元・東京都職員のお宅から、面白い青焼き資料が見つかった。1965年(昭和40)に地名および地番変更が行われる直前に作成された、下落合中・西部、上落合、そして西落合の地番変更計画案図面だ。これらの地域は、同年に地名(町名)・丁目・地番変更が行われているが、下落合の東部(現・下落合1~4丁目)はいまだ手つかずで、1971年(昭和46)に丁目と地番の変更のみが行われている。
なぜ、この計画図面が当時の新宿区の元・職員宅ではなく、東京都の元・職員宅にあったのかは不明だ。地名(町名)や地番の変更は、地元自治体が実施する事業であり、東京都は直接関係していない。だが、上下水道や河川管理の関係から、新宿区は計画案について東京都と情報共有し連携していた可能性はある。計画案がある程度まとまったところで、区が東京都に提供した資料の一部が、今日まで職員の自宅に眠っていたのかもしれない。あるいは、当初は新宿区の職員だったが、東京都へと転勤したものだろうか。いずれにせよ、当時はおそらく極秘の資料として扱われていたとみられる。
計画案のベースに使われている青焼きの地図を観察すると、おそらく1960~1963年(昭和35~38)ごろに作成された1/5,000市街地図であり、1964年(昭和39)に行われた東京オリンピックを前提に、東京の地名は「わかりにくいし恥ずかしい」などという、営々とした歴史がこもる自国の地名文化へ自虐的に泥を塗る行政Click!のもと、東京じゅうが町名改変Click!の愚策にさらされようとしていた、一連の動向時期と一致する。
ただし、この青焼き図面を参照すると、下落合中・西部と上落合、西落合の丁目割りはだいたい現状と同じだが、各町名はそのままで変更されていない。つまり、下落合には「中落合」や「中井」Click!という新町名はいまだふられておらず、2000番台におよぶ下落合の地番および新たな丁目区画だけを整理し、新しい丁目・地番表示案として企画している途中段階の図面だったことがわかる。下落合の地名のままなら、のちに策定される下落合東部の4つの丁目を合わせれば、従来の下落合1~5丁目から倍増する下落合10丁目までが計画されていたことになる。
また、手書きの赤鉛筆で記載された新地番と境界ラインだが、現在の地番とを比較してみると、ある地域では一致していたり、番号が微妙に数番ずつズレていたり、あるいはまったく一致していなかったりするのは、あくまでも地番変更の企画案だからであり、当時は計画中だった道路建設や再開発のプランにより、当該地域がどのように変わるか不明だったことにもよるのだろう。そのような地域には、赤鉛筆による新たな地番案が書き加えられておらず「空白」のままで、今後の検討課題として残されていた様子がうかがわれる。
そして、実際に道路建設や再開発の計画が見えた時点で、改めてそれらを意識した地番がふり直されているのだろう。先述した、現状の地番との微妙なズレや不一致は、そのような検討課題がある程度クリアされた時点(このあたりが都と区の連携課題だったろうか)で、改めて地番がふり直された結果だとみられる。
加えて、青鉛筆でふられた通し番号と描かれた丁目の境界ラインも、現状とはかなり異なっているエリアがある。たとえば、1960年代前半には十三間通り(新目白通り)Click!は計画中のエリアが多く、工事が実際に進捗するのは1965年(昭和40)からだが、そのエリアでの丁目境界が曖昧な状態のままだ。現在の「中落合」と名づけられた2丁目(北側)と1丁目(南側)の境界は、十三間通り(新目白通り)を境にしている。だが、この計画案の図面では、落合第一小学校Click!から西坂Click!へと抜ける道路が、2丁目と1丁目を分ける境界として設定されている。そして、道路計画が予定されているエリアには新たな地番がふられず、「空白」地域のままとなっている。
また、丁目を区切るように青鉛筆で書きこまれた整理ナンバーは、落合地域では78番にはじまり90番で終わっている。この番号は、同時期に町名・丁目・地番変更が行われていた、新宿駅周辺の角筈(現・西新宿)や柏木(現・北新宿)など、新宿区の南側からつづく通し番号だと思われ、90番の西落合2丁目で終わっている。詳細は、以下の通りだ。
この表をご覧になって、カンのいい方はもうお気づきだろう。行政側は、「上落合」と「西落合」の両地域については、町名をあえて変更する意思がなかったように見える点だ。それは、丁目の整理ナンバーが上落合は80~82番、西落合が87~90番とほぼ降順に並んでおり、ふたつの地域が“ひとくくり”であることを示唆している(ただし、西落合は旧・1丁目と2丁目の境界策定には腐心したらしい跡が見える)。
ところが、旧・下落合2丁目(聖母坂Click!の西側に食いこんだ旧・下落合2丁目の西端域=現・中落合2丁目)から、稲葉の水車Click!があった落合公園のある旧・下落合5丁目までは、整理ナンバーが今日の町名にかかわりなく、あちこちに飛んでバラバラなのだ。つまり、この地域を「下落合」以外の町名にするかどうかは未定で、また丁目エリアの“くくり”自体が見えない状態だった様子がうかがえる。
このように見てくると、この地番変更計画案図面は竹田助雄Click!の「落合新聞」Click!が初めて1面トップで「住居表示の諸問題」を取りあげた、1964年(昭和39)9月10日よりも以前に策定されたものだと想定することができる。この記事の時点では、すでに落合第一出張所と落合第二出張所(ともに現在の地域センター)で住民説明会が開かれており、新宿区側にはある程度の試案ないしは素案ができあがっていただろう。同図面は、それらの試案ないしは素案を策定した資料の一部ではないかとみられる。
新宿区では、あらかじめ線引きした丁目境界を住民に提示したようだが、もっとも難航したのが下落合4丁目と西落合1~2丁目(ともに旧・丁目)との境界だった。その困難さを1面トップで報じた、1965年(昭和40)3月8日発行の「落合新聞」から引用しよう。
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住居表示作業の現状/難航する町界 西落合と下四丁目
昨年八月、西落合地区から着手された新宿区住居表示作業は、下落合四丁目との町界で難航を続け、二月二十日現在、上手に示したB案が一応区審議会に上案される運びとなった。/これまでの経過を図にもとづいて辿っておこう。A・Bは問題になった希望案。Cは四・五丁目町会(代表北原正幸氏)が提出した修正案である。外に現状維持を主張する人々も多い。/旭通り商店街をサワ薬局で左折するA案とは、区住居表示係の説明によると当局が作業の基準を説明する際に引いた凡よその線。けれども、具体化された場合はここに組織された旭通り商店街が二分されるので、同方面から猛反対を受け、目下この線は鳴りをしずめて(ママ)いる。/境界改正で町名変化を嫌う人びとも少なくなかった。
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B案は、目白学園一帯をすべて西落合側に編入してしまうというプランだが、すったもんだのあげく、結局は「現町境」を優先して、一部の境界を道路の形状に沿わせることで決着している。手もとの地番変更計画案図面でも、当初から現町境を優先した線引きがなされており、目白学園は下落合のままになっている。
記事にもあるとおり、「境界改正で町名変更を嫌う人びと」が実は下落合を中心に大勢いたことは、1965年(昭和40)6月9日発行の「落合新聞」で明らかになる。竹田助雄が行なった、落合地域の大規模なアンケート調査では、実に91.2%の住民が町名変更に反対と回答Click!している。多くの住民たちは、それほど「下落合」の町名には愛着と、後世へ継承すべき重要な史的意義を感じていたのだ。
さて、都職員宅から見つかった地番変更計画案図面には、不可解な記載も見える。西落合1丁目と2丁目に限り、なぜか5軒の個人邸が採取され、住所とともにその位置が引きだし線とともに規定されている。5邸を挙げると、西落合1丁目293番地の安井邸、同1丁目165番地の白川邸、同1丁目328番地の高城邸、同2丁目351番地の樋口邸、そして同2丁目395番地の〇野邸(おそらく久野邸か吉野邸のどちらか)だ。同図の下落合にも上落合にも、このような個人邸の記載は存在しない。
これらの邸は、新たに設定されている丁目境界の近いところに位置しているので、当初は境界の指標になる邸を記載したものかと考えたが、白川邸は現・西落合3丁目の内部にあるので、おそらくそうではない。しかも、白川邸と高城邸、〇野邸(久野邸or吉野邸)の3邸は、一度誤って採取した位置を修正してまで規定が繰り返されているので、なにか記載する特別な意味があったのではないかと思われるのだ。これらの邸のご子孫で、なにか事情をご存じの方がおられれば、ご教示いただければと思う。
入手した地番変更計画案図面は、下落合中・西部と上落合、そして西落合の新たな丁目および地番策定の経過資料だが、1970年(昭和45)が近づくと山手線寄りの下落合東部でも、まったく同様の図面が作成されているだろう。なぜ、下落合の東部が他の地域に比べ、新たな丁目境界と地番の設定に5年ものタイムラグが生じているのかといえば、わたしは十三間通り(新目白通り)工事の進捗が、かなり影響しているのではないかと考えている。
◆写真上:1962年(昭和37)施行の法律第百十九号「住居表示に関する法律」にもとづき、1963年(昭和38)ごろ新宿区で作成されたとみられる地番変更計画案図面。
◆写真中上:79・78・84番=中落合1~3丁目の丁目境界と新地番の計画案。
◆写真中下:上は、最後まで町界の設定でもめた下落合4丁目と西落合2丁目のあたり。下は、1965年(昭和40)3月8日に発行された「落合新聞」の1面トップ。
◆写真下:上は、80・81番=上落合1~2丁目の丁目境界と新地番の計画案。下は、西落合の新たな丁目・新地番計画案で、なぜか個人住宅が5邸採取されている。