落合地域の人々や住宅のことを、多彩な資料に当たって調べていると、昭和初期に特徴的な大きな「断層」があるのに気づかされる。地質学における地層上の「大絶滅」ではないけれど、大正期から住んでいた落合住民が少なからず姿を消し、また建築からそれほど年月を経ていない住宅が、惜しげもなく解体され建て替えられたりしている。
この現象は、近衛町Click!や目白文化村Click!、アビラ村Click!など地域を問わず、落合全域(下落合・上落合・西落合)のあちこちで見られる顕著な傾向だ。この「断層」は、ちょうど1928年(昭和3)あたりから1931年(昭和6)ごろまでつづき、いまだ新築とさえいえる大正末に建設された文化住宅の住民が入れ替わっていたり、築5~6年ほどしかたっていない西洋館が解体され、別の人物がまったく異なる和館を建設したりと、街角の風景も短期間で大きく変わっていたことがわかる。
この時期、たくさんの住民の入れ替わりや、築年数の浅い住宅の解体および建て替えが集中しているのは、もちろん1927年(昭和2)の金融恐慌にはじまり、1929年(昭和4)には未曽有の世界大恐慌Click!へとつながる、一連の壊滅的な経済危機が原因だったとみられる。街角には失業者があふれ、いわゆる「ホワイトカラー」の失業率がきわめて高く、「大学は出たけれど」就職できる企業が存在しない時代だった。
この経済危機の波をまともにかぶったのが、落合地域に住んでいた「中流」と呼ばれる大正期から形成されていた勤め人(サラリーマン)層や、企業の経営者・役員たちだった。せっかく手に入れた、東京郊外の大きな邸宅や余裕のある生活を、やむなく手放さざるをえなかったのだ。いや、この現象は落合地域に限らず、隣接する高田町(現・目白地域)や戸塚町(現・高田馬場地域)でも同時期に目にすることができる。山手線や市電に乗り、東京市街にある企業へと向かう勤め人たちは、未曽有の経済危機に退職を迫られて職を失い、あるいは依るべき会社が倒産して、少なからず茫然自失のような状態だったろう。
大学や専門学校を卒業した学生も、当時の内務省社会局による統計をみると、1927年(昭和2)には64.7%だった就職率が、1929年(昭和4)には50.2%と急落している。ただし、これは表に現れた数字であって、家業を手伝ったり故郷に帰ってしまったり、ちょっとしたアルバイトをしていると「就業者」扱いになってしまうので、実態はこの数字よりもはるかに深刻だったとみられる。当時の言葉でいえば、大学出の「知識階級」が大量に失業するという、従来では考えられなかった未曽有の課題が現実化した時代だった。
内務省社会局がまとめた、1923年(大正12)から1929年(昭和4)までの「全国大学専門学校卒業生就職状況」と題する統計表を見ると、以下のような推移になる。
以上の数値は、あくまでも新卒者の就職状況だが、学校を卒業して半数の学生が就職できないという社会状況は、少子化が進む今日では考えられない事態だ。
以上の数値は、あくまでも新卒者の就職状況だが、学校を卒業して半数の学生が就職できないという社会状況は、少子化が進む今日では考えられない事態だ。
失業者数もうなぎ上りで、1930年(昭和5)2月の時点における内務省社会局の調査によれば、無作為に抽出した調査人数7,021,332人(分母)の中で、失業者は350,372人(分子)がカウントされている。この数値だけみると5%の失業率だが、これは名目上の統計数値(1日でも働けば失業者にカウントされない)で、社会局も指摘するとおり実数は70万~80万人が失業しており、10.0%~11.4%の失業率だと推測している。また、この数字には学校を卒業しても就職できない、「プレ失業」者数は含まれていない。
当時の日本社会は、いまだムキ出しの資本主義経済(社会)そのものであり、戦後のように国家が社会主義的な要素を多分に取り入れた、修正資本主義には不可欠な社会政策や福祉政策などはほとんど存在しなかった。文字どおり江戸後期(産業資本主義経済フェーズ)とほとんど変わらない、「飢える者は仕方がない」の切り棄て社会だったのだ。
上掲の就職状況を、世界大恐慌の真っただ中だった1929年(昭和4)にしぼり、学校別あるいは学部別の就職状況をもう少し詳しく見てみよう。
「学部/学校」の中で、もっとも落ちこみの激しいのが「技芸学校」(技術を身につける専門校)と、いわゆる文科系の大学生(事務職のホワイトカラー層)、そして「女子専門学校」だったのがわかる。その背景には、大正期に大学や専門学校の創立ブームがあり、高等教育を受けた学生数が急増していることも一因として挙げられるのだろう。
上掲の就職状況を、世界大恐慌の真っただ中だった1929年(昭和4)にしぼり、学校別あるいは学部別の就職状況をもう少し詳しく見てみよう。
「学部/学校」の中で、もっとも落ちこみの激しいのが「技芸学校」(技術を身につける専門校)と、いわゆる文科系の大学生(事務職のホワイトカラー層)、そして「女子専門学校」だったのがわかる。その背景には、大正期に大学や専門学校の創立ブームがあり、高等教育を受けた学生数が急増していることも一因として挙げられるのだろう。
たとえば男子の中学校(今日の中学・高等学校に相当)を例にとると、1912年(明治45)の中学校卒業者数は18,660人だったものが、1921年(大正10)には24,269人、1926年(大正15)には一気に44,269人にまでふくれあがっている。卒業生たちの多くは、大学や専門学校に進学するので、当然、それらの学校も卒業生が急増していることになる。だが、その卒業者数に見あう職場の数も急増しているとは限らない。高等教育を受けた卒業生たちが増えても、それに見あう仕事場の数がたいして増えなければ、供給過剰で飽和状態になるのは目に見えていただろう。そのようなタイミングにあわせたように、世界ほぼ同時の経済恐慌が襲ったとすれば、「大学は出たけれど」になるのは自明のことだったのではないか。
これらの失業者を救済するために、政府は応急措置として今日と同様、やたら公共事業(失業救済土木事業)を乱発するが、これらによって救済されるのは工場などを馘首された「労働者」や「職工」、あるいは常に産業予備軍としてプールされていた「土木作業員」であって、大卒で事務職のいわゆる「ホワイトカラー」の失業対策としては無意味だった。
当時の政府は、急増するサラリーマンの失業に対してはまったくの無策だった。社会不安の増大に対し、「調査」と「慎重審議」を繰り返すだけで、なんら具体的な救済策を提示することができなかった。特に「ホワイトカラー」に対する施策は皆無にひとしく、“将来的なテーマ”として4つの「解決策」をアドバルーンとして上げたにすぎない。
当時の政府は、急増するサラリーマンの失業に対してはまったくの無策だった。社会不安の増大に対し、「調査」と「慎重審議」を繰り返すだけで、なんら具体的な救済策を提示することができなかった。特に「ホワイトカラー」に対する施策は皆無にひとしく、“将来的なテーマ”として4つの「解決策」をアドバルーンとして上げたにすぎない。
①将来適当なる時期に於て国立智識階級専門職業紹介所を設置する。
②青少年の職業選択指導の制度を設くること。
③高等教育制度の方針並に職業教育の完備に就き慎重調査を遂げ、適当の
具体的改善方法を講ずること。
具体的改善方法を講ずること。
④海外職業紹介に努むること。
役所が、「将来適当なる時期に」とか「調査」「慎重」というワードを使うときは、要するに「なにもしません」と同義だ。事実、「ホワイトカラー」の失業課題に対する①~④までの施策は、同時期にただのひとつも実行されなかった。ひたすら経済恐慌の「嵐」が通りすぎるのを、無策のまま他人事のように傍観していたにすぎない。1929年(昭和4)現在の濱口雄幸首相は、「失業問題の根本的解決は財界の安定、産業の繁栄に待つの外良策はない」と、お手あげ声明を発表している。
目白中学校Click!を1929年(昭和4)に卒業(第16回生)し、大学へ進学した学生のひとりが、1930年(昭和5)発行の「同窓会会誌」Click!第16号に次のような一文を寄せている。同誌収録の、富岡隆『知識階級の失業に対する一考察』から引用してみよう。
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インテリゲンチヤは依然として一切の文化の担当者たる『忠僕』でなければならないのだらうか。飽く迄も智識的特権の社会層として、社会的進歩の協力者なりと『自負』しなければならぬのだらうか。自分は、知識階級プロパアを限定しようとするものでもなく、又将来に於ける知識階級の解体を推測せんとするものでもない。ラッシュ・アワーの現代日本に於て『自殺階級』への道を辿りつゝあるインテリゲンチヤは須(すべから)く自己を清算すべしと強調したいのである。/知識貴族として特権を棄て得ぬ者は、旧き文化的誇りを保持つゝ没落せねばならぬ。旧き科学、芸術への奉仕者、或は棒給生活者を目標として進みつゝある一般知識階級はその必然的結果として過剰労働量を来し、深刻なる失業を招来するは寧ろ当然としなければならぬ。/厳粛な現実的問題、知識階級の失業苦を打開せんとするには、須く封建的イデオロギーの拘束を脱し、体面思想、虚栄観念を排撃して正しき直観の上に立ち、以てインテリゲンチヤの行くべき道を認識すべきである。(カッコ内引用者註)
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彼の同級生には、就職できない大学(高等学校含む)への進学をあきらめ、工場の労働者や帰郷して農業に携わる者たち、円タクClick!の運転手になる者などもいたようだ。
このような深刻な状況を迎え、郊外住宅地に念願のマイホームや邸宅を手に入れたサラリーマンたちは、絶望の中で家を処分して手放したり、ときには家を借金のカタにとられて追い出された人たちが少なくなかったろう。また、企業の経営者や役員たちは事業が立ちいかなくなり、倒産して不動産を金融機関の担保として取られたケースも多かったにちがいない。昭和初期の落合地域を見わたすとき、上記のような抜きさしならない社会状況を前提に考えなければ見えてこない、時代のうねりが大きく変わる潮目のような表情がある。
◆写真上:現在でも同じようなことがときどき起きており、建築後まもなく解体されてしまった下落合の大きな西洋館。最後は、所有者が壊すのにしのびなかったのか、ハウススタジオとしてドラマの撮影Click!が行われていたが築10年前後で解体された。
このような深刻な状況を迎え、郊外住宅地に念願のマイホームや邸宅を手に入れたサラリーマンたちは、絶望の中で家を処分して手放したり、ときには家を借金のカタにとられて追い出された人たちが少なくなかったろう。また、企業の経営者や役員たちは事業が立ちいかなくなり、倒産して不動産を金融機関の担保として取られたケースも多かったにちがいない。昭和初期の落合地域を見わたすとき、上記のような抜きさしならない社会状況を前提に考えなければ見えてこない、時代のうねりが大きく変わる潮目のような表情がある。
◆写真上:現在でも同じようなことがときどき起きており、建築後まもなく解体されてしまった下落合の大きな西洋館。最後は、所有者が壊すのにしのびなかったのか、ハウススタジオとしてドラマの撮影Click!が行われていたが築10年前後で解体された。
◆写真下:わたしが学生時代の1970年代後半から、結婚して子どもができたあとまで、実に20年以上も「建築中」だった豪邸。結局、放置されたまま竣工せずに解体された。