目白水槽は、逓信省の船舶試験所Click!として敗戦を迎えたあと、ほどなく1946年(昭和21)には試験所創立30周年の記念式典を開催している。逓信省から運輸省の管轄に移され、1950年(昭和25)3月には船舶試験所の名称は廃止され、運輸技術研究所に統合されることになった。そして、1967年(昭和42)に財団法人日本造船技術センターとなり、2003年(平成15)4月に目白水槽が廃止・解体されるまで業務をつづけている。
1927年(昭和2)から、廃止される2003年(平成15)までの間に、目白水槽の第1試験水槽および第2試験水槽では4,500隻(船型模型番号に準拠の数値)もの船型試験が行われている。また、より高速な第2試験水槽の設置で行われた航空機の試験を加えれば、さらに数多くの船型(機体)テストが繰り返し実施されたのだろう。
(財)日本造船技術センターになった1967年(昭和42)には、設備や建屋の老朽化が目立ちはじめ近代的な改装工事が必要になっている。1963年(昭和48)に行われた設備の近代化と建屋の改装たが、その後、徐々に船型試験業務の案件は下降線をたどることになる。2004年(平成16)に出版された『日本造船技術センター目白史(36年の歩み)』(日本造船技術センター・編/非売品)から、当時の様子を引用してみよう。
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当センターの施設を大別すると、第1及び第2船型試験水槽、プロペラキャビテーション水槽、減圧回流水槽、工場の各施設、及び建屋があり、さらにこれらのハードウェア群を円滑に運用するための計算機システムが整備されている。この中で船型試験水槽には、建設以来76年余(第1水槽)の歴史があるので、水槽の運用の仕方は時代の要求に従ってさまざまに変化してきた。/特に当センターの36年間は、それ以前の時代と対比すると、造船業界及び造船技術にかつてない大きな変化があった時代と考えられる。/当センターが設立された当初(昭和42年)は、造船業が活況であったため国内に船型試験水槽の不足が目立ち、水槽の現場を与る者としてはこの問題の解消が急務であった。しかし、その後の第1次石油危機(昭和48)を契機に造船市況は不況期に移り、さらに大手造船所による新設試験水槽の建設が相次いだため、結果的に試験業務量が不足して、目白水槽の運営にも大きな影響が現れた。
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著者は、造船所における自前水槽の増加や、オイルショックによる造船不況を目白水槽の衰退の原因として挙げているけれど、もっとも大きな要因は日本の造船業がよりコストパフォーマンスの高い韓国や中国に追い抜かれたのと、文中にも書かれている「計算機システム」、すなわち実試験を必要としないコンピュータシステムによるシミュレーション技術が、飛躍的に発達した要因が大きいだろう。
現在、高層ビルを建設する際に行う耐震・耐暴風テストや、ビル風の対策テストなどのシミュレーションは、ほとんどがHPCクラスタシステムかスパコン(日本独自のVectorエンジンが得意)などを用いて行われている。同様に、船舶の水流試験や航空機の風洞試験なども、実際にモックアップを製作して実験するのではなく、より正確で精密な計測や影響評価ができる、大規模なシミュレーションシステムを使って行うのが一般化している。
つまり、実際に設計されたのと同一の船舶の模型を製作し、長大な水槽を使って人工的に起こした波の上を航行させて、水流や波形の影響を評価するというアナログ試験は時代遅れになりつつあり、試験業務のリードタイムやコスト、検証効率などに優れたVRをも含む高度なシミュレーションシステムに取って代わられつつあった……というのが実情だろう。
文中に、なぜか店頭からトイレットペーパーとティッシュペーパーが消えた(COVID-19禍と同様にデマだった)、第1次石油ショックについて書かれているけれど、戦後に建造された日本の石油タンカーをはじめ貨物船や客船など商船のほとんどが、船首の喫水下にバルバス・バウ(Bulbous Bow)を採用している。おそらく、戦前に船型試験所だった時代の目白水槽でも、バルバス・バウの研究が行われていたと思われる。
バルバス・バウは、1911年(明治44)に米国で考案された古くからある造船設計技術で、航行する艦船自体が生みだす造波抵抗を軽減するために、球状のかたちをした突起物を船首の喫水下へ装備したものだ。重量のあるタンカーが、積み荷の原油をオイルタンクに陸揚げし、軽くなった喫水の浅い船体で航行するのをご覧になったことがある方は、船首の喫水線下部に丸く突きでたコブのようなふくらみをよくご存じだろう。軍艦だと、その球体の中に対潜ソナーが装備されていたりするが、船首にあの丸みのある突起をつけるだけで、船速の向上や燃料の節約など、船舶の航行を目に見えて効率化することができる技術だ。排水量が大きな艦船ほど、その効果が大きいといわれている。
戦前、日本の貨客船にバルバス・バウを採用したものはなさそうだが、戦後に建造された商船のほとんどには、この技術が「標準仕様」のように採用されている。また、戦前の日本海軍が建造した大型艦船には、バルバス・バウを採用したものが登場している。代表的なものには、戦艦「大和」Click!「武蔵」をはじめ、空母「翔鶴」「瑞鶴」「大鳳」「信濃」Click!などがある。これらの運用を通じて、船足の高速化や燃費の効率化から目白水槽でもバルバス・バウの船型装備について、水槽試験を含め早くから注目していたと思われるのだ。
目白水槽が廃止になる少し前、同センターの変電室で大きな事故が発生している。この事故で、目白地域にあるオフィスビルや住宅、商店などを含む一帯が停電し、同センターでは地域の緊急防災拠点だった目白消防署へ謝罪に出かけているようだ。『日本造船技術センター目白史(36年の歩み)』に収録された、第5代理事長の岡町一雄「(財)日本造船技術センターの思い出」から引用してみよう。
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(前略) 今でもはっきりと脳裏に刻まれているのは、変電室の事故のことです。造技セの仕事は言わば現場作業が主であり、事故、とくに人身事故のないよう絶えず最優先で努力していたのですが、私の在任中に一度、地下に設置されている変電室で作業中の職員二人が感電し、突然遮断器が下りる停電事故がありました。一人は軽傷でしたが、もう一人は電気が人体を通り抜ける重傷で、救急車を呼んで信濃町にある東京女子医大の病院に入院させました。/幸い後遺症もなく、元通り元気になったのは不幸中の幸いでした。しかし、停電のため近隣の事務所のコンピューターを狂わせたとかで、目白の消防署に謝りにいった苦い思い出があります。
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1990年前後に、学習院とその周辺のオフィスビルへお勤めだった方、あるいは自宅で仕事をしていた方の中で、いきなり停電またはUPS稼働初期の瞬電が起こり、PCに入力中のデータが全部パーになって(当時のPCには、瞬電と同時に入力中のデータを退避させる機能が未装備だった)、「バッカヤロー!」と叫んだ方はおられるだろうか? それは電力会社が悪いのではなく、目白水槽の変電室が原因だったのだ。w
試験業務が減少し事業経営が苦しくなりはじめたころ、巨大な目白水槽の上にオフィスやマンションが入る高層ビルを建設し、その家賃収入で収益を上げる計画が浮上している。それまでにも、同センターでは事務所ビルの3階および2階・中2階を別の組織や団体に賃貸しており、その収入でずいぶん経営が助けられていたようだ。窮状をメインバンクに相談したところ、バブル景気の真っ最中だったので銀行も複合ビル建設には乗り気だったらしいが、学習院大学のキャンパスは学園地区に指定されており、高層建築は困難だといわれたようだ。その後、バブルがはじけるとともにビルの建設はうやむやになった。
オフィスと住居が混在する目白水槽複合ビルは、その完成予想図までが制作されているので、当時はかなりリアルな建設計画として進捗していたのだろう。同書では「高層ビル」という表現がつかわれているけれど、今日的な視点から見るなら「中層複合ビル」といったところだろうか。目白水槽が廃止されたのち、同敷地に建設されたマンション「目白ガーデンヒルズ」のほうが、よほど「高層」で大きく見えてしまうのだ。
<了>
◆写真上:2003年(平成15)ごろ撮影の、第2試験水槽(手前)と第1試験水槽(奥)。
◆写真中上:上は、戦後の1956年(昭和31)に撮影された運輸省の運輸技術研究所。中は、1975年(昭和50)の空中写真にみる目白水槽。2本の水槽全体を覆う、ひとつの長大な屋根にリニューアルされている。下は、2003年(平成15)ごろに撮影された(財)日本造船技術センターの正門付近で、背後の森は学習院大学のキャンパス。
◆写真中下:上は、廃止前に撮影された日本造船技術センターの模型製作工場。中は、船型模型を使って試験水槽で行われる波浪試験。下は、戦前にバルバス・バウを採用した代表的な艦型の戦艦「武蔵」。雷撃訓練中の航空機からの撮影で、前檣楼のニコン製測距儀のトップが白く塗られていることから1942年(昭和17)の撮影だろうか。同艦は旗艦設備を備えていたため、同型艦の「大和」よりも排水規模が大きかったが、艦船では例外的に舷側窓がふさがれ全廃されているところが「大和」との大きな相違点だとみられる。
◆写真下:上は、1992年(平成4)の空中写真にみる日本造船技術センター全景。中は、目白水槽を包括した複合ビル完成予想図。下は、高層マンションになった目白水槽跡の現状。