみよう。なお、文中の「春子さん」は劇作家の辻山春子Click!であり、寺斉橋際の喫茶店「ワゴン」のママは萩原稲子Click!のことで、このサイトではお馴染みの顔ぶれだ。
  
 辻山医院は西武線中井駅の側にあって、当時近辺にたむろしていた文士たちの殆どが辻山医院の患者として、またそのサロンの客人として出入していた。夫人の春子さんは劇作家だった。その裏に当時詩人の萩原朔太郎と別れたばかりの、グラマーでモダンな夫人が、そのピチピチした肉体を黒っぽい服に、はち切れんばかりにまとって、あまりハンサムでもない、くたびれたような若い男と二人でやっていた「ワゴン」という喫茶店があった。文字通り、天幕ばりの、四、五人はいるといっぱいになる小さな喫茶店だった。/檀一雄や林芙美子などが出入していた。そこへゆけば文壇の誰かと顔が合うという工合(ママ)だった。私たちもときどきそこへ顔を出した。
  
 片岡鉄兵は、暴言をあびせた尾崎一雄に対し、ずっとうしろめたい気持ちがつづいていたのだろう。長男が生まれる直前で、出産費用さえ工面できず困窮にあえいでいた尾崎のもとへ、ある日、片岡がふいに訪ねてきて、自分は多忙なので大阪朝日新聞社の原稿を申しわけないが引き受けてくれないかと、エッセイの仕事をまわしてくれた。辻山医院で尾崎一家の窮乏ぶりを知ったのだろう、それがかなりの額の原稿料をもらえる仕事で、尾崎は無事に松枝夫人の出産準備を整えることができた。
 小坂多喜子は、神戸にいた文学少女時代の想い出と重ねあわせて、「片岡鉄兵にはそういう親切なところもあったのである」と書いているが、彼の誠実で素直な性格を好もしく思っていたひとりに、同じプロレタリア作家だった中野重治Click!がいる。1968年(昭和43)に朝日新聞社から出版された、中野重治『折り折りの人』から引用してみよう。
  
 片岡には作品にもいくらか軽いところがあり、生活全体にもそれがあったかも知れない。ただ私の直接した限りでは、彼は気軽で、親切で、すなおだった。彼を「風のなかの羽根」あつかいにした人は少なくなかったが、その人たちが風のなかの重石のようだったか私は疑っている。
  
中井駅前1938.jpg
萩原稲子.jpg 辻山春子.jpg
辻山医院跡.JPG
 わたしも彼の作品を読むかぎり、「チヤラチヤラやつてゐる」(尾崎)キザっぽさや嫌味、ことさら「東京人」を気どる野暮ったさを感じるのだが、おそらく直接会ったりすると親切で“いい人”なのに驚くたぐいの人物だったのではないかと想像している。

◆写真上:“もぐら横丁”のあった、西側の線路から眺める中井駅のプラットホーム。
◆写真中上は、上落合2丁目829番地の“なめくじ横丁”跡。は、下落合5丁目2069番地の“もぐら横丁”跡。は、1952年(昭和27)出版の尾崎一雄『もぐら横丁』(池田書店/)と、1929年(昭和4)出版の片岡鉄兵『片岡鐡兵集』(平凡社/)。
◆写真中下は、尾崎一雄()と片岡鉄兵()。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる片岡鉄兵邸。は、同年の尾崎一雄邸と中井駅の位置関係。
◆写真下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる喫茶店ワゴンと辻山医院。は、萩原稲子()と辻山春子()。は、下落合4丁目1909番地の辻山医院跡(奥のビル)。

手布と弥勒と僧都(酒と女と坊主)。

$
0
0
国芳「御ぞんじ山くじらかばやき」1831.jpg
 うなぎの蒲焼きが記録されたのは、武州狭山で江戸の最初期に書かれた『料理物語』が初出だとされている。でも、どのような料理法がうなぎの蒲焼きとされていたかは、いまひとつハッキリしない。あと追いの付会で多種多様な説があるけれど、同書には挿画がなかったため、まさにこれだと規定できる事実としての証拠が存在しないのだ。ただし、「江戸前」Click!のうなぎは古く室町期の城下町から有名だったとみられ、今日の蒲焼きと同一の姿をしていた可能性が高い。
 蒲焼きが、現在のものとまったく変わらない姿として確認できるのは、1600年代末の元禄年間に出版された好色本『好色産毛』だとされる。江戸の街中で、うなぎの蒲焼きを商っていた店としては、元禄年間に創業された「大和屋」がいちばん古いことになっている。大和屋は下谷の佛店(ほとけだな)、すなわち現在の東上野(JR上野駅付近)にあった街だ。ただし、うなぎの本場は日本橋から深川にかけてなので、記録された見世は大和屋がもっとも早いとみられるが、それよりも古い蒲焼き屋はすでにどちらかの地域で店開きしていたのかもしれない。
 この下谷佛店の近くには、1700年代の半ばごろから岡場所(私娼窟)が形成されていた。つまり、川柳の「かばやきを食って隣へもぐりこみ」や、「かばやきとばかりですまぬ所なり」に象徴的な、岡場所へ通う前に男が精をつける料理として、うなぎの蒲焼きが注目されていたようだ。この岡場所は、江戸の街では通称「ケコロ」Click!と呼ばれており、うなぎの蒲焼きと同様に濃口醤油ベースの甘辛だれをつけ、串に刺した鶏肉を焼いて精をつけるやき鳥Click!も、この街で生まれたことはすでに記している。
 ケコロの常連客は、大江戸(おえど)の一般市民というよりも、上野山Click!で暮らしていた僧侶が主体だった。当時の上野山には寛永寺Click!ばかりでなく、同寺の別院を含め大小無数の寺々が建立されており、ケコロの岡場所に直近で面していた寺院には、たとえば普門院、常照院、顕性院、明静院、修善院、正法院、一乗院、吉祥院、宝勝院、高岩寺、大久寺、龍泉院、現龍院、寿昌院、養玉院、仙龍寺、蓮華寺などなど数えあげたらキリがない。これらの寺々の住職はもちろん、上野や谷中に展開する多くの寺院の僧職たちが、こぞってケコロに通ってきていただろう。
 江戸期でもっとも古い蒲焼きの図版は、1700年代初頭の享保年間に近藤清春が描いた『江戸名所百人一首』で、深川八幡社の参道にある小見世で蒲焼きを焼いている様子が描かれている。「めいぶつ大かばやき」の行燈が見えるので、おそらく下谷の佛店以前から深川の蒲焼きは名物化していたのではないだろうか。ちなみに、当時の蒲焼きはそのまま精をつけるために食べるか、酒の肴として賞味するのが主流で、「うなぎめし」Click!(うな重やうな丼)の登場は江戸の街で芝居が盛んになったり、料理屋が増えたりするもう少しあとの時代になってからだ。
 もちろん上野山の生臭坊主たちは、破戒をする際には「蒲焼きを食ってからケコロへ女を買ってしけこんでくる」などとはいわず、ひそかに隠語を駆使して岡場所へ出かけていっただろう。ちなみに、うなぎの隠語は「手布(てふ)/山芋」、娼婦は「菩薩」などと呼ばれていた。ほかに、黒潮・親潮にのってやってきた大江戸の魚市場にあがる、活きのいい魚介類は「亡者」あるいは「水梭花(すいさか/すいしゅんか)」などと称して食べている。魚介類でいえば、たとえばアユは「刺刀(さすが)」Click!、タイは「首座」、タコは「惣身」あるいは「天蓋」、カツオは「独鈷(どっこ)」など、ほぼすべての魚介類には隠語が用いられていた。
 「亡者」を食らうなら、酒は「弥勒」または「般若湯」、茶を飲むなら「脇」、餅を食うなら「雲門」、やき鳥(鶏肉)を食うなら「鑽籬菜(さんりさい)」などと称している。ケコロへ繰りだすのに、蒲焼き屋の「手布」ではなく、やき鳥屋で「鑽籬菜」を肴に「弥勒」をひっかけていった坊主たちも少なくないだろう。おそらく、すき焼き屋で鴨肉Click!を、ももんじ屋Click!でアオジシ(カモシカ)やイノシシ、シシ(シカ)の鍋を食っていた坊主もいたにちがいないが、この記事は仏教の隠語がテーマではないのでこれぐらいに。
近藤清春「江戸百人一首」深川八幡参道蒲焼き.jpg
深川かね松.JPG
上野1.JPG
 こういう、堕落・腐敗しきった破戒僧や生臭坊主たちを見ていた江戸市民は、織田信長の比叡山を見る眼差しと同様に強い反感を抱き、冷ややかに眺めていたのはまちがいないだろう。それは、ちまたに残された数多くの狂歌や川柳でも、うかがい知ることができる。これは現代でもつづいており、京都ではめずらしくないことが、東京では冷ややかで怪訝な顔で見られることでも明らかだ。
 夜になると、祇園や先斗町など芸妓やホステスのいる盛り場へ僧衣のまま繰りだす坊主たちが、東京で同じことをして周囲を凍りつかせたエピソードが紹介されている。2015年(平成27)出版の井上章一『京都ぎらい』Click!(岩波書店)から引用してみよう。
  
 「夜あそびは、きらいやないですよ。東京でも、よう飲みにいきます。このあいだ、銀座のクラブに、坊さんのかっこしたまま入ったんですわ。そしたら、ホステスもほかの客も、びっくりしたような目で、こっちをながめよる。それで、自分がうっかりしてたことに、気がついた。しもた、ここは京都とちがうんや、東京やったんや、てね」/あとでもふれるが、京都の僧侶が夜あそびででかけるのは、伝統的な花街にかぎらない。ホステスクラブへおもむくこともある。そして、肩や腕もあらわなドレスのお姐さんに、袈裟姿のままじゃれついたりもしてきた。僧服の僧侶たちが、京都のクラブでは、それだけ自然にうけいれられている。そのいでたちで、おどろかれることはない。/しかし、さすがに他の街、たとえば東京あたりでは、僧服姿が異様にうつる。ありえない衣裳として、とらえられる。そして、夜の京都になれすぎた僧侶は、時に京都以外のそんな常識を、失念してしまう。他の街でも、京都流の袈裟姿をあらためず、店の気配をこわばらせることが、おこりうる。
  
 ホステスや客たちの「おどろかれる」「気配をこわばらせる」だけで済んで、この坊主はむしろ幸運だったろう。外来宗教の僧たちが、戦争末期に見せた醜態をよく知る客=(城)下町人Click!が何人かいたら、すぐさま外へ叩きだされたかもしれない。
 それは、別に肉や魚を進んで食し、街の女を買い、芸妓やホステスとたわむれ、平然と酒を飲む破戒僧や生臭坊主の姿に、江戸期からの反感がそのままストレートにつづいていたからではない。1944~1945年(昭和19~20)の戦争末期、東京でもリアルに空襲Click!が予測される状況になったとき、下町にあった寺々では「本山に帰る」あるいは「修行をしてくる」と称し、墓地も本尊のある堂宇も檀家もいっさいがっさい放りだして、出身地へ家族を連れて疎開していった(逃げていった)坊主たちが少なからずいたからだ。
国芳「うちわ絵」.jpg
本所川勇蒲焼.JPG
上野2.JPG
 ふだんから「生死」について語り、「死後の世界」や「生者の悟り」をもっともらしく説教師づらして説く坊主が、いざ自身が生死の淵に立たされたら、仏(ほとけ)に仕える身でありながら死者が眠る墓地や本尊(仏)さえ守ろうともせず、「大江戸(おえど)の恥はかきすて」とばかりサッサと逃げだしていく姿を見せられた“檀家”や周囲の東京市民たちは、怒りを通りこして呆れかえった。
 親父は「敵前逃亡」と称していたけれど、東京にあるあまたの社(やしろ)やキリスト教系の教会では、神職や宣教師(神父や牧師)たちが社殿や教会を「死守」(文字どおり空襲で犠牲になった人たちも少なくない)したのとは、まことに対照的な情景だったのだ。キリスト教系の施設では、「敵国人」Click!と規定されて弾圧され、抑留されたとしても、あえて「信者のそばに」と日本にそのまま残った欧米人も少なくない。それに比べ、同じ外来宗教でも仏教はなんてザマだ……と、親の世代でなくともわたしでさえそう思う。
 人の「生死」について日常的に語り、関連する儀式をつかさどり、その思想を広めようと“したり顔”で説教する坊主が、いざ自身の生命が脅かされたときに見せた宗教者らしからぬ臆面もない醜態は、強い怒りとともに地元の人々(とその子孫)の記憶に残ったわけだ。わたしの家では、親の世代から寺にある先祖代々の墓地を用いず、新たに無宗教墓を手に入れて利用しているが、同じ思いの東京人は少なからず存在しているはずだ。そのような歴史をもつ街で、僧衣のままの坊主が不用意に繁華街のクラブやキャバレーへ繰りだしたりなどしたら、ホステスや客たちが「気配をこわばらせる」ぐらいでは済まなくなりそうなのは、外来者にもおよそ想像がつくだろう。
 1990年代に米国公文書館で公開された資料Click!では、京都が東山の一部のみしか空襲の被害を受けていないのは、「米軍が歴史ある文化都市に配慮したから」などではなく、原爆の投下予定地に新潟や広島、小倉、長崎と並び、京都を含めて街並みを「温存」していたことが明らかになったが、「新型爆弾」の次の目標地が京都だというようなウワサが事前に街中へ流れたとしたら(東京では1944年の暮れから大規模な空襲が予測されていた)、そこにある寺々の坊主たちはどうしただろうか? すべてがそうではないにせよ、「本山へ帰る」「修行をしてくる」と称して、墓地も本尊のある堂宇も檀家も放りだして、逃げていく連中も少なからずいたにちがいない。そして、判明した親族の遺体が目の前にあるにもかかわらず、弔いや葬儀が出せない遺族が大量に生まれていただろう。
国芳「貞操千代の鑑」1843-47.jpg
池之端伊豆栄うな丼.JPG
上野3.JPG
 もっとも、京都に「本山」がある寺院の場合はどうしただろう? 「諸国の寺々へ修行してきますぅ」とか「托鉢せなならん」、「霊山にこもっておのれを磨かなあかん」とか、それでも教義からなんとかいい加減な理由をひねりだして、京都の街から逃げだしたのではないだろうか。「せやけど、なんで修業に家族も連れてかはんの?」と檀家の誰かから訊ねたら、「……」のまま夜逃げ同然に翌朝には姿を消していたかもしれない。

◆写真上:1831年(天保2)に描かれた、国芳『御ぞんじ山くじらかばやき』(部分)。獣肉を食わせるももんじ屋の隣りに、うなぎの蒲焼き屋が見世をひろげている。
◆写真中上は、享保年間に描かれた近藤清春『江戸名所百人一首』の挿画。富岡八幡社の参道に蒲焼き屋が店開きし、「名物大蒲焼き」として売っている。は、深川「かね松」のうな重。は、上野山にある葵紋入りの堂宇のひとつ。
◆写真中下は、国芳のうちわ絵『江戸前大蒲焼き』(制作年不詳/部分)。は、本所「川勇蒲焼」のうな重。は、不忍池の冬枯れ弁天堂。
◆写真下は、1843~1847年(天保・弘化年間)に制作された国芳『貞操千代の鑑』で、うなぎを食べるのではなく母子の放生会Click!の様子を描いたものだ。は、池之端「伊豆栄」のうな丼。は、上野(寛永寺)の五重塔。この構図の写真を撮影したかったので、上野動物園の入園券を買うハメになった。(爆!) ところで、池之端「伊豆栄」の蒲焼きはなんとかならないものだろうか。「前川」Click!同様に大勢の観光客相手に料理が甘くなったのか、大正期に暖簾分けした高田馬場の伊豆栄よりも泥臭くてマズい。

「サラリーマンが身についたわね」。

$
0
0
上野壮夫1928.jpg
 ずいぶん以前に、花王石鹸とミツワ石鹸の社長宅が、“呉越同舟”のように下落合の町内にあったことをご紹介Click!している。大正期から、花王石鹸の2代目・長瀬富郎邸Click!近衛町Click!の下落合1丁目416番地(現・下落合2丁目)に、ミツワ石鹸の三輪善太郎邸Click!は下落合1丁目350番地(現・下落合3丁目)にそれぞれ建っていた。お互いの社長宅は、直線距離で約450mほどしか離れていない。
 また、長谷川利行Click!の蒐集家でも知られ、ミツワ石鹸の取締役兼宣伝部長だった、「♪ワ、ワ、ワ~輪が3つ」の衣笠静夫Click!も、三輪邸の北側にあたる下落合1丁目360番地に住んでいる。ふたつの会社が面白いのは、ミツワ石鹸が日本橋薬研堀Click!(現・東日本橋)に本社があったのに対し、花王石鹸(長瀬商会)は日本橋馬喰町にあり、お互いの本社も約450mしか離れていなかったことだ。そしてもうひとつ、戦後は花王石鹸の宣伝部長でありクリエイティブディレクターだった人物もまた、落合地域とは深い関係で結ばれている。花王石鹸の商品が次々とヒットし、ミツワ石鹸と覇を競いあっていた当時の宣伝部を牽引していたのは、小坂多喜子Click!の夫である上野壮夫Click!だった。
 上野壮夫が、四谷署の特高Click!に検挙され拷問のすえに「転向」したのは、武田麟太郎Click!が主宰していた「人民文庫」が廃刊する数ヶ月ほど前、1937年(昭和12)秋のことだ。とたんに生活は苦しくなり、小坂多喜子は「人物評論」でいっしょだった大宅壮一Click!に相談し、夫の就職先を世話してもらっている。その就職先が、1938年(昭和13)10月に入社した長瀬商会(花王石鹸)宣伝部だったのだ。
 2代目社長の長瀬富郎は同志社出身で、もともと左翼思想に共感を抱いていたといわれる。花王石鹸には、すでに宣伝部長として歴史学者・服部之総や、本郷教会の牧師で社会主義者の太田英茂、築地小劇場の飛鳥鉄雄らが勤務していた。上野壮夫は、そのような社内環境であまり違和感なく受け入れられた。いや、むしろ居心地がよく上野が敗戦後、1961年(昭和36)まで花王に勤務しつづけられたゆえんだろうか。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』から、長瀬富郎の項目を引用してみよう。
  
 花王石鹸長瀬商会社長  長瀬富郎  下落合四一六
 花王石鹸本舗として世に知られる、長瀬家は岐阜県福岡村の旧家にして代々酒造業を営みし家柄であるが先代富郎夙に上京精励努力して明治二十年日本橋に分家を創立して商業に従事。同二十三年花王石鹸の製造販売を開始今日の業礎を築成せり、当主富郎氏は其三男にして明治三十八年二月を以て出生、同四十四年家督を相続し前名富雄を改め襲名す。同志社大学に学び曩に豪洲南方方面を視察し、更に昭和三年商業視察の為に一ヶ年欧米を漫遊す。夫人房江は山梨県人萩原拳吉氏の三女にて東洋英和女学校の出身である。
  
 上野壮夫は、花王石鹸へ入社後も文学活動をつづけているが、プロレタリア文学からはいちおう足を洗うかたちになった。入社から5年後の1943年(昭和18)12月、仕事の腕を見こまれた上野は、満州の奉天に設立された花王石鹸奉天工場の工場長として赴任することになる。現地では、元プロレタリア詩人で何度も逮捕歴のある活動家がやってくるというので、幹部たちが極度に緊張していたようだが、上野の人なつっこい性格とおおらかさが幸いして、すぐに工場へ溶けこめたようだ。
 敗戦と同時に花王の奉天工場は閉鎖となるが、付近の工場が軒並み周辺の中国人たちによる略奪や破壊に遭うなか、花王の工場は無事だった。それは、上野が日本人と中国人の給与や待遇を平等にしていたため、周辺の住民に花王の評判がよかったことと、彼の交渉力や折衝力=経営手腕が優れていたからだろう。左翼運動のさなかにも、上野はさまざまな責任あるポストに就いて、危機的な状況を何度も切り抜けている。
長瀬富郎邸跡.JPG
長瀬邸.jpg
三輪善太郎邸跡.JPG
 工場に勤務していた社員とその家族たちを全員帰国させ、上野壮夫は工場と設備をすべて中国側に明け渡す手つづきを終えると、家族を連れて敗戦から1年3ヶ月後、1946年(昭和21)11月になってようやく帰国している。そして、翌1947年(昭和)4月に花王本社に復帰し、総務部長と宣伝部長に就いている。この間、花王の分社化や組織の変遷があり、1951年(昭和26)に上野はいったん花王油脂を退社しているが、翌1952年(昭和27)4月に再び花王石鹸へ入社し、コピーワークを中心に宣伝部のクリエイティブディレクターとして、戦後の花王広告を牽引していくことになる。
 中国から引き揚げてきたあと、上野壮夫と小坂多喜子は西武池袋線・江古田の借家に住むが、1949年(昭和24)に高円寺へ家を建てて転居している。花王石鹸で、上野が広告宣伝の責任者として仕事をしていたころの様子を、1997年(平成9)に朝日書林から出版された、堀江朋子『風の詩人-父上野壮夫とその時代-』より引用してみよう。
  
 宣伝部作成室にはデザイナーの奥田政徳、中尾彰、池田真幸、写真家の石川信一などが居た。(中略) 戦後すぐに壮夫がひねり出したキャッチフレーズが「清潔な国民は栄える」というのである。戦後の荒廃と疲弊からの人々の再生を願って書いたものである。キャッチフレーズと書いたが正確に言えばスローガンである。以来このスローガンは花王石鹸の企業理念を表わす標語として使用された。(中略) フェザーシャンプーの広告で、芸大出の新進気鋭のデザイナー天野秀夫氏とともに第二十四回産業デザイン振興運動総理大臣賞、毎日広告賞を受賞する。「髪と若さと」というのがその時のキャッチフレーズである。その後、「ムチャです、大切な髪を石鹸や洗剤で洗うのは……」とか、「男だって使うべきよ」(コピー製作永山十四氏)の広告をくりかえし、フェザーシャンプーはぐんぐん売上げをのばした。特に「ムチャです」というキャッチフレーズは効果絶大で、それまで石鹸や毛糸用洗剤で髪を洗っていた人達があわててフェザーシャンプーで髪を洗い出した。
  
 日本に広くシャンプーの習慣を根づかせたのは、上野壮夫のコピーかもしれない。上野は、新聞広告電通賞や朝日広告賞なども立てつづけに受賞している。
 その後、1961年(昭和36)に花王石鹸を退社(同社顧問に就任)するが、日本広告技術者協議会の会長をはじめ、コピーライターズクラブの会長、日本デザイナー学院の学院長などを歴任し、その間に武蔵野美術大学デザイン科や、中央美術学院、久保田宣伝研究所などの講師や教授も勤めている。広告誌からの原稿依頼も増え、「宣伝会議」「雑誌広告」「ブレーン」などの常連執筆者となっていった。これら多忙な仕事をこなす中で、上野壮夫は文学活動をやめてしまったのだろうか?
長瀬富郎二代.jpg 長瀬商会花王石鹸本社1930.jpg
花王石鹸奉天工場.jpg
花王本社オフィス1960.jpg
花王石鹸広告1957.jpg
 小坂多喜子は、「夫から文学の道を奪ったのはわたしだ」といっていたようだが、彼女のあまり知らないところで、戦前にも増して膨大な詩や小説、エッセイ、評論などが産みだされていた。それらは、メジャーな文芸誌に掲載されることもあれば、「文芸復興」のような同人雑誌に発表されたり、あるいは未発表のまま上野の書斎で眠っていた作品群などがあった。彼の死後も、随筆集や詩集が出版されている。
 1949年(昭和24)5月、新日本文学会から『日本プロレタリア詩集1928~1936』が出版された。上野壮夫の作品は、1932年(昭和7)に書かれた『スパルタクスの道を』が収録されている。同書の前書きは中野重治Click!が担当し、解説は壺井繁治Click!が書いている。この時期、上野壮夫も新日本文学会に参加していたが、すぐに退会している。そのきっかけとなったのは、同会の会合で宮本百合子Click!が放ったひと言だった。
 「上野さん、サラリーマンが身についたわね」。もちろん、プロレタリア文学運動の前線から「転向」して離脱し、花王石鹸に入社したことに対する、たっぷりと皮肉をこめた彼女の言葉だった。もはや、新日本文学会の中に自分の居場所はないと一方的に感じた彼は、このひと言で早々に同会を離脱している。
 堀江朋子のインタビューに、画家で版画家の飯野農夫也は次のように答えている。
  
 「あの当時、文学が“個”に沈みこまなかったのは間違っていなかったと思います。しかし、あれだけの自己犠牲はいったい何だったのだろうと思います。上野壮夫は文学を志して、政治にふれたのです。ですから転向をせまられ、ついには文学者としての筆を折らざるを得なかったことは不運だったと思います。上野壮夫はその無念さと寂しさを生涯もち続けたのではないですか(中略) 私にとって、当時の上野壮夫は中野重治と同等の人でした」(同書より)
  
 上野壮夫は、決して線が細い性格ではなかったと思うのだが、詩人らしく繊細で真面目で傷つきやすい心の襞も備えていた。だから、人の心の中もよく読み通すことができ、そのときどきの状況や環境の正確な把握や、バランスの良い細かな気配りができるため、運動のさなかにも多彩な組織の“長”に推薦されることが多かったのだろう。
  
 その黒い階段を下り / ばらばらの墓石をあつめてみたところで
 夜と霧と / あれら無数の死の意味を / 知ることはもうできやしない
 きみらが流した血の赤土の上に / 三三三メートルの鉄塔が立ち
 電離層からくるかすかな散乱波は / あたかも死者の声に似て慄へてゐるが
 その意味をだれも解くことはできやしない
                   (『墓標』抜粋/「文芸復興」1961年2月)
  
花王石鹸広告1954朝日広告賞.jpg
髪と若さと1957.jpg
上野壮夫1956.jpg 堀江朋子「風の詩人」1997.jpg
 宮本百合子の言葉に、「サラリーマンだって、賃労働で食ってる正真正銘の労働者だろう。労働者が身についてなにが悪い? どういう意味だ、ええ? 小石川のお嬢~さんClick!」と開き直れないところが、詩人・上野壮夫の上野壮夫たるゆえんなのだろう。

◆写真上:1928年(昭和3)に撮られた、全日本無産者芸術連盟(ナップ) 時代の上野壮夫。
◆写真中上は、下落合416番地の長瀬富郎邸跡。は、1937年(昭和12)竣工の長瀬邸(新邸)。は、下落合350~360番地の三輪善太郎邸跡と衣笠静夫邸跡。画面の右手全体が三輪邸跡で、左手前がミツワ石鹸の宣伝部長だった衣笠邸跡。
◆写真中下は、2代目・長瀬富郎()と1930年(昭和5)に撮影された日本橋の花王石鹸長瀬商会本社()。中上は、上野壮夫が1943年(昭和18)に赴任した花王石鹸満州奉天工場。中下は、上野在籍中の1960年(昭和35)に撮影された花王石鹸の本社オフィス。は、1957年(昭和32)に制作された代表的な花王石鹸広告。
◆写真下は、1954年(昭和29)の上野作品で「お肌が よく知っています」広告。は、1957年(昭和32)の上野作品で「髪と若さと」広告。「ムチャです、大切な髪を石鹸や洗剤で洗うのは……」のコピーともども、花王フェザーシャンプーの大ヒットを記録する原動力となった。下左は、1956年(昭和31)に同社宣伝部で撮影された上野壮夫。下右は、1997年(平成9)に出版された堀江朋子『風の詩人』(朝日書林)。
Viewing all 1249 articles
Browse latest View live