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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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ようやく見えてきた上野山の古墳群。

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上野摺鉢山花見(安藤広重).jpg
 いろいろな資料を漁りながら調べているうちに、上野山に展開した古墳群の様子が少しずつ明らかになってきた。以前、上野公園内に唯一残された摺鉢山古墳Click!について、下落合の摺鉢山Click!とからめて触れているが、近年、上野の山も「古墳群」と名づけられるほど、大型古墳が密集して築造されたエリアだったことがわかってきた。
 眼下には谷田川(藍染川)Click!や忍川が流れ、なによりも不忍池Click!が拡がる雄大な景観は、見晴らしのいい場所に大型古墳を築造する古墳時代の葬例によく適合したのだろう。これらの古墳を見わたすと、残された摺鉢山古墳(残存100m弱)はむしろOne of themで、さらに規模の大きな古墳が築造されていた様子がうかがえるのだ。特に、戦後になると東京都などによるていねいな発掘調査が行われているが、明治以降に公園化されてからの特に大型古墳の破壊は、どれほどの規模だったのかが不明だ。
 まず、帆立貝式古墳と規定されている摺鉢山古墳だが、江戸期に安藤広重が描いた吉祥閣に隣接する摺鉢山古墳を見ると、当時から前方部が摺鉢山へ向かう参道として改造れていたのは明らかで、本来は100mをゆうに超える前方後円墳だったのではないかと思われる。(冒頭写真) 江戸の初期、摺鉢山の墳丘には五条天神Click!が移設され、摺鉢山ではなく「天神山」Click!と呼ばれていたことも判明した。また、五条天神が南西の現在地へ遷座すると、代わりに清水観音堂が建立されている。
 そして、同観音堂が南の現在地へ移設されるころから、摺鉢山と呼ばれるようになった。つまり、五条天神あるいは清水観音堂を建設する際に、すでに墳丘が整形され改造されていた可能性が非常に高いということだ。現存している100m弱の墳丘は、寺社建設に適合するよう整形された“残滓”にすぎず、さらに大規模な前方後円墳だったのではないだろうか。さらに、上野の公園化とともに墳丘は削られ、“見晴らし台”として整形がほどこされたとみられる。現在の帆立貝式古墳の規定は、現存する墳丘を計測したにすぎず埴輪片は採取されているものの、なぜか本格的な発掘調査は行われていない。
 次に、出雲の大国主(大己貴)を奉った五条天神社(大もとは第六天Click!ではないか?)や、花薗稲荷が鎮座している丘(旧・忍岡稲荷境内)だが、同天神の移設の際に上方の斜面から洞穴が出現し、さっそくキツネの「穴」と見なされて穴稲荷が建立されている。もちろん、狐穴が地中に埋もれているはずがなく、古墳の羨道ないしは玄室の一部が出現したとみられる。五条天神の境内や穴稲荷の規模からすると、50~70mクラスの円墳ないしは前方後円墳を想定できる。その北側に隣接する、上野の“時の鐘”も正円形に近い丘のかたちをしており、韻松亭も含めて古墳ないしは倍墳の可能性があるように見える。もちろん、現状では社殿や鐘楼、料亭が建っているため発掘調査は無理だ。
 室町時代に太田道灌が勧請したといういわれが今日まで伝わる、この忍岡稲荷のキツネ伝説(狐穴)は、江戸初期の寛永寺造営時にまでさかのぼれるため、当時は上野山の随所に洞穴が見つかっていた可能性がある。中でも、天海僧正がらみの伝説は有名で、江戸中期に書かれた菊岡沾涼『江戸砂子』から、その一部を引用してみよう。
  
 天海僧正此山御開基の時忍の岡に年へて住みつける狐、山もあわれに成ければ、住み所に迷ひ歎き悲しみて、此旨を大僧正へ夢中にうつたへ申事度々なれば。僧正不憫と思召、爰の地を与へ、則ち、をのが住むほこらの上に社を建て稲荷大明神とあがめおかせ給ふとなり
  
摺鉢山古墳前方部.JPG
穴稲荷古墳(仮).JPG
大仏山古墳(仮).JPG
 次に、1916年(大正5)に上野山一帯を調査した鳥居龍蔵Click!は、上野停車場のホームから見上げた景観を記録している。1993年(平成5)に学生社から出版された、坂詰秀一『古墳を歩く』からの孫引きになるが引用してみよう。
  
 上野の停車場を見下ろす方の崖に臨んだ所に、三四の丸塚の上を削られたものが分布している。(中略) 埴輪の破片を出す古墳を中心として、此処に古墳が多く存在していた。
  
 上野山の公園化で、すでに墳丘がかなり改造されている様子が指摘されているが、この「三四の丸塚」のうち、東京文化会館が建っている場所に築造されていたのが、1915年(大正4)に大野延太郎の調査で埴輪が採取された桜雲台古墳だ。現在は文化会館の下になってしまっているが、桜雲台古墳の周囲には、同規模の古墳か、あるいは倍墳とみられる墳丘が、少なくとも大正期まで残存していたことがわかる。古墳の規模は不明だが、東京文化会館の敷地規模を考慮すると100mほどになるだろうか。また、「三四の丸塚」は、北側の国立西洋美術館の側へ展開していたものか、あるいは南側の日本芸術院会館側なのかは、調査がなされずに破壊されているので不明のままだ。
 その近く、摺鉢山古墳に近接して料理屋「三宜亭」が建っていた丘があった。この丘からも、古墳期の埴輪片が発掘されていたようだが、発掘調査が行われることなく破壊され整地化された。古墳の規模としては、摺鉢山古墳よりもやや小さめだったとみられる。同様に、時の鐘の向かいにある上野大仏の丘陵全体も、古墳の可能性がきわめて高い。やはり、埴輪片などの遺物が斜面から採取されているからだが、後円部とすれば直径が50m前後となり、前方部を含めると摺鉢山古墳と同レベルの古墳を想定することができる。また、現在の清水観音堂が建っている丘もまた、昔日より古墳の伝承があるようだが、上に建物があるために発掘調査ができないケースだ。
 1962年(昭和37)に芳洲書院から出版された豊島寛彰『上野公園とその付近/上巻』には、昭和期の再開発で破壊される前の、古墳期の遺物が出土したエリアを取材していて貴重な資料だ。同書より、その一部を引用してみよう。
大仏山から摺鉢山.JPG
清水観音堂.jpg
蛇塚古墳文晁碑.jpg
表慶館古墳.JPG
  
 摺鉢山、三宜亭の小さい丘、大仏の丘、美術館脇の小丘、国立博物館内の丘、表慶館の地などを古墳としてあげられているが、これらの古墳はいずれも原形を失ってしまったのである。その中でも摺鉢山は都内屈指の古墳であったようで発掘当時、直刀その他の副葬品が発見されたということである。
  
 上記の中て、「美術館脇の小丘」と書かれているのが、東京都美術館の敷地にあった後円部とみられる墳丘=蛇塚古墳のことだ。当初は、北側の前方部を崩して1926年(大正15)に東京府美術館が建設されたようだが、現在は後円部も破壊されて全体が東京都美術館となっている。蛇塚古墳の墳頂には、谷文晁を記念する石碑が建てられていたが、現在は北側の広場脇の平地に移された。ここは、東京都による発掘調査が行われ出土物が保存されているはずだが、出土した遺物展や報告書を目にした憶えがない。古墳の規模としては、50~100mほどの前方後円墳ないしは円墳だったのではないか。
 また、文中の「表慶館の地」と書かれているのは表慶館古墳のことで、国立博物館を入った左手に、やや大きめな規模の古墳があった。国による発掘調査が行われているが、出土品は国立博物館内に保管されたままで公開されていない。同様に、国立博物館の庭園の築山として“活用”されたのが、文中の「国立博物館内の丘」だ。造園のため、かなりの人手が加わっているとみられるが、正円形の後円部はそのまま残されており、現存する規模は100mを超える前方後円墳だ。同庭園には、ほかにもいくつかの小丘があるので、それらも円墳または小型の前方後円墳なのかもしれない。
 前出の『古墳を歩く』から、表慶館古墳の箇所を再び引用してみよう。
  
 一方、明治三十五年(一九〇二)には「東京帝室博物館奉献美術館(現東京国立博物館表慶館)」の建設工事によって、直刀、鍔、鉄鏃、辻金具(馬具の一種)などが出土し、古墳の存在が明らかとなっていた。/また、旧東京都美術館の南正面には蛇塚と呼ばれる土盛りがあり、そこから須恵器の破片も採集されていた。/このように上野公園には、摺鉢山の前方後円墳をはじめ、多くの古墳が存在していた。現在、これらの古墳の中で残されているのは摺鉢山だけである。
  
 さて、駆け足で上野山古墳群を見てきたが、かんじんの中心部、つまりもともと寛永寺の中堂や六角堂、宝篋印塔などが造営されていた上野山の中核エリアは、明治政府の廃仏毀釈により寛永寺が破却され、すべて平坦に整地されてしまい、いまでは広場と大噴水のある「竹の台広場」になってしまっている。せめて、江戸期の地形のまま公園化されていたなら、寛永寺の“土台”からより大規模な古墳が発見されていたかもしれず、上野山が“古墳の巣”であったことがより判然としていたかと思うと残念だ。
国立博物館古墳1.JPG
国立博物館古墳2.jpg
上野地図(国土地理院).jpg
 薩長政府の教部省(のち文部省)は、その皇国史観Click!による歴史学や教育の観点から、100mを超える“王”または“大王”クラスの古墳が、関東地方のあちこちで築かれていたのではマズイと考えたにちがいない。あくまでも、坂東(関東)を人跡まれな「草木茫々たる未開の原野」のイメージに洗脳しておきたかったのだろうが、偏見にとらわれない戦後の科学的成果を踏まえた考古学や歴史学、古代史学の流れは、もはや止められない。

◆写真上:安藤広重『上野摺鉢山花見』に描かれた摺鉢山古墳で、前方部が登山道に改造された様子がよくわかる。おそらく、100m超の前方後円墳だったのだろう。
◆写真中上は、摺鉢山古墳の前方部斜面。は、穴稲荷古墳(仮)の羨道または玄室が出現した墳丘。は、大仏山古墳(仮)の後円部。
◆写真中下は、大仏山古墳(仮)の墳頂から東の摺鉢山古墳を眺める。中上は、昔から古墳が疑われている清水観音堂。中下は、蛇塚古墳(現・東京都美術館)の墳頂にあったころの谷文晁碑。は、国立博物館内の表慶館古墳跡。
◆写真下は、南側から眺めた国立博物館古墳(仮)の前方部。は、西側から眺めた国立博物館古墳(仮)の後円部。は、上野山で判明している古墳群。

1945年3月11日のヴァイオリンソナタ。

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 戦時中、日本本土への空襲が予測されるようになると、各町内には防護団による各分団が組織され、盛んに防空・防火訓練が行われた。以前にもこちらで、淀橋区の落合防護団第二分団の名簿とともに、団内の班組織を詳しくご紹介Click!している。
 だが、家々の間に緑が多く、延焼を食い止める余裕のある郊外の山手住宅地ならともかく、市街地の防護団による消火活動は“自殺行為”に等しかった。B29から降りそそぐM69集束焼夷弾や、ときに低空飛行で住宅街に散布されるガソリンに対して、悠長な防火ハタキやバケツリレーなどで消化できるはずもなく、逃げずに消火を試みた人々は風速50m/秒の大火流Click!に呑まれて、瞬時に焼き殺されるか窒息死した。
 かなり前の記事で、ふだんの訓練では威張りちらしていた、元・軍人だった東日本橋の防護団の役員が、空襲がはじまるやいなや「退避~っ!」と叫んで真っ先に防空壕へ逃げこんだ親父の目撃談をご紹介Click!しているが、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!が防護団の稚拙な防火訓練や、粗末な消火7つ道具などでとうてい消火できるレベルでないことが判然とするやいなや、これまた防護団の役員は真っ先に家族を連れて避難しはじめている。だが、この一見ヒキョーに見える元軍人の「敵前逃亡」は、結果論的にみればきわめて的確で正しかったことになる。
 当時、防護団の防空・防火訓練で必ず唄われた歌に、『空襲なんぞ恐るべき』Click!というのがあった。親父も、ときどき嘲るように口ずさんでいた歌だ。
 1 空襲なんぞ恐るべき/護る大空鉄の陣
   老いも若きも今ぞ起つ/栄えある国土防衛の
   誉れを我等担いたり/来たらば来たれ敵機いざ
 2 空襲なんぞ恐るべき/つけよ持場にその部署に
   我に輝く歴史あり/爆撃猛火に狂うとも
   戦い勝たんこの試練/来たらば来たれ敵機いざ
 陸軍省と防衛司令部の「撰定歌」として、全国の防空・防火訓練で必ず唄われていた。この勇ましい歌に鼓舞され、東京大空襲で消火を試みようとした人々は、ほぼ全滅した。取るものもとりあえず、火に周囲をかこまれる前、すなわち大火流が発生する前に脱出Click!した人たちが、かろうじて生命をとりとめている。
 ふだん、あまり紹介されることは少ないが、東京大空襲Click!がはじまってから出動した消防自動車の記録が残っている。もちろん、消防車による消火活動でも、まったく手に負えないレベルの大火災が発生していたのだが、それでも彼らは出動して多くの消防署員が殉職している。中には、出動した消防車や消防署員が全滅し、誰も帰還しなかった事例さえ存在している。
 前日の3月9日の深夜から、ラジオのアナウンサーは東部軍司令部の発表(東部軍管区情報)をそのまま伝えていた。「南方海上ヨリ、敵ラシキ数目標、本土ニ近接シツツアリ」 「目下、敵ラシキ不明目標ハ、房総方面ニ向ッテ北上シツツアリ」 「敵ノ第一目標ハ、房総半島ヨリ本土ニ侵入シツツアリ」 「房総半島ヨリ侵入セル敵第一目標ハ、目下海岸線附近ニアリ」 「房総南部海岸附近ニ在リシ敵第一目標ハ、南方洋上ニ退去シツツアリ、洋上ハルカニ遁走セリ」……と空襲警報も解除され、住民たちは安心して就寝しようとしていた矢先、おそらく、消防の各署でも待機していた署員たちは、休憩あるいは仮眠をとりはじめていただろう。だが、翌3月10日の午前0時8分、もっとも燃えやすい材木が集中して置かれた、深川区木場2丁目に、B29からの第1弾は突然着弾した。燃えやすくて、大火災の発生しやいところから爆撃する、非常に綿密に練られた大量殺戮の爆撃計画だった。
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 深川の消防隊が、火の見櫓から真っ先に着弾を確認して全部隊を出動させているが、焼夷弾とガソリン攻撃に消火活動は無力だった。また、周辺の地域へ応援隊30隊を要請しているが、まったくどこからも応援の消防隊はこなかった。深川区の周囲、すなわち本所区、向島区、城東区、浅草区、日本橋区も同時に火災が発生し、他区への応援どころではなかったからだ。大空襲当夜の様子を、1987年(昭和62)に新潮社から出版された、早乙女勝元『東京大空襲の記録』から引用してみよう。
  
 深川地区に発生した最初の火災を望楼から発見したのは、深川消防署員である。すぐ地区隊合わせて計一五台の消防自動車が、サイレンのうなりもけたたましく平之町、白河町方面の火災現場へと急行した。全部隊がならんで火災をくいとめようと必死の集中放水の最中に、隣接する三好町、高橋方面が圧倒的な焼夷弾攻撃を受け、火の玉がなだれのように襲ってきた。/あわてて消火作戦を変更しようとしたが、時すでにおそく頭上に鉄の雨が降りそそぎ、二台の消防自動車に直撃弾が命中、隊員もろともに火の塊になってしまった。(中略) 火を消しにいったはずの消防自動車一五台も、みな大火流に呑まれ、大勢の隊員は車もろともに焼失して殉職しなければならなかった無念の心情が、都消防部「消教務第二三一号」報告書にしるされている。
  
 隣りの本所区では、全隊7台の消防車を出動させているが、隊員10名と消防車全車両を失っている。特に空襲も後半になると、B29は煙突スレスレの低空飛行で焼夷弾やガソリンをまき散らし、7台の消防車のうち2台が狙い撃ちされ、直撃弾を受けて隊員もろとも火だるまになっている。
 この夜、各区で出動した消防車だけでも100台を超えたが、うち96台焼失、手引きガソリンポンプ車150台焼失、消火栓焼失約1,000本、隊員の焼死・行方不明125名、消火に協力した警防団員の死傷者500名超という、惨憺たるありさまだった。特に、消火消防の熟練隊員たちを一気に125名も失い、多くの隊員が重軽傷を負ったのは、東京都(1943年より東京府→東京都)の市街地消防にとっては致命的だった。たった2時間半の空襲で、市街地の消防組織は壊滅した。
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 燃えるものはすべて燃えつくし、ようやく延焼の火も消えつつあった翌3月11日、19歳の少女が巣鴨の住居焼け跡の防空壕からヴァイオリンケースを抱えながら、ひたすら日比谷公会堂をめざして歩きはじめた。顔はススで黒く汚れ、着ているものは汚れたブラウスにズボンでボロボロだった。あたりは一面の焼け野原で、日比谷の方角がどこだかさっぱりわからなかったが、カンだけを頼りに南へ向かって歩きつづけた。
 やがて、焼けていない日比谷公会堂がようやく見えはじめると、大勢の人々が少女へ向かって歩いてきた。そして、彼女とヴァイオリンケースを目にしたとたん、あわてて歩いてきた道を引き返していった。そのときの様子を、向田邦子Click!が「少女」にインタビューしているので、1977年(昭和52)発行の「家庭画報」2月号から引用してみよう。
  
 最も心に残る演奏会は、東京大空襲の翌日、日比谷公会堂で催されたものだという。/すでに一度焼け出され、避難先の巣鴨も焼夷弾に見舞われた。ヴァイオリン・ケースだけを抱えて道端の防空壕に飛び込み命を拾った。こわくはなかった。明日演奏する三つの曲だけが頭の中で鳴っていた。/一夜明けたら一面の焼野原である。カンだけを頼りに日比谷に向って歩いた。公会堂近くまで行くと、沢山の人が自分の方へ向ってくる。その人達は、巌本真理を見つけ、“あ”と小さく叫んで、くるりと踵を返すと公会堂へもどって行った。恐らく来られないだろうと出された“休演”の貼紙で、諦めて帰りかけた人の群れだったのである。その夜の感想はただひとこと。/「恥ずかしかった……」/煤だらけの顔と父上のお古のズボン姿で弾いたのが恥ずかしかったというのである。明日の命もおぼつかない中で聞くヴァイオリンは、どんなに心に沁みたことだろう。その夜の聴衆が妬ましかった。
  
 公会堂では、「来られない」ではなく「大空襲で焼け死んだかも」とさえ思い、休演の貼り紙を出したのかもしれない。「あ」は、「あっ、生きてた!」の小さな叫びだろう。一夜にして、死者・行方不明者が10万人をゆうに超える大惨事だったのだ。
 巌本真理(メリー・エステル)の演奏に聴き入る聴衆の中には、前日の空襲で焼け出され火災のススで黒い顔をした、着の身着のままの人々もいたにちがいない。この夜、演奏された3曲とはなんだったのかまで向田邦子は訊いていないが、すぐにブラームスの話に移っているので、演奏が許されていたブラームスのソナタが入っていた可能性が高い。
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日比谷公会堂.JPG
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 前夜、M69集束焼夷弾が雨あられのように降りそそいだ、生き死にのかかった(城)下町Click!の夜に聴く、たとえばブラームスのヴァイオリンソナタ第1番は、はたしてどのように響いたのだろうか。明日死ぬかもしれない中で聴くブラームスは、湖のある美しい避暑地に降りそそぐ雨の情景などではなく、ヴァイオリンのせつない音色に聴き入りながら、前日まで生きていた人々を想い浮かべつつ、よく生きのびて、いま自分がこの演奏会の席にいられるものだという、奇蹟に近い感慨や感動を聴衆にもたらしたかもしれない。

◆写真上:古いステーショナリーを集め、向田邦子ドラマのタイトルバック風に気どってみた。擦りガラスの上に載せ、下からライトを当てないとそれっぽくならない。古いアルバムとドングリの煙草入れは、二度にわたる山手空襲をくぐり抜けた親父の学生下宿にあった焼け残りだが、現代のロングサイズ煙草は入らない。
◆写真中上:東京各地で行われた、さまざまな防空演習で新宿駅舎(現・新宿駅東口)の演習()に大病院の演習()、毒ガス弾の攻撃に備えてガスマスクを装着した東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)の防空演習()。
◆写真中下は、1945年(昭和20)1月27日の銀座空襲で消火にあたる防護団の女性。同爆撃は局地的なものだったので、消火作業をする余裕があった。は、偵察機F13が同年3月10日午前10時35分ごろに撮影したいまだ炎上中の東京市街地。
◆写真下は、空襲前の1944年(昭和19)に撮影された日比谷公園(上)と、戦後の1948年(昭和23)撮影の同公園(下)。は、日比谷公会堂の現状。は、ヴァイオリニストの巌本真理(メリー・エステル/)と向田邦子の左眼()。向田邦子の瞳には、敗戦から18年で自裁するカメラマンだった恋人の姿が映っている。

めずらしい関東大震災ピクトリアル。(6)

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両国橋1923_1.jpg
 東京各地を往来するには、川や運河や外濠・内濠をまたぐ「橋」の存在は、欠かせない重要な交通のポイントClick!だった。もしも、その橋が崩壊すれば、あるいは火災で焼失すれば、逃げ場をなくしてしまう人々が大量に発生することになる。1657年(明暦3)の明暦大火(振袖火事)Click!では、大川(隅田川)に橋がなく大勢の人々が追いつめられて焼死したため、1659年(万治2年)に大橋(両国橋)Click!が架けられ、江戸の各地に火除け地としての広小路Click!が造られたのは有名なエピソードだ。そして、関東大震災Click!でも橋が崩落あるいは焼失して、多くの死傷者を出している。
 大震災の直後、次々と出版された写真集やグラフ誌Click!には、大火災で焼失・崩壊した橋や、奇跡的に炎上をまぬがれた橋が紹介されている。最新の鉄筋構造と、昔ながらの旧態然とした木造の橋とを問わず、大火流Click!に巻きこまれた橋はことごとく焼失、または崩落しているのが目につく。地震の揺れと大火災から、かろうじて奇跡的に大きな被害をまぬがれた、大川(隅田川)に架かる市街地のおもな橋は、大橋(両国橋)Click!とその下流に架かる新大橋のふたつのみだった。明治期に花火見物の観客が押しかけ、その圧力で欄干が崩落して大きな事故を引き起こした大橋(両国橋)Click!だったが、関東大震災では避難する多くの罹災者の生命を救っている。
 写真集やグラフ誌に取り上げられている橋は、吾妻橋をはじめ、厩橋、相生橋、永代橋、神田橋、今川橋などだが、これらは完全に焼失あるいは崩落して大量の犠牲者を出した橋だ。中でも1807年(文化4)の江戸後期に、深川八幡祭に集まる人々を乗せて大規模な崩落事故を起こした永代橋Click!が、再び関東大震災で全焼・崩落して多くの犠牲者を出している。深川(東岸)から大火災に追われて避難する人々と、新川(西岸)から同様に避難する人々とが永代橋の上で衝突し、身動きがとれなくなった群衆を乗せたまま、橋が全焼・崩落してしまったのだ。
 当時の様子を、かろうじて生き残った人物の証言から聞いてみよう。1923年(大正12) 10月1日に大日本雄弁会講談社から発行された、『大正大震災大火災』に掲載されている「死灰の都をめぐる」のレポートから引用してみる。
  
 深川は、午後三時頃には一面の火の海でした。独身者の私は、どちらかと云へば呑気に、そちこち逃げ廻つて居ましたが、日の暮れ合ひには、何うにもならなくなつたので、人の群れに押され押されて、永代橋までやつて来ました。あれから、橋を渡つて日本橋か京橋の方面へ逃げようといふのでした。ところが大変です、逃げようと思つた対岸がまた一面の火で、あちらから逆に、深川へ這入つて来ようといふのです。何の事はない、幾万かの人間が、猛火の挟み討ちを喰つた形です。/私は、橋の中頃に居ましたが、身動きもならぬ始末、女子供は潰されさうで、もう悲鳴をあげて居りました。其の中に遠慮の無い火は、ぢりぢりと迫つて来ました。岸近くに居た者は、何うも斯うも熱くてならず、人を押しのけて中頃へ来ようと、命がけで押し合ふのです。其の中、悲鳴が聞えなくなつたと思ふと、片ッ端から倒れて行くのです。それが五十百と、見る見る殖えて行き、恐ろしいつたらありません。
  
永代橋1923.jpg
今川橋1923.jpg
厩橋1923.jpg
 永代橋に限らず、焼失・崩落した市街地の橋では、どこでも似たような情景が繰り広げられていた。ある地域と地域とを結ぶ橋上で、避難者同士がぶつかり合い身動きがとれなくなって、大量の犠牲者を生む現象だ。関東大震災から22年後、東京大空襲Click!では大火災に追われて浅草(西岸)から避難する人々と、向島(東岸)から避難する人々とが言問橋Click!の上で衝突し、同じ悲劇が繰り返されている。
 現在では、橋上の道路幅が広くなり、人もクルマも通行しやすくなった半面、ガソリンを積んだ自動車が渋滞したり、あるいは震災時の避難から乗り捨てられたままだったりすると、阪神淡路大震災や東日本大震災での事例がしめすように、次々とクルマのガソリンタンクに引火して爆発を繰り返し、関東大震災や東京大空襲のときよりもはるかに危険な状況を招来するかもしれない。
 大きな川の存在で、大火災の延焼がストップするはずが、橋上に渋列するクルマのガソリンタンクに次々と引火して、火災が発生していない地域までが延焼する危険性があるからだ。橋上に駐停車するクルマが、文字どおり導火線の役割りを果たす怖れが多分にある。上掲のレポート「死灰の都をめぐる」から、つづけて引用してみよう。
  
 やがて、橋の中頃に居た私でさへ、熱くてならなくなつたので、折柄修繕中で、足場を組んであつたのを幸ひと、それを伝はつて、ズルズルと川へ落ちて行き、退き潮で、水が浅かつたのを幸ひ、少し下の、とある杭に辿りついて、それにつかまり、首だけ川から出してふるへて居ました。/と、何うでせう、今し方まで、私の居たあたりの橋板に、いつの間にか火がつき、燃え出したではありませんか。川へ飛び込みたいにも飛び込めず、もがいてゐた女や子供、老人などは、声がしなくなつたかと思ふと、バタバタ倒れ、其の儘息が絶えるのです。八九時頃でせう。到頭橋は焼け落ちました。それ迄に川へ落ちた人の数つたら、いや、何とも云へない凄じい光景でした。/私は到頭翌朝まで、かうして川の中に居り、川一杯の死骸と、溺るゝ苦しみに、何でも構はず、しがみつく人々の断末魔のむごたらしさを見て居ましたが、今になつて考へると、命の助かつたのが、我ながら、不思議でなりません。
  
吾妻橋1923.jpg
神田橋1923.jpg
相生橋1923.jpg
 同じことが、現在では埋め立てられ道路になってしまったが、日本橋川から箱崎川、そして隅田川へと注ぐ竜閑川に架かっていた今川橋でも起きている。今川橋は完全に焼失・崩落し、震災後にはほとんどなにも残ってはいなかった。日本橋川の神田橋も焼失・崩壊したが、ここでは川面に停泊していた達磨舟にまで火が燃え移り、川面へ避難していた人々を焼き殺した。
 そのほか、吾妻橋や厩橋でも永代橋と同様のことが起きて、大量の焼死者と溺死者を出している。橋の木造部分が全焼し、火災が収まったあとには鉄骨の残骸しか残っていなかった。深川と月島を結ぶ相生橋は、橋全体が炎上してほどなく焼け落ち、橋上で焼死した人々も多かったが、その後、月島にいて逃げ道を絶たれた人々が大量に焼死している。延焼をまぬがれた佃島方面に逃げた人々は助かったが、反対側(南側)へ逃げた人々は迫る火災に刻々と追いつめられ、その多くが命を落とした。
 震災後、陸軍の工兵隊が焼け落ちた橋の応急修理をしているが、木橋はもちろん、大火流で罹災した鉄橋も、焼け残った鉄骨部分の傷みが激しく、ほぼすべての橋の架け替え工事が必要だった。現在、東京の(城)下町Click!に見る橋のほとんどは、このときの新築あるいは耐火耐震のために大規模な補修工事が行われたあとの姿だ。
両国橋1923_2.jpg
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 ほぼすべての橋が、石造りや鉄筋コンクリート製になった現在、大火災が起きても「橋は焼け落ちない」と思っている方が多いと思うが、大正時代にはほとんど問題にならなかったクルマの存在が、新たな脅威として大きく浮上している。震災時の条例にもとづき、大量のクルマが橋上で渋滞したまま、ドライバーの徒歩避難で放置された場合(東日本大震災では、事実として東京各地での橋上渋滞が現実化している)、ガソリンタンクが並ぶ橋は再び炎上して、人々の避難を妨げ生命を脅かすのではないか。
                                  <了>

◆写真上:全焼した実家のある日本橋米沢町側から眺めた、焼け残った大正期の大橋(両国橋)。橋自体は焼失しなかったが、両側に設置された歩道橋は崩落した。
◆写真中上は、炎上ののちに崩壊して大量の死者を出した永代橋。は、跡形もなく崩壊した竜閑川の今川橋。は、全焼し人々は応急の通路をわたる厩橋。
◆写真中下は、工兵隊による応急工事が進む全焼した吾妻橋。左手に見えているのは、多くの死傷者を出し壊滅したサッポロ麦酒工場。は、炎上・崩落したあとに応急の板がわたされた日本橋川の神田橋。は、月島の悲劇を生む原因となった相生橋の壊滅。佃島の一画を除き、石川島と月島の市街は全滅した。
◆写真下は、新大橋とともに焼け残った大橋(両国橋)。両側の歩道が、崩落している様子がわかる。は、簡易舗装された道路を走る地割れ。あちこちの道路で亀裂が入り、消防車の出動はもちろん市電や乗合自動車の運行も妨げた。

雑司ヶ谷で結成された「鬼子母神森の会」。

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鬼子母神境内.JPG
 以前、落合地域の南側にあたる大久保地域で、文学者や画家などが集まって結成され、洋画展覧会も開かれた「大久保文学倶楽部」Click!についてご紹介している。当時、山手線の内側である大久保地域(現・大久保1丁目/新宿6~7丁目/歌舞伎町2丁目)には、二科の正宗得三郎Click!をはじめ藤田嗣治Click!、小寺健吉、鈴木秀雄、中澤弘光、三宅克己Click!南薫造Click!などが住んでいた。
 同じような集まりが、明治末の雑司ヶ谷でも結成されていたことが記録されている。雑司ヶ谷に住んでいた文学者には、三木露風Click!や正宗白鳥、相馬御風、小川未明、徳田秋声、内田百閒Click!、楠山正雄、人見東明、谷崎潤一郎Click!、そして秋田雨雀Click!など地域がらからか、おしなべて早稲田文学グループが多かったようだ。
 また、画家には坂本繁二郎や斎藤與里Click!津田青楓Click!柳敬助Click!長沼智恵子Click!森田恒友Click!、戸張孤雁、斎藤豊作、そして正宗得三郎(海老澤邸に一時寄宿)などが住んでいた。秋田雨雀が呼びかけて、彼らが結成した集まりは「鬼子母神森の会」と呼ばれている。鬼子母神森の会は、地域の象徴としての鬼子母神を会名につけたわけでなく、実際に雑司ヶ谷鬼子母神の境内の茶屋に文人や画家たちが参集したので、そう呼ばれるようになった。
 1912年(明治45)に博文館から発行された「文章世界」4月号には、そのときの会合の様子が記録されている。当時の思潮論や芸術論が戦わされ、鬼子母神の森が暮れはじめミミズクが鳴くころまで、茶屋の焼き鳥(雑司ヶ谷名物のスズメ焼き鳥だろうか?)を食べながらつづけられたようだ。ちなみに、呼びかけ人だった秋田雨雀のあだ名は、「雑司ヶ谷の梟(フクロウ)」だった。
 当時の様子を、1992年(平成4)に弘隆社から出版された、後藤富郎『雑司が谷と私』から引用してみよう。文章は、秋田雨雀の言葉として紹介されている。
  
 私達はこの森の影の中に長い間住んでいる。この森の周囲には若い文学者や有名な画家の群が入れ替わり来て住んでいた。彼等の中にはもう立派な芸術を作りかけているものもある。年久しく住み慣れたこの森の影を逃れて都会の生活に入っているものもある。/「一旦都会に逃れて再び森の生活を慕って来たものもある。私達のやうに森の中に小さな家を造つてゐるものも亦森の外にゐるものにも、この森は一つの不思議な巣であつた」/御風、東明、未明、それから僕、この四人は現在に於いても、この森には一番深い縁故を持っている。それに近頃斎藤與里、津田青楓、柳敬助この三人の画家がこの森の近くにアトリエを造られた。
  
 秋田雨雀の自宅は、雑司ヶ谷鬼子母神の東側、本納寺の門前から弦巻川へと下る坂の途中の雑司ヶ谷24番地にあったが、現在は当時の緑深い面影はほとんどなくなっている。ちなみに、秋田雨雀の墓は自宅前の本納寺に分骨建立されている。
文章世界191102.jpg 秋田雨雀.jpg
雑司ヶ谷鬼子母神参道(明治末).jpg
雑司ヶ谷鬼子母神1919.jpg
 1912年(明治45)3月10日の日曜日、鬼子母神森の会は雑司ヶ谷鬼子母神境内の茶屋で集会を開いている。その様子を引用する前に、同書には落合地域についての記述が登場しているので、ためしに当該箇所を引用してみよう。
  
 落合と目白をはさんで新しく文化村が誕生したのは大正十一年ころのことであった。設計者は新劇の演出家村山知義であり、それ以来目白は少しずつ文化の香りが感じられるようになり、佐伯裕三(ママ:祐三)、大久保作次郎等が住むようになった。
  
 この一文を読まれた落合地域にお住まいの方々、あるいは拙サイトを以前からお読みの方々は「ウ~ン……」とうなって絶句し、首を傾げられるのではないだろうか。そう、上掲の記述のほとんどすべてが誤りなのだ。
 「落合と目白をはさんで」は、落合と目白(高田)は隣接していてどの地域も間にはさんではいない。「設計者は新劇の演出家村山知義」となっているが、目白文化村を企画・設計したのは下落合の箱根土地Click!にいた堤康次郎Click!であり、下落合の近衛町Click!アビラ村Click!も広く「文化村」としてとらえるのなら、企画者は東京土地住宅Click!の常務取締役だった三宅勘一Click!だ。当時、上落合の村山知義Click!は画家と舞台装置家であり、「新劇の演出家」ではないし目白文化村とはまったくなんの関係もない。
 また、佐伯祐三Click!大久保作次郎Click!は文化村には住んでおらず、大久保(1919年建築)や佐伯(1921年建築)が下落合にアトリエを建設して住むようになったころは、すでに多くの画家たちが落合地域にやってきてアトリエをかまえていた。ふたりが落合の画家たちの仲間入りをしたのは、ことさら早い時期のことではない。
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雑司ヶ谷鬼子母神参道.JPG
雑司ヶ谷鬼子母神.JPG
 このような文章を読むと、なんだか雑司ヶ谷地域に関する記述にも少なからず不安をおぼえるのだけれど、いちおう3月10日午後1時にスタートした鬼子母神森の会の様子を、『雑司が谷と私』よりつづけて引用してみよう。ちなみに、この日の焼き鳥料理は遅れに遅れて、実際に配膳されたのは午後2時30分ごろだったという。
  
 障子に射す午後の日が一分一秒毎に赤味を帯びて来るように森の会の人々の頬が赤くなって来る。臆病と皮肉を取交ぜた御風の顔もほんのり桜色となり、孤雁は例の如く首を曲げて黙想している。/夢二の絵にありそうな髪を伸ばして黒いネクタイを胸に大きく結んだ洋画家の津田清楓君、少年のような皮膚に黒く柔らかな髪を分けた斎藤與里君、白く四角な顔に濃い髭を生やした柳敬助君、六代目に似てそれよりも少し神経質な表情を持っている谷崎潤一郎君、僧侶のように丸く肥った顔に細い皮肉な目を持っている上司小剣君、整った顔だが惜しい事には少しあばたのある徳田秋声君(先生でもよろしい)。(中略) この騒ぎの次の間から蓄音器がしっきりなしに聞えて来る。夜は段々更けて行く。森にはふくろうが鳴く……/鬼子母神近くに住む森の住人長沼智恵子(高村智恵子)の姿はこの日の会合にはなかった。
  
 長沼智恵子が、近隣の画家たちも多く参加しているこの日の会合に出なかったのは、同年4月に予定されている太平洋画会展への出品制作に忙しく、のんびりと料理を食べてお酒を飲んでいる余裕がなかったのかもしれない。大久保地域とは異なり、雑司ヶ谷地域で近隣画家たちの展覧会が開かれたという記録は、残念ながら見あたらなかった。
法明寺門前(明治末).jpg
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 長沼智恵子は、高田村雑司ヶ谷やその周辺に拡がる風景を、ずいぶん写生してまわっていたようだ。後藤富郎の記憶によれば、『鬼子母神境内』や『弦巻川』というタイトルの風景画が存在するようなのだが、わたしはいずれの画面も観たことがない。

◆写真上:かつての雑司ヶ谷の森をほうふつとさせる、晩秋の鬼子母神境内。
◆写真中上上左は、明治末の文学者たちが多く寄稿した「文章世界」(1911年2月号) 上右は、ルバシカと思われる洋装の秋田雨雀。は、明治末に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道と茶屋。は、1919年(大正8)撮影の鬼子母神本堂。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」にみる秋田雨雀邸。は、現在の雑司ヶ谷鬼子母神参道と鬼子母神本堂。
◆写真下は、明治末に撮影された法明寺の森。長沼智恵子アトリエClick!は、2軒とも法明寺裏の北西150~250mほどのところにあった。は、1912年(明治45)1月25日の青鞜社新年会で撮影された長沼智恵子。は、谷中真島町1番地の太平洋画会研究所門前で記念写真に収まる長沼智恵子(左から3人目)。右から2人目には、同研究所の創立者のひとりであり中村彝Click!亀高文子Click!の師だった満谷国四郎Click!が写っている。

贋作に箱書きする満谷国四郎。

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 下落合753番地(のち741番地)に住んだ満谷蔵四郎Click!は、同じ岡山県賀陽郡門田村(現・総社市)の出身で、故郷の後輩で友人でもある建築家・薬師寺主計Click!に、下落合アトリエの設計を依頼している。おそらく、1917年(大正6)に設計を依頼し、翌1918年(大正7)の夏に竣工した自邸+アトリエClick!へ、谷中の初音町15番地(現・谷中5丁目)から転居してきたのだろう。
 岡山県の地元では、満谷国四郎の画名があがり太平洋画会Click!を結成してしばらくすると、彼の贋作(半折)やニセ色紙が大量に出まわりはじめていたらしい。満谷自身は、それをかなり気にしていたらしく、薬師寺主計に回収してくれるよう依頼している。もちろん、贋作の所有者は「故郷の偉人」の真作と信じて購入しているので、薬師寺は所有者に贋作であることを説得したうえで、満谷国四郎の真作と交換するという、たいへん面倒な仕事をまかされた。
 だが、次々と出まわる贋作は回収しきれず、薬師寺はついに回収をあきらめ、満谷自身もとても交換点数を描ききれないのでやめてしまった。よくよく調べてみると、満谷国四郎にゆかりのある親戚が贋作をこしらえ、1枚を5円から10円ほどで売っていたのが判明している。明治末から大正初期の5~10円は、今日の給与換算指標に照らすと、約7万~15万円ほどになるだろうか。贋作の画面は、美術にまったく素人の目から見ても似ておらず、かなり稚拙でヘタクソな絵だったようだ。
 満谷国四郎が、あまりの量に贋作つぶしをあきらめてしまったので、薬師寺主計は「自分のほうが、満谷の画面そっくりに描ける」とばかり、果物の静物画を描いて岡山の実業家のもとへ持ちこんだ。ところが、贋作騒ぎで用心深くなっていた実業家は、薬師寺の作品を満谷国四郎のもとへわざわざ送って、真作かどうかを確認している。この時点で、薬師寺の贋作がすぐにバレてしまうと思いきや、満谷国四郎はその贋作に箱書きをして送り返しているのだ。
 以下、満谷国四郎の死後、1937年(昭和12)に写山荘から出版された『満谷翁画譜』収録の、「満谷国四郎氏追悼座談会」から引用してみよう。
  
 薬師寺 その絵(贋作)を見るとどうも素人が見てもあまり似てゐない。そこで僕がいたづらに偽筆をやつて見たのですが、こいつ中々旨く行くのです。(笑声) それを或る岡山の実業家に満谷君の絵だと言つてから押し込んでやつたんですけれども。(笑声)
 成田 そいつは度胸がいゝですね。(笑声)
 薬師寺 ところがその先生「こいつは偽筆だらう」「いや、偽筆ではない本物だ、東京に送つて見ろ、箱書をするかせぬか、箱書をすれば本物だ」と云つたら到頭送つたのですが、ところが先生ちやんとそれに箱書をして来たのです。(笑声) さう云ふ中々面白い半面があつたやうですが……
 成田 それは今でも本物として存在してゐるのですか。
 薬師寺 ちやんと本物で通つてゐますよ。(笑声)
 片岡 それは柿の絵ですか。
 薬師寺 柿と枇杷でしたか、これはもう永久に本物になるだらうと思ひます。
  
 文中の「成田」は写真家の成田隆吉、「片岡」は満谷邸に寄宿していた弟子の洋画家・片岡銀蔵のことだ。贋作騒ぎにウンザリしていた満谷国四郎は、「ううむ……。オレ、こんな絵かいたっけかなぁ?」と思いつつ、かなり自分の若描きに似ているのでつい箱書きをしてしまったのか、それとも「薬師寺のやつめ、まったく……」と苦笑しながら箱書きをしたものかは不明だが、そのとぼけてユーモラスな性格から、なんとなく前者のような気がしないでもない。
 この座談会のやり取りを読み、もし手もとにカキやビワなど果実を描いた満谷作品を所有している岡山方面の方がおられるとすれば、ドキッとして急いで画面と箱書きを確かめているのではないだろうか。w
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 満谷国四郎の死去から、ほどなく出版された『満谷翁画譜』には、若いころのエピソードなどが語られていて面白い。満谷は18歳ごろ東京にやってきて、団子坂にあった小山正太郎の画塾「不同舎」に入って絵の勉強をスタートしている。「満谷君といへば頭の禿げた、髪の毛が少しあつても真白い、眉毛まで白いといふやうに思つてゐますけれども、若い時からさうぢやなかつたのだ(笑声)」と、もともと満谷国四郎はハゲClick!じゃなかったという、洋画家・石川寅治の証言から語られる若き日の画家は、画学生では貧乏で生活ができないので盛んにアルバイトをしていた。彼らがやっていたのは、全国のパノラマ館の書割(背景画)を描く仕事だった。
 パノラマ館というと、浅草の日本パノラマ館が嚆矢で規模も大きかったが、パノラマ興業がブームになると同様の展示館が日本全国に拡がっていった。その多くは、日清戦争や日露戦争をテーマにした、有名な戦場のパノラマが多かったが、中には日本史上の有名な戦闘の場面を再現する企画もあった。満谷国四郎と石川寅治は、すでに洋画家・小山正太郎の助手として、浅草の日本パノラマ館で仕事をした経験があった。だから、1898年(明治31)ごろに京都のパノラマ会社から依頼があったときはふたつ返事で引き受けたのだろう。満谷と石川寅治は、さっそく京都へと向かっている。
 京都パノラマ館の画題は、幕末の鳥羽伏見の戦いだった。3月1日の開館に間に合わせるために、2月末まで描かなければならず、〆切が守られない場合は日割りで損害賠償をとられるという厳しい契約だった。ギャランティーは当時のおカネで2千円、山分けすればひとりあたり千円の高額報酬だった。1897年(明治30)現在における2千円の貨幣価値は、今日のおよそ4千万円に匹敵する。依頼されたキャンバスは、円形の長さ53間(約96m)×高さ6間(約11m)の巨大なものだった。
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 満谷国四郎は浅草での経験から、東京であらかじめ綿密な下絵を準備して現場に持ちこみ、パノラマ館の円形キャンバスに碁盤目を引き、その上へ下絵の構図を引き伸ばすという方法をとった。つまり、京都ではひたすら絵の具を塗る作業に徹したわけだが、キャンバスを2分してもひとり約48m×11mを描かなければならない。パレットでは間に合わないので、絵の具をどんぶりに溶いて使い、絵の具を練るだけの作業員を3~4人雇っていたようだ。そして、〆切3日前の2月25日に無事完成している。
 こうして、ひとりあたり千円、今日の貨幣価値でいうと2千万円ほどをもらえたが、満谷は帰りの汽車賃と土産賃を残し、京都滞在の1ヶ月間で全部つかい切った。その様子を、満谷から財布をまかされた石川寅治の証言より引用してみよう。
  
 どうもあの時位幅のきいたことはない。何時も紙入れに札がどつさり入つてゐる。方々へ行つちや僕がどしどし出すものだから、とてももてた訳なのです。その頃の千円といふ金は中々使ひでがあつた。それで帰る時に満谷君の言ふのには「僕がこれから帰つたらば子供が生れる時分だ」と言ふのだ。その頃あの三重子さんが腹の中に居つた。満谷君の言ふのには「帰る頃には子供がもう出来ると思ふが、なんか記念品を買つた方が宜い」と。それで「君は男か女かどつちが生れると思ふのか」と聞くと「どうも僕は女の子が生れさうに思ふ」と言ふのです。それで友禅縮緬のとても綺麗なのを一反買つたのです。さうして僕に向つて「君も何か買へ」と言ふ。けれども僕は独身で東京で下宿してゐるし、どうも何もあてがなく、仕様がないから毛布と信玄袋を買つた訳です。満谷君はこれから生れる子供と、それから令夫人に向つて何か結構なものを色々買つた訳です。それから満谷君が注意して言ふのに「汽車の切符を買へる位の金は残して置かなければいかんぞ」(笑声)
  
 当時の千円=約2千万円を、わずか1ヶ月ほどでつかい切るには、さまざまな娯楽や遊興のある現代とはちがって、かなり豪勢な遊びを日々つづけなければならない。石川寅治が「とてももてた」と証言しているので、おそらく若い女子が大好きな満谷国四郎は、先斗町やどこかの茶屋街、いずれかの“新地”(のちの五条楽園)あたりでさんざん遊びまわったあげく、帰り際に急いで家族への土産ものを買いそろえているのだろう。
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 満谷国四郎が、小山正太郎の助手として浅草の日本パノラマ館で描いたのは、日清戦争の戦役画×2景だった。ひとつは「平壌包囲戦」で、もうひとつは「旅順口総攻撃」の光景だったようだ。浅草の「日清戦争パノラマ館」が開館したときに平壌包囲戦を描き、上野公園内へ移転し「旅順戦パノラマ館」が設置された際には旅順口総攻撃を描いているのだろう。ともに、1896年(明治29)ごろのエピソードだ。

◆写真上:下落合753番地(のち741番地)の、満谷国四郎アトリエ跡の現状。
◆写真中上は、1937年(昭和12)に写山荘から出版された『満谷翁画譜』の函()と表紙()。は、制作年不詳の満谷国四郎『柘榴と枇杷』。
◆写真中下は、浅草にあった日本パノラマ館。は、1896年(明治29)刊行の「風俗画報」9月号に掲載された上野公園の上野パノラマ館。は、谷中初音町のアトリエで撮影された満谷一家。左から長女・三重子、満谷国四郎、すゑ夫人。
◆写真下は、1947年(昭和22)の写真にみる薬王寺主計が設計した下落合753番地の満谷国四郎邸。は、下落合のアトリエで撮影された満谷国四郎と宇女夫人。は、好んで描いていたハゲ頭を強調した漫画風の満谷国四郎自画像。

陸軍科学研究所のもっとも危険な部局。

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 下落合の南、戸山ヶ原Click!にあった陸軍科学研究所Click!では、どのセクションも危険な兵器開発を行なっていたが、その中でも特別に危険な兵器や資材を開発していた部局がある。1927年(昭和2)5月に、戸山ヶ原の科学研究所第2部内へ、ひそかに設けられた「秘密戦資材研究室」だ。室長には、すでにこちらでも陸軍兵務局分室(工作室=ヤマ)Click!陸軍中野学校Click!との密接な関係をご紹介している、陸軍大佐・篠田鐐が就任している。以降、秘密戦資料研究室は「篠田研究室」とも呼ばれるようになった。
 第一次世界大戦の影響から、戸山ヶ原(山手線西側エリア)で繰り広げられた塹壕戦Click!の演習は、こちらでも何度かご紹介Click!してきているが、同大戦はそれまでの戦法を塗り変えたのに加え、戦争自体の姿も大きく変えてしまっていた。従来は、敵対国同士の軍隊が正面から衝突して、戦争の優劣や勝敗を決定づけていたが、第一次世界大戦は軍隊同士の戦闘にとどまらない、近代国家同士の「総力戦」であることを広く認知させた戦争でもあった。近代戦は、軍隊(軍人)たち同士が戦うだけでなく、国家間が国民とその生活のすべてを動員して戦われることを決定づけた。
 「総力戦」の中身は、単純に前線における軍隊の軍事作戦・行動のみにとどまらず、「思想戦」や「政略戦」、「経済戦」などの概念にもとづき、敵対国の国内を混乱させる後方攪乱(経済・通貨破壊など)をはじめ、情報・宣伝工作、スパイ(諜報)工作、要人の盗聴や暗殺、爆破などの謀略工作、防諜戦など表面化しない「秘密戦」が、不可欠な要素であることが知られるようになった。
 その秘密資材づくりに設置されたのが、戸山ヶ原の陸軍科学研究所第2部の秘密戦資材研究室(篠田研究室)であり、同じく戸山ヶ原(山手線東側エリア)にあった陸軍兵務局分室(ヤマ)に属する中野学校出身の工作員Click!たちが、それを実際に使用する実践部隊という位置づけになる。彼らは外交官や商社員、観光客、新聞記者、商人、使用人などに化けて国内外に散っていった。
 日本における秘密戦の研究は、欧米に比べて大きく出遅れていたため、秘密戦資材研究室では当初、どのような機材を研究開発していいのか見当がつかず、スパイ資材の研究には外国の映画や小説、欧米の文献などを参考に手さぐりの状態だったらしい。だが、1931年(昭和6)の満州事変以後は、科学研究所とともに秘密戦資材研究室は規模拡充の一途をたどった。1935年(昭和10)ごろから、満洲の関東軍参謀部や関東軍憲兵司令部、各特務機関などを相手に技術講習会を開けるまでになり、中国やソ連での各種スパイ工作に協力している。
 1936年(昭和11)になると、陸軍科学研究所は陸軍技術本部の傘下に置かれることになり、戸山ヶ原の広大な敷地では東側が科学研究所、西側が技術本部として機能するようになる。秘密戦資材研究室(篠田研究室)では、スタッフや開発設備・機材も充実し、秘密戦のさまざまな兵器を完成させていった。また、同年には機密戦を実践する戦士を教育・養成するために、陸軍兵務局分室へ協力して「後方勤務要員養成所」(のちの陸軍中野学校)が設立されている。
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 秘密戦資材研究室(篠田研究室)には、大学の理工系学部を卒業した学生ばかりでなく、東京美術学校Click!の出身者も採用されているのが興味深い。これは敵国の経済破壊を目的として、中国をはじめアジア諸国のニセ札づくりのイラストや版下制作を担当したものだろう。大学や専門学校の卒業生ではなく、見習工などの若い所員は、陸軍科学研究所内で「戸山青年学校」という学習組織に属し、英語や理科、電気、機械などを履修することができた。彼らは、仲間同士で親しく交流できたようだが、どのような業務に携わっているかはタブーで、仕事の話はいっさいできなかったという。
 1939年(昭和14)4月、秘密戦資材研究室(篠田研究室)は規模拡充のため、戸山ヶ原から川崎市稲田登戸の拓殖学校跡地に移転し、陸軍科学研究所登戸出張所と改名される。さらに、3年後の1942年(昭和17)からは陸軍第九技術研究所となり、通称「登戸研究所」と呼ばれるようになった。当時の世界情勢を、1989年(昭和64)に教育史料出版会から出版された、『私の街から戦争が見えた』より引用してみよう。
  
 登戸研究所でニセ札づくりが本格化した一九三九(昭和一四)年、ヨーロッパではドイツがポーランドにへ侵攻、第二次世界大戦が開始された。同じころ大本営陸軍部は中国南部に支那派遣総軍を設置し、戦禍は拡大の一途を辿っていた。四〇年には「陸軍中野学校令」が制定され、中野学校と登戸研究所によって秘密戦の人的・技術的基盤は完成された。太平洋戦争前年のころまでに登戸では研究開発がほぼ完成し、実用化の段階になっていたと言われている。/日本国内では、大政翼賛会の発足により既存の政治団体は解散し、特高警察や憲兵などによる治安維持法の網のなかで、日本のファシズム体制は完成しつつあった。(中略) そのような状況下、登戸研究所は仏領インドシナ、サイゴンに進駐した南方軍参謀本部に対し、謀略器材を中心に研究所はじまって以来の数の補給・取り扱い指導を行なったのである。
  
 戸山ヶ原から稲田登戸へ移転した旧・秘密戦資材研究室(科学研究所登戸出張所)は、小田急線の東生田駅(現・生田駅)と稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)との間にある、小高い丘の上に設置された。約11万坪という広大に敷地に、24棟の工場や研究所が並び、農作物を枯死させる細菌や枯葉剤を実験する畑をはじめ、動物実験をするための動物舎、爆薬実験場などが付随していた。
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 研究所の一科では無線や電波兵器、怪力光線、風船爆弾などいわゆる物理系兵器が、二科では特殊爆弾や毒物、細菌、写真、特殊インクなどの化学系兵器が、三科では各国のニセ札や偽造パスポートなど印刷物が、四科は開発された兵器の製造・管理・移送がおもな業務だった。研究所員は、所長の篠田鐐(中将)をはじめ、将校クラスが134人、下士官クラスが54人、技師が16人、技手が55人、工員や雇人を合わせると同研究所は約1,000名ぐらいの大所帯となっていた。
 この中で、二科が爆薬や毒物、細菌などを直接扱うもっとも危険な研究室だったろう。暗殺用の毒物をはじめ、敵国の町にばらまく細菌兵器、穀物を枯死させる病原菌、土壌のバクテリアを死滅させる細菌、地上の植物を枯死させる枯葉剤、特殊爆弾(缶詰・レンガ・石炭・歯磨きチューブ・トランク・帯・雨傘などの形状をした暗殺爆弾)、謀略兵器(レンガ・石鹸・発射型・散布型の放火焼夷弾)、超小型カメラ(ライター・マッチ・ステッキ・ボタン型の写真機)などを開発・製造している。
 これらの膨大な研究資料は、敗戦直後に陸軍省軍事課より出された通達「特殊研究処理要領」により、「敵ニ証拠ヲ得ラルル事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ陰滅スル如ク至急処置」すべしという命令によって、ほとんどすべてが焼却された。戦後、GHQによる科学研究所員への訊問が行われたが、二科および三科所員の何人かは米軍にスカウトされて米国にわたり、朝鮮戦争やベトナム戦争に登場する生物兵器や枯葉剤の研究などに応用されたといわれている。また、国内においては、帝銀事件Click!で名前が挙がっている遅効性の猛毒「アセトンシアンヒドリン」(青酸ニトリール)Click!や、偽造千円札「チ-37号」事件などが、登戸研究所との関連を強く疑われている。
 登戸研究所では、研究員や工員たちが薬物(毒物)中毒になった場合の、救命治療マニュアルのようなものを用意していた。1943年(昭和18)現在では、同研究所で扱われていた死にいたる薬物は、30種類をゆうに超えている。これらによって製造された毒物兵器や毒ガス兵器は、ひそかに前線へと運ばれていった。
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 戸山ヶ原(山手線西側エリア)の住宅建設現場から、イペリット・ルイサイトなど毒ガス兵器が発見され、自衛隊の手で掘りだされたのは、それほど昔の話ではない。ほかにも、敗戦直後の「特殊研究処理要領」により、地中深くに埋められ廃棄された毒ガス兵器や毒物兵器、細菌兵器がどれほど眠っているものか、当時の証言者がほとんどいなくなってしまった今日では、戸山地域と登戸地域ともに見当もつかない。

◆写真上:戸山ヶ原に展開した陸軍科学研究所の、中枢部門があった跡の現状。
◆写真中上は、陸軍科学研究所の建物跡に残るコンクリート残滓。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された戸山ヶ原の陸軍技術本部・陸軍科学研究所。
◆写真中下は、毒ガスや毒物の研究開発からか独特な形状のフィルターがかけられた陸軍科学研究所の煙突群。1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された濱田煕『記憶画・戸山ヶ原-今はむかし…-』より。は、1944年(昭和19)に撮影された最大規模になった戸山ヶ原の陸軍科学研究所。は、陸軍科学研究所跡の現状。
◆写真下は、日本に国内の全研究機関のリストと資料開示などを命じたGHQ文書の和訳(現物)。は、1944年(昭和19)撮影の陸軍第九技術研究所(登戸研究所)の全貌。

下落合の画家たちと東京藝大正木記念館。

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 以前、本郷の西片町に清水組の施工で建設された、金澤庸治アトリエClick!をご紹介した。今回は、その金澤庸治が設計した東京美術学校に現存する、正木記念館の建設について少し書いてみたい。なぜなら、同記念館が1935年(昭和10)7月に建設されるに際し、落合地域と周辺域に住む画家たちが、その建設費を支援しているからだ。
 東京美術学校の正木記念館は、同校の5代目校長を32年間もつとめた正木直彦を記念したものだ。もともと美術とは直接縁のない東京帝大法科出身の正木が、東京美術学校の校長に就任したのは1901年(明治43)8月のことで、以来1932年(昭和7)3月に退任するまで延々と美校の校長をつとめた。つまり、絵画や彫刻、工芸、図案、建築などの分野を問わず、明治末から昭和初期にかけて東京美術学校へ通った学生たちは、すべて正木校長の下で学んでいたことになる。
 正木は、32年も校長をつとめる中で、何度か退任の意向を文部省に伝えているようだが、同省はそれを認めなかった。なぜなら、かろうじて統制がとれている東京美術学校の現状から、正木校長がいなくなると同校がバラバラになり、組織として混乱の収拾がつかなくなるのを同省が怖れたからだといわれている。つまり、「芸術家ではない人間」が校長をつとめているからこそ、かろうじてガバナンスがきいているのであり、いずれかの分野出身の「芸術家」が校長になったりしたら、たちどころに校内外からの反発や混乱が起き、東京美術学校は成立しないのではないかという危惧が大きかったらしい。
 要するに、個性が強い(わがままなw)芸術家ばかりの校内をまとめるのは最初からムリな話であって、正木直彦のもとで組織が破綻・崩壊せず曲がりなりにも内部統制がとれているのは“奇跡”に近い状態だから、このままソッとしておこう……というのが当時の文部省の本音だったようだ。ただし、正木直彦は校長就任後、奈良博物館学芸委員時代や一高の教授時代の経験を活かして、一時期は工芸史の講義も受けもっていたようなので、まったく美術とは縁がなかったわけではない。美校校長へ就任する直前には、美術視察の名目でヨーロッパへ出張したりしている。
 当寺の様子を、1977年(昭和52)に日本文教出版から刊行された、桑原實・監修による『東京美術学校の歴史』から引用してみよう。
  
 『校友会月報』(第31巻第1号、第3号)は職員及び生徒一同に対する正木の退官挨拶を掲載しているが、その中で正木直彦はこの長年月どのような方針で学校を導いてきたかということを謙虚に語っている。正木は自ら「際立ったことが嫌であるのと、何でも事柄をなだらかに済したい性質」といっているように穏やかな性格の人であったらしく、また数々の美術に関する役職のため、非常に多忙の人であった。天心時代の後の校長という困難な仕事を命ぜられた時、正木はまず教員達に精一杯働いてもらい、何ら掣肘(せいちゅう)を加えないようにしてかれらが十分に力を発揮しうるようにしようと考えたという。
  
 そこには、いずれも我か強く個性的な部門をいかに束ねるかに尽力し、不平や不満がミニマムになるよう常に腐心していた「中庸の人」のイメージ、いってみればいい意味での公務員的なバランス感覚が見え隠れしている。
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 そして、東京美術学校の運営に内外からの批判が強くなってくるたびに、なんとか批判を抑えて学校運営を切り盛りしていたため、退任すると決まってからは逆に留任運動まで起きそうになっている。換言すれば、正木直彦以外のどの人物が校長に就任しても、学内の問題が拡大・深刻化し、こじれる可能性のほうが大きく感じられたからだろう。引きつづき、同書より引用してみよう。
  
 また美校には美術と工芸という区分があり、世間でもそれを純正美術と応用美術とに区分し、幾分工芸に掣肘を加える傾きがあるが、それは立場の違いであって美術の上では軽重はないと考え、この信念を広めるために美術と工芸を平等に進展させようとした。更に美校の少ない予算の中で極力研究や教育のための美術品、資料等を集め、世の中に発展してゆく卒業生のために尽力し、教課の効果を実地に現すための依嘱制作に力を入れた。もとより正木校長の美校運営方針に反対の意見もなかったわけではなく、在職期間には数々の問題が生じ、特に美校改革運動の時のように激しく攻撃されたこともあったが、非常に統率しにくい美校をともかく大きな破綻もなく治めてきたのであり、その手腕、人物を高く評価する人人によって遺留運動まで起こりかけたのである。
  
 正木直彦の退官にあたり、美校の運営方針や美術に関する意見の相違は別にしても、「とにもかくにも、長い間お疲れさん」と感じた学内外の芸術家は多くいたようで、正木記念館の建設と銅像建設の企画がもち上がると、短期間で寄付金67,000円が集まっている。その中には、下落合の洋画家たちの名前も多い。
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 たとえば、1934年(昭和9)7月に発行された「校友会会報」第1号(東京美術学校校友会)には、「正木記念館建設資金寄付申込者芳名」として名簿の一部が掲載されているが、落合地域とその周辺からは金山平三Click!藤川勇造Click!南薫造Click!曾宮一念Click!満谷国四郎Click!笠原吉太郎Click!吉田博Click!野田半三Click!らの名前が見えている。また、落合地域にゆかりの洋画家や拙ブログの物語に登場している人物では、梅原龍三郎Click!和田三造Click!竹内栖鳳Click!荒木十畝Click!安宅安五郎Click!小寺健吉Click!住友寛一Click!中澤弘光Click!上村松園Click!辻永Click!藤島武二Click!柚木久太Click!などの名前も見える。
 変わったところでは、カルピスの三島海雲Click!や岩波書店の岩波茂雄Click!根津嘉一郎Click!安田善次郎Click!細川護立Click!寛永寺Click!三越Click!といった企業の経営者や店舗、団体などからも寄付を集めている。この名簿は4回目の掲載なので、1~3回に掲載された名前の中にも、落合地域の画家たちの名前が掲載されているのだろう。また、わたしは名簿の洋画家を中心に抽出しているので、落合地域に住んだ日本画家を含めるなら、寄付者の人数はもっと多いのではないかと思う。
 こうして、記念計画の実行委員会(委員長・和田英作Click!)のもとに集まった寄付金をもとに、金澤庸治の設計で1935年(昭和10)7月に純書院造りの日本間を備えた、総建坪約143坪で耐震耐火の鉄筋コンクリート仕様の正木記念館が竣工した。同記念館は戦災にも焼けず、どこか日本の城郭建築のような姿を藝大通りで見ることができる。
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 「校友会会報」第1号の最後には、東京美術学校内に開店していた食堂や出入りしていた洋服屋、画材店、文具店などの広告が掲載されている。洋服屋の広告が多いのは、美校の制服や制作作業衣、ルパシカなどの注文を受けていたものだろうか。美校の正門近くに開店していた、こちらではおなじみの浅尾丁策Click!が経営する画材店・佛雲堂Click!も、最後に広告を掲載している。

◆写真上:東京藝大美術館の陳列館の南東並びに建つ、金澤庸治設計の正木記念館。
◆写真中上は、正木記念館の鬼瓦。下左は、32年間も東京美術学校校長をつとめた正木直彦。下右は、1934年(昭和9)7月発行の「校友会会報」第1号。
◆写真中下:同会報に収録された、4回目の発表と思われる寄付者名簿。拙ブログでもお馴染みの画家たちが、ページのあちこちに散見できる。
◆写真下は、藝大通りから眺めた正木記念館。は、「校友会会報」に掲載された巻末の広告で、浅尾丁策の佛雲堂がトリの掲載となっている。

目白台アパート時代の瀬戸内晴美(寂聴)。

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 以前、目白坂にある目白台アパート(現・目白台ハウス)へときどき立ち寄っていた、三岸好太郎・節子夫妻Click!の長女・陽子様Click!の連れ合いである、「芸術新潮」の創刊編集者であり三百人劇場のプロデューサーだった、向坂隆一郎様Click!(つまり、三岸アトリエの保存を推進されている山本愛子様Click!のお父様)について書いたことがある。向坂様は、劇団で起きたいろいろな悩みごとの相談に通っていたらしいが、まるでカウンセラーか占い師のような相談相手になっていたのが、同アパートに住んでいた小説家・瀬戸内晴美(のち瀬戸内寂聴)だ。
 目白坂については、同坂の中腹に目白不動Click!(新長谷寺)や幸神社(荒神社)Click!が建立されていた関係から、タタラの痕跡とともに大鍛冶集団の軌跡による側面から詳しくご紹介していた。ただし、目白不動は1945年(昭和20)の空襲で新長谷寺が焼失し廃寺となったため、戦後は西へ1kmほどのところにある金乗院Click!へと移転している。
 瀬戸内寂聴は、落合・高田(現・目白)の両地域をはさみ、東西両隣りの街に住んでいる。東側は文京区目白台つづきの目白台アパートであり、西側は旧・野方町にあたる西武新宿線・野方駅から歩いてすぐの、妙正寺川が流れる中野区大和町にあった貸家の2階だ。行き止まりの路地にあった貸家1階の8畳間は、愛人の小田仁二郎が仕事場として借りている。きょうは、瀬戸内寂聴が二度にわたって住み、ちょうど同時期には円地文子Click!谷崎潤一郎Click!などがいっしょに暮らしていた、目白台アパートの様子について書いてみたい。もうお気づきの方も多いと思うけれど、紫式部の『源氏物語』を現代語訳した3人の作家が、目白台アパートに住んでいたことになる。
 また、同じ目白崖線を西へたどると、下落合1丁目435番地(現・下落合2丁目)には同じく『源氏物語』を現代語訳した舟橋聖一Click!がいたのも面白い偶然だ。
 目白台アパートといっても通常のアパートではなく、今日的な表現でいえば「高級マンション」ということになるのだろう。施工主はマンションという言葉がことのほかキライで、あえて馴染みのあるアパートと名づけたようだ。ただし、アパートのままだと他の名称とまぎらわしく誤解も多かったのか、現在では通称・目白台ハウスと呼ばれることが多い。瀬戸内寂聴が住んでいたころは、すべて賃貸の部屋だったようだが、現在は分譲販売がメインとなり、賃貸の部屋はワンルームを除いてかなり減っているらしい。
 目白台アパートは、1962年(昭和37)に竣工しているので、もうすぐ築60年になるが、ていねいなメンテナンスが繰り返されているせいか、外観からはそれほどの古さを感じない。いまでも人気物件のようで、ときどき新聞に空き部屋の分譲チラシが入ってくる。ワンルームでも3,000万円弱の価格が設定されているので、いまだそれなりに人気は高いのだろう。当初、瀬戸内寂聴が支配人から奨められた最上階の広い部屋は、おそらくいまでも億に近い価格帯だと思われる。
 彼女が支配人に案内され、初めて目白台アパートを内覧したときの様子を、2001年(平成13)に新潮社から出版された瀬戸内寂聴『場所』から引用しよう。
  
 二つの空部屋を見せてもらったが、残りそうだというのは最上階の角の部屋で三LDKの大きな部屋は、私の住んでいる練馬の家がすっぽり収って余りが出るほど広く感じられた。南と西にベランダがあり、大きな硝子戸がはめられていた。(中略) 全館賃貸だという、その広い部屋の値を聞いた時、余りの高さに笑い声を立てそうになってあわてて掌で口を押えた。とうてい払える金額ではないと思った。(中略) 部屋を出る前、南の長いベランダに出て下界を見下した。すぐ目の下に新江戸川公園が川沿いに細長くのび、地下二階、地上六階の建物の下は崖になって公園に落ちていた。
  
 寂聴は「新江戸川公園」と書いているが、神田川沿いの細長い公園は江戸川公園Click!の誤りだ。新江戸川公園は、さらに西側にある現・肥後細川庭園Click!の旧名だ。彼女は年下の恋人へのあてつけから、この「笑い声」が出そうになった高い最上階の部屋に1年間住むことになった。また、二度めは1968~1972年(昭和43~47)の4年間にわたり、同アパートの地階(といっても崖に面した地上)に住んでいる。
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 さて、目白台アパートのことを調べていると、ここにはさまざまな人々が去来するのだが、ちょうど本郷にあった大正~昭和初期の菊富士ホテルClick!のような存在で、目白台アパートは戦後版「菊富士ホテル」のような趣きだったといえるだろうか。小説家や画家、音楽家、学者、俳優など多種多様な人たちが部屋を借りているが、あまり話題にならないのはいまだ同時代性が強く、現在でも建物がそのままの状態で残っているからだろう。瀬戸内寂聴も同じような感慨をもったらしく、同様のことをエッセイで書いている。同書から、再び引用してみよう。
  
 文筆家では、誰よりも早くから原卓也さんが仕事場にしていられた。有馬頼義さんも一頃ここで仕事をされた。アイ・ジョージと嵯峨美智子の愛の巣が営まれていたのも、建って間もない頃のこのアパートだった。田中真紀子さんの新婚時代もここから始まったと聞いている。北大路欣也さんともエレベーターでよく出会った。/大正時代、本郷菊坂にあった菊富士ホテルに、文士や学者や絵描き、革命家などが雑居していたが、規模はとうてい菊富士ホテルには及びもつかないが、それのミニ版にたとえられないこともない。
  
 寂聴は、歴史や物語的な厚みとしての「規模」と表現していると思われるのだが、単純に住環境の規模からいえば、目白台アパートは菊富士ホテルの比ではないほど規模が大きい。住民の数も、おそらく菊富士ホテルの4倍以上にはなるだろうか。
 瀬戸内寂聴の『場所』を読んでいると、結婚生活の破たんから年下の恋人との繰り返す確執、不倫相手とのいきさつに、不倫相手の家庭へ乗りこんでしまったこと……などなど、彼女の作品と同じく例によってもうドロドロのグチャグチャな状況にため息がでるので、そういうところは避けてご紹介したい。彼女は最初に目白台アパートへ住んだとき、二度にわたって自殺未遂事件を起こしている。
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 谷崎潤一郎と“同居”していたのは、同アパートができて間もない、寂聴が最初に住んでいた時期だった。さすがに言葉を交わすことはなかったようだが、彼女は江戸川公園を散歩する谷崎夫妻をたびたび見かけている。谷崎潤一郎は、地下の部屋を2ブロックにわたって借り、さらに寂聴と同じ最上階にも部屋をもっていたようで、松子夫人と『細雪』Click!の雪子のモデルとなった夫人の妹、それに何人かのお手伝いといっしょに暮らしていた。寂聴は、おそらく谷崎潤一郎の仕事部屋だったとみられる最上階のドアの前を通るとき、緊張しながら足音をしのばせて歩いた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 廊下に人影のない時は、す早くドアにおでこをくっつけたり、掌で撫でたりした。「あやかれますように」と口の中でつぶやくと、心を閉ざしている日頃の憂悶もその時だけは忘れ、うっとりといい気持になるのだった。/毎朝、決った時間に、中央公論社から差し廻される黒塗りの巨きな車が迎えに来て、文豪夫妻はその車で、公園の入口の江戸川橋の袂まで降りて行く。そこから車を降り、ゆっくりと時間をかけて公園を一廻りして、待たせてある車で、アパートに戻るのだった。その姿をひそかに眺めるのが、私の貴重な愉しみになっていた。/公園の川辺から見上げると、アパートの建物はいかにも巨きかった。地下二階は公園の崖ぞいに建っているので、地上六階がその上に載っていて、正面よりはるかに高く巨大に感じられる。
  
 目白台アパートから、江戸川橋ぎわの江戸川公園の入口まではわずか300mほどしかないが、目白坂の上り下りがあるため年老いた谷崎夫妻にはきつかったのだろう。目白台アパートは、目白崖線のバッケ(崖地)Click!に建てられているので、地階といっても南を向いた窓があった。神田川沿いから見上げると、同アパートは屋上の建屋も入れると9階建てのビルのように見える。
 平林たい子Click!も晩年、目白台アパートに住んで瀬戸内寂聴としじゅう顔を合わせることになった。平林はガンの治療のため、上池袋にあった癌研究会附属病院へと通う都合から、同アパートを契約して住んでいる。彼女はアパート内で寂聴の顔を見ると、「あのね、お互いにここは仕事場ですから、日常的なおつきあいはやめましょうね」といって、さっさと自分の部屋に引きあげていった。
 円地文子は、平林たい子と入れちがうようにして目白台アパートに入居し、『源氏物語』の現代語訳に没頭していた。円地文子は平林とは対照的に、「あなたがいるから、何かと頼りになると思って、ここに決めたのよ」といって、ふたりはごく親しく交流している。彼女は“深窓の令嬢”育ちらしく、台所仕事はまったくできなかったので、お茶や菓子の準備はいつも電話で呼ばれた寂聴がやらされていたらしい。
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 目白台アパートには、地階に喫茶パーラーがオープン(現在は閉店)していて、瀬戸内寂聴は原稿の受けわたしによく利用していたようだ。目白台アパートで暮らした最後の年、喫茶パーラーのTVには「あさま山荘事件」の生中継が映しだされていた。その日、寂聴のもとへ原稿を取りにきた編集者は、小説家になる前の後藤明生だった。

◆写真上:神田川端の江戸川公園側から見た、緑濃い目白台アパート(目白台ハイツ)。
◆写真中上は、目白台アパートの現状。下左は、2001年(平成13)出版の瀬戸内寂聴『場所』(新潮文庫版)。下右は、同アパートでの撮影らしい瀬戸内晴美(寂聴)。
◆写真中下:目白台アパートの南向きベランダと、そこから眺めた新宿区の街並み。
◆写真下は、代表的な部屋の平面図。寂聴が支配人から奨められた部屋は、もっと大きかったろう。は、崖地にひな壇状の石垣が築かれた江戸川公園。ちなみに、江戸期より1966年(昭和41)までは大洗堰Click!から舩河原橋(外濠出口)までの神田川は江戸川Click!と呼ばれていた。は、江戸川公園の西にある肥後細川庭園(旧・新江戸川公園)。

企画されかけて流れた笠原吉太郎展。

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 笠原吉太郎Click!が1954年(昭和29)に死去したあと、しばらくして遺作の展覧会が企画されかけている。遺作展を企画したのは、『気まぐれ美術館』で知られる洲之内徹Click!だ。だが、笠原吉太郎について情報を集め作品を観て歩くうちに、同展の企画は白紙になってしまった。そのときの経緯を、洲之内徹は「芸術新潮」に連載していた『気まぐれ美術館』の中で触れている。
 洲之内が笠原吉太郎を知るきっかけとなったのは、洋画家・横手由男=雨情縁との交遊からだった。横手由男は群馬県渋川町の出身で、戦時中に笠原吉太郎とその家族が疎開してきた際、彼は笠原のもとへ絵を習いに通っていた。それがきっかけで、横手は画家をめざすようになったようだ。
 当時の様子を、1975年(昭和50)に新潮社から発行された「芸術新潮」8月号に所収の、洲之内徹『気まぐれ美術館20―大江山遠望―』から引用してみよう。
  
 雨情さんは、戦争中、上州の自分の郷里に笠原吉太郎という画家が疎開してきていて、自分はそこでその人に絵を習ったのだが、その笠原という自分の先生は、昔、榎本武揚の世話でフランスに留学したはずだと言うので、そう聞いて私は驚いた。私はその頃ちょうど、その笠原吉太郎の遺作展をやりたいと思っているところだったからである。私のほうは前に高良真木さんのお父さんの、高良武久博士の病院で、笠原吉太郎という未知の画家の作品を何点か見たことがあり、面白い画家だと思って、そのとき遺作展を思いついたのだったが、画家は生前高良博士の近所に住んでいたと聞くだけで、遺族の所在も判らず、まだ、どう手をつけていいか判らない状態であった。そこへ、突然、その笠原氏の弟子の雨情さんが現れたのだった。
  
 この証言は、きわめて重要な情報をいくつか含んでいる。高良武久Click!高良とみClick!夫妻は、下落合679番地(のち680番地)に住んでおり、下落合679番地の笠原吉太郎アトリエClick!から南へ2軒隣り(のち4軒隣り)に建っていた。大正末から昭和初期にかけ、高良武久は笠原の絵を気に入り、たびたび作品を購入している。そして、1940年(昭和15)に妙正寺川沿いの下落合(3丁目)1808番地へ高良興生院Click!を建設した際、同院の壁面に多くの笠原作品を架けている。
 空襲にも焼けなかった高良興生院だが、戦後、おそらく洲之内徹が目にした1960年代から70年代にいたるまで、同院の壁面には笠原作品がそのまま架けられていたのが確認できる。そして、高良武久が笠原作品を蒐集したのは、笠原吉太郎が近くに住む佐伯祐三Click!の影響を強く受け、「下落合風景」Click!を連作している最中の時期と重なることだ。つまり、笠原の「下落合風景」作品Click!のいずれかが、いまでも高良家の子孫宅を中心に、どこかで保存されている可能性が高いことがわかる。
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 洲之内徹は、笠原吉太郎の略歴を次のように紹介している。つづけて引用してみよう。
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 笠原吉太郎氏は明治八年に桐生の、代々意匠と機業(ママ)を業とする家に生まれ、明治三十年、日本郵船のヨーロッパ航路試運転第一号に乗ってフランスに渡り、三十二年には日本政府海外実業練習生というのになって、リヨン国立美術学校に入って図案を学ぶのである。榎本武揚の世話になったというのはこのときのことだろう。三十六年に帰国して農商務省の技師になるが、四十二年に退官して、その後は画家生活に入る。しかし、明治四十四年には昭憲皇太后の御裳(トレーン)の図案をし、大正元年には皇后陛下の礼服の服地図案を七十種あまりも制作している。退官したとはいっても、ルイ王朝以来の伝統のある衣裳の服地図案をやれる技術者は、この人を措いて他にいないからであった。
  
 笠原吉太郎の三女・昌代様の長女・山中典子様Click!のお話によれば、それぞれのご子孫宅に「下落合風景」はほとんど残っておらず(『下落合風景(小川邸)』Click!の1点を除く)、その多くは東京朝日新聞社で開かれた個展で、また高良武久のような親しい近所の笠原ファンへ、あるいは十和田湖畔に建っていたホテルのオーナーのようなパトロンの手もとへ、譲渡されてしまったのではないかとみられる。だからこそ、戦後まで無事に高良家へ残されていたとみられる、「下落合風景」の作品群が気がかりなのだ。そしてもうひとつ、朝日晃が戦後に確認している『下落合ニテ佐伯祐三君(下落合風景を描く佐伯祐三)』Click!のゆくえも、大いに気になるところだ。
 このあと、洲之内徹は笠原吉太郎の遺族のもとを訪れ、実際の作品画面を観てまわるうちに、遺作展へのモチベーションを徐々になくしていく。それは、どの作品が笠原吉太郎「らしさ」なのか、どのような表現が笠原吉太郎「ならでは」のオリジナリティなのか、つかみどころが見つからなくなってしまったせいだ。
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 多くの画家たちは、自身が惹かれる作家や作品の表現を模写をするところからスタートしている。これは画業に限らず、音楽でも文学でもしばしば見られる現象だ。だが、笠原吉太郎は日米戦争をはさみ、「らしさ」「ならでは」の表現を獲得する以前に、きっぱりと画業を止めてしまっている。戦後から1954年(昭和29)に死去するまで、笠原は絵筆(彼の場合はペインティングナイフ)をまったく手にしていない。洲之内徹は、模倣から脱しきれない途絶を画面から見切っていたのだろう。
 再び、洲之内徹『気まぐれ美術館20―大江山遠望―』から引用してみよう。
  
 私は雨情さんに笠原氏の遺族の居所を教えてもらい、その後間もなく訪ねて行って長男という人に会ったが、しかし、遺作展をやってみたいという私の気持は、そこで遺作を見て、変った。笠原氏は昭和の初め頃、同じ下落合の界隈に住んでいた前田寛治、里見勝蔵、佐伯祐三などと親しく、その関係で、一九三〇年協会が発足するとそこへ出品したりもしているが、佐伯に近づくと佐伯張りの絵をかき、里見に近づくと絵が里見風になり、そうかと思うと官展風のアカデミックな静物画もかくという具合で、才能はある人らしいが、いったいこの人のほんとうの姿は何なのか、正体が知れないような気がしてきたからである。/むしろ、この人の本領は、やはり図案だったのではあるまいか。
  
 洲之内は、図案(グラフィック・デザイン)をことさら軽視しているようなニュアンスの書き方をしているが、だからこそ今日の視点から見るなら、下落合の佐伯祐三や前田寛治Click!里見勝蔵Click!、ときに帝展風の画面などを野放図に模倣した、その先にどのような画風が現れたのか、戦前から戦後をはさみどのような表現へと移行し行き着いたのかが、興味をそそられるテーマなのだ。
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 いい意味でも悪い意味でも、笠原吉太郎はフランスの美術学校出身であり、日本の美術教育をまったく受けていない。東京美術学校Click!の権威や、日本洋画壇の派閥・人脈の影響からは、いちばん遠いところにいた画家だろう。そんな彼だからこそ、途中で絵筆(ペインティングナイフ)を折ってしまったのが、ともすれば残念に感じるゆえんだろうか。

◆写真上:昭和初期に制作されたとみられる、笠原吉太郎『ガレージ』。当時、目白通りのあちこちにできはじめたガレージか、1930年代の満州風景だろうか。
◆写真中上は、大正末か昭和初期に制作された笠原吉太郎『海岸風景』(仮)。は、大正末制作の笠原吉太郎『房州(舟の艫)』Click!下左は、1975年(昭和50)発行の「芸術新潮」8月号。下右は、1985年(昭和60)制作の峰村リツ子Click!『洲之内さん』。
◆写真中下は、昭和初期に制作にされた笠原吉太郎『下落合風景(笠原吉太郎アトリエ)』。は、同じく昭和初期の笠原邸内を描いた笠原吉太郎『室内風景』(仮)で、描かれている少女は四女の多恵子様とみられる。は、大正末か昭和初期に制作された笠原吉太郎『ピアノを弾く少女』(仮)。ピアノを弾く少女は、三女の昌代様。
◆写真下は、昭和初期にアトリエの向かいに建つ小川邸の門を描いた笠原吉太郎『下落合風景(小川医院)』。は、横手由男()とタブローの『慈音』()。
★おまけ
下落合の北側、高田町1152番地(現・西池袋2丁目)にあるF.L.ライト設計の自由学園明日館から眺めた夜のソメイヨシノ。近くでライトアップされていたシダレザラも満開だ。
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明治末の銀座を回顧する佐伯米子。

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 これまで、日本橋の隣接地域である京橋区は尾張町(銀座)で生まれ育った岸田劉生Click!が書く、子ども時代を回想したエッセイをご紹介Click!したことがある。いかにも、江戸東京の男の子らしい少年時代をすごしていたようだが、男子ではなく銀座で生まれた女子がすごした子どものころの情景は、どのようなものだったのだろうか?
 1955年(昭和30)発行の「婦人之友」7月号(婦人之友社Click!)に、銀座4丁目9番地の池田象牙店Click!で生まれ育った佐伯米子(池田米子)Click!が、子ども時代を回想したエッセイを寄せている。そこには、明治末の銀座4丁目に並んでいた店舗のイラストが描かれているが、9番地角地の山崎洋服店(旧・中央新聞社)の店舗から同14番地の京屋時計店まで、わずか8軒の店舗しか描かれていない。子ども時代の記憶なので、印象に残らない店は記憶から抜け落ちたのだろうが、実際には山崎洋服店から京屋時計店までには、池田象牙店を含め17軒の店舗が並んでいたはずだ。
 以下、佐伯米子のイラスト化された記憶と、実際の店舗とを比較してみよう。
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 このあと、池田象牙店は銀座4丁目から新橋駅近くの土橋南詰めClick!(二葉町4番地)に移転するのだけれど、それにしても山崎洋服店から寄席「銀座亭」のある新道(じんみち)Click!まで、実際には14店舗もレンガの商店建築が並んでいたのに、6店舗しか描かないのは彼女が子どもだったとはいえ、いくらなんでも忘れすぎだろう。(爆!)
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 銀座の子どもたちに流行ったのは、やはり岸田劉生と同様に色とりどりのしんこ細工Click!だったようだ。1955年(昭和30)の「婦人之友」7月号より、佐伯米子『私の遭遇したさまざまの場合[第一回]/銀座の子』から引用してみよう。
  
 昔はしんこやさんがありました。薄い小さい木の板の上に、きれいな色しんこを、絵の具を並べたように、何色も、そら豆位の大きさに、つまんで、ちよんちよんと、置き、隅の方に、ビンツケの油をちよつと、添えてありました。そんなのが、いくつも出来て売つておりました。この油をさきに、手にすりこみ、しんこが、つかないようにしてから、いろいろなものを作るのですが、たいがいの子は、お団子をこしらえたりして、おままごとのようなことを致しましたが、私は中庭のけんねんじ垣から、枝をぬいてきて、その枯枝に、赤い花や、緑の葉をつけたり下に鉢を作つて植えたり致しました。
  
 しんこ屋が店を出すのは、月に3回ほどある銀座出世地蔵の縁日に限られていたようで、境内にはたくさんの露天商が見世を並べていたようだ。植木屋や金魚屋、ほうずき屋、おもちゃ屋、葡萄餅屋、豆屋、飴屋、見世物小屋などが、夕方から夜にかけカンテラの灯をともして賑やかだったのだろう。彼女は女中に連れられ、夜店に出かけるのを楽しみにしていたらしい。現在でも銀座三越の屋上には、小さな銀座出世地蔵堂と三圍社Click!が並んでおり、縁日になると前の広場には多くの露店が見世を拡げるのだろう。
 佐伯米子が子どものころ、この地蔵堂の入口には、いつも尺八を吹く盲目の“おこも”がいて、家人とともに参詣すると必ず銅貨をめぐんでいたらしい。母親から、銅貨を「なげてやつてはいけません」といわれ、必ずそっと手わたすようにしていたという。
 彼女は、実家の店内でもよく遊んでいたようだが(のちに彫刻家となる店員の陽咸二Click!とも親しくなっただろう)、横浜の支店に象牙の荷がとどくと店内はとたんに繁忙期となり、店では邪魔にされて追いだされた。そんなときには、隣りの出頭たばこ店に遊びにいっては、きれいな外国の葉巻やタバコのパッケージに見とれていたらしい。同誌から、つづけて佐伯米子のエッセイを引用してみよう。
しんこ細工.jpg
東京亰橋区銀座附近戸別一覧図1902.jpg
京屋時計店1900ごろ.jpg
  
 そのお店の中央に真鍮の大火鉢が置いてあり、そのそばに坐つて、むつかしい葉巻の名前をみなおぼえてしまいました。そのたばこの中に、ピースと同型位の、それはそれはきれいな箱の西洋たばこが何種類もありました。その中に、美くしい色刷りの西洋婦人の顔が、トランプのように一枚ずつ、必ず入つているタバコがありました。そのカードを虎どん(同店の小僧)達から貰うのが、うれしうございました。/パイプに詰めるコナタバコの、ボタン色の袋入りや、日本タバコの名もおぼえ、小僧さん等と一緒になつて、品物をお客様に渡し、お金を受けとると、/『ありがと、オワイ、イス』/と節をつけていうのがお得意になりました。/ところが、まもなく、これを家へ来る人にみつけられて、『米子さんはお隣りでタバコを売つておりますよ。』といいつけられてしまいまして、家から迎えにこられてしまいました。(カッコ内引用者註)
  
 佐伯米子が絵に興味をおぼえ、川合玉堂の画塾に通うきっかけとなったのは、子どものころに見た色とりどりのしんこ細工や、外国タバコのおしゃれなパッケージデザインなどの原風景だったかもしれない。出頭たばこ店の小僧たちと仲よくなり、海外タバコを見せてもらったり遊んでもらうために、彼女はおもちゃやお伽噺本をせっせとタバコ屋へ運んでいたようだ。
 足を傷めたあと、入院先の帝大病院の池からすくって帰ったオタマジャクシを育てていたところ、庭で1匹残らずカエルになって姿を消してしまい、悔しくて泣きだし女中を困らせたりもしている。典型的な(城)下町Click!の“お嬢様”生活だが、3月の雛祭りも蔵から運び出された多くの雛人形の箱をめぐり、大騒ぎだったようだ。池田家では、姉妹で個別の豪華な雛人形をもっており、その飾りつけが終わると雪洞に灯を入れ、桃の花に白酒と“お豆いり”(雛あられ)をそなえた。3月3日には、友だちを招いて「赤の御飯と白味噌のおみおつけ、きんとんなど」を食べて遊んだらしい。
 足を悪くして飛びまわれなくなった佐伯米子は、店舗裏の路地から自宅にやってくる人物や、近くの店から漂ってくる香りを楽しみにしていた。
  
 この露地(ママ)へは、飴やのおばあさんが、かたから箱をさげ、手拭でよしわらかぶりをして人形をもつて飴を売りに来るのがおりました。文楽の人形のように手足を動かして、おかめのような、可愛いい顔の人形を躍らせながら、おばあさんが何か歌いました。帰りに飴を置いて行きました。そのおばあさんが格子戸を入つてくるのがたのしみでした。/この住居の、隣家が木村屋のパンの工場になつていまして、いつもパンを焼くよいにおいがして、頭も顔も真白く粉をつけた職工さんが、多(ママ)ぜい働いていました。
  
佐伯米子(東京女学館時代1年).jpg 佐伯米子(東京女学館時代2).jpg
佐伯米子(昭和初期).jpg 佐伯米子(佐伯アトリエ).jpg
池田象牙店(土橋).jpg
 女子らしく色やかたち、匂いなどに敏感で細かく憶えているところが、岸田劉生が回顧する少年時代の銀座と大きく異なる点だろうか。劉生のエッセイに、木村屋のあんパンは登場しなかったと思うが、佐伯米子はきっと女中にねだって食べていただろう。

◆写真上:銀座4丁目の三越屋上にある、銀座出世地蔵尊(手前)と三圍社(奥)の境内。
◆写真中上:1955年(昭和30)に「婦人之友」へ、佐伯米子が思い出しながら描いた銀座4丁目界隈のイラスト。8店舗が描かれているが、実際は17店舗が並んでいた。
◆写真中下は、いまでも目を惹く鮮やかなしんこ細工。は、1902年(明治)に作成された「東京亰橋区銀座附近戸別一覧図」にみる池田象牙店。は、佐伯米子が明治末の少女時代に目にしていた京橋時計店(右下)あたりの街並み。
◆写真下は、東京女学館1年生()と女学生時代の池田米子()。は、昭和初期の写真()と1953年(昭和28)に佐伯アトリエで撮影された佐伯米子()。は、新橋の二葉町4番地に移転したあとの池田象牙店(左手の瓦屋根)。

カラーで観察する『セメントの坪(ヘイ)』。

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セメントの坪(ヘイ)192608.jpg
 とうとう佐伯祐三Click!の「下落合風景」シリーズの1作、『セメントの坪(ヘイ)』Click!が見つかったのか?……と喜ばれた方がいるとすれば、残念ながらちょっとちがう。1927年(昭和2)9月に開催された、第14回二科展の会場で販売された佐伯の来場記念のカラー絵はがきだ。この絵はがきが貴重なのは、画面にほどこされたカラーがおおよそわかるのと同時に、これまで画集や図録などに掲載されていたモノクロ画面よりも、ややキャンバスの範囲が広いことだろう。
 画像を提供してくださったのは、貴重な同絵はがきを所有されていた山本光輝様だ。『セメントの坪(ヘイ)』の絵はがきは、1927年(昭和2)6月に開かれた1930年協会の第2回展でも制作されており、佐伯が二度めの渡仏をする直前に、「Mr.Kojima, Uzo Saeki」のサインをして小島善太郎Click!へプレゼントしているのは、以前にこちらの記事Click!でも取りあげていた。その絵はがきは、モノクロかカラーかがいまとなっては不明だが、二科展の記念絵はがきがカラー印刷だったのは幸いだ。
 佐伯祐三は、第14回二科展へ出品する予定の『セメントの坪(ヘイ)』や『滞船』などの作品4点を、1930年協会のメンバーだった里見勝蔵らに託して、1927年(昭和2)7月末に東京を出発して大阪へ立ち寄り、再びパリをめざしている。したがって、自身の出品作のうち『セメントの坪(ヘイ)』がカラー印刷の記念絵はがきとして同展で売られているのを知ったのは、渡仏後のことだったろうか。それとも第2次渡仏直前に、絵はがきにする画面をみずから同作に指定してから旅立ったものだろうか?
 『セメントの坪(ヘイ)』は、1926年(大正15)8月以前(おそらく8月中)に制作された、佐伯の「下落合風景」シリーズClick!ではもっとも早い時期の作品とみられ、1926年(大正15)9月1日に佐伯アトリエで行われた東京朝日新聞社の記者会見Click!でも、報道写真の背後に同作がとらえられているのがわかる。『セメントの坪(ヘイ)』はその後、関西地方を中心に組織された作品頒布会にも出されず、ずっと10ヶ月間もアトリエで保存されていた様子をみても、佐伯がいかに同作を気に入っていたのかがわかる。翌1927年(昭和2)6月の1930年協会第2回展に同作は初めて展示され、その次に同年9月の第14回二科展にも出品されたという経緯だ。
 さて、画面を細かく観察してみよう。全体的にモノクロ画面ではうかがい知れなかった家並みのディテールや、絵の具のマチエールがわかって興味深い。まず、左端にとらえられた曾宮一念アトリエClick!だが、彼の『夕日の路』Click!では西日に直射されてよくわからなかった外壁の色が、清水多嘉示Click!『風景(仮)』(OP284/OP285)Click!と同様に、下見板張りの壁面が焦げ茶で、窓枠がホワイトに塗られていたことがわかる。その右手に連なる、内藤邸から高嶺邸Click!にかけて久七坂筋Click!沿いの家々も、モノクロの画面に比べればかなりリアルにとらえられている。主棟が南北を向いた内藤邸から南にかけては、空襲による延焼からも焼け残った区画であり、特に高嶺邸はリニューアル前そのままの姿をしており、わたしも学生時代から目にしているのでどこか懐かしい。
 高嶺邸のさらに右手奥(南側)には、電柱の向こう側に細い路地をはさんで灰色屋根の大きめな住宅が見えている。この住宅から南側の区画が、下落合735番地の家々(計13棟)で、1927年(昭和2)に入ると早々に、母屋の大規模なリニューアル工事を実施するため、上落合186番地Click!から転居してくる村山知義・籌子夫妻Click!のアトリエがあった位置だ。前年9月1日に行われた佐伯アトリエの記者会見から半年後、1927年(昭和2)の3月初めに東京朝日新聞社の記者とカメラマンは下落合の村山アトリエを訪問して、「アサヒグラフ」に掲載する村山夫妻の写真を撮影している。
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曾宮一念アトリエ192104.jpg
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 また、久七坂筋の家々と諏訪谷へ下りる坂道との間には、大六天Click!の鳥居の上部が見えている。大正期の当時、大六天の鳥居は現在とは逆に北側の道路に面して設置されていた。それは、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!でも確認することができる。また、当時の諏訪谷は、現在のように谷底までコンクリートの擁壁が垂直に切り立ってはおらず、土の斜面Click!が残されていた。したがって、正面中央の白いコンクリート塀の野村邸は斜面中腹のやや下に建てられており、塀の陰に屋根がスッポリ隠れていて見えない。逆に、右手の2階家は斜面の上部へ取りつくように建てられており、1926年(大正15)の早い時期から開発がスタートした諏訪谷の住宅街は、当初かなり複雑な地割りがなされていたように思われる。
 さて、ここでもう一度、大六天の境内脇にあった、大ケヤキClick!について考えてみよう。樹齢数百年とみられる大ケヤキは戦前から、この画角でいうと曾宮一念アトリエから数えて左から3軒目の住宅の手前、諏訪谷へと下りるスロープの中途に生えていたが、ご覧のように画面にはケヤキらしい大樹は描かれていない。ところが、同じ佐伯祐三が諏訪谷を描いた『曾宮さんの前』Click!には、右隅に谷の西向き急斜面から生えたケヤキらしい大樹が描かれている。また、諏訪谷をアトリエの庭先からとらえた曾宮一念『荒園』にも、左端にケヤキとおぼしき巨木がとらえられている。両作とも、諏訪谷の谷戸の突きあたりに残っていた急斜面から大ケヤキが生えているように見える。
 この大ケヤキは戦後、落雷Click!のために幹が裂け倒木の危険があるので伐り倒されたのだが、わたしが下落合を歩きはじめたころは、すでに切り株だけになっていたように記憶している。毎年、春になると切り株から新芽が伸びていたものの、その後に根ごと掘り返され撤去されてしまい、大谷石の擁壁に空いた大樹の跡はコンクリートで埋められてしまった。諏訪谷が開発された当初、大ケヤキは谷戸の突きあたりの斜面、つまり洗い場Click!の湧水源に生えていたものが、宅地開発が進むにつれて邪魔になり、谷戸の突きあたりに大谷石による垂直の擁壁が築かれるのと同時、すなわち昭和に入ってから早々に大六天境内の脇へと移植されたものだろう。1938年(昭和13)作成の「火保図」では、すでに絶壁状の擁壁表現が描かれており、そのすぐ下には住宅が建設されているので、移植は昭和の最初期に行われているとみられる。
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高嶺邸.JPG
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 画面の手前に、目を向けてみよう。曾宮アトリエの西隣りは空き地のままで、いまだ谷口邸は建設されていない。カラー画面では、谷口邸の住宅敷地を斜めに横切るように、人々が歩いてできた道筋がハッキリと確認できる。この道は正式の道路ではなく、西側の青柳ヶ原Click!を突っ切って諏訪谷へと向かう「けもの道」ならぬ、人間が歩きなれた「ひとの道」だ。正式な道路は、セメント塀に沿ってやや「く」の字に屈曲しながら東西につづくラインで、佐伯が同作を描いたときは、ちょうど道路工事中か工事が終わったばかりの状態だったとみられる。1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には、道筋の付け替えが行われている、まさに工事中の様子が記録されている。
 さて、最後に画面右端に描かれたセメント塀の住宅とは対照的な、やや古びているとみられる2階家について考えてみよう。先述したように、この2階家は諏訪谷の斜面上部に建てられた住宅だが、清水多嘉示が描いた『風景(仮)』(OP284/OP285)にはすでに描かれておらず、別の住宅の“庭”ないしは門からつづくエントランス部になっているように見える。佐伯が描いたセメント塀と、同じ仕様の塀が西へと延長して建設され、諏訪谷の宅地開発計画の一環として、斜面に異なる住宅が新たに建てられているように見える。換言すれば、右端の2階家は諏訪谷の開発計画では解体される予定になっていた、古い住宅のうちの1軒ととらえることができるのだ。
 この諏訪谷の南向き斜面上に建てられた住宅は、1923年(大正12)および1925年(大正14)の陸地測量部Click!が作成した1/10,000地形図では、数軒並んで確認することができるが、1930年(昭和5)の同地図ではすでに異なる表現に変化している。つまり、佐伯祐三が『セメントの坪(ヘイ)』を描いた1926年(大正15)8月あたりから、清水多嘉示が『風景(仮)』(OP284/OP285)の両作を描いたとみられる1930年(昭和5)前後の間のどこかで、斜面上の家々は解体されているとみられるのだ。
 なぜ、こんな些末なことにこだわるのかというと、二度めの渡仏のために佐伯アトリエの留守番(1927年7月末以降)を依頼される直前、大正末から昭和初期にかけ結婚したばかりの鈴木誠Click!が、家族とともに法外に安い家賃で住んでいた“わけあり物件”であり、下落合では名うての「化け物屋敷」の2階家、つまり当時の下落合でも有名な心霊スポットが、この古びた2階建て住宅ではないかと思えるフシが多々あるからだ。
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セメントの坪(ヘイ)1926.jpg
 すなわち、佐伯祐三はともに友人だった曾宮一念と鈴木誠のアトリエを、左隅と右隅にほんの少しずつ入れながら、『セメントの坪(ヘイ)』を描いている可能性が高いことだ。美術年鑑で判明した、当時の鈴木誠の住所とともに、それはまた、次の物語……。

◆写真上:1927年(昭和2)9月に開催の第14回二科展で作成された、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズの1作『セメントの坪(ヘイ)』のカラー記念絵はがき。
◆写真中上は、同作の左端に描かれた曾宮一念アトリエの南西角で、いまだ「寝部屋」は増築されていない。は、1921年(大正10)4月に撮影された竣工直後の曾宮アトリエ。(提供:江崎晴城様) は、できるだけ『セメントの坪(ヘイ)』の画角に近いよう曾宮アトリエ跡の敷地から撮影した同所の現状。(2007年撮影)
◆写真中下は、『セメントの坪(ヘイ)』に描かれた高嶺邸。は、2007年(平成19)まで当時そのままの意匠をとどめていた高嶺邸。は、高嶺邸が見える久七坂筋の尾根道(左)と諏訪谷へ下りるスロープ(右)。中央の樹木が茂ったエリアが大六天の境内で、右手の大谷石で築かれた擁壁には移植された大ケヤキの生えていた跡が見える。
◆写真下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる諏訪谷。曾宮一念アトリエ前の道路が付け替え工事中で、まさに宅地開発の真っ最中の諏訪谷がとらえられている。は、12年後の1938年(昭和13)に作成された「火保図」の諏訪谷一帯と佐伯の描画ポイント。は、1927年(昭和2)6月に開かれた1930年協会第2回展の絵はがきで、佐伯祐三から小島善太郎へあてたサイン入り。

下落合を描いた画家たち・松本竣介。(5)

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 わたしは、文学畑の「無頼(ぶらい)」という言葉が好きではない。無頼というのは、寄るべのない身ひとつで暮らしを立て、ときに困窮すれば伝法なことをやらかしながら身すぎ世すぎをしている人間のことをいうのであって、いつでも支援を受けられる故郷の裕福な実家やパトロンを背景に、都会で「好き勝手なことをして暮らしている高等遊民」のことは、無頼とはいわない。
 「無頼作家」とか「無頼詩人」とかいう言葉を聞くと、まずマユにツバしたくなるのが常なのだけれど、経歴をよくよく読んでみると故郷の実家が素封家であったり、親兄弟の中に金満家がいたりと、およそ無頼とは無縁でほど遠い、かけ離れた「有頼」の生活をしている人物がけっこう多い。こういう人たちは、親離れできない人とか自立できない人、あるいは「ボクちゃん」Click!などと呼びはするがw、まかりまちがっても芝居の『天保六佳撰』Click!に登場する輩たちのように無頼とはいわない。
 上落合742番地に住んだ尾形亀之助Click!も、どこかで「無頼詩人」と呼ばれているらしいのだが、実家は宮城県でも有数の素封家だったらしく、その晩年に没落するまで42年間の生涯にわたり、家からの仕送りをベースに生活をつづけている。もっとも、それぐらいの余裕がないところにしか、文学(芸術)の芽は育たないというのであれば、今日の経済的な“低空飛行”の世相を背景に、ことさら文学が沈滞し隆盛をみない説明もたやすくつくのかもしれないが……。
 さて、先ごろ友人から「こんな本を見つけたよ」と、尾形亀之助の詩作で挿画が松本竣介の『美しい街』という本を貸していただいた。もちろん、尾形亀之助と松本竣介はその生涯にわたり、交わったことは一度もないと思われるし、尾形の詩集に松本が挿画を描いたこともないだろう。同書は、2017年(平成29)に夏葉社から初版が出版された新刊本だ。だが、大正期からの上落合2丁目742番地に住んだ尾形と、1936年(昭和11)から下落合4丁目2096番地で暮らした松本とは、ふたりとも落合地域の住人なので、さっそく興味を引かれて読みはじめた。
 その中に、松本竣介が野方町168番地に建っていた、荒玉水道Click!野方配水塔Click!を描いたスケッチが掲載されていた。(冒頭写真) 西落合にお住いの方なら、1928年(昭和3)11月から落合地域への通水がスタートした、野方配水塔正面の窓が穿たれている凸部の角度から、どのあたりから配水塔の方角を向いて描いたのかを、すぐに想定することができるだろう。同スケッチは、1985年(昭和60)に綜合工房から出版された『松本竣介手帖』に収録されているのだが、松本が下落合で暮らすようになってからほどなく、付近を散策しながら見つけて写生した風景の1枚なのかもしれない。
 手前に藁葺き農家が描かれているが、その向こう側には建てられたばかりとみられる住宅の切妻が2棟とらえられている。1932年(昭和7)に東京が35区制Click!になり淀橋区が成立すると、地名が落合町葛ヶ谷から西落合に変わっているが、スケッチは西落合1丁目403番地(旧・葛ヶ谷403番地)あたりの畑地、ないしは空き地から西を向いて描いたものだ。ただし、西落合は1930年(昭和10)前後に大きな地番変更が行われ、住所表記の再編が行われているので、西落合1丁目403番地は、ほどなく西落合1丁目346番地界隈となっている。西落合の藁葺き農家は、1950年代まで残っていて目にすることができた。
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 さて、『美しい街』に収録された尾形亀之助の作品には、上落合界隈の風情を詠んだとみられる詩がいくつか見られる。「郊外住居」や「十一月の街」などに、落合地域らしい表現を拾うことができる。たとえば、「郊外住居」にはこんな描写がある。
  
 街へ出て遅くなった
 帰り路 肉屋が万国旗をつるして路いっぱいに電灯をつけたまま
 ひっそりと寝静まっていた
  ▲
 この作品は、1926年(大正15)~1927年(昭和2)ごろにつくられているので、「街」へ出るには上落合から中央線の東中野駅Click!まで歩いて新宿へ出たか、あるいは1927年(昭和2)4月に西武電鉄Click!が開通しているので、自邸から直線距離で170mほどの近くにある、中井駅から山手線の土手際にある高田馬場仮駅Click!に出たか、微妙な時期にあたる。前者だとすれば、この情景は東中野駅から上落合側(北側)へとつづく商店街だし、後者だとすれば中井駅前から寺斉橋をわたるあたりの商店街だが、時期的にみれば東中野駅からの「帰り路」のような気がしている。
 また、「夜がさみしい」には次のような一節がある。
  
 電車の音が遠くから聞えてくると急に夜が糸のように細長くなって
 その端に電車がゆわえついている
  
 「ゆわえつけられている」ないしは「ゆわえられている」というところ、少しおかしな表現だが、この「電車の音」は遠くから聞えるので、ゆはり中央線だろうか。同線の東中野駅と尾形亀之助の自宅は、直線距離でちょうど500mほどだ。もし、「電車の音」が西武線だとすれば、かなり「近く」に聴こえていなければならない。
野方配水塔1938.jpg
西落合1丁目1955.jpg
上落合740番地付近.jpg
 「坐って見ている」には、近くの銭湯の煙突が登場している。
  
 風が吹いていない
 湯屋の屋根と煙突と蝶
 葉のうすれた梅の木
  
 下落合742番地の尾形邸は、妙正寺川へと下る北向き斜面の丘上、また西の字(あざ)栗原へと緩やかに下る坂の上に建っていた。そこから煙突や屋根まで含めて見下ろせる銭湯は、目の前にあった上落合720番地の「鶴ノ湯」だ。寺斎橋を南にわたって、すぐ右手にあった銭湯で、現在では敷地が山手通りの高架下になってしまっている。おそらく、部屋の窓ないしは縁側から「坐って見てい」たのだろう。
 また、「昼寝が夢を置いていった」には、上落合に多かった原っぱが登場している。
  
 原には昼顔が咲いている
 原には斜に陽ざしが落ちる
 森の中に
 目白が鳴いていた
  
 同じ上落合に住んだ尾崎翠Click!の作品にも、いくつかの「原」Click!が登場しているが、大正末から昭和初期にかけての上落合は、水田や麦畑などの畑地が次々とつぶされて耕地整理が進み、住宅が建設される前の原っぱがあちこちに散在していた。これは、松本竣介が野方配水塔を描いた西落合でも、同様の風景が拡がっていたはずだ。
 最後に、「十一月の街」を引用してみよう。
  
 街が低くくぼんで夕陽が溜っている
 遠く西方に黒い富士山がある
  
 尾形亀之助邸は、北向き斜面の上にあるが西側へもやや傾斜しており、南の接道は西へ向けてだらだらと下っている。自宅の庭あたりから暮れなずむ西側を見やると、妙正寺川に沿った上落合の栗原から三輪(みのわ)にかけて、やや低くくぼんで見えただろう。そして、視界の左手にはシルエットになった富士山を黒々と見ることができたはずだ。
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尾形亀之助「美しい街」2017.jpg 尾形亀之助.jpg
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 時期は少しずれるが、1934年(昭和9)に上落合2丁目740番地へ宮本百合子Click!が転居してくる。上落合2丁目742番地の尾形亀之助邸から、南北の小道をはさんだ3~4軒北寄りの家で落合第二小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)のすぐ南側に接した丘の上だ。そのときまで、もし尾形が同所に住んでいたとしても、「高等遊民」の詩人とプロレタリア作家とでは水と油で、お互い交流することはまずなかったのではないか。

◆写真上:尾形亀之助『美しき街』の挿画、松本竣介の野方配水塔スケッチ。西落合1丁目403番地(のち346番地)の旧道沿いから、配水塔を描いているとみられる。
◆写真中上は、松本竣介の描画ポイントあたりから野方配水塔を眺めた現状。は、1936年(昭和11/上)と1947年(昭和22/下)の空中写真にみる描画ポイント。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる地番変更後の描画ポイントあたり。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に撮影された野方配水塔と敷設されて間もない新青梅街道。(「おちあいよろず写真館」より) は、1955年(昭和30)ごろ撮影された茅葺き農家や畑地とモダン住宅が混在する西落合3丁目(旧・西落合1丁目)界隈。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる地番変更後の尾形亀之助邸とその周辺。
◆写真下は、西に向かって下り坂になる旧・上落合2丁目742番地の尾形亀之助邸跡。は、2017年(平成29)に出版された尾形亀之助『美しき街』(夏葉社/上左)と尾形亀之助(上右)、1985年(昭和60)出版の松本竣介『松本竣介手帖』(綜合工房/下左)と画室の松本竣介(下右)。は、1922年(大正11)に制作された尾形亀之助『化粧』。

鈴木誠の化け物屋敷アトリエを考察する。

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 美校の校友会名簿を参照すると、1926年(大正15)から1928年(昭和3)までの鈴木誠Click!の住所は、下落合703番地と記載されている。だが、これは明らかに誤りだろう。なぜなら、1927年(昭和2)7月末から、鈴木誠は下落合661番地の佐伯祐三Click!アトリエへ留守番として転居しており、1929年(昭和4)に旧・中村彝Click!アトリエへ引っ越すまで、佐伯アトリエで家族とともに住んでいたからだ。
 校友会名簿ではときどき見られるようだが、画家が転居した新住所を編集部に通知し忘れ、旧住所のまま数年間にわたり掲載されてしまう事例のひとつではないかとみられる。この時期、実際の鈴木誠の転居経緯を記すと、以下のとおりだ。
 1922年(大正11)~1926年(大正15/昭和元) 下落合703番地()
 1927年(昭和2)7月末 下落合661番地(佐伯祐三アトリエ)
 1928年(昭和3)    同上
 1929年(昭和4)6月? 下落合464番地(旧・中村彝アトリエ)
 しかし、校友会名簿にはもうひとつの誤りが重なっているように思える。それは、下落合703番地という記載自体も、活字組みのミスか誤植の可能性が高いとみられることだ。下落合703番地という地番は、青柳ヶ原Click!の西側に口を開けている不動谷(西ノ谷)Click!の南側にふられた地番であり、大正末から昭和初期にかけて住宅が吉村邸と星野邸の2棟しか建っていない東向きの斜面、ないしは谷底の区画になるからだ。
 これが昭和期に入ると、1932年(昭和7)の淀橋区成立にからめて行われた地番変更にともない、下落合703番地という地番がふられた家は計4棟、すなわち「火保図」を参照すると南原繁邸Click!の北側に接した星野邸に菅野邸、そして北側の2棟の住宅だったとみられる。これ以外、大正末から昭和初期にかけ他のどの資料類や地図類、証言などを参照しても、下落合703番地の位置に家屋は確認できない。不動谷(西ノ谷)の入口近く、おそらく下落合703番地のエリアに昭和初期の段階で設置されていたのは、同谷の湧水を利用して営業していた釣り堀と、その管理小屋だけなのだ。
 鈴木誠が結婚の直後から、法外な安い家賃で借りていた“わけあり物件”、みずから「化け物屋敷」と記述している大正末から昭和初期にかけての家は、次のように表現されている。1980年(昭和55)に出版された『近代洋画研究資料/佐伯祐三Ⅲ』(東出版)所収の、1968年(昭和43)発行の「繪」11月号に掲載された鈴木誠『下落合の佐伯祐三』から孫引きしてみよう。
  
 私は卒業して結婚、下落合の昔風にいうと、洗場の上の化け物屋敷を借りて住みついた。隣りに曽宮一念氏の画室があった。/間もなく彼(佐伯祐三)が近くに画室を新築して来た。私は研究科に通うことになり彼と一緒に上野へ通っていた。(カッコ内引用者註)
  
 鈴木誠は、東京美術学校では佐伯の1学年上であり、同じ大阪出身ということで気のおけない友人として仲がよかったようだ。だからこそ、佐伯は二度めの渡仏時、鈴木誠にアトリエの留守番を頼んだのだろう。
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 大正末に確認できる、下落合703番地の星野邸と吉村邸はともに新築の住宅であり、ボロボロのわけあり「化け物屋敷」などではない。また、上記の記述で「洗い場」Click!が登場しているが、野菜の洗い場は青柳ヶ原をはさんで、東側の諏訪谷Click!にも西側の不動谷(西ノ谷)にも、湧水源の近くに存在していた。西側の不動谷(西ノ谷)にあった洗い場の池の端で、佐伯は手ごろなサイズの木を伐ってクリスマスツリーにしているのは、以前にもこちらでご紹介Click!している。ところが、問題なのは「隣りに曽宮一念氏の画室があった」というくだりだ。
 下落合623番地の曾宮アトリエから、下落合703番地の地番がふられた区画まで、直線距離でさえたっぷり200m以上はある。よく農村などでみられるように、田畑や牧草地が間にはさまるため、直近の家が数百メートル離れていても「隣家」と表現することはありえる。大正末の当時、青柳ヶ原には家が1軒も建っていなかったので、曾宮アトリエから下落合703番地に建っていたとされる「化け物屋敷」までは「隣り」と表現されていたのか?……とも考えたが、あまりにも不自然なのだ。
 つづいて、同様に下落合703番地の「化け物屋敷」について書いたとみられる、1980年(昭和55)に出版された『近代洋画研究資料/佐伯祐三Ⅱ』(東出版)所収の、1967年(昭和42)発行の「みづゑ」1月号に掲載された鈴木誠『手製のカンバス』から引用してみよう。
  
 私は学校の卒業と同時に、駒込から目白落合に、二階ふた間もあるなにかわけのある家を法外に安く貸(ママ:借)りることが出来たので、引越して住むようになったが、これより前にすでに彼(佐伯祐三)は、近所にアトリエを新築して住んでいた。その年の冬、通称洗い場という近所のお百姓さんがよく「ごぼう」を洗いに来る谷間、その南側に建てたこの家の日当りのよい縁側で、シャベルを借りに来た彼と、寝ころがって雑談をしていたようだった。/突然彼は「俺はナー、この頃頭が重うてしょうがない。医者に見(ママ:診)てもろたら蓄膿やいうとおる。画描きは頭悪るかったらアカン。人に聞いたら富士山麓に坪が一銭という所があるそうな、俺はそこでニワトリ飼うたろかと考えてるネン。ドヤ?」(カッコ内引用者註)
  
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 この文章を読むと、なおさら不動谷(西ノ谷)にふられた下落合703番地の風情には思えない。洗い場が見下ろせ、縁側に寝そべって陽なたぽっこができる南向きの日当りのいい2階家、しかも「隣りに曽宮一念氏の画室」がある場所は、どう考えても下落合703番地のある不動谷(西ノ谷)ではなく、曾宮一念アトリエの前に口を開けた諏訪谷の情景に思えてくるのだ。
 おかしいおかしいと首をかしげながら、今度は諏訪谷の古い地図を次々とひっくり返していたら、ハタと気がついた。諏訪谷は、1926年(大正15)ごろよりスタートした宅地開発により、昭和に入ってから同谷にある住宅には、すべて下落合727番地という地番がふられるようになる。以前、宮坂勝アトリエClick!の作品記事でも、「火保図」からの引用とともにご紹介したとおりだ。
 ところが、大正期以前の地図には同谷の西側半分に、下落合730~731番地という地番が記載されていることが判明した。特に、1911年(明治44)発行の「豊多摩郡落合村」図では、曾宮アトリエ敷地の斜向かいから青柳ヶ原にかけての西側一帯が、下落合730番地とされている。(下落合731番地は未記載) つまり、校友会名簿に記載された「下落合703番地」は、下落合730番地の誤植ではないだろうか。そう考えると、鈴木誠の文章がすみずみまで腑に落ちるのだ。
 すなわち、鈴木誠が住んでいた家賃が法外に安い“わけあり物件”=「化け物屋敷」の2階家は、曾宮一念アトリエの斜向かい、諏訪谷の洗い場の上に位置する、陽当たりのいい南向き斜面の上部に建っていたのではないだろうか。この位置なら、曾宮アトリエのまさに「隣り」(斜向かい)であり、佐伯アトリエからもついでに立ち寄れる150mほどの距離になる。そして、鈴木誠の文章にもなんら不自然さを感じないのだ。ちなみに、鈴木誠は「化け物屋敷」でどのような怪奇現象や心霊現象に遭遇しているのか、あるいはどんな「わけあり」の経緯があったのかまでは、残念ながら記録していない。
 そして、もうひとつのテーマとして、佐伯祐三は「化け物屋敷」の鈴木誠アトリエを、はたして「下落合風景」シリーズClick!の1作に描いているのではないだろうか。それは、以前にもほんの少し触れたように、曾宮一念アトリエの一部を左端に入れて描いた『セメントの坪(ヘイ)』Click!で、画面の右端にチラリとのぞく2階家の一部こそが鈴木誠の「化け物屋敷」アトリエであり、大正期以前すなわち鈴木誠が結婚して駒込から転居してきたとみられる、当時の下落合730番地にあたる敷地にほかならないからだ。
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 1926年(大正15)の夏に制作された『セメントの坪(ヘイ)』は、佐伯祐三が関西を中心とした頒布会でも手離さず、下落合のアトリエで大切に保存しつづけ、1927年(昭和2)6月に開かれた1930年協会第2回展、および同年9月に開催の第14回二科展へ出品した愛着のある自信作だ。その画面には、下落合623番地にあった曾宮一念アトリエと下落合730番地の鈴木誠アトリエの、双方を入れている可能性がきわめて高い。

◆写真上:洗い場の上、諏訪谷の南斜面上にあたる2階家があったあたりの現状。
◆写真中上は、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村」図(上)と、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」(下)にみる下落合703番地。は、1938年(昭和13)に作成された北が左側(上が東)の「火保図」記載の下落合703番地とみられる4棟の住宅。は、不動谷(西ノ谷)の釣り堀と管理小屋があったあたりの現状で、左手(西側)に見えている大谷石による築垣上の斜面区画が下落合703番地。
◆写真中下は、、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村」図(上)と、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」(下)における下落合730番地。は、諏訪谷の現状で洗い場は赤い屋根の住宅左手(東側)あたりにあった。は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる下落合730番地と703番地の位置関係。
◆写真下は、コーラの自販機の向こう側あたりが鈴木誠アトリエとみられる2階家があったあたり。は、1926年(大正15)8月以前に制作された佐伯祐三の「下音愛風景」シリーズの1作『セメントの坪(ヘイ)』。は、同作の右端に描かれた2階家の拡大。『セメントの坪(ヘイ)』のカラー画面を、佐伯が得意な股メガネでのぞくと、もうひとつ別のアトリエがぼんやりと浮き上がってくるのだが、それはまた、次の物語……。

上野花薗町の江戸屋敷と明治住宅。

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 かなり以前の話になるが、日本に亡命していた中国の革命家・孫文Click!も滞在していたとされる、江戸期に建設された新宿区の市谷加賀町の長屋門屋敷Click!をご紹介したことがあった。江戸東京地方は関東大震災Click!や、(城)下町と(山)乃手Click!を問わず大空襲Click!にみまわれているため、また住環境の急激な変化により、江戸時代に建てられた住宅が残っているのは非常にめずらしい。ただし、残念なことに市谷加賀町の屋敷はすでに解体され、ありふれた低層マンションになってしまった。
 下落合では、目白文化村Click!の第一文化村に接した南側、宇田川様Click!の敷地内に江戸期の住居Click!が一部改築されたまま残されていたのだが、惜しいことに1966年(昭和41)ごろ十三間通り(新目白通り)の敷設Click!にひっかかって解体されている。
 いまでも、江戸期の住宅がそのまま残っているというので、さっそく不忍池も近い上野花園町(現・池之端3丁目)を訪れてみた。この一画は、関東大震災や空襲からも焼け残り、江戸建築ばかりでなく明治建築もそのまま残されている地域だ。だが、訪ねてはみたものの江戸建築の川上邸(江戸千家の一円庵住宅)は内部を拝見できなかったが、隣接する明治建築は拝観することができた。もちろん、この明治建築とは水月ホテルの中庭に保存されている、有名な森鴎外邸のことだ。
 ちなみに、上野花園町はもともと寛永寺の境内に属するエリアで、江戸期には花畑遊園が設置されていたことに由来している。上野山の上にある、現在の上野動物園エリアは「上の花畑」、山麓のエリアは「下の花畑」と呼ばれており、それが明治初期の「花園」の町名に受け継がれていたものだ。
 森鴎外Click!が、上野花園町11番地に住まいをかまえたのは1889年(明治22)のことだ。ドイツから帰国してすぐ翌年のことで、結婚したばかりの赤松登志子と新婚生活を送る新居のつもりだった。だが、登志子との結婚は鴎外の同意を得ず母親が勝手に決めたものであり、鴎外は気に入らなかったらしい。翌1890年(明治23)9月に長男・於菟が生まれると、翌月には早々に離婚している。
 離婚した直後、鴎外は千駄木町57番地へ転居してしまうので、花園町の自宅はわずか1年ほどしか住まなかったことになる。たった1年間しか住まなかった家を、森鴎外の「旧邸」というのはおかしい気もするが、いまや貴重な明治建築なので保存のためには仕方がない側面もあったのだろう。ちなみに、鴎外が転居した千駄木町57番地の住宅は、のちに夏目漱石Click!が暮らすようになり「猫の家」と呼ばれることになった。
 鴎外の旧居は、現在では旧・玄関が水月ホテルの本館につながる位置(東側)で閉鎖され、新たに設置された玄関が反対側(西側)についている。したがって、新・玄関を入るとすぐ左手に蔵の入口が見えるが、本来は家のいちばん奥まった位置に蔵が設置されていた。4畳の玄関座敷が付属した旧・玄関、つまりホテル本館から見ると、まっすぐ東西にのびる廊下のすぐ右手(北側)が洋間の応接室だ。つづいて、北側には4畳の女中室、6畳の居間(おそらく旧・台所)、便所、風呂、蔵などの入口が並んでいる。
 また、旧・玄関のすぐ左手(南側)には、便所、3畳の茶室、7畳の室(浮舟)、つづいて西へ8畳の茶の間(歌方)、10畳の書斎(於母影)、15畳の客間(舞姫)とつづいている。(カッコ内は水月ホテルが作品名からつけた部屋名) 明治期の典型的な和洋折衷住宅だが、洋間の応接室は例外的な扱いで、ほとんどすべてが和館仕様となっている。特に8畳の茶の間、10畳の書斎、15畳の客間はすべて南の縁側に面しており、冬場は陽が奥まで射しこんで快適だ。また、3室とも池のある庭を見わたせるようになっている。
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 さて、道路をはさみ森鴎外邸の南に建っている川上邸だが、道路から奥まったところに建てられているので、入口の門から敷石伝いの玄関しかかろうじて撮影できない。江戸期から一部は明治期にかけての建築なので、来客用の刀掛けがそのまま残されているが、写真に撮れないのが残念だ。しかも、柱や調度品には鎌倉期や室町期の部材がそのまま使われている稀有な住宅なのだ。撮影できないので、1962年(昭和37)に撮られた室内写真をベースに、邸内の様子をご紹介したい。
 なお、モノクロ写真の出典は、同年に芳洲書院から出版された豊島寛彰『上野公園とその付近/上巻』からだ。同書より、少し引用してみよう。
  
 関宿の城主久世候は川上不白に師事し茶道を嗜んだが、外神田にあったその下屋敷に不白が一円庵を建てた。/それを明治二年、川上家が譲りうけて現地に移築したのである。/門を入り敷石をつたっていくと玄関に達するが、玄関の正面には漆ぬりの桟唐戸があり、それを開くとさらに潜り戸がついた細格子の戸がある。上部の壁付には板蟇股が置かれ普通の民家には見られぬ珍しい意匠である。この蟇股も足利期を降らぬものと思われるもので、いずれかの社寺から古材をここに転用したものであろう。潜り戸を入ると東に連子窓を西に供侍を設けているが、これなども不白の創意が入っているといわれる。/玄関三畳の壁付太柱は、鎌倉建長寺の古材と伝える。
  
 川上邸は広く、また複雑な造りをしており、各部屋や庵をいちいち細かくご紹介してると、いくら紙数があっても足りないので、間取り図を参照いただきたい。
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森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨1890頃.jpg
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 いちばん広い部屋は、一円庵のほぼ中央にある10畳の「花月の間」で、8畳と6畳サイズの居間が2室に、6畳大の「陽炉の間」が付属している。また、茶室がメインとはいえ、ここで生活することも考慮されており、8畳大の台所や3畳の女中室、湯殿に便所が2ヶ所。そのほか、6畳大の居間が2室に3畳大の居間が1室、9畳大の玄関間や寄付、蔵は別にして物置部屋が4室、さらに離れとなっている茶室が2室という間取りだ。
 江戸は昔から、武家や町人を問わず「煎茶文化」の土地柄であり、抹茶はあまり好まれなかった。もちろん、一部の武家の間では茶道がたしなまれてはいたが、川上不白は武家や町人など身分を問わず「抹茶文化」を浸透させようと努めた人だ。いわば、茶道の大衆化を推進した人物で、江戸茶人の中では第一人者といわれている。「大正名器鑑」には、1799年(寛政11)3月16日の茶会に茶道大名として有名な松江の松平不昧と松平三助、蒔田緑毛、朽木近江守がそろって出席したことが記録されている。
 川上不白は、特に庶民へ茶道を教えたことで江戸市民の人気が高く、1807年(文化4)に90歳で死去したときは、葬列が牛込赤城下(現・新宿区赤城下町)から谷中安立寺(現・台東区谷中5丁目)までつづいたと記録されている。
 最後に余談だが、わたしの家にも茶道道具が一式あるのだけれど、どちらかといえば抹茶よりも煎茶が好きなので、特別に飲みたくなったとき以外は、ふだんから静岡産か狭山産の煎茶を楽しんでいる。静岡・狭山産にこだわるのは、茶葉が生育する土壌(富士山や箱根連山の火山灰層である関東ローム)と同じ土壌から湧きでた水で茶を飲むと、いわゆる「水が合う」相性のいい関係で、より茶が尖りのない甘味と旨味とで美味しく感じられるからだ。このあたり、日本酒の酒米と水に関する醸造でも通じるところがありそうだ。
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 外出すると、たまに煎茶のペットボトルを買うことがあるが、煎茶の中に「抹茶入り」という製品を見かける。なぜ煎茶の中に、あえて抹茶を混入するのだろうか? そのほうが、地域によってはどこか「高級」に感じるのかもしれないが、せっかく煎茶のサッパリと澄んだ風味が、抹茶の粉っぽくて重たい、くどい風味で台なしだ。最近は、パッケージの原材料をよく見て買うようにしているが煎茶は煎茶、抹茶は抹茶で個々別々の喫茶であり、ぜひやめてもらいたい不可解かつ不要な“ブレンド”だ。

◆写真上:上野花園町で奇跡的に保存されている、明治初期に移築された川上邸の門。
◆写真中上は、玄関が東にある森鴎外邸の当初平面図。は、同邸の庭から見た縁側外観。は、庭から見た縁側(上)と書斎の前の縁側から見た庭(下)。
◆写真中下は、森鴎外邸内観で15畳の客間から見た吹き抜けの10畳の書斎と8畳の居間。は、1890年(明治23)ごろに庭で撮影された左から右へ森鴎外に幸田露伴、斎藤緑雨。は、川上邸の平面図(上)と1962年(昭和37)に撮影された一円庵の外観(下)。
◆写真下は、川上邸の玄関(上)と玄関の3畳壁付き太柱(下)で、鎌倉期の建長寺古材と伝えられている。は、一円庵の「花月の間」。は、茶席に残る江戸期の刀掛け。茶室なので天井は低く、上段が大刀用(武家)で下段が脇指用(武家/町人)だと思われる。

佐伯祐三は自分のアトリエを描いている。

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 たまに、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!を股メガネでのぞくと、とんでもないものが見えてくることがある。佐伯の得意な股メガネは、別に1928年(昭和3)2月のパリ郊外モラン村に限らないのだ。w 先日、山本光輝様Click!よりお送りいただいた『セメントの坪(ヘイ)』Click!の第14回二科展記念絵はがきを、逆さまにして観察していたら、同作の下にもうひとつの風景画が隠れていることに気がついた。
 つまり、佐伯はなんらかの風景を描いた15号キャンバスを塗りつぶし、その上へ新たに『セメントの坪(ヘイ)』を描いている可能性が高いということだ。佐伯がキャンバスを塗りつぶして、別の絵を重ねて制作するのは特にめずらしいことではないけれど、「下落合風景」ではX線検査で下層の画面が現れた、1923年(大正12)制作の『目白自宅附近』Click!以外は記憶にない。では、どのような構図の画面に重ねて、『セメントの坪(ヘイ)』を上描きしているのだろうか?
 『セメントの坪(ヘイ)』の、特に逆さまになった空の部分を仔細に観察しながら、その痕跡をたどって下層に描かれた画面を探ってみよう。なお、最初は第1次滞仏で描いた作品のうち、出来の悪い画面をつぶして『セメントの坪(ヘイ)』を描いているのかとも考えたが、わざわざ日本へ船便で返送した作品を簡単に塗りつぶすだろうか?……という大きな疑問と、日本へ返送した作品はすでにパリで選別が行われていたはずなので、貴重な滞仏作品を塗りつぶすとは考えにくいことなどを考慮し、下層に描かれていたのは日本で制作した画面ではないかと想定した。
 まず、逆さまの空の中央で凹凸状に浮かびあがっているのは、大きな三角屋根をした外壁が下見板張りの西洋館(文化住宅?)のように見える。しかも、その壁面には格子が何本も入った窓が描かれていたようだ。この壁面を北向きとすれば、すぐにも大きな採光窓が連想できるので、真っ先に画家のアトリエを想起させる建築デザインだ。窓は、独特な形状をしており、いちばん下が幅が広く、その上にそれより少し狭い窓がのり、いちばん上の窓は幅が狭くなっていて、まるで下から上へ順番に大中小の窓を積み上げたような意匠をしている。
 これほど鋭角な尖がり屋根の下、下見板張りの外壁に大中小の窓を積み上げたような形状の採光窓を採用しているアトリエは、あまたの洋画家たちが住んだ下落合(現・中落合/中井含む)広しといえど、これを描いた当人の画室、佐伯祐三のアトリエをおいてほかには思いあたらない。佐伯は、自身のアトリエを中心にすえて北北東側から描いており、下層の画面が15号キャンバスのままだとすれば(キャンバスを張りなおしてサイズ変更をしていなければ)、これからつづく「下落合風景」シリーズと同様に、かなり空を広くとった構図で制作していることになる。
 すると、アトリエの三角屋根の左側に突き出た屋根の一部のように見えるフォルムは、佐伯邸の母家2階の屋根であり、その真下に東を向いた玄関があることになる。佐伯邸の母家は、下見板張りの外壁ではなく簓子(ささらご)張りに簓子竿の仕様で建てられた外壁であり、その点もどうやら痕跡の様子から一致していそうだ。
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 また、左端から右へと突き出た屋根は、描かれた角度からいっても佐伯邸の南隣りにあたる青柳邸Click!だと思われる。落合第一小学校Click!の教師だった、同家の青柳辰代Click!へ「下落合風景」シリーズにしてはめずらしく大きな、50号サイズの『テニス』Click!をプレゼントしているのは、これまで何度も記事に書いたとおりだ。
 青柳邸の屋根の周辺に見えるもやもやしたものは、同邸のまわりや佐伯邸の庭に繁っていた樹木だと思われる。「下落合風景」シリーズが描かれた当時、青柳邸の向こう側(南側)は丘が半島状に南へ突きでた青柳ヶ原Click!のままであり、国際聖母病院Click!(1931年)はまだ建設されていない。アトリエの右側(西側)に見えているもやもやの痕跡も、おそらく佐伯邸あるいは隣家の小泉邸に繁る庭木の一部だろう。小泉邸の西隣りが、佐伯の制作メモClick!に数多く登場する「八島さん」Click!の家だ。
 また、アトリエの右手(西側)に接して佐伯自身が大工のまねごとをして建てた「洋間」部の建築は、あまりハッキリとした痕跡をなぞることができない。ただ、下層の画面が未完成だった場合、つまり制作の途上で「あのな~、わしのアトリエ描くの、なんや知らん自慢しとるようやさかい、やっぱりやめとくわ~」となった場合、画面には描きかけの曖昧な部分が残っていたのかもしれない。
 さらに、佐伯の尖がり屋根をした画室の手前にも、もやもやした表現の痕跡が見えるようだ。これは、同じ山上喜太郎の地所Click!である下落合661番地の北半分を借りて住んでいた、酒井億尋Click!の邸敷地と佐伯邸の敷地とを隔てる生け垣のように思える。つまり、佐伯は酒井邸の庭に入りこんで同作を描いていたことになりそうだ。勝手に入りこんで描くわけにはいかないので、昼間、夫人の酒井朝子Click!に断りを入れてからイーゼルを持ちこんでいるのだろう。
 ひょっとすると、朝子夫人がかわいがっていた飼いネコClick!が、イーゼルを立てた佐伯の足もとにまとわりついてきたかもしれない。あるいは、曾宮一念Click!に石をぶっつけられたあとだとすれば、南隣りから侵入してきた男に毛を逆立て、斜め飛びをして威嚇していただろうか。また、朝子夫人が途中で紅茶かコーヒーでも出して、パリの土産話などを佐伯から聞いていたのかもしれない。
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 これまで、明らかに佐伯アトリエを描いている画面として、北側から「八島さんの前通り」Click!を描いた1927年(昭和2)5月から6月初旬ごろ制作の『下落合風景』Click!が判明しているが、家と家とにはさまれた間に自宅がチラリとのぞく程度の表現でしかなかった。ところが、この画面は自身のアトリエを大きく中央にフューチャーしているとみられ、これまでの「下落合風景」シリーズでは異例の画面となっている。それは、同作が描かれた1926年(大正15)の時期とも、大きく関わるテーマなのかもしれない。
 『セメントの坪(ヘイ)』が描かれたのが、1926年(大正15)8月以前であることは、同年9月1日に佐伯アトリエで行われた東京朝日新聞社による記者会見Click!の報道写真で、背後に置かれた同作の画影から規定し、すでに詳述している。とすれば、同作キャンバスの下層に描かれていた、佐伯祐三アトリエと思われる画面の制作は、さらにそれ以前に制作されていたことになる。すなわち、「下落合風景」シリーズでもっとも早い時期の画面、換言すれば同シリーズの記念すべき第1作は、画家自身のアトリエだった可能性があるということだ。佐伯祐三は、東京郊外に建てた自身のアトリエを描くことで、一連の「下落合風景」シリーズの出発点としていたのかもしれない。
 また、佐伯アトリエの南隣りに住んでいた青柳家の辰代夫人とともに、北隣りに住んでいた酒井家の朝子夫人とも、佐伯祐三は親しかったのではないだろうか。なぜなら、酒井朝子Click!は洋画好きであり、たまに曾宮一念アトリエClick!へ夫とともに立ち寄っては作品を購入しているからだ。そんな朝子夫人が、南隣りに住んでいるフランス帰りで新進気鋭の洋画家・佐伯祐三の作品に興味を抱かないはずはない。そこには、なにかエピソードが眠っていそうなのだが、その後、朝子夫人は結核に罹患し、1936年(昭和11)10月に鎌倉の浄明寺ヶ谷(じょうみょうじがやつ)の酒井別荘で死去しているので、多くの物語は語られないまま消えてしまったのかもしれない。
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 今後も、同画面を引用することがありそうなので、便宜上この隠れた「下落合風景」に名前をつけておきたい。1926年(大正15)の夏ごろからスタートした、同シリーズのもっとも早い時期の作品として、単に『佐伯祐三アトリエ(仮)』ではまったく面白くもなんともないので、『あのな~、せやさかいな~、大磯Click!大工Click!から歳暮にもろたカンナClick!でな~、天井裏Click!の柱までぎょうさん削てもうた、わしのアトリエやで。……そやねん(仮)』では長すぎるので、略して『わしのアトリエ(仮)』としておきたい。w

◆写真上:股メガネで見ると、曾宮アトリエ前の『セメントの坪(ヘイ)』も別の景色に。
◆写真中上は、逆さまにしてみた『セメントの坪(ヘイ)』の空。は、その中央に描かれているとみられる三角屋根と窓らしい影。は、リフォーム前の佐伯アトリエ。
◆写真中下は、画面左手に残る痕跡。は、画面右手に見える痕跡。は、同アトリエの西側に付属している佐伯自身が建てた「洋間」部。(リフォーム前)
◆写真下は、画室内から見た採光窓。は、リフォーム前の佐伯アトリエ。は、1928年(昭和3)2月にパリ郊外のモラン村で股メガネをして得意な佐伯祐三。


弦巻川を上流へたどると稲荷山。

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 以前、弦巻川(鶴巻川)の流域に残る地名の「目白」や「金山」、「神田久保」とともに目白不動や幸神社(こうじんしゃ)、金山稲荷などについて、3回連載のまとめ記事Click!を書いたことがあった。池袋の丸池に発し、東の護国寺から大洗堰Click!下の江戸川Click!(1966年より神田川)に向けて流れ下る、弦巻川の中流域一帯に着目したものだが、今回はもう少し上流のエリアへ視界を移して地勢を概観してみたい。
 少し前に、目白界隈に住む人々の記憶に残る雑司ヶ谷異人館Click!の記事を書いたが、その坂下にある弦巻川の河畔に沿った道には、宝城寺と清立院が並んで建立されている。もともと雑司ヶ谷村の飛び地(雑司ヶ谷旭出町)だった地域で、昔から向山と呼ばれた急斜面に寺々は建っている。その丘上の中島御嶽地域には、東京府が開設した雑司ヶ谷旭出町墓地(現・都立雑司が谷霊園)が拡がっている。向山は、丘上から弦巻川の流れに向けて急激に落ちこむバッケ(崖地)Click!地形で、大鍛冶たちのタタラ製鉄Click!にはもってこいの地形だ。ちなみに、丘上の地名である御嶽とは御嶽権現のことであり、金(かね=鉄)や金属を溶かす火の神・カグツチ(迦具土)と結びつく信仰のひとつだ。
 南面する向山の中腹には、由緒由来がこれまで不明でハッキリせず、稲荷にはおなじみのキツネたちが存在しない、白鳥稲荷大明神がひっそりと鎮座している。そして、白鳥稲荷大明神社が建立された斜面に通う坂道は、いまでも昔日のまま「御嶽坂」と呼ばれつづけている。1932年(昭和7)に暗渠化された、弦巻川の跡から向山の斜面を眺めると、現代のひな壇状に整地された住宅や寺々を眺めていても、砂鉄を採集したタタラ製鉄のカンナ(鉄穴・神奈)流しClick!を想像することができる。
 すなわち、白鳥稲荷大明神とは本来が「鋳成大明神」ではなかっただろうか? 地形的に見れば、白鳥稲荷社は目白(のち関口)の目白(=鋼の古語)不動に近接した幸神社(荒神社)や、神田久保の谷間に面した金山稲荷(鐡液鋳成=カナグソ)と酷似した地勢に気づく。音羽から谷間をさかのぼっていった大鍛冶集団が、いや、雑司ヶ谷村西谷戸(現・西池袋)の丸池(成蹊池)Click!から流れを下ったのかもしれないが、この地にも滞在してカンナ流しを行なった……そんな気配が強く漂っているのだ。
 さて、白鳥稲荷大明神社から、さらに弦巻川を400mほど上流へたどると、平安初期の810年(弘仁元)ごろより「稲荷山」と呼ばれてきた丘がある。この稲荷山も、本来はタタラ製鉄による「鋳成山」とよばれていたのではないかとつい疑いたくなるが、実は稲荷山のテーマはそこではない。稲荷山という丘名を山号に用いていたのが、雑司ヶ谷の巨刹である威光寺(のち法明寺と改名)だった。
 法明寺は、平安初期の建立当初の寺名では「稲荷山威光寺」と呼ばれている。そして、後世に寺名の「威光」を山号にしてしまい、改めて寺名を法明寺と呼ぶようになった。また、稲荷山の威光稲荷に安置されていたのは、キツネのいる後世の一般的な社(やしろ)ではなく、法明寺の縁起資料によれば「威光尊天」と呼ばれる仏神で、もともとは鳥居など存在しない威光稲荷の堂宇だったのがわかる。
 このあたりの経緯を、1933年(昭和8)出版の『高田町史』(高田町教育会)から引用してみよう。ちなみに、江戸期の文献とは異なり、神仏分離・廃仏毀釈が行われた明治以降の資料では、威光山法明寺と威光稲荷社(堂)は明確に分離して記録されている。それは、法明寺鬼子母神堂(雑司ヶ谷鬼子母神Click!)の境内にある、明らかに稲荷神が奉られ、鳥居が林立している社(やしろ)のことを、ときに武芳稲荷堂と表現するのと同様のケースだ。
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 法明寺奥庭の小高き山上に、威光稲荷と云ふ一堂がある。祭神は他の稲荷と異り、威光尊天と称へ、今を去る千百余年前、慈覚大師自作の像で、嵯峨天皇の御宇、弘仁元年に勧請し、山号を稲荷山と称へた。後ち威光山と改めて以来、普く善男善女を守護し、又水火災、盗難、剣難、病難を除くとて信仰崇敬される。法明寺縁起には『当山鎮守開運威光尊天』とある。之は仏教の堂宇とすべきか、神社の中に入るべきかと惑ふも、世人は之を神として参拝をして居る。
  
 この記述では、なぜ威光山の山号以前に、同寺が稲荷山と呼ばれていたのか経緯が不明だ。さまざまな文献を参照しても、威光寺(のち法明寺)の裏山が、なぜ稲荷山と呼ばれていたのか、そして、なぜそれが山号に採用されたのかを解説したものは見あたらない。稲荷山の山号が威光山に変わったのは、鎌倉中期に天台宗(真言宗説もあり)だった威光寺を日蓮宗に改宗しているからで、日蓮の弟子である日源が訪れて寺名を山号にし、法明寺へと改名したことにはじまる。
 ところが、明治末まで威光稲荷の小山状の境内には、洞穴の開いていたことが記録されている。記録したのは、付近を散策していた歌人で随筆家の大町桂月だ。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」に対し、「乱臣なり賊子なり」と評した国粋主義者の大町桂月だが、わたしには彼の書いた江戸東京の習俗を嘲笑する散策文もまったくもって気に入らない。上方落語で、江戸東京の街をことさらバカにして蔑むときにつかう“マクラ”、「伊勢屋に稲荷に犬の糞」と同じような臭気がするからだ。でも、ほかに明治期の記録が見つからないので、1906年(明治39)に大倉書店から出版された大町桂月『東京遊行記』から、しかたがないので引用してみよう。ちなみに、大町桂月は法明寺のことを、一貫して「明法寺」と誤記(わざとかもしれない)しつづけている。
  
 目白停車場より出でゝ、都の方へニ三町も来れば、左の方数町を隔てゝ、森が二つ三つあるを見るべし。その手前の森が鬼子母神堂の在る処にして、次ぎのが、明法寺(ママ:法明寺)の在る処也。/鬼子母神堂の横手より左に一二町ゆけば、仁王門あり。その仁王尊の像は、運慶の作にかゝると称す。その内が、明法寺(ママ)也。祖師堂釈迦堂あり、しめ縄を帯びたる大欅、落雷の為めに半身を失ひて、半身なほ栄えたり。奥に稲荷あり、仏に属して、威光天と称すれども、朱の鳥居の多きこと、羽田の穴守稲荷に次ぐ。祠堂は、改築中也。傍に、穴あり、多く紙片をくゝりつけたるは、穴の中の主に祈るなるべし。東京の愚俗、依然として、狐を拝す。(カッコ内引用者註)
  
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 現在の威光稲荷では、埋められたのか境内には見あたらない小山から洞穴が出現し、明治末の時点まで保存されていたのを記録した貴重な証言だ。ちなみに、1977年(昭和52)に新小説社から出版された中村省三『雑司ヶ谷界隈』には、「いくつもの狐穴」と記録されているが東側の学校建設で埋められてしまい、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』では、「洞の入口は二つあった」と書かれている。
 この洞穴が、いつ出現したのかは不明だが、威光稲荷のある小山が狐塚Click!や稲荷塚Click!、あるいはもっとさかのぼって旧・山号である稲荷山Click!と称される機縁になっているとすれば、古墳を示唆する重要な証拠のひとつだろう。
 威光稲荷の洞穴が、古墳の羨道あるいは玄室かは不明だが、江戸東京のみならず全国的な江戸期における稲荷信仰のおかげで、狐塚・稲荷塚・稲荷山などの地名・丘名や保存されてきた洞穴が、次々と調査されて古墳であると規定され、古代史を解明する大きな考古学的成果をもたらしてきたのは見逃せない事実だ。今日的にみるなら、あながち「愚俗」とはいい切れないだろう。
 法明寺の本堂は、1923年(大正12)の関東大震災Click!で倒壊し、また1945年(昭和20)の空襲でも焼失している。関東大震災で倒壊したとき、本堂は西へ50mほど移動して再建された。1947年(昭和22)の空中写真を見ると、空襲で焼けた本堂の東側に旧・本堂のあった大きな空き地がとらえられている。この空き地には、戦後に雑司が谷中学校が建設され、現在は南池袋小学校となっている。大震災後の本堂の移動で、参道を含めた周辺の道筋が大きく変わっているのも重要なポイントだろう。
 1922年(大正11)の1/3,000地形図を参照すると、旧・本堂のあった背後の斜面が丘上から丘下にかけて、ちょうど円形にくびれていたのがわかる。このくびれを、前方後円墳のくびれとして仮定し、威光稲荷を後円部の玄室位置(中心点)、狐塚を羨道の一部が露出した位置とすると、稲荷山の南斜面へへばりつくように築造された大型古墳を想定することができる。墳丘の土砂を南斜面に流して、威光寺(のち法明寺)の境内を造成したことになるが、その規模は全長200mほどだろうか。
 また、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)の空中写真を素直に観察すれば、法明寺の旧・本堂の跡地が明らかに他の境内の土色とは異なり、黒っぽく正円形のフォルムにとらえられている。また、東へつづく古い道筋には、前方部のかたちをなぞったとおぼしき形状を発見することができる。旧本堂跡に後円部があったとすれば、東側に前方部が位置し、その全長は120~130mほどになるだろうか。その場合、威光稲荷の本堂(本殿)が建っている小山と、その北東側にある狐塚は主墳に付属した陪墳Click!×2基(あるいは風化した50m規模の前方後円墳型の陪墳×1基)ということになりそうだ。
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 もうひとつ、法明寺本堂の南側に位置する鬼子母神堂(雑司ヶ谷鬼子母神)も、もともとは前方後円墳だったとする説がある。確かに、本堂が造営された境内をめぐる築垣はいまだ孤状を描いており、東へのびる参道が前方部という想定なのだろう。法明寺の稲荷山と相対するように、雑司ヶ谷鬼子母神の境内は弦巻川をはさんだ南側の段丘に位置しており、その北向き斜面へへばりつくように造営されている。古墳時代の人々が、古墳を築造する候補地として選定するには、確かに見晴らしのいい好適地のように思える。

◆写真上:向山の中腹にある、由緒由来が不明な白鳥稲荷大明神社。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる白鳥稲荷社とその周辺地域。は、元神が出雲・簸川(氷川)の鷲大明神ないしはクシナダヒメの雑司ヶ谷大鳥社(上)と、都電・雑司ヶ谷駅の南側から宝城寺・清立院の方面を向いて撮影したもので手前を流れるのは弦巻川(下)。は、キツネのいない白鳥大明神の拝・本殿。
◆写真中下は、1922年(大正11)の1/3,000地形図にみる弦巻川の谷間に向かいあった稲荷山斜面の法明寺と北向き斜面の雑司ヶ谷鬼子母神。は、1919年(大正8)に撮影された稲荷山の威光稲荷堂(上)と、現在の威光稲荷堂(社)と奥に狐塚のある境内(下2葉)。は、1947~1948年(昭和22~23)に撮影された焼跡の法明寺と周辺域。
◆写真下は、現在の法明寺本堂(右手)と境内。は、金子直徳が寛政年間(1789~1801年)に著した『和佳場の小図絵』挿入の絵図より。は、先の写真に想定古墳域を描き入れたもので、威光稲荷と旧・法明寺本堂を各主墳にして描き分けてみた。

目白崖線を描写する瀬戸内晴美(寂聴)。

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 下落合をはじめ、落合・目白地域の一帯には数多くの作家たちが住んでいたはずだが、目白崖線の風情を描写した小説作品は意外に少ない。小金井の国分寺崖線Click!、すなわち戦後まもなくハケClick!の斜面に住んだ大岡昇平Click!は、その情景を『武蔵野夫人』Click!の中にふんだんに取りいれ、物語をつむぐ登場人物たちの効果的な“書割”として、作品全体に独自の風景を創り上げている。
 だが、落合地域だけに限ってみても、目白崖線に顕著なバッケ(崖地)Click!の様子を、効果的かつ印象的に小説へ取りいれているのは、尾崎翠Click!『歩行』Click!中井英夫Click!『虚無への供物』Click!ぐらいしか思い当たらない。たとえば、これがエッセイとなると中井英夫Click!をはじめ高群逸枝Click!檀一雄Click!吉屋信子Click!矢田津世子Click!船山馨Click!宮本百合子Click!林芙美子Click!などの文章に、しばしば目白崖線の風景が登場しているが、小説となると思いのほか少ないのだ。
 視界を落合地域からずらし、視線を崖線の斜面沿いに東へとはわせていくと、目白崖線の風景を細かく描写した作家が、本来の目白不動Click!があった目白坂沿いのバッケに住んでいた。少し前にご紹介した、目白台アパートClick!(通称:目白台ハウス)に二度にわたって住んだ瀬戸内晴美Click!(現・瀬戸内寂聴)だ。瀬戸内晴美は、ここに住んでいた1970年(昭和45)に長編小説『おだやかな部屋』を仕上げている。
 小説といっても、彼女の作品はリアルそのものの私小説だし、ときに登場人物たち(つまり恋愛対象となった男たち)が実名で登場するなど、ほとんど本人の「日記」か「忘備録」を読んでいるような具合で、わたしとしては敬遠したい作品群なのだけれど、見方を変えると、作品に描かれた周囲の環境や周辺の風景は、きわめて精緻かつ正確な描写でとらえられていることになる。
 事実、目白台アパートのある目白崖線沿いの描写は、1970年代の同所をほうふつとさせる空気を醸しだしており、わたしにとってはどこか懐かしい雰囲気さえ感じられた。では、『おだやかな部屋』から当該部分を少し引用してみよう。
  
 部屋から、そんな街を見下していると、女は、自分も広い海にただよっている長い航海中の船の一室にいるような孤独な気持がしてくる。/その上、気がつけば、四六時中、絶えることなく響いている川音が、舳先に砕かれる波音のような伴奏までつとめていた。川は、アパートの真下の丘の裾をめぐってつくられた細長い公園を、縁どり流れている。高い水音は、その運河に流れこむ幾筋もの下水口からほとばしり落ちる水があげていた。近くで見れば、汚物であふれる灰色の下水も、女の部屋の高さから見下すと、ひたすら白い飛沫をあげながら運河になだれこんでは、いくつもの激しい渦にわかれ、たちまち流れの中に融けこみ、ひと色の水の色に染めあげられてしまう。/黄昏と共に、川は闇の中に沈みこみ、川音だけが深山の滝のようにとどろきながら立ち上ってくる。空と街の境界もひとつに融け、漆黒の海にちらばる無数の漁火か、波に落ちた星影のように家々の灯がともる。
  
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 瀬戸内晴美が眼下に見下ろす公園が、江戸川橋から椿山Click!の麓までつづく、神田川(旧・江戸川:1966年より神田川)沿いの江戸川公園であり、「下水口」から流れる「高い水音」は、当時は護岸沿いにうがたれていた下水の細い排出口ではなく、まるで滝のような音を立てるおそらく堰堤の水音だろう。この堰堤は、目白台アパートのすぐ西側、大滝橋の真下にある神田川でも有数の大きな落差で有名な大堰堤(大滝)だ。もともと、この流域には江戸期の神田上水Click!の取水口があり、まるでダムのような落差のある大洗堰Click!が築かれていた地点でもある。
 彼女は、江戸川公園を散歩する際に、おそらく汚濁した神田川をときどきのぞきこんでいたのだろう。1970年代は、同河川が汚濁のピークに達していたころだ。当時の川面を記憶する瀬戸内寂聴が、アユやタモロコ、オスカワ、マハゼなどが回遊し、子どもたちが水泳教室で遊ぶ50年後の神田川を見たら、いったいどのような描写をするのだろうか。
  
 早朝のせいもあり、五月の日曜日の街の上には、まだスモッグの霞もかからず、菱波の立った海面のように街の屋根がさざ波だってうねっている。家々の瓦屋根や、ビルのコンクリートの屋上が、洗いあげたばかりのような新鮮さで、それぞれの稜線をきっかりと際立たせている。(中略) ほんの一つまみほどの樹々の緑が、折り重なった灰色の屋根の波のまにまに浮んでいる。その緑を際だたせるのが役目のようにどの緑の島からも、金色の光芒を放つ矢車をつけた竿が点に向って真直ぐ伸びていた。(中略) 西の方に、どれよりも巨大なビルディングの骨組みが黒々とぬきんでている。まだ形骸だけのその建物の、数え切れない窓は吹き抜けにあいていて、小さな四角の中にひとつずつ切りとられた青空が、きっかりと嵌めこまれていた。(中略) ビルの更に西の空に、くっきりと富士が浮び上っている。富士のはるか裾には秩父の連山が藍色の横雲のたなびいているような影をつくっていた。
  
 当時は、高いビルや高層マンションがないので、目白台アパートからかなり遠くまで見わたせた様子がわかる。また、このころの東京は排気ガスや工場からの排煙によるスモッグが街中を覆い、わたしもハッキリ記憶しているが、午前中なのに午後3時すぎぐらいの陽射しにしか感じられなかった。喘息の子どもたちが急増し、小学校の朝礼では息苦しくなった生徒が意識を失って倒れる騒ぎが続出していたころだ。瀬戸内晴美は、空気や川の汚濁がピークだったころ、目白に住んでいたことになる。
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 西に見える「巨大なビルディングの骨組み」は、この小説が執筆されていた1969~1970年(昭和44~45)という時期を考えると、まちがいなく新宿駅西口の淀橋浄水場Click!跡地に建設中だった京王プラザホテルだと思われる。同ホテルは、『おだやかな部屋』が「文藝」に発表された翌年、1971年(昭和46)に竣工しているので、彼女も目白台アパートのベランダから完成したビルを眺めていただろう。
 また、瀬戸内晴美は、おそらくかなりの方向音痴ではないだろうか。彼女のいる目白崖線から、富士山は鮮やかに見えるが秩父連山はまったく見えない。富士の裾野に見えているのは、神奈川県の丹沢山塊と箱根・足柄連山であり、埼玉県の秩父連山は彼女の視線から45度ほど北側、つまり彼女の右肩のややうしろにあたる。
 瀬戸内晴美は、部屋のベランダから川沿いの江戸川公園や、バッケの急斜面を往来する人物たちを仔細に観察している。同書から、再び引用してみよう。
  
 黄色のパラソルは橋を渡りきり、子供の遊び場を素通りし、散歩道を斜めに横切って、丘の崖にむかってくる。(中略) 丘の中腹にひょっこり二人の日曜画家があらわれる。(中略) その中腹の台地は四阿のある頂よりは街が一望に見渡せる。ちょうどそこからは樹々の高さが自然に下方へ流れていて、視界がさえぎられないのだ。小学生が先生に引率されて写生にくる時も、そこに一番たくさん子供たちが坐りこむ。(中略) パラソルの女が更に近づいてくる。丘の道は、四阿のある頂きの広場から左右にのびていて、右の道は、急な石段が桜並木の間をぬけ、子供の遊び場へ向って下りている。左の道はなだらかなだらだら坂の道が合歓の並木にはさまれて丘をS字形に縫いながら、裾の散歩道につながっていく。この道は途中から細い小路をいくつか左右にのばし、それは丘の樹々の中にまぎれこみ、女の部屋からも捕えることの出来ない恋人たちのかくれ場所をあちこちに包みこんでいる。
  
 「黄色いパラソル」の女が渡ってきたのが、水音が響く大堰堤の上に架かる大滝橋であり、その北詰めにはいまも変わらず遊具が設置された、子どもたちの小さな遊び場がある。先生に引率されてくる小学生たちは、目白台アパートのすぐ西側にある関口台町小学校の生徒たちだろう。子どもたちが座りこむ見晴らしのいい斜面からは、早稲田から新宿方面にかけ起伏に富んだ街並みがよく見わたせる。
 まったく同じ位置にイーゼルをすえ、南を向いてタブローを仕上げた画家がいた。上落合1丁目にアトリエをかまえていた、吉岡憲Click!『江戸川暮色』Click!だ。瀬戸内晴美が目白台アパートに住む、およそ20年前の風景を写しとっている。
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 「黄色いパラソル」を追いかけていた瀬戸内晴美の目は、崖線の濃い樹々の間に隠れて、真昼間から男と逢引きしている姿を見つける。「いやだわ、またスリップの紐切っちゃった。困るわ、今日はレースだから、すけちゃうんですもの」と、女と男の会話妄想がどんどん膨らんでいく。瀬戸内晴美は、執筆の合い間にベランダへ出て、目白崖線の急斜面に集まる恋人たちの逢引きを、克明に観察しつづけた。「どうしてあいびきする人妻はみんなサンダルを穿き、買物籠をさげるのだろうか」などと、日活ロマンポルノの「団地妻シリーズ」にありがちな、広告のボディコピーのようなことをつぶやいている。

◆写真上:江戸川公園側から、目白崖線の丘上に建つ目白アパートを望む。
◆写真中上は、ひな壇状に擁壁が設置された江戸川公園のバッケ。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる目白台アパートと冬枯れの江戸川公園。下左は、『歩行』が収録された2014年(平成26)出版の尾崎翠『第七官界彷徨/瑠璃玉の耳輪』(岩波書店)。下右は、1977年(昭和52)出版の瀬戸内晴美『おだやかな部屋』(集英社)。
◆写真中下:目白崖線沿いに拡がる、緑深い現代の風景。
◆写真下は、椿山の西側に水神を奉った水神社。は、目白台アパートの下を流れる神田川。は、シルト層Click!がむき出しになった豊橋あたりの神田川。

洋画家たちが惹かれた築地風景。

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 東京の街で、もっとも劇的にガラリとさま変わりをした街といえば、おそらく築地がNo.1クラスだろうか。江戸末期から明治期にかけ、西洋館が建ち並ぶまるで日本とは思えないような、エキゾチックな街並みが形成され、1923年(大正12)の関東大震災Click!でほぼ全滅Click!したあとは、1935年(昭和10)に魚介類や青物などの市場が日本橋Click!から移転してきて、まったく趣きが異なる街へと変貌した。
 とはいえ、幕末から明治期にかけての外国人居留地の面影は、残されたキリスト教会や同教系の病院などに、かろうじて残されている。また、築地居留地生まれで発展したキリスト教系の学校も数多く、立教学校(現・立教大学)や築地大学校(現・明治学院大学)、女子大学(現・東京女子大学Click!)、耕教学舎(現・青山学院Click!)、東京中学院(現・関東学院大学)など、そしてミッション系ではないが慶應義塾(現・慶應義塾大学Click!)も築地地域が源流となっている。
 明治末から大正初期にかけ、築地の異国情緒ただよう街並みをモチーフにした絵画が、フュウザン会Click!や生活社、その後の春陽会Click!などの展覧会を中心に流行している。ちょうど、大正末から昭和初期にかけ、モダンな「田園文化都市」の街並みが拡がる落合地域の風景が、二科会や1930年協会Click!を中心にブームClick!を巻き起こしたのと同じような現象だ。前者の築地風景では岸田劉生Click!が、後者の落合風景では佐伯祐三Click!がそのブームの中心を担った画家だろうか。
 ただし、岸田劉生は築地のエキゾチックな風情を好み、進んでそれをとらえようとしているのに対し、佐伯祐三は下落合のモダンな雰囲気をほとんど描いてはいない。むしろ、宅地造成が終わったばかりの殺伐とした、赤土が露出したままの風景や、工事中の落ち着かない郊外の風景に視点をすえ、あえてまとまりがなく“キタナイ”過渡的な開発風景ばかりをモチーフにひろって描いているように見える。それは、劉生が築地の中心部を描いているとみられるのに対し、佐伯は下落合の外れや開発途上の地区(当時の新興住宅地の外れ)を好み、描画ポイントに選んでいるのとはちょうど対照的だ。
 さて、岸田劉生がせっせと築地に出かけて風景画を描いていたころ、1912年(大正元)に銀座で開催されたフュウザン会第1回展には、先の劉生をはじめ斎藤與里、高村光太郎Click!木村荘八Click!萬鐵五郎Click!小島善太郎Click!鈴木金平Click!、バーナード・リーチなどが参加していた。岸田劉生は築地風景とともに、数多くの肖像画も出品していた。当時の様子を、1971年(昭和46)に日動出版部から刊行された、土方定一『岸田劉生』より引用してみよう。
  
 このフュウザン会時代の岸田劉生の作品を顧みると、第一回展には十四点(肖像画を六点、風景画を八点) 第二回展には十九点(肖像画を十点、風景画を九点)と全く精力的に仕事をしている。すべてファン・ゴッホ、セザンヌの影響の強いもので、これは第二回展に続いて同年の秋(大正二年)に高村光太郎、木村荘八、岡本歸一とともに開催した生活社展(生活社主催、十月十六日から同月二十二日、神田のヴィナス倶楽部)に続いているものであり、また生活社展において岸田劉生のこの系列は一つの頂点に達している。(中略) 現在から見ると、これらの作品は習作を出ていないものが多い。けれども、『築地居留地風景』、『斎藤與里の肖像』、『バーナード・リーチ氏像』などは、逞しい、色調の美わしい作品であって、時代にとっても記念的な作品といっていいように、ぼくには思われる。
  
 二度にわたるフュウザン会展に出品された、風景画を合計すると17点にものぼるが、その作品の多くに築地風景が含まれていた。
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 当時の築地は、四方を川(隅田川河口)や堀割りに囲まれ、居留地の市街へ入るには三方いずれかの橋をわたらなければならなかった。築地は、東側には江戸湾(東京湾)も近い大川(隅田川)が流れ、現在は明石町から佃島へ佃大橋が架かっているが、昔は佃の渡し舟Click!があるきりだった。また、南北西の堀割りには、8ヶ所ないしは9ヶ所の橋が架かっており(1872年の大火で北部の敷地が拡大しているので変動がある)、居留地内の堀割りにも7ヶ所の橋が架かっていた。
 つまり、築地はその名のとおり江戸幕府が埋め立てた江戸湾に面する新しい敷地で、ほぼ標高数メートルの土地に堀割りが縦横に走り、西洋館がぎっしりと建ち並ぶさまは、居留地に住む南欧出身の外国人には、ヴェニスの街並みを想起させたかもしれない。それほど、江戸期から明治期にかけて築地の街は、東京のほかの街に比べて異質であり、「日本ではない」空間そのものだったのだ。
 日本画や洋画、版画を問わず、当時の画家たちはそんな築地風景に惹かれ、たくさんの作品を生み出している。ことに明治期には、江戸からつづく浮世絵師や版画家がその風景を多くとらえているが、明治後期になると洋画家たちも築地の風景にこぞって取り組みはじめている。ヨーロッパへ留学しなくても、日本でそれらしい風景や街並みが手軽に描ける写生地として、築地や横浜は画家たちの人気スポットになったのだろう。
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 関東大震災の直前、1923年(大正12)の春ごろには、築地に住んでいた当時は作家で翻訳家でもあった桑山太市朗の家へ入りびたり、次々と築地風景を制作していた洋画家に三岸好太郎Click!がいる。1992年(平成4)に求龍堂から出版された匠秀夫『三岸好太郎―昭和洋画史への序章―』より、築地での様子を引用してみよう。
  
 三岸の出品画に、築地の風景があるが、外人居留地のあった築地は異国情緒に溢れ、鏑木清方の名作<築地明石町>(昭和二年帝展出品)に見られるように、多くの画家の画心をひらいたところであった。大正初年、岸田劉生もここを多く描いたことがあり、第一回春陽会展にも、中川一政<居留地図>、木村荘八<築地船見橋にて>が築地風景を出品している。三岸は築地に住んだ桑山と交友を深めており、前出節子夫人宛書簡にも記されているように、大正一二年春頃には、桑山宅に泊り込んで盛んに築地界隈を描いた。桑山書簡によれば、時には桑山がモデル代を出して、下谷の宮崎(註、モデル斡旋屋)からモデルを雇い、光線の具合のあまりよくない桑山宅の二階で三岸と岡田七蔵と三人で裸婦を描いたこともあり、また久米正雄の紹介状を貰って、当時鳴らした帝劇女優森律子の築地の家を訪ねて、律子の河岸沿いの家を描いた画を売ろうとして断られたこともあったという。
  
 築地のオシャレな街には、当時の先端をいく文筆家や表現者たちが好んで住みつき、その後の魚臭い街角とは無縁だったことがわかる。
 築地の東側には、江戸期そのままの西本願寺(築地本願寺Click!)の大屋根がそびえ、堀割りの向こう側には江戸期と変わらぬ白壁の蔵に商家が林立し、反対側の隅田川の河口域には大小さまざまな船が帆をかけて往来する風情の中、橋をひとつわたっただけで、見たことのない“異国”にまぎれこんでしまったような錯覚をおぼえる街、それが1923年(大正12)8月までの築地の姿だった。
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 当時、横浜へ出かけるまでもなく、築地を散策した画家たちは、その特異でエキゾチックな風景や情緒を眼に焼きつけたまま銀座などへ出ると、ふだんはハイカラに感じていた銀座の街並みが、いかにも日本のせせこましく泥臭い街角のように感じて、再びモチーフを探しに築地を訪れてみたくなったにちがいない。

◆写真上:昔日の築地の面影をいまに伝える、聖路加国際病院のトイスラー記念館。
◆写真中上は、立教大学に保存されている1894年(明治27)の「築地居留地鳥瞰図」(上)と「築地居留地略図」(下)。は、1891年(明治24)に制作された勝山英三郎『築地居留地近海之景』。は、明治初期に撮影された築地写真×3葉。
◆写真中下:すべて岸田劉生が描いた築地風景で、上から1911年(明治44)制作の『築地居留地』と『築地風景』、同年ごろ制作の『築地風景』、1912年(明治45)6月19日制作の『築地居留地風景』、1912年(大正元)制作の『築地居留地風景』と『築地明石町』。
◆写真下は、ホテル「メトロポール(聖路加ガーデン)」(上)と「聖三一大会堂」(下)の写真。は、1923年(大正12)の大震災直前に描かれた三岸好太郎『築地風景』。は、制作年不詳の井上重生『居留地図』。

近衛町の入口にあった目白授産場。

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 現在は、「授産場(所)」というと、国や自治体などの行政機関が運営する障害者あるいは高齢者向けの施設をイメージするが、戦前はまったく異なっていた。授産場は、おもに女性向けに設置された職業訓練所のような存在だったのだ。
 今日では、女性がどこかに勤めて働くのは不思議でもなんでもなくなり、むしろ仕事をしているのがあたりまえの社会になったが、戦前は多くの女性たちが働きたくても就職口がきわめて限られており、結婚をして男の稼ぎに依存して生きる以外に、選択肢はきわめて少なかった。
 だから、早くから夫と死別したり離婚して子どもを抱えていたり、夫のかせぎが少なく「内職」による副収入を必要としたり、あるいは生涯独身を決意した女性たちは、家庭環境が裕福でないかぎりは「手に職」をつけなければ生きてはいけなかった。つまり、就職が容易でない以上、「内職」で日銭をかせいで生活する以外に生きる術(すべ)がなかったのだ。大正期に、東京各地へ設置された授産場は、なんらかの事情で生活に困った女性たちへ、技術の習得と仕事の斡旋をする公共施設として機能していた。
 東京府や東京市、あるいは公的団体が設置した公立授産場は、大正末の時点で6ヶ所を数えることができる。その多くは、関東大震災Click!で肉親を失って生活に困窮する女性を対象にスタートしているが、昭和期に入ると家庭の副業(内職)や、生活困窮者へ向けた技能訓練・仕事斡旋施設の傾向が強まっている。授産場は1924年(大正13)3月に、震災善後会から給付された資金が基盤となっている。翌1925年(大正14)11月に(財)東京府家庭副業奨励会が改めて設立され、東京各地に授産場が設立された。1926年(大正15)現在の東京府内には……、
 ①東京府設千駄ヶ谷授産場 豊多摩郡千駄ヶ谷町千駄ヶ谷752番地
 ②東京府設目白授産場 北豊島郡高田町高田1160番地(1168番地?)
 ③東京市設本所授産場 本所区押上町213番地
 ④東京市設深川授産場 深川区千田町296番地
 ⑤愛国婦人会授産場 麹町区飯田町1番地
 ⑥家庭製作品奨励会 麻布区笄町103番地
 ……の6ヶ所に授産場があった。私設の授産場は、小規模ながら数多く存在していたが、当然学校と同じような経営のため、入会金(入学金)や材料費、講習料(授業料)などが発生して、公立授産場のように技術を無料で習得できるわけではなかった。
 以前、下落合に住んでいた伊藤ふじ子Click!についてご紹介したことがある。彼女は、画家を志して上野松坂屋の美術課に就職したが、すぐに明治大学の事務局へと転職している。また、同大の事務職と同時に、非常勤のグラフィックデザイナーとして銀座図案社でも仕事をしていた。そして、ほどなく小林多喜二Click!と知りあい結婚すると、これらの仕事をやめてしまった。ところが、1年ほどの結婚生活で小林多喜二が特高Click!虐殺Click!されると、改めて「手に職」をつけるために下落合1丁目437番地にあった私設の「授産場」クララ社(クララ洋裁学院)に通い、同社の紹介で東京帝大セツルメントの洋裁講師として再び勤めはじめている。
 伊藤ふじ子のように、過去に仕事をしていて少し蓄えのある女性は、民間の「授産場」へと通えたが、その余裕がない女性は順番待ちをしながら公立授産場へ通うしかなかった。東京府が運営していた授産場の規則が残っているので、引用してみよう。
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 東京府家庭副業奨励会授産場規則
 一、本会の授産場は大震災により、職業を離れたる人々や、其の他一般の家庭に副業を授けるのを目的とします。
 二、入場希望者は所定の申込書に記載事項記入の上提出して下さい。
 三、入場希望者には別に資格の制限を設けません。
 四、入場希望者が甚だ多数の時は、一時お断りすることがあるかも知れません。
 五、入場を承諾した場合には、直ちに其の旨御知らせ致します。
 六、入場者のうち技術を知らないか又は未熟な方には講習を受けさせます。
 七、講習に要する材料は場合に依り無料で提供します。
 八、仕事が出来る方には材料を供して授産場又は家庭で就業してもらひます。
 九、講習及び製作に要する器具、機械は本場に備へつけてあります。
 十、場合に依り家庭で作業する方からは保証金の提出を要求することがあります。
 十一、一人前になつてからは毎月五日及二十日の両度に工費を支払ひます。当日が休日に当つた場合は翌日に繰り上げます。
 十二、講習製作に際して材料器具機械を不注意の為め破損又は汚損したる場合には弁償を要求するかも知れません。
 十三、講習時間は凡そ午前八時から午後五時までとし、改善の都度掲示します。
 十四、種類に依る日割は別に掲示します。
 十五、不都合の行ひのあつた方には、退場させ場合に依りて賠償させます。
  
 この規則を読むと、明らかに「家庭婦人」を意識した書き方であり、また、よほどひどい失敗か損害を与えないかぎりは、いつでも無償で技能講習や仕事の斡旋サービスを受けられた様子がわかる。
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 山手線の線路沿いで、下落合の近衛町Click!への東側入口にあたる目白授産場では、おもに洋裁・和裁・刺繍、編み物がメインの授産場だった。
 ちなみに、1926年(大正15)発行の「婦人世界」5月号(実業之日本社)では、目白授産場の所在地が高田町高田1160番地(現・目白3丁目)となっているが、同年に作成された「高田町北部住宅明細図」では高田1168番地となっている。いずれの地番も、坂道に沿った隣り同士の敷地であり、どちらかが誤植か採取ミスだと思われる。
 目白授産場のあるダラダラ坂を、そのまま北へと道なりに上っていくと、下落合414番地に建つ近衛町の島津良蔵邸Click!に出るが、途中で分岐する1本めの急坂を西へ左折すると杉卯七邸Click!の前へ、2本めの坂道を西へ左折すると小林盈一邸Click!の前へと出られるという位置関係だ。毎朝、目白駅で下車した東京西北部で暮らす女性たちは、線路沿いをぞろぞろと歩きながら目白授産場へと通ってきたのだろう。
 目白授産場で行われていた講習、あるいは仕事の種類について、1926年(大正15)発行の「婦人世界」5月号から引用してみよう。
  
 目白授産場
 北豊島郡高田町大字高田一一六〇(目白駅より東南へニ丁線路沿ひ)
 (仕事の種類)
 ミシン洋裁 シャツ、エプロン、割烹着、子供服等。/和服裁縫(一般和服も蒲団類、刺子等)/フランス刺繍(クツシヨン、手提袋、ハンケチ、エプロン、テーブルクロース等)/レース編物(皿敷、手提袋、人形飾)/毛糸編物(帽子、靴下、スヱーター等)/其他手工品種々(委細は各授産場へ御問合せ下さい)
  
 当時、山手線の線路沿いや近衛町は、樹木が密集した一大森林地帯であり、目白授産場から近衛町の丘へ出ようとすると、あたかも山道を歩いていくような風情だったろう。まるで別荘地の森の中に、大きめな西洋館がポツンポツンと建っているような風景だった。もちろん、生活に追われている目白授産場の女性たちは、そのような風景が目に入らなかったかもしれない。あるいは、休み時間に気分転換の散歩がてら、誘いあって丘を上りながら近衛町を散策しただろうか。
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 下落合と高田(現・目白)の町境にあった目白授産場は、地元資料である『高田町史』(高田教育会/1933年)にも、戦後の1951年(昭和26)の『豊島区史』(豊島区役所)でも取りあげられていない。東京府や東京市による運営だったせいか、特に注目されなかったのだろう。いくら町内の施設や建物であっても、役所の管轄がちがえば扱いは案外冷たい。周辺の町誌で唯一の例外は、1933年(昭和8)出版の『中野町誌』(中野町教育会)で、同年に神田川沿いの中野町小瀧に創立された東京市中野授産場が詳しく紹介されている。

◆写真上:高田町高田1160番地(1168番地?)にあった、目白授産場跡の現状。左手のビルと、北西隣りの駐車場を合わせた敷地だったと思われる。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる目白授産場。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。
◆写真中下は、目白授産場の敷地だったとみられる駐車場。は、目白授産場前の北へと上るダラダラ坂。は、近衛町の丘へと上る急坂。
◆写真下は、1926年(大正15)発行の「婦人世界」(実業之日本社)に掲載された授産場情報。は、1933年に(昭和8)設立された中野授産場。

新宿の花畑で暮らした芥川龍之介。

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 わたしの実家があった、日本橋米沢町(薬研堀Click!=現・東日本橋)から大橋(両国橋)Click!を対角にはさんだ大川向うに、芥川龍之介Click!が住んでいた。本所小泉町(現・両国2丁目)には、発狂した母親・新原フクに代わり彼を引きとることになった、フクの兄にあたる東京府へ勤める芥川道章の家があった。また、彼は東京府を退職後、龍之介の実父が経営する耕牧舎の経理も担当していた。
 芥川家は代々、千代田城の茶坊主をつとめる家がらだったので、龍之介がまとっていた江戸東京の(城)下町Click!アイデンティティは、おもに養家の生活で身につけたものだろう。本所小泉町の界隈には、芝居でも頻繁に登場する本所回向院Click!や御竹倉、百本杭Click!吉良邸跡Click!勝海舟邸跡Click!などの名所があり、彼は後年、それらの情景を懐かし気にエッセイへ書き残すことになる。彼は養家から、わたしの親父の母校である府立三中、そして一高へと通っている。
 ちょっと余談だけれど、わたしが子どものころ、親父の本棚には芥川作品が少なからず並んでいたのを憶えている。あとで改めて気づいたことだが、親父は上記の先輩・芥川とまったく同様に府立三中から一高、帝大文科を進路コースに希望していたのではないか。だが、1943年(昭和18)の学徒出陣Click!にひっかかってしまったため、文系に進めば生命が危ういので泣く泣くあきらめ理系に進んでいる。後年、キライな数学や理科を無理やり勉強したことをさんざんこぼしていたが、おそらく芥川の学んだコースを進学の理想としていたのだろう。いまにして思えば、親父が凝った研究は文学に演劇、仏教美術、能楽と、例外なく一貫して文系好みの趣味だったことに気づく。
 さて、芥川龍之介というと、この本所小泉町にあった養家と、1914年(大正3)10月から移り住んだ田端435番地の家が圧倒的に有名だ。それは、1975年(昭和50)に近藤富枝Click!が出版した『田端文士村』(講談社)の中で芥川龍之介が大きくクローズアップされ、田端での生活が詳細に書きとめられているからだと思われる。だが、本所小泉町の時代と田端時代の間には、あまり目立たないが彼の新宿時代がはさまっている。芥川龍之介は、「牛屋の原」あるいは「牛屋横丁」と呼ばれた、内藤新宿町2丁目裏(現・新宿2丁目)の家で暮らしていた。
 当時の新宿駅東口は、青梅街道(現・新宿通り)沿いに商店や住宅がまばらに並んでいる程度で、家々の裏にまわると一面に草原や林が拡がっているような風情だった。そして、内藤新宿町2丁目裏には、芥川龍之介の実父・新原敏三が経営する東京牧場Click!のひとつ、約7,000坪を超える広さを誇る耕牧舎牧場Click!(本社:芝区新銭座町)があった。耕牧舎は、牛乳の品質がことによかったらしく、取引先には築地精養軒(旧・西洋館ホテルClick!)や帝国ホテルClick!などの名前が見える。
 芥川家が、本所小泉町から新宿へ転居したのは、養父の芥川道章が耕牧舎の経理を担当していたのと、1910年(明治43)8月に東京地方を直撃した台風による東京大洪水Click!で、本所小泉町の家が冠水したからだといわれている。
 同年に芥川家は本所の家を出て、内藤新宿町2丁目71番地の耕牧舎牧場内へと引っ越した。牧場内の家は、実父の新原敏三が建てて借家にしていた1軒だったという。当時の耕牧舎牧場とその周辺の風情を、1977年(昭和52)に出版された国友温太『新宿回り舞台』(私家版)から引用してみよう。
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 耕牧舎は、春になるとまるで花園のようだった。カラタチの花は牧場の柵がわりとなり、ボケ、ツバキ、つつじが花を開き、サクラのトンネルができた。足元はレンゲ、ヤマユリで埋まった。/耕牧舎の支配人新原敏三は、昭和二年七月服毒自殺した作家芥川龍之介の実父で、富豪の渋沢、益田、三井の出資を得て経営していた。龍之介は生まれて間もなく芥川家の養子となったが、この牧場でよく遊んだ。近年、芥川家資料により明治三十五年当時の地所が七千四百四十八坪、飼牛の数百八頭だったことが確認されている。大規模な牧場だったのである。敏三は大正八年に歿し、後継者はいなかった。/大正十年三月、表通りの遊女屋は都市の体面を汚すという理由で、耕牧舎跡地に一括移転を命じられた。ご存知、戦後赤線として栄えたあの一画である。
  
 なんだか、植物の花園が人間の「花園」になってしまった気もするが、耕牧舎牧場は実父・新原敏三の死とともに解散している。
 著者の国友温太は、芥川龍之介が内藤新宿町2丁目71番地に住んでいたのを知らなかったのか、「この牧場でよく遊んだ」ぐらいしか書いていない。だが、龍之介が18歳だった1910年(明治43)の秋から、22歳になった1914年(大正3)10月に田端435番地へ転居するまでの4年間、彼は内藤新宿に拡がる花畑の中ですごしていた。
 内藤新宿町には耕牧舎牧場だけでなく、大平舎牧場などいくつかの東京牧場Click!が建設されていた。それら牧場の草地が、春を迎えると花畑のようになったので、明治末から大正期にかけて華園稲荷社(のち花園稲荷社)や花園町の名称が生まれている。
 さて、芥川龍之介が内藤新宿町から田端へ転居したのは、養父・芥川道章とともに宇治紫山から一中節を習っていた宮崎直次郎が、田端で「天然自笑軒」という料理屋を出していたからだといわれる。うちでは、親父が子どものころから習っていた江戸の清元Click!が、音楽の素養(家庭や地域の教育における必須の習いごと)だったが、芥川家では上方の一中節が採用されていたらしい。芥川龍之介もまた養父から三味を押しつけられ、おそらくいやいやながら師匠のもとへ習いに通わされていたのではないだろうか。
 当時の田端には、画家や陶芸家、彫刻家たちが数多く住んでいた。落合地域とのつながりでいうと、谷中初音町15番地(現・谷中5丁目)へ転居する前の満谷国四郎Click!がアトリエをかまえている。また、同じ洋画家では田辺至Click!柚木久太Click!山本鼎Click!倉田白羊Click!森田恒友Click!などが住んでいた。
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 田端へ転居した翌1915年(大正4)に、芥川龍之介は田端をテーマにした詩をつくっている。近藤富枝の『田端文士村』から、孫引きしてみよう。
 田端にうたへる
 なげきつゝわがゆく夜半の韮畑 / 廿日の月のしづまんとす見ゆ
 韮畑韮のにおひの夜をこめて / かよふなげきをわれもするかな
 シグナルの灯は遠けれど韮畑 / 駅夫めきつもわがひとりゆく
 このころ、芥川龍之介は才媛だった吉田彌生に恋い焦がれて悩んでいた。結婚したいと養父母に打ち明けたところ、実母も含めた猛反対にあい失意のどん底にあった。それにしても、この詩に登場する「シグナル」や「駅夫」など、まるで第1次渡仏からもどったばかりで田端駅の操車場などを描いた、佐伯祐三Click!の画面を想起させるワードだ。
 芥川龍之介は、エッセイ『大川の水』の中で「自分は大川あるが故に『東京』を愛し、『東京』あるが故に、生活を愛するのである」と書いている。はたして、大川(隅田川)が見えない丘や坂道、崖地や谷間が多い田端の生活は、彼にとってどのようなものだったのだろうか? 同書を書いた近藤富枝もまた生粋の日本橋っ子で、わたしの実家があった日本橋米沢町(現・東日本橋2丁目)のすぐ南に隣接する日本橋矢ノ倉町1番地(現・東日本橋1丁目)の出身(母親の出自は生粋の神田っ子だった)であり、彼女たち一家はいやいや郊外の新乃手である田端へと転居している。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 わずか六歳の幼女であったけれど、(芥川龍之介と)同じようにこの郊外暮らしを、どうしても承服できかねるものが心の奥にくすぶった。大川のにおいがやはり恋しかった。縁日や川開きや祭りの賑わいを失ったのも悲しかったが、人情のニュアンスが全くちがうのにとまどう思いだった。それは生意気にも子ども仲間に歌舞伎のせりふが通じないもどかしさだったり、こっちの歯ぎれのよさが、お茶っぴいと批判される口惜しさでもあった。/その夏三百坪ある庭の蝉の鳴き声は、耳を覆いたいほどのろうがましさであり、緑のにおいさえ腹立たしくてならなかった。母が三人目の女の子を生んだが、お宮詣りもしないうちに、子なしの夫婦にもらわれていったのだ。そして母さえも神田福田町のさとへ帰り、二度と田端へもどらなかった。(カッコ内引用者註)
  
 この文章を読むと、大川で164mの大橋(両国橋)をはさんだ対岸の“近所”で育った芥川龍之介に、近藤富枝は非常な親近感をおぼえていたのがわかる。彼女の母親は、どうしても乃手の生活になじめず、早々に実家のある市街地の神田に帰ってしまった。
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 わたしもまったく同様に、ときどき寂しい思いをすることがある。なにかの会話にひっかけて、好きな黙阿弥Click!芝居のセリフなどちょっと口にしても、ピンときて洒落た返しをされた方は、落合地域ではほとんどいない。想像してみるに、洒落返しをされそうなのは、洋画家・刑部人Click!の芝居好きを受け継いだ、刑部家Click!の方々ぐらいだろうか。

◆写真上:耕牧舎牧場があった、内藤新宿町2丁目裏あたりの現状。日傘をさし、紺色の絽に弁柄帯を締めて歩く清楚な“男子”が、わたしとしては目ざわりで悩ましい。
◆写真中上は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる耕牧舎牧場。は、1968年(昭和43)発行の「新宿区立図書館紀要2」所収の『豊多摩郡の内藤新宿』に掲載された1902年(明治35)ごろの耕牧舎界隈。は、1906年(明治39)に撮影された青梅街道(現・新宿通り)。右手の商店壁面に、「牛」の文字とともに耕牧舎の看板広告が見える。
◆写真中下は、2葉とも明治期に撮影された耕牧舎牧場。柵内には、たくさんのホルスタインが見てとれる。は、耕牧舎跡地になる新宿2丁目界隈の現状。下左は、1977年(昭和52)出版の国友温太『新宿回り舞台』(私家版)。下右は、1975年(昭和50)に出版された近藤富枝『田端文士村』(講談社)。
◆写真下は、田端435番地にあった芥川龍之介邸跡の現状。は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!直後に撮影された田端駅周辺の騒然とした様子。は、芥川龍之介が利用した山側口の駅舎がそのまま残る田端駅南口。
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