西落合1丁目31番地(1965年より西落合1丁目9番地)に住んだ料治花子Click!は、敗戦間近の1944年(昭和19)1月29日より、町会・隣組Click!に課せられた女子挺身隊員Click!として、西落合1丁目にあった螺旋管製作所へ出勤している。落合地域の町会・隣組における、勤労動員の詳細な記録はめずらしいので、記事に取りあげてみたい。
その前に、西落合という町名には史的にややこしい課題があるので、いまさらだがちょっと触れておきたい。落合町葛ヶ谷という地名が、1932年(昭和7)より大東京Click!時代を迎え、淀橋区が成立すると同時に西落合へ変更されたのは、別にややこしくない。問題は、「丁目」のふり方なのだ。1965年(昭和40)まで、西落合は北側と南東側の一部が1丁目、南側の2丁目、それに妙正寺川に架かる四村橋Click!の西側だった3丁目とに分かれ、もとからやや入り組んだ丁目のふり方をされていた。同じ1丁目でも、南東に突き出た31番地の料治邸と螺旋管工場とは直線距離で800mほども離れている。そして、同年に改めて丁目変更が行われ、新たに1丁目から4丁目までの区画割りがなされている。
このときの丁目のふり方が、1965年(昭和40)以前と以降とでは、方角が南北でほぼ逆にふられてしまったような感覚をおぼえるのだ。以前は、北から南へ1丁目(南東側の一部除く)と2丁目、妙正寺川をはさみ西へ突きでた一部が3丁目に区分されていたが、以降は南から北へ(正確には南東から北にかけて)1丁目から4丁目がふられている。つまり、以前は1丁目だったほとんどのエリアが3・4丁目に、南東へ突き出た1丁目は2丁目側へ少し拡大し、以前は2丁目の西側と3丁目だったエリアが2丁目になってしまった。戦前の事績を取りあげた拙記事をお読みの方の中には、きっと西落合の“丁目モヤモヤ”を抱かれている方が少なくないと思うのだが、1965年を境に丁目表記がまったくさま変わりしていると考えていただければ、まちがいないかもしれない。
上記の例でいえば、料治花子が敗戦まぎわに女子挺身隊員として勤務していた工場は、「西落合1丁目」すなわち今日の西落合3・4丁目のことであり、彼女の長女である料治真弓Click!の証言によれば、1965年(昭和40)以降の表記でいうと西落合3丁目ということになる。おおざっぱにいえば、長崎側へ三角状に突きでた西落合の、落合分水が近い東寄りに工場は建っていた。……とこう書いても、モヤモヤされたままの方は多いかもしれない。わたしでさえ、資料で「西落合1~3丁目」の記述を見かけると、1965年の前と後では地域が大きく異なるため、どの時代の住所表記なのか、あるいは現代の住所表記で過去の出来事を語っているのか?……で、いまだに迷い考えこんでしまう。
さて、航空機部品の製造をしていた西落合1丁目(料治真弓によれば現・西落合3丁目)の螺旋管製作工場について、1944年(昭和19)に出版された料治花子『女子挺身記』(宝雲舎)収録の、同年1月29日(土)に書かれた日記から引用してみよう。
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「従業員の外出入ヲ禁ズ」といふ貼札の掛つた門扉を二ケ所くぐつて作業場の二階へ案内された。大きな火鉢が二つ、炭がかんかん熾つてゐる。集るもの二十数名、大抵三十才、四十才前後の主婦達 娘さんらしい人も二、三名ゐる。白髪まじりの老事務員らしい人と、茶色のジヤムバアを着た工場監督風の人と二人が上つて来て、点呼を行つた。一場の挨拶があり、国民儀礼、黙祷、『では元気で作業に取りかゝつて頂きます』と、我々挺身隊に対する態度は極めて慇懃である。私達一丁目一班八名の班長に私が指名された。二丁目、三丁目、合せて二十数名、それぞれの仕事の部署に就くやう命令され、コの字形の建物のあちこちに挺身隊員はばらばらになつた。
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文中に「コの字形の建物」とあるので、1944年(昭和19)と空襲前の1945年(昭和20)の空中写真を参照したが、工場らしい建物は特定できなかった。もっとも、航空機部品を生産している軍需工場なので、戦争末期になると上空からは一般の住宅に見えるよう、屋根など外見がカムフラージュされていた可能性を否定できない。
この工場で、料治花子は隔週ごとに作業をつづけるのだが、さまざまな工程で徐々に習熟していき、工員が不在でもなんとか作業ができるようになっていく。また、工場の人手不足は深刻で、男子へは次々と「赤紙」Click!(召集令状)がとどき、工員たちは櫛の歯が抜けるように戦場へと狩りだされていった、したがって、「銃後」の生産は少しずつ女子たちで担わざるをえなくなっていく。
西落合地域からの出征兵士は、一部の地域ではすぐ近くにある武蔵野鉄道の東長崎駅Click!や椎名町駅Click!ではなく、西武線の中井駅Click!まで見送られていたようだ。おそらく町会内で壮行会時の取り決めがあったのだろう、「田中さんとその隣の宅間さんと二軒並んで同じ日の御出征だつた。早朝五時半、霜を踏んで、私達隣組のものは中井駅まで見送つた」と、彼女は1月22日(土)の日記に書きとめている。
工場での勤務を終えると、料治花子は夕食のあと「川ばたのお風呂」へいくことが多くなった。もちろん自宅に風呂はあったが、薪や石炭などの燃料はとうに配給制へ移行しており、まず一般家庭では手に入らなかったからだ。この「川ばたのお風呂」とは、料治邸から西へ直線距離で170mほどのところにある、西落合2丁目498番地(現・西落合1丁目)の落合分水Click!沿いで営業していた銭湯(名称不明)だろう。
工場での大休止(昼食時間)の様子を、同書より再び引用してみよう。
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お弁当をたべながらゆつくりみんなの顔を見廻した。まづ私達の班の人を年の順にみると、一番が炭屋のおばさん、もんぺをはいてゐるけれど、上は着物に半纏、それを襷十字に綾取つてゐる。おばさんは五十がらみの人、それからお貞さん、次は丹羽さんの奥さん、冬でも簡素な洋服で過してゐる人だけあつて、キリリとした服装で、丸顔の、年より若く見える人である。佐々木さんと鹽崎さんはいづれも学齢前のお子さんがおありだのによくお出になつたと思つて感心する。眼鏡を掛けた頬のふくよかな感じの準さんの奥さんは、二人のお子さんをのこされて、御主人に逝かれてもう十年になるといふ。羽田さんの日出子さんはお嫁入り前の賢く美しいお嬢さん、お母様の借着だといふ紫紺のぢみな筒袖もんぺが、かへつて若さを引き立てて、ヒヤシンスの花を見るやうである。他の二丁目、三丁目の人達には、私は顔馴染みがない。
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女子挺身隊として、無理やり西落合町内から集められた女性たちの顔ぶれを見ても、これまで専門技術の属人的なスキルをもつ熟練工が手がけていた、航空機に装備する精密部品の製造・加工作業を、ご近所の奥様や「ヒヤシンス」のようなお嬢様たち素人が肩代わりして生産しているようでは、もうとっくのとうに戦争の「敗け」は自明のことなのだ。料治家では、子どもたちに聞こえないよう「日本は敗けるね」と話していた様子が、のちの料治真弓のインタビュー証言に記録されている。
料治花子が工場へ通うようになっても、料治邸にはさまざまな訪問客が絶えなかったようだ。近くに住んでいた画家で版画家の守洞春(住所不明)は、夜になると青森のホッケの干物や粕漬けなどを土産に、よく料治熊太Click!を訪ねていた。同じく版画家の棟方志功や、門脇俊一などがときどき顔を見せている。
また、町会・隣組の挺身隊には参加しない大邸宅で暮らす住民についても、料治花子は記録している。つづけて、同書より引用してみよう。
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朝、中岡さんがさういつてゐたが、なるほどあの一画は、大臣や、銀行頭取や、重役や、いはゆるお邸ばかりなので、来てゐる隊員が全部女中さんである。女中さんでも結構だけれど、奥さんやお嬢さんが出馬なさればなほさら結構だのに、と思つた。なかには、その女中さんをさへ、うちの女中は女学校を出てゐるお嬢さんですからねえ、そんなところへは――といつて、挺身を拒んだ家もあるといふ。
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「大臣や、銀行頭取や、重役」たち上に立つものが、国力の基盤となる生産工場での労働を「そんなところ」とあからさまに蔑視しているようでは、「日本も戦争に敗けるわよね」と料治花子は思ったのかもしれない。
お屋敷から派遣された女中たちには、工場の仕事に溶けこみ本人の希望から「永続勤務」になった女性たちもいたようだ。お屋敷の仕事よりも、よほどやりがいを感じたのかもしれない。その中に、目の大きな「美人ねえ、原節子みたい」な女性もいたらしい。
料治花子は工場からの帰り道、当時は落合第三尋常小学校(戦時中は国民学校)に勤務していた鹽野まさ子Click!(塩野まさ子Click!)とすれちがっている。長女の料治真弓が、小学3年生になるまでクラスの担任教師だった。料治花子が寒い北風を避けるため、風呂敷ですっぽり頬かぶりをしていたせいか、「風呂敷の中からほゝゑみかけたが、気がつかない」でいってしまう。敗戦まで残すところ1年半、1944年(昭和19)2月25日(金)の出来事だった。
◆写真上:空襲被害をあまり受けていないため、西落合には戦前からの邸宅が多い。
◆写真中上:上は、1940年(昭和15)の1/10,000地形図にみる西落合1丁目。中は、1965年(昭和40)発行の「住所表示新旧対照案内図」にみる西落合3・4丁目になってしまった旧・1丁目の大半。下は、耕地整理で整然とした直線道路が多い西落合の街角。
◆写真中下:上・中は、工場労働に動員された女子挺身隊。(NHKニュース映像より) 下は、中井駅手前の蘭搭坂(二ノ坂)下で出征兵士を見送る様子。右手に見えている住宅が内山邸、背後の目白崖線斜面に建つ中央右よりの邸が芳崖四天王Click!の岡不崩アトリエClick!、その左が波部邸、左端が立山邸と思われる。(「おちあいよろず写真館」より)
◆写真下:上・中は、戦前からの邸宅が残る瀟洒な西落合の街角。下は、西落合1丁目303番地に住んだ松下春雄アトリエClick!前の道路で右手は旧・松平邸(のち本田宗一郎邸)。