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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(6)

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曾宮一念「落合ニテ」1922.jpg
 曾宮一念Click!が、下落合623番地にアトリエClick!をかまえてから1年後、1922年(大正11)に描いた『落合ニテ』と題するスケッチが残っている。明らかに冬季の情景で、光線は画家の正面やや右手の上から射しているようで、描かれた家々の主棟の向きからすると、正面やや右手が南の方角とみられる。
 手前には、太い樹木の伐り株だろうか、まるでオブジェのような面白い形の幹元が残り、葉を落とした木々が手前に、そして前方の林に繁っているのが見える。画面奥に描かれた林の下には、小さな谷間でもあるのか、その南向き斜面には平屋建てとみられる家屋の屋根が描かれているようだ。谷間の北側、つまり丘上に建つ手前の2棟の住宅は、南側にテラスを向けて冬でも暖かそうな造りをしている。
 画面右手の建物は、大正中期に東京郊外へ建てられた、“和”とも“洋”ともつかない意匠をしているが、左手の建物は明らかに洋館だ。しかも、東側に尖がり屋根の母家をもち、西側には台所があるらしい付属する下屋が確認できる。その手前の生け垣が枯れた柵には、勝手口とみられる入口らしい切れ目が見えている。南側に谷間があり、その北側に建てられているこのような意匠の建物は、下落合にお住いの方ならたちどころにピンとくるだろう。しかも、スケッチ『落合ニテ』を描いている画家は、この建物の住民とは親しくしょっちゅう出入りしていた。
 左手の洋館は、まずまちがいなく中村彝アトリエClick!だろう。そして、右手の建物は1920年(大正9)の年内、あるいは翌1921年(大正10)の早い時期に竣工している福田家別荘だ。福田別邸を建築中の音が、中村彝のアトリエまで響いてうるさかったのだろう、1920年(大正9)8月19日付け洲崎義郎Click!あての手紙で、彝は少しグチをこぼしている。同書簡を、1926年(大正15)出版の『藝術の無限感』(岩波書店)から引用してみよう。
  
 昨日は久しぶりで突然岡田先生が遊びに来ました。そして今度は僕の近処へ越して来るから、是非今一度坐つて体力をつけよと忠告されました。やさしい「をぢさん」でも見る様な、なつかしさを感じました。兎角の噂もありますが人間は確に温く、聡明ないゝ人です。これから近くへいらつしやる様になつたら時々会つて、色々為めになる話でもきかうかと思つて居ります。/僕の「おとなり」では今猛烈な大フシンをして居ります。松岡映丘(?)がそこへ越してくるのだ相です。非常に乱筆で読めないかも知れません。御判読して下さい。
  
 文中の「岡田先生」とは、このあとすぐに下落合350番地(のち下落合356番地)へ転居してくる、静坐会Click!を主宰していた岡田虎二郎Click!のことだ。また、日本画家の「松岡映丘(?)」がアトリエを建て、下落合に転居してくるというウワサ話が書きとめられているけれど、そのような事実はなく、彝アトリエ西側の広い敷地に建てられていたのは福田家の別邸だ。
 また、落合遊園地Click!(のち林泉園Click!)の谷間南向き斜面に建てられ、屋根だけが見えている平屋の住宅は、のちに東邦電力Click!が開発する林泉園住宅とは関係のない敷地に位置する邸だと思われる。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では、彝アトリエ前の位置から東側(右側)にかなりズレた位置に敷地の四角囲みのみが描かれているが、名前は採取漏れ、あるいは表札が出てなかったのか記載されていない。昭和に入ると、この住宅は下落合450番地の古島邸(古嶌邸)となるので、とりあえず1922年(大正11)の画面に描かれた住宅も、仮に「古島邸」と呼ぶことにする。
中村彝アトリエテラス1921.jpg
中村彝アトリエ事情明細図1926.jpg
中村彝アトリエ北西側.JPG
 古島邸は、中村彝アトリエと同様に関東大震災Click!の震動で少なからず被害を受けたのか、1924年(大正13)には住宅の位置をやや東に移動して、2階家に建て替えられているとみられる。それは、同年5月27日に彝アトリエの庭で催された園遊会で、南側の桜並木や林泉園のほうを向いて撮影された記念写真の左上に、2階家の屋根とみられる形状(建築中?)が、樹間を透かして見えるからだ。彝アトリエも含め、この一帯の住宅は空襲による延焼をまぬがれているので、戦後の空中写真でも彝アトリエの前、林泉園の斜面に建てられた古島邸を確認することができる。
 曾宮一念は、中村彝アトリエの西北側から、右手に竣工して間もない福田家の別邸を、左手の樹間には赤い尖がり屋根をもつ中村彝アトリエを、そして画面中央の奥には落合遊園地(のち林泉園)の谷戸に下がって見える、彝アトリエから道をはさんで真ん前にあたる古島邸(大正期の震災前)を描いていると思われる。画面の左枠外には、彝が何度か繰り返し描いた一吉元結工場Click!の干し場が拡がり、曾宮が振り返れば背後には目白福音教会Click!メーヤー館(宣教師館)Click!が見えていただろう。
 『落合ニテ』が描かれた1922年(大正11)の夏ごろ、曾宮一念は鶴田吾郎Click!たちとともに新潟県柏崎にいる彝のパトロンのひとり、洲崎義郎のもとを訪ねている。当時のリアルタイムで書かれた、中村彝から洲崎義郎あての1922年(大正11)9月10日(?)付けの手紙を、『藝術の無限感』よりつづけて引用してみよう。
  
 鶴田君や、曾宮君や、金平君の兄さん達が上つて大分賑かだつた相ですね。御上京は何時頃になりますか。上野の二科には曾宮君が一枚と清水君が一枚出して居ます。曾宮君のは僕の画室で見た時には確かにいゝ絵だつたのですが、何故か展覧会場では見劣りがすると言ひます。僕にはそんな筈がないと思はれるのですが、一つ君の鑑定をきゝ度いと思ひます。
  
 同年秋の第9回二科展で、曾宮一念が入選したのは『さびしき日』だった。また、「清水君」とは清水多嘉示Click!のことで、同展には『風景』が入選している。
中村彝園遊会19240527.jpg
中村彝アトリエ火保図1938.jpg
曾宮一念「落合ニテ」1922 構成.jpg
中村彝アトリエ空中1947.jpg
 曾宮一念が中村彝と知りあい、東京美術学校を卒業して池袋の成蹊中学校Click!の美術教師をしていた時期、1916~17年(大正5~6)ごろに制作した、『戸山ヶ原風景』と題する作品も残っている。一面に広大な草原が拡がり、遠景に比較的密な森林が描かれ、手前にはポツンと1本の目立つ樹木が描かれている。
 当時の戸山ヶ原Click!は、山手線をはさみ東側には、いまだ露天のままの大久保射撃場Click!をはじめ、近衛騎兵連隊の兵舎Click!軍医学校Click!戸山学校Click!衛戍病院Click!など数多くの陸軍施設Click!が建てられていて、明治末とは異なりこれほど“抜け”のいい草原は残されていなかった。だが、当時は「着弾地」と表現された西側の戸山ヶ原は、ほとんどなにも建設されてはおらず、曾宮の『戸山ヶ原風景』のような風情のままだったろう。そして、周囲を森林に囲まれた草原の真ん中には、「一本松」と呼ばれた特徴的なクロマツが生えていた。
 曾宮一念は、射撃訓練が行われていない安全な日を選び、山手線の西側に拡がる戸山ヶ原に出かけ、「一本松」を画面に入れて『戸山ヶ原風景』を描いているように思われる。晩秋ないしは初冬のような風情を感じる画面だが、空がどんよりと曇っているせいか太陽の位置がわかりにくい。手前には、「一本松」へと通じる逆S字型の“けもの道”ならぬ散歩者が歩く“人の道”が描かれ、遠景の森林は地形が下へ落ちこんでいるのか、樹木の上部が描かれているような感じがする。
 「一本松」へと通じる小路は、東側にある山手線の高田馬場駅南に位置する諏訪ガードClick!からも、また小滝橋のある西側からも通っていたとみられ、また地形も東西どちらを見ても急激に落ちこんでいるので断定はできないが、曾宮一念は山手線側から戸山ヶ原へと入りこみ、建物や煙突が見えない西側を向いて描いているのではないだろうか。画面の右端には、戸山ヶ原に接する北側に建立されていた天祖社境内の、神木(=大ケヤキ)とみられる葉を落とした大きな枯れ木が描かれているように見える。
曾宮一念「戸山ヶ原風景」1916-17.jpg
陸軍士官学校地図1917.jpg
どんたくの会(第2次).jpg
 この「一本松」のある戸山ヶ原の風景は、3~4年後の1920年(大正9)ごろ、当時は戸塚町(現・高田馬場4丁目界隈)に下宿していたとみられる佐伯祐三Click!『戸山ヶ原風景』Click!として制作し、またそれから18年後の1938年(昭和13)の“記憶画”として、濱田煕Click!が『天祖社の境内から一本松を望む』を描いている。

◆写真上:1922年(大正11)の冬季に描かれた、曾宮一念のスケッチ『落合ニテ』。
◆写真中上は、1921年(大正10)に中村彝アトリエのテラスで撮影された曾宮一念(後列右からふたりめ)。前列左端が中村彝で、右へ中原信Click!(中原悌二郎夫人)と中原悌二郎Click!は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる中村彝アトリエとその周辺。は、中村彝アトリエを北西側から見た様子。
◆写真中下は、彝が死去する半年前の1924年(大正13)5月27日にアトリエの前庭で行われた園遊会の記念写真(部分)。写真の左背後に、古島邸(震災~)とみられる2階家の屋根らしいかたちが見えている。中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる中村彝アトリエとその周辺。中下は、『落合ニテ』に描かれているモチーフ。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる『落合ニテ』の描画ポイント。
◆写真下は、1916~17年(大正5~6)ごろ制作の曾宮一念『戸山ヶ原風景』。は、1917年(大正6)作成の陸軍士官学校の演習地図「戸山ヶ原」(現・西戸山)。は、1931年(昭和6)ごろ画塾「第2次どんたくの会」Click!で撮影された曾宮一念(右)。

下落合の振り子坂沿いに建つ家々。

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熊倉医院モダンハウス1935頃400dpi.jpg
 ファイルを整理していたら、ようやく振り子坂Click!沿いに建つ家々を写した、横長の鮮明なパノラマ写真が出てきたのでご紹介したい。このブログをスタートして1年めの2005年(平成17)当時から、どこかのストレージへ保存をしたまま行方不明になっていた画像データだ。当初、この写真は改正道路(山手通り)工事Click!にからめてご紹介したが、その後、どこに整理・保存したものか「行方不明」になっていた。確か、下落合1736番地の熊倉医院が新宿区へ寄贈し、いまは新宿歴史博物館Click!が収蔵している写真の1枚だったように記憶している。
 また、写真の左手にとらえられたモダンハウスの佐久間邸Click!をモチーフに描いた、宮下琢郎『落合風景』Click!(1931年)でも振り子坂界隈を取り上げているが、同記事を書いたころには今回ご紹介する鮮明な写真がすでに行方不明になっていた。その後、同坂沿いに実家(ないしは私邸)Click!があったとみられる、山口淑子(李香蘭)Click!の記事でも探したが見つからず、最近では振り子坂沿いに建っていた武者小路実篤Click!の家を特定する記事でも、記事中に挿入したかったのだが行方不明のままだった。画像ファイルにわかりやすいネームをふらなかったわたしが悪いのだが、同画像はバックアップ用の外付けHDDの1台にまぎれて保存されていた。
 このパノラマ写真は、振り子坂や山手坂に沿って建つ住宅の様子や、手前の道路に改正道路(山手通り=環六)建設用の部材がすでに運びこまれていることから、1935年(昭和10)をすぎたころに同坂界隈をとらえたものだろう。ただし、山手坂上の尾根道に古くて大きな宇田川邸がいまだ建っているので、1938年(昭和13)よりも前の撮影ではないかと思われる。また、連続写真といっても厳密なものではなく、おそらく手持ちのカメラでやや移動して撮影しているのだろう、家々の角度や接続部分が多少ズレており、また写真をつないだ箇所の風景が少なからず途切れていたりする。
 さて、画面の左から右へ住宅の間を横切っているのが振り子坂であり、丘上に近い坂沿いの斜面に見えている住宅群は、目白文化村Click!の第二文化村に建てられた南端の家々だ。また、大きな排水溝ないしは下水管とみられるコンクリートの“土管”が置かれた道が、山手通りの工事で消滅してしまう、当時としては敷設されて間もない三間道路だ。この三間道路は、左手の振り子坂に合流しており、坂を下れば中ノ道Click!(下ノ道=現・中井通り)へと抜けることができた。撮影者は、当時は改正道路の工事計画が明らかとなり、森が伐採されて赤土がむき出しになった急斜面(下落合1737~1738番地界隈)に上り、北東から南西の方角にかけシャッターを連続して3回切っている。
 では、写真にとらえられた家々を順に特定してみよう。数年前まで、写真にとらえられた家々のうち3邸までが現存していたが、第二文化村の嶺田邸が解体されてしまったので、現在でも見ることができるのは2邸のみとなっている。まず、手前の土管が置かれた三間道路に面し、画面の中央にとらえられている西洋館が、撮影者の住まいである熊倉医院だ。その右手に見えている、洗濯物を干した日本家屋が安平邸だが、旧・安平邸はやや増改築されているものの、いまもそのまま同所に建っている。
熊倉医院モダンハウス1935頃坂道.jpg
写真右側1935頃.jpg
写真左側1935頃.jpg
 熊倉医院と安平邸の間に、チラリと平屋の屋根だけ見えているのが、振り子坂沿いに建つ栗田邸(熊倉医院の北西隣り)だろう。また、安平邸の屋根上に、主棟の狭いフィニアルの載った屋根の西洋館が、第二文化村の嶺田邸。そのまま坂上に向かって、右並びに見えているのが同じく調所邸だ。嶺田邸はつい先年まで、大谷石のみごとな築垣とともに現存していたが解体されて敷地が細分化され、いまでは8棟の住宅が建っている。また、熊倉医院の屋根上で、2段に重ねた瓦屋根の上半分が見えているのが、振り子坂をはさんだ斜向かいの安東邸Click!だ。そのまま坂上へたどると、山口邸(淀橋区長の山口重知邸)とひときわ大きな星野邸Click!(戦後は東條邸)がつづいている。以上が、坂上に向かって建つ第二文化村の住宅群だ。
 熊倉医院を中心に山手坂が通う斜面にとらえられた、そのほかの住宅群を見ていこう。まず、熊倉医院の屋根上に少しだけ見えている安東邸の左(南)隣り、同医院の左手にとらえられた切妻の端に、平屋の屋根の一部がわずかに写っているが、これが下落合1731番地の旧・武者小路実篤邸の可能性が高い。また、安東邸の屋根にかかり、その左手に見えているひときわ大きな西洋館は上田邸だ。また、安東邸の右手に見えている、少し離れた尾根上の位置に建つ2階建ての日本家屋は宇田川邸だと思われる。同邸は、1938年(昭和13)作成の「火保図」では、すでに敷地が更地になっていて存在しないので、おそらく同写真の撮影後ほどなく解体されたとみられる。
熊倉医院モダンハウス1935頃.jpg
熊倉医院跡の現状.JPG
振り子坂1938.jpg
熊倉医院1947.jpg
 熊倉医院の庭には、往診用に使用したのだろう、クルマの車庫とみられる小さな建物が付属しているが、その向こう側に見えているひときわモダンな建築が佐久間邸だ。この邸をモチーフに、宮下琢郎が『落合風景』を仕上げ1931年(昭和6)1月に発表しているのは、すでに過去の記事でも書いたとおりだ。モダンハウス佐久間邸の裏に見えている、大きな日本家屋が山路邸、その上に見えている2棟の住宅は、山手坂を上りきった尾根上の下落合1986番地に建っていた住宅だ。この2棟の住宅のうち、どちらか一方が旧・矢田津世子邸Click!(1939年まで居住)ということになる。
 写真が少し途切れてしまっているが、山路邸の右上に見えている大きな西洋館の屋根が赤尾邸だ。赤尾邸は、この写真に写っている邸の中ではもっとも規模が大きく、右手(北側)には和館も付属していたと思われる。赤尾邸の右手(北側)には、屋根が3つ重なって見えるが、いちばん手前の2階家は尾根道の手前の斜面に建つ佐藤邸だ。その佐藤邸の屋根に、ほとんど重なってわずかに見えている屋根が、尾根道をはさんだ向かい側の橋谷邸。そして、これら2棟の屋根からかなり離れた位置にかぶさるように見えている大きな屋根は、蘭塔坂(二ノ坂)Click!の上に建っていた大日本獅子吼会本堂の大屋根だ。そして、手前の佐藤邸の右(北)並びに見える平屋の屋根が高津邸、その右(北)隣りが先述のオシャレな西洋館の上田邸……ということになる。
 さて、ここに写る住宅街は、振り子坂の最上部に建っていた第二文化村の星野邸と杉坂邸を除き、空襲の被害をまぬがれているので、戦後もほぼこのままの姿で建っていた。わたしの学生時代には、山手通りを南へ下り中井駅まで歩くと、写真とあまり変わらない住宅街の風情だったような気がする。だが、戦後の山手通りの開通とともに静寂な環境は失われ、1970年代後半はかなり排ガスの臭いがきつかったのを憶えている。
嶺田邸2012.JPG
安東邸.JPG
旧・安平邸.JPG
 撮影者と思われる、下落合1731番地に住んでいた熊倉医院の医学博士・熊倉進は、『落合町誌』(1932年)によれば内科の専門医だったようだ。つい最近まで、自邸の位置を変えて開業していたような記憶があるが、現在の医院跡は駐車場になっている。

◆写真上:振り子坂沿いの住宅群をとらえたパノラマ写真の、熊倉医院(手前)と上田邸(奥)のアップ。熊倉医院の切妻に隠れて、わずかに見えている平屋の屋根の一部が、下落合1731番地に建っていた旧・武者小路実篤邸の可能性が高い。
◆写真中上は、振り子坂沿いに建っていた住宅写真の全体像と坂道の位置関係。は、写真右手(坂上)の住宅街。は、写真左手の住宅街に写る家々。
◆写真中下は、1935年(昭和10)すぎに撮影されたとみられるパノラマ写真(上)と同じ場所の現状(下)。は、1938年(昭和13)の「火保図」(左手が北)にみる同所と撮影画角。すでに山手坂上の尾根道沿いに建っていた大きな宇田川邸が解体され更地になっている。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる同所と撮影画角。
◆写真下は、振り子坂沿いに建っていた独特のフィニアルが印象的な嶺田邸(2012年撮影)。は、昔とあまり変わらないたたずまいを見せる安東邸。日本橋出身のおばあちゃんは、お元気だろうか? は、何度か増改築を繰り返したとみられるが基本的に外観があまり変わらない日本家屋の旧・安平邸。

淀橋浄水場の沈澄池で自殺をするな。

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淀橋浄水場沈澄池1966.jpg
 1955年(昭和30)12月31日の正月をひかえた大晦日、下落合2丁目276番地(ママ)で水道管が破裂する事故が起きている。1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された、『淀橋浄水場史』(非売品)にも収録されるほどの大事故だった。ただし、当時の276番地は2丁目ではなく1丁目なので誤植ではないかとみられるが(2丁目になるのは1971年より)、氷川明神社Click!のすぐ北側に位置する地番だ。
 この大事故は、淀橋浄水場系の水道網から砧上浄水場系の水道網へと補水する、埋設された1,000mm(=1m)管が破裂したもので、大口径の水道管破裂からあたり一帯が水浸しになったのではないだろうか。特に斜面下にあたる氷川社は、境内まで浸水しているのかもしれない。当時の1,000mm管は、1895年(明治28)に鋳造された鉄管をそのまま埋設している地域も多く、翌1956年(昭和31)2月にも、淀橋浄水場から芝給水場に送水する幹線の1,000mm管が破裂事故を起こしている。
 淀橋浄水場Click!がその役目を終えて閉鎖された翌年、1966年(昭和41)に出版された『淀橋浄水場史』には、さまざまな事業経営や設備技術の概説とともに、1898年(明治31)から閉鎖される1965年(昭和40)までに起きた多彩なエピソードが紹介されている。元・浄水場の水道局員たちが綴る文章は、たいがい事業の苦労話や技術系の専門話が多いのだが、中には逸話ばかりを集めたエッセイ風の寄稿も見られる。
 淀橋浄水場の開業からしばらくすると、濾池と沈澄池が鳥たちの楽園になっていた様子が記録されている。新宿地域に飛来する渡り鳥は、新宿御苑Click!と淀橋浄水場が羽を休める格好の水場になっていたらしい。特にカモやコチドリの群れが多く、ときには孵化したヒナたちも見られた。だが、戦時中は食糧難から浄水場のカモに目をつけた猟師が犬を連れて入りこみ、次々と鉄砲で撃ち殺して以来、カモの群れは二度と飛来しなくなったという。また、代田橋の玉川上水から淀橋浄水場までの給水路(約4km)が開渠だった時代は、濾池までアユの大群が入りこみ、それを取り除くために漁をしなければならなかった。獲れたアユは、職員たちが塩焼きにして食べている。
 賭博容疑で、警察の手入れが行われたこともあった。濾池の周辺には、深さ1.5mほどの砂桝・格納桝と呼ばれる凹状の設備があり、夏は直射日光が避けられ冬は寒風が避けられる、場内作業員にとっては休憩場のような場所だった。淀橋浄水場では、作業員のすべてが水道局員ではなく、繁忙期には作業員を200人ほど雇って業務を委託していた。その作業員のうちの数十人が、砂桝・格納桝で花札賭博をしていたらしい。かなり以前から内偵していたらしく、ある日突然、濾池の周辺に警官隊が現われ、その場にいた全員を賭博の現行犯で逮捕したという。東京市の公共機関における摘発だったせいか、監督不行届きということで後始末がたいへんだったようだ。
 また、沈澄池や給水路では、たび重なる入水自殺事件に悩まされている。同書に収録された、粕谷武『模型室のことなど』から引用してみよう。
淀橋浄水場1966.jpg
淀橋浄水場正門(戦後).jpg
淀橋浄水場濾池汚砂搬出作業.jpg
  
 玉川上水路も自殺の場所によく選ばれるが水道局としては大変な迷惑である。それも、わざわざ淀橋まで来て沈澄池や水路に入水する者がかなり多い。敷地が広く監視の目がゆきとどかないから致し方ないが、困ったことである。/沈澄池は深さ4メートル、周囲は垂直なコンクリートの壁で、誤って落ちてもひとりでははいあがれない。よほど水泳が達者でもないと一巻の終りになってしまう。/戦時中、ある青年が入水自殺したことがある。池のふちに履物がならべて置いてあるのを職員が発見し、ただちに入水自殺と判断したので「イカリ」による捜査が開始された。まもなく身体におもりをつけて死んでいるのが発見された。/後で調べたところ、この青年は、父親が昔淀橋浄水場に勤務したことがあり、小学生の頃は、淀橋の公舎で育ったということであった。最近は精神異常になっていたとのことであるが、幼い日の思い出を追って中野あたりから、わざわざ死場所を求めてやって来た淀橋への愛着心には、立合った人々も思わず涙をさそわれた。
  
 当然、そのような事件が起きるたびに、多くの東京市民が利用する飲料水の浄水場で、入水自殺するのは「ケシカラン」という主旨の新聞記事や水道局からの広報が出たが、ほとんど効果はなかったようだ。むしろ、淀橋浄水場の池や水路までいけば入水で死ねると宣伝しているようなもので、自殺志願者はあとを絶たなかった。
 戦時中は、淀橋浄水場に限らずどこの浄水場でも人手不足で維持管理がたいへんだった。淀橋浄水場では、繁忙期には200名の作業員が必要なことは既述したが、男性が兵役や勤労動員でいなくなった戦時には、濾池の能力が日に日に落ちて安全な水道水を給水することができなくなり、やむを得ず陸軍に依頼して兵士を派遣してもらっている。だが、濾池の砂層を形成する担上作業に駆り出された兵士たちは、慣れない作業に疲れ果ててしまい、場長や机上の事務員まで総動員して作業を継続したという。
 戦時中に、淀橋浄水場が地図から“消えた”話は有名だ。戸山ヶ原Click!に林立していた陸軍施設Click!ともども、敵の空爆目標になるのを避けるため、淀橋浄水場は地形図や市街地図から“消滅”している。だが、米軍は空襲の数日前にF13偵察機Click!を爆撃目標の上空に飛ばし、高度1万メートルから最新の情報を入手していたので、いくら地図から消してもなんら効果はなかった。
 たとえば、1940年(昭和15)に作成された1/10,000地形図では、淀橋浄水場はまるで新宿御苑のような、巨大な都市型公園に描きかえられている。また、1941年(昭和16)作成の淀橋区詳細図でも、大きな池が5つほどある崖地と針葉樹林に囲まれた公園として描かれている。双方の地図では、池のかたちや位置がずいぶん異なるので、すぐに「おかしい」と気づかれてしまうレベルの稚拙な改竄だった。
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淀橋浄水場濾池平面図.jpg
 戦争も末期に近づくと、浄水場内のベンチュリーメーターを使って「空襲予知グラフ」というのが作成されている。ベンチュリーメーターとは、水道管の配水量や送水圧力を測定する仕組みで、その水量や圧力が急激に下がれば事故や故障を発見することができる。つまり、爆撃によって水道管が破壊された時期や時間を克明に記録することで、その規則性や周期を割り出し、次の空襲の時期や時間を予測するというわけだ。だが、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で、同浄水場事務所は「空襲予知グラフ」ともどもすべて灰になってしまった。
 淀橋浄水場は、水辺のある広い原っぱに近かったせいかバッタが大量に発生している。戦時中は食糧不足のため、大量に発生したバッタを捕獲して職員たちは飢えをしのいでいた。同書の『模型室のことなど』から、再び引用してみよう。
  
 平和なときには、広い場内にはバッタ類、ヘビ類、鳥類などさまざまなものが共存していたものだが、食糧不足はこれら虫まで手を延ばす結果となってしまった。/当時は、一杯の酒を呑むにも、券を持って行列しなければならず、勿論、酒のさかながあるはずはない。窮すれば通ずで誰かが考え出したのであろう。バッタを獲えて串焼きにし酒のさかなに持参するのが流行した。/このため、休憩時間には場内はバッタとりで大さわぎとなった。たちまち場内のバッタはとりつくされてしまった。/その後、場内からは虫類も殆ど姿を消してしまったほどで、バッタどもも怖ろしい人間に目を付けられたとうらんでいたことだろう。
  
 酒を手に入れる「券」とは、食糧を統制する政府が発行した「配給切符」のことで、すべての食糧は個人が自由に消費できないよう国家が厳しく管理していた。各家庭に配給される「券」がなければ、高価な闇市場で入手するしか方法がなく、その発行もままならない戦争末期になると、国民はいつも飢餓に苦しめられるようになった。
 東京から敗戦の傷跡が目立たなくなりはじめた、1965年(昭和40)3月に淀橋浄水場が廃止になると、東京都の首都圏整備委員会は浄水場の跡地を再開発する、「新宿副都心建設に関する基本方針」をまとめた。そして、浄水場移転跡地処分審議会を設置し、同年7~8月に跡地売却の告知を新聞各紙に掲載している。翌1966年(昭和41)2月に、初めての跡地売却入札が行われたが、まったく人気がなく入札に参加したのはたった2社のみで、しかも両社とも落札できずに不調で終わっている。
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淀橋浄水場空襲19450525.jpg
 淀橋浄水場の埋立区画1・4・5号地に、丸の内にあった東京都庁が新庁舎を建設して移転し、淀橋地域(現・新宿地域)が「副都心」から「新都心」と呼ばれるようになるのは、それから25年もたった1991年(平成3)になってからのことだ。

◆写真上:1965年(昭和40)ごろ撮影された、淀橋浄水場沈澄池に飛来するカモの群れ。戦時中の猟師による殺戮を忘れたのか、戦後は再び飛来するようになった。
◆写真中上は、1965年(昭和40)ごろ撮影された淀橋浄水場全景。は、戦後に撮影された同浄水場の正門。は、濾池で行われる汚砂搬出作業。(戦後)
◆写真中下は、すべて“人海戦術”で行われていた濾池の汚砂削り取り作業と汚砂洗浄作業。(戦後) は、沈澄池(上)と濾池(下)の平面図。
◆写真下は、1932年(昭和7/上)と1940年(昭和15/下)の1/10,000地形図にみる淀橋浄水場の表現改竄。は、1935年(昭和10/上)と1941年(昭和16/下)の「淀橋区詳細図」にみる表現改竄。は、1945年(昭和20)5月25日夜半に照明弾で明々と照らされB29の大編隊による空襲を受ける淀橋浄水場。

安倍能成が証言する第二文化村空襲。

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安井曾太郎「安倍能成像」1944.jpg
 以前、目白文化村Click!は第二文化村の振り子坂Click!沿い、下落合3丁目1724番地(現・中井2丁目)に住んでいた星野剛男の戦時日記Click!をご紹介したことがある。1945年(昭和20)4月13日夜半の、第1次山手空襲Click!前後の状況を記録した貴重な資料だ。今回は、同じ第二文化村の下落合4丁目1665番地(現・中落合4丁目)に住んでいた、安倍能成Click!の証言をご紹介したい。
 安倍能成Click!は、罹災した直後に東京朝日新聞のインタビューに答えて空襲の様子を語り、1ヶ月後には「週刊朝日」にその後の所感をエッセイに発表している。それらの文章には、政府をストレートに批判した表現や、敗戦後の日本を展望するようなニュアンスの文章が見られるのだが、安倍能成は幸運にも特高Click!憲兵隊Click!に逮捕されることはなかった。もう少し時期が早ければ、確実に検閲にひっかかり当局からマークされていただろうが、東京大空襲Click!を経験しサクラが散ったばかりの1945年(昭和20)春ごろには、特高も憲兵隊も取り締まりの機能が衰えるかマヒしはじめ、政府自体もまったく余力を失っていたのだろう。それでも、安倍能成の周囲には筆禍による弾圧を懸念した友人たちから、心配する声がとどけられている。
 1945年(昭和20)4月13日の夜半、安倍能成は家族とともに空襲がはじまった東側の高田馬場駅方面や、南の新宿から東中野駅方面を眺めていた。当初、川沿いの工業地域や鉄道駅がねらわれていると判断したのだろう、自身の家が爆撃されるとは思ってもみなかったようだ。ところが、空襲から1時間ほどすると、おそらく妙正寺川沿いを爆撃したB29の大編隊は、第二文化村上空で焼夷弾をバラまきはじめた。当夜の様子を、空襲直後に東京新聞へ掲載された安倍能成『戦災にあひて』から、少し長いが引用してみよう。
  
 四月十三日夜の爆撃で私の家は全焼した。時刻は十二時頃だつたかと思ふ。これより前南の空と東の空とはぱつと紅くなつて盛んに燃え立つて居たが、時を移さず自分の家に弾が落ちて来るとは思ひまうけなかつた。油脂焼夷弾であらう。ぼろつぎのやうなものが庭一面に燃えて、一時にけしの花の盛りを見るやうであつたが、家の中が燃え出したので、家族三人は家に上つて消防に努めた。(中略) 燃えるカーテンを引きちぎつたり、ドアに着く火に水をかけたりして防火に努めたが、その内二階の天井に穴が開いて猛火が燃え下つて来たので、これはだめだと思つて避難を始めてぐるりと見ると、近隣の四五軒、向ふの一軒も盛んに火を吹いて燃えて居る。/一軒おいて隣のO氏の前を通ると、家の方はあきらめて頻りに防空壕に土をかけて居た。それを少し手伝つたが、その時既に疲れを覚えて居た。近くの神社の下の防空壕に避難する前、今一度我が家の側にいつて見たところ、もう屋根は落ちて柱が盛んに燃えて居た。/防空壕の入口には人が一ぱいでとてもはひれぬかと思つたが、おしわけてはひつて見ると、実に長い壕で奥の方には殆ど人が稀な位であつた。空襲警報解除をきいて三時頃家の側にいつて見ると、朝鮮から帰つて建てた書庫の壁だけが残つて、書物はなほ盛んに燃えて居た。
  
 読まれた方もお気づきのように、安倍能成は「カーテン」や「ドア」などの英語(敵性語Click!)をふつうに用いて文章を書いている。
 数年前であれば、とたんに検閲でひっかかり筆者は特高からマークされるか、近くの憲兵隊詰所に呼びだされて恫喝されるような状況だったはずだ。だが、安倍能成は同時期のエッセイでもそうだが、英語を平然と織りまぜながら文章を新聞や雑誌に発表している。このあたりも、周囲の友人たちが心配したゆえんだろうが、おそらく敗戦が近いことを重々承知していた彼は、当局の反応や取り締まりのゆるみ具合を、発表する文章から推し量っていたのではないだろうか?
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 上記の文章の中で、「一軒おいて隣のO氏」とは安倍邸から西へ2軒め、しばらく空き地がつづいていた敷地へ、日米開戦の前後に家を建てたばかりの大内邸のことだろう。もともと、第二文化村の販売時には山川家の敷地だった区画は、かなり長期にわたって空き地の状態がつづき、日米戦がはじまるころに大内家が大きめな西洋館を新築して転居してきているとみられる。
 「近くの神社の下の防空壕」とは、下落合の御霊社Click!(現在は中井御霊社Click!と呼ばれる)が建つ丘上の急斜面に掘られた大規模な防空壕のことだ。文章から、おそらく数百人は収容できそうな地域の大型防空壕Click!だったようだが、第一文化村の文化村秋艸堂Click!にいた会津八一Click!も、空襲時にはここへ避難してきている。また、「朝鮮から帰つて」とあるのは、5年ほど前まで京城帝国大学に赴任して教授をつとめていたからで、この文章を書いている1945年(昭和20)の時点では、駒場の第一高等学校(現・東京大学教養学部)の校長をつとめていた。
 この空襲で、安倍邸は全焼してしまうが、火が入らないようコンクリートで囲った書庫の壁のみが焼け残った。書庫に保管されていた膨大な書物も、また2階東角の書斎にあった多くの書籍や資料類も、すべてが灰となってしまった。燃え残った書庫の四角い壁は、1947年(昭和22)の空中写真でもハッキリと確認することができる。
 安倍能成は、明確に敗戦を前提とし意識している文章を、今度は「週刊朝日」同年5月12日号に発表している。『罹災のあとさき』から、最後の部分を引用してみよう。
  
 私の焼け去つたものに対する愛惜はスツパリと断ち切られてはゐない。しかし私はこの現実に即してどうか力強く生きたい念願を持つてゐる。日本人は今始めてほんたうの戦争をし、ほんたうの困難にあつてゐる。この戦争は日本人をたゝき直す戦争である。私自身も若しかくしてたゝき直されれば有難いと思つてゐる。
  
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 「日本人をたたき直す」とは、どこで道を踏みまちがえたのかを明確に認識し、大日本帝国に蔓延していた文字どおりの「亡国」思想を「たたき直す」、絶好の機会となる戦争だと位置づけている。また、それを防げなかった自身のふがいなさも、「たたき直」したいと宣言している。安倍能成の、戦前からの言動や主張の文脈を知悉していた人々にしてみれば、明らかに敗戦後の「たたき直」し=再出発を見すえた文章であることは明白だったろう。だからこそ友人たちは、当局の弾圧を危惧する声を寄せたのだ。
 そして1945年(昭和20)8月21日、敗戦からわずか6日後の毎日新聞に、『強く踏み切れ』と題して次のような檄文を書いている。
  
 日本は負けた、世界を相手にして負けた。今の日本人にとつて何より重要なことは、この負けたといふ事実、敗戦国である実相を、わるびれず、男らしく、武士らしく、認識することである。この正直な真実の認識からこそ、新しい日本の総ての新しい出発は始まるのである。このことを好い加減にごまかしては、日本人の今後の生活は全く好い加減なものになり、本当の正しい起ち上りも打開も出来るはずはない。
  
 安倍能成が危惧したように、大本営が撤退を「転進」とごまかしたのと同様、敗戦を「終戦」と曖昧化する「男らしく」ない現象がすぐにも表面化している。被占領国の被害をできるだけ小さく見積もり、中には「なかったこと」にしたがる、矜持もなく「武士らしく」もない卑怯な言動が、ほどなく出現している。21世紀になり、「世界を相手にして負けた」戦争などまるでなかったかのように、破産・破滅した大日本帝国の「亡国」思想のまま、70年以上も思考を停止した人々が跳梁跋扈しはじめ、「非国民」などという愚劣で没主体的な言葉を平然とつかう人間まで出現するにいたった。
 安倍能成は哲学者として、また国家を滅ぼした政府の官学の一隅に身を置いていた教育者として、「この戦争が如何にして起つたか、この戦争に何故に敗れたかとの原因を諦観して、これを適正に真実に国民に、殊に今後の日本を背負ふべき青年に知らせることが、生きた具体的教育の重要基調でなければならぬ」(『強く踏み切れ』)と書いている。
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 わたしの高校時代は、プリント資料まで用意して近現代史の授業が熱心に行われていたが、今日では近現代史を教えるのは「時間切れ」で「試験に出ない」からパスされることが多いそうだ。翌1946年(昭和21)に文部大臣に就任する安倍能成が聞いたら、よじのぼった箪笥の上Click!で「山上の訓」どころではなく、真っ逆さまに転げ落ちるだろう。

◆写真上:1944年(昭和19)に制作された、安井曾太郎Click!『安倍能成像』(部分)。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる第二文化村の安倍能成邸。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる安倍邸。安倍邸の2軒西隣りの敷地が、のちに大内邸が建設される空き地。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に陸軍が斜めフカンから撮影した第二文化村と安倍邸。は、第1次山手空襲で焼失するわずか11日前の1945年(昭和20)4月2日に、F13偵察機Click!から撮影された安倍能成邸の最後の姿。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる安倍邸の焼け跡。敷地の北側には、焼け残った書庫のコンクリート壁が見てとれる。は、安倍能成の死去をトップで伝える1966年(昭和41)7月3日発行の落合新聞。このときは、すでに下落合4丁目1665番地の邸を息子に譲り、安倍能成は下落合3丁目1367番地(現・中落合4丁目1番地)の新居Click!へ引っ越していた。安倍邸へ弔問に訪れた皇太子夫妻(当時)の背後に見えているのは、工事がスタートしている十三間通りClick!(新目白通り)。

70年使われた「キング切手印紙葉書入」。

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 親父の小引き出しを整理していたら、戦前に売られていた懐かしい「キング切手印紙葉書入」が出てきた。1937年(昭和12)4月から、1942年(昭和17)3月までの間に売られていた製品だ。なぜ販売期間までわかるのかといえば、同ハガキ入れには郵便料金が記載されており、手紙が4銭でハガキが2銭の時代は、上記5年の期間しかなかったからだ。そして、わたしが懐かしいのはもちろん同時代に生きていたからではなく、わたしが物心つくころから大学生になり独立するまで、わが家では「キング切手印紙葉書入」がそのまま現役で使われていたからだった。
 同ハガキ入れは、東京地方だけで売られたバージョンなのか、東京市内から地方各地あるいは「外地」への郵便料金や航空便料金が記載されている。他の都市で売られた製品は、その街を基準に料金一覧が掲載されていたのかもしれない。親父が日本橋の家から独立して大学予科へ入る際、実家から諏訪町Click!(現・高田馬場1丁目)の下宿先へ持ってきた品物のうちのひとつなのだろう。日本橋に置いてあったら、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で焼けているはずだが、親父の下宿先は同年4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲Click!に遭いながらも、かろうじて焼け残っている。
 「キング切手印紙葉書入」の仕様は秀逸で、二つ折りの扉を開くと袋状になった奥の収納が官製ハガキや往復ハガキ入れ、手前に少しずつずらしながら重なるように折られているページが切手・印紙入れになっている。しかも、切手は値段別に入れられ、二つ折りの底部は横から切手が滑り落ちないよう両側が接着されている。しかも、底には丸いパンチ穴が連続して開けられており、必要な値段の切手の有無が、いちいち二つ折りを開かなくてもすぐに確認できる。また、二つ折りの切手・印紙入れの裏側ページは住所録になっていて、頻繁に郵便をやり取りする相手の忘備録となっている。
 1937年(昭和12)の時点での郵便料金を見てみると、封筒の手紙が20gまで4銭(第一種郵便)。120gまでが4銭+3銭=7銭、以降120gごとに+3銭(第一種割増)となっている。また、ハガキは2銭、往復ハガキは4銭(第二種)で、手紙の半分の値段なのがいまと比べると割安感がある。新聞や雑誌を送る第三種郵便は60gまでが5銭、以降60gごとに+5銭増し。書籍や印刷物、写真、書画などを送る第四種郵便は120gまでが3銭、以降120gごとに+3銭が必要だ。
 特異なのは、第五種郵便として農作物の種子が料金に設定されている点だろう。当時は、寒冷地適応など品種改良された農作物の種子を、国内や「外地」に販売する事業が多かったのだろう。特に、冷害で恒常的な凶作にみまわれた地域では、さまざまな農作物の種子を大量に必要としていた。また、満州や台湾、朝鮮半島などの植民地(開拓村)では、農地拡大のために多種多様な農作物の作付けが実験的に繰り返されていた。したがって、種子を安価に配送する特別な郵便制度が不可欠だったとみられる。農作物の種子は、120gまでが1銭と極端に安く設定され、以降120gごとに+1銭ずつ加算されていく。つまり、種子を1kg超送ったとしても、わずか10銭の配送料で済んだわけだ。
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 同ハガキ入れには、電報料金も記載されている。通常電報で東京市内同士は、15字までで15銭、以降5文字ごとに3銭増し。内地(国内)相互間で15字以内は30銭、以降5文字ごとに5銭増し。内地(国内)と台湾、朝鮮、樺太、小笠原諸島、沖縄諸島間は15字以内で40銭、以降5文字ごとに5銭増しとなっており、「ウナ電」(至急電)の場合は上記料金の2倍が請求された。また、面白いのは「ムニ電」(照校電報)というのが存在したことだ。これは、打電する文面を局員が反復して復唱校正(電文反復照合)するサービスで、ただそれだけで上記料金の2分の1増しが請求された。
 たとえば、「アスエキニツク(明日駅に着く)」の電文で反復照合電報を依頼すると、その電文を受け付けたちょっと怪しい電報局員が、「♪あなたに捨てられてラ・メール~の“ア”、♪すずめ鳴け鳴けもう日は暮れた~の“ス”、♪江ノ島が見えてきたおれの家も近い~の“エ”、♪君を見つけたこの渚で~の“キ”、♪にしん来たかとカモメに問えば~の“ニ”、♪津軽海峡冬景色~の“ツ”、♪クジラのスーさんお空泳いできた~の“ク”……でまちがいないですね? きょうは、夏らしく海シリーズで反復唱合してみました」「…うるせ~よ!」と、1文字1文字を反復して確認してくれるのだ。
 同ハガキ入れには、「郵便取扱時間」も掲載されているが、これは郵便局がその業務を行っている開業時間のことで、季節により時間帯が異なるのがめずらしい。切手・印紙入れの裏に記載された開業時間について、そのまま引用してみよう。
  
 電信 電話(一、二等局)
  三月一日ヨリ 十月末日迄 午前六時ヨリ 午後八時迄
  十一月一日ヨリ 二月末日迄 午前七時ヨリ 午後八時迄
  三等局ハ一年間ヲ通ジテ 午前八時ヨリ 午後四時迄 但 時間外取扱ヒヲモナス
 為替 貯金 保険
  四月一日ヨリ 七月廿日迄 九月一日ヨリ 十月末日迄 午前八時ヨリ 午後三時迄
  其他ノ時期ハ午前九時ヨリ 何レモ土曜ハ正午限 日曜休
 小包 書留 其他
  一二等局ハ平日午前八時ヨリ午後十時迄 日曜祭日午後三時迄
  三等局ハ平日午前八時ヨリ午後六時迄 日曜 祭日ハ休
 年末三日間ハ日曜祭日モ平日通リ事務取扱ヲナス
  
 今日の郵便局よりも、かなり長時間にわたって開業していた様子がわかる。
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 また、同ハガキ入れの奥付部分には、航空郵便のルートと料金が印刷されている。東京を起点にすると、航空郵便ルートは北へ東京-仙台-青森-札幌と、東京-富山-新潟の2ルート。西へは、東京-名古屋-大阪-福岡-京城-新義州-大連-奉天-新京-ハルピン-チチハル-満州里となっている。また、山陰へは大阪-鳥取-松江、四国へは大阪-高松-松山と分岐し、南へは福岡から分かれ福岡-沖縄-台北-台中-高尾までの航空郵便ルートが開拓されていた。
 航空便料金はそれなりに高く、内地同士(中国関東州含む)の手紙だと20gまで基本料金+30銭、内地-満州間は基本料金+35銭、ハガキだと内地同士は基本料金+15銭、内地-満州間は基本料金+18銭となっている。基本料金とは、先述した通常料金のことで、通常の手紙だと国内航空便は34銭、満州まで送れば39銭、ハガキは国内航空便で17銭、満州までなら20銭ということになる。
 「キング切手印紙葉書入」の製造元は、神田にあった名鑑堂だが、現在の同社は「キングジム」と表現したほうがピンとくる方も多いのではないだろうか。この記事を読んでいる方のお手もとにも、同社の製品が少なからずあるはずだ。「キングファイル」や「クリアファイル」をはじめ、「クリアバインダー」、ラベルライターの「テプラ」、テキストメモの「ポメラ」など、必ず一度はどこかで目にしているのではないだろうか。もともと神田の名鑑堂は、明治期あたりに起業した会社かと思っていたら、1927年(昭和2)創業と意外に新しい。おそらく、会社の創立後に初めて大ヒットした商品が、「キング切手印紙葉書入」だったのではないだろうか。
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 タイトルには「70年使われた」と書いたけれど、同ハガキ入れが出てきてから、再びわたしが切手やハガキを入れて使いはじめたので、80年以上つかわれている……ということになる。下部を閉じておく黒いゴム輪は失われたが、まだまだ現役でいけそうだ。

◆写真上:函圧しに金文字と、かなり凝ったつくりの「キング切手印紙葉書入」題字。
◆写真中上は、同ハガキ入れの全体像。は、表紙をめくると各種郵便料金の記載とともに、「はがき入れ」と書いてあるところからハガキがタテに入れられる。
◆写真中下は、二つ折りの切手・印紙入れ。パンチ穴が開いており、切手の有無がすぐに確認できる。は、1937年(昭和12)の郵便局取り扱い郵便物と開業時間。は、1933年(昭和8)に撮影された落合地域の西隣りにあたる中野町郵便局。
◆写真下は、1929年(昭和4)に撮影された落合地域の北隣りにあたる椎名町郵便局。ちなみに、『中野町誌』と『長崎町誌』には郵便局の写真が掲載されているが、『落合町誌』と『高田町史』には未掲載だ。は、航空郵便のルートと料金表。

鬼子母神の駄菓子屋に通った秋田雨雀。

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 雑司ヶ谷24番地に住んでいた秋田雨雀Click!は、落合地域に関連する人物たちのエピソードには頻繁に顔をのぞかせている。古くはエスペランティストという側面から、下落合370番地にアトリエをかまえた竹久夢二Click!や、中村彝Click!のアトリエへモデルとして通ったエロシェンコClick!などとともに、全国を講演してまわっていた。
 また、上落合189番地に住んだ俳優の佐々木孝丸Click!は、秋田雨雀としじゅう会えるようにと、わざわざ雑司ヶ谷鬼子母神の近くに転居していた時代がある。同じ演劇がらみでは、上落合186番地の村山知義Click!とのつながりで、上落合502番地に設立された国際文化研究所へもやってきていた。さらに、上落合850番地(のち842番地)に住んでいた作家の尾崎翠Click!とも接点があり、また上落合469番地(のち476番地)にいた神近市子Click!とも、かなり親しく交流していた。
 秋田雨雀は、青森県から東京へやってくると東京専門学校(のち早稲田大学)の英文科へ入学し、小石川早竹町に住んだあと、1904年(明治37)には早稲田鶴巻町の下宿「松葉館」へと移った。この松葉館の主人が、武者小路実篤Click!の叔父であったことから、新体詩や社会主義に興味をおぼえはじめたようだ。翌1905年(明治38)には、早くも雑司ヶ谷24番地の山田方に下宿し、同年に隣接する24番地にある隣家・前田やす邸の2階へ転居。そして翌年、前田家の娘・きぬと結婚している。以降、雨雀は太平洋戦争がはじまるまで雑司ヶ谷の同所に住みつづけた。ちょうど、雑司ヶ谷鬼子母神Click!のほぼ門前、北東側に隣接した住宅街の路地奥にある2階建ての家だった。
 雨雀は、早稲田大学英文科を卒業したあと、島村抱月Click!に師事して「早稲田文学」に処女作『同性の恋』を発表し、新進小説家として注目を集めはじめた。また、戯曲集『埋もれた春』を発表して、演劇の脚本家としてもスタートしている。雨雀が島村抱月と松井須磨子が創立した、芸術座の幹事をつとめていたのは有名なエピソードだ。ところが、演劇の面白さが雨雀をとらえてしまい、劇団にのめりこむあまり書斎で作品を創作する機会が急減し、「私の創作力を減殺」(『雨雀自伝』)していくことになった。
 雨雀は娘が生まれると、娘の情操教育のためにと童話を創作するようになる。また、娘を小学校へは入学させず、みずから「自由教育」を企画してカリキュラムを作成し、自分以外の講師も依頼していたようだ。雨雀の根底にあったのは、「日本の封建主義的倫理教育に対する疑い」で、文部省教育からは完全に切り離されたカリキュラムとなった。社会学、生物学、地理学、英語、エスペラント語、文学、音楽、演劇などの授業が行われ、情操教育が主体の教育法だった。このあたり、ヴァイオリニストの巌本真理を輩出した巌本家Click!の教育法に近似している。
 文学や演劇、童話の各分野を問わず、雑司ヶ谷24番地の秋田雨雀邸は、ちょうど牛込早稲田南町(現・早稲田南町)の漱石山房Click!のように、多くの仲間が集い青年たちが出会う、ハブのような役割を果たすことになる。
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 「雑司ヶ谷巡り」と呼ばれた当時の様子を、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』から引用してみよう。
  
 明治末期から大正にかけての鬼子母神の森は、実にうっそうとして樹木の中に家が点在するというほどで、雨雀の部屋も樹木におおわれて昼でも電灯を点していた。玄関から暗い階段を二階にあがると、そこが書斎となっていた。そこにはいつも「執筆中」の貼紙が貼られていたが、人声が絶えなかった。客が訪ねていっても「執筆中」の札に物を言わせることのないのは、本人自身やはり客好きで淋しがりやであったからだ。/当時雑司が谷には、藤森成吉、平林初之輔、小川未明、前田河広一郎、白鳥省吾らが住んでいた。この頃「雑司が谷めぐり」ということばがあって、インテリ―失業者たちが雑司が谷に行けば誰かに会えるし、事によると一椀一杯にあずかれるかも知れないし、あわよくば電車賃位は何とかなるというところから、「雑司が谷めぐり」が始まったという。秋田雨雀といえば雑司が谷でも鬼子母神の杜に住む主と言われたもので「雑司が谷めぐり」の本尊と見られていた。
  
 秋田雨雀自身も、雑司ヶ谷をあちこち散歩していたようで、「ハイゼの原」Click!にはよく姿を見せていたらしい。また、鬼子母神境内にある駄菓子屋「上川口屋」は常連だったらしく、そこの老婆(現在の店主の先々代だろう)とはかなり親しかったようだ。
 ちなみに、わたしも上川口屋さんの常連のひとりで、子どもが小さいころから鬼子母神の境内へ散歩に出かけると必ず立ち寄っていた。現在も必ずフラフラと立ち寄り、ラムネか粉ラムネ(粉末ジュース?)を買っては、家族にナイショで楽しんでいる。こういうところ、子どものころの習慣(クセ)はなかなか抜けないものだ。いまの店主は、確か戦後に同店へ嫁いできたお嫁さんだったと思う。乃手では、駄菓子屋さんへの出入りが禁止されていた家庭が多いせいか、この話をすると「まあ……」などとあきれ顔をされることが非常に多い。うちの連れ合いも、同店で子どもたちに駄菓子を買い与えると、「ダメですよ、添加物や着色料が心配だから」と眉をひそめていた。
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 ハイゼの原と駄菓子屋で目撃された雨雀の姿を、1977年(昭和52)に新小説社から出版された中村省三『雑司ヶ谷界隈』から少し長いが引用してみよう。
  
 或る日のこと。母の郷里である青森県の三戸から祖母が上京してきた折、土産に持ってきてくれた「ごませんべい」を何枚かふところにして、私はふらりと「ハイゼの原」まで出かけて行った。もう夕方近くだったせいもあり、そこには子供達の姿は一人もいなかった。私は草原の斜面に腰を下ろして、はるか右手の方に見える鬼子母神を眺めていた。/するといつの間にか私の直ぐ左横に、一人の男の人が立っているのを発見した。鳥打帽子を冠りステッキを突いたその人を見た時、私は最初異人さんではないか――と思った程だった。体は決して大きな方ではなかったが色の白い童顔の人で、茶色のコール天のズボンをはき、今にして思えばルバシカだと分るが、当時としては見たこともない、黒色のビロード風のだぶだぶの上衣をつけ、腰の辺りを紐で強くしばった面白いものを着た人だった。その人は私にぽつりと言った。「夕やけが、きれいだね」(中略) 「珍らしい物を持っているね。ごませんべでしょう。小父さんにも少しくれる?」/と言った。私は無言でうなずき一枚とり出して渡した。(中略) それからしばらくして、鬼子母神のお会式が近づき、見世物の小屋がけなどを見に出かけた時、境内の売店の前で、私はいつぞやの「ハイゼの原」の小父さんにバッタリと出会った。同じような恰好をしていたので、私はすぐに気付いたが、その人は売店の小母さん(鬼子母神の項で書いた老婆のこと)と、何か親し気に話合っていたが、私の姿をみると手まねきして、/「この間は、ごませんべをありがとう。とてもおいしかったよ」と礼を言い、売店の小母さんからキャラメルの小箱を買って私に与えた。
  
 このあと、著者はキャラメルの小箱を家に持ち帰ったが、知らない人からモノをもらったということで父親にひどく叱られたらしい。ところが、三戸のごませんべいと「小父さん」とのいきさつの話をすると、父親は「雨雀さんだ」といって叱るのをやめた。相手の素性が知れたからではなく、父親は秋田雨雀とは同郷のよしみで親しかったからだ。
 文中で、上川口屋の店主を「老婆」と書いているが、このエピソードがあった当時はまだ若い「小母さん」、つまり昭和初期に店番をしていた現店主の先々代だった。著者が同書を執筆する際、つまり1977年(昭和52)の少し以前にはすでに老婆となっており、おそらく娘とふたりで店先に出ていたのではないだろうか。
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 「稲荷社の鳥居のかたわらに佇むように建ち残っている茶店というか、鳩の餌などを売る店が、往時のままで残されていて、またそこで店番をしている老婆も昔のままの婆(当時は小母さんであった)でいてくれたのは、何といってもなつかしかった」と書いているが、著者の取材に対し上川口屋の「小母さん」は、秋田雨雀のことを克明に記憶していた。それほど雨雀は、この駄菓子屋が気に入って頻繁に通ってきていたのだろう。

◆写真上:江戸の創業から240年近い、鬼子母神境内で健在の駄菓子屋・上川口屋さん。
◆写真中上は、講演旅行の記念写真からエロシェンコの左が秋田雨雀で、その手前が竹久夢二。下左は、秋田雨雀『同性の恋』が掲載された1907年(明治40)発行の「早稲田文学」6月号。下右は、縞柄のルバシカ姿の秋田雨雀。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道。は、現在の鬼子母神本堂とザクロの絵馬が架かる本堂内部の様子。
◆写真下は、1933年(昭和8)に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の境内にある大イチョウ。は、1977年(昭和52)ごろに撮影された上川口屋の店先。は、秋も深まるとイチョウの落ち葉が目立つ鬼子母神境内の現状。

落合周辺の種苗店と牧野虎雄の「花苑」。

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 長崎村(町)荒井1721番地(現・目白4丁目)に小さなアトリエをかまえ、のちに下落合(2丁目)604番地(現・下落合4丁目)に転居してくる、牧野虎雄Click!が制作したアトリエ前の庭園シリーズClick!について記事にしたことがある。いわば、牧野虎雄の「長崎風景」シリーズといったところだ。
 その庭に描かれた盛り土は、近所の下落合540番地にあった大久保作次郎アトリエClick!にも見られた土盛り、すなわち園芸用の腐葉土でもつくっているのではないか?(それにしては土の山が大きすぎるのだが)……とも書いた記憶がある。牧野虎雄が住んだ、長崎アトリエの庭にうず高く積まれた土は、自然の起伏でも腐葉土の堆積でもないようだ。牧野が自身で庭先に設計した、「花園」のための築山だった可能性が高い。
 それが判明したのは、東京都現代美術館に収蔵されている牧野虎雄『花苑』(冒頭写真)の画面を観察できたからだ。彼は、さまざまな草花の種をこの築山一面にまいて、大切に水をやりながら育てていたようだ。それは、いずれ風景画あるいは静物画を描くときのモチーフとして、あらかじめ意識しながらの「花苑」づくりだったのだろう。
 この土の山は、牧野アトリエ西側の庭に築かれており、少なくとも1919年(大正8)に制作された『庭』で、すでにその存在を確認することができる。このとき、画面に描かれた築山はいまだ赤土が露出したままであり、牧野が庭園業者に依頼して土を運びこんだばかりのように思える。なぜなら、『庭』が描かれたのは、手前の女性が涼しげな浴衣姿なのでもわかるように、1919年(大正8)の夏季であるにもかかわらず、赤土の上には植物の繁茂が見られないからだ。
 赤土(関東ローム)が露出した、この地域の空き地をご存じの方ならおわかりだろうが、1年もたてば雑草が一面に生い茂り、土面が見えなくなるほど雑草が繁殖する。だが、牧野虎雄の『庭』には夏季にもかかわらず、その繁茂がほとんど見られない。これは、アトリエの庭に土が運びこまれ山が築かれてから間もない時期であり、牧野虎雄はできたばかりの築山を『庭』で写生している……と解釈するのが自然だろう。
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牧野虎雄「庭」樹規定.jpg
牧野虎雄「花苑」樹規定.jpg
 さて、1919年(大正8)制作の『庭』と、翌1920年(大正9)に描かれた『花苑』とが、なぜ同じ場所の情景だと断定できるのかといえば、そこに描かれた樹木の位置と、幹枝のかたちがまったく同一だからだ。まず、『庭』に描かれたケヤキの若木のような形状の樹木を観察してみよう。左寄り手前には、幹がY字型に分岐した木(樹A)が描かれている。その奥にも、同様にY字型に分岐した木(樹B)が確認でき、その右手(画面のほぼ中央)には比較的まっすぐに幹がのびた木(樹C)が立っている。さらに、画面右手のアトリエに近い位置には、複雑に枝分かれした若木らしい木(樹D)が育ちつつある。
 この樹木の配置、つまり木立ちの風情を翌年に描かれた『花苑』に重ねてみると、ぴたりと一致することがわかる。すなわち、Y字型の樹Aのうしろに同じようなかたちをした樹B、樹Bの右横に比較的まっすぐな樹C、そしてアトリエの外壁近くにあたる画面右端に若木の樹Dという構成だ。『庭』に比べ、『花苑』ではY字型の樹Aと樹Bとの重なり具合から、スケッチの視点位置がやや右手(東寄り)にずれているのがわかる。
 『花苑』を観察すると、園芸用の多種多様な花の植えられているのがわかる。牧野虎雄は、庭の築山に種子をまきながら、文展・帝展が開かれる直前の夏季に、花々が咲き乱れる庭へイーゼルを持ちだして、その年の出品作を仕上げていたのだろう。花々の種子は、近くに住む大久保作次郎Click!から分けてもらったのかもしれないし、近くの園芸店から手に入れたのかもしれない。
 大正中期の当時、少しずつ建ちはじめた住宅地の造園ニーズを見こんで、落合地域とその周辺には植木業や園芸店が開業しはじめていた。長崎や落合のエリアは、いまだ宅地の数はそれほど多くはなかったが、山手線の内側域で市街地(15区時代Click!)にあたる牛込区や小石川区では、住宅が急増して園芸の需要が一気に高まっていた。
牧野虎雄「庭の少女(中庭)」1921.jpg
牧野虎雄「早春」1922.jpg
牧野虎雄アトリエ跡.JPG
 たとえば、牧野虎雄が描いた『庭』(1919年)や『花苑』(1920年)と同時期に出版された、1920年(大正9)の『高田村誌』(高田村誌編纂所)には、すでに大きめな造園業者が広告を掲載している。1社は、「高田村目白駅北二丁」のダリヤがメイン商品だった園芸種子の「富春園」であり、もう1社は池袋駅近くにオープンしていたとみられる、所在地が不明な園芸用品や種子の販売業「池袋花園」だ。
 また、長崎村の旧家である長崎バス通りの岩崎家Click!では、目白駅や目白通りを走るダット乗合自動車Click!(のち東環乗合自動車)に看板を設置するなどの宣伝を繰り広げながら、すでに「岩崎種苗店」Click!を開店していたかもしれない。牧野虎雄は、これら近くに開店していた園芸業者や種苗店から、好きな草花の種子や球根を購入して、庭で栽培していた可能性もありそうだ。
 牧野虎雄は、下落合2丁目604番地に建てたアトリエClick!の庭でも、さまざまな花々を育てていたらしく、浅田邸をはさんで2軒西隣りにいた下落合623番地の曾宮一念Click!が、ときどき見学に訪れている。牧野は下落合のアトリエで、庭に咲くケシあるいは花瓶にさしたケシの花や実をよく描いている。曾宮一念アトリエClick!の庭にもケシの花が以前から栽培されており、彼もまたケシを挿画などによく描いていることから、牧野は曾宮から種子をもらって育てていたものだろうか。
 牧野虎雄のアトリエにあった築山だが、1921年(大正10)制作の『庭の少女(中庭)』には、いまだこんもりとした地面の盛りあがりがありそうだが、翌1922年(大正11)に描かれた『早春』では、『庭』(1919年)や『花苑』(1920年)に見られる大きな土盛りが消えているように見える。おそらく、1922年(大正11)の春先に、牧野は庭の築山をあらかた崩しているのではないだろうか。
園芸店広告1920.jpg
東環乗合自動車広告.jpg
牧野虎雄「園の花」1922.jpg
 そして、1922年(大正11)の夏に描かれた『園の花』には、やや小さめな“ふくらみ”は確認できるものの、『庭』や『花苑』に見られる大きな築山はすでに消滅しているようだ。庭の景色に飽きたのか、それともアトリエ西側の接道(南北道)工事がはじまり、築山の一部がひっかかって邪魔になったからかもしれない。

◆写真上:1920年(大正9)に、長崎村のアトリエ庭を描いた牧野虎雄『花苑』。
◆写真中上は、1919年(大正8)に同じくアトリエ西側の庭を描いた牧野虎雄『庭』。は、両作の画面に描かれた樹木の比較と規定。
◆写真中下は、1921年(大正10)制作の牧野虎雄『庭の少女(中庭)』。は、1922年(大正11)に描かれた同『早春』。すでに築山は崩されたのか、アトリエの西側には見えない。は、長崎村(町)荒井1721番地にあった牧野虎雄アトリエ跡の現状。
◆写真下は、1920年(大正9)出版の『高田村誌』に掲載された園芸店広告。は、目白通りを走る東環乗合自動車のバックに掲示された「岩崎種苗店」の看板広告。(小川薫様アルバムClick!より) は、1922年(大正11)制作の牧野虎雄『園の花』。

長崎仲町の旧家を描く片多徳郎。

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片多徳郎「風景」1934.jpg
 いのは画廊Click!を通じてpinkichさんよりいただいた、片多徳郎Click!の“絶作”といわれる『風景』(1934年)の描画ポイントを探すのに手こずってしまった。同作は戦災で失われたのか、現在は行方不明のままモノクロ画像しか残されていないのも、手こずった要因のひとつだ。描画場所が落合地域なら、画面の地形や道路のかたち、家々の様子などを見れば、すぐに「あそこだ!」と見当がつくが、落合地域から離れると土地勘が薄れるせいか、年代を追って地形図と空中写真、事情明細図などとにらめっこすることになる。特に長崎地域の南部はともかく、北部の土地勘はほとんどないに等しい。
 おそらく前年の秋にスケッチされ、翌1934年(昭和9)の自死する直前に仕上げられたとみられる片多徳郎『風景』は、長崎地域を描いたものだという子息の証言があるようだ。確かに、1934年(昭和9)当時の落合地域(新たな葛ヶ谷→西落合を含む)で、このような風景にピンとくる場所はもはや存在していない。1935年(昭和10)前後の落合地域は急速に住宅街化が進み、地元の大農家は大地主に変貌していて、画面のような大農家然とした風情は数えるほどしか残っていない。1936年(昭和11)に撮影された空中写真で確認しても、落合地域の旧家はいずれも濃い屋敷森に囲まれた大邸宅に住んでおり、画面のような風情はすでに失われている。
 そこで、片多徳郎Click!が晩年に住んでいた長崎東町1丁目1377番地(旧・長崎町1377番地)から、画道具を抱えて歩いていけそうなエリアをすべて考慮し、長崎町(現在の千早町、千川、要町、高松などすべて含む)ばかりでなく、板橋区の板橋町3・4丁目、野方Click!と同様に荒玉水道Click!水道塔Click!が目立った大谷口町、向原町まで含めて考えてみることにした。参照したのは、各時代の1/10,000地形図をはじめ1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」、空襲をあまり受けていない地域なので1936年(昭和11)から1948年(昭和23)までの各年代を追った空中写真などだ。なお、旧・西巣鴨町だった池袋1~7丁目はすでに市街地化が進んでいて、概観しただけでも1932年(昭和7)の時点でさえ、もはや画面のような風景の場所は見られないので除外している。
 片多徳郎の『風景』について、山下鐡之輔は『酒中から得た寶玉』という文章で次のように書いている。1988年(昭和63)に大分県立芸術会館から刊行された、「片多徳郎展 大正洋画壇を駆け抜けた異才』図録収録の同文から引用してみよう。
  
 それは彼が逝って満中陰の佛事の晩であつたと思ふ。佛前の右側に六号の秋の郊外の風景が画架に架けて飾つてあつた。最初は漫然と見ただけであまり気に止めなかつたが、後でつくづくと眺めてゐるうちに、これは実に大したものだといふ感じがして来たのであつた。/これは全く従来の片多君のものとは大変趣の異つたものである それは実に修業を積んだ坊さんに逢つた様な感じ、而も仲々頭を使つたもので小さいが力の充実したものである。正直なところ僕は始(ママ)めて片多君の純粋な魂にふれた様な気がした。令息達の話に依ればこれは本人も大得意で携へて帰つて「これを以て如何んとなす……」と言つて皆なに見せてとてもいゝ気持になつて酒を呑み始めたといふ事である。こんな境地に迄鍛えられてゐた彼に今更乍ら残念に想ふ次第である。
  
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野口義恵「東長崎の駅から」1935頃.jpg
田嶋鉄五郎邸1926.jpg
 さて、片多徳郎の『風景』から読みとれる描画ポイントの条件は、以下の6つだ。
 ①地元の旧家らしい大農家のかまえで、屋敷には高めの塀がめぐらしてある。
 ②屋敷内にはケヤキとみられる大樹が生え、手前は畑地か空き地になっている。
 ③地形がやや左下りで、建物は丘上とみられる場所に建っている。
 ④光線の射し方から、画家の背後または左手が南の可能性が高い。
 ⑤旧家の南(ないしは西)に接した宅地には、モダンな住宅が建設されはじめている。
 ⑥旧家の塀に沿って、小路ないしは道路のある可能性が高い。
 この6条件に合う大農家(旧家)が、長崎地域とその周辺域にあるかどうか、丸1日かけてシラミつぶしに探してみた。すると、たった1軒だけ上記の6条件を満たす、地元の旧家を見つけることができた。この大きな住宅は、長崎地域のおもに北部に展開する、おそらく江戸期からつづく旧家・田嶋家一族の邸宅のひとつだ。片多徳郎は、東側の畑地ないしは空き地にイーゼルを立て、午前中ないしは昼近い陽の当たる田嶋鉄五郎邸(鉄二郎?/以下鉄五郎で記述)をモチーフに、西南西の方角を向いて描いている。
 田嶋鉄五郎邸は、長崎仲町2丁目3605番地(旧・長崎町3605番地)にあり、同町2丁目にあった立教大学運動場(現・都立千早高校)の南約230mほどのところに位置している。片多徳郎のアトリエ(長崎東町1丁目1377番地)から直線距離で800mと少し、道を歩いても1.2kmほどで、寄り道をせずにゆっくりめに歩いても20分ほどでたどり着ける距離だ。また、椎名町駅から武蔵野鉄道に乗って隣りの東長崎駅で降りれば、駅から直線距離で440m、道を歩いても600mほどで徒歩6~7分だったろう。現在の住所でいえば、豊島区千早3丁目13番地ということになる。
 田嶋鉄五郎邸は、1/10,000地形図の記号によれば敷地が塀で四方を囲まれており、1936年(昭和11)の空中写真で確認すると敷地の南東すみには、大きなケヤキとみられる樹木が繁っているのが見える。同邸は、標高36.25mの等高線が丸く描かれた、豊島台一帯のピークのひとつと思われる丘上西側の一画に敷地がかかり、地形は千川上水が流れる南西側(画面の左手)に向かってゆるやかに下がっている。田嶋邸の南側は、すでに耕地整理が終わり、大正末の時点からすでに住宅が建設されはじめている。また、同邸の塀に沿って、東南北側には畦道の名残りのような小路が刻まれ、西隣りの桑原邸+田嶋邸(長崎仲町2丁目3628番地)の敷地との間には道路が通っている。
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 片多徳郎はアトリエをあとにすると、のちに長崎アトリエ村のひとつ「桜ヶ丘パルテノン」Click!が建設される東西道を西に向かって歩みを進め、長崎町の旧字名で西原と呼ばれたあたりから右へ折れてまっすぐ北上していった。当時は、周辺の田畑の耕地整理が終わったばかりで、あたりには元・田畑だった空き地が一面に拡がる抜けのいい風景だったろう。北へ向かって歩けば、田嶋鉄五郎邸の大ケヤキは遠くからでも望見できたかもしれない。それを目印に歩いていくと、やがてモダンな住宅(平沢要邸)が建っている北側に、古めかしい土塀の旧家が姿を現した。片多徳郎は、念のために表札を確認すると「ここも田嶋さんちか」……とつぶやいたかもしれない。
 画家は、田島鉄五郎邸の東側に拡がる畑地ないしは空き地に入りこみ、ケヤキの大樹が画面中央やや左に位置し、南側に建設されたばかりで陽が当たり、白く輝くモダンな平沢邸の切妻が入るよう、西南西を向いてキャンバスに向かっているとみられる。田嶋邸内の大きな建物である2棟の黒々とした瓦屋根が描かれ、邸の向こう側には弁護士だった桑原信雄邸のシャレた住宅や、おそらく田嶋鉄五郎の近しい血縁なのだろう、同じくもうひとつの田嶋邸の屋根が見えている。ひょっとすると、道路をはさみ田嶋家の広い敷地に建つ弁護士の桑原邸は、同家の娘婿なのかもしれない。
 片多徳郎が、椎名町駅から電車に乗り東長崎駅Click!で降りて歩けば、道順はもっと単純になる。北口駅前の道を、まっすぐ北へと歩いて少し東側(右手)へ折れれば、周囲が「田嶋」の表札を掲げた大屋敷だらけの一帯に出る。耕地整理を終えた空き地が拡がる風景の中で、ことのほか画家の目を強く惹いたのは、田嶋鉄五郎邸の大ケヤキだったのではないだろうか。この大ケヤキは、戦時中の物資不足による供出でも伐られることなく残り、戦後の空中写真でもハッキリと確認することができる。実は田嶋邸敷地の北側にも、濃密なケヤキとみられる屋敷林が繁っているのだが、画家は南東側にポツンと1本だけ離れてそびえる大ケヤキに、強い画因をおぼえたのだろう。
 驚いたことに、田嶋鉄五郎邸の敷地には、現在でも旧家とみられる大きな邸が濃い屋敷林に囲まれて建っている。敷地の南東すみにあった大ケヤキは、1963年(昭和38)以前に伐られてすでに存在しないが、屋敷林の中は片多徳郎が描いた当時の風情をとどめているのだろう。また、西隣りだった桑原邸+田嶋邸の敷地は、屋敷林の一部がそのまま保存され、豊島区の「小鳥がさえずる公園」になっている。
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最後に余談だが、長崎町(村)の中部から北部にかけての大農家であり、長崎地域でもトップクラスの大地主だったはずの田嶋家一族が、『長崎町誌』Click!にはただのひとりも登場していない。それ自体が非常に不可解かつ異様な状況だが、同町誌は地勢や事蹟、史蹟の紹介ばかりでなく、人物紹介も非常に恣意的で偏向していたのではないだろうか。

◆写真上:自死する数ヶ月前、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『風景』。
◆写真中上は、戦後すぐのころに撮影された田嶋鉄五郎邸のある長崎仲町2丁目の北側に位置する千川町2丁目(現・千早4丁目)の風景。モチーフを探して付近を散策した片多徳郎も、これと同じような光景を見ながら歩いただろう。は、1935年(昭和10)ごろに長崎アトリエ村の洋画家・野口義恵がスケッチした『東長崎の駅から』。は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる田嶋鉄五郎邸。
◆写真中下は、1932年(昭和7)作成の1/10,000地形図にみる田嶋鉄五郎邸。は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる同邸。
◆写真下は、1950年(昭和25)ごろ撮影された、のちに千早児童館が建設される空き地。(洗濯物が干された敷地一帯) 偶然に撮影されたものだが、同敷地は田嶋鉄五郎邸の北側敷地の一部にあたる。なお、戦前の風景写真はいずれも『失われた耕地-豊島の農業-』(豊島区立郷土資料館/1987年)より。は、1963年(昭和38)と1975年(昭和50)の空中写真にみる同邸。大ケヤキは伐採され、庭が畑になっているのがわかる。

井上円了博士でも解けない「真怪」。

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国芳「源頼光公館土蜘作妖怪図」1842-43部分.jpg
 落合地域の西側に隣接する、“お化け”博士で有名な井上哲学堂Click!井上円了Click!のもとに集まった怪談の中で、理性で解明し説明することのできない「真怪」Click!として位置づけられた体験譚がいくつか残っている。その中のひとつに、「三人見た白い手の幽霊」という記録が伝えられている。今年も夏がめぐってきたので、当サイトでは恒例化している怪談をいくつかご紹介したい。
 「三人見た白い手の幽霊」は、利根川の沿岸近くにある千葉県香取郡小見川町(現・香取市)にあった古い旅館が舞台となっている。同地の佐原小学校の教師たちと懇意になった、保田守太郎という人物がレポートし、のちに井上円了へ記録を提供しているとみられる。同県香取郡の郡書記が、この旅館に泊まった夜、血だらけになった女の幽霊が現われて大騒ぎになったのがはじまりだった。
 その後、同じ部屋に泊まった客たちが次々と不気味な女の幽霊に遭遇し、しかも旅館に宿泊した月日が3人とも同じだったという偶然(女性が死んだ命日か?)まで重なっていた。当時の記録を、1924年(大正13)に帝国教育研究会から出版された『精神科学/人間奇話全集』より引用してみよう。
  
 其要領を記さんに、香取郡小見川町に皆花樓とて旅店と割烹店とを兼たる一樓あり、今より七年前の四月中旬一日、客あり(当時郡書記)此樓に宿り。其夜十一時過ぎ書見の後眠らんとする折しも、枕辺の方に当つて人の気はひするまゝら驚きて見れば、こは如何に今まで幽かなりし燭火の光り煌々として四辺まばゆきばかり照輝き、あなたの壁際に年頃二十余りとも覚しき女の、鮮血にまみれてをどろの黒髪を振り乱し、いと恨めし気に睨まへたる眼光の凄まじさ、見るより客の驚きは譬へんにものなく、忽ち五体打すくみて覚えず一と声絶叫せしかば、宿の主人等客の室に走り行きしに、既に面色土の如く声も得立てず、冷汗身を浸して打伏してゐた。
  
 この話が記憶されたのは、幽霊を見たのが郡書記であり友人など周囲の人間に話して、宿で遭遇した怪異エピソードを拡げたからだろう。宿に泊まると幽霊が出るという話は、別にそれほどめずらしくはないありふれた怪談のたぐいだが、このケースが特異なのは同じ宿で幽霊の目撃譚が繰り返し起きている点だ。
 「皆花樓」の心霊現象は、上記の血まみれの黒髪を振り乱した女の目撃談だけにとどまらなかった。それから3年後の同月同日、群書記が遭遇した怪談など知らない一般の宿泊客と、隣室に泊まった県会議員ともども、ふたりがほぼ同時に怪奇現象にみまわれている。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 又他の一客(同く郡書記某なるも前の怪事を知らず)其室にて寝床に入り、まだ眠らずしてほの闇き燈火に四辺の屏風襖の絵杯打ち眺めてゐたるに、立てきりある襖の間より、白く細長き女子の腕が現はれた。下婢の戯れならんと思ひ、黙して注視したるに少時にして隠れると同時に隣室の客(県会議員某)忽ち一声叫んで急を人に告るものゝ如し。/前なる客驚き駈つけて其の故を聞けば、我今夢に墓場を過ぎしに、墓石の間より白く細長き女子の腕現はれて、我が袂を引くに驚き振り放さんとするも五体すくみ、動くも叶はずして救ひを呼びたるなりと。前の客も今みた奇を語り互ひに驚きしが、其後二人の内の一人が三年前に怪を見た人に偶逢ふて其怪談を聞き、話し合てみれば前後の怪事は同じ月同じ日であつたに益々驚いた。
  
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 なぜ、女の恨めし気な幽霊が出るのかといえば、「皆花樓」の先代主人が粗暴かつ性格も悪く、雇人の女子のひとりを虐待して、ついに死にいたらしめたことがあったからだ……と説明されている。これも、よくありがちな設定で、たとえば乃木希典Click!が金沢の旅館で遭遇した女の幽霊Click!も、先代の主人に虐待されて死んだ女中だった……というオチがついている。
 井上円了が、この怪談を「真怪」(理解不能)に分類したのは、当時の科学や論理では説明ができなかった点からだろう。まず、女の幽霊を目撃したのが年を隔てた、まったく関係性の見いだせない3人の人間(まったくの他人同士)であり、集団幻覚や集団暗示とは考えられないこと。しかも、目撃した月日が偶然にも合致しているところだ。偶然にしては、あまりに“できすぎ”の一致であり、それを合理的に説明できる論理を、井上博士はついに発見できなかったということなのだろう。
 こちらでも何度か登場している南方熊楠Click!もまた、怪談の収集家として有名だが、同書にはこんなエピソードが紹介されている。南方熊楠が住んでいた和歌山県田辺町(現・田辺市)に、近くの秋津村からウナギや箒を売りにくる坂本喜三郎(80歳)からの取材として記録したものだ。坂本翁がまだ30歳のころ、秋津村で実際に起きた怪異だという。
  
 其村の雑貨店の主婦が池に身を投て死んだ。村の大庄屋が村役場より夜帰る時、突然差してゐた傘の上に彼の女の幽霊が留つた、大いに惧れて矢庭に傘を投出し、近所の綿屋に駈込んだ。其頃坂本翁は一友と夜網を打ちにゆかんと、小泉堤を歩みしに、友は十四五間後れてゐた。萬呂村の方から鸛(こう)の如き白い物飛来り、五六間先になつて消えたと思ふと、三間ばかり前を普通の人の歩くやうな速度で行く女があつた。おどろの髪を被り、藍縞の着物を着て。(ママ)腰から下がない、水の入つた近所の綿畠の中へ立た所へ、後れ馳せの友が来て、今かゝる物が飛んできたと噪ぐ紛れに、彼の女の姿は見えなくなつた。予て幽霊に逢た者が、落ついて問へば、必ず其意趣を語ると聞いてをつたが、其の時尋ねなんだは残念なと力んでも、五十年もあとの祭で詰らない。
  
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三代豊国「お岩の亡霊」1861部分.jpg
周延「お岩ノ霊」1884部分.jpg
 なぜ、女の霊が出現するのか、なぜ雑貨屋の主婦は池へ入水自殺したのか、その因果関係がまったくわからず怪異な現象だけが記録されている。なんとなく、化けて出られた大庄屋と雑貨屋の主婦との間に、なにかあったのではないか?……とも推測できるが、まったく関係のない坂本翁たちの前にも姿を現しているので、なんともいえない。
 既存の怪談には、幽霊が出現する因果関係が必ず説明されていた。井上円了の「真怪」では、先代が雇用人を虐待死させた、だから死んだ女の幽霊が恨みを抱いて必然的に出現しているのだ……という理屈とともに、聴者がなるほどと腑に落ちる説明がなされている。乃木希典が遭遇した金沢の宿の怪談もまったく同様だ。民谷伊右衛門が、お岩さんClick!を騙して殺したからお岩さんの霊に祟られた、皿を割っただけでお菊さんClick!を手打ちにし井戸へ投げこんだから祟られた……と、従来の怪談は必ず基盤としての原因=因果関係が必ず付随して語られていたはずだ。
 ところが、南方熊楠が採取した怪談にはそれがない。いきなり、女の霊が傘にとり憑いたり、なんの関係もない若者たちのゆく手へ、理由もなくフラフラ現れたりする。この幽霊の不条理かつ不可解な出現の仕方こそ、現代に語られる怪談に直結する構成でありストーリー展開なのだ。幽霊の出る原因を、妙なウワサ話でこじつけたり、ありがちな因縁話を持ちださないところ、すなわちわけのわからないうちに怪異現象に出あい、自身が巻きこまれていくところに、南方熊楠が記録した怪談の新しさがある。
 人間関係が希薄になり、隣りに誰が住んでいるのかも知らないような都会において、もっとも怖がられるのは、自分とはなんの関わりがないにもかかわらず起きてしまう、原因がまったく不明な怪奇現象なのだ。つまり、人を殺めても傷つけてもいないし、虐待してもイジメてもいないにもかかわらず、いつ誰がどこで巻きこまれても不思議ではない怪奇現象が、現代ではもっとも理不尽で怖ろしい怪談ということになる。
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国周「皿屋鋪化粧姿鏡」1892部分.jpg
国周「小笹の方猫の精」1864.jpg
 相変わらず、落合地域で語られる怪談を探しているのだが、すでに語り尽くされたのだろうか、最近はなかなか遭遇できないでいる。こんなときは、「コッコッコッコッコッ、おっかしいなぁ~、ギイィィ~~~~ッ、ドン! …いる、誰かいる! 怖い怖い、すごく怖い、冷たい汗がツーッと流れる。すごく怖いんだ、これが……」の稲川怪談に頼り、「落合のアパート」Click!をご紹介してキーボードを置きたい。下落合か上落合か、西落合かは不明だが、話の様子からして1970年代に落合地域で起きた出来事のようだ。

◆写真上:お化けの行進で、国芳『源頼光公館土蜘作妖怪図』(1842~43年/部分)。
◆写真中上:江戸期の怪談『累ヶ淵』の芝居をベースにした浮世絵作品で、は国芳『かさねぼうこん』(1833年/部分)。は、三代豊国『藤原敏行朝臣累の亡魂』(1852年/部分)。は、三代豊国『与右衛門女房かさね』(1857年/部分)。
◆写真中下:四世・鶴屋南北『東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)』の芝居をベースにした浮世絵で、は芳艶『おいわ』(1848年/部分)。は、三代豊国『お岩の亡霊』(1861年/部分)。は、周延『お岩ノ霊』(1884年/部分)。.
◆写真下:講談から生まれた『番町皿屋鋪』の芝居をベースにした、は国芳『お菊のぼうこん』(1851年/部分)。は、国周『皿屋鋪化粧姿鏡』(1892年/部分)。は、講談や芝居の「鍋島化猫騒動」がベースの国周『小笹の方猫の精』(1864年)。

淀橋浄水場が機能停止した関東大震災。

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 これまで、東京各地における関東大震災Click!の被害やエピソードをピックアップし、ときどき記事に書いてきたが、中でも落合地域とその周辺域の記事がもっとも多い。下落合のある目白崖線沿いは、武蔵野台地の豊島台と名づけられた丘陵地帯の南域の一部にあたるが、神田川をはさんでさらに南側は、淀橋台(下末吉段丘)という別名で呼ばれている。過去の記事を参照すると、落合地域を中心に豊島台の大震災記録か、あるいは東京市街地(東京15区Click!エリア)の記事が圧倒的に多く、すぐ南側に拡がる淀橋台の記事が意外に少ないのに気づく。
 淀橋台といってもピンとこない方も多いと思うが、町名でいえば戸塚(高田馬場)、早稲田、戸山、大久保(百人町含む)、新宿、千駄ヶ谷、四谷、市ヶ谷、神楽坂、飯田橋など坂道が多い丘陵地の市街のことだ。以前、下落合で出土する化石にからめて、目白崖線沿いと淀橋台における関東ロームの堆積Click!を比較した記事を書いたことがあるが、淀橋台よりも標高が4~5mほど低い目白崖線では、関東ロームの堆積も淀橋台の10m前後に比べ5~8mと相対的に薄く、ロームの下層にある武蔵野礫層Click!から地下水が湧きやすい地形であることがわかる。
 1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災の震動が、淀橋台ではどのようなものであったのかが気になったので調べてみた。きょうは、世界でもっとも利用客が多い(347万人/日)といわれる新宿駅に隣接して建っていた、淀橋浄水場Click!(つまり今日の東京都庁を中心とする新宿駅西口の高層ビル街エリア)が、関東大震災でどのような揺れにみまわれ被害を受けているのかを具体的に検証してみたい。その被害の様子から、豊島台や東京市街地とは異なる淀橋台における震動の特徴が浮かびあがるかもしれない。
 実は、1923年(大正12)に先だつ1921年(大正10)12月8日、淀橋浄水場はすでに地震による被害で大きな事故を起こしていた。この夜間に起きた強震が、関東大震災の予兆となる海洋プレート型の地震か、あるいは東京直下型の活断層による地震なのかは不明だが、早朝5時に和田堀からの取水路(新水路)の一部が決壊して、東京市全域への給水が3日間にわたってストップした。東京の全市断水は1898年(明治31)に浄水場が操業を開始して以来、初めての大事故だった。当時の東京市長だった後藤新平は、3日間の「断水がなお継続したならば往年の米騒動以上の事態をひき起したかもしれない」と、水道復旧後に語っている。しかし、関東大震災の被害はそれどころではなかった。
 その瞬間の様子を、淀橋浄水工場の製図室に勤務していた水道局員が記録している。1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された『淀橋浄水場史』(非売品)所収の、山田良実『関東大震災当時の淀橋浄水場』から引用してみよう。
  
 初期微動と云うのであろうか立っている人にはわからない位の、びりびりと形容したいような震動が6~7秒位もあってそれから本格的の震動が始まった。段々それが激しくなってきたので周囲の人達に早く外に出るようにどなった。その人達もその震動の状態をさとったのであろうか一斉に室外へ出ようとしたが、狭い出入口から一度には抜け出ることが出来なかった。そのときは最早相当のゆれ方になっていたので私は窓から飛び出るよう出入口の一団の人にどなった。そして私も最後に窓から飛びだした。私が外に出て6~7米も歩いた時に出入口の車寄が倒潰した。(中略) 傭員詰所前の庭木の間を通り抜けて真直広場に出てみた。そこに汽車の引込線路があり浄水池を隔てて浄水場の煙突が2本左右にゆれていた。左に撓み右に撓む毎に頂上部の煉瓦が壊れて落ちた。私は足を踏張ってただ茫然とそれを見ていた。(中略) 地震は2分間位も揺れ続いたのであろうか漸くにして煙突の煉瓦の壊れ落ちるのも止んで、そこらにだれの人影もみなかった。
  
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 東京の市街地では、いきなり下から突き上げるような震動があって、「突然弾き飛ばされた」「空中に投げ出された」という揺れはじめの証言が圧倒的に多いが、東京郊外の淀橋台に位置する淀橋浄水場では、微妙な初期の微動を感じていたのがわかる。つまり、関東大震災の本震がくる前に、短いながらも異変を察知する余裕があったということだ。これは、厚い関東ロームが堆積した段丘地である淀橋台に特有の揺れなのだろうか、目白崖線のある豊島台ではあまり聞かない証言だ。落合地域やその周辺域では、やはり「いきなり地面が大揺れして跳ね飛ばされた」というような証言が多い。
 この大地震で、淀橋浄水場は浄水場敷地内はもちろん、広範囲にわたって未曽有の被害を受けた。東京市の断続的な断水は4ヶ月後の12月までつづき、応急処置でなんとか平常に回復したのは、それ以降になってからのことだ。まず、和田堀からの取水路が全域にわたって被災し、高い位置を流れる水路では流水があふれて滝のように落下するのが目撃されている。護岸崩壊による単純な決壊ばかりでなく、地盤沈下によって水路そのものが寸断された場所が2ヶ所あった。また、約230ヶ所の亀裂が水路に生じ、いつ決壊してもおかしくない被害が出ている。
 浄水場内の被害では、いちばん東側に位置する沈澄池(1号沈澄池)の側壁が歪み、堤防の一部に亀裂と沈下が生じて満水にできなくなった。また、濾池は全池が損傷し、中には池底(敷=コンクリート構造)に亀裂ができて漏水し、全面補修の必要な濾池もあった。また、6池の池底にも多少の亀裂が生じ、順次修理が必要になった。もっとも被害が大きかったのは浄水池で、水の引入口と引出口および池底のコンクリートはいたるところで亀裂が発生し、本格的な修理はあきらめ応急修理のみを実施している。
 浄水場内の建物(配水施設)の被害も大きかった。6台のポンプと6台のランカシャー式気罐が配列され稼働していたが、うち3台のポンプの500mm送水管、および6台のポンプ送水管から送られた水が合流する1,100mm送水本管が同時に破断し、あふれた大量の水が機関室内に噴出して浸水した。これにより、全ポンプおよび全気罐が停止して稼働不能となった。つまり、淀橋浄水場は東京市内への送水機能をすべて喪失したことになる。
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 また、機関室に付属したレンガ造りの高さ121尺6寸(約37m)の煙突2本は、頂上部の10尺(約3m)ほどが2本とも崩落し、破片が煙突の内部や外側に墜落した。煙突の側面にも縦横の大きな亀裂が入ったが、なんとか倒壊はまぬがれている。煙突の倒壊を防ぐため、応急処置として2本の煙突には太い鉄バンドが巻かれたが、1925年(大正14)に新たな鉄筋コンクリート製の130フィート(約40m)煙突が建設されるまで、倒壊のリスクを抱えたまま2本のレンガ煙突は運用されつづけた。
 淀橋浄水工場Click!の、建屋自体のダメージも深刻だった。ポンプ室(機関室)の壁面には亀裂が走り、建物東西の壁が揺れで外側へ2寸(約6cm)も拡がったため、5トンの移動起重機(クレーン)が桁(ガーダ)もろとも墜落した。幸運だったのは、墜落場所が偶然にポンプとポンプの間だったため、かろうじて機械設備の破壊はまぬがれている。6台のポンプを応急修理し、なんとか稼働できるようになったのは、震災から半月だった9月15日の夜になってからのことだ。だが、いくら水道インフラの中核である淀橋浄水工場が応急修理で機能を回復しても、東京市の広い範囲での断水状態はつづいていた。それから1年近くにわたり、気の遠くなるような作業が水道局員たちを待ちかまえていた。
 東京市内で1,100mmの水道本管や、900mm以下の幹線を含む主要管の破壊地点は計382ヶ所、より細い支管の破裂や漏水、滲水の損傷箇所は無数に存在し、その修理口数だけで259,932ヶ所におよび、膨大な費用と復旧リードタイムを必要とした。1924年(大正13)5月までに、市内で修理した水道管の長さをつなぎ合わせると総延長が379,249間(約448km以上)にもおよぶ。関東大震災による地中・地下の破壊が、いかに凄まじかったがうかがえる数字だ。
 現在、東京の地中・地下には水道管ばかりでなく、ガス管や通信線、地下鉄、地下施設など関東大震災時には存在しなかった、多種多様な社会インフラが縦横に張りめぐらされている。同震災の当時、断水により火災が消火できなかった、あるいは東京市民の飲料水がない、風呂に入れない……どころではないだろう。これらの社会基盤が同様の震動により、いったいどれほどの被害を生じるのか、その復旧にはどれほどのコストやリードタイムを要するのかは、誰も知らない。
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 東京都水道局が出版した『淀橋浄水場史』の中で、『淀橋浄水場の想い出』を書いた塩原彦三郎という方は、当時の淀橋町には大規模な建物や施設、住宅街がなかったから、大きな破壊や混乱は幸いにも起きなかったとしたうえで、「今あのような事態が起きたら、どんな状況が出現するかを想像するときは、肌に粟たつ思いさえする」と書いている。しかも、彼がこの文章を書いたのは、現在のような淀橋浄水場跡地の高層ビル群や複雑な地下鉄網、地下街など存在しない、いまだ1966年(昭和41)の時点でのことだ。

◆写真上:淀橋浄水場跡地の現状で、初期副都心構想とはまったく異なる街になった。
◆写真中上は、関東大震災による淀橋浄水場1号沈澄池の被害状況。は、大正期に撮影された淀橋浄水工場の機関室に並ぶ気罐設備。は、同震災で大きな被害を受けた淀橋浄水工場の機関室に付属する2本のレンガ煙突。
◆写真中下は、同震災による淀橋浄水場全体の被害状況。特に右上の浄水池と、浄水工場内部の被害が甚大だった。は、大正末に撮影された淀橋浄水場の空中写真。は、1925年(大正14)ごろ撮影された建設中のコンクリート煙突。倒壊の怖れがある2本のレンガ煙突は、新たなコンクリート煙突が竣工したのち解体された。
◆写真下は、同震災による送水管(鉄管)の破裂被害。は、水道管の運搬で活躍した淀橋浄水場オリジナルの運搬自動車「マック号」。は、ようやく関東大震災による被害から復興した昭和初期撮影の淀橋浄水場全景。

続・画家たちへの奇妙なアンケート調査。

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片多徳郎アトリエ跡.JPG
 ずいぶん以前、1925年(大正14)の春に中央美術社Click!が実施した、画家たちへの奇妙なアンケートの記事Click!を書いたことがある。その際、村山知義Click!の回答と小出楢重Click!池部鈞Click!など一部の回答についてはご紹介していた。今回は、他の画家たちの回答も見つかったので、改めてご紹介したい。
 中央美術社が用意した画家たちへの質問は、以下の10項目だった。
 一、貴方は毎朝何時にお起きになりますか。
 二、床屋へは何日隔き若しくは何ケ月隔き位ゐに行かれますか、失礼ですが。
 三、御酒と煙草はどれくらゐ召し上りますか、序でに御愛用の品種を。
 四、御健康を保つ上に何か特別の養生法をおやりになつて居られますか。
 五、奥様をお呼びにになるのに常々どういふお言葉をお用ゐになりますか。
 六、此の世で一番憎らしいとお思ひになるものは何んですか。
 七、貴方がお得意とする隠し芸を。
 八、貴方の娯楽と道楽をお聞かせ下さい。
 九、一ケ年を通じての御制作は平均どれ位ゐになられますか。
 十、和歌、俳句、短詩、都々逸、端唄――何んでも一ツ二ツ御近作を。
 まずは下落合の596番地、牧野虎雄アトリエ(604番地)の真ん前、曾宮一念アトリエ(623番地)の斜向かいのアトリエで暮らしていた、片多徳郎Click!の回答から見てみよう。
  
 一、子共達の御蔭で八時には起きます。
 二、一ト月隔き或は二タ月隔き。
 三、酒は一日五合迄。煙草は敷島を一日に一包。
 四、麦飯を喰ふ事。
 五、『オーイオーイ』又或時は「母ちやん」。
 六、金。
 七、歯ぎしりと寝言。
 八、止むを得ず飲む酒。
 九、不定。
 十、考えた事がありませぬ。
  
 八の設問に、「止むを得ず飲む酒」と答えているのが目をひく。牧野虎雄は酒が大好きだったが、片多徳郎はそれほど好きで飲んでいたのではないのがうかがわれる。それでも、「酒は一日五合迄」と決めているのが、いまから見ればどこか痛々しい。「五合」は、決して少ない量ではないので、おそらく自制しなければ1升はすぐに飲んでしまったのではないだろうか。
 「此の世で一番憎らしい」のが「金」と答えており、常に芸術と生活とのはざまで追いつめられていった様子が透けて見えそうだ。こののち、アルコール依存症が昂じて1934年(昭和9)に家を出たまま失踪し、名古屋の寺で自裁している。
中央美術192506.jpg
片多徳郎「自画像」1932.jpg 萬鉄五郎「赤い目の自画像」1913.jpg
 つづけて、東京美術学校の5年後輩であり、目白中学校Click!の美術教師をしていた清水七太郎Click!へ、下落合にアトリエの空きがないかどうかを問い合わせしていた、茅ヶ崎町茅ヶ崎4275番地の萬鉄五郎Click!から寄せられた回答を見てみよう。
 このとき清水七太郎は、中村彝Click!の弟子であり下落合584番地に住んでいた、二瓶等Click!の留守アトリエを紹介している。ちょうど二瓶等Click!は、制作活動と個展開催のために故郷の北海道に帰省しており、アトリエは長期間使われないままの状態だった。萬鉄五郎は、市街地から西北に位置する郊外風景を数多く残しているので、画家の集まる下落合には親しみを感じていたのかもしれない。
  
 一、其の時のねむさ加減で朝七時から九時までに起きます。
 二、床屋で待たされるのがいやですから、バリカンで妻に短くからせます。
 三、酒は五勺まで。煙草は禁じて居ますが他出すると遂吸ひます。
 五、妻を呼ぶ時名前を呼べば差支ありませんが場合により変化することあり。
 九、大概毎日何かやつて居ますが制作の数を勘定して見た事はありません。
  
 萬鉄五郎は、病身の娘ともども茅ヶ崎で暮らす療養生活に、そろそろピリオドを打ち心機一転したかったのだろう、1926年(大正15)の夏から下落合の貸しアトリエの物件探しをはじめている。ところが、同年の暮れに16歳になった長女・登美を結核で亡くし、それが原因で大きく気落ちした面もあるのだろう、その萬自身もまた翌1927年(昭和2)5月、41歳の若さで急死している。
 二瓶等のアトリエに、萬鉄五郎が引っ越してきていたら、下落合の美術界にも大きなインパクトや変化があったのではないかと思うと、ちょっと残念だ。
 下落合に住む沖縄の画家たちClick!が、よく通っていた画塾に「同舟舎洋画研究所」があるが、小林多喜二Click!の妻・伊藤ふじ子Click!も通った同画塾を主宰する小林萬吾Click!の回答を見てみよう。このとき、小林萬吾はすでに東京美術学校の教授であり、帝展審査員もつとめ作品をパリ万博へも出品していた。
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 一、七時から八時の間。
 二、髪の毛の五月蠅くなつた時。
 三、晩酌小量、ウエストミンスター拾五本位。
 四、便秘に注意する。
 五、さん付けにする。
 七、謡曲。
 八、音楽と旅行。
 九、平均とれず。
  
 さすがに作品も売れ、それなりに地位もおカネもある余裕の画家は、趣味が謡いClick!で英国一流の“洋モク”をふかしながら、コンサートや旅行にと生活を楽しんでいるのがわかる。夫人を「さん付け」で呼ぶのは、林武Click!幹子夫人Click!のように、性格的にかなりおっかなかったのだろうか。
 アンケートを概観すると、画家たちは朝起きる時間が案外早いことに気づく。このあたり、同じ表現者でも作家たちとは根本的にちがう点だろう。作家は真夜中でも仕事ができるが、画家たちは基本的に外光の下で仕事をするので、起床時間に双方で5~6時間ほどのズレがありそうだ。ただし、朝夕に関係なくアトリエで制作をする画家もいるし、早朝から机に向かう作家もいるので、例外がないわけではない。
 特に大正後期になると、マツダ電気や東京電気などからより自然光に近い照明器具Click!が発売され、夜でもアトリエにこもる画家がそろそろ出はじめている。また、アブストラクトな表現の画家たちは昼夜関係なく制作しているので、別に午前中に起きる必要はなかっただろう。
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 画家たちへのアンケート結果が掲載されたのは、1925年(大正14)に発行された「中央美術」6月号だが、ほかにも下落合にゆかりのある画家たちが、同様の回答を寄せていると思われるので、また機会があれば見つけしだいご紹介してみたい。

◆写真上:下落合596番地にあった、片多徳郎アトリエ跡の現状。そのすぐ裏手には、1927~1930年(昭和2~5)まで村山知義・籌子夫妻Click!が住んでいた。
◆写真中上は、1925年(大正14)発行の「中央美術」6月号。は、自裁する2年前の1932年(昭和7)に描かれた片多徳郎『自画像』()と、1913年(大正2)制作の萬鉄五郎『赤い目の自画像』()。表現の時代が、まるで逆転しているかのようだ。
◆写真中下は、1924年(大正13)に制作された片多徳郎『裏庭』。は、1931年(昭和6)に描かれた片多徳郎『春暖』。
◆写真下は、1905年(明治38)に描かれた萬鉄五郎『戸山が原の冬』。は、1918年(大正7)ごろに制作された萬鉄五郎『郊外風景』。は、もう少し長生きしていたら萬鉄五郎が住んだかもしれない下落合584番地の二瓶等アトリエ跡。

バナナを手に出獄する神近市子。

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 大正期の資料、たとえば秋田雨雀Click!などエスペランティストたちの記録や、竹久夢二Click!に関する数多くの書籍、新宿中村屋の相馬黒光(良)Click!に関するさまざまな資料を参照すると、神近市子Click!にピタリと寄り添うウクライナ人(ロシア人とする記述が多い)の姿が必ず登場する。1920年(大正9)9月に下落合の中村彝Click!アトリエで、彝と鶴田吾郎Click!のモデルになったワシリー・エロシェンコClick!だ。
 エロシェンコは滞日中、ただひたすら一方的に神近市子が好きだったようだ。エロシェンコを新宿中村屋に紹介したのは、東京日日新聞の記者をしていた当時の神近だった。そのころから、エロシェンコが彼女を慕っているのが、周囲の人々にもあからさまにわかるほどだったという。だが、神近市子のほうでは、特になんとも思っていなかった様子がうかがえる。エロシェンコが新宿中村屋に寄宿していたころ、彼はなにかというと秋田雨雀とともに、あるいはひとりで神近市子の家を訪ねている。この「恋の一方通行」は、エロシェンコが日本を追放されるまでつづいた。
 その様子を、間近で観察していた相馬黒光(良)は、1977年(昭和52)に法政大学出版局から刊行された『黙移』の中でこんな証言をしている。
  
 神近さんとに(ママ:は)よほど親しかったようですが、私の打診では、神近女史のほうではエロさんに対して淡々としており、エロさんはなかなかそうでなかったと思います。二人が寄るとすぐ火花を散らすような激論が始まりました。ある晩などは店の表二階で二人の声があまり高すぎて、店員は喧嘩だと思って階段を登ってきたことさえありました。これは人を恋している場合、愛のやさしい語をささやく代りに、かえって反対の暴言を吐いたり、愛想づかしをいったりすることが往々あるものです。女史とエロさんの議論もその部類に属するものではなかったかと思います。
  
 神近市子Click!は、1916年(大正5)11月に大杉栄を短刀で刺して傷害事件(いわゆる葉山日蔭茶屋事件Click!)を起こし、傷害罪で懲役2年の実刑判決を受け、横浜拘置所から八王子刑務所分監へ移送されて刑に服した。
 刑期を終えた1919年(大正8)10月3日、八王子刑務所分監の門前には秋田雨雀とともにエロシェンコが出迎えにきていた。このとき、出獄直前の神近市子は着替えのセルの単衣や日用品とともに、バナナをひと房と外字新聞を最後の差し入れとして受けとっている。神近がいつも目を通していた、外字新聞(エスペラント語新聞?)を差し入れたのは秋田雨雀のような気がするが、彼女が大好物だったバナナを差し入れたのはエロシェンコではないだろうか。エロシェンコは身近にいて、神近市子の趣味や嗜好を知悉していたと思われるからだ。
 バナナがきわめて安い今日ならともかく、当時はきわめて高価なフルーツだった。日本へバナナの輸入が急増したのは1915年(大正4)ごろからだが、それでもひと房1円以上(現在の貨幣感覚で3,000円~5,000円)はしたのではないだろうか。
 神近市子が釈放される10月3日早朝、八王子刑務所の分監門前の様子を1919年(大正8)10月4日の東京朝日新聞の記事から引用してみよう。
  
 淋しい笑顔を見せつゝ神近市子出獄す
 好物のバナナを携へて露国の盲目文学者などが出迎へ
 (前略)獄衣を茲に脱ぎ棄てゝ肌触りのよいセルの単衣に着替へた、是より先露人の盲文学者ワシーリー・エローシエンコ、秋田雨雀、当分市子を引取る麻布新広尾町一の一二一ヱハガキ屋蒼生堂宇井多方書生白土文三とが自動車で七時分監に到着したが一行は着替や日用品等を詰込んだバスケツト、それに市子が好物のバナナ、外字新聞などを携へてゐた、一時間程経て三人は市子を伴つて獄門を出て来た、市子は頭髪をお下げにしセルの単衣に金茶色博多の帯を締め風呂敷包みを抱へゴム草履をはいて居た、顔色は幾分蒼白であつたが頬の色も肉付きもよく左程痩せては居らぬ、清々しい面持で淋しい笑顔を見せつゝ語る『身体は幸ひ丈夫で感冒と腸加答兒を患つたが大したことはありませんでした、唯今非常に興奮して居りますから残念乍ら今日は何も御話が出来ません、唯御挨拶丈で御免を蒙ります』 市子の辞を受けて秋田雨雀氏は語る『神近さんは当分静養し将来は創作家として立つことにならうが獄中でも創作は可なりあつたと聞いて居ります』(後略)
  
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 記事には写真が添えられ、風呂敷に包んだバナナを抱えながら出所する、神近市子の姿がとらえられている。彼女が釈放される直前、刑務所の門前に旧知の仲である秋田雨雀とエロシェンコが迎えにきてくれたのは嬉しかっただろう。だが、それでも神近の心の内に、エロシェンコが棲みつくことはなかった。
 このあと、神近市子たち一行は、彼女を引きとって世話をしてくれ当面の住まいとなる白銀台町の中溝邸へと向かうが、その屋敷の豪華さに一同は驚いている。出所からの様子について、1972年(昭和47)に講談社から出版された『神近市子自伝』から、本人の証言を聞いてみよう。
  
 大正八年十月二日(ママ:三日)、私の刑期は終わった。事務所で書類に何か記入を命じられ、表ルームに行くと二組の迎えが来ていた。/一組は兄に頼まれた郷里の人だったが、一組は秋田雨雀氏と南方から帰って来たワシリー・エロシェンコだった。二人は明け方東京を出て、自動車で来てくれた。(中略) 私はその(中溝邸の)豪華さに度肝をぬかれた。広い玄関をはいると回り縁のついた表座敷があり、その夜は大饗宴が開かれた。お料理の見事さには、秋田氏もエロシェンコもびっくりしていた。二人は九時すぎに帰り、私だけその座敷に泊まった。(中略) この座敷には、私の友人たちや編集者が絶えずやってきた。中でも秋田雨雀氏とエロシェンコは常連であった。(カッコ内引用者註)
  
 エロシェンコについて、特に気にするような筆致では書いていない。あくまでも、彼女を支援してくれていた人々のOne of themのスタンスから、一歩も出ていなかったのがわかる。彼女の出獄を祝おうと、わざわざ早朝から八王子刑務所の門前で、好物のバナナを手して差し入れたにもかかわらず、エロシェンコは彼女の心に特別な感動をもたらすことはできなかった。
 神近市子はこのあと、堰を切ったように執筆をつづけることになるが、1921年(大正10)5月のメーデー事件にからみ、エロシェンコが国外追放処分を受けたときも、その処分取り消しを求めて奔走した相馬黒光(良)ほどには熱心に動かなかった。だが、エロシェンコはいまだ神近市子に恋い焦がれていたらしく、日本で出版した自著(叢文社『エロシェンコ創作集』1~3巻)の印税のうち、1巻ぶんのすべてを彼女に贈るよう編集者に依頼している。(相馬黒光は「全巻の印税すべてを贈る」としていたと証言している)
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 エロシェンコの神近市子への片想いは、当時の新聞種になるほど広く知られるようになっていた。エロシェンコが国外追放された6月4日から19日後、1921年(大正10)6月23日発行の読売新聞より引用してみよう。
  
 盲詩人エ氏の愁しき恋の筺/印税の一半を神近市子氏に
 (前略)然るにても恋は愁しきものよ、この漂泊の盲詩人が嘗て吾が国に滞在中、かの三角恋愛同盟に破れて世間の注目を惹いた神近市子女史と肝胆相照らし、ある時は共同生活をさへ申込んだのであつたが、それも彼女の方から断は(ママ:ら)れ、其後女史と片岡某(ママ:鈴木厚)との結婚によつて、盲詩人の彼女に対する愛情は根底から裏切られて終つた ◇けれどもエ氏は一たび己が心中に萌したその熱情をどうしても棄て去ることが出来ず、その愛情の己に還らぬ思ひ出となつた今日でも、その清い美しい思ひ出を懐しみつゝ、今度叢文閣から出版する二巻(ママ:三巻)の著書の印税中、後の一巻の分を懐しい昔の恋人神近市子女史に贈つてくれるやうに、涙と共に在京の友人に託して来たとのことである ◇女史果して之を受くるや、否や?(カッコ内引用者註)
  
 もちろん潔癖な神近市子は、このような筋の通らないカネの受領は拒否しただろう。
 神近市子の自伝では、エロシェンコの扱いはきわめて簡潔で素っ気ないが、彼が自分を好いてくれたのは知っていたらしく、最後の「あとがき」で次のように書いている。前出の『神近市子自伝』から、つづけて引用してみよう。
  
 盲人のエロシェンコが新宿から青山にある私の家まで歩いてきた日のことも、昨日のように思い出される。玄関でハタキをかけていた女中さんがその異様な姿に驚いて大声をあげたものだ。彼の作品を私が『新女苑』に紹介したのが縁で、児童雑誌から注文が押し寄せ、彼がロシヤ語で書くと、そばから早稲田の学生が訳して編集者に渡した。私は目の不自由な彼のために、外に出れば手をひいてあげたり、品物を取ってあげたりしたが、先方はそれによって愛情のようなものを感じたらしい。が、彼もそれを口には出さず、国外に退去を命じられるまで、私たちはなごやかな友情で結ばれた。
  
 わずか7行の文章だが、恋い焦がれていたエロシェンコは満足したかもしれない。
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 1952年(昭和27)に故郷のウクライナへともどり、同年12月23日にガンで死去するエロシェンコは、戦後、次々と精力的に著作を出しはじめた神近市子のことを、誰かからの風の便りで知っていただろうか? エロシェンコが死去した翌年、彼女は衆議院議員選挙に当選して政治家となり、「売春防止法」の制定に向け全力を傾けることになる。

◆写真上:1919年(大正8)10月3日早朝、風呂敷のバナナを手に出獄する神近市子。
◆写真中上は、新宿中村屋で撮影された神近市子とエロシェンコたち。は、1919年(大正8)10月4日発行の神近市子の出獄を伝える東京朝日新聞。
◆写真中下は、大正期のエスペラント大会の様子で壇上の中央にエロシェンコの姿が見える。は、ワシリー・エロシェンコ()と新聞記者時代の神近市子()。は、1921年(大正10)6月23日に発行された印税の寄贈を伝える読売新聞。
◆写真下:昭和期に入り落合地域に住んだ神近市子の旧居跡で、上落合506番地()と上落合469番地()、そして上落合1丁目476番地()。

続々・ほとんど人が歩いていない鎌倉。

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大叔母の家?.jpg
 北鎌倉のアルバムの中に、住宅らしい建物がとらえられた写真が1枚が残っている。これが、わたしの母方の祖父の妹(大叔母)にあたる人物が、戦前から住んでいた自宅だろうか? わたしが幼稚園から小学校時代にかけての記憶なので(その後ほどなく彼女は亡くなっている)、住宅内部の様子やそこから見える風景などは断片的に憶えているけれど、住宅の外観というと記憶がかすんでハッキリしない。写真に収められた住宅には、明らかに躙り口のついた茶室を思わせる下屋が見えているが、その親戚の家に数寄屋がしつらえられていたかどうかも憶えていない。(冒頭写真)
 さて、前回の「続・ほとんど人が歩いていない鎌倉」Click!につづき、今回は北鎌倉の写真をご紹介したい。アルバムを見ていてまず驚くのが、当時でさえ鎌倉観光の重要スポットのはずだった円覚寺(えんがくじ)の境内に、人っ子ひとり見あたらないことだ。今日なら、鎌倉めぐりの観光バスがひっきりなしに発着し、ヘタをすると休日には横浜・東京方面からの横須賀線が北鎌倉駅へ到着するたび、山門まで行列さえできそうなほど混雑するのに、誰もいないのが信じられない風景なのだ。いや、わたしも静まり返った円覚寺とともに写っているので、当時は実際に目にしていた光景なのだろう。
 撮影のタイムスタンプがないが、わたしが小学校低学年の風貌で写っているので、おそらく以前の鎌倉写真と同様に1960年代の前半ごろの、とある日曜日ではないかと思われる。当時の土曜日は、仕事も学校も午前中のみ勤務や授業があったので、丸1日まとめて休みがとれるのは日曜日か祝日しかなかった。わたしの服装は、真冬の厚い着こみではなく、また寺々の境内では梅がほころびはじめているのが見えるので、おそらく3月中旬ぐらいの情景だろうか。
 さて、円覚寺の山門が茅葺きのままなのが懐かしい。鎌倉時代からつづく、山門へ登るすり減った階段(きざはし)は、先ごろ同寺を訪れた際には人々でごった返していたが、写真では訪れる参詣者もおらず静まり返っている。「♪建長円覚古寺の~山門高き松風に~昔の音やこもるらん~」と、唱歌『鎌倉』Click!の8番を地でいく眺めだ。いまは観光客のざわめきで、樹枝を揺らすかすかな「昔の音」などなかなか聞こえてこない。境内にある、居士林や壽徳庵、北条時宗ゆかりの開基廟(時宗廟)の前にも人はおらず、木々を透かして見る陽のあたった堂宇は、800年近い時代を超えた変わらぬ眺めなのだろう。
 きわめつけは、円覚寺の境内でもっとも混雑する観光ポイントの舎利殿だが、同殿に向かう参道にさえ人が誰もいないことだ。歴史の教科書などのグラビア写真でも紹介される、鎌倉時代を代表的する建築であり、修学旅行の生徒たちも必ず立ち寄る観光スポットなのだが、日曜日にもかかわらず人出がまったくない。おそらく、小学校低学年のわたしは、舎利殿とその周辺の風景を独り占めしたかのように拝観しているはずなのだが、まったく記憶にない。せっかく鎌倉をあちこち連れ歩いてくれた親父が聞いたら、苦笑とともに「いったい、なに観てたんだい」と深いため息を吐かれるだろう。
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 円覚寺境内の妙高池も、また北鎌倉駅前と円覚寺山門との間にある白鷺池も、人の気配がほとんどない。白鷺池のほうは駅にも近いので、商家とみられる建物が池の端に見えている。白鷺池は、現在とは異なり遊歩道のついた公園のような姿に整備されてはおらず、周囲に育った樹木や藪でうっそうとしている。
 円覚寺から、当時は簡易舗装だった国道21号線を踏み切りのある浄智寺や建長寺のほうへ歩いていけば、雨あがりならともかく晴天つづきだと、かなりの土ボコリを浴びた。クルマはほとんど通らなかったが、道路の周囲はむきだしの土面のため、風で飛ばされた土が路面に薄く積もっていた。たまに、地元の路線バスなどが走ると、その土ぼこりが舞いあがり髪や衣服について困ったのを憶えている。アルバムから、緑深い浄智寺の写真をピックアップしてみよう。
 ここで初めて観光客……というか、黒いバッグを下げたスーツ姿の学者か教師らしい人物が、「寶所在近」の扁額がかかる惣門(高麗門)の下に写りこんでいる。きっと、近くの東慶寺にある松ヶ岡文庫で仏教資料の研究をしていて、ついでに浄智寺にも立ち寄った学者か、春休みを利用してフィールドワークにやってきた歴史の教師といったところだろうか。また、独特な意匠で有名な山門(鐘楼門)の下にも人物が見えるが、こちらは手桶に花を持っているので、浄智寺の墓所へ墓参りにきた地元の人だろう。
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 アルバムのページをめくり、円覚寺の斜向かいに建立された東慶寺(かけこみ寺)の様子はどうだろうか? 東慶寺は、江戸期からかけこみ寺(縁切り寺)Click!としてことさら有名になったせいか、今日でも女性の参観客が目につくが、墓所には文化関係者の墓が多く文学ファンなどでもごった返す寺だ。同寺の墓地には、下落合ではおなじみの安倍能成Click!真杉静枝Click!をはじめ、西田幾多郎、岩波茂雄Click!和辻哲郎Click!小林秀雄Click!、高木惣吉、田村俊子、野上弥生子Click!高見順Click!、三枝博音、三上次男、東畑精一、谷川徹三、川田順などが眠っている。また、例によって中国や朝鮮半島の儒教思想に忠実な薩長政府が、女性の宮司(巫女)や住職を“追放”Click!したため、東慶寺は尼寺であるにもかかわらず、男の住職がつづく奇妙な状態がつづいている。
 さて、50年ほど前に撮影された東慶寺の写真を見ていくと、やはり境内には人っ子ひとり写っていない。例外は、同寺に隣接している鈴木大拙が開設した松ヶ岡文庫の利用者たちで、仏教(特に禅宗)に関する調べものが目的の専門家や研究者、男女の学生たちが、閉館間近なのか門を出る様子がとらえられている。無人の境内に比べると、同文庫だけが賑わっているのがかえって異様に見える。
 そのほか、百雲庵や龍隠庵、寿徳庵、黄梅庵、明月院、長寿寺とすべてが無人で、かろうじて建長寺の山門周辺のみ、チラホラと人物が写っている。国道21号線を外れると、道はすべて未舗装なので雨の日の散歩はやっかいだった。前日に雨が降った日など、山道のハイキングはもちろん、平地の道路もぬかるんでいるので歩きにくく、鎌倉散歩は中止になって横浜あたりで休日をすごしていたのを憶えている。
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 大叔母が暮らしていた、北鎌倉女子学園のある台山の丘上周辺が写ってないかどうか、けっこう注意してアルバムを眺めてみたのだが、それらしい情景の写真は見つからなかった。ひょっとすると、アルバムへ写真を整理する過程で、親父のフィルターにより取捨選択されているのかもしれない。北鎌倉駅の北西側は、古くからの閑静な住宅街がつづき、親父が興味を惹きそうな仏教建築や仏像がほとんど存在しないせいもあるのだろう。

◆写真上:北鎌倉の親戚らしい家だが、数寄屋のしつらえがあったかどうかは失念。
◆写真中上からへ、人っ子ひとりいない円覚寺の境内で、いまだ茅葺きの山門に居士林、壽徳庵、そして観光スポットの定番なのに誰もいない舎利殿参道。
◆写真中下の2葉は、北条時宗が開いた円覚寺の開基廟と同寺の妙高池。の3葉は、ようやく学者か研究者のような人に出会った浄智寺で、「寶所在近」扁額がかかる惣門(高麗門)と、地元の住民が墓参りでくぐるめずらしい意匠の山門(鐘楼門)、そして草叢に埋もれそうな未整備の甘露ノ井。
◆写真下は、クルマの往来もほとんどないため静まり返った北鎌倉駅前の白鷺池(円覚寺領)。の2葉は、やはり人とまったく出会わない東慶寺(かけこみ寺)の本堂や境内の階段(きざはし)。は、北鎌倉で当時は唯一人の出入りが多かった松ヶ岡文庫の閉館間際の情景。当時、同文庫の休館日は平日だったはずで(現在は火曜日)、1960年代でも日曜日には専門分野の研究者や学生たち、作家、記者などが数多く通ってきていた。

1945年4月14日のヴァイオリンソナタ。

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 さて、どちらが事実だろうか? 以前、向田邦子Click!巌本真理Click!へのインタビューで「東京大空襲の翌日」、すなわち1945年(昭和20)3月11日に日比谷公会堂でコンサートを開いたエピソードについて、1977年(昭和52)に発行された「家庭画報」2月号掲載の向田のエッセイで紹介していた。ところが、山口玲子の巌本真理へのインタビューでは、同年4月13日夜半に行われた第1次山手空襲Click!の翌日、つまり4月14日に日比谷公会堂でコンサートが開かれたとしている。
 巌本真理の疎開(避難)先だった、祖父の家にあたる豊島区西巣鴨653~703番地(旧・西巣鴨町巣鴨庚申塚653~703番地)の巌本善治邸Click!は、東京の市街地から見れば新乃手Click!であり、3月10日の東京大空襲Click!の被害を受けにくい地域だが、同夜のB29は当初の計画エリアを爆撃し終えると、余った焼夷弾を周辺地域にも無差別に投下しているので、その余波を受けて延焼しているのではないかと推測していた。
 ところが、1984年(昭和59)に新潮社から出版された山口玲子『巌本真理 生きる意味』には、まったく異なる事実が書かれている。当時は、本郷にあった巌本邸が東京大空襲の6日前、1945年(昭和20)3月4日の局地的な空襲をうけて延焼し、巣鴨の祖父の家へ避難する経緯は同じだ。3月4日の午前8時すぎ、150機のB29が本郷から下谷(上野)地域を爆撃し、4,000戸が罹災し1,000人を超える死傷者が出ている。
 記述は、巌本一家が巣鴨庚申塚の祖父・巌本善治邸へ避難した、ほぼ1ヶ月後からはじまる。同所より、少し長いが空襲の様子を引用してみよう。
  
 一カ月後の四月十三日夜十一時から十四日未明にかけて、再び空襲を受けた。当時の新聞には、「B29百七十機来襲、爆弾焼夷弾を混用、約四時間に亙つて市街地を無差別爆撃せり」と報じられたが、早乙女勝元編『母と子でみる東京大空襲』によれば、この時の空襲は十五日まで続き、東京の西北部と京浜地帯に来襲したB29は延べ七百機、焼失家屋は二十二万戸に達したという。/この空襲によって真理の一家はまたもや焼け出された。バイオリンケース一つを抱えて防空壕にのがれた真理はそのまま、夜の明けるのを待った。その日、四月十四日、真理は日比谷公会堂で演奏することになっていた。午前九時までに消火したと新聞には発表されたが、実際はまだあちこち火がくすぶっていた。電車も止まってしまって、昼すぎになっても動かない。
 <井口(基成)さんと演奏会をやることになっていたんで、私、歩いていったんですよ。巣鴨から日比谷公会堂まで。前の晩に家焼けましてね。もう一日がかりみたいで歩いていってやっと新橋のあたりまで行ったら、向うからゾロゾロ歩いてくるんです。それでみんな、何となく私の顔を見るんですよ。なんでだろうと思いました。で、私がそのまま行ったら、その人たちもみんな私の後をゾロゾロついてくる。日比谷公会堂へ行ったら、張り紙がしてあってね、“巌本真理行方不明につき中止”って書いてある。それをはがして演奏会をやりました。ズボンをはいたままで、ずうっと歩いてきたんで足にマメができてしまって>(カッコ内引用者註)
  
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 この一文を読んで、もうカンのいい方はお気づきではないだろうか? 巌本真理は、向田邦子のインタビューで4月13日夜半の第1次山手空襲のことを、「東京大空襲」での出来事として語ってしまっているのだ。
 山手空襲に罹災した向田邦子もそうだが、東京では「東京大空襲」といえば1945年(昭和20)3月10日の、一夜にして死者・行方不明者10万人超の膨大な犠牲者を出した、おもに東京東南部の(城)下町をねらった空襲のことをさす。4月と5月の二度にわたる乃手の空襲は、「山手空襲」あるいは「山手大空襲」Click!と表現するのが祖父母の世代からの“お約束”であり、それらを「東京大空襲」とは呼ばない。地元では、空襲直後から地付きの人々の間で一般的につかわれてきている用法であり慣習だ。
 巌本真理が「東京大空襲の翌日」と答えてしまったため、向田邦子は当然、同年3月10日の東京大空襲をイメージし、その翌日の日比谷公会堂における演奏会は3月11日の出来事だという前提で、あとの記述を進めている。わたしも同様に、「東京大空襲の翌日」といえば、3月11日にちがいないので、その光景をイメージしながら記事を書いた。ところが、巌本真理は地元における「東京大空襲」と「山手大空襲」の呼称や規定を知らなかったか、あるいは東京で遭った空襲をすべてひっくるめて「東京大空襲」と大雑把に表現したものかは不明だが(近年、そのように混同し曖昧な表現をする人たちが増えている)、向田邦子の認識との間で少なからず齟齬が生じてしまったのだ。
 念のため、米軍のF13Click!が撮影した爆撃効果測定用の空中写真でも確認しておこう。1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろ、東京上空で撮影された空中写真の1枚に、遠景だがかろうじて巣鴨地域がとらえられた画面が残っている。それを見ると、どうやら同地域は空襲の被害を受けていないように見える。ところが、同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!の8日前、5月17日に撮影された爆撃効果測定用の空中写真を参照すると、巣鴨庚申塚界隈が焼け野原になっているのが見える。すなわち、巌本真理の避難先だった同地域は、同年4月13日夜半の第1次山手空襲で被災していることが明らかだ。
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 巌本真理が、日比谷公会堂へ徒歩で向かったのは第1次山手空襲の翌日、1945年(昭和20)4月14日(土)のことであり、東京大空襲から1ヶ月余がすぎた(城)下町界隈では、すでに余燼はくすぶってはいなかったはずだ。あちこちの焼跡には、疎開先のない地付きの人々による粗末なバラック小屋が建ちはじめていたかもしれない。だから、下町方面の人々は生きのびた幸運を噛みしめながら、いまだ食糧に飢えていたとはいえ、ヴァイオリンコンサートへ出かけてくる“余裕”が生れていたのだ。
 『巌本真理 生きる意味』には、巌本真理が生れた巣鴨庚申塚の邸についての興味深い記述もある。彼女の生家は、巌本善治が運営していた明治女学校の校舎に使われていた、真四角の西洋館だったというのだ。同書より、再び引用してみよう。
  
 (巌本真理の)住居は東京・巣鴨庚申塚の明治女学校跡にあった。かつてはこの辺り一帯、旧中山道に接してざっと五千坪あった土地が、廃校後は五百坪になっていた。内庭をかこんで三棟あり、善治は鉤の手の広い和風平屋建に住んでいた。東に隣接する二階建西洋館が、真理の両親の新居に当てられた。かつては明治女学校の教室に使われた、日本に唯一というスコットランド風の建物だったという。といっても格別の趣きはなく、殺風景な真四角の家で、一階は応接室と食堂の二部屋に、台所、風呂がつき、玄関脇の螺旋階段を上ると二階が寝室と書斎になっていた。(カッコ内引用者註)
  
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 いまに伝わる明治女学校の外観写真に、校舎の一隅だろうか正方形とみられる西洋館をとらえた写真がある。明治女学校の南西側に隣接した巌本善治邸の敷地に、部材を解体して移築したのか、あるいは床下にコロをあてがい“曳き家”をしたのかは不明だが、この建物がのちに巌本一家が暮らし、巌本真理が生まれた西洋館である可能性が高い。

◆写真上:またまた古いステーショナリーを集め、向田邦子ドラマClick!のタイトルバック風に。親父の遺品を整理していたら、満州までの郵便料金や航空郵便の情報などが掲載されたキング切手印紙葉書入Click!や、親父の学生時代のノート(ドイツ語)が出てきた。右端は、第5回帝展(1924年)で販売された二瓶等Click!の入選絵葉書『裸女』。
◆写真中上は、巌本真理のブロマイド()と東京藝術大学の教授時代に撮られたポートレート()。は、明治女学校の記念碑が建つ巌本善治邸の敷地跡。
◆写真中下は、空襲前の1944年(昭和19)に撮影された巌本善治邸の敷地界隈。は、1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろに撮影された東京市街地。(城)下町方面は焼け野原だが、乃手地域の巣鴨界隈は空襲を受けていないのが判然としている。は、第2次山手空襲(5月25日夜半)のわずか8日前=同年5月17日に撮影された巣鴨庚申塚地域。4月13日の第1次山手空襲で、すでに被爆していたのがわかる。
◆写真下は、王子電車(現・都電荒川線)の庚申塚電停。中左は、1984年(昭和59)出版の山口玲子『巌本真理 生きる意味』(新潮社)。中右は、1938年(昭和13)ごろ撮影の巌本真理。は、巌本真理の生家とみられる明治女学校時代の真四角な西洋館校舎。

「たべて見たいと思つたよ」の安倍能成。

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 夏目漱石Click!の弟子だった松根東洋城が、1915年(大正4)に創刊した俳句誌に「渋柿」というのがある。現在も存続している創刊104年の非常に息の長い雑誌だが、安倍能成Click!は同誌に16回にわたって『下落合より』と題したエッセイを執筆している。戦時中の1942年(昭和17)の「渋柿」10月号から、1945年(昭和20)の「渋柿」2月号までの、2年半にわたる連載だった。
 1945年(昭和20)の「渋柿」4月号から、突然『駒場より』とタイトルを変更しているのは、下落合の自邸が同年4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失Click!しているからだ。その後、避難先である地域名を次々ととって、『経堂より』(同年10月号)から『代田一丁目より』(同年12月)と変わり、戦後の落ち着いたところで下落合へともどっている。『下落合より』は、すべての文章が戦時中に書かれているが、日常のさまざまな描写の間には、安倍能成の人柄や性格を知るうえで興味深い記述が多い。
 『下落合より』(全16回)は、戦後すぐの1946年(昭和21)に白日書院から出版された安倍能成『戦中戦後』に収録された。その中に、彼の「東京郊外」観とでもいうべき文章があるので、1948年(昭和18)の『下落合より(三)』から少し長いが引用してみよう。
  
 併しそれよりも途中車の中でつくづく感じたことは、東京の郊外が大東京市になつて一層汚くなつたことである。大きなアスファルト道路、それもごく粗製のが到る処に出来て、その両側に歯の抜けたやうに家が立つて居る。粗末な洋風とも何ともつかぬ家の間に貧弱な畑が残つて居る。かと思ふと実にごたごたと猥雑に固まつた汚い商店街が横丁にある。今までは草の茂つた里川だつた所がコンクリートに固められて趣を失ひ、昔の木橋に代つてこれも粗末なコンクリートの橋がかかつて居る。(中略) 東京近郊の武蔵野の村落の好もしい風景が破壊されて、場末的な新開地的な殺風景な粗末極まる都会的風景は、まだその新開地的な性格をさへ定めるに至つて居ない。これは好んで「大」を冠したがる地方の都会に於いても皆同じであるが、東京はその点に於いて実に模範的都市である。東京がかうした破壊と粗末な生命の短い建設とをやめて、一国の首都としての充実と調和とを得るのはいつの時であらうかといふことは、空襲の災禍を覚悟せねばならぬ今日の危局の下にも、やはり考へずには居られなかつた。
  
 この文章でも、安倍能成は平然と英語(敵性語Click!)をつかっている。そして、1943年(昭和18)1月の時点で、明確に米軍による空襲の惨禍を予感している。
 同文は、知人の告別式に出席するために、池上本門寺を訪れた際の感想を書いている文章の一節だ。1932年(昭和7)に、東京15区が35区Click!「大東京市」Click!になったことで、郊外へ郊外へと拡がりつづける住宅街を、クルマで道々観察しての感想なのだろう。おそらく、安倍能成が初めて下落合に自邸を建設した大正期には、同じような風景が目白駅の周辺から下落合にかけて拡がっていたにちがいない。しかも、当時の道路は舗装などされておらず、安倍能成は靴を泥だらけにしながら第一高等学校(現・東大教養学部)へ通勤していただろう。
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 その通勤先の一高では、軍部からの圧力と生徒の主体性を尊重する教育とのはざまで、板ばさみになるような日々がつづいていた。しかも、勤労動員により劣悪な環境の工場で病死した生徒について、「名誉の奉仕報国」といわんばかりに「軍雇員」として「賜金」を給付するという軍部に対し、「誤つて死なしめた」と怒りを隠さない。1944年(昭和19)9月13日に書かれた、『下落合より(七)』から引用してみよう。
  
 十時前に登校して全校体操に立ちあふ。この頃の気候のせゐも手伝つてか、今日は非常に数が少ない。生徒の自覚に待つて居てはいけない、といふ声が周囲からはやかましい。自発性を殺さない緊張と統制との困難を思ひ、今日も少し憂鬱になる。(中略) 二時に陸軍被服廠の課長が来て、この間勤務奉仕の途中に病を得てその後なくなつた生徒を、軍雇員に命じ、殉職者としての賜金の沙汰を伝達するのに立ち合ふ。当人が無理をするほど義務心の旺盛な真面目な青年だつたことには、感心しても足りない気がするが、しかしこの好青年を誤つて死なしめた遺憾の方が遥かに大きい。当人父親から母親の悲嘆、弟の落胆の話などを聞くとこの感は愈々切である。
  
 一高の生徒たちは、「小学生じゃあるまいし、なんで朝っぱらから軍人の前で体操しなきゃならねえんだよ」と反発し、ほとんど出席しなかった様子がわかる。
 安倍能成は、日米開戦の当初から敗戦は必至と自覚しているので、軍部からの圧力を「教育の論理」でゆるゆると押し返しながら、なんとか生徒たちを守り生きのびさせようとしている様子がうかがえる。当時、軍部からの要請に対してあからさまに「やかましい」とか、勤労動員において「誤つて死なしめた」と書いて発表した文章を、公開しない個人の戦時日記レベルならともかく、わたしはほかに知らない。
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 陰に陽に軍部へ抵抗をつづけた安倍能成だが、空腹には勝てなかったようだ。以前、肖像画を描いてもらえるというので、1944年(昭和19)に安井曾太郎Click!アトリエClick!へ100回ほど通いつづけたエピソードClick!をご紹介Click!したが、それはアトリエで用意される昼食や、おやつに出される甘いもの(お菓子)が楽しみだったからだ。当時、食糧はすべて戦時配給制になり、腹いっぱい食べることはおろか、1日に三度の食事にありつけるかどうかも不安な時代だった。特に砂糖は貴重品で、安井アトリエで毎回出される甘いおやつに、食いしん坊の安倍能成はウキウキしながら通った様子が記録されている。
 空腹をかかえて原稿用紙に向かい、つい本音のラフな結びで書いてしまったユーモラスなエッセイも残っている。1944年(昭和19)12月13日の夜、夕食後に書かれたとみられる『下落合より(十五)』から引用してみよう。
  
 電車の中では本を読まぬことにして以来久しいのだが、ゴーゴリは竟にその禁を破らせてしまつた。ニ三日前にも乗合を待つて居る間に「馬車」を読み了つて、「肖像画」を三分の一ほどの所まで読みかけ、主人公の青年画家の心境に夢中になつて居る所へ、やつと江戸川行が来た。時計を見ると五十分立つて居たわけだ。ゴーゴリは天才だ。(中略) たゞ感じたことの一つには、小ロシヤなるウクライナ人は実によく喰らふ、殊に小説の中に現はれる地主階級は、自分が御馳走を喰ふことと人に喰はすこととに生存の意義を画して居るらしい、といふことがあつた。時節柄小生も彼等の午餐や晩餐によばれて、肉饅頭だとか仔豚の丸煮だとか凝乳をつけた団子だとかを、たらふくたべて見たいと思つたよ。
  
 文中の「乗合」は乗合自動車Click!=バスのことであり、「江戸川」は葛飾地域の江戸川Click!のことではなく、1966年(昭和41)まで江戸川と呼ばれた神田川に架かる江戸川橋Click!のことだ。安倍能成は、第二文化村から北へ歩いて目白通りへと抜け、文化村前停留所からバスに乗って都電(1943年より東京都)の走る江戸川橋へと向かっている。
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 最初は、いつものように時局への感想や身辺の出来事を、ロシア文学の作品群にからめて書くのかなと思いきや、最後には「たべて見たいと思つたよ」などとしゃべり言葉で終える、謹厳実直で学術的な安倍能成の文章もまた、わたしはほかに知らない。

◆写真上:下落合4丁目1665番地(現・中落合4丁目)の、第二文化村にあった安倍能成邸前の三間道路。安倍邸は三間道路を突き当たった左側の角で、右側手前に見えている大谷石の縁石や築垣は石橋湛山邸Click!の敷地。
◆写真中上上左は、戦後すぐの1946年(昭和21)に白日書院から出版され『下落合より』シリーズ計16編が収録された安倍能成『戦中戦後』。敗戦直後の物資不足でで紙質が極端に悪いせいか、ページの変色や一部欠損が進んでいる。上右は、「神話」や「感情」ではなく「科学」と「論理」が教育の基盤だと映像で訴える1946年(昭和21)の安倍能成。は、内田祥三と清水幸重の設計による第一高等学校本館(現・東大教養学部)。
◆写真中下は、下落合4丁目1665番地にあった安倍能成邸跡の現状。は、晩年に住んでいた下落合3丁目1724番地(現・中井2丁目)の安倍能成邸跡の現状。は、東大駒場キャンパスに残る一高時代の講堂(900番教室)。
◆写真下は、同キャンパスに残る一高時代の特設高等科(101号館)。は、1966年(昭和41)3月14日発行の落合新聞に掲載された夏目漱石の記念碑除幕式での安倍能成。漱石の弟子だった安倍能成は、喜久井町夏目坂に建立された記念碑の揮毫を担当した。

絵の具がひっ迫する戦時下の画家たち。

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 戦時下、戦争画Click!をなかなか描かず軍部に協力的でない画家たちは、統制下におかれた絵の具の配給が満足に受けられず、油彩・水彩を問わず本格的な作品が描けないでいた。逆に戦争画を描く画家には、軍部からふんだんに絵の具や筆、キャンバスなどの画材・画道具がまわされ、画面の制作に困ることはなかった。
 戦争画を描かない画家たちは、絵の具がなかなか手に入らないため、雑誌や小説などの挿画をペン・鉛筆・墨などで描きながら、かろうじて糊口をしのぐようなありさまだった。1941年(昭和16)12月の日米開戦以来、さらに配給の厳しさが増すにつれ、秋の展覧会に向けて絵の具の欠乏を食いとめ、公平で効率的な絵の具の分配を実現しようと、1942年(昭和17)5月に上野精養軒で「美術家連盟」が結成されている。同連盟の中心となったのは、戦争画をほとんど描かない木村荘八Click!で、自宅Click!のある杉並区和田本町832番地が美術家連盟の事務局となっている。
 美術家連盟の発起委員には、辻永Click!石井柏亭Click!有島生馬Click!など40名以上のそうそうたる画家たちが名を連ねていたが、軍部に非協力的な画家たちも少なからず含まれており、上野精養軒の結成集会に呼ばれた大政翼賛会文化部陸海軍報道部の代表は、内心にがにがしく思っていたかもしれない。表面上は、軍部へ協力する作品を描きやすいよう、統制された絵の具を効率よく画家たちへ確実に配給し、より「非常時」にふさわしい作品を制作するための、戦時における画材流通基盤の確立のように謳われたのかもしれないが、制作される作品がすべて軍部の要請する「聖戦貫徹」の画面になる保証は、まったくどこにもなかったからだ。
 事実、事務局長を引き受けた木村荘八からして、そもそも春陽会や新文展への出品用に東京の風俗や風景、芝居、静物などの作品しか描こうとはせず、あとは好きな時代小説や風俗帖などの挿画を手がけるだけといったありさまで、絵の具配給の指示・統轄部局である大政翼賛会文化部陸海軍報道部には、ほとんど目に見えての「プロパガンダ・メリット」はなかったように見える。おそらく、木村荘八を含めた美術家連盟のおもな画家たちが、大政翼賛会文化部を巻きこんで絵の具の安定的な入手ルートを確保しさえすれば、あとはモチーフになにを描こうがこちらの勝手だ……とかなんとか相談して、全国の画家たちへ参加を呼びかけたのだろう。
 1942年(昭和17)の7月下旬、全国の絵の具小売店あてに、神田小川町にある東京洋画材料商業組合から、次のようなハガキがとどいた。
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 面白いのは、業界が業界なだけに「ホワイト」「メーカー」「ルート」など、日米戦がはじまっているにもかかわらず英語を自粛せず、従来どおりに多用している点だ。
 確かに、絵の具の専門色名に横文字がつかえなくなれば大混乱をきたし、そもそも画材を扱う業界は成立しえなくなってしまう。油絵の具の「ホワイト」には、メーカーにもよるが7種類前後はあるのが当たり前なので、文面の「ホワイト」がどのホワイトを指しているのかが不明だ。だが、物資不足が深刻化している戦時では、ジンクやチタニウム、シルバー、パーマネント、セラミック……などの別なく、白系統の絵の具をおしなべて「ホワイト」としていたのではないだろうか。
 とにかく、秋の展覧会へ向けた作品の制作には、ホワイト系の絵の具が絶対的に不足しており、要望を受けた美術家連盟では急遽、洋画材料商業組合と協議して、ホワイトを優先的に全国の画家たちへ配給するよう手配したものだろう。
 このハガキの内容について、1942年(昭和17)発行の「新美術」8月号に掲載されている、美術家連盟事務局の木村荘八『連盟の経過』から引用してみよう。
  
 去る七月二十日付けを以つて左のやうな印刷ハガキが東京洋画材料商業組合から全国の絵具小売店へ送達された。/美術家聯盟の会員を限り臨時にホワイトを売渡す配分約束についての通牒であるが、美術家聯盟加入のものは、同時に左の購入券を受取つた。この購入券は絵具工業組合と材料商業組合及び聯盟の合議で印刷したものを(官製ハガキ)聯盟が一纏めに受取つて事務所から改めて全国の聯盟加入者に一人一通づゝ送つたものである。/一体が油絵本位の話だつたので此の購入券を見ても一言の説明さへも用ゐず、頭から油絵具に限るものとされてゐるが――聯盟会員の需要の関係から見て、それは後に、油絵具ならば一人十号チューブ二本、水彩ならば一人四本、といふことに此の同じ購入券を以つて便法風な取扱ひの出来ることを申合はせた。しかしこれは東京以外には徹底されぬ一部の便法に止どまつたかもしれない。――筆者が今この報告文章を誌すのは八月九日であるが、ホワイト購入券に依ればその現品引渡時期は八月八日以後としてあるから、もうそろそろ引渡しの手続になることだらう。
  
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 配給券=「ホワイト引替券」には、油絵の具を前提として「壱名に付十号チューブ弐本」としたが、水彩画家を考慮し水彩絵の具なら2本ではなく4本だと、急いで追加の告知をしている。でも、「新美術」8月号が店頭に並んだのは8月の中旬なので、油彩以上にホワイトを多用する水彩画家も、油絵の具と同様にチューブ2本と交換してしまったのではないかと危惧している。
 また、絵の具の原材料が稀少となり値上がりしているため、絵の具の販売価格についても触れている。戦時のため、絵の具の値段は一時的に「停止価格」(政府の統制により値上げをせず一定価格を維持すること)のまま推移していたが、原材料の高騰で改めてコストに見あった価格を設定したい、業者の要望が強まっていたと思われる。つづけて、木村荘八の『連盟の経過』から引用してみよう。
  
 一方の洋画材料商業組合から各小売店に廻された通牒に依れば、「現品は公定価格発表と同時に」送るといふことになつてゐるけれども、これはまだ暫く時間の要る見込である。予めそれがわかつてゐるので、我々聯盟側は、不取敢この二本の臨時配給は公定価格発表以前であつても、品ものやその取扱上の手順さへ付いたならば成る可く早く現品引渡しの段取りとしてくれ、互ひに責任もあるし又秋を控へて需要の差し迫つてゐることでもあるからと、業者に懇談した。業者も亦首肯したのであつた。/この「公定価格の発表」といふことが外界からは説明されないとわかりにくい事情であらうが、又一つには、抑々それが凡ての「根」であつて、聯盟が受動的に絵具業者や材料商業組合とタイアップの形になつたのも誘因はそこにあれば、また、臨時ホワイト配給の今回の事も動機はそこから起つたと云へる。
  
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木村荘八「大鷲神社祭礼」1943.jpg
 先にも記したように、「新美術」8月号が書店の店頭に並んだのは早くても8月中旬、地方ではさらに遅くなったと思われるのだが、早い美術展は9月に幕を開ける。ホワイトのストックがない画家たちは、作品が完成できずかなり焦っていただろう。だが、このような配給が一般の画家たちまであるうちは、まだマシな状況だった。日本の敗色が強まるにつれ、軍部に協力的でない画家たちには絵の具はおろか画材がほとんど配給されず、闇で超高価なそれらを手に入れざるをえない時代が、すぐそこまで迫っていた。

◆写真上:敗戦時に工場が焼け残り、戦後いち早く絵の具を製造を再開した旧・長崎5丁目15番地のクサカベClick!のホワイト各種。上からチタニウム、ジンク、パーマネント。
◆写真中上は、1942年(昭和17)に発行されたホワイトの購入券(配給切符)。は、美術家連盟の役員だった木村荘八()と有島生馬()。
◆写真中下は、ホワイト配給券と同年の1942年(昭和17)制作の木村荘八『残雪』。は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!直前に制作された木村荘八『浅草元旦』。浅草が大空襲で壊滅する、2ヶ月前のにぎわいをとらえている。
◆写真下は、1943年(昭和18)に制作された木村荘八『大鷲神社祭礼』の習作(下絵)。は、1943年(昭和18)に制作されたタブローの画面。

陸軍の地下壕が掘られた淀橋浄水場。

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 これまで、戦時中に東京の市街地が、どのよう組織Click!によって米軍による空襲Click!から「防衛」され、またどのような施策Click!によって空襲の被害を抑えようとしていたかを、落合地域を問わず東京各地の様子をあれこれご紹介してきた。だが、東京市内にあった社会インフラの施設や設備が、どのような方法で守られようとしていたのかには、ほとんど触れてきていない。
 そこで、落合地域も含まれる新宿エリアに明治期から設置されていた、東京の代表的な社会インフラのひとつだった淀橋浄水場Click!の防空対策について検証してみたい。同浄水場で、本格的な「水道防衛」がテーマになったのは、1942年(昭和17)4月18日のB25によるドーリットル隊初空襲Click!からだった。同空襲では、牛込区(現・新宿区の一部)の早稲田中学校のグラウンドにいた生徒が、焼夷弾の直撃を受けて即死Click!している。東京市では、浄水場と水道網をいかに防衛するかが大きな課題となった。そこで、さまざまな「防衛工事」計画が策定されている。
 だが、新宿駅西口に10万坪以上の面積がある淀橋浄水場は隠しようがなく、爆撃機が高高度で飛行してもハッキリと視認Click!できるほど目立つ施設だった。いくら地図から抹消Click!したとしても、偵察機から空中写真を撮られればすぐにバレてしまう。また、施設の構造自体もきわめて脆弱なため、防御を強化するという発想よりも偽装、すなわちカムフラージュを主体とした消極的な「防衛工事」にならざるをえなかった。1944年(昭和19)の暮れまでに、淀橋浄水場では水面の遮蔽(水田偽装)や、場内の工場をはじめとする建物の偽装(壁面迷彩)、煙突など目立つ建築物の解体などが行なわれている。
 これらの施策は、東京市水道局と軍部が淀橋浄水場をめぐる6つの課題について検討する中で、漸次決定されていったものだ。以下、6つの課題を挙げてみよう。
 (1)浄水場と敷地の幾何学的な地形をどのように変更させるか。
 (2)防護に要する膨大な資材と労力が調達可能か。
 (3)短期間に完成する見込みがあるか。
 (4)浄水作業に支障をきたさないか。
 (5)水道水に汚染その他の支障が生じないか。
 (6)風雨雪等に対する耐久性はあるか。
 これらの課題にもとづき、濾池や沈澄池を水田に見立てる工事などが開始されたが、1940年代ともなれば新宿駅の周辺は、すでに商業地の繁華街や住宅街、学校、工場などがびっしりと建ち並ぶ都会化が進んでおり、その中へいかにも不自然な水田が拡がっているようにカムフラージュしても、ほとんどまったく効果がなかった。
 「防衛工事」は、まず濾池×24面(約28,800坪)に偽装網(綿糸製9cm各目)を張り、網目には木くずやシュロの葉などを貼りつけてカムフラージュした。濾池×4面(約27,700坪)には葦簀(よしず)を張り、丸太でそれを支えるようにして偽装している。また、浄水池や敷地内の水路など約60,000坪の施設は、水田や空き地に見せかけて(少なくとも計画者のアタマの中では) 浄水場には見えないように偽装した。広い浄水場内の「防衛工事」には、数百人の学徒が毎日動員されている。
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 建物の「防衛工事」としてポンプ所と滅菌室の周囲には、爆撃時の爆風による被害を防ぐために土嚢が積まれた。浄水場から東京市内へ向けた配水幹線の上部には、直撃弾の対策として厚さ1mにもなるコンクリート製の防護遮蔽が取りつけられている。また、高い建造物は目標になりやすいということで、高さ130尺(約39m)のコンクリート煙突は解体され、場内いたるところにカムフラージュ用の樹木が植えられた。さらに、細菌類の投下による謀略戦を想定し、浄水池の通風筒を密閉する機能も追加されている。
 さて、上記のような「防衛工事」が施された淀橋浄水場だが、第2次山手空襲Click!では大きな被害が出ている。米軍はもちろん、新宿駅西口近くにある同浄水場のことは研究済みで知悉していた。1945年(昭和20)5月25日の22時3分に、東部軍管区情報として警戒警報が発令され、つづいて同日22時22分には空襲警報に変わった。約250機のB29が、おもに山手線西部の焼け残り地域を空襲し、M69集束焼夷弾と250キロ爆弾などあわせて148,700発を投下した。翌5月26日の未明にかけ、約2時間30分の空襲により山手線西側の街々は壊滅した。今日の新宿区(四谷区+牛込区+淀橋区)でいえば、この日までに全住宅地や全商工業地の約80%以上が焼け野原となった。
 5月26日の午前1時0分に空襲警報は解除されたが、淀橋浄水場では場内の建物火災は5時すぎまでつづき被害は深刻だった。火災により事務所(本部)1棟、木工所1棟、鍛冶工場1棟、原水ポンプ所3棟、硫酸ばんど注入所1棟の計332坪の建物を焼失した。また、機器設備として電動ポンプ×7基、硫酸ばんど注入設備×全部、自動車×1台を焼失している。これにより、東京市街へ給水する水道は配水量が50%にまで低下した。
 淀橋浄水場の空襲のみに限ってみれば、わずか1時間ほどの空襲で東京市の大部分にわたる水道インフラの、約50%の配水機能が喪失したことになる。水道が完全に断水しなかったのは、幸運とみるか「防衛工事」のおかげとみるかは意見の分かれるところだが、この空襲に先立つ同年3月10日の東京大空襲Click!により、淀橋浄水場系の本郷給水所(現・本郷給水所公苑)と芝給水所(現・港区スポーツセンター+芝給水所公園)が完全に破壊されている事例を考慮すれば、幸運だったといえそうだ。
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 第2次山手空襲のあとに計画された、不可解な証言も残されている。淀橋浄水場の地下にトンネルを掘り、米軍の本土上陸に備えるために極秘の部隊が配置されたという、当時、淀橋浄水場長だった方の証言だ。空襲後、「池の水面や構造物には、偽装、迷彩、防護などが施されていたし、資材や労力の不足で維持管理が行届かず、(浄水場の)機能は半減していた」ような状況で、トンネル掘りを命じられた部隊が配備されている。
 1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された『淀橋浄水場史』(非売品)所収の、小林重一『淀橋浄水場の思い出』から引用してみよう。
  
 当時、浄水場には、隊長が大尉の小部隊が駐屯していた。話に依ると、敵軍の本土上陸が予想される。上陸した敵軍は、甲州街道と青梅街道を東京に向かって進撃してくる。これを邀撃するため、浄水場の下に縦横に地下道を掘り、作戦に機動性をもたすようにする。この地下道を造るのが、駐屯部隊の仕事だ、ということであった。/甲州、青梅両街道に面している浄水場が、敵軍邀撃の好個の拠点であることは肯けたが、深い池の多い浄水場の下にトンネルを掘ることは大変な難工事である。隊にはトンネルの専門家はいないらしい。新宿駅西口広場に集積された木材は支保工になるしろものではなかった。土木屋の私には全く狂気の沙汰としか思えなかった。本気で掘る積りなら、専門家によく相談して段取りをしなさいと注意した。/勿論、隊長は掘る気でいた。そして、上官から、おまえらの墓場を掘る積りでしっかりやれ、といわれてきた、ともいっていた。
  
 当時の陸軍は、湘南海岸の中央にあたる平塚海岸に大部隊を上陸させ、馬入川(相模川)沿いに北上して八王子を攻略し、甲州街道や青梅街道を東へ進撃して東京市街地へと侵攻する米軍のコロネット作戦Click!を、その空襲の規模や傾向などから、かなり正確かつリアルに把握していた様子がうかがえる。
 実際にトンネルが掘られたのかどうかは、小林重一の証言には書かれていない。空襲から敗戦まで、いまだ3ヶ月も残す時期のことなので、新宿西口広場に集められた資材を用いて、浄水場内のいずれかの地下にトンネルが掘られていたのかもしれない。また、敗戦から20年後の証言とはいえ、当時の軍事機密に属することなので、あえて証言が控えられている可能性も考えられる。
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 あるいは、淀橋浄水場の跡地が競売にかけられているまっ最中に書かれた文章なので、地中には陸軍の地下壕が眠っているなどと書けば入札に影響が出ると考え、あえて証言を避けたのかもしれない。だが、トンネルが浄水場のどこかに掘られていたにせよ、跡地の大規模な「副都心開発」計画で、とうに破壊されているのはまちがいなさそうだ。

◆写真上:機関室の煙突がそびえていた、淀橋浄水工場が建っていたあたりの現状。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に陸軍によって撮影された淀橋浄水場。は、沈澄池と濾池の偽装(カムフラージュ)工事。1944年(昭和19)に工事は実施されたが、大編隊のB29による絨毯爆撃にはほとんど意味がなかった。
◆写真中下は、爆風に備え滅菌室の周囲に積まれた土嚢。は、機関室に付属する130尺(39m)コンクリート煙突の解体工事。は、1944年(昭和19)撮影の偽装工事が完了したあとの淀橋浄水場。ご覧のように、いくら網や葦簀で池の水面を遮蔽しても、上空から見れば浄水場の形状は明らかでカムフラージュの効果はほとんどなかった。
◆写真下は、1944年(昭和19)に撮影された新宿駅西口から淀橋浄水場にかけての一帯。新宿駅南口から浄水場にかけ、防火帯35号線(淀橋浄水場線)の建物疎開Click!がはじまっている。は、1945年(昭和20)5月25日夜半にB29から撮影された空襲下の新宿駅(下)と淀橋浄水場(上)。は、1971年(昭和46)に撮影された淀橋浄水場跡地で、濾池跡の東端には京王プラザホテルが建設中だ。

淡谷のり子の語る“生き霊”怪談。

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 淡谷のり子Click!は、関東大震災Click!の直前まで恵比寿に住み、震災後は上落合に転居してきている。そして、長崎1832番地(現・目白5丁目)にアトリエがあった田口省吾Click!の専属モデルをつとめるために、アトリエの近くへ引っ越したのだろう、大正末から昭和初期にかけ母とともに下落合の家で暮らしていた。だが、彼女の落合地域における住所はわからず、いまもって判明していない。
 上落合の住居は見当がつかないが、下落合における淡谷のり子の住居は、おそらく田口省吾のアトリエからそれほど離れてはいない、目白通りの近くではなかったかと想定している。また、当時は東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に通っていたので、下落合の東寄り、目白駅の近くではなかっただろうか。ちょうど淡谷のり子が東洋音楽学校へ通っていたころ、1924年(大正13)11月に同校は神田の裏猿楽町から、高田町雑司ヶ谷(現・東京音楽大学の所在地)へと移転している。下落合の目白駅寄りであれば、同校までは直線距離でも1kmちょっととなり、ゆっくり歩いても20分ほどでたどり着ける。
 さて、落合地域での淡谷のり子の住まい探しは保留にして、今回は夏らしく再び彼女の怪談話をひろってみよう。前回は、淡谷のり子に未練を残した田口省吾の死霊Click!だったけれど、今回は彼女のもとを訪れた“生き霊”のエピソードだ。時代は、歌手としてコロムビアからデビューして、住まいを下落合から大岡山へと移し、レコードの吹きこみがスタートしていた1933~34年(昭和8~9)ごろの出来事だ。
 大岡山の家は、内風呂がついた戸建ての住宅を借りられたらしく、玄関を入るとすぐ右手に応接間があり、左手には風呂場があった。廊下を右折すれば台所で、その向かい側が茶の間となっている間取りだった。夕食を終えた午後8時ごろ、彼女と母親が茶の間で話をしているときに、それはふいに起きた。1959年(昭和34)に大法輪閣から発行された「大法輪」6月号収録の、淡谷のり子『私の幽霊ブルース』から引用してみよう。
  
 すると、玄関の方角でガランガランと、洗面器でもひっくりかえしたような音がした。「うるさいわね」と私がつぶやくと、母は、「あなたは何いってるの、何にも聞えないじゃないか」という。/それでも誰か来て物音をたてたような気がするので、玄関まで出てみたが、何でもない。部屋に帰って母と話しはじめると、「ガランガラン」が耳にひびいてしょうがない。「うるさいな、何だろう」口に出した途端、「あんたの方が、よっぽどうるさいわ」と母は逆に私を叱り、不思議そうに見つめるのだった。/「だって、誰か来ているようじゃないの?」/今度は玄関ばかりでなく、湯殿から台所まで電灯をつけて見て廻った。しかし玄関にはちゃんとカギがかかっているし、窓もちゃんと閉っている。風で洗面器がひっくりかえったとも思われないのだ。やはり人は来なかったのだな、と部屋に帰ったが、それからは、音は聞えなかった。
  
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 淡谷のり子には、イブニングドレスなどの衣裳を裁縫し、無償で提供してくれる熱烈な女性ファンがいた。淡谷のり子ともよく気が合い、彼女の好みやセンスをよく理解しているのか、それらドレスなどの衣裳は淡谷も気に入って、よくコンサートなどでも着ていたようだ。その女性ファンの名前は「夏子」といい、実はこのとき、彼女は肺結核が悪化して病床で重態に陥っていた。
 間もなく、「夏子」は息を引きとるのだが、生前に彼女が付添人に語っていたという言葉を聞いて、淡谷のり子は愕然とする。同誌から、再び引用してみよう。
  
 「私はのり子さんに逢いたくてしようがないわ。私、それで、お宅に伺ったら、玄関はぴたっとしまっていて、入れないの。どこか開いてないかしらと探したら、都合よくお風呂場の窓に隙間があったので、そこから入っていったのよ。なにしろ真暗闇でしょ、私は洗面器につまずいたの。のり子さんは二度ばかりやって来て電灯をつけたのだが、とうとう逢えなかったわ。かなしいけれど、私、もう、だめね。だけど、私が死んだら誰が、一体、のり子さんのイブニング・ドレスを縫ってあげるのかしら」(中略) たとえ夏子さんの言葉がうわごとであったにせよ、私が洗面器の音を聞き、玄関、湯殿にたっていった日時と、夏子さんが訪ねて来たという日時はぴったり合っている。私は、夏子さんの、奇しき縁につらなる執念を思わずにはおられなかった。
  
 風呂場の窓の隙間から、たまたま強い風が吹きこんで、不安定な位置に置かれた洗面器が洗い場へ落ちただけじゃないの?……とか、ひょっとしていたずら好きなネコを飼ってなかった?……とか、音の原因を理性的に考えてみたくなるけれど、淡谷のり子は何度か繰り返し洗面器の落ちる音を聞いているので辻褄があわない。病床の「夏子」が、しじゅう淡谷のり子のことを気づかってばかりいたため、肉体から期せずして「幽体」が抜けだし、大岡山の淡谷邸を訪問していた……とでもいうのだろうか。
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 わたしは、おそらく幽霊は一度も見たことはないが、“生き霊”は一度経験がある。まだ若いころ、とあるビデオの編集をまかされたことがあった。それは学術関連のビデオで、以前こちらにも登場している米国H大学の教授やそのブロンド秘書Click!も登場する、長野県で行われた学術セミナーのドキュメントを撮影したものだ。テーマ曲やBGMも含め、好き勝手に編集してもいいといわれたわたしは、スタジオにこもってディレクターやエディターなどスタッフたちとともに、終電まぎわまで編集作業に没頭していた。
 ラッシュの確認から編集へと移り、家から持ちこんだJAZZの小宅珠美(fl)Click!のLPレコードでテーマやBGMを録音して、映像にかぶせる作業へと進んだところで、わたしも含めスタッフはへとへとに疲れていた。すでにスタジオへ通いはじめてから、3日はたっていただろうか。当時はPCによる手軽なデジタルビデオ編集システムなど存在せず、本格的なアナログ仕様の編集機器によるスタジオの編集ルームでの突貫作業で、日々終電を気にしながらの仕事だった。あと1日で、なんとかマザーテープが完成というフェーズだったので、おそらく4日目の午前10時ごろだったと思う。
 駅を降りたわたしは、編集スタジオへ向けて歩いていたのだが、40~50mほど前を歩くディレクターに気がついた。いつも夜が遅いので、昼近くになってからスタジオに入るディレクターだったのだが、なぜかいつもより2時間ほど早めだ。「きょうはビデオが完成予定だから、彼も張り切ってるな」…と、黒いショルダーバッグにいつものキャップをかぶった、うしろ姿を追いかけながら距離をちぢめていった。やがて、彼は編集スタジオがあるビルに入ると、わたしもそのあとを追ってビルに入った。
 スタジオに着くと、すでに映像エディターは編集機器の前でコーヒーを飲んでいたが、ディレクターの姿がない。トイレにでも寄っているのかと、しばらくエディターと雑談していたが、なかなかもどってこないので「〇〇さん(ディレクターの名前)、入ってますよね?」と確認したら、「いえ、あの人はきょうも昼ごろでしょ」という返事。「ウソでしょ?」と、ビルまでいっしょに前を歩いてきたことを話したが、エディターは不思議そうな顔をするだけだった。昼近くになり、ようやく当のディレクターがやってきたのでさっそく確認すると、今朝は11時少し前に起きて電車に乗ったので、ブランチにサンドイッチを買ってきた……などと答えた。だが、わたしが見た人物は、その身体つきや服装、挙動などを含め、まちがいなく彼だったのだ。なんだか、東京のまん真ん中でキツネにつままれたような話だが、わたしが経験した事実だ。
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 これも、「きょうで、仕事が終わる!」と気が急いた映像ディレクターの“生き霊”が、ひと足先にスタジオへ入ったものだろうか。それとも、彼のドッペルゲンガーが出現した……とでもいうのだろうか。ちなみに、くだんのディレクターはいまでもご健在だ。

◆写真上:1959年(昭和34)に撮影された、淡谷のり子のもやもやブロマイド。
◆写真中上は、長崎1832番地にあった田口省吾のアトリエ跡。は、1931年(昭和6)に初のヒット曲となった古賀政男作曲の「私此頃憂鬱よ」のコロムビアレーベル。
◆写真中下は、東京音楽大学(旧・東洋音楽学校)の雑司ヶ谷本学キャンパス。は、淡谷のり子()と『私の幽霊ブルース』収録の1959年(昭和34)に発行された「大法輪」6月号(大法輪閣/)。は、東京音楽大学近くに出没する野良ネコ。
◆写真下は、山手線・目白駅に近い下落合東部の現状。(Google Earthより) 雑司ヶ谷の東洋音楽学校に通うのに便利で、田口省吾のアトリエにもほど近い、このどこかに淡谷のり子が住んでいたはずなのだが……。は、ドキュメンタリーのテーマとBGMに使った小宅珠美(fl)のアルバム『Someday』(1982年/)と『Windows』(1984年/)。は、現代の映像スタジオ風景で当時とはまったく機器が異なる眺め。

上落合の村人はニホンオオカミに出会ったか?

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 肉食獣のオオカミが、塩を欲しがるという傾向は世界じゅうで記録されている。米国では、海水をなめるために山から下りたオオカミの群れが、わざわざ海岸線まで40kmも夜間移動するのが観察されている。肉食のオオカミの腸の長さは、体調の4倍ほどの長さにすぎず、雑食性のイヌに比べてかなり短い。塩分が不足気味になるのか、オオカミが塩を欲しがるのは国や地域の別なく、世界に共通する特徴のようだ。
 日本各地にも、ニホンオオカミClick!に関連して多種多様な伝承が残っている。山地では岩塩を探してなめるとか、人間がオシッコをした木の葉や土をなめるといった昔話だ。人間が弁当やオシッコなど、なんらかの「塩分」を持っているのをよく知るニホンオオカミが、それを目当てに人のあとを尾けてくるのを、オオカミに襲われそうになった……と解釈したとしても不思議ではない。
 以前の記事Click!にも書いたように、神経質で警戒心の強いニホンオオカミが人を襲ったケースはきわめて少ない。むしろ、江戸期に野犬の群れをニホンオオカミと見まちがえて、幕府や藩に「書き上げ」(報告)をしていた事例のほうが圧倒的に多そうだ。また、「ニホンオオカミ」と「ヤマイヌ」のちがいが判然とせず、山にいるイヌに似た動物はすべてニホンオオカミ=ヤマイヌと混同した可能性も高い。
 シーボルトが持ち帰り、ライデン博物館に展示されている「ニホンオオカミ」とされる動物のはく製標本(シーボルトは2種の個体を持ち帰ったが、博物館側が同一種だと安易に判断してもう1種を廃棄した)と、日本に伝わるやや大きめなニホンオオカミの毛皮のDNAが一致しない。ニホンオオカミと同様に、明治期のストリキニーネで絶滅したとされるヤマイヌ(コヨーテやジャッカルに近似する動物)のいたことが、近年の研究では指摘されている。また、江戸期の記録の多くが、ニホンオオカミとヤマイヌを混同していたフシも見える。ライデン博物館に展示されているのは、どうやらニホンオオカミではなくヤマイヌらしい……というところまで解明が進んできた。
 さて、完全な肉食獣のニホンオオカミClick!は、「塩分」を好むというテーマに話をもどそう。1993年(平成5)にさきたま出版会から刊行された柳内賢治『幻のニホンオオカミ』には、次のような伝承や逸話が紹介されている。
  
 昔の農家では、縁の下に小便溜まりがしつらえてあって、そこへオオカミが深夜小便を舐めに来たという話もある。しかし、オオカミが人間の小便を舐めるようになるのは、病気のかかり始めだという説もあるから注意を要する。/またオオカミは、神社仏閣や古い民家の床下などに発生するシラネバを好んで舐めた。シラネバとは、雨期などに湿った土の上に発生する、白がかった一種の菌ののことである。/家が焼けると味噌が焦げ、特異な臭いを発する。オオカミがそれを嗅ぎつけて集まってきたという昔話もあった。(略)/同じような話であるが、信州などにおいては、夜間味噌を入れてある蔵の戸を開けることを固く禁じてていたそうである。(略)/オオカミはそれほどまでに塩を欲しがるので、塩を携帯して道中する者がねらわれた。そういう場合昔の人は、道中必ずタバコや松明など火の気のある物を所持して行くように心掛けたものである。
  
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 上記の伝承は、おそらく江戸時代からのものとみられるので、「塩分」欲しさに集まってきたのがニホンオオカミだったのか、それともヤマイヌだったのかははっきりしない。人間をそれほど怖れていないところをみると、イヌに近い種のヤマイヌなのかもしれない。なお、シラネバは粘菌Click!の一種らしいが、どうやら地域の方言名のようなので正式な名称は不明だ。
 上落合にも、ニホンオオカミまたはヤマイヌをめぐる面白い昔話が残っている。落合地域は、江戸期から各種の「講」が盛んな土地柄だった。江戸東京では代表的な富士講Click!をはじめ、三峯講、大正講(?信仰内容が不明)、成田講、善光寺講、大師講などが昭和期まで伝えられている。成田講は千葉の成田山新勝寺へ、大師講は神奈川県の川崎大師へ参詣する講中のことだ。ほかにも、江戸期には月見岡八幡Click!の境内に勧請されていた第六天Click!にちなんだ第六天講や、山頂の阿夫利社へ参詣する大山講、道中手形が比較的容易に認可されて関西旅行ができた伊勢講などがあったかもしれない。
 この中で、三峯講をめぐる興味深い話が伝わっている。三峯講とは、もちろんニホンオオカミの一大棲息地だった埼玉県秩父の三峯社に参詣する講中のことだ。1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会が刊行した、『昔ばなし』から引用してみよう。
  
 三峯講は武州三峯神社を信仰するもので「火防せ(ひぶせ)」の神さまでした。大正の終わり頃までは、講中の人は三峯詣りに行き、神社で一晩泊りました。神社で泊っていると、夜中に「山犬」が群れをなして出て来て廊下を歩き廻ったそうです。廊下にお塩を盛っておくと、ペロペロとなめて居たそうです。この講中も昭和の初めになると、普通の参拝人のようになり日帰りでお詣りをしていましたが、戦後なくなってしまいました。
  
 話者の年齢からすると、この話を古老から聞いた時期とからめて、三峯社で「山犬」が塩をペロペロとなめていたのは、明治末から大正前期あたりのことではないかと思われる。つまり、1905年(明治38年)に絶滅したとされるニホンオオカミ(またはヤマイヌ)が、その後も秩父の山奥で生き残っていた可能性が高いということだ。文中には「廊下」と書かれているが、建物の外周をめぐる回廊のような造りの“縁側”に、秩父連山に棲息していた「山犬」たちは出没していたのかもしれない。
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 人間の気配がするにもかかわらず、平然と人家に近づいている点を考慮すれば、この動物は警戒心の強いニホンオオカミとは異なる、いわゆるヤマイヌ(ライデン博物館の標本と同一種)だったものだろうか。山に入りこんだ雑食性の野犬の群れにしては、盛り塩をペロペロなめている点が異様だ。それとも、イヌが野生化するとオオカミやヤマイヌと同様に「塩分」を欲しがるものなのだろうか。三峯講は下落合にもあったので、ひょっとすると同様の昔話がどこかに残っているかもしれない。
 日本では、過去50年間にわたり確認できない動物は「絶滅」したと規定されているが、確認し写真に撮られているにもかかわらず「それとは気づかれない」まま、「絶滅」扱いされている種もありそうだ。ニホンオオカミあるいは別種であるヤマイヌとされる動物もまた、その事例のような気がしてならない。江戸期からかろうじて生き残っているヤマイヌの写真を見ても、これは「オオカミの特徴を備えていない」とニベもない学者や専門家がいたり(コヨーテやジャッカルはオオカミの特徴を備えてはいない)、ニホンオオカミの写真が撮影されても「謎のイヌ科の動物」という当たり障りのない表現のしかたで逃げ、決して“現場”へ出かけて具体的な確認・検証をしようとはしない。
 そういえば25年ぐらい前、タヌキの家族Click!が近所のあちこちにたくさん棲んでるよと、生物学が専門の知り合いに話したら、「新宿に、タヌキが棲息できる環境はない。野犬かハクビシンの見まちがいだろう」と一蹴されたのを思いだす。「そんなこといったって、現実に目の前にいるんだってば」といっても、机上の記録や理論・規定が書かれた“紙”資料を優先する彼にしてみれば、想定の外で「ありえない」ことだったのだろう。だが、それから何年もたたないうちに、東京23区内だけで1,000頭を超えるタヌキの生息が想定されるようになった。
 既存の知識や「常識」にしがみついていては、科学(自然・社会・人文科学を問わず)は一歩も前へ進まない。仮説(問題意識)とまではいかなくとも、疑義や疑念があるのなら積極的に現場へ出向いて確認・検証を試みるのが学術的あるいは科学的な手法であり、また科学者や研究者としては最低限に必要な姿勢(思想)ではないだろうか。
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 なんだか少し脱線気味だけれど、上落合の三峯講中が秩父で遭遇した塩をなめる「山犬」たちは、ニホンオオカミだったのだろうか、それともヤマイヌだったのだろうか? いまでも秩父では、ニホンオオカミまたは近似動物の目撃情報が絶えることはない。

◆写真上:狛犬の代わりに狛狼が迎える、ニホンオオカミを奉った秩父三峰の三峯社。
◆写真中上は、大分県の祖母・傾山山中で2000年(平成12)に撮影されたイヌに近似した動物。(西田智『ニホンオオカミは生きている』のグラビアより) は、チュウゴクオオカミ。は、世界に広く分布するタイリクオオカミ。
◆写真中下は、1996年(平成8)に秩父山中で撮影されたイヌに近似する動物。(同書より) は、北米大陸のコヨーテ。は、アフリカ大陸のヨコスジジャッカル。.
◆写真下は、1849年(嘉永2)制作の国芳『為朝誉十傑』(部分)に描かれた狼。は、1861年(文久元)制作の国芳『宮本武蔵相州箱根山中狼退治』(3枚綴のうちの2枚)の狼。は、1886年(明治19)制作の芳年『月百姿 北山月 藤原統秋』(部分)の狼。いずれもニホンオオカミかヤマイヌかが不明で、実物を見ずに想像で描いていると思われる。

なぜ駅名と地名は乖離したがるのか。

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 先日、駅のホームで電車を待っていたら面白い……というか、愕然とする発見をした。西武新宿線の「新井薬師駅」で電車を待ちながら、駄菓子を大人買いしたあとホーム上でぼんやりしていたときのことだった。ここの駅名は「新井薬師駅」ではなく、「新井薬師前駅」が正確な名称だったのに気がついたのだ。(爆!) 帰ってから、さっそく拙サイトの13記事25ヶ所にわたる「新井薬師駅」を、「新井薬師前駅」に訂正した。
 でも、そこで気づいたことだが、勝巳商店地所部Click!が売り出した「新井薬師駅前分譲地」Click!でも、「新井薬師前駅前分譲地」ではなく同駅は「新井薬師駅」と認識されている。そうなのだ、同駅を「新井薬師駅」と認識しているのは、わたしや昭和初期の勝巳商店地所部のみに限らない。新聞に入ってくる日々の折りこみ不動産チラシでも、「新井薬師駅徒歩12分」とか「交通至便! 新井薬師駅より徒歩わずか3分」とか、同駅を「新井薬師駅」と認識している人たちが少なからず存在することに気づく。
 駅名をめぐる、このような面白い錯覚や「あれれっ?」と思うような誤解は、落合地域周辺でも多種多様なエピソードとともに伝承されている。西武池袋線の椎名町駅が、実際に江戸期から「椎名町」Click!と通称で呼ばれていた、長崎村(町)と落合村(町)にまたがる清戸道Click!沿いの街並みから、北へ500mほどズレているのは何度かここでも触れてきた。野方村(町)の江古田(えごた)地域から東北東へ800mほど離れた位置に、西武池袋線の江古田駅がある。同駅の駅名をめぐっては高田馬場駅と同様、大正期に地元からクレームでもついたものか、中野区の江古田(えごた)地域とはいちおう関係のない練馬の江古田(えこだ)駅となっている。
 山手線の目白駅Click!も、小石川村(町)目白(台)の地名位置から西へ1.2kmほどズレている。もともとは、日本鉄道が新長谷寺Click!目白不動尊Click!にちなんでつけた駅名のようなのだが、目白不動は室町末期ないしは江戸時代最初期に、足利から同寺へ勧請したといういわれがあるので、神田上水の大洗堰Click!が施工される以前、つまり江戸期に椿山東麓へ「関口」という町名が誕生する以前から、椿山一帯Click!は「目白」と呼ばれていた可能性が高い。目白駅が設置された当時、目白坂Click!の新長谷寺(目白不動)から同駅までは、直線距離で2.2kmも離れていたことになる。当時、駅が開設された高田地域では、駅名に関して「おかしい」「反対!」「なんだそりゃ?」という声は特に記録・伝承されてはいないものの、あまりの不自然な地名ちがいに徳川義親Click!がつい「高田駅と呼ばれた」……とつぶやいたのも、無理からぬような気がするのだ。
 その「高田」つながりで、ひとつ南の山手線・高田馬場(たかだのばば)駅は、設置当初から波乱ぶくみだった。山手線の駅設置請願運動の中心にいた上戸塚+諏訪町(現・高田馬場1~4丁目界隈)の町内では、具体的な駅名を地元の地名に由来する「諏訪之森」か「上戸塚」と規定して請願を展開していた。ところが、鉄道院は1910年(明治43年)に近くの史蹟である幕府練兵場の「高田馬場(たかたのばば)」を駅名にしてしまった。そのときの様子を、1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)から、同書では異例の皮肉たっぷりな記述より引用してみよう。
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 当時新宿、目白間には停車場の設け無く、里人は専ら目白駅を利用する外に余儀なかつたが、明治四十三年九月十五日に至り、町民一致の請願と地主有志の献身的運動により、初めて開駅せられたのが、現在駅の発祥である、之より先駅名を戸塚里民は上戸塚駅と欲し、然らざる者は諏訪之森と申請して、こゝにも地方意識を暴露したが、遂に天降りて高田馬場と名づけられ、本町の存在が爾来著しくユモアー(ママ:ユーモア)さるゝに至つた。(カッコ内引用者註)
  
 確かに、上戸塚にある駅がなんで高田馬場駅なのか、意味不明で「ユモアー」だ。
 これに黙っていなかったのが、幕府の高田馬場(たかたのばば)を抱える下戸塚(現・西早稲田地域)の町内だった。同地域の「里民」たちは、鉄道院へ強力な抗議(それもかなりの)を繰り返したらしい。戸塚村民(町民)が、なんらかの運動や気に入らないことが起きると「力づく」で「手段を選ばない」のは、以前、高田町議会の大混乱Click!でもご紹介しているとおりだ。w
 戦前の『戸塚町誌』は、それでも筆をかなり抑えて書いているが、1970年代から地元の町会や古老などに取材して、その伝承などをていねいに書きとめている芳賀善次郎は、1983年(昭和48)に山交社から出版された『新宿の散歩道―その歴史を訪ねて―』では、次のように書きとめている。
  
 この時戸塚町民(ママ)は駅名を「上戸塚」または「諏訪森」(ママ)と要望したが、国鉄(ママ:鉄道院)は「高田馬場」とした。それをきいた戸塚一丁目(現・西早稲田地域のこと)の住民は、馬場跡から遠く離れたこの駅にその名がつくと、馬場跡が駅の近くにあるように間違われるからと猛反対運動を起した。困った鉄道省(ママ:鉄道院)は、窮余の一策、戸塚一丁目の方は「タカタノババ」だが、この駅名は「タカダノババ」だと言いのがれをしてけりがついたという話が残っている。/山手線で、駅所在地名を駅名としないのはここだけである。(カッコ内引用者註)
  
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 江古田(えこだ)駅もそうだが、高田馬場(たかだのばば)駅も開設当時は地名・地域とはなんの関係もない(とされる)、“架空”の名称のClick!だったことがわかる。鉄道院の担当者は、まさか説明会場の鉄道院席へ踊りこんだ下戸塚の議員ないしは住民から殴り倒され、のちの町議会のような流血騒ぎになってはいないだろうが、相当きつい猛抗議(つるし上げ)を喰ったであろうことは想像にかたくない。
 芳賀善次郎は、「駅所在地名を駅名としないのはここだけ」と書いているけれど、実は「目白」と目白駅のケースでも見たとおり、山手線の駅名はそのほとんどが所在地の本来地名と駅名とがまったく一致していない。高田馬場駅のひとつ南の新大久保駅も、当初はその地名どおりの「百人町停車場」とされて地図にまで駅名が記載・印刷されていたが、のちに「新大久保停車場」と改められた。いちばん近い本来の西大久保地域からでさえ、駅まで700m以上は離れている。
 さらに南の淀橋町角筈にある新宿(しんじゅく)駅も、実際の地名では存在しない駅名だ。旧・四谷区には「新宿(しんしゅく)」の地名はあったが、内藤新宿(しんしゅく)に由来するとこじつけても、江戸期に賑わった甲州街道の内藤新宿の西端である四谷大木戸から、約1.5kmも西へ離れた位置に開設されている。新宿駅は、当初より“新駅の名称”とされていたので、それほど混乱もなくスムーズに受け入れられたようだ。
 いまや、駅名に引きずられて地名変更Click!をしてしまった事例は、下落合の中井駅Click!や高田馬場駅などを例にとるまでもなく、都内のあちこちに存在している。これにより、地域の歴史や風土、史蹟・事蹟、伝統・伝承、人々の物語など広い意味での地域文化が朦朧とモヤモヤ曖昧化し、ひいては営々と培われてきた街々のアイデンティティが東京から棄損され失われていくのは、なんとも惜しくまた切ないことだ。
 近々、高輪に設置される山手線の新駅は、その地名どおりに「高輪駅」になるはずだった。ところが、「高輪ゲートウェイ駅」というわけのわからない駅名になったと聞いている。ICT用語では、GW(ゲートウェイ)ないしはCGW(コネクティッド・ゲートウェイ)は頻繁につかわれる用語だが、なんとなく「現代風」で「グローバル感」があり、「未来志向」で「カッコいい」からという理由で採用したのだろうか? 山手線のネットワーク以外に、いったいどことどこをつなげる“手順”からGWなのだろう?
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 田町駅と品川駅の間にポツンと設置された同駅は、GWはおろかノードにもネットワークスイッチにも、ルータにも、ハブにさえなってやしないじゃないか。ちゃんと、用語の意味を理解して命名しているのだろうか? 「高輪ゲートウェイ駅」などと名づけても、利用者からは「高輪駅」としか呼ばれないのが、いまから目に見えるようだ。

◆写真上「マジですか」Click!と絶句してしまった、新井薬師前駅のネームプレート。
◆写真中上は、新聞の不動産チラシでは当たり前のように使われている「新井薬師駅」。は、1914年(大正3)の大久保町市街図にみる設置当初の「百人町停車場」。は、戦後に目白不動が遷座した金乗院の境内に残る鍔塚Click!。茎櫃が小さく小柄櫃に笄櫃を備えた、大刀用ないしは太刀用の丸鍔(彫りは雲龍か)だったのが判明した。
◆写真中下は、1935年(昭和10)撮影の目白貨物駅に停車する6789機関車。は、1954年(昭和29)に撮影された目白駅を通過中の貨物列車を牽引するD51。は、停車場が設置される直前の1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図。.
◆写真下は、1968年(昭和43)撮影の高田馬場駅で、駅前広場の位置に見える家々は諏訪町の街並み。は、1985年(昭和60)に撮影された高田馬場駅。
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