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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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蔵原惟人が気になる村山籌子。

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全日本無産者芸術連盟ナップ+ナルプ跡.JPG
 このところシリーズのように、上落合502番地のち落合町葛ヶ谷15番地(片岡鉄兵邸Click!の留守番)で暮らしていた立野信之Click!とその周辺の人間模様Click!をかいま見て記事Click!にしてきたが、つづけて彼の周辺にいた人々の姿を追いかけてみよう。まず、杉並町成宗15番地にいたころ、永井龍男の兄・永井二郎が経営する阿佐ヶ谷駅の近くに開店していた、中華料理屋「ピノチオ」における情景だ。
 「ピノチオ」は、永井龍男が勤務していた文藝春秋社の関係から、近くに住む作家たちのいきつけの店となっていた。立野信之も店内で横光利一や小林秀雄Click!井伏鱒二Click!らを見かけている。そんなある日、立野は柳瀬正夢Click!を連れて「ピノチオ」へ立ち寄ったところ、井伏鱒二がひとりで生ビールを飲んでいた。立野信之が柳瀬正夢を紹介すると、いきなり柳瀬は井伏鱒二に噛みついている。これには井伏鱒二も驚いたろうが、紹介した立野信之も啞然としている。
 そのときの様子を、1962年(昭和37)に河出書房新社から出版された、立野信之『青春物語・その時代と人間像』から引用してみよう。
  
 わたしが井伏を柳瀬に紹介すると、柳瀬はいきなり井伏に向かって、/「君の作品は面白くないぞ」/と、頭からあびせた。/どうしてそんなことをいい出したのか、と面喰らいながらきいていると、小林多喜二や立野の作品は社会的な視野に立って書いているから面白いが、君のは主観的だから面白くない、もっと社会的な視点に立って書くように努力し給え、というようなことをいって、大上段に極めつけたのである。/井伏は迷惑そうに眼をパチクリさせて黙っていたが、わたしは顔から火の出る思いであった。ふだんは、その童顔のように温和な柳瀬としては珍しいことだった。
  
 立野信之が、「顔から火の出る思い」と書くのももっともなことで、文学に対する思想も土俵も表現も異なる相手に、階級観を前提とした「社会的な視点」で書くよう迫っても、たとえば岸田劉生Click!にフォーブやシュルレアリズム、アブストラクトの表現でなぜ描かないのかと責めるようなもので、ほとんど意味がない行為だろう。
 その点、立野信之は芸術の奥深さをわきまえていたらしく、「戦旗」の小説部門の責任者であり小林多喜二Click!と暮らしていたにもかかわらず、作品に社会性があるか否かで著者をバッサリと斬りすてたりはしていない。プロレタリア作家である立野信之のそのような懐の深さが、特高Click!に逮捕され収監されたあとあとまで、横光利一など“芸術派”の作家たちとの交流がつづいていた要因のひとつなのだろう。
 立野信之と小林多喜二が住む杉並町成宗15番地の借家には、上落合の時代から親しかった村山籌子Click!がしじゅう遊びにきていた。村山籌子は、小林多喜二の印象について「子供の時分、学校で仲間にいじめられて、しょっ中泣いてばかりいたような人ね」(同書)と、さっそく多喜二を“イジメられっ子”にしている。また、小林多喜二のほうでは、村山籌子Click!が夫の村山知義Click!のことを面倒でぞんざいに扱うのを面白がって見ていた。
 村山籌子が夫に無頓着だったのは、彼女が蔵原惟人Click!を好きだったからだと立野信之は書いている。同書より、彼女についての部分を引用してみよう。
柳瀬正夢「文学案内.社193604.jpg
井伏鱒二.jpg
阿佐ヶ谷北口アーケード街.jpg
  
 彼女との付合いは、わたしたちが蔵原惟人と上落合に住んでいた頃からであったが、特にわたしの家にシゲシゲと来るようになったのは、わたしが小林と一緒に検挙されたことを知って、すぐさまわたしの留守宅に駆けつけてくれた時からである。(中略) 彼女の夫の村山知義も入獄していたので、差入れや面会などにしじゅう連れ立って刑務所通いをしてくれた。それにその事件では仲間の夫どもがあらかた検挙されて、夫のいない細君が何人もいたので、お互の共通の不自由や苦痛を分けあって、救援活動も活発であった。(中略) 彼女は感受性のせん細な人で、その頃は村山知義との愛情のズレに悩んでいたのである。村山とは性格的にも合わなかった。それで彼女は、村山でみたされない愛情を、蔵原惟人にむけていたのである。蔵原は籌子に対しては、ひそかに、しかしはっきりとした愛情を持っていたようだ。もしも、蔵原の検挙と長い獄中生活とがなかったならば、二人の愛情の結びつきはあるいは実現したかも知れない。
  
 このあと、村山籌子は地下にもぐった蔵原惟人のレポ(連絡係)をつとめているので、かなり好きだったのだろう。もっとも、村山籌子がレポを引き受けたのは、いち早く潜行した蔵原だけではないが……。立野信之は、敗戦直後に死去した村山籌子の葬儀Click!にも出席し、そこで関鑑子によって歌われた彼女の詩を憶えている。
 ある日、立野信之のもとへ村山籌子がブラリと遊びにきて、蔵原惟人がひそかにモスクワからもどっており、立野に会いたがっていると伝えた。立野のほうでも蔵原に相談ごとがあり、自分は治安維持法下での拷問をともなう非合法活動には耐えられそうもないこと、合法的な地盤に立った文学活動は今後どのような方向性をとるか?……などなど、獄中で考えていたことについて意見を聞きたかった。
 また、立野信之は同居している小林多喜二を連れていきたかった。多喜二は、東京へやってきて以来、蔵原惟人に会いたがっていたからだ。村山籌子の連絡で会えることが決まると、「ようやく、おれ、念願がかなったよ」と多喜二は喜んだ。3人は約束の時間に落ちあうと、ある家に向かって出かけた。村山籌子は、途中で寿司の折詰めやソーセージ、フルーツなど蔵原への差し入れを買いそろえている。
 秘密の会合場所は、静かな路地奥の2階家の階上で、小林多喜二が見つけてきた家だった。立野信之が目立たない家に感心し、「いい家があったもんだね」というと、「おれだって、これで、まんざら田舎者じゃないんだて……」と多喜二が答え、村山籌子がふいに笑いだした。そして、蔵原惟人についてこんなことをいっている。
蔵原惟人.jpg 村山籌子.jpg
村山籌子アトリエ跡.jpg
  
 (多喜二の言葉を聞いて) 笑い上戸の村山籌子が、プーッと噴き出した。そして彼女は笑い出したことに自分で顔を赧らめながら、眼をパチパチさせて、急いでいった。/「あのひと、ヒゲを生やしてんのよ、太いヒゲを」/彼女は一そう顔を赧らめて、/「それから、カモフラージュに眼鏡も掛けてんのよ。あんたたち、笑わないでね、あんたたちが笑うと、わたしも笑い出して、始末に困るから」(中略) すると真新しい蛇の目の傘をさして、和服に足駄穿きの男がやってくるのが眼に入った。男は路地の曲がり角までくると、少し足をゆるめて、傘を持ちあげ、あたりを見廻した。頭髪をキチンと分けて、眼鏡をかけ、鼻下に黒いヒゲをたくわえている。/わたしはすぐに蔵原だと悟った。(カッコ内引用者註)
  
 村山籌子の表情やしぐさがイキイキとして、目に浮かぶような描写だ。すぐに噴き出す笑い上戸の彼女のおかげで、暗く押しつぶされそうな時代に、明るく元気な笑い声で勇気づけられた人物は少なくないのだろう。また、上落合のアトリエにあった村山知義の衣類や靴の多くが、彼が出獄して帰宅してみるとほとんど消えており「しようがねえな、しようがねえな」状況になったのは、オカズコねえちゃんClick!が蔵原惟人のもとに変装用として、みんなせっせと運んでしまったからではないだろうか。
 蔵原はソ連へ密航したときの様子や、赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)で日本代表の紡績女工が2時間も演説を行ったこと、モスクワで中条百合子Click!湯浅芳子Click!が歩いているのを見かけたこと、プロフィンテルンでの通訳の仕事が終わると休暇をもらいクリミアで遊んできたこと……などを話した。そして、立野の疑問には「合法性は、あくまで守っていくべきだよ。そしてそういう団体が、幾つもあることが必要だ」と答えている。多喜二も蔵原にいろいろ質問していたが、帰りぎわに「おれ、今日の蔵原の話で、大分わかったよ」と嬉しそうにいった。
 1931年(昭和6)7月、上落合460番地の日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)本部で開かれた第4回臨時大会で、小林多喜二は書記長に選ばれている。そのときの多喜二の言葉として、「とうとうおれを書記長にして……どうする気だって?」とつぶやいたのを立野は記憶している。このあと、同年10月に小林多喜二は共産党へひそかに入党し、ナルプでの彼は党のフラクションとして活動するようになる。
 翌1932年(昭和7)の早春、ナルプの書記長になった小林多喜二から、立野信之は一度呼びだしを受けている。出かけていくと、「君、党に入る気はないかね?」とさっそく問われた。だが、立野には地下にもぐって活動する心がまえも勇気もなかった。立野はそのときの気持ちを、「鐘は鳴っている! だがわたしはあえて動こうとはしなかった」と語っている。このあと、立野信之は自らを「敗北主義者」「脱落者」と規定し、腑ぬけな人間だと責めつづけることになる。
立野信之.jpg
立野信之「太陽はまた昇る」1950.jpg 立野信之「叛乱」1952.jpg
 多喜二の家からの帰り道、向こうから立野の妻と村山籌子が急ぎ足でやってくるのに気づいた。濃緑色のベレー帽をかぶった洋装の村山籌子は、彼を認めると息をはずませながら近づいた。耳もとで「蔵原さんが捕まったらしいのよ」、そう囁くと彼女は唇を噛んだ。

◆写真上:ナップと同じ場所、上落合460番地の日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)跡。
◆写真中上は、上記エピソードと同年1936年(昭和11)4月に銀座の文学案内社で撮影された柳瀬正夢(手前)。は、荻窪駅近く井荻村下井草1810番地(現・杉並区清水1丁目)に住んだ井伏鱒二。は、周辺の作家たちが通った中華料理屋「ピノチオ」の道筋。現在は阿佐谷北口アーケード街になっており、「ピノチオ」跡は画面の右手前。
◆写真中下は、地下に潜行したあと検挙された蔵原惟人()と、彼にあこがれた村山籌子()。は、村山籌子が住んだ上落合186番地の村山アトリエ跡(右手)。
◆写真下は、戦後に撮影された立野信之。は、1950年(昭和25)出版の近衛文麿Click!を主人公にした立野信之『太陽はまた昇る・公爵近衛文麿』(講談社/)と、自身の軍隊経験がベースにあるとみられる1952年(昭和27)出版の立野信之『叛乱』(六興出版社/)。
追記
 このような政府当局による思想弾圧の情景は、現代中国の民主派やミャンマーの反軍勢力の若者の間では現在進行形なのを考えると、決して昔話では済まされない重さを感じる。

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