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雑司ヶ谷地域の関東大震災。

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目白駅付近より東京市街地19230901.jpg
1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!については、わが家の伝承も含め、これまで市街地の被害に関する数多くの記事を書いてきた。また、地元の落合地域はもちろん、隣接する高田町(現・目白)や戸塚町(現・高田馬場/早稲田)、野方町(現・上高田/江古田)などの資料からも、震災直後の街の様子を取りあげてきた。ついこないだも、新宿地域の淀橋台の揺れClick!について記事にしたばかりだが、今回は高田町の北東側に位置する、雑司ヶ谷の震災当時の様子を書いてみたい。
 雑司ヶ谷における関東大震災時のエピソードは、少し前に地震による延焼で全滅した洲崎遊郭から脱出し、楼主たち追手から逃れるために、鬼子母神参道前の雑司ヶ谷の交番へと駆けこんだ娼妓たちのエピソードClick!をご紹介している。その記事で、事件の経緯を記録していた資料として、同年10月1日に出版された『大正大震災大火災』Click!(大日本雄弁会講談社)から引用しているが、地元の高田町の資料では関東大震災に関する記述がほとんどないことにも触れている。
 たとえば、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)では、関東大震災の記述はわずか5行弱にすぎない。同書より引用してみよう。
  
 突如、九月一日、関東地方に大震火災の事変あり、幸に此の町は其の災禍を免かれたが、東京市中は殆んど全滅の姿となり、避難し来るもの夥しく、町は全力を傾倒して、之が救済に努めた。爾来、この町に移住者激増し、従つて家屋の建築も増加して、田畑耕地は住宅と化し、寸隙の空地も余す所なく、新市街地を現出するに至つた。
  
 実際には、学習院の特別教室から出荷した火災で同校舎が全焼したり、住宅にも少なからず被害が出て負傷者もいたはずなのだが、それほど深刻な被害がなかったせいか東京市街地の街々とは異なり、非常にあっさりとした記述になっている。
 これは、豊島区全体の歴史を概観した区史でも同様で、たとえば1951年(昭和26)に出版された『豊島区史』(豊島区役所)にいたっては、わずか2行と少しの記述で終わっている。同書の、「各町の町制時代」の項目から引用してみよう。
  
 大正十二年九月一日、関東地方に大震火災起り、幸にこの地方は災禍を免れたが、東京市中は殆んど全滅の状態となつた。罹災者は陸続とこの町に避難して来たので、町は全力をあげて救済につとめた
  
 豊島区のレベルで見るなら、立教大学のレンガ造りの本館が崩落したり、そこそこの被害は出ているはずなのだが、犠牲者がほとんど出なかったことが、おしなべて関東大震災の印象を希薄にしているのだろう。
 地震による被害よりは、市街地から押し寄せる膨大な被災者たちの救援や、罹災者の避難場所としての記憶のほうが強く残ったのだと思われる。大震災の当時は、住宅が近接して建てられておらず、火災が拡がる怖れはきわめて低かっただろうし、住宅の周囲には田畑や空き地があちこちに残っていたせいで、避難場所にも困らなかった。
高田四ツ谷町通り1918.jpg
高田村役場(高田若葉7)1918.jpg
雑司ヶ谷1923.jpg
 また、東京市街地と武蔵野の台地エリアでは、地震による揺れの大きさが異なっていた可能性が高い。2011年(平成23)の東日本大震災でも、東京の低地や埋め立て地を中心とする市街地一帯では震度5強を記録したのに対し、新宿区の上落合に設置されている地震計は震度5弱にとどまっている。関東大震災でも同様だったとは、具体的なデータが残されていないので断言できないが、目白崖線沿いの地盤は市街地よりも震動がひとまわり小さかった可能性がある。
 しかし、それまで経験のない関東大震災の大きな揺れは、雑司ヶ谷の住民たちを驚愕させるには十分だった。1977年(昭和52)に新小説社から出版された、中村省三『雑司ヶ谷界隈』から引用してみよう。著者は子どものころ雑司ヶ谷電停のすぐ西側、雑司ヶ谷水原621番地界隈(現・南池袋2丁目)に住んでいた。
  
 私の家は今でも残っているその土蔵の西側で、大震災の時にはこの土蔵の瓦が数枚、私の家のせまい庭先に落下してきたものだ。(中略) 大正十二年九月一日、いわゆる関東大震災は、私の小学校一年生の時、その雑司ヶ谷の家で遭遇した。始業式を終えて家へ帰ると、父が昼食の仕度をしていた。母は夏休みで郷里へ戻った姉と妹とを迎えるために帰省して不在であった。 / 父に言われるまま茶卓の上に茶碗や箸などを並べていたが、いきなり大きくゆれ出したと思うともう坐ってもいられなかった。襖が大きく弓なりに曲り、はじかれたようにとんできた。気が付くとその時はもう父は私のかたわらに居て、私をおさえつけるようにして茶卓の下にもぐり込ませていた。後での父の話だと、大ゆれがくる前にゴーッという物凄い地鳴りのような音がしたということだが、子供の私にはおぼえがない。
  
 このあと父親は、著者を家の北側にあった空き地へ避難させたあと、隣家で腰を抜かして動けずにいた「小母さん」を助けだして、空き地へと連れてきている。
立教大学本館中央塔崩落192309.jpg
学習院特別教室焼失192309.jpg
 父親は、昼食がまだなのを思いだし、家の中へ何度か駈けこんでは飯櫃や茶碗などの食事道具を持ちだすと、「小母さん」も含めた3人で茶漬けClick!を食べはじめた。その後、周辺の住民たちが全員無事なのを確認すると、家の中にいては余震が危ないということで、住民たちは柿の木のある広場状の空き地へ集まった。
 しばらくすると南の空、つまり早稲田方面に黒煙が上がりはじめたのを見て、著者の父親は様子を見に出かけている。この黒煙は、おそらく学習院のキャンパス内で起きた、特別教室が全焼した火災の煙だろう。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 ところが夕方近くなっても父が戻って来ないので私は心細かったが、とにかく泣きもしなかったことだけはおぼえている。夜はその柿の木を中心に隣り組の者達が畳をしき蚊帳を吊って雑魚寝をした。流言が出始めたのはその頃からで、男の大人達は竹槍などを用意し交代に見張りについた。私の父も隣りのお兄さんもいつの間にか戻っていて、仲間に加わっていたのを蚊帳の中から眺めた記憶はある。/一方私の母は郷里で、東京方面全滅のニュースで居ても立ってもいられなかったそうである。(中略) 母と叔父は惨たんたる下町方面の被害状況を目のあたりにして、雑司ヶ谷までたどりついてみると、余り変っていない町の姿にかえってびっくりしたそうである。事実雑司ヶ谷の私の家の附近で、倒れたり傾いたりした家は殆ど皆無で、私の家の被害も障子や襖の破損と、棚の上などから落ちてこわれた器具などで大したことではなかったらしい
  
 しかし、1923年(大正12)当時の1/10,000地形図を参照すれば明らかだが、雑司ヶ谷はあちこちに森が点在する緑豊かな地域で、家々も密集して建てられてはおらず、随所に空き地が拡がるような風情だった。したがって、同じ関東大震災クラスの揺れが再び雑司ヶ谷地域を襲ったら、現在の稠密な住宅街では被害がどれほど拡がるのかは不明だ。
雑司ヶ谷の森.JPG
関東大震災崩落土蔵1975頃.jpg
初見六蔵邸跡(古木田487).JPG
 東日本大震災がそうだったように、(城)下町Click!に比べて揺れがやや小さめなのはまちがいかもしれないが、どこかで大きな火災が発生すれば、おそらくひとたまりもないだろう。関東大震災では、犠牲者のおよそ95%以上が大火災による焼死者だった。

◆写真上:関東大震災の直後、目白駅付近から眺めた東京市街地の大火災による煙。
◆写真中上は、1918年(大正7)に撮影された四ッ谷(四ッ家)付近の目白通り。右手に見えている白亜の洋館は、できたばかりの高田農商銀行Click!は、同年に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道近く(高田若葉7番地)にあった高田村役場。は、震災と同年に作成された1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷地域とその周辺。
◆写真中下は、1923年(大正12)9月の関東大震災で崩落した立教大学本館の中央塔。は、同震災で火が出て全焼した学習院の特別教室跡。
◆写真下は、いまも大正当時の面影が残る雑司ヶ谷の森の大樹。は、1975年(昭和50)ごろに撮影された中村省三の旧居跡。奥に見えるのが大震災で屋根瓦が落下した土蔵で、背後の高層ビルは建設中のサンシャイン60。は、本記事とは直接関係ないが鬼子母神の参道沿い雑司ヶ谷古木田487番地にあった辺見六蔵邸跡。辺見六蔵は、長崎アトリエ村のひとつ「桜ヶ丘パルテノン」Click!を企画して建設している。

山田清三郎の「出版・入獄記念会」。

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出版入獄記念会1934.jpg
 かつて上落合に住んでいた、数多くのプロレタリア作家や美術家について調べているとき、1968年(昭和43)に理論社から出版された山田清三郎Click!の『プロレタリア文学史/上・下』も、資料のひとつとして参照していた。おそらく、戦後まもなく出版された同書は、当時、もっとも詳細なプロレタリア文学史料だったろう。
 山田清三郎が住んでいたのは、上落合(2丁目)791番地(現・上落合3丁目14番地)で最勝寺Click!境内のすぐ西側だ。ごく近くには、一時期だが上落合(2丁目)740番地には宮本百合子Click!が住んでいたし、上落合(2丁目)549番地に住む壺井繁治Click!を「村長」に結成された、上落合(2丁目)783番地の「サンチョクラブ」Click!(漫画家・加藤悦郎邸)があり、その周囲には数多くのプロレタリア作家や美術家たちが住んでいた。その山田清三郎が検挙され、1934年(昭和9)6月に撮影された「出版・入獄記念集会」と題する記念写真が残っている。(冒頭写真)
 「入獄記念会」とか「出獄記念祝賀会」というパーティは、別にプロレタリア作家たちの専売特許ではなく、滑稽新聞の宮武外骨Click!が1904年(明治37)にはじめたものだ。当時、官吏侮辱罪で実刑判決を受けた彼は、大阪監獄へ収監される直前に祝賀会を開いている。権力を批判して入獄4回、罰金15回、発禁14回のレコードをもつ宮武外骨Click!は、検挙されて入出獄を繰り返すうちに「祝賀会」を催すようになった。また、毎号「記者入獄記念碑」を紙面に「建立」し、当時の官憲や政府への抵抗をやめなかった。くしくも、山田清三郎を中心に「出版・入獄記念集会」が開かれたのと同年、1934年(昭和9)には45年前の入獄3年の冤罪が明らかになった宮武骸骨の「筆禍雪冤祝賀会」が開催され、大審院(現・最高裁)の判事(尾佐竹猛)までが出席している。
 さて、山田清三郎の「出版・入獄記念集会」写真にもどろう。この記念写真には上落合を中心として、その周辺地域に住んでいた多くの人々がとらえられている。まず、上段左側には下落合の南側、戸塚4丁目593番地(現・高田馬場3丁目)に住んでいた窪川稲子(佐多稲子Click!)と窪川鶴次郎Click!がお互い少し離れて写っている。そのまま右横へ目を移すと、上落合689番地(のち上落合460番地へ移転)にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)の付近に住んでいたとみられる、『文化村を襲った子供』を書いた小説家の槇本楠郎Click!がいる。同作は、1928年(昭和3)の「戦旗」12月号に掲載されているので、槇本はそのころ上落合にいたものだろう。
 槇本楠郎の右隣りには、上落合460番地に住んだ劇作家で脚本家の久板栄二郎がいる。1934年(昭和9)という年は、久板が池田生二とともに『演劇運動の新らしき発展のために』を日本プロレタリア演劇同盟出版部から刊行したばかりのころだ。なお、上落合460番地は村山知義・籌子アトリエClick!のあった上落合186番地の北側、約130mほどのところにあった家屋で、全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部が置かれていた場所だ。
 次に、久板栄二郎のひとりおいて右隣りには、上落合602番地から葛ヶ谷303番地(のち西落合1丁目303番地)へと転居している、洋画家でグラフィックデザイナーの柳瀬正夢Click!が写っている。写真が撮られた1934年(昭和9)6月は、鬼頭鍋三郎Click!の隣りにある旧・松下春雄アトリエClick!で仕事をはじめていたはずだ。松下春雄の淑子夫人Click!は、すでに彩子様Click!たちを連れて池袋の実家にもどっていただろう。
プロレタリア文学史上.jpg プロレタリア文学史下.jpg
山田清三郎1.jpg 山田清三郎2.jpg
写真左側.jpg
 写真の中段左には、上落合688番地に住んでいた小説家で劇作家の藤森成吉Click!が見える。藤森は前年の1933年(昭和8)、治安維持法違反で特高Click!に検挙されて「転向」したはずだが、山田栄三郎の記念集会に参加しているのでその心中は異なっていたのだろう。戸坂潤をはさんで右隣りには、上落合829番地の「なめくじ横丁」Click!から上落合599番地へと転居した、詩人で小説家の上野壮夫Click!がいる。全日本無産者芸術連盟(ナップ)から引きつづき日本プロレタリア文化連盟(コップ)へと参加していたが弾圧が激しく、この記念写真が撮られるころには解散を余儀なくされていた。
 また中列の中ほど、当時は同人雑誌「現実」を刊行していたころの文芸評論家・亀井勝一郎の前には、上野壮夫と同じく上落合829番地の「なめくじ横丁」から上落合599番地へと転居した、上野の妻であり小説家でエッセイストだった、ちょっと派手めなコスチュームの小坂多喜子がいる。また、彼女の右上隣りには、第三文化村Click!にあたる下落合1470番地の「目白会館」Click!から、上落合460番地へと転居した武田麟太郎Click!が写っている。前年に、小林秀雄Click!らと刊行した「文学界」で執筆しており、いまだ「人民文庫」(1936年)は創刊していない。
 武田麟太郎の右隣りには、上落合829番地の「なめくじ横丁」で暮らしていた小説家の立野信之Click!がいる。小林多喜二Click!とともに書いた、『新芸術論システム・プロレタリア文学論』(天人社/1931年)などで特高に検挙されたが「転向」して出獄し、記念写真と同年には転向文学とされた『友情』を執筆している。また、立野信之のひとりおいて右隣りには、上落合630番地の詩人・野川隆Click!が写っている。記念写真の翌年(1935年)、壺井繁治らが結成した「サンチョクラブ」へ参加することになる。
 中段の右側には、落合地域の北隣りにあたる長崎町を転々としていた詩人で小説家、また画家でもある小熊秀雄Click!の姿がある。小熊も「サンチョクラブ」に参加して、頻繁に上落合(2丁目)783番地の事務局を訪れていた。1930年代に入ると、小熊秀雄のスケッチに落合地域や、その往来に描いたとみられる作品Click!がみられるが、おそらく「サンチョクラブ」への行き帰りで目にとまった風景を素描にしたものだろう。
写真右側.jpg
サンチョクラブ1935.jpg
サンチョクラブ跡.JPG
太陽のない街千川跡.JPG
 下段左の生田花世Click!の前には、落合地域の北東隣りにあたる高田町の、雑司ヶ谷鬼子母神門前の雑司ヶ谷24番地に住んでいた、詩人で劇作家、小説家、童話作家の秋田雨雀Click!の姿がある。この記念写真が撮られた1934年(昭和9)には、新協劇団を結成して事務長となり雑誌「テアトロ」を創刊したころだ。1929年(昭和4)には、三木清Click!や羽仁五郎などとともにプロレタリア科学研究所(プロ科)を創設して所長を引き受けており、1940年(昭和15)ついに特高に検挙されることになる。
 秋田雨雀の右並びにいる老夫婦は、上落合502番地に住んでいた教育家で政治家だった蔵原惟郭と、北里柴三郎Click!の妹であるシウ夫人だ。息子で次男の蔵原惟人Click!は、1932年(昭和7)に治安維持法違反で特高に検挙され、この記念写真のときは懲役7年の実刑判決を受けて獄中にあった。出獄するのは、記念写真から5年後の1939年(昭和14)になってからのことだ。そして、蔵原夫妻の右並びが「出版・入獄記念集会」の主役である、上落合791番地の山田清三郎と山田きよ夫人だ。
 山田きよの右隣りには、上落合215番地に住んでいた小説家で文芸評論家の林房雄Click!がいる。林は、上落合186番地の村山知義・籌子邸Click!と上落合460番地の久板栄二郎邸(ナップ本部)の、ちょうど真ん中あたりに住んでいた。また、林房雄が鎌倉・坂ノ下の舟大工「米さん」に無理やり頼みこみ、由比ヶ浜でフロートClick!波乗りをしていたエピソードは、つい先ごろご紹介している。林房雄の右隣りには、やはり上落合460番地のナップ本部に住んでいた小説家の江口渙が写っている。前年(1933年)に虐殺された小林多喜二の葬儀委員長をつとめたが、それを理由に特高に逮捕されていた。
 江口渙の右隣りには、当時は上落合549番地に住んでいた壺井繁治Click!が座っているが、妻の壺井栄Click!の姿が見えない。また、壺井の右並びには共同印刷争議に取材した『太陽のない街』で知られる、小説家の徳永直が写っている。記念写真の撮られたころは、転向小説とされる『冬枯れ』を執筆中だろうか。
白十字1933頃.jpg
新宿盛り場地図1933-1935.jpg
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 この記念写真が撮られたのは、四谷区新宿2丁目71番地にあった喫茶店「白十字堂」だが、所在地に「新宿」とあるものの四谷新宿(よつやしんしゅく)のことで、四谷区新宿2丁目=現・新宿区新宿(しんじゅく)3丁目に相当する地番だ。新宿伊勢丹Click!から新宿通りを、四谷方面に150mほど歩いたところに「白十字堂」は開店していた。
 さて、この記事にはいまだここで取りあげていない、落合地域とその周辺域に住んでいた人々がおおぜい登場している。この文学関係者たちの物語を書いていくとすれば、あといったい何年ぐらいかかるのだろうか?

◆写真上:1934年(昭和9)6月に四谷区新宿の喫茶店「白十字堂」で開かれた、山田清三郎の「出版・入獄記念会」で下段中央が山田清三郎・きよ夫妻。
◆写真中上は、1968年(昭和43)出版の山田清三郎『プロレタリア文学史/上・下』(理論社)。は、戦後に撮られた山田清三郎。は、記念写真の左側に写る人々。
◆写真中下は、写真右側に写る人々。赤の人名は、いずれも落合地域在住者または在住経験者だが、その他の人々も落合地域に隣接するエリアの居住者が多い。は、1935年(昭和10)結成の「サンチョクラブ」。前列左から3人目が中野重治Click!、4人目が壺井繁治で右端に小熊秀雄。小熊秀雄の左隣りは、神戸にある光子夫人の実家から上落合1丁目510番地に“単身赴任”で住んでいた岩松淳(八島太郎)Click!だろうか? は、上落合2丁目783番地の「サンチョクラブ」跡()と徳永直『太陽のない街』の舞台となった小石川の千川沿いの住宅街()。
◆写真下は、1933年(昭和8)にほていやデパートの屋上から撮影された四谷方面。右手に見えている緑地は新宿御苑で、喫茶店「白十字堂」は黄色の矢印あたり。は、1933~35年(昭和8~10)の「火保図」をもとに作成された「新宿盛り場地図」(新宿歴史博物館)にみる「白十字堂」。は、「白十字堂」があった四谷区新宿2丁目71番地界隈で現在の画材店「世界堂」の斜向かいあたり。

下町と山手の用法がゴチャゴチャする件。

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歌舞伎座場内.JPG
 「下町」という言葉が、城下町をちぢめた用語であることは、ずいぶん前に江戸期からつづく江戸東京語のひとつであることを、三田村鳶魚(えんぎょ)Click!の証言としてご紹介したことがある。江戸東京地方では、まだるっこしい言葉はどんどんちぢめて発音されるので、別の地方の人が誤解することも多い。
 たとえば水道(すいどう)は「すいど」Click!と読まれ、それでも長いので「いど」と略されて呼ばれていたため、江戸の街中に乃手にあるような井桁が組まれた、地下水の井戸が登場するおかしな時代劇も少なくない。江戸市街地で井戸を掘っても、塩分を含む水が湧いて飲用に適さなかったから、ほぼ100%の水道網Click!の普及が幕府の大きな課題となったのだ。江戸期から白木屋の井戸や佃島の井戸が有名だったのは、めずらしく真水が湧いてしょっぱくはなかったからだ。
 ちょっと余談だけれど、先日、佃島の丸久Click!の主人と長話をしてたら、このところ佃島の井戸に塩分が混じりはじめてしょっぱくなり、生活水には適さなくなってしまったというのを知った。石川島の高層マンションや、月島に増えはじめたビルの杭打ちで、地下水脈の形状が変わるか、地層の破壊で海水が入りこんでしまったのではないかと思う。(城)下町にはめずらしい400年来の井戸だけに、たいへん残念なことだ。
 ちぢめ言葉の話をつづけよう。清元や常磐津、長唄などの三味Click!、あるいは茶道や華道、能、詩吟、踊りなどのお師匠さんも、「おししょうさん」などとは呼ばれずに「おっしょさん」あるいは「おしょさん」となり、師弟関係が親しくなるとついには「おしさん」と略されて呼ばれるようになる。「おしさん」を、江戸東京へ布教や商売(病気平癒の祈祷や巫術)にやってきた三峯講や大山講、富士講などの修験者や霊山ガイドの「御師」Click!と勘ちがいした時代劇もどこかにありそうだ。真剣で「真面目なこと」が、江戸芝居の世界で「マジ」Click!と略されたことはすでに書いた。
 「(城)下町」と「(山)乃手」が、あたかも海外の街のように、平地と丘陵地帯を表すダウンタウン(平地)やアップタウン(丘陵地)とほぼ同義でつかわれるようになったのは、おもに明治期以降のことだろうか。「(城)下町」は本来、「(山)乃手」を含む旧・大江戸(おえど)市街地(旧・東京15区Click!)の概念であり、「下町」は「山手」の対語ではない。それが、いつの間にか海外の街並みを表現する用法にならい、平地が「下町」で丘陵地が「山手」としてつかわれるようになっている。
 だが、少し考えればわかることだが、いわゆる山手にある江戸期からの町々のことを、そこに住む地付きの人たちは誰も乃手だとは思ってはいない。神田(旧・神田区エリア)の半分は丘陵地帯だが、岡本綺堂Click!が「銭形平次」の舞台に選び、神田明神Click!のある一帯を江戸期からの地付きの方は、誰も山手だと思ってやしないだろう。同様に、江戸期や明治期から江戸東京(というか日本)を代表する商業地として発達した、日本橋や京橋・尾張町(銀座)のことを誰も山手とは呼ばないのと同様だ。地形がどうであるにせよ、それとは無関係に神田も日本橋も京橋・銀座も(城)下町だ。
 うちの義父は麻布出身(ちなみに江戸期からの龍土町でも六本木町でもない)だが、チャキチャキの町っ子だった。わたしの家によく遊びにきては、家庭麻雀を楽しんで1週間ほど泊っていったが、典型的な下町の雰囲気を漂わせていた。逆に、根っからの下町である日本橋育ちの親父のほうが、謡(うたい)Click!をやるなど乃手人のような趣味をしていたので、このふたりの性格は合わなかった。東京弁も、義父のほうは江戸の少し品のない職人言葉の流れをくんだざっくばらんな町言葉(いわゆる「べらんめえ」)だったが、親父は江戸期からの商人言葉をルーツとするていねいな(相対的にきれいな)東京弁下町言葉を話すので、どっちが「下町」っぽいのかわからないふたりだった。
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 私立の麻布中学校に通うようになって、初めて(城)下町人と接したときの驚きを書いたエッセイがある。今年(2019年)の7月14日に日本経済新聞に掲載された、古典芸能評論家の矢野誠一『東京やあいッ』だ。少し引用してみよう。
  
 麻布中学に入って、私は初めて東京は東京でも、下町育ちの友達を知ることになる。彼ら下町育ちは、幼い頃から親の手に引かれ、芝居小屋や寄席の木戸をくぐり、相撲や洲崎球場の当時は職業野球と称していたプロ野球観戦などを体験していた。ごくたまに、文部省推薦の健全きわまる映画を観せてくれた、山の手の素堅気のサラリーマン家庭に育った身には信じかねることだった。/彼らはふだんの会話でも、下町特有の生活環境をうかがわせてくれた。中学生の分際で、/そりゃきこえませぬだの、絶えて久しき対面ですなとか、/遅なわりしは手前が不調法/などと芝居や浄瑠璃の文句が、ぽんぽんとび出すのだ。そんな下町育ちの手引きで、放課後の肩鞄を提げたまんまの格好で、盛り場をうろつき、映画館や日本劇場、国際劇場のレビューをのぞくことを覚えた。
  
 矢野誠一は、「山の手の素堅気」などとユーモラスな表現をしているが、「すっかたぎ」は東京弁の下町言葉であって山手言葉には存在しない。
 著者の故郷は代々木八幡(旧・代々幡町代々木)だが、位置的にいえば落合地域と同様に山手線に接した内外地域は、大正期以降に住宅地が拓かれた新山手(新乃手)ということになる。中学生の当時、麻布という地域を「下町」ととらえていたのか「山手」ととらえていたのか、それとも(城)下町=旧・市街地という意味で下町ととらえていたのかは曖昧だが、少なくとも義父にいわせれば山だらけの麻布地域は、江戸からつづくれっきとした由緒正しい下町の認識だったろう。
 いつか、不用意に「日本橋や銀座は下町じゃないですよ~」などといったら、誇り高い下町人の岸田劉生Click!「バッカ野郎!」Click!とぶん殴られると書いたが、義父もまったく同じ感覚をしていたにちがいない。第一師団へ入営前の学生時代にはボクシングが趣味だったと聞いたので、義父の前で「麻布は下町じゃないですよ~」などといったら、マジにカウンターパンチが飛んできたかもしれない。
 つまり、海外の都市で見られるダウンタウンとアップタウンの関係と、東京の(城)下町と山手との関係は、少なくとも親の世代まではそこに暮らす住民の意識からして、まったく異なっている地域も少なくなかったのだ。そこには、「農工商」に寄生して生きる「士」に対する、「人が悪いよ糀町(麹町)」(町人からの借金を踏み倒す大旗本が住んでいた地域)に象徴される、江戸期からの階級的な反発の残滓もあったろうし、明治以降しばらくすると旧・幕臣たちClick!が続々と(城)下町にもどりはじめたとはいえ、丘陵地帯(用法がアップタウン化して混乱しはじめた「山手」)には地元民ではない人間が入りこみ威張り散らしているという反感が、少なくとも薩長政府(大日本帝国)が破産・滅亡する1945年(昭和20)までの77年間Click!、底流として執拗に連綿とつづいていたのかもしれない。
仮名手本忠臣蔵五段目.jpg
仮名手本忠臣蔵七段目.jpg
 さて、うちの親はわたしが子どものころ、芝居(歌舞伎・新派・新国劇など)に寄席、都内の神社仏閣や名所旧蹟はほとんど連れまわしてくれたが、相撲は母親がキライで出かけず、プロ野球は親父がまだるっこしくて好まず観戦にはいかなかった。母親は、むしろ「文部省推薦の健全きわまる映画」(要するにつまんない映画)と怪獣映画Click!は見せてくれたが、夏になると『トゥオネラの白鳥』や『悲しきワルツ』(ともにシベリウス)を聴いている、おしなべて乃手人らしい趣味Click!をしていた。
 麻布出身で下町娘だった向田邦子Click!の母親は、正月になると来客の接待に駆り出される娘を哀れでかわいそうに思い、父親には内緒で遊びに逃がしてClick!くれたことがあった。下町の娘は、正月は外出して初詣のあと、街へ遊びに繰りだすのがあたりまえだったが、「山手」の一部では「おっかない父親Click!のもとに家族全員が集合してないと許されない家が多かったようだ。この「怖い父親」という概念も、たとえば日本橋育ちの小林信彦Click!にしてみれば、とうてい信じられない存在だった。
 矢野誠一『東京やあいッ』は、いわば新山手の眼差しから見た(城)下町人(旧・山手人含む)の姿だが、どこか乃手人の永井荷風Click!から見た(城)下町地域に通じる眼差しを感じる。矢野誠一『東京やあいッ』から、もう少し引用してみよう。
  
 世にいう江戸っ子気質、いなせな生活は、東京の下町にその威を見出してきた。山の手は地方から侵入してきた部外者によって構築された、言ってみれば植民地のようなものだった。/一九六四年の東京オリンピックは、その後の東京の町をすっかり様がわりさせてしまった。私たちが子供の頃を過ごした東京とは、およそ肌合のちがった東京に生まれ変ってしまったのである。気がついてみれば、風景、風俗、言語、文化、趣味嗜好、すべての面でかなりはっきりとしてあった、下町と山の手との生活習慣のちがいが失われてしまった。世の中みんな一色化していくこの国の傾きぐあいに、我らが東京も追従しているのがつまんない。
  
 「つまらない」ではなく「つまんない」と、東京方言の下町言葉をここでもう一度つかう著者だが、1964年(昭和39)の東京オリンピックが、そしてついでに同時期に行われた愚劣な町名変更Click!が、旧・大江戸市街地に当時まで連綿とつづいていたコミュニティを、次々と打(ぶ)ちこわしClick!ていったという認識は、わたしもまったく同感だ。
 だが、わたしはそれほど悲観はしていない。東京の風景は関東大震災Click!東京大空襲Click!、そして東京オリンピック1964Click!で破壊されたが、江戸東京地方ならではの風俗Click!言語Click!文化Click!趣味嗜好Click!は想像以上に根強くて根深く、かなり頑固に残りつづけている。換言すれば、それが残り守られつづけているからこそ、いまだ「江戸東京らしさ」がどこかで連綿とつづいているのだし、風景でさえ変革(復元)Click!していこうというモチベーションにつながっているのだと思うのだ。  
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「素堅気(すっかたぎ)」で思い出したが、いつかTBSの男性アナウンサーが千住の小塚原を「こづかはら」と読んだのを聞いて、思わず噴きだしてしまった。幕府の処刑場があり、杉田玄白が腑分けを行なった地名は「こづかっぱら」だ。噴きだすのとは逆にキレたのは、テレビ東京の女性アナが日本橋のことを「にっぽんばし」と読んだので、劉生ではないが思わず「てめぇ、もいっぺんいってみろ、バカ野郎」(職人言葉で失礼)とTVに向かって話しかけてしまった。w 地元のTV局であるテレビ東京が、江戸東京の中核であり日本の五街道の起点にある地名をまちがえるとは、心底、恥っつぁらしで情けない!

◆写真上:歌舞伎座が建て替えられた2013年(平成25)以前の、懐かしい4代目・歌舞伎座の場内。先年の秋、久しぶりに歌舞伎座を訪れたが、なぜか季節外れの黙阿弥Click!『三人吉三巴白浪』Click!(さんにんきちさ・ともえのしらなみ)を演っていた。最近、人気芝居なら季節には関係なくいつでも上演するのだろうか?
◆写真中上は、2019年7月14日に日本経済新聞に掲載された矢野誠一のエッセイ『東京やあいッ』。は、麻布中学の友人は上方の浄瑠璃か芝居、あるいは落語が趣味だったものだろうか、「そりゃきこえませぬ伝兵衛さん」の『近頃河原達引』(ちかごろかわらのたてひき)に登場する与次郎の文楽人形Click!
◆写真中下は、「絶えて久しき対面に~」の『仮名手本忠臣蔵』五段目で、千崎の3代目・市川左団次(右)に勘平の3代目・尾上松緑(左)。は、上方落語の『七段目』でも登場する「遅なわりしは不調法」の『仮名手本忠臣蔵』七段目。7代目・尾上梅幸のおかるに、3代目・坂東寿三郎の由良助(右)。
◆写真下は、『仮名手本忠臣蔵』八段目で由良助の8代目・松本幸四郎や本蔵の2代目・市川猿之助などが見える。は、1955年(昭和30)ごろ撮影の山科大石閑居跡。は、歌舞伎座にある歌舞伎稲荷大明神の社(やしろ)にお詣り。

下落合を舞台にしたドラマ2019。

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 下落合が気になったきっかけのひとつとして、同地を舞台にした1974年(昭和49)のドラマ『さよなら・今日は』Click!(NTV開局20周年記念作品)のことを、最初期の2004年(平成16)11月にアップした記事Click!以来、わたしは何度かつづけてここに書いてきた。コメント数もかなりの数にのぼり、気になったていた方もたくさんいらっしゃるのだろう。今年(2019年)の旧盆(藪入りClick!)の真っ最中である8月13日午後3時すぎ、場所は下落合の喫茶「小苦楽(こくら)」Click!の、1階と2階をウロウロと往来しながら、わたしはドラマの“出番”を待っていた、下落合を舞台にしたドラマの撮影現場は初めてだが、まさか自分が出演することになるとは思わなかった。
 単にインタビュー番組で出演するだけなら、気が楽だし自分の言葉で自由に話せるのだけれど、インタビューに加え3つのシーンにしっかり長めのセリフもある。当然、役者はもちろん演劇の経験はゼロなのでセリフなどはまったく憶えられず(夏なので浮かれて遊び、憶えようともせず/爆!)、ノートPCにカンニングペーパーならぬセリフのテキストデータを用意して撮影にのぞんだ。わたしの役どころが、ノートPCを開いて喫茶店で原稿を書いている役どころだったからだ。それでも、自分の言葉ではない脚本家が書いたセリフは、どこかわざとらしく感じてスムーズに口にはなじまず憶えられない。そこで、まことに僭越ながら『さよなら・今日は』に出演した森繁久彌の台本Click!のように、セリフへいろいろとアカ入れ修正を加えさせていただいた。
 ところが、わたしのカンニングデータを用意したノートPCは、製品名のロゴがディスプレイの背後に大きく書かれていたため急きょ却下となり、かわりに抽象的なマークしか入っていないSurfaceに変えられてしまった。ズルを考えてたわたしは、さあたいへん。そう、このドラマはNHKが制作している作品なので、企業名や製品名はすべて基本的にNGなのだ。当日は撮影が押していたのか、本番前に2時間ほどの待ち時間があったため、少しでもセリフを記憶しようとしたのがよかったのかもしれない。シーンの変更や道具立ての入れ替え待ち時間を除けば、わたしの撮影は正味40分ほどで終了した。俳優を相手にセリフをいうわたしは、きっと紅潮していたにちがいない。
 ドラマは、NHKのEテレで2015年(平成27)より放送されている、4年越しの連続ドラマ『ふるカフェ系 ハルさんの休日』Click!だ。わたしのお相手「ハルさん」は、俳優・渡部豪太氏だった。舞台が古民家(近代建築)の「小苦楽」(下落合3丁目/旧・下落合1丁目542番地)だったので、わたしは番組ディレクターを下落合(現・中落合/中井含む地域)の東部Click!へご案内した。近衛町Click!から御留山Click!、林泉園の中村彝アトリエClick!へとご案内したが、このうち近衛町の目白ヶ丘教会Click!学習院昭和寮Click!本館(現・日立目白クラブClick!)が、ドラマの台本に登場している。
 ストーリーは、ハルさんが下落合を訪れ、街を散策するうち昭和初期に建てられた数寄屋の古民家(築90年余)を発見して、そこで開業している喫茶店に入り、内部を見学しながら地元の人たちと出会う……という展開だ。「小苦楽」の建物は空襲からも焼け残り、わたしは知らなかったが戦後に不二山というお茶のお師匠さん(おっしょさん・おしょさんで親しい場合はおしさん)が住んで、弟子たちに茶道(表千家)を教授していたそうだ。
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 わたしは、同店の開店早々に女将の瓜生美行様より茶室を含む室内を拝見していたが、建物が古くて落ち着いているせいか空気がゆったりしており、小庭を眺めながら飲むお茶の味は、近衛町の「花想容」Click!(喫茶部は閉店)にも似て、その後、落合地域の休憩ポイントとして何度か利用させていただいている。このお店を紹介してくれたのは、以前、「佐伯祐三生誕120年記念シンポジウム」Click!にご家族で参加された木下元介様だ。瓜生女将も出演されているので、いまから放送を楽しみにしている。
 先ほど「紅潮していたにちがいない」と書いたが、わたしの“出番”に合わせてか、4時ごろになると続々とお客さん役のエキストラたちが現場に入りはじめた。昼間は甘味喫茶のせいか、お客さん役も女性が多い。女優さんや女優の卵さんが多いものか、みなさん美しくてきれいな方ばかりだ。そのうちの藍染の浴衣姿のおひとりが、「セリフがあるとタイヘンですよね」と同情してくれた。そんなウキウキ気分で“本番”に臨んだため、セリフも“楽屋裏”でマジClick!に憶えようとけんめいに悪戦苦闘し、結果、なんとかご迷惑をかけずに撮影を終えることができたものだろうか?
 5時すぎより撮影をスタートし、6時すぎには終了していた。監督は黒澤明Click!大島渚Click!ばりに、スタッフたちへ「ばっかやろ-!」「まぬけ!」「のろま!」と怒鳴りつけていたけれど、スタッフたちはニヤニヤ笑いながらセッティングしていたので、ほんとは優しい監督で撮影現場のノリかポーズのひとつなのだろう。わたしがどのシーンもテイク1~3ほどで撮り終えたせいなのか、「なんだよ、タバコを吸ってるヒマもねえじゃないか!」と、ブツブツいう声が背後で聞こえた。w ときどきドラマや映画のクランクアップで見かけてはいたが、ほんとうに花束と記念品と拍手をいただいてから、ロケ現場の「小苦楽」=旧・不二山邸をあとにした。
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 本番の7日前に台本(最終稿)をいただいたのだが、それを読んでいて改めて感じたことがある。ちょうど、このドラマが撮影されているさなか、わたしも映像の構成台本を書いているまっ最中だった。もちろん、ドラマではなく米国や国内で上映される、ICTシステム関連の映像だった。おもに、レベル4~5のコネクティッド・カー(いわゆる自動運転)に関する内容だが、車内のECUや配置されたIoTセンサーから、OpenFlowプロトコルの仮想ネットワーク(SDN)を通じて収集された多種多様なデータを、CGWを介して外部に設置されたAI仕様のクラウド監視マネジメント基盤とリアルタイムに連携し、クルマへ安全で最適な指示だし(操作命令)をする……という、Society 5.0では大前提として企画されているモビリティ環境(いわゆるCASE)のテーマだ。
 昨年の仕事でも感じたのだが、映像作家やディレクターが頭の中で構成するシナリオと、わたしが構成するテキスト台本との間には、いつも少なからず齟齬が生じることになる。わたしの頭の中はテキストの集積で構築・構成されているが、映像作家やディレクターの方はもっとも効果的なイメージの集積と展開で構成されている。だから、テキストで構成された台本は、読めば順序だててわかりやすく感じるのだが、それを音声と映像で表現する場合には、まったく事情が異なってくるのだ。特に映像が完成したあとの作品を観ると、「なるほど」と納得するシーンがいくつもあった。
 この感覚は、昨年(2018年)5月に美術家の方にご協力いただいた前述の佐伯祐三Click!生誕120年記念シンポでも、強く感じたことだ。こちらは映像ではなく、パワポを使ったスライドショーのシナリオづくりだったが、美術家の方は次々と湧きあがるイメージの展開でスライドを構成したけれど、わたしはアウトラインのストーリーを前提にテキストの集積で順序だてながらシナリオを考えていった。だから、双方がその流れを突き合わせてみたとき、イメージが先行する思考とテキストが先行する思考とであい入れず、収拾がつかなくなりそうになった。わたしのテキスト頭は、イメージが先行する思考の方には理屈っぽくてまだるっこしく、饒舌でクドく感じられたのではないだろうか。今回のドラマの台本を拝見したとき、テキスト頭のわたしは改めてそのことを痛感したしだいだ。
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 戦後、「小苦楽」の古民家に住んでいた茶道の不二山という方、茶道具には「不二山」(楽焼白片身変茶碗)という作品もあるので本名かどうかは不明だが、この地域をドリルダウンするうちになにか発見したら、改めて書いてみたいと思う。そういえば、下落合には関東大震災Click!東京大空襲Click!の直後からだろう、清元や常磐津など三味のお師匠さんClick!や浮世絵の刷師など、(城)下町Click!の人たちが多くやってきては住んでいる。
 ◆ドラマ『ふるカフェ系 ハルさんの休日』 下落合編
  ・2019年9月12日(木) PM9:00~ NHK Eテレ(地上D/2ch)
  ・毎週木曜 午後9時/再放送:毎週水曜 午後0時25分
 余談だけれど、保存運動がつづく上鷺宮の三岸好太郎・節子アトリエClick!(1934年築/国登録有形文化財)も、月に何日かカフェを開催しているようなので、このドラマにはぴったりな舞台ではないだろうか? 同アトリエは、美術(独立美術協会Click!)や建築(設計・山脇巌Click!/バウハウス様式)をめぐる物語が数多く眠る宝庫のひとつだ。

◆写真上:「小苦楽」の庭で、左側に見えている躙り口が数寄屋。手水が「花想容」の藤田邸Click!とそっくりで、地中には水琴窟Click!が隠れているのではないか。
◆写真中上:暖簾の下がった「小苦楽」の入口()と室内()、そしてネコ()。大正期から大久保作次郎アトリエClick!の南庭へとつづく、路地の左手に位置する。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲直前にF13Click!から撮影されたのちの不二山邸と1947年(昭和22)に撮影された同邸。は、1980年代の「住宅明細図」(下落合1~4丁目)に収録された不二山邸。
◆写真下は、躙り口から点前座のほうへ向いた茶室内。は、黒蜜で甘みが調節できる「小苦楽」のあんみつ。は、クランクアップの花束と記念品。左側にいるのは、御留山でスカウトしてきた洋種が混じるキバが大きなオトメオオヤマネコClick!(♀/2歳)。

小島が棄て佐伯が拾い里見が保存した作品。

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 小島善太郎Click!が描いた、初期の代表作である『四ツ谷見附』Click!(1914年)には、10点ほどの画面があったようなのだが、わたしは1作を除いてできの悪い作品はすべて、小島自身の手で写生現場にキャンバスごと棄てられたか、処分されたと思っていた。ところが、少なくとも1918~1919年(大正7~8)ごろまでは3種類の画面が残っており、小島の部屋の壁に架けられていたという証言が残っている。
 そもそも、四谷見附の隧道(トンネル)をモチーフにした『四ツ谷見附』は、小島善太郎が21歳の1913年(大正2)から取り組みはじめ、翌々1915年(大正4)に安井曾太郎Click!から作品を賞賛されるまで、制作はつづいていたとみられる。わたしは、現存するひとつの画面しか観たことがないが、時刻や季節を変え同じタイトルで3つの画面が、少なくとも大正中期まで存在していた。そう証言しているのは、画家で劇作家の松岡義和だ。しかも、3作品のうち『四ツ谷見附』の1作「夕景」を、彼は小島から贈られている。松岡義和は、同作を自分の部屋の壁に架けて、訪れる友人たちに自慢していた。
 なぜ、小島善太郎が四谷見附の風景画を、3年間にもわたり数多く描きつづけることになったのか、その秘密についても松岡は証言している。当時、四谷(正確には麹町区麹町)にあったF女学校(四ツ谷駅前の雙葉高等女学校Click!)へ通ってくる、Fという女性に恋をしていたのだ。だから、彼女が登下校で利用する省線・四ツ谷駅東口のすぐ近くで、イーゼルを立てて描きつづけていた。雙葉高等女学校と小島の描画ポイントは、わずか200mほどしか離れていない。ふたりは毎朝、同じ時間の電車で落ちあい、おそらく帰るときもいっしょの電車に乗ったのだろう。
 だが、女学生のFは女学校を卒業すると、別の地方へ転居してしまい、ふたりは二度と逢えなくなってしまった。また、小島のほうでは、いまだ絵画を勉強中の身で生活の自立ができず、彼女を迎えにいけないという現実に苦悩していた。3年にわたり、10点にもおよんだ『四ツ谷見附』の画面の背後には、小島善太郎の悲哀に満ちた恋の物語が隠れていたのだ。
 では、松岡義和が小島から譲られた夕景の『四ツ谷見附』は、どのような画面だったのだろうか? 小島善太郎の次女・小島敦子様Click!よりいただいた、1992年(平成4)出版の『桃李不言―小島善太郎の思い出―』(日経事業出版社)収録の、松岡義和『「四ツ谷見附」の思い出―小島善太郎兄に捧ぐ―』(1920年)から引用してみよう。
  
 レモンイエロウを基調とした巳に夕陽が斜めにさし込んで、その画面上の総てのもの、隧道も、桜の木々、電信柱、向こうの側の土堤も逆光線の為に黒ずんで、レモンイエロウの悲哀に満ちた光線の中に浮かんでいた。桜の葉の全く落ちた梢の先端まで、そして端正に堀に沿うてカギ形に曲って並んでいる杭の一本、一本まで涙と悲哀の中にたどって画かれた事は、それを見る人は直ぐ感ずるであろう。そして木々の陰、向こう側に立っている電信柱の長く引いた影、これ等はK(小島)の震える手で画かれた事を見ることが出来る。それから隧道の真っ暗な、中に吸い込まれる様な深さ。Kはこの闇を画くに、どれ程苦心したか知れぬ事をよく物語った。闇に対する空想、恐怖が常に彼を捕らえ、それがKが幾度小刀を出してカンバスを削って画き直しても、Kは、それ等が知らず知らずの中に表れるのを見た。彼はその絵を抱いて、戸山ヶ原で絶望のあまり号泣した事もあった。
  
 松岡義和が壁に架けていた『四ツ谷見附』(夕景)は、隣家から出火した火災で松岡家が全焼し、あえなく同作は失われている。また、残った2作の『四ツ谷見附』のうち、現存する画面でないもう1作も失われたのか、現在では目にすることができない。
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 さて、小島善太郎Click!は野外で風景画を制作をしている際、画面のできが悪いとキャンバスごと写生地へ棄ててくるクセがあった。松岡の証言にも出てきた戸山ヶ原Click!で、小島はずいぶんキャンバスを遺棄Click!しているようだ。まず、キャンバスの表に風景を描きはじめるが、気に入らないとナイフで削っては描き直しを繰り返し、それでも気に入らないと今度はキャンバスの裏を使って描く。それでも思うように描けないと、おもむろにキャンバスを棄てて帰ってしまう。
 この性癖は、フランス留学中にも表れて、クラマールの森では小島が描きかけたキャンバスがずいぶん棄てられていたらしい。そんな棄てられた『クラマール風景』のキャンバスを、「もったいない」と拾って持ち帰っていたのが佐伯祐三Click!だ。誰かは忘れたけれど(鈴木良三Click!だったか?)、確か戸山ヶ原Click!でも遺棄された小島善太郎のキャンバスを見つけて、持ち帰った人物がいたはずだ。
 同書に収録された、里見勝蔵『小島の生活と芸術』(1933年)から引用してみよう。
  
 小島の巴里時代の作品の一つ『クラマール風景』は、佐伯がクラマールの森の中から----小島のこんな傑作が捨ててあった……と言って拾って来た。そして、今は僕が珍蔵している。二十号/第一面はプランタンの並木、地面は影になって黒と緑の交叉。第二面は建築中の家と丘へ登る道。道の両側の家はやがて遠景となり明るい空に連続する。/半完成ではあるが、調子は実に制限としている。筆触は単純で強い。色彩は美しい。小島のモチーフにおける第一印象は十分に表現されている。
  
 里見勝蔵は他界する1981年(昭和56)まで、小島善太郎との60年近い交流Click!がつづいていたので、おそらく死ぬまで未完の『クラマール風景』は、フランスでの懐かしい留学生活の思い出として手もとに置いていたのだろう。
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 その20号の『クラマール風景』と格闘する、小島自身が書いた文章が残っている。画面がどうしても気に入らず、小島善太郎はクラマールからパリへと出て、画家仲間たちと気晴らしの交流をしている。当時、フランスへ留学していた小島が知る画家たちの顔ぶれは、初期の1930年協会Click!でいっしょになる画家仲間のほか、川口軌外Click!鬼頭鍋三郎Click!、中山魏、林倭衛Click!、坂本繁二郎、小松清Click!、阿以田治修、宮坂勝Click!などだった。
 1981年(昭和56)に出版された小島善太郎『巴里の微笑』(小島出版記念会)から、クラマールで制作する様子を引用してみよう。
  
 クラマールの宿の裏門の丘から見下ろした風景画は、二十号大で大作といえないのに、1ヵ月もたつが出来ない。場所に惚れて描くのでなく、与えられた場で腰を据えて描いているのだが、ただ塗っていけばよいのではなく、画としての空間処理に気を配りながら、色々有機的な関係の問題とか、その色感とか立体感、物質感などの総合したものを組み立てながら思索し、徐々に進めるといったやり方である。/ことにパリに来てからは、日本での垢が気になり、自分を苦しめる。詩情に浸るのでなく、理に立ち向かうような切迫感があって、できた画面を削っては直す。これは私の癖で画は一向に出来上がらない。こういう時、酒の味をしらなかった私は、ぶらっとパリの学生街に出るのが常であった。
  
 ひょっとすると、制作途中でカンシャクを起こし、宿へ帰る途中の森の中へ遺棄してきた20号の『クラマール風景』は、上記の画面のことかもしれない。
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 パリの「サロン・ドートンヌ」展Click!に、クラマールで描いた小島善太郎『パリ郊外』が入選するのは、1923年(大正12)のことだった。その後、彼はティントレット『スザンナ』(300号)を模写するために、ルーブル美術館へ2年間も通いつづけることになる。

◆写真上:小島様にいただいた本の、内扉に書かれた小島善太郎の直筆サイン。
◆写真中上は、1914年(大正3)に制作された小島善太郎『四ツ谷見附』。は、当時とほとんど変わらない四谷見附隧道(トンネル)の現状。は、1912年(大正元)に撮影された雙葉高等女学校の校庭でボール遊びをする女学生たち。
◆写真中下は、1912年(大正元)作成の「四谷区全図」にみる描画ポイントと雙葉高等女学校の位置。は、1911年(明治44)に描かれた小島善太郎『戸山ヶ原風景』。は、現在は一部が公園になっている戸山ヶ原の現状。
◆写真下は、1915年(大正4)制作の小島善太郎『晩秋(戸山ヶ原)』Click!は、パリでは「フェニックス会」のホスト(主人)だったフェニックス役の小島善太郎。は、1923年(大正12)にサロン・ドートンヌ展に初入選した小島善太郎『パリ郊外』。

1916年(大正5)に記録された落合村の民俗。

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 1916年(大正5)の落合村の風景は、明治期から華族や政治家、財閥、おカネ持ちの別荘地として東部の一部が拓けていた以外、江戸近郊の農村地帯の風情をそのまま残していただろう。旧・神田上水Click!や妙正寺川(北川Click!)の周囲には稲田が拡がり、そこから眺める目白崖線には鬱蒼とした雑木林が繁っていた。
 いまだ数が少なく、赤土がむき出しで滑りやすい坂道を上ってようやく丘上に出ると、一帯には畑か草原が拡がっており、ところどころに屋敷林に囲まれた大農家や小規模な墓地が点在している。ところどころに見えるこんもりとした雑木林の下には、大小の谷戸が口を開け、関東ロームの地層から露出した東京層Click!付近からは清水が噴出していた。その清水で形成された湧水池が、落合村のいたるところで澄んだ水面をたたえ、ときおり近所に住む農家のおかみさんたちが農作物を籠に入れて背負い、洗い場Click!と呼ばれた池で野菜を洗っている姿が見られただろう。
 南側を眺めながら、目白崖線の丘上を歩いていくと、麓には村の総鎮守である下落合氷川明神Click!の杜が見え、山腹には薬王院Click!の大きめな灰色の屋根とたや茅葺きの太子堂Click!が見え隠れしている。旧・神田上水の浅瀬で水浴びしている馬は、目白駅(地上駅)Click!前にある古口運送店Click!の飼い馬たちだろうか。川面がキラキラ光り、大きく蛇行する神田川に架かる田島橋の向こうには、3年前に建てられたばかりの独特な意匠をした目白変電所Click!のコンクリート建築が見え、変電所までつづく東京電燈谷村線Click!高圧線木製塔Click!が、西のほうから田畑の中に建ち並んでつづいている。
 旧・神田上水と妙正寺川が落ちあう向こう岸には、一面の麦畑の中に福室軒牧場Click!の乳牛だろうか、放し飼いにされているホルスタインClick!が何頭か点のように小さく見え、その左側には月見岡八幡社Click!の藁葺き屋根が木立ちに囲まれてチラリとかいま見えている。また、牧場のやや右手にある深い森の中には、光徳寺Click!の堂宇が、少し離れて最勝寺Click!が建っているはずだ。そして、はるか彼方の上高田との境界あたりに、落合火葬場Click!の高い煙突がかすんで見えている……。
 1916年(大正5)に豊多摩郡役所から出版された『豊多摩郡誌』には、当時の落合村の風情や民俗が採取されている。今日の落合地域からは想像できない、昔ながらの江戸東京の近郊風景が展開していた。その紹介文を、少し引用してみよう。
  
 風俗 村内土着の民は一般に淳朴(ママ)にして、旧幕時代の組合今も其俤を存し、隣侶相助くるの美風あり、衣食住また質素なるも、近時移住し来れる都人士多きを加へ、従て風俗漸く華奢ならんとす。 信仰 村内の寺院は尽く真言宗なるを以て、従来の住民は殆ど全部同宗の檀徒たり、近来耶蘇教天理教等の伝道を試むるものなきにあらざるも、未だ著しき勢力を認むるに至らず。
  
 近衛町Click!の開発前、目白駅(地上駅)前の丘上には近衛篤麿邸Click!が、目白通りをはさみ北側には戸田康保邸Click!(徳川義親Click!が転居してきて自邸Click!が竣工するのは1934年)が建っていた。近衛家が所有する谷戸には、若山牧水Click!が目にした「落合遊園地」Click!という碑が建立されたままで、いまだ周囲から林泉園Click!とは呼ばれていない。
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 御留山Click!に目を向けると、前年(1915年)に竣工したばかりの豪華な相馬孟胤邸Click!がそびえ、少し西に目を移せば岬のように突き出た西坂Click!バッケ(崖地)Click!上には、徳川義恕邸Click!の大きな西洋館が建っていた。徳川邸の南崖下、下落合では本村(もとむら・ほんむら)のエリアである旧・安井息軒邸Click!の西側に、軍人らしい質素さでこじんまりした川村景明邸Click!が見えていただろう。
 相馬孟胤邸と徳川義恕邸の中間にあたる、鎌倉期に拓かれた七曲坂Click!には、翌年(1917年)の竣工をめざす大島久直邸Click!が建設中で、足場が組まれた西洋館の尖塔のある特徴的な大屋根Click!ができあがっていただろうか。その北側には、大倉山(権兵衛山)Click!の丘上にあたり伊藤博文Click!の別荘があったという伝承が残る一画に、箕作俊夫男邸Click!が瀟洒なたたずまいを見せていただろう。
 落合村にあった真言宗の寺院とは、薬王院と最勝寺、自性院Click!、光徳寺の4寺だ。蘭塔坂Click!(二ノ坂Click!)上には、いまだ大日本獅子吼会Click!(日蓮宗系)は移転してきていない。また、「耶蘇教」(キリスト教)の教会は、明治末に竣工した清戸道Click!(目白通り)沿いの目白福音教会Click!はあるが、東京同文書院Click!(目白中学校Click!)の斜向かいにあたる目白聖公会Click!は、まだ設置されておらず病院施設のままだ。目白駅(地上駅)前や、目白通り沿いにはようやく企業や商店が増えてきたが、いまだ江戸期からの繁華街である椎名町界隈Click!(現・山手通りと目白通りの交差点あたりを中心とした東西の街道筋)のほうが賑わっていただろう。
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 『豊多摩郡誌』から落合村の風情を、つづけて引用してみよう。
  
 遊芸 従来農村部落なりし本村にありては、遊芸等の流行を見ず、学校の女児の如き師に就て之が修得を為すものなし、但近来移住し来れる都人士中にありては琴曲其他の音楽趣味の喜ばるること、都会の風と異なるなし。 衣食住 一般に質素にして、近年移入せる都人士一部を除くの外、平常は綿衣を着け麦飯を用ふるを例とす。旧来土着の民家にありては、住宅物置等多くは茅葺にして、左方に入口を設け土間を広く取りて農業用に便せり。  村内の鉄道線路に近くして市街化したる部分を除き、旧来の住民は今尚ほ一ヶ月遅れの盂蘭盆及び正月をなす、是を月おくりの盆、正月と称ふ。
  
 「都人士」という言葉が頻出するが、これは東京市街地から武蔵野Click!の緑が多く、自然環境が保全されている郊外へ移住してきた市民たちのことをさしている。
 1922年(大正11)に目白文化村Click!近衛町Click!の販売がスタートしてから、あるいは関東大震災Click!以降に市街地からドッと移住者が押し寄せてきた“民族大移動”とは異なり、まだ落合村が牧歌的な時代のことだ。この時代、落合尋常小学校Click!(現・落合第一小学校Click!)に通っていた子どもたちは、下校すると習いごとどころではなく、家の用事=農作業を手伝わされていたのだろう。
 1916年(大正5)現在、移住してきた「都人士」には、目白駅(地上駅)前の丘上にアトリエをかまえていた熊岡美彦Click!、のちに豊玉水道Click!の落合町水道組合員を引き受けることになる下落合435番地の舟橋了助Click!夫妻、落合遊園地の北側にアトリエを建てたばかりの下落合464番地に住む中村彝Click!笠井彦乃Click!がアトリエを訪問していたとみられる下落合370番地の竹久夢二Click!、そして旧・伊藤博文別邸があったとされる敷地の斜向かい、大倉山ピークに近い下落合323番地には東京美術学校Click!森田亀之助Click!も住んでいただろうか?
 目白通りの北側、下落合540番地の大久保作次郎アトリエClick!の近くにあった茅葺きの「百姓家」には、大阪の小出楢重Click!が一時期住んでいたが、大久保作次郎が引っ越してくるのは2年後なので、まだ小出楢重の「行き倒れ」Click!物語は生まれていない。
 風習で興味深いのは、いまだ暦が江戸時代のままだったことだ。正月を2月1日(旧正月)に祝い、8月中旬(旧盆)に迎え火を焚いていたのだろう。落合地域に限らず現代の新宿区では、さすがに1月1日が正月で、7月中旬には街中で僧侶の姿を多く見かけ、8月中旬は地方で旧盆を迎える人たちのために「夏休み」、あるいは古い人々には「藪入り」Click!と呼ばれている。
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佐伯祐三「洗濯物のある風景」1926.jpg
 大正初期には、「麦飯を用ふるを例とす」とあるが、現代の下落合住民であるわたしも、麦飯や雑穀米を常食としている。健康を考えてのことだが、当時は白米を節約し質素な食生活を送るための、江戸時代からつづく変わらぬ食習慣だったのだろう。

◆写真上:最近、東京牧場Click!が復活したのか下落合駅前にいる大きなガンジー種。
◆写真中上は、1880年(明治13)の1/20,000地形図にみる落合地域の東部と西部。は、上落合の南耕地にあった福室軒牧場のホルスタイン。
◆写真中下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる落合地域の東部と西部。は、吉屋信子Click!が1928年(昭和3)の夏に中ノ道(現・中井通り)の西武電鉄沿いで撮影したホルスタインClick!で、線路向こうにある牧成社牧場の乳牛だとみられる。
◆写真下は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる落合地域の東部と西部。は、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三Click!連作『下落合風景』Click!のうち「洗濯物のある風景」Click!だが、洗濯物をホルスタインだといい張る美術家の方がいる。w

東京郊外にあった「遊園地」の系譜。

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 明治期の後半から大正期にかけ、東京の郊外には「遊園地」が各地に造られた。ここでいう「遊園地」とは、今日でいう多種多様なアトラクションやゲーム、パビリオンなどが設置されイベントが開かれる、いわゆる遊園地のことではない。
 その名称のとおり「庭園を回遊する地」のことで、特に乗り物や遊具、展示館などは存在しなかった。現代風にいえば、整備された森林公園ないしは緑地庭園といったところだろうか。施設や整備が豪華で、手入れがいきとどいた大規模な遊園地は有料のところもあったが、むしろ現在の公園と同様に無料で誰もが気軽に利用できた施設も少なくなかった。経営主体も、地域一帯に広い土地を所有する地主が敷地の一画を活用した例や、広大な華族屋敷の一部を開放したもの、将来の宅地開発を見こんだディベロッパーが集客目的で開園したもの、参詣者でにぎわう寺社境内の一部を庭園化したもの、地域の自治体が設置したものなど形態もさまざまだった。
 「遊園地」の元祖型は、早くも江戸期の後半(大江戸時代)から郊外各地で見られていた。オオシマザクラとエドヒガンザクラを掛けあわせソメイヨシノClick!を産みだした、江戸の植木職人たちが大勢集まって住み、幕末に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンによれば、ロンドン王立植物園を凌駕する「世界最大のフラワーセンター」だった染井地区(現・駒込地域)をはじめ、ウメやキク、ショウブ、ツツジなどを屋敷の庭園や畑地に隣接して植え、季節になると観光客に見せていた「花屋敷」あるいは「〇〇(花の名前)屋敷」の系譜など、明治以降に「遊園地」へと直結していく素地は、すでに大江戸(おえど)Click!の郊外で早くから育まれていた。
 落合地域にも、そのような遊園地がいくつか存在していた。たとえば明治期の下落合でいうと、近衛篤麿邸Click!の敷地内にあった谷戸の湧水源を整備し、庭園のような風情に仕立てて開放した「落合遊園地」Click!が挙げられる。牛込区馬場下町41番地(現・新宿区馬場下町)に下宿していた若山牧水Click!が、散歩がてら下落合を訪れて『東京の郊外を想ふ』に記録している庭園だ。
 東京土地住宅Click!「近衛町」Click!につづき、1923年(大正12)に落合遊園地を含む一帯を「近衛新町」Click!として販売したが、そのほとんどの敷地を東邦電力Click!が買い占め、のちに「落合遊園地」改め「林泉園」Click!と名づけた谷戸の湧水源だ。中村彝Click!は、1916年(大正5)に「落合遊園地」の北側にアトリエを建設したが、死去する1年ほど前、1923年(大正12)ごろから名称が「林泉園」Click!に変わり、社宅の西洋館群Click!やテニスコートなどが造られるのを庭先から眺めながら、晩年をすごしていただろう。
 また、下落合の中部では、箱根土地Click!堤康次郎Click!落合府営住宅Click!の土地を東京府に寄付したあと、その南側に「不動園」Click!という遊園地を開発している。落合遊園地と同様に谷戸地形を活用した遊園地で、府営住宅の住民たちへ憩いの場を提供するような趣向だったが、もちろん不動園は郊外への「人寄せ」プロモーションの一環だったとみられ、ほどなく同園は解体され1922年(大正11)より目白文化村Click!の建設がスタートしている。不動園の様子や、それが壊される過程を第二府営住宅に住んでいた目白中学校の生徒Click!が観察して、学内誌に記録を残している。
 箱根土地は、不動園を解体して文化村住宅地に整地したあと、下落合1340番地の本社ビルClick!建設とともに、その南側に造園した庭を改めて「不動園」Click!と名づけ、文化村をはじめ周辺の住民に開放している。また、前谷戸の弁天社Click!がある北西側の湧水地も、昭和初期までは遊園地風の風情(弁天社裏の谷戸にはモモの樹林が植えられていたようだ)を残して、周辺の住民に開放していた。第一文化村の北側、下落合1385番地にアトリエをかまえていた松下春雄Click!が、弁天池のほとりで遊び長女・彩子様Click!を抱っこしている写真Click!が残されている。
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 上落合の近くには、小滝台の上に四季折々の花々を咲かせる、明治期に造られた華洲園Click!(御花畑)があった。街道(現・早稲田通り)を越え、バッケ(崖地)Click!に通う急坂を上ると丘上が開け、広大な花畑が拡がっていた。この郊外遊園地もまた、大正期に入ると宅地造成が開始され、周辺でも名うての高級住宅街に変貌している。
 近隣住民たちや観光客に開放されていた、これらの郊外遊園地は昭和期に入るとその多くが住宅街となり、現在ではほとんど残されていないが、その雰囲気を感じとることができる「遊園地」(というか今日では「公園」や「庭園」と呼称される)は、明治期から大正期にかけて東京郊外だったエリアで、いまでもかろうじて見ることができる。落合地域の近くでは、大正初期に造られた新井薬師遊園(のち新井薬師公園)が、当時の遊園地にもっとも近い風情を残しているだろうか。
 新井薬師遊園は、妙正寺川へと下る新井薬師の北北西側に展開する丘の斜面と、麓全体を包括した敷地で、いまでは中野通りに南北を分断されているが、新井薬師境内の緑地も加えるとかなり広めな公園となる。明治期からつづいた遊園地の特徴として、広場があり一画には花々が植えられ、築山や斜面には武蔵野の雑木林が繁り、湧水源を含む谷間には池ないしは泉が形成されている……という“お約束”の風景と、同園はよく一致している。1914年(大正3)開園と、明治期からつづく遊園地ではないものの、本来は新井薬師の境内だった敷地を遊園地化して、参詣者や周辺の住民たちへ開放したものだ。
 現在の新井薬師公園は、1934年(昭和9)に改めて公園として整備されたあとの姿だが、江戸期には梅照院(新井薬師)の修行場でもあった経緯から、大正期の風情はより“自然公園”に近い趣きだったのではないかと想定できる。現在は、斜面には雑木林に囲まれた広場や児童館、児童遊園などが設置され、麓には妙正寺川へと注ぐ湧水源のひとつだったとみられる“ひょうたん池”(小規模化したとみられる)が残されているが、いずれも昭和期の公園化とともに本来の姿とはかなり異なっているのではないだろうか。
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 その旧・新井薬師遊園を取材していたら、気になる地形を見つけてしまった。当初は、郊外遊園地らしく斜面に盛り土をし、築山に見立てて木や花を植えたのだろうと考えていたが、家にもどって各時代の空中写真を検証すると、この築山がどうやら戦後すぐのころまで“鍵穴”のかたちをしているのに気がついた。特に、一帯が空襲を受けた戦後の焼け跡写真を観察すると、地面の色が異なり鍵穴のフォルムが浮きでて見えるようだ。全長は60m前後で、それほど大きな規模のフォルムではない。確かに地形的にも、谷間へ向けた見晴らしのいい斜面に位置しており、古代人が古墳を築造するにはもってこいの場所だ。念のため、周辺で発掘された古墳期の集落跡がないかどうか確認したが、地元の新井地域でも、また隣接する沼袋地域Click!でも古墳期の住居跡が発見されている。
 残念ながら、新井薬師公園の発掘記録は見あたらないが、水戸徳川家の上屋敷庭園だった後楽園古墳や上野公園の摺鉢山古墳Click!、三田の土岐美濃守の下屋敷庭園だった亀塚古墳Click!、新宿駅西口の松平摂津守下屋敷庭園にあった新宿角筈古墳(仮)Click!などと同様に、大名庭園や公園を造園する際に築山としてそのまま墳丘が利用された前方後円墳の残滓ではないだろうか。また、丘上にあたる新井薬師の境内自体も、もともとはどのような敷地の形状をしていたのかに興味をひかれる。
 昭和期に入ると、東京郊外の小規模な遊園地は次々と姿を消すか、大規模な遊園地はアトラクションやゲーム、パビリオンを備えた新しい呼称としての“遊園地”に変貌していったけれど、新井薬師のケースは遊園地から公園へとスイッチしたために、大正期の風情をなんとか想像することができるめずらしい事例だ。また、戦後もしばらくたつと遊具のある一般的な公園とは別に、本来の意味での「遊園地」に近い風情の施設が、再び自然公園や緑地庭園として整備されるようになってきた。
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 下落合でいえば、規模は小さいが第二文化村の島峰徹Click!邸の跡地に造られた「延寿東流庭園」Click!や、下落合の南側に接した上戸塚地域にある「藤兵衛公園」などが該当するだろうか。明治期から大正期にかけての郊外遊園地に比べれば面積や規模がかなり小さいので、さすがに丘や斜面などは存在しないけれど、小流れがあって池があり樹木が繁茂している風情は、100年前を模した「ミニ遊園地」とでもいうべき存在といえるだろう。

◆写真上:新井薬師公園の斜面に見られる、現在は40mほどが残る“ふくらみ”部分。
◆写真中上は、1935年(昭和10)に撮影された林泉園。(提供:堀尾慶治様Click!) は、1925年(大正14)制作の松下春雄『文化村入口』に描かれた箱根土地本社前の庭園「不動園」と、第一文化村の谷戸にあった弁天池で遊ぶ松下春雄。(提供:山本彩子様) は、大正初期に撮影された小滝台の華洲園(御花畑)。
◆写真中下は、公園として再整備された直後の1936年(昭和11)に撮影された新井薬師公園。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された新井薬師公園。は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる鍵穴状のフォルム。
◆写真下は、丘麓にある新井薬師公園のひょうたん池。中野通りが貫通する、背景左手の斜面から丘上までが新井薬師公園になっている。は、下落合の目白文化村(第二文化村)にあった島峰邸跡に造られた延寿東流庭園。は、上戸塚(現・高田馬場3丁目)の中村邸跡に造られた日本式庭園の藤兵衛公園。

画塾「どんたくの会」の月謝は5円。

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 10月1日からSo-netブログのドメインが変わり、名称も「SSブログ」へ変更になるとか。昨年のSSL対応は理解できるが、今回のドメイン変更には呆れた。昨年のSSL対応で、外部からのリンクの修正を少しずつ4ヶ月かけて済ませたが、今度はドメインの修正を延々とつづけなければならないのか。しかも、今回のWebサーバはSSL対応ではないようだ。再びSSL対応などということになったら、わたしは何度、メンテ作業をやらされるハメになるのだろう。システム計画や運用管理戦略を、ちゃんと立ててるのか?
  
 鶴田吾郎Click!は、アトリエを持っていなかった1921年4月から1923年(大正12)9月までの間、下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!で制作し帝展へ出品している。曾宮アトリエで描かれたタブローで、現在判明しているものが3点ほどある。
 1921年(大正10)に制作された、新築のアトリエから写生に出かけようとしている曾宮一念をとらえた『初秋』Click!。同年に描かれた、アトリエの中でぼんやりと立っている曾宮一念を描いた『余の見たる曾宮君』。同作は、翌1922年(大正11)の第4回帝展で入選している。そして、1922年(昭和11)に曾宮邸の隣りに住んでいた植木屋の娘を描いた『農家の子』Click!の3点だ。この3作とも、すでにこちらでご紹介している。
 鶴田吾郎は、仕事をするときは曾宮アトリエを訪ねていたようだが、ふだんすごしていたのは兄が紹介してくれた下落合645番地の借家Click!だった。1920年(大正9)には、新婚の“その”夫人との間に長男・徹一が生まれていたが、鶴田の家には若い画家たちや画学生たちが集まっては酒盛りをして騒いでいたようだ。当時の様子を、1982年(昭和57)に中央公論美術出版より刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』から引用してみよう。
  
 山の画家で通った茨木猪之吉などは、四、五日も泊りがけで来ていて、最後にもう倦きたから帰るんだといって、どこかまた出掛けて行くことがあり、曾宮は毎日のようにやって来ては、彼一流の話をして一人で愉しんでいるようであった。朝来て、また夕方になって手拭をぶらさげて湯屋に行こうと誘うこともあった。/私達の生活は、勿論定収入というものはない。絵だって頼まれもしないし、余程困った時には電車賃だけつくって、滅多にしない絵を買って貰うことをしたり、少しばかりの原稿料が入ったりするくらいのことだった。
  
 ここに登場する「湯屋」は、鶴田吾郎宅から東南東へ100mほど、曾宮アトリエからも北へ150mのところにある、目白通り沿いで現在も営業中の「福ノ湯」のことだろう。すでに大正期の地図に採取されているので、下落合でも最古クラスの銭湯だ。
 今村繁三Click!から支援を受けていたとはいえ、ふたりの画家には定収入がないため曾宮一念が鶴田にもちかけ、絵を趣味にするアマチュア画家相手の画塾を開くことになった。資金は曾宮が10円を用意し、画塾設立のパンフレットや生徒たちがアトリエで使う履物、椅子、休憩で必要な土瓶と茶碗、モチーフとなる静物などを準備している。画塾の名前は、曾宮がオランダ語で日曜を意味する「どんたく」がいいと、日曜画家にひっかけて「どんたくの会」と決めた。
 このとき、「どんたくの会」の趣意書を考案したのは鶴田吾郎で、パンフレットを新聞社あてに郵送している。その全文を、『半世紀の素描』から引用してみよう。
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 自然の美しさを知ること、解ることが何人にとっても生きがいの有る事と思います。/この美しさを表すには画をかくのが最善の方法です。/こういう意味から画家として志す方でなくとも、特に日曜だけを自然研究に費して、深い、愉快な生活をしたいという人々の為めにこの会を開きます(御夫人も差支えありません)。/右のようなお心さえあれば、全く初歩からはじめます。/科目は、素描(鉛筆木炭)及び彩画(油絵水彩)とします。/講師は鶴田吾郎、曾宮一念の両氏がうけもちます。/会場は曾宮氏のアトリエを用いますが、郊外写生にも出かけます。/会費は一ヶ月五円とします。但要具、材料は会員の皆さんの自弁です。/第四日曜日は会員作品の批評をし合う茶話会にあてます。そして、時には別に講師を招いて美術に就いての種々の話をしてもらいます。研究時間は当分毎日曜正午より五時までと致します。/入会希望の方は左記事務所へ御申越し下さい。/用具その他委細御きき合せの方(三銭切手封入)には御答へします。
  
 どんたくの会は、月に4~5回の教室なので、生徒さえ集まればなんとか元はとれると考えたらしい。新聞の消息欄に、どんたくの会の趣意書が掲載されると、翌週には10人ほどの生徒が集まった。この時点で、曾宮一念が出した資金10円は回収できている。なお、曾宮一念が主宰した第2次どんたくの会では、会費が10円に値上がりしている。授業は、石膏デッサンを鶴田が受けもち、油彩の静物画は曾宮一念が担当した。
 鶴田吾郎は、「恐らく画室を解放して土、日などにアマチュアの絵の勉強を施すことになったのは、このどんたくの会が最初ではなかったろうか」と書いているが、下落合540番地の大久保作次郎Click!は、もっと早くから画塾Click!を開いて絵を趣味にする近所の人たちや女学生を集めていたし、下落合679番地の笠原吉太郎Click!もまた、アトリエClick!でおもに女学生たちを相手に絵を教えていた。外山卯三郎Click!と結婚した一二三(ひふみ)夫人Click!も、笠原吉太郎が主宰していた画塾に通ってくる生徒のひとりだった。
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 1921年(大正10)から、2年弱ほどつづいたどんたくの会は、曾宮と鶴田のケンカで終わってしまったが、その仲たがいの内容についてはふたりとも黙して語らない。では、曾宮一念の側からどんたくの会について書かれた文章を、1992年(平成4)に静岡新聞社から出版された『画家は廃業』より引用してみよう。
  
 日曜の画学校だったどんたくの会は、初めの第一次は私と鶴田とで始めました。第一次の生徒は、住友海上火災保険の元社長の花崎さんたちです。今村繁三さんから後援費をいくらかもらっていましたが、絵が売れるわけじゃない。アトリエができたんだから、二人で日曜日だけの絵の塾をやろうということになり始めたのです。/腰かけだけは近所の道具屋から最も安いのを買ってきました。描くものは主に静物です。たまにモデルを頼むこともありました。今の油彩の教授なんていうのは、子供を教えるのに、一時間から二時間くらいで帰して、交代させるそうです。その自分の人は、朝九時ごろ来ると、日が暮れるまでいたものです。日曜に頑張って描いてました。それを鶴田と代わり番こに、描けない人はなんとかまとめてやりました。
  
 住友海上火災保険の関係者のほか、鶴田吾郎によればのちの美術評論家・今泉篤男Click!も、一高の制服を着たまま習いにきていた。当時の今泉篤男は画家をめざしていたようで、帝大の学生時代には1930年協会展に応募して入選している。
 パトロンの今村繁三Click!の名前が出ているけれど、このあと関東大震災Click!と昭和の大恐慌で今村銀行は経営が傾き、画家への援助どころではなくなってしまう。晩年の今村繁三が、曾宮アトリエから南へわずか260m、聖母坂の下にあたる下落合1丁目707番地(現・中落合2丁目)の小さな邸で暮らし、死去Click!することになるとは、曾宮一念も鶴田吾郎も当時は夢想だにしなかっただろう。
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 曾宮一念と鶴田吾郎は、ときに連れ立って風景画のモチーフを探しに練馬方面まで遠征している。あるとき、曾宮は大根の収穫を終えた黒い畝を6号に描き、鶴田はカシの木に囲まれた農家をSM(サムホール)に描いたようで、曾宮の抜群の記憶力によれば「三月一日」とのことだ。どんたくの会をふたりで開催していた、1922年(大正11)か1923年(大正12)のいずれかの3月1日のことだろう。

◆写真上:曾宮一念のアトリエ跡から、諏訪谷のある南側を眺めた現状。
◆写真中上は、1921年(大正10)の第4回帝展に入選した鶴田吾郎『余の見たる曾宮君』()と、翌1922年(大正11)に制作された鶴田吾郎『農家の子』()。は、関東大震災で傾き住めなくなってしまった下落合645番地の鶴田吾郎邸跡。
◆写真中下は、1921年(大正10)に新築のアトリエから写生に出ようとする曾宮一念を描いた鶴田吾郎『初秋』。同年の4月、建設中のアトリエの参考にとカラーリングを見学に訪れた佐伯祐三Click!は、腰高の板壁を同じグリーン系に塗っている点に留意したい。は、1982年(昭和57)に中央公論美術出版から刊行された鶴田吾郎『半世紀の素描』()と、1992年(平成4)に静岡新聞社から出版された曾宮一念『画家は廃業』()。
◆写真下は、1943年(昭和18)に制作された素描彩色の曾宮一念『麦秋(白潟)』。は、1946年(昭和21)制作の鶴田吾郎『池袋への道』と同『早春の日光三山』。

うなぎの「天井ぬけの極高非道」。

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 「♪ひととせを今日ぞ祭りの当たり年~警護、手古舞い華やかに~」と、親父が湯につかりながら唄いそうな清元Click!『神田祭』Click!だが、学校の授業より優先した三味Click!のおさらい会や芝居、千代田小学校Click!の授業をサボらせて円タクで見物してまわった二二六事件Click!東京市街Click!など、わたしの祖母にはつまらない学校へ通わせるよりも、優先する「実地学習イベント」がたくさんあった。
 そんな親たちを反面教師にしたせいか、親父は非常にマジメな性格の人間に育ち、謹厳実直な公務員として生涯を終えている。だが、そんな真面目で融通がきかないカタイ親に育てられたせいか、わたしは逆に軟弱な性格に育ったようだ。学生時代には、親父との議論でまず負けることはなかったが、女子との議論ではすぐ折れるという軟弱ぶりを発揮し、クラスメイトから「らしいやね」などといわれていた。
 先日、1977年(昭和52)に東京書房から出版された川口昇『うなぎ風物誌』を読んでいたら、親父が育った家庭環境にそっくりな記述を見つけて、思わず噴き出してしまった。著者の川口昇は日本橋鉄砲町の出身で、うちの元・実家からは南西に1,000mほどのところだが、同書より少し引用してみよう。
  
 ある日、授業中に教室の戸があいて、私の長姉が入って来た。そして田中先生に何事か話していたあと、田中先生が「家に用事があるそうだから帰ってよろしい」といわれた。一寸てれくさかったが帰り仕度をして、姉と一緒に教室を出た。家に帰ると他所行の着物を着せられ、その中に川上といふ人力車宿から二台の車が来て家の前に止った。やがて母や姉達とその人力車に乗せられ、着いたところはニ長町の市村座だった。/「なァんだ」と子供心にも思った。それからは芝居へ連れて行かれる時は、学校へ行く前に話してくれと、その時に云ったような気がする。/当時の市村座は菊五郎、吉右エ門、三津五郎、彦三郎、勘弥、東蔵、菊次郎といった、若手芝居で人気があった。
  
 川口昇の母親と、うちの祖母がピタリと重なるような気がするのだ。学校の教師には、おそらく長姉に家族の誰かがケガをしたか病気になった……などといわせているのかもしれない。マネするのを怖れたのか、わたしには詳しく話してはくれなかったが、おそらく親父も芝居や帝劇の舞台、新作映画にと、祖母に連れ歩かれていたのではないだろうか。学校の勉強よりも、江戸東京では「常識」であり「世間並み」だった舞台や音曲に関する「教養」や「素養」のほうが、よほど大切だと感じていた世代だ。
 余談だが、わたしは母親からよく「勉強しなさい」といわれて不愉快に育ったせいか(いくらいわれても家では宿題さえせず、よく罰として学校の廊下に正座させられていた)、わたしの子どもには「勉強しろ」とは一度も口にしたことがない。子ども時代にたっぷり遊ばないと「大人になってから遊んでも面白かないぞ」とか、遊びを通じて人間関係の機微を識り多彩な経験するから「心の引き出しがいくつもできて、多角的な視座・視点が獲得できるんだぜ」とか、いい加減なことをいっては遊ばせていたので、学校のお勉強はあまり芳しくはなかったけれど、それでもなんとか一家を構えたり、わたしが見ても「いい女」のガールフレンドを連れてこられる男たちに育っている。
 著者は、鉄砲町の蒲焼き屋「大和田」(旧・親父橋大和田)の四男として生まれており、自身は大手銀行へ就職してまったくちがう道を歩んで家業を継がなかったが、うなぎの研究では蒲焼きヲタクの間で広く知られている。うなぎと芝居のかかわりといえば、すぐに落合地域の北東隣り、目白駅の向こう側の雑司ヶ谷四ツ谷(四ツ家)町Click!を舞台にした、4世南北の『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』が思い浮ぶ。もちろん、三幕の「砂村隠亡堀の場」に登場する直助権兵衛のうなぎ搔きだ。
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 直助権兵衛 以前は直助中頃は、藤八五父の薬売り、今は深川三角屋敷寺門前の借家住み、見世で商う代物は三文花に線香の、煙りも細き小商人、後生の種は売りながら片手仕事に殺生の、簗を伏せたり砂村の隠亡堀で鰻かき、ぬらりくらりと世を渡る、今のその名は権兵衛と金箔付の貧乏人さ。
 ちょっと余談だけれど、「隠亡堀の場」で民谷伊右衛門がお弓を川へ蹴り落としたあと、直助と交わすセリフで「首が飛んでも……」が、原作にないことをつい最近知った。うなぎとからめた印象的な台詞だが、同芝居が大坂(阪)で上演された際に、特に台本へ加えられたものらしい。
 直助 伊右衛門さん、なるほどお前は強悪(ごうあく)だなァ。
 伊右衛門 天井ぬけの不義非道。
 直助 働きかけた鰻鉤(うなぎかぎ)、どうで仕舞は身を割かれ。
 伊右衛門 首が飛んでも動いてみせるワ。
 直助 まことに関心、奇妙。
 この台詞について、宇野信夫が監修した舞台のことを同書より引用してみよう。
  
 宇野信夫さん監修で鶴屋南北の代表作「東海道四谷怪談」が先年国立劇場で中村勘三郎、松本幸四郎の主演で上演された。宇野さんはその解説で、隠亡堀で伊エ衛門の「首が飛んでも」の名ぜりふは、大阪の上演本「いろは仮名四谷怪談」にあるので、この台本はあまり上等とは思われませんが、こうした名ぜりふは取入れましたと言っている。
  
 わたしは、民谷伊右衛門の「雑司ヶ谷四谷町浪宅」の近く(直線距離で1.5kmほど)に住みながら、「砂村隠亡堀」=南砂町は訪ねたことがない。ひょっとすると子どものころ、親は連れていってくれたのかもしれないが、まったく憶えがない。大人になってからも出かけていないのは、ただただ遠いからだ。
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川口昇「うなぎ風物誌」1977.jpg うなぎめし弁当1960年代.jpg
 「砂村隠亡堀」は、現在の江東区南砂3丁目にある疝気(せんき)稲荷Click!あたりといわれているが、うなぎ搔きの直助権兵衛がなぜ堀割りが縦横に走り、「江戸前」のうなぎがふんだんに獲れる地元の深川界隈から、わざわざ砂村まで“出張”してきているのかがわからない。ついでに、釣竿をかついで雑司ヶ谷村から砂村までやってきた民谷伊右衛門の散歩にいたっては、なおさら不可解だ。直線距離で片道12km(道を歩いたらゆうに15kmで往復30kmは超えるだろう)もあるところへ、いくら江戸期の人々は健脚だったとはいえ、釣竿かついで散歩に出かけるだろうか? よほど急ぎ足で帰らないと、夏なら魚籠の中の釣った魚が傷みだしそうな距離だ。
 まあ、それをいうなら面影橋あたりから神田上水へお岩と小平の死骸を打ちつけて放りこんだ戸板が、なぜ砂村まで流れ着いて“戸板返し”ができるのかも意味不明なのだ。夜中とはいえ、神田上水へドボンと大きな音を立てて“ゴミ”を棄てたりしたら、見廻りの水道番にしょっぴかれるのがオチだし、うまく水道番屋の監視はすり抜けても、遺体の戸板は椿山Click!下の大洗堰Click!にひっかかって、それより下流へは流れていかないだろう。万が一、関口から上水開渠Click!を流れて水戸藩上屋敷Click!まで流入したりすれば大騒ぎとなり、即座に悪事が露見してしまう。そんな一か八かのリスクが高い“殺し”をやってしまう伊右衛門は、よほど楽観主義者のオバカか大ボケかましに見える。それに、うなぎ搔きの直助権兵衛がことさらユーモラスでドジに感じられてしまうのは、少し足を悪くしたあとの、先々代の勘三郎Click!が演じた役を観ているからかもしれない。
 もうひとつ、わたしの実家があった日本橋の薬研堀界隈(現・東日本橋)を舞台にした矢田弥八『露地の狐』という芝居があるが、わたしは一度も観たことがない。(子どものころ、親に連れられ観賞したかもしれないが記憶にない) もともと、14代目・守田勘弥が得意とした芝居のようだが、薬研堀にある蒲焼き屋「花川」という見世が登場する。まるで落語の『うなぎの幇間(たいこ)』そっくりの筋立てだが、14代目の死去とともに上演されることがなくなったのだろう。
 通りがかりの幕府御家人を、「花川」へ引っぱりこんで蒲焼きをおごらせようとするのだが、逆に食い逃げされてしまうという他愛ないストーリーだ。勘定を払えない幇間(野太鼓)の主人公が、「花川」の見張りを連れて大川端をウロウロするという奇妙な筋立てで、機会があれば観てみたいうなぎ芝居のひとつだ。
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 さて、うなぎといえば街角で気軽に食べられる“うな丼”か、芝居茶屋への冷めない出前から生まれた“うな重”なのだが、最近は高価すぎてなかなか気楽に蒲焼き屋の暖簾をくぐるというわけにはいかない。このデフレが収まらない世の中で、高度経済成長期のようなインフレーション状態にあるのが、タバコとオーディオClick!蒲焼きClick!なのだ。「天井ぬけの極高非道」とは、伊右衛門ではなくうなぎClick!のことだ。

◆写真上:高価でちょくちょくは食べられず、せめてペーパークラフトの蒲焼きで……。
◆写真中上は、「砂村隠亡堀の場」で15代目・市村羽左衛門の伊右衛門と2代目・市川左団次の直助権兵衛。は、1953年(昭和28)撮影の疝気稲荷社境内。は、周囲の風景が一変し隠亡堀の面影が皆無になった現在の疝気稲荷社(下)。
◆写真中下は、うなぎ鉤にうなぎ魚籠を担ぎお岩さんの鼈甲櫛を見つけた直助権兵衛。下左は、1977年(昭和58)に出版された川口昇『うなぎ風物誌』(東京書房)。下右は、1960年代に水戸で売られていた「うなぎめし」弁当で180円が羨ましい。
◆写真下は、大正時代から営業をつづける上落合の蒲焼き「源氏」Click!は、親父の遺品のひとつで1948年(昭和23)に出版された『名せりふさわり集』(第一書店)。

うなぎの「天井ぬけの極高非道」。

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 「♪ひととせを今日ぞ祭りの当たり年~警護、手古舞い華やかに~」と、親父が湯につかりながら唄いそうな清元Click!『神田祭』Click!だが、学校の授業より優先した三味Click!のおさらい会や芝居、千代田小学校Click!の授業をサボらせて円タクで見物してまわった二二六事件Click!東京市街Click!など、わたしの祖母にはつまらない学校へ通わせるよりも、優先する「実地学習イベント」がたくさんあった。
 そんな親たちを反面教師にしたせいか、親父は非常にマジメな性格の人間に育ち、謹厳実直な公務員として生涯を終えている。だが、そんな真面目で融通がきかないカタイ親に育てられたせいか、わたしは逆に軟弱な性格に育ったようだ。学生時代には、親父との議論でまず負けることはなかったが、女子との議論ではすぐ折れるという軟弱ぶりを発揮し、クラスメイトから「らしいやね」などといわれていた。
 先日、1977年(昭和52)に東京書房から出版された川口昇『うなぎ風物誌』を読んでいたら、親父が育った家庭環境にそっくりな記述を見つけて、思わず噴き出してしまった。著者の川口昇は日本橋鉄砲町の出身で、うちの元・実家からは南西に1,000mほどのところだが、同書より少し引用してみよう。
  
 ある日、授業中に教室の戸があいて、私の長姉が入って来た。そして田中先生に何事か話していたあと、田中先生が「家に用事があるそうだから帰ってよろしい」といわれた。一寸てれくさかったが帰り仕度をして、姉と一緒に教室を出た。家に帰ると他所行の着物を着せられ、その中に川上といふ人力車宿から二台の車が来て家の前に止った。やがて母や姉達とその人力車に乗せられ、着いたところはニ長町の市村座だった。/「なァんだ」と子供心にも思った。それからは芝居へ連れて行かれる時は、学校へ行く前に話してくれと、その時に云ったような気がする。/当時の市村座は菊五郎、吉右エ門、三津五郎、彦三郎、勘弥、東蔵、菊次郎といった、若手芝居で人気があった。
  
 川口昇の母親と、うちの祖母がピタリと重なるような気がするのだ。学校の教師には、おそらく長姉に家族の誰かがケガをしたか病気になった……などといわせているのかもしれない。マネするのを怖れたのか、わたしには詳しく話してはくれなかったが、おそらく親父も芝居や帝劇の舞台、新作映画にと、祖母に連れ歩かれていたのではないだろうか。学校の勉強よりも、江戸東京では「常識」であり「世間並み」だった舞台や音曲に関する「教養」や「素養」のほうが、よほど大切だと感じていた世代だ。
 余談だが、わたしは母親からよく「勉強しなさい」といわれて不愉快に育ったせいか(いくらいわれても家では宿題さえせず、よく罰として学校の廊下に正座させられていた)、わたしの子どもには「勉強しろ」とは一度も口にしたことがない。子ども時代にたっぷり遊ばないと「大人になってから遊んでも面白かないぞ」とか、遊びを通じて人間関係の機微を識り多彩な経験をするから「心の引き出しがいくつもできて、多角的な視座・視点が獲得できるんだぜ」とか、いい加減なことをいっては遊ばせていたので、学校のお勉強はあまり芳しくはなかったけれど、それでもなんとか一家を構えたり、わたしが見ても「いい女」のガールフレンドを連れてこられる男たちに育っている。
 著者は、鉄砲町の蒲焼き屋「大和田」(旧・親父橋大和田)の四男として生まれており、自身は大手銀行へ就職してまったくちがう道を歩んで家業を継がなかったが、うなぎの研究では蒲焼きヲタクの間で広く知られている。うなぎと芝居のかかわりといえば、すぐに落合地域の北東隣り、目白駅の向こう側の雑司ヶ谷四ツ谷(四ツ家)町Click!を舞台にした、4世南北の『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』が思い浮ぶ。もちろん、三幕の「砂村隠亡堀の場」に登場する直助権兵衛のうなぎ搔きだ。
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 直助権兵衛 以前は直助中頃は、藤八五父の薬売り、今は深川三角屋敷寺門前の借家住み、見世で商う代物は三文花に線香の、煙りも細き小商人、後生の種は売りながら片手仕事に殺生の、簗を伏せたり砂村の隠亡堀で鰻かき、ぬらりくらりと世を渡る、今のその名は権兵衛と金箔付の貧乏人さ。
 ちょっと余談だけれど、「隠亡堀の場」で民谷伊右衛門がお弓を川へ蹴り落としたあと、直助と交わすセリフで「首が飛んでも……」が、原作にないことをつい最近知った。うなぎとからめた印象的な台詞だが、同芝居が大坂(阪)で上演された際に、特に台本へ加えられたものらしい。
 直助 伊右衛門さん、なるほどお前は強悪(ごうあく)だなァ。
 伊右衛門 天井ぬけの不義非道。
 直助 働きかけた鰻鉤(うなぎかぎ)、どうで仕舞は身を割かれ。
 伊右衛門 首が飛んでも動いてみせるワ。
 直助 まことに関心、奇妙。
 この台詞について、宇野信夫が監修した舞台のことを同書より引用してみよう。
  
 宇野信夫さん監修で鶴屋南北の代表作「東海道四谷怪談」が先年国立劇場で中村勘三郎、松本幸四郎の主演で上演された。宇野さんはその解説で、隠亡堀で伊エ衛門の「首が飛んでも」の名ぜりふは、大阪の上演本「いろは仮名四谷怪談」にあるので、この台本はあまり上等とは思われませんが、こうした名ぜりふは取入れましたと言っている。
  
 わたしは、民谷伊右衛門の「雑司ヶ谷四谷町浪宅」の近く(直線距離で1.5kmほど)に住みながら、「砂村隠亡堀」=南砂町は訪ねたことがない。ひょっとすると子どものころ、親は連れていってくれたのかもしれないが、まったく憶えがない。大人になってからも出かけていないのは、ただただ遠いからだ。
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川口昇「うなぎ風物誌」1977.jpg うなぎめし弁当1960年代.jpg
 「砂村隠亡堀」は、現在の江東区南砂3丁目にある疝気(せんき)稲荷Click!あたりといわれているが、うなぎ搔きの直助権兵衛がなぜ堀割りが縦横に走り、「江戸前」のうなぎがふんだんに獲れる地元の深川界隈から、わざわざ砂村まで“出張”してきているのかがわからない。ついでに、釣竿をかついで雑司ヶ谷村から砂村までやってきた民谷伊右衛門の散歩にいたっては、なおさら不可解だ。直線距離で片道12km(道を歩いたらゆうに15kmで往復30kmは超えるだろう)もあるところへ、いくら江戸期の人々は健脚だったとはいえ、釣竿かついで散歩に出かけるだろうか? よほど急ぎ足で帰らないと、夏なら魚籠の中の釣った魚が傷みだしそうな距離だ。
 まあ、それをいうなら面影橋あたりから神田上水へお岩と小平の死骸を打ちつけて放りこんだ戸板が、なぜ砂村まで流れ着いて“戸板返し”ができるのかも意味不明なのだ。夜中とはいえ、神田上水へドボンと大きな音を立てて“ゴミ”を棄てたりしたら、見廻りの水道番にしょっぴかれるのがオチだし、うまく水道番屋の監視はすり抜けても、遺体の戸板は椿山Click!下の大洗堰Click!にひっかかって、それより下流へは流れていかないだろう。万が一、関口から上水開渠Click!を流れて水戸藩上屋敷Click!まで流入したりすれば大騒ぎとなり、即座に悪事が露見してしまう。そんな一か八かのリスクが高い“殺し”をやってしまう伊右衛門は、よほど楽観主義者のオバカか大ボケかましに見える。それに、うなぎ搔きの直助権兵衛がことさらユーモラスでドジに感じられてしまうのは、少し足を悪くしたあとの、先々代の勘三郎Click!が演じた役を観ているからかもしれない。
 もうひとつ、わたしの実家があった日本橋の薬研堀界隈(現・東日本橋)を舞台にした矢田弥八『露地の狐』という芝居があるが、わたしは一度も観たことがない。(子どものころ、親に連れられ観賞したかもしれないが記憶にない) もともと、14代目・守田勘弥が得意とした芝居のようだが、薬研堀にある蒲焼き屋「花川」という見世が登場する。まるで落語の『うなぎの幇間(たいこ)』そっくりの筋立てだが、14代目の死去とともに上演されることがなくなったのだろう。
 通りがかりの幕府御家人を、「花川」へ引っぱりこんで蒲焼きをおごらせようとするのだが、逆に食い逃げされてしまうという他愛ないストーリーだ。勘定を払えない幇間(野太鼓)の主人公が、「花川」の見張りを連れて大川端をウロウロするという奇妙な筋立てで、機会があれば観てみたいうなぎ芝居のひとつだ。
上落合源氏.JPG
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 さて、うなぎといえば街角で気軽に食べられる“うな丼”か、芝居茶屋への冷めない出前から生まれた“うな重”なのだが、最近は高価すぎてなかなか気楽に蒲焼き屋の暖簾をくぐるというわけにはいかない。このデフレが収まらない世の中で、高度経済成長期のようなインフレーション状態にあるのが、タバコとオーディオClick!蒲焼きClick!なのだ。「天井ぬけの極高非道」とは、伊右衛門ではなくうなぎClick!のことだ。

◆写真上:高価でちょくちょくは食べられず、せめてペーパークラフトの蒲焼きで……。
◆写真中上は、「砂村隠亡堀の場」で15代目・市村羽左衛門の伊右衛門と2代目・市川左団次の直助権兵衛。は、1953年(昭和28)撮影の疝気稲荷社境内。は、周囲の風景が一変し隠亡堀の面影が皆無になった現在の疝気稲荷社。
◆写真中下は、うなぎ鉤にうなぎ魚籠を担ぎお岩さんの鼈甲櫛を見つけた直助権兵衛。下左は、1977年(昭和58)に出版された川口昇『うなぎ風物誌』(東京書房)。下右は、1960年代に水戸で売られていた「うなぎめし」弁当で180円が羨ましい。
◆写真下は、大正時代から営業をつづける上落合の蒲焼き「源氏」Click!は、親父の遺品のひとつで1948年(昭和23)に出版された『名せりふさわり集』(第一書店)。

戸山ヶ原の旧・陸軍コンクリート構築物。

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 以前、大正期から昭和初期に建てられた、下落合のコンクリート構造物Click!について書いたことがある。大正後期から、一般の住宅Click!や宅地造成でセメントClick!が多用されるようになった。おもにコンクリート塀を観察した事例が多かったが、多摩川の砂利と秩父のセメント資材Click!を運搬する、高田馬場駅の南に西武鉄道Click!が設置した建設資材・砂利置き場Click!や、大正期に同社が全面協力した村山貯水池Click!(多摩湖)の建設に用いられたコンクリート堤防Click!などを観察して記事にしている。
 今回は、旧・陸軍施設が集中し、新宿が戦前に「軍都」Click!と呼ばれるきっかけとなった、戸山ヶ原Click!について細かく観察してみたい。ただし、山手線をはさみ東西に展開していた陸軍施設Click!構造物Click!については、これまでも何度か取り上げ、素材のコンクリートが壊されたあとの残滓については、何度か記事Click!に取りあげてきているので、きょうは山手線東側の戸山ヶ原Click!に残るコンクリートの構造物について、改めて細かく観察してみたい。
 まず、明治期から設置されていた陸軍戸山学校Click!と、古くからの陸軍軍楽学校の周辺を観察してみよう。初期の陸軍戸山学校は、大正期まではのちの陸軍衛戍病院Click!(現・国際医療センター)の位置から、大久保通り沿いに箱根山Click!の南東下ぐらいまで細長くつづいていた。戸山学校が、東側の敷地を陸軍衛戍病院にゆずり、大久保通りから箱根山の東側一帯へ広く、そして深く展開するのは、大正末から昭和期に入ってからのことだ。また、箱根山をはさんで戸山学校の西側に、陸軍幼年学校の校舎が建てられるのも大正末以降のことだ。
 軍楽学校と軍楽隊は混同されがちだが、軍楽学校の西側の箱根山東山麓、戸山学校敷地の北側へ、昭和初期に軍楽隊の兵舎が建設されている。また、陸軍衛戍病院の北側へ陸軍軍医学校を建設する際、戸山ヶ原の大きな谷戸が中途で埋め立てられ、衛戍病院と軍医学校の往来をしやすくしている。ちょうど、下落合の第一文化村Click!における前谷戸の追加造成Click!と同様に、谷戸の途中が土砂で埋められてしまったため、湧水源にあたる谷戸の突き当たりの谷間は、ほぼそのままの地形で残されている。現在、国立健康・栄養研究所の南側敷地が、急に凹状にへこんでいるのはそのせいだ。このあたりの土木工事は、戸山学校が西側へ移動するとともに衛戍病院が建設される、大正末から昭和初期にかけて行なわれている可能性が高い。
 さっそく、その付近のコンクリートの残滓を観察すると、戸山学校の敷地や軍楽学校、あるいは軍楽隊のあたりには、それらしい遺物をいくつか確認することができる。まず、昭和初期に建てられた将校会議室Click!(現・戸山教会)の西側には、随所に玉砂利の粒が大きいコンクリート片が散らばっている。当時は、鉄筋を支柱あるいは芯にしてコンクリートの構造物を造るよりも、多摩川の良質で大きめな玉砂利をふんだんに使い、セメントとともにそのまま固めて用いる例が少なくなかった。場所からいえば、これらの玉砂利(というか小石と表現したほうが適切な大きさだ)を用いたコンクリートの残滓は、戸山学校の校舎かその基礎、外壁、あるいは塀などに使われていたものではないだろうか。
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 その戸山学校跡から、箱根山を左まわりへ西へ歩くと、軍楽隊兵舎跡と野外音楽堂跡に出る。軍楽隊の野外音楽堂は1943年(昭和18)3月に竣工したものだが、実はそれ以前から軍楽学校の練習場として、この窪地は使用されていたのではないだろうか。なぜなら、同音楽堂へと下る階段のコンクリートが、意外に古いとみられるからだ。この階段は、表面を薄いコンクリートでコーティングされているが、その下からのぞくコンクリート階段は、やはり大粒の玉砂利が用いられていて古い仕様だ。つまり、表面を覆うコンクリートは、階段を設置するのと同時の可能性もあるが、野外音楽堂ができた際、あるいは後世に追加でコーティングされたのかもしれず、本来のコンクリート階段はその下層に塗りこめられている可能性がある。
 大正期から昭和初期にかけてのコンクリート構造物には、大粒で良質な玉砂利がふんだんに使われている。ところが、昭和に入ってしばらくすると、河川で採取できる良質な玉砂利がなかなか採れずに高騰し、セメントとともに混ぜる砂利は、より安価な小粒のものへと変わっていく。戦時中から戦後にかけてはさらに不足し、小粒の砂のような砂利が用いられるようになった。戦後は、河川の良質な砂利(小粒でさえ)を手に入れるのが困難となり、やむをえず海の砂利を用いることが多いため、塩分で内部の鉄筋が腐食しやすいという課題が浮上しているのは周知のとおりだ。
 つまり、見分け方のひとつの目安として、大粒の良質な玉砂利をふんだんに用いて、芯として鉄筋が用いられていないコンクリート構造物は年代が古く、その砂利が細かくなるほど新しい……という、たいへん大雑把なとらえ方だが、あながち的外れではない観察法ができることになる。もっとも、昭和10年代に建設された大金持ちの住宅には、良質な玉砂利が惜しげもなく使われているだろうし、経費節約のために小粒の砂利を用いた大正初期のコンクリート建築もあるので、いちがいに決めつけるわけにはいかない。そしてもうひとつ、それがなんらかの軍事施設であれば、少しぐらい経費がかさんでもコンクリートに高価な玉砂利を混ぜることには、なんら支障がなかったという事情も考慮しなければならないだろう。
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 さて、つづいて戸山学校と衛戍病院の北側一帯を見てみよう。このあたりは、昭和10年代に入ると次々に陸軍施設(おもに秘匿を要する特別施設)が建てられるエリアだ。戸山学校の北側には、陸軍中野学校Click!の統括機関である兵務局分室Click!(通称ヤマ)が設置されている。また、軍医学校の西側にある谷間には、防疫研究室や細菌研究室Click!(731部隊の本拠地)が設置されている。だが、10年ほど前に歩いて写真に収めた、戸山学校北側のコンクリートブロックを重ねた築垣が、コンクリートの新しい擁壁に変わってしまっていた。かろうじて、衛戍病院の北側に少し残されていたが、こちらの築垣は西側の箱根山までつづいていた築垣に比べやや新しそうだ。
 防疫研究室や細菌研究室と兵務局分室(ヤマ)を仕切っていたコンクリート塀はそのままだが、10年ほど前に撮影した随所に転がる大粒の玉砂利を用いたコンクリート片は、すっかり片づけられてなくなっていた。元・看護師の証言から、敗戦と同時に戸山ヶ原の随所へ埋められたとみられる人骨標本の第2次発掘調査の際に、散らばるコンクリート片を集めて廃棄したものだろうか? 衛戍病院の西側につづくコンクリート塀も、のちに補修されているとはいえ古そうだ。ただし、用いている砂利がかなり細かいため、昭和期に入ってからの建築ではないかと思われる。この塀の上には、かつて新しいコンクリートを重ねたり、新たなブロックを積み上げたりした痕跡が残っている。
 防疫研究室や細菌研究室の跡にできた、戸山公園多目的広場も歩きまわってみたかったが、あいにく少年野球の試合日でゆっくり見学することができなかった。ほかにも、戸山公園の西側、明治通りに面してつづいていた幼年学校跡にも、大正末から昭和初期とみられるコンクリート片がいまだに散在している。校舎の基礎あるいは塀、外壁などに用いられたものか大きな玉砂利が密に詰まる、たいへん贅沢な造りをしている。
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 先述した軍楽隊の野外音楽堂へ下りる階段の造りは、1922年(大正11)に橋上駅化された目白駅Click!でも見ることができる。内面は、大粒の玉砂利をふんだんに混ぜて頑丈な構造にしつつ、外面にはなめらかなコンクリートを薄くコーティングして、階段を上り下りしやすいようにしている。確かに、大粒の玉砂利がのぞく階段は、蹴つまずく怖れがあって危険だし、なによりもなめらかにコーティングしたほうが見栄えがいいにちがいない。ちなみに戸山ヶ原Click!への散歩は、自宅からすべて徒歩でまわったため約10kmも歩いてしまった。緑が多いとはいえ、盛夏の戸山ヶ原Click!散歩は疲れるのだ。

◆写真上:陸軍軍楽隊の野外音楽堂に下りる、谷間の2ヶ所に設置された階段。
◆写真中上は、1923年(大正12)作成の戸山ヶ原東部の1/10,000地形図。は、以前に撮影していたコンクリート残滓で、戸山学校北側の擁壁(上)、防疫研究所跡に転がるコンクリートブロック(中)、防疫研究所・最近研究所と兵務局を仕切る塀(下)。は、1944年(昭和19)の敗戦直前に撮影された戸山ヶ原東部。
◆写真中下は、軍楽隊の野外音楽堂へと下りる階段の表面が剥がれた中面の様子。は、1956年(昭和31)に地元で復元された野外音楽堂(上)と、公園のまるで四阿風に変えられた現代の風情(下)。は、2枚とも戸山学校跡の周辺(箱根山の西側)に散らばる大粒の良質な玉砂利を使ったコンクリート片。
◆写真下は、陸軍衛戍病院の東側擁壁(上)と西側の塀(中)。東側の擁壁表面に貼られたコンクリートブロックの亀裂から、中面のより頑丈な擁壁がのぞいている。コンクリート建築のため空襲でも焼けず、戦後は国立第一病院としてそのまま使われつづけた陸軍第一衛戍病院。は、明治通り沿いに残る陸軍幼年学校跡のコンクリート塊。は、エレベーター工事のため解体中の目白駅階段の断面。鉄筋は使われておらず、大粒の玉砂利を使った無垢のコンクリートで、表面を小砂利混じりのセメントでなめらかにコーティングしているのは、戸山ヶ原の軍楽学校あるいは軍楽隊の階段と同じ仕様だ。
おまけ
東五反田は池田山のバッケ坂に残る、大正末の建設とみられるコンクリートの柵柱(上)と、大正期に竣工した村山貯水池(多摩湖)の高欄柱の断面(下)。
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続・画家たちへの奇妙なアンケート調査。

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 ずいぶん以前、1925年(大正14)の春に中央美術社Click!が実施した、画家たちへの奇妙なアンケートの記事Click!を書いたことがある。その際、村山知義Click!の回答と小出楢重Click!池部鈞Click!など一部の回答についてはご紹介していた。今回は、他の画家たちの回答も見つかったので、改めてご紹介したい。
 中央美術社が用意した画家たちへの質問は、以下の10項目だった。
 一、貴方は毎朝何時にお起きになりますか。
 二、床屋へは何日隔き若しくは何ケ月隔き位ゐに行かれますか、失礼ですが。
 三、御酒と煙草はどれくらゐ召し上りますか、序でに御愛用の品種を。
 四、御健康を保つ上に何か特別の養生法をおやりになつて居られますか。
 五、奥様をお呼びにになるのに常々どういふお言葉をお用ゐになりますか。
 六、此の世で一番憎らしいとお思ひになるものは何んですか。
 七、貴方がお得意とする隠し芸を。
 八、貴方の娯楽と道楽をお聞かせ下さい。
 九、一ケ年を通じての御制作は平均どれ位ゐになられますか。
 十、和歌、俳句、短詩、都々逸、端唄――何んでも一ツ二ツ御近作を。
 まずは下落合の596番地、牧野虎雄アトリエ(604番地)の真ん前、曾宮一念アトリエ(623番地)の斜向かいのアトリエで暮らしていた、片多徳郎Click!の回答から見てみよう。
  
 一、子共達の御蔭で八時には起きます。
 二、一ト月隔き或は二タ月隔き。
 三、酒は一日五合迄。煙草は敷島を一日に一包。
 四、麦飯を喰ふ事。
 五、『オーイオーイ』又或時は「母ちやん」。
 六、金。
 七、歯ぎしりと寝言。
 八、止むを得ず飲む酒。
 九、不定。
 十、考えた事がありませぬ。
  
 八の設問に、「止むを得ず飲む酒」と答えているのが目をひく。牧野虎雄は酒が大好きだったが、片多徳郎はそれほど好きで飲んでいたのではないのがうかがわれる。それでも、「酒は一日五合迄」と決めているのが、いまから見ればどこか痛々しい。「五合」は、決して少ない量ではないので、おそらく自制しなければ1升はすぐに飲んでしまったのではないだろうか。
 「此の世で一番憎らしい」のが「金」と答えており、常に芸術と生活とのはざまで追いつめられていった様子が透けて見えそうだ。こののち、アルコール依存症が昂じて1934年(昭和9)に家を出たまま失踪し、名古屋の寺で自裁している。
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片多徳郎「自画像」1932.jpg 萬鉄五郎「赤い目の自画像」1913.jpg
 つづけて、東京美術学校の5年後輩であり、目白中学校Click!の美術教師をしていた清水七太郎Click!へ、下落合にアトリエの空きがないかどうかを問い合わせしていた、茅ヶ崎町茅ヶ崎4275番地の萬鉄五郎Click!から寄せられた回答を見てみよう。
 このとき清水七太郎は、中村彝Click!の弟子であり下落合584番地に住んでいた、二瓶等Click!の留守アトリエを紹介している。ちょうど二瓶等Click!は、制作活動と個展開催のために故郷の北海道に帰省しており、アトリエは長期間使われないままの状態だった。萬鉄五郎は、市街地から西北に位置する郊外風景を数多く残しているので、画家の集まる下落合には親しみを感じていたのかもしれない。
  
 一、其の時のねむさ加減で朝七時から九時までに起きます。
 二、床屋で待たされるのがいやですから、バリカンで妻に短くからせます。
 三、酒は五勺まで。煙草は禁じて居ますが他出すると遂吸ひます。
 五、妻を呼ぶ時名前を呼べば差支ありませんが場合により変化することあり。
 九、大概毎日何かやつて居ますが制作の数を勘定して見た事はありません。
  
 萬鉄五郎は、病身の娘ともども茅ヶ崎で暮らす療養生活に、そろそろピリオドを打ち心機一転したかったのだろう、1926年(大正15)の夏から下落合の貸しアトリエの物件探しをはじめている。ところが、同年の暮れに16歳になった長女・登美を結核で亡くし、それが原因で大きく気落ちした面もあるのだろう、その萬自身もまた翌1927年(昭和2)5月、41歳の若さで急死している。
 二瓶等のアトリエに、萬鉄五郎が引っ越してきていたら、下落合の美術界にも大きなインパクトや変化があったのではないかと思うと、ちょっと残念だ。
 下落合に住む沖縄の画家たちClick!が、よく通っていた画塾に「同舟舎洋画研究所」があるが、小林多喜二Click!の妻・伊藤ふじ子Click!も通った同画塾を主宰する小林萬吾Click!の回答を見てみよう。このとき、小林萬吾はすでに東京美術学校の教授であり、帝展審査員もつとめ作品をパリ万博へも出品していた。
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片多徳郎「春暖」1931.jpg
  
 一、七時から八時の間。
 二、髪の毛の五月蠅くなつた時。
 三、晩酌小量、ウエストミンスター拾五本位。
 四、便秘に注意する。
 五、さん付けにする。
 七、謡曲。
 八、音楽と旅行。
 九、平均とれず。
  
 さすがに作品も売れ、それなりに地位もおカネもある余裕の画家は、趣味が謡いClick!で英国一流の“洋モク”をふかしながら、コンサートや旅行にと生活を楽しんでいるのがわかる。夫人を「さん付け」で呼ぶのは、林武Click!幹子夫人Click!のように、性格的にかなりおっかなかったのだろうか。
 アンケートを概観すると、画家たちは朝起きる時間が案外早いことに気づく。このあたり、同じ表現者でも作家たちとは根本的にちがう点だろう。作家は真夜中でも仕事ができるが、画家たちは基本的に外光の下で仕事をするので、起床時間に双方で5~6時間ほどのズレがありそうだ。ただし、朝夕に関係なくアトリエで制作をする画家もいるし、早朝から机に向かう作家もいるので、例外がないわけではない。
 特に大正後期になると、マツダ電気や東京電気などからより自然光に近い照明器具Click!が発売され、夜でもアトリエにこもる画家がそろそろ出はじめている。また、アブストラクトな表現の画家たちは昼夜関係なく制作しているので、別に午前中に起きる必要はなかっただろう。
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萬鉄五郎「郊外風景」1918頃.jpg
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 画家たちへのアンケート結果が掲載されたのは、1925年(大正14)に発行された「中央美術」6月号だが、ほかにも下落合にゆかりのある画家たちが、同様の回答を寄せていると思われるので、また機会があれば見つけしだいご紹介してみたい。

◆写真上:下落合596番地にあった、片多徳郎アトリエ跡の現状。そのすぐ裏手には、1927~1930年(昭和2~5)まで村山知義・籌子夫妻Click!が住んでいた。
◆写真中上は、1925年(大正14)発行の「中央美術」6月号。は、自裁する2年前の1932年(昭和7)に描かれた片多徳郎『自画像』()と、1913年(大正2)制作の萬鉄五郎『赤い目の自画像』()。表現の時代が、まるで逆転しているかのようだ。
◆写真中下は、1924年(大正13)に制作された片多徳郎『裏庭』。は、1931年(昭和6)に描かれた片多徳郎『春暖』。
◆写真下は、1905年(明治38)に描かれた萬鉄五郎『戸山が原の冬』。は、1918年(大正7)ごろに制作された萬鉄五郎『郊外風景』。は、もう少し長生きしていたら萬鉄五郎が住んだかもしれない下落合584番地の二瓶等アトリエ跡。

バナナを手に出獄する神近市子。

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 大正期の資料、たとえば秋田雨雀Click!などエスペランティストたちの記録や、竹久夢二Click!に関する数多くの書籍、新宿中村屋の相馬黒光(良)Click!に関するさまざまな資料を参照すると、神近市子Click!にピタリと寄り添うウクライナ人(ロシア人とする記述が多い)の姿が必ず登場する。1920年(大正9)9月に下落合の中村彝Click!アトリエで、彝と鶴田吾郎Click!のモデルになったワシリー・エロシェンコClick!だ。
 エロシェンコは滞日中、ただひたすら一方的に神近市子が好きだったようだ。エロシェンコを新宿中村屋に紹介したのは、東京日日新聞の記者をしていた当時の神近だった。そのころから、エロシェンコが彼女を慕っているのが、周囲の人々にもあからさまにわかるほどだったという。だが、神近市子のほうでは、特になんとも思っていなかった様子がうかがえる。エロシェンコが新宿中村屋に寄宿していたころ、彼はなにかというと秋田雨雀とともに、あるいはひとりで神近市子の家を訪ねている。この「恋の一方通行」は、エロシェンコが日本を追放されるまでつづいた。
 その様子を、間近で観察していた相馬黒光(良)は、1977年(昭和52)に法政大学出版局から刊行された『黙移』の中でこんな証言をしている。
  
 神近さんとに(ママ:は)よほど親しかったようですが、私の打診では、神近女史のほうではエロさんに対して淡々としており、エロさんはなかなかそうでなかったと思います。二人が寄るとすぐ火花を散らすような激論が始まりました。ある晩などは店の表二階で二人の声があまり高すぎて、店員は喧嘩だと思って階段を登ってきたことさえありました。これは人を恋している場合、愛のやさしい語をささやく代りに、かえって反対の暴言を吐いたり、愛想づかしをいったりすることが往々あるものです。女史とエロさんの議論もその部類に属するものではなかったかと思います。
  
 神近市子Click!は、1916年(大正5)11月に大杉栄を短刀で刺して傷害事件(いわゆる葉山日蔭茶屋事件Click!)を起こし、傷害罪で懲役2年の実刑判決を受け、横浜拘置所から八王子刑務所分監へ移送されて刑に服した。
 刑期を終えた1919年(大正8)10月3日、八王子刑務所分監の門前には秋田雨雀とともにエロシェンコが出迎えにきていた。このとき、出獄直前の神近市子は着替えのセルの単衣や日用品とともに、バナナをひと房と外字新聞を最後の差し入れとして受けとっている。神近がいつも目を通していた、外字新聞(エスペラント語新聞?)を差し入れたのは秋田雨雀のような気がするが、彼女が大好物だったバナナを差し入れたのはエロシェンコではないだろうか。エロシェンコは身近にいて、神近市子の趣味や嗜好を知悉していたと思われるからだ。
 バナナがきわめて安い今日ならともかく、当時はきわめて高価なフルーツだった。日本へバナナの輸入が急増したのは1915年(大正4)ごろからだが、それでもひと房1円以上(現在の貨幣感覚で3,000円~5,000円)はしたのではないだろうか。
 神近市子が釈放される10月3日早朝、八王子刑務所の分監門前の様子を1919年(大正8)10月4日の東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
  
 淋しい笑顔を見せつゝ神近市子出獄す
 好物のバナナを携へて露国の盲目文学者などが出迎へ
 (前略)獄衣を茲に脱ぎ棄てゝ肌触りのよいセルの単衣に着替へた、是より先露人の盲文学者ワシーリー・エローシエンコ、秋田雨雀、当分市子を引取る麻布新広尾町一の一二一ヱハガキ屋蒼生堂宇井多方書生白土文三とが自動車で七時分監に到着したが一行は着替や日用品等を詰込んだバスケツト、それに市子が好物のバナナ、外字新聞などを携へてゐた、一時間程経て三人は市子を伴つて獄門を出て来た、市子は頭髪をお下げにしセルの単衣に金茶色博多の帯を締め風呂敷包みを抱へゴム草履をはいて居た、顔色は幾分蒼白であつたが頬の色も肉付きもよく左程痩せては居らぬ、清々しい面持で淋しい笑顔を見せつゝ語る『身体は幸ひ丈夫で感冒と腸加答兒を患つたが大したことはありませんでした、唯今非常に興奮して居りますから残念乍ら今日は何も御話が出来ません、唯御挨拶丈で御免を蒙ります』 市子の辞を受けて秋田雨雀氏は語る『神近さんは当分静養し将来は創作家として立つことにならうが獄中でも創作は可なりあつたと聞いて居ります』(後略)
  
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 記事には写真が添えられ、風呂敷に包んだバナナを抱えながら出所する、神近市子の姿がとらえられている。彼女が釈放される直前、刑務所の門前に旧知の仲である秋田雨雀とエロシェンコが迎えにきてくれたのは嬉しかっただろう。だが、それでも神近の心の内に、エロシェンコが棲みつくことはなかった。
 このあと、神近市子たち一行は、彼女を引きとって世話をしてくれ当面の住まいとなる白銀台町の中溝邸へと向かうが、その屋敷の豪華さに一同は驚いている。出所からの様子について、1972年(昭和47)に講談社から出版された『神近市子自伝』から、本人の証言を聞いてみよう。
  
 大正八年十月二日(ママ:三日)、私の刑期は終わった。事務所で書類に何か記入を命じられ、表ルームに行くと二組の迎えが来ていた。/一組は兄に頼まれた郷里の人だったが、一組は秋田雨雀氏と南方から帰って来たワシリー・エロシェンコだった。二人は明け方東京を出て、自動車で来てくれた。(中略) 私はその(中溝邸の)豪華さに度肝をぬかれた。広い玄関をはいると回り縁のついた表座敷があり、その夜は大饗宴が開かれた。お料理の見事さには、秋田氏もエロシェンコもびっくりしていた。二人は九時すぎに帰り、私だけその座敷に泊まった。(中略) この座敷には、私の友人たちや編集者が絶えずやってきた。中でも秋田雨雀氏とエロシェンコは常連であった。(カッコ内引用者註)
  
 エロシェンコについて、特に気にするような筆致では書いていない。あくまでも、彼女を支援してくれていた人々のOne of themのスタンスから、一歩も出ていなかったのがわかる。彼女の出獄を祝おうと、わざわざ早朝から八王子刑務所の門前で、好物のバナナを手して差し入れたにもかかわらず、エロシェンコは彼女の心に特別な感動をもたらすことはできなかった。
 神近市子はこのあと、堰を切ったように執筆をつづけることになるが、1921年(大正10)5月のメーデー事件にからみ、エロシェンコが国外追放処分を受けたときも、その処分取り消しを求めて奔走した相馬黒光(良)ほどには熱心に動かなかった。だが、エロシェンコはいまだ神近市子に恋い焦がれていたらしく、日本で出版した自著(叢文社『エロシェンコ創作集』1~3巻)の印税のうち、1巻ぶんのすべてを彼女に贈るよう編集者に依頼している。(相馬黒光は「全巻の印税すべてを贈る」としていたと証言している)
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 エロシェンコの神近市子への片想いは、当時の新聞種になるほど広く知られるようになっていた。エロシェンコが国外追放された6月4日から19日後、1921年(大正10)6月23日発行の読売新聞より引用してみよう。
  
 盲詩人エ氏の愁しき恋の筺/印税の一半を神近市子氏に
 (前略)然るにても恋は愁しきものよ、この漂泊の盲詩人が嘗て吾が国に滞在中、かの三角恋愛同盟に破れて世間の注目を惹いた神近市子女史と肝胆相照らし、ある時は共同生活をさへ申込んだのであつたが、それも彼女の方から断は(ママ:ら)れ、其後女史と片岡某(ママ:鈴木厚)との結婚によつて、盲詩人の彼女に対する愛情は根底から裏切られて終つた ◇けれどもエ氏は一たび己が心中に萌したその熱情をどうしても棄て去ることが出来ず、その愛情の己に還らぬ思ひ出となつた今日でも、その清い美しい思ひ出を懐しみつゝ、今度叢文閣から出版する二巻(ママ:三巻)の著書の印税中、後の一巻の分を懐しい昔の恋人神近市子女史に贈つてくれるやうに、涙と共に在京の友人に託して来たとのことである ◇女史果して之を受くるや、否や?(カッコ内引用者註)
  
 もちろん潔癖な神近市子は、このような筋の通らないカネの受領は拒否しただろう。
 神近市子の自伝では、エロシェンコの扱いはきわめて簡潔で素っ気ないが、彼が自分を好いてくれたのは知っていたらしく、最後の「あとがき」で次のように書いている。前出の『神近市子自伝』から、つづけて引用してみよう。
  
 盲人のエロシェンコが新宿から青山にある私の家まで歩いてきた日のことも、昨日のように思い出される。玄関でハタキをかけていた女中さんがその異様な姿に驚いて大声をあげたものだ。彼の作品を私が『新女苑』に紹介したのが縁で、児童雑誌から注文が押し寄せ、彼がロシヤ語で書くと、そばから早稲田の学生が訳して編集者に渡した。私は目の不自由な彼のために、外に出れば手をひいてあげたり、品物を取ってあげたりしたが、先方はそれによって愛情のようなものを感じたらしい。が、彼もそれを口には出さず、国外に退去を命じられるまで、私たちはなごやかな友情で結ばれた。
  
 わずか7行の文章だが、恋い焦がれていたエロシェンコは満足したかもしれない。
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 1952年(昭和27)に故郷のウクライナへともどり、同年12月23日にガンで死去するエロシェンコは、戦後、次々と精力的に著作を出しはじめた神近市子のことを、誰かからの風の便りで知っていただろうか? エロシェンコが死去した翌年、彼女は衆議院議員選挙に当選して政治家となり、「売春防止法」の制定に向け全力を傾けることになる。

◆写真上:1919年(大正8)10月3日早朝、風呂敷のバナナを手に出獄する神近市子。
◆写真中上は、新宿中村屋で撮影された神近市子とエロシェンコたち。は、1919年(大正8)10月4日発行の神近市子の出獄を伝える東京朝日新聞。
◆写真中下は、大正期のエスペラント大会の様子で壇上の中央にエロシェンコの姿が見える。は、ワシリー・エロシェンコ()と新聞記者時代の神近市子()。は、1921年(大正10)6月23日に発行された印税の寄贈を伝える読売新聞。
◆写真下:昭和期に入り落合地域に住んだ神近市子の旧居跡で、上落合506番地()と上落合469番地()、そして上落合1丁目476番地()。

続々・ほとんど人が歩いていない鎌倉。

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 北鎌倉のアルバムの中に、住宅らしい建物がとらえられた写真が1枚が残っている。これが、わたしの母方の祖父の妹(大叔母)にあたる人物が、戦前から住んでいた自宅だろうか? わたしが幼稚園から小学校時代にかけての記憶なので(その後ほどなく彼女は亡くなっている)、住宅内部の様子やそこから見える風景などは断片的に憶えているけれど、住宅の外観というと記憶がかすんでハッキリしない。写真に収められた住宅には、明らかに躙り口のついた茶室を思わせる下屋が見えているが、その親戚の家に数寄屋がしつらえられていたかどうかも憶えていない。(冒頭写真)
 さて、前回の「続・ほとんど人が歩いていない鎌倉」Click!につづき、今回は北鎌倉の写真をご紹介したい。アルバムを見ていてまず驚くのが、当時でさえ鎌倉観光の重要スポットのはずだった円覚寺(えんがくじ)の境内に、人っ子ひとり見あたらないことだ。今日なら、鎌倉めぐりの観光バスがひっきりなしに発着し、ヘタをすると休日には横浜・東京方面からの横須賀線が北鎌倉駅へ到着するたび、山門まで行列さえできそうなほど混雑するのに、誰もいないのが信じられない風景なのだ。いや、わたしも静まり返った円覚寺とともに写っているので、当時は実際に目にしていた光景なのだろう。
 撮影のタイムスタンプがないが、わたしが小学校低学年の風貌で写っているので、おそらく以前の鎌倉写真と同様に1960年代の前半ごろの、とある日曜日ではないかと思われる。当時の土曜日は、仕事も学校も午前中のみ勤務や授業があったので、丸1日まとめて休みがとれるのは日曜日か祝日しかなかった。わたしの服装は、真冬の厚い着こみではなく、また寺々の境内では梅がほころびはじめているのが見えるので、おそらく3月中旬ぐらいの情景だろうか。
 さて、円覚寺の山門が茅葺きのままなのが懐かしい。鎌倉時代からつづく、山門へ登るすり減った階段(きざはし)は、先ごろ同寺を訪れた際には人々でごった返していたが、写真では訪れる参詣者もおらず静まり返っている。「♪建長円覚古寺の~山門高き松風に~昔の音やこもるらん~」と、唱歌『鎌倉』Click!の8番を地でいく眺めだ。いまは観光客のざわめきで、樹枝を揺らすかすかな「昔の音」などなかなか聞こえてこない。境内にある、居士林や壽徳庵、北条時宗ゆかりの開基廟(時宗廟)の前にも人はおらず、木々を透かして見る陽のあたった堂宇は、800年近い時代を超えた変わらぬ眺めなのだろう。
 きわめつけは、円覚寺の境内でもっとも混雑する観光ポイントの舎利殿だが、同殿に向かう参道にさえ人が誰もいないことだ。歴史の教科書などのグラビア写真でも紹介される、鎌倉時代を代表的する建築であり、修学旅行の生徒たちも必ず立ち寄る観光スポットなのだが、日曜日にもかかわらず人出がまったくない。おそらく、小学校低学年のわたしは、舎利殿とその周辺の風景を独り占めしたかのように拝観しているはずなのだが、まったく記憶にない。せっかく鎌倉をあちこち連れ歩いてくれた親父が聞いたら、苦笑とともに「いったい、なに観てたんだい」と深いため息を吐かれるだろう。
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 円覚寺境内の妙高池も、また北鎌倉駅前と円覚寺山門との間にある白鷺池も、人の気配がほとんどない。白鷺池のほうは駅にも近いので、商家とみられる建物が池の端に見えている。白鷺池は、現在とは異なり遊歩道のついた公園のような姿に整備されてはおらず、周囲に育った樹木や藪でうっそうとしている。
 円覚寺から、当時は簡易舗装だった国道21号線を踏み切りのある浄智寺や建長寺のほうへ歩いていけば、雨あがりならともかく晴天つづきだと、かなりの土ボコリを浴びた。クルマはほとんど通らなかったが、道路の周囲はむきだしの土面のため、風で飛ばされた土が路面に薄く積もっていた。たまに、地元の路線バスなどが走ると、その土ぼこりが舞いあがり髪や衣服について困ったのを憶えている。アルバムから、緑深い浄智寺の写真をピックアップしてみよう。
 ここで初めて観光客……というか、黒いバッグを下げたスーツ姿の学者か教師らしい人物が、「寶所在近」の扁額がかかる惣門(高麗門)の下に写りこんでいる。きっと、近くの東慶寺にある松ヶ岡文庫で仏教資料の研究をしていて、ついでに浄智寺にも立ち寄った学者か、春休みを利用してフィールドワークにやってきた歴史の教師といったところだろうか。また、独特な意匠で有名な山門(鐘楼門)の下にも人物が見えるが、こちらは手桶に花を持っているので、浄智寺の墓所へ墓参りにきた地元の人だろう。
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 アルバムのページをめくり、円覚寺の斜向かいに建立された東慶寺(かけこみ寺)の様子はどうだろうか? 東慶寺は、江戸期からかけこみ寺(縁切り寺)Click!としてことさら有名になったせいか、今日でも女性の参観客が目につくが、墓所には文化関係者の墓が多く文学ファンなどでもごった返す寺だ。同寺の墓地には、下落合ではおなじみの安倍能成Click!真杉静枝Click!をはじめ、西田幾多郎、岩波茂雄Click!和辻哲郎Click!小林秀雄Click!、高木惣吉、田村俊子、野上弥生子Click!高見順Click!、三枝博音、三上次男、東畑精一、谷川徹三、川田順などが眠っている。また、例によって中国や朝鮮半島の儒教思想に忠実な薩長政府が、女性の宮司(巫女)や住職を“追放”Click!したため、東慶寺は尼寺であるにもかかわらず、男の住職がつづく奇妙な状態がつづいている。
 さて、50年ほど前に撮影された東慶寺の写真を見ていくと、やはり境内には人っ子ひとり写っていない。例外は、同寺に隣接している鈴木大拙が開設した松ヶ岡文庫の利用者たちで、仏教(特に禅宗)に関する調べものが目的の専門家や研究者、男女の学生たちが、閉館間近なのか門を出る様子がとらえられている。無人の境内に比べると、同文庫だけが賑わっているのがかえって異様に見える。
 そのほか、百雲庵や龍隠庵、寿徳庵、黄梅庵、明月院、長寿寺とすべてが無人で、かろうじて建長寺の山門周辺のみ、チラホラと人物が写っている。国道21号線を外れると、道はすべて未舗装なので雨の日の散歩はやっかいだった。前日に雨が降った日など、山道のハイキングはもちろん、平地の道路もぬかるんでいるので歩きにくく、鎌倉散歩は中止になって横浜あたりで休日をすごしていたのを憶えている。
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 大叔母が暮らしていた、北鎌倉女子学園のある台山の丘上周辺が写ってないかどうか、けっこう注意してアルバムを眺めてみたのだが、それらしい情景の写真は見つからなかった。ひょっとすると、アルバムへ写真を整理する過程で、親父のフィルターにより取捨選択されているのかもしれない。北鎌倉駅の北西側は、古くからの閑静な住宅街がつづき、親父が興味を惹きそうな仏教建築や仏像がほとんど存在しないせいもあるのだろう。

◆写真上:北鎌倉の親戚らしい家だが、数寄屋のしつらえがあったかどうかは失念。
◆写真中上からへ、人っ子ひとりいない円覚寺の境内で、いまだ茅葺きの山門に居士林、壽徳庵、そして観光スポットの定番なのに誰もいない舎利殿参道。
◆写真中下の2葉は、北条時宗が開いた円覚寺の開基廟と同寺の妙高池。の3葉は、ようやく学者か研究者のような人に出会った浄智寺で、「寶所在近」扁額がかかる惣門(高麗門)と、地元の住民が墓参りでくぐるめずらしい意匠の山門(鐘楼門)、そして草叢に埋もれそうな未整備の甘露ノ井。
◆写真下は、クルマの往来もほとんどないため静まり返った北鎌倉駅前の白鷺池(円覚寺領)。の2葉は、やはり人とまったく出会わない東慶寺(かけこみ寺)の本堂や境内の階段(きざはし)。は、北鎌倉で当時は唯一人の出入りが多かった松ヶ岡文庫の閉館間際の情景。当時、同文庫の休館日は平日だったはずで(現在は火曜日)、1960年代でも日曜日には専門分野の研究者や学生たち、作家、記者などが数多く通ってきていた。

1945年4月14日のヴァイオリンソナタ。

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 さて、どちらが事実だろうか? 以前、向田邦子Click!巌本真理Click!へのインタビューで「東京大空襲の翌日」、すなわち1945年(昭和20)3月11日に日比谷公会堂でコンサートを開いたエピソードについて、1977年(昭和52)に発行された「家庭画報」2月号掲載の向田のエッセイで紹介していた。ところが、山口玲子の巌本真理へのインタビューでは、同年4月13日夜半に行われた第1次山手空襲Click!の翌日、つまり4月14日に日比谷公会堂でコンサートが開かれたとしている。
 巌本真理の疎開(避難)先だった、祖父の家にあたる豊島区西巣鴨653~703番地(旧・西巣鴨町巣鴨庚申塚653~703番地)の巌本善治邸Click!は、東京の市街地から見れば新乃手Click!であり、3月10日の東京大空襲Click!の被害を受けにくい地域だが、同夜のB29は当初の計画エリアを爆撃し終えると、余った焼夷弾を周辺地域にも無差別に投下しているので、その余波を受けて延焼しているのではないかと推測していた。
 ところが、1984年(昭和59)に新潮社から出版された山口玲子『巌本真理 生きる意味』には、まったく異なる事実が書かれている。当時は、本郷にあった巌本邸が東京大空襲の6日前、1945年(昭和20)3月4日の局地的な空襲をうけて延焼し、巣鴨の祖父の家へ避難する経緯は同じだ。3月4日の午前8時すぎ、150機のB29が本郷から下谷(上野)地域を爆撃し、4,000戸が罹災し1,000人を超える死傷者が出ている。
 記述は、巌本一家が巣鴨庚申塚の祖父・巌本善治邸へ避難した、ほぼ1ヶ月後からはじまる。同所より、少し長いが空襲の様子を引用してみよう。
  
 一カ月後の四月十三日夜十一時から十四日未明にかけて、再び空襲を受けた。当時の新聞には、「B29百七十機来襲、爆弾焼夷弾を混用、約四時間に亙つて市街地を無差別爆撃せり」と報じられたが、早乙女勝元編『母と子でみる東京大空襲』によれば、この時の空襲は十五日まで続き、東京の西北部と京浜地帯に来襲したB29は延べ七百機、焼失家屋は二十二万戸に達したという。/この空襲によって真理の一家はまたもや焼け出された。バイオリンケース一つを抱えて防空壕にのがれた真理はそのまま、夜の明けるのを待った。その日、四月十四日、真理は日比谷公会堂で演奏することになっていた。午前九時までに消火したと新聞には発表されたが、実際はまだあちこち火がくすぶっていた。電車も止まってしまって、昼すぎになっても動かない。
 <井口(基成)さんと演奏会をやることになっていたんで、私、歩いていったんですよ。巣鴨から日比谷公会堂まで。前の晩に家焼けましてね。もう一日がかりみたいで歩いていってやっと新橋のあたりまで行ったら、向うからゾロゾロ歩いてくるんです。それでみんな、何となく私の顔を見るんですよ。なんでだろうと思いました。で、私がそのまま行ったら、その人たちもみんな私の後をゾロゾロついてくる。日比谷公会堂へ行ったら、張り紙がしてあってね、“巌本真理行方不明につき中止”って書いてある。それをはがして演奏会をやりました。ズボンをはいたままで、ずうっと歩いてきたんで足にマメができてしまって>(カッコ内引用者註)
  
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 この一文を読んで、もうカンのいい方はお気づきではないだろうか? 巌本真理は、向田邦子のインタビューで4月13日夜半の第1次山手空襲のことを、「東京大空襲」での出来事として語ってしまっているのだ。
 山手空襲に罹災した向田邦子もそうだが、東京では「東京大空襲」といえば1945年(昭和20)3月10日の、一夜にして死者・行方不明者10万人超の膨大な犠牲者を出した、おもに東京東南部の(城)下町をねらった空襲のことをさす。4月と5月の二度にわたる乃手の空襲は、「山手空襲」あるいは「山手大空襲」Click!と表現するのが祖父母の世代からの“お約束”であり、それらを「東京大空襲」とは呼ばない。地元では、空襲直後から地付きの人々の間で一般的につかわれてきている用法であり慣習だ。
 巌本真理が「東京大空襲の翌日」と答えてしまったため、向田邦子は当然、同年3月10日の東京大空襲をイメージし、その翌日の日比谷公会堂における演奏会は3月11日の出来事だという前提で、あとの記述を進めている。わたしも同様に、「東京大空襲の翌日」といえば、3月11日にちがいないので、その光景をイメージしながら記事を書いた。ところが、巌本真理は地元における「東京大空襲」と「山手大空襲」の呼称や規定を知らなかったか、あるいは東京で遭った空襲をすべてひっくるめて「東京大空襲」と大雑把に表現したものかは不明だが(近年、そのように混同し曖昧な表現をする人たちが増えている)、向田邦子の認識との間で少なからず齟齬が生じてしまったのだ。
 念のため、米軍のF13Click!が撮影した爆撃効果測定用の空中写真でも確認しておこう。1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろ、東京上空で撮影された空中写真の1枚に、遠景だがかろうじて巣鴨地域がとらえられた画面が残っている。それを見ると、どうやら同地域は空襲の被害を受けていないように見える。ところが、同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!の8日前、5月17日に撮影された爆撃効果測定用の空中写真を参照すると、巣鴨庚申塚界隈が焼け野原になっているのが見える。すなわち、巌本真理の避難先だった同地域は、同年4月13日夜半の第1次山手空襲で被災していることが明らかだ。
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 巌本真理が、日比谷公会堂へ徒歩で向かったのは第1次山手空襲の翌日、1945年(昭和20)4月14日(土)のことであり、東京大空襲から1ヶ月余がすぎた(城)下町界隈では、すでに余燼はくすぶってはいなかったはずだ。あちこちの焼跡には、疎開先のない地付きの人々による粗末なバラック小屋が建ちはじめていたかもしれない。だから、下町方面の人々は生きのびた幸運を噛みしめながら、いまだ食糧に飢えていたとはいえ、ヴァイオリンコンサートへ出かけてくる“余裕”が生れていたのだ。
 『巌本真理 生きる意味』には、巌本真理が生れた巣鴨庚申塚の邸についての興味深い記述もある。彼女の生家は、巌本善治が運営していた明治女学校の校舎に使われていた、真四角の西洋館だったというのだ。同書より、再び引用してみよう。
  
 (巌本真理の)住居は東京・巣鴨庚申塚の明治女学校跡にあった。かつてはこの辺り一帯、旧中山道に接してざっと五千坪あった土地が、廃校後は五百坪になっていた。内庭をかこんで三棟あり、善治は鉤の手の広い和風平屋建に住んでいた。東に隣接する二階建西洋館が、真理の両親の新居に当てられた。かつては明治女学校の教室に使われた、日本に唯一というスコットランド風の建物だったという。といっても格別の趣きはなく、殺風景な真四角の家で、一階は応接室と食堂の二部屋に、台所、風呂がつき、玄関脇の螺旋階段を上ると二階が寝室と書斎になっていた。(カッコ内引用者註)
  
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 いまに伝わる明治女学校の外観写真に、校舎の一隅だろうか正方形とみられる西洋館をとらえた写真がある。明治女学校の南西側に隣接した巌本善治邸の敷地に、部材を解体して移築したのか、あるいは床下にコロをあてがい“曳き家”をしたのかは不明だが、この建物がのちに巌本一家が暮らし、巌本真理が生まれた西洋館である可能性が高い。

◆写真上:またまた古いステーショナリーを集め、向田邦子ドラマClick!のタイトルバック風に。親父の遺品を整理していたら、満州までの郵便料金や航空郵便の情報などが掲載されたキング切手印紙葉書入Click!や、親父の学生時代のノート(ドイツ語)が出てきた。右端は、第5回帝展(1924年)で販売された二瓶等Click!の入選絵葉書『裸女』。
◆写真中上は、巌本真理のブロマイド()と東京藝術大学の教授時代に撮られたポートレート()。は、明治女学校の記念碑が建つ巌本善治邸の敷地跡。
◆写真中下は、空襲前の1944年(昭和19)に撮影された巌本善治邸の敷地界隈。は、1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろに撮影された東京市街地。(城)下町方面は焼け野原だが、乃手地域の巣鴨界隈は空襲を受けていないのが判然としている。は、第2次山手空襲(5月25日夜半)のわずか8日前=同年5月17日に撮影された巣鴨庚申塚地域。4月13日の第1次山手空襲で、すでに被爆していたのがわかる。
◆写真下は、王子電車(現・都電荒川線)の庚申塚電停。中左は、1984年(昭和59)出版の山口玲子『巌本真理 生きる意味』(新潮社)。中右は、1938年(昭和13)ごろ撮影の巌本真理。は、巌本真理の生家とみられる明治女学校時代の真四角な西洋館校舎。

「たべて見たいと思つたよ」の安倍能成。

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安倍能成邸三間道路.JPG
 夏目漱石Click!の弟子だった松根東洋城が、1915年(大正4)に創刊した俳句誌に「渋柿」というのがある。現在も存続している創刊104年の非常に息の長い雑誌だが、安倍能成Click!は同誌に16回にわたって『下落合より』と題したエッセイを執筆している。戦時中の1942年(昭和17)の「渋柿」10月号から、1945年(昭和20)の「渋柿」2月号までの、2年半にわたる連載だった。
 1945年(昭和20)の「渋柿」4月号から、突然『駒場より』とタイトルを変更しているのは、下落合の自邸が同年4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失Click!しているからだ。その後、避難先である地域名を次々ととって、『経堂より』(同年10月号)から『代田一丁目より』(同年12月)と変わり、戦後の落ち着いたところで下落合へともどっている。『下落合より』は、すべての文章が戦時中に書かれているが、日常のさまざまな描写の間には、安倍能成の人柄や性格を知るうえで興味深い記述が多い。
 『下落合より』(全16回)は、戦後すぐの1946年(昭和21)に白日書院から出版された安倍能成『戦中戦後』に収録された。その中に、彼の「東京郊外」観とでもいうべき文章があるので、1948年(昭和18)の『下落合より(三)』から少し長いが引用してみよう。
  
 併しそれよりも途中車の中でつくづく感じたことは、東京の郊外が大東京市になつて一層汚くなつたことである。大きなアスファルト道路、それもごく粗製のが到る処に出来て、その両側に歯の抜けたやうに家が立つて居る。粗末な洋風とも何ともつかぬ家の間に貧弱な畑が残つて居る。かと思ふと実にごたごたと猥雑に固まつた汚い商店街が横丁にある。今までは草の茂つた里川だつた所がコンクリートに固められて趣を失ひ、昔の木橋に代つてこれも粗末なコンクリートの橋がかかつて居る。(中略) 東京近郊の武蔵野の村落の好もしい風景が破壊されて、場末的な新開地的な殺風景な粗末極まる都会的風景は、まだその新開地的な性格をさへ定めるに至つて居ない。これは好んで「大」を冠したがる地方の都会に於いても皆同じであるが、東京はその点に於いて実に模範的都市である。東京がかうした破壊と粗末な生命の短い建設とをやめて、一国の首都としての充実と調和とを得るのはいつの時であらうかといふことは、空襲の災禍を覚悟せねばならぬ今日の危局の下にも、やはり考へずには居られなかつた。
  
 この文章でも、安倍能成は平然と英語(敵性語Click!)をつかっている。そして、1943年(昭和18)1月の時点で、明確に米軍による空襲の惨禍を予感している。
 同文は、知人の告別式に出席するために、池上本門寺を訪れた際の感想を書いている文章の一節だ。1932年(昭和7)に、東京15区が35区Click!「大東京市」Click!になったことで、郊外へ郊外へと拡がりつづける住宅街を、クルマで道々観察しての感想なのだろう。おそらく、安倍能成が初めて下落合に自邸を建設した大正期には、同じような風景が目白駅の周辺から下落合にかけて拡がっていたにちがいない。しかも、当時の道路は舗装などされておらず、安倍能成は靴を泥だらけにしながら第一高等学校(現・東大教養学部)へ通勤していただろう。
安倍能成「戦中戦後」白日書院1946.jpg 安倍能成1946.jpg
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 その通勤先の一高では、軍部からの圧力と生徒の主体性を尊重する教育とのはざまで、板ばさみになるような日々がつづいていた。しかも、勤労動員により劣悪な環境の工場で病死した生徒について、「名誉の奉仕報国」といわんばかりに「軍雇員」として「賜金」を給付するという軍部に対し、「誤つて死なしめた」と怒りを隠さない。1944年(昭和19)9月13日に書かれた、『下落合より(七)』から引用してみよう。
  
 十時前に登校して全校体操に立ちあふ。この頃の気候のせゐも手伝つてか、今日は非常に数が少ない。生徒の自覚に待つて居てはいけない、といふ声が周囲からはやかましい。自発性を殺さない緊張と統制との困難を思ひ、今日も少し憂鬱になる。(中略) 二時に陸軍被服廠の課長が来て、この間勤務奉仕の途中に病を得てその後なくなつた生徒を、軍雇員に命じ、殉職者としての賜金の沙汰を伝達するのに立ち合ふ。当人が無理をするほど義務心の旺盛な真面目な青年だつたことには、感心しても足りない気がするが、しかしこの好青年を誤つて死なしめた遺憾の方が遥かに大きい。当人父親から母親の悲嘆、弟の落胆の話などを聞くとこの感は愈々切である。
  
 一高の生徒たちは、「小学生じゃあるまいし、なんで朝っぱらから軍人の前で体操しなきゃならねえんだよ」と反発し、ほとんど出席しなかった様子がわかる。
 安倍能成は、日米開戦の当初から敗戦は必至と自覚しているので、軍部からの圧力を「教育の論理」でゆるゆると押し返しながら、なんとか生徒たちを守り生きのびさせようとしている様子がうかがえる。当時、軍部からの要請に対してあからさまに「やかましい」とか、勤労動員において「誤つて死なしめた」と書いて発表した文章を、公開しない個人の戦時日記レベルならともかく、わたしはほかに知らない。
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 陰に陽に軍部へ抵抗をつづけた安倍能成だが、空腹には勝てなかったようだ。以前、肖像画を描いてもらえるというので、1944年(昭和19)に安井曾太郎Click!アトリエClick!へ100回ほど通いつづけたエピソードClick!をご紹介Click!したが、それはアトリエで用意される昼食や、おやつに出される甘いもの(お菓子)が楽しみだったからだ。当時、食糧はすべて戦時配給制になり、腹いっぱい食べることはおろか、1日に三度の食事にありつけるかどうかも不安な時代だった。特に砂糖は貴重品で、安井アトリエで毎回出される甘いおやつに、食いしん坊の安倍能成はウキウキしながら通った様子が記録されている。
 空腹をかかえて原稿用紙に向かい、つい本音のラフな結びで書いてしまったユーモラスなエッセイも残っている。1944年(昭和19)12月13日の夜、夕食後に書かれたとみられる『下落合より(十五)』から引用してみよう。
  
 電車の中では本を読まぬことにして以来久しいのだが、ゴーゴリは竟にその禁を破らせてしまつた。ニ三日前にも乗合を待つて居る間に「馬車」を読み了つて、「肖像画」を三分の一ほどの所まで読みかけ、主人公の青年画家の心境に夢中になつて居る所へ、やつと江戸川行が来た。時計を見ると五十分立つて居たわけだ。ゴーゴリは天才だ。(中略) たゞ感じたことの一つには、小ロシヤなるウクライナ人は実によく喰らふ、殊に小説の中に現はれる地主階級は、自分が御馳走を喰ふことと人に喰はすこととに生存の意義を画して居るらしい、といふことがあつた。時節柄小生も彼等の午餐や晩餐によばれて、肉饅頭だとか仔豚の丸煮だとか凝乳をつけた団子だとかを、たらふくたべて見たいと思つたよ。
  
 文中の「乗合」は乗合自動車Click!=バスのことであり、「江戸川」は葛飾地域の江戸川Click!のことではなく、1966年(昭和41)まで江戸川と呼ばれた神田川に架かる江戸川橋Click!のことだ。安倍能成は、第二文化村から北へ歩いて目白通りへと抜け、文化村前停留所からバスに乗って都電(1943年より東京都)の走る江戸川橋へと向かっている。
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 最初は、いつものように時局への感想や身辺の出来事を、ロシア文学の作品群にからめて書くのかなと思いきや、最後には「たべて見たいと思つたよ」などとしゃべり言葉で終える、謹厳実直で学術的な安倍能成の文章もまた、わたしはほかに知らない。

◆写真上:下落合4丁目1665番地(現・中落合4丁目)の、第二文化村にあった安倍能成邸前の三間道路。安倍邸は三間道路を突き当たった左側の角で、右側手前に見えている大谷石の縁石や築垣は石橋湛山邸Click!の敷地。
◆写真中上上左は、戦後すぐの1946年(昭和21)に白日書院から出版され『下落合より』シリーズ計16編が収録された安倍能成『戦中戦後』。敗戦直後の物資不足で紙質が極端に悪いせいか、ページの変色や一部欠損が進んでいる。上右は、「神話」や「感情」ではなく「科学」と「論理」が教育の基盤だと映像で訴える1946年(昭和21)の安倍能成。は、内田祥三と清水幸重の設計による第一高等学校本館(現・東大教養学部)。
◆写真中下は、下落合4丁目1665番地にあった安倍能成邸跡の現状。は、晩年に住んでいた下落合3丁目1724番地(現・中井2丁目)の安倍能成邸跡の現状。は、東大駒場キャンパスに残る一高時代の講堂(900番教室)。
◆写真下は、同キャンパスに残る一高時代の特設高等科(101号館)。は、1966年(昭和41)3月14日発行の落合新聞に掲載された夏目漱石の記念碑除幕式での安倍能成。漱石の弟子だった安倍能成は、喜久井町夏目坂に建立された記念碑の揮毫を担当した。

絵の具がひっ迫する戦時下の画家たち。

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 戦時下、戦争画Click!をなかなか描かず軍部に協力的でない画家たちは、統制下におかれた絵の具の配給が満足に受けられず、油彩・水彩を問わず本格的な作品が描けないでいた。逆に戦争画を描く画家には、軍部からふんだんに絵の具や筆、キャンバスなどの画材・画道具がまわされ、画面の制作に困ることはなかった。
 戦争画を描かない画家たちは、絵の具がなかなか手に入らないため、雑誌や小説などの挿画をペン・鉛筆・墨などで描きながら、かろうじて糊口をしのぐようなありさまだった。1941年(昭和16)12月の日米開戦以来、さらに配給の厳しさが増すにつれ、秋の展覧会に向けて絵の具の欠乏を食いとめ、公平で効率的な絵の具の分配を実現しようと、1942年(昭和17)5月に上野精養軒で「美術家連盟」が結成されている。同連盟の中心となったのは、戦争画をほとんど描かない木村荘八Click!で、自宅Click!のある杉並区和田本町832番地が美術家連盟の事務局となっている。
 美術家連盟の発起委員には、辻永Click!石井柏亭Click!有島生馬Click!など40名以上のそうそうたる画家たちが名を連ねていたが、軍部に非協力的な画家たちも少なからず含まれており、上野精養軒の結成集会に呼ばれた大政翼賛会文化部陸海軍報道部の代表は、内心にがにがしく思っていたかもしれない。表面上は、軍部へ協力する作品を描きやすいよう、統制された絵の具を効率よく画家たちへ確実に配給し、より「非常時」にふさわしい作品を制作するための、戦時における画材流通基盤の確立のように謳われたのかもしれないが、制作される作品がすべて軍部の要請する「聖戦貫徹」の画面になる保証は、まったくどこにもなかったからだ。
 事実、事務局長を引き受けた木村荘八からして、そもそも春陽会や新文展への出品用に東京の風俗や風景、芝居、静物などの作品しか描こうとはせず、あとは好きな時代小説や風俗帖などの挿画を手がけるだけといったありさまで、絵の具配給の指示・統轄部局である大政翼賛会文化部陸海軍報道部には、ほとんど目に見えての「プロパガンダ・メリット」はなかったように見える。おそらく、木村荘八を含めた美術家連盟のおもな画家たちが、大政翼賛会文化部を巻きこんで絵の具の安定的な入手ルートを確保しさえすれば、あとはモチーフになにを描こうがこちらの勝手だ……とかなんとか相談して、全国の画家たちへ参加を呼びかけたのだろう。
 1942年(昭和17)の7月下旬、全国の絵の具小売店あてに、神田小川町にある東京洋画材料商業組合から、次のようなハガキがとどいた。
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 面白いのは、業界が業界なだけに「ホワイト」「メーカー」「ルート」など、日米戦がはじまっているにもかかわらず英語を自粛せず、従来どおりに多用している点だ。
 確かに、絵の具の専門色名に横文字がつかえなくなれば大混乱をきたし、そもそも画材を扱う業界は成立しえなくなってしまう。油絵の具の「ホワイト」には、メーカーにもよるが7種類前後はあるのが当たり前なので、文面の「ホワイト」がどのホワイトを指しているのかが不明だ。だが、物資不足が深刻化している戦時では、ジンクやチタニウム、シルバー、パーマネント、セラミック……などの別なく、白系統の絵の具をおしなべて「ホワイト」としていたのではないだろうか。
 とにかく、秋の展覧会へ向けた作品の制作には、ホワイト系の絵の具が絶対的に不足しており、要望を受けた美術家連盟では急遽、洋画材料商業組合と協議して、ホワイトを優先的に全国の画家たちへ配給するよう手配したものだろう。
 このハガキの内容について、1942年(昭和17)発行の「新美術」8月号に掲載されている、美術家連盟事務局の木村荘八『連盟の経過』から引用してみよう。
  
 去る七月二十日付けを以つて左のやうな印刷ハガキが東京洋画材料商業組合から全国の絵具小売店へ送達された。/美術家聯盟の会員を限り臨時にホワイトを売渡す配分約束についての通牒であるが、美術家聯盟加入のものは、同時に左の購入券を受取つた。この購入券は絵具工業組合と材料商業組合及び聯盟の合議で印刷したものを(官製ハガキ)聯盟が一纏めに受取つて事務所から改めて全国の聯盟加入者に一人一通づゝ送つたものである。/一体が油絵本位の話だつたので此の購入券を見ても一言の説明さへも用ゐず、頭から油絵具に限るものとされてゐるが――聯盟会員の需要の関係から見て、それは後に、油絵具ならば一人十号チューブ二本、水彩ならば一人四本、といふことに此の同じ購入券を以つて便法風な取扱ひの出来ることを申合はせた。しかしこれは東京以外には徹底されぬ一部の便法に止どまつたかもしれない。――筆者が今この報告文章を誌すのは八月九日であるが、ホワイト購入券に依ればその現品引渡時期は八月八日以後としてあるから、もうそろそろ引渡しの手続になることだらう。
  
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木村荘八「浅草元旦」1945.jpg
 配給券=「ホワイト引替券」には、油絵の具を前提として「壱名に付十号チューブ弐本」としたが、水彩画家を考慮し水彩絵の具なら2本ではなく4本だと、急いで追加の告知をしている。でも、「新美術」8月号が店頭に並んだのは8月の中旬なので、油彩以上にホワイトを多用する水彩画家も、油絵の具と同様にチューブ2本と交換してしまったのではないかと危惧している。
 また、絵の具の原材料が稀少となり値上がりしているため、絵の具の販売価格についても触れている。戦時のため、絵の具の値段は一時的に「停止価格」(政府の統制により値上げをせず一定価格を維持すること)のまま推移していたが、原材料の高騰で改めてコストに見あった価格を設定したい、業者の要望が強まっていたと思われる。つづけて、木村荘八の『連盟の経過』から引用してみよう。
  
 一方の洋画材料商業組合から各小売店に廻された通牒に依れば、「現品は公定価格発表と同時に」送るといふことになつてゐるけれども、これはまだ暫く時間の要る見込である。予めそれがわかつてゐるので、我々聯盟側は、不取敢この二本の臨時配給は公定価格発表以前であつても、品ものやその取扱上の手順さへ付いたならば成る可く早く現品引渡しの段取りとしてくれ、互ひに責任もあるし又秋を控へて需要の差し迫つてゐることでもあるからと、業者に懇談した。業者も亦首肯したのであつた。/この「公定価格の発表」といふことが外界からは説明されないとわかりにくい事情であらうが、又一つには、抑々それが凡ての「根」であつて、聯盟が受動的に絵具業者や材料商業組合とタイアップの形になつたのも誘因はそこにあれば、また、臨時ホワイト配給の今回の事も動機はそこから起つたと云へる。
  
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木村荘八「大鷲神社祭礼」1943.jpg
 先にも記したように、「新美術」8月号が書店の店頭に並んだのは早くても8月中旬、地方ではさらに遅くなったと思われるのだが、早い美術展は9月に幕を開ける。ホワイトのストックがない画家たちは、作品が完成できずかなり焦っていただろう。だが、このような配給が一般の画家たちまであるうちは、まだマシな状況だった。日本の敗色が強まるにつれ、軍部に協力的でない画家たちには絵の具はおろか画材がほとんど配給されず、闇で超高価なそれらを手に入れざるをえない時代が、すぐそこまで迫っていた。

◆写真上:敗戦時に工場が焼け残り、戦後いち早く絵の具を製造を再開した旧・長崎5丁目15番地のクサカベClick!のホワイト各種。上からチタニウム、ジンク、パーマネント。
◆写真中上は、1942年(昭和17)に発行されたホワイトの購入券(配給切符)。は、美術家連盟の役員だった木村荘八()と有島生馬()。
◆写真中下は、ホワイト配給券と同年の1942年(昭和17)制作の木村荘八『残雪』。は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!直前に制作された木村荘八『浅草元旦』。浅草が大空襲で壊滅する、2ヶ月前のにぎわいをとらえている。
◆写真下は、1943年(昭和18)に制作された木村荘八『大鷲神社祭礼』の習作(下絵)。は、1943年(昭和18)に制作されたタブローの画面。

陸軍の地下壕が掘られた淀橋浄水場。

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淀橋浄水工場跡.JPG
 これまで、戦時中に東京の市街地が、どのような組織Click!によって米軍による空襲Click!から「防衛」され、またどのような施策Click!によって空襲の被害を抑えようとしていたかを、落合地域を問わず東京各地の様子をあれこれご紹介してきた。だが、東京市内にあった社会インフラの施設や設備が、どのような方法で守られようとしていたのかには、ほとんど触れてきていない。
 そこで、落合地域も含まれる新宿エリアに明治期から設置されていた、東京の代表的な社会インフラのひとつだった淀橋浄水場Click!の防空対策について検証してみたい。同浄水場で、本格的な「水道防衛」がテーマになったのは、1942年(昭和17)4月18日のB25によるドーリットル隊初空襲Click!からだった。同空襲では、牛込区(現・新宿区の一部)の早稲田中学校のグラウンドにいた生徒が、焼夷弾の直撃を受けて即死Click!している。東京市では、浄水場と水道網をいかに防衛するかが大きな課題となった。そこで、さまざまな「防衛工事」計画が策定されている。
 だが、新宿駅西口に10万坪以上の面積がある淀橋浄水場は隠しようがなく、爆撃機が高高度で飛行してもハッキリと視認Click!できるほど目立つ施設だった。いくら地図から抹消Click!したとしても、偵察機から空中写真を撮られればすぐにバレてしまう。また、施設の構造自体もきわめて脆弱なため、防御を強化するという発想よりも偽装、すなわちカムフラージュを主体とした消極的な「防衛工事」にならざるをえなかった。1944年(昭和19)の暮れまでに、淀橋浄水場では水面の遮蔽(水田偽装)や、場内の工場をはじめとする建物の偽装(壁面迷彩)、煙突など目立つ建築物の解体などが行なわれている。
 これらの施策は、東京市水道局と軍部が淀橋浄水場をめぐる6つの課題について検討する中で、漸次決定されていったものだ。以下、6つの課題を挙げてみよう。
 (1)浄水場と敷地の幾何学的な地形をどのように変更させるか。
 (2)防護に要する膨大な資材と労力が調達可能か。
 (3)短期間に完成する見込みがあるか。
 (4)浄水作業に支障をきたさないか。
 (5)水道水に汚染その他の支障が生じないか。
 (6)風雨雪等に対する耐久性はあるか。
 これらの課題にもとづき、濾池や沈澄池を水田に見立てる工事などが開始されたが、1940年代ともなれば新宿駅の周辺は、すでに商業地の繁華街や住宅街、学校、工場などがびっしりと建ち並ぶ都会化が進んでおり、その中へいかにも不自然な水田が拡がっているようにカムフラージュしても、ほとんどまったく効果がなかった。
 「防衛工事」は、まず濾池×24面(約28,800坪)に偽装網(綿糸製9cm各目)を張り、網目には木くずやシュロの葉などを貼りつけてカムフラージュした。濾池×4面(約27,700坪)には葦簀(よしず)を張り、丸太でそれを支えるようにして偽装している。また、浄水池や敷地内の水路など約60,000坪の施設は、水田や空き地に見せかけて(少なくとも計画者のアタマの中では) 浄水場には見えないように偽装した。広い浄水場内の「防衛工事」には、数百人の学徒が毎日動員されている。
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 建物の「防衛工事」としてポンプ所と滅菌室の周囲には、爆撃時の爆風による被害を防ぐために土嚢が積まれた。浄水場から東京市内へ向けた配水幹線の上部には、直撃弾の対策として厚さ1mにもなるコンクリート製の防護遮蔽が取りつけられている。また、高い建造物は目標になりやすいということで、高さ130尺(約39m)のコンクリート煙突は解体され、場内いたるところにカムフラージュ用の樹木が植えられた。さらに、細菌類の投下による謀略戦を想定し、浄水池の通風筒を密閉する機能も追加されている。
 さて、上記のような「防衛工事」が施された淀橋浄水場だが、第2次山手空襲Click!では大きな被害が出ている。米軍はもちろん、新宿駅西口近くにある同浄水場のことは研究済みで知悉していた。1945年(昭和20)5月25日の22時3分に、東部軍管区情報として警戒警報が発令され、つづいて同日22時22分には空襲警報に変わった。約250機のB29が、おもに山手線西部の焼け残り地域を空襲し、M69集束焼夷弾と250キロ爆弾などあわせて148,700発を投下した。翌5月26日の未明にかけ、約2時間30分の空襲により山手線西側の街々は壊滅した。今日の新宿区(四谷区+牛込区+淀橋区)でいえば、この日までに全住宅地や全商工業地の約80%以上が焼け野原となった。
 5月26日の午前1時0分に空襲警報は解除されたが、淀橋浄水場では場内の建物火災は5時すぎまでつづき被害は深刻だった。火災により事務所(本部)1棟、木工所1棟、鍛冶工場1棟、原水ポンプ所3棟、硫酸ばんど注入所1棟の計332坪の建物を焼失した。また、機器設備として電動ポンプ×7基、硫酸ばんど注入設備×全部、自動車×1台を焼失している。これにより、東京市街へ給水する水道は配水量が50%にまで低下した。
 淀橋浄水場の空襲のみに限ってみれば、わずか1時間ほどの空襲で東京市の大部分にわたる水道インフラの、約50%の配水機能が喪失したことになる。水道が完全に断水しなかったのは、幸運とみるか「防衛工事」のおかげとみるかは意見の分かれるところだが、この空襲に先立つ同年3月10日の東京大空襲Click!により、淀橋浄水場系の本郷給水所(現・本郷給水所公苑)と芝給水所(現・港区スポーツセンター+芝給水所公園)が完全に破壊されている事例を考慮すれば、幸運だったといえそうだ。
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 第2次山手空襲のあとに計画された、不可解な証言も残されている。淀橋浄水場の地下にトンネルを掘り、米軍の本土上陸に備えるために極秘の部隊が配置されたという、当時、淀橋浄水場長だった方の証言だ。空襲後、「池の水面や構造物には、偽装、迷彩、防護などが施されていたし、資材や労力の不足で維持管理が行届かず、(浄水場の)機能は半減していた」ような状況で、トンネル掘りを命じられた部隊が配備されている。
 1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された『淀橋浄水場史』(非売品)所収の、小林重一『淀橋浄水場の思い出』から引用してみよう。
  
 当時、浄水場には、隊長が大尉の小部隊が駐屯していた。話に依ると、敵軍の本土上陸が予想される。上陸した敵軍は、甲州街道と青梅街道を東京に向かって進撃してくる。これを邀撃するため、浄水場の下に縦横に地下道を掘り、作戦に機動性をもたすようにする。この地下道を造るのが、駐屯部隊の仕事だ、ということであった。/甲州、青梅両街道に面している浄水場が、敵軍邀撃の好個の拠点であることは肯けたが、深い池の多い浄水場の下にトンネルを掘ることは大変な難工事である。隊にはトンネルの専門家はいないらしい。新宿駅西口広場に集積された木材は支保工になるしろものではなかった。土木屋の私には全く狂気の沙汰としか思えなかった。本気で掘る積りなら、専門家によく相談して段取りをしなさいと注意した。/勿論、隊長は掘る気でいた。そして、上官から、おまえらの墓場を掘る積りでしっかりやれ、といわれてきた、ともいっていた。
  
 当時の陸軍は、湘南海岸の中央にあたる平塚海岸に大部隊を上陸させ、馬入川(相模川)沿いに北上して八王子を攻略し、甲州街道や青梅街道を東へ進撃して東京市街地へと侵攻する米軍のコロネット作戦Click!を、その空襲の規模や傾向などから、かなり正確かつリアルに把握していた様子がうかがえる。
 実際にトンネルが掘られたのかどうかは、小林重一の証言には書かれていない。空襲から敗戦まで、いまだ3ヶ月も残す時期のことなので、新宿西口広場に集められた資材を用いて、浄水場内のいずれかの地下にトンネルが掘られていたのかもしれない。また、敗戦から20年後の証言とはいえ、当時の軍事機密に属することなので、あえて証言が控えられている可能性も考えられる。
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 あるいは、淀橋浄水場の跡地が競売にかけられているまっ最中に書かれた文章なので、地中には陸軍の地下壕が眠っているなどと書けば入札に影響が出ると考え、あえて証言を避けたのかもしれない。だが、トンネルが浄水場のどこかに掘られていたにせよ、跡地の大規模な「副都心開発」計画で、とうに破壊されているのはまちがいなさそうだ。

◆写真上:機関室の煙突がそびえていた、淀橋浄水工場が建っていたあたりの現状。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に陸軍によって撮影された淀橋浄水場。は、沈澄池と濾池の偽装(カムフラージュ)工事。1944年(昭和19)に工事は実施されたが、大編隊のB29による絨毯爆撃にはほとんど意味がなかった。
◆写真中下は、爆風に備え滅菌室の周囲に積まれた土嚢。は、機関室に付属する130尺(39m)コンクリート煙突の解体工事。は、1944年(昭和19)撮影の偽装工事が完了したあとの淀橋浄水場。ご覧のように、いくら網や葦簀で池の水面を遮蔽しても、上空から見れば浄水場の形状は明らかでカムフラージュの効果はほとんどなかった。
◆写真下は、1944年(昭和19)に撮影された新宿駅西口から淀橋浄水場にかけての一帯。新宿駅南口から浄水場にかけ、防火帯35号線(淀橋浄水場線)の建物疎開Click!がはじまっている。は、1945年(昭和20)5月25日夜半にB29から撮影された空襲下の新宿駅(下)と淀橋浄水場(上)。は、1971年(昭和46)に撮影された淀橋浄水場跡地で、濾池跡の東端には京王プラザホテルが建設中だ。
おまけ
下落合の森でミンミンゼミやアブラゼミ、ツクツクボウシの大合唱に混じり、めずらしくクマゼミの声を聞きました。暑い日がつづいたので、西から迷いこんだものでしょうか。

淡谷のり子の語る“生き霊”怪談。

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 淡谷のり子Click!は、関東大震災Click!の直前まで恵比寿に住み、震災後は上落合に転居してきている。そして、長崎1832番地(現・目白5丁目)にアトリエがあった田口省吾Click!の専属モデルをつとめるために、アトリエの近くへ引っ越したのだろう、大正末から昭和初期にかけ母とともに下落合の家で暮らしていた。だが、彼女の落合地域における住所はわからず、いまもって判明していない。
 上落合の住居は見当がつかないが、下落合における淡谷のり子の住居は、おそらく田口省吾のアトリエからそれほど離れてはいない、目白通りの近くではなかったかと想定している。また、当時は東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に通っていたので、下落合の東寄り、目白駅の近くではなかっただろうか。ちょうど淡谷のり子が東洋音楽学校へ通っていたころ、1924年(大正13)11月に同校は神田の裏猿楽町から、高田町雑司ヶ谷(現・東京音楽大学の所在地)へと移転している。下落合の目白駅寄りであれば、同校までは直線距離でも1kmちょっととなり、ゆっくり歩いても20分ほどでたどり着ける。
 さて、落合地域での淡谷のり子の住まい探しは保留にして、今回は夏らしく再び彼女の怪談話をひろってみよう。前回は、淡谷のり子に未練を残した田口省吾の死霊Click!だったけれど、今回は彼女のもとを訪れた“生き霊”のエピソードだ。時代は、歌手としてコロムビアからデビューして、住まいを下落合から大岡山へと移し、レコードの吹きこみがスタートしていた1933~34年(昭和8~9)ごろの出来事だ。
 大岡山の家は、内風呂がついた戸建ての住宅を借りられたらしく、玄関を入るとすぐ右手に応接間があり、左手には風呂場があった。廊下を右折すれば台所で、その向かい側が茶の間となっている間取りだった。夕食を終えた午後8時ごろ、彼女と母親が茶の間で話をしているときに、それはふいに起きた。1959年(昭和34)に大法輪閣から発行された「大法輪」6月号収録の、淡谷のり子『私の幽霊ブルース』から引用してみよう。
  
 すると、玄関の方角でガランガランと、洗面器でもひっくりかえしたような音がした。「うるさいわね」と私がつぶやくと、母は、「あなたは何いってるの、何にも聞えないじゃないか」という。/それでも誰か来て物音をたてたような気がするので、玄関まで出てみたが、何でもない。部屋に帰って母と話しはじめると、「ガランガラン」が耳にひびいてしょうがない。「うるさいな、何だろう」口に出した途端、「あんたの方が、よっぽどうるさいわ」と母は逆に私を叱り、不思議そうに見つめるのだった。/「だって、誰か来ているようじゃないの?」/今度は玄関ばかりでなく、湯殿から台所まで電灯をつけて見て廻った。しかし玄関にはちゃんとカギがかかっているし、窓もちゃんと閉っている。風で洗面器がひっくりかえったとも思われないのだ。やはり人は来なかったのだな、と部屋に帰ったが、それからは、音は聞えなかった。
  
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 淡谷のり子には、イブニングドレスなどの衣裳を裁縫し、無償で提供してくれる熱烈な女性ファンがいた。淡谷のり子ともよく気が合い、彼女の好みやセンスをよく理解しているのか、それらドレスなどの衣裳は淡谷も気に入って、よくコンサートなどでも着ていたようだ。その女性ファンの名前は「夏子」といい、実はこのとき、彼女は肺結核が悪化して病床で重態に陥っていた。
 間もなく、「夏子」は息を引きとるのだが、生前に彼女が付添人に語っていたという言葉を聞いて、淡谷のり子は愕然とする。同誌から、再び引用してみよう。
  
 「私はのり子さんに逢いたくてしようがないわ。私、それで、お宅に伺ったら、玄関はぴたっとしまっていて、入れないの。どこか開いてないかしらと探したら、都合よくお風呂場の窓に隙間があったので、そこから入っていったのよ。なにしろ真暗闇でしょ、私は洗面器につまずいたの。のり子さんは二度ばかりやって来て電灯をつけたのだが、とうとう逢えなかったわ。かなしいけれど、私、もう、だめね。だけど、私が死んだら誰が、一体、のり子さんのイブニング・ドレスを縫ってあげるのかしら」(中略) たとえ夏子さんの言葉がうわごとであったにせよ、私が洗面器の音を聞き、玄関、湯殿にたっていった日時と、夏子さんが訪ねて来たという日時はぴったり合っている。私は、夏子さんの、奇しき縁につらなる執念を思わずにはおられなかった。
  
 風呂場の窓の隙間から、たまたま強い風が吹きこんで、不安定な位置に置かれた洗面器が洗い場へ落ちただけじゃないの?……とか、ひょっとしていたずら好きなネコを飼ってなかった?……とか、音の原因を理性的に考えてみたくなるけれど、淡谷のり子は何度か繰り返し洗面器の落ちる音を聞いているので辻褄があわない。病床の「夏子」が、しじゅう淡谷のり子のことを気づかってばかりいたため、肉体から期せずして「幽体」が抜けだし、大岡山の淡谷邸を訪問していた……とでもいうのだろうか。
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 わたしは、おそらく幽霊は一度も見たことはないが、“生き霊”は一度経験がある。まだ若いころ、とあるビデオの編集をまかされたことがあった。それは学術関連のビデオで、以前こちらにも登場している米国H大学の教授やそのブロンド秘書Click!も登場する、長野県で行われた学術セミナーのドキュメントを撮影したものだ。テーマ曲やBGMも含め、好き勝手に編集してもいいといわれたわたしは、スタジオにこもってディレクターやエディターなどスタッフたちとともに、終電まぎわまで編集作業に没頭していた。
 ラッシュの確認から編集へと移り、家から持ちこんだJAZZの小宅珠美(fl)Click!のLPレコードでテーマやBGMを録音して、映像にかぶせる作業へと進んだところで、わたしも含めスタッフはへとへとに疲れていた。すでにスタジオへ通いはじめてから、3日はたっていただろうか。当時はPCによる手軽なデジタルビデオ編集システムなど存在せず、本格的なアナログ仕様の編集機器によるスタジオの編集ルームでの突貫作業で、日々終電を気にしながらの仕事だった。あと1日で、なんとかマザーテープが完成というフェーズだったので、おそらく4日目の午前10時ごろだったと思う。
 駅を降りたわたしは、編集スタジオへ向けて歩いていたのだが、40~50mほど前を歩くディレクターに気がついた。いつも夜が遅いので、昼近くになってからスタジオに入るディレクターだったのだが、なぜかいつもより2時間ほど早めだ。「きょうはビデオが完成予定だから、彼も張り切ってるな」…と、黒いショルダーバッグにいつものキャップをかぶった、うしろ姿を追いかけながら距離をちぢめていった。やがて、彼は編集スタジオがあるビルに入ると、わたしもそのあとを追ってビルに入った。
 スタジオに着くと、すでに映像エディターは編集機器の前でコーヒーを飲んでいたが、ディレクターの姿がない。トイレにでも寄っているのかと、しばらくエディターと雑談していたが、なかなかもどってこないので「〇〇さん(ディレクターの名前)、入ってますよね?」と確認したら、「いえ、あの人はきょうも昼ごろでしょ」という返事。「ウソでしょ?」と、ビルまでいっしょに前を歩いてきたことを話したが、エディターは不思議そうな顔をするだけだった。昼近くになり、ようやく当のディレクターがやってきたのでさっそく確認すると、今朝は11時少し前に起きて電車に乗ったので、ブランチにサンドイッチを買ってきた……などと答えた。だが、わたしが見た人物は、その身体つきや服装、挙動などを含め、まちがいなく彼だったのだ。なんだか、東京のまん真ん中でキツネにつままれたような話だが、わたしが経験した事実だ。
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 これも、「きょうで、仕事が終わる!」と気が急いた映像ディレクターの“生き霊”が、ひと足先にスタジオへ入ったものだろうか。それとも、彼のドッペルゲンガーが出現した……とでもいうのだろうか。ちなみに、くだんのディレクターはいまでもご健在だ。

◆写真上:1959年(昭和34)に撮影された、淡谷のり子のもやもやブロマイド。
◆写真中上は、長崎1832番地にあった田口省吾のアトリエ跡。は、1931年(昭和6)に初のヒット曲となった古賀政男作曲の「私此頃憂鬱よ」のコロムビアレーベル。
◆写真中下は、東京音楽大学(旧・東洋音楽学校)の雑司ヶ谷本学キャンパス。は、淡谷のり子()と『私の幽霊ブルース』収録の1959年(昭和34)に発行された「大法輪」6月号(大法輪閣/)。は、東京音楽大学近くに出没する野良ネコ。
◆写真下は、山手線・目白駅に近い下落合東部の現状。(Google Earthより) 雑司ヶ谷の東洋音楽学校に通うのに便利で、田口省吾のアトリエにもほど近い、このどこかに淡谷のり子が住んでいたはずなのだが……。は、ドキュメンタリーのテーマとBGMに使った小宅珠美(fl)のアルバム『Someday』(1982年/)と『Windows』(1984年/)。は、現代の映像スタジオ風景で当時とはまったく機器が異なる眺め。

上落合の村人はニホンオオカミに出会ったか?

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 肉食獣のオオカミが、塩を欲しがるという傾向は世界じゅうで記録されている。米国では、海水をなめるために山から下りたオオカミの群れが、わざわざ海岸線まで40kmも夜間移動するのが観察されている。肉食のオオカミの腸の長さは、体調の4倍ほどの長さにすぎず、雑食性のイヌに比べてかなり短い。塩分が不足気味になるのか、オオカミが塩を欲しがるのは国や地域の別なく、世界に共通する特徴のようだ。
 日本各地にも、ニホンオオカミClick!に関連して多種多様な伝承が残っている。山地では岩塩を探してなめるとか、人間がオシッコをした木の葉や土をなめるといった昔話だ。人間が弁当やオシッコなど、なんらかの「塩分」を持っているのをよく知るニホンオオカミが、それを目当てに人のあとを尾けてくるのを、オオカミに襲われそうになった……と解釈したとしても不思議ではない。
 以前の記事Click!にも書いたように、神経質で警戒心の強いニホンオオカミが人を襲ったケースはきわめて少ない。むしろ、江戸期に野犬の群れをニホンオオカミと見まちがえて、幕府や藩に「書き上げ」(報告)をしていた事例のほうが圧倒的に多そうだ。また、「ニホンオオカミ」と「ヤマイヌ」のちがいが判然とせず、山にいるイヌに似た動物はすべてニホンオオカミ=ヤマイヌと混同した可能性も高い。
 シーボルトが持ち帰り、ライデン博物館に展示されている「ニホンオオカミ」とされる動物のはく製標本(シーボルトは2種の個体を持ち帰ったが、博物館側が同一種だと安易に判断してもう1種を廃棄した)と、日本に伝わるやや大きめなニホンオオカミの毛皮のDNAが一致しない。ニホンオオカミと同様に、明治期のストリキニーネで絶滅したとされるヤマイヌ(コヨーテやジャッカルに近似する動物)のいたことが、近年の研究では指摘されている。また、江戸期の記録の多くが、ニホンオオカミとヤマイヌを混同していたフシも見える。ライデン博物館に展示されているのは、どうやらニホンオオカミではなくヤマイヌらしい……というところまで解明が進んできた。
 さて、完全な肉食獣のニホンオオカミClick!は、「塩分」を好むというテーマに話をもどそう。1993年(平成5)にさきたま出版会から刊行された柳内賢治『幻のニホンオオカミ』には、次のような伝承や逸話が紹介されている。
  
 昔の農家では、縁の下に小便溜まりがしつらえてあって、そこへオオカミが深夜小便を舐めに来たという話もある。しかし、オオカミが人間の小便を舐めるようになるのは、病気のかかり始めだという説もあるから注意を要する。/またオオカミは、神社仏閣や古い民家の床下などに発生するシラネバを好んで舐めた。シラネバとは、雨期などに湿った土の上に発生する、白がかった一種の菌ののことである。/家が焼けると味噌が焦げ、特異な臭いを発する。オオカミがそれを嗅ぎつけて集まってきたという昔話もあった。(略)/同じような話であるが、信州などにおいては、夜間味噌を入れてある蔵の戸を開けることを固く禁じてていたそうである。(略)/オオカミはそれほどまでに塩を欲しがるので、塩を携帯して道中する者がねらわれた。そういう場合昔の人は、道中必ずタバコや松明など火の気のある物を所持して行くように心掛けたものである。
  
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 上記の伝承は、おそらく江戸時代からのものとみられるので、「塩分」欲しさに集まってきたのがニホンオオカミだったのか、それともヤマイヌだったのかははっきりしない。人間をそれほど怖れていないところをみると、イヌに近い種のヤマイヌなのかもしれない。なお、シラネバは粘菌Click!の一種らしいが、どうやら地域の方言名のようなので正式な名称は不明だ。
 上落合にも、ニホンオオカミまたはヤマイヌをめぐる面白い昔話が残っている。落合地域は、江戸期から各種の「講」が盛んな土地柄だった。江戸東京では代表的な富士講Click!をはじめ、三峯講、大正講(?信仰内容が不明)、成田講、善光寺講、大師講などが昭和期まで伝えられている。成田講は千葉の成田山新勝寺へ、大師講は神奈川県の川崎大師へ参詣する講中のことだ。ほかにも、江戸期には月見岡八幡Click!の境内に勧請されていた第六天Click!にちなんだ第六天講や、山頂の阿夫利社へ参詣する大山講、道中手形が比較的容易に認可されて関西旅行ができた伊勢講などがあったかもしれない。
 この中で、三峯講をめぐる興味深い話が伝わっている。三峯講とは、もちろんニホンオオカミの一大棲息地だった埼玉県秩父の三峯社に参詣する講中のことだ。1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会が刊行した、『昔ばなし』から引用してみよう。
  
 三峯講は武州三峯神社を信仰するもので「火防せ(ひぶせ)」の神さまでした。大正の終わり頃までは、講中の人は三峯詣りに行き、神社で一晩泊りました。神社で泊っていると、夜中に「山犬」が群れをなして出て来て廊下を歩き廻ったそうです。廊下にお塩を盛っておくと、ペロペロとなめて居たそうです。この講中も昭和の初めになると、普通の参拝人のようになり日帰りでお詣りをしていましたが、戦後なくなってしまいました。
  
 話者の年齢からすると、この話を古老から聞いた時期とからめて、三峯社で「山犬」が塩をペロペロとなめていたのは、明治末から大正前期あたりのことではないかと思われる。つまり、1905年(明治38年)に絶滅したとされるニホンオオカミ(またはヤマイヌ)が、その後も秩父の山奥で生き残っていた可能性が高いということだ。文中には「廊下」と書かれているが、建物の外周をめぐる回廊のような造りの“縁側”に、秩父連山に棲息していた「山犬」たちは出没していたのかもしれない。
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 人間の気配がするにもかかわらず、平然と人家に近づいている点を考慮すれば、この動物は警戒心の強いニホンオオカミとは異なる、いわゆるヤマイヌ(ライデン博物館の標本と同一種)だったものだろうか。山に入りこんだ雑食性の野犬の群れにしては、盛り塩をペロペロなめている点が異様だ。それとも、イヌが野生化するとオオカミやヤマイヌと同様に「塩分」を欲しがるものなのだろうか。三峯講は下落合にもあったので、ひょっとすると同様の昔話がどこかに残っているかもしれない。
 日本では、過去50年間にわたり確認できない動物は「絶滅」したと規定されているが、確認し写真に撮られているにもかかわらず「それとは気づかれない」まま、「絶滅」扱いされている種もありそうだ。ニホンオオカミあるいは別種であるヤマイヌとされる動物もまた、その事例のような気がしてならない。江戸期からかろうじて生き残っているヤマイヌの写真を見ても、これは「オオカミの特徴を備えていない」とニベもない学者や専門家がいたり(コヨーテやジャッカルはオオカミの特徴を備えてはいない)、ニホンオオカミの写真が撮影されても「謎のイヌ科の動物」という当たり障りのない表現のしかたで逃げ、決して“現場”へ出かけて具体的な確認・検証をしようとはしない。
 そういえば25年ぐらい前、タヌキの家族Click!が近所のあちこちにたくさん棲んでるよと、生物学が専門の知り合いに話したら、「新宿に、タヌキが棲息できる環境はない。野犬かハクビシンの見まちがいだろう」と一蹴されたのを思いだす。「そんなこといったって、現実に目の前にいるんだってば」といっても、机上の記録や理論・規定が書かれた“紙”資料を優先する彼にしてみれば、想定の外で「ありえない」ことだったのだろう。だが、それから何年もたたないうちに、東京23区内だけで1,000頭を超えるタヌキの生息が想定されるようになった。
 既存の知識や「常識」にしがみついていては、科学(自然・社会・人文科学を問わず)は一歩も前へ進まない。仮説(問題意識)とまではいかなくとも、疑義や疑念があるのなら積極的に現場へ出向いて確認・検証を試みるのが学術的あるいは科学的な手法であり、また科学者や研究者としては最低限に必要な姿勢(思想)ではないだろうか。
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 なんだか少し脱線気味だけれど、上落合の三峯講中が秩父で遭遇した塩をなめる「山犬」たちは、ニホンオオカミだったのだろうか、それともヤマイヌだったのだろうか? いまでも秩父では、ニホンオオカミまたは近似動物の目撃情報が絶えることはない。

◆写真上:狛犬の代わりに狛狼が迎える、ニホンオオカミを奉った秩父三峰の三峯社。
◆写真中上は、大分県の祖母・傾山山中で2000年(平成12)に撮影されたイヌに近似した動物。(西田智『ニホンオオカミは生きている』のグラビアより) は、チュウゴクオオカミ。は、世界に広く分布するタイリクオオカミ。
◆写真中下は、1996年(平成8)に秩父山中で撮影されたイヌに近似する動物。(同書より) は、北米大陸のコヨーテ。は、アフリカ大陸のヨコスジジャッカル。.
◆写真下は、1849年(嘉永2)制作の国芳『為朝誉十傑』(部分)に描かれた狼。は、1861年(文久元)制作の国芳『宮本武蔵相州箱根山中狼退治』(3枚綴のうちの2枚)の狼。は、1886年(明治19)制作の芳年『月百姿 北山月 藤原統秋』(部分)の狼。いずれもニホンオオカミかヤマイヌかが不明で、実物を見ずに想像で描いていると思われる。
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