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上落合地域の街並みは、1945年(昭和20)の4月13日夜半と5月25日夜半の二度にわたる山手大空襲Click!でほとんど壊滅した。4月13日の第1次山手空襲Click!では、おもに旧・神田上水(1966年より神田川)や妙正寺川沿いの工業地帯Click!がねらわれ、5月25日の第2次山手空襲Click!では上落合の街全体に焼夷弾が落とされている。
今回は、ほぼ全滅に近かった上落合で、戦災からかろうじて焼け残ったごく一部の街角について見てみたい。上落合でも、戦前の古い建物が比較的後世まで残っていたエリアだ。さっそく、1947年(昭和22)に米軍機から撮影された空中写真を見てみよう。
まず、上落合の東部は、旧・神田上水沿いの工場群が徹底して爆撃されているが、小滝橋の北側にある都バス小滝橋営業所(戦前は関東乗合自動車Click!営業所のち東京市電気局自動車課小滝橋営業所)の周辺が、飛びとびに焼け残っているようだ。都バスの小滝橋営業所は、1945年(昭和20)の当時はすでに鉄筋コンクリート建築であり、内部は燃えたかもしれないが建物自体は残っている。
同営業所の広い敷地やコンクリートの建物が、周辺の住宅街への延焼を防ぐ“防火堤”になったものか、営業所の北側と西側に焼けずに残った家々が点在していたようだ。だが、1950年代も半ばになると、東京都による落合下水処理場Click!の建設がスタートし、営業所敷地の北側に残っていた戦前からの家屋は残らず解体され、現在は落合中央公園の野球場とテニスコートになっている。
次いで、当時の地番でいうと上落合2丁目667番地界隈、以前の記事でも登場している戦前は落合第二尋常小学校と落合第三尋常小学校で教師をしていた、鹽野まさ子(塩野まさ子)邸Click!があった一画と、そのすぐ南側にあたる上落合2丁目545~547番地あたりの住宅街が、ほんのわずかながら焼け残っている。
ここで延焼が食い止められたのは、家々の周囲をめぐる濃い緑=屋敷林の存在だろう。現在からは想像もつかないが、戦前の小坂多喜子Click!の証言にもあるように、上落合郵便局裏にあたるこの一画には、遠くから目印になるようなケヤキの大樹Click!が繁っており、もともとは武蔵野の雑木林で数多くの樹木が繁っていたのだろう。
上落合2丁目667番地の鹽野邸が登場したので、彼女が別のメディアに語った空襲の証言を少し長いが引用してみよう。「女性」の証言とあるだけで、特に名前は記されていないが明らかに証言者は鹽野まさ子(塩野まさ子)だと思われる。1989年(平成元)に「コミュニティおちあいあれこれ」から発行された、『おちあい見聞録』(非売品)から。
▼
当時、上落合に住んでいたその女性は、額の髪の毛をあげながらこう語った。ここに、焼夷弾が当たったんですよ。たしか戦争の終わった年の3月でしたか夕方でした。いつもの通り空襲警報が出たので、さて、今日はどの方面かしらとのんびり構えていたら、なにやら辺りが騒々しくなってきました。慌てて外に出てみたら、もう火が近所まで来ているんです。どこへ逃げようかと、家族3人が玄関の柿の木の下に集まったときでした。ホラ、覚えていますか。あのいやな音、シュルッ、シュルッと空から聞こえてくるじゃありませんか。思わず上を向いたとたんに、柿の木の枝に当たったものが跳ね返って、この額に当たったんです。焼夷弾そのものだったら駄目でしたでしょうね。後で聞くと、大きなのが落ちてきて、それが地面近くになると、幾つにも裂けて飛び散るんだそうです。そのかけらの一つが当たったんですね。痛いのも、血が出たかどうかもわかりゃしません。夢中で郵便局の前を通って、中井駅の方向に走りました。家族3人が手をしっかりと握り合って、そうだ、第二(今の第五小学校)へ行こう。そばまで行ってみると、校庭は真っ赤な火の海です。(中略) 空襲も終わったようです。急に家に帰りたくなりました。なにもかも全部焼けてしまった。放心というのは、あの時のことでしょう。ところがどうしたことでしょう。私の家のまわり2・3軒だけが、焼けずに残っているではありませんか。「よかったですね」ですか。どうしてどうして、そのときの私の気持ちは判らないでしょうね。本当に肩身の狭い思いをしました。(中略) そのときの空襲でしたか、それとも別のときでしたか、二の坂の下に時限爆弾が落ちましてね。それがしばらくして爆発したんです。角にあった交番などはあとかたもありません。大きなすり鉢のような穴があいていました。
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「戦争の終わった年の3月」という証言は、1945年(昭和20)3月10日Click!に市街地の東京大空襲Click!があった時期であり、いまだ落合地域は大規模な爆撃を受けていない。落合地域の罹災は同年4月13日夜半からだが、他の住民たちの証言にもあるように、上落合の街が焼き払われたのは5月25日夜半の第2次山手空襲のほうだ。したがって、「3月」ではなく「4月」ないしは「5月」が正しいのではないだろうか。
さて、焼夷弾に混じって投下された、落合地域における「時限爆弾」の証言はめずらしい。書かれている「交番」だが、蘭塔坂(二ノ坂)Click!の下にはなかったので、三ノ坂下の南側角地にあった中井駅前駐在所のことだろう。B29から、本土空襲で時限爆弾が投下されはじめたのは1945年(昭和20)4月以降のことなので、厳密にいえば二度にわたる山手空襲のどちらで投下された記憶なのかは不明だ。彼女が中井駅方面へ避難したのと同日だとすれば、5月25日夜半の空襲のほうだとみられる。「大きなすり鉢のような穴」が開いたということなので、爆発の威力は250キロ爆弾Click!ほどもあったのだろうか。
また、鹽野邸と同様に樹木に囲まれていたのと、“空き地”に面していて延焼をまぬがれた一画が、鹽野邸から南西へ130mほどのところ、あるいは西へ170mほどのところにある。工事中だった広い改正道路Click!(環六=山手通り)をはさみ、樹木に囲まれた住宅が東側に7~8軒、西側に6軒ほど焼け残っているのが見てとれる。地番でいうと、前者が上落合2丁目585番地界隈、後者が同2丁目596番地あたりの一画だ。
罹災をまぬがれた家々のある一画は、工事中だった広い改正道路の“空き地”が、日除け地の役割りをはたした可能性が高い。また、改正道路西側に建っていた住宅6軒は、周囲を生け垣に囲まれていたのに加え、東側が改正道路の工事中による“空き地”、北側が最勝寺Click!の墓地という好条件が重なり、延焼が遮られたものと思われる。
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焼け残った街角のもう1ヶ所は、尾崎翠Click!が通った銭湯「三の輪湯」Click!がある十字路のあたりだ。妙正寺川に架かる新杢橋の南側、当時の地番でいうと上落合2丁目864~868番地界隈だ。上落合の北西端にあたる緑の比較的少ない商店街の一画が、なぜ空襲による延焼をまぬがれているのかは、1945年(昭和20)4月7日の空襲直前に偵察機F13Click!によって撮影された空中写真を見れば判然とする。
まず、三の輪湯が建っている十字路の北側は、防火帯36号江戸川線Click!による建物疎開Click!で、妙正寺川沿いの住宅が解体されて空き地が多かったこと。また、この十字路の西側は、すでに耕地整理が終わった上高田や牧成社牧場などの広大な草原や赤土がむき出しの空き地が拡がっており、ほとんど住宅が存在しなかったことが幸いしたのだろう。
次に、すべての商店とその周辺域が焦土と化した、上落合銀座商店街Click!の通り沿いを少し南に折れたところに、ポツンと焼け残った1軒家がある。当時の地番でいうと、道路の向かいに火の見櫓が見える上落合2丁目652番地の邸だ。家の周囲が樹木で囲まれているけれど、この位置で猛火の勢いからまぬがれたのはほとんど奇跡に近いだろう。幸運な住宅があったのは、現在のフジタ上落合コーポが建っている西寄りのあたりの敷地だ。
最後に、上落合で焼け残っているエリアは、広い敷地の中に建っていた落合火葬場Click!とその周辺域だ。上落合の南西端に建つ同火葬場は、敷地北側の角地を除きほとんど被害を受けていないように見えるし、その北東側および南側の住宅数軒も延焼をまぬがれている。当時の地番でいうと、焼け残りの住宅は上落合2丁目891番地(北東側)の3~4軒と、同2丁目660番地(南側)の2軒だ。
これは、落合火葬場の広大な中庭が日除け地と同様の効果をあげて、四方から迫る火のまわりを遮断したからだと思われる。同火葬場の西側と南側は、野方町の上高田に隣接しているが、そこでも罹災していない家々を見ることができる。なお、2軒の住宅が延焼をまぬがれた南側の敷地には、現在は落合斎場の関連施設が建っている。
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以上が、二度にわたる山手空襲にもかかわらず、上落合でもかろうじて焼け残った住宅や施設のすべてだ。下落合や西落合に比べ、いかに空襲による延焼被害がすさまじかったのかがうかがえる。上記の証言で、鹽野(塩野)先生もいっているように、焼け残った家の住民は焼け出された住民に対して、ほんとうに肩身の狭い思いをしたのだろう。ヘタをすると、無差別絨毯爆撃を受けているので理不尽だとはわかっていても、「焼け残ったのは米国のスパイの家だからだ」などと(理屈ではなく感情で)いわれかねない、そんなすさんだ人心Click!や狂気Click!に満ちた戦争末期の世相だった。
◆写真上:鹽野(塩野)まさ子が、中井駅方面をめざして避難するときに通過した上落合郵便局。中井駅は、手前の道を背後へまっすぐいったところにある。
◆写真中上・中下・下:上が、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる上落合で戦災をまぬがれた住宅や施設。下が、焼け残った住宅や施設があったあたりの現状。
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上落合地域の街並みは、1945年(昭和20)の4月13日夜半と5月25日夜半の二度にわたる山手大空襲Click!でほとんど壊滅した。4月13日の第1次山手空襲Click!では、おもに旧・神田上水(1966年より神田川)や妙正寺川沿いの工業地帯Click!がねらわれ、5月25日の第2次山手空襲Click!では上落合の街全体に焼夷弾が落とされている。
今回は、ほぼ全滅に近かった上落合で、戦災からかろうじて焼け残ったごく一部の街角について見てみたい。上落合でも、戦前の古い建物が比較的後世まで残っていたエリアだ。さっそく、1947年(昭和22)に米軍機から撮影された空中写真を見てみよう。
まず、上落合の東部は、旧・神田上水沿いの工場群が徹底して爆撃されているが、小滝橋の北側にある都バス小滝橋営業所(戦前は関東乗合自動車Click!営業所のち東京市電気局自動車課小滝橋営業所)の周辺が、飛びとびに焼け残っているようだ。都バスの小滝橋営業所は、1945年(昭和20)の当時はすでに鉄筋コンクリート建築であり、内部は燃えたかもしれないが建物自体は残っている。
同営業所の広い敷地やコンクリートの建物が、周辺の住宅街への延焼を防ぐ“防火堤”になったものか、営業所の北側と西側に焼けずに残った家々が点在していたようだ。だが、1950年代も半ばになると、東京都による落合下水処理場Click!の建設がスタートし、営業所敷地の北側に残っていた戦前からの家屋は残らず解体され、現在は落合中央公園の野球場とテニスコートになっている。
次いで、当時の地番でいうと上落合2丁目667番地界隈、以前の記事でも登場している戦前は落合第二尋常小学校と落合第三尋常小学校で教師をしていた、鹽野まさ子(塩野まさ子)邸Click!があった一画と、そのすぐ南側にあたる上落合2丁目545~547番地あたりの住宅街が、ほんのわずかながら焼け残っている。
ここで延焼が食い止められたのは、家々の周囲をめぐる濃い緑=屋敷林の存在だろう。現在からは想像もつかないが、戦前の小坂多喜子Click!の証言にもあるように、上落合郵便局裏にあたるこの一画には、遠くから目印になるようなケヤキの大樹Click!が繁っており、もともとは武蔵野の雑木林で数多くの樹木が繁っていたのだろう。
上落合2丁目667番地の鹽野邸が登場したので、彼女が別のメディアに語った空襲の証言を少し長いが引用してみよう。「女性」の証言とあるだけで、特に名前は記されていないが明らかに証言者は鹽野まさ子(塩野まさ子)だと思われる。1989年(平成元)に「コミュニティおちあいあれこれ」から発行された、『おちあい見聞録』(非売品)から。
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当時、上落合に住んでいたその女性は、額の髪の毛をあげながらこう語った。ここに、焼夷弾が当たったんですよ。たしか戦争の終わった年の3月でしたか夕方でした。いつもの通り空襲警報が出たので、さて、今日はどの方面かしらとのんびり構えていたら、なにやら辺りが騒々しくなってきました。慌てて外に出てみたら、もう火が近所まで来ているんです。どこへ逃げようかと、家族3人が玄関の柿の木の下に集まったときでした。ホラ、覚えていますか。あのいやな音、シュルッ、シュルッと空から聞こえてくるじゃありませんか。思わず上を向いたとたんに、柿の木の枝に当たったものが跳ね返って、この額に当たったんです。焼夷弾そのものだったら駄目でしたでしょうね。後で聞くと、大きなのが落ちてきて、それが地面近くになると、幾つにも裂けて飛び散るんだそうです。そのかけらの一つが当たったんですね。痛いのも、血が出たかどうかもわかりゃしません。夢中で郵便局の前を通って、中井駅の方向に走りました。家族3人が手をしっかりと握り合って、そうだ、第二(今の第五小学校)へ行こう。そばまで行ってみると、校庭は真っ赤な火の海です。(中略) 空襲も終わったようです。急に家に帰りたくなりました。なにもかも全部焼けてしまった。放心というのは、あの時のことでしょう。ところがどうしたことでしょう。私の家のまわり2・3軒だけが、焼けずに残っているではありませんか。「よかったですね」ですか。どうしてどうして、そのときの私の気持ちは判らないでしょうね。本当に肩身の狭い思いをしました。(中略) そのときの空襲でしたか、それとも別のときでしたか、二の坂の下に時限爆弾が落ちましてね。それがしばらくして爆発したんです。角にあった交番などはあとかたもありません。大きなすり鉢のような穴があいていました。
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さて、焼夷弾に混じって投下された、落合地域における「時限爆弾」の証言はめずらしい。書かれている「交番」だが、蘭塔坂(二ノ坂)Click!の下にはなかったので、三ノ坂下の南側角地にあった中井駅前駐在所のことだろう。B29から、本土空襲で時限爆弾が投下されはじめたのは1945年(昭和20)4月以降のことなので、厳密にいえば二度にわたる山手空襲のどちらで投下された記憶なのかは不明だ。彼女が中井駅方面へ避難したのと同日だとすれば、5月25日夜半の空襲のほうだとみられる。「大きなすり鉢のような穴」が開いたということなので、爆発の威力は250キロ爆弾Click!ほどもあったのだろうか。
また、鹽野邸と同様に樹木に囲まれていたのと、“空き地”に面していて延焼をまぬがれた一画が、鹽野邸から南西へ130mほどのところ、あるいは西へ170mほどのところにある。工事中だった広い改正道路Click!(環六=山手通り)をはさみ、樹木に囲まれた住宅が東側に7~8軒、西側に6軒ほど焼け残っているのが見てとれる。地番でいうと、前者が上落合2丁目585番地界隈、後者が同2丁目596番地あたりの一画だ。
罹災をまぬがれた家々のある一画は、工事中だった広い改正道路の“空き地”が、日除け地の役割りをはたした可能性が高い。また、改正道路西側に建っていた住宅6軒は、周囲を生け垣に囲まれていたのに加え、東側が改正道路の工事中による“空き地”、北側が最勝寺Click!の墓地という好条件が重なり、延焼が遮られたものと思われる。
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まず、三の輪湯が建っている十字路の北側は、防火帯36号江戸川線Click!による建物疎開Click!で、妙正寺川沿いの住宅が解体されて空き地が多かったこと。また、この十字路の西側は、すでに耕地整理が終わった上高田や牧成社牧場などの広大な草原や赤土がむき出しの空き地が拡がっており、ほとんど住宅が存在しなかったことが幸いしたのだろう。
次に、すべての商店とその周辺域が焦土と化した、上落合銀座商店街Click!の通り沿いを少し南に折れたところに、ポツンと焼け残った1軒家がある。当時の地番でいうと、道路の向かいに火の見櫓が見える上落合2丁目652番地の邸だ。家の周囲が樹木で囲まれているけれど、この位置で猛火の勢いからまぬがれたのはほとんど奇跡に近いだろう。幸運な住宅があったのは、現在のフジタ上落合コーポが建っている西寄りのあたりの敷地だ。
最後に、上落合で焼け残っているエリアは、広い敷地の中に建っていた落合火葬場Click!とその周辺域だ。上落合の南西端に建つ同火葬場は、敷地北側の角地を除きほとんど被害を受けていないように見えるし、その北東側および南側の住宅数軒も延焼をまぬがれている。当時の地番でいうと、焼け残りの住宅は上落合2丁目891番地(北東側)の3~4軒と、同2丁目660番地(南側)の2軒だ。
これは、落合火葬場の広大な中庭が日除け地と同様の効果をあげて、四方から迫る火のまわりを遮断したからだと思われる。同火葬場の西側と南側は、野方町の上高田に隣接しているが、そこでも罹災していない家々を見ることができる。なお、2軒の住宅が延焼をまぬがれた南側の敷地には、現在は落合斎場の関連施設が建っている。
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◆写真上:鹽野(塩野)まさ子が、中井駅方面をめざして避難するときに通過した上落合郵便局。中井駅は、手前の道を背後へまっすぐいったところにある。
◆写真中上・中下・下:上が、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる上落合で戦災をまぬがれた住宅や施設。下が、焼け残った住宅や施設があったあたりの現状。