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なぜ駅名と地名は乖離したがるのか。

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新井薬師前プレート.jpg
 先日、駅のホームで電車を待っていたら面白い……というか、愕然とする発見をした。西武新宿線の「新井薬師駅」で電車を待ちながら、駄菓子を大人買いしたあとホーム上でぼんやりしていたときのことだった。ここの駅名は「新井薬師駅」ではなく、「新井薬師前駅」が正確な名称だったのに気がついたのだ。(爆!) 帰ってから、さっそく拙サイトの13記事25ヶ所にわたる「新井薬師駅」を、「新井薬師前駅」に訂正した。
 でも、そこで気づいたことだが、勝巳商店地所部Click!が売り出した「新井薬師駅前分譲地」Click!でも、「新井薬師前駅前分譲地」ではなく同駅は「新井薬師駅」と認識されている。そうなのだ、同駅を「新井薬師駅」と認識しているのは、わたしや昭和初期の勝巳商店地所部のみに限らない。新聞に入ってくる日々の折りこみ不動産チラシでも、「新井薬師駅徒歩12分」とか「交通至便! 新井薬師駅より徒歩わずか3分」とか、同駅を「新井薬師駅」と認識している人たちが少なからず存在することに気づく。
 駅名をめぐる、このような面白い錯覚や「あれれっ?」と思うような誤解は、落合地域周辺でも多種多様なエピソードとともに伝承されている。西武池袋線の椎名町駅が、実際に江戸期から「椎名町」Click!と通称で呼ばれていた、長崎村(町)と落合村(町)にまたがる清戸道Click!沿いの街並みから、北へ500mほどズレているのは何度かここでも触れてきた。野方村(町)の江古田(えごた)地域から東北東へ800mほど離れた位置に、西武池袋線の江古田駅がある。同駅の駅名をめぐっては高田馬場駅と同様、大正期に地元からクレームでもついたものか、中野区の江古田(えごた)地域とはいちおう関係のない練馬の江古田(えこだ)駅となっている。
 山手線の目白駅Click!も、小石川村(町)目白(台)の地名位置から西へ1.2kmほどズレている。もともとは、日本鉄道が新長谷寺Click!目白不動尊Click!にちなんでつけた駅名のようなのだが、目白不動は室町末期ないしは江戸時代最初期に、足利から同寺へ勧請したといういわれがあるので、神田上水の大洗堰Click!が施工される以前、つまり江戸期に椿山東麓へ「関口」という町名が誕生する以前から、椿山一帯Click!は「目白」と呼ばれていた可能性が高い。目白駅が設置された当時、目白坂Click!の新長谷寺(目白不動)から同駅までは、直線距離で2.2kmも離れていたことになる。当時、駅が開設された高田地域では、駅名に関して「おかしい」「反対!」「なんだそりゃ?」という声は特に記録・伝承されてはいないものの、あまりの不自然な地名ちがいに徳川義親Click!がつい「高田駅と呼ばれた」……とつぶやいたのも、無理からぬような気がするのだ。
 その「高田」つながりで、ひとつ南の山手線・高田馬場(たかだのばば)駅は、設置当初から波乱ぶくみだった。山手線の駅設置請願運動の中心にいた上戸塚+諏訪町(現・高田馬場1~4丁目界隈)の町内では、具体的な駅名を地元の地名に由来する「諏訪之森」か「上戸塚」と規定して請願を展開していた。ところが、鉄道院は1910年(明治43年)に近くの史蹟である幕府練兵場の「高田馬場(たかたのばば)」を駅名にしてしまった。そのときの様子を、1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)から、同書では異例の皮肉たっぷりな記述より引用してみよう。
新井薬師駅不動産.jpg
百人町停車場1914.jpg
目白不動鍔塚.JPG
  
 当時新宿、目白間には停車場の設け無く、里人は専ら目白駅を利用する外に余儀なかつたが、明治四十三年九月十五日に至り、町民一致の請願と地主有志の献身的運動により、初めて開駅せられたのが、現在駅の発祥である、之より先駅名を戸塚里民は上戸塚駅と欲し、然らざる者は諏訪之森と申請して、こゝにも地方意識を暴露したが、遂に天降りて高田馬場と名づけられ、本町の存在が爾来著しくユモアー(ママ:ユーモア)さるゝに至つた。(カッコ内引用者註)
  
 確かに、上戸塚にある駅がなんで高田馬場駅なのか、意味不明で「ユモアー」だ。
 これに黙っていなかったのが、幕府の高田馬場(たかたのばば)を抱える下戸塚(現・西早稲田地域)の町内だった。同地域の「里民」たちは、鉄道院へ強力な抗議(それもかなりの)を繰り返したらしい。戸塚村民(町民)が、なんらかの運動や気に入らないことが起きると「力づく」で「手段を選ばない」のは、以前、戸塚町議会の大混乱Click!でもご紹介しているとおりだ。w
 戦前の『戸塚町誌』は、それでも筆をかなり抑えて書いているが、1970年代から地元の町会や古老などに取材して、その伝承などをていねいに書きとめている芳賀善次郎は、1983年(昭和48)に山交社から出版された『新宿の散歩道―その歴史を訪ねて―』では、次のように書きとめている。
  
 この時戸塚町民(ママ)は駅名を「上戸塚」または「諏訪森」(ママ)と要望したが、国鉄(ママ:鉄道院)は「高田馬場」とした。それをきいた戸塚一丁目(現・西早稲田地域のこと)の住民は、馬場跡から遠く離れたこの駅にその名がつくと、馬場跡が駅の近くにあるように間違われるからと猛反対運動を起した。困った鉄道省(ママ:鉄道院)は、窮余の一策、戸塚一丁目の方は「タカタノババ」だが、この駅名は「タカダノババ」だと言いのがれをしてけりがついたという話が残っている。/山手線で、駅所在地名を駅名としないのはここだけである。(カッコ内引用者註)
  
目白貨物駅1935.jpg
目白駅D51通過1954.jpg
上戸塚1910.jpg
 江古田(えこだ)駅もそうだが、高田馬場(たかだのばば)駅も開設当時は地名・地域とはなんの関係もない(とされる)、“架空”の名称のClick!だったことがわかる。鉄道院の担当者は、まさか説明会場の鉄道院席へ踊りこんだ下戸塚の議員ないしは住民から殴り倒され、のちの町議会のような流血騒ぎになってはいないだろうが、相当きつい猛抗議(つるし上げ)を喰ったであろうことは想像にかたくない。
 芳賀善次郎は、「駅所在地名を駅名としないのはここだけ」と書いているけれど、実は「目白」と目白駅のケースでも見たとおり、山手線の駅名はそのほとんどが所在地の本来地名と駅名とがまったく一致していない。高田馬場駅のひとつ南の新大久保駅も、当初はその地名どおりの「百人町停車場」とされて地図にまで駅名が記載・印刷されていたが、のちに「新大久保停車場」と改められた。いちばん近い本来の西大久保地域からでさえ、駅まで700m以上は離れている。
 さらに南の淀橋町角筈にある新宿(しんじゅく)駅も、実際の地名では存在しない駅名だ。旧・四谷区には「新宿(しんしゅく)」の地名はあったが、内藤新宿(しんしゅく)に由来するとこじつけても、江戸期に賑わった甲州街道の内藤新宿の西端である四谷大木戸から、約1.5kmも西へ離れた位置に開設されている。新宿駅は、当初より“新駅の名称”とされていたので、それほど混乱もなくスムーズに受け入れられたようだ。
 いまや、駅名に引きずられて地名変更Click!をしてしまった事例は、下落合の中井駅Click!や高田馬場駅などを例にとるまでもなく、都内のあちこちに存在している。これにより、地域の歴史や風土、史蹟・事蹟、伝統・伝承、人々の物語など広い意味での地域文化が朦朧とモヤモヤ曖昧化し、ひいては営々と培われてきた街々のアイデンティティが東京から棄損され失われていくのは、なんとも惜しくまた切ないことだ。
 近々、高輪に設置される山手線の新駅は、その地名どおりに「高輪駅」になるはずだった。ところが、「高輪ゲートウェイ駅」というわけのわからない駅名になったと聞いている。ICT用語では、GW(ゲートウェイ)ないしはCGW(コネクティッド・ゲートウェイ)は頻繁につかわれる用語だが、なんとなく「現代風」で「グローバル感」があり、「未来志向」で「カッコいい」からという理由で採用したのだろうか? 山手線のネットワーク以外に、いったいどことどこをつなげる“手順”からGWなのだろう?
高田馬場駅1968.jpg
高田馬場駅諏訪町1968.jpg
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 田町駅と品川駅の間にポツンと設置された同駅は、GWはおろかノードにもネットワークスイッチにも、ルータにも、ハブにさえなってやしないじゃないか。ちゃんと、用語の意味を理解して命名しているのだろうか? 「高輪ゲートウェイ駅」などと名づけても、利用者からは「高輪駅」としか呼ばれないのが、いまから目に見えるようだ。

◆写真上「マジですか」Click!と絶句してしまった、新井薬師前駅のネームプレート。
◆写真中上は、新聞の不動産チラシでは当たり前のように使われている「新井薬師駅」。は、1914年(大正3)の大久保町市街図にみる設置当初の「百人町停車場」。は、戦後に目白不動が遷座した金乗院の境内に残る鍔塚Click!。茎櫃が小さく小柄櫃に笄櫃を備えた、大刀用ないしは太刀用の丸鍔(彫りは雲龍か)だったのが判明した。
◆写真中下は、1935年(昭和10)撮影の目白貨物駅に停車する6789機関車。は、1954年(昭和29)に撮影された目白駅を通過中の貨物列車を牽引するD51。は、停車場が設置される直前の1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図。.
◆写真下は、1968年(昭和43)撮影の高田馬場駅で、駅前広場の位置に見える家々は諏訪町の街並み。は、1985年(昭和60)に撮影された高田馬場駅。

雑司ヶ谷地域の関東大震災。

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目白駅付近より東京市街地19230901.jpg
1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!については、わが家の伝承も含め、これまで市街地の被害に関する数多くの記事を書いてきた。また、地元の落合地域はもちろん、隣接する高田町(現・目白)や戸塚町(現・高田馬場/早稲田)、野方町(現・上高田/江古田)などの資料からも、震災直後の街の様子を取りあげてきた。ついこないだも、新宿地域の淀橋台の揺れClick!について記事にしたばかりだが、今回は高田町の北東側に位置する、雑司ヶ谷の震災当時の様子を書いてみたい。
 雑司ヶ谷における関東大震災時のエピソードは、少し前に地震による延焼で全滅した洲崎遊郭から脱出し、楼主たち追手から逃れるために、鬼子母神参道前の雑司ヶ谷の交番へと駆けこんだ娼妓たちのエピソードClick!をご紹介している。その記事で、事件の経緯を記録していた資料として、同年10月1日に出版された『大正大震災大火災』Click!(大日本雄弁会講談社)から引用しているが、地元の高田町の資料では関東大震災に関する記述がほとんどないことにも触れている。
 たとえば、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)では、関東大震災の記述はわずか5行弱にすぎない。同書より引用してみよう。
  
 突如、九月一日、関東地方に大震火災の事変あり、幸に此の町は其の災禍を免かれたが、東京市中は殆んど全滅の姿となり、避難し来るもの夥しく、町は全力を傾倒して、之が救済に努めた。爾来、この町に移住者激増し、従つて家屋の建築も増加して、田畑耕地は住宅と化し、寸隙の空地も余す所なく、新市街地を現出するに至つた。
  
 実際には、学習院の特別教室から出荷した火災で同校舎が全焼したり、住宅にも少なからず被害が出て負傷者もいたはずなのだが、それほど深刻な被害がなかったせいか東京市街地の街々とは異なり、非常にあっさりとした記述になっている。
 これは、豊島区全体の歴史を概観した区史でも同様で、たとえば1951年(昭和26)に出版された『豊島区史』(豊島区役所)にいたっては、わずか2行と少しの記述で終わっている。同書の、「各町の町制時代」の項目から引用してみよう。
  
 大正十二年九月一日、関東地方に大震火災起り、幸にこの地方は災禍を免れたが、東京市中は殆んど全滅の状態となつた。罹災者は陸続とこの町に避難して来たので、町は全力をあげて救済につとめた
  
 豊島区のレベルで見るなら、立教大学のレンガ造りの本館が崩落したり、そこそこの被害は出ているはずなのだが、犠牲者がほとんど出なかったことが、おしなべて関東大震災の印象を希薄にしているのだろう。
 地震による被害よりは、市街地から押し寄せる膨大な被災者たちの救援や、罹災者の避難場所としての記憶のほうが強く残ったのだと思われる。大震災の当時は、住宅が近接して建てられておらず、火災が拡がる怖れはきわめて低かっただろうし、住宅の周囲には田畑や空き地があちこちに残っていたせいで、避難場所にも困らなかった。
高田四ツ谷町通り1918.jpg
高田村役場(高田若葉7)1918.jpg
雑司ヶ谷1923.jpg
 また、東京市街地と武蔵野の台地エリアでは、地震による揺れの大きさが異なっていた可能性が高い。2011年(平成23)の東日本大震災でも、東京の低地や埋め立て地を中心とする市街地一帯では震度5強を記録したのに対し、新宿区の上落合に設置されている地震計は震度5弱にとどまっている。関東大震災でも同様だったとは、具体的なデータが残されていないので断言できないが、目白崖線沿いの地盤は市街地よりも震動がひとまわり小さかった可能性がある。
 しかし、それまで経験のない関東大震災の大きな揺れは、雑司ヶ谷の住民たちを驚愕させるには十分だった。1977年(昭和52)に新小説社から出版された、中村省三『雑司ヶ谷界隈』から引用してみよう。著者は子どものころ雑司ヶ谷電停のすぐ西側、雑司ヶ谷水原621番地界隈(現・南池袋2丁目)に住んでいた。
  
 私の家は今でも残っているその土蔵の西側で、大震災の時にはこの土蔵の瓦が数枚、私の家のせまい庭先に落下してきたものだ。(中略) 大正十二年九月一日、いわゆる関東大震災は、私の小学校一年生の時、その雑司ヶ谷の家で遭遇した。始業式を終えて家へ帰ると、父が昼食の仕度をしていた。母は夏休みで郷里へ戻った姉と妹とを迎えるために帰省して不在であった。 / 父に言われるまま茶卓の上に茶碗や箸などを並べていたが、いきなり大きくゆれ出したと思うともう坐ってもいられなかった。襖が大きく弓なりに曲り、はじかれたようにとんできた。気が付くとその時はもう父は私のかたわらに居て、私をおさえつけるようにして茶卓の下にもぐり込ませていた。後での父の話だと、大ゆれがくる前にゴーッという物凄い地鳴りのような音がしたということだが、子供の私にはおぼえがない。
  
 このあと父親は、著者を家の北側にあった空き地へ避難させたあと、隣家で腰を抜かして動けずにいた「小母さん」を助けだして、空き地へと連れてきている。
立教大学本館中央塔崩落192309.jpg
学習院特別教室焼失192309.jpg
 父親は、昼食がまだなのを思いだし、家の中へ何度か駈けこんでは飯櫃や茶碗などの食事道具を持ちだすと、「小母さん」も含めた3人で茶漬けClick!を食べはじめた。その後、周辺の住民たちが全員無事なのを確認すると、家の中にいては余震が危ないということで、住民たちは柿の木のある広場状の空き地へ集まった。
 しばらくすると南の空、つまり早稲田方面に黒煙が上がりはじめたのを見て、著者の父親は様子を見に出かけている。この黒煙は、おそらく学習院のキャンパス内で起きた、特別教室が全焼した火災の煙だろう。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 ところが夕方近くなっても父が戻って来ないので私は心細かったが、とにかく泣きもしなかったことだけはおぼえている。夜はその柿の木を中心に隣り組の者達が畳をしき蚊帳を吊って雑魚寝をした。流言が出始めたのはその頃からで、男の大人達は竹槍などを用意し交代に見張りについた。私の父も隣りのお兄さんもいつの間にか戻っていて、仲間に加わっていたのを蚊帳の中から眺めた記憶はある。/一方私の母は郷里で、東京方面全滅のニュースで居ても立ってもいられなかったそうである。(中略) 母と叔父は惨たんたる下町方面の被害状況を目のあたりにして、雑司ヶ谷までたどりついてみると、余り変っていない町の姿にかえってびっくりしたそうである。事実雑司ヶ谷の私の家の附近で、倒れたり傾いたりした家は殆ど皆無で、私の家の被害も障子や襖の破損と、棚の上などから落ちてこわれた器具などで大したことではなかったらしい
  
 しかし、1923年(大正12)当時の1/10,000地形図を参照すれば明らかだが、雑司ヶ谷はあちこちに森が点在する緑豊かな地域で、家々も密集して建てられてはおらず、随所に空き地が拡がるような風情だった。したがって、同じ関東大震災クラスの揺れが再び雑司ヶ谷地域を襲ったら、現在の稠密な住宅街では被害がどれほど拡がるのかは不明だ。
雑司ヶ谷の森.JPG
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 東日本大震災がそうだったように、(城)下町Click!に比べて揺れがやや小さめなのはまちがいかもしれないが、どこかで大きな火災が発生すれば、おそらくひとたまりもないだろう。関東大震災では、犠牲者のおよそ95%以上が大火災による焼死者だった。

◆写真上:関東大震災の直後、目白駅付近から眺めた東京市街地の大火災による煙。
◆写真中上は、1918年(大正7)に撮影された四ッ谷(四ッ家)付近の目白通り。右手に見えている白亜の洋館は、できたばかりの高田農商銀行Click!は、同年に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道近く(高田若葉7番地)にあった高田村役場。は、震災と同年に作成された1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷地域とその周辺。
◆写真中下は、1923年(大正12)9月の関東大震災で崩落した立教大学本館の中央塔。は、同震災で火が出て全焼した学習院の特別教室跡。
◆写真下は、いまも大正当時の面影が残る雑司ヶ谷の森の大樹。は、1975年(昭和50)ごろに撮影された中村省三の旧居跡。奥に見えるのが大震災で屋根瓦が落下した土蔵で、背後の高層ビルは建設中のサンシャイン60。は、本記事とは直接関係ないが鬼子母神の参道沿い雑司ヶ谷古木田487番地にあった初見六蔵邸跡。初見六蔵は、長崎アトリエ村のひとつ「桜ヶ丘パルテノン」Click!を企画して建設している。

山田清三郎の「出版・入獄記念会」。

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出版入獄記念会1934.jpg
 かつて上落合に住んでいた、数多くのプロレタリア作家や美術家について調べているとき、1968年(昭和43)に理論社から出版された山田清三郎Click!の『プロレタリア文学史/上・下』も、資料のひとつとして参照していた。おそらく、戦後まもなく出版された同書は、当時、もっとも詳細なプロレタリア文学史料だったろう。
 山田清三郎が住んでいたのは、上落合(2丁目)791番地(現・上落合3丁目14番地)で最勝寺Click!境内のすぐ西側だ。ごく近くには、一時期だが上落合(2丁目)740番地には宮本百合子Click!が住んでいたし、上落合(2丁目)549番地に住む壺井繁治Click!を「村長」に結成された、上落合(2丁目)783番地の「サンチョクラブ」Click!(漫画家・加藤悦郎邸)があり、その周囲には数多くのプロレタリア作家や美術家たちが住んでいた。その山田清三郎が検挙され、1934年(昭和9)6月に撮影された「出版・入獄記念集会」と題する記念写真が残っている。(冒頭写真)
 「入獄記念会」とか「出獄記念祝賀会」というパーティは、別にプロレタリア作家たちの専売特許ではなく、滑稽新聞の宮武外骨Click!が1904年(明治37)にはじめたものだ。当時、官吏侮辱罪で実刑判決を受けた彼は、大阪監獄へ収監される直前に祝賀会を開いている。権力を批判して入獄4回、罰金15回、発禁14回のレコードをもつ宮武外骨Click!は、検挙されて入出獄を繰り返すうちに「祝賀会」を催すようになった。また、毎号「記者入獄記念碑」を紙面に「建立」し、当時の官憲や政府への抵抗をやめなかった。くしくも、山田清三郎を中心に「出版・入獄記念集会」が開かれたのと同年、1934年(昭和9)には45年前の入獄3年の冤罪が明らかになった宮武外骨の「筆禍雪冤祝賀会」が開催され、大審院(現・最高裁)の判事(尾佐竹猛)までが出席している。
 さて、山田清三郎の「出版・入獄記念集会」写真にもどろう。この記念写真には上落合を中心として、その周辺地域に住んでいた多くの人々がとらえられている。まず、上段左側には下落合の南側、戸塚4丁目593番地(現・高田馬場3丁目)に住んでいた窪川稲子(佐多稲子Click!)と窪川鶴次郎Click!がお互い少し離れて写っている。そのまま右横へ目を移すと、上落合689番地(のち上落合460番地へ移転)にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)の付近に住んでいたとみられる、『文化村を襲った子供』を書いた小説家の槇本楠郎Click!がいる。同作は、1928年(昭和3)の「戦旗」12月号に掲載されているので、槇本はそのころ上落合にいたものだろう。
 槇本楠郎の右隣りには、上落合460番地に住んだ劇作家で脚本家の久板栄二郎がいる。1934年(昭和9)という年は、久板が池田生二とともに『演劇運動の新らしき発展のために』を日本プロレタリア演劇同盟出版部から刊行したばかりのころだ。なお、上落合460番地は村山知義・籌子アトリエClick!のあった上落合186番地の北側、約130mほどのところにあった家屋で、全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部が置かれていた場所だ。
 次に、久板栄二郎のひとりおいて右隣りには、上落合602番地から葛ヶ谷303番地(のち西落合1丁目303番地)へと転居している、洋画家でグラフィックデザイナーの柳瀬正夢Click!が写っている。写真が撮られた1934年(昭和9)6月は、鬼頭鍋三郎Click!の隣りにある旧・松下春雄アトリエClick!で仕事をはじめていたはずだ。松下春雄の淑子夫人Click!は、すでに彩子様Click!たちを連れて池袋の実家にもどっていただろう。
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山田清三郎1.jpg 山田清三郎2.jpg
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 写真の中段左には、上落合688番地に住んでいた小説家で劇作家の藤森成吉Click!が見える。藤森は前年の1933年(昭和8)、治安維持法違反で特高Click!に検挙されて「転向」したはずだが、山田栄三郎の記念集会に参加しているのでその心中は異なっていたのだろう。戸坂潤をはさんで右隣りには、上落合829番地の「なめくじ横丁」Click!から上落合599番地へと転居した、詩人で小説家の上野壮夫Click!がいる。全日本無産者芸術連盟(ナップ)から引きつづき日本プロレタリア文化連盟(コップ)へと参加していたが弾圧が激しく、この記念写真が撮られるころには解散を余儀なくされていた。
 また中列の中ほど、当時は同人雑誌「現実」を刊行していたころの文芸評論家・亀井勝一郎の前には、上野壮夫と同じく上落合829番地の「なめくじ横丁」から上落合599番地へと転居した、上野の妻であり小説家でエッセイストだった、ちょっと派手めなコスチュームの小坂多喜子がいる。また、彼女の右上隣りには、第三文化村Click!にあたる下落合1470番地の「目白会館」Click!から、上落合460番地へと転居した武田麟太郎Click!が写っている。前年に、小林秀雄Click!らと刊行した「文学界」で執筆しており、いまだ「人民文庫」(1936年)は創刊していない。
 武田麟太郎の右隣りには、上落合829番地の「なめくじ横丁」で暮らしていた小説家の立野信之Click!がいる。小林多喜二Click!とともに書いた、『新芸術論システム・プロレタリア文学論』(天人社/1931年)などで特高に検挙されたが「転向」して出獄し、記念写真と同年には転向文学とされた『友情』を執筆している。また、立野信之のひとりおいて右隣りには、上落合630番地の詩人・野川隆Click!が写っている。記念写真の翌年(1935年)、壺井繁治らが結成した「サンチョクラブ」へ参加することになる。
 中段の右側には、落合地域の北隣りにあたる長崎町を転々としていた詩人で小説家、また画家でもある小熊秀雄Click!の姿がある。小熊も「サンチョクラブ」に参加して、頻繁に上落合(2丁目)783番地の事務局を訪れていた。1930年代に入ると、小熊秀雄のスケッチに落合地域や、その往来に描いたとみられる作品Click!がみられるが、おそらく「サンチョクラブ」への行き帰りで目にとまった風景を素描にしたものだろう。
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 下段左の生田花世Click!の前には、落合地域の北東隣りにあたる高田町の、雑司ヶ谷鬼子母神門前の雑司ヶ谷24番地に住んでいた、詩人で劇作家、小説家、童話作家の秋田雨雀Click!の姿がある。この記念写真が撮られた1934年(昭和9)には、新協劇団を結成して事務長となり雑誌「テアトロ」を創刊したころだ。1929年(昭和4)には、三木清Click!や羽仁五郎などとともにプロレタリア科学研究所(プロ科)を創設して所長を引き受けており、1940年(昭和15)ついに特高に検挙されることになる。
 秋田雨雀の右並びにいる老夫婦は、上落合502番地に住んでいた教育家で政治家だった蔵原惟郭と、北里柴三郎Click!の妹であるシウ夫人だ。息子で次男の蔵原惟人Click!は、1932年(昭和7)に治安維持法違反で特高に検挙され、この記念写真のときは懲役7年の実刑判決を受けて獄中にあった。出獄するのは、記念写真から5年後の1939年(昭和14)になってからのことだ。そして、蔵原夫妻の右並びが「出版・入獄記念集会」の主役である、上落合791番地の山田清三郎と山田きよ夫人だ。
 山田きよの右隣りには、上落合215番地に住んでいた小説家で文芸評論家の林房雄Click!がいる。林は、上落合186番地の村山知義・籌子邸Click!と上落合460番地の久板栄二郎邸(ナップ本部)の、ちょうど真ん中あたりに住んでいた。また、林房雄が鎌倉・坂ノ下の舟大工「米さん」に無理やり頼みこみ、由比ヶ浜でフロートClick!波乗りをしていたエピソードは、つい先ごろご紹介している。林房雄の右隣りには、やはり上落合460番地のナップ本部に住んでいた小説家の江口渙が写っている。前年(1933年)に虐殺された小林多喜二の葬儀委員長をつとめたが、それを理由に特高に逮捕されていた。
 江口渙の右隣りには、当時は上落合549番地に住んでいた壺井繁治Click!が座っているが、妻の壺井栄Click!の姿が見えない。また、壺井の右並びには共同印刷争議に取材した『太陽のない街』で知られる、小説家の徳永直が写っている。記念写真の撮られたころは、転向小説とされる『冬枯れ』を執筆中だろうか。
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 この記念写真が撮られたのは、四谷区新宿2丁目71番地にあった喫茶店「白十字堂」だが、所在地に「新宿」とあるものの四谷新宿(よつやしんしゅく)のことで、四谷区新宿2丁目=現・新宿区新宿(しんじゅく)3丁目に相当する地番だ。新宿伊勢丹Click!から新宿通りを、四谷方面に150mほど歩いたところに「白十字堂」は開店していた。
 さて、この記事にはいまだここで取りあげていない、落合地域とその周辺域に住んでいた人々がおおぜい登場している。この文学関係者たちの物語を書いていくとすれば、あといったい何年ぐらいかかるのだろうか?

◆写真上:1934年(昭和9)6月に四谷区新宿の喫茶店「白十字堂」で開かれた、山田清三郎の「出版・入獄記念会」で下段中央が山田清三郎・きよ夫妻。
◆写真中上は、1968年(昭和43)出版の山田清三郎『プロレタリア文学史/上・下』(理論社)。は、戦後に撮られた山田清三郎。は、記念写真の左側に写る人々。
◆写真中下は、写真右側に写る人々。赤の人名は、いずれも落合地域在住者または在住経験者だが、その他の人々も落合地域に隣接するエリアの居住者が多い。は、1935年(昭和10)結成の「サンチョクラブ」。前列左から3人目が中野重治Click!、4人目が壺井繁治で右端に小熊秀雄。小熊秀雄の左隣りは、神戸にある光子夫人の実家から上落合1丁目510番地に“単身赴任”で住んでいた岩松淳(八島太郎)Click!だろうか? は、上落合2丁目783番地の「サンチョクラブ」跡()と徳永直『太陽のない街』の舞台となった小石川の千川沿いの住宅街()。
◆写真下は、1933年(昭和8)にほていやデパートの屋上から撮影された四谷方面。右手に見えている緑地は新宿御苑で、喫茶店「白十字堂」は黄色の矢印あたり。は、1933~35年(昭和8~10)の「火保図」をもとに作成された「新宿盛り場地図」(新宿歴史博物館)にみる「白十字堂」。は、「白十字堂」があった四谷区新宿2丁目71番地界隈で現在の画材店「世界堂」の斜向かいあたり。

下町と山手の用法がゴチャゴチャする件。

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 「下町」という言葉が、城下町をちぢめた用語であることは、ずいぶん前に江戸期からつづく江戸東京語のひとつであることを、三田村鳶魚(えんぎょ)Click!の証言としてご紹介したことがある。江戸東京地方では、まだるっこしい言葉はどんどんちぢめて発音されるので、別の地方の人が誤解することも多い。
 たとえば水道(すいどう)は「すいど」Click!と読まれ、それでも長いので「いど」と略されて呼ばれていたため、江戸の街中に乃手にあるような井桁が組まれた、地下水の井戸が登場するおかしな時代劇も少なくない。江戸市街地で井戸を掘っても、塩分を含む水が湧いて飲用に適さなかったから、ほぼ100%の水道網Click!の普及が幕府の大きな課題となったのだ。江戸期から白木屋の井戸や佃島の井戸が有名だったのは、めずらしく真水が湧いてしょっぱくはなかったからだ。
 ちょっと余談だけれど、先日、佃島の丸久Click!の主人と長話をしてたら、このところ佃島の井戸に塩分が混じりはじめてしょっぱくなり、生活水には適さなくなってしまったというのを知った。石川島の高層マンションや、月島に増えはじめたビルの杭打ちで、地下水脈の形状が変わるか、地層の破壊で海水が入りこんでしまったのではないかと思う。(城)下町にはめずらしい400年来の井戸だけに、たいへん残念なことだ。
 ちぢめ言葉の話をつづけよう。清元や常磐津、長唄などの三味Click!、あるいは茶道や華道、能、詩吟、踊りなどのお師匠さんも、「おししょうさん」などとは呼ばれずに「おっしょさん」あるいは「おしょさん」となり、師弟関係が親しくなるとついには「おしさん」と略されて呼ばれるようになる。「おしさん」を、江戸東京へ布教や商売(病気平癒の祈祷や巫術)にやってきた三峯講や大山講、富士講などの修験者や霊山ガイドの「御師」Click!と勘ちがいした時代劇もどこかにありそうだ。真剣で「真面目なこと」が、江戸芝居の世界で「マジ」Click!と略されたことはすでに書いた。
 「(城)下町」と「(山)乃手」が、あたかも海外の街のように、平地と丘陵地帯を表すダウンタウン(平地)やアップタウン(丘陵地)とほぼ同義でつかわれるようになったのは、おもに明治期以降のことだろうか。「(城)下町」は本来、「(山)乃手」を含む旧・大江戸(おえど)市街地(旧・東京15区Click!)の概念であり、「下町」は「山手」の対語ではない。それが、いつの間にか海外の街並みを表現する用法にならい、平地が「下町」で丘陵地が「山手」としてつかわれるようになっている。
 だが、少し考えればわかることだが、いわゆる山手にある江戸期からの町々のことを、そこに住む地付きの人たちは誰も乃手だとは思ってはいない。神田(旧・神田区エリア)の半分は丘陵地帯だが、岡本綺堂Click!が「銭形平次」の舞台に選び、神田明神Click!のある一帯を江戸期からの地付きの方は、誰も山手だと思ってやしないだろう。同様に、江戸期や明治期から江戸東京(というか日本)を代表する商業地として発達した、日本橋や京橋・尾張町(銀座)のことを誰も山手とは呼ばないのと同様だ。地形がどうであるにせよ、それとは無関係に神田も日本橋も京橋・銀座も(城)下町だ。
 うちの義父は麻布出身(ちなみに江戸期からの龍土町でも六本木町でもない)だが、チャキチャキの町っ子だった。わたしの家によく遊びにきては、家庭麻雀を楽しんで1週間ほど泊っていったが、典型的な下町の雰囲気を漂わせていた。逆に、根っからの下町である日本橋育ちの親父のほうが、謡(うたい)Click!をやるなど乃手人のような趣味をしていたので、このふたりの性格は合わなかった。東京弁も、義父のほうは江戸の少し品のない職人言葉の流れをくんだざっくばらんな町言葉(いわゆる「べらんめえ」)だったが、親父は江戸期からの商人言葉をルーツとするていねいな(相対的にきれいな)東京弁下町言葉を話すので、どっちが「下町」っぽいのかわからないふたりだった。
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 私立の麻布中学校に通うようになって、初めて(城)下町人と接したときの驚きを書いたエッセイがある。今年(2019年)の7月14日に日本経済新聞に掲載された、古典芸能評論家の矢野誠一『東京やあいッ』だ。少し引用してみよう。
  
 麻布中学に入って、私は初めて東京は東京でも、下町育ちの友達を知ることになる。彼ら下町育ちは、幼い頃から親の手に引かれ、芝居小屋や寄席の木戸をくぐり、相撲や洲崎球場の当時は職業野球と称していたプロ野球観戦などを体験していた。ごくたまに、文部省推薦の健全きわまる映画を観せてくれた、山の手の素堅気のサラリーマン家庭に育った身には信じかねることだった。/彼らはふだんの会話でも、下町特有の生活環境をうかがわせてくれた。中学生の分際で、/そりゃきこえませぬだの、絶えて久しき対面ですなとか、/遅なわりしは手前が不調法/などと芝居や浄瑠璃の文句が、ぽんぽんとび出すのだ。そんな下町育ちの手引きで、放課後の肩鞄を提げたまんまの格好で、盛り場をうろつき、映画館や日本劇場、国際劇場のレビューをのぞくことを覚えた。
  
 矢野誠一は、「山の手の素堅気」などとユーモラスな表現をしているが、「すっかたぎ」は東京弁の下町言葉であって山手言葉には存在しない。
 著者の故郷は代々木八幡(旧・代々幡町代々木)だが、位置的にいえば落合地域と同様に山手線に接した内外地域は、大正期以降に住宅地が拓かれた新山手(新乃手)ということになる。中学生の当時、麻布という地域を「下町」ととらえていたのか「山手」ととらえていたのか、それとも(城)下町=旧・市街地という意味で下町ととらえていたのかは曖昧だが、少なくとも義父にいわせれば山だらけの麻布地域は、江戸からつづくれっきとした由緒正しい下町の認識だったろう。
 いつか、不用意に「日本橋や銀座は下町じゃないですよ~」などといったら、誇り高い下町人の岸田劉生Click!「バッカ野郎!」Click!とぶん殴られると書いたが、義父もまったく同じ感覚をしていたにちがいない。第一師団へ入営前の学生時代にはボクシングが趣味だったと聞いたので、義父の前で「麻布は下町じゃないですよ~」などといったら、マジにカウンターパンチが飛んできたかもしれない。
 つまり、海外の都市で見られるダウンタウンとアップタウンの関係と、東京の(城)下町と山手との関係は、少なくとも親の世代まではそこに暮らす住民の意識からして、まったく異なっている地域も少なくなかったのだ。そこには、「農工商」に寄生して生きる「士」に対する、「人が悪いよ糀町(麹町)」(町人からの借金を踏み倒す大旗本が住んでいた地域)に象徴される、江戸期からの階級的な反発の残滓もあったろうし、明治以降しばらくすると旧・幕臣たちClick!が続々と(城)下町にもどりはじめたとはいえ、丘陵地帯(用法がアップタウン化して混乱しはじめた「山手」)には地元民ではない人間が入りこみ威張り散らしているという反感が、少なくとも薩長政府(大日本帝国)が破産・滅亡する1945年(昭和20)までの77年間Click!、底流として執拗に連綿とつづいていたのかもしれない。
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 さて、うちの親はわたしが子どものころ、芝居(歌舞伎・新派・新国劇など)に寄席、都内の神社仏閣や名所旧蹟はほとんど連れまわしてくれたが、相撲は母親がキライで出かけず、プロ野球は親父がまだるっこしくて好まず観戦にはいかなかった。母親は、むしろ「文部省推薦の健全きわまる映画」(要するにつまんない映画)と怪獣映画Click!は見せてくれたが、夏になると『トゥオネラの白鳥』や『悲しきワルツ』(ともにシベリウス)を聴いている、おしなべて乃手人らしい趣味Click!をしていた。
 麻布出身で下町娘だった向田邦子Click!の母親は、正月になると来客の接待に駆り出される娘を哀れでかわいそうに思い、父親には内緒で遊びに逃がしてClick!くれたことがあった。下町の娘は、正月は外出して初詣のあと、街へ遊びに繰りだすのがあたりまえだったが、「山手」の一部では「おっかない父親Click!のもとに家族全員が集合してないと許されない家が多かったようだ。この「怖い父親」という概念も、たとえば日本橋育ちの小林信彦Click!にしてみれば、とうてい信じられない存在だった。
 矢野誠一『東京やあいッ』は、いわば新山手の眼差しから見た(城)下町人(旧・山手人含む)の姿だが、どこか乃手人の永井荷風Click!から見た(城)下町地域に通じる眼差しを感じる。矢野誠一『東京やあいッ』から、もう少し引用してみよう。
  
 世にいう江戸っ子気質、いなせな生活は、東京の下町にその威を見出してきた。山の手は地方から侵入してきた部外者によって構築された、言ってみれば植民地のようなものだった。/一九六四年の東京オリンピックは、その後の東京の町をすっかり様がわりさせてしまった。私たちが子供の頃を過ごした東京とは、およそ肌合のちがった東京に生まれ変ってしまったのである。気がついてみれば、風景、風俗、言語、文化、趣味嗜好、すべての面でかなりはっきりとしてあった、下町と山の手との生活習慣のちがいが失われてしまった。世の中みんな一色化していくこの国の傾きぐあいに、我らが東京も追従しているのがつまんない。
  
 「つまらない」ではなく「つまんない」と、東京方言の下町言葉をここでもう一度つかう著者だが、1964年(昭和39)の東京オリンピックが、そしてついでに同時期に行われた愚劣な町名変更Click!が、旧・大江戸市街地に当時まで連綿とつづいていたコミュニティを、次々と打(ぶ)ちこわしClick!ていったという認識は、わたしもまったく同感だ。
 だが、わたしはそれほど悲観はしていない。東京の風景は関東大震災Click!東京大空襲Click!、そして東京オリンピック1964Click!で破壊されたが、江戸東京地方ならではの風俗Click!言語Click!文化Click!趣味嗜好Click!は想像以上に根強くて根深く、かなり頑固に残りつづけている。換言すれば、それが残り守られつづけているからこそ、いまだ「江戸東京らしさ」がどこかで連綿とつづいているのだし、風景でさえ変革(復元)Click!していこうというモチベーションにつながっているのだと思うのだ。  
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「素堅気(すっかたぎ)」で思い出したが、いつかTBSの男性アナウンサーが千住の小塚原を「こづかはら」と読んだのを聞いて、思わず噴きだしてしまった。幕府の処刑場があり、杉田玄白が腑分けを行なった地名は「こづかっぱら」だ。噴きだすのとは逆にキレたのは、テレビ東京の女性アナが日本橋のことを「にっぽんばし」と読んだので、劉生ではないが思わず「てめぇ、もいっぺんいってみろ、バカ野郎」(職人言葉で失礼)とTVに向かって話しかけてしまった。w 地元のTV局であるテレビ東京が、江戸東京の中核であり日本の五街道の起点にある地名をまちがえるとは、心底、恥っつぁらしで情けない!

◆写真上:歌舞伎座が建て替えられた2013年(平成25)以前の、懐かしい4代目・歌舞伎座の場内。先年の秋、久しぶりに歌舞伎座を訪れたが、なぜか季節外れの黙阿弥Click!『三人吉三巴白浪』Click!(さんにんきちさ・ともえのしらなみ)を演っていた。最近、人気芝居なら季節には関係なくいつでも上演するのだろうか?
◆写真中上は、2019年7月14日に日本経済新聞に掲載された矢野誠一のエッセイ『東京やあいッ』。は、麻布中学の友人は上方の浄瑠璃か芝居、あるいは落語が趣味だったものだろうか、「そりゃきこえませぬ伝兵衛さん」の『近頃河原達引』(ちかごろかわらのたてひき)に登場する与次郎の文楽人形Click!
◆写真中下は、「絶えて久しき対面に~」の『仮名手本忠臣蔵』五段目で、千崎の3代目・市川左団次(右)に勘平の3代目・尾上松緑(左)。は、上方落語の『七段目』でも登場する「遅なわりしは不調法」の『仮名手本忠臣蔵』七段目。7代目・尾上梅幸のおかる(左)に、3代目・坂東寿三郎の由良助(右)。
◆写真下は、『仮名手本忠臣蔵』八段目で由良助の8代目・松本幸四郎や本蔵の2代目・市川猿之助などが見える。は、1955年(昭和30)ごろ撮影の山科大石閑居跡。は、歌舞伎座にある歌舞伎稲荷大明神の社(やしろ)にお詣り。
おまけ
「そりゃ聞えませぬの伝兵衛さん」でフテ寝するうちのネコで、仔ネコだったのが大型化して座布団からはみ出す最近のオトメオオヤマネコ(♀/2歳/御留山出身)。
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下落合を舞台にしたドラマ2019。

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 下落合が気になったきっかけのひとつとして、同地を舞台にした1974年(昭和49)のドラマ『さよなら・今日は』Click!(NTV開局20周年記念作品)のことを、最初期の2004年(平成16)11月にアップした記事Click!以来、わたしは何度かつづけてここに書いてきた。コメント数もかなりの数にのぼり、気になっていた方もたくさんいらっしゃるのだろう。今年(2019年)の旧盆(藪入りClick!)の真っ最中である8月13日午後3時すぎ、場所は下落合の喫茶「小苦楽(こくら)」Click!の、1階と2階をウロウロと往来しながら、わたしはドラマの“出番”を待っていた、下落合を舞台にしたドラマの撮影現場は初めてだが、まさか自分が出演することになるとは思わなかった。
 単にインタビュー番組で出演するだけなら、気が楽だし自分の言葉で自由に話せるのだけれど、インタビューに加え3つのシーンにしっかり長めのセリフもある。当然、役者はもちろん演劇の経験はゼロなのでセリフなどはまったく憶えられず(夏なので浮かれて遊び、憶えようともせず/爆!)、ノートPCにカンニングペーパーならぬセリフのテキストデータを用意して撮影にのぞんだ。わたしの役どころが、ノートPCを開いて喫茶店で原稿を書いている役どころだったからだ。それでも、自分の言葉ではない脚本家が書いたセリフは、どこかわざとらしく感じてスムーズに口にはなじまず憶えられない。そこで、まことに僭越ながら『さよなら・今日は』に出演した森繁久彌の台本Click!のように、セリフへいろいろとアカ入れ修正を加えさせていただいた。
 ところが、わたしのカンニングデータを用意したノートPCは、製品名のロゴがディスプレイの背後に大きく書かれていたため急きょ却下となり、かわりに抽象的なマークしか入っていないSurfaceに変えられてしまった。ズルを考えてたわたしは、さあたいへん。そう、このドラマはNHKが制作している作品なので、企業名や製品名はすべて基本的にNGなのだ。当日は撮影が押していたのか、本番前に2時間ほどの待ち時間があったため、少しでもセリフを記憶しようとしたのがよかったのかもしれない。シーンの変更や道具立ての入れ替え待ち時間を除けば、わたしの撮影は正味40分ほどで終了した。俳優を相手にセリフをいうわたしは、きっと紅潮していたにちがいない。
 ドラマは、NHKのEテレで2015年(平成27)より放送されている、4年越しの連続ドラマ『ふるカフェ系 ハルさんの休日』Click!だ。わたしのお相手「ハルさん」は、俳優・渡部豪太氏だった。舞台が古民家(近代建築)の「小苦楽」(下落合3丁目/旧・下落合1丁目542番地)だったので、わたしは番組ディレクターを下落合(現・中落合/中井含む地域)の東部Click!へご案内した。近衛町Click!から御留山Click!、林泉園の中村彝アトリエClick!へとご案内したが、このうち近衛町の目白ヶ丘教会Click!学習院昭和寮Click!本館(現・日立目白クラブClick!)が、ドラマの台本に登場している。
 ストーリーは、ハルさんが下落合を訪れ、街を散策するうち昭和初期に建てられた数寄屋の古民家(築90年余)を発見して、そこで開業している喫茶店に入り、内部を見学しながら地元の人たちと出会う……という展開だ。「小苦楽」の建物は空襲からも焼け残り、わたしは知らなかったが戦後に不二山というお茶のお師匠さん(おっしょさん・おしょさんで親しい場合はおしさん)が住んで、弟子たちに茶道(表千家)を教授していたそうだ。
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 わたしは、同店の開店早々に女将の瓜生美行様より茶室を含む室内を拝見していたが、建物が古くて落ち着いているせいか空気がゆったりしており、小庭を眺めながら飲むお茶の味は、近衛町の「花想容」Click!(喫茶部は閉店)にも似て、その後、落合地域の休憩ポイントとして何度か利用させていただいている。このお店を紹介してくれたのは、以前、「佐伯祐三生誕120年記念シンポジウム」Click!にご家族で参加された木下元介様だ。瓜生女将も出演されているので、いまから放送を楽しみにしている。
 先ほど「紅潮していたにちがいない」と書いたが、わたしの“出番”に合わせてか、4時ごろになると続々とお客さん役のエキストラたちが現場に入りはじめた。昼間は甘味喫茶のせいか、お客さん役も女性が多い。女優さんや女優の卵さんが多いものか、みなさん美しくてきれいな方ばかりだ。そのうちの濃紺(?)の着物姿のおひとりが、「セリフがあるとタイヘンですよね」と同情してくれた。そんなウキウキ気分で“本番”に臨んだため、セリフも“楽屋裏”でマジClick!に憶えようとけんめいに悪戦苦闘し、結果、なんとかご迷惑をかけずに撮影を終えることができたものだろうか?
 5時すぎより撮影をスタートし、6時すぎには終了していた。監督は黒澤明Click!大島渚Click!ばりに、スタッフたちへ「ばっかやろ-!」「まぬけ!」「のろま!」と怒鳴りつけていたけれど、スタッフたちはニヤニヤ笑いながらセッティングしていたので、ほんとは優しい監督で撮影現場のノリかポーズのひとつなのだろう。わたしがどのシーンもテイク1~3ほどで撮り終えたせいなのか、「なんだよ、タバコを吸ってるヒマもねえじゃないか!」と、ブツブツいう声が背後で聞こえた。w ときどきドラマや映画のクランクアップで見かけてはいたが、ほんとうに花束と記念品と拍手をいただいてから、ロケ現場の「小苦楽」=旧・不二山邸をあとにした。
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 本番の7日前に台本(最終稿)をいただいたのだが、それを読んでいて改めて感じたことがある。ちょうど、このドラマが撮影されているさなか、わたしも映像の構成台本を書いているまっ最中だった。もちろん、ドラマではなく米国や国内で上映される、ICTシステム関連の映像だった。おもに、レベル4~5のコネクティッド・カー(いわゆる自動運転)に関する内容だが、車内のECUや配置されたIoTセンサーから、OpenFlowプロトコルの仮想ネットワーク(SDN)を通じて収集された多種多様なデータを、CGWを介して外部に設置されたAI仕様のクラウド監視マネジメント基盤とリアルタイムに連携し、クルマへ安全で最適な指示だし(操作命令)をする……という、Society 5.0では大前提として企画されているモビリティ環境(いわゆるCASE)のテーマだ。
 昨年の仕事でも感じたのだが、映像作家やディレクターが頭の中で構成するシナリオと、わたしが構成するテキスト台本との間には、いつも少なからず齟齬が生じることになる。わたしの頭の中はテキストの集積で構築・構成されているが、映像作家やディレクターの方はもっとも効果的なイメージの集積と展開で構成されている。だから、テキストで構成された台本は、読めば順序だててわかりやすく感じるのだが、それを音声と映像で表現する場合には、まったく事情が異なってくるのだ。特に映像が完成したあとの作品を観ると、「なるほど」と納得するシーンがいくつもあった。
 この感覚は、昨年(2018年)5月に美術家の方にご協力いただいた前述の佐伯祐三Click!生誕120年記念シンポでも、強く感じたことだ。こちらは映像ではなく、パワポを使ったスライドショーのシナリオづくりだったが、美術家の方は次々と湧きあがるイメージの展開でスライドを構成したけれど、わたしはアウトラインのストーリーを前提にテキストの集積で順序だてながらシナリオを考えていった。だから、双方がその流れを突き合わせてみたとき、イメージが先行する思考とテキストが先行する思考とであい入れず、収拾がつかなくなりそうになった。わたしのテキスト頭は、イメージが先行する思考の方には理屈っぽくてまだるっこしく、饒舌でクドく感じられたのではないだろうか。今回のドラマの台本を拝見したとき、テキスト頭のわたしは改めてそのことを痛感したしだいだ。
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 戦後、「小苦楽」の古民家に住んでいた茶道の不二山という方、茶道具には「不二山」(楽焼白片身変茶碗)という作品もあるので本名かどうかは不明だが、この地域をドリルダウンするうちになにか発見したら、改めて書いてみたいと思う。そういえば、下落合には関東大震災Click!東京大空襲Click!の直後からだろう、清元や常磐津など三味のお師匠さんClick!や浮世絵の刷師など、(城)下町Click!の人たちが多くやってきては住んでいる。
 ◆ドラマ『ふるカフェ系 ハルさんの休日』 下落合編
  ・2019年9月12日(木) PM9:00~ NHK Eテレ(地上D/2ch)
  ・毎週木曜 午後9時/再放送:毎週水曜 午後0時25分
 余談だけれど、保存運動がつづく上鷺宮の三岸好太郎・節子アトリエClick!(1934年築/国登録有形文化財)も、月に何日かカフェを開催しているようなので、このドラマにはぴったりな舞台ではないだろうか? 同アトリエは、美術(独立美術協会Click!)や建築(設計・山脇巌Click!/バウハウス様式)をめぐる物語が数多く眠る宝庫のひとつだ。

◆写真上:「小苦楽」の庭で、左側に見えている躙り口が数寄屋。手水が「花想容」の藤田邸Click!とそっくりで、地中には水琴窟Click!が隠れているのではないか。
◆写真中上:暖簾の下がった「小苦楽」の入口()と室内()、そしてネコ()。大正期から大久保作次郎アトリエClick!の南庭へとつづく、路地の左手に位置する。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲直前にF13Click!から撮影されたのちの不二山邸と1947年(昭和22)に撮影された同邸。は、1980年代の「住宅明細図」(下落合1~4丁目)に収録された不二山邸。
◆写真下は、躙り口から点前座のほうへ向いた茶室内。は、黒蜜で甘みが調節できる「小苦楽」のあんみつ。は、クランクアップの花束と記念品。左側にいるのは、御留山でスカウトしてきた洋種が混じるキバが大きなオトメオオヤマネコClick!(♀/2歳)。

小島が棄て佐伯が拾い里見が保存した作品。

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 小島善太郎Click!が描いた、初期の代表作である『四ツ谷見附』Click!(1914年)には、10点ほどの画面があったようなのだが、わたしは1作を除いてできの悪い作品はすべて、小島自身の手で写生現場にキャンバスごと棄てられたか、処分されたと思っていた。ところが、少なくとも1918~1919年(大正7~8)ごろまでは3種類の画面が残っており、小島の部屋の壁に架けられていたという証言が残っている。
 そもそも、四谷見附の隧道(トンネル)をモチーフにした『四ツ谷見附』は、小島善太郎が21歳の1913年(大正2)から取り組みはじめ、翌々1915年(大正4)に安井曾太郎Click!から作品を賞賛されるまで、制作はつづいていたとみられる。わたしは、現存するひとつの画面しか観たことがないが、時刻や季節を変え同じタイトルで3つの画面が、少なくとも大正中期まで存在していた。そう証言しているのは、画家で劇作家の松岡義和だ。しかも、3作品のうち『四ツ谷見附』の1作「夕景」を、彼は小島から贈られている。松岡義和は、同作を自分の部屋の壁に架けて、訪れる友人たちに自慢していた。
 なぜ、小島善太郎が四谷見附の風景画を、3年間にもわたり数多く描きつづけることになったのか、その秘密についても松岡は証言している。当時、四谷(正確には麹町区麹町)にあったF女学校(四ツ谷駅前の雙葉高等女学校Click!)へ通ってくる、Fという女性に恋をしていたのだ。だから、彼女が登下校で利用する省線・四ツ谷駅東口のすぐ近くで、イーゼルを立てて描きつづけていた。雙葉高等女学校と小島の描画ポイントは、わずか200mほどしか離れていない。ふたりは毎朝、同じ時間の電車で落ちあい、おそらく帰るときもいっしょの電車に乗ったのだろう。
 だが、女学生のFは女学校を卒業すると、別の地方へ転居してしまい、ふたりは二度と逢えなくなってしまった。また、小島のほうでは、いまだ絵画を勉強中の身で生活の自立ができず、彼女を迎えにいけないという現実に苦悩していた。3年にわたり、10点にもおよんだ『四ツ谷見附』の画面の背後には、小島善太郎の悲哀に満ちた恋の物語が隠れていたのだ。
 では、松岡義和が小島から譲られた夕景の『四ツ谷見附』は、どのような画面だったのだろうか? 小島善太郎の次女・小島敦子様Click!よりいただいた、1992年(平成4)出版の『桃李不言―小島善太郎の思い出―』(日経事業出版社)収録の、松岡義和『「四ツ谷見附」の思い出―小島善太郎兄に捧ぐ―』(1920年)から引用してみよう。
  
 レモンイエロウを基調とした巳に夕陽が斜めにさし込んで、その画面上の総てのもの、隧道も、桜の木々、電信柱、向こうの側の土堤も逆光線の為に黒ずんで、レモンイエロウの悲哀に満ちた光線の中に浮かんでいた。桜の葉の全く落ちた梢の先端まで、そして端正に堀に沿うてカギ形に曲って並んでいる杭の一本、一本まで涙と悲哀の中にたどって画かれた事は、それを見る人は直ぐ感ずるであろう。そして木々の陰、向こう側に立っている電信柱の長く引いた影、これ等はK(小島)の震える手で画かれた事を見ることが出来る。それから隧道の真っ暗な、中に吸い込まれる様な深さ。Kはこの闇を画くに、どれ程苦心したか知れぬ事をよく物語った。闇に対する空想、恐怖が常に彼を捕らえ、それがKが幾度小刀を出してカンバスを削って画き直しても、Kは、それ等が知らず知らずの中に表れるのを見た。彼はその絵を抱いて、戸山ヶ原で絶望のあまり号泣した事もあった。
  
 松岡義和が壁に架けていた『四ツ谷見附』(夕景)は、隣家から出火した火災で松岡家が全焼し、あえなく同作は失われている。また、残った2作の『四ツ谷見附』のうち、現存する画面でないもう1作も失われたのか、現在では目にすることができない。
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 さて、小島善太郎Click!は野外で風景画を制作をしている際、画面のできが悪いとキャンバスごと写生地へ棄ててくるクセがあった。松岡の証言にも出てきた戸山ヶ原Click!で、小島はずいぶんキャンバスを遺棄Click!しているようだ。まず、キャンバスの表に風景を描きはじめるが、気に入らないとナイフで削っては描き直しを繰り返し、それでも気に入らないと今度はキャンバスの裏を使って描く。それでも思うように描けないと、おもむろにキャンバスを棄てて帰ってしまう。
 この性癖は、フランス留学中にも表れて、クラマールの森では小島が描きかけたキャンバスがずいぶん棄てられていたらしい。そんな棄てられた『クラマール風景』のキャンバスを、「もったいない」と拾って持ち帰っていたのが佐伯祐三Click!だ。誰かは忘れたけれど(鈴木良三Click!だったか?)、確か戸山ヶ原Click!でも遺棄された小島善太郎のキャンバスを見つけて、持ち帰った人物がいたはずだ。
 同書に収録された、里見勝蔵『小島の生活と芸術』(1933年)から引用してみよう。
  
 小島の巴里時代の作品の一つ『クラマール風景』は、佐伯がクラマールの森の中から----小島のこんな傑作が捨ててあった……と言って拾って来た。そして、今は僕が珍蔵している。二十号/第一面はプランタンの並木、地面は影になって黒と緑の交叉。第二面は建築中の家と丘へ登る道。道の両側の家はやがて遠景となり明るい空に連続する。/半完成ではあるが、調子は実に制限としている。筆触は単純で強い。色彩は美しい。小島のモチーフにおける第一印象は十分に表現されている。
  
 里見勝蔵は他界する1981年(昭和56)まで、小島善太郎との60年近い交流Click!がつづいていたので、おそらく死ぬまで未完の『クラマール風景』は、フランスでの懐かしい留学生活の思い出として手もとに置いていたのだろう。
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 その20号の『クラマール風景』と格闘する、小島自身が書いた文章が残っている。画面がどうしても気に入らず、小島善太郎はクラマールからパリへと出て、画家仲間たちと気晴らしの交流をしている。当時、フランスへ留学していた小島が知る画家たちの顔ぶれは、初期の1930年協会Click!でいっしょになる画家仲間のほか、川口軌外Click!鬼頭鍋三郎Click!、中山魏、林倭衛Click!、坂本繁二郎、小松清Click!、阿以田治修、宮坂勝Click!などだった。
 1981年(昭和56)に出版された小島善太郎『巴里の微笑』(小島出版記念会)から、クラマールで制作する様子を引用してみよう。
  
 クラマールの宿の裏門の丘から見下ろした風景画は、二十号大で大作といえないのに、1ヵ月もたつが出来ない。場所に惚れて描くのでなく、与えられた場で腰を据えて描いているのだが、ただ塗っていけばよいのではなく、画としての空間処理に気を配りながら、色々有機的な関係の問題とか、その色感とか立体感、物質感などの総合したものを組み立てながら思索し、徐々に進めるといったやり方である。/ことにパリに来てからは、日本での垢が気になり、自分を苦しめる。詩情に浸るのでなく、理に立ち向かうような切迫感があって、できた画面を削っては直す。これは私の癖で画は一向に出来上がらない。こういう時、酒の味をしらなかった私は、ぶらっとパリの学生街に出るのが常であった。
  
 ひょっとすると、制作途中でカンシャクを起こし、宿へ帰る途中の森の中へ遺棄してきた20号の『クラマール風景』は、上記の画面のことかもしれない。
小島善太郎「晩秋(戸山ヶ原」)1915.jpg
フェニックス会1923頃.jpg
小島善太郎「パリ郊外」1923.jpg
 パリの「サロン・ドートンヌ」展Click!に、クラマールで描いた小島善太郎『パリ郊外』が入選するのは、1923年(大正12)のことだった。その後、彼はティントレット『スザンナ』(300号)を模写するために、ルーブル美術館へ2年間も通いつづけることになる。

◆写真上:小島様にいただいた本の、内扉に書かれた小島善太郎の直筆サイン。
◆写真中上は、1914年(大正3)に制作された小島善太郎『四ツ谷見附』。は、当時とほとんど変わらない四谷見附隧道(トンネル)の現状。は、1912年(大正元)に撮影された雙葉高等女学校の校庭でボール遊びをする女学生たち。
◆写真中下は、1912年(大正元)作成の「四谷区全図」にみる描画ポイントと雙葉高等女学校の位置。は、1911年(明治44)に描かれた小島善太郎『戸山ヶ原風景』。は、現在は一部が公園になっている戸山ヶ原の現状。
◆写真下は、1915年(大正4)制作の小島善太郎『晩秋(戸山ヶ原)』Click!は、パリでは「フェニックス会」のホスト(主人)だったフェニックス役の小島善太郎。は、1923年(大正12)にサロン・ドートンヌ展に初入選した小島善太郎『パリ郊外』。

1916年(大正5)に記録された落合村の民俗。

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下落合駅前牛.jpg
 1916年(大正5)の落合村の風景は、明治期から華族や政治家、財閥、おカネ持ちの別荘地として東部の一部が拓けていた以外、江戸近郊の農村地帯の風情をそのまま残していただろう。旧・神田上水Click!や妙正寺川(北川Click!)の周囲には稲田が拡がり、そこから眺める目白崖線には鬱蒼とした雑木林が繁っていた。
 いまだ数が少なく、赤土がむき出しで滑りやすい坂道を上ってようやく丘上に出ると、一帯には畑か草原が拡がっており、ところどころに屋敷林に囲まれた大農家や小規模な墓地が点在している。ところどころに見えるこんもりとした雑木林の下には、大小の谷戸が口を開け、関東ロームの地層から露出した東京層Click!付近からは清水が噴出していた。その清水で形成された湧水池が、落合村のいたるところで澄んだ水面をたたえ、ときおり近所に住む農家のおかみさんたちが農作物を籠に入れて背負い、洗い場Click!と呼ばれた池で野菜を洗っている姿が見られただろう。
 南側を眺めながら、目白崖線の丘上を歩いていくと、麓には村の総鎮守である下落合氷川明神Click!の杜が見え、山腹には薬王院Click!の大きめな灰色の屋根と茅葺きの太子堂Click!が見え隠れしている。旧・神田上水の浅瀬で水浴びしている馬は、目白駅(地上駅)Click!前にある古口運送店Click!の飼い馬たちだろうか。川面がキラキラ光り、大きく蛇行する神田川に架かる田島橋の向こうには、3年前に建てられたばかりの独特な意匠をした目白変電所Click!のコンクリート建築が見え、変電所までつづく東京電燈谷村線Click!高圧線木製塔Click!が、西のほうから田畑の中に建ち並んでつづいている。
 旧・神田上水と妙正寺川が落ちあう向こう岸には、一面の麦畑の中に福室軒牧場Click!の乳牛だろうか、放し飼いにされているホルスタインClick!が何頭か点のように小さく見え、その左側には月見岡八幡社Click!の藁葺き屋根が木立ちに囲まれてチラリとかいま見えている。また、牧場のやや右手にある深い森の中には、光徳寺Click!の堂宇が、少し離れて最勝寺Click!が建っているはずだ。そして、はるか彼方の上高田との境界あたりに、落合火葬場Click!の高い煙突がかすんで見えている……。
 1916年(大正5)に豊多摩郡役所から出版された『豊多摩郡誌』には、当時の落合村の風情や民俗が採取されている。今日の落合地域からは想像できない、昔ながらの江戸東京の近郊風景が展開していた。その紹介文を、少し引用してみよう。
  
 風俗 村内土着の民は一般に淳朴(ママ)にして、旧幕時代の組合今も其俤を存し、隣侶相助くるの美風あり、衣食住また質素なるも、近時移住し来れる都人士多きを加へ、従て風俗漸く華奢ならんとす。 信仰 村内の寺院は尽く真言宗なるを以て、従来の住民は殆ど全部同宗の檀徒たり、近来耶蘇教天理教等の伝道を試むるものなきにあらざるも、未だ著しき勢力を認むるに至らず。
  
 近衛町Click!の開発前、目白駅(地上駅)前の丘上には近衛篤麿邸Click!が、目白通りをはさみ北側には戸田康保邸Click!(徳川義親Click!が転居してきて自邸Click!が竣工するのは1934年)が建っていた。近衛家が所有する谷戸には、若山牧水Click!が目にした「落合遊園地」Click!という碑が建立されたままで、いまだ周囲から林泉園Click!とは呼ばれていない。
落合地域1880東.jpg
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 御留山Click!に目を向けると、前年(1915年)に竣工したばかりの豪華な相馬孟胤邸Click!がそびえ、少し西に目を移せば岬のように突き出た西坂Click!バッケ(崖地)Click!上には、徳川義恕邸Click!の大きな西洋館が建っていた。徳川邸の南崖下、下落合では本村(もとむら・ほんむら)のエリアである旧・安井息軒邸Click!の西側に、軍人らしい質素さでこじんまりした川村景明邸Click!が見えていただろう。
 相馬孟胤邸と徳川義恕邸の中間にあたる、鎌倉期に拓かれた七曲坂Click!には、翌年(1917年)の竣工をめざす大島久直邸Click!が建設中で、足場が組まれた西洋館の尖塔のある特徴的な大屋根Click!ができあがっていただろうか。その北側には、大倉山(権兵衛山)Click!の丘上にあたり伊藤博文Click!の別荘があったという伝承が残る一画に、箕作俊夫邸Click!が瀟洒なたたずまいを見せていただろう。
 落合村にあった真言宗の寺院とは、薬王院と最勝寺、自性院Click!、光徳寺の4寺だ。蘭塔坂Click!(二ノ坂Click!)上には、いまだ大日本獅子吼会Click!(日蓮宗系)は移転してきていない。また、「耶蘇教」(キリスト教)の教会は、明治末に竣工した清戸道Click!(目白通り)沿いの目白福音教会Click!はあるが、東京同文書院Click!(目白中学校Click!)の斜向かいにあたる目白聖公会Click!は、まだ設置されておらず病院施設のままだ。目白駅(地上駅)前や、目白通り沿いにはようやく企業や商店が増えてきたが、いまだ江戸期からの繁華街である椎名町界隈Click!(現・山手通りと目白通りの交差点あたりを中心とした東西の街道筋)のほうが賑わっていただろう。
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吉屋信子「牛」.jpg
 『豊多摩郡誌』から落合村の風情を、つづけて引用してみよう。
  
 遊芸 従来農村部落なりし本村にありては、遊芸等の流行を見ず、学校の女児の如き師に就て之が修得を為すものなし、但近来移住し来れる都人士中にありては琴曲其他の音楽趣味の喜ばるること、都会の風と異なるなし。 衣食住 一般に質素にして、近年移入せる都人士一部を除くの外、平常は綿衣を着け麦飯を用ふるを例とす。旧来土着の民家にありては、住宅物置等多くは茅葺にして、左方に入口を設け土間を広く取りて農業用に便せり。  村内の鉄道線路に近くして市街化したる部分を除き、旧来の住民は今尚ほ一ヶ月遅れの盂蘭盆及び正月をなす、是を月おくりの盆、正月と称ふ。
  
 「都人士」という言葉が頻出するが、これは東京市街地から武蔵野Click!の緑が多く、自然環境が保全されている郊外へ移住してきた市民たちのことをさしている。
 1922年(大正11)に目白文化村Click!近衛町Click!の販売がスタートしてから、あるいは関東大震災Click!以降に市街地からドッと移住者が押し寄せてきた“民族大移動”とは異なり、まだ落合村が牧歌的な時代のことだ。この時代、落合尋常小学校Click!(現・落合第一小学校Click!)に通っていた子どもたちは、下校すると習いごとどころではなく、家の用事=農作業を手伝わされていたのだろう。
 1916年(大正5)現在、移住してきた「都人士」には、目白駅(地上駅)前の丘上にアトリエをかまえていた熊岡美彦Click!、のちに豊玉水道Click!の落合町水道組合員を引き受けることになる下落合435番地の舟橋了助Click!夫妻、落合遊園地の北側にアトリエを建てたばかりの下落合464番地に住む中村彝Click!笠井彦乃Click!がアトリエを訪問していたとみられる下落合370番地の竹久夢二Click!、そして旧・伊藤博文別邸があったとされる敷地の斜向かい、大倉山ピークに近い下落合323番地には東京美術学校Click!森田亀之助Click!も住んでいただろうか?
 目白通りの北側、下落合540番地の大久保作次郎アトリエClick!の近くにあった茅葺きの「百姓家」には、大阪の小出楢重Click!が一時期住んでいたが、大久保作次郎が引っ越してくるのは2年後なので、まだ小出楢重の「行き倒れ」Click!物語は生まれていない。
 風習で興味深いのは、いまだ暦が江戸時代のままだったことだ。正月を2月1日(旧正月)に祝い、8月中旬(旧盆)に迎え火を焚いていたのだろう。落合地域に限らず現代の新宿区では、さすがに1月1日が正月で、7月中旬には街中で僧侶の姿を多く見かけ、8月中旬は地方で旧盆を迎える人たちのために「夏休み」、あるいは古い人々には「藪入り」Click!と呼ばれている。
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佐伯祐三「洗濯物のある風景」1926.jpg
 大正初期には、「麦飯を用ふるを例とす」とあるが、現代の下落合住民であるわたしも、麦飯や雑穀米を常食としている。健康を考えてのことだが、当時は白米を節約し質素な食生活を送るための、江戸時代からつづく変わらぬ食習慣だったのだろう。

◆写真上:最近、東京牧場Click!が復活したのか下落合駅前にいる大きなガンジー種。
◆写真中上は、1880年(明治13)の1/20,000地形図にみる落合地域の東部と西部。は、上落合の南耕地にあった福室軒牧場のホルスタイン。
◆写真中下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる落合地域の東部と西部。は、吉屋信子Click!が1928年(昭和3)の夏に中ノ道(現・中井通り)の西武電鉄沿いで撮影したホルスタインClick!で、線路向こうにある牧成社牧場の乳牛だとみられる。
◆写真下は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる落合地域の東部と西部。は、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三Click!連作『下落合風景』Click!のうち「洗濯物のある風景」Click!だが、洗濯物をホルスタインだといい張る美術家の方がいる。w

東京郊外にあった「遊園地」の系譜。

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新井薬師公園1.JPG
 明治期の後半から大正期にかけ、東京の郊外には「遊園地」が各地に造られた。ここでいう「遊園地」とは、今日でいう多種多様なアトラクションやゲーム、パビリオンなどが設置されイベントが開かれる、いわゆる遊園地のことではない。
 その名称のとおり「庭園を回遊する地」のことで、特に乗り物や遊具、展示館などは存在しなかった。現代風にいえば、整備された森林公園ないしは緑地庭園といったところだろうか。施設や整備が豪華で、手入れがいきとどいた大規模な遊園地は有料のところもあったが、むしろ現在の公園と同様に無料で誰もが気軽に利用できた施設も少なくなかった。経営主体も、地域一帯に広い土地を所有する地主が敷地の一画を活用した例や、広大な華族屋敷の一部を開放したもの、将来の宅地開発を見こんだディベロッパーが集客目的で開園したもの、参詣者でにぎわう寺社境内の一部を庭園化したもの、地域の自治体が設置したものなど形態もさまざまだった。
 「遊園地」の元祖型は、早くも江戸期の後半(大江戸時代)から郊外各地で見られていた。オオシマザクラとエドヒガンザクラを掛けあわせソメイヨシノClick!を産みだした、江戸の植木職人たちが大勢集まって住み、幕末に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンによれば、ロンドン王立植物園を凌駕する「世界最大のフラワーセンター」だった染井地区(現・駒込地域)をはじめ、ウメやキク、ショウブ、ツツジなどを屋敷の庭園や畑地に隣接して植え、季節になると観光客に見せていた「花屋敷」Click!あるいは「〇〇(花の名前)屋敷」の系譜など、明治以降に「遊園地」へと直結していく素地は、すでに大江戸(おえど)Click!の郊外で早くから育まれていた。
 落合地域にも、そのような遊園地がいくつか存在していた。たとえば明治期の下落合でいうと、近衛篤麿邸Click!の敷地内にあった谷戸の湧水源を整備し、庭園のような風情に仕立てて開放した「落合遊園地」Click!が挙げられる。牛込区馬場下町41番地(現・新宿区馬場下町)に下宿していた若山牧水Click!が、散歩がてら下落合を訪れて『東京の郊外を想ふ』に記録している庭園だ。
 東京土地住宅Click!「近衛町」Click!につづき、1923年(大正12)に落合遊園地を含む一帯を「近衛新町」Click!として販売したが、そのほとんどの敷地を東邦電力Click!が買い占め、のちに「落合遊園地」改め「林泉園」Click!と名づけた谷戸の湧水源だ。中村彝Click!は、1916年(大正5)に「落合遊園地」の北側にアトリエを建設したが、死去する1年ほど前、1923年(大正12)ごろから名称が「林泉園」Click!に変わり、社宅の西洋館群Click!やテニスコートなどが造られるのを庭先から眺めながら、晩年をすごしていただろう。
 また、下落合の中部では、箱根土地Click!堤康次郎Click!落合府営住宅Click!の土地を東京府に寄付したあと、その南側に「不動園」Click!という遊園地を開発している。落合遊園地と同様に谷戸地形を活用した遊園地で、府営住宅の住民たちへ憩いの場を提供するような趣向だったが、もちろん不動園は郊外への「人寄せ」プロモーションの一環だったとみられ、ほどなく同園は解体され1922年(大正11)より目白文化村Click!の建設がスタートしている。不動園の様子や、それが壊される過程を第二府営住宅に住んでいた目白中学校の生徒Click!が観察して、学内誌に記録を残している。
 箱根土地は、不動園を解体して文化村住宅地に整地したあと、下落合1340番地の本社ビルClick!建設とともに、その南側に造園した庭を改めて「不動園」Click!と名づけ、文化村をはじめ周辺の住民に開放している。また、前谷戸の弁天社Click!がある北西側の湧水地も、昭和初期までは遊園地風の風情(弁天社裏の谷戸にはモモの樹林が植えられていたようだ)を残して、周辺の住民に開放していた。第一文化村の北側、下落合1385番地にアトリエをかまえていた松下春雄Click!が、弁天池のほとりで遊び長女・彩子様Click!を抱っこしている写真Click!が残されている。
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 上落合の近くには、小滝台の上に四季折々の花々を咲かせる、明治期に造られた華洲園Click!(御花畑)があった。街道(現・早稲田通り)を越え、バッケ(崖地)Click!に通う急坂を上ると丘上が開け、広大な花畑が拡がっていた。この郊外遊園地もまた、大正期に入ると宅地造成が開始され、周辺でも名うての高級住宅街に変貌している。
 近隣住民たちや観光客に開放されていた、これらの郊外遊園地は昭和期に入るとその多くが住宅街となり、現在ではほとんど残されていないが、その雰囲気を感じとることができる「遊園地」(というか今日では「公園」や「庭園」と呼称される)は、明治期から大正期にかけて東京郊外だったエリアで、いまでもかろうじて見ることができる。落合地域の近くでは、大正初期に造られた新井薬師遊園(のち新井薬師公園)が、当時の遊園地にもっとも近い風情を残しているだろうか。
 新井薬師遊園は、妙正寺川へと下る新井薬師の北北西側に展開する丘の斜面と、麓全体を包括した敷地で、いまでは中野通りに南北を分断されているが、新井薬師境内の緑地も加えるとかなり広めな公園となる。明治期からつづいた遊園地の特徴として、広場があり一画には花々が植えられ、築山や斜面には武蔵野の雑木林が繁り、湧水源を含む谷間には池ないしは泉が形成されている……という“お約束”の風景と、同園はよく一致している。1914年(大正3)開園と、明治期からつづく遊園地ではないものの、本来は新井薬師の境内だった敷地を遊園地化して、参詣者や周辺の住民たちへ開放したものだ。
 現在の新井薬師公園は、1934年(昭和9)に改めて公園として整備されたあとの姿だが、江戸期には梅照院(新井薬師)の修行場でもあった経緯から、大正期の風情はより“自然公園”に近い趣きだったのではないかと想定できる。現在は、斜面には雑木林に囲まれた広場や児童館、児童遊園などが設置され、麓には妙正寺川へと注ぐ湧水源のひとつだったとみられる“ひょうたん池”(小規模化したとみられる)が残されているが、いずれも昭和期の公園化とともに本来の姿とはかなり異なっているのではないだろうか。
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 その旧・新井薬師遊園を取材していたら、気になる地形を見つけてしまった。当初は、郊外遊園地らしく斜面に盛り土をし、築山に見立てて木や花を植えたのだろうと考えていたが、家にもどって各時代の空中写真を検証すると、この築山がどうやら戦後すぐのころまで“鍵穴”のかたちをしているのに気がついた。特に、一帯が空襲を受けた戦後の焼け跡写真を観察すると、地面の色が異なり鍵穴のフォルムが浮きでて見えるようだ。全長は60m前後で、それほど大きな規模のフォルムではない。確かに地形的にも、谷間へ向けた見晴らしのいい斜面に位置しており、古代人が古墳を築造するにはもってこいの場所だ。念のため、周辺で発掘された古墳期の集落跡がないかどうか確認したが、地元の新井地域でも、また隣接する沼袋地域Click!でも古墳期の住居跡が発見されている。
 残念ながら、新井薬師公園の発掘記録は見あたらないが、水戸徳川家の上屋敷庭園だった後楽園古墳や上野公園の摺鉢山古墳Click!、三田の土岐美濃守の下屋敷庭園だった亀塚古墳Click!、新宿駅西口の松平摂津守下屋敷庭園にあった新宿角筈古墳(仮)Click!などと同様に、大名庭園や公園を造園する際に築山としてそのまま墳丘が利用された前方後円墳の残滓ではないだろうか。また、丘上にあたる新井薬師の境内自体も、もともとはどのような敷地の形状をしていたのかに興味をひかれる。
 昭和期に入ると、東京郊外の小規模な遊園地は次々と姿を消すか、大規模な遊園地はアトラクションやゲーム、パビリオンを備えた新しい呼称としての“遊園地”に変貌していったけれど、新井薬師のケースは遊園地から公園へとスイッチしたために、大正期の風情をなんとか想像することができるめずらしい事例だ。また、戦後もしばらくたつと遊具のある一般的な公園とは別に、本来の意味での「遊園地」に近い風情の施設が、再び自然公園や緑地庭園として整備されるようになってきた。
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 下落合でいえば、規模は小さいが第二文化村の島峰徹Click!邸の跡地に造られた「延寿東流庭園」Click!や、下落合の南側に接した上戸塚地域にある「藤兵衛公園」などが該当するだろうか。明治期から大正期にかけての郊外遊園地に比べれば面積や規模がかなり小さいので、さすがに丘や斜面などは存在しないけれど、小流れがあって池があり樹木が繁茂している風情は、100年前を模した「ミニ遊園地」とでもいうべき存在といえるだろう。

◆写真上:新井薬師公園の斜面に見られる、現在は40mほどが残る“ふくらみ”部分。
◆写真中上は、1935年(昭和10)に撮影された林泉園。(提供:堀尾慶治様Click!) は、1925年(大正14)制作の松下春雄『文化村入口』に描かれた箱根土地本社前の庭園「不動園」と、第一文化村の谷戸にあった弁天池で遊ぶ松下春雄。(提供:山本彩子様) は、大正初期に撮影された小滝台の華洲園(御花畑)。
◆写真中下は、公園として再整備された直後の1936年(昭和11)に撮影された新井薬師公園。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された新井薬師公園。は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる鍵穴状のフォルム。
◆写真下は、丘麓にある新井薬師公園のひょうたん池。中野通りが貫通する、背景左手の斜面から丘上までが新井薬師公園になっている。は、下落合の目白文化村(第二文化村)にあった島峰邸跡に造られた延寿東流庭園。は、上戸塚(現・高田馬場3丁目)の中村邸跡に造られた日本式庭園の藤兵衛公園。
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画塾「どんたくの会」の月謝は5円。

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 10月1日からSo-netブログのドメインが変わり、名称も「SSブログ」へ変更になるとか。昨年のSSL対応は理解できるが、今回のドメイン変更には呆れた。昨年のSSL対応で、外部からのリンクの修正を少しずつ4ヶ月かけて済ませたが、今度はドメインの修正を延々とつづけなければならないのか。しかも、今回のWebサーバはSSL対応ではないようだ。再びSSL対応などということになったら、わたしは何度、メンテ作業をやらされるハメになるのだろう。システム計画や運用管理戦略を、ちゃんと立ててるのか?
  
 鶴田吾郎Click!は、アトリエを持っていなかった1921年4月から1923年(大正12)9月までの間、下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!で制作し帝展へ出品している。曾宮アトリエで描かれたタブローで、現在判明しているものが3点ほどある。
 1921年(大正10)に制作された、新築のアトリエから写生に出かけようとしている曾宮一念をとらえた『初秋』Click!。同年に描かれた、アトリエの中でぼんやりと立っている曾宮一念を描いた『余の見たる曾宮君』。同作は、翌1922年(大正11)の第4回帝展で入選している。そして、1922年(昭和11)に曾宮邸の隣りに住んでいた植木屋の娘を描いた『農家の子』Click!の3点だ。この3作とも、すでにこちらでご紹介している。
 鶴田吾郎は、仕事をするときは曾宮アトリエを訪ねていたようだが、ふだんすごしていたのは兄が紹介してくれた下落合645番地の借家Click!だった。1920年(大正9)には、新婚の“その”夫人との間に長男・徹一が生まれていたが、鶴田の家には若い画家たちや画学生たちが集まっては酒盛りをして騒いでいたようだ。当時の様子を、1982年(昭和57)に中央公論美術出版より刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』から引用してみよう。
  
 山の画家で通った茨木猪之吉などは、四、五日も泊りがけで来ていて、最後にもう倦きたから帰るんだといって、どこかまた出掛けて行くことがあり、曾宮は毎日のようにやって来ては、彼一流の話をして一人で愉しんでいるようであった。朝来て、また夕方になって手拭をぶらさげて湯屋に行こうと誘うこともあった。/私達の生活は、勿論定収入というものはない。絵だって頼まれもしないし、余程困った時には電車賃だけつくって、滅多にしない絵を買って貰うことをしたり、少しばかりの原稿料が入ったりするくらいのことだった。
  
 ここに登場する「湯屋」は、鶴田吾郎宅から東南東へ100mほど、曾宮アトリエからも北へ150mのところにある、目白通り沿いで現在も営業中の「福ノ湯」のことだろう。すでに大正期の地図に採取されているので、下落合でも最古クラスの銭湯だ。
 今村繁三Click!から支援を受けていたとはいえ、ふたりの画家には定収入がないため曾宮一念が鶴田にもちかけ、絵を趣味にするアマチュア画家相手の画塾を開くことになった。資金は曾宮が10円を用意し、画塾設立のパンフレットや生徒たちがアトリエで使う履物、椅子、休憩で必要な土瓶と茶碗、モチーフとなる静物などを準備している。画塾の名前は、曾宮がオランダ語で日曜を意味する「どんたく」がいいと、日曜画家にひっかけて「どんたくの会」と決めた。
 このとき、「どんたくの会」の趣意書を考案したのは鶴田吾郎で、パンフレットを新聞社あてに郵送している。その全文を、『半世紀の素描』から引用してみよう。
鶴田吾郎「余の見たる曾宮君」1921.jpg 鶴田吾郎「農家の子」1922.jpg
鶴田吾郎邸跡.JPG
  
 自然の美しさを知ること、解ることが何人にとっても生きがいの有る事と思います。/この美しさを表すには画をかくのが最善の方法です。/こういう意味から画家として志す方でなくとも、特に日曜だけを自然研究に費して、深い、愉快な生活をしたいという人々の為めにこの会を開きます(御夫人も差支えありません)。/右のようなお心さえあれば、全く初歩からはじめます。/科目は、素描(鉛筆木炭)及び彩画(油絵水彩)とします。/講師は鶴田吾郎、曾宮一念の両氏がうけもちます。/会場は曾宮氏のアトリエを用いますが、郊外写生にも出かけます。/会費は一ヶ月五円とします。但要具、材料は会員の皆さんの自弁です。/第四日曜日は会員作品の批評をし合う茶話会にあてます。そして、時には別に講師を招いて美術に就いての種々の話をしてもらいます。研究時間は当分毎日曜正午より五時までと致します。/入会希望の方は左記事務所へ御申越し下さい。/用具その他委細御きき合せの方(三銭切手封入)には御答へします。
  
 どんたくの会は、月に4~5回の教室なので、生徒さえ集まればなんとか元はとれると考えたらしい。新聞の消息欄に、どんたくの会の趣意書が掲載されると、翌週には10人ほどの生徒が集まった。この時点で、曾宮一念が出した資金10円は回収できている。なお、曾宮一念が主宰した第2次どんたくの会では、会費が10円に値上がりしている。授業は、石膏デッサンを鶴田が受けもち、油彩の静物画は曾宮一念が担当した。
 鶴田吾郎は、「恐らく画室を解放して土、日などにアマチュアの絵の勉強を施すことになったのは、このどんたくの会が最初ではなかったろうか」と書いているが、下落合540番地の大久保作次郎Click!は、もっと早くから画塾Click!を開いて絵を趣味にする近所の人たちや女学生を集めていたし、下落合679番地の笠原吉太郎Click!もまた、アトリエClick!でおもに女学生たちを相手に絵を教えていた。外山卯三郎Click!と結婚した一二三(ひふみ)夫人Click!も、笠原吉太郎が主宰していた画塾に通ってくる生徒のひとりだった。
鶴田吾郎「初秋」1921.jpg
鶴田吾郎「半世紀の素描」1982.jpg 曾宮一念「画家は廃業」1992.jpg
 1921年(大正10)から、2年弱ほどつづいたどんたくの会は、曾宮と鶴田のケンカで終わってしまったが、その仲たがいの内容についてはふたりとも黙して語らない。では、曾宮一念の側からどんたくの会について書かれた文章を、1992年(平成4)に静岡新聞社から出版された『画家は廃業』より引用してみよう。
  
 日曜の画学校だったどんたくの会は、初めの第一次は私と鶴田とで始めました。第一次の生徒は、住友海上火災保険の元社長の花崎さんたちです。今村繁三さんから後援費をいくらかもらっていましたが、絵が売れるわけじゃない。アトリエができたんだから、二人で日曜日だけの絵の塾をやろうということになり始めたのです。/腰かけだけは近所の道具屋から最も安いのを買ってきました。描くものは主に静物です。たまにモデルを頼むこともありました。今の油彩の教授なんていうのは、子供を教えるのに、一時間から二時間くらいで帰して、交代させるそうです。その自分の人は、朝九時ごろ来ると、日が暮れるまでいたものです。日曜に頑張って描いてました。それを鶴田と代わり番こに、描けない人はなんとかまとめてやりました。
  
 住友海上火災保険の関係者のほか、鶴田吾郎によればのちの美術評論家・今泉篤男Click!も、一高の制服を着たまま習いにきていた。当時の今泉篤男は画家をめざしていたようで、帝大の学生時代には1930年協会展に応募して入選している。
 パトロンの今村繁三Click!の名前が出ているけれど、このあと関東大震災Click!と昭和の大恐慌で今村銀行は経営が傾き、画家への援助どころではなくなってしまう。晩年の今村繁三が、曾宮アトリエから南へわずか260m、聖母坂の下にあたる下落合2丁目707番地(現・中落合2丁目)の小さな邸で暮らし、死去Click!することになるとは、曾宮一念も鶴田吾郎も当時は夢想だにしなかっただろう。
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鶴田吾郎「池袋への道」1946.jpg
鶴田吾郎「早春の日光三山」1946.jpg
 曾宮一念と鶴田吾郎は、ときに連れ立って風景画のモチーフを探しに練馬方面まで遠征している。あるとき、曾宮は大根の収穫を終えた黒い畝を6号に描き、鶴田はカシの木に囲まれた農家をSM(サムホール)に描いたようで、曾宮の抜群の記憶力によれば「三月一日」とのことだ。どんたくの会をふたりで開催していた、1922年(大正11)か1923年(大正12)のいずれかの3月1日のことだろう。

◆写真上:曾宮一念のアトリエ跡から、諏訪谷のある南側を眺めた現状。
◆写真中上は、1921年(大正10)の第4回帝展に入選した鶴田吾郎『余の見たる曾宮君』()と、翌1922年(大正11)に制作された鶴田吾郎『農家の子』()。は、関東大震災で傾き住めなくなってしまった下落合645番地の鶴田吾郎邸跡。
◆写真中下は、1921年(大正10)に新築のアトリエから写生に出ようとする曾宮一念を描いた鶴田吾郎『初秋』。同年の4月、建設中のアトリエの参考にとカラーリングを見学に訪れた佐伯祐三Click!は、腰高の板壁を同じグリーン系に塗っている点に留意したい。は、1982年(昭和57)に中央公論美術出版から刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』()と、1992年(平成4)に静岡新聞社から出版された曾宮一念『画家は廃業』()。
◆写真下は、1943年(昭和18)に制作された素描彩色の曾宮一念『麦秋(白潟)』。は、1946年(昭和21)制作の鶴田吾郎『池袋への道』と同『早春の日光三山』。

うなぎの「天井ぬけの極高非道」。

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 「♪ひととせを今日ぞ祭りの当たり年~警護、手古舞い華やかに~」と、親父が湯につかりながら唄いそうな清元Click!『神田祭』Click!だが、学校の授業より優先した三味Click!のおさらい会や芝居、千代田小学校Click!の授業をサボらせて円タクで見物してまわった二二六事件Click!東京市街Click!など、わたしの祖母にはつまらない学校へ通わせるよりも、優先する「実地学習イベント」がたくさんあった。
 そんな親たちを反面教師にしたせいか、親父は非常にマジメな性格の人間に育ち、謹厳実直な公務員として生涯を終えている。だが、そんな真面目で融通がきかないカタイ親に育てられたせいか、わたしは逆に軟弱な性格に育ったようだ。学生時代には、親父との議論でまず負けることはなかったが、女子との議論ではすぐ折れるという軟弱ぶりを発揮し、クラスメイトから「らしいやね」などといわれていた。
 先日、1977年(昭和52)に東京書房から出版された川口昇『うなぎ風物誌』を読んでいたら、親父が育った家庭環境にそっくりな記述を見つけて、思わず噴き出してしまった。著者の川口昇は日本橋鉄砲町の出身で、うちの元・実家からは南西に1,000mほどのところだが、同書より少し引用してみよう。
  
 ある日、授業中に教室の戸があいて、私の長姉が入って来た。そして田中先生に何事か話していたあと、田中先生が「家に用事があるそうだから帰ってよろしい」といわれた。一寸てれくさかったが帰り仕度をして、姉と一緒に教室を出た。家に帰ると他所行の着物を着せられ、その中に川上といふ人力車宿から二台の車が来て家の前に止った。やがて母や姉達とその人力車に乗せられ、着いたところはニ長町の市村座だった。/「なァんだ」と子供心にも思った。それからは芝居へ連れて行かれる時は、学校へ行く前に話してくれと、その時に云ったような気がする。/当時の市村座は菊五郎、吉右エ門、三津五郎、彦三郎、勘弥、東蔵、菊次郎といった、若手芝居で人気があった。
  
 川口昇の母親と、うちの祖母がピタリと重なるような気がするのだ。学校の教師には、おそらく長姉に家族の誰かがケガをしたか病気になった……などといわせているのかもしれない。マネするのを怖れたのか、わたしには詳しく話してはくれなかったが、おそらく親父も芝居や帝劇の舞台、新作映画にと、祖母に連れ歩かれていたのではないだろうか。学校の勉強よりも、江戸東京では「常識」であり「世間並み」だった舞台や音曲に関する「教養」や「素養」のほうが、よほど大切だと感じていた世代だ。
 余談だが、わたしは母親からよく「勉強しなさい」といわれて不愉快に育ったせいか(いくらいわれても家では宿題さえせず、よく罰として学校の廊下に正座させられていた)、わたしの子どもには「勉強しろ」とは一度も口にしたことがない。子ども時代にたっぷり遊ばないと「大人になってから遊んでも面白かないぞ」とか、遊びを通じて人間関係の機微を識り多彩な経験をするから「心の引き出しがいくつもできて、多角的な視座・視点が獲得できるんだぜ」とか、いい加減なことをいっては遊ばせていたので、学校のお勉強はあまり芳しくはなかったけれど、それでもなんとか一家を構えたり、わたしが見ても「いい女」のガールフレンドを連れてこられる男たちに育っている。
 著者は、鉄砲町の蒲焼き屋「大和田」(旧・親父橋大和田)の四男として生まれており、自身は大手銀行へ就職してまったくちがう道を歩んで家業を継がなかったが、うなぎの研究では蒲焼きヲタクの間で広く知られている。うなぎと芝居のかかわりといえば、すぐに落合地域の北東隣り、目白駅の向こう側の雑司ヶ谷四ツ谷(四ツ家)町Click!を舞台にした、4世南北の『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』が思い浮ぶ。もちろん、三幕の「砂村隠亡堀の場」に登場する直助権兵衛のうなぎ搔きだ。
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 直助権兵衛 以前は直助中頃は、藤八五父の薬売り、今は深川三角屋敷寺門前の借家住み、見世で商う代物は三文花に線香の、煙りも細き小商人、後生の種は売りながら片手仕事に殺生の、簗を伏せたり砂村の隠亡堀で鰻かき、ぬらりくらりと世を渡る、今のその名は権兵衛と金箔付の貧乏人さ。
 ちょっと余談だけれど、「隠亡堀の場」で民谷伊右衛門がお弓を川へ蹴り落としたあと、直助と交わすセリフで「首が飛んでも……」が、原作にないことをつい最近知った。うなぎとからめた印象的な台詞だが、同芝居が大坂(阪)で上演された際に、特に台本へ加えられたものらしい。
 直助 伊右衛門さん、なるほどお前は強悪(ごうあく)だなァ。
 伊右衛門 天井ぬけの不義非道。
 直助 働きかけた鰻鉤(うなぎかぎ)、どうで仕舞は身を割かれ。
 伊右衛門 首が飛んでも動いてみせるワ。
 直助 まことに関心、奇妙。
 この台詞について、宇野信夫が監修した舞台のことを同書より引用してみよう。
  
 宇野信夫さん監修で鶴屋南北の代表作「東海道四谷怪談」が先年国立劇場で中村勘三郎、松本幸四郎の主演で上演された。宇野さんはその解説で、隠亡堀で伊エ衛門の「首が飛んでも」の名ぜりふは、大阪の上演本「いろは仮名四谷怪談」にあるので、この台本はあまり上等とは思われませんが、こうした名ぜりふは取入れましたと言っている。
  
 わたしは、民谷伊右衛門の「雑司ヶ谷四谷町浪宅」の近く(直線距離で1.5kmほど)に住みながら、「砂村隠亡堀」=南砂町は訪ねたことがない。ひょっとすると子どものころ、親は連れていってくれたのかもしれないが、まったく憶えがない。大人になってからも出かけていないのは、ただただ遠いからだ。
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 「砂村隠亡堀」は、現在の江東区南砂3丁目にある疝気(せんき)稲荷Click!あたりといわれているが、うなぎ搔きの直助権兵衛がなぜ堀割りが縦横に走り、「江戸前」のうなぎがふんだんに獲れる地元の深川界隈から、わざわざ砂村まで“出張”してきているのかがわからない。ついでに、釣竿をかついで雑司ヶ谷村から砂村までやってきた民谷伊右衛門の散歩にいたっては、なおさら不可解だ。直線距離で片道12km(道を歩いたらゆうに15kmで往復30kmは超えるだろう)もあるところへ、いくら江戸期の人々は健脚だったとはいえ、釣竿かついで散歩に出かけるだろうか? よほど急ぎ足で帰らないと、夏なら魚籠の中の釣った魚が傷みだしそうな距離だ。
 まあ、それをいうなら面影橋あたりから神田上水へお岩と小平の死骸を打ちつけて放りこんだ戸板が、なぜ砂村まで流れ着いて“戸板返し”ができるのかも意味不明なのだ。夜中とはいえ、神田上水へドボンと大きな音を立てて“ゴミ”を棄てたりしたら、見廻りの水道番にしょっぴかれるのがオチだし、うまく水道番屋の監視はすり抜けても、遺体の戸板は椿山Click!下の大洗堰Click!にひっかかって、それより下流へは流れていかないだろう。万が一、関口から上水開渠Click!を流れて水戸藩上屋敷Click!まで流入したりすれば大騒ぎとなり、即座に悪事が露見してしまう。そんな一か八かのリスクが高い“殺し”をやってしまう伊右衛門は、よほど楽観主義者のオバカか大ボケかましに見える。それに、うなぎ搔きの直助権兵衛がことさらユーモラスでドジに感じられてしまうのは、少し足を悪くしたあとの、先々代の勘三郎Click!が演じた役を観ているからかもしれない。
 もうひとつ、わたしの実家があった日本橋の薬研堀界隈(現・東日本橋)を舞台にした矢田弥八『露地の狐』という芝居があるが、わたしは一度も観たことがない。(子どものころ、親に連れられ観賞したかもしれないが記憶にない) もともと、14代目・守田勘弥が得意とした芝居のようだが、薬研堀にある蒲焼き屋「花川」という見世が登場する。まるで落語の『うなぎの幇間(たいこ)』そっくりの筋立てだが、14代目の死去とともに上演されることがなくなったのだろう。
 通りがかりの幕府御家人を、「花川」へ引っぱりこんで蒲焼きをおごらせようとするのだが、逆に食い逃げされてしまうという他愛ないストーリーだ。勘定を払えない幇間(野太鼓)の主人公が、「花川」の見張りを連れて大川端をウロウロするという奇妙な筋立てで、機会があれば観てみたいうなぎ芝居のひとつだ。
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 さて、うなぎといえば街角で気軽に食べられる“うな丼”か、芝居茶屋への冷めない出前から生まれた“うな重”なのだが、最近は高価すぎてなかなか気楽に蒲焼き屋の暖簾をくぐるというわけにはいかない。このデフレが収まらない世の中で、高度経済成長期のようなインフレーション状態にあるのが、タバコとオーディオClick!蒲焼きClick!なのだ。「天井ぬけの極高非道」とは、伊右衛門ではなくうなぎClick!のことだ。

◆写真上:高価でちょくちょくは食べられず、せめてペーパークラフトの蒲焼きで……。
◆写真中上は、「砂村隠亡堀の場」で15代目・市村羽左衛門の伊右衛門と2代目・市川左団次の直助権兵衛。は、1953年(昭和28)撮影の疝気稲荷社境内。は、周囲の風景が一変し隠亡堀の面影が皆無になった現在の疝気稲荷社。
◆写真中下は、うなぎ鉤にうなぎ魚籠を担ぎお岩さんの鼈甲櫛を見つけた直助権兵衛。下左は、1977年(昭和58)に出版された川口昇『うなぎ風物誌』(東京書房)。下右は、1960年代に水戸で売られていた「うなぎめし」弁当で180円が羨ましい。
◆写真下は、大正時代から営業をつづける上落合の蒲焼き「源氏」Click!は、親父の遺品のひとつで1948年(昭和23)に出版された『名せりふさわり集』(第一書店)。

戸山ヶ原の旧・陸軍コンクリート構築物。

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 以前、大正期から昭和初期に建てられた、下落合のコンクリート構造物Click!について書いたことがある。大正後期から、一般の住宅Click!や宅地造成でセメントClick!が多用されるようになった。おもにコンクリート塀を観察した事例が多かったが、多摩川の砂利と秩父のセメント資材Click!を運搬する、高田馬場駅の南に西武鉄道Click!が設置した建設資材・砂利置き場Click!や、大正期に同社が全面協力した村山貯水池Click!(多摩湖)の建設に用いられたコンクリート堤防Click!などを観察して記事にしている。
 今回は、旧・陸軍施設が集中し、新宿が戦前に「軍都」Click!と呼ばれるきっかけとなった、戸山ヶ原Click!について細かく観察してみたい。ただし、山手線をはさみ東西に展開していた陸軍施設Click!構造物Click!については、これまでも何度か取り上げ、素材のコンクリートが壊されたあとの残滓については、何度か記事Click!に取りあげてきているので、きょうは山手線東側の戸山ヶ原Click!に残るコンクリートの構造物について、改めて細かく観察してみたい。
 まず、明治期から設置されていた陸軍戸山学校Click!と、古くからの陸軍軍楽学校の周辺を観察してみよう。初期の陸軍戸山学校は、大正期まではのちの陸軍衛戍病院Click!(現・国際医療センター)の位置から、大久保通り沿いに箱根山Click!の南東下ぐらいまで細長くつづいていた。戸山学校が、東側の敷地を陸軍衛戍病院にゆずり、大久保通りから箱根山の東側一帯へ広く、そして深く展開するのは、大正末から昭和期に入ってからのことだ。また、箱根山をはさんで戸山学校の西側に、陸軍幼年学校の校舎が建てられるのも大正末以降のことだ。
 軍楽学校と軍楽隊は混同されがちだが、軍楽学校の西側の箱根山東山麓、戸山学校敷地の北側へ、昭和初期に軍楽隊の兵舎が建設されている。また、陸軍衛戍病院の北側へ陸軍軍医学校を建設する際、戸山ヶ原の大きな谷戸が中途で埋め立てられ、衛戍病院と軍医学校の往来をしやすくしている。ちょうど、下落合の第一文化村Click!における前谷戸の追加造成Click!と同様に、谷戸の途中が土砂で埋められてしまったため、湧水源にあたる谷戸の突き当たりの谷間は、ほぼそのままの地形で残されている。現在、国立健康・栄養研究所の南側敷地が、急に凹状にへこんでいるのはそのせいだ。このあたりの土木工事は、戸山学校が西側へ移動するとともに衛戍病院が建設される、大正末から昭和初期にかけて行なわれている可能性が高い。
 さっそく、その付近のコンクリートの残滓を観察すると、戸山学校の敷地や軍楽学校、あるいは軍楽隊のあたりには、それらしい遺物をいくつか確認することができる。まず、昭和初期に建てられた将校会議室Click!(現・戸山教会)の西側には、随所に玉砂利の粒が大きいコンクリート片が散らばっている。当時は、鉄筋を支柱あるいは芯にしてコンクリートの構造物を造るよりも、多摩川の良質で大きめな玉砂利をふんだんに使い、セメントとともにそのまま固めて用いる例が少なくなかった。場所からいえば、これらの玉砂利(というか小石と表現したほうが適切な大きさだ)を用いたコンクリートの残滓は、戸山学校の校舎かその基礎、外壁、あるいは塀などに使われていたものではないだろうか。
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 その戸山学校跡から、箱根山を左まわりへ西へ歩くと、軍楽隊兵舎跡と野外音楽堂跡に出る。軍楽隊の野外音楽堂は1943年(昭和18)3月に竣工したものだが、実はそれ以前から軍楽学校の練習場として、この窪地は使用されていたのではないだろうか。なぜなら、同音楽堂へと下る階段のコンクリートが、意外に古いとみられるからだ。この階段は、表面を薄いコンクリートでコーティングされているが、その下からのぞくコンクリート階段は、やはり大粒の玉砂利が用いられていて古い仕様だ。つまり、表面を覆うコンクリートは、階段を設置するのと同時の可能性もあるが、野外音楽堂ができた際、あるいは後世に追加でコーティングされたのかもしれず、本来のコンクリート階段はその下層に塗りこめられている可能性がある。
 大正期から昭和初期にかけてのコンクリート構造物には、大粒で良質な玉砂利がふんだんに使われている。ところが、昭和に入ってしばらくすると、河川で採取できる良質な玉砂利がなかなか採れずに高騰し、セメントとともに混ぜる砂利は、より安価な小粒のものへと変わっていく。戦時中から戦後にかけてはさらに不足し、小粒の砂のような砂利が用いられるようになった。戦後は、河川の良質な砂利(小粒でさえ)を手に入れるのが困難となり、やむをえず海の砂利を用いることが多いため、塩分で内部の鉄筋が腐食しやすいという課題が浮上しているのは周知のとおりだ。
 つまり、見分け方のひとつの目安として、大粒の良質な玉砂利をふんだんに用いて、芯として鉄筋が用いられていないコンクリート構造物は年代が古く、その砂利が細かくなるほど新しい……という、たいへん大雑把なとらえ方だが、あながち的外れではない観察法ができることになる。もっとも、昭和10年代に建設された大金持ちの住宅には、良質な玉砂利が惜しげもなく使われているだろうし、経費節約のために小粒の砂利を用いた大正初期のコンクリート建築もあるので、いちがいに決めつけるわけにはいかない。そしてもうひとつ、それがなんらかの軍事施設であれば、少しぐらい経費がかさんでもコンクリートに高価な玉砂利を混ぜることには、なんら支障がなかったという事情も考慮しなければならないだろう。
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 さて、つづいて戸山学校と衛戍病院の北側一帯を見てみよう。このあたりは、昭和10年代に入ると次々に陸軍施設(おもに秘匿を要する特別施設)が建てられるエリアだ。戸山学校の北側には、陸軍中野学校Click!の統括機関である兵務局分室Click!(通称ヤマ)が設置されている。また、軍医学校の西側にある谷間には、防疫研究室や細菌研究室Click!(731部隊の本拠地)が設置されている。だが、10年ほど前に歩いて写真に収めた、戸山学校北側のコンクリートブロックを重ねた築垣が、コンクリートの新しい擁壁に変わってしまっていた。かろうじて、衛戍病院の北側に少し残されていたが、こちらの築垣は西側の箱根山までつづいていた築垣に比べやや新しそうだ。
 防疫研究室や細菌研究室と兵務局分室(ヤマ)を仕切っていたコンクリート塀はそのままだが、10年ほど前に撮影した随所に転がる大粒の玉砂利を用いたコンクリート片は、すっかり片づけられてなくなっていた。元・看護師の証言から、敗戦と同時に戸山ヶ原の随所へ埋められたとみられる人骨標本の第2次発掘調査の際に、散らばるコンクリート片を集めて廃棄したものだろうか? 衛戍病院の西側につづくコンクリート塀も、のちに補修されているとはいえ古そうだ。ただし、用いている砂利がかなり細かいため、昭和期に入ってからの建築ではないかと思われる。この塀の上には、かつて新しいコンクリートを重ねたり、新たなブロックを積み上げたりした痕跡が残っている。
 防疫研究室や細菌研究室の跡にできた、戸山公園多目的広場も歩きまわってみたかったが、あいにく少年野球の試合日でゆっくり見学することができなかった。ほかにも、戸山公園の西側、明治通りに面してつづいていた幼年学校跡にも、大正末から昭和初期とみられるコンクリート片がいまだに散在している。校舎の基礎あるいは塀、外壁などに用いられたものか大きな玉砂利が密に詰まる、たいへん贅沢な造りをしている。
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 先述した軍楽隊の野外音楽堂へ下りる階段の造りは、1922年(大正11)に橋上駅化された目白駅Click!でも見ることができる。内面は、大粒の玉砂利をふんだんに混ぜて頑丈な構造にしつつ、外面にはなめらかなコンクリートを薄くコーティングして、階段を上り下りしやすいようにしている。確かに、大粒の玉砂利がのぞく階段は、蹴つまずく怖れがあって危険だし、なによりもなめらかにコーティングしたほうが見栄えがいいにちがいない。ちなみに戸山ヶ原Click!への散歩は、自宅からすべて徒歩でまわったため約10kmも歩いてしまった。緑が多いとはいえ、盛夏の戸山ヶ原Click!散歩は疲れるのだ。

◆写真上:陸軍軍楽隊の野外音楽堂に下りる、谷間の2ヶ所に設置された階段。
◆写真中上は、1923年(大正12)作成の戸山ヶ原東部の1/10,000地形図。は、以前に撮影していたコンクリート残滓で、戸山学校北側の擁壁(上)、防疫研究所跡に転がるコンクリートブロック(中)、防疫研究所・最近研究所と兵務局を仕切る塀(下)。は、1944年(昭和19)の敗戦直前に撮影された戸山ヶ原東部。
◆写真中下は、軍楽隊の野外音楽堂へと下りる階段の表面が剥がれた中面の様子。は、1956年(昭和31)に地元で復元された野外音楽堂(上)と、公園のまるで四阿風に変えられた現代の風情(下)。は、2枚とも戸山学校跡の周辺(箱根山の東側)に散らばる大粒の良質な玉砂利を使ったコンクリート片。
◆写真下は、陸軍衛戍病院の東側擁壁(上)と西側の塀(中)。東側の擁壁表面に貼られたコンクリートブロックの亀裂から、中面のより頑丈な擁壁がのぞいている。コンクリート建築のため空襲でも焼けず、戦後は国立第一病院としてそのまま使われつづけた陸軍第一衛戍病院。は、明治通り沿いに残る陸軍幼年学校跡のコンクリート塊。は、エレベーター工事のため解体中の目白駅階段の断面。鉄筋は使われておらず、大粒の玉砂利を使った無垢のコンクリートで、表面を小砂利混じりのセメントでなめらかにコーティングしているのは、戸山ヶ原の軍楽学校あるいは軍楽隊の階段と同じ仕様だ。
おまけ
東五反田は池田山のバッケ坂に残る、大正末の建設とみられるコンクリートの柵柱(上)と、大正期に竣工した村山貯水池(多摩湖)の高欄柱の断面(下)。
コンクリート柵柱(池田山).JPG
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大隈重信邸門前の妖怪「枕返し」。

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 So-netブログのドメイン変更にともない、FacebookなどSNSとの連携やカウントがすべての記事でゼロにもどり、外部からのリンクも、昨年のSSL設定時と同様無効になった……と思いきや、今回はリダイレクトできるではないか。これは外部サイトを修正する、膨大な手間ヒマをかけずに済んだかもと思っているが、油断は大敵。リダイレクトがいつまで有効か不明だし、今回のWebサーバはSSL未対応なので、ほどなく再対応などといだしかねない。メンテ作業がチームとして対応できるならまだしも、わたしひとりのメンテでは2,300記事ほどもあるので、そろそろ限界なのだが……。
  
 親父のアルバムを整理していたら、戦災で焼ける直前に撮影された大隈重信邸の写真が出てきた。早稲田第一高等学院Click!の制服を着た親父たちが前面に写り、背後には瓦職人が屋根を修繕している大隈重信邸がとらえられている。ゲートルを巻いた高校生たちの様子から、1944年(昭和19)ごろの撮影だとみられる。(冒頭写真)
 ほかにも、同高等学院(大学教養課程)から早稲田大学理工学部へ進学予定の、学徒出陣Click!からまぬがれたクラスメイトたちとともに写る、大隈講堂Click!の写真も残っていた。大隈講堂の背後には、当時はいまだ現役で使われていた焼却炉の煙突がとらえられている。親父たちはこのあと、高等学院の授業が停止されて勤労動員に駆りだされ、実際に卒業試験が実施され大学へと進学(復学)できるのは、敗戦後の1947年(昭和22)4月以降のことになる。大隈講堂はともかく、戸塚町下戸塚稲荷前68~108番地(現・新宿区戸塚町1丁目)にあった大隈邸とその庭園の写真は、戦災で焼けてしまったので貴重だ。
 いつかの記事でも取り上げたが、明治中期の大隈庭園で確認できる瓢箪型の突起(築山にされていたと思われる)や、いくつかの円形あるいは楕円形の丘が気になる。これらは、戸塚(十塚Click!)の地名由来となった富塚古墳Click!や、百八塚Click!の伝承に連なる古墳の墳丘ではないかと疑われるからだ。大正初期に書かれた大隈邸の様子を、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)から、一部を引用してみよう。
  
 大隈伯爵邸 下戸塚の東隅にあり、牛込区早稲田鶴巻町に接するを以て、俗間には早稲田の大隈邸を通称す、同邸はもと高松藩主松平頼聰の別邸なりしが、明治六年以後松本病院、英学校等の敷地となり、同十七年始めて伯の所有に帰せり、其の庭園は慈善会若くは公共団体の集会等には何人にも随意に之を使用せしむ、(中略) 此処より庭園に入る路と菜園に入る路とに岐る、即ち庭園に入れば左方小丘の上に一宇の神祠あり、神祠の下に数寄屋あり、其の稍々前方なる小丘には老檜三株聳立し、樹下に大理石の平盤を置く、一隅に桜樹ありて露仏を安置し、一隅に古松ありて石燈籠を配す、此の丘と相並べる一丘は悉く松林にして渠流を隔てゝ桜楓の林と対す、渠水々潺々丘を遶りて流る、前方芝生の画くる処に邸舘あり、(後略)
  
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 大隈邸の敷地にあった「松本病院」とは、幕府の御殿医だった松本順Click!(松本良順)の病院のことだ。松本順は、日本初の海水浴場Click!大磯Click!に開設した人物として湘南海岸ではつとに有名だが、大磯のこゆるぎの浜Click!に面して建つ藩主筋の鍋島直太郎邸と陸奥宗光邸にはさまれた大隈重信の別邸Click!(現存)も、松本がなんらかの関与をしている可能性がある。子どものころ、親に連れられて大磯の旧・東海道沿いの松並木を散歩するたび、親父が「ここが大隈重信の別荘だ」と指さしていたのを思いだす。もうひとつの「英学校」は、松本病院に隣接して建てられていた「明治義塾」のことだ。やはり明治初期に、山東直砥が開設した英語を学ぶ学校だった。
 また、庭園の小丘の上には「神祠」が建立されていたり、「露仏」が安置されているのが興味深い。もちろん、これらの史蹟は大隈家が配置したものではなく、もともとそこにあった小丘に建立されていたものを、そのまま庭園の風情に取り入れているとみられる。ちょうど、華頂宮邸の庭に残された亀塚Click!や、松平摂津守の下屋敷にあった津ノ守山=新宿角筈古墳(仮)Click!、水戸徳川家上屋敷(後楽園)に残された後楽園古墳、駒込にあった土井子爵邸の祠が奉られた稲荷古墳などと同様のケースだ。「神祠」は、かなり歴史のある石祠を感じさせるし、「露仏」は室町期に百八塚を供養したと伝えられ、大隈邸のすぐ南にある宝泉寺にもゆかりが深い僧・昌蓮Click!の仕事を連想させる。
 さて、大隈邸の門前に位置し、昌蓮の百八塚の伝承が色濃く残る宝泉寺に、面白い妖怪譚が伝えられているのでご紹介したい。宝泉寺の境内には、江戸末期まで毘沙門堂が建立されていたが、おそらく明治政府の廃仏毀釈で寺が困窮した際、境内を切り売りしたのか毘沙門山とともに現在は残されていない。当初は4,540坪あった境内が、大正期には700坪ほどに縮小されている。
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 その毘沙門堂に宿泊した人々は、翌朝になるとみな驚愕することになる。自身が就寝していた場所から、布団や枕とともにとんでもない位置にまで身体が移動しているからだ。再び、『豊多摩郡誌』より引用してみよう。
  
 毘沙門堂の怪談 維新の頃まで大字下戸塚宝泉寺旧境内に毘沙門堂ありたり、其の地今は石黒邸内に入れり、旧時の堂は丹塗りにして左まで大なる建物にあらざりしも、妖怪ありて、堂内に宿泊するときは、寝入れる間に其の人の位置変ぜらるゝが例なりしよし、村の若人等そは不可思議なる事よとて、再三試みたるに、皆な夢の間に枕の向きを変へられ、孰れも怪み怖れて再び試みんものもなかりしよし。
  
 戸塚村の村民は、そろいもそろって寝相が悪かったのでないとすれば、明らかに妖怪「反枕(枕返し)」のしわざだと思われるが、同様の妖怪譚あるいは類似の伝承を近辺では聞かないので、宝泉寺の毘沙門堂だけに出現していたものの怪だろうか。
 枕返しの怪談は、関東地方や東北地方ではよく耳にするが、その正体はどの地方でもいまいちハッキリしない。東北では、枕返し=座敷童(ざしきわらし)とされている地域も多いようだ。また、その部屋で死んだ亡霊のしわざとか、実は化け猫Click!が真夜中に悪さをしているのだとか、人をたぶらかす狐狸のしわざだとか、各地にはさまざまな説があって一定しない。その姿も、子どもや坊主、怖ろしい幽霊、鬼、化け猫、はては美女にいたるまで多種多様だ。ちなみに、北陸地方に伝わる美女の枕返しは、その姿を目にしたとたんに死ぬといわれているおっかない妖怪だ。
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画図百鬼夜行「反枕(まくらかえし)」1776.jpg
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 晩年に早稲田大学で教鞭をとっていた小泉八雲Click!だが、宝泉寺の毘沙門堂怪談を耳にしていたら、さっそく同寺に取材を申しこんでノートに記録していただろうか。あるいは、大隈重信は肥前(佐賀)の鍋島藩の元藩士なので、「鍋島屋敷ノ化ケけ猫Click!騒動ッテ、マジデスカ?」と総長室に突撃取材を試みていたかもしれない。w

◆写真上:1944年(昭和19)に撮影されたとみられる、下戸塚の大隈重信邸と大隈庭園。
◆写真中上は、1917年(大正6)の写真に人着がほどこされた大隈邸。は、冒頭写真と同じく1944年(昭和19)に撮影された大隈講堂。は、1886年(明治19)の1/5,000地形図にみる大隈邸。庭園のあちこちに、気になる突起が採取されている。
◆写真中下は、1909年(明治36)に撮影された大隈庭園で、北側の小丘の上から撮影されたとみられる。は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる大隈邸と宝泉寺。は、大磯のこゆるぎの浜にある大隈重信別邸。
◆写真下上左は、1916年(大正5)出版の『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所)。上右は、1776年(安永5)に出版された『画図百鬼夜行』(前編/陰の巻)。は、同書に収録された「反枕(まくらがえし)」。は、現在の宝泉寺境内で左手のビルは早大法学部8号館。

下落合を描いた画家たち・安藤広重/二代広重。

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 下落合の御留山Click!中腹にある藤稲荷(東山稲荷)Click!には、水垢離を行なえる滝があったというのだが、いったいどのような形状の滝で、御留山のどこにあったのかがハッキリとはつかめなかった。1836年(天保7年)に刊行された斎藤月岑の『江戸名所図会』の巻之四「天権之部」Click!を見ると、長谷川雪旦の挿画には雑司ヶ谷道Click!に面した御留山の麓、藤稲荷の鳥居の東側に、どうやら小滝のような水流が見てとれるので、おそらく茶屋などが並んだ雑司ヶ谷道に面して、高さ数メートルの落水があったのだろうと想定していた。だが、それが具体的にどのようなかたちの滝で、滝の周囲の風情がどうだったのかまでは、『江戸名所図会』の表現では抽象的すぎて不明だった。
 同書には「藤杜稲荷社」として記載されているが、その記述はそっけない。
  
 藤杜稲荷社 岡の根に傍ひてあり また東山稲荷とも称せり 霊験あらたかなりとてすこぶる参詣の徒(ともがら)多し 落合村の薬王院奉祀す
  
 また、『江戸名所図会』よりも40年ほど前の寛政年間に書かれた、金子直德の『和佳場の小図絵』でも、同稲荷社の記述はわずかだ。
  
 東山稲荷大明神 俗に藤のいなりと云(いう) 大藤ありしが 今は若木あり 別当落合村真言宗薬王院と云
  
 おそらく『江戸名所図会』の斎藤月岑は、大江戸(おえど)Click!西北の資料である金子直德の『和佳場の小図絵』を参照しているとみられるが、滝の記述はどこにも表れない。同書に金子直德が添付した絵図「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」には、藤稲荷は「東山稲荷」として採取されているが、滝の表現はまったく見られない。
 また、金子直德が描いた画文集『若葉抄』の「東山藤稲荷社」にも、滝はどこにも採取されていない。幕末に作成された、堀江家文書のひとつである「下落合村絵図」には、下落合氷川社の北側(実際は北東側)に「藤稲荷」が描かれているが、こちらも滝の表現はない。だが、1958年(昭和33)に新編若葉の梢刊行会から出版された海老澤了之介Click!の『新編若葉の梢』には、金子直德のみの著作ばかりでなく多種多様な資料を参照しているのだろう、藤稲荷社の滝が登場している。
 同書は、著者が実際に訪れた当時の情景(戦後の1950年代)と、江戸後期の情景描写があちこちで混在しているとみられるが、藤稲荷について少し長めに引用してみよう。
  
 落合氷川神社の東北の高地の麓に碑を建て、それに東山正一位稲荷大明神と彫り付けてある。つまさきのぼりに四、五十段の石段を登ると、頂上に宮社及び庵室がある。麓には瀧があり、水垢離場があり、社の北には縁結びの榎という神木がある。また大藤があってことに名高い。東南一面の耕地を展望して、風色見事である。春は花・時鳥によく、夏は蛍一面に飛びかう有様は、まことに奇観である。秋は紅葉、冬は雪、ことに仲春、紫雲草(れんげそう)の一面に咲きむれているのは、毛氈を敷いたようで、まことに雅景というほかない。/当稲荷社は、王子稲荷よりも年暦が古く、むかし六孫王源経基の勧請といわれ、御神体は陀祇尼天(だきにてん)の木像で、金箔が自然にはげ、ところどころ朽ち損じ、木目が出、いと尊く拝せられる。年代はいかほどなるか不明であるが、およそ九百年も前のものだろうかといわれる。什物には、正宗の太刀一振があった。(中略) さらに水垢離場の崖には石の小天狗が据え付けられてある。寛延三年の作である。また外(ほか)に不動尊の石像もある。これには寛延五年刻とある。
  
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 雑司ヶ谷の海老澤了之介は、下落合の事情にうとかったのか目白崖線につづく丘の地元の“山名”を記していない。ここに登場する「高地」は御留山のことであり、藤稲荷社の本殿があったのは「頂上」ではなくて中腹だった。御留山のピークは、藤稲荷の境内からさらに50mほど山道を西へ登ったあたりだ。
 また、「神社(じんじゃ)」Click!は明治以降の薩長政府教部省が規定した呼称だし、「東山正一位稲荷大明神」の石碑は戦後に建立されたものだ。さらに、寛延年間は4年までで「五年」は存在しない。単に「寛延四年」の誤写か、あるいは不動明王は寛延4年に彫刻されたが奉納は翌年に予定されていた可能性もある。寛延4年は10月27日までで、以降は「宝暦」と改元されている。
 御留山の西つづきの大倉山(権兵衛山)Click!と同様に、御留山にも神木があったのがわかる。大倉山の神木は樫の木Click!だったが、御留山の神木は榎だったらしい。板橋の大六天Click!にある「縁切り榎」Click!は昔から有名だが、下落合には「縁結び榎」があったのだ。この神木の伝承が現代までつづき榎が残っていたら、藤稲荷社は下落合の思わぬ観光名所(いまならパワースポット)になっていたかもしれない。
 御留山山麓の蛍狩りClick!や、三代豊国・二代広重の「書画五十三次・江戸自慢三十六興」第30景『落合ほたる』Click!について、あるいは奉納されたとみられる「正宗の太刀」Click!についてはすでに記事にしているので繰り返さない。
 由来が不明なほど古い藤稲荷社には、ヒンドゥー教に由来する陀祇尼天(荼吉尼天)が奉られているというが、もちろん後世(室町期以降)によるものだろう。「源経基の勧請といわれ」る伝承が残っているようだが、わたしはこれも後世の付会(後付け)由来ではないかと強く疑っている。山には深い雑木林が拡がり、御留山からは各所で水量が豊富な泉水が噴出し、平川Click!(旧・神田上水→現・神田川)に向け急峻なバッケ(崖地)Click!が連なる地形から、由来が不明な藤稲荷は朝鮮半島から畿内へと持ちこまれた農業の神「稲荷神」などではなく、周囲の考古学的な発掘成果や旧蹟・地名・川(沢)名などから、もちろん古代の大鍛冶=タタラの神「鋳成神」Click!が、室町期ないしは江戸期に転化して稲荷社になっているのではないかと想定している。
 なぜなら、藤稲荷社に奉納されていたのが真贋の課題はともかく、目白=鋼の代表的な作品である刀剣(「正宗」の太刀)である点に留意したい。また、藤稲荷から西へ1,000m余のつづき斜面から戦時中、改正道路(山手通り)Click!の工事現場でタタラ遺跡をしめす鐡液Click!(=金糞/かなぐそ)、すなわちスラグが少なからず出土しているからだ。
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 さて、なかなか見つからなかった藤稲荷の水垢離場にあった滝の図絵だが、ようやくその全貌を描いた作品を見つけることができた。よく地域史料や歴史資料に引用される、地域の風景を描いた浮世絵や『江戸名所図会』などからいったん離れ、江戸へ物見遊山にやってきた見物客向けに土産物として売られていた冊子(観光ガイド)類を参照したら、藤稲荷の滝が描かれていたのだ。安藤広重Click!と二代広重が描いた『絵本江戸土産』の第9編に、藤稲荷の滝が大きくフューチャーされている。
 同書の全10編が、日本橋馬喰町の金幸堂からひと揃いで出版されたのは1864年(元治元)のことだが、安藤広重は1858年(安政5)にすでに死去している。第7編までが安藤広重が描き、それ以降は二代広重が描いたとされているが、モチーフとなった場所へ師と弟子が連れ立ってスケッチに出かけているのは、それ以前からスタートしていたかもしれない。同書の藤稲荷のページから、添えられた文を引用してみよう。
  
 藤稲荷に瀧あり 夏日是にうたるときは冷気肌を徹して三伏の暑さを忘れしむ
  
 これを読むと、少なくとも二代広重は夏場に藤稲荷へと出かけ、水垢離場に入って実際に流れ落ちる滝に打たれてみたのかもしれない。だが師弟が連れ立ち、それ以前に下落合をスケッチしているとすれば、ふたりで滝の下までいって冷たい湧水のしぶきを浴びている可能性もある。ただし、安藤広重はそのころ60歳近い年齢だったから、実際に現場へ赴いたとしても「冷気肌を徹して」は体調が悪くなるので、「鎮平、おまえ浴びてこい」「師匠、もう10月ですぜ。勘弁してくださいよう」「よし。じゃ、わたしがいく」「師匠がいくなら、しゃあねえな、わたしもご一緒しますがね」「どうぞどうぞ」「……オレは上島か!」と、二代広重に任せただろうか。
 絵を細かく観察すると、不動明王の石像下には湧水を落とす龍の口が設置されているのが見える。おそらく銅製の龍の口だろうが、滝の正面から見て流水を剣に見立てた、刀剣の彫り物に多く縁起のよい「剣呑み龍」、つまり不動明王の化身として象徴させたものだ。海老澤了之介Click!の『新編若葉の梢』に登場している石像の「小天狗」は、滝の右手に設置されていたものか描かれていない。
 手前の雑司ヶ谷道沿いには、“お休み処”とみられる式台や屋根に板か簾を拭いた茶屋が並んでいるのは、『江戸名所図会』などの情景と同じだ。このような仕様の茶屋は、1909年(明治42)10月発行の『東京近郊名所図会』Click!によれば明治末まで残っており、東京郊外を散策する観光客や、近衛騎兵連隊Click!演習兵士Click!を相手に休憩所として商売をしていたとみられる。下落合には、明治末に3ヶ所の茶屋が記録されており、2ヶ所は下落合4丁目(現・中井2丁目)の小上(蘭塔坂Click!上)だが、もう1ヶ所は藤稲荷からもう少し西へ歩いた下落合氷川明神社Click!近くの本村にあった。
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 広重の『絵本江戸土産』には、下落合の藤稲荷だけでなく落合周辺に散在する名所が、あまり引用される機会もなく、めずらしい構図で描かれている画面が少なくない。機会があれば、高田村や戸塚村、雑司ヶ谷村、小石川村などの情景を改めてご紹介したい。

◆写真上:急峻な崖地がつづく、御留山の中腹にある藤稲荷社の現状。
◆写真中上は、金子直德『和佳場の小図絵』に添えられた「雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図」より。田島橋の犀ヶ淵Click!まで採取されているのに、藤稲荷(東山稲荷)の滝が描かれていない。は、長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』に採取された藤稲荷の滝。は、金子直德『若葉抄』に著者が描いた藤稲荷だが滝が見えない。
◆写真中下は、1955年(昭和30)ごろに撮影された荒廃が進んだ藤稲荷の境内。は、広重『絵本江戸土産』に描かれた藤稲荷の水垢離場。
◆写真下は、広重『絵本江戸土産』に描かれた滝の拡大。は、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村図」をもとに各画面の描画方向を書き入れたもの。ただし、いずれも鳥瞰図のため視点が高い。は、藤稲荷の滝があったあたりの現状。1940年(昭和15)からスタートした第一徴兵保険(のち東邦生命)の宅地開発Click!で、御留山の西南部が崩され道路(おとめ坂)が敷設されている。また、戦後は大蔵省の官舎建設のために、御留山東側の深い谷戸Click!も地下鉄・丸ノ内線工事の土砂で埋められた。

子ども時代の記憶はいい加減。

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 子どものころの記憶ほど、あてにならないものはない。そろそろ黄昏どきになり、クタクタになって遊びから帰る午後6時ごろ、風呂の次には夕食が待っていた。原っぱでの草野球に、防風・防砂林の松林での“基地”づくり、夏なら午後いっぱいプールで泳ぎ、たまには浜辺に出て三浦半島や伊豆半島を眺めながら難しい蝉凧Click!揚げと、遊びたい放題に遊んでいた時代だ。わたしが小学生だったとき、1960年代後半の海岸っぺりClick!に住んでいたころの情景だ。
 親父は当時、忙しい設計や建設の仕事Click!に忙殺されていたのでたいていは帰りが遅く、先に夕食を済ませては宿題もせずにあとは寝るだけという生活だった。夕食をとりながら居眠りをしないよう、特別にTVを観ながらの食事が許されていた時間だ。そのとき、6時30分からはじまるドラマを観ていたのだが、なぜか強く印象に残っている。NHKの『素顔の青春』という連続ドラマで、キリスト教系の病院に付属する看護婦養成学校の物語だったと思う。もっとも、ドラマのタイトルはずいぶんあとから判明したもので、数年前まではとうに忘れていた。
 ドラマ名が判明したのは、そのテーマソングのメロディや歌詞をかなり憶えていたからだ。小学生の記憶力はあなどれない……と、タイトルとは矛盾するようなことを書いてしまうが、先年、何気なく60年代のCMをYouTubeで検索していたら、倍賞千恵子が唄う『虹につづく道』Click!という曲がひっかかった。憶えていた歌詞やメロディから、「もしや?」と思って聴いてみると大当たりだったのだ。作詞が岩谷時子で、作曲がいずみ・たくだったというのも知った。そして、このテーマソングが使われたドラマが、『素顔の青春』(NHK/1967年)というタイトルだったことも判明した。
 小学生のわたしが、なぜNHKの看護婦養成学校を舞台にした、子どもにはたいして面白くもなさそうなドラマを好んで観ていたのかといえば、「マタンゴ」でゴジラよりも強いキングギドラを連れてやってきた「X星人」の水野久美Click!が、白衣の看護婦役で出演していたからだ。この南洋の島に棲息するキノコのお化けから怪獣連れの宇宙人のあと、ほかでもない白衣の天使に姿を変えた水野久美が、子ども心に気になって気になってしかたがなかったのだ。だから、ほかの若い看護学生役の女の子たちなどどうでもよく、ただ水野久美の出演のみに興味が集中して観ていたのを憶えている。
 だが、あくまでも阿部京子や春丘典子、伊藤栄子、摩耶明美の4人の看護学生たちが物語の主人公であり、彼女たちがさまざまな経験を重ねて一人前の看護婦になるまでを描いた青春ドラマなので、いつも水野久美が登場するとは限らない。だから、彼女が出てこないと遊び疲れから、夕食の途中でつい居眠りをはじめてしまうのだ。すると母親が、「ほら、X星人が出たわよ!」と叫んで起こしてくれ、わたしはハッとして急いで白黒のTV画面に目を向けると、看護婦姿の水野久美が映っていて満足しながら食事をつづける……というような光景が日々繰り返された。
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 キリスト教系の看護婦養成学校では、入学して数年たつとチャペルの祭壇にある十字架の前で「戴帽式」が行なわれる。火のついた蝋燭を片手に、彼女たちはナイチンゲールの誓詞を読み上げるのだが、子ども心にも強く印象に残るシーンだった。大人になってから、ドラマのモデルになった病院に付属する看護学校とは、築地にある聖路加病院Click!か下落合にある国際聖母病院Click!だったのではないかと、漠然と想像していた。ところが、『素顔の青春』はNHK大阪が制作したドラマであり、大阪市内にあるという設定の「城南大学付属看護学院」が舞台だったのだ。
 改めて出演者を見ると、当時のわたしはまったく気づかなかったが、大阪出身の俳優たちが大半を占めている。同作品の出演者は、主人公である上記4人の看護学生と水野久美をはじめ、毛利菊枝、小坂一也、北沢彪、門之内純子、中村芳子、大塚国夫、近藤正臣、久富惟晴、中村雁治郎、浪花千栄子、西山辰夫、伊吹友木子、加島潤、桜田千枝子、曾我廼家明蝶、小田草之介、山田桂子、池田和歌子、武原英子などだ。彼ら(彼女ら)の多くは、まちがいなく大阪弁を話していたはずなのだが、まったく印象に残っていないのは、水野久美や看護学生たちが関東弁をしゃべっていたせいだからなのか?
 このドラマは、NHK総合テレビの月曜から金曜までの午後6時30分から放映され、1年間もつづいていたらしい。毎日、倍賞千恵子が唄う『虹につづく道』を夕食どきに聴かされつづけ、「いつ、X星人にもどるのだ?」と看護婦姿の水野久美を観ていたわけだから、どうりで強く印象に残ったわけだ。原作者は、木下惠介Click!プロダクションの脚本家・楠田芳子で、当時のエッセイが残っている。
 1967年(昭和42)に発行された「グラフNHK」10月15日号所収の、楠田芳子のエッセイ『“青春”いまむかし』から少し長いが引用してみよう。
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 NHKで決めてくれた<素顔の青春>とは、好ましい題名だと思う。一年間、自分のすべてをかたむけてとりくむ作品だから、わたしがきらいなわけはない。この作品の中で、わたしは人間のごく平凡な生活の中にある哀歓を、由紀子という主人公の若い目を通して描き、生きてゆくことの大切さ、美しさを、また平凡な人生の中の心にしみるドラマを書きたいと思った。/看護婦というきびしい職場の中で成長して行く彼女を、わたしは一生懸命自分の心の中に置いて、愛しもし、いたわりもしている。また彼女を囲むたくさんの登場人物のすべてが、わたしの胸の中でブツブツいったり、笑ったりしているような気さえもする。/このドラマのために、たびたび看護学院を訪れ、先生がたや学生の皆さんからお話をお聞きした。教師も学生も、わたしの想像を越えた自由と規律とを持っていることに感慨を抱いたのは歳のせいであろうか。そしてある日フト自分をふりかえってみる。わがままで激しく、そのくせ無力な少女が中都市の大通りをスタスタ歩いている。上級生には敬礼、飲食店には立入禁止、外出には制服着用、髪は三つ編み、スカート丈は床上三十センチ、ひだの数は……ああ、もう忘れました。あれもいけない、これもするな。なにが楽しくて生きていたのかと思うほど制約の多かった学生時代で、いま、わたしの身について時たま子どもたちをあきれさせることといったら、簡単な電気製品の修理であろう。刃物のとぎかた、柳行李をカメの子型に荷作りする方法など、満州の開拓村へ花嫁に行ったときのために教育されたのだから、なんともわびしく、味けない思いがする。
  
 いまだ、生活も思想・信条も不自由だった戦争の記憶が色濃い1960年代、作者の楠田芳子は看護学校の学生たちをうらやましく眺めながら、『素顔の青春』を書いていたのがわかる。「子どもたちをあきれさせる」彼女の得意ワザとは、男たちが前線にいってしまい男手のない“銃後”の生活でも、なんとか女子たちだけで切り盛りできるよう、身につけさせられた生活上の「技術」ばかりだ。
 でも、午後6時30分という子ども番組の時間帯で、「人間のごく平凡な生活の中にある哀歓」を描こうとした作品に、「マタンゴ」で「X星人」の水野久美をキャスティングしたらダメでしょ。子どもの頭の中では、あらぬ妄想がどこまでも際限なく拡がりつづけ、「生きてゆくことの大切さ、美しさ」どころではなく、いつ妖しげな媚態から彼女の正体がバレるのか、ウキウキ気分で1年間をすごしてしまったような気がする。
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 そういえば最近、水野久美が「マタンゴ」でも「X星人」でもなく、「口裂け女」Click!になったというウワサを耳にしたので、再び「とうとう正体を現したな」とウキウキ気分が再燃している。小学生のころから現在にいたるまで、好きな女優のひとりなのだ。

◆写真上:築地にある1874年(明治7)創立の、聖路加病院の旧・病院棟(1933年築)。
◆写真中上は、『素顔の青春』で印象的な戴帽式シーン。は、同作品で山崎葉子先生役の水野久美(右)。『素顔の青春』関連の写真は、いずれも「グラフNHK」より。下は、もう一生忘れられない「マタンゴ」()と「X星人」()の水野久美。
◆写真中下上左は、『素顔の青春』の原作者・楠田芳子。上右は、同ドラマの看護学生・杉本由紀子役の阿部京子。は、1931年(昭和6)に創立された下落合の国際聖母病院。は、聖路加病院のすぐ近くにある1874年(明治7)創立の築地教会礼拝堂。
◆写真下は、ドラマが放映されたころのナショナル・パナカラーと街中を走っていた大衆車ファミリア。は、倉本聰のドラマ『やすらぎの刻-道』(テレビ朝日/2019年)で「口裂け女」に変身した水野久美。(右から2人目) ちなみに左から右へ、いしだあゆみ、加賀まりこ、浅丘ルリ子Click!、大空真弓、水野、丘みつ子のお化けたち。中でも「お岩」「山姥」「口裂け女」が秀逸で、そのまま『金曜日のお岩たちへ』『バッケが原の山姥』『妖怪大戦争-口裂け女vsマタンゴ-』とかいう映画でも撮ってほしい。

陸軍に注文の多い初年兵たち。

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 国立公文書館に保存された、軍関係の資料(おもに陸軍が大多数)を参照していると、ときどき目についてひっかかる資料がある。それは、「要注意兵卒ノ状況ニ関スル件報告」というようなタイトルをつけた陸軍大臣や陸軍省副官あての報告書で、大正後期から昭和初期にかけて特に急増しているドキュメント類だ。
 内容をくだいていえば、帝国陸軍とはあい入れない思想の持ち主たちが、徴兵制により少なからずわが部隊に入営してきたので、「どうしたもんでしょ?」、「なるべく説諭で思想を矯正してはいますが」、「いうことをきかないし、上官の命令もきかない」、「宣誓文に署名しません」、「差別反対のパンフレットを撒きそうです」、「アナキズム研究をやらせろといってます」、「休暇で外出したまま、どっかへ行っちゃいました」……etc.といった、なかば困惑を含んだ内容が多い。これに対し、陸軍省では兵役期間は短いながらも、できるだけ地道に説諭するよう指示を出しているのだろう、その後の「要注意兵卒」に対する説得の経過や動向を知らせる報告書がつづく。
 報告書の出だしは、たとえばこんな具合だ。1926年(昭和元)12月に上げられた「要注意兵卒ノ状況ニ関スル件報告」から、典型的な文章を引用してみよう。
  
 陸軍大臣 宇垣一成殿
 本年度第〇師団に入営シタル思想要注意初年兵ハ六名ニシテ中三名ハ特ニ思想ノ根柢強因ナルモノノ如ク各々部隊長ニ連絡 言動視察中ナリ 状況別紙ノ如シ
  
 徴兵制は入営してくる人物を選べない、すなわちハナから軍人をめざす志願兵ではないため、多種多様な思想をもった若者たちが大量に入営してくることになる。特に、大正後期から昭和初期にかけては共産主義や社会主義、民本主義、自由主義、アナキズム、サンディカリズムなどさまざまな思想をもった初年兵が増え、いくら上官が「説諭」して考えを改めさせようとしても、逆に理屈をぶつけ合う議論ではまったく歯が立たなかったり、腕力で抑えつけようとしても組合運動を経験して来た筋金入りの「闘士」がいると、逆にやられかねないような危機感も報告書には見え隠れしている。
 現場から陸軍大臣や副官あての報告書では、ハッキリと明確に請願はしてはいないけれど、どうしても手に負えない兵卒たちは本人の不利や不名誉にならないよう、なんらかの理由をつけて穏便に除隊ないしは退官させるのが適切……といったようなニュアンスさえ感じとれるものさえある。「説諭」しようとした上官が、おそらく逆に思想堅固で闘志満々な兵卒に脅かされているような雰囲気だ。中には、争議の先頭に立っていた「兵隊やくざ」みたいな人物もいて、「てめえ、シャバに出たらタダじゃおかねえからな。おぼえてろよ」などと、脅迫された上官さえいたのかもしれない。
 中には理不尽な扱いを受けたら「抗争」も辞さずと、宣言してから入営する者もいた。1926年(大正15)1月の、金沢第九師団の報告事例をいくつか見てみよう。
  
 「自分ハ入営後軍規ニ服従スルモ不合理ナル制裁ヲ受クルトキハ下僚ヲ相手トセズ少クモ中隊長以上ヲ相手トシテ抗争スル意図ナリ」ト語レルコトアリ(中略) 宣誓式ニ於テ「如何ニ上官ノ命令ナリトモ反国家社会的行動ニハ服従スル能ハズ」トノ理由ノ下ニ最初宣誓ヲ拒ミタル (工兵第九大隊)
 入営前水平社同人ニ対シ軍隊ニ於テ差別的待遇ヲ為スニ於テハ徹底的糾弾ヲ為スベシ洩レ語リタリト云 (歩兵第十九聯隊)
  
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 また、名古屋第三師団では勤務中でもアナキズム研究をつづけさせろと、中隊長にねじこんだ初年兵がいる。1926年(大正15)1月の報告書から引用してみよう。
  
 入隊宣誓式ニ際シ直チニ署名セズ、中隊長ニ更ニ〇法第三条ノ説明ヲ求メシヲ以テ中隊長ハ之ニ答へ尚他人ヨリ不条理ノ取扱ヲ受ケタル時ハ上申ノ処置ヲ取ルコト許サレアルコトヲ説明セシ(中略) 又中隊長ニ在営間自己ノ研究ニ就キ自由ヲ許サレ度キ旨申出デタルモ中隊長ハ隊内ニテ主義ノ研究ハ許サザルコトヲ言ヒ渡セリ (歩兵第三十四聯隊)
 農民組合ニ関係シ岐阜県中部農民組合青年部ノ部長タリシコトアリ 間々過激ノ言ヲ吐ケルコトアリ (歩兵第六十八聯隊)
  
 また、休暇で外出旅行したら、そのままもどってこないエスケープ下士官や、尉官クラスの士官の中には「勉強したいのに忙しくて、もうやってらんないし!」と、ストライキまがいに勤務放棄をするなど、のちの日中戦争あたりから本格化したファシズム時代の陸軍に比べると、なんとも“牧歌的”な事件が次から次へと起きている。
 これらの報告書は、もちろんマル秘の印が押されて、陸軍省の資料室の奥へと仕舞いこまれていたのだろう。換言すれば、軍隊とはいえそれだけ人間臭い一面が大正期から昭和初期にかけての陸軍には、まだ色濃く残っていたということかもしれない。
 周囲の状況に刺激されたのか、あるいは初年兵の逆オルグにあって新たに思想を形成をしたものか、下士官が休暇をとったまま帰ってこないエスケープ事件を見てみよう。兵舎の所持品を調べてみると、アナキズム関連の書籍が見つかっている。1926年(大正15)4月に報告された、大阪第四師団から陸軍大臣あての報告書より引用してみる。
  
 大正十五年四月三、四日ノ両日奈良見物ト称シ外泊休暇ヲ願出所定ノ時間ニ帰営セザルヲ以テ伯太憲兵分遣所ト協力シテ捜索ニ従事シ其手懸ヲ得ル為 本人ノ手箱等ヲ点検シタル結果 無政府主義者ト認ムベキ逸見吉造(水平社幹部)石田政治(水平社幹事)両名ヨリノ来信ト主義ニ関スル左ノ書籍ヲ発見シ思想上ニ関シ相当研究セルコトヲハッケンセリ/左記/クロポトキンノ研究/大杉栄ノ日本脱出記/ゴーリキー全集第五編/啼レヌ旅/薄明ノ下ニ/解放/改造/自然科学/文章往来/アフガスチンノ懺悔録 (野砲兵第四聯隊)
  
閲兵式.jpg
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近衛師団司令部(近美工芸館).JPG
 さらに、1927年(昭和2)2月には将校の少尉が、軍隊では多忙すぎて自身が進めている「支那に関する研究」が満足にできないのを理由に、いきなりいっさいの勤務を放棄してサボタージュし、懲罰として重謹慎30日を命じられたものの、その後も勤務放棄のストライキをつづけ、ついには退職が認められた事例も報告されている。
  
 (少尉は)精神ニ動揺ヲ来シ軍隊生活ヲ厭忌シ退職ノ手段トシテ素行ヲ紊シ隊務ヲ顧ミザル件ニ関シテハ既報ノ処 一月二十九日附免官ノ内達ヲ受ケ挨拶、整理ヲ済マシ翌三十日奉天ニ向ヒ出発セルガ支那事情ヲ研究セントスルモノゝ如シ (歩兵第七十三聯隊)
  
 彼ら軍内部のアナキズムや共産主義思想、あるいは社会主義思想などを少しずつ「説諭」(オルグ)して取りこみ、原理主義的社会主義Click!とでもいうべき思想が徐々に浸透して拡がった結果、陸軍皇道派によるクーデターとして爆発したのが、1936年(昭和11)の二二六事件Click!だという見方さえできうるかもしれない。
 1927年(昭和2)1月に、軍隊内へ配られそうになったアナキズム雑誌「無差別」に掲載の、『軍国主義ヲ吟味セヨ―無産青年諸君ヨ―』から、その一部を引用してみよう。全文漢字/カタカナで句読点もなく読みにくいので、ひらがな文に直し句読点を付加した。
  
 愛国と云ふ言葉も底を割つて見れば資本家の肥満し切つた懐中を余計に太くせんが為に、戦争が無ければ無益有害な軍閥領土的野心を満足せんが為に、そして彼等の存在を民衆にとつて意義あらしむべく俺達のたつた一つしかない生命を投出せと云ふ事になるのだ位の事は判つてきた。こうした意識が民衆の中に濃厚となつて人間的必然に、或は人道的主義立場人類平和の為に非戦的傾向を取るに至つた現今社会状態を見て取つた侒奸な奴ブルジヨアと軍閥共は俺達を尚ほこの上搾取せんために、何とかうまい考へはないかと頭を搾つた結果が彼の破壊的軍事思想の鼓吹を目的とする軍事教練と青年訓練所とである。
  
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 1929年(昭和4)10月、竣工して間もない戸山ヶ原Click!大久保射撃場Click!で発見された、「軍隊ハ資本家ノ番犬ナリ/我等ハ真ノ国民ノ番犬ノ軍隊ナランコトヲ望ム」の落書事件Click!から、わずか6年と少しで国家を揺るがす二二六事件Click!が勃発している。

◆写真上:北ノ丸にある、近衛師団司令部(現・東京近代美術館工芸館)の師団長室の窓。
◆写真中上は、入営後に寝起きする兵舎。は、不合理な制裁を受けたら「中隊長以上ヲ相手トシテ抗争スル」と宣言する初年兵が入営してきた、1926年(大正15)1月25日付け金沢第九師団報告書。は、入営後も「主義研究」の継続を申請する初年兵が入営してきた、1926年(大正15)2月20日付け名古屋第三師団報告書。
◆写真中下は、代々木練兵場Click!における閲兵式。は、休暇中の伍長が出奔し所持品から無政府主義関連の書籍が見つかって動揺する、1926年(大正15)4月26日付け大阪第四師団報告書。は、明治期に竣工した近衛師団司令部の全景。
◆写真下は、東日本大震災の直前に撮影した旧・軍人会館(元・九段会館/解体)。は、勤務放棄のストライキで免官になった少尉の1927年(昭和2)2月16日付け最終報告書。は、1960年(昭和35)に撮影された解体が進む戸山ヶ原の大久保射撃場。
おまけ
10月10日になっても、セミの声が鳴きやまない。秋の深まりを感じさせるヒヨドリとアブラゼミ、そして秋の虫の3重奏はめずらしいので記録。

第一寮棟で暮らした学生たち。(上)

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 近衛町Click!の南端にある、下落合1丁目406番地(現・下落合2丁目)の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)がひどいことになっている。寮棟のあった敷地や、西側のテニスコート周辺にあった緑が根こそぎ伐採され、バッケ(崖地)Click!下の雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)の際まで含めて、大規模な集合住宅が建設される予定だという。これでまた目白崖線の緑が消え、斜面から丘上にかけて灰色のビルが出現するわけだ。
 さて、すでに解体されてしまった学習院昭和寮の4棟には、どのような学生たちClick!が暮らしていたのだろうか。昭和寮は、旧・学習院高等科の学生たちを入寮させていたので、今日の学制でいえば大学の教養課程を学ぶ、17歳から20歳ぐらいまでの若者たちだ。以前から、昭和寮で起きた出来事Click!エピソードClick!を中心に書いてきたので、今回は入寮していた学生たちに焦点を当て、その横顔を少しご紹介してみたい。
 学習院昭和寮Click!には、本館の南側に4棟の寮舎が建っていたが、そのうちの第一寮には15人の学生が入居していた。たいがいが皇族や華族、資産家の家庭出身者たちだが、お気楽にスポーツへ打ちこむ学生もいれば、さまざまな苦労を重ねて入学してきた学生もいて、寮生の顔ぶれは多彩だったようだ。1933年(昭和8)2月に発行された寮誌「昭和」Click!第8号には、第一寮の14室に住む学生たちのプロフィールが掲載されている。いちおう、氏名はイニシャルで書かれているが、学習院高等部へ通う学生が見たら、すぐに誰かが特定できただろう。
 同誌に掲載された、一寮生『一寮十五勇士』から引用してみよう。全14人しか紹介されていないが、最後の15人目は著者の「一寮生」だからだ。
  
 多分昭和寮の杜に鶯の囀ずる頃には私も此のなつかしいクリーム色の寮舎から、チユーブ入のライオン歯磨の様に、永遠に追出されなければならないでせう。ですから此の出口に留つてゐる間にチユーブの内容を、一般に招介(ママ:紹介)し又広い世界の空気をつぎ込む役目をするのも決して無益ではありますまい。併し内容物は歯磨とは一寸異つた血も肉も思考もある人間です。
  
 このような序文ではじまる第一寮の学生紹介は、寮誌「昭和」の12ページ分を占めたかなり長めの読み物となっている。ふだんから付き合っている、親しい友人たちを紹介するわけだから、いわゆる「仲間うち」でしか通用しない文脈や符丁、いわず語らずの共有経験を暗示する含みのある表現も多いが、昭和初期に下落合へ集合していた学習院生たちの特徴を、よく捉えている文章だと思われる。
 ◎第一室 文二乙 YK君
 「タイアン」というあだ名で、山登りが得意な学生。第一室は特に湿気がひどく、室内はカビだらけだったようだ。明るい性格のようで、どこか口八丁手八丁のようなとぼけた面もあったらしい。一寮全体が明るくなると、周囲から歓迎されている様子だ。
  
 尖い頭脳と体に不釣合な太い膽力の所有者で、本院否日本山岳会の権威の一人です。専門雑誌に寄稿して立派に原稿料を稼いでゐます。然し君の過去は決して平坦なものではなく、随分険阻な山道を歩いて来た様に見受けられます。
  
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 ◎第二室 文一丙 AM君
 かなり肥った学生だったらしく、「豚」などと書かれている学生。第一室のYK君が痩せていたのに対し、第二室の学生は丸々とした体格で童顔だったらしい。
  
 大のスポーツフアンでもあり亦スポーツマンでもあります。対附中戦の大将として本院の柔道史を飾り、又山岳部の委員として働いてゐるわけなんですが。最近は時代の波におされてかラグビー選手として偉大な体躯をグランドに現してゐます。
  
 ◎第三室 理二甲 MK君
 おカネ持ちで、絵に描いたようなイケメンだった学生。寮では読書室主任を引き受け、夏休みになると鎌倉の別荘へ出かけるのを楽しみにしている。また、軍事ヲタクClick!だったらしく当時の軍備に通じており、著者に「帝国主義者」と呼ばれている。
  
 スカールの名手。先日も井口盃レースに出場して活躍されました。未来はエンジニヤーとして我が建築界を背負つて立つ人。どうです皆さん! 新家庭の愛の巣を作る場合、君にお願いしては、又大の陸海軍通、と云ふよりは寧ろ帝国主義の権化です。
  
 ◎第四室 文三甲 FH君
 明るい性格のようだが、在寮時に不幸がつづいていた学生。文章も、FH君への慰めと励ましからはじまっている。入寮して1年もたっておらず、昭和寮では新人だった。努力を重ねる性格だったらしく、「ササ熊」というペンネームで寮日誌を引き受けている。
  
 スポーツのデパートです。生辞引(ママ:生字引)です。不明の点があつたら一寮の四室へいらつしやい。成る程見掛けは至つてしとやかな君も一旦丸裸になれば筋骨隆々たるモサです。柔道は二段、ラグビーは本院のnumberOne’兎に角すごい体です。
  
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 ◎第五室 理一乙 KM君
 「マホメツト」というあだ名のついた、青瓢箪のような学生。外出の札をかけっぱなしにして、寮のオバサンに外から鍵をかけられ、出られなくなったエピソードはすでにご紹介している。一寮の「変人」で、寮仲間との協調性がまるでなかったようだ。
  
 見掛けによらず、頭脳の明晰なること秋の夜の如きものです。世間は、殊に現代は性格を完備せる人間、之を換言せば人間の全性格や広範な知識を余り要求しないでせう。寧ろすぐれた深い一部分を望んで止みません。一くせある君の前途は決して平凡な人間には終らないでせう。それにしても、もう少し寮生との融和をはかつて欲しいと思ひます。
  
 ◎第六室 理三乙 GM君
 身長が低くて「胎児」というあだ名がついていたが、学習院の理系ではトップの成績だったようだ。一寮のティールームと電話の当番を引き受けていた。学習院では唯一のオカッパ頭で、別に「Poko(ポコ)」というあだ名もあった。
  
 来春の千葉医大受験準備で、秋の夜長を雄々しくも奮闘を続けてゐます。医者を友達に持てとはよく云ひますが、私は何だか不安です。蛙やバツタの調子で解剖された日にや、命がいくらあつても足りそうもありませんから。なるなら内科ですな。それより大のスポーツフアンである君には寧ろスポーツ医学は如何です。
  
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 当時の学習院昭和寮で暮らした学生たちは、みななんらかのスポーツをしていた。部屋に引きこもって、勉強や読書に専念するような学生は、むしろめずらしかったのだろう。そのような学生は、ここに登場している変人の「マホメツト」君ことKM君と、後編に登場する「熊さん」こと内気で引きこもりのBN君のふたりぐらいだろうか。
                                <つづく>

◆写真上:寮棟が解体され、周囲の樹林が伐採された学習院昭和寮の跡。左手の背景は、大黒葡萄酒工場Click!の跡地に建つ高田馬場住宅で、遠景は新宿駅西口の高層ビル群。
◆写真中上は、宮内公文書館に残る1923年(大正12)5月28日に帝室林野局が東京土地住宅から近衛町の敷地42・43号Click!を購入したときの記録。(東京市及附近所在御料地調/識別番号61683) は、1932年(昭和7)に学習院が撮影した昭和寮の空中写真にみる第一寮。ちょうどこの撮影時、記事に登場している学生たちが暮らしていた。は、昭和寮の東側から眺めた第一寮(右)と第二寮。(提供:野口純様)
◆写真中下は、解体前の昭和寮の寮棟。は、昭和初期に撮影された寮室。
◆写真下は、学生たちが暮らした第一寮の入口。は、寮棟北側にある本館の階段。

第一寮棟で暮らした学生たち。(下)

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 学習院昭和寮Click!が解体されはじめてから、わたしは何度か日立目白クラブの周辺を訪れているが、先日はテニスコートの西側に繁っていた竹林の伐採に遭遇した。崖上の竹林は、秋の夕陽を受けると黄金色に輝いて美しく、それが消滅してしまったことは非常に残念でならない。それにしても、どこまで緑ゆたかな目白崖線の景観を破壊し、灰色のビルを建設すれば気が済むのだろうか? ちなみに、東京23区における集合住宅の空き室戸数は、477,100室(2018年現在)といわれている。
 昭和寮で暮らした学生たちのプロフィールを、前回Click!につづいてご紹介しよう。
 ◎第七室 文二乙 MM君
 北大農学部をめざす、「大明神」と呼ばれていた学生。明朗な性格だったようで、独特な方言を話すこともあって親しみやすく、著者はつき合いやすかったらしい。流行のスポーツが好きで、いろいろな種目に手をだしては楽しんでいたようだ。
  
 大のスポーツマンです。凡そスポーツと名のつくあらゆるものに、手は仮令すぐ、引くにしろ兎に角一応は出します。今じやラグビーと柔道にはなくてならない、本院スポーツ界の最尖端を走る君です。先日の乗馬会で君の立派な額の様なカツプを取つて来ました。コリコリした筋肉の塊ですが、人は至つて善良ですから安心して交際が出来ます。
  
 ◎第八室 文三丙 MI君
 昭和寮一の秀才で、「若きオヂーチヤン」というあだ名をもらっている学生。アテネ・フランセへ隔日に通い、フランス語に堪能で外交官をめざしている。寮誌が発行された年度の夏休みには、仏領ベトナムのサイゴンへ外遊していた。だが、時局柄からこれからの外交は知識ばかりでなく、国事多難から胆力が必要だとアドバイスしている。
  
 長岡(半)博士の言を拝借するならば、『小銃から出来た人間でなく、大砲から出来た人間』になる事が必要じやないかと思ひます。余り頭のよい人は先が見えすぎて手が出せず、時には口をポカンと開いている人がより偉大な結果を生む事は決して少い例ではありませんから。併し学習院は昭和寮は将来の君に期する処蓋し大なるものがあるでせう。
  
 ◎第九室 理三甲 BN君
 内気な性格で、「熊さん」とあだ名された大人しい学生。第一寮の委員を引き受けているが、関わっていたスポーツはみんな止めてしまい、東大農学部をめざして勉強中だ。ひがな1日、寮室ですごすことが多いようで、多少引きこもりの気がありそう。
  
 東南の一隅に巣を食ひ、人々称して熊さんと云ひますが、気立は至つておだやかですから、決して逃げる必要はありません。非社交的な、内気な性質です。鬚の中から顔と目玉が見えると云つた方がより適切かも知れません。
  
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 ◎第十室 文三乙 MN君
 14名の寮生の中では、いちばん紹介の文章ボリュームが多い学生なので、よほど特徴のある性格か独特なクセをもっていたのだろう。「土人」というあだ名で、学習院の中等部時代はスポーツをやっていたが、身体を壊してからは哲学書にのめりこみ、ドイツ語が堪能だった。それでも高等部では、水泳とスキーだけはつづけていたらしい。「♪羊群声なく牧舎に帰り」の寮歌で有名な北大で、自然科学を専攻しようと勉強中のようだ。
  
 鬚に於ては前住人に一日の長ある君、何等装飾のないその部屋の物語る通り、全く質朴純真な真理の追求者です。鏡の如き透徹せる尖い頭脳と強固な意志の人格者です。土人、土人で尊敬されてゐます。その名のよつて来る所、多分表皮のPigmentが人一倍発達してゐる為なんでせう。
  
 ◎第十一室 文一甲 UT君
 世の中の苦労をまったく知らず、童顔で明るいボンボン的な性格から第一寮の人気者だった学生。理系に進んでいたが、途中で文系に進路変更しためずらしい学生で、急に経済学が勉強したくなったようだ。水上部(ボート部)に属し、かつてスカルでは日本ジュニアスカル選手権のタイトル保持者だった。新たに流行りのラグビーをはじめたが、過酷でケガの多いスポーツなので実家がかなり心配している様子だ。
  
 第六室の住人の様に半狂乱的真剣味こそありませんが、よく漫遊に出掛けます。ルーズヴルト(ママ)の言葉を借りるならば、『生活の義務を行する』ことを忘れて『生活の歓喜のみを味』つてゐるんじゃないでせうか。
  
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 ◎第十二室 文一丙 SY君
 兄も学習院だったが、兄が卒業したあとすぐに入寮してきた弟の学生。兄は滑舌が悪かったのか、話していてもフカフカとなにをいっているのか聞きとりにくかったが、弟は「発音は案外明瞭」と書かれている。陸上競技の選手で、なにかと女子たちにもてたので「若き異性の渇望の的」と書かれている。「爆弾三勇士」Click!がブームになっているころで、SY君は学習院陸上の「競技部三勇士」のひとりに選ばれている。1932年(昭和7)の全国中学陸上大会で、優勝旗を受けとる大役をつとめた。
  
 文学的才能を豊富に具へて、『輔仁会雑誌』『昭和』等に創作やカットをドシドシ投稿される万事が器用な君です。学問に運動に黙々として独自の途を開拓されてゐます。寮の為、部の為今後君の御奮闘を期待して止みません。
  
 ◎第十三室 文一甲 KK君
 朝鮮からの留学生で、かなりの淋しがり屋だったようだ。まだ、入寮して1年とたっておらず、なかなか学習院や昭和寮の生活になじめない様子が書かれている。「寮の為融和をはかる事が目下の急務」とあるので、昭和寮では孤立しがちだったのだろうか。「朝鮮を双肩に担つて立つてください」と、最後には励まされている。
  
 玄界灘を遥々越えて今春入学された君です。目指すは赤門法学部とか。今から決心物凄く馬力を掛けてゐます。兎角ダレ勝な高等科でその志は見あげたものです。でも余り外出し過ぎやしませんか? テニス、ピンポンがお得意です。私もよくお相手仰せつかりますが大抵にペチヤンコに負けてしまひます。
  
 ◎第十四室 理二乙 TS君
 「トノサマ」というあだ名の、東大電気科をめざす学生。小さい体格だが、野球やボート競技もこなすスポーツマンだった。第三室のMK君とともに、読書室主任を引き受けている。健康に気をつかう性格だったのか、第一寮でもっとも早起きだった。
  
 当寮で一番大きくない人です。電気工事の大家で芝居の照明係としてなくてはならぬ君です。でも此の頃は可愛い少年助手が出来たと喜んでゐます。将来は東大電気科専攻になるそうですが、やはり理科二年は苦労の種らしいです。
  
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 これらの学生たちが、その後、どのような人生を歩んだのかは氏名がイニシャルなのでたどれないが、各分野で成功した人もいただろう。だが、日米戦争が間にはさまっているので、中には1945年(昭和20)8月を迎えることなく死亡した人もいるかもしれない。

◆写真上:夕陽を受けると輝いた、テニスコート西側の竹林を伐採する建設業者。
◆写真中・下:解体前に撮影しておいた、学習院昭和寮のいろいろなスナップ類。の3葉は、夕陽があたると美しく黄金色に映えていた竹林と昭和寮の雑木林、そして上空から眺めた解体中の昭和寮跡で第一寮の残骸が本館裏に見えている。(Google Earthより)

シラスが大漁だと漁師は泣いた。

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 ときどき、身厚で美味しいムロアジの干物やキンメの煮付け、懐かしいシラスなどを食べに平塚Click!大磯Click!、二宮、鎌倉Click!を散歩することがある。海岸の近くには、たいがい昔からの食堂があり、その朝に獲れた魚を食べさせてくれる。特に、わたしの大好きな大型のムロアジ一夜干しは絶品だ。地産地消が原則で、東京の魚市場経由ではあまり食べることができない、相模湾と黒潮・親潮流れる太平洋の新鮮で豊富な魚介類は、わたしが子どものころからの“舌”を形成したかけがえのない魚たちだ。
 わたしがもの心つくころ、湘南海岸のあちらこちらでは盛んに地曳き網漁Click!が行なわれていた。「湘南海岸」という大くくりの名称ではなく、それぞれの街ごとにつけられた海岸名や浜辺名ごとに、海が荒れて浜から地曳き舟が出せない日を除き、毎朝、地元の漁師たちが地曳き漁をしていた。たとえば、湘南海岸の中央にあたる平塚や大磯では、それぞれ東から西へ須賀ノ浜、袖ヶ浜、虹ヶ浜、花水川河口をはさんで北浜、こゆるぎの浜と地曳きが行なわれていて、各漁場は当時の相模湾沿いに展開していた漁業組合によって規定・管理されていたのだろう。
 地曳き漁で獲れた魚たちは、その日のうちに近所の魚屋の店先で売られるか、干物の場合は翌日から数日後になって店頭に並んだ。(魚屋が自ら干物づくりをしていた時代だ) もちろん、魚屋では地曳き漁で獲れた魚ばかりでなく、漁港にもどった漁船から揚がった新鮮な魚たちも扱っており、その種類はたいへん豊富だった。神奈川県の中央だと、三浦半島の三崎港で揚がった黒潮や親潮にのってやってくる魚たち、あるいは小田原から伊豆半島の各港で獲れた魚たちの双方が、新鮮なうちに競り落とされては魚屋に並んだ。いま考えてみれば、魚に関しては非常に贅沢な環境だったと思いあたる。
 わたしが地曳きを手伝いはじめたのは、幼稚園へ入園前後のころだろうか。午前5時半から6時ごろ、わたしの家へ遊びにきていた祖父Click!に連れられ海岸に出かけると、ちょうど網を曳きはじめるころだった。当時は、巻き上げモーターの耳障りな音の記憶がまだないので、漁師たちは腰紐と素手で曳いていたように思う。1時間ぐらい曳くのを手伝うと、沖に出て網を張った舟がだんだん浜に近づいてきて、当時は木製の小さな樽などでできた網の“浮き”が海岸に揚がりはじめる。すると、朝暗いうちからはじまった地曳き漁も終盤だ。やがて網が開かれ、かかった魚は樽や木箱に分類される。
 漁師たちは手伝った礼にと、生きたままのマサバなら1尾、ムロアジやマアジなら数尾ほどを分けてくれる。祖父はそれを喜々として持ち帰り、台所でさばいて刺身にすると、朝から葡萄酒(ワインという言葉は一般的ではなかった)を飲みながら味わっていた。1960年代の当時、相模湾の地曳き漁で獲れる魚には、マアジ、ムロアジ、メアジ、コアジ、アオアジ、マサバ、ゴマサバ、イサキ、イナダ、ブリ、マダイ、カマス、タチウオ、サワラ、ホウボウ、マイワシ、キンメ(台風の接近時か通過した直後)などがいただろう。あとは、雑魚(ざこ)の稚魚としてのシラスも大量に網へかかった。他の魚はともかく、雑魚のシラスはほとんど値打ちがなく、二束三文で売られていた。
 ちょっと余談だが、近ごろ雑魚(ざこ)のことを「じゃこ」と発音する方がいるが、西のほうの出身者だろうか? 江戸東京を舞台にした映画などで、「雑魚はすっこんでろ」を「じゃこはすっこんでろ」じゃ、セリフ的にも地域的にも変でおかしいでしょ?
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 魚屋の店先で、ざるに大盛り10~20円で売られるシラスは、たいがい生のままではなく潮水で茹でられたものが多かった。いまにして思えば、漁師たちは生シラスを市場に持ちこんでも、ほとんど値がつかなかったので、潮水で茹でてひと手間加え、“付加価値”をつけてから市場へ卸していたのだろう。まるで駄菓子同然の値段で売られるシラスは、もちろん家計にはやさしいのでわたしは毎朝、大根おろしとともに食べさせられるハメになった。いい加減ウンザリしたけれど、母親から「カルシウムがたくさんあって、虫歯にならないのよ」といわれ毎日食べつづけたが、この歳になるまで虫歯になったことがないのは、確かに相模湾のシラスのおかげかもしれない。
 ただ、シラスを食べるときのひそかな楽しみもあった。シラスと呼ばれる小魚は、たいがいカタクチイワシやマイワシ、ウルメイワシ、コウナゴ(イカナゴ)などの稚魚なのだが、たまにタコやイカ、カニ、エビの“赤ちゃん”が混じっていることがあり、それを見つけるとなんだか得をしたような気分になった。当時は、現在ほど品質管理が厳密ではないので、シラスをひと山買うと思いがけない魚介類の稚魚が混じっていたりして、それを探すのが面白かったのだ。特にタコは、茹でられると赤くなるので見つけやすかった。でも、そんなことをしていると学校に遅れるので、いつも「なにしてるの、早く食べなさい!」と叱られていた記憶がある。
 小学生になったころ、ユーホー道路Click!(遊歩道路=国道134号線でいわゆる湘南道路)が、大磯の国道1号線まで舗装されてクルマの往来が徐々に増え、やがて西湘バイパスが開通するころから、相模湾の地曳きは振るわなくなっていった。おそらく海岸沿いの緑地が減り、魚たちが徐々に沿岸へ近づかなくなったのだろう。いくら網を仕掛けても、かかるのはシラスばかりで大型の魚はなかなか獲れなくなってしまった。漁師の数も減って、若い人は勤めに出て年寄りばかりになり、そのぶん網の巻き上げモーターを導入して機械化されたが、魚たちは二度と浜の近くにはもどってこなかった。
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 わたしが最後に地曳きを手伝ったのは、小学校の高学年になるころだったろうか。網にかかるのはほとんどがシラスばかりで、漁師たちはみんな暗い顔をしていたのを憶えている。威勢のいい掛け声や、網が砂浜に引き揚げられるとき、その膨らみ具合から起きた「おおーーっ!」というようなどよめきも絶え、地曳きは波音と耳障りなモーター音が響く中で静かに行われていた。たまにイワシの群れが入ることもあったが、イワシとシラスを市場へ出荷しても、当時はほとんど値がつかなかったろう。以前は、手伝うとくれていた魚もなくなり、浜辺の地曳き漁は荒んだ雰囲気に変わっていた。
 湘南各地の地曳きが、いつまで行われていたのか厳密には知らないが、自分たちの食べるぶんとモーターなどの燃料費を除けばほとんど手もとには残らず、網の修繕費や舟のメンテ費なども捻出できなかったのではないだろうか。現在、観光用に行われている地曳き漁のうち、わたしが子どものころから操業をつづける地曳き漁師の家系がはたしてどれぐらい残っているのか、調べたことがないので不明だ。
 1960年代末ごろまで操業していた、相模湾の地曳き漁師たちが生きていたら、現在の「シラスブーム」には目を丸くして驚愕するだろう。まともな魚がかからず、シラスばかりがあふれるほどに入ったいくつかの樽を前にし、暗い顔でため息をついていた漁師たちは、いまなら十分に生活が成り立つと思うだろうか。それとも、地曳き漁は手間ばかりかかって効率が悪く、港から船で沖漁に出たほうがシラスも含めて実入りがいいと考えるだろうか。おそらく、わたしが子どものころに比べれば、シラスの価格は500~1,000倍ぐらいにはなっていそうだ。
 毎日、くる日もくる日も食べさせられてウンザリした相模湾のシラスだが、この歳になるとたまに懐かしくなって食べたくなることがある。東京で売っているシラスは、しょっぱくて硬くてマズイばかりだ。その日の朝に獲れたシラスは、料亭か高級料理屋へいってしまうのだろう。だから、ときどきシラスやアジ類の干物が食べたくなると、相模湾が見える街に出かけては料理屋や旅館、食堂などで欲求を満たすことになる。
七里ヶ浜.jpg
鎌倉由比ヶ浜.JPG
ムロアジ開き.jpg
 わたしは魚の中では、アジの仲間がいちばん好きだが、中でも大型で身厚な相模湾のムロアジには目がない。もちろんムロアジは刺身でも美味いが、うす塩で一夜干しにすると旨味が格段に増す魚だ。相模湾の海辺にある魚屋や市場を歩くと、必ず30cmをゆうに超えるムロアジの干物に出あうことができる。でも、子どものころの思い出が詰まった頭のままで出かけるわたしは、たいがい値札を見ると買うのをためらうことになる。同様に、雑魚のシラスをかけた丼飯が1,500円とかの価格を見ると、1960年代末の暗い顔をしてシラスの樽を見つめていた漁師たちのように、ハァ~ッと深いため息をつくのだ。

◆写真上:網にかかった獲れたてのシラスで、しょうが醤油かわさび醤油が美味い。
◆写真中上は、吾妻山から眺めた相模湾で、沖に連なるのは三浦半島と房総半島の山々。は、地曳き漁が行なわれていた平塚海岸の虹ヶ浜。は、潮水で茹でたシラス。子どものころは「茹でシラス」で、「釜揚げシラス」とは呼ばなかった。
◆写真中下は、大磯海岸のこゆるぎの浜。は、二宮海岸にある地曳き漁向けの舟だがおそらく観光地曳き用だろう。は、二宮海岸の穏やかな袖ヶ浦。
◆写真下は、鎌倉の七里ヶ浜。は、同じく鎌倉の由比ヶ浜から材木座海岸。は、いまでは目の玉が飛びでるほどの高級品になってしまったムロアジの開き。

平民の子を抱くのは死ぬより辛い屈辱。

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 目白通りの北側、高田町雑司ヶ谷上屋敷(あがりやしき)3621番地(現・西池袋2丁目)で暮らしていた宮崎白蓮Click!(柳原白蓮Click!)、あるいはその夫である宮崎龍介Click!については、これまで落合地域から遠くない場所で起きたことなので、ここの記事でも何度か取りあげて書いてきた。
 1921年(大正10)10月22日に大阪朝日新聞に掲載された、いわゆる白蓮の「絶縁状」Click!についても、ずいぶん以前にご紹介している。これに対し、夫である伊藤伝右衛門の「反論」が、1921年(大正10年)10月24日の大阪朝日新聞から4回にわたり連載されはじめている。いくらご近所であるとはいえ、白蓮側の視点のみだけ掲載しているのはフェアではないので、いちおうご紹介しておきたい。白蓮の絶縁状と伝右衛門の反論は、両人の了承を得たものか同年の「婦人世界」12月号に全文が転載されている。なお、伊藤伝右衛門の反論は、大阪朝日新聞の記者が行なったインタビューにもとづきまとめたもので、本人が執筆したものではない。
 白蓮側の資料のみを読んでいると、伊藤伝右衛門が「野卑」で「カネ」のことしか考えておらず、成金特有の下品な人物像を想定してしまうわけだが、反論の内容を読むかぎり、頭がよく人間の観察眼に優れており、教養や倫理観は希薄だったのかもしれないが、ものごとを論理的かつ理性的にとらえ深く考えることができる人物だったことがわかる。また、直接カネのことに触れているのは、長い反論の中でたった2ヶ所にすぎない。白蓮批判の中でもっとも多いのが、伊藤伝右衛門をはじめ関係者に対する彼女の「平民」蔑視の眼差しについてだ。
 「白蓮事件」を、単に「大正デモクラシーを背景に、主体的に生きることに目ざめた女性」のエピソードという一面だけで眺めていては、実態を見誤るだろう。伝右衛門の批判骨子をテーマ別に分類してみると、以下のような構成になる。
 (1)「平民」への差別観について(華族の選民意識)……4ヶ所
 (2)思いどおりにならない生活へのイラ立ち(野放図な自尊心)……2ヶ所
 (3)すぐに被害者意識へ逃げこむ卑怯さ(没主体性)……2ヶ所
 (4)気まぐれなカネづかいの荒さ(浪費癖)……2ヶ所
 伝右衛門は反論『絶縁状を読みて叛逆の妻に与ふ』の冒頭、自身を大磯Click!の別荘で暗殺された安田善次郎Click!にたとえ、「安田は刀で殺されたが、伊藤は女の筆で殺された」などといっているが、それほどのことでもないだろう。また、大金を贈って白蓮を妻にしたという風説には、「柳原家には、俺としてお前の為に鐚(びた)一文送つた事は無い」と完全否定している。
 (1)の、「平民」蔑視への批判から見てみよう。伝右衛門は、結婚式の直後からそれに気づいている。帰りのクルマの中で、式の付添人が何人かいるにもかかわらず、白蓮はシクシク泣きだした。「平民」の伝右衛門が、華族である自分よりクルマへ先に乗ったので、悔しくて泣いていたのだ。
 生活をはじめてからも、「平民」蔑視はつづいた。伝右衛門は死んだ姉の子を引きとり、同じ家の中に住まわせていたが、まだ幼児なので母親代わりにいっしょに寝てやってくれと頼むと、「平民の子を抱いて寝るといふことは死ぬより辛い屈辱」だといって、また悔し涙を流した。この幼児は、女中にはなつくが白蓮が現われるとベソをかいたらしい。ときどき起こる「ヒステリイ」に対し、伝右衛門はなだめたりすかしたりしながら諭そうとしたが、白蓮はまったく聞く耳をもたなかったようだ。
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 俺はお前のために何事でも良かれとこそ願へ、悪かれとは少しも思はなかつた筈だ。時時家庭内に起る黒雲は、お前の生れながらにもつた反撥的な世間知らずから起つたのに過ぎない。家庭といふものをまるで知らず、当然自分は貴族の娘として尊敬されるものとのみ考へて居たお前の単純さは、一平民から血の汗を絞つてやつと今日までの地位を得て、人間世間といふものを知り過ぎて居るほどの俺にとつては、叱つたりさとしたりしなければならなかつた。それを叱れば虐待だといつて泣いた。
  
 白蓮は、「伊藤」という「平民」の苗字を名のることも拒否している。第三者にも、夫のことは常に「伊藤」と呼び、自身のことは「燁子」と表現している。
 (2)の、思いどおりにならないことへの癇癪は、生活のあらゆる場面で起きていたようだ。まず、その矛先は家庭内をとり仕切る女中の“おさき”に向けられた。家事いっさいができないことを前提に、家内をマネジメントする女中頭を用意していた伝右衛門だが、白蓮はことあるごとに彼女と衝突したらしい。
  
 お姫様育ちで、主婦としては何の経験も能力もない自分のことを棚に上げてしまひ、おさきがまめに家内に立働くのを見て、お前はムラムラと例のヒステリイを起した。おさきのする事を見、おさきの顔を見れば腹が立つといつて泣いた……しかしおさきに対する嫉妬的な、狂気じみた振舞は、ますます盛んになつて止め度がなく、毎日病気といつては寝てしまひ、食事もせずに泣き通してゐた。
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 おそらく、(1)のような姿勢とともにこんなことをつづけていれば、誰からも尊敬も好かれもせず、周囲の「平民」からは呆れられ嫌われたのではないか。その裏返しとして、被害者意識のみが大きくなり、ますますカネづかいが荒くなっていったようだ。伊藤家の財産は、いくらつかっても尽きないと思っていたらしく、伝右衛門に箱島神社のある観光地の「(丸ごと)箱島を買つてくれ」とねだり、彼を呆れさせている。
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 (3)の、被害者意識のかたまりになっていく主体性のなさは、当時の華族に生まれた女性にはしかたのない面もあるのだろうが、すべてを伝右衛門のせいにしていく没主体的な主張は、のちの「白蓮事件」にみられる自身の主体的な行為・行動と、どう整合性がとれるのだろうか?……と、つい考えてしまう。
  
 お前は虚偽の生活を去つて真実に就く時が来たといふが、十年十年と一口にいふけれども、十年間の夫婦生活が虚偽のみで送られるものであるまい。永い年月には虚偽もまた真実と同様になるものだ。嫌ひなものなら一月にしても去ることができる。何の為に十年といふ永い忍従が必要であつたのだ。お前は立派さうに「罪ならぬ罪を犯すことを恐れる」といふが、さういふ罪を恐れるほどの真純な心がお前にあつたかどうか。
  
 たとえ周囲からの強い勧めで結婚されられたにせよ、白蓮は伝右衛門を一度は選択して10年間にもわたりともに生活をつづけており、次の宮崎龍介Click!も自身が選択した人生ではないのか? 「自身の選択を棚上げなどにせず、自分自身の主体性はどこにある?」という伝右衛門の問いかけは、しごく当たり前の疑問だったろう。
 生活の後半には、白蓮自身の被害者意識が当時のジェンダーフリー思想からか、女性一般の被害意識へと敷衍化されていた様子がわかる。だが、これも自身が夫に望んだことが、いつの間にか夫から押しつけられた虐待行為へとスリかわってしまったようだ。白蓮が、伝右衛門の妾になり話し相手になってくれと懇願した“おゆう”が、病気で京都へ帰ってしまったあと、今度は舟子という女性を夫の妾にと懇願して家に入れたあとの話だ。
  
 今度の舟子(燁子が夫に勧めた妾のこと)のことも、自分としてはもう止したらといふのを、おゆうも居ないし、どうか私の話相手にしてくれと頼むから、お前の好いやうにさせたのだ。お前はそれを、金力を以て女を虐げるものだといつてゐる。お前こそ同じ一人の女を犠牲として虐げ泣かせ、心にもない躓きをさせてゐるではないか。
  
 (4)の、カネづかいの荒さについては、具体的に金額をあげて批判しているのは2ヶ所だ。ひとつは、夫婦は毎月のこづかいを500円と平等に決めていたが、白蓮は宝飾類や着物は500円の中に含まれないと考えたらしく、そのつど伝右衛門にねだっている。また、歌集の出版もこづかいの範囲の外で、歌集『踏絵』には600円の特別支出をさせている。そして、伝右衛門はこう嘆く。「それから漸くお前の文名が世の中に知れて来た。夫として罵(のの)しられながら、呪はれながら、なほお前の好きな事だ、お前が楽しむ事だとさう思つて、じつゝと耐へたことは一度や二度ではない」。
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 反論を読むかぎり、伝右衛門は確かに品がなく知的な会話もできない男だったのかもしれないが、ことさら暴君でも残虐でも守銭奴でもなく、まともな生活を営みたかった、大金持ちだが本質的には平凡な「平民」のように見える。このふたり、上野精養軒Click!で出逢ってはならない、ましてや結婚などしてはならない正反対の相性だったのだろう。

◆写真上:宮崎邸のすぐ北側に位置する、上り屋敷公園の大きなムクノキ。
◆写真中上は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の上屋敷駅があったあたりの現状。は、1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」にみる宮崎邸。は、1945年(昭和20)4月2日に米軍偵察機F13Click!が撮影した空中写真にみる宮崎龍介・白蓮邸。
◆写真中下は、1921年(大正10)発行の「婦人世界」12月号で白蓮の絶縁状と伝右衛門の反論が併載されている。は、伊藤伝右衛門と柳原燁子(白蓮)の結婚写真。は、高田町雑司ヶ谷上屋敷3621番地にある宮崎邸の現状。
◆写真下は、伊藤家を出た直後の白蓮と宮崎龍介。は、ふたりのプロフィール。

家出して下落合に直行した小坂多喜子。

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 1930年(昭和5)2月、神戸にあるパルモア英学院の修業式のあと、小坂多喜子(ペンネーム:小坂たき子)Click!は家出同然に汽車で単身東京へとやってきて、そのまま下落合に直行している。当時、下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)の第二文化村Click!に建つ、日本毛織株式会社(現・ニッケ)の工場長・片岡元彌邸Click!に住んでいた、神戸時代からの知り合いである片岡鉄兵Click!を訪ねるためだ。
 だが、あいにく片岡鉄兵は講演旅行に出て不在で、当時は片岡家の書生だった大江賢次Click!と光枝夫人が応対している。何度も映画化された『絶唱』で有名な小説家・大江賢次だが、独立して上落合732番地で暮らすようになる少し前の話だ。のちに大江賢次は、上野壮夫Click!と小坂多喜子が結婚して住みはじめた上落合829番地の“なめくじ横丁”Click!へ、頻繁に顔を見せるようになる。
 片岡邸で1泊したあと、神戸時代からのつき合いだったボーイフレンドを下宿に訪ねるが迷惑顔をされ、しかたがなく神戸からあらかじめ電報で知らせておいた、上落合469番地Click!神近市子Click!を訪ねている。昼にカレーライスをご馳走になったあと、多喜子はそのまま神近市子の家に寄宿することになった。
 その当時のことを、小坂多喜子は鮮明に憶えている。1986年(昭和61)に三信図書から出版された、小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』から引用してみよう。
  
 東中野から曲りくねった道をかなり奥迄行くと、西武線の中井駅の方におりてゆく道がある。そのゆるく曲った角の石だたみの奥深くに神近家はあり、隣家は鈴木文史朗という朝日新聞の論説委員か何かをしていた人の家だったが、私の家出してきた時には喜劇俳優の古川ロッパ邸であったように思う。その隣家の庭の木立ちがすかして見える垣根に沿った奥深い家の玄関に、娘にしてはすこし年をとった律儀そうな女中さんが三ツ指をついて、「先生が電報を差上げようかといっておられたところでした」といった。
  
 ちなみに、鈴木文四郎Click!(ペンネーム:鈴木文史朗)の家は上落合470番地で、古川ロッパ邸Click!は道をはさんだ向かいの上落合670番地で別々の家だ。
 神近市子Click!と鈴木厚の夫妻には、すでに3人の子どもたちがいて安定した生活をつづけていた。「寒い時にはも足が痛むのですよ。刑務所の冬の寒さが一番身にこたえました」という彼女の言葉を、小坂多喜子は記憶している。神近市子は、小坂多喜子にいろいろな仕事を紹介しはじめた。その中に、牛込区四谷左内町31番地の長谷川時雨Click!が主宰する「女人藝術」編集部Click!や、飯田橋駅の近くにあった全国購買組合連合会中央会事務所などで校正業務のアルバイトがあった。
 それでも生活は苦しく、身につけてきた高価なものは質草となって次々に消えていった。ある日、片岡鉄兵から3円のカネを借りてもどると、神近市子はいつになく激昂して多喜子を叱った。21歳の娘が、人から借りた(半ばもらった)カネで生活しようという性根が、神近市子には我慢ならなかったのだ。
 こういうところに、神近市子の潔癖で妥協しないまっすぐ性格が垣間見えるのだが、多喜子はカネを返そうとはしなかった。本人に断りもなく、片岡鉄兵は多喜子をモデルにした『生ける人形』(1928年)を発表し、彼女はすぐに抗議の手紙を送っていたので、作品のモデル料というような感覚も含まれていたのかもしれない。
 神近市子の姿を、もう少し『わたしの神戸わたしの青春』から引用してみよう。
  
 あるとき雑誌か何かの座談会に出るため盛装して、隣家の朝日新聞論説委員鈴木文史朗邸の垣根の側に立った神近さんの美しさに私は一瞬息を飲む思いだった。お召の着物に黒っぽい蔦の葉模様か何かのこはまちりめんの羽織姿で、薄くおしろいをはたいたほりの深い顔はつりあがった眼が奥深く輝いていて、私はそのときどういうわけかドイツの女性を連想して重ね合わせていた。私がそのときアメリカでもフランスでもなくドイツの女性を連想したのは、その無駄のないひきしまった知的な美しさからそう感じたのだった。
  
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 わたしが小坂多喜子に興味をもったのは、1934年(昭和9)6月に四谷区新宿2丁目71番地の喫茶店「白十字堂」で開かれた山田清三郎Click!の「出版・入獄記念会」の記念写真Click!で、亀井勝一郎の前に立つ彼女の姿を見てからだ。昭和初期に入獄中の人物は除き、プロレタリア芸術運動をになった在京の人々が勢ぞろいしている写真だが、その中でひときわ派手なコスチュームを着て写る彼女が、場ちがいのように浮いて見えた。彼女を追いかければ、落合地域をめぐる興味深い物語がたくさん見つかりそうだと直感した、わたしの勘はまちがっていなかったようだ。
 その後、神近市子の紹介から山田清三郎と富本一枝Click!に会い、東京へやってきてから約1ヶ月後に戦旗社出版部への就職が決まった。1928年(昭和3)現在、上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!は新宿駅西口の淀橋浄水場Click!近くへ移転しており、同様に中井駅からすぐのところにあった上落合689番地の戦旗社出版部Click!は、有楽町駅近くの五番館2階へと移転していた。
 ちょうどこのころ、戦旗社は全日本無産者芸術連盟(ナップ)からの独立問題をめぐってゴタゴタがつづいていた時期と重なる。特に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)内での対立がつづき、独立反対派には山田清三郎や鹿地亘Click!川口浩Click!らが、独立賛成派には江口渙や貴司山治、西沢隆二たちがいた。同誌の主要な執筆者だった小林多喜二Click!中野重治Click!壺井繁治Click!たちはみな獄中にあり、蔵原惟人Click!は海外にいて戦旗社の内紛には関われなかった。
 小坂多喜子が戦旗社につとめはじめたころの様子を、2007年(平成19)に図書新聞から出版された多喜子の次女である堀江朋子『夢前川』から引用してみよう。
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 目の高さに電車の走るのが見える線路よりの部屋が編集部、その反対側の部屋が出版部だった。猪野省三が出版部長、部員は多喜子一人。向かい合わせの机で、校正やわりつけの仕事をした。月給三十円。/その頃、戦旗社主事山田清三郎、経理部長壺井繁治、組織部長宮本喜久雄、編集長林房雄、のちに中野重治、そして上野壮夫。古澤元や田邊耕一郎なども姿を見せた。/小林多喜二「蟹工船」と徳永直「太陽のない街」の新聞広告原稿を猪野が作成し、そのゲラが刷り上がった。猪野が、その身体つきのように丸っこい字で書いた原稿がゲラ刷りになった感激で多喜子は高揚していた。朝日新聞横ぶち抜きの広告ゲラだった。猪野と二人で、ゲラを見ていると、うしろから上野壮夫がのぞき込んだ。編集部に時々顔を見せる男だ。
  
 小坂多喜子が、神戸の家を出たのが1930年(昭和5)2月、神近家から独立して近くに小部屋を借り戦旗社Click!に就職したのが1ヶ月後の3月下旬、そこで上野壮夫と出逢い結婚したのが2ヶ月後の5月、ほぼ同時に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)加入……と、彼女にとっては目のまわるような激動の1年間だった。
 神戸時代から、多喜子は東京で発行されていた文芸誌「若草」などへ作品を送っていたが、本格的な小説は1932年(昭和7)にプロレタリア文学に執筆した『日華製粉神戸工場』だ。最初期の同作について、1968年(昭和43)に理論社から出版された山田清三郎『プロレタリア文学史/下巻』から引用してみよう。
  
 小坂たき子「日華製粉神戸工場」(同上)、作者は神近市子をたよって東京に出、上野壮夫と結婚した。この作は、満州事変で中国市場を一時的に失った日華製粉が、支店合併と従業員の整理で不況をきりぬけようとするのを、会社側に協力する組合幹部をけって総連合の革命的反対派の指導で、出征兵士の丘陵の全額支給、馘首者の即時復職、時間延長の割増金要求の闘争が、ストライキに発展するまでのことをあつかっていねが、こうした題材にさけがたい概念的なつくりものからすくわれ、ダラ幹の阪本、酒飲みで正義派の中年職工の秋原、阪本と「鞄」の組合書記の河上、反対派の若い闘士で大胆で人なつこい松本などの個性が、かなり浮彫りに描かれていた。
  
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 小坂多喜子は、戦前戦後を通じて小説家でありエッセイストだが、当初は「小坂たき子」のペンネームで執筆していた。それは、プロレタリア文学の雄である小林多喜二Click!と名前が3文字までかぶり、本人からもそれを指摘されて気おくれがしたからのようだ。その小林多喜二とは戦旗社出版部で初めて出会い、築地署で虐殺された際は夫の上野壮夫とともに通夜の席へ駆けつけることになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:小坂多喜子が何度も歩いたカーブの道で、右手にある上落合公園の向こう側が古川ロッパ邸跡で、道をはさんだ向かい側が鈴木文四郎(文史朗)邸跡。
◆写真中上は、小坂多喜子が修業式から東京へ飛びだした神戸市中央区のパルモア英学院。は、下落合1712番地の第二文化村にあった片岡鉄兵邸跡で右手の白い柵あたり。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる片岡鉄兵邸。
◆写真中下は、上落合469番地の神近市子邸跡。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる神近市子邸。鈴木文四郎邸は五味邸をはさんだ2軒隣りであり、小坂多喜子の文章は記憶ちがいだろうか。は、1928年(昭和3)に上落合460番地で結成された全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部跡。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる神近市子邸とその周辺で、赤い矢印は冒頭に掲載した現状写真の撮影ポイント。下左は、1934年(昭和9)6月に四谷区新宿の喫茶店「白十字堂」で開かれた山田清三郎の「出版・入獄記念会」記念写真に写る小坂多喜子。下右は、1934~35年(昭和9~10)ごろに撮影された小坂多喜子。
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