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江戸期からの中野伝承と丸山・三谷。(下)

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上沼袋丸山塚古墳.JPG

 このところ、ご自宅からリモートワークをされる方が多いせいか、毎日、拙サイトへ5,000~6,000人がアクセスくださっている。リモートワークの「勤怠管理」は、社へのVPN接続時間や支給PCの使用時間で計測している企業が多いと思うけれど、ご自身のPCあるいは支給のPCの別なく、業務サーバへアクセスしたまま別タブあるいは別ブラウザで拙サイトを開いても、アクセスログは管理システムへしっかり吸い上げられていると思うので、社の業務サーバへの接続時はできるだけ仕事に集中されたほうがよろしいかと。(^^;
  
 落合地域の西隣り、野方町(江古田・上高田・新井・沼袋・鷺宮地域)や中野町(中野・本郷・雑色地域/すべて現・中野区)には、古代からつづく古墳のいわれClick!とみられる伝承や、その古墳から出土した玄室・羨道の石材や副葬品とみられる物品の伝説が、現代まで数多く伝えられている。
 これらの記録は、明治以降ばかりでなく、すでに江戸期の地誌本にも随所に見られ、それらの伝承には後世にさまざまな解釈(付会)がほどこされている。たとえば、明治ごろからの伝承として、中野町の男性が語っている古墳に直結する「しいや(屍家)の山」Click!と、そこから出現した「宝珠」Click!についての伝承を引用してみよう。
 1987年(昭和62)に中野区教育委員会が実地調査してまとめた、『口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』に収録されたものだ。
  
 宝珠の玉
 うちにね、宝珠の玉があったんですって。色は白です。それでね、いま、その前の家がマンションになってるけど、以前は山だったんですよ。シイヤの山ってね。シンヤだかわかんないんだけどね。それでね、うちのおやじさんが、どこから入ったのかわからないけど、拾ったんですって、宝珠の玉を。/でねぇ、うちの親父が言うには、白狐が、千年経つとね、額にのっけて歩くんですってね。それでねぇ、その白狐の宝珠の玉を拾ったので、うちも相当困っておったんだけど、それを拾ってから、工面というか、たいへん経営が良くなって。
  
 この男性は1909年(明治42)生まれということなので、父親から聞いたということは明治前中期の出来事だろうか。「シイヤの山」とは、「屍家山」そのものを指す言葉であり、古墳の巨大な墳丘を意味することが多いのは別に中野地域に限らない。全国各地には、古墳を禁忌の山あるいは忌み地(立入禁止エリア)として規定し、その禁を破って山に入ると「呪われる」「祟られる」、あるいはひどいケースだと「親族が死に絶える」などといわれ、古くからタブー視されていた事例も少なくない。これらのエリアは後世になると、墓地や斎場などに使用されている例も少なくない。
 上記のケースは、それとは正反対に「シイヤ山」の「宝珠」(副葬品の宝玉だろうか)を手に入れたことで、家運が上向いて豊かになったというめずらしい事例だ。どこか江戸期に多い、古墳の副葬品を盗掘し、売りさばくことでカネ持ちになったとみられる、「長者」伝説Click!(往々にして不幸になるエピソードが多い)にもつながる共通性が感じられるが、このケースは出現した「宝珠」を家宝にしてたいせつに保存し祀ることで、逆に家が栄え裕福になったとしている。
 いまから1500~1700年ほど前、古墳が築造された当初は、「ムラ」あるいは「クニ」を見守る先祖霊(首長霊)として、墳丘脇の「造り出し」Click!などで祭祀が行われていたのだろうが、政体や社会が変移するにつれ被葬者やその目的が忘れ去られ、ただ「死者が眠る場所」として立ち入るのがはばかられる場所、すなわち「シイヤ山」のように忌み地(禁忌エリア)としての伝承のみが語り継がれていく。
 ただし、そのような伝承が執拗に残りつづけたのは農村地帯に多く、人々が集まり比較的大きな規模の町や都市が形成されたエリアでは、古墳の地形が寺社の境内Click!にされたり、近世になると古墳全体が大名屋敷の敷地Click!になったり、あるいは回遊式庭園の築山Click!にされたりして、禁忌伝承が途絶えてしまったケースも少なくなさそうだ。
 また、農村では地域に根づいた禁忌(忌み地)伝説、あるいは別のかたちでの信仰(天神山Click!八幡山Click!稲荷山Click!摺鉢山Click!浅間山Click!狐塚Click!大塚Click!など)が存在しない限り、墳丘はあらかた崩され開墾されてしまい、地名Click!だけが昔日の地形や古墳の存在を暗示するケースも多い。そのような場所では、開墾の際に出土した副葬品などが寺社に奉納されたり、出現した玄室などの石材が寺社の結構や庭園の庭石に活用されたり、古墳を取り囲む埴輪片などは田畑にそのまま漉きこまれたりしている。落合地域でも、開墾で出土した埴輪片や土器片をあえて取り除こうとはせず、そのまま畑へ漉きこんでしまった証言がいくつか残っている。
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江古田氷川社.JPG

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下沼袋丸山三谷1944.jpg

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中野区寺社房州石.JPG

 下戸塚(早稲田界隈)から戸山、落合、大久保、西新宿にかけて今日まで伝承されている「百八塚」Click!だが、室町期に昌蓮Click!が小祠や石碑、石仏などを建立して無数(百八)の塚を慰霊してまわったにもかかわらず、すでに江戸期には村落の生産性を高めるために数多くの塚が崩され、整地されて田畑になっていた事例も多いのではないかとみられる。戸塚の地名は、大規模な塚が10基あったので「十塚」が起源ともいわれるが、それだけ大小の墳丘が数多く存在していたのだろう。
 上記の「シイヤ山」事例は、出土した副葬品を大切に祀ったために家が栄えた事例だが、逆に野方地域には「呪われ」「祟られ」たケースも採集されている。1902年(明治35)生まれの女性が語っている話だが、妹の「狐憑き」が治らず「拝み屋」に頼んで狐を落としてもらったはずが、症状がなかなか改善せず、「なにかの祟りではないか」ということになり、再び「拝み屋」に依頼して見目(けんもく)してもらった事件だ。
 1989年(昭和64)に中野区教育委員会から出版された、『口承文芸調査報告書/続・中野の昔話・伝説・世間話』の中から引用してみよう。
  
 それで、今度見たらね、「小屋の東の方に必ず、刀がある」って言うの。「だから、その刀をね、あんなとこへ通しておいてね、今もう、刀が泥みたいになってね、さびて、その刀も、祟ってる」って言うんで。/それで、その、やっぱり屑小屋っていって、昔は、こういう木が、落ちると、その屑、屑を掃いて、それを燃すの。それで屑小屋の中へ、もう、お天気のいいときに入れといて、それ、冬になって、雪が降ったりなんかすると、それを、持って、籠へ持って入れてきちゃ、囲炉裏で燃すの。だから、そういうふうな屑小屋がね、あったの。/そいでそこに、確かに、その東っていうから、そこに、近所にあるって。「よく見つけてごらん」って、三日ぐらい捜したの。「ねえさん、ないよ。いくら捜したって、刀なんかないよ」って。「いいから、もう一日捜せ」って言ったの。そうしたらね、その、やっぱり、麦藁の真ん中にねぇ……。(中略) そうしたらね、あのぅ、刀も、このぐらい、もう持つとこやなんかないの。腐って、こわれちゃって、くずれちゃって、そして、刀、このくらい(四十センチぐらい)のが出てきたわよ。このぐらい(四センチぐらい)の幅の。そんとき、震えちゃったわよ。そんときは。/それで、「今でもあるかい、トモ」、トモちゃんていうの、今いる兄の息子が。「おばさん、今でも、ちゃんと洗ってしまって、神様に置いてあるよ」って言ってましたけどね。
  
 この腐食が進んだ刃長40cmで身幅4cmほどの「刀」は、この家の誰かが発見して持ち帰った古墳の副葬品に多い、腐食した「直刀」ではなかっただろうか。近くの禁忌エリア(忌み地)に踏み入って、副葬品の「刀」を持ち帰ってしまった背信行為の“うしろめたさ”が、あとでこのような説話を生み「呪い話」や「祟り話」、戦にからんだ「因縁話」へ転化しているのではないか……という気配がするのだ。
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副葬品宝玉.jpg

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副葬品勾玉.jpg

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下落合横穴古墳鉄刀1967.jpg

 落合地域でも、裏庭の斜面を掘ったら穴が開いて「直刀」Click!ないしは諸刃の「剣」が出てきた……というケースは多い。戦後になってさえ、ガレージを造ったり家を増改築する際に斜面を削ったら、「刀」が出てきたお宅の事例を何軒か知っている。関東ロームは酸性度が強いため、石畳の上へていねいに安置したり石棺へでも納めない限り、被葬者の遺骨はきれいに溶けてなくなってしまうことが多いが、目白(鋼)Click!の折り返し鍛錬で鍛造した強固な古墳刀は、腐食が進みながらも残存している事例が多い。
 本来なら、埋蔵文化財包蔵地で古墳刀などの副葬品が見つかれば、新宿区の教育委員会へ連絡を入れ発掘調査を行うのが筋だが、個人邸の場合は工事がストップしてしまうため、出土した副葬品のみを保管してあとは埋め戻してしまう事例も多い。特にマンション建設などの業者の場合は、古墳や副葬品などが出現すると工期が半年から1年近くも遅れるため、見て見ぬふりをし破壊してしまうケースも多いのだろう。
 わたしもその昔、目白崖線の斜面に住んでおられた地元の方から、そのような経緯で出土した碧玉勾玉Click!や古墳刀を2振りClick!譲り受けて所有している。だが、特に「狐憑き」にも精神に変調をきたしたりもしていないのは、そのうちの1振りを日本刀の研師に出して、1500年以上前の大鍛冶の仕事や、小鍛冶による折り返し鍛錬の技術を観察するため研磨してみたりと、たいせつに保存しているせいだからだろうか。w
 さて、ここにご紹介したのは、ほぼ現代に採取された中野区内に伝わる伝承だが、江戸期に中野地域を散策した村尾正靖(村尾嘉陵)Click!が、中野村や角筈村(現在の西新宿だが室町期には一帯を中野と呼称していたとされる)を歩きながら、開墾で崩される以前の、あるいは宅地化で整地される以前の古墳とみられる墳丘や、副葬品とみられる物品の説話を集めて『嘉陵記行』に記録しているのは先述したとおりだ。
 登場している「しいや(屍家)の山」や「宝珠」などの伝承が、古く江戸期以前から伝承されてきた地元の説話だと考えても、なんら不思議ではない。そこには、より多くの物語が眠っていたのかもしれないが、時代をへるにしたがって忘れ去られたものも多いのだろう。あるいは、江戸期の稲荷信仰の流行から、眷属であるキツネと結びつきやすい説話が残ったとみることもできよう。そして印象深い、人々に記憶されやすい禁忌にまつわる「祟り」や「呪い」といった伝説が、かろうじて今日まで残っていたのかもしれない。
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狐穴稲荷社.JPG

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江古田浅間社(江古田富士)1.JPG

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江古田浅間社(江古田富士)2.JPG

 中野地域の江古田(えごた)のすぐ北側に隣接する、練馬の江古田(えこだ)駅Click!北口には、古墳がベースと伝えられている江古田富士Click!と江古田浅間社が建立されている。この墳丘つづきとみられる北側の斜面一帯には、1921年(大正10)に「聖恩山霊園」が開設され、現在では死者を送る江古田斎場が併設されている。この古墳の存在にからみ、一帯には江戸期以前からなんらかの禁忌説話が伝承されてきているのかもしれない。
                                <了>

◆写真上:上沼袋に築造された、丸山塚古墳の墳丘に奉られていた小祠(改修後)。
◆写真中上は、古い地形図や空中写真では鍵穴型に見える江古田氷川社。は、1944年(昭和19)に撮影された下沼袋の丸山・三谷地域。は、中野区の寺社をまわると境内でときに房州石がさりげなく置かれていたりするので要注意だ。
◆写真中下は、古墳の副葬品に多い宝玉。は、同じくさまざまな宝石で造られた勾玉。は、1966年(昭和41)に下落合横穴古墳群から出土した腐食が進む直刀と鍔。
◆写真下は、江戸期に塚状の地形から洞穴が出現すると「狐穴」とされ、すぐに稲荷社の奉られるケースが多かった。は、江古田浅間社の拝殿。は、江古田浅間社の裏(北側)にある江古田富士を登った山頂(残存する墳丘頂)付近からの眺め。
おまけ
 久しぶりに近所を散歩したら、開花しはじめたカワヅザクラに地味な鳴き声でたくさんのメジロたちが群れていました。湯島から移植されたシラウメもほころびはじめ、暖かくなったせいか野良ネコたちもあちこちで活発に出歩きはじめています。
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メジロ.jpg

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シラウメ.jpg

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野良ネコ.jpg

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