1944年(昭和19)の10月から11月にかけて、陸軍航空隊が撮影した落合地域の空中写真、あるいは1945年(昭和20)4月7日の第1次山手空襲Click!(4月13日夜半)直前に、米軍の偵察機F13Click!が撮影した同地域の空中写真などを、これまでためつすがめつ繰り返し眺めていながら、わたしはうっかり見落としていた。
東京地方でB29Click!による空襲がスタートするはるか以前から、落合第二尋常小学校Click!が“消滅”していたのだ。いや、それは1944年(昭和19)にサイパン島が陥落しB29が発着する基地が造られる以前から、すでに校舎のほとんどが消えてなくなっていた。厳密にいえば、メインの大きな建物だった中央校舎と、東側の新校舎を含む南へ伸びた細長いウィング校舎のすべて、および同じく西側の南へ伸びるウィング校舎の北半分の建物が消滅している。1944年(昭和19)5月23日(火)に、同校の給食室から出火した大規模な火災で、全校舎の実に4分の3が焼失していたのだ。
上落合にお住まいの方々や、同地域に関するさまざまな資料から、戦後に落合第二小学校は現在地に移転し、中井駅前の旧敷地には新たに落合第五小学校Click!が建設されたこと、戦時中の同校生徒は零下20℃にもなる群馬県の草津温泉に学童疎開Click!していたこと、上落合地域はほんの一部の例外的なエリアを除き、ほぼ全域が空襲で焼失していることなどは早くから認知しており、また戦後の空襲(延焼)地図や空中写真などでも確認していたが、この火災について触れた証言や資料はこれまで耳に(目に)してこなかった。
上落合で火事といえば、旧・神田上水沿いの工業地帯だった前田地区Click!で頻発する火災Click!について語られることが多く、落合第二尋常小学校の火災については、ほぼ全焼に近い大火事だったにもかかわらず、これまで知らずにきた。火災の原因が、学校側による失火という「負の記録」だったことも、あまり地域で語り継がれなかった要因だろうか。あるいは、下落合の相馬邸Click!と同様に戦時中の混乱期による記憶の齟齬Click!(相馬邸は日米戦争の以前に解体Click!され、一部がすでに移築されていた)から、「空襲で焼けた」という漠然とした思いこみが作用しているのだろうか。ちなみに、「落合新聞」Click!の竹田助雄Click!も1962年(昭和37)8月15日号の紙面に、落合第二尋常小学校の校舎は「戦災で焼失」と書いているので、当時から証言者の記憶が錯綜していたとみられる。
校舎が焼けて1ヶ月ちょっとで夏休み、そして夏休み明けの9月には草津温泉へ向けての学童疎開、敗戦後にもどってみれば上落合一帯は焼け野原で、焼け残っていたはずの一部の校舎も全焼……という、戦時中の慌ただしい一連の動きや混乱のなかで、記憶の齟齬や希薄化が生じるのは決して不自然ではない。
では、落合地域で育ち、戦時中は落合第二尋常小学校に勤務していた教師の証言を聞いてみる。1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会が発行した『新宿に生きた女性たちⅢ』所収の、大野初枝「小学校校長から教育委員へ」から引用してみよう。
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下谷に二年間通いましたが、一九四四(昭和一九)年四月に母校の落合第二小学校へ転勤しました。ところが、赴任早々の五月二三日に学校の給食室から火が出て四分の三が焼けてしまい大変でした。/さらにそのころ、学校からも男性教師たちが何人か召集されてしまい、歯が抜けたようになってしまいましたので、私は早速六年生の担任でした。/同年七月には学童疎開が決定され、落合第二小は夏休み中に準備をして、九月に三年生以上のクラスが草津温泉に向けて出発しました。年明けには一、二年生も疎開しました。(中略) ところが、ほっとするのも束の間、五月二五日の空襲で学区域が全部焼けてしまい、塩野先生のお宅や「伸びる会幼稚園」のあたりが二、三軒だけ焼け残りました。もちろん落合第二小学校は全部燃えてしまいました。/終戦後の一九四五(昭和二〇)年の一〇月一日、疎開を終えみんなで帰京しましたが、児童と教材とともに落合第四小に居候して、続いて落合第一、第三にも居候しました。
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証言者の大野初枝という方は、1921年(大正10)に上落合で生まれ、新宿区地域女性史編纂委員会によるインタビューが行われた1996年当時は、中井(旧・下落合4丁目)に住んでいた。落合第二尋常小学校には1928年(昭和3)に入学し、そのまま病気もせず順調に進学したとすれば1934年(昭和9)に卒業しているのだろう。
彼女の生家は、「上落合と東中野の境にある道路脇のちょうど馬の背のような感じのところ」と証言しているので、おそらく丘陵地を掘削した街道筋(現・早稲田通り)に近い、大正期には小高い土手が北側の通り沿いに連なっていた、江戸期からつづく鶏鳴坂Click!の近くではないだろうか。そのあたりから、当時の落合第二尋常小学校までは直線距離で400mほどなので、徒歩7~8分で通学できただろう。
当時の尋常小学校は国語、算術、理科、地歴、修身、体操、音楽、手工の8教科で、手工の裁縫の授業のみ専門の教師が呼ばれていたようだ。小学校は妙正寺川に面した低地にあり、大雨が降るとすぐに洪水騒ぎになった。学校の前には金魚屋があり、雨が降ると貯水槽の水が妙正寺川まであふれてしまい、小学生たちは金魚すくいをして楽しんでいたという。彼女が入学したころは、妙正寺川の浚渫・護岸工事がなされておらず、河畔から川に手をつっこんで魚に触ることができた。川の周囲には、シイやカシの樹木が多く繁り、「葦ばかりの中に学校が建っていた」ような状況だった。
最後に「塩野先生」が出てくるが、以前に証言をご紹介している落合第二小学校で洋装女教師第1号だった鹽野まさ子(塩野まさ子)Click!のことだ。時期的にみて、大野初枝は鹽野まさ子の教え子のひとりなのだろう。
また、「伸びる会幼稚園」は鹽野邸から南へ100mほどのところにある戦後に創立(1949年)された幼稚園だ。同幼稚園のある一帯は空襲で全焼しており、焼け残ったのは伸びる会幼稚園のある鶏鳴坂から西へ150mほどのところ、上落合2丁目583~585番地に建っていた緑が濃い住宅街の一画のことだろう。
彼女は、「五月二五日の空襲で学区域が全部焼けてしま」ったと証言しているが、確かに上落合のほぼ全域が空襲の延焼で消滅している。だが、かろうじて焼け残った屋敷林に囲まれた家々や、空き地などで延焼をまぬがれた家々が、戦後の空中写真でもわずかながら確認できる。以前から、下落合の焼け残った家々や街角はご紹介してきているので、機会があれば上落合の被災状況についても書いてみたい。
昭和初期に見られた早稲田通りあたりの風情と、小学校の様子を引用してみよう。
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昭和初期には、街道(早稲田通り)沿いに家が並び、畑ももちろんありました。小滝橋から中野へ行く通りがいち早く発展しましたが、馬車が馬糞を道路にまき散らしているような状況でした。(中略)/日常の買い物は、大根など野菜は下肥を取りにくる人が持ってきてくれましたが、お菓子類などは自転車でやってくるご用聞きに注文しました。仕切ってある重箱にかりん糖や甘納豆などのお菓子の見本を入れて、朝方注文を取りにきて午後商品を持ってくるというやり方でした。呉服屋さんもご用聞きで、豆腐、納豆などは天秤棒で担いで売りにきていました。そのうち市場もできました。(中略)/昭和初期の頃は不景気な時代でして、一、二年生のころはまだ石版と石ろうを使い、母が石版消しを布で作ってくれました。その後は鉛筆を使うようになりました。子どもたちの半分ぐらいは着物を着て登校していました。農家の人は絣や木綿の縞の着物を着て、勤め人の家の子は洋服を着ていました。/そのころ、学校へ弁当を持っていけない子どもが少なからずおりました。近所の東京ゴムの会社が不景気だったころで、欠食する子どもは昼になるとどこかにいなくなってしまいました。たまに弁当を持ってきても蓋をかぶせてこっそり食べたり、せっかくのおかずの塩鮭を食べないでもって帰るような生活をしている子どももいました。/一クラスは五〇人くらいでした。高学年になると、進学希望の児童は放課後学校に残って、夕方遅くまで受験のための補習を受けました。(カッコ内引用者註)
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彼女は、1927年(昭和2)の金融恐慌が起きた翌年に入学し、それにつづく未曽有の世界大恐慌Click!の真っただ中で小学校時代をすごしている。
文中には、上落合の前田地区にあった大規模な工場のひとつ、堤康次郎Click!が経営を手がけた東京護謨工場Click!が登場しているが、同社に勤める家の子に欠食児童が多かったのは、もちろん大恐慌のせいもあったのかもしれないが、昭和初期に起きた同工場の大火災も大きな影響を与えていたのではないだろうか。同工場に勤める工員の間では、給料の遅配・未払いや一時解雇の問題が起きていたのかもしれない。
大野初枝は、1942年(昭和17)から教員生活をスタートしているが、池之端の下谷区立忍ヶ岡小学校(現・忍岡小学校)時代の2年間を除き、残りの38年間は落合地域をはじめ新宿区内の小学校に勤務していた。その後、新宿区の教育委員を4年間つとめている。
◆写真上:落合第二小学校跡に建つ、落合第五小学校の東側に建設された体育館。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる東側ウィングに新校舎が竣工して間もない落合第二尋常小学校。中は、生徒数の急増で増築に次ぐ増築を重ねた同校の東側ウィング。1932年(昭和7)の撮影だが、この直後に大きな新校舎が東側ウィングに竣工している。下は、1935年(昭和10)ごろに斜めフカンから撮影された同校と校舎の焼失部分。
◆写真中下:上は、1944年(昭和19)10月16日の空中写真にみる火災5ヶ月後の同校。敷地の左手に、焼け残った西側の校舎が見える。中は、1945年(昭和20)4月7日の空中写真にみる空襲48日前の同校。下は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる同校。
◆写真下:上は、妙正寺川に面した落合第二小学校の旧敷地に建つ落合第五小学校。中は、鶏鳴坂の現状で右手が戦前からつづく伸びる会幼稚園の塀と建物。下は、昭和初期に撮影された妙正寺川の氾濫。左手が西武線で、右手が落合第二尋常小学校の校舎。