1926年(大正15)10月、落合町下落合437番地Click!から上練馬村高松2305番地Click!へ移転した目白中学校Click!は、入学希望者の急減に頭を痛めている。やはり東京市街から遠いせいか、同校へ進学を希望する生徒たちも減っていたのだろう。
いくらかは寮らしい施設も用意されていたようだが、目白中学校に併設されている東京同文書院Click!へ海外から留学Click!してきた中国人やベトナム人、インド人などの入寮が優先され、そもそも寮や下宿の絶対数が足りず、日本の生徒まで手がまわらなかったのが実情のようだ。多くの生徒は自宅から、あるいは下宿先から登校しなければならなかった。
移転した目白中学校の最寄り駅は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の中村橋駅、あるいは新たな支線の豊島線にできたばかりの豊島駅(のち豊島園駅)だが、中村橋からは直線距離で1.2km、豊島駅からでも直線距離で1kmほど離れていた。当時の道筋(ほとんどが畑地の畦道)を歩いたら、15~20分はゆうにかかっただろう。雨でも降れば、生徒たちは登校に難渋したにちがいない。今日なら、最寄り駅から学バス(乗合自動車Click!)でも用意するのだろうが、目白中学校にはそのような立地条件も財政的な余裕もなかった。
1930年(昭和5)に発行された「同窓会会誌」第16号では、同校校長で同窓会会長の柏原文太郎Click!もその点を懸念したのだろう。学校の立地が市街地から遠く離れ、入学者数の減少が大きな課題になっていた様子をうかがわせる文章を書いている。同誌に収録された、柏原文太郎『目白中学校に就きて』から引用してみよう。
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今日学校の位地は四隣の境遇上先づ校地に適するものと思ふ。其施設に付ては将来諸君と我々の大に努力を要する、殊に他邦人の (中略) 寄宿舎を設けて其生活に耐ゆる設備をなし、教育するのは他の施設と同じく必要であります。又東京市其他少し遠隔の居住者が殊に子弟の修学の為めに学校附近に家を構へて居住する者も尠くない、是等の人々より学校に寄宿舎の設けを望まるゝ事が多い。まして寄宿舎生活に注意して其弊を去るは団体生活の美風を養ひ、共同心を助長し自助自治の習慣を養ふの益があるのであります。
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この文章は、目白中学校の卒業生たちに呼びかけた内容であり、東亜同文会Click!の設立から30年余、目白中学校の設立から20年余がすぎた時点で、、改めて同窓生たちに練馬における学校発展への支援を要請したものだろう。
だが、あまりにも時代が悪すぎた。1930年(昭和5)は、前年の1929年(昭和4)にニューヨークの株価が大暴落し(「暗黒の木曜日」)、翌年、各国は未曽有の世界大恐慌の危機にさらされていた。日本でも輸出の急減とともに株価が軒並み大暴落し、街中には失業者があふれ、学校を卒業しても就職できない「大学は出たけれど」の社会状況が深刻さを増していた。つまり、多くの国民は教育費におカネをまわすことができず、明日の生活さえ見とおせないような混沌とした状態だったのだ。大学や専門学校を卒業した学生の就職率は、1929年(昭和4)度の全国調査でも50.2%という惨憺たる数値を記録している。
柏原文太郎は、この世界恐慌について『目白中学校に就きて』でも、多くの紙数を費やして日本経済を分析している。第1次世界大戦では、どのような低品質で粗悪な製品を生産・輸出しても、ヨーロッパの交戦国やその周辺国では物資不足のため飛ぶように売れ、日本の資本家や企業家はボロ儲けしたが、戦争が終結したあと製品の品質向上や生産ラインの見直しをなおざりにしたため、その後、生産力を回復した欧米製品に比べて国際競争力が徐々に下落しつづけ、今回の米国の経済破綻をまともにかぶることとなり、国内経済の壊滅状況を招来しているとしている。
他国の製品を上まわる日本製品の品質向上や、生産品目の見直しをたゆまずにつづけていれば、輸出がここまで落ちこむこともなかったとし、現状は「諸外国と競争して販路の拡張を講ずる能はずして、粗悪品の製造国として人後に墜つるの有様」だとこっぴどく批判している。ときの政治家は軍人あがりが多く、財政や経済には無知かつ「大活眼の人」も不在で、また国際通商(貿易)に関する「人材の乏しく」、「大勢を乗り切る者尠き為、此惨状を現出した」としている。当時は、Made in Japan=高品質・高機能製品などという概念が、影もかたちもなかった時代だ。
一方、同窓会委員長Click!の河奈光三郎は「同窓会会誌」第16号の中で、卒業生たちへ“母校愛”を訴えて目白中学校への協力・支援を呼びかけている。彼は、1915年(大正4)に第2期生として同校を卒業しているので、1930年(昭和5)の時点では30代半ばぐらいの年齢だろうか。当時、河奈光三郎は赤羽に住み、目白中学校で講師の仕事をしていた。
同誌収録の河奈光三郎『偶感』から、少し長いが“熱い”文章を引用してみよう。
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母校目白中学校に対しては、実に無限の愛と懐みとを感ずるものであり、従つて吾人は其の御恩に報ゆるの甚だ当然である事を信ずる。母校の御恩に報ゆる事は、実に当然すぎる程当然であると余は思ふ者である。回顧すれば、吾人の中学生時代の生活は、一生の間でも最も意味深きもので、吾人は屡々在学当時の限りなき思ひ出に耽るのである。母校を憶ひ、吾人各々の在りし日の追想は、真に人間たるものゝ至情であり、同時にその長所、美点でもある。吾人は吾人の揺籃であり、産みの親とさえ思惟せられる母校……その母校を盛り立てゝ益々その伸張を図るは、如何にしても同窓生諸君の鞏固なる結束と、応援とに俟つ外はないと確信するものである。多数諸君の親睦や団結は、母校の発展と不離不即の密接関係を有するものである事を強く感ずる。かの同じ巣で生れ親鳥の限りなき愛に懐かれて、共に睦じく成長した燕の雛は、成長して愈々彼等の別離に臨んで何をか憶ひ、又何をか期したであらうか。
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実に“母校愛”にあふれた文章なのだが、少なからず違和感をおぼえるのは、おそらくわたしだけではないだろう。鎌倉時代の封建制のもと、全国へ展開した政子さんClick!配下の坂東武士団ではあるまいし、わたしは出身校に対して「御恩に報ゆるの甚だ当然」などとは思えないし、「産みの親とさえ思惟せられる母校」などとも到底とらえられない。
人はそれぞれ、在学中あるいは卒業後に獲得した思想や価値観、生活観、生き方などによって、出身校の教育機関とその教育環境に対する想いや感慨は、千差万別に位置づけ規定するのがふつうだし、中等教育よりもむしろ高等教育などのほうが、人生を左右する影響を受けやすいかもしれない。
たとえば、1923年(大正12)に目白中学校を卒業した難波田龍起Click!(第10期生)は、アヴァンギャルド芸術家クラブが画家としての「産みの親」だと感じていたかもしれないし、1927年(昭和2)に同校を卒業した埴谷雄高Click!(般若豊/第14期生)は、特高Click!に検挙されてぶちこまれた監獄が、独自の世界観を獲得し文学への道程を決定づけた「産みの親」だと感じていたにちがいない。目白中学校の在学中に、教師や友人たちと反りが合わず、イヤな思い出しかない生徒だっていたかもしれない。
そして、なによりも出身校を後生大事に気にかける人間、換言すれば学歴をいつまでも心にとめる人間ばかりではないことも、もうひとつの大きな価値観としていまや存在するだろう。いわゆる文科省の教育制度で「偏差値」が高い「一流校」を卒業した人間にも、与えられた仕事はソツなくこなせるが、ゼロからの企画力や創造力がなく頭の悪い人間はたくさんいるし、中学や高校しか出ていない人物でも、優れた才能にあふれる頭のいい人物だっている。要は個々の人間性であり、才能であり主体性なのであって、同窓会会長のいう「巣」や「産みの親」の問題ではない……と考えるわたしは、どうしてもこの文章には「どっかちがうだろ」といいたくなるのだ。
学校当局や同窓会が、せっぱつまった強い危機感をおぼえるのも当然だったかもしれない。大恐慌の荒んだ時代を背景に、わざわざ子どもを学校の近くに下宿させ部屋代と生活費を援助したり、自邸を練馬に移転してまで目白中学校に通わせようとする裕福な親は、それほど多くはなかった。この文章が書かれてからわずか3年後、1933年(昭和8)には全校生徒が122人に急減し、病気がちになった柏原文太郎は同校校長を辞任している。
翌1934年(昭和9)には、新入生の数がついに0人となり生徒数は65名に激減して、杉並区からの申し出により同校の杉並移転がリアルに検討されはじめている。そして、1935年(昭和10)に杉並区中通町へと移転し、校名も目白中学校から「杉並中学校」へと改称された。
◆写真上:かつて目白中学校が建っていた、下落合437番地(現・下落合3丁目)界隈。
◆写真中上:上は、上練馬村へ移転直後の目白中学校。一面の畑地の中で、生徒たちもやることがなく無聊をかこっているようだ。中は、1930年(昭和5)に発行された「同窓会会誌」第16号の表紙(左)と奥付(右)。下は、寄稿者がけっこう多い同誌の目次。
◆写真中下:上は、同誌目次のつづきとグラビア。中は、1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・目白中学校と豊島園の位置関係。下は、1948年(昭和23)の同校校舎。
◆写真下:上・中は、第10回生の難波田龍起と第14回生の埴谷雄高(般若豊)の卒業生名簿。下は、晩年に撮影された画家の難波田龍起(左)と作家の埴谷雄高(右)。