東京美術学校Click!(当時は小石川植物園内の美術学校創立事務所)の岡倉天心Click!は、よほど引っ越し運がなくツイてなかったものか、牛込区(現・新宿区の一部)の筑土町(現・津久戸町界隈)の「凶宅」Click!を逃げだしてから、わずか2年後の1887年(明治20)に、またしても同じような「凶宅」の借家を引き当ててしまった。しかも、今度の家は筑土町の怪(あやかし)レベルではなく、本格的な「幽霊屋敷」だったのだ。
このような事例は、明治から大正にかけてはめずらしくなかったらしく、小山内薫Click!も転居をするたびにひどい目に遭っている。岡倉天心や小山内薫に共通しているのは、家を借りる前に隣り近所の住民や商店に、その空き家の経緯や評判などをあらかじめ聞き取りせず、下調べなしに大急ぎで決めて引っ越してしまうことだ。関東大震災Click!の前、東京には江戸期からの住宅がまだたくさん残っており、さまざまな因縁話やエピソードが伝わっていたのだろう。それらを転居したあとになって聞き、不可解な出来事と重ねあわせて「やっぱり!」となるケースがほとんどだ。
筑土町の「凶宅」から新小川町へと逃げ出した岡倉家は、2年間に九段上から神田猿楽町と転居し、天心の留学をはさみ1887年(明治20)には、江戸期から寺町として知られていた池之端七軒町の屋敷に落ち着いている。ところが、この広い屋敷がとんだ「お化け屋敷」で、幽霊がゾロゾロと集団で出現する筑土町以上の「凶宅」だった。そして、この屋敷は高田町四ッ谷(現・豊島区高田1丁目)の根生院とも関係が深い敷地に建っていた。
池之端七軒町は、現在でいうと池之端2丁目の一部で、不忍通りから1本西側に入った忍小通りに沿って形成された江戸期からの街並みだ。ちょうど、南側の東京大学医学部と北側の地下鉄・丸ノ内線の根津駅Click!とにはさまれた界隈で、不忍池Click!からもほど近い位置にあたる。のちに、不忍通りを走る東京市電から、ヴァイオリンを抱えた佐伯祐三Click!が無茶な飛びおりをして、側溝工事中の穴に転落Click!したのもこのあたりだ。
広壮な屋敷は、1887年(明治20)の時点でかなり住み古したボロい様子をしていたというから、おそらく江戸期からつづく元・旗本屋敷かなにかだったのだろう。周囲が寺町で寺院だらけなので、そのまま通りすぎれば寺のひとつと勘ちがいされそうな造りや風情をしていたらしい。広大な屋敷なので、建物や敷地を家主だった橋本という家と二分し、岡倉一家は南側の屋敷を借りて住んでいる。この屋敷で舶来ものの「アソシエーション式の蹴鞠」(アソシエーション・フットボールの球=サッカーボール)を手に入れ、弟子の岡倉秋水や本多天城Click!たちとともにサッカーに興じていた。
当時の池之端はうらさびしい一帯で、岡倉天心邸を訪ねて酒を飲んだ狩野芳崖Click!が、帰りがけに弥生町の切り通しで追いはぎに遭い、身ぐるみ剥がれて天心宅に逃げ帰ったエピソードが知られている。北側の隣家、すなわちこの屋敷の持ち主である橋本の家では、とうから怪事は起きていたようで、そこに住み両親を早くに亡くした少女は、しばしば軸の架かった床の間から手まねきをする父母の幽霊を目撃していた。そして、北側の屋敷で起きている怪異が南側の岡倉家へ伝播するのに、それほど時間はかからなかった。
「凶兆」が最初に表れたのは、当時行われていた不忍池をめぐる春季競馬大会が開催される直前、1888年(明治21)の3月初旬のことだった。まず、天心の長女が競馬馬の蹄(ひづめ)にかけられて負傷している。翌4月になると、天心の元子夫人の枕元へ、男女5人の幽霊が頻繁に姿を現すようになった。5人の男女は、なにかを哀願するように正座して頭を下げていたが、その向こう側に立てかけた枕屏風が透けてよく見えたという。天心はまったくの無関心で、そのままイビキをかいて寝ていたらしい。
夜明けとともに、元子夫人は義父の岡倉勘右衛門の部屋に駈けこむと、夜更けに表れた男女5人の幽霊のことを報告した。すると、勘右衛門はしばらく思案したあと、心当たりでもあるのか急いで女中を隣家にやって、1枚の写真を借りてこさせた。以下、1971年(昭和46)に中央公論社から出版された岡倉一雄『父岡倉天心』から引用してみよう。
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「お前の夢にあらわれた男女というのは、その人びとではなかったかね。」/元子はさしだされた写真に一瞥を投げると、頭から冷水を浴びせかけられたように、ぞッと悪寒を覚えた。そして、しばらくして胸の動悸が鎮まるのを待って、彼女は、/「たしかにこの五人の人たちでした。しかし、どういう因縁で、この人たちが、縁もゆかりもないわたしの夢なんかにあらわれるのでしょう?」/畳みかけて問いかけた。勘右衛門はしばらく口の中に称名を唱えていたが、やがて長大息を洩らして、/「そうだったか、争えんもんじゃのう。あの一家は死に絶えているのじゃから、大方、願い事でもあって、お前の夢枕にあらわれたのだろう。万一、ふたたびあらわれたなら、落着いて、言うことを聴いてやってくれ、何かの功徳になると思われるから。」/と、ようやく答えを与えたのであった。
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元子夫人が、夫ではなく舅の勘右衛門に相談したのは、筑土町の「凶宅」でもそうだったように、天心はまったく頼りにならないのを知っていたからだろう。気丈夫な元子夫人は、再び幽霊が出たら仔細を訊ねてみようと決意している。
ところが、一連の経緯や事情を夫に話すと、さっそく天心は「そんなおっかないところに、今夜からおいらは寝ることは閉口じゃ」といって、自分だけさっさと寝所を変えてしまった。そして、美術学校創立事務所に出勤すると、誰彼かまわずにこの怪談話を吹聴してまわったらしい。もっとも天心が幽霊を信じて、ほんとうに恐怖を感じたかどうかは不明で、ヨーロッパに留学までしている彼のことだから、非科学的かつ非現実的で時代遅れな旧時代の迷信とでも、アイロニカルにとらえていたかもしれない。
夫が2階の寝室から逃げだしてしまったので、元子夫人はその夜からひとりで休むことになった。すると、ほどなく再び男女5人の幽霊が出現して、元子夫人の枕元に坐った。そこで、彼女は蒲団の上に座して居ずまいを正すと、なんの怨みがあって家内に現れるのかと鋭く詰問した。そのときの様子を、再び同書より引用してみよう。
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すると、五人の中の長老とみえる七十四、五の老人が、お辞儀をしていた顔を揚げ、おもむろに口をきったが、その音調はすこぶる幽かで、しかも福井訛りがあったということである。/「別に私どもは、あなたがた御一家に怨みなど毛頭ございません。ただ不運な私ども一家の冥福を祈っていただく念願から、ここを寺にしたいのでございます。委細は谷中の和尚に頼んでありますから、日ならず和尚が参上しましょう。どうか、この願いを聴きとどけられて、お立ち退きくださいませ。永くお立ち退きがないと、御一家に大病人ができますぞ。」/と、警告つきの懇願をやったそうである。/翌朝元子は起きいでて、父の勘右衛門にも夫の天心にも、昨夕のありようを物語ると、勘右衛門は信じたが、天心は冷笑を酬い、例によって交友の間にこの噂を振りまいて歩いた。
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別の施設(寺院)にするから早く立ち退けと、脅迫をまじえて転居を迫る幽霊たちは、まるでバブル期の地上げ屋のような連中だけれど、例によって天心は信じたのか信じなかったのか、転居するしないも曖昧なまま、友人たちへ怪談話を披露して歩いた。もともと“引っ越し魔”の天心だが、短期間で何度も借家を変えて転居するのが、この時期は億劫になっていたのかもしれない。また、勤務先の小石川植物園にある美校創立事務所までは1.5kmほどしかなく、自宅が近くて便利だったせいもあるのだろう。
天心が噂をふりまいたせいで、怪談好きな友人知人がこぞって池之端七軒町の岡倉邸へ、肝試しにやってくるようになった。ひと晩だけでなく何日間も泊まりこむ連中もいて、岡倉邸はたちまち有名な“心霊スポット”になってしまった。だが、夜になるとたいがい酒盛りとなり、幽霊が出そうな時刻にはみな酔いつぶれて正体がない始末だった。
天心は、屋敷内をにぎやかにすれば幽霊騒ぎなど雲散霧消すると考えたのかもしれないが、とりあえず引っ越しは検討しなかったようだ。すると、今度は長男の乳母が倒れて大病を発症してしまう。おそらく、元子夫人は「御一家に大病人ができますぞ……の警告どおりだわよ!」と天心を説得したのだろう、ほどなく一家は西黒門町の借家へと転居している。引っ越し先は、下谷警察署に隣接した家だったので、天心も池之端七軒町の屋敷が少なからず怖くて、本音では怯えていたのではないだろうか。
岡倉一家が大急ぎで西黒門町に転居したあと、翌1889年(明治22)には明治維新とともに廃寺になっていた、根生院(江戸期には湯島天神裏に建立されていた)がさっそく再建されている。ちなみに、『父岡倉天心』では「根性院」とされているが根生院が正しい。
根生院は、岡倉一家がいた屋敷をそのまま流用して池之端七軒町で再興されたが、1903年(明治36)には目白崖線の山麓にあたる高田村四ッ谷345番地へと移転した。池之端七軒町の幽霊屋敷は、そのまま残されていたが関東大震災による延焼で焼失している。
◆写真上:1903年(明治36)に、池之端七軒町の岡倉邸跡から移転してきた根生院の本堂。戦災で焼けているので、本堂は何度か新しく建て替えられている。
◆写真中上:上は、1861年(万延2)に制作された尾張屋清七版の切絵図「小石川谷中本郷絵図」にみる池之端七軒町。江戸期なので、湯島天神裏には廃寺になる前の根生院が採取されている。中・下は、戦災をまぬがれた池之端に残る古い住宅や屋敷。
◆写真中下:上は、1918年(大正7)に撮影された戦災で焼失前の根生院本堂。背後の斜面には、高田町四ッ谷337番地に建つ芳賀剛太郎邸とみられる大きな西洋館がとらえられている。中・下は、元・岡倉邸の池之端七軒町時代に建てられた赤門。池之端七軒町からそのまま移築されたもので、いまだベンガラの色が鮮やかに残っている。
◆写真下:上は、1960年代に撮影された池之端七軒町も近い不忍通りを走る都電。下は、不忍池とその周辺でよく見かける上からユリカモメ、キンクロハジロ、オオハクチョウなど。人間によくなついているのか、近づいてカメラを向けても物怖じせず逃げない。