下落合437番地にあった目白中学校Click!の卒業生名簿を見ていると、落合町や戸塚町、牛込区、淀橋町、高田町、西巣鴨町、長崎町、野方町、中野町など現在の新宿区や豊島区、中野区の在住者が多かったことがわかる。また、その教育方針に共鳴した親たちが、子どもを下宿させてまで同校に通わせているケースも数多くあり、北海道から沖縄県までの全国はもちろん、台湾や朝鮮からも生徒たちClick!が集まっていた。
目白中学校からの進学先は、東京にある高等学校(大学予科)や大学、専門学校などをほぼ網羅しており、就職先は企業から官公庁、医師、軍人、教師と多種多様だ。1914年(大正3)の第1回卒業生から、1930年(昭和5)の第17回卒業生までの卒業者総数は1,486名で、このうち行方不明者が223名(所在を同窓会に知らせていないOBだが、死者も含まれているかもしれない)、死者が72名となっている。
卒業生のうち、行方不明者223名と死者72名を引いた1,191名の中で、1930年(昭和5)現在で落合町に居住している卒業生は全部で61名にのぼり卒業生全体の5.1%、同様に高田町(現・目白/雑司ヶ谷地域)に居住している卒業生は65名で全体の5.5%、戸塚町(現・高田馬場地域)に居住している卒業生は全部で42名で全体の3.5%、同じく長崎町に居住している卒業生は34名で全体の2.9%という構成になっている。
目白中学校があった落合町と、その周辺域の町だけで202名の出身者(1930年現在での在住者)を数えることができ、卒業生全体に占める割合は17.0%と、同中学校の入学者が全国規模だったことを考えれば圧倒的に高いことがわかる。さらに、就職による赴任や結婚などによる独立で、これらの町々から離れている卒業生がいると思われ、実数はもっと多かったのではないかとも想定できる。
ほかにも、中野町や野方町、西巣鴨町(現・池袋地域)、淀橋町などに住む卒業生が多く、近隣の地域から目白中学校へ通ってきていた生徒が圧倒的に多かった様子がうかがえる。つまり、これらの町々に住む子どもたちが、歩いて、自転車で、または山手線に乗って気軽に通える下落合にあった目白中学校に惹かれたのであり、同中学校にしてみればこれらの町々に住む家庭の子どもたちが、学校経営の安定を約束していた重要な基盤だった。
ところが、上練馬村高松2305番地に移転することによって、その経営基盤が丸ごと失われてしまったのだ。練馬への移転に、異議をとなえた卒業生も多かったらしく、将来を不安視する声がずいぶん同窓会委員会にも寄せられている。1930年(昭和5)に発行された『同窓会会誌』Click!第16号から、そのいくつかを引用してみよう。
▼
六回生 深津二郎
母校に対して、とかくの風説あるを悲しむ。諸先生の御健康を祈る。
七回生 宇田川義一
久闊誠に申訳ありません。率直に申立れば、最近の母校は幾分影薄くなつたのではないかと、密かに心配致しております。『皇国の興廃此一戦にあり』の句を忍んで、在学の健兄と卒業生、教職員一団となつて、何らかの方法で再起しようではありませんか。
八回生 高橋良夫
母校の消息を聞く事は言外の喜びです。而し近来度々互に淡い希望と心細さとを感ずるものです。誰も望む母校の向上は果して…将来に於る母校の輝を尚如何に……。
十四回生 乙部 実
今度目白学園と云ふ名の下に拡張計画が行はれてゐるとの事、母校の益々盛になるよう祈つて居ます。委員諸兄の御骨折を感謝いたします。
▲
練馬への移転後、昭和期に入るとともに教育界における目白中学校の存在感が、徐々に希薄になっていくのを卒業生たちも薄々気づいていたのだろう。同校の『同窓会会誌』には、このような声が毎回寄せられていたと思われる。
この寄稿文の中で、「目白学園」という聞きなれない言葉が出てきている。目白学園Click!といえば、現在では下落合の西端(現・中井2丁目)、目白崖線ではもっとも高い標高37.5mの丘上にある、目白学園・目白大学(大正期は城北学園Click!、戦前は目白商業学校Click!)が思い浮かぶ。だが、目白中学校では昭和初期に学校名を「目白学園」と改称し、なんらかの学校再編(再建)プランを立てていた様子がうかがえる。
以前、下落合にあった目白中学校のキャンパス内へ、新たに「目白工学校」Click!を設立して生徒を募集していた新聞広告をご紹介しているが、この学校拡張計画に絡んだ学校名の“改称”だろうか。それとも、「目白工学校」は実際に生徒が集まり開校した形跡がないので、それとは別のまったく新しいプランだろうか。だが、練馬キャンパスの周辺は、一面の田園地帯で人家も少なく、小学校や幼稚園を併設してもそれほどニーズがあったとは思えない。あるいは、中学校からそのままエスカレーター式に上がれる、高等科(目白高等学校)を新設する計画でもあったのだろうか。
練馬へ移転する前後の目白中学校では、先の「目白工学校」計画や上記の「目白学園」計画のように、生徒数の減少をあらかじめ予想し、経営上なんらかの対策や施策を考えていたフシが多々見られる。そのうち「目白工学校」は具体化したが、媒体広告を何度か打って生徒まで募集したにもかかわらず結局は失敗に終わり、「目白学園」構想はどこまで具体的なビジョンが存在したのかも不明な計画だ。
さて、卒業生の行方不明者はさておき、死亡者の傾向にはかなり特徴があるので少し取りあげてみたい。第1回生から数え、17年間にわたる卒業生の死亡率をみると全体で4.8%となり、当時の医療環境からいえばそれほど高い数値とはいえないけれど、1930年(昭和5)の時点で1917年(大正6)あたりから1919年(大正8)にかけ東京で、つまり下落合の校舎で学んでいた生徒たちの死亡率が、飛びぬけて驚くほど高い。
たとえば、1917年(大正6)の第4回卒業生は44名だが、うち5名がすでに死亡しており死亡率は11.4%、1918年(大正7)の第5回卒業生は65名で、うち13名がすでに死去して死亡率は20.0%、1919年(大正8)の第6回卒業生は62名で、死者は5名にのぼり死亡率が8.1%と平均値よりかなり高い。これは、おそらく同時期に流行した「スペイン風邪」のパンデミックによる、なんらかの影響がありそうだ。
この時期の生徒たちは、流行が猖獗をきわめた東京で通学をつづけることにより、健康への大きなダメージを受けやしなかっただろうか。特に1918年(大正7)の死亡率20.0%は、10人の卒業生がいたら2名が死亡していることになる。「スペイン風邪」のウィルスが体内に潜伏し、のちに重篤な病気の引きがねになっている可能性もありそうだ。ウィルスに感染したあと、リアルタイムでは症状が出なかったり軽症だったとしても、のちにどのような重病を招来するかは、現在のCOVID-19も当時の「スペイン風邪」ウィルスも不明だ。しかも、死亡しているのがほぼ20~30代であることにも留意したい。
また、1924年(大正13)の第11回卒業生も、78名の卒業生に対して7人が死亡し、死亡率9.0%とかなり高い数値になっている。こちらは、前年に起きた関東大震災Click!による影響から、PTSDが卒業生たちの健康に大きな影響をおよぼした可能性がありそうだ。ちなみに、下落合の目白中学校自体は、関東大震災の被害Click!をそれほど受けていない。
目白中学校の同窓会には、「特別会員」という別枠があって新・旧の教職員が参加できる組織になっている。その名簿を見ると、柏原文太郎Click!をはじめ、清水七太郎Click!や篠崎雄斎Click!の名前を見つけることができるが、難波田憲欽Click!や金田一京助Click!は見あたらない。やはり、市街地からは遠すぎて、会員になるのがおっくうだったものだろうか。
◆写真上:練馬移転後の1929年(昭和4)に、校舎前で撮影された目白中学校の応援団。
◆写真中上:上は、月桂樹の校章が刺繍された校旗。下は、校庭での軍事教練の様子。
◆写真中下:上は、1930年(昭和5)3月の第17回卒業生たちの記念集合写真。下は、1929年(昭和4)に開催された目白中学校運動会の開会式。
◆写真下:同運動会で行われた、パン食い競争(上)と角力大会(下)の様子。