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佐伯は落合第一小学校の校舎を描いている。

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佐伯祐三「白い壁の家」1926頃.jpg
 少し前に佐伯祐三Click!『セメントの坪(ヘイ)』Click!の画面下層にある、画家自身のアトリエを描いたとみられる、1926年(大正15)の8月以前に制作された『わしのアトリエ(仮)』Click!をご紹介した。同作は、「下落合風景」シリーズの第1作かもしれないのだが、実はほかにも疑わしい画面がいくつかある。
 その画面は、佐伯祐三のアトリエからわずか西へ100mほど、道路わきに大谷石蓋による共同溝が設置された第三文化村Click!の街角から、排煙する目白通りに近い菊の湯Click!の煙突を遠景に描いた、めずらしく空が晴れわたった『下落合風景』Click!だ。2005年(平成17)に練馬区立美術館で開催された「佐伯祐三―芸術家への道―」展では、『白い壁の家(下落合風景)』という追題がふられた作品だ。同作は個人蔵のため、展覧会に出品されることはきわめてめずらしい。画集では、1968年(昭和43)に講談社から刊行された『佐伯祐三全画集』のみに収録されている。
 『下落合風景(白い壁の家)』は、佐伯が1926年(大正15)の秋に書き残した「制作メモ」Click!の、いずれの作品にも該当しない。同作のキャンバスは45.8×61.2(12号P)で、「制作メモ」の画面サイズがいずれも一致しないのと、東京中央気象台の記録による快晴の日に描かれた「制作メモ」のタイトルと、同作の画面内容ともまったく合致していない。すなわち、同作に描かれた樹々(特にケヤキの変色)や道端の草が茶色く枯れている様子から、同年の晩秋あたりの作品ではないかと想定している。
 さて、同作の画面を眺めた方は、すぐ上部の広いスペースへ描かれた空の部分に違和感をおぼえるのではないだろうか。空の下半分が、なにやら別の色合いでモヤモヤしており、空の右側にもなにかを塗りつぶしたような、幅の広いハケの跡が明らかに見てとれる。しかも、空の下のモヤモヤは、上からブルーの絵の具を重ねてははいるが薄塗りで、どうやらグリーン系の絵の具で描かれたとみられる、なんらかのフォルムが透けて見える。同作の画面を高精細スキャニングして、さまざまな角度から仔細に観察すると、そこには思いがけないかたちが浮かびあがってくる。
 徐々に見えてくるのは、奥(右手)に向かってパースのきいた、細長いがかなり大きな建物だ。右へいくにしたがって細くなる、長い屋根と思われるかたちの下部には、窓の桟がタテヨコにたくさんついた窓枠が、奥に向かって幅をせばめながら連なっているように見える。画面をそのまま素直に観察すれば、その建物の途中には、なにやらタテにまっすぐ四角ばった煙突のような突起物があるようだ。そして、その突起物の向こう側(右手)には、再び桟枠の多い大きめな窓が奥へと連なっているように見える。
 描かれたのが1926年(大正15)だとすれば、これに合致する建築の風景は下落合でたった1ヶ所しか存在しない。しかも、佐伯はもう少しあとの時期に、この建物のある南側の斜面から西側を向き、雪が降ったあとににぎわう目白文化村の“スキー場”Click!、すなわち『雪景色』Click!(1927年ごろ)を描いている。佐伯は、工事が進む建設中だった落合第一小学校(以下 落一小学校)の新校舎、すなわち建設の真っ最中だった同校の西側ウィングの校舎を、いまだ建設されていない講堂(体育館)の側から描いている可能性が高い。
落一小校舎A.jpg
落一小校舎B.jpg
落合第一小学校1933.jpg
 落一小学校の新校舎+講堂は、佐伯が二度めのフランスへと旅立ってしまったあと、1927年(昭和2)10月に竣工しているが、同校では関東大震災Click!の直後から急増しつづける生徒への対応と、各地へ散らばった仮校舎での不便な学習環境を少しでも早く解消するために、教室の入る校舎の建設を最優先していた。したがって、学校全体が完成するのは1927年(昭和2)10月だが、それ以前から建設を終えた新校舎へ順次生徒を入れはじめ、授業を行っていたと考えられる。そして、工事の最終フェーズに残されたのが、校庭の南側に位置する講堂だった。
 佐伯が、『白い壁の家』の下層に眠る画面を描いているのが1926年(大正15)と想定できるのは、1927年(昭和2)になると講堂の基礎工事がはじまり、佐伯の描画ポイントには立てないから、すなわちイーゼルを立てて眺められた風景が講堂の建設でふさがれてしまうからだ。この講堂の基礎工事は、おそらく1927年(昭和2)の早い時期にスタートしているとみられ、同年の春(おそらく5月)に描かれた松下春雄Click!『下落合風景』Click!では、1階部分のコンクリート支柱がようやくできあがっているのを見てとることができる。したがって、佐伯が落一小学校の新しい西ウィング校舎を描けたのは、1926年(大正15)の年内だと思われるのだ。
 なお、講堂の南側にかよう前谷戸(不動谷)Click!へと下る斜面を大きく崖状に削り、講堂下にプールが造成されるのは、1936年(昭和11)7月になってからのことだ。目白文化村を中心とした、地元の自治組織「廿日会」が資金を募り、同小学校へ子どもたちが喜ぶプールを寄贈している。
 ところで、『白い壁の家』は先述のように、かなり秋の深まりを感じさせる画面であり、1926年(大正15)9月15日から10月23日までの「制作メモ」の記録からは季節的にも、キャンバスのサイズ的にも外れる作品だ。したがって、それ以前に制作していた作品を塗りつぶし、改めて『白い壁の家』を制作しているとすれば、「制作メモ」に記されたタイトルのキャンバスを再利用している可能性がある。
落一小校舎C.jpg
落一小校舎D.jpg
落一小1950年代1.jpg
落一小1950年代2.jpg
 そのような観点から「制作メモ」を見直すと、同年10月12日に『小学生』というタイトルがあることに気づく。第二文化村の益満邸のテニスコートを描いた『テニス』Click!(10月11日)、落一小学校の生徒を描いたとみられる『小学生』(10月12日)、落一小学校のすぐ西側、第一文化村の南に隣接した宇田川邸の敷地一帯を描いた『風のある日』Click!(10月13日)、第二文化村の水道タンクを描いた『タンク』Click!(10月14日)、そして第二文化村の外れにあたる三間道路を描いた『アビラ村の道』Click!(10月15日)と、落一小学校から第二文化村までの道沿いを5日間連続して描いていた時期だ。距離にすれば、落一小学校から第二文化村の外れまで、わずか500mにすぎない。ほぼ同じ道沿いを描きつづけた一連のタイトルの中で、仕上がりが気に入らなかった『小学生』(10月12日)をつぶして、『白い壁の家』を描いてはいないだろうか。
 『小学生』は15号のキャンバスサイズだが、小さめな木枠(12号P相当)に張りなおして用いているのかもしれない。そう考えると、佐伯の画面にしては上部に描かれている空の幅があまりに狭すぎてバランスが悪いのも、なんとなく説明がつきそうな気がするのだ。もし、『白い壁の家』の下に塗りこめられてしまった画面が、10月12日制作の『小学生』だったとすれば、新築の校舎や蒼々と繁った生け垣あるいは樹木の緑を背景に、すでに新校舎で授業を受けていた落一小学校の生徒たちを手前にとらえて描いているのだろう。つまり、『白い壁の家』のコンクリート塀がまぶしい第三文化村の新海邸や、いかにも文化村っぽい風情の加藤邸、あるいはその前の二間道路には、講堂の建設が間近に迫った空き地で遊ぶ小学生が、何人か塗りつぶされている可能性がある。
 さらに、こんな推測も成り立つ。10月12日に制作した『小学生』は、当初、落合第一小学校の教師をしていた隣家の青柳辰代Click!へプレゼントする予定であり約束だった。ところが、その仕上がりがまったく気に入らなかった佐伯は、急きょ前日の12月11日に描いていた『テニス』を贈ったのではないだろうか。その後、同作は佐伯の頒布会でも売られずアトリエに放置され、しばらくたったあと上から『下落合風景(白い壁の家)』が描かれている……、そんな感触が強くするのだ。
 『白い壁の家』は現存しているので、ぜひ実際の画面を細かく観察してみたいものだ。2005年(平成17)の「佐伯祐三―芸術家への道―」展で、わたしは実際に同作を目にしているはずだが、画面の下層にまで当時は意識がまわらなかった。
下落合文化村192705頃.jpg
落合第一小学校19290524.jpg
佐伯の足跡1936.jpg
佐伯の描画ポイント1947.jpg
 同作の“下絵”にも名前がないと引用に困るので、『あのな~、メンタイClick!がいつか通う尋常小学校な~、隣りん青柳の奥さんから新築工事中や聞いとったさかい、いっぺん見といたろ思て出かけたらな~、おっちゃん絵描きなん? うちの父ちゃんも絵描きやねんで~ゆう面白(おもろ)くてなれこい、けったいな小学生がおったんでな~、つい写生してしもたわ。……って、なんで東京山手の小学生が大阪弁しゃべっとんねん!……そやねん。(仮)』では長すぎるので、いちおう『小学生(仮)』としておきたい。w

◆写真上:1926年(大正15)ごろに制作された、佐伯祐三『下落合風景(白い壁の家)』。
◆写真中上は、同作の空の部分に確認できる下層に描かれていたとみられる建物の形状。は、1932年(昭和7)撮影の新築なった落合第一小学校。
◆写真中下は、空の部分の拡大と確認できるタテ線とヨコ線が交叉した描線。は、1950年代に撮影された落合第一小学校の旧・木造校舎。
◆写真下は、1927年(昭和2)5月ごろに描かれた松下春雄『下落合風景』。落一小を西側(箱根土地不動園)から見た風景で、講堂1階部のコンクリート支柱ができあがりつつある。中上は、松下春雄が1929年(昭和4)5月24日に描画ポイントから撮影した落一小学校の校舎と講堂。(左手) 中下は、1926年(大正15)の10月11日から15日まで佐伯がたどった足跡と『下落合風景』の描画ポイント。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる佐伯祐三の『小学生(仮)』と『雪景色』(1927年ごろ)の描画ポイント。

中村彝と「巣鴨の神様」山田つる。(上)

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至誠殿跡.JPG
 以前、中村彝Click!の結核治療にからめて、巫女の系譜と思われる「巣鴨の神様」Click!や、関東地方に多い三峰社の御師Click!、あるいは御嶽社Click!とみられる修験者のことを書いたことがある。その記事に対し、「今日も日暮里富士見坂」さんClick!からごていねいなリプライをいただき、中村彝に関する主要著作のほとんどが、「巣鴨の神様」=山田つると「池袋の神様」=岸本可賀美とを混同している旨、ご教示をいただいた。
 確かに、古い著作では中村彝『藝術の無限感』(岩波書店/1926年:重版以降の記述か?)そのものをはじめ、小熊虎之助Click!の『心霊現象の科学』(芙蓉書房/1974年版・元版:新光社/1924年)、米倉守『中村彝―運命の図像―』(日動出版/1983年)、鈴木秀枝『中村彝』(木耳社/1989年)、あるいは鈴木良三Click!による著作など、中村彝に関するほとんどの書籍で、のちに「巣鴨の神様」=山田つるは逮捕され、祈祷に使われた水晶玉(神水如意宝珠)はラムネのビー玉だったことが判明した……というようなことが書かれているが、これは1916年(大正5)12月12日に東京監獄へ収監された「池袋の神様」=岸本可賀美のことであって、「巣鴨の神様」=山田つるのことではない。
 しかも、中村彝の多くの年譜では、彝が「巣鴨の神様」のもとへ出かけたのは、1917年(大正6)の春(3月ごろ)となっており、「池袋の神様」こと岸本可賀美が逮捕され水晶玉(如意宝珠)がラムネのビー玉だと暴露されたのが、前年の1916年(大正5)12月なので、これでは逮捕され収監中であり、東京地裁で公判中の「池袋の神様」のもとへ、中村彝は結核の平癒祈祷ため東京監獄へ面会しに出かけたことになってしまう。
 中村彝が岡崎キイClick!の勧めで、結核の奇蹟的な治癒を祈念しに出かけたのは、北豊島郡巣鴨村(大字)巣鴨(字)庚申塚660番地(1918年より西巣鴨町)にあった「至誠殿」の山田つる(巣鴨の神様)のもとであって、山田つるは「池袋の神様」こと岸本可賀美とはなんら関連がないし逮捕されてもいない。中村彝が、山田つるのもとへ出かけたころの様子を、身近にいた鈴木良三の証言から引用してみよう。1977年(昭和52)に中央公論美術出版から刊行された、鈴木良三『中村彝の周辺』より。
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 落合は方角が悪いといって、一時雑司ヶ谷の方へ引越させたのもキイの昔堅気(ママ:昔気質)の押しの強さからだし、落合へ帰ってから直ぐアトリエに風呂桶をすえ、杉っ葉を沢山つめて水を満し、日中まだ肌寒いのに彝さんを水浴させ、傍らのふとんに寝かせるという荒療治を実行させたりしたのも、迷信ばかりではないようで、せっかく訪ねて来た客に面会謝絶を喰わせても、変な行者や、神がかりの祈祷者は案外容易に受け入れてあやしげなまじないをさせたのも、キイの強引なすすめに従わせたためであった。/彝さんにとっては病気が治るためならと思ってキイに従ったのであろうが、他から見ると馬鹿馬鹿しい限りであった。
  
 小熊虎之助の証言、あるいは梶山公平『夭折の画家 中村彝』(学陽書房/1988年)で抜粋された引用文によれば、「巣鴨の神様と称する巫女の所へ精神療法を受けに行ったこともあった」と書いてあるので、わざわざ目白駅から山手線に乗って大塚駅で降り、敷設されたばかりの王子電車(現・都電荒川線)に乗り換えて、巣鴨庚申塚の「至誠殿」まで出かけているのだろう。おそらく、岡崎キイが付き添っていったと思われる。
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 「巣鴨の神様」こと山田つるが、忽然と巣鴨庚申塚にあった明治女学校の跡地に出現したのは、明治末ないしは大正の初めごろのことだ。山田つるが、神託を伝える巫女として仕えていたのは、富士山麓の須走で偶然に見つけたといわれる、出雲神のオオクニヌシ(大黒天)像だった。彼女は、それを「至誠殿」と名づけた社に奉っては、さまざまな「神通力」や「奇蹟」、「千里眼」などの能力を発揮している。
 特に不治の病を治す力に長けていて、東京はおろか関東各地から「患者」を集めては祈祷によって治療していたらしい。そのせいか、数年もたつころには山田つるを師と仰ぐ弟子が、3,000人を数えるまでになったといわれている。当時の様子を、1916年(大正5)9月27日に発行された、東京朝日新聞の朝刊から引用してみよう。
  
 文士連巣鴨の神様信心
 神様と云ふのは鉱山師の女房で御神体は金と縁のない大黒様
 大塚の電車終点から五六町行つた巣鴨庚申塚に不思議なものが現れて迷信に凝り固まつた善男善女を集め繁盛比類無い有様である、近くにはあの気狂病院がある為かも知れないが、一体あの辺は妙な処で、先年「無我の愛」の一団がお籠りした苦行堂もたしかあの界隈にあつた、これは丁度その近くで「巣鴨の神様」と云へば巣鴨界隈で知らぬ人はない、躄や聾やめつかちなどが其御利益に依つて癒して貰はうものと日夜門前市を為す盛況である▼神様は鉱山師山田勝太郎の妻鶴子(四十二)と云ふ一寸垢抜けのした女 当人は口を緘して前身の秘密を語らないが、何れは水商売をして来たそれしやの果らしい、当人の話に依ると二三年前の一夜神託があつて東海道の或る田舎から捜し出して来たといふ大黒天の像を座敷内の神殿に祀つて、至誠殿と名付けて居る、鶴子は日夜其礼拝に余念なく、気が向かねば一間に引籠つたきりで幾日も夫にさへ顔を合せないが如何にして神通力を得たものか、それからといふもの透視もすれば躄も癒す、一寸した病人を癒した話などは腐る程あるらしい
  
 巣鴨庚申塚660番地にあった「至誠殿」は、1909年(明治42)に閉校した明治女学校の敷地西側、明治末から大正初期にかけて同女学校の運動場跡の一画とみられる地所を開発したらしい、新興住宅地の中にあった。
 1909年(明治43)年に作成された1/10,000地形図には、いまだ明治女学校が採取されているが、王子電車の軌道と庚申塚電停は描かれていない。1916年(大正4)作成の同地図になると、王子電車が描かれて周辺の宅地化が進んでいるのが見てとれる。ただし、巣鴨庚申塚660番地界隈の様子はそれほど変わっているようには見えない。あたりには明治女学校の跡地である原っぱが拡がり、その中にポツンと山田夫妻宅、つまり「至誠殿」を含む建物があったことになる。
 山田宅の様子について、1916年(大正5)6月10日発行の読売新聞朝刊に、記者の訪問記が掲載されているので引用してみよう。ちなみに、同記事では祭神をアマテラスと誤記しているが、同年の9月10日の同紙記事で「大国主(オオクニヌシ)」と訂正している。出雲系と新たな伊勢系の神をとりちがえるとは、日本の神に対する基礎知識が訪問記者に欠如していたとしか思えないが、その点を含みおいて参照いただきたい。
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 奇蹟を行ふ婦人/巣鴨至誠殿の神様として知られる
 如何なる難病も根治する、又、どんな深刻な煩悶も立ち処に解決する、そればかりでなく此世にあり得べからざる奇蹟をも示すといふ一婦人が現れたがその指導を受けてゐる人々のなかでは沼波瓊音、野上八重子(ママ:野上弥生子)、広瀬哲士等の文士諸氏のほか真面目に熱烈に人生問題に就て苦しんで居る多くの△知名の人があり、近々幸田露伴氏も来らんといふ事であります、大教主と仰がるゝ此婦人は如何なる人で如何なる事を説くのであらうかと巣鴨庚申塚に訪れました。至誠殿は?と聞くと「あゝあの神様の家ですか」と教へて呉れる、広い野原を前にした洋館の主人、山田勝太郎氏夫人鶴子(三十六)さんがその人です。洋館に続いた日本造の建物が加持をする処である、正面には天照皇大神(ママ)を恭しく祭り人々はその前の広間に正座し、夫人に姿勢などを直して貰つてゐるが、丁度岡田式静座と同様に躰を震動させて居りました。
  
 東京朝日新聞と読売新聞とでは、山田つるの年齢が6つもちがっているが、「神様」なので自在に年もとれば若返りもできたのかもしれない。w
 中村彝が下落合にアトリエを建設して、谷中初音町3丁目12番地から下落合464番地へ転居してきたのは1916年(大正5)8月20日、そして身のまわりの世話を焼く岡崎キイ(当時58歳)がアトリエに入ったのが8月末だった。したがって、彼女は同年9月10日の読売新聞、ないしは9月27日の東京朝日新聞に掲載された「巣鴨の神様」の記事をアトリエで読んで、急に彝を巣鴨庚申塚の「至誠殿」へと連れだしているのではないだろうか。
 この時期、中村彝は宮崎モデル紹介所Click!から通ってきていた「お島」Click!をモデルに、ほぼ全身像の『裸体』(40号)を仕上げている。だが、サイズの大きなキャンバスに向かい無理をしたせいか、9月の下旬に入ると喀血がつづき、10月になると寝こむことが多くなった。そのせいで、志賀潔医師が実施していたワクチン療法にも通えなくなるほど体力を消耗している。この病状の悪化には、無理を押して電車に乗り、巣鴨庚申塚へと外出した疲労も重なっているのかもしれない。
 そして、同年の12月12日に「池袋の神様」こと、巣鴨村(大字)池袋(字)中原に住んでいた岸本可賀美が逮捕されている。すなわち、その収監記事を読んだ中村彝自身か岡崎キイ、あるいは彝の身近にいた誰かが「巣鴨村」の文字のみに目をとめて、「巣鴨の神様」が逮捕されたと誤読し、先の岸本可賀美がらみで暴露されたラムネのビー玉の話へとつなげている可能性が高い。
 ・北豊島郡巣鴨村(大字)巣鴨(字)庚申塚 至誠殿の「巣鴨の神様」こと山田つる
 ・北豊島郡巣鴨村(大字)池袋(字)中原 天然教社の「池袋の神様」こと岸本可賀美
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明治女学校跡.JPG
 「至誠殿」の山田つること「巣鴨の神様」はその後も“健在”で、1921年(大正10)に実業之日本社から発行された「婦人世界」1月号に収録の石橋臥波『女神様列伝』でも、天理教の中山みきや大本教の出口なほなどと並び、彼女の現況も紹介されている。次回は、山田つるが「神がかり」になった経緯や、さまざまな「奇蹟」の詳細をご紹介したい。
                              <つづく>

◆写真上:明治女学校跡の一画にあたる、山田つるの「至誠殿」があった巣鴨庚申塚660番地あたりの現状。右寄りに見えている石碑は、「明治女学校之址」の記念碑。
◆写真中上は、2003年(平成15)開催の『中村彝の全貌』展図録の年譜より、山田つると岸本可賀美を混同している記述。「巣鴨の神様」は、祈祷に水晶玉(ビー玉)は使っていないし逮捕されてもいない。『藝術の無限感』P450から引用とあるが、初版および第5版の同書では確認できない。は、明治女学校の校舎。は、1909年(明治42)と1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる明治女学校と巣鴨庚申塚660番地の位置関係。
◆写真中下は、下落合に竣工したばかりの中村彝アトリエの前庭で、イスに座る岡崎キイと後列中央の中村彝。中村彝の隣りは、中原悌二郎(左)と長谷部英一(右)。は、1916年(大正5)9月27日発行の東京朝日新聞に掲載された「巣鴨の神様」記事。は、1916年(大正5)6月10日発行の読売新聞に掲載された「巣鴨の神様」記事。
◆写真下は、1916年(大正5)8月制作の宮崎モデル紹介所の馴染みモデル“お島”を描いた中村彝『裸体』。は、広大だった明治女学校跡地の現状。

中村彝と「巣鴨の神様」山田つる。(下)

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至誠殿への道.JPG
 山田つるClick!が、どのようにして「神通力」にめざめたのかは、実際に目撃した第三者がいないので委細は不明だが、夫の山田勝太郎によれば、医者も見離した難病に苦しめられ病臥を繰り返していた中、突然「神霊」のお告げを受けて、「身を清めてから死にたい」と夫に別れを告げたころからはじまる。医者から、余命わずかといわれたのがショックだったのか、半ば自暴自棄のような精神状態でもあったようだ。
 1918年(大正7)に太卜出版から刊行された竹齋山人『仙神伝授魔法神通力』によれば、山田つるは「深山の神霊」へ病気平癒を祈願するために、真冬の雪が降り積もった「霊山」(社殿が奉られた北国の山のようだが、どこの山かは特定していない)へ登り、道に迷って危うく遭難しかかる。崖地の雪庇を踏みぬいて渓谷へ転落し、雪解けがはじまった渓流に全身が浸かってしまい、濡れねずみになって意識を失ったまま凍死しかかるが、もともと生命を捨てて自暴自棄になりながら冬山に登っているので、意識をとりもどすと再び山頂の社殿めざして歩きはじめた。
 すると、しばらくしてどこからか「再攀せば安全なる道を発見すべし」という声が響きわたり、その声を頼りに上っていくと、やがて頂上にある社殿にたどり着いた。以来、彼女は「自己心神の統一」ができるようになり、物体の「透視」や「千里眼」の能力を備えるようになった……ということらしい。明らかに、体温が急速に奪われる冬山の遭難時に起きがちな、幻視幻聴症状の一種だと思われるが、下山して巣鴨庚申塚にもどってきたときは、すでに「神がかり」になっていて、端からは異様に見える言動をするようになっていたという。以降毎日、夜に水垢離をつづけていると自身の病気も快方に向かい、しだいに「神通力」を発揮するようになったということらしい。
 山田つるのもとには、大勢の弟子たちが集まったが、その中には著名人たちも多く含まれていた。どこか岡田虎二郎Click!による「静坐会」Click!の活動にも似ているが、その様子を1916年(大正5)9月27日の東京朝日新聞より引用してみよう。
  
 此神様の弟子三千人とは話半分に聞いても大した者(ママ)だが、周囲に四五人の使徒のような高弟があつて、其下ツ葉の弟子連の中には小山内薫、生田長江、沼波瓊音、栗原古城、広瀬哲士、阿部秀助、山田耕作、諸口十九などの人々がある、いづれも神様を礼拝する時は感極まつて踊り出す、其姿の珍妙な事は話にならない、岡田三郎助君も此程小山内君に勧められて神様を拝みに行き聾を癒して貰つたといふ▼中にも沼波君の熱心は大したもので今は雑誌の方も潰せば一切の生活の道を犠牲にして朝から晩まで神様の家に入り浸りの姿である、此間福来博士が沼波君を訪れると夕立が来た 「傘を持つて来なかつた」と博士が心配するのを沼波君は「お帰りになる時雨を晴らせて上げます」と云つたが、果して博士が帰りかけると、雨はカラリと上つたと当人の自慢話、それから先頃電燈料を払はないかして電線を切られた、すると「アンナ物はなくとも点火して見せる」と云つてそれ以来神通力で電燈を点けて居るといふ話もある
  
 「ほっといても、雨はいつか降ったり止んだりするだろ!」とか、「おまえは電気ウナギみたいなやつだな!」とか、ヤマダClick!のようなツッコミを不用意に入れてはいけない。本人たちは、いたって大マジメなのだ。
仙神伝授魔法神通力1918.jpg 仙神伝授魔法神通力1918山田つる.jpg
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 記事に書かれている小山内薫Click!は、「事故物件」や「化け物屋敷」ばかりを引き当てて転居を繰り返していたが、もともと「心霊(神霊)現象」には興味があったのだろう。また、福来博士とは目白にやってきた超能力者・御船千鶴子Click!の記事で登場している、東京帝大の福来友吉Click!のことだ。
 小山内薫は、1916年(大正5)6月3日から、帝劇で新劇場の初回公演を行っているが客がほとんど集まらず、どうやら“拝み”の「巣鴨の神様」頼みになっていたらしい。当時の小山内薫の様子と、「巣鴨の神様」への奉納劇について、1961年(昭和36)に青蛙房から出版された戸板康二『対談日本新劇史』より引用してみよう。インタビューに答えているのは、当時は新劇の俳優で映画監督もこなした田中栄三だ。
  
 それから間もなく七月になりまして、暑い日でしたが巣鴨の神様の至誠殿に一周年記念のお祭りがありました。富士の裾野の方に神様の本体をたずねて、みんなが御幣を持って行ったんです。御幣が風になびく方向に行ったら、須走の百姓家の庭にある物置の中へ導かれた。その物置の中に大黒様が八体あったんで、それを頂いて帰って来た。その時の仮装をして一周年のお祭りをしたわけですね。芝居や踊りを奉納するというわけで、小山内先生のおやじで、私の客、諸口の娘で、チェーホフの『犬』(結婚申込)をやったんですよ。(中略) 小山内先生も隠し芸の「夕ぐれ」を踊りましたよ。(中略) そのころ新劇場は失敗してお金がないころなんで、小山内先生もちっともお金がないんですよ。玄関の畳の下をあけたら五十銭銀貨が出来たから巣鴨の神様へ行こう、という時代でした。昼間至誠殿でやった小山内先生の講話の時には「何事もあなた任せの年の暮」の句を引いていろいろ話をしていられました。
  
 貧乏な演劇青年、しかも日本に入ってきて間もない新劇をめざしていた青年たちが、まったく集客できずに「巣鴨の神様」頼みだった当時の様子がわかって面白い。このとき演じられたのは、チェーホフの『犬』のほかスティーブンスンの『失踪商人(ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件)』だったという。
 「至誠殿」に集合していた画家や作家、演劇人、歌人などの様子を見ると、岡田虎二郎が主宰する「静坐会」に凝っていた相馬黒光(良)Click!の、新宿中村屋Click!のとある時代を見ているようだ。36歳か42歳か年齢が不詳の、ちょっと垢抜けて艶っぽかったらしい山田つるは、その「神通力」や「千里眼」「透視」の能力はともかく、多くの人を惹きつけ集めることができる魅力は備えていたようだ。
 もともと山田家は資産があって裕福だったらしく、山田つるは「神通力」を使いながら貧しい病人は無償で「治療」したり、「千里眼」を使って失せモノや未来を「透視」してやったりしていたのも、多くの人々から信用された要因らしい。病気の「治療」法とは、病人を正座させ意識を集中させてから御幣を振りかざして祈祷を加えるというようなもので、電車賃や俥代が払えない貧者には俥をかってタダで「往診」までしていた。
婦人世界192101.jpg 戸塚康二「対談日本新劇史」1961.jpg
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 おそらく、中村彝Click!も「至誠殿」の床に座らせられ、山田つるが唱える祈祷の言霊を聞きながら、御幣の祓いを受けていたのだろうが、結核菌を殺す「治療」が無償だったかどうかまではさたがでない。貧しい小山内薫ら演劇青年たちは、おそらく無償で……というか、「至誠殿」で「巣鴨の神様」から食事をふるまわれるなど、持ちだしで面倒をみてもらっていたようだ。
 弟子のひとりで、電気ウナギのように自家発電ができるらしい省エネでエコな沼波瓊音は、読売新聞の記者に「仕て始めて感得されるので語るものでない、末世と悲しんだ此世にかやうな光明をなげられ人生至高の境に行く路の開かれたるを喜ぶ」(1916年6月10日朝刊)と語り、また東京朝日新聞の記者には「太陽もけさうと思へば必ず消せる」(1916年9月27日朝刊)などと語っているので、どうやら山田つるの能力は修行を重ねれば弟子たちにも相伝するらしい。
 だが、天理教の中山みきや大本教の出口なほが、その後、大きな教団として成長していった……というか、事業戦略としてのマーケティングやプロモーションが上手で、組織を大規模化していった「女神」たちに比べ、「巣鴨の神様」こと山田つるは、あくまでも個人による私的な「治療」や「施術」の域を出ず、また夫の山田勝太郎とはのちに別居して巣鴨から田端へ転居してしまったため、「教団」としてのまとまりや組織化ができないうちに、彼女のブームは下火になってしまったように見える。
 「巣鴨の神様」が、田端へ転居しているのが興味高い。彼女が主柱にすえていたのはオオクニヌシ(=オオナムチ=大黒天)であり、同神は「北辰」、すなわち北極星あるいは北斗七星の象徴でもあるからだ。先の「今⽇も⽇暮⾥富⼠⾒坂」さんClick!によれば、転居先は大正末の電話帳で北豊島郡瀧野川町田端171番地(現・田端3丁目)ということだが、この位置は千代田城の天守跡からほぼ正確に真北の方角にあたる。おそらく田端でも、彼女は細々と「神通力」を発揮しつづけていたのではないかと思われるが、それから「田端の神様」が出現することはなかった。
 また、巣鴨庚申塚660番地の「至誠殿」があったとみられる跡地には、1927年(昭和2)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」を参照すると、「星道会」という宗教団体らしい名称の本部が置かれている。これが、大正期の後半から昭和初期にかけ山田勝太郎が主宰していた「巣鴨の神様」の、のちの姿ではないか……と想像がふくらむ。
 「至誠殿」跡の取材では、地元で生まれ育った庚申塚大日堂(山田夫妻宅に隣接)の方に、山田つるや「至誠殿」のことをうかがってみたが、大正末の「星道会」も含めてすでにご存じではなかった。庚申塚の地元では、「巣鴨の神様」の山田つるも「星道会」の建物も、戦争前後には早々に忘れ去られたようだ。
西巣鴨町東部事情明細図1927.jpg
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 1916年(大正5)の夏、東京各地ではコレラが大流行していた。山田つるのもとへは、コレラの患者も訪れたらしく、コレラ菌を殺す祈祷なども行われていたようだ。結核よりもはるかに症状が激烈な、体内のコレラ菌を殺せて快癒させられるなら、中村彝の体内に巣くう結核菌などたちどころに殺せるのではないか……と、江戸の「コロリ」時代の安政期生まれだった岡崎キイが考えたとしても、無理からぬことだったかもしれない。
                                <了>

◆写真上:「至誠殿」があったとみられる場所へ向かう、大正時代からつづく道。中村彝も岡崎キイに連れられて、この道を「至誠殿」まで歩いたのだろう。
◆写真中上は、1918年(大正7)に出版された竹齋山人『仙神伝授魔法神通力』(太卜出版)と山田つるの解説ページ。は、熱心な「巣鴨の神様」信者だった小山内薫()と、山田つるに難聴を治してもらった岡田三郎助()。
◆写真中下上左は、1921年(大正10)発行の「婦人世界」1月号に掲載された石橋臥波『女神様列伝』。ちなみに「巣鴨の神様」は巫女であり、ときに不治の患者や下層階級を慰める「女神」だが、逮捕された「池袋の神様」こと岸本加賀美は占い師であり男性だ。上右は、「至誠殿」についての証言が語られた1961年(昭和36)出版の戸塚康二『対談日本新劇史』(早川書房版)。は、奉納新劇や奉納踊りの様子を伝える1916年(大正5)9月10日発行の読売新聞。は、「至誠殿」周囲の現状。
◆写真下は、1927年(昭和2)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」に掲載された「星道会本部」(星道会館)。なお、赤い点線で囲んだ鳥居マークは庚申塚大日堂(寺院)で「卍」マークが正しい。は、アトリエのテラスに座る岡崎キイと病臥する中村彝。

下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(5)

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曾宮一念「落合風景」1921.jpg
 大正中期の落合地域を描いた絵画作品は、本格的な宅地開発が行われる以前の風景Click!なので、描画場所の特定がきわめてむずかしい。描かれているモチーフは、田畑や耕地整理を待つ原っぱ(空き地)、農家、森林、ポツンポツンと建ちはじめた郊外住宅などで、現代につながる目標物がほとんど存在しないからだ。
 また、目白崖線の丘上を描いた風景だったりすると、平坦な地面が多いため地形的な特徴もつかみにくく、どこを描いたのかがさらにわからなくなる。田畑のままで、宅地化を前提とした耕地整理がなされていないと、農作業に使われた畦道や農道がそのまま描かれており、現代につづく道筋の形状が未整備のため、場所を想定することが非常に困難になる。それでも、小島善太郎Click!『下落合風景(仮)』Click!のように、特徴的な地形や明治以前からの街道筋を描いていれば、現代からでもピンとくる場所を想起できるが、単に草原や森林を描いただけでは見当もつかない。
 冒頭の画面は、1921年(大正10)に曾宮一念Click!が描いた『落合風景』だが、どこを描いたのかがよくわからない作品だ。同年の4月、曾宮一念は念願のアトリエClick!下落合623番地Click!に建てて、淀橋町柏木128番地Click!から引っ越してきているので、同作は転居早々に描かれたことになる。前年の暮れに描かれた『落合風景』Click!(1920年)のように、特徴的な建物(メーヤー館Click!)がモチーフに入っていればすぐに描画ポイントを特定することができるが、道もなにもない草原と樹々をとらえただけの画面では、手がかりがつかみにくくわからない。画面のような風景は、当時の下落合ではあちこちで見られただろう。
 なんだか画面上に雪か、植物の綿帽子が降りそそいでいるような表現が描かれているけれど、木々の枝葉が紅葉しかかっているので秋の落ち葉だろうか?(あるいは油彩画面に付着したカビの跡だろうか) 画面を左右に横ぎる並木のような樹木の下には、細い小径が通っていそうな風情だ。画面中央のやや右手に描かれている赤いフォルムは、紅葉した樹木なのか西洋館の屋根なのかが、茫洋とした表現でいまひとつハッキリしない。陽射しの具合から、どうやら手前、つまり画家の背後が南のようだ。
 当時の下落合は、目白駅の近くと目白通り(清戸道Click!)沿いの江戸期から発達した「椎名町」Click!を除き、草地や畑地が拡がる家々がまばらな光景だった。だから、家々が描かれているとすればかなり絞りこめるのだが、もし中央右手に表現されている赤いフォルムが建物の屋根だとすれば、当時の曾宮一念の生活やアトリエ周辺の環境を考慮すると、1ヶ所だけ思いあたる描画場所がある。それは、落合遊園地Click!(のち東邦電力による近衛新町Click!宅地開発Click!林泉園Click!と命名)の谷戸をはさみ、南から北を向いてサクラ並木が繁る道筋の中村彝アトリエClick!を描いたものではないだろうか。
曾宮一念「落合風景」1921想定.jpg
落合遊園地1923.jpg
曾宮一念「落合風景」1936.jpg
 手前の樹木3本の向こう側には、やや草原のスペースがあるように見えるが、その先には窪地(小さな谷戸)があると想定しても、あながち不自然な描写には感じられない。濃いグリーンに塗られた樹木は、落合遊園地(林泉園)の谷戸に生えている樹木の上部であり、崖地の影になっている部分が濃く塗られている……とも解釈できる表現だ。そして、その向こう側に明るい色で描かれた樹木が、谷戸の北側に通う小径のサクラ並木だと解釈することができそうだ。
 『落合風景』の描画ポイントを規定するとすれば、落合遊園地(林泉園)南側の下落合387番地にあたる草原から、谷戸をはさんで5年前に建てられた中村彝アトリエを含む、下落合463~465番地界隈をとらえているように見える。当時の1/10,000地形図を確認すると、谷戸に面したこの一画にはわずか3棟の家しか採取されていない。下落合464番地の中村彝アトリエと、画面の右手にあたる下落合463番地に建てられていた2棟の住宅(1棟は物置小屋?)だ。ただし、画面では手前右側の樹木にさえぎられて、下落合463番地に建っていた2棟の屋根は見えない。
 『落合風景』の描画ポイントとみられる位置、すなわち下落合387番地の一画に立とうとしても、現在は住宅が建ち並ぶ真ん中なので不可能だ。また、同ポイントからは家々の屋根が視界をさえぎり、中村彝アトリエを見とおすこともできない。同作が制作された当時の地図、あるいは古い空中写真から画面の情景を想像してみるしかなさそうだ。
中村彝アトリエ屋根.JPG
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曾宮一念1923.jpg
 もう1点、1920年(大正9)に制作された曾宮一念『風景』という作品がある。いかにも、本格的な宅地開発が進む前の東京郊外という風情だが、同年に曾宮はいまだ下落合に転居してきていない。したがって、転居前に住んでいた淀橋町柏木128番地(現・西新宿8丁目)の借家周辺で見られた風景なのかもしれない。
 落葉した樹木の様子や、ススキのように背丈の高い枯れた草叢が描かれており、おそらく同年の晩秋から冬にかけて制作されたものだろう。西日と思われる黄色い陽射しと、描かれた家々が並ぶ屋根の主棟の向きから推測すると、やはり画家の背後が南側のようだ。右手には、右へとカーブする道が描かれており、畑地の向こう側に建てられた住宅群の左手は、地形がやや下がっているように見える。また、右端には長い生垣と屋敷林がつづいているので、その内側には大きな農家か屋敷が建っていそうだ。
 1920年(大正9)現在の下落合で、このような地形や道筋、さらに家々の配置をわたしは知らない。ひょっとすると、曾宮一念は自身のアトリエを建設する予定地を下見にきて、その周辺の風景を描いているのか?……とも想像したが、道筋や家々の配置、地形などが微妙に異なり一致する場所が見つからない。あるいは、聖母坂の建設で消えてしまった住宅街の一画だろうか?
 当時の淀橋町柏木もまた、畑地が残るこのような風景が随所に拡がっていただろう。新宿駅と山手線をはさみ、大正中期に東口は急速に拓けていったが、西側は街道沿いや淀橋浄水場Click!の周辺を除き農地や空き地、雑木林などが散在する風情のままだった。曾宮一念が一時的に住んでいた柏木128番地は、中央線の大久保駅に近い位置であり、当時はまだあちこちに田畑が残るような風景だったろう。
曾宮一念「風景」1920.jpg
下落合東部1918.jpg
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 東京西部の郊外、山手線の西側一帯に拓けた多くの街々は、関東大震災Click!から少しあとの時代、大正末から昭和初期にかけて、それぞれの街がもつ特色が少しずつ形成されはじめている。したがって、それ以前の風景は東京市の近郊に拡がる農村風景で、どこも似たり寄ったりの風情をしていた。1920年(大正9)前後に曾宮一念が写した風景は、急速に変貌をとげる直前の、過渡的な東京近郊の様子を的確にとらえ表現している。

◆写真上:下落合に転居早々の、1921年(大正10)に描かれた曾宮一念『落合風景』。
◆写真中上は、『落合風景』に描かれている風景やモチーフの推定。は、1923年(大正12)に作成された1/10,000地形図にみる推定描画ポイント。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる描画ポイント。
◆写真中下は、中村彝アトリエの赤い屋根だが建設当初はもう少しオレンジに近い赤だったろうか。は、『落合風景』が描かれた描画ポイントあたりの現状。中村彝アトリエは、突きあたりにある谷戸の向こう側やや右手のサクラ並木沿いに建っている。は、1923年(大正12)に下落合のアトリエで撮影された曾宮一念。
◆写真下は、下落合の描画場所に心あたりがない1920年(大正9)制作の曾宮一念『風景』。は、田畑や草原、森林、などが随所に拡がる1918年(大正7)現在の下落合東部。は、昭和初期に撮影されたとみられる野外写生中の曾宮一念。

第一文化村の梶野邸を拝見する。(上)

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 目白文化村Click!には、販売当初と今日とでは各文化村エリアのとらえ方が異なる、面白い現象がみられる。1922年(大正11)に販売された「目白文化村」エリア(いまだ第一文化村とは表現されていない)と、1923年(大正12)に販売がスタートした「第二文化村」エリアとの間に、今日的に見るなら大きなズレや齟齬が存在しているのだ。きょうは、これまでややこしいし不明なので取りあげずにきた、各文化村のエリア規定の変遷について、わたしの勝手な想像もまじえながら書いてみたい。
 すなわち、第二文化村の開発・販売をスタートした1923年(大正12)の時点で、箱根土地Click!はすでに販売済みの「目白文化村」エリアのことを初めて「第一文化村」と呼称するようになったのだろう。今回、ご紹介する第一文化村の梶野龍三邸の敷地、すなわち下落合(4丁目)1605番地は、1923年(大正12)の時点では当初「第二文化村」として販売されている。ところが現在、文化村弁天(厳島社)の斜向かいにある同邸の敷地を、地元では誰も「第二文化村」などとは呼ばない。第一文化村の中心地に位置する、「第二文化村へと抜ける」南北のセンター通り沿いのエリアなのだ。
 梶野邸はもちろん、1923年(大正12)に販売されたさらに西側のエリア、渡辺邸Click!井門邸Click!のあるエリアもまた第一文化村であり、今日の地元では誰も「第二文化村」とは呼ばない。また、1923年(大正12)の夏に大量の土砂が運びこまれ新たに開発・販売されている、箱根土地本社ビルClick!の西側に隣接した前谷戸の埋め立て造成地Click!もまた、いまでは第一文化村エリアであり、お住まいの方々も含めて誰も「第二文化村」ではなく、第一文化村と認識している。
 目白文化村にお住まいの方はもちろん、下落合にお住まいの方々なら想像がつくと思われるのだが……、そうなのだ、1922年(大正11)に販売された「目白文化村」(第一文化村とは呼称していない)のみを、「第一文化村」と規定してしまったら、同村にはわずか37棟(神谷邸Click!は敷地をふたつ購入しているので実質は36棟)しか住宅がないことになってしまう。逆に、「第二文化村」として販売されたエリアの住宅を、すべてそのまま第二文化村と呼称しつづけたとすれば、100棟を超える住宅が「第二文化村」となってしまい、販売時期から規定すれば当初の第一文化村(1922年現在)を、「第二文化村」(1923年現在)の家々が包囲するようなレイアウトになってしまう。
 つまり、どこかの時点で「目白文化村」(=第一文化村/1922年現在)と「第二文化村」(1923年現在)の開発名あるいは販売時の名称を再度とらえ直し、改めて各文化村の境界を規定しなおすプロセスがあったとみられるのだ。それは、ディベロッパーである箱根土地が、本社を国立へ移転する1925年(大正14)のタイミングで行なったものか、昭和期に入ると目につくようになる、目白文化村ならではの邸番号Click!をふったころに再構成された境界意識(エリア感覚)なのか、あるいは地元の自治会や購買組合、あるいは1940年(昭和15)前後に防空のために結成された防護団Click!などが実施した、昭和期に入ってからのエリア規定か、さらには戦災で両村の多くが焼けてしまった戦後のことなのかは不明だけれど、少なくとも戦前からお住まいの方の中にも、今日と同様のエリア分けをされる方がいらっしゃるので、「第一文化村」と「第二文化村」とのエリア規定の変遷は、少なくとも戦前からはじまっていたとみるのが妥当だろう。
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 また、「第二文化村」のみの具体的で明確な箱根土地による分譲地割り図を確認できないことも、第一文化村と第二文化村との“境界”を曖昧にする要因のひとつになっているのかもしれない。先の「目白文化村」(1922年販売)をはじめ、「第三文化村」(1924年販売)および「第四文化村」(1925年販売)のみの明確な分譲地割り図は存在している。だが今日、『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』(住宅総合研究財団/1989年)などで、「第二文化村分譲地地割図」として公開されている図面には、1922年(大正11)に販売された当初の「目白文化村」(あと追いで「第一文化村」と呼称することになる)、および前谷戸を埋め立て新たに造成された箱根土地本社の西側に隣接する埋立地が含まれており、その境界が明確化されておらずに曖昧だ。
 今日では第一文化村エリアの梶野龍三邸は、販売とほぼ同時に敷地を購入し、1926年(大正15)の春には、すでに車庫つきの邸が竣工している。1923年(大正12)の販売時点での梶野邸敷地は、当初「第二文化村」として販売されていたのだ。1926年(大正15)に実業之日本社から発行された、「婦人世界」5月号に掲載の『住宅の新しい試み』から引用してみよう。
  
 梶野龍三氏の住宅
 氏は東京市芝区南佐久間町に開業せられて居る医師であります。写真は市街目白第二文化村の氏の住宅であります。この住宅は氏が自ら試みられた設計通り建てられたものであります。只今までの住宅は多くはお客本位の住宅であつた事を遺憾とせられて、本当の家族本位の住宅を建てられたのであります。
  
 取材を受けた梶野龍三自身は、おそらく箱根土地による「第二文化村分譲地販売」というフレーズを受け、自身の邸敷地について「第二文化村の土地を買った」と認識していた様子がわかる。だが、梶野龍三はわずか数年で転居してしまい(昭和初期の大恐慌の影響だろうか?)、昭和に入ってからすぐに内務省社会局事務官の桜井安右衛門が、築数年の梶野邸を解体し新たに自邸を建てて引っ越してくる。彼が自身の邸敷地を、「第二文化村」だと認識していたかどうかはさだかでない。
 また、1991年(平成3)に日本評論社から出版された『目白文化村』のコラム欄では、数学者の小平邦彦がインタビューに答え、「大正一四年九月、小学生の時に第二文化村に越してきました」と答えているのが興味深い。小平邸は、神谷邸Click!から西へ2軒め隣り、南北のセンター通り(三間道路)をはさんだ梶野邸のすぐ斜向かいにあたる、同じ下落合1605番地の邸だ。すなわち、大正時代に土地を箱根土地から直接購入した住民は、当初、自邸のエリアを「第二文化村」だと認識していた様子がわかる。
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 それが、先述したなんらかのきっかけ(エリア分けの理由)を契機に、初期の目白文化村(1922年現在)の範囲とされていた第一文化村が「拡大」し、前谷戸を埋め立てて1923年(大正12)の夏に販売がスタートしている新たな造成地(第二文化村分譲地または第一文化村追加分譲地のどちらかは不明)と同様の感覚で、同エリアが第一文化村の「追加分譲地」的な認識に変化していったのではないだろうか。
 そしてもうひとつ、ついに買収に応じることなく、強引な土地収用をつづける箱根土地とは最後まで対立Click!しつづけた、初期の第一文化村の南に拡がる宇田川邸の敷地の存在も、どこかで大きく影響しているのかもしれない。宇田川様Click!の敷地一帯の北側を東西に横切るのが、初期第一文化村の南辺の境界線であり、この境界線をそのまま西へ延ばしてセンター通りを越え、オバケ道Click!のカーブに沿って目白文化村を南北に分ければ、箱根土地に残る分譲資料や初期の住民証言とはまったく別に、ほぼ現在の地元で認識されている第一文化村と第二文化村のエリア概念に合致するからだ。目白文化村の開発全体がフィックスしたのち、改めて南北を分けるこの“宇田川ライン”に着目した住民、あるいは地元の組織や団体はなかっただろうか。
 さらに、箱根土地の社宅建設予定地とされていた、第二文化村の北側に拡がる広い空き地、すなわち第二文化村の水道タンクClick!があった北側の下落合1650番地(のち下落合4丁目1647番地)一帯が、昭和期に入ると第二文化村の追加分譲地として販売される。そこへは、目白文化村でも最大級の邸宅だった安本邸や水野邸などが建設されているが(戦後は下落合教会・下落合みどり幼稚園Click!)、この販売事例により第二文化村は目白文化村の“南側”という心象が強く形成されたのかもしれない。そして同時に、第一文化村は目白文化村の“北側一帯”という印象を、さらに高めたのかもしれない。
 さて、梶野邸の南側にある庭園の隅には、大正期の文化村としてもめずらしい自家用車の車庫が設置されており、梶野医師は南佐久間町(現・西新橋1丁目)の医院までクルマで出勤していたとみられる。当時の住宅の建て方としては、地面からの湿気を避けるために舗装されていない道路面から、住宅敷地を大谷石やコンクリートの縁石を設け、できるだけカサ上げして造成するのが一般的だった。したがって、戦後ならともかく道路面と水平に設置されている車庫はめずらしい光景だ。
梶野邸1926.jpg
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 梶野龍三邸には、訪問客を前提とした応接間あるいは客間が存在していない。なによりも家族や子どもたちの快適な居住性を優先して追求した設計は、遠藤新建築創作所Click!の仕事による下落合806番地の小林邸Click!へと通じる、現代住宅とほとんど変わらない設計コンセプトなのだが、その詳細については、また次につづく物語で……。
                               <つづく>

◆写真上:1926年(大正15)春に撮影された、竣工間もない梶野龍三邸の東側壁面。
◆写真中上は、1922年(大正11)に作成された最初期の「目白文化村分譲地地割図」で、第一文化村の呼称は存在していない。(『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』より) は、第二文化村分譲時期の1923年(大正12)の夏に埋め立てられた箱根土地西側の前谷戸部。は、埋立造成地の現状と前谷戸の谷間へと下りる西端の階段。
◆写真中下は、1923年(大正12)作成の「第二文化村分譲地地割図」だが、初期の第一文化村および前谷戸の埋立分譲地も描きこまれているため境界規定がない。(同上より) は、1936年(昭和11)の空中写真を用いた今日の目白文化村概念。は、南から北を写したセンター通り(三間道路)で、梶野邸は突きあたりの左手にあった。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる梶野邸。は、1936年(昭和11)の写真にみる桜井邸(元・梶野邸)。建物の形状が変わっており、『落合町誌』(1932年)にはすでに桜井安右衛門が収録されているため、梶野邸は竣工から数年で解体されたとみられる。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる桜井邸。

第一文化村の梶野邸を拝見する。(下)

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梶野龍三邸1926.jpg
 梶野邸を設計したのは、目白文化村Click!でも事例が多い住民自身、すなわち末高邸Click!と同様に梶野龍三自身だが、そのコンセプトは明快だ。1926年(大正15)に実業之日本社から発行された「婦人世界」5月号より、つづけて引用してみよう。
  
 小学校の二人のお子さんと梶野氏夫妻と、それに女中一人のほんとうの家族的なお宅で、別に応接間と云ふやうなものもなく、お居間が応接室を兼ねると云つた風になつて居ります。氏は全然建築には素人でありますが、なかなか専門家以上に建築に関する識見をお持ちになつて居りますので、いろいろと新しい試みが取りいれられ、ほんとうに気持のよい住宅であります。
  
 冒頭の写真は、梶野邸を南北のセンター通りを間にはさみ、東側の空き地から撮影した同邸の全体像だ。手前の空き地の左隣り、すなわち南側には前回の記事Click!にも登場していた数学者の小平邦彦邸(1925年築)が建っている。ちなみに、手前の空き地は現在も駐車場になっていて住宅が建っていないが、わたしの学生時代はまったく逆で、梶野邸跡の敷地がずっと空き地のままだった記憶がある。
 梶野邸の左(南)隣りには、下見板張りの洋風建築らしい渡辺邸が見えているが、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には記載がないことから、おそらく同年の春にはいまだ建築中で転居前だったとみられる。梶野邸と同様に、この新築だった渡辺邸もまた昭和期に入ると、なぜかすぐに解体され新たに小木原(?)邸が建設されている。
 写真の左端に写る車庫の前には、梶野龍三が所有するクルマのヘッドランプや前輪、ボンネット部が見えているが、このクルマが停められている通りが目白文化村の南北を走るセンター通り(三間道路)だ。もちろん、市街地の道路のような舗装はされておらず、大雨が降れば一面ぬかるんでクルマの走行はもちろん(タイヤがスリップして泥沼から抜けだせない事例が多かっただろう)、人々が通行するのもたいへんだった。ずいぶん以前に、佐々木邦の『文化村の喜劇』で描かれる、雨の日の「発クツ調査」Click!をご紹介しているが、近衛町Click!相馬閏二邸Click!アビラ村Click!林唯一アトリエClick!には、泥だらけになった靴を洗うために、玄関ポーチへ専用の靴洗い場を設置していたケースもあるほどだ。つづけて、同誌の『住宅の新しき試み』より引用してみよう。
  
 目白文化村はいろいろの点から云つて東京近郊の田園都市として最も理想的な所であります。種々の様式の文化住宅が立ち並んで居りますが、その中に梶野氏の住宅は一異彩を放つて居ります。何の様式にも囚はれない自由な氏の設計が面白いではありませんか。氏は自動車の愛用者で自ら運転もし、写真のやうに左方に車庫も設けられてあります。
  
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 さて、梶野邸の玄関を入ると、1階には床面にコルクを張りフランス風の出窓を備えた居間(8畳サイズ)がある。居間は南に面しており、その隣りがカーテンで仕切られた子供部屋(6畳サイズ)になっている。子供部屋は、寄木細工の床を採用したやはり洋間で、子どもたちが広く遊べるよう必要に応じてカーテンの開け閉めをしていた。来客のときは、境界にあるカーテンを閉めて子供部屋を隠すしかけになっている。
 また、子供部屋の南側には広めのサンルームが設置されていて、陽当たりがよく暖かな室内には鉢植えの観葉植物などが置かれていた。下落合に建てられた文化住宅にサンルームが多いのは、空気が澄んだ郊外生活をすることで、病気にかかりにくい体質や体力を獲得すること、すなわち健康増進が一大テーマだったからだ。大正の中期、東京の市街地における結核患者数Click!は10万人をゆうに超えていた。日本の人口6千万人のうち、統計で判明しているだけでも2%が結核に罹患している時代だった。
 梶野邸の2階は、1階とは正反対に畳を敷いた日本間なのだが、建物の窓や壁は洋風のままなので、洋間に畳を敷いて並べている疑似「日本間」だったようだ。いわば、体育館に柔道用の畳を並べたような趣きだったらしい。特に、カーテンの下がった洋風の窓が日本間らしくないので、窓際に各部屋へ通う廊下を設置して日本間と窓辺をへだて、障子か襖を立てれば洋風の窓が隠れるような設計をしている。それでも洋風の意匠は消えないので、あくまでも日本間の気分が味わえる空間という趣向だったようだ。
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 「婦人世界」に掲載された梶野邸の紹介は、あと洗面所とトイレのみとなっている。特に同誌の記者が注目したのは、トイレや洗面所が当時の一般的な住宅には見られないほど、明るくて開放的だったからだ。同誌から、つづけて引用してみよう。
  
 便所。正面の細長い小窓は、夜間開放してあつても盗賊が侵入する事が出来ないやうに小さく作つたもので、臭気を防ぐ為めに開放的になつて居ります。そしてその窓の硝子は赫い銅色の硝子で、降雨や曇天でも常に太陽の光りが射しているやうな感じを与へます。
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 最先端の文化村といえども、すべての住宅が浄化槽を備えた水洗トイレだったわけではなく、昔ながらの汲みとり便所のお宅も併存していた。だから、臭いを逃がす空気抜きや換気扇Click!(当時は換気用電気扇風機と呼ばれていた)など、臭気を消すためのさまざまな工夫がなされている。梶野邸は、トイレや洗面所を住宅の陽が当たらない片隅につくるのではなく、日光がとどき換気のいい場所に設置しているのが新しい。
 梶野邸の外壁や、各部屋の内壁が何色をしていたのかは、特に記載がないので不明だ。建物の1階外壁は、下見板張りのようなのでモノクロ写真の濃い色から推定すると、焦げ茶色(あるいはクレオソートClick!塗布色)にホワイトの窓枠だったと思われるが、2階の東側外壁に塗られた明るい色がわからない。クリームかベージュ、あるいは卵色の薄い黄味がかったペンキで塗られていると美しいだろうか。屋根は、瓦が葺かれているようには見えず、おそらくスレート葺きだろう。上記のカラーリングからすると、しぶいオレンジかモスグリーンの屋根が似合いそうだ。
 内壁は、1階の洋間と2階の日本間とでは、色味が異なっていたようだ。おそらく壁紙を貼っているのだろう、1階はやや明るめの壁紙で、2階は濃いめのやや落ち着いた色合いの壁紙を採用しているのだろう。トイレと洗面所にも、腰高の白いタイル張りの上に濃い色の壁紙、またはペンキが塗られているようだ。
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 先述したように、1926年(大正15)に竣工した梶野龍三邸は、それからわずか数年ののちに解体され、1932年(昭和7)にはすでに桜井安右衛門が同敷地に新邸を建てて住んでいた。昭和の最初期、ちょうど金融恐慌や大恐慌をはさんで住民がめまぐるしく入れ替わり、建てたばかりの邸が壊されているケースは目白文化村に限らず、目白駅に近い近衛町Click!に建っていた小林盈一邸Click!の事例でも見ることができる。
                                   <了>

◆写真上:1926年(大正15)発行の、「婦人世界」5月号に掲載された梶野龍三邸全景。
◆写真中上は、1925年(大正14)現在の「目白文化村分譲地地割図」(第一・第二文化村)にみる梶野龍三邸。は、梶野邸跡の現状。は、梶野邸に設置された車庫と大正期の自家用車。当時は人気が高かった、米国のT型フォードだろうか。
◆写真中下は、梶野邸1階の居間(左側)と子供部屋(右側)で奥がサンルーム。が、同邸2階の日本間から見た廊下。は、同邸の手洗い所と便所。
◆写真下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された梶野邸跡に建つ桜井邸。は、1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲の8日前に偵察機F13Click!から撮影された桜井邸とその周辺。第二府営住宅と第一文化村北部は罹災しているように見えるが、桜井邸の周辺は焼け残っている。このあと、5月25日夜半の空襲で炎上しているのだろう。は、戦後の1947年(昭和)に撮影された桜井邸とその周辺。

ラムネ玉宝珠の「池袋の神様」岸本可賀美。

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 中村彝Click!へ結核治癒の祈祷を行なった、「至誠殿」の「巣鴨の神様」こと山田つるClick!と混同されたのが、詐欺で収監・起訴された「天然教」の「池袋の神様」こと岸本可賀美だ。山田つるは、オオクニヌシ(大黒天)の神託を伝え、おもに病気を治す「神通力」を発揮する巫女すなわち女性なのに対し、名前からしてまぎらわしいのだが岸本可賀美は「千里眼」を駆使する占い師であり男だった。
 「池袋の神様」こと岸本可賀美は、「透視」を行なう占い用の水晶玉「神水如意宝珠」(実はラムネのビー玉)を用いて、さまざまなものを発見する超能力者で、池袋駅の西側、東京府の豊島師範学校Click!に隣接した敷地に「神苑神殿」を成立して佐田彦大神(別名サルタヒコ)を祀り、失せ物探しや金塊・宝物の隠し場所、鉱脈の有無などを占って当てるのがメインの“仕事”だった。したがって、岡崎キイClick!が中村彝の結核平癒を願って連れていったのは、ほぼまちがいなく「巣鴨の神様」=山田つるのほうであって、同じ北豊島郡巣鴨村に居住していた「池袋の神様」=岸本可賀美のほうではないだろう。
 中村彝の伝記では、いつしかこのふたりが混同されて記述されるようになり、「巣鴨の神様」(女性)に祈祷してもらっているにもかかわらず、いつの間にか詐欺で捕まり「神水如意宝珠」がラムネ玉だったことが暴露された、「池袋の神様」(男性)の顛末で終わるようになってしまった。つまり、「巣鴨の神様」=山田つるのいかがわしさを強調するために(実際いかがわしいのだがw)、さらにうさん臭い「池袋の神様」=岸本可賀美のエピソードを“接ぎ木”して、山田つるを貶めるエピソードとして架空の物語を創作してしまった……ということなのだろう。この創作を行なったのが誰かはハッキリと規定できないが、中村彝が存命中の1924年(大正13)9月に新光社から出版された、『心霊現象の科学』の著者・小熊虎之助Click!あたりがいちばん怪しいだろうか?
 「池袋の神様」こと岸本可賀美は1916年(大正5)12月12日の午後、詐欺(騙取)の容疑で逮捕され東京監獄に収監されている。そのときの様子を、1916年(大正5)12月13日に発行された読売新聞の記事から引用してみよう。
  
 神様収監さる/池袋伏魔殿の主
 茨城県結城の城址に一億万円(ママ)の金塊ありとの神託を得たりとて 深川区佐賀町熊倉良助に多額の出資を為さしめたるを始めとし 神託を以て世人を迷はし巨額の金を騙取したる府下豊多摩郡高田村池袋(ママ)天然社々長岸本可賀美(四八)は 東京地方裁判所に於て小幡検事の係にて取調中のところ 十二日午後八時三輪予審判事の令状を以て東京監獄に収監されたり
  
 記者は、池袋地域の所在地を「豊多摩郡高田村池袋」などとしているが、もちろん北豊島郡巣鴨村(大字)池袋(字)中原(のち西巣鴨町池袋)の誤りだ。「巣鴨の神様」こと山田つるの記事(誤・伊勢神道のアマテラス→正・出雲神道のオオクニヌシ)でも気になったけれど、読売新聞は“ウラ取り”や校正が甘いのか、誤報や事実誤認の記事が多い。
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 同記事は、常陸の結城城の城跡に多額の金塊が眠っているのを、岸本可賀美が水晶玉(神水如意宝珠)を用いて「透視」をした結果、深川佐賀町の米穀問屋・熊倉良助をはじめ、日本橋区弥生町の諸田清次郎、芝区芝口の古着屋商・須崎すゞ、神田区神保町の古川きんなどから「天然教」の活動費のための多額の資金を募り、総額約15万円(現在の価値で約4億6千万円)を騙取したために検挙されたことを伝えたものだ。ほどなく、「神水如意宝珠」がラムネ玉(ビー玉)であったことが東京帝大の地質学教室による鑑定で判明し、「池袋の神様」こと岸本可賀美は東京地裁へ起訴された。
 池袋駅西口の豊島師範学校近くにあった、岸本可賀美の「天然教社」(神苑神殿)には一般の信者ばかりでなく、華族や政治家たちも多く出入りして占ってもらったらしく、中でも子爵・水野直(貴族院議員)の入れこみようは半端ではなかったようだ。そのため、岸本可賀美の逮捕・起訴は政界スキャンダルがらみでも取りあげられ、当時の新聞や雑誌の紙誌面をにぎわせている。特に水野直は、熱狂的に「池袋の神様」を信奉したせいか、周囲からは精神に異常をきたしたと思われ、宮内大臣が「天然教」の「神苑神殿」を調査する騒ぎにまで発展している。
 1923年(大正12)12月7日発行の、東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 (水野直は)仍つて例の天然教社に帰依し其の教主岸本可賀美なるものの処へ日参したものだ、此の天然教なるものは今日の大本教なぞと同巧異曲の一般世間からは一種の邪教視されて居たもので、其の教理はどんなものであつたか知らぬが、当時我が帝都に外国から飛行機の闖来する事を予言し盛んに国民の愛国的精神を説いて居たものである。水野はすつかり之に這入つて了つて、当時の内閣総理大臣大隈重信や陸海軍大臣などの処へ出掛けて真面目になつて天然教社の御先棒を勤めたものである。◇之れが為め水野は気が狂れたのではないかと親友等が心配し結局天然教の如何なるものかを確かめに、時の宮内大臣波多野敬直が態々天然教社を見に行つた始末、其の結果天然教は一邪教に過ぎぬと云ふ結論に達し以後断然水野に近寄らせぬ事にした、斯くて水野は慰安を求めた宗教にも失敗したので其の後学習院長との衝突を表向きの理由として遂に議員をも辞職し鎌倉の別邸に隠遁するに至つた。(カッコ内引用者註)
  
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 「天然教」の内実を、宮内大臣がわざわざ確認しに出かけているのも、いまだ官僚主義的で硬直化した政府に変質していない、大正初期の匂いを強く感じるエピソードだが、いったい水野直は行政内でどのような言動を繰り返していたのだろう。
 「池袋の神様」こと岸本可賀美は、約15万円の巨額を騙取した起訴事実に対し、東京地裁の法廷でどのような弁明をしていたのだろうか。1917年(大正6)7月16日に開かれた弁護側による被告人質問を参照すると、すべて信者がみずから進んで財産や家屋を「天然教」へ寄進・寄贈したのであって、自分から寄付を要求したことは一度もない……と答えている。この日の公判では、弁護人が新たな被告側の証人として岸一太医学博士と秋山海軍少将、それに寄付者のひとりで元信者の諸田清次郎を申請しているが、諸田のみの証人尋問が許可されただけで、ほかの承認申請は却下されている。
 岸本可賀美の弁明は、この手の新興宗教をめぐるトラブルではごくありがちなものだが、ついでに「神苑神殿」を訪れた“有名人”をあえて証人として指名し、自身の権威づけとともに、いわず語らず「なにをしゃべるかわからねえぞ」という、「天然教」に関わった人々への無言の圧力を加えているようにも見える。ついでに、「神水如意宝珠」がラムネのビー玉だったことについて、彼は「知らなかった」と答えている。岸本可賀美は、4人もの弁護士を雇って「無罪」をめざしたが、騙取の目的は明らかだとして懲役6年の実刑判決を受けている。
 告発者のひとり、深川佐賀町の米穀問屋・熊倉良助は茨城県の結城に出かけ、実際に人夫を雇って「池袋の神様」のお告げどおり結城城址を掘り返している。現地に着いた彼は、金塊の発掘を前に、結城の町民へ紅白の餅を大量に配って景気づけをしたが、掘れども掘れどもなにも出てこなかった。この“被害事件”は、「埋蔵金塊」に目がくらんだカネの亡者が、エセ宗教でボロもうけをたくらんだカネの亡者を訴えた、どっちもどっちのようなケースのようにも見える。
 その後、「池袋の神様」こと岸本可賀美をめぐる「天然教」や、「神苑神殿」あるいは「神水如意宝珠」といったワードは、すっかりマスコミから姿を消しているので、おそらく岸本が逮捕された時点で「天然教」は解散、「神苑神殿」も解体(被害者たちへの賠償がらみだったかもしれない)されているのだろう。
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 1926年(昭和元)12月に作成された「西巣鴨町西部事情明細図」を見ると、池袋駅西口の府立豊島師範学校の近辺には、もはや「天然教社」のネームを見つけることはできない。ただし、同師範学校のすぐ西側には、「岸本」姓の住宅が何軒か採取されている。

◆写真上:池袋駅西口の豊島師範学校の跡地で、同校に近接して「池袋の神様」こと岸本可賀美の「天然教社」および「神苑神殿」があった。
◆写真中上は、1924年(大正13)に出版された小熊虎之助『心霊現象の科学』(新光社/)と1974年(昭和49)に出た新版の同書(芙蓉書房/)。は、明らかに「巣鴨の神様」こと山田つると「池袋の神様」こと岸本加賀美を混同している記述。これがもとで、その後に出版された中村彝関連のほぼすべての資料が誤っていくのだろう。は、1916年(大正5)12月13日発行の岸本可賀美の逮捕を伝える読売新聞。
◆写真中下は、1917年(大正6)7月17日に発行された東京地裁での公判の様子を伝える読売新聞記事。は、明治末に池袋停車場の西側へ開校した東京府立豊島師範学校。は、昭和初期にほぼ同じ位置から撮影された豊島師範学校(奥)。
◆写真下は、1926年(昭和元)作成の「西巣鴨町西部事情明細図」に採取された豊島師範学校とその周辺。は、「天然教」にのめりこんでいた貴族院議員(当時)の水野直()と、同教の実態を調査した宮内大臣(当時)の波多野敬直()。は、「天然教」と貴族院との政界スキャンダルを総括する1923年(大正12)12月7日発行の東京朝日新聞。

「塔ノ部屋」から矢田津世子への手紙。

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 1936年(昭和11)3月1日、東京では4日前に降った大雪があちこちの日陰に残っていた。前日の2月29日(同年はうるう年)までつづいた陸軍皇道派Click!のクーデター、いわゆる二二六事件Click!はあらかた終息していたが、東京の街角にはあわただし気な落ち着かない暗い空気が、そのまま居座ったように残っていた。この日、本郷の菊富士ホテルClick!に男がひとり転居してきている。坂口安吾だ。
 帝大生だった友人の記憶によれば、坂口安吾は大八車Click!かリヤカーに布団や本、着るものなどを積んで菊富士ホテルの前につけた。そして、めずらしく空き室になっていた50番室、つまり屋上の「塔ノ部屋」と呼ばれた眺めのいいペントハウスもどきの、実は同ホテルではもっとも貧弱な部屋に、友人に手伝ってもらいながら荷物を運びあげている。この塔ノ部屋について、近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(講談社)から引用してみよう。
  
 塔の部屋は正式には五十番と呼ばれていた。大正三年建築された新館三階の、さらに上に聳える物見の部屋で、特別狭い階段を上っていく。これを西側の台から遠く眺めると、地下も含め四階建の本館上に塔のようにそびえて見えるところから、塔の部屋といつか呼びならわされてきた。/この部屋は、南と東に大小とりまぜて四つの西洋窓があり、三畳ほどの広さの板の間につづいて、およそ四畳ほどの押し入れがついているという、変った構造だった。その板の間には粗末なじゅうたんがしいてあり、鉄製ベッドと机と椅子が置かれてあり、もうそれだけで部屋はいっぱいになってしまっていた。五尺七寸の身長を持つ安吾には、ずいぶんきゅうくつな広さであっただろう。
  
 坂口安吾が菊富士ホテルへやってくる5年前、1931年(昭和6)の秋、下落合1470番地の第三文化村Click!に建っていた目白会館Click!に住む矢田津世子Click!は、時事新報社(のち中外商業新報社に転職)の記者をしていた和田日出吉とつき合いはじめている。兄の矢田不二郎に反抗するため、彼女はわざと既婚の和田とこれみよがしに交際していたようだ。翌1932年(昭和7)になると、転勤先だった名古屋から兄・不二郎と母親が東京へもどり、3人は下落合4丁目1986番地(現・中井2丁目)に家を借りて転居している。同年8月、25歳の矢田津世子Click!は2つ年上の坂口安吾と初めて知り合った。
 坂口安吾は、ひと目で彼女を気に入りアプローチをしたようだが、和田日出吉との交際を知ると少なからず落胆している。それでも、ふたりは同人誌などの会合で出会うと、盛んに文学について語り合い、急速に親しくなっていった。翌1933年(昭和8)に矢田津世子が戸塚署の特高Click!に逮捕され、10日間の留置Click!のあと身体を壊して自宅にもどると、坂口安吾は下落合へ見舞いに訪れている。
 実はこのふたり、矢田家の親戚が新潟で鉄工所を経営しており、地元の政治家の家柄だった坂口家とは親密に交際していた関係で、両家から結婚が前提の交際を強く奨められていた……という経緯もあったりする。恋する坂口安吾が苦しんだのは、矢田津世子が和田日出吉との不倫をやめないことと、特高からマークされていることだったようだ。また、和田が妻と別れ矢田津世子と結婚しようとすると、かんじんの津世子自身が妻との離婚を許さないという、和田との関係には複雑な想いもからんでいたらしい。このころ、安吾は母親から矢田津世子について問われると、「結婚はもう止めた」と答えている。
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 さらに、苦しむ坂口安吾のもとには、彼女についての悪評が文学仲間を通じて伝わってきた。下落合の作家仲間や訪れた新聞・雑誌記者たちに、あることないこと矢田津世子の悪評を流していたのは、このサイトをお読みの方ならすぐに察しがつくだろう。鎮痛剤ミグレニンの中毒になり、兄に連れられ鳥取に帰郷した上落合842番地の尾崎翠Click!を、さっそく死んだことにして「殺して」まわり、東京の出版社から鳥取へ原稿依頼がいかないようにしたのと同一人物、もちろん林芙美子Click!だ。自分より優れているとみた、特に「女流作家」について悪評のもとを“ウラ取り”でたどっていくと、たいがいいき着く先の林芙美子は、もはや病的で気味が悪い。
 林芙美子は、矢田津世子から読んでみてくれと渡された作品を、押し入れの中に隠してそのまま「行方不明」Click!にするなど、さんざん嫌がらせを繰り返しているが、このときは彼女を「妾の子」で、新聞記者の和田日出吉と不倫しているのは文壇に「原稿を売りこむため」だとふれまわっていたらしい。もちろん、「妾の子」は真っ赤なウソで、のちの証言から津世子は和田へ「原稿を売りこ」んだこともなかった。そもそも和田は、社会派ないしは経済畑の記者であり、文学界とはほとんど縁もコネもなかった。
 さまざまな経緯のあと、矢田津世子をいったんはあきらめた坂口安吾だが、菊富士ホテルへとやってくる少し前から、彼女との文通は再開していた。50番室こと塔ノ部屋へ引っ越した1936年(昭和11)3月1日の当日、安吾はさっそく彼女に手紙を書いている。
  
 御手紙ありがとうございました。矢口にいて始め二日は何も知りませんでしたが、東京へでてみて物情騒然たる革命派騒ぎに呆れました。今日、左記へ転居しました。/本郷菊坂町八二/菊富士ホテル(電話小石川六九〇三)/僕の部屋は塔の上です。兪々屋根裏におさまった自分に、いささか苦笑を感じています。/まだ道順をよくわきまえませんので、どういう風に御案内していいか分りませんが、本郷三丁目からは近いところで、女子美術学校から一町と離れていないようです。どうぞ遊びにいらして下さい。お待ちしています。/仕事完全にできません。でも今日から改めてやりなおしの心算なんです。/御身体大切に。立派なお仕事をして下さい。
   津世子様                      安吾より
  
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 矢田津世子Click!は、すでに名を広く知られた高名な「女流作家」であり、この年は代表作となる『神楽坂』(人民文庫および改造社/1936年)の連作を執筆している最中で、押しも押されもせぬ文壇の位置にいた。坂口安吾は、同人誌『桜』の時代から彼女とともに歩みはじめたはずだったが、文学的な嗜好やめざす方向性のちがいはともあれ、この時点で彼は矢田津世子の遠い背中を見ている感覚だったろう。
 手紙に「どうぞ遊びにいらして下さい。お待ちしています。」と社交辞令的に書いたら、矢田津世子は下落合からほんとうに菊富士ホテルの坂口が「時計塔」と書く塔ノ部屋へ遊びにきたので、彼は驚愕しただろう。1998年(平成10)に筑摩書房から出版された「坂口安吾全集」第6巻所収の、『三十歳』から引用してみよう。
  
 なぜなら、私は矢田津世子に再会した一週ほどの後には、二人のツナガリはその激しい愛情を打ち開けあったというだけで、それ以上どうすることもできないらしいということを感じはじめていたからであった。(中略) 私は時計塔の殺風景な三畳に、非常に部屋に不似合いに坐っている常識的で根は良妻型の有名な女流作家を見て見ぬようにヒソヒソと見すくめている。(中略) この女流作家の凡庸な良識が最も怖れているのは、私の貧困、私の無能力ということなのだ。殺風景なこの時計塔と、そこに猿のように住む私の現実を怖れているのだ。/彼女は私の才能をあるいは信じているかも知れぬ。又、宿命的な何かによって、狂気にちかい恋心をたしかに私にいだいているかも知れない。/然し、彼女をひきとめている力がある。彼女の真実の眼も心も、私のすむこの現実に定着して、それが実際の評価の規準となっている。
  
 なんだか妙に見透かしたような文章だが、ずいぶん時代がたってしまってからの、総括的な安吾の文章であることに留意しなければならないだろう。『三十歳』には、事実誤認や年月の誤りなどの誤記憶があちこちにみられる。
 ちなみに1936年(昭和11)という年は、のちに大岡昇平Click!が書くことになる『花影』のモデルとなった坂本睦子を、小林秀雄に長谷川泰子を奪われて傷心の中原中也Click!と坂口安吾が“恋の鞘当て”ののち愛人にしていたか、あるいは彼女と別れた直後だったかの、きわどい微妙な時期にあたる。安吾と別れた坂本睦子は、今度は小林秀雄から求婚されることになるが、もうドロドロでぐちゃぐちゃの、わけがわからない文学畑の人々の経緯は、書く気にはなれないので、他所の物語……。
 同年6月17日、坂口安吾は矢田津世子と本郷3丁目のレストランでフランス料理を食べ、塔ノ部屋に誘ってたった一度だけのキスをした。そして同日の夜に、絶縁の手紙を矢田津世子へ送りつけている。以来、1944年(昭和19)3月に津世子が37歳で死去するまで、ふたりは二度と逢わなかった。
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 和田日出吉との関係について、矢田津世子の友人のひとりは、「和田さんとはずいぶん長い交際だった。津世子さんは悩んでいたようすだったが、親しい仲でも、自分の恋愛については一言も語らないのが津世子さん流だった」(近藤富枝『花蔭の人』/1978年)と証言している。和田日出吉はその後、妻と離婚して独身となったが、矢田津世子が下落合で死去したことであきらめがついたのか、1944年(昭和19)に20も年下だった26歳の従妹と再婚している。従妹は松竹で女優をしており、戦後に下落合を舞台にした『お茶漬の味』Click!(監督・小津安二郎/1952年)に主演する木暮実千代Click!だった。

◆写真上:菊富士ホテル跡(正面)の西側にある、長泉寺境内のバッケ(崖地)Click!
◆写真中上は、菊富士ホテル跡の現状。は、菊富士ホテル新館の東側壁面。は、岡田三郎助Click!が主宰していた女子美術学校跡の現状。
◆写真中下は、矢田津世子()と2歳年上の坂口安吾()。は、1935年(昭和10)作成の「火保図」にみる菊富士ホテル。ここでも「火保図」は、建物の形状を誤採取している。は、1940年(昭和15)の空中写真にみる菊富士ホテル。
◆写真下は、菊富士ホテル新館南側のバッケで塔ノ部屋(50番室)はこの真上にあった。は、同ホテルの西側に隣接する長泉寺の山門。は、宮沢賢治や樋口一葉の旧居跡のある菊坂沿いの谷間から南の丘へと上がるバッケ階段。

続・ほとんど人が歩いていない鎌倉。

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 以前、1955年(昭和30)ごろに撮影された、鎌倉の街Click!の写真をご紹介したことがあった。それは、わたしが子どものころに歩いた静かなたたずまいを見せる鎌倉と、大差ない風情でとても懐かしかったので、つい記事を書いてしまった。先ごろ、引っ越し作業をしていたら、わたしが小学校の低学年のころに出かけた鎌倉の写真類……、というか子どものころのアルバムが大量に出てきたので、すべてを参照している時間はないものの、少し鎌倉関連の写真を見つくろってご紹介したい。
 大量に出てきたアルバムをざっと概観すると、東京都内を除いて近隣地域のみに限れば神奈川県Click!内の撮影が圧倒的に多い。横浜をはじめ鎌倉、平塚、大磯、二宮、小田原、横須賀などの市街地や、箱根、足柄、大山、丹沢Click!、三浦半島などの山々だ。この中で、鎌倉の占める割合は相対的に大きい。以前にも書いたけれど、親父の仕事の都合Click!で平塚に住んでいたときは、毎週か隔週の週末には鎌倉あるいは三浦半島へ出かけていた時期がある。北鎌倉に、母方の親戚が住んでいたせいもあったのだろう。家のすぐ近く、海岸線を走るユーホー道路Click!(遊歩道路=国道134号線)から神奈中バス(神奈川中央交通)に乗れば、当時のユーホー道路はクルマがガラ空きだったので30分前後でスムーズに鎌倉へ到着することができた。
 撮影された時期の多くは、以前ご紹介した写真類の約10年後、1965年(昭和40)の少し前あたりの休日のタイムスタンプが多いが、いずれの写真にもほとんど人が写っていないのが、今日から見れば不思議な光景だ。まるで時空がズレた、北村薫が描く無人のパラレルワールドへ迷いこんでしまったかのように、いまでは国内外を問わず観光客でごったがえしている長谷寺の、閑散としている様子がとらえられている。さすがに、修学旅行の観光バスが立ち寄る、高徳院(鎌倉大仏)も近い有名スポットなので、道路は舗装されているが、門をくぐる数人の観光客しか見られない。
 長谷寺の北側にある光則寺は、未舗装の坂を上らなければならないし、当時は観光スポット化もしてなかったので、まずはよほどの神社仏閣ヲタクでない限り誰も訪れなかった。同様に、長谷寺の南から歩いていく極楽寺坂切通しも、小学生のわたしと母親のふたりが歩くだけで、人の姿がまったくない。(冒頭写真) 舗装されて間もないのだろう、切通し坂の路面がアスファルトではなくコンクリートで、新しい感じがする。向こうから、懐かしい幌つきのオート三輪がブルブルと、頼りないエンジン音を響かせながらやってくるのが見える。小動(こゆるぎ)岬の腰越漁港に上がった相模湾の魚を、鎌倉市街の料理屋へ運ぶ魚屋のオート三輪だろうか。
 途中の権五郎社(御霊社)Click!にも誰もいなければ、目的地の極楽寺も人っ子ひとりいない。わたしが登って住職に叱られた、極楽寺境内にあるサルスベリClick!の写真がようやく出てきたので、アルバム発見の記念に掲載しておきたい。小学生がつい登りたい誘惑にかられる、ちょうどいい背丈と枝ぶりをしていたのがおわかりいただけるだろう。
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 目を鎌倉市街の北側、鎌倉アルプス(天園ハイキングコース)や覚園寺のほうへ向けてみると、現在は住宅で埋めつくされてしまった、山々へ切れこむ大小の谷(やつ)に拓かれた水田や畑で遊ぶ、小学校低学年のわたしが写っている。なにやら水田から走って逃げているので、ヤマカガシにでも追いかけられているのかもしれない。また、住宅街の広めな道路を撮影した写真もあるが、茅葺き屋根の家があちこちに残り、もちろん道路は舗装されていない。風が強い日に鎌倉を歩くと、海からの砂と土ぼこりとで、髪や洋服がザラザラになったのを憶えている。路上には人影が見えるが、もちろん近所に住む大人や子どもたちで観光客ではない。たまに挨拶したり道を訊ねたりすると、軽いハイキングのようないでたち(今日でいうなら街歩きの装い)をしたわたしたちを見て、「あなたたち、こんなところで何してるの?」という怪訝な顔をされた。広めな道路は、覚園寺から南へ少し歩いた、源頼朝の墓Click!がある近くだろうか。
 覚園寺も百八やぐらClick!も、もちろん誰もいないし路面も舗装されていない。このあたりは水田も多く、特に百八やぐらのある山の斜面一帯はマムシの巣だったので、地元の人以外はめったに入りこまなかった。もっとも、いまでも十王岩から大平山、そして瑞泉寺のある二階堂ヶ谷(やつ)まで抜ける鎌倉アルプス越え(天園ハイキングコース)は、ふつうの観光客はなかなか訪れない縦走コースだが、先日歩いていたら中国の山ガールたちに出会った。なんだかわからないが、中国の若い女子たち向けのサイトで、あまり人に出会わない美しい鎌倉の天園ハイキングコースが紹介されているのかもしれない。同ハイキングコースは起伏が激しく絶壁(ほぼ垂直登攀のザイル場)もあり、距離もけっこうあるので市街地でヒールをはいて暮らしている女子にはきつく、山ガールに最適なコースだろう。アジアやヨーロッパを問わず、このごろ海外から訪日する観光客は、非常にマニアックなスポットを楽しんでいてビックリすることがある。
 また、アルバムの中でも面白い写真は、鎌倉の隣りにある江ノ島で1964年(昭和39)10月11日(日曜日)、つまり東京オリンピック開会式の翌日に撮影された、江ノ島ヨットハーバーとその周辺の情景だ。そこには、同大会のディンギーレースに出場予定の日本チームが、艇への最後のメンテナンスに余念のない様子がとらえられている。そのほか、竣工して間もないクラブハウスや、ヨットハーバーのあちこちの情景が撮影されているが、家族の写真がメインなので割愛したい。この日は、江ノ島水族館にも立ち寄っており、イルカのショーを見学しているが、日曜日だというのに観客がまばらでガラガラだ。
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 わたしは、この日のことをよく憶えている。前日に新宿の国立競技場で、東京オリンピック1964の開会式が開催されたから印象深いのではない。その開会式を見られずに、母親にひどく怒られたからだ。10月1日の昼すぎ、わたしは海岸の松林で友だちと遊んでいて、クロマツの枝を右目の瞳に突き刺した。一瞬で視界が白濁し、風景が濃霧でおおわれたようになった。急いで家にもどって母親に報告すると、さっそく眼科医に連れていかれたのだが、その日の午後3時ごろから予定されていた、東京オリンピックの開会式をゆっくりTVで観ようと楽しみにしていた彼女から、こっぴどく叱られた。開会式の様子は、眼科医の待合室に置かれた小さな赤いTVの中継画面で観るハメになり、母親のため息が止まらなかったのを憶えている。「だから男の子は、いつもなにするかわからないからイヤなのよ」と、わたしの右目よりも開会式が大事な母親Click!だった。w
 つまり、その翌日の日曜日に、オリンピックの会場のひとつである江ノ島ヨットハーバーへ遊びに出かけているので、クラブハウスも江ノ島水族館のイルカショーも、相模湾に浮かんだ船からの風景も、江ノ島弁天の社(やしろ)や洞窟も、お土産に買った大きなサザエも、右目にできた瞳の傷のために、みんな白く濁って見えていたから印象深いのだ。眼科医は、目を洗ったあと消毒用の目薬を出してくれただけで、特に眼帯をする必要もないでしょう……と、お気楽な様子でいっていたけれど、このあと1週間ぐらいは風景に霧がかかったような視界だった。
 アルバムを眺めていると、当時の鎌倉のほこりっぽい空気感や潮風の匂い、夏なら無数のセミの鳴き声や案外けわしい山々の細い尾根道、波乗りClick!(サーフィンとはいわない)のお兄ちゃんお姉ちゃんたち、随所に口を開ける“やぐら”Click!やとぐろを巻くマムシたちなど、さまざまな思い出が一気に押し寄せてくる。「そういえば、長さが4m近くもあるアオダイショウの抜け殻が発見されたのも、天園ハイキングコースの終点・瑞泉寺の裏山にある貝吹き地蔵あたりだったな」……などと、時間を忘れ思い出にひたっていると1日がアッという間にすぎてしまうので、きょうはこれぐらいに。
 北鎌倉の写真も大量に出てきたが、こちらはさらに輪をかけて人が誰も歩いていない。北鎌倉の駅から、建長寺とは逆方向に歩いて10分ほどのところに、戦前から母方の祖父の妹が住んでいたので、幼稚園に通うころから何度かその家に立ち寄った憶えがあるけれど、いまとなっては住所の記憶もおぼろげでハッキリしない。それらしい住宅の写真もアルバムに貼られているが、いまでは街並みがさま変わりしているので、いくらGoogleのストリートビューで探してもわからなくなってしまった。
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 確か母方の親戚の家は、『海街diary』(監督・是枝裕和Click!/2015年)のロケが行われた古民家「北鎌倉アガサッホ」のある、小袋谷川の小橋をわたった光照寺の伽藍が見える台山のあたり、古い映画では『麦秋』(監督・小津安二郎Click!/1951年)の最初のころ、北鎌倉駅を出た横須賀線が大船方面へ向けて走る遠景シーンをとらえた、手前にカメラのすえられている山の斜面あたりだったと思うのだが……。その家からは、横須賀線や北鎌倉駅をはさみ円覚寺のある山が見えていたのを憶えている。もし時間ができれば、今度はひっそりと静まり返った、北鎌倉の写真類をチョイスし改めてご紹介したい。

◆写真上:1965年(昭和40)3月30日の極楽寺坂切通し。歩いているのは小学生のわたしと母親だけで、向こうから幌をつけた懐かしいオート三輪がやってくる。ちょうど、『稲村ジェーン』Click!(監督・桑田佳祐/1990年)の鎌倉とシンクロする時代だ。
◆写真中上からへ、山門をくぐる数人の観光客しかいない長谷寺と無人の光則寺。やはり誰もいない権五郎社(御霊社)と極楽寺境内のサルスベリ(左手)。
◆写真中下からへ、1964年(昭和39)4月25日撮影の天園ハイキングコースから眺めたビルのほとんど見えない鎌倉市街。参道も舗装されておらず、誰もいない茅葺き屋根の覚園寺。鎌倉の山々に入りこんだ谷(やつ)で、おそらくヤマカガシの“襲撃”から逃げているわたしだが、いまでは住宅街の下になってしまった。おそらく源頼朝の墓近くで、茅葺き住宅の残る未舗装の道路を歩いているのは地元の親子。片瀬海岸の遊覧船か江ノ島ヨットハーバーのクルーザーに乗り、海上から眺めた藤沢の片瀬海岸。右手には江ノ島大橋が見え、その向こうに見える山は鎌倉と藤沢の境にある片瀬山の瀧口寺。
◆写真下からへ、1964年(昭和39)10月11日撮影の数日後にひかえた東京オリンピック1964で行われる、ディンギーレースの準備に余念がない日本チームの選手とスタッフ。同日撮影の江ノ島ヨットハーバーと、東京オリンピック開会式の翌日なので観光客が多いクラブハウス。観客があまりいない、江ノ島水族館のイルカショー。これらの風景を、前日に瞳を傷つけたわたしは半分“霧中”の視界で見ていた。

第1次滞仏作品をつぶした『下落合風景』。

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 これまで、佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!に関連し、そのの出来が気に入らず上から別の画面で塗りつぶし、改めて描かれたとみられる『わしのアトリエ(仮)』Click!『小学生(仮)』Click!の2作品をご紹介してきた。だが、下層の絵が塗りつぶされて描かれた『下落合風景』作品はほかにもある。
 1926年(大正15)秋に記録された「制作メモ」Click!に残る、20号の『洗濯物のある風景』Click!は、下層に隠れた画面の存在が明らかだ。しかも同作のキャンバス裏には、第1次滞仏のときに制作した『煙突のある風景』Click!(20号)が描かれている。つまり、佐伯は第1次滞仏から持ち帰ったキャンバスの裏(表?)に、連作『下落合風景』のひとつ、中井御霊社Click!の下にあたる下落合4丁目2158~2159番地あたりの『洗濯物のある風景』を描いていることになる。
 換言すれば、『煙突のある風景』の裏面(ないしは表面)に描かれた、『洗濯物のある風景』の下層に眠る画面は第1次渡仏作品か、あるいは同作より以前に描かれた『下落合風景』などの可能性があるということだ。では、『洗濯物のある風景』の画面に残された痕跡から、それがどのような作品だったのかをたどって類推してみよう。
 同作の画面を観察すると、どんよりとした広い空の両側のスペースにまず違和感をおぼえる。明らかに、下層に描かれた画面の名残りが見てとれ、凸凹状に盛られた油絵の具の痕跡が見てとれる。画面の右側には、なにやら電柱のような柱状のものが描かれ、何本かのタテの線が走り、左側にはいくつかのタテヨコの線が交叉したフォルムを確認できる。左側上部の太い線は、なにやら神社の屋根で見かける堅魚木(かつおぎ)のような形状をしているが、それにしてはかたちが不揃いで一定していない。その下には、絵の具が厚塗りされた小さな円弧状のものがふたつ見え、その周囲にはタテに描かれた線が何本も上下に走っている。
 当初、隠れている下層の画面は『下落合風景』の1作で、『わしのアトリエ(仮)』や『小学生(仮)』と同様に、その出来が気に入らず佐伯が別の『下落合風景』を上から塗りつぶしてしまったのかと考えた。だが、『洗濯物のある風景』の画面から透けて見える下層の絵は、同キャンバスをタテにしてもヨコにしても、逆さまにしても当時の下落合の風景に思いあたる場所はない。しかも、同作が描かれたのは1926年(大正15)9月21日であり、それ以前に制作された『下落合風景』の作品点数を考慮すれば、下落合の風景ではない画面である可能性のほうが高そうだ。
 キャンバスをタテにし、左側の痕跡を下にすると、なんとなく鳥居のようなフォルムが見えるので、またしても曾宮一念アトリエClick!の前にある大六天Click!あたりを描いた、1926年(大正15)8月以前から描かれている諏訪谷シリーズClick!の1作かとも考えたが、それでは画面の上部に横たわることになってしまう、建物の梁のような形状の説明がつかない。また、キャンバスを横にし画面右側の柱状のものが電柱だとすれば、その途中に巻かれた看板のようなものの正体が不明だ。
 しかも、佐伯が電柱の表面をこのような質感で描いた作品は、ほかに1点も存在していない。絵の具の厚塗りで表現されているのは、木製の物体の表面ではなく、明らかに石かコンクリートによる構造物を連想させるものだ。また、右側の痕跡を電柱とすれば、左側に描かれているのはなんらかの建築物か樹木などになるはずだが、描かれた線の痕跡をいくらたどっても、それらのイメージは浮かんでこない。神社の堅魚木のようなかたちを、テラスにある藤棚の天井部分や、建築途上にある住宅の骨組みなどに見立てても、具体的な姿が想定できないのだ。
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 そこで、一度『下落合風景』からいっさい離れ、佐伯祐三の画集や図録を片っ端からめくりながら、第1次滞仏作品群を参照してみることにした。すると、『洗濯物のある風景』の下層に描かれている絵の“部品”とみられるかたちが、いくつかの作品から次々と見つかった。それを説明するためには、同画面をタテにしなければならない。
 まず、上に描かれている建物の梁のような棒状のものは、パリのアパルトマンや商店などに多い、番地や商店名を刻むプレートを貼りつけた、建物ないしは商店の入口の上部だろう。その下にも、何本かの横線が確認できるが、石ないしはコンクリートでできた建物の入口に設置された、ドアの木枠部なのかもしれない。第1次滞仏作品で、それに似た表現は『ピエール・デュメニル』(1925年)をはじめ、『ブランジュリー』(同)、『パリの街角』(同)などでも見ることができる。
 画面の下部に見えているフォルムは、どうやらそのアパルトマンか商店の入口に向かってつづく、短い階段のように見える。階段の両側には、日本では“ささら板”と表現されるような、手すりよりもかなり低い石製かコンクリート製の側桁が設置されているようだ。この階段は、少なくとも4~5段はあり、その上にアパルトマンなど建物のドアか商店の入口が設置されているのだろう。このような短い階段つきの建物あるいは商店は、第1次滞仏時の『レ・ジュ・ド・ノエル』(1925年)をはじめ、『パリ風景(壁)』(同)、『村役場』(同)、『クラマールの教会』(同)などで目にすることができる。
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 そして、その建物の入口に向かって階段を上っているのは、どうやら長めのスカートないしはコートを着た女性のようだ。絵の具を厚塗りしている、ふたつの円状の痕跡は、階段を踏みしめている女性が履くハイヒールのかかとのように見える。少し風があるのか、スカートないしはコートの裾が左側へなびいているようだ。このように空がまったく描かれず、建物へかなり近接した画面は第1次滞仏時の佐伯作品では少ないが、『靴屋(コルドヌリ)』(1925年)や『絵具屋(クルール・エ・ヴェルニ)』(同)、『ピエルー・デメニル』(同)など、商店の入口を描いたものが何点か残されている。
 パリの街角を歩く女性の表現はといえば、第1次滞仏作品では随所に見ることができる。たとえば、『リュ・デュ・シャトーの歩道』(1925年)をはじめ、『アントレ・ド・リュ・デュ・シャトー』(同)、『リュ・デュ・シャトー』(同)、『パリ雪景』(同)、『パリ15区街』(同)、『運送屋(カミオン)』(同)、『リュ・ブランシオン』(同)、『酒場(オ・カーヴ・ブルー)』(同)、『食料品店』(同)、『ガレージ』(同)などだが、その中には女性を真うしろから描いた作品も少なからず存在している。
 そのほか、『洗濯物のある風景』に描かれた空の中央にあたる部分や、下落合の西端に残された古い農家や手前の妙正寺川の土手に隠れ、下層に描かれたパリの街角とみられる風景は判然としない。なにか佐伯の眼を惹くような看板でもあり、それを薄塗りでスケッチしたために、ほとんど痕跡が残らなくなってしまったのだろうか。
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 佐伯が、せっかく持ち帰った第1次滞仏作品を塗りつぶし、なぜ『洗濯物のある風景』を描いたのかは不明だが、画面いっぱいにとらえた建物入口の構図が気に入らず、もう少しパースのきいた奥ゆきのある構図の作品を残したかったのだろうか? あるいは、1924年(大正13)から翌年にかけ、表現や手法が急激に変化しつづけていた時期なので、初期に描いた画面がどうしても気に入らなくなり、上から『洗濯物のある風景』で塗りつぶしてしまったものだろうか。

◆写真上:1926年(大正15)9月21日制作とみられる、佐伯祐三『洗濯物のある風景』。
◆写真中上は、『洗濯物のある風景』をタテにした構図(上)と裏面に描かれた1924年(大正13)ごろの佐伯祐三『煙突のある風景』(下)。は、『洗濯物のある風景』をタテにした上部に描かれた下層画面の痕跡。は、1925年(大正14)制作の佐伯祐三『ピエール・デュメニル』に描かれたドア上の「HOTEL」プレート。
◆写真中下は、画面下部に描かれた下層画の痕跡。は、1925年(大正14)制作の佐伯祐三『レ・ジュ・ド・ノエル』に描かれた建物入口への階段。
◆写真下は、『洗濯物のある風景』の下層に想定できる全体構図。は、1925年(大正14)制作の佐伯祐三『ガレージ』に描かれたうしろ姿の女性。

清水多嘉示の「タピ」が彝自画像のモチーフに。

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 先年、中村彝Click!がパリに留学中の清水多嘉示Click!にあてて、できるだけ早急に「タピ」(タペストリー=室内装飾の模様入り織物または布地)を送るよう依頼している、1923年(大正12)秋に出された手紙をご紹介Click!した。彝が死去した直後、木星社Click!福田久道Click!が撮影したとみられるアトリエ内の写真にとらえられた、まるで織物の模様のようなデザインのドアペインティングClick!にからめて書いた記事だ。
 中村彝の清水多嘉示にあてた手紙は、おそらく1ヵ月ほどでパリのシテ・ファルギエール14番地に到着して、手紙を読んだ清水多嘉示は大急ぎで樹々が紅葉しはじめたパリの街へと飛びだし、彝の要望に沿いそうなタペストリーや布きれなどを室内装飾店で何点か購入しているのだろう。そして、間をおかずに品物を梱包し、日本行きの船便で下落合464番地の中村彝あてに送っているとみられる。なぜ、その経緯がわかるのかといえば、中村彝はパリの清水多嘉示から送られた「タピ」(織物または布地)を画面に入れて、おそらく1923年(大正12)の暮れまでに最後の自画像を仕上げているからだ。
 彝の手紙の一部を、1926年(大正15)に岩波書店から出版された『藝術の無限感』収録の、清水多嘉示あての手紙から再び引用してみよう。
  
 さて別封の為替百円は、これで何か静物や人物画のバック等に用ゆべきタピの類で(中略)ごく安物で、比較的気持ちの悪くないものを古でいゝから仕入れて欲しいのだがどうだらう。馬越(舛太郎)君と相談して散歩のついでにでも目に止つたものをいゝ加減に買つて呉れゝばそれで結構だ。御忙しい処をほんとに御気の毒だが、なるべく早く送つてくれ。それでないと僕の寿命が長くは待ち切れさうもないから……余り吟味せずに、どんなのでもいゝからなるべく早く、ナルベク。(カッコ内引用者註)
  
 1923年(大正12)10月ごろから、中村彝は髑髏(頭蓋骨)をモチーフに何点かの画面を仕上げている。髑髏の周囲には、「建築物の残骸や、毀れた車輪、布片、破れ人形、ペーパー、鉄片等」(『藝術の無限感』より)を配置したもので、同年10月5日付けの洲崎義郎Click!あての手紙に制作の予告をしている。そして、10月末ごろからその髑髏を手にした、40号の『頭蓋骨を持てる自画像』の制作に着手した。だが、制作の途中で高熱が出てしまい、自画像の制作はいったん中断する。
 そのときの様子が、黒澤久乃にあてた1923年(大正12)11月26日付けの手紙に書かれているので、再び『藝術の無限感』より引用してみよう。
  
 この秋から毎日一二時間位づゝ制作が出来る様になつて、久しぶりで充実した幸福を味へる様になつたのも束の間、この月初めから又しても発熱して折角開いた画室を再び閉めねばならなくなり、色々描いた空想も構図も又さのまゝ葬り去られねばならないのかと、毎日不快な日を送つてゐる処へ御手紙を戴いたのです。どんなにうれしく拝見したでせう。この写真はその時まで続けて居た未成の自画像(四十号)を友人の医師が撮つたものです。レンズが小さくて下の方が入らなかつたのです。
  
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 そして、暮れも近いころに、清水多嘉示がパリから送った荷包が下落合464番地のアトリエに到着していると思われる。彝は、なにやら模様が入った、向こうが透けて見える薄めな織物(レース状の布地?)を、まるでカーテンでも吊るすかのように背景に配して、『頭蓋骨を持てる自画像』を完成させた。
 パリからとどいた「タピ」を、中村彝は吊り輪をつけたり(岡崎キイClick!の仕事かもしれない)、棒に通したりして多少加工しているようだが、『頭蓋骨を持てる自画像』の画面に配置されたモチーフについて、鈴木良三Click!の証言を聞いてみよう。1977年(昭和52)に中央公論美術出版から刊行された鈴木良三『中村彝の周辺』より。
  
 多湖実輝から借りた髑髏をいろいろな工夫をして----煉瓦を重ねたり、粗末な台の上にのせたりしてデッサンや、パステルや、油彩で描き、バックに用いるつい立てみたいなものを河野栄広(ママ:河野輝彦)に作らせたり、清水多嘉示がフランスから送って来た布をそれにかけ、おばさんに黒いガウン様のものを縫わせたりして、「髑髏を持てる自画像」(現在では『頭蓋骨を持てる自画像』)を描き上げたりしたものだ。画風もキュービズムの傾向を加味し、グレコの昇天のリズムを取り入れたりして、静物などにも大きな変化を来した。後に批評家の中にはこれらの作品に賛辞を送る者が多くなったようにも思われる。(カッコ内引用者註)
  
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 文中にも註釈を入れたが、今日では『髑髏を持てる自画像』はタブローを描く以前に残された、同作のスケッチにふられたタイトルであり、40号キャンバスのタブローは『頭蓋骨を持てる自画像』として差別化されている。また、酒井億尋Click!の紹介で新潟県の佐渡からやってきた、画家志望の大工・河野輝彦Click!のことを、鈴木良三はなぜか「河野栄広」と誤記している。
 鈴木良三によれば、『頭蓋骨を持てる自画像』に描かれたモチーフの手配あるいは制作には、少なくとも4人の人物が協力していたのがわかる。この記事のテーマである、清水多嘉示がパリで購入した濃い青色の「タピ」は、彝の背後へカーテンを吊るすようにセッティングされた。タペストリーにしては、向こうが透けて見えるほどの薄さなので、おそらくレースカーテンのような材質のものを採用しているのだろう。その手前には、大工が本職だった河野輝彦によって、アーチ状の木工細工が設置されている。
 中村彝が肩にかけている、まるでインバネスClick!の上半分のような縫い物は岡崎キイの針仕事だ。また、彝が手にしている頭蓋骨は、理科(植物学)の教師だった多湖實輝がモチーフ用として彝に貸しだしたものだ。画面右端のテーブルの上には、彝が日々愛飲していた『カルピスの包み紙のある静物』Click!でもおなじみの、大正後期に販売されていたカルピスClick!の容器が花瓶のように置かれている。彝は、制作に用いる小道具類やモチーフをけっこうマメにこしらえているが、この時期は発熱がつづいて、自分で思うように小道具を制作できなかったのだろう。
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 1923年(大正12)11月5日の時点で「未成の自画像(四十号)」だった『頭蓋骨を持てる自画像』、2003年(平成15)に出版された『中村彝の全貌』展図録の年譜によれば「八分通り仕上げた」同作は、おそらく暮れも押し詰まった時期に完成しているのだろう。

◆写真上:中村彝『頭蓋骨を持てる自画像』の上部で、清水多嘉示がパリから送った布地が吊るされた部分。清水は、大急ぎで購入して返送しているのだろう。
◆写真中上は、1923年(大正12)に連作された中村彝『髑髏のある静物』。は、中村彝から清水多嘉示あてた1923年(大正12)12月22日パリ消印の封筒。
◆写真中下上左は、1923年(大正12)秋に描かれた中村彝のスケッチ『髑髏を持てる自画像』。上右は、同年の暮れに完成したとみられる中村彝『頭蓋骨を持てる自画像』。は、『頭蓋骨を持てる自画像』に使われた小道具類の構成。
◆写真下は、銀座伊東屋の原稿用紙に書かれた中村彝から清水多嘉示あての手紙。下左は、1919年(大正8)に清水多嘉示が撮影したアトリエの庭に立つ彝。下右は、パリのシテ・ファルギエール14番地のアトリエで制作する清水多嘉示。
掲載されている清水多嘉示関連の写真・資料は、保存・監修/青山敏子様によります。

下落合を描いた画家たち・片多徳郎。

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 片多徳郎Click!が、名古屋の寺院で自裁する少し前に描いた、絶作『風景』(1934年)という作品が残されている。通常のキャンバスではなく、板に描かれ木目が浮き出ているから薄塗りで、かつ23.5×33.0cmの小品だ。収蔵先の大分県立美術館によれば、「自宅近くを描いたもの」と規定されている。
 片多徳郎は最晩年、下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)のアトリエから、目白通りをはさんだ長崎のアトリエ(地番不明)に転居しているが、『風景』に描かれたような大規模なバッケ(崖地)Click!は、当時の長崎地域では地形的にも想定しにくい。長崎地域の西端、西落合との境には千川上水の落合分水Click!が流れていた崖地があるけれど、妙見山Click!の麓にあたる谷戸はV字型渓谷で、画面のような風情ではなかっただろう。おそらく、パレットよりも小さな板を携えて、片多徳郎は近所を彷徨しながらどこの情景を描いたものだろうか?
 片多徳郎の下落合アトリエについて、鈴木良三Click!がこんな証言を残している。1999年(平成11)に木耳社から出版された、鈴木良三『芸術無限に生きて』から引用してみよう。なお、九条武子Click!の邸が出てくるけれど、これはまったくの方角ちがいなので、明らかに鈴木良三の誤記憶だと思われる。
  
 二瓶(等)さんのところを逆戻りして西の方へ五十メートルほど進むと九条武子夫人(ママ)の住居があり、その角を二、三軒行った左側に二階建ての庭もない、木戸を開けると直ぐ玄関がある、あまり大きくないサラリーマンの住宅といったところの二階に片多さんは下宿していたらしい。私は一度も訪ねたことはないが、中村研一さんの洋行中は初台のアトリエを借りていたらしく、それ以外はみな畳の上で制作していたそうだ。/研一さんが帰朝したので、下落合の家に移った。その頃江藤純平さんがその付近に住んでいたので、江藤さんの世話で移ったとのことであった。(中略) 二瓶さんはときどき訪ねてボナールの画集など見せたりして喜ばれたし、曽宮(一念)さんも近いし、美校の卒業だったから訪ねたり、訪ねられたりしたが、一度だけ酒を振る舞ったらたいそう意気投合して、色紙に榛名湖の絵を描いてくれたそうだ。/酒好きの牧野虎雄さんのところは勿論訪ねて杯を酌み交わした仲だったろう。(カッコ内引用者註)
  
 下落合584番地の二瓶等アトリエClick!から、下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!まで、およそ東西の道のりで200m強。文中に登場している画家たちのアトリエは、下落合732番地の片多アトリエに下落合604番地の牧野虎雄アトリエClick!と、この東西の道沿いの両側に点在していた。また、片多とは西ヶ原以来のつき合いである帝展の江藤純平Click!長野新一Click!も、それぞれ下落合1599番地と下落合1542番地の第三府営住宅Click!内にアトリエをかまえていた。
 鈴木良三が「九条武子夫人の住居」と勘ちがいしているのは、下落合595番地の田中浪江邸(一時期は本田宗一郎邸Click!、現在の下落合公園Click!の敷地)のことで、住民が女性だったことから誤記憶につながったものだろうか。
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 さて、『風景』の画面を観察すると、家々や樹木に当たる光線と陰影の具合から右手が南か、または右寄りの奥が南東のように感じられる。手前は、平地に近いなだらかな斜面のように見え、傾斜は左から右へ微かに下っているようだ。画面中央から左手にかけては、明らかにバッケと思われる崖線が連なっており、手前に描かれた微妙な傾斜の様子を勘案すると、左手が丘になっていそうな地形であることは容易に想像がつく。左手につづく崖線の下、微かな傾斜地あるいは平地のように見える土地には、なにやら住宅には見えない横長の建物が重なるように建設されている。ことに、手前の建物の屋根向こうに大きく突きでて見える、空気抜きのありそうな青い屋根などの形状は、当時の大型倉庫か工場を連想させるような規模の建物だ。
 垂直に近い崖地の下にも、家々の屋根らしいかたちがいくつか並んでいるが、こちらは通常の住宅ぐらいの大きさだろうか。この家並みに沿うようなかたちで、崖下には道路が通っていそうだ。画面全体は、樹木の葉が変色するか落ちたあとの晩秋ないしは初冬の景色のように見えるが、同作が1934年(昭和9)に描かれたものだとすると、片多徳郎は4月末には名古屋の寺で自死してしまうので、同年1~2月に制作しているのだろう。ひょっとすると、前年の秋か暮れ近くにスケッチしておいたものを、翌年になり改めて手を加えて完成させているのかもしれない。
 『風景』にはたった1点、描画場所を特定できそうな大きなヒントが描きこまれている。それは、崖上の樹間にかいま見えている、白っぽいビル状の建物だ。小さく見えるビルのような建物には、窓が規則的に並んでいるのが確認でき、屋上の片側には大きな突起物が見てとれる。画面のような擁壁のない崖地に建つ、このようなビル状の建物は、1934年(昭和9)現在の落合地域をはじめ長崎地域や高田地域を含めても、わたしが思いあたる場所は1ヶ所しか存在しない。白いビル状の建物は、崖上に開発された近衛町Click!42・43号敷地Click!にあたる、1928年(昭和3)に下落合406番地へ竣工した学習院昭和寮Click!寮棟Click!のひとつだ。
 より詳しく位置関係を規定すると、見えている寮棟は丘上から南側に張りだしている、第四寮棟ないしは第二寮棟のうちのどちらかだろう。そう規定すると、手前に見えている赤い屋根の建物は石倉商会の包帯材料工場であり、その向こう側に見えている横長の青い屋根や大きな建築群は、甲斐産商店(大黒葡萄酒)Click!の壜詰め工場や倉庫、あるいは事務所の建物群である可能性が高い。画面手前が少し高まって見えるのは、近衛町のある丘から張りだした等高線が、まるで半島か岬のように崖下まで舌先を伸ばしているからで、崖下に沿うように通っている雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)も、この時期にはいまだ切通し状の場所が、いくつか残っていたかもしれない。
片多徳郎「風景」拡大.jpg
「風景」描画位置1936.jpg
「風景」描画位置1933.jpg
 おそらく、片多徳郎はこの場所を下落合に住んでいたころから、近所の散策などでよく知っていただろう。彼は転居してきたばかりの長崎のアトリエから、画道具と小さな板切れを持って目白通りをわたった。下落合側に入ると、いずれかの坂道を下り、目白崖線の麓に沿って鎌倉期に拓かれた雑司ヶ谷道へと出ると、東に向かって歩いている。下落合氷川社Click!から相馬孟胤邸Click!のある御留山Click!をすぎると、崖上の色づいた樹間から白亜の学習院昭和寮Click!が見えてくる。高い建物が存在しなかった当時、丘上の寮棟Click!はかなり目立っただろう。
 工場の建屋の向こう側、画面右手には山手線の線路土手Click!が斜めに望見できてもよさそうな位置だが、あえて省略されたのか、あるいは昭和期に入ると工場や倉庫などの建物の陰で実際に見えにくくなったのかは不明だ。片多徳郎がイーゼルを立てたのは、雑司ヶ谷道の南側で下落合45番地あたりの敷地だ。この敷地は、もともと山本螺旋(ねじ)合名会社伸銅部工場が建っていたところだが、昭和初期の金融恐慌あるいは大恐慌で倒産したのか1934年(昭和9)現在は更地になっていたとみられる。(1936年の空中写真でも、更地のままに見える) この敷地の南側にあったのが、昭和初期の地図類に採取されている硝子活字工業社目白研究所ということになる。
 さて、同空き地にイーゼルをすえた片多徳郎は、近衛町42・43号の崖地が大きく左手に入るアングル、北東の方角を向いて画面に向かいはじめた。学習院昭和寮の南側を囲む、背の高い樹木の間から寮棟の3階から上の部分がのぞいている。おそらく、完全にアルコール依存症になった最晩年のことだから、ポケットの中には日本酒の入った小壜か、ポケットウィスキーが入っていたかもしれない。彼は、それをときどきグビッとあおりながら、少し震える筆先で風景を写しとっていったような気がする。ひょっとすると、ときおりなんらかの幻覚でも見えていたのかもしれない。
 指先の震えをカバーするためか、筆づかいは風景を大胆に大づかみにして切りとり、局所的で微細な描写は避けているように見える。従来の作品にみられる、厚塗りで繊細な筆致とはかなり異なるマチエールで、どことなく投げやりな筆づかいさえ感じとれる仕上がりだ。画面を綿密に仕上げる根気が奪われているのは、もちろん身体から抜けきらないアルコールと、この時期に陥っていた精神状態のせいだろう。これまでの片多徳郎とは、かなり異なる別人のようなタブロー画面となっている。
「風景」描画位置1947.jpg
学習院昭和寮崖地.JPG
学習院昭和寮解体.jpg
 それでも、制作をつづけようとする意欲は残っていたらしく、長崎地域から下落合の近衛町下の工業地まで、最短で往復3km強の道のりを画道具を抱えてやってきている。絶作となる『風景』の出来が不本意だったのか、あるいはなんらかの別の要因から絶望のスイッチが入ってしまったものか、このあと片多徳郎は数ヶ月しか生きなかった。

◆写真上:自死する数ヶ月前、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『風景』。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)に掲載された片多徳郎。は、1932年(昭和7)に制作された片多徳郎『春畝』。は、1926年(大正15/)と1929年(昭和4/)に制作された片多徳郎『自画像』。
◆写真中下は、『風景』に描かれた崖上の拡大。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる『風景』の描画ポイント。は、1933年(昭和8)に撮影された近衛町に建つ学習院昭和寮。右下には甲斐産商店の工場が見え、点線は片多徳郎の描画方向。
◆写真下は、空襲で工場街が焼けた1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイント。は、現在の学習院昭和寮(現・日立目白クラブClick!)の崖地。は、集合住宅の建設のために解体中の学習院昭和寮(現・日立目白クラブの寮棟)でGoogle Earthより。

国立の佐野善作邸を拝見する。

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国立駅舎復元.JPG
 先日、BS-TVを観ていたら、目白文化村Click!に建っていたような西洋館が出てきたので、思わず録画してしまった。山田太一の脚本で、1983年(昭和58)に放送された『早春スケッチブック』(フジテレビ)というドラマだった。これもまた、下落合でロケClick!されたものかな?……と一瞬思ったのだが、同年はすでに下落合に住んでいたので、なにかのロケが行われていたとすれば耳に入ってもいいはずだった。
 さっそく調べてみると、くだんの西洋館は国立(くにたち)に建っていた東京商科大学(現・一橋大学)の学長・佐野善作邸だった。どうりで、目白文化村の風情と似ているわけだ。下落合の第一文化村から、1925年(大正14)12月に箱根土地本社Click!が社屋を中央生命保険Click!に売却し、移転していった先が「国立(くにたち)大学町」であり、同社は新たな本社屋を国立駅前の広場に面して建設している。つまり、「国立大学町」の開発や佐藤善作邸は、目白文化村と同様に箱根土地の仕事なのだ。
 箱根土地は、1924年(大正13)ごろから、下落合に住む地主の姻戚つながりで東大泉に大泉学園都市Click!を、また小平には小平学園都市の開発をはじめていた。しかし、国立大学町と小平学園都市には、東京商科大学(および同大学予科)の誘致に成功しているが、大泉学園への専門学校あるいは大学の誘致は失敗している。ただし、学校の誘致には失敗したものの、戦前まで開発済みだった土地のほぼ6~7割の敷地が売れ、住宅街と呼べるような街並みが形成されていたのは大泉学園だった。
 国立の場合は、ちょうど大泉学園ケースの逆で、まず東京商科大学が移転してきて大学町がスタートするのだが、本格的な住宅街の形成は戦後になってからスタートしている。1941~42年(昭和16~17)に撮影された空中写真を見ると、ほとんどがアカマツ林と草原で、おそらく大学関係者の家々がところどころに点在するような風景だった。
 関東大震災Click!により主要な校舎が破壊され、東京商科大学が神田一橋から東京郊外への移転を模索していたころの様子を、2004年(平成16)に新潮社から出版された辻井喬(堤清二)『父の肖像』から引用してみよう。ちなみに「次郎」は堤康次郎Click!、「中島」は堤康次郎の右腕でのちに箱根土地の社長になる中島陟(のぼる)のことだ。
  
 大学の建物に入って、次郎は学長室が狭くて薄暗い場所にあるのに驚いた。/佐野善作の最初の質問は、場所は何処か、というのだった。/「まだ決めていません。移転の御意思の有無を伺い、どんな条件の場所が大学から見て好ましいかを知ってから土地を探すつもりです。手持の土地を利用して欲しいというのではありません。しかし、その意志があれば土地は見付けられます」と次郎は断言した。/佐野善作は大きく頷き、副学長と事務長のあいだにも寛いだ空気が生れた。事務長が、場所は今の大学から出来れば電車で四、五十分、乗換えなしで行けるところが望ましい。駅に近ければなお結構だ、と説明し、/「まあ、そうした場所はなかなかないだろうが、広さは最小で二万坪は欲しい。今は四千坪だから、学科を増やすにも、まず場所を決めるのが大変なんだ。国の予算獲得は吾輩が責任を持つ」と佐野善作が事務長の話を引取った。(中略) 電車が国分寺を過ぎて切通しを抜けると中島が言っていたように一面の草原が目に入り、次郎は思わず感歎の声をあげた。彼は多摩湖鉄道の視察に国分寺駅までは何回も来ていたのだが、それから先へ足を伸ばしていなかったのである。
  
 こうして、東京商科大学の移転先は谷保村(現・国立市)に決定した。大学の移転は、1925年(大正14)に文部省の認可が下り、1927年(昭和2)に兼松房治郎(兼松商店)が寄贈した講堂が竣工したのを皮切りに、図書館や大学本部などの建物が次々と建設された。そして、1930年(昭和5)にすべての移転が完了し、翌年には大学移転記念式典が谷保村で挙行された。佐野善作が千駄ヶ谷の自邸から、国立に竣工したばかりの新邸に転居したのは1929年(昭和4)のことだった。
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 佐野善作の東京商科大学と、堤康次郎の箱根土地がかわした国立開発をめぐる「覚書」を参照すると面白い。下落合の目白文化村では、土地を売らない地主Click!に対しては強引かつワンマンClick!で威圧的だが、相手が国の大学だとなんでもいいなりになっていたのがわかる。東京商科大学と箱根土地の間では、1925年(大正14)9月9日と同年9月12日の二度にわたる「覚書」の存在が確認されているが、土地でも駅でも道路でも上下水道でも、なんでもお望みのまま無償で提供します…というような、とてもビジネスの交渉とは思えない一方的で卑屈な内容になっている。それほど堤康次郎は、なんとか日本で「国立大学町」を実現したかったのだろう。
 同「覚書」には、箱根土地の所在地が「豊多摩郡落合町下落合五七五番地」と記載されている。下落合575番地は、堤康次郎の自宅Click!の住所であり、下落合1340番地に建っていた実際の箱根土地本社の所在地ではない。おそらく、法務局への株式会社登記の所在地欄に、堤は自宅住所を書いているのだろう。堤康次郎が下落合から転居したあと、大正末の下落合575番地の同邸には、堤が経営する駿豆鉄道の取締役だった長坂長が転居してくる。また、堤自身が仕事の都合で転居したあとも、家族は下落合に残って新たな自邸で暮らしていたようだ。
 さて、映像に残された佐野邸を観察すると、薄いブルーに塗られた下見板張りの外壁に赤いスレート葺きの屋根、その上には傷みが進んだのか斜めに傾く尖がったフィニアルが載っている。窓枠は白で、ところどころの窓には色ガラスが嵌めこまれている。独特な館のかたちをしており、映像から見る限り敷地に入って右手にある、東向きの門に近い位置から見上げると、大きな切妻の屋根がふたつ直角に組み合わされ、建物全体はおおよそ凹型しているのがわかる。だが、門を入るとすぐにエントランスや玄関ではなく、東棟を左手に見あげながら回廊のような小路をグルリと邸前の道路に沿って西側へ廻りこむと、西棟の下にある玄関へたどり着けるというレイアウトだ。
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 建設された当初は、樹木の背も低く陽当たりもよかったのだろう、佐野邸の南側には広い芝庭を含む庭園が拡がっていた。1940年(昭和16)の空中写真を確認すると、同邸を取り巻く屋敷林がそこそこ育っており、住みやすそうな邸になっていたのがわかる。だが、戦後は邸を取り巻く樹木が大きく育ちすぎ、かなり陽当たりを妨げていたのではないかと思われる。1980年代の空中写真を見ると、ときどき樹木を剪定しては陽当たりを確保していたようだが、南の芝庭はほぼ樹々におおわれて全体が日蔭になってしまっている。さらに、佐野邸が最後にとらえられた1992年(平成4)の写真では、赤い屋根まで屋敷林の大樹が覆うようにかぶさっているのが見てとれる。
 ドラマ『早春スケッチブック』では、佐野邸の外観ばかりでなく、内部までそのまま撮影に使用しているようで、床鳴りや窓をたたく枝葉や風の音などがそのまま録音されているが、時代をへて焦げ茶色になった柱や階段の手すり、昭和初期の落ち着いた室内の意匠を細かく観察することができる。また先述したけれど、窓のところどころには色ガラスが嵌めこまれ、陽光を少しでも多くとり入れるよう設計された大きな窓や石造りの暖炉など、当時のモダンな雰囲気を醸しだしている。
 さっそく、佐野邸跡(現:一橋大学佐野書院)を中心に、「国立大学町」をひとめぐり歩いてきた。ちょうど、箱根土地の河野伝Click!が設計した旧・国立駅を元通りに再建する建設工事が進捗しており、赤い尖がり屋根とドーム状の採光窓には大工が貼りついている最中だった。(冒頭写真) 佐野邸がいつ解体されたのかは不明だが、少なくとも1992年(平成4)の空中写真まではその存在を確認することができる。保存運動まで起きたらしい佐野邸だが、北側の一橋大学キャンパス内にある職員集会所の大きな西洋館と三間道路をはさんで向き合い、美しい風景を見せていたのだろう。
 しばらく国立の市街を散策したが、一橋大学の構内にある校舎や講堂、図書館などの近代建築を除けば、戦前の建物らしい住宅は1~2棟(しかも1棟は廃屋)ぐらいしか見つからなかった。下落合の目白文化村や近衛町Click!に残された、大正期の住宅群よりも建築年数が若く、ほとんどの住宅が昭和の前半期に建てられている国立の街並みだが、よほど早くから建て替えが進んでしまったのだろう。中でも、記念館としても残せそうな佐野善作邸の解体は非常に残念だったと、ドラマの邸を内外から見ていて強く感じたしだいだ。
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 余談だが、主演している岩下志麻がいい。この女優は、わたしの故郷の隣り街出身で、演じる役柄やプライベートを問わず、江戸東京の(城)下町Click!育ちの典型的な女性を体現しているのだが、そのややキツイ気質と男まさりの性格に加え、少なからず“天然”気味でツンデレな内面とをどう掌握し、うまくコントロールしながら機嫌をそこねず、微笑をたたえた上機嫌のまますごさせてあげられるのかが、下町男のまさに腕の見せどころ……といったモチベーションを、無性にかき立てられるような女性なのだ。

◆写真上:屋根についたドーム状の採光窓が特徴的な、復元が進む中央線の国立駅舎。
◆写真中上は、1940年(昭和15)と1941年(昭和16)の空中写真にみる国立大学町。駅前には、箱根土地の新社屋が見えている。は、国立開発で発行された絵葉書写真(1926年~1931年ごろまで)。駅前広場の檻は、閉園した新宿園Click!で飼われていた鳥たちを収容する「水禽舎」。「水禽舎」を中心に撮影された絵葉書の、右手に見えているビルが新しい箱根土地の本社屋。下落合の本社屋が、まるで東京駅のように前時代的なレンガ造りだったのに対し、国立駅前の新社屋はよりモダンな木造モルタル建築のようだ。下左は、東京商科大学の学長・佐野善作。下右は、1914年(大正3)に内閣が作成した佐野善作を東京高等商科学校(のち東京商科大学)の校長に任命する決定書。
◆写真中下:『早春スケッチブック』(フジテレビ/1983年)で、ロケ現場となった佐野善作邸。門から入り、左手(南側)の建物を見ながら西側の玄関前に立つ。
◆写真下から、1940年(昭和15)ごろの佐野善作邸(南が上)、南側斜めフカンから見た1941年(昭和16)の同邸、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同邸、同じくカラーで撮影された1989年(昭和64)と1992年(平成4)の同邸。は、佐野邸と向かい合わせにある一橋大学職員集会所と、佐野邸の跡地に建てられた同大学の佐野書院。

画壇と訣別して下落合に住んだ夏目利政。

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 夏目利政Click!が、東京美術学校の日本画科へ学んだにもかかわらず、洋画の表現にも強く惹かれていたのは、やはり本郷区駒込動坂町109番地の実家2階に下宿していた、長沼智恵子Click!の影響が大きかったようだ。いまだ子どもだったにもかわらず、文展をはじめ多くの展覧会へ入選していた夏目利政は、しばしばその作品を彼女から容赦なく批判Click!された。夏目は、東京美術学校で日本画を学ぶかたわら、白馬会洋画研究所にも通って洋画の技術も身につけている。
 夏目利政は、1893年(明治26)に駒込動坂町の実家で生まれた。父親は腕のいい牙彫師Click!・夏目音作で、家庭の内証はかなり豊かだったらしく、江戸期には田安家に仕えた幕臣の家系だった。音作の父親、つまり夏目利政の祖父は彰義隊Click!に参加し、上野の戦争Click!で戦死している。ひょっとすると、夏目音作は銀座の池田象牙店Click!の仕事も引き受けていたのかもしれない。そのような家庭環境で、夏目利政はなに不自由なく育ち、子どものころから画才を発揮した。
 書(道)では、1902年(明治35)の9歳のときに展覧会で初入選しているが、絵画では1907年(明治40)の14歳のとき、日本勧業博覧会(東京府)で『畑時能』が、日本絵画展覧会(国画玉成会)で『競』が、そして第1回文展(文部省)で『春』が入選して世間を驚かせている。そのまま、夏目利政は連続して毎年なんらかの展覧会に入選しつづけており、1911年(明治44)の18歳のときには、第5回文展へ六曲一双の屏風絵『隅田川』を出品して再び入選している。
 周囲からその才能を認められて褒められ、チヤホヤされながら育ったであろう夏目利政は、長沼智恵子から「子供のくせにしてこんなまとまった絵をかくことはちっとも真実を知らないからで、個性のない、だれでも書(ママ)ける絵だ」と批判され、初めて大きなショックを受けたと思われる。それが、こまっちゃくれた子どもだったとみられる利政を、様式や技法にあまり縛られない洋画の世界へ目を向けさせ、ほどなく白馬会洋画研究所へと通わせるきっかけとなったのだろう。
 夏目利政は、11歳のときから梶田半古の画塾に入って日本画を習っている。1917年(大正6)の24歳のときに師の半古が死去すると、2年後の1919年(大正8)に未亡人の和歌夫人と結婚している。しかも、結婚した年の10月には早々に子どもが生まれているので、ひょっとすると「できちゃった」婚の可能性がある。そして、半古の子どもたち5人を引きとり、自分の母と祖母、そして生まれたばかりの実子も含め計10人の一家で、下落合793番地(のち夏目貞良アトリエClick!)へ、ほどなく下落合436番地のアトリエで暮らすことになった。夏目利政が26歳、和歌夫人は12歳年上の38歳になっていた。
 駒込動坂町から下落合のアトリエへの転居は、下落合にやってきたあまたの画家たちとは異なり、当時の「画壇」といっさい訣別するための転居だった。夏目利政は、師の日本画家・梶田半古の未亡人と結婚したために、周囲の画家たちから妬みや反感をかい、既存の画会や展覧会での創作・出品活動ができなくなってしまった。しかも、結婚してほどなく子どもが生まれたことも、不道徳だと見とがめられたゆえんかもしれない。当時の日本画の世界は、きわめて閉鎖的な人間関係であり「画壇」だったのだろう。以降、彼は独自で画業をつづけていくことになる。
 また、日本画だけでは生活できないため、本来の器用な才能や手先を活用して、下落合におけるアトリエ建築の設計などの仕事もこなしていたようだ。以前、下落合804番地の鶴田吾郎アトリエClick!を設計した事例をご紹介しているが、ほかにも夏目利政が設計したアトリエがありそうだ。また、自身のアトリエだった下落合793番地へ、弟の彫刻家・夏目貞良(帝展無鑑査)を呼び寄せたのをはじめ、下落合に住みたい画家たちの事情通、あるいは面倒見のよいコーディネーターのような役割りもはたしている。
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 下落合に先住していた中村彝Click!も、なにかあると最新情報を夏目利政に問い合わせていたらしい様子がうかがえる。1924年(大正13)10月28日、彝が死去する2ヶ月前に芝区三田に住む石若恵美あての手紙から引用してみよう。
  
 先程石若君逝去の報に接しましたが、余り突然で信ずることが出来なかつた為め、夏目君に使を走らせやうやくそのほんたうなのを知つて驚きました。ついこの間来られた時の元気な顔が未だ目に残つてゐるのに、もう再びあの温い様子を見ることが出来ないのかと思ふと泣かずには居られなくなります。
  
 知人の死を確めるため、誰かを近衛町Click!に近い夏目アトリエまで走らせたのだろう。
 また、夏目利政は「アビラ村」計画Click!にも積極的に参加していた。1922年(大正11)6月の計画を伝える新聞記事に、アビラ村の発起人として洋画家の満谷国四郎Click!金山平三Click!らと並び、日本画の夏目利政と彫刻家・夏目貞良の名前を見ることができる。同年6月10日に発行された、読売新聞の記事から引用してみよう。
  
 画家の満谷国四郎氏を名主にして新しい芸術家村が出来る。場所は目白奥の市外下落合小上二千九十二、二千八百六(ママ)、七百八十九の五番地に渡つて約七千坪、住民には昨日まで決定したものに洋画家では前記満谷(国四郎)氏を始め南薫造 金山平三の両画伯、日本画の夏目政利(ママ:利政)氏、彫刻家で北村西望、夏目貞亮(ママ:貞良)の諸氏だが、丁度眼前に開けた落合村の谷の景色が西班牙で有名なアビラの風景其儘といふ所からその名も阿比良村と名付け、満谷画伯を村長様に仰ぐ事に相談一決、目下銀座一丁目の東京土地住宅会社の手で地所を買収整理に従事してゐる。(カッコ内引用者註)
  
 夏目利政は、画壇やメジャーな展覧会とは訣別しているので、彼の絵が好きな個人からのオーダーや広告用の絵画、書籍などの挿画などでなんとか生活していた。だが、1921年(大正10)に第2子が生まれると家族は11人に増え、生活を支えていくのはたいへんだったろう。そこで、下落合に越してきたい画家たちのコーディネーターや、アトリエを建てたい画家の設計、地元の地主が建てる貸家の設計などを引き受けたりして、少しでも家計の足しになるような事業を試みているようだ。
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 1923年(大正12)9月に関東大震災Click!が起きると、下落合645番地の借家が傾き住めなくなった鶴田吾郎Click!は、夏目利政に相談して下落合804番地にアトリエを設計してもらっている。下落合800番地のアトリエにいた鈴木良三Click!は、その様子を見ていたのだろう、1999年(平成11)に木耳社から出版された『芸術無限に生きて』から、鶴田吾郎についての思い出を引用してみよう。
  
 (鶴田吾郎は)この年(1923年)夏目利政さんという建築好きの人がいて盛んに貸家を造っていたが、その人の世話で小画室を造られ移った。大震災に遭い長男の徹一君が疫痢で亡くなった。/翌年(1924年12月)は彝さんの死にあい、全力を尽くしてその後始末をするのだった。葬儀のことは勿論、遺作展、遺作集、遺稿集、画(室)保存会、遺品の分配等々。(カッコ内引用者註)
  
 この証言にもチラリと書かれているが、夏目利政がアトリエや貸家の設計を積極的に引き受けていた様子がうかがわれる。だが、もともと育ちがよくて人もよかったらしい芸術家の夏目利政が、ビジネスで十分な収入を得て成功するのはなかなか難しく、またアビラ村の事業計画は東京土地住宅が経営破たんClick!してしまったため、途中で頓挫してしまう不運にもみまわれている。
 1925年(大正14)ごろから、夏目利政は「寸土山人」という画号を使いはじめているが、日本画の注文は思うように取れなかったらしい。また、大正末から昭和初期にかけ、油絵にも積極的に取り組みはじめている。1931年(昭和6)には、下落合から和田堀和泉(現・世田谷区和泉)へと転居し、下宿屋を営むかたわらアトリエで地道に制作をつづけた。さらに、アトリエの近くにアパートを建設し、おもにアジアからの留学生を積極的に受け入れて面倒をみている。
 夏目利政は、1968年(昭和43)に死去しているが、現在、評価が高い作品は晩年のものが多い。特に洋画の連作『自画像』は、自身の内面を深く見つめて描いたような独自の表現域に達しており、しばらく目が離せず見つめつづけてしまう画面だと思う。
夏目利政「吹雪」1952頃.jpg 夏目利政「褐色の自画像」1965頃.jpg
夏目利政「灰色の自画像A」1967.jpg 夏目利政「黒の自画像」1967.jpg
夏目利政1941頃.jpg 夏目利政1963頃.jpg
 1957年(昭和32)、64歳の夏目利政は「下落合医院」の襖絵『浮舟』その他を手がけている。下落合からは1931年(昭和6)に転出しているにもかかわらず、彼を憶えていて絵の注文をしてくれる住民がいたことになる。このあたり、夏目利政の人がよく面倒見のいい性格を感じさせるエピソードだ。この「下落合医院」がどこにあったのかは、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内図」を参照しているが、いまだ見つけられないでいる。

◆写真上:1919年(大正8)から夏目利政アトリエがあった、下落合436番地の現状。
◆写真中上は、1921年(大正10)ごろに撮影された夏目利政()と年上の和歌夫人()。下左は、1907年(明治40)の第1回文展に入選した夏目利政『春』、下右は、昭和初期に制作された同『寒山拾得』。このような日本画の画題や構図が、長沼智恵子にはこざかしく思え痛烈に批判する要因となったのだろう。夏目利政と作品の画像は、1997年(平成9)に青梅市立美術館で開催された「夏目利政展」図録より。
◆写真中下上左は、1919年(大正8)ごろに制作された夏目利政『処女と白鳥』。上右は、1947年(昭和22)制作の同『勿来関』。は、1942年(昭和17)に撮影された世田谷の自宅庭を散歩する49歳の夏目利政。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる夏目利政アトリエ。
◆写真下上左は、1952年(昭和27)ごろ制作の夏目利政『吹雪』。上右は、1965年(昭和40)制作の『褐色の自画像』。は、1967年(昭和42)制作の同『灰色の自画像A』()と同『黒の自画像』()でいずれも洋画作品。下左は、1941年(昭和16)ごろの夏目利政。下右は、晩年の1963年(昭和38)ごろにアトリエで撮影された夏目利政。

雑司ヶ谷で暮らしたリヒャルト・ハイゼ。

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 リヒャルト・ハイゼが、東京高等商業学校(のち東京商科大学Click!:現・一橋大学)のドイツ語教師として来日したのは、1902年(明治35)8月のことだった。同年の3月に、前任のドイツ語教師が死去したため、後任の募集が行われハイゼが応募したという経緯だ。前任のドイツ語教師はイタリア人で、ドイツ語のほかスペイン語やイタリア語も教えていたため、おそらく発音が怪しかったのだろう、ドイツ語の授業は本格的なドイツ人教師に……という学校当局の意向で、改めて募集がドイツで行われたとみられる。
 ハイゼは、1869年(明治2)にキールで生まれているが、父親はキール大学教師で同時にプロテスタント教会の牧師、母親は地元では有名だった名門の学閥の家柄出身で、キールでは少なからず裕福な家庭だった。ハイゼは、おカネ持ちの子どもがみなそうであったように9年制のギムナジウムへ入学し、エリートコースを歩きはじめているが、途中で挫折や意思の変遷などにより紆余曲折したあげく、化学を専攻するためにキール大学へ入学する。だが、途中で「病気」のために退学し、東プロイセンやポーランドで農業に従事しながら身体を鍛えていたようだ。
 少年から青年にかけてのハイゼの経歴は、2012年(平成24)に中央公論新社から出版された瀬野文教『リヒャルト・ハイゼ物語―白虎隊の丘に眠る或るドイツ人の半生―』に詳しいので、ぜひ参照していただきたいのだが、ハイゼの“屈折”は、当時のドイツが置かれた複雑な政治状況ともからみ合い、さまざまな思想や意思が彼の青春時代には反映されていると思われる。
 来日したハイゼは当初、江戸期からの外国人居留地だった築地に住んでいる。明治に入ってからも、築地は欧米人の独特なコロニーを形成しており、そのエキゾチックな街並みに惹かれて多くの画家たちが通っているのは、以前にご紹介Click!したとおりだ。ハイゼは、東京高等商業学校でドイツ語教師として勤めはじめたが、その後、学習院、慶應義塾大学などでもドイツ語を教え、北里柴三郎の伝染病研究所ではドイツ語による医学ドキュメントの作成などに従事している。
 ハイゼが、学習院で教鞭をとるようになり、1908年(明治41)に学習院が四谷尾張町から高田村金久保沢・稲荷一帯(現・目白1丁目)に移転Click!してきたのとほぼ同じころ、小石川老松町59番地(カール・フローレンツ邸で仮住まい?)へ一時的に住み、さらに高田村雑司ヶ谷572番地へ自邸を建設して転居している。これが、いわゆる「雑司ヶ谷異人館」Click!の由来であり、ハイゼが日本を去りドイツへ帰国したあと、そして死去したあとも、71年間にわたって雑司ヶ谷とその周辺に住む多くの人々の目を惹きつづけてきた。同邸が解体されたのは、ハイゼの死去から39年後の1979年(昭和54)のことだった。
 瀬野文教『リヒャルト・ハイゼ物語』から、雑司ヶ谷でのハイゼを引用してみよう。
  
 ハイゼは、学習院が目白に移転した一九〇八年(明治四十一年)ころから一九二四年(大正十三年)に帰国するまで雑司ヶ谷(鬼子母神、雑司ヶ谷霊園のそば)に住んだが、外出するたびに近所の子供たちに付きまとわれたようだ。その界隈の古老たちの話では、子供のころハイゼがやってくるとみんなして「あっ、ハイゼだ、ハイゼだ」といっては面白がって取り巻いたという。大正末の話であり、ハイゼが日本を離れる少し前のことである。古老の話では「ハイゼは結婚していなかった」という。“二号さん” “愛人”を“異人館”とよばれる屋敷に連れ込んでは、取り替え引っ替えしていたが、近所の大鳥神社の縁日には気前よく寄付をしたそうだ。ハイゼは日本を去る二年前の一九二二年(大正十一年)、ドイツ・ハンブルグ郊外に家を建て、妻と四人の子供たちを先に帰して住まわせ、自分は一人日本に残り雑司ヶ谷の家に住んだ。
  
 このとき、ドイツへ先に帰国していた4人の子どもたちを抱えるヨシ夫人も、ハイゼとは箱根の温泉静養地で知り合ったとみられる日本女性だった。
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 東京高等商科学校や学習院では、さまざまな人物たちとの人脈が形成されている。ハイゼが学習院に勤務していたころの院長には、怪談の講演Click!で生徒たちの親から顰蹙Click!をかい、白樺派の学生たちからは前時代的と嘲笑されていた、こちらでもおなじみの乃木希典Click!もいる。ハイゼの教え子には、左右田喜一郎をはじめ、来栖三郎、印南博吉、久武雅夫、武者小路公共、そして昭和天皇などがいた。
 また、ハイゼが感銘を受け、終生にわたり尊敬しつづけた人物に北里柴三郎がいる。北里は、ドイツに留学して医学を学び、日本の医学を一気に世界レベルまで押し上げ、さらに伝染病に関しては世界をリードするまで研究を深化させた人物だ。北里は、ヨーロッパの学会で発表する論文の草稿や、著作の原稿などの校正をハイゼにまかせるようになっていたので、そこには相当の信頼関係が築かれていたのだろう。
 北里の伝染病研究所は、ドイツの師であるコッホの研究所とフランスのパストゥール研究所と並び、医学界の世界三大研究所と呼ばれるようになるまで成長した。ところが、面目を丸つぶれにされた東京帝国大学の医学部では、政府に陰湿な策謀や根まわしを繰り返し、北里の伝染病研究所を東京帝大医学部の下部組織にしてしまい、北里柴三郎を即座に辞任へ追いこんでいる。このあたり、東京帝大医学部における島峰徹Click!(歯科医学)への、欝々たる執拗なイヤガラセとよく似た体質であり経緯だ。こうして、北里は「国家もはやたのむに足らず」と宣言し、単独で私立の北里研究所を設立することになる。その後、今日へとつながる北里大学や北里病院へと発展するのは周知のとおりだ。
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 日本でのこのように多種多様な人脈が形成される中、ハイゼは旧・会津藩出身で東京帝大の総長だった山川健次郎から、会津戊辰戦争や少年たちで組織された白虎隊に関する悲劇のエピソードを知ることになった。ハイゼは、知人の宣教師アーサー・ロイドに奨められ、会津の白虎隊の少年たちが眠る飯盛山を訪れている。彼が薩長政府の「御雇外国人」でありながら、薩長史観に影響されずほとんど染まらなかったのは、急速に西洋化する日本の状況を非常に残念がっていたからだけではない。
 彼の会津や白虎隊に寄せる思いは、単に古き良き時代の日本への憧憬や、「忠」や「義」を尊重する「武士道」への単純なあこがれとは異なり、かなり複雑なイデオロギーの上に成立していたようだ。それは、限界を迎えていた西洋思想、あるいは西洋のシステムに対するアンチテーゼを模索しつづけ、そのヒントを東洋の当時は“新興国”だった日本に見いだしたかのような趣きがある。
 ハイゼは、東京高等商科学校の同僚で経済学を教えていた自由主義的な福田徳三とは、終生親しい関係をつづけている。同書より、再び引用してみよう。
  
 ハイゼはプロイセン式教育でゲルマン魂を日本の青年に叩き込み、武士道と日本人の忠誠心に心酔した人であり、西洋かぶれした日本人を何よりも残念がり、キリスト教を捨てて神道に宗旨替えした奇妙な外人であった。福田徳三も洋行して西洋の学問にひたりながらも、西洋のものの考え方には飽きたらず、資本主義と社会主義を克服したかなたに人類の明日を見ようとする、かなり奇妙な日本人であった。(中略) ハイゼと福田が妙に意気投合したのは、おそらく“反西洋”、“脱西洋”というところで気持ちが通じあったためだ。ところが白虎隊の丘に骨を埋めたハイゼを、単なる武士道の心酔者、封建制の遺物たるハラキリ・セップクの礼賛者、プロイセン仕込みの軍国主義者とのみ短絡的に解釈し、その一方で福田を近代経済学のパイオニア、デモクラシーの鼓吹者、ヨーロッパ・リベラリズムの伝道者=西洋思想の宣伝マンとしてこれまた短絡視すると、二人が終生変わらぬ親友であったことが理解できなくなってしまう。現代人の思考範囲の恐るべき狭さに、筆者は愛想が尽きているのでここでくどくど説明するつもりはないが、両者とも西洋を突き抜けたところに何かを見たいと思っていたのだろう。
  
 福田徳三は、昭和期に入ると西洋のデモクラシーを信奉する自由主義者=「国賊」として弾圧されたが、ハイゼは日本の「武士道」を理解したドイツ人として歓迎されている。だが、ふたりが見すえていたのは、そのような社会的な状況に左右されるご都合主義的な解釈の、さらにその先にあるモノだったのではないだろうか。
 ハイゼは1937年(昭和12)11月に再び来日し、雑司ヶ谷のハイゼの原Click!にたたずんで人手にわたったかつての自邸=雑司ヶ谷異人館をしばらく眺めている。そのあと会津若松に向かい、白虎隊の墓がある飯盛山を再訪して東山温泉に泊まり、当時の市長や町の人々から大歓迎を受けたようだ。
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 1940年(昭和15)4月23日、中国大陸を旅行中のハイゼは肝臓病で倒れ北京で死去している。遺骨はヨシ夫人と息子のエーリッヒ・カメイチロウ・ハイゼ、娘のゾフィ・ハイゼの手で日本に運ばれ、かねての遺言により会津の白虎隊が眠る飯盛山へ葬られた。

◆写真上:ハイゼ邸=雑司ヶ谷異人館跡で、現在は南池袋第二公園になっている。
◆写真中上は、1955~56年(昭和30~31)ごろに撮影された旧・ハイゼ邸。(提供:正木隆様) は、その“異人館”で撮影されたリヒャルト・ハイゼ夫妻と子供たち。
◆写真中下上左は、2012年(平成24)に出版された瀬野文教『リヒャルト・ハイゼ物語』(中央公論新社)。上右は、日本に着任したころのハイゼ。は、結婚前に日光で撮影されたハイゼとヨシ夫人。は、ハイゼも祭事には寄進した雑司ヶ谷の大鳥社。
◆写真下は、前列左の北里柴三郎と並ぶハイゼ。中左は、日本の近代経済学の祖といわれた福田徳三。中右は、会津の飯盛山に眠るリヒャルト・ハイゼの墓。ニベアクリームが供えてあるが、息子のエーリッヒ・ハイゼがドイツのニベアと日本の花王Click!との合弁会社を興したためであり、隣りのエーリッヒの墓と父リヒャルトの墓をとりちがえたものか。は、ハイゼ邸=異人館跡のあたりから望む“ハイゼの原”跡の現状。

淀橋浄水場を描いた正宗得三郎。

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 先日、神田神保町の「いのは画廊」に寄ったら、画廊主が1枚の作品を見せてくれた。わたしが、落合地域とその周辺域の風景画に興味をもっているのをよくご存じなので、「下落合って、昔は淀橋区だったよね」と作品を出してきてくれたのだ。板に描かれた大正期の作品名は、そのものズバリ『淀橋風景』で、モチーフは新宿駅西口にあった淀橋浄水場Click!の淀橋浄水工場機関室に付属する節炭機室だ。描いたのは、雑司ヶ谷や西大久保に住んでいた正宗得三郎Click!だった。
 より正確にいうと、レンガ造りの淀橋浄水工場の喞筒室(しょくとうしつ)背後にある機関室+節炭機室と、機関室の排煙をする巨大な煙突を描いたものだ。光線の具合から見て、ふたつある機関室と煙突のうち南側の機関室の一部と煙突の下部を描いていると思われる。レンガ造りだった同工場の煙突は、関東大震災Click!の揺れでタテに大きなひび割れが何本も発生し、震災後は工場自体の建屋も含め全体が補修されているが、『淀橋風景』に描かれた浄水場の機関室は震災前の様子をとらえている。
 淀橋浄水場が通水を開始したのは、1898年(明治31)12月からだが、淀橋浄水工場の機関室と煙突が竣工したのは操業ギリギリの時期だった。機関室の建設について、1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された『淀橋浄水場史』(非売品)から引用してみよう。
  
 (淀橋浄水工場の)建物は3区分され、ポンプ室は建坪215坪余、汽罐室は321坪余、節炭機室は2室あり、各室建坪61坪余で、基礎工事はすべて杭打地形とした。ポンプ吸水井はポンプ室床下に煉瓦造、内法巾8尺7分5分、長114尺、深さ24尺、水深15尺5寸とし、上水池から径1,200mm鉄管で導水し、各ポンプごとに内径800mm鉄管で送水し、各送水管は室外で合して1,200mmの鉄管1条となり、市内高地へ送水される。/機関室の設計は明治27年中に調製したが、その後、設計変更があり、28年8月詳細図の調製にかかった。また用材搬入、基礎根掘工事に着手した。この掘さくは、出水と降雨などで山崩れがあり、揚水機破損もあって、工事を一時中止したが、その後も冬の寒気で煉瓦工事が休止したり、翌年9月の多摩川出水では砂利、砂の供給が欠乏して工事中止があり、そのほか31年には煉瓦供給を請負った東京集治監の手配が悪くて煉瓦不足で休業したりの困難のすえ、31年中ほぼしゅん工し、翌年8月に全部を完了した。(カッコ内引用者註)
  
 同書の記述によれば、工事は遅れに遅れて通水を開始したあとも、淀橋浄水工場自体はいまだ建設中だったことがわかる。通水から9か月後の、1899年(明治32)8月にようやく竣工して全機関の稼働がスタートしている。
 かなり細かく描きこまれた『淀橋風景』は、浄水工場の機関室へ引きこまれている高圧電線までが1本1本ていねいに描かれているが、絵の具はかなり厚めに塗られ、レンガ造りのどっしりとした建物の質感がよく表現されている。手前の草原が枯れているように見えるので、晩秋から冬にかけての風景だろうか。奥に描かれた、空を二分する巨大なレンガの煙突がひときわ目を惹くが、この煙突工事も事故が多発して竣工が遅延している。同書より、再び引用してみよう。
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 煙突は煉瓦造り2基で各1基は気罐3組(6個)に対応して使用するもので、用法は通常は2組(4個)ずつを輪転使用することにし、掃除と臨時修繕の余地をとった。煙突基礎は地盤上に直ちにコンクリートで築造し、厚さ3尺、直径43尺の8角形で、基礎の最下部は地盤以下15尺である。煙突は2基併用で煙道を接続し、なお中間に阻通扉を設け単用もできるようにした。高さは地盤上120尺、地面線では外径16尺、厚さ煉瓦4枚、頂上は内径6尺5寸、厚さ煉瓦1枚半、底より高さ20尺までは内部に耐火煉瓦を使用した。煙道の内部は高さ7尺、幅4尺5寸とし、煉瓦で築造して内側には耐火煉瓦を使用した。(中略) これら築造工事の主要材料は別に購入し、工事は直営で施工した。基礎工事は明治29年5月に始め、煙突工事は同年12月に開始したが、途中で30年9月8日の暴風雨があり、煙突の足場崩壊などの事故があったりした。
  
 淀橋浄水工場の機関室背後から突き出た、高さが37m(121尺6寸)前後の巨大な煙突は、淀橋地域はおろか高い建築の少ない当時は、東京市内のあちこちからよく望見できたのではないだろうか。この淀橋浄水工場の斜向かい、青梅街道をへだてた東北東120mほどのところ、旧・柏木成子北町100番地界隈(のち淀橋町柏木成子100番地界隈)で育ったのが洋画家・小島善太郎Click!だった。レンガ造りの大きな淀橋浄水工場と煙突は、小島善太郎が淀橋小学校へ入学したばかりのころ、6歳のときに竣工している。
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 『淀橋風景』は、正宗得三郎Click!が明治末に暮らしていた高田村(大字)雑司ヶ谷(字)中原730番地の海老澤了之介Click!邸を出て、豊多摩郡大久保町西大久保207番地にアトリエをかまえた大正前半期ごろの作品だとみられる。描かれた板の裏には、「正宗得三郎 淀橋風景」と署名と画題が墨で書かれており、墨蹟はかすれてかなり古いものだ。
 おそらく、正宗得三郎は西大久保のアトリエを出ると西へ向かい、道路の左手に大久保病院Click!の病棟(現・新宿ハローワーク+大久保公園)を見ながら、山手線の線路のほうへ歩いていった。山手線の手前で、線路と平行に敷設された道路(現・西武新宿駅前通り)を南へ一気に下ると、淀橋町(字)五十人町と(字)矢場の間にある山手線の小さなガード(現・新宿大ガード)をくぐり西へ向かって少し歩けば、青梅街道(現・旧青梅街道)が貫通し淀橋浄水場の正門がある五叉路(現・新都心歩道橋下交叉点)にたどりつく。西大久保のアトリエから淀橋浄水工場まで、およそ1kmとちょっとの道のりだ。
 正宗得三郎は、淀橋浄水場の正門を入ると場内引き込み線の線路を横断し、浄水工場の南側にある庭園に入りこんだ。そして、庭園に掘られた小さな池や引き込み線の分岐線に背を向けてイーゼルをたてると、レンガ造りの工場建屋から西へのびた機関室に付属する、3つの特徴的な窓がうがたれた節炭機室の角と巨大な煙突をモチーフに、持参した板へ絵の具を置きはじめた。おそらく、浄水場の濾過池と沈澄池への立ち入りは制限されていただろうが、工場南側の庭園には正門の守衛に断れば入ることができたのだろう。
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 画家の描画位置からほぼ北を向くと、機関室と節炭機室に付属する巨大な煙突は前後で2本見えそうだが、あえて1本を省略したか、あるいはちょうど2本が重なって見えるような位置関係を選んでイーゼルをすえている可能性がある。明治末から大正期にかけ、淀橋地域や大久保地域の住民たちは浄水場の煙突の見え方で、いま自分がどのあたりにいるのかを推し量ることができたのではないだろうか。そんな地域のランドマークを感じさせる、淀橋浄水工場の“お化け煙突”だった。正宗得三郎『淀橋風景』は、いまだ買い手が現れないので、大正期の淀橋浄水場に興味がおありの方は「いのは画廊」へ……。

◆写真上:大正前半期の仕事とみられる、板に描かれた正宗得三郎『淀橋風景』。
◆写真中上の2葉は、1899年(明治32)ごろに撮影された竣工間もない淀橋浄水工場。は、淀橋浄水場の正門で工場は入って右手にあった。は、沈殿池側から遠望した浄水工場。より高いコンクリートの煙突が完成後で、昭和期の撮影とみられる。
◆写真中下は、淀橋浄水工場計画時の初期側面図と平面図。は、淀橋浄水工場の西側から東を向いて撮影された機関室・節炭機室つづきの巨大な2本の煙突。煙突に鉄輪がはまっているので、関東大震災による大きな被害の補修後か。
◆写真下は、1911年(明治44)の淀橋町市街図にみる正宗得三郎アトリエがあった西大久保207番地。は、同アトリエから淀橋浄水場へ向かった正宗得三郎の想定ルート。は、『淀橋風景』裏面に書かれたサインとタイトル。

「巣鴨の神様」の「至誠殿」と巌本善治邸。

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 以前、避難先の巣鴨にあった親の実家の防空壕から、日比谷公会堂めざして歩いた19歳の巌本真理(メリー・エステル)Click!について書いたことがある。1945年(昭和20)3月11日、東京大空襲Click!の翌日のエピソードで、向田邦子Click!のインタビューに巌本真理が答えた記事をご紹介していた。なお、このエピソードについては、向田邦子と巌本真理との間で認識の齟齬があると思われるので、改めて記事にまとめてみたい。
 この避難先(東京市内なので疎開とは呼びにくい)である巌本家、すなわち巌本真理の祖父が住んでいた住所は、豊島区西巣鴨653~703番地界隈の南西向きの丘上から斜面にあたる広い敷地で、大正初期の住所でいうと北豊島郡巣鴨村巣鴨庚申塚653~703番地ということになる。すなわち、「巣鴨の神様」Click!のいた「至誠殿」のある山田夫妻の住所と、明治女学校の創立者のひとりである巌本善治邸とが、同じ敷地で重なっているのだ。明治女学校があった丘上と、巌本邸や庚申塚大日堂のある南西斜面を含めて、一帯の小高い丘は江戸期から「大日山」と呼ばれていた。
 大正後期から昭和初期にかけて、大日山とその周辺を地元の方々が記録した資料があるので参照してみよう。地元の古老たちが集まり、1986年(昭和61)3月29日に座談会形式で当時の思い出を語りあったものだ。出席者は、明治末から大正初期生まれの方々が多く、1909年(明治42)に明治女学校が閉校になって間もない時期の情景についての証言ということになる。1989年(平成元)に発行された小冊子、『座談会集・巣鴨のむかし第1集』(巣鴨のむかしを語り合う会)より引用してみよう。
  
 田崎 (前略)坂を上って行くと右側が幼稚園になっていますが、そこが明治女学校のあった所ですね。西洋館が1軒有って、その周りがもう本当に森だったのです。その向こうの公務員住宅が2棟有る所と東大の学生寮の所が、帝大の農場でした。そこは後にテニスコートになったように記憶しています。トンボとりに絶好の場所でしたが、あの近所は怖いと言うか気味の悪い所と言うイメージが有りましたね。通るときは小走りに通り抜けたものでした。(中略)
 藤井 (前略)校舎と言うのは良く知りませんが、その西洋館は原っぱの突当りにポツンと有りました。巌本真理さんはそこの西洋館で育ったのかしら。
 西村 真理さんは帝国小学校で私と同級だったのですが、折戸に住んでいました。
  
 「田崎」という方は、1913年(大正2)生まれなので、大正後期には大日山でよく遊んでいたと思われる。「あの近所は怖いと言うか気味の悪い所」というイメージをお持ちなので、おそらく「至誠殿」にいた「巣鴨の神様」の印象が、いまだ地域の記憶として色濃く残っていたのかもしれない。
 「藤井」という方は、1914年(大正3)生まれで、森の中の原っぱに建っていた巌本家の西洋館を記憶している。「西村」という方はひとまわり若く1925年(大正14)生まれなので、1926年(大正15)1月の早生まれだった巌本真理とは同学年にあたる。巌本真理が小学生だったとき、すでに生家だった庚申塚の巌本善治邸を出て、より山手線の大塚駅に近い折戸に住んでいたのがわかる。
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 巌本善治が、市街地から郊外の巣鴨庚申塚に引っ越してきたのは、明治女学校が麹町区下六番町6番地から巣鴨への移転を余儀なくされた1897年(明治30)のことだろう。明治女学校は、巌本善治や田口卯吉Click!、木村熊二、植村正久、島田三郎の5人が発起人になり、1885年(明治18)に九段下に設立された。キリスト教をベースとしつつも、「欧米人が主導する女子教育ではなく、日本人民の手で女子の教育を行う日本の女学校」を標榜していた。明治女学校の関係者には、勝海舟をはじめ旧・幕臣(つまり江戸東京人)つながりが多いのが特徴だった。
 講師陣は当時の最先端をいく人々によって構成され、明治女学校は女子あこがれの高等教育機関となり、最盛期には300人の女学生が全国から集まった。同時に、巌本善治が1885年(明治18)から『女学雑誌』を、つづいて『文学界』を刊行しはじめたことで、さらに女子たちの人気が沸騰した。講師たちの顔ぶれを見ると、たとえば津田梅子や島崎藤村Click!、樋口一葉、田辺花圃、北村透谷、木村鐙子、中島湘烟、若松鎮子(巌本嘉志子)、星野天知、荻原守衛Click!戸川秋骨Click!、平田禿木、内村鑑三Click!、馬場孤蝶、荻野吟子……と、今日から見れば信じられないような顔ぶれがそろっている。そして、卒業生には野上弥生子Click!羽仁もと子Click!相馬黒光(良)Click!など既存のワク組みにとらわれない、新しい時代の女性たちを輩出していった。
 多くの人々を惹きつけた巌本善治の魅力について、横浜のフェリス女学校の杓子定規な校風が合わず、1895年(明治28)に明治女学校へ転校してきた相馬黒光(良)Click!の証言を、1977年(昭和52)に法政大学出版局から刊行された『黙移』より引用してみよう。
  
 (前略)ここでは校長先生(巌本善治)の講話というのに、女義太夫の「素行」の名が出る。「円朝」「小さん」というような人々のことが語られる、芸術至上の精神から、先生が捉えてきて示されるものは実にかくの如く自由で、味わい深く、聴いているうちに自分の視野がぐんぐんひろがり、あらゆるものに許されている向上の精神が、ここに、そこに、とさし示されるように感じられて、耀き深い人生の自分も許されたる一人であるという気がしたのでありました。/そういう魅力のある先生に対し、魅力の乏しい古い世界から出てきている教え子達は、ただもえ一途に憧憬を寄せ、求めていた完全なものをここに得たかの如くに、安心しきって、校内の空気に身も心も委ねてしまったようなところがあります。(カッコ内引用者註)
  
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 1909年(明治42)に、明治女学校が経済的に破たんして閉校したあとも、同校の校主だった巌本善治は敷地南西側の一画、つまり大日山の丘上と南西斜面の500坪といわれる敷地に住みつづけていたらしい。彼が住んでいた家屋は、旧・明治女学校の一部の建築または部材を移築したものかもしれない。それが大正後期になると、森に囲まれたちょっと不気味な風情になっていたのだろう。
 大正末ごろを想定して、地元の人たちが作成した「巣鴨新田周辺略図」(1975年)によれば、巌本邸の敷地は旧・明治女学校が建っていた「明治原」の丘上の南西端から、巣鴨第一尋常小学校(現・西巣鴨小学校)の北側に通う丘下の道路まで、つまり庚申塚大日堂の南側にあたる斜面全体だったようだ。また、西巣鴨第一国民学校(現・西巣鴨小学校)を1945年(昭和20)に卒業した方々でつくる、「鴨の会」が作成した「鴨の街」地図では、巌本家は「おばけ屋敷」などと書かれている。w
 巌本善治は、広大な敷地の一部を貸地ないしは貸家にしていたようで、その一画に建っていたのが「巣鴨の神様」の「至誠段」と山田勝太郎・つる夫妻の西洋館であり、大正末には星道会本部Click!だったようだ。また、大正末には巌本邸の南側斜面には新たな道路が拓かれ、住宅地化が進んでいるので一般住宅用に土地を貸したか、あるいは手放したかしているのだろう。
 メリー・エステル(巌本真理)は、大日山の巌本家で巌本善治の長男・荘民(まさひと)とマーグリト・マグルーダ(米国人)の長女として、1926年(大正15)1月に生まれている。小学校に上がると、さっそく“あいの子”としてイジメられたため4年で中退し、自宅で家庭教師による英才教育を受けることになった。このあたり、自由で主体性を備えた女性を育てるという、巌本家ならではのフレキシブルで自由な教育環境がうかがわれる。6歳からはじめていたヴァイオリンは、諏訪根自子(戦前)や前橋汀子(戦後)などを育てたロシアのアンナ・ブブノワ(小野アンナ)について学んでいる。
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 19歳になった巌本真理は、避難していた巌本善治(1942年歿)の邸敷地内、大日山の斜面に掘られた防空壕から、演奏会が予定されていた日比谷公会堂へ向けて歩きはじめた。小高い大日山からは、サーチライトで照らされながら市街地上空を旋回するB29の大編隊や、散開してバラまかれるM69集束焼夷弾の様子がよく望見できたかもしれない。

◆写真上:1897年(明治30)から大日山に移転してきた、明治女学校のキャンパス跡。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる明治女学校。は、巣鴨庚申塚に移転してきた明治女学校。下左は、明治女学校の校長や校主をつとめた巌本善治。下右は、その孫娘にあたるヴァイオリニストの巌本真理。
◆写真中下は、1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる巌本邸敷地。は、地元で作成された大正末の様子を伝える「巣鴨新田周辺略図」(1977年)。は、1927年(昭和2)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」にみる巌本邸の敷地界隈。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる巌本邸界隈。森に囲まれた原っぱに、ポツンと大きめな屋敷が見えている。中上は、1947年(昭和22)に撮影された同所。空襲で焦土と化しているが、大日山の斜面のどこかに巌本家の防空壕があるのだろう。中下は、地元の「鴨の会」が1945年(昭和20)現在を想定して作成した空襲直前の「鴨の街」地図。は、大日山の由来となった庚申塚大日堂。

平塚で記録された関東大震災。

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 以前、1923年(大正12)の9月現在、藤沢町(現・藤沢市)の鵠沼にアトリエをかまえていた岸田劉生Click!が、関東大震災Click!に遭遇した様子をご紹介Click!している。鵠沼の海岸近くは、地面が砂地なので揺れが激しく、岸田家は洋館だったアトリエ部を除き母家全体が倒壊してしまった。また、親たちから江戸安政大地震の伝承を耳にしていたのだろう、劉生は津波の来襲を怖れ、家族を連れて高台へと避難している。
 きょうの記事は、藤沢のもう少し西寄りにある街、湘南海岸の中央にある平塚町(現・平塚市)の関東大震災の様子を見てみたい。ちなみに、神奈川県の大地震被害の検討部会では、東日本大震災の発生を受けて2015年(平成17)に被害予測の全面的な見直しが行われたばかりだ。結果、平塚市はマグニチュード8.5の海溝型地震(相模トラフの震源想定)が発生した場合、最大で9.6mの津波が約6分で海岸域に到達するとした。また、同様の揺れで大磯と二宮では、約3分後に最大で17.1mの津波が到達するとしている。この時間差と津波の高さのちがいは、海底の地形に起因していると思われる。
 馬入川(相模川)と花水川にはさまれた平塚海岸は、海岸線から急に水深が深くなり遊泳禁止に指定されている。だが、大磯や二宮の海岸線は遠浅のため、津波の到達スピードや波の高さが大きく異なるのだろう。つまり、湘南海岸で海水浴場に指定されている海岸は、神奈川県が想定する海溝型の大地震(M8.5)が起きた際、津波の到達時間がきわめて早く、また波高もかなり高いということになる。おそらく、岸田家が住んでいた藤沢町の鵠沼海岸(海水浴場)でも、津波の到達はかなり早かったのではないだろうか。
 関東大震災のとき、平塚では約5kmも内陸にある四之宮の家々まで波が洗ったと伝えられているが、同地域は馬入川(相模川)に近いため、津波で逆流した川の水が堤防からあふれて、住宅を押し流したものだろう。海岸に近いエリア、すなわち平塚駅の南側では、どこまで津波が到達したのかがハッキリしない。なぜなら、大正期は国道1号線が通る駅の北側(旧・平塚宿)が市街の中心であり、いまだ砂丘だらけだった南側にはほとんど人家がなかったからだ。ちなみに、由比ヶ浜近くまで住宅が建っていた鎌倉ケースを例にとれば、坂ノ下にある御霊社ぐらいまで壊滅しているので、少なくとも津波は400~500mほど内陸まで押し寄せているのではないかとみられる。
 では、大震災が起きた瞬間の様子を、1938年(昭和13)に出版された『守山商会二十年史』(非売品)から引用してみよう。この時期、守山商会Click!は平塚町宮の前へ移転してきており、震災の様子は平塚駅のすぐ北側、国道1号線沿いの情景ということになる。
  
 震源地丹沢山とは四里とは距てゝはゐない。勿論朔日休業で寝てゐた(守山)鴻三氏の身体は一米も跳ね飛ばされた。縁側から庭前に三米も突き飛ばされて了つた。地震加藤宜敷の凄い形相で、工場へ匍匐(ころが)りつゝ行くと、女中始め二三士は真に腰が抜けて立つ事が出来ない。煙突は倒れてゐるが幸ひ工場は軽るい屋根であるから倒れる所迄は行つてゐない。付近の家は九割七分迄は将棋倒れになつて阿鼻叫喚の声が暗澹と漲つてゐる。日本に一ツしか無い、海軍の火薬廠の貯蔵庫は、次ぎから次ぎへと天柱も砕けるかと思ふ許りの大音響を立てゝ爆発する。火災は各所から起つた。阿修羅男(守山鴻三)は屋上に駈け上つた。そしてコスモスを根抜(ねこ)ぎにして防火に勉めた。人々には天譴でもこの工場に天祐であつた。風立つと余燼が危険であるから、彼は声を張り揚げて町の人を呼んだ。人々は言ひ合したやうに竹藪の中に逃げて仙台公に縋つてゐる許りで人影を見なかつた。数名の者と町の消防ポンプを持ち出して消火に努めて見たものの、道路は倒壊家屋で進行が出来ない。下の方から押し潰された人の断末魔の声が聴えて来る。(カッコ内引用者註)
  
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 大地震の直後、震源地は相模湾沖ではなく、「丹沢山」というデマが流れていたのがわかる。震源地が内陸部だというデマは、津波に対する危機感を鈍らせて非常に危険だ。
 身体が1mほど飛んだというのは、初期の突き上げるようなタテ揺れで、その直後に縁側から庭先まで3mほど突き飛ばされたのは最初の強烈なヨコ揺れた。本震のヨコ揺れはよほど強烈だったようで、台座に固定されていた露座の鎌倉大仏Click!が、前へ40cmほど弾き飛ばされて傾いているのを見てもわかる。
 このとき、平塚町内では死者476名、全壊家屋4192戸という大きな被害を出していた。また、地面が砂地の地域が多く、液状化現象で地中の砂や水が大量に噴出している。地面の液状化で家や人が呑みこまれたり、幹線道路を含め地割れが随所で起きていた。社史には、倒壊家屋で消防ポンプが進めないと書いてあるが、町内あちこちの道路で地割れが発生し、車両の通行ができなくなった。国道1号線では、馬入川(相模川)に架かる馬入大橋が壊滅し、また東海道線の馬入川鉄橋Click!も崩落している。いまでも、東海道線で馬入川(相模川)をわたると、関東大震災で崩落した旧・馬入川鉄橋のコンクリート橋脚跡を見ることができる。
 地震のあと、大規模な火災が発生しているのは東京や横浜と同様だが、平塚には海軍の火薬廠があったため、火薬庫の大規模な爆発事故も起きている。たまたま9月1日が土曜日だったため、工場に残っていた工員たちも少なかったのだろう。もし大地震が平日に起きていたら、火薬庫の爆発によりもっと深刻な人的被害が生じていたかもしれない。
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 その内に例の通り国府津に集金に行つた(守山)謙氏が、汽車は転覆又は火災の為の不通なので、自転車を買つて何回も川や田の中に跳ね飛ばされつゝ飛んで帰つて来た。勿論家族は全滅であらうと覚悟して来たので、一同手を執つて喜び合つた。(中略) 横浜も川崎も、帝都も、紅蓮が炎々天を焦がしてゐる。午前九時頃生家に辿り着いた彼は、そこに全滅した生家と健全であつた両親と弟達とを見出してホツとした。(中略) 雪隠許り造つてゐても仕方が無いので、平塚の工場へ舞ひ戻つて来た。すると汽車は馬入-国府津間、馬入-程ヶ谷間を気息奄々と運転してゐて、東から逃げて来た罹災者の群、西から上つて来る救援者の群が、絡繹蜒々(らくえきえんえん)として物凄い勢である。その人達は食べるに何物も無い。畑には甘藷も大根も最早や一片の残物も無い。買ふ金はあつても濁らぬ飲料水は一滴もない。(カッコ内引用者註)
  
 汽車の転覆とは、隣り町の大磯で地震と同時に起きた東海道線の脱線転覆事故Click!のことだ。自転車で走行中、川や田圃へ跳ね飛ばされるのは大きな余震のせいだろう。東海道線が馬入川(相模川)始点なのは、先述のように馬入川鉄橋が崩落したからであり、程ヶ谷(保土ヶ谷)から先の東へ進めないのは、横浜の市街地が大火災で壊滅Click!していたからだ。この大火災で、横浜の市街地は実に90%以上が焼失している。また、国府津から西へ進めないのは、小田原の手前で酒匂川鉄橋が崩落していたからだ。
 震災から数日後、川崎や横浜方面からの罹災者が、国道1号線を歩いて西へ避難していく様子が記録されている。そこで、「よし来たあの返品されたコーヒー牛乳を売り出せと兄弟は、一挙に何十箱も売つて了つた」……という、以前にご紹介した同社社史Click!の現代ではありえそうもない事業発展の文脈へとつながってくる。
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 平塚駅は地震で倒壊し、駅員や待合室にいた乗客が下敷きとなり、死者6名重軽傷者数十名を出している。また、もっとも被害が深刻だったのは相模紡績平塚工場の倒壊で、144名もの工員が犠牲になった。死者の中には、多くの女工たちが含まれていたという。

◆写真上:平塚駅から西を眺めた風景で、正面は高麗山から湘南平にかけての大磯丘陵。
◆写真中上は、関東大震災で崩壊した平塚駅ホームの屋根。は、倒壊家屋が目立つ平塚の明石町付近。は、校舎が全壊した平塚小学校(現・崇善小学校)。
◆写真中下は、崩落した花水川(金目川)の堤防。は、地割れで通行できなくなった花水川沿いの道路。は、崩落した国道1号線の馬入大橋。
◆写真下は、平塚海岸から見た三浦半島方面の眺め。突堤の上には江ノ島、先端には烏帽子岩が見えている。は、国府津駅近くの東海道線の惨状。は、鎌倉の津波被災地。由比ヶ浜から押し寄せた津波で、御霊社や江ノ電が走る坂ノ下の住宅地は壊滅した。

のべ1,700万人のご訪問、ありがとう。

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 先日、拙ブログへの訪問者が15年めで、のべ1,700万人を超えました。いつもお読みいただき、ほんとうにありがとうございます。きょうは、このサイトの記事を制作するにあたっての楽屋落ち……、というか情報の収集からテーマの設定、取材あるいは関連する資料集め、現地の取材や撮影、そして原稿書きにいたるまで、拙ブログの楽屋裏(内情)について少し書いてみたいと思います。少しグチが混じるかもしれませんが、いままでそれに類することはほとんど書いたことがないので、それに免じてご容赦……。w
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 先日、風呂に入っていたら、子どもたちが小さかったころ愛用していたカップを発見した。サンリオのキャラクター「KERO KERO KEROPPI(ケロ・ケロ・ケロッピ)」のイラストが入った、プラスチック製のカップだ。子どもたちは、小さいころこれで嫌々ながら歯磨きをしていたのを思いだした。
 湯船につかりながら、昔の想い出とともに、何気なくカップのデザインをぼんやり見ていたら、とんでもないことに気づいてしまった。カエルのイラストの上に書かれた、キャラクターの名前が「ERO KEROPPI(エロ・ケロッピ)」になっていたのだ。(冒頭写真) 「そっか、子どもに人気のケロッピは、実はエロだったのか」……とすんなり納得しかかったのだが、すぐに「ちがうだろ!」と湯船でのぼせ気味の頭でも、さすがにハッキリと異常さを認識できた。おそらく、校正ミス(不良品の品質チェック漏れ)ないしはミスプリントだと思うのだが、同じ「エロ・ケロッピ」が世の中に何千個か出まわってしまわなかったことを祈るばかりだ。
 ふだんから毎日、見慣れているもの、使い慣れているものは、改めてしげしげと眺めたりじっくり細部まで点検したりはしない。日常の風景の中に溶けこんでしまうと、そこに大きなミスや見落としなど“落とし穴”があることに気づかないのだ。日常的に作成する文章表現にも、ほぼ同じようなことがいえるだろうか。日々、同じようなテーマや関連する項目などで文章を書いていると、そこに入力ミスによる誤字脱字や、錯覚などによる誤記を見落としていることに気づかないケースがある。
 以前、ご指摘を受けた代表的なものには、西を「東」と書き、東を「西」と書きつづけてなんら不自然に感じなかった、東京大空襲Click!記事Click!があった。本人は東西を誤りなく書いているつもりなのだが、ご指摘を受けるまで錯覚に気づかなかった。また、つい右と左を逆にまちがえたり、西暦と元号の一致しないケアレスミスもときどきやらかしている。1985年が、「明治18」と書いてしまったこともある。(1885年が正しい) 事前の読みなおしで、“ヒヤリハット”のケアレスミスや勘ちがいを訂正したのは百度や二百度ではきかないが、事前に何度か目を通しているにもかかわらず、チェックをするりと抜けていく誤りや錯覚も少なくない。いわゆる、校正ミスや校正漏れというやつだ。
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 わたしは拙サイトの原稿を、仕事から午後8~9時ごろもどり夕食や風呂を終え、しばらくたった午後10時すぎからだいたい午前0時ぐらいまで、興が乗れば午前1時すぎまで書いていることがある。もちろん、毎日書いているわけでも、また書きつづけているわけでもなく、ときには本や資料を調べたり、疲れていればネットやBD、TVを見たり音楽を聴いたりしてボーッとすごすこともあるが、たいがい原稿にまとめるのは現在は深夜の時間帯だ。したがって、その記述には錯誤や入力ミス、おかしな表現がたくさんある……という前提で、翌日には必ず読みなおすことにしている。
 原稿のテーマは、自分で本や資料を漁っていて偶然「見~つけた」となることもあれば、どなたからか情報や資料をお送りいただき、改めて詳しく調べはじめることも少なくない。あるテーマについての取材や調べものは、仕事がなく時間を終日たっぷり使える土・日・祝日などの休みにまとめて行なうことになる。だから、原稿を書くのはどうしても平日の仕事を終えたあと、深夜にならざるをえないのだ。つまり、仕事でアタマがけっこう疲弊してボケており、深夜の時間帯でミスや錯覚、思わぬテンションの高まりなどが起きやすい環境での文章表現となってしまう。
 原稿を書いた翌日、サイトへ記事を「下書き」としてアップする前に、テキストのままもう一度よく読みなおし、しばらくしてからアップした「下書き」記事を、もう一度読みなおして公開することになる。以前は、サイトに「下書き」としてアップロードしてから、三度ないしは四度ほどは読みなおしができる余裕があったけれど、近年は記事のダラダラ長文化にともない、なかなか校正回数を十分に稼げなくなってしまった。だから、ときたま自分でも唖然とするほどの校正ミスが発生することになる。
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 いつだったか(ずいぶん昔だが)、当時、鎌倉にお住まいだった校正のベテランの方から、「広辞苑は校正ミスだらけなのよ」とうかがったことがある。『広辞苑』は、岩波書店から出版されている日本でもっとも信頼性が高いといわれている机上辞典だ。彼女は校正のプロフェッショナルとして、何十年間にもわたり『広辞苑』を校正しつづけてきたが、校正のたびに誤植や誤字脱字、表現の誤りなどを発見して、いっこうにミスが減らないのを、半ば自戒をこめて「ミスだらけ」と表現したものだろう。“校正の神様”と呼ばれるようなプロでさえそうなのだから、わたしの一度や二度の読みなおしなど、まるでザルの目が校正しているようなものだ。
 いまでこそあまり見かけなくなったが、平凡社の『大百科事典』レベルになると、いったいどれほどの誤りが存在したものか見当もつかない。お気づきの方もおられるだろうが、従来は紙媒体だったコンテンツや書類の電子化は、手作業による膨大な誤入力や誤変換をまねき、新たなミスを爆発的に増加させるリスクをともなうことになるのは、別に年金記録の課題に限らない。電子化された『広辞苑』や『大百科事典』は、いまだに紙媒体よりも校正ミスが多いのではないだろうか。くだんの“校正の神様”がチェックしたら、「誤りが増えてるじゃないの!」と怒りをあらわにされるのかもしれない。
 ましてや、いい加減な校正で記事を書いている拙ブログなら、なおさらミスや見落としが多いだろう。もし、どこかの記事で誤入力・誤変換や錯覚、誤字脱字を見つけられた方がいらっしゃれば、「ああ、また深夜の大ボケ頭でまちがえてるじゃねえか、おきゃがれてんだ!Click!」と、ぜひやさしくご指摘いただければ幸いだ。それに加え、最近は歳とともに長時間の集中力が持続できなくなりつつあり、注意や意識・気力が散漫になることがしょっちゅうだ。本格的なAIエンジンを搭載した、パーソナル向けの文章校正サービスが早く現実化してくれるとうれしいのだけれど、そのころには文章表現自体もAIやRPAにおまかせ……なんて時代になったら、さすがにイヤだな。
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 「エロ・ケロッピ」のカップ、ちょっと棄てるのが惜しいので、そのまま洗面所へ置いておくことにした。同じカップをお持ちの方は、ぜひお手もとの「ケロッピ」をご確認いただきたいのだ。ひょっとすると、「ケロ・ケロ・ケロッピ」ではなく洗面所や風呂場で、あなたにエロい眼差しを向けている「エロ・ケロッピ」なのかもしれない。

◆写真上:「ケロ・ケロッピ」ならぬ、目つきが怪しい「エロ・ケロッピ」のカップ。
◆写真中:建設業者に樹木が伐られて破壊された、オバケ坂の上半分。「下落合みどりトラス基金」Click!が伐採直後から抗議をつづけているが、責任者である建築業者の代表は逃げまわって電話にさえ出ない。の2葉は、下落合の風景。
◆写真下:下落合らしい風景のスナップショット。下のほうに掲載した写真は、わたしの安いデジカメでかろうじてブレずに撮影できる比較的大型の鳥たち。下落合には30種類を超える野鳥が確認されているが、いちばんはどこまで大きくなるのかハトほどにも成長した、相変わらず逃げまわっている野生化したインコ。

田端駅付近も歩いた佐伯祐三。

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 1926年(大正15)4月の初めごろ、佐伯祐三Click!はフランスから大阪の光徳寺を経由して下落合のアトリエにもどると、ほどなく当時は田端で農民文芸研究会の拠点となっていた椎名其二Click!を訪ねているとみられる。アナキストでありフランスの文化や文芸を研究していた椎名其二は、佐伯とはウマが合ったらしく第1次渡仏前からふたりは親しく交流していた。椎名の周囲に目を光らせていた特高Click!は、この交際から佐伯をマークしはじめた可能性が高いことは以前にも書いたとおりだ。
 椎名を訪ねた際、おそらく佐伯は田端駅周辺の風情に惹かれたのだろう、1926年(大正15)の春から秋にかけ何度かスケッチに訪れているようだ。明確なタイムスタンプが残るものに、同年9月15日の『電車』と9月16日の『田端駅』が「制作メモ」Click!に記録されている。このうち、チョコレート色をした山手線の車両Click!を描いたとみられる『電車』は戦災で焼失しているが、記載された『田端駅』が現存する『田端駅附近』×2作のうち、どちらの画面をさすのかは不明だ。現存する田端駅付近の作品×3点は、いずれも広大な田端操車場かその近くを描いていると思われ、連なる電柱や信号機、信号手小屋などにおもしろい画因をおぼえたのかもしれない。
 ただし、田端作品ではないかといわれるようになった『休息(鉄道工夫)』のみが、ほかの作品とは異質な存在だ。当初、同作は工夫たちの様子からパリのプロレタリアを数多く描いた、前田寛治Click!の影響を受けた第1次滞仏作品で、1925年(大正14)作とみられていた。ところが、佐伯アトリエを訪ねた勝本英治に、佐伯は「仕事を終えての帰り途に鉄道工夫の溜り場を覗いたところ、こんな情景に出会った」(生誕100年記念佐伯祐三展)と、1927年(昭和2)3月に語っていることが前世紀末に判明している。
 藤本英治は、アトリエにあった作品の中で描かれて間もないとみられる『休息(鉄道工夫)』が気に入り、その場で手に入れているが、画面をよく観察すると工夫たちの作業着もフランスのものとは異り、日本の作業着のような気配であり、同作はパリの労働者や周囲の風情を似せて、田端の鉄道員を描いた1926~1927年(大正15~昭和2)の国内作ととらえられるようになった。佐伯の多くの画集や図録では、同作を1925年(大正14)の作としている記述が多いので、ちょっと留意が必要だろう。
 昭和期に入ると、長谷川利行Click!が田端駅周辺に出没して車庫や変電所、操車場などの風景を描いているが、佐伯が田端の椎名其二を訪ねた大正の終わりごろ、周辺には「春陽会」を結成した山本鼎Click!や小杉未醒、倉田白羊Click!森田恒友Click!などの画家たちが集って住んでいた。また、芥川龍之介Click!の肖像画やデスマスクを描いた小穴隆一、すでに結婚をして谷中初音町15番地に転居してしまったが、のちに下落合へアトリエをかまえる太平洋画会の満谷国四郎Click!なども一時住んでいる。
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 佐伯が何度か通い、田端駅界隈の風景をスケッチしていた周辺には、多くの文学関係者が住んでいた。田端608番地の室生犀星Click!を中心に、同人誌「驢馬」を刊行していたまわりには中野重治Click!をはじめ、窪川鶴次郎Click!堀辰雄Click!、西沢隆二、宮木喜久雄などが参集し、彼らの近くにはカフェ「紅緑」につとめる佐多稲子(田島いね子)Click!の姿もあった。大正末、「驢馬」が先鋭化していくとともに、室生犀星はいつ特高に逮捕されてもかまわないよう、常にヒゲを剃るのは夕方にし、洗面道具を包みに入れ風呂場にまとめておいたというエピソードは有名だ。これらの詩人や作家たちの何人かは、こののち落合地域やその周辺域へと転居してくることになる。
 なお、室生犀星の一家が1928年(昭和3)、12年間住みなれた田端から馬込文士村Click!と呼ばれた大森谷中1077番地へと転居する際に、大森地域の貸家を探して室生家に紹介したのは、萩原朔太郎の妻・稲子だったことが判明している。その3年後、萩原稲子Click!は下落合の妙正寺川に架かる寺斉橋北詰めに喫茶店「ワゴン」Click!を開店し、落合地域に住む多くの画家や作家たちの拠りどころとなった。
 また、下落合の「植物園」で『虚無への供物』Click!を執筆することになる中井英夫Click!も、一時期、芥川龍之介邸の南200m余のところに住んでいた。さらに、1927年(昭和2)7月24日未明、田端435番地で服毒自殺をとげた芥川龍之介Click!の枕もとへ駆けつけたうちのひとり、歌人であり文学者の土屋文明も、佐伯が田端駅周辺を描いていたとみられる前後、1926年(大正15)の夏に田端から下落合へ転居してきている。だから、芥川邸へ駆けつけたのは田端の旧邸からではなく、下落合の新邸からだったとみられる。しかし、拙サイトで土屋文明は、清水多嘉示Click!がらみの諏訪高等女学校Click!での教員として記念写真に登場したのみで、下落合のどこに住んでいたのかは不明だ。
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 さて、昭和初期に日本橋矢ノ倉町から田端へと転居して育った、当時の風情をよく知る近藤富枝Click!は、1975年(昭和50)に講談社から出版された『田端文士村』の中で、1964年(昭和39)出版の窪川鶴次郎の『東京の散歩道―明治・大正のおもかげ―』(社会思想社)を引用しつつ、次のように書いている。
  
 「(前略)沼地の右がはには、高台通り面して玉突屋と入り口を並べて更科そばと旅館(著者注 松が枝)があつて、それらが汽車の煙でくろずんだ横つ腹を沼の上に見せてゐた。そして左がはには駅からのぼつてきて高台通りへ出るところに沼の上にかかつているやうな格好で白十字の喫茶店があつた」/当時のようすがありありと目にうかぶ描写である。ただし白十字は白亜堂の間違いで、この店は全く崖の上にのり出すような形で建ち、ボックスに坐れば佐伯祐三や長谷川利行の好んで書(ママ)いた田端駅構内の、いくらかうらわびしい、何ごとかを語りかけてくるような、底に懐かしさを秘めた風景が木の間ごしにながめられた。そして例の鉄道の枕木をそのまま使った黒い長々と続く柵は、もうそれだけでここが田端以外のどこでもないことを語っていた。そして、この白亜堂の床は、歩けばぎしぎしと揺れそうな危うさがあった。
  
 喫茶店「白亜堂」は大正期からつづく店なので、貧乏な長谷川利行はともかく、画道具を抱えた佐伯祐三は立ち寄っているのかもしれない。
 芥川龍之介が、近くに住む洋画家・小穴隆一に大正末ごろ「金沢人に気を許すな」と囁いたのは、どのような意味合いからだったのだろうか。近藤富枝Click!は同書の中で、「詩人から芥川のジャンルである小説を侵そうとしていた」室生犀星のことではないかと推測しているが、はたしてそうだろうか。室生犀星もそうだが、同人誌「驢馬」を刊行していた中野重治や窪川鶴次郎も石川出身の「金沢人」だった。彼らは昭和期に入ると、上落合を中心にしたプロレタリア文学界の中心的な存在になっていく。予感にすぐれた芥川龍之介は、目前に迫った文学界の激動=プロ文学の席巻を、どこかで敏感に感じとっていたのではないか?……と考えるのは、はたしてうがちすぎだろうか。
 佐伯祐三は、「田端風景」を何枚描いたのかは不明だが、現在画集や図録などで確認できるのは4作品だ。この中で、『電車』と『田端駅附近』×2点のどちらかが「下落合風景」シリーズClick!の制作を本格化する直前、1926年(大正15)9月中旬に描かれているのかもしれないが、『休息(鉄道工夫)』は明らかに季節がちがう。工夫たちは長袖の作業着をシャツに重ね着しており、佐伯が帰国した1926年(大正15)の春か、藤本英治が証言するように1927年(昭和2)の冬から春にかけてということになりそうだ。
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 それらの作品からは、どこからともなく石炭の匂いが漂ってきそうな、近藤富枝も書いているが「うらわびしい」けれど、どこか懐かしい雰囲気がそこはかとなく漂ってくる。枕木をそのまま流用した黒い柵からは、クレオソートClick!の刺激臭が鼻をつきそうだ。

◆写真上:田端駅前の跨線橋である、新田端大橋の上から眺めた田端操車場。
◆写真中上から順に、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『シグナル』、同『田端駅附近』A、同『田端駅附近』B。AとBどちらかの作品が、1926年(大正15)9月16日に制作された画面だと思われる。は、新田端大橋から撮影した山手線(左)と京浜東北線の軌道(中央)、そして東北・山形・秋田新幹線の高架(右)。
◆写真中下は、1926年(大正15)9月15日の制作とみられる佐伯祐三『電車』(戦災で焼失)。は、第1次滞仏作と思われていた佐伯祐三『休息(鉄道工夫)』だが、新資料の発見により1926~1927年(大正15~昭和2)に制作された田端関連の1作とみられるようになった。は、西側からホームを見下した田端駅。
◆写真下は、1915年(大正4)制作の曾宮一念『田端駅にて』(上)と1928年(昭和3)制作の長谷川利行『汽缶車庫』(下)。は、1923年(大正12)撮影の田端駅。駅舎の向こう側に、長谷川利行の「汽缶車庫」に似た建物が見えているが別の建物だろう。は、現存する大井町操車場の旧・大井町変電所。
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