織田一磨Click!が、明治末から大正前期にかけ山手線近くの市街地近郊を「武蔵野」Click!ととらえ、たくさんのタブローClick!やスケッチ類Click!を残しているのをご紹介Click!してきた。さらに足をのばし、中央線をさらに西へたどりながら、中野や吉祥寺、井の頭、府中、五日市などの方面へ写生に出かけている。今回は、東京西郊でスケッチされた作品を中心にご紹介したい。
1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された織田一磨『武蔵野の記録』には、出版当時の住まいが武蔵野町吉祥寺1737番地だったせいか、その周辺(つまり現在の武蔵野市)のスケッチが数多く掲載されている。中でも目立つのが、やはり武蔵野に多いケヤキの樹林あるいは並木だ。1938年(昭和13)に描かれた素描『欅並木』(冒頭写真)について、著者はこんなことを書いている。
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吉祥寺には以前欅の立派な並木道があつた。この図は農家の防風林ではあるが相当に見事に育つてゐる。欅の並木は武蔵野特有の風致で実に美くしい。/近頃はいろいろの関係で伐採されることが多くなつたが、これは苗樹でも移植して次の時代へ伝へたいと思ふ。(中略) 欅の芽が出る四月頃、初夏、それから黄色い葉が散る晩秋、四季それぞれ美くしいが、最も武蔵野らしいのは冬季枯れた欅の姿こそは、最も優れた美観だと信じる。この樹に周囲をとり廻らされた農村、これは素描的の趣味が充満してゐる。/武蔵野に欅が残されてゐる間は、我々にいろいろの美を示して呉れるが、これも永久性は受合へないと思ふ。今のうちに写生する方がいゝのだ。
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おそらく、織田一磨はケヤキを眺めるだけで、そのメンテナンスを一度もしたことがないのではないか。ケヤキの葉は、「黄色い葉」ではなくベージュに近い茶色になって落葉する。大ケヤキの落ち葉のボリュームときたら、とんでもない量となってあたり一帯に降りそそぐ。それらを掃いて集めるだけでも、相当な労働力と時間(と腰痛との闘い)が必要だ。焚き火Click!が禁止されている今日では、それらを集めて燃やす風情や香りなど楽しめず(昔と変わらず焚き火をしている地付きのお宅Click!もあるがw)、すべて燃えるゴミとして処理しなければならない。
うちでは、7年前に枝払いをしてもらったとはいえ、それでも毎年暮れになると、足で踏みこんだ45リットルのゴミ袋にギュウギュウ詰めで、10袋は下らない落ち葉を処理することになる。織田一磨が書く農家でも、冬になると庭の焚き火へくべるために、毎日、庭や道路の落ち葉掃きをせっせと行なっていたはずだ。伐られてしまった大ケヤキを嘆き、武蔵野らしい「冬季枯れた欅の姿」を愛でるのは簡単だが、それを維持・継続するには膨大な手間ヒマがかかることにも少しだけ触れてほしいと思う。
つづいて、1932年(昭和7)制作の織田一麿『武蔵野の街道と並木』を観てみよう。吉祥寺付近を貫く、街道沿いの並木を描いた真夏の風景だ。
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武蔵野にある街道筋にはきまつて並木が両側にそびえてゐる。これは農家が街道に面して建てられてゐる関係上、防風林とも再建用資材ともなるやうに、家屋の周囲に植樹する風習がある為で、街道の両側は暗いやうに大樹が繁茂してゐる。/近来はこの樹木を伐つたり、農家が普通の商店に代つたりするので、大分伐採されて、今日では暗いほどの茂り合は近郊ではみられなくなつた。この写生は、吉祥寺の附近だが、最早樹木は無くなつてしまつて、街道筋は明るく太陽が直射してゐる。/然し街道の植樹は実によく考へた仕事で、この樹陰を夏でも楽に通行ができたのだ。暑くもなく涼風に送られて旅人は武蔵野を旅することができたのだ。甲州街道、青梅街道、川越街道、五日市街道、皆この計画のもとに以前は並木が茂つてゐたのだ。
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この作品にそっくりな写真が、親父のアルバムに貼られて残っている。わたしが生まれる前、1955年(昭和30)ごろの五日市街道で、現在の武蔵野市あたりを貫く五日市街道のケヤキ並木を写したものだ。織田の『武蔵野の街道と並木』には、農家らしい風景は描かれていないが、ケヤキの樹下で立ち話をしているらしい数人の人物がとらえられている。一方、親父の写真には、明らかに街道沿いに建つ大農家の生け垣が写っており、江戸期に街道に面した側へケヤキの植樹をしたものだろう、
やはり同年ごろの、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の表参道に植えられていた、冬枯れのケヤキ並木を写した写真もアルバムにあったので、ついでに掲載しておきたい。鬼子母神参道のケヤキ並木は、あまりに巨木化しないようていねいなメンテナンスが繰り返されており、定期的に幹の剪定や枝払いが行なわれていた様子がわかる。ただし、周囲の商店や住宅では、冬ごとに落ち葉の後始末がたいへんだったろう。大きな樹木は、CO2を吸収して新鮮な酸素を供給してくれ、また織田が書いているように夏場は気温を下げて涼しく快適なのだが、共存するとなると多大な人手がかかる存在なのだ、
織田一麿は、『武蔵野の記録』の挿画にも、ケヤキの樹林を描いている。1942年(昭和17)のスケッチで『初夏の欅』と題された画面だが、おそらく吉祥寺界隈の情景を写したものだろう。陸軍の施設用地にされていたため、住宅が建たずに樹林や草原が残されていた、どこか戦前の戸山ヶ原Click!をほうふつとさせる風景だ。これらのケヤキは、植樹によるものではなく種が飛ばされて、あるいは鳥に運ばれて根づいたものだろう。
武蔵野の風景は、草原ばかりでもなく、また森林ばかりでもなく、それらが交互にうまくミックスされたような独特な景観が魅力なのだと思う。換言すれば、草原ばかりの殺伐とした風景でもなく、周囲の遠望がきかなくなるほどの密な樹林帯でもなく、あちこちに小さな谷戸が刻まれ、そこからはたいてい清冽な水が湧きでていて、大小の美しい泉を形成している。その多彩な変化のある風情が、抒情的な文学作品あるいは絵画作品を生みだすベースとなっているのだろう。同書より、再び引用してみよう。
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今日まで武蔵野を書いた書物は夥しく世に出てゐる。けれども其多くのものは、人類の歴史に終つて、武蔵野そのものには余り触れない。時たま触れたものも、個人の感情、生活が主となつてゐて、武蔵野は仮りに対照として存在を認められたにすぎない。自然科学者が稀れに武蔵野の自然を相手にして、専門的の調査を行ひ、その記録は残つてゐる。これが真の記録ではあるが、総合的でなく断片的のものだけに面白味が無い。生きてゐないで乾いてゐる。/武蔵野は乾いて了つてはつまらない。やはり生気溌剌として活動してゐなくてはつまらない。風景を描写した文学に就ても其感が深く、詳細は文学の項に書くが独歩の武蔵野等でも、感情に傾きすぎてゐて、自然の客観性に乏しい。断片的の感想文だからといへばそれ迄だが、独歩の武蔵野が問題にされてゐることから考へると、もっと深く、あらゆる面から武蔵野を観察記録して残して呉れたらとも思はれる。
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武蔵野を地質学などを含めた自然科学的に、あるいは東京人が感じている「武蔵野」の趣きをベースに、さらに人間の心情面をたっぷり加味して描いた大岡昇平Click!の『武蔵野夫人』Click!を読んだとしたら、織田一磨はどのような感想をもっただろうか。少なくとも、国木田独歩の「断片的の感想文」よりは、はるかに身近な「武蔵野」情緒や自然、生活が感じられたのではないかと思うのだ。
さて、同じく1942年(昭和17)に描かれた、挿画『武蔵野からみた富士山』にも同様の趣きがある。雑木林や草原には疎密があり、なだらかな丘陵地帯があるからこそ、その丘上からは遠望がよくきく、武蔵野らしい情景がとらえられている。描かれている雑木林には、クヌギかケヤキ、コナラ、エゴ、ゴンズイ、モミジ、イヌシデ、ニガキ、イヌシデ、エノキ、ハンノキ、コブシなどが生えているのだろう。あるいは、立川や府中方面には多かった、独特なアカマツの樹林かもしれない。
ヒメジオンやハルジオンは、夏になると下落合でも見かけるが、明治以降に武蔵野へ急速に拡がった外来植物だ。織田一磨の挿画には、1935年(昭和10)ごろに描かれた『ヒメジヨン咲く武蔵野』というのがある。やはり、開墾されていない武蔵野の草原を写したものだが、素描なのでヒメジオンの白い花畠がいまいちピンとこない画面となっている。
<つづく>
◆写真上:1938年(昭和13)に、吉祥寺の風景をスケッチした織田一磨『欅並木』。
◆写真中上:上は、武蔵野の雑木林。中は、国分寺で撮影されたケヤキ並木。下は、1955年(昭和30)ごろ撮影の雑司ヶ谷鬼子母神参道のケヤキ並木。
◆写真中下:上は、1932年(昭和7)に描かれた織田一磨『武蔵野の街道と並木』。中は、親父のアルバムから1955年(昭和30)ごろの五日市街道(おそらく武蔵野市あたり)。下は、1942年(昭和17)に描かれた織田一磨の挿画『初夏の欅』。
◆写真下:上は、下落合にもあちこちに残るケヤキ。中は、1942年(昭和17)に描かれた織田一磨の挿画『武蔵野からみた富士山』(上)と、冬場に下落合から眺めた富士山。下は、1942年(昭和17)ごろに描かれた織田一磨の挿画『ヒメジヨン咲く武蔵野』。