下落合417番地に住んだ近衛篤麿と、そのすぐ北隣りにあたる高田町雑司ヶ谷上屋敷3621番地に住んだ宮崎滔天は、欧米列強に侵略されつづける清朝の「中国革命」を支援し「アジア主義」を標榜したが、両者の思想はまったく異なっている。前者は東亜同文会Click!を結成(合同)して組織的にも具体性があり、その主張は欧米政治家の間でも(危機感とともに)よく知られていたが、後者は日本国内や中国の革命派の一部にはよく知られていたものの、欧米諸国ではほとんど認知されていなかった。
近衛篤麿の思想は、ひとことでいえば“日本主導”で中国革命を支援し、中国に革命政府が成立したのちは“日本主導”でアジア諸国の独立を助け、ゆくゆくはアジア諸国が連携して“日本主導”で欧米の植民地勢力を追い出そうという、日本を中心としたアジア型の「モンロー主義」をめざすものだった。あくまでも日本を中核にすえた「同人種同盟論」は、のちの「大東亜共栄圏」を生みだす思想的な出発点のひとつを形成している。
1898年(明治31)に刊行された雑誌「太陽」1月号に掲載された、近衛の「同人種同盟 附支那問題の研究の必要」が欧米に衝撃を与えたのは、著者が華族の中心的な一族の人物のみならず、当時は貴族院議長の職にあったせいもあるが、それ以前に1893年(明治26)にニューヨークとロンドンで出版された、チャールズ・ピアソンによる『国民の生活と性質』が欧米でベストセラーになっていたからだろう。ピアソンの同書は、現在は欧米の植民地として虐げられている有色人種(特にアジア人)が、将来的には結束して逆に欧米を脅かす存在に成長するという、「黄禍論」のさきがけのような内容だった。
近衛篤麿が、「同人種同盟 附支那問題の研究の必要」を発表したのと同年、東亜会と同文会を合同させ東亜同文会Click!を結成し、「支那を保全す、支那および朝鮮の改善を助成す、支那および朝鮮の時事を討究し実効を期す、国論を喚起す」という綱領を発表した。ここにもあるとおり、中国革命を支援するにしても対等の立場ではなく、あくまでも中国を「保全す」るのは日本であり、「保全」されるのは中国だという優越的な関係性がすでに見えている。「同文」は同文化の略だが、上海に東亜同文書院Click!が、東京の下落合437番地の近衛邸敷地内には東京同文書院Click!が設立され(のち目白中学校Click!併設)、中国をはじめベトナムやインドなど、アジアからの留学生を募集しはじめたことで、欧米諸国はさらに神経をとがらせたことだろう。
当時、中国の人口は4億人であり、インドもほぼ同数の4億人、それに最新の軍備を整えつつあり日清戦争に勝利した日本を加え、清の外交官だった曾紀沢の論文(英文)のように、アジア諸国が自主独立をめざす「東洋連合」が実現すれば、欧米の植民地勢力はひとたまりもなく、また本国の欧米、特に地つづきのヨーロッパはその勢力に呑みこまれてしまうという危機感が、中世のモンゴル帝国の侵略記憶とあいまってリアルに受けとめられはじめていた。もっとも、徹底的に差別し虐げた人々に対して、その「負い目」や「罪悪感」から現実以上の危機意識や被害妄想をつのらせるのは、別に当時の欧米人に限らない。
近衛篤麿も大きな影響を受けたとみられる、当時は英文で発表された曾紀沢の論文を、2020年に筑摩書房から出版された嵯峨隆『アジア主義全史』から孫引きしてみよう。
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今日東洋諸国に就て、余輩が最も憂ふる所は、各々些細の猜忌のために分裂して相好からず、東洋国同士の間柄よりも寧ろ其の西洋国に対する間柄の方をして、較や相近からしむるが如き迹あるは何ぞや。東洋国同士は宜しく一致連合して、其西洋国との交通関係をば戦敗より余儀なく生ぜるものにあらずして、彼我対等の条約より自から好て造りたる者となし度ものにあらずや。
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曾紀沢の「東洋連合論」を、近衛篤麿はそのまま日中提携をはじめとする「同人種同盟論」に置きかえたわけだが、文中にある「宜しく一致連合」はあくまでも日本がヘゲモニーをにぎって他国を従え、日本の「保全」あっての「同盟」であって、個々の国々が独立して主体的な政体を形成するとは想定されていなかった。それは近衛篤麿が死去した直後、1905年(明治38)に日露戦争で日本が勝利したことにより、東亜同文会をはじめとするアジア主義者の間では、ますます強まり傾斜していく志向だったと思われる。
現在でも、日本が中国と政治・経済的に親密になると、欧米諸国はあからさまな不快感を隠さない。当時は、日中印あるいは日中露の同盟が欧米から怖れられたが、ロシアや東ヨーロッパなどスラブ系も欧米から見れば「異人種」ととらえられていたことに留意したい。いまでこそ、中国は独裁政権下で日本からは「遠い国」と見られがちだが、同国が民主化されたその先には、地理的に近く歴史的にも交流が深い日本が親近国として位置づけられるのはまちがいないだろう。そのとき、欧米諸国の不安や恐怖は、おそらく激しく再燃するにちがいない。欧米諸国にとっては、日中あるいは日露の仲が悪いことがベストな環境であり、関係が緊密になることは当時にも増して「悪夢」なのだろう。
近衛篤麿が訪中しただけで、欧米のマスコミが危惧した様子を、2020年に講談社から出版された廣部泉『黄禍論―百年の系譜―』から引用してみよう。
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同人種同盟論の提唱者である近衛篤麿が北京を訪問すると、欧米各紙は、日中同盟締結は近いのではないかと危惧した。ロンドンの『タイムズ』は、近衛は中国で日中同盟を求めると予測したし、『シカゴ・トリビューン』は、近衛は日中同盟を締結するために訪中したと論じている。『ロサンゼルス・タイムズ』も、「東洋の二つの帝国が引き寄せあっている」と題する記事を掲載し、日中同盟は近いとの考えを示している。近衛の訪中という情報だけで、根拠のない日中同盟が強く疑われたことから、日中合同という形の黄禍論的考えがこの時期に広まっていったことがわかる。
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近衛篤麿とは正反対に、アジアの革命・独立や連合は、日本ではなく中国革命が中心となって推進されるべきだと主張したのが、近衛より8歳年下の宮崎滔天(虎蔵)だ。それは当時、日本とは桁ちがいの歴史や文化の蓄積や、人口4億人を抱えていた中国のマンパワーとも、深く連関づけていた視界であり思想にちがいない。
もともと自由民権運動に参加していた宮崎は、国と国の関係は対等であるべきであり、先々の国利国権ばかりをめざす同盟論者は、結局は欧米の侵略者たちと変わらないエセ・アジア主義者と見なしていた。このような思想的立場をとる人物はきわめて少なく、日清戦争そして日露戦争ののち日本が有頂天になっている社会状況の中では、「民権派アジア主義者」としてきわめて異彩をはなっている。今日の中国や台湾で、宮崎滔天が大きく顕彰されているのを見ても、近衛との思想的な対立軸は明らかだろう。
宮崎の政治的な立脚点は、帝政(帝国)ではなく資本主義革命(市民革命)をへたうえでの共和制(共和国)を理想としていた。つまり、帝政に立脚する近衛篤麿とは対極に位置する革命思想であり、そういう意味では資本主義革命の先達であるフランスをはじめ、ヨーロッパ諸国の共和制を理想政体としたように見える。彼は中国にわたり、実際さまざまな革命運動にかかわることになり、近衛よりもはるかに主体的かつ実践的だった。
だが、当時の帝政清国にそのような変革を求めるのは困難であり、宮崎は革命家の孫文Click!を支援しつつ、古代中国に存在したといわれる理想的な国家体制に惹かれていく。宮崎滔天『三十三年之夢』(岩波書店)より、孫文の言葉を引用してみよう。
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抑も共和なるものは、我国(中国)治世の神髄にして先哲の偉業なり、則ち我国民の古を思ふ所以のものは、偏へに三代の治を慕ふに因る。而して三代の治なるものは、実に能く共和の神髄を捉へ得たるものなり、謂ふことなかれ我国民に理想の資なしと、謂ふことなかれ我国民に進取の気なしと、則ち古を慕ふ所以、正に是れ大なる理想を有する証的にあらずや。(カッコ内引用者註)
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宮崎滔天がイメージしていた共和制は、すでに古代中国に存在していた「三代の治」に近似したものであり、最終的に達成されるべき民主革命後の中国は、その理想に近い政体(近似的共和制)になるべきだと考えるようになる。
だが、さまざまな経験や挫折をへるにつれ、彼が理想とする「三代の治」はアナキズム的な色彩を強め、また日本が革命の支援者ではなく、あからさまに中国革命の妨害者として立ち現れるにいたり、徐々に悲観的な見方を強めていく。最終的には、理想社会とは「過激主義でもなく、共産主義でもなく、又無政府主義でも国家社会主義でもない一種の社会主義であって、(中略)至極穏和な社会観」(宮崎滔天「出鱈目日記」1920年/『アジア主義全史』より)へと収斂していく。
宮崎滔天の思想は、革命後の中国(中華民国)を除き欧米はもちろん、国内でも大きな注目を集めなかったが、彼の思想に強く反応した人物がいた。早くから中国問題に注目し、アジア革命を基盤にゆくゆくは世界革命を視野に入れていた思想家・北一輝Click!だ。彼は、日清戦争で同胞である中国にダメージを与えた「罪滅ぼし」として中国革命を支援し、アジアから欧米列強を駆逐しなければならないと説く。
1906年(明治39)に自費出版された北一輝『国体論及び純正社会主義』は、内務省からわずか5日で発禁処分を受けている。その2ヶ月後、北一輝は宮崎滔天の革命評論社へ参画するようになるのだが、それはまた、別の物語……。
下落合の近衛篤麿邸から、上屋敷(あがりやしき)の宮崎滔天邸まで、直線距離でわずか650mほどしか離れていない。当初は東亜会に所属していた宮崎滔天と、同文会を設立した近衛篤麿とは、両組織が1898年(明治31)に合同したあともお互い会員でいたが、ふたりの思想は大きくかけ離れていった。両者の息子である宮崎龍介Click!と近衛文麿Click!もまた、思想的な一致点はほとんどなかったと思われるのだが、少なくとも1937年(昭和12)の夏に起きた「特使事件」Click!まで、ふたりにはなんらかの交流がつづいていたのかもしれない。
◆写真上:下落合417番地の近衛篤麿邸跡で、正面のケヤキは玄関の車廻し跡。
◆写真中上:上は、近衛篤麿(左)と論文「東洋連合論」を発表した曾紀沢(右)。中は、目白通り沿いの東京同文書院跡。下は、1914年(大正3)の東亜同文書院記念写真。
◆写真中下:上は、中国の革命家・孫文(左)と宮崎滔天(右)。中は、雑司ヶ谷上屋敷3621番地の宮崎滔天邸跡。下は、2020年の同時期に出版された嵯峨隆『アジア主義全史』(筑摩書房/左)と、廣部泉『黄禍論―百年の系譜―』(講談社/右)。
◆写真下:上左は、1913年(大正2)に撮影された孫文(中央左)と宮崎滔天(中央右)。上右は、宮崎滔天の思想へ鋭敏に反応した北一輝。下は、1917年(大正6)の1/10,000地形図にみる600m余しか離れていない宮崎滔天邸と近衛篤麿邸(すでに死去)の位置関係。