1949年(昭和24)4月から、吉岡憲Click!は武蔵野美大や女子美大につづき、日本大学芸術学部の講師を引き受けている。独立美術協会Click!との関係からか、当時は井荻Click!から下落合3丁目1146番地(現・中落合2丁目)の実家Click!にもどっていた、日大芸術学部教授の外山卯三郎Click!からの講師依頼を受けたものだろう。同時期には、下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)にアトリエをかまえていた川口軌外Click!とも交流している。
上落合1丁目328番地(現・上落合2丁目)の吉岡アトリエClick!から、外山卯三郎邸Click!までは直線距離で約400mほど、一ノ坂沿いの川口軌外アトリエClick!までは約450mしか離れていない。ちなみに、死去する直前の最晩年に交流した下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の松本竣介Click!のアトリエClick!にも、直線距離で約540mと近かった。その中でも、外山卯三郎とは日大芸術学部の教員同士ということで交流が深かったらしく、吉岡憲は彼の二女の外山やよひをモデルに雑誌小説の挿画を描いている。
さて、1949年(昭和24)という年は、吉岡憲が故郷の世田谷区粕谷から上落合へ転居してきた翌年であり、また第16回独立展に『母子像』や『食卓』などが入選して、独立美術協会の会員になった年でもある。展覧会にも積極的に出品しており、美術専門誌からは原稿の執筆や座談会出席への依頼がつづくなど、戦後の仕事は順調なすべりだしを見せていた。また、野口彌太郎Click!や山本正らとともに共同展を開催し、九州の長崎や札幌へ出かけるなどポジティブな活動が目立っている。
1951年(昭和26)には、戦後初の個展を銀座の資生堂Click!画廊で、翌1952年(昭和27)には日本橋三越Click!で「個展のつどい」を開くなど、この時期の吉岡憲を画業という側面からのみとらえれば、どう見ても順風満帆な仕事ぶりを見せており、わずか5年後に自死するような不吉な影はどこにも見あたらない。むしろ、周囲の画家たちから羨望の眼差しを向けられるような活躍ぶりだった。
吉岡憲が、1956年(昭和31)1月15日午前1時ごろ東中野駅のすぐ西側、中野区高根町の踏み切りに飛びこんで死亡したあと、新聞記事には「制作のいきづまり」や「表現上の悩み」という、芸術家が自裁した場合によく使われる“ありがち”な理由が報道されている。たとえば、1956年(昭和31)1月17日に発行された毎日新聞の記事を引用してみよう。
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画家 吉岡憲氏が自殺/仕事に行詰り? 中央線に飛込む
独立美術協会の中堅画家吉岡憲氏(四〇)=新宿区上落合一の三二八=は去る十四日夜から行方がわからなくなり、妻きくさんが十六日午後捜査願を戸塚署に出したが、同日夕刻、去る十五日深夜、中野区高根町で中央線三鷹行終電車に飛込み自殺した身もと不明の男が同氏であることがわかった。自殺の原因はさきに雪の八ヶ岳に姿を消した評論家服部達氏と同様仕事の行詰りとみられる。妻きくさんの話によると吉岡氏は数ヶ月前から「ああ、だめだッ」などと悲観的な言葉をもらしはじめ、顔色もしだいに悪くなっていった。きくさんが気にして問いかけても何一つ語らなかったが、仕事に行詰っていたように思われると語っている。/吉岡氏の自殺現場にも自宅にも遺書はなく、家を出てから数時間の行動ははっきりしないが、憲氏はあてどもなく歩きつづけたあと自殺を図ったものとみられる。(後略)
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だが、このすぐあと、美術関係者の間では妙な「暗黙の了解」がなされていたような気配がみえる。吉岡憲の死は、飛びこみ自殺ではなく踏み切り事故だったとする(そうしておきたい)「解釈」だ。警察の現場検証や国鉄側の証言などによって、明らかに自殺だと断定されたにもかかわらず、また新聞でも自死だと報道されているにもかかわらず、吉岡憲の遺作展で展示された年譜の最後に「自殺」と書かれていた箇所へ、クレームをつけた美術関係者が何人かいる。これは、いったいどういうことだろうか?
遺書がなかったために起きた混乱のようにも見えるが、生前の吉岡憲と近しかった人たちが、「踏み切り事故」としたがっている点が気になるのだ。うがった見方をすれば、吉岡憲の自殺は芸術上の悩みなどではなく、きわめてプライベートな要因からだったと認識している友人たちがいて、それを知る人たちがあえて(気をきかせて)申し合わせたように「踏み切り事故」にしたがっている……というようなニュアンスをおぼえる。
そのモヤモヤした疑念が、なんとなく氷解したように感じられたのは、吉岡憲の実弟である吉岡美朗が作成した年譜を参照してからだ。もちろん、吉岡美朗は兄の最期について1956年(昭和31)の項目に、「1月15日 午前一時頃、中央線東中野の高根町の踏切で三鷹行き最終電車に飛び込み自殺する」とハッキリ書いている。1996年(平成8)に「信濃デッサン館」出版から刊行された窪島誠一郎・監修『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』に収録の、吉岡美朗・編「吉岡憲年譜」から引用してみよう。
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(1953年11月の項) この頃すでに憲は、病んでいる菊夫人の妄想に疲労困憊していた。/菊夫人の妄想の内容は「実母政江と政江には義父にあたる祖父祐蔵との間で姦淫によって出生した不義の赤子が憲である」というものであった。/菊夫人はこの妄想の話を、何も知らない画家、知人、憲芸術のファンの人たちに吹聴していた。それは取り返しのつかないことであった。言うまでもなく、その妄想を多くの人は事実の出来事として信じていた。/(1954年3月の項) 菊夫人の病状は一進一退する。制作のかたわら看護と生活の雑事に追われる。/憲は制作のために、高校在学中の実妹曙美に菊夫人の健康が回復するまで日常生活の雑事の手助けをしてもらうことにする。/(1955年5月の項) 編者(吉岡美朗)は日大芸術学部美術科へ入学したことから、講師を務めていた憲と菊夫人の間が、精神的にも肉体的にも解決の見出せない状態になっていることを知った。憲は母政江にそのこと(菊夫人の妄想)を打ち明けて、母から厳しく叱責された。(カッコ内引用者註)
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つまり、吉岡憲と親しかった美術関係者は、彼の死を聞いたとき菊夫人の「妄想癖」やその言動が原因で、彼が精神的に追いつめられて自死を選んだと、とっさに解釈したのではないか。だから、その原因を家庭内ではなく、他に向けさせるため差し障りのない「制作のいきづまり」や「表現上の悩み」と答えたり、そもそも自殺ではなく「踏み切り事故」だったと強引に説明しようとしたのではないだろうか。
吉岡憲はこの時期、さかんに耳鳴りと不眠症をうったえて精神安定剤(睡眠薬)を常用していた。「画家は貧乏なのがあたりまえ」という一般論はよく聞かれるが、戦後にたどれる吉岡憲の活躍を見るかぎり、絵が売れずに生活費にもこと欠いて飢えるというような状況ではなく、仕事をして稼ぐそばから菊夫人の治療費や入院費、治療薬代に消えていったというのが実情の生活だったのではないだろうか。
また、一方で独立美術協会の派閥争いか、あるいは表現上の対立なのかは不明だが、吉岡憲は同協会でなんらかのトラブルに巻きこまれており、1955年(昭和30)10月末に銀座の日動画廊で開かれた個展のすぐあと、12月中旬になると某画家より独立美術協会の会員を辞めるよう強く迫られていたようだ。そして、このトラブルが引き金になったものか、ひと月もたたないうちに吉岡憲は中央線に飛びこんでいる。
最晩年の吉岡憲について、もっとも的確に表現したと思われるものに松島正幸の追悼文がある。1956年(昭和31)10月に開かれた「独立美術協会25周年作画集」図録の、松島正幸『謹んで盟友の霊を悼む-吉岡憲君の思い出』から引用してみよう。
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(吉岡憲は)苦しみや悲しみや、生活に就いても、人に語ることをしなかったが、我々の生活は、皆、楽じゃなかった。/死の直前の頃は、神経的にかなりひどい衰弱状態だったと思う。彼の口から、二三週間も、一種の夢遊状態のような、自覚しない行動の時間があること、その不安な状態に就いて語られたことがあった。/こうした不安から、自分でも病院に入りたいような口振りで、東大病院の手続きもとったりしたが、やっぱり決断のつかぬままに、あんなことになったことは、今でも悔やまれる。(カッコ内引用者註)
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『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』を監修した窪島誠一郎は、吉岡憲が追いつめられていった要因として、「結婚後の一時期精神錯乱におちいった菊夫人への献身的な看護」と、「精神安定剤の多量服用による発作」などを挙げている。
菊夫人は夫が自裁した直後、家庭内の事情をなにも知らない新聞記者たちに、おそらく「仕事の行きづまりか芸術上の悩みとかありませんでしたか?」と訊かれ、そういえば「ああ、だめだッ」と悲観的な言葉をもらし、顔色もしだいに悪くなっていったと答えている。だが、なにかモノを創る人間が思いどおりに表現できないとき、「ああ、だめだッ」というのは日常茶飯のことだし、顔色がしだいに悪くなっていったのは、不眠症による精神安定剤(睡眠薬)の常用が原因だったのだろうと思いあたる。
窪島誠一郎の「吉岡憲の死はやはり自殺だったのでしょうか」という問いに、菊夫人は「……」と黙して語らないが、1970年代にはすっかり恢復していたと思われる菊夫人こそ、夫の死を「踏み切り事故」だったと、ひたすら思いこみたかったのではなかろうか。
◆写真上:第16回独立美術協会展で同協会の会員に推挙されるきっかけとなる、1948年(昭和23)に制作された吉岡憲『母子』。
◆写真中上:上・中は、吉岡憲が挿画を描いた雑誌小説で林房雄Click!の『南京の女』と上田暁の『扁平魚』。下は、井荻時代に自邸の前で撮影された外山卯三郎一家。吉岡憲の挿画モデルをつとめた、二女の外山やよひが前列に写る。
◆写真中下:上は、1956年(昭和31)1月17日発行の毎日新聞に掲載された吉岡憲の訃報記事。中は、1957年(昭和32)撮影の空中写真にとらえられた東中野駅のすぐ西側に設置されていた高根町踏み切り。中央線の下り電車が偶然、高根町踏み切りにさしかかっているのが見える。下は、1942年(昭和17)ごろに撮影された下高井戸時代の吉岡憲。
◆写真下:上は、制作年不詳の吉岡憲『長谷風景』。中は、1953年(昭和28)に制作された吉岡憲『母子』。下は、1955年(昭和30)制作の吉岡憲『海女』。